224 魂のさくいん

藤井貞和

ふと思うことがある、
われらはさくいんによって、
偽書から取り出されると

見たことがあるな、
われらの偽書づくりが、
詩集を生む

精巧な偽書から、
さくいんで引く、
意識のつきあたりのところ

思う時がある、
われらは偽造する、
書物から差しのばす意識

われらの誤読によって、
生きて帰ってくる、
人名さくいん

事項さくいんに、
み霊を集める、
灰を送る

かききえる和歌の
現代語訳
さくいんに浮く水面

(夏は大好きで、冬も好き、秋は嫌いで、春が大嫌い。そんなはずだったのに、今年の夏は暑すぎて、ぐったりする。源氏物語でいうと、紫上という女性の最晩年みたいな気分である。旧暦だから、彼女は6月〈晩夏〉になるともうぐったり。翌月の14日に死去する。ところで参考書も教科書も注釈書も、紫上の死去を8月14日と決めている。おもしろいな。かぐや姫の昇天に合わせたのだろう。6月のつぎは7月じゃなかったかな。あれ、かぞえられなくなった。偽書かもしれない。夏の夜咄。)

水牛的読書日記番外編「在日コリアン女性作家選」について

アサノタカオ

ホームからぼんやり線路を眺めていると、影のかたまりが動いている。空を見上げると、山から海に向かって次から次に雲が流れ、はるか向こうには天にそびえるような巨大な入道雲が見えた。吹く風が気持ちいい。夏だ。

小田原駅から乗車した新幹線の車内で、企画書などの資料を入念に確認しつつ新大阪へ。市営地下鉄を乗り継いで駒川中野駅で降りて、路上を照りつける強烈な日差しを浴びながら、新しい出版社ハザ(Haza)の事務所へ向かう。

夜に開催されたミーティングに出席し、真剣勝負のつもりで「在日コリアン女性作家選」の本のシリーズ企画を提案した。代表の長見有人さんや理事で臨床哲学者の西川勝さんら関係者のみなさんの思いのほか熱心な賛同をいただいてひと安心。これはアサノタカオ個人ではなく、サウダージ・ブックスのチームで編集を担当することになるだろう。このあたりの詳細については追い追い語るとして、何年もあたためてきた念願の出版企画なので、はじめの一歩をふみだすことができてうれしい。

ハザは、大阪・京都で障害者訪問介護事業をおこなうNPOココペリ121が2021年に設立した出版部門で、自分が編集人をつとめている。介護やケアに関わる本を出版していく予定だが、NPOココペリ121は多文化共生というテーマも大切にしている。だから、「在日コリアン女性作家選」を刊行するのに、ハザはふさわしい版元だと考えている。

在日・コリアン・女性……。いまぼくの頭のなかにあるひとりひとりの著者候補の方には固有の名前があるわけで、「在日コリアン女性」などとひとくくりにして呼びかけることにはためらいがある。間違いというわけではないだろう。しかし、ひとりひとり異なる彼女たちの声をゆるやかに束ねてより集合的な声として世に送り出したいと考えるとき、それ以外のふさわしい連帯のかたちの名称をいまのところ思い浮かべることができないのも事実で、もやもやしている。どうしたらいいものか。

振り返れば20年近く出版編集の仕事をしてきて、雑誌・ムック・報告書などの類も含めれば100冊ほどの本作りにかかわってきただろうか。仕事を通じてほんとうにいろいろな人の知遇を得たが、偶然と必然が絡まりあった不思議なご縁で、ぼくは何人もの「在日コリアン女性」の作家たちと出会い、日常的に多くのことを教えてもらい、また本作りに関しても応援してもらっている。みな、人生の先輩だ。

2022年、37歳で亡くなった芥川賞作家・李良枝の没後30年にエッセイ集『言葉の杖』(新泉社)を企画編集した。妹の李栄さんとのよい出会いもあった。ここ数年、作家の姜信子さんの旅のエッセイ集『はじまれ、ふたたび』(新泉社)や映画監督ヤン・ヨンヒさん自伝『カメラを止めて書きます』(クオン)の編集も担当している。しかし、「この人のことばを本にして伝えたい」と心のなかで思う「在日コリアン女性」の書き手は、ほかにもまだまだいるのだ。舞踊家、ライター、詩人、ミュージシャン……、さまざまな経験が交差する場所。

「韓国」と「日本」のあいだでひとりの表現者として、ひとりの女性として、ひとりの人間としてつよく生きる作家たち。その存在は、女性をはじめとするそれぞれのマイナー性、それぞれの差異を抱えながら人生を旅するものにとってロールモデルとなり、彼女たちの残したことばはかならず、後からやってくる若い人たちの心の杖となるにちがいない。そういう確信がある。尊敬すべき旅の先行者である彼女たちとの出会いから何を問われているのか、これから応えていくことになるのだろう。

「在日コリアン女性作家選」の本のシリーズは、1981年〜82年に作家で翻訳者の藤本和子さんが編集した『女たちの同時代 北米黒人女性作家選』全7巻(朝日新聞社)にインスパイアされるかたちで着想した企画だ。トニ・モリスン、エリーズ・サザランド、ヌトザケ・シャンゲ、ミシェル・ウォレス、アリス・ウォーカー、メアリ・ヘレン・ワシントン、そしてゾラ・ニール・ハーストン。日本語世界におけるアフリカ系アメリカ文学の紹介史上画期的な本で、伝えなければならないことを伝えるにはこれくらいのことをしないと、とページを開くたびに熱い気持ちになる。『文藝』2023年秋季号の「特集 WE❤LOVE藤本和子!」に掲載された岸本佐知子さん、くぼたのぞみさん、斎藤真理子さん、八巻美恵さんの座談会のなかで、くぼたさんが藤本さんの「北米黒人女性作家選」の仕事について、「日本語のなかに投げこむときに、ただ翻訳してあとがきを書いて出すというのとは全然違うかたちをとった。文脈を立てて、作品を立体化して見せた。あんなふうに選集を出した人を他に知りません」と言っているが、本当にその通りだと思う。編集、翻訳(一部)、解説と7冊の本のなかでひとり何役もこなす藤本さんの八面六臂の活躍ぶりがすごい。ぜひ読んでたしかめてください。

『女たちの同時代』というすばらしい本に込められたスピリットを編集者として自分なりに継承し、アンサーソングをうたうつもりでこれから本作りのプロジェクトに取り組もうと思う。上述の座談会での八巻さんの発言によると、藤本さんは李良枝ら在日の女性たちとも交流していたらしい。

旅から戻り、仕事部屋で保留中の書類ケースをひらいて何年か前に託された原稿のコピーをじっくり読む。日が昇ると同時ににぎやかに鳴きはじめる、蝉や鳥たちの声に耳をすませながら。まずはここから。

「図書館詩集」10(鳥が飛ぶときには必ず)

管啓次郎

鳥が飛ぶときには必ず
その羽毛に含まれる空気も一緒に
空を飛んでいる
誰かにそう聞かされてなるほどと思った
それと少し話はちがうが
鳥が飛ぶとき
鳥の体によって押しのけられた
いわば鳥の体によって切り抜かれた空間も
鳥と一緒に飛んでいるわけだ
正確に鳥とおなじかたちをした
不在が
空を飛んでゆく
これはまるで啓示
地上をゆくわれわれにしても
われわれの充満した身体のおかげで押しのけられた
空間の不在が
われわれとともに歩いているわけか
陰画のように
そういう存在観によって生きていくのはどうだろう
そこにあるものではなく
そこになくなったものがよく見える
存在が生んだ不在をよく感得しつつ
生きている
これからぼくがきみではなく
きみの不在にむかって挨拶するとしても
許してくれ
こんにちは、きみではない空白
さようなら、また会いましょう、きみの不在
ともあれこの町には世界の鳥たちが集まって
飛べなくなった空を見上げながら
異様な声で鳴いているのだ
フラミンゴも大鷹もペンギンも駝鳥もいたが
異彩を放つのはヒクイドリ
ニューギニアからやってきて
この雨雲の下で
じっと火の不在に耐えている
低い声でごふごふと鳴きながら
仲間も人間もいないのに
ほそぼそと降る雨に音声で対抗している
すぐそばでおとなしい小さなマーラ(齧歯類)が二頭
こっちを見上げている
白鳥だけが自由に
池から池へと飛び移っている
(あれは神に近い鳥だ
人間に止められるものではない)
このあたりには五穀神社があって
19世紀前半その祭礼では
「からくり儀右衛門」が人気を博していたという
「水からくり」とはどのようなものだったのかな
彼はやがて京都で「万年自鳴鐘」という時計をつくったり(1851年)
東京銀座で電信機関係の製作所を創立したりした(1875年)
それが「東芝」のはじまりなんだって*
水からくりの実際は知らないが
みずから何処にでもくり出す自動人形としてのわれわれは
きょうも地上の水と天の水のあいだで
火喰鳥におびえている
いきなり蹴られはしないかと
一方、魂は白鳥にあこがれて
さらに遠くまで歩いてゆく
やがて燃えるろうそくのような
ルピナスの花々に目を灼かれて
しずかな図書館に逃げこんだ
だって
活字に会いたいんだ
なぜなら
活字はしずかだから
夢のように怖い思いをせずにすむ
ヒクイドリのように鳴くこともない
目が覚めてコーヒーを飲みたいと思うように
活字に会いたいこともあるだろう
それは心が救われるから
沈黙を浴びるためです
水が降りしきる
水が上昇する
天地の水からくりの壮大
そこをわれわれ自動人形も歩いてゆく
立ち止まり、考える
立ち止まり、考えることは文字の効果
書物の効果だ
忘れてはいけない
ぼくは閲覧席の机にむかってすわり
考えるという夢想をはじめる
ぼくの切り抜かれた不在は
どんどん外に出てゆき
庭園を徘徊する
ぼくとぼくの不在をむすぶのは
見えないからくり糸
はりめぐらした糸にときどき鳥がひっかかり
それが白鳥ならいきおいでひっぱられてしまう
空へ、空へ、空へ
シベリアへ、シベリアへ、シベリアへ
あるいはどこでもこの世の外へ
いいよ、行こうじゃないか
しかし今日の課題はこの世には外がないということ
きみの考えは知らないがぼくは
世界とは地水火風の流動と考えてきたのだ
でもそれだけでは(個別の元素だけでは)
生命ははじまらない
どこかでむすびめが生じるはず
そこに命が始動しそれからその後は
ずっと途切れめなくつづいてきた
地上の動植物がたとえ大絶滅をむかえても
単細胞生物のあるものたちは生き延びて
またいつしか複雑化の歩みをはじめたし
はじめるだろう
栄誉あれ
そうはいってもこの地球の
大部分は無機物の塊
地表のごくごく薄い皮膜を
あらゆる生命体がバイオスフィア(生命圏)として
共同で運営している
共に生きている
いったい、おそろしいほどのはかなさだ
われわれの根拠はうすいうすい生命の膜
ここに住みこむことにおいて
あらゆる獣も鳥も
虫もバクテリアも
すべての植物と菌類も
はじめから全方位的・全面的に関わりあっている
われわれは命としてひとつだ
昨晩読んだ本に
こんな印象的な言葉があった
「私の祖父母は父母いずれの側も
1860年代の日本で生まれた。
世界人口が10億人に達したのは
そのわずか2、30年前のことで
そのころはまだ旅行鳩が空を暗くし
タスマニアン・タイガーがオーストラリアの
風景の中で獲物をうかがっていた」
(David Suzuki. The Legacy. Greystone, 2010.)
それからというものヒトの個体数の急増と
他の生物種の相次ぐ絶滅は
手がつけられない速度ですすんでいる
すべては人間が悪いのか?
いうまでもないでしょう
「人口が倍増するたび
生きている人間の数はそれまでに生きたすべての人間の
総和よりも多く、のみならずいま私たちは
過去の人間たちよりも二倍以上の長さを生きている。
人間は地球上でもっとも数が多い哺乳動物であり
その数と寿命だけでもヒトが残す生態学的足跡の
大きさは明らかだ。ヒトの基本的要求のためだけでも
おびただしい空気、土地、水が必要になる」
人口が少ない安定段階に達し
ひっそりとしずかに息をひそめるようにして
生きていければそれでいいだろうが
その段階に戻すための方策は?
食うものがやがて食われる夜を
1万世代くらいくりかえしてみるか
暗澹
だが19世紀なかば
北アメリカ大陸にどれだけの数の旅行鳩がいて
どれだけの数のアメリカ・バイソンがいたかということだ
そして日本列島には
狼がいただろうということだ
「からくり儀右衛門」が生きた世界は
まだそういう世界だった
なぜそのように生きられなくなったのか
これらすべての動物が絶滅させられたのだ
(話はまったくちがうが1944年ごろ
ぼくの父はここ久留米に住んでいた
陸軍予備士官学校の教官で
いわゆる学徒動員で士官としての訓練をうけること
になった元帝大生たちに
軍事の基礎を教えるのが仕事だった
教官と学生といっても
年齢は1、2歳しかちがわない
楽しい仕事ではなかっただろうが
のちに新聞記者=文筆家になったある人などは
新しい本が出るたびに父にも贈ってくれた
「恵存」という言葉をぼくはそれで覚えた
久留米にとって軍は大きな産業だったはずだが
町には特に痕跡もない)
いまやここには世界の鳥たちが集い
鳥たちとその不在とが
ヒトの世が終わったあとの
この世のやり方を話し合っている
またあるときアイダホ州の乾燥した高原で
アメリカン・ケストレルという小型の隼を
鷹匠が飛ばすのを見せてもらった
鷹匠といっても若い健康そうな女の子で
ケストレルのペニーはよくなついていた
ペニーが飛び、枝に止まり
合図をうけるとまた彼女の腕に戻ってくる
そしてごほうびに肉片をもらう
ごく小さな体だが毎日ねずみ1匹分の肉を食べるそうだ
鷹を使った狩猟は
アラビア半島の砂漠にもモンゴルの草原にもある
だが捕食者が狩られるものを滅ぼすことはない
ただ人間だけが銃器や毒や悪辣な策略によって
殺しつくす
それでどこにいっても
不在の群れが地表をうめつくしている
人間は不在の巡礼として
かれらにお詫びをいって歩くしかない

  *久留米市の観光案内板による。

久留米市立中央図書館、二〇二三年四月一四日、雨

携帯電話は携帯しましょう

篠原恒木

おれはその日、携帯電話を家に置き忘れて出社してしまった。
携帯電話はふたつ所有している。
ひとつは社用の電話で、会社から支給されている白いボディのものだ。もうひとつは私用、つまりはプライヴェートで使っている電話だ。こちらは本体が赤い。家に忘れてきたものは、赤いボディの私用電話だった。

忘れてきたのを気付かされたのは、妻からのメールだ。社用の携帯電話にそのメールは届いた。
「赤い携帯を忘れていますよ~」
と、短いメールが入っていたのだ。おれはこの短い文面に妻の残忍性を感じた。
「赤い携帯を忘れていますよ」
でいいではないか。「よ」のあとの「~」という一文字に、嘲笑、揶揄、冷笑、嘲弄、侮蔑の匂いをおれは鋭く嗅ぎ取った。おまけに「~」のあとには「歯をむき出しにして笑っている黄色い顔文字」が一個添えてあるではないか。これには陰険、剣呑、愚弄、失笑といったニュアンスが込められている。これにはさすがのおれも嫌な気分になった。

嫌な気分はそれだけではない。自宅に置き忘れたのが私用の携帯電話だったことに、おれは懸念を覚えた。私用の電話でかかってくるのは、プライヴェートな関係のヒトビトだ。電話が鳴ったら、かけたヒトの名前がディスプレイに浮かび上がるではないか。それを妻に見られたら些かマズイことになる。おれはしばらく考えた挙句、妻に電話をかけた。
「メールを見ました。連絡をありがとう。どこに置いてあった?」
「居間のソファの上」
「ありゃあ、そうか。しまったなあ」
ここでおれは再び考えた。普段はあまり物事を考えないおれだが、こういうときは考えるのである。
「電話が鳴るとうるさいだろうから、おれの部屋に置いてドアを閉めておいてよ」
と言おうとしたが、これはよくない提案だとおれは考え直して、その言葉を飲み込んだ。このようにお願いすれば、
「ツマに知られると都合の悪いヒトから電話がかかってくるのを隠したがっているオット」という構図が完成してしまうのではないだろうか。さらには、
「おれの私用電話が鳴ったとき、わざわざそのディスプレイを確認するであろうという、油断のならないツマ」
と、彼女のことを決めつけていると解釈されかねない。以上を0.7秒かけて考えたおれは平静を装って口を開いた。
「失礼しました。しょうがないね」
妻はオウム返しに応えた。
「しょうがないね。気を付けないとね」

電話を切ったおれは考えた。普段はまったくヒトの言葉尻など考えないおれだが、こういうときだけは深く深く考えるのであった。
最後の妻の言葉「気を付けないとね」とは、どういう意味なのだろう。
「忘れ物をしないように気を付けないとね」
という、至極単純な意見、説諭、感想なのだろうか。いや、あるいは、
「こういうフトしたことで、アタシに知られたくないことを知られてしまうことだってあるんだから、気を付けないとね。ぐふふふ」
という脅迫、牽制、警告なのかもしれない。そこまで考えて、おれは激しく動揺した。
「今日はできるだけ早く帰ろう。あらゆる危険を回避するにはそれしかない」
そう思ったが、間の悪いことに、その日は夜に予定が入っていた。もうこれは腹をくくるしかない、と思ったが、自宅のソファの上で携帯電話が鳴り、そのディスプレイに、
「ミーコちゃん」(仮名)
「リサちゃん」(あくまで仮名)
「モエちゃん」(しつこいけど仮名)
などという文字が大きく浮かび上がる光景、そしてそのディスプレイを凝視するツマの形相がちらつき、昼が過ぎ、夜になっても不安におののいていた。

その日の夜は会食が長引き、午後十一時三十分にようやくお開きとなった。一人になったおれは、ツマに「今から帰ります」という旨の電話をビクビクしながらかけた。電話に出た彼女はあり得ないほどの不機嫌な声でまくし立ててきた。
「もう寝るから、そっと鍵を開けて入って来てください。明日の朝は自分で目覚まし時計をかけて勝手に起きてください」
おれが「わかりました」と言う前に、一方的に電話は切れた。ここに至って、おれは最悪の事態を覚悟した。ミーコちゃん、リサちゃん、もしくはモエちゃん(すべて仮名)のうち誰かから電話がかかってきて、我が妻はその名前が浮かび上がった携帯電話のディスプレイを見たに違いない。まったくもう、ミーコ、リサ、およびモエはなぜLINEではなく、電話をしてきたのだ。LINEでいいではないか。だが、おれはLINEへの反応がきわめて遅い。気付くとLINEのアイコン上に「12」などという件数が表示されていることもしばしばだ。
「なぜいつまでも既読にならないの?」
「シノハラさんにはLINEを送るより、伝書鳩を飛ばしたほうが早い」
「いや、いっそ狼煙のほうが気づくかもね」
といった皮肉、不満、苦情を受けることも多いのだ。だからミーコ、リサ、モエ、ユカ(一人増えているけれど、すべて仮名)は電話という手段を取ったのだろう。そのときツマは咄嗟に名前を見てしまったのだ。あの徹底的に不機嫌な声はそのせいだ。迂闊であった。ディスプレイに浮かぶ「ミーコちゃん」などという文字ヅラはじつに間抜けではないか。
電話番号を登録するときに偽名を打ち込めばよかったのだ。「ミーコちゃん」は「マイナカード窓口」、「リサちゃん」は「ゆうパック集荷申し込み先」、「モエちゃん」は「運転免許証更新センター」、「ユカちゃん」は「内閣総理大臣秘書官」とでも打ち換えておけば何の問題もなかったはずである。だが悲しいことに、おれにはそれほどの「マメさ」がない。隠し事はするが、嘘はつけないという、たいそうリッパなオトコなのだ。

家への帰り道は憂鬱だった。おれは妻に気付かれないようにそっと玄関の鍵を開け、明かりもつけずに自室に直行した。赤い私用の携帯電話はおれの部屋にはなかった。ということは、いまだに居間のソファの上に放置されているか、あるいはすでに当局によって押収されているのかもしれない。おれは居間に足を踏み入れようとしたが、ドアを開けるときの音で妻が彼女の寝室から出て来る恐れがあるので自重した。午前零時過ぎから軍事大国による集中爆撃は浴びたくない。それに、ソファに置いてあるかもしれない携帯電話のディスプレイをいま見て、そこに浮かび上がった不在着信履歴の名前をチェックしたところでいったい何になるというのだ。恐怖と不安の一夜を過ごすことになるだけではないか。おれは自室から動かずに、精神安定剤と睡眠導入剤を服用して、
「もうどうだっていいやぁ。すべては明日だ」
と開き直って布団をかぶった。妻の寝室は静かだった。寝ているのか起きているのかも分からなかった。

翌朝、自分でセットした目覚まし時計の音で目が覚めたおれは、おそるおそる居間へ入った。妻はいなかった。我が愛犬、サブ(これは本名)もいない。早朝の散歩に出かけたと判断したおれは、ソファに置きっぱなしにされている赤い携帯電話を発見した。心臓が早鐘を打っている。マッハのスピードでディスプレイを確認すると、電話の不在着信はゼロ、LINEの着信もゼロ。メール着信もゼロで、画面はきれいなものだった。おれは心の底から安堵したが、それと同時に、おれは自分が思っているほど世のヒトビトから必要とされていないという事実を思い知らされた。自意識過剰というやつである。
では、昨夜の電話における妻の異常な不機嫌な発言は何だったのか。それには大きな疑問が残る。昨日、おれが不在のあいだに何かが起こったに違いない。それは何だ。別件で新たな物的証拠が発見されたのだろうか。いや、そんなはずはない。おれは疑心暗鬼になった。人生は、ひとつ悩みが消えると、すぐ別の悩みが頭をもたげてくる。

やがて妻がサブを連れて帰宅したが、相変わらず彼女は不愛想で取り付く島がない。静かだが、あからさまな嫌悪感をおれに抱いている。結婚生活三十八年間の経験則から、おれはこういうときに絶対に口にしてはいけない言葉を学習している。それは、
「何を怒っているの?」
というひと言である。この言葉を発して事態が良化したことはただの一度もない。したがっておれは無言のまま身支度をした。このとき大切なのは、おれまで不機嫌そうな態度を取ってはいけないということだ。あくまでさりげなく、「おれはフツーだよ。普段と変わらないよ」という素振りを貫かなければならない。もちろん二台の携帯電話はバッグの中に入れて、家を出た。
妻の機嫌は日を追うごとに良化し、五日後には平常の冷たさに戻った。冷たいことに変わりはないが、それはいつものことだ。一応は安堵の日々が続いているが、おれはあの夜の異常な不機嫌さについて、妻にその理由を訊いていない。時限爆弾の導火線の火が途中で消えたのに、また火をつけることほど愚かなことはないからだ。

そして俺の赤い私用携帯電話は、あの日からずっと電話もLINEもメールも受信していない。ミーコ、リサ、モエ、ユカ、ヒトミ(また一人増えているけれど、すべて仮名)も冷たいではないか。おれはいま、私用携帯電話の解約を真剣に検討している。

映画を観に新宿へ行く。

植松眞人

 娘が高校生、息子が中学生くらいの頃、我が家は火の車だった。経営能力もないのにバブルの残り香が漂っていた時代に、勢いで個人経営の会社を作ってしまったので、リーマンショックに直撃され、人員的にも経済的にもどうしようもない状況だった。
 そのことは子どもたちも分かっていたと思う。会計を担当していた家人とは言い争いがふいに沸き起こり、子どもたちはそれにそれぞれの部屋で聞き耳を立てていたに違いない。私学に通っていた娘には奨学金をとってもらい精神的にも不安な気持ちにさせたことだろう。
 それを誤魔化すかのように、当時、週末になるとよく新宿の映画館に映画を見に行っていた。ディズニー映画、マーベル映画などの子どもたちが喜びそうな映画を選んでは、「映画にでも行こうか」と誘ってみる。おそらく、家人も経営のことを忘れたいという気持ちがあったのだろう。ギスギスしがちな状況だったのに、毎週のように映画に行っていた気がする。親子四人で楽しむ遊びの中で、映画代を出すくらいが限界だったということもある。
 娘は中学生の頃から、よく名画座などにつれて行っていたので、アートシアター系の映画にも慣れ親しんでいた。ただ、息子の方はもう少しエンタテイメント嗜好の映画が好きだったこともあり、あまり二人では行くことはなかった。
 その日、家族で観た映画は、少しエンタテイメントに寄っている感じの映画で、娘は少ししらけた顔をしていた。家人と私は子ども向けならこんな感じだろうな、と納得していたのだが、この時、私は失敗してしまった。
 映画の後、食事をしている時に、こう言ってしまったのだ。
「お前は、ああいう映画が好きなんだよね」 そう言われた瞬間、息子は大粒の涙を流したのだ。一瞬、私は自分がなにを失敗したのかがわからなかった。そして、涙を拭いながら泣いていないふりをしている息子を観ながら、息子は息子でエンタテイメント映画が好きなのだろうと決めつけられていることが嫌でたまらなかったのだろう。ある意味、子ども扱いされているのと同様だし、なんなら姉ちゃんのようにちょっとは難しそうな映画を楽しみたいと思っていたのかもしれない。
「ごめん。そういうつもりじゃないんだ」
 と、私は取り繕ったのだが、そういうつもりで言った言葉は取り消せない。その時、息子に対して持った、すまなかったという気持ちは十年ほどたった今も忘れることができない。(了)

君たちはどう生きるか

若松恵子

宮﨑駿監督の新作長編アニメーション映画が7月14日にロードショウ公開された。
『風立ちぬ』完成後の引退宣言を撤回して、10年振りの新作が届けられた。今回は、『君たちはどう生きるか』というタイトルと鳥(?)のイラストが発表されるのみで、事前の宣伝は一切ない。「宮﨑駿の新作です」というだけで、どれくらいの人が劇場に足を運ぶのか?という実験なのだとしたら、「行きますに1票!」という感じで見に行った。

この世では見ることができない景色を見せてくれるファンタジーであった。
物語冒頭の戦時中の日本も、主人公が入っていく異界も、アニメーションだから成立できる世界で圧巻だった。見終わった後も「あれはこういう意味だったのかもしれない」と反芻して考える箇所がたくさんあって、つまるところは「命」だって「時間」だって「地球」だってそんな単純なものじゃないでしょう、という事を丸ごと感じさせるような映画だった。

風が出て、舟をのみ込むほどの波が立つ湾を勇敢に漕いでいくこと、雲が切れて月の光がさして闇から蒼い風景が見えてくること、満月の夜に生まれて、空に浮かび上がっていく命の種を鳥たちから守るために花火の銃を撃って威嚇する勇敢な娘のシルエット。目覚めた後もかすかに覚えている夢の断片のようなシーンが心に残る。「どういうお話だったの?」と聞かれても、あらすじを言って済まないファンタジーだから、見て、感じるしかない。

『君たちはどう生きるか』は、吉野源三郎の著作からとったタイトルであることは明確だ。主人公の少年が疎開先の家で見つけ、読み、大切な1冊として持ち帰る本として登場する。『君たちはどう生きるか』は、コぺル君が、「世の中の見方」についてコペルニクス的な転換を得て、そして、どう生きるかと考える物語だ。

宮崎の新作は、その物語を映画化したものではないけれど、宮﨑駿版の『きみたちはどう生きるか』だと言えるだろう。地球沸騰化、終わらない戦争、闇バイトによる強盗事件など、問題山積みのこの社会のなかで「きみたちはどう生きるの?」と問うにあたって、社会の見方を転換するためのひとつのものとして提示したファンタジーのように思う。
(転換するというのは大げさかもしれない。視点の幅を広げるというか、もう解決不能だとあきらめないために、くらいの感じだろうか)

目に見えているもの、時計が刻む時間だけが全てではないということ、見守ってくれる人がいるという尊さ、人と協力して乗り越えることの良さなどを物語によって体験させてくれようとしているのだ。映画の中で主人公と冒険をして、また現実に帰ってきた時に、閉塞感ばかりではないと思ってくれたら…。そのために力を尽くして映画を作ったのではないかと思う。大人として、この世の中を嘆いているばかりはいられないのだ。吉野源三郎の『きみたちはどう生きるか』を知っていて、しっかりしたファンタジーを作る力を持っている宮﨑駿だからできた仕事なのだと思う。

話の話 第5話:これはギネスではない

戸田昌子

確かにそのとき空には白い紙吹雪がもうぜんと舞い散っていたのだった。それはわたしにとっては2度目のパリで、2001年の10月半ばごろのことで、そしてそれは新婚旅行だった。つまりは同時多発テロの直後だったということだ。新婚旅行を終えてエールフランスでニューヨークに戻ったときには、アフガニスタン戦争が始まっていたのだから。騒然とした雰囲気は空港でもそうで、パリのシャルル・ド・ゴール空港には銃を肩にかけた兵士が何人もうろうろしていた。でも、パリの街に舞い散っている紙吹雪は、いったいぜんたいに意味不明だった。「何事か?」と首をひねるわたしと夫に対して、タクシーに同乗していた妹は「ああ」と言って、「あれは、道路掃除夫の人たちのデモよ。あの人たち、俺らがいないと困るだろ、っていうデモンストレーションで散らかしてんのよ」とこともなげに説明したのあった。白い紙吹雪に覆われた街は一見するとまるで革命の祝祭のようであって、おかげでタクシーはいやになるほど迂回を繰り返し、ホテルにたどりつくまでに通常の倍の時間を要した。翌日の早朝、わたしが窓から外をのぞくと、紙吹雪は掃除されてほぼ完全になくなっていた。マッチポンプとはこのことだ。しかし彼らはそうやって労働者としての権利を勝ち取ってきたわけだから、マッチポンプにはもちろん意味があるのであって、それはまさに「これがまさにフランスなのだ」という洗礼であった。それゆえ人々は、デモの衝突や、ストライキで郵便や交通が止まるたび、「これがフランスだから」と嘆息する。C’est la France.

7月に入ってからここしばらく、旅をしている。2週間弱、アイルランドのダブリンを拠点に、ダンダーク、そして北アイルランドのベルファストのあたりを行ったり来たりしていた。英国の植民地であったアイルランドは20世紀前半に南の共和国が独立し、北は英国領北アイルランドとなってふたつに分かれたが、実際には大きな一つの島である。この島は、天気が変わりやすいし、よく雨が降る。さぁっと雨が降ると気温が下がる。冬は乾燥し、夏は湿度が高く、晴れたと思ったらすぐにまた降る。ある時、ダンダークの港の脇にあったピンク色の壁のパブでビールを飲んでいたら、その日、何度目かの雨がまたさぁっと降った。そのときひとりの女性が「これがアイルランドよ」と言って肩をすくめた。この人たちはどれくらいの頻度で「これがアイルランドだから」というセリフを口にするんだろう?などと考えながら、わたしは2杯目のギネスを口に運んでいた。This is Ireland.

ギネスは海を渡ると味が変わる、と言われる。言うまでもなくギネスはアイルランドを代表するビールである。それが海を渡ると味が変わる、などとは大事ではないか。それは試してみないわけにはいかない、とわたし考えた。そういうわけで以前、アイルランドでギネスをしこたま飲んだあと、ロンドンへ行って、ギネスの味が本当に変わるのかどうかを試してみようと考え、ロンドンのホテルのバーで「ギネス」と言ったら、まず顔をしかめられた(気のせいかもしれない)。そしてその後、出てきたギネスはキンキンに冷えていた。ギネスは人によっては室温に近いほうがいいと言う人もあるくらいなので、キンキンに冷やしてしまうとあまり美味しく感じない。しかしこのあたりは人によって意見が異なるし、「室温」も夏か冬かによって異なるので、完全に信頼できる話でもない。しかしなによりこのときのギネスの問題は、泡が十分にクリーミーではなかったことだった。ギネスの注ぎ方は有名なので、バーテンダーが注ぎ方を間違えたわけではないのだろうが、それでもそれはよい泡ではなかったのである。ギネスは一度、4分の3程度をグラスに注いでから、ゆっくりと1分以上待って、そのあと泡をつくる。このギネスの泡は重たくて濃いので、飲むたびにグラスの内側に泡が溜まって線ができると言われているのだが、その線が、ない。そもそもこの泡が十分にクリーミーで甘さを感じさせるものでないと、ギネスはなんだか苦いビールになってしまう。一説によるとギネスは、一口目を味わってはいけないらしい。最初はごくりと飲む。それから2口目を味わえと言われている。それがギネスなのである。しかしこれも人によって意見が異なるので真面目に聞いてはいけない。そもそも酒飲みの酒についての蘊蓄など聞いてもろくなことがあるはずはない。ともあれ、ロンドンのギネスは、一回きりしか飲んでいないが、あまり美味しくなかった。海を渡るとギネスは味が変わる、という俗説を確認することができたので、わたしは日本でギネスを飲むときは「これはギネスではない」と呟きながら飲む。これはギネスではない。This is not Guiness.

そういえば最近日本向けのギネスは味が変わったらしい。そのことについて日本のギネスファンが紛糾しているのをSNSで見かけたが、そもそもギネスは地域によって味を変えたりしていると聞く。たとえばナイジェリアンギネスというのがある。これはアイルランドのパブでは提供されていないようだが、ナイジェリア移民の多いアイルランドのパブでは、缶入りを飲むことができる。ナイジェリアのパブではもちろん飲めるだろう(これは正確には、「Guiness Foreing Extra Stout」という名称で、「ナイジェリア」を謳っていない)。通常のギネスが大麦を使用しているのに対して、これはとうもろこしやソルガムを使用する。ソルガムは日本ではモロコシ、中国ではコーリャンと言われ、亜熱帯などの高い気温のもとで生育する。そもそも大麦はアイルランドを代表する穀物で、小麦が豊かさの象徴であるのに比べて大麦は貧しさの象徴だと言われたりする。この大麦を、亜熱帯の穀物へと置き換えたナイジェリアンギネスは、地元の食材を用いて地域の人の味覚に合わせたビールだと考えていいはずだ。そしてアルコール度数が通常のギネスよりも高くて7.5パーセントもある。そもそも通常のアイルランドのギネスは4.3パーセントと低め設定である。これは音楽を聴きながらひたすら何時間もノンストップで飲み続けるための度数設定だ、というのが俗説である。逆に言えば、暑い地域ではアルコールはさっさと蒸発してしまうのだろうか? これは一度飲んでみないわけにはいかないだろうな、などと考えながら、わたしは3杯目のギネスを口に運ぶ。次の予定があるので、これはハーフパイントにした。しかしこれはナイジェリアンギネスではない。This is not Nigerian Guiness.

そもそもアイルランドには、仕事のために行ったのである。ギネスを飲むためではない。岡村昭彦という写真家の展覧会が2024年4月からダブリンのアイルランド写真美術館で行われる予定で、その展示協力のために訪問したのである。額のサイズをどれにするかという相談の中で、センチとインチの換算に悩んだスタッフが「そもそもインチはイギリス人のものだから慣れていないんだよ」と言い訳をするので、アイルランドではインチは使わないのかと尋ねたら、あんな帝国主義者の度量衡法は使わないのだ、などとと言っては威張っている。「そうは言うけどアイリッシュはパイントはやめないわけでしょう。ミリリットルでビールを飲む気はないのでしょう」と言うと、「それはまあ、当然だよね」などと言う。パイントはヤード・ポンド法における体積の単位で、主にビールグラスや牛乳の瓶のサイズとして使われ、アイルランドでは1970年代にメートル法に切り替えた後もイギリス同様、パイント制を残している。「紅茶を一杯」が「a cup of tea」であるのと同様、ギネスもまた「a pint of Guiness」であって、けっして「a glass of beer」ではないのだ。そういえばジョージ・オーウェルが『1984』で描いたディストピア世界ではパイント制が消失させられたため、好みの量のビールが飲めないというエピソードがあった。パイントのない世界はディストピアなのである。No pint, no point.

アイルランドではすぐに「A cup of tea?(紅茶を一杯どう?)」と尋ねられた(これは英国でも同様であろう)。重ねて「Coffee?」と尋ねられもしたが、まずは「A cup of tea?」である。あるとき、本屋でスタッフに「A cup of tea?」としつこく尋ねてまわっているオーナーらしき年配の女性を見かけた。しかし聞かれたスタッフ全員が「わたしもう飲んでるからいい」「あとでいい」などと断っている。しかし彼女は諦めずに聞いてまわっているのが不思議で、あとで友達に「なぜあそこまでしつこくお茶に誘うのか」と尋ねると、「自分がお茶を飲みたいのに他人を誘わないのはものすごく失礼にあたるから」と説明してくれた。なるほどと思い、次からわたしも何かといえば「A cup of tea?」と人に尋ねるようになった。ある日ふと友達に「A cup of tea?」と尋ねたら、「いまは飲みたくないけど、昌子が飲みたいなら僕がお茶をいれようか?」と言われたので、「いや、わたしはほしくない。ただ聞いただけ、感じ良くしようと思ってね(I just tried to be nice)」と言ったら、ちょっとウケた。コミュニケーション大事。A cup of tea.

アイルランドでは、もちろんコーヒーもよく飲まれているようである。しかし不思議なコーヒー専用ポットがよく使われている。「フレンチプレス」というものだが、挽いたコーヒー豆をポットに入れて熱湯をジャバジャバと注ぎ、しばらく待ってから蓋と一体型になった棒のついた網の漉し器をゆっくり下にすーっと降ろす、というものである。一度、わたしがこれでコーヒーを淹れようと試みたとき、正しいやり方がわからないので、ちょうどそこへやってきたフランス人にやり方を尋ねてみた。すると彼女も「わたしもわからない。これはフランスでは一般的ではない」と言う。「フレンチプレスなのに!?」とわたしが言うと、「これはフランス人は使わない道具なの。たとえばほら、フレンチフライとかフレンチキスとかね、フレンチじゃないのにフレンチって言われるものってけっこうあるのよ」などと言う。そして「フレンチキスなんてフランス人のオリジナルなわけないじゃんね」などと表情も変えずに平然と言ってのけている。ソリャソウデスネ。This is not French.

これがアイルランドさ、とか、これがフランスなのさ、などという言葉が口をついて出るのは、理由はともあれ、とりあえずは受け入れるしかないような状況のときのようである。アイルランドなら天気、フランスならさしずめストライキといったところだろうか。さきごろわたしはアイルランドでの仕事をいったん終えて、10日間のバカンスのためにフランスはトゥールの田舎までやってきたところだ。到着前、フランスは記録的な猛暑だから気をつけてね、とアイルランドの人々には口々に言われたものだったが、到着してみるとひどく肌寒い。トゥールに住む妹は、近所のお金持ちがバカンスに出かけている間、自宅のプールを適当に使っていいよと言われて家の鍵を預かっている。だからまあちゃん、水着をもっていらっしゃい、と妹が言うので、わたしはプールを楽しみにしていたのである。妹の家族全員がプールにつかってブルジョワぶっている写真まで送られてきた。そのため雨のダブリンで安い水着を買って持ってきたというのに、雨ばかりでプールに入れる日がない。天気予報を見ても、わたしが帰る日までずっと肌寒い。どうしたフランス、と言っていたら、昌子はアイルランドから雨を持ち帰ってきたんだね、とまで言われる始末。いや、違う。これはフランスではない。Ce n’est pas la France.

お国柄について話していたとき、アイルランド人ってどう思う?と聞かれたので、「とっても親切だけど、場合によっては親切すぎる(Irish are too kind)」と答えたことがある。そう言われたアイルランド人はきょとんとしている。先般、南の共和国から車で北アイルランドへ向かっていたときのこと。アイルランドはEUの一員だが、北アイルランドは英国領である。しかし南北アイルランドはもともと国境がないような行き来が行われていたことを知っていたので、ブレグジットで国境線がどうなったのかに興味があった。しかし車で国境あたりにさしかかったとき、道路には目印すら見当たらなかった。ここが国境あたりかな、と車を路肩に停める。写真を撮って、さて行くかと車をリスタートさせようとしたところで、とつぜん車が動かなくなった。これは知り合いから借りた日産のオートマ車だったのだが、シフトレバーがパーキングに入ったままスタートできなくなったのである。アイルランドではまだオートマ車はそれほどポピュラーではないようで、運転してくれていた、元IRAの兵士だったという男性も直し方がわからない。このときわたしたちは2台の車に分乗して出かけていたのだが、同行の車はとっくに先へ行ってしまって、同乗者が電話をかけるが気づかない。困り果てていると、通り過ぎる車がいちいち止まっては「どうした?手伝おうか?」などと声をかけてくる。もう一台の車が戻ってくるのを待つから大丈夫、といちいち返事をしているが、同行の車は戻ってこない。一方で、通り過ぎる車がいちいち止まっていくので、返事をするのに忙しい。日本車だし夫に聞いてみよう、とわたしが夫にLINEを送って相談すると、ブレーキを踏んだままエンジンをかけ直せば良いのでは、との返事。その通りにすると、車がやっと動いた。国境線で立ち往生して親切にされるというたいへん稀有な体験をした。Irish are too kind.

そういえばアイルランドでは、「お財布を盗まれても持ち主のもとに返ってくる」という話がある。アイルランドはもともと貧乏な国で、すりや泥棒が多かった。しかし財布をすられるとお金がなくなるだけではなく、財布自体も買い直さないとならない。二重の損失である。だからスリの方も、財布をすっても中身は抜いて、財布だけをぽいと道端の郵便ポストにつっこむ習慣があるのだという。道で財布を拾った人も、郵便ポストに財布を入れていく。だからみな財布に住所のわかるものを入れている。そうすると、郵便局員が郵便物を回収するついでに財布も回収し、そののちに当該住所まで配達してくれるのだという。警察を介する必要のない、便利なシステムである。すりも財布までは取らない、という、共存と思いやりのシステム……である。Irish are…… kind.

親切といえば、わたしがパリの地下鉄で、カルネと呼ばれる回数券のきっぷを買って乗ろうとしたときのこと。どうやら一度使ったカルネを入れてしまったらしく、改札口が開かない。困ったな……と思っていたら、若いお姉さんが「ぶぶれぱせあべくもわ?(Vous voulez passer avec moi?)」と言ってきた。「わたしと一緒に(改札を)通る?」という申し出である。なんと親切な……!パリなのに……!と感動していたが、いやいやコントロールに見つかる方が面倒だと思い、「大丈夫ですありがとう!」と大急ぎで言って断ってしまった。「一緒に通らせてよ」と誰かにあつかましく言われることはあっても、「どうぞ一緒にお通りください」というのはあまりない。パリは大都市だし、人々はとげとげしく、そんなに親切ではないと思っていたのだが、そんなこともあるのだ。パリジャンもたまには親切。Les parisien sont parfois gentils.

ところでいまフランスでは、日本の柴犬を飼うのが大流行りであるという。なかでも豆柴と言われる小さなタイプの柴犬をしばしば見かける。ある日、妹がパリの日本領事館の近くで豆柴を見かけた。飼い主がその犬に「サム!サム!」と声をかけているので、「そうか、サムか……」と思っていたら、飼い主が「サム!サム!サムライ!」と続けた。サムはサムでもサムライであった。なるほど。いや、違う。これはサムライではない。Ce n’est pas le samurai.

製本かい摘みましては(183)

四釜裕子

大きなものから同寸でたくさん切り出すのは難しい。いつまでたっても慣れないなと思っているうちに老眼になってしまった。ここから先はできない理由をもっぱら老眼のせいにするだろう。でもそれではこの目に不義理だなと思って、苦手の理由がそれではないことをここで一度はっきりしておこう。製本ワークショプの材料で表紙用のクロスや革を揃えるとき、費用をおさえるためにも大きなものをまとめて買うが、一人分ずつ切り分けて用意するのが難儀で、今年もその時期が来て憂鬱になっていた。もちろん測って切るのだがときどき足りなくなってしまって、それでは最初に渡す材料にならないので困る。何もかも準備された材料と道具で全員が見事に仕上げるたぐいの授業ではないから、材料が足りないとか失敗すると勝手に工夫できておもしろいわよとささやくのは次の段階なのだ。

ところが今年、朗報到来。よく行く浅草橋の革屋の店頭に、手頃な大きさに切り揃えられた端切れが山になっているという。のぞいてみたらば、A6サイズでいろいろな色柄素材をたくさんほしい私にはうってつけだった。厚さもちょうどいいものが多いし、値段はどれも同じで11枚以上はさらに割引になる。この店は常時端切れが置いてあるけれど、いわば「純端切れ」で大きさも値段もバラバラなのだ。いつもサイズ確認のためのA6サイズに切ったボール紙を持参して、縦に横に当てながら、枚数と値段を足し算しつつ選びに選んで買っていたが今回は違う。箱の中からどんどん選んで足し算も簡単。なんということでしょう! 見るからに「ランドセルの端切れ」がかなりあって、ちょっと硬いかなと思ったけれどもそれも少し買ってみた。袖山みたいなあのかたち、ランドセルのどの部分の切り残しだろう。”そちら側”を、みんな元気に背負っているかな。

お店の人に「このサイズの端切れは定番化の予定ありですか?」と聞いたら、「出ている限りになると思います」。ちょっと考えて1週間後にまた行ったら、相当減っていた。皆さんあれでどんなものを作るのだろう。私たちはこれを、「交差式ルリユール」の表紙に使う。A6サイズ程度の2枚の革をヨ型とロ型(正しくはヨの字の形でもロの字の形でもないが私が勝手にそう呼んでいる)にそれぞれ切って、まずはヨ型の一部を支持体として本文紙をかがる。終わったら、そこにロ型を両手の指が交差するように重ねて整える。これはイタリアのCarmencho Arreguiさんが考案した「Crossed Structure Bindig」で、のりを用いない製本法だ。もちろん表紙が革である必要はなく、大きさもデザインもアレンジもいろいろできる。世界中で愛されている開放的な方法だが、日本では「交差式”ルリユール”」と呼ばれているのがちょっとおもしろい。

革は揃った。表紙クロスはキハラのネット通販「Book Buddy」で大きいのをまとめて買って切り出した。紙は長らく渋谷の東急ハンズでカット済みのものから選んできたが、数年前から品揃えがぐっと減り、2022年にはカインズに買収されてハンズとなり、売り場も人もロゴも変わってついに足が向かなくなった。株式会社東急ハンズは1976年設立、1号店は藤沢だったのか。77年二子玉川店、78年渋谷店開店。お世話になった。本当に楽しませてもらった。それで今年はどうしようかなと思っていたが、自宅近くに紙の商社の山利さん(1953年創業)があって、界隈のものづくりマーケット「モノマチ」期間中には「A4サイズ紙詰め放題」が定番で、今年は3年ぶりに復活したので出かけたのだった。一生懸命詰めてこんなものかなと満足していると、係の人が「まだ入りますよ~」とコツを伝授してくれたりして、おかげで今年はこれでなんとかなるだろう。

長い紙を蛇腹に折って作る「クラウンブック」や「ブリザードブック」(どちらもHedi Kyleさん考案)もいつか取り上げたいと思ってきたけれど、やはり直角をとった細長い紙を人数分用意する必要があるので実現していない。でももしかしたらちょうどいい感じの長い紙が商品としてあったりして……とふと思い、ネットで軽く検索したら「長尺用紙」なるものがヒットした。店内広告やPOPに多く用いられているようで、ファックス用感熱紙のようにロール状のものも売っている。そうか、こういうものも自社あるいは自宅でやる人が増えているのか。長尺用紙メーカーの1つである中川製作所のサイトには、DIYならぬ「P.I.Y.通信」というのがあり、そこに使い方などいろいろ出ていた。「TOPPANエッジの長尺印刷」なるサイトもあった。〈A Long As Possible〉、巻物などの美術複製品や、展示用のパノラマ印刷、年史などが紹介されている。仕上げは、巻物・蛇腹・1枚絵から選べるようだ。ここまできて、思い出したことがある。

私は「gui」という同人誌の同人なのだが、坂本龍一さんの作品に「Gui」という曲がある。佐古忠彦監督の『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』(2019)に書き下ろしたテーマ曲で、私たちのguiとはなんら関係はない。昨年、その楽譜が坂本さんの公式サイトで販売されるようになり、購入していた。ピアノは弾けないけど楽譜を見てもいいだろう。「Gui」の譜面はA4判見開きで完結しているが、長いものは蛇腹仕様になるようだ。サイトにはこう書いてある。〈プリント・オン・デマンド版は、環境に配慮してFSC認証紙を採用、注文ごとに蛇腹印刷で丁寧に仕上げ、長嶋りかこデザインのスコアケースに入れて手元に届けられる〉。この「蛇腹印刷」が気になっていた。あとで蛇腹に仕上げるならば、そうは言わないだろうと思ったからだ。もしやこれは、いわゆる長尺用紙+長尺印刷の一種? 未確認です。

6月の末、gui同人の國峰照子さんのお宅に「Gui」の楽譜を持って行き、2台のグランドピアノが並ぶ部屋で國峰さんのお嬢さんの響子さんに弾いていただいてみんなで聴いた。ジンとしてシンとしたのち、タイトルの意味についてひとしきり妄想談義が始まった。佐古監督の前作『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(2017)にも坂本さんは曲を書いていて、そのタイトルは監督の名前の「佐古(さこ)」由来で「Sacco」としたそうだから、「Gui」も意味というより響きによるものではないかと私は思い、わりと本気で、タイトルの「男」から「Guy」→「Gui」説を唱えたが超不評だった。せっかくみんないい気持ちで妄想しているのに、無粋だったと反省した。

7月

笠井瑞丈

今年も気付けば折り返しです
年始にいつも今年の目標を立てる
結局何も出来ずに7月になる
また下半期の目標の誓いを立てる

それを遂行できずに
きっと今年も終わるのだろう

そのように毎年が過ぎていく

時間は残酷のように
刻々と過ぎていく

結局何かを残すことができるだろうか
別に残さなくてもいいのかもしれない

自分が描いている自分というものに
いつまでも近づくことが出来ない

あと二年で50歳になる
こちらも折り返しだ

たまにそのような事を考える

自分ができることとは
自分がやらなきゃいけないこととは

何も考えず生きてきた訳じゃないけど
何も考えず生きてきたのかもしれない

十代は夢しかなく
二十代は希望に溢れ
三十代で現実の壁に
四十代は壁を越えて

進むしかない
振り返れば

悪いことばかりじゃないけど
良いことばかりでもなかった

先日とある舞踊コンクールの
審査員をやらせていただいた

出場者は当日知らされる

そこに同じ歳で15年ぶりの友人が出ていた
終わった後久しぶりの再会に握手を交わす

彼とはクラブで踊ったり
イベントで一緒に踊った

たわいもない昔話で盛り上がる

踊っていた彼も
舞台裏で再会した彼も

とてもかっこよく見えた
今もがむしゃらに挑戦している

久しぶりに今度飲もうと約束する

まだこれからだ
折り返しなんかない
ただの直線だと思う

仙台ネイティブのつぶやき(84)お盆に食べるもの

西大立目祥子

 お盆には、「ずんだ餅」と「おくずかけ」を食べる。「食べる」と書いたけれど、なかなか「つくる」と書けないのが現実だ。特にずんだ餅は。
 枝豆をやわらかめに茹で、さやから豆を取り出し、さらに一粒一粒の甘皮を取り除く。それをすり鉢でつぶし(もちろんフードプロセッサーにかけてもいいのだが)、少しつぶつぶ感が残るくらいのペーストにして、砂糖と塩で甘味を整え、餅にからめる。一世代前くらいまでは、家々の台所でつくるものだったろうけれど、これだけの手間ひまがかかるのだから、いまは買うもの。お盆の前には、スーパーも餅屋もお菓子屋も、こぞってずんだ餅を売り出す。やはり、豆の香りが立つあざやかな黄緑色の餅は、夏の行事には欠かせない、と多くの人が思っているのだろう。あそこの餅屋のはすりつぶし過ぎだとか、こっちのはいまいち風味が足りないとか、という話もよく耳にする。

 ずんだ餅一つにあれこれ好みを述べ立てたりするのは、やはり宮城が米どころで、餅文化が根強く生きているからなのかもしれない、とあらためて思う。特に仙台平野の北に広がる大崎平野以北は、ごちそう、お振る舞いといえば餅だったようだ。手元にある『宮城の食事』(農文協・1990年)をみると、この地方の餅料理として紹介されているのは「あめ餅」「くるみ餅」「おろし餅」「おづげ餅」「よもぎ餅」「納豆餅」「えび餅」「ごま餅」「しょうが餅」「小豆餅」「ずね餅」「ずんだ餅」と、ざっと12種類。ちなみに「おづげ餅」は、汁物に餅を浮かせたもの。「おつけ」がなまっている。「ずね」とは「えごま」のことだ。赤いお椀に盛られた餅がみんな茶色っぽい見た目の中で、ずんだ餅は軽やかな緑。やわらかな緑色のあんの下に白い餅が透かし見える。清々しく特別のものという雰囲気があって、お盆のとき帰ってくる亡くなった人のために手をかけて準備し仏壇に供えたというのもわかる気がする。一年に一度帰ってくるのだもの、大変でもおいしいものを用意して、ともに食べ、そしてあの世へ返してやろうという気持ちがわいてきたのだろう。

 私はというと、これまでずんだ餅をつくったのは2、3回。一度思い立って一人台所で作業したことがあったけれど、枝豆を茹で、さやから豆を出し…と、ここまではまぁやれたけど、そのあとの作業でヘトヘトになり、おいしかったどうかあまり覚えていない。
 でも、一度、最高にうまいずんだ餅づくりを経験している。東日本大震災のあと、仙台市の沿岸部、三本塚という地域で、収穫から食べるところまで、10数人が集まり協働作業でやり遂げた。畑に行って、根元から引っこ抜いた枝豆を軽トラックの荷台に山のように積んで集会所に運び、テントの下に積み上げ、まわりをぐるりと数人で囲んで枝からさやをはずし、洗ったあとは地元のお母さんたちがつぎつぎと茹で上げ、たしかフードプロセッサーを使っての流れ作業。床の上には、昔風を体験したい人はこっちもどうぞというように大きなすり鉢とすりこぎも用意してあって、ごりごり豆をつぶす人もいた。

 このときのずんだ餅は、夏の記憶の1コマとしていまもときおり思い起こすほどにおいしかった。収穫したばかりの枝豆のうまさはもちろんあるけれど、茹で上がってくる豆の香りが充満する集会所の中で、わぁわぁと協働作業でやった楽しさに縁取られているからだろうか。サヤから豆をはじき出すなどという地味につらい作業はやっぱりみんなでやるのがよい。かつてはお盆がめぐりくるたびに準備できたのも、7人、8人と大勢で暮らしていたからなんだろうな。

 さて、一方のおくずかけは、毎年自作する。出汁をとって、里芋、人参、インゲン、椎茸、豆麩を入れて煮て醤油で味をつけたら、宮城県南の白石名産「白石温麺(しろいしうーめん)」を半束くらい茹で入れ、片栗粉でとろみをつける。白石温麺は油を使わずに製造された長さが乾麺の半分くらいの細麺で、おくずかけには欠かせない。お椀によそうと、表面には豆麩が浮かび、中には細い麺が泳いでいて、見た目からしてほかの汁物にはない独特の味わいだ。

 東北には、お盆に仏壇に盆棚をつくり、素麺を供えたり食べたりする風習も残る。最近は盆棚をつくる家は農山村でも少なくなったとは思うけれど、棚にマコモの葉を敷き、その上に素麺を束のままのせたり茹でて供えたりしたという話は、地域を問わず聞かされる。細く長く幸せにとか、帰ってきた先祖の霊が帰るときに使う手綱だとかいろいろな説があるみたいだが、6月ごろに麦の収穫を終えているわけだから、豊作感謝の意味合いも込められているのかもしれない。麺は特別のごちそうでもあったのだろう。おくずかけは、お椀に麺を入れ込んでさらに格別度が増している。

 考えてみると、ずんだ餅に使う青豆だって、未成熟の豆を先取りして食べているのだから、まぁかなりの贅沢でもある。いまは農家はお盆から逆算して種まきをする。

 私が格別にうまかったずんだ餅を味わった三本塚では、あのおいしさをもう一度というわけでもないのだけれど、5月に大豆の種まきをした。この地区では大津波被害を乗り越え、多くの人たちが戻って暮らし、地域の行事やつきあいを取り戻している。町内会長さんが暮らしの記録をまとめたいと考えていて、住民の方から聞き取りをするお手伝いをすることになった。何かテーマがあった方がいいだろうと、いっしょに活動をする東北芸術工科大学の学生さんたちと7畝ほど大豆をまいた。

 カラスにやられ、でも5畝はすくすく育っていたのだが、連日の猛烈な暑さで大豆はぐんぐん育ち、いや育ちすぎ、これは予定を早めないと、と町内会長さんから連絡がきた。8月26日に予定していた豆の収穫を7日に繰り上げ。何と3週間も早めることになった。
7日は「こんな夏は初めてだよ」といいながら、汗だくになっての収穫、豆もぎ、豆茹で、そしてすりつぶし…になるのだろうか。再び格別のずんだ餅をみんなで味わいたい。

号外

北村周一

山下清という画家がいた。
小学校6年生の時にふとしたきっかけでその画家と出会うことになった。
サインまでもらった。
もらったというよりサインが欲しくて山下清の絵はがきを買った。
いま手許にあるのはそのうちの一枚。
ロンドンのタワーブリッジをペンで描いたもの。
その場でのスケッチというよりもホテルに帰って思い出し思い出し描いたものらしい。

静岡市の中心に駿府公園という緑豊かな一画がある。
もともと駿府城があったところでお濠が周囲をかこっていてそれなりに風情があったように記憶している。
小学校の遠足でも何度か訪れた。
広々とした公園の中に児童会館があってちょっと不思議な体験ができるので必ず立ち寄ることにしていた。
その駿府公園で写生大会が開かれた。
主催は静岡県児童会館長。
協賛はクレパス本舗株式会社桜商会。
(ここまでわかるのは山下清の絵はがきを探していたらたまたまこの写生大会の時の表彰状が出てきたからでといっても大した賞ではなかったのだけれど・・・)

正式名は母の日写生大会。
昭和39年の5月に開催された。
東京五輪の年である。
清水の当時通っていた小学校からは自分ひとりだけが参加した。
清水からは遠かったので父親が付き添ってくれた。
まず最初に描く場所を決めなければならなかった。
どこでもいいという訳にはいかなかったので取り敢えずあちらこちら歩いてみた。
この場所決めがいちばんむずかしかった。
もう絵を描き始めている子もいたりしてすこし焦った。
適当に居場所を決めてスケッチを始めたら何とかなるだろうと思っていたけれどだんだんくたびれてきてお昼までに終えようと思ってせっせと絵を仕上げているとどっかに消えていた父親がもどってきて山下清の話をしだした。
手には号外を持っていた。
山下清画伯来るの号外である。
それで父親にせがんでその画家の展覧会を見に行くことになった。

道々の電信柱には号外がペタペタと貼られていて妙に物々しかった。
呉服町通りのとある画廊というよりも呉服屋さんの壁に画伯の絵が何枚も飾ってあった。
人が多かった。
特に中年の着物姿のおばさんがいっぱいいた。
白粉の匂いが店内に充満していて息苦しかった。
当の画伯はというと商店の中央に座っていてめんどくさそうに周囲を見渡していた。
ランニング姿ではなかったしヘラヘラ笑ってもいなかった。
絵はがきを買ってサインをもらった。
一字一字丁寧にサインしていた。
画伯の絵についてはあまりよく覚えていないが数年前に旅行した時に描いたヨーロッパの町々の風景がテーマだったようだ。
東海道五十三次の制作にも取り掛かっていたようでそれで静岡県の各所で展覧会を開いていたらしい。

 絵はがきや切手とともに抽斗へ仕舞いわすれし東京五輪

本小屋から(3)

福島亮

 本小屋の近くに、小さな池がある。
 池には大きなミシシッピアカミミガメが4匹暮らしていて、日中は石の上で日光浴をしている。4匹同時に甲羅を干している時もあれば、1匹だけのこともある。だから池の前を通るときは、今日は何匹日光浴しているか予想することにしている。

 亀にとって日光浴はきわめて重要な行いだ。紫外線を浴びることで、ビタミンDを生成し、それによって甲羅や骨のもとになるカルシウムを吸収するからである。また、水中に長時間いる亀にとって、日光浴は甲羅や皮膚に付着する病原菌を殺菌する意味合いもある。そのような効能に加えて、やはり温かな日差しを浴びるのは気持ちが良いのだろう。いわゆる「スーパーマン・ポーズ」と呼ばれる、手足をピンと伸ばした姿勢で日光浴をしている亀たちを見ると、なんとも気持ち良さそうだ。じっさい、変温動物にとって、太陽の熱は身体の温度を保つ唯一の恵みである。その恵みを全身に浴びながら、食べたものをゆっくりと消化する時間は貴重な時間であるはずだ。

 先日、今日は4匹だと思いながら池を確認すると、石の上にいたのは2匹だけだった。後の2匹は水中にいるはずだ。見ると、水の中を1匹の亀がスイスイと泳いでいる。器用なものだ。時々首を伸ばし、水底の落ち葉や泥を鼻先で漁っている。だが、それを見ながらなんとも妙な感じがした。というのも、やけに首が長いのである。池に住むアカミミガメはどれも立派な体格で、甲長25センチくらいある。たしかに亀は首を甲羅の中に収納できるから、想像するよりも実際の首の長さがあるのは理解できるが、それにしても首の長さが20センチもある亀がいるだろうか。不審に思い、よくよく眺めてみて、疑問は氷解した。泳いでいたのは、アカミミガメではなく、スッポンだったのである。このスッポンがどこからやってきたのかはわからない。小さな池だから、野生の個体だとは考えにくい。誰かの包丁の下から、逃げ出してきたのかもしれないし、近くを流れる川にもともと住んでいたのかもしれない。あるいは、誰かが放したのか。まさか、とは思うが、大きくなるまで池を泳がせ、いつの日か……。

 これまで何度か亀を飼ったことがある。小学1年生くらいの頃、いわゆる「ゼニガメ」を2匹、親にねだって買ってもらったのが亀と付き合った最初の記憶だ。本来ゼニガメというのは、イシガメの子どもを指すのだそうだ。だが、イシガメはデリケートな亀で、環境の悪化に弱く、数が減っている。そのため、クサガメの子どもをゼニガメと称して販売している。いずれも黒っぽくまん丸な500円玉サイズの甲羅は、銭にそっくりだ。だが、たしかに私がねだったのは「ゼニガメ」だったはずで、この言葉を覚えたのもその時だと思うのだが、しかし、記憶の中の子亀は、緑色をしているのである。となると、それはいわゆるミドリガメ、つまり、アカミミガメの子どもだったのかもしれない。夏休みが近くなるとペットショップの炎天下の軒先に何十匹と子亀が入ったタライが置かれ、夏休みの子どもたちを引き寄せる。そんな「客寄せ亀」だから、正式名称を与えられず、本来であればイシガメかクサガメの幼体を指す「ゼニガメ」という愛称を適当に付けられて、あの緑の子どもたちは文字通り二束三文で売られていたのかもしれない。当時、その「ゼニガメ」は1匹500円程度だった。子どもの小遣いでも十分に購入できる亀たちは、その後どうなったのか。うちにやってきた子どもたちはプラスチックケースに入れられ、毎日覗き込まれたり、撫で回されたりした挙句、ろくに日光浴もできぬまま、衰弱死した。元気いっぱいだった頃の子亀は、甲羅をつまんで持ち上げると、手足をばたつかせてもがいていて、なんとも愛らしかった。それがどれだけストレスだったか、私にはわからず、カブトムシやクワガタと同じように、殺してしまったのである。

 こんなふうに、亀との思い出は、後ろめたいものであり、あまり思い出したくない。唯一幸福な思い出は、大学生の頃、夜、高田馬場を歩いていた時に拾った亀との出会いである。どうしてあんなところに亀がいたのか、よくわからないのだが、たしかあれは雨が降った後の夜だった。歩道に掌くらいの大きさの黒い塊が落ちていて、なんだろうと思ってよく見てみると、それは手足を縮めた亀だった。ひとまず拾って、交番に届けたのだが、交番では犬か猫でないと対応できないという。亀は落とし物として扱われ、1週間ほど保管されるが、その後は焼却処分されるらしい。「うちでは殺すことになるから、よかったら飼ってやってください。」

 亀に太郎という名前をつけ、大きめの衣装ケースに入れて飼うことにした。卒業論文と修士論文を書く際に、徹夜に付き合ってくれたのも、この太郎だった。太郎は表情豊かで、私が徹夜をしていると、こちらの方をじっとみながら時折あくびをした。また、どこで覚えたのか、手の甲で目を拭う仕草もした。さすがに可哀想なので、タオルケットでケースを覆い、暗くしてやると、今度はかえって目が覚めてしまったのか、長い爪でケースの壁を引っ掻いて餌をねだってくる。こんなふうに、やたら自己主張をしてくる太郎だが、彼(太郎はオスだ)はアカミミガメではなく、キバラガメという種類の亀だった。腹甲が黄色いから、キバラガメ。一般にはイエロー・ベリー・タートルという名前で流通している、ミシシッピアカミミガメと同じくアメリカ大陸原産の亀で、幼体は甲羅が緑なので、アカミミガメと混ざって輸入されることがあるそうだ。いずれにしても、太郎はかつて人間に飼われていたと思われる。自然下で繁殖した個体なら、あそこまで人懐っこくはなかったはずだ。

 その後、私はフランスに行くことになり、太郎との別れがやってきた。従兄弟の友人が亀を飼っているというので、その人に託すことにした。いま太郎がどうしているか、私は知らない。

 ミドリガメ、つまりミシシッピアカミミガメ(時にキバラガメ)の幼体は、その色が美しいことから愛玩用として1950年代半ばから日本への輸入が始まった。チョコレート菓子の景品として郵送でばら撒かれたこともあるというから、当初から生き物としての扱いではなく、子どもの玩具、客寄せ用の景品、つまりは物だったのだ。環境省のデータによると、1990年代半ばのアカミミガメ輸入量は、年間100万匹だという。小学1年の私が親にねだって購入し、殺してしまった亀は、この100万匹のうちの2匹である。近年の輸入量は年間10万匹というが、2023年6月1日から「条件付特定外来生物」としてアカミミガメを販売したり放出したりすることは禁止されている。これまでに日本に連れてこられ、殺されてきた亀の数はどれくらいになるのか、想像もできないが、本小屋の近くの池でスッポンと暮らす4匹の亀は、その何億匹のうちのどれかだろう。あるいは、日本で生まれ育った亀たちかもしれない。アカミミガメとスッポンの関係が良好なものかどうかはよくわからないが、いずれにしても、人間に放された過去を持つ亀たちがこうして池で暮らしている。

 日光浴する亀を見ていると、記憶の奥底に沈んでいた子亀たちが浮かびあがってくる。それは私が殺した子亀たちでもあるし、炎天下の店先に鮨詰め状態で置かれていたあの緑色の子どもたちでもある。あるいは今どうしているのかわからない、太郎の姿もある。そして、ざわざわと、幾千万本もの長い爪で私の胸の内を引っ掻くのである。

『アフリカ』を続けて(26)

下窪俊哉

 これを書いている7月末の時点では、まだ『アフリカ』次号の”セッション”は動き出していない。暑くてそれどころではないというわけではないが、そうかもしれないという気がしてくる猛暑のなか、切り絵(表紙)の相談をしたり、書く人に手紙やメールを書いて出したり、なかなか出せなかったりしている。
『アフリカ』のような雑誌は年1冊というのでは動きが鈍いというか、それではつくっている私の腰が重くなるので、年2冊くらいのペースに戻してゆきたいと少し前に書いたり話したりしていた。始めた頃はそのくらいのペースでつくっていたのだ。『水牛通信』について平野甲賀さんが「気軽にやるのが一番。出たとこ勝負でチャラッと作るのが長続きのコツ」(「平野甲賀の仕事1964-2013展」図録より)と書いていたのも印象深く覚えている。そうするにはあまり間を空けず、次から次へとつくってゆく方がよい。
 そう考えると、最新号が2023年3月号なので、ペース配分を考えると、次は9月頃である。もう、すぐではないか?
 だからと言って、焦るような気持ちにはなれない。声をかけたり、あるいは声もかけずに(思い浮かぶ人の全員に声をかけると大変なことになる)、原稿が来るのを待っているだけである。
 来るのは原稿だけではないかもしれない。予測のできない新しい何かが、やって来るかもしれないのだから。
 前にも書いたかもしれないけれど、『アフリカ』は特集テーマのようなものを掲げて原稿を集めることをしない。そういうやり方をすれば編集は楽かもしれないが、やりたくないからしない。結果的に特集号のようになった号が2、3冊あったけれど、それはあくまでも例外であって、普段はしない。待っているだけと言っても、自分にも毎日の執筆があるのだから、手持ち無沙汰になることもない(むしろ忙しい)。

 半年ほど前にここで『思想』3月号の「雑誌・文化・運動」について書いた際、冨山一郎さんのエッセイ「雑誌の「雑性」」に触れた。その時はパンデミックを機に大学で「通信というもの」を始めた冨山さん自身の実践に注目して書いたのだが、その文章の主題は雑誌の「雑」についての考察だ。少し引用してみよう。

 思想の科学研究会が様々なサークルについて『共同研究 集団』(一九七六年)を刊行した時、その序論で鶴見俊輔は集団について考えることを、「煙の道をなぞる」、あるいは「煙そのものの内部の感覚」と記している。鶴見が、文字通り煙にまいたようないい方で示そうとしているのは、テーマや主張といった言葉においてはつかまえることのできない集団や方向性が、想定されているのではないだろうか。

 それを受けて、雑誌を読むことは「自らの意図において方向づけられた」ものではなく「偶発的な出会い」であると続け、「雑誌は、一人ひとりが契機となった連鎖を媒介しているのであり、読み書き話すというひとつながりの言葉の行為の中にある」と冨山さんは書いている。
 多様な文章のあることが重要なのではなく、各々が「契機」となることが重要であり、書いたり、読んだり、話したりするなかに雑誌は浮かび上がるのだ、そう考えると、私は何だか嬉しくなる。
 雑誌をつくる者としては、でも、それって、具体的にどうするの? と思わなくもない。私は雑誌を研究しているのではない、個人的な雑誌という運動体に仕えている最中なのだから。
 いま、たまたま縁あって、『アフリカ』という場に辿り着いている(と感じている)人たちが書いている。どんなものが出てくるだろうか、私という編集人は待っている。
 次号がどんな内容になるのか、前もって私は殆どわからない。少しわかっているのは、自分が目下書いている原稿のことだけだ(しかしそれが載るかどうかはまだ決まっていない)。この状態では、まだ雑誌は浮かび上がってきていない。原稿が送られてきて、それをまず私は読む。その「読む」という行為のなかに、あるとき、ふと新しい『アフリカ』が浮かび上がってくるのを待っている。
 待つと言っても、そこにはいろんな「待つ」があるということか。
 そうやって『アフリカ』はどうなるかサッパリわからない、よって『アフリカ』自身が抱えているテーマや主張といったものは何もない、ということになるのかというと、いや、どうだろうか。そうでもないはずだと感じる。

 2006年の秋、『アフリカ』を始めた直後に仕事で近畿地方各地を巡っていて綾部を訪ねた際に、綾部市役所の職員からある人を紹介された。塩見直紀さんといって、「半農半X」という暮らし方を提唱しているのだという話を聞かせてもらった。翻訳家・星川淳さんの「半農半著」ということばに影響を受けて(それは星川さんが仕事の半分を農業とし、残り半分を著=執筆として暮らしている話から来ている)、自分にとって「著」の部分には何が当てはまるだろうかと考えたがスパッと思いつくものがない、なのであえてそこを明確にせず括弧に入れて(「X」にして)探りつつ新しい暮らしを始めたという話だった。
 その後、塩見さんから定期的にメール・マガジンが届くようになった。その中には、面白い提案がたくさんあった。すぐに思い出せるのは、「自分オリジナルの肩書きを考えてみよう」とか、年末には「今年の極私的・十大ニュースを書き出してみよう」とか。そのときに書き出してみた数十にも及ぶ肩書きのなかに「道草家」があった。書き記したときにはふざけていたのだが、数年後にはそれが自分の愛称になって、思いもしなかった縁を呼んだり、結婚相手を連れてきたりしたので人生何がどうなるかわからない。「十大ニュース」は毎年、幾つかのトピックスはすぐに出せるが、必ず十項目を出さねばならない。その頃にも印象深い出来事の多かった年と、少なかった年があった。そのことが自分に何を教えようとしているのか、と探ったりもした。

 ここでなぜそんなことを思い出して書いたのかというと、『アフリカ』はその「X」を抱えているのではないか、と急に思いついたからだ。それは一体何だろう、とりあえず括弧に入れられて、未だ姿を隠している。そう考えてみたらどうだろう。

雨のヨルダンでイラクを待つ男たち

さとうまき

ヨルダンの空気は、いつも心地よかった。たとえそれが真夏であって、太陽がぎらぎらと照り付けていても、今にも50℃を超えそうなバグダッドに比べたら涼しく感じるのである。20年前、イラク戦争で疲弊したバグダッドで緊急支援の任務を終えて、国境を超えヨルダン側に入った瞬間のひんやりとした空気に触れると、まさに地獄から生還した気分になり、精神的にも安堵したことを思い出す。冬は、中東のイメージに反して、凍てつくような寒さで、時には雪が積もる。しかし、雨が降ると、砂漠には草草が芽吹き始めて、生命の躍動を感じる。枯れ葉だけの日本の冬のような寂しさはないのだ。

ダウンタウンの安ホテルは、僕にとっては快適だった。エルサレムや、ダマスカスといった城壁の中に小ぎれいに収まった旧市街に比べれば、ずいぶんと見劣りはするものの砂漠を旅する旅人たちの中継点に違いなかった。香辛料と羊のにおいが漂う薄汚いこの町は活気にあふれている。オスマン帝国の時代から、大英帝国の統治下でもこの活気は変わらなかっただろう。労働者が利用するような大衆食堂もいくつかあり、羊肉をトマトで煮込んだ定食を頼む。久しぶりに現地で食するせいなのか、羊がうまい。

ヨルダンを拠点として活躍している画家のハーニー・ダッラ・アリーさんがイラク行きのチケットを手配してくれるというのでカフェで待ち合わせる。ハーニーさんは、イラク人の原風景ともいえるナツメヤシの木をモチーフにした絵を描いていた。ナツメヤシの葉をすきこんだ紙にイラクの人々を描きこむ。最近はカナダに移住したと聞いていた。「カナダ? 暮らしやすくても、そこは私の街ではない。つまり、私はアラブ人だったってわけさ!」

バグダッドに行くかバスラに行くか迷っていた。バスラにはかつて支援していた小児がんの子どもたちがいて、今どうしているんだろうというのが気になっていたのだ。しかし、今やもう援助業界からは足を洗っていたので、後々めんどくさいことになると嫌なので今回は時間もなかったからバグダッドだけにしようとも考えた。ただ、やはり、そうイラクに行くチャンスもないだろうと思い、行けるときには無理しても行くべきだと決心した。ハーニ―さんは、その場で携帯電話でイラク行きのチケットを手配してくれた。

翌日は、朝から雨が降っていた。イスタンブールのNGOの事務所を訪ねてお金を渡すはずだったが、タクシーでぼられたりしているうちに時間が無くなり、結局ヨルダンから送金しなくてはならなくなったが、ここからだと、市中の両替屋で簡単に送金ができる。

一方、シリアからも、しつこくお金を送金してくれというメッセージが入ってくる。地震の被害者ではなく、南部のダラアというところに白血病の女の子がいるという。病院に行くお金がないという話だ。間に入っているイブラヒムという男が、果たして信用できるのかどうか。お金を送っても受け取ったという返事はすぐにはよこさず、お金が必要な時だけしつこく連絡してくる。まあ、イブラヒムが信用できる人間だということを信じてお金を送金するしかなく、あっという間に資金が厳しくなってしまった。おまけに円安と、ウクライナ危機で飛行機の燃料代も上がってしまっていて、ヨルダンからイラクまでのチケットが500ドルを超えてしまった。それでも、あと数時間後には、僕がバスラにいることを想像すると小躍りせずにはおれなかった。

アンマンの安ホテル。僕の部屋は3階だったが、エレベータもなく、階段を重たいスーツケースを持ち上げて登らなくてはならない。部屋は、排水溝から漂っているどぶ臭いにおいもするが、それでも居心地はよかった。ホテルのフロントには、ハンチングをかぶった老人がシフトで入っている。かつて中東がソ連の影響を受けていた時代の雰囲気、つまり、日本でいえば昭和時代のいでたち。今でも使っているのかどうか怪しいが、部屋につなぐ電話回線のボードの前に座っている。僕が日本から持ってきたドリップコーヒーを飲むためにお湯を沸かしてもらう。物珍しそうに、「それは何かね?」と聞いてくる。「コーヒーですよ」袋を開けてコーヒーカップにセットしてお湯を注ぐ。老人は、「便利なコーヒーですなあ」と感心している。

夜も更けたころ、頼んでおいたタクシーが到着する。さあ、僕はバスラを目指す。シンドバッドの冒険の始まりだ。

イラク戦争から20年「メソポタミアの未来」展を開催
7月26日ー8月28日 11時~19時
赤羽「青猫書房」
ハーニ―・ダッラ・アリーさんの作品も展示中
https://aoneko0706-0828.peatix.com/

しもた屋之噺(258)

杉山洋一

国連のグテーレス事務総長曰く「The era of global worming has ended.  The era of global boiling has arrived」だそうです。「地球沸騰化の時代到来」という言葉を、既に今年の時点で聞くとは、思ってもみませんでした。沸点に到達してしまえば、後は暫く沸き続けるだけかもしれません。こんな大切な時に、我々は何をやっているのか情けなくも思いますが、身から出た錆びなのは否めません。仕方ないと諦めるべきなのかもしれませんが、子供たちを思うと、それも無責任に思えます。
香港高等法院が、香港政府の「香港に栄光あれ」使用禁止要請を却下したそうですが、法院の矜持を感じます。3年前に「自画像」を書いた際、「香港に」をウクライナ国歌とともに曲尾に使ったのを思い出しました。

・・・

7月某日 三軒茶屋自宅
町田の母が昼食に用意した、ブラウン・マッシュルームと自家菜園ニンニク、それにアスパラガスのパスタの写真が届く。
馬場くんとドナトーニEtwas Ruhiger im Ausdruckについて、ズームで話す。作曲者本人を知っていれば、様々な疑問に関しても、本人の性格を鑑みてそれなりに対処できるのかもしれないが、例え本人を知らなくて、結果的に本人の意志と離れた解決方法で対処したとしても、それは構わないのではないか。特に、ドナトーニのように、音符を書き上げるところまでが自分の仕事と思っている作曲家であれば、猶更そうにちがいない。
この処、早朝世田谷観音に散歩に出かけるたびに、涼し気な澄んだ声で鶯が啼いている。

7月某日 三軒茶屋自宅
朝から「軌跡」の譜面を眺める。
一足先に功子先生とリハーサルをした清水君よりメールが届き、「幼少期に憧れた巨匠達の名演の香りが溢れていて、言葉にしがたい感情を抱きました」、とある。
東京現音計画演奏会にでかけた。どれも面白かったが、特にドロール・ファイラーに衝撃を受ける。ノイズ音楽に興味があるのでも、爆発的音響が好きなわけでもないが、彼自身が舞台に上がり、突き動かされるようにかかる音楽を自ら体現する必然に、深く心を動かされた。
その強烈な大音響の中、小学校低学年と思しき女児と母親が、耳を抑えて会場を出て行ったので同情していると、直ぐにまた大はしゃぎしながら戻ってきて、駆け足で席に戻った。

7月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりの湯浅先生との再会を喜ぶ。思いの外お元気そうだ。湯浅先生はもうすぐ94歳だが、「世界中見渡してもこの年齢まで仕事する作曲家は少ないですから、もう作曲はいいですよ」と笑顔で仰った直後に、「でもまだ書きたいかな」ともぽろりとこぼされるので、断筆宣言は程遠いと安堵する。
菫色のタイにワイシャツを颯爽と併せ、相変わらずお洒落で生粋の紳士だと感嘆。湯浅先生は今日のように少し光沢ある質感の服をお召しになる印象があって、彼の作品の手触りにも通じる。
尤も、実際作品を演奏すれば、宇宙空間の隕石のような質感が、磁力と見紛うほどの強力な方向性と重力を纏って駆け抜けてゆく感覚であって、エネルギーに圧倒される。
クセナキスは音そのものを生々しいほど直截に表現し、音の周りの空間など終ぞ感じさせなかったが、湯浅先生の音は、音が浮かぶ空間全体が俯瞰される。二人とも等しく音の運動を具現化していても、湯浅先生の作品がコスモロジーに繋がるのは、そんなところにも理由があるのだろう。寧ろ、コスモロジーに端を発し、かかる空間性が啓かれたのかも知れない。「軌跡」の最後、明滅する光を、どう表現すべきか、湯浅先生の横顔を眺めながら考えていた。
その後、代々木八幡の功子先生宅にてソリスト合わせ。恩師を独奏者に迎え、自作を指揮するのは何とも不思議な心地だ。恩師を指揮するだけでも落着かないが、それに輪をかけて、恩師が自分の作品を弾き、注文まで付けなければならないとすると、これは全く居た堪れない思いであった。
尤も先生は、この妙な一期一会をすっかり愉しんでいらっしゃるように見受けられた。こちらは全く記憶にないが、先生曰く、相当こましゃくれた坊主だったらしく、その頃を思い出して面白がっていらしたのかも知れない。
とはいえども、無知だから生意気でいられるのであって、馬齢を重ねて多少は世間も見えてくれば、幾ら厚顔無恥であれ、恩師を前に涼しい顔でやり過ごせるものではない。
併し、その当惑をも吹き飛ばすかのように、先生は一音目から実に雄弁で説得力があって、圧倒されるばかりであった。想像していた通りの音が目の前で鳴っていて、その昔レッスンで先生の音に聴き入っていた時のような錯覚を覚える。
演奏会の宣伝に使おうと、百ちゃんが写真を撮りに来てくれたのだが、この光景に感動して泣きそうになっていた。
リハーサル後、百ちゃんと代々木八幡の食堂で軽い夕食。この小学校来の親友とは、もう何十年も前から互いに駄弁を奮って、四方山話に花を咲かせてきた。百ちゃんのところの古部君と家人も古くからの気の置けない親友だから、長らく夫婦通しの付合いが続いている。

7月某日 三軒茶屋自宅
朝から自作の譜面を広げているが、この作業は本当に苦痛を強いる。
自作を理解しているつもりでも、それは楽譜に書かれた音符のあちら側の事情であって、こちら側の実情には余りに無知だし、頓着していないと悟るのは、あまり愉快なものではない。
勉強に際して、努めて先入観を排して譜読みすべきではあるが、自作ともなると先入観を取り除くのも容易ではない。特に、自作演奏に際しては、極力音符を振るべくつとめるべきであり、音楽について、余計な拘泥などしない方がよいだろう。そんなことをしているうち、10時の美恵さんと悠治さんの待ち合わせに遅刻してしまった。
互いの近況報告、体調報告等、久しぶりに会えば、誰とでもそんな話ばかり、と皆で笑う。昨日、悠治さんから、「ジョンシェ」の下敷きである「エルの伝説」との比較分析の論文をいただき読んでいたので、そのはなし。
ジョンシェのスコア巻頭に、クセナキス自身が、「ジョンシェ」は「エルの伝説」を下に書いたと明記してあるが、具体的にどう使われていたかはわからない。
その論文は、それぞれの音響解析のグラフを提示して、どの部分がどう対応しているかを示す。「まあそうかもしれないけどね」程度に頭に留めておけばいい、と二人で話がまとまる。
「ジョンシェ」の最後、金管楽器が咆哮するあたりは、確かに論文に示された「エルの伝説」対応部分を思わせる。だから、ほぼ間違いなく、その部分を使って、「ジョンシェ」のあの部分を作曲したに違いない。とは言えそれが「ジョンシェ」を演奏に、新しい霊感を与えてくれるものでもない。
尤も、逆の立場から言えば、作曲家として「エルの伝説」で丁寧に用意したグラフを、全く違った音響で肉付けしてみたいと思うのは至極当然の欲求だろう。
同じグラフを使い、テープ音楽のような人間の呼吸が介在しない作品と、人間の集合体の最たるものである大オーケストラを使って、全く違う作品を作りたい、というのは、究極の比較とも言える。時間軸に定着された音響の帯と、無数の人間の呼吸が織りなし、紡ぎだす音の熱量。極度に抑制されたテープ作品の倍音構造と、ほぼ不確定に重なり合う無限の倍音群。
少し早めの昼食、「宝蘭」にて海老ソバに舌鼓を打つ。美味。

7月某日 三軒茶屋自宅
夜、池辺先生、福士先生、三善先生の「詩鏡」を聴きに、東京シンフォニエッタ公演に出かける。池辺先生も傘寿。頓に今年は八十寿の音楽家が多い気がする。
福士先生の作品では、音楽の空間性とその空間性が生み出す方向性、推進力に惹きこまれる。池辺先生の作品は、何より先生の音の質感が好きなのだ。音響を作るのではなく、あくまでも人によって奏され、そこに生まれくる音を書き留めていらっしゃるから、表層としての音ではなく、人が介在した結果としての音を愛でていらっしゃるのが良くわかるし、発音された音はとても強い。楽器の音をぼやかさず、直截に聴かせるから、音の内実も実感できる。楽音が丸裸になっているから、単純に見える楽譜でも、実際演奏はやさしくない。
初演以来から再演されていなかった、三善先生の「詩鏡」を初めて聴く。音の主張の強さ、ぎっしりと詰まった作品の密度の高さに、改めて作曲とは何かを身につまされる思いがする。お前ちゃんとやっているのかい、と問われているような心地で聞いてしまったが、多分それは先生の本意ではなく、単にこちらの問題である。とにかく一つ一つの音の展開は、とても誠実にあつかわれていて、自分はなんとがさつな人間かと思う。
久しぶりに由紀子さんと大竹久美さんに再会。由紀子さんは大竹さんのスタイリッシュなスポーツカーで颯爽と帰宅された。前回お目にかかった時より、足取りも軽くお元気そうで嬉しい。
上野で垣ケ原さんと軽食。未だ仕事しなければならないので、ほやと豆腐とノンアルコール・ビールを頼む。垣ケ原さんは、生前武満さんから聞いた、架空のオペラ計画「コカ・コーラ殺人事件」について話してくれる。
帰宅すると、拙作の演奏者の皆さんよりArdenteとVeemente, Impetuosoは、どれも「激して」という意味のようだが、どう違うのかと質問が届いていた。
ArdenteもVeementeも揃って懐古調で、30年イタリアに住んでいるが、日常会話の中では聞いたことも使ったこともない。古めかしいというか、厳めしいというのか、マンゾーニの小説あたりに出てくる単語だから、イタリア人には通じるが普段使う機会も必要もない。白状すれば、全部同じ標語では単に能がないから変えただけなのだが、一流の演奏家はさすが楽譜の読込み方が違う。
こんな感じで語感が好きな言葉にsubitamente がある。仏語のsubitement も西語のsubitamenteも現在でも普通に使うようだが、伊語でsubitamenteと言えばマンゾーニ時代かそれ以前の響きがするから、ちょうど我々が漱石の日本語を読む塩梅だ。イタリア人にsubitamenteと言えば、もちろん通じるだろうが、仏語か西語経験者と思われるか、イタリア文学研究者と思われるに違いない。
以前、家人がsubitoと言おうとして、subitamenteと話していたが、相手が特に何も反応していないのに、内心酷くがっかりしていた。

7月某日 三軒茶屋自宅
改めて功子先生宅にリハーサルに伺う。近所の伊料理屋でシチリア菓子とナポリ菓子を購い、持参する。先生の気迫と音の張りは、こちらを数倍凌駕している。
その伊小料理屋でコーヒーを一杯呷った際、メニューにカフェ・トニカがあって、これは何かと尋ねると、何でもエスプレッソとトニック水を併せたもので、夏によく吞まれるのだそうだ。元来2014年くらいからあるコーヒーのヴァリエーションだったが、近年特にSNSを介して爆発的に世界に流布して最新の流行となったという。カフェ・シェケラートみたいにエスプレッソと砂糖と氷をシェイクしたり、カフェ・トニカのようにトニック水で割る方が、先にコーヒーを用意して冷蔵庫で冷ましておくよりずっと新鮮な香が楽しめるので、至極論理的に考えられたメニューなのかもしれない。
ミーノより、ハイデルベルグ・フィルの音楽監督に就任したとの報告を受けた。今まで長らくずっとサポートしてくださって、本当にありがとうございました、とある。これは凄いなと感激していると、外山雄三先生の訃報が届いた。
先日の尾高賞の選考にも、外山先生が関わっていらしたはずだ。子供の頃から、折にふれ演奏会やテレビで外山先生の演奏に触れてきたけれど、なぜか鮮明に思い起こすのは、テレビで目にした、読響との「ローマの祭」の指揮姿である。
棒に合わせてオーケストラが弾くというより、外山先生の考えた音をオーケストラが鳴らすよう、外山先生は振っていらっしゃると思った。当時、指揮など皆目わからなかったが、やはり作曲する指揮者は別の視点から見ているのかしら、と生意気なことを考えていた。

7月某日 三軒茶屋自宅
普段、リハーサルに臨むときの緊張とは全く違う緊張感を胸に、リハーサル会場へ向かう。
会場入口手前で功子先生と、手伝ってくれているももかさんにお会いしたが、どこか不思議な気分であった。今までは、ヴァイオリンを習っていた頃の自分と作曲を始めてからの自分が、どこか分離して平行線を辿っているような感覚を持ち続けてきた。
3歳から16歳までの自分と、16歳から現在までの自分という風に、無意識にどこかで境界を曳いていたものが、ここでは何だか解放されたようで、紙縒りのように捩れていたものの存在に気付く。「演奏会をぜひ何かやりましょうよ」と先生にお話ししたのも、自覚していなかったとは言え、実は自分のためではなかったのかとさえ思う。
言霊とは好く言ったもので、とにかく言葉にしてしまえば、その言葉が独りで歩き出し、いつしか実体となって、気が付けばこうして実現していることもある。なるほど面白いものだ。
皆の前で先生が弾き、生徒たちはその音に耳を傾けて、一緒に音を出す。子供のころ繰返しやっていた本当に懐かしい光景が目の前で展開されている。
洋ちゃん小さいからここに立って、などと、てきぱき舞台の立ち位置を決めていらした先生の声が、突然耳の中に甦る。
「これから、忘れられない夢のような3日間になるわ」と喜代ちゃんも感慨深そうである。
思いの外明るく軽やかに、バッハが始まった。ほんの最初だけ、オーケストラは先生を慮って、少し後ろに抑えながら弾いている印象を受けたけれど、直ぐに音楽が混じり合うようになる。篠崎門下は、特定のスタイルがないところがスタイルなのだそうだが、直ぐに互いに音が交り合い収斂されてゆくのは、全く持って肝胆相照らす仲というところか。トップの木野さんの采配も見事だった。
久しぶりに再会した岩田さんから、雨田光弘先生の近況を伺い、どうにも信子先生の位牌に手を併せたくなり、夜、思い切ってお宅を訪ねた。
コロナ禍もあって、つつじが丘を訪れるのは3年ぶりだった。以前信子先生の寝室だった2階の部屋はこざっぱりと片付けられていて、扉のすぐ隣にちょこんと仏壇がおいてある。
その隣の部屋にはちゃぶ台とテレビがあって、そこで一緒にご飯を頂いたことは数えきれない。テレビでは、いつも古い演奏会のヴィデオやテレビ中継がかかっていた。
でも、隣の信子先生の寝室に入ったことはなかった。ここの窓からは遠く富士山も望めるそうだが、いつも薄暗く閉め切っていたから、信子が眺望を愛でることはなかったよと、光弘先生は笑った。仏壇には、今の自分位の年齢と思しき信子先生の写真が飾ってある。高校大学と先生にお世話になっていた頃の写真に違いない。
信子は出来るだけ目立たないようにしているつもりでも、いつも目立ってしまってねえ、と光弘先生は目を細めた。自分に対しても他人に対しても、終わった演奏を批評することも拘泥することも殆どなくて、さっぱりしたものだったよ、と笑った。余り褒めもしなかったが、貶すこともなく、誰に対しても変わりない態度で接していたよ、と話して下さった。
16年近く可愛がった二匹の猫が、揃って忽然と姿を消したのが余程堪えたに違いない。それ以来すっかり体調を崩してしまってね。まさかこれが最後になるとは思わず、病院に行ったんだ。
そんなお話しを聞いているうち、どういう流れだったか悠治さんの話になった。
その昔、日フィルでユージがコンピュータで作った曲をやったときは、小澤征爾の横で、アシスタントがこうやって大きなプラカードを掲げていたんだよ、という話になる。
そのプラカードには小節数が書いてあってね、それを見てオーケストラは弾いたんだ。
でね、あの時小沢征爾に、お前チェロの音が違うって、すごい剣幕で怒られちゃってさ。怖かったんだよ、と仰るので、それは冗談だったのでしょうと言ったが、どうやら本当に震え上がったそうである。
尤もその頃、光弘先生は小澤先生のお子さんにチェロを教えていたくらいで懇意にしていらしたから目を付けられたんだよ、と周りに慰められたそうだ。
なるほど、どうやって「オルフィカ」を初演したのか不思議に思っていたが、少し謎が解けた気がする。日フィルに残るパート譜の落書きを見ると、リハーサル風景まで目に浮かぶようでもある。因みに、オルフィカは小澤先生に献呈されている。
光弘先生が横にいらした間は大丈夫だったが、光弘先生が、じゃあお茶でも用意するね、と先に階下に降りて一人になった途端、涙がこぼれてきて困ってしまった。もっと早くにここに来たかったし、来るべきだったのかもしれないが、やはり来るのも辛かったのも実感する。

7月某日 三軒茶屋自宅
二日目のリハーサル。昨日で雰囲気は大分掴めたので、どの作品も細部の調整や手直しを丁寧にやる。皆から、洋ちゃんと呼ばれる面映ゆさにもさすがに馴れた。「洋ちゃん」はヴァイオリンが弾けた頃の自分に繋がっているから、もう楽器もなく一切ヴァイオリンなど弾けない自分は、そう呼ばれると何とも申し訳ない心地になってしまう。そんな無意識の困惑も、昨日やっているうちにどうでもよくなってしまった。
オーケストラの錚々たるメンバーを見渡しながら、改めて先生の人徳だと恐れ入る。総じて、学生は恩師の真価など、習っている時分は殆ど理解していない。そうして習い終わって社会に出てから恥じ入ったり、青くなったりするものである。
清水君はブラームスのリハーサルで、2楽章の主題がシューマンが自殺を図る直前に書き残したものを、クララの許しを得てブラームスが使ったものだと話してくれた。
清水君とも小学生時代からの付合いだけれど、これほど柔和に丁寧に音楽を紡いでゆく人だとは知らなかったから、その姿にも感動を覚えた。昔からよく知っている積りでも、何も分かっていなかったのだなと内心自らを笑い飛ばしていた。
リハーサル後、百ちゃんと古部くんに自宅まで送ってもらう。何でもまた学校などでコロナが流行しているらしい。

7月某日 三軒茶屋自宅
無事に演奏会終了。こういうのを「水を得た魚」というのか、リハーサル開始から本番終了まで、功子先生は困憊されるどころか目に見えて闊達になって、本番が一番生き生きと輝いていらした。我々誰もがその姿にすっかり感じ入り、首を垂れるばかりであった。先生の後姿を拝見しながら、我々一人一人がこれから自分はどう生きてゆくべきか、それぞれ感じ取り、考えたに違いない。そんな為にここに集ったのではなかったが、結果的に実に素晴らしい機会をいただいたと思う。
拙作も含め、バッハもブラームスも圧巻であった。ブラームスでは舞台上でも舞台袖でも、演奏者も学生も泪を拭っていたのが印象的だった。もちろん、悲しくて感涙に噎いだわけではなく、純粋に心を動かされる音楽だったからだ。何しろ先生が一番溌溂お元気だったのだから。
古部君の渾身の演奏にも、大変感銘を受けた。

木野さんから本番直前、そう言えば洋ちゃん鉄道好きだったよね、と話しかけられる。よく覚えていますね、と感心したが、確かに小学生時分、いつも木野さんに鉄道の話題の相手をしていただいていた記憶がある。彼は今でも鉄道ジャーナルを欠かさず読んでいて、廃線になった兵庫の別府鉄道の車両保存にも関わっているそうだ。洋ちゃんは小学生くらいのとき、別府鉄道に乗りに行っていたよねえ、僕も今も毎年一回は加古川を訪れているんだよ、とのこと。
拙作のオーケストラ最後の和音で、第一ヴァイオリンだけFの数が一つ少ないのはなぜか、と尋ねられる。他のパートは全てFが6つ書いてあるが、第一ヴァイオリンだけ5つで書いてある。これはやはり低音を強調したかったからかと尋ねられたが、謂うまでもなく単に書き落としただけである。作曲者など、概ねそんなものである。

夜、沢井さん宅を訪れ、「待春賦」のリハーサルに立ち会った。沢井さんが十七絃を弾かれるのは久しぶりと聞いて愕くが、ビロードのような沢井さんの音はまるで変っていない。対する二十五絃の佐藤さんの音は透明ですらりとしていて、二人の対比がうつくしい。
弾き進むうち、沢井さんの音はどんどん熱を帯びてくるのにも心を打たれた。沢井さんは二十五絃のパートも熟知していらして、作品が意図する各人の呼吸の差異に関しても、実に的確に指示を出されるのに舌を巻く。わたしとは違う呼吸で弾いてちょうだい、と繰返していらした。
無学ながら、邦楽奏者の音は、まるで声紋のようだとおもう。このように、西洋楽器奏者より、邦楽では各人の音の個性が際立つのは何故だろう。音だけでなく、音を包み込む周りの空間、発音を絡み取り、空間に解き放つ所作、それらすべてが関わっているからだろうか。どこまでも深遠な音の対話に耳を委ね、そこにいつまでも遊んでいられる、全く至福な時間であった。
改めて思ったが、やはり音楽は悪いものではない。例え自分がこの世にいなくとも、その時生きている人の手によって、その瞬間にそれぞれ新しい自分の分身を世に生み落としてもらえるのだから。
それは自分とは、略、無関係かも知れないけれど、素敵なことだ。

(7月31日 ミラノにて)

公演「名人の舞台」

冨岡三智

先月の7月5~6日に”Panggung Maestro”という公演がジャカルタの芸術劇場(Gedung Kesenian Jakarta)であった。私の知人が関わっていたため、公演プログラムをもらい、また7月22日には教育文化省文化総局のインターネットチャンネルIndonesiana TVで配信された時に私も視聴したので(リアルタイム視聴のみ可)、今回はその公演を紹介したい。

この公演はインドネシアの地方の伝統芸能を担ってきた名人(マエストロ)たちに焦点を当て、それらの芸術の保存継承と鑑賞につなげるべく企画されたもので、インドネシアの教育文化調査省、文化総局、映像・音楽・メディア局とスポンサーの企業や財団の協力のもと制作された。来年度以降もシリーズで続けていきたいとのことだが、今回第1回の企画として選ばれたのは3地域:パレンバン(スマトラ島南部)、アチェ(スマトラ島北部)、チレボン(ジャワ島西部)の芸能である。

公演タイトルにある「マエストロ」という語は言うまでもなく外来語で、伝統芸術の名人という意味で使われる。ジャワには名人を示す「ウンプempu」という語があるのだが、ジャワ芸術分野というイメージが強いのだろうか、「マエストロ」の方が広く芸術一般に使われているように感じる。私の記憶では2005~2006年頃からよく耳にするようになったように思う。今回の公演では、伝統芸術を上演するというだけでなく、その上演や指導で長年
功のあった名人に舞台に登場してもらうことが重視されていた。

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プログラム
(1)舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)
(2)音楽「ラパイ・パセ」(アチェ)
(3)舞踊「セウダティ」(アチェ)
(4)影絵(チレボン)
(5)仮面舞踊(チレボン)
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●舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)

この舞踊作品は1943~1944年頃、当時統治していた日本がパレンバン理事州(現・南スマトラ州)への来賓を歓迎する舞踊と歌を作るようにと要請して創られたもので、1945年8月2日にパレンバンの大モスクで初めて公に上演された。インドネシアの独立宣言(この2週間後の8月17日)以前に創られているので、案外古い作品である。2014年には南スマトラ州の舞踊としてインドネシアの無形文化遺産(日本のように「重要無形文化財」と言った方が分かりやすいかもしれない)に指定されている。余談だが、パレンバンといえば2018年にジャカルタと並んでアジア競技大会の開催地になった。

この舞踊作品は9人の女性によって踊られ、最前列の踊り手はキンマの葉などを入れた箱を持って登場し、舞踊の途中で来賓に勧める。この日の公演でも箱を持った踊り手が客席に降りて、映像・音楽・メディア局長にキンマの葉を勧めた。このキンマの葉一式は噛み煙草のような嗜好品で、このセットを準備しておいて客人に勧めるのがこの地域のもてなし文化で~日本の煙草盆のようなものと言える~、それがそのまま舞踊に取り込まれている。

この舞踊は通常はアコーデオン、ビオラ、太鼓、歌の伴奏で上演される。だから、西洋音階である。が、元々はガムラン楽器も使われていたとのことで、本公演では前述のスマトラの音楽とジャワのガムランを混ぜた伴奏になった。

9人の女性が豪華な伝統織物の衣装に金の冠を身に着け、手には付け爪をつけてゆったりと舞うのがいかにももてなしの舞踊だが、振付自体はかなりシンプルである。題名の「スリウィジャヤ」はこの地で7世紀に栄えた王国の名前であり、9人という人数はパレンバンの9つの河川を象徴するという。ジャワであれば9つの穴/チャクラと意味付けられるところだが、河川になぞらえるところが海洋交易で栄えたスリウィジャヤならではである。

この公演で踊るのは現役世代の踊り手だが、この舞踊の第一世代のDelima Tatung女史(93歳)と、その次の世代でなお現役で教えているElly Rudy女史(75歳)がマエストロとして舞台に登場する。もう1人健康上の理由で来れなかったAnna Kumari女史(78歳)の名前もプログラムにはある。Delima女史は車椅子に乗っているが、それでも創作当時を知る生き証人としての重みがある。この登壇した2人の女史たちの誇らかな表情が、州政府の式典で上演される舞踊という性格を雄弁に語っていた気がする。

●ラパイ・パセ、セウダティ(アチェ)

ラパイ・パセは楽器の名前である。ジャワではルバナやトゥルバンと呼ばれている楽器(タンバリン状の片面太鼓)と同種だが、より大型だ。それを吊るし、大勢の男性(今回は約8人)が一斉に素手で叩く。音楽の後半では太鼓に加えてチャルメラのような笛と歌が入ってくる。

セウダティは男性(おっさん)たちが集団で踊る舞踊。当初はmeuratebと呼ばれていたが、この語はスーフィズムの一形態を指すもので、ズィクル(イスラムの唱念)を教えるものだったというが、次第に庶民の間に浸透してこのような形(共同体ダンス的な、という意味だろう)になったとプログラムにある。男性の歌い手3人が舞台に立ち、交互に歌うのに合わせ、男性たち(今回は8人)が独特のステップを踏みながら舞台をぐるぐると歩き回り、スキップし、時に胸や腹をバチッと手で叩き、歌と掛け合うように声を発する。テンポがゆっくりからだんだん速くなっていったかと思うと急に止まったり、また開始したりする。

アチェの舞踊といえばユネスコの無形文化遺産に認定されたサマンが有名だ。サマンは座って踊るのに対し、セウダティは立ったままという点が異なるが、胸や太ももなどを叩きながら踊る点や、空(くう)を裂くように鋭く切迫した感じで歌う点はサマンに似ている。おそらく歌が主導で、それに息を合わせるように踊り手が動いていると思うのだが、歌の緩急や動きが変わるきっかけが私にはよく分からない。互いにどうやって合わせているのだろう。以前、サマンの踊り手から「一糸乱れず踊ることが神との合一に近づくこと」と聞いたことがあるが、スーフィズムにルーツのあるセウダティも同様だろう。

セウダティの踊りでは、指導だけでなく今も現役で踊っている名人のSyekh Azhari氏(73歳)が舞台に上がった。痩身で、速いテンポもひょいひょいと踊る。公演では、おっさんたちがゴザを広げ、スラマタン(食事を共にして安寧を祈る共同体儀礼)を行うシーンから始まる。実際に現地でこの舞踊を行う時はスラマタンを行うのだそうだ。このシーンはさっと切り上げ舞踊に入るのだが、だらだらとせず、見せ方が上手かったなあと感じた。

アチェの音楽や舞踊は、太鼓や笛の音楽の雰囲気、掛声、おっさんが花形になるところなど、日本の祭りを彷彿させる。ラパイ・パセの演奏は和太鼓の集団演奏を聴くようだし、踊るおっさんたちの掛声は、だんじりや山鉾巡行で聞こえてくる声のようだ。音階だとか発声だとかは日本と全然違うのだが、どこか懐かしさを覚える演目だった。

だが、ラパイ・パセも1970年代までは盛んだったものの、スハルト時代はアチェと中央政府の紛争もあってこの芸術活動もかなり廃れていたとプログラムにある。そのことがわざわざプログラムに書かれているのは、それだけ当事者たちにとってその間の抑圧がきつかったのだろうと想像される。盛り返したのはアチェ特別自治法が施行(2006)されて後だという。ちなみにサマンがユネスコの無形文化遺産に認定されたのは2011年である。

●影絵、仮面舞踊(チレボン)

チレボンでは、影絵や仮面舞踊は娯楽以外に各種儀礼のために上演される。伝統的に昼には仮面舞踊が、夜には影絵(ワヤン)が上演され、両者は切っても切れない関係にある。というわけで、この組み合わせでの上演となった。影絵のダラン(語り+人形操者)を務めたSukarta氏(82歳)は父方がダランの家系、母方がチレボンの仮面舞踊家の家系で、本公演でも仮面舞踊の部では演奏もし、最後には自身も踊るなど、オールマイティぶりを発揮していた。

インドネシアの仮面舞踊のルーツはチレボンにあるとされるが、チレボンの中でも地域ごとに様式が異なっていて、本公演ではクレヨ村スタイルのTumus女史(70歳過ぎ)が登場する。ちなみに、プログラムにはMimi Tumusと書かれているが、Mimiというのはインドネシア語のibu(女史)に当たる語。なお、彼女だけ正確な年齢がプログラムに書かれていない。Tumus女史は幼少期より母親から仮面舞踊を学んで活躍し著名だったものの、なかなか支援が得られない状況の中、1990年代には舞踊をやめて物売りやマッサージ師などをして生計を立てるようになっていた。2015年に各方面からの支援の手が伸び、ガムラン楽器や練習指導できる場所が提供され、クレヨ村のスタイルを次の世代に指導できるようになったという。70歳を過ぎて健康を損ね、起き上がれないようになっていたが、この公演のために奮起、車椅子で舞台に登場した。

衣装を着け、車椅子に乗ったまま、上半身だけTumus女史は踊るのだが、甲高い笑い声のような掛け声に合わせて小刻みに動く仮面の表情が雄弁でぞくっとした。その後仮面を取り、横に控えていたひ孫(11歳)がその仮面を受け取って踊りを続ける。その後、2人の9歳の子供たちが一緒に別の仮面舞踊を踊る。この小さな子供たちがクレヨ村の仮面舞踊の新しき後継者たちなのだ。この間、面をつけないTumus女史がずっと後ろで踊っているのだが、まるで彼女がダランとなってこの子供たちを、そして舞台全体を動かしているかのように見えた。実際に舞台を見に行った知人が、この仮面舞踊は鳥肌ものだったと感想を送ってくれたから、彼女の存在感は圧倒的だったのだろう。

ジャワ舞踊やバリ舞踊のように定評のある優美な舞台でなく、地方の地味な芸術と苦労してきた名人たちを取り上げるという点で、主催者達はチケットの売れ行きを大変心配していたが、盛況に終わったようだ。インスタグラムやフェイスブックでも公演前から公演後もずっと積極的なPRが続いている。今後もこの企画が続いてくれたらと期待している。

どうよう(2023.08)

小沼純一

いたいから
なにもかんがえらんない
なにもかんがえらんない
って
おもうのは
すこしいたみがおさまって
いたみ
はみんなおおってしまう
うちとそととがいっぺんで
うちとそととがなくなって
きっとこれがパッション
なにかとつながれてる
って

からっぽだな
ものはいっぱい
なんだけど
いえのぬしがいない
だけ
だけど
ものたちがしずまってる
あるだけで
いきしてないって
わかる
ものは
てにするひと
ふさわしいひとがいて
いき
いきする
うそみたい
だけど
ちがってない
からっぽなのは
いえみてる
いえのなかいる
こっち
かも

さむい
とてもさむい

いびき
かいてたじゃない
ねいき
かいてたじゃない
せなか
かいてたでしょ
もじ
かかなくたって
いい
はじ
かかなくたって
きるもの
かけなくても
かけきんなくても
いい
いい
いいじゃない
かけてきて
でんわ
うちまで
かけてきて
できるまで
できなくなるまで

しごとのつきあい
しごとかわるとほとんどきれる
しごとのきれめえんのきれめ
しごとのあいしょうよくっても
ほかであいしょういきる
わけなく
しごとのつきあい
よそじゃめったにいかせない
べつのつきあい
つけられればいい
っておもう
あのひととこのひとと
ときどき

そうおもう
おもっているのは
こっち
こっちだけ
かも

散る/留まる

高橋悠治

風水ということば。「気乗風則散 界水則止 」(気は風に乗れば則ち散り、水に界せられば則ち止る)、東晋『葬書』より。

散る音と、ゆっくり変わる響き。

ととのって理論にならず、隙間の多い線の跡、飛白、未完成のまま。毛筆の書はできもしないが、石川九楊や、最近では篠田桃紅の本をよんだり、小松英雄の『平安古筆を読み解く--散らし書きの再発見』を拾い読みして、音の線を散らすやりかたを考えた。

寸松庵の分析も始めの三章を読んだきりだが、一句の途中で切って、筆先で「突き」、間を取って「返す」ことで、流れを堰き止めたり、流したりすること、「ことば」の区切りと筆の区切りをずらすこと、「分かち書き」と「連綿」、さらに、色紙の中央から書き出し、空いている場所に続ける「返し書き」や、わざと誤字を残し目立たせる「見せ消ち」など。

線は呼吸のように、一息で行けるところまで伸びていく。途中で曲がったり、ゆるんでは、また、残った勢いが尽きるまで辿りつく。ピアノでいうと、掌が空気を含んで、うごいているあいだ、指が散歩して、知らない音のつらなりに触れていく。他の楽器や声でも、指や喉、舌がうごいて、変えようとしなくても、どこかが変わると、そこから全体の方向が変わる。

一本の線に対して、もう一本の線がどのように絡むのか、もとの線が他の線を必要としなくても、もう一度書いたら、おなじ形にはならないというとき、時間が生まれる。

そして音楽も。

2023年7月1日(土)

水牛だより

7月は土曜日が運んできました。梅雨もおしまいにさしかかったせいなのか、先月末から暑い毎日で、これからの真夏はいったいどうなるのでしょうか。電気料金を値上げしておいて、暑いときには躊躇なく冷房を、といわれるこの矛盾。。。

「水牛のように」を2023年7月1日号に更新しました。
次々と届く原稿を読みながら、今月は記憶ということがひとつのテーマだと感じました。
冨岡三智さんの「ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法」にサルドノ・クスモの名前を久しぶりに見て、なつかしさにつつまれたのもそのひとつです。サルドノさんに最後に東京で会ったのはもう20年ほども前です。そのときのダンスでは彼はすっかり画家になっていて、ステージ上で大きな絵を描いていたのでした。インドネシアの有名な画家が自分に乗り移っているのだ、と言っていたことを思い出します。スタジオには自分が描いた絵画もかざってあるそうだから、それはいまでも続いているのかもしれません。会ってまた話をきいてみたい。
杉山洋一さんの「しもた屋之噺」に出てくる篠﨑功子さんのためのヴァイオリン・コンチェルト「ラ・フォリア」は7月16日に世界初演されます。以下にコンサートの詳細を。

篠﨑功子と仲間たち〜コンチェルト・アフタヌーン〜
2023年7月16日(日)
開演 14:00 (開場 13:20)
紀尾井ホール
【プログラム】
J.S.バッハ  ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 BWV1042
杉山洋一  ヴァイオリン協奏曲「ラ・フォリア」<世界初演>
ブラームス  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
【出演】
ヴァイオリンソロ 篠﨑功子
指揮 杉山洋一/清水醍輝 
篠﨑功子と仲間たちオーケストラ
コンサートマスター 木野雅之

それでは、来月もまた!(八巻美恵)

仙台ネイティブのつぶやき(84)夏至の光の下で

西大立目祥子

 6月は気忙しく過ぎた。ひとつには誕生月だったから。
ハンパに若いときは、誕生日なんてうれしくもなしと思っていたけれど、還暦を過ぎたあたりから、友人ががんと宣告されて闘病もむなしくあっけなく亡くなったり、久しぶりに連絡をとると足首骨折で全治4ヵ月と知らされたり、中には災害で命を落とす知人がいたり。明日はどうなるかわからないと実感することが増えてきて、1年を無事に過ごせるということは相当によろこばしいことだと思うようになった。遠方の友からのお祝いの品をありがたく受け取り、お茶しようと誘われればいそいそと出かけていく。

 思えば、いきあたりばったり無計画に生きてきて、なんとなくこんなところに立っている。生きていくということは、いつも後ろから押し出されるように否応なく前に行かされることなんだ、と感じてきた。つぎつぎ見たこともない風景が現れるので見飽きることはないが、やっていることはといえば、あいも変わらず仙台のまちでぼんやり空をながめ歩き回っているだけ。

 ふっと、じぶんの腕を見たりするときに、見たこともない小さなちりちりのシワがあるのに気づいてじっと見入る。若いときの腕はどんなだっけ。何もおぼえていない。変化が起こるから人は気づくものなのか。いつのまにか何をするにつけても「あと◯年の・・」と、頭に枕詞のようにくっつけてものを考えるじぶんがいる。

 あと何年の梅仕事、と思い立ち、一昨年から梅干しを漬け始めた。えーと、1キロ。そういうと梅干し何十年歴のツワモノばあちゃんたちに一蹴された。最も、効率がわるーい!と。去年は、塩漬けにしたところで思いもかけずにコロナに感染してしまい、赤シソを入れずに白梅漬けで終わってしまった。
 今年はがんばってみようかと、小梅を1.5キロほど梅干しに、青梅を1キロシロップ漬けにし、順調に梅酢が上がり、瓶の中の氷砂糖が溶け出したところで、友だちから連絡がきた。梅の実50キロぐらいもいできたから、取りに来てー。

 一瞬迷ったが、もらいに出かけ、デカい紙袋の底が抜けそうなくらい持たされ帰ってくる。体重計に乗せると5.5キロ。追加で梅干しを3キロ仕込み、シロップの瓶に1キロを投入、残りの傷んだのをジャムにした。
 作業をしながら、こういう梅の仕込みの一連を「梅仕事」とわざわざ「仕事」とつけている理由が、じわりとからだで理解できてくる。この大量の実を前に、段取りよろしく、根気よく手を抜かず、一気呵成に作業を進めるには、たしかに気構えというものが必要だ。ちょっと気がゆるんだりしたら、せっかくの塩漬け梅にカビが発生したりして苦労は水の泡。そもそも、梅の実がコロコロとまあるく育ってくるのをいまかいまかと見計らってもぐところから仕事は始まっているのだ。

 でも梅仕事にはごほうびがあって、それは梅の甘酸っぱい香り。塩漬けでも梅のつゆが上がってくればやわらかないい香りが立つ。瓶や瓶のふたをそっと開けると、ふわっと立ち上がった香りが鼻孔からからだ全体に満ちて、何ともしあわせな気持ちに包まれる。
 もちろん、まだ固いうちの青梅そのものも美しい。手に取るとしっとりとしてマットな肌合いが心地よい。2日、3日と追熟させていくと黄色に染まっていく、そのさまにも見とれる。

 梅が実を太らせていく6月中旬の庭には、植物の圧倒的なパワーが満ち満ちてくる。本格的な暑さはこのあとにやってくるけれど、生きものたちの勢いはピークを迎えて、雨が降り高温という日が何度か続くうち、草や樹木はこれでもか、とばかりに生い茂ってくる。梅雨に入り曇天の日があるとはいえども、夏至のころの日の光のすごさに圧倒される。5月は緑を楽しんでいられるけれど、6月は緑に気圧されそう。はい、ごめんなさい、負けました、許してください、人なんてちっぽけなもんですと、ひれ伏す気分だ。

 それでも、水道のメーター検針の人なんかがくるので、あまりの草ぼうぼうは気の毒だから、意を決して草刈りをしなければならない。帽子をかぶり、首にはてぬぐい、ゴム長をはいて近寄る蚊を振り払いつつ、鎌を片手に奮闘して汗だくになると、だんだん野蛮な心境となって、生い茂る草からエネルギーをもらうような気がしてくるから不思議だ。

 そういうときは、じぶんが人であることを半分忘れ夢みている。人類滅亡の日はそう遠くないうちにきっとくるから、大木を都合で伐り倒す馬鹿なヤツらは消え失せるから、そうすれば思い切り茂れるだけ茂って、地上をおおいつくしたらいいんだ。アスファルトの割れ目から、床板の下から、植物はぐんぐん育ち、夏至の太陽を浴びて天をめざしていくだろう。

娘と乗った観覧車

植松眞人

 その小さな遊園地はもうない。長い歴史を持つ野球場の傍らを抜けて十五分ほど歩くと、とても小さな観覧車が家々の合間に見えてくる風景がとても好きだったけれど、もうその遊園地はない。
 子どもたちがまだ幼かった頃、この遊園地の近くに住んでいて、年に何度か連れて行った記憶がある。私が小さな子どもの頃には休日になると家族連れでごった返していたが、自分の子どもを連れて行く頃には、もうその遊園地は寂れていて、ほとんど客はいなかった。敷地の半分は住宅公園になり、併設されていた動物園もなくなっていた。遊園地の真ん中に四階建てくらいのコンクリートの打ちっぱなしのような建物があり、その中にかつての賑やかだった園内の写真が展示してあった。子どもたちが目を輝かせて象を見ている写真やヒーローショーの写真もあった。少し奥に入っていくと、いまでは考えられないけれど、ライオンとヒョウを掛け合わせて産ませた合いの子動物の剥製がくたびれた毛並みで飾られている。
 その日は、なぜか私と娘だけの二人で、今はないその遊園地に出かけたのだった。娘は幼稚園の年中さんだった気がする。父親によく懐いてくれた娘だったので、二人で手をつないで笑いながら園内を歩き回り、パンダの形をした乗り物に乗ったり、片隅に置いてあるモグラ叩きをして遊んだ。
 そして、最後にあの小さな観覧車に乗ったのだった。観覧車の脇には小さな小屋があり、いかにも学生アルバイトらしき男の子が乗車切符を売っていた。料金は二周で二百円だったか三百円だったか。支払を済ませて、娘と二人で小さな観覧車の小さなカゴに向かい合わせに座る。定員は四人だが、四人も乗れるのだろうかと思うくらいカゴは狭かった。それでも、娘はワクワクした顔をしていて、そんな娘の顔を見るだけで私は幸せな気持ちになれた。カゴはゆっくりとあがっていく。いくつくらいカゴがあっただろうか。おそらく二十もなかったような気がする。高さもビルの十階分もなかったはずだ。てっぺんまで行っても、周囲のオフィスビルの部屋の中がよく見える程度の高さだったと思う。それでも、いつもと違う景色に娘は、あちこちを指さして話している。
「お父さん、おうちはあっちのほうかなあ」
「お父さん、幼稚園はあっちかなあ」
「お父さん、ママはお買い物してるのかなあ」
 そんなことを話して笑っている娘を見ながら、毎日の時間をこの娘を最優先に使っていないという罪悪感のようなものに私は苛まれた。
 やがて、規定の二周目が終わり、カゴが地上付近に着いた。しかし、カゴのドアが開けられることはなかった。あれ、と思っている間に、カゴは三周目をあがり始めた。上がり始めたかごの中から小屋が見えて、さっきのアルバイトがうたた寝をしていた。他に客もいないのだから、昼寝もしたくなるだろう。
「あいつ、寝てるな」
 私が言うと、娘も小屋をじっと見る。
「ほんとだ、寝てる」
「ま、いいか。もう一周だね」
「うん。お得だね」
 と、私たちは三周目の観覧車を楽しんだ。アルバイトは三周目が終わっても起きず、四周目が終わっても起きなかった。
「お父さん、このままお兄さんが起きなかったらどうしよう」
 と娘が言い出したので、五周目が降り始めたあたり、小屋に声が聞こえそうなあたりで、私はアルバイトに呼びかけた。
「おーい。到着するよー」
 アルバイトは起きる気配がなかった。娘も一緒になって叫びだした。
「おーい」
「おーい」
「おーい」
「おーい」
 それでも起きる気配がなかったので、私はカゴのドアを叩いた。甲高い音が周囲に響いた。観覧車の近くを歩いていた人たちが振り返るくらいの音が出て、やっとアルバイトが目を醒ました。しかし、その時にはすでに私たちが乗ったカゴは六周目の上昇を始めていた。アルバイトはカゴのすぐそばまで来ていたが、間に合わず、眠そうなすまなさそうな顔をして、私たちに頭を何回も下げ続けた。
「次で終点だね」
 娘が笑う。
「次が終点だね」
 私が笑う。
 観覧車は六回目のてっぺんにきた。空は薄曇りで遠くに海が見えていた。(了)

話の話 第4話:かくす

戸田昌子

ここにある男がいる。仮に青蛸と読んでおく。なぜ青蛸なのか。それは仮名を考えるときに連想が二転三転した結果である。あえて理由を探すなら、彼が決して青くもなければ蛸でもない、という理由でしかない。彼は見た目には親切そうなおじさんで、所帯持ちにも独身にも見える。人当たりの良い世間師のおしゃべりを心得ており、ペラリといい加減なことを言ってはすぐに梯子をはずす癖がある。たとえばこんなふうである。「7月のパリはいいよね、あれは最高だよ。行ったことはないけど」。「こんどミモザの種をあげるよ、オシャレな家にはミモザが咲いているものだから。持ってないけど」といった調子で、ペラっと何かを言っては自分でひっくり返していく。青蛸は含羞の男なのである。

青蛸は自分の本当の名前を明かさない。当然、住所も謎なのだが、いつも東京の西の方からやって来る。生まれたのは新宿区百人町だという。百人町と言えば、知り合いの能楽師の稽古場や、前衛いけばな作家の研究所があるのに加え、旧知の仏像研究者の家もあって、わたしには馴染みのある地名である。青蛸も芸能関係者ではあるようで、音楽一般への造詣は幅広いが、いささか芸能への雑食ぶりが過ぎ、清水イサムの出待ちしたことがある、と私にポロリと漏らしたことがある。

清水イサムといえば、森山大道の、あれである。『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)に出てくる、極端に背丈の低い喜劇俳優。写真集のなかで、明るい笑顔の奥さんにこどものように抱きしめられたり、華やかな紙吹雪のステージにまぶしく登場する一方で、閑散としたトイレの隅で憂鬱な表情を浮かべてみせている、彼である。その半ば伝説的な人物のステージを見に行って、そのまま出待ちをしてしまった青蛸であるが、「前にも後にも出待ちというのはその一回だけ」と主張している。

しかし青蛸は、森山大道が撮った「Actor・シミズイサム」の掲載された『カメラ毎日』が欲しいばっかりに、私が古本屋に売りに出した掲載号を即日、買いに行ってしまった。それは2年ほど前のことで、私がReadin’ Writin’ BOOKSTOREという台東区寿の本屋さんに自分の棚を持っていたことがあって、そこにこの号を売りに出しますと予告を出したら、青蛸はそれを買いに行ったのである。「店のドアを開けて、脇目も振らずに戸田さんの本棚へと突進していきましたよ」とは、店主の証言。いったい全体、何に食いつくのか、いま一つ分からないところがあるのが青蛸である。

名前を明かさないと言えば、高校生の時の数学の先生が、偽名を使っていたことがあった。その先生の本名を、ここでは仮に吉川武彦としておこう。しかし彼は「吉川コージ」というような感じの、ちょっと芸能人を連想させる名前を名乗って教壇に立っていた。見た目は初老のはげちょびん。いつも胸ポケットにウイスキーの入ったスキットルを入れており、授業中に引っ張り出してはちょびちょび飲む。ふわっといつも甘い匂いがしている。髪も背中もアル中の匂い。

彼はいつも幻覚が見えるなどとのたもうていた。ダメ教師の典型である。授業中、マリー・アントワネットが羽をつけて原っぱを飛んでいるのだと言い始める。黒板に正しいのか正しくないのか分からない数式を書きつけているが、どちらにせよ生徒たちはまともに聞いてない。幻覚の話が出るたびに「先生、やばい」と生徒たちは笑い転げている。そのうちに誰かが職員室から教員名簿を盗んできて、実名が吉川コージでないことをバラしてしまう。先生も先生なら生徒も生徒で、ともにダメダメである。平和な教室。

名前をかくす、と言えば、大学新聞の時の後輩。初めて部室に現れた時からかなり変わっていて、あらゆるものを批判し続けて誰とも話が通じず、懇親会では蟹味噌を入れるために供された蟹の甲羅に「カルシウム〜」と言って齧り付いてしまい、ドン引きされたりしていた。わたしとしては立場上とにかく耳を傾けていたら、そのうち尊敬されるようになってしまい、流れで取材に出すことになった。何をやらかすかわからないので同行したが、インタビュー相手もかなり「とんでいる」少女小説家で、なぜか話が合ってしまい、奇跡的にインタビューは大成功。小説家のポートレートを撮影しようとわたしがカメラを取り出したら、後輩が隣に無理やり入ってきたため記念撮影会になってしまった。苦肉の策でトリミングしてポートレートにせざるを得なかったが、文章はまあまあよく書けていて、小説家は大気にいり。写真まで気に入ってくださり、別の媒体でも使いたいのでプリントを下さいとまで言われてしまった。この成功体験が仇となって、その後、後輩は数々の問題行動を起こすことになる。

その名が偽名であったことがわかったのはその後のこと。事情は省くが、記名記事を基本としていた新聞部としては頭を抱えた。個人情報保護の観点から入部時に学生証を確認するわけにも、と悩み果てた末、結局は「ペンネーム可」ということにして無理やり皆を納得させたが、「あいつ流石にやるなぁ」という感嘆の声までが出現する始末。

ひとはいったい、なにを「かくす」のか。特に口に出さないことが、「嘘」と認知されておおごとになることもある。嘘をついたつもりもないのに、不義を疑われることもあるし、言うとなにか違ってしまうから「かくす」結果になることもある。ひとは、小さな嘘にも騙されるし、大きな嘘にも騙される。騙されるのではないかといつも疑心暗鬼になっていると、かえってなんでも嘘に見えるようにもなる。

「来年から、自転車にも免許が必要になるんだよ。だから自転車の免許を取りに行かなくちゃいけないよ」という適当な嘘をついている人がいた。それを聞かされていた女子はその話を真剣に聞き入っていたが、よもや信じはすまいとわたしは放置。しかしそれが嘘であると彼女が気づくまでは半年を要した。のちほど、なぜ教えてくれなかったのかと問い詰められたが、よもや信じるとは思わなかった、とのわたしの言い訳に、彼女はますますわたしへの不信感を募らせてしまった。嘘をついたのは、わたしではないのだが。

嘘と言えば、Rという友達がやはりペラペラと罪のない嘘をつく人で、彼女はわたしの知る中では最も雑学博識のAB型の典型で、文字ならなんでも読む、読むものがなければ菓子袋の裏まで念入りに読んでしまうような人である。彼女は自分の息子に、「メンマって何でできているの?」と尋ねられて、「ほら、あれ、竹の割り箸あるでしょ。あれをぐつぐつ煮て作るのよ」と教え込み、彼はしばらくの間、それを信じていたそうである。そんな気の利いたことを言ってみたいと一念発起したわたしは、小学生だった娘に「羊はグー蹄目だけど、馬はパー蹄目なんだよ」と教えてみた。とはいえ偶蹄目だの奇蹄目といった類のややこしい言葉など、どうせ覚えてはおらぬことだろうとたかをくくっていたら、その数年後、林間学校で牛の乳搾りを体験して帰ってきた娘「あのね……ママ、パー蹄目っていうのはないんだよ……」とそっと耳打ちしてきた。そんな話はすっかり忘却の彼方であったわたしが「あらまあそんなの信じていたの」と応答したら、少々傷ついた顔をして「ママが知らないんだと思って、教えてあげなくちゃと思って……恥をかいたらいけないから……先生のお仕事をしているのに、間違ったこと言ったらいけないと思って……」と、つぶやいた。子どもは確かに信じやすいのだから、いい加減なことばかり言ってはいけないと、反省することしきり。

世の中には不倫とか横領とか借りパクとか、いろんな嘘や隠し事があるものだが、「隠していた!」とか「嘘をついていた!」という言える類のものは、まだまだわかりやすくて良いのかもしれない。露見しない嘘というのはないものらしいから、追求しなくてもいずれ知れるようになるものなのかな。

青蛸はいいやつだ。近所のコーヒー屋でアイスコーヒーを飲んでいたとき、おしゃべりに没頭したわたしは間違って青蛸のコーヒーを飲んでしまった。あっと気づいてあわててストローを抜き、新しいストローに変えよう、と言ったら、青蛸はケラケラ笑いながら、いいよいいよとストローなしでコーヒーを飲みほした。変な仮名をつけてごめん、青蛸。

そして後日談。先日ふたたび会ったとき、青蛸は「これあげる」と手に持った(使いふるしの)ジップロックの袋をわたしに差し出した。なかに入っていたのは、さやえんどうのような、鞘に入った、カラカラに乾いた植物の種。「これ、ミモザの種」と、得意そうな顔をしている。くれると言われていたものの、どうせまた嘘だろうと思っていたのだから驚いていると、「あげるって言ったでしょ。ミモザの苗なんか、買うと高いよ?」と続けた。わたしが「てっきり嘘だと思った」と言うと、「嘘なんかつきませんよ〜」と嬉しそう。青蛸は決して嘘つきではないのかもしれない。本名も、当面のあいだ、知る必要もなさそうだ。

「図書館詩集」9(すぐそこにある山まで雲が下りてきて )

管啓次郎

すぐそこにある山まで雲が下りてきて
山頂の城が白くかすんで
見えたり見えなかったりして
しずかな昔がそこにやってきたようで
でも昔もじつはやかましくて
ここもかつては戦国時代で
その火種の中心のひとつだったってさ
山地から平野へ
川の流れが生む地形に
歴史が草のように生えてくる
ああ、いやだいやだ
「戦国時代」とは強欲の時代
殺人、略奪、強姦、火つけ
ここでは食えないから奪おう、という残忍な思想を
かれらを食えなくする当の領主どもから
植えつけられれば嬉々としてしたがい
かれらが浸りきったそんな考えが
やがて近代となれば国家の外に向けられたのか
岐阜という名前にひっかかっていた
何がそこで分岐し
どんな丘がなまなましくふくらんでいるのか
運命の分岐を語るのは簡単だが
実際のようすはモヤモヤしてわからない
なだらかな丘陵をつらぬいて
水の龍がうねるのか
でも現実にでかけてゆくと
そこにも地形のドラマがつづく
山地が終わる土地だ
平野がはじまる土地だ
水量のある流れが
おびただしい魚を生む
海から連れてこられた鵜が
かわいそうに人にいいように搾取されている
それも土地の風物らしい
迫る山の上にある城が
心を騒がすけれど
あの城だって城跡にすぎないのだ
城は城を継いでおなじ場所に降りつもる
城跡に城がまた建てられて
時間とか時代とかが圧縮されるわけ
それにしても恐ろしい高さだ
土地をよく睥睨し
世界の終わりを見るのにちょうどいい
信長はここで何を思ったのか
ある人間の生涯を
いくつかの時の断面において見ようとするなら
あるひとつの時刻に
うすいフィルムを挟みこみ
そこに映る存在しない写真において見ることになる
未来を知らないかれらの未来を
われわれは過去として把握しているのだから
残酷だね
意図せずして残酷
彼女や彼の本質的な転回の
あるいは改心の、改悛の、
決意の、決定の、
姿勢や表情もすべてフィルムにくっきりと映って
すべては透明な凧のように空中に浮かんで
びゅんびゅん唸っている
信長にこの城を奪われたのは斎藤なにがし
城を整備したのはその先々代の斎藤道三
自分の息子に殺された道三
いまでも岐阜市では毎年「道三まつり」があるそうだ
なぜ現代にまで武将崇拝がつづくのか
たたるとでも思っているのではないか
道三にしてもそれ以前にこの城の原型を築いた
誰かからその原=城を奪ったわけで
そのまえには砦があって
そのまえにはただ岩場があって
人がこのあたりに来ないころから
猿の群れが風に吹かれていたんだろう
この高みから下を見おろしながら
「ねえ、諸君、この高みからひといきに
長良川に跳びこむことはできるのかな」
「ああ、できるとも、やってみせようか」
猿たちはいさましい
息を呑みながら、あくびをしながら
ふりかえりながら、とんぼを切りながら
奈落にむかって、いや奈落のさらに底の
辺土にむかって
リンボーダンス
いっそ水に入ってしまえば
きみも私も鮎さ
占い好きな魚
運命はお天気と苔のパターンにまかせて
鵜に呑まれないよう
気をつけながら泳いでゆけ
左にゆけば平野なるべし
右にゆけば渓流なるべし
おなじ水でもずいぶん
心がちがう
音響が変わる、すると
時代が変わる
霊魂は不滅だというが
そのありかたとして
つねに滅しながらその場に
つねに湧いているとしか思えないこともある
水がつねに新しく流れながら
川としては同一でありつづけることの不思議
そう、思議にあらず
思議してはならない
思議することができない
不思議とは不可思議
不可能だ
(フシギなどという仏教用語を幼児でも
日常的に使うのだからニッポンは末恐ろしい)
流れるものと残るものの対立は
ずいぶん前からぼくの発想を規定していたようだ
こんな短い詩を以前に書いたことがあった

  「逆説」
  文字は残る
  声は消える

  残された文字はもうそれ以上
  姿を変えない

  消えた声は永遠にゆらめいて
  私を聞きとってと
  私たちに呼びかける

いやね、こう書きながらふと思ったのは
「ながら川」と呼ばれる水のその構造なんだ
川はひとつでありつつ
水は不可算で(まことにふかふか不可思議)
詩はひとつでありつつ
個々の詩は並行して存在することも
別個に継起的に書かれることもできる
詩は水の中を泳ぐ水の魚
一瞬ごとに消滅しながら
次の一瞬にはまた生まれている
(だが生まれるとは自動詞? 他動詞?)
そして「瞬」とは単位になりうるのかな
そんな風に時をあたかも羊羹や羊肉のように
切り分けることができるのかしら
時を時として測れないから
詩が生まれる
詩を詩として体験するためには
時が必要だ
時を時としてやりすごしながら
詩を発見する(予感する)
詩を掘りながらまた
時の水に足を浸す
岐阜は「ながら」の聖地
詩はそもそもそれ自体としては
予感することはできても突きとめることができない
詩はただ「ながら」とともにあり
残余すべて亡きがら、だから
詩に夢中になってはいけない
詩はただ一瞬の
一瞥のうちに
読まれ、その残像が
記憶されればそれでいい
料理しながら詩がある
歌いながら詩がある
運動しながら詩がある
慟哭しながら詩がある
授業中にも詩がある
商店にも詩がある
会社にも詩がある
路線バスにも詩がある
詩はすべてながら詩
詩ながら詩
我ながら詩
あらゆる人生のすぐ横を
二本のレールのような一定の間隔をもって
流れているだけだ
そのうち「みんなの森」にやってきた
この不思議な森は波打つ天井で
ヒトの群れを雨風陽光から守ってくれる
半透明のすかし模様の入った
モンゴルの遊牧民の住居のようなかたちの
ドームが発光して文字を守る
城や詩を考えることに疲れた心を
文字の森が休ませてくれることがわかった
Pick-me-upとして濃いコーヒーをもらって
砂糖黍の砂糖をたっぷり入れ
持参した肉桂と唐辛子を入れて
飲む
ニッケ、ニーケー、サモトラケのニケ
涙が滲むほど辛いコーヒー
さあ今日の読書をはじめようか
「一九八二年、七歳の時、
私は映画館で『龍の子太郎』を観た。
おそらく、ソ連の子どもがこうしたアニメを
観ることの意味を現代人が理解するのは
難しいだろう。私は本物の龍を見るより驚いた。
ショックだった。」
(エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』(河出書房新社、二〇二〇年より)
みごとな回想
よい驚きだ
たちまち図書館が水であふれ
川となり
透明な龍が強烈に体をうねらせ
本がしぶきのように飛び散って
もう収拾がつかない
ぼくはタツノコタロウを知らず
ことばはイメージにむすびつかず
本物の龍ももちろん見たことがなくて
だが「驚いた。ショックだった。」
かれらソ連のこどもたちが驚いたのが
ぼくには衝撃だった
それで頭がぐるぐる回りだした
図書館でありながらここは荒野
岐阜でありながらここはサハリン
姿を変えた森でありながら
すべてはアニメーション
Anima, animus の乱舞
龍の瞬間ごとの出現
翔んでいく
鱗も飛び散り
きみの目に次々と刺さるのだ

岐阜市立中央図書館(ぎふメディアコスモス)、二〇二三年三月二六日、雨

ぼくがおれに変わった日・続編

篠原恒木

おれは昔、ぼくだった。
先月と同じ書き出しだが、気にしないでもらいたい。
「ぼく」だった頃がこのおれにもあったのだ。生まれてこのかた、ずっと「おれ」だったわけではない。

四十年も前のことだ。ぼくは出版社に入社して、週刊誌の編集部に配属された。そう、この頃は「ぼく」だったのだ。右も左もわからず、ひっきりなしに編集部にかかってくる電話を取るのがひたすら怖かった。ぼくは間違いなく会社の中でいちばん仕事ができないニンゲンだった。

当時は「出張校正」というシゴトがあった。
週刊誌はニュース・ページをいちばん最後、つまりは発売日の直前に印刷所へ入稿する。ニュース・ページの入稿最終締め切りは金曜日の深夜、つまりは土曜日の朝だった。その土曜の朝イチに印刷所へ入稿されたニュース原稿のゲラをチェックして素早く校了するために、土曜日の昼前に印刷所へ「出張」して、その場で夕刻までに責了する。これなら印刷所とのやりとりの時間が大幅に省略できるというメリットがあった。以上が当時の出張校正の大雑把な内容だ。

初校ゲラを受け取り、出張校正室に待機している校閲者のヒトビトに配ったり、原稿の疑問点を記事の担当者に電話して解決したり、行数を整えたり、初校ゲラを戻したり、活版印刷の本文部分と写植部分の見出し・写真などの赤焼きを切り張りして校了紙を作るのは、すべて新入社員、つまりはぼくのシゴトだった。当時はすでに週休二日制が導入されていたが、ぼくは毎週土曜日にこの出張校正があったので、休みは日曜日のみだった。そして一年経って、新しい後輩部員が入ってきても、なぜかこの出張校正は相変わらずぼくが担当していた。

印刷所の出張校正室は古びていて、一日中陽の当たらない殺伐とした部屋だった。使い込まれた机を繋ぎ合わせた作業スペースと、その机の上に電話が一台あるだけだ。ぼくはあの灰色の部屋に行くのが憂鬱で仕方なかった。印刷所は国鉄の駅から勾配のある坂をダラダラと上ったところにあったが、急な坂道を毎週ヨロヨロと歩くたびに、気分が沈んできた。

昼前に出張校正室に入ると、やがて校閲者の方々がやって来る。初校ゲラが部屋に届けられる前に、弁当が支給された。この弁当があり得ないほど不味かった。大学を卒業したばかりで、それまでの二十二年間にロクなものを食べてこなかったぼくでも、この弁当は食えたものではなかった。平べったい弁当箱の蓋を開けると、白飯の真ん中に小梅が埋め込まれ、おかずは大きな厚揚げの煮物と少量のきんぴらごぼう、といった「全面的かつ徹底的に茶色」という塩梅だった。肉もなければ魚もない。さぞや味付けも濃いだろうと思われるだろうが、これが全面的かつ徹底的に薄味なのだ。つまりはめしのおかずとしてまったく機能しないという悲しいものだった。だが、文句をいう訳にもいかず、ぼくは毎週その弁当を黙々と食べていた。
「よく食べるなぁ。おれの分も食べていいよ」
校閲者の方にそう言われ、固辞できず二個目の弁当に箸をつけて、むりやり胃に押し込む日もあった。辛かった。
そうこうしているうちに朝イチで入稿された原稿が初校ゲラになって出張校正室に届けられる。ぼくはそのゲラを校閲者の方々へ配り、自分の分も確保して、本文に目を通す。そこでぼくは必ず愕然とする。
「今週もやっぱりそうか」
と、途方に暮れるのだ。初校ゲラの余白に、原稿が二十行もハミ出している。週刊誌の記事は短いものだと見開き二ページだが、その二ページの原稿で二十行も超過しているということはどういうことなのか。答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくは憂鬱な気分で、その記事の担当者の自宅へ電話をする。出ない。早朝に原稿を「あらよっ」と入稿して、今頃は布団にくるまっているのだろう。ぼくはしつこく電話を何回もかける。ようやく出た相手は不機嫌そうな声だ。
「なんだよ」
「あのですね、本文が二十行もオーヴァーしているのですが、どうしましょうか」
「そっちでなんとかしてくれよ。こっちは徹夜明けなんだよ」
実にあっけなく電話は切れる。徹夜明けだと言うが、ぼくだって昨夜は午前三時まで編集部で仕事していたのだ。そして約百六十行の本文が百八十行になっているのだ。「なんとかしろ」と言われても、二、三行のハミ出しならなんとかするが、二十行を削るには本文中のエピソードをひとつ、場合によってはふたつ、バッサリと落とさなければならない。だが、その記事を直接担当していないぼくが勝手に
「よおし、この証言とこの発言をカットしちゃえ」
と、削ることはできない。校閲はすでにチェックを終え、疑問点を鉛筆で指摘している。ここは初校ゲラを一刻も早く戻して、再校ゲラを出さなければならない。ぼくは仕方なく、また二十行ハミ出しの担当者に電話する。
「ああ、何度もうるさいな」
「本文中に疑問点がいくつかあります。そして二十行オーヴァーはどこを削ればいいでしょうか。で、写真のキャプションがすべて抜けているのですが」
「キャプション? ああ、そう言われれば書くのを忘れたかもな」

次の記事のゲラを見ると、こちらは本文が十行足りない。「ゲタ」と呼ばれる記号のようなものがむなしく本文の終わりに十行分並んでいる。これはどういうことなのか。繰り返しになるが、答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくはますます憂鬱になり、次の十行不足担当編集者の自宅に電話する。三回目でようやく繋がった。
「なんだよ」
「あのですね、本文が十行足りないのです」
「十行足りない? そんなはずないぞ。ちゃんと行数は揃えたからな」
「しかしですね、実際に十行分のアキが生じているのです」
「そっちでなんとかしろよ。なんか足せばいいだろう」
再びあっけなく電話は切れる。ぼくは仕方なく初校ゲラではなく、生原稿を校閲者から借りてチェックする。当時の生原稿は「ペラ」と呼ばれていた二百字詰めの原稿用紙に黒鉛筆で手書きされていた。正確に言えば二百字詰めではない。週刊誌の字詰めに合わせて、一行十三文字のマス目が十行縦に並び、その下には書き込み用の余白スペースが設けられていた。
その生原稿をパラパラめくっていくと、六行分の手書き文章が赤鉛筆で削られていた。よし、この六行を復活させればいい。六行のなかに危険な文言、あるいは記事になったときに問題になりそうな発言などが入っていないかを確認して、大丈夫だと判断したぼくは初校ゲラに手書きでその六行を赤鉛筆で加えていき、残りの四行はどうにかこうにかやりくりする。

また別の初校ゲラが届いた。こちらは二行ハミ出しなので、なんとかなるのだが、校閲者から疑問点がいくつか指摘された。これは担当編集者本人でないと解決できない。ぼくは三人目の編集者の自宅に電話する。夫人と思しき女性が出た。
「ご主人さまをお願いしたいのですが」
受話器の向こうで一瞬の沈黙が流れて、
「今日は締め切りで帰らないと申しておりましたが」
と、戸惑ったような声が聞こえる。
いや、締め切り日は昨夜で、今日は締め切り明けなのですが、とは口が裂けても言えない。二十二歳の坊やでもそのくらいの機転は利く。
「失礼いたしました」
受話器を置いて、ぼくは再び途方に暮れる。

そんなとき、出張校正室に置かれた壊れかけのTVからニュースが流れてきた。有名芸能人の急死を伝えている。ぼくは嫌な予感がする。数分後、出張校正室の電話が鳴った。編集長からだった。
「二ページ、記事を差し替えるぞ。何を落とす? ラインナップを読み上げろ」
ぼくは今日校了分の記事のタイトルをすべて電話で伝える。編集長の判断は、偶然にも二十行ハミ出しの二ページ記事だった。このことがこの日唯一の幸運な出来事だ。
「レイアウト・マンと記者、アンカーに連絡してくれ。芸能班のデスクにもな。あ、おまえはいまからすぐ編集部に行って、顔写真を何枚か選んでこい。頼むぞ」
腕時計を見ると午後一時を過ぎていた。校了のデッド・ラインまであと四時間しかない。ぼくは大急ぎで初校ゲラを戻して、各方面に電話をかけ、あたふたと印刷所を飛び出し、編集部へ向かい、写真がストックされているキャビネットから生前の芸能人の顔写真を十枚ほど選んで出張校正室に戻る。机の上には差し替えページを除いたすべての再校ゲラが置かれていた。めでたくすべて行数はピタリと合っていたが、これらも素早く捌かなければならない。そして差し替えページの進行作業も並行して進めないと間に合わなくなる。いまから一時間ほどで責了者である編集長が出張校正室にやって来る。あっ、そうだ。表紙のタイトルも差し替えなければならないはずだ。さっきの電話で編集長は何も言ってなかったけれど、九十九パーセントの確率で表紙タイトルも差し替えだろう。ああ、印刷所のヒトに表紙の校了紙を引き上げてもらうようにとお願いしないと。いや、表紙はもう印刷を始めているかもしれない。うおおおおおおおお!

こんなことを毎週、二年間も繰り返せば、「ぼく」は「おれ」になるに決まっている。ココロがすさんでいくのだ。あの日々以来、ぼくからおれになったおれはおれのままである。そんなおれを誰が責められようか。おれは今でも深夜に悪夢を見る。本文の行数を揃える夢だ。夢のなかのおれは必死に初校ゲラの本文を削ったり足したりして、行数を指定通りに整えるのだが、出てきた再校ゲラはきまって二行ハミ出していたり、一行足りていなかったりして、何度繰り返しても一向に行数が合わないのだ。四十年前のウマシカたちのおかげで、おれはいまだにトラウマを抱えている。

どうよう(2023.07)

小沼純一

ねこがほしをみるように
ねこがほし
ねこがほしい
ほしがって
とれるもてるわけじゃない
ねこはそこにいるだけで
かうのはできても
かうのはかり
どこからか
どこのだれかは
しらないが
かりている
だれのでもない

しめきりまでにはおわらせて
つづけるべきはそのあとで

まちあわせにはあのみせで
はれたらさんぽにまいりましょう

はなはしぼんでみちはじゅうたい
みせはしまっはしおれる

あしゆびはれてあるけない
まわりぐるぐるまわってる

からだじゅうにはあかいしっしん

いけない 
いかない
いきたくない

かたいやくそく
やくそくどれも
あなたとわたしかわらなければ

いけない
いかない
いきたくない
いえもない

よていはみてい
みえないみらい
みていたいのは
かってなみらい
よていはみんなかていのうえで
いきていたらとくちにはださず

ふー ふー
あついおちゃ
さますよう
どうして
こういうくちをする
じぶんのからだが
いとわしい
おもいどおりになりゃしない
どっかにふた

がかかってる
はい

それとも
しんぞう

つめたい
まなざし
わかってる
しょうがない
ふー ふー
そうそう
おじいちゃんも
おなじだった
やっぱり
ふー ふー
してたっけ
から

ってにてるんだ
しょうがない
って

むもーままめ(30)月を弄ぶ、の巻

工藤あかね

子供の頃から、身近なもので一人遊びするのが好きだった。
夕方、西日の入る場所を探して、軽くレースのカーテンを締めると目をぎゅっと瞑ってみる。しばらくすると薄オレンジ色に透けた目の奥に、何やら模様のようなものが見えてきてウニョウニョと動き出すのだ。この模様がどう動いてゆくのか観察して、よく遊んだ。ただしこれは、ずっとやっていると頭がくらくらしてくるので、自然と強制終了になってしまうのが玉に瑕なのだが。

鉛筆と紙を用意し、何も考えずに落書きし続けるのも好きだった。最初うさぎの絵を描き始めたとすると、手を適当に動かしているうちにいつのまにか足がムカデのように増えていたり、変な花が頭に咲いていたり、背中に翼が生えたり目は宇宙人のように大きなアーモンド状になってきたりして、これまでみたことがないような生き物になってくる。一つ描けるとそのそばから、無限にちょっとおかしな生き物や文字が湧き出してきて手がどんどん止まらなくなる。紙が落書きで埋まっても隙間や、すでに描いたところにも重ねて描いていったりして、すごい情報量のあるような、ないような様相になっていくのが面白かった。

大人になってからのある時のこと。合唱団の子供達がたくさんいる現場で歌ったことがある。終演後に子供たちの一人が、記念に「サインください」と言ってきたので、何となしに手を勝手に動かし、適当な絵を描いて渡してあげた。それを見た子供はなぜか大喜び。その子は子供たちの輪の中に戻っていったが、そこで私の絵を見せた途端に歓声があがった。すると来るわ来るわ、子供達が私の落書きつきサインを求めて列をなし始めたのだった。これはちょっと嬉しい思い出として、心に残っている。

そのほかにも、今でもときどきやるものがある。月をふたつに増やして衝突させる遊びだ。それは満月か、それに近いくらい月が太った時にやるのがいい。方法は簡単。月を見上げる時に目の焦点をぼかすだけ。よく新聞の片隅などに掲載されている、目をよくする3Dトレーニングみたいなものがあるが、つまり要領はそれと同じである。月を見る時に、目の焦点をぼんやりとずらしてゆくと、やがて月がふたつに見えてくる。気合いで三つまで増やしてもいいが、まずは二つがいい。焦点をずーっとずーっとずらしてゆくと、自分的にはこれ以上無理というくらいに、月と月の距離が離れてくる。その刹那から目の筋肉をゆるめると、二つの月が一つに収斂するようにしてぶつかりあう。目の筋肉をゆるめるスピードを変えると、ゆっくりぶつかったり、急速に衝突したりと調節も可能になる。自分で効果音をつけてヒューーーーーズドーンなどと、口走ってもいい。

大人になっても、満月の日にはついついこの遊びをしてしまう。夜、帰宅途中に満月を発見すると、歩きながらやってしまうこともあるのだが、よくよく考えると、歩きながらやるのは実はよくないのかもしれない。まず、月を眺めていると周囲に対する注意が散漫になるから、道端では事故に気をつける必要があること。もうひとつは…極端に怪しい人の目になるので、歩いてきた向かい側の人を怖がらせているかもしれないこと。

仲井戸麗市(チャボ)の洋楽カバー

若松恵子

古井戸、RCサクセションのギタリストであった仲井戸麗市(なかいどれいち)、通称チャボが有観客のライブを再開した。同じ時代を生きて、現在進行形の彼の音楽を直接聴けることを幸せなことだと思っていたので、有観客のライブ再開はとても嬉しい。

南青山のライブハウス「曼荼羅」で、5月26日の第1回めは、梅津和時、早川岳晴、RCサクセションのドラマーの新井田耕造をゲストに、久しぶりにチャボがエレキギターを弾きまくる、しびれるバンドナイトだった。(かっこよかったな~チャボ)

そして2回目の有観客ライブが、6月23、26、27日の3日間、全曲カバー曲を演奏するソロライブとして行われた。コロナ感染に注意しつつ観客数を抑えなければならないので、聴きたいファンがみんな来られるように3日間のライブとなった。

洋楽のカバー曲は、著作権の問題で配信では演奏できないようで、今回は有観客のみで、そんな制限は気にせずに、チャボのカバーをたっぷりと聴くことができた。優れたミュージシャンは、みんなカバーの名手だけれど、チャボもそんなミュージシャンのひとりだ。愛してきた曲を、自分を通過させて、今度は自分の表現として演奏するのがカバーだから、原曲の素晴らしさにチャボの魅力が加わって、本当にしみじみ味わい深いのである。埋もれた名曲を発掘して磨いてみんなに届ける、そんな役割もカバーにはある。

洋楽のカバーに彼は日本語詞を付けるのだけれど、ほとんど直訳ではなくて、彼オリジナルの歌詞が歌われる。原曲通りでないと言っても、決して替え歌ではなくて、原曲の持つスピリットが、日本のロック少年にはこんな風に共感されたよという意訳で、そこも彼のカバーの魅力となっている。演奏の合間に彼が語ることが、歌にさらなる陰影を加える。

ビートルズのイエスタディは、「昨日という夏、夏という人生」と歌われる。ボブ・ディランのアイ・ウォント・ユーは、「アイ・ウォント・ユー、会いたいぜ」と歌われる。昔から知っている歌が、チャボのカバーによって、今再び新たに胸に届く。知ってる曲をみんなで大合唱とはいかない、とてもとても個人的な、音楽空間なのである。大勢に聴いてもらいたい、もったいないと思うけれど、曼荼羅に出かけて行って、直接聴くのが一番良いのだ。

有観客ライブが再開されて嬉しい。今後も貴重な機会をとらえて出かけていきたいと思っている。

『アフリカ』を続けて(25)

下窪俊哉

 先月、急に思い立って、アフリカキカクの年譜をつくってみた。ある人に話したら、「ネンプ? 年表ですか?」と驚いたような顔をされた。
 私は年譜を読むのが好きなのである。例えば講談社文芸文庫を買うと、必ず巻末についているあれだ。
 自分のやってきたことにかんしては、若い頃には全て頭の中に入っていて、いつでも取り出すことができた。それが最近は全くそういうわけにゆかなくなり、けっこういろんなことを忘れているということがわかってきた。
 3年前に『音を聴くひと』という自分の作品集をつくった後、それを読んだ旧知の人から連絡があって、「10年ちょっと前にも下窪さんの本をつくる計画がありましたよね?」と言われて驚いた。全く覚えてないのである。指摘されても思い出せないとは、どうしたことだろう。
 最近、そんなことが徐々に増えてきたので、アフリカキカクにかんすることだけでも、まとめておいて、いつでも眺めることができるようにしよう、と考えた。「水牛」で「『アフリカ』を続けて」を書き続けるのにも役立ちそうだし、と。せっかくならウェブサイトで公開してしまおうということになった。

 2005年10月に『寄港』第4号を出して、休刊したところから始まる。『寄港』を『アフリカ』の前身とは言えないような気がするが、『寄港』を続けていたら『アフリカ』はなかったはずなので、大きな転機となる出来事だったと言っていい。
 じつは止めるのは嫌いじゃない。止めると、必ず新しい流れが生まれるからだ。何かを止めたいとか、あるいは止めたくないと考える時というのには何かありそうだと思う。
 そこから2023年3月の『アフリカ』vol.34まで、ざーっと眺めてみる。
 最初の数年は、編集人である私の失業、再就職から、ついには会社勤め自体を止める決断をして「無期限の失業者/自由人」となる流れを背景に、続かないはずだった『アフリカ』を年2冊のペースでつくり続けてしまっている。
 その後は、項目の多い年と、少ない年があるのがわかる。
『アフリカ』を隔月で出していた2012年〜13年は際立っているかもしれない。どうしてそんなことができたんだろう? いまとなってはうまく思い出せない。そのことだけをやっていたのなら、わからないでもないが(それでも大変そうだ)、そんなはずはない。幾つかの仕事を始めたばかりだったし、逆に余裕はなかったはずである。そんな中、初めてのトーク・イベントまでやってしまっている。当時はしかし、そんなに大変だという意識はなかったような気がする。
 逆に、もっともっとできるはずだと感じていた。いわゆる”ランナーズ・ハイ”というのに近い状態だったのかもしれない。
 似たようなことが、本を何冊も立て続けにつくった2021年前後にもあった。文章教室を毎週やっていた2018年にも近いことが言えそうだ。
 それらの時期を思い返してみると、いずれも(年譜には書いていないが)印象深い対人トラブルが起こっていた。いつもは上手く対処できていることも、ハイになっている時期には、できなくなるということかもしれない。あるいは、トラブルも起こるべくして起こっているのだろうから、現状に風穴を開けようと躍起になっているのかもしれない(しかしトラブルはない方が楽なので、このことは今後、頭の隅に置いておきたい)。
 一方、例えば2017年などは、アフリカキカク以外の仕事で忙しかったので、記述が極端に少ない。それでも『アフリカ』は1冊、ちゃんと出しているのである。
 そうか! と思ってざーっと確認してみると、どんな状況であれ、2006年以降『アフリカ』を1冊もつくらなかった年はないのだ。「『アフリカ』を続けて」いると言うからには、最低でも年1冊つくっているというのは驚くようなことではなさそうだが、その事実を年譜の中に置いて眺めてみると、何だか不思議な気がする。

 いろんなアイデアを思いついて実行はするのだが、殆どの人にはウケないという特徴が全体にわたって言える。ただし、信じられないくらい深く伝わっている人もいるのである。たくさんの人にウケたら、深く伝わる人も増えるのかどうか、そのへんはよくわからない。

 そんなことを続けて、もう17年、これまでやってきたことを隠さず(忘れていることはまだあるかもしれないが)ズラッと並べて見せて、私は平気なのだ。清々しい気持ちがする。そんなことは当然のように思っていたが、誰でもそうだというわけではないらしい。つまり過去の仕事、以前の作品は封印しておきたい人もいるわけだ。
 アフリカキカクには17年前のものと、いまのものを並べて同じ雑誌ですと言って見せることができるのである。何かを止めたことすら大した分断ではないと感じているところが自分にはある。ものすごく嫌な出来事があっても休み休み思い出し、あのことがあったからこそ、その後があったと考える。

『アフリカ』を始める前に書き残しておいた文章によると、『寄港』を止めよう(休もう)と思った大きな理由は、他人から要求されて無理やり働かされているような気分になってきて、嫌気がさしてしまったからだそうである。当時は会社勤めを始めたばかりで、余裕のない中、短い休日の時間をその無償労働に当てていた。その文章の中には、「参加者から対応に困る妙な苦情が来たりもした。これは地獄だと思った。」という記述もある。
 なるほど、『アフリカ』を始める時、「続ける気はない」などと言っていたのはある種の人たちへ向けたハッタリだった。これからは好き勝手にやる、何か言いたい奴はあっちへ行け、ついて来るなよ、というわけだ。自分だけでなく、みんなもっと好き勝手にやればいいのにと思うこともある。好き勝手にやると、責任が芽生えるというのか、どうなるか? というと、何があっても他人のせいにしなくなるということではないか。アフリカキカクという場で起こった全てのことを、私は受け止める。好きこのんでそうしているのである。

 私はいまのところ、『アフリカ』を止めたいとも止めたくないとも思っていない。

イスタンブールでマンサフを食う

さとうまき

カハラマンマラシュで被災した家族にお見舞金をいくらか渡して、イスタンブールに戻ってきたときには、雨も上がっていた。今回いろいろと面倒をみてくれたシリア難民のムハンマッドは、家に招待してくれて、晩飯をごちそうしてくれるという。妻に電話して、マンサフと呼ばれる家庭料理でもてなすように指示していた。実は、僕はこのマンサフがどうも苦手なのだ。マンサフとは羊肉を、ジャミードと呼ばれる固形ヨーグルトを溶かして煮込んだものなのだが、とってもくっさいのである。しかし、うまく断る理由もない。

イスタンブールの飛行場は、数年前に新しく森を切り開いて作られた。周辺に戸建ての新しい街が作られつつあり、市中よりも家賃が安いのかシリア難民も最近多く住み着いているという。ムハンマッドがドアを開けると女の子たちがムハンマッドに抱き着いてきた。「娘さん?こんにちは!」とあいさつすると、「この子たちは、兄の娘で、戦争孤児なんだ」とムハンマッドが説明してくれる。ダラアで爆撃に巻き込まれ、両親は即死。女の子だけが3人残された。お爺さんが、彼女らを連れだし、先にトルコに難民として避難していたムハンマッドに合流して一緒に暮らしている。ムハンマッドが自分のこどもと一緒に面倒を見ているのである。

真ん中の女の子は、8歳くらいなのだが、特に甘えん坊でムハンマッドに抱きついて離れない。もうずいぶん前にベツレヘムの孤児院を訪れたことを思い出す。イスラムの世界というよりは、家族の問題なのかもしれないが、結婚前に妊娠したりしたら、一族の名誉のために、母子ともども殺してしまうことは、しばし起こりえるので、病気で入院したことにし、生まれた赤ちゃんを引き取る施設があった。カトリックでも堕胎が許されないので同じように子どもを出産してこっそりと引き取っていた。そこへ見学に行った時、子どもたちが抱きついてきて離れようとしない。この子たちは、愛に飢えているのだ。全く同じような感じがした。

思えば、トルコには340万人をこえるシリア難民が暮らしている。トルコとしても、シリア難民を今後どうするのか、大統領選でも、野党の候補はシリア難民を帰還させることを公約したし、エルドアン大統領も、強制送還はしないが、100万人は帰還させたい意向を選挙戦で語っていた。今回地震の難を逃れたシリア難民ですら、将来を思えば明るい材料はないのだ。

さて、いよいよ夕食だ。アラブ式は、机の代わりに、床にビニールシートを弾いて、そこに大皿の料理が並べられて、それをみんなで取り分けて食べる。ついにマンサフが登場。ところが、羊の代わりに鶏肉を使っていたので、臭みもなくてとてもおいしかった。

子どもたちの笑顔! ムハンマッドも通訳のアブドラも、そして運転手もとても優しそうな顔をしていて、いい奴なのである。みんな、マンサフ食べて幸せな気分。故郷の味は決して忘れることはない。

おしらせ
イラク戦争から20年「メソポタミアの未来」展を開催
7月26日ー8月28日 11時~19時
赤羽「青猫書房」
さとうまきが今回のツアーで最終目的地としたイラクで手に入れた子供の絵や、版画作品などを展示します。
https://aoneko0706-0828.peatix.com/

人感センサー

北村周一

梅雨に入る
まえに来ている
大型の
二号台風
卯の花くたし

命日が
刻まれてあり 
三月の
地震のあとの
六月の雨

重さから
解かれしきみが
虹いろの
灰となりつつ
散りゆくまでを

きみひとり
ねむる木箱の
静けさを
乱さぬように
しぐれふる雨

運ばれゆく
柩のうえに
翳されし
雨傘黒きが
二つ三つほど

毎日を朝日日経神奈川ときたりしのちに東京にする

点滴の
針の刺しどこ
あぐねいる
看護婦さんの
荒れたゆびさき 

静かなる
青のめぐりに
指の先
あててききいる
赤き血の音

命日はみつけられたる日とききぬ
 独り居の女流画家のいちじつ

ねてはさめ
さめてはみいる
銀幕の
繋がるまでの
撓める時間

ほのぼのと
熱き湯いだす
置物の
ふたつちぶさが
男湯にあり

うれいなき
ひとのからだの
軽々と
浮くも沈むも
坪湯にひとり

のむ前の
ひとときこそが
愛おしい
夏でも燗の
酒と決めつつ

紅生姜
なくてはならぬ
それのため
走り買いゆく
次男のさだめ

この家に人の影なき午前二時 
ねむれぬ者は
汗掻くのみに