しもた屋之噺(255)

杉山洋一

今月も殆ど何も書き留められぬまま、一ヶ月が経ってしまいました。庭の芝刈りすら未だ出来ていないのですが、その理由はまた後日書くことにします。来月末にはさすがに芝刈りも終わっているでしょう。3年前、各地の紛争を調べながら「自画像」を書いていて、これから先、平和が続くよう、祈りながら様々な国歌をパッチワークしていました。しかし、ウクライナもスーダンも、アフガニスタンもシリアもイエメンもあの頃のまま紛争が続いているか、寧ろ状況はずっと悪化しているのを見るにつけ、その裏に無数の市民の命が吊り下がっていることを思い、ただ言葉を失うばかりです。

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4月某日 ミラノ自宅
フランチェスコ・シカーリに、ダンテ「新生」による小さな歌曲を送る。ダンテ協会のプロジェクトの一環で、3月に入籍したマリア・エレオノーラとアルフォンソの結婚祝いにかこつけて書いた。「Si lungiamente m’ha tenuto Amore (永きにわたり、わたしを繋ぎとめていた情愛について)」は、失ったベアトリーチェへの愛を謳う悲劇的なテキストでもあるけれど、その昇華した愛は無限な別世界を啓いていて、どこまでも清澄な姿にわたしたちは深く心を動かされる。自分にあてがわれたこのソネットが結婚祝に見合うか当初は逡巡したが、純化された愛情の表現をそのまま受け容れることにして、彼らへの小さなオマージュとなった。
息抜きに小さな歌曲を書くのは楽しい。ちょうど1年前、アルフォンソがリストによる「山への別れ」を弾き、そこでマリア・エレオノーラが譜めくりしていたのを思い出し、この小歌曲にもリストを忍び込ませた。

4月某日 ミラノ自宅
心を動かす音楽かどうかが、作品の価値基準となり得るか否かについて、ふと考える。直截に心に訴える作品は危険であるか。主観を厳密に排除し、作品意義、技術を客観的に判断することでより公平な判断が可能だとすれば、早晩、さまざまな芸術作品コンクールは人工知能に任せられるようになるかもしれない。
先の世界大戦中、大衆煽動に際し幅広く音楽が利用された事実は、際限なく顧みられるなかで、その後の現代音楽の方向付けに大きな影響を与えた。
誰にでも理解し易い傾向は、寧ろ危険とさえ認識されることすらあった。テレジン収容所のオーケストラや、フルトヴェングラーのワーグナーや第9など、演奏者の本意とは別に音楽を利用した反省から、新音楽たるは危険な主観を排し、技術的、論理的、倫理的に音楽を展開させることから、音楽の未来を託そうともした。あれから80年を経て、我々は何を考えているのか。
ミラノのサンマルコ教会で、エマヌエラの弾く「世の終りのための四重奏」を聴いた。壮麗な教会でメシアンを聴くと、演奏会場とは全く違った宗教儀礼に近い体験になる。闇を映す天窓から音が降り注ぎ、鈍く輝き、ゆらめく燭台の焔の向こうで、音は独特の陰影を湛える。
メシアンがゲルリッツ収容所で作曲し、収容されていたユダヤ人音楽家たちが初演したと説明すると、「きっと彼らには、特別な”役”が与えられていたのだろうな」と息子が言った。「でなければ、疾うに皆殺しにされていたでしょう」。
今日は夕方家族で連れ立って自転車で出かけ、演奏会前、慌てて教会裏のピザ屋で腹ごしらえをする。素朴なピザで美味であった。フィンランド北大西洋条約機構加盟完了。

4月某日 ミラノ自宅
最近、息子が学校の音楽史の授業でやっているグレゴリア聖歌史について、しばしば質問を受けるようになった。尤も、無学が祟って満足な答えもままならず、息子を落胆させるばかりである。
折角なので、今年は息子と一緒にヴァチカンで執り行われる復活祭ミサのテレビ中継を見た。国営放送では、何度となくウクライナ侵攻について言及がなされ、今年はロシア正教会やウクライナ正教会も何度か話題にのぼっていた。文字通り、今年は戦争と平和を象徴する復活祭であった。
それまで眠そうにテレビを見ていた息子が、あっと声を上げて思わず色めき立ったのは、合唱隊がグローリアを歌いだしたときだ。それは彼が一昨年に受けていた音楽院の合唱の遠隔授業で、毎週ずっとコンピュータに向かって声を張り上げていた、あの聖歌である。
息子の部屋から、一年中毎週決まった時間に同じ旋律を繰返し歌っているのが聴こえていて、covidの影を曳きずるそこはかとなく悲哀を湛える聖歌が、賑々しく絢爛豪華なヴァチカンから壮麗に流れてくるのは、何とも不思議な心地を呼び覚ます。

4月某日 ミラノ自宅
レッスンに来たトンマーゾは、才能あふれるコントラバス奏者だが、普段からオーケストラで弾いているからか、演奏者に気を遣いすぎて、素の自分を曝け出すのを躊躇う傾向がある。尤も、誰でも自分の身体の裡にある音楽を外に掻きだすのは容易なことではない。自分の前面に音符を投影し、その各音符に焦点を合わせながら振って貰うと随分違うが、なにか肝心なものが音楽に届いていない気がする。
試しに眼前ぎりぎりまで音符を近づけ、網目の向こうに見える風景に焦点を合わせてもらう。そうして符尾の網目の向こうに流れる、陽光に耀く心地よい小川のせせらぎを追うようにして音楽を奏でてみる。眼で追うと言うと何か少し違う気がするが、その流れを注視しつつ、流体の触感を共有する感覚だろうか。するとどうだろう、音楽はそれまでくすぶっていた彼の身体から抜けてゆき、恰も演奏者の懐へそのまま飛んでゆくようで、思わず驚いた。
馬齢を重ね、音楽が増々わからないと感じることがある。自分で分かる気がするのは、何も理解できていないことのみ。
久しぶりに浦部君と再会。元気そうで嬉しい。少し逞しくなったように見える。
復活祭でカラブリアの実家に戻っていたガブリエレは、実家で採れたオリーブ油を一斗缶に詰めて持ってきてくれた。早速夕食は庭で摘んだセージを千切り、パルメザンチーズを削ってパスタに載せ、採れたてのオリーブ油を存分にかけて頂く。至福の味である。

4月某日 ミラノ自宅
2年ほどの大工事を経て、この年始、二軒先に立派なマンションが完成した。ちょうどその玄関先に、高さ15メートルは下らない立派なケヤキが生えていて、往来の人々の目を楽しませていた。
流石に誰もがこのケヤキを切ることはなかろうと思っていると、ある朝造園業者の一団が、道路を通行止めにして上枝から順番に電動のこぎりで掃い始めた。そうして午後には、直径1メートル半ほどの切り株だけ残して、見事に全て切り倒してしまったので、近所の人々はみな呆気に取られた。
それから4カ月ほど経って春が到来し、そのケヤキの切り株の後ろから、思いがけず新緑が元気よく芽吹いているのを見たときは心が躍った。
朝の散歩の帰り道、家人とまじまじとその新芽を愛でていると、同じマンションに住む紳士が通りかかった。
「あんなに立派な樹だったのに、なんて罰当たりなことをしたもんだろうね」。「でも見てください、この新芽、こんなに元気ですよ。感激しますよ。ほら、凄いでしょう」。
「おお、そうだな。でも前の姿に戻るまで20年は下らんよ。それまでは流石にこちらが持たんだろうな」。
一瞥すると軽く溜息をつき、足早に我々のマンションに姿を消した。
息子は、先日フィレンツェでカニーノ先生のレッスンを受けたヤナーチェクのヴァイオリンソナタを練習している。カニーノさん曰く、冒頭の音型を彼は少し引掻ける塩梅で弾くそうだ。確かに少し角ばったような音像があると、燃え立つようで野趣も増し、ヤナーチェクの民族色も浮き彫りになる。そこにはイタリア的な読譜観が絶妙に共存していて、感嘆した。
無駄のない素晴らしい作曲家なのは言うまでもないが、観念に凭れぬ合理性がイタリア人の音楽観と多くを共有するのか、ヤナーチェクを絶賛するイタリア人音楽家はとても多い。
日本政府の有識者会議より、技能実習生制度廃止への提言発表。

4月某日 ミラノ自宅
運河の向こうに佇む「夢想者」食堂では、毎朝息子が気に入っているシチリア風甘食パンを焼いている。今朝あわててそれを買いに出かけた折、誤って強たか胸を打った。
その瞬間脳裏に甦ったのは、小学生の頃、父と連立って金沢八景に釣りに行き、何某かを堤防から海に落としてしまい、それを父が身を乗り出して拾ってくれたときのこと。その瞬間、彼はドーンという、鈍い、大きな音とともに、鉄柱に胸を打ってしまった。普段痛みに強い筈の父が、やっとの思いで起き上がると辛そうに酷く顔を歪めていて、暫く言葉すら出せなかった。
あの時、子供心ながらただ申し訳ない思いだけが残り、恐らくしっかり謝ることさえできなかったのではないか。何が起きたのか、よく分からなかったが、自分が胸を打った瞬間、ああこれだと独り言ちて、あの甘酸っぱい自責の念が、まざまざと蘇った。理解できなかったのではなく、子供ながら無意識に理解そのものを躊躇っていたのかもしれない。家族というのは、不思議な繋がりだとおもう。
ヘルソンにてレプーブリカ紙特派員コッラード・ズニーノとウクライナ人ガイド、ボグラン・ビティクがロシア狙撃兵の攻撃を受け、ビティクは死亡。スーダンより退避の邦人、自衛隊機で帰国。外国為替相場、対ユーロで円安が進んで14年ぶりに150円台に下落。

(4月30日ミラノにて)

どうよう(2023.05)

小沼純一

きょうからむしたちがなきはじめた
きのうとなにがちがうんだろう
ないてるのはすこしいた
ちがうんだずっとずっとおおいんだ
ずっとずっといろいろだ
ひはみじかくなってきてる
ひとがわかるのはそれくらい
すこしすずしかったかもしれない
あめもふったかもしれない
あついのはあまりかわらない
かわらないみたいにおもえるのに
むしたちはわかるんだきづくんだ
いっせいに

かんじることいっぱい
おもうこといっぱい
いろんなとこがうずまいて
おさえるだけでせいいっぱい
ぐっとのみこみのみこんで
かたちだけでもそれなりに
けんえついっぱい
うそもほうべん

くちにしなけりゃ
おなかいっぱい
やりすごすのはできても
いっぱいどこかにあながあく
いちょうのけんさは
このきずあとをかぞえるため
ほんと 
うそ
ほんともうそもそもって
ついくちさきで

よくいきてるっておもうよね

まだ
まだなの

なにもいってないよ
だれかがいってる
じぶんでいってる

じぶんがいちばんいやになる
することない
むりできない
することあってもできやしない

まだ
まだなの

いつ
いつまで
きになっても
こればっかりは

いってるじゃない
じぶんで
だれかじゃないよ

まだ
まだなの

よくいきてるっておもうでしょ

やりたいことしかしたくない
やりたくないことしたくない
やりたいことなどなにもない
やりたいことなどあるものか
やりかたばかりこきように
やりたいほうだい
やりがいなんてかいしらない
したくないことしたくない
したくないからなにもしない
したくしないとなにもしない

こちらにそのきはなかろうと
からだはかってにいきをして
なにかをみみはきいている
なにもしたくはないからに

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
ちずでさがしてしゃしんみて
よるにはまちをゆめにみる
はんとう いったことないとこばかり
せかいのほとんどそうだけど

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
しろくまさんではないけれど
ひぐまさんたちそばにすむ
たがいにいるなとおもってる
ひととひぐまのしれとこしゃりまち

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
うみにつきだすもりとまち
ひととくまさんしゃけをわけ
やさいとくだもの かわるいろ
いまかさきかとまっている 

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
地図で探して写真みて
夜には町を夢にみる
半島に行ったことはないけれど
世界のほとんどだっておんなじ

ゆうべ見た夢 02

浅生ハルミン

 恐ろしいものに追いかけられて、足裏は、あるようなないような地面を蹴ってはいるが、空回りして少しも前に進めない、という夢にたびたび遭遇しますが、ゆうべはその正反対の夢を見ました。夢の中で私はてきぱきとした、現実とは違う人柄になっていました。夢の中ではなぜ輝かしい人になれるのだろうか。そして眠りにつく前に、「素晴らしい夢を見たら、憶えているうちにメモしよう」などとけちな算段をする私は、眠れば明日も、今朝と同じように目が覚めると信じ切っているんだ、そう思いながら夜毎、寝室の明かりをぱちんと消しています。

   ✳︎

 中くらいの長さの夢を見た──夢の中で私は自分の部屋らしきアパートの一室に、仙台からやって来た友人Mさんと一緒にいるようだった。Mさんは叩きつけるような激しい雨の中を、銀色のリモワのスーツケースを転がして、たった今私の部屋に到着したようだった。窓の向こうは、雨ごしに団地のような、大型マンションのような、玄関ドアの集合体が見える。黄色いドアが多かった。雨は激しさを増し、その雨粒がものすごく大きい。おしゃれなしずく型の室内加湿器ってあるでしょう、あれくらいのサイズの雨粒がどんどん降ってくるのにもかかわらず、それを私とMさんは異常なことだと思っていないようだった。Mさんは窓を全開にして「こんなに降るなんてね」と空を見上げた。
 窓からアパートの前の道路を見下ろすと、急いで歩く人や、走り抜ける自動車。空中にはリャマに似た薄茶色の哺乳類が浮かんでいた。その哺乳類は一度もまばたきをせずに目を見開いたまま、ゆっくりと沈んだり、また浮上したり、見ていると気持ちがよくなる上下運動を繰り返している。
 雨の空中で、溺れそうになっている白鳥が私の目の前を通過していく。だめ!ここに着岸して部屋に転がり込みなさい、さあ早く。私は両腕を伸ばして、トングのように挟んだり、フォークリフトのように掬い上げたりした。ほわほわした羽根にくるまれた生温かさが徐々に近くなってきて、命からがらに窓の高さまで浮上したところをどさっと抱きかかえると、白鳥は見る間に大きな白い犬になり、床に放すとたちまち三毛猫になって元気に駆け回った。
 三毛猫は赤い首輪をしていた。内側のスリットに、猫ワクチンを接種した年月日と動物病院の名を記した紙片が仕舞われていることに気づいた。なるほど、これなら迷子になっても帰れるもんね。でも肝心の飼い主の連絡先は書かれていなかった。「このまま飼ってしまうとか?」とMさんがささやいた。
 知らぬ間に、お団子ヘアの女性とその弟子らしき人物が部屋に入ってきた。顔を見る前から、ああ怒られる、と肝を冷やした。この部屋は動物の飼育が禁止されているのだった。しかし空中で溺れている元・白鳥で現・猫が目の前にいたら、誰だって中に入れるでしょう、というもっともな理由と訴えを私は持っているのだった。お団子ヘアの女性に、白鳥から犬、そして猫になった経緯を説明した。夢の中で私は勇敢で、複雑な事情をすらすらと説明できる理知的な人になっていた。そして白鳥を抱え上げたとき、眠りの外の世界でも同じ手の形をしていたらしく、目を覚ましたとき、両腕の肘から先が寝床から少し浮き上がった格好のまま、掛け布団を持ち上げていた。

言葉と本が行ったり来たり(16)『音楽は自由にする』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 やってしまいました。自分でもいつかやるんじゃないかと思い、気をつけていたのにとうとう。
 いつものようにその夜もiPad miniを手にベッドに入り、Kindleアプリで本を読むつもりだったのです。新聞やSNSに目を通す日もあるけれど、その時間に私がするのは大抵読書。それが日々の楽しみだから。なのにふらふらっとウェブサイト記事を読み始め、その記事のリンクからAmazonに飛んで、そうするとおすすめの新刊などが表示されますから、それを眺めて、へー、今月の『芸術新潮』は坂本龍一特集なのか、『芸術新潮』って特集によっては即完売、入手困難になるよね、この号もそうなるのかなぁ・・・っていうか、え?芸新だけじゃない、この雑誌もこの雑誌も追悼坂本龍一特集、おまけに自伝も緊急(?)文庫化された、と・・・そうか・・・みんな教授が大好きなのね・・・私は・・・好きでも・・・嫌いでも・・・ない・・・けど・・・。この辺りでウトウトし始めて、きっと疲れていたのでしょう、気づくと朝。そして私のアドレスには、今月号の『芸術新潮』と文庫化されたという坂本龍一氏の自伝の注文確認メールが。え、どうして⁈ 私、ファンじゃないのに! 喉まで出かかったけれど、誰のせいでもない、私が悪い。ここまで簡単にネットショッピングできる時代になって、そのうち寝ぼけて注文なんてこともしかねない、普段からお財布の紐が緩い私だし、怖い怖い――そこまで予測していたのに。キャンセルすることも考えたけれど、既に発送作業に入っている様子。迅速すぎるのが恨めしい。仕方がない、己の行動には責任を持とう。覚悟を決め、届いた本『音楽は自由にする』のページを開くと、帯には「自らの言葉で克明に綴った本格的自伝」とあるものの、自叙伝ではなく、人生を振り返るインタビューを自伝風にまとめたものでした。

 ボリュームはそれほどでもなく、一日で読み終えたのですが、これが意外と面白くて。というのも、坂本龍一さんとは仕事の事務的なメールを数回やりとりしたことはありますが、直接お会いしたことはなく、先に書いた通り、彼の音楽は知っているけれど、私生活には興味がなかったので(音楽家に対しても作家に対しても、私の興味が向かうのは作品だけで、ほとんど人柄に向かわないので)、だから、よく知らないひと、自分に無関係のひとの身の上話を聞いているようで、それが新鮮だったのです。バーでたまたま隣に居合わせた人が生い立ちを語り出したから、これも何かの縁と思い、最後まで聞いてみた、みたいな感じ。
 他人の人生を一方的に知るって何だか変な気分です。聞いたところで影響を受けるわけでもない。でも、その距離感を以って聞く他人の人生は面白い。へー、とか、ほう、とか、心の中で感嘆しながら、世の中にはいろいろなひとがいるなあ、と思う。それ以上でもそれ以下でもない。ただ聞く、ただ知るだけの行為。それで終わるそれだけの行為。私はそれがわりと好きなのだと思います。逆に、文章に限らず、例えば映画でも、時々、登場人物に自分を強引に結びつけて没入し、号泣したり怒り狂ったりするひとがいるけれど、私はそういうのは苦手です。

 そしてふと思ったのですが、私が、ひとごとの距離感で聞く/知るという行為に面白さを感じる人間ならば、分厚さにたじろいで部屋の隅に積んだままにしているピエール・ブルデューの『世界の悲惨』も、案外するすると読めるのかもしれない(読む気が起きた)。友人が、岸政彦さんが編んだ、これまた鈍器並みに分厚い本『東京の生活史』を面白いと言っていたけど、それもひとごとの距離感で聞く/知る言葉としてなら読み通せるかもしれない(読む気が起きた)。

 話を戻すと、坂本龍一さんの本は東京の文化史のようにも読めました。入れ替わり立ち替わり登場するのが、三善晃、武満徹、大島渚、フェリックス・ガタリ、ベルナルド・ベルトリッチなどなど錚々たる顔ぶれで(この本にはものすごい数の人名が出てくる)、語りの中にそれをひけらかす感じは全くなかったけれど、とてもキラキラした物語になっています(10歳の頃に高橋悠治さんの公演を聴きに行ったという話も出てきます)。まあ、これは編集者がそういうエピソードを多く拾ったのかもしれませんが。ともあれ、政治家や財界人は別として、日本の文化人でここまでセレブリティであることを感じさせる自伝を出せるひとってそんなに多くない、と気づいたり。“世界のクロサワ”の評伝などは、どれももっと泥臭いですからね。

 今日は四月最後の日。お返事を待たずに書いてみました。「行ったり来たり」ではなく、「行ったり行ったり来たり」になるのも良いかな、と思いまして。
 それでは、また。今月こそはお会いしたいです。マスクを外して。

2023年4月30日 長谷部千彩

公演『幻視 in 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(2)

冨岡三智

第2部のスリンピ公演では、舞踊の展開に沿って照明をつけた。私が宮廷舞踊に照明をつけたのは、①2007年に中部ジャワ州立芸術センターで宮廷舞踊「ブドヨ・パンクル」完全版の公演をした時が初めてで、その次が②2012年に豪華客船ぱしふぃっく・びいなす号の「西オーストラリア・アジア楽園クルーズ」で「スリンピ・スカルセ」を上演した時(録音使用)、さらに③2017年に能舞台で宮廷舞踊「スリンピ・アングリルムンドゥン」の前半を単独舞踊にアレンジして踊った時(日本アートマネジメント学会第19回全国大会<奈良>関連企画)、そして、④2021年の公演『幻視 in 堺 ~能舞台に舞うジャワの夢~』で「スリンピ・ロボン」を上演した時である。また、⑤宮廷舞踊ではないけれど、自作の「陰陽」を2019年に能舞台で上演した時も、宮廷舞踊と同じコンセプトで照明をつけた。これらの照明プランは全部自分で考えている。

ジャワ宮廷舞踊で一番重要なのは、振付(動きとフォーメーション)が音楽形式と連関し、音楽の展開に沿って振付が変化していく点だと私は考えている。ジャワのガムラン音楽では曲の変わり目にテンポが速くなって、新しい局面(曲)に突入するのだが、一般の観客にとってはテンポが変化したかどうかすら分かりづらい。あるいは、舞踊の後半では2組の踊り手の間でそれぞれ戦い(ピストルを撃つ)が起こり、負けた方が座る。そのピストルを撃つまでの緊張感の高まりも分かりづらい(実はこの曲は似たような動きが多いので、演奏者にも分かりづらい)。このような変化を視覚的に分かりやすくするために照明をつけるというのが私の基本的な考えである。だから、生演奏で公演する時にはガムラン音楽が分かる人が照明を担当するか、あるいは照明担当者に指図する必要が出てくる。というわけで、③④⑤では元ガムラン演奏家でもある人に舞台監督兼照明指示係をお願いしている。②のクルーズ船での公演では録音を使用したので、秒単位で進行表を作成して指示出しをすることができたが、やはり生演奏ではそれは難しい。

ジャワで2007年に初めて照明をつけた時、実は賛否両論だった。日本では能や日舞といった伝統舞踊では地明かりにするのが普通なように、ジャワでも伝統舞踊にはフラットな地明かりというのが一般的で、照明をつけるなんて古典を冒涜していると批判した人もいたくらいだった。とはいえ照明は無色のみで、赤だの青だのは使っていないのだが…。日本でも同じことを言われるかもしれないという危惧はあったが、アンケート結果ではその批判は皆無だった。しかし、これが能の公演であれば言われる可能性はあるように思う。その差が興味深いが、日本人にとってジャワ舞踊は自分たちの伝統舞踊ではないということなのかもしれない。

上で、ピストルを撃つと書いたけれど、実際にピストルを手にするわけではなく(実際に持つ場合もある)、サンプール(ウェストに巻いて前に垂らした長いショールのような布)を手にすることでそのことを象徴的に表す。そして、戦いののち負けた方が座ると、立っている人だけを照らすようにする。もっとも、立っている人は座っている人の方に近づいていって周囲を廻るので、その時は座っている人も照らされることになる。たぶん、舞台照明なんてものがなかった時代、踊り手の一部が座るということは、その人たちは映像の画面から外れるようなものだったと思うのだ。舞踊が作られた当時に照明器具があったら、きっと、宮廷舞踊家は振付と音楽の展開だけでなく、照明の展開も一致するような作品を作り上げたに違いないと私は思っている。そして、それはきっとこんなものだったろうというものを、私は創造的に再現している。

『アフリカ』を続けて(23)

下窪俊哉

(戸田昌子さんによる前説)
 ここに『音を聴くひと』という本があって、下窪さんがやっているアフリカキカクというところから出ている本です。これは下窪さん自身の短篇集なんですね。私がTwitterで一度、下窪さんのブログを紹介したというか、ふっと見にいって、さーっと読んで、その読後感に特別な感じがあったので、へえ面白い! と思ってパッと書いたツイートがあったんです。それを下窪さんが見て、喜んでくださって、そのコメントをこの本の中で使ってもいいですか? どうぞどうぞ、となって、そのコメントも載っている。この本の中から、「そば屋」っていうのを朗読してみようと思います。

 私は小学生の頃、長いこといじめられっ子で、学校で誰とも喋らない毎日だったんですね。でも国語の授業で音読の順番が回ってくる、じつはそれをすごく楽しみにしていて、声を出したいと思っていた。読むということが好きだったし、読み終わる時に教室がしーんとしているということが度々あったんです。あとは高校生の頃に演劇部にいて、声がいいって言われていたというのもあって。朗読は好きなので、これから趣味でやってゆこうと思ってるんです。
 この「そば屋」は、じつは朗読するのが難しい。下窪さんはテンポが一定の文章を書く人だと思っているんですね。コンスタントに長く書いている人で、文章にもその感じというのが、とてもよく出ています。こういうテンポ感が安定して、ずーっと続いていく文章って、あるようでないっていうか、それが独特の読後感を生んでいるという感じがします。そういう文章なのに、ちょっとトリックがあるんですよね。そこをわざとらしくなく読もうと思うと、難しいんです。

(「ほとぼり通信」より、戸田昌子さんとの対話)
 じつは今日が初対面なんですよね。下窪さんと呼べばよいか、道草さんがいいか。
 どうもはじめまして。
 でもそんな気がしないですね。Twitterではかなり前からの知り合いなので。
 2018年か、それくらいからですよね。
 でもその前に、岡村展(「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」2014年、東京都写真美術館)には来てくれていたんですよね。岡村のことは、それ以前から知ってました?
 あの時に初めて知ったんじゃないかなあ。
 たぶんそういう人が多かったと思うんですね。
 何というか、目を逸らしたくなるような場面がたくさん写っているんだけど、なぜか見入っちゃうというか、くり返しその前に立ちたくなる写真が多かった。よく覚えてます。
 学芸員の方に「こんなに静かな会場って他の展示ではあまりないのよ」って。
 でも戸田さんの名前は、見たと思うけど、覚えてはいなかったですね。あの時の(実質的な)キュレーターだったんだと知ったのは、Twitterでお見かけするようになってしばらくしてからでした。その後、2019年の夏のある日、ご注文いただいたんですよね、『アフリカ』のキャベツの断面が表紙になった号で。
 私は岡村にかんする『シャッター以前』というミニコミをやってもいるし、そういう媒体への関心はすごくあるんですね。『アフリカ』っていう謎な名前だし、道草さんでしょ? 何か書いてあるらしいから、私にもちょっと見せろって思って。読ませてもらったんですけど、たぶんその時には何も言ってない。読んで、満足しちゃったというか。そのときの印象はあまり言葉にならなくて。
 そうですね、感想をいただいたりはしなかった。
 今回の号は、一番最初の方の文章がすごくよかった。こういったものを読むことは私の日常生活の中にはあまりないわけですよ。学術的なものを、すごい勢いで読みこなさなければならないといったものが殆どだし、情報収集という感じがあるから。これは、すごくテンポ感がいいんですよ、ちゃんと歩いている速さで歩いてる、それが私にとっては新鮮なんですね。なつめさんという方の「ペンネームが決まる」っていう文章なんですけど、書き始めたばかりの方?
 どこかに発表するというのは初めてのはずです。なつめさんのような、文芸作品を書こうとは思ってないような人がふらっと入ってくる場所なんです。
 へえ、そこが面白いんですよね。しかもその方の文章がなぜか一番最初に載っているというのが、『アフリカ』っぽいなと思ったんです。それを読んでね、俗っぽい言い方になるんだけど、癒やされたというか、これが生活のペースだよな、と思ってホッとした。
 今回の『アフリカ』で言えば、神田由布子さんも、翻訳者としての仕事はけっこうあるようですけど、詩を発表するのは初めてだそうです。
 詩といえば、詩とはなんぞやってことを考え始めているんですけど、私も10歳くらいの頃から詩は書いているんですね。岡真史っていう人がいるでしょう、『ぼくは12歳』という詩集があるんだけど、その年齢で自死した後に出された本なんですね。亡くなる少し前に両親の前で暗唱したという「便所掃除」という(濱口國雄さんの)詩なんですけど、「便所を美しくする娘は/美しい子供をうむ といった母を思い出します/僕は男です/美しい妻に会えるかも知れません」というのがあって。それを読んだ時に、私も詩を書いていいんだ? って思ったんですね。それで書き始めたっていうのがあって。ただ、それが詩なのかどうかっていうのは、わからないものだなって、ずっと思っていて。
 詩とは、書いてもいいもの、だけど、詩かどうかわからないもの?
 わからないんです。でも写真と似てるんです。
 えっ? そうですか。
 写真って、みんな撮るでしょう。それが作品っていうか、つまり人に見せていい写真なのかというのはわからない。結局自分が写真をやれてるかどうかっていう不安を抱くようなんですね。
 詩をやれているか、っていうことですね。
 わからないんですよ。私なんかは自分が満足できればいいと思っているし、別に発表してもいいけど、詩集をつくる気はないわけです。でも、こういう(『アフリカ』のような)場所に出すのはいいんです。学生の頃に文集をつくろうって言ってやっていたのと同じ感じで。
 あー、私も自分の本をつくるということには、ハードルを感じてましたね。あまりやる気がなかったというか。だから『音を聴くひと』も読みたいという人がいたからつくったのであって、自分の中で盛り上がるものは、そんなになかった。
 それまで書きためてきた短篇を、集めたものなんですよね。
 雑記もけっこう入ってますけどね。この中から今日、「そば屋」を朗読しようと思ったのは、なぜですか?
 このあまりにも短い、瞬時に終わるような感じに、びっくりしたんです。極小の短篇というか、あんまりないと思う。ちょっとした風景の描写のようにも見えながら、でも、そうじゃないか。これが架空の話なのか、実際にあった話なのかも曖昧だし、それは他のものにかんしてもあって、リアルな話なんだろうけどちょっと妄想なんじゃないかという部分がある。
 25年前に書いたものなんですね、19歳の自分には、これが精一杯だったんです。
 生まれてきたものという感じがしますよね。たぶん、これなんだな、っていう。
 原稿用紙にして2枚半くらいなんですけど、これだけ書くのに必死だった時代があるんですね、フレッシュでしょう?
 いまは毎日書いているのにね。でも私にはそんなフレッシュな時代一度もなかったな。だって小学校入って、原稿用紙もらって3枚書いて、もっと欲しいって言ったらごめんね3枚以上あげられないからって先生に言われた記憶があるもの。
 とにかく他の人みたいに書けないんですよ。でも周囲の人たちから言わせると、どうしてそんなふうに自由に書けるんだ? っていうことだったみたいで。
 これを読むとそう思いますよね。
「そば屋」はたぶん夢を書いたんじゃないかと思ってますけど、忘れちゃいましたね。現実じゃないことは確かです。
 そうなんだ? 私は「音のコレクション」っていう短篇にもすごく興味あるんですけど、人の収集した音を聴くっていう面白いことをやっている。
 そういう、小説の仕掛けですね。
 えー! 小説ですか? ちょっとショックを受けている私。『音を聴くひと』の中に収録されているんですけど。
 旅に、カメラではなくレコーダーを持って行くっていう人たちへの関心はもちろんありますよ。
 小説だったんだ。ドキュメンタリー的に読んでいた。この本は、私は8割方ドキュメンタリーだと思って読んでる。本当っぽく感じられるんだもの。
 これは失踪した友人の話ですね。フィクションですけど。
 その人が残した録音ディスクが山のようにあって、それをどうしようかっていうことで、この「彼」が聴くんですよね。私は仕事柄、亡くなった人の作品を大量に見せてもらいに行くっていうのが多いんです。誰かが残したもの、作品だけじゃなくて、手紙みたいなものもあったりするし、何かよくわからない、とにかく残してあるものがあって、そうか、「音」に執着する人っていうのもあるかもしれない。それって再生してみないと聴こえないわけです。だからね、再生して聴かなきゃいけないっていうのが、大変というかね、音は聴かなきゃ聴こえないんですよね、ということにふと気づいて。ちょっと朗読にも似てるんですけど、音として再生した途端に理解が全く違ってくる。目で追っているのとは、ひっかかってくるものが違うし。朗読って歌と近いというか、自分が楽器のようなものとしてあって、声を出すためにの楽譜のように考えているのかな。(ふだん本を読む時は、私は)5行くらい一遍に読むんですよ。スキャンしていくみたいに。でも音にするというのは、そのところを音にしていくということなので、テキストの使い方が全く違う。
 声に出して読むことは、意識しているんですね。戸田さんの朗読は、私にはとてもいいんです。2020年だったか、サン=テグジュペリの『夜間飛行』を読まれましたよね、あの頃からずっと聴いている。何がいいんだろう? と考えてみたら、やっぱりテンポ感かなあ。朗読がいいなあと思う人はじつはそんなに多くないんです。速すぎると感じたり、わざとらしさを感じたりして。でも戸田さんの読み方はスッと入ってきますね。
 小学生の頃に初めて自分でカセットテープに朗読を録音して、聴いたんですね、そういう学校の宿題があって。その時、(はじめて聴いた自分の声が)細くて高い声で、この人死んじゃうんじゃないか? と思ってびっくりして。
 それが自分の声なんですね。自分の声をわかって、自分の声で読んでいるからいいんですよ。「音のコレクション」を朗読したら、どうなるかなあ。元々は『アフリカ』の最初の号に載っている作品なんですけど。
 あー! これ? 素敵! いまの『アフリカ』はね、プロっぽいんですよ。えーとね、私の気持ちとしてはちょっと上手すぎるっていうか、でも、もちろん綺麗だから好きなんですけど、この微妙な感じがいいじゃないですか。この表紙の上の方にグラデーションが入っている、仄かなダサさ。でも1号ってこうありたいですよね。
 そうですか?
 いや、だって、1号から上手かったら、お前なに狙ってんの? ってなるでしょう?
 たしかに、そうかも?
 そういえばどうして今日、呼んだのかというと、理由のひとつには、私もそこに書きたいという気持ちがあるんですよ。
 えっ、それは嬉しい、いつでも書いてください。この話の流れは予想してませんでしたね。
 そう思っている人は他にもいると思う。でも自分からそれを伝えにゆくのは恥ずかしいというか。
 私は戸田さんも何か、ミニコミ的な何かを始めようとされているのかなあと予想して来たんです。
 それもね、じつはあります。
 たのしみですね。

バオバブの種

福島亮

 セネガルに行っていた友人が、はいこれ、といってそれを手渡してくれた。バオバブの種である。友人がセネガルに行くと知って、私がねだったのだ。それは思っていたよりもずっと小さく、豆まき用の煎り大豆を焦茶色にしたような見た目だった。こんな粒が巨木の種だなんて、なんだか嘘みたいだ。友人によると、セネガルではバオバブの実をジュースにするという。この小さく、硬く、黒っぽい種子を、どんな果肉が包んでいるのかと思い、きっと比較的乾燥した地域の植物だろうから、サボテンの実がそうであるように、水分をいっぱい含んだ果実に違いないと、まだ見ぬバオバブの実を想像した。そういえば、ウチワサボテンの実も赤や黄色のみずみずしい果肉の中に黒胡椒のような硬い粒が無数に入っていた。きっと、バオバブもそうに違いない。

 しばらくしてから、その友人とパリにあるセネガル物品店に行った。4畳あるかないかの小さな店内に入ると、一方の壁際に薬草や乾燥した木の根が所狭しと積まれており、他方の壁際には石鹸やスパイスがやはりみっちりと並んでいた。友人は、店員と何やらウォロフ語まじりのフランス語で会話し、見慣れぬ黒い粉を購入した。あとでそれが「カフェ・トゥーバ」という香辛料入りのコーヒーであることを知った。私はといえば、探していたのはただ一つ、バオバブの実である。名前のわからない乾燥植物が積まれたあたりをいくら探しても、想像しているみずみずしい果実は見つからない。そこで私たちの方を訝しそうに見ていた(おそらくセネガル人の)老人にバオバブの実はあるかと尋ねると、これだ、という。老人の指先にあったのは、ポリ袋に詰められた何やら白く粉っぽい物体、見ようによってはちびたチョークのように見える何かだった。これが、と思いつつ、とりあえず一袋買った。3ユーロくらいだった。

 帰宅し、袋を開けてみると、それはやはりちびたチョークにしか見えない何かであるのだが、友人によると、これこそがバオバブの実なのだという。カカオの実のような殻の中に、この粉っぽい果肉を纏った種がいっぱい詰まっているのだそうだ。なるほど、よく見ると、例の焦茶色の種子の周りに落雁のようなものがこびりついているのがわかる。口に入れると甘酸っぱく、おそらく同じ棚に詰め込まれていた石鹸の匂いが移ったのだろうが、香水のような不思議な匂いがした。この粉状のものを水に溶かしてドロドロにしたものがバオバブジュースなのだという。袋の中には50粒ほどの種子が、果肉の繊維と思われる筋のようなものと一緒に入っていた。こうして今、私の手もとでバオバブの種子は蒔かれるのを待っている。

 バオバブの種子は硬い殻を持っており、動物に食されその体内をくぐり抜けても、びくともしないどころか、むしろ消化液に浸される刺激を経験しないとうまく発芽しないのだという。実際、バオバブの種の蒔き方を調べてみると、熱湯に24時間浸せだの、濃硫酸に数時間浸せだのと、おおよそ植物に似合わぬ暴力的な処置を施すよう説かれている。海外のバオバブ愛好家が種を蒔く動画もいくつか見てみたが、魔法瓶に種を入れ、そこに70度ほどの湯を入れて、48時間放置してから蒔いていた。なお、バオバブの発芽に必要な温度は最低20度とのことで、最低気温が20度を下回る日本の4月は播種にはまだ早い。5月の中頃に、(さすがに濃硫酸を用意するのは怖いので)70度の湯を使って発芽処理を行なってから、種を蒔こうと思っている。

 小学生の頃、私が愛読していたのは卓上国語辞典、および『新世紀ビジュアル大辞典』だった。バオバブの木の存在を知ったのは、この二つの辞典のどちらか、おそらく前者の巻末に載っていた熱帯植物のカラー写真によってではなかったかと思う。この卓上辞典は、私の家にあった数少ない本のひとつであり(冠婚葬祭事典などもあったのだが、子どもにとってそれは興味の対象ではなかった)、また後者は、ある日祖母がなんらかの返礼品としてもらってきたものである。この『新世紀ビジュアル大辞典』には、作家や芸術家の顔写真が多く掲載されており、何度読んでも飽きなかった。小学生の私はいつまでもいつまでも、床に寝転がって見知らぬ人々の顔を眺めては彼らがどんな創作活動を行なっているのか想像して楽しんでいた。額の広い、宇宙人のような色白の男性が武満徹という作曲家であることを知ったのもこの辞典を通してだったし、チューリップの花の写真がメイプルソープという写真家のものだと知ったのも同じく大辞典を通してだった。その時知った幾人かの作品は、私の10代20代を支えてくれたのだが、バオバブだけは直接的な縁を持てずにいた。

 たしか辞書の説明によると、バオバブは大変な巨木で、現地ではそのウロに死者を埋葬すると書いてあったような気がする。この木の存在を知ったのと同じ頃、ひょんなことから即神仏というものの存在を知った私は、バオバブの木の穴に入れられた人間がゆっくりと木乃伊になっていく様子を勝手に想像し、さらにそのウロがどういうわけか閉じてしまって、樹木の中心部に人間の亡骸が孕まれる様子を思い浮かべた。この空想は今でも時折思い出され、バオバブの巨木の写真を見ると、その幹の中に胎児のように膝を抱えた人間がいる気がする。

 この生きた棺は、とはいえ発芽してから何百年も経ってようやく完成するのであって、少なくとも手もとの種子が一人前のバオバブになるのを見届けることは、私には不可能である。私の人生の尺度を超えるものが、この煎り大豆のような種子の殻の中に詰まっている。そう思うと、種を蒔くことが良いことなのかどうか怪しくなってくる。私がいなくなった後、何百年間も誰かが水を与え続けねばならないのだが、おそらくそんなことはできっこない。仮に地面に植えたとしても、日本では冬の寒さでこの木は死んでしまうので、寒くなる前に守ってやらねばならない。それを何百年間も続けなくてはならないのである。
 遠くからやってきた小さく、硬く、黒っぽい種子を眺めながら、百年、二百年とこの木を世話する人々の姿を思い浮かべている。

   ***

最後に、宣伝をひとつ。6月9日から11日にかけて、調布市せんがわ劇場で「死者たちの夏2023」と題した以下のようなイベントを行う予定です。

「死者たちの夏2023」
100年前の首都圏で、日本人はなぜ、ふつうに人間に対するように朝鮮人に向き合うことができなかったのか。
人を「殺害可能」な存在とみなすために、どのような偏見や妄想が醸成されたのか。
私たちは7年前の7月に相模原市の障害者施設で殺傷事件が起きたときにも、同じ問いを自分にぶつけた。
世界には残虐な行為があふれている。いまも、さまざまな時に、さまざまな場所で、人間が人間を殺している。なぜ?
この歴史の問いかけに向き合うために生まれた、文学があり、音楽がある。

公演情報
■ 音楽会 Music Concert
「イディッシュソング(東欧ユダヤ人の民衆歌曲)から朝鮮歌謡、南米の抵抗歌へ」
6月9日(金)19:00 START
出演:大熊ワタル(クラリネット ほか)、
こぐれみわぞう(チンドン太鼓、箏、歌)、
近藤達郎(ピアノ、キーボード ほか)
解題トーク:東 琢磨、西 成彦 ほか

■ 朗読会 Reading
「ヨーロッパから日本へ」
6月10日(土)14:00 START
「南北アメリカから日本へ」
6月11日(日)14:00 START
出演:新井 純、門岡 瞳、杉浦久幸、高木愛香、高橋和久、瀧川真澄、平川和宏(50音順)
演出:堀内 仁 音楽:近藤達郎
解題トーク:久野 量一、大辻都、西 成彦 ほか

場所:調布市せんがわ劇場 京王線仙川駅から徒歩4分
料金(各日):一般3,200円/学生1,800円
リピーター料金:各回500円割引
ホームページ:https://2023grg.blogspot.com
お問い合わせ: 2023grg@gmail.com (「死者たちの夏2023」実行委員会)

音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)
照明・舞台監督:伊倉広徳
衣装:ひろたにはるこ

■ 実行委員長:西 成彦(ポーランド文学、比較文学)
■ 実行委員(50音順)
石田 智恵(南米市民運動の人類学)
大辻 都(フランス語圏カリブの女性文学)
久野 量一(ラテンアメリカ文学)
栗山 雄佑(沖縄文学)
瀧川 真澄(俳優・プロデューサー)
近藤 宏(パナマ・コロンビア先住民の人類学)
寺尾 智史(社会言語学、とくにスペイン・ポルトガル語系少数言語)
中川 成美(日本近代文学、比較文学)
中村 隆之(フランス語圏カリブの文学と思想)
野村 真理(東欧史、社会思想史)
原 佑介(朝鮮半島出身者の戦後文学)
東 琢磨(音楽批評・文化批評)
福島 亮(フランス語圏カリブの文学、文化批評)
堀内 仁(演出家)
■ 補佐
田中壮泰(ポーランド・イディッシュ文学、比較文学)
後山剛毅(原爆文学)
■ アドバイザー
細見和之(詩人・社会思想史)

水牛的読書日記 2023年4月 台湾旅行編

アサノタカオ

4月某日 台湾旅行1日目。火曜日、晴れ。出版関係の仕事を片付けた翌朝、最寄りのJRの駅から成田エクスプレスに乗車し、成田国際空港へ。これから午後の便で台湾へ飛ぶ。ひさしぶりの海外旅行だ。

台湾では先月末から新型コロナウイルス対策としての入国後7日間の自主防疫義務が撤廃され、国境の管理はほぼ平常状態にもどった。このタイミングで、大学院時代からの友人で台湾文学研究者の朱恵足さんから、「大学がちょうど春休みで台東に里帰りをしているから、遊びに来ない?」と声をかけられ、誘いに乗ったのだ。とはいえ世の中にはなおコロナの影響はあり、けっしてにぎわっているとは言えない空港で搭乗と出国の手続きを済ませ、免税店でお土産を手早く買い込む。3時間半ほどのフライト。機内で読みかけの本のページをめくり、うたたねをしていたら、いつのまにか台北の桃園国際空港に着陸。窓の外に広がる景色を照らす強烈な太陽の光に目を見張った。5年ぶりの台湾だ。

桃園でMRTに乗り換えて台北へ向かうと、朱さんのお姉さん(長女=大姉、ダージェ)と姪が迎えに来てくれて、さっそく駅中の台湾料理店へ案内された。平日の午後ということもあるだろうが、巨大な台北駅の構内は想像以上に閑散としている。お姉さん(ダージェ)とは以前、日本で会ったことがあり、鎌倉を散歩したのだった。初対面の姪はスペイン語を学ぶ大学生で、7月から留学するという。カタコトの英語でおしゃべり。夕ごはんをごちそうになった後(ここで台湾の押し豆腐「豆干」のおいしさにはまった)、乗り換えの改札前で二人とあわただしく別れる。東海岸回りのローカル線の特急列車に乗り、ここから一路、南東部の都市・台東をめざすのだ。

列車が花蓮を通過するころには、窓の外は夜の闇につつまれていた。リュックサックから、コピーして持参した台湾中央研究院の文化研究者・王智明氏のエッセイを取り出して読む。タイトルは「『台湾有事』、ではどうするか?——反戦思想の活路」(丸川=盧哲史訳、『けーし風』第117号)。短いかながらも刺戟的な内容で、昨今の「台湾有事」言説への説得力ある批判だと思った。〈反戦思想の核心は……政権が民権をないがしろにすることの否定でなければならない〉。ちょうど今回の旅の数日前、蔡英文総統がアメリカを訪問し、下院議長と対談、中台関係の緊張度が一気に高まっていた。そして日本では「台湾有事」への懸念をひとつの口実に防衛費の増額、沖縄・南西諸島の軍事拠点化が進行する現在、いついかなるときもこの「民権をないがしろにすることの否定」という視点を行動の軸にしなければ、と自分に言い聞かせる。

途中の駅を通過するたびに車内アナウンスに耳を傾けると、中国語や英語のほかにも2、3の耳慣れない言語が聞こえてきた。これは台湾の閩南語や原住民のことばだろうか。

夜遅く、はじめての台東にたどりつく。駅前には台湾南東の沖合に浮かぶ孤島・蘭嶼に住むタオ族の木造カヌー「チヌリクラン」が飾られている。熱帯の生暖かい風を感じて上着を脱ぎ、あたりを見回すと笑顔の朱さんが手をふっていた。彼女の親戚が営む旅館で荷物をおろし、コンビニでアップルサイダーを買って旧台東駅の近辺を歩いてみる。深夜にも関わらず複数の種類の鳥が樹上で鳴き交わしている。その声を聴きながら、町の空気を思い切り吸い込み、大きく腕を伸ばした。

4月某日 台湾旅行2日目。水曜日、晴れ。台東にて。旅館の部屋でグアバをかじって朝食をすませ、朱恵足さん、そして彼女のお母さんとお姉さん(三女=三姉、サンジェ)とともに海沿いをドライブ。

「海山のあいだ」と呼ぶのにふさわしい野生的な土地をめぐり、名所を尋ね歩いた。なかでも富岡地質公園の海岸で出遭った、大地の背骨が剥き出しにされたかような奇岩巨石群(豆腐岩、蜂の巣岩、蕈状岩……)には圧倒された。岸辺から海に目を向ければ、はるか先にはひたすら水平線だけが広がる。人間以後の世界、ということばが頭に浮かぶ。この世のものと思えないSF的な光景に息をのんだ。

その後、かつて沖縄の漁師も多く住んでいたという漁業の町・成功へ。お母さんの知り合いが営む海産店で昼ごはん。牡蠣と豆腐の味噌炒めをはじめ、麵もスープも魚介の主菜も副菜もなにもかもおいしい。いや、おいしい/おいしくないという以前に、食べ物がからだにしっくり合う感じがするのはなぜだろう。三仙台という離れ島と陸地を結ぶ8つのアーチをもつ跨海歩橋や、日本統治時代に架けられた吊り橋などを見学し、川沿いの遊歩道を散策。カヌーで川下りをする観光客の団体が大騒ぎをしている。そのかたわらで、生い茂る木々の枝を台湾猿の群れが悠々と歩いていった。

台東の町に戻り、朱さんの部屋を借りてデスクワークをすこしする。晴れていれば緑島が見えるらしい海沿いの一室。シャワーを浴びてひと仕事終えて、夜は彼女の知り合いの地元卓球クラブの青年たちと大きな魚の頭の鍋を囲んだ。青年たちはビール、朱さんとぼくは金桔檸檬のジュースで乾杯。

4月某日 台湾旅行3日目。木曜日、晴れ。爆音で目覚める。台東には空軍基地があり、朝の7時半過ぎから戦闘機の飛行訓練がはじまるのだ。これには毎朝、閉口させられた。

この日も朱恵足さんたちとともに山側へドライブ。中央山脈と海岸山脈の谷間の町、関山で自転車をレンタルして、美しい山並みを眺めながら環鎮サイクリングロードを辿る。全長20キロ弱。森の中の道で群蝶に遭遇し、親水公園で三叉山事件(1945年、フリピンで日本軍から解放されたアメリカ人捕虜を乗せた軍用機が墜落した大惨事)の石碑などを見学してから自転車を返却し、ついでお米の産地として知られる池上へ移動。見渡す限り広がる田んぼの緑がまぶしく、風に揺れる稲穂の青い香りがただよっている。このあたりの農地ではコーヒーの栽培もしているらしく、観葉植物や雑貨も販売するおしゃれなカフェがあった。お昼時の静かな集落を歩いていても人に会うことはなく、犬だけがうろうろしている。

池上の町の食堂で麺とスープ、デザートとして豆花を食す。地元の農協的なスーパーで、買い物がてら商品の値段を調べると、こちらでも卵の値段がかなり高い。「おひとりさま*個まで」と購入制限の札もあった。日本と同様、鳥インフルエンザの流行による大量の鶏の殺処分、異常気象や飼料代の高騰などの影響による深刻な卵不足がおこっているようだ。

夜は朱さんの実家でお母さんの手作り、豚足のにゅうめんをいただいた。やさしい塩味。朱さんが帰省のたびにかならずお願いするという「おふくろの味」が、心身のすみずみまで染み渡る。お母さん、ごちそうさまでした。

4月某日 台湾旅行4日目。金曜日、晴れ。台東にて。旅館近くのカフェで美式珈琲(アメリカンコーヒー)とドーナツの朝食。午前中は朱恵足さんの部屋を借りて、編集中の本の校正刷を読み込む。今日は海の向こうに緑島が見えるだろうか、と思ってふと目をあげると、海上の霧が晴れてくっきりと島影が見えた。

昼ごはんは町中のやや高級なお店で牛肉麺を食し、市役所前の印刷所へ。何台もの複写機や製本機が並べられた作業場で、熟練の女性スタッフがてきぱきと動き、日本語の赤字を書き込んだ校正刷のスキャニングや出力をしてくれた。朱さんの部屋に戻り、日本の著者や出版社などへ電子メールで校正刷のデータを送る。週末に予定している取材の準備も済ませて安心し、ソファで寝転がってしばしのあいだ昼寝。

夕方、朱さん、彼女のお姉さん(サンジェ)や同級生たちと連れ立って温泉へ行った。水着を着て入浴するスタイル。女性たちがわいわいおしゃべりするかたわらで、熱いお湯にじっとつかり、旅に疲れたからだを休める。この日も朱さんの実家で夕ごはんをいただき、おだやかに1日をすごした。

朱さんにとって今回の里帰りは、幼なじみや女子高時代の同級生たちと旧交を温める機会でもあったらしい。いまはそれぞれに家庭をもち、さまざまな仕事をしている女の人たちを紹介され、彼女たちの昔話をひととおり聞かかされた(朱さんが高校時代に学内文芸誌の編集長をやっていたというのは、長い付き合いのなかではじめて知った)。そんな同級生のひとりが連れて来た、小学生の息子との心に残る出会いがあった。

彼の名前はタイロン。母親が台湾人で、父親がイギリス人。10代の入り口に立つ少年で、あどけなさが残る。流暢な英語をしゃべるので、家庭で英語を使用していたりインターナショナルスクールに通ったりしているのかと思ったら、そうではないという。悲しいことに、父親はもうこの世にいない。お父さんともっと話したかった、という思いから独学で英語を学んでいると聞いて胸を打たれた。朱さんがやさしくほほえんで、「今晩は父親がわりになってあげて」と耳打ちしてくる。

タイロンは家庭と学校では中国語を話し、祖父母とは閩南語で話す。英語もできるし、挨拶程度の日本語も。東京や沖縄を旅行したことがあるという。学校での彼のあだ名は「アミ」。これは完全に人種主義的なステレオタイプなのだが、イギリス人の父親の血も引くややエキゾチックな風貌と快活な少年らしいよく日に焼けた肌の色から、原住民のアミ族を意味する「アミ」と呼ばれているらしい。タイロンはそれを屈託なく受け入れ、驚いたことにアミ語の勉強もしているという。「原住民の村で買い物ぐらいはできるよ」と、おどけながら「おばさん、こんにちは。このお菓子をください。ありがとうございます」などとアミ語ですらすらとしゃべっていた。

どうして台湾を旅行しているのか、日本でどんな仕事をしているのか、好きなサッカー選手やミュージシャンは誰か。居間のソファで肩を並べて腰かけ、くりくりした目を輝かせながら英語で質問をしてくるタイロンの愛らしい姿に接して、多民族・多言語が混じり合うクレオール世界ならでは人間存在のあり方をひさしぶりに思い出した。われ多民族の血を受け継ぐ、ゆえにわれあり。われ多言語をしゃべる、ゆえにわれあり。世界の多様性をごく自然な好奇心をもって受け止め、複数の言語という通路を行ったり来たりしながら自分の視野をどんどん広げる。だってそういうことはよいことだから、と楽天的に、しかも深く信じている。ぼくが知るもうひとつ別のクレオール世界であるブラジルにも、こういう開放的なタイプの人々がたしかにいたのだ。

もじもじしながらなにか日本語を書いてほしい、というタイロンの求めに応じて、ノートに彼の名前をひらがなで書いた。アルファベットよりは日本語の表記は台湾の繁体字に近いと思っていたのだろう。「太龍」という漢字の2文字が、「たいろん」とひらがなの4文字にひらかれることに目を丸くして驚き、「うわ〜変なの〜!」とうれしそうに笑っている。日本語をもっと書いて書いて、とせがむので、彼に出会うまで今日1日におこった出来事を記した。そのページをノートからきれいに破って「はい、どうぞ」と渡すと、不思議そうにじっと見つめた後、四つ折りにしてポケットにしまっていた。

「ママ〜!」と、ダイニングで朱さんと話し込む母親のもとに駆け寄るタイロン。はなやぎを振りまくその後ろ姿を眺めながら、クレオール島の少年のおおらかな楽天主義がこのまま素直に成長しますように、そしてそれがいつかぶつかるにちがいない人生の壁を乗り越える力になりますように、と心の中で祈った。

4月某日 台湾旅行5日目。土曜日、曇り。朝、台東市中央市場で生まれ育った朱恵足さんゆかりの地を訪ねる。

父親の仕事が軌道に乗って市場を離れるまで、家族の暮らしは貧しかったという。お母さんが働いていた生地を扱う店の2階、祖父母、両親、5人きょうだいが肩を寄せ合って暮らした窓のないひと間で、就学前の朱さんは包装用の新聞紙やテレビの字幕を眺めながら文字を覚え、市場の大人たちに文章を朗読してもらい、やがて図書館で本を借りて読みはじめ、中学生になるころには海外文学を通じてはるかな世界へ思いを馳せるようになったという。

「ここはお肉屋さんだった。ここはお菓子の問屋さん、ここは女性の下着を売るお店。私が病気になると、母がここで買って来た熱い鶏スープを飲ませてくれて……」。一軒一軒の商店の前で立ち止まり、もう存在しない記憶の風景を呼び戻しながら、人生を振り返る彼女の問わず語りにじっと耳を傾ける。いまや台湾屈指の国立大学である台中の中興大学の教授となり、名実ともに文学研究の第一人者となった朱さんは、親きょうだいの期待だけではなく、この市場でつつましく生きる住民たちのもっと大きな願いを背負って勉強と学問に励んできたのだろう。路地を先に行く彼女のちいさな背中が、その重みを無言で語っていた。

その後、朱さん、彼女のお姉さん(サンジェ)とともに山側の鹿野へ。日本統治時代の移民村・龍田村のあった場所を訪ね、歴史資料館や古い日本家屋(教員宿舎や保育所)などを見学する。植民地主義の象徴である神社の鳥居の前などで「そこに立って」とか「座って」などと言われるがままポーズを指定され、写真を撮られるのだが、正直気が進まない。「なにもこんなところで……」と不平をこぼしても、「せっかく来たんだから!」と朱さんは聞き入れずにスマートフォンでばしばし撮影する。台東の別のある場所では、ぼくが「ここはずいぶんきれいな並木道だね」と何気なしに言ったのに答えて、彼女が「ああ、むかし日本人が台湾人と原住民に作らせたからね。ははは〜」と笑い飛ばしたことがあったが、こちらは笑えない。

さらにお茶畑が広がる山道をのぼり、朱さんの同級生が営む果樹園へ。ここでは「釈迦頭」と呼ばれるバンレイシの実をはじめて収穫する。台湾に来てから毎日のように「おいしい、おいしい!」と果物を食べているが、この同級生からパイナップルなどの1キロあたりの卸値を聞いてあまりの安さに驚いた。これでは農家が生活していくのは厳しいだろう。彼女は夫とともに電飾の技術を活かして旬の時期を過ぎても実がなるように工夫して栽培し、釈迦頭が市場に多く出回らず、値段のあがる時期を見据えて収穫と出荷をしているという(この2日後、2023年4月17日付の朝日新聞で「台湾パインの対日輸出、中国の輸入禁止で8倍超 農家『日本に感謝』」という記事を読んだ)。

地元の食堂での昼食後、紅烏龍(ホンウーロン)の名店へ。店主がていねいに淹れてくれた台湾茶は絶品だった。見た目は寡黙な職人風、しかし店内の雰囲気からデザイン的なセンスのよさを感じさせる若手の店主と、お姉さん(サンジェ)とは顔なじみのようで、オフグリッド住宅の建築のことなどをふたりで語り合っている。

台東の町に戻ると、雨。朱さんの実家近く、廃線になった旧鉄道の線路沿いの遊歩道を散策した。台湾桜がちょうど開花の時期で、あざやかなピンクが目に止まる。すずやかな小雨が降りしきる中を歩いていると、火照った全身が潤いをとりもどすようで落ち着いた気持ちになった。

夜、朱さんにことばの橋渡しをしてもらい、詩人の董恕明さん(朱さんの女子高の先輩)にお話をうかがった。董さんは中国・浙江省出身の父とプユマ族出身の母のあいだに生まれ、現在は台東大学で華語文学や原住民文学の教育研究をおこなっていて、彼女のエッセイは日本語にも訳されている(『台湾原住民文学選第8巻 原住民文化・文学言説集』〔下村作次郎編訳、草風館〕)。

董さんが語ってくれたのは、たとえばポーランド出身のノーベル文学賞作家オルガ・トカルチュクのこと、台湾原住民作家の孫大川やワリス・ノカンやシャマン・ラポガンのこと、そして中国の文化大革命期に迫害された知識人らのこと。「差異が大切です」と彼女は強調した。口を開く前にじっくり考え、一つひとつのことばに魂をこめて語る人だった。話題は文学のほかにも、都築響一『圏外編集者』の感想や台湾の大学教育、原住民の土地問題まで多岐にわたり、いずれも興味深い内容だった。

董さんは、文学者としてはオーソドックスなスタイルで、山海の自然と人間の交わるところから生活実感に寄り添う詩のことばを紡ぎ出す。屋久島の詩人・山尾三省の作風と近いのかもしれない、という印象を持った。

不確定的雲和雲撞在一起
很確定的風就散架了
不確定的浪和浪撞在一起
很確定的岸就扭到了
不確定的雨和雨撞在一起
很確定的山就骨折了
不確定的霧和霧撞在一起
很確定的夜就失眠了
不確定的路和路撞在一起
很確定的夢就醒了,醒來
……
 ——董恕明〈春遊〉より

4月某日 台湾旅行6日目。日曜日、晴れ。朝、台東駅から南回りの特急列車に乗り、台湾第三の都市・高雄へ。台北からの列車では時間が夜だったので車窓越しの風景が見えなかったが、この日の鉄道旅で目にした南東部の景色の美しさにはことばを失った。エメラルドグリーンの光り輝く海。これを見せたかったんだよ、と隣の席で朱恵足さんがつぶやく。

2時間ほどで高雄に到着、地図を見るとかなり大きな町だ。MRTに乗り換え岡山へ移動する。ここで、文藻外語大学で教えながら台湾文学の翻訳をおこなう倉本知明さんも合流。プユマ族出身で原住民文学を代表する作家の一人、元職業軍人という異色の経歴を持つパタイ(巴代)さんの自宅にうかがい、奥様も交えて昼ごはんをいただきながらインタビューをおこなった(インタビューを含む訪問記はいずれどこかで発表する予定)。

パタイさんの子供時代をめぐる思い出を、日本統治時代のプユマ族の村を舞台にした長編小説『タマラカウ物語』(魚住悦子訳、草風館)に登場する「マワル少年」の姿に重ねながら聞く。なんとも豊かな時間。この小説にしばしばあらわれる檳榔と陶器のかけらを用いたお守りがどういうものか、実物を見せてもらったことも貴重な経験だった。部族のシャーマニズムに通じる母親の作ったお守りをパタイさんはいまも使っていて、台北や海外のホテルに泊まる時などにはかならず部屋の東西南北の隅に置いて結界を張り、邪気を払うという。

インタビューを終えると、あっという間に夕暮れ。パタイさんが車で橋頭の駅まで送ってくれて、ここでお別れ。作家の風貌や体格はいかにも軍人らしいがっしりしたものだが、若い頃は憂愁を漂わせる細身の文学青年だったという。帰り際に固い握手を交わしたこの分厚い手のひらから、原住民の歴史物語をめぐる文学が生み出されるのだ。老練な知性と無垢な心をあわせもつ、魅力的な人柄だった。

駅前のちいさな食堂で朱さん、倉本さんとサロンパス味(!)の台湾コーラで乾杯し、麺を食べる。軽い夕ごはんを終えて、彼はスクータに乗って颯爽と帰って行った。ちなみに、倉本さんは日本でも話題の歴史グラフィックノベル『台湾の少年』(岩波書店)や呉明益の小説『眠りの航路』(白水社)の翻訳者として知られるが、その訳書のなかでぼくがもっとも好きな作品は、蘇偉貞の長編『沈黙の島』(あるむ)だ。

高雄再訪を誓い、こんどは在来線の電車で古都・台南に向かう。橋頭からおよそ30分。あいにく若者たちの帰宅(あるいは夜の町に遊びに行くのだろうか)のラッシュとぶつかり、席には座れず朱さんと立ち話をしているうちに台南到着。駅前の地下通路に横たわる多くのホームレスらしきの人々の顔を横目で眺めることしかできず、心の水面が波立った。小ぎれいなホテルに投宿し、冷房の効いた部屋のベッドの上に寝転がって物思いにふける。

4月某日 台湾旅行7日目。月曜日、晴れ。台南にて。ホテルをチェックアウトし終日、観光を楽しむ。朱恵足さんの案内で定番のお廟やオランダ統治時代の史跡などをめぐり、白うなぎのスープなど地元の料理や、牧野富太郎が学名をつけた果実・愛玉の種子から作られた寒天風のスイーツなどを食べ歩いた。台湾文学館では「食と文学」をテーマにした屋外の路上展示をしていておもしろかった。例のサロンパス味(!)の台湾コーラに捧げられた詩まである。

黄昏時、信じられないぐらい巨大なガジュマルの枝々に飲み込まれたイギリスの貿易会社(のちに日本の塩業会社)の倉庫跡地も訪ね、ここがよかった。閉館時間まで木陰のベンチに腰掛け、朱さんと家族や子供のこと、最近の仕事のこと、これまでの旅のことなどを、まるで学生時代のようにのんびりと語り合う。台湾の西部で日没を見ようと海岸へ急いだが、この日の水平線は厚い雲がかかっていて願いは叶わず。

一日中、熱帯の強烈な日差しを浴びながら歩き回ったので、すっかり体力を奪われた。へろへろの状態で台湾高鉄(新幹線)に乗りこみ、台中の朱さんの自宅へ向かう。

4月某日 台湾旅行8日目。火曜日。台中にて、曇天の朝を迎える。

近所を散歩すると、どこからか歌声が聞こえる。なんとお廟の外の東屋にカラオケの機械とモニターが設置され(有料)、朝っぱらからおじいさんやおばあさんがしっとりと歌っているではないか。これはお廟のお布施集めの一環であり、地域のお年寄りの拠り所としても機能しているというが……。聖地とカラオケ、なかなかシュールな組み合わせ。見物をしていると、人懐っこい笑顔を浮かべるおじいさんが「さあ、こちらにいらっしゃい」と手招きをするので、慌てて一礼をしてお廟から逃げ出した。

はじめて台中を訪れたのは2008年のこと。15年前に訪れたのと同じ屋台で、麺と豚の内臓のスープの朝食をとる。その15年前、台中駅の裏手には戦前、鉄道関係の仕事をしていたぼくの祖父やこの地で生まれ育った父が住んでいた地区があり、瓦葺きの平家の日本家屋も何軒か残っていた。この日に訪ねると、駅そのものが大々的にリニューアルされて駅前も現在進行形で再開発中、日本人地区は跡形もなくなっている。目に見える風景はすっかり変わった。しかしこの場所に立つたびに、懐かしい思いと懐かしんではならないという思いが入り混じり、複雑な気持ちになることに変わりはない。植民地主義の暴力に直接的な責任を負うことはできないが、この暴力の歴史がほかならぬ自分自身を作ったという事実が、からだの深いところで疼くのだ。

台中市第三市場で牛奶果(スターアップル)など珍しい果物を買った後、誠品書店で(繁体字を読めるわけでもないのに)何冊かの本と雑誌を購入。朱さんの解説を聞くと、歴史をテーマにする美術家の高俊宏の著作《拉流斗霸:尋找大豹社事件與餘族》《橫斷記:台灣山林戰爭、帝國與影像》は読み応えがありそうだ。

最後の夕暮れ。台中の中心部の高層ビルとビルの合間、白い雲の向こう側で赤々と燃えさかる太陽にしばし見惚れ、立ち尽くす。

待ち合わせたレストランで出会った日本からの留学生で、朱さんの教え子でもあるHさんが先月刊行されたばかりの『うつくしい道をしずかに歩く——真木悠介 小品集』(河出書房新社)をかばんから取り出した。本書の編集協力をしているのでびっくり。最近、台湾に遊びに来た両親が届けてくれたそうだ。ところでこのレストランでは、待望の臭豆腐を食べることができて大満足、 Hさんもおいしそうに料理を平らげている。

日本の家族へのお土産を買ったり朱さんが通う卓球教室を見学したりした後、彼女とともに夜市の通りを歩き、熱くて甘い芋入りのおかゆを持ち帰った。

4月某日 台湾旅行9日目。水曜日、曇り。台中にて。「朝はあまり食べないから控えめでいいよ」と言っているのに朱恵足さんとの朝食は毎回テーブルにご飯や麺の主食と一汁三菜がずらりと並ぶ。朝食にかぎらず、朝昼晩の三食、ちいさな体でよく食べる。そんな朱さんとの屋台での最後の早餐、冬瓜のスープがおいしかった。

旅の最後の最後、町の中心部にある国立台湾美術館で日本統治時代を生きた彫刻家・黄土水(1895〜1930)の大型銅板レリーフ「水牛群像」に対面し、生きとし生けるものの生命力とは異なる、時間を超越したものの不朽の生命力のようなものに畏怖の感情を抱く。これが芸術の力か。

美術館前から乗車したタクシーの運転手は「縁があるのか今日は駅までお客さんを乗せていくのは、これで6回目ですよ〜」と笑いながら、ぐんぐんスピードをあげていく。高鉄の台中駅まで見送りに来てくれた朱さんと別れの握手を交わした。9日間も一緒に過ごしたので名残惜しいが、出発時刻が迫っているので早歩きでプラットホームまで向かう。新幹線で1時間足らずで桃園に到着し、空港で手続きを終えて飛行機のシートに腰を沈めた。こんなふうにして、旅の幕はいつもあっさりと降ろされる。機内の窓から外をのぞくと、土砂降りの大雨で、景色らしい景色はもう何も見えなかった。

「図書館詩集」7(表紙の縁がうっすらと緑色に見える本は)

管啓次郎

表紙の縁がうっすらと緑色に見える本は
読んではいけません
あざやかな赤の線が走っているものは
必ずお読みなさい
あまり信じられない占いのように
そう忠告してくれるおばあさんがいた
ぼくは信じます
だがそんな色の遊戯になかなか出会わなくて
いくつもの図書館を遍歴するばかりだった
そのうち五稜郭にやってきた
空から見ている、星形の砦を
何を守ろうとして誰がたてこもるのか
使うものがいなくなれば
次の者が、また次の者が?
砦が砦にふりつもる
たてこもるのもいいだろう
誰かが攻めてくるだろう
誰でも攻撃したいやつらはたくさんいる
じっと耐える者のほうがずっと偉い
それなら指先に、ろうそくのように
火をともす、艱難辛苦の果てに
世界秩序を変える夢を見ることにしようか
冷たい春の風が吹いている
塔の高さはすべてをジオラマ化し
雄大(雄大?雌大!)な北の地形の中にこの
正確な要塞が埋め込まれているのがわかる
砦にいま住むのは人間ではなく
赤松の歩哨たち
かつて佐渡から移植されて
歴史を見てきたらしい
きみたちはロシア語を話しますか?
この問いはどうにも避けられないだろうな
何も知らないのでただ
こんな言葉をくりかえすんだ
オーチェニ・クラシーヴァ!(すばらしいですね)
そうです
くじらはキート
いるかはジェリフィーン
あざらしはチュリェーニ
海はモーレ
岬はムイース
こんな知識で何がいえるわけでもないが
詩は書ける
「すばらしいですね、くじら!
すばらしいですね、あざらし!
すばらしいですね、海!」
ここに詩を見出すことができる人なら
あとはただそれを掘ってゆくだけだ
あるいは
「ヴガラーフ・ムノーガ・メドヴェーヂェイ?」
(山には熊がたくさんいるの)
この文と現実(実在)のあいだを
埋めるのが詩だ
つまりそれは生に非常によく似ている
語と語をどうつなげても
それが体の中を通らないかぎり
生気を帯びない
詩にはならない
逆に
くじら、あざらし、海!
くじら、あざらし、海!
くじら、あざらし、海!
といろいろな強度と音量とかすれと曲げをもって
千回発声をつづけることができるなら
それはきみの現実をその場で変えて
その変形力において詩に非常に近づく
ぼくはそう思っているよ
くじらがそこにいないなら、くじら
あざらしがそこにいないなら、あざらし
海がそこにないなら、海
心がそこにないなら、心
命がそこにないなら、命
そうつぶやきながらどんどん歩いていった
歩き、かつ、登ってゆくのだ
正教会は閉まっていた
カトリック教会にお参りした
聖公会は建築をちらり
信仰心をもたずにお邪魔してすみません
あ、ちなみにうちは「お東さん」です
一揆に親和性がある宗門です
でも元来は徹底的なパシフィストなんですよ
そのまま外人墓地にゆくと
猫が何匹もいて気持ちが安らぐ
猫は猫社会をもち
人間に人間社会の外を知らせることにおいて
人間につねによい作用をしていると思う
中国人墓地には漢字あり
外人墓地にはアルファベットで記された名前
若者もいるようだな、船乗りか
異邦で葬られるのは、それも運命かな
ぼくはある時期「客死」という言葉を恐れていた
お客さん、死にましたか?
Guest death がいつかは自分の運命かも
そう思ってふるえていたが
そもそも
死期も死地も自分で決められる
と思うほうが傲慢なのか
寒くなってきたので脂身を食べて
体を温めることにした
レイモンさん、焼きソーセージを一本くださいな
辛子をつけて齧ると
脂と塩でおなかがぽかぽかしてきた
肉食をめぐる問いを克服していないが
いまはまだヴィーガンになれそうにない
ときどき肉を食うから
許してください
肉よ、私を食ってくれ
食うものは食われて仕方がない
蛋白質もだが脂肪と糖分は
人間には悪魔的な魅力がある
脂身はまた最終的なスーツでもあるようだ
ホメロスを読んでいると勇士を荼毘に付すために
動物の脂身で屍をすっかり包み
おまけに戦友たちは髪を切って
棺をみたし弔いのしるしとする
という描写が出てきて
うー、へー、と思った
土地ごと時代ごと
さまざまな習慣があるものだ
できればあらゆる慣習から中立でありたいが
それは生き方としても死に方としても
人に疎まれるだけかもしれない
ならば獣の世界へゆくか
「函館山に熊はいますか?」
ここで熊といえばいうまでもなく
羆だ、Sun Bear だ
直に見れば目がつぶれても仕方なし
太陽信仰にとっても中心的な動物だ
「います、いるようです、被害は出ていないけれど」
別の人は「ここにはいない」というが
証明できるのだろうか、そんな不在証明を
この山はいわば島
長い砂洲が陸へと橋を架けている
都市区域を隔てて
むこうの山々と地続きとはいっても
たしかに熊交通にとってはかなり不便
ニンゲンが眠る深夜に熊は
ひとり都会の街路をわたっていくのか
それとも何か超自然的な力で
空を(たとえば高度5メートルで)飛んでゆくのか
なんとも美しい羆のイカロスよ
ろうが溶けないように月夜を飛んでいけ
ぼくは風に飛ばされないように歩いている
そして長谷川家の跡を探すのだ
長谷川家の四兄弟のことなら
いつも漠然と頭にあった
もっともぼくの興味を惹いたのは
長男の海太郎と末っ子の四郎かな
めりけんじゃっぷのさのばがん
丹下サゼンは林フボー
牧逸馬の作品は読んだことがない
やはり好きなのは谷ジョージだな
でも彼のように地平線を踊らせることは
そんな生き方をする根性がなかったので
ごめんなさい
それでもカール・ロスマンのオクラホマ野外劇場
のように、ぼくには
アラバマのチャイナグローヴがあった
末弟の四郎のシベリア体験のことも
よく知らない
というか目をそらしていた

 長谷川四郎(1909-1987)
 香月泰男(1911-1974)
 石原吉郎(1915-1977)
 内村剛介(1920-2009)

シベリアでの抑留体験をもつ
かれらひとりひとりの文章や絵の影に
名前も伝わらない何十人も何百人もの体験があった
無理だ、追うのは、凍土に
塗りこめられた死を想像することもできない
けれどもその歴史を抜きにしては
戦後の日露関係というか日ソ関係も
まったくわからないし本当は
詩も絵も読めないのだ
いったい歴史を歴史に閉じこめておいていいのかな
死者を死んだものとして無口だと思っていいのかな
きみが生きていて歩いていて
あるとき何かにふと近づくと
突然鳴り出すものがあるじゃないか

  ほろびるもの、つねないもの。
  ひとと しぜんを むすぶ、かはらない
  なにかを もとめて、
  おんさの やうに ちかづく、ふれて
  なりあふために。
  (吉田一穂「ひびきあふもの」より)*

近づくと鳴り出す
ぽーんと鳴り出す、うなり出す
そこに美しい天然が生まれるが
その理由は何よりも
そこにも命が懸かっていたからだ
その命は別の命の助けを借りて
初めてよみがえるからだ
気を取り直して四郎の小さな本を手にとる
甦りのために
そうそう、この本は若いころ好きだった
四郎がガンガン寺の思い出を書いている
それはハリストス正教会のこと
ガンガンと鐘を鳴らすのがやかましかった
幼児の彼はそのそばの家に住んで
父親は投獄されていた
彼の長兄(海太郎)は後に単身アメリカにわたり
自分自身をビリーと呼び
次兄(潾二郎)をジミーと呼び
三兄(サンズイのついた睿)をスタンリと呼び
四郎をアーサーと呼んでいたそうな
冗談好きな想像力
最高だね
だがかれらはロシア語にもよく親しんでいた
「ロシヤ語についてだが私が
英語のアルファベットよりもさきに
ロシヤ語のアルファベットをおぼえたのは
私の生れ育ったころの函館はカムチャツカ
漁業の基地でロシヤ船がよく入港
したので、ロシヤ語のカンバンがほうぼうに
出ていたからだ」
(長谷川四郎『文学的回想』晶文社より)
「アーサーよ、お前は床屋になれ」と
ビリー兄さんは手紙に書いてきた
四郎のその後の人生については
ここではふれない
ただ野間宏がこう書いていると
四郎自身が紹介していた
「私はひとり酒を飲みながらよく
私の横に長谷川四郎がいるのを思い浮かべるが
この時彼の大きい身体は小さくなり、彼は
みみずく
野兎
かわうそ
のような姿をして、私をからかうのだ」(同書)
これはいい話、すばらしい話だ
人間だって、他の人間の想像力の中で
こうした動物を演じることができるなら
そのときわれわれの生は根本的に贖われ
(贖うとは「罪ほろぼし」をすること)
われわれはいつか北の強い風に吹かれて
はればれとした顔で笑っているだろう
みみずく、野兎、かわうそとともに
からかうように
からかわれるように
笑っている
ありがとう
動物たち

函館市中央図書館、二〇二三年三月一二日、晴れ

*吉田美和子『吉田一穂の世界』(小沢書店、一九九八年)より

話の話 第2話:行方知れずの人々

戸田昌子

すぐ行方知れずになる人、というのがいる。たいてい親族のなかに一人はいたりするものだが、私のオジサンという人がそうだった。訳あって高校をドロップアウトして以降、定職についたことがなく、なにをしているかはいつも不明。毎年2月ごろふらりとやってきて、私たちきょうだいにお年玉を渡して、季節外れの雑煮を母に作らせて食って帰る。なぜ2月かというと、正月を迎えてから、「おお、正月か……」と気付き、それから日雇いに出かけ、お金を作ってから我が家に来るからである(私のきょうだいは6人だから、お年玉の算段は簡単ではないのである)。そのため子どもたちは、正月早々にオジサンが来ない、ということは知っているのだが、「今年はいつになるのかねぇ」と楽しみに待ち構えるのである。

そのオジサンが、ある時、ガリガリに痩せてふらりとあらわれた。母に「コーヒーをくれ」と言って、砂糖をたっぷり入れてぐるぐるかき混ぜて、美味しそうに飲んでいる。何かの病気なのかと心配する私に、ボソリと、「人間ってさ、メシを食わないとどうなるのかと思ってさ。2週間、何も食ってないんだけどさ。けっこう平気なもんだな」と言って、コーヒーをすすっている。それから「なんか食わしてくれ」と言って、母に雑煮を作らせ、旨そうに食べた。そのあと、最後に行方不明になってから10年は経過しているので、この世を放浪しているとはあまり思われない。

いつ現れるか予測がつかないのに、なんだかふと気づくといたりする、ふらふらしている人の代表格が、私にとってのカウチさんである。カウチさんは、私にTwitterをやれと言った人である。「なんか戸田さん、向いてると思うんですよねTwitter」というのである。「賑やかな往来に面した喫茶店でおしゃべりしているみたいな場所」なのだとカウチさんは言っている。

カウチさんがはじめて我が家へ来たのがいつだったのかは思い出せない。確か7、8年前に一度来たはずだっだが、そのときカウチさんがあたりまえの大人ぶった手土産などを持参したはずはないが、そこで何時間滞在し、何の話をしたのだったかすらも覚えていない。そのあと来たのは、彼女が編集した本を持ってきたときである。カウチさんは長年、個人的に河田桟さんの本の編集を担当しているのだが、『馬語手帖』『はしっこに、馬といる』に続く3冊目となる『くらやみに、馬といる』(すべてカディブックス刊行)を作っていたとき、突然、表紙候補の2枚の写真を送ってきて、「どっちがいいですかね」とわたしに聞いた。わたしは自分のそういうものを選ぶセンス(ある意味での思い切りの勇気)が自分にないことを知っているので、娘にたずねた。暗闇のなかでたてがみらしき毛をぼさぼさとさせた馬のぼんやりした写真と、数頭の馬が薄暗がりに佇んでいる写真である。娘は、前者のぼんやり写真をゆびさし「こっち」と即答した。それは馬であるということがわかりやすい写真ではないのだけれど、「くらやみと言うのだから、馬の形がわかることは必要ない」、というのが娘の答えだった。そういうわけで、私がその本を5冊ほど購入したいので郵便で送ってほしいと頼んだら、「私は郵便を送るのは苦手だから、ポストに入れに行きますね」とカウチさんはなぜか一方的に言って、私が知らないうちに来てマンションの郵便受けにその本を詰め込んで帰ってしまった。私が帰宅すると夫が、なにやら不審な顔をしている。そして「誰かが郵便受けに変なものを詰めていったから、新聞が入らなかったみたい。知り合い?」と私にもごもごと言うのである。

そして先日、2度目(3度目?)に、今回は玄関からちゃんと入って来ようとしたカウチさんは「警察だぁ!開けろ!」と低い声で唸りながら我が家に押し入った。その前夜、仕事のため徹夜していたカウチさんは我が家の台所がまるで引っ越し前のようだとケチをつけたり、天井に達する本棚に感嘆して大きな声を出したり、MRIが出すノイズの「ズンドコズンドコ」を真似たりしながら1時間あまりノンストップで喋り続け、しまいに終電が無くなると言い放って突然帰っていった。その一部始終は私のインスタグラムに動画として記録されている。

そもそも彼女とは、1年に1度だって会っているわけではないし、彼女と遊んだことはないような気がする。初めて会ったのは私が30年ほど関わっている「岡村昭彦の会」の年一回の会合で、カウチさんはで、大勢の前で自己紹介を求められて「編集者の賀内麻由子です。私は貧民窟で死ぬと思います」と言い放って、居合わせた人々の度肝を抜いたのだった。その姿はキラキラしていて、実に私のハートを射抜いた。だからパーティーで細野容子さんにあらためてカウチさんを紹介されたとき、自分が作っている本のことで相談したいので、あらためてお会いできませんかと私から話を持ちかけたのだった。この当時、カウチさんはメアリー・エイケンヘッドという、18世紀アイルランドのカトリックのシスターで、ホスピスのルーツとなる仕事をした人物の本を作っていた細野さんの担当編集者で、いちおうは会社員であった(いまも会社員ではあるらしい)。

初めての待ち合わせ場所に指定されたのは、JR御茶の水駅前の喫茶店「穂高」。紫煙ただよう出版関係者の巣窟として有名なところ(いまはたぶん紫煙は漂っていない。彼女は煙草呑みではないのに、そういう場所に入り浸る癖がある)。私がおよそ一人で入ったことはない店なので、「あの穂高か……」という、えも言われぬ気持ちで向かったら、その日は定休日。編集者というものはおよそ、こういった待ち合わせのアレンジメントに長けている人々だと私は思っていたから少し慌てた。幸い、当時すでにわれわれには携帯電話というものがあったので(なかったらどうなることか)、携帯でそのことを伝えると、少し遅れて現れたカウチさんは、慌てもせず「じゃあこっちで」と、人がやっと通れるくらいの怪しい路地へとスタスタ入っていき、喫茶店「ミロ」へと私を導いた。確かに存在は知ってはいたが入ろうと思ったことのない、昭和の香り漂う小さな喫茶店である。案内されたテーブルに座ると、水の入ったグラスに、15センチくらいの、ちょろりと根っこの出た長ネギが突き立っている。どう見ても長ネギである。長ネギの水耕栽培というのは聞いたことがないが、といぶかしく思っていると、カウチさんもちらりと目をやり「長ネギですね」と言ったが、それほど驚いた様子もなく「まあまあ、そういう店ですよ」と言った。そのあとの話は、ものすごく盛り上がったというわけではなかった気がする。カウチさんは、何かのけじめをつけるだか、自分なりの責任を取るだかの理由をぶつぶつと述べながら、これから会社をやめるのだと話していた。そのあとカウチさんは文字通り放浪の日々を過ごすようになるので、本の話は結局、何度か相談に乗ってもらったものの、仕事という形にはならなかった。

カウチさんは貧民窟で死ぬと言ったけれど、私は暴動のどさくさにまぎれて刺されて死ぬと思います、という話をしたことがある。するとカウチさんは、「どちらにしてもわれわれ、畳の上では死にませんよ」とあっさり言うのである。

そして私が知らないうちに、いつのまにか郵便を送ることができるようになったカウチさんは、昨年の末に、ダンボールでいろいろ送ってきた。入っていたのは、カウチさんが編集を担当した八巻美恵さんの新刊『水牛のように』(horo books、2022年)と、何種類もの珍妙なコーヒー、そして不思議で美しい色の毛糸玉が3つ。「ダンボールを閉じる瞬間、なぜか毛糸玉を入れたくなって。戸田さんは編み物はしないはずだと、何度も手を止めたんですが」と、カウチさんはあとで弁明する。世の中には、思わず変な行動をしてしまう人、というのが確かに存在するので、私はそれ以上の説明をカウチさんに求めなかった。

先日、詩人の白井明大さんがふいに「ビールを飲みませんか」とメッセージを送ってきた。面識はなかったのだが、私が、白井さんの「日本国憲法の詩訳」が掲載されたフリーペーパーを朗読したいなどとぶつぶつ言っていたのを小耳に挟んで、忘日舎という西荻窪の本屋さんを経由して、その小冊子を送ってくれたことがある(これは今年3月にKADOKAWAから『日本の憲法 最初の話』として出版されている)。白井さん、忘日舍、そして私をうまくつないだのはやはりカウチさんだった。そういうわけだから、ビールは白井さんと、カウチさんと、3人で飲むことになった。桜の季節に都電荒川線沿線をふらふらして、巣鴨に辿り着いて、たこ焼きをアテにビールを飲んだ。カウチさんは意外なことに下戸である。そのわりにはいつも少し酒が入っているかのようなテンションのカウチさんと、内気ぶって寡黙だがニヤニヤしている白井さんと、出まかせに思いついたことをしゃべり続ける私の、3人の話はあてもなく漂って、どうやらこの3人は同じ星の住人らしいと私は結論することになる。散歩中、カウチさんの姿は何度も見失われ、私と白井さんがあわてて追いかけたのは当然の顛末であった。

どこかへすっとんで行ってしまう癖はどこか私にもあるようで、同じ場所にいると息苦しいようなところがある。まだ娘が幼稚園に通っていた頃、イスラエルに来ませんかと言われて、「そうねぇ、一度はキブツを見てみたいし」というような理由で行ったことがある。10日間も留守にするとは言えず、2、3日で帰ってくるような雰囲気をかもして出立した。母が当面、帰ってこないと知った娘は、気丈に振る舞っていたそうだが、電車のなかで航空会社の宣伝写真をみてふいに「ママは飛行機に乗って行ってしまったよ、もう帰ってこないかもしれないよ」と涙をぽろぽろこぼしていたという。それ以来、私は娘にまったく信用されなくなり、出かけるときは帰宅時間を紙に書かされ提出させられるという日々が続くことになる。

想像の先にある想像の世界

笠井瑞丈

北海道までの車旅
ただただ車を北に走らす
見たことこのない景色を想像し
夕方の青森港のフェーリ乗り場
初めて車に乗りながら船に乗船する
暗闇を掻き分け冷たい深い海を渡る

70年前ここで起きた洞爺丸事故
1000人近くの人が亡くなった

この海で祖父は命を
この冷たい海の中で
最後の刻を迎えた

想像できない
苦しみだっただろう

そんな事を考えて
函館港が暗闇の向こうから
少しずつ少しずつ迫ってくる
同じ日本なのに外国に旅してる
初めて車に乗りながら船から下船
窓を開け冷たい空気を吸い込む

『はるばる来たぜ函館』
北島三郎の曲をかけてみた
遠くに輝く函館の街を左に
再び広い道をただただ北へ
高速道路ヘッドライトの前に
鹿が歩いている
北海道に着いた

室蘭で車中泊

日本最北端の宗谷岬を目指す
漁港の近くにある海鮮食堂へ
海鮮ラーメンを食べ出発する
高速に乗り札幌を抜け
海岸横を走る231号線
夕方宗谷岬に到着
海の向こうの景色を想像する
この向こうにはすぐサハリンが
どのような生活があるのだろう
ただ想像してみる

枝幸町で車中泊

網走を目指す
一度行ってみたかった網走刑務所
あまり観光スポットは行かないけど
ここに来て知ったのだけど
昔は違う場所にあり
昔あった場所から移され
今は博物館として運営されている
よく何棟もあるこんな大きな建物を
ここまで運んで来れたものだ
博物館から10分くらい離れたところに
今の網走刑務所がある
正門まで行ってみる
この壁の奥にはどのような景色が
どのような生活があるのだろう
ただ想像してみる

釧路で車中泊

帯広を抜け苫小牧へ
車の旅での生命線と言ってもいい
シガーソケットが故障してしまう
携帯の充電
バッリーの充電
全てができない
近くのディラーに車を持っていき
修理可能かみてもらう
部品の交換が必要で
部品の取り寄せには
一週間かかるとのこと
待つことはできない
諦めオートバックス
簡易的なシガーソケットが置いてある
店員にこれをつけれるかと尋ねてみる
とても親切な店員さんがなんとか
応急処置的に裏の配線からうまく線を繋ぎ
シガーソケットをつけてくれた
予定外の時間をロスする
この旅一番の危機を脱して
目的地の函館を目指す

函館で車中泊

函館港で車に乗りながらフェリーに乗船
帰りは青森港ではなく大間港を目指す
一時間半の船旅大間港で下船
なぜかまだ家には程遠いのに
戻ってきたってという気分に
広い北海道を大体一周した
あとは現実の世界
東京に戻るだけだ

どこにいたとしても想像すれば
そこはヨーロッパにもなるし
そこはニューヨークにもなる

でもやはり旅というのは
その土地の匂いや空気に触れ
まだ見たことのない色そして景色
そこに行かなきゃ感じることのできない
想像の先にある想像の世界なのだ

まだ無限に広がる
想像の世界を
どこまでも
見たいと思う

また旅に出よう

仙台ネイティブのつぶやき(82)老いのあとさき

西大立目祥子

 93歳になる叔母が、このところめっきり弱ってきた。90歳過ぎてなお一人暮らしで、毎日台所に立ち食事の仕度をしていたのに、昨秋、夜に猛烈な腰の痛みに襲われて救急搬送され、10日間の入院をしてからというもの、一気にカラダのあちこちにガタがきた感じ。70代のときに腰のすべり症とか脊柱菅狭窄症とかいろいろな問題が出てきて、相当迷いながら手術ではなく筋肉をつける選択をして何とかもちこたえていたのに、さすがに90歳を過ぎて筋力も限界なのかもしれない。

 叔母の家は標高120メートルほどの山に開かれた団地にある。てっぺんにある植物園まで週に何度かは歩いて登り野草を眺めて木々のスケッチをするのが、鍛錬をかねた楽しみだった。急坂を下って国道のわきのポストまでハガキを出しにいったり、そんなことも1年前にはできていたのに。

 この1月に1週間、お試しで老健施設に入ると、さらに症状が悪化した。「ごはんの時間に食堂に集まったって、だれもひと言も話さないんだもの。すぐにじぶんの部屋に引き上げて」退所したときの口ぶりは、めずらしく愚痴っぽかった。立ったり、座ったり、歩いたり、話したり。ひとのカラダの筋肉のひとつひとつは、日常生活の意識もしていない動作の連続で維持されているとあらためて思う。母が昨夏コロナ騒ぎで5日間入院したときも、つかまり立ちしないと立っていられないほど衰えた。筋力に余力がない年寄りは、数日じっとする生活を強いられただけで相当なダメージを受けてしまうようだ。

 家の中でもカートを押すようになり、それでも何度か転倒した。明け方にトイレに起き、寝室に戻ったもののベッドに上がれなくなったこともあった。転ぶとひとりでは起き上がれないから、そのたびにクルマで10分くらいのところに暮らす息子を呼び出したり、契約している防犯会社にブザーを押して知らせて何とか窮地を切り抜けている。「たった50センチのベッドに足が上がらない。ロックかかったみたいに動かないの」訴えとも違う独り言のようにつぶやく叔母のひと言に、意思と身体のズレ感の大きさを感じてしまう。

 階段を上がろうとしても右足が段差を越えるほどに上がらず、デイサービスから帰ってくるときは両側からの介助が必要になってきた。「じぶんでは一生懸命上げようとしているのに、ダメなのね」と叔母がいう。いつのまにか、湯のみ茶碗はマグカップに、箸はプラスチックのスプーンに変わった。足腰のような大きな筋肉だけでなく、手指の小さな筋肉も細やかな動きをとれなくなっているのだろう。叔母の衰えは、小さな筋肉の痛みが最初の徴候として始まっている。

 つかんだはずの湯呑が手のひらから滑り落ち、持ち上げた箸がテーブルに転げ、50センチの高さのベッドに座ることもできなくなったらどうなるか。胸の内のイライラややるせなさはどれほどのものか。私自身、このところ大勢の人に会うとすぐくたびれるし、やらなければならない仕事のとっかかりは遅いし、集中は続かないし、やれやれと思うことが多いが、それが動作のひとつひとつに及んだら、それは日々目の前にそそり立つ壁のように感じられることだろう。この15年、カラダは元気なのに頭がみるみる衰えていく母を見続けてきた。叔母は頭はしっかりしているのに、ここにきてカラダがいうことをきかないことに苦しんでいる。長く生きることは、頭とカラダのくい違いに耐えることを人に強いる。

 2月の頭に93歳を迎えた叔母にスケッチブックを2冊プレゼントに持っていくと、「生きているうちに2冊も使えない。1冊でいい」と返そうとしたのだけれど、3月に窓の外に椿が花を咲かせると、水彩絵具で真紅の花を描き出した。白い紙にこぼれるように描かれた椿の赤に、叔母の中にまだ燃えている生命力を見たような気がして、私の気持ちもぱっと明るくなった。日に日に増してくる春の日差しに感応したのだろうか。次に訪ねたときは、壁に画鋲でとめておいた片岡球子の富士山の年賀状を見て気持ちが動いたのか、カラフルな富士山のクレパス画が上がっていた。次の週は『片岡球子全版画』という画集を図書館から借りて持っていき、富士山の下に決まって描いている花は富士山への献花なんだってよ、と話すと、「片岡球子はいいねえ。色がすばらしい、しばらくこの本見てていいの?」とページをめくっている。訪ねたときは決まって1時間半ほどおしゃべりするのだが、特に絵の話題になると話しているうちに声にハリがみなぎってきて、私よりむしろ叔母のおしゃべりが止まらない。

 少しずつ、動かないからだと折り合いをつけていくのだろうか。創意工夫の人でもあり、じぶんを遠くから眺めることもできる人だからなのか、こんなに長くつらい思いをして生きなくたっていいといいつつ、老いる我が身をためつすがめつしているところがあって、この間は、「足元に手が届かない年寄りの靴下のはき方」を伝授してくれた。靴下を絨毯とかカーペットの床にぽんと並べ置き、靴べらを使って足を差し込み、ざらざらした床と靴下の摩擦力をうまく利用してかかとまでを納めるというやり方。「あんたも、カラダが動かなくなった人から靴下をどうやって履いているか聞いて本つくってよ」などと話し、こうなるとカラダの不自由さがどこかユーモアをおびてきて、こちらも気が少し楽になる。

 先日、まだ日が高い時間に、カートを押していて叔母はまた転倒した。仰向けにひっくり返って、さてどうしようかと考えたのだそうだ。スマホはテーブルの上。警備会社のブザーがぶら下がるベッドまでは2メートル。小一時間かけて、ベッドまで匍匐前進ならぬ背進(?)を続けブザーにタッチ、すぐにやってきた会社の人は、リビングのガラス越しにひっくり返って玄関の方向を指さしている叔母を見て「何やっているんですか?」と声をかけたというのだから、笑ってしまった。結局、すべて施錠されていたために仙台市消防局が台所の小窓を突き破って入り、またしても救急搬送。

 ねぇ、どうしたって転ぶんだから、転ばないように気をつけるより、転んだらなんとかハイハイできるように鍛錬したら? 私の提案も、知らない人が聞いたらただのおふざけのような中身になってきた。が、もちろん本気。私の義母は大正生まれの人だったが、生涯を畳で暮らし、歩けなくなってからも畳の上を這って移動しほぼ自立した生活を送った。椅子より座に暮らす方が、最後は助けとなるかもしれない。私もときどき床にごろんと横になり、からだの向きを変え、ハイハイしてみる。

 最近、叔母は話し疲れるとすぐ昼寝する。リビングに移動したベッドに横になると「ああ、寝るほど楽はなかりけり」と笑みを浮かべて目を閉じる。カーテン閉めて、という庭の向こうには、崖の斜面の上に大木の桜が枯れた姿をさらしている。樹齢はたぶん300年超え、毎年まわりの桜が終わり新緑に変わる頃に、風格ある幹のてっぺんにゆっくりと淡い色の花をつけてきた。叔母が絵のモチーフにして何度も描き「この桜と私とどっちが先に逝くか」と話していた木だ。
数年前、描いている最中に、桜は地響きを立てて、張り出していた太い幹のような枝を落とした。そしてついに枯れた。まわりは緑に燃え命があふれているのに、その木だけは異形の姿というのかツヤを失い茶色い杭のように突っ立つ。この命絶えた木のことを叔母はもう何もいわない。墓標のような太い幹を前に、私も何も聞かないでいる。

感覚の刹那と論理の間

高橋悠治

ピアノの鍵盤を道具として、指で触れた場所を耳で確かめながら進む。蝶がとまる場所を変えるように軽く触れて。見えない風や光の移るままに。長く留まった場所が重みで沈まないように、そこにいても、すぐに移れるように、でも構えはなく。

感覚はその刹那だけ、論理は、それを他の音と結ぼうとする。時間のなかで変化する音を楽譜に書けるような空間のなかの図式とみなせば、枠に入れられる形が生まれ、それを刻むあいだ、時間は停まる。過ぎてゆく音を形にまとめる作業が音楽と言われるのだろうか。

限られた範囲で指が動く。その時、予測される道ではなく、その時に指の歩いた跡を書き留めて、それを最初の線とする。見えない魚に引かれて動く浮きとおなじに、動かないものを外から動かす痙攣をあちこちで試す、他力を映す釣り糸の浮き、動きの遅れ。先立つ計らいもなく、整った反復もない。動くのではなく、動かされている、という感じ。元に戻れない、だから繰り返せない、すると即興であったも、書き留めておかないと忘れてしまう、逆に、書き留めてれば、おなじことを二度やらないで済む、でも、本当にそうだろうか。

書かれた楽譜を弾いてみる、おなじように、でも、おなじにはならない、わずかなちがいから、それまで見えなかった隙間、そこから垣間見る別な解決。それが一通りでなくありうるなら、どれをとっても、そこからの風景は変わってくる、そこまでの成り行きにも、その選択が影を落としているのは、その時はわからなくても、次の機会にわかるかもしれない。

指が表面を歩き回る。指は音を出すために、ある時間にはじまって、留まる場所を変えていく。これが指先に現れた身体の変化の流れで、外側からは、その指の動きから作られる音を通して感じられる身体の変化が、別な身体に押し付ける変化の波となって、その時間を染めているとしようか。
 
響きは、音の変化に連れて、聴く身体の内側で動き回る、痺れるような感覚の矢を感じとるうちに、生まれてくる、ことばにならない「もどかしさ」とでも言おうか。こうして、あるいは散り、あるいは絡まる音を聴く人は静まっていく。

2023年4月1日(土)

水牛だより

久しぶりに光のあふれる午後。道ゆく人たちはおもいおもいの衣服を着ています。分厚いコート、薄いコート、カーディガンやセーターから半袖のTシャツまで、どんなものを着ていても快適に過ごせるのはいまだけの気候なのかもしれません。

「水牛のように」を2023年4月1日号に更新しました。
今月はじめてご紹介するのは浅生ハルミンさんと戸田昌子さんです。
浅生ハルミンさんの名前を知ったのは、かわいいねこのパラパラ漫画を買ったとき、もうずいぶん前のことです。去年の暮れに、浅生さんが「本の雑誌」でこけしについての連載を始めたことを知りました。父がこけしを集めていて、死後にその大部分を手放しましたが、ほんの少し、自分が気に入った小さなのをいくつか取ってあり、いずれは誰かにあげようと思っていたのです。あげるべき人は浅生さんではあるまいか、というわけで、無事にもらってもらいました。こけしもわたしのところにいるよりしあわせです。夢の話を書くこともそのときにゆったり自然に決まり、今月からスタートです。夢のなかの世田谷はすてきなところですね、ちょっとこわいけれど。
戸田昌子さんがきのう3月31日の午後「くだらない話をエッセイにしてみたい」とツイートしているのを見て、「読みたい」と反応したところ、「書きたい」とすぐに返信があったのでした。それなら水牛に、という自然な流れになりました。ひと月あとの5月から書いてもらうのが穏当だろうと思いましたが、間に合えば、4月1日に載せますよと言ってみたら、夜中にちゃんと原稿が届いていたのでした。戸田さんとはまだこのやりとりだけの関係しかありませんが、これから毎月楽しめそうです。ふたりで思わず自然な急流に乗っちゃったね、という感じ。
福島亮さんがパリから帰国したので、ベルヴィル日記は最終回です。先月お知らせした「思想」3月号の特集「雑誌・文化・運動――第三世界からの挑戦」を主題とする共同討議が4月15日に行われ、福島さんも水牛について発言されるようです。ぜひご参加ください。詳細はこちらのツイートから。
藤井貞和さんの「良心」というタイトルは、本文と同じように横線で消されている指定でしたが、いま使っている水牛の形式ではそれを反映出来ません。残念です。言おうとしても消される「良心」をまずはタイトルで伝えたかったと思います。

それでは、来月もまた!(八巻美恵)

ゆうべ見た夢

浅生ハルミン

 昼間でも夜ベッドに入った時でも、目をつむると暗黒の空間があらわれますが、それはどのくらいの面積や高さや奥行きがありますか。私の場合、両目を起点にして顔の周りに、西瓜を切り分けたような、櫛形のステージが見えます。今ちょっとやってみたら、扇型であるような気もしてきました。天井は行き止まりではなさそうな、逆・底なしの井戸という感じもするし、意外と浅いような気もします。意識が眠りにほうに傾いていくと、櫛形のステージの輪郭も曖昧にぼやけて、次に気がつくのは目が覚めたときです。
 その目覚めの直前に、私は夢を見ています。夢の中ではJR山手線の日暮里駅と上野駅の間に岩井駅という駅が増えていたり、会ったことのない有名人が私に欲しいものを授けてくれたり、そうしたあり得ない出来事が何食わぬ感じで連鎖しています。自分では考えつかないようなストーリーの夢を見ることもあります。夢から覚めた時の気持ちは「なんだったんだ、ああ面白かった」。掛け布団を払い除けて、歯を磨くと水に流されてしまう気がするので磨かず、忘れないうちにメモをしたり、Twitterに書き込みます。指先からつるつると、チューブの絵の具のように押し出されてくる言葉や場面の連なりは、本当に私が考えたことなんだろうか。もし私が考えていないとしたら誰が考えているんだろうか。

   ✳︎

 長い夢を見た。出来事が鮮明ですごかった。――春、夢の中で私は山手通りを歩いているようだった。その辺りは道路拡張のせいで、長いあいだ工事をしていた。蕎麦屋、焼き鳥屋、ピッツェリア、自転車屋、生花店、中華飯店が並んでいた。そこに放置自転車やバイクや工事用ガードフェンスが混じり込んだ、落ち着かない景色だった。それを私は見慣れた景色のように感じているようだった。川沿いの桜並木に提灯が下げられて、遠い町からも花見客がやってきて観光地のように混雑していた。
 その古い一軒家のお店。いつもシャッターが降りているのに、珍しく途中まで上がっている。シャッターは一枚ものではなく、右半分と左半分に分かれ、独立して上げ下げが可能なタイプで、今は左半分が上がっているので白いスプレーペンキで落書きされた「silence」という文字が「nce」とだけ見えている。確かこの店は、元気な時は印鑑屋さんだったような気がした。店内は商品も什器もなんにもない、すべて取り払われて、ざらざらとした土埃が入り込んでいた。おじいさんが折りたたみ椅子に腰掛けて、お店を営業していた時分もそのように腰掛けていたんだろう、という様子で店番をしていた。売り場の奥には六畳間があって、そのまた奥には縁側もあるようだった。ガラス戸は開け放たれて、おんぼろなのに気持ちが良く、木っ端と土埃の積もった六畳間にはよく陽が当っていた。
 おじいさんは阪神タイガースのユニフォームを着て、黄色いメガホンを首から下げていた。印鑑屋さんは阪神ファンだったのか。こんな格好で店番だなんて、この界隈の名物おじいさんかなにか? まあそのお歳までお店を続けてこられたとなれば、好きな服を着たっていいよね、と私は納得していた。
 おじいさんは立ち上がった。背が高くてひょろりとしていた。足元に灰色の猫が二匹、まとわりついて遊んでいる。
 はんこ屋さん、猫飼ってたんですね。
私はしゃがんで猫を撫でようとした。
「猫とね、いつも一緒にいてね。猫がいないなんて考えらんないよ」
 ですよねえ、はんこ屋さんは猫好きだったんですね。
「好きなんてもんじゃないよ。ずっと一緒だよ」
 私も猫すきです。ちょっと触っていいですか。
おじいさんは、「どうぞどうぞ」と言って、パイプ椅子を店の外に持ち出して自分はそこに座った。私は思う存分猫を触ったり、床で猫と同じ低い目線になることを楽しんだ。おじいさんは自分の猫歴を語り、世田谷区の奥地にある川辺でこの猫たちを拾ったと言った。
 
 私は、その世田谷の奥地をくねくね蛇行して流れる川辺まで歩いていった。カラスノエンドウやオオイヌノフグリがはびこって、晴れた空をさえぎるもののない土の道を気持ちよく歩いた。ハナニラや野生のチューリップの匂いがして、もう何十年も前の春、小学校に入学した四月、自分の家から初めてひとりきりで遠くにある学校まで歩いた時、自分の家の庭の松やさつきといった、その時は老人趣味と思えて無視していた庭木ではない可憐な花が、通学路の途中の野原に勝手気ままに生えているの目の当たりにして、まるで外国に来たみたいな夢うつつな気持ちになったことが思い出された。夢うつつ、というのは、欧米の少女が野の花を摘んで髪の毛に編み込む「ティモテ」のような感じを思っていただけたら幸いです。話がずれてしまいましたが、夢の中で夢うつつになったり、思い出が蘇るなんておかしいかもしれないけれど、春の野草のはびこった景色と、そのむうんとした匂いは私の脳内でセットになっている。夢の中でも。匂いの記憶は、脳味噌のどのあたりに格納されているのか私は知るに至っておりませんが、春の植物の匂いを感じると、身体の奥底に何かが湧き出たり、もよおしたりしませんか。

 おじいさんの言ったとおり、私は世田谷の奥地の川を歩いたのちに、荻窪であるらしき見知らぬ住宅地をさまよった。そこは、実際には荻窪とは何十キロも離れている、我が家の近所のお地蔵さんのあるY字路の、いつも行かない方の道の先にある町として夢にあらわれた。穏やかな町を歩きながら、おじいさんの猫歴と縁のある場所をたどり、おじいさんが猫と過ごした時間を想像して、私は夢の中でひと仕事終えた満足な気持ちになっていた。
 川に行ったことをおじいさんに報告しようと思った。店の前まで行ってみるとシャッターが降りていた。当分は開きそうにない雰囲気だった。そうだよねえ、そんなにちょうどよく開いているわけがないよねえと肩を落とした。生花店のご主人がじょうろを持って店から出てきた。店先の売り物の鉢植えに水分補給をしているようだった。
 はんこ屋さん、今度はいつ開きそうですか?
「はんこ屋さんはおじいさんがずいぶん前に亡くなって、息子さんが今度ビルに建て替えるって言ってたよ。もう商売やめちゃうんじゃないかなあ。だってこの通りははんこ屋さんが他に2軒もあるからねえ」
 確かに同じ通りに成美堂、善文堂というお店が並んでいた。おじいさんの印鑑屋さんの閉まったままのシャッターには、「silence」というスプレーの落書きがあいかわらず、消されずにあった。よく見るとその下から「宮尾印店」という太字の屋号が浮かび上がってきた。えっ?ミャオですか?

話の話 第1話:寝返りはうたない

戸田昌子

私の母方の祖母は、名前はコンさんと言って、大正時代の生まれ、福島の出身である。曽祖母は早いうちに亡くなってしまい、その後妻さんのもとに次々生まれた子どもたちの家には居づらかったようで、18歳で東京に出た。手に職もないので、まず准看護婦になり、順天堂病院で働いていたが、その後、試験を受けて看護婦になった。学校を出ていないので、注射を練習する機会がない。そのため病院の中で一番上手だと言われる先生の横に張り付いて、その指先を睨みつけながら自己研究を重ねた。ある日、「お前、注射が打てるか」と医師に尋ねられる。なぜか「打てます」と即答した祖母は、迷いのない手つきで支度をして患者さんの腕にブスリ。その注射針が見事に血管をとらえ、それ以来、「注射の得意な看護婦さん」として信頼されるようになったそうである。

わりあいに大胆な性格の人だったらしい、というのはこのエピソードからも知れるが、人にへこへこするようなタイプではもちろんなく、遠慮がなくて口さがないところもあったらしい。ある日のこと。とある医師、もうそろそろ頭頂部のヘアが後退してきていて、それをどうにかうまく見せようと、耳の脇側に僅かに残ったヘアを、櫛とポマードで撫ぜあげてご出勤。それを見た祖母が一言、

「あーら綺麗に並んだ夜店のステッキ」

「おまえは全くもう!」

となったらしいが、これにはきっと解説が必要でしょう。ここで言われている「夜店のステッキ」というのは、木村伊兵衛の写真などにもしばしば写りこんだりしているもので、むかし、縁日の夜店などで売られていたステッキのことをさす。見栄え良くきちんと並べられた夜店のステッキのように、束状の髪の毛が均等にぴしりと整列したさまを述べた表現で、電飾のキラキラした夜店の風情をたたえた、なかなか風雅な表現であると言える。朝っぱらから開口一番、言われた方はたまったものではないが。今で言うなら「バーコードヘア」となるところ。

しかし私の記憶のなかにある祖母は、そういう口さがないおしゃべりをするような人ではなく、ただひたすらに、ニコニコした人。しばしば、実家の印刷屋の土間に置いてある、背丈ほどもあるペーパーカッターにぶら下がって紙を切っている祖母であった。祖母の足が宙に浮くと、ざり、という音を立てて紙が切れる。面白いものだとよく見惚れていた。今、あらためて写真を見てみると、小柄で綺麗な足をしていて、ハイヒールがよく似合っている。祖母は従軍看護婦として大陸へ渡っており、当地で紹介する人があって写真師の祖父と結婚した。北京に住んでいたころは、ダンスホールが好きでよく踊りに行っていたとか。物おじしないので軍人さんに好かれて可愛がられた、という話が伝えられている。

ある日、母方の叔母さんがうちに来て、お布団を洗ったのだ、という話をひとしきりしていった。お布団を丸洗いをしてくれるサービスがあるのだけど知っている?という話題で、その営業マンが家にやってきたのだと言う。「でも、何パーセントかは縮みますよ」と営業マン。「あら、お座布団みたいになるのかしら?」と叔母。「いや、そんなことはないですけど、ちょっと固くなります」「あら、おせんべみたいにパリパリになっちゃう?」「いや、そんなことはありません」「それなら問題ないわ、よろしくお願いします」とお願いしたのだそうである。叔母の話のなかでは、ふかふかのお布団は小さなお座布団やおせんべのように伸び縮みしてしまう。叔母のこういった調子の良さは、どうやら祖母ゆずりのようである。

お布団といえば、むかし、「せんべい布団」という言葉があった。いまや布団はどれも化繊で、潰れればぺちゃんこと言うよりただのヒラヒラ、せんべいにすらならないのだが、昔のお布団は真綿が入っていたので、潰れれば濡れせんべいのごとく芯のあるぺちゃんこになり、わりあい寝やすい布団であったという記憶がある。我が家は六人きょうだいなので、もちろんベッドを置くスペースなどはなく、毎朝毎晩、布団の上げ下げをしていた。シングル布団に子どもが二人ずつ寝るのである。私はすぐ下の妹と、このせんべい布団を半分ずつ分け合って寝ていたのだが、寝相の悪い子どもたちのこと、すぐに領域侵犯をしあってしまう。そのため足が少しでも中心線を飛び出してくると、相手の足を蹴りかえして押し戻す。しかし寝ぼけているので、ある朝、目覚めたら、妹を完全に布団から蹴り出していたことがあった。幸いなことに妹は眠りが深いので、足で転がしてそのまま布団に押し戻し、私の過失はなかったことになった。こうしたさまざまな経験を経て、私は直立不動で眠る癖がついた。いまだに寝返りはうたない。妹の寝起きは後々になるまで非常に悪かった。

寝起きエピソードと言えば、ピアニストの姉。私のきょうだいは全員、母の希望で、それぞれにピアノを習わされたのだが、一人最後までピアノを続けて音大へ行き、結局、ピアニストになってしまったのが一番上の姉である。ある日、妹が姉を起こしに行く。姉がなにかもごもご言っている。妹が「だめよ!ようこちゃん!小指動かしたってダメ!起きて!」叫んでいる。なんのことかと思ったら、(起きてるよ……もう大丈夫だよ……ゆうちゃん……)と声に出して言いたいのに、眠たくてなかなか声が出ないので、仕方なく指を動かして合図しようとしたらしい。しかしその前夜、寝る直前まで左手小指のトレーニングを続けていたので、なぜか一番最初に左手の小指が動いてしまったのだという話だった。姉は朝ごはんをもりもり食べながら「さすがのピアニスト根性」と自画自賛している。妹はそういった他人の過失を、目覚めている限りは、決して見逃さない。

そういえば、私は布団を燃やしたことがある。私が大学生になったころ、姉がフランスに留学するというので家を出、そのあと二番目の姉が自活のため家を出て、兄と弟は別々の部屋をもらったので、私は子ども部屋で一人寝起きするようになっていた。ある時、思いついて、友達を呼んで部屋で鍋パーティーをした。しかし部屋に換気扇がないので、部屋中に食べ物の匂いが充満してしまい、どうにもこうにも気持ちが悪い。仕方ないので、真冬の夜ではあるものの、窓を全開にして寝ていたが、さすがに寒いので、電気ストーブを布団の脇に置いていた。それが間違いのもとであった。この電気ストーブは、アルミホイルを乗せて卵を割れば目玉焼きができるほど加熱してしまうような電気ストーブである(実験済み)。これを布団の脇に置いていたために、次第に掛け布団が加熱され、真綿に火がついて、こもったような状態でジリジリと焦げ始めた。夜中、なぜかふと目覚めた私は、布団が妙に熱いことに気づき、ほかほかと熱を発しているその状況を見て、(困ったな)と寝ぼけた頭で考えた。布団が何かの拍子に一気に燃え上がることは知識として知っていたので、事は一刻を争うのはわかっている。ゆっくりと起き上がり、スタスタと廊下に出てコップに水を汲んできて、ジャッと布団にかけてみた。消えない。もう1杯。消えない。3杯目。消えてきた。4杯目。だいたい消えた。

問題はそこからである。親を起こして怒られるのは、大学生にもなった身としては、さすがに面倒くさい。そしてとても眠い。考えるのは後回しにして、とりあえず寝よう。と、そう思い、そのまま布団をかぶって寝た。そして朝。忙しいので、そのまま布団をたたみ、押し入れに入れて、出かける。それを毎日続ける。そのうち、布団は乾いてくる。そうだ、カバーを縫い直そう、と思いつく。端切れを探し出し、パッチワークふうのカバーを作って、ふわっと包んで完成。これで無事に何もなかったことになった。その後も、親に燃した布団のことについて指摘されたことはないが、彼らは全く気づかなかったのだろうか。いつのまにかその布団も処分されていた。私はいまだに直立不動で寝ている。

ベルヴィル日記(17・最終回)

福島亮

 帰国して、約2週間経った。

 フランスでは、退職年齢の引き上げ——62歳から64歳(!)への引き上げ——に対する反対デモが巻き起こっており、鉄道の本数が減らされているから、空港まで無事に行くことができるか不安だった。荷造りはすっかり済ませてある。だからあとは11時25分発の飛行機に間に合うように家を出れば良い。鉄道を使う場合、家からシャルル・ド・ゴール国際空港まで通常ならば1時間くらいかかるから、7時に家を出れば十分間に合う。だが、デモで電車が止まってしまう危険がある。そこで、タクシーを呼ぶことにした。タクシーといっても、Uberのような配車アプリを使用するもので、目的地を設定し、登録したカードで料金を支払うと、近くを走っている登録車両が来てくれるらしい。普段は23kg以内におさめている手荷物も、今回ばかりは30kgほどありそうだ。なによりも鉄道が機能しないという状況だけはどうしても避けたい。というわけで、初めてのことなのだが、Free nowというアプリで車両を呼ぶことにした。

 タクシーには苦い思い出がある。留学する前、初めてカリブ海に行った帰りのことだ。どうしても電車では空港まで間に合いそうになく、タクシーを利用したところ、通常価格の4倍近い値段をぼったくられた。だから、アプリを通して先払いできるシステムは魅力的だと思った。配車を依頼し、支払いを済ませてから、私は30kgの荷物をエレベーター無しの7階(フランスでは1階を地上階と呼ぶので、日本でいう8階に相当する)からどうにか引き摺り下ろす。玄関を出る時、ポストに鍵を入れ、歴代の住人の名前が刻まれたその箱に別れの言葉をかけた。

 その日は火曜日だったので、ベルヴィル通りには市場が開かれていた。威勢の良い売り声や、風に乗って漂ってくる野菜や魚のにおいを嗅ぎながら、通りの隅で自動車がやってくるのを待つことにした。よく行く青菜の店に行くことももうないだろう。ここ最近、天井知らずに値上がりしている卵を不平を言いつつ買うことももうないだろう。そんなことを思いながら、5分、10分とタクシーの到来を待った。売り声が高く響いている。手元のスマートフォンには、配車依頼を受け取ったドライバーの位置が表示されている。だが、彼がやってくる気配はない。威勢の良い声が、まだ少し寒い春先の空気を震わせている。まだ車はやってこない。市場の客が次第に増え、いつもの賑やかさが漂い始めた。通りで待ち始めてから15分経った頃、ドライバーの表示が突如消えた。キャンセルされてしまったのである。またしても、私はタクシーで苦い経験をしたわけだ。

 メトロの入り口までできるだけ早く歩く。本当は走りたかったのだが、私の脚では走ったところでそこまで時間は変わらないし、右手に30kgのキャリーバッグ、左手に電子機器の入ったトートバッグ、背中には書物でパンパンに膨れ上がったリュックサック、といういでたちで走るのは危険である。転んで骨折でもしたらおおごとだ。キャリーバッグの車輪が軋んでいる。この小さいが有能な部品が、重さと道路の凸凹で壊れてしまうのではないかと不安だった。最寄りのメニルモンタン駅からメトロ2番線に乗り、まずラ・シャペル駅で降りる。ここから連絡通路を通って北駅まで行くのだが、そのためには比較的長い階段を降りる必要がある。30kgの荷物を憎みながら、意を決して階段を降りようとすると、スッと手が伸び、私の荷物を誰かが掴んだ。見るとそこには、背の高い、アフリカ系の青年が立っていて、「手伝うよ」と言う。カバンの取っ手を二人で持つと、先ほどまで憎らしく思っていたカバンが嘘のように軽い。私が持つべき重さを、彼が肩代わりしてくれたのだ。下まで二人で荷物を下ろし、礼を言う。彼は微笑み、立ち去った。

 連絡通路を通り抜けると、そこは北駅だ。空港へと通じる郊外線が走っている。Bと書かれた電車に乗る。中には私と同じよう格好の人々が乗っていた。やがて扉が閉まり、車両が揺れ、窓の外にはパリ郊外の住宅街が広がり始める。汗まみれになりながらどうにか鉄道に乗ったわけだが、心は穏やかだった。朝の柔らかい光の中に広がる集合住宅の群れを見ながら、私は、いましがた荷物を下ろすのを手伝ってくれた青年の微笑みを反芻していた。あの青年に会わせるために、タクシーはやってこなかったのではないか。ふとそんな考えが頭をよぎった。

「図書館詩集」6(暗闇が暗闇に見えないくらい)

管啓次郎

暗闇が暗闇に見えないくらい
視神経が昂っている
夜の火山に炎を見たせいか
こうして目が灼かれることがあるんだ
赤いマグマの光が空に映り
噴煙の中を稲妻が飛ぶんだ
子供たちは海釣りの堤防に並び
一斉に観測用の凧を上げている
いや、科学だけでなく
風神にも雷神にも奉仕するつもりか
それもまた夢の惑い
犬たちが鳴くような声がした気がして
だんだん目が覚めてきた
アイラ、アイラ
と海を渡ってゆく声がする
アイラ、カルデラ
と良く知らない言葉ばかりが聞こえる
Aira? Irie!
Mandala, gondola,
午後の内海を行くこの船の航跡も
空から見れば鳥たちがこの世を渡るための
曼陀羅に見えたりして
「桜の女王」という渡し船に乗って
しずかにこの火の島から離れてゆく
Sombra, penumbra,
しずかに予想を裏切ってゆく
運命の漂流だ
溶岩の海は潮の壺
精霊の学校のようにお行儀よく
魚たちが憩っているのは
ただ見えないだけかな
三つか四つの知らない言語が
ガヤガヤと響いている
海で鳴く小鳥の声は
彗星の沈黙
海で談話する人間たちの声は
過去にしか聞こえない
(過去のことばかり考えるのを
止めなくてはいけないな……)
だが水面をわたる風と
船のエンジン音が執拗に回帰するのだ
三十九年前にわたった国境地帯の湖では
かもめたちが遊ぶように飛んでついてきた
パン屑を求めていたのかもしれないが
人間は星屑のように話し声をばらまいて
山間の湖ではその標高のせいで
時間はそれだけゆっくり経過した
それを思うと海はほぼ絶対的に平等だ
月の引力や地形により上下することがあっても
海が海だというだけで「海抜」を語れる程度には
地球のどこでもおなじ高さにある
アルテミスとアマテラスの区別もつけないし
ましてや肌の色には無頓著に生きている
揺動の見破れないゆらぎにまぎれて
クラゲやウミウシがおとなしくしている
すばらしく落ち着いた存在たちだ
ああ、また思い出した、昔あの湖をわたるとき
ブラジル人の巨漢がいてイタリア人の真似をして
みんなを笑わせていたっけ
Mira, mira, mira!
Qué rico, qué maravilloso, qué divino!
正確にはイタリア人の真似ではなく
イタリア風の抑揚を保持する
ポルテーニョ(ブエノスアイレス)訛りの老女の演技
絵葉書むけの完全に美しい風景を見わたして
大袈裟な身振りで
胸のまえで祈るように両手を組んでそういうので
みんな笑った
イギリス人らしい幼い兄妹がその台詞を覚えてしまい
何度もくりかえすので
みんなまた笑った
初老の大男は一人旅だといった
なんでも手でふれてみたいんだと彼はいった
話に聞いたり写真で見たりするだけではなくてね
水があれば跳びこんでみせるよ
砂でもいいし火でもいい
生き延びることを保証してくれるなら
あの火口のようにエグゾティックな場所にでも
ためらうことなく入っていくさ
それは非常にむずかしいよ、とぼくは意見を述べた
きみときみの命が別離を決意したとき
そのとき初めてその行為を実現してよ
物にふれる(tocar)ことより
今は世界風景という幻の映画を一緒に楽しもうよ
なるほど楽しむのはいいが愉快だが
あのときたぶん六十歳を超えていたきみは
今では九十九歳にはなっているだろうし
きみの真似をしていたあの幼い兄妹も
立派な中年か死者になっていることだろう
そのさびしさ
火山の一呼吸のあいだに
人は何十世代を魚のように生きるのか
安永の大噴火では井戸が沸騰し
海水は紫色に染まったそうです
山頂の黒煙の中に雷光が見えて
シラス大地の元となる火山灰が降った
そういえば大正三年の大噴火となると
それに遭遇した黒田清輝先生がみごとに描いていたっけ
ほら、さっき電車道の歩道に立っていた
あの小柄な銀色の男だよ
実際、噴火くらいすばらしいものは地上に他にない
ブルカノ式噴火も
プリニー式噴火も
ストロンボリ式噴火も
プレー式噴火も
そのつど人間の居住を再定義する
火山の魅力には抗しがたいものがある
カリブ海の島グアドループで
噴火が間近だといわれ地元住民が避難したあとの火山
ラ・スフリエールに登ってゆき
ドキュメンタリーを撮影したのは
ヴェルナー・ヘルツォーク
狂っている
どれだけ危ないかわからないのか
ヴェスヴィオ山といえばナポリ近郊
壊滅後のポンペイの調査におもむいたのが
偉大な学究、『博物誌』の大プリニウス(プリニー)
噴煙を吸い込んでそこで倒れて死んだ
この山に呼びかける美しい歌を書いたのは
スフィヤン・スティーヴンス
「ヴェスヴィアス、火の火
さあ、ぼくを追ってくれ
ぼくは幽霊の味方」
桜島の火口に次々に人々が跳びこむとしたら
それは陰惨な想像だな
跳びこむのが巨大な桜島だいこんなら
それは楽しい想像になる
ザビエルさまは十六世紀に鹿児島に上陸したとき
桜島をどうごらんになっていたことか
彼はナポリを見たことはあったのかしら
彼の時代ほとんどの陸路の旅は
みずから徒歩で行くしかなかっただろうから
(海岸をゆく船を利用したとしても)
気楽に行ける旅などまったくなかった
それが十六世紀の人だ
芭蕉さまだって十七世紀後半なのだ
いま気軽に旅をして
飛行機やバスが混んでいるといって文句をいう
われわれはバカだ
気を取り直して、いながらにして
詩の旅を試みるか
あらゆる詩は「書き直し」re-writingともいえるよ
あらゆる旅が「なぞり」であるのとおなじく
あらゆる顔が模倣であるように
すべて本歌あり、本歌取り
なるほど、だったら

黒森をなにといふともけさの雪(芭蕉)
シュヴァルツヴァルト言語喪失けさの雪(犬)
海くれて鴨のこゑほのかに白し(芭蕉)
海くれて鴨とかもめの暗黒誦(犬)
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き(芭蕉)
視野すべて水のうすぎぬ富士不可視(犬)

などと遊んでみるのもいいかもしれない
せっかく日本語を覚えたんだから
読み書きを覚えたんだから
それくらいの遊びがあってもいい
ところでザビエルが日本語を
どれだけ知っていたのかは知らない
彼にはお付きの日本人がいただろう
ヤジローはおそらく元海賊、人を殺して鹿児島を逃れ
ポルトガル船に乗り込んでマラッカに来た
改心して洗礼を受け
やがてザビエルを薩摩の坊津へと案内した
ヤジローはどんなポルトガル語を話したことか
ザビエルが日本で知り合った少年はベルナルド
日本名を残さなかったベルナルド
やがて初めてローマを見た日本人
「薩摩のベルナルド」*
ザビエルは二人の従者(フェルナンデスと
ベルナルド)とともに
堺で船を降りて陸路みやこをめざしたという
京までは二日の道のり
護衛付きの貴族の一隊に加わるかたちで
この旅をした
道中にはよく盗賊が出て危険なのだ
貴族を乗せた車か駕篭を追って
みんな小走りでついてゆく
ここでぼくが想像を好むのは
そのときのザビエルの姿だ
(これは後にベルナルドがローマで語った挿話)
貴族の馬車の後をザビエルは
上機嫌で柿を空中に投げ上げたり受け止めたりしながら
走ってついていったのだ
ザビエルはじつは遊び好きで快活な人だったのだろうか
別の時代に生まれたなら
バスクの競技ハイアライの選手にでもなっていたかも
このときのザビエルの姿を後にローマで語るベルナルドは
イエズス会の先輩たちに対して
いくらか得意に思っていたかもしれない
ジャグラーのように
少し息を切らせながらも
京にむかう高揚に疲れも感じず
空にむかって柿を投げ上げるフランシスコ
その薫陶を受けたベルナルドも
周囲の人々に強い印象を与えたらしい
慎み深く気高い精神だった
「彼と話した人は熱心に彼の言うことに耳を傾けた」
一五五四年のクリスマス前
ナポリでベルナルドに会った神父がそう記している
ナポリすなわちヴェスヴィオ火山が見える港町
それを見て桜島を思い出すなというほうが無理
薩摩のベルナルドは遠い火山に何を思ったことか
遠いザビエルにむかって感謝の言葉を送ったのか
ローマで教皇パウロ4世の足にくちづけを許されてから
ベルナルドは修行のためにポルトガルに戻り
病は癒えず
一五五七年の灰の水曜日に
コインブラ学院で死んだ
二十三歳だった
ザビエルの日本到着から
わずか八年後のことだった

天文館図書館(鹿児島市)、2023年3月7日、晴れ、噴煙あり

*ベルナルドの生涯についてはホアン・カトレット『薩摩のベルナルドの生涯 初めてヨーロッパに行った日本人』(高橋敦子訳、教友社、2013年)に学んだ。

製本かい摘みましては(181)

四釜裕子

この春、小学1年生になる親戚の子がランドセルを見せてくれた。落ち着いた水色だったのでちょっと驚いて、「薄紫と桃色が好きなんじゃなかったっけ?」と聞いたらば、「そう。だからランドセルは水色にしたの」。人間6年余にしてコーディネートを語るのか……。なにかと桃色のものを土産にしていた自分の傲慢を恥じる。さてこちらからの入学祝いは、小学館の「きみの名前がひける国語辞典」にした。小学校低学年向けの『小学館はじめての国語辞典』をベースにして、約18000ある収録語の中に、見出し語として子どもの下の名前を入れたものを特別注文で作ってくれるというものだ。奥付にも、「2023年○月○日 ○○さん版発行」と名前が入る。

小学館のサイトに「きみの名前がひける国語辞典」の誕生秘話がある。辞書に子どもの名前を入れる企画自体は、2013年に『ドラえもん はじめての国語辞典』の発売1周年記念の販促キャンペーンのプレゼントとして始まり、2015年からは小学館の社員の子どもたち向けに制作されてきたという。2021年に『小学館はじめての国語辞典』が発売されると、ランドセルメーカーとのコラボ企画で「きみの名前がひける国語辞典」を販売。そして2023年、単品での一般販売を開始すると予定していた100冊が早々に売り切れとなり、私が注文したのは第二弾の100冊の募集枠のようだった。その子の下の名前と読み方と、40字弱にまとめた紹介文(語釈)を用意して、3月中旬に申し込む。第二弾枠の完成は夏以降になるらしい。

注文者が用意した名前と語釈を、1冊ずつ、それぞれ的確な場所に入れてオンデマンド印刷するわけだが、校正・校閲はどんなふうにするのだろう。3行なりなんなりを追加したからといって、ただそれだけを見直しておしまいなわけはなく、だからといってその前後をどの程度見るものなのか、どんな手間がかかるのだろうと思っていたら、同サイトに、〈他のページに影響が出ないように、このページ内だけの調整で完結させなければならない。他の収録語の行数を調整するなど、言葉の意味が変わらないように細心の注意を払いながら編集していく〉とあった。なるほど――。印刷・製本のしくみは、小学館の辞書編集室と大日本印刷が10年をかけて共同開発したそうだ。

愛読者はがきによるアンケートを分析したところ、自分の名前を調べる子どもが結構いると気づいたことが、企画のきっかけの一つになったとも記してあった。確かに私もその昔、「釜」とか「裕」とか国語辞典で引いたことがあったよなぁ。製本を習って数年した頃に、広辞苑を「あ」とか「ま行」などでいくつもバラして製本し直して、「きょうは【あ】の日」とか「きょうは【ま行】の日」とかいって持ち歩き、広辞苑にない言葉を採取して書き足す遊びをしていたことがあったけれども、【ま行】本がまだ手元にあるので見てみたら「マイブーム」「マヴォ」「マカヴェイエフ」「まきちゃん」「まったくもー」「マハリクマハリタヤンバラヤンヤンヤン」「マデラ酒」「マニピュレーター」とかあって、友人をはじめとして人の名前が結構あるのに笑った。

さて入学祝いの「きみの名前がひける国語辞典」、表紙の色は10種類から選べるのであった。薄紫色も水色も桃色もあって迷ったけれど、結局薄紫にした。彼女はいつ、その中に自分の名前を見つけるだろう。笑うかな。びっくりするかな。そうでもなかったりなんかして。入学おめでとう。いらなくなったら私にちょうだい。

落花九相図

越川道夫

毎日、飽かず立ち枯れてゆく西洋鬼薊を見にいく。
立ち枯れていく植物の姿が好きだと言うことは前回書いた。花が咲いた後枯れたものは、それでも白い綿毛となる種子をいっぱいにつけ、蓬髪とでも言うように萼の部分を金色に開きながら枯れている。しかし、本来であるならば風に煽られ飛んでいくはずの綿毛は、ついに飛散することはない。雨が降り、ひどく寒い日があるかと思えば、奇妙に暑い日がある。そんな日日が過ぎる中で、太陽を思わせるような形を見せていたその薊の頭も、縮れ、捩れ、やがて、ゆっくりと地面に向かって倒れ始めた。尖った葉も、触れればその鋭さは相変わらず指先を刺すものの、もう乾き切ってバリバリと砕けてゆく。
そんな姿を見ながら、ふとある画家のひとが書いたエッセイの一節を思い出していた。確か、その画家は若い頃、太平洋戦争の最中学徒動員で軍隊に応召された。戦地で病を得て、帰国し終戦。そのうちに母親の縁つづきの女性が満州から戻ってくる。彼が幼い恋というような感情を抱いた女性である。彼女は結婚し、夫と赤ん坊とハルビンにいた。夫は終戦間近に兵隊にとられ、彼女は子供を背中にくくりつけて逃げた。逃げている途中赤ん坊の鳴き声がしなくなったことに気づき、背中から下ろすと赤ん坊はすでに死んでいた。背中から下ろす時に、子供の皮膚がひっついて剥がれたのだと言う。彼女は衰弱していた。ただじっと上を向いて目を開き、体を横たえていた。「この家に辿りついたことで、力はもう尽きていたのかもしれない」とその画家は書く。
 
「洗われたような美しい顔になっている。ああこんな顔になってはいけない。」(野見山暁治「一本の線」)
 
エッセイのこの部分を、私は「人はこのように美しい姿になってはいけない」と覚えていた。この文章の別の箇所で画家は、病で死んでいく同じ画家・今西の姿を「次第に声もかすれてきた。表情をもちえなくなった骨格だけの今西さんを美しいと思い、その気持ちを打ち消すことに懸命になった。」と書いている。
 
春になり、路肩の菫が咲くことになると、それまで溢れるように咲いていた椿が花を木の足元に落とし始める。椿の花は、花びらを散らすのではなく、花ごと落ちる。そして、堆く積もっていく。積もった花は、落ちた順に下から色を失い、茶色に朽ちていくのだ。やはり花ごと。その有様は凄惨だが、ひどく美しい。特に乙女椿と言うのだろうか淡いピンクの椿が、朽ちて茶色になっている。やがて花はバラバラとなり、花としての体をなさなくなる。その上にまた新たに花が丸ごと落ちるのだ。その花の一つ一つを撮った写真を見ながら、まるで九相図のようだ、と思う。そこには、さまざまな段階に朽ちた花が、それぞれの有り様で写っている。そのどれものがかけがえのないものであり、だからこそ美しい。
 
人間の屍がときの推移につれて朽ち果てていく様を九段階に分け、その様を描いたものを「九相図」と言う。これは、人の屍を凝視し観想することによって自他の肉体への執着を滅却する、九相観と言う仏教の修行に由来するといわれている。執着が滅却できるかはさておき、私がこの図に惹かれているのは確かである。『閑居友』などには、修行のために夜な夜な墓場に出かけ、爛れた屍を見つめて声を上げて泣きながら無情を悟ろうと修行をする僧の姿が書かれているが、読みながら考えが横滑りしてしまう。もちろん僧は修行のためにそうするのだろうが、なぜ「その屍」の前に座り、見つめ、声を上げて泣こうとしたろうか、と。そうしようとした「屍」が、なぜ「その屍」であり、「あの屍」ではなかったのだろうか、と。もしかすると、その僧は、「その屍」を美しいと思ったのではないか、と。「その屍」が愛しいものと思ったからではないか、と。
 
「美しい」と思うことは、「愛しい」と思うことなのかもしれない。
 

名前を変える

植松眞人

 姓名判断が出来るという人に、ひとつ見てもらおうとわざわざ出かけていく。互いに頭を下げて「よろしく」などと挨拶をするのだが、なんとなく向こうのほうが、階段で言うと一段か二段ほど高いところにいるような顔をしている。
 挨拶が終わると、話すこともないので、さっそくとこちらの名前を相手が聞いて、相手がそれを半紙にさらさらと墨で書く。書かれた文字はなかなかの達筆で、ほほう俺の名前はなかなか良い字面をしていると思って口元が緩む。それを相手が察知したのか、ふむふむなどと声にならない声を発して、ちらりとこちらを見たりする。
 さあ、どうなんだ、とじっと相手を見るが、相手は朱色の筆に持ち替えて、ふむふむを続けている。やがて、本当に黙り込むとこちらも何事かと相手の朱色の筆先を見つめる。見つめながら、子どもの頃に怪我をしたのは名前が悪いからかとか、免許を取った頃に起こした事故はどうなんだとか、結婚して三十年を超えたけれど毎年のように家族に小さな波乱が起こるのももしかしたら、などと考え始め心が落ち着かない。
 こちらがそんな気持ちなのは、いつものことと思っている癖に相手の筆はなかなか動かずイライラしてきて、もう占ってなどもららわなくても、と声に出かかった瞬間に相手の筆がさらさらと動き始める。姓と名にわけて朱の線を引き、そこに数字が書き入れられ、漢字ごとに何やら小さな数字や丸やらバツやらが入り、あっという間に半紙が朱に染まる。

そしてやにわに、全体的に運勢は悪くないと相手が言う。ほほう、そうですか、とこちらが答える。悪くないと言われるとまんざらでもない。ただ、相手が続けて、悪くはないがお金はたまりませんね、と笑われるのは困る。なぜたくさん入ってくるのに貯まらないのかと聞くと、入ってくる以上に出ていくから、とこれまた当たり前のことを言われてしまう。なんだか悔しい気持ちになって、その後言われたことはあまり覚えていない。そして、なぜ悔しい気持ちになったのかと言えば、相手が言った通りで、これまで大金を稼ぐことは多々あったのに、それ以上に病気だトラブルだ訴訟だと予期せぬことで稼いだ以上の大金が出ていってしまったからだ。
 なんとなくそんな人生だとは思っていたが、姓名判断を商売にもしていない趣味人に朱色で言われると穏やかな気持ちではおられなかった。それでもご家族、特にお子さんたちは幸せな人生を送るはずと言われたことを救いに、なんだか還暦を超えた人生に烙印を押されたような気持ちになってしまう。さらにその趣味人がこちら参考までに、と別の半紙にさらさらと書き記したのは、こちらの生年月日も鑑みて考えてくれたと言う、運勢の良い名前らしい。これはサービスでご参考までにとは言うが、今度はその名前が気になって仕方がない。苗字は同じで下の名が少し違う。この名前なら金が貯まると言う。
 相手にこちらの動揺を感じられないようにと、ではまたなどと、次などあるものかと思いつつ言い合って辞した翌日。三十数年寄り添った家人とたまに行くチェーンのレストランで遅い朝食を摂る機会があったのだが数組の待ちがあった。待合には待機リストの用紙があり、そこに新しい名前を書いてみると、隣で覗き込んでいた家人が、あらいい名前、と言った。

公演『幻視 in 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(1)

冨岡三智

今回は3月11日にフェニーチェ堺・小ホールで行った公演の演出について書き残しておきたい。いつものごとく、自分の公演について主観と言い訳交じりで語るのだけれど、何十年か後にはきっと当事者が語る貴重な証言になっているに違いない…と思うことにする。まず、プログラムは以下の通り。

第1幕:ガムラン音楽とスラカルタ王家の儀礼映像
 ・「夜霧の私」(山崎晃男作曲)
 ・グンディン・ボナン「ババル・ラヤル」
 ・「ガドゥン・ムラティ」
第2幕:宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版

●ウィンギット(wingit)なるもの

ジャワの宮廷芸術で目指す境地を表す語は?と問われたら、私は「ウィンギット」だと答える。この語については『水牛』2009年8月号「ジャワ舞踊の美・境地を表す語」でも書いたけれど、「超自然的な存在(それは神でもあり災厄でもあるだろう)に対する恐れ、畏れ」のこと。その災厄から王国を護るため、畏怖心から行うものが宮廷儀礼であり、今回の公演では宮廷儀礼の奥にあるそのウィンギットなるものを表現したいと思っていた。

今回の公演会場は一般的な音楽向けのホール(300席)である。第1幕の背景は白のホリゾント幕とし、そこに宮廷儀礼の映像を投影したが、第2幕の背景は黒幕にした。演奏者の衣装も上半身は黒とし、女性はお揃いの生地・デザインでクバヤ(ジャワの伝統的なブラウス)を仕立て、男性も全員、黒のビスカップ(スラカルタ様式の男性上着)にした。前回の堺公演でも女性のクバヤは黒にしたが、各自手持ちの物を着てもらったので、デザインや質感には多少ばらつきがある。背景が黒一色になるとそのばらつきが気になると思えたので、新たに仕立てたのだった。男性の場合、前回はジョグジャ様式の正装(スルジャン)とスラカルタ様式の正装(ビスカップ)が混在していたが、柔らかい織り素材で色も真っ黒ではないスルジャンだと、やはり他の人や背景幕からも浮くように感じたので、黒のビスカップで統一した。演奏者からは、衣装の色が背景と同化して生首が並んでいるように見えないかな?という不安の声もあったのだけれど、実は敢えてそうしていた。通常のコンサートでは黒をバックに演奏家を際立たせるが、逆に黒のバックに溶け込ませたかったのである。

どの曲も前奏は暗い中で始まり、音が出てから舞台がだんだん明るくなるように、さらに映像は音楽のテンポが安定してから投影されるようにして、まずは音に集中してもらえるようにした。そして、歌声だけが際立たないように気をつけた。もともと、ガムランでは歌も楽器の1つとされているのだけれど、ジャワでも宮廷外では歌い手を目立たせすぎることが多い。この公演ではそれを避けた。人の声とも楽器の音とも区別のつかない響きが暗闇から聞こえてくる…、それは狼の鳴き声のようにも、風が空を切る音のようにも聞こえる…、遠くから大いなる存在が発現するような気配がする…。そんな風に、公演の音全体が聞こえてほしいと思っていた。舞台に載っている人の存在感を消すことで、そんな世界が存在することが見えてくるのではないか…と考えたのだった

●1曲目

通常、ジャワ・ガムランで開始の曲と言えば「ウィルジュン」だが、今回はそうしなかった。というのはグンディン・ボナンという種類の曲「ババル・ラヤル」を演奏すると先に決めていたからである。この種の曲は宮廷では即位記念日や結婚儀礼の前夜に演奏され、そのとき精霊たちが祝福を与えに降りてくると言われている。「ウィルジュン」は儀礼当日の最初に演奏される曲だから、それをグンディン・ボナンの前に演奏すると時系列が前後してしまう。さらに、その精霊が降りてくる曲の後には、供物を準備してお祈りしないといけない「ガドゥン・ムラティ」という曲が控えている。供物やお祈りを欠くと災いがもたらされるという。「ウィルジュン」(つつがなくの意味)は文字通り儀礼がつつがなく終わるようにと演奏するものだが、今回のプログラムのような重い曲の演奏が続くことは想定されていないと私には感じられる。というわけで、1曲目の役割は観客を未知の世界にいざなってくれるようなものが良い、むしろガムランの現代曲から選んだほうが良いと考え、ダルマブダヤ代表の山崎晃男氏が作曲した曲の中から選んだのが「夜霧の私」である。他の2曲が少々長いので、「夜霧の私」は1曲全部ではなく途中までしか使っていないが、なんだかジャワから懐かし気に呼ばれているような心持ちになる曲だ。それで、この曲には王宮にだんだん近づいていく映像をつけようと思いついたのだった。

●音楽と映像とα

第1幕ではガムラン音楽の演奏にあわせ、舞台奥のホリゾント幕に映像を映した。上映した映像はウィラネガラ氏が制作し、来日してオペレーションも行った。氏は2004年に亡くなったスラカルタ王家当主:パク・ブウォノXII世のドキュメンタリー映画を制作した人で、その作品によりインドネシア・フィルム・フェスティバルで最優秀映像賞を受賞している。私は2000年かそれ以前からスラカルタ王家の儀礼で知り合いになっていた。

映像を入れようと思ったのは、音楽だけではジャワ王家の儀礼の雰囲気はよくわからないだろうなと思ったからだった。楽曲そのものだけでなく、それを取り巻く環境も感じてほしかった。王宮の建物はどんなものか、人々はどんな衣装を着ているのか、王宮儀礼ってどんなものなのか…。人が真剣にやっている儀礼というのは、意味がわからなくとも何か伝わるものがある。それが美しい響きの音と一体となって観客の記憶の中にしみこんでいってくれたらいいなと思う。

それで、ウィラネガラ氏に、今まで王宮儀礼に入って撮りためていた映像から、王家の守護神である女神ラトゥ・キドゥルに関連する儀礼、女神の棲む南海岸、王宮での精霊に対する様々な祈りの場面などを取り出し、曲の進行に合わせて映像を編集してもらった。公演であって研究会ではないから、説明的な映像の見せ方ではない。王家の人々の間で信じられている女神の存在が映像から感じ取られ、そのイメージの断片が心の中に残って、今後ふと思い出してくれることがあったら嬉しい。

音楽と映像に加えて、1曲目は映像の情景にあわせて語りをかぶせ、3曲目はお祈りのパフォーマンスとワヤン(影絵)も上演した。1曲目で語りを入れたのは、王と女神が南海岸で出会ったとか、八角形の塔で王と女神が交信していたとか…少し手掛かりになる情報があると映像世界に入りやすいようにと思ったから。

3曲目のお祈りパフォーマンスは舞台用としてアレンジしたものだが、王家の儀礼で多くの人々が準備に関わっていて供物を運んでいく様子を描こうと思い、衣装をつけた踊り手4人と演奏していない演者がぞろぞろと蛇行しながら舞台を練り歩くように演出した。背後の映像では実際の儀礼における行列シーンは映し出されているが、第2幕の舞踊用に舞台手前は空けてあるから、その空間を埋めたかったのである。舞踊曲もある公演だと、演奏者はどうしても舞台奥でじっとしている感じになり、舞踊がないときは観客の前にぽっかり空いた空間ができる。普通、舞踊公演では踊り手は自分の出番がくるまでは観客の前に衣装を着て出てくることはないので、何か批判なり反応なりがあるかも…と思っていたが、全然なかった。こういうもんだと思ってくれたみたいだ。

このお祈りのシーンでは京都にあるバリバリインドネシアというレストランに供物を作ってもらい、ジャワでやっているように大きなザルに盛ってもらった。3種類のうち1つはクタンビル(スラカルタ王家で女神のために作られるお供え)を見様見真似で、1つはアプム(パンケーキ、一般的だが儀礼用に作られる)、1つはお任せである。クタンビルは当然レストランの人は食べたことがないので宮廷での味とは違うけれど、たぶんその努力に免じてラトゥ・キドゥルは赦してくれるだろう。やはりお供えがあると出演者のテンションが上がる。舞台では先頭にお香を持った私、お供えの菓子が続くのは元スラカルタ王家の踊り手だった2人の指南による。本当は踊り子がお香を持つのは変なのだが、私が持つということで消防に届けてしまった。全員が座ると、私は四方に向かって合掌し、最初の1回は他の人も一緒に合掌する。このように四方に向かってするお祈りは王家で行われていて、特に「ブドヨ・クタワン」で踊り子がやっているのがとても印象に残っている。

3曲目の「ガドゥン・ムラティ」は複数の曲がつながっていて、テンポが速くなったところで、最後のアヤアヤアンという部分に移行する。影絵人形操作をするナナンさんはこのアヤアヤアンの前奏部分を歌って出てきて、お祈りの人たちがはけていくのと入れ違いに影絵の世界が始まる。影絵の場面を作ったのは、ルワタンという魔除けの影絵は南海の女神から授けられたという伝承があるから。この「ガドゥン・ムラティ」の曲は南海の女神の許を訪れた王家のグンデル(この曲の前奏を弾いていた楽器)奏者の女性が女神から授けられたという伝承があり、どちらも女神ゆかりの―それゆえに霊力がある―ものとして共通点がある。影絵奏者が出てくるところから照明を落として影絵が始まるまでのしばらくの間、王家の影絵奏者の映像が少し挟まれる。そして、ナナンさんが観客に背を向けると、彼のビスカップの背中にある絵羽模様が目に入る。これはナナン氏が黒留め袖の着物をビスカップに仕立てたもので、前から見ると普通の黒いビスカップなのである。背中を見せると、それまでの演奏者がダランに変貌するのが面白いかなと思ったのだが、どうだろう。

…ということで、今回の話は時間切れになってしまった。舞踊演出については来月書きます。

めんどくさい

篠原恒木

季節の変わり目になると、特に冬から春に移り変わる頃は、あらゆることがめんどくさくなる。いまおれは「めんどくさい」と書いたが、我がPCは「めんどくさい」という文字の下に赤い波線をつけてきた。
「あのぉ、『めんどくさい』ではなくて『面倒くさい』ではないですか」
と要らぬお節介をしてきたわけだ。これからして実にめんどくさい。ゆえに無視だ。

毎朝、髭を剃るのがめんどくさい。
おれは電動カミソリではなく、シェーヴイング・フォームを顔に付けたあと、T字型の替刃式カミソリで剃るのだが、あれは本当にめんどくさい。ならば髭を剃らずに伸ばしたままにすればいいではないかとも思うのだが、伸ばせば髭のかたちを整えなければならない。それはさらにめんどくさい状況に陥るではないか。仕方なくおれは今朝も髭を剃る。

風呂に入るのがめんどくさい。
特に湯船につかるのが大儀だ。だからおれは冬でも朝のシャワーだけで済ませてしまう。寒い寒い。風呂場を出ると体がブルブル震える。しかし、それでも「夜寝る前には、ゆっくり湯船でリラックス・タイム。うふふ」などとホザいている奴の気が知れない。めんどくさいではないか。長年にわたって深夜帰宅してきたおれは、風呂に入るより睡眠時間の確保が大切だった。その習慣がいまでも続いていて、夜の風呂はパスして、翌朝のシャワーで一丁上がりなのだが、そのシャワーですらめんどくさい。

服を着たり脱いだりするのがめんどくさい。
できればパジャマのままでカイシャへ行きたい。冬はことさらめんどくさい。重ね着をしなければならないからだ。おれは寒がりなのでたくさん着込まないとすぐ風邪をひいてしまう。したがって三枚も四枚も重ね着をすることになるのだが、根がスタイリストに出来ているので、いちいちインナーからアウターまで破綻のないようにコーディネートしながらレイヤーしていく。これが実にめんどくさい。そして長い一日が終わり、帰宅すればその服をいったん脱がなければならないのだが、この「脱ぐ」という作業もめんどくさい。コートを脱いでハンガーにかけ、次にセーターを脱ぎ、畳んで箪笥の引き出しに収納しなければならない。さらにヒート・テックを脱いで洗濯物の籠に入れる。これらの行為を「めんどくさくない」と言うヒトをおれは信じない。夏だとTシャツ一枚をあらよっとばかりに脱いでしまえばそれでおしまいなので、夏という季節は嫌いではない。脱ぐのがめんどくさくないという状況は、好きなあのコとお泊りするときだけだ。うふふ。

出掛けるのがめんどくさい。
カイシャに出勤するのがいちばんめんどくさいのは当たり前だが、好きなあのコとメシを食うのもめんどくさくなってきた。会う約束を取り付け、店を予約した時点では、ドキドキ、ウキウキ、スキスキと、全面的に「キ」が多い気分になるのだが、その日が近づくと「なんだかちょっとめんどくせぇな」という気分になってくる。当日になると、さらにその気分は濃厚になり、「ああ、約束なんてするんじゃなかった。めんどくさい」という気持ちに囚われてしまうのだ。これはあまりにも不遜ではないか。よくないと思う。相手は若いコだ。こんな汚らしい六十三歳になろうとしているジジイと会ってくれるだけでも有難いと思わなければいけないところを「めんどくさい」とは何事か。バチが当たってしかるべきだが、めんどくさいものはめんどくさいのだ。

苦労してチケットを手に入れたコンサートもそうだ。
この四月には、おれが十五のときからずっと大ファンでいるボブ・ディランの来日公演が予定されている。これには万難を排して駆け付けなければならない。来日の一報が入るや否や、おれは逆上してチケット最速抽選に申し込んだ。東京公演全五回のうち、四回にエントリーした。どうせ観るなら良席がいいと思い、すべて五万一千円のGOLDシートを指定した。
「相手はあのボブ・ディランだ。チケット争奪戦は必至だろう。当選する確率は限りなく低いに決まっている。それでも四公演も申し込めば、一公演くらいは当選するのではないか」
と考えたからだが、驚いたことに四公演すべてGOLDシートが当選してしまった。二十万円以上が吹っ飛ぶことになるが、ディラン様だけには逆らえない。おれはなけなしのへそくりをはたいて四公演すべてに足を運ぶことにした。これで素晴らしい席でボブ・ディランを四回も観ることができる。おれは多幸感に包まれた。かねは無くなったが、その四公演を楽しみに生きて行こうと思った。ところが、である。東京公演の日が近づくにつれて、ライヴへ出掛けるのがめんどくさくなってきた。会場は有明の東京ガーデンホールである。有明はアクセスが不便だ。行くのも時間がかかるし、帰るのも難儀だ。ああ、めんどくさくなってきた。おれが今いるこの場所へディランが出張してきて、目の前で十五曲くらい演奏してくれないかなと思うが、流しのおじさんではないので、それは無理というものだろう。おれが行くしかないのだ。しかも四回も。なんとまあ、めんどくさいことではないか。

ジムに通うのもめんどくさい。
できれば筋トレやらジョギングなどをしないで体型をキープしたい。なぜかねを払ってあんなツライことをしなければならないのだろうと思う。だが、運動をしないと腹が出てしまう。腹が出ているジジイにはなりたくない。かといって、やみくもに筋トレしていると、体が分厚くなってしまうのでトレーニング・メニューをきちんと立てなくてはならない。大胸筋が異常に発達するのも嫌だし、上腕二頭筋だって単に太くするのではなく、細かい筋肉を刺激して腕にきれいなカットを入れなくてはダメだ。めんどくさい。時間をかけてジョギングをしないと脂肪は燃焼しない。脂肪は人生の垢だ。だからおれは「ああ、やだやだ。めんどくせぇな」と思いつつも、重い腰を上げてジムへと向かう。
「これは仕事なのだ。仕事であればやらなければならない」
そう呪文のように唱えながらジムへ到着するが、めんどくさいあの着替えが待っているではないか。そうしてめんどくさい運動をした後はめんどくさいシャワーを浴びて、再びめんどくさい着替えをしなければならない。本当にめんどくさい。

そんなおれは仕事仲間のヒトビトにこう言われていると、あるヒトが教えてくれた。
「シノハラさんはいろいろとめんどくさいヒトだから、気を付けたほうがいい」
心外だと思ったが、ムキになって否定はしなかった。めんどくさいから。

マギさん

笠井瑞丈

チャボのマギさんが他界した

四年前にうちに来てくれてからいつも
家の中を明るくしてくれた存在だった

本当に毛が真っ白の美人の白チャボさん
ちょっと不器用でもう一羽のゴマさんには
よくイジメられたりしていたけど
おっとりした性格で昼寝が大好きで
お気に入りの枕の上でいつも寝てて
飛ぶのもあまり上手ではなく
寝床の場所に上がる時壁に激突したり
夜寝ている時に寝床から落ちたりして
でもいつもゴマさんの後をついて歩き
寝るときはカラダを寄せ合った寝てて
よくゴマさんのカラダに潜り込んだり

思い出すとたくさんのことがあった

そしてそんなマギさんの
調子が変だと気づいたのは
三月の初めのことだ
もともとそんなに
活発的な子じゃないけど
明らかに様子がおかしい
三月に入ってからいつも
机の下だったり
椅子の下っだたり
何か天井のある所にいて
あまり動かなくなった
ご飯もあまり食べなくなり
自分の体の中に頭を潜らせ
ただただ寝ていることが多くなった

そして病院に連れて行った
体温が下がっていてあまり
良い状態ではないとの診断
とにかく温めてあげた

しかしその二日後
夜中バサバサと大きな音が
慌てて寝床を見に行ったら
大好きなゴマさんの横で
息を引き取った
きっと最後の力を振り絞って
羽ばたこうとしたんだろう
まだカラダは暖かく
今その瞬間までそこに
まだ生命が宿っていた

朝まで抱きしめて一緒に寝た
少しづつ体温が下がっていき
うつろうつろ現実と夢との境の中
カラダと魂が分離する瞬間を感じた

僕は浅い眠りの中であなたと初めて会話をした

「一緒に過ごした時間ありがとう
そして本当に大好きでした」と

これを伝えられてよかった



目覚めた時には
腕の中にはマギさんのカラダはあったけど
もうそこにはマギさんはいないと思った
そこにあるのはもうカラダと言う受け皿なのだ
そう思ったら悲しみが込み上げてきた

久しぶりに大泣きした

またお尻をのしのしと左右に揺らし
不器用に歩くあなたの後ろ姿が恋しい

これかも大好きな小松葉を食べ
ゆっくりとお休みください

どうよう(2023.04)

小沼純一

りぼんすき
はなたばやおかしのはこをむすんでる
りぼんはきっととっといて
そこらにあるもの
むすんでく
いろがあってるかあってないかより
むすべるものがあるのがだいじ
ぬいぐるみ ほそくちのかびん 
たんすのとって とびらののっく

はこがすき
おおきすぎずたかさがあるのがいい
なにをいれるかあてはない
かたちをそのままとっときたい
なにかいれても わすれてしまい
いちいちあけるも
わるくない
ビールのおうかん ワインのコルク
いろんなカード まっちばこ

あといちじかん
ゆうはんのしたく
あるものですますから
かえっててまがかかるかも
それまではいちじかん
のびたりちぢんだり
やりすごす

あといちじかん
そとにでなくちゃ
きがえはそこにだしてある
かばんのなかは
みなおさないと
それまではいちじかん
よゆうあるよで
しっかりぎっちりしばられて

いき
いそがない
ゆっくりと
いきすって
いきはいて

いきいそぐ
まいにちを
ゆるゆると
ゆるやかに
いき

いき
すこしため
すこしはき
とめながら

からになった
からだへと
きれぎれと
ぎれをこめ
いき

いき
いきする
いきいきして
いきまいて
いき

ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえで

てんめつが
きにならない
めがあたまがどうかしちゃった
ほしじゃない
まばたきじゃない

ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえ

てんめつ
っていわないか
よびかたがわからない
ほらこっち
って
せかしてないせかしてる

ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえ

なれちゃって
こなれちゃって
なんでもちかちかあたりまえ
そうねこれ
からだもおんなじ
わたしでんきでいきている
ううんげんきでいきている

あのひとこのひと
おともだち
そのひとかのひと
おともだち
たくさんたくさん
おともだち
それぞれべつの
おともだち
たまたまあっても
うまくはいかない
ずれずれで
きくきくで
そんなものかな
おともだち
たくさんいるけど
おともだち
みんなべつべつ
おともだち
おとも たち

『アフリカ』を続けて(22)

下窪俊哉

 先月(3月)末に『アフリカ』vol.34を出した。まずは表紙に、見られる。そこには切り絵の羊が顔を出していて、「アフリカ」の文字は横に倒して置かれている。あとは例によって「3/2023」とだけ書いてあり、どんな本なのか表紙だけではサッパリわからない。表紙も『アフリカ』に寄せられた作品のひとつなのだから、なるだけシンプルなものにしたいと思っている。それは17年前の、続ける気のなかった創刊時から一貫してそうだ。

 表紙を開くと1ページ目から、なつめさんのエッセイ「ペンネームが決まる」が始まっている。『道草の家のWSマガジン』vol.1(2022年12月号)に載っているものから推敲を経た、とりあえずの完成形で、昨年の秋、東京の下町から長野県の村に移住した経緯から、新しい名前が決まるまでを書いている。適当に、いい加減に、ということの難しさを感じつつ、ふとしたことからその名前はやってくる。

 そのあとに目次がくるというのも、いつものパターン。虚実入り乱れたクレジット・ページも相変わらずで、そこを見るのを楽しみにしているという読者もいらっしゃるから止められない。そこではここぞとばかりにふざけたいのだが、長くやっているとネタ切れにもなる時もある。今回はちょっとそんな感じかもしれない。

 今回の『アフリカ』には珍しく詩が3篇も載っている。神田由布子さんの「vehicle」は、『WSマガジン』vol.1に載っているものをそのまま載せた。しかしあれは横書きなので、これはぜひ縦書きで読みたい、と思った。新たな旅立ちの歌。重さの中にある軽さの発見が作品になったような詩。

 竹内敏喜さんから私が原稿を受け取るのは、じつに18年ぶり。『アフリカ』を始める前にやっていた『寄港』に書いてもらって以来だった。一昨年の秋、久しぶりに手紙を出してやりとりが復活した時に、最近は殆ど発表の機会がないと知らされて驚いて、よかったら『アフリカ』に書きませんか? という流れになったのだった。「蛇足から」は今回、1〜3を掲載しているが(続きがあるとのこと)、いま書くことの怖れを感じつつ、「善」と「正義」への考察が繰り広げられる。いや、考察ではないのかもしれない。ことばを探っている。それは「詩をひらく鍵」だという。

 もうひとつは、いつもの犬飼愛生さんによる「寿司喰う牛、ハイに煙、あのbarの窓から四句(よく)」という長いタイトルの詩。犬飼さんの作品は詩とエッセイで「同じ人が書いたの?」と言われるくらい落差がある、けれど、この詩にはエッセイの中にあった要素も流れ込んできているようで、ついには短歌が挿入されたりもして見開き2ページの中でごった煮になっている新境地。人と人が敵対するというのはわかりやすいが、そうではなく、テーブルの上に玉石混淆、雑多なものをズラリと並べて「おいしく食べあいましょう」と呼びかける。ややこしいし、厄介かもしれないけど、それが本当の平和というやつじゃないかなあ、などと思っているところだ。

 編集を通して、この3篇には、詩を書くことにかんする詩である、という共通点も見えてきた。それらの詩でサンドイッチにしたように、今回は短篇小説を2つ、収録してある。まずは、UNIさんの「日々の球体」、交わったり、すれ違ったりしている男女三人の人間模様を描く快作と思う。UNIさんは妄想を豊かに働かせて書ける人で、たとえば登場人物の誰かが何かを見ると、そのものを見るのに留まらず別の何かが必ず思い出される。そんなイメージの広がりがある。しかしそんなふうにして長く書くというのは、なかなか困難なようだったが、今回は(400字詰め原稿用紙で計算して)30枚ほど。小説というのはやっぱり、長さがモノを言うところもある。最初に読ませてもらったバージョンからも加筆があり、そこまで書いてようやく現れてくるものがあった。

 もうひとつは私(下窪俊哉)の「四章の季節/道草指南」で、「日々の球体」と同じくらいの長さの短篇小説。22年前に書いた「四章の季節」は二人称を試してみた習作だったが、その型を使って、全然違う話を書いてみた。1日という時間、1年という時間、人生という時間、そんなふうなことを重ねて思い巡らせているうちに、フィクションの街、人が出てきてくれた。私は10数年前から「道草さん」と呼ばれることが増えたが、ちょっとした道草論を書いてみたいという気持ちは前々からあった。この小説は、そんな自分の気持ちに少し応えた。 

 そうやって詩や小説が並ぶ中、雑記とかエッセイというような散文をどう生かすかというのが、『アフリカ』編集人の腕の見せ所だ。髙城青さんのエッセイ漫画「それだけで世界がまわるなら」は2020年秋以来の続編で、お父さんを亡くして2年たった家族の現在を、そのお父さんが大好きだった珈琲を介して描いている。それを読みながら私は、珈琲とは我々にとって何とさり気ない味方だろう! と感嘆する。

「自然を感知した人〜井川拓と空族の黎明期」は、富田克也さんが若き日の盟友・井川について語った貴重な記録(約8千字)。昨年の春、井川さんの遺作『モグとユウヒの冒険』を本にした、その制作時に連絡したら「話しましょう!」と返事が来て、3時間を超えるロング・インタビューが行われた。いや、インタビューと言えるかどうか、私が何も問わずとも富田さんは延々と話してくれた。井川拓の話をするということは、富田さん自身の若い頃、映画をつくり始めた頃の話をすることになる。話は徐々に、映像制作集団「空族」の誕生秘話にもなってゆく。『雲の上』の前に撮影され、未完に終わった『エリコへ下る道』がどんな映画だったのかも、ようやく聞くことができて嬉しかった。

 RTさんの「ここにいること」は、「心がぴったりとついてこない」と感じるこどもが大人になり、さまざまな時間を経て「人の為に何かしたい」と思うまでになる経緯を書いたエッセイ。経済活動から少し離れたところで営まれている活動に、救われる人の話でもある。「鬱」ということへの言及と、空を眺めているところなど、「自然を感知した人」に通じる要素が幾つもあり、並べて載せることにした。

 〆は犬飼愛生さんのエッセイ「相当なアソートassort」シリーズの今回はその2で、銀行で起きたある事件について書かれた「通帳持って」。元のバージョンはもう少し長かったのだが、最終的には前回と同じくらいの長さになった。話をしつこく延ばしてゆくことによって生まれる笑いと、文章を削って短く切ることによって生まれる笑いがあるよねえと話して、このシリーズでは削る方に向かった。犬飼さんのエッセイ集『それでもやっぱりドロンゲーム』を開いて、「キレイなオバサン、普通のオバサン」を読めば、その逆のパターンがわかるはず。

 執筆者などを紹介するページや、五里霧中になっているページを経て、最終ページは編集後記だ。後記をエッセイにしたのは、’00年代の一時期、その頃『VIKING』の若き編集人だった日沖直也さんが書いていた編集後記を毎月読んで、いいなあと思っていたからで、『アフリカ』の編集後記はレイアウトも含めそれの真似だ。今回は『WSマガジン』のことを中心に書き、その流れで『水牛』のことにも少し触れた。

 完成したばかりなので、まだ売るのもこれから、読まれるのもこれから。しかし『アフリカ』を仕上げた後はいつも、どこか不安で、つくっている最中ほど楽しくはない。けれど、読んでもらわないとね。と思っていたら、常連の読者の方々がさっそく入手して読んで、SNSで語っているのが目に入る。聞いていると、書き手よりも書き手のことがよくわかっているようで、心強い。文芸の創作ワークショップでは作家が育つのではない、まず読者が育つのだ、と考えた20数年前のことが思い出された。

むもーままめ(27)スパークリングワインの開け方、の巻

工藤あかね

先月もおしゃべりしたいことが山盛りにあったのに、今年の2月は28日までしかなく、1日が24時間しかないせいで「むもーままめ」をおやすみしてしまいました。今月もよろしくお願いいたします。

さて、何を話しましょうかね…と。桜が早く咲いた今日この頃、都内のお花見の名所という名所は人でごった返しています。たしかにお酒のひとつも飲みたい季節ですよね。我が家は安くて美味しいワインを探すのが好きなのですが、今日もお安いスパークリングワインを開けながらふと思いました。

みなさん、スパークリングワインの簡単な開け方をご存知なのでしょうか?「スパークリングワインの栓を開けるのが怖い」とか、「なかなか開かなくて嫌だ」とか、さまざまな意見を聞くのですが、このライフハックを知ったらバンバン栓を開けたくなりますよ(飲み過ぎ注意♡)。

1:まず、スパークリングワインはちゃんと冷やしましょう。ぬるいスパークリングワインほどイケていないものはありません。できれば「呑むぞ!」と決めた日の2日くらい前から冷蔵庫に入れましょう。そう、祭りには気合いと心構えが必要なのです。

2:ワインセラーやお酒用の冷蔵庫を持っていない人は、スパークリングワインを冷蔵庫に入れたら、扉を乱暴に開け閉めするのをやめましょう。扉のポケットに入れたならなおさらです。おいしくお酒をのもうと思ったら、こうした心配りを惜しんではいけません。

3:おつまみを用意しましょう。赤ワインと比べて、合う食べ物の守備範囲が広いお酒です。お肉やお魚、野菜はもちろん、酒盗とクリームチーズを合わせたり、スモークサーモンで一杯やったりするのもいいですねぇ。お寿司にも合わせられます。あっそうだ、塩辛でスパークリングワインを合わせた時はちょっと生臭みがでちゃったかな。それが好きな方は止めませんので、どうぞトライしてください。

4:お酒を直前まで冷やすために、グラスは先に用意しましょう。ワインクーラーがあれば、氷を入れて準備しましょう。たとえワンコインで買ったスパークリングワインだったとしても、VIPをお招きするかのような心構えが大切です。

5:ここからが抜栓のしかたです。スパークリングワインの栓を開けるのを怖がっている人、もう大丈夫ですよ。怖い思いをせずに、簡単にスパークリングワインを開けられるようになりますからね。

スパークリングワインをそっと冷蔵庫から取り出します。「イエーイ!!ドンペリ、ドンペリ~~!!!」などと言って歌いながら仲間にコールをせがんだり、調子に乗って瓶を振ったりしないように。落ち着いて丁寧に取り扱ってください。お酒は神の雫ですからね。安定した台などに置いたら、ナフキンなどの布をボトルの頭からふわっとかぶせ、布の下から手を入れて留め金をゆっくりゆるめます。ゆるめるだけで外しませんよ。ここ、みんな意外に知らない大事なポイントです。コルクだけ引くのは、握力のない人には結構大変ですからね。留め金付きでひねれば、強い力をかけなくても開きます。

留め金の上にナフキンをかぶせたまま、コルクをねじります。右、左、右、左、と引きながら回せばラクに栓が抜けます。
はい、栓が抜けました。グラスにはゆっくり注ぐこと。泡が多いのでドバーツとそそぐと、大抵あふれて大惨事になります。

みなさま、節度を守っておいしいワインタイムをEnjoy!!!してくださいね。

仙台ネイティブのつぶやき(81)遠くにみる先生

西大立目祥子

 母のコートの裏地の背中のところがほつれた。たぶん、動いてすれるうち生地が糸に引っ張られ、しまいに端から破れてしまうんだろう。安物は縫い代に余裕がないからなぁ、とぶつぶついいながら直す手立てを考えていて、首のところから裾まで幅広のリボンを縫い付けることを思いついた。ちょうど幅3センチくらいの赤いタータンチェックのリボンがあったので、当ててみるとなかなかかわいい。まずはリボンの端をきちっと折って、アイロン。と、反射的に考えたとたん、中学時代の家庭科の授業が思い浮かんだ。
 ええと、五十嵐先生といったっけ。小太りで、目がくりくりしたどこかユーモラスな雰囲気をただよわせていた先生。ブラウスにスカート、ワンピースまで縫わされた授業で、先生はときおり、ミシンをかける生徒の間を歩きながら澄んだ声を張り上げた。「きれいに仕上げるにはこまめにアイロン!」ソーイングが趣味でもないじぶんの中に、50年以上もこのことばが生きているなんてなぁ。先生のひと言どおり、アイロンを当てて縫い始めたリボンは曲がることなく、ぴったりと裏地に縫い付けることができた。

 10代でからだに入り込んだことばは、ずっと深いところに降りて定着するのだろうか。そして、何か気持ちが揺れるようなことがあったりすると、ふっと水面まで上がってくる。
 ひとり、忘れがたい先生がいる。佐藤正志先生。私に宮澤賢治の「雨ニモマケズ」を教えてくれた人だ。担任だったのはたった1年なのだけれど、この先生が担任になったとたん、教室のすみっこに縮こまっていた男の子が、子犬がじゃれるように先生の腰に抱きついて相撲をとったりするのに目を見張った。じぶんに心を開いてくれるおとなを、子どもは瞬時に鋭く見極める。

 ある朝登校すると、黒板の上にほぼその幅に合わせて模造紙でつくった大きな原稿用紙が張り出されて、マス目を埋めるように「雨ニモマケズ」の詩が黒マジックで書かれていた。教壇に立った先生がいった。「ひと月で、この詩を覚えるように。来月、ひとりひとりに暗唱してもらうよ」えーっ。むりー。長過ぎるー。教室に叫び声のような声の渦が沸き起こった。でも、ひと月後、50人をこえる10歳の子どもたちは残らずこの詩を覚えた。意味の理解はどうあれ。

 詩のことばの咀嚼はずっとずっとあとになってからついてきた。平成5年の大冷害の年、私は仙台近郊で長いこと米づくりをやってきたおじいさんたちを手伝って、地域誌をつくっていた。連日、曇り空で肌寒く、ヤマセといわれる冷たい風が吹きわたる田んぼの稲は青く突っ立ったまま。そのとき記憶の底から、ことばが上がってきてふっと口について出た。「サムサノナツハオロオロアルキ」
 気温が上がらないとき、田んぼでは深水管理をする。農家の人たちはくぐもった顔で空を見上げ田んぼをあっちこっちと歩きまわる。歩いては腰をかがめて水に手を入れ、稲はこの寒さを乗り切れるだろうかと案じるのだ。あの冷害の年、出穂はあったのだろうか。稲は花を咲かせることなく夏は終わったのかもしれない。宮城の米の作況指数は37。重たいコートを着て歩く宮澤賢治のよく知られた写真があるけれど、あれは夏だったのではないかと想像した。

 「一日ニ玄米四合」は、私が食べる一日のごはんの4、5倍。1年に換算すると、米3俵半を超えている。そこに添えられた「味噌」は味噌汁なんだろうな。歩きまわる田んぼの近くには、命を支えるための大豆畑と野菜畑も整えられているのだ。宮澤賢治は収穫した大豆に麹を加えみずから味噌をつくることはあったのだろうか。土間の上の方には、藁でしばった味噌玉がぶら下げられていたんだろうか。

 そして、「東ニ病気ノコドモ」「西ニツカレタ母」「南ニ死二ソウナ人」「北ニケンカヤソショウ」というところは、これを覚えようとする10歳の子どもたちを「えーと、東はなんだっけ?」と悩ませる箇所だった。でも、理屈としてはわからないけれどイメージとしてはつかまえられるような気がする。東には薬師如来がいるのだから、病気の子どもは治るだろう。夕日が沈む西には、薄暗くなってなお野良仕事をする母が見える。いま年老いて死なんとする人は少しでも日差しの入る暖かいところに横にしてあげたい。そして北風が吹きすさむところには、つまらない争い事が起こりそう。
 覚えてもう半世紀は超えているのに、ぐずぐずと反芻する牛のように、私は湯船につかっているときなんかに、「小サナ萱ブキノ小屋」の屋根の葺き替えは誰に手伝ってもらったんだろう、と考えたりしている。

 佐藤先生が音楽の時間に、小さなポータブルのプレーヤーを持ってきて突然レコードをかけたことがあった。「この曲を知っている人は?」みんなが首を横にふると、先生はいった。「グリーグという人がつくったペール・ギュント組曲の朝という曲です」たしか、音楽の教科書に載っていた覚えがある。1週間後、先生はまた同じ曲をかけた。「この曲知っている人は?」3、4人が手を上げた。次の週も次の週も、そのまた週も、先生はこの曲をかけ続けた。2ヶ月が経つ頃には、全員が「あーさー!」と答えるようになっていた。
 町はずれの小学校のクラシックなんて縁のない子どもたちに、先生はみんなが入れる小さなドアを用意しようとしていたのだろうか。そうかもしれない。でもたぶん、先生はこの曲が好きだったに違いない、とも思う。4分弱のこの曲にいつもじっと聴き入っていたから。先生の家は、仙台南部の田園地帯にあった。もしかすると家は農家で、朝、草取りをしてから学校にきていたのかもしれない。草原に朝の光が満ちあふれていくようすを描いたこの曲に、すがすがしい朝の田んぼの風景を重ねみていたのだろう。「雨ニモマケズ」にしても、深い共感がまずあったのだと思う。

 苦手だった跳び箱を跳べるようにしてくれたのも先生だ。体育の時間にひととおり全員が飛ぶようすを見た先生は、飛べない子だけを集めると、「勢いよく走り、踏み台を強く蹴って、跳び箱の上に乗っかれ」といった。走る勢いと蹴る力があれば、誰でも跳べることを知っていたのだろう。全員が乗れるようになると、次には手をついて飛ぶように話し、ひとりひとりが踏み台を踏み込んだ瞬間に先生がお尻を持ち上げてくれる。先生は本気だった。次々と声がかかる。「よし!」「ほら、行け!」足の力で空中に飛び出し、降りていくときに腕の力で跳び箱を押すようにして前へ。たった45分の間に全員が跳べるようになっていた。できなかったことが、できるようになるうれしさ。そして、体がふぁっと浮かぶ楽しさ。どこか夢のような授業だった。

 もうひとつ、女子校時代の先生のことも書いておこう。2年生の自習の時間だったか。夏だった。監督にたしか森先生という体育の先生がやってきた。ハンドボール部の顧問だからかよく日焼けしていて、いま思えばユーモアのセンスがあったのかもしれない。教室に漂うやる気のなさに気を許したのか、やおら映画の話を始め、そこから急にマリリン・モンローに話題を移し、突然こういった。「あのな、男がみんなモンローみたいな女が好きだと思うなよ」17歳45人がどっと笑った。さらに先生はこう続けた。「俺はオードリー・ヘップバーン派なのよ。かわいいよねぇ。わかる?わかんねえかなぁ」また、みんながどっ。わかったのか、わからなかったのか、じぶんでもわからない。
 あれは何だったんだろう。白いブラウスからぷくぷくした二の腕を出し、机の下にょっきりと足を投げ出すメス化しつつある女子の群れの圧を感じての本音だったのか。
 先週だったか、赤信号でクルマを停めふと横を見たら、店のガラス戸にポスターが貼ってありモンローが肉感的な表情をこちらに向けていた。わぁ、先生。
 大切なことを伝えてくれるからいい先生なのではなくて、本気と本音で向かい合ってくれるからいい先生なのだろうと思う。だからこそ、胸の奥底にその後姿とことばはとどまり続けているのです。

灰とダイヤモンド、明日はワルシャワ

さとうまき

2023年、2月6日 大きな地震がトルコ、シリアを襲った。そのおかげで、わさわさと騒がしくなり、旅に出る計画がなかなかまとまらなかった。もちろん行き先はイラクである。今年はイラク戦争から20年なのだから。イラクの土地に初めて足を踏み入れた時の不思議な感覚。この土地には、悪魔が宿っている。足元からそう感じた。土地は生き血をたっぷりと吸い込んで肥沃になっていく。アメリカに復讐を誓う人々はテロに身を染め、「神は偉大なり」と叫び人質の首を切断する。生き血が渇いた大地を潤してきた。僕は、よく夢をみた。黒装束で黒い中折れ帽をかぶった男が現れ、僕を指さす。「お前は、これ以上かかわるな。さもなければ、ぐうの音も言えないようにしてやる」ここはイスラム国なのか?

気が付くと4年たっていた。コロナがどうのこうので、4年もイラクを離れていれば、あの男に言われなくても、かかわる理由などとっくになくなってしまい、ぐうの音も出なくなっていた。記憶が薄れるとともに、自分の存在すら信じられなくなってしまうものだ。本当に自分はイラクにいたのだろうか?「そろそろ、戻らないといけないなあ」というわけで、僕は旅に出ることにした。しかし、地震がトルコ・シリアを襲い、トルコとシリアに行くのが最優先じゃないか、と悩み始め、ああだのこうだの考えているうちに時間は過ぎ去り、もともと円高や燃料費の値上げで高騰した航空券はさらに高くなっていた。

旅行会社に工面してもらったチケットは、ワルシャワ経由?だった。トランジットで8時間くらい時間がある。これは、旅行のおまけとしては少しうれしかった。というわけでいきなりポーランドに行く羽目になったのだ。ポーランドと言えば、隣接するウクライナから多くの難民を受け入れているということで、最近はよくニュースにも登場する。しかし、僕はそれよりも、昔買った水牛楽団のテープ、「ポーランドの禁じられた歌」に入っているいくつかの曲や、映画「灰とダイヤモンド」(1957年)を思い出した。

1980年代、大学生だった僕は、早稲田に下宿していたので、高田馬場のACTミニ・シアターという畳で寝そべりながらのオールナイトを見に行ったり、池袋の文芸座ルピリエなんかもよく歩いて通った。映画の歴史に追いつこうと昔の白黒映画をむさぼっていた時期があった。あの昭和の名画座の雰囲気は楽しかった。今は便利に家でネットが見られる時代だがなかなか名画となると配信がないのは寂しい。その時に見たのが「灰とダイヤモンド」である。1945年5月8日、ポーランドを占領していたナチスドイツの降伏の一日を描いた映画である。主人公のマチェックは、パルチザンの兵士であるが、敵はもはやナチスドイツではなく、ナチス後に支配するだろう共産党だった。しかし、当時は複雑な歴史とは関係なしに、マチェックのカッコよさだけが印象にのこっていたのだ。

朝の6時に飛行場につき、乗り継ぎ時間が6時間くらいあったので、バスで町中まで出てみた。ワルシャワの旧市街は、ワルシャワ蜂起でナチスドイツに返り討ちにされ街は破壊しつくされたが、ポーランド人は丹念に昔の通りに町を再現した。その情熱に世界遺産にも登録されている。お土産屋さんには、ワルシャワ蜂起を描いた絵ハガキや女性兵士の置物が売っている。そのわきに金貨をたくさん持っているユダヤ人の人形もあった。
「これはなんです?」
「ユダヤ人はお金にがめついからね」と店員が説明してくれた。
「そんなユダヤ人を差別しても大丈夫なんですか」
「ただのジョークですよ。ポーランド人はジョークが好きなんですよ」と説明してくれる。
町中にはウクライナの国旗もちらほら飾ってあった。
「ウクライナ人? 彼らはお金をねだってくるが、実は結構お金持ちだったりしてもううんざりしている」と通りすがりの老夫婦が文句を言い出した。

実は、1996年にもポーランドを旅したことがあった。その時は、アウシュビッツを訪れるのが目的だった。中東を旅した最後の仕上げだった。2年間シリア政府の工業省で仕事をしていた時、シリア人の同僚たちは、「ホロコーストなんかなかった。あれはユダヤ人がでっちあげたものだ」。彼らはそう信じていた。その言葉は衝撃的だった。だから僕は、アウシュヴィツとビルケナウに行く必要があった。あの匂いを嗅ぐために。それは、人間の内部に誰しもが持ついやらしいかび臭い匂いだった。今でも覚えている。

僕がシリアを去って15年たったら内戦が始まった。10年間で40万人が殺された。難民は600万人をこえた。瓦礫と化した街並みはいつになったらワルシャワのように元に修復できるのか? シリアの禁じられた歌は私たちを魅了するのだろうか? 2013年には、ヨルダンで次から次に運び込まれる手足を失った子どもたちの支援を行っていたし、自由シリア軍の兵士たちの話を聞いて早くシリアに民主主義がもたらされればいいなと思う反面、彼らが殺されていくのがつらかった。ウクライナにしても、もちろん彼らが国を守るしかないのだが、人が死ぬことがただ単に悲しくてつらい。憎しみ合う人々を見るのがただ辛い。レジスタンスに高揚するよりもただつらいのだ、そんなことを考えながら飛行場に戻るバスの窓からチューリップの市場が見えたので思わずバスを降りてしまった。うっとりと美しい花に見とれているうちに時間が過ぎ僕は慌ててバスに飛び乗った。しばらくすると、警察官が2名乗り込んできた。これはやばい雰囲気だ。ゲシュタポが、バスに乗り込んできた。こういう時レジスタンスならどうする?窓から飛びおりて逃げるか?
いやいや、さりげなくパスポートを出した。
「切符を見せてください」
「あ、切符ですね。」
しまった! 僕は無賃乗車がばれて罰金を取られる羽目になった。正確には切符を買う時間がなくて飛び乗ったのだが、駄々をこねるとどこかに連れていかれそうな怖い警察官だったし、飛行機の時間が迫っていたのでおとなしく罰金を払った。まあ、旅の出だしとしてはあまりよくないが、気持ちを切り替えて旅を続けようと思う。

卵を食べる女(上)

イリナ・グリゴレ

彼女は毎日生きることとはどういうことなのか考えていた。それは食べることに深くつながることであると幼い頃から気付いたがある日から食べ物の味が全く感じなくなった。この出来事は自分が生まれた村と違う場所に住むようになったからだったかもしれない、あるいは自分が生まれた国と違う国で暮らすようになったからかもしれない。その国に着いてから間も無く流産のような経験をした。1ヶ月以上出血は止まらなくなって、彼女の身体が透明に近い青い白い色になって、気絶も何回も繰り返した。隣の部屋に住んでいた聞いたことない国の陽気で、明るい、ゲイの女性友達に言ってみた。「もう、これ以上、このままこの身体から心臓も、肝臓も、全ての器官が出ると思う」。すでに、鮮やかな血というより、黒くて大きな血の塊が出ていて、押さえる布が1分でいっぱいになってトイレまで行く時間さえなかった。部屋で倒れてこのまま血塗れになって終わればいいと思ったこともある。

あの日、隣の部屋の友達にタクシーに乗せられて、救急で病院に連れて行かれたが手遅れではなかった。タクシーで吐いたことも仕方なかった。彼女の身体が勝手ながら彼女と全く関係ないところで反乱していたとしか思わないような状態だった。彼女の身体は彼女を食べていたような感覚を説明できなかった。以前見た、ある恐竜が違う恐竜の卵を美味しいそうに食べる再現ドキュメンタリーのイメージを思い出した。自分の身体は自分を食べているとはどういうことなのか。

病院で若手医師が遠慮しながら彼女のお腹を触って「妊娠の可能性は?」と聞かれた。可能性はないと答えたが検査をした。妄想の妊娠というものもあるとどこかで読んだことが思い出した。それなら、ありえる。彼女の身体が勝手にそうなることが多い。あの後、薬を飲んだら出血が治った。当時、原因は不明だったけど、違う現象が身体に起きた。それは食べ物の味が分からなくなったことだった。どんな美味しいものを食べても味がさっぱり分からなかった。お肉も、野菜も、お菓子も。紙を食べていると同じだ。最初は薬の副採用だと思ったが、薬を飲まなくなった後でも同じ。いろんなことを試した。食べ物以外のものも試した、土も、草も、お花も。全く味がしなかった。このことを周りの人にぜったいに言わないこと決めた。匂いを感じないということではなかった。逆に、高校生の時、読んでいたパトリック・ジュースキントの『香水』の主人公のように匂いにものすごく敏感になったと。しかし、匂いを感じても味を感じないということは、あり得ない。周りにこんなことを言ったらきっと誰も信じない。

あまり味が分からないと食欲もない。ただ、お腹が空く感覚がある。あるのに、食べたあと吐き気する、味が分からないと何を食べても同じ。ある日、唯一味がするものがあるとわかった。それは彼女も驚いたことだった。卵の味だった。卵か。思い出して見れば、子供の頃は卵アレルギーだった。彼女の祖母が鶏を育てていたから雛の世話は彼女の仕事だった。祖母は一所懸命、春になるとお母さん鶏の下にある卵を見守って、その母鶏のケアもしていた。水とトウモロコシの粉を与えて、復活祭の前に必ずあの卵から小さな雛が孵った。彼女のような小さな女の子が森へ出掛けて、その春の一番のスミレをたくさん持って帰ると雛がたくさん生まれると信じられていた。でも、雛にならなかった卵もあって、そのまま鶏の庭に捨てられて、割れた臭い卵から小さなまだ形がはっきりできていなかった雛の遺体が土の上にそのままになっていた。それを他の鶏が食べるのも見た。

鶏が小さな鶏を食べるイメージは、恐竜が他の恐竜の卵を食べるシーンと同じだと何年か後にわかった。そういえば、雛の世話を任された子供の彼女はもう一つの矛盾を発見した。産まれたての弱い雛の餌はトウモロコシの粉と水とゆで卵を混ぜたものだった。雛に卵を食べさせるなんて幼い彼女は驚いた。経済的ではないので、最初の二日だけ、その後はトウモロコシを水に混ぜて手で溶かしただけの餌になった。彼女は毎日それを作って、雛を日当たりのいい場所と草が綺麗な場所に連れていき、何時間も小さな雛の身体についていたシラミを一つ一つ取って殺した。シラミから血が出て、黄色いふわふわの雛にこんな赤い血が流れていたことが驚きだった。彼女と同じだ。血が流れている生き物だ。

毎日のように食卓に出ていた茹で卵と祖父がとても得意だった自家製ベーコンとラードのスクランブルエッグを食べると、彼女の身体は酷い蕁麻疹で苦しんだ。腕と足に赤い点々たくさん出て、痒みに耐えられないまま血が出るまで擦る。

彼女が特に好きだったのは、まだ産まれてない卵。週に一回ほど、来客がある時など祖母は鶏を殺して家族で丸ごと食べる。祖母は皮がついた足しか食べなかった。子供に美味しいところを残すため。鶏の臓物を捨て、雌鶏の中に生きていたらこれから産むはずだったさまざまなサイズの丸い黄色い鉱石のような卵をスープのため他の肉と煮てある。祖母はそれをレバーと一緒に彼女にあげていた。毎回。塩もつけないで。10分前に生きていた鶏のまだ産まれてない卵とレバーはとても美味しかったが、卵アレルギーの彼女の身体にはその夜にブツブツの森ができてかゆみと何日も闘っていた。すると祖父は森で拾ったハーブとラードの手づくり軟膏を塗ってくれた。次の卵を食べるまでなんとか頑張っていた。それでも卵を食べ続け、知らない間にアレルギーが治ってしまった。