2024年も気づけばも終わり、そしてまた次の扉を開くように2025年がやってくる。今年は何をしたか振り返ってみようと思うけど、改めて振り返ってみると、何かしたような気もすけど、何もしてなかったような気もする。電車の車窓から眺める景色のように、過ぎた景色は頭の中に微かな残像としてしか残らない。今月踊ったダンスの公演も先月のダンス公演も、終わってしまえばもう大分前のように思えてしまう。はたして毎日素晴らしい景色に出会えていただろうか、一日一日を大切に過ごしていただろうか、考えるとそんな事ばかりが浮かんでくる、時間だけは全人類に平等に分け与えられてるいるものなのに、たまに不平等に感じる時もある。どうして今自分はここに存在し、どうしてまた新しい扉に向かって歩いて行かなければならいのだろうか。たまには少し立ち止まる事が出来たら楽になれるのかと思う事もある、当たり前だった事も当たり前ではなく、そして自分も変わっていく。今年は49歳の年だった、そういえば18歳の時にパチンコ屋でアルバイトしていた事がある、その時に知った事ですが、パチンコ台は一台一台番号が振り分けられている、1番からはじまり2番3番とパチンコ台に上に書いてある、しかし4番と9番は除かれてるのだ、3番の次は5番、8番の次は10番、14番 19番といのもない。4番と9番はあまり縁起のよい数字ではないとされてるみたいなのだ。そして49番というのも勿論ない。今年の自分は、縁起の悪い数字が4と9とダブルで並んでる歳なんだと思った。そう言えば今年は何か踠いていたような一年だったような気がする。そして踠けば踠くほど糸は絡み合って解くことが出来なくなってしまった一年だった。来年はどのような一年になるのだろうか、もう希望と夢を膨らませてなんて言葉は使えない。まずは絡み合った糸を解く所からはじめよう。もう次の扉は目の前にあるのだ。
投稿者: yamaki
水牛的読書日記 2024年12月
アサノタカオ12月某日 文筆家・編集者の仲俣暁生さんによる話題の「軽出版」レーベル・破船房より、待望の書評集『東アジアから読む世界文学--記憶・テクノロジー・想像力』が届く。ハン・ガン、劉慈欣、郝景芳、呉明益といった作家の名前が目次に並んでいて興味を引かれる。特典として、「軽出版者宣言」を含む仲俣さんのエッセイ集『もなかと羊羹』もついてきて、うれしい。
12月某日 こちらも待望の一冊。高田怜央さんの英日バイリンガル詩集『ANAMNESIAC』(paper company)が届く。青い本、デザインが最高にかっこいい。
12月某日 急遽関西に出張することになり、大阪・高槻でブックデザイナーの納谷衣美さんとお茶をしながらゆっくりおしゃべり。本について、人生について。納谷さんの自宅事務所の窓辺には、真っ赤に輝く干し柿がぶらさがっていた。夕方、京都で旅行中の妻と娘と合流し、蹴上でおいしい豆腐料理を食べて森の定宿に家族で投宿。
12月某日 京都滞在2日目、久しぶりに烏丸御池のレティシア書房を訪問。店主の小西徹さんとの会話の中で、サウダージ・ブックスとして進むべき道を教えていただいた。お店では編集グループSUREの本、瀧口夕美さん・黒川創さん『生きる場所をどうつくるか』、映画史家の四方田犬彦さん『志願兵の肖像──映画にみる皇民化運動期の朝鮮と戦後日本』を購入。
『生きる場所をどうつくるか』でインタビューを受けている伏原納知子さんの堺町画廊にも立ち寄る。レティシア書房から歩いて行ける距離。画廊で、野中久行「テラコッタを染める」展を鑑賞し、伏原さんにご挨拶。
12月某日 神奈川・横浜の日本大通りで開催されたブックマーケット「本は港」第4回に2日間出店した。両日とも青空の広がるイベント日和で、昨年より会場が広くなった。来場者は約1000人とのこと。年末のはなやいだ雰囲気の中で、神奈川の出版社や書店のみなさまとともに、サウダージ・ブックスの本や関連書を販売した。今回の目玉商品、チェッコリ書評クラブ『次に読みたいK-BOOK! 小説・エッセイ編』は、韓国書籍専門書店CHEKCCORI(チェッコリ)の佐々木静代さんと企画編集した韓国文学ファンZINE。かなり好評で初日早々に売り切れてしまい、もっと多く用意していればと反省した。
「本は港」では、非常勤講師をしている二松学舎大学の写真部同人誌『模像誌』創刊号も販売。自分のインタビューが掲載されていることもあり、応援したいと考えて。幸いアートや写真関係者の目に留まり、何冊か売れてよかった。会場では、momokeiさんのアートブック『モヤモヤちゃん』を入手。
12月某日 『平熱のまま、この世界に熱狂したい』(ちくま文庫)の著者で文芸評論家の宮崎智之さんの論考「エッセイを批評する」が『すばる』2025年1月号に掲載され、拙随筆集『小さな声の島』(サウダージ・ブックス)も取り上げてもらった。〈人々から発せられた言葉からも、必ず奥行きを掴もうとする姿勢を忘れないでいる〉と評していただき、身が引き締まる思いだ。
宮崎さんは、日本の随筆史を踏まえつつ現代の作家(小原晩、オルタナ旧市街、友田とん、早乙女ぐりこ、小林えみ〔敬称略〕)の著作を紹介している。エッセイの作者性(オーソリティ)に関する独創的な視点も提示。この論考で紹介されている作品を、冬の間に読むつもり。
12月某日 明星大学で編集論の授業を終えた後の夜、東京・分倍河原駅前のマルジナリア書店へ。書店主でもある小林えみさんの批評エッセイ集『孤独について』(よはく舎)を購入。小林さんの著作では、以前読んだ小説集『かみさまののみもの』(よはく舎)がよかった。
12月某日 近所のくまざわ書店大船店で、戸井田道三『新版 忘れの構造』(ちくま文庫)を見つけて買った。小学生のときからの愛読書でなつかしい。
初版1984年の名著復刊。若松英輔さんの文庫解説「忘却の波をくぐり抜けてよみがえる言葉」がすばらしい。「忘れを問うとは忘れからの新生を問うことである」という視点から、文筆家・戸井田のユニークで不思議な歴史哲学の現代的な意義を論じている。眼鏡をいつもどこかに置き忘れるのはなぜか。こうした日常のエピソードを入り口にして戸井田が語る夢、死者、魂、肉体をめぐる省察を若松さんが読み解くことで、何度も読んで慣れ親しんできたはずの『忘れの構造』が、まあたらしい思想書として復活する光景を目撃したように感じた。
もう一冊の愛読書、戸井田道三『食べることの思想』(筑摩書房)も復刊されるといいなと思う。死別と生誕がとなりあうケアの現場から、食のはじまりに迫る随筆の名作だ。戸井田は少年向けの本を多く執筆した。奥深い思想を、小中学生でもわかるやさしい言葉で語る文章はどれもすばらしい。
12月某日 自宅事務所で仕事をしながら、X(旧Twitter)の音声ライブ「スペース」で、宮崎智之さんが論考「エッセイを批評する」について語るのを聴いた。論考では〈「社会の言葉」「個人の言葉」〉という問いからの展開の中で、拙著『小さな声の島』を解説してもらったのだが、宮崎さんの考えについてより詳しく知ることができた。「スペース」に途中から参加した文筆家の石田月美さんのコメントも含めて興味深い内容だった。石田さんのエッセイ集『まだ、うまく眠れない』(文藝春秋)も読んでみよう。
宮崎さんと今井楓さんによる渋谷のラジオの番組、「BOOK READING CLUB」の12月分のアーカイブもまとめて聴いた。今井さんのエッセイ集『九階のオバケとラジオと文学』(よはく舎)も気になる。
12月某日 世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書は韓国の作家ハン・ガンの小説『菜食主義者』(きむ ふな訳、クオン)。
その韓国から、「大統領が非常戒厳令を宣告した」という衝撃的なニュースが飛び込んできた。反対する議員がすぐさま国会に集結し、軍の突入などがあったものの解除要求決議が全会一致で採択され事態は収束。のちに大統領の弾劾訴追案が可決された。連日、関連する報道を追い続けるなか、『別冊 中くらいの友だち——韓国の味』(韓くに手帖舎)が届く。
12月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第2章。
12月某日 文化センター・アリランのブックトーク、斎藤真理子さん「在日コリアン翻訳者の群像」をオンラインで視聴。編集グループSUREから出版された、斎藤さんの同題の著作は大変読み応えのある本だったし、トークでも金素雲、許南麒、姜舜など歴代の韓日翻訳者の遺した言葉を紹介してくれてよかった。朝鮮半島の分断の歴史を背負う在日コリアンの世界で、人々が文学を通じてつながりあった事実について、貴重な話を聞くことができた。
12月某日 東京・祖師ヶ谷大蔵駅前の本屋のアンテナショップ+新刊書店 BOOKSHOP TRAVELLER を訪問。主宰の和氣正幸さんもいらっしゃってよかった。オルタナ旧市街さんの『ハーフ・フィクション』を購入。この本と合わせて、オルタナ旧市街さん『踊る幽霊』(柏書房)、『Lost and Found(すべて瞬きのなかに)』(本屋lighthouse)を一挙にまとめ読み。どれもおもしろかったが、『Lost and Found(すべて瞬きのなかに)』が抜群によかった。
12月某日 年内最後の大学出講。「人文学とコミュニケーション」の授業で、復刊されたばかりの作家・片岡義男さんの評論『日本語の外へ』(ちくま文庫)を紹介。日本文学や日本語学を学ぶ受講生が多いので、書店や図書館で手にとってもらえるとうれしい。初版刊行の1997年、ぼく自身が学生時代に熱心に読んだ一冊で、これから世界に飛び立つ若い人たちにバトンを渡すようにすすめたい。
と記して気づいたのだが、今月はちくま文庫の読書率が高いな。
12月某日 清水あすかさんの詩と絵の冊子『空の広場』44号、雪柳あうこさんの詩集『骨を撒く海にて、草々』(思潮社)が届く。
ライター・編集者の南陀楼綾繁さんの新著『書庫をあるく--アーカイブの隠れた魅力』も。先月刊行された南陀楼さんの『「本」とともに地域で生きる』(大正大学出版会)と合わせて、本の場所の歴史と未来を考える上で必読書になるだろう。南陀楼さんはブックマーケット「本は港」の会場にいらっしゃって、サウダージ・ブックスのブースにも立ち寄ってくれた。
12月某日 サウダージ・ブックスとして進むべき道——。来年作る予定の本のシリーズ企画について思案していると、大学生の文筆家・大阿久佳乃さんから季刊の日記zine『Life Itself 生活そのもの』が届いた。湖だろうか、水の景色の写真を用いた表紙。同封の手紙には、サウダージ・ブックスのウェブマガジンで連載中のアメリカ現代詩の翻訳や、大阿久さんがこれから取り組む研究のことが書いてあり、来年も楽しいことをご一緒できればと思った。大阿久さんの著作や活動に、いつも背中を押してもらっている。
連載「大阿久佳乃が翻訳するアメリカ現代詩」をぜひお読みください。最新号では、 フランク・オハラ『ランチ・ポエムズ』の第6回を掲載しています。
https://note.com/saudade_books/n/nd140507623c7
12月某日 やり残した仕事と家事を片付け、2024年最後の読書は南椌椌さんの詩集『ソノヒトカエラズ』(七月堂)を。どの作品もすばらしい。「イムジン河」など、韓国のシンガーソングライター、イ・ランの歌を聴きながら。
と、玄関のポストからコトンと音が聞こえ、また本が届いた。封筒を開けると、在日朝鮮人の詩人・李明淑さんの詩集『望郷』(私家版)。ある人が貸してくださった、大変貴重な資料だ。1年の終わりの日に、心の背筋がすっと伸びた。
十二月のすすき
仲宗根浩斜めおむかいのお宅の敷地に今年もすすきの穂が四つ。ゴミ出しのときとか、車を入れるときとかの十二月に気づく。すすきにとってはここで穂をだすのに十二月がちょうどいいか。
今年から家にいる家族三人で車一台づつ持つことになった。駐車場も一台分余計に借りることになったが、この駐車場が見ためだれでも車とめていいですよ、みたいな雑草は生えほうだい、車をとめるしきりも無いため、こちらが借りているところにいままで四回勝手に駐車される。Yナンバーが二回、地元ナンバーが二回。そのうちの一回は一泊二日。おいおい、とおもい月極駐車場である用紙を印刷しワイパーに挟む。私有地に駐車されたら警察は何もしてくれないのはわかっているのでこちらで対策していくしかない。管理人さんが契約駐車場である旨を書いた看板は雑草におおわれて見えない。
ある日に家電屋さんに行くとワゴンにマイクロSDカード128Bが780円とあるのを見つける。愛車のドライブレコーダーは32GB。128GBにするとだいたい五時間の録画できる。激安マイクロSDドライブ即購入、ドライブレコーダーのSD交換。で、交換したSDカードをパソコンに差し込み家でちらっと見る。360度ドライブレコーダーの画像くっきり、音まで明瞭。ということはおのれが運転中に発する言動があますところなく録音されていることにいまさら気づく。運転中の不届き者には罵詈雑言をひとりで少し大きめでつぶやくのも全部録音されているのか。職場の者に聞くとそれがあるから音声録音をしない設定にしていると。まずい。もう一度SDカードをフォーマットし録音しない設定にしないと。
アパート日記 12月
吉良幸子12/5 木
先月末からちょっと風邪引いてのらりくらり。明日から出稼ぎ久しぶりに再開。先月ばあちゃんちからもらってきた着物に袖を通す。躾糸がついたままのが多くて公子さんが取ってくれはる。襦袢の半衿も付けてくらはった。いよいよ置屋さんのおかみさんっぽい。
12/7 土
先月、わざわざ新世界まで観にいった『浪曲じゃりン子チエの会』の東京公演へまたもや足を運ぶ。会場の大事さを痛感した会。今回の会場は元・プラネタリウムをやってはった場所で、丸い天井は夜空を映すために頭上のはるか上にあり、真ん中には機材がでーんっと鎮座しておる。浪曲で一番大事とも言える声は高すぎる天井で散ってしまい、マイクも全然機能してへんかった。演者さんに落ち度は全くないんやけど、大阪の会と比べたら声の伝わり方や噺の訴えかける力が半減してしもてむちゃ残念やった。やっぱりそれぞれの演芸に見合ったハコで見るのが一番やなぁ。
12/8 日
夕方、駅前のスーパーの和菓子コーナーでうろうろしておると見知らぬおばちゃんに、こんなとこでも会っちゃって!と話しかけられる。はて…と一瞬悩んだけど、いつも銭湯で会うおばちゃんやとすぐ思いついた。いつも裸で会うしおしゃれして服着てたらちょっと誰か悩むのが笑える。ほな、またお風呂でね~と別れて、夜銭湯でまたこんばんは~と挨拶した。
12/9 月
丹さんが夕方アパートに来てはって、なんじゃかんじゃ話してたらソラちゃんが帰ってきた。でもなんかおかしい。いつもみたいに、ニャァ!と大声で訴えてこん…丹さんが勝手口を開けると口に子ネズミ!口が塞がってたから小声やったのね?!庭でギャーギャー言いながら子ネズミを逃してやる。ピシャッと勝手口を閉めて何事もなかったようにソラちゃんを抱っこで回収。え、オレなんで抱っこされてんのん?って訳分かってないソラちゃんにいつもながらヒトコト、ネズミだけは食べへんから持って帰ってこんでええねんで。
12/10 火
神保町シアターでやっている、マキノ雅弘の時代劇傑作選へ!最近は家で時代劇ずっと観てたからマキノの時代劇を拝めるなんて嬉しい限り。行ける日が限られるから一気に3本観る。大川橋蔵はやっぱりかっこええ。あと浪花千栄子に眉なしお歯黒むっちゃ似合っておった。昔の映画は役者がみんなうまくてそれぞれに魅力的。
12/12 木
今日もマキノの時代劇を観にせっせと神保町へ通う。落語の話を盛り込んだ『江戸っ子繁昌記』が秀逸やった。脚本がほんまに見事で、無理なく「芝浜」と「番町皿屋敷」が繋がっておった。中村錦之助の二役も名演技。あ~観にいけてよかった!!
12/15 日
年に一度の時々自動の会!今回は同窓会みたいな公演で、年配のお客さんも多かった。時々自動の合唱はやっぱりええなぁ~。そして朝比奈さんと柄本さんのツーショットはあまりにもかっこよかった。意図的に今井次郎さんが作った曲を外しての実験的な会やったんやけど、やっぱり私は次郎さんの音楽が好きなんやと実感した気もした。
12/20 金
むちゃくちゃ熱、高熱!ちょっと前に出稼ぎ先で結構な無理して、そろそろそのツケが来そうと思っておったところ。盛大に熱が出て久しぶりにうんうん言いながらひたすら布団の中でごろごろと苦しんだ。
12/24 火
出稼ぎ先の大掃除の日。出稼ぎはこれにて仕事納め。まだ体調が万全じゃないのに1日寒い寒い工場で大掃除してしもた。この前の熱の時に飲んだ薬が合わんかったんか、ずっと胸のあたりがむかむかして気持ち悪い。今日の掃除でまたぶり返さんかったらええけど…。
12/27 金
年末の無理が祟って2、3日寝込みに寝込んだ。鼻歌も歌えんくらいに余裕なく、とにかく一日中寝るしかできん。元気なことってこの上なく素敵なことやと心の底から思った。もうハタチの時みたいに動けると思わんで、ぼちぼちやっていかんと急にガクッとくると覚えておこう。
やっとちょっと外へ行けるくらいには回復して、お日さんにあたるべくお散歩。年末で忘れられることが多いけども、今日は自分の誕生日。成城のアルプスで鋭角なショートケーキを買ってきて公子さんと食べた。おかぁはんからは荷物が届いて、誕生日にと純米吟醸の日本酒2本入ってて爆笑した。日本酒好きなのが母上にまで浸透したらしい。早く全快して飲みたいなぁ。
12/29 日
公子さんと2024年おつかれでしたの会を商店街の焼き鳥屋さんで。宵のうちに行って酒が回ってドタッと寝る。夜中に起きたら公子さんもむくっと起きてきて、台所が2階から水漏れしてると言うてはる。よく見ると炊事場の上についてる棚の辺りからぽたりぽたりと汚い水が…。実はこのアパート、古くてあちこちにボロが出てて、大家ももういちいち直す気もなく、来年の秋には潰すとかいう噂。アパートのみなさんは何かしら家の中に不便が出てきてるみたいなんやけど、遂にうちにもきたか…という感じ。しかも何でこんな年の瀬にやねん。はてさて来年、どうなることやら!
12/31 火
着物をくださったニシンさんから年末のご挨拶のお電話が。この前出稼ぎ先にちょっと寄ってくれはったんやけど、体調崩してたのがばれてたらしい。来年は元気な姿でまたお会いしたい。大晦日は夕方、今まで見たことないくらい混んでるいつもの銭湯へ行き、公子さんと一杯ひっかけに行って帰って寝る。年内にやることやったって感じ。今年も色々おつかれさまでした!
徳之島
管啓次郎野原を歩いてゆくと黒牛の群れがいた
モーと声をかけると一斉にこちらを振り向く
それ以上の興味はなさそう
サックスをもっていればいずれかの音を吹いたとき
こちらに寄ってくる子もいるかもしれない
動物を子と呼ぶのはたしかに変だが
それも疑似家族(年齢的にはたしかに子供)
歌ってみることにした
「おーい、今日はいい天気
今日を呼ぶにはどうするの
今こそ全面的に今日なのに
今日の中にいて今日を呼ぶなんて
どうするの? どうするの?」
すると一頭が近づいてきて
すぐそこまでやってきてじっと
こちらを見ているので
その子をペドロ・パラモと呼ぶことにした
ペドロは存在しない、あるいはただ
幽霊として存在する死者の名前
そもそも誰かの想像の中にしか
登記されなかった名前
歩き出すとペドロ・パラモがついてきた
村の広場を横切るが
誰もいない
幽霊もいないし猫もいない
そのまま浜に出てそこはみごとな砂浜なので
はだしになって歩いてみた
黒牛もよろこんでそうしている
みかん箱のような木の箱ふたつに
一枚板をわたして魚を並べている少女がいる
売ってるのこれ
売ってるのよ
買おうかな
買いなさいよ
沖縄ならイラブチャーと呼ばれる
青に黄色や赤が入った美しい魚をもらうよというと
少女がその場でさばいて
刺身にしてくれた
酢味噌で食べなさい
まだ小学生だろうが
ずいぶん手慣れている
銭湯の洗い場で使うような
小さな木の腰掛けにすわり(これが客用)
その場で刺身を食べながら
ぼんやり海を見ている
これタダで飲みなさいよ
と少女がいってオリオンビールをくれた
歓待に乾杯
ペドロ・パラモがつまらなそうに
足を波打際につけたまま
沖合を眺めている
怖くなるくらい美しい海だ
そういえば闘牛があるんじゃないの
と少女に声をかけると
ペドロ・パラモがふりむいて
そんなのはいやだ
といった
牛が言葉をしゃべったわけでもないのに
それが痛いほどわかるので
ぼくは黙ってしまった
することがない
くじらを見たい
というと少女がそれならあっちといって
蘇鉄のトンネルをくぐっていくよう
教えてくれた
ではそうします
両側からおおいかぶさるように
生えている蘇鉄並木を抜けてゆく
ペドロ・パラモがぼくも行くよと
ついてくるのがわかる
そのまま歩いてゆくと岩場に出て
そこから海を見下ろしている
視界が完全にひらけた
どこかにくじらはいないかな
風が気持ちいい
海岸に林がありそこでは
小さな赤い花がたくさん泡のように湧いて
みるみるふくらむと風に飛ばされて
金魚のように泳ぎ出す
こんな現象は初めて見たな
それからしばらく立っているのだが
くじらはなかなか現れない
もうあきらめようという気持ちと
ここであきらめてはいけないという気持ちが
真剣にせめぎあっているのが苦しい
立ったままずっと海を見ているのだが
なんだか眠りと区別がつかなくなっている
目をちゃんと開いているのに
呆然としている
するとペドロ・パラモが鼻面で
ぼくの脇腹をつつくのだ
正気を取り戻せとでもいうのか
見てごらんというのか
それでまた海面をよく見ると
すぐそこで水の柱が立ち上がった
息吹だ、くじらの息吹き
潮吹きとも呼ばれる行動だ
すると突然あっちでもこっちでも
潮の水柱が立って
そのすべてがくじらなのだ
群れている
だが個々に独立的だ
すばらしい力強さ
ぼくはすっかり感心して
潮吹きの数をかぞえようとするのだが
うまくいかない
ペドロ・パラモも近眼だと思うが
ぼくの感動がわかるのか
しだいに興奮が高まっているようだ
つきあいのいい子だ
やがて前足で地面を掻き
いまにも立ち上がりそうな行動を見せる
ほら、馬ならすぐに想像がつくような
襲いかかるというのではないが
よろこびにはちきれそうな
子犬のような行動だ
モーと鳴いて
鳴けば鳴くほど
前足で地面を掻けば掻くほど
ペドロ・パラモがどんどん巨大化するので
びっくりする
それでこっちにもよろこびが伝わってきて
まるで踊り出したい気分になる
黒牛はこんどは前足で
どんどんと地面を叩く
島そのものが太鼓だね
ぼくもおーいおーいと声をあげ
その場でぴょんぴょんと跳んでみせる
すると、ああ、ごらん
くじらが跳躍し
空中でくるりと舞ってから
ざっぷんと海面に落ちてゆくのだ
その水しぶきが飛びかかってくる
うれしいくじらだ
牛と人を同時によろこばせてくれる
ぼくはペドロ・パラモにうながされ
牛の背にまたがってわーわーと
よろこびの声をあげる
巨大になった黒牛は
肩までの高さが3メートルはある
でもちっとも恐くない
むしろ楽しい、頼もしい
海に踊るくじらたち
陸には牛と人
見上げると空には
水平線から水平線まで
大きな虹がかかっている
製本かい摘みましては(191)
四釜裕子《カリオペ》と名付けたナローボートで暮らす双子の姉妹。そもそも亡き母が2冊の本を持って住み始めた家で、窓の間に作りつけた三段の棚は母が残した本で埋まっていた。棚以外も本で埋めたのは姉のペギーで、そして、〈あたしには興味のない紙もあった。あたしたちはそれを正方形に切って、古いビスケット缶に入れ、テーブルの上に置いた。あたしが料理をしているあいだ、モードはそれをありとあらゆる形に折る。紙を折ることは、妹にとって息をするのと同じだった〉。狭いだろうし揺れるだろう。でもなんとも魅力的。つい先ごろ知人からナローボートでの旅の話を聞いて、免許なしで操縦できるというので俄然興味がわいたところだった。《カリオペ》は係留しっぱなしとはいえ重さは大丈夫なのだろうか。ペギーはこう言う。〈運搬船だったんだよ〉〈石炭や煉瓦を運んでたの〉。
2人とも、母同様にすぐ近くのオックスフォード大学出版局の製本所で働いている。担当は「折り」である。複数ページを規則的に並べて両面に印刷した紙を1ページ分の大きさになるまで折るという、製本工程の最初の作業だ。数がかさむとリズムにのって踊るように進められるが、枚数の少ない校正刷りではそうはいかないのでみんなは嫌う。ペギーは文字を読むのが好きなので、むしろこちらを好んだようだ。モードは、自分だけに聞こえる音楽に合わせて〈手を踊らせる〉ことがある。ペギーは愛と責任で妹を見守るが、重荷で言い訳にすることもある。折りながら読みながら、ペギーは折り損じを鞄に入れて持ち帰る。〈あたしは製本のこの段階にある本が大好きだった。そして確かに《カリオペ》にはそうした本が溢れていた。かがり終わったけど、どこかに欠陥のある本たち。頁の破れ、こぼれた糊、あるいはもっと目立たない疵もある――背のバッキングや丸み出しの失敗は、布装を上手にやれば隠れてしまうが、そうならなかったもの〉。
第一次世界大戦が始まった1914年に21歳だった2人を描いたのが、『ジェリコの製本職人』(ピップ・ウィリアムズ著 最所篤子訳)だ。戦争中も2人は変わらず折り続けたが、母の”最愛の友”だったティルダはWSPUを抜けてVADになり、行く先々から手紙をくれるようになった。ペギーは職場から戦場に向かう男たちに代わって新しい仕事もした。早く覚えようという彼女の貪欲な目線で作業のだんどりが描かれているので、興味がなかったら読み飛ばしそうなくらい細かくていい。修復室でもじっと見た。〈古色蒼然とした革表紙から本を切り離し、かがりを外しにかかっていた。彼がナイフを研ぎ、折丁を紐に固定している糸の上で刃を動かすのを見つめた。その本をかがっただろう女性が気の毒になり、胸がずきんとした。もうずっと前に死んでしまっているだろうが、彼女の仕事がこんなにあっさりとなかったことになるのを見ると、思わず戸口で足が止まった〉。修復は、前の作業を「なかったことにする」ものではないだろう。むしろ形跡を糸口に過去の人との対話で始まるもので、ペギーも十分わかっていたはず。だからここで「気の毒」と思い「ずきん」としたのは、いかに戦禍の恐怖にさらされていたかとか、気を張っているペギーの幼さが現れているところなのかもしれない。
他にもペギーは、朗読と手紙の代筆の奉仕作業で一緒になった女学生に大学受験を勧められたり、負傷したベルギーの軍曹と恋に落ちたり、モードのほうは、仕事も家族も失ったルーベン図書館の元司書と心を通わせたりする。また、同じ著者の前作『小さなことばたちの辞書』の主人公だったエズメも登場する。オックスフォード英語辞典の編纂者だった父の作業場に出入りして、辞書に収められないことばを集めていたのだった。そのエズメに大学出版局に勤める植字工のオーウェンが恋をして、エズメが集めたことばを内緒で本にして贈りたいと言う。ペギーも手伝い、1冊だけの『女性のことばとその意味』は完成した。
『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(サイモン・ウィンチェスター著 鈴木主税訳)の映画版『博士と狂人』には、OEDの「パート1 A-ANT.」の原稿が揃ったところで、活字を組んで校正したり刷り本に喜ぶシーンがバタバタッと出てくる。続いてマレー博士がその中の1冊をマイナーに手渡しに行くのだが、ページをめくるところを見ると表紙は硬く厚いボール紙を貼ったような感じに見える。ちなみに『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』によると、〈表紙は灰色がかったオフホワイト、各ページの用紙の片側が断裁されていない第一分冊は、(中略)オックスフォード大学クラレンドン出版局から12シリング6ペンスで出版され〉、マレー博士とマイナーが初めて面会したのは1891年1月だったようだ。OEDの最初の完本「第1巻A-B」は1888年、「パート1 A-ANT.」は1884年の刊行だから、ペギーとモードの年齢からすると、2人の母のヘレンがこれらを折っていたと想像してもいいだろう。
2人の生年を仮に1893年とすると、明治21(1888)年生まれの賀川ハルとは5つ違いだ。ハルは、伯父の村岡平吉が経営する福音印刷が1904年に神戸支社を開設すると製本女工となり、職場で豊彦と出会って結婚するのが1913年。翌年、豊彦が米国に留学するとハナは26歳で共立女子神学校に入学しているから、ハナがようやく本格的に学んでいる間のできごとが『ジェリコの製本職人』ということになる。本の最後で再挑戦のすえにサマーヴィル・カレッジの奨学生になったペギーが描かれるが、このときたぶん27歳。文通でもしていたら2人は仲良しになれただろうか。のちにハルは『女中奉公と女工生活』(1923)の中で、みんなのおやつや活字を空いた弁当箱に入れて持ち帰る同僚を見て思ったことをこう書いている。〈資本家の大なる不合理に対抗するにそれらは余りに惜しむべきことではあるまいか。そんな欠点をよい餌食にされて資本家に横暴を極められているとするなら不正な数人を除き、一人を除いた多くの働人はどうして立てよう、その人こそ実に獅子身中の虫と言いたい。労働は神聖なりという働人が誠に正々堂々と一点の非なく労働の運動を進ますべきだと私は思う〉。ペギー、ハルさんが上司じゃなくてよかったネ。
『ジェリコの製本職人』の著者、ピップ・ウィリアムズさんは、「謝辞」で製本家のピーター・ザイチェック氏の名前をあげている。メアリー・ヴァン・クリークの『製本業における女性たち』(1913)という本のことも教えてくれ、しかもそのpdfをプリントして、ボール紙と布で製本して贈ってくれたという。翻訳した最所篤子さんは「訳者あとがき」に、訳すにあたって見学した牧製本印刷株式会社の製本所と、手製本を習った製本工房まるみず組への謝意を表している。最所さんのSNSには、牧製本から借りた資料の1つ、ドイツ語から訳した『製本家のための専門知識』の写真もあった。「1953年2月14日午後9時」と訳了の時間はあるが訳した人の名前はなく、これは、手書きの13冊のノート全878ページを牧製本が綴じたものだそうだ。どちらもいい話だなあと思った。「製本」とは本の中身を守り独立を助けるけれど、手渡すための包装というのも、かけがえのない役割だと改めて思った。
「著者あとがき」では、この本の構想のきっかけにも触れている。前著『小さなことばたちの辞書』を執筆中、オックスフォード大学出版局のアーカイブに1919年創刊の機関誌「クラレンドニアン」を見つけたが、職員の人物紹介に女性がほぼいなかったそうだ。その存在を確認できたのは、写真が2枚、1925年に英国産業連合会が製作した大学出版局での製本作業の映像、出版局の監督が退職したときに贈られた寄せ書きに残る47人の女工の名前だけ。実際の寄せ書きの写真はこの本の巻末に載せてあり、2枚の写真と映像はネットで見ることができる。他に、ピップ・ウィリアムズさんが『The Bookbinder of Jericho』をご自身でかがっている動画も見つけた。へらを握り、角を揃えて紙を折り、糸でかがって背固めをして、断裁して丸み出しして花切れを貼り、背貼りして革をすいて表紙を貼って、プレス。タイトルを入れた完成状態は映っていなかった。ページをぐっと開いて綴じ糸を大写しにするのにはちょっとハッとしたけれど、惜しげもない感じがいいなと思った。
冬を数える
新井卓※12月号からの続きです
二度目の冬が巡り、そう数えて、移民は二つの暦を生きるもの、と知る──彼/彼女が何者であろうとも、新しい土地、新しい国家で新しい生を生き始めるとき、他人から見えるのは、その人の新しい、まっさらなカレンダーだけ。二度目の冬を一度目の冬よりも心なしか暖かく感じるのは、友だち、と呼びあうことのできるわずかな人々が、わたしの、移民のまっさらな地図と暦に明かりのように灯りはじめたから。
春、パレスチナ会議でドイツという国家の一つの貌とその手触りをまざまざと知って間もなく、ある人に出会った。パレスチナ人アーティスト、マイアダ・アブード(Maiada Aboud)はイスラエルとイギリスで犯罪心理学とパフォーミング・アーツを専攻した異色の経歴の持ち主だ。わたしとほとんどおない年だということ、何年か前に友人の誘いでベルリンに滞在し、そのまま住み続けている、ということが後でわかったが、何よりも彼女の複雑な出自──イスラエル領内のアラブ人キリスト教徒コミュニティに生まれ、離婚を機に(それは彼女のコミュニティで前代未聞の出来事だった)追放状態にあること──について、てらいなく話す様子に強い印象を受けた。
「わたしは家族の中の黒い羊。いつでも口ごたえするわたしのことを父は気に入っていたし、わたしも父が好きだったけど、離婚で全てが変わった。その日を境に、わたしの世界は消えてしまった。離婚を告げた夜、彼ははじめてわたしに手を上げた。そして、その後もずっと。一人の人間として、というよりもアラブの男として、そうしなければならないのだ、と決めたみたいに。何か集合的(コレクティヴ)な怒りを感じた。で、わたしは逃げ出すよりなかったわけ。」
『mirrors/testaments』は、パレスチナ人、パレスチナ難民、と呼ばれる人々の、それぞれの身体や遍歴、交差性(インターセクショナリティ:人種やジェンダー・セクシュアリティ、家庭環境、経済状況などさまざまなアイデンティティが交差して生まれるその人に対する差別、あるいはその人がもつ特権)に光をあてるプロジェクトだ。語り尽くすことのできない一人の人の生に、かぎりなく短絡的に、かつ感情的、身体的にアクセスするにはどうしたらよいか。そのためにわたしが選んだのは、「遺言」と「遺影」だった。パレスチナという国家、民族そのものの存在が消去されたベルリンに暮らすパレスチナ人たちの遺言、声を記録し、少なくとも200年の寿命をもつダゲレオタイプ(銀板写真)の肖像とともに、数世紀後の未来へ運ぶこと。
わたしがわたしの死を、最後の瞬間を想像するとき、たとえば無人攻撃機に襲われたり、ブルドーザーに踏みつぶされて死んだりすることを想像するだろうか? わたしの死は、いかなる体制も、いかなる他者も侵すことのできない最後の尊厳であり、日々報告される死者の数に決して加わることのない、唯一の死だ。それはわたしの死であり、わたしの愛する家族と友人の死である。システマティックな暴力はその程度にかかわらず、生者だけでなく死者の尊厳を蹂躙する。例外はない。喪すること、悼むことが抵抗の様式の一つであるならば、その抵抗の場にこそアートの余地があるのではないか──。
夕方を過ぎてもまだ明るい晩春のスタジオで、わたしが奮発した上等なバクラヴァ(トルコの甘い菓子)を「おえっ」と声に出して脇に押しやり、引き出しから勝手に見つけ出したレモン味のウエハースを食べ尽くしたマイアダは、オーケー、あんたのやろうとしている仕事は悪くないから手伝ってもいい、言っとくけどこいういうの滅多にしないことだから、と言った。
それから彼女は、彼女の同郷の友人たちを次々と連れてきては、場合によってはアラビア語の通訳や、協力者のアフターケア(家族全員がイスラエルの攻撃で殺され、重いトラウマを負う人もいた)まで、申し訳ないと思うほどに真摯に、救いの手を差し伸べてくれた。パレスチナにもイスラエルにも旅したことのないわたしは、カフェで待ち合わせ、ピクニックに出かけ、ガザへの募金を集めるファンド・レイズ活動やデモに参加しながら彼・彼女たちの話を聞き、本人ができそう、と感じた時々に、少しずつ録音と撮影を進めていった。
記憶の限り、わたしがなぜパレスチナに関する作品に取り組もうとしているのか、マイアダに聞かれたことは一度もない。もっとも、聞かれたとして、それ以外の道は全部行き止まり、と訳もなく確信していたから、としか説明のしようがなかったのだが。マイアダとその友人たちとの交流はむしろ、わたしにとり、ドイツという国で唯一無二の安らぎを感じる場になりつつあった。だれもが移民であるわたしたちはそれぞれに新しい暦を生きていたが、その無尽蔵な空白に書き加えられる一つの出会いは、それぞれ、なにか重大な意味を持っていると思えた。そして、痛むこと、悼むことを通して、わたしたちはわたしたちのことを知ったのだから、どこか大切なところですれ違ってはいないのだ、という不思議な確かさを共有していた。
『mirrors/testaments』は、8人の協力者を得て録音とダゲレオタイプの撮影を行い、現在は一時中断している。クンストラーハウス・ベタニエンでの一年の滞在制作プログラムが終わり、まだ次のスタジオが見つけられずにいるからだ。ベルリンには多数のアート・インスティテューションがあり、アーティストに格安のスタジオを提供するプログラムも存在する。しかし先月、ベルリン市は2025年文化芸術予算の13%(214億円相当)削減を決め、今、それらのプログラムは存続の危機に瀕している。
懐もすっかり冷え切り、クリスマス・マーケットの電飾に彩られてメモリサイド(記憶の抹殺、歴史学者イラン・パペによる)のとどまるところをしらず、ほとんど何も明るいニュースのないベルリンで、新しいカレンダーに記された、新しい友だちの名前を見つめる。明るすぎるベルリンの夜空に浮かぶとぼしい星座にも見えるそれらの名前から、なにかを引き出したり、なにかを預けることもない。人々をゲットーや壁の中やテーゲル旧港に押し込めることに長じたベルリンの空、天蓋の空(シェルタリング・スカイ)にそれがあること、わずかな星が穿たれており向こうから光が差しているということ。それだけで冬は暖かい。生きていいほどに。
—
※『mirrors/testaments』から、「遺言」をふたつ紹介します。スタジオに作った録音ブースで、一人で肉声(アラビア語)を吹きこんでもらっています。
イブラヒム
遍歴:ガザ→カイロ→ドーハ→カイロ→ベルリン
想い出すこと:実家のオリーブ園とオレンジ園
第二次世界大戦だった
おれと同じ名前のだれかが、アッカで戦っていた
その男は軍隊から逃げ出し、シリアまで歩いて行った
かれの信仰はそれほどに強く、シリアを去ってトルコに向かった
それからメッカに戻り巡礼をするために戦った
かれは同じ道をたどってエルサレムに戻った──ただ一度きり、祈りを捧げるために。
その後、彼はガザに来た
おれは彼のことを全く知らない、
ただひとつ
人々が、彼を人狼の父、と呼んでいたことを除いて。
男は背が高く
青い目をしていた、とおれの祖母は言った。
強く、決意は固く
晩年、彼は鍛冶屋として働き、
四人のこどもをもうけた。
(深く息を吐く)
こどもの一人は1956年に…
(深く息を吸い込む)
…殺された。
もう一人のこどもはそのとき、4歳だった。
ガザへの空爆が、彼ら二人を殺したんだ。
かれには二人のこどもが残っていた。男の子が一人、
女の子が一人、5歳年下だった。
そしてついに、彼は息を引き取った、静かに、
1967年のことだ。
その男の子が、おれの親父だ。
親父の父親は、彼が14歳の時に亡くなった。
親父はもう一人の妹の面倒を見、
彼女がちゃんと結婚できるようにしたし、伝統を守ろうとした。
彼はすぐに自分の夢を追うようなことをしなかった
彼は高校を卒業し、6年待った。
働いて、彼の母と妹の生活を支えるために。
ほかのパレスチナ人のだれもがそうであるように。
1974年、彼は大学に入った。
彼は成功し、いままでもずっと成功しつづけてきた。
家族のために。
74歳まで生きた。
そして兄弟たちの後を追った。ガザのおれたちの家は空爆され、親父はイスラエル人に殺された。
(深く息を吸い込む)
彼が遺したのは深い虚空。
世界中のだれも、それを埋めることはできない。
長男のおれも
その空白を埋めることはできない。
おれには3人のこどもがいる。
でも、もう行くかなくちゃならない
(鋭く息を吸い込む)
こどもたちは永遠におれを愛してくれるだろう
おれのことをよく知らなくても、永遠におれを愛してくれるだろう
孫がおれのことを語り継ぐことを知ってる
でもこれは、おれの物語じゃない
すべてのパレスチナ人たちの物語だ
おれたちの100年、変わることなく
目の前の現実は苦しみに満ちて。
思い出してほしい、どうか
(長い沈黙)
ありがとう。
—
シャハド
遍歴:アル・サジャラ→ナザレ/ロード→アンマン→ベルリン
想い出すこと:ジャスミン樹の香り、ブドウの木、海の匂い
このメッセージはわたしの家族と愛する人たちへ。
あなた方の上に平安があらんことを。
このメッセージは、私がどれだけあなた方を愛し、気にかけているか伝えたくて書きました。あなた方が幸せで、健康であることを願っています。
あなた方への愛、私の気持ちの深さ、そしてあなた方が私にしてくれたことすべてへの感謝の気持ちを伝える最後のメッセージを送ることは、私にとって大切なことです。
いくつかのお願いがあります。
第一に、お互いを大切にし、お互いを気遣い、特に困難な時には常にお互いの味方でいてください。
人生は短く、怒りや悲しみでそれを無駄にする価値はないのだから。
第二に、健康に気をつけること。健康に気を配り、健康的なライフスタイルを送ること。
どうか、もういなくなったわたしに腹を立てないで。
わたしのために祈って、でも泣かないでほしい。幸せで、笑顔で、いつも人生を楽しんでいてほしい。人生はとても短いのだから、美しい瞬間を作り、素晴らしいことを成し遂げて、それを最大限に活用してほしい。
わたしの部屋、わたしの持ち物、わたしの植物を大切にしてくれたら。
わたしがほとんどの年月を過ごしたこの部屋は、大人になってからもインスピレーションの源です。
そして今度はあなた方が、それを、自分の夢のために使う番です。
あの部屋は日差しがとても美しいから、わたしの植物はそこに置いておいて。
わたしの画材は、絵を描くことに情熱を持ち、その使い方を知っている人たちに配ってください。
国の状況が心配で不安で、生活が耐えがたくなっているのはわかります。でも希望を失ってはいけない。事態が好転することを常に信じてほしい。
最後に、私のためにしてくれたこと、私の夢や考えをすべて応援してくれたこと、そしてまともな生活を与えてくれたことに心から感謝します。
あなた方の愛に同じだけのお返しができなくてごめんなさい。
あなた方のことをとても愛しています。
私たちは来世で会えるでしょう、神様のご意志があれば。
真っ黒の金魚(上)
イリナ・グリゴレ彼女に会いに行った日は、史上最高の積雪で、しかも吹雪だった。街から離れたセメント工場の裏の木造パートまで、りんご畑と田んぼの真っ白で真直ぐな道を1時間かけてゆっくり走る。白とは目を射すような美しさで全ての汚いものを祓うと感じる。でこぼこ道にハンドルが取られないように、何も考えず真剣に真っ直ぐいく。宇宙の旅のように。真っ黒ではなく真っ白の背景の中に飛ぶ。潜る。泳ぐ。彼女の腕の半分を覆っている金魚の入れ墨を見た瞬間、私が走ってきた真っ白な背景を思い出し、全ては繋がった。雪景色の中では私ではなく、まだ出会ってない彼女の腕の真っ黒の金魚になって泳いでいる気分。彼女は綺麗な人だ。人は身体のどこかに魂をぶら下げる。ほとんどの人が気づかないように。小さな傷、ホクロ、指輪、ネックレス、真っ白な犬のぬいぐるみのキーホルダー。彼女の場合、腕に真っ黒の墨、黒いあざのような金魚。自由に吹雪いているこの田んぼとりんご畑の中で泳いでいるとしか思えない。アザに見えたのもいつか私の腕にあった鮮やかなアザとよく似ていたから。肌が白いとアザは黒から紫になる。でも顔にない限りほとんどの人が気づかない。誰も知らない、彼女の抵抗。
彼女に何があったのか分からないが、あの金魚の入れ墨は彼女の人生を語っている。だからどんなに吹雪いていようとも彼女に会いに行く。アパートの駐車場はすでに湖になっていた。白い雪をずっと見続けると雪が水だったことを忘れるので一瞬驚く。私の雪靴は北国に向いてない。水の中を歩くと足首から水が入る。それでも迷わず小さな湖の中に歩いていくが、不思議に嫌ではない。水で足を清める感覚だ。地球の70%以上は水でできている。水は違う状態で、水蒸気、雪、氷など同時にあるのもたぶん地球だけだ。自分の身体の中の水を想像して、金魚など泳がせたくなる。透明で、大きな容器。身体で 水生生物を育てたい。水草を特に。それとも、沈水性の水草、単子葉植物のイバラモ科、ヒルムシロ科など、マツモ科やアリノトウグサ科など、それほど多くないので身体で育てたい。ハスの花が咲く時だけ身体が鮮やかになって、服も化粧もいらない。それ以外、咲かない時期は沼のような身体でいい。ハス、スイレン、ボタンウキクサ、ヨザキスイレン、ニシノオオアカウキクサ、オシツリモ、セイロンマツモ。ミレーのオフィーリアをよくみると、あの花は彼女の身体から生えている。モネが女性の身体を描く代わり直接に睡蓮を描いたのもよく分かる。
ブカレストの地下鉄の入口でハスの花を売っていたジプシーのおばあちゃんたちがどれだけ羨ましかったか。欲しかった、あの薄いピンクのハスの花が。今になってやっとわかった。あれは自分の身体で育てていた花だ。ジプシーの女性にしかできない。私も今からやってみる。自分の身体も水だから、沼だから。中に蛙も育てみる。ウシガエルは日本の田んぼからいなくなったので自分の身体の中でもいい。あげる、蛙に。自分の身体を。でも一番育てたいのはアマガエルだ。南米のアカメアマガエルがいい。目と手が赤いから。飴のように。蛙の生態に詳しくなりたい。蛙の卵は綺麗だ。私も女の身体で妊娠でなく卵をうめればいいと思った。子供の時、何時間もヒキガエルの卵を家の近くの水溜りで観察していた。家の裏に沼があって、小さな魚と蛙をよく見た。ハスの花が咲いていなかったのが今にして思えば不思議だ。環境は揃っていたのに。何かに抵抗していたとしか思えない。
どんな環境であっても女性の身体はよく抵抗している。この前に学生に見せたハマー族の女性の結婚式の映像を思い出した。「ハマー族シリーズ」と呼ばれる、BBCが1990年に作ったドキュメンタリー映画の中の一つ。女性監督はエチオピアのハマー族の女性を撮影し、インタビューして彼女らの生活に密着した稀な映像。学生に「微笑む女」と「狩りにでる二つの女」しか見せてないけど、この二つを見たら一生分の考え事ができる素材である。
ハマー族には女の狩りと男の狩りがある。男は象とライオンなど大きな動物を狩りしないと一人前になれない。獲物を仕留めればみんな喜ぶ。しかし、女性の狩りとは結婚のことであって、それは悲しいことであり、ほとんどは親族が決めた見合い結婚で、自分達で相手を決めるわけではない。女は微笑み、従うだけ。男性がどれだけ暴力を振っても。ハマー族ではDVが普通なので、結婚したら必ず。若い女の子たちはインタビュアーに向かって微笑みながら、絶対嫌だ、結婚したくないという。このシーンでいつも注目しているのは彼女らの顔つきだ。ハマー族の女性たちの抵抗は表情に出る。女優でもない一般的なハマー族の女性たちがここまで表現できる。映像の力があらたためてこの世界には必要だと感じる瞬間。彼女たちはものすごく嫌な顔をする。特に年配の男性にアドバイスされるときの顔。
二人の女の子の結婚式は、細かく映されることによって、通過儀礼の意味を超えるような儀式となる。まず花婿はいない。最初は姑しか登場しない。花嫁の身体を黄色の泥で塗って清める。そして村の外を案内し、花婿の家へ行く道の淋しさは映像の中から溢れて、青森の吹雪となるような感覚。向こうの家でも姑に泥水とバターが塗られ続けて、髪の毛が剃られる。決められた時期のあいだ花婿と喋ることも目を合わせることもできないままだが、彼女は取材のインタビュアーにちゃんと答えて、泥もバターも思ったより痒くないとコメントする。家畜を放牧する村から離れた若い男性の集団の中に花婿がいて、牛の方がまだあったことのない人間の女性より恋しいという。
戦前の日本と同じように、ハマー族の間でも結婚前の妊娠や、障害がある子供が生まれると、その子は水子になっていた。日本では川に流されることが多かったそうだ。先日見た夢ではそうやって生まれたばかりの赤ちゃんが、へその緒がついたまま浅い川にゆっくり流れている夢を見た。あまりにもリアルで起きた瞬間にベッドに川が流れていると勘違いして、足が濡れていると感じた。水子のテーマでずいぶん前から論文を書きたいのだが、なかなかできなかった。水と子宮、へその緒と女性の身体、血と水。夢の中では川の流水に鮮やかな血が薄められる瞬間を見た。この経験は女性にしかない。流産もそう、中絶も。
私の母を思う。私の、生まれてない水に流された二人の弟の顔を、ずっと想像する。AIに昔の自分を描いてと頼んだら、私と弟にそっくりな、まだ会ってない私たちの弟たちの顔を見せてくれた。このテーマで私はずっと苦しんでいる。黒い金魚が雪景色の中で泳いで、恐山まで辿り着く。この前、たまたま女性が参加するポッドキャストを聞いていたら、流産の経験を語る女性がいた。自分の子供をトレイの水で流したという。ルーマニアでは妊娠中の女性は聖母マリアに次いで聖女エカテリナにも祈りを捧げている。彼女の人生も雪の中で泳ぐ炭より黒い金魚のようだが、男性への抵抗の象徴的な人生でもある。
一回性という「眩暈」
越川道夫この冬が例年に比べて寒いのか暖かいのか、自分ではさっぱりわからない。携帯電話の写真のリールにはずっと撮り溜めている植物の写真があって、例えば昨年の今頃、私の住む辺りではもう水仙が白いのも黄色いのも随分と咲いているようなのだが、今年はまださっぱりである。蝋梅もちらほら咲いていたようだが、この冬の蕾はまだ固く閉じたままだ。一昨年の写真を見れば、霜柱が立ち、池の氷も張っているのに、日当たりの良い場所ではオオイヌノフグリが咲き始めている。起きるのが遅いだけなのかもしれないが、今年は霜柱もろくに踏んでいなければ、池に氷が張ったという話も聞かない。にもかかわらず、どんなに路肩を覗き込んでも、オオイヌノフグリが咲く気配は全く見えない。毎年のこの違いが楽しい。うちの方ではさっぱりですが、このあたりはずいぶんと咲いていますね、などという会話ができるのもいい。考えてみれば当たり前なのだけれど、花が咲くとか咲かないとか、今年は早いとか遅いとかは、ただ単に気温が高いとか低いとかそういうことだけではないのだろう。気温や日当たり、湿度、土の状態、個体差もあれば、人為的な何か影響もあれば、前年の種のつき方などさまざまなものの働きかけによって、今、このような状態になっているのだから。
「このようにして、様々な気候、季節、音群、色彩の群れ、闇、光、元素群、養分、ざわめき、沈黙、運動、休止、それら全てがわれわれの身体という機械そして魂に働きかけている」と書いたのはルソーだったか。この総体を私たちは「一回性」と呼ぶのだろう。若い頃、映画館で35mmフィルムの映写技師をしている時、何度「同じ映画を映写」しても、一度も「同じ映写はない」と感じていた。「もの」であるフィルムは、「その日」の気温や湿度や、様々な条件に影響され、それはやはり「もの」である映写機やスクリーンも同じことで、しかも映写機から出た光が通過する映画館の中の空気もまた、というわけで、スクリーン上の「像」はその度ごとに艶や見え方が違うし、音も聞こえ方も違う。このような諸条件の「総体」が、と言ってしまえば一言で済んでしまいそうだが、この諸条件の組み合わせは無限にあり、完全に一致する、ということはない。例えば、1、2と数えた時に、その1と2の間には無限の階調があり、数値で何かを考えることは、必ずその数値と数値の間にある階調や揺らぎを無視することであり、どんなに数値を細かくしたところで、その数値と数値の間には隙間があって、そこにはやはり無限の階調があり、決して数値的に捉え切ることはできない。だから「総体」などと言って澄ましているわけにはいかず、「一回性」を考えるということは、まるでブラックホールに吸い込まれてしまうような「物事の奥行き」に、その深淵に眩暈を起こしながら対峙する、ということではなかろうか。
携帯電話の写真リールは、日記を言葉で書くことができない私にとって、ある種の日記の役割を果たしてくれている。去年はもう咲いていたのに今年はまだなのだな、とか、去年はあまりカラウスリが実をつけなかったが今年は、とか、その気が遠くなるような「一回性」に思いを運んでくれるのである。そして、今日もまた近隣の林を歩きに行き、その道道の路肩にしゃがみ込んでは植物を撮り、野良猫たちを撮り、空や樹樹を見上げては写真を撮る。なぜ撮るかに関してはいろいろあるのだけれど、また。ただ、数年前、自分を含めて人間の愚かしさに愛想が尽き、もう人間は撮らない、と決めたのだ。今また、それを強く思わざるを得ない。映画の仕事をしていれば人間を撮らないというわけにはいかないので、もちろん個人的にということになるのだが、あまりにも植物を撮る時と人間を撮る時の密度が違う、と笑われたことがある。私にとっては植物を愛するように、人間を愛することができるかという課題を得たわけである。
発見の道
高橋悠治未来はわからない。そこがよいところかもしれない。音楽は作られ、演奏され、あるいは即興される。どれもその時の刻印が押されている。楽譜に書かれた音楽は、記号の集まりとして残される。それらを読んで音に変えるには、その時代のやり方がある。それを時代のスタイルと呼ぶなら、それがあるから同時代の人びとと共有できる音楽も、時が経つと、スタイルが共感を妨げることになる。
同じ記号から別の何かを読み取ることは、どんな音楽でもできることではないだろう。その時が来ないうちに、違う読み方を思いつくわけにもいかない。記号の意味とは別に、それが読まれるニュアンスの、ほとんど気づかない小さな違いに、全体を変えてしまう発見が隠れていることもある。それは論理ではなく、身体の「揺れ」、「揺らぎ」、呼吸の波に乗って漂うような動きになって顕れる。
音楽をする前の準備、楽譜や楽器、手や身体の動き、音やリズムでさえも、目に見えない動きの影をなぞる跡に過ぎない。そうした影を手がかりにして近づく見えない動きは、聴く人の心に映り、そのリズムが聴く身体を揺することと信じて、演奏している瞬間は、前も後もないその時だけのもの。そんな瞬間が、日常のほんの短い時間に混ざり込んでいるのが、音楽家の日々なのかもしれない。
時代のスタイルが変わる時が来る。音楽を始めた1950年代から70年も経ってしまうと、同じことを続けてはいられない。知らない響きや、リズムを見つけては試してみる。知っている音楽も、違うスタイルで演奏してみる。目標もなく、完成もない、いつでも道の途中。
2024年12月1日(日)
水牛だより東京は12月だということが信じられないような暖かく静かな日曜日です。太平洋側の冬は晴れて乾燥した日が多く、昼間は陽を浴びてうららかに過ごすことができるのは、日本海側に雨や雪が降って、大気を乾燥させてくれるから。どんよりとした冬、豪雪の冬を経験しないまま生きてきました。
「水牛のように」を2024年12月1日号に更新しました。
2024年最後の更新です。平和や自由や平等はすべての人間が望んでいるはずだと思っても、次から次に起こる世界の出来事はそれらに反することばかり。人類の歴史は戦争や不自由や不平等の歴史でもあるので、それこそが人類というものの初期設定なのかもしれません。動物のオスたちが縄張りをめぐって小競り合いを繰り返す映像をよく見ますが、あれの拡大版あるいは発展系みたいな気もします。「どこへ行こうとしてるのかしらね、神さまほとけさまの国、われら。」
トップページのイラストがめずらしくモノクロです。雪だるまの表情がそれぞれかわいい。柳生さんの暮らす黒姫ではもう雪が降って、白い世界になってるのかなと想像しました。
まだ実感はありませんが、次回は来年です!(八巻美恵)
240 終映のあとで
藤井貞和だれもいなくなる画面をのこして、
廃墟になりました。
文字は消され、朽ちて、
石窟の出口から
一千年のかなたへ、
音声の航跡を引いて出てゆくと、
しばらくのあと
われらは舟形の遺跡になりました。
あれ、帆影をうたに変換する空の乗り物です。
視聴ありがとう。 銅鐸を鳴らします。
舳さきに提げて、サインを送る春のゆうべです。
音声は終わる海の庭、石になります。
ことしはつらい始まりだった、
夏には入院もありました。 大河ドラマの、
『光る君へ』の藤原伊周(これちか)さんが、
呪詛の失語症です。 秋になると、
保育園を落ちた姉御も、
じゃねーのかよ (よかのーねやじ)
ならねーだろ (ろだーねらな)
あるかよ ボケ (ケボ よかるあ)
ふりんしてもいいし (しいいもてしんりふ)
わいろうけとるのもどーでもいいから
(らかいいもでーどものるとけうろいわ)
まじ いいかげんにしろ (ろしにんげかいい じま)
保育園落ちた 日本死ね!!!(たちおんえくいほ
ねしんほに!!!)
ねしんほに、冬の廃墟です。
(どこへ行こうとしてるのかしらね、神さまほとけさまの国、われら。闇バイトのどろてきが、屋根のしたまでやってくる。引用は「保育園落ちた日本死ね!!!」〈2016〉より。)
機械の滑らかさで
新井卓※前回、11月号からの続きです
2024年4月13日土曜日、パレスチナ会議(承前)当日。直前に公開された会場を調べると、家から十分ほどの近所だった。
市民農園の角を曲がり、封鎖された大通りにずらりと並ぶ警察車両を横目に自転車を走らせる。ジャケットからはみ出たクーフィーヤがひらひらと空中を泳ぎ、自分の、自分の身体のか細さ頼りなさをなかば笑いながら、小銃と防弾チョッキで身を固めた警官たちの視線を通り抜けていく。
会場ではすでに大勢の来場者が通りにひしめき、改札を待っていた。プレス向けの青色の紙の輪っかを手首に巻いてもらい、予定から二時間も遅れてビルの非常口から通された。
思いのほか大きな会場は蒸し暑く、プレス関係者は後方に着席するよう案内された。まわりの人々に挨拶しながら腰を下ろすと、パレスチナの国旗を広げた女性たちが背後に陣取り、ここで大丈夫?と囁いた。聞けば、すぐ後ろに親イスラエルメディアが固まっているらしく、妨害が入るかもしれないので旗やスカーフで防戦するつもりなのだという。両隣の席の人たちと少し話しはじめたところだったので、いまさら移動するのも心細いので、べつに気にしませんよ、人の盾が一人増えたと思って、と答えた。
やがて大きな拍手とともにジャーナリストで文筆家、活動家のヘブ・ジャマル(Hebh Jamal)氏が登壇し、開会の演説がはじまった。続くプログラムはエコノミストで元ギリシャ財務大臣を務めたヤニス・バルファキス(Yanis Varoufakis)氏による基調講演だったが、彼はパレスチナ会議への参加に関連してドイツ当局が空港で入国を拒絶し、オンラインでスピーチを行うことになっていた。バルファキス氏がスクリーン越しに語りはじめた直後、フロアの電源が落ち、一瞬の静寂ののち、会場は騒然とした空気に包まれた。なぜなら、会場の前後の入口から何十人もの制服警官がなだれ込み、通路と舞台を完全に塞いでしまったからだ。司会の女性は困惑した表情で、状況を把握するまで落ち着いて席で待つように、と肉声で呼びかけた。会場のいたるところで、シュプレヒコールが上がっていた。警察よ、恥を知れ!と猛然と立ちはだかる女性たちがいた。
奇妙に冷静な自分があり、彫像のように不動を決め込んだ警官たちの顔を観察した。どの警官も男女ともに二十代前半だろうか、場違いなほどに若くみえる。この人たちはいま、何を思っているのだろうか。何も感じず、考えないよう、訓練されているのだろうか、と思い、そんなはずはない、と思いなおす。この奇妙な場所で、彼女・彼らはそれぞれにか細い身体を差し出し立っているのだ、通路を塞ぐ障害物、モノとして。そのことに、目のくらむような憤りを感じた(だれ/なにに対して?)。
どれくらいの時間こう着状態が続いたか──体感では一時間ほどに感じたが、本当はどうだったか。明らかに酸素が薄まりつつある会場で、全員が、何かを待っていた。沈黙を強い待つことを強いる時間は、それ自体がよく使い込まれ滑らかに回転する暴力の装置だったが、その効果が十分に行き届くのを待ってから、警官が二人がかりで、グレーの大きな拡声器を運んできた。拡声器から、姿の見えない誰かの声が流れてくる──この催しはベルリン当局により散会になった。指示に従い速やかに会場から退出するように。これらすべてが、何度もリハーサルを重ねた舞台のように、あまりにも滑らかに執り行われていったので、わたしたちは、少なくともわたしは、悪い夢を漂い目覚めるかのように、劇場の外に投げ出されていた。
わたしはみんなと同じように腹をたてていたが、へんに納得もしていた。これなんだ、ドイツというのは、この滑らかさなんだ、と。
自転車を漕ぎ走り抜ける市民農園では、そこかしこでバーベキューの煙が上がり、肉やソーセージの焼ける匂いが漂っていた。サッカーのワールドカップを目前に、きょう、なんとかというチームとなんとかというチームが争う予定で、大音量で流れるテレビの音声は国内リーグのこれまでのハイライトを振り返っていた。滑らかな昼下がり。滑らかなゾーン・オブ・インタレスト(関心領域)。
翌日、ミドル・イースト・アイ(イギリス拠点でムスリム世界や北アフリカなどを中心に報道を行うメディア)のソーシャル・メディアで、警察が介入した瞬間の様子がシェアされた。占拠された舞台から後方の親イスラエル報道陣へカメラがパンするその映像には、わたしの姿が写り込んでいた。ベージュのジャケットの少し丸まった背中に、驚いたような横顔。その様子を見て、わたしは急にそのアジア人の男が──もちろんそれはわたし自身なのだが──心配になった。あまりにも無防備で、場違いで、彼は一体ここで、なにをしているのか?
(つづく)
その小ささのままに
越川道夫11月の初めに演劇の公演が終わると、急に寒くなった。いや。その前から寒かったのかもしれないが、こちらが慌ただしくしているので気が付かなかっただけなのかもしれない。樹樹の葉が瞬く間に黄色くなって散っていくような気がする。体を冷やしたくないので、セーターにコートを羽織り、マフラーに手袋と完全に冬の出立で、それでも林の中を歩きにいく。冬枯れが、枯れていく植物を見るのが好きなのである。惚れ惚れとするような枯れ方をしている植物を見つけると写真を撮る。道端に蹲りシャッターを押す瞬間、私は息を止めている。だから撮り終わると必然的に「道端に蹲り荒く息をついている人」ということになる。「どうかしましたか?」とか「体調悪いですか?」と声をかけられるのはまだいい方で、ありがたいことに「救急車呼びましょうか!」と抱き起こされたりするので、しどろもどろで「いえ、写真を」と言い訳をすることになる。なんとも傍迷惑なことだと、申し訳ないやらバツが悪いやらである。
植物の写真を撮っていて、もう一つよく声をかけられるのが「何かあるのですか」である。これもいつも答えに窮してしまう。花を撮っているときはまだいい。枯れた植物を撮っている時は何と答えるのがいいのだろう。「ええ、枯れ方が素敵で」と言ったりもするのだが、言われた方は私が指差す方を見て何とも困ったような顔になる。要するに「何もない」のである。何もないことはない。そこには「枯れた」植物があるのだが、そこに撮るべき「価値」を見出せなければ、それは「何もない」ということになるのである。
映画や演劇に関わってきて、いつもこの問いに突き当たるような気がしている。それは「小さなもの」を「とるに足らないようなもの」その「小ささのまま」に。その「とるに足らないもののまま」に描くことができるか、という問いである。私たちは「その小さな存在」に対して「描く価値があるもの」という何かを付与しなければ描くことができないのではないか。例えばシナリオ学校で、自分の隣にいるような市井の人々の生活を描きたいと言ったとする。すると生徒からはこういう質問がくる。「そんなものを描いて、誰が見るのですか?」と。例えば「小さな存在」を「神々しく」描いたら、「美しく」見えるように撮影したら、「小さな存在」を「描く意味があるもの」として描いたら、それはもう「小ささのまま」に描いたことにならないのではないだろうか。ここでいう「意味」とは「価値」である。結局私たちは「価値がある」ものしか描くことができないのではないか。これではそんなものを描いて、誰が見るのですか?」と言った人と何も違わない。そもそも存在することは「価値」では量ることができないものであるはずだ。「価値」とは「流通」が生み出すのである。「価値」ということが無効となるところに、「存在」はある。
林の中で、エドワード・アビーの『砂の楽園』(越智道雄・訳/東京書籍)を読んでいた。エドワード・アビーは「自然」というものを内面化せずに「他者」のまま描くことを目指したネイチャーライティングの作家の一人である。彼の言う「砂漠の人間に対する無関心」は、ひどく私を清々しい気持ちにさせる。
「この石、これらの植物や動物たち、この砂漠の景観のもっともすぐれた美徳は、それがわれわれ人間の存在もしくは不在、われわれがやってきてここにとどまりあるいはまた立ち去ることに対して明らかに何の関心もしめさないことにある。人が生きようが死のうが、それは砂漠にとっては完全に、いかなる関わりもないことにすぎない。」
言うまでもなく「この石」は、私たちのために存在しているのではない。「その小ささのままに」と言う私の堂々巡りのような考えは、返す刀で枯れた植物を美しく写真に収めようとする私自身を斬るのである。
大阪、CHABO BAND
若松恵子RCサクセションのギタリスト、仲井戸麗市率いるCHABO BAND(チャボバンド)のライブを見に大阪に行った。仲井戸麗市の活動としては、ソロ、ストリート・スライダースの土屋公平との麗蘭(れいらん)、チャボバンドとあるのだけれど、彼の74歳の誕生日を記念するライブは1年ぶりのチャボバンドで企画された。彼が音楽を奏でる限りどこへでも聴きに行こうと思っているので、大阪まで出かけて行ったのだった。会場は、住之江競艇場の隣にあるライブハウス、ゴリラホール。1982年の夏に、住之江競艇場で来日したチャック・ベリーとRCサクセションが共演した、その思い出のある場所だった。
チャボバンドのメンバーと作った10年ぶりのアルバムが、クリスマスに発売される。そのアルバムのタイトル「Experience」を冠したライブは、ギタリスト、ソングライター、ボーカリストとしてのチャボの、様々な経験をくぐりぬけてきた「今」を感じさせるものだった。連れの夫とともに「すごい」「すごい」と言いながらその日泊まるホテルまで四ツ橋線に乗って帰ってきた。
帰りの新幹線までの自由時間にどこか大阪を見物しようと、その参考に、買ったままだった『大阪』(岸政彦・柴崎友香/2021年河出書房新社)を読んだ。著者の取り合わせに興味を覚えて手にした本だった。大阪で育って今は東京に暮らす柴崎友香と、大学進学のために大阪に来て、そのまま今も大阪に暮らす岸政彦が、交互に大阪について話す(文章を書く)構成になっている。相手の文章に影響を受けて、2人の書くものが響き合って、深まっていく感じが良かった。
「はじめに」で岸政彦が書いている。「私たちはそれぞれ、自分が生まれた街、育った街、やってきた街、働いて酒を飲んでいる街、出ていった街について書いた。私たちは要するに、私たち自身の人生を書いたのだ」と。観光案内にはならなかったけれど、2人が大阪で「たくさんの人びとと出会い、さまざまな体験をして、数多くの映画や音楽や文学を知り、そうすることで、自分の人生を築いてきた」、その物語を読むことで、歩く大阪の街に親しみを感じることができたのだった。
学校にも家にも居場所が無くて、大阪環状線に乗って何周もしていた日々のことを柴崎友香が書いている。学校に行くのが苦しくなって、時々早退して、親にばれないように夕方家に帰るまでの時間、環状線に乗って時間をやりすごすのだ。「学校を早退していったん家に帰って着替えて、行った先が環状線だった。誰かに会わず、お金がなくても過ごせる場所を、そこしか思いつかなかった」からだ。「大阪環状線は名前の通りに環状でいつまでも乗っていられるから助けてくれた」と彼女は書く。
そして、乗っているうちに、ほとんどの人が思ったよりすぐに、3駅くらいで降りていくことに気づいて「みんな行くとこがあるんやな」と思う。時には、自分のように、ずーっと乗っている人を発見したりもする。そんな時間の中から、彼女は「自分は一人でいることがつらいのではなくて一人でいると思われることがいやなだけで、だとしたらたいしたことではない」と思うようになる。「日が暮れるのが早くなり、風が冷たくなり始めたころ、わたしは環状線の駅から外に出ることにした」。一人で街を歩くようになったのだ。
彼女がそんなふうに過ごした90年代初頭は、バブルは終わっていたとはいえ「ミニシアターが次々できて、小劇団が注目され、百貨店でも美術館並みの展覧会をよくやっていて、地上波のテレビで深夜に外国やミニシアター系の映画をやっていて、三角公園でただただしゃべっているだけでお金がなくても楽しく過ごせた」時代だった。ひとりきりで歩く大阪は「新しいこと、好きなものを、毎日のように見つけられ」「世の中にはわたしが知らないことがたくさんあって、わたしが知らないことを知っている人がたくさんいて、自分もここにいていい」と思える街だったのだ。ほぼ同年代の私も、当時の渋谷や吉祥寺や下北沢の街を同じように思い出す。
「あほでとるにたりない1人の高校生だったわたしに、大阪の街はやさしかった」「街が助けてくれたから、わたしは街を書いている。」と柴崎友香が書いていて心に残る。当時見た映画やライブを記録していた、小さな手帳の話が出てくる。1989年1月「トーキョー・ポップ」2月「ドグラ・マグラ」、1990年7月「ボーイ・ミーツ・ガール」12月「エレファントカシマシ」と並んでいるなかに1992年2月「麗蘭」という記述があって、嬉しくなった。
仲井戸麗市もまた、家や学校からはぐれて、ひとり街を歩く少年だった。その頃の風景、出会った人がうたになっていることもある。大阪のライブで演奏された「逃亡者」という新しい曲は、そんな少年の時代に出会った活動家(当時世の中は過激派などとも呼んでいた)のカップルの思い出がうたになったものだ。彼らが好きでよくかけていたロックの曲と2人の面影がうたになっている。彼らの何にシンパシーを感じたのか、理屈ではない、言葉では言い表せない思いが、ギターの音に、バンドサウンドになって私に届いた。
親父が死んだ
篠原恒木先日、親父が死んだ。百歳だった。
午前零時を過ぎた頃、「そろそろ寝ようかな」と、寝室の灯りを消したら自宅の電話が鳴った。その瞬間に、
「あ、これは死んだな」
と確信した。電話に出ると、介護施設からで「呼吸が止まった」とのことだった。
「あっという間だったなぁ」
そんな間の抜けたひとりごとを言いながらモソモソと着替えて、ツマと一緒にクルマに乗り、自宅からすぐの場所にある施設へ向かった。
死ぬ三日前に面会したときは、かろうじて会話ができていた。「かろうじて」と書いたのは、親父は耳がとても遠くなっていたので、話すときは耳のそばで大声を出さなければならなかったからだ。五分も喋ると、おれの声が嗄れた。だが、その日はこちらの話すこともどこまで理解できているのか曖昧だったような気がする。
死ぬ二日前、施設を訪ねると車椅子に座ったまま口を開けて寝ていた。いや、寝ていたというよりは意識が混濁しているようだった。昨日の夜から食事も一切摂らないという。呼吸をするたびにゴロゴロと痰がからむ音がしていた。この日は声をかけると一瞬目を開けて、
「コーラが飲みたい」
と弱々しい声で言った。
コーラが大好きな百歳。
施設内の自販機で買って、口に含ませると、ゆっくりと飲み込んだ。
「おいしい?」
と訊くと、目を閉じたままで反応がなかった。再び耳元でもっと大きな声で訊くと、
「うまい」
と応える。そばにいてくれた看護士さんが「意識のある今のうちに薬を飲ませたい」と言って、錠剤を砕いてとろみをつけてスプーンで飲ませた。すると親父は、
「これはコーラじゃねえ。ゲロを飲ませる奴がどこにいるんだ」
と、呂律の回らない声で怒った。こんな状態になっても口の悪さは相変わらずなんだと思ったら、少し笑ってしまった。
「ゲロじゃないよ、今のは薬だよ。じゃあ口直しにもう少しコーラを飲もう」
と言って、コーラを少しだけ飲ませると、満足したのか、また眠りに落ちてしまった。
次の日、つまり死ぬ前日はベッドに寝たままだった。医者が往診して、水分補給のため点滴を受けた。酸素供給量が足りないので、酸素マスクをつけていた。医者は延命治療をするかどうか訊いたが、おれは結構ですと答えた。
「それよりも今の本人は苦しいのでしょうか?」
「意識がはっきりしていないので、苦しさはあまり感じていないかと」
「苦しいのはできるだけ取り除いてください。僕らの望みはそれだけです」
隣にいたツマも大きく頷いていた。
帰宅するとツマが言う。
「お父さんはまた復活すると思うよ」
親父はこれまで何度も医者から
「今日、明日がヤマですから覚悟しておいてください」
と言われていたが、そのたびに奇跡の回復をしていた。それはもう、呆れるほどしぶとかったのだ。ツマはおれよりもそれらのいきさつをよく知っている。
「痰が切れなくなっているのが辛そうだよなぁ。あれが呼吸を邪魔している。苦しくないのかな」
「苦しいのは可哀想だよ。お父さんはアタシによく訊いていたもん。『死ぬときは苦しいのかな』って」
「なんて答えた?」
「お父さんは長生きしているから死ぬときは楽に死ねるよ。それにまだまだ死なないから大丈夫。そう言った」
満点回答ではないか。
「でもなぁ、親父の顔、おふくろの臨終のときと同じ顔をしていた」
「そうかなぁ」
ここ数日で親父のバッテリーは急に残量が減ってきていた、とおれは感じていた。百歳だもんなぁ。その前からこちらの問いかけにも段々と反応が鈍くなっていた。頑張っていたけれど、もう限界だよ。百歳だぜ。つい先日まで自力で痰を切っていたけれど、それも難しくなったようだ。あの痰がゴロゴロしている状態はいつまで続くのか。医者は「苦しさは感じていないだろう」と言ったけど、もし苦しいのなら、いますぐにでもスーッと息を引き取ったほうがいい。
もし近日中に親父が死んだらおれのさしあたっての予定はどうなるのかと手帳を開いた。キャンセルの嵐はややこしいことになるな、と思った。親父が死にそうなのに自分のスケジュールを気にしている息子って結構サイテーだよなと気が付いたが、基本的にそういう奴なのです、おれは。
翌日は仕事で面会には行けなかった。帰宅して晩めしを食べ、午前零時を過ぎたので寝ようとしたところへ電話が鳴ったのだ。施設に着き、親父の部屋に入ると親父は眠っていた、いや、死んでいた。まだ暖かい額を触りながら、
「楽になったね。まあそれにしてもよく生きた。よく頑張った」
と声をかけた。施設のスタッフが泣き出して、それにつられてツマも泣いていたが、おれの涙は一滴も出なかった。おふくろのときもまったく泣かなかったのを思い出していた。
おれにとって年老いた両親はどこか煩わしい存在だった。
育ててくれた恩義はある。だからおふくろにも親父にもできるだけのことをしたと思う。
「いや、もっと献身的にできたはずだ。もっと優しく接してあげられたはずだ」
と言われれば、返す言葉もないのですがね。
おふくろも弱ってからが長かったので、死んだときは正直言って肩の荷が半分下りた。だが、親父が残った。こちらのほうはもっと長持ちした。そのあいだ、我がツマにもいろいろと負担をかけた。考えてみればこの十年間、二泊以上の旅行をしたことがない。東京を離れると、もしものときに困るからだ。親父が死んだら、おれたち夫婦は精神的にも時間的にもかなり自由になれるのだろうな、と頭の片隅でいつも思っていた。
やがて親父の部屋に医者が往診で駆け付け、死亡を確認した。とっくに死んでいたのだが、死亡時刻とは亡くなった事実を医者が確認した時刻らしい。午前1時5分だった。受け取った死亡診断書には「死因・老衰」と書かれていた。老衰とはあっぱれだ、たいしたもんだ。親父は自分が死んだことも自覚せずに逝ったような気がする。知らない間に事切れたのではないだろうか。これは理想的な死のかたちのひとつですよ。百年間も頑張って生きたご褒美だよ。
施設のスタッフに訊くと、遺体はこの部屋からすぐ移動するのが決まりだという。ならばと葬儀社に電話すると三十分で到着した彼らは手際よく親父の遺体を車に乗せた。とりあえず親父はこのままセレモニー・ホールへと移動するようだ。葬儀社のヒトたちはきわめて情感たっぷりの儀式的な演技をしているように見えた。施設から出ていく車を見送るとき、スタッフの方々は手を合わせて泣いてくれていた。財布を落としたとき以外は泣かないツマも泣いていた。おれは車に向かって大きく手を振った。行ったこともないセレモニー・ホールへ一人で向かう親父はきっと心細かったことだろうなぁ。いや、自分が死んだことを自覚していないのだからモンダイはなかったのかもしれない。
火葬場の都合で、葬儀は三日後と決まった。おれはそれまで毎日セレモニー・ホールへ行き、親父と面会して焼香をした。いや、ものの五分間程度なんですけどね。面会は予約制だった。考えてみれば、遺体が安置されているのは親父だけではないはずだから、予約時刻になると親父の遺体を運び出し、用意を整えてくれるというわけなのだろう。死んだ翌朝に行って、親父の額を撫でたらキンキンに冷えていた。社会はすべてシステムによって動いている。
葬儀は家族葬で済ませた。百歳にもなると親戚一同、一族郎党はすべて亡くなっている。知らせるべき友人たちもこの世にはいない。
寺の住職と一緒に火葬場へ向かい、棺を焼却炉の中に入れると骨になるまで五十分ほどかかると言われた。おれは今まで出席した葬儀を思い出していた。あっという間に骨上げをしたような記憶しかなかったので、五十分とはずいぶんと長いな、と思った。
待合室でツマ、住職と食事をしながら、一般的な世間話ができないおれは、
「五十分とは長いですね。低温調理ですかね」
と住職に言った。ツマはおれを睨みつけていた。
とにかく頑固なジジイだった。自説を曲げることを一切しなかった。常に自分が正しいと思い込んでいた。オノレが正しいことを証明するためには平気で嘘もついていた。
いつも怒っていた。「怒り」とは「他者との価値観の相違」から生じる感情らしいが、親父の価値観を共有できるニンゲンなど、ただの一人もいなかった。めったやたらと怒っていたのはそのせいかもしれない。
戦争に兵隊として駆り出された体験を、一度として語ろうとしなかった。記憶からむりやり消そうとしていたのだろうか。今となってはわからない。
「もうすぐ死ぬからもったいない」
と、補聴器の購入を受け入れず、その割には「体にいいから」と青汁を飲んでいた。
「来年は迎えられそうもない」
と言いながら、大晦日には我がツマが作った蕎麦を食べたいから届けてくれ、一緒に食べようとホザいていた。本音はまだまだ生きたかったのだろう。
さんざん貧乏暮らしをしてきたせいか、うんざりするほどカネに細かかった。飛び込みでセールスに来る銀行マンにいい顔をしたいがために、あちこちの銀行、信用金庫に小金を預けていた。小銭で株や投資信託もしていたようだ。そのせいで戸籍謄本と戸籍抄本の違いも判らないおれがいま苦労をしている。戸籍全部事項証明書って何だよ。口座用株式移管依頼書なんて聞いたこともないぞ。にっちもさっちもいかない。そうだ、家じまいもしなければならないではないか。
親父よ、アンタは大往生だったが、おかげでおれは立ち往生しているよ。
挑戦
笠井瑞丈今年最後の挑戦
自分よりも一回りも違う振付家
カンパニーへの出演
あまり僕はヒトの作品に出る事を
してこなかったと思う
してこなかったと言うよりも
あえて避けてきたのだ
なぜならあまり上手に
踊れる気がしないからだ
いままで出てきた数少ない出演も
僕はいつも若い方の立ち位置であった
しかし気づけば今回は僕が一番の年長者
一番下だと二回り下の子もいるし
ほとんどの子が十歳以上離れている
振付家そして周りのダンサーは
僕に気を遣ってくれる
だからなるべく僕も
気を遣われないように
振付家と周りに気を遣う
そうなると不思議と
作品に参加する仕方も
今までとまた
少し違ってくる
俺は一番年上なんだと言って
偉そうにする訳にはいかない
自分も一つの見本になれるように
ならなければいけないと努める
今思えばそのように
先人の先輩方がそうしてくれてた事を思い出す
いつもいい空気を現場に運んで来てくれてた
世代の違う人達との交流
本当に色々学ぶ事が多い
自分には持ち合わせてない感覚を
そして動きもとてもダイナミック
僕は不器用だけどまた
こうしてヒトの振付を踊る
喜びを噛み締めて
舞台に立っている
ここがきっとまた
新しいダンスの
スタートライン
来年は50歳だ
もう若くはない
でも挑戦は続けていこう
アパート日記 11月
吉良幸子11/1 金
早めに出稼ぎから帰るとアパートの入り口に丹さんの自転車。あ、来てはるな、と玄関見ると靴がもう一足。久しぶりに次女のさくらさんが来てはってびっくり!そして女3人に囲まれてソラちゃんがいつもより猫被ってええ猫してはる。久しぶりに賑やかなアパートにソラちゃんも嬉しいらしい。みんなに囲まれてうきうきしてる感じ。さくらさん来たら飛んで帰ってきたんやって、女好きめ!いつもよりおしゃべりなさくらさんから嬉しい報告。来年からコンビニで買える雑誌に漫画が各月で載るらしい!!そりゃぁ絶対読まなくっちゃ、宣伝しなくっちゃ!!
11/4 月・祝
朝、お日さんがのぼると勝手口に日が当たる。ソラちゃんはそれが嬉しいらしく、お日さん来はったで!とばかりに呼びにくる。はいはい、と私も日に当たろうと軽い気持ちで膝にソラちゃんを乗せたが最後、ごろごろと言うて本格的に寝出した。ここ数日、1日のうちで3、4時間くらいは膝貸し屋してんで。近くに置いてあった新聞読みながら小一時間ひなたぼっこ、なんちゅう平和な祝日の朝なんやろか。
午後になって高橋茅香子さんからメールが。朝日新聞のジョージアに関する記事を贈ってくれはった。日本の青年がジョージアで自分のワイナリーを作るべく奮闘する記事で、なんと私も1年程続けてた、朝日カルチャーの語学クラスで契機を得たらしい。クラスは違えど、自分も受けてたようなところからこないに広がってる方もおるんやなぁと、驚くやら、さぼりっぱなしの自分を恥じるやら。
11/5 火
織田作之助が急に読みたくなって中央公論社の選集5巻セットを買う。昭和22年発行。佇まいがものすごいかっこええ本たち。枕元に積んで読もうと思う。楽しみや。
11/6 水
今日は米朝さんのお誕生日。ご存命なら99歳、おめでとうございます。いっぺんでもええから生で聴きたかったなぁ…とCDの声に耳を傾けながらいっつも思う。こんだけ聴いてても生の一回には敵わんのやろう。今日は朝から古いもんばっかし観ておった。朝イチでマキノ雅弘監督の『男の花道』。長谷川一夫とロッパの掛け合いがむっちゃええ。松麻呂さんの講談で何べんか聴いたんやけど、名優演じる映像になると鮮明に自分に焼き付く感じ。そん次にマリーナ・ディートリヒ主演の『Angel』。動くディートリヒは夢みたいに美しい。ほんで阿部豊監督の『細雪』。轟さんが自分とおんなじ名前の配役。みんな船場の言葉で柔らかくて聴き心地抜群。そんなこんなで夕方になって、『銭形平次』へ辿り着いたんやけど、時代劇って大人になって観たらこんなおもろいねんな。2話に登場した酒屋に剣菱の樽が積んであってびっくりした。そらそや、1505年からあんねんもん。剣菱のお猪口で乾杯しながら晩ご飯してたらソラちゃんが帰宅。銭形のテーマソングを大声で歌いながら愉快にお尻ポンポン叩いた。
11/9 土
落語友だち、くみまるさんと深川江戸資料館へ。ほんまは真打披露興行、国立演芸場主催の伝輔さんトリをお目当てで。ここで書いてもしゃーないし控えるけども、寄席は非常に残念やった。その代わり資料館はむちゃくちゃおもろかった。江戸時代の町並みが実物大で再現されてて、家の中には靴を脱いで実際に上がれる。帳場や火鉢の前に座ったり、つき米屋で精米してみたり。法被を着たおっちゃんとおばちゃんが町をうろうろしてはって説明してくれたりもする。しかし長屋の暮らしは潔くてええなぁ。
11/14 木
三遊亭兼好・三遊亭萬橘 二人会へ。この前深川資料館でたまたまチラシを見つけて、行きたい!と言ったら、その場でくみまるさんが切符取ってくれはった。ギリギリに予約したにも関わらず、驚くほど高座に近いええ席で所作もよく見えてありがたかった。おふたりともさすがにうまい。観て聴いて楽しくなるええ会やった。
11/16 土
この頃ソラちゃんがうちの中でずっとついてくる。トイレへ入ったら公子さんへ報告してドア前で出待ち、椅子に座ったら膝の上。せっまいアパートやのにいちいちついて回って、しまいに私が出掛けると公子さんを起こして大騒ぎ。見かねた公子さんがひとこと、ソラちゃんの老いらくの恋だね。
11/19 火
しらかめ寄席第2回目、出演は三遊亭兼太郎さん。前回に続き、こじんまりと賑やかに愉快な会になってよかった。兼太郎さんも経堂が気に入ったらしい。みんな楽しそうで嬉しい会やった。それにしてもしらかめのお蕎麦はうまい。
11/21 木
電車に乗ってたらどう聞いても関西出身のおっちゃんがふたり。ひとりは東京拠点でもうひとりは上京したてらしい。東京住んでる方のおっちゃんが、次の駅が最寄駅なんすよ、と言うと、もうひとりが、それって大阪で言うたら何駅?天王寺?っと大真面目に聞いておった。おっちゃんかわいいやん。分かるでその気持ち、でも例えようないと思うわ、と心の中で返した。
11/23 土・祝
お隣の庭師の棟梁が遂にうちの庭をきれいに草刈りしてくれはった!帰ったらおんなじ場所やと思えんくらいこざっぱりしとる。バトミントンでもできそうやわ。
11/24 日
今日から束の間の秋休み。久しぶりに国へ帰る。目的は3つあって、①浪曲になったチエちゃんへ行く、②ばあちゃんの着物をもらう、③奈良へにぎり墨しに行く、という、聞いただけでは訳分からん旅。朝一で東京を出発、まず大阪へ。ひとつめの目的は浪曲師、真山隼人さんが漫画『じゃりン子チエ』を浪曲にしはって、その初公演が新世界であるらしく、わざわざ大阪まで行こう!という算段。東京公演もあるんやけど、やっぱしチエちゃんは新世界で観なあかん!と帰省の計画はここから始まった。
大阪に着いたら思いの外時間が早うて、思いつきで織田作ゆかりの場所、法善寺へ行った。お参りして夫婦善哉ひとりで食うて、それでも時間がまだあったから散歩して新世界でお好み焼き食べながらちょっと一杯ひっかける。久々の新世界はやっぱりパワーの塊で、そこにおる人たちの気迫に圧倒された感じ。昼一で浪曲が開演。めっっちゃめちゃおもろかった!!ほんまに漫画そのまま、各登場人物が目の前にありありと浮かぶ。大いに笑ってちょっとぐっとくる、人情味に溢れたええ浪曲やった。
浪曲終わったらおかあはんと落ち合う予定やったんやけど、事故渋滞に引っかかったらしくまた時間がでけた。ハルカスでやってる「いいふろまつり」という、銭湯の展示へ。せっまい会場でみんな銭湯クイズに答えるべく紙と鉛筆持ってうろうろしとる。全部正解すると牛乳石鹸ひとつくれはんねん。ありがたい。展示で銭湯なんて見たら風呂入りたなってまうわ。
夕方になってじいちゃんちへ。おかあはんの妹夫婦が今は住んでんねやけど、ばあちゃんの着物箪笥に入れっぱなしの着物をもろて帰ろうというのが、旅のふたつめの目的。家に着いたら着物を出してくれてて、しょうのうの匂いと埃がすごい。おかあはんが来るまでふたりでどれ持って帰るか見る。小物と長襦袢と羽織がやたらに多い。あまりの数に飽き性のふたりで飽き出した頃におかあはんが到着。ばあちゃん、こんなんも持ってたん?!と、娘ふたりも知らんことばっかし。やっぱり生きてる間に聞いてたらよかったなぁ。
晩ご飯食うて、着れそうなんをたたんで持って実家へ帰る。篠山はやっぱし寒い。実家のまっくろ猫、ロロに会うて、一緒の布団で寝る。東から西へ、長い1日やった。
11/25 月
今日も朝から活発的な日。おかあはんと車で奈良へ向かう。帰省の目的みっつめは、古梅園という大老舗の墨屋さんで墨が誕生するまでの工程を見せてもらい、職人さんが練った墨を握って、自分の指の形をした墨を作らしてもらおうというもの。握った墨は乾燥させて3ヶ月程でうちまで送ってくれはる。商店街からちょっと一本入ったところにお店があるんやけど、まず建物に驚く。創業1577年、建物自体は明治中期くらいのものなのでまだ新しいんですよと仰るが、200年の歴史をちゃんと肌で感じるすごい建物。間口の広さで店賃が決まる頃に作られてるから奥に長い長い空間が広がる。墨は生き物やから、できるだけ昔と同じ自然の状態にするために、建物も当時のままのを修理しながら使ってんねんて。そもそも私の世代には習字で使うのは墨汁が主流。固形の墨ってちゃんとすったことあったっけ?と思うくらいやし、どうやって何でできてんのか見当もつかん。そこを順を追ってひと部屋ひと部屋丁寧に説明してくらはった。煤を集め、膠を溶かし、練って型に入れて灰で乾燥させる全ての工程で使う道具も手作り、ひとつずつの作業にそれぞれの職人さんが顔までまっくろにして作ってはる。時間も手間もものすごいかかるんやけど、説明してくれはったおねえさんはキラキラした目で、ここまでやるからうちの墨ってすごくいいんです!とほんまに誇りを持ってやってはるのがものすご伝わった。説明してくれはったおねえさんに仕事で使う用の墨を選んでもらう。おかあはんはうちで写経してるしそれ用のを。古梅園の墨が入った顔彩も思わず買うてしもた。こういう時だけ急に大蔵省になる私…でもええねん、これのために関西へ帰ってきたんやもん。こんだけ職人の仕事を見せてもろたら使うのも緊張するけど、東京戻って墨すってみるのが楽しみや。
11/26 火
束の間の関西旅行も今日でしまい。なぜなら夜にお江戸広小路亭である、三遊亭遊雀・三遊亭兼太郎 二人会へ行く約束をしてるから。今回は落語会へ行くのが初めての友人も誘ったし、間に合うように昼一で新幹線に乗る。ばたばたと忙しかったけど、間に合わせて東京戻ってよかった~と思えるええ会やった。遊雀師匠、さすが、すんごいおもろい。兼太郎さんも最近行った会で観たのと違う噺を二席やってくれはって、どっちもよかった。連れてった友人も楽しかったと喜んでくれて、楽しい夜になった。
ちょっと飲んで、夜中に帰宅。あれ、公子さんも飲んでるやん!実家からの荷物で持ってた風呂敷の中にある日本酒をすぐさま見つける。んじゃ、ちょっと味見で一杯!ともうお猪口出してるやんか!!ということで、持って帰ったその夜に、ちぃちゃいカップ酒はからっぽになったのでありました!
11/29 金
朝からばあちゃんの着物たちがいっぱい届く。長年、箪笥の中で眠ってたから日に干して起こしてやる。来週から出稼ぎで着れたらええなぁ~。
昨日久しぶりに銀座の出稼ぎの手助けに行って、冷えて風邪をもろたらしい。喉と鼻が怪しくて葛根湯を飲み、お日さんに当たるべくあちこち散歩がてら買い物へ。墨使う時の筆掛けを作るべく木材を買ってきていそいそと作る。公子さんに見つかって、甲賀さんと同じだ!と言われた。まず道具から入りたくなるのは一緒なんやね。
ちょっと風邪気味やし夜に公子さんが生姜たっぷりのたまご豆腐を作ってくらはった。塩鯖と大根おろし付き。むっちゃくちゃおいしくて体があったまる。そのまま湯たんぽであったかくしといたお布団へ潜り込む。ああ、幸せ。
11/30 土
くみまるさんと川越美術館でやってる江戸のお洒落装身具という展示へ。煙草入れや紙入れなど、江戸時代に使ってた実物がたくさん展示されている。こんなんどうやってこんなええ状態で残ったんやろ、不思議や。着物の生地を使ってたりして、柄が使う時にものすごお洒落に見えるように作ってある。留め具やボタン細工も職人技。昔の人ってほんまに洒落てて敵わん。展示見た後は川越の町をぶらぶら。ちょうどええサイズの観光地で、蔵造りの建物たちは遠くから見て感激する。
盛りだくさんな11月やったけど、明日からもう師走やて!今年も走って逃げはんねやろか。こわ~。
冬じゃんか_
芦川和樹銀ギ
ィ
ィ
ィ
ン
河ガ
、
背の高い
机
は、木の幽体
ゼロ、ぜったい金魚がいわない
内容、雲の、_〇
額ひ、た、い
問をください
製氷機に生まれたかったわブラックホール
など、なお、よく
川を
見ていた
アレイ
緊張した
せかい鯖の群れ
そのやぶれ目、金属雲の、_〇、〇
貸与
さらさら
すすむ、けつえきの
サイクルを
笑って
もう、笑わなくても
今週と、来週と、すこしずつすべっていく
送迎の豆鉄砲が
心臓にあたった
なあ
桃食った猿がリュウに乗って、赤信号で
止まっていた
なあ
呼ぶ
なあ、ねえ
その心臓を差しだすのに
あと5秒待つ
あと5秒と、7秒かかりそう。猿が手を伸ばせば必ずそこに雲がありちぎって食う桃ではないけど。桃は木になるものだから星のようだと先生はいいました。それから川を流れる。よろこびだけをいまあつめます、冬の用事が始まるまで。待って、まだこれからだと眠いけど思う、_これから、これから
珈琲でも、どうですか
植松眞人 伯父が施設に入ったと知らされたのはまだ暑い夏の盛りだった。亡くなった私の父の兄にあたる人だが、父と血のつながりはない。私の父は早くに母親を亡くし、三人いた姉も亡くなってしまっていた。
父親が再婚し、継母の連れ子として兄弟になったのが伯父だった。その後、父には弟や妹もでき、父方の親戚が集まるだけでも賑やかな雰囲気になった。
私は子どもの頃から、この伯父が好きだった。なんとなく品があって、やんちゃな父がちょっかいを出したり、憎まれ口をきいても、ただニコニコと笑っていた。
伯父は映写技師の資格を持っていて、映画の配給会社に長く勤務した。そして、この伯父が毎月のように送ってくれる映画の試写会の招待状がいま思えば私を映画の世界へと導いてくれたのだった。
そんな伯父も九十歳を越えて、次第に弱くなった。最初は耳が遠くなり、最近では足が悪くなった。一人息子の従兄弟は結婚もせず、伯父と一緒に暮らしていたのだが、車椅子になった伯父を一人で置いておくことができず、施設に入れることになったのだという。
私は妻と連れだって、伯父を訪れた。施設を訪ねるためには予約が必要だというので、従兄弟に頼んで予約を取ってもらい、一緒に訪ねた。エントランスを入ると、担当者らしい若い男性が甲高い声で、「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。その声の高さが、近所の居酒屋のアルバイトと同じように聞こえて、なんとなく私の気持ちは曇った。
個室のドアを開けると、伯父はぼんやりとした視線を天井に向けていた。すると、さっきの担当者がベッドの脇に立ち、伯父がどんなふうにここで過ごしているのかを話はじめた。ただ、その内容は、伯父がどう感じているかとは別に、施設がどんなことをしてあげているのか、ということが主で、相手が懸命に話せば話すほど、私は伯父が不憫でならないような気持ちになってしまうのだった。
途中、おやつの時間になり、若い外国人女性がプラスチックの器に饅頭やウエハースを放り込んだものをもってきた。伯父はベッドを起こしてもらい、一緒に置かれたミルクコーヒーのようなものを手に取り一口飲んだ。そのとき、伯父は眉間に皺を寄せて、表情を歪めた。
「甘くないね」
伯父が言うと、担当の男は
「いつも、甘いのがいいっておっしゃるんです」
と先回りするように言う。
伯父はもう一口すすると、
「甘くないね」
とまた言って、同じように表情を歪めるのだった。
「構わないので、砂糖を入れてやってください」
そう言うと、男はうなずきながらカップを手に部屋を出て行った。飲み物はミルクコーヒーのような色をしていたが、それが何なのかは聞かなかった。飲み物を待っている間、伯父は小さな饅頭に手をのばして、口に運ぶ。これもそれほどうまくはないのか、一口、二口食べると、器に戻して食べるのをやめてしまった。そばで見ていると、饅頭の粉がポロポロとこぼれ、なんだかパサついた食べ物であることはわかる。
男が飲み物を持って入って来た。テーブルに置かれた飲み物はさっきよりもだいぶ量が増えていた。砂糖を入れるだけなのに、どうして量が増えているのか不思議に思ったけれど聞かなかった。伯父は再び置かれた飲み物に手を伸ばして、口に運んだ。伯父はまた顔を歪めたが、今度はなにも言わなかった。
食べることにも退屈したのか、伯父は寝かして欲しいと身振りで伝えてきた。耳の悪い伯父はおそらく施設のスタッフの言うこともあまり理解出来ないのだろう。そして、施設のスタッフの側も伯父との会話を諦め、通り一遍のやりとりだけをしているように見えた。
外国人の若い女性スタッフが、「では、ベッドを楽にしますねえ」と声をかけ、伯父の背中に手を回す。伯父は雰囲気で察しているだけで、女性の声は聞こえていない。もう、この作業に慣れているのだろう。手を回されると、自分も女性も首に手を回して、落ちないように態勢をつくる。その時、伯父は少し大きい声を出した。
「冷たい手えやなあ、あんた」
女性は「ごめんなさい、あっちで洗い物していたから」と慌てて謝った。
ああ、この人は我慢しているのだなあと私は思った。ボケてもいないし、鈍くもなっていない。ただ足が悪く耳が聞こえないだけで、頭の中はちゃんと以前のように動いている。目を見れば、感情だってくるくると動いていることがわかる。私たちが来て、たった三十分で、伯父の顔色は良くなった。目にも輝きが出てきた。伯父は伯父のまま、この施設にいることを受け入れているのだと思うと、涙が出てきた。
伯父が眠そうな顔になったので、私たちも「また、来るから」と伯父に声をかけた。すると、伯父はまた起き上がろうとして、言うのだった。
「喫茶コーナーで珈琲でも飲みましょう」
この施設に喫茶コーナーはない。けれど、珈琲好きだった伯父は、あんな不味い珈琲ではなく、美味しい珈琲にたっぷりと砂糖を入れて飲みたいのだ。
「ここには喫茶コーナーはないのよ」
私の妻が言うと、伯父は繰り返した。
「珈琲でも、どうですか」
妻が、背中をさすりながら頷くと、伯父は嬉しそうに笑い、ほんの少し涙を流した。(了)
『幻視 in 堺 ―日月に響き星辰に舞う―』公演の演出
冨岡三智『水牛』9月号でお知らせしていた公演が無事終わった。というわけで、恒例の主催当事者が主観を語る振り返り(弁解)である。9月号の記事「8月の渡航と11月の『幻視 in 堺』公演のお知らせ」も併せて読んでいただけると幸いである。
幻視 in 堺―日月に響き星辰に舞う―
日時:11月23日(土祝)15:00開演
会場:サンスクエア堺・サンスクエアホール
『幻視 in 堺』と銘打った公演は2021年、2023年に引き続き3回目である。いずれも2部制で、第2部でだいたい50分のスリンピ舞踊の完全版を1曲上演するというスタイルは共通する。今回、前半はイスラム歌唱サンティスワランを中心に歌を中心としたプログラムとし、背景の幕にプラネタリウムを投影した。演奏者は皆、黒の上着を着用。これは大自然の中、星空(つまり夜)に神秘的、瞑想的な歌が響く世界を作りたかったから。一方、第2部ではパステル調の明るく柔らかい色のクバヤに着替えてもらった。これは舞踊曲の音楽のイメージに合わせて、朝の柔らかな光に包まれた世界を作りたかったから。舞踊の衣装も白。
開場から開演までの30分間、ロビーにウジュンクロン(ジャワ島西端にある国立公園、ユネスコ世界遺産―自然遺産―に登録)で午前中にフィールド録音された自然音が流れる。ガムラン楽器は舞台の奥に並べられ、前半分は第2部の舞踊のために空けられている。ただ、サンティスワラン用のルバナ太鼓は置かれている。
第1部が始まると、背景は夕方の山の端となり、そして暗くなる。曲は最初が通常のガムラン曲「ロジョスウォロ」。通常のガムラン曲では楽器演奏だけの部分と、そこに歌が入ってくる部分が交互にくる。月や星や宇宙を歌った歌詞が展開していく中、山の端から視点は上空へ移って地球や月を見、さらに見ている人も宇宙空間に飛んで、太陽系の運行を俯瞰する。
次にサンティスワランと呼ばれる宮廷で発展したイスラム歌唱3曲のため、演奏者は小さなろうそく(LEDだけど)を手に、前の空いた空間に移動し、一重の円弧を描いて座る。サンティスワランの編成はアラブ由来のルバナ太鼓(大小4種類)、クマナ1対(バナナ型の青銅製打楽器、2人で分担してティン・トン・ティン…という単純なリズムを打つ)、チブロン太鼓、そして歌。ガムランセットにある楽器で使うのはチブロン太鼓と、3曲目だけで使うスレンテムとグンデルのみ。これらの人が一番円弧の奥になるようにして、歌う人、クマナを叩く人、ルバナを叩く人の顔がはっきり見えるように、左右対称になるように座る。夜、人々が寄り集まって宗教歌を歌う雰囲気になるように。実際にイスラム系の歌が歌われる時はルバナを叩く人は歌い手の後ろに座して前からあまり見えないのだが、日本では珍しい楽器なのでしっかり見せたいと考えた。この配置はパラボラアンテナみたいに見える。宇宙に放出した歌声をここで再びキャッチしてまた放出している風にも見えるかもしれない。
この配置に移動する途中はムラピ峡谷の竹笹のざわざわした音が流れ、見ている人の魂は再び大地に降りてくる。サンティスワランの歌3曲はあまり間を空けず続けて上演したが、星空は曲ごとに変えてもらった。1曲目では北極星を中心に満天の星空がゆっくりと回転するように、イスラムを伝えた人たちが星を頼りに航海してきた雰囲気が出るように。2曲目では、そのルートで見えてくる星座を強調し、回転していく星座をずっと追いかけて見ていくように。3曲目では月が昇り、一晩かけて運行していく様を見せるように。一瞬であまりわからなかったと思うが、実は合唱に先立つ独唱の部分では流星も沢山流れている。プラネタリウムは月が沈んで反対側から太陽が昇り(地上は朝になっていても空はずっと暗い)、天の川が太陽を追いかけてゆく様をずっと映し出してくれた。プラネタリウムとはリハーサルの時に初めて合わせたので、このプランで本当にうまくいくのかよく分からなかったが、星つむぎの村様が音楽にうまくのせてくれて、雄大な星の旅、その星を見上げる人の旅が描けたかなと感じている。
サンティスワランが終わって再び意識が地上に戻され、ウジュンクロンの虫の声が聞こえてくる。演奏者たちはここでろうそくを消して舞台の上手の方に寄って半弧を描くように座り直す。次は宮廷舞踊「アングリルムンドゥン」の前半(クマナ編成)。編成は大太鼓、クマナ1対、ゴングとクノンとクトゥという曲の節目に鳴らす鳴り物、そして歌で、クマナ以外はガムランセットの楽器である。この編成で演奏する宮廷舞踊は古くて重いとされる曲だけで、数は少ない。スラカルタ王家で王の即位式と即位記念日にのみ上演される舞踊曲「ブドヨ・クタワン」は1時間半の全編、この編成の音楽/歌が演奏される。それ以外にクマナを使う舞踊曲は、曲の前半か後半かの一方のみでクマナを使い、もう一方は普通のガムラン編成で演奏する。「アングリル・ムンドゥン」は「ブドヨ・クタワン」に次いで重いとされる曲である。元々マンクヌガラン(スラカルタ王家分家)の初代当主によって作られスラカルタ王家に献上された曲で、マンクヌガランではブドヨとして、スラカルタ王家ではスリンピとして上演される。
演奏者の配置を円弧から半弧に変えたのは、実はサプライズで踊り手が2人登場するからである。第2部で完全なスリンピを上演するので、この部分での舞踊はきちんとした舞踊を見せることが趣意ではない。この舞踊にある振付を使って踊っているけれど半ば即興的で、クマナの音に惹かれていつの間にか幽霊が出て来て、浮遊して、曲が終わる前にいつの間にかいなくなる…という風に見えるようにしたかったのである。ネタバレしたくなかったのでプログラムに名前を書いていないが、踊ったのは私と岡戸香里さんである。
この幽霊が退場し、曲もまだ終わらないうちに雨が降り始め雷が鳴り響く。これもウジュンクロンで録音された音。「アングリルムンドゥン」は雨をもたらすと言われているので、その雨雲にのって龍が現れ、舞台を巡ったのち昇天していくようにしようと考えた。これもネタバレしたくなかったのでプログラムに名前を書かなかったが、この龍のワヤン人形を操作したのはナナン・アナント・ウィチャクソノさんである。実は、今年(龍年)の正月に、SNSでナナンさんがこの龍のワヤンを操る写真がアップされていたのを見て思いついた演出。その写真ではスポットライトを浴びて昇天していく龍のきらきらした姿が映っていた。ホールの照明の制約もあって同じ用には演出できなかったので、影絵として映し出してくれた。今年が龍年でなかったら、この演出は思いついていなかった。
ここで第1部終わり。休憩中、ウジュンクロンの夜明けのさわやかな空気の中を、虫や鳥の鳴き声が響き渡る。演奏の女性陣はパステルカラーの色合いのクバヤ(上着)に着替え、明るい光をまとう。
第2部は舞踊「スリンピ・ガンビルサウィット」。踊り手の衣装は白色のドドット・アグン(昨年の衣装に同じ)、髪型はカダル・メネック(逆立ちトカゲの意味。後頭部で束ねた髪を下から持ち上げ、頭頂右側でくるんと丸め立ち上げる)。サンプールと髪飾りの羽の色は水色。ちなみに第1部の幽霊シーンでは、このドドットの上に白いクバヤを重ねて着て、また頭の水色の羽飾りも取り、この第2部と全く同じ衣装にならないようにしている。
昨年のフェニーチェホールではスリンピ用の照明プランをかなり厳密に作ったが、このホールの照明では似た感じにできなかったのと、「ガンビルサウィット」の振付構成が昨年の曲「スカルセ」ほどドラマチックになっていないこともあって、わりとあっさり目にする(とはいえ、だいぶ合図を出す舞台監督の手を煩わせたが)。基本的にプラネタリウムは使わないが、戦いの後に続いて負けた2人が座るシーン(シルップと言う、2回ある)では、プラネタリウムでオーロラを出してもらった。これは、私の師匠と同世代で、芸大教員として宮廷舞踊の継承や短縮に取り組んだ故タスマン氏が、このシルップはあの世の世界を描いているという話も聞いたことがあるよと話していたことを覚えていたから。舞踊の解釈は古来いろんな人がいろんなことを言ってきたことと思うが、テンポが落ち、音量も静かになるシルップの場面で、異世界/霊界が立ちあがるのは良いなと思ったのだった。異世界というと緑の世界というイメージが私にはあって(夜間に撮影すると緑がかって写る)、それがオーロラと結びついた次第。
ジャワの宮廷舞踊も、通常のガムラン曲と違って初めから終わりまで斉唱で歌いづめである。その意味で宗教歌と宮廷舞踊の歌はよく似ている。歌が主役なのだ。こういう演目だったので、ジャワから招いた音楽家は芸大教員で宮廷舞踊曲の演奏を指導してきたスラジ氏(楽器はルバーブ、メロディを主導する楽器)と、歌とくにサンティスワランを専門とするワルヨ氏、そして卒業生で在野の芸術家として活動するクリスティアン・ハリヤント氏。クリスティアン氏にはガムラン演奏ではガンバン(木琴)を演奏してもらった。これはなかなか大変なパートである。
最後に内輪褒めになるのだけれど、スリンピの完全版演奏に日本で真剣に取り組み、今のレベルでできたことをスラジ氏には評価してもらえた。今の出演メンバーとは岸城神社で10年間続けた公演(2009年~)以来、不完全な長さであっても宮廷舞踊曲に取り組んできたので、この間に積み重ねたことは小さくなかったのだなあと思う。また、サンティスワランに関しては、ワルヨ氏が「ジャワでも指導しているけれど、日本で一番成功した!」と言ってくれたのが嬉しい。私たちはワルヨ氏が送ってくれた録音を基に練習を重ねていたけれど、リハーサルの前日に(しかも日本に到着した日)にいきなり新たな演出が加わったのである。たぶん、私達の出来を見て、これならイケる!と踏んでくれたのだが、いきなりの展開に面食らってしまった…。というわけで、これにて3部作『幻視 in 堺』も無事終了である。
『アフリカ』を続けて(42)
下窪俊哉 仲俣暁生さんの『もなかと羊羹』を読んだところだ。サブタイトルに「あるいはいかにして私は出版の未来を心配するのをやめて軽出版者になったか。」とある。文庫サイズで44ページの薄い本で、仲俣さんの個人出版プロジェクト「破船房」から出ている。この連載の(38)で触れた「軽出版者宣言」を冒頭に置いて、そこに至るまでの経緯と、「自分で企画し、自分でつくったものを自分で売る」ことがいまの時代、どうなっているかを解説してある。
それを読みながら、ウェブ上の各種サービスが洗練されてきた、という要因を外しては考えられないのだ、とあらためて考えた。
簡単に言うと、いまはパソコンでデータをつくれば、ウェブで入稿して印刷・製本することが出来て、ウェブで売れる。
それに加え最近は、文学フリマをはじめとする即売会も盛んになってきたし、シェア型書店で自分の棚を持ち売ることも出来る。独立系書店も増えてきた(らしい)ので、営業に出て直卸で売ってもらうことも出来る。しかし地方によっては、状況は多少違うかもしれない。
私は即売会には滅多に行かず(出ず)、書店にかんする昨今の傾向にも疎いので、ピンとこないところもあるが、噂に聞いて知ってはいる。いまは横浜に住んでいて東京で仕事をしているので、そのような環境には恵まれているのかもしれないが、『アフリカ』を始めた頃(18年前)に文学やら出版やらの業界からは距離を取ろうと決めて以来、いまはまだ、相変わらず離れたままである。
しかし、ウェブ上のコミュニケーションについては、そんなふうに他人事のように考えることが出来ない。
とくにSNSは、必要不可欠なものになった。何よりTwitterの存在が大きい(いまは名前が変わったそうだが、中身はTwitterである)。「水牛」の八巻さんからも、そこで声をかけられたのだから。なぜかわからないが、そして良くも悪くもということになるだろうが、不思議な力が働いているのを感じる。
いま私のやっていることは、主にSNSによって知られている、と言えるだろう。SNSが入り口になって、いろんな場所への案内人の役割を果たしてくれてもいる。
数年前のコロナ騒動の頃には、こうも考えた。これからはウェブ上に拠点を持ち、どこからでもアクセス出来る、というふうにしてゆけばよいのだ、と。
しかしそういった営みの先につくっているものは印刷して、製本された、いわゆる「本」なのだ。それはウェブ上には存在しない。各々の手元に届けられるモノだ。
ところで、「知られる」ということが、すぐに「売れる」にはつながらない。『もなかと羊羹』にもそう書かれてあり、仲俣さんによる試行錯誤の様子も少し紹介されている。
工夫すれば、それなりに稼ぐことも出来そうだ(本業にはならない)が、それはひとりでやる場合であって、アフリカキカクのように人が集まってやるというのでは、制作費+αくらいにしかならないというのが正直なところだ。
それでも、自分(たち)の本は自分(たち)でつくりたい。なぜなら、そこでは自分(たち)のやりたいように出来るから。
この連載の(6)に、ビル・ヘンダースンという人のエピソードが出てきていた。彼が図書館で調べてわかったように、いまではとても有名な作家たちの中にも、自分の本を自分でつくって出してきた人がたくさんいるのである。何も遠慮することはない。
そんなふうに言うと、大げさかもしれない。自分にとっては、ひとり遊びに近いことだというふうにも感じているから。ひとり遊びなのに、他人を巻き込んでやっているのだから、よくわからない気もする。
戸田昌子さんは先日、『アフリカ』に書くことを「サークル活動」と言っていた。なるほど、そんな感じかもしれないな、と思う。その戸田さんは昨年、初めて『アフリカ』に書いた後に、こんな感想を寄せてくれた。
たぶんわたしは、道草さんの文章を読んだ時も、そしてなつめさんの文章を読んだときも、お金をもらってものを書くことにちょっと飽いていて、そして仕事というものの幅の狭さにきっと、イライラしていたのだと思う。だから「書く必然性がある」のに、「求められて」書いているわけではないような、ちょっと途方に暮れるような自由さのなかで、一定のテンポを刻みながら書いている人たちの存在を強く意識した。そのころから『アフリカ』に書きたい、という思いが、わたしのなかにふわっと生まれてきていた気がするのです。
道草さんというのは私のことで、ここで言われているのはブログの文章のこと。なつめさんの文章というのは、『アフリカ』vol.34の巻頭に載っている「ペンネームが決まる」のことだ。「ちょっと途方に暮れるような自由さのなかで」というくだりを読みながら、何度読んでも、心が震えるのを感じる。この文章は、もう少し続けて引用させてもらおう。
わたしは、文章を書くことをなりわいにしていて、文章を書くテクニックもタクティックもそれなりに持っていて、それゆえに人に感嘆されようが、けなされようが、屁とも思わないような鋼の精神も持っている。なのに、というか、だから、というか、しかも、そのことにすら飽いていました。それでいて、書きたいことを書きたいように書いてください、と言われたとしても、ほんとうにそんなふうに「自由に」書ける場があったためしはなかったのです。
『アフリカ』が自由だということは、以前からよく言われている。私の書く文章が自由だと言われたこともあったが、それとこれが、関係しているのかどうかは知らない。書くことも、雑誌や本をつくるのも、自分のやりたいようにやりたいとは思っているようだ。自分のことを「ようだ」なんて言うのはおかしいかもしれないが、そんなふうで、それを実現させるには、おそらく編集者になる必要があった。
自分の中に編集室をつくったのである。そこに入ると編集者になれる、そんな小部屋を。これはいわゆる職業としての編集者とは、ちょっと違うかもしれない。
そこは、何というか、いつでも空っぽの部屋なのだ。空間だけがあり、何もない。そこに入ると、いつだって、あとはあなた次第でどうにでもなるんだよ、と言われているような気がする。
むもーままめ(44)「ココナッツサブレ 発酵バター」の巻
工藤あかね 少し前まで、甘いものにはほとんど興味がなかった。お酒が好きだったこともあるけれど、それ以上にとにかく、甘くない食べ物が好きだったのだ。食べ放題で夫がデザートを頼んでいる頃、まだ私はお肉を頼んでいることが多かった。学生時代には、友人に誘われてあんみつ屋さん(当時は大学最寄りの駅の近くにあった)に行っても、かたくなに、ところてんを頼んでいた。幼少期に食べたあんみつのみつ豆がボソボソして口に合わず、それ以来あんみつは食べたい気持ちにならなかったのだ。ただケーキは好きで、家族の誰かの誕生日とクリスマスに登場する、いちごの乗った丸いデコレーションケーキは楽しみだった。だから一時期ちまたで流行った二段ケーキが我が家にやってきた時は、家族中で最高潮に盛り上がった。…あれは小さな弟の誕生日、彼がロウソクの火を吹くことになっていた。「ブーッ!!」弟は勢いよく、よだれ混じりの息を吹いたのだ。二段ケーキの南半球が被害に遭い、大きい弟は泣きながら怒って北半球を私と二人で分けて食べた。南半球を全部食べると息巻いていた小さな弟(誕生日だがブーッの犯人)は、大きな弟に恨みがましい目つきで見られていた。楽しかったはずのお誕生会が一気にしらけた。小さな弟にあてがわれた南半球を本人一人で完食なぞできるはずがなく、残りは両親が食べたのだろう。甘いものにはさほど執着がない私でも、二段ケーキの思い出は忘れられない。
とはいえ、甘いものは特に執着がないポーズを通してきた私でも、変わる時は変わるものである。最近、急にお菓子が好きになって、家に何かないと「大変、買いに行かなくちゃ」となる。以前は食べたいものがあれば材料を揃えて手作りしていたが、その気力も時間も別のことに使えるなら使いたくなった。最近のコンビニスイーツはよくできているし、生菓子以外でも各社ともにすごく工夫して美味しそうなものを売り出しているので、買い物がてらにお菓子コーナーも少しのぞくようになった。
今日食べて驚いてしまったのが「ココナッツサブレ 発酵バター」である。スタンダードな「ココナッツサブレ」を食べた記憶が薄いので、もしかして自分で初めて買った「ココナッツサブレ」シリーズになるだろうか。「発酵バター」という言葉に釣られてついつい買ってしまった。サブレの大きさは名刺を二回りくらい小さくしたくらい。16枚入りが4枚ずつの個包装になっているのもポイント高し。一袋が100キロカロリー程度。カロリー管理の必要な人が、ちょこっと食べるのにちょうどいい。4枚が重なるように積まれているが、一枚一枚に結構しっかりとした固さがあるので、お菓子が割れていて袋を開けた途端にがっかり、ということは少なさそうに見える。きっと輸送用トラックに揺られても心配なし、お店で走り回るいたずらっ子がガバッと取ってちょっと振ったくらいでは割れたりしないのだろう。なんといってもお菓子は見た目が重要なのでね…。
そしてついに食べてみる。個袋から引き出すと手の指にサブレ側面の緩やかな波線が当たる。この形をしていると、そうっとしか持てない。表面がつやつやとしてお砂糖がまぶしてある。形が可愛いだけでなく、作り手の「大事に食べてね!」のメッセージがこもっているように感じられる。口に運ぶ瞬間、バターの香り、あとからココナッツの香りがやってくる。歯ごたえはサクサクとザクザクの間くらい。硬すぎず、柔らかすぎず、厚さも薄すぎず厚すぎずで、軽やかだけれどしっかり食べたような充実感もある。うまい、うますぎる。もう一袋に手が伸びかかったが、迷った末にまた明日食べようと心に決めた。個包装の勝利である。菓子コーナーは「たべっこどうぶつ」と「歌舞伎揚」を買う以外に用事がなかった私だが、今度から「ココナッツサブレ」シリーズには注目していきたいと思う。
吾輩は苦手である 5
増井淳 ずいぶん前のことだが、仕事で歴史学者の今井清一さんのご自宅へうかがったことがある。
今井さんから尾崎秀樹に関する原稿をいただき、シェリー酒などもごちそうになり、いい気分で辞去した。
その帰り道、満員電車に乗っていて、見ず知らずのニンゲンから突然ガラス瓶で後頭部を殴られた。
瓶の中には液体が入っていて、上半身はびしょぬれになってしまった。
ちょうど駅に停車したところで、殴った男は、走って下車してしまい、吾輩は濡れたまま会社までもどった。
そういうことがあったからだろうか、満員電車というのがつくづくいやになった。
いやになっただけでなく、その後、満員電車に乗ると急に不安や息苦しさに襲われるようになった。
そして、ついには満員電車に乗れなくなってしまった。
電車通勤だったが、以来、できるだけ空いている電車を利用。おかげで、40分ほどだった通勤時間が1時間以上かかるようになってしまった。
そういえば寺田寅彦も満員電車が苦手だった。
「満員電車のつり皮にすがって、押され突かれ、もまれ、踏まれるのは、多少でも亀裂の入った肉体と、そのために薄弱になっている神経との所有者にとっては、ほとんど堪え難い苛責である。その影響は単にその場限りでなくて、下車した後の数時間後までも継続する。それで近年難儀な慢性の病気にかかって以来、私は満員電車には乗らない事に、すいた電車にばかり乗る事に決めて、それを実行している」(「電車の混雑について」『寺田寅彦随筆集 第二巻』岩波文庫。青空文庫でも読める)
「堪え難い苛責」というのが吾輩には痛いほどよくわかる。
寅彦は科学者らしく満員電車を「観測」して、その「律動」に法則性のあることまで指摘している。
寅彦の指摘は大正時代のこと。今では「満員電車のあとには空いた電車が必ず来る」というわけでないと思うが、それでも急行とか快速には乗らず各駅停車を選べば比較的空いている電車に乗ることができる。もちろん、時間がかかり、その待ち時間が時には堪え難く感じることもあるのだが。
満員電車は苦手であるが、実は、吾輩はほとんどの乗り物が苦手である。
前に勤めていた会社はビルの3階にあり、社員はエレベーターで3階へ行くのだが、吾輩はずっと階段を利用していた。
学生のころ、下宿から学校まで吾輩以外の下宿人は電車を利用していたが、吾輩は30分ほどかけて歩いて通っていた。
小学生のころは、友だちが自転車で遊びに行くのに、吾輩は走ってそれについていった。
つまり吾輩は、自転車、三輪車、船、飛行機、エレベーター、エスカレーターとおよそ「乗り物」と言われるものすべてが苦手である。乗り物に乗るくらいなら歩くほうがいいし、歩けない距離なら出かけないほうがいい。
通学・通勤で電車をずいぶん利用したが、目的地の少し前の駅で降りて、そのあとは歩くということもよくやった。
数年前に通勤から開放されて以来、電車に乗るのは年に数回ほどである。
先日、同級会があり帰省した。その際、十数年ぶりに新幹線に乗ったのだが、ICカードの使い方がわからず、駅で右往左往してしまい、あやうく目的の電車に乗り遅れるところだった。しかも、新幹線の乗り心地が悪く、気持ち悪くなってしまう始末。
まったく乗り物というのはイヤなものである。
「水の上を歩くのが奇跡ではない。この地上を歩くことが奇跡なのだ」と臨済禅師は言われたが、このことばをかみしめながら、トボトボと歩く日々である。
旭丘団地の午後
さとうまき今年の夏は暑かったので、11月も終わりに近づき、ようやく最近銀杏並木が色づき始めた。しかし今日は朝からどんより曇ってさえない色合いだ。僕の父が亡くなってから10か月以内に相続税をおさめに行かねばならぬ。11月末が納期だった。どうせなら、是枝監督の映画「海よりもまだ深く」の舞台になった旭丘団地まで行って、そこの郵便局から振り込むことにした。昭和42年に建てられた2070戸のマンモス団地だが、商店街は、高齢化のためか見事なまでにシャッターが下りている。それでもまだ人は住んでいるようである。映画は、夫に先立たれた一人暮らしのおばあさん(樹木希林)の年金を当てにして、妻に逃げられたダメ男の長男(阿部寛)が頻繁に団地を訪ねるたわいもない話だが、他人事とは思えない高齢化社会の問題を描いている。監督は、9歳から28歳までこの団地で暮らしていたというし、僕とあまり年が違わず、高校も大学同じだから人一倍親近感を感じるのである。
税金を納めて一区切りがついた気分である。郵便局の前がちょっとした休憩所になっており、そこにいらなくなった本がおいてある。自由に持ち帰ってもいいし、いらなくなった本を持ってきてもいい。どんな本があるのかなあと、目についたのが、「名医ぽぽたむのおはなし」という絵本だった。池袋にカバのロゴマークのぽぽたむというブックギャラリーがあったので、カバの話かなあと思ってパラパラ読んでいると、これが結構おもしろい。糊とポンプで死んだ動物をよみがえらせるというカバの医者の話だ。
しばらく読んでいるとおばあさん3人連れがやってきて世間話を始めた。
「昨日は天気が良くてね、布団をほしたのよ。ところが、布団があつくなっちゃって眠れなかったのよね。」
僕はそのことばにちょっと興味をひかれたので、本を読むふりをして盗み聞きをすることにした。
「これから、雨になるって。でも明日は晴れてあったかくなるって」
明日は友人に庭の剪定を手伝ってもらうことになっており、僕は天気のことを気にしていたからおばあさんたちの情報は有益だった。
「もの(値段)があがっててね、鳥が埼玉で病気になって卵が高くなったわね。かわいそうに元気な鳥も全部殺されちゃうのよね。かわいそうに」
「人間もやられているみたいだけど」
「ねぇ、ロシアとかあっちのほうに連れていかれてね。かわいそうなのは北朝鮮のひとよね」
北朝鮮は、ロシアに協力し、兵士を送りウクライナに送り込んだ。相当数の北朝鮮の兵士が戦死しているらしい。ゼレンスキーは、「不安定化する世界の新たな一ページを開いた」と言っている。
「北朝鮮が日本製の武器をどこかで仕入れてウクライナで使っているのよ」
へえ、そんなことになっていたのか。
「早く終わらしてくれればいいのにね」
「でもねぇ、戦争していいことなんてなんにもないわよね」
「そうよ、そうよ、何にもない」
「ものは壊される、食べるものもない」
「地球は一つなんだから、地球守らないと」
「地球なくなったらみんなどうすんだろう」
「お金一杯持っている人は火星とか行っちゃうんだろうけど」
「中国なんかも、富裕層は外にみんな出っていっちゃう。貧しい人は仕事がないっていうわよ。共産党国なのに平等なんてないのよ」
いつしか話はグローバルな方向へと向かっていたが、僕は、カバの医者、ぽぽたむの荒唐無稽な絵本を読んでいた。ワニに食われて肉団子になったキリンをポポタム先生はよみがえらせるのに成功した!
子どものころ、こたつに入ってうとうと居眠りをしていたことを思い出す。女たち(祖母や、母や、親戚のおばさん)はいつも世間話をしていた。彼女たちは、子どもがいようがいまいがお構いなしに大人の会話をするのである。自分は会話に加わる必要がなかったし、そのことはとても心地よかった。僕はばあさんたちの会話を楽しみながらポポタムの絵本を持ち帰り続きを読んでいる。
本小屋から(12)
福島亮先日、どういうわけかエラリー・クイーンの『Yの悲劇』を読みたくなった。駅前書店に駆け込むと、やっぱりあった。急いで購入し、あっという間に読んでしまった。『Yの悲劇』については、有名な作品だから、詳しい説明は不要だろう。物語は、船乗りたちが水死体を見つけるところから始まる。遺体の損傷は酷かったものの、持ち物からニューヨークの資産家の老人ヨーク・ハッターであることがわかる。自殺らしい。資産家といっても、一家のすべてを牛耳っているのは強烈な癖をもったエミリー夫人であり、あの夫人がいればヨーク・ハッターが自殺したのも頷けると誰もが思った。つまり、事件性はない、と。だが、主人亡きあとのハッター家を舞台に、不可解な事件が立て続けに起こる。とりわけ謎めいているのは、犯人が凶器としてマンドリンを使用した点だ。なぜ、あの軽くて小さな楽器、マンドリンなのか……。この謎に、引退したシェイクスピア役者ドルリー・レーンが挑む。
小学生の頃、私は横溝正史のファンだった。角川文庫版の「金田一耕助ファイル」を小遣いでせっせと購入し、何度も読んだ。実家の周辺には書店がなく、親に頼んで自動車を出してもらい、タイムクリップという雑貨屋兼書店、あるいは戸田書店というやはり雑貨屋と本屋がセットになったような店で、角川文庫をせっせと購入した。それは子ども時代の私にとって、お気に入りの国語教材でもあり、『八つ墓村』を読むことで「発端」という単語を覚え、『獄門島』を読むことでいくつかの俳句を覚えた。当時は「音読」の宿題というのがあって(いまもあると思う)、基本的には教科書に掲載されている「名作」を音読するのだが、好きな文章を読むこともできた。読んだものは「音読カード」に記録し、どれだけ多く読んだかを教師がチェックするのである。不正できないよう、本当に聞きました、という旨の印鑑を親が押す。私の「音読カード」には『犬神家の一族』や『悪魔の手毬唄』といったタイトルが記録された。それらは夕食を準備する母に読んで聞かせたものだが、じつは、横溝正史の魅力を私に教え込んだのは母だったから、息子が血生臭い話ばかり音読することをあまり不満には思っていなかったと思う。中学、高校と進むにつれて、少しずつ私は横溝作品から遠ざかり、そればかりかミステリーからも遠ざかっていった。気がつくと私が買い集めた角川文庫は、いつの間にか母の枕元に移動していた。
いま思うに、子どもの頃の私が母から教わったのは、おどろおどろしい設定や、奇怪な犯行に対する「怖いけれども読みたい」という好奇心だった。言うまでもなく、ふたりの「推し」は、あの佐清である。角川映画の『犬神家の一族』がヒットしたのは1970年代半ばだから、それは母の少女時代にあたる。母が映画を見たのかどうかよくわからないのだが(石坂浩二よりも、古谷一行の方に母は馴染んでいたような気がするし、あまり映画の話はしなかった)、私たち横溝ファンの親子が生まれた背景にも時代的脈絡がきっとあるのだろう。
あの頃買った文庫本は、いまでも実家の本棚に入っている。何度も音読し、表紙がボロボロになった『八つ墓村』もそこに置いてある。それらをまた開く日が来るかどうかわからないけれども、ある時期以降ミステリーから遠ざかっていた私には、それらの本は懐かしくも、どこか後ろめたい存在である。お世話になっておきながら、裏切ってしまった誰かのような存在、子どもの頃あんなにも仲良くしていながら、学年があがるにつれて疎遠になってしまった友人のような、そんな存在なのだ。
『Yの悲劇』を驚くほどのスピードで読みながら(ミステリーを読むとは、この止まることを知らない手の速度に、呆れながらも感心することではないか、と思う)、私の目はどこかで小学生の頃の私の目になり、指は小さな子どものそれになっていた。レーンが実験室の戸棚に隠れて犯人の様子をうかがう場面では私も息をひそめ、この老役者がその名前を告げる場面では、思わず声をあげ、そしてマンドリンの謎が解明される時には、なんとも言えない快感を感じた。ヴァニラの香りのような甘ったるい小学生時代の思い出と、そこから離れてしまった後悔の苦味。それは、私がミステリーから離れつつあった頃に知った俵万智の表現を借りるならば、ダメだと思いながらもつい手がのびてしまう、チョコレートのような読書体験である。
しもた屋之噺(274)
杉山洋一ミラノに戻った翌朝、庭の樹は見事に黄金色に染まっていて、枝の下は、既に落ちた葉が地面の雑草とあいまって、ちょうど19世紀おわり、イタリア分割主義(ディヴィジオニズモ)の絵画の筆致をおもわせます。久しぶりにこちらの姿を確認したリスは、また餌が途切れては堪らないとでも思っているのか、樹の根元あたりに穴を掘っては、餌箱にやったばかりのクルミをせっせと運んでは溜め込んでいます。小鳥たちはそれを周りからじっと眺めていて、ときどき、こちらのすぐ近くに飛んできてこちらの様子をしばらく伺っては、またリスのそばにもどって作業を見守っています。鳥の翼の赤が、紅葉の風景にやさしく溶け込んでいて、おもわず心がなごんでくるのです。
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11月某日 三軒茶屋自宅
勤務先の学校を運営する財団より一斉メール。たとえ、学校とは直接的には関連はないが、我が校に関する新聞記事に大変憂慮をおぼえる。我々は性虐待問題について、非常に強い態度で臨んでゆく。万が一、身の周りでそのような問題を見聞きした場合、すぐに連絡されたし、とある。何があったのか全く見当がつかず、学校名で新聞記事を検索すると、目ぼしい大手新聞社が軒並み、我が校の教師とその卒業生が、性加害者として訴追され1月に出頭命令。ずいぶん詳しく書いてあって、教師と彼の元生徒が、一人の女子学生と夕食後に暴行に及び、被害者は警察に通報した。教師のイニシャルまで書いてある記事もあり、揃って、学校は無関係だと主張している、と締めくくられていた。
ひがな一日譜読みに明け暮れているが、ひどい時差呆けで気が付くと、机につっぷして寝ている。急がば回れともいうけれど、急ぎ続ける生活は厳しい。何かを根本的に間違えているような気もする。あとひと月頑張って指揮に専心したら、譜読みや指揮とも距離をとって静かに作曲する生活にもどる。本来、自分は田舎の学校でつつましく教鞭をとっているのが向いている人間だとおもう。
11月某日 三軒茶屋自宅
対イラン政策のため、米重爆撃機B52来伊。100年前、ヒットラーはチェコ国内で迫害を受けているドイツ系住民を解放する名目でチェコに侵攻した。他の地域も似たようなものだろう。あれから1世紀過ぎて、さまざまな惨い戦争で諍いの無意味さを理解したはずでも、原爆で人が瞬時に消滅する姿に慄いたとしても、まったく同じ方便を使って、人は人を殺めつづけているのは、おどろくべきことだ。大部分のナチス時代のドイツ国民が、ユダヤ人迫害をしらなかったように、もしくはしりたくなかったかのように、加害にたとえ無意識にでも加担している人々も、一人一人はおそらくとても優しく、人間味あふれる人々に違いない。
小学1年生の終わりに、教室に置かれていた「はだしのゲン」を読んだときの衝撃は今でも忘れられないし、その思いは未だにトラウマになって体内のどこかに残っている。小学校の終わりごろ、学校の代表だったから、原爆で黒焦げになった遺体の写真何枚かについて、感想文を書かなければならなかった。何を書いたのか全く記憶にはないけれど、ただ、「はだしのゲン」を初めて読んだときの恐怖などを、まざまざと追体験しながら書いたのは覚えている。
そのころ、子供心に本当に不思議だったのは、こんな酷い目にあいながら、いまなぜ日本はアメリカと仲が良く、大人たちはどうしてアメリカ人を嫌ったりしないのだろうという、文字通り素朴な疑問だった。その頃は相模原に住んでいたから、米軍座間キャンプが近く、近所にはそこで通訳として勤めている人もいて、どうしてアメリカ人が怖くないのか、憎らしくないのか、実は本当は憎らしいのか、などと考えていたのを思い出す。そうして、実際に座間キャンプなどに勤めていた米軍関係者のこどもと知り合う機会もあって、自分と同じごく普通の子供だった。
息子がミラノの現地小学校に通っていたころ、同級生のフィリピン人に、「戦争中日本人はフィリピン人をたくさん殺した。だから、フィリピンのひとは日本人がきらいなんだよ」といわれ、とてもショックを受けた。この同級生が、誰からどのように教わったか知らないし、それを事実に反するというひともいるかもしれないが、とにかく息子の同級生は、そのように思っていた。朝鮮半島や中国に残る、日本に対してのわだかまりも、それに準じる皮膚感覚なのかもしれないが、自分が小学生のころ抱いていた漠然とした恐怖を思い返せば、少しわかる気もする。もちろん、場合によっては政治家はその皮膚感覚を利用してきたかもしれないが、それは今に始まったことではないだろう。それとは別の次元で、刻み付けられた傷を後世に伝えたい意志は、ほとんど意識そのものと重なっているかもしれない。
先日までイタリア中部で洪水が続いていたが、今度はスペインのヴァレンシア地方で甚大な被害。被害者は現在のところ212人と報道されている。
11月某日 三軒茶屋自宅
NHKホールにて作曲コンクールの録音。録音といっても、ごく普通と同じようにドレスリハーサルがあって、審査員5人のための演奏会がある。ドレスリハーサルも石川さんの曲になり、甲斐さんが舞台に現れるのを待ってさあ始めようとしたところ、客席から、パキッと大きな物音がする。念のため、ドレスリハーサルも録音していたので、大きな雑音が入るのは望ましくないとおもい、特に後ろを振りかえらず「始めますから、すみません!」と声をかけ、また振り始めようとすると、パキッと大きな物音がした。後ろを振り返ると、音のするあたりに、関係者が駈け寄っていて、なんだろう、と眺めていると、またパキッと音がした。「すみません、何もありません。長年、ここで収録してきましたが、こんなこと初めてです」とNHKの方が言うので、一瞬だけ鳥肌が立ち東フィルのみなさんもみな緊張した面持ちになったのだが、「ああ、なんだ西村先生そこにいらしたんですねえ!」と声をあげると、オーケストラからどっと笑いが起きた。西村先生は、本当にみなさんに愛されていたのだろう。
もしかしたら、湯浅先生とか一柳さん、三善先生かも!などとオーケストラのメンバーからもはずんだ声がきこえる。なんだ、そこで皆さん聴いていらっしゃるなら、今日の演奏はもうお任せして大丈夫ですね、とすっかり気分も大きくなったが、その通り、本番は実に素晴らしい演奏ばかりであった。情熱ほとばしる甲斐さんの独奏には、オーケストラ一同すっかり惹きこまれたし、まだ大学に通っていらしたころからよく知っている中澤さんが、急な代役を見事にこなされたのにも、大変感銘をうけた。
生まれて初めて、どうやらラップ現象と呼ばれるものと遭遇した塩梅であるが、あんなに愉快で幸せな気分になるものとはしらなかった。リハーサルが終わり控室に戻ると、なんだかすっかり感激してしまって、涙が溢れて仕方なかった。
審査員のみなさんの拍手と相俟って、コンクールらしからぬ、心地良い演奏会となったのは、どなたかがムードメーカーで眺めていらしたからかしら。トランプ前大統領再選。
11月某日 三軒茶屋自宅
朝「1通の手紙と六つの唄」を初めてリハーサルしていると、ピアノを弾いていた家人が「マエストロが来てるよ」という。振り向くと、敢えて呼んでいなかったシャリーノが微笑みながら座っている。演奏がとてもむつかしい作品だったから、最初からリハーサルを聴かれても困ると思っていたが仕方がない。思いの外元気そうなので安心する。
午後は作曲のワークショップ。まずシャリーノは、皆が周りにあつまるように促した。彼と二人、舞台の端に腰かけて、客席前列と、舞台にも椅子を並べて、みんなで6人の若者が書いた書きかけの楽譜をながめながら、レッスンとレクチャーのあいまった濃密な時間が展開した。
シャリーノは自分の書きかけのスケッチを見せてくれる。五線紙ではなくグラフ用紙に時間軸にそって、細かく丹念に書き込まれた音のうごき。自分はこんな風に音を視覚化して、俯瞰していると説明した。
若い頃には、自分の作品など殆ど演奏の機会にめぐまれなかったし、周りが前衛音楽一辺倒の時代において、自分の音楽は後ろ向きだと批判ばかりされた、と笑う。
シュトックハウゼンやブーレーズなどを真似て、ずいぶん色々と自分なりに実験してみたが、書法の洗練に特化したブーレーズより、自分はシュトックハウゼンの姿勢に共感をおぼえたものだった。
理論で作曲するのではなく、自分の書きたい音に耳を傾けるよう、繰り返した。確かに、彼は自分の書いた音がすべて聴こえているようであった。それは作曲家にとって、決して容易なことではない。
日が暮れた皇居の外苑濠を二人で散歩していると、シャリーノから街路樹の名前をたびたび質問される。横断歩道できこえる視覚障碍者のための電子音が特にお気に入りで、ぴよぴよ、ぴよぴよっているあれは、何の鳥かねと尋ねられ、スズメじゃないかしらと適当に答えてしまったが、案外違っているかもしれない。中国を訪れた際、漢字を二つ覚えたという。一つは人が手を広げた形をあらわす「タイ」。あれは「大きい」という意味だそうだね。もう一つはチュンコウ(中国)のチュン。真ん中ってことなんでしょう。九段の坂あたりの食堂や商店にかけられた「営業中」などの漢字を見ては大喜びしている。
あそこにある駐車場つきの小さな公園は何かと言われて、連れて行ってもらったところ、夜だったので既にしまっていたけれど人生初の靖国神社訪問となった。
11月某日 三軒茶屋自宅
音楽大学生の弾くシャリーノ作品に作曲者が助言をする。ピアノの中西さんには音をやわらかく弾くように、とアドヴァイスを始めた。一音一音を際立たせるのではなく、フィギュア全体を聴かせるように。思いの外クラシック作品を弾くときのような美しい響きを求めていて、アグレッシヴな響きは好みではないようであった。「前奏曲」のような楽譜であっても、フレーズを大切にしていることがわかる。低音域からのグリッサンドを高音域まで撫で上げると、そのまま次のフィギュアまで一つのフレーズでつないでほしい、と、何度かていねいにやりなおしていた。彼がリコルディ社で写譜の仕事をしていたころの手書きの作品で、これはデュラン社のドビュッシー「前奏曲」の楽譜をパロディにしているんだ。題名の書体もそっくりでしょう。下段に書いてあるscherandare という造語も、当初のデュラン版に書かれていた誤植をそのまま真似して書いたものだそうだ。現行のデュラン版ではscherzandoと訂正されているという。
「2台ピアノのためのソナタ」と「前奏曲」のみに使われている、この独特な不定記譜法は彼の創作ではなく、当時彼が読んだ「前衛音楽の記譜法」に書かれていたものをそのまま用いたのだが、演奏にあたり、結局演奏者が一つ一つ音を自分で決めなければならず、ある演奏家が、すべて通常の五線譜に書き直しているのを見て、再び五線譜に書くようになったという。「夜の」や「演奏会用練習曲」は、全ての音符を五線譜に書き込むようになったばかりの頃の作品。
ヴァイオリンの田中さんには、カプリッチョ1番で冒頭2段目のpiù lentoを楽譜通りにテンポを倍に落とし急激に速度を上げるように助言していた。32分音符と64連音符の比率も楽譜通りに。
シャリーノ曰く、確かにこんな風に弾く演奏家は殆どいないという。6番冒頭のタッピングは、全ての音が聴こえるように、早すぎない演奏を望んだ。コーダに入る直前、フェルマータをはさみsi volti subito(すばやく譜めくりして)と書かれたシンメトリーの音型を、できるだけ聴きとれるように演奏して欲しいと注文をつけた。
クラリネットの木津さんには「目覚める前に死なせて」は、愚直なほど楽譜に書かれた通りの演奏を望んだ。32分音符のトレモロは64分音符の倍の遅さで、決して急がずに。最初に指定してあるとおり、「Tranquillo e uniforme おちついて、まだらにならないで」曲を弾き通してほしいという。低音と高音のハーモニクスを出すところと出さないところ、高音のハーモニクスが小さく書かれているところか、大きく書かれているところか、あくまで楽譜に指示されている通りに演奏してほしいという。
重音は記述されている通りの指使いで、指定された音が全て聴こえるようにし、楽器に合わせて出しやすい重音を選ぶのは認めなかった。舌打ちと重音の続く音型も、あくまで一つのフレーズに収まるように。
Stretto はアメリカのマーチングバンド風に。
どれも極端にむつかしい注文ばかりだったにも関わらず、中西さん、田中さん、木津さんはそれぞれおどろくほどの力量で彼の言葉を実現していた。市村さん曰く、シャリーノはあんなにも若い人たちが自分の昔の作品をこれほどていねいに素晴らしい演奏をしてくれて本当に感激だ、と話していたそうだ。
作品があまり有名になってしまうと、作曲者の意図を反映しない演奏も多く聴かれるようになり、それを手本にした演奏も増えてゆく。作曲者は、案外もっと素朴に書いてあることを書いてある通りにやってほしいのだ。
11月某日 三軒茶屋自宅
シャリーノ講演会後、とある年配の女性が「今日の講演会、聴きに来て本当によかった。シャリーノさんの言葉、なんだかすごく心に刺さりました。人生が変わるような体験でした」と言い残してゆかれたそうだ。
今日はリハーサルの後、橋本さんと二宮さんが、シャリーノ滞在中の部屋を訪ねてくださった。12階の部屋のベランダからは、摩天楼とでも呼べばよいのか、美しい東京の夜景が目の前一杯に広がっていて、思わず歓声をあげた。机の上にはシャリーノの書きかけの五線譜がひろげてあったが、出前の寿司が届いたので片隅に片付けた。
シャリーノと橋本さんは揃ってローエングリン公演のヴィデオを鑑賞していて、言葉にできない感動をおぼえる。シャリーノは、橋本さんが自らを見事に客体化し、立ちつくし、極限まで表現を追求しきった勇気を、何度となく讃え、感嘆していた。谷川俊太郎死去の報道。
11月某日 三軒茶屋自宅
シャリーノ室内楽演奏会。「1通の手紙と6つの唄」。薬師寺さんが言葉をとても大切にして演じてくれている、とシャリーノはとても感銘を受けていた。和泉式部のテキストからは恋煩いから神経衰弱に陥る女の姿が浮かび上がる。ウンガレッティのテキストが愛惜の奥底に溜まる澱だとすれば、シチリア、マルサラ方言によるデ・ヴィータの「本」は燃え上がる憂愁。ウンガレッティはイタリアに俳句をひろめた詩人でもあり、文体も俳句のよう。
1通の手紙 una lettera
風のおと。吹き付ける風は、まるで最後まで残っていた葉までふるい落とすのだと心に決めていたよう。怪しげな雲が沸き立つかとおもえば、ささやくような雨がふる。希望はない。「終わらない秋。涙でくたくたになった袖。はらはらとほんの少しの雨がふる」。悲しい、なのに誰も気がつかない。風に翻弄される葉は何か哀れ。枝から滴るしずくは、まるでわたしのよう。縁側に横たわったまま、わたし、もうすぐいなくなるのかも知れない、と思う。眠り込んでいて、わたしの話につきあってくれない使用人たちに、苛立っている。遠く、野性の雁の鳴き声に耳をすます。他の人なら感激するにちがいあるまい。でもわたし、この音が我慢できない。「ねむれない夜。野性の雁のさびしげな声」。違う。わたしは障子をあけて、地平へ落ちゆく月をみたい。霧の中、梵鐘のおとと、鶏の鳴き声がひとつになる。今までも、これからも、こんな瞬間はなかった。あたらしい着物の袖の色まであたらしく感じる。「ねむれぬ夜」。だれかが戸を叩く。誰だろう。「ねむれぬ夜」。あなたもこんな思いに駆られながら、この夜をやり過ごしているの。
和泉式部/サルヴァトーレ・シャリーノ
N.1 貝殻
愛しいおまえ/闇の貝殻/預言の耳をちかづけたら/こだまのまにまに消えてゆきながら/どこからあの喧騒がきこえるの/ どうしたってそう問いかける
恐怖にまみれ喧騒に耳を澄ます/あのこだまから生まれた喧騒を/お前がよく調べたなら/お前の心臓はおののき/口をつぐむにちがいない/
問いかける者に答えをつたえる/「あの耐えられない喧騒は/愚か者の恋物語がひきおこす」/もはや、唯一感じられるのは/亡霊の刻む時のなか
ジュゼッペ・ウンガレッティ
N.2 貝殻
愛しいおまえ/闇の貝殻/預言の耳をおしあてたら/魅惑的な声のあいだで/突然おののき心臓を凍らせるあの喧騒が/導いてくれるというの/きっとそう問いかける
もしおまえがあの恐怖を/もしおまえがよく調べたなら/わたしの臆病な恋人よ/もはや、ただ思い起こすしかできない/愚かな愛について/苦しみながら話してくれるだろう/亡霊の刻む時のなか
神のお告げ/遠い未来で既に亡霊となったわたしを/呼び覚ますよう告げる/貝殻の一吹き/それがもしお前の前に現れれば/おまえはもっと苦しむにちがいない
ジュゼッペ・ウンガレッティ
N.3 道教のうた
道教に形も音もありません。細くて、知覚するのもむつかしい。
(血液の循環についての考察) 菩提達磨/サルヴァトーレ・シャリーノ
N.4 運動と精神のわらべうた
どんな運動も、精神の運動です。運動の向こうには何もありません。運動には精神が欠けていて、精神は本質的に不動です。精神のない運動はありませんし、運動のない精神もありません。精神の本質が無であれば精神は動きませんし、その無も動きません。運動は精神に等しいのですが、精神は不動です。
(血液の循環についての考察) 菩提達磨/サルヴァトーレ・シャリーノ
N.5 本
本たちは孤独。皆から嫌われて権力に翻弄され、本棚にぎゅうぎゅうに詰めこまれても、沈黙を守る人たちのよう。湿気にシミをつけられ、低くて暗い場所でカビにのみ込まれながら。
本たちは、僕らには分からぬ胸のはりさけそうな悲しみにさいなまれている。 掛け替えのない宝物であったり、深い思索であったり、インクで紙を汚したものたちとのふれあいを、大切に胸へしまい込んでいる。そんな本たち。
(Sulità) ニーノ・デ・ヴィータ
N.6 ミューズのこども
だれでも陽気で清らかなミューズの神殿にいらっしゃい。どんなに竪琴がうまくても、無垢じゃなきゃだめですよ。
ウルビーノ宮殿の碑文 サルヴァトーレ・シャリーノによる
11月某日 三軒茶屋自宅
馬込に出かけアルド一家を見送って、掃除の手伝い。町田で夕食をいただく。アジのタタキ、アジの煮つけ。味噌田楽。カレイの唐揚げにカキフライ。ぎんなんを炒ってくれていて、マツタケご飯まで用意してある。一体どれだけ時間をかけて用意してくれたのかわからないが、クリスマスとお正月分のご馳走をすべて味わった心地。満腹感を表現するとき、伊語では「食べ過ぎでお腹がさけそう mangiare a crepapelle」という。同じく「笑いすぎてお腹がさけそう ridere a crepapelle」というのもあって、国民性をあらわしている。
11月某日 三軒茶屋自宅
代々木上原で久しぶりにすみれさんやアキさんにお会いした。福士先生も現音のみなさんもお変わりなくうれしい。さまざまな作品を聴きながら、自分がしらなかった世界を学んだ。三善先生の音楽が、現在どのように若い演奏家に受け入れられているか、垣間見ることもできたし、家人が初演したみさとちゃんの曲もあった。中学生だったころ、ヤマハで買った楽譜をぽろぽろかいつまんで音を鳴らしたりして、それなりに知っているつもりだった「光州1980年5月」も、実演を聴くのはもしかして初めてだったかもしれない。国際刑事裁判所、ネタニヤフ首相、ガラント元国防相、ハマス・カッサム旅団・デイフ司令官に、戦争犯罪に関わったとして逮捕状発行。今も昔も、諍いは止まない。
11月某日 三軒茶屋自宅
作曲の篠田さんは、98年にドナトーニが日本で講習会に参加していて知り合った。その頃からピアノが上手だったのをよく覚えている。同じく作曲の久保君は、最初は秋吉台の講習会で知り合い、その後ミラノにやってきて、Covidまで数年間イタリアで研鑽を積んだ。先日はシャリーノのワークショップを仕切っていただいた。その二人が並ぶ姿に感慨をおぼえる。久保くんは、イタリアの作曲家たちについて、潮流をつくらず一つの形態を徹頭徹尾つづけると指摘した。「天の火」をピアノのみで聴く。ひたすら続く遠く離れてしまった女への、もの寂しい男の問いかけ。
演奏会後、家人と台信さんと一緒に中華料理。台信さんは、境内に捨てられていたチャボを飼っていて、「よく懐いて可愛らしいものですよ」。
11月某日 三軒茶屋自宅
帰りしな、スーパーマーケットに寄り、夜気楽に料理をつくるのが気分転換。先日は、安売りの刺身とししとうをふんだんに使ったトマト味魚介パスタをつくったが、今日はシラスとジャガイモと紫蘇で辛味のあるパスタにした。少し深みをだすためアンチョビー少々。美味。
11月某日 三軒茶屋自宅
「考」演奏会。熱くたぎる響きも幽玄なおもかげもささやくような風音までも、みごとな表現を実現されていた。舞台袖で、和服姿のメンバーがにこやかに談笑している姿をながめながら、邦楽の演奏では、裡にひめた情熱は露わにしない、遥か昔の思い込みを、ふと思い出す。おそらく、元来日本人の感性は、繊細さと大らかさが共存していたのだろうとおもう。ヨーロッパ文化との比較からか、ともすれば、繊細さばかりに焦点が合わせられがちだが、その細やかさを包み込んでいた、素朴で大らかな土壌を豊かに表現することもできるだろう。
演奏会後、田中賢さんと眞木さんの話。賢さんと眞木さんが秋田の国際音楽大会に出席の折、石井漠メモリアルホールをおとずれたときの話をきく。眞木さんが戦時中疎開していた海辺の街に足をのばし、一緒に大海原をながめていて、あれ、眞木さんどうしたのかな、と不思議に思ったそうだ。体調を崩されるほんの少し前のことだった。
まだ小学生だったころ、祖父の海の家を湯河原に眞木さんと賢さん、藤田さんが遊びにきてくれたことがあって、「可愛らしい少年だったねえ」と目を細めていらした。「採れたばかりの魚料理を、盛り沢山だしてくださって。ええ、こんなに食べていいのっておどろいた!」。眞木さんは、さっさと沖に浮かぶ休憩台まで泳いでいって、ここまでお出でよと手を振っていたが、怖くて泳ぎだせなかった。
11月某日 ミラノ自宅
ローマでメールを開くと、昔の走り書きをピアノ用になおして西村先生にささげた小品を大井さんが収録との連絡がとどく。
深夜ミラノに着くと深い霧に包まれていて、独特のつんとしたガスの匂いが漂っている。気温6度。着陸直前まで、機内からみえる外の風景は、乳白色一色であった。
イスラエルとレバノンの停戦発表。イタリア、カナダは、国際刑事裁判所のネタニヤフ首相の逮捕令状執行との姿勢。オランダ、フランス、ドイツ、ハンガリーは免責対象と発表。
(11月30日 ミラノにて)
CWR
北村周一~秋の日の昼下がりのC・W・Rはたまたプラス・マイナス・ゼロの誘惑
懐かしくも、謎めいた暗号のような3文字のアルファベットは、Clear Water Revivalの略、絵のタイトルでもあります。
字義どおりに訳せば「清水再生」。
水は安心して飲みたいものだけれど、ここでの清水は、あの静岡県の清水市のことです。
やや古い話になりますが、たぶんこの頃から、絵を描くまえにそれぞれにタイトルをつけていたように思います。
それまではたんに無題とか、数字や記号(日付を含む)がメインだったのですが、それだと一体どんな絵だったのか、描いた本人ですら見分けることがむずかしくなっていたからだろうと思われます。
そんなわけでそのうちの1点、F80号の作品を、「CWR」と呼んでいたのでありました。
1994年の春から描きはじめてすでに3年が経過、その間に父の死があったり、つづいて母との同居、さらに実家の処分、加えて新居探しと、めくるめく一連の出来事が一段落したのちのこと、12月(1997年@ときわ画廊)の個展に向けて制作を再開していた時期のことであります。
思い返せば「CWR」には、途中で放棄した作品の継続、あるいは復刻の意味も込められていたように記憶しています。
とはいえ、あくまでも動機づけとしての絵のタイトルであり、ときには遣りすぎてしまい気づくととんでもないところへ行っていたなどということのないようにするための、いわば保険のようなものでもありました。
唐突ですが、この頃の清水には、映画館が一軒もありませんでした。
人口20万人を優に超える市としては、にわかに信じがたい文化状況ではありましたが、むろん美術館といえる施設もなくて、こんな町はすみやかに見切りをつけた方が得策なのではあるまいかという思いもあったのですが、育ったところをそうそう無碍にもできず、いまや郷里清水喪失の身、バブル崩壊後のいわゆる産業一辺倒の、結局アワを喰ったヒンシの町はもうオシマイ、新たなる道を見い出した方がマシなのではないかと案じていたところ、静岡市との合併話が報道されたのでありました。
当時の新聞記事にはこう書いてありました。
「静岡市+清水市=日本一」。
清水、静岡の両地域にまたがって、風光明媚で知られる日本平があればこその、このような頭出しになったのではないかと想像はしましたが、それにしても「日本一市」を名乗るとは、また品のない市名を選んだものだなあと少なからず恥かしい思いを抱きました。
真相は、当時としては日本一の市有面積になるということのようでしたが、やっぱり日本一を標榜するのはハズカシイ。
~しずみそうなしみずのまちのかわぞいの月かげさえも淡々(あわあわ)として
閑話休題。
自分のような絵の描き方をしていると、大雑把にいって帰納的な方法とでも呼ぶとして、画面上に生まれた線や、かたち、色彩が、すでにどこかで見たことのある何ものかに近いと感じさせる、もちろん事物のイメージを描いたのではないとしても、深いところで、ある意識のようなものの一端があらわになったのかもしれず、それらは、描く以前から眼前にありながらも、まるでもっと別のところから派生してきたかのように、つまりは絵の具という(底知れぬ)物質をともなって、それ以上でもそれ以下でもなく、たんにたちあらわれてきたもののように、往々にして振る舞っているように見えてくるのでありました。
画面上の線やかたちや色遣いが、とある日の(どちらかといえば幼き日々の)清水の海側から見た山々の稜線を感じさせる、感じさせていることに、後になって自分自身も驚きを抱きながら気づかされたのでありました。(とりわけ初期の作品群)
~開けてある窓のほうのみ暗く見え反射と反省語源はおなじ
ところで「清水再生」の清水は、目に見えている清水ではないことはすでに明らかです。
自然に(から)学ぶ(真似ぶ)ということと、自然そのものを学ぶ(真似ぶ)ということとは、微妙ではありますが異なるものと考えています。
つまり自然という素材をもとにして(さまざまに分析しながら)描くということと、自然そのものを対象にして(ひとつの全体として)描くということとのあいだには、隔たりがあるように思われてなりません。
いい換えれば視像の問題、あるいは絵画の外部性の問題、ひいては反省的判断力にかかわる問題でもあろうかと思うのであります。
敢えて「CWR」と銘打つことによって、より明らかに対象を把握したいという願望、さらに名づけることは同時に対象の可能性をある程度類推することでもありますから、たとえ朧気であったとしても、画面上の問題(様式)として捉えなおしたいというこちら側の主体的な意思(非連続の連続)のあらわれでもあろうかと思うにいたったわけです。
マーク・ロスコ(1903)、ウィレム・デ・クーニング(1904)、クリフォード・スティル(1904)、バーネット・ニューマン(1905)、ジャクスン・ポロック(1912)、ロバート・マザウェル(1915)などなど(生年順)、アメリカの戦後の作家群(いわゆるニューヨーク・スクール)のしごとの数々を総称して通常、抽象表現主義と呼んでいます。
アーヴィング・サンドラーのテキストによれば、抽象表現主義絵画にはいくつかの特性があり、①イメージの優位、②強力な地方主義、③恐ろしいという思い(崇高性)の3つに要約されると書かれています。
アメリカの広大な土地、自然と風景、人間の持つ内的な力(拡張性)と同時に(いわば中心のない)絵画として表現したともいわれています。
そして強力な地方主義、この圧倒的に強いローカリズムは、それまでの西欧の伝統(モダニズム)との関連(反発)を想起させます。
わけても巨大なキャンバスと、今までにない手法(たとえばオール・オーヴァ)による自由な創造が、同時に普遍的テーマ〈崇高性〉を喚起し、地方主義絵画は世界を獲得したといわれてきました。
当然のことながら、バックにはアメリカのそれこそ巨大なマーケットが控えており、ハリウッドを中心とした映画文化、ライフなどの出版文化などなども相俟って、経済的にも広報的にもマス・メディアが下支えしてきたことは、歴史が証明していることです。
翻って、自己の内面の追求を旨とするべく日本の現代絵画は、もとより普遍性からは比較的遠い位置にあったこともあり、むしろ逆に物質化にその存在の意義を見出すようになったのではないかと考えられています。
すなわち物質化に形式性を還元することが、目的と化したともいえるかと思います。
その様子はいわば、高度成長期を生き延びてきた現代日本社会の進展と、相関関係にあったようにも見受けられるのです。
しかしながら、そのようなアメリカ型のサクセス・ストーリーをそのまま極東の国に当て嵌めてみても、ぎくしゃくするのは当たり前のことであったでしょう。
この場合、予め与えられた地方性を標榜するために、つまりは向こう側から見たらどう見えるかが一大事であり、要はしっかりと地方(日本)になっているかが喫緊のテーマとなったことは、これもまた歴史が証明していることです。
もちろん本末転倒も甚だしいのですが、一見ストレートに見えるために、有効な手段として今日もなお活用されているように思われます。
〈注1〉 2001年現在、清水市(港橋)にシネマ・コンプレックスが存在する。
〈注2〉 2003年4月より、清水市は合併後、静岡市の一部となった。
〈注3〉 美と崇高については、いずれ書き改めようかと考えています。
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追記Ⅰ
爆笑問題の左側
たまたま電車の中吊り広告で見た、何のコマーシャルだったか、右(観客から見て向かって左側)は非日常的ポーズを取ってはいるが、あまり目立たない。
立ち位置の左(向かって右側)は、よく目立つ。
なぜか?
日常において際だっているからといって、情報として人目を引くわけではない。
表現されたときに、この場合映像化されたときに、人の目を引きつけることが肝腎だ。
技量のある個性派俳優の日常は得てして俗っぽい。
あくまでも表現上の問題であろう。
ここでは3つのポイントを押さえておきたい。
複雑な構造(つまりはヒネクレタといおうか)と、単純な表現性(シンプルであること、迷いがないともいえる)と、ストレートな攻撃力(ふだんは気づかずにいることを指し示すだけ)の3点。
これら3点はそれぞれ、拘る、捨てる、指示するだけ、という述語とも連鎖する。
巷には、瞬間芸があふれている。
したがって、わずかでも滞空時間のある芸は技術があるように見える。
むしろ古くさい手法なのだろう。
だとすればそれがわかる人も多くはいないということになる。
お笑い芸人の有り様は、現代の美術とも通底する問題を考えさせる。
北野武の今風アートへの接近もたぶん偶然ではないのだ。(1998)
追記Ⅱ
プラス・マイナス・ゼロの誘惑
±0
+100と-100
+10000と-10000
結果的に±0になったとしても、その過程はまちまちであり、ひとくちにバランスをとるといってもふりこの振れ方は、そのときどきに応じて各々異なる。
大きく振れたときに、また大きな戻りを生ずる(健全な自浄能力があったものと仮定して)。
けれども手の打ちようがいくぶん速かった場合、核心に迫る問題に届かぬままもとの鞘におさまってしまうことだってある。
過ちは過ちとして「かたち」を見せておかないと人は納得しない。
思うに、フラットであればあるほどひとは大きな事件を嘱望することになる。
波風を立てないでいると、大きな波風に巻き込まれる。
むしろふりこが振り切れるくらいの大きな事件を期待していたのだともいえる。
それではだれが期待していたのであろうか。
そこにいた、みんながである。
事後、コトを忘れたかのごとくふたたびみんな、フラットに戻る。(2000)
追記Ⅲ
Alumatiksの夢
Alumatiks(アルマティクス)とは「アルミニウムのような」という意味の造語でありAlumatiks Blue(AB)は最初の個展から今日にいたるまでの基本的ないわゆる私性としての色の総称である または軽佻浮薄
Alum alumina aluminium ; 記号Al 原子番号13
-atiks atikos(Gk) ; ~の ~の種類の ~の意
ギリシャ語 ラテン語起源の形容詞に用いられる
昔々のことだけれど、町田市南成瀬に住んでいたことがある。
成瀬はもともと「鳴瀬」、鶴見川の支流である恩田川周辺の土地をそう呼んだものらしい。一帯は雑木林に囲まれた丘陵地だった。
ところで、「なるせ」をアルファベットに置き換えると、「naruse」逆さにすると「esuran」
ちょっと工夫して、「s-run」つまり「師走」、または「s走る」となり、もう一度漢字に戻すと「絵寸覧」、画廊喫茶にぴったりのネーミングだと思うけど、如何だろうか。
ちなみに、JR横浜線成瀬駅の2つ隣りは「十日市場」駅だが、駅のアナウンスはどういうわけか、「東海千葉」と聞こえてしまうのであった。(1998)
~十二月骨よりしろき肌透けて絵とは大いなる省略であろう
話の話 第21話:ライフハック
戸田昌子「カルボナーラってさ、わたし、喧嘩した後の食べ物なんだよね」、と姉が言う。姉はフランス在住20年以上である。「だってさ、」と姉は言う。パスタはたいていどこかにあるし、冷蔵庫には、玉子が入っているでしょ、チーズもね、ベーコンだって残ってる。それから生クリームもあるじゃない。だから、喧嘩したあとで、買い物に出るのも嫌だけど。お腹空いた、ご飯食べようとなると、カルボナーラになっちゃうんだよね、と語っている姉。
その話を聞きながら、わたしは、日本の家庭の普通の冷蔵庫には、「いつでも生クリームがある」ってことはないような気がする、と考えている。フランスの生クリームは、いろんな種類があって、わりとさっぱりしていてヨーグルトのような味わいのものから濃いめのものまでバリエーションがあり、お菓子に使われるばかりでなく、料理にもよく使われる。日本だと、ショートケーキのような洋菓子を作るとき以外に、買ってこようと考えること自体がないような気がする。
先日パリを訪れたさい、その姉が、「ご飯食べにいらっしゃい」と言うので、バスチーユからほど近い姉の家へ行った。今回、わたしがパリに来たのは仕事のためだが、丁寧な暮らしを心がけている姉の家は、白とベージュを基調とする温かな雰囲気で、仕事の打ち合わせや会食などの人付き合いで疲れたわたしにとっては、いつもほっとする場所である。「ご飯作るねー」と言ってキッチンに入り、なにやらトントンしていた姉がしばらくして「親子丼だよー」と運んできたどんぶりものは、しかし親子丼とは似ても似つかぬ代物。「なに、これ?」と尋ねるわたし。「親子丼だよー」とにこにこする姉。「いや、でも、普通、親子丼って、にんじんとかピーマンとか、入ってないよね? もしかしてこれはじゃがいも?」と尋ねるわたしに、「親子丼ってにんじん入ってるよね? 実家の親子丼には入ってたよね」と姉。「いいえ、入っておりません」と訂正するわたし。「親子丼は普通、鶏肉、玉ねぎ、だし汁、たまご、以上! 実家の親子丼には三つ葉さえ入っていませんでした!」と言明するわたしに「えー」と意外そうな顔をする姉。「美味しいけどさ……ローカライズするにしても、ちょっと行き過ぎじゃない?」とぶつぶつ言いながら、「親子丼」の跡形がほとんどないどんぶりものをつつくわたし。
そういえば、駅前の八百屋が廃業して、跡形もなくなってしまった。駅前の再開発のためである。とはいえ小さな駅なので、いくつかのテナントが入るひらべったい小さな雑居ビルができただけではある。そして、八百屋はなくなり、その跡地はタピオカドリンク屋になった。真冬に開業したタピオカ屋はしかし、そのあとコロナ禍に突入したために、食べ歩きのお客さんを当てこんだ狙いは外れ、客が入っているのを見たことがない。こんな疫病の時代には、すぐに潰れるだろうと眺めているうちに、タピオカ屋の店頭にはいつしか、長ネギやトマト、きゅうりなどが並ぶようになった。「ん? これは元・八百屋の中の人がやっているのか?」という疑問が湧きつつあるうちに、タピオカ屋はみるみるうちに八百屋化していく。そもそもこのタピ屋はあの八百屋の孫娘あたりが始めたもので、それがうまくいかないものだから、やり手のじいちゃんが「ここはひとまずオレに任せろ」としゃしゃり出てきた、というパターンではないのか? などと考えているうちに、そのタピ屋は八百屋としてはそれなりに商売繁盛し始めている。奥の方ではひっそりとタピオカドリンクも売っているかと思われるが、ドリンクを買っている人は見かけない。そしてそのうちにコロナもおさまって、野菜は消え、いつのまにかしれっとタピ屋に戻っている。あれは一体全体どうしたことだったのだろうか、とわたしは今でも首をかしげている。
そもそも、当該八百屋のじいちゃんは、やり手だった。まだ娘が小さかったころ、ベビーカーを押して八百屋へ行くと、バナナを1本プレゼントしてくれる、ということがよくあった。ただ、わたしがメインで使っている八百屋は別にあったし、そこは値段がいちいち高いのであまり行かないながら、間に合わせに使うことはたびたびあった。大きなトマトが1個250円、などというのはびっくりするくらい高いが、実際それは特大でしかもおいしくて、家族3人で満足できる分量なのでたまに1個だけ買っていた。しかしある日、夫がひとりでバナナを1房買って帰ろうとしたときのことである。「これください」と夫が指差したのは5本のバナナがくっついている1房だったのだが、じいちゃんがビニール袋にさっと入れるさいに、どうやら手が動いたらしく、4本になっていた。さっと1本抜いたと見られるが、もちろん値段は同じである。買い物慣れしない夫はそのまま袋を受け取り、なにげなくのぞいたら、バナナが4本。「あれ? おかしいな……」と思ったものの、あとの祭り。帰宅してわたしに文句を言っていた夫であったが、「まあ、普段から娘がバナナもらってるし、その分が抜かれたと思えばいいのでは」というわたしの曖昧な結論でお茶が濁されることになり、しばらく釈然としないようすであった。
ネタバレは釈然としないものである。鳩尾が映画「ショーシャンクの空に」を見たことがない、と言うので、つい熱がこもり「あれは本当に気持ちのいい映画なのよ、始まりは確かに冤罪だし、牢獄に繋がれて理不尽なことがひたすら続くんだけども、それがね……」とつい語り始めるわたし。話が切れたところで鳩尾が一言「いいんですけどね、その映画、わたし見る必要ありますか?」。ハッと気づくと、わたしは肝心なところを盛大にネタバレしていたのだった。すっきりしているわたし、釈然としない鳩尾。
最近。髪色を明るくして、短く切った。長年、若い頃はよくショートにしたものだったが、この年頃になってから「機能的」なだけの髪型をすると、労働者としての自分しか意識できなくなるので、遊びの欲しいわたしとしては、パーマをかけたり髪を染めたり、さまざまな髪型の変遷をしてきている。「ショートの金髪にしたいんだよね」と持ちかけると、「それ賛成!」と即答する娘。そもそも娘の物心がついた頃には、すでにわたしは金髪だったので(この頃はボブ丈だった)、金髪がわたしの地毛だと思い込んでいたそうである。むかし、娘が数え7歳になったとき、世にいう「七五三」というものをやってみようと思い立ったわたしは、能装束研究者のショーダ先生に教わってお着物を揃え、髪色もそれに合わせて黒髪に染めた。久しぶりの黒髪を新鮮に思いながら帰宅すると、わたしを見て呆然とする娘。「その髪、なに!」「ほら、着物着て写真撮るから、黒くしたのよ」と答えるわたし。その後、夜ご飯を食べながら、何度もわたしの顔をチラ見しては、くっと顔を背ける娘。しまいにはパタパタと膝の上に大粒の涙をこぼして「こんなのママじゃない……」と泣き始めてしまった。「ごめん! ごめん!すぐに金色に戻すから! ごめん!」とうろたえるわたし。その場で美容室に電話をかけ、「ごめんなさい、娘がどうしても黒髪が嫌だというので、金髪に戻してもらえませんか……?」と相談すると、驚きながらも「わっかりましたぁ! 明日、来てください!」と明るく即答してくれる美容師さん。翌日、金髪に戻したわたしの髪をみて、すっかり満足する娘。常識がどのあたりに初期設定されているかで、人の受け止めというのは全く違うのだということを学んだ出来事だった。ちなみに髪色戻し(?)のお代金は、定価の半額であった。
国や文化が変わると、常識がスコンと抜けてしまうので、わからなくなることはたくさんある。それは単に言葉の問題ではなかったりする。母が日本語教師をやっていたので、わたしが高校生くらいのころ、しばしば生徒さんが家に遊びに来て、食事会などをしていた時期がある。その中に、われら4姉妹がいたくお気に召していた生徒さんがいた。彼は、我が家のリビングにでんと居座っているグランドピアノを見たとき「ほんものの『砂の器』だ! 僕は日本に来る前、日本人の家にはグランドピアノがあると思っていたのに、見たことがなかったんです!」といたく感動していた人である。彼は、当時、姉が通っていた音大の学園祭に行きたいと言い出し、姉の演奏に合わせてやってきたそうである。コンサートだから花を持って行こうと思いついたまでは良かったが、演奏会に現れた彼が手にしていたのは、仏花。白い紙に包まれて、白や黄色の菊などが入っているお手頃な、あれである。嬉しそうにそれを差し出す彼に、「ああ……」と思いながら黙って受け取る姉。ピアノの上に置いておくと、「それ一体なに?」と何度も聞かれ、とても困ったそうである。その後、母は、「仏花」を含めた冠婚葬祭などの儀礼の常識について解説する授業をやってあげたそうである。
食べることの大好きな11歳の甥っ子は、口内炎ができてしまって悲しんでいる。パパの友達のおじさんに、一生懸命話しかけている。「あのね、僕ね、口内炎がみっつもできちゃったんだよ!(J’ai trois aphtes!)」。おじさんは「そうか、そうか、それでおまえのお気に入りはそのうちのどれだい?(D’accord, alors lequel est ton préféré ?)」と答えている。それはいったい、どんな口内炎なのか。
たしかに、喧嘩をしたあとはお腹が空く、とは思う。先日、某チェーンの喫茶店で、他愛もないような、それでいて真剣なことで、B氏と言い争いをしていた。滑稽な誤解と切実な弁明が終わったあとで、「お腹空きましたね」とナポリタンを頼んで食べることになった。「付き合ってるわけでもないのに、痴話喧嘩みたいになってしまって、すみませんでした」とわたしが言うと、「え、チワ、痴話喧嘩。確かに、そう言えなくもない。でも痴話喧嘩なんて、したことありますか」と目を回すB氏。「わたしは、わりと、ありますかね……」「ええっ、そうなんですか……?」と、ふたたび微妙な空気の流れる食卓。
食べ物がまずいと、気まずくなることがある。あるとき、わたしとしたことが、なにを思いついたか、友達がそれぞれシングルだったので、紹介するよ! と言い出して、くっつけおばさんをやったことがある。それぞれ好きな友達だったので、うまくいくだろうと思って気楽に会わせたのだったが、待ち合わせは銀座のイタリアン。そこで男性側が頼んだメニューが、よりによって、イカ墨のパスタ。口の中が真っ黒になるタイプのパスタを、3人でもぐもぐしたのであったが、味も半端だったうえに、全員の口が真っ黒になってしまって、話も盛り上がらず、当然のことながらその後、なんの発展もなかったのだと聞く。恥ずかしい限りである。
話題になるかと思って買ってみたけれど、まずいというほどまずいわけでもなく、面白くなかったのが「サラダパン」。たくあんをとヨネーズがコッペパンにサンドされている、というだけのパンだというので、つい悪気を起こして買ってみたのだが、まさに文字通り、たくあんとマヨネーズが入っているだけで、すごくまずいわけでもないくせに、逃げ場がない。食べているうちにだんだん腹が立ってきて、途中でやめてしまった。
わたし「ちょっと人生が嫌になる13の魔法とか、どうだろう」
夫「逆ライフハックみたいな?気づくと人生がちょっと嫌になる、みたいなのね…」
わたし「シラスには1匹ずつ目がついてる、とか?」
娘「違うでしょ、バックヤードの汚さとかじゃないの?」
わたし「やーめーてー」
人生がうまく言っていないときというのは、なぜウエストもうまくいかないのだろう、とつぶやくと、娘が「ああ、わかる」と激しく同意する。そこらへん、ライフハック、求む。
水牛的読書日記 2024年11月
アサノタカオ11月某日 大阪からやってきた臨床哲学者・西川勝さんと東京・六本木の国立新美術館の日展会場で待ち合わせ。西川さんのエッセイ集『臨床哲学への歩み』(ハザ)を読みながら、電車で会場へ向かう。
日展で画家・本宮氷さんの絵画作品「吐息」が入選し、そのモデルを西川さんが務めたのだった。大阪・釜ヶ崎で哲学の会という活動を行う西川さんの精悍な肖像画。絵の前で西川さん、本宮さん、友人の宇野澤昌樹さんと会う。鑑賞後、美術館のカフェでおしゃべり。現在の西川さんは病気を抱えて杖をついているが、まだまだ元気だ。やりたいことも考えたいこともたくさんあるようで、上機嫌でしゃべりつづけていた。宇野澤さんからはZINE『Laughter そとあそびの進化論』(古書自由・ツチノコ珈琲)をプレゼントしてもらう。宇野澤さんのエッセイ「手仕事の文学」を読み、土田昇『職人の近代』(みすず書房)という本のことを知った。このZINEには作家・編集者の友田とんさんも寄稿している。
11月某日 長野の松本PARCOで開催されたALPSCITY BOOK PARADEにサウダージ・ブックスとして出店。はじめましての方や長年の本の読者の方とゆっくり話すことができた。編集出版事務所エクリのブースで、『木林文庫』(勝本みつる・須山実・落合佐喜世)という冊子を買う。
このイベントに誘ってくれたのは、松本の書店・喫茶店、栞日を営む菊地徹さん。翌朝、栞日を訪問。お店は午前7時からオープンしており、早くから大勢のお客さんでにぎわっている。窓際の座席で、おいしいコーヒーとトーストをいただいた。2階の書店スペースで、松村諒さん『ユアランド 短歌・カイエ・音源』(湧水出版)を見つけて購入。装丁は惣田紗希さん。
11月某日 松本では本・中川も訪問。書店に併設されたギャラリーで絵描き・絵本描きの阿部海太さんの個展 「ことばのうぶ毛」 を鑑賞し、今成哲夫さんのうたと電子ピアノの演奏によるオープニングライブに参加。音楽に合わせて、阿部さんが電燈で絵画を照らす。揺れる光、色、音、声、静かな時間。
11月某日 自宅事務所でオンライン・ミーティング。今月、サウダージ・ブックス内のレーベル、トランジスター・プレスからミシマショウジさんの詩集『茸の耳、鯨の耳』を刊行し、自分たちの出版社からリリースした詩の本が10冊になった。これを機に、来年から仲間とともに「詩の教室」(仮)をはじめようと計画している。
11月某日 三重・津のコミュニティハウスひびうたで2日間開催された「ひびフェス2024」のマルシェに出店し、詩の本を中心に販売。「本作ってるの? すごーい!」と地元の子どもたちから声をかけてもらい、元気が出た。
マルシェでは、世界ふるまい珈琲協会の写真集『WITH COFFEE, THE WORLD IS ONE』を入手。A4判リソグラフ印刷のクラフト感のある本。世界で珈琲をふるまう旅を続ける著者、岩田三八さんも会場にいていろいろな話を聞いた。もちろん、おいしいコーヒーもふるまっていただいた。
ひびうたは「目の前の一人から、居場所をつくる」ことを目的に福祉事業を展開し、地域の古民家を改装して生きにくさを抱えた人のためのスペース運営に取り組んでいる。今回のフェスのテーマは、「さみしさのむこうに」というもの。
初日の夜は、会場にキャンドルの火が灯され、「居場所」に集う方々の合作詩「さみしさのむこうに」の朗読会が開かれた。退屈して出ていく子ども、戻ってくる子ども、じっと聞き入る子どもの姿が場にやわらかなリズムを生み出している。
11月某日 ひびフェス2024の2日目の午後は、トークイベント「さみしさのむこうの詩人たち」に出演。拙著のエッセイ集『小さな声の島』(サウダージ・ブックス)で取り上げた詩人、永井宏、原民喜、塔和子、山尾三省との出遭いについて話す。イベントには、海の文芸誌『SLOW WAVE』(なみうちぎわパブリッシング)を発行する今枝孝之さんも来ていた。夕方は読書会も開催。2021年から、ひびうたの仲間と続けているこの読書会も第4シーズンに入り、これから約1年間、石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)を課題図書として読む。
11月某日 東京の二松学舎大学で「人文学とコミュニケーション」の授業の後、写真部の同人誌『模像誌』創刊号を編集部の学生たちから受け取った。この同人誌には、ぼくのインタビューが掲載されていて、大学生から編集者になるまでの歩み、写真家・中平卓馬氏をめぐる余談などを読むことができる。特別インタビューのコーナーには、俳人の堀本裕樹さんも登場。特集「「箱男」安部公房生誕100年記念」など。
11月某日 世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書はハン・ガン『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)。2024年のノーベル文学賞受賞を記念して、これから日本語に翻訳されたハン・ガンの小説を月に一冊ずつ読んでいく予定。
11月某日 『高麗博物館会報』第69号が届く。この会報にエッセイを寄稿したのだった。タイトルは、「姉のことばと妹のことばが静かに呼びかわす本 『ことばの杖 李良枝エッセイ集』を編集して」。作家・李良枝の妹である李栄さんもすばらしい文筆家であることを伝えたかった。『ことばの杖 』(新泉社)には、その李栄さんが姉の最後の日々を綴った回想記も収録している。
11月某日 ブックデザイナーの納谷衣美さんと電話。
11月某日 東京・神保町のK-BOOKフェスティバルへ。出店者も来場者も年々増えている印象。会場では、顔なじみの翻訳者や出版社のみなさんとおしゃべりした。韓日翻訳者の小山内園子さんの新著『〈弱さ〉から読み解く韓国文学』(NHK出版)を購入。フェス帰りの電車で読み始め、帰宅後も夜更かしして読了した。葉々社のブースではチョン・ジヘ『私的な書店』(原田里美訳)、キム・ウォニョンほか『日常の言葉たち』(牧野美加訳)を、またクオンのブースでは『大河小説『土地』をもっと楽しむ読本』(『土地』日本語版完訳プロジェクトチーム編)を買った。
11月某日 秋田・大曲で本とアロマのお店BAILEY BOOKを営む渋谷明子さんの本『OMAGARI 喫む店めぐり』(BAILEY BOOK)が届く。そのほかにも南陀楼綾繁さん『「本」とともに地域で生きる』(大正大学出版会)、矢萩多聞さん(文)と吉田亮人さん(写真)の写真絵本『はたらく製本所』『はたらく図書館』(創元社)、南椌椌さん『ソノヒトカヘラズ』(七月堂)などよい本がどっさり。
11月某日 二松学舎大学の授業で、香川・高松在住の写真家、宮脇慎太郎くんをゲストスピーカーとして招いて、講演をしてもらう。テーマは「〈辺境〉で写真を撮ること」。写真家としての歩みについて、四国という土地について。多くの学生が熱心な質問やコメントをしてくれた。
宮脇くんは、展示の設営のために東京へ来ていたのだった。東京藝術大学美術館の「芸術未来研究場展」に参加し、「東京藝術大学-香川大学 瀬戸内分校」のプロジェクト内で彼の作品が展示されている。日比野克彦さんほか複数のアーティストが参加するグループ展だ。
11月某日 明星大学で編集論の授業を行った後、渋谷の本屋SPBSへ。デザイナーで翻訳者の原田里美さん、ライターの石井千湖さんのトークイベント「隣の国の「詩」のはなしをしよう」に参加。韓国の詩人アン・ドヒョンさんから詩「練炭一つ」の朗読など音声データが届き、紹介してくれた。翻訳者のハン・ソンレさん、五十嵐真希さんのメッセージを掲載した資料も。いろいろな韓日の詩人の本が話題になり、SPBSでは原田さんが推薦する詩の雑誌『ニジュウサンジュウ』VOL.6を購入。この雑誌には、韓国の詩人オ・ウンの詩2編とインタビューが収録されている。
アン・ドヒョンさんの詩集『独り気高く寂しく』(ハン・ソンレ訳、オークラ出版)、評伝『詩人 白石』(五十嵐真希訳、新泉社)を読んでいる。
11月某日 『現代詩手帖』12月号が届く。「アンケート・今年の収穫」で紹介した詩の本は以下の5冊。
大江満雄編『詩集 いのちの芽』(木村哲也解説、岩波文庫)
コウコウテッほか『ミャンマー証言詩集1988¬¬-2021 いくら新芽を摘んでも春は止まらない』(四元康祐編訳、港の人)
阪本佳郎『シュテファン・バチウ』(コトニ社)
パク・ジュン『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』(趙倫子訳、クオン)
石田諒『家の顚末』(思潮社)
11月某日 来年から連載をはじめようと、神奈川・大船の最寄りの書店ポルベニールブックストアで本を3冊購入。これで必要な資料が揃う。
サウダージ・ブックスから、旅と読書の随筆集として『読むことの風』と『小さな声の島』を刊行した。どちらも100ページほどの小さな本で、雑誌、リトルプレス、ウェブマガジンに依頼されて書いたエッセイを寄せ集め、書き下ろしを加えたもの。旅と読書の随筆集には3冊目の計画があり、今回は最初から書籍化を目指して書き継いでいく予定だ。『読むことの風』ではブラジルへの旅について、『小さな声の島』では台湾への旅について書いたが、次の本では韓国・済州島への旅をテーマに執筆しようと思う。関連する本の読書についても。済州島のことはいままで書けなかったが、機が熟した。連載をはじめよう、と言ってもどこに掲載するかは未定で、そもそも興味をもってくれる人がいるかも不明だが、ともかく書き始める。