219 卒業す

藤井貞和

震災の年乗り越えて 卒業す
歌がるた 二十一枚微笑みて
めぐる春 紫 明石 末摘と
春の「うた」 古代・現代つらぬいて
行く春や 「とき」の証しの物語
きんの琴 明石の春に聴く調べ
つわぶきの芽ぶき豊かに 卒業す

(二〇一二年二月六日、卒業生に贈った句。東日本大震災から一年近くが経つ。富士山に水蒸気2筋、冨士五湖では5弱の地震で、余震が続き、宝永山の雲、動かず。採点、査読、成績記入、入試待機、判定会議と、激務のなか不調で〈翌年、倒れる〉、つらい時節だった。「歌がるた 二十一枚微笑みて」は、百人一首が季語のつもりだろうか。二十一枚は女性歌人のうたのかずを言うか。「紫 明石 末摘」は『源氏物語』の女主人公たち、紫上、明石の君、末摘花をさす。)

トルコとシリアの大地震

さとうまき

僕は2020年からアレッポの小児がんの子どもに仕送りを続けている。最初は、シリアに関心のある大学生たちが主体となっていたが、一体自分は何をしたいのかを探すための大事な時期でもあるから、「自分」が見つかれば、もう、それ以外には関心がなくなるのは当然だ。関心が薄れた若者にしつこく言い寄るジジイにはなりたくないし、ジジイと言われてもめんどくさいのである。そんなこんなで、最近はほとんど一人になってしまい、まあ、気楽ではあるが限界でもある。

残念なことに2人支援していた子は、昨年亡くなってしまった。今は、サラーハ君という少年だけだ。つい数日前に、ストーブにくべる灯油もなくゴミを拾ってきて燃やしていた。こないだは、タイヤを拾ってきて燃やしたらしいが、そうそうタイヤも落ちてなくて燃やすものもなくなり、一週間毛布の中で凍えているという。

これは、欧米が科す経済制裁の影響である。国民を苦しめる残虐なアサド政権が退陣に至るまで、シリア人をさんざん苦しめるという目的である。尤も苦しむのは、最下層の人々である。「ほら、お前たちの国民がこんなに苦しんでいるぞ、どうだ? こんなに苦しんでいるぞ。ひひひ。いい加減にまいったしないと、もっといたぶるぞ」というような本当に悪趣味な経済制裁である。そもそも「自国民を虐待するとんでもない独裁者」に制裁を加えるべきなのに、これでは、無実の人々が拷問にかけられ虐待されているのと同じなのだ。

そのような矢先だ。
2月6日「トルコで地震があった」というニュースが入る。トルコの南西というとシリアにも影響があるのだろうかなあと考えていた。携帯にシリアから小児がんのサラーハ君のお母さんからメッセージが入る。「アレッポは地震で揺れています。そちらは大丈夫ですか?」え? 大丈夫って。シリアでは地震など今まで体験したことがないから、お母さんは、地球が揺れているとでも思ったのだろうか。意外と日本は、シリアのすぐそばだと思っているのかもしれない。

SNSのメッセージは、すべてアラビア語だが、Googleの翻訳のおかげで、何とか通じる。僕が送るときは、日本語をアラビア語に変換し、もう一度日本語に変換しておかしくないかチェックして送るのだが、慌てていて、日本語のほうを送信してしまった。お母さんは、「私は小学校しか出ていないので、わかりません!」と返してくる。いやいや、中学、高校出たぐらいじゃ日本語はわからないだろうと思わずほっこりしてしまった。

しかし、ほっこりしている場合ではない。一家は家が揺れだしたので外に飛び出したが、近くのビルにいたお母さんの妹と17になる娘とその歳の夫25歳と2か月の赤ちゃんが生き埋めになっていたのだ。すぐさま動画が送られてきた。「救急隊が駆けつけて作業をしていますが一向にはかどりません」。雨が降り寒そうな中、男たちがスコップで瓦礫をかき分けている。欧米が課す経済制裁で重機がないのだろう。「また、大きな地震が来たという噂も広がって、私たちは怯えています」

その夜結局、サラーハはご飯を食べることもなく眠りについた。結局翌日になって、妹の家族は全員が遺体となって病院に収容されていたという。トルコでは、4万人以上が亡くなり、シリアでも6000人の死者が確認され双方で5万人が亡くなっている。余震が続き、ひびの入ったビルはいつ倒壊するかもわからない。これから犠牲者がさらに増えるだろう。

トルコには、海外からの支援が駆けつけた。背中にロゴマークの付いた人たちが頑張って働いている。また、反体制派が支配するイドリブやアレッポ北部にもロゴマークを付けた人たちが海外から駆けつけているようである。しかし、サラーハのお母さんから送られてくる写真は、倒壊した家から追い出された人たちが粗末なテントで寝泊まりをしていて、背中にロゴマークの付いた人達は見えない。3週間たってもだ。アサド政権が支配するところに住んでいるというだけで、制裁の対象になってしまうのか? お母さんは、「私たちのところにはだれも来ません。配給があるという話も来ません」

建物にはひびが入っており、シリア政府の専門家がやってきてチェックして、倒壊する恐れがある建物は強制的に壊していっているらしいが、彼らの家にはやってこない。恐る恐る昼間は家にいて、夜は外で寝ている。「車のある人は、車の中で寝ています。私たちは、市場のほうに移動しました。今日はここで寝ます」というメッセージが届く。

誰も来ないんだったら、俺が行く! 若かったら背中にロゴマークをつけて駆けつけただろう。内戦により、分断された国家は誰が援助をするかということで政治的な思惑がうごめいている。背中のロゴマークもどちらにつくかによっては新たな内戦の火種にもなってしまいかねない。日本政府は治安の理由で退避勧告を出しているし、そんなところに入って行ったらパスポートを取り上げられてしまう。円安で飛行機代が高い! たとえ駆けつけても役立たずの老人でしかない。僕にはお金を集める能力もなくなってしまっていたので、悔しいが、わさわさする気持ちを抑えて、わずかなお金でもウエスタン・ユニオンを使って送ることぐらいしかできない。ウエスタン・ユニオンは、個人から個人にお金を送るという優れた送金システムなのだが、アメリカの会社故、シリアにお金を送ることは厳しく禁止していた。それが、今回の地震を受けて180日間の制裁を解除することになったのだ。しかも3月の頭までは、手数料をとらないというから、今のうちに送ってしまおう。

チャリティ講演会のお知らせ
【3/2開催】トルコ・シリア大地震 緊急チャリティ講演会、アレッポで被災した「小児がんの少年」の一家を追う
20:00よりオンラインで開催。参加費1500円が全額支援になります

申し込みはこちら
https://www.ganas.or.jp/news/20230221syria/ 

冬枯抄

越川道夫

引っ越したばかりの仕事場のすぐ裏に、土埃が舞わないように黒いシートで覆われた空き地がある。シートで覆われているというのに、その隙間から、シートを押さえるために置かれた土嚢の布を食い破るようにして様々な草が顔を出している。
今は冬。あらかた枯れてしまった草の中から、どういうわけか西洋鬼薊がひと群、大きく育って青々とした葉を茂らせている。狂い咲きとでもいうのだろうか、少し暖かな日が続いた頃、次々に十幾つもの紫の花を咲かせていった。
ただでさえ寒いと言われたこの冬である。暖かな日はそうは続かず、気温は急降下して、冷たい雨が降り、雨は雹まじりに、夜更けから降り始めた雪は朝方まで続いて、薊の上にも白い帽子を被せていったのである。両腕で一抱えもある大きな株ではあったが、花をつけたまま立ち枯れていくことになった。
花が終わって、種子を飛ばし始めたものはまだいい。それに満たないものたちは、紫の色を花に残したまま枯れていった。やがてあれほど青々していた葉も、太い茎も、緑の色をわずかにして褐色に変わっていき、今では手で触れるとポキポキと折れるほどにまで枯れた。
 
その大きな西洋薊が立ち枯れていく様を、私は、毎日飽きることなく眺めにいく。
座り込めば、私ほども大きな薊が枯れていく。
その姿が、あまりに美しい。
枯れた茎は、茎自身の重さに耐えられなくなり、花をつけたままのものも、まだ蕾のまま枯れたものも、やがて地面に向かって日に日に首をたれ、一本また一本と黒いシートに横たわっていく。花の周りの萼とでもいうのだろうか、枯れた額は、どこか金属を思わせるようなメタリックな金色となり、夕陽を浴びた時などは、日を照り返して光り、この上なく美しい。
 
冬枯れが好きである。
寒いのに、外套に身を包んで、冬枯れの河原や草叢にいそいそと出かけていく。植物の種を体と言わず足と言わずいっぱいにひっつけながら枯れ草を掻き分ける。そして、立ち枯れた植物の姿をいつまでも眺めるのだ。背高泡立草が枯れているのもいい。花が落ちた後に萼だけを残して枯れているのもいい。もちろん、今を盛りと繁茂し、花を咲き乱れさせている植物の姿も好きだが、立ち枯れた姿がそれよりも美しく見飽きない。枯れてしまえば、草は、その草の意志を離れる。草の意志と書いたが、茂っている草は、その草の望む形に自らを成長させ、その生のデザインに向かって自己を実現しようとする。それは、草の意志だ。気温や、雨や、風や、諸事象の影響を受けたとしても、草は自らのデザインを完結しようとする。しかし、枯れた草は、その意志から離れ、様々な事象の影響を受け、なすすべもなく歪み、捩れ、朽ちて、それぞれにその姿を晒す。その意志から離れた様が、意志から離れているがゆえに美しい。盛っている草よりも、意志を実現し、コントロールの中にいるものよりも、もはやなすすべがなくなったものに私はいっそう美しさを感じるのである。屁糞葛の小さな実は、黒ずんでいるのがあるかと思えば、白骨のように白く朽ちていくのがある。黄烏瓜の実は、皺皺に折り畳まれるように縮んでいくのがあるかと思えば、まるで古い陶器のような風合いで朽ちていくのがある。
 
私は、明日もまた立ち枯れていく大きな西洋薊の姿を眺めにいくだろう。
彼女が、すっかり朽ちて倒れきってしまうのを、「どこにも行かないよ」と呟きながら見届けたいと思うのだ。

何も意味しないとき、静かに朝を待つ(下)

イリナ・グリゴレ

気付いたら彼女は電車に乗っていた。座っていた。東京のラッシュアワーの電車に乗る状態ではなかったが、彼女は昔から身体だけを動かすのは得意だった。どんな大変なことが起きても、何日間熱で苦しんでも、身体を動かしてゴミを捨て、パンを焼いて、洗濯物を干して、またベッドで倒れる。彼女の身体には彼女以外の生き物たちが宿っていたこともあると言える。菌類、虫から、目に見えない、想像しかできない生き物まで毎日のように彼女の身体を借りていた。だから、酒を飲むと自分の父親になりきって暴れ、父親と同じ喋り方する。電車に乗ると、ぎっしり混んでいたのにちゃんと彼女の座る場所があったことも不思議だった。人の汗とフローラルな柔軟剤の匂いでホテルにいる間に感じた吐き気が強くなった。寒気で内心が震えていた。

彼女の前に立っていたサラリーマンは自分のスーツケースで彼女の足を触らないように気を遣った。彼女はこういう人が優しいと思った。本当に優しいかどうかはわからなかった。彼女がすごい顔をしているので、怖かっただけかもしれない。頭の中で、あの人に質問をかけ始めた。
「もし、ホテルの部屋に死に近づく人がいたら、助けてあげるの? 逃げるの? どっち?」
「もし、雨水でいっぱいになったバケツに蜂が落ちて溺れそうになった瞬間に手にとって自ら出してあげる?」
「もし、羽を無くしたトンボを道端に見かけたら、踏まれないようにそっと草の中に置く?」
「もし、車に撥ねられた子猫にあったら動物病院に連れて行く? 高いシャツと鞄がその子猫の血で汚れても?」

電車が渋谷に着いたから、彼女は膝を震えさせながら降りた。山手線からバス停にどうやって出るのかわからないまま人波に吹かれて、その時に足で歩いているのではなく、昔に見た妖怪の絵のように浮いていると思った。携帯を出してナビで行き先を探し始めようと思ったが、行き先がわからなくなる。自分の身体に導かれるしかないと思いながら、ほぼ1ヶ月前に行ったコンビニの前に立った。あの時、コンビニの前には誰かの吐瀉物があった。彼女は赤いワインを選んだ。店員さんはニヤニヤしていた。コンビニで水を買って、エレベーターに向かって、5階のロビーから空港へのリムジンバス停に出る。時間がまだ早かったからずっとベンチに座って待つ。なぜか1ヶ月前と同じ場所に同じ状態でいる。もしかしたら、身体は同じことを繰り返すのが好きかもしれない。同じトラウマ、同じ踊り。

待合室に大きなスーツケースを持って、ダンサーのような髪の毛が黒くて脚が長い、ミニスカート姿の女性が入った瞬間に空気が変わった。彼女はバス停のスタッフに英語で話しかけて、バスの予約をしようとしたが通じなかったみたいで、携帯の通訳アプリを使ってコミュニケーション取り始めた。待合室で同じ空気を吸っていた二人の女性は見た目は違っていたが、まるで同じような生き物だった。二人とも空港ではなく違う惑星に脱走しようとしていた、と彼女は思った。その次の瞬間、彼女のスマホから突然にレディオヘッドの曲 『Exit music (For a film)』が流れ始めた。「We hope that you choke, that you choke」

何ヶ月か前に、岩盤浴に行った時を思い出した。温泉で綺麗に身体を洗ったあと、少し離れていた岩盤浴の部屋まで裸で歩いて、横になった。そしたらその時に天井に自分の姿が映されたがタコのように脚がいっぱいあったと思った。また、彼女は二人の娘といつもいっしょに寝ているが、娘の小さな身体が彼女にくっついて、どこまで自分の身体なのか、娘たちの身体なのかわからなくなる。6本脚と6本腕、60指、3頭、6眼、3口の生き物になると感じる。でもこの状態は嫌いではない。人間の普通の姿とはただの幻想なのだ。きっと、もっと複雑でもっとデフォルメな形だと知っている。みんなはただの嘘つき。

あの日から彼女は人と目を合わせないことにした。そして髪の毛をもう切らないと決めた。特に男から距離を取ることにした。じつをいえば、彼女は生きている間、一度でいいから男の子の赤ちゃんを産みたかった。どこかで聞いたけど、日本の平安時代では男の子を産むと地獄に行かないと思われていた。いつ頃からか彼女もなぜかそれを信じ始めたのかもしれない。そうではないかもしれないが、なぜか、自分の身体で男を生み出したかった。そうすることによって救われると思っていた。深い闇から。

昔、祖母の家でたくさんの蜂とアリ、子猫と犬を溺れから救ったことを思い出した。雨が降っていると虫はどこで隠れるのか? バケツに溜まる雨水の音を思い出した。あの雨水で髪の毛を洗うと光っているように見えた。夜光茸のように。

夢の中では、祖父母がいつも寝ている部屋に二人の男の遺体があった。近づくとまだ生きているようだった。でも皮膚も肉も骨が見えるまで焼けていて、焼けた人間の肉の匂いがする。酷い匂いだ。

夢の中で彼女は森を歩いた。この森は何度も訪ねた村の森だった。でも下を見ると地面の落ち葉に青い火が燃えていた。彼女は怖がらずその火の中を歩いた。彼女はこう思った。何も意味しないとき、燃えている森の中を裸足で歩いて、静かに朝を待つ。彼女は毎日のように自分を壊して創り、また壊して、創り、虫になって、森になって、キノコになっていた。彼女の姿は誰も知らない。

どうしてキスしたの?

植松眞人

 谷中を抜けて千駄木へ向かう辺りには猫がたくさんいると聞いて、アルバイトを探しに出かけた。上京してから大学とバイトに明け暮れて気がつけばもう二年が過ぎようとしている。実家の徳島にも一度も帰らずにいることで、時折かかる母親からの電話は結局最後に口論となってしまう。なぜ帰らない。忙しいから。なんとかなるはずでしょ? なんともならないよ。お正月くらい帰れるでしょう。正月だから忙しいっていうバイトもあるんだよ。と交互に言い合って、最後は母が話をしている最中に僕がそっと電話を切るという流れがいつもの定番になった。
 バイト先はラーメン屋なのだが、オーナーが近所でカフェも経営していて、その両方を手伝ってきたことで、本当に空き時間など全くないほどに働いてきた。当然、お金を使う暇もなく、僕はこの二年でそこそこのお金を貯めて、やっと人心地付いた気分なのだった。帰って来いと声を荒げる母親だが、仕送りなどはほとんどなく、僕が自分で家賃と生活費を稼がないと始まらない。奨学金も借りているので、ちゃんと卒業して、ちゃんと稼ぐことが最初から定められているといってもいいだろう。そして、そんな日々を僕は特に恨みもせず、そこそこ楽しく過ごしている。
 楽しんではいるけれど、まさに東京での暮らしが二年目を迎えるという今現在よりも半年ほど前はもっと楽しかった。何があったのかというと、一瞬彼女が出来たのだ。それまで女の子と付き合ったことがなかった僕は、僕と付き合う女の子がいるとは思わず、彼女が出来たということそのものが嬉しくて仕方がなかった。いや、嬉しいと言うよりも驚き感動していたのかもしれない。
 しかし、そこまで喜んでいたのにどうして彼女がいる時期が一瞬だったのか。そこに謎が集約されてしまうことだろう。僕は四国の徳島の高校から東京の大学に入り、バイトをしなが真面目に暮らしていた二年目の夏に彼女と付き合い約二週間で別れたのだった。
 彼女はバイト先に僕より半年遅れで入ってきた。最初に見た時から綺麗な顔立ちだなと思った。店長やオーナーと彼女のやり取りを見ていると首をかしげることが多かった。少しコミュニケーションが弱いのかも知れないと僕は思っていた。いや、なにか変なことをするわけではない。ただ、受け答えが少し変わっていた。例えば、店長から接客についての説明を受けているときに、急に手をあげて質問したことがあった。目の前の大人とマンツーマンで指導を受けているときに、いくら質問があったとしても思いっきり右手を天井に向けて素早く差し上げた人を僕は見たことがなかった。まるで自衛隊員のように素早い挙手だった。思わず、店長が驚いて絶句していたけれど、そばにいた僕も驚いていた。
 また、ある時にはお客様から彼女が質問されるという場面があった。
「あ、半チャーハンがあったのか。だったら、さっき注文したチャーハンを半チャーハンに変えてもらってもいいですか」
 客はそう聞いたのだった。それに対して、彼女はこう答えたのだ。
「どうしてですか?」
 僕はよくわからなかった。そして、お客さんも同じようにわからなかったようだ。それはそうだ。もう作り始めているので、いまから半チャーハンに変えることはできません、という答えならわかる。いや、作り始めていなくても、お客様が神様なら嫌な顔一つせずに、わかりました、の一言でいいはずなのだ。それなのに、彼女は「どうしてですか?」と客に質問したのだ。そして、質問などしなくても答えは明確だ。チャーハンは多すぎて食べきれないかもしれない、と客が思っただけの話だ。普通、食べきれなければ、勝手に残せばいいのにと思うのだがわざわざ自分の危惧を彼女に伝えてくれたのだ。そんな、善良な客に彼女は「どうしてですか?」と質問返しをしたのである。
 僕はその時に、この子はちょっと危ないかもしれないと感じたのだ。そして、同時に彼女のことを好きになった。好きになったというよりも惹かれてしまったのだ。彼女がアルバイトに来る日は彼女の一挙手一投足から目が離せなくなった。そして、僕のそんな様子は店の中でも評判になり、店長やオーナー、先輩のアルバイトたちから冷やかされるようになってしまった。冷やかされても僕は彼女を見つめ続けた。もちろん、仕事はちゃんとしていたが、客の水の量を確かめるよりも、彼女の顔かたちや振る舞いを見つめ続けた。
 そんなある日、彼女は店長からお使いを頼まれた。予定よりも客の来店が多く、ネギが足りなくなりそうだったのだ。店長は彼女に近所のスーパーから青ネギを買ってくるように命じたのだ。近所のスーパーまでは歩いて十分ほど。僕は彼女がスーパーで青ネギをカゴに入れ、精算を済ませて帰って来る時間を見計らって、店長に休憩します、と声をかけた。店長の赦しが出ると、僕は店の表に飛び出し、彼女を出迎え、そっと店の厨房に続く入口の方へと誘導した。
 彼女は頼まれた青ネギを袋にも入れずに手づかみで思いっきり握っていた。僕は彼女が力任せに掴んでいるネギを救おうと、彼女の腕を掴んで前に出させ、その手の指を一本ずつ外した。僕も力を入れて一本ずつ外していく。まず、人差し指を外す、彼女が苦痛に顔を歪める。僕は中指を外す。さっきよりも力が入っていて、外すとき、彼女は少し声を出した。次に薬指を外しにかかった。まだまだ力は入っていたが、中指よりはましだった。それでも、彼女はまた苦痛に顔を歪めて、さっきよりも大きな声で、やめて、とつぶやいた。僕はその声に興奮してしまい、最後の小指を外そうとした。すると、彼女は今度は思いっきり抵抗して、小指をくねくねとくねらして、僕に外させまいとするのだった。僕はそのくねくねする指を動かないように、僕の両手全体で包むようにした。彼女は目を閉じてじっと動かなくなった。そして、僕の掌の中で、彼女の手の体温が数度、驚くほどあがったのを感じたのだった。
 僕の掌の中で彼女の熱くなった指はまるで彼女とは別の生き物のように動いた。その動きに合わせて、僕は高まり、彼女を抱き寄せてキスをした。キスをする瞬間、彼女は目を開き、僕の顔をじっと見つめて、もう一度目を閉じた。僕はもう迷うことなく唇を付けた。彼女の口の中へ舌を入れ、動かすと彼女も舌も僕の舌に絡みついてきた。
 互いに高まり、互いに認め合い、そして、互いに受け入れ合った感覚に僕は震えた。震えながら、急に割れに返って、店長やオーナーにみつからないかとおたおたし始めた。しかし、相手も喜んでいるんだからと僕はもう一度キスをしようとしたのだ。その瞬間だった。さっきまで一緒に目を閉じて、舌を絡め合っていた彼女がふいに僕の目を真っ直ぐに見ながらこう言ったのだ。
「どうしてキスしたんですか?」
 その言葉は僕の身体から熱を奪い、背中に冷水をかけた。キスに理由なんかない。お前も舌を絡めてきたじゃないか。そう思いながら、動揺が激しすぎた僕は、彼女の肩を乱暴に押した。彼女は少しふらついたのだが、その瞬間うっすらと笑っていた。その笑いがふらついたことの照れ隠しなのか、僕への冷笑なのか理解できなかった。
 僕はその瞬間にそのラーメン屋から逃げ出した。それから何日経っても、店長もオーナーも連絡してこなかった。
 この間、見たテレビで谷中から千駄木辺りの町が紹介されていた。この辺りには猫が多いらしい。猫が多いと聞くと、僕は「どうして猫が多いのですか?」と問い返しそうになっていた。そう、あの日以来、僕は「どうして?」と問いかけてしまうのだ。もちろん、なんとなくあの日の彼女から受けた衝撃を自分自身で和らげるための自己防衛作なのだが…。しかし、あれから数ヵ月経って、僕はあることに気がついていた。「どうして?」と問いかけ続けると、そこに理由などなくても、なにか理由があるような気がしてしまうのだ。いや、きっとそこに理由があるのだろう。そんな理由などに、僕は微塵も興味なんてないけれど。

深い

篠原恒木

おれは定期入れを失くしたことに気付いた。出社後二時間が経過していた。どこで失くしたのだろう、とおれは明晰な頭脳で推理を始めた。会社の最寄り駅の改札口を通過したときは確かに定期入れをかざしたのであろう。覚えていないのが悲しいが、そうでなければおれはいまここにいない。
そして会社の入口を通るときにも定期入れをかざしたはずだ。これも覚えていないのがじつに悲しいが、カード状の社員証も定期入れの中に入れていて、それをピッとタッチすればタイム・カードの代わりになり、出社時刻が記録される。その様子は受付にいる警備員さんに監視されている。出社時には必ず定期入れをパネルにピッとかざさなければならないのだ。したがっていまおれがここにいるということは確かに会社の入口でピッとタッチしたはずだ。

定期入れの中に入っている社員証を会社の入口付近にあるパネルにタッチすると、その小さいパネルからは「オハヨウゴザイマス」と、機械的な女性の声がいつも聞こえてくる。その声はいつも同じだ。定期入れをバチーンと乱暴に叩きつけようが、ピッとやさしくタッチしようが、いつも同じ口調で「オハヨウゴザイマス」と言われる。もう少し感情を露わにすればいいのに、とおれは思う。乱暴な扱いを受けたときには「チッ、おはざーす」と、投げやりな口調で応えるべきだし、そっと愛でるようにタッチしたときには「うふん、おはよ」とでもささやいてくれたりしたら、もう少し印象に残るのだが、なにせ相手は機械だから、今日もあの抑揚のない「オハヨウゴザイマス」だったに違いない。したがって、タッチした記憶がまったくないのだが、無事に会社の中にいるということは定期入れをかざしたのだ。

おれは考えた。落ち着け。おれが会社の中にいるということは、すなわち捜索範囲が限定されるわけだ。おれはそのことにやや安堵を覚えつつ、捜索を開始した。会社の入口でかざしたあと、その定期入れの行方は次の三つしかない。
1. すぐさまコートのポケットに入れた
2. すぐさまバッグの中に入れた
3. 手で持って自分の席まで行き、机の上に放り投げた

まずは1のコートだ。おれはハンガーに吊るしたコートの左右ポケットを上からまさぐった。何かが入っている感触はない。念のためハンガーに吊るしたままポケットの中に手を入れてみた。やはり無い。

すると、2のバッグの中だ。ピッとかざしたあとでヒョイと入れるケースはよくある。おれはバッグの中をまずざっくりと探した。見当たらない。おれのバッグの中は樹海のようになっているので、より丁寧な捜索が必要だと思い、バッグの中身をすべて取り出し、クリア・ファイルの中に紛れ込んでいないか、本の間に挟まっていないか、すべてを丹念に調べたが、発見には至らなかった。

おれは焦り出した。あの定期入れの中には六か月定期券を兼ねているPASMOが入っている。運転免許証(ゴールドだかんな)も入っている。そして社員証カードも入っているのだ。失くすと面倒なことになる。そこでおれは思い出した。そもそもなぜ定期入れがないことに気付いたのか。それは社員証カードが今すぐ必要だったからだ。おれは片岡義男さんの最新刊『僕は珈琲』の新聞広告原稿を作っていて、その完成したラフ原稿をコピー複合機ですぐスキャニングして広告会社にメールしようとしていたのだ。ところがコピー複合機を使用するときには、いちいち社員証カードを複合機のパネルにタッチしないと作動できない仕組みになっている。一刻を争う作業だった。それが定期入れを紛失したことでスキャン、pdf化、そしてそれをメール送信、という一連の単純作業が大幅な遅延を生じている。早く見つけなければ、とおれはアタマに血がのぼり始めていた。

喫緊の問題もさることながら、PASMOと運転免許証の不在という近未来的な課題も、おれの心をかき乱した。どう考えても厄介なことになる。おれは最後の3に取り掛かった。机の上にヒョイと放り投げたのかもしれない。だが、おれの机はバッグの中と同じように樹海と化している。関東ローム層のように成因不明のまま、絶えず紙、雑誌、ファイル、新聞、筆記具、クリップ、本などが堆積し続けているのだ。おれはその山々と格闘した。捜索は山の頂上から麓へと移動した。しかし定期入れを置くとしたら机の山のいちばん上だろう。
「こんな深いところに潜っているはずはない。この層は平成時代のものだ」
 
おれは三十分で机まわりの捜索を打ち切った。もはや事態は混迷を極めていると言っていいだろう。スキャニングは一刻を争う。日延べ猶予はまかりならぬ。いますぐスキャンしてメール送信だ。そしてPASMOや運転免許はどうする。あと定期入れには何が入っていただろう。そうだ、愛する妻の若き日の写真と、我が愛犬サブ(トイ・プードル/十四歳)の若き日の写真が入っていた。どちらも大切な写真だ。

おれは捜索範囲を広げることにした。出社して二時間、おれは何をしていたか。この自分の机にずっと座っていたわけではない。思い出した。立ち寄った場所が二か所ある。ひとつは違うフロアの編集部に資料を届けに行った。もうひとつは片岡義男さんに小包を送るため、会社を出て徒歩三十秒の郵便局へ行ったではないか。だが、編集部に資料を届けるのも、郵便局に荷物を託すのにも定期入れなど不要ではないか。郵便局は会社の外だが、定期入れの中に入っている社員証カードは出社時にタッチすれば、その後の会社への出はいりは自由だ。おれが務めているカイシャはチューショー企業なので、大企業にありがちな駅の改札口のようなシステムではない。出社さえすれば、あとは顔パスで問題ない。なので普通に考えれば、郵便局に定期入れなどいちいち持参するはずがないのだ。いや、最近のおれは自分の行動に責任が取れなくなっている。ひょっとしたら無意識のうちに片手に定期入れを持って、編集部や郵便局へと徘徊したかもしれない。その可能性は捨てきれない。捜索はあらゆる可能性を否定してはいけないのだ。

まずは編集部を再訪した。おれはそこにいた人々に、おずおずと訊いた。
「このへんに定期入れがなかったかなぁ。ボッテガ・ヴェネタの茶色の定期入れ」
明らかにおずおずとはしていたが、根が見栄坊に出来ているおれは「ボッテガ・ヴェネタ」の箇所を強調して質問したのは言うまでもない。答えはノーだった。

ならば郵便局だ。財布を持って行ったのは間違いない。なぜなら窓口でさしたるトラブルもなく無事に料金を支払ったからこそ、いまここにおれがこうして存在しているわけなのだから。ただ郵便局の窓口の人の動作が緩慢だったのを覚えている。小包の縦・横・幅をメジャーで測るのがひどくのんびりしていて、なかなか料金を教えてくれなかったのが印象に残っていた。せっかちなおれはややイライラして、冷たい目をして料金を支払ったのであった。あのスローモーな窓口の人にもう一度会って、
「すみません、先程荷物をお願いした者ですが、このへんに定期入れを置きっぱなしにしていなかったでしょうか」
と訊くのも業腹だが、仕方ない。捜査に手抜かりは許されないからだ。しかしだ。財布だけではなく定期入れまで郵便局に持っていき、財布のかねで支払いを済ませ、無意味に持参した定期入れを窓口に置き忘れた。そんな馬鹿なことがあるだろうか。いや、ない。あるはずがない。だが、可能性をひとつひとつ潰していくのが捜査の基本だ。おれは郵便局まで走った。

「あいにく定期入れの遺失物届けはございませんが」
可能性の細い糸はあっけなく切れた。どうしよう。早くスキャニングをしなければ。焦りの頂点に達すると、ニンゲンとは不思議な行動をとるもので、おれは喫煙室へ出掛け、煙草に火をつけた。あえてこの不可解な行動の理由を述べれば、煙草を一本吸い終えるまでの時間、気分を鎮めて、オノレの行動をもう一度よく考えるためである。出社して二時間、おれは何をした。どこへ行った。だが、机のまわりと編集部、そして郵便局以外にはどこにも行っていないとの結論に達した。残るはただひとつ、捜査の鉄則「現場百遍」だ。すべての場所をもう一度探すしかない。

コートのポケット、パンツの左右および尻ポケット、バッグの中、机まわりを再度調べた。もう捜索から一時間以上経過していた。もうPASMOと運転免許証はあきらめた。社員証カードさえあれば、とりあえずスキャニングはできる。せめて社員証カードだけでも出てこい、とおれは願ったが、定期入れが無いのに、社員証カードだけ出てくるわけがない。

そのとき突然、おれはすべてが嫌になった。スキャニングもPASMOも運転免許証も妻の写真も愛犬のポートレートも、すべて捨て去り、このまま冬の海へ行きたくなった。冬の海なら日本海だろう。東映の映画のオープニングに出てくるような、あの岩に波打つような海を見つめるのだ。そうだ、そうしてしまおう。すべてを捨てて冬の海を見に行くのだ。スキャニングや定期券や運転免許証、妻の写真などが、我が人生においてどれほどの意味を持つというのだ。だが、おれはそこで我に返ってしまった。PASMOが無ければ冬の海にも行けないではないか。
「探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で」
などという歌があったが、ここで捜索を打ち切るわけにはいかない。現実は井上陽水のようにはいかない。定期入れが無ければスキャニングも冬の日本海行きも叶わないのだ。
「もう何度も探したけど、もう一回だけ。現場百遍」

世にも虚しい一時間三十分だったが、おれは三回めの捜索活動に突入した。まずはすでに二回も手を突っ込んだコートのポケットを探した。今度はハンガーから外して、コートを抱えてポケットの中をまさぐった。「おや?」と感じた。コートのポケットの内部が一回め、二回めの捜索時より深いように感じたのである。二回とも手首まで入れていたのだが、今度は手首より深く、腕の一部までポケットの中まで入るではないか。そのとき、平べったい革の感触が指に伝わった。

おれはすぐさまコピー複合機へ駆け寄り、定期入れをパネルにバチンと叩きつけて、無事に送稿を終えた。徒労感と達成感と安堵感が同時に押し寄せるなかで、おれは席に戻り、定期入れの中身を検分した。社員証カード、PASMO、運転免許証を確認し、愛犬サブの写真も入っていることに安堵した。入っているはずの愛する妻の若かりし頃の写真が見当たらなかったが、それはもはやどうでもよかった。

七十一

北村周一

 祖父も伯父も父までもよわい七十一にして逝きぬふともあのいくさ思えり

祖父は胃に、伯父は前立腺に、そして父は肝臓に、悪性の腫瘍いわゆるガンができて他界した。偶然かもしれないが、享年は三人とも71歳だった。むろん亡くなった年の年次はそれぞれ違うのだけれど、こうもつづくと妙な気分になって来るから不思議だ。

葬儀等でごくごくたまに顔を合わす従兄弟たちともこの話題になったことがある。しかしだんだんその年齢に近づくにつれて、だれも没年については口にしなくなった。かんがえてみれば、もうとっくにこの歳を越えている者も何人かいるのだ。

祖父も伯父も、死ぬまで清水のしらす漁師だった。父も戦争にとられるまでは同じ舟に乗っていた。とうぜん朝昼晩、新鮮な魚料理を食していたわけだし、体力には相当自信があったはずだ。清水でのしらす漁の風景はかつて、水牛のように、2020年2月号茹でじらすでも取り上げたことがあるので、お読みいただければと思います。

 やさしかりし祖父の名を持つシラス舟熊吉丸は清水のみなと

祖父の名は熊吉。名前は怖そうだけれど、寡黙で怒ったことのないやさしい笑顔の持ち主。どちらかというと小柄な体形ではあったが、骨格はしっかりしていた。子どもは、上から順に、男、男、男、女、男の五人。跡継ぎの長男は、体格に恵まれていたために、二度戦地に送られて、南方にて戦死。生まれたばかりの赤ん坊にはちゃんと会うこともなかったらしい。結局次男が跡目を継いだ。伯父さんである。中国戦線でたたかってきて無事帰還した。伯父さんは豪放磊落な性格で、からだもがっちりしていたし、漁師にぴったりの人だった。そして三男がぼくの父親で、中国に送られて南京で敗戦を迎え、命からがらに帰国。からだ頑健な父は健康そのものであったが、漁師を断念して会社員になった。四男は、からだが弱くて物のない時代だったから、戦時中に若くして病死。唯一のむすめである叔母さんは、当時としては大柄なからだつきで、懸命に漁師の家を盛り上げていた。とはいえ、こんなこともあんなこともみんな生前の父から聞いていた話なのだけれど。戦争に行っても行かなくても、重苦しく嫌な時代であったことは十分に推察される。

戦争の最中も、その前も、そしてその後も、つぎつぎに訪れたであろう厳しい時代の制約は、人々の日々の暮らし方だけではなく、それぞれの遺伝子さえも傷つけずには置かなかったと思われる。このような副次的作用は、さらに次の世代へもすがた形を変えて、なんらかの変異をもたらしているのかもしれない。戦争は、最大の環境破壊といわれる所以でもある。

 遺伝子は傷みやすくて夜になると寝床のゆかを軋ませては泣く

コロナから三年

笠井瑞丈

コロナ元年の2020年、世界では未知のウィルスとの戦いが始まった。その年8月にセッションハウスで笠井家の公演を上演させてもらいました。元々はコロナ以前に伊藤直子さんとオリンピックの頃に何か面白い事をやろうという話から始まったのですが、同年2月ごろからコロナ問題が勃発してしまい、人と人との距離が変わり、多くの公演が中止を余儀なくされました。そんなまだ経験した事のない危機に、近くにいる家族という共演者と共に、何か出来ないかという思いで作品作りを始めました。その時はまだ三作つくるとは考えていなかったのですが、結果翌年にも新作を作り、そして翌々年にも新作を作ることになりました。二作目を作った時には三部作にしたいという考えはありました。カラダというのは不思議なもので、何か困難にぶち当たった時、それを跳ね除ける力を持っています。もの作りは、そのような力を創造の力に変えていく事だと思っています。それが創造活動の根底なのではと私は考えています。困難とはある意味、新しい世界の始まりを意味しているのではと思います。2020年1作目『世界の終わりに四つの矢を放つ』。未知の世界の始まりに、身体をどのように提示して行けば良いのか、というのがテーマでした。2021年『霧の彼方』。世の中はまだ前が見えない霧に包まれていた、しかし遠くの彼方には小さな光が、目まぐるしく変わってしまった新しいシステムに、少しづつ適応できるようにり、またそこから新しいものを生み出そうという年になった。2022年『喜びの詩』。三部作の最後の作品。舞台に立つ喜び、そしてお客さんに立ち会ってもらえる喜び、初めて見る景色の喜び、そんな色々な思いを込めて作った作品でした。三作ともやはり共通しているのは、コロナという問題で起こってしまった世の中の変化に、どのようにダンスを提示していけるかという事でした。特に2020年は公共施設やスタジオもクローズしてしまい、人が集まるという事も難しい時期でした、常に中止というリスクのある中で、どのように作品を作り、どのように公演まで持っていけるか、そして今公演すことの意義なども考えました。そんな中、三年間で三作、セッションハウスで出演者全員笠井という、少し珍しい公演できた事は、私にとってはとても大きな出来事でした。コロナという問題が生じなければ、きっとこのような公演を立ち上げようと思わなかったと思います。

仙台ネイティブのつぶやき(80)模型をつくった小西さんのように

西大立目祥子

昨年夏、地元紙、河北新報にのった記事を見て、思わず声を上げそうになった。「区画整理で一変した仙台・二十人町1935年ごろの町並み再現した模型お色直し」。見覚えのある模型の写真ものっていた。
あの紙製の手づくり模型が、30年以上も捨てられることなく残っていたなんて! それは、1989(平成元)年夏に、仙台市宮城野区二十人町の糸屋の主人、小西芳雄さんが中心になり、地区の商店で結成していた「仙台東口繁栄会」の仲間たちとつくった街並み模型だ。当時、小西さんは50代後半。町内に暮らす親世代の年寄から話を聞き出して、昭和10年ごろの街に思いをはせ一棟一棟、組み立てていった。ミシン糸が入っていた空き箱を材料に、屋根には黒い紙を貼り、大人の工作で50軒ほどの店をつくったのだった。

記事によれば、発見したのは、宮城野区で平成の初めごろ活発に行われていた「地元学」という活動を振り返りつつ、地域の記録収集の活動をしている市民グループ「みやぎの・アーカイ部」。二十人町近くの榴岡小学校に模型が残っているはず、といううわさを聞きつけ、小学校を訪ね発見に至ったらしい。ずいぶんと傷んでいた模型をメンバーが救出し、のりとハサミで修復して公開の運びという。

たしか、小西さんが残した手記のようなものがあったっけ…と本棚を探したら、30年眠っていたホッチキス止めの冊子『私たちの小さな町の小さな歩みの記録』が出てきた。発行は、「平成元年9月15日」。最後のページには、モノクロコピーで細やかな表情は読み取れないものの、できあがった街並み模型をテントの下に広げ、街の古老や子どもたちと談笑する小西さんが写っている。そうだ、七夕のとき、二十人町のどこか空地にテントを張り模型をみんなで眺める催しに私も行って、この冊子をいただいたのではなかったか。小西さんの商人らしいいつもにこやかで快活な表情が思い浮かんだ。

二十人町といっても仙台市民でなければわからないだろうから、ざっくりと説明すると、仙台駅東口にほど近く、江戸時代は細い道の両側に足軽屋敷がびっしりと並ぶ町だった。1887(明治20)年に東北線が開通すると「駅裏」とよばれるようになり、さらに戦時中、駅の西側が爆撃を受けて焼け野原となり戦後は戦災復興事業で新しい街並みがつぎつぎと整備されていったのにくらべると、戦災をまぬがれた駅の東側は瓦を載せた黒々とした木造の住宅が密集していて、小さな商店が連なる二十人町の通りは取り残されたような雰囲気が色濃かった。もちろん、そこには下町の人情豊かな暮らしがあり、小さな商いはそれなりに活況を呈していたのけれど。

行政は東口を西口のような街並みに、と考えたに違いない。そこに400年の歴史があることも、2代、3代と必死に守り抜いてきた商売があることも、何よりそこに人が生活を立てていることなど、さほど考慮せずに。小西さんの話では、道路計画の話は昭和30年代、父親の代に出始め、自分たちの世代が大学進学などを終えて帰ってきたころにはだんだん具体的になってきて、勉強会や先進地視察をしては話し合いを重ねていたという。自分たちの人生がかかっているのだから、時間を見つけては将来の町を話し合う日々だったようだ。でも答えはなかなか出ない。いま手元に残る小西さんの回想録を見ると「先進地はどこへ行っても同じ街並み」「再開発ってのはいかにして土地を諦めるか、というところに落ち着く」ということばが胸にささってくる。

町とは何か、将来の町をどう描いたらいいのか。自問自答する中で、小西さんたちは手がかかりは過去にあるという考えに行き着く。そして一世代上の住人から話を聞き、自分たちの記憶を重ねて、昭和10年ごろの街並み模型づくりという試みに着手したのだった。つくり上げ、ようやく答えをつかみかけたころ、小西さんが口にしたことばが忘れられない。「模型をつくってみてわかったんだ。この町の風景のよさは、“軒の深さ”にあるって。だから区画整理事業で立てられる建物はビルになるとしても、軒をつけたいんだよ」

しかし、区画整理事業が完了しできあがった町は、小西さんが思い描いた町とはまるで違うものになった。幅40メートルの道路がどーんと抜け、両側には高層のマンションが立ち並ぶ。4、50軒あった商店のうち、戻れたのは数軒。がらんとして殺風景な町は歩く気にはなれない。建物が取り壊され事業が進む最中、仮店舗で営業していた小西さんを訪ねたことがあった。「いやもう大変なことだよ、区画整理事業って。もう近隣商業の町じゃなくなるね」そう話していた小西さんはそのあと病に倒れ、新しい町での糸屋の再開は果たせず亡くなられた。
 
2月最後の週末、この街並み模型が展示されることになり、30年ぶりの再会を果たすべく出かけた。「みやぎの・アーカイ部」のメンバーが手入れした長さ3メートルほどの模型は色あせてはいるものの、できた当時の印象を保っていた。いまは道路の下に消えてしまった一軒一軒の店が肩を寄せ合うように並び、通りの中央にはランドマークだった二十人町教会の塔がそびえ立つ。ちなみにこの教会は、W.M.ヴォーリズの設計である。種屋のおじさんも小西さんも「ここは下町だけど、俺たち日曜学校に行ってたんだよ。お菓子もらえたからさ」といっていたっけ。敷地内の井戸の場所まで緻密に再現していることにあらためて気づかされた。模型はパーツに分解されしまわれていたので、組み立てには私が本棚から抜き出し提供した資料も役に立ったと聞かされた。みんなが模型を前に話し込む。同じだ、30年前と。あのときも、できたての模型をぐるりと取り囲み、いつまでもなつかしそうに話し込む人たちがいた。

模型が保存されていた榴岡小学校と町のかかわりは深く、子どもたちは二十人町の店に弟子入り留学なるものをしていたという。店を訪ね、そこで商いの手伝いをする一日体験だ。会場にはその記録を伝えるコーナーもつくられていて、23年前、4年生の子どもたちが記した体験の感想が本に仕立てられ並んでいた。担任だった白井先生という方が、ずっと手元に大切に残されてきたのだという。『二十人町のだがし』『二十人町のかまぼこ』『二十人町の井戸』『二十人町の歴史』『二十人町の人の話』というしっかりと厚みのある本が5冊。色鉛筆で子どもたちが一生懸命描いたタイトルと絵が何ともかわいい。いまは33歳となった男の子が一人、訪ねてきていた。

小西さんが小学校を訪ね、授業をしていたことも初めて知った。区画整理事業を前に町づくりをどう進めて行くのか、話をしたらしい。この日は背広を着込みネクタイを締めて子どもたちの前に立ち、子どもたちもいつもの冗談をいうおじさんとは違う面持ちに少し緊張して話を聞いたようだ。45分の授業で話は納まりきれず、あとで小西さんは説明を補足する手紙を子どもたちにしたためた。その手紙も展示してあった。「人は将来の事を考えるのに、今までたどってきた過去と、今置かれている現在の事を充分に理解しないと、将来のことが予測できないのです」「街もだんだん少しずつ変わっているのです。誕生、成長、老化と人と同じように変化していくのです。ただ人はせいぜい生きているのが100年くらいですが、二十人町は400年ほど生きてきました」「街づくりは、形と心の両方が必要です。両方とも急いではいけません。じっくりとやるべきです」B5に5枚ほど綴られた手紙は、40年に渡って、激変する区画整理事業をどう超えていくのを考えに考え抜いた人の珠玉のことばに満ちている。そして、この手紙をしっかりと受け止め記した子どもたちの返事もまた、胸を打つものだった。

現在の二十人町は、わずかに神社にかつての暮らしの痕跡をとどめているだけで高層ビル街と化し下町商店街の片鱗は探しようもないのだけれど、この紙の模型と、子どもたちがつくった手づくりの本と、私の手元に残るホッチキス止めの冊子が残されていたことで、小西さんの存在がリアルによみがえってきた。すぐそばに街づくりに悩み続けた小西さんがいる。本気でたずねればまっすぐ答えてくれそうだ。
どんなにささやかでもいいから文字にして、形にして、残すことの力、そして、それを街に暮らす人たちが10年先、20年先へとリレーすることの意味。小西さんが模型をつくって一世代前の暮らしをたずねたように、みやぎの・アーカイ部のメンバーや会場に集まった人たちは、ビル街の下に眠る二十人町に潜り何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。思えば、みんな、小西さんが模型をつくり子どもたちに授業をした年代に見える。ある年齢に達すると過去に問いかけるようになるのか。「軒の深さだ」と小西さんがいったような明快な何かが見つかるんだろうか。 

鮎川誠 追悼

若松恵子

1月29日に、鮎川誠が亡くなった。昨年の暮れに体調を崩して、予定していたライブの出演がキャンセルになったというお知らせを見ていたのだけれど、突然の訃報だった。人生の本当に最後の最後まで、ステージに立ち続けていたのだなと思った。みごとだな、というのが訃報に触れて最初に感じたことだった。

鮎川誠は、日本のロックの長男だと思う。茨木のり子が、日本の現代詩の長女と呼ばれていたように、そんなイメージで、尊敬の思いを込めて、鮎川誠は日本のロックの長男だったと私は思う。ロックがどんなにかっこよくて、良いものなのか、彼はそれを教えてくれた。博多で活躍していたサンハウス、シーナ&ロケッツ、三宅伸治、友部正人といっしょに結成した3KINGS(スリー・キングス)。ギターを弾く構えで、その音で、少し遅れ気味に歌う自由な歌い方で、好きな曲について生き生きと語る姿で、彼はロックがどんなものなのかについて教えてくれた。「探偵ナイトスクープ」というテレビ番組で、亡き父にそっくりなんです、会いたい、と手紙を送ってきた視聴者の願いを叶えていた姿にもロックを感じた。ロックは実はとても誠実で、やさしいものなのだと、彼の姿を通して、私はロックへの信頼を深めることができたのだった。

訃報をきっかけに、インタビュー映像を久しぶりに見返したりした。2015年に妻のシーナを病気で亡くした後も、悲しみに閉じこもらずに、彼はライブをし続けていた。父のギターを聞き続けたいと、娘のルーシーがシーナに代わってボーカルを務めて、シーナ&ロケッツは続いていた。身内は引っ込んでろとか、つべこべ言わずに自然にロックし続けている鮎川は良いなと思った。がんが分かった2022年のライブ本数がここ近年で一番多かったという。

インタビューのなかで「シーナは、ロックは愛と正義と勇気だと言っていた」と語る鮎川の言葉が胸に響いた。シーナの言葉に全く同感だとしながら「勇気は、新しい扉を開けて、そこに飛び込んでいくこと」だと彼は言っていた。シーナが鮎川と初めて会った時、青いパンツスーツを着たシーナがライブハウスに入ってくるのを見たというエピソードを思い出す。そして正義。ロックはずっと不正義と戦ってきたんだということ。

もちろんまじめなだけではなくて、ぶっ飛んでふざけているということもロックにとっては重要なことだ。それは、為政者たちとは違う感性を持とうとする意志。管理してこようとするやつらには到底手が届かない感性を持って対抗しようとすることだ。最近の3KINGSでもギターを炸裂させながら歌っていた「ホラフキイナズマ」がきこえる。サンハウス時代からの盟友、柴山俊之の詞だ。

 風の中で生まれ
 風の中を生きる
 寝たい時に寝て
 やりたい時にやるだけさ

 気にするなよ
 ほんの冗談
 何もかも噓っぱち
 俺はほら吹きイナズマ
 パッと光って消えちまう

 パッと光って消えちまう
 パッと光って消えちまう

スリンピの動きと時間

冨岡三智

3月11日に堺での公演を控えて…先月もスリンピについて書いたけれど、4人の女性で舞うスリンピというジャンル、また広げてジャワ宮廷舞踊が持つ特質について私が考えていることを書いてみる。といっても時間不足なので、以前書いた記事や論文から引用してまとめたものに少し足しているだけなのだけれど…。

●2004年4月号『水牛』、「私のスリンピ・ブドヨ観」より

スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。

そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。…(中略)…曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。

●2010年7月号『水牛』、「クロスオーバーラップ」より

他のジャンルの人には、ジャワ舞踊は楽曲構成に当てはめて作られている、という風に思われているようです。ガムラン音楽はさまざまな節目楽器が音楽の周期を刻む楽器なので、そう思われがちなのですが、私に言わせると、ジャワ舞踊のうち宮廷舞踊の系統は、歌が作りだすメロディー、それはひいては歌い手や踊り手の身体の内側から生まれてくるメロディーにのって踊るものです。クタワン形式などのガムラン曲も、朗誦される詩の韻律が元になって歌の旋律が作られています。その証拠に、私の宮廷舞踊の老師匠は、しばしば歌いながら踊っていました。停電でカセットが途切れても、かまわず歌いながら踊ってしまうのです。つまり、流れるメロディー先にありきであって、その後で、それに合わせて棚枠の楽曲構成が作られた感じがします。だから枠の組み立ては少しゆるゆるとしていて、時間を少し前後にひしゃげることができます。

●論文:冨岡三智 2010「伝統批判による伝統の成立―ジャワ舞踊スラカルタ様式の場合―」『都市文化研究』vol.12,pp.50-64 より

ジャワの音楽や舞踊において重視される概念にウィレタンwiletanがある。基本となる旋律や振付は決まっているが, それをどのように解釈し細部に装飾を加えてゆくかは演者個人に任されている。個人ごとに微妙に異なる差異,個人様式とでも呼ぶべきものをウィレタンという。

 ジャワのガムラン音楽のメインとなる, ゆったりしたテンポで演奏される部分では,楽曲の節目を示すゴング類はイン・テンポではなく,やや遅らせ気味に叩く。舞踊でサンプールを払うのは決まって曲の節目だが,これもゴング類と同様にやや遅らせ気味に払う。つまり,音楽の節目というのはデジタルで点状のものではなく,わずかに時間的な広がりを持っている。その時間的な広がりの中でいつサンプールを払うのかというタイミングは,本来は複数の踊り手同士の間で微妙に異なるものであり,そこに踊り手のウィレタンが反映される。このようなコンセプトは,1つ,また1つと散る花に例えて「クンバン・ティボ kembang tiba(花が地に落ちる)」と呼ばれることもある。全員が一糸乱れずに揃ってサンプールを払うのは,1本の樹木に咲く花が一時にドサッと落ちるようなものであり,かえって不自然なのである。

私はジャワ宮廷舞踊で過剰にタイミングを揃えることに反対なのだが、それは時間の広がりがないからなのだ。皆で1つの場を作り上げているとはいえ、4人はそれぞれに存在していて、それぞれの内なるメロディに従って舞っている。状態音楽を奏でる人もそれぞれの内なるメロディを奏でている。それぞれのメロディが糸のようにより合されて1本の太い音楽の糸になり、その糸が曼荼羅を織り上げてゆく…。一昨年の「スリンピ・ロボン」の映像を見ていても、私たち4人の踊り手はどんぴしゃりで揃ってはいない。けれど、各自の少しずつのタイミングがさざ波のように揺れながら、ある時には誰かの引く力に引き寄せられるように、ある時は誰かから伝わってきた気に押されるように動きが流れていく。そうすると、時間にふくらみがあるように見える。払った布が滞空する時間も長くなっている気がする。

図書館詩集5(海老をしきつめたような湖面が )

管啓次郎

海老をしきつめたような湖面がひろがる
海老をしきつめたような道がつづく
巨大な一枚岩の川床に
ごく浅く水が流れて
その水の全体にぴちぴちと跳ねる
川海老が泳いでいる
恐ろしいほどの大漁が約束されている
だが同時に「海老」という表記に対する疑問が生まれる
ここに海はないよ
それともかつてはあったのか
いまは平原
人間たちの身勝手な居住の上に
古代の風が吹いている
先週はまだ寒かった
早春の奇妙に音のない朝
冷たい雨の名残に土がくろぐろと濡れて
舗装道路や線路の敷石も濡れて
目をそむけたくなるほどだった
しかし逸らした視線をどこにむけろというのか
たとえ鎖につながれた犬や
窓際のガラス越しに見える無言の猫でも
いつもそんな存在を求めている人がいる気持ちは
よくわかる
まなざしを必死で求めているのだ
人間からは得られない無償の関心を
人間が与えてくれない無私のなぐさめを
哺乳動物だけがもたらしてくれる
あの目に浮かぶ
はばたきのような感情を
犬猫うさぎモルモットねずみジャービル
こうした動物をかわいがる人間には
どこか心にあやういところがある?
あたりまえさ
人間世界から逃れるために
かれら小動物に救いを求めているのだ
ぼくにはよくわかる心の傾向だ
人間世界が恐ろしいのは企業に支配されているからだ
企業といっても会社といってもいいが
やつらには勝てない
利益追求を第一とし
その目的のためには何をやってもいいと考えている
壊すとか殺すとか何とも思わない
そんなやつらの考えにいつも怯えている
やつらは「法人」
ひとりひとりの生身の人間が死んでも
生き続ける
利益をスーツとして着込むかぎり
不死身だ
戦っても勝ち目はない
感情も生命もないのだから
こっちには絶対にできないような
卑怯なまねを平気でする
利益のためにやつらがやることには
諸段階の破壊があらかじめ含まれている
ワグナーを大音量で鳴らしながら
民間人を射殺する
犯罪そのものを免罪符として
喜々として太陽の下を闊歩する
国家と国家の敵対を作り出すことが
そのまま利潤につながるその仕組みの末端で
獣の道すら見失った人間たちが
引き金をひき計算機を叩いている
その姿は異様なまでに
残忍だ
思い浮かべるだけで心が
べったりと打ちのめされる
法人たちの恒常化・一般化した戦争か
二十世紀からの出口を
求めてきたのに見つからないとは
問題はわかっている
この人の世は十分に
生命に住んでいないのだ
生命の場所としての土地に住んでいないのだ
その事実に怯えながら
この状況からの出口を探している
踏んではいけない海老たちを避けて
このあてどない道を歩きながら
そうだった、今年はイェイツが
ノーベル文学賞を受賞してから百年だっけ
この世から剝落することは
誰にとっても大きな願いだった
いわんや人新世においてをや
彼の願望を
百年後に共有することになるなんて

湖の小島イニスフリー (W.B.イェイツ)
さあ、そろそろ行くよ、行くのはイニスフリーだ、
そこに小さな小屋を建てるのだ、粘土と編み枝で。
豆畑を九畝作り、蜜蜂を飼い、
ぶんぶん唸る音にみたされた空き地で、ひとり暮らす。

いずれ平穏に暮らせるだろう、平穏はゆっくり滴るようにやってくる、
朝霧のヴェールから、蟋蟀が鳴く草むらに滴るのだ。
そこでは深夜はきらめき、正午は紫に発光する、
夕暮れ時は胸赤ヒワが騒ぐ音にみたされて。

さあ、そろそろ行くよ、なぜならいつも、夜も昼も
湖水が岸辺でちゃぷちゃぷいうのが聞こえているからだ。
土の道に立ちつくしていても、灰色の舗道の上でも、
私はその音を深い心の芯で聞いている。

ほら、また耳をすましてごらん
あのちゃぷちゃぷいう水音に誘われて
逃避だ、亡命だ
革命だ、隠棲だ
生活だ、回心だ
この世に加担しないことが最大の貢献だ
蜂飼という非常に古代的な営みに
みずから救われることを誓おうか
ぼくがいいたいのは、われわれは
あるところから先はこの世のルールに
したがわなくていいということだ
それどころかはっきり反逆すればいい
与えられた身分証を捨てて
遠いところへと出てゆくのだ
いまこの河岸段丘に立ち
三川の岸辺を見晴らしながら
きみは逃亡の戦略を練る
傭兵たちを豆畑に迷わせること
すべての銃口にひまわりの種を詰めること
だがこれはファンタジーにすぎない
残忍で陰惨な現実が断崖のようにつづいている
未完の学位が地面に捨てられて
学びたかったかれらの明日が断ち切られて
理不尽な命令にしたがわされて
命を奪われて
よみがえれ学生たち!
「学生」という名称を真剣に生かすなら
あらゆる戦争に反対する以外の道はない
学ぶことが生なので
学びつつ生きることを望んでいた
いちど学生になったら生涯が学ぶ生だ
学生であることがつねに第一義なので
法人に心を委ねることもない
そんなことは絶対にしない
誰の命令も聞かない
戦うくらいなら逃亡をつづける
働くくらいなら放浪を選ぶ
ニンゲン化されるくらいなら島に行き
海老をとって暮らすだろう
海老をしきつめたような原っぱがひろがる
海老をしきつめたような図書館がひろがる
足を切らないように注意して歩けよ
マカテア(化石化した珊瑚の環礁)に守られた島に
何度でも上陸するのだ
ガラスの上を歩くようだ
ところどころに深い穴があり
いつ落ちてもわからない
ここを歩みつつ知識を求めるなら
人の音声言語だけではうまく進めない
音声のパターンを習得する動物は
ヒト以外の哺乳類ではくじらやいるか、こうもり
鳥ではおうむ、蜂鳥、鳴禽類(ひばり、すずめ、つばめ……)
かれらが互いに情報を伝えあうとき
地球はどれほどよりよく理解されることか
海の老人よ
私を操縦することはできないよ
人間が考えたことをたどりつつ
人間が思いもしない地表のできごとを
想像するんだ
たくさんの並んだ線路が錆色の川のように流れ
平野はほぼ忘れられた歴史のようにつづく
きみは誰だ、名乗れ
海老が名乗り
烏賊は沈黙し
たこぶねが真っ青な空を
しずかに進んでゆく
ぼくはせめて中世を探すつもりでここに来たんだが
ここも商都の廃墟
人々はおとなしく物品を手にして
セルフレジに向かう
なんという世の中
自己登記せよ
支払うために自分を投棄せよ
代価をもって物品を持ち帰れ
驚くべきことに
すべての産物は加工品だ
プラスティックな食品を食べているうちに
きみの脳も体細胞もどんどん石油に置き換わるだろう
だが石油が生物の遺体由来なら
それもただ時間を極端な長さで体験するための
一方法なのかもしれないな
「えび」と「ゆび」は元来おなじ語で
節があり曲がったものをそう呼んだという
このあたりの地形は節くれだった河岸段丘で
むかしの人々はこの土地に横たわる
大きな海老を見ていたのかもしれない
「〜のようだ」にすべての秘密があるのだ
隠喩ではなく直喩に大きな衝撃がある
あまりに遠くかけ離れて
とても連想が及ばないものでも
「たとえていうなら」という了解のもとに
連結できるからだ
それ以外にこの世をじゅうぶん体験する途はない
いま踏んだその土に永遠あり
きみの足跡に生命の響きあり
むせるほどの生命の洪水に立ちつくし
もう一歩も進めない
それが正しい道なのだ、学びの道の
たどりついた図書館は湖の中
私たちそれぞれ
ひとりで逃げてゆく小島

海老名市立中央図書館、2023年2月26日、快晴

ベルヴィル日記(16)

福島亮

 2月はカーニヴァルの時季だ。マルティニックでは「赤い悪魔(ディアブル・ルージュ)」と呼ばれる真っ赤な角を生やした怪物の仮面を被り、練り歩く。真っ赤な衣装には小さな鏡が鏤められているのだが、それが何か魔術的な意味を持っているのか、それとも装飾のために過ぎないのかはよくわからない。

 私の家の真下にはベルヴィル通りという大通りがあるのだが、先日部屋でパソコンに向かっていると、何やら賑やかな音楽が聞こえてきた。デモ行進で音楽をかけるのはよくあることだから、きっとそれだろうと思って気にせずにいたのだが、いつまでたっても音楽が終わらない。不思議に思って外に出ると、通りに人が溢れかえり、よく見ると目の覚めるような色のドレスを着た人たちが行列をなしている。カーニヴァルだ。どうやらラテンアメリカ出身の人々がそれぞれの国の衣装をまとい、それぞれの国の音楽に合わせて列をなし、踊っているようである。踊り手たちの先頭をスピーカーを鳴らしながら進む自動車には、「ボリビア」というように、国名が書かれている。この自動車に先導される形で、民族衣装に身を包んだ女性たちや、着ぐるみを身につけた人が踊っている。1週間ほど前になるが、ケブランリー美術館で「サンゴールと芸術」と題された企画展示があったので出かけた。ついでに、と思って常設展示も一通り見ることにしたのだが、そのなかに南米のカーニヴァルの衣装が展示されていた——というのを、実際のカーニヴァルの様子を見ながら思い出した。それにしても、カーニヴァルの音楽は、太鼓や笛が賑やかなのに、どこか物悲しい感じが漂っているのはなぜだろう。

 この街での滞在も残すところあと2週間ほどである。寂しいか、と訊かれたことがあるのだが、じつはあまり寂しくはない。そう遠くない時期に(長期とは行かぬまでも)この街に戻ってくるだろうと、楽観的に思っているからである。ただ、それはやはり、あくまで滞在者としてのアイデンティティが抜けきらないからでもあって、どうやら4年半ほどフランスで生活しても、住人になれたわけではなく、だらだらと滞在を続けている、という意識の方が強いのだと思う。ケニヤ生まれの友人と話していて、そのことを再認識した。彼はパリで修士課程を修了したのち、しばらくベルギーで研修を受けていたのだが、今はフランスの金融関係の会社で働いていて、密かに推理小説をフランス語で書いているという。まだ最初の数章しか書けていないというが、自己表現を大人になってから学び覚えた言語でするとはどういうことなのか、と思った。いや、そのような例はいくらでもあるのだろう。また、彼によると、ケニヤで子どもの頃使っていた言語は、話し言葉であって、執筆には使えないのだという。だから、フランス語で書くことにはあまり障壁はないのかもしれない。

 はっきりしているのは、私には同じような関係をフランス語と結ぶ覚悟がまだない、ということである。というよりも、誰が読むかわからないテクストをフランス語で密かに、時間をかけて綴ろうという気持ちが生まれないのである。内面との孤独な対話は、いつも日本語でおこなっていたような気がする。それを自分ではっきりと知ることができたことがこの4年半の成果である、と言ったら皮肉だろうか。

 自分がかりそめの滞在者にすぎなかったと知った後で、どうこの街と付き合っていこうかと今考えている。だが、たとえ日本に帰ったとして、それは滞在者であることを止めるという意味なのだろうか。自分は永遠の滞在者である、などと言う覚悟はないのだが、生えたと思った根っこが錯覚に過ぎなかったという瞬間はきっとこれからもあるだろう。

どうよう(2023.03)

小沼純一

そこにいたの
どこいるのか 
どこにいないか
二次元で
いるわけじゃない
ピアノやレンジのうえから
冷蔵庫と壁のあいだ
ダンボールのなか
部屋のすみっこ
あんたはいつでも三次元

よくおぼえてる
かつてすんでた
地元の商店街
商店街の

おもちゃやさん
そのままのこってた
シャッターはおろしてて

さびれたのはいつ
いつごろ
から

みおぼえのある店
ひとつふたつ
みちはかわらない
すこしまがって
路地にはいってむこうにぬける

そうそう
ゆうがたはけむりがいっぱい
店先でとりをやいていた

ひっこすと
地図がかけてくる
もっとかけてくるのかな
そのまますんでたらどうなんだろ

なんねんかまえ
ぼたんの店はやっていた
ようたしにいき
みせのひととはなしをした
はんこやはまだやっていたけど
きょうは定休日

もなかとケーキのみせは
いつなくなったんだろう
そこのバゲットはおいしかったよ

立ち読みしてるとはたきをかける
おばさんがいた
あの本屋
となりは化粧品のみせ、
もひとつむこうがやきとりや
つぎのみちに面しているのがおせんべや

すんでてもかわるんだ
ちょっといかないと
かわってしまう
おぼえているのはふるいこと

このおみせ おいしいかな
どうなんだろ

わたし わたしたち
いつのまちをあるいてる
このまちはいつのちず
ちずのひづけはおなじかなちがうかな
おなじちずでもむしくいかな

まいにちあるいた
まいにちじゃない
まいにちじゃなかったけど
すんでいるまちだから
しってた
しってたとおもってる

あそこになにがあったんだろ
さらちになると
おもいだせない
はがかけたように
たてものがまちからかける
かぜがふく

とりたちがあつまってくるやしきは
かじになった
とりたちはいなくなった
ふるびたきっさてんは
くずれたまま
いつのまにかなくなった
クリーニングのおじさんは
からだをこわして
みせをたたんだ
ふるほんやはまだまだある
あるけどあるじもないようも
ちがってて

まちからいなくなった
のはこちらもで
いまはよそ
よそはよそでも
かつてはすんだ
なにかがこっちにのこってる

だれもいらないことしてるんだって
むだをつくってるんだって
いきてるのはみじかくないのに
いまはながいから
ひとにめいわくかけるじゃなし
いらないことをやっている
むしがはっぱをたべるみたいに
かしかしかし

水牛的読書日記 2023年2月

アサノタカオ

2月某日 先月から心を奪われている韓国の作家ペ・スアの小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)を朝と夜に少しずつ読みつづけている。本当に少しずつ、ゆっくりと。1ページの、1行1句のイメージの世界にしばし立ち止まりながら。過剰に甘いコーヒー、ポルトガル語の盗難届……。物語の中にブラジル的記号がさりげなく散りばめられているので、「もしや」と思っていたらやはり中盤で〈サンパウロ〉という地名が登場した。小説の中のウルの現在地はよくわからない。でもかつてウルが旅したらしい土地としてこの都市の名があげられている。

そして読書は2周目に入った。冒頭からふたたび読み始めたところで、「あ、黒いツバメ」と1周目では素通りしてしまったちいさなものたちに再会し、心が揺れる。「言葉以前」の世界をあまねく流動する何かの消息を追いかけるエクリチュールの道をたどるうちにある迷宮に入り込んでしまうような、いつまでも読み終わらない不思議な小説。円環の本。

『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』のもう一人(?)の主人公は「時間」ではないか。「ここ」と「あそこ」、遠さを隔ててひとしく実在する「いま」というやつが目撃した光景を、ぼくらはみているのではないか。読んでいると、ふとそんな気がしてきた。

訳者の斎藤真理子さんが解説で「時間」のことを書かれていて、深くうなずいた。ちなみに、この解説で紹介されているぺ・スアの小説はぜんぶ読んでみたい。『日曜日、スキヤキ食堂』(タイトルにもある日本食専門店「スキヤキ食堂」は実際には登場しないという)、『フクロウの「居らなさ」』(「現実と記憶、幻想が交錯し、テキスト自身が主人公」とのこと、どういうことだろう?)、『知られざる夜と一日』(「シャーマニスティックな深み」に引き込まれる……)。すべてのあらすじが謎めいていて興味を惹かれる。

近年、斎藤真理子さんらが精力的に紹介している韓国文学は、朝鮮半島の歴史を背景に国家や権力、勝者の歴史に抗うものたちの苦闘を描く「物語」の力によって、ぼくら日本語読者をふるいたたせてきた。けれども時として「物語」の力というものは、特定の立場から出来事を一方的に解釈し、意味付け、そこに紋切り型の叙情的感傷をまぜこむことで、対話を拒絶する共感の共同体という「閉域」をかたちづくる暴力にも変わる。ペ・スアはきっとそのことに敏感だ。解釈と意味と感傷から逃れるものたちの叙事にこそ、文学の真実をみいだしているのではないか。この点は、同じく韓国の作家ハン・ガンのすばらしい小説『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳)にも感じる。こちらは今月、河出文庫の一冊として刊行された。

2月某日 大学院時代の同級生で台湾の文学研究者、朱恵足さんが日本にやってきて数年ぶりに再会した。彼女のお姉さん、学生のMくんとともに鎌倉の街をゆっくり散策する。おもだった寺社仏閣を見学したあと、神奈川県立美術館鎌倉別館で開催された「美しい本 湯川書房の書物と版画」展を鑑賞。お蕎麦を食べておしゃべりをしているときに、游珮芸・周見信の歴史グラフィック・ノベル『台湾の少年』(倉本知明訳、岩波書店)がいいよ、と朱さんからすすめられた。全4巻、読んでみよう。

2月某日 資料調査のため神奈川・藤沢に滞在する朱恵足さんとは別の日にも会い、ファミリーレストランでお互いの子育ての話から、歴史と虚構の問題まで語り合った。朱さんが最近、リサーチしているという「霧社事件」(日本統治時代の台湾で起こったセデック族による抗日叛乱事件)について大変興味深い話を聞く。詳しくは書けないが、朱さんが熱弁をふるっていたのは、台湾への旅を舞台にして「霧社事件」にも言及する津島佑子の長編小説『あまりに野蛮な』(講談社文芸文庫)がいかにすごいか、ということ。この作家が文学的想像力によって耳をすませる歴史の真実の声に、彼女もまた引き寄せられている。多くの研究者やジャーナリストは、この声を聞き逃しているという。

朱さんは沖縄発の批評誌『越境広場』などで、津島佑子や目取真俊の文学をテーマにした評論を日本語で発表している。そろそろ彼女と本づくりなどいっしょに仕事をできるといいな。台湾のお土産のからすみをもらい、ぼくからは金石範小説集『新編 鴉の死』(クオン)をプレゼントした。

2月某日 唐作桂子さんの詩集『出会う日』(左右社)を読む。巻頭に置かれた「ななつの海」という作品がいい。階段の踊り場で方向転換するように、言葉の向きがくるりと変わって一段上がるような瞬間が魅力的。

2月某日 各地からスモールプレスの本が続々と届いてうれしい。鹿児島・屋久島からは『2001-2021——山尾三省没後20年記念誌』『星座——第17回オリオン三星賞』。どちらも、屋久島に暮らした詩人・山尾三省の業績を顕彰する「山尾三省記念会」の発行で、編集は一湊珈琲編集室の高田みかこさん。高田さんからのお誘いで、「記念誌」のほうに「『希望』の種子に風を送る」というエッセイを自分も寄稿した。

東京・下北沢からは編集者・長谷川浩さんの追悼Zine『BON VOYAGE——Bohemian Punks』。沖縄の詩人・高良勉さんからは詩と批評の雑誌『KANA』第29号、特集は「ウクライナ・戦争と平和」。同人の詩人・宮内喜美子さんの詩「ウクライナ人の街」から読み始める。

そして小倉快子さんの『私の愛おしい場所——BOOKS f3の日々』。新潟で小倉さんが営み、2021年に閉店した本屋BOOKS f3。ひとつのお店の歩みを記録する言葉と写真が、一冊の書物として束ねられることで、厚みのある場所の記憶になってゆく(すばらしい編集は佐藤友理さん)。BOOKS f3では、サウダージ・ブックスから刊行した宮脇慎太郎写真集『霧の子供たち』の展示をおこない、ぼくも編集人としてトークイベントに出演した。この場で出会った人たちとのあたたかな縁が、いまもつながっている。自分にとっても愛おしい場所。

2月某日 見田宗介『白いお城と花咲く野原——現代日本の思想の全景』(河出書房新社)が届く。昨年亡くなった社会学者の大家が、80年代に朝日新聞で執筆した論壇時評の集成の復刊。大澤真幸さんが解説。見田宗介、そして彼の〈異名〉である真木悠介の思想のバトンを次の時代の読者に渡していくこと。

2月某日 北海道・小樽の詩人である長屋のり子さん(山尾三省の妹でもある)からのご案内で、鎌倉生涯学習センターで開催された「ウクライナ 子供の絵画展」を鑑賞。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年。戦禍の地の子どもたち、若者たちの見つめる心象風景を自分自身の目に焼き付ける。今月はトルコ南部で大地震が発生し、トルコとシリアでは凄まじい数の人命が犠牲になっている。世界の窮状を前にして非力な自分に何ができるのか、答えのない問いを考え続けている。

2月某日 南浦和のさいたま市文化センターへ。「認知症者・高齢者と介護者とつくる「アートのような、ケアのような 《とつとつダンス》」 2022年度活動報告展示会」に参加した。ダンサーで振付家の砂連尾理さんが、2009年から京都の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」を舞台に、高齢者や介護者とおこなうダンスワークショップ《とつとつダンス》。この《とつとつ》のパンフレットや書籍(晶文社から刊行)を編集した縁で、声をかけてもらったのだった。すでに10年以上におよぶ砂連尾さんたちの息の長い活動はユニークな進化というか変容をつづけていて、近年はオンラインのダンスワークショップをおこなったり、マレーシアの認知症高齢者と交流したりしている。マレーシアでは認知症高齢者をケアする施設がかなり少なく、認知症はもっぱら薬で治療する病気と認識されているなど、日本とは異なる状況があるらしい。報告展示会には元看護師の臨床哲学者・西川勝さんも大阪から駆けつけ、なつかしい《とつとつ》のメンバーとの再会になった。

2月某日 待望の本たちが届く。一冊は奥田直美さん、奥田順平さん『さみしさは彼方——カライモブックス』(岩波書店)。ぼくも大好きな京都の古本屋カライモブックスを営み、これから水俣へ、石牟礼道子さんの地へ移転するというふたりの随想集。落ち着いて読んで、感想を書きたい。

もう一冊は韓国の作家、ハン・ジョンウォンのエッセイ『詩と散策』(橋本智保訳、書肆侃侃房)。ページをひらくと、エピグラフとしてオクタビオ・パスの詩「ぼくに見えるものと言うことの間に」が置かれていた。ちょうど編集の仕事のためにパスの詩集『東斜面』について調べていたタイミングだったので、この偶然の一致に驚いた。ひとりで詩を読み、ひとりで散策をする著者が本書で紹介するのは、たとえばフェルナンド・ペソア、たとえばウォレス・スティーヴンズ、たとえばライナー・マリア・リルケ……。こうした詩人たちの名が織りなす星座は、自分の心の中の夜空に輝くものでもあり、他人事とは思えない。美しい装丁、ペーペーバックの造本がすばらしい。タイトルにふさわしく、春の上着のポケットに入れてともに散策したい、かろやかな詩の本だ。

しもた屋之噺(253)

杉山洋一

俄かに春めいてきたと思いきや、今日は出し抜けに平野部でも雪の予想がでて、ミラノもみぞれ混じりの雨模様です。今日は町田の母より、ヴェニスの運河は水涸れで大変なんでしょう、と言われておどろきました。ヨーロッパの渇水は深刻で、ロンバルディアでも農業に影響が出ているのは知っていましたが、水の都の話はまったく知りませんでしたから。

2月某日 ミラノ自宅
良い天気が続いているからか、ミラノの空気は酷く汚れているようだ。イタリアで最も大気汚染の進んでいるのがトリノで、ミラノは二番手だと新聞に書かれているが、そのせいか、洟は止まらず目も痒い。花粉症には未だ寒すぎるから、粉塵、ばい塵の類に違いない。
もうすぐ成人する息子宛てに、ミラノ市からイタリア共和国憲法の小冊子が届いた。ここ数日、彼はヤナーチェクのヴァイオリンソナタとシュトックハウゼンのソナチネを譜読みしているが、どんな将来が待っているのだろう。

マッシモ・ヴィヴァルディより、彼の指揮するアルド・フィンツィ作品のヴィデオが送られてくる。フィンツィはイタリア系イギリス人作家、ジェラルド・フィンジの同時代人で同姓、名前も酷似している上に、等しくユダヤ人迫害に巻き込まれているから、すこし紛らわしい。
アルド・フィンツィは1897年ミラノに生まれ1945年トリノに没したイタリア人作曲家で、ムッソリーニ政権下の反ユダヤ人法により演奏が禁止になり、近年まで顧みられることすらなかった。ローマのサンタ・チェチリアで作曲のディプロマを取得し、作曲家として成功をおさめ、1931年、僅か24歳でリコルディ社から出版されるようになった。1937年にスカラ座の新作オペラコンクールに応募し、審査員だったピック=マンジャガルリから優勝を内々に知らされたが、ファシスト政権によって発表は反故にされ、数か月後に施行された反ユダヤ法によって、一切のフィンツィ作品の演奏の権利が剥奪された。しかしフィンツィは匿名、もしくは偽名を使って作曲を続け、1942年にはユダヤ人迫害に立ち向かう主人公を描いたアルトゥーロ・ㇿッサート台本によるオペラ「シャイロック」第1幕を完成させている。1943年、ナチス占領下のトリノで隠れ棲みながらオルガンのための「前奏曲とフーガ」を書くが、ファシストによりフィンツィの息子の居場所がナチス親衛隊に密告され発見されたため、息子の身代わりとなってフィンツィが出頭し、拘束されたが、のちに奇跡的に解放された。自らと家族を救った神への感謝をこめて、1944年から45年初めにフィンツィは合唱とオーケストラのための「詩編Salmo」を作曲し、その直後45年2月7日トリノで死去している。当初、偽名を使い埋葬されたが、戦後ミラノの記念墓地に改葬された。

夥しいイタリア近代音楽の趨向が、みっしりと折重なり、波に打たれるままの人知れぬ入り江。終戦とともにイタリアの近代芸術は、その汀で永遠に封印されてしまった。印象派やフランクの残り香が、厳めしい雰囲気のまにまに漂っていて、その上をネプチューンの如く顕れるイタリアらしい歌謡性が時代を感じさせる。もはや醗酵し尽くし、噎せる薫りに包まれる、無数の不思議な作品たち。例えば、ピッツェッティの後任で長年ミラノ音楽院長を務めたピック=マンジャガッリは、チェコ生まれでミラノに育ち、リヒャルト・シュトラウスの下で研鑽を積んだ。反ユダヤ法の何十年も前にユダヤ教からカトリックに改宗し、音楽院長まで務めて大戦末期にダンヌンツィオに曲をつける程、ファシスト政権とは良好な関係を築きつつ、実はフィンツィを支持していた。妻がユダヤ人なのを隠すために、カセルラは敢えて政権の旗振り役を買って出ていた。どちらも実にイタリアらしい逸話だと思う。フィンツィが作曲したヴァイオリンソナタ3楽章、カセルラを思わせる疾走がふと途切れ、蕩けるような第2主題が現れるとき、切なさや儚さと隣り合わせの、当時の暮らしの風景の一端が見える気がする。

学校で授業の合間にレプブリカ紙を広げると、Covid19がイタリアの若者に与えた精神的トラウマについて書いてある。こんな風に書いてあるが、君たちどう思うかいと学生たちに尋ねると、「その通りだ、兄弟は鬱病を発症して廃人になった、優等生だった以前の姿は消え失せ学校も落第した」とか、「自分自身未だに躁鬱に悩んでいる」など、皆がまるで吐き出すように一斉に話し始めて、おどろく。

2月某日 ミラノ自宅
EUヨーロッパ連合の規約に則り、イタリアの無期限滞在許可証が廃止された。今後は10年毎に更新しなければならず、憂鬱極まりない。

町田の母よりショートケーキの写真が届く。長さ15センチ幅5センチほどの蒲鉾型。全体に純白のホイップクリームで覆われていて、屋根には真赤な苺が3個並ぶ。ケーキの周囲には薄切りの苺が飾られている。「頑張ってつくりました。手首が痛くて途中で撹拌をやめたら、クリームがだらけた。味はいいですよ」。言われてみれば、まるでホイップクリームが滴るように見えなくもない。以前から母は手の腱を痛めている。ケーキの傍らには、小学生の時分から使っている2客の小さなコーヒー茶碗も並んでいて、思わず当時に立ち戻った錯覚を覚えた。写真の周りに自分だけいないのが、不思議である。父のための誕生日ケーキに、落涙。

2月某日 ミラノ自宅
馬齢を重ねつつ作曲作業がより非効率的になっているのを実感し、気が遠くなる。
指揮の譜読みも人より遅く、作曲も埒が明かないようでは、徒に生産性が欠落した人生を送っているに他ならない。

学校の前期ゼメスター試験を前にして、緊張すると持病の多動症が酷くなるから、医師の診断書を提出して試験に臨みたいと弱音を吐いていたAが、立派に落ち着いて試験をやり過ごしたことに感銘を受けた。多動症でも、自分の意志で自らの衝動をここまで律することができるとは知らなかった。
家人が一カ月ほど日本に戻るにあたり、一度、家族で外食したいという。用水路対岸の「夢想家」食堂で昼食に出かけ、魚介ソースをリグリア特産の生パスタ、トロフィエで食べる。

2月某日 ミラノ自宅
垣ケ原さんと電話で話す。武満さんと岩城さんの存在が、垣ケ原さんの音楽の指針だったという。素晴らしいなあと独り言ちてから、自分の指針とはなんだろうと考える。尊敬する音楽家のようでもあるが、音楽の存在そのものかもしれないし、その両方であるかもしれない。

「お話したことがありましたか。ミラノの家の話なのですが、コロナ禍が始まった年の暮れから、リスの家族が庭の樹に巣を作って家族で住んでいます。この樹は高さが10メートルくらいあって、中腹に大きな洞が開いています。そこを寝床にして棲み付いていて、毎朝胡桃を5個ずつ割ってやります。彼らはそれを大層楽しみにしていて、僕が届けに行くと、決まって洞から出てきて餌場まで降りてきて挨拶をします。こちらが遅くなると、尻尾で窓を叩いて起こしに来たりするんですね。そのリスの家のすぐ隣には、もう5,6年前から黒ツグミのねぐらがあって、リスとも仲が良いらしく、子供どうしで遊んでいます。胡桃は他の鳥にも人気で、実に小さな鳥から、そこそこ立派なカラスまで、毎日さまざまな鳥が啄みにきます。コロナ禍でロックダウン真っ最中には、ずっと独りで暮らしていたので、彼ら庭の小動物たちにどれだけ慰められたかわかりません。
毎日リスを眺めて暮す日々が訪れるとは、夢にも想像していませんでしたが、こうして庭の小動物を眺めていると、自分も彼らに生かされていると思います。昔、家人が野良猫を飼っていました。猫の口蓋には鼻まで繋がる大きな穿が開き、鼻腔は腐っていて、とても可哀想でしたが、それは大層可愛がっていました。或る時、その猫がふらりと外に出たきり行方不明になり、総出で何日も探したものの、結局見つかりませんでした。最後に見かけた時、家の塀の上からこちらを暫くじっと見つめていて、それから暗闇に消えてしまいました。何か言いたそうにしていたあの顔は忘れられません。それから暫くして息子が生まれたので、時として、息子がチビという名の、あの猫の生れ変わりに感じる瞬間があります」。

2月某日 ミラノ自宅
とても耳はよいが不器用なトンマーゾには、音楽の稜線を底から支えるようにして、同時に、風船を膨らませる塩梅で拍間に空間を広げるよう伝える。拍が音楽を作るのではなく、拍と拍の隙間から音楽の内部に身体を滑り込ませ、裡からその隙間にむけて風船を膨らませるようにしながら、そこに音楽の霊感を吹き込むよう伝える。

スカラのアカデミーでバレエの稽古ピアノを弾いているイザベラには、パーソナル・ゾーンに演奏家の音楽が踏み込むのを甘受すべきと提案する。彼女は演奏者と距離を取りがちだったが、演奏者に発音を促してから、その音を自らのパーソナル・ゾーンに持ち帰る意識を理解してほしいと思う。音を連れて帰ってくる際、一緒に演奏者たちも音と一緒にやって来るけれど、それを怖がらず、むしろ温かく、時には面白がりながら受け容れるということ。

しばしばテンポが遅くなるフェデリコには、先ず演奏するフレーズを軽く口ずさんでもらい、直後にピアニスト相手に振って誤差や齟齬を自覚してもらう。
彼が自分で歌えば視覚で楽譜を捉えてそのまま発音出来るのに、ピアニスト相手に指揮する時は、視覚が楽譜を捉えると、その情報を脳に流して裡に鳴る音へ変換してから、指揮棒に意識を流して演奏者に発音させている。その結果、脳のバイパスやフィルターを通過する間に、視覚の知覚した情報と演奏者の発音の間に僅かな誤差が生じる。指揮する場合、視覚で楽譜を読んだら、脳を通さずにそのまま指揮棒を通し、時間のずれなしに情報を正しく演奏者に伝える、と理解させられれば、少しずつ齟齬が減ってゆく。

まだ14歳たらずのフランチェスコには、一度振りながら楽曲構造や和音構造を敢えて言葉で説明させた後、暗譜で振らせてみた。すると鳴っている音が明確に聴こえ、音楽を客体化できるようになる。結果として、そこに彼の音楽性を載せる余裕が生まれる。
指揮に関しては、テクニックを使えば使うほど、より作為的になって音楽が離れてゆく気がする。技術をもって音楽を表現しようとするのは、指揮に於いては余り意味を成さないかもしれない。せいぜい技術程度しか教えられないのに、技術が音楽を邪魔するのであれば、完全な自己矛盾状態にある。

夜、息子と食事をしていると、「お父さんは戦後すぐの生れでしょう」と言われる。何を勘違いしているかと思いかけたが、昭和44年は終戦後24年にあたる。
息子曰く、終戦からお父さんの生まれ年までと、2000年から今年までの時間、1999年EU通貨統合から現在までの時間はほぼ等しい。
「だから、2000年くらいに世界大戦が終わった感覚なのでしょう」。
なるほど確かにそうなのだ。自分が生まれる以前の時間については、主観的に意識したことがなかった。昭和20年から44年までの時間は、単に歴史上の事象を時間軸上に並べ、知識として理解しているに過ぎなかった。
「お父さんは、子供の頃と今とどちらが幸せなの」と聞かれ、「今にして思えば、昔の方が幸せだった気がする」と答える。
周りには自然がたくさん残っていたし、食事ももっと美味しかった気がする。インターネットも携帯電話もなかったが、それなりに暮らすことは出来ていたし、社会も今より余裕があった気がする。
現在より不完全な社会だったかもしれないが、皆が前を向いていて、顔は下を向いていなかった印象がある。当時は冷戦真っ最中で、世界のあちこちで戦争は続いていたし、公害もたくさん起きて、肯定的な面ばかりではなかった。全世界的に見ても、人種差別や男女差別は、今とは比較できぬ程酷かったはずだ。技術が発展する程に、我々の裡の感覚がどこか鈍くなり、鈍くなった箇所は何時しか消失してゆく。

尤も、インターネットの発展がなければ、日本や外国の家族や友人と気軽にやりとりする日常など、実現不可能だった。
子供の頃、近い未来テレビ電話なる文明の利器が発明されて、顔を見て話すのが当たり前になる、なんて話に胸を躍らせつつ想像していた社会と比較すると、既に当時の夢の技術革新を成し遂げた現在の社会は、どこかもっと無機質で、時として味気なくすら感じられることもある。我々が子供の頃、訳も分からず想像していた未来の世界は、より明るくて愉快な世界だった。単に子供心でそう思ったのかも知れないし、実際、予定ではもっと明るく愉快な世界を包み込むはずだったのかもしれない。
当時も夏は暑く冬は寒かった。子供の頃は通勤列車の天井には所在なさげに扇風機が回っていて、思えば、冷房など随分経ってから登場したから、最初は何だか大仰に感じられた。しかし、今や冷房がなければ我慢できない暑さに見舞われるようになった。

そう考えれば、昔と今とどちらが良いかという息子の質問に対しては、本来こう答えるべきだったのかもしれない。即ち「我々が子供の時に想像していた未来に比べ、実際に訪れた未来はずっと暗澹としていて、閉塞的であること」。「昔、家の近所のどぶ川は、悪臭を立てていたけれど、毎週末はややウグイを釣りに行っていた酒匂川の湧き水あたりには、びっしりと野生の山葵が自生していたこと」。「あのどぶ川は、今はきれいに濾過された下水を流しているので、水はきれいで、臭いもなくなったこと。酒匂川は護岸工事されて、あの湧き水も山葵もどこかへ消えてしまったこと」。

2月某日 ミラノ自宅
昨日の朝、庭に降りる三和土の手すりに、体長20センチほどの黒ツグミと、3,4センチ足らずの小鳥が並んで留まっていた。少し頸を傾げるようにして、こちらをじっと眺めているので、まさかと思いながら胡桃を割り始めると、二羽とも瞬く間に餌台の朽ちた木椅子へ飛んでいったのには吃驚した。彼らもリスのように餌が届くのを首を長くして待っていたのだ。
時として、人間より鳥類の方がずっと能力も優れていて、豊かな世界を生きているのではないか、と思ったりもする。彼らなりに大変な暮らしを強いられているに違いないし、その要因の多くは恐らく我々の仕業だ。
トルコ地震の被害者5万人と聞き言葉を失っているが、いつか、全世界的の文明を崩壊させるほどの天災が地球を襲い、人間がほぼ死に絶えてしまったとしても、鳥たちはより鮮やかな世界を翔けているような気もする。

ウクライナ侵攻から一年が過ぎた。息子がサラと録音したダニエレ・ボナチーナの二重奏曲を聴かせてくれる。研ぎ澄まされ、一切無駄のない音、楔のように穿たれる音、一見単純でありつつ、見事に表現として昇華されたヴァイオリンの長音。ダニエレは、パリの高等音楽院の入学試験にこの録音を送るそうだ。

2月某日 ミラノ自宅
眼を閉じたまま、その眼の内側にある別の眼を開く。
例を挙げると、眼を閉じて目の前に数字の投影を試みるとわかりやすい。眼の内側の眼を開いていれば数字は明確に見えるが、内側の眼が閉じていると、全く見えなかったり見辛かったり、或いは気が散って数字を凝視できなかったりする。内側の眼は、視点を水平か心持ち上の方へ向けると開きやすい。
こう書くと怪しげで公言も憚られるが、興味深いのは、その内側の眼が開いていると、脳裏にすっきりとした清涼感があって、整頓された空間すら感じられるのが、眼を閉じていると、脳そのものが閉じている感覚とともに、辺りも昏く感じられ、空間も不明瞭になることだ。

左手指のため、朝目が覚めると布団の中で指回しの体操をしている。外向きに100回ずつ、それからで内向きに100回ずつ各指を回すのだが、その間、眼を閉じて目の前に数字を投影し、頭の中では声を発さぬよう気を付ける。そうして内側の眼だけを開いて、その数字を追ってゆく。誰に教わったわけでもないが何時からか気が付けばもう10年以上続けていて、これが終わる頃には、指も頭も身体も解れて快適である。

階下では、息子がヴィンチェンツォ・バリージのピアノ曲を黙々と練習している。ヴィンチェンツォの故郷、シチリアの民謡を思わせる旋律が、ジャズ・ピアニストでもあるヴィンチェンツォらしい、不思議な旋法で紡がれ、編み上げられてゆく。

庭の樹に巣を作りかけ姿を消していたキツツキが1年ぶりに戻ってきて、また樹を穿く。鳥であっても、自分の作りかけの巣が世界のどこにあるか、しっかり覚えている。

(2月28日ミラノにて)

 

 

『アフリカ』を続けて(21)

下窪俊哉

 岩波書店の雑誌『思想』3月号に福島亮さんの書かれた「水牛,小さなメディアの冒険者たち」が載っているというので買って、読んでいる。「水牛」前夜から、初期のタブロイド判新聞『水牛』、水牛楽団の活動の充実と共にあった時代の『水牛通信』、水牛楽団の活動休止後の『水牛通信』まで、1970年代から80年代にかけての「水牛」のあゆみを見通せるように整理してあり、私のような者にとってはたいへんありがたい。
 その『思想』3月号、20世紀のアジア、アフリカ、中米など「第三世界」で起こった様々な雑誌活動を取り上げてあり、どれも興味深いのだけれど、私はまず、巻頭に置かれている冨山一郎さんのエッセイ「雑誌の「雑性」」を読んで唸ってしまった。
 パンデミックによって大学に集って議論できなくなったことを契機に「通信ということ」を始めた、というエピソードに始まる。その場をオンラインで代替えしようとするのではなく、各々が書いたものを「通信」として編集し、読むということを始めたらしい。それをくり返すことによって、ひとつひとつの文章が「連鎖していった」という。そこには中心となる統括者が存在しなくて、順序づけができるようなものでもない「つながり」が生まれた、という冨山さんの気づきがあった。少し引用してみよう。

 あえていえばそれは、それぞれが軸となりお互いが契機となりながら拡張されていく思考のあり様だ。この契機になるということは、他者の文章との偶然的な出会いを前提にしており、雑多な文章を通信として一つに編集したことが重要になる。

 そのことを少し後の文章では、「読み手が書き手にもなり、それが繰り返されながら広がっていく」とも書いている。これは何か大きなヒントになりそうだぞ、とつぶやきながらくり返し読む。

 たぶん月刊になるだろうウェブマガジン『道草の家のWSマガジン』を始めて3ヶ月たつところだが、不定期刊の紙の雑誌『アフリカ』vol.34も同時並行でつくっていて今月、仕上げる予定だ。今回は詩が3篇、短編小説も2篇あるので、「なんだか文芸雑誌みたいだね?」なんて冗談を言って、「これまでは何だったの?」と周囲に呆れられているのだが、私の気分の問題だろうか? それだけではないだろうという気がしている。
 これまでに書いたことのくり返しになるけれど、『アフリカ』は散文の雑誌であって詩の雑誌ではないということにして始めた(詩の雑誌は身近にたくさんあったから)。そして2011年頃からは、小説を書きたい人の雑誌でもなくなった。装幀の守安涼くんのことばを借りれば「小説然とした作品をめざすのではなく、書き手の書きたいものがストレートに出た散文が多く並ぶようになった」のである。
 それにしても、なぜそうなったのだろう? ということは、あまり深く考えずにここまで来てしまった。

 きっかけは、当然かもしれないけれど「小説を書きたい人」が『アフリカ』を出ていったからだろう。そこからが『アフリカ』の面白いところで(と私は当時も思いながらつくっていたのだが)、書き手がいなくなると、必ず別のどこからか現れるのである。なんてとぼけたようなことを言っているが、思えばシンプルなことで、読み手が書き手にもなったのだ。

『アフリカ』はスタートした時、文学研究者や愛好家たちとの付き合いを離れ、まずは編集人(私だ)の通っていた立ち飲み屋で読まれた。その話は、この連載の2回目で書いている。
 街中にいると、もちろん多様な人がいるわけで、文芸活動をしている人は少数だろうし、本を読むことに興味がないという人もたくさんいる。識字率の低い国ではそこに、文字を持たない人びとも加わる。いま私は知的障害のある人たちと街中で一緒に過ごす仕事をしているが、中にはことば自体を持っていない(かもしれない)人もいる。
 私はそんな人たちの中で、読んだり、書いたりすることを自分の仕事と考えているようだ。
 そういう姿勢で書いたり、つくったりしていると、書くつもりのなかった人が、『アフリカ』と出会うことによって、書くようになる、ということが起きたのである。その人たちから、小説やエッセイを書こうとか、詩を書こうといった気負いは感じられない。私はそこに何かしらの手応えを感じていた。
 小説とは何だろう? エッセイとは? 詩とは何だろう? といったことをいつも考えているわけではないが、書き続けている限りその種の問いから完全に離れてしまうことも不可能で、それらの原稿は私にある種の共鳴を呼び起こしてくれた。

 私自身も、フィクションを書くより、その時々のワークショップを通じて得られたことを『アフリカ』で報告するということが増えていた。小説を書くことから離れていた、と言えば、言えなくもない。全く書いていなかったわけでもないけれど、関心は確かに他へ向いていた。
 ところがまた最近、変わってきたのである。昨年、ワークショップを休んで、うだうだしている間に。
 決定打となったのは2冊の本だった。ひとつは、この「水牛のように」で杉山洋一さんの「しもた屋之噺(247)」を読んだのがきっかけで、カルヴィーノ『アメリカ講義』が妙に読みたくなって、再会したこと。以前読んだ時には何も感じることができなかった、と思った。数十年の時を超えて、カルヴィーノが自分に語りかけてくれているようだった。どうしてカルヴィーノは2022年に私の考えていることがわかったんだろう? といったふうだ。もう1冊は、仲間に誘われて、ヴァージニア・ウルフ『波』を初めて読んでみたこと。それから、20代の自分が書いていた文章も再び引っ張り出してきて読んでいたら、当時の自分とヴァージニア・ウルフが手紙のやりとりをしているようになり、ああ、こんなふうに書けばいいんだ、ということを久しぶりに体感できた。
 そうなると、ウェブマガジンに化けたワークショップでも話したり書いたりすることに変化が起きる。よし、自分はいま、小説を書くことに向かおう、ということになった。そうすると、現実の中にフィクションが見出されるのではなくて、フィクションの中に現実が立ち現れるようだった。

音楽というあそび

高橋悠治

来月には、演奏がまた始まる。以前のように、練習しないでその場で弾ける、というわけにいかない。眼のせいだろうか。
手が弾いている音より少し先を見ているから、動きの方向が決まるのに、今はそうなっていない。すると、そこを繰り返して手に憶えさせているのか。それでどうやって、初めて知らない道を歩くような驚きや興味が起こるのだろう。意識した動きは、おもしろくないし、見え透いている。

練習すれば、ためらわず、そこを通り過ぎていくことになる。それではやはり、おもしろいとは言えない。穴だらけの道を気をつけて歩くような、思いがけない引っかかりと、そこを抜け出す時の思わぬ弾みの勢いで、棘のある時間の流れ。

毎日の生活とそこで起こること、それを書きつけ書き残すこと。音楽はそんな生活の記録とは離れたところに置かれた作り物なのか。日記や随筆集に限らず、物語さえ、毎日の間に沈んでいる言葉の連なりを掘り起こした一部分と言えるかもしれないのに、音楽はそこにはない、対立面にあり、別な時間・空間に飾られた鏡、手探りするたびに、違う響きを立てる迷路だとしよう。

では、そこに触れて、その都度少しでも違う経験ができるとすれば、それは、あらかじめ考えられ、仕組まれたスタイルではなく、その時その場で感じた音の流れ、同じ楽譜を辿りながらでも、毎回開ける風景の、異なる片隅にあたる光。すべてが、その時だけの即興のように、音の発見の「あそび」であるかのように、でも、「演奏」といい、「作曲」と言っても、その手続のきっかけの、さまざまな形のひとつであるように、それを仕事とし、さらに職業として、過ごして来たことには、たいした意味があるわけでもないだろう。

意味がなくてもいい。この音が他の音のなかで、どんな響きを立てるか。ある音が音になるまでの「ためらい」、決められたリズムを毎回わずかに外すこと、そこがおもしろく、演奏でそれができなければ、できるような何かを作ってみる。こうして、演奏したり、作曲したり、調子がよい時には、即興もできた時があった。即興は一人でよりも、相手のある時に。そう言えば、演奏も楽譜とだけより、他人との合奏の方がよく、そうでなければ、ピアノの場合、両手の間で、対話できればよいし、作曲も「うた」のように、詩と対話するのが、おもしろかった。自分の主張や表現より、まったくちがう観察を知ると、そこで感じる何か、必ずしもそれと関連がなくとも、そこから想像する状況や動きに、興味が湧く。