初恋と結婚した女(上)

イリナ・グリゴレ

男に殴られたのはその時が初めてだった。男だけではなく、それまでの人生で誰にも殴られたことがなかったので、初めてのときのことをよく覚えている。その日は自分の結婚式だった。そのあとからずっと殴られるような日々が当たり前のように、日常の一部になったせいかあまりよく覚えてない。発熱の時の熱冷ましを飲んだ後とよく似ている、この感覚。もろもろして吐き気があるけど歩ける。自分を失うというより、どうしても元々自分というものが既にこの世に存在していなかったという感覚なのだ。

価値のない、何か、アスファルトに潰されたミミズのようなペタンコになった生物が乾いて、消えていく。そんな感じ。それだけ。ミミズの記憶と細胞がアスファルトに入る。雨ふるとそのアスファルトから湯気が出て、空に登って雲になり、また雨降ったら地面にいるミミズの一部になる。その繰り返しの人生。二人の子供を育て、笑って、食べて、太って、泣いて、仕事して、料理して、ただ忙しく過ごす毎日だった。殴られた跡、愛された跡と同じ、ほぼ残らないし、誰も知らない。自分自身もそんなことがあったかどうか覚えてないが、自分の身体が反応することを否定できなかった。例えば物忘れが激しいところ、家に帰りたくないところ。仕事が終わっても長い買い物と近所周りで小学生の子供を連れて冬でも足が霜焼けになるまで歩く。歩き方も早すぎて、食べ方も同じということも関係している。食べる時に、ほぼ噛めない。喉が詰まったことが何度もある。脳に酸素が届いていない感じが毎日ある。あとはよくため息が出る。怖くて、脳のCTスキャンをしなかったけど、きっと脳に何かが溜まっている。消しゴムのカスのようなもの。

結婚式のことも殴られたこと以外にあまりよく覚えてない。昔からこの忘れっぽいところがあったと思うほど、自分で自分の記憶を消しているように物事を忘れていく。まるで、この世のことを何も覚えていないままあの世に帰ろうとしているのではないかと自分も思う。例えば、子供の頃、過ごした家のこと、自分の両親のことは覚えているが、その後のことを覚えていない。暖かい家庭という言葉はよく当てはまるが、その温かさ以外のこと、二人の顔以外のこと、60過ぎた今ではよく覚えていない。畑の手伝いをしていたこと、大きな犬を飼っていたこと、母親の親戚、父親の親戚、従姉妹のことも覚えている。出来事よりも、人の印象、顔、言葉で覚えている。例えば2年前に亡くなった従姉妹のことを涙が出るほど覚えている。7年間も白血病と戦って、この7年間の間、たくさんの教会を訪ね、聖人の聖体を触った彼女は目の前で違う生き物のようになっていた。

彼女は「リリ」という。綺麗な名前だと子供の時から羨ましいと思ったことがある。リリと毎日のように電話で話して、姉妹のようなつながりだった。リリは自分が絶対に治ると信じていた。それでも60歳になる前に検査のために入院して、その夜に寝ながら死んでしまった。リリらしいと思った。元気な89歳のリリの母はこう言った「彼女は自分が死んでいることをいまだに知らないままだ」。

リリは自分の結婚式に来ていた。全ての親戚と共にあの時のシーンを見たはず。リリの方は自分より大きなショックを受けたのではないかとたまに思っている。彼女は生涯結婚せず、街のクリーニング会社で働き、実家の狭いアパートに住み、50歳に病がわかってからは毎週のように国内や隣国へ巡礼に行き出した。

田舎では、結婚せず子供も産まない女性はこのような病気になるのが不思議ではないと差別を受けることがよくあるけれども、リリは幸せだったと自分で思っていた3。人姉妹の従姉妹の中で結婚したのは未子だけ。お姉さんも子供も産んでないけれど、今も元気。だから病気とは関係がない。リリは人が良すぎて早く眠りに行っただけ。彼女は巡礼をしていた頃何を体験し感じたのか、少し自分に分かる気がした。確かに彼女のことは誰も知らないし、自分と彼女の母親以外、彼女のことを覚えている人はあまりいない。けれども、もしあの世で価値というものがあれば、彼女の魂が眩しい。この世での彼女は、夜の間に降った雪が次の朝になると溶けるというような存在だった。

リリと毎日何を話していたのも忘れてしまった。彼女からもらったイコンが山ほど残っていて、自分の寝室の壁を飾った。幼馴染と両親、親戚が集まった自分の結婚式のことを毎日のように思い出す。あの後、リリのがっかりした顔を一番よく覚えている。彼女は背が低くって、髪を短く切っていた。顔が白く、目は大きくて真っ黒だった。あの日、教会の前で自分が殴られた時、花嫁ドレスが汚れないよう持っていたリリは、倒れる自分を後ろから支えた。その時彼女の顔を最初に見た。顔というより、大きなびっくりした目を見た。絵画のようだった。自分は何が起きているのか分からなかったが、リリの目を見てこれは現実だと理解した。教会の庭にあった「生きている人」と「死んでいる人」に捧げる蝋燭をスローモーションで見た。後ろに倒れる前に。その時、「生きている人」の方の蝋燭が突如吹き始めた風で消えていくのが見えた。

その瞬間、雷が落ちたかと思った。それは彼が、自分の頭を殴ったのが信じ難いことだから。殴ったのと同じ手が自分の身体を触った手、手を繋いだ手、生まれたばかりの赤ちゃんを触った手だとはとても思えなかった。空から大きな石が自分の頭に落ちて、これは結婚してはいけないというサインだと閃いた。それは結婚する前に彼を愛しすぎたあまりに身体の関係を持ち、妊娠し、赤ちゃんを産み、村でお互いの家族に大恥をかかせたからだと思った。そのために教会の前でこの罪を起こした身体なのに白い花嫁姿をして現れた自分は殺されるべきだ、と心の中で思った。次の瞬間、教会の庭に咲いていた薔薇の匂いと自分の赤ちゃんの声で気を取り戻し、何もなかったかのように教会の階段を登って入った。立ちくらみしながら教会に並ぶイコンの目を見て、結婚する前に子供を産んだことは何も悪くないと覚り、そのまま式を挙げた。

しもた屋之噺(262)

杉山洋一

今日のミラノは薄ら寒い雨が降っていて、どんよりと昏く、ここ暫く年末に近づいて界隈が賑やかになってきたのが、すっかり落着いてしまったようにすら感じます。仕事ばかりが溜まってゆく、慌しなく浮足立った一カ月を振りかえりながら、本條君から送られてきた「炯然独脱」リハーサルの録音を聴いているところです。

11月某日 新山口ホテル
パレスチナテレビの記者が、30分前に同僚が爆撃で殺害されたことに憤慨して、ヘルメットも防弾チョッキも脱ぎ捨てた。スタジオの女性司会者も泣きじゃくっている。
イタリアでは洪水被害が拡大している。トスカーナ州などの中部イタリアを中心に、フリウリ・ヴェネチア・ジュリア州など北イタリアでも被害が広がっているそうだ。ミラノでも、大雨のたびに排水が追い付かず、冠水する地区は、被害にあった。
「炯然独脱」は一柳さんらしく、「夢の鳥」は野坂さんらしく書こうと、寸時を惜しんでホテルで机に向かう。とはいえ、余りに時間がとれず、パニック寸前。
円安が進み、対ドル151円。ガザでは複数の難民キャンプ爆撃との報道。コロナ禍、何度となくPCR検査に通ったサンボーン通りの検査センターのトイレに「はじめはヒットラー、そしてハマス。お前たちユダヤ人にガス室を」と落書きが見つかる。その傍らには、ダヴィデの星の落書きも残されていた。ミラノ郊外のユダヤ教を教えるイタリア人教師の家のアパートの壁に、教師の家番号とダヴィデの星が落書きされ、脅迫メッセージが書きなぐられていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台芸術村にて照通先生「香月泰男」演奏会。演奏中、聴衆からすすり泣きがもれ聴こえたそうだが、まったく気が付かなかった。泰男の戦時中の逸話などに、感じ入るところも多かったのだろうか。教育目的に書いたからと申し訳なさそうに仰るのだが、照通先生渾身の力作だと思う。題材はもちろん、初演に携わった教え子の皆さんへの愛情に溢れる。音楽には作曲者の人間性が生き写しになり、思いは音を通して演奏者へとひたひたと沁みてゆく。
一週間ぶりに最終便で羽田に戻ると、軽いショックをおぼえた。人が多く、建物は密集していて、マスクをしている人は数えるほど。山口ではタクシーの運転手が、「何故か田舎に行けば行くほど皆マスクをしているんです。人が集まる博多あたりなら皆マスクはしないんですけどね。この辺りでスーパーにマスクしないで入ると、じろりと見られるかもしれません。本来反対のはずですが」と笑っていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
渋谷のサロンで大井くんの弾く「華」を聴く。「さくら」の旋律が聴こえるところで、バチンと大きな音を立てて弱音ペダルが壊れた。フォルテピアノで聴く「さくら」は、旧い摺りガラスごしの懐かしい風景のよう。
都立大学のスタジオへ、山崎阿弥さんのレッスンを見学にでかける。空間把握、自分の躰のなかの空間把握と、自分が置かれている外の空間把握。自分の躰の内部のどこに音が聴こえるか。それが体内でどう反響して、躰がそれにどう反応しているか。
普段、自分が聴覚訓練で教えている内容にとても似ていて、食い入るように見てしまう。山崎さんの課題は、あくまでも自分が発音体になるための空間把握だが、聴覚訓練では、外部で発された音を、自分の体内でどう処理するかが課題になる。

11月某日 三軒茶屋自宅
サーニの作品演奏会。演奏者誰もが彼の音楽に肉薄していることに感嘆する。作曲者がその場にいて、音楽の実体を体現している。演奏者はそれぞれ彼の音楽を咀嚼した上で、作曲者に対して、それならこれでどうだろう、とむしろ逆に演奏者自身の音楽性をぶつけてゆく。そしてそこに、音楽上の有機的な化学反応が起こる。音楽が見事にコミュニケーションの媒体となっていることに気づく。イスラエル軍、以前から包囲していたシファ病院突入。世界保健機関の視察団が医療機能停止を報告。状況は絶望的だという。毎日陰惨な光景ばかりがニュースで報道され、我々はただ無力感に打ちのめされている。

11月某日三軒茶屋自宅
「考」リハーサルで、音を合わせるのも大切だが、いかに自発的に能動的に音楽をつくれるか試す。別の発音体である筝と尺八を、音楽を通して近づけてゆく。音が次第に有機的に変化してくる。音の聴き方を揃えると、まるでアナログラジオでダイヤルを回しながらラジオ放送を探しているときのように、突然ぴたりと音の輪郭が揃ってみえてくるから不思議だ。
夜はスーパーで購入した牡蠣と冷蔵庫に残っていた野菜でパスタをつくった。イタリア料理を日本で作る時、イタリア風の食材を揃えてイタリア風イタリア料理を作ろうとすると、決まって失敗する。日本の美味な食材をつかって、イタリア料理の基本をつかって調理をする方がおいしいものが食べられる。
日本では、ズッキーニを使うより、大根で料理をする方がおいしいとおもうし、無理にあまり美味しくないアンチョビーを使うのなら、シラスで出汁を取った方がいい。
先日リハーサルの後で、戸部の「ブリコ」というイタリア食堂にサーニとでかけたが、すっかり堪能した。コックさんは、これはイタリアで食べるイタリア料理ではないですから、と謙遜していらしたが、見事なブリのアラを見事にグリルして調理してくださった。どの料理もおいしかったが、ニコラは翌日、生まれて初めて魚の頸を食したが、ありゃあ旨いと伊文化会館のアルベルトに自慢していて、アルベルトも羨ましそうであった。イタリア人にとってみれば、日本でイタリア風イタリア料理を食べるより、ずっと美味しく感じたはずだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
和服の演奏家集団を指揮するのは初めての経験。和服を着ていると、舞台袖でもピンと緊張が張っている印象があったが、実際は賑やかで和やかなものであった。こちらが見馴れていない所為か、女性も男性も揃って少し引き締まって見え、出てくる音もよりきりりと彫りが深く感じる。我々が燕尾服を着る感覚なのだろうが、不思議に少し意味合いが違うようであった。燕尾服はあくまでも舞台上の衣装だろうが、恐らく演奏会以外でも使うことができる和服には、もう少し精神性が付加されているようである。今まで、邦楽の演奏家と演奏する機会は何度もあったし、彼らはしばしば和服で演奏されていたけれども、このように大人数を前にすると、感じる気配が明らかに違った。演奏会の気迫であろうが、緊張と興奮が実に塩梅よく全身にみなぎっていて、流石だとおもう。
今回の帰国では、どうにも町田に足を伸ばすことができなかったので、帰り路、すこし両親と話し込む。

11月某日 ミラノ自宅
一カ月ぶりにミラノの自宅に戻ると、庭の蔓草がすっかり紅葉して目にも優しい。朝1カ月ぶりにクルミを割って庭に置いておくと、先ず小鳥たちが代わる代わる啄みにやってきたが、昼前にはリスが食べていた。その傍らで烏が隙を狙いながら、ちょんちょんと移動していて、リスは時々、凄い剣幕で烏にけしかけては、自分の食料だと誇示してみせる。
作曲中、これなら書き進められると実感するとき、きまって腰椎のあたりにじんと鈍い電流が流れる感覚をおぼえる。これでいいのかと自問しながら作曲していると、奇妙に数列が自分に纏わりついたり、不思議と塩梅よく数字が揃うときことが少なからずあって、そんな時、誰かがそれとなく方向を知らしめてくれるようにおもう。
それと少し似て、今までの人生で、少なくとも2回、明らかに何か特別な力で助けられた。
小学生のころ走ってきた軽トラックと接触して、10メートルほど弾き飛ばされたときだ。ぽーんと飛ばされて気を失ってはいたものの、何かにふわりと優しく運ばれている不思議な感覚は、目が覚めてからも身体の芯に残った。
高校生のころ新島でひとりシュノーケリングをしていると、離岸流で一気に沖に流されてしまった。すると突然波が高くなり、シュノーケルに一気に海水が入りこんで噎せかえってしまった。万事休すと覚悟を決め、岸に向かって泳いだとき、不思議に時間の感覚が捩じれていた。岸に上がって正気に返ると、まるで何かに運ばれたような妙な感覚が身体に纏わりついていた。我乍ら離岸流に逆らって、どう岸に戻れたのかも解せなかった。
数メートルずれただけで、うまく離岸流から抜けられたのかも知れないし、ただトラックに撥ねられて宙を飛んでいただけかも知れない。ただ、あの時は指が2本千切れた以外、10メートルも飛ばされながら脳波にも異常はなく、打撲もなかった。病院の医師たちが不思議がるほど、身体は無傷だった。
まあ、どちらも気のせいかも知れないし、実際はただトラックに撥ねられただけで、気が動転して、途轍もなく岸から離れてしまったように錯覚しただけかもしれないし、やっぱり何かに助けられたのかもしれない。

11月某日 ミラノ自宅
今日から学校の指揮レッスンの新年度が始まって、新入生の一人として息子もレッスンにやってきた。学校で息子に指揮を教える日が来るとは想像していなかったが、今の彼にとって、指揮の基礎を学ぶのはとても有益な経験に違いない。息子を教えるのは、もう少し個人的感情が入り込むものかと思ったが、自分でも呆れるほど他の生徒と変わらなかった。ただ、彼の性格も音楽性も性向も知っているので、それを踏まえて最初から踏み込んだアドヴァイスができるところが、他の生徒と違う。別に指揮者にさせたいわけでもないので、贔屓目に見る必要もないので気楽である。夜家に帰ると、エマヌエラの室内楽クラスでブラームスのホルントリオと、ドビュッシーの2つのラプソディを課題に貰ってきたそうだ。実技では、ウェーバーの2番のソナタと、バッハのトッカータ、それにアレグロ・バルバロを読み始めているが、ウェーバーのソナタなど、息子が練習しているのを聴いて初めて知った。
音楽史のバルザーギ先生の授業が面白いらしく、夕食を食べながらオペラブッファの歴史を我々に話してくれる。ナポリのブッファは、当初ナポリ語で演じられていて、劇場ではなく、街中、路上などで演じられていたそうだ。当然、低級な娯楽と認識されていたが、あるとき、ナポリ語ではなく、アレッサンドロ・スカルラッティを筆頭にイタリア語でブッファを書くようになってブッファの地位が向上し、1820年頃にはブッファ専門の劇場まで造られた。
そこはかとなく、狂言を思いだしたりもしたが、気が付けば、何時の間にかこちらが教えてもらう立場になってきている。ガザで一時的休戦合意、人質交換合意成立。

(11月30日 ミラノにて)

年末の疑い

高橋悠治

11月は忙しい月だった。青柳いづみこと連弾でシューベルトとミヨーを弾き、月末にはショパンから20世紀前半の作曲家たちの作ったさまざまなマズルカの録音をするはずだった。でも、録音はやり直しになった。こんなことがあると、ピアノを弾いているだけの日々には、何かが欠けているのかもしれない、と思ってしまう。

音の現れが空気を変えることより、響きの余韻の時間の方をだいじにしているのではないか、と疑ってみると、この演奏には発見があるのだろうか。では、響きに包まれた線を、どうすれば自由なうごきとあそびの空間に逃すことができるか。纏わりつく和声と伝統から離れて? 

制度のなかでの安定とその快さではなく、不安定と変化の方へ、それぞれの部分が全体から外れていく萌芽であるような、仮の、一時的な集まりとしての一つの曲。そんな演奏ができるのか。演奏だけで、それができるのか。もともと演奏家ではなかった立場を忘れていたのではないか。

2023年11月1日(水)

水牛だより

エアコンなしで、家の中も外も快適な気候が続いています。11月だというのに、昼間の室内なら半袖のTシャツでまだまだだいじょうぶ。なんとなく落ち着かないのはこの気候のせいでしょうか。

「水牛のように」を2023年11月1日号に更新しました。
福島亮さんが書いているように、ようやく「水牛通信」全巻をPDFで公開しました。すべては福島さんの努力によるものです。こうした熱意をもって後から来る人がいるのは水牛にとってとても心強いことです。他力本願もいいところですが、それなしではやっていけないのが水牛のありかたかもしれません。毎月原稿を書いて送ってくれる人たちに対してもおなじように感ずるところです。下窪俊哉さんの「『アフリカ』を続けて」のように、ほんとうはひとつひとつの原稿について紹介するべきではないのかと思ってはいるのですが、そこまでエネルギーが持続しません。編集者失格じゃないの?と自分にツッコミを入れることもあるのですが、原稿が届いたその日に公開するような状況なので、クッションなしで読んでもらうほうがいいと思ったりもするのです。
今月のニューフェイスは吉良幸子さん。わたしの著書『水牛のように』のブックデザインをしてくれたhoro booksのデザイナーです。平野甲賀さんの最後のアシスタントだったので、平野さんが亡くなったあと、未亡人になった平野公子さんとともに東京に引っ越し、それ以来、二人でいっしょに暮らしています。44歳の年齢差のルームメイトは快適そうに成り立っているようですが、具体的にどんなふうな暮らしなのか知りたいと思い、それなら書いてもらうのがてっとりばやい。想像していたとおり、おもしろいですね。

藤井貞和さんの新刊『〈うた〉の空間、詩の空間』(三弥井書店)
「歌のDNA」「詩の日本語」「言葉イメージ」の三章に、歌や詩に関する90近い短いテキストが並んでいます。どれにも短歌や俳句、詩などが引用されていて楽しく読めます。でも藤井さんですからね、どれも一筋縄ではいきません。

それでは、また来月に!(八巻美恵)

これまでPDFで読めなかった『水牛通信』が公開されます

福島亮

『水牛通信』PDF版のうち、これまでPDF化されていなかった号が公開されます。今回初めてPDF版で公開される号、および落丁があったため差し替えたものは次の通りです。

・ファイル差し替え
Vol. 2 : No. 12
・PDF版初公開
Vol. 4 : No. 9, No. 10, No. 11
Vol. 5 : No. 4
Vol. 6 : No. 3, No. 7, No. 8, No. 9, No. 11, No. 12

 少しだけ、今回のPDF公開拡充の経緯を説明します。『水牛通信』のPDF版を2019年に公開してから、多くの方がファイルをダウンロードして読んでくださっているようです。時々、PDF版を読んだ方から感想をいただくことがあり、その時は、とても嬉しい気持ちになります。『水牛通信』という幻の通信に10代半ばから憧れてきた私にとって、このPDF公開にごくわずかであれ携われたことは、本当に幸せで、10代の頃の自分に、「今の自分はこんなことをしているぞ」と少しだけ誇ってみたい気持ちになります。「幻の」と書きましたが、それは誇張ではなく、多くのミニコミがそうであるように、『水牛通信』もまた、ある時、ある場所でひとびとの手に受け渡されたのち、印刷された冊子の多くが消えていきました。ミニコミの収集、保管、公開が直面するさまざまな問題については、道場親信氏による丸山尚氏へのインタビュー「[証言と資料]日本ミニコミセンターから住民図書館まで——丸山尚氏に聞くミニコミ・ジャーナリズムの同時代史1961−2001」に詳しく述べられています(PDFは以下から入手可:https://wako.repo.nii.ac.jp/record/1969/files/2013-175-242.pdf)。『水牛通信』は私にとって、文字通り「幻」の存在でした。

『水牛通信』を読んでみたい、という思いを抑えられなくなった私は、勇気を出して「水牛」のサイト上で公開されているアドレスにメールを送ってみました。2018年7月31日のことでした。同年9月4日に私はフランスに渡っているので、ファーストコンタクトは渡航の一ヶ月前のことでした。八巻さんが保管されていた『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』が私のもとに届いたのが8月17日。そのPDF化が完了したのが24日です。その後、1年ほどかけてデータの整理・共有や、公開のためのサイトの準備を、八巻さんと野口英司さんがしてくれました。PDF版の公開に先立って、2019年11月の「水牛のように」に「『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』がまもなく公開されます」という文章を私も寄せているので、もしもよければご覧ください。

 このように、公開のための準備から数えると現時点で5年経つわけですが、この間、私にとってずっと悩みの種だったある問題がありました。それは、保管されていなかった号や、保管されていても頁に抜けがある号が存在していたことです。この点について、2019年11月の私の文章には次のように書いてあります。

もっとも、まだすべての資料がPDF化できたわけではありません。1982年第4巻9号、同10号、同11号、1983年第5巻4号、1984年第6巻3号、同7号、同8号、同9号、同11号、同12号は立教大学の共生社会研究センターや法政大学大原社会問題研究所にあることはわかったのですが、それでも見つからないものや、様々な理由から電子化が難しいものもあります。

 ここで言及されていない、1980年第2巻12号は、当初保管されていた紙の冊子に落丁があり、読めない頁があったので、今回ファイルを新しく作成しました。最後の行の「様々な理由から」というのは、具体的には、研究機関でアーカイヴされているものをPDF化して公開した場合、アーカイヴに対して使用料金を支払わなくてはいけない、という問題のことを指しています。もっとも、すべての機関が使用料金を求めてきたわけではありません。また、確かに、保管をしているのだから、その保管料金がかかる、というのはロジックとしては理解できますし、保管の努力に対しては、きちんとした対価が支払われるべきです。それはアーカイヴの持続のためにも必要なことです。しかし、『水牛通信』を水牛のサイト上で無料で公開するために第三者に使用料金を支払わなくてはならないということに、私はどうしても違和感を覚えました。言葉の共有が権利や義務の問題にすり替えられてしまうような気がしたのです。日本のどこか、世界のどこかでひっそりと再び開かれることを待っている『水牛通信』の出現を待とう。そう思いました。使用料金以外にも、より物理的な困難もありました。アーカイヴ化された冊子は、保管のしやすさのために製本されている場合が多く、『水牛通信』のような余白の少ない冊子は、私の技術では満足のゆくPDF化ができない、という問題もありました。いずれにしても、欠落号や不完全な号の存在が悩みの種であることは変わらず、実際、公開された資料における頁の抜けを指摘する声や、PDF化されていない資料の公開を待ち望む声を受け取るたびに、申し訳ない気持ちになっていたのでした。

 この5年間、何人かのひとに『水牛通信』を持っていないか尋ねたり、古書店やミニコミ取扱店をまわって探し続けてきました。引っ越しの際に誤って失ってしまった、という辛い話もききました。今回、ようやく古本屋で『水牛通信』の欠落号、および頁抜けのない冊子を見つけ、手に入れることができました。それらをPDFにして、皆さんにお届けします。いつでも、どこでも、自由に、好きなだけ『水牛通信』をダウンロードし、読むことができます。私としても、これを機に、2年ほど中断している「水牛通信を読む」の方を再開しようと準備しています。

 『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』については、これでひとまず全号をPDFで読むことができるようになりました。しかし、これで終わりではありません。今、私がもっとも必要を感じているのは、音源の収集と公開です。もしもこの文章を読んでくださった方のなかで、水牛楽団のカセットテープやその海賊版、あるいは演奏会の際の録音などをお持ちの方がいらっしゃいましたら、どうかご連絡ください。

アパート日記 10月

吉良幸子

もう東京で同居して2年だし、水牛で書いてよ、と美恵さんに言われ、アパートの日々を書いてみる。1年前にも同じことを言われて絵日記を書いてたけど、半年くらいでやめてしもた。載る場所があるなら続くやろか…と、ともかくやってみる。
うちは公子さん(78)と私(34)と猫のソラちゃん(甘えたのおっさん猫)の2人と1匹暮らし。公子さんは私のばあちゃんやなくて仕事のパートナーでルームメイト。2間しかないアパートやと、仕事の色々をチェックしてもらうのも楽チン。襖越しに会話したり、猫も行ったり来たり。部屋の間に着物が吊ってある、置屋さんみたいで楽屋部屋みたいなところ。ごちゃごちゃしてるから気軽に人を呼べへんけども、ちょっとずつ片付けてきれいになってきてはいる。

10/24 火
誕生日のプレゼントに美恵さんへ作った名刺を渡すという名目で味とめへ。本音は美恵さんと昼呑み。火曜日は味とめのおかみさんも店へ来はるのでぶつけて会いに行った。もう1年くらい姿を見てなかったけど、想像の100倍は元気になってはってほんまによかったと思う。1時間自分の周りのアレコレを話しまくって、お客さんにおかきを配ってさっと帰りはった。大手術したとは思えへん生命力でほんまにびっくりした。
公子さんはうな重をみんなで分けて食べようと1週間前くらいから言うてはった。うな丼では鰻が細かく切られてるからうな重を食わねば!と。3人で分け分けして食べたけど、やっぱり味とめはうな重もうまかった。
帰りに整骨院へ寄って揉んでもらう。いわと寄席のチラシの文字のことを褒められて嬉しかった。家へ着いたら美恵さんからもらったセーターを着てみる。ぴったりでした、ありがとう美恵さん。いっぱい着るね。

10/25 水
早朝に頭の方でにゃーと聞こえ、外を見ると塀の上にソラちゃん。俺、帰って来たし入れてんか、と言うているらしい。夜中から明け方はソラちゃんの独壇場で、公子さんは特に振り回される。外へ行けるようにちょっと開けてあるのに、わざわざあっちもこっちも開けてんか、とにゃこにゃこいう。ごはんもほしいなぁと私の所へもくる。そういう風にかわりばんこに両方の部屋へきて、たまに一緒に寝て、そうしてお日さんが完全に昇るとどっかへ出かける。外へ出勤するなら千円札でもくわえて帰って来てくれたらええのに!と常々いうてるが、持って帰ってくるのは生きたねずみばかり。もうねずみはいらんで、ソラちゃん。
遅番バイトで0時半に帰宅。公子さんが心配して私の帰りを待ってくれてはった。アルミのひとり用の蓋つき鍋で雑炊をいただく。生姜とたまごとネギとご飯半人前を一煮立ちさしただけやけど、昨日美恵さんからもらった汐吹しいたけも一緒に食べるとものすごいご馳走やった。踏んだり蹴ったりな1日やったけど、あったかいお鍋でお腹も気持ちも落ち着いた。
私がご飯を食べるのを見届けて公子さんは近くのコインランドリーへ。こんな夜遅くに、いっぱいの濡れた洗濯もんを手押し車に乗せて乾かしに行かはる。夜の散歩を兼ねているねんて。そろそろ近所で洗濯おばあさんと呼ぶ人が出てきそうな気がする。

10/26 木
前日がどれだけ夜遅くとも、映画のためなら早起きできるのが私のいいところ。今日は朝から2本観に阿佐ヶ谷へ行った。2本ともアタリで、むちゃくちゃおもしろかった! 1本目の吉原のは、カラーやったし建物や着物の色がものすごい綺麗やった。最後の次郎左衛門が斬りまくるシーンなんか、花魁の着物も相まって息をのむほど美しかった。2本目の原作は獅子文六で、読みたくなり世田谷図書館で早速予約した。図書館はほんまにありがたい。こっちの映画は伊藤雄之助が最高にカッコよかった。
それからぶらぶら商店街を覗き、高円寺まで歩いて古道具屋へ向かった。取っておいてもろた柳行李を迎えに行ったら、ビニール袋に入れてくれてはって行李の頭が袋から覗いておった。こんなん持って電車乗り継いでるやつは滅多におらんやろうなぁと思いつつ、人の多いところで持って歩くのはちょっと恥ずかしい。それでも風呂敷包みで置いてた着物をやっとしまえるぞ!という嬉しい気持ちの方が大きかった。
今日観た映画:「妖刀物語 花の吉原百人斬り」「広い天」

10/30 月
2、3日前から公子さんのXことツイッターにログインできない事件が発生。問い合わせるもうんともすんとも返事がない。今週末に迫ったいわと寄席のお客さんの予約も少ない。とりあえず宣伝できないのは厳しいし、どないしようかとアパートはちょっとどんより気味。
昼過ぎに公子さんは病院へ行って、最近よく行く割烹やまぐちの前で夕方待ち合わせした。とりあえず新しいアカウント作りましょか、と提案して乾杯。理由はなくとも酒は飲む。今日はお腹がぺこぺこやったから定食にした。やっぱりここは安くておいしい。お店のおとうさんもおかあさんもええ方で、カウンターの席はいつもお馴染みさんでいっぱい。家の近くにあって嬉しい場所。
帰宅してすぐ、新しいアカウントを作るために公子さんのMacBook Air(通称 エア子)に向かった。エア子は漢字変換が恐ろしく弱くて打ち直しが多くなる。急に公子さんは、明日用にゆで卵作るね!とほろ酔いで卵を茹ではじめる。ソラちゃんはTシャツに包まって寝ている。私が作業してたら当の本人はさっきの日本酒で酔っ払って、布団に入ってソラちゃんとウトウトしている!
…やっとできましたよ!!と言うた時には半分むにゃむにゃしてはった。自由やなぁ~と思わず爆笑してしもた。

どうよう(2023.11)

小沼純一

テーブルでひかってる
でんきつけっぱなし
はやくけして

どこ
どこのこと

寝室のテーブル
スタンドのわき
つけっぱなし

ちがう
ちがうよ
きのうはずしたラジオの電池
あたる角度でひかってて

あんなとこ
いくつもあかりがついている
けしてよはやく

どこ
どこのこと

ひかってるじゃない
ほら あそこ
電柱の

ちがう
ちがうよ
なんかの線をおさえてる
金属のわっかが
夕陽にあたり

みえてるの
みえてないの
みえてないものみえてるの
ひかってるのは
またちがうって

ゆめのきおくは
はやく
はやくにきえていく

さっきまで
ねいきたててた
ひとが
みうごきはじめ
この
あいだ
なにが
あった
あったの
あったのか
おこったか
きれめ
わたるのは
なんなの
なんなのか

ゆめにみていたものたちは
むこうぎしにのこされて
さめるときゅうに 
とおざかる
きしべのけしきも
あったことさえ
ちかくできずに

めがさめる
まだいきている
ねむってるとき 
どこにいるんだろ
なにしてるんだろ

めがさめる
まだいきている
みていたゆめは
どこでみた
みていたゆめを
いついきた

めがさめる
まだいきている
ねむっても 
いきして
みゃくうってる
ふしぎ

めがさめる
まだいきている
いくていたけど
しんでいた
ねむりとちがい
どこにある

あれやってこれやって
あたまのなかではすすめてる 
からだがすこしもうごいてない
あたまとてあしがきれている

あれやってこれやって
ないものあるから
あれじゃなく
むこうをさきにまわさなきゃ
さっきもそこまできてたっけ
わすれちゃってりゃ
おなじこと
きてたことはおもいだしても
くりかえす
やっぱりからだはうごかない

あれやってこれやって
おもうだけだと
なにもしてない
かわらない

仙台ネイティブのつぶやき(88)心臓ひとつずつかかえて

西大立目祥子

先週金曜日の夕方、母が入所しているグループホームから電話が入った。こういうときは不思議なもので、緊急を要する知らせかただの連絡か、すぐわかるものだ。悪い方だ…と直感して電話に出ると、案の定「ごめんなさい…ミヨコさんが30分ほど前に転倒したんです」と告げられた。ちょうど近くをクルマで走っていたので、すぐ向かった。どうか願わくば、大腿骨骨折ではありませんように。

スタッフに案内されて2階に上がっていくと、母は車椅子に座っていたものの、いつもとそう変わらない表情だったのでホッと胸をなでおろした。痛いとこある?と聞くと、背中に手をやるが顔をしかめたりはしない。これまでの3回の怪我─アキレス腱断裂、坐骨のヒビ、大腿骨まわりの靭帯の損傷─のときの症状とくらべるとだいぶ軽い。平謝りのスタッフに、大した怪我ではないと思うよ、大丈夫と話して帰ってきた。
翌日、かかりつけの医師が診てくれて、大きな怪我ではないから当面は検査もいらないでしょうということになった。プロの見立てに安堵したけれど、いつ何が起きるか気は休まらない。年寄りの転倒はこわい。

翌々日は、叔母が施設から外出して家に戻っていたので、ふた月ぶりに会いにいった。夏の暑い頃に会ったときは車椅子を使っていたとはいえ自力で歩くことができたのに、いつのまにか立つことも難しくなっている。この外出の直前、車椅子に腰掛けようとして滑り落ち、転倒したという。仰向けに倒れ、母と同じようにスタッフが気づくまでの間、起き上がることもできずにいたらしい。筋力の衰えは、足から始まってみるみる全身に広がってしまうものなのか。食事のときは右手で握ったスプーンを、左手で助けながら口に運んでいる。滑舌が悪くなり、話が聞き取りにくい。でも頭はしっかりしていて意思も伝えたいこともあるのだから、身体とのつながりにくさは相当にもどかしくつらいことだろうと思う。

ベッドから起き上がった叔母は、柵につかまっていないと上半身を支えることが難しいので、従兄弟が足の爪を切る間、私がベッドに座り体を後ろから支えた。この5、6年、叔母とよく話し、いっしょに食卓を囲み、ときに出かけて親しくつきあううち、私の体つきは母よりむしろ叔母に似ているのがよくわかってきた。身体が薄く、手首は細く、指先はゴツゴツして、足は平べったい。

素足になったむくんだ足を、老いた先の自分の足のように眺める。小さく丸まった背中と前かがみの首を、自分では見ることができない私自身の背中だと思いながら見る。肩に触るとカチカチだった。これまた疲れ切ったときの私の肩と同じだ。こんなふうに固まると、集中力が落ちだるくて何も手につかないのだけれど、叔母は苦しくないのだろうか。大きく背伸びもできないのだ。かわいそうになって、しばらく肩と腕をもみほぐしたりなでたりした。

固まった背中の奥には、小さな心臓がひとつ。心臓はにぎりこぶしくらいの大きさというけれど、そんなおむすびくらいの大きさの器官でよくまぁ93年も生きてきたものだ。母にも心臓ひとつ、私にも心臓ひとつ。右手でにぎりこぶしをつくって、自分の胸に当ててみる。そのにぎりこぶしを命の源をながめるようなつもりでじっくり見る。
 
久しぶりにいっしょにお茶を飲む時間は楽しかった。施設に戻る車の中で、今日はありがとうね、といったあとに叔母が続ける。もうね、早くお迎えがきてって思うの。若かったときの私なら、そんなこといわないで、といっただろう。もういまは、そんな返事にならないような返し方はしない。とはいっても、まだ声に出して、そうだねとはいえない。もう十分にがんばったものね、というつもりでうなずくしかできなかった。

これまで何匹もの猫を見送ってきた。外で生まれ飼い猫になった猫たちは、年老いたり病を得たりしてやがて死期を悟ると、静かに姿を消し戻ってくることはなかった。家の中で生まれた猫たちは、手の届くところで、でも何も訴えもせずに死んでいった。

では、渡り鳥は。冬の終わりに北帰行した鳥たちが、もうすぐまた戻ってくる。きびしく長い渡りができなくなった鳥は、飛び出つのをやめるのだろうか。渡りの途中で落下するのだろうか。

この原稿を書いているすぐそばで、猫が何度もトイレに向かい、空振りして寝床に戻ってくる。ここ数日間、便秘に苦しんでいる19歳。人間なら90歳に近いだろう。ままならない身体がつらいのか、ときどき何かいいたそうにこちらを見る。

人も猫も老いていく。小さな心臓をひとつずつかかえて。

水牛的読書日記 2023年10月

アサノタカオ

10月某日 東京の国立新美術館の「テート美術館展 光」へ家族そろって向かう。展示期間の最終の週末ということもあり、会場の入り口からうねうねと長蛇の列ができる大盛況。館内に入ると、マーク・ロスコの絵画「黒の上の薄い赤」の前には不思議と人だかりがなく、落ち着いて鑑賞できた。韓国の作家ハン・ガンの詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむ ふな・斎藤真理子訳、クオン)にロスコをテーマにした連作があり、この機会にどうしても観ておきたいと思ったのだった。

10月某日 鳥取の汽水空港で朝に開催された「気流の鳴る音読書会 第9回」にゲストとしてオンライン参加。午前中のイベントは、頭がすっきりしているのでよいものだ。今年、『うつくしい道をしずかに歩く』(河出書房新社)という真木悠介のエッセイ集を編集した縁でこの読書会にお誘いいただいたのだが、かれの主著『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)を熱心に読んできた個人史についてしっかり話したのは、はじめての体験だった。汽水空港のモリテツヤさんの「ディープ・インサイド論」ほか、お店に集うみなさんのお話も興味深いものばかり。

振り返れば、カルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズなど、ニューエイジ思想や精神世界の本へ沈潜から現在の読書や編集の仕事へ上陸する歩みがあった。あまり人に話したことがないから、その時代のことを知るのはたぶんうちの代表(妻)だけだろう。バリ島でブラック・マジックにかけられた姿も、彼女には見られている。「あのときは目が血走ってたよ」と今でも笑われる。

10月某日 大学の編集論。授業の一環としておこなったビブリオバトルのチャンプ本は、結城真一郎『#真相をお話しします』(新潮社)と三浦春馬『日本製』(ワニブックス)。こだま『ずっと、おしまいの地』(太田出版)を取り上げた学生もいて、これはぼくも知っている本だった。読んでみよう。

10月某日 ガザが戦火に包まれている。大学の編集論では通常の講義を中断して、編集を担当した渋谷敦志さんの写真集『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)から、パレスチナ・ヨルダン川西岸の「壁」の写真をじっくり鑑賞してもらい(ガザの写真ではないと断った上で)、写真・キャプション・構成から何を読み取ることができるか学生に考えてもらう時間を設けた。

「Palestine パレスチナ ヨルダン川西岸

その土地で先祖代々暮らしてきた多くのアラブ人は故郷を追われ、難民となった。パレスチナ問題の発端だ。そして今も、分断を乗り越える橋はつくられず、人びとを分かつ壁ばかりが増えている。
2002年、イスラエルとパレスチナの境界線に沿ってヨルダン川西岸を旅していたとき、目の前に突如、巨大なコンクリートの壁が姿を現した。
イスラエルがテロ防止の名目で建設していたその壁は一般には「セキュリティ・ウォール」と呼ばれていたが、パレスチナ人は自分たちの移動の自由を奪い、囚人のように塀の中に監禁する壁を「アパルトヘイト・ウォール」と呼んでいた。
異質な他者への恐怖心が生み出した壁。それは本当に人びとの生命と安全を守るものなのか。壁の存在によって深まる断絶は不信を増大させ、結果として先鋭化していく対立や憎悪を抑え込むために、さらなる暴力を引き起こすのではないだろうか。」

 ——渋谷敦志『今日という日を摘み取れ』より

写真集の解説後、授業の前に大学図書館で借りたパレスチナ出身の批評家、E・W・サイード『イスラム報道』(浅井信雄他訳、みすず書房)を紹介した。学生時代に読み、深い影響を受けた一冊として。編集論はメディア論でもあり、自分も含めてそれを学ぶ人間は、パレスチナ・ガザ地区の組織ハマスによるイスラエル攻撃と同国による報復空爆をめぐる報道など現在進行形の情報伝達の政治学と無縁ではいられない。こういうときだからこそ、批判的なメディアリテラシーを鍛えること。そのためには単に情報を収集するだけではなく、図書館などで関連する専門書や人文社会の本を探して読み、その情報を検証し、背後にある複雑な歴史的・社会的文脈を視野に入れる必要があり、またそれ以上に有効な方法はない、ということを強調して話した。

10月某日 早朝から新横浜駅経由で新幹線に乗り一路、京都へ。映画館の出町座で、ヴェトナム出身でアメリカを拠点にする旅する作家トリン・T・ミンハが監督した新作『ホワット・アバウト・チャイナ?』を鑑賞。1993年ごろに中国南東部で客家の伝統的円形集落「土楼」などヴァナキュラーな建築を撮影したHi8ビデオ映像を新たに編集。そこに中国の古典詩歌の朗読や、複数の語り手の声が重ねられるのだが、響きあうナレーションにじっと耳をすませながら、移りゆく中国の農村とそこに暮らす人々の表情を捉えるイメージの流れに身を委ねながら、内側で何かが目覚めるのを感じた。まあたらしい多様性への感覚、とでも言えるような。予想をはるかに上回る、すばらしい作品だった。そしてテレビのニュース番組やネットの情報に毒された今の自分の頭の中にある「中国像」がいかに政治化され、矮小化されたものか、思い知らされた。

その後、KYOTO EXPERIMENT (京都国際舞台芸術祭)2023の会場のひとつであるロームシアター京都にタクシーで移動し、文化人類学者・批評家の今福龍太先生の講演「ことばの混交の果てに 『クレオール主義』30年」に参加。読者として先生の主著である『クレオール主義』(ちくま学芸文庫)を30年近く読み続け、学び続けてきた。アイデンティティの思想ではない、〈差異〉の思想とは何か。講演後、ポルトガル料理店「ビバリオ」で今福先生を囲み、建築史の研究者・松田法子さん、文学研究者・阪本佳郎さんらと歓談。阪本さんから季村敏夫個人誌『河口からIX』を手渡される。夜の定宿で、同誌所収の阪本さん「オウィディウスへの手紙」、ぱくきょんみさんの詩「布がたり」を読む。

10月某日 京都から大阪に移動し、天王寺のレトロな喫茶店「スワン」で臨床哲学者の西川勝さんに会い、近況報告を語り合う。西川さんはジェームズ・ギブソンらの生態心理学に関心があり、いまはエドワード・S・リード『魂から心へ』(村田淳一ほか訳、講談社学術文庫)を読書中だという。体調が悪いと聞いていて、実際に健康とは言えないようだが、プリンアラモードをおいしそうに食べていたのでひと安心。帰宅すると、野間秀樹さん『図解でわかるハングルと韓国語』(平凡社)、『本の教室はじめます』(石巻まちの本棚)が自宅に届いていた。

10月某日 詩人の片桐ユズルさんの訃報に接する。

10月某日 2週続けて、京都へ。今春から蹴上でおこなってきたクリエイティブライティングの講座「書くことの風」、最終の第4回が終了した。「私と場所」をテーマとして設定し、毎回の講義では、今福龍太先生の『クレオール主義』を受講者とともに精読。この日読んだのは、本書の12章「位置のエクササイズ ポストコロニアル・フェミニズム論」。ここはトリン・T・ミンハ論を含む内容なので、先週京都で彼女の映画を観たこともあり、よいタイミングだった。受講者には課題のエッセイ、企画書、地図の最終版を提出してもらい、いよいよ各自で創作の執筆をはじめ 、自分が編集を担当する。最終的には創作集のZineを出版予定。楽しみ。

10月某日 京都駅から近鉄を乗り継いで三重の津へ。午後の久居駅で降りて、HIBIUTA AND COMPANYを訪問。ちょうど秋の「久居まつり」の真っ最中でお店の中にも外にも熱気が渦巻いている。こちらでもクリエイティブライティングの講座をおこなっている。夜の自主読書ゼミでは、会場に集うみなさんと一緒に宮内勝典さんの長編小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)の第3章「出会い」を読み、感想を語り合った。ひとりではたどり着けない、数々の発見があり、おもしろかった。HIBIUTA AND COMPANY の書肆室では、孤伏澤つたゐさんの小説『ゆけ、この広い広い大通りを』と、大東悠二さん&村田奈穂さんのエッセイ『映画と文学が好き! 人情編』を購入。お店の本棚には八巻美恵さんの『水牛のように』(horo books)とサウダージ・ブックスの本がならんでいてうれしい。店内では、古井フラさんの詩集(装画=naoさん)・刊行記念展「音としてひとつ、手のひらにのる」を開催していた。

10月某日 久居駅から近鉄に乗って名古屋駅へ。ちょうど昼時の新幹線の改札前に行くと、人だかりができて大騒ぎになっている。東海道新幹線が線路脇の火事で運転見合わせだという。チケットをもっていたのだが、仕方がないのでカフェで時間を潰して戻るとちょうど運転再開。プラットホームは、いらいらする乗客でごったがえしていたが、東京などの目的地に1分1秒でも早く行きたいという群集心理が働くのだろうか、各駅停車の「こだま」号には誰も乗ろうとしない。ならば、と飛び乗った「こだま」のがら空きの自由席で小田原駅まで遅延もなく快適に移動。おまけに特急券の半額が返金された。

藤沢駅からふらりと江ノ電に乗り換えて夕方の江ノ島へ。橋を渡って神社を参拝。日没後、富士山のくっきりとしたシルエットに秋の空気を感じた。海辺のレストランのテラス席でゆっくり食事をして、旅の疲れを癒す。帰宅後、トラウマ研究の宮地尚子さん、ケアを研究する村上靖彦さんの対談集『とまる、はずす、きえる』(青土社)を読んだ。

10月某日 作家・フランス文化研究者の陣野俊史さんの渾身の新作『ジダン研究』(KANZEN)が届く。800ページ超えのサッカー批評の大著!

10月某日 東京・下北沢の気流舎で開催された今福龍太先生、上野俊哉先生の対談イベント「『気流の鳴る音』からコミューン論の現在まで」に参加。真木悠介の思想の背後にある「メキシコの夢」、マルクス/カスタネダ(政治/詩)という問題意識、「逃亡」や「未完」という隠されたテーマ。いろいろな話題が飛び出した。10月の読書は真木悠介に始まり、真木悠介で終わった。イベント後、下北沢の台湾料理店「新台北」に移動し、大学院時代の恩師のひとりである上野先生とおしゃべり。英語で石牟礼道子論を執筆中だという先生と12月に熊本・水俣行きを計画。気流舎を創設し、現在は兵庫の淡路島に暮らしながらハーブティーやエッセンシャルオイルを通じて植物の力を届ける仕事をしている加藤賢一さんとも再会。インドの聖者ラマナ・マハルシのことなどを話した。

よく混ぜてから

篠原恒木

以前、ここで軽く触れたことがある事柄だが、今回はそれをより深く、より実例的に、より弁証的な方法で述べてみたい。軽く触れただけではどうにも慊らないのだ。

「よく混ぜてからお召し上がりください」
そのひと言を添えて出てくる料理がありますよね。これは和洋中、どの店に行ってもしばしば耳にする言葉だと思う。

あれはなんなのだ。

たとえば石焼ビビンバだ。厨房からテーブルへと運ばれ、ドンと置かれる。あつあつの石鍋に見目麗しい具材がきれいに盛られている。人参、ほうれん草、大根、豆もやし、ゼンマイなどのナムルが、まことに色鮮やかだ。ここに黄身がトロトロの目玉焼きやユッケも入っているとますますゴージャスな盛り付けとなる。いつまでも鑑賞していたくなるが、すぐさま店のスタッフは、
「よく混ぜてからお召し上がりください」
と告げて、立ち去ってしまう。
そこでおれはいつも思う。
「綺麗な盛り付けは目で味わった。ありがとう。だが、頼むからここから先、つまりよく混ぜるのもそちらで行なっていただくわけにはいかないだろうか」
理由はふたつある。

1. めんどくさい
2. プロの手によってかき混ぜたほうが断然旨い

あれはどうにかならないものなのだろうか。こうすればいいのだ。まず、かき混ぜていない状態でヴィジュアル満点の石焼ビビンバをテーブルに供する。そして鑑賞の時間を約五秒間設け、
「ではかき混ぜますね」
と、店のスタッフがおもむろにスプーンを両手に持ち、手際よく混ぜる。これならテーブルでのパフォーマンス効果もあり、なおかつ最高の味が楽しめるのではないだろうか。
おれのような素人がかき混ぜると、具材がまんべんなく散らばらない。頑張って混ぜても必ず「ユッケ集中箇所」「豆もやし主役部分」「ゼンマイ密集部分」「ほうれん草ごはん地帯」「おこげ部分皆無」というような代物になってしまう。
「もっとまんべんなく混ぜなければ。さらなる撹拌作業を励行せねば」
と思って、時間をかけて作業を進めると、悲しいことに石焼ビビンバぜんたいが中途半端に冷めてしまうのだ。
「お手数をおかけして申し訳ないのですが、プロのあなたがかき混ぜていただけますか」
と、思い切ってお願いしたことがあるが、そのときの石焼ビビンバの味は自分で混ぜ混ぜしたときの十倍は旨かった。だが、店が混んでいるときはそうそう甘えるわけにもいかない。

このように「よく混ぜてからお召し上がりください」は、おれにとっては呪いの言葉だ。納得がいかない。まずきれいに盛り付けた料理を客に見せ、それから調理人がかき混ぜて「さあ、召し上がれ」でいいではないか。そのほうが美味しいに決まっている。なぜいちばん肝心な味のポイントである「よくかき混ぜる」作業を客に委ねてしまうのか。

油そば、まぜそばなどもそうだ。あれはかなりの気合いと熟練の技がなければ、タレが麺によく絡まない。ぐちゃぐちゃっと適当に混ぜて食べ終わると、油ギトギトのタレがどんぶりの底に沈殿していることがよくある。ジャージャー麵などは豚ひき肉だけが大量に残ってしまうという悲しいケースも往々にして発生してしまうのだ。

お好み焼きもそうだ。チェーン店などへ行くと、容器の中にこれでもかと具材が盛られたものが、テーブルの鉄板の脇に置かれておしまいだ。あれでは、
「あとは頑張れ。よく混ぜなさいね」
と言わんばかりではないか。お好み焼きの混ぜ方にはコツがあるのだ。あまり執拗にかき混ぜてもダメらしい。生地と具を混ぜ過ぎず、サックリと混ぜると空気が入ってふっくらと焼き上がるからだ。だがおれにはその加減がようわからん。そちらでサックリと混ぜてくれ、と叫びたくなる。

かと思うと、「よく混ぜなくてもいいのではないか」と思う料理をかき混ぜて食べるヒトビトもいる。カレーライスをぐちゃぐちゃにかき混ぜてから食べるヒトをときどき見かけるが、おれは不賛成だ。いや、例外はある。大阪は難波にある自由軒の「インデアンカレー」などは、真ん中に生卵が鎮座して、ライスは最初からルーと一緒にしっとりと炒めてあるので、あれはよくかき混ぜて食べるしかない。おれが言っているのはカレーのルーが白いライスの約半分にかかっている「普通のカレーライス」だ。あれをわざわざ手間暇かけてベトベトに一体化させる意味がよくわからない。美味しくなるのだろうか。

海鮮丼もそうだ。できればやめてほしい。ごはんの上に整えられたトロ、甘エビ、イクラ、ウニを思いきりかき混ぜてごはんと一緒にかきこむのはどうかと思う。海鮮丼の正しい食べ方はあくまでも「垂直掘削方式」だと固く信じているおれなのだ。トロが載っている部分はその下のごはんを慎重に掘り進めてトロと一緒にいただく。トロ・スペースを垂直掘削したら、お次はウニの部分だ。これも下のごはんを掘削して口に運ぶ。「よく混ぜて」食べなくてもいいものをかき混ぜるのはよくない。ウニとトロをぐちゃぐちゃにミックスさせてごはんと一緒に食べて本当に旨いのか。あれ、旨そうな気もしてきたぞ。いけないいけない。

「おかずが足りなかったら納豆があるよ」
我がツマがそう言って、冷蔵庫から小さい紙カップに入った一人分の納豆を取り出し、そのまま食卓に置いた。紙カップのままというのが侘しいが、我が家には古備前の器などないので仕方ない。この納豆も、いや、この納豆こそはよくかき混ぜるべきなのだろう。もちろん自分でね。「お手数をおかけして申し訳ないのですが、あなたがかき混ぜていただけますか」なんて言ったら、横っ面をひっぱたかれるからね。

今 ショパンを踊る

笠井瑞丈

今12月の公演に向けて
日々リハを行なっています
今回のテーマは
タイトルにある通り

今ショパンを踊る

全曲ショパンです
僕は今までショパンを
好んでは聞いてきてませんでした
何かキザなイメージを持っていて
なんか踊るのは恥ずかしいなという
思いがあり避けてきました

それでも今まで2回ショパンで踊りました

一回目は笠井叡さん振付
ピアノを高橋悠治さんが弾いてくれました
この時が初ショパンでした
ひとまわり大きな背広を
着て踊った感じがした

そして二回目はバレエダンサーの
下村由理恵さんに出演をお願いした舞台です
この時は上村なおかさんに由理恵さんには
ショパンが合うと言われショパンで踊りました

そして今回が三回目となるショパンです
今回も振付が笠井叡です
なので三度とも
僕の方からショパンに向かったのではなく
ショパンの方からやってきたと言う感じです

6月から週に一回と時間をかけて
ゆっくりと作品作りをしてきました
今回このクリエーションを通して
感じたことの一つですが
今まで気づかなかったのですが

笠井叡の踊りには確実に

ショパンがあるような気がしました
あまり今までショパンを使って
踊っているのは多くないと思いますが

なぜかショパンの旋律の中には
そして笠井叡のオドリの中には

旋律が踊り作り
踊りが旋律作る

そんな共通する
二つのものを感じました

踊りが先にあり音楽が生まれた
音楽が先にあり踊りが生まれた

どっちなんだろう

ショパンの音楽を通して父の
踊りのルーツを探る旅をしています

しもた屋之噺(261)

杉山洋一

新山口駅脇のホテルで原稿を書きはじめました。薄く透明な青空に、絵に描いたような小さな雲がひとつ、目の前にこんもり突き出た、小さな山のすぐ隣に棚引いています。ときどき、2,3秒のうなるような風音を立てて新幹線が通過してゆき、そこから、あの可愛らしい雲が噴き出されたように沸き立つのが、そこはかなとなく微笑ましく感じられるのでした。

10月某日 ミラノ自宅
来週に迫ったアルバニア滞在の日程が二転三転している。こちらはともかく、企画をしている大使館のみなさんは、さぞ大変だろう。ハマスの攻撃にイスラエル猛反撃とのニュース。2014年、イスラエルとパレスチナの国歌で母の悲しみをうたう曲を書いた、あの時の無力感。ガザの爆撃で死亡した母親の胎内から取り出され、5日間人工保育器で生きた嬰児シマーを思う。誰が正しくて、何が正義か。そもそも正義など存在するのか。ウクライナ侵攻とイスラエル建国、西側の矛盾を見事についた攻撃ではあった。子供の頃、父親に将棋の相手をしてもらっていて、敵陣を詰めかけた途端、決まってぴしゃりと「王手飛車取り」と角を張られたのを思い出す。

10月某日 ミラノ自宅
7月に東京現音計画の演奏会で聴いた Dror Feiler の音。耳を塞ぎたくなる、生理的に嫌悪感すら覚える程の爆音が、どこまでも続く。聴き終わると、耳は飽和していて、奇妙な焦燥感が体内に残っているのに気づく。理解出来なかったし、好きな音響でもない。ただ、彼がその音を、発さずにはいられぬ必然と、そこに至る切迫感に、胸が一杯になった。
ファイラーの人となりを何も知らずに聴いたが、後で読んだ彼の経歴には、彼は1951年テルアビブ生まれで、ストックホルム「イスラエル・パレスチナ和平のためのユダヤ人(JIPF)」会長と書かれている。彼の母は、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区の移動健康管理センターに勤めていた。
ミラノ日本領事館より緊急メール。サンバビラ広場でパレスチナ支持集会が予定されていて危険であり、日本人学校のあるアルザーガ通り、グアステルラ通り、サンジミニャーノ通り付近は、ユダヤ人関連施設が多く警備強化とのこと。日本人学校の真向かいはユダヤ人学校で、以前からイタリア軍が厳重に警護していたが、現在はその比ではないのだろう。

10月某日 ミラノ自宅
一柳さんのための小品の題名を、「炯然独脱」とする。「慧眼」が最初に頭に浮かんで、「炯眼」から臨済義玄の「炯然独脱」。確かに、本條君から一柳さんと「禅」を意識した作曲を依頼されたが、「無」に拘り過ぎて音が未だ五線譜に載っていない。身体の裡には存在しているのだが。

10月某日 ミラノ自宅
ピラーティ「ピアノと弦楽のための組曲」を読む。時に生硬にすら感じられるほど、バロック的で生真面目な和声進行を、9度、11度、13度の和音で繋いでゆく。家人曰く、イタリア未来派的だと評したが、なるほど、堆くつみあげられた5個7個の和音は、未来派時代のファシズム建築の石柱のよう。言葉にするとフランス印象派のようだが、噎せるようなイタリアの匂いに満ちているのは、人懐っこい民謡調の旋律と、転回形を多用した滑らかな低音進行を敢えて避けているから。たとえばマリピエロが、絵画におけるデ・キリコのように、自らの未来派的特徴をより前衛的、進歩的に活かそうとしたのに対し、マリピエロよりずっと後年に生まれたピラーティは、出土した古代コリント風石柱をそのまま使って、古めかしく、温かい手触りの1925年の建築物を造った感じ。

10月某日 ティラナ ホテル
朝9時から夜7時半まで授業をやり、そのままマルペンサ空港に向かう。1年ぶりのアルバニア・ティラナの空港に降り立ったのは深夜1時。ホテルに着いたのは1時半。ミラノと比べ極端に暑い印象はなかったが、それは恐らく深夜だったからだろう。前日からティラナに入りしていた家人が、レストランから魚のグリルを取り寄せておいてくれたので、夜食を摂って就寝。9時間以上の授業の後の移動で困憊。

10月某日 ティラナ ホテル
アルバニア日本文化週間のため、アルバニア文化省から国立芸大でレッスンと演奏会を頼まれたのは良いが、首相が急遽芸大訪問を決めたため、日程が全て変更になった。3日間学生オーケストラと練習する予定は1日になり、1日学生オーケストラを使ってレッスンする予定は、キャンセルになった。大学を訪問すると、いきなり2時間ほど時間が空いたので、相談を聞いてくれという指揮学生とコーヒー片手に話し込む。オーケストラを振る機会は数えるほどしかなく、CDの録音に合わせて振ったり、指揮伴奏ピアノを使ってレッスンを受けなければならないのが不満だそうだ。基本的にロシア・メソードだから、それに則ったレパートリーを中心に、アルバニアの作品も学ぶ機会が多い。大学課程は1セメスターでロマン派交響曲を最低1曲は習得し、その他の作品を段階に応じて増やすのだと言う。
去年は、指揮の学生と指揮伴奏のピアニストの学生しか知る機会はなかったが、今年は弦楽オーケストラの学生とも関わるので興味深い。彼らが全体でどのレヴェルなのか分からないが、特に高くも低くもない。アルバニアの学生は決めた事を堅実に実行する習慣があるのか、自由闊達にやってほしいというと、最初は戸惑っていた。直線直角は得意だが、曲線や波線で輪郭をなぞるのに馴れていない印象を受ける。皆明るく素朴で、素敵な若者たちであった。

10月某日 ティラナ ホテル
17時からのドレスリハーサルのため大学に赴くと、アルバニア政府関係者がそっと近づいてきて、耳元で囁やいた。「これより、首相の奥さまが急遽学校見学にいらっしゃることになったので、申し訳ありません、20分ほど外で時間を潰してきていただけますか」。
なるほど保安上の理由から、学内は一時的に全館立入禁止になるようであった。ちょうどばらばらとオーケストラの学生たちが集まり始めたところで、理由を説明すると「ああ、うちの政府ときたら…」と絶句して、皆揃って落胆している。芸大の学長と現首相が懇意なので、しばしばわれわれ学生はこうして振り回されるんです、やり切れません、本来あるべきではないことでしょうが、と言われる。指揮の教授からも、政府の混乱に貴方がたを巻き込み申し訳ないとメッセージが届く。
アルバニア国立芸大は1920年代のイタリア統治時代に建てられた、端麗なファシズム建築で、入口のファサドの格子柄が美しい。入口は3階まで吹き抜けになった明るいアトリウムとなっていて、この建築物に1920年代30年代にレスピーギやピラーティが書いた作品が響くと、不思議なくらい溶け込むのだった。
家人が、平尾貴四男の「春麗」や、三善先生の「夕焼小焼」を大学教授陣と演奏するのを聴き、なんの先入観もてらいもなく取組んだ、純粋で情熱的な演奏に感銘を受ける。家人と「夕焼小焼」を弾いたメリタがこの曲をすっかり気に入っていて、メリタはまるでラフマニノフのように弾く、と家人はいたく感心していた。

10月某日 ティラナ ホテル
サラと息子による、ミラノ「ヴェルディの家」での室内楽演奏会。こちらはアルバニアで演奏会を聴けないので、サラの両親からヴィデオが送られてきた。シューマン、カスティリオーニ、ヤナーチェク、ブラームス3番というプログラム。サラも息子も本当に成長したと瞠目する。サラは、11月からボローニャのテアトロ・コムナーレで仕事を始める。実に伸びやかで豊かな音楽を奏でるようになった。その演奏もそれぞれ素晴らしいと感じたが、ヤナーチェクは愕くほど深く、大胆にこちらの胸を抉る瞬間が何度もあった。それまでは、二人とも慎重に表現する印象を持っていたから、これは本当に意外な喜びでもあった。

10月某日 ティラナ ホテル
二日間の指揮レッスンを終えて。皆とても真面目で、よく勉強していて好印象である。指揮のメソードが違うので、技術や解釈には一切注文は付けなかった。それぞれ、自由に自分が表現したいことを、目の前の音楽家と一緒に彼らの音を使って、その場で作りあげるように頼む。
予め決めてきたことを、頭の中で音を鳴らしながら目の前の架空のオーケストラに向かって振るのではなく、最初の一音を、どんな質感、どんなキャラクターで始めたいかだけを決めたら、そのアウフタクトに必要な情報を全て籠めるように集中し、そこから先は目の前のピアニストの眼を見て音を聴き、彼らとその場で作るのを愉しむように話すと、一様に最初はぎょっとした表情をするのが印象的であった。
これは、弦楽オーケストラの学生たちへ注文をつけた内容と基本的に一致している。皆が揃って「そんなことしていいんですか」という表情をするので、こちらは内心、いけない琴線に触れたかしらと危惧したが、その後すっかり表情も変わって感謝もされたので、何か感じるものはあったのだろう。それで良かったかどうか、正直わからないけれども。
作曲も指揮も、自分が望む表現を自由に実現できなければ成立しない。作曲指揮のみならず、演奏、芸術、表現全般において、他人に押し付けられた表現の再生産では、おそらく最終的には成立し得ない。そして、将来的には人工知能で事足りるのではないか。一方的に指揮者に強制された演奏を続けるオーケストラも、きっとどこかで破綻する。
ひいては我々の人生における選択の一つ一つも、他者から提案された選択の可能性であれ、最終的に自発的、自主的に決定した内容でなければ何時か破綻するのかもしれない。
明朝3時半、ホテルに空港行きのタクシーが迎えにくる。

10月某日 ミラノ自宅
早朝リスに胡桃をやり、朝8時から山田剛史さんのピアノコンサート配信で、「君が微笑めば」の演奏をみた。家人曰く、山田さんが未だ7歳か8歳のころ、家人がソアレス先生に山田さんを紹介したばかりにピアニストになってしまった、と今も彼のお母様に笑われるらしい。
一週間前、高校、大学と作曲の同期だった星谷君のお父様と電話で話した。何十年かぶりだったが、大学時代の名簿にある電話番号にかけてみると、そのまま使われていた。
お父様の声は昔と全く変わっていなかった。「足の調子がちょっとね、だからなかなか遠出できなくなってしまって」と笑っていらしたけれど、お母様は数年前にお亡くなりになっていた。「今は目の前で伸太郎の隣に並んでいるよ」と伺い、お電話を差上げたことを深く後悔した。
衝動的についお父様に電話しようと思い立ち、一度は躊躇ったけれど、これもきっと伸太郎君の気持ちではないかしらと、つい、お電話してしまった。或いは正しかったのかも知れないし、とんでもない間違いをしたのかも知れない。

閑話休題。山田さんは、「君が微笑めば」を弾きだした瞬間、音が綺羅星のように耀くのをみる。30光年遥か向こうで、微かにやっと明滅を認めるばかりの自らの姿。アルテル・エゴ(分身)ほどの身近な感覚もなく、ただ遠過去の一点に置き去りにした、意識の一部のようなもの。
ただ、当時全く気付いていなかったが、冒頭のモティーフは、毎日こうしてミラノで聴いている教会の鐘の音そのものであった。あれは旋律ではなく、朝陽が乱反射する、強烈な郷愁を誘うような山田さんの音のように、高い鐘楼に並んだ鐘が、澄んだ朝、偶然紡ぎだす旋律そのものであった。
まるで、ソラーリ通りを下った先、デル・ロザリオ広場の教会の鐘にそっくりじゃないか、そう自分の裡の誰かが呟くのを聴いて、30年前の自分が覗いていた、現在の自分に気づく。
理由はわからないが、聴きながら何度か目頭が熱くなり、演奏を聴き終えて、ちょっとうまく言葉が発せなかった。隣の家人に向かって何か言おうとすると、喉が詰まって涙が零れそうになるので、困ってしまった。こんなことは初めてで、すっかり当惑してしまった。
少なくとも、自作に感動したのではない。山田さんが無心で奏でる音は純粋に胸を穿ち、電話口の向こうで、少し言葉につまっていた星谷君のお父様の声が聴こえ、30年後の自分に向かって語りかける、若々しい自分の声と言葉に愕き、彼が亡くなって、同期の皆が集い彼の遺作CDを作った時のことを、ほんの少し、思い出したからかもしれない。よくわからない。

10月某日 三軒茶屋自宅
The Palestinian people have been subjected to 56 years of suffocating occupation(56年間占領下の息のつまるような56年に曝されてきたパレスチナ人)。グテーレス国連事務総長のこの言葉の意味は大きい。
単に自分は戦争に対して慄いているだけだろうか。今回ばかりはイスラエルもアメリカもイギリスも、大きな過ちを犯したのかもしれない。そう考えると、ふと怖くなる。
これから1世紀後、地球上の経済勢力図は、当然現在と全く違ったものになっているとして、今回のSNS時代におけるイスラエルのガザ爆撃は、もしかすると欧米諸国の衰退、崩壊の具体的要因になりかねない危機かもしれない。そうならないよう切に願う。
小学生の終わりだったか、既に中学生だったか、渋谷ユーロスペースで見た「水牛楽団」コンサートが、最初ではなかったか。「パレスチナのこどものかみさまへの手紙」で、美恵さんが薄く大きなタイコを叩いていて、悠治さんがトイピアノを弾いていたように記憶している。或いは違っていたかもしれないが。
狭い会場はぎゅうぎゅう詰めで、今にして思えば、一体どんな聴衆が集まっていたのか。周りの殆どは自分より年上だったが、自分を含めわれわれは何を感じ、何を期待していたのか。何かを共有しようとする熱気のようなものを、朧気に覚えているのだけれど、何を求めていたのだろう。
ただ、軽快な音楽に皆で一緒に身体を揺らして聴き入っていたわけではないと思う。幼かった自分ですら、よくわからないが、そうではない何か、を薄く理解していた。

10月某日 新山口 ホテル
最終便で22時半、宇部空港に降り立つと、得も言われぬ感激におそわれる。コロナ禍前、毎夏秋吉台を訪れていた頃が、ただ無性に懐かしい。ホテル脇のコンビニエンスストアで弁当を買って夕食にする。弁当には白米が入っていない。レジで少量、普通、大盛を指定してその場で詰めてもらう。気のせいか、山口は白米好きな人が多いような気がする。
町田の母から、今月二輪目の月下美人の写真が送られてきた。前回を上回る大輪である。最近、彼女はまたピアノを触っているという。簡単なバッハの楽曲など、指に負担のかからないものを弾くのは、時間も忘れるほどの愉しみらしい。確かに、バッハなど、頭の中で絡みついた蔓やら、さび付いた扉など、少しずつていねいに解して、磨いてくれるような気がする。

10月某日 新山口 ホテル
駅前で田中照通先生と再会。お元気そうで嬉しい。タクシーに同乗して芸術村へ向かう。その道すがら眺める、美祢の風景が心を打つ。
今までは青々とした真夏の美祢しか知らなかったが、今目の前に広がっているのは、秋めいた黄金色の姿である。とても暑い場所だとばかり思いこんでいたが、この時期、気温はあまり東京と変わらずひんやり涼しい。冬になれば、時に雪すらも積もると聞いた。
田中照通先生の作曲による、山口の誇る画家香月泰男の手記に基づく70分ほどのオラトリオを、山口交響楽団、美祢の合唱団さくらなど、自分以外全員、山口県の皆さんと一緒に、芸術村開村25周年を記念して演奏することになった。演奏者、関係者は皆明るく、本当に気持ちの良い人々ばかりである。
香月は、1945年から47年までの悲惨なシベリア抑留体験を、克明に描いた「シベリア・シリーズ」で知られる。彼が1945年最初に収容されたセーヤ収容所は、奇しくも、今まで演奏会のために2回訪れたことのある、クラスノヤルスク郊外にあった。それを知った時には、少し信じたくない気持ちにすらなった。
クラスノヤルスクで会った人々は、皆心温かい人々であった。街並みは美しく、料理はとても美味しかった。クラスノヤルスクで食べた、ウーハの魚スープが忘れられず、今も家人が真似して作ってくれる。ホテルの前を流れる雄大なエニセイ川は神秘的な水面を湛えていて、毎朝立ち昇る水煙に噎せるのをみた。
収容された旧関東軍俘虜1万人の1割が、栄養失調と過労で死亡したと言われるセーヤ収容所は、演奏会をした国立オペラ劇場裏からレーニン通りを4キロほど下った、シベリア鉄道クラスノヤルスク駅の鉄路を少し北へ進んだ辺りにあったようだ。その情報が正しければ、現在は色とりどりの背の低いガレージが並ぶあたりだろう。
クラスノヤルスクを訪れた時、日本人墓地へ連れて行って欲しいと頼んだことがあったが、ここからは少し遠くて行きにくいんです、とやんわり断られたのを思い出した。日本人墓地は、収容所からずっと山の方向、西へ下った、広大な墓地の一番奥の一角にあって、香月の戦友たちは今もここに眠る。
照通先生のオラトリオは、苛烈な香月のテキストを、時には調性を浮き立たせながら、音列と音程操作を用いて淡々と書き進められ、余分な情感を排した精緻で透徹な筆致が、むしろ悲しみを際立たせている。
「意図せずとも、ずいぶん現在の地球の世情を反映した上演となってしまいましたね」、そう照通先生に話しかけると、「平和は、元来戦争と戦争の谷間に許された、ほんの一時の休息でしかない、そう読んだことがあります。悲しいかな、人間は古来、戦争をしている時代が普通なのだそうです」。

(10月31日 新山口にて)

「渾沌」の歌

越川道夫

今年の金木犀は、香ったと思うとすぐに満開になり、満開になったと思ったら強い風に散ってしまった。昨年はひと月ほど早く咲き始め、散った後もまた蕾を膨らませて二度咲いたように記憶している。今年の金木犀はとても儚い。もう少し長くあの花の香りが町中に香るのを楽しんでいたかった気がする。
 
金木犀がどこからか香る季節になると思い出すことがある。小学校の頃、ということは今から50年近く昔のことになるが、学校で急に高熱を出し搬送されたことがある。原因は分からない、風邪気味だったわけでもなく、それまではピンピンしていたのだから周囲の人たちは皆首を傾げていた。熱を出した当人は、もちろんそれどころではない。しかし、子供の急な発熱など珍しくもないのだから、と思っている父に、母が、まるで取り乱したように訴え出したと言う。うちの玄関の脇に柘植の木と金木犀の木が植えられている。その強い柘植の枝が伸びて金木犀の木に当たって傷つけている。金木犀は、あの子の木だから、それで急に熱を出したのだ、と。早く金木犀を傷つけている柘植の枝を払ってくれ、切ってくれ、と母は何度も譫言のように繰り返したという。
 
家の玄関の脇には確か柘植と、その隣に金木犀が植えられていて、確かに柘植の枝が伸びて金木犀に当たっている。しかし、その二つの木は庭を作ってくれた庭師がただ植えてくれたもので、金木犀は「あの子の木」というような謂れがあって植えたわけではない。ただ母があまりに憑かれたように懇願するので、訳がわからないながら父は彼女の言う通りに、柘植の枝を払った。すると、私の高熱はすぐ下がったのだ。母がそのようなことを譫言のように言い出したのは、後にも先にもそれきりである。私の熱が下がってしまえば、そう言った母自身も、そんなこと言いましたっけ、くらいの勢いでけろりとしている。金木犀が母に憑いて、自分を傷つけている柘植の枝を切らせたか。よく分からないが、それ以来、うちでは「金木犀」は「私の木」ということになった。あれから随分と時間が経って、父も母も老いたが、金木犀はまだ玄関の横にあって秋になれば花をつけ、周囲にあの花の香りを漂わせている。柘植の木は、もうない。
 
この秋は、ずっと石川淳の短編小説ばかりを読んでいた。読んだからどうするということでもないのだが、何か今読まねばならないような気がしたのだ。何度目かの再読である。「佳人」から始まり、「普賢」「山桜」「葦手」「雅歌」「処女懐胎」と、とにかく思いつくままに読みたいものを次々と読んでいく。小説でも映画でも面白いもので、若い頃に読んだ時はもちろん、ちょっと前に読んだ時とも感触が違う。今回は、まるで水が染み通るように石川淳の小説は私の中に入ってきた。さらに「鷹」「秘仏」と読み続けて、「紫苑物語」を読み終えた時、深いため息が体の中から出た。「紫苑物語」は、もはや「小説」でも「物語」でもないのではないか、と思ったのだ。この一編を批評する言葉を私は持たない。「小説」でも「物語」でもないとすれば、それは何だ、と問われれば、強いて言えば、それは「歌」だと答えるかもしれない。平安の頃の話だろうか、歌道の家に生まれた宗頼は、歌道を否定し弓に憑かれるが、狩りをしても何をしても森羅万象に対して自分の中に、それは自らに禁じた「長歌短歌のたぐひのもの」とは違うにいても「いかなる方式も定形も知らないやうな歌が體内に湧きひろが」っていると悟るや、それも否定する。弓で命を奪うことは、具体的なことである。「死」は「死」であり、「殺」は「殺」である。宗頼は弓で命を奪い続け、その體内に湧き広がる「歌」を殺す。血が流れた跡に、「わすれさせぬ草」である紫苑を植える。宗頼の「殺の矢」に命を奪われたものたちの夥しい血を吸った地面には、夥しい数の紫苑が植えられる。そしてついに「救い」をも宗頼は殺し、自らも谷底深くに落ちて死ぬだけでなく、愚かな一族郎党もすべて滅ぼしてしまう。人が絶えた後に残ったのは、「紫苑の茂み」である。そして、風雨を受けて、「そこに歌を發した」。愚かな人間が去った後に残ったのは「紫苑の茂み」と「歌」である。
 
「紫苑物語」は、その最後に残った「歌」を「鬼の歌」と呼ぶが、読み終えて「鬼」とは別のものを思った。中国の古い神話に「渾沌」という怪物がいる。神かもしれない。諸説あるが、「渾沌」は、目、鼻、耳、口など七孔がなく、手厚くもてなしてくれた「渾沌」の恩に服いるために七孔を「渾沌」にあけたら、「渾沌」は死んでしまったという。脚が六本と四枚の翼。腹はあるが五臓がなく、徳のある人がいると、出かけて行ってぶつかり、凶悪な人がいると、近づいていって擦り寄る。いつも自分の尻尾を咥えてくるくると回り、天を仰いで笑っている、という。この「小説」は、「渾沌」が歌った「歌」ではないかと思ったのだ。目も口も耳もない「渾沌」は、どんな「歌」を歌うだろうか。「渾沌」は歌うだろうか。

日記

植松眞人

 二十歳の秋に日記を付け始めた。その日記はいま実家の押し入れの段ボールに詰め込まれているので、日付まではわからない。けれど、日記を付け始めたときのことはよく覚えているのだ。
 確かNHKのテレビ放送で南方熊楠が取りあげられていて、そこに熊楠が綿密に書き込んだ日記のようなものが映し出された。筆で書かれたのか踊るような文字で、草木のことが書き込まれ、その横には隙間を埋めるようにビッシリと草木の絵が描かれていた。それを見た瞬間に胸を打たれてしまい、書こう、今日から日記を書かなければと思い立ったのだ。
 それが二十歳の秋だったということを覚えているのには理由がある。高野悦子の『二十歳の原点』を二十歳の間に読まなければと読んだ記憶があるからだ。高野悦子の日記を読んでも日記を書こうと思わなかったのに、なぜ熊楠の日記を読んでせき立てられるように日記を書こうと思ったのか。なぜだろうと確かに考えていたので、私が日記を書き始めたのは二十歳に違いない。さらに、思い立ってすぐに駅前の文房具屋に行ったのに、今すぐ使い始められる日記帳がなかったのだ。日付を自分で書き込めるタイプのものがなく、日付の入ったものも翌年の一月からスタートするものしかなかったのだ。私は文房具屋のおばさんに「途中からでも書きたいので、今年の日記帳はないですか」と聞いた。すると、おばさんは「もう十月だからねえ」と言ったのだ。
 夕方のテレビを見て、日記を書くことを思い立って駅前の文房具屋まで自転車を走らせた半日のことを四十年経っても私は覚えている。私が日記を付け始めたのは二十歳の秋、十月なのである。
 私はもう四十年も日記を付けているのか。しかし、あの日、私にそう思わせた熊楠のような日記は書いた試しがない。途中で堂々と何ヶ月もサボったりしながら、なんとか書き継いできたのは日記と言うよりもメモに近いもので、最初のうちは一年分の日付が振られた、いわゆるダイアリー手帳のようなものを使っていたのだけれど、途中からは普通のA5版のツバメノートを使っている。予定は書かず、だいたい一日の終わりにその日の出来事を書くのだ。二十代から四十代くらいは自分でも感心するくらいによく働いたので、一日を記録するだけで数ページにわたって書き込むこともあった。
 ところがである。ないのだ。書くことが…。仕事のことを書こうとしても、集中力がないから一日にそんなにたくさんの仕事をすることができない。結局、日記に書くのは、息も絶え絶えな仕事の欠片のような記述ばかり。
「午前中、電話で三十分ほど打ち合わせ」
「頼まれていたウエブサイトのコピーを半分ほど」
 これだけ書いて、まだ三分の二ほどが白紙のままのノートをぼんやり見ているのだ。そして、白紙を埋めようと、「昼は大島屋で鴨南蛮」と書いてみたり、「コンビニでガリガリ君」と書いてみたり。
 もう今となっては、である。明日書くことは今のところ何にもない。明後日は仕事の打ち合わせがあるのだけれど、明日は何もない。何もないけれど、白紙のままにしてしまうと、おそらく明日を境に日記は書かないことになるという予感がする。そうならないようにするためには、何か書かなければならないのである。何かを記録するために日記があるのか、日記を続けるために何かをするのか。そんなことをぼんやり考えていると、歳を取るということがほんの少し見えた気がするのだった。そして、まだ二十代の娘が昨日買ってきたという来年の手帳は次に私が使う新品のツバメノートよりもなんとなくピカピカとして見えるのだ。絶対に気のせいだけれど。(了)

むもーままめ(33)花占い 2023年6月24日

工藤あかね

漠然と囚われの身になりて
規則正しき怠惰の日々
外から圧され内から軋む
深海にて耐うる潜水艇のごとく

萎れかけた一輪の花に雫を落とし
哀れな希みを託してみようか
甦れ、甦れと

斃れたならば眼に
滲んだその姿を刻みつけよ
我が身代わりの花びらを

柿の木の杖

北村周一

隣りの家には、それは立派な一本の柿の木があった。
南に面した広い庭の西の片すみにその柿の木は植えてあった。
柿の木の種類は次郎柿であったかと思われる。
最初のうちはまだおさな木でなかなか実をつけなかったが、
4、5年してすこしずつ結実するようになった。

隣家の主人はまことに几帳面な男だった。
夏の盛りには朝に晩に水遣りを欠かさなかった。
菜種の油粕も肥料として丹念に撒いていた。
そのかいあってだんだんに収穫量は増えていった。

たくさん穫れたときにはわが家にもお裾分けをいただくことがあった。
甘くて噛むほどに味わいの増すおいしい柿だった。
なんでもチョウジュロー(長寿郎)という品種名がついているらしく、
見るからにとても品のいい甘柿だった。

毎年11月になると、東京に暮らす息子さん一家にも食べてもらおうと、
長寿郎を箱詰めにして送ることを楽しみにしていた。
そんなある日、あんなに見事な柿の木が根元から伐られてなくなっていた。
何があったのだろう。
柿の木に虫でもついたのだろうか。
ほかの庭木に影響が出ないように、手を打ったのかもしれない。
でもそれにしても・・・。

後からわかったのだけれど、どうやら息子さん夫婦からの一言が原因だったようだ。
隣家の主人はほんとうに几帳面な男だった。
しかしながら、それゆえかどうかたまにキレることもあった。
お隣りから、怒鳴り散らす声や、物を壊す音が聞こえてきたりもした。
夫婦仲も決していい状態ではなかった。
あんなに丹精込めて育てていた柿の木を、文字通り一刀両断のもとに無きものにしてしまうなんて。

それから数年して隣家の主人は亡くなった。
母屋を解体するというので、それならと近所のみんなで手分けして、庭の草木を分けてもらうことになった。
物置小屋も片付けていたら、妙に細くて長い杖のようなものが見つかった。
あの柿の木の幹を削りに削ってつくった杖であることが、後でわかった。

KODAMA AND THE DUB STATION BAND のこと

若松恵子

仕事終わりに、KODAMA AND THE DUB STATION BAND(こだま アンド ザ ダブ ステーション バンド)のライブに出かけている。バンドのホームグランドである立川の小さなライブハウス、AAカンパニーで、大人のライブは仕事が終わった後に行けるように20時から始まる。平日の夜に出かけて行くのをどうしようかと毎回迷うのだけれど、こだま和文のトランペットの音を聞いた途端、やっぱり出かけてきて良かったと、毎回思うのだ。

ジャマイカのレゲエ歌手、マックス・ロメオが来日した時に、西新宿の高層ビルでライブが開かれた。ディスクユニオンで配布されていたタダ券をもらって出かけたライブの前座に登場したのがミュートビートだった。高層ビルの谷間の広場の階段に座って、何の期待もなく聴いた、こだま和文のトランペットの音に魅了された。1985年、高層ビルも新しかった40年も昔の話だ。

今もなお、彼のトランペットの第一声を受け止めた途端に感じるものは、あの時と同じだ。息が奏でる音楽には、歌と同じようにその人の人柄がそのまま聞こえる。そして、彼が選んだレゲエは抵抗の音楽なのだ。自分を、人間を抑圧してくるものに対する抵抗。負けない気持ち。それはダブステーションバンドのサウンドになって私を励ます。

2015年からのバンドメンバーは、こだま和文(Tp/Vo)、HAKASE-SUN(Key)、森俊也(Dr)、コウチ(B)、AKIHIRO(G)、そして2018年にトロンボーンを吹く歌姫ARIWAが加わった。ベースのコウチが「僕自身、こだまさんと演奏できることが本当にうれしい」とライブで語っていた。演奏すること自体が、まず、メンバーの喜びであり、それが伝わってくるライブなのだ。

コロナが来て自由にライブが開けなくなった時も、検温をして、換気のための休憩をはさんでライブは続けられた。今、戦争が2つも起こって、やりきれない気持ちのなかでも、あきらめないでまっすぐに立って音楽を、こういう時にこそと選ばれた曲が演奏されてきた。こだま和文も、トランペットを吹くように歌をうたう事が増えた。じゃがたらの江戸アケミが残した「タンゴ」を今の時代に歌い継いでいる。

10月4日に、最新アルバム『cover曲集 ともしび』がリリースされた。
「花はどこへ行った」、「Is This Love」、「FLY ME TO THE MOON」、「MOON RIVER」、「WHAT A WONDERFUL WORLD」ライブで演奏されてきた珠玉のカバー曲が収録されている。もちろん「タンゴ」も。ミュートビート時代の「EVERYDAY」も再演されていて、青空に突き抜けるような、清々しいトランペットを聴くことができる。

10月25日には、渋谷のライブハウスWWWで単独ライブが行われた。昔シネマライズという映画館だったところだ。久しぶりの渋谷でのライブにはお客さんがたくさん集まっていて嬉しかった。昔からのこだまさんのファンが集まったのだと思う。

「人の営みは毎日繰り替えせど、一時として同じ日常はない。いわば「日常のヴァージョン」を繰り返す。『cover曲集 ともしび』は、「日常のヴァージョン」に寄り添う力強いサウンドトラックだ。個人の様々な記憶とともにある楽曲の旋律で、まさに「日常のヴァージョン」を“ともしび”として彩り、新たなヴァージョンを作り出していく。おそらくそれは、この先もずっとこの音楽に触れる者にもたらされる「灯」であろう」

そのライブのお知らせのチラシに、河村祐介が書いていて、その通りだと思った。

ジャワ舞踊のレパートリー(3)自作振付

冨岡三智

先月に続き、今回は自作の紹介。振付は2回目の留学時(2000~2003、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校)から始めた。男性優形舞踊を師事していたパマルディ氏に振付も師事している。

●「妙寂 Asmaradana Eling-Eling」
単独舞踊。初演:2001年7月、サンガル・ヌグリ・スケットにて。音楽は故マルトパングラウィット氏(スラカルタ王家の音楽家で、芸術大学でガムラン教育に携わった)の曲「アスモロドノ・エリンエリン」。この作品は亡き妹を描いているのだけれど、クレネンガン(演奏会)でこの曲を聞いた瞬間に舞踊作品にしたいと思いついて、ずっと心の中で温めていた。その時にたまたま録音していたので、のちに録音を舞踊作品で使いたいと主催者に許可をもらいに行ったのだけれど、私が作品について説明する前に、「じゃあ、亡き人をテーマにした舞踊曲を作るのね?」と尋ねられて驚く。聞けば、マルトパングラウィット氏自身が亡き子(確か)をしのんで作った曲らしい。マルトパングラウィットの楽曲集にはそんなことは書いていなかったので、その後、芸大の先生にも再度確認したのだけれど、やはり同じことを言っていた。解説がなくても、曲だけでも思いは伝わるものなのだ…とあらためて音楽の力に驚く。この作品は合掌に始まり合掌に終わるのだが、入退場をどうしようかと考えて、モチョパット(詩の朗詠)でアスモロドノの詩を芸大の女性の先生に歌ってもらい、それに自分で録音した虫の声をかぶせた。

●「陰陽 ON-YO」
ドゥエット。ただし、ドゥエットで踊ったのは初演時だけで、あとは単独で踊っている。初演:2002年12月31日、中部ジャワ州立芸術センター(TBS)にて。音楽は芸大の舞踊スタジオ所属で舞踊音楽を多く手掛けるデデ・ワハユディ氏に委嘱。宇宙が混沌から分離生成し消滅するまでの過程、人の生から死までの過程、神人合一の過程などのイメージを重ね合わせている。冒頭では古事記のイザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みのシーンのテキストをモチョパット風に朗詠。このあとガドゥン・ムラティ~アンジャンマスと古典曲とつなぎ、クマナの音が響いてペロッグ音階のブダヤン歌(斉唱)となる。途中で転調してスレンドロ音階になり、かつフル編成ガムランの伴奏になって歌が続く。デデ氏が作曲した曲は歌いやすく、メロディも覚えやすく、音楽の方から動きをのせてくれるような感じだ。伝統舞踊に使われる曲はわりと限られるのだが、それはたぶん、こういう要素を兼ね備えた曲は限られるからだと思う。

私が「陰陽」を初演する数か月前に、デデ氏が音楽を手掛けた舞踊劇の中で「陰陽」の最後に使う曲がペロッグ音階で使われた。また、2003年頃に芸大教員のダルヨ氏が振り付けた舞踊「スリカンディ×ビスモ」(音楽はデデ氏)の中でもその最後の曲が同じスレンドロ音階で使われていた。ダルヨ氏の作品はたぶん私が帰国後に振り付けられたもので、私は長らくその存在を知らなかったのだが、コロナ禍の時にyoutubeで見つけてびっくりした。たぶん、デデ氏にとっても会心の作で、何度も使いたくなる曲なのだろうと思う。

●「すれ合う伝統」/「Water Stone」
ドゥエット。現代舞踊家・藤原理恵子さんとの共同作品。初演:2005年8月、リアウ現代舞踊見本市(インドネシア)にて。音楽は七ツ矢博資氏の1999年の作品で、ピアノとガムラン楽器を使う。初演時は舞踊作品のタイトルを「Water Stone」としたが、楽曲の原題は「すれ合う伝統 ~インドネシアにて思う~」。この作品については2021年8月号の『水牛』で「すれ合う伝統」と題して書いているので、そちらをご覧いただきたい。

●「Nut Karsaning Widhi」
単独舞踊。初演は2011年9月、バンドンの国営ラジオ放送で開催されたブディ・ダヤというジャワ神秘主義実践者たちの集まりにて。音楽は芸大教員のワルヨ・サストロ・スカルノ氏。このイベントで上演するために委嘱した曲で、心の鍛錬がテーマ。何度か上演したけれど、実は振付は決めていないので、毎度踊るたびに考える。ワルヨ氏の専門は歌で、デデ氏とは違うスタンスで作曲してくれることを期待して委嘱。この曲を依頼したのは調査でジョグジャカルタに住んでいる時で、コンセプトは伝えたけれど、録音以前に細かいやり取りはしなかった。しかし、録音の際に旋律やらテンポやらについてその場でさまざまなリクエストをし、それに対してワルヨ氏からも「それなら、これはどうだ?」と、丁々発止のやりとりがあって、ものすごく勉強になったなあと思う。踊る時より録音の方が楽しかった気がする(笑)。

狂った季節 ガザとヒロシマ

さとうまき

今年の夏は暑かった。庭の木が伸び放題になってしまっていた。とうとう二階の屋根まで達していた。隣人に迷惑をかけまいと春先にある程度の剪定はしたはずだった。しかし、ものすごい勢いで枝が伸びている。隣の家の柿の木も同じように伸びていたからこの気候変動の影響なのだろう。生垣のつつじですらまるで違う食物のように枝が伸びだしている。剪定しなければとは思いつつもあまりの暑さにそのままになっていたのだがさすがに隣人から苦情が来た。
「お宅の枝が伸びていて、落ち葉が落ちると雨どいに詰まるから、何とかしてくれないと困るんだよ」
申し訳ないという気持ちと、隣人との共存のためにひたすら頭を下げるしかなかった。

イスラエルのガザ攻撃がはじまって2週間がたっていた。イスラエルに自衛権はある。しかし、ガザの子どもを3000人殺す権利はない。パレスチナにかかわっている友人たちも精神的に疲弊している。僕はほとんど気力をなくしていたが、重い腰を上げざるを得ず、そのためにもパレスチナを象徴する白黒のカフィーヤを頭に巻いて、右手にはチェーンソーを持ち、行く手を阻む木々を倒していった。「伸びきった枝を切るのか、根こそぎ切り倒すのか」ともかく僕は格闘しなければならなかった。生きるために。

25年前、エルサレムのヘブライ大学のトルーマン研究所に行った時に、トルーマン大統領の功績を示した写真パネルが飾られていた。イスラエルという国を真っ先に承認したことにならび、原爆投下の写真が飾ってあった。「広島、長崎に原爆を投下したことで、戦争を終わらせ、多くのアメリカ人の命を守った」というようなことが書かれていた。そこには、ヒバクシャや死んでしまった20万人の人々のことは一言も触れられていなかった。我々日本人は原爆のことをしっかりと伝えていかないといけないと思い、原爆写真展と映画上映、パレスチナの子どもたちと創作ダンスや朗読会などを3年間やった。イスラエルの子どもたちをどう巻き込むかが次の課題だったが、2002年にイスラエルを追放され、僕の仕事はそこで終わってしまった。

2012年、ギラッド・シャロンは「イスラエルは、ガザを更地にしなければいけない。アメリカは広島で日本は降伏しなかったから、長崎でも原爆を投下したように」と言っていた。今回のガザ攻撃では、イスラエルは原爆を使わなくてもそれに近い破壊をする覚悟がある。

この夏、僕はイスラエル人の若者を広島に連れて行った。広島に行く予算はないと言われたし、広島は暑い。それでも何とか説得した。広島を見た若者たちが、シャロンのように思うか、「ノーモア、ヒロシマ」を叫ぶのか、真価が問われている。

ガザの解説はこちら
https://youtu.be/wCqT81pt6wo

話の話 第8話:まぎらわしい

戸田昌子

最近、近所に小さな古書店ができた。車がめったに入ってこない路地裏の散策路であるためか、子ども向けの絵本が入り口に置いてあって、奥には読み物が置かれている。入り口のラックには、ここ数日間「うきわねこ」という絵本が面陳されている。わたしはそれを見るたび「うわきねこ」と空目してしまう。もしかしたら著者はこの空目をむしろ期待して、こんなまぎらわしいタイトルをつけたのではなかろうか、と疑ってしまうほどに、毎度、空目してしまう。もうすでに5回目である。この空目は、たとえば「このどろぼう猫!」という慣用句にあるように、奔放だったり、ふらっといなくなったりするような猫のイメージのせいではないだろうか。それとも、空目してしまうわたしのほうが、もしかして浮気性なのだろうか。そんなことをいちいち考えさせられ、かつ自分を反省してしまうような迷惑な面陳なので、早く売れてほしいと切に願っている。それとも私が買ってしまえばいいのだろうか。ここのところの小さな悩み事である。

目を使う仕事であるため、年齢とともに目が衰え、空目の回数は以前より増えた。「梅しそかつお」を「悔しそかつお」に空目してしまったり、「シンデレラ」を「ツンデレラ」と空目してしまったり。「わけぎ」が「わきげ」に見えてしまったり、「おみやげ」が「もみあげ」になってしまったり。「靴下」を「陛下」と空目してしまったときには、「何の関係もないのに、意外に似ている……」と思ってしまった。英文の校正をしていて「Harikomi Nikki」(張り込み日記)を「Harakiri Nikki」(腹切日記)に空目してしまったときは、「どちらもなんだか日本ぽいなぁ」と感心した。ちなみにこの「張り込み日記」というのは、写真家の渡部雄吉(1924-1993)によるフォトストーリーで、雑誌『日本』(大日本雄弁会講談社)の1958年6月号に掲載されたものだ。とある刑事が、コロシ(殺人)のホシ(容疑者)を追って、ヤサ(家)をガサ入れ(捜索)する捜査の流れを追ったものだが、演出過剰にも見える刑事ドラマ風のフォトストーリーは時代がかっている。この写真は近年、とある古書店から外国のコレクターの手に渡り、フランスで出版されたことをきっかけに再評価が進んでいる。しかしそれにしても、Harikomiは日記になるが、Harakiriは日記になりようがない。

まぎらわしいと言えば、麦茶とコーヒーは、どこか似ている。麦茶と薄いコーヒーは色がまず似ているし、少し焦げたような香りがするという点も、ちょっと似ている(反論は許容する)。そういえば、あまりおいしくない麦茶にはインスタントコーヒーを少しだけ入れると味が良くなる、という話を聞いたことがある。コクの少ないカレーにチョコレートを少し入れるとまろやかなコクが出る、というのと似たような感じだろうか。ともあれ、私の母は昔からコーヒー好きで、よくコーヒーをドリップしていた。しかし、一度ドリップしただけでは豆がもったいないと思うのか、一杯めをドリップしたのち、出涸らしをさらにドリップして、ガラスコップに入れっぱなしにしておく、という習慣があった。その薄いコーヒーにお砂糖と牛乳を入れてコーヒー牛乳を作って飲むのがお気に入りだった小学生のころの私は、ある日、学校から帰って一人だったときに、いつものように出涸らしでコーヒー牛乳を作っていた。しかしひとくち飲んでみたところ、なんだか味が変である。もしかしてこれはコーヒーでなく、麦茶だったのではないだろうか、という疑いが芽生えた。しかし、すでに牛乳も砂糖も入れてしまったので、捨てるのはもったいないし、どうしよう、と考えこんでいたところに、弟が家に帰ってきた。こころみに「これ飲む?」と尋ねてみたら、「飲む!」と即答するので、コップを渡すとそのまま受け取って、ごくごくと飲み干してしまった。途中で気づくだろうと思いながらそれをじっと見守っていたわたしだったが、飲み終わったあと弟は「おいしかった!ありがとう!」と元気よくのたもうた。もう飲んでしまった後だし、真実は明かさなくてもよいか、と思いながらもやはり正直さが肝要かと思い、「それね、コーヒー牛乳じゃなくて麦茶牛乳なんだ」と言ってみた。驚愕する弟。「わからなかった?」と尋ねると「うん、わからなかったよ!麦茶なの?えー!」と言う。人を疑うことを知らない素直な弟を騙したのは悪かったと反省しつつ、ひとくち飲んで「味が変」と気づかなかった彼が悪い……と心の中で言い訳をした。とくに恨まれることはなく、弟はとてもいい子であった。

世の中には、まぎらわしいがゆえに誤用される言葉がたくさんある。たとえば「追撃」。そもそもの意味は「追い討ち」と同じで、勝っている側がさらに相手を叩きのめす、といったような意味なのだが、この10年ほど、「反撃」の意味で使われているのをよく見かける。さらに似たような事例に「鳥肌」がある。これはもとはと言えば「怖い」「おぞましい」などのネガティブな意味で使われる表現だったはずなのだが、最近では「鳥肌もの」というような形で使われ、「すごい」「かっこいい」といった意味になりつつある。誤用の定着というやつである。そうした誤用の典型が「こだわり」という言葉だろう。もとはと言えばこれは「執着する」というような、よくないイメージの言葉だったのが、最近では「こだわりの逸品」というような、ポジティブな用法が定着してきている。かつて日本語教師の母が「こだわりは捨てるものよ!持つものじゃない!」と繰り返していたため、私はこの誤用が今でも使えないままである。しかし誤用も文化なので、あまり目くじらを立てないようにしよう、と思ってもいるが、ときどき考え込んでしまうこともある。たとえば先日、わたしより一世代若い人に「ぼくは世間ズレしているので」と言われて首を捻ってしまった。つい気になって「あの~、世間ズレっていうのは、世間知があるってことですよね?」と言ってみたら、「世間知」が通用しなかったのでさらに話が通じず、話は有耶無耶になった。あとで調べ直してみたが、やはり「世間ズレ」というのは世間のことをよく知っていている、という意味で、自分が世の中からずれているという意味ではないことが確認できた。しかしその彼は「世間ズレ」を表現したデザインの名刺まで作ってばら撒いているので、これはやはり、わざわざ突っ込まなくて良かったな……と安堵した次第。

まぎらわしいと言えば、「半」のつく表現は、本当に半分かどうかが、かなりまぎらわしい。たとえば「半グレ」という言葉がある。これは暴力団に所属せずに犯罪を行う集団のことをさす言葉らしいが、わたしの印象では「半分グレている」と言うよりかは「相当グレている」という感じがする。とどのつまりはただの犯罪者で、「半分」どころではなくグレているのである。この「半分どころではない」というのは、さまざまな事例がある。たとえば「半狂乱」。これは半分どころか「かなりイカれている」と言えるし、「半信半疑」はまじで疑いまくりである。「半殺し」はだいぶ死にかけだし、「半裸」はほとんど脱いでいる。「なんでなのかなぁ、半人前はけっこういい感じなのに」とは、娘の言である。

「まぎらわしい」と言えばなにかある?と夫に尋ねたら、「113系と115系はまぎらわしいよ」という返事が返ってきた。しかしまぎらわしいどころか、わたしにはそもそもなんのことだかさっぱりわからない。「どこがどう、まぎらわしいのよ?」と尋ねると、「えーとね、見た目がちょっと違う」という返事。「いや、だから、どこがどう、まぎらわしいのよ?」と重ねて尋ねると、「んー、機能がちょっと違う」と返ってきた。いくら尋ねても、なにが似ていて、なにが違うのかがはっきりしない。結局のところ、そのまぎらわしさの程度は、わからずじまいであった。

フランス語話者が日本語の「ありがとう」を覚える方法のひとつに、「ありがとう」と音がよく似たフランス語の「アリゲーター」という語を利用して覚える、というのがある。アリゲーターはワニのことだが、フランス語では「ありがとぅふ」という発音に近い。そのためフランス語話者が「アリゲーターございました」と言うと日本語話者には「ありがとうございました」に聞こえる。ある時、フランス人の知人がそれを覚えようとがんばって、頭のなかでワニをイメージしながら「ワニございましたワニございました」と練習を繰り返した。しかしいつのまにやらそのワニが「アリゲーター」から「クロコダイル」に変換されてしまっていたらしく、実際に言う段になったときに彼が口にしたのが「クロコダイルございました!」。クロコダイルは、ワニはワニでもちょっと大きめのワニ。言われた方は何がなんだか、さっぱりだったことだろう。日本語ではアリゲーターもクロコダイルもどちらも「ワニ」なので、まぎらわしいどころか、違いはぜんぜんない。

ワニと言えば、「ワニの涙」という慣用句がフランスにはあるそうだ。「嘘泣き」を意味する慣用句だが、そんな言葉が生まれたのは、ワニが捕食をするときに涙を流すからだと言われている。生きた獲物を捕食するのに、食べるのがかわいそうだとワニが泣く……わけはない。本当の涙か、嘘泣きか。これは、まぎらわしくない。

まぎらわしさが商業的に利用されるケースも多い。たとえば東京ディズニーランドが千葉県浦安市舞浜にあるのは有名な話だが、東京ドイツ村は千葉県袖ケ浦市にある。なぜ、浦安ネズミーランドとか、千葉ドイツ村ではいけないのか。しかしこれ以上言うと東京住みのスノッブ発言になりかねないので、深掘りはやめておく。他に商業的に利用されているまぎらわしさの例としては、「手揚げ風あぶらあげ」などもある。決して嘘は書いていないのだが、パッと見には「手揚げかな?」と思わされてしまう、あれである。商業的なまぎらわしさは、人の期待感にそっと寄り添う形で利用されることが多いようである。

ある日、鳩尾がスーパーできゅうりを買ってきた。「朝採りきゅうり」と書いてあったので、てっきりその日の朝に摘み取られたきゅうりだと思い込んだ鳩尾は、ルンルンと包丁の刃を入れた。しかしそのきゅうりはなんだか古い感じで、とてもその日の朝に採られたとは思えない。「なるほど”朝”とは書いてあるが”今朝”とは書いてないね……」と不意に気づく鳩尾。たしかに、それは、騙されちゃうね。

製本かい摘みましては(184)

四釜裕子

バージンプラスチック製のボトルを持っている。5リットル入り洗濯用洗剤の容器だ。なくなったのでまた買おうとしたら品切れで、もうずっとこれだったのでじゃあ他のどれにしようかと迷っている。公式サイトからも削除されているから製造をやめたのだろうか。実は前回買ったときに異変があった。ふだんのパッケージの上に丸いシールが貼ってあり、そこに「このボトルは、コロナ禍で生じた再生プラスチック不足により、バージンプラスチックで作られています」と書いてあったのだ。それまでつつがなくあった道の一つがここでも途切れていたのであった。途切れて初めてこちらはその道を知るのであった。ボトルが100%再生プラスチックなのも売りの一つにしているメーカーだから、コロナ禍での一時しのぎのつもりが元の製造体制になかなか戻れずにいるのかもしれない。それにしても、再生ではないプラスチックのことをバージンプラスチックと言うのか。「再生」なるものが出てきたからこその言葉なの?

バージンパルプという言い方もある。パルプと聞けば紙の原料と思うけれども、実際のバージンパルプはそれ以外に大いに用途が広がっている。今でこそ明らかに紙の需要が減っているから納得だけれども、日本製紙がパルプから牛の飼料を作ったというニュースを聞いたときには驚いた。凸版印刷が TOPPAN ホールディングスに社名変更したみたいに、いずれこちらも変えざるをえないのだろうか。TOPPAN について言えば、社名変更の告知動画で繰り返される「凸版印刷から印刷が取れて、TOPPAN になる」という快活なセリフは寂しかった。「TOPPA!」「TOPPA!」とも言っていて、せめて「凸パ!」とか「凸PA!」にしといてほしかった。しかしもうだいぶ重荷だったんだろう。これまでありがとうと言って手を振るしかない。改めて日本製紙のウェブサイトで牛の飼料について見てみると、「紙製品の副産物ではありません。製紙技術を応用して製造しています」としっかり書いてあった。

話は飛ぶけれど、私は大豆ミートが好きで家でよく使っている。しかし「まるでお肉」とか「肉の代替え品」とか、いったい人はいつまで言うのかなと思っている。パルプ由来の牛の飼料も、「まるで牧草」とか「牧草の代替え品」とか、やっぱりしばらく言われるんでしょうね。ところがこちらはネーミングがすごい。「元気森森」に「にんじん森森」。これだけではなんのことやら皆目見当がつかないでしょう? というのを狙ったんだろうけれども、かなり壮大。「高エネルギーのセンイ」で「消化がおだやか」で「国内製」で……やがてわれわれの食卓にも??  「にんじん森森」はパルプにニンジンジュースを吸わせているらしい。これを食べれば生草飼育に比べて不足するβーカロテンも一緒にとれます。ウクライナ侵攻を機に飼料の海外依存度の高さも露わになったから、以降、国産飼料推進の後押しを受けて利用が増えたりしているのだろうか。

パルプ以外のものを混ぜて作る混抄紙業界でのエコやリサイクルも日々進む。富士共和製紙には、古着の繊維を50%以上配合しながら印刷もできる紙があるそうだ。配合して抄いた紙にはどうしても凹凸が残るから、パルプで薄く抄いた紙でそれを挟むことで表面を滑らかにしているらしい。きれいに印刷するための紙は表面が平らでなくては。かつて製紙工場を見学したとき、紙を透けにくくしたり白くしたり光沢を出したり平らにするのに、抄く過程で混ぜたり表面に塗布する粉、填料なるものがあることを知った。いわゆる化粧だ。粉は炭酸カルシウムやカオリンなどで、ふっくらした質感を出すのにも用いられていた。写真集や画集に好んで使われるようなつるつるした紙にいたっては、パルプ繊維に石粉をからめてプレスして超薄の板に加工したという感じ。重たいはずだ。そう考えると手漉き和紙というのはさながらすっぴん? なんと露わなことだろう。

いま暮らしている住まいの近くは、その昔「紙漉町」と呼ばれていた。いわゆる浅草紙を作っていたところで、現在の浅草雷門近く、旧浅草田原町一丁目、二丁目、三丁目に当たる。落語の「紙くず屋」よろしく集めた古紙を分別して、水に浸して煮て叩いて漉き返して落とし紙などを作って売っていた。落語の「二階ぞめき」で聴くように浅草寺裏の吉原近くでも漉いていて、山谷堀公園には「紙洗橋」の親柱が、また交差点名としても残っている。紙の原料を水に浸している間、手持ち無沙汰の職人たちが吉原に向かい遊ぶでもなくぶらぶらしていたのが「冷やかし」の語源と言われる。これがもしわが故郷・山形で二階ぞめきしていたならば、「冷やかす」は「うるかす」になっていただろう。洗った米を水に浸けておくとか、おしどりミルクケーキの包み紙を水に浸けて文字を浮かすときに「うるかす(うるがす)」と言った。長風呂して指がしわしわになると「うるげだ」と言った。戻した乾物の具合をたずねるには「うるげだが?」と聞いた。「ふやかす」とはちょっと違う。ともあれ冷やかすもうるかすもふやかすも、過程やうつろいを宿すいい言葉だなと思った。

『アフリカ』を続けて(29)

下窪俊哉

 前回、『アフリカ』の表紙を飾っている切り絵の作品数を、2枚(表紙と裏表紙)×34号=68作と書いたのだが、切り絵を使っていない2009年3月増刊号も34分の1にカウントしているのと、表紙から裏表紙にかけて1枚の切り絵を巡らせている号もあるので、正確ではなかった。表紙に使われなかった切り絵も含め全81作という数字も、現時点で私が確認できている数であって、これから新たに出てくるものがあるかもしれない。
 他の人にすれば、そんなことはどうでもいいことのように思われるかもしれないが、私にとって、できるだけ正確な情報を探って、残しておくことがすごく大事なことのように感じられる。

 次号の表紙は色のついた切り絵を使ってカラー印刷する気で満々だったのだが、装幀の守安くんに全作品の画像を送ってメールのやりとりをしていたら、「こんな作品、あったっけ? すばらしいね! 今回はぜひこれを使いたい」と言われる切り絵があり、白と黒だけの作品なので、いつも通りのモノクロ印刷でゆこうと決まった。
 今後は表紙のみカラー印刷でゆこうか、という考えも頭の中にはあったのだが、やめておけ、ということかもしれない。
 オール・モノクロの小冊子で、制作費を抑え、身軽に号を重ねてゆこうという原点に、再び立ち返ってみよう。
「しかし、そのときはどうして、これを表紙にしなかったんだろうね?」と言われる。
 そんなことを訊かれても、例によって、思い出せないのである。想像するしかない。しぶとく想像して、それを元に作業を進める。

 10月末、『アフリカ』vol.35(2023年11月号)の入稿をすませたところだ。アフリカキカクのウェブサイトに目次を出したので、その内容について少しずつ触れておこう。

 ラストを飾っているなつめさんの「バウムクーヘン」が、じつは一番早い時期にもらっていた原稿で、見開き2ページの掌編。コンビニで初めて「バウムクーヘン」を購入したなつめさんが、それをどうやって食べたらよいのか、と考えている。それはどうやら、とても困難なことのようだ。もともとは『道草の家のWSマガジン』に送りそびれた(?)ものとして送られてきたのだが、これ、『アフリカ』に載せません? となった。

 戸田昌子さんの「喪失を確かめる」は「いくつかの死」をめぐるエッセイで、後半は「外部から眺めるしかできなかった喪失の出来事」として、戸田さんがたまたま遭遇した9.11のニューヨークへゆく。写真を撮るとは、どういうことなのか。書くとは、どういうことなのか。「喪失を確かめる」とは、どういうことなのか。個人史から見た写真論であり、文章論であると言える。読んでいる私は、この文章を傍らに置いて、いろんなことを見てゆきたいというふうに感じる。

 犬飼愛生さんの「ドレス」は、忘れもしない、向谷陽子さんの訃報を伝えるメールの返信として届いたもの。自分もいつ、どのようにして死ぬかわからないと思うと、出し惜しみしている場合ではない、書けたものを送っておきたい、と。「こどものための詩シリーズ ①」とある。「『アフリカ』は続ける気がない」と言っているのに、こうしてシリーズを構想している人がいる。前号の「寿司喰う牛、ハイに煙、あのbarの窓から四句」とはまた全然違う、新境地。犬飼さんはエッセイ「相当なアソートassort」シリーズの新作「家出」も寄せている。

「日記と小説」はこの春、夫婦で静岡から北見(北海道)へ移住/引っ越しして、そこに至る日々を日記形式で綴った本『たたかうひっこし』をつくったUNIさんのインタビュー。聞き手は、私。じつはその直後にUNIさんは「円満離婚」して、故郷・神戸へ戻ることになっていた。そんな夏の終わりの、ある朝のオンラインによる対話。子供の頃から日記を書く習慣があったというUNIさんは、ある日突然、病院の待合室で小説を書き始めた。なぜ書くのか、何を書くのか、どうやって書くのか、といったことを幼少の頃から現在まで、彼女の人生を語ってもらいつつ、共に考えているといったもの。

 スズキヒロミさんによる「その先の、今の詩集」は、犬飼さんの新詩集『手癖で愛すなよ』について何か書いてもらえないだろうか、とお願いして実現したもの。誰か文学者に依頼して犬飼愛生論を書いてもらうことも微かに考えないではなかったが、『アフリカ』では市井の、いち読者がどんなふうに詩を読んでいるか表すものを載せたい。スズキさんは『アフリカ』の愛読者で、『道草の家のWSマガジン』には何度か書かれているけれど、今回のようにまとまった原稿を発表するのはたぶん初めて? 草稿をくり返し読ませてもらって、興味深いやりとりがたくさんできた。

 私の小説「ハーモニー・グループ」は「朝のうちに逃げ出した私」(作品集『音を聴くひと』に収録)の流れに属している短篇で、これは駅前の広場で歌っているグループの中のひとりによって、その場が語られるというもの。このような短篇や、もっと小さな断片を集めて編んで、ある女性の音楽家を描こうとしているのだが、まだどうなるかわからない。

「『アフリカ』の切り絵ベスト・セレクション」は9月に一度完成させていたが、10月に再構成した。切り絵の原画は殆どがポストカードになっているので、そのサイズで見てもらおうと厳選していたのだが、縮小してもいいからもっとたくさん作品を見てもらおうというふうに方向転換して、賑やかになった。2013年の向谷さんによるコメントに、2023年の私のコメントを加えて、制作の舞台裏も伝えている。実際には行われていない展覧会の図録のように感じられたらいい。

『道草の家のWSマガジン』からは今回、矢口文さんの木炭画「夏草の勢い」を転載。ウェブマガジンで見るのと、印刷されたもので見るのでは、また違った印象を持たれるかもしれない。『WSマガジン』には絵の背景を伝える文章もあるのだが、それはあえて省いて、絵だけを載せた。

 今回は編集後記を書くのが怖かった。そこで向谷さんのことを書いてしまったら、いよいよ本当に、何かが終わってしまうような気がして。書きながら、声に出して読んでいたら、悲しくて仕方なかった。でも、それくらい正直なところが、表れているような気もする。とくに最後の数行が、なかなか出てこなかった。しばらく苦悶したのだが、最後にはちゃんと出てきてくれて、「まだ終わらないね」ということを確かめたのだった。

227 改稿 ―平和―

藤井貞和

ドームのしたには、原爆部落(と言った。)がひろがり、
石川孝子(女教師)は、教え子のひとりひとりを、
尋ねてまわる。 ある子は粗末な墓碑のしたに眠る。
特撮は、爆風に蹴散らかされる廃都をスクリーンに映す。
小学生たちが、みんなで泣きながら手をつなぎ、
映画館から出てくると、なぜかきょうは令和五年の夏だ。

 
(改稿と言っても、「平成22年4月25日」を「令和五年の夏」に変えただけです。ずるいね。ぼくらは乙羽信子を憎みました。数年ぶりに広島を訪れた女先生が、滝沢修の岩吉爺さんから孫の男の子を奪い取って、島へ連れ帰ります。そのことの意図を思うと、言いたくなる、いろいろはありますが、何を言っても今がむなしいな。学生のころ、東京から鈍行を乗り継いで長崎を訪れ、資料館と言ったか、平和公園と言ったか、その夜また乗り継いで帰ったことがあります。その長崎で編集室水平線を展開する西浩孝さんによる、増補新版『言葉と戦争』(初版は大月書店、二〇〇七・一一)が、今日で校了です。この本の重要な意義の一つは、パリ不戦条約(一九二八・八)が戦争を否定し、それの放棄を掲げた点に注目することでした。『非戦へ』(おなじく水平線、二〇一八・一一、「平和」初稿を含む)に引き継がれます。ええっ、戦争の廃絶が唱えられて世界はまだ百年しか経ってないのですね。こんにちに世にあふれる、それの悲惨を告発し、軍備を批判する議論はたしかにたいせつです。そうでなく、起源から廃絶へ論じる本が、なぜすくないのかな、どうしよう。)

歩くように指をうごかし

高橋悠治

コロナ以来、人と会うことがすくなくなった。ぶらぶら歩いて店をのぞいたり、どうでもいいことをしゃべっていれば、たまにはどうでもよくないことの一つも思いつくかもしれないが、こんなことではしようがない。毎月作曲することを考えながら書いていることのほうが、よほどどうでもいいことにちがいない。だいいち、文字に書いてしまったことは、音ではできないし、しようとも思わなくなる。

鍵盤の上でぶらぶら歩いたり、どこかに立ち止まったりしていればいいのかもしれないし、こんなことも意識しないのがあたりまえになれば、音が発見と感じられるのかもしれないが。ピアノを弾くときは掌を高く、指をぶらさげて、鍵盤の上で歩いたり跳んだりしながら、音を一つ、それから次の音と、あいだを見計らいながら続けていくだけ。意味や表現はいらない。音の長さ、強さ(というより弱さ)、指のうごき、手の知っていることがあり、耳がそれを追認する。と書いてしまうが、そんなことがあるわけはない。

と書くことがまた、考えすすめるのを邪魔している。分析は動きを止めて、あり得るいくつかの変数を代入する。最初の思いつきに代わる案はそれほど出てこない。最初の思いつきの余韻に引きずられているせいもある。自分一人だけで、ちがう出発点を見つけるのは、最初から複数の場合を用意していないと、うまくいかないだろう。その時も、最初に一つ選んだそのことが、後の選択に影を落としている… というように、考えはぐるぐる回っていく。

いま想像しているのは、何枚かの半透明なスクリーンが重なり動いていく映画館。スクリーンは折り重なったまま、それぞれが揺れているだけでなく、それぞれ独立に近づいたり遠ざかったりしている。それと並行して下に字幕が走っているのが、この文字になるはずだが、半透明のスクリーンは、芥川龍之介の「歯車」に出てくる半透明の歯車の記憶がスクリーンになっただけかもしれない。想像自体が頭痛を持っている気がするが、それこそ気のせいだろう。

重なった半透明のスクリーンは、半ば独立の線の重なる空間のイメージかもしれないが、こんな思いつきで満足はできない。だが、記譜法が問題だ。今はそこまで。

2023年10月1日(日)

水牛だより

暑いのはきっと明日までね、と言い続けて10月を迎えてしまいました、いやはや。
いつもいく近くのスーパーマーケットと隣家との境にある植え込みに、カラスウリの蔓がからみついていて、レースをまとったような白い花が夕方にいくつも咲いているのを見つけたのは、この夏のささやかな収穫です。赤い実がなるか、黄色いのがなるか、これからの楽しみです。タネがめずらしいかたちらしいので、もしも実ったら、そっとひとついただこう。

「水牛のように」を2023年10月1日号に更新しました。
イリナ・グリゴレさんの「蜘蛛を頭に乗せる日」は、これまでのエッセイとは違って、不思議な短編小説の趣です。次はどんなのが送られて来るのでしょうか。管啓次郎さんの「図書館日記」は今回が最終回です。12回で完結です。でも、次号からまた趣向を考えます、ということなので、また楽しみがふえます。管さんの軽々としたフットワークはいつも驚きですが、それはちゃんと詩に反映されていると感じます。そして、さとうまきさん「やっぱりバスラ」のサブリーン。彼女が亡くなったあと、東京で小さな追悼会があり、参加したことを思い出します。遺言によってさとうさんに託されたサブリーンの遺品も見せてもらいました。絵を別にすると、遺品はそのとき彼女が身につけていたほんのわずかのもので、一枚のビニール袋にすべて納まってしまうものでしたが、死んだあとはさとうさんとともに生きるのだというサブリーンの強い意志がしっかりと伝わってきたのでした。

それでは、また来月に!(八巻美恵)

蜘蛛を頭に乗せる日(下)

イリナ・グリゴレ

結婚式が始まった。蜘蛛を頭に乗せたまま。誰も気づかなかったのか、気付かないふりをしていただけなのか彼女にもよくわからなかった。古い、壊れたバオイリンを弾きながら、歯がない年取ったジプシーの男は、彼女を家から引っ張り出して不思議な儀礼に参加させた。その日は冬のはずだったのに、なぜか暑い鉄の塊を握るような感覚で、生まれて初めてとても濃い化粧されていたにも関わらず、汗でダラダラと白いパウダーが流れていた。それでも彼女の肌は幽霊のような白さだったので目立つこともなく、「村で一番美人な花嫁」という噂が広がって、次々と門の前に黒い服を着ている村の婦人たちが集まってきた。

ジプシーの音楽家が突然しわがれた声で花嫁と両親の別れの歌を歌い始めた頃、集まった婦人たちは大声で泣き始めた。そのとき、彼女は忘れていた蜘蛛のことを思い出した。手で触ってみるとまだ頭に乗っていたが、それは死んでいた。いや、死んだかどうか判断が難しかったが、動いてなかった。家の前に広がる葡萄畑を見ながら、ジプシーの声を聞いて逃げ出したくなるような気分が収まっていった。その瞬間とても強い風が風いて、儀礼によれば足を水が入ったバケツに入れるはずだったが、バケツが倒れ、水は凍った土に吸い込まれていった。この気温で水がすぐ凍らないのは不思議だと思った。彼女の足がとても熱かったからかもしれない。どうやら大分熱があったみたいだが、この村では一度結婚式というものが始まると誰も止めることができない。結婚式は花嫁が倒れても続く。

彼女はその後、家の門の外に座り、その日に母親が焼いたパンをジプシーの男が頭の上で割り、集まっていた村人に分けた。すると、どこからかわからないぐらい大勢の子供が出てきて彼女を囲み、手を伸ばしてパンを奪おうとした。その小さな手を見てボロボロ泣きだした自分が切なかった。花嫁になるから泣いてのではなく、自分も子供の時、この村で結婚式を見て、手を伸ばしてパンをもらって食べていた。幼い自分がそのパンを世界で一番美味しい食べ物だと思っていたのに、自分が花嫁の立場になった今はとても気持ち悪かった。熱のせいかもしれないが、遠くでパンを取り合って喧嘩する村の子供を見ながら吐きそうになった。なぜ子供の頃は美味しいと思ったのか、あんなまずいもの。口にしてないがまずいとしか思わない。

彼女は何回も倒れそうになったが誰も気付かなかった。おまけに頭に乗っていた蜘蛛が動いているのを感じた。村の教会までどうやって歩いたのか覚えていなかったけれど、それも子供の時に見た花嫁の行列と同じだったかもしれない。いくら考えても思い出せない。儀式は行われたのか、行われなかったのか、それさえも思い出せなかった。しかし、朝からたくさんの人が目の前にいたのに、花婿を見ていない気がした。自分があの蜘蛛と結婚したとしか思えない。誰かに言わないといけないが、もうすでにテントはジプシーのバンドの音楽で賑わって、殺された豚が大きな二つの鍋でシチューに煮込まれていた。親戚やら知り合いやら、人々がテントに集まって食べて踊っていた。彼女が椅子で気絶しても、あまりの賑やかさに誰も気付かなかった。

結婚式の日は彼女の人生で一番長い日のようだった。時間が止まっているというより、何百年もこの日を繰り返してきた感覚だった。全く同じことをなん度もなん度も繰り返していて、その繰り返しのループから抜けないまま一生を終えたような。
結婚式の夜に初めて、どこからかわからない暗闇から花婿が現れ、彼女を家の一番奥の部屋に引っ張り込んで、裸にして、頭に乗っていた蜘蛛を激しく潰した。その後、最初は手で彼女の足の間を触って、あの蜘蛛を潰したスピードで同じ指を彼女の身体に入れて変な声を出しながら興奮していた。彼女は熱のせいか、自分の頭に本当に蜘蛛がいたショックのせいなのか、あの蜘蛛が悪気なかったことを初めて理解したとともにとても気持ち悪くなって、彼を止めようとした。人の前で裸になることも、指で足の間を触られたことも、目の前の蜘蛛が殺されたことも初めてだったので耐えられなかった。でも彼は止めるどころか、もっと興奮してベッドで彼女の上に乗った。そして、彼女はあんな暗い部屋だったのにその後、雷のような光が痛みと共に訪ねたと思った。自分の肉が骨から離れたような痛み、そして離れただけではなくその瞬間に腐ったような匂いがした。

2分しか経ってないのに、彼女は何時間もその状態で声も出ないまま、壁にあった時計の音を聞いて自分の身体から離れようとした。彼は彼女に何も言わず、髭についていた豚の油を拭き、彼女から真っ白なシーツを引っ張って、何かを確認し始めた。シーツについていた血の跡を発見した瞬間、大喜びで賑やかなテントに向かった。しばらくすると外から大きな叫び声と賑やかな音楽が聞こえた。彼女はしばらく動けなかったから、一人で、部屋で泣いていた。あまりにも複雑な気持ちになって、ベッドの横の壁の白いペンキを爪で削って口に運んで食べ始めた。大人の女性とはみんなこのような人生なのかと思いながら。

しばらく経って彼女は起き上がった。足の間に何か冷たいものを感じたが身体は鈍くなって、拭くことさえできなかった。裸で出ようとしたが、突然、部屋の奥から白いモンシロチョウが飛んできた。びっくりしてドレスのことを思いだして手が普通に動き始めた。冬にモンシロチョウが飛ぶのも不思議だったけど、熱のせいで幻を見ただけかと思った。自分で白いドレスを着て外に出てみると、結婚式のテントの前に賞品のようにシーツが張り出されていた。血がついたまま。恥ずかしくてまた涙が出た。顔の上に涙が凍った。すっかり酔っぱらってふざけて老婆の服を着た若い未婚の男たちが後ろから近づいてきて、彼女を担ぎ上げて踊りの中に運び、鶏を彼女に持たせて言った「よかったね、あなたは処女で、この鶏を殺さなくてよかった」。まるで道化師のようにげらげら笑った。

彼女はそこからなんとか逃げ出し、気づいたときは裸足だった。葡萄畑に隠れたが葉っぱはなく、寒かった。花婿はどこを見てもいなかったけど、そもそも見たくはなかった。そのまま花嫁の姿で森へ歩き始めた。どこかに消えたい気分で、暗い森の中に入った。すぐ歩けなくなった。そのまま横になって、眠りたかった。森の中で雪が降り始めたが寒くなかった。血の匂いがした。朝方だったため光が木の姿の間から入り始めた。突然、子供の時に見た鹿が近づいてきて、また幻のように消えた。一緒に行きたかったのにと思った。寒くなってきた。森は彼女を追い出し、人間のところに戻って部屋で倒れた。

その後の人生は枯れた葉っぱのようにただ、たくさんの枯れている葉っぱがある土の上に落ち過ぎた。2回流産して二人の男の子を産み、都会にしばらく住んで60歳を過ぎた頃、全く一滴の愛情も注がなかった夫が死んだ。彼女は村に戻り、育った家で静かに暮らした。ときおり黒い服を着て結婚式と葬式に出かけた。ある日、突然自分が小さな女の子だと思って走って森に入った。そこには鉄砲を持った男と殺されたばかりの鹿がいた。遠くから「誰かが鹿を殺した」と大きな叫び声が聞こえた。

「図書館詩集」12(宗谷で生まれた宗谷トム)

管啓次郎

宗谷で生まれた宗谷トム
この先には海しかないとは思わなかった
知っていた、島影が見えること
知っていた、あちらと行き来する人々がいたこと
巨大な黒いからふと犬がわんわん吠えて
北へ行こうよ、北へ帰ろうよとせかす
出発をはばむのは勇気の欠如?
いや、国境だ
宗谷トムはトンコリを弾きながら
サハリン生まれだったばーちゃんを思い出す
ばーちゃんが飼っていたからふと犬の
ミーシャを思い出す
海辺で鳥が遊ぶのを
よく眺めていた犬だった
ばーちゃんの夢は青森に行くことで
それはばーちゃんが目の青い父親から
話を聞いていたから
ほんとうに森が青い、その森が
どこまでもつづくというのだが
それはたぶんばーちゃんの想像
ばーちゃんは旭川までしか行ったことがない
札幌も知らない
北端よりはるかに南にある土地だから
青森では
夏が長く春は早く山は青いと思ったのでは
ばーちゃんがもしからふとを覚えているとしても
それはたぶん子供として見聞きした
村の風景に限られていると思う
心にしかない土地が
いつか見た土地とおなじ重みをもつのが
人の心の仕組み
見たこともない土地を
水平線に見ている
それで心が騒ぐ
宗谷トムの想像は全方位にむかう
見えないものも
見てはいけないものも
全方位から岬に押し寄せてくる
やってくるたび岬が再定義される
耳がうさぎのように伸びる
海の上をおびただしいうさぎが
跳ねてくる、やってくる
海の中ではおびただしいにしんが
泳いでくる、やってくる
空にはかもめ舞い
太陽が黒々と光る
宗谷岬からサハリンまでは43キロ
ちょっと遠いな
竜飛岬から北海道までは19.5キロ
海が荒れていなければなんとかなるかも
縄文人は本州の子猪を道南に運んで
それを育てては「送って」いたらしい
その儀礼のやり方が
アイヌの「熊送り」とつながってくる
子熊を捉えてニンゲンのこどもとともに
まったくおなじように育てるのだ
子熊はよくなつき、かしこく、愛嬌があり
ほんとうにほんとうにかわいい
「子供たちもすっかり元気になり、
養っていた子グマと一日中、
楽しそうに遊んでいました。
この子グマは、ほんとうにかしこくて、
人間の言うこともすることも
なんでもわかるのです。
政代と末子が棒を持って
「ブランコ、ブランコ」と言うと
走ってきて、
左右をちゃんと見て、
棒の真ん中をつかんでぶらさがるのです」*
それはなんという夢のような
遊びだろう
だがそれは夢とは正反対
熊とかれらとの直接的な
肉体的なふれあい
それなくしては動物どころか
世界のことが何もわからないふれあい
私たちの社会にあまりに欠けているふれあい
ぼくとしてはこの世を限られた時間
歩きながら少しでもそんな
ふれあいを取り戻したい
この手でふれるのが無理ならせめて
物語を真剣に思い出したい
そのとき現実と物語をむすびつつ
ニューロンがどんなふうに発火
するのかを体験したい
知里幸恵『アイヌ神謡集』が
最初に出版されてから百年が経った
その百年がひきつれるのは
その前の一千年一万年の記憶
聞き覚えた物語を
初めてアルファベットで記し
それを日本語に訳して
初めて文字で届けてくれたのは
まだ十代の少女の偉大な魂
彼女が聞きみずからも口にした音が
塗りこめられた文字列を
なぞりながら
その意味もわからないままに
唱えてみようか
トワトワト
ハイクンテレケ ハイコシテムトリ
サンパヤ テレケ
ハリツ クンナ
ホテナオ
コンクワ
アトイカ トマトマキ クントテアシ フム フム!
トーロロ ハンロク ハンロク!
クツニサ クトンクトン
カッパ レウレウ カッパ
トヌペカ ランラン**
以上、きみはそれを三度でいいから
声に出してくりかえしてください
たとえ意味がわからなくても
必ず声に出してください
そこに不思議を感じないということが
あり得るものだろうか
よみがえるよみがえる
文字を手がかりに音を口ずさむ
文字を乗り物として音がみずから
やってくる
そのとき音を乗り物として
やってくるのが神だ
誰が口にするのかは関係なく
その場で生まれている空気のふるえに
振動によって
事物の関係が変わっている
そのことが神だ
そんなことを考えながらどんどん
歩いていくと
となかいの群れがいた
ラップランドから連れてこられたのかな
逃げるわけでもないが
なつきそうにない
それほど殊更こっちに無関心
耳に切り込みがあるのは
飼い主の徴か
橇、毛皮、肉、乳のいずれのためでもなく
ここにいるんだとしたら
どう扱うべきか挨拶に困る
どうどうどう、はいやー
飼われているのがとなかいで
野生のものがカリブーだというが
これらのとなかいはカリブー化したいのか
サハリン島のウイルタは
飼馴鹿をウラー
山馴鹿をシロと呼び
シロの狩猟のために囮にする化け馴鹿を
オロチックウラーと呼ぶのだということを
『ゴールデンカムイ』に学んだ
あれはものすごい漫画だよ
われわれの歴史・地理観を変える
こっちは狩猟民ではなく
漁撈民でも採集民でも
農耕民でも商人でも
技術者でも官僚でもなく
せいぜい最終民
ニンゲン世界の終わりを見届ける者だが
悲嘆にくれている暇はない
となかいに乗ることを断念して
ほらそこをゆく男と一緒に
これから海岸線を歩こうじゃないか
これからまだまだ
まだまだこれから
男は小柄だ、身長148センチだって
天塩川のほとりですでに会っている
僧侶の風体に北方民族の装身具をつけて
どちらまで?
いや、樺太帰りでね
これからオホーツク海の海岸線を
どんどん歩き
知床まで行くのだよ
もしやあなたが宗谷トム?
そんな名前は知らないな
私の名は「多気志楼」とも書きます
この名のユーモアがなんとも好ましい
気が多いやつなんだよ
頭の中で万国と森羅万象が渦巻いている
志すのは、めざすのは楼閣
それがどこにも見つからなくても
彼は歩いていく
「弘化二年(一八四五)、二八歳ではじめて
蝦夷地へと渡った松浦武四郎は、太平洋側を歩き、
夜の明け切らぬうちに知床半島の
先端にたどり着いた。/日の出を待つ間、
案内してくれたアイヌの男性二人に、瓢箪に入れた
お酒を振舞うと喜んでくれ、彼らは海岸に下りると
大きなアワビをとってきて、アワビの刺身で
一杯やりながら輝く朝日を一緒に眺めた」***
多気志楼以外のどの和人にそれができただろう
いったいどれだけの距離を歩いたというのだ
二八歳でそれを果たすことができなかったぼくには
それは曙光の中のぼんやりした夢でしかない
まだ二八歳にみたないきみには
ぜひそんな歩行を試みてほしい
いったい岬までの道はどんな道?
未明の森に羆の気配を感じることはあったのか?
かれらは鮑の刺身を
醤油、ひしお、塩のいずれで食べたのか?
そんな疑問がいくつも生まれる
そして空想の土地と現実の場所を
空想の過去と現実の未来を
つなげてゆこうと思うなら
ただちに歩いていこう
いま出発して
知床を目指して歩くのだ
世界がまた終わるまえに
シルエトクとは大地の果て
トワトワト
トワトワト

*砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』(福武文庫、1990年)より
**知里幸恵『アイヌ神謡集』(岩波文庫、1978年)より
***山本命『松浦武四郎入門』(月兎舎、2018年)より

稚内市立図書館、2023年8月22日(火)、快晴

やっぱりバスラ

さとうまき

3月15日
結構、迷ったけど結局バスラに行くことにした。明け方、飛行場に迎えに来たガイドは、調子よくハグしてくる。円安と燃油サーチャージが急騰し、ここから先はケチりまくるツアーになるから「よろしくね」というとバスラの市内を通り過ぎて、彼の暮らすズバイルという町まで連れて来てくれた。これといった古い風情のある建物があるわけでもなく、雑な街並みは、薄汚くてゴミが反乱している。粗末なアパートがホテルだという。チェックインしていると、いきなり警察官だという男が話しかけてきた。何か尋問されるのかと思ったが、客として泊っているらしい。研修のためなのか2階を彼らが占領していたので、僕は3階の部屋をあてがわれた。夜になると彼らが戻ってきて廊下は彼らが脱いだブーツで一杯になっていて、牢屋に入れられているかのような妄想を楽しませてくれるが、汚いホテルだった。

イラク戦争から20年だ。会いたい人がいる。いろいろ面倒を見てやったがんの子ども達もそうだ。

1991年の湾岸戦争では、アメリカ軍は劣化ウラン弾という砲弾を使用した。こいつは、ウランを濃縮した後の残りかすのウランを固めたもので、発射されると鋭い矢が飛んでいく。硬いから、戦車の装甲も簡単に突きさす。めり込む時の摩擦熱で、火花が出て、戦車を簡単に爆破させてしまう。しかし、劣化ウランは放射能出すから、微粒子が体の中に入ってしまうと白血病などのがんに罹ってしまう。

2003年も米軍は、劣化ウラン弾を使った。「安全な量しか使っていない」というが、一体どれくらい使ったか、どこに使ったかは、「言わない」のである。特にバスラでは、多くの劣化ウラン弾が使われたと言われて、破壊された戦車が放置してあった。「戦車の墓場」とも呼ばれていたのだ。初めてバスラに来たときには、このあたりが放射能で汚染されているのか?と思うだけで不安な気持ちでいっぱいになった。僕たちは恐る恐る破壊された戦車の横を通り過ぎる。子どもたちは、そんなことはお構いなしに戦車の中で遊んでいた。「あぶないよ」と言っても言葉は通じないし、これ以上は近づきたくはなかった。

しばらくすると、イラクは内戦状態になってしまい、僕たちはイラク国内に入る事すらできなくなってしまった。日本では、劣化ウラン弾への関心が高く、放射能の影響でがんが増えているという報道もあり、抗がん剤を子どもたちに届けてほしいと寄付する人たちがたくさんいた。そこで僕たちはヨルダンに事務所を構えることにしたのだ。そんな時に、バスラから避難してきていたイブラヒムという男に出会ったのだ。この男は、妻を白血病で失い、幼い子供を3人も抱えて途方に暮れていた。ちょうどいい、バスラに行ったり来たりしてもらい薬の運び屋をやってもらうことにした。なんだかそういう風に言うと怪しいことに手を染めているように聞こえるだろう。イラクにはやばい連中がたくさんいて、高価な薬だとわかると盗まれ、闇で転売されてしまうから、極力目立たないように、古着の中に忍ばせたりと苦心した。

ある日、イブラヒムは薬を届けてバスラから帰ってくると嬉しそうに「がんの子どもたちに絵をかかせてみたんだ」という。イブラヒムには全く絵心はなかったが、がんの子どもたちの人気者になったらしく、子どもたちはイブラヒムのためにたくさんの絵を描いたという。

そんな中で、忘れられない絵があった。サインペンで描かれた絵は線が躍動していた。
「これは?」
「サブリーンという11歳の少女がおりまして、まだサダム・フセイン大統領が健在だったころ、お父さんは、兵役から逃れていたのを捕まり、牢屋に入れられました。こいつはいけないやつだということで、耳をそがれたのであります。するとそこから感染症になり、お父さん、獄中で死んでしまった。少女がまだ1歳の時のこと。お母さんは大変だ。女手一つで生活は成り立たない。それで、お母さんは、再婚したというわけですが、ところが、新しい亭主、こいつがまた、定職につけず、貧乏でとてもじゃないがサブリーンを学校に行かすお金もない。まあ、12、13くらいになれば早めに嫁に出してしまおうと考えていたのだろうが、ところがサブリーンは癌になってしまった。サブリーンが病院に来た時にはもう右目は腫れあがり、摘出するしかなかった。お父さんは、相変わらず仕事がなくいつもイライラしてサブリーンをしかりつける始末。なんというかわいそうなお話し、何とかしてください」
ということで僕は彼女の絵の虜になり支援をはじめたのだ。

サブリーンは、がんになったことでみんなに迷惑をかけていると嘆いていた。どうせすべては手遅れだということも知っている。病院に行ってもお金がかかりみんなに迷惑をかけるだけだと。どうせ死ぬんだからもう病院には行かないと言ってこなくなってしまった。しかし、そうは問屋が卸さない。僕はと言えば、彼女が今度はどんな絵を描いてくれるんだろうかと楽しみにしていたからだ。

そんな僕の思いが通じてサブリーンは病院に戻ってきて、また絵を描いた。僕はうれしくなってみんなにサブリーンの絵を見せてまわった。サブリーンの描いた絵のファンも増えてお金も集まるようになり、病院に薬を届けることができた。サブリーンのおかげで他の患者たちの薬も買うことができた。彼女は生きていることの意味をしっかりと感じることができたのだろう。しかし、病気は進行していった。もう目も見えなくなって、彼女は「ありがとう、幸せでした」と言って死んでいった。

その話はどんどん膨らんでいった。ある人は、講演会で「サブリーンが死ぬ前に、私に手紙を書いてくれたんです」と言いって涙を誘い、募金を集めてくれた。
「どうだい? みんなこの話をするとお金をたくさん寄付してくれるんだ」と自慢げだった。ただ、サブリーンは目が見えなくなっていたから、手紙なんか書ける状態ではなかった。その人の話し方がうまくて僕も感動したぐらいだ。なんだか、人をだましているようでどうも釈然としなかった。

サブリーンに会いたくなった。でも彼女は天国にいる。そこで、サブリーンのお母さんに会いに行くことにした。ガイドに頼んでサブリーンの家を探す。2013年にお母さんを訪ねたことがあり大体の道は覚えていた。彼女たちの住んでいる貧困地区には鉄くずなどの資源ごみが集められて、そういうのを売買している人たちが暮らしていた。おそらくその中には劣化ウラン弾の放射能で汚染された鉄くずなども混ざっていたのかもしれなかった。

バスラも最近ではモールができて、65000人が収容できるサッカースタジアムもある。ここにきてようやく復興が進みだしたが、貧困地区の開発は絶望的だ。サブリーンの家の周辺は全く変わっていない。家の前の空き地は、ゴミ捨て場になっており、ごみの回収はいつ行われているのか全く分からないような状態で悪臭が漂う。ただ、以前は、治安の問題から日本人であることを知られないように、隠れるように移動していたので生きた心地がしなかったが、今はそんなことはなく、堂々と道を歩ける。これは大きな進歩だ。

お母さんが扉を開けて家の中に入れてくれた。家で小さな雑貨も売っていて、近所の子どもたちがお菓子を買いにやってくる。サブリーンの弟は結婚して子どもができたばかり。妹たちはというと大学に行っているという。そのうちの一人のファーティマは、成績が優秀で私立の大学に奨学金を貰って通っていて、薬学を勉強していた。サブリーンは学校にまともにいくことはなく、がんになって初めて院内学級でいろんなことを学んでいった。妹の世代は、貧しくても、チャンスがある。「戦争がない状態」は、若者達に未来を与える。日本だと当たり前のこと。イラクは20年経ってようやくそういう段階に来たんだ。そう思うとなんだかとてもうれしくなった。

10月16日は、サブリーンの命日なのである。未だに彼女のことを思いだすだけで何か勇気をもらえるのだ。

ジャワ舞踊のレパートリー(2)男性舞踊優形

冨岡三智

先月に続き、今回は男性舞踊優形のレパートリーについて。私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。男性舞踊については留学後にゼロから始め、芸大の授業履修と教員のパマルディ氏に師事と両輪で進めた。女性舞踊と違ってまだほとんど見通しがなかったので、パマルディに選曲してもらった基本的な演目をやることになった。以下、★印は日本あるいはインドネシアで上演したことがある曲。

最初の留学で習った演目を順番に挙げるとまず「タンディンガン」、次いで「トペン・グヌンサリ(ガリマン版)★」で、これらは1年生後期の授業内容である。1セメスターで2曲習う。留学してクラスに入った時にはすでに授業が始まっていたので、クラスの内容を追いかける形でレッスンを始めた。「タンディンガン」(戦いの意)は芸大では男性舞踊の基礎としてラントヨ(セメスターI)の次にやる演目として位置づけられ、男性優形のクラスでは優形の人物2人の戦い、男性荒型のクラスでは同じ曲で荒型2人の人物の戦いとして同一曲で練習する。戦いものの練習曲だが人物設定はないので、自分でキャラクターを設定したり、また荒型×優形のように組み合わせたりして上演できるようになっている。

その後は「パムンカス」、「メナッ・コンチャル★」、「ガンビルアノム」、「トペン・グヌンサリ(PKJT版)★」といった単独舞踊を習う。これまで挙げた6曲にはすべて市販カセットがある。トペン~とあるのは仮面舞踊で、パンジ物語出典の舞踊は仮面を使う。「メナッ・コンチャル」については『水牛』2014年2月号、2つのグヌンサリについては『水牛』2014年4月号に寄稿した記事で書いているので参照を。「パムンカス」以外はキャラクターがある。パマルディ氏曰く、ここまでは基本的な舞踊なので、アルスをやるなら全部やりなさいとのこと。単独舞踊としては芸大には他にワハユ・サントソ・プラブォウォ氏の振り付けによる「ブロマストロ」があるのだが、それは習っていない。パマルディ氏曰く、それはもう少し難しい曲だから、基礎演目をやったあと自分の方向性として強いキャラクターをやりたいなら習ったらいいという話だった。

2回目の留学ではパマルディ氏は一層忙しく、また当時は現代舞踊・創作を教えることが多かったので、私は授業だけでなんとかマスターし、試験も受けた後でパマルディ氏に見てもらってアドバイスしてもらうという形にした。以前に習った曲を再度授業で履修しつつ、新たに「パンジ―・トゥンガル★」、「カルノ・タンディン」、「パラグノ・パラグナディ」、それから「バンバンガン・チャキル」を履修する。これらには市販カセットがなく、芸大が授業用に録音したものを使う。いずれも芸大で3年生後期以降のカリキュラムだ。前の3曲は古い宮廷舞踊を復曲させたもので、アルスの極みのような曲。「パンジー」は単独舞踊(トゥンガルは1人の意)だが、もともと2人でやる曲を1人でできるようにガリマン氏がフォーメーションを変えたもの。この曲については『水牛』2015年10月号に寄稿した記事「パンジ・トゥンガル」を参照。次の2曲は戦いもの。優形同士のキャラクターの戦いである。「カルノ・タンディン」は複数つながっている曲の最初が、スリンピでも使う「ゴンドクスモ」。グンディン・クタワン形式の曲で、この形式の曲はスリンピでいくつか使われるけれど宮廷舞踊らしい曲でラサ(味わい、感覚の意味)を出すのが難しい。「パラグノ・パラグナディ」は戦いの場面に続くシルップの場面でイラマIVが出てくるところが難しい。このテンポが出てくるのは、私が知る限りではこの舞踊だけ。

「バンバンガン・チャキル」は見目麗しい武将と羅刹チャキルの戦いもので、チャキルは荒型である。昔から商業ワヤン・オラン舞踊劇で人気の、スラカルタを代表する演目だ。この演目についても『水牛』2004年6月号に寄稿した記事「バンバンガン・チャキル」で書いている。この授業では、学生はチャキルを踊ってくれる相手方を自分で探し、授業外に自分たちで振付を考えて試験に臨む。相手役は同じクラスの人でも、他のクラスや学年の人に頼んでも良い。決まった振付がないのは、昔から踊り手が振り付けるのが伝統だからとの理由だったが、4年生後期のカリキュラムになっているので、自分で振り付られるようになって一人前ということなのだろうとも思う。

留学を終えて2003年の夏、ジャカルタで「スリ・パモソ★」を習う。これは宮廷舞踊家クスモケソウォ(私の宮廷女性舞踊の師匠であるジョコ女史の舅)の曲で、2003年2月に上演された。その経緯については、2020年11月号『水牛』に寄稿した記事「『スリ・パモソ』作品と復曲の背景」に詳しいが、その時に復曲させ踊ったスリスティヨ・ティルトクスモ氏に習った。私はその復曲の過程も見ていて、さらにその曲も自費録音させてもらっていたので、格別の思い入れがあった。

どうよう(2023.10)

小沼純一

あたま いた
あたま いた

あたま いない
いない いない

あたま いる
あたま いらない

あたま いたい
あ たま いたい
いた いた いたい
いなかった

いいときは
わるいこと
わるいとき
おもい
ださない
おもい
だし
にくい

かならず
でも
いつも
でも
ないけれど
わるいときにわるいこと
おもいだし
つづいてゆくと

たべるのにつかってるから
はなしのためにはつかわない

のり
つくだに
つけもの
うめぼし
とうふ
たまご
とまと
しらす
みょうが
だいこんおろし
なっとう

しょくよくなくて
じかんがかかる

たまにもれる
みじかなけいよう

あまい
にがい
こい
うすい
かたい
からい

しずかなしょくたく
はしのちゃわんのおとばかり

ひとくちおわると
ためいきひとつ
ひとくちのこる
おみおつけ

ひきどをあけて
しょうじをあけて
もひとつ
がらすまどあけて
あまどをとぶくろに
あみどももどし
えんがわに
えんがわまえのくつぬぎいし
なにもない
つっかけないから
はだしのまんま
にわおりて
あしうらにははっぱやじゃり
いたいくすぐったい
きもちいい
きもちわるい
わかんない
このままどこかにいっちゃいたい
いけのきんぎょは
どこかつれてってくれるかな
かえるとくらすのどうだろな
へいのむこうはいけなそう
にわからそとはどうだろう
いつかいつか
へいのどこかわれるまで