製本かい摘みましては(183)

四釜裕子

大きなものから同寸でたくさん切り出すのは難しい。いつまでたっても慣れないなと思っているうちに老眼になってしまった。ここから先はできない理由をもっぱら老眼のせいにするだろう。でもそれではこの目に不義理だなと思って、苦手の理由がそれではないことをここで一度はっきりしておこう。製本ワークショプの材料で表紙用のクロスや革を揃えるとき、費用をおさえるためにも大きなものをまとめて買うが、一人分ずつ切り分けて用意するのが難儀で、今年もその時期が来て憂鬱になっていた。もちろん測って切るのだがときどき足りなくなってしまって、それでは最初に渡す材料にならないので困る。何もかも準備された材料と道具で全員が見事に仕上げるたぐいの授業ではないから、材料が足りないとか失敗すると勝手に工夫できておもしろいわよとささやくのは次の段階なのだ。

ところが今年、朗報到来。よく行く浅草橋の革屋の店頭に、手頃な大きさに切り揃えられた端切れが山になっているという。のぞいてみたらば、A6サイズでいろいろな色柄素材をたくさんほしい私にはうってつけだった。厚さもちょうどいいものが多いし、値段はどれも同じで11枚以上はさらに割引になる。この店は常時端切れが置いてあるけれど、いわば「純端切れ」で大きさも値段もバラバラなのだ。いつもサイズ確認のためのA6サイズに切ったボール紙を持参して、縦に横に当てながら、枚数と値段を足し算しつつ選びに選んで買っていたが今回は違う。箱の中からどんどん選んで足し算も簡単。なんということでしょう! 見るからに「ランドセルの端切れ」がかなりあって、ちょっと硬いかなと思ったけれどもそれも少し買ってみた。袖山みたいなあのかたち、ランドセルのどの部分の切り残しだろう。”そちら側”を、みんな元気に背負っているかな。

お店の人に「このサイズの端切れは定番化の予定ありですか?」と聞いたら、「出ている限りになると思います」。ちょっと考えて1週間後にまた行ったら、相当減っていた。皆さんあれでどんなものを作るのだろう。私たちはこれを、「交差式ルリユール」の表紙に使う。A6サイズ程度の2枚の革をヨ型とロ型(正しくはヨの字の形でもロの字の形でもないが私が勝手にそう呼んでいる)にそれぞれ切って、まずはヨ型の一部を支持体として本文紙をかがる。終わったら、そこにロ型を両手の指が交差するように重ねて整える。これはイタリアのCarmencho Arreguiさんが考案した「Crossed Structure Bindig」で、のりを用いない製本法だ。もちろん表紙が革である必要はなく、大きさもデザインもアレンジもいろいろできる。世界中で愛されている開放的な方法だが、日本では「交差式”ルリユール”」と呼ばれているのがちょっとおもしろい。

革は揃った。表紙クロスはキハラのネット通販「Book Buddy」で大きいのをまとめて買って切り出した。紙は長らく渋谷の東急ハンズでカット済みのものから選んできたが、数年前から品揃えがぐっと減り、2022年にはカインズに買収されてハンズとなり、売り場も人もロゴも変わってついに足が向かなくなった。株式会社東急ハンズは1976年設立、1号店は藤沢だったのか。77年二子玉川店、78年渋谷店開店。お世話になった。本当に楽しませてもらった。それで今年はどうしようかなと思っていたが、自宅近くに紙の商社の山利さん(1953年創業)があって、界隈のものづくりマーケット「モノマチ」期間中には「A4サイズ紙詰め放題」が定番で、今年は3年ぶりに復活したので出かけたのだった。一生懸命詰めてこんなものかなと満足していると、係の人が「まだ入りますよ~」とコツを伝授してくれたりして、おかげで今年はこれでなんとかなるだろう。

長い紙を蛇腹に折って作る「クラウンブック」や「ブリザードブック」(どちらもHedi Kyleさん考案)もいつか取り上げたいと思ってきたけれど、やはり直角をとった細長い紙を人数分用意する必要があるので実現していない。でももしかしたらちょうどいい感じの長い紙が商品としてあったりして……とふと思い、ネットで軽く検索したら「長尺用紙」なるものがヒットした。店内広告やPOPに多く用いられているようで、ファックス用感熱紙のようにロール状のものも売っている。そうか、こういうものも自社あるいは自宅でやる人が増えているのか。長尺用紙メーカーの1つである中川製作所のサイトには、DIYならぬ「P.I.Y.通信」というのがあり、そこに使い方などいろいろ出ていた。「TOPPANエッジの長尺印刷」なるサイトもあった。〈A Long As Possible〉、巻物などの美術複製品や、展示用のパノラマ印刷、年史などが紹介されている。仕上げは、巻物・蛇腹・1枚絵から選べるようだ。ここまできて、思い出したことがある。

私は「gui」という同人誌の同人なのだが、坂本龍一さんの作品に「Gui」という曲がある。佐古忠彦監督の『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』(2019)に書き下ろしたテーマ曲で、私たちのguiとはなんら関係はない。昨年、その楽譜が坂本さんの公式サイトで販売されるようになり、購入していた。ピアノは弾けないけど楽譜を見てもいいだろう。「Gui」の譜面はA4判見開きで完結しているが、長いものは蛇腹仕様になるようだ。サイトにはこう書いてある。〈プリント・オン・デマンド版は、環境に配慮してFSC認証紙を採用、注文ごとに蛇腹印刷で丁寧に仕上げ、長嶋りかこデザインのスコアケースに入れて手元に届けられる〉。この「蛇腹印刷」が気になっていた。あとで蛇腹に仕上げるならば、そうは言わないだろうと思ったからだ。もしやこれは、いわゆる長尺用紙+長尺印刷の一種? 未確認です。

6月の末、gui同人の國峰照子さんのお宅に「Gui」の楽譜を持って行き、2台のグランドピアノが並ぶ部屋で國峰さんのお嬢さんの響子さんに弾いていただいてみんなで聴いた。ジンとしてシンとしたのち、タイトルの意味についてひとしきり妄想談義が始まった。佐古監督の前作『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(2017)にも坂本さんは曲を書いていて、そのタイトルは監督の名前の「佐古(さこ)」由来で「Sacco」としたそうだから、「Gui」も意味というより響きによるものではないかと私は思い、わりと本気で、タイトルの「男」から「Guy」→「Gui」説を唱えたが超不評だった。せっかくみんないい気持ちで妄想しているのに、無粋だったと反省した。

7月

笠井瑞丈

今年も気付けば折り返しです
年始にいつも今年の目標を立てる
結局何も出来ずに7月になる
また下半期の目標の誓いを立てる

それを遂行できずに
きっと今年も終わるのだろう

そのように毎年が過ぎていく

時間は残酷のように
刻々と過ぎていく

結局何かを残すことができるだろうか
別に残さなくてもいいのかもしれない

自分が描いている自分というものに
いつまでも近づくことが出来ない

あと二年で50歳になる
こちらも折り返しだ

たまにそのような事を考える

自分ができることとは
自分がやらなきゃいけないこととは

何も考えず生きてきた訳じゃないけど
何も考えず生きてきたのかもしれない

十代は夢しかなく
二十代は希望に溢れ
三十代で現実の壁に
四十代は壁を越えて

進むしかない
振り返れば

悪いことばかりじゃないけど
良いことばかりでもなかった

先日とある舞踊コンクールの
審査員をやらせていただいた

出場者は当日知らされる

そこに同じ歳で15年ぶりの友人が出ていた
終わった後久しぶりの再会に握手を交わす

彼とはクラブで踊ったり
イベントで一緒に踊った

たわいもない昔話で盛り上がる

踊っていた彼も
舞台裏で再会した彼も

とてもかっこよく見えた
今もがむしゃらに挑戦している

久しぶりに今度飲もうと約束する

まだこれからだ
折り返しなんかない
ただの直線だと思う

仙台ネイティブのつぶやき(84)お盆に食べるもの

西大立目祥子

 お盆には、「ずんだ餅」と「おくずかけ」を食べる。「食べる」と書いたけれど、なかなか「つくる」と書けないのが現実だ。特にずんだ餅は。
 枝豆をやわらかめに茹で、さやから豆を取り出し、さらに一粒一粒の甘皮を取り除く。それをすり鉢でつぶし(もちろんフードプロセッサーにかけてもいいのだが)、少しつぶつぶ感が残るくらいのペーストにして、砂糖と塩で甘味を整え、餅にからめる。一世代前くらいまでは、家々の台所でつくるものだったろうけれど、これだけの手間ひまがかかるのだから、いまは買うもの。お盆の前には、スーパーも餅屋もお菓子屋も、こぞってずんだ餅を売り出す。やはり、豆の香りが立つあざやかな黄緑色の餅は、夏の行事には欠かせない、と多くの人が思っているのだろう。あそこの餅屋のはすりつぶし過ぎだとか、こっちのはいまいち風味が足りないとか、という話もよく耳にする。

 ずんだ餅一つにあれこれ好みを述べ立てたりするのは、やはり宮城が米どころで、餅文化が根強く生きているからなのかもしれない、とあらためて思う。特に仙台平野の北に広がる大崎平野以北は、ごちそう、お振る舞いといえば餅だったようだ。手元にある『宮城の食事』(農文協・1990年)をみると、この地方の餅料理として紹介されているのは「あめ餅」「くるみ餅」「おろし餅」「おづげ餅」「よもぎ餅」「納豆餅」「えび餅」「ごま餅」「しょうが餅」「小豆餅」「ずね餅」「ずんだ餅」と、ざっと12種類。ちなみに「おづげ餅」は、汁物に餅を浮かせたもの。「おつけ」がなまっている。「ずね」とは「えごま」のことだ。赤いお椀に盛られた餅がみんな茶色っぽい見た目の中で、ずんだ餅は軽やかな緑。やわらかな緑色のあんの下に白い餅が透かし見える。清々しく特別のものという雰囲気があって、お盆のとき帰ってくる亡くなった人のために手をかけて準備し仏壇に供えたというのもわかる気がする。一年に一度帰ってくるのだもの、大変でもおいしいものを用意して、ともに食べ、そしてあの世へ返してやろうという気持ちがわいてきたのだろう。

 私はというと、これまでずんだ餅をつくったのは2、3回。一度思い立って一人台所で作業したことがあったけれど、枝豆を茹で、さやから豆を出し…と、ここまではまぁやれたけど、そのあとの作業でヘトヘトになり、おいしかったどうかあまり覚えていない。
 でも、一度、最高にうまいずんだ餅づくりを経験している。東日本大震災のあと、仙台市の沿岸部、三本塚という地域で、収穫から食べるところまで、10数人が集まり協働作業でやり遂げた。畑に行って、根元から引っこ抜いた枝豆を軽トラックの荷台に山のように積んで集会所に運び、テントの下に積み上げ、まわりをぐるりと数人で囲んで枝からさやをはずし、洗ったあとは地元のお母さんたちがつぎつぎと茹で上げ、たしかフードプロセッサーを使っての流れ作業。床の上には、昔風を体験したい人はこっちもどうぞというように大きなすり鉢とすりこぎも用意してあって、ごりごり豆をつぶす人もいた。

 このときのずんだ餅は、夏の記憶の1コマとしていまもときおり思い起こすほどにおいしかった。収穫したばかりの枝豆のうまさはもちろんあるけれど、茹で上がってくる豆の香りが充満する集会所の中で、わぁわぁと協働作業でやった楽しさに縁取られているからだろうか。サヤから豆をはじき出すなどという地味につらい作業はやっぱりみんなでやるのがよい。かつてはお盆がめぐりくるたびに準備できたのも、7人、8人と大勢で暮らしていたからなんだろうな。

 さて、一方のおくずかけは、毎年自作する。出汁をとって、里芋、人参、インゲン、椎茸、豆麩を入れて煮て醤油で味をつけたら、宮城県南の白石名産「白石温麺(しろいしうーめん)」を半束くらい茹で入れ、片栗粉でとろみをつける。白石温麺は油を使わずに製造された長さが乾麺の半分くらいの細麺で、おくずかけには欠かせない。お椀によそうと、表面には豆麩が浮かび、中には細い麺が泳いでいて、見た目からしてほかの汁物にはない独特の味わいだ。

 東北には、お盆に仏壇に盆棚をつくり、素麺を供えたり食べたりする風習も残る。最近は盆棚をつくる家は農山村でも少なくなったとは思うけれど、棚にマコモの葉を敷き、その上に素麺を束のままのせたり茹でて供えたりしたという話は、地域を問わず聞かされる。細く長く幸せにとか、帰ってきた先祖の霊が帰るときに使う手綱だとかいろいろな説があるみたいだが、6月ごろに麦の収穫を終えているわけだから、豊作感謝の意味合いも込められているのかもしれない。麺は特別のごちそうでもあったのだろう。おくずかけは、お椀に麺を入れ込んでさらに格別度が増している。

 考えてみると、ずんだ餅に使う青豆だって、未成熟の豆を先取りして食べているのだから、まぁかなりの贅沢でもある。いまは農家はお盆から逆算して種まきをする。

 私が格別にうまかったずんだ餅を味わった三本塚では、あのおいしさをもう一度というわけでもないのだけれど、5月に大豆の種まきをした。この地区では大津波被害を乗り越え、多くの人たちが戻って暮らし、地域の行事やつきあいを取り戻している。町内会長さんが暮らしの記録をまとめたいと考えていて、住民の方から聞き取りをするお手伝いをすることになった。何かテーマがあった方がいいだろうと、いっしょに活動をする東北芸術工科大学の学生さんたちと7畝ほど大豆をまいた。

 カラスにやられ、でも5畝はすくすく育っていたのだが、連日の猛烈な暑さで大豆はぐんぐん育ち、いや育ちすぎ、これは予定を早めないと、と町内会長さんから連絡がきた。8月26日に予定していた豆の収穫を7日に繰り上げ。何と3週間も早めることになった。
7日は「こんな夏は初めてだよ」といいながら、汗だくになっての収穫、豆もぎ、豆茹で、そしてすりつぶし…になるのだろうか。再び格別のずんだ餅をみんなで味わいたい。

号外

北村周一

山下清という画家がいた。
小学校6年生の時にふとしたきっかけでその画家と出会うことになった。
サインまでもらった。
もらったというよりサインが欲しくて山下清の絵はがきを買った。
いま手許にあるのはそのうちの一枚。
ロンドンのタワーブリッジをペンで描いたもの。
その場でのスケッチというよりもホテルに帰って思い出し思い出し描いたものらしい。

静岡市の中心に駿府公園という緑豊かな一画がある。
もともと駿府城があったところでお濠が周囲をかこっていてそれなりに風情があったように記憶している。
小学校の遠足でも何度か訪れた。
広々とした公園の中に児童会館があってちょっと不思議な体験ができるので必ず立ち寄ることにしていた。
その駿府公園で写生大会が開かれた。
主催は静岡県児童会館長。
協賛はクレパス本舗株式会社桜商会。
(ここまでわかるのは山下清の絵はがきを探していたらたまたまこの写生大会の時の表彰状が出てきたからでといっても大した賞ではなかったのだけれど・・・)

正式名は母の日写生大会。
昭和39年の5月に開催された。
東京五輪の年である。
清水の当時通っていた小学校からは自分ひとりだけが参加した。
清水からは遠かったので父親が付き添ってくれた。
まず最初に描く場所を決めなければならなかった。
どこでもいいという訳にはいかなかったので取り敢えずあちらこちら歩いてみた。
この場所決めがいちばんむずかしかった。
もう絵を描き始めている子もいたりしてすこし焦った。
適当に居場所を決めてスケッチを始めたら何とかなるだろうと思っていたけれどだんだんくたびれてきてお昼までに終えようと思ってせっせと絵を仕上げているとどっかに消えていた父親がもどってきて山下清の話をしだした。
手には号外を持っていた。
山下清画伯来るの号外である。
それで父親にせがんでその画家の展覧会を見に行くことになった。

道々の電信柱には号外がペタペタと貼られていて妙に物々しかった。
呉服町通りのとある画廊というよりも呉服屋さんの壁に画伯の絵が何枚も飾ってあった。
人が多かった。
特に中年の着物姿のおばさんがいっぱいいた。
白粉の匂いが店内に充満していて息苦しかった。
当の画伯はというと商店の中央に座っていてめんどくさそうに周囲を見渡していた。
ランニング姿ではなかったしヘラヘラ笑ってもいなかった。
絵はがきを買ってサインをもらった。
一字一字丁寧にサインしていた。
画伯の絵についてはあまりよく覚えていないが数年前に旅行した時に描いたヨーロッパの町々の風景がテーマだったようだ。
東海道五十三次の制作にも取り掛かっていたようでそれで静岡県の各所で展覧会を開いていたらしい。

 絵はがきや切手とともに抽斗へ仕舞いわすれし東京五輪

本小屋から(3)

福島亮

 本小屋の近くに、小さな池がある。
 池には大きなミシシッピアカミミガメが4匹暮らしていて、日中は石の上で日光浴をしている。4匹同時に甲羅を干している時もあれば、1匹だけのこともある。だから池の前を通るときは、今日は何匹日光浴しているか予想することにしている。

 亀にとって日光浴はきわめて重要な行いだ。紫外線を浴びることで、ビタミンDを生成し、それによって甲羅や骨のもとになるカルシウムを吸収するからである。また、水中に長時間いる亀にとって、日光浴は甲羅や皮膚に付着する病原菌を殺菌する意味合いもある。そのような効能に加えて、やはり温かな日差しを浴びるのは気持ちが良いのだろう。いわゆる「スーパーマン・ポーズ」と呼ばれる、手足をピンと伸ばした姿勢で日光浴をしている亀たちを見ると、なんとも気持ち良さそうだ。じっさい、変温動物にとって、太陽の熱は身体の温度を保つ唯一の恵みである。その恵みを全身に浴びながら、食べたものをゆっくりと消化する時間は貴重な時間であるはずだ。

 先日、今日は4匹だと思いながら池を確認すると、石の上にいたのは2匹だけだった。後の2匹は水中にいるはずだ。見ると、水の中を1匹の亀がスイスイと泳いでいる。器用なものだ。時々首を伸ばし、水底の落ち葉や泥を鼻先で漁っている。だが、それを見ながらなんとも妙な感じがした。というのも、やけに首が長いのである。池に住むアカミミガメはどれも立派な体格で、甲長25センチくらいある。たしかに亀は首を甲羅の中に収納できるから、想像するよりも実際の首の長さがあるのは理解できるが、それにしても首の長さが20センチもある亀がいるだろうか。不審に思い、よくよく眺めてみて、疑問は氷解した。泳いでいたのは、アカミミガメではなく、スッポンだったのである。このスッポンがどこからやってきたのかはわからない。小さな池だから、野生の個体だとは考えにくい。誰かの包丁の下から、逃げ出してきたのかもしれないし、近くを流れる川にもともと住んでいたのかもしれない。あるいは、誰かが放したのか。まさか、とは思うが、大きくなるまで池を泳がせ、いつの日か……。

 これまで何度か亀を飼ったことがある。小学1年生くらいの頃、いわゆる「ゼニガメ」を2匹、親にねだって買ってもらったのが亀と付き合った最初の記憶だ。本来ゼニガメというのは、イシガメの子どもを指すのだそうだ。だが、イシガメはデリケートな亀で、環境の悪化に弱く、数が減っている。そのため、クサガメの子どもをゼニガメと称して販売している。いずれも黒っぽくまん丸な500円玉サイズの甲羅は、銭にそっくりだ。だが、たしかに私がねだったのは「ゼニガメ」だったはずで、この言葉を覚えたのもその時だと思うのだが、しかし、記憶の中の子亀は、緑色をしているのである。となると、それはいわゆるミドリガメ、つまり、アカミミガメの子どもだったのかもしれない。夏休みが近くなるとペットショップの炎天下の軒先に何十匹と子亀が入ったタライが置かれ、夏休みの子どもたちを引き寄せる。そんな「客寄せ亀」だから、正式名称を与えられず、本来であればイシガメかクサガメの幼体を指す「ゼニガメ」という愛称を適当に付けられて、あの緑の子どもたちは文字通り二束三文で売られていたのかもしれない。当時、その「ゼニガメ」は1匹500円程度だった。子どもの小遣いでも十分に購入できる亀たちは、その後どうなったのか。うちにやってきた子どもたちはプラスチックケースに入れられ、毎日覗き込まれたり、撫で回されたりした挙句、ろくに日光浴もできぬまま、衰弱死した。元気いっぱいだった頃の子亀は、甲羅をつまんで持ち上げると、手足をばたつかせてもがいていて、なんとも愛らしかった。それがどれだけストレスだったか、私にはわからず、カブトムシやクワガタと同じように、殺してしまったのである。

 こんなふうに、亀との思い出は、後ろめたいものであり、あまり思い出したくない。唯一幸福な思い出は、大学生の頃、夜、高田馬場を歩いていた時に拾った亀との出会いである。どうしてあんなところに亀がいたのか、よくわからないのだが、たしかあれは雨が降った後の夜だった。歩道に掌くらいの大きさの黒い塊が落ちていて、なんだろうと思ってよく見てみると、それは手足を縮めた亀だった。ひとまず拾って、交番に届けたのだが、交番では犬か猫でないと対応できないという。亀は落とし物として扱われ、1週間ほど保管されるが、その後は焼却処分されるらしい。「うちでは殺すことになるから、よかったら飼ってやってください。」

 亀に太郎という名前をつけ、大きめの衣装ケースに入れて飼うことにした。卒業論文と修士論文を書く際に、徹夜に付き合ってくれたのも、この太郎だった。太郎は表情豊かで、私が徹夜をしていると、こちらの方をじっとみながら時折あくびをした。また、どこで覚えたのか、手の甲で目を拭う仕草もした。さすがに可哀想なので、タオルケットでケースを覆い、暗くしてやると、今度はかえって目が覚めてしまったのか、長い爪でケースの壁を引っ掻いて餌をねだってくる。こんなふうに、やたら自己主張をしてくる太郎だが、彼(太郎はオスだ)はアカミミガメではなく、キバラガメという種類の亀だった。腹甲が黄色いから、キバラガメ。一般にはイエロー・ベリー・タートルという名前で流通している、ミシシッピアカミミガメと同じくアメリカ大陸原産の亀で、幼体は甲羅が緑なので、アカミミガメと混ざって輸入されることがあるそうだ。いずれにしても、太郎はかつて人間に飼われていたと思われる。自然下で繁殖した個体なら、あそこまで人懐っこくはなかったはずだ。

 その後、私はフランスに行くことになり、太郎との別れがやってきた。従兄弟の友人が亀を飼っているというので、その人に託すことにした。いま太郎がどうしているか、私は知らない。

 ミドリガメ、つまりミシシッピアカミミガメ(時にキバラガメ)の幼体は、その色が美しいことから愛玩用として1950年代半ばから日本への輸入が始まった。チョコレート菓子の景品として郵送でばら撒かれたこともあるというから、当初から生き物としての扱いではなく、子どもの玩具、客寄せ用の景品、つまりは物だったのだ。環境省のデータによると、1990年代半ばのアカミミガメ輸入量は、年間100万匹だという。小学1年の私が親にねだって購入し、殺してしまった亀は、この100万匹のうちの2匹である。近年の輸入量は年間10万匹というが、2023年6月1日から「条件付特定外来生物」としてアカミミガメを販売したり放出したりすることは禁止されている。これまでに日本に連れてこられ、殺されてきた亀の数はどれくらいになるのか、想像もできないが、本小屋の近くの池でスッポンと暮らす4匹の亀は、その何億匹のうちのどれかだろう。あるいは、日本で生まれ育った亀たちかもしれない。アカミミガメとスッポンの関係が良好なものかどうかはよくわからないが、いずれにしても、人間に放された過去を持つ亀たちがこうして池で暮らしている。

 日光浴する亀を見ていると、記憶の奥底に沈んでいた子亀たちが浮かびあがってくる。それは私が殺した子亀たちでもあるし、炎天下の店先に鮨詰め状態で置かれていたあの緑色の子どもたちでもある。あるいは今どうしているのかわからない、太郎の姿もある。そして、ざわざわと、幾千万本もの長い爪で私の胸の内を引っ掻くのである。

『アフリカ』を続けて(26)

下窪俊哉

 これを書いている7月末の時点では、まだ『アフリカ』次号の”セッション”は動き出していない。暑くてそれどころではないというわけではないが、そうかもしれないという気がしてくる猛暑のなか、切り絵(表紙)の相談をしたり、書く人に手紙やメールを書いて出したり、なかなか出せなかったりしている。
『アフリカ』のような雑誌は年1冊というのでは動きが鈍いというか、それではつくっている私の腰が重くなるので、年2冊くらいのペースに戻してゆきたいと少し前に書いたり話したりしていた。始めた頃はそのくらいのペースでつくっていたのだ。『水牛通信』について平野甲賀さんが「気軽にやるのが一番。出たとこ勝負でチャラッと作るのが長続きのコツ」(「平野甲賀の仕事1964-2013展」図録より)と書いていたのも印象深く覚えている。そうするにはあまり間を空けず、次から次へとつくってゆく方がよい。
 そう考えると、最新号が2023年3月号なので、ペース配分を考えると、次は9月頃である。もう、すぐではないか?
 だからと言って、焦るような気持ちにはなれない。声をかけたり、あるいは声もかけずに(思い浮かぶ人の全員に声をかけると大変なことになる)、原稿が来るのを待っているだけである。
 来るのは原稿だけではないかもしれない。予測のできない新しい何かが、やって来るかもしれないのだから。
 前にも書いたかもしれないけれど、『アフリカ』は特集テーマのようなものを掲げて原稿を集めることをしない。そういうやり方をすれば編集は楽かもしれないが、やりたくないからしない。結果的に特集号のようになった号が2、3冊あったけれど、それはあくまでも例外であって、普段はしない。待っているだけと言っても、自分にも毎日の執筆があるのだから、手持ち無沙汰になることもない(むしろ忙しい)。

 半年ほど前にここで『思想』3月号の「雑誌・文化・運動」について書いた際、冨山一郎さんのエッセイ「雑誌の「雑性」」に触れた。その時はパンデミックを機に大学で「通信というもの」を始めた冨山さん自身の実践に注目して書いたのだが、その文章の主題は雑誌の「雑」についての考察だ。少し引用してみよう。

 思想の科学研究会が様々なサークルについて『共同研究 集団』(一九七六年)を刊行した時、その序論で鶴見俊輔は集団について考えることを、「煙の道をなぞる」、あるいは「煙そのものの内部の感覚」と記している。鶴見が、文字通り煙にまいたようないい方で示そうとしているのは、テーマや主張といった言葉においてはつかまえることのできない集団や方向性が、想定されているのではないだろうか。

 それを受けて、雑誌を読むことは「自らの意図において方向づけられた」ものではなく「偶発的な出会い」であると続け、「雑誌は、一人ひとりが契機となった連鎖を媒介しているのであり、読み書き話すというひとつながりの言葉の行為の中にある」と冨山さんは書いている。
 多様な文章のあることが重要なのではなく、各々が「契機」となることが重要であり、書いたり、読んだり、話したりするなかに雑誌は浮かび上がるのだ、そう考えると、私は何だか嬉しくなる。
 雑誌をつくる者としては、でも、それって、具体的にどうするの? と思わなくもない。私は雑誌を研究しているのではない、個人的な雑誌という運動体に仕えている最中なのだから。
 いま、たまたま縁あって、『アフリカ』という場に辿り着いている(と感じている)人たちが書いている。どんなものが出てくるだろうか、私という編集人は待っている。
 次号がどんな内容になるのか、前もって私は殆どわからない。少しわかっているのは、自分が目下書いている原稿のことだけだ(しかしそれが載るかどうかはまだ決まっていない)。この状態では、まだ雑誌は浮かび上がってきていない。原稿が送られてきて、それをまず私は読む。その「読む」という行為のなかに、あるとき、ふと新しい『アフリカ』が浮かび上がってくるのを待っている。
 待つと言っても、そこにはいろんな「待つ」があるということか。
 そうやって『アフリカ』はどうなるかサッパリわからない、よって『アフリカ』自身が抱えているテーマや主張といったものは何もない、ということになるのかというと、いや、どうだろうか。そうでもないはずだと感じる。

 2006年の秋、『アフリカ』を始めた直後に仕事で近畿地方各地を巡っていて綾部を訪ねた際に、綾部市役所の職員からある人を紹介された。塩見直紀さんといって、「半農半X」という暮らし方を提唱しているのだという話を聞かせてもらった。翻訳家・星川淳さんの「半農半著」ということばに影響を受けて(それは星川さんが仕事の半分を農業とし、残り半分を著=執筆として暮らしている話から来ている)、自分にとって「著」の部分には何が当てはまるだろうかと考えたがスパッと思いつくものがない、なのであえてそこを明確にせず括弧に入れて(「X」にして)探りつつ新しい暮らしを始めたという話だった。
 その後、塩見さんから定期的にメール・マガジンが届くようになった。その中には、面白い提案がたくさんあった。すぐに思い出せるのは、「自分オリジナルの肩書きを考えてみよう」とか、年末には「今年の極私的・十大ニュースを書き出してみよう」とか。そのときに書き出してみた数十にも及ぶ肩書きのなかに「道草家」があった。書き記したときにはふざけていたのだが、数年後にはそれが自分の愛称になって、思いもしなかった縁を呼んだり、結婚相手を連れてきたりしたので人生何がどうなるかわからない。「十大ニュース」は毎年、幾つかのトピックスはすぐに出せるが、必ず十項目を出さねばならない。その頃にも印象深い出来事の多かった年と、少なかった年があった。そのことが自分に何を教えようとしているのか、と探ったりもした。

 ここでなぜそんなことを思い出して書いたのかというと、『アフリカ』はその「X」を抱えているのではないか、と急に思いついたからだ。それは一体何だろう、とりあえず括弧に入れられて、未だ姿を隠している。そう考えてみたらどうだろう。

雨のヨルダンでイラクを待つ男たち

さとうまき

ヨルダンの空気は、いつも心地よかった。たとえそれが真夏であって、太陽がぎらぎらと照り付けていても、今にも50℃を超えそうなバグダッドに比べたら涼しく感じるのである。20年前、イラク戦争で疲弊したバグダッドで緊急支援の任務を終えて、国境を超えヨルダン側に入った瞬間のひんやりとした空気に触れると、まさに地獄から生還した気分になり、精神的にも安堵したことを思い出す。冬は、中東のイメージに反して、凍てつくような寒さで、時には雪が積もる。しかし、雨が降ると、砂漠には草草が芽吹き始めて、生命の躍動を感じる。枯れ葉だけの日本の冬のような寂しさはないのだ。

ダウンタウンの安ホテルは、僕にとっては快適だった。エルサレムや、ダマスカスといった城壁の中に小ぎれいに収まった旧市街に比べれば、ずいぶんと見劣りはするものの砂漠を旅する旅人たちの中継点に違いなかった。香辛料と羊のにおいが漂う薄汚いこの町は活気にあふれている。オスマン帝国の時代から、大英帝国の統治下でもこの活気は変わらなかっただろう。労働者が利用するような大衆食堂もいくつかあり、羊肉をトマトで煮込んだ定食を頼む。久しぶりに現地で食するせいなのか、羊がうまい。

ヨルダンを拠点として活躍している画家のハーニー・ダッラ・アリーさんがイラク行きのチケットを手配してくれるというのでカフェで待ち合わせる。ハーニーさんは、イラク人の原風景ともいえるナツメヤシの木をモチーフにした絵を描いていた。ナツメヤシの葉をすきこんだ紙にイラクの人々を描きこむ。最近はカナダに移住したと聞いていた。「カナダ? 暮らしやすくても、そこは私の街ではない。つまり、私はアラブ人だったってわけさ!」

バグダッドに行くかバスラに行くか迷っていた。バスラにはかつて支援していた小児がんの子どもたちがいて、今どうしているんだろうというのが気になっていたのだ。しかし、今やもう援助業界からは足を洗っていたので、後々めんどくさいことになると嫌なので今回は時間もなかったからバグダッドだけにしようとも考えた。ただ、やはり、そうイラクに行くチャンスもないだろうと思い、行けるときには無理しても行くべきだと決心した。ハーニ―さんは、その場で携帯電話でイラク行きのチケットを手配してくれた。

翌日は、朝から雨が降っていた。イスタンブールのNGOの事務所を訪ねてお金を渡すはずだったが、タクシーでぼられたりしているうちに時間が無くなり、結局ヨルダンから送金しなくてはならなくなったが、ここからだと、市中の両替屋で簡単に送金ができる。

一方、シリアからも、しつこくお金を送金してくれというメッセージが入ってくる。地震の被害者ではなく、南部のダラアというところに白血病の女の子がいるという。病院に行くお金がないという話だ。間に入っているイブラヒムという男が、果たして信用できるのかどうか。お金を送っても受け取ったという返事はすぐにはよこさず、お金が必要な時だけしつこく連絡してくる。まあ、イブラヒムが信用できる人間だということを信じてお金を送金するしかなく、あっという間に資金が厳しくなってしまった。おまけに円安と、ウクライナ危機で飛行機の燃料代も上がってしまっていて、ヨルダンからイラクまでのチケットが500ドルを超えてしまった。それでも、あと数時間後には、僕がバスラにいることを想像すると小躍りせずにはおれなかった。

アンマンの安ホテル。僕の部屋は3階だったが、エレベータもなく、階段を重たいスーツケースを持ち上げて登らなくてはならない。部屋は、排水溝から漂っているどぶ臭いにおいもするが、それでも居心地はよかった。ホテルのフロントには、ハンチングをかぶった老人がシフトで入っている。かつて中東がソ連の影響を受けていた時代の雰囲気、つまり、日本でいえば昭和時代のいでたち。今でも使っているのかどうか怪しいが、部屋につなぐ電話回線のボードの前に座っている。僕が日本から持ってきたドリップコーヒーを飲むためにお湯を沸かしてもらう。物珍しそうに、「それは何かね?」と聞いてくる。「コーヒーですよ」袋を開けてコーヒーカップにセットしてお湯を注ぐ。老人は、「便利なコーヒーですなあ」と感心している。

夜も更けたころ、頼んでおいたタクシーが到着する。さあ、僕はバスラを目指す。シンドバッドの冒険の始まりだ。

イラク戦争から20年「メソポタミアの未来」展を開催
7月26日ー8月28日 11時~19時
赤羽「青猫書房」
ハーニ―・ダッラ・アリーさんの作品も展示中
https://aoneko0706-0828.peatix.com/

しもた屋之噺(258)

杉山洋一

国連のグテーレス事務総長曰く「The era of global worming has ended.  The era of global boiling has arrived」だそうです。「地球沸騰化の時代到来」という言葉を、既に今年の時点で聞くとは、思ってもみませんでした。沸点に到達してしまえば、後は暫く沸き続けるだけかもしれません。こんな大切な時に、我々は何をやっているのか情けなくも思いますが、身から出た錆びなのは否めません。仕方ないと諦めるべきなのかもしれませんが、子供たちを思うと、それも無責任に思えます。
香港高等法院が、香港政府の「香港に栄光あれ」使用禁止要請を却下したそうですが、法院の矜持を感じます。3年前に「自画像」を書いた際、「香港に」をウクライナ国歌とともに曲尾に使ったのを思い出しました。

・・・

7月某日 三軒茶屋自宅
町田の母が昼食に用意した、ブラウン・マッシュルームと自家菜園ニンニク、それにアスパラガスのパスタの写真が届く。
馬場くんとドナトーニEtwas Ruhiger im Ausdruckについて、ズームで話す。作曲者本人を知っていれば、様々な疑問に関しても、本人の性格を鑑みてそれなりに対処できるのかもしれないが、例え本人を知らなくて、結果的に本人の意志と離れた解決方法で対処したとしても、それは構わないのではないか。特に、ドナトーニのように、音符を書き上げるところまでが自分の仕事と思っている作曲家であれば、猶更そうにちがいない。
この処、早朝世田谷観音に散歩に出かけるたびに、涼し気な澄んだ声で鶯が啼いている。

7月某日 三軒茶屋自宅
朝から「軌跡」の譜面を眺める。
一足先に功子先生とリハーサルをした清水君よりメールが届き、「幼少期に憧れた巨匠達の名演の香りが溢れていて、言葉にしがたい感情を抱きました」、とある。
東京現音計画演奏会にでかけた。どれも面白かったが、特にドロール・ファイラーに衝撃を受ける。ノイズ音楽に興味があるのでも、爆発的音響が好きなわけでもないが、彼自身が舞台に上がり、突き動かされるようにかかる音楽を自ら体現する必然に、深く心を動かされた。
その強烈な大音響の中、小学校低学年と思しき女児と母親が、耳を抑えて会場を出て行ったので同情していると、直ぐにまた大はしゃぎしながら戻ってきて、駆け足で席に戻った。

7月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりの湯浅先生との再会を喜ぶ。思いの外お元気そうだ。湯浅先生はもうすぐ94歳だが、「世界中見渡してもこの年齢まで仕事する作曲家は少ないですから、もう作曲はいいですよ」と笑顔で仰った直後に、「でもまだ書きたいかな」ともぽろりとこぼされるので、断筆宣言は程遠いと安堵する。
菫色のタイにワイシャツを颯爽と併せ、相変わらずお洒落で生粋の紳士だと感嘆。湯浅先生は今日のように少し光沢ある質感の服をお召しになる印象があって、彼の作品の手触りにも通じる。
尤も、実際作品を演奏すれば、宇宙空間の隕石のような質感が、磁力と見紛うほどの強力な方向性と重力を纏って駆け抜けてゆく感覚であって、エネルギーに圧倒される。
クセナキスは音そのものを生々しいほど直截に表現し、音の周りの空間など終ぞ感じさせなかったが、湯浅先生の音は、音が浮かぶ空間全体が俯瞰される。二人とも等しく音の運動を具現化していても、湯浅先生の作品がコスモロジーに繋がるのは、そんなところにも理由があるのだろう。寧ろ、コスモロジーに端を発し、かかる空間性が啓かれたのかも知れない。「軌跡」の最後、明滅する光を、どう表現すべきか、湯浅先生の横顔を眺めながら考えていた。
その後、代々木八幡の功子先生宅にてソリスト合わせ。恩師を独奏者に迎え、自作を指揮するのは何とも不思議な心地だ。恩師を指揮するだけでも落着かないが、それに輪をかけて、恩師が自分の作品を弾き、注文まで付けなければならないとすると、これは全く居た堪れない思いであった。
尤も先生は、この妙な一期一会をすっかり愉しんでいらっしゃるように見受けられた。こちらは全く記憶にないが、先生曰く、相当こましゃくれた坊主だったらしく、その頃を思い出して面白がっていらしたのかも知れない。
とはいえども、無知だから生意気でいられるのであって、馬齢を重ねて多少は世間も見えてくれば、幾ら厚顔無恥であれ、恩師を前に涼しい顔でやり過ごせるものではない。
併し、その当惑をも吹き飛ばすかのように、先生は一音目から実に雄弁で説得力があって、圧倒されるばかりであった。想像していた通りの音が目の前で鳴っていて、その昔レッスンで先生の音に聴き入っていた時のような錯覚を覚える。
演奏会の宣伝に使おうと、百ちゃんが写真を撮りに来てくれたのだが、この光景に感動して泣きそうになっていた。
リハーサル後、百ちゃんと代々木八幡の食堂で軽い夕食。この小学校来の親友とは、もう何十年も前から互いに駄弁を奮って、四方山話に花を咲かせてきた。百ちゃんのところの古部君と家人も古くからの気の置けない親友だから、長らく夫婦通しの付合いが続いている。

7月某日 三軒茶屋自宅
朝から自作の譜面を広げているが、この作業は本当に苦痛を強いる。
自作を理解しているつもりでも、それは楽譜に書かれた音符のあちら側の事情であって、こちら側の実情には余りに無知だし、頓着していないと悟るのは、あまり愉快なものではない。
勉強に際して、努めて先入観を排して譜読みすべきではあるが、自作ともなると先入観を取り除くのも容易ではない。特に、自作演奏に際しては、極力音符を振るべくつとめるべきであり、音楽について、余計な拘泥などしない方がよいだろう。そんなことをしているうち、10時の美恵さんと悠治さんの待ち合わせに遅刻してしまった。
互いの近況報告、体調報告等、久しぶりに会えば、誰とでもそんな話ばかり、と皆で笑う。昨日、悠治さんから、「ジョンシェ」の下敷きである「エルの伝説」との比較分析の論文をいただき読んでいたので、そのはなし。
ジョンシェのスコア巻頭に、クセナキス自身が、「ジョンシェ」は「エルの伝説」を下に書いたと明記してあるが、具体的にどう使われていたかはわからない。
その論文は、それぞれの音響解析のグラフを提示して、どの部分がどう対応しているかを示す。「まあそうかもしれないけどね」程度に頭に留めておけばいい、と二人で話がまとまる。
「ジョンシェ」の最後、金管楽器が咆哮するあたりは、確かに論文に示された「エルの伝説」対応部分を思わせる。だから、ほぼ間違いなく、その部分を使って、「ジョンシェ」のあの部分を作曲したに違いない。とは言えそれが「ジョンシェ」を演奏に、新しい霊感を与えてくれるものでもない。
尤も、逆の立場から言えば、作曲家として「エルの伝説」で丁寧に用意したグラフを、全く違った音響で肉付けしてみたいと思うのは至極当然の欲求だろう。
同じグラフを使い、テープ音楽のような人間の呼吸が介在しない作品と、人間の集合体の最たるものである大オーケストラを使って、全く違う作品を作りたい、というのは、究極の比較とも言える。時間軸に定着された音響の帯と、無数の人間の呼吸が織りなし、紡ぎだす音の熱量。極度に抑制されたテープ作品の倍音構造と、ほぼ不確定に重なり合う無限の倍音群。
少し早めの昼食、「宝蘭」にて海老ソバに舌鼓を打つ。美味。

7月某日 三軒茶屋自宅
夜、池辺先生、福士先生、三善先生の「詩鏡」を聴きに、東京シンフォニエッタ公演に出かける。池辺先生も傘寿。頓に今年は八十寿の音楽家が多い気がする。
福士先生の作品では、音楽の空間性とその空間性が生み出す方向性、推進力に惹きこまれる。池辺先生の作品は、何より先生の音の質感が好きなのだ。音響を作るのではなく、あくまでも人によって奏され、そこに生まれくる音を書き留めていらっしゃるから、表層としての音ではなく、人が介在した結果としての音を愛でていらっしゃるのが良くわかるし、発音された音はとても強い。楽器の音をぼやかさず、直截に聴かせるから、音の内実も実感できる。楽音が丸裸になっているから、単純に見える楽譜でも、実際演奏はやさしくない。
初演以来から再演されていなかった、三善先生の「詩鏡」を初めて聴く。音の主張の強さ、ぎっしりと詰まった作品の密度の高さに、改めて作曲とは何かを身につまされる思いがする。お前ちゃんとやっているのかい、と問われているような心地で聞いてしまったが、多分それは先生の本意ではなく、単にこちらの問題である。とにかく一つ一つの音の展開は、とても誠実にあつかわれていて、自分はなんとがさつな人間かと思う。
久しぶりに由紀子さんと大竹久美さんに再会。由紀子さんは大竹さんのスタイリッシュなスポーツカーで颯爽と帰宅された。前回お目にかかった時より、足取りも軽くお元気そうで嬉しい。
上野で垣ケ原さんと軽食。未だ仕事しなければならないので、ほやと豆腐とノンアルコール・ビールを頼む。垣ケ原さんは、生前武満さんから聞いた、架空のオペラ計画「コカ・コーラ殺人事件」について話してくれる。
帰宅すると、拙作の演奏者の皆さんよりArdenteとVeemente, Impetuosoは、どれも「激して」という意味のようだが、どう違うのかと質問が届いていた。
ArdenteもVeementeも揃って懐古調で、30年イタリアに住んでいるが、日常会話の中では聞いたことも使ったこともない。古めかしいというか、厳めしいというのか、マンゾーニの小説あたりに出てくる単語だから、イタリア人には通じるが普段使う機会も必要もない。白状すれば、全部同じ標語では単に能がないから変えただけなのだが、一流の演奏家はさすが楽譜の読込み方が違う。
こんな感じで語感が好きな言葉にsubitamente がある。仏語のsubitement も西語のsubitamenteも現在でも普通に使うようだが、伊語でsubitamenteと言えばマンゾーニ時代かそれ以前の響きがするから、ちょうど我々が漱石の日本語を読む塩梅だ。イタリア人にsubitamenteと言えば、もちろん通じるだろうが、仏語か西語経験者と思われるか、イタリア文学研究者と思われるに違いない。
以前、家人がsubitoと言おうとして、subitamenteと話していたが、相手が特に何も反応していないのに、内心酷くがっかりしていた。

7月某日 三軒茶屋自宅
改めて功子先生宅にリハーサルに伺う。近所の伊料理屋でシチリア菓子とナポリ菓子を購い、持参する。先生の気迫と音の張りは、こちらを数倍凌駕している。
その伊小料理屋でコーヒーを一杯呷った際、メニューにカフェ・トニカがあって、これは何かと尋ねると、何でもエスプレッソとトニック水を併せたもので、夏によく吞まれるのだそうだ。元来2014年くらいからあるコーヒーのヴァリエーションだったが、近年特にSNSを介して爆発的に世界に流布して最新の流行となったという。カフェ・シェケラートみたいにエスプレッソと砂糖と氷をシェイクしたり、カフェ・トニカのようにトニック水で割る方が、先にコーヒーを用意して冷蔵庫で冷ましておくよりずっと新鮮な香が楽しめるので、至極論理的に考えられたメニューなのかもしれない。
ミーノより、ハイデルベルグ・フィルの音楽監督に就任したとの報告を受けた。今まで長らくずっとサポートしてくださって、本当にありがとうございました、とある。これは凄いなと感激していると、外山雄三先生の訃報が届いた。
先日の尾高賞の選考にも、外山先生が関わっていらしたはずだ。子供の頃から、折にふれ演奏会やテレビで外山先生の演奏に触れてきたけれど、なぜか鮮明に思い起こすのは、テレビで目にした、読響との「ローマの祭」の指揮姿である。
棒に合わせてオーケストラが弾くというより、外山先生の考えた音をオーケストラが鳴らすよう、外山先生は振っていらっしゃると思った。当時、指揮など皆目わからなかったが、やはり作曲する指揮者は別の視点から見ているのかしら、と生意気なことを考えていた。

7月某日 三軒茶屋自宅
普段、リハーサルに臨むときの緊張とは全く違う緊張感を胸に、リハーサル会場へ向かう。
会場入口手前で功子先生と、手伝ってくれているももかさんにお会いしたが、どこか不思議な気分であった。今までは、ヴァイオリンを習っていた頃の自分と作曲を始めてからの自分が、どこか分離して平行線を辿っているような感覚を持ち続けてきた。
3歳から16歳までの自分と、16歳から現在までの自分という風に、無意識にどこかで境界を曳いていたものが、ここでは何だか解放されたようで、紙縒りのように捩れていたものの存在に気付く。「演奏会をぜひ何かやりましょうよ」と先生にお話ししたのも、自覚していなかったとは言え、実は自分のためではなかったのかとさえ思う。
言霊とは好く言ったもので、とにかく言葉にしてしまえば、その言葉が独りで歩き出し、いつしか実体となって、気が付けばこうして実現していることもある。なるほど面白いものだ。
皆の前で先生が弾き、生徒たちはその音に耳を傾けて、一緒に音を出す。子供のころ繰返しやっていた本当に懐かしい光景が目の前で展開されている。
洋ちゃん小さいからここに立って、などと、てきぱき舞台の立ち位置を決めていらした先生の声が、突然耳の中に甦る。
「これから、忘れられない夢のような3日間になるわ」と喜代ちゃんも感慨深そうである。
思いの外明るく軽やかに、バッハが始まった。ほんの最初だけ、オーケストラは先生を慮って、少し後ろに抑えながら弾いている印象を受けたけれど、直ぐに音楽が混じり合うようになる。篠崎門下は、特定のスタイルがないところがスタイルなのだそうだが、直ぐに互いに音が交り合い収斂されてゆくのは、全く持って肝胆相照らす仲というところか。トップの木野さんの采配も見事だった。
久しぶりに再会した岩田さんから、雨田光弘先生の近況を伺い、どうにも信子先生の位牌に手を併せたくなり、夜、思い切ってお宅を訪ねた。
コロナ禍もあって、つつじが丘を訪れるのは3年ぶりだった。以前信子先生の寝室だった2階の部屋はこざっぱりと片付けられていて、扉のすぐ隣にちょこんと仏壇がおいてある。
その隣の部屋にはちゃぶ台とテレビがあって、そこで一緒にご飯を頂いたことは数えきれない。テレビでは、いつも古い演奏会のヴィデオやテレビ中継がかかっていた。
でも、隣の信子先生の寝室に入ったことはなかった。ここの窓からは遠く富士山も望めるそうだが、いつも薄暗く閉め切っていたから、信子が眺望を愛でることはなかったよと、光弘先生は笑った。仏壇には、今の自分位の年齢と思しき信子先生の写真が飾ってある。高校大学と先生にお世話になっていた頃の写真に違いない。
信子は出来るだけ目立たないようにしているつもりでも、いつも目立ってしまってねえ、と光弘先生は目を細めた。自分に対しても他人に対しても、終わった演奏を批評することも拘泥することも殆どなくて、さっぱりしたものだったよ、と笑った。余り褒めもしなかったが、貶すこともなく、誰に対しても変わりない態度で接していたよ、と話して下さった。
16年近く可愛がった二匹の猫が、揃って忽然と姿を消したのが余程堪えたに違いない。それ以来すっかり体調を崩してしまってね。まさかこれが最後になるとは思わず、病院に行ったんだ。
そんなお話しを聞いているうち、どういう流れだったか悠治さんの話になった。
その昔、日フィルでユージがコンピュータで作った曲をやったときは、小澤征爾の横で、アシスタントがこうやって大きなプラカードを掲げていたんだよ、という話になる。
そのプラカードには小節数が書いてあってね、それを見てオーケストラは弾いたんだ。
でね、あの時小沢征爾に、お前チェロの音が違うって、すごい剣幕で怒られちゃってさ。怖かったんだよ、と仰るので、それは冗談だったのでしょうと言ったが、どうやら本当に震え上がったそうである。
尤もその頃、光弘先生は小澤先生のお子さんにチェロを教えていたくらいで懇意にしていらしたから目を付けられたんだよ、と周りに慰められたそうだ。
なるほど、どうやって「オルフィカ」を初演したのか不思議に思っていたが、少し謎が解けた気がする。日フィルに残るパート譜の落書きを見ると、リハーサル風景まで目に浮かぶようでもある。因みに、オルフィカは小澤先生に献呈されている。
光弘先生が横にいらした間は大丈夫だったが、光弘先生が、じゃあお茶でも用意するね、と先に階下に降りて一人になった途端、涙がこぼれてきて困ってしまった。もっと早くにここに来たかったし、来るべきだったのかもしれないが、やはり来るのも辛かったのも実感する。

7月某日 三軒茶屋自宅
二日目のリハーサル。昨日で雰囲気は大分掴めたので、どの作品も細部の調整や手直しを丁寧にやる。皆から、洋ちゃんと呼ばれる面映ゆさにもさすがに馴れた。「洋ちゃん」はヴァイオリンが弾けた頃の自分に繋がっているから、もう楽器もなく一切ヴァイオリンなど弾けない自分は、そう呼ばれると何とも申し訳ない心地になってしまう。そんな無意識の困惑も、昨日やっているうちにどうでもよくなってしまった。
オーケストラの錚々たるメンバーを見渡しながら、改めて先生の人徳だと恐れ入る。総じて、学生は恩師の真価など、習っている時分は殆ど理解していない。そうして習い終わって社会に出てから恥じ入ったり、青くなったりするものである。
清水君はブラームスのリハーサルで、2楽章の主題がシューマンが自殺を図る直前に書き残したものを、クララの許しを得てブラームスが使ったものだと話してくれた。
清水君とも小学生時代からの付合いだけれど、これほど柔和に丁寧に音楽を紡いでゆく人だとは知らなかったから、その姿にも感動を覚えた。昔からよく知っている積りでも、何も分かっていなかったのだなと内心自らを笑い飛ばしていた。
リハーサル後、百ちゃんと古部くんに自宅まで送ってもらう。何でもまた学校などでコロナが流行しているらしい。

7月某日 三軒茶屋自宅
無事に演奏会終了。こういうのを「水を得た魚」というのか、リハーサル開始から本番終了まで、功子先生は困憊されるどころか目に見えて闊達になって、本番が一番生き生きと輝いていらした。我々誰もがその姿にすっかり感じ入り、首を垂れるばかりであった。先生の後姿を拝見しながら、我々一人一人がこれから自分はどう生きてゆくべきか、それぞれ感じ取り、考えたに違いない。そんな為にここに集ったのではなかったが、結果的に実に素晴らしい機会をいただいたと思う。
拙作も含め、バッハもブラームスも圧巻であった。ブラームスでは舞台上でも舞台袖でも、演奏者も学生も泪を拭っていたのが印象的だった。もちろん、悲しくて感涙に噎いだわけではなく、純粋に心を動かされる音楽だったからだ。何しろ先生が一番溌溂お元気だったのだから。
古部君の渾身の演奏にも、大変感銘を受けた。

木野さんから本番直前、そう言えば洋ちゃん鉄道好きだったよね、と話しかけられる。よく覚えていますね、と感心したが、確かに小学生時分、いつも木野さんに鉄道の話題の相手をしていただいていた記憶がある。彼は今でも鉄道ジャーナルを欠かさず読んでいて、廃線になった兵庫の別府鉄道の車両保存にも関わっているそうだ。洋ちゃんは小学生くらいのとき、別府鉄道に乗りに行っていたよねえ、僕も今も毎年一回は加古川を訪れているんだよ、とのこと。
拙作のオーケストラ最後の和音で、第一ヴァイオリンだけFの数が一つ少ないのはなぜか、と尋ねられる。他のパートは全てFが6つ書いてあるが、第一ヴァイオリンだけ5つで書いてある。これはやはり低音を強調したかったからかと尋ねられたが、謂うまでもなく単に書き落としただけである。作曲者など、概ねそんなものである。

夜、沢井さん宅を訪れ、「待春賦」のリハーサルに立ち会った。沢井さんが十七絃を弾かれるのは久しぶりと聞いて愕くが、ビロードのような沢井さんの音はまるで変っていない。対する二十五絃の佐藤さんの音は透明ですらりとしていて、二人の対比がうつくしい。
弾き進むうち、沢井さんの音はどんどん熱を帯びてくるのにも心を打たれた。沢井さんは二十五絃のパートも熟知していらして、作品が意図する各人の呼吸の差異に関しても、実に的確に指示を出されるのに舌を巻く。わたしとは違う呼吸で弾いてちょうだい、と繰返していらした。
無学ながら、邦楽奏者の音は、まるで声紋のようだとおもう。このように、西洋楽器奏者より、邦楽では各人の音の個性が際立つのは何故だろう。音だけでなく、音を包み込む周りの空間、発音を絡み取り、空間に解き放つ所作、それらすべてが関わっているからだろうか。どこまでも深遠な音の対話に耳を委ね、そこにいつまでも遊んでいられる、全く至福な時間であった。
改めて思ったが、やはり音楽は悪いものではない。例え自分がこの世にいなくとも、その時生きている人の手によって、その瞬間にそれぞれ新しい自分の分身を世に生み落としてもらえるのだから。
それは自分とは、略、無関係かも知れないけれど、素敵なことだ。

(7月31日 ミラノにて)

公演「名人の舞台」

冨岡三智

先月の7月5~6日に”Panggung Maestro”という公演がジャカルタの芸術劇場(Gedung Kesenian Jakarta)であった。私の知人が関わっていたため、公演プログラムをもらい、また7月22日には教育文化省文化総局のインターネットチャンネルIndonesiana TVで配信された時に私も視聴したので(リアルタイム視聴のみ可)、今回はその公演を紹介したい。

この公演はインドネシアの地方の伝統芸能を担ってきた名人(マエストロ)たちに焦点を当て、それらの芸術の保存継承と鑑賞につなげるべく企画されたもので、インドネシアの教育文化調査省、文化総局、映像・音楽・メディア局とスポンサーの企業や財団の協力のもと制作された。来年度以降もシリーズで続けていきたいとのことだが、今回第1回の企画として選ばれたのは3地域:パレンバン(スマトラ島南部)、アチェ(スマトラ島北部)、チレボン(ジャワ島西部)の芸能である。

公演タイトルにある「マエストロ」という語は言うまでもなく外来語で、伝統芸術の名人という意味で使われる。ジャワには名人を示す「ウンプempu」という語があるのだが、ジャワ芸術分野というイメージが強いのだろうか、「マエストロ」の方が広く芸術一般に使われているように感じる。私の記憶では2005~2006年頃からよく耳にするようになったように思う。今回の公演では、伝統芸術を上演するというだけでなく、その上演や指導で長年
功のあった名人に舞台に登場してもらうことが重視されていた。

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プログラム
(1)舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)
(2)音楽「ラパイ・パセ」(アチェ)
(3)舞踊「セウダティ」(アチェ)
(4)影絵(チレボン)
(5)仮面舞踊(チレボン)
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●舞踊「グンディン・スリウィジャヤ」(パレンバン)

この舞踊作品は1943~1944年頃、当時統治していた日本がパレンバン理事州(現・南スマトラ州)への来賓を歓迎する舞踊と歌を作るようにと要請して創られたもので、1945年8月2日にパレンバンの大モスクで初めて公に上演された。インドネシアの独立宣言(この2週間後の8月17日)以前に創られているので、案外古い作品である。2014年には南スマトラ州の舞踊としてインドネシアの無形文化遺産(日本のように「重要無形文化財」と言った方が分かりやすいかもしれない)に指定されている。余談だが、パレンバンといえば2018年にジャカルタと並んでアジア競技大会の開催地になった。

この舞踊作品は9人の女性によって踊られ、最前列の踊り手はキンマの葉などを入れた箱を持って登場し、舞踊の途中で来賓に勧める。この日の公演でも箱を持った踊り手が客席に降りて、映像・音楽・メディア局長にキンマの葉を勧めた。このキンマの葉一式は噛み煙草のような嗜好品で、このセットを準備しておいて客人に勧めるのがこの地域のもてなし文化で~日本の煙草盆のようなものと言える~、それがそのまま舞踊に取り込まれている。

この舞踊は通常はアコーデオン、ビオラ、太鼓、歌の伴奏で上演される。だから、西洋音階である。が、元々はガムラン楽器も使われていたとのことで、本公演では前述のスマトラの音楽とジャワのガムランを混ぜた伴奏になった。

9人の女性が豪華な伝統織物の衣装に金の冠を身に着け、手には付け爪をつけてゆったりと舞うのがいかにももてなしの舞踊だが、振付自体はかなりシンプルである。題名の「スリウィジャヤ」はこの地で7世紀に栄えた王国の名前であり、9人という人数はパレンバンの9つの河川を象徴するという。ジャワであれば9つの穴/チャクラと意味付けられるところだが、河川になぞらえるところが海洋交易で栄えたスリウィジャヤならではである。

この公演で踊るのは現役世代の踊り手だが、この舞踊の第一世代のDelima Tatung女史(93歳)と、その次の世代でなお現役で教えているElly Rudy女史(75歳)がマエストロとして舞台に登場する。もう1人健康上の理由で来れなかったAnna Kumari女史(78歳)の名前もプログラムにはある。Delima女史は車椅子に乗っているが、それでも創作当時を知る生き証人としての重みがある。この登壇した2人の女史たちの誇らかな表情が、州政府の式典で上演される舞踊という性格を雄弁に語っていた気がする。

●ラパイ・パセ、セウダティ(アチェ)

ラパイ・パセは楽器の名前である。ジャワではルバナやトゥルバンと呼ばれている楽器(タンバリン状の片面太鼓)と同種だが、より大型だ。それを吊るし、大勢の男性(今回は約8人)が一斉に素手で叩く。音楽の後半では太鼓に加えてチャルメラのような笛と歌が入ってくる。

セウダティは男性(おっさん)たちが集団で踊る舞踊。当初はmeuratebと呼ばれていたが、この語はスーフィズムの一形態を指すもので、ズィクル(イスラムの唱念)を教えるものだったというが、次第に庶民の間に浸透してこのような形(共同体ダンス的な、という意味だろう)になったとプログラムにある。男性の歌い手3人が舞台に立ち、交互に歌うのに合わせ、男性たち(今回は8人)が独特のステップを踏みながら舞台をぐるぐると歩き回り、スキップし、時に胸や腹をバチッと手で叩き、歌と掛け合うように声を発する。テンポがゆっくりからだんだん速くなっていったかと思うと急に止まったり、また開始したりする。

アチェの舞踊といえばユネスコの無形文化遺産に認定されたサマンが有名だ。サマンは座って踊るのに対し、セウダティは立ったままという点が異なるが、胸や太ももなどを叩きながら踊る点や、空(くう)を裂くように鋭く切迫した感じで歌う点はサマンに似ている。おそらく歌が主導で、それに息を合わせるように踊り手が動いていると思うのだが、歌の緩急や動きが変わるきっかけが私にはよく分からない。互いにどうやって合わせているのだろう。以前、サマンの踊り手から「一糸乱れず踊ることが神との合一に近づくこと」と聞いたことがあるが、スーフィズムにルーツのあるセウダティも同様だろう。

セウダティの踊りでは、指導だけでなく今も現役で踊っている名人のSyekh Azhari氏(73歳)が舞台に上がった。痩身で、速いテンポもひょいひょいと踊る。公演では、おっさんたちがゴザを広げ、スラマタン(食事を共にして安寧を祈る共同体儀礼)を行うシーンから始まる。実際に現地でこの舞踊を行う時はスラマタンを行うのだそうだ。このシーンはさっと切り上げ舞踊に入るのだが、だらだらとせず、見せ方が上手かったなあと感じた。

アチェの音楽や舞踊は、太鼓や笛の音楽の雰囲気、掛声、おっさんが花形になるところなど、日本の祭りを彷彿させる。ラパイ・パセの演奏は和太鼓の集団演奏を聴くようだし、踊るおっさんたちの掛声は、だんじりや山鉾巡行で聞こえてくる声のようだ。音階だとか発声だとかは日本と全然違うのだが、どこか懐かしさを覚える演目だった。

だが、ラパイ・パセも1970年代までは盛んだったものの、スハルト時代はアチェと中央政府の紛争もあってこの芸術活動もかなり廃れていたとプログラムにある。そのことがわざわざプログラムに書かれているのは、それだけ当事者たちにとってその間の抑圧がきつかったのだろうと想像される。盛り返したのはアチェ特別自治法が施行(2006)されて後だという。ちなみにサマンがユネスコの無形文化遺産に認定されたのは2011年である。

●影絵、仮面舞踊(チレボン)

チレボンでは、影絵や仮面舞踊は娯楽以外に各種儀礼のために上演される。伝統的に昼には仮面舞踊が、夜には影絵(ワヤン)が上演され、両者は切っても切れない関係にある。というわけで、この組み合わせでの上演となった。影絵のダラン(語り+人形操者)を務めたSukarta氏(82歳)は父方がダランの家系、母方がチレボンの仮面舞踊家の家系で、本公演でも仮面舞踊の部では演奏もし、最後には自身も踊るなど、オールマイティぶりを発揮していた。

インドネシアの仮面舞踊のルーツはチレボンにあるとされるが、チレボンの中でも地域ごとに様式が異なっていて、本公演ではクレヨ村スタイルのTumus女史(70歳過ぎ)が登場する。ちなみに、プログラムにはMimi Tumusと書かれているが、Mimiというのはインドネシア語のibu(女史)に当たる語。なお、彼女だけ正確な年齢がプログラムに書かれていない。Tumus女史は幼少期より母親から仮面舞踊を学んで活躍し著名だったものの、なかなか支援が得られない状況の中、1990年代には舞踊をやめて物売りやマッサージ師などをして生計を立てるようになっていた。2015年に各方面からの支援の手が伸び、ガムラン楽器や練習指導できる場所が提供され、クレヨ村のスタイルを次の世代に指導できるようになったという。70歳を過ぎて健康を損ね、起き上がれないようになっていたが、この公演のために奮起、車椅子で舞台に登場した。

衣装を着け、車椅子に乗ったまま、上半身だけTumus女史は踊るのだが、甲高い笑い声のような掛け声に合わせて小刻みに動く仮面の表情が雄弁でぞくっとした。その後仮面を取り、横に控えていたひ孫(11歳)がその仮面を受け取って踊りを続ける。その後、2人の9歳の子供たちが一緒に別の仮面舞踊を踊る。この小さな子供たちがクレヨ村の仮面舞踊の新しき後継者たちなのだ。この間、面をつけないTumus女史がずっと後ろで踊っているのだが、まるで彼女がダランとなってこの子供たちを、そして舞台全体を動かしているかのように見えた。実際に舞台を見に行った知人が、この仮面舞踊は鳥肌ものだったと感想を送ってくれたから、彼女の存在感は圧倒的だったのだろう。

ジャワ舞踊やバリ舞踊のように定評のある優美な舞台でなく、地方の地味な芸術と苦労してきた名人たちを取り上げるという点で、主催者達はチケットの売れ行きを大変心配していたが、盛況に終わったようだ。インスタグラムやフェイスブックでも公演前から公演後もずっと積極的なPRが続いている。今後もこの企画が続いてくれたらと期待している。

どうよう(2023.08)

小沼純一

いたいから
なにもかんがえらんない
なにもかんがえらんない
って
おもうのは
すこしいたみがおさまって
いたみ
はみんなおおってしまう
うちとそととがいっぺんで
うちとそととがなくなって
きっとこれがパッション
なにかとつながれてる
って

からっぽだな
ものはいっぱい
なんだけど
いえのぬしがいない
だけ
だけど
ものたちがしずまってる
あるだけで
いきしてないって
わかる
ものは
てにするひと
ふさわしいひとがいて
いき
いきする
うそみたい
だけど
ちがってない
からっぽなのは
いえみてる
いえのなかいる
こっち
かも

さむい
とてもさむい

いびき
かいてたじゃない
ねいき
かいてたじゃない
せなか
かいてたでしょ
もじ
かかなくたって
いい
はじ
かかなくたって
きるもの
かけなくても
かけきんなくても
いい
いい
いいじゃない
かけてきて
でんわ
うちまで
かけてきて
できるまで
できなくなるまで

しごとのつきあい
しごとかわるとほとんどきれる
しごとのきれめえんのきれめ
しごとのあいしょうよくっても
ほかであいしょういきる
わけなく
しごとのつきあい
よそじゃめったにいかせない
べつのつきあい
つけられればいい
っておもう
あのひととこのひとと
ときどき

そうおもう
おもっているのは
こっち
こっちだけ
かも

散る/留まる

高橋悠治

風水ということば。「気乗風則散 界水則止 」(気は風に乗れば則ち散り、水に界せられば則ち止る)、東晋『葬書』より。

散る音と、ゆっくり変わる響き。

ととのって理論にならず、隙間の多い線の跡、飛白、未完成のまま。毛筆の書はできもしないが、石川九楊や、最近では篠田桃紅の本をよんだり、小松英雄の『平安古筆を読み解く--散らし書きの再発見』を拾い読みして、音の線を散らすやりかたを考えた。

寸松庵の分析も始めの三章を読んだきりだが、一句の途中で切って、筆先で「突き」、間を取って「返す」ことで、流れを堰き止めたり、流したりすること、「ことば」の区切りと筆の区切りをずらすこと、「分かち書き」と「連綿」、さらに、色紙の中央から書き出し、空いている場所に続ける「返し書き」や、わざと誤字を残し目立たせる「見せ消ち」など。

線は呼吸のように、一息で行けるところまで伸びていく。途中で曲がったり、ゆるんでは、また、残った勢いが尽きるまで辿りつく。ピアノでいうと、掌が空気を含んで、うごいているあいだ、指が散歩して、知らない音のつらなりに触れていく。他の楽器や声でも、指や喉、舌がうごいて、変えようとしなくても、どこかが変わると、そこから全体の方向が変わる。

一本の線に対して、もう一本の線がどのように絡むのか、もとの線が他の線を必要としなくても、もう一度書いたら、おなじ形にはならないというとき、時間が生まれる。

そして音楽も。

2023年7月1日(土)

水牛だより

7月は土曜日が運んできました。梅雨もおしまいにさしかかったせいなのか、先月末から暑い毎日で、これからの真夏はいったいどうなるのでしょうか。電気料金を値上げしておいて、暑いときには躊躇なく冷房を、といわれるこの矛盾。。。

「水牛のように」を2023年7月1日号に更新しました。
次々と届く原稿を読みながら、今月は記憶ということがひとつのテーマだと感じました。
冨岡三智さんの「ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法」にサルドノ・クスモの名前を久しぶりに見て、なつかしさにつつまれたのもそのひとつです。サルドノさんに最後に東京で会ったのはもう20年ほども前です。そのときのダンスでは彼はすっかり画家になっていて、ステージ上で大きな絵を描いていたのでした。インドネシアの有名な画家が自分に乗り移っているのだ、と言っていたことを思い出します。スタジオには自分が描いた絵画もかざってあるそうだから、それはいまでも続いているのかもしれません。会ってまた話をきいてみたい。
杉山洋一さんの「しもた屋之噺」に出てくる篠﨑功子さんのためのヴァイオリン・コンチェルト「ラ・フォリア」は7月16日に世界初演されます。以下にコンサートの詳細を。

篠﨑功子と仲間たち〜コンチェルト・アフタヌーン〜
2023年7月16日(日)
開演 14:00 (開場 13:20)
紀尾井ホール
【プログラム】
J.S.バッハ  ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 BWV1042
杉山洋一  ヴァイオリン協奏曲「ラ・フォリア」<世界初演>
ブラームス  ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
【出演】
ヴァイオリンソロ 篠﨑功子
指揮 杉山洋一/清水醍輝 
篠﨑功子と仲間たちオーケストラ
コンサートマスター 木野雅之

それでは、来月もまた!(八巻美恵)

仙台ネイティブのつぶやき(84)夏至の光の下で

西大立目祥子

 6月は気忙しく過ぎた。ひとつには誕生月だったから。
ハンパに若いときは、誕生日なんてうれしくもなしと思っていたけれど、還暦を過ぎたあたりから、友人ががんと宣告されて闘病もむなしくあっけなく亡くなったり、久しぶりに連絡をとると足首骨折で全治4ヵ月と知らされたり、中には災害で命を落とす知人がいたり。明日はどうなるかわからないと実感することが増えてきて、1年を無事に過ごせるということは相当によろこばしいことだと思うようになった。遠方の友からのお祝いの品をありがたく受け取り、お茶しようと誘われればいそいそと出かけていく。

 思えば、いきあたりばったり無計画に生きてきて、なんとなくこんなところに立っている。生きていくということは、いつも後ろから押し出されるように否応なく前に行かされることなんだ、と感じてきた。つぎつぎ見たこともない風景が現れるので見飽きることはないが、やっていることはといえば、あいも変わらず仙台のまちでぼんやり空をながめ歩き回っているだけ。

 ふっと、じぶんの腕を見たりするときに、見たこともない小さなちりちりのシワがあるのに気づいてじっと見入る。若いときの腕はどんなだっけ。何もおぼえていない。変化が起こるから人は気づくものなのか。いつのまにか何をするにつけても「あと◯年の・・」と、頭に枕詞のようにくっつけてものを考えるじぶんがいる。

 あと何年の梅仕事、と思い立ち、一昨年から梅干しを漬け始めた。えーと、1キロ。そういうと梅干し何十年歴のツワモノばあちゃんたちに一蹴された。最も、効率がわるーい!と。去年は、塩漬けにしたところで思いもかけずにコロナに感染してしまい、赤シソを入れずに白梅漬けで終わってしまった。
 今年はがんばってみようかと、小梅を1.5キロほど梅干しに、青梅を1キロシロップ漬けにし、順調に梅酢が上がり、瓶の中の氷砂糖が溶け出したところで、友だちから連絡がきた。梅の実50キロぐらいもいできたから、取りに来てー。

 一瞬迷ったが、もらいに出かけ、デカい紙袋の底が抜けそうなくらい持たされ帰ってくる。体重計に乗せると5.5キロ。追加で梅干しを3キロ仕込み、シロップの瓶に1キロを投入、残りの傷んだのをジャムにした。
 作業をしながら、こういう梅の仕込みの一連を「梅仕事」とわざわざ「仕事」とつけている理由が、じわりとからだで理解できてくる。この大量の実を前に、段取りよろしく、根気よく手を抜かず、一気呵成に作業を進めるには、たしかに気構えというものが必要だ。ちょっと気がゆるんだりしたら、せっかくの塩漬け梅にカビが発生したりして苦労は水の泡。そもそも、梅の実がコロコロとまあるく育ってくるのをいまかいまかと見計らってもぐところから仕事は始まっているのだ。

 でも梅仕事にはごほうびがあって、それは梅の甘酸っぱい香り。塩漬けでも梅のつゆが上がってくればやわらかないい香りが立つ。瓶や瓶のふたをそっと開けると、ふわっと立ち上がった香りが鼻孔からからだ全体に満ちて、何ともしあわせな気持ちに包まれる。
 もちろん、まだ固いうちの青梅そのものも美しい。手に取るとしっとりとしてマットな肌合いが心地よい。2日、3日と追熟させていくと黄色に染まっていく、そのさまにも見とれる。

 梅が実を太らせていく6月中旬の庭には、植物の圧倒的なパワーが満ち満ちてくる。本格的な暑さはこのあとにやってくるけれど、生きものたちの勢いはピークを迎えて、雨が降り高温という日が何度か続くうち、草や樹木はこれでもか、とばかりに生い茂ってくる。梅雨に入り曇天の日があるとはいえども、夏至のころの日の光のすごさに圧倒される。5月は緑を楽しんでいられるけれど、6月は緑に気圧されそう。はい、ごめんなさい、負けました、許してください、人なんてちっぽけなもんですと、ひれ伏す気分だ。

 それでも、水道のメーター検針の人なんかがくるので、あまりの草ぼうぼうは気の毒だから、意を決して草刈りをしなければならない。帽子をかぶり、首にはてぬぐい、ゴム長をはいて近寄る蚊を振り払いつつ、鎌を片手に奮闘して汗だくになると、だんだん野蛮な心境となって、生い茂る草からエネルギーをもらうような気がしてくるから不思議だ。

 そういうときは、じぶんが人であることを半分忘れ夢みている。人類滅亡の日はそう遠くないうちにきっとくるから、大木を都合で伐り倒す馬鹿なヤツらは消え失せるから、そうすれば思い切り茂れるだけ茂って、地上をおおいつくしたらいいんだ。アスファルトの割れ目から、床板の下から、植物はぐんぐん育ち、夏至の太陽を浴びて天をめざしていくだろう。

娘と乗った観覧車

植松眞人

 その小さな遊園地はもうない。長い歴史を持つ野球場の傍らを抜けて十五分ほど歩くと、とても小さな観覧車が家々の合間に見えてくる風景がとても好きだったけれど、もうその遊園地はない。
 子どもたちがまだ幼かった頃、この遊園地の近くに住んでいて、年に何度か連れて行った記憶がある。私が小さな子どもの頃には休日になると家族連れでごった返していたが、自分の子どもを連れて行く頃には、もうその遊園地は寂れていて、ほとんど客はいなかった。敷地の半分は住宅公園になり、併設されていた動物園もなくなっていた。遊園地の真ん中に四階建てくらいのコンクリートの打ちっぱなしのような建物があり、その中にかつての賑やかだった園内の写真が展示してあった。子どもたちが目を輝かせて象を見ている写真やヒーローショーの写真もあった。少し奥に入っていくと、いまでは考えられないけれど、ライオンとヒョウを掛け合わせて産ませた合いの子動物の剥製がくたびれた毛並みで飾られている。
 その日は、なぜか私と娘だけの二人で、今はないその遊園地に出かけたのだった。娘は幼稚園の年中さんだった気がする。父親によく懐いてくれた娘だったので、二人で手をつないで笑いながら園内を歩き回り、パンダの形をした乗り物に乗ったり、片隅に置いてあるモグラ叩きをして遊んだ。
 そして、最後にあの小さな観覧車に乗ったのだった。観覧車の脇には小さな小屋があり、いかにも学生アルバイトらしき男の子が乗車切符を売っていた。料金は二周で二百円だったか三百円だったか。支払を済ませて、娘と二人で小さな観覧車の小さなカゴに向かい合わせに座る。定員は四人だが、四人も乗れるのだろうかと思うくらいカゴは狭かった。それでも、娘はワクワクした顔をしていて、そんな娘の顔を見るだけで私は幸せな気持ちになれた。カゴはゆっくりとあがっていく。いくつくらいカゴがあっただろうか。おそらく二十もなかったような気がする。高さもビルの十階分もなかったはずだ。てっぺんまで行っても、周囲のオフィスビルの部屋の中がよく見える程度の高さだったと思う。それでも、いつもと違う景色に娘は、あちこちを指さして話している。
「お父さん、おうちはあっちのほうかなあ」
「お父さん、幼稚園はあっちかなあ」
「お父さん、ママはお買い物してるのかなあ」
 そんなことを話して笑っている娘を見ながら、毎日の時間をこの娘を最優先に使っていないという罪悪感のようなものに私は苛まれた。
 やがて、規定の二周目が終わり、カゴが地上付近に着いた。しかし、カゴのドアが開けられることはなかった。あれ、と思っている間に、カゴは三周目をあがり始めた。上がり始めたかごの中から小屋が見えて、さっきのアルバイトがうたた寝をしていた。他に客もいないのだから、昼寝もしたくなるだろう。
「あいつ、寝てるな」
 私が言うと、娘も小屋をじっと見る。
「ほんとだ、寝てる」
「ま、いいか。もう一周だね」
「うん。お得だね」
 と、私たちは三周目の観覧車を楽しんだ。アルバイトは三周目が終わっても起きず、四周目が終わっても起きなかった。
「お父さん、このままお兄さんが起きなかったらどうしよう」
 と娘が言い出したので、五周目が降り始めたあたり、小屋に声が聞こえそうなあたりで、私はアルバイトに呼びかけた。
「おーい。到着するよー」
 アルバイトは起きる気配がなかった。娘も一緒になって叫びだした。
「おーい」
「おーい」
「おーい」
「おーい」
 それでも起きる気配がなかったので、私はカゴのドアを叩いた。甲高い音が周囲に響いた。観覧車の近くを歩いていた人たちが振り返るくらいの音が出て、やっとアルバイトが目を醒ました。しかし、その時にはすでに私たちが乗ったカゴは六周目の上昇を始めていた。アルバイトはカゴのすぐそばまで来ていたが、間に合わず、眠そうなすまなさそうな顔をして、私たちに頭を何回も下げ続けた。
「次で終点だね」
 娘が笑う。
「次が終点だね」
 私が笑う。
 観覧車は六回目のてっぺんにきた。空は薄曇りで遠くに海が見えていた。(了)

話の話 第4話:かくす

戸田昌子

ここにある男がいる。仮に青蛸と読んでおく。なぜ青蛸なのか。それは仮名を考えるときに連想が二転三転した結果である。あえて理由を探すなら、彼が決して青くもなければ蛸でもない、という理由でしかない。彼は見た目には親切そうなおじさんで、所帯持ちにも独身にも見える。人当たりの良い世間師のおしゃべりを心得ており、ペラリといい加減なことを言ってはすぐに梯子をはずす癖がある。たとえばこんなふうである。「7月のパリはいいよね、あれは最高だよ。行ったことはないけど」。「こんどミモザの種をあげるよ、オシャレな家にはミモザが咲いているものだから。持ってないけど」といった調子で、ペラっと何かを言っては自分でひっくり返していく。青蛸は含羞の男なのである。

青蛸は自分の本当の名前を明かさない。当然、住所も謎なのだが、いつも東京の西の方からやって来る。生まれたのは新宿区百人町だという。百人町と言えば、知り合いの能楽師の稽古場や、前衛いけばな作家の研究所があるのに加え、旧知の仏像研究者の家もあって、わたしには馴染みのある地名である。青蛸も芸能関係者ではあるようで、音楽一般への造詣は幅広いが、いささか芸能への雑食ぶりが過ぎ、清水イサムの出待ちしたことがある、と私にポロリと漏らしたことがある。

清水イサムといえば、森山大道の、あれである。『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)に出てくる、極端に背丈の低い喜劇俳優。写真集のなかで、明るい笑顔の奥さんにこどものように抱きしめられたり、華やかな紙吹雪のステージにまぶしく登場する一方で、閑散としたトイレの隅で憂鬱な表情を浮かべてみせている、彼である。その半ば伝説的な人物のステージを見に行って、そのまま出待ちをしてしまった青蛸であるが、「前にも後にも出待ちというのはその一回だけ」と主張している。

しかし青蛸は、森山大道が撮った「Actor・シミズイサム」の掲載された『カメラ毎日』が欲しいばっかりに、私が古本屋に売りに出した掲載号を即日、買いに行ってしまった。それは2年ほど前のことで、私がReadin’ Writin’ BOOKSTOREという台東区寿の本屋さんに自分の棚を持っていたことがあって、そこにこの号を売りに出しますと予告を出したら、青蛸はそれを買いに行ったのである。「店のドアを開けて、脇目も振らずに戸田さんの本棚へと突進していきましたよ」とは、店主の証言。いったい全体、何に食いつくのか、いま一つ分からないところがあるのが青蛸である。

名前を明かさないと言えば、高校生の時の数学の先生が、偽名を使っていたことがあった。その先生の本名を、ここでは仮に吉川武彦としておこう。しかし彼は「吉川コージ」というような感じの、ちょっと芸能人を連想させる名前を名乗って教壇に立っていた。見た目は初老のはげちょびん。いつも胸ポケットにウイスキーの入ったスキットルを入れており、授業中に引っ張り出してはちょびちょび飲む。ふわっといつも甘い匂いがしている。髪も背中もアル中の匂い。

彼はいつも幻覚が見えるなどとのたもうていた。ダメ教師の典型である。授業中、マリー・アントワネットが羽をつけて原っぱを飛んでいるのだと言い始める。黒板に正しいのか正しくないのか分からない数式を書きつけているが、どちらにせよ生徒たちはまともに聞いてない。幻覚の話が出るたびに「先生、やばい」と生徒たちは笑い転げている。そのうちに誰かが職員室から教員名簿を盗んできて、実名が吉川コージでないことをバラしてしまう。先生も先生なら生徒も生徒で、ともにダメダメである。平和な教室。

名前をかくす、と言えば、大学新聞の時の後輩。初めて部室に現れた時からかなり変わっていて、あらゆるものを批判し続けて誰とも話が通じず、懇親会では蟹味噌を入れるために供された蟹の甲羅に「カルシウム〜」と言って齧り付いてしまい、ドン引きされたりしていた。わたしとしては立場上とにかく耳を傾けていたら、そのうち尊敬されるようになってしまい、流れで取材に出すことになった。何をやらかすかわからないので同行したが、インタビュー相手もかなり「とんでいる」少女小説家で、なぜか話が合ってしまい、奇跡的にインタビューは大成功。小説家のポートレートを撮影しようとわたしがカメラを取り出したら、後輩が隣に無理やり入ってきたため記念撮影会になってしまった。苦肉の策でトリミングしてポートレートにせざるを得なかったが、文章はまあまあよく書けていて、小説家は大気にいり。写真まで気に入ってくださり、別の媒体でも使いたいのでプリントを下さいとまで言われてしまった。この成功体験が仇となって、その後、後輩は数々の問題行動を起こすことになる。

その名が偽名であったことがわかったのはその後のこと。事情は省くが、記名記事を基本としていた新聞部としては頭を抱えた。個人情報保護の観点から入部時に学生証を確認するわけにも、と悩み果てた末、結局は「ペンネーム可」ということにして無理やり皆を納得させたが、「あいつ流石にやるなぁ」という感嘆の声までが出現する始末。

ひとはいったい、なにを「かくす」のか。特に口に出さないことが、「嘘」と認知されておおごとになることもある。嘘をついたつもりもないのに、不義を疑われることもあるし、言うとなにか違ってしまうから「かくす」結果になることもある。ひとは、小さな嘘にも騙されるし、大きな嘘にも騙される。騙されるのではないかといつも疑心暗鬼になっていると、かえってなんでも嘘に見えるようにもなる。

「来年から、自転車にも免許が必要になるんだよ。だから自転車の免許を取りに行かなくちゃいけないよ」という適当な嘘をついている人がいた。それを聞かされていた女子はその話を真剣に聞き入っていたが、よもや信じはすまいとわたしは放置。しかしそれが嘘であると彼女が気づくまでは半年を要した。のちほど、なぜ教えてくれなかったのかと問い詰められたが、よもや信じるとは思わなかった、とのわたしの言い訳に、彼女はますますわたしへの不信感を募らせてしまった。嘘をついたのは、わたしではないのだが。

嘘と言えば、Rという友達がやはりペラペラと罪のない嘘をつく人で、彼女はわたしの知る中では最も雑学博識のAB型の典型で、文字ならなんでも読む、読むものがなければ菓子袋の裏まで念入りに読んでしまうような人である。彼女は自分の息子に、「メンマって何でできているの?」と尋ねられて、「ほら、あれ、竹の割り箸あるでしょ。あれをぐつぐつ煮て作るのよ」と教え込み、彼はしばらくの間、それを信じていたそうである。そんな気の利いたことを言ってみたいと一念発起したわたしは、小学生だった娘に「羊はグー蹄目だけど、馬はパー蹄目なんだよ」と教えてみた。とはいえ偶蹄目だの奇蹄目といった類のややこしい言葉など、どうせ覚えてはおらぬことだろうとたかをくくっていたら、その数年後、林間学校で牛の乳搾りを体験して帰ってきた娘「あのね……ママ、パー蹄目っていうのはないんだよ……」とそっと耳打ちしてきた。そんな話はすっかり忘却の彼方であったわたしが「あらまあそんなの信じていたの」と応答したら、少々傷ついた顔をして「ママが知らないんだと思って、教えてあげなくちゃと思って……恥をかいたらいけないから……先生のお仕事をしているのに、間違ったこと言ったらいけないと思って……」と、つぶやいた。子どもは確かに信じやすいのだから、いい加減なことばかり言ってはいけないと、反省することしきり。

世の中には不倫とか横領とか借りパクとか、いろんな嘘や隠し事があるものだが、「隠していた!」とか「嘘をついていた!」という言える類のものは、まだまだわかりやすくて良いのかもしれない。露見しない嘘というのはないものらしいから、追求しなくてもいずれ知れるようになるものなのかな。

青蛸はいいやつだ。近所のコーヒー屋でアイスコーヒーを飲んでいたとき、おしゃべりに没頭したわたしは間違って青蛸のコーヒーを飲んでしまった。あっと気づいてあわててストローを抜き、新しいストローに変えよう、と言ったら、青蛸はケラケラ笑いながら、いいよいいよとストローなしでコーヒーを飲みほした。変な仮名をつけてごめん、青蛸。

そして後日談。先日ふたたび会ったとき、青蛸は「これあげる」と手に持った(使いふるしの)ジップロックの袋をわたしに差し出した。なかに入っていたのは、さやえんどうのような、鞘に入った、カラカラに乾いた植物の種。「これ、ミモザの種」と、得意そうな顔をしている。くれると言われていたものの、どうせまた嘘だろうと思っていたのだから驚いていると、「あげるって言ったでしょ。ミモザの苗なんか、買うと高いよ?」と続けた。わたしが「てっきり嘘だと思った」と言うと、「嘘なんかつきませんよ〜」と嬉しそう。青蛸は決して嘘つきではないのかもしれない。本名も、当面のあいだ、知る必要もなさそうだ。

「図書館詩集」9(すぐそこにある山まで雲が下りてきて )

管啓次郎

すぐそこにある山まで雲が下りてきて
山頂の城が白くかすんで
見えたり見えなかったりして
しずかな昔がそこにやってきたようで
でも昔もじつはやかましくて
ここもかつては戦国時代で
その火種の中心のひとつだったってさ
山地から平野へ
川の流れが生む地形に
歴史が草のように生えてくる
ああ、いやだいやだ
「戦国時代」とは強欲の時代
殺人、略奪、強姦、火つけ
ここでは食えないから奪おう、という残忍な思想を
かれらを食えなくする当の領主どもから
植えつけられれば嬉々としてしたがい
かれらが浸りきったそんな考えが
やがて近代となれば国家の外に向けられたのか
岐阜という名前にひっかかっていた
何がそこで分岐し
どんな丘がなまなましくふくらんでいるのか
運命の分岐を語るのは簡単だが
実際のようすはモヤモヤしてわからない
なだらかな丘陵をつらぬいて
水の龍がうねるのか
でも現実にでかけてゆくと
そこにも地形のドラマがつづく
山地が終わる土地だ
平野がはじまる土地だ
水量のある流れが
おびただしい魚を生む
海から連れてこられた鵜が
かわいそうに人にいいように搾取されている
それも土地の風物らしい
迫る山の上にある城が
心を騒がすけれど
あの城だって城跡にすぎないのだ
城は城を継いでおなじ場所に降りつもる
城跡に城がまた建てられて
時間とか時代とかが圧縮されるわけ
それにしても恐ろしい高さだ
土地をよく睥睨し
世界の終わりを見るのにちょうどいい
信長はここで何を思ったのか
ある人間の生涯を
いくつかの時の断面において見ようとするなら
あるひとつの時刻に
うすいフィルムを挟みこみ
そこに映る存在しない写真において見ることになる
未来を知らないかれらの未来を
われわれは過去として把握しているのだから
残酷だね
意図せずして残酷
彼女や彼の本質的な転回の
あるいは改心の、改悛の、
決意の、決定の、
姿勢や表情もすべてフィルムにくっきりと映って
すべては透明な凧のように空中に浮かんで
びゅんびゅん唸っている
信長にこの城を奪われたのは斎藤なにがし
城を整備したのはその先々代の斎藤道三
自分の息子に殺された道三
いまでも岐阜市では毎年「道三まつり」があるそうだ
なぜ現代にまで武将崇拝がつづくのか
たたるとでも思っているのではないか
道三にしてもそれ以前にこの城の原型を築いた
誰かからその原=城を奪ったわけで
そのまえには砦があって
そのまえにはただ岩場があって
人がこのあたりに来ないころから
猿の群れが風に吹かれていたんだろう
この高みから下を見おろしながら
「ねえ、諸君、この高みからひといきに
長良川に跳びこむことはできるのかな」
「ああ、できるとも、やってみせようか」
猿たちはいさましい
息を呑みながら、あくびをしながら
ふりかえりながら、とんぼを切りながら
奈落にむかって、いや奈落のさらに底の
辺土にむかって
リンボーダンス
いっそ水に入ってしまえば
きみも私も鮎さ
占い好きな魚
運命はお天気と苔のパターンにまかせて
鵜に呑まれないよう
気をつけながら泳いでゆけ
左にゆけば平野なるべし
右にゆけば渓流なるべし
おなじ水でもずいぶん
心がちがう
音響が変わる、すると
時代が変わる
霊魂は不滅だというが
そのありかたとして
つねに滅しながらその場に
つねに湧いているとしか思えないこともある
水がつねに新しく流れながら
川としては同一でありつづけることの不思議
そう、思議にあらず
思議してはならない
思議することができない
不思議とは不可思議
不可能だ
(フシギなどという仏教用語を幼児でも
日常的に使うのだからニッポンは末恐ろしい)
流れるものと残るものの対立は
ずいぶん前からぼくの発想を規定していたようだ
こんな短い詩を以前に書いたことがあった

  「逆説」
  文字は残る
  声は消える

  残された文字はもうそれ以上
  姿を変えない

  消えた声は永遠にゆらめいて
  私を聞きとってと
  私たちに呼びかける

いやね、こう書きながらふと思ったのは
「ながら川」と呼ばれる水のその構造なんだ
川はひとつでありつつ
水は不可算で(まことにふかふか不可思議)
詩はひとつでありつつ
個々の詩は並行して存在することも
別個に継起的に書かれることもできる
詩は水の中を泳ぐ水の魚
一瞬ごとに消滅しながら
次の一瞬にはまた生まれている
(だが生まれるとは自動詞? 他動詞?)
そして「瞬」とは単位になりうるのかな
そんな風に時をあたかも羊羹や羊肉のように
切り分けることができるのかしら
時を時として測れないから
詩が生まれる
詩を詩として体験するためには
時が必要だ
時を時としてやりすごしながら
詩を発見する(予感する)
詩を掘りながらまた
時の水に足を浸す
岐阜は「ながら」の聖地
詩はそもそもそれ自体としては
予感することはできても突きとめることができない
詩はただ「ながら」とともにあり
残余すべて亡きがら、だから
詩に夢中になってはいけない
詩はただ一瞬の
一瞥のうちに
読まれ、その残像が
記憶されればそれでいい
料理しながら詩がある
歌いながら詩がある
運動しながら詩がある
慟哭しながら詩がある
授業中にも詩がある
商店にも詩がある
会社にも詩がある
路線バスにも詩がある
詩はすべてながら詩
詩ながら詩
我ながら詩
あらゆる人生のすぐ横を
二本のレールのような一定の間隔をもって
流れているだけだ
そのうち「みんなの森」にやってきた
この不思議な森は波打つ天井で
ヒトの群れを雨風陽光から守ってくれる
半透明のすかし模様の入った
モンゴルの遊牧民の住居のようなかたちの
ドームが発光して文字を守る
城や詩を考えることに疲れた心を
文字の森が休ませてくれることがわかった
Pick-me-upとして濃いコーヒーをもらって
砂糖黍の砂糖をたっぷり入れ
持参した肉桂と唐辛子を入れて
飲む
ニッケ、ニーケー、サモトラケのニケ
涙が滲むほど辛いコーヒー
さあ今日の読書をはじめようか
「一九八二年、七歳の時、
私は映画館で『龍の子太郎』を観た。
おそらく、ソ連の子どもがこうしたアニメを
観ることの意味を現代人が理解するのは
難しいだろう。私は本物の龍を見るより驚いた。
ショックだった。」
(エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』(河出書房新社、二〇二〇年より)
みごとな回想
よい驚きだ
たちまち図書館が水であふれ
川となり
透明な龍が強烈に体をうねらせ
本がしぶきのように飛び散って
もう収拾がつかない
ぼくはタツノコタロウを知らず
ことばはイメージにむすびつかず
本物の龍ももちろん見たことがなくて
だが「驚いた。ショックだった。」
かれらソ連のこどもたちが驚いたのが
ぼくには衝撃だった
それで頭がぐるぐる回りだした
図書館でありながらここは荒野
岐阜でありながらここはサハリン
姿を変えた森でありながら
すべてはアニメーション
Anima, animus の乱舞
龍の瞬間ごとの出現
翔んでいく
鱗も飛び散り
きみの目に次々と刺さるのだ

岐阜市立中央図書館(ぎふメディアコスモス)、二〇二三年三月二六日、雨

ぼくがおれに変わった日・続編

篠原恒木

おれは昔、ぼくだった。
先月と同じ書き出しだが、気にしないでもらいたい。
「ぼく」だった頃がこのおれにもあったのだ。生まれてこのかた、ずっと「おれ」だったわけではない。

四十年も前のことだ。ぼくは出版社に入社して、週刊誌の編集部に配属された。そう、この頃は「ぼく」だったのだ。右も左もわからず、ひっきりなしに編集部にかかってくる電話を取るのがひたすら怖かった。ぼくは間違いなく会社の中でいちばん仕事ができないニンゲンだった。

当時は「出張校正」というシゴトがあった。
週刊誌はニュース・ページをいちばん最後、つまりは発売日の直前に印刷所へ入稿する。ニュース・ページの入稿最終締め切りは金曜日の深夜、つまりは土曜日の朝だった。その土曜の朝イチに印刷所へ入稿されたニュース原稿のゲラをチェックして素早く校了するために、土曜日の昼前に印刷所へ「出張」して、その場で夕刻までに責了する。これなら印刷所とのやりとりの時間が大幅に省略できるというメリットがあった。以上が当時の出張校正の大雑把な内容だ。

初校ゲラを受け取り、出張校正室に待機している校閲者のヒトビトに配ったり、原稿の疑問点を記事の担当者に電話して解決したり、行数を整えたり、初校ゲラを戻したり、活版印刷の本文部分と写植部分の見出し・写真などの赤焼きを切り張りして校了紙を作るのは、すべて新入社員、つまりはぼくのシゴトだった。当時はすでに週休二日制が導入されていたが、ぼくは毎週土曜日にこの出張校正があったので、休みは日曜日のみだった。そして一年経って、新しい後輩部員が入ってきても、なぜかこの出張校正は相変わらずぼくが担当していた。

印刷所の出張校正室は古びていて、一日中陽の当たらない殺伐とした部屋だった。使い込まれた机を繋ぎ合わせた作業スペースと、その机の上に電話が一台あるだけだ。ぼくはあの灰色の部屋に行くのが憂鬱で仕方なかった。印刷所は国鉄の駅から勾配のある坂をダラダラと上ったところにあったが、急な坂道を毎週ヨロヨロと歩くたびに、気分が沈んできた。

昼前に出張校正室に入ると、やがて校閲者の方々がやって来る。初校ゲラが部屋に届けられる前に、弁当が支給された。この弁当があり得ないほど不味かった。大学を卒業したばかりで、それまでの二十二年間にロクなものを食べてこなかったぼくでも、この弁当は食えたものではなかった。平べったい弁当箱の蓋を開けると、白飯の真ん中に小梅が埋め込まれ、おかずは大きな厚揚げの煮物と少量のきんぴらごぼう、といった「全面的かつ徹底的に茶色」という塩梅だった。肉もなければ魚もない。さぞや味付けも濃いだろうと思われるだろうが、これが全面的かつ徹底的に薄味なのだ。つまりはめしのおかずとしてまったく機能しないという悲しいものだった。だが、文句をいう訳にもいかず、ぼくは毎週その弁当を黙々と食べていた。
「よく食べるなぁ。おれの分も食べていいよ」
校閲者の方にそう言われ、固辞できず二個目の弁当に箸をつけて、むりやり胃に押し込む日もあった。辛かった。
そうこうしているうちに朝イチで入稿された原稿が初校ゲラになって出張校正室に届けられる。ぼくはそのゲラを校閲者の方々へ配り、自分の分も確保して、本文に目を通す。そこでぼくは必ず愕然とする。
「今週もやっぱりそうか」
と、途方に暮れるのだ。初校ゲラの余白に、原稿が二十行もハミ出している。週刊誌の記事は短いものだと見開き二ページだが、その二ページの原稿で二十行も超過しているということはどういうことなのか。答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくは憂鬱な気分で、その記事の担当者の自宅へ電話をする。出ない。早朝に原稿を「あらよっ」と入稿して、今頃は布団にくるまっているのだろう。ぼくはしつこく電話を何回もかける。ようやく出た相手は不機嫌そうな声だ。
「なんだよ」
「あのですね、本文が二十行もオーヴァーしているのですが、どうしましょうか」
「そっちでなんとかしてくれよ。こっちは徹夜明けなんだよ」
実にあっけなく電話は切れる。徹夜明けだと言うが、ぼくだって昨夜は午前三時まで編集部で仕事していたのだ。そして約百六十行の本文が百八十行になっているのだ。「なんとかしろ」と言われても、二、三行のハミ出しならなんとかするが、二十行を削るには本文中のエピソードをひとつ、場合によってはふたつ、バッサリと落とさなければならない。だが、その記事を直接担当していないぼくが勝手に
「よおし、この証言とこの発言をカットしちゃえ」
と、削ることはできない。校閲はすでにチェックを終え、疑問点を鉛筆で指摘している。ここは初校ゲラを一刻も早く戻して、再校ゲラを出さなければならない。ぼくは仕方なく、また二十行ハミ出しの担当者に電話する。
「ああ、何度もうるさいな」
「本文中に疑問点がいくつかあります。そして二十行オーヴァーはどこを削ればいいでしょうか。で、写真のキャプションがすべて抜けているのですが」
「キャプション? ああ、そう言われれば書くのを忘れたかもな」

次の記事のゲラを見ると、こちらは本文が十行足りない。「ゲタ」と呼ばれる記号のようなものがむなしく本文の終わりに十行分並んでいる。これはどういうことなのか。繰り返しになるが、答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくはますます憂鬱になり、次の十行不足担当編集者の自宅に電話する。三回目でようやく繋がった。
「なんだよ」
「あのですね、本文が十行足りないのです」
「十行足りない? そんなはずないぞ。ちゃんと行数は揃えたからな」
「しかしですね、実際に十行分のアキが生じているのです」
「そっちでなんとかしろよ。なんか足せばいいだろう」
再びあっけなく電話は切れる。ぼくは仕方なく初校ゲラではなく、生原稿を校閲者から借りてチェックする。当時の生原稿は「ペラ」と呼ばれていた二百字詰めの原稿用紙に黒鉛筆で手書きされていた。正確に言えば二百字詰めではない。週刊誌の字詰めに合わせて、一行十三文字のマス目が十行縦に並び、その下には書き込み用の余白スペースが設けられていた。
その生原稿をパラパラめくっていくと、六行分の手書き文章が赤鉛筆で削られていた。よし、この六行を復活させればいい。六行のなかに危険な文言、あるいは記事になったときに問題になりそうな発言などが入っていないかを確認して、大丈夫だと判断したぼくは初校ゲラに手書きでその六行を赤鉛筆で加えていき、残りの四行はどうにかこうにかやりくりする。

また別の初校ゲラが届いた。こちらは二行ハミ出しなので、なんとかなるのだが、校閲者から疑問点がいくつか指摘された。これは担当編集者本人でないと解決できない。ぼくは三人目の編集者の自宅に電話する。夫人と思しき女性が出た。
「ご主人さまをお願いしたいのですが」
受話器の向こうで一瞬の沈黙が流れて、
「今日は締め切りで帰らないと申しておりましたが」
と、戸惑ったような声が聞こえる。
いや、締め切り日は昨夜で、今日は締め切り明けなのですが、とは口が裂けても言えない。二十二歳の坊やでもそのくらいの機転は利く。
「失礼いたしました」
受話器を置いて、ぼくは再び途方に暮れる。

そんなとき、出張校正室に置かれた壊れかけのTVからニュースが流れてきた。有名芸能人の急死を伝えている。ぼくは嫌な予感がする。数分後、出張校正室の電話が鳴った。編集長からだった。
「二ページ、記事を差し替えるぞ。何を落とす? ラインナップを読み上げろ」
ぼくは今日校了分の記事のタイトルをすべて電話で伝える。編集長の判断は、偶然にも二十行ハミ出しの二ページ記事だった。このことがこの日唯一の幸運な出来事だ。
「レイアウト・マンと記者、アンカーに連絡してくれ。芸能班のデスクにもな。あ、おまえはいまからすぐ編集部に行って、顔写真を何枚か選んでこい。頼むぞ」
腕時計を見ると午後一時を過ぎていた。校了のデッド・ラインまであと四時間しかない。ぼくは大急ぎで初校ゲラを戻して、各方面に電話をかけ、あたふたと印刷所を飛び出し、編集部へ向かい、写真がストックされているキャビネットから生前の芸能人の顔写真を十枚ほど選んで出張校正室に戻る。机の上には差し替えページを除いたすべての再校ゲラが置かれていた。めでたくすべて行数はピタリと合っていたが、これらも素早く捌かなければならない。そして差し替えページの進行作業も並行して進めないと間に合わなくなる。いまから一時間ほどで責了者である編集長が出張校正室にやって来る。あっ、そうだ。表紙のタイトルも差し替えなければならないはずだ。さっきの電話で編集長は何も言ってなかったけれど、九十九パーセントの確率で表紙タイトルも差し替えだろう。ああ、印刷所のヒトに表紙の校了紙を引き上げてもらうようにとお願いしないと。いや、表紙はもう印刷を始めているかもしれない。うおおおおおおおお!

こんなことを毎週、二年間も繰り返せば、「ぼく」は「おれ」になるに決まっている。ココロがすさんでいくのだ。あの日々以来、ぼくからおれになったおれはおれのままである。そんなおれを誰が責められようか。おれは今でも深夜に悪夢を見る。本文の行数を揃える夢だ。夢のなかのおれは必死に初校ゲラの本文を削ったり足したりして、行数を指定通りに整えるのだが、出てきた再校ゲラはきまって二行ハミ出していたり、一行足りていなかったりして、何度繰り返しても一向に行数が合わないのだ。四十年前のウマシカたちのおかげで、おれはいまだにトラウマを抱えている。

どうよう(2023.07)

小沼純一

ねこがほしをみるように
ねこがほし
ねこがほしい
ほしがって
とれるもてるわけじゃない
ねこはそこにいるだけで
かうのはできても
かうのはかり
どこからか
どこのだれかは
しらないが
かりている
だれのでもない

しめきりまでにはおわらせて
つづけるべきはそのあとで

まちあわせにはあのみせで
はれたらさんぽにまいりましょう

はなはしぼんでみちはじゅうたい
みせはしまっはしおれる

あしゆびはれてあるけない
まわりぐるぐるまわってる

からだじゅうにはあかいしっしん

いけない 
いかない
いきたくない

かたいやくそく
やくそくどれも
あなたとわたしかわらなければ

いけない
いかない
いきたくない
いえもない

よていはみてい
みえないみらい
みていたいのは
かってなみらい
よていはみんなかていのうえで
いきていたらとくちにはださず

ふー ふー
あついおちゃ
さますよう
どうして
こういうくちをする
じぶんのからだが
いとわしい
おもいどおりになりゃしない
どっかにふた

がかかってる
はい

それとも
しんぞう

つめたい
まなざし
わかってる
しょうがない
ふー ふー
そうそう
おじいちゃんも
おなじだった
やっぱり
ふー ふー
してたっけ
から

ってにてるんだ
しょうがない
って

むもーままめ(30)月を弄ぶ、の巻

工藤あかね

子供の頃から、身近なもので一人遊びするのが好きだった。
夕方、西日の入る場所を探して、軽くレースのカーテンを締めると目をぎゅっと瞑ってみる。しばらくすると薄オレンジ色に透けた目の奥に、何やら模様のようなものが見えてきてウニョウニョと動き出すのだ。この模様がどう動いてゆくのか観察して、よく遊んだ。ただしこれは、ずっとやっていると頭がくらくらしてくるので、自然と強制終了になってしまうのが玉に瑕なのだが。

鉛筆と紙を用意し、何も考えずに落書きし続けるのも好きだった。最初うさぎの絵を描き始めたとすると、手を適当に動かしているうちにいつのまにか足がムカデのように増えていたり、変な花が頭に咲いていたり、背中に翼が生えたり目は宇宙人のように大きなアーモンド状になってきたりして、これまでみたことがないような生き物になってくる。一つ描けるとそのそばから、無限にちょっとおかしな生き物や文字が湧き出してきて手がどんどん止まらなくなる。紙が落書きで埋まっても隙間や、すでに描いたところにも重ねて描いていったりして、すごい情報量のあるような、ないような様相になっていくのが面白かった。

大人になってからのある時のこと。合唱団の子供達がたくさんいる現場で歌ったことがある。終演後に子供たちの一人が、記念に「サインください」と言ってきたので、何となしに手を勝手に動かし、適当な絵を描いて渡してあげた。それを見た子供はなぜか大喜び。その子は子供たちの輪の中に戻っていったが、そこで私の絵を見せた途端に歓声があがった。すると来るわ来るわ、子供達が私の落書きつきサインを求めて列をなし始めたのだった。これはちょっと嬉しい思い出として、心に残っている。

そのほかにも、今でもときどきやるものがある。月をふたつに増やして衝突させる遊びだ。それは満月か、それに近いくらい月が太った時にやるのがいい。方法は簡単。月を見上げる時に目の焦点をぼかすだけ。よく新聞の片隅などに掲載されている、目をよくする3Dトレーニングみたいなものがあるが、つまり要領はそれと同じである。月を見る時に、目の焦点をぼんやりとずらしてゆくと、やがて月がふたつに見えてくる。気合いで三つまで増やしてもいいが、まずは二つがいい。焦点をずーっとずーっとずらしてゆくと、自分的にはこれ以上無理というくらいに、月と月の距離が離れてくる。その刹那から目の筋肉をゆるめると、二つの月が一つに収斂するようにしてぶつかりあう。目の筋肉をゆるめるスピードを変えると、ゆっくりぶつかったり、急速に衝突したりと調節も可能になる。自分で効果音をつけてヒューーーーーズドーンなどと、口走ってもいい。

大人になっても、満月の日にはついついこの遊びをしてしまう。夜、帰宅途中に満月を発見すると、歩きながらやってしまうこともあるのだが、よくよく考えると、歩きながらやるのは実はよくないのかもしれない。まず、月を眺めていると周囲に対する注意が散漫になるから、道端では事故に気をつける必要があること。もうひとつは…極端に怪しい人の目になるので、歩いてきた向かい側の人を怖がらせているかもしれないこと。

仲井戸麗市(チャボ)の洋楽カバー

若松恵子

古井戸、RCサクセションのギタリストであった仲井戸麗市(なかいどれいち)、通称チャボが有観客のライブを再開した。同じ時代を生きて、現在進行形の彼の音楽を直接聴けることを幸せなことだと思っていたので、有観客のライブ再開はとても嬉しい。

南青山のライブハウス「曼荼羅」で、5月26日の第1回めは、梅津和時、早川岳晴、RCサクセションのドラマーの新井田耕造をゲストに、久しぶりにチャボがエレキギターを弾きまくる、しびれるバンドナイトだった。(かっこよかったな~チャボ)

そして2回目の有観客ライブが、6月23、26、27日の3日間、全曲カバー曲を演奏するソロライブとして行われた。コロナ感染に注意しつつ観客数を抑えなければならないので、聴きたいファンがみんな来られるように3日間のライブとなった。

洋楽のカバー曲は、著作権の問題で配信では演奏できないようで、今回は有観客のみで、そんな制限は気にせずに、チャボのカバーをたっぷりと聴くことができた。優れたミュージシャンは、みんなカバーの名手だけれど、チャボもそんなミュージシャンのひとりだ。愛してきた曲を、自分を通過させて、今度は自分の表現として演奏するのがカバーだから、原曲の素晴らしさにチャボの魅力が加わって、本当にしみじみ味わい深いのである。埋もれた名曲を発掘して磨いてみんなに届ける、そんな役割もカバーにはある。

洋楽のカバーに彼は日本語詞を付けるのだけれど、ほとんど直訳ではなくて、彼オリジナルの歌詞が歌われる。原曲通りでないと言っても、決して替え歌ではなくて、原曲の持つスピリットが、日本のロック少年にはこんな風に共感されたよという意訳で、そこも彼のカバーの魅力となっている。演奏の合間に彼が語ることが、歌にさらなる陰影を加える。

ビートルズのイエスタディは、「昨日という夏、夏という人生」と歌われる。ボブ・ディランのアイ・ウォント・ユーは、「アイ・ウォント・ユー、会いたいぜ」と歌われる。昔から知っている歌が、チャボのカバーによって、今再び新たに胸に届く。知ってる曲をみんなで大合唱とはいかない、とてもとても個人的な、音楽空間なのである。大勢に聴いてもらいたい、もったいないと思うけれど、曼荼羅に出かけて行って、直接聴くのが一番良いのだ。

有観客ライブが再開されて嬉しい。今後も貴重な機会をとらえて出かけていきたいと思っている。

『アフリカ』を続けて(25)

下窪俊哉

 先月、急に思い立って、アフリカキカクの年譜をつくってみた。ある人に話したら、「ネンプ? 年表ですか?」と驚いたような顔をされた。
 私は年譜を読むのが好きなのである。例えば講談社文芸文庫を買うと、必ず巻末についているあれだ。
 自分のやってきたことにかんしては、若い頃には全て頭の中に入っていて、いつでも取り出すことができた。それが最近は全くそういうわけにゆかなくなり、けっこういろんなことを忘れているということがわかってきた。
 3年前に『音を聴くひと』という自分の作品集をつくった後、それを読んだ旧知の人から連絡があって、「10年ちょっと前にも下窪さんの本をつくる計画がありましたよね?」と言われて驚いた。全く覚えてないのである。指摘されても思い出せないとは、どうしたことだろう。
 最近、そんなことが徐々に増えてきたので、アフリカキカクにかんすることだけでも、まとめておいて、いつでも眺めることができるようにしよう、と考えた。「水牛」で「『アフリカ』を続けて」を書き続けるのにも役立ちそうだし、と。せっかくならウェブサイトで公開してしまおうということになった。

 2005年10月に『寄港』第4号を出して、休刊したところから始まる。『寄港』を『アフリカ』の前身とは言えないような気がするが、『寄港』を続けていたら『アフリカ』はなかったはずなので、大きな転機となる出来事だったと言っていい。
 じつは止めるのは嫌いじゃない。止めると、必ず新しい流れが生まれるからだ。何かを止めたいとか、あるいは止めたくないと考える時というのには何かありそうだと思う。
 そこから2023年3月の『アフリカ』vol.34まで、ざーっと眺めてみる。
 最初の数年は、編集人である私の失業、再就職から、ついには会社勤め自体を止める決断をして「無期限の失業者/自由人」となる流れを背景に、続かないはずだった『アフリカ』を年2冊のペースでつくり続けてしまっている。
 その後は、項目の多い年と、少ない年があるのがわかる。
『アフリカ』を隔月で出していた2012年〜13年は際立っているかもしれない。どうしてそんなことができたんだろう? いまとなってはうまく思い出せない。そのことだけをやっていたのなら、わからないでもないが(それでも大変そうだ)、そんなはずはない。幾つかの仕事を始めたばかりだったし、逆に余裕はなかったはずである。そんな中、初めてのトーク・イベントまでやってしまっている。当時はしかし、そんなに大変だという意識はなかったような気がする。
 逆に、もっともっとできるはずだと感じていた。いわゆる”ランナーズ・ハイ”というのに近い状態だったのかもしれない。
 似たようなことが、本を何冊も立て続けにつくった2021年前後にもあった。文章教室を毎週やっていた2018年にも近いことが言えそうだ。
 それらの時期を思い返してみると、いずれも(年譜には書いていないが)印象深い対人トラブルが起こっていた。いつもは上手く対処できていることも、ハイになっている時期には、できなくなるということかもしれない。あるいは、トラブルも起こるべくして起こっているのだろうから、現状に風穴を開けようと躍起になっているのかもしれない(しかしトラブルはない方が楽なので、このことは今後、頭の隅に置いておきたい)。
 一方、例えば2017年などは、アフリカキカク以外の仕事で忙しかったので、記述が極端に少ない。それでも『アフリカ』は1冊、ちゃんと出しているのである。
 そうか! と思ってざーっと確認してみると、どんな状況であれ、2006年以降『アフリカ』を1冊もつくらなかった年はないのだ。「『アフリカ』を続けて」いると言うからには、最低でも年1冊つくっているというのは驚くようなことではなさそうだが、その事実を年譜の中に置いて眺めてみると、何だか不思議な気がする。

 いろんなアイデアを思いついて実行はするのだが、殆どの人にはウケないという特徴が全体にわたって言える。ただし、信じられないくらい深く伝わっている人もいるのである。たくさんの人にウケたら、深く伝わる人も増えるのかどうか、そのへんはよくわからない。

 そんなことを続けて、もう17年、これまでやってきたことを隠さず(忘れていることはまだあるかもしれないが)ズラッと並べて見せて、私は平気なのだ。清々しい気持ちがする。そんなことは当然のように思っていたが、誰でもそうだというわけではないらしい。つまり過去の仕事、以前の作品は封印しておきたい人もいるわけだ。
 アフリカキカクには17年前のものと、いまのものを並べて同じ雑誌ですと言って見せることができるのである。何かを止めたことすら大した分断ではないと感じているところが自分にはある。ものすごく嫌な出来事があっても休み休み思い出し、あのことがあったからこそ、その後があったと考える。

『アフリカ』を始める前に書き残しておいた文章によると、『寄港』を止めよう(休もう)と思った大きな理由は、他人から要求されて無理やり働かされているような気分になってきて、嫌気がさしてしまったからだそうである。当時は会社勤めを始めたばかりで、余裕のない中、短い休日の時間をその無償労働に当てていた。その文章の中には、「参加者から対応に困る妙な苦情が来たりもした。これは地獄だと思った。」という記述もある。
 なるほど、『アフリカ』を始める時、「続ける気はない」などと言っていたのはある種の人たちへ向けたハッタリだった。これからは好き勝手にやる、何か言いたい奴はあっちへ行け、ついて来るなよ、というわけだ。自分だけでなく、みんなもっと好き勝手にやればいいのにと思うこともある。好き勝手にやると、責任が芽生えるというのか、どうなるか? というと、何があっても他人のせいにしなくなるということではないか。アフリカキカクという場で起こった全てのことを、私は受け止める。好きこのんでそうしているのである。

 私はいまのところ、『アフリカ』を止めたいとも止めたくないとも思っていない。

イスタンブールでマンサフを食う

さとうまき

カハラマンマラシュで被災した家族にお見舞金をいくらか渡して、イスタンブールに戻ってきたときには、雨も上がっていた。今回いろいろと面倒をみてくれたシリア難民のムハンマッドは、家に招待してくれて、晩飯をごちそうしてくれるという。妻に電話して、マンサフと呼ばれる家庭料理でもてなすように指示していた。実は、僕はこのマンサフがどうも苦手なのだ。マンサフとは羊肉を、ジャミードと呼ばれる固形ヨーグルトを溶かして煮込んだものなのだが、とってもくっさいのである。しかし、うまく断る理由もない。

イスタンブールの飛行場は、数年前に新しく森を切り開いて作られた。周辺に戸建ての新しい街が作られつつあり、市中よりも家賃が安いのかシリア難民も最近多く住み着いているという。ムハンマッドがドアを開けると女の子たちがムハンマッドに抱き着いてきた。「娘さん?こんにちは!」とあいさつすると、「この子たちは、兄の娘で、戦争孤児なんだ」とムハンマッドが説明してくれる。ダラアで爆撃に巻き込まれ、両親は即死。女の子だけが3人残された。お爺さんが、彼女らを連れだし、先にトルコに難民として避難していたムハンマッドに合流して一緒に暮らしている。ムハンマッドが自分のこどもと一緒に面倒を見ているのである。

真ん中の女の子は、8歳くらいなのだが、特に甘えん坊でムハンマッドに抱きついて離れない。もうずいぶん前にベツレヘムの孤児院を訪れたことを思い出す。イスラムの世界というよりは、家族の問題なのかもしれないが、結婚前に妊娠したりしたら、一族の名誉のために、母子ともども殺してしまうことは、しばし起こりえるので、病気で入院したことにし、生まれた赤ちゃんを引き取る施設があった。カトリックでも堕胎が許されないので同じように子どもを出産してこっそりと引き取っていた。そこへ見学に行った時、子どもたちが抱きついてきて離れようとしない。この子たちは、愛に飢えているのだ。全く同じような感じがした。

思えば、トルコには340万人をこえるシリア難民が暮らしている。トルコとしても、シリア難民を今後どうするのか、大統領選でも、野党の候補はシリア難民を帰還させることを公約したし、エルドアン大統領も、強制送還はしないが、100万人は帰還させたい意向を選挙戦で語っていた。今回地震の難を逃れたシリア難民ですら、将来を思えば明るい材料はないのだ。

さて、いよいよ夕食だ。アラブ式は、机の代わりに、床にビニールシートを弾いて、そこに大皿の料理が並べられて、それをみんなで取り分けて食べる。ついにマンサフが登場。ところが、羊の代わりに鶏肉を使っていたので、臭みもなくてとてもおいしかった。

子どもたちの笑顔! ムハンマッドも通訳のアブドラも、そして運転手もとても優しそうな顔をしていて、いい奴なのである。みんな、マンサフ食べて幸せな気分。故郷の味は決して忘れることはない。

おしらせ
イラク戦争から20年「メソポタミアの未来」展を開催
7月26日ー8月28日 11時~19時
赤羽「青猫書房」
さとうまきが今回のツアーで最終目的地としたイラクで手に入れた子供の絵や、版画作品などを展示します。
https://aoneko0706-0828.peatix.com/

人感センサー

北村周一

梅雨に入る
まえに来ている
大型の
二号台風
卯の花くたし

命日が
刻まれてあり 
三月の
地震のあとの
六月の雨

重さから
解かれしきみが
虹いろの
灰となりつつ
散りゆくまでを

きみひとり
ねむる木箱の
静けさを
乱さぬように
しぐれふる雨

運ばれゆく
柩のうえに
翳されし
雨傘黒きが
二つ三つほど

毎日を朝日日経神奈川ときたりしのちに東京にする

点滴の
針の刺しどこ
あぐねいる
看護婦さんの
荒れたゆびさき 

静かなる
青のめぐりに
指の先
あててききいる
赤き血の音

命日はみつけられたる日とききぬ
 独り居の女流画家のいちじつ

ねてはさめ
さめてはみいる
銀幕の
繋がるまでの
撓める時間

ほのぼのと
熱き湯いだす
置物の
ふたつちぶさが
男湯にあり

うれいなき
ひとのからだの
軽々と
浮くも沈むも
坪湯にひとり

のむ前の
ひとときこそが
愛おしい
夏でも燗の
酒と決めつつ

紅生姜
なくてはならぬ
それのため
走り買いゆく
次男のさだめ

この家に人の影なき午前二時 
ねむれぬ者は
汗掻くのみに

ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要

冨岡三智

実は仕事をやりくりして、6月半ばから少しインドネシアのスラカルタに行っていた。今回の主目的は、ジョコ・トゥトゥコ氏の1000日法要への出席である。2020年10月号の『水牛』に「ジョコ・トゥトゥコ氏の訃報」を書いたのだけれど、早いもので、もう1000日法要の日が巡ってきた。ジャワでは亡くなって40日目、100日目、1年目、2年目、1000日目に法要を行い、この1000日目に墓石を建てて一区切りとする。ジョコ・トゥトゥコ氏は私が宮廷舞踊で師事していた師匠の故ジョコ女史の息子で、2回目の留学時期(2000~2003年)には大変お世話になった。2000年にインドネシアでは3つの国立芸大で大学院が開講し、スラバヤの教育大で舞踊を教えている彼もスラカルタの芸大大学院で学ぶために実家に戻ってきていた。彼のおかげで私の視野も人脈も広がり、彼の大学院修了試験公演に起用してもらって、その経験は大きな財産になった。私の大恩人だし、師匠の一族とは今まで法要で何度も顔を合わせているので会いたかったのだった。というわけで、渡航の主目的は土曜夜の法要のお祈り、日曜朝の墓参りである。

月曜にジャカルタからスラカルタに飛び、着陸した時に機内でサルドノ・クスモ氏とばったり出くわす。サルドノ氏はスラカルタの芸大大学院で教鞭をとっていた現代舞踊家で、ジョコ・トゥトゥコ氏の指導教員でもあった。なんだかジョコ氏が縁をつないでくれたような感じだ。私が定宿にしている所はサルドノ氏の実家のレストランからすぐ近くなので、一緒に空港からタクシーでレストランまで行き、昼食をとる。サルドノ氏は1週間前に私の3月公演の様子を映像作家のウィラネガラ氏(この3月公演で来日)から聞いていたらしい。というわけで、私の2021年、2023年の堺公演の映像やら、過去の私のコラボレーション作品やらを見てもらったり、ジョコ氏の話をしたりであっという間に時間は経ち、話し足りないということでまた水曜にも会うことになった。

水曜昼前、サルドノ氏が大学院の授業を行いジョコ氏が終了公演を行った場所に向かう。以前あったプンドポ(ジャワの伝統建築)やダレム(奥の間)は、床や壁の一部が残るばかりだ。実は2008年にここに来た時にはすでに廃墟のようになっていたが、いまはその廃墟の空間を覆うように頭上には鉄骨製の高い屋根ができ、2階にテラスができて、不思議な空間になっている。ここを再び町中の芸術拠点にしようとこの屋根をつけて改装オープンしてすぐにコロナ禍になってしまったので、活動ができないままになってしまっていたという。けれど、そろそろ大学生やらがここで制作したり公演したりできるようにしたい…というわけで、職人が何人か作業をしていた。今後の芸術の方向だとかの話をしたのだけれど、サルドノ氏は今年で78歳。見かけは白い髪と顎髭を長く伸ばした仙人だが、20年前から頭の中は全然老けていなくてエネルギーに満ちているなあと実感。今の60~70代の、サルドノ氏より年下世代の舞踊家たちと比べても若々しく、ずっとトップランナーであり続けている気がする。その後、実家のレストランの3階(月曜に食事したレストランの近くに、もう1軒、3階建てのレストランがある)も見せたいということで、そちらへ向かう。以前、スタジオに置いていた古いガムラン楽器のセットや自身の抽象的な絵画作品が置いてある。この空間を見ると、宮廷舞踊家(ジョコ・トゥトゥコ氏の祖父)の弟子で、にも関わらず1970年にコンテンポラリ舞踊作品を発表してセンセーションを起こし師匠と衝突してしまうことになったサルドノ氏のあり方~根っこの伝統と最先端を両方つかんでいる~がくっきり出ているなあと思う。

他の日には芸大(ISI Surakarta)にほぼ毎日行って、振付の師、学長、第一副学長、ガムラン音楽科の教員らに会い、今年3月と2021年10月に堺で行った公演の映像を見てもらって、いろいろアドバイスをもらったり、これからのヒントをもらったり、意見交換したりした。実は、それが今回の渡航の第二の目的だった。振付の師には創作を指導してもらっただけでなく、私の宮廷舞踊の公演や録音に歌やクプラ(舞踊に合図を出すパート)で参加してもらってきた。ちょうど大学院の入試面接で忙しくしていたが、会って食事し、話をすることができた。学長や第一副学長はウィラヌガラ氏(3月の公演のために映像を制作してくれた映像作家、公演のため来日)から公演の話をすでに聞いていたと言う。サルドノ氏もウィラネガラ氏から話を聞いていたと言っていたし、知らないところで情報をつないでくれることが本当にありがたい。これらの人々には、1時間近い宮廷舞踊の上演や重い曲である「ガドゥン・ムラティ」を演奏したりして、観客からの反応が好評だったこと、有料公演で提示したこと、関西ガムランのレベルの高さなどに大変驚かれた。だいだいジャワ人は、こういう演目は退屈で飽きられると思っている。けれど本当の宮廷儀礼に触れたい、本当の瞑想的な雰囲気に浸りたいという観客は、少ないかもしれないけれど確実にいる、と私は強調した。そうそう、木曜夜に見に行った公演で、元TBS(スラカルタにある中部ジャワ州立芸術センター)で照明をしていた人(すでに定年)が見に来ていて、「あー!君はブドヨ・パンクル公演のミチだね!」と出会うやいなや言ってくれたことが非常に嬉しかった。私の『ブドヨ・パンクル』公演もこの人に担当してもらったのだが、それは2007年のことなのだ。それで、この人にも私の堺公演の映像をみてもらい(私はどこにでもパソコンを持参していたのだった)、照明家ならではのアドバイスをもらった。

ちなみに、ウィラヌガラ氏は毎月スラカルタの芸大大学院に教えに来ていて、今回私の来イネに予定を合わせて授業の日を調整してくれたので、一緒に食事する。その時に、3月の堺公演のためにお祈りしてくれたスラカルタ王家のラトゥ・アリッ王女(故パク・ブウォノXII世の長女)も誘ってくれて、3人で食事となり、やはり公演映像を見ていただいた。公演で使ったウィラヌガラ氏の映像には故パク・ブウォノXII世を始め亡くなった王家関係者が多く映っており、供物を作って王宮の各所に備えている宮廷儀礼の様子も映っていてとても貴重だ。ウィラヌガラ氏は2004年にパク・ブウォノXII世が亡くなるまでずっと王と王家のドキュメント映像を撮り続けてきた人なのである。王女からも様々なコメントや励ましの言葉を戴き、記念にとバティックまで頂戴する。

というような感じで、わたしの滞在はあっという間に過ぎてしまった。いま、これを書きながら、なんだか過去にも似たようなことをしていたような気がしていたのだが…思い出した!ジョコ・トゥトゥコ氏の公演に出た後2週間足らずで留学を終えて帰国し、その半年後に大学院生となってインドネシア調査に行った時に、いろんな人に自分の舞踊に対する批評やアドバイスを求めて廻っていたのだった…。しかも、その時の様子を2004年2月号の『水牛』に「心をとらえるもの」として書いていた。そして、この時もサルドノ氏にいろいろアドバイスをもらっていた(!)。あれから約20年、私はちょっとは成長できているのだろうか…。今は亡きジョコ・トゥトゥコ氏その母や私の師匠の故ジョコ女史に問うてみたら、何と答えてくれるだろうか…。

演劇

笠井瑞丈

オィデプス王
初めての演劇
役者になりたいと
思った十代の頃
なんのキャリアもなく
なんの知識もなく
仲代達也さんの
無名塾を受験
当たり前のように落ち
役者願望は一瞬で消え
言葉の道から身体の道に
それが正解だったのかは
今となっては分からない
ここに来て巡り巡りって
初めて演劇に挑戦できる
初めて間近で見る役者のセリフ
莫大な量のセリフを覚える主役
カラダが踊ってるように感じた
言葉でも身体でも結局表裏一体
言葉が世界を作り
言葉が身体を作る
演出家の細かな指示
空間に対して身体の立ち方
言葉の母音や子音の出し方
やがて新しい世界が生まれ
言葉の輪郭が作られていく
そして物語が始まる

1カ月間都内のスタジオに通う
そんな稽古も今日が最後だ
やれるか不安の日々だった
台本を毎日片手に
車の中で発声して
いくらやっても覚えられない
きっと覚えるのではなく
カラダの中に溶かす感覚なんだろう

7月は東京
8月は地方

やっとやっとゴールが見えてきた

新しい事に挑戦する
新しい自分に出会える瞬間

本小屋から(2)

福島亮

 結局、バオバブの種を蒔くことにした。樹木の尺度で考えれば、それは人間のエゴだ。アフリカであれば千年も二千年も生きるはずの木を、ここ日本で発芽させようというのだから。とはいえ、好奇心には抗えなかった。そこに種がある。だから、蒔いてみたい。種子が放つ途方もない誘惑に勝てなかったのである。

 50粒ほどの種から、17本の芽が出た。本当はもっと発芽する可能性があったのだが、ジフィーポットを置いていた受け皿の水が原因で、発芽前の種を腐らせてしまったのである。ジフィーポットは紙でできたポットで、ポットごと植え替えができるというすぐれものだが、使用した用土の材質も手伝って、土の乾燥が激しく、止むを得ず受け皿を導入したのがいけなかった。なかなか芽がでない種を観察しようと掘り返してみると、種は腐っていた。かたい殻を指で押すと、中から白っぽく溶けた中身が出てきて、植物が腐るにおいがした。

 17本のうち3本を知人にお裾分けした。そのため、手元には今、14本の苗がある。もしもバオバブの苗が欲しいという人がいたら、先着10名くらいになってしまうが、ぜひお裾分けしたいと思っているので、連絡をいただけたら嬉しい。そうすれば、一千年後、二千年後もこの地で生き残るバオバブが出てくるかもしれないから(まあ、その時人間がいるかどうかは心もとないけれども)。

 梅雨に入って、蒸し暑い日々が続いているが、バオバブのことを思えばその暑さもまったく苦でなくなるから不思議だ。バオバブにとって、30度の気温は心地よく成長できる温度なのだ。だからぐんぐんと成長し、すでに本葉が5、6枚出たものもある。かと思うと、(おそらくジフィーポットから鉢に植え替えたのが気に障ったのだろうが)双葉のまま、ぐずぐずとしているものもある。そんないじけ虫の苗も、よく観察すると双葉と双葉の間がパンパンに膨れ、緑色の瑞々しい茎には幾本もの木質の筋が入り、はちきれんばかりになっている。機嫌が元に戻ればいつでも本葉を吹き出せるよう、用意しているのだ。小さな双葉ではある。だが、根から吸い上げた水分や養分をこれでもかと溜め込むその姿には、なんとも言えない勁さがある。

 子どもの頃から、いろいろな種を蒔いてきた。朝顔や二十日大根の種はもちろん、ほうれん草や蕎麦、メロン、ビワ、アボカドなど蒔けそうなものは片っ端から蒔いてしまう子どもだった。小学生の私をとくに魅了したのは瓢箪だった。小学校の近くにある公民館(金島ふれあいセンター)に図書コーナーがあり、そこで借りた中村賀昭『これからはひょうたんがおもしろい』(ハート出版、1992年)という本に誘われて、千成瓢箪、大瓢箪、鶴首瓢箪、一寸豆瓢など、さまざまな品種の瓢箪を栽培した。さすがにプランターや鉢では瓢箪を育てることはできず、祖母が野菜を育てていた畑の隅を使わせてもらった。畑を瓢箪の蔓で荒れ放題にしてしまったのだから、よく叱られなかったものだと思う。秋、畑に実った種々様々な瓢箪を収穫する。大小合わせて100近い瓢箪が収穫できた。蔓と繋がっている部分(口元)にキリで穴を開け、胴の部分を紐で縛って重石をつけ、数週間水に沈めて表皮と内部のワタを腐らせる。すると実の表面の薄い皮がズルリと剥け、さらに実の内部がドロドロに溶けて種と一緒に取り出せるようになる。種はこの段階で回収しておいて、来年蒔くためにとっておくのである。こうして、硬い瓢箪の殻が残るわけだが、それを真水できれいに洗って、半日陰で乾燥させる。中までしっかり乾燥させないと黴の原因になるから、ここは慎重にやらねばならない。おおよそ乾燥したら瓢箪を指で叩いてみる。軽い音がすれば、それは芯まで乾燥したしるしである。あとはニスを塗って、飾り物にすれば良い。ただ、ニスを塗らずに瓢箪そのものの肌を楽しむのもなかなか良く、私はこちらの方が好きだった。椿油で磨くと光沢が出ると知っていたが、椿油など手に入らないのでサラダ油で磨き、大切な瓢箪を油臭くさせてしまったこともある。瓢箪の中に酒を入れ、毎日撫でていると艶が出ると聞き、試してみたいと思ったが、それは親が許してくれなかった。この一連の作業を私が身に付けたのは12歳の頃だった。20年ほど経ってこんなことを思い出したのは、腐らせてしまったバオバブの種を土から掘り出した時に感じたにおいが、腐った瓢箪の中身のそれと同じだったからである。あ、あのにおいだ、と思った。植物が腐るにおいというのは、けっして気持ちの良いにおいではないけれども、例えば肉が腐ったときに発生するようなすぐにでも遠ざけてしまいたくなる臭気とは違う。植物の場合、どこか柔らかさを感じるにおいなのだ。

 本小屋の夏は暑そうだ。窓が西側についているからである。だが、そこに置かれたバオバブたちのことを思うと、暑さも日光もあまり気にならない。雨が降ったら、それはバオバブにとって自然のめぐみだ。風が吹けば、まだ柔らかい本葉がそよぎ、葉についた埃を払ってくれる。日光は苗たちのよろこび。時々訪れる気温の低下は、苗たちの試練。そう思うと、暑さも湿度も、いとおしく思える。今日は雨だ。バオバブたちは喉を潤しているだろうか。

水牛的読書日記 2023年6月

アサノタカオ

6月某日 そろそろ寝ようかなと食卓でぼんやりしていたら、「文学ってなんのために存在するの?」と春から大学生になった娘に聞かれた。ここでヘタを打つようでは、編集者としても親としても失格だ。3年に1回ぐらい、子を通して人生から真剣勝負を挑まれるような正念場が訪れる。学問ともジャーナリズムとも異なる「文学」の意義について、夜更けまで話し合った。

6月某日 神奈川・大船のポルベニールブックストアで店主の金野典彦さん、本屋lighthouse の関口竜平さんのトークに参加。関口さんが著書『ユートピアとしての本屋』(大月書店)で書いている「出版業界もまた差別/支配構造の中にある」というテーマについての話に考えさせられた。出版編集に関わる者として考えるだけではなく、行動しなければ。

6月某日 ZINE『ケイン樹里安にふれる——共に踏み出す「半歩」』を読む。マジョリティの特権を「気づかず・知らず・自らは傷つかずにすませられる」ことと鋭く表現した社会学者で、昨年急逝したケイン樹里安さんをめぐるエッセイのアンソロジー。

6月某日 東京での仕事の打ち合わせからの帰り道、神保町のチェッコリで購入した韓国 SFの作家ファン・モガの『モーメント・アーケード』(廣岡孝弥訳、クオン)を読む。近未来的なVR技術を用いて記憶の世界をさまよう「私」の孤独。小さな物語の中で人が人と共にある痛み、そして希望までを見事に描き切っている。素晴らしい小説だった。同じくチェッコリで購入した韓国の作家、チャン・リュジンの小説『月まで行こう』(バーチ美和訳、光文社)も読み始める。

6月某日 早朝の新横浜から新幹線に乗車し京都へ移動。車内で一眠り。京都駅からJR、京阪、叡山鉄道と乗り継いで恵文社一乗寺店で、文化人類学者の今福龍太先生のトーク「〈歴史〉は私たちのなかにある——思想家・戸井田道三の教え」に参加した。在野の思想家・戸井田道三(1909~1988)に10代半ばより学校という制度の外で教えを受け、親交を結んだ今福先生による評伝『言葉以前の哲学——戸井田道三論』(新泉社)が出版され、その刊行記念イベント。「知の伝承」について思いを馳せる充実した時間に。会場では先生も関わるスモールプレスGato Azulによる詩やエッセイ、旅の写真などの手製本の販売もあり、盛況だった。

トークの後半では、本書の編集を担当したぼくが聞き役を務めて「漫談」をしたのだが、戸井田の著作の編集担当の一人だった久保覚に言及したことから、彼と梁民基が編訳した『仮面劇とマダン劇』(晶文社)や詩人・金芝河の民衆演劇論などにも話が及んだ。翌日の夜の京都で、先生と僕は韓国の民衆文化運動の研究者であり紹介者でもあるその梁民基に縁のある方に偶然出会い、大変驚いたのだった。

6月某日 京都滞在2日目。某所で、今福龍太先生と文化人類学者の和崎春日先生との対談「歩きながら考える、さまよいながら出会う」に参加。和崎先生はアフリカ・カメルーンなどでのフィールドワークの経験をもとに「生きることの気迫」について何度も語っていた。「知」の根拠を、狭義の学問ではなく学問外の「生」においていることが何よりもすばらしい。学び続けたい《歩く人》の知がここにある。忘れかけていた人類学への純粋で熱い気持ちが胸にこみあげてきた。

6月某日 京都から戻り、地元の図書館で和崎春日先生のアフリカ都市人類学の論考を探して借りる。和崎先生の父・和崎洋一の『スワヒリの世界にて』(NHKブックス)も。テンベア(さまよい)の思想とは何か。

山と山はめぐりあわないが、人と人はめぐりあう
 ——スワヒリ語のことわざ

6月某日 尹紫遠・宋恵媛『越境の在日朝鮮人作家——尹紫遠の日記が伝えること』(琥珀書房)を読む。これはすごい本だ。当たり前といえば当たり前だが、文学研究者・宋恵媛さんの編集によってこの日記資料が書籍化されていなければ、忘れられた作家・尹紫遠の声に自分が出会うことはなかった。

6月某日 詩の本を読む。大木潤子さん『遠い庭』(思潮社)、管啓次郎さん『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社)。管さんのエッセイ集『本と貝殻』(コトニ社)も。

6月某日 小川てつオさんの『新版 このようなやり方で300年の人生を生きていく——あたいの沖縄旅日記』(キョートット出版)が届く。読み始めたばかりだが、いのちの律動がそのままことばになったような文章に打たれる。編注などの構成もふくめてすばらしい本だと思う。

6月某日 今月2回目の関西出張。早朝の新横浜から新幹線に乗車し、大阪へ移動。地下鉄、近鉄と乗り継いで河内天美駅へ。

午前中、阪南大学の総合教養講座での講義をおこなう。テーマは「韓国文学との出会い——編集者としての個人史から」。安宇植編訳『アリラン峠の旅人たち——聞き書 朝鮮民衆の世界』(平凡社)を、学生に紹介した本の中に紛れ込ませた。こういう地味な名著にもいつか出会ってほしいと思う。この本の1章「市を渡り歩く担い商人」の聞き書きを担当しているのが黄晳暎。フランス語で書く作家ル・クレジオがノーベル文学賞受賞講演で深い敬意を捧げてもいる韓国の大作家だ。

もちろん、最近の日本で刊行された韓国の小説や詩の本もたくさん紹介した。チョ・ナムジュの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳、筑摩書房)や文学アンソロジー『完全版 韓国・フェミニズム・日本』(斎藤真理子編、河出書房新社)を題材に「フェミニズム」について話していると、顔を上げて真剣なまなざしをこちらに向ける学生が何人もいた。《後から来る者たちはいつだって、ずっと賢い》という、チョン・セラン『保健室のアン・ウニョン先生』(斎藤真理子訳、亜紀書房)に記されたことばを思い出さずにはいられない。自分よりずっと賢いこの人たちに、いま伝えられることを伝えておかなければ、とみずからに言い聞かせる。大学では、『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだことがきっかけになり、就職の予定を変更して韓国の大学院に進んだ卒業生がいるという話も聞いた。いまは、家族の問題を研究しているそう。本には人生を変える力がある。

6月某日 雨の中、大阪市営地下鉄、モノレールを乗り継いで吹田の国立民族学博物館へ。打ち合わせの後、久しぶりに常設展をゆっくり鑑賞、最近関心のあるアフリカ文化と朝鮮半島の文化を中心に。

6月某日 大阪の滞在先から歩いて行ける針中野の本のお店スタントンへ。以前、詩人・山尾三省展を企画し、展示をしてもらった。いまも三省さんの詩文集『火を焚きなさい』『五月の風』『新版 びろう葉帽子の下で』(野草社)などを販売している。韓国文学もいろいろそろっている。

スタントンでは、「金井真紀の仕事展」を開催していた。ギャラリーで金井さんの人物イラストの原画を、一人ひとりと静かに対話するようにしてじっくり鑑賞。金井さんの著書『日本に住んでる世界のひと』(大和書房)を購入し、崔命蘭さんの物語から読みはじめている。

6月某日 京都・蹴上でひと仕事を終えた後、地下鉄とJRを乗り継いで奈良駅へ。車で奈良県立図書情報館へ向かい、開催中の企画展「韓国文学への旅——現代韓国文学とその周辺」の棚を見学。想像以上に企画展を見に来ている人が多い。すると、以前広島・福山の本屋UNLEARN のイベントで挨拶をした青年と偶然再会した。最近、韓国文学を読みはじめたとのことでうれしい。

図書情報館の乾聰一郎さんからのお誘いで、関連イベントにて「『知らない』からはじまる」と題し、韓国文学についてトークをおこなった。韓国・済州島との出会いについて話すのははじめてのことで言葉足らずの部分もあったと反省しているが、熱心な聴衆に支えられて話を終えることができた。

トークでは、在日コリアンの朝鮮語文学研究者・翻訳家の安宇植の業績を紹介したのだが、翌日、乾さんがさっそく同館所蔵の安宇植の著作や翻訳書を集めて展示コーナーに並べてくれた。いずれも、90年代以降の学生時代に熱い気持ちで読んでいた本たち。先人や先輩の仕事をバトンを渡すように伝えていきたいと常に願っているので、こういう配慮は本当にうれしい。

ところで、会場で配布している図書企画展のブックリストの資料が大変充実していた。歴史、社会、芸術、音楽など文学以外の他ジャンルも網羅していて、韓国に関するこんな本もあるのかと発見があり、眺めていて楽しい。資料にはチェ・ウニョン『わたしに無害なひと』(古川綾子訳、亜紀書房)、キム・エラン他『目の眩んだ者たちの国家』(矢島暁子訳、新泉社)の書評も掲載。別の日におこなわれた晶文社「韓国文学のオクリモノ」などを企画した編集者(現・亜紀書房)の斉藤典貴さんのトークで配られた資料、作家別の翻訳書リストも素晴らしい。これらの資料から、さらに読書の輪を広げていけそうだ。

トークのあと、夜の町をさまよっていると奈良 蔦屋書店に遭遇。想像以上に大きなお店でびっくりした。

6月某日 京都駅から近鉄特急に乗車し、三重・津の久居へ。 HIBIUTA AND COMPANY で「本のある世界と本のない世界——声の教えから」と題してトークをおこなった。ブラジルの日系社会でおこなった文化人類学的なフィールドワークを経て、声の文化と文字の文化のはざまで編集という仕事をはじめたみずからの出発点について振り返ることができた。紹介したのは、3人の人類学者の講義録、今福龍太先生の『身体としての書物』(東京外国語大学出版会)、山口昌男先生の『学問の春』(平凡社新書)、そしてレヴィ=ストロース『パロール・ドネ』(中沢新一訳、講談社選書メチエ)。いずれも編集に関わった本たちだ。

HIBIUTAでは、代表兼月イチ料理人・大東悠二さんの渾身のパスタをいただいたり、ソントンさんが主催する本の会をのぞいたり(そこでえこさんが紹介していたク・ビョンモの小説『破果』〔小山内園子訳、岩波書店〕を読んでみたいと思った)、詩人・水谷純子さんが主催する「詩の会hibi」に参加したり、愉快な1日を過ごした。翌日、大阪への帰路でHIBIUTA発行の『存在している 書肆室編』を読む。所収の村田菜穂さんの「気が付けば本屋」から。

6月某日 阪南大学での講義2日目、テーマは「在日コリアン文学との出会い」。自分が編集を担当した関連書について解説し、在日コリアン文学の背後にある歴史への向き合い方について語った。「韓国文学との出会い」「在日コリアン文学との出会い」という2回の講義で紹介した本が大学図書館の特設展示コーナーに配架されるようだ。斎藤真理子さん『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)から、テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』(平凡社)まで17冊。学生の皆さんと本との良い出会いがありますように。

6月某日 大阪→京都→奈良→三重→大阪をめぐる旅から自宅に戻ると、韓国の作家パク・ソルメの小説集『未来散歩練習』(斎藤真理子訳、白水社)が届いていた。不思議なタイトル。別の小説集『もう死んでいる十二人の女たちと』(斎藤真理子訳、白水社)には震撼させられたが、こんどの本はどうだろう。

韓国を楽しむ雑誌『中くらいの友だち』の最新12号をどこかで買わなければと考えている。

しもた屋之噺(257)

杉山洋一

未だ明けきらない曇った朝空を眺めていると、時々、ぽろろろぽろろろと、どこからか鳩の啼き声が聞こえます。それも一箇所からではなく、左手前や右奧から、短い断片がおずおず聞こえたかと思うと、すぐに止んでしまいます。そうして少し静寂が戻った隙に、遠く微かに雀の囀りが聴こえたりします。
行交う車の喧騒に搔き消され、不可視となった鳥たちの社会を観察していて、自分に目に映る世界など、社会全体の1%にも満たないとも思うのです。各存在はそれぞれ存在理由を持ち、それぞれ道理に基づいて社会を築き、社会生活を営んでいるとすれば、自分の道理を彼らに当て嵌めるのは傲慢が過ぎているのかもしれません。互いに認め合って共存するにあたり、何が不足しているのか、自問を繰り返しています。

6月某日 ミラノ自宅
今朝は、ドイツから遥々浦部君がレッスンを受けに来た。意欲旺盛で頑張っている。レッスン室代わりに使っているサンドロの自宅はここから徒歩5分の処にあって、戦前のアパート群中庭に設らわれた旧い工場を改造した、所謂ロフトである。
ここの集合住宅には、息子が幼稚園、小学校時代に仲の良かった、2歳年長のニコライが住んでいた。彼はロシア人とイタリア人の考古学者カップルから生まれた男の子である。
ロシア人の父の血を引いているからか、ニコライは息子よりずっと骨太で体格も良く、度のきつい大きな眼鏡をかけていた。学者の両親の影響なのか繊細でもあり、時には少し気難しくもあった。彼の両親は別れていたから、ニコライは母親と祖母に育てられていて、気性も激しかったから、彼女たちが時に手を拱いていたのも覚えている。
浦部君のレッスンの合間に、ピアニスト二人にバールでコーヒーを買ってこようと外に出たところ、中庭の塵芥集積箱のところで、ニコライの祖母が手で分けながら分別ゴミを入れていた。
「本当にお久しぶりです。みんな元気ですか、コロナの間も大丈夫でしたか?」。
「ええ、いつもの通り。お陰様で元気ですよ。コロナにも罹らなかったし」、と軽く微笑んで答えてくれる。
「ニコライも変わりありませんか」。
「ええ、いつもわたしたちの傍にいますよ」。
「どういうことです」。
「あの時から、何も変わっていません」。
「どうしたんです、何かあったのですか」。
「お話ししていませんでしたか。彼は天に召されたんです。あれはコロナが始まる直前でしたか。厄介な心臓の病気で、一年ほど辛い闘病生活をしましてね」。
「何てことだ。何も存じませんでした。だって、最後にお話しした時、ニコライは川向うのカヌークラブで精を出しているって、随分お話しになっていらしたじゃないですか」。
「ええそうなんです。でも、あれからすぐに病気が見つかって。病気のために全ての運動を禁止されてしまって、本当に可哀想でした。彼はひどく怒りましてね、それで頑張ったんですけれども、寿命ばかりは神さまがそれぞれにお与えになるものです。わたしたちには、どうにもできない運命でした。でもこれで良かったのかも知れません。短かったけれど、ニコライは素敵な人生を歩みました。あれ以来、彼の母親は昔勉強したロシア語にすっかり夢中です。ロシア語を学び直すと言って朝から晩までロシア語漬けになっています」。

6月某日 ミラノ自宅
今朝は3年間教えてきたマルティーナとフェデリーコ、最後のレッスン。ふら付くマルティーナの上半身をどう安定できるか長く悩んできたが、結局ギターを弾いているため、背骨が極度に湾曲しているのが原因だったようだ。曲がった背骨を敢えて受容れ、いかに重心を下げて、安定させるかを一緒に考える。
13時過ぎにレッスンを終え、自転車で国立音楽院に向かう。14時から、ダヴィデが教える「現代ピアノ作品講座」クラスに顔を出す。10人ほどの学生を前に、ダヴィデと二人、自作についてとりとめもない四方山話をしてから、3人の学生がそれぞれ「間奏曲7番」、「スーパーアダージェット」、「山への別れ」を披露してくれた。
どの演奏もそれぞれ弾き込んであって素晴らしかったが、特にディーマの弾く「スーパーアダージェット」には舌を巻いた。ディーマ曰く、一箇所内声がマーラー原曲と違うそうで、何故かと尋ねられたが、何も憶えていない。
高校でマンゾーニの「いいなずけ」を勉強したばかりの若者たちが、ミラノの大学で「山への別れ」を弾くと、非常に臨場感に漲るようだ。ルチアとレンツォの深夜の逃避行の様子や、眼前に広がるレッコの断崖などが目に浮かぶようである。彼らの方がよほど、作品の本質を正しく掴んでいるようで、不思議な体験であった。
目の前の10人の学生の中には息子も入っていて、息子を前に真面目に昔話をするのは、新鮮でもあり、多少の照れも覚える。
どのようにしてイタリア現代音楽に興味を持つに至り、イタリア留学をはじめた当初、このミラノ国立音楽院に通っていた当時の話をし、そこで出会ったドナトーニやカスティリオーニの話をして、日本とイタリアの音楽観の差異について話す。
興味深かったのは、ダヴィデが、「ドナトーニにとって、システムの厳守は、時に耳で音を選択するより重要だったりするんだよな」と言い放っていたことと、彼から「どうして、ピアノを弾かないのに、ピアノ曲をこんなに沢山書いたのか」と質問されたこと。
前者のダヴィデの見解は、強ち間違いではないと思う。システムを厳守し、そこで選ばれた音を敢えて否定しない姿勢は、まるで手抜きにも聞こえるかも知れないが、実はそうではない。敢えて自分の手から解放したものを、自らの責で受け入れるのは、相応に勇気と技術が必要とされるし、対位法に取組む姿勢に少し似ているのかも知れない、と随分経ってから実感するようになった。その次元に到達すると、システムの構築過程そのものが、音の選択とほぼ同じ価値を持つようになる。丹精込めて音を託せる回路を作り上げ、後はそこに音の生成を任せる。
帰宅すると、「今日は、全く知らなかった父親の話を沢山聞けて面白かった」、と息子もまんざらでもない風情であった。

6月某日 ミラノ自宅
ウクライナ、ナホトカダム崩壊。水没してゆく街の風景や、水門を超え勢いよく広がりゆく水流の姿は誠に超現実的な光景であって、生活臭も現実感すらも消失し、静謐さに満たされて、恐ろしいほどの美しささえ湛える。あの茫洋たる水面の底に、藻屑と消えた無数の命が沈む。
人間はどうしてこうも愚かな存在なのか。核戦争が始まれば、やはり同じように、焼き尽くされ灰燼に帰した地表が超然的な静けさに覆われ、続いて訪れる核の冬では、それら全てが煌めく美しい氷に閉ざされ、或いはその氷が地球全体が覆い尽くして、宇宙から眺める地球の姿すら、変化を来すのだろうか。
今晩、家人とルカが、ホルスト「惑星」オリジナル2台ピアノ版をミラノ市立のプラネタリウムで演奏したが、その折、2013年7月19日NASAの探査機カッシーニが撮影した有名な土星の写真が、スクリーンに投影された。
土星の輪のずっと奥に映り込む小さな白点。15億キロ離れた地球、つまり、そこに暮らす我々皆が映り込んだあの写真だ。土星からみれば、あれほど小さく美しい、慈しみに満ちた光の点に過ぎない我々だが、こうして互いに諍いを繰り返し、一心不乱に自壊を続けるのは何のためか。
「このちっぽけな星の中で戦いは繰り返され、今も辛い思いをしている人たちがいる」、そう天文学者がコメントすると、漆黒で満席のプラネタリウムは、自然に沸き上がった拍手で満たされた。

6月某日 ミラノ自宅
日がな一日、大学の試験をやり過ごしてから、夜は家人と連立ってマンカのヴァイオリン協奏曲世界初演を聴く。コロナ禍で初演が3年近く延期されていて、漸く実現の運びとなった。実に強い意志を持つ、魅力的な音楽であった。
昼頃だったか、ベルルスコーニが死んだらしいと、試験の採点をしていた同僚が、風の便りで聞いてきた。それに対する同僚たちの反応も特になくて、遅かれ早かれそうなると思っていた、程度のものだったから、肯定でも否定でも、もう少し目に見えた反応をすると想像していたので、少々肩透かしを喰らった気分であった。息子の友人たちとのチャットのやりとりによると、彼らはこれで社会が好転すると信じているようであった。
1995年、最初にイタリア政府給費留学生としてミラノに住み始めたとき、ベルルスコーニが首相の職にあった。彼が給費を期間途中で中止する暴挙をしなければ、自分の人生は全く違ったものになったかもしれない。イタリアに居残る選択もしなかっただろうし、生活のため指揮をする必要もなかった。
ベルルスコーニのようなポピュリズム右派政権だったから、我々留学生はこんな仕打ちに遭った、と当時は皆で話していたけれど、その後左派政権に変わったからと言って、外国人への対応が変わるわけでも音楽家が暮らしやすくなるわけでもなく、自分の生活は、自らが粛々と守るしかなかった。かかる自覚を否が応にも植え付けたベルルスコーニに対して、今となっては多少なりとも感謝すらしている。
3日間の喪に服すとの政府発表だが、喪中は何が変わるのか同僚に尋ねたところ、国の公共機関が休業するのだそうだ。大学の試験には特に何も変更はなく、市役所など窓口が機能しなくなるという。

6月某日 チッタ・ディ・カステルロ・ホテル
いくら頭の中で作曲は進んでいても、学校に忙殺されて机の前に座るのも儘ならず、忸怩たる思いばかりが募っている。最近何度か、石井真木さんと島田祐子さんと一緒にテレビにでている小学生の頃の写真を見かけた、と連絡をいただいたが、その度ごとに、功子先生と仲の良かった真木さんが、こちらの作曲の進捗状況を気にしているのか、さもなくば警鐘を鳴らしているのか、何某かのメッセージではないかと気を揉んでいる。
朝、フィレンツェ駅前の宿を出て、9時45分発の準急でアレッツォに向かい、そこで車に乗り換えてチッタ・ディ・カステルロに向かう。アレッツォは郷土祭「サラセン人馬上槍試合(Giostra del Saracino)」の準備が佳境を迎えていて、街中至る所に、コントラーダと呼ばれる地区チームの巨大な旗が掲げられていた。
道中、所々横断する川は酷い濁流で、氾濫しかかっているようにさえ見える。聞けばこの処ずっと毎日酷い嵐のような驟雨が続いていて、今日のように晴天に恵まれたのは久しぶりだという。
初めて訪れるシャリーノ宅は、チッタ・ディ・カステルロの中心あたりにあった。旧く重厚な木の外扉を押し開け、ルネッサンス期から残ると思しき石造りの集合住宅に足を踏みいれる。呼び鈴横のシャリーノの名札はすっかり古びていて、歪んですらいるのが印象的であった。
地階にはシャリーノが物置として使うガレージがあって、フィレンツェの劇場大道具係から贈られたという舞台装置などが、きちんと保管されていた。
その脇から続く小さな石階段を3階まで上ると、そこがシャリーノの家の玄関である。玄関の天井には覗き窓が開けられていて、中世、人が訪ねてくると、まずそこをそっと開き、相手を確かめていたという。その玄関口を抜け、旧くすっかり磨り減った細い石階段を引き続き15段ほど登ると、彼の居間入口に立ち至る。20畳ほどの空間に、漢時代の中国古美術やら、彼が蒐集する古代の石器などが犇めいていて、壁には隙間がないほど、沢山の油絵が飾られている。
隣の部屋には整然と書架が並び、それぞれの棚は、歴史書、ジャポニズム云々とジャンル毎に丁寧に整理されていた。
引続き細い石階段を昇った4階は、2部屋に亙って彼の仕事部屋として使われている。
そのうちの一つの部屋には、大きな仕事机が置かれ、隣の部屋には小さめのグランドピアノがあった。そこには天井から大きなジャワの影絵人形が吊られていて、ピアノの上にはモーツァルトかシューベルトか、何某かの編作と思しき、書きかけの楽譜が無造作に置かれている。
これらの部屋にも油絵や鉱石、無数の石器などが、あらゆる場所に飾られていて、その周りにオリエンタリズムの薫り高い1890 年製カルロ・ブガッティの木製ベンチなど、貴重な調度品が数多く飾られている。それぞれが価値ある骨董品だという。
ドナトーニやブソッティの家のような、整然として実用的な感じは皆無でより開放感があって、物品の多さからか、やや雑然とした雰囲気すら漂う。
そこからより細くなった階段を頭を低くして登った所に、当初、屋根裏部屋として物置などに使われていた空間があって、そこに彼の寝室と別の書斎、そして便所がある。厠の場所はもともと鳩小屋であった。
そこかしこに石や石器が並べてあり、シャリーノはそれを一つずつ手に取って説明してくれるが、石器そのものも、石や鉱石にも石器時代にも疎いため、こちらの理解はまるで要領を得ず、説明してもらうのも申し訳ない。
書斎の奧には気持ちの良いテラスが張り出していて、育ち過ぎた松の盆栽が無造作に置いてある。目の前には自然の美しさを謳うウンブリアの丘陵が広がっていて、実に心地良い。カンカンカンカン、と教会の乾いた鐘の音が街中に響く。

6月某日 ミラノ自宅
早朝よりヴァイオリン協奏曲の仕上げをしていて、そろそろ完成かという時に、東京より緊急の打診を受けた。
プログラムに一柳作品が入っているのを見て、一柳さんがこちらの作曲進捗状況を見計らって、ここぞとばかりに連絡を寄越したに違いない、と思う。なるほどこちらの動向を逐一チェックしているとすると、にべもなくお断りするわけにもいかない。
試験の立ち会いを誰かと交替すれば、何とかリハーサルには間に合いそうなのでその旨学校に連絡をし、日本から送られてきた楽譜データを印刷屋に転送して、ヴァイオリン協奏曲の最後の仕上げに専心する。曲を仕上げて東京にデータを送ったところで、息子に手伝ってもらって伸び切った庭の芝刈りをする。この状況では次は何時刈れるかも分からないからだ。
夕刻、印刷屋にコピーを受取りにゆき、夕食後、製本と譜読みの下準備をしているうち眠り込む。一週間後に本番だなんて考えたくもなかった。

6月某日 ミラノ自宅
早朝より仕事にかかる。余りに膨大な音の洪水に仰天し、言葉を失う。印刷した楽譜サイズも小さすぎて音符が読めない。尤も、短期間にこれ以上大きなサイズで両面印刷は不可能だったからこれで読むしかなく、さてどう譜読みしたものか、途方に暮れつつ作業を進める。
リハーサルに必要な優先項目に合わせて、拍子とテンポ、それから全体構造の確認、フレーズ構造を書き込んでから拍に目印を入れてゆく。いつもと同じ手順ながら、少し違うのは、祈りながら仕事をしているところ。ストレスと目の酷使から、食欲もすっかり失せた。

6月某日 ミラノ自宅
春に肋骨を折ったことと、長らくヴァイオリン協奏曲の作曲が捗らなかった所為ではあるが、もう随分前から、寝ているのか起きているのか分からない日々が続いている。やりかけたスレンカ作品の強弱記号マーキングの残りは息子に任せ、一柳二重協奏曲の楽譜を開く。
特に先入観もなく一ページ目をめくり一段目から読み始めると、途端に惹きこまれてしまった。何気ない音の動きなのだが、琴線に触れるというのか、涙腺が緩むというべきか、我乍ら当惑するほどであった。センチメンタルな作品でないのは百も承知だが、冒頭からこれほど共感を覚える作品も珍しい。
音数は少ないのだけれど、フレージングを決めるのには酷く時間がかかった。意識的に少しアンバランスな構造に仕立ててあるので、こちらを立てれば、自動的にあちらが綻ぶようになっていて、腑に落ちるフレージングを見つけるためには、それらすべての可能性を試してからになる。ほんの少しずつ風景に遠近感がつき、色が塗られて、息吹が吹き込まれてゆく。

6月某日 三軒茶屋自宅
東京到着し、早速三軒茶屋に置いてあった大君の楽譜を確認。明朝から練習とは俄かに信じ難く、悪い夢ではないかと訝しむ。息子が強弱を丁寧に色付けしてくれた楽譜に感謝しつつ、何とかしなければいけないと自戒を新たにしている。

6月某日 三軒茶屋自宅
リハーサル初日。想像通り、オーケストラはとても好く準備出来ていたから、思い切り彼らの胸を借りて全体の把握に努める。そうしながら、3日間の練習後の落としどころ、完成形の青写真を描く。
ロシアにて、ワグネルの傭兵による武装蜂起。ロシア軍の南部軍管区司令部制圧。プリゴジン、ロストフ・ナ・ドヌーの司令部にて国防省幹部と会談。モスクワに進軍と息巻いている。

6月某日   三軒茶屋自宅
演奏会終了。オーケストラの演奏者一人一人の気持ちが纏まっているから、演奏中に指揮者が何をする必要もなかった。
一柳、二重協奏曲の曲尾では、まるで歌舞伎役者がここぞと大見得を切っている姿が目に浮かぶ。ちょうど横尾忠則の「写楽」のように、丁寧になぞられた輪郭を、敢えて機軸をずらして並べた塩梅か。そこに思いがけなく生まれる新しい空間、それは悉くアンバランスに見えるのだけれど、同時に発生する複数の不均衡は、そこにある種の均衡を生みだす。それにより、全体はより別の次元に昇華しつつ、デフォルメし続けてゆく。
一柳さんが素材をここまで客体化できなければ、より身体に纏わりつく質感のキュビズム状になりそうだが、一柳作品の音は、もっとずっと乾いていて、うっすら諧謔性すら身に纏っているから、反アカデミズムという駒尺れた反骨精神ではなく、もっとずっと広い空間に解放された、明るい色調のポップアートの自由さ、寛容さを伴っていて、聴き手に捉え方を強制もしない。
だから、西洋と東洋の触感を対立構造に落とし込むことなく、ごく自然に共存、共鳴しあっているのである。
曲頭から終わりまで、音程操作が徹頭徹尾貫かれているが、その音符が置かれるフレーズ構造も音の強弱も、全て少しバランスをずらして定着してある姿に、横尾「摺れ摺れ草」の連作を思う。
金川さんには、一楽章終わりのmfを、敢えて強く、バランス悪く弾いてもらったし、ヴィブラフォンにはモーターを入れ、銅鑼も、記譜通り、悪趣味ぎりぎり手前まで大きめに叩いて頂いた。そうすることで、音楽はより艶やかで、鮮やかに発色し、本條君の三味線は、洋楽、邦楽の垣根をすっかり飛び越えた独自の存在に変化する。
なるほど、一柳さんが拙作を面白がって下さったのは、この辺り音符へのアプローチを通してではなかろうか。今回、特に音符の価値観に対して、明確に共感を覚えたからだ。今回池辺先生から、「杉山の曲は滅茶苦茶だが云いたいことはわかる」、と云われ喜んだが、それも音符との関係性に因るかも知れない。
いつも一柳さんが着ていらした糊のきいたシャツと、お好きだった卓球と、嬉々として子供のようにピアノの内部奏法に熱中する姿を思い出して、胸が熱くなる。

道山君の音は、誠に霊妙であった。神秘的な弱音であろうと、激する強音であろうと、彼は発音する空間を一切攪乱しない。音が生まれる真空状態の空間の壁に、一切力を加えず柔能制剛と切込みをいれ、瞬時に外圧に同化させる妙技。そして同時に、大君の音楽の真骨頂である歌心も、存分に愉しませてもらった。

ミロスラフは演奏後、「実演でしか起こり得ない奇跡の瞬間、音楽も何もかもを超越した何かが、演奏中、聴き手に押し寄せてきたよ」、と目を輝かせて話してくれた。
レオ・レオニの「スイミー」で、無数の小魚が巨大な魚の形を形作って泳ぐ姿は、ちょうど「スーパーオーガニズム」の描く世界に近い。あそこまで綿密に書き込まれた楽譜を、少しだけ遠くから眺め、こちらの躰の緊張を解けば、まるであの絵本のような温かい世界が眼前に広がるのである。そのギャップが面白い、ともいえる。

6月某日 三軒茶屋自宅
一週間ぶりにコーヒーを呑み、こんなにも美味だったかと感慨を覚える。先月帰国の折、最後まで酷い時差呆けに悩まされたので、今回は、まだミラノ滞在中の帰国2日前から、一切コーヒーは飲まず機内でも断り、東京でも一切口にしなかった。そのお陰か、今回は帰国翌朝からのリハーサルもこなすことが出来た。
無理にでも毎晩1時くらいに布団に入れば、1時間以内には眠り込む。時差呆け故、夜間一度は目が覚めるが、目を瞑り続けていれば、もう一度明け方頃短時間眠りに就ける。
睡眠導入剤を試すべきか悩んだが、普段口にしていない薬で頭の感覚が鈍化するなら、万事休す。リハーサルにならないと分かっていたので、賭けのつもりで、薬は一切摂らなかった。
夕刻、町田に夕食を食べにでかける。下北沢まで前傾姿勢で乗る自転車で出かけたのだが、姿勢を前に倒すと、先に骨折した肋骨あたりの筋肉が攣れて痛い。まだ暫くあの自転車には乗れそうもない。ラッシュアワーだったので、下北沢から町田まで、電車は酷い混み様であった。肋骨を折った人間にとって、満員電車に揺られるのは、額に脂汗が滲むほど恐ろしい体験となる。もっと早くに家を出て、各停に乗るべきであった。町田で食べた江の島産「サザエ壺焼き」は絶品で忘れがたし。

6月某日 三軒茶屋自宅
朝7時起床。浜田屋でパンを購い、高野さん宅で羽田に着いたばかりの家人と落ち合った。自宅で採れたブラックベリーと、自家製梅のジャムをヨーグルトに雑ぜていただくが、大変美味である。ブラックベリーの味は一様でなく、酸味の強いものからすっかり甘く熟したものまで様々で、それがまた良い。

6月某日 三軒茶屋自宅
早朝近くの寺まで散歩に出かけ、手を併せようと境内に入ったところ、住職と思しき男性からマスク着用を求められる。持参していなかったので仕方なく帰宅したものの、広い境内には住職と自分ともう一人、わずか3人居合わせただけであった。
新しく書いたヴァイオリン協奏曲の最後の辺り、何か遠い昔の記憶につながるものがあって、一体何かと考えこむ。
あれは小学校3年生終わり、逆にヴァイオリンを持ち替え、弾き始めたころではなかったか。午後の日差しは、日焼けしたカーテンを通して、レッスン室をセピア色に染め上げていて、功子先生は手本として、プニャーニ「前奏曲とアレグロ」冒頭の4分音符を弾いてみせてくださった。あの時の、勢いよく、情熱的に歌い上げる先生の音楽を、あれから40年近く経って、改めて思い返している。寧ろ、40年間もの間、身体の芯で沸々と声を上げ続けていた、先生の音に気付き、深く感動しているというべきだろうか。

(6月30日 三軒茶屋にて)

223 文(もじ)字

藤井貞和

文字のない世界、と
私が言うと、

亡友は怒りました。
文字を前提にして、

文字のない世界とは、
その言い方を許しません。

まだこの世に、
文字は生まれてなくて、と私が言うと、

ない文字が生まれると、
考えることはできないはずだと、

私にも怒りが感染(うつ)って、
文字はなくなりました。

ふわっと、あれは白い雲で、
なにもない世界です。

なにもない世界だと、
私の考えた企画を壊してなきものにした亡友よ、

まもなく私も行きます。
文字を知らないそちらへ

(六月はオンラインを含めて、「構造と動態」、「物語・語り物とテクスト」コメント、「地神盲僧の語り、伝承、記録」と、口頭発表を三本、いずれも口承=芸能関係で、「文字」というテーマに行き着くかな?)

翳りと「ことば」 

高橋悠治

ある時代、ある地域に生きるひとたちの考え方は、抽象的な論理だけではなく、なかば意識されない翳りを帯びている。読む本や聴く音楽、食べもの飲物の好みも、個人的な好みとだけ言えない共通点がなければ、おなじ時間おなじ場所で過ごすこともなく、それができる場所もなければ、ズームや電話だけのつきあいは、代用でしかない。それなのに、この3年間は、外に出て人と会うこともないのがあたりまえのようになり、それと同時に、国家の力が強くなった。グローバリズムはもう流行らない。いま考えるとそう言われていたものは、アメリカを中心とする世界を前提としたものでしかなかったのではないだろうか。言論の自由や民主主義と言われたものだって、アメリカ中心でなければなんだったのか。ジャーナリズムもいまでは、自由に考えることをさせないためのウソでなければ、ひとをうごかすことのできない「ことば」にすぎない。「ことば」にすぎないことばは、ことばと言えるだろうか。
日本で報道されることは、アメリカに監視されているのか、それとも日本の報道企業が
忖度し、管理しているのか。日本のできごとは、日本では報道されなくても、他国のニュースでわかる。いまのところ、外国の報道を読むことはできる。(いつまでか?)
しかし何か言えば、匿名の非難が返ってくる。日本では、戦前に亡命できたひとはすくなかった。いまは、もっときびしいだろう。アメリカやドイツでも、むつかしくなってきているようだ。スノウデンは亡命したまま、アサンジは投獄されたまま、ブラジルやメキシコに移ることさえできない。日本や韓国で言えることは限られている、というより、無力な「ことば」であるうちは、言うことが許されている。

ところで、音楽はことばではない。もちろんことばと結ばれた「うた」はあるけれど、いま「うたう」音楽はうつろにひびく。語る、つぶやく、ささやく音の、あるいは、音ではなく、音の消えかけた響きの、「余韻」といおうか、そのような音の影の喚び起こすなにか、余韻の時間、余韻の空間、そのなかでうごめく心、そこで…