『アフリカ』を続けて(28)

下窪俊哉

 前回は途中まで呑気に「出来ないこと」と「帰ってくる場所」について書いていたが、向谷陽子さんの突然の訃報を電話で受け、しばらくは耐えていたが、もうこれ以上は書けないと思い、亡くなったことを伝える文章を添えて、それで終わりにした。
 ふり返ってみれば、亡くなった夜に、私はそのことをまだ知らなかったが、『アフリカ』に送られてきた「言葉にならない喪失の体験」について書かれた文章を読んで、返信のメールを書いていた。何日かたって、そのテキストが、私の気持ちに寄り添ってくれるように感じられてきた。何も言わない、何かよくわからない音の中で、一緒に座っていてくれている。

 いろいろなことを思い出しながら、これまでに向谷さんが『アフリカ』の表紙のために切った作品、切り絵をスキャンしたデータを整理して制作順に並べ、パソコンの画面上で眺めてみた。
 亡くなった直後には、次号の『アフリカ』へは切り絵が届かなかったのだから、切り絵が不在の、文字だけが置かれた表紙の『アフリカ』をつくろう、と考えていた。それが『アフリカ』にとって喪に服すというか、追悼の仕方になるだろう。あの有名なホワイト・アルバムのように? 急に訪れた大きな転機を前に、まずは白紙を受け入れよう、と。しかし彼女が『アフリカ』に寄せた全81作品をくり返し眺めるうちに、考えは変わってきた。編集人が意図的に、喪失や不在を際立たせるようなことは、しない方がいい。これまでと変わらず、一緒につくろうじゃないか。
 向谷陽子の作品は、切り絵としての技を見せつけるようなところがない。いま何を切りたいかというモチーフ集めから始まり、そのデザインと、切り絵という方法が、上手く絡めば絡むほど力強い〈絵〉となる。
 毎号、表紙と裏表紙のために、2枚の新作を送ってもらっていた。
 81作あると書いたが、『アフリカ』最新号はvol.34なので、合わせると68作。残りの13作は表紙にも裏表紙にもなく、ページの中に置かせてもらうようにしていたが、殆どは目立たない扱いになっている。とくに初期の頃は、余力があったのか暇があったのか、そうではなくて試行錯誤の結果だったのか、多めに送られてくることがよくあった。中には、切った作品を鮮やかな色の和紙のようなものに貼り付けた、カラーの作品もある(『アフリカ』は全てモノクロ印刷なので、その色は消えてしまったのだけれど)。
 作者本人は、私から誘われるまでに自分の作品を発表しようと考えたことが、一度でもあったかどうか。『アフリカ』を除くと、おそらく知人・友人に宛てたハガキぐらいでしか”発表”していないはずである。
 私たちは20歳前後の頃にア・カペラのコーラス・グループをやっていた関係なのだが、その時代の友人たちは殆どが疎遠になり、いまでは音信不通だ。『アフリカ』に書いている人たちは、ほぼ全員、彼女と顔を合わせたことがない。やりとりも私との間にしか存在せず表にも出てこなかったので、どういう人だったのか、誰も知らない。親しみを覚えつつ、「どこかミステリアスな存在だった」と話してくれた人もいる。
 みんなが知らない人の追悼文集は、つくれそうにないし、唯一人私の中にあるのは、ごくごく個人的な思い出ばかりだ。外向けに発表するようなものではないだろう。『アフリカ』の切り絵についてを例外として。
 そんなことを考えながら過去のデータを探っていたら、2013年の夏に珈琲焙煎舎で開催した「『アフリカ』の切り絵展」の記録写真が出てきた。それを見て驚いたのだが、展示用に選んでもらった作品のひとつひとつに、作者のコメントが添えられている。すっかり忘れていた。ああ、彼女のことばが、残っていた。当時のコメントを読んでいると、それがきっかけとなって思い出されることが、また次から次へと出てきた。
 そして、これを使わせてもらって、向谷さんとつくる最後の『アフリカ』を編んでゆこう、と決めた。

 7月、最後に手紙を書いた時に、いま、ハーモニー・グループの話を書いているよ、と伝えたのだった。若い頃、もっとも身近にあったそのことをなぜか書いたことがないと気づいて、というのは半分嘘で、かつての自分たちをモデルにしたわけではないのだが、でも半分は本当だ。あの経験と、いま書いている原稿は、きっとどこかで通じているはずだから。
 その原稿は8月末の時点でかなりのところまで進んでいたのだけれど、思うところがあって一度止め、はじめから書き直すことにした。自分の中の気分というか、音の響きが、あの出来事によって大きく変わってしまったから。

 思い出すのは昔のことが多いのだが、『アフリカ』の今後にも目を向ける。最近、自著を出した仲間がふたりいるので、その2冊については、内容を深めたり、拡げたりするような企画を『アフリカ』誌上でやりたい。
 そんなふうにして、『アフリカ』はまた、自然と浮かび上がってきてくれた。

 それにしても、これで『アフリカ』はますます止められなくなってしまったと思う。向谷さんに「わたしがいなくなったから『アフリカ』が終わってしまった」と思われたくないから。この後、『アフリカ』の表紙のバトンを受けてくれる人は、どんな人だろう。いまは何も決められない。アイデアを胸に秘めて、なりゆきの風に吹かれていたら、きっとまた、よい出会いはあるだろう。でも、いまは何も決められない。
 そこで私はハッとする。ああ、そうだった、『アフリカ』は、続けないんだったね! 続けようとしない。ただ、次の1冊をつくるだけだ。またそうやってやってゆこう。

むもーままめ(32)2023年8月3日

工藤あかね

凍える雲

透きとおる青を覆うのは
氷河を映し取った夏雲
見上げれば
地の溶炉をひととき忘れる

あきれるほどに
蒼白の敷布は果てしなく
水の波紋は
時の記憶を封印する

大胆に連なり
浮かぶ氷山は
なにものにも侵されず
矜持に満ちる

極東のちいさな檻で
囚われの白熊が遠吠える

天は血に染まり
凍える幻想は
しらじらと溶けた

話の話 第7話:まずいかうまいか

戸田昌子

友達と待ち合わせをした。約束したJR御徒町の駅前に、わたしより早く到着した友達は「いま⚫︎⚫︎ダ焼きの前にいます」とメッセージを送ってきた。慌てたわたしは「まって!⚫︎⚫︎ダ焼きは買っちゃだめ!」と大急ぎで電車の中からメッセージを送った。なぜならそれは「⚫︎ンダ焼き」と名前はついているものの、中身はあきらかに、あの「ベビーカステラ」だからである。飲みすぎた深夜などに正気を失った状態で買ってしまうあれは、いつもおいしかったことがない。それを知っていながらつい買ってしまうのは、その実態に反してそれがいつも、とてもおいしそうな匂いを発しているからである。鳩尾いわく「買って後悔しなかったことがない」という代物。街中でそうそうまずい食べ物に出会うことが少なくなった昨今でも、毎回ハズレを引くことが可能な食品として名をはせている。

21世紀に入って、世の中からはそうそうまずい食べ物が減った気がする。20世紀には、どこか出かけた先でえもいわれぬ食べ物に出会うチャンスがあった。尾道のバケツチャーハンとか、四谷駅前の「来々軒」の手のつけようのないほど伸び切ったラーメンとか。ちなみにこの店の、味の逃げ場のないチキンライスは影の最強で、自分を試してみたい時に頼むのがオススメだと夫は主張するが、わたしは試したことがない。一方でおいしい食べ物に出会う才能のある人というのはいて、数ある選択肢のなかで抜群のセンスを発揮して、アタリの店を引くのである。そういう人は「わたしは食いしん坊だから、ぜったい失敗したくないから勘が働く」のだと説明する。わたしはその真逆のパターンで、「ここでいいかなー」と手を抜いて選び、口に入れたとたんに無の表情になってしまうことがしばしばある。たとえばいま住んでいる駅前に、かつてあったそば屋。味わい深い下町にあこがれて転居を決め、昼飯を食べようとなって、それならそば屋なんかいいんじゃないかと夫とふたりで入ったその店で、わたしはざるそば、夫はかけそばを頼んだ。しかし夫はあろうことか、なぜかそこで大盛りを頼んだ。特大のどんぶり鉢で運ばれてきたそれには、運んできた店主の親指が、汁のなかに見事にインしていた。つまりは汁が十分に熱くないのだということがすぐに見てとれる状態だったということである。茹で上がったそばのぬめりを洗ったあと、湯をかけて温め直す手順は省かれたのだろう。ぬるいかけそば大盛り店主の親指入り。そしてそば自体も汁からこんもりと溢れかえり、さすがの夫も食べ切ることができなかった。ひそひそと「なぜ大盛りを頼んだの……」とたずねるわたし、「だってお腹がすいてたんだよ……」うつむきがちに答える夫。その店は数年後に潰れ、そのあとコンビニになった。

昭和の時代には、もらったはいいけれどまずいご当地土産というのもよくあった。たとえばハワイ土産の定番だったマカダミアナッツチョコレート。わたしの小学生時代はバブル全盛期で、八百屋のおやじさんでさえゴルフ会員権などを買っていた時代である。我が家はバブルの恩恵を受けることがなかったので、わたしはといえば、その八百屋で白菜2個、キャベツ1玉、玉ねぎ2袋、にんじん2袋、ピーマンに長ネギなどのご無体な買い物をひとりでしていた小学生であった。話を戻すと、マカダミアナッツチョコレートである。このころはハワイ旅行が流行っていたので(松田聖子全盛期であるからして)、クラスに2、3人が、夏にハワイへ家族旅行する。すると土産は当然、マカダミアナッツチョコレートになる。夏休み明け、得意げに教室で配られるそれは、日本では馴染みのないナッツが入っていて、それがマカダミアナッツであった。ナッツと言えばピーナッツかアーモンドくらいしか食べたことのない小学生にとっては、甘すぎるチョコレートをまとうこってりと油っこいそのナッツは、確かに珍しいものだった。しかし、牛肉すら食べたことのなかった昭和の欠食児童にとり、マカダミアナッツの油脂は強すぎてお腹に重たい。チョコレート自体も、日本のチョコレートと違ってざらざらと溶けにくいし、とにかく甘ったるい。はっきり言えば、まずい。ハワイのなんたるかすらよくわからない小学生にとっては、羨ましくもなし、おいしくもなし、という、えもいわれぬ記憶として残っている。ちなみに牛肉はその後、関税自由化の影響によって、わたしの口にもしばしば入るようになった。

チョコレートと言えば、連想するのは大相撲チョコレートである。わたしの母の叔父、すなわち大叔父が福島の人で、百姓であった。彼は大相撲が大好きで、大相撲のお茶屋さんで長年アルバイトをしていた。本場所期間中は東京、大阪、名古屋、福岡、いずれにも行く。東京場所のときは、我が家に滞在する。百姓らしい、たくましい小さな体を持ったすてきな人だったが、鎌で自分の指を切ってしまい、病院へ行かず放置したら、その形のままくっついて、変な方向に親指がくっついている。とまれ、大相撲では、やきとりや赤飯などのお弁当が提供される。大叔父は余った弁当をいつも持ち帰るので、我が家の欠食きょうだいたちは、それを温め直して食べるのを楽しみにしている。いつも谷内六郎の絵がついたふりかけが配られるので、おまけのカードを集めるのを楽しみにしており、谷内の絵にはそれで親しんだ。そして場所中に1回、大叔父がかならずお土産に持ち帰るのが、この大相撲チョコレートである。「力士人形チョコレート」と言われているらしいそれは、お相撲さんの姿をかたどった小さなチョコレートが、大きなお相撲さんのチョコレート2体を取り囲んでいる。子供達はそれをひとつずつ食べる。もちろん頭からぱくりといくのである。一方、大きなお相撲さん2体も平等に分けられなければならないから、当然それは解体されることになる。おやつを公平に分配するのは当時、わたしの仕事だったから、わたしは大きな包丁を出してきて、力士を切り分ける。切りやすいところで切るので、もちろん首はばっさりいかなければならない。包丁に力を入れながら、ザク、ザク、と力士を解体していく。胸とお腹もばっさり。まわしもばっさり。若干の良心がちくちくと痛む作業である。なぜこんな食べにくいものを作ったのかと毎回、うらめしい思いになる土産であった。チョコレート自体は、おいしかった。

どうしようもなくまずい店といえば、忘れられないのが、当時住んでいた亀戸の中華料理屋「⚫︎⚫︎ダ」である。友人となにか話があって、そのあと飯を食っていこうとなって、わりといつも繁盛しているから、という理由で入ってみた。チャーハンと春巻を頼んだ。値段は安いが、量は多いと言うので、とりあえずそれだけ頼んだら、まずチャーハンが来た。見た目は水っぽいおじやのようである。パラパラなんていう概念とはかけ離れている。そして、量がとんでもなく多い。まわりを思わず見まわしたが、みな普通に食べている。一口食べてみたら、もちろんまずい。なにせ油の滲みたおじやなのだから、おいしいわけがない。どうしよう、食べ切れるかな、と不安になったところで、次の皿が来た。頼んだ覚えのない料理のように見えた。キャベツの千切りのとなりに、不思議な物体が乗っているのである。「え、これ、なんですか」と尋ねる。「春巻デェス」と店員が答える。春巻。それは、野菜や肉を春巻の皮で包んだ食べ物のはずなのだが、それは明らかに爆発している。そして焦げている。どう見ても揚げることに失敗した春巻である。普通こんなものを出すか、と思ったのだが、もしかしてこれはこの店のスタイルかもしれない。食べてみたら意外といけるかも?……結論から言うと、それは完全に、油で揚げた生ゴミであった。言い換えると、食べられる生ゴミ。もちろん食べきれない。友人とふたりで、これは無理だとなって店を出ることにし、会計を頼んだ。食べ残しを見た店員が「包みますカァ」と言う。断るのもなんなので、包んでもらう。なんだかしけた気分になって友人と別れて帰路についたが、それを家に持ち帰ることになんだかイラっとしたわたしは、途中で見つけたゴミ箱に袋を叩き込んでしまった。あんなに驚いた中華料理はそれ以降、まだない。

ちなみにその店は、なぜかわからないが繁盛を続け、その近所にもう一軒、「ニュー⚫︎⚫︎ダ」という店を出店した。亀戸民の味覚は信用できない、と心に刻んだ出来事であった。ちなみに亀戸は変な町で、30数年前、駅の敷地内の土手でヤギが飼われていたことも忘れがたい。通学時に電車に乗っていると、亀戸駅にしばし電車が停車しているあいだ、窓の外にヤギが杭に紐で繋がれているのが見える。「ヤギ」と思う。それは確かにわたしの乏しい知識においてもヤギなのだが、なぜそこにヤギがいるのかはわからない。今と違ってインターネットもないし、理由を尋ねる相手もいない。だからわたしはいつも車窓からぼんやりヤギをみつめ、ヤギは草を見つめ、しばし「ヤギ」と思ったあと、電車が発車する。そんな状態は十数年続いたが、いつのまにかヤギはいなくなり、記憶のかなたへと消えた。そのうち21世紀に入ると、ヤギがいたその場所には小さな畑が作られて、大根が栽培されはじめた。それが亀戸大根であった。ちなみに亀戸大根は、小ぶりで味が強くて、とてもおいしい。

まずいかどうかを確認することが身の危険をともなうケースもある。ある事情で、数年間、大阪に住むことになった。家探しのために内見をしていて、移動のためにタクシーに乗っていたときのこと。あちらこちらで「スーパー⚫︎出」という派手派手しい看板が目につく。話すともなく、「よくこの看板みかけますね。地元のスーパーなんですか」と運転手に話かけると、「あぁ?地元。まあいろんなとこにありますわねぇ。僕はよう入らんのですけど」と口を濁された。不思議に思ったがあまり気にせず、そのことは忘れる。のちに大阪で知り合ったパパ友とその「スーパー⚫︎出」の話になったとき、とにかく安いが品が悪く、特に惣菜は腹を下す確率が高いので自分は入らない、と説明してくれた。「でも」と彼は言う。「飲んだくれて気が大きくなって、つい⚫︎出のポテサラを買ったことがあるんやけど、まぁ腹は下した」のだそうである。ポテサラで腹を下すとはかなりのレベルの危険値である。やはりポテサラは家で作るべきなのだろうか。自分の身をもって確認する勇気の出ない案件である。

なぜ、ひとは、まずいとわかっている食べ物に手を出すのか?それは勇気なのか、それとも自暴自棄なのか。これひとつとっても、ひとは必ずしも合理的な判断をする生き物ではないということが証明されている気がする。

確認できない、といえば、謎肉。わたしは大阪で謎肉に出会った。大阪では肉と言えば牛肉で、カレーにも牛肉が入るのだと聞き及び、東京では基本的に豚肉を入れていたわたしも、大阪に住んでいたころはなんとなく牛肉を入れてみることが多かった。こころみに「カレー用の肉をください」と言ってみると、薄切りの牛肉が提供される。おおこれが大阪か、と感心することしきり。しかしあるとき、ふとみかけた肉屋で、こんな張り紙があった。「牛肉」「鳥肉」「豚肉」に続けて、「肉」と買いてある。肉といえば牛肉、ということかとも思ったが、牛、鶏、豚はすでに出ている。そして「肉」である。この店でもし「お肉ください」と言ったらこの謎肉が出てくるのだろうか。そしてその肉は一体なんの肉なのであろうか。試してみる勇気は出なかった。

ある日、鳩尾が「どうしても食べろ」と言うので、「祇園饅頭」のみそ餡の柏餅を食べることになった。これはわたしと鳩尾の間で長年懸案になっていた食べ物である。というのも、ある日、わたしが「柏餅といわれて食べてみたらみそ餡だったらがっかりする」と言ったら、鳩尾は「みそ餡はおいしいですよ」と主張して大論争になったのである。わたしは「もちろんみそ餡でも食べないわけじゃない。一口くらいなら食べるけど、やっぱりあんこ」と大譲歩してみたが、鳩尾は納得しない。「祇園饅頭のみそ餡は格別だ、これを食べたら考えが変わる」と鳩尾は言うのだが、「でもみそ餡はみそ餡でしょ。柏餅はあんこです」と反論するわたし。ふたりとも肝心なところで譲らず、いっときはそれで喧嘩別れしそうなほど険悪になった。販売時期が6月のみという期間限定である上、日持ちもしないのでわたしに郵便で送りつけることもできずじりじりとしていた鳩尾は、わたしが6月に京都を訪れたタイミングを見計らって祇園饅頭のみそ餡の柏餅をいそいそと持参した。「これなんすか」「祇園饅頭のみそ餡柏餅です」「これをわたしに食べろと」「もちろんです。だっておいしいから」「そりゃおいしいでしょうが……」「まあ食べてみてくださいって」と押し問答したのち、ぱくり。「あー……うん。おいしいですね」。鳩尾、満足。お茶まで差し出してくれた。長年の懸案がひとつ片付いたものの、これでよかったのか。少なくとも、今後、わたしがみそ餡の柏餅を食べるたびにそのときの鳩尾のドヤ顔が浮かんでしまうことは間違いない。

誰だっけ

篠原恒木

ヒトの顔と名前が覚えられない。
複数回会って、打ち合わせや食事をしているのにもかかわらず、その本人を目の前にすると、
「ええと、このヒトは誰だっけ」
という事態に直面することがしばしばある。

顔は認識しているけれど名前が出てこない、というケースなら、まだマシなのだが、顔も名前も、その両方が我が記憶中枢から消去されているのだ。これは深刻なモンダイだ。

先日も南青山の裏道を歩いていると、美しい女性に声を掛けられた。
「シノハラさーん」
誰だっけ。こんなきれいな女性と知り合いだったっけ。おれは狼狽しながらも、手掛かりを探すべく、相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。こんなところで何をしているんですか」
「やだ、私の会社、すぐそこですよ。シノハラさんも何回かいらしたじゃないですか」
そう言われて、さらに激しく狼狽したおれだが、相変わらず目の前の女性の素性がわからない。
「そっかそっか、ははは。ですよねですよね。お元気そうで。ではまた」
おれは逃げるようにして、その場を立ち去る。誰だっけな。五分後に思い出した。つい一か月ほど前に二人で食事もご一緒した、アパレル会社でプレス業務をしている女性だった。やれやれ、さしむかいで最近めしを食べているのにこの有様だ。

ある夜、経堂の農大通りを美女と二人で歩いていると、おれの名前を呼ぶ別の女性の声がする。
「あれ、シノハラさん?」
おれはその声のする方向に顔を向ける。声の主はTシャツにショート・パンツでサンダルを履き、手にはスーパー・マーケットのレジ袋をぶら下げていた。
誰だっけ。まったくわからない。おれのそばを歩いていた連れの美女は、リスク・ヘッジのためか、サッとおれから離れ、無関係なそぶりをしてくれた。またもや狼狽していたおれはココロの中で彼女に手を合わせながらも、手掛かりを探すべく、ここでも相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。ぐ、偶然ですね。こんなところで何をしているんですか」
「やだ、私の家、すぐそこですよ。シノハラさんこそ、こんなところで何しているんですか」
おれの家は経堂からとても離れたところにあるので、この逆質問はじつに的を射たものであった。ニンゲンは核心を突く質問に対してあまりにも脆い。
「んと、えと、ちょいと食事をしようかな、と」
「わざわざ経堂で? お気に入りの店があるんですか」
「んと、えと、あるようなないような。あるといえばある、のかな」
「えっ、どこ? どこ? アタシが行ったことのある店かな」
おれはしどろもどろになりながら、焼肉店の名前を教えた。
「ああ、あそこはアタシもときどき行きますよぉ。美味しいですよね」
「うん、美味しい美味しい」
「いつもお世話になってます。偶然ってあるんですね。ではまた」
謎のレジ袋ぶら下げ女性はにこやかにそう挨拶すると、おれから去っていった。
一緒に歩いていた美女がおれのそばに戻る。
「お知り合い?」
「そのようだけど、誰だかわからないんだ」

後日、経堂で遭遇したあの女性からメールを貰った。「あのときはどうも。あんなところでお会いするなんて」という内容だった。「失礼いたしました」とも書かれていた。失礼したのはこのおれなのだが、この「失礼」とは、「女性連れなのに声を掛けて、立ち話を続けて失礼しました」という意味なのだろうか。しまった、気付かれていたのか、と思ったが、すぐに「まあどうでもいいかぁ」と思うことにした。おれが偶然に会ったのは、広告会社に勤務する女性で、何回も仕事で会っているヒトだった。

この二つのケースに共通しているのは、
「思いもよらぬ場所で、急に遭遇した」
という点である。おまけに後者のケースは、相手が普段とまったく違う格好をしていたので、完全なる不意打ちを喰らった格好になる。だが、二人の女性とも仕事で浅からぬお付き合いをしているヒトなのだ。つくづく「顔と名前を覚えられない」のは不都合が多い。

パーティが嫌いなので、どうしても顔を出さなければならないもの以外は欠席することにしている。たまに出席しても受付に案内状と名刺を置き、会場に入っても十分後には退出してしまう。おれのパーティ嫌いの理由のひとつは、
「会場で声を掛けられても、そのヒトが誰だかわからない」
というケースがあまりにも多いからだ。最近のパーティでは名刺をホルダーに入れて、胸元に付けている場合が多いが、おれは視力に問題があるので、名刺に書かれている名前が読めない。なので、そういうヒトからいきなり挨拶されても「誰だっけ」という状態になる。だが、まさか目の前に立っているヒトの胸元に顔を近づけて、名刺をまじまじと見るわけにはいかない。おれは狼狽しながらも手掛かりを探すべく、ここでも相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。最近どうですか」
「いやぁ、どうもこうもないですよ。ボチボチやっております」
おれの発した質問はむなしく空振りに終わった。相手の答えはあまりにも形而上で抽象的ではないか。仕方なくおよそ二分間、おれは相手の素性がわからないまま会話を続けて、
「ではまた」
と話を切り上げ、そそくさと立ち去ることになる。声を掛けられたときに、
「失礼ですが、どちらさまでしたっけ」
と正直に質問する度胸はおれにはない。そんな質問をしたら、相手は不快に思うに決まっているではないか。反感も買うだろう。何様のつもりだと思われるに決まっている。

この「ヒトの名前と顔が覚えられない」というオノレの性質、いや、もはや欠点が顕著だなぁと思うのは、あらかじめアポイントをとって、カイシャにいるおれを訪ねてきてくれたヒトに会うときだ。
「ちょっとご無沙汰していました」
相手がそう言っても、おれは、
「あれ、このヒト、こんな顔をしていたっけ。でもって、このヒトの名前、何だっけな」
と背中に嫌な汗をかいている。わかるのはこのヒトが所属しているカイシャの名前と、このヒトがどんな仕事をしているかだけだ。近頃ではマスクを外して顔を全面的に見せてくれるので、おれはますます混乱して、顔も認識できず、名前も出てこなくなる。

若い時分からこのような状態なので、最近では完全に開き直っている。
「だいたい仙台で務めているのに名古屋という姓はおかしい。広島本社勤務なのに山口という姓はややこしい。紛らわしくて覚えられないではないか」
そんな言いがかりのような屁理屈をつけて、オノレの欠点を覆い隠そうとしている。
だが、世にも珍しい名前なら覚えられるかというと、これもきわめて怪しい。初対面のときに名刺をいただいて、
「珍しいお名前ですねぇ」
と言って、このヒトの名前なら覚えられるだろうと思ったのだが、
「あれ、三十郎だったっけ、藤十郎だったっけ、何だっけ」
という事態になり、名刺の束を捜索したら「傳十郎」だった。その傳十郎さんの顔も覚えていない。挙句の果てには、次のような不遜極まりない思いが頭に浮かぶ。
「名前が平凡なヒトは、絶世の美男美女か、あるいはその逆か、どちらかにしていただきたい。強烈なヴィジュアルを備えていなければ、このバカなおれがいちいち覚えられるわけがないではないか」

自分の顔を鏡で見てうっとりするような趣味もないので、顔や手を洗うときにチラリとオノレの顔を見るだけの毎日だが、ときどき驚くことがある。
「おれはこんな顔をしていたっけ」
眼鏡を外した自分の顔は見知らぬ他人のように思える。だが、この顔が六十三歳のシノハラ・ツネキの顔なのだろう。不思議な気分だ。そうなのだ。曖昧なのはヒトサマのお顔だけではないのである。

なので、どうかおれを街で見かけたときは、そっとしておいてほしい。そのほうがお互いのためなのだ。そしてこの場を借りて、我がツマにもお願いをしておきたい。おれを街で偶然見かけたときは、一緒に歩いている女性が存在する場合もごくたまにあるので、どうかそっとしておいてほしい。そのほうがお互いのためなのだ。

尾を引くように~「塩狩峠」から

北村周一

塩狩峠というタイトルの映画を観たことがある。原作は三浦綾子。
調べてみると1973年に公開された映画で、監督は中村登、音楽は木下忠司、脚本は楠田芳子との記載があった。
北海道の塩狩峠付近で実際に起きた鉄道事故が下敷きになっているのだが、小説は読んでいない。この映画を公開されてほどなくに観たように記憶している。その記憶が比較的鮮明なのは、いやいや観に行ったからだと思う。
当時親しくしていた大学の同学年の友人、水沢パセリ(彼のペンネームである、自称詩人)にしつこく誘われたからである。
水沢パセリはその頃プロテスタントの教会によく出入りしていた。
といってもキリスト教に入信したというわけでもなく、ただ英会話の勉強のために通っているというようなスタンスだった。
数人の熱心な信者さんたちからこの映画を観るようにいわれて、引くに引けなくなったのかもしれない。それでみんなで池袋駅前の映画館文芸坐へ観に行くことになった。
文芸坐は、上京したての頃の下宿先が雑司ヶ谷鬼子母神前にあったので、ほぼ毎日のように通った映画館であった。いつも満員だった。地下も地上も入館料は百円の時代だった。
ところでこの松竹の映画「塩狩峠」は封切りだったのだが、残念ながらお客さんはわずかだった。俳優座の役者さんたちが大勢出ていて、映画自体は丁寧に作られてはいたのだけれど……。それからみんなして教会のある世田谷の経堂までもどった。
じつはその頃の下宿先は、このプロテスタントの教会のすぐ西側にあったお宅の二階を間借りしていたわけで、さらに水沢パセリはこの教会の東側にあったアパートの二階に下宿していたのである。
同じ大学同じ学科といっても大量の学生が通ってくるのだから、神田駿河台にあった学内で遭遇することはめったになく、そもそも水沢パセリとの出会いはいかがなものであったのか、それを書いておこうと思う。

思い起こせば当時の神田駿河台は荒れに荒れていて、まるでバラックの中に学び舎が存在しているような感じで、真面目に学問するような雰囲気からは縁遠いところにあった。
とはいえ学内にはそれなりにさまざまな研究会があり、取り敢えず美術研究会に籍を置いてみることにした。研究会の顧問は東京都内の画家のようで、渋谷にあった画家個人のアトリエを開放していた。青山研究所といわれていたように記憶している。そこで一、二回デッサンを試みたのだけれど面白くなくて通うのを止めてしまった。一度だけ飲み会に参加したことがあった。そこに賑やかな男がいてそれが水沢パセリだった。ようするに青山研究所は絵を描くためというよりも、一種の溜まり場になっているらしくそれはそれで興味深かったのだが、それきりになってしまった。
それから時間が経って、雑司ヶ谷から経堂に移り住んでしばらくしたのち通りを歩いていたら、向こうから見覚えのある男が近づいてきた。
じっと見ていたら向こうも気がついたらしく、互いにアッと声を上げてそれから互いの下宿先を指差したのであった。
あまりに近いから毎日のように行ったり来たりした。
そうこうしているうちに、プロテスタントの教会が出来上がったのである。

さて映画「塩狩峠」についても少しだけ触れておきたい。
調べてみたら、音楽の木下忠司と脚本の楠田芳子は兄と妹であることを知った。
ともに静岡は浜松の出身であることも。
この二人の兄が、映画監督の木下恵介である。
木下恵介が監督した映画やテレビドラマの音楽の大半を実弟の木下忠司が担当していた。
たとえば1957年公開の「喜びも悲しみも幾歳月」。
この主題歌は、映画とともに大ヒットした。
テレビドラマでは、TBS系列で1970年~71年にかけて放映された木下恵介アワーの中の「二人の世界」。あおい輝彦歌う同名のこの主題歌もドラマとともにヒットした。
このテレビドラマの主人公は、竹脇無我と栗原小巻。栗原小巻の弟役がソロに転じたばかりのあおい輝彦であった。あおい輝彦は、このドラマ出演の3年前まではある4人グループの一員として活躍していた。いわゆるアイドルであった。

  どこまでも尾を引くようについて回る固有名詞が顔を出すとき

散歩

植松眞人

 散歩に行こうと誘ったのは向こうだった。なにか話したいことがありそうな口ぶりだったので、電話を切った後、すぐにスニーカーをつっかけて川沿いの道の方へと歩き始めた。向こうも同じようにスニーカーをつっかけて、どこか慌てて出てきたように見えた。自分から誘ったくせにと思ったけれど、やあ、と小さく手を上げて声をかけた。向こうも、やあ、と声を出した。
 大きな橋がかかっていたが、そこには入らず、土手をまっすぐに歩いた。歩く速度は普段よりもほんの少し遅くて、いかにも散歩といった感じだったが、それが向こうの散歩の速度かどうかはわからなかった。そういえばこんなにわかりやすく一緒に散歩したことはなかった。一緒に歩いたことはあったけれど、どこかに行くために電車の時間を気にしながら、とか、たまたま同じバスで帰宅して、ぼんやり家の方角へ一緒に歩いたり、とか。歩くことを目的とした、散歩、という行動自体をもしかしたらしたことがないのかもしれない。それなのに、その散歩デビューを事前の打ち合わせもしないまま始めてしまったことが普通のことなのかどうか、歩きながらずっと考えていた。
 向こうも同じように考えていたのか、ときどきこちらを見ている。さぐりさぐり、あたりの景色の中に自分たちがちゃんと溶け込んでいるのかを確かめながら歩いているようだった。同じ川沿いの道を歩いてるはずなのに、向こうは川向こうを歩いているように感じられたりもした。不思議なのは向こうがときどきふいにこちらに来たり向こうに戻ったりする感覚があることだった。それでも一緒に歩き続けているとオレンジ色のきれいな花が自生している場所を通ることになった。遠目には丸いイメージなのだけれど、間近で見るとその花びらは細長く、それがたくさん集まって丸いフォルムを作り出しているのだった。
 こちらはその花を初めて見たような気分だったが、どうやら向こうはその花に慣れ親しんだ気持ちを持った様子で、明らかに表情がほどけている。そして、何を考えたのかその花の一本に手をかけて、すっと抜き取った。力を込めなくても、抵抗なく抜けたように見えたことがなんとも気持ちが悪く、向こうがまるで手品でも使ったかのような印象だった。なんとなく負けてはならんという気持ちが芽生えて、同じようにオレンジ色の花の一本に手をかけてすっと抜こうとすると、思いのほか抵抗が強い。歩きながらスッと抜こうとしたのに、歩みを引き留められるほどに抵抗があった。向こうがそれを見ながら笑う。結局、花は茎から抜けず、そのままスライドした私の掌がオレンジ色の花を握りつぶすことになった。
 その後の散歩中、向こうはオレンジ色の花を手に持って歩き、こちらは掌の中に生々しい感触を持ったままだったが、向こうの花は暑さのせいかあっという間にしおれてしまい、こちらの花の生々しい湿気と、掌に擦り付けられたオレンジ色は向こうと別れて家に帰ってからもなかなか取れなかった。

古本まつりで出合った1冊

若松恵子

お盆休みにふらりと寄った池袋西武の別館で、古本まつりが開催されていた。時間に余裕があって良かったと思いながら覗いてみた。個性的な古書店がいくつか集まっていて、児童書や雑誌、サブカルチャーの分野の本も多く並んでいて、こんなのあったねと懐かしく思う本や書評が心に残っていたけれど現物を見るのは初めてという本もあって(たいてい頭にくるほど高い値段が付けられている)わくわくしながら棚を眺めていった。

実家に持っていく手土産を買いに来たのだから、そうたくさん本を抱えるわけにはいかないと自分に言い聞かせながら見ていくうちに、井田真木子の『フォーカスな人たち』という新潮文庫を見つけた。井田真木子は好きなノンフィクションライターだったけれど、この著作については全く知らなかった、見かけたこともなかった。文庫本なのに透明なカバーがかけられ、きれいな保存状態で、古書店が大切に扱ってきたような感じが本にあって、その点にも魅かれて買うことにしたのだった。「古書と古本 徒然舎」という水色の小さな紙が最後のページに付いていた。古書店の住所は岐阜市美殿町だ。

『フォーカスな人たち』は、雑誌「オール讀物」に連載した記事をまとめて『旬の自画像』として文藝春秋社から出版したのち、文庫化にあたって大幅に加筆し、書名も変えて出版されたものだ。1980年代半ばから90年代初頭までの10年間、バブルと呼ばれた時代に注目され、はやしたてられ、無残に退場し、そして忘れ去られた5人の人たちの肖像が描かれている。

登場するのは黒木香、村西とおる、大地喜和子、尾上縫、細川護熙。『フォーカス』という写真誌ともども、今ではすっかり忘れ去られた存在だ。いたね、そういう人、という感じだ。ある時期テレビや雑誌でたびたび目にしたけれど、自分には縁が無いと思っていた人たちだ。井田真木子がこんな有名人を取り上げるのか?という違和感も少しあった。しかし、読んでいくうちに「勝手に持ったイメージで決めつけていてごめんなさい」という思いになった。特に黒木香については、イメージが変わってしまった。自分とは縁が無いと思っていた人たちの物語に引きこまれて読んだ。

連載時の担当編集者だった白幡光明が『井田真木子著作撰集2』の巻末付録の対談の中で印象的なことを語っている。「非常に質の高い優れた作品なんですが、あまり売れなかった(笑)。彼女が焦点を当てるところを理解できる人が少なかったんですね」と。また、彼が大宅賞の候補作として『プロレス少女伝説』を初めて読んだ時の衝撃として「私は当時女子プロレスをお遊びぐらいにしか見ていなかったし、興味もなかった。でも井田さんはその中にああいう意味を見出した。すべての人に存在意義はあるというのが彼女の発想の原点でした」と。『フォーカスな人たち』もまさにそんな彼女の姿勢によって書かれ、そのことによって私も黒木香、村西とおる、大地喜和子、尾上縫、細川護熙と出会いなおすことができたのだと分かった。久しぶりにちゃんとした文章を読んだと思った。

目が覚めるような思いがして、買ったままだった『かくしてバンドは鳴りやまず』(2002年2月/リトルモア)、『十四歳』(1998年5月/講談社)と続けて夢中で読んだ。井田の最後の作品となった『かくしてバンドは鳴りやまず』は、井田が「私の本」と呼ぶほど大切にしているノンフィクション作品とその作者について書いたものだ。『世界の十大小説』のノンフィクション版をという編集者の求めに応じて雑誌『リトルモア』に連載を始め、井田の急逝により3回で未完に終わった。「井田さんが同業の作家たちを素描するために採った方法は極めて特異なもので、それゆえ、これまで誰も書いたことのないタイプのノンフィクション作家論になった。」と未完ながら出版した経緯をリトルモア編集部の中西大輔と大嶺洋子が単行本の冒頭に書いている。第1回の「トルーマン・カポーティとランディ・シルツ」の中に、井田のノンフィクション論とも思える印象的な文章があるので長くなるが引用する。

  *

 ともあれ、勉強ができなかったシルツとカポーティは、訓練によって能力不足を補った。
 そして、聞いたことを正確な文章にして表せるようになったのだ。
 実は、この訓練こそ、事実の理不尽さと対決するのに不可欠なものだ。
 見聞きした〈なにものか〉を自分の五感を通して文字という動かない形におさめてみたとき、初めてそこに、人間の想像力を超えた事実が姿をあらわす。
 やわな想像力など軽々と凌駕する事実をとらえるために、よく聞き、よく見て、忠実に書く。その作業なしには、事実は、ただ抽象的なものに留まるだけだ。事実の本性―とてつもない野蛮さーは、ただ見て、聞いて、書き取ることでしか補足できない。
 そして野蛮な事実とわたりあうことで、作家の『私』や『僕』は、その野蛮さを自分のものにする。カポーティもシルツも、とても野蛮な作家だ。物事をあからさまに、無遠慮に身も蓋もなく書いていく。その野蛮さはパフォーマンスによって得られたものではなく、彼らが事実と格闘を続けているうちに、自然に身についたものだ。それが結果的には読者の『私』や『僕』も目覚めさせ、野蛮な読者、身も蓋もない事実を貪り読む人々を生産することになるのである。

  *

井田真木子は寝食を忘れて、身を削るように書いていたと、複数の人が回想している。彼女も野蛮な作家となり得たのだろうか。また、彼女の作品を読むということは、身も蓋もない事実を貪り読むという域にまで達したのだろうか。2001年に44歳で急逝した後、今では彼女の著作はすべて絶版になっているという。

そんな事情を知らずに彼女の著作の在庫を求めてジュンク堂池袋本店に行ってみたら、『井田真木子著作撰集1』(2014年7月/里山社)が店頭にあった。出版当時は手が出なかった本だ。10年近く経って再び手に取った今、こんなに丁寧につくられた本だったのかと感動した。ビートルズのベスト盤のように、著作撰集1の表紙が赤で、2の表紙が青だ。それぞれ深みのあるいい色が選んである。持ち歩いて何度も読み返す人のために、やわらかい表紙に透明ビニールのカバーが外れないようにしっかり掛けられている。書名の「井田真木子」の部分は本人の筆跡が採用されている。彼女の姿と重なるかわいらしい味のある字だ。目次をめくると少女のようなおなじみの井田真木子のポートレートが現れる。雑踏のなかで振り返って笑う彼女の頬にえくぼが見える。

いちばん最後に、この撰集を作った里山社の清田麻衣子の文章が掲載されている。思いはあふれるほどだろうが、撰集のページを余分に使ってしまわないように、1ページにまとめられた彼女の井田真木子論が胸を打つ。深い理解者によって、井田真木子の本は、後の世代に手渡していけるようになったのだ。

二つの作品

笠井瑞丈

二つの新しい作品に取り組む
ひとつは笠井叡振付『今ショパンを踊る』
ひとつはナイトセッション『うるむ』

今ショパンを踊るは題名通り
音楽は全曲を使ってショパンで踊る

うるむの方は
音楽は全曲バッハを使って踊る

二つとも偉大な二人の作曲家の曲だ

音楽があって踊りがある
踊りがあって音楽がある

そんなことをたまに考える

今ショパンを踊るのリハ

いつも叡さんは稽古場に必ず
サングラスかけて入ってくる
外からやってくるのではなく
隣の母屋からやってくるのに
そして入ってくるなり必ず
目がよく見えないからと言い
ダンサーの顔を深く覗きこむ
でもそれは明らかに近すぎる

この一連の儀式の後
挨拶と繋がる

稽古場にひとつ
違う空気が流れる

ちょっと不自然とは思うが
この作法はいつも変わらない

僕が思うに
彼にとって

リハと言うパフォーマンスなのだ
パフォーマンスと言うリハなのだ

そしてそれが形となり作品となる
リハそのものが作品の一部となる

そこが笠井叡のすごいところだ

そんな事をたまに考える

うるむのリハ

ナイトセッションとは
僕がお願いしたダンサーと
一時間即興セッションを行う企画

この企画はセッションハウスで十四回
場所をうつし天使館で今回で十一回目

ダンサーは僕が一方的に
思い浮かんだ人にお願いしてる

思い浮かんだ時に開催するから不定期なのだ

でも不思議と

なぜか思い浮かんだ時には
全てが完結してしまってる

今回も思い浮かんだ時に
バッハと決めていた

リハ初回が一番大事だと考える
初回が噛み合わないとそのあと
修正していいくのが大変なのだ

だから思う
リハには何かしら決まった作法が
必要なんだ

これから作法を考えよう

思考して作品が生まれる
作品があるから思考する

まあどうでもいい事だけど
そんなことをたまに考える

仙台ネイティブのつぶやき(87)細く煙の上がる家

西大立目祥子

どうやってあの場所にたどりついたのだろうか。そしてどうやって帰ってきたのだろうか。前後はほとんどなにも覚えていないのに、そこだけがぽっと明るく照らされたように残っている記憶がある。
夜、暗い雪の山道を上がっていくと大きな門を構えた旧家があり、真っ白な庭に灯った明かりに導かれて庭木の間を進んだ先には大きな土蔵があった。中には大勢の人の話し声が充満していて、すでに宴は始まっているようだった。

やがて、前の方の少し高い席に、ほろ酔いの敏幸さんがにこやかな表情で座った。語り出したのは、ここ宮城県鬼首(おにこうべ)地区の民話。いつものやわらかな低い声は、お酒が入ったせいか、つややかさが増しよく通る。心地よい抑揚の中で展開する話に引き込まれ、音楽を聴くように民話に酔った。宮城の方言はなつかしい歌のよう。
あのときは80歳をこえたくらいだったのだろうか。お開きになって、見送ったゴム長の後ろ姿が白い雪の中に黒く切り絵のように浮かんだのを、いまも忘れない。

敏幸さんは、山の暮らしがどんなものか、その細部を教えてくれた人だ。山菜採り、馬の飼育、米づくり、お膳づくり、炭焼き、材木の切り出し、ウサギ狩り、クマ狩り、野火つけ(山の野焼き)…。季節に追われるようにつぎつぎと異なる仕事をこなさなければならないのは、何か一つの仕事で家族の暮らしを維持することが難しいからだった。1つの専業を持って生涯を生きるという価値観が、そもそも豊かさに基盤をおいた戦後の発想なのかもしれないと気づいた。敏幸さんは、若い時分には分校の先生としても働いている。

季節の細かい仕事をこなしながら胸にあったのは、餓えへの恐れだったと思う。母から受け継いだ民話を聞かせる活動は、仕事の合間のささやかな楽しみだったのだろうか。いやそれ以上に、きびしい現実を乗り越えるために口ずさむ詩のようなものだったのではないだろうか。

話を聞きに通ううち、奥さんの五十子(いそこ)さんともよく顔をあわせるようになった。漬物や山菜をあれこれテーブルに並べ、何度もお茶を注ぎ足しながら、これまたやわらかい口調で話される。特に家族を評する話しぶりにはなんともいえないおかしみと温かみがあって、聞いているとくすっと笑ってしまう。家族の行動のあれこれをじっくり観察し、やんわり受け止めるユーモアのセンスというのか。嫁にきたときは14人家族だったというのだから、大勢の中で暮らすうちに身につけたセンスと生きる術だったのだろうと思う。

玄関で何度もごめんくださいと声をかけても、誰も出てこないことがあった。お留守なのかなと思いながら裏手へまわると、突き出た煙突から細い煙が上がっている。ガラス戸越しにのぞくとたたきにダルマストーブが据えられていて、その脇の板の間でお二人が芋虫のような格好で寝入っていて、笑ってしまった。なるほど、ここなら畑で作業をしたあと、ゴム長のまま入って食事をとり昼寝もできる。プライベート空間なのだから二人ともしぶったけれど、一度無理をいって入らせてもらった。薪ストーブのじんわりと染み込むような暖かさよ。必要が生み出したなんとも快適な小部屋なのだった。
「ここの煙上がってると、みんな、いたのー?って入って来んの」とおかしそうに話す五十子さん。それ以来、私も煙が上がっているかを確かめるようになった。さすがに「いたの〜」とはいえなかったが。

五十子さんは地元に伝わる在来野菜「鬼首菜」の伝承にも熱心で、90歳近くまで、息子の一幸さんとともに自家採種と種まきを続けてこられた。嫁にきたとき仕込んでくれたおばあさんのやり方をみようみまねで始め、70年近く守り抜いてきたのだという。4年ほど前、台所に入り込んで、軽くゆがいて塩に漬け込む「ふすべ漬け」の漬け方を教わった。栽培種にはないカブの辛味を味わう即席漬けだ。

漬物を教わる機会をつくってくれたり、鬼首菜の種まきから刈り取りまでの一連の作業を教えてくれたのが息子の一幸さんである。敏幸さんが山の暮らしの入口を教えてくれたとしたら、一幸さんは実際の作業に招き入れて地域を教えてくれた人だ。私は集落の男衆に混ぜてもらって広大な高原に火をつける野火つけに参加して炎の中を走り回り、ロープをつたって峡谷に降り雪で傷んだ河川の改修と隧道の掃除を体験する機会を得た。小学校の運動会となれば子どものいない家も草刈りに出向き、校庭の桜の手入れまですることを一幸さんの話を通して知った。地域の共同体があるから暮らしと生産が維持できることを、生活の内側からささやかではあるけれど体験をとおして知ることができたのだった。

敏幸さんが亡くなったことは、2015年11月のこの『水牛』に「古老のことば」として書いた。その後も何度かお邪魔して話を聞いていたのだが、昨年9月に五十子さんが亡くなられ、まだ一周忌を迎えないこの8月に、突然、一幸さんが逝ってしまった。私に東北の山間地の暮らしがどんなものかを教え、その原像をつくってくれたといってもいい3人がいなくなり、いまは山の暮らしを考える足場が失われたような思いがしている。私にとっては大切なフィールドである鬼首という地域との具体的なつながりを、これからどうつくっていけばいいのだろう。

語り部であった父と、在来野菜を守りぬいた母の存在があったからこそ、息子の一幸さんも、この土地の価値を十分に知り、よそ者の私に地域の文化を伝えようとしていたのだ、とあらためて思う。野火つけのあとは恒例で高原に円座をつくりお弁当を広げ酒を回すのだったが、鬼首のシンボルでもある禿岳(かむろだけ)が、「山笑う」の季語そのままに微笑みはじめる時期で、「きれいでしょう?」と誇らしかった一幸さんの口ぶりを思い出す。
友人と二人で訪ねたときは、屋敷裏の小川で「いくらでも取っていい」といわれ、野芹をどっさりいただいてきたこともあった。山菜を送ってくれたり、いただいたものは数しれない。森におおわれ、季節季節の花が咲き、実りをもたらす土地の豊かさを、おそらく両親以上に知る人だったのだ。

遠く離れた仙台にいて、人気の消えたしんと静まった家を想像する。朝日が上り日が当たるガラス窓や、満月に照らされる玄関を想像する。前庭では敏幸さんが植えたアケビがもうすぐ実をつけるだろう。裏庭では来春になれば、タラの芽と行者ニンニクがいっせいに芽吹くはずだ。裏山から湧き出す水を引いていた水屋の水槽は、今日も豊かな湧き水で満たされているのだろうか。そして、8月の鬼首菜の種まきはどうしたのだろう。一幸さんの田植えした田んぼの稲刈りは、代わりに何人かでやるといっていたけれど。もう、あの小部屋に煙が上がることはないのだろうか。
静まる家の映像がぬぐえない。私の耳底には、民話の語りも、ユーモアのにじむ話も、春山の美しさを話す声もまだまだ響いているというのに。

言葉と本が行ったり来たり(18)『男が痴漢になる理由』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 今日は曇り空。風も少し吹いている。夏がやっと去ろうとしています。
 今年の夏は例年にも増して厳しく、 園芸仲間はみな、顔を合わせれば口々に猛暑に耐えられず枯れていった植物の話をします。いま農業史研究者・藤原辰史さんの『植物考』を読んでいますが、そこにも書かれている通り、植物が育たなければ、地球上の全ての生きものが死に絶えるというのは本当のことで、暢気な都市生活者にもさすがにその恐ろしさが現実味を帯びて迫ってくる、そんな夏でした。いや、植物が夏を超えられないってまずいです、やばいです、マジで。

 そういえば、『天気の子』というアニメーション映画では、ラスト近くで、主人公が、愛する女の子を救えるなら雨ばかりの世界になっても構わない、みたいなことを叫んでヒロインを救うのですが(劇場で観たくせにうろ覚え、間違えているかも)、そのシーンを観た時、ラブストーリーとしての高揚よりも、「何言ってんの!生態系壊れるよ!植物が育たなかったら、救う救わないの前に誰も生きていけないんだからね!」と、私はそっちに頭が行った記憶が。植物を育てる人は、現実主義者でもありますね。

 閑話休題。最近依存症について書かれた本を何冊か読みました。というのも、アルコール依存症なのでは、と感じさせる友人がいるからです。以前から酒量が多いとは思っていたけれど、暴れたりするわけでもないし、翌日ちゃんと朝から仕事をしている。彼女とは時々しか会わないこともあって、私もそれほど深くは考えていませんでした。たぶんまわりの人たちも、彼女を、お酒が強い、お酒好きな人だとしか認識していないと思う。でも、なんとなく飲み方に違和感を覚えるのです。量が尋常じゃないし、飲んでいる時間も長い。今日はやめとくわ、という日がない。毎晩飲んでいるのではないかしら。私の取り越し苦労ならいいのですが、このまま進んでいったらまずいことになるのではないか、いや、もしかしたら、本当はもう依存症なのではないか、と気になって。また、いわゆるアル中のイメージ――朝から飲むようになったり、手がブルブル震えたり、幻覚に襲われるまで、「ホントに(お酒が)好きだよね~」とみんなで笑って見ているのだとしたら、それも不気味な気がして。
 そもそも「依存」というのは「やめられない」ということですよね? 醜態をさらしたとか記憶をなくしたとか、そういった状態を指す言葉ではありませんよね? そこから興味が湧いて、アルコールに限らず、さまざまな依存と依存症について調べ始めたのです。

『男が痴漢になる理由』(斉藤章佳著)というのも、その中の一冊。男尊女卑の強い国に痴漢が多いというのは想像できていたけれど、どうやらそれはかなり強固に結びついているらしい。痴漢という行為は、女=受容する性というイメージがリンクしているとか、弱いものを支配することでストレスコーピングしているとか、読んでいると、ああああ・・・と合点がいくことばかり。つくづく家父長制は百害あって一利なし、と感じます。
 その本には「認知の歪み」という言葉が度々出てきますが――これは精神医学や心理学の本には頻出するワードですが、今まで私は、「歪み」というのが、具体的にどういうことを言うのか、いまいちつかめなくて、でもこの本に書かれている一例を挙げると、「暗い夜道を歩くと痴漢に会うことがあるから控えましょう」というポスターがあったとすると、そのポスターを見て、「それでも暗い夜道を歩いている女がいるなら、それは痴漢をしてもいいということだ」と認識する人がいる――。そんなバカな!と思うけど、そういうのも「認知の歪み」のあらわれだそうです。

 でも、痴漢はさておき、考えてみると、日常においても、え?どうしてそんな話になるの? なんでそんな風に読み替えられちゃうの? と驚くことはよくある。行き違いや誤解というレベルとは明らかに違うやりとりに出くわすことが。ぼつんぽつんと頭に浮かぶ。あれも「認知の歪み」にあたるのかな。あの人のあの発言にも「認知の歪み」があったのかもしれない。その歪みはまわりの人の心を傷つけて、傷ついた人たちはみんなすごく苦しんでいた。
 八巻さんは私よりも長く生きているから、その分多くの人を見ていると思いますけど、アート / エンタテインメントの世界には、笑えないレベルで変わった考えをする人も、わりと許された形で生息していますよね(歴史を見てもそう思う)。そういう人たち、そういった発言に、私もすっかり慣れてしまって、いちいち傷ついていられないとやり過ごしているけれど、実は歪みだらけ歪みまくりな業界という気もします(どの業界でも歪みには遭遇するでしょうけど)。

 話は戻って、その本の結論は、痴漢は依存症である、逮捕は必須、でも逮捕だけではだめ、有罪判決を受けて、その上で依存症の治療プログラムを受けさせる必要がある、依存症である限り再犯する可能性があるから、ということでした(大雑把なまとめ)。
 人間賛歌という言葉があるけど、人間って本当に素晴らしい生き物なのかなあ。人間って素晴らしい、生きるって素晴らしいと言えたらいいけど、人間って生き物としてはかなりつらい存在なんじゃないの?――駅前のペットショップの前で、お腹を出して寝ているトイプードルの仔犬を見つめながら、そんなことをしんみり考えた九月最後の金曜日でした。
 またお手紙書きますね!

2023.09.29
長谷部千彩

言葉と本が言ったり来たり(17)『人生は小説』八巻美恵

226 見合わせる

藤井貞和

駅のホームにたたずんでいると、聞くともなしに、
母と子との会話が聞こえてきます。

坊や「電車が来ないことをどうして〈見合わせる〉って言うの?」
母親「……」。

そりゃ答えに窮しますよ。 たしかに駅のアナウンスが、
〈しばらく運転を見合わせる〉などと言っています。

ところが、お母さんは答えようとします。
「ホームで待っているひと同士が、顔を見合わせて、

〈電車が来ないわね〉などと言い合うからよ」。
まだ当分、来そうにない若葉台駅の午後です。

(昭和20年代の前半〈1945~1950〉には、置き引きやかっぱらいという被害に遭っても、母のせりふだと〈いまはみんな貧しいからね、そのうちに悪いことをする人がいなくなる平和な時代がやってくる〉と、私はそれからの、ええっ、60年、70年を、〈そのうちに平和な時代が訪れる〉と、母の言を信じて現在に至る。新聞やラジオの報道は小学生の人生や教養の一部を形成したから、それらがGHQの統制(プレスコード)下にあったことをまったく知らない。〈落とすやつがいなければ落ちて来ない〉というような、危険な不協和音は〈しっ、静かに〉とかき消され、代わって戦後ということ、平和の式典、さらには平和公園を訪れるなど、いわゆる〈国民国家〉論がこの国の骨の髄にまで浸透する。それはかまわない、私どものだいじな人格形成の一部になったのだから。昭和27年だけは、解禁された書物や映画が世に問われた。しかし、概してプレスコードの時代は続いたというように見られる。言いたいことはそのさきにある。今年の夏は関東大震災の百年めでもあり、暑さにやられながら新聞(私の場合は朝日新聞)をわりあい丁寧に手にしているうちに、はっと気づいたことがある。プレスコードが77年後の今日にもそのまま生きているということを。悪いやつがいるとは、暗黙の統制下に集合意識化されて、報道される限りでは戦時下の苦労話や美談が口承文学や物語になり、まぼろしの〈平和公園〉をみなが訪れるのである。それでよいのだとは繰り返したいにしろ、前世紀の遺物としての戦争の時代もまた、たらたら繰り返される。願わくば大統領と首相とが駅のホームで顔を見合わせて、そいつの運転を延期させてほしいように思う。ああ、おれはだいじなことを言おうとしているのに、だれも聴いてくれない。)

しもた屋之噺(260)

杉山洋一

朝焼けがきれいな季節になりました。夏の酷い嵐に耐えた庭の樹は、どこかやつれて見えます。
雨ざらしだったマンション入口の天井は全て夏の嵐で剥げれ落ちていて、掃き集められたガレキが、玄関下に山積みになっています。外装がとれ剝き出しになった骨組みも、どこもすべて降り曲がっていて、どれだけ強烈な強風にあおられたのか、想像がつきません。今年のような異常気象が今後続かないことを、心から祈るばかりです。

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9月某日 三軒茶屋自宅
伊豆熱川に住む義父母と熱海で落合い、「スコット」にて昼餐。あわびのコキュールが大変美味しい。エスカルゴに舌鼓を打ちつつ、肉と魚、どちらに近い料理なのかと自問。
パンデミックがあって、義父母に会うのも3年ぶりだったが、思いの外元気そうで安堵する。息子と家人の顔に会って、彼らの顔もすっかり綻んでいた。
食事のあと海岸沿いを歩いて、駅へむかう。隣の湯河原はよく知っているが、熱海はまるで雰囲気が違って新鮮だ。熱海に比べて、湯河原はずっと規模が小さいのかもしれないとおもう。義母行きつけの喫茶店「讃」にて一同喉を潤して、解散。
熱海駅からスコットに向かう道すがら、タクシー運転手に、湯河原は良く知っているが、熱海は随分感じが違うね、と水を向けると、彼は伊東に住んでいるが伊東の人間は熱海が嫌いでね、と返答され、言葉に窮す。不思議な運転手であった。

9月某日 三軒茶屋自宅
安江さんのリサイタルを聴きに、名古屋しらかわホールへでかける。
何でもしらかわホールが来年春で閉館するという。2000年にカニーノさんと大井くんの演奏会で訪れて以来かもしれない。名古屋に降り立って驚いたのは、地下鉄ホームに溢れんばかりに並ぶ人いきれ。ホーム幅が狭いからか、行列は複雑に斜めに伸びていて、目の前の最後部がどこの列から来ているのか、馴れないと判別できない。列車がホームに到着して、乗客が一気に吸い込まれてゆくさまも、圧巻であった。
客席の様子は、東京で聴くよりずっと身近な印象をうける。単に、演奏を聴くという受動的態度だけではなく、自分のための時間を、自ら選択した演奏会に赴き、意義あるもの、自らの人生にとりこんで、豊かに暮らしているようにみえる。
拙作はもちろんのこと、安江さんのどの演奏にも大変感銘を受けた。高校生の頃、学校で初めてプサファを聴かせていただいたときの驚きを思い出す。

9月某日 三軒茶屋自宅
母と連立って、日がな一日墓参三昧。湯河原駅前のスーパーで一日分の仏花とお線香を買い込み、湯河原、小田原、茅ヶ崎、横須賀堀之内と、次々墓参する。文字通り神奈川の端から端まで訪れたにしては、母は疲れも見せず、いたく感心する。天候はここ数日不安定だったが、今日は愕くほど快晴であった。母の希望で、昼食は小田原駅構内の魚力食堂で盛沢山の海鮮丼を食べた。誰が死んでも、納骨後に当人が墓に居座る筈はなかろうが、それでも墓に水をかけ、新しい花を手向ければ、どことなく、墓石もご先祖さんも微笑んでいる感じがするのはなぜだろう。

9月某日 三軒茶屋自宅
ムジカーザで安江さんのリサイタル、東京公演を聴く。しらかわホールとは全く響きも違い、当然安江さんのアプローチもまるで違って面白い。
しらかわホールは舞台が客席より少し高い位置にあって見上げる格好だったが、ムジカーザは、舞台が客席より少し低い位置にあるから、それだけでも見方や聴き方が変化する。
会場が小さい分、楽器奏者の生み出す空気振動は、そのまま肌に迫ってくるが、打楽器奏者はどうしてあれだけ運動し続けても疲れないのか。こちらの躰のなかに、直截に飛び込んでくる響き。
ところで、三軒茶屋から代々木上原まで、当初は自転車で行くつもりだったが、出かける直前にひどく雨が降り出したので、慌てて世田谷代田までバスに乗った。
茶沢通り沿いにバスで下北沢まで出て小田急に乗ろうと思ったが、都合よい時間のバスがなかったのである。案の定、環七は雨と帰宅ラッシュで渋滞し、会場に着いたのは開演3分前であった。

9月某日 三軒茶屋自宅
三橋貴風先生と大倉山でお目にかかった。大倉山というと、高校生の頃、久木山さんと一緒に演奏会を企画したことがある。ヨーロッパ風の大倉山記念館の高い吹抜けで演奏会を開いたとき、まさか後年自分がかの地に住むとは、想像もできなかった。
その後、KさんとSさんと連立って大倉山の法華寺を訪ねると、普通の住宅街の一角に、突如、極楽浄土が現れるような錯覚を覚えた。まるでそこだけを、どこか別世界で切取ってきて、この空間にすっぽり嵌め込んだような、不思議な安らぎに満ちていた。
夜はKさんの作ったカレーを食べながら晩酌。一人だけ飲みなれていないので、すぐに麦茶に替えてもらう。

9月某日 三軒茶屋自宅
長津田にて、中学の恩師、稲葉先生ご夫妻に再会。中学生のころ、頑として登校拒否を続けていたから、先生にも両親にもすっかり迷惑をかけた。交通事故の加害者の子供が同学年に通っているのが耐えられなかったせいだが、馬鹿げた論理である。
よって、卒業式なぞ絶対出席しないと言張っていたある夜、稲葉先生が拙宅を訪れた。他愛もない話をするなかで、最近一番好きな曲はこれです、とジョンシェのレコードをかけたのを覚えている。そんな経緯があったから、この夏、ジョンシェを演奏したときは、稲葉先生をお招きした。当時、まさか自分がジョンシェを演奏するとは考えもしなかったが、こうなったからには先生に、ぜひ実演の「ジョンシェ」を聴いていただきたかった。
モロッコにて酷い地震発生との報道。

9月某日 三軒茶屋自宅
大森にて、山田剛史さん「君が微笑めば」リハーサル。美しい音で、ていねいな音運びに感動する。どうやって書いたのか、覚えているようでまったく忘れている。冒頭から最後まで順番に書き進んだのではなく、何度かやりかけた作曲の工程が中断される箇所がある。死んだ友人が、別の姿に変容していくさまを、淡々と描写したようにも見えるし、ある瞬間、ふとそこに恣意的に介入して、長年病床に臥せていた友人を、どこかで解放しようと試行したようにも見える。
西村先生の訃報に言葉を失う。西村先生が、その昔「冬の劇場」で、タイプライターを演奏して下さったときの姿を思い出している。クスリともせず、すごく真面目な涼しい顔をして、舞台の一角で黙々とタイプライターを打つ姿は、実に印象的で、理知的でもあった。当時、東京音大の西村クラスに潜り込んでは、先生と一緒に、ラッヘンマンのスコアなど、ああでもないこうでもないと話しては、楽しく眺めていたのが懐かしい。
最後に演奏した西村作品は「華開世界」だったが、リハーサルの時、この作品は、散り行く花とともに、一面にひろがる、まばゆく輝きながら花開こうとしている、新しい命の姿をあらわしていると話してくださった。
連綿と続く生命の営みについて話しながら、自分がこの世からいなくなっても、それでも世界は明るい未来に向かって発展し続けてゆく、だから寂しいと思うことはない、そんな風に聴こえるお話しだったから、なぜこんな話をするのかと不思議だった。
当時、ご本人もそんな深い意図はなく仰ったのかもしれないし、或いは何か感じるところがあって思わず口をついて出てきたのかもしれないが、実に忘れ難いお言葉をいただいたと思う。いつでも肯定的で開放的で、力強いエネルギーに満ちていた。いままでどれだけ励ましていただいたかわからないが、その言葉にどれだけお応えできたのか、不安にもなる。戸惑いばかりが先行して、何とも気持ちの踏ん切りがつかないまま、家路に着く。

9月某日 三軒茶屋自宅
明日リハーサル予定だった新作が漸く午後遅くに届いたので、慌てて譜読みをする。イタリア国営放送によると、現在のモロッコの地震の被害状況は2901人死亡、5530人負傷だという。昨日はリビアで大雨がダムを崩壊させたとの報道。世界は、どことなく世紀末的世相を呈している。

9月某日 三軒茶屋自宅
下北沢まで自転車ででかけ、代々木上原で邦楽アンサンブル、リハーサル。彼らの練習で愕くのは、練習の合間の休憩でもほぼ休みもとらず、個人練習に精を出すことだ。全く疲れ知らずとはこのことだ。こちらは邦楽などまるで分かっていないから、恐らく不適当な注文をつけているに違いないが、どんなリクエストにも、実に誠心誠意心を砕いて下さるので、申し訳ないほどだ。尤も、あまり限界を意識しすぎて無理も言わなければ、可能性も広がらないのかもしれない。
練習後そのまま町田に向かい、両親宅で夕食を食べて帰宅。先日の健康診断では尿酸がでているとかで、干物は食べないように言われてしまい、いよいよ日本で食べられる好物の幅が狭くなった。

9月某日 ミラノ自宅
久しぶりにミラノに帰宅。ローマ空港で口にしたイタリアパンに感動する。バターを使わないから硬いし塩味も強く、どちらかと言えばそっけない味のはずだが。
リビアの洪水被害者11300人死亡、1000人余り行方不明との報道。あまりの数字に、感覚が麻痺している。

9月某日 ミラノ自宅
ここしばらく首の付け根辺り、胸郭右上部の神経が少し鈍く感じている。左上部に比べて、薄皮一枚隔てている感覚があって、行きつけの整体療法士を訪ねた。施術前にまず身体の歪みなどを細かく確認してゆく。整体と言っても、マッサージも余りせず、時折肋骨や尾骶骨を少し押さえてゆるめる以外、ただ手を軽く当てて気を送っているように見える。そうして実際身体は確かに熱くなるし、身体の内部がゆるんだり重心が移動するのも実感できる。
興味深いのは、その施術の間、整体療法士が口の中で呪文だか祝詞のようなものを唱えていることだ。耳を澄ますと「天にまします処女マリア…云々…ハレルヤ」と言っているように聞こえる。てっきりマントラの真言でも呟いていると思いこんでいたから、カトリックの祝詞ならばそれはそれで興味深い。整体にまじないがどう役立つのか知らないが、実際身体は緩むし宗教団体に勧誘もされないので、マントラでもハレルヤでも構わない。部屋には小さなイコンはかけられているが、特にオカルトじみたものもない。

ところでミラノに帰宅すると、庭の樹に棲みついていたリス一家は転出していた。取敢えず、胡桃を置いて様子を見ていたところ、二日目どこからか一匹ひょいとやってきて、胡桃を熱心に食べていた。仲間への合図なのか、食事後、暫く頭を下にして木の幹にしがみつき、大きな尻尾を旗のように長い間振っていた。

9月某日 ロッポロ民宿
朝、庭を眺めると、小鳥たちも烏の番も庭に戻ってきて賑やかである。盛んに尻尾を振っていたサインが伝わったのか、早速リスは2匹に増えている。動物の気配がない時より、庭の樹も何だか嬉しそうに見える。
昼過ぎ、中央駅発トリノ行き列車で生徒たちと落ち合い、サンティア駅に迎えにきたトンマーゾの車で、ロッポロへむかう。
トンマーゾ曰くこの辺りは信仰心に篤い人が多いという。だから黒マリア像や黒イエス像なども多いし、土着の風習も未だに強く残っていて魔女も沢山住んでいる、と事も無げに言う。
後部座席に座っていたフェデリコも、「ピエモンテのマスケ(魔女)」でしょう、と楽しそうに話に加わってきた。フェデリコは、大学でキリスト教理学を専攻している。彼らの話を黙って聞いていると、白魔術はどうで黒魔術はどう、この辺りでは悪魔祓いも盛んだという。トンマーゾによれば、元来この地方の魔女は、男性に依存しない独立心の強い女性の象徴でもあって、その場合は悪者扱いもされなかった、というが、事情はよく分からない。
頭の中で、高校生くらいの頃に読んだ、黒魔術や錬金術あたりの逸話が書かれた澁澤の著書の記憶を必死に引っ繰り返していた。
ピエモンテの中心トリノと言えば、白魔術の三角地帯、黒魔術の三角地帯の重要地点らしいし、どこからか魔女も集まっているのだろうか。魔女が集まれば、悪魔祓いも必要となるだろうから、当然祓霊師も沢山いるのかもしれない。
そんなロッポロの古城は小高い丘の上にあって、一見無味乾燥な要塞のようだが、内部は思いの外絢爛であった。オーケストラ・リハーサルの広間の壁は、一面明るい水色に塗られており古めかしい沢山の肖像画がかかっている。天井からは美しいシャンデリアが垂れていた。
学生とディスカッションする中庭の軒先には、剥製の巨大な水牛の頭部が並び、いつもこちらを見下ろしている。少し顔を上げるたびに、薄目を開けてこちらを眺める水牛と目が合ってしまい勝手が悪い。

9月某日 ロッポロ民宿
朝起きると家人から連絡があって、息子の具合が悪いという。39度近い熱が3日続いていて、脱水症状も酷く、食事も摂れないらしい。救急病院に駆け込むよう促すが、家人自身も体調を崩していて、動けないと言う。すわコロナかとも思ったが、息子が食あたりと言い張るので、ともかく消化器科医に往診を頼むと、週初めに食した生肉が原因らしいと分かる。あと3日ほどで治ると言われたが、絶食で息子は4キロほど痩せたと言っている。尤も、この状態で救急病院に駆け込んでコロナを罹患するより、正しい選択をしましたね、と医者に褒められたらしい。

9月某日 ミラノ自宅
起床後、夜明け前のB&Bの共同台所で、自分でコーヒーを沸かす。冷蔵庫には、地元産チーズとマスカットなどが入っていて、トースターでパンを焼き、地産の栗蜂蜜とチーズを併せて、暗がりの中、一人で食す。シンプルながら絶品で、実に贅沢な味わいだ。
今朝はどうしても散歩に出掛けたかったので、ヴィヴェローネ湖とは反対方向に向かって丘を登り、ベルティニャーノの小さな湖を一周する。湖というよりむしろ池と呼ぶのが相応しい、宝石のように美しい小さな湖だが、その湖手前の祠には小さな白い祭壇があって、黒いイエス像を抱く黒いマリアが飾られていた。フェデリコ曰く、ヨーロッパ各地に残る黒マリア像の生まれた背景は諸説あって分からないが、パレスチナに暮らしたマリアの肌は本来褐色だった筈であることと、中世末期、退廃したカトリック宗教界に抗って、純粋な宗教心復興を求めた信者の願いでもあったという。
そう言われて、改めて黒マリア像、黒イエス像を眺めると、不思議と純朴な純粋な宗教心に溢れる顔つきに見えるから不思議だ。
昨日はオーケストラのリハーサル後、トンマーゾが車でヴィヴェローネ湖に連れていってくれた。夕日の映える湖面には、珍しい鳥も沢山集っていた。首から先だけが黒いクロエリハクチョウが悠々と泳いでいて、眺めていると鴨たちにちょっかいを出していて、性格はあまり良さそうには見えなかった。
対岸は渡り鳥が巣を作るため、人間の居住が禁止された鳥獣保護区となっていて、そこから少し離れて鳥獣観察所もある。その辺りには白鳥だけでなく、黒鳥も集っているという。
湖面の向こうに目をやると、遠く、アルプスはアオスタの辺りから伸びる古代の氷河跡が、一本の長い丘になって続く。雄大で奇怪な地形が眼前一杯に広がる。巨大な谷状に抉れた地形の突端にあたる薄い縁が夕日の逆光に耀いていて、その下に深く翳も延びているから、実に繊細な趣を醸し出す。ヴィヴェローネ湖に注ぎこむ川はなく、その昔ここに張っていた氷河の水が溶け湖のとなり、地底からの湧水が足されて現在の姿を保っている。

夜の演奏会後、城主のパトリックに城が収蔵する絵画のコレクションが見事だと話したところ、絵が好きなのかい、と非公開の収蔵作品を見せてくれる。
数枚のラファエルロは言うに及ばず、ジョット、ルーベンス、ダヴィンチも1枚あって、ヴァン・ダイクなどのフランドル派も数多く収蔵されている。ダヴィンチの個人収蔵作品は、世界に数点しか存在しないが、その貴重な一枚だと胸を張った。俄かには自分の眼が信じられず、無造作に壁に掛けられているこれらの絵画は本物かと尋ねると、パトリックは大笑いして、もちろん全てオリジナルだと言う。尤も、少しでも異常があればすぐに警察がかけつけるようになっている。
突如、パトリックは16、7世紀作とおぼしき聖母子像の裏にサインをしたかと思うと、お前の今回のロッポロ訪問の記念に、是非これを持ち帰ってくれ、と渡してくれた。

9月某日 ミラノ自宅
漸く、夏の間放置されていた庭の芝刈りをする。3カ月近く放ってあったので、雑草も延び放題だったが、8月の大嵐で庭の枝が散々折れてしまっていたから、まずそれらを搔き集めるところから始めた。
アゼルバイジャンのアルツァフ共和国、つまりナゴルノカラバフ共和国が、24年元旦をもって消滅との報道。「自画像」を書く上で知った、現在も続く国際紛争の多くが、結局、平和的解決を見出さぬまま、強制的、力学的解消へ向かう事実に、ただ無力感を覚える。戦いだけは、どんなに文明が進化しても変わらない。
政治背景はさておき、ハチャトリアンが作曲したソ連邦のアルメニア国歌は、個性的な響きが印象的に残る佳作だと思う。

9月某日 ミラノ自宅
ミラノ郊外のバッジョまで、家人とYさんと連立って息子のピアノを聴きにでかけた。スカルラッティ2曲に水の戯れ、ベートーヴェンの変奏曲にリスト2曲。先週の食中毒騒ぎで、元来痩せていた息子の躰は、いよいよ痩せ細っていたから心配したが、結局杞憂におわって感心している。
シャリーノが作曲した「ローエングリン」最初の録音は、シャリーノ自身が指揮しディズィー・ルミニがエルサを演じている。録音されたルミニの声や喉の使い方は、シャリーノとルミニが二人で研究したものだ。「ローエングリン」では、精神病院に収容されたエルサの妄想、妄言が、一人二役を演じながら、主要人格が曖昧模糊としたまま演じられる。あのルミニの録音で思い出したのは、カトリックの悪魔祓いの情景であった。
ディ・ジャコモ監督のドキュメンタリー映画「liberami」で、祓霊する神父が悪魔と携帯電話で話す場面などが有名になった。神父の言葉にぎゃあぎゃあ答える悪魔の姿は、まるで喜劇のようだ。カトリックの霊祓師は、精神科医と協力しながら悪霊祓いすることもあって、神経衰弱とか統合失調症の憑依状態は、見分けるのも難しい、とどこかで読んだ。
祓霊の儀式がまやかしか否かはさておき、ルミニ演じる精神病院患者のエルサの声は、憑依状態の患者の声を思わせるもので、案外統合失調症の声にも似ているかもしれない。
悪魔祓いが茶番なのか、現代の魔女が悪魔に何を誓っているのか、知る由もないが、自ら不可解な呪文で整体の施術を受けていたのを思い出し、あながち遠い世界の話ではないと知った。

(9月30日ミラノにて)

水牛的読書日記2023年9月

アサノタカオ

8月某日 「水牛的読書日記2023年8月」はお休みしました。8月後半は新型コロナウイルスに感染し、自宅療養。幸い重症化することはなく、療養中は自室に引きこもり、ベッドの上で姜信子さんの『語りと祈り』(みすず書房)をひたすら読み続けた。旅する作家が訪ねる説教、祭文、瞽女唄、浪曲の世界、あるいは足尾銅山、水俣、離散民の地。「近代」という力に抗う無数の声たちの渦に、心がのみこまれた。熱っぽいからだで姜さんの本にじっくり向き合う読書の時間は、特別な体験になった。この本についての感想は、いつか書きたい。

9月某日 関東大震災100年。戸井田道三の自伝『生きることに〇×はない』(新泉社)を読み返す。最終章は「ゆれる大地、関東大震災」。百年前、14歳の戸井田少年は神奈川・辻堂で被災し、藤沢〜茅ヶ崎間で起こった朝鮮人虐殺について語っている。次の引用は、凄惨な虐殺の場面をめぐる証言につづく自己反省の文章だ。

《大沢商店へ炭とまきを買いにいったとき、おやじさんが「朝鮮人が攻めてくる」と真剣にバリケードをつくっているのを見て、一種の恐怖心をもちました。わたしは、そのときの自分がたった十四歳の少年だからといって自分を許すことができません。……
 林蔵さんの話がウソかホントウかを問題にしているのではありません。朝鮮人を虐殺したという歴史事実があったこと、そのときに流言飛語をわたしが否定する判断力をもっていなかったということについて、自分を問題にしているのです。》

「自分を許すことができません」「自分を問題にしているのです」。戸井田のこの厳しいことばを深く胸に刻んでおきたい。ところで震災直後、かれは東京・青山の親戚宅へ避難した。そこで「朝鮮人を警戒しろ」という「デマ」を記した謄写版の通知書を見て、それを置いていったのは参謀本部の軍人だったとも語っている(いとこからの伝聞として、それはのちにインパール作戦を指揮した牟田口中将だったようだ)。これも貴重な証言だと思う。

9月某日 早稲田大学で開催されたカルチュラル・スタディーズ学会「CulturalTyphoon2023」に大学生の娘と参加。お目当てのシンポジウムは初日の「東アジアにおける新しい戦(中)前とフェミニズムをめぐる対話——陳光興をむかえて」、2日目の「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」。台湾の文化研究の重鎮・陳光興氏の発表は、「母の力」が戦争に抗うものになるかを問う論争的な内容。会場をさすらう陳光興氏の風貌が、黄色いサングラスのヒッピー風だったことが印象にのこった。

「CulturalTyphoon2023」の会場では、砂守かずらさんが企画制作した映像作品『Drifting Islands, Still Water』を鑑賞した。砂守かずらさんの父で沖縄出身の写真家、故・砂守勝巳の写真と文章から構成され、音も付けられている。いくつかの強烈なイメージと言葉が心に残った。会場の入り口では、『ははの声』という砂守さんと木村奈緒さんの展示も開催されていて、母親である女性たちを木村さんが撮影したポートレート「声をさがして」も見応えあり。

「未知の駅」を主宰する諌山三武さんのZINE SALONのブースを見つけて、諌山さんとひさしぶりにおしゃべり。池田理知子さん編『MCDスタディーズ——福岡+みつめる』(未知の駅)を購入した。

9月某日 「CulturalTyphoon2023」の2日目は娘だけが会場参加をしたので、「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」での高井ゆと里さん、三木那由他さん、水上文さんの発表については帰宅した娘から感想を聞きつつ、アーカイブ動画を視聴。その後、うちにある『すばる』8月号の特集「トランスジェンダーの物語」での高井さん、三木さんのエッセイ、『文藝』での水上さんの文芸季評を読んだ。

9月某日 香川から東京に来ている写真家の宮脇慎太郎くん、『香川のモスクができるまで』(晶文社)の著者・岡内大三さん、Wさんと待ち合わせ、三鷹市美術ギャラリーへ。宮脇くんの紹介で知り合った新田樹さんの写真展「Sakhalin」を鑑賞。写真集もすばらしかったが、オリジナルプリントで見る光の美しさに息をのんだ。サハリンに暮らす残留朝鮮人たちの肖像。寡黙な表情と静謐な風景のなかに旅の記憶の襞がいくつも折りたたまれていて、胸を打たれた。

新田さんの写真集『Sakhalin』(ミーシャズプレス)は第47回木村伊兵衛写真賞と第31回林忠彦賞をW受賞。今回の写真展は林忠彦賞受賞記念の企画で、会場にいた林さんに「おめでとうございます」と直接伝えることができてよかった。

9月某日 東京・三鷹の UNITÉ を訪問。宮地尚子さん&村上靖彦さんの対談集『とまる、はずす、きえる——ケアとトラウマと時間について』(青土社)を購入。お店の前では、秋祭りの神輿の行列ができていた。ついで荻窪の本屋Title へ。こちらでは宇田智子さんの『三年九か月三日——那覇市第一牧志公設市場を待ちながら』(市場の古本屋ウララ)を入手。リトルプレスのコーナーでみつけた貴重な一冊。

9月某日 東京・新小岩の「にこわ新小岩」で開催された本の展示販売会「TOKYO ポエケット」にサウダージ・ブックスとして出展。詩人のヤリタミサコさんにお誘いいただいたのだった。会場ではポエトリー・リーディングのイベントもおこなわれ、とりわけ浦歌無子さんとヤリタさんの共演による詩の朗読に感銘を受ける。会場で、浦さんの詩集『光る背骨』(七月堂)を購入。さっそく帰路の電車で読み、伊藤野枝をテーマにした作品「大杉栄へ——そのときあなたはもっと生きる」などに圧倒された。

そのほか入手した本やZINEは、ヤリタミサコさん&向山守さん編訳『カミングズの詩を遊ぶ』(水声社)、服部剛さん『我が家に天使がやってきた』(文治堂書店)、『カナリア』6号、サトミセキさん『リトアニア〜ラトビア バルト三国の時間を旅する』、『mini・fumi』40号。

9月某日 朝、近所のカフェで編集の仕事をした後に江ノ島の海辺を散策した。打ち寄せる波が生ぬるい。ビーチサンダルで歩けるあいだは、まだ夏。

9月某日 斎藤真理子さんのエッセイ集『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)を読む。タイトルが最高にすばらしい。頁と頁のあいだに挟まれた栞は、書物の内にある作品世界をぴしっとまっすぐ貫いていて、同時に書物の外に飛び出したスピンの先は時代や社会の風に吹かれてちいさく揺れてもいる。そんな「栞」のイメージは、「読書」をテーマにしたこの本の内容にぴったりだと思う。

『本の栞にぶら下がる』のもとになった『図書』の連載を読んでいたが、一冊の本としてあらためて通読。すると、韓国文学の翻訳者である斎藤さんが、世界の文学を遠望しつつ、「近代」という時代と社会において暗い影が落ちるところ(戦争、疫病、差別……)から聞こえる小さな声に注意深く耳を傾ける姿がよりはっきりと見えてきて、背筋が伸びた。

永山則夫や茨木のり子やジョージ・オーウェルについて。朝鮮・韓国の文学について、植民地時代の日韓の作家の交流とすれ違いについて、沖縄や炭鉱の文学について、多くを学ぶことができた。その他にも、いぬいとみこや森村桂やマダム・マサコなど、自分が知らなかった女性作家たちの存在に触れられて、うれしかった。

思い出す、古い本たちのこと。人生のさまざまな場面で読書をする斎藤さんの姿を通じて、かつてある「時代」が人間の心に何かを刻んでいった消息を知り、それが時を隔てていまを生きる自分が抱える問いを予見していたようにも感じられ、いろいろな思いを反芻している。読みどころは本当にたくさんあるのだけど、「「かるた」と「ふりかけ」——鶴見俊輔の断片の味」という一編が、いまのところ自分にとってこの本の「おへそ」かな。 

9月某日 今月から明星大学で編集論の授業がはじまった。授業後の夜、大学図書館で、木島始の詩やエッセイを拾い読み。学生時代、ラングストン・ヒューズの詩をかれの翻訳で読んで理解したつもりになっていたのだが、自分が読んでいるのはヒューズその人というよりは《詩人・木島始》のことばなのかもしれないと、あるとき思い当たった。同じころに、野村修のベンヤミンやエンツェンスベルガー、片桐ユズルさんと中山容のボブ・ディランの翻訳なども夢中になって読んでいた。藤本和子さんによる数々のアメリカ文学の翻訳にもその流れで出会ったのだと思う。こうした尊敬する翻訳文学者たちのことばは、いまもたしかに身に残っていると感じる。

9月某日 台湾の文学研究者・朱恵足さんから郵便が届く。なんだろうと思って封をあけると、『越境広場』12号。沖縄発の雑誌が台湾を経由して海を渡ってやってきた。朱さんの論考「ひと昔前の「台湾有事」を振り返る——金門島の視点から」が掲載。川田文子著『赤瓦の家——朝鮮から来た従軍慰安婦』から引かれた、巻頭のぺ・ポンギさんのことばから読む。今号には、姜信子さん『語りと祈り』の書評(評者は呉屋淳子さん)も載っている。

9月某日 大学の授業で、毎年恒例、ビブリオバトル形式の好きな本の書評発表会を開催。今年は小説やエッセイのほかに、人文社会の本(日本語学、環境問題など)もいくつか紹介されたのが新しい傾向。知らない本ばかりで、学生のみなさんの書評を読んで学びます。

9月某日 HIBIUTA AND COMPANYでの自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」。宮内勝典さん『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)の第2章を参加者とともに読む。移民の歴史や人種差別について、科学とアニミズムについて、色彩について、人物の名前や詩的な表現について。今月、ぼくはオンラインの参加だったが、来月は三重・津のHIBIUTAに行く予定。

9月某日 朝日カルチャーセンター新宿教室にて、今福龍太先生の「記憶と忘却の身体哲学——戸井田道三の〈前-言語〉的世界」を聴講。最終回となる第3回テーマは「戸井田道三と沖縄」。比嘉康雄さん撮影、1978年久高島のイザイホーの写真をよく見ると見物人の席に、民俗学者としての顔も持つ戸井田翁が座っている。その隣の隣に黒頭巾姿の作家・石牟礼道子さん。イザイホーは12年に一度おこなわれる島の女性たちの神事で、この年が最後の開催となった。

9月某日 最寄りの本屋さんである神奈川・大船のポルベニールブックストアで『本の栞にぶら下がる』発売記念、斎藤真理子さんのトークイベントが開催。不肖ながら聞き手を務めることになった。イベント当日の夕方、リュックサックに付箋だらけの斎藤さんの本と資料を詰め込んで、「あれも聞きたい、これも聞いてみよう」と渦巻く頭の中を整理し、心を落ち着かせるために自宅からゆっくり歩いてお店へ向かう。トークについては終わったばかりなので、あらためて報告したいと思います。

辿りと見計らい

高橋悠治

全体の構成から部分へ降りてゆくのではなく、思いついた小さな形を辿る動きからはじめて、その動きをくりかえすとき、指がすこし逸れてしまう。「すこし」を見計らいながら、辿り続ける跡に残る一本の線。

また「すこし」離れた場所から、もう一つの「形」を辿る別な指。音の高さを縦軸に取り、横軸を時間として描く図を思い浮かべてみると、そこからはじまる音楽は、構成ではなく、即興でありながら、続く部分、「先を見通せない」線の流れ。

線は過ぎ去るかと思えば、まためぐる。「めぐる」とき、一つの物を囲むときもあれば、あちこちをさまよい歩くこともあり、もとに返ることはなくてもよいだろう。さまよった末、もとに返れば、全体が生まれ、完結して静まる。そういう音楽はいままで多かった。冒険の果て、一段と強く大きくなった姿を見せて終わる。19世紀のヨーロッパ音楽、シンフォニー、コンチェルト、大編成オーケストラの響き、争い、競争、支配の音楽。

そうした装置を引き継ぎながら、それらを別な方向に動かすやりかたがあるのだろうか。19世紀から20世紀前半まで続いた音楽の革命は、1930年代の新古典主義に統合されて、そこから抜け出す道は、なかなか見つからないように見える。

1968年からはじまった反逆の試みも、90年代までに回収されたのではないだろうか。いわゆる「グローバリズム」は、拡大した国家主義の姿だったのか。

思いつかないままに、ことばに残す。これはだが、ほんの準備段階にすぎない。とりあえずは、思いついた動きを書き留めておく。「形」は「動き」の省略記号。読み取り、指を動かす、その感触から、「ふと姿が浮かぶ」(各務支考『俳諧古今抄』)次の音。無心所着。

これは言葉だった。次は音で試してみよう。

2023年9月1日(金)

水牛だより

ゆうべの満月、スーパームーンの夜は空一面に薄い雲がかかっていて、月の所在はわかるものの、おぼろにかすんでいました。今夜の十六夜の月は、雲ひとつない夜空につめたく輝いています。通りすぎていく風もほんの少し涼しくなったかな。

「水牛のように」を2023年9月1日号に更新しました。
毎月1日は水牛の更新をするので、予定をいれないようにしているのですが、きょうは午後から横浜までダンスを観にいってしまい、帰宅してからの作業となりました。いつもよりいくらか遅くなってしまいましたが、完了! ホッとして満月を眺めています。
毎月トップページを不思議なイラストで飾ってくれる柳生弦一郎さん。近刊のえほんを見つけたので、お知らせします。タイトルは『おだんごやま』、なんでしょうね、おだんごやま、って。はやく読みたいです。

それでは、また来月に!(八巻美恵)

どうよう(2023.09)

小沼純一

たべないの
たべたくないの
たべらんないの

たべるられるものないじゃない

たべられるかと
つくってみても
そっぽむかれて
へちゃむくれ

たべるものないじゃない

もんくはいっきに
のみこんで
はらふくれるのは
どっち
どっちだ

あのみせこのみせ
どしたんだろう

ときどきよって
カクテルいっぱい
バーはほとんどいかないけれど
あのみせだけはごくたまに
バーなのにタイの料理もだしていて
たぶんおなじくらいのひとがマスターで
とりとめのないはなしを
ぽつぽつと
すこしあいだをおいたらば
貸店舗のふだがさがってた

あのみせこのみせ
どしたんだろう

じゃけん
じゃんけん
じゃのめ
じゃのみち
じゃばらひらいて
じゃんばらや

じゃりみち
じゃりたれ
じゃりじゃりふんで
じゃりじゃりかんで
じゃくにくきょうしょく
じゃからんだ

さし 
さわる
さし
さわり
なし
さし
さわり
ない
やりとり
するすると
すすむ
ものごと

さし

ささ
れつ
さし
ぬかれ
さし
もどす

さし

しまいたい
させば
いつか
しまい
がおとずれて

肩を並べる

植松眞人

 社会人になって働くことの面白さや辛さもある程度経験した息子とは、年に数えるほどしか会わなくなったけれど、会うと必ず息子は小生意気な口をきく。小さな頃から小生意気だったので、それほど気にならないのだが私に似て腹の据わっていないところが見え隠れする言動にははらはらしてしまう。
 そんな息子には悪い事をしたなあと思うところがいくつかあり、その最たるものが引っ越しである。私の仕事の都合というか、簡単に言えば、事業の浮き沈みで引っ越しを余儀なくされることがリーマンショック以降多くなってしまい、なぜかそれが息子の受験と重なるのだ。高校受験も大学受験もそうだった。
 引っ越しも小さな家から大きな家へと引っ越すのであれば話が早い。あるものを全部持っていってもちゃんと収まる。けれど、大きな家から小さな家へと引っ越す場合は、持っているものを処分しなければならず、どうしても手間がかかってしまう。引っ越しの経験がある人ならわかるだろうが、持っているものを処分するというのは時間のかかるものだ。加えて、引っ越し前の数週間は家の中が持っていくものと処分するものでごった返して混乱する。
「なんで、僕の受験に合わせて引っ越しするかなあ」
 息子は不平不満で頰を膨らますのだが、仕方がない。ない袖は振れない。ない家賃は払えない。払えるところへ行くしかない。というわけで、リーマンショック以降、私たち家族は流浪の民のように少しずつ家のサイズを縮小しながら暮らしている。しかし、そんな流浪のなかでも住み心地の良かった家があった。数年間住むことになった千駄木の借家だった。猫を飼っていたため、マンションではなく借家を転々としていたのだが、千駄木の借家は隣に住む大家が元々猫好きということもあり、猫を飼うことにも好意的で、築年数は経っていたけれど広くて住み心地のいい家だった。
 千駄木の家に引っ越す前に住んでいたのは上石神井の借家で、ここはなんとなく陰気な感じのする家で、家が建っている周辺もうら寂しくなるような印象だった。神楽坂近くの矢来町から上石神井に引っ越す時がちょうど息子の高校受験と重なっていて、学校が終わると息子は馴染みだった神楽坂の夜はバーになるカフェで受験勉強をさせてもらっていた。バータイムが始まっても、客が少ないのをいいことにカウンターの端に居座って、参考書をめくり、わからないところがあるとカウンターの中にいた大学留年生に質問してページを進めるという毎日だったようだ。そんな暮らしの中でも息子は親孝行で、ちゃんと学費の安い公立高校に入学してくれた。
 しかし、どことなく陰気な上石神井の家にはたった一年住んだだけで千駄木へ引っ越すことになった。引っ越し前、千駄木の借家を下見に行った私は、居間の隣に小さな和室があるのを見てとても気に入ったのだった。静かな場所に建っている家で、その和室の窓からは隣の庭が借景となって気持ちの良い風がいつでも吹いているイメージをもたらしていた。それを見た時に、ここに机を並べれば、息子が毎日受験勉強をしていた神楽坂のカフェのカウンター席のようになるかもしれないなあと思ったのだった。それなら、私も息子の隣に席を並べて書き仕事をして、黙って時間を過ごすのもいいと思ったのだ。さすがに、そんな話を高校生の息子に伝えても嫌がられるだけだと思い黙っていたが、とりあえずそんなふうに作業ができるスペースだけは確保しようと考えたのだ。
 千駄木への引っ越しの日、業者が荷物を運び込んだあとの様子をみて、私は驚いた。荷物が溢れかえっていた。あれもこれも捨てたり処分したりしたはずなのに、まだまだ荷物があり、息子と肩を並べようと思っていた和室も物置と化した。そして、その状態は次の引っ越しまでそれほど変わらないままで、その間に息子は京都の大学に入学を決め、家を出て行ったのである。
 この話は息子にはしたことがない。しても嫌がられるか笑われるだけだと思い話さなかった。私自身もそれほど強く、それを願ってはいなかったはずで、それもいいなあという程度だったと思うのだ。それなのに、私と息子が肩を並べて、隣の木々が揺れる大きな窓に向かって、黙っている様子を今でも時々思い浮かべてしまう。そして、そんな風景を思い浮かべる時、もしかしたら、本当にそんなことがあったのではないかと思うくらいに吹いていたかもしれない風を感じ、どう考えても実際にはありえないような光のきらめきを思ったりするのだ。(了)

しもた屋之噺(259)

杉山洋一

ダヴィデより、トレントの山中レードロのぺルニチ山荘で、マーラーのアダージェットのピアノ編作を弾いているヴィデオが届きました。標高1600メートル、男性的な山肌に囲まれた山小屋のテラスに設えた小さなピアノの響きは、そのまま澄んだ山のまにまに吸い込まれてゆきます。

8月某日 三軒茶屋自宅
台風の接近により強風。小学校の校庭にはられたネットも風に煽られ鉄棒とふれて、カラカラ、チリチリ乾いた音を立てている。墓参の卒塔婆の音を想起させるのは、盆が近いからか。
クセナキスの楽譜を眺めていて、その昔、ギリシャ神殿で神々に畏怖を伝え、祈りを捧げる折、人々は何を思ったのだろうと考える。ひょっとしたら、ほんの少し、今の自分と重複するものがあるかもしれない。おののき、期待、不安、躍動。ディオニソス的な時間に足を絡み取られそうになりながら、なぎ倒されまいと懸命に足に力を籠めていて、とんでもなく巨大で壮大な存在が、うっすら浮かび上がる。外国為替は円安進行・1ユーロ159円とのニュース。日銀介入か。

8月某日 三軒茶屋自宅
毎日楽譜を開くたび、自らの読譜能力の欠落に憤りと不甲斐なさを覚え、呆れかえっている。
クセナキスのリズムは、出来るだけ読みやすく書き換えた。複雑すぎて現実的でない箇所は、一つ一つ近似値を計算し、簡単にして、頭で少しでも音が聴こえるよう腐心する。
尤も、複雑な連符群など、実際は単に音の揺らぎや連続的変化を数的に表現しているに過ぎず、それらも同族楽器群ごとには分けられていなくて、敢えてオーケストラを裁断し細分化したグループごとに変化するので、どう取り扱うのが一番真っ当なのか甚だ悩ましい。
ファジーな視点を排し、決然とした姿勢を心がけつつ、雨が降り、雪嵐にまみれ、つむじ風に翻弄される、自然現象に晒された自らの姿を、我々は直截に再現しなければならない。何某か確固たる指針を裡に築いておかなければ、漠然と立ちすくむばかりで、畏怖に翻弄されて、実体のない音を奏するばかりだろう。夜、息子と連立ち町田を訪ねる。彼はシチューを食べ、こちらは鯵のタタキを頬張る。

8月某日 三軒茶屋自宅
ちょうど1世紀前に作曲されたヴァレーズ作品について。
ピッチが不明瞭とされていた打楽器パートに旋律を与え、通常旋律を奏する管楽器は、使用する音高を徹頭徹尾限定してリズムを際立たせ、打楽器のように扱う。オーケストレーションの変革というより、発想の逆転である。とどのつまり、何の音であっても旋律は成立するのだ、君も漸く気がついたか、と諭されているように感じる瞬間すらある。
何がどう違うのか定かではないのだが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」や「ペトルーシュカ」のような打楽器的音楽とも、根本的に成立過程は相いれない。
ストラヴィンスキーは、機能和声の延長線上で複雑な和声構造が成立しているし、明快な論理に基づき、土俗的リズムを生み出した。オーケストレーションも、伝統的な見地をもってしても全く無駄がない。
ヴァレーズは、オーケストラの楽器が出しにくい音を選び、敢えて書く。ヴァレーズは、ベルリオーズなど、伝統作品の指揮をよく手掛けていたから、譜面から彼が熟知した楽器法はよく見て取れるし、如何にして既存のオーケストレーションの概念から抜け出ようと試行錯誤していたのか痛感する。
新動機や、変奏を忍び込ませつつ、全体は、意図的に把握の容易な二部構造を踏襲したのは、聴き手は遡及しながら作品の物語性の共有が可能であって、確固たる全体の屋台骨は正確に把握を欲していたのではないか。
一見、直感的に演奏すべきかと感じられる音楽だが、常に何かを逸脱しようとしていて、その「何か」を常に意識しておく必要がある。

8月某日 三軒茶屋自宅
ハワイ、マウイ島で大規模火災。マウイ島はおろか、ハワイすら全く知らないが、マウイ島ラハイナと聞き、「波の盆」のラハイナ浄土院「盆踊り」を思い出す。ラハイナ浄土院も大仏以外焼失とニュースが報じている。

8月某日 三軒茶屋自宅
湯浅作品を勉強していて、音楽の息の長さに改めておどろき、息の浅い自分に呆れた。長いフレーズを、モザイク画のように、或いはちぎり紙細工のように、さもなければ点描画法のように細分化しながら、表面の触感を大胆に変化させつつ大きな運動でうねりを生み出す。細部を明確にし過ぎれば、推進力不足でフレーズが角ばってしまう。推進力に重点を置きすぎれば、音の粒子は光沢を失い、くすんでしまう。最後の練習で、突然演奏者全員の力が抜け、靄が晴れた思いに駆られる。離陸後の飛行機が、立ち籠める厚い雲を超えて、澄みきった青空に飛び出した時のような、不思議な感動を共有する。勉強しているとき、時折ドビュッシーのオーケストレーションを思いだしたのは何故だろう。

8月某日 三軒茶屋自宅
演奏会の最後、湯浅先生は思いの外お元気で、幾度も舞台上で万雷の拍手に応えた。その凛々しい姿には、ただ深い感銘を受けるばかりであった。

8月某日 三軒茶屋自宅
無事に演奏会は終わっても、未だにクセナキスをリハーサルする夢を見ては、あそこが合わない、ここがずれた、と魘され続けている。目が覚めると夢でほっとする。
プリゴジンが搭乗していたとされる、自家用ジェット機墜落。福島原発では処理水放出開始。

8月某日 三軒茶屋自宅
草津音楽祭でカニーノさんのレッスンを受けてきた息子は、レッスン内容を色々教えてくれる。彼はレガートは指で繋ぎ、ペダルでは繋げない。ペダルは音色の変化に特化して踏むのだという。
ポジション移動の際、準備はせず、そのまま飛べるよう訓練すること。スカルラッティ繰返しの変奏は、強弱ではなく、音色と装飾音を変化させること。替え指を頭ではなく、無意識に出来るようになること。小指を強くすること。掌で掴む塩梅で弾くこと。後10年もすれば、誰も暗譜で演奏などしなくなる。暗譜にかけるストレスより、楽譜を見ながら、より開放的に自由に弾くよう望まれる時代に入りつつある、云々。
齢18の息子が嬉々として話し続けていて、思わず感慨を覚える。

8月某日 三軒茶屋自宅
母曰く、義理の妹ミツ代さんが七月十二日に間質性肺炎で亡くなっていた、と息子さんから電話がきたそうだ。ミツ代さんの言いつけで、訃報は暫く経って伝えられたらしい。姉妹の母が眠る大津の信誠寺ではなく、久里浜のお墓に入ることになるという。眼の大きな、明るくはきのある、それでいて芯の強い女性だった。もう長年会っていなかったから、なぜか小柄な印象を持っていたが、実のところ母より背が高かった。
長年、レッスンでピアノを弾いてくれているマルコよりメールが届く。
先日、学校の運営関係者から電話があって、マルコの9月分契約予定日の拘束は必要なくなった、と言われたそうだ。春先だったか、「長年学校に勤めていながら、未だ終身雇用扱いされないのは不当」と弁護士を介し学校に抗議していた。

8月某日 三軒茶屋自宅
レプーブリカ紙、福島産海産物に舌鼓を打つ岸田首相の写真を大きく掲載。中国による日本の海産物輸入拒否と関係あるのか、日本国内の海産物流通価格下落。帆立貝刺身も安くなっていて、町田の両親宅でも二パック分存分に振舞ってもらった。日本の漁業関係者が本当に気の毒だ。
西武池袋本店ストライキ。そごう西武を米投資ファンドに売却とのニュース。アール・ヴィヴァンやカンカンポア、「今日の音楽」や武満徹。ロンドン・シンフォニエッタやネクサス。フランソワ=ベルナール・マーシュやファブリチアーニ。我々の世代にとって、追いかける夢を常に与えてくれる存在だった。
野坂惠璃さんのための新作題名は「夢の鳥」とする。野坂操壽さんが、生前アッシジ訪問を切望されていたと伺い、深く心を動かされた。

(8月31日 三軒茶屋にて)

話の話 第6話:どうしても覚えられない

戸田昌子

わたしはいまひかりの座席に座っている。東海道新幹線のひかりである。京都へ向かっている。なのにどうしてのぞみでなくて、ひかりなのか。周知のように東海道新幹線は、のぞみ、ひかり、こだま、の順番で到着が早い。そしてのぞみは問題なく京都に止まるというのに、なぜわたしはひかりのきっぷを買ってしまったのか。それはたぶん大雨のせいだ。そしてたぶん、わたしのクレジットカードだけはいつも受け付けてくれない駅の(おそらくは旧型の)自動券売機にいらいらして。ホームに入線する新幹線を見てからようやくそれがひかりであることに気づいたという次第で、つい「こだまでしょうか?」「いいえ、ひかりで」とつぶやいている。

一時期ほどではないけれど、新幹線にはまあまあ乗る。いっときは週1くらいで乗っていた。いったい何百回乗れば覚えられるのか、と思いつつ、どうしても覚えられないことはあるのだ、とも思う。たとえばごみの分別収集日。何曜日が燃えるゴミの日で、何曜日が燃えないゴミの日なのかを、わたしは覚えない。覚えないことにしている、と言うべきかもしれない。なぜなら、もし覚えてしまうと、収集日にゴミを玄関先に持っていくのがわたしの仕事になってしまうからである。そうすると、夫の数少ない家事分担率が減ってしまうではないか。妻たるわたしが夫の仕事を奪うわけにはいかない。つまりは夫のためにも、わたしはごみ収集日を覚えるわけにはいかない、という必然的な理由もあるのである。これは、麻雀に似ている。いったん麻雀を覚えてしまうと、先輩諸賢にカモにされてしまうので、覚えないままの方がいい、という例の教訓的なあれである。世の中には覚えないほうがいいこと、というのが確かにある。

覚えないほうがいいことの筆頭が、煙草である。煙草をいったんのんでしまうと、その後、その人は煙草をのむ人生とのまない人生の二つの選択肢のあいだで揺れ動くことになる。のんだことがなければ、のんでみようか、という選択肢があるのみである。たばこをのまない人には選択肢は1択、のむひとには2択である。こういう選択肢の数の増減問題は、意外に気づかれていないようだ。ひとは中立な場所で、ものごとを選ばない。覚えてしまってからやめる、というのは、覚えない、ということと同じにはならないのである。

わたしがもっとも覚えられないのが、人の名前である。覚えようとするのだけれど、むずかしい。人の名前を覚えなければならない局面というのが、大抵、講演の直前や授業時などの、集中と緊張を強いられる状況が多いため、人の名前を覚えるどころではないからかもしれない。そのため、「名前を覚えるのが苦手なので、何度かお名前聞きますけど、いいですか?」とはじめに言うようにしている。アメリカに初めて行ったときも、何度か名前を尋ねても失礼ではない英語の言い回しは、友達に聞いてかなり早くに覚えた。「What did you say your name was?」というのである。これなら、「お名前、いちど伺ったんですけど、もう一回聞いていいですか?」というニュアンスが出る。自分の記憶力の悪さをアピールする方法である。これなら気を悪くされることは、たぶん、ない。

自分が名前を覚えないため、他人が自分の名前を覚えなくても全く気にしないことにしている。むしろ、わたしのような者は覚えてもらっていなくても当然、と思っているので、特に目上の相手には、自分の名前を何度も言うように気をつけてもいる。覚えられていなくても名前が認知できるように、という親切心からである。しかし、あるときだいぶ年上の評論家に10回目くらいに会ったとき「わたし戸田と申します」と言ったら「知ってるよ!」と、ずいぶんとムッとした反応をされたことがある。わたしとしては、飲み会で何度か同席しているくらいで覚えていただかなくても気にはしないのだが。というよりむしろわたしの存在など忘れてほしいといつも思っている。

さらに、最も名前を覚えられないケースというのが、苦手な人の名前である。これはどうやらある種の自動消去機能がわたしの頭脳にはついているようで、たとえばその人の本を何冊も持っていたとしても、覚えられないのである。いつでも、「だれだっけあのムカつくやつ、なんだか木へんがついていた気がする」とか「あのなんだか田んぼみたいな変な名前の……」と、などと言っている。実務的には困るので、パソコンのスティッキーズというアプリに、そんな理由で忘れられがちな人々の名前がリストにしてあって、必要な時にはそれを開く。しかしいったん開くと苦手な人たちの名前がリストになってダーっと出てくるので、それはそれで心の闇に引火する可能性があるため、あまり他人におすすめはできない。

さらには、どうしても覚えられない地名や固有名詞というのがある。なにか響きが似ていて、他のものに頭の中で置き換わってしまいがちなやつである。そうした地名の代表格が、わたしにとっての出町柳と四條畷である。でまちやなぎとしじょうなわて。言うまでもないが出町柳は京都の鴨川デルタの近くの駅名、四條畷は大阪は北河内にある市の名前で、名門の府立高校があることでも知られる。もちろんこの双方には、なんら関連性はない。共通点といえば、それらがともに3文字の漢字からなる6文字の地名であること、最初の漢字の1文字に1音が充てられていることくらいで、その音のリズム感によってこのふたつがわたしのなかで置き換えられる理由らしいのだが、これを関西在住の鳩尾に話しても、きょとんとするばかりで、まったく理解するとっかかりがないようだ。鳩尾にとっては関西の地名は馴染みすぎていて、間違いようがないのである。

ちなみにこの鳩尾とは、いつもカレーを食べる。カレーは烏丸御池のカマルのものである。この店はそのむかし、東京は原宿で伝説的な人気を誇ったカレー店「Ghee」の味を継承している銘店で、京都文化博物館の向かいにある。鳩尾とはいつも一仕事終えたあとにそこへ行く。虹色の美しいお漬物がみじん切りになって提供されるのが嬉しい。かつては乗せ放題だったのだが、今では別料金になっていて、不満を述べつつ、それを必ず頼む。わたしたちは長細い皿の両側に別の種類のカレーを組み合わせる合がけがお気に入りで、わたしはキーマカレーとバターチキンをよく頼む。ゆるベジタリアンの鳩尾は野菜系のものをよく頼む。今回の仕事もハードだったね、などと互いの傷を舐め合いながらカレーを食べ、ビールで乾杯する。ここではかつて、作品のネタとなった事件の話をすることが多い。なぜ喜志田が毎回、話の本筋とは関係なく刺されてしまうのかは謎である。致命傷であったことはない。たぶん前世の因果が悪いのではないだろうか。店内はうす暗くて、妙に静かである。店員の顔もいつも違っているように見えて、どうしても覚えることができない。

みょうがを食べると物忘れをする、と言われている。いろんなことが覚えられない私にとっては、物忘れは大変な問題である。そのため、みょうがを刻むたびに「これでわたしはいったい何を忘れていまうのだろうか」といちいち考えてしまう。つまり、みょうがを見るたび思い出してしまう、というわけで、これではいったいぜんたい、物忘れどころではないのではないだろうか。みょうがを刻むたびに、いつになったらこの言い回しを忘れることができるのだろう、と考えている。

そういえばさっき、レモンをしぼっていて思い出してしまったことがある。むかし、わたしの友人の勤めていた会社に不倫カップルがいた。女性のほうは独身で、男性のほうは既婚者であった。あるとき会社の社員旅行があり、ハワイに行くことになった。友人とその不倫カップルは同じグループで、皆で喫茶店でお茶を飲むことになって、その不倫カップルがともにアイスレモンティーを頼んだ。それだけでは別に変なことではない。しかし、その女性のほうが、自分のグラスのうえにレモンを絞ったあと、その彼のグラスに「わたしのレモンもあげるね」と言って、相手の返事もきかずに自分のレモンを彼のグラスの上で絞ったのだという。きれいにマニキュアを塗った彼女の指から滴り落ちるレモン汁を見ながら、友人は、「このふたり、できてる……」と勘づいたのだ、と私に話していた。わたしといえば、滴り落ちるレモン汁を見つめていた友人の深刻な顔を想像して、思わず笑ったのだった。そのときまで友人にはほぼ恋愛経験がなかったと聞いているので、かえって敏感に雰囲気を察知したのだろうか。レモンを絞るたびにどうしても思い出してしまう話。

「このふたり、できてる……」

慣れない外国語は、覚えづらい。父が母とともに、初めてパリへ行ったときのこと。父は、フランス語のさようならであるところの「Au revoir」を覚えようとして、どうやら楽器の「オーボエ」と覚えてしまったらしく、デパートやお店を出る時にいちいち「オーボエ」と言っていた。「オーボエ」は少し変だね、と姉たちと笑ってしまったが、実際のところ、間違いのレベルとしては、日本語の「さよなら」を「さよなれ」と言うくらいの間違いなんじゃないかね、という話になった。確かに、日本に来ている外国人が「さよなら」を「さよなれ」と言っていたとしても、それはそれで確かに通じないということはない。むしろ微笑ましい間違いという程度のものなのではないだろうか。

「じゃあね、さよなれ!」

「図書館詩集」11(世界というが世界を見た者は)

管啓次郎

世界というが世界を見た者は
誰もいない
世界はまるごとだがわれわれには
それはどうしても体験できない
見ることも聞くこともふれることも
いまの自分が置かれたその場だけのこと
それ以外は潜在する
届かないまま潜在する
隠されている
世界にとってわれわれはもぐら
地中にぷかぷか浮かんで
青空を見上げているように気楽
それでも世界はいつものしかかってくるのだ
大きな亀の背中に乗って世界があると
アメリカ・インディアンのある部族の人々は考えた
それで大陸を「亀の島」と呼んだ
ところがさぬきのこのあたりに来ると
あちこちに亀の背のような山が点在している
この平野はむかし海だったんだなあ
山あり、その陰画のごとく
溜池あり、そしてすべての溜池は
お大師さまが掘ったもの
水よ湧けといって奇跡を起こしたのではなく
独学で身につけた掘削技術を教え
村人たちの作業を指導したのだと考えるほうが
ずっと理にかなっている
そう「考える」ということを中心にしなくては
ほんの少しも世界には近づくことができない
空海さまはまんのう池を改修
その仕事は伝説となればたちまち十世紀を超えて
語りつがれる
弘法大師の実在を疑うわけではないが
人はよく生きるためには物語になる
しかないのかな
その偉業が伝説になればもう生も死もなく
人に代わって物語が生きていく
世界がもともと物語の藪なら
藪は無数の植物の塊として
みずから魂をおび
世代交代しながら時を超えていく
百年の果てに千年あり
千年の反復が万年を生む
亀が生まれ亀を産み
亀が山になりその脚で
溜池を掘り続けるとしたらどうだろう
よい天気の山城にいて
そんなことばかりばくぜんと考えている
むかしはまったく野蛮だったね
こうして城を日本中に建てて
そこにこもって敵をむかえ討ったのか
遊びと殺しの区別もない
そんな目的においてこの城の
このおなじ位置からかつて世界を
見たものがいたわけか
世界かマーヤ(幻影)かまーやー(猫)か
それでもあの海は変わらず、ただいろいろな
工業的施設や人間的墓標が増えただけだ
亀の領土を狭めつつ
しかしこの山城の
場所そのものは本当にすてき
地形がよくわかる
人間たちの動きもうかがえる
ただ心配なのは人間は結局は人間的
スケールでしか何も見ることができない
何も見えていない
この広大な空間に何が住み
この広大な時間で何が変わってきたかを
断然まるで知らずに生きているわけさ
無時の誘惑に身をゆだね
まどろみの中で自分の同類を探す
あまり頭のいい生き方とはいえないね
麦茶を一口飲んだら
そろそろ山城を下りて山城にむかうことにする
美術館は「猪熊」の名を冠して
それだけでboarとbearが意識に登場する
ニンゲンをおびやかす
その名前は強力、これから勝手に
「猪鹿熊ゲンイチロ」とでも名乗ろうかな
そうすればboar deer bear
すべて山の肉(しし)が
ニンゲンを超えている
ここにはチカコの作品を見にきたわけ
もののふたちの山城とは関係なく
こちらの山城の世界もざわめく戦さにみちている
戦いとは直接そのまま破壊行動ではなくても
緊張感をもって場がぶるぶるふるえているので
そうとわかる
それをいうなら「沖縄」のすべては
いまも継続された戦さの中にあるじゃないか
いまここでみずから複数化しながら戦うのは
アイスクリームを食べる彼女
ヤマトの国会議事堂の前で演説する彼女
墓場でテニスウェアを着て踊る彼女
マイクロフォンを束ねて海に沈める彼女
肉屋で働く彼女
肉屋の彼女を撮る彼女
ベラウの花を撮る彼女
ベラウの花を見る父親を撮る彼女
チンビン・ウェスタンを撮る彼女
戦さが継続されるならその戦さに対する戦いも継続
戦いすべて同時並行だ
芸術とは分身の術
ハラハラして見ているうちに
彼女は花や種々の緑や
海や空や土や
すべて生命の見方を教えてくれるだろう
あらゆる事物を体験したくなる
生き死にしつつ生きているすべてを
映像で見るならば
無音で耳がキーンとするような
そんな気分だろう
いつか自分も花畑に埋められて
ただ両手だけを地上に出し
ぱんぱんと手拍子を打ってみるか
何かを訴えるために
百合の花々のあいまから
世界に訴える
ダメだ、そろそろ文字の無音と
絶対的なおとなしさが欲しくなってきた
なつかしくなってきた
こうなったら
図書館で休憩することを許してください
見るもの聞くものふれるものに
(それらが良いものであるかどうかには拘らず)
ぼくは非常に疲れることがある
なのに文字列はおとなしい
どれほど過激で残酷で
騒乱的な内容を記していても
文字列そのものはおとなしい
非常にしずかだ
絶対の沈黙だ
その線まで退却して
またいろいろ考え直してみることにしようか
渇きに渇いて私は
トルストイの民話集を探しました
いま読みたい話があったのです
きみは知っていますか「三人の隠者」を
隠者といっても行者といっても乞食といっても
変わりはない
むかしあるロシアの僧正が
船で旅をしていると
どこかの島に住む三人の
まるでばかみたいな隠者の噂を聞いた
あまり口をきかない人たちで
なんの話もできない
見にゆくと三人は手をつないで岸辺に立ち
こっちをじっと見ている
ふびんに思ったのか僧正は小舟で上陸し
言葉もあまり知らないこの隠者たちに
本式のお祈りを教えることにした
かれらが神さまに救われますように
何度もくりかえさせて
夕方までかかってお祈りを教えた
隠者たちは素直にそれを習い
ぶつぶつと祈りをいえるようになった
かれらとしてはよくがんばった
もう日没なので僧正は本船に戻り
みちたりた気持ちでまた旅をつづけたのだ
そして夜、月夜、川面がよく見える
みんな寝しずまっている
僧正がひとり島の方角を見ていると
何かの影がすごい速さで近づいてきた
「舟かと思えば舟でもなく
鳥かと思えば鳥でもなく
魚かと思えば魚でもない
ちょっと見ると、人間のようでもあるが
人間にしては少し大きすぎるし、
それに第一、人間が海の上を歩ける
はずのものではない」(中村白葉訳、岩波文庫より)*
その正体はあの三人の隠者
手に手をつないで三人そろって
「水の上を、まるで
陸の上を駈けるように駈けているが
足は少しも動かしていない」
隠者たちはお祈りの言葉を忘れたので
僧正にそれを訊きにきたのだ
僧正は鳥肌が立っただろう
胸がぎゅっと苦しくなっただろう
髪の毛が逆立っただろう
僧正はすっかり恐れ入ってしまい
「おまえさんがたの祈りはもう
神さまに届いています
おまえさんがたに教えるものは
わたしではありません」と口にする
すると隠者たちはくるりと方向を変え
島へと帰ってゆく
水上を走りながら
「隠者たちが去ったほうからは
朝になるまで
ひとつの光が見えていた」
なんという恐ろしい話
そして魅惑的な話だろう
われわれは祈りつつ
自分が祈っているかどうかを知らない
祈りの言葉を口にしつつ
その祈りが正当なものかどうかを知らない
口もよくきけない
ばかみたいなニンゲンとして
ただ祈ることを知らない
どうやら船旅が必要だ
三人の隠者が住む
あの島にゆきつくには

*『トルストイ民話集 イワンのばか 他八編』中村白葉訳、岩波文庫、1932年

丸亀市立中央図書館、二〇二三年六月四日(日)、晴れ

私はロボットではありません

篠原恒木

先日、クレディット・カード会社から突然のメールが届いた。
「お客様のカードが不正利用された疑いがあります」
なんだと。それはよくない。まことにもって遺憾である。おれはメールの続きを読んだ。
「このお支払いにお心当たりはありますか」
アメリカのよくわからないECサイトで、おれのクレディット・カードから5,983円引き落とされそうになっているという。身に覚えがないので、
「心当たりがない」
という箇所をクリックしたら、
「それでは即時にお客様のカードを停止して、新しいカードを発行させていただきます」
との一方的な返信メッセージが届いた。こんな簡単なやりとりで瞬時のうちにおれのカードが停止されてしまうものなのだろうか。疑念のカタマリになったおれは、カード会社に直接電話した。例によってカード会社の電話というものはなかなか繋がらない。さんざん待った挙句にオペレーターの声が聞こえた。おれは状況を説明して尋ねた。
「こんなことって、よくあることなのですか? 失礼ですが、偽メールじゃないかと疑って電話しているのですが」
「最近多発しているのです。いまお調べいたしましたところ、確かにシノハラ様のカードが不正利用されております。5,983円のお支払いはストップさせていただきました。新しいカードは一週間ほどでお届けいたしますので、ご不便をおかけしますが、どうかいましばらくお待ちください」
新聞報道によると、最近クレディット・カードの不正利用が後を絶たないという。サイバー攻撃による情報漏洩、カード番号の規則性から有効な番号を機械的に割り出すという手口が横行していて、昨年の被害総額は前年比3割増の約四百三十七億円と過去最高になったらしい。困ったことだ。
カードを一週間も使えないのは不便だが、どうやらおれはカード会社に感謝すべきなのだろうという結論に至った。

だが、ECサイトでよく買い物をするおれにとっては長い長い一週間だった。五日ほど経った頃、カード会社からまたメールが届いた。
「本日、お客様の新しいカードを普通郵便にて発送いたしました」
俺は目を疑った。クレディット・カードを普通郵便で送るわけがないだろう、と思ったのだ。これこそがカード詐欺なのではないのか。猜疑心のカタマリになったおれは、再びカード会社に電話した。これもまた例によって、すぐ繋がるわけがない。自動応答の声が聞こえる。
「電話が大変混み合っております。オペレーターとお繋ぎするまで二十分ほどかかります。時間をおいてもう一度おかけ直しいただくか、このままお待ちください。なお、この電話はサーヴィス向上のため、録音させていただいております」
おれはこのまま待つほうを選んだ。毒にも薬にもならないBGMを挟んで、同じアナウンスが定期的に何度も何度も流れる。

話は横道に逸れるが、なぜああいう場合のBGMはつまらない曲ばかりなのだろう。客をイライラさせないため、ココロを鎮めるような曲調のものを選んでいるのだろうが、おれのココロは一向に鎮まらない。どうせなら「もうすぐ繋がるぜ。頑張れよ」というメッセージを込めて、ロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」や、ビゼーの「カルメン序曲」、あるいはレッド・ツェッペリンの「移民の歌」などを流せばいいのに、とは思うが、そんな曲を流せば客のアドレナリンが大量に分泌して、やっと繋がったときにはオペレーターが怒鳴られてしまうだろう。

それにしても待たせ過ぎだ。二十分間はゆうに経っている。いったん切って、時間をおいてかけ直すべきだったかと思うが、ここまで待って切るのも業腹ではないか。ずっと耳に当てたスマートフォンは熱を帯びてアチチ状態だ。おれはだんだん腹が立ってきた。その怒りが頂点に達したとき、ようやく電話がオペレーターと繋がった。
「この電話はサーヴィス向上のため録音させていただいております」
という例の機械的なアナウンスが一瞬頭をよぎったが、おれの煮えたぎった怒りはもう誰にも止められない。

のぉ、オドレ、だいたい「サーヴィス向上のため」に録音しているわけなかろうが。モンスター・クレーマーを減らすためじゃないの。そがなチンケな考えしていると隙ができるぞ。

おれの脳内はすっかり「仁義なき戦い」の菅原文太に侵されてしまっていた。電話に出たオペレーターにはこう述べた。
「あなたに申し上げても詮無いことだとは思うのですが、なぜ新しいクレディット・カードを普通郵便で送るのでしょうか。その了見が理解できません。どう考えても書留で郵送すべきではないですか。ウチのような集合住宅の場合は、部屋番号を間違えてポストに郵便物が入っているケースは日常的にあります。コスト・カットが目的なのでしょうが、誤配の危険性を考慮すれば私には愚策としか思えません。カードの不正利用を未然に防いでいただいたことには感謝を申し述べますが、肝心の新しいカードをそのような乱暴な受け渡し方法で済ますことには些かの疑問が生じております」

いや、実際はこのようなロジカルな口調ではなかった。二十分以上の待ち時間がおれを凶暴化させていたのだ。正直に言えば、
「録音上等、喧嘩上等よ。ワシゃ、ワレの命もらうも、虫歯抜くんも同じことなんで、殺るんなら、今ここで殺りないや、能書きは要らんよ。ワシが新しいカードを取りそこのうたら、オドレらどう責任取るのよ。知らん仏より知っとる鬼のほうがマシじゃけの。ワシはイモかもしれんが、旅の風下に立ったことはいっぺんもないんで。のぉ、のぉ」
というような、きわめてお上品な口調に終始してしまった。
だが、オペレーターは慣れたもので、おれの繰り出すへなちょこパンチをするりするりとかわし、謝り倒されて電話は切れた。プロの接客はすごい。
まあ、そもそもおれのカードの不正利用を未然に防いでくれたのはカード会社なのだから、感謝すべきであって、キレるのはまったくのお門違いなのだが、カードを普通郵便でポストに放り込むのはあまりにも不用心ではないのか、との不満は残った。

結局、普通郵便の悲しさゆえ、新しいカードは土日を挟んで、ようやく月曜日に配達された。だが、ここからが面倒だった。日常的に買い物をしているあまたのECサイトにいちいちログインして、新しいカードの番号をコツコツと打ち込まなくてはならない。

そもそもなぜおれはそんなにネット・ショッピングに依存しているのか。それには理由がある。おれの欲しい本は小さな書店では売っていない。そしておれの欲しいCDやレコードはCDショップでは売っていないのだ。もし売っていたとしても、たとえば渋谷のタワーレコードを例にとれば、6階、もしくは7階まで昇らないと、お目当ての売り場にすら到達できない。そんな気力はもうおれには残っていないのだ。だがネット・ショッピングなら簡単に手に入る。これを利用しないテはないではないか。

さて、各ECサイトに新規のカードを登録する作業に取り掛かった。予想していたことではあったが、この作業が混迷を極めた。新しいカード番号を登録するには、各サイトにログインして手続きをしなければならないのだが、その都度、
「私はロボットではありません」
というボックスにチェックを入れなければならないのだ。こんなにヒトを愚弄する誓約があるだろうか。このおれがロボットであるはずがない。ロボットはニラレバ定食を食べない。ロボットは些細なことで妻と大喧嘩をしない。ロボットは髪の毛が禿げることもない。だいたい前立腺肥大症が持病のロボットなど聞いたことがない。実にバカバカしいチェックだ。だがここでまたPC相手に「仁義なき戦い」の菅原文太もしくは梅宮辰夫あるいは松方弘樹的なアプローチを試みても始まらないので、おれはおとなしく
「私はロボットではありません」
のボックスにチェックを入れる。その徒労感および虚しさはハンパない。

さらにはそのあとに「画像認証」というテストのようなものが待ち受けている。
角版の風景写真が九分割されていて、
「横断歩道の画像をすべて選択してください」
ときたもんだ。ところがこの写真の分割のされ方が実に微妙で、
「ん? このブロックの右端にはギリギリで横断歩道の端っこが入っているような気がするぞ。いや、ここは素直に入っていないと解釈すべきなのか。ううむ、よくわからん」
というケースが多いのだ。横断歩道だけでなく、信号、自転車などといったヴァリエーションもあるのだが、画像が粗くて信号のちょっとした一部分が入っているような入っていないようなブロックがあるのだ。このブロックは選択の対象になるのか、それとも無視していいのか、躊躇してしまう。こういう場合、ロボットならスムーズに選択できるのだろう。だがそれならば、事前の
「私はロボットではありません」
という誓約と大いに矛盾するではないか。ニンゲンだから微妙な箇所にいちいち悩んでしまうのだ。悩んで選択を誤ることが何よりの「私はロボットではありません」の証明ではないのか。ところがこの画像選択をミスすると、何回も違う画像と設問が出て来る。
「ロボットではないから間違えるんだよ!」
と、おれは逆上する。

別のパターンもある。
「私はロボットではありません」
とチェックを入れると、わざと読みにくくしてある数字とアルファベットをランダムに組み合わせた七、八文字の羅列が出てきて、
「上記の文字を正しく入力してください」
ときたもんだ。またこれが判りにくい。アルファベットの小文字「q」と数字の「9」なんて紙一重だ。おまけに文字が歪んでいるので始末が悪い。これもロボットなら一発で判読するはずだから、この「テスト」も意味が分からない。ニンゲンだからこそ正しい文字が入力できない場合があるのではないか。

こうしてすべてのECサイトでカード番号の新規登録が済んだ頃には、おれはへとへとになっていた。せめて一店舗だけでもいいから、
「あまりにも当たり前のことで失笑を禁じ得ないのですが、私はロボットではありません」
という文言が書いてあるチェック・ボックスがあれば、おれはどれだけ救われたことだろうか。いや、いっそ、
「ワシも格好つけにゃあならんですけぇ、人間相手にロボットかと訊く馬鹿がどこにおる、このボケ。アヤ付けられたらカマしちゃれぃ」
というチェック・ボックスがあればと思ったんじゃが、ワシはどこで道間違えたんかのぉ。

ジャワ舞踊のレパートリー(1)女性舞踊

冨岡三智

突然ながら、今までどんなジャワの伝統舞踊(スラカルタ様式)を習ってきたのか、レパートリーを振り返ってみよう。何をどのように習っていくのか、その方法は様々で人によって違うことと思う。自分がやってきたことを振り返るのは恥ずかしく、また誰の参考になるものでもないけれど、ご笑覧下さい…。

私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。その後、同大学大学院をカウンターパートとして、2006年8月~2007年9月に宮廷舞踊調査(公演や記録制作の活動)していた。留学以前に、短期で4回(1か月ずつ)現地に舞踊を習いに行っている。その2回目の短期渡航(1992年)から女性舞踊を師事したのがジョコ・スハルジョ女史で、その当時はジョコ女史はまだインドネシア国立芸術高校スラカルタ校を定年になっていなかった。その時にはまだ気づいていなかったが、スラカルタ宮廷舞踊を全曲修得していたジョコ女史に巡り合えたことは僥倖だった。私は女史が亡くなる2006年までずっと師事することになった。

私が通算5年余にわたる留学で一番やりたかったのは宮廷舞踊:スリンピ10曲とブドヨ2曲の完全版を師匠のジョコ女史から全曲修得することで、幸い目標を達成できた。習った曲名を挙げると、スリンピでは「アングリルムンドゥン」、「ゴンドクスモ」、「ラグドゥンプル」、「スカルセ」、「ロボン」(ここまで完全版で上演済)、「ルディラマドゥ」、「サングパティ」、「タメンギト」、「グロンドンプリン」、「ガンビルサウィット」で計10曲。ブドヨでは「パンクル」(完全版上演済)と「ドゥロダセ」の2曲。実は完全版を習う前にジョコ女史が手掛けた「ゴンドクスモ」短縮版も習ったが、短縮版で習ったのはこれだけである。芸大の短縮版と違っていて非常に勉強になったけれど、やはり長いバージョンの方が充実感があって好きだなあと思う。

宮廷舞踊(スリンピ・ブドヨ)と対極にあるのが民間舞踊(ガンビョン)で、私はこの対極にある舞踊を二本柱にしていた。ガンビョンは太鼓のリズムにのって踊るもので、自分で太鼓の手組を考えたいと思い、太鼓も習っていた。まず、とりあえず入手できる音源は全部踊れるようになりたいと思い、次のような曲を習う:「パンクル」、「パレアノム(ガリマン氏版)」、「パレアノム(PKJT版=2ゴンガン版)」、「パレアノム(ジョコ女史版=3ゴンガン版)」、「ガンビルサウィット・パンチョロノ」。ちなみにゴンガンとは曲の長さのこと。これらは市販の音源がある。他に、芸術高校自主録音の「アユン・アユン」(4ゴンガン、ジョコ女史版)、ジョコ・ワルヨ氏が太鼓を叩いている市販カセット2本。1本は私がどこかの店で買ったもの、もう1本は太鼓の先生が持っていたものだが(テープは半ば伸びていた)、どちらもその後どこの店でも見かけたことがない。古くて再版されなかったものかもしれない。それ以外に、市販のカセットにない太鼓の手組を習いたくて、マルトパングラウィットの太鼓の本に採録されている古い手組を太鼓の先生に叩いてもらって録音し(10ゴンガン、太鼓の音のみ)、それをジョコ女史の所に持って行って習った。

それ以外の曲でジョコ女史から習ったのが「ゴレッ・スコルノ」、「ルトノ・パムディヨ」、「ゴレッ・マニス」。どれも留学前から習っていた曲で市販カセットがある。1,2曲目がクスモケソウォ(ジョコ女史の舅)の曲だが、実は市販カセットは短縮版である。ジョコ女史によると、カセット会社はテープの片面(30分)に2曲収録したいため、長い曲は短縮するようにと要請してくるのだそうで、これらの短縮はジョコ女史が手掛けたという。私は元の完全版も習いたかったので、どちらも完全版を自主録音した。

さらに、ジョコ女史が振り付けた「クスモアジ」も習う。この舞踊作品については『水牛』2020年8月号に寄稿した「ジャワ舞踊作品のバージョン(8)『クスモ・アジ』」で書いているけれど、結婚式で夫婦神が新郎新婦を祝福するために降りてくるという内容で、男女ペアで踊る舞踊で私が習ったのはこれだけである。他の人が振り付けたこの種の舞踊は男女がラブラブな感じで踊るので(演出にもよるが)、私には気恥ずかしい。実はこの曲も録音の準備を進めていたのだが、先生が亡くなるなどで取りやめになってしまった。

最後に、マンクヌガラン王家の「ゴレッ・モントロ」最短版も習ったことがある。同王家の太鼓奏者ハルトノ氏の息子さんの結婚式にミチも踊ってくれと言われて(私は氏が指導するガムラン練習に参加していた)、2,3か月くらいせっせと舞踊練習に通い、多くの踊り手たちと一緒に出た。踊ったのはこの時限りなので、もう忘れてしまった。この王家の舞踊はかわいらしくて好きなのだけれど、どうも自分にはその可愛さが足りない…と気になってしまう作品。

むもーままめ(31)永久凍土系・謎みかんカレーの巻

工藤あかね

9月になるというのに、この暑さはなんなのだ。
食欲はあるけれど、灼熱の太陽の下、わざわざ買い物には出たくない。

ある日わたしは冷蔵庫の中をぼんやりと眺めていた。ほとんど空なのは一目瞭然なのに、冷気にあたってしばし涼んでしまうくらいに、暑さで頭がやられていたのだ。家にある食料は鶏肉とカボチャの煮付け、レタス、きゅうり、いただきもののトマト。あとは缶詰とか調味料か…。鶏肉を焼いて、あとはサラダにするか…と思ったところで、なにげなく冷凍庫の引き出しを開けてびっくり。ロックアイスの下から手作りみかんジャムが出てきたのだ。以前、大量に大きめ柑橘類をいただいて、食べきれない分をジャムにした。だが使うあてもないまま、すっかり忘れていたのだ。永久凍土から発掘されたマンモスみたい。永久凍土系みかんジャム発見。

で、それをどうするか1秒だけ考えた。なにせ暑さで思考停止しているので、とりあえず冷凍みかんジャムのパックを流し台に置いて、使う気でいた鶏肉に塩胡椒して鍋に突っ込んだ。鴨のオレンジソースっていうお料理があるよね…と0.5秒くらい考えて、なぜか鶏肉の上から永久凍土系みかんジャムを載せた。だが、このままではいつまで経っても火が通らないと思ったので、少し水を足して蓋をした。

くつくつと音を立てるお鍋。そろそろ鶏に火が入ったかな、と思い蓋をとると、くだんの永久凍土系みかんジャムは、見事なとろみで鶏にからみついている。色合いもきれいだ。ちょっとだけ期待しながらスープ部分を味見したら…うえっ…ものすごく苦かった。そもそも鍋に白ワインだとか調味料を入れるという発想は完全に失われていた。それにこの永久凍土系みかんジャムは、かなり苦味のある大きめ柑橘類を煮たものだった。この果物の名前もわからない。玄人向けの謎みかんだったので砂糖をかなり入れて煮詰めたのだが、なかなか甘くならなかったことをようやく思い出した。

さてどうする? 煮込み系料理で血迷った時のソリューション、それはカレー化である。とりあえず、煮ているものの味が微妙になった時には、カレー粉やカレールーを入れて最初からそれを作るつもりだった風を装うと、たいてい巻き返せる。謎の永久凍土系みかんジャムで煮てしまった鶏を救うのはカレーしかない。とりあえず、カレー粉をばーっと鍋に撒いた。コクがたりなさそうな気がしたので、そこに洋風だしと、ミニトマトを入れた。そうだ、多国籍にしてしまえ。みりんとお味噌も入れよう、ケチャップも少し、めんつゆちょっと入れよう…。甘味と緑色が足りない。カボチャの煮付けも入れちゃえ。こうやって思い出して書き出してみても、なかなかの気色悪さである。…かくして出来上がったのは、オレンジ色のとろとろの中に、鶏と真っ赤なミニトマト、緑色のカボチャの皮が浮かぶ、謎みかんカレーであった。

全く期待せずカレースープを口に運んだら、ちょっと驚いた。ファーストアタックは普通のカレー、しばらくするとかすかに味噌の風味、そして最後にちょっとさっぱりした苦味がやってくる。大きめ柑橘類の苦味はカレーとしてどうなのかと思ったが、これが不思議とクセになる。夏にゴーヤを食べたくなる、あの感覚とちょっと似ている。

暑さで煮えた脳みそだからこそ出来上がった、謎みかんカレー。思いのほか悪くない出来だったけれど、もう一回やるかと言われればどうかな…。あっ…謎の大きめ柑橘類で作った永久凍土みかんジャムはもう一パック冷凍庫にあるみたい。さて次はどうしよう…。

仙台ネイティブのつぶやき(86)建物とつきあうということ

西大立目祥子

仙台市庁舎の建替工事がいよいよ始まると聞き、8月11日に「解体直前!仙台市役所建築見学ツァー」を開催した。主催は宮城県建築士会仙台支部まちづくり部会と、私たち「宮城県美術館の百年存続を願う市民ネットワーク」。2020年に宮城県美術館の現地存続活動を行い目的を達成した私たちは、会を解散せずに名称を変えて活動を継続している。あのときは全国の方々から会員のお申し込みをいただき、たくさんの署名も頂戴しました。ありがとうございました。

メンバーに建築を仕事にし、建物に関心を抱く者が多いこともあって、“解体”と聞くと何かがムズムズと胸の内で動き出す。長年働いてくれた建物にきちんとあいさつはせねば、とか、あらためてゆっくりと細部を見ておかなければ、とか…。その中には、残そうと思えば残せたのでは…という少しの後悔も入り混じっている。老朽化すると、いまだ直して使うという発想すら持たずに迷わず壊し新しい建物を立てる、何というのか建物への愛着が薄いこの仙台という地方都市で建築文化を育みたいというのが、私たちの共通の思いだ。

仙台市の本庁舎整備室に見学会のお伺いを立てると、拍子抜けするほどあっさりとお許しが出て、祝日なのに庁舎の鍵を開けてもらい、トークのための会場まで用意いただくことになった。

この市庁舎は3代目で、1965(昭和40)年に竣工。設計は山下寿郎設計事務所(現・山下設計)による。仙台は1945(昭和20)年7月10日未明に爆撃を受け、中心部のほとんどを焼失した。昭和20年代後半から仙台市公会堂などが整備されていったが、30年代に入ると現在も残る大きなビルディングが建設され、この仙台市庁舎が整って、戦後の仙台の街の骨格がくっきりと浮かび上がったように思う。

それから60年近く。1989(平成元)年に仙台市が政令市になって区政が敷かれるまでは、市民にとってもさまざまな手続きで出向くなじみ深い庁舎だったわけだが、建替えの話が出たとき、保存を訴える声はどこからも上がらなかったし、私も上げなかった。これまで3回、私は友人たちと解体目前の建物の保存を求める運動を起こしている。結果は3戦3敗。3年前の宮城美術館の現地存続運動が初めての成果なのだった。それは設計者が前川國男というビッグネームだったこと、そして周辺の自然環境を巧みに取り入れたプランに多くの人が深い共感を抱き、私たちの運動を後押ししてくれたことが大きい。では、この市庁舎は? 機能美を供えた好ましい建物だと感じつつも、やはり保存を求める気持ちには至らない。老朽化のせいだろうか? 魅力を捉えきれない自分自身のせいだろうか? 見学会の準備をしながら、自問自答する。

建築士をしているメンバーが、建設にかかわった山下設計の関係者を探し出してきた。
Kさんは96歳。構造設計に携わったという。「もともとは5階建ての計画で進んでいたのを、山下設計の支店長の考えで100尺規制(31メートル)目いっぱい使って、8階建てに変更したんですよ。当時はコンピュータなんてないですからね、そろばんと計算尺とドイツ製のタイガーという手回しの計算機を使ったんです。地震動の数値化されたものも国内にはなくて、米国のデータを使い東大の助けを借りて分析しました。当時の最先端ですよ。実施設計期間はわずか2ヶ月だったから、休みがなくて徹夜の連続、体調を崩したこともあったけど何とかまとめることができました。若かったからできたんでしょうね。現場は2交代制で休みなく働いていた。過酷で病気になる人もいたけど、まぁ、当時は日本中がそんな感じですよ。鉄骨は横須賀の工場で製造したものを船で運んできました。ここは地盤が固くてね、掘削も大変だったんです。地下から水も湧くし。あまりに固くて発破で掘削したこともあります。注意喚起のためにサイレンを鳴らしていたはずです」

うかがった話はまだまだあって書き切れない。
もう1人、Oさんは82歳。大学を卒業して入社するとすぐに市庁舎設計チームに配属されたという。見学会の準備のため、事前に市庁舎に出向いてもらってメンバー4人といっしょに庁内を歩き外観を眺めながら、話をうかがった。建築を生業にするメンバーが驚くのは工期の短さで、「8階建て、3万平米を着工から竣工まで1年7ヶ月でやるなんて信じられない」というのだが、Oさんの話には建築門外漢の私も驚かされた。

「昭和39年の3月に卒業して事務所に入ったんですが、そのときすでに着工されてたんですね。でもね、図面ができていなかったんですよ(笑)。正面の庇は鉄骨が立ち上がってから私がデザインして図面を引いたんです。100尺の高さに8階を収めてるから階高が低くてね、採光もありますけど、視界を開放するために中庭を設けました。でも1階の天井が低いのがずっと気になっていて、やはり今見ても気になるなぁ。そしてこれは「コンクリート打ち放し」ではなくて「コンクリート化粧打ち」。私はコンクリートの匂いが好きでね、型枠をはずすときは必ず現場に出向きました。妻側の壁面のタイルは杜の都をイメージして、あえて緑色のヴァリエーションが出るように窯変タイルを採用しています。そして、前庭も庁舎と一体のものとして整備しました。当時の島野市長が書いています。『都心部において特に不足しがちな新鮮な空気を太陽と緑をいささかでも市民のために取りもどすといったことを考えてこれを造りました』と。庁舎をさえぎらないように、噴水も掘り下げて設置して。私たちは、建築主、仙台市ですね、その後ろにいる市民に応えるために仕事をする、それが山下のモットーなんです」

この時代に“市民のための市庁舎”という明快なコンセプトが立てられていたことに、心を動かされた。そのため当初は、空調も窓口と市民の部屋と市長室にしか整備されなかったという。そしてもうひとつ、Oさんの「コンクリートの匂いが好きで」というひと言も、じんわりと胸にしみた。打ち込まれたコンクリートは熱を帯び、枠をはずすと、型枠の木の匂いも混じり合って、いかにも“生まれた”という実感をもたらすのだそうだ。あくまで固く強靭というイメージしかなかったコンクリートのまるで違う姿を教えてくれるひと言。同じように、現場で昼夜を問わず働いた多くの人が、その人にしかわからない時間と実感を育んでいたのだろうか。その総体がこの建物かと思うと、60年近い建物の生きた時間も重なって、はい、さようならと簡単にはいえないような割り切れない思いにさせられる。

関係者の話を聞くうち、私たちメンバーは口を開けば「いい建物だよ」「気づくのが遅かった」「せめて部材残せないの?」などといいあうようになった。細部のひとつひとつの価値をとらえる眼ができてきたということなのかもしれない。
見学会は午前、午後の2回で60名、そのあとのOさんが登壇してくださったトークには40名が参加。庁内をめぐって解説を重ね、話に耳を傾けるうちに、私たちと同じように建物の魅力に眼を開かれていったようだ。

竣工して58年。こんなふうに設計者の意図や思いを聞きながら、市民がこの建物を見学する機会はあったのだろうか、と考えてみる。もしかするとなかったのかもしれない。解体寸前の建物の見学会にどれほどの意味があるかはわからないけれど、でも確かにこういう機会があってこそ、愛着は生まれてくるものだろう。

Oさんに、「渾身の力を込めて図面を引いた建物が消えていく。そのことにどんな思いがありますか」と聞くと、「社会が変化して役割を終えていくのなら納得がいく。でもただ古くなったから壊すというのはちょっと…」と話された。

仙台の戦後史を振り返ると、新しい建築をつくり新しいことを始めるということが繰り返されてきた印象を受ける。リセットして始める感覚、いわば建物をつぎつぎと消費してきたといってもいいかもしれない。長くつきあいながら傷んだら直し、よみがえらせて新しい価値を創り出す。いまある建物を編集し直しリノベーションして使い続けることを、仙台でやれないものだろうか。東北でもすでに山形や秋田では試みられているというのに。

オスロから30年

さとうまき

この夏、イスラエルとパレスチナの若者たちが来日するというので、手伝いをすることになった。日本に来て、友達になるのが目的だ。参加した若者たちは、異口同音に「敵だと思っていたが、実は人間だった」と言って最後はハグをする という企画を84歳のおばあさんがたてた。平和のためのラボラトリーというのをうたい文句にしていて、2週間、日本の若者も加わって、広島や、長野、東京で共同生活をするうちに仲良くなっていくというロードムービーのような面白さがある。

しかし、イスラエルとパレスチナの関係はかつてないほど悪化している。今年の死者がヨルダン川西岸のパレスチナ人200人以上、イスラエル人約30人に上り、2005年以来、最悪の水準となっている。そんな状況で、仲良くなるなんて言うのは、実にばかげている。戦争している状態で、敵と仲良くするなんて言うのは裏切り者である。誰とでも仲良くなれたら楽しいが、僕の親友が、僕が大嫌いな連中と、仲良くしていたらもうそいつは親友じゃないってなるので、新しい友達を作るよりは、親友を失いたくない、そう考えると参加者がなかなか集まらないというのもわかる。

今から30年前、1993年9月13日のことを思い出す。「オスロ合意」の調印式がワシントンで行われていた。TV中継を見て、当時普通のサラリーマンだった僕はとても感動していた。イスラエルもパレスチナもよくは知らなかったが、ラビンの演説はよかった。「血も涙ももうたくさんだ。私たちは復讐したいとは思わない」。この老人の迫力。一方のアラファトは、まるで何もなかったかのように、さっと手を差し出し、嫌がるラビン首相の手を強く握って振り回していた。僕は、その時、会社を辞めることを決めて数か月後には中東で暮らすことになっていたので、他人事とは思えなかったのであろう。これから始まる新しい歴史に心は踊っていた。

実際に僕がパレスチナを体現するのは、シリアのパレスチナ難民だった。同僚のパレスチナ人が、自分の”故郷”がいかにパラダイスであるかを毎日話してくれる。その話と、ガッサン・カナファーニーの小説とが混ぜ合わされて、僕はパレスチナに夢中になった。ラビン暗殺のニュースもシリアで知ったが、彼らに言わせると、「ラビンこそがテロリストだ!」と語気を荒げていた。

結局僕がパレスチナについたのは、1997年だった。オスロ賛成派、反対派という議論もあったが、ハマスを強く支持する連中以外は、誰もが2年後にパレスチナという国家ができるものだと信じていた。ガザに飛行場ができて、パレスチナ航空が国際便を飛ばしだしたのだから誰にとってもメリットがあり、意見の違いはあってもパレスチナは後戻りはしない。しからば、和平をぶち壊すのではなく、どう和平にノッていくのか。今でいうSDGs的なノリで、誰一人取り残されることのない和平を考える教育が大切だった。

当時、いろいろな議論があった。イスラエルの教育大臣が左派だったこともあり、敵視教育をどう変えていくのかも政治レベルで議論されていたと思う。ヘブライ大学は、イスラエルとパレスチナの若者たちを引き合わせるプログラムを研究していた。ベツレヘムでは難民キャンプの中学生が、イスラエルの中学生と議論するワークショップを見学した。最初はアイスブレーキングで仲良くなって、その次は、自分たちがつらかったことを話す。パレスチナは、親や親せきが殺されたり、逮捕されたりした体験が必ず出てくる。特に難民キャンプはテロの巣窟とされているから、逮捕者も多い。イスラエル側もテロで、知り合いをなくしたという話もあるが、TVや新聞のニュースで見た程度だったりする。それでも、「パレスチナ人がテロをやるから、逮捕されるんだ」「テロではない、占領と闘っている。正義と闘っている」「占領じゃない、神が与えた土地だから」というお決まりの議論になっていき、泣き出す子どもたちもいた。

僕は、そのあとこのプログラムはどういう仕掛けがあるのか見たかったのだが、別の会議が入っていて最後までいられなかった。こういった平和教育の試みはうまくいかなかったのだろう。結局2000年のインティファーダですべて振出しに戻り、紛争は悪化し、僕はというと2002年にイスラエルから追い出されて、2度と入国はできなくなってしまったのである。名誉のために言っておくが、テロを支援したわけでもなく、パレスチナの医療支援をイスラエルの人権のための医師団と一緒にやっていただけだった。アレンビー橋を渡ろうとして、「あなたはダメよ」その一言だけで、追い返された。あまりにもあっけなかった。こで僕は、パレスチナでの思い出はすべて消去してしまったのである。

2023年8月、イスラエル、パレスチナの若者10名が来日した。20歳から29歳までの若者だ。僕は、最初の広島で、一緒に資料館を見学したが、そのあと彼らは長野で一週間合宿をしていろいろ話したらしい。最後の東京では、3つのチームでそれぞれ平和のメッセージを発表する事になっていた。会場に行くと疲れ切った表情の彼らがやってきた。意見が対立して「平和のメッセージ」をまとめることができなかったらしい。僕が嘗て見た、あの中学生たちと同じような議論になったらしい。「仲良くなってハグする」という目標に達せなかったことに、代表のおばあちゃんは、すごく落ち込んでいた。「このご時世で、無理に仲良くなったって意味ないし、それはそれで、現実を見せつけられたので、意味のある事じゃないですか?」と慰めたが、効果はなかった。一週間たっても残念そうに愚痴っている。僕は、別に仲良くならなくてもいいと思う。嫌いなものは嫌いでいい。嫌いだからいじめてやれとか、殺してやれとかそうのが一番よくない。

オスロ合意の調印式では、やたらクリントン米大統領がかっこつけていたのも印象的だが、そもそもノルウェーが、米ソを出し抜いて、秘密裡にラビンとアラファトを仲介したわけで、ノルウェーの手柄。スピルバーグ監督の「オスロ」では、ノルウェーの森で、イスラエル、パレスチナの交渉団が喧々諤々やりながらお互い理解し、尊敬しあっていく様子が描かれている。それでビートルズの「ノルウェーの森」って、どんな歌詞だったっけ? ジョンレノンの詩は政治的なものも多いが、たわいのないラブソングですらすぽっとはまってしまうことがある。まるで、イスラエルとパレスチナの駆け引きのようなである。女の子は、イスラエル? あるいはパレスチナ?

「ノルウェーの森」

僕は女の子を引っかけた
それとも僕が引っかかったと言うべきか
彼女は僕を部屋に招いた
「素敵なノルウェー調のお部屋でしょ?」彼女は僕に泊まっていくように言い
好きな場所に座るよう促した
部屋を見回したけど
椅子なんて無かった

じゅうたんに腰を下ろし
彼女がくれたワインを飲みながら、”その時” を待っていた。
夜中の2時までしゃべった後、彼女は言ったのさ
「もう寝なきゃ」

彼女は朝に仕事があると言って
笑いだした
僕は仕事は無いと言ったけど
バスルームで寝るはめになった

目を覚ますと、僕は一人
小鳥は逃げてしまった
僕は火を灯す
ノルウェー産の木材は素敵だね?

ということで、まだ日本に残っているイスラエルのルイとアンディは音楽ができるので、ノルウェーの森をみんなで歌おうというコンサートをすることになったのだ。

「9.6ピースセッション」
9月6日 中目黒楽 19:30―
https://www.rakuya.asia/event-details/9-6-peace-session-haishinari

トントコトン

北村周一

母と父が手と手をつなぎ児らは駈け
追いつくさきの夏祭りかな

音のする
ところ何処と
夏の夜の
そらにひびかう
祭りの太鼓

お祭りは
妻と子を率(い)て
みちみちに
遠く聞きいる
太鼓のひびき

トントコトン
さがしあぐねて
妻と子と
もどるほかなく
夏の夜の道

浜かぜや七夕竹をくぐりゆく 
祭りのあとの虫売りの声

はつなつの三保沖、江尻、生じらす 
月夜の晩に従姉をさそう

茹でジラス晩夏ほろよいゆうぐれは
袖師、横砂、かぜふくままに

海の面に
顔を出だせば
若夏の
ありてかたえに
妻となるひと

チョコバナナ
五百人前
売り上げて
町の祭りの
ビールに潤う

のこのこと
町内会の
祭りにも
顔を出しおり
秘書を連れいて

政もお祭り騒ぎもことのほか冷え冷えとして一夏過ぎ行く

薄ものを
纏いしのみに
縁台に
涼むじじばば 
こっち見ている

ノイズなき
夜を果無み
イヤホンの
自転車少女が
坂をくだり来

松林の
途切れしところ
青々と
空あり沼津
西高はここよ

体内に
蔓延るものら
粘りけを
なべて保てる、
真夏路上に

フリーダム・
スペース夜の
駅頭を
つぶつぶつぶつ
鳩は眠らず

ハード・コア
うつろなるその
中心に
ひとつあるべき
わが臍を見る

夜見の世の
入口にして
またひとり
テレクラリンリン
明るいお家

草津温泉

笠井瑞丈

車で草津温泉に向かう
夕方の高速を車を走せ
突然の雨で湿った山道

心地よい森の匂いを感じながら

今まで

鬼怒川温泉
水上温泉
銀山温泉

色々な温泉街を
巡ってはいるが

草津温泉は
一番好きな温泉街である

それは

草津温泉には
特別な思い出が

高校生の頃
夏の住み込みのアルバイト
草津温泉でしたことがある
ベットメイキングの募集で
友達四人で応募した

書類だけで無事採用が決まり
ドキドキしながら電車に乗って
草津温泉に向かった事を覚えている

初めての土地
初めての仕事

もし途中で嫌になったら
どうしようとかという不安

ホテルの事務所に着く

なぜか

僕だけ違う仕事に就かされた
三人はベットメイキング
僕はアパート型別荘の管理人の手伝い

多分僕だけ茶髪だったので
見た目が悪かったのだと思う

仕事時間も他の三人と違い
朝から夕方までの仕事

夜は完全にオフだった

他の三人は
朝仕事に行き
昼間はお休みで
夜仕事に行く

なので朝に顔を合わせるだけとなった
三人はいつも共通の話題で盛り上がり
いつも楽しそうにしているのを横目に
僕だけ仲間はずれとなった気分だった

オフの時間を
楽しもうという目的で
東京からはなれた草津に
住み込みのアルバイトを
四人で応募したのに

僕はいつも一人だった

夜は一人で湯畑に行き高校生だったが
ビールを片手に寂れたパチンコ屋で
パチンコを一人打って時間を潰したり
街をぷらぷら散歩をしたりした

ドキドキした初出勤日
上司にあたる管理人の
おじさんに挨拶をする
そしてその時たまたま通った
居住者に「おはようございます」と
僕は挨拶をした

まだ仕事の指導を受ける前に
たまたま通った居住者に挨拶した行動を
なぜかおじさんはすごく評価してくれて
僕のことをすごく気に入ってくれた

挨拶なんて当たり前のことだが

きっと茶髪だし見た目もあまり良くなかったので
変な若者が来たなと思ったのだと思う
なのであまり期待もしてなかったのに

挨拶できたことにビックリしたんだと思う

僕の仕事は

決められた時間に

玄関の掃除
お風呂の脱衣所の掃除
各階の廊下掃除
自動販売機の補充

それ以外の仕事はとくになく

時間を持て余す事が多々
なので仕事は管理人室でおじさんと
お話をする時間が多くを占めてた
本当にたくさんの事を教わった

これで給料をもらってもよいのかと
少し悪い気持ちになるくらいだった

昼食はいつも出前を
その支払いもいつも
おじさんがしてくれた

一度夕飯にも招待してくれた事もあった

なぜおじさんが僕の事をあれだけ
気に入ってくれたのか分からないけど
本当の息子のように面倒見てくれた

仕事のことで注意を受けることはあったが
一度も声を荒げて注意を受けたことはなかった

住み込みの期間が終わり
翌年に一度だけおじさんに会いに
草津温泉に訪れたことがある

本当にとても喜んでくれた

おじさんに会ったのはそれが最後だ

あの時間は僕にとって
貴重な時間だったと
たまにふと思い出す

もしいまおじさんにあえたら

心からありがとうと
今は伝えたい

本小屋から(4)

福島亮

 夏が終わった——と感じる瞬間がある。夕方、空一面に広がる鰯雲を見てそう感じる人もいれば、夜道を歩いていてふと聞こえてくる虫の音によって夏の終わりに気づく人もいるだろう。私の場合、その瞬間は、川面の色の変化に気づいた時だった。

 多摩川河川敷を歩いたり、走ったりしているのだが、ある日の暮れ近く、川面が朱色に染まる瞬間を見て、もう夏は終わってしまったのだ、と思った。あの朱色をどう表現したらよいかわからない。紅鮭色ともいえそうだし、朱鷺色ともいえそうだ。その色が川面に現れるのは、時間としてはほんの数分のことなのだが、それを見た瞬間、もう夏は終わってしまったのだ、と思った。久しぶりの感覚だった。群馬で暮らしていた頃、やはり近くを流れる吾妻川を見て、季節の移ろいを感じていた。忘れていたその感覚が、川を介して再帰したのかもしれない。

 川面の朱色と張り合うように、葛の茂みから真っ赤なカンナが何本も突き出しているのを、ある日見つけた。ダンドク、と和名で呼ばれるこの植物について、博物学者の磯野直秀が「明治前園芸植物渡来年表」に記すところを見ると、すでに寛文4年(西暦1664年)にはダンドクという名前が文献に見つかるという。学名でいうならば、Canna indica。インド(indica)とついているが、これは西インド諸島、つまりカリブ海のことだ。「ダンドク」という和名も、おそらくこの「インド」に由来するのだろう。英語ではカンナのことを「インディアン・ショット」とも呼ぶらしい。黒い種子が散弾のように見えるからである。その用例は、アイルランド出身の博物学者ハンス・スローンのカリブ海調査旅行記(1725年)に見つかるから、「インディアン」の参照先はここでも西インド諸島なのだろう。

 マルティニックでは、カンナのことをトロマン、あるいはバリジエと呼ぶ。トロマンはカンナの地下茎からとった澱粉のことも指す。市場に行けば、バリジエの切花が売られている。しなやかな長い茎に、火炎紋様のような真っ赤な花をつけたバリジエ。それはマルティニックを象徴する花だ。だからなのか、カンナの花が葛原のなかに赤い火の粉を散らしているのを見つけた時は、なんだか不思議な感じがした。マルティニックで見たバリジエの火炎が、地球の反対側のここ多摩川に噴き出しているように思えたのである。

 じっさい、植物は国境線などお構いなしに伝播する。多摩川の岸辺には地球の裏側の植物が「帰化」しており——「帰化」という語には、もともと服従的な語義があるけれども、「帰化」した植物たちはこの語義とはずいぶん遠い位置にいる——、例えば川縁を歩けば、ウチワゼニクサ、つまり、ウォーターマッシュルームと呼ばれて珍重されるあの植物が群生しているし、その近くをよく見ると、ゴワゴワと筋張った葉に、サイケデリックな散形花序をつけたランタナが生えていたりする。

 先日、本小屋の窓辺にやってきた来客も、そういえば、「外来種」であるらしい。キマダラカメムシのことである。カメムシというと、嫌な臭気を発するから毛嫌いされるけれども、その日は、この来客をじっくり観察することにした。濃い灰色の地に、星を散らしたような淡い黄色の模様があり、ゆっくりと歩む姿は堂々としている。彼らがここにいることをどう受け止めるのか、というやや距離を置いた視線と、精密な体の作りに見とれる没入した視線とを行ったり来たりしているうちに、キマダラカメムシはどこかへ行ってしまった。

 本小屋に引っ越してから数ヶ月たち、ようやく小屋の周辺にひしめく書かれていない文字たちを読む気持ちが動き始めたようだ。晩夏の訪れを知らせるあの川面の色は、その最初の徴だったのだと思う。

ゆうべ見た夢 04

浅生ハルミン

 深夜にNHK-BSでやっていた、科学をテーマにした番組を観ていたら、脳の奥には冷蔵庫のようなものがあってふだんは使わない思い出や記憶が整理整頓して保管されている、ふだんは忘れていても必要になったときにそれを取り出して前頭葉で調理する、と脳科学者が記憶について料理に例えて解説してくれていました。へえ、脳の中に記憶専用の置き場があるのか。扉が開くと中が明るくなる冷蔵庫のように、その部位の戸が開いたとき、記憶がスパークして取り出すことができるということ? 私は眠っている間に見た夢を書き留めようとするとき、記憶の薄れるスピードが日に日に速くなって困っている昨今なのですが(困ることでもないのですが)、それは、記憶が消えるというより、ドアが閉まるスピードが速くなったということなのかもと思い至りました。だから私の場合はドアが開いているうちに、つまり目覚めた直後に書き留めるのがベストなタイミング。歯を磨いたり、飲み物を用意したりしてもドアの閉まりに影響はないですが、シャワーの湯を浴びるとたちまちドアはパタンと閉まって、ドアがあったことさえわからなくなります。

 で、今日の夢は「ポメラニアンのハーネスが足首に絡んで転んだ」「俳優Oさんの白いランニング」「ブックファーストへ行く」という、三つの事柄を夢の記憶の冷蔵庫からいち早く取り出し、前頭葉の調理台で合わせてぺったんぺったん捏ねて、コロッケができあがったというイメージ。しかしテレビ番組を観たあと新たに浮上した謎は、日常生活の記憶と、夢のなかで体験したことの記憶は、同じ冷蔵庫に入っているのか? 別なのか? ということ。日常生活の記憶は何十年後にも、ふと、冷蔵庫の最前列に出てくることがありそうだけれど、夢の記憶は賞味期限が短いように思う……と、こんなとるに足らない想像をしているときが一番たのしい。

 夢の中で私は、住宅街のアスファルトの道を歩いているようだった。ひびの入ったアスファルトのところどころにスギナが生えていた。誰かが散歩させている茶色いポメラニアンが、私の足首にまとわりついてきて、足と足のあいだをくるくる何回もくぐったので、ピンク色のハーネスの紐が私の足を絡め取って、私はすてんと転んでしまった。誰かが近寄ってきて、それはポメラニアンの飼い主のようだった。長いハーネスの紐を自分のほうに手繰り寄せながら、私のほうへ来たその人は、テレビドラマの悪役を演じているのを見たことがある、ポマードの似合う俳優Oさんだった。
 それをきっかけに私とOさんは結婚を前提にお付き合いを始めた。
ポメラニアンは私の両手にすっぽりおさまる大きさだった。ポメラニアンを手の平に乗せると、手と犬の腹が触れ合っている面がネオン色に発光した。
 Oさんの部屋は木造の借家だった。カーテンは、適当な針金をカーテンレールにして白木綿の布を垂らしている簡易なもの。その前に焦茶色の木の本棚がひとつあるだけ。それが一切の家財道具。お金はなさそうだった。有名な俳優さんでもこんな感じなんだな、でもお仕事がんばってください、と思いながら、ぺったんこの敷布団の上で、ふたりで一枚のタオルケットをかぶった。
 Oさんと私とポメラニアンは、寺の境内を散歩しているようだった。砂利を敷き詰めた広いお庭。ノウゼンカズラが蔓に真っ赤な花をたくさんつけていた。借家の大家のおばさんは私たちを祝ってくれていたね。Oさんはしばらくしたら仕事に出かけていく。ランニングを着ている剥き出しの肩からも額からも、汗がぽたぽた落ちていた。汗は白いランニングに滲みていた。ちょっとOさん、その格好は似合っていてとても素敵だけど雑菌繁殖しないように気をつけてね。私もこれから自分の仕事へ出かけます。早くしないとブックファーストが閉まってしまう。ボタンのたくさんついたちゃんとした服を着て、ガラス張りの高層ビルの中へ私は消えた。建築中のビルが競うように高くそびえるこの街。

『アフリカ』を続けて(27)

下窪俊哉

 この夏は『アフリカ』をまたやろうと思っている間に過ぎた。しかし例によって夏の暑さは、もうしばらく続くらしい。まだ夏は過ぎ去ってはいないというふうに考えよう。そうやって自分がたいして動いていなくても原稿はぽつり、ぽつりと届くのだが、届くといつも嬉しい。原稿が添付されたメールを見て、おおー! と声を上げてしまうこともよくある。この歓びに代えられるものが他にあるだろうかとまで思っているのだが、これは一体何なのか。

 やろうと考えて、出来ないことは多い。私はいつの頃からか、何かを考え始めるとアイデアがどんどん湧いてくるようになった。『アフリカ』を始めた20代の頃は、でも全然そんなふうではなく、いろんなことを全て困難なことのように感じていた。出来るかどうかを先に考えるから、せっかく生まれようとしているアイデアが元気をなくしてしまうのだ。出来るか出来ないかはアイデアとは関係がない、好き勝手に考えてみよう、とすれば、アイデアは元気よくどんどん生まれてきてくれる。しかしそれを実行に移すかどうか、というのは別問題だ。
 例えば今年の春頃、休止して1年以上たった「道草の家の文章教室」を再び、一回だけ復活させようと考えていた。名付けて、道草の家の文章教室・最終回! いきなり最終回をやろうというアイデアに、ひとりでウケて、しばらく愉しんだ結果、それで満足してしまい、実際にやろうとはしなかった。
 そんなふうなアイデアは日々頭の中にあり、他人に話すこともあって、自分は企画倒れの名人だな! と思う。
 とはいえ、2010年代には、”プライベート・プレス”をめぐるトークイベントや文章教室、よむ会(読書会)など、実際にからだを動かして行った企画もいろいろとあった。
『アフリカ』はそういったことの何をやっても、終わったら帰ってくる場所であり、ベースキャンプのようだと言えばどうだろうか。うまくゆくこと、ゆかないこと、何があっても『アフリカ』に戻ってきて、さあ、また次のことをやろう、と考えることが出来る。
 それにしても、ベースキャンプが、なぜ雑誌のかたちになったんだろう。いや、そうじゃなくて、雑誌が先にあり、そこが次第に私たちのベースキャンプになったのだ。

 そこにはさまざまな人の訪問があり、出入りがあり、いろいろなやりとりが行われる。

 疎遠になった人たちがいる一方で、新しい出会いも『アフリカ』をやっていると次々あり、その不在と出会いの両方に『アフリカ』が支えられているのを感じる。疎遠になった人たちとも、お互いが元気で生きて暮らしていれば、いつか再会することもあるかもしれない。なくてもいいのだ、元気であれば、とたまに考える。

 この原稿を書いている途中で、向谷陽子さんの訃報が飛び込んできた。『アフリカ』が2006年8月にスタートして以来、これまで17年間、その表紙にはいつも、向谷さんの切り絵があった。事故に遭い、急逝されたとのこと。私とは大阪で大学時代に知り合い、とくに20代の前半には深い付き合いをしたが、大学卒業後は故郷の広島に戻って暮らしていた。個人的にひっそりと『アフリカ』を始めることになった頃、たまたま彼女から手紙が来て、パッとひらめいたのだった。この人がいつも私や友人たちに贈っている切り絵を、表紙につかいたい、というより、そうしなければならない、と。
 突然やってきた巨大な悲しみと喪失感のなかで、いま、『アフリカ』最新号の表紙にいる羊の切り絵と、向かい合っている。その対話を、私は言葉にすることが出来ない。