話の話 第4話:かくす

戸田昌子

ここにある男がいる。仮に青蛸と読んでおく。なぜ青蛸なのか。それは仮名を考えるときに連想が二転三転した結果である。あえて理由を探すなら、彼が決して青くもなければ蛸でもない、という理由でしかない。彼は見た目には親切そうなおじさんで、所帯持ちにも独身にも見える。人当たりの良い世間師のおしゃべりを心得ており、ペラリといい加減なことを言ってはすぐに梯子をはずす癖がある。たとえばこんなふうである。「7月のパリはいいよね、あれは最高だよ。行ったことはないけど」。「こんどミモザの種をあげるよ、オシャレな家にはミモザが咲いているものだから。持ってないけど」といった調子で、ペラっと何かを言っては自分でひっくり返していく。青蛸は含羞の男なのである。

青蛸は自分の本当の名前を明かさない。当然、住所も謎なのだが、いつも東京の西の方からやって来る。生まれたのは新宿区百人町だという。百人町と言えば、知り合いの能楽師の稽古場や、前衛いけばな作家の研究所があるのに加え、旧知の仏像研究者の家もあって、わたしには馴染みのある地名である。青蛸も芸能関係者ではあるようで、音楽一般への造詣は幅広いが、いささか芸能への雑食ぶりが過ぎ、清水イサムの出待ちしたことがある、と私にポロリと漏らしたことがある。

清水イサムといえば、森山大道の、あれである。『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)に出てくる、極端に背丈の低い喜劇俳優。写真集のなかで、明るい笑顔の奥さんにこどものように抱きしめられたり、華やかな紙吹雪のステージにまぶしく登場する一方で、閑散としたトイレの隅で憂鬱な表情を浮かべてみせている、彼である。その半ば伝説的な人物のステージを見に行って、そのまま出待ちをしてしまった青蛸であるが、「前にも後にも出待ちというのはその一回だけ」と主張している。

しかし青蛸は、森山大道が撮った「Actor・シミズイサム」の掲載された『カメラ毎日』が欲しいばっかりに、私が古本屋に売りに出した掲載号を即日、買いに行ってしまった。それは2年ほど前のことで、私がReadin’ Writin’ BOOKSTOREという台東区寿の本屋さんに自分の棚を持っていたことがあって、そこにこの号を売りに出しますと予告を出したら、青蛸はそれを買いに行ったのである。「店のドアを開けて、脇目も振らずに戸田さんの本棚へと突進していきましたよ」とは、店主の証言。いったい全体、何に食いつくのか、いま一つ分からないところがあるのが青蛸である。

名前を明かさないと言えば、高校生の時の数学の先生が、偽名を使っていたことがあった。その先生の本名を、ここでは仮に吉川武彦としておこう。しかし彼は「吉川コージ」というような感じの、ちょっと芸能人を連想させる名前を名乗って教壇に立っていた。見た目は初老のはげちょびん。いつも胸ポケットにウイスキーの入ったスキットルを入れており、授業中に引っ張り出してはちょびちょび飲む。ふわっといつも甘い匂いがしている。髪も背中もアル中の匂い。

彼はいつも幻覚が見えるなどとのたもうていた。ダメ教師の典型である。授業中、マリー・アントワネットが羽をつけて原っぱを飛んでいるのだと言い始める。黒板に正しいのか正しくないのか分からない数式を書きつけているが、どちらにせよ生徒たちはまともに聞いてない。幻覚の話が出るたびに「先生、やばい」と生徒たちは笑い転げている。そのうちに誰かが職員室から教員名簿を盗んできて、実名が吉川コージでないことをバラしてしまう。先生も先生なら生徒も生徒で、ともにダメダメである。平和な教室。

名前をかくす、と言えば、大学新聞の時の後輩。初めて部室に現れた時からかなり変わっていて、あらゆるものを批判し続けて誰とも話が通じず、懇親会では蟹味噌を入れるために供された蟹の甲羅に「カルシウム〜」と言って齧り付いてしまい、ドン引きされたりしていた。わたしとしては立場上とにかく耳を傾けていたら、そのうち尊敬されるようになってしまい、流れで取材に出すことになった。何をやらかすかわからないので同行したが、インタビュー相手もかなり「とんでいる」少女小説家で、なぜか話が合ってしまい、奇跡的にインタビューは大成功。小説家のポートレートを撮影しようとわたしがカメラを取り出したら、後輩が隣に無理やり入ってきたため記念撮影会になってしまった。苦肉の策でトリミングしてポートレートにせざるを得なかったが、文章はまあまあよく書けていて、小説家は大気にいり。写真まで気に入ってくださり、別の媒体でも使いたいのでプリントを下さいとまで言われてしまった。この成功体験が仇となって、その後、後輩は数々の問題行動を起こすことになる。

その名が偽名であったことがわかったのはその後のこと。事情は省くが、記名記事を基本としていた新聞部としては頭を抱えた。個人情報保護の観点から入部時に学生証を確認するわけにも、と悩み果てた末、結局は「ペンネーム可」ということにして無理やり皆を納得させたが、「あいつ流石にやるなぁ」という感嘆の声までが出現する始末。

ひとはいったい、なにを「かくす」のか。特に口に出さないことが、「嘘」と認知されておおごとになることもある。嘘をついたつもりもないのに、不義を疑われることもあるし、言うとなにか違ってしまうから「かくす」結果になることもある。ひとは、小さな嘘にも騙されるし、大きな嘘にも騙される。騙されるのではないかといつも疑心暗鬼になっていると、かえってなんでも嘘に見えるようにもなる。

「来年から、自転車にも免許が必要になるんだよ。だから自転車の免許を取りに行かなくちゃいけないよ」という適当な嘘をついている人がいた。それを聞かされていた女子はその話を真剣に聞き入っていたが、よもや信じはすまいとわたしは放置。しかしそれが嘘であると彼女が気づくまでは半年を要した。のちほど、なぜ教えてくれなかったのかと問い詰められたが、よもや信じるとは思わなかった、とのわたしの言い訳に、彼女はますますわたしへの不信感を募らせてしまった。嘘をついたのは、わたしではないのだが。

嘘と言えば、Rという友達がやはりペラペラと罪のない嘘をつく人で、彼女はわたしの知る中では最も雑学博識のAB型の典型で、文字ならなんでも読む、読むものがなければ菓子袋の裏まで念入りに読んでしまうような人である。彼女は自分の息子に、「メンマって何でできているの?」と尋ねられて、「ほら、あれ、竹の割り箸あるでしょ。あれをぐつぐつ煮て作るのよ」と教え込み、彼はしばらくの間、それを信じていたそうである。そんな気の利いたことを言ってみたいと一念発起したわたしは、小学生だった娘に「羊はグー蹄目だけど、馬はパー蹄目なんだよ」と教えてみた。とはいえ偶蹄目だの奇蹄目といった類のややこしい言葉など、どうせ覚えてはおらぬことだろうとたかをくくっていたら、その数年後、林間学校で牛の乳搾りを体験して帰ってきた娘「あのね……ママ、パー蹄目っていうのはないんだよ……」とそっと耳打ちしてきた。そんな話はすっかり忘却の彼方であったわたしが「あらまあそんなの信じていたの」と応答したら、少々傷ついた顔をして「ママが知らないんだと思って、教えてあげなくちゃと思って……恥をかいたらいけないから……先生のお仕事をしているのに、間違ったこと言ったらいけないと思って……」と、つぶやいた。子どもは確かに信じやすいのだから、いい加減なことばかり言ってはいけないと、反省することしきり。

世の中には不倫とか横領とか借りパクとか、いろんな嘘や隠し事があるものだが、「隠していた!」とか「嘘をついていた!」という言える類のものは、まだまだわかりやすくて良いのかもしれない。露見しない嘘というのはないものらしいから、追求しなくてもいずれ知れるようになるものなのかな。

青蛸はいいやつだ。近所のコーヒー屋でアイスコーヒーを飲んでいたとき、おしゃべりに没頭したわたしは間違って青蛸のコーヒーを飲んでしまった。あっと気づいてあわててストローを抜き、新しいストローに変えよう、と言ったら、青蛸はケラケラ笑いながら、いいよいいよとストローなしでコーヒーを飲みほした。変な仮名をつけてごめん、青蛸。

そして後日談。先日ふたたび会ったとき、青蛸は「これあげる」と手に持った(使いふるしの)ジップロックの袋をわたしに差し出した。なかに入っていたのは、さやえんどうのような、鞘に入った、カラカラに乾いた植物の種。「これ、ミモザの種」と、得意そうな顔をしている。くれると言われていたものの、どうせまた嘘だろうと思っていたのだから驚いていると、「あげるって言ったでしょ。ミモザの苗なんか、買うと高いよ?」と続けた。わたしが「てっきり嘘だと思った」と言うと、「嘘なんかつきませんよ〜」と嬉しそう。青蛸は決して嘘つきではないのかもしれない。本名も、当面のあいだ、知る必要もなさそうだ。

「図書館詩集」9(すぐそこにある山まで雲が下りてきて )

管啓次郎

すぐそこにある山まで雲が下りてきて
山頂の城が白くかすんで
見えたり見えなかったりして
しずかな昔がそこにやってきたようで
でも昔もじつはやかましくて
ここもかつては戦国時代で
その火種の中心のひとつだったってさ
山地から平野へ
川の流れが生む地形に
歴史が草のように生えてくる
ああ、いやだいやだ
「戦国時代」とは強欲の時代
殺人、略奪、強姦、火つけ
ここでは食えないから奪おう、という残忍な思想を
かれらを食えなくする当の領主どもから
植えつけられれば嬉々としてしたがい
かれらが浸りきったそんな考えが
やがて近代となれば国家の外に向けられたのか
岐阜という名前にひっかかっていた
何がそこで分岐し
どんな丘がなまなましくふくらんでいるのか
運命の分岐を語るのは簡単だが
実際のようすはモヤモヤしてわからない
なだらかな丘陵をつらぬいて
水の龍がうねるのか
でも現実にでかけてゆくと
そこにも地形のドラマがつづく
山地が終わる土地だ
平野がはじまる土地だ
水量のある流れが
おびただしい魚を生む
海から連れてこられた鵜が
かわいそうに人にいいように搾取されている
それも土地の風物らしい
迫る山の上にある城が
心を騒がすけれど
あの城だって城跡にすぎないのだ
城は城を継いでおなじ場所に降りつもる
城跡に城がまた建てられて
時間とか時代とかが圧縮されるわけ
それにしても恐ろしい高さだ
土地をよく睥睨し
世界の終わりを見るのにちょうどいい
信長はここで何を思ったのか
ある人間の生涯を
いくつかの時の断面において見ようとするなら
あるひとつの時刻に
うすいフィルムを挟みこみ
そこに映る存在しない写真において見ることになる
未来を知らないかれらの未来を
われわれは過去として把握しているのだから
残酷だね
意図せずして残酷
彼女や彼の本質的な転回の
あるいは改心の、改悛の、
決意の、決定の、
姿勢や表情もすべてフィルムにくっきりと映って
すべては透明な凧のように空中に浮かんで
びゅんびゅん唸っている
信長にこの城を奪われたのは斎藤なにがし
城を整備したのはその先々代の斎藤道三
自分の息子に殺された道三
いまでも岐阜市では毎年「道三まつり」があるそうだ
なぜ現代にまで武将崇拝がつづくのか
たたるとでも思っているのではないか
道三にしてもそれ以前にこの城の原型を築いた
誰かからその原=城を奪ったわけで
そのまえには砦があって
そのまえにはただ岩場があって
人がこのあたりに来ないころから
猿の群れが風に吹かれていたんだろう
この高みから下を見おろしながら
「ねえ、諸君、この高みからひといきに
長良川に跳びこむことはできるのかな」
「ああ、できるとも、やってみせようか」
猿たちはいさましい
息を呑みながら、あくびをしながら
ふりかえりながら、とんぼを切りながら
奈落にむかって、いや奈落のさらに底の
辺土にむかって
リンボーダンス
いっそ水に入ってしまえば
きみも私も鮎さ
占い好きな魚
運命はお天気と苔のパターンにまかせて
鵜に呑まれないよう
気をつけながら泳いでゆけ
左にゆけば平野なるべし
右にゆけば渓流なるべし
おなじ水でもずいぶん
心がちがう
音響が変わる、すると
時代が変わる
霊魂は不滅だというが
そのありかたとして
つねに滅しながらその場に
つねに湧いているとしか思えないこともある
水がつねに新しく流れながら
川としては同一でありつづけることの不思議
そう、思議にあらず
思議してはならない
思議することができない
不思議とは不可思議
不可能だ
(フシギなどという仏教用語を幼児でも
日常的に使うのだからニッポンは末恐ろしい)
流れるものと残るものの対立は
ずいぶん前からぼくの発想を規定していたようだ
こんな短い詩を以前に書いたことがあった

  「逆説」
  文字は残る
  声は消える

  残された文字はもうそれ以上
  姿を変えない

  消えた声は永遠にゆらめいて
  私を聞きとってと
  私たちに呼びかける

いやね、こう書きながらふと思ったのは
「ながら川」と呼ばれる水のその構造なんだ
川はひとつでありつつ
水は不可算で(まことにふかふか不可思議)
詩はひとつでありつつ
個々の詩は並行して存在することも
別個に継起的に書かれることもできる
詩は水の中を泳ぐ水の魚
一瞬ごとに消滅しながら
次の一瞬にはまた生まれている
(だが生まれるとは自動詞? 他動詞?)
そして「瞬」とは単位になりうるのかな
そんな風に時をあたかも羊羹や羊肉のように
切り分けることができるのかしら
時を時として測れないから
詩が生まれる
詩を詩として体験するためには
時が必要だ
時を時としてやりすごしながら
詩を発見する(予感する)
詩を掘りながらまた
時の水に足を浸す
岐阜は「ながら」の聖地
詩はそもそもそれ自体としては
予感することはできても突きとめることができない
詩はただ「ながら」とともにあり
残余すべて亡きがら、だから
詩に夢中になってはいけない
詩はただ一瞬の
一瞥のうちに
読まれ、その残像が
記憶されればそれでいい
料理しながら詩がある
歌いながら詩がある
運動しながら詩がある
慟哭しながら詩がある
授業中にも詩がある
商店にも詩がある
会社にも詩がある
路線バスにも詩がある
詩はすべてながら詩
詩ながら詩
我ながら詩
あらゆる人生のすぐ横を
二本のレールのような一定の間隔をもって
流れているだけだ
そのうち「みんなの森」にやってきた
この不思議な森は波打つ天井で
ヒトの群れを雨風陽光から守ってくれる
半透明のすかし模様の入った
モンゴルの遊牧民の住居のようなかたちの
ドームが発光して文字を守る
城や詩を考えることに疲れた心を
文字の森が休ませてくれることがわかった
Pick-me-upとして濃いコーヒーをもらって
砂糖黍の砂糖をたっぷり入れ
持参した肉桂と唐辛子を入れて
飲む
ニッケ、ニーケー、サモトラケのニケ
涙が滲むほど辛いコーヒー
さあ今日の読書をはじめようか
「一九八二年、七歳の時、
私は映画館で『龍の子太郎』を観た。
おそらく、ソ連の子どもがこうしたアニメを
観ることの意味を現代人が理解するのは
難しいだろう。私は本物の龍を見るより驚いた。
ショックだった。」
(エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』(河出書房新社、二〇二〇年より)
みごとな回想
よい驚きだ
たちまち図書館が水であふれ
川となり
透明な龍が強烈に体をうねらせ
本がしぶきのように飛び散って
もう収拾がつかない
ぼくはタツノコタロウを知らず
ことばはイメージにむすびつかず
本物の龍ももちろん見たことがなくて
だが「驚いた。ショックだった。」
かれらソ連のこどもたちが驚いたのが
ぼくには衝撃だった
それで頭がぐるぐる回りだした
図書館でありながらここは荒野
岐阜でありながらここはサハリン
姿を変えた森でありながら
すべてはアニメーション
Anima, animus の乱舞
龍の瞬間ごとの出現
翔んでいく
鱗も飛び散り
きみの目に次々と刺さるのだ

岐阜市立中央図書館(ぎふメディアコスモス)、二〇二三年三月二六日、雨

ぼくがおれに変わった日・続編

篠原恒木

おれは昔、ぼくだった。
先月と同じ書き出しだが、気にしないでもらいたい。
「ぼく」だった頃がこのおれにもあったのだ。生まれてこのかた、ずっと「おれ」だったわけではない。

四十年も前のことだ。ぼくは出版社に入社して、週刊誌の編集部に配属された。そう、この頃は「ぼく」だったのだ。右も左もわからず、ひっきりなしに編集部にかかってくる電話を取るのがひたすら怖かった。ぼくは間違いなく会社の中でいちばん仕事ができないニンゲンだった。

当時は「出張校正」というシゴトがあった。
週刊誌はニュース・ページをいちばん最後、つまりは発売日の直前に印刷所へ入稿する。ニュース・ページの入稿最終締め切りは金曜日の深夜、つまりは土曜日の朝だった。その土曜の朝イチに印刷所へ入稿されたニュース原稿のゲラをチェックして素早く校了するために、土曜日の昼前に印刷所へ「出張」して、その場で夕刻までに責了する。これなら印刷所とのやりとりの時間が大幅に省略できるというメリットがあった。以上が当時の出張校正の大雑把な内容だ。

初校ゲラを受け取り、出張校正室に待機している校閲者のヒトビトに配ったり、原稿の疑問点を記事の担当者に電話して解決したり、行数を整えたり、初校ゲラを戻したり、活版印刷の本文部分と写植部分の見出し・写真などの赤焼きを切り張りして校了紙を作るのは、すべて新入社員、つまりはぼくのシゴトだった。当時はすでに週休二日制が導入されていたが、ぼくは毎週土曜日にこの出張校正があったので、休みは日曜日のみだった。そして一年経って、新しい後輩部員が入ってきても、なぜかこの出張校正は相変わらずぼくが担当していた。

印刷所の出張校正室は古びていて、一日中陽の当たらない殺伐とした部屋だった。使い込まれた机を繋ぎ合わせた作業スペースと、その机の上に電話が一台あるだけだ。ぼくはあの灰色の部屋に行くのが憂鬱で仕方なかった。印刷所は国鉄の駅から勾配のある坂をダラダラと上ったところにあったが、急な坂道を毎週ヨロヨロと歩くたびに、気分が沈んできた。

昼前に出張校正室に入ると、やがて校閲者の方々がやって来る。初校ゲラが部屋に届けられる前に、弁当が支給された。この弁当があり得ないほど不味かった。大学を卒業したばかりで、それまでの二十二年間にロクなものを食べてこなかったぼくでも、この弁当は食えたものではなかった。平べったい弁当箱の蓋を開けると、白飯の真ん中に小梅が埋め込まれ、おかずは大きな厚揚げの煮物と少量のきんぴらごぼう、といった「全面的かつ徹底的に茶色」という塩梅だった。肉もなければ魚もない。さぞや味付けも濃いだろうと思われるだろうが、これが全面的かつ徹底的に薄味なのだ。つまりはめしのおかずとしてまったく機能しないという悲しいものだった。だが、文句をいう訳にもいかず、ぼくは毎週その弁当を黙々と食べていた。
「よく食べるなぁ。おれの分も食べていいよ」
校閲者の方にそう言われ、固辞できず二個目の弁当に箸をつけて、むりやり胃に押し込む日もあった。辛かった。
そうこうしているうちに朝イチで入稿された原稿が初校ゲラになって出張校正室に届けられる。ぼくはそのゲラを校閲者の方々へ配り、自分の分も確保して、本文に目を通す。そこでぼくは必ず愕然とする。
「今週もやっぱりそうか」
と、途方に暮れるのだ。初校ゲラの余白に、原稿が二十行もハミ出している。週刊誌の記事は短いものだと見開き二ページだが、その二ページの原稿で二十行も超過しているということはどういうことなのか。答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくは憂鬱な気分で、その記事の担当者の自宅へ電話をする。出ない。早朝に原稿を「あらよっ」と入稿して、今頃は布団にくるまっているのだろう。ぼくはしつこく電話を何回もかける。ようやく出た相手は不機嫌そうな声だ。
「なんだよ」
「あのですね、本文が二十行もオーヴァーしているのですが、どうしましょうか」
「そっちでなんとかしてくれよ。こっちは徹夜明けなんだよ」
実にあっけなく電話は切れる。徹夜明けだと言うが、ぼくだって昨夜は午前三時まで編集部で仕事していたのだ。そして約百六十行の本文が百八十行になっているのだ。「なんとかしろ」と言われても、二、三行のハミ出しならなんとかするが、二十行を削るには本文中のエピソードをひとつ、場合によってはふたつ、バッサリと落とさなければならない。だが、その記事を直接担当していないぼくが勝手に
「よおし、この証言とこの発言をカットしちゃえ」
と、削ることはできない。校閲はすでにチェックを終え、疑問点を鉛筆で指摘している。ここは初校ゲラを一刻も早く戻して、再校ゲラを出さなければならない。ぼくは仕方なく、また二十行ハミ出しの担当者に電話する。
「ああ、何度もうるさいな」
「本文中に疑問点がいくつかあります。そして二十行オーヴァーはどこを削ればいいでしょうか。で、写真のキャプションがすべて抜けているのですが」
「キャプション? ああ、そう言われれば書くのを忘れたかもな」

次の記事のゲラを見ると、こちらは本文が十行足りない。「ゲタ」と呼ばれる記号のようなものがむなしく本文の終わりに十行分並んでいる。これはどういうことなのか。繰り返しになるが、答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくはますます憂鬱になり、次の十行不足担当編集者の自宅に電話する。三回目でようやく繋がった。
「なんだよ」
「あのですね、本文が十行足りないのです」
「十行足りない? そんなはずないぞ。ちゃんと行数は揃えたからな」
「しかしですね、実際に十行分のアキが生じているのです」
「そっちでなんとかしろよ。なんか足せばいいだろう」
再びあっけなく電話は切れる。ぼくは仕方なく初校ゲラではなく、生原稿を校閲者から借りてチェックする。当時の生原稿は「ペラ」と呼ばれていた二百字詰めの原稿用紙に黒鉛筆で手書きされていた。正確に言えば二百字詰めではない。週刊誌の字詰めに合わせて、一行十三文字のマス目が十行縦に並び、その下には書き込み用の余白スペースが設けられていた。
その生原稿をパラパラめくっていくと、六行分の手書き文章が赤鉛筆で削られていた。よし、この六行を復活させればいい。六行のなかに危険な文言、あるいは記事になったときに問題になりそうな発言などが入っていないかを確認して、大丈夫だと判断したぼくは初校ゲラに手書きでその六行を赤鉛筆で加えていき、残りの四行はどうにかこうにかやりくりする。

また別の初校ゲラが届いた。こちらは二行ハミ出しなので、なんとかなるのだが、校閲者から疑問点がいくつか指摘された。これは担当編集者本人でないと解決できない。ぼくは三人目の編集者の自宅に電話する。夫人と思しき女性が出た。
「ご主人さまをお願いしたいのですが」
受話器の向こうで一瞬の沈黙が流れて、
「今日は締め切りで帰らないと申しておりましたが」
と、戸惑ったような声が聞こえる。
いや、締め切り日は昨夜で、今日は締め切り明けなのですが、とは口が裂けても言えない。二十二歳の坊やでもそのくらいの機転は利く。
「失礼いたしました」
受話器を置いて、ぼくは再び途方に暮れる。

そんなとき、出張校正室に置かれた壊れかけのTVからニュースが流れてきた。有名芸能人の急死を伝えている。ぼくは嫌な予感がする。数分後、出張校正室の電話が鳴った。編集長からだった。
「二ページ、記事を差し替えるぞ。何を落とす? ラインナップを読み上げろ」
ぼくは今日校了分の記事のタイトルをすべて電話で伝える。編集長の判断は、偶然にも二十行ハミ出しの二ページ記事だった。このことがこの日唯一の幸運な出来事だ。
「レイアウト・マンと記者、アンカーに連絡してくれ。芸能班のデスクにもな。あ、おまえはいまからすぐ編集部に行って、顔写真を何枚か選んでこい。頼むぞ」
腕時計を見ると午後一時を過ぎていた。校了のデッド・ラインまであと四時間しかない。ぼくは大急ぎで初校ゲラを戻して、各方面に電話をかけ、あたふたと印刷所を飛び出し、編集部へ向かい、写真がストックされているキャビネットから生前の芸能人の顔写真を十枚ほど選んで出張校正室に戻る。机の上には差し替えページを除いたすべての再校ゲラが置かれていた。めでたくすべて行数はピタリと合っていたが、これらも素早く捌かなければならない。そして差し替えページの進行作業も並行して進めないと間に合わなくなる。いまから一時間ほどで責了者である編集長が出張校正室にやって来る。あっ、そうだ。表紙のタイトルも差し替えなければならないはずだ。さっきの電話で編集長は何も言ってなかったけれど、九十九パーセントの確率で表紙タイトルも差し替えだろう。ああ、印刷所のヒトに表紙の校了紙を引き上げてもらうようにとお願いしないと。いや、表紙はもう印刷を始めているかもしれない。うおおおおおおおお!

こんなことを毎週、二年間も繰り返せば、「ぼく」は「おれ」になるに決まっている。ココロがすさんでいくのだ。あの日々以来、ぼくからおれになったおれはおれのままである。そんなおれを誰が責められようか。おれは今でも深夜に悪夢を見る。本文の行数を揃える夢だ。夢のなかのおれは必死に初校ゲラの本文を削ったり足したりして、行数を指定通りに整えるのだが、出てきた再校ゲラはきまって二行ハミ出していたり、一行足りていなかったりして、何度繰り返しても一向に行数が合わないのだ。四十年前のウマシカたちのおかげで、おれはいまだにトラウマを抱えている。

どうよう(2023.07)

小沼純一

ねこがほしをみるように
ねこがほし
ねこがほしい
ほしがって
とれるもてるわけじゃない
ねこはそこにいるだけで
かうのはできても
かうのはかり
どこからか
どこのだれかは
しらないが
かりている
だれのでもない

しめきりまでにはおわらせて
つづけるべきはそのあとで

まちあわせにはあのみせで
はれたらさんぽにまいりましょう

はなはしぼんでみちはじゅうたい
みせはしまっはしおれる

あしゆびはれてあるけない
まわりぐるぐるまわってる

からだじゅうにはあかいしっしん

いけない 
いかない
いきたくない

かたいやくそく
やくそくどれも
あなたとわたしかわらなければ

いけない
いかない
いきたくない
いえもない

よていはみてい
みえないみらい
みていたいのは
かってなみらい
よていはみんなかていのうえで
いきていたらとくちにはださず

ふー ふー
あついおちゃ
さますよう
どうして
こういうくちをする
じぶんのからだが
いとわしい
おもいどおりになりゃしない
どっかにふた

がかかってる
はい

それとも
しんぞう

つめたい
まなざし
わかってる
しょうがない
ふー ふー
そうそう
おじいちゃんも
おなじだった
やっぱり
ふー ふー
してたっけ
から

ってにてるんだ
しょうがない
って

むもーままめ(30)月を弄ぶ、の巻

工藤あかね

子供の頃から、身近なもので一人遊びするのが好きだった。
夕方、西日の入る場所を探して、軽くレースのカーテンを締めると目をぎゅっと瞑ってみる。しばらくすると薄オレンジ色に透けた目の奥に、何やら模様のようなものが見えてきてウニョウニョと動き出すのだ。この模様がどう動いてゆくのか観察して、よく遊んだ。ただしこれは、ずっとやっていると頭がくらくらしてくるので、自然と強制終了になってしまうのが玉に瑕なのだが。

鉛筆と紙を用意し、何も考えずに落書きし続けるのも好きだった。最初うさぎの絵を描き始めたとすると、手を適当に動かしているうちにいつのまにか足がムカデのように増えていたり、変な花が頭に咲いていたり、背中に翼が生えたり目は宇宙人のように大きなアーモンド状になってきたりして、これまでみたことがないような生き物になってくる。一つ描けるとそのそばから、無限にちょっとおかしな生き物や文字が湧き出してきて手がどんどん止まらなくなる。紙が落書きで埋まっても隙間や、すでに描いたところにも重ねて描いていったりして、すごい情報量のあるような、ないような様相になっていくのが面白かった。

大人になってからのある時のこと。合唱団の子供達がたくさんいる現場で歌ったことがある。終演後に子供たちの一人が、記念に「サインください」と言ってきたので、何となしに手を勝手に動かし、適当な絵を描いて渡してあげた。それを見た子供はなぜか大喜び。その子は子供たちの輪の中に戻っていったが、そこで私の絵を見せた途端に歓声があがった。すると来るわ来るわ、子供達が私の落書きつきサインを求めて列をなし始めたのだった。これはちょっと嬉しい思い出として、心に残っている。

そのほかにも、今でもときどきやるものがある。月をふたつに増やして衝突させる遊びだ。それは満月か、それに近いくらい月が太った時にやるのがいい。方法は簡単。月を見上げる時に目の焦点をぼかすだけ。よく新聞の片隅などに掲載されている、目をよくする3Dトレーニングみたいなものがあるが、つまり要領はそれと同じである。月を見る時に、目の焦点をぼんやりとずらしてゆくと、やがて月がふたつに見えてくる。気合いで三つまで増やしてもいいが、まずは二つがいい。焦点をずーっとずーっとずらしてゆくと、自分的にはこれ以上無理というくらいに、月と月の距離が離れてくる。その刹那から目の筋肉をゆるめると、二つの月が一つに収斂するようにしてぶつかりあう。目の筋肉をゆるめるスピードを変えると、ゆっくりぶつかったり、急速に衝突したりと調節も可能になる。自分で効果音をつけてヒューーーーーズドーンなどと、口走ってもいい。

大人になっても、満月の日にはついついこの遊びをしてしまう。夜、帰宅途中に満月を発見すると、歩きながらやってしまうこともあるのだが、よくよく考えると、歩きながらやるのは実はよくないのかもしれない。まず、月を眺めていると周囲に対する注意が散漫になるから、道端では事故に気をつける必要があること。もうひとつは…極端に怪しい人の目になるので、歩いてきた向かい側の人を怖がらせているかもしれないこと。

仲井戸麗市(チャボ)の洋楽カバー

若松恵子

古井戸、RCサクセションのギタリストであった仲井戸麗市(なかいどれいち)、通称チャボが有観客のライブを再開した。同じ時代を生きて、現在進行形の彼の音楽を直接聴けることを幸せなことだと思っていたので、有観客のライブ再開はとても嬉しい。

南青山のライブハウス「曼荼羅」で、5月26日の第1回めは、梅津和時、早川岳晴、RCサクセションのドラマーの新井田耕造をゲストに、久しぶりにチャボがエレキギターを弾きまくる、しびれるバンドナイトだった。(かっこよかったな~チャボ)

そして2回目の有観客ライブが、6月23、26、27日の3日間、全曲カバー曲を演奏するソロライブとして行われた。コロナ感染に注意しつつ観客数を抑えなければならないので、聴きたいファンがみんな来られるように3日間のライブとなった。

洋楽のカバー曲は、著作権の問題で配信では演奏できないようで、今回は有観客のみで、そんな制限は気にせずに、チャボのカバーをたっぷりと聴くことができた。優れたミュージシャンは、みんなカバーの名手だけれど、チャボもそんなミュージシャンのひとりだ。愛してきた曲を、自分を通過させて、今度は自分の表現として演奏するのがカバーだから、原曲の素晴らしさにチャボの魅力が加わって、本当にしみじみ味わい深いのである。埋もれた名曲を発掘して磨いてみんなに届ける、そんな役割もカバーにはある。

洋楽のカバーに彼は日本語詞を付けるのだけれど、ほとんど直訳ではなくて、彼オリジナルの歌詞が歌われる。原曲通りでないと言っても、決して替え歌ではなくて、原曲の持つスピリットが、日本のロック少年にはこんな風に共感されたよという意訳で、そこも彼のカバーの魅力となっている。演奏の合間に彼が語ることが、歌にさらなる陰影を加える。

ビートルズのイエスタディは、「昨日という夏、夏という人生」と歌われる。ボブ・ディランのアイ・ウォント・ユーは、「アイ・ウォント・ユー、会いたいぜ」と歌われる。昔から知っている歌が、チャボのカバーによって、今再び新たに胸に届く。知ってる曲をみんなで大合唱とはいかない、とてもとても個人的な、音楽空間なのである。大勢に聴いてもらいたい、もったいないと思うけれど、曼荼羅に出かけて行って、直接聴くのが一番良いのだ。

有観客ライブが再開されて嬉しい。今後も貴重な機会をとらえて出かけていきたいと思っている。

『アフリカ』を続けて(25)

下窪俊哉

 先月、急に思い立って、アフリカキカクの年譜をつくってみた。ある人に話したら、「ネンプ? 年表ですか?」と驚いたような顔をされた。
 私は年譜を読むのが好きなのである。例えば講談社文芸文庫を買うと、必ず巻末についているあれだ。
 自分のやってきたことにかんしては、若い頃には全て頭の中に入っていて、いつでも取り出すことができた。それが最近は全くそういうわけにゆかなくなり、けっこういろんなことを忘れているということがわかってきた。
 3年前に『音を聴くひと』という自分の作品集をつくった後、それを読んだ旧知の人から連絡があって、「10年ちょっと前にも下窪さんの本をつくる計画がありましたよね?」と言われて驚いた。全く覚えてないのである。指摘されても思い出せないとは、どうしたことだろう。
 最近、そんなことが徐々に増えてきたので、アフリカキカクにかんすることだけでも、まとめておいて、いつでも眺めることができるようにしよう、と考えた。「水牛」で「『アフリカ』を続けて」を書き続けるのにも役立ちそうだし、と。せっかくならウェブサイトで公開してしまおうということになった。

 2005年10月に『寄港』第4号を出して、休刊したところから始まる。『寄港』を『アフリカ』の前身とは言えないような気がするが、『寄港』を続けていたら『アフリカ』はなかったはずなので、大きな転機となる出来事だったと言っていい。
 じつは止めるのは嫌いじゃない。止めると、必ず新しい流れが生まれるからだ。何かを止めたいとか、あるいは止めたくないと考える時というのには何かありそうだと思う。
 そこから2023年3月の『アフリカ』vol.34まで、ざーっと眺めてみる。
 最初の数年は、編集人である私の失業、再就職から、ついには会社勤め自体を止める決断をして「無期限の失業者/自由人」となる流れを背景に、続かないはずだった『アフリカ』を年2冊のペースでつくり続けてしまっている。
 その後は、項目の多い年と、少ない年があるのがわかる。
『アフリカ』を隔月で出していた2012年〜13年は際立っているかもしれない。どうしてそんなことができたんだろう? いまとなってはうまく思い出せない。そのことだけをやっていたのなら、わからないでもないが(それでも大変そうだ)、そんなはずはない。幾つかの仕事を始めたばかりだったし、逆に余裕はなかったはずである。そんな中、初めてのトーク・イベントまでやってしまっている。当時はしかし、そんなに大変だという意識はなかったような気がする。
 逆に、もっともっとできるはずだと感じていた。いわゆる”ランナーズ・ハイ”というのに近い状態だったのかもしれない。
 似たようなことが、本を何冊も立て続けにつくった2021年前後にもあった。文章教室を毎週やっていた2018年にも近いことが言えそうだ。
 それらの時期を思い返してみると、いずれも(年譜には書いていないが)印象深い対人トラブルが起こっていた。いつもは上手く対処できていることも、ハイになっている時期には、できなくなるということかもしれない。あるいは、トラブルも起こるべくして起こっているのだろうから、現状に風穴を開けようと躍起になっているのかもしれない(しかしトラブルはない方が楽なので、このことは今後、頭の隅に置いておきたい)。
 一方、例えば2017年などは、アフリカキカク以外の仕事で忙しかったので、記述が極端に少ない。それでも『アフリカ』は1冊、ちゃんと出しているのである。
 そうか! と思ってざーっと確認してみると、どんな状況であれ、2006年以降『アフリカ』を1冊もつくらなかった年はないのだ。「『アフリカ』を続けて」いると言うからには、最低でも年1冊つくっているというのは驚くようなことではなさそうだが、その事実を年譜の中に置いて眺めてみると、何だか不思議な気がする。

 いろんなアイデアを思いついて実行はするのだが、殆どの人にはウケないという特徴が全体にわたって言える。ただし、信じられないくらい深く伝わっている人もいるのである。たくさんの人にウケたら、深く伝わる人も増えるのかどうか、そのへんはよくわからない。

 そんなことを続けて、もう17年、これまでやってきたことを隠さず(忘れていることはまだあるかもしれないが)ズラッと並べて見せて、私は平気なのだ。清々しい気持ちがする。そんなことは当然のように思っていたが、誰でもそうだというわけではないらしい。つまり過去の仕事、以前の作品は封印しておきたい人もいるわけだ。
 アフリカキカクには17年前のものと、いまのものを並べて同じ雑誌ですと言って見せることができるのである。何かを止めたことすら大した分断ではないと感じているところが自分にはある。ものすごく嫌な出来事があっても休み休み思い出し、あのことがあったからこそ、その後があったと考える。

『アフリカ』を始める前に書き残しておいた文章によると、『寄港』を止めよう(休もう)と思った大きな理由は、他人から要求されて無理やり働かされているような気分になってきて、嫌気がさしてしまったからだそうである。当時は会社勤めを始めたばかりで、余裕のない中、短い休日の時間をその無償労働に当てていた。その文章の中には、「参加者から対応に困る妙な苦情が来たりもした。これは地獄だと思った。」という記述もある。
 なるほど、『アフリカ』を始める時、「続ける気はない」などと言っていたのはある種の人たちへ向けたハッタリだった。これからは好き勝手にやる、何か言いたい奴はあっちへ行け、ついて来るなよ、というわけだ。自分だけでなく、みんなもっと好き勝手にやればいいのにと思うこともある。好き勝手にやると、責任が芽生えるというのか、どうなるか? というと、何があっても他人のせいにしなくなるということではないか。アフリカキカクという場で起こった全てのことを、私は受け止める。好きこのんでそうしているのである。

 私はいまのところ、『アフリカ』を止めたいとも止めたくないとも思っていない。

イスタンブールでマンサフを食う

さとうまき

カハラマンマラシュで被災した家族にお見舞金をいくらか渡して、イスタンブールに戻ってきたときには、雨も上がっていた。今回いろいろと面倒をみてくれたシリア難民のムハンマッドは、家に招待してくれて、晩飯をごちそうしてくれるという。妻に電話して、マンサフと呼ばれる家庭料理でもてなすように指示していた。実は、僕はこのマンサフがどうも苦手なのだ。マンサフとは羊肉を、ジャミードと呼ばれる固形ヨーグルトを溶かして煮込んだものなのだが、とってもくっさいのである。しかし、うまく断る理由もない。

イスタンブールの飛行場は、数年前に新しく森を切り開いて作られた。周辺に戸建ての新しい街が作られつつあり、市中よりも家賃が安いのかシリア難民も最近多く住み着いているという。ムハンマッドがドアを開けると女の子たちがムハンマッドに抱き着いてきた。「娘さん?こんにちは!」とあいさつすると、「この子たちは、兄の娘で、戦争孤児なんだ」とムハンマッドが説明してくれる。ダラアで爆撃に巻き込まれ、両親は即死。女の子だけが3人残された。お爺さんが、彼女らを連れだし、先にトルコに難民として避難していたムハンマッドに合流して一緒に暮らしている。ムハンマッドが自分のこどもと一緒に面倒を見ているのである。

真ん中の女の子は、8歳くらいなのだが、特に甘えん坊でムハンマッドに抱きついて離れない。もうずいぶん前にベツレヘムの孤児院を訪れたことを思い出す。イスラムの世界というよりは、家族の問題なのかもしれないが、結婚前に妊娠したりしたら、一族の名誉のために、母子ともども殺してしまうことは、しばし起こりえるので、病気で入院したことにし、生まれた赤ちゃんを引き取る施設があった。カトリックでも堕胎が許されないので同じように子どもを出産してこっそりと引き取っていた。そこへ見学に行った時、子どもたちが抱きついてきて離れようとしない。この子たちは、愛に飢えているのだ。全く同じような感じがした。

思えば、トルコには340万人をこえるシリア難民が暮らしている。トルコとしても、シリア難民を今後どうするのか、大統領選でも、野党の候補はシリア難民を帰還させることを公約したし、エルドアン大統領も、強制送還はしないが、100万人は帰還させたい意向を選挙戦で語っていた。今回地震の難を逃れたシリア難民ですら、将来を思えば明るい材料はないのだ。

さて、いよいよ夕食だ。アラブ式は、机の代わりに、床にビニールシートを弾いて、そこに大皿の料理が並べられて、それをみんなで取り分けて食べる。ついにマンサフが登場。ところが、羊の代わりに鶏肉を使っていたので、臭みもなくてとてもおいしかった。

子どもたちの笑顔! ムハンマッドも通訳のアブドラも、そして運転手もとても優しそうな顔をしていて、いい奴なのである。みんな、マンサフ食べて幸せな気分。故郷の味は決して忘れることはない。

おしらせ
イラク戦争から20年「メソポタミアの未来」展を開催
7月26日ー8月28日 11時~19時
赤羽「青猫書房」
さとうまきが今回のツアーで最終目的地としたイラクで手に入れた子供の絵や、版画作品などを展示します。
https://aoneko0706-0828.peatix.com/

人感センサー

北村周一

梅雨に入る
まえに来ている
大型の
二号台風
卯の花くたし

命日が
刻まれてあり 
三月の
地震のあとの
六月の雨

重さから
解かれしきみが
虹いろの
灰となりつつ
散りゆくまでを

きみひとり
ねむる木箱の
静けさを
乱さぬように
しぐれふる雨

運ばれゆく
柩のうえに
翳されし
雨傘黒きが
二つ三つほど

毎日を朝日日経神奈川ときたりしのちに東京にする

点滴の
針の刺しどこ
あぐねいる
看護婦さんの
荒れたゆびさき 

静かなる
青のめぐりに
指の先
あててききいる
赤き血の音

命日はみつけられたる日とききぬ
 独り居の女流画家のいちじつ

ねてはさめ
さめてはみいる
銀幕の
繋がるまでの
撓める時間

ほのぼのと
熱き湯いだす
置物の
ふたつちぶさが
男湯にあり

うれいなき
ひとのからだの
軽々と
浮くも沈むも
坪湯にひとり

のむ前の
ひとときこそが
愛おしい
夏でも燗の
酒と決めつつ

紅生姜
なくてはならぬ
それのため
走り買いゆく
次男のさだめ

この家に人の影なき午前二時 
ねむれぬ者は
汗掻くのみに

ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要

冨岡三智

実は仕事をやりくりして、6月半ばから少しインドネシアのスラカルタに行っていた。今回の主目的は、ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要への出席である。2020年10月号の『水牛』に「ジョコ・トゥトゥコ氏の訃報」を書いたのだけれど、早いもので、もう1000日法要の日が巡ってきた。ジャワでは亡くなって40日目、100日目、1年目、2年目、1000日目に法要を行い、この1000日目に墓石を建てて一区切りとする。ジョコ・トゥトゥコ氏は私が宮廷舞踊で師事していた師匠の故ジョコ女史の息子で、2回目の留学時期(2000~2003年)には大変お世話になった。2000年にインドネシアでは3つの国立芸大で大学院が開講し、スラバヤの教育大で舞踊を教えている彼もスラカルタの芸大大学院で学ぶために実家に戻ってきていた。彼のおかげで私の視野も人脈も広がり、彼の大学院修了試験公演に起用してもらって、その経験は大きな財産になった。私の大恩人だし、師匠の一族とは今まで法要で何度も顔を合わせているので会いたかったのだった。というわけで、渡航の主目的は土曜夜の法要のお祈り、日曜朝の墓参りである。

月曜にジャカルタからスラカルタに飛び、着陸した時に機内でサルドノ・クスモ氏とばったり出くわす。サルドノ氏はスラカルタの芸大大学院で教鞭をとっていた現代舞踊家で、ジョコ・トゥトゥコ氏の指導教員でもあった。なんだかジョコ氏が縁をつないでくれたような感じだ。私が定宿にしている所はサルドノ氏の実家のレストランからすぐ近くなので、一緒に空港からタクシーでレストランまで行き、昼食をとる。サルドノ氏は1週間前に私の3月公演の様子を映像作家のウィラネガラ氏(この3月公演で来日)から聞いていたらしい。というわけで、私の2021年、2023年の堺公演の映像やら、過去の私のコラボレーション作品やらを見てもらったり、ジョコ氏の話をしたりであっという間に時間は経ち、話し足りないということでまた水曜にも会うことになった。

水曜昼前、サルドノ氏が大学院の授業を行いジョコ氏が終了公演を行った場所に向かう。以前あったプンドポ(ジャワの伝統建築)やダレム(奥の間)は、床や壁の一部が残るばかりだ。実は2008年にここに来た時にはすでに廃墟のようになっていたが、いまはその廃墟の空間を覆うように頭上には鉄骨製の高い屋根ができ、2階にテラスができて、不思議な空間になっている。ここを再び町中の芸術拠点にしようとこの屋根をつけて改装オープンしてすぐにコロナ禍になってしまったので、活動ができないままになってしまっていたという。けれど、そろそろ大学生やらがここで制作したり公演したりできるようにしたい…というわけで、職人が何人か作業をしていた。今後の芸術の方向だとかの話をしたのだけれど、サルドノ氏は今年で78歳。見かけは白い髪と顎髭を長く伸ばした仙人だが、20年前から頭の中は全然老けていなくてエネルギーに満ちているなあと実感。今の60~70代の、サルドノ氏より年下世代の舞踊家たちと比べても若々しく、ずっとトップランナーであり続けている気がする。その後、実家のレストランの3階(月曜に食事したレストランの近くに、もう1軒、3階建てのレストランがある)も見せたいということで、そちらへ向かう。以前、スタジオに置いていた古いガムラン楽器のセットや自身の抽象的な絵画作品が置いてある。この空間を見ると、宮廷舞踊家(ジョコ・トゥトゥコ氏の祖父)の弟子で、にも関わらず1970年にコンテンポラリ舞踊作品を発表してセンセーションを起こし師匠と衝突してしまうことになったサルドノ氏のあり方~根っこの伝統と最先端を両方つかんでいる~がくっきり出ているなあと思う。

他の日には芸大(ISI Surakarta)にほぼ毎日行って、振付の師、学長、第一副学長、ガムラン音楽科の教員らに会い、今年3月と2021年10月に堺で行った公演の映像を見てもらって、いろいろアドバイスをもらったり、これからのヒントをもらったり、意見交換したりした。実は、それが今回の渡航の第二の目的だった。振付の師には創作を指導してもらっただけでなく、私の宮廷舞踊の公演や録音に歌やクプラ(舞踊に合図を出すパート)で参加してもらってきた。ちょうど大学院の入試面接で忙しくしていたが、会って食事し、話をすることができた。学長や第一副学長はウィラヌガラ氏(3月の公演のために映像を制作してくれた映像作家、公演のため来日)から公演の話をすでに聞いていたと言う。サルドノ氏もウィラネガラ氏から話を聞いていたと言っていたし、知らないところで情報をつないでくれることが本当にありがたい。これらの人々には、1時間近い宮廷舞踊の上演や重い曲である「ガドゥン・ムラティ」を演奏したりして、観客からの反応が好評だったこと、有料公演で提示したこと、関西ガムランのレベルの高さなどに大変驚かれた。だいだいジャワ人は、こういう演目は退屈で飽きられると思っている。けれど本当の宮廷儀礼に触れたい、本当の瞑想的な雰囲気に浸りたいという観客は、少ないかもしれないけれど確実にいる、と私は強調した。そうそう、木曜夜に見に行った公演で、元TBS(スラカルタにある中部ジャワ州立芸術センター)で照明をしていた人(すでに定年)が見に来ていて、「あー!君はブドヨ・パンクル公演のミチだね!」と出会うやいなや言ってくれたことが非常に嬉しかった。私の『ブドヨ・パンクル』公演もこの人に担当してもらったのだが、それは2007年のことなのだ。それで、この人にも私の堺公演の映像をみてもらい(私はどこにでもパソコンを持参していたのだった)、照明家ならではのアドバイスをもらった。

ちなみに、ウィラヌガラ氏は毎月スラカルタの芸大大学院に教えに来ていて、今回私の来イネに予定を合わせて授業の日を調整してくれたので、一緒に食事する。その時に、3月の堺公演のためにお祈りしてくれたスラカルタ王家のラトゥ・アリッ王女(故パク・ブウォノXII世の長女)も誘ってくれて、3人で食事となり、やはり公演映像を見ていただいた。公演で使ったウィラヌガラ氏の映像には故パク・ブウォノXII世を始め亡くなった王家関係者が多く映っており、供物を作って王宮の各所に備えている宮廷儀礼の様子も映っていてとても貴重だ。ウィラヌガラ氏は2004年にパク・ブウォノXII世が亡くなるまでずっと王と王家のドキュメント映像を撮り続けてきた人なのである。王女からも様々なコメントや励ましの言葉を戴き、記念にとバティックまで頂戴する。

というような感じで、わたしの滞在はあっという間に過ぎてしまった。いま、これを書きながら、なんだか過去にも似たようなことをしていたような気がしていたのだが…思い出した!ジョコ・トゥトゥコ氏の公演に出た後2週間足らずで留学を終えて帰国し、その半年後に大学院生となってインドネシア調査に行った時に、いろんな人に自分の舞踊に対する批評やアドバイスを求めて廻っていたのだった…。しかも、その時の様子を2004年2月号の『水牛』に「心をとらえるもの」として書いていた。そして、この時もサルドノ氏にいろいろアドバイスをもらっていた(!)。あれから約20年、私はちょっとは成長できているのだろうか…。今は亡きジョコ・トゥトゥコ氏その母や私の師匠の故ジョコ女史に問うてみたら、何と答えてくれるだろうか…。

演劇

笠井瑞丈

オィデプス王
初めての演劇
役者になりたいと
思った十代の頃
なんのキャリアもなく
なんの知識もなく
仲代達也さんの
無名塾を受験
当たり前のように落ち
役者願望は一瞬で消え
言葉の道から身体の道に
それが正解だったのかは
今となっては分からない
ここに来て巡り巡りって
初めて演劇に挑戦できる
初めて間近で見る役者のセリフ
莫大な量のセリフを覚える主役
カラダが踊ってるように感じた
言葉でも身体でも結局表裏一体
言葉が世界を作り
言葉が身体を作る
演出家の細かな指示
空間に対して身体の立ち方
言葉の母音や子音の出し方
やがて新しい世界が生まれ
言葉の輪郭が作られていく
そして物語が始まる

1カ月間都内のスタジオに通う
そんな稽古も今日が最後だ
やれるか不安の日々だった
台本を毎日片手に
車の中で発声して
いくらやっても覚えられない
きっと覚えるのではなく
カラダの中に溶かす感覚なんだろう

7月は東京
8月は地方

やっとやっとゴールが見えてきた

新しい事に挑戦する
新しい自分に出会える瞬間

本小屋から(2)

福島亮

 結局、バオバブの種を蒔くことにした。樹木の尺度で考えれば、それは人間のエゴだ。アフリカであれば千年も二千年も生きるはずの木を、ここ日本で発芽させようというのだから。とはいえ、好奇心には抗えなかった。そこに種がある。だから、蒔いてみたい。種子が放つ途方もない誘惑に勝てなかったのである。

 50粒ほどの種から、17本の芽が出た。本当はもっと発芽する可能性があったのだが、ジフィーポットを置いていた受け皿の水が原因で、発芽前の種を腐らせてしまったのである。ジフィーポットは紙でできたポットで、ポットごと植え替えができるというすぐれものだが、使用した用土の材質も手伝って、土の乾燥が激しく、止むを得ず受け皿を導入したのがいけなかった。なかなか芽がでない種を観察しようと掘り返してみると、種は腐っていた。かたい殻を指で押すと、中から白っぽく溶けた中身が出てきて、植物が腐るにおいがした。

 17本のうち3本を知人にお裾分けした。そのため、手元には今、14本の苗がある。もしもバオバブの苗が欲しいという人がいたら、先着10名くらいになってしまうが、ぜひお裾分けしたいと思っているので、連絡をいただけたら嬉しい。そうすれば、一千年後、二千年後もこの地で生き残るバオバブが出てくるかもしれないから(まあ、その時人間がいるかどうかは心もとないけれども)。

 梅雨に入って、蒸し暑い日々が続いているが、バオバブのことを思えばその暑さもまったく苦でなくなるから不思議だ。バオバブにとって、30度の気温は心地よく成長できる温度なのだ。だからぐんぐんと成長し、すでに本葉が5、6枚出たものもある。かと思うと、(おそらくジフィーポットから鉢に植え替えたのが気に障ったのだろうが)双葉のまま、ぐずぐずとしているものもある。そんないじけ虫の苗も、よく観察すると双葉と双葉の間がパンパンに膨れ、緑色の瑞々しい茎には幾本もの木質の筋が入り、はちきれんばかりになっている。機嫌が元に戻ればいつでも本葉を吹き出せるよう、用意しているのだ。小さな双葉ではある。だが、根から吸い上げた水分や養分をこれでもかと溜め込むその姿には、なんとも言えない勁さがある。

 子どもの頃から、いろいろな種を蒔いてきた。朝顔や二十日大根の種はもちろん、ほうれん草や蕎麦、メロン、ビワ、アボカドなど蒔けそうなものは片っ端から蒔いてしまう子どもだった。小学生の私をとくに魅了したのは瓢箪だった。小学校の近くにある公民館(金島ふれあいセンター)に図書コーナーがあり、そこで借りた中村賀昭『これからはひょうたんがおもしろい』(ハート出版、1992年)という本に誘われて、千成瓢箪、大瓢箪、鶴首瓢箪、一寸豆瓢など、さまざまな品種の瓢箪を栽培した。さすがにプランターや鉢では瓢箪を育てることはできず、祖母が野菜を育てていた畑の隅を使わせてもらった。畑を瓢箪の蔓で荒れ放題にしてしまったのだから、よく叱られなかったものだと思う。秋、畑に実った種々様々な瓢箪を収穫する。大小合わせて100近い瓢箪が収穫できた。蔓と繋がっている部分(口元)にキリで穴を開け、胴の部分を紐で縛って重石をつけ、数週間水に沈めて表皮と内部のワタを腐らせる。すると実の表面の薄い皮がズルリと剥け、さらに実の内部がドロドロに溶けて種と一緒に取り出せるようになる。種はこの段階で回収しておいて、来年蒔くためにとっておくのである。こうして、硬い瓢箪の殻が残るわけだが、それを真水できれいに洗って、半日陰で乾燥させる。中までしっかり乾燥させないと黴の原因になるから、ここは慎重にやらねばならない。おおよそ乾燥したら瓢箪を指で叩いてみる。軽い音がすれば、それは芯まで乾燥したしるしである。あとはニスを塗って、飾り物にすれば良い。ただ、ニスを塗らずに瓢箪そのものの肌を楽しむのもなかなか良く、私はこちらの方が好きだった。椿油で磨くと光沢が出ると知っていたが、椿油など手に入らないのでサラダ油で磨き、大切な瓢箪を油臭くさせてしまったこともある。瓢箪の中に酒を入れ、毎日撫でていると艶が出ると聞き、試してみたいと思ったが、それは親が許してくれなかった。この一連の作業を私が身に付けたのは12歳の頃だった。20年ほど経ってこんなことを思い出したのは、腐らせてしまったバオバブの種を土から掘り出した時に感じたにおいが、腐った瓢箪の中身のそれと同じだったからである。あ、あのにおいだ、と思った。植物が腐るにおいというのは、けっして気持ちの良いにおいではないけれども、例えば肉が腐ったときに発生するようなすぐにでも遠ざけてしまいたくなる臭気とは違う。植物の場合、どこか柔らかさを感じるにおいなのだ。

 本小屋の夏は暑そうだ。窓が西側についているからである。だが、そこに置かれたバオバブたちのことを思うと、暑さも日光もあまり気にならない。雨が降ったら、それはバオバブにとって自然のめぐみだ。風が吹けば、まだ柔らかい本葉がそよぎ、葉についた埃を払ってくれる。日光は苗たちのよろこび。時々訪れる気温の低下は、苗たちの試練。そう思うと、暑さも湿度も、いとおしく思える。今日は雨だ。バオバブたちは喉を潤しているだろうか。

水牛的読書日記 2023年6月

アサノタカオ

6月某日 そろそろ寝ようかなと食卓でぼんやりしていたら、「文学ってなんのために存在するの?」と春から大学生になった娘に聞かれた。ここでヘタを打つようでは、編集者としても親としても失格だ。3年に1回ぐらい、子を通して人生から真剣勝負を挑まれるような正念場が訪れる。学問ともジャーナリズムとも異なる「文学」の意義について、夜更けまで話し合った。

6月某日 神奈川・大船のポルベニールブックストアで店主の金野典彦さん、本屋lighthouse の関口竜平さんのトークに参加。関口さんが著書『ユートピアとしての本屋』(大月書店)で書いている「出版業界もまた差別/支配構造の中にある」というテーマについての話に考えさせられた。出版編集に関わる者として考えるだけではなく、行動しなければ。

6月某日 ZINE『ケイン樹里安にふれる——共に踏み出す「半歩」』を読む。マジョリティの特権を「気づかず・知らず・自らは傷つかずにすませられる」ことと鋭く表現した社会学者で、昨年急逝したケイン樹里安さんをめぐるエッセイのアンソロジー。

6月某日 東京での仕事の打ち合わせからの帰り道、神保町のチェッコリで購入した韓国 SFの作家ファン・モガの『モーメント・アーケード』(廣岡孝弥訳、クオン)を読む。近未来的なVR技術を用いて記憶の世界をさまよう「私」の孤独。小さな物語の中で人が人と共にある痛み、そして希望までを見事に描き切っている。素晴らしい小説だった。同じくチェッコリで購入した韓国の作家、チャン・リュジンの小説『月まで行こう』(バーチ美和訳、光文社)も読み始める。

6月某日 早朝の新横浜から新幹線に乗車し京都へ移動。車内で一眠り。京都駅からJR、京阪、叡山鉄道と乗り継いで恵文社一乗寺店で、文化人類学者の今福龍太先生のトーク「〈歴史〉は私たちのなかにある——思想家・戸井田道三の教え」に参加した。在野の思想家・戸井田道三(1909~1988)に10代半ばより学校という制度の外で教えを受け、親交を結んだ今福先生による評伝『言葉以前の哲学——戸井田道三論』(新泉社)が出版され、その刊行記念イベント。「知の伝承」について思いを馳せる充実した時間に。会場では先生も関わるスモールプレスGato Azulによる詩やエッセイ、旅の写真などの手製本の販売もあり、盛況だった。

トークの後半では、本書の編集を担当したぼくが聞き役を務めて「漫談」をしたのだが、戸井田の著作の編集担当の一人だった久保覚に言及したことから、彼と梁民基が編訳した『仮面劇とマダン劇』(晶文社)や詩人・金芝河の民衆演劇論などにも話が及んだ。翌日の夜の京都で、先生と僕は韓国の民衆文化運動の研究者であり紹介者でもあるその梁民基に縁のある方に偶然出会い、大変驚いたのだった。

6月某日 京都滞在2日目。某所で、今福龍太先生と文化人類学者の和崎春日先生との対談「歩きながら考える、さまよいながら出会う」に参加。和崎先生はアフリカ・カメルーンなどでのフィールドワークの経験をもとに「生きることの気迫」について何度も語っていた。「知」の根拠を、狭義の学問ではなく学問外の「生」においていることが何よりもすばらしい。学び続けたい《歩く人》の知がここにある。忘れかけていた人類学への純粋で熱い気持ちが胸にこみあげてきた。

6月某日 京都から戻り、地元の図書館で和崎春日先生のアフリカ都市人類学の論考を探して借りる。和崎先生の父・和崎洋一の『スワヒリの世界にて』(NHKブックス)も。テンベア(さまよい)の思想とは何か。

山と山はめぐりあわないが、人と人はめぐりあう
 ——スワヒリ語のことわざ

6月某日 尹紫遠・宋恵媛『越境の在日朝鮮人作家——尹紫遠の日記が伝えること』(琥珀書房)を読む。これはすごい本だ。当たり前といえば当たり前だが、文学研究者・宋恵媛さんの編集によってこの日記資料が書籍化されていなければ、忘れられた作家・尹紫遠の声に自分が出会うことはなかった。

6月某日 詩の本を読む。大木潤子さん『遠い庭』(思潮社)、管啓次郎さん『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社)。管さんのエッセイ集『本と貝殻』(コトニ社)も。

6月某日 小川てつオさんの『新版 このようなやり方で300年の人生を生きていく——あたいの沖縄旅日記』(キョートット出版)が届く。読み始めたばかりだが、いのちの律動がそのままことばになったような文章に打たれる。編注などの構成もふくめてすばらしい本だと思う。

6月某日 今月2回目の関西出張。早朝の新横浜から新幹線に乗車し、大阪へ移動。地下鉄、近鉄と乗り継いで河内天美駅へ。

午前中、阪南大学の総合教養講座での講義をおこなう。テーマは「韓国文学との出会い——編集者としての個人史から」。安宇植編訳『アリラン峠の旅人たち——聞き書 朝鮮民衆の世界』(平凡社)を、学生に紹介した本の中に紛れ込ませた。こういう地味な名著にもいつか出会ってほしいと思う。この本の1章「市を渡り歩く担い商人」の聞き書きを担当しているのが黄晳暎。フランス語で書く作家ル・クレジオがノーベル文学賞受賞講演で深い敬意を捧げてもいる韓国の大作家だ。

もちろん、最近の日本で刊行された韓国の小説や詩の本もたくさん紹介した。チョ・ナムジュの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳、筑摩書房)や文学アンソロジー『完全版 韓国・フェミニズム・日本』(斎藤真理子編、河出書房新社)を題材に「フェミニズム」について話していると、顔を上げて真剣なまなざしをこちらに向ける学生が何人もいた。《後から来る者たちはいつだって、ずっと賢い》という、チョン・セラン『保健室のアン・ウニョン先生』(斎藤真理子訳、亜紀書房)に記されたことばを思い出さずにはいられない。自分よりずっと賢いこの人たちに、いま伝えられることを伝えておかなければ、とみずからに言い聞かせる。大学では、『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだことがきっかけになり、就職の予定を変更して韓国の大学院に進んだ卒業生がいるという話も聞いた。いまは、家族の問題を研究しているそう。本には人生を変える力がある。

6月某日 雨の中、大阪市営地下鉄、モノレールを乗り継いで吹田の国立民族学博物館へ。打ち合わせの後、久しぶりに常設展をゆっくり鑑賞、最近関心のあるアフリカ文化と朝鮮半島の文化を中心に。

6月某日 大阪の滞在先から歩いて行ける針中野の本のお店スタントンへ。以前、詩人・山尾三省展を企画し、展示をしてもらった。いまも三省さんの詩文集『火を焚きなさい』『五月の風』『新版 びろう葉帽子の下で』(野草社)などを販売している。韓国文学もいろいろそろっている。

スタントンでは、「金井真紀の仕事展」を開催していた。ギャラリーで金井さんの人物イラストの原画を、一人ひとりと静かに対話するようにしてじっくり鑑賞。金井さんの著書『日本に住んでる世界のひと』(大和書房)を購入し、崔命蘭さんの物語から読みはじめている。

6月某日 京都・蹴上でひと仕事を終えた後、地下鉄とJRを乗り継いで奈良駅へ。車で奈良県立図書情報館へ向かい、開催中の企画展「韓国文学への旅——現代韓国文学とその周辺」の棚を見学。想像以上に企画展を見に来ている人が多い。すると、以前広島・福山の本屋UNLEARN のイベントで挨拶をした青年と偶然再会した。最近、韓国文学を読みはじめたとのことでうれしい。

図書情報館の乾聰一郎さんからのお誘いで、関連イベントにて「『知らない』からはじまる」と題し、韓国文学についてトークをおこなった。韓国・済州島との出会いについて話すのははじめてのことで言葉足らずの部分もあったと反省しているが、熱心な聴衆に支えられて話を終えることができた。

トークでは、在日コリアンの朝鮮語文学研究者・翻訳家の安宇植の業績を紹介したのだが、翌日、乾さんがさっそく同館所蔵の安宇植の著作や翻訳書を集めて展示コーナーに並べてくれた。いずれも、90年代以降の学生時代に熱い気持ちで読んでいた本たち。先人や先輩の仕事をバトンを渡すように伝えていきたいと常に願っているので、こういう配慮は本当にうれしい。

ところで、会場で配布している図書企画展のブックリストの資料が大変充実していた。歴史、社会、芸術、音楽など文学以外の他ジャンルも網羅していて、韓国に関するこんな本もあるのかと発見があり、眺めていて楽しい。資料にはチェ・ウニョン『わたしに無害なひと』(古川綾子訳、亜紀書房)、キム・エラン他『目の眩んだ者たちの国家』(矢島暁子訳、新泉社)の書評も掲載。別の日におこなわれた晶文社「韓国文学のオクリモノ」などを企画した編集者(現・亜紀書房)の斉藤典貴さんのトークで配られた資料、作家別の翻訳書リストも素晴らしい。これらの資料から、さらに読書の輪を広げていけそうだ。

トークのあと、夜の町をさまよっていると奈良 蔦屋書店に遭遇。想像以上に大きなお店でびっくりした。

6月某日 京都駅から近鉄特急に乗車し、三重・津の久居へ。 HIBIUTA AND COMPANY で「本のある世界と本のない世界——声の教えから」と題してトークをおこなった。ブラジルの日系社会でおこなった文化人類学的なフィールドワークを経て、声の文化と文字の文化のはざまで編集という仕事をはじめたみずからの出発点について振り返ることができた。紹介したのは、3人の人類学者の講義録、今福龍太先生の『身体としての書物』(東京外国語大学出版会)、山口昌男先生の『学問の春』(平凡社新書)、そしてレヴィ=ストロース『パロール・ドネ』(中沢新一訳、講談社選書メチエ)。いずれも編集に関わった本たちだ。

HIBIUTAでは、代表兼月イチ料理人・大東悠二さんの渾身のパスタをいただいたり、ソントンさんが主催する本の会をのぞいたり(そこでえこさんが紹介していたク・ビョンモの小説『破果』〔小山内園子訳、岩波書店〕を読んでみたいと思った)、詩人・水谷純子さんが主催する「詩の会hibi」に参加したり、愉快な1日を過ごした。翌日、大阪への帰路でHIBIUTA発行の『存在している 書肆室編』を読む。所収の村田菜穂さんの「気が付けば本屋」から。

6月某日 阪南大学での講義2日目、テーマは「在日コリアン文学との出会い」。自分が編集を担当した関連書について解説し、在日コリアン文学の背後にある歴史への向き合い方について語った。「韓国文学との出会い」「在日コリアン文学との出会い」という2回の講義で紹介した本が大学図書館の特設展示コーナーに配架されるようだ。斎藤真理子さん『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)から、テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』(平凡社)まで17冊。学生の皆さんと本との良い出会いがありますように。

6月某日 大阪→京都→奈良→三重→大阪をめぐる旅から自宅に戻ると、韓国の作家パク・ソルメの小説集『未来散歩練習』(斎藤真理子訳、白水社)が届いていた。不思議なタイトル。別の小説集『もう死んでいる十二人の女たちと』(斎藤真理子訳、白水社)には震撼させられたが、こんどの本はどうだろう。

韓国を楽しむ雑誌『中くらいの友だち』の最新12号をどこかで買わなければと考えている。

しもた屋之噺(257)

杉山洋一

未だ明けきらない曇った朝空を眺めていると、時々、ぽろろろぽろろろと、どこからか鳩の啼き声が聞こえます。それも一箇所からではなく、左手前や右奧から、短い断片がおずおず聞こえたかと思うと、すぐに止んでしまいます。そうして少し静寂が戻った隙に、遠く微かに雀の囀りが聴こえたりします。
行交う車の喧騒に搔き消され、不可視となった鳥たちの社会を観察していて、自分に目に映る世界など、社会全体の1%にも満たないとも思うのです。各存在はそれぞれ存在理由を持ち、それぞれ道理に基づいて社会を築き、社会生活を営んでいるとすれば、自分の道理を彼らに当て嵌めるのは傲慢が過ぎているのかもしれません。互いに認め合って共存するにあたり、何が不足しているのか、自問を繰り返しています。

6月某日 ミラノ自宅
今朝は、ドイツから遥々浦部君がレッスンを受けに来た。意欲旺盛で頑張っている。レッスン室代わりに使っているサンドロの自宅はここから徒歩5分の処にあって、戦前のアパート群中庭に設らわれた旧い工場を改造した、所謂ロフトである。
ここの集合住宅には、息子が幼稚園、小学校時代に仲の良かった、2歳年長のニコライが住んでいた。彼はロシア人とイタリア人の考古学者カップルから生まれた男の子である。
ロシア人の父の血を引いているからか、ニコライは息子よりずっと骨太で体格も良く、度のきつい大きな眼鏡をかけていた。学者の両親の影響なのか繊細でもあり、時には少し気難しくもあった。彼の両親は別れていたから、ニコライは母親と祖母に育てられていて、気性も激しかったから、彼女たちが時に手を拱いていたのも覚えている。
浦部君のレッスンの合間に、ピアニスト二人にバールでコーヒーを買ってこようと外に出たところ、中庭の塵芥集積箱のところで、ニコライの祖母が手で分けながら分別ゴミを入れていた。
「本当にお久しぶりです。みんな元気ですか、コロナの間も大丈夫でしたか?」。
「ええ、いつもの通り。お陰様で元気ですよ。コロナにも罹らなかったし」、と軽く微笑んで答えてくれる。
「ニコライも変わりありませんか」。
「ええ、いつもわたしたちの傍にいますよ」。
「どういうことです」。
「あの時から、何も変わっていません」。
「どうしたんです、何かあったのですか」。
「お話ししていませんでしたか。彼は天に召されたんです。あれはコロナが始まる直前でしたか。厄介な心臓の病気で、一年ほど辛い闘病生活をしましてね」。
「何てことだ。何も存じませんでした。だって、最後にお話しした時、ニコライは川向うのカヌークラブで精を出しているって、随分お話しになっていらしたじゃないですか」。
「ええそうなんです。でも、あれからすぐに病気が見つかって。病気のために全ての運動を禁止されてしまって、本当に可哀想でした。彼はひどく怒りましてね、それで頑張ったんですけれども、寿命ばかりは神さまがそれぞれにお与えになるものです。わたしたちには、どうにもできない運命でした。でもこれで良かったのかも知れません。短かったけれど、ニコライは素敵な人生を歩みました。あれ以来、彼の母親は昔勉強したロシア語にすっかり夢中です。ロシア語を学び直すと言って朝から晩までロシア語漬けになっています」。

6月某日 ミラノ自宅
今朝は3年間教えてきたマルティーナとフェデリーコ、最後のレッスン。ふら付くマルティーナの上半身をどう安定できるか長く悩んできたが、結局ギターを弾いているため、背骨が極度に湾曲しているのが原因だったようだ。曲がった背骨を敢えて受容れ、いかに重心を下げて、安定させるかを一緒に考える。
13時過ぎにレッスンを終え、自転車で国立音楽院に向かう。14時から、ダヴィデが教える「現代ピアノ作品講座」クラスに顔を出す。10人ほどの学生を前に、ダヴィデと二人、自作についてとりとめもない四方山話をしてから、3人の学生がそれぞれ「間奏曲7番」、「スーパーアダージェット」、「山への別れ」を披露してくれた。
どの演奏もそれぞれ弾き込んであって素晴らしかったが、特にディーマの弾く「スーパーアダージェット」には舌を巻いた。ディーマ曰く、一箇所内声がマーラー原曲と違うそうで、何故かと尋ねられたが、何も憶えていない。
高校でマンゾーニの「いいなずけ」を勉強したばかりの若者たちが、ミラノの大学で「山への別れ」を弾くと、非常に臨場感に漲るようだ。ルチアとレンツォの深夜の逃避行の様子や、眼前に広がるレッコの断崖などが目に浮かぶようである。彼らの方がよほど、作品の本質を正しく掴んでいるようで、不思議な体験であった。
目の前の10人の学生の中には息子も入っていて、息子を前に真面目に昔話をするのは、新鮮でもあり、多少の照れも覚える。
どのようにしてイタリア現代音楽に興味を持つに至り、イタリア留学をはじめた当初、このミラノ国立音楽院に通っていた当時の話をし、そこで出会ったドナトーニやカスティリオーニの話をして、日本とイタリアの音楽観の差異について話す。
興味深かったのは、ダヴィデが、「ドナトーニにとって、システムの厳守は、時に耳で音を選択するより重要だったりするんだよな」と言い放っていたことと、彼から「どうして、ピアノを弾かないのに、ピアノ曲をこんなに沢山書いたのか」と質問されたこと。
前者のダヴィデの見解は、強ち間違いではないと思う。システムを厳守し、そこで選ばれた音を敢えて否定しない姿勢は、まるで手抜きにも聞こえるかも知れないが、実はそうではない。敢えて自分の手から解放したものを、自らの責で受け入れるのは、相応に勇気と技術が必要とされるし、対位法に取組む姿勢に少し似ているのかも知れない、と随分経ってから実感するようになった。その次元に到達すると、システムの構築過程そのものが、音の選択とほぼ同じ価値を持つようになる。丹精込めて音を託せる回路を作り上げ、後はそこに音の生成を任せる。
帰宅すると、「今日は、全く知らなかった父親の話を沢山聞けて面白かった」、と息子もまんざらでもない風情であった。

6月某日 ミラノ自宅
ウクライナ、ナホトカダム崩壊。水没してゆく街の風景や、水門を超え勢いよく広がりゆく水流の姿は誠に超現実的な光景であって、生活臭も現実感すらも消失し、静謐さに満たされて、恐ろしいほどの美しささえ湛える。あの茫洋たる水面の底に、藻屑と消えた無数の命が沈む。
人間はどうしてこうも愚かな存在なのか。核戦争が始まれば、やはり同じように、焼き尽くされ灰燼に帰した地表が超然的な静けさに覆われ、続いて訪れる核の冬では、それら全てが煌めく美しい氷に閉ざされ、或いはその氷が地球全体が覆い尽くして、宇宙から眺める地球の姿すら、変化を来すのだろうか。
今晩、家人とルカが、ホルスト「惑星」オリジナル2台ピアノ版をミラノ市立のプラネタリウムで演奏したが、その折、2013年7月19日NASAの探査機カッシーニが撮影した有名な土星の写真が、スクリーンに投影された。
土星の輪のずっと奥に映り込む小さな白点。15億キロ離れた地球、つまり、そこに暮らす我々皆が映り込んだあの写真だ。土星からみれば、あれほど小さく美しい、慈しみに満ちた光の点に過ぎない我々だが、こうして互いに諍いを繰り返し、一心不乱に自壊を続けるのは何のためか。
「このちっぽけな星の中で戦いは繰り返され、今も辛い思いをしている人たちがいる」、そう天文学者がコメントすると、漆黒で満席のプラネタリウムは、自然に沸き上がった拍手で満たされた。

6月某日 ミラノ自宅
日がな一日、大学の試験をやり過ごしてから、夜は家人と連立ってマンカのヴァイオリン協奏曲世界初演を聴く。コロナ禍で初演が3年近く延期されていて、漸く実現の運びとなった。実に強い意志を持つ、魅力的な音楽であった。
昼頃だったか、ベルルスコーニが死んだらしいと、試験の採点をしていた同僚が、風の便りで聞いてきた。それに対する同僚たちの反応も特になくて、遅かれ早かれそうなると思っていた、程度のものだったから、肯定でも否定でも、もう少し目に見えた反応をすると想像していたので、少々肩透かしを喰らった気分であった。息子の友人たちとのチャットのやりとりによると、彼らはこれで社会が好転すると信じているようであった。
1995年、最初にイタリア政府給費留学生としてミラノに住み始めたとき、ベルルスコーニが首相の職にあった。彼が給費を期間途中で中止する暴挙をしなければ、自分の人生は全く違ったものになったかもしれない。イタリアに居残る選択もしなかっただろうし、生活のため指揮をする必要もなかった。
ベルルスコーニのようなポピュリズム右派政権だったから、我々留学生はこんな仕打ちに遭った、と当時は皆で話していたけれど、その後左派政権に変わったからと言って、外国人への対応が変わるわけでも音楽家が暮らしやすくなるわけでもなく、自分の生活は、自らが粛々と守るしかなかった。かかる自覚を否が応にも植え付けたベルルスコーニに対して、今となっては多少なりとも感謝すらしている。
3日間の喪に服すとの政府発表だが、喪中は何が変わるのか同僚に尋ねたところ、国の公共機関が休業するのだそうだ。大学の試験には特に何も変更はなく、市役所など窓口が機能しなくなるという。

6月某日 チッタ・ディ・カステルロ・ホテル
いくら頭の中で作曲は進んでいても、学校に忙殺されて机の前に座るのも儘ならず、忸怩たる思いばかりが募っている。最近何度か、石井真木さんと島田祐子さんと一緒にテレビにでている小学生の頃の写真を見かけた、と連絡をいただいたが、その度ごとに、功子先生と仲の良かった真木さんが、こちらの作曲の進捗状況を気にしているのか、さもなくば警鐘を鳴らしているのか、何某かのメッセージではないかと気を揉んでいる。
朝、フィレンツェ駅前の宿を出て、9時45分発の準急でアレッツォに向かい、そこで車に乗り換えてチッタ・ディ・カステルロに向かう。アレッツォは郷土祭「サラセン人馬上槍試合(Giostra del Saracino)」の準備が佳境を迎えていて、街中至る所に、コントラーダと呼ばれる地区チームの巨大な旗が掲げられていた。
道中、所々横断する川は酷い濁流で、氾濫しかかっているようにさえ見える。聞けばこの処ずっと毎日酷い嵐のような驟雨が続いていて、今日のように晴天に恵まれたのは久しぶりだという。
初めて訪れるシャリーノ宅は、チッタ・ディ・カステルロの中心あたりにあった。旧く重厚な木の外扉を押し開け、ルネッサンス期から残ると思しき石造りの集合住宅に足を踏みいれる。呼び鈴横のシャリーノの名札はすっかり古びていて、歪んですらいるのが印象的であった。
地階にはシャリーノが物置として使うガレージがあって、フィレンツェの劇場大道具係から贈られたという舞台装置などが、きちんと保管されていた。
その脇から続く小さな石階段を3階まで上ると、そこがシャリーノの家の玄関である。玄関の天井には覗き窓が開けられていて、中世、人が訪ねてくると、まずそこをそっと開き、相手を確かめていたという。その玄関口を抜け、旧くすっかり磨り減った細い石階段を引き続き15段ほど登ると、彼の居間入口に立ち至る。20畳ほどの空間に、漢時代の中国古美術やら、彼が蒐集する古代の石器などが犇めいていて、壁には隙間がないほど、沢山の油絵が飾られている。
隣の部屋には整然と書架が並び、それぞれの棚は、歴史書、ジャポニズム云々とジャンル毎に丁寧に整理されていた。
引続き細い石階段を昇った4階は、2部屋に亙って彼の仕事部屋として使われている。
そのうちの一つの部屋には、大きな仕事机が置かれ、隣の部屋には小さめのグランドピアノがあった。そこには天井から大きなジャワの影絵人形が吊られていて、ピアノの上にはモーツァルトかシューベルトか、何某かの編作と思しき、書きかけの楽譜が無造作に置かれている。
これらの部屋にも油絵や鉱石、無数の石器などが、あらゆる場所に飾られていて、その周りにオリエンタリズムの薫り高い1890 年製カルロ・ブガッティの木製ベンチなど、貴重な調度品が数多く飾られている。それぞれが価値ある骨董品だという。
ドナトーニやブソッティの家のような、整然として実用的な感じは皆無でより開放感があって、物品の多さからか、やや雑然とした雰囲気すら漂う。
そこからより細くなった階段を頭を低くして登った所に、当初、屋根裏部屋として物置などに使われていた空間があって、そこに彼の寝室と別の書斎、そして便所がある。厠の場所はもともと鳩小屋であった。
そこかしこに石や石器が並べてあり、シャリーノはそれを一つずつ手に取って説明してくれるが、石器そのものも、石や鉱石にも石器時代にも疎いため、こちらの理解はまるで要領を得ず、説明してもらうのも申し訳ない。
書斎の奧には気持ちの良いテラスが張り出していて、育ち過ぎた松の盆栽が無造作に置いてある。目の前には自然の美しさを謳うウンブリアの丘陵が広がっていて、実に心地良い。カンカンカンカン、と教会の乾いた鐘の音が街中に響く。

6月某日 ミラノ自宅
早朝よりヴァイオリン協奏曲の仕上げをしていて、そろそろ完成かという時に、東京より緊急の打診を受けた。
プログラムに一柳作品が入っているのを見て、一柳さんがこちらの作曲進捗状況を見計らって、ここぞとばかりに連絡を寄越したに違いない、と思う。なるほどこちらの動向を逐一チェックしているとすると、にべもなくお断りするわけにもいかない。
試験の立ち会いを誰かと交替すれば、何とかリハーサルには間に合いそうなのでその旨学校に連絡をし、日本から送られてきた楽譜データを印刷屋に転送して、ヴァイオリン協奏曲の最後の仕上げに専心する。曲を仕上げて東京にデータを送ったところで、息子に手伝ってもらって伸び切った庭の芝刈りをする。この状況では次は何時刈れるかも分からないからだ。
夕刻、印刷屋にコピーを受取りにゆき、夕食後、製本と譜読みの下準備をしているうち眠り込む。一週間後に本番だなんて考えたくもなかった。

6月某日 ミラノ自宅
早朝より仕事にかかる。余りに膨大な音の洪水に仰天し、言葉を失う。印刷した楽譜サイズも小さすぎて音符が読めない。尤も、短期間にこれ以上大きなサイズで両面印刷は不可能だったからこれで読むしかなく、さてどう譜読みしたものか、途方に暮れつつ作業を進める。
リハーサルに必要な優先項目に合わせて、拍子とテンポ、それから全体構造の確認、フレーズ構造を書き込んでから拍に目印を入れてゆく。いつもと同じ手順ながら、少し違うのは、祈りながら仕事をしているところ。ストレスと目の酷使から、食欲もすっかり失せた。

6月某日 ミラノ自宅
春に肋骨を折ったことと、長らくヴァイオリン協奏曲の作曲が捗らなかった所為ではあるが、もう随分前から、寝ているのか起きているのか分からない日々が続いている。やりかけたスレンカ作品の強弱記号マーキングの残りは息子に任せ、一柳二重協奏曲の楽譜を開く。
特に先入観もなく一ページ目をめくり一段目から読み始めると、途端に惹きこまれてしまった。何気ない音の動きなのだが、琴線に触れるというのか、涙腺が緩むというべきか、我乍ら当惑するほどであった。センチメンタルな作品でないのは百も承知だが、冒頭からこれほど共感を覚える作品も珍しい。
音数は少ないのだけれど、フレージングを決めるのには酷く時間がかかった。意識的に少しアンバランスな構造に仕立ててあるので、こちらを立てれば、自動的にあちらが綻ぶようになっていて、腑に落ちるフレージングを見つけるためには、それらすべての可能性を試してからになる。ほんの少しずつ風景に遠近感がつき、色が塗られて、息吹が吹き込まれてゆく。

6月某日 三軒茶屋自宅
東京到着し、早速三軒茶屋に置いてあった大君の楽譜を確認。明朝から練習とは俄かに信じ難く、悪い夢ではないかと訝しむ。息子が強弱を丁寧に色付けしてくれた楽譜に感謝しつつ、何とかしなければいけないと自戒を新たにしている。

6月某日 三軒茶屋自宅
リハーサル初日。想像通り、オーケストラはとても好く準備出来ていたから、思い切り彼らの胸を借りて全体の把握に努める。そうしながら、3日間の練習後の落としどころ、完成形の青写真を描く。
ロシアにて、ワグネルの傭兵による武装蜂起。ロシア軍の南部軍管区司令部制圧。プリゴジン、ロストフ・ナ・ドヌーの司令部にて国防省幹部と会談。モスクワに進軍と息巻いている。

6月某日   三軒茶屋自宅
演奏会終了。オーケストラの演奏者一人一人の気持ちが纏まっているから、演奏中に指揮者が何をする必要もなかった。
一柳、二重協奏曲の曲尾では、まるで歌舞伎役者がここぞと大見得を切っている姿が目に浮かぶ。ちょうど横尾忠則の「写楽」のように、丁寧になぞられた輪郭を、敢えて機軸をずらして並べた塩梅か。そこに思いがけなく生まれる新しい空間、それは悉くアンバランスに見えるのだけれど、同時に発生する複数の不均衡は、そこにある種の均衡を生みだす。それにより、全体はより別の次元に昇華しつつ、デフォルメし続けてゆく。
一柳さんが素材をここまで客体化できなければ、より身体に纏わりつく質感のキュビズム状になりそうだが、一柳作品の音は、もっとずっと乾いていて、うっすら諧謔性すら身に纏っているから、反アカデミズムという駒尺れた反骨精神ではなく、もっとずっと広い空間に解放された、明るい色調のポップアートの自由さ、寛容さを伴っていて、聴き手に捉え方を強制もしない。
だから、西洋と東洋の触感を対立構造に落とし込むことなく、ごく自然に共存、共鳴しあっているのである。
曲頭から終わりまで、音程操作が徹頭徹尾貫かれているが、その音符が置かれるフレーズ構造も音の強弱も、全て少しバランスをずらして定着してある姿に、横尾「摺れ摺れ草」の連作を思う。
金川さんには、一楽章終わりのmfを、敢えて強く、バランス悪く弾いてもらったし、ヴィブラフォンにはモーターを入れ、銅鑼も、記譜通り、悪趣味ぎりぎり手前まで大きめに叩いて頂いた。そうすることで、音楽はより艶やかで、鮮やかに発色し、本條君の三味線は、洋楽、邦楽の垣根をすっかり飛び越えた独自の存在に変化する。
なるほど、一柳さんが拙作を面白がって下さったのは、この辺り音符へのアプローチを通してではなかろうか。今回、特に音符の価値観に対して、明確に共感を覚えたからだ。今回池辺先生から、「杉山の曲は滅茶苦茶だが云いたいことはわかる」、と云われ喜んだが、それも音符との関係性に因るかも知れない。
いつも一柳さんが着ていらした糊のきいたシャツと、お好きだった卓球と、嬉々として子供のようにピアノの内部奏法に熱中する姿を思い出して、胸が熱くなる。

道山君の音は、誠に霊妙であった。神秘的な弱音であろうと、激する強音であろうと、彼は発音する空間を一切攪乱しない。音が生まれる真空状態の空間の壁に、一切力を加えず柔能制剛と切込みをいれ、瞬時に外圧に同化させる妙技。そして同時に、大君の音楽の真骨頂である歌心も、存分に愉しませてもらった。

ミロスラフは演奏後、「実演でしか起こり得ない奇跡の瞬間、音楽も何もかもを超越した何かが、演奏中、聴き手に押し寄せてきたよ」、と目を輝かせて話してくれた。
レオ・レオニの「スイミー」で、無数の小魚が巨大な魚の形を形作って泳ぐ姿は、ちょうど「スーパーオーガニズム」の描く世界に近い。あそこまで綿密に書き込まれた楽譜を、少しだけ遠くから眺め、こちらの躰の緊張を解けば、まるであの絵本のような温かい世界が眼前に広がるのである。そのギャップが面白い、ともいえる。

6月某日 三軒茶屋自宅
一週間ぶりにコーヒーを呑み、こんなにも美味だったかと感慨を覚える。先月帰国の折、最後まで酷い時差呆けに悩まされたので、今回は、まだミラノ滞在中の帰国2日前から、一切コーヒーは飲まず機内でも断り、東京でも一切口にしなかった。そのお陰か、今回は帰国翌朝からのリハーサルもこなすことが出来た。
無理にでも毎晩1時くらいに布団に入れば、1時間以内には眠り込む。時差呆け故、夜間一度は目が覚めるが、目を瞑り続けていれば、もう一度明け方頃短時間眠りに就ける。
睡眠導入剤を試すべきか悩んだが、普段口にしていない薬で頭の感覚が鈍化するなら、万事休す。リハーサルにならないと分かっていたので、賭けのつもりで、薬は一切摂らなかった。
夕刻、町田に夕食を食べにでかける。下北沢まで前傾姿勢で乗る自転車で出かけたのだが、姿勢を前に倒すと、先に骨折した肋骨あたりの筋肉が攣れて痛い。まだ暫くあの自転車には乗れそうもない。ラッシュアワーだったので、下北沢から町田まで、電車は酷い混み様であった。肋骨を折った人間にとって、満員電車に揺られるのは、額に脂汗が滲むほど恐ろしい体験となる。もっと早くに家を出て、各停に乗るべきであった。町田で食べた江の島産「サザエ壺焼き」は絶品で忘れがたし。

6月某日 三軒茶屋自宅
朝7時起床。浜田屋でパンを購い、高野さん宅で羽田に着いたばかりの家人と落ち合った。自宅で採れたブラックベリーと、自家製梅のジャムをヨーグルトに雑ぜていただくが、大変美味である。ブラックベリーの味は一様でなく、酸味の強いものからすっかり甘く熟したものまで様々で、それがまた良い。

6月某日 三軒茶屋自宅
早朝近くの寺まで散歩に出かけ、手を併せようと境内に入ったところ、住職と思しき男性からマスク着用を求められる。持参していなかったので仕方なく帰宅したものの、広い境内には住職と自分ともう一人、わずか3人居合わせただけであった。
新しく書いたヴァイオリン協奏曲の最後の辺り、何か遠い昔の記憶につながるものがあって、一体何かと考えこむ。
あれは小学校3年生終わり、逆にヴァイオリンを持ち替え、弾き始めたころではなかったか。午後の日差しは、日焼けしたカーテンを通して、レッスン室をセピア色に染め上げていて、功子先生は手本として、プニャーニ「前奏曲とアレグロ」冒頭の4分音符を弾いてみせてくださった。あの時の、勢いよく、情熱的に歌い上げる先生の音楽を、あれから40年近く経って、改めて思い返している。寧ろ、40年間もの間、身体の芯で沸々と声を上げ続けていた、先生の音に気付き、深く感動しているというべきだろうか。

(6月30日 三軒茶屋にて)

223 文(もじ)字

藤井貞和

文字のない世界、と
私が言うと、

亡友は怒りました。
文字を前提にして、

文字のない世界とは、
その言い方を許しません。

まだこの世に、
文字は生まれてなくて、と私が言うと、

ない文字が生まれると、
考えることはできないはずだと、

私にも怒りが感染(うつ)って、
文字はなくなりました。

ふわっと、あれは白い雲で、
なにもない世界です。

なにもない世界だと、
私の考えた企画を壊してなきものにした亡友よ、

まもなく私も行きます。
文字を知らないそちらへ

(六月はオンラインを含めて、「構造と動態」、「物語・語り物とテクスト」コメント、「地神盲僧の語り、伝承、記録」と、口頭発表を三本、いずれも口承=芸能関係で、「文字」というテーマに行き着くかな?)

翳りと「ことば」 

高橋悠治

ある時代、ある地域に生きるひとたちの考え方は、抽象的な論理だけではなく、なかば意識されない翳りを帯びている。読む本や聴く音楽、食べもの飲物の好みも、個人的な好みとだけ言えない共通点がなければ、おなじ時間おなじ場所で過ごすこともなく、それができる場所もなければ、ズームや電話だけのつきあいは、代用でしかない。それなのに、この3年間は、外に出て人と会うこともないのがあたりまえのようになり、それと同時に、国家の力が強くなった。グローバリズムはもう流行らない。いま考えるとそう言われていたものは、アメリカを中心とする世界を前提としたものでしかなかったのではないだろうか。言論の自由や民主主義と言われたものだって、アメリカ中心でなければなんだったのか。ジャーナリズムもいまでは、自由に考えることをさせないためのウソでなければ、ひとをうごかすことのできない「ことば」にすぎない。「ことば」にすぎないことばは、ことばと言えるだろうか。
日本で報道されることは、アメリカに監視されているのか、それとも日本の報道企業が
忖度し、管理しているのか。日本のできごとは、日本では報道されなくても、他国のニュースでわかる。いまのところ、外国の報道を読むことはできる。(いつまでか?)
しかし何か言えば、匿名の非難が返ってくる。日本では、戦前に亡命できたひとはすくなかった。いまは、もっときびしいだろう。アメリカやドイツでも、むつかしくなってきているようだ。スノウデンは亡命したまま、アサンジは投獄されたまま、ブラジルやメキシコに移ることさえできない。日本や韓国で言えることは限られている、というより、無力な「ことば」であるうちは、言うことが許されている。

ところで、音楽はことばではない。もちろんことばと結ばれた「うた」はあるけれど、いま「うたう」音楽はうつろにひびく。語る、つぶやく、ささやく音の、あるいは、音ではなく、音の消えかけた響きの、「余韻」といおうか、そのような音の影の喚び起こすなにか、余韻の時間、余韻の空間、そのなかでうごめく心、そこで…

2023年6月1日(木)

水牛だより

洗濯物をベランダに干していて感じること。このごろは風の強い日が多くて、洗濯物が静かに竿から垂れていることがあまりありません。いつだって風にひるがえって踊っています。毎日のように天気がせわしなく変わることと関係がありそうだと思っていたら、夏の前なのに、ついに台風までやってくるとは!

「水牛のように」を2023年6月1日号に更新しました。
今月はコロナによる規制がなくなったので、友人たちと久しぶりに会う機会が増えました。コロナウイルスはまだいなくなったわけではないので、それぞれが気の済むように気をつけて。数年ぶりという人もいて、おしゃべりがはずみました。会って話すとき、ことばは話す人の身体から、そのときの即興として出てくるようで、話す人のからだそのもののように感じられます。書くことは、話すときとはちがって、ことばはしっかりと固定されます。しかし、固定されることによって、話し相手だけではない(そして書く人自身だけではない)人たちにことばが開放されていくのだ。というようなことを考えた今月です。話すこと、書くこと、読むこと、みな必要ですね。

それでは、来月もまた!(八巻美恵)

瓦礫の中で自撮りする16歳の女子高生はシリア難民

さとうまき

翌朝、僕はイネギョルというブルサの東側の村に行くことにした。ここには、カハラマンマラシュで被災したシリア人家族が避難しているというのでお見舞いに行くのである。

その家族というのは、サラーハの父親の妹だ。サラーハという男の子はシリアのアレッポにいる小児がんの子で、父親が2015年に行方不明になり、母親一人で育てるのは大変だろうということで、2020年から僕がお金を集めては仕送りをしている。というのも、ダマスカスの専門病院に行くのに毎回一万円はかかってしまう。行方不明になったお父さんの妹一家がトルコで暮らしていたのだが、カハラマンマラシュで地震の直撃を受け娘がなくなったというのだった。イネギョルはイスタンブールから車で3時間はかかるらしいが、大地震のために何かしなければという思いで旅程を一泊のばしてこの家族に会いに行くことにしたのだ。

イスタンブールのホテルは、一泊5000円くらいだが、朝飯がうまい。オリーブに何種類ものチーズ、サラダも美味だ。意外かもしれないが中東に行くと野菜がたくさん食べれるのである。

朝から小雨が降り肌寒い。アブドラとムハンマドは寝坊したのか約束の時間に一時間遅れてやってくる。結局僕らはフェリーに乗って、マルマラ海を渡ることになった。舟の旅は快適だったがどんよりとした天候で、灰色の海は不気味にも見えた。昼過ぎには、無事にイネギョルにつく。

被災した家族は、カハラマンマラシュをさり、兄弟の家に身を寄せていた。地震の話に入る前に、どうしても聞きたかったこと、サラーハのお父さんのことだった。
「兄は、行方不明になりました。彼の車は見つかり、身分証明が車の中にあったのです。タイヤは燃やされていました。しばらくしたら、シリア政府の刑務所から釈放されたという人がいて、兄と一緒に刑務所にいたというのです。彼は私たちに連絡してきて、情報がほしいならお金を払えと言ってきた。それは、私たちが払える金額を超えていたし、おそらく詐欺師だったと思います。」
サラーハの父はおそらくイスラム国に殺された可能性が高いが、いまだに母は、アサド政権が発表する恩赦のリストの中に夫がいるかを探している。

妹の一家は、2015年にアレッポを出てトルコに移り住んだ。夫は仕立て屋を営み小さなワークショップを持っていたという。地震が襲い、気が付くと瓦礫の中にいた。妻と夫は、12時間瓦礫の中に閉じ込められていたが隣人に救出された。それから一時間後に13歳の双子の息子たちが救出。頭にけがをして出血していたが、大事には至らなかった。

娘3人は閉じ込められたままだった。サラ(18歳)イスラ(16歳)と、マルワ(14歳)だ。イスラはもう自分は死ぬことを覚悟していた。そしてスマホのバッテリーが残っている間に、自撮りした。「私が生きていたことをしっかりと家族に残したかったの」彼女が見せてくれた動画は、がれきの中に挟まっていて、殆ど身動きが取れないでいる自分の姿だった。妹のマルワにも呼びかけるが、声はするもののどこにいるのかわからない。数時間するとマルワは、呼びかけても答えてくれなかった。ものすごく喉がかわいたという。
「幻想をみたの。誰かがやってきてくれて、私に水を飲ませてくれた。助かったと思ったけど、それは幻想だった。」

父もスマホを見せてくれる。「ここにうずくまっているのが私だ。娘たちはこの穴の中にいる。」最初の一日目は、トルコ政府もパニックになっており、誰もレスキューに来てくれなかったので、友人たちで掘り出して救援活動をやっていた。簡単なドリルで穴をあけて行って埋まっている人たちを救出している。穴の中をのぞきながら娘たちが出てくるのをじーっと待っている父の後ろ姿が映されていた。

2人の双子の少年は、興奮気味に当時のことを語り、ムハンマッドの通訳も追いつかない速さでしゃべりまくっていた。僕は、絵に描いて説明してもらい何とか状況を理解していた。

イスラの目の前に光が現れ、気が付くと病院に運ばれていた。地震が発生してから40時間後だった。サラも無事だったが、マルワは、さらに数日後に遺体となって発見された。
「7日後に同じアパートで7歳の女の子が生きて発見されたのに」父は悔しがった。
これからどうするのです?
「わかりません。カハラマンマラシュにはもう家もない。いつまでも親戚のお世話になっていることもできないので、住むとこをまず探さなければ」

トルコにいるシリア難民は350万人。彼らの存在は、国の財政の負担になっている。今回の地震で輪をかけて、トルコ人たちの冷たい目線を感じるという。先日行われた大統領選挙でも現職のエルドアン大統領、対立候補のクルチダルオール氏も難民をシリアに返すことを選挙公約にあげていた。

シリア難民たちにとっては厳しい状況だ。がれきの中で、生きている事を伝え残そうともがいていた、16歳の少女の強さに胸が撃たれた。まさに、シリア難民が置かれている状況を象徴しているかのようだった。

しもた屋之噺(256)

杉山洋一

久しぶりにミラノに戻ると、とても不安定な天気が続いていて、毎日照り付ける太陽があるかと思うと、夜には酷い雷雨に見舞われて、朝には街中の道路が冠水しています。お陰で、イタリア北部の旱魃は大分緩和されましたが、エミリア・ロマーニャでは甚大な洪水被害が尾を引いています。雨は落ち着いても、2度目の氾濫のあと、もう10日以上経っているのに冠水が収まらず、電気も回復していない箇所があります。衛生問題が深刻になっています。しかし旱魃による農業被害のため、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルは、EUに総額4億5千ユーロの援助を求めていますが、ウクライナ侵攻も相俟って、生活費全体の価格高騰のスピードは緩みません。イタリアの各地の大学前では、学生たちがテントを張り、家賃が払えないと抗議する運動が広がっています。

5月某日 ミラノ自宅
整体のヴァーギさんに診て貰うと、軽く触れられているだけなのに、肋骨はじめ、躰全体が変化してゆく。あれは一体何をやっているのか不思議で仕方がない。自転車ももう乗って良いと言われる。肋骨よりもむしろ、そのせいで身体全体が歪んでいる方が問題だという。
施術後、伊語訳江本勝「水からの伝言」を引っ張りだしてきて、この名著について君と今度語り合いたいと言われ、言葉に窮す。

5月某日 ミラノ自宅
隣の部屋から、息子が練習する「エオリアン・ハープ」が聴こえてくる。これを耳にする度に切なくなるのは、コロナ禍最初の厳格なロックダウンで、彼と家人が日本に戻り、離れて暮らしていた時のことを思い出すからだろう。あの時は、もう二度と家族の顔を見られないかもしれない、と覚悟を決めて暮らしていた。
世界保健機関は新型コロナ緊急事態宣言終了を発表。累計感染者数は約7億6522万人。累計死亡者数、692万人。神経が麻痺しているのか、飽和状態なのか、この数字をどう捉えてよいか分からない自分自身に、少なからず当惑している。

5月某日 ミラノ自宅
今年初めての芝刈り決行。家人には、芝刈り機のコードを持っていてもらい、刈った芝を線路脇に捨てるのも彼女に頼んだ。ダリオ・マッジの訃報にショックを受ける。本当に温和でよい音楽家だった。最初に彼の曲を聞いたのは、ドナトーニの「Toy」が収録されていた、チェンバロとマリオリーナ・デ・ロベルティスのチェンバロとトリオ・ディ・コモのレコードではなかったか。彼の作品の指揮を何度も頼まれかけていたのに、結局実現できずに亡くなってしまい、無念でならない。

5月某日 三軒茶屋自宅
3年ぶりにローマ経由で日本に帰国して、感慨を覚える。アリタリアは倒産し、イータに引き継がれたが、昨年暮れまでイータはコロナ禍の入国規制が厳しい日本向けの旅客便は飛ばさなかった。漸く規制緩和後に日本便が就航したので、今回初めてイータに乗った。ローマのラウンジは以前のままで、懐かしい。機内は満席で、9割以上がイタリア人、その殆どが日本を訪れる観光客のようであった。こんな経験は30年近くイタリアに居て初めてで、ただ驚くばかりだ。日本政府はこの3月末にも、「観光立国推進基本計画」を閣議決定していたから、さぞ喜んでいるだろう。左胸は未だ少し痛い。

5月某日 三軒茶屋自宅
母の日、米寿祝を兼ねて町田まで母にPCを届ける。胸の痛みは普段はさほどでもないが、満員のバスなどは甚だ恐怖を覚える。胸の怪我は水を吸い込む海綿のように、体力を吸い取ってゆく。
功子先生宅へインタビューに出かけた折、隣の福泉寺で菅子先生ご夫妻のお墓に手を併せる。何でも丁度お施餓鬼の日だったそうで、お参りをする人で思いの外お墓は賑わっていた。
八幡神社へ足を向けると、神社の境内にひっそり佇む、一発の砲弾に気が付いた。近くで掃除をしていた氏子に尋ねると、戦後掘り出されて、そのまま展示されているとのことだが、詳細不明だという。手前には小さな碑があって、丗六年だか、廿六年と彫られているらしいと何んとか読めるが、それ以外は消えてしまっている。
すぐ隣には、日露戦争の15、6人の出征者と9人ほどの戦没者名簿が彫られた明治40年の大きな石碑が立っていたから、ふと当時の砲弾かと思ったが、日露戦争で代々木に砲弾直撃とは聞いたことがないから、間違いなく太平洋戦争時の空襲時の不発弾なのだろう。
功子先生のお宅は、当時、この一帯で唯一焼け残った邸宅だったと聞いた。
何も覚えていないけれど、最初に功子先生に連れられて阿佐ヶ谷の三善先生宅を訪れたとき、先生は、パリから届いたばかりだと言うリラの花束を先生に贈ったところ、三善先生は何だか不思議な顔をされたという。それで、帰り路、ふと見れば、辺りには沢山のリラの花が咲き誇っていたそうだ。母にその話をすると、三善先生は当時、「この子には手伝いをしてもらいますから」と笑っていらした、と話してくれた。お約束したお手伝いがまだ仕上がっていなくて、先生にはただただ申し訳ない思い。
功子先生に、息子がカニーノさんのところに室内楽を習いに行っている、というと、以前、掃除をするときには、決まってカニーノのレコードをかけていた、と教えてくれた。輝くような音の彼のレコードをかけると、掃除が捗るのだという。わかるような気もする。
メローニ首相来日。洪水被害が広がっているから、訪日するのか訝っていたが、結局G7の先頭を切って空軍の政府専用機で来広。

5月某日 三軒茶屋自宅
14時起床。時差呆けを治したいが、胸が心配で、しっかり寝ないのも怖い。今日も床に就いたのは朝の6時であった。尤も、胸は多少疼く程度。先月まで、折れた3本の肋骨が笑う度に体内でジャラジャラと音を立てて不快極まりないどころか、激痛であった。家人に蕎麦を茹でてもらい、啜ろうとすると思わず涙が出てきたし、くしゃみが出た時には息が止まり、なるほど肺を患うとこうなるのかと、妙な覚悟までできた。
絶対安静を命じられながら、学期末が近づいていて日本にも行くので休講にも出来ず、結局学校には通ったが、学生たちは笑うとこちらが痛いのが分かっているので、出来るだけ笑わないように努めてくれた。ところが、そうすると余計皆が可笑しくなって笑ってしまい、肋骨もジャラジャラ音を立てて笑ってくれる、という悪循環でもあった。ともかくあんなことはもう御免である。普段、どれほど健康を享受して暮らしてきたのか、痛感する毎日が続く。
先月の肋骨骨折の折、一週間経って救急病院に駆け込んで、医者に呆れられた。一週間経って生きているのだから運が良かった、大丈夫だと真面目な顔で言うので、妙な冗談を言う女医だと思っていたが、その後かかりつけ医の再診の折にも全く同じことを言われたから、あれは冗談ではなかったのかと気が付き、初めて青くなった。ここ数日俯せにもなれるようになったし、かなり恢復が進んだ感あり。
ゼレンスキー、仏機で来日。早足でタラップを降りる姿が印象的。つい先日、ローマを訪れたばかりだが、今回のG7に向けて色々と詰めの調整をしていたのかも知れない。

5月某日 三軒茶屋自宅
家人より、ピアノ・シティでの息子の演奏会は立派だった、今までとは意気込みが全く違った、と連絡あり。オーベルマンの谷やスカルラッティ、平均律、エオリアン・ハープなどのハーフ・プログラムで、数年前に左半身が麻痺していたのが信じられない。
メローニ首相、G7を切上げて水害被害対応のため帰国。この状況下で良く日本まで来たものだと、彼女の胆力をみた気がしていた。広島を発ってカザフスタンで給油し、そのままリミニに飛んだ。G7では、メローニが自分の携帯電話を取り出して、フィノッキオ山の土砂崩れのヴィデオを、スナク首相や、トルドー首相、フォン・デア・ライエン委員長に大統領に見せている様子が報道されていた。イタリアから政府要人が日本を訪れているさまを、イタリアの報道でその動向を追うと、少し不思議な感覚に陥る。EUをはじめ各国から支援の申し出を受けたが、まだ被害状況を把握すらできていないと話す伊女性首相の姿は、まるでローマの記者会見場で話しているようで、日本を訪れている実感は殆どなかった。
日本の報道では、皆が揃って会議に臨むさまや宮島の記念撮影など、当然ながら別の視点で切り出されたG7の姿が映し出されて、興味深い。
メローニは原爆資料館の記帳で、「本日、少し立止まり、祈りを捧げましょう。本日、闇が凌駕するものは何もないことを覚えておきましょう。本日、過去を思い起こして、希望に満ちた未来を共に描きましょう」としたためた、と報道されている。イタリア人らしさが感じられて、正直、なかなか良い文章だと感心したが、「本日、闇が凌駕するものは何もないことを覚えておく」、の下りは、原文はどう書かれていたのだろう、と思う。「本日」、というのも、おそらく「oggi」の直訳なのだろうが、真意が量りかねたのでイタリアの新聞を読む。
Oggi chiniamo il capo e ci fermiamo in preghiera. Oggi, non dimentichiamo che l’oscurità non ha l’ultima parola. Oggi ricordiamo il passato per scrivere, insieme, un futuro di speranza.
今日、いまここで、わたしたちはこうべを垂れ、ここに足をとめ、祈りをささげましょう。このような今日にこそ、暗やみが最後の言葉など握っていないことを、わたしたちは忘れてはいけません。今日、いまここで、わたしたちが経験してきた過去に、今一度想いを馳せようではありませんか。ともに希望に満ちた未来を描くために。

5月某日 三軒茶屋自宅
分からないことは、分かっていないことである。ソルフェージュ能力が低いのか、リゲティでもシューベルトでも、判然としない部分を少しずつ紐解いてゆけば、単に自分が分かっていなかったと自覚するだけだ。分らない部分も、聴こえない部分も、理解していないから、分からない。理解していないから、聴こえない。当然ではあるが、身につまされる。
リゲティのリズムにしても、自分が解らないのなら、因数分解のようにして単純な言葉に置き換える手間を、決して煩わしく思うべきではない。

5月某日 三軒茶屋自宅
ソリスト合わせの後、蛇崩の沢井さん宅に寄る。コロナ禍があって、お目にかかるのは3年ぶりくらいだろうか。思いの外お元気な様子にすっかり安堵した。コロナ禍のように、本当に辛い時を過ごした時にこそ、我々の底から深い芸術が生まれると信じる、との言葉に深く感銘を受ける。
後から佐藤さんもいらして、先日の一柳先生の演奏会の様子を話してくださる。悠治さんが柱にしがみついて出す音が、とても芸術的で感動した、と繰り返していらした。

5月某日 三軒茶屋自宅
神奈川フィルリハーサル終了後、練習場に程近い星川杉山神社に寄る。参道入口の「杉山神社」と書かれた鳥居の写真を撮っていると、「お参りですか、ようこそいらっしゃいました。どうぞゆっくりしていってください」と、突然背後から神主と思しき男性に突然声を掛けられる。
そのタイミングと台詞が、まるで杉山神社の神さまに歓迎されたようだったので、吃驚もしたが、大変愉快であった。
なかなか落ち着いた趣を湛えていて、大変居心地のよい神社であった。同姓の誼みか、厳めしさを感じさせない、素朴でしっとりした印象を受けた。
そのまま町田の両親宅に足を伸ばし、先日母に贈ったPCのセットアップをして、金目鯛の兜煮と、自家製きゃらぶき、山芋ソテー等々、豪勢な晩餐に舌鼓。美味。

5月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラ練習後、矢野君の結婚祝、近況報告を兼ねて、桜木町の駅ビル食堂で夕食。日本に帰国して2年で目覚ましい活躍ぶりだと目を見張る。現在18歳になった息子のことも、矢野君は5歳くらいから知っているのだから、思えば長い付き合いである。
軽い出血なのか、左眼の充血がここ2,3日続いていて、少し見にくい。この2か月、肋骨恢復のため、出来る限り躰を動かさなかったためか、立ったまま何時間かリハーサルをすると今まで身に覚えのないような困憊にも見舞われた。

5月某日 ローマ行機中
昨日の演奏会が、実に引き締まった良い演奏になったのは、オーケストラの力量は謂うまでもなく、コンサートマスターの戸原直さんに負うところが大きい。本番はとても演奏が収斂していて、月並みながら、室内楽を愉しむような面白さに酔った。副指揮の小林さんも実に的確で優秀だったから、すっかり甘えて助けてもらった。垣ケ原さん曰く、ソリストのMINAMIさんは数住岸子を思い出した、と形容していらしたけれど、なるほどその通りである。彼女の気迫と音楽の推進力にはすっかり舌を巻いた。
演奏会まで出来るだけ身体を庇いながら振っていたが、流石に本番はそうもいかず、リゲティで振り絞るような大音量を引出すところで、思わず左半身にも力を籠めてしまい、左胸が疼きながらシューベルトを振っていたので、すわ大事に至るかしらと焦ったものの、どうやら大丈夫のようだ。思えば、日本で指揮の仕事があるが大丈夫かと医者に相談した際、あなたどうせ右手で振るんでしょ、左手を使わなきゃ大丈夫よ、とイタリア人らしく軽くいなされたのが功を奏したとも云える。
演奏会1曲目のレスピーギを振っているとズボンがどんどんずり落ちて来て、内心困り果ててずっと腰のあたりを押さえて振っていた。先月から5キロも痩せたので、考えてみれば当然なのだが、慌ててレスピーギの後、袖にいらした鎌形さんにベルトを貸してもらい事なきを得た。
今朝、羽田に向かう前に、高野耀子先生宅で朝食をご一緒したが、頗るお元気で安心した。カラ元気よと仰るけれども、病気は気からとも言うから、カラ元気も強ちわるい遣り口とも思えない。ピアノを弾くとき、譜めくりが不便なので、AIで弾いている部分を認識させて、そのまま少しずつ後ろにスクロールしてゆく譜めくり機があると良い、と発明家のご友人に頼んでいるそうだ。
日本文化について。たとえば、畳は隣の部屋でも、隣の家であっても入れ換えて使える。西洋ならば、簡単に隣の部屋の床と入れ替えるという発想はない。和服は、生地を縦に裁っているから、さまざまな体型に合せて着付けが可能だが、洋服は、体型に合せて生地を曲線で裁つから、使いまわしが出来ないし、すぐに傷まないように生地を上下に入れ替えながら使ってゆく。もちろん、雑巾から襁褓にいたるまで、無駄なく再利用してきた。そんなお話を、十穀入りパンにカシス、チェリーとイチジクのジャムをつけていただきながら伺う。美味。
羽田空港では海老名さんを初め、以前のアリタリア成田スタッフの皆さんと、3年ぶりの再会を喜んだ。

5月某日 ミラノ自宅
昨日は朝8時半から夜8時半まで学校。2か月ぶりに自転車に乗り、ちょっとした感動を覚えた。朝は指揮レッスン、午後は聴覚訓練、夜は映画音楽作曲科試験。家人は今日から日本。晩御飯を食べながら、息子より、お父さんはどうやって作曲しているのか、旋律を思いつくのか、和音とか和声とか?と畳み込まれて言葉に窮す。モスクワ郊外にてドローン攻撃。暗やみが最後の言葉なんて握っていない、あらためて、そう信じたいと思う。

(5月31日ミラノにて)

パンチャシラの日によせて

冨岡三智

6月1日はパンチャシラの日(インドネシアの国民の祝日)。というわけで今月はパンチャシラ関連の思い出について。

●パンチャシラの日とは

この日の正式名称はHari Lahir Pancasila(パンチャシラ誕生の日)と言う。パンチャシラはインドネシアの国家五原則のこと。1945年6月1日(日本軍政期)の独立準備調査会の席上で、スカルノ(のちに初代大統領となる)によってその概念が提唱され、独立後に制定された1945年憲法の前文に掲げられた。1970年代末以降国民統合の象徴として称揚され、道徳教育として学校や公務員に浸透している。これが国の祝日に指定されたのは2016年、ジョコ政権下(2014~現在)になってからである。大統領はこの国際競争社会の中、パンチャシラ精神があれば逆境を克服することができると呼びかけたのだが、その背景には初の華人系キリスト教徒のジャカルタ知事・アホック氏に対するイスラム強硬派の抗議や、海外におけるISなどイスラム過激派の動きの活発化と国内の過激派団体の同調などがあり、多様性の中の統一の維持を強く打ち出したかったのだと思える。パンチャシラの5原則の第1項は唯一神への信仰である。インドネシアでは現在6宗教(イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンドゥー、儒教)が公認されており、このうちどれかを信教しなければならない。パンチャシラは宗教の別を問わず統合の象徴として存在している。

●2007年12月3日 タマンミニでのアンゴロ・カセ

この行事については、実は2008年1月号の『水牛』に寄稿した「外から見たジャワ王家~ジャカルタでのアンゴロ・カセ」で書いているので、そちらも読んでいただければ幸いである。ジャカルタのタマン・ミニ公園で開催されたアンゴロ・カセというイベントは、2007年1月から観光文化省の唯一神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニと協力して始めたもので、意見の異なるさまざまな信仰団体の人たちが直接意見を戦わせる場として設けられ、毎回ゲストスピーカーを招いて話を聞き、質疑応答が行われていた。実は2006年8月から就任した信仰局長(スリスティヨ・ティルトクスモ氏)が始めたイベントで、それ以前にも同様の機会がなかったわけではないが、長くは続かなかったらしい。私が出席したのは第9回目の開催だった。最初、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」を斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。インドネシアでは信仰と宗教は区別され、管轄も違う。このアンゴロ・カセに集うクジャウィン(ジャワ神秘主義)の団体は観光文化省唯一神への信仰局の管轄で、上でのべた公認6宗教は宗教省の管轄である。そのことはすでに知っていたが、信仰を持つ団体の拠り所もまたパンチャシラであるということに、私はこの場で初めて気づいた。

●2011年5月31日~6月1日 トゥガルで踊る

中部ジャワ州トゥガルにある信仰団体Padepokan Wulan Tumanggalのパンチャシラの日の記念式典で踊ってほしいと依頼がきた。この時でパンチャシラの式典は5回目くらいだったと私はブログに書き残している。ということは、上のタマンミニでのアンゴロ・カセ開始を機に始まったのかもしれない。段取りはまず前夜の5月31日夜に開会式。後援する観光文化省信仰局長(代理)やら警察やら市の関係者やら多くの来賓を迎えてホールで式典ののち食事、その後舞踊上演。私は自作の『妙寂アスモロドノ・エリンエリン』を披露した。翌6月1日朝9時から屋外の広場で国旗掲揚ののち、各種芸能の上演があった。この日は太鼓上演や東ジャワのレオッグなど大人数で大音量で上演するものが多かったが、私は1人でガンビョンを踊った。その後昼食があり、午後1時から4時まで「Pembinaan “Hari Pancasila”(「パンチャシラ」の育成)」をやったあと閉会式。この午後からのイベントがどういう内容だったのか思い出せないのだが、講演かディスカッションだったような気がする。

この信仰団体のパデポカン(施設)は、この種の施設としてはかなり規模が大きい方らしかった。確かに広大な敷地の中に開会式を行ったホールや国旗掲揚広場、信者たちが修行のため寝泊まりする建物が点在していた。修行のため信者はアスファルトの上に直に寝るということで、寝泊まりする部屋の床はアスファルトのままだったことを覚えている。さすがに私の部屋には敷物を敷いてくれたが…。またパンチャシラの日だけでなく、ジャワ暦正月、カルティニの日など、国の記念日に際してさまざまな式典を行っているのも、この種の施設としては他にないようだとのことだった。

実は2011年~2012年はジョグジャカルタで調査していた。今度、パンチャシラの日の記念式典で踊るんだよと知り合いの先生に知らせたら、インドネシアのために有難うという返事がきて、パンチャシラというイデオロギーの重みを少し実感したことを思い出す…。

●2011年9月16日バンドンで踊る

西ジャワ州バンドンにある信仰団体Budidayaの式典で踊ってほしいと依頼が来た。この団体はスカルノがパンチャシラの概念を打ち出すのに影響を与えたメイ・カルタウィナタ(Mei Kartawinata)が立ち上げた団体で、1927年の9月16日にメイに啓示となる出来事があって発足したようだ。RRI(国営ラジオ放送局)バンドン支局でその式典は行われた。これも信仰局が後援。私は自作「Nut Karsaning Widhi」を初演したが、実はこの式典のために作った曲である。音楽はスラカルタの芸大教員であるワルヨ氏に委嘱し、イベントの趣旨を伝えたところ、olah batin=心の鍛練をテーマに歌詞と音楽を作ってくれた。タイトルもワルヨ氏がつけ、「魂を研鑽し、梵我一如となる」という感じの言葉らしい。Budidayaの人たちに聞いた話だが、この団体を始め信仰団体が開催するイベントはしばしば過激なイスラム団体によって妨害されるらしい。西ジャワは中部ジャワよりもイスラムがきついからかもしれない。私がRRIにいた間は大丈夫だった気がするが、開催にこぎつけるまでにいろいろあったようだ。

●2011年大晦日 チャンディ・スクーで踊る

この時のことについては2012年1月号の『水牛』に「チャンディより謹賀新年」として書いている。これは、スプラプト氏が毎年注ジャワのチャンディ・スクー(ヒンドゥー遺跡)で開催している「スラウン・スニ・チャンディ」という催しで、これもやはり信仰局が後援するイベント。スプラプト氏はスピリチュアルな舞踊の第一人者とも言うべき人だ。実はこの時に私が上演した「Angin dari Candi(寺院からの風)」はバンドンで上演した「Nut Karsaning Widhi」と同じで、場に合わせてタイトルだけ変えたもの。私は衣装を借りに行った先で信仰局の人たちと鉢合わせしたのだが、彼らは芸術イベントが終わった後に開催される夜のお祈りで着る伝統衣装一式を借りに来ていた。ジャワの芸術家界隈には多いクジャウィン(ジャワ神秘主義)もインドネシア全土では少数派で、多数派のイスラム教徒からは受け入れられにくい存在らしく、信仰局としてはクジャウィンの活動をバックアップしたいということだった。


というわけで、6月1日が来ると、この2011年の一連のイベントを思い出す。

どうよう(2023.06)

小沼純一

天には
楽をかなでるものたちが

にしもひがしも
楽をかなでるのは
おんなひと
にみえるのは
どうしてなんだろう

あのひとは
てんにょのようなひとだった
ちょっと地からういていた

まえに大陸の
石窟寺院で
飛天をさがしたんだった

ひらひらとまう
ようなかんじではなく
ただちょっとういている
あのひとはそんなだった

楽をかなでる
すって はく
いいなあ いいえらびだったなあ
いまも手にして
かなでてる
すこししたら
またきかせてほしいなと

さしさわり
ない
やりとりで
するすると
ものごとがすすむ

さし

ささ
れつ

さし
ぬかれ
さし
もどす

いつか
さしてしまいたい
させば
しまいがおとずれる

ちるちるみちる
ちるちるおちる
おちおちねむる
ねむりはみちる
ねおちておやすみ
いいそびれ

きしきしきしる
きしきししみる
こおりをかんで
のうみそひやす
みがいてはぐきに
にじむのなあに

きみかえるの
かえるの
なにかえるの
なにかかえるの
いつかえるの
なにがかえるの
かえないの
きみかえれる
しろみかえる
しみかえる
かえるなの
じゃりばかり

じゃけん
じゃんけん
じゃのめ
じゃのみち
じゃばらひらいて
じゃんばらや

じゃりみち
じゃりたれ
じゃりじゃりふんで
じゃりじゃりかんで
じゃくにくきょうしょく
じゃからんだ

話の話 第3話:忘れえぬナンパ師たち

戸田昌子

とりあえず細かい事情は省くが、若い頃、ボストンに半年ほど住んでいたことがある。ある日のこと、宿の向かいにあったカフェでチャイティーを飲んだあと、天気が良かったので外のベンチで足を投げ出してひなたぼっこをしていた。するとアメリカ人のおにいちゃんがその足につまづいて……ではなく、つまづいたふりをして、おっとっと、と大袈裟に転ぶ格好をしたあと近づいてきて、「君さ、まるでその靴のモデルさんみたいだよ!」と言い出した。そのとき私が履いていた靴は、妹のマウンテンブーツ。妹も私も山登りはしないが、服飾の勉強をしてモデルさんもやっていたことのある妹の選ぶものはいつも趣味が良い。どこのブランドだったかは忘れたが、この大きくて頑丈なウォータープルーフのブーツは妹がフランス留学する時に日本に置いていったもので、私がアメリカへ渡るとき、「頑丈な靴があったほうがいいから……」と半ば堂々とパクった靴であった。「洋服が黒いしさ、靴がとっても映えるよ! 靴、売ってくれるの?」などとその彼はその靴の件を深掘りしようとしている。ちなみに当時の私は毎日、ほぼ着の身着のままだったので、そのとき着ていた服は濃いグレーの、ウールの地味なマキシワンピースに、黒のタートルと黒のパーカー、ウエストポーチが標準装備だったはず。暖かい日だったから、きっと9月ごろ。なぜならボストンは10月にもなると厳しく冷たい風が吹き始めるのだから……。当時、知り合いもあまりいないボストンだったから、わたしは、そんなふうに街中で人に話しかけられて話したりすることがたびたびあった。相手にも電話番号をいきなり聞き出そうとか、いわゆるナンパの感じはあまりなかった。いま思えばかの地では、街中で女の子に声をかけるのは礼儀の一環、みたいなところもあった気がする。わたしはひとしきり話したあと、なにか楽しい気分でそこに座り続けていた記憶がある。ちなみにそのカフェには虹色のフラッグがいつもはためいていた。

しかしナンパの本場といえばやはりフランスである。私の妹は19歳でフランスに留学し、そのまま現在まで外国暮らしを続けている強者だが、数限りないナンパに遭遇した。妹がパリに住んでまだ2年ほどのころ、遊びに来ていた母を美術館に案内していたときに美術館警備員にナンパされたということがあった。明らかに勤務時間中の警備員は「ぼく、このあと仕事が○時に終わるから、そしたらお茶飲みにいこうよ」と妹を誘ったので、妹は「母と一緒なので(だめです)」と断った。すると彼、「それなら、ぜひお母様もぜひご一緒に!!!」とのたもうた。さすがのフランス人、お母様付きでもナンパを諦めない、と、聞いた誰しもが驚嘆した、という話。

一方、日本のナンパにはこうしたエスプリは感じない。私の大学院生時代、常磐線沿線に出没していた、なぜか東大女子を見分ける特殊能力を発揮するテンガロンハットをかぶったナンパオヤジがいた。なんのことやらさっぱり、なのだが、ある日、わたしが研究会での発表を控え、日暮里駅に近いドトールの2階で発表資料を読み込んでいたときのこと。私の資料をちろちろ覗き込んでいた、明らかに周囲に溶け込まないテンガロンハットの50歳前後の男性が、「勉強しているの?」と、にこにことわたしに話しかけてきた。無視するのも感じが悪いので、「あぁ……これから研究会で、発表なんです(一人にしてもらえないかな、の意)」と言ったら、「そう、きみ東大?」と尋ねてくる。「そうです」と言ったら、「僕、東大で教えているんだよ」と言い始める。え、先生なのか、とちょっと引き気味になると、自分は普段はアメリカに住んでいるのだけれどもいまは東大の理系の研究室に一時的に在籍しているのだと説明する。理系にはいろんな客員研究員や授業を持たない教員などが無数にいるので、なるほどと思いつつ、話をやめない彼にうんざりし、「先を急ぎますので」とドトールを出ることにした。翌日、研究室で「昨日変な人に会ってさ」と後輩女子にその話をしたら「え、その人、テンガロンハットかぶっていませんでしたか?」と言い始める。「そうだよ」とわたし。「それならその人、私がナンパされた人と同じです。なぜか東大女子を見分ける特殊能力があって、他にも声かけられた人がいるんです。常磐線沿線に出没しがちです」と教えてくれた。ちなみに彼がほんとうに東大で教えているかどうかについて、真実はいまだ明らかになっていない。

私の場合、ナンパされていたのに、そのときは気づかず、あとで気づくケース、というのもある。ニューヨークにいた頃、ルームメートの所属する研究室のハッピーアワーというイベントへ行ったことがある。それはジャンルを超えた研究者の交流会で、言ってみれば大学院生の懇親会だったのだが、そこで出会ったブライアンという名の黒髪の青年に「きみ、写真の研究者なの?ぼくは映画研究者なんだ。ジャンルも近いから電話番号交換しようよ。ぼくね、日本に行ったことがあるんだよ。リュージュっていうスポーツをやってて、長野五輪のときは補欠で行ったんだ。競技には出られなかったけど。日本はいい国だね!」とまくしたてられて、電話番号を交換した。その2週間後、ルームメートとともに大学で行われた夜間映画のイベントに行ったとき(上映作品は是枝裕和「幻の光」だった)、ルームメートが短髪の男性と立ち話を始めた。その男性が私に話しかけるので、「はじめまして、戸田昌子です、写真の研究をしています」と自己紹介をした。その男性は、どうやら映画の研究をしていて、日本にも長野五輪で行ったことがあって、名前はブライアンだと言っている。前に会ったことのあるブライアンと似た経歴なので、私は思わず、「私ね、映画の研究者で、リュージュやってて、ブライアンという名前の人に会ったことがあるよ」と応答した。すると彼は「そう、ぼくがそのブライアン」と言った。同一人物であった。「お、おぅ……」となった私は、「だってほら、髪型が……違う……」などと、もごもご言ってから謝ることしきり。その脇でルームメートが爆笑している。あまりの恥ずかしさに早々に退散した帰り道、ルームメートは「そもそも彼は昌子に気があったんだから!あれはさすがにひどいねー」などと言う。そもそもの電話番号交換はナンパだったのか、とショックを受けている私。かたわらでルームメートは「これで、完璧に諦めてくれたね。ユー、バッドガール!」などと喜んでいる。それと知らずに撃沈してしまうまで、ナンパに気づかないというのも困ったものである。

ちょっとびっくりするようなナンパと言えば、これもだいぶ昔の話だけれど、研究会に参加するために大阪に出かけたときのことだった。二泊三日のうち用事は飛び石だったので、2日目はすることがなかった。ひとりきりだったし、真夏だったし、東京を離れていて解放感があったためか、普段は履かないようなシフォンの焦茶色の短いスカートにNatural Beauty Basicのヌーディーなサンダルを履いて、ブルーのノースリーブで美術館へ出かけた。千里中央の駅でコーヒーを飲んでから駅のホームに立っていると、「日本庭園はこちらですか?」とかなり高齢のおじいさんに尋ねられた。フリーパスを使って日本庭園へ行きたいのだという。私は万博公園へ向かっていたので、「同じ方向ですからご案内しましょう」と、どうせ暇なこともあって親切心を出し、日本庭園まで案内することにした。道中、その方が長年にわたり鰻屋のご主人だったこと、仕事はもう息子さんに譲ったのだという話を聞く。しかも生まれてこの方、大阪を一度も出たことのないという81歳であった。そんな話をしているうちに日本庭園に着いた。「日本庭園はこちらです、私は万博公園まで参りますので」とお別れしようとしたら、「どうせ暇なので、美術館、僕もご一緒します」と言い始める。私は少しためらった。その方は少し足腰がおぼつかないし、なにしろこれから私が見に行く展示はメールヌード、しかもファットヌードの展示である(ローリー・トビー・エディソン展、国立国際美術館、2001年)。おじいさんは卒倒してしまうかもしれない。「写真ですよ?あまり面白くないかも」と言ってはみるが、あまり具体的に言うわけにもいかず、らちがあかないので、ええい、ままよ、と同行することにした。駅を降り、ゆっくり歩いて美術館へ向かい、男性器の存在もあらわな写真を、(普段こんな写真ばかり見ているわけではありません)と心のなかで言い訳しながら、展示室をまわっていく。おじいさんは黙ってゆっくりついてくる。展示室を出るとほっとして、日本庭園へと向かうことになった。到着すると、おじいさんは「おつきあいさせてすみませんね、お茶でもおごりましょう」とペットボトルのお茶を買ってくれ、日本庭園を眺めながらふたりでお茶を飲んだ。時間はゆっくりと経ち、夕闇が迫ってくる。では、そろそろ帰りますと立ち上がるとおじいさんは「今日は、勇気を出してお声をかけてほんとうによかった。とても楽しかったです」と言われ、私の両手を握りしめた。見ると、目には涙が浮かんでいる。「電話番号はお聞きしません。このまま綺麗にお別れしましょう。今日の思い出は冥土の土産になります。どうもありがとう」とおじいさんは重ねて言う。当方としては道に不案内なお年寄りをエスコートしていたつもりが、どうやらナンパされていたらしい(よくよく考えてみれば、生まれ育ちも大阪のおじいさんが、東京から来た若い娘に電車の乗り方をたずねるはずもないわけである)。けれどおじいさんは真剣である。なんと言っていいかわからないまま、こちらこそ、楽しかったです、と、私はもごもご言って、呆然としながらお別れをした。東京に戻ったあと、母にこの話をしたら、「あら!それはまあちゃん、とってもいいことしたわねぇ!」と快活な声を出されて、気持ちがすっきりした。ときどき思い出すナンパ話である。

先日、美しいダンサーの友人と、久しぶりにお茶をした。海外生活の長かった彼女は、コロナ禍で鬱屈していて、そろそろ海外へ踊りに行きたいのだと言う。二人でどこがいいか、根拠もなしに適当なことを言い合っていて、南イタリアがいいんじゃない?となった。南イタリアといえばやはりあれよね「苦い米」って映画があるじゃない、と私が言う。「ああ、あれは父のfavoriteなのよ」と彼女が応える。「あの映画すごいよね、ひらひらのワンピースをお股のところでたくしあげて、田植えをするじゃない。信じられる? ワンピースで田植えよ!」と私が言うと、「でもイタリアで田植えに出る女の子たちって、あれでナンパしたりされたりして、デートの相手を見つけるのよね、そのために田植えに行くでしょう」と彼女。確かに南イタリアの田植え労働にはそういう文化的背景があるのだとどこかで読んだことがある。納得しかかったとき、「でも、うちの祖母はまさにそれで祖父に見初められたのよ」と彼女が言い始めた。それは、友人の祖母が川に洗濯に行ったときのことである。お着物の裾を(まるで「苦い米」のように)お股のところでたくしあげて、両足を川に突っ込んで、ごしごしと洗濯をしていた友人の祖母を、通り過ぎる汽車から見初めたのが、その友人の祖父であった。彼は会津の人で、会津戦争のあと北海道に追われたが、樺戸の刑務所の囚人に作らせた家具を内地で売る仕事で成功した商人であったという。ビジネスに成功して会津に凱旋し、そこで友人の祖母に出会った。「でね、その足がね、白くて立派な太腿だったらしいの!祖父はそれを見初めて、人を遣って祖母に申し込んだの」と友人は言う。たいへんなかなかに風雅で色気のある話。

ある日、私がふと「最近ナンパされないんだよね」とつぶやくと、夫がふうんという感じで、「最近ってどれくらい?」と聞く。ちょっと考えて私「そうね、15年くらい」と答える。「15年はちっとも最近じゃないじゃないか」という言葉を飲み込んでいる様子の、しばしの間があったあと、夫「分かった、それじゃあ質問を変えよう。ナンパされたい?」と尋ねてきた。しばし考えたあと、私「んーとね、ナンパを断りたい」。しばらく押し黙った夫だったが、その後「……わかる」とつぶやいた。そんな私であるが、つい最近、京都で久しぶりにナンパされてしまい(京都め!)、せっかくの長年ナンパされなかった歴が破られてしまった。いささか残念なので、この話は今回は、やめておく。

むもーままめ(29)光の夏がやってくる、の巻

工藤あかね

立ったまま原稿を書くといつもと違う思考回路が刺激されるような気がして洗濯機の上にパソコンを置いて水vs電気を企んでみたけれどきっと電気は水にかなわないだって海につながっているから雨雲からぼたぼた落ちてきて水溜りができたところに長靴履いた小さい頃の私がちゃぷちゃぷやって遊んでいる今だって長靴あるけど水が入り込んで足がぐちゃぐちゃになるには水がたりないどぶがたりない長靴の短さが足りない喉が渇いた水が足りない肌が乾燥している水が足りない育てていた植物の元気が足りない水が足りない太陽が足りない光が足りない光が足りないってどういうこと眼科の医院に光明って名前がついたところを見かけた光は必須なの闇と光どっちも必要だけどみんな光が好きなんだね瞼を失った人は自分で闇を作れないのが苦しいらしいからみんな自分がシャットダウンできる能力あるのにシャットダウンはどこにある睡眠中にあるのいやないねだって夢ずっとみてるもん私の闇はどこお寺の胎内巡りをした時も本当の闇はなかった闇に慣れておきたいのに外に出たらモグラの気持ちが少しわかって監禁されてたヨカナーンも外に引っ張り出されて目が潰れそうだっただろうな目って一体なんなの見るっていったいなんなのじゃあ聴くってなんなの匂いってなんなの感覚ってなんなの幻想なのわたしだけのものなのみんなのものなのわたしとみんなのものなのわたしとあなたのものなの境目がわからなくなったとき息吸ってるのか吐いてるのか止めてるのか混乱するエラ呼吸ができる生き物はいいね水陸両用はかっこいいね空と地上の区別がない生き物はいいね聞こえない声で鳴く鳥はいいね聴こえる声で鳴く虫もいいね田んぼでカエルが鳴いて怒っている住民とか温泉宿で川の流れがうるさくて眠れないと文句を言う人がいるらしいけどその発想はなかったないろんな感性の人がいるね雑音ってなに雑草ってなに自然の音ってなに人工物ってなにクリオネみてたらこんなに小さくても生きてるんだと思ってうれしかったしクラゲなんてこんな単純な体なのにすばらしく美しく生きている命の尊さに涙が出る気がしたから夏の終わりに海でクラゲを脅かしてあげないでみんなあっちだって必死で生きてるのだからクマだってイノシシだってハクビシンだってみんなそっとしておいてあげてもしかしたらなついてくれないかなクマちゃんにおんぶして学校に通いたかったイノシシの背中に乗せてもらって大阪城まで行ったりハクビシンを抱っこしてたぬきとレッサーパンダの違いをみんなに教えたりできたらいいのにかわりにクマちゃんがクマ仲間に人間の友達連れてきたよって言ってどんぐりご馳走になったりしないかないい大人なのにこんなことばかり言っていることをぜったい反省しない私はなかなかの強情っぱりだと思うもうすぐ光の夏がやってくる

ゆうべ見た夢 03

浅生ハルミン

二つの夢。二つ目の夢に出て来た私の弱音は、「結婚」という言葉から私が無意識に連想する事柄です。「夏」といえば「暑い」、「階段」といえば「つらい」、「発車」といえば「オーライ」などと同じように、「結婚」といえば「できない」なのです。長い間にそうなりました。その原因を考えることはむしろ私の趣味となりつつあります。ですので、この文章をお読みになったどなたも回答をお寄せになりませんよう、お願い申し上げます。

夢のなかで私は、私に片思いをしている男の人に誘われて、お屋敷に向かっているようだった。男の人は私を誘っておいて、自分だけスピードを上げて自転車を走らせた。どんどん先に行ってしまった。出窓のある瀟酒なお屋敷に到着して、私だけがその家のマダムに会って、料理について取材した。取材を終えても、男はあらわれなかった。

あの店にいるに違いない。私はひとり、バラック闇市のような商店街の一画にある、イタリアンレストランへ入った。その男の人はいなかった。本を読むのが好きな三姉妹が、けらけら笑いながらソファー席に腰を掛け、
「こんど××さんの書いた料理の本が出るんだって。たのしみね」
と、いなくなった男の名前を持ち出す。
おやおや、ひどいね、まったく。なにもかも攫われた気分。夢のなか特有の、脈絡のない灰色の場所転換が起きて、目の前の風景が地下鉄駅の、むやみに長い上りエスカレーターに変わった。
これに乗ればいいんでしょう?
私は片方の足を段に乗せた。靴先に五円玉がこつんとあたった。拾う。あっと思って見まわすと、百円玉も落ちていた。拾う。そこいらじゅうに散らばっているお金を拾いまくる。五円玉と百円玉が、エスカレーターの上から、無尽蔵に転がり落ちてくる。

夢のなかで私は、実際には会ったことがない小説家Z子さんと同じ家に暮らしているようだった。同じ箪笥から洋服を出し、同じアイロンでしわを伸ばす安穏な毎日。居間の中央には、ホットカーペットよろしく人工芝を真四角に敷いた場所があって、その上に赤い屋根の犬小屋が建っていた。犬のほかに、紅茶色の綿をまるめたような可愛らしい小動物が部屋中をちょろちょろと駆け回っていて、私たちはそのようななかで暮らしていた。動物たちの吐き出すものが撒き散らされているなどということもなく、部屋はいたって清潔で、なんの匂いもしなかった。

寝床から這い出した私は、小説家Z子さんに恋愛について弱音を吐いた。小説家Z子さんは私からは見えない部屋にいて、それは台所かお手洗いのようだった。
あのさ、私がずっと独り身なのは何が原因だと思う? 周りに結婚相手を探している人はけっこういたはずなんだけど、その全員が私じゃなくて、私の友だちと結婚の約束をするみたいなの。
Z子さんはこう言った。
「大丈夫。私もだよ。そんな奴らには鰹節をかけてやれ」

以上のやりとりを、私たちは関西弁でかわした。小説家Z子さんが、唯一身につけていた赤い水玉模様のエプロンを脱ぎ捨て、人工芝の上で、仰向けに寝ている私に覆いかぶさってきた。柔らかな毛髪が顔にまとわりついて、まさぐると甘い匂いがした。Z子さんもそうなんだ……私は安らかな気持ちに包まれている。

「図書館詩集」8(この海岸にかつて栄螺が住んでいたんだって)

管啓次郎

この海岸にかつて栄螺が住んでいたんだって
さざえさんはここらで生まれたんだって
冗談ではないんだよ
ももち(百道)の海岸を散歩しながら
町子さんは磯野家を考案した
そのはるか以前には百済人もいただろう
やがて唐人もオランダ人も通過しただろう
おなじ道だって百通りに体験される
ここは交通の町、港あり
物資のメタボリズムをよく計算して
地球をレース編みにしてゆく
「驚異と怪異」ばかりを見て
頭がふつふつとおかしくなっているようだ
人間のようなかつらをかぶったさざえが
二足直立歩行で目の前を横切っても驚かない
世界を編みなすいろいろなかたちの生命が
少しずつ誤訳がつけいるとでもいうように
少しずつかたちを変えてきた
魚ひとつとっても
人の顔をした魚や
牛の頭をもつ魚や
猿の上半身をもつ魚がいて
まことに賑々しく次々にご来店される
ああなっては水の中に住めないどころか
どこにも住めない
生きている世界には住めない
となると死の世界のほうが
概して自由度が高いともいえそうだな
死において最終的に
あるいは最初的に解放された
自己か非自己を見出すとでもいうか
そうだよ昔はここらも湿地帯だった
その中の干上がった砂地の上で
モンゴル兵たちと地元の兵士が戦ったそうだ
いやいやの戦いだったろうな
何を賭けてか誰に命ぜられてか
兵士の生命は乾いた涙よりも軽い
(命令する人間は気楽でいいよ、ブツブツ
私ら一般兵が、ブツブツ
なぜ言葉も通じない相手と、ブツブツ
戦わなくてはならないのか、ブツブツ)
しかもモンゴル兵といっても草原から
はるばる来たわけではなく
半島の衛星国の兵士だったわけだろう
また別の時代だが武将というか
諸々の臣たちがこのあたりで
Vtacaxôyôをして無為に日々を
すごしたこともあった
「鵜鷹逍遥」といってね
どちらも鳥を使ったつれづれの遊び
飼いならした鵜に魚をとらせ
飼いならした鷹に小動物を追わせて
それで楽しむのだ、殺害を
まこと人ほどの害獣はなし
私を驚かせるのは『エソポのファブラス』
ESOPONO FABVLAS (1593) 天草ローマ字版
なんというみごとな書物だろう
『伊曽保物語』といってね
自分の人生もそのころから
Fablesとしてやり直せるなら楽しいだろう
さしあたって物語に逃げるなら
さしあたって物語か語り手になれるなら
この男エソポいと見苦しく
言葉もよくできないので
ふさわしい仕事がないといって
牛馬の世話係をしていたそうだ
(それ自体は良い、おもしろい仕事
動物相手の仕事は人間相手よりずっといい)
いずれにせよ私はエソポに遠くおよばず
物語を知らず知恵もなし
生きる術もなく仕事もない
さてさて学問でも修めるか
そこで読んだのは「狐と狼の事」

 有狐、子を儲けけるに、狼(おほかめ)をそれて名付け親とさだむ。
 狼承けて、其名を「ばけまつ」と付たり。
 狼申しけるは、「其子を我そばにをきて学文(がくもん)させよ。
 恩愛のあまり、みだりに悪狂ひさすな」といへば、
 狐「実も」とや思ひ、狼に預けぬ。
 (『伊曽保物語』下巻の第10)

ばけまつ!
なんと愛らしい名前でしょう
しかし狐も狼も犬といえば犬なのに
狐がそこまで狼を恐れるのはかわいそうだな
いっそ犬になってしまえば犬どうしの交友は
チワワとニュー・ファウンドランドだって
仲良くさせるのに
思うにこの物語の狐と狼は
人間の言葉を話すようになったのが敗因か
それで不平等が起源する
このあたりのことはよく考えるんだ
言語はどう使うのがいいのかって
ぼくの大きな悩みは
現実を取り逃してしまうことだった
たとえその場に居合わせても
ほとんどのことはただぼくに関与せず
過ぎてゆくのだった
あまりにあまりに少なくしか
気づくことも知覚することもない
それを言い出せば
現実を知ることはできない
すみずみまで知ることはできない
ごく粗いスケールの描写ができるだけ
そして知覚を少しでもつなぎとめて
おきたいと思うなら
言語は避けられない
どれほど現実を知っても/知らなくても
言語はいわばすべてを「均して」くれる
心の手に負える程度にまで
ひどく単純化してくれる
言語にはまた一定水準の
熟達がありうる
だから
言語学習にうちこむことには
一定の実用性がある
簡単に確実に生きるために
ぼくはエソポに話しかけたくなった
いやね、どれほど話しかけても答えはないが
物語は物語に転生するし
文字は文字を反復する
誤訳だっていわばそれは接木の一形態で
根付いて成長をはじめるならそれでいいわけだ
ぼくがどれほどラ・フォンテーヌを好んでいるか
きみは知らないでしょう
「フランス文学の絶頂はラ・フォンテーヌとランボー」
とミシェル・ビュトールはいっていた
そしてラ・フォンテーヌはエソポの模倣者
それを別の言語において模倣することもできるだろう
たとえばこんなふうに

 狼は少し有名になりすぎた
 その土地の羊たちのあいだでね
 これからは頭の勝負
 そうだよ、おれが羊飼いになってやろう
 そんな格好をして、ぼろぼろのコートも着て
 適当な棒を杖にして、バグパイプも準備
 帽子にはちゃんと書いておいた
 「おいらはギヨ、羊飼い」
 こう姿を変えて
 杖に助けられ二足歩行で
 偽者ギヨは羊に近づく
 そのころほんもののギヨは
 若草にねっころがってお昼寝の最中
 犬も寝ている、バグパイプも寝ている
 羊たちも大部分がうとうと
 しめたと思った偽者は
 羊飼いを起こさないようにして
 羊だけを連れ去るために
 言葉を使おうと思った
 仮装だけでは足りない気がして
 これが失敗のもとでした
 狼には羊飼いのことばを
 まねることができなかったのだ
 狼の声音が森にとどろき
 みんなが一斉に目をさました
 羊たち、犬、ほんものの羊飼い
 あれあれ、みんな大騒ぎ
 ところが偽ギヨ、コートを着込んだばかりに
 足がもつれて逃げられない
 杖もバグパイプもじゃまになり
 身を守る機敏さを失った
 ああ、ああ、狼は
 狼として終わることができなかった
 そういうことだね
 悪巧みは必ずしっぽをつかまれる
 「馬脚をあらわす」というが
 「狼尾をあらわす」という言葉はない
 言葉知らずの狼に
 人間のまねはむりだった焉
 身のほどを知れよ焉
 狼は狼らしくするしかない焉
 そしてギヨはバスク人のように
 ユタ州かチリに移住するしかない
 (ラ・フォンテーヌ『寓話』、岩波文庫の今野一雄訳を参照した)

ともあれ教訓を得て、ぼくは
狼としての自分を偽らないことにした
狼として生まれたなら狼として死ぬ
ただそのごまかしをなくすための一生だった
そんなところでどうかな?
けれども人間世界は無情の辺土
古来、人間世界を追放された人間を
人狼として遇した歴史あり
なんらかの罪を犯して
人でなしと見做されるようになれば
人々は人狼を思うがままに打ち殺す
ざんにんなことだ
事実であれ想像であれ
歴史も物語も血まみれだが
さしあたって
この街はいい街
地形が好きなんだ
今日はこれから海沿いをぐるりと歩いて
海ノ中道まで行ってみようか
なんという奇跡的な地形
と思っていたらあれあれ
なんだこの人工島は
湿原も干潟も省みず
海に具体的な蜃気楼を出現させたのか
そこに住むつもりかニンゲンばかりが
海の生きもの空の生きものを追放し
架空のニンゲンばかりで自足して?
恐ろしいことをするなあ
信じられない愚かさ
居住の冒険主義はやめよう
海に人は住めない
海に支えられて
陸でつつましい村を作ればいい
「シティ」はいらない
すべて開発=利益の計略
浅はかな未来像
せめて作ってしまったこの人工島を
もういちど土地の鳥獣虫魚に返して
コンクリートの皮膜を剝がして
あめつちの論理に百年ほどまかせて
リワイルディングを生きさせてほしい
いや、冗談ではないんだよ
それ以外には未来はないんだよ
ニンゲンにとっても
千年の門をもつ都会なら
千年を過去の生態系に探るべし
過去にこそ未来あり
その逆説のみが生命を救う
きわどく細い砂洲を歩いて歩いて
島に向かえばそこで金印が見つかったというので
幽霊の群衆がさわいでいた
金印を落としたという者も
その金印を使ったという者も
よく探せばどこかにいるのかな
死後の魂として
歴史とは幽霊の発生装置
ダンテの地獄も
チリの露天掘りの銅鉱山も
いまここに広がっている
ただ見えないだけ
陸繋島は海の犬
つながれて海を見ながら
潮のような大声で吠えている
島にむかって
半島にむかって
ニンゲンよすべてを海に返せよ
海と陸とそのひとつらなりの生命に返せよ
島の頂上にはその祈りを
なんとかかたちにしようと
バリ島のバロンの仮面をつけて
ひとり舞う少女がいた
天気雨の夕陽の中で
ニンゲンであることをやめた
彼女の舞がニンゲンを批判する

福岡市総合図書館、二〇二三年三月二一日、雨

本小屋から(1)

福島亮

 日本に帰るために、ずいぶん多くの本を古本屋で売った。それでも日本に送った本の数の方が多い。フランスは文化政策の一環として、フランス語の書籍や文書を国外に郵送するための特別料金を設けており、私も当然それを利用した。クロネコヤマトの単身引越しサーヴィスを使うという手もあるのだが、貧乏学生が手を出せる金額ではなかった。まあ、特別料金とはいえ、全部ひっくるめればかなりの金額になる。それを見越して、やりくりはしていたが、実際に荷造りしてみると、一度に送れる量が思ったよりも少なく、さらに深刻なことに、一度に運べる量はもっと少なかった(私はエレベーター無しのフランス式7階、ようするに日本でいう8階に住んでいたのである)。本は砂嚢用の頑丈な袋に詰め、結束帯で口を縛った状態で送る。一度に運べるのは20キロが体力的に限界だった。あたふたよたよた郵便局通いをしていたから、結局いくらかかったのか計算する余裕はなかった。しようと思えば送り状があるからすぐに計算できるのだが、気分の良いものではないから、計算はしない。

 ある知人は、書籍をすべてデジタル化し、iPadひとつあれば事足りるよ、と得意そうにしていた。うらやましくもあるが、私の場合、きっとそうはなれないだろう。原稿も、書類も、あらゆるものがPCひとつで済むのは便利だが、画面を睨み続けていると目の奥の方が痛くなってくる。それに比べて、紙の本は目が疲れないし、お気に入りのペンや鉛筆で書き込みできるのも楽しい。付箋を貼り付けて好きな頁を好きな時に繰ることができるのも便利だし、時には関連する記事の切り抜きを挟み込んだりもする。ちなみに、私は小学生が使うような赤と青が半々になった鉛筆を愛用している。帰国も近くなった頃、国立図書館で作業していると、隣の席の若い女性が小さな声で「これ、どこで買ったの?」と囁いた。これ、というのは、赤・青鉛筆である。文具屋で見つけたそれは、よくある六角形や丸形の軸ではなく、三角形の軸をしたいわゆる「おにぎり鉛筆」というやつだった。文具屋で見つけたんです。たくさん持っているから、よかったら一本どうぞ。

 こんなふうに、赤、青、黒、さらにはダーマトグラフの黄色で着色された本たちだが、さすがにそれらすべてを連れ合いの家に置くことはできない。5年前、私が渡仏したのと同じタイミングで、連れ合いは東西線沿いに単身用のマンションを借りた。帰国するたびに私もそこにお世話になっていたのだが、何しろ一人用の部屋なので本を置くスペースはない。というか、実は連れ合いもずいぶん本を持っていて、それらによって居間はおろかクローゼットの中まで占領されているのだ。

 そこで、帰国後すぐ、本小屋を探すことになった。本を置くための部屋。もちろん、贅沢は言えない。物置、あるいはプレハブ小屋のようなもので十分だと思いながら物件探しをした。幸い、良い不動産屋と巡り合い、都心から少し離れた小田急線沿いに本小屋が見つかった。大学生の頃住んでいた西武新宿線沿いの、列車が通るたびに揺れる木造アパートよりもさらに安い家賃なのだが、環境は格段に良く、いまのところ申し分ない。引っ越した当初は、あまりにも周囲が静かなので心細くもあったが(ベルヴィルでは常に通りから音楽が聞こえていた)、それも時間が解決してくれた。物音ひとつしない部屋で本を読んでいると、遠くの方を走る車の音が聞こえてくる。そうだ、15年前は、それが日常だった——。

  *

 一人暮らしにずっと憧れている高校生だった。群馬県渋川市祖母島。小学生の頃から幾度となく発音し、読み、書いてきた住所だが、いつかそこから出て一人暮らしするのだと、物心ついた頃から思っていた。実家の周辺には、「島」という字がついた地名が多く、それはおそらく吾妻川の流域に点在する小さな地域を示しているのだろうが、この「島」という文字を見るたびに、外と遮断され、幽閉されているような気持ちになったものだ。じつは同じことを、マルティニックの知人から聞いたことがある。その知人は、マルティニックのことを「島(イル)」と呼ばれるとあまり良い気分がしない、と言っていた。その言葉を聞いた時、知人の気持ちが、少しだけわかるような気がした。

 幽閉というのは、移動の自由がない、ということ。もしかしたら「島」と呼ばれる場所はどこもそうなのかもしれないが、徒歩や自転車で移動する人はほとんどいない。運転免許が取れるようになると、一人一台自動車を手に入れ、たった200メートル離れた所に行くのにも自動車を使う。自動車道の両脇にあるべき歩道はほとんど整備されておらず、落ち葉が積もっていて、歩くのは難儀だ。自動車以外の移動の自由のなさが何よりも息苦しかった。私の故郷において、一人前であるとは自動車を運転できるということであり、運転免許を持たない私は今でも帰省すると肩身が狭い。

 大学に入り、中野区沼袋のアパートに引っ越した日、荷運びをしてくれた父がそのままアパートに一泊した。3月末で、まだ寒かった。沼袋をまだよく知らない二人は、どこで買い物をしたら良いのかわからず、とりあえず駅の近くにあった100円ショップでインスタントコーヒーを買い、電気ケトルでお湯を温め、飲んだ。手のひらに収まりそうな小瓶に入った黒っぽい粉を溶かすと、その色は薄く、味は焦げたパンのようだった。父もそう思ったようだが、何も言わず、色つきの湯を啜っていた。二度と飲まないだろう、と思いつつ、食器棚の奥にコーヒーの小瓶をしまった。悠長なことはしていられない。一服したらバスに乗り、中野駅の近くのドン・キホーテに買い物に行くことにしていたのだ。沼袋から中野駅までは徒歩で20分もあれば行くことができる。平和の森公園の前を通り、真っ直ぐ行かずに新井天神通りに曲がり、中野通りの桜並木に出る、という行程は、住んでしばらくしてからわかったのであり、引っ越した初日は、とりあえず中野駅行きのバスに乗るだけで精一杯だった。私はSuicaで支払いを済ませ、後に続いて父もバスに乗った。父は緊張していたのか、何も喋らなかった。普段自動車に乗っているだけに、その自動車が使えない状況が不安だったのだろう。

 バスのなかで二人は揺られていた。どんどん乗客が乗り込んできて、身動きできなかった。ようやくバスが中野駅につき、降りようとした時のことだ。お客さん! 運転手が大きな声を出し、父を睨んでいる。そこでようやく発覚したのだが、父は乗車料金を支払っていなかったのである。私がSuicaをタッチしたのを見て、2人分支払われたと思い込んでいたようだ。慌てて料金を支払い、バスを降りると、父は今にもベソをかきそうな顔をしていた。

 その後、二人で何をしたのか、よく覚えていない。ドン・キホーテで買い物をしたはずだが、何を買ったのかはっきりしない。覚えているのは、父の歩みが非常にゆっくりだったということだ。これだから田舎の人は、と思った。自動車ばかり乗っているから、足腰が弱いにちがいない、と。そうではなく、父の体力が目に見えて落ちていると、どうしてわからなかったのか。一人暮らしをはじめた嬉しさに、父の変化に気づいていなかったのだ。父の胃に影が見つかったのは、それからしばらくしてからのことである。

 尽きていく時間の流れは、早いような、ゆっくりしているような、奇妙な実感を伴っていた。葬儀を終え、沼袋のアパートに帰って食器棚の中をふと見ると、そこにはあのインスタントコーヒーの瓶があった。粉が湿気で固まり、飲める状態ではなかった。だが、捨てることはできなかった。

  *

告知

6月9日から11日にかけて、調布市せんがわ劇場で「死者たちの夏2023」と題した以下のようなイベントを行う予定です。

公演情報
■ 音楽会 Music Concert
「イディッシュソング(東欧ユダヤ人の民衆歌曲)から朝鮮歌謡、南米の抵抗歌へ」
6月9日(金)19:00 START
出演:大熊ワタル(クラリネット ほか)、
こぐれみわぞう(チンドン太鼓、箏、歌)、
近藤達郎(ピアノ、キーボード ほか)
解題トーク:東 琢磨、西 成彦 ほか

■ 朗読会 Reading
「ヨーロッパから日本へ」
6月10日(土)14:00 START
「南北アメリカから日本へ」
6月11日(日)14:00 START
出演:新井 純、門岡 瞳、杉浦久幸、高木愛香、高橋和久、瀧川真澄、平川和宏(50音順)
演出:堀内 仁 音楽:近藤達郎
解題トーク:久野 量一、大辻都、西 成彦 ほか

場所:調布市せんがわ劇場 京王線仙川駅から徒歩4分
料金(各日):一般3,200円/学生1,800円
リピーター料金:各回500円割引
ホームページ:https://2023grg.blogspot.com
お問い合わせ: 2023grg@gmail.com (「死者たちの夏2023」実行委員会)

音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)
照明・舞台監督:伊倉広徳
衣装:ひろたにはるこ

■ 実行委員長:西 成彦(ポーランド文学、比較文学)
■ 実行委員(50音順)
石田 智恵(南米市民運動の人類学)
大辻 都(フランス語圏カリブの女性文学)
久野 量一(ラテンアメリカ文学)
栗山 雄佑(沖縄文学)
瀧川 真澄(俳優・プロデューサー)
近藤 宏(パナマ・コロンビア先住民の人類学)
寺尾 智史(社会言語学、とくにスペイン・ポルトガル語系少数言語)
中川 成美(日本近代文学、比較文学)
中村 隆之(フランス語圏カリブの文学と思想)
野村 真理(東欧史、社会思想史)
原 佑介(朝鮮半島出身者の戦後文学)
東 琢磨(音楽批評・文化批評)
福島 亮(フランス語圏カリブの文学、文化批評)
堀内 仁(演出家)
■ 補佐
田中壮泰(ポーランド・イディッシュ文学、比較文学)
後山剛毅(原爆文学)
■ アドバイザー
細見和之(詩人・社会思想史)

『アフリカ』を続けて(24)

下窪俊哉

『アフリカ』最新号(vol.34/2023年3月号)をつくった直後に、ある人から連絡があり、「下窪さんは文フリにはやっぱり出たくないですか?」と言われる。
 文フリというのは文学フリマの略称で、自分で本をつくっている人たちのフリーマーケットと言えばいいか。東京の文フリには13年ほど前に誘われて足を運んだことがあったが、京急蒲田駅のそばにある大田区産業プラザPiOの1階展示ホールが会場で、調べてみたら、現在の規模に比べて(出店者も来場者も)3分の1といったところか。今回は1435の出店と1万人を超える来場者があったそうだ。1日だけ、5時間だけのイベントである。会場は満員電車状態だったという証言もある。そういうのが好きな人はたくさんいるんだなあとボンヤリ眺めている。

 学生だった20数年前には、詩を書く人たちがつくった本や同人雑誌を売るフリマを手伝ったことがあり、その後、なぜか自分が編集長となって創刊した文芸雑誌『寄港』では、メンバーの中に詩のフリマに出たいという声が上がり、どうぞ、となった。いちおう自分も会場に足を運んで、挨拶くらいしたのだったか、その頃からあまり積極的ではなかった。
 という話でわかる通り、その頃、誘われたのは主に詩集や詩誌のフリマだった。小説や評論を書く人は新人賞を目指すのが当たり前のように言われていたのでそれどころではなく、今の『アフリカ』によく載っている雑記のようなものを精力的に書いている人は見当たらなかった。もしかしたら、雑記を書く人たちはいち早くウェブの世界に活動の場を移して、ブログのようなものに向かっていたのかもしれない。
 今回、Twitterで文フリの様子を眺めている限り、もう昔のようではなく、それなりに多彩な書き手が集まっているとは言えそうだ。しかしこれだけウェブの発達した時代になって、紙の本をつくって売ったり買ったりしたい人がそんなにたくさん出てきているのかと思うと奇妙な感じもする。昨今のアナログ盤ブームと似たところがあるだろうか、どうだろうか。

 20代半ばで会社勤めというものを始めてからは、会社でもツマラナイ原稿をたくさん書かなければならず疲れてしまい、それまでやっていた文芸のサークル活動のようなものを続けるのは苦しくなってしまった。なので止めることにしたのだが、ついでに会社も辞めてしまい、つまり失業してしまった時にある人から短編小説の原稿を託されて、それを載せる雑誌をつくろうとして始まったのが『アフリカ』だった。この話は前にも書いたかもしれない。
『寄港』と『アフリカ』の違いについては、2016年12月のトーク・セッションで写真ジャーナリストの柴田大輔さんから訊かれて話している。

 一番大きかったのは、『アフリカ』では文芸をやる人たちのサークル活動をしなくなったことじゃないかなあ。即売会とか交流会といったものをやらず、参加もせず、寄贈もほとんどを止めて……。変人だと思われたかもしれませんね。ただ書いて本をつくって読んでるだけになった。『アフリカ』がはじめて人目に触れたのはその頃ぼくが通っていた立ち飲み屋だったんです。はじめて買ってもらったときは嬉しかった。それまで文芸をやってる人同士で読み合うことしかしてませんから。

 それに応じて柴田さんは「同業の人たちじゃないところに、はみ出たんですね」と言っている。
 どうして「はみ出た」んだろう? と考えてみる。同業(同好)者の集まりはもう散々やったので、もういいや、となったのかもしれない。ひとことで言うと、飽きた。
 とはいえ、その頃(2006年)には私はまだブログも書いたことがなく、ウェブサイトをつくって『アフリカ』の情報発信を始めるのはまだ3年ほど先だ。イベントにも出ず、寄贈もごく限られた人のみ、ということは、たまたま出会った人に手売りしたり手渡したりする以外に読んでもらう方法はなく、早い話が売る気なし、宣伝する気なし、好き勝手につくっているだけである。気が楽になり、伸び伸びできた。
 そうなる必要が自分にはあったのではないか。でなければ、もう続けることができない、と。
 柴田さんとのトークでは、こんな話もしている。

 下窪さんは誰のためでもなく自分のためだけに小説を書く気持ちがわかりますか?
 そういう経験がないから、わかりません。わかるって言いたくないですね。
 ご自分ではそういうことをしてみようと思わない?
 常に読者がいたからでしょうね。幸いにも。少なくても、いたから。

 売る気がない割には、読者は必ずいると信じて疑っていない。これを自信というのかもしれない。また、自分すら他人と思っているところもありそうだ。『アフリカ』にはもちろん他の執筆者もいるわけなので、まずは身近なところに読者がいたのである。私も自分が、彼らの書くものにとってどのような読者になれるだろうか、と常に考えている。

 売る気というものをとことん薄めた理由として、私の暮らしにいつも余裕がない中でやっているということはありそうだ。書いて、読んで、つくる、それで精一杯なのである。本当はそれすら厳しいと言っていいだろう。こんなに余裕がないのに自分は一体何をしてるんだ? と、我に返るような時がある。売れもしない原稿をせっせせっせと書き、ワークショップをやったりして、バカじゃないのか、と。
 バカなのは認める。バカにならずにはやってゆけないこともあるのだ。『アフリカ』に助けられて、生き延びてこられたと思っているところが私にはある。生きるために書き、闘うために雑誌をつくっているのだ、と考えてみたらどうか。一体『アフリカ』は何と闘っているのだろうか?

 そんなことを思いながら、文フリに出るのは「やっぱり気が乗らないので」と返事していた。そうしたら、文フリに出るのだが、『アフリカ』も一緒に売りたい、ということらしい。それなら構わないというか、ありがたい申し出を受けて、私の手を離れた『アフリカ』だけ会場に向かうことになった。

「せかいのおきく」を心にしまう

若松恵子

阪本順治監督の最新作「せかいのおきく」が4月28日よりロードショウ公開されている。
今回は、白黒の時代劇。明治まであと10年という江戸末期を舞台にした青春映画だ。
溌溂とした青春というわけにはいかないけれど、主人公たちが「これからの人たち」なのだから、やはり「青春映画」と呼びたい。

黒木華演じる主人公「おきく」は、今は落ちぶれて長屋暮らしをしている武家の娘だ。母はなく、何かの理由でお家断絶に追い込まれてしまった父と2人暮らしだ。近くの寺で子どもたちに読み書きを教えている様子から、名家に生まれたらしいとわかる。今は長屋暮らしだけれど、周囲の人たちに溶け込んで、境遇を苦にせず、けなげに父を助けている。その「おきく」さんが、雨宿りをきっかけに2人の青年と出会う。羅生門を思い出させるような雨やどりの場面が印象的だ。紙くずを集めて紙屋に売る「紙くず拾い」の中次と糞尿を買い取って近郊農家に売る仕事をしている弥亮の2人だ。映画のパンフレットを引用すれば「わびしく、辛い人生を懸命に生きる3人は、やがて心を通わせるようになっていく」のだ。ご飯を食べて排泄するのは人間だれしも平等なのに、この社会で排泄物を片付けるという一番大事な仕事をする者が蔑まれ、邪険にされるという矛盾。その不合理を黙って引き受けて生きている弥亮を池松壮亮が魅力的に演じている。

当初短編映画として企画していたものを、撮影するうちに手ごたえを感じて長編にしたとのことで、第一章むてきのおきく(安政五年・秋)、第二章むねんのおきく(安政五年・晩冬)、第三章恋せよおきく(安政六年・晩春)というように題字が入り、物語が展開していく。章が変わる直前に、カラーの映像が少し挿入される。第一章の終わりでは、顔を洗う黒木華のアップがカラー映像に変わって、彼女の着物の色合いとともに、娘ざかりの素顔が美しくてハッとした。

おきくは、追ってきた侍に父を殺され、口封じのために喉を切られて声を失ってしまう。黒木華の演技は、後半、セリフの無いものとなる。一方読み書きができない中次は、自分の気持ちを言葉にして表すという事がうまくできない。話したり書いたりというコミュニケーションを奪われている二人の心の通い合いにセリフは使えない。セリフで説明しない阪本映画の真骨頂がここから始まる。

阪本映画を見ていて、泣いてしまうことが度々ある。「泣くところあった?」と聞かれることも多いのだけれど、物語の筋に泣いてしまうというのではなくて、俳優の佇まい、ふとした体の動きに胸を打たれて泣いてしまうのだと思う。阪本映画の良さは、たとえば「人間の真剣さ」や「まごころ」のような目に見えないものを横顔や、立ち居振る舞いによって見せてくれるところなのだと思う。そこに人間の美しさを感じて、いつも涙が出てしまうのだ。

おきく、中次、矢亮の三人のこれからがどうなっていくかまだわからないけれど、もうすぐ明治になると分かっている時点から見れば、もうすぐ士農工商も無くなって、自分の力一つで切り拓いていける世の中になる、きっと三人は自分の力を発揮していくだろう、もっと広い「せかい」に出ていくだろうと明るい未来を感じることができる。

コロナ禍で、辛い毎日を生きている若い人たちの姿を重ねてこの映画を見ることもできるだろう。日々懸命に生きている現在の若者への励ましも込められているこの映画を、心にしまっておきたいと思った

ぼくがおれに変わった日

篠原恒木

おれは昔、ぼくだった。
「ぼく」だった頃がこのおれにもあったのだ。生まれてこのかた、ずっと「おれ」だったわけではない。

四十年も前のことだ。ぼくは出版社に入社して、週刊誌の編集部に配属された。そう、この頃は「ぼく」だったのだ。右も左もわからず、ひっきりなしに編集部にかかってくる電話を取るのがひたすら怖かった。ぼくは間違いなく会社の中でいちばん仕事ができないニンゲンだった。そんなある日、デスクはぼくにこう言った。
「鎌倉の大仏にセーターを着せよう。おまえが担当しろ」
「は?」
「大仏様も外で寒いだろう?」
「はあ」
「そこで読者にお願いして、要らなくなったセーターを集めるんだ。その集まったセーターをパッチワークで大仏様のサイズに編む。出来上がったらそれを大仏様に着せて写真に撮る。どうだ、名案だろう」
「そんなこと、お寺が許すとは思えないのですが……」
「企画書を書いて、鎌倉のお寺に持って行け。そこでお願いするんだ」
「ぼくがですか」
「ほかに誰がいるんだよ」
ぼくだったおれは手書きで企画書を作った。縦書きの便箋二枚分になった。ワープロもPCもない時代である。企画書をデスクに見せた。
「まあいいだろう。これを明日お寺に直接持っていって、読んでもらったら、その場で話をまとめろ」
「あのぉ、来訪の旨を事前に電話したほうがいいですよね」
「しなくていい。いきなり訪問しろ」

ぼくはその夜眠れなかった。企画書をお寺の誰に読んでもらえばいいのだろう。その前に、こんな馬鹿げた、バチ当たりな企画をお寺が許可するわけがないと思った。だが無情にも朝になってしまった。ぼくは横須賀線、江ノ電と乗り継いで、長谷駅で降りた。そこから十分弱歩けば鎌倉大仏が鎮座する高徳院がある。しかし誰に、どのようにお願いすればいいのだろう。ぼくの足取りは重かった。だが、思い悩んでいるうちに高徳院に着いてしまった。拝観料を支払い、参道へと進み、青空の下で大仏様を見上げた。巨大だった。さてどうしよう。ぼくはすぐに寺務所を見つけた。もう行くしかないな、と観念した。場所はお寺の境内だ。これほど観念という言葉がふさわしい状況はないだろう。いや、ウマいことを言っている場合ではない。
「すみません」
寺務所でそう言うと、袈裟を着た男性の方が出てきてくれた。ぼくは名刺を渡し、
「ご住職様はいらっしゃいますでしょうか」
と尋ねた。
「どのような御用でしょうか」
ぼくはその人に封筒に入った企画書を渡して、企画内容のようなものを口頭で説明した。汗が噴き出ていた。袈裟を着た人は封筒を開け、便箋二枚に目を通し、静かに言った。
「このようなことは……お引き取りくださいませ」
ぼくには食い下がる気力がなかった。
「大変失礼いたしました。どうかお許しください。申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げ、ぼくは事務所を辞去した。顔は真っ赤になっていたはずだ。
「無理に決まっているじゃないか」
「無理に決まっているじゃないか」
「無理に決まっているじゃないか」
ぼくは何度も何度もつぶやきながら、いま来たばかりの参道を出口に向かって歩き、お寺の外へ出た。そのすぐ脇には電話ボックスがあった。ぼくは中に入り、十円玉を何枚か入れて、編集部の番号をダイヤルした。デスクが電話に出た。
「すみません、ダメでした」
「ダメ? 何がダメだったんだ?」
「鎌倉の大仏様にセーターを着てもらうという企画です。丁重にお断りされました」
「ああん? おまえ、いまどこにいるんだ?」
「鎌倉の高徳院ですけど」
受話器の向こうから呆れかえった声が聞こえた。
「嘘だろ? おまえ、本当に行ったのか?」

コンプライアンス、パワハラなどの言葉は影も形もなかった頃である。受話器を戻した瞬間、ぼくはおれになった。すっかり、完全に、これでもかというほど、やさぐれてしまったのだ。この仕事は、ぼく改メおれには向いていないと心の底から思った。あの日以来、おれはおれのままである。

エレガントマンション

植松眞人

 急に斜めに折れたり、行き止まったり、三叉路になったり。都市計画という観点が微塵も感じられない路地を歩く。近くを流れる一級河川が氾濫すれば、このあたりは見事に水没するという真っ赤な地図も見たことがある。そのためか家賃が安く、年寄りと外国人、そして、芸大の学生が卒業してからもこのあたりから逃げられないらしい。それでも町の鎮守の森はしっかりとあり、梅雨時に始まる大きな祭には法被をきた男たちが路地の角ごとに祭に協賛した商店や個人をを公表する看板を立てる。
 遠くでは祭り囃子の練習をしている太鼓の音が聞こえる。不思議なもので、祭り囃子が聞こえるだけで、さっきまで貧乏くさく見えた曲がりくねった路地が、意外に味のある路地のように見えてくる。そのことを知っているのか、法被を着た男たちも、普段よりも少し自信ありげな顔をして、知らず知らず道の真ん中を歩いてしまい、自転車の年寄りに迷惑そうな顔をされている。
 なんとなく目の前を歩く法被の男の後を追う形になる。そこに、別の法被を着た男が合流して目の前を二人の法被の男が歩いている。その後を付いていくと古いマンションのある三叉路にやってきた。男たちは互いに言葉を交わすと三叉路を右と左に分かれて行く。どちらの後を付いて行こうという気持ちも起きずに、古いマンションの前に取り残される。見上げると白い外壁には職人の手によって模様が付けられている。そこに長年の汚れが入り込んで、まるで薄い模様の入った風呂敷で包まれているかのようにも見える。そして、外壁には大きく太い文字が表記されていて、『エレガントマンション』とある。一昔前の美容室の店名によく使われていたようなゴシックのようでいて、払いの部分が妙に装飾されていたりする。『エレガント』という文字を表記するからには、文字の種類もエレガントでなければということなのだろう。
 そんなことを考えている間に、左右に分かれて行った法被の男たちの姿は見えなくなっていた。どちらかに付いていけば良かったのかと思ったが、もうすっかり出遅れていて、そろそろこの三叉路を右に行くのか,左に行くのかを決めなければと思いながら、ふと振り返るとまた別の法被を着た男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。(了)