『アフリカ』を続けて(4)

下窪俊哉

 この夏、犬飼愛生さんのエッセイ集『それでもやっぱりドロンゲーム』を「アフリカキカク」でつくって、雑誌『アフリカ』と同様に、主にウェブで販売している。犬飼さんは詩を書く人(詩人)で、これまでに詩集を3冊発表しているが、エッセイ集は初めて。2009年から今年(2021年)前半にかけて『アフリカ』に発表してきたエッセイと、『京都新聞』の「季節のエッセー」に書かれた連載を中心に、未発表原稿を含む27篇+α をたっぷり収録した。

「アフリカキカク」というのは、極私的な出版社(出版体?)で、もともとは「アフリカ企画」だった。『アフリカ』を始めた時に、版元は『アフリカ』を企画しているところだから「アフリカ企画」でいいんじゃないか、と考えて適当に名づけた。いつから「アフリカキカク」になったのだろう? 覚えていなかったので調べてみたところ、vol.14(2012年5月号)からのようだ。意味をあやふやにして、「企画」「規格」あたりを匂わせつつ、どうとでもとれるように「キカク」とカタカナにしたのだろうか。あるいは、カタカナにした方が洒落てるな、と思ったのか。よく覚えていない。いい加減だ。
 最近、「アフリカキカク」でつくっている本の大半は書き下ろしではなくて、10年、20年の間に書かれたものを集め、著者と共に(自分が著者の場合はふさわしい誰かに付き合ってもらって)じっくり読み直し、手を入れようとなったものには手を入れて、編集している。そうすると嫌でも、時間の蓄積を感じる。

『それでもやっぱりドロンゲーム』には「デザートのように」と題された前書きがついていて、その文章だけは私(下窪俊哉)が書いている。犬飼さんから「編集者のことばがほしい」と言われて、そのリクエストに応えた3ページ、その中で、『アフリカ』には当初、詩作品を載せないつもりだった、と書いた。ほんとうにそう思っていた。詩の雑誌は当時、身近にたくさんあったから。
 詩を書く人たちの間では、まだ同人雑誌の営みが生きている。小説を書く人たちの間からそれが消えつつあるのは、なぜだろう? と考えると、出版社が公募している新人賞が流行っているからだろうと想像はできた。人は金のなる木に群がるのであり、金の離れていくような木には寄ってこない、というわけか。
 それなら、まあ仕方ないかな、と思う。けれど、なぜ書こうと思うの? といえば、動機の物語は、書く人の数だけあるはずだ。それを読むのにふさわしい場所は、いろいろあるはずなのだ。
 自分はどうか? 私はそんなに、書くことが大好き! というわけではなさそうだ。むしろ、書くことを強制されたら苦しくなる。小説も書いてはきたが、小説をこそ書きたいとは考えていない。理想を言えば、いろんな文章を気ままに書いて、気ままに読むなら、いいのだけど。それではたぶん職業にはならない。
 ただの個人の営みにしてしまえば一番自然なのかもしれない。
「アフリカキカク」は、いわばプライベート・スタジオである。でもせっかくつくるなら、自分だけが使えるスタジオというのでは詰まらない。いろんな人が入ってこられるような「場」をつくりたいと思った。

 最近は、文章教室という名のワークショップをひらいて、『アフリカ』をつくる際にメールで行われている”セッション”を現実の空間の中で、顔を突き合わせてやってみている。そこでは各々が書いてきたものを読んで、例えば、どうしてフィクションが書かれるんだろう? というような話をしたり、個人的なことを書いて、それって他人に読ませるようなものだろうか? という話をしたりする。

 ことばはどこから来るんだろう?

 もともと私は23年前に、大学の文芸創作ワークショップに入って書き始めた。それ以前には、自分の作品ですと言えるようなものは何ひとつ書いたことがなかったし、書こうともしていなかった。たまたま巡り合って、入学したそこで影響を受けて、書き始めた。
 そこで過ごした時間の一端は、今年の春に「アフリカキカク」で本にした『海のように、光のように満ち〜小川国夫との時間』という本の中に書いてある。
 ことばというものを考えるうえで私の先生となった作家・小川国夫さんは、はじめて雑誌をやろうとしている若者(私)に声をかけて「仲間とやりなさいよ」と言った。「親しい友人とやるというのじゃない、雑誌をやることで仲間になるんだ」と。
 そういうわけなので、私はひとりぽっちで書いていた経験がない。いつも必ず身近に読者がいた。彼らはいつも親身であり、厳しくもあった。また自分自身も常に、誰かの身近な読者だった。書き手と並走できる、よき読者に恵まれるかどうかは書く人にとって大きい。雑誌はそういう人との出合いを生み出す「場」でもある。
 よく思うことだけど、雑誌という「場」にとって、ほんとうの主役は書く人ではなくて、読む人なのかもしれない。

 さて、20年前に「消えつつある」と思っていた個人的な雑誌の営みは、じつは社会のあちこちで生きていて、続いていた。自分が知らなかっただけかもしれない。最近はよく、SNSを通じてその存在が見えてくる。「雑誌」と言うと不思議そうな顔をされる。「ZINE」と呼ぶ方がしっくりくるらしい。いまの『アフリカ』にはエッセイも小説も(詩も!)漫画も写真も、対話の記録も載っていて雑誌らしく(?)なってきたが、もともとは短編小説と雑記だけだった。少なくても人が集まって、つくっているのを見るといいなあという気持ちがわく。たまに、こんな書き手がいるのか! と驚くような出合いもある。彼らにはプロフェッショナルの自負どころか自覚もないだろう。洗練されてはいない、粗削りの中にこそ感じられることばの力というものもあるような気がする。

しもた屋之噺(236)

杉山洋一

2021年10月1日。今日はブソッティ90歳の誕生日です。中学生のころ、澁澤全集と漆黒のサド全集を古本屋で蒐集して、ロートレアモンと一緒に読み耽っていた自分にとって、ブソッティは、澁澤の耽美で倒錯した世界を具現化する稀有な存在でした。
尤も、イタリアで知己になったブソッティの印象は少し違って、三輪明宏と寺山修司、そこに政治信条こそ違えども、僅かばかりの三島由紀夫のエッセンスを雑ぜたような、刺激的で不思議な存在でした。
パゾリーニを想像させる部分もありましたが、底辺には常に音楽とオペラが流れていたように思います。

9月某日 三軒茶屋自宅
昼過ぎ、鈴木優人君のオルガンを聴きに初台に出かける。自転車を漕いで渋谷でPCR検査の陰性証明を受取り、そのまま宇田川町を抜け初台へ向かった。躰が困憊しているのを痛感。鈴木君の演奏を聴いていると、溌溂とか颯爽、闊達という形容詞が頭に浮かぶ。
グランドオルガンが、こうも切れ味良く、メリハリのある楽器だと実感していなかったので、認識を刷新した。聴いていて、ふと、シャリーノの2台オルガンのための「アラベスク」の楽譜を、ぜひ彼にプレゼントしたいと思う。
昨年はオーケストラをオルガンに見立て、彼のオルガン演奏、指揮姿を頭に描きながら作曲したが、その想像通りだったので少し驚いた。オルガン奏者も指揮者も、聴衆に背を向け演奏するのは等しい。
アンコールは、この所家人が家で練習しているバッハのフーガであった。
演奏会後、外は酷い雨が叩きつけていて、持参した雨具を着込み自転車に跨る。

9月某日 三軒茶屋自宅
東京よりお便りをいただく。
「作曲家は間に合わないと叫びますが、間に合います。M式のひとつは、全く違う質やジャンルの仕事を同時並行でやることでした。編曲のことですが、おかしな例えだけど、毛糸のセーターの糸を解いては蒸気に当て、糸を柔らかくして編み直す。色も形も同じだけれど、新しい編み手がいるということかな」。

9月某日 ミラノ自宅
一日、川口成彦さんのための作曲。
パラリンピックが終わるや否や、ドイツは日本を感染拡大国に指定した。
イタリアは市民のワクチン接種を義務化するという。それに対し、8割の国民が賛成しているそうだ。徹底的に経済が打撃を受けたので、仕方ないのだろう。これからどうなるのか。

母が結婚前に世話になった、小田原は関本の大角の照ちゃんの行方を捜していたところ、インターネットの電話帳にそれらしい名前が見つかる。
早速母が電話すると、照ちゃんは肺炎で4年前に亡くなっていた。94歳のご主人は矍鑠としていて、半世紀以上経って初めて電話したのに、直ぐに誰だか分かったのよ、と母は驚いていた。

アリタリア航空が10月で会社を閉めるので、引延ばしていた家人と息子のチケット払戻しのため、朝から電話を繋ぎっぱなしにして仕事をする。新聞では誕生から現在までのアリタリア航空の変遷を紹介する記事が盛んに掲載され、「アリタリア航空」の名義を公に売りに出している。
右肩から腕にかけて、誰かが乗移ったような妙な感覚。

9月某日 ミラノ自宅
イタリアに戻って感じるこの解放感は一体何か。さして日本で清廉潔白に過ごしているわけでもあるまい。正しく音楽をやり過ぎているというのか。
ツインタワーのテロから20年が経った。自分の人生に於いて911は大きな転機となった。同世代で同姓同名の杉山陽一さんが犠牲になられて、まさかお前じゃないだろう、お前は元気かと何度となく連絡を貰い、その度にツインタワーの映像が甦った。
彼のお名前は漢字は少し違うけれど、ローマ字では同じ綴りだ。
その所為か、完全に他人事とは思えず、烏滸がましくも自分は生かして頂いている、暮しの節々でそう感じるようになって、現在に至る。
911を機に自分の音楽も次第に社会に近づいていったが、日本に住んでいれば違ったかも知れないし、やはり同じだったかもしれない。

気にかけてくれる友人も恩人もいるし、彼らは亡くなっても、どこかで等しく気にしてくれているように思う。塞翁が馬だと感じつつ、生き長らえる中で、漸次パズルは解けて来た。パズルが完成してあちらの世界に行ったとき、落語の「朝友」のように、別の生き生きしたパラレルワールドが広がっていることを期待している。

昼過ぎ、電話をしていると物凄い音がして、窓ガラスに鳥がぶつかった。
夕方、窓ガラス下の黒い物体に気が付いて、良く見ると黒ツグミが死んでいた。
目から一筋、細い血が流れていて、躰を持ち上げるとベランダには体液の染みが残った。ツグミの巣のある土壁の袂、随分前に息絶えていたツグミを埋めた辺りに、穴を掘って埋めてやる。

9月某日 ミラノ自宅
明け方川口さんに楽譜を送ったので、これから少し寝ようと思う。次の譜読みにどれだけ時間がかかるか、ある程度の目算を立ててから次の作曲にかかりたい。
前回、巨視的に作曲した同じプロセスを、今回は微視的、内視的にやろうとしている。

ここ暫く、一家総出で庭に集う黒ツグミたちの囀り声は姦しいほどだったが、昨日の一件以来一羽も現れず、静まり返っている。悼んでいるのか、慄いているのか。
昨日死んでいた鳥に何があったのか、判然としない。何かの拍子にパニックに陥り窓ガラスに突進したのだろうか。
附近には背の高い梢が並んでいて大小様々な鳥が訪れるが、空を羽ばたく姿を眺めていると、人間より余程能力が長けているように思えてならない。
玉葱を軽く炒めて古いゴルゴンゾーラチーズを絡め、パスタを加えて茹で汁で全体を伸ばしよく馴染ませてゆく。秋の味がする。

9月某日 ミラノ自宅
家人がメタテーシスやピアソラを弾くオンライン配信を聴く。メタテーシスもこなれて来たのか、彼女が弾くとフリージャズのように響く。元来旋法的に書かれていて、それが目まぐるしく変化し、重複してゆくから、ある意味当然かもしれない。悠治さんのお話を伺っていると、音符をデジタルに再生する必要はないようだから、フリージャズやルイ・クープランのように弾いても構わないだろう、などと思いつつ楽譜を貼っていて、ブソッティの訃報が届く。
シルヴァーノがこの夏も無事にやり過ごせて良かった、10月1日、90歳の誕生日を皆が賑々しく祝うだろうと考えていた矢先だった。

9月某日 ミラノ自宅
学生時分、間借りした部屋の幼児の幽霊に水を出すようになって以来、宗教心は皆無のまま家族や恩師、友人らに水を上げ、手を併せている。今朝からそこにブソッティも加わる。宗教とは無縁だから、彼も気にしないだろうし、死は逝く本人より残された周りの人間が作り上げる概念だろうから、当人は最早興味もないだろう。

ブソッティは火曜に荼毘に附された後、土に帰されるだけだという。宗教儀式を一切執り行わないのは、故人の宗教観に基づく。告別式も葬式もなくてはお別れも言えない。マンカはブソッティの訃報が報道機関から不当に軽視されていると憤慨している。彼曰く、エツィオ・ボッシはテレビの追悼番組まで作られたのに、べリオもドナトーニもブソッティが死んでも、皆一様に知らない振りをしている。

9月某日 ミラノ自宅
亡くなった人を想い浮かべるとき、死後そこには彼らの優しさだけが残る。生前彼らが周りに分け与えた愛情だけが残る。恩師や家族、友人も等しく、その温もりだけが、残り香のように漂う。死ぬと人は誰でもそうなるのか。自分がいなくなった時、誰かに向けて同様に温もりを留められるだろうか。
死ねば数ケ月と待たず自身の痕跡も記憶も消失するだろうが、自分の個が明確でなくとも、何某か微かな温もりが、空気か土か、コンクリートかアスファルトの上に、ほんのり色を加えられれば倖せかもしれない。
ブソッティの訃報を受けて、そう思う。

フォルテピアノの川口さんは、既に「いいなづけ」の本まで落掌されたそうだ。深謝。
今から200年前の1827年、マンゾーニはそこから更に200年遡った1629年から2年間に亙るミラノのペスト大流行の姿を資料に基づき忠実に描いた。
「いいなづけ」から100年後にスペイン風邪、200年後にCovid-19がミラノを舐めてゆくなど、露ほども考えないで書いたのだろう。
さもなければ、ペスト禍のミラノをあそこまで緻密に描きあげなかったに違いない。
昔、ミラノにはこんな惨事があった、と透徹に後世に伝えようとしたのだろう。
スペイン風邪は知らないが、Covid-19に関しては、当時ワクチンこそなかったにせよ、陰謀論者が現れるところまで、マンゾーニが書き残した世界は現在と酷似していて、読んでいて居心地が悪くなる。

9月某日 ミラノ自宅
「水牛」に書く原稿と自分の作曲が、最近頓に似てきている。私事と公事を区別せず、日記を並置してゆく。それは概念的でも観念的でもなく、音や文章を無から捻り出す能力や創造力の欠落であり、それ以上でもそれ以下でもない。
1月に東京で演奏した、ブソッティ「和泉式部」断片を、久保木さんが故人を悼んでヴィデオ編集してくださっていて、感謝している。

9月某日 ミラノ自宅
久しぶりにスカラに出かけ、ティートの演奏会を聴く。
桟敷入口でワクチンパスポートを提示し、検温して入場する。知合いに会うのが煩わしく天井桟敷に席をとると、目の前で6人ほどの若者が天井桟敷最前列から身を乗り出し、熱心に聴き入っていた。
作曲を勉強する一団だったようで、フィリディ新作の演奏が終わると興奮冷めやらぬ様子で絶賛しながら、それぞれ口角泡を飛ばして意見をまくしたてている。
彼らの一致した意見によれば、フィリディの最高傑作は「葬式」だそうだ。そんな瑞々しく情熱的な姿を、好感を持って眺める。
後半ドナトーニが始まると、面白そうに聴くものと、スマートフォンを取り出しチャットを始めるものと別れた。チャットの彼の携帯電話は、目の前で画面が点滅して煩わしいが、平土間前列の婦人など、前半からスマートフォンを触り続けているから、この若者を批難する気はおきない。
演奏後、ティートはドナトーニのスコアを高々と聴衆に掲げて賞賛を示した。冒頭の低弦楽器の部分の扱いが流麗で感嘆する。
演奏会最後はストラヴィンスキー「うぐいすの歌」だったが、オーケストラでピアノを弾くヴィットリオが余りに際立っていて、思わず演奏会後に彼にメッセージを送った。

9月某日 ミラノ自宅
ブソッティの告別式も葬式もないと聞き、ちょうどフィレンツェで行われている、ブソッティ90歳記念行事の一つ、Bussotti par lui-même 上映会に出かける。
LGBT、性的少数者の関わる映画祭の一環でもあるので、カヴール通りのLa Compagnia映画館の受付や観客もそれらしい風貌の人たちが集って賑々しい雰囲気だ。
観客の殆どは音楽関係者ではなかったようで、上映会後、観客からは、彼の音楽をもっと聴きたいとの声が口々にあがった。
上映前の簡単な座談会で、ロッコが、スイス国営イタリア語放送局のこのドキュメンタリー番組制作当時の逸話を話す。
当時自分はまだ23歳で未熟だったから、即興で踊りを繋ぐこともできず、途方に暮れながら3小節間立ち尽くしたこともあるという。尤も、観客には、トルソの3小節も充分深い印象を与えたに違いない。
スイス国営イタリア語放送がデジタル化したこの番組は、原版が傷んでいたというために、ロッコが「友人のための音楽」や「水晶」を踊る場面や、エリーズ・ロスが「サドによる受難劇」を歌う場面も割愛されていた。

ロッコ曰く、マスクをしていたから、最初は誰だか分からなかったそうだが、それにしてもお前はなぜフィレンツェにいるのかと驚かれる。
追悼式の予定がないのは、遺言でもなんでもなく、単に今のところ誰からも提案がないからだそうだ。自分で企画したら、誰に任せて誰を招くのか、到底決めかねると言う。
イタリア国営放送ラジオでは、オレステが特別追悼番組を放送して、ブソッティの死を悼んだ。

9月某日 ミラノ自宅
「50年前の演奏です。50年前のふたりです」
雨田光弘先生から、50年前にご夫婦で演奏している録音が送られてきた。日付は1973年8月16日。今はなき福井の松木楽器店の録音、とある。
サンサーンスの「白鳥」と光弘先生の音楽を奏する動物画とともに始まる。
痩せて華奢な信子先生が、ぴんと背をのばし、飄々とした面持ちで演奏される姿が目に浮かぶ。
先生の掌を思い出しながら、ほろほろ、ほろほろと紡ぎ出される音に聴き入る。
無心で耳が音を追うに任せる。音に先生の思いでを投影しながら聴きはじめれば、きっと落着いて耳など傾けていられない。
去年の正月に先生宅を訪れて、おせちを少しご馳走になった。あれからもうすぐ2年になるなど信じ難い。7年間も習っていたが、それは酷い生徒だった。

9月某日 ミラノ自宅
夜半早朝、秋らしさが増してきたとはいえ、未だ緑の葉に覆われている庭の樹の梢で、今朝はリスが盛んに尾を振っている。裏の線路と隔てるレンガ壁に垂れた枝を伝って、茂みに潜り込んでゆく。

久しぶりに入試でマリアに会う。血栓の出来やすい体質でワクチンが打てないと聞いていたから、ワクチン接種証明がなければ学校にすら入れない昨今どうしているか心配していた。相変わらず元気そうで安心したが、48時間ごとに自費でPCR検査をしているという。「もちろんよ。これがなければ、働かせてもらえないんだから」。

9月某日 ミラノ自宅
東京の家人より日本で打ったワクチン接種証明の写しが届く。一昨日それをグリーンパス発行の保険局のサイトに登録したところ、今日、グリーンパスを発行する暗証番号とQRコードが送られてきた。
母からは、笑顔の父の近影が掲載された小冊子の写真が届く。電話口で「どこの好々爺かと思ったわよ」と笑っていた。

先日の入試で、ヴァイオリンのフランコ・メッツェーナの講習会伴奏をしていたナポリ国立音楽院の大学院生、ガブリエレが入学した。大学院は10月半ばに修了予定だそうだ。
南イタリアの学生らしく、とても慇懃で、幾分古めかしい言い回しのメールが届く。
「先生のクラスへ入学許可を頂き誠に有難うございます。大変嬉しく存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。お礼を申し上げておきながら、早速このようなメールを差上げる失礼をお許し下さい。レッスン開始から2週間は、カラーブリアの実家に戻らなければならず、すぐに先生のレッスンを受けられないのです。大変申し訳ありません。実家のオリーブ収穫を手伝わなければならなくて」。
「全く問題ないですよ。いいね、カラーブリアのオリーブだなんて。羨ましいです」。
「もちろん先生にはお届け致します。これもわたくしどもの習わしです。どうぞ楽しみにしていて下さい」。
(9月30日ミラノにて)

天道虫の赤ちゃんは天道を見ることができなかった(下)

イリナ・グリゴレ

手術を受ける日はすぐ決まった。難しい手術でも成功させるという若手外科医を紹介された。私は黒い水に溺れる感覚だった。この感覚は子供のころにもあった。村の外れの沼地のこと思い出す。育てられた村は沼と森に囲まれていた。この村を出たら、私はあの黒い沼に溺れるに違いないという予感があった。村の外にあったとうもろこし畑にたどり着くためには、森に沿った道を30分歩いてから、沼地の近くを通る。でも、私はあの沼地のそばを歩くと寒気がした。自分の身体の外側にある沼にも関わらず、身体の中側にまで広がっている気がした。

小学校に通うために町に引っ越してから、毎日のように沼で溺れる夢をみ続けた。黒い水の中に自分の体が沈んでいるのを感じた。水草の間で息ができなくなる感覚があまりにもリアルで、夢から起きてもしばらく息が苦しかった。

CTスキャンで自分の体の映像を見たとき、自分の中に沼地の一部があることを確信した。この世界にある、何か黒い、悪い、恐ろしいものが「私」だけのものではなく、みんなにあると思った。私が病気ではなく、世界が病気だ。私はただ、生まれた。生まれてきた命が謝る必要はない。生まれたらどんな状態でも、生きる。

小学校の遠足でブカレストの国立自然史博物館を訪ねたときに、人間の体の構造の展示を見た。たくさんの本物の人間の器官が白くなって、透明なビンに浮かんで、棚に並べてあった。腎臓、心臓、肺、卵巣、脳。その次は、様々なステージの胎児、実物はすべて透明なびんに浮いているままで飾られてあった。生きてないと知っていたが、目が合った気がした。「大丈夫、こっち側も同じだから、こっち側にもあなたと同じ実験を生きている」と言いたくなった。人生で初めて見た展示はかなり衝撃的だったが、共感して、私の身体も世界という大きな展示場にぶら下がっていると思った。

現代とは、客観的にみれば人間の身体に何をしてもと許される時代なのだとなんとなくわかった。でも展示されていた胎児たちのイメージがずっと頭から離れなかった。手術前にあの胎児たちを思い出しながらピンク・フロイド
の『Embryo』という曲を聴いて、病院へ一人で行って入院した。Embryoは胚という意味だ。

麻酔から覚めたら、裸のまま集中治療室のベッドで機械に繋がっていた。痙攣しても、誰も気づいてくれなかった。動けないままで、どうやって前の状態に戻るのかわからなく、ひたすら機械で自分の心臓の音を聞いていた。耳から入ってくる周りの情報を少し把握しはじめた。同じ集中治療室に何人かの患者がいることがわかった。痛みに耐えられなくて大きな叫び声を出している男性の声が体に響く。恐ろしい声だった。やっぱり、手術しても同じだ、同じ世界に戻る。叫ぶ患者の気持ちがわからなくもない。私も叫びたいが痛みが強すぎて声がでない。元々声があったのか。このベッドに置かれている私は世界からみればどうでもいい。あの博物館の胎児と同じだ。透明なねばねしたば液体に浮かんで、身体が白くなるまでここにいるのかもしれない。裸で、寒い、動けない。麻酔のために喉が乾いて唇の皮膚から血が出て、唇がくっついている。あまりの苦しみにただボロボロと涙が出る。自分の涙が頬に流れるところがかゆいけれど、手を使えないから、涙はただただ流れる。意識と感覚だけはあるのに、身体が動かせない。完全に麻酔からまだ覚めてない状態がしばらく続いた。その後、何回も痛みで気絶した。

何時間たっても麻酔からはっきりと自分の体の感覚を取り戻せないから、起きていることに誰も気づかない。しばらくすると病院の男性看護師が私の口を水に濡らした布で拭いた。ものすごく喉が渇いてい、たからあの優しさに感動した。私は裸だと気付いた。寒いと気付いた。他の看護師を呼んで、一緒に私に服を着せてくれる。小さい子供のように私の身を彼に任せる。この人は天国に行くと思った。迷いなく人を助ける人。彼の仕事だとしてもこんなに優しく触れる。今でも彼は本当にいたのか、天使が人間の形をしたのかとおもうほど、優しい気配を感じた。入院している間に彼の姿を二度と病院で見たことがない。まるで幻のような人だった。

その後は医師が来て様子を見る。手術は成功した。でも思っていたより何時間も長くかかった。患部は足にまで広がっていたので、雑草のように手で引っ張った。一度は私の内臓を体の外に出したという。痛みで喋れない私はそのシーンを想像した。生きている人の内臓を体外に出すということできるなんて。このシーンを何回も想像した。その瞬間に自分を上から見た気がする。手術台の上に麻酔で動けない自分の身体から内臓が外に出ているのは、子供の時に遊んでいた人形のお腹からでている綿のようなイメージだ。それは自分なのか、自分ではないのかわからなくなった。医師は嬉しそうにこの手術を研究発表できると言った。

モルヒネを点滴で入れられる。静かな、痛みを感じない、何も感じない世界に入る。体の暑さと、破れたての血管の、点滴の針との違和感、ドレーンや尿のチューブの違和感は感じるけれど、痛みはもう感じない。そうか、あの展示されている胎児はこんな感じでいるのか。ドレーン排液の透明袋の中に溜まっている私の体から出た液体を見ながら、夢のようにまた黒い水に浮かぶ感覚が戻る。その夜に不思議な夢を見た。古代エジプトでの儀礼に参加していた。私は地下の部屋で、石の台の上に横になっていた。ヒエログリフに描かれているような格好の人が火を持って自分の周りに来て、不思議な歌を歌い、火に関わる儀式をし始めた。

回復するまで何ヶ月もかかったが、一度身体がこのような経験をしたら、本当に回復できるかどうか曖昧だ。ダンゴムシのように丸くなって傷の痛みが消えるまで待った。麻酔が強かったせいか、目の網膜に黒い点がふたつ残っている。それ以来、いくら美しいものをみても私にはそのイメージと黒い点二つが同時に見える。

歩いても、話をしても、何をしても傷が痛い。だるさと疲れと闘う毎日が続いた。身体は元の状態に戻らない。しばらくの間、傷跡が生々しい状態なので、バイ菌入らないように一生懸命にケアをしなければならない。人間の肉、皮膚、細胞はこんな生々しい。普通の身体を持つとはどんな状態なのかもわからない。毎日、茶色い液体を痛い傷に塗って、動く度に痛みで叫びたくなる。一番辛かったのは笑う時だった。笑えない世界をどうやって生きるのか? くしゃみをすると、傷が開くような気がして、止めるのに必死だった。私の身体は大きな傷だけでできていた。それでも自分の身体に追いつけないぐらい生きたい気持ちが湧いてくる。しばらは実家にいてから、ブカレストに戻った。シネマテックがあるから。

しばらくするとあの子から連絡きた。会ったとき、私が座っていたベンチの後ろからシャボン玉を飛ばした。振り向いた時、彼の明るい顔を初めてみた気がした。その夜はブカレスト祭という大きな祭りがあって、サーカスとストリートパフォーマンスなど、音楽と風船があちこちから見えて、あの子と手をつないで歩いた。これでいい。このままでいい。全てを忘れる、本当に幸せになれる。子供のように笑って周りのスペクタクルを楽しんだ。そう、私は弱い人間だ。ただ、愛されたい、だから生まれてくる。その後は二人だけの世界を生きることにした。誰もと連絡を取らず、紙袋ふたつで家を出て一緒に引っ越し、そのまま結婚して、二人の女の子を作ろう、と二人で夢を語った。彼はアルコールと薬物から回復し始めた。笑うようになった。バレー、演劇、映画を一緒に見に行ったり、長い間、街の中を歩いたりして、時間は音楽のように流れていた。手術後の私の身体も奇跡のように回復し始めた。人は薬ではなく、愛で治るのだと知った。彼が優しく私の傷を触るたびに、本当に傷が奇跡のように薄くなっていた。

しかし、ある夜、不思議なことを経験した。それは金縛りだった。寝ているときに意識はあるものの身体を全く動かせない状態で、夢だとわかっているのに起きられないし動かせない。声も出ない。しばらく起きられなかった。それは変な予感だった。後日、頭痛でずっと悩まされていた彼は検査の結果、脳腫瘍と診断された。

彼の手術の日の前に子どものようにお風呂に入れて、星形のキラキラした紙を部屋全体に散らした。奇跡を信じるための空間を作りたかった。どこを踏んでも床が光っていて、彼を子どもの感覚に戻したかった。手術を受ける日にオペ室の前で待っていた私は、5分後にドアの向こうから彼が出てくる姿を見た。手術服のままオペ室から逃げたのだ。手術をしたくないとひとこと言って、病院を出た。そうか、その選択肢があったのか。毎日頭痛で苦しんでいた彼は、パニック状態になった家族に引き取られ、私とはもう会えなくなった。一人で家に引きこもって彼を待っていた日々は、あの沼に沈む感覚。二日に一回ドアの鍵が開く音が聞こえ、彼の姿が見えると薄い希望のようなものを感じる。一緒に逃げることを話したが、結局、彼はすぐ家に帰っていく。そのまま時間が止まった感覚に耐えられなくなった。

やはり、この私たちが生まれた世界では愛は許されない。ある日、私は一人で逃げた。ドアを閉めて、鍵を投げて、頭のなかで、アントニオーニ監督の『砂丘』の終わりと同じように、愛が許されない世界が爆発しているのが見えて、一人で逃げた。私は逃亡者だ。逃げることによって世界をいつでも更新させるのだ。

先日のこと、庭の杏の葉っぱにてんとう虫の赤ちゃんを発見した。しばらく観察しようと思って毎日のように様子を見に行ったが、何日経っても初日とあまり変化がなく、そのままの状態だった。葉っぱの裏に透明なフィルムのようなものに囲まれて点が二つしかできてなくて、そのまま死んでいた。家で飼っていた芋虫も、何日間もお腹いっぱい葉っぱを食べて大きくなり、待ちにまった脱皮の瞬間に鮮やかな緑から黒に変わってそのまま死んだ。たまたま公園で出会った幼稚園のお母さんに話すと「今年の天気のせいだ」と息子が飼っていた虫も上手く生きられなかったと言った。私は天気ではなく、この時代のせいではないかと一瞬思った。変身しきれない虫たちのことを考えながら思い出したようにスマホを開いて、「チェルノブイリ放射能を浴びた人画像」を無意識に近い状態で検索し始める。たくさんの赤ちゃんの画像、奇形児が透明のビンに浮いている画像が私の身体を震わせる。「自分と似ている」としか言葉が出てこない。

震える手で、事故当日から二日の間のヨーロッパの放射能マップを検索した。SF映画のような赤に染まっている放射線マップだ。私の村があるところも濃い赤に染まっていた。やっぱり、私もあの奇形児と似たももの同士だ。きっと、私だけではないはず。奇形児は美しく見えた。この世界では印象派の絵と同じで、光の変化で美しく見える。私も光が当たると眼の色も髪の毛の色も変わる生き物なので、太陽の光があるかぎり変身し続ける。

203 原爆の図丸木美術館にて

藤井貞和

終わりの始まり、富山さんの海峡、富山さんの背筋、富山さんが光(ひかり)の
州(しま)に佇つ。 となか(海峡)のまぼろし、となか
地上絵のめぐり、くねり、のたうつ、ゆく、むかう、みんな、みんなして
土偶も、空の神も、むなしい世紀に(1984年の藤井が
光、州を通過したとき)、案内員のBさんが、「ここからは だまります
言いません、若い人たちが、みんなで哲学の徒であろうとしたとき」と、しかし
海つ路を行く念いと、そこにうずくまる若者たちとを、富山さんは見据え
描きとるのでした
(2011年)
  海の炉芯をだきしめよ    幼い神々
こえを涸らして、「東アジアが祈りの姿勢にはいった」と、富山さんは
描き出しました。 表情のない喪志の希望に、難解であることがみんなの
詩らしい詩、そのようにして無為を叩くキーボードのうえで終わる、終わらない
または始まる。 いくり(海石)に立つにんぎょひめです、母よ
若者はすべての比喩をやめる。 みんなの叙事詩のたいせつな情報を載せて
針は斃れ、胎内で聴く母語のはて、やさしいな、待ってて
  海つ路に波がさらう    潮合いの迎え火
現実ならば醒めないで。 遠い原野と至近の原野と
ふたつの過酷さのあいだで、みんなが生まれる、みんなとみんなとの
あいだのように、あいだのように迎え火を振る
  震央の水が凜として向く    潰(つい)える三月
どうあるべきかを問う子供の思想だった、胎内で聴いた鈴の音と、波の音とを
二つに分ける、背中のたてがみのように。 海底のひがし市場と
にし市場とをわける、霧雨のなかで、どうあるべきか、〈子供の科学〉に
希望はあるか
  たいまつをかざして    国つ罪が沸きあがる四海
釜山から向かう昭和二十年(1945)。 十月のぼく(藤井)は広島を通過する
きょうのみんな、わたしたち、おいら。 海の炉芯に祈る
祈るな。 歳月をして語らしめよ。 しめるな。 日本語の背理
歴史の構想力。 抽象による数学的自然。 だれもいなくなったあとの
夕月夜(ゆうづくよ)と かげかたち。 落涙型の土偶のあしどりに
かげがなくなる、いなくなるかげに、それでも希望をかかげる?
  草原に遠き乳牛    かげが斃れて
浜通りよ、空の神が降りてくる、みんな、降りてくるのは乳のあめ牛
浜づたいに啼いている、みんなのあめ牛、病む仔牛を曳いてどこへ去る
母牛のあしおと
  炉の芯を匍いずり    水源がなめ尽くすまで
なめくじら息の緒の銀線をなすりつけて匍いよるところ
かたつむりら舞う国の罪人のために、涸れる海底の井戸
類的実存を一千ページ余のかなたへ、学習するカードには書き記してあった
いまはない、哲学者のみんなが去る
  校舎のありしあたり    神々が浜通りを去る
なあ、叙事詩の主人公たち。 言えなくなった、意志・苦痛、意志・苦痛
「うつく・しい」と、さかさに言おうとしただけなのに、みんな
虫のことばになりました、消える人称的世界!
  負けないでZARD   海底の卒業式ができなくなっても
風のチョウチョがひらひらとただよい去ってゆきます。 それだけ
ただそれだけなのに、きょうはね
  波間からとりだせなくて   風だけが
  はいっていました   USBメモリー
風の音を送ります。 遠雷に載せて、壊れたぼくのEメールで
  送るよ   走り火の海の底から
訪ねて来て! どこ、辺りの「どこ」、眠らずに来て
海底の虹が住む    住所不明のゆうびん番号
どこへ行けばよいのか分からない、みんなの山彦よ
玉つひめ、葛(くず)のしげりに、無色のちりに
  まがつ神おまえの建て屋に祈る   ゆき向かえ いま
  絃を切れ弁財天女    おしら神はかいこをつぶせ
哀吾、哀吾よ、きみの名は「哀吾」。 建て屋を描く
富山さんのシカゴ大学のホームページの表紙
画面の叙事詩に、一人また一人、名まえが浮上する
終りの始まり
  うたへ講義がさしかかる    まがつ火ノート
  こころに波をうち据えるうた    海やまのあいだにうたう
来週は休講ですよ。 原爆の図丸木美術館での
富山妙子展(2016)から帰ってきました。 題名「となか」(渡中)に
霊獣の物語を。  海峡の辺りは白い波です
 
 
(光州にバスが近づくと、アンネーウォンのBさん(おなまえ忘失)が、その〈経過〉を語り出した。まったく知らないことで、仰天した。バスがいよいよ街にはいるというときに、「ここからは言いません」と、彼女は案内を終えた。韓国への「観光」旅行を友人たちと試みたのだった。まだ、富山さんの活躍をぜんぜん知らなかった。博物館などをまわり、そこに一泊したのだが、Bさんの話を聞いたあとだったので、物音のない、人影のない、死の街の底に沈むような思いだった。真鍋祐子さんの著を知るのはずっとあとになってからである。今年の延世大学校での開会イベントのようすについて、悠治さんの先月の「水牛のように」が5時間のユーチューブを紹介していたので、リアルタイムの富山さんにお会いすることができた。真鍋さんのご好意にあまえて、いくつか、『東洋文化』などを送ってもらった。みんな、みんなありがとう。)

遅く、もっと遅く

高橋悠治

今年は休みたいと思っていたのに、しごとに追われているのはどうしたことか。しごとがおそくなったと気づいたのは1年前、それまでは、作曲をたのまれたら演奏のひと月前には楽譜を渡すようにしていたのに、それができなくなっている。

ピアノの練習もおそくなっている。メガネに慣れないだけでなく、いま弾いている音よりすこし先を見ながら演奏を続けるという習慣が、身につかないせいかもしれない。では、メガネがいらなかった時には、それができていたのはどうしてか。

知っている音楽をくりかえし弾いて磨きをかけるより、知らない楽譜を読む、あるいは、知っていると思いこんだ楽譜を、知らないもののように読むと、気がつかなかったものが見えてくるのを待って、そこから立ち上がる響きを聞く。毎回すこしずつちがう結果をためしながら、でもどこかで折り合えるように、一つに固定しないで、ゆるくあいまいな範囲でその場でうごける、即興に聞こえるような流れ。鍵盤の上に垂らした指が歩くようにして、使う指が自然に決まれば、流れはかえって自由にならないか。自分でうごかすのではなく、かってにうごいていった指が触れるかんじ。指だけがすばやくみつけた位置に行くのと、ちいさく、弱く、かすかな響きが生まれるのがひとつのことであるように。

今年はじめに亡くなった岡村喬生とシューベルトの『冬の旅』を練習していたとき、よく言われた、「遅く、遅く、もっと遅く」。

2021年9月1日(水)

水牛だより

今朝目を覚ましたときには、すっぽりと肌掛け布団にくるまっていました。肌もひんやりとして、暑さにあきあきしていた身には気持ちがよかったものの、この気温の低下は自然な秋というには極端すぎるものだと思います。

「水牛のように」を2021年9月1日号に更新しました。
暑いさなかの8月18日に、富山妙子さんが亡くなったという知らせ。2日後には荼毘に付されて、富山さんのスピリッツだけがわたしたちに残されました。日本でよりは韓国で大きく報道されたのもそのスピリッツのひとつです。

森下ヒバリさんのおかずがけご飯! タイ語ではおかずのことを「ごはんといっしょに」といいあらわします。まずご飯があり、それからおかずです。ともかく、ご飯といっしょでなくてはいけない。目玉焼きをひとつ乗せるのはいい考えですね。たしかにそれだけでごちそうになります。我が家では、おかずかけご飯を「かけご」と短く言って、ずいぶん前からの定番となっています。

パリでどうしているのかと心配していた福島亮さん。ベルヴィルの市場のおいしいものを食べすぎて、太らないねないようにしてくださいね。

室謙二さんのもろもろの部位の痛みは、同じ年齢のわたしもいくらかは経験しています。老化はいたしかたないことなので、治すというよりはある程度の状態を保っていければいいだろうと思うようになりました。ある程度の状態とは、ときどきは痛いのを忘れていられるくらいのことでしょうか。

最近の天気予報は信用できないものになっていますから、きょうは涼しくて快適だとしても、夏が終わったのかどうかは不明です。

それでは、来月も更新できますように!(八巻美恵)

202 海の道の日(原ポルトガル語)

藤井貞和

3月30日、バグダッドへの空爆はさらにはげしく、市の中心部で四つの爆発があったようだ。前日、空爆されたある市場では55人(他の情報源では58人)の市民が亡くなった。

日本の外務大臣川口順子(よりこ)はNHKのある朝の番組で言った:「戦争が終ったときは四歳だった。空襲のとき逃げたことを覚えている。下で怖がっている人たちのことや戦っている兵隊の辛さを思うと、テレビをちゃんと見ることができない」。

本当? 彼女には空襲の記憶があるの? 番組を見た人たちやこのことを後で知った人たちは少し驚いたかもしれない。日本の総理大臣小泉純一郎は川口とともにイラクへの武力行使を容認し、オープンにアメリカ(とイギリスと)を支持した。

川口の言う空中襲撃は1945年の襲撃のことである、当然ながら。あの戦争のことに関しては空中襲撃というのに、今度の戦争に関しては空中爆撃という。

戦後55年間を生きた人たち、終戦後生れた人たち、もっと若い人たち、戦争についてのニュースを聞いたり見たりする経験が初めての人たち、高校生、中学生、そして小学生まで、すべての人が戦争について考える権利がある。

戦争で戦った人たちや空襲の記憶をもつ人たちだけが戦争の経験を生きたというに過ぎないならば、終戦後に生れた人たちは戦争を知らない世代ということになってしまう。

私たちは戦争を知らないのか? 学校で習う歴史や毎日メディアから伝えられるニュースは、戦争を遠いもの、経験できないものとして見せるのか?

戦争にまきこまれていない地域が、ある限られた地域の戦争に関して無関心でいることはできない。ある特定の地域の戦闘であってもそれは世界戦争である、つまり、世界中をまきこむ戦争である。私たちはこれを自覚しなければと思う。

私たちは世界戦争を生きているのではないか? メディアの問題――検閲、かたよった情報の操作、確かな情報の不足のため間違っているかもしれない、挑発的な解説、急に忙しくなった軍事に詳しい専門家たち、戦争批評者になり、多くの解説をうみだす分析者たち。にもかかわらず、このようなメディアを経験することは戦争の経験ではないのか?

小泉と川口の武力行使容認は罪であると言える。しかしこのような批判に対する答えが「彼らはただ保守的な政治家としてふさわしい選択をしただけだ」――であるならば、私たちはさらに有効な反論を見つけなければならない。なぜなら、日本がこのまま武力行使を支持し続けるならば、高い代償を払うことになる。

でも、このことに気づくほとんどの人たちはこの経済援助を国にとって有利だと考える。政治家はこのように言い、支持を得ようと、かんたんに影響されやすい日本社会に訴える、「私たちは戦争に反対だが、現在の危機はイラクによってひきおこされたのだから、私たちは武力行使を支持する以外に選択はなかった」と。「日本にとって、アメリカを支持する以外に選択はあるのか? 現実的な決断だった」と。

イラク復興に協力したいという願いがあの国を助けたいという純粋な気持ちからも発しているということを認める。そして戦争に反対だと言うことは決してまちがっていない。日本はアメリカになんでも従うからアメリカのサルだと言われているようだ。今後、日本社会や日本人がテロ攻撃の的になる可能性は大きい。もし無防備に外国を訪れる日本人観光客が誘拐や攻撃の的になったなら、日本政府は自衛隊を派遣しなければならなくなるかもしれない、そして、後悔するようになるかもしれない、「こんなことなら、アメリカを支持するのではなかった」と。

このような時期に特に反米だと言い始める解説者を見ることは耐えられない。これらの解説者は専門家のように見せ、風潮をつくる。このような日本社会の傾向を好む人もいる。このようにして国民感情はつくられるのだろうか。

「私たちは反米である」――これが討論などの中心的なテーマだ。反米であるというのは現在の国民感情にアイデンティファイしている以外の何ものでもない。どの国でもこのような経験をしているだろう。風潮が反米であったり、その風潮が過ぎ去ったり。東アジア諸国の反日感情を知るならば、少しでも常識のある人ならば国民感情をはっきりあらわして反米だなどと言えないだろう。

あるテレビの討論では次のテーマが与えられた。1.日本が武力行使を支持したことについてどう思うか? 2.今後、日本はどうすべきか? 参加者は朝までこのテーマを討論していた。あなたたちもこれらのテーマを学校で、家で、仕事場で議論していると思う。

しかし、なぜ別な問いをたてないのか。例えば、3.空爆の一番の的になっているイラク市民のことを第一に考えると、彼らの恐怖のことを思うと、国の利益を考えるより先に、人間として、考えることとすることがあるのではないか。

4. 戦争の恐怖があるとして、その恐怖が想像であっても現実であっても、そして戦争以外に選択がないとしても、実際の攻撃は避けなければいけないこのような思想を表現すること。

5. 戦争に反対であること、または非暴力の考えは練習によって得られる思想であり、高度な人間的智恵である。私たちは国民感情が武力行使を支持する方向へ向かわないためにも、このような考えを洗練しなければならない

6. でもその一方で、私たちは言わなければならない:平和に慣れっこになることは何がいけないの? それはいい面もある。私たちはブラジル住民が百年以上も戦争を知らないということ、そして平和に慣れているということをうらやましいと思わなければならない。また日本国憲法を思い出すのもよいだろう。

7. 例えば、沖縄の歌手、きな・しょうきちはイラクへ行って表明した:武器を楽器に代えましょう。世界中で何万人もの人が街へ出て戦争に抗議をした。インターネットでは戦争反対のメッセージやイラストが流れ、人間の盾となるためにイラクへ行った人もいる。それぞれの人がそれぞれの方法で、戦争反対、または非暴力を訴えている。人文字、反戦広告。人間の尊厳の名においてこれらすべてを認めなければならない。小さな行為でも、思想は体を動かすこと、そして声からはじまる。

8. アメリカでもイギリスでも武力行使に反対する人たちがいるということを想像する権利。パレスチナ、アラブ諸国に生きている人たちのことを想像する時間。中欧や東欧に広がっている悲しみを想像できる可能性。東アジアの海、沖縄東海岸のジュゴンを想像する教室。

9. 国の利益よりも大切なものがあると子供に教えることのできる人間の先生。このような先生がもっといてほしい。不利益になっても表現されなければならない無言の叫びがあるということを教える人問の先生。

10. 国民感情が高まっているとき、理性が示す本当の価値は国民感情にはないとはっきり言うことができる、日々を生きる人たち、人間の芸術家、人間の思想家たち。

最後に、人間の兵士たちへ、もし思想が、あなたたち兵士たちが持つもっとも人間的なものをなくそうとしたら、あなたたちはその思想にさえも銃をむけるの?
 

(〈富山妙子「海の道」の制作を見ようと高橋悠治、小林宏道らが火種工房へあつまった雨の夜、2003年4月4日、藤井貞和(試案)〉とあるものの、趣旨をつかみにくく、私の文とすこし違う。ポルトガル語(ブラジルでの諸言語)の併記があり、Eunice Tomomi Suenagaが担当する。しばらく富山さんについて書きます。)

今日は楽しいシェア祭り

さとうまき

大学生たちが手伝ってくれているクラウドファンディングを成功させるためのお祭りらしい。昨年大学生だった馬場ちゃんたちが中心となって、支援を始めたアレッポの小児がんの子ども2名の資金がそろそろ尽きるので、先月からクラウドファンディングをはじめたのだ。

9月1日には、より多くの人たちに知ってもらい、コロナ禍でも大丈夫な人のところまで届いてほしいなあと思うわけだ。
https://www.facebook.com/events/229088655813801

サラーフ君10歳を紹介しよう。
治安はよくなったけど、まだ内戦は続き、シリア人同士の相互不信はぬぐえないから、いろんなことを聞きにくい。こんなこと聞いていいのかなあと不安になる。しかし、一年たつと大体状況が分かってきた。

サラーフ君は、多発性骨髄腫という特殊ながんで苦しんでいる。普通は子供はかからないがんらしく、骨髄にできたがん細胞が骨を溶かしていくらしい。アレッポにはがんの専門病院があったが、反体制派の武装勢力が爆破してしまった。ダマスカスまで通わなければならない。

お母さんがおしゃべりが大好きなのか頻繁にチャットしてくれるが、すべてアラビア語。最初は馬場ちゃんが訳してくれていたが、彼も卒業してしまい、忙しいようで、仕方がないからグーグル翻訳を使って直接やり取りをすることが多くなった。いつも、ダマスカスに着いたら写真を送ってくれる。アレッポ市内に住んでいることは知っていたが、実際どんなところに住んでいるのかなあ。

飛行場の近くで暮らしていたが、反体制派にこの地域が支配されると、国内避難民としてアレッポ大学の学生寮に避難していたという。2013年、アレッポ大学にロケット弾が撃ち込まれ、その時の爆発で80名以上が死亡するという事件が起きた。寮が避難所になっていて、周辺地域から避難してきていた国内避難民たちが3万人ほどいて、巻き込まれた人もいた。サラーフ一家は無事だったが、2015年には、運転手の仕事をしていたお父さんがダマスカスへ向かう途中で行方不明になってしまう。いまだに消息は分からない。2016年の暮れには、アレッポの市中が解放され、サラーフ君の一家が住んでいた地域も安全になったが、帰る家は破壊されてなくなってしまった。

そして、サラーフ君はがんが再発したことを知らされる。
子どもは7人いるので、家を空けられず、毎回日帰りでアレッポとダマスカスを往復している。かつては、政府、反体制派と支配が複雑で道路が封鎖されていて、10時間ほどかかったが、今では高速道路が開通して4時間30分くらいで行けるそうだ。

「私たちの家は、破壊されてしまい、街そのものも廃墟になってしまいました」
家を借りているんですね? 家賃はいくらくらいするのです?
「空き家に住んでいます。大家さんは、私が未亡人で7人もこどもを抱えて、サラーフががんであることを知ってるので、無料で住まわせてくれています。」
それはよかったですね。
「水道も、電気もないのです。ジェネレーターを持っている人から線をつなげてもらってます。水は週に2回給水してもらっています」

その日は夜になっていたので翌日町の写真を送ってもらうことにした。届いた写真を見ると驚いたことに、サラーフ君の住んでいる町は瓦礫だらけ。かろうじて破壊を免れた家に住んでいた。アレッポの町中の修復はかなり進んでいると聞いていたので改めてびっくりした。

「ガソリンは少ししかなく、料理のためのガスもうちには3ヶ月ありません。ガス・ボンベは、もし買おうと思えば、50000SP(2500円くらい)します。でもそれだと15日もすれば無くなります。あらゆる燃料の値段が高いんです。とても大変です。だから時々(ガスがないので)料理しないんです。」

「今年の3月には、ガソリンがびっくりするほど値上がりしました。タクシーの運転手は、16万SP(シリアポンド)要求してきましたが、13万SPしか渡しませんでした。タクシーの人に言ったんです、こんな値段で行けません!って。次はもっと値段の安いところを尋ねないといけません。」

ところが、今では、18万SPまで値上がりしてしまった。ちなみに一年前は6万SPだった!日本円にすれば、1万円を超える。毎月4回ほど病院に通うから交通費だけで4万円近くかかってしまうのだ。

「ダマスカスによく行きます。医者がサラの状態について何と言っているかを説明したいと思います。彼の病気は非常に厄介で、サラーフは、一生病気と付き合わなければいけません。このままでは、彼は骨の痛みに苦しみ続けるでしょう。1つの椎骨が折れると、多くの椎骨骨折を起こし、完全に麻痺を引き起こし、誰も彼を救うことができなくなります。
医者は私に彼の状態を説明しました。そして私たちはアレッポからダマスカスの通院とサラーフが痛みに苦しむのに、うんざりしていて、神は私たちの状況を知っているのに、どうしてこのような苦しみを与えるのだろうと、私は非常に悲しくなり、怒りすら覚えます。サラーフは数年間化学療法を受けていたせいで、歯がとても痛いといいます。今まで4回再発しました。そしてまた再発です。がんは、サラーフのやせ細った体を食いつくしていきます。
データを見て、どのようにがんが骨を侵食しているか見てください。昨年は6番目と10番目の2つの椎骨がやられました。それで、私たちは、何度もダマスカスに通わなくてはいけません。週に2回行かなければならない時もありますが、私はもうくたくたになります。1回行くだけで精いっぱいです。多発性骨肉腫は、まれな病気です。再発しなければいいのですが、サラは4回再発したため、抗がん剤も効かないほどがんは強いのです。
ええと、彼は今、彼が所有して遊ぶことを夢見ている自転車に乗ったり、泳いだりすることを禁じられています。
私の説明が明確で、私の文章を理解してくれることを願っています。」

そもそもなんでこんなにシリアの物価が上がって大変になっているかというと、欧米諸国の課す経済制裁だ。特にアメリカは、アサド政権にシリア国民に対する虐待を止めさせ、シリアが法の支配、人権と隣国との平和共存を尊重するよう図ることで、そのために包括的な制裁を課すとした。シリアの通貨は急落(最近だけで3分の2下落)し、医薬品などの生活必需品の輸入がさらに困難になるとともに、物価が急騰し、国民生活の困窮は一層強まった。また石油・ガスが制裁の対象とされたことも日常生活に一層支障をもたらすことになった。さらに建設業が制裁の対象とされたことで、戦闘が行われた地域の瓦礫の撤去が進まず、国民の生活の基礎である住の確保が進まない状態にある。このように国民のためであるはずであったシーザー法はかえって国民の生活を一層脅かす結果を招いてしまっているのだ。海外からの送金があれば、物価の上昇分を、SPの下落分で相殺できる。しかし、シリア国内でいくら稼いでも、給料が上がる要素はない。

シリア難民が500万人を超えているが、国際社会は、人権問題をあげて、シリアに帰れる状況ではないというが、シリアに戻っても仕事はなく、彼らが難民としてとどまって仕送りすることで家族が食っていけるという構造を国際社会が作っていることも事実だろう。仕送りする家族が海外にいない場合は? 悲惨だ!

アフガンを見ても感じるけれど、国際社会は自分たちの価値観の言葉に酔いしれ、思考停止になっている。人権って、声の出せる人たちだけにしかないのですか? 貧しくて、弱い人にはないのですか? サラーフのお母ちゃんのおしゃべりが、彼らの耳に届くことはない。アメリカ人のほとんどは、こういう人たちが苦しんでいる事なんて知らないから、反対運動もなく、無責任な経済制裁を続けるのだろう。

僕も、サラーフのお母ちゃんのおしゃべりがなかったら何も感じないままだったと思う。なんとか、シリアの人々がもう苦しまなくてもいいように。
まずは、サラーフ君に生きてほしい。

『アフリカ』を続けて(3)

下窪俊哉

『アフリカ』の書き手は、その時々の、編集人(私だ)の交友関係から現れてくる。「書きません?」と誘うこともあるし、頼む前に送られてくることもある。書く人は『アフリカ』という場を出たり、入ったりしている。長い間、続けて書いている人もいるにはいるが、それでも毎回、必ず書いているわけではない。
 何を書くかは、書き手に委ねている。訊かれたら、「いま一番、書きたいと思うことを書いてください」と伝えることにしている。字数制限もなし。何を書いてもいい。それで書く気になった人から送られてくる原稿に、突き動かされるようにして雑誌が立ち上がってくる。はじめに設計図があり、それに合わせてつくるというようなことはない。
 その号の特集テーマを決めたこともない。いや、少しあった。個人的にお世話になった作家の小川国夫さんが亡くなった時に、数人に声をかけて追悼文を書いて、載せたことがあった。書き手の常連である犬飼愛生さんが久しぶりに詩集を出した時には、論考を書いたり、メールでやりとりしてインタビュー記事をでっちあげたりしてまとめて載せたこともある。しかしそこには特集とは書かれておらず、よく見たら小特集のようになっているという具合だ。
 いま、書店へゆくと多くの雑誌で、特集が目立つようにつくられている様子を観察できる。リトルプレス(ミニコミ)にも、その影響は及んでいるのではないか。
 特集テーマを決めて、書いてもらう、というやり方はつくりやすいのだろうし(考えやすいという方がよいか)、買う人も特集が何かを見て選べばいいので買いやすいのだろう。わかるような気がする。でもそればかりでは、予想を外れたもの、超えたものが出てこない。『アフリカ』のような小さな雑誌で、できることは何かと考えると、その「予想を外れたもの」へ近づいて、入ってゆくことではないか。
 準備はほとんどしない。
 出たとこ勝負で、集まってきた原稿を並べて、流れを見る。
 打ち合わせたわけでもないのに、ある人の書いていることが、別のある人の書いていることへの応答のようになっていることがよくある。不思議なことだ。

 表紙にあるのは切り絵(をスキャンして配置したもの)だ。『アフリカ』を最初につくった時、向谷陽子さんから届く年賀状や暑中見舞いが切り絵になっていたのを思い出して、依頼してみたのだった。それから15年、『アフリカ』の表紙にはいつも彼女の切り絵が躍っている。
「何を切ろう?」という相談を受けることがあるが、それも基本的には「いま切りたいものを」で、切り絵も『アフリカ』に集まってくる作品のひとつなんだというふうに思っている。それでも相談されるので、最近は毎回、リクエストをいくつか出して、その中から選んでもらっている。ただし、そのリストにないものを切って送ってくる場合もある。予想していなかったものが届くと、『アフリカ』が喜んでいるような気がする。
 さて、その表紙には、切り絵と「アフリカ」の文字があり、発行年・月が書いてあるだけである。
 これではどんな雑誌なのか、実際に手に取り開くまでサッパリわからない。”アフリカの雑誌”だと思ってしまう人がいるのも仕方がない。
 そんな『アフリカ』でも、3、4冊つくるともう「次の『アフリカ』はいつですか?」なんて親しみをこめて呼んでいる人がいる。「どうして『アフリカ』なんだ」と言われていたことも、次第に過去のことになる。
 5冊目の『アフリカ』になって初めて、奥付に号数を記した。号数のない雑誌ではなくなった。しかしそれ以降も、現在に至るまで、第○号と記してあるのは奥付だけである。あまり大切なことではないんじゃないか。毎回、毎回の、その1冊があるということに比べたら。

 先日、32冊目の『アフリカ』をつくった後で、ある人たちと話をしていて、32号って、すごいですよね、と言われた。そうかな? だって、1年に2冊つくっていたら、10年で20冊、15年で30冊じゃない? でも1年に2冊つくるのだって、大変ですよ? そうかな、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 昨年、下窪俊哉(私)の作品集『音を聴くひと』をつくった時に、それまで20数年の間に書いて発表してきたエッセイや小説に加えて、『アフリカ』の編集後記を全て載せた。
 数年前、フリーマーケットに『アフリカ』を出した時に、立ち読みをしていた見知らぬ人から「この編集後記、面白いから、これだけをまとめた本があるならそれを買いたい」と言われたのが印象に残っていて、そのアイデアを本の一部として生かしたのだった。
 いつも校正を手伝ってもらっている黒砂水路さんからは、こんなことを言われた。「(編集後記を続けて読むと)力んでいるのか脱力しているのかわからない面白さがある。”続けることは変わること”というようなことを、くり返し書いてあるのが印象的だった」

 一定してはいない、常に揺れている、ということかもしれない。「つづける」ということは変わりつづけるということだなあと思う。しみじみ、そう思ってます。(第26号/2016年8月号の編集後記から)

 書いた時には、次々と起こる変化に、戸惑いがあったのかもしれない。いまでも、変わってゆくことを意識すると、自分の中から力が湧いてくるのを意識すると同時に、寂しさも感じている。『アフリカ』を取り巻く人たちも変わったし、自分も変わった。生きてゆくことは、別れと出会いの連続ではないか。いなくなった人の存在を感じながら、まだ続いている。

アフリカキカク

アジアのごはん(109)おかずかけご飯

森下ヒバリ

暑い・・! お盆あたりは梅雨のような長雨で頭にカビが生えそうな気配だったが、やっと雨が上がったと思ったら、暑さがぶり返して収まらない。長雨の時は、やっぱり一番嫌いなのは湿気だよな、と思い、暑さがぶり返すともうこんなに暑いのは耐えられないと思う。

とにかく料理をしていると、暑くなって出来上がるころには息も絶え絶えである。なので、簡単な料理がいい。品数も減る。そんな真夏の昼ごはんメニューにぴったりなのが、アジア諸国で食べられている、一皿盛りのおかずかけご飯だ。暑くなってくると、うちのお昼もいつのまにかこれになっている。

お皿にご飯を盛って、野菜炒めなどのおかずをのせ、目玉焼きをのせる。油多めで焼いた目玉焼きは白身のふちはカリカリ、黄身はトロっとした状態が最高である。目玉焼きは、崩しながら野菜炒めとごはんと一緒に食べても、卵とごはんという組み合わせで食べてもいい。とにかく、目玉焼きがあるだけで、一皿料理の単調さが消え、ぐっと食べる楽しみが増える。まあいちおう、みそ汁は必ずつけることにしているが、ほかには特に作らなくてもだいじょうぶ。

タイなどのアジア諸国では、お昼時には気軽な食堂に作り置きのおかずが何種類もバットに入れて並べられ、客は皿に白飯を盛ってもらい、好きなおかずを注文して載せてもらって食べることが多い。その場であれこれ作ってもらうこともできるが、お手軽で早く、いろいろおかずも選べるので、大変便利。知らないおかずを試すこともできるし、旅行者にも現地の働く人々にもありがたいシステムである。

タイでは店の人がごはんもおかずも盛るのがふつうで、たとえば白飯が15バーツ、それにおかず1種載せで30バーツ、2種載せで40バーツ、追加の目玉焼きは5バーツ、とか決まっている。このタケノコ炒めをたくさん食べたい・・と思うようなときは2倍盛りにしてくれとか、おかずは別盛でとか頼む。

マレーシアではご飯を店の人が盛って渡してくれ、おかずは自分でバットからすくって載せていき、最後に店の人に見せて金額を決めてもらって支払いをしてからテーブルに行く、というパターンが多い。

はじめは慣れなかったが、このマレーシアのシステムは、自分の食べたいものを自分の好きな量だけ食べることができるので、タイなどの店の人が主導権を持っているやり方より、断然好ましい。レジ係の店の人は、大盛の青菜炒めの横にひと切れだけ入ったナス炒めを幾らで計算しているのか、どうもファジーなところがあるが、ええ?と思うような理不尽な値段を言われたことはないので、問題はない。

さて、今日のお昼は・・、冷蔵庫を覗き込みながら考える。う~ん、もやしとゴーヤと豚肉のチャンプルーかな。空心菜も食べなくては。空心菜ともやしと豚肉? 野菜炒めの組み合わせを考えるのも楽しい。にんじんのしりしりをちょっと入れるとおいしいんだよね。しりしりは沖縄で千切りという意味の言葉だが、沖縄には台湾由来と思われるしりしり器があって、大きめの穴が開いたすりおろし器のようなものなのだが、これでにんじんや青パパイヤをすりおろすと、ギザギザのある細切りになる。これは味がしみやすくて、大変優れモノだ。

よし、今日は空心菜ともやしメインで、ちょっと玉ねぎとにんじんを加えてニンニクみじん、そして豚肉の薄切りを炒め、トウガラシと塩、ナムプラーであっさりと味付け。目玉焼きを焼いて・・と。

はあ~、こんな暑い時にいろいろ料理なんかできないよなあ、洗い物も簡単だし、おかずかけ飯、最高・・。そういえば、日本ではお皿にご飯を盛って、おかずをかけて食べるといえば、ほぼカレーしかないのはなぜなんだろう。お皿に盛るわけではないが、どんぶりにご飯を入れておかずを載せる丼物はある。いやいや、この暑いのに親子丼とかカツ丼とか食べたくないぞ。大きなどんぶりにたっぷり入ったご飯も暑苦しい。

お皿に載せるタイプの、おかずかけご飯を食べるのは、中国南部、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ビルマ、マレーシア、インドネシアあたりだろう。ルーツ自体は中国南部かもしれないが、国それぞれに料理も店でのルールも違って面白い。野菜もたくさん食べられるし。共通しているのは、平たいお皿にご飯とおかずを盛ること、食べるのはスプーンとフォークか、れんげであることだろうか。ステンレスのれんげはご飯をすくうだけでなく肉や魚を切り分けるのもたいがい出来るし、スープも飲める。

さて、白飯を皿に盛り、出来上がった空心菜ともやし炒めを食べたい分だけ載せて、目玉焼きも載せて、ナムプラープリック(ナムプラーに生トウガラシの輪切りを混ぜ込んだもの)をちょちょっとかけて、れんげをとっていただきます。

しつこいようだが目玉焼きは白身に火が通り、ふちは多めの油でカリカリ、黄身はトロっとしているのが極上だ。れんげで目玉焼き切り分けると、とろ~っと黄身がごはんに流れた。アジア諸国では卵の扱いが雑なところが多くて、一度黄身トロ目玉焼きで当たったことがあるので、旅の途中のときは黄身トロはあまり食べないようにしているが、日本の卵は大丈夫なので、心置きなく。

一口食べると、うん、うまい。そして、マレーシア・クアラルンプールのおかずかけご飯食堂トクトク亭のめったに笑わない店のお兄さんが、にこっと笑ってお釣りをくれた、ような気がした。二口食べると、今度はペナンのインド(マレー料理もちょっぴり折衷)食堂のラインクリアの気のいいおじさんが「もっとグレイビーソースかけるか?」と尋ねてくれている声が聞こえた・・ような。

早く、また旅に出たいものです。

ベルヴィル日記(1)

福島亮

 今月からベルヴィルで生活する。ベルヴィルはパリの10、11、19、20区にまたがる地区だ。パリの北東に位置し、仮にノートルダム大聖堂を中心にしてパリを時計の文字盤に見立てるなら、だいたい2時の方角にある。新しい住まいは、エレベーターなしの7階である。フランスは日本でいう2階を1階と勘定するから、日本でいったら8階だ。約3週間かけて少しずつ本や衣類や生活雑貨を新居に運んだのだが、相当骨が折れた。そうはいっても、すぐに物件が見つかったのは幸運だった。パリでの住宅探しは「運」だという。これはどんな人に訊いてもそういうから、本当なのだと思う。身近な人からはあまり変な話しは聞かないが、法外な手数料を取られたとか、物件情報そのものが詐欺だったとか、退去する時にわけのわからない修理費用を請求されたとか、とにかくおっかない噂話に事欠かないのがパリでの住宅探しだ。かくいう私も、もう3年前になるが、渡仏ひと月前まで住居を探していた。だが、日本にいながらフランスの物件を探すのは、野山に行かずに部屋の中で昆虫採集するようなもので、運が良ければ開け放った窓から蝶やカブトムシが舞い込んできてくれるのかもしれないが、まあ、そういうことは滅多にない。散々メールを送ってみるも、そもそも内見ができないのだから住居が決まるわけもなく、結局大学の学生寮に泣きついて、そこに落ち着いたのだった。

 7階というのは、要するに最上階なのだが、実は最上階の暮らしには少しだけ憧れを持っていた。たしかボードレールだったか、デボルド=ヴァルモールだったかの詩を習った時(大学2年の頃だ)、最上階は女中部屋で、お金のない人が暮らすところなのだと教えられた。重要なのは、主人でも金持ちでもなく、女中や貧乏人こそが、最上階から都市の風景を窓越しに一望し、街路の網の目や隣家の様子などを見ることができる、という点だ。おそらく授業では、そこからこの光の都市を貫く視線の権力性だとか、19世紀の都市における貧困と現代性だとかの話になったのだと思うが、そのあたりの記憶は曖昧で、とにかく20歳の私の心に焼き付いたのは、最上階の屋根裏部屋のイメージだった。とはいえ、ゴシック・ホラーじみた狂女が徘徊するような屋根裏部屋ではない。もっと明るい静謐な部屋——重たい玄関の扉を開くと、薄暗い螺旋階段が最上階まで続いており、その無情に上昇する巨大な巻き貝の中のような階段を登っていけば、廊下の突き当りにはやはり薄暗い共同便所がひっそりとあって、仄暗い消臭剤のにおいが廊下にもうっすら漂っているのだが、そのにおいを嗅ぎながら一番奥の木の扉を開けると、そこはかつての女中部屋、目の前の壁は斜めで、狭いが光はよく入り、その光をうけて常に細かな塵がキラキラと輝きながら舞っていて、ぼんやりとその塵を眺めながら、買ってきたばかりのまだ熱いバゲットを頬張るのだ、いや、よく考えてみれば自分は19世紀の女中ではないか、奥様に言いつけられていた客間の掃除を終わりにしなくては……。と、これはすべて当時の妄想である。ろくに教授の話も聞かずに、ぼんやりとパリのアパルトマンの最上階という場所について思いを巡らせていたわけだ。

 さて、憧れの最上階で暮らすことになったわけだが、新居は19世紀のオスマン式住宅ではない。それに、ものすごく広いわけではないけれども、ひとり暮らしをするには十分な広さもあって、フランス語の詩を読みながら好き勝手に妄想していた小さな女中部屋ではまったくない。また、妄想というものは、えてしてどうでもよい細部ばかり詳しくて、肝心の部分は詰めが甘いものである。巻き貝の中のような階段を登っていけば、などと悠長にいうが、実際に登ってみると、これがなかなか大変なのだ。ちなみに、共同便所はない。きちんと部屋にトイレはついている。

 これから「ベルヴィル日記」と題して、ここでの生活を綴り、あわよくば留学の目的である博士論文を書き上げてこの「日記」を終了したいと願っているのだが、とりあえず初回はまだ住み始めて日も浅いので、毎週2度行われる市場の様子を少しだけ述べるにとどめたい。火曜日と金曜日に市場は行われる。数百メートルにわたって商店が並び、野菜や果実や魚や肉や乾物や日用雑貨や衣類などが山と積まれて売りさばかれる。トマトが1キロ1ユーロ(130円)、卵は30個で2.5ユーロ、鶏肉は部位によるが手羽が1キロ2.5ユーロと、とにかく安い。たしか昔、ゾラの『パリの胃袋』か何かを読んだとき、今はなき中央市場の野菜売り場の描写に胸踊らせた記憶があるのだが、ベルヴィルの市場には、記憶の中で薄れてしまったあの小説の中の野菜の描写そのままの光景がある。種々様々な葉物野菜の中で、一際鮮やかに存在感を放っているのは、色とりどりの人参である。そのわきで、ベットラーヴ(ビーツ)が深い赤を誇示し、ナヴェ(カブ)はうっすらと紫色の肌を露出させている。このナヴェもひと束1ユーロだ。ひと束というのは、青々とした葉がついているからで、もちろん葉ごと買って、葉の部分も茹でたりスープに入れたりして食べる。面白いのは肉屋と魚屋だ。今回は手羽を1キロ買ったのだが、いわゆる手羽元と手羽中と手羽先の部分がくっついている。手羽にはまだすこし羽が残っており、どこからやってきたのか小さな蜂が何匹か、まだうっすらと血の滲んでいる肉にとまっていた。おそらく肉団子にでもして、蜂の子に食べさせるのだろう。店主のおじさんに手羽を注文すると、肉をはかり、紙でくるんで袋に入れてくれる。夕食は手羽の照り焼きで決まりだ。

 というわけで、女中部屋に住むという積年の夢は叶えられなかったが、毎週行われる市場は絶対に楽しいに決まっているし、あわよくば、市場がはけた後に大量に打ち捨てられている果物や野菜を拾う楽しみもあるはずである。最上階からの一望するような眼差しもよいが、この街で暮らしていくには、市場の野菜の良し悪しを見分けたり、どの店の手羽が蜂が好むほど新鮮か見分ける目のほうがはるかに重要だ。

水牛的読書日記 2021年8月

アサノタカオ

8月某日 なつかしい死者が帰ってくる。記憶の蓋がそっとひらかれる夏の夜、かならず読み返すのが詩人・作家の原民喜の小説集『幼年画』だ。原爆投下直後の広島の惨状を描いた小説「夏の花」の作家が、原爆投下以前の幼年時代を追想し描いた美しい短編小説集。編集を担当し、初版はサウダージ・ブックスから、新版は瀬戸内人から発行。多くの方に読んでほしいと願う一冊。8月5日、特別な思いを込めてこの日を本の発行日にした。広島に原爆が投下される一日前、そこにあったかもしれない日常が描かれているから。奪われてはならない、すべてのものたちの記憶の光。

 あれはゆるい船だが
 春風が麦をゆらがし
 子供の目にはみんな眩しい
 まっ白な帆が浮かんでいる
 ——原民喜「白帆」

子どもたちの目に映るこんな風景が、いつまでもつづきますように——。そんな願いを胸に、『原民喜全詩集』(岩波文庫)もひもとく。

8月某日 「いや、なんでもないんだけどさ」。尊敬する作家から電話がかかってきた。コロナ禍の中で出版社を辞め、失業した自分を心配してくれていた。心の中では「先生」と呼ぶその人の電話番号から別の日にも、2回着信があった。が、どうしても受け取れなかった。畏れ多いという気持ちもあるし、いつか本を作りたいと願いながら、こちらの都合で小さな原稿を一回もらっただけで、結局、書籍編集者として何もお返しをできなかったからだ。厳しくも優しい人だから、自分の退職の知らせを受け取ったら、連絡がくるかもしれないとはどこかで思っていたのだが——。これまでは、携帯電話のモニターに映る受け取れない先生の番号をじっと眺めながら、感謝の念を込めて合掌するしかなかった。ところが、3回目の着信となるともう無視することはできない。覚悟を決めて通話のボタンを押す。直立不動の姿勢で「もしもし……」と答えると、全身からぶわっと汗が吹き出した。
緊張のあまり途中何を話したか覚えていないが、「なんでもないんだけどさ」と先生が繰り返す声にずいぶん救われた。6月から失業中の身分で無意識のうちに凝り固まっていた心身がようやくほどけた感じだ。「まあ、のんびりやっていこうか」というおだやかな気持ちになれた。声の力ってあるんだな、と。当たり前のことだが、困っている人がいれば、特にそれが自分よりも若い人であれば、必要なタイミングで必要な声をかけることは、やはり大切なことなのだと実感した。そういうことをするにも勇気や覚悟がいるだろう。先生のように、こうした振る舞いが自然にできる人間になれるよう老いていきたい。
電話の最後にはこんなやり取りをした。以前、自分が瀬戸内で暮らしていた時、毎日のようにフェリーに乗って仕事場へ通勤し、本を読んだり編集の作業をしていたことを話したことがあって、世界各地を放浪し旅を愛する先生からは「あの話、面白いからエッセイを書いてみたら」と言われた。実は会うたびに(と言っても数年に1回のペース)言われることで、自分としては面白いとは思えず。今回も「ええ、まあ……」と言葉を濁すような返事をしたのだが、「ブラジルや沖縄・奄美を旅していた時も、瀬戸内に暮らしていた時も、バスや船の中で夢中になって読みつづけてきたのはあなたの小説なんですよ」と心の内でつぶやいていた。

8月某日 大雨の荒れ模様の日々。レインウェアを着て雨の中を歩くのは好きなのだが、災害級の雨ではそうもいかない。テレビやネットには人を不安にさせる情報ばかりが氾濫している。天候や気圧の変化によって心身の不調もつづき、ついに寝込んでしまった。しばらくは家に引きこもり、床やソファの上に積み上げられた書物の山を、ただじっと眺めて耐えるしかない。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」など介護・福祉関係で読みたい本がたくさんあるのだが。

8月某日 『忘れられない日本人移民』(港の人)の著者で在ブラジルの記録映像作家・岡村淳さんのSNSでの投稿で、画家・富山妙子さんの訃報に接する。愛読する金芝河やパブロ・ネルーダの詩集の日本語版の装画として富山さんの作品に出会った。それは詩のことばとともに、強烈なメッセージを語りかけるものだった。絵画や版画によって歴史の忘却に抗い、民主化のためにたたかい、人間の尊厳を希求するものたちの姿を描き続けた富山さん。その仕事に目を開かれた一人として、深い尊敬の気持ちをこめ黙祷を捧げる。本を読みます。

8月某日 『K-BOOK Review & Interview キム・ヨンス』が届いた。韓国の小説家キム・ヨンスのインタビュー、日本語に訳された著作のレビューなどを収録したフリーマガジン。短編小説集『世界の果て、彼女』(呉永雅訳、クオン)の書評を寄稿した。そこでは書けなかったが、呉永雅さんの翻訳がすばらしいと思う。呉永雅さんが訳したほかの韓国文学の作品(イ・ラン『悲しくてかっこいい人』(リトル・モア)など)もいろいろ読んでいるのだが、原文から移し替えられた日本語の文章の繊細さに、読み終わるたびなんとも言えない心震えるものを感じる。マガジンには江南亜美子さん、栗林佐知さん、棚部秀行さん、瀧井朝世さん、竹垣なほ志さん、高野真里さんのレビューが掲載。作家のバイオグラフィーやメッセージもあり、大変読み応えのある内容だ。

8月某日 鎌倉の海辺で、アメリカのミシガン大学へと旅立つ上野俊哉先生と会う。むかし大学で1年以上講義に出席していたからごく自然に「先生」と呼ぶのだが、制度的な教師-学生という間柄だった時代にはそれほど話す機会もなかった。その後、奄美群島や徳島・祖谷など、旅の道中で先生と出会い、ともに遊び、おしゃべりする中でいろいろなことを教えてもらっている。今回は、英語圏における現代思想とエコクリティシズム(環境批評)の動向など。話を聞いて、パンデミックや深刻な気候変動などの苦境に直面する危機の時代について考えるために、20世紀に読んだもののよくわからなかった環境思想を読み直すことも必要だろうと思い立つ。上野先生の思想書『四つのエコロジー』(河出書房新社)を参考書にしながら、フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』(杉村昌昭訳、平凡社ライブラリー)の精読をはじめる。

8月某日 8月28日は詩人・山尾三省の命日。今年2021年は没後20年にあたる。今月に入ってやはり記憶の蓋が開かれたのか、雑誌『TRANSIT』の元副編集長である池尾優さんがウェブマガジンの『GARVY PLUS』で三省さんの詩文集『火を焚きなさい』(野草社)を紹介し、西日本新聞のデイホスピス記事では彼の詩「一日暮らし」が取り上げられていた。7月からは、講義録のエッセイ集『新装 アニミズムという希望』(野草社)の書評が共同通信社より配信され、全国の地方紙に掲載されている模様。評者の作家・宮内勝典さんは《山尾が亡くなった14日後、米中枢同時テロ「9・11」が起こった》と指摘。以下の宮内さんの書評のことばを何度も読み返しながら、詩人が遺した「希望」についてあらためて考えている。

《宗教が対立を避ける地平を構築しなければならないとして、教祖も教条もない「アニミズムこそが希望である」というかれの言葉に、わたしたちは改めて共感した。新型コロナウイルスがまん延するさなかに読み返すと、この本がまさに予言的であることに気づかされる》

2018年に山尾三省生誕80年出版を企画し、『火を焚きなさい』などの新しい詩文集、そして旧作の詩集やエッセイ集の復刊の編集を出版社の野草社で担当してきたが、今年の4月に刊行された『新装 アニミズムという希望』で仕事に一区切りついた。しかし、世の中に本を送り出しただけでは、志はまだ道半ば。詩人のことばを一人でも多くの人に確実に届けることが自分の使命だと考えている。退職によって版元を離れたので今後は個人の立場で、「新しいアニミズム」「生命地域主義(バイオリージョナリズム)」を掲げる彼の詩と思想の今日的な意義を紹介する仕事に取り組んでいこう。近年、環境活動家グレタ・トゥーンベリさんの発言や、「人新世(アントロポセン)」という考え方が注目されているが、山尾三省はまさに「人新世」の詩人だと思う。エコロジーの問題に関心を寄せるより若い世代の読者に、三省さんのことばのバトンを渡していきたい。

8月某日 税務署に開業届を提出。フリーランスの編集者・ライターとして仕事をはじめることにする。どうなることやら。

8月某日 山尾三省の命日には、詩人が暮らした屋久島で「三省忌」が開催される。例年、法要がおこなわれた後、参加者の集いの場がもうけられ、2018年と19年には自分も参加したのだが、コロナ禍の中では島外からの出席は控えなければならない。今年は「三省忌」に関連して、『新装 アニミズムという希望』に解説を寄せた霊長類学者・山極寿一さんと、山尾三省記念会のみなさんが語るイベントがオンラインで開催されるというので、視聴した。屋久島で生前の詩人と深く交流し、思い出を語る皆さんが元気そうでうれしい。山尾三省は1977年、耕し、詩作し、祈る生活を求め、家族とともに東京から屋久島に移住した。島との出会いはもちろん、島の自然・歴史の中で生きてきた人たちの「ことば」との出会いが、三省さんの詩を深めたのにちがいない。そんなことを思った。

8月某日 ああ、たまらなく屋久島に行きたい——。部屋で島在住の写真家、山下大明さんのすばらしい写真集『月の森』(野草社)を眺めながら、ため息とともに声が漏れた。せっかくフリーランスになったのだから、年に2か月ぐらい島に住めないだろうか。編集や執筆のリモートワークをしながら、山尾三省の詩と思想の自主研究をする——。コロナののちに、そんなことが実現するといいなと思いつつも、当分島に行けそうにない。旅をすることはできないので近所の森を散策し、お気に入りのメタセコイアの巨木に会い行った。三省さんは縄文杉と呼ばれる樹齢2000年以上の屋久杉の巨木を「聖老人」と呼んだが、今のところ自分にとってはこの木が「聖老人」。背の高い赤胴色の太い幹をさすり枝々を見上げながら、キム・ヨンスの小説「世界の果て、彼女」がほかならぬメタセコイアをめぐる物語でもあることを思い出した。

製本かい摘みましては(166)

四釜裕子

夏ならコロナは落ち着いているのではないか、そのころにはワクチンも打てているのではないかと思って、今年度の製本ワークショップは夏休み前の集中講義にしてみた。そう決めておよそ1年、感染状況は落ち着かずワクチン接種も間に合わなかったけれど、対面授業が中止にならなくてほっとした。例年のように何かと集めて手元や本を見てもらうわけにはいかないから、足りないところを各自で補えるように作業手順を記した資料をひととおり用意した。ふだんは配布の資料を作っていない。配るとみんなそればっかり見てその通りにしちゃうし、どんどん先に進んじゃうし、こちらも無駄話がしにくくなるし、いわゆる「失敗」も減っておんなじものがサクサクできてしまうから。

前もって決めた材料で実際に作りながら写真を撮って、それを見ながら要所要所を図にしていくが、慣れた作業ほど他の人にはわからないポイントに気づかないし、それを防ぐためにとにかく丁寧に追うとかえってわかりにくくなる。何につけ手順や工程の図解を見るのは好きだけれども、気に入ったものを書き写せばいいかというとそうでもないから、下手でも自分で書くしかない。それでもはなから「これに勝るものなし」と頼るのは、上田徳三郎口述・武井武雄図解による「製本之輯」(「書窓」アオイ書房 1941)の中の、和本の「角裂(かどぎれ)の貼り方」。小さな紙を角にあてて1、2、3……、親指・人差し指・中指をどう添えて、その指のどこにどう力を入れるのがコツなのかがよくわかる。しかも、楽しげ。指先しか描かれていないのに、明らかにみな弾んでいる。

「製本之輯」は2000年に「本とコンピュータ」がHONCOレアブックス3『製本』として復刻していて、監修した紀田順一郎さんがこう書いている(p103)。

〈発案者が志茂(太郎)であったか恩地(孝四郎)であったかは不明であるが、志茂が上田徳三郎と連れ立って武井のアトリエを連日訪問し、そこで談話の口述筆記が行われた。上田が実演の材料を持参しながら製本作業の説明をすると、武井(武雄)が図でメモをとり、志茂が一語もらさじと談話の筆録を行った。出来上がった原稿と画稿をページごとに一致させるには、原稿の字詰めをあらかじめ印刷所に割り付け、図版のスペースをとっておいて、そこに画稿をはめこむなど、非常な苦心が払われたという。筆記が談話者の個性を生き生きと浮かびあがらせ、現代の造本批判にも及ぶあたり、書物ジャーナリストとしての志茂の面目躍如たるものがある〉

当時にして製本界の故老のお一人であった上田徳三郎さん(1879年生)の口調や手つきが生々しくとらえられていて、いつ見ても古びることがない。

ことしも授業の線装本の回でこの図をみんなに見てもらった。四つ目綴じを例に基本的な構造と作り方は板書と口頭で説明し、実際にはこうき綴じをやってもらった。そしてこれまた線装本の話をするのに欠かせない資料、「アイデア」No.327( 特集:現代中国の書籍設計 2008  誠文堂新光社)を見せながら雑談をして、時間に余裕のある人にはオリジナル柄にチャレンジしてもらった。実は「和綴じ=四つ目綴じ=日本古来の独自の製本法」と思っている人は多くて、私もかつてそうだったから不思議ではない。ただ今は結構子どものころに学校や課外授業で「和綴じ」として四つ目綴じを体験することがあるようでとてもいいことなんだけれども、図らずもそこで興味をストップさせているのは惜しい。「アイデア」No.327の特集ページは線装本をイメージさせるデザインになっていて、呂敬人さんをはじめ中国のデザイナーが手がける現代版線装本や線装本的ブックデザインが満載だ。そしてこれまたいつ見ても刺激的。

それにしても――ことしの学生は集中度が高かった。マスクのせいもあるのだろうか。特にかがりは、リンクステッチも交差式ルリユールもミニ本かがりも、ほとんど一度私の手元を見ただけで席に戻ってその作業を再現したのには驚いた。あまりの早さに「なんでできたの?」などと聞いてしまって、首を傾げつつ「見たのでわかりました」と返されてまた驚いた。もしかして、動画に見慣れているからか。なにしろ彼・彼女らは毎日圧倒的に動画を見ている。私の手の動きだってとっさに四角く切り取って、つまり私を生ユーチューバーにして、わりと大きな画面で集団閲覧しているという態ではなかったか。ピタッと止まった印刷物から多くを得てきたわれわれとは、目玉の動き・脳の動きが違っているのは間違いない。流れるように記憶して流れるように再生して、流れるように自分の身体を合わせることが無意識にできているのではないかしら――。

実際、いろいろなものづくりの手順を知るすべというのもとっくに図解から動画へシフトしている。言語に関わりなくあふれる中から好みのものを探し当てる楽しみがあるし、時間を選ばないしお金もほぼかからないのだから当然だ。優れた手順図解を載せてある本も学生に見てもらうのだけれど、作り方を知る目的でそれらを必要とする人が減るのはしかたのないことかもしれない。映像で見たとおりを自分でやっても書かれたものを見てやっても完成したものは同じになる。でもそこにいたるまでのそれぞれの体内における回路は明らかに異なっている。動画で見ると10分かかるものを、流れる作業から抜粋して絵と言葉をつないで再現して、かついくつかのコマを一覧させて把握させてしまうこともある図解というもののすごさやおもしろさは感じていてもらいたい。それぞれが洗練されてこれから長く残っていくのだろうけれど、人が極めた優れた手順図解量産の時代は過ぎた。

マックに話しかける(晩年通信 その23)

室謙二

  背中が痛い

 少し前の晩年通信で、背中が痛くなったと書いたけど、それは何とかなった。何とかなった、といってもけっこう大変で、医者に言われた体操とかクスリも飲んだ。背骨の十番目と十一番目の ディスクが神経を刺激しているとかで、そこに注射針をさして麻酔を入れた。背骨にプスリと注射するのは怖かったけど、平気なふりをしていたんだ。
 老人がビクビクしていたら、だらしないと思われるから。だが幸にしてたいして痛くなかった。これで背中のトラブルはとりあえず解決した。またいつ出てくるか、分からないけどね。
 その次に膝が痛くなった。これは古傷だ。
 二十歳ぐらいの時にスキーで膝を痛めたのだけど、それが関係してるのかな。志賀高原の上の方のアイスバーンで、格好つけてターンして膝からアイスバーンに落ちてひねって(記憶を探るとそんな感じ)、あれ以来、十年おきぐらいに痛くなる。
 まず自宅の階段が危険です。特に降りるとき。今回も二回ほど、階段を降りているときに、突然に左膝に強烈な痛みが来て、女房が見ている前で階段から滑り落ちてしまった。格好悪いんだ。だから今は、自分の膝を信用していない。
 一日に二回、近所を三十分ぐらい散歩するが、必ず両手に、二年前に亡くなった姉さんがネパールのトレッキングで使っていた、スキーのストックみたいな杖を持っていく。注意を払わないでさっさと歩くと、突然の痛みで転んだりする。だけどストックがあれば安心。
 それに柳田国男がどこかに書いていたが、杖を持った散歩は楽しい。 杖で足元の植物を触ったりして観察する。散歩の途中で因縁つけられたり、金をよこせと言われたら、地面に刺さる部分のゴム・カバーを取って、尖ったところで戦うのです。そんなことはないのだけど、そう考えて歩くのはけっこう楽しい。
 ときどき両手にストックのような杖を持った人に出会うと、同志に会ったようにうれしくなる。

 そうしたら今度は、左手の親指が痛くなった。その前にまた偏頭痛が始まったのだけど、これはいつものことだから除外する。
 つまり前に晩年通信を書いて以来、あちこち、背中と膝と左手親指が痛くて困ったことになったのです。老人になることが、痛いことになるとは知らなかった。

  親指が痛くてキーボードが打てない

 痛くなった指を眺めてみる。
 親指だけ横に突出しているね。これには特別な機能がある。
 さっき散歩の途中で、いつも出会う猫(友人なんだ)の指を観察したけど、ずいぶん人間のものとは違う。
 この親指のおかげで、人間はものを掴むことができる、これは人間の進化に関係しているらしい。昔エンゲルスを読んだときに、人間が木から降りて歩くようになって、手でものをつかんで道具にすることと親指の関係を読んだことがあった。ような気がする。記憶が定かではない。
 あやふやだから、興味がある人はGoogleで探して読んでください。親指と知能の発達は関係あるらしいと思いながら、痛くなった親指をながめている。
 しかし問題は、Macのキーボードが打てなくなったことだ。
 親指が痛くなって、左手だけじゃなくて右手の親指も痛くなって、キーボードが使えない。私は、五本の指を使って、だから両方で十本だけど、キーボードを叩く人間なのでこれは深刻。五五年前に、最初は機械式の英語タイプライター、それから電気式のタイプライター、それからコンピューター。つまり五五年間、十本指でキーボードを使ってる。まず何年か前に右手親指が痛くなった。それでスペースキーを使うのに左手親指を使い始めたが、今度はそれが痛い。両方の親指を使うのをやめて、人差し指から小指まで4本の指で、キーボードを使っているが今度は人差し指が痛くなってきた。

 キーボードだけじゃないよ。親指が痛いと、それに右手親指も痛くなると日常生活にはなはだしく問題が起きる。
 何かを手に持つときに急に痛かったり、着物を着るとき、それに料理の時も問題だね。重たい鉄のフライパンを持ち上げるときは、注意しなくちゃいけません。
 オムレツを作ろうとボールに入ったタマゴを箸でかき混ぜる。ボールを持った左手と箸を持った右手が痛いなあ。左手で玉ねぎを抑えて、右手に包丁を持ち、薄いスライスを作ろうと思ったら急に左手親指が痛くなって、間違えて爪のところに包丁がが当たった。それが2回もあり今は用心してるけど、指に当たったら指を切って血が出ていただろう。

  マックさんに話しかける

 医者に行ったら、レントゲン写真を撮られて、関節炎だと言われた。
痛みどめのクスリももらったし、自宅での治療法も聞いた。あまり劇的な治療法はないみたい。まず指を休ませろと言った。どのくらい?と聞いたら何週間か何ヶ月かだそうだ。それじゃあメールも原稿も書けない。
 だから何を使って(指を使えないなら)この文章を書いているの?というのは当然の質問で、マイクをつかってMacに話しかけてこれを書いている
 つまり音声認識だね。これが優秀なのには驚いた。MacとiPhoneを試したけど両方ともすごく良い。文章の前後を調べて適当な単語を入れてくれる。ほとんど修正をしなくても、修正は親指が痛いので人差し指で、矢印キーを動かしてバックスペースとか使った。それからまた口述する。
 文章を口述する時、口の中でモゴモゴと発音しない。口を開けて、はっきりと発音する、これが重要です。マイクを口に近づけた方がいいね。
 Mac付属のマイクでもいいけど、私は頭からかぶるヘッドセットを使っています。これはZoom用会議用として買ったもので、プロのオペレーターのようですよ。
 昔の作家は、万年筆を握って原稿用紙に長年書くので、やはり指が痛くなる。谷崎潤一郎も、晩年は指が痛くて口述していた。最初は奥さんに頼んで、後では秘書を雇って口述していたらしいけど、私は秘書の代わりにMacを使います。
 
 でもキーボードを使って文章を書くのと、Macに向かって話しかけて文章を書く文章を書くのでは、文体が変わるかもしれない。
 谷崎についての解説を読むと、谷崎は口述になっても文体は変わっていないと書いてある。「台所太平記」も「瘋癲老人日記」も口述に変わった後の作品だけど、私は以前のものと変わっていると思うが。
 もっとも、キーボードで打つことを諦めたのではない。
 今は痛いけど前より少し良くなってきて、親指なしの四本指、または人差し指の一本指打法で、キーボードも少しは使えるようになってきた。医者に言われた治療は一生懸命やっているよ。
 治療は一日一回、二分間ぬるま湯に手をつける。それから一分間冷たい水に手を付ける。
 それから二分間熱いお湯に手をつけて、一分間氷の入った水に。
 次に二分間熱くて手がつけられないほどのお湯に、一分間、氷がザクザク入った水に。
 最後には熱くて冷たくて、手が真っ赤になります。時計を見ながらこれをやっていると、ばかばかしくて愉快になる。
 それから医者にもらったクリームを塗りる。
 効果があるみたい。

 これから先、文章を全部口述で書いていくとしたらどうなるのだろう。
 文体が文章が、どれだけ変わるかわからない。この文章は口述で書いたけど、あまり変わっていないように自分には思えるけど。もっとも指を使って、編集している。
 長年文章を書いているのだから、そんなに変わらないか。

新車 ワクチン 腰痛

仲宗根浩

八月に入りすぐに新型コロナウイルスの自宅療養者が千人を超える。それが月の終わりには三千人を超える。逼迫というけれどそろそろ崩壊と言い換えてもいいんじゃないかと。

自動車屋さんから電話が入り納車日の連絡。その日は午後からワクチン接種の一回目、午前中に自動車屋さんに行くことにし、その日まで今まで乗ってきた車の荷物を一旦家に移す。車もある程度乗っていると立派な収納場所となっている。ずっと使っていないビーチパラソル、エアポンプの簡易シャワーやら色々ある。軽自動車に替えるので捨てることにする。アウトドア用折り畳みチェア、テーブルは年に一回必要なので残す。納車の日すっきりした車で自動車屋さんに行き、手続きを済ませ新しい車の説明を受ける。新車は今頃マニュアル車。マニュアルを運転できるのも最後かもしれない。内燃機関を持つ車も無くなるだろう。二十数年ぶりに運転するマニュアル車はクラッチのつなぎ方を忘れている。徐々に感覚をよみがえる。バックするときの半クラッチ操作の下手さ加減に愕然とする。ワクチン接種一回目。

仕事帰りに通る道に高速道路の情報が出るパネルには

8月15日9時 不発弾
那覇 西原 通行止

と表示が出ている。こっちは旧盆なので十五日は自衛隊も通常任務か。

仕事が終わる前から豪雨。納車五日目の新車はいつもの帰り道、いつもの道を走る。いつも通る裏道に入りしばらくすると道は川になっている。遡行する新車、後戻りするとマフラーから水が入る。水が入りエンジンまでとどくと廃車となる。とりあえず四輪駆動の軽自動車は道を登りきる。翌日フロントのナンバープレートが曲がっているのを知らされる。

旧の七夕は墓掃除なのだがその日は娘のワクチン接種の日のため前日に墓掃除に行く。墓石だけの墓ではないので高いところにも登るし、デッキブラシでゴシゴシするところもある。午前中に墓掃除は終わり家に帰り仕事に行き、帰りとシャワーを浴びる。腰が痛くなり背筋を伸ばせない。前からあった腰の左側の違和感。背筋を伸ばすと少し痛い。まあ、しばらくほっといた。ところが今回は腰は安易に座ることを許してくれない。角度、重心、身体を支える手の位置など最適な姿勢を探り落ち着く位置を確認してそのままベッドに行き寝る。状況を伝えた奥様は腰のサポーターを購入してくれて湿布とサポーターで朝には普通に二足歩行ができるようになる。仕事中はサポーターで腰回りを固める。

旧盆が終わって二回目のワクチン接種。眠気と関節の軽い痛み。以前は熱が出る前に必ずあった痛みだ。歳とるとその痛みは無くなり発熱のセンサーを失う。

注射

三橋圭介

コロナの予防接種の予約をしたが、キャンセル待ちが出ればということらしい。普通に電話やネットでの予約はまったくできない。もはや予約が存在するのかすら疑わしいような状況だ。電話すれば話し中、一時間後には終了のお知らせ。一方ネットでは場所や日時を入れても何もひっかからない。そこで大学の予防接種に切り替えた。いま電話をして一応キャンセル待ちがあればということで受付を終了した。キャンセルは結構あるらしいので「たぶん大丈夫」といわれた。まあほんとうのところ注射は嫌いだし、接種もしたくないのが本音だが、座学以外にソルフェ、演習があるため週一回は必ず学校にいくので、しかたなくやることにした。最近おそらく都内はもっとそうだと思うが、救急車がけっこう頻繁に移動している。「ああ、コロナか」とひとまずよぎる。学生にもコロナがいたり、親がコロナで休みになる学生もいた。すこしずつ近づいていることは確かだろう。まあ、かかれば病気なのでしかたないとは思うが、時間につれて新たな変異株が生みだされ、予防がどうやっても追いつけないのが現状だろう。ひとまずもうすでに追いつかれてしまっている過去の注射を打つことで満足しておこうか。

ジャワ王家の世代交代

冨岡三智

この8月13日にジャワ4王家の1つ、マンクヌゴロ家の当主であるマンクヌゴロ9世が69歳で亡くなった。そのお葬式から埋葬の模様はZOOMおよびyoutubeでも配信され、私も途中からしばらく見ていた。9世は当初スカルノ大統領の娘スクマワティと結婚し息子がいるが後に離婚、現王妃との間にも王子がいる。実は、留学中に私はこの王子のテダ・シテン(大地に足を付ける儀式、生後約8か月で行う)の儀礼に出席させてもらっているから、この王子はまだ20代半ばくらいのはずだ。この2人のどちらかが後を継いで10世となるだろうと思われる。9世の埋葬後、この2人は墓の前で一緒に9世の写真を掲げて撮影に応じていた。今までのジャワ王家の例を見ていると、新当主即位までだいたい半年くらいはかかりそうだが、円満に代替わりしてほしいと感じる。

というわけで、今回はジャワ4王家の世代交代について感じたことについて書いてみる。

●ジャワの4王家

ジャワの4王家は、16世紀後半にジャワ島中部に興ったマタラム王国の末裔のことである。マタラム王国が1755年に対等に分裂して生まれたのがスラカルタ王国/王家とジョグジャカルタ王国/王家で、これらの2王国はオランダ植民地支配の下でも自治領を維持した。1757年にスラカルタ王家からマンクヌゴロ家が分立、1813年にジョグジャカルタ王家からパク・アラム家が分立した。ちなみに、パク・アラム家の分立はイギリスのジャワ占領期(1811~1816年)のことである。

1942~1945年、日本軍がインドネシアを占領。1945年8月17日にインドネシアが独立宣言し、約5年間の独立戦争を経てインドネシア共和国が発足した。ここで、スラカルタ王国とジョグジャカルタ王国の命運が分かれる。ジョグジャカルタ王国は共和国への貢献が認められて特別州とされ、ジョグジャカルタの王は世襲の州知事、パクアラム家当主も世襲の副知事として認められ、それは現在まで継続している。一方、スラカルタ王国は特別州として認められず、その所領(スラカルタ市とその周囲の6県)は王宮の敷地を除いてすべて中部ジャワ州に編入され、スラカルタ王家とマンクヌゴロ家はその政治的・経済的特権を失った。

スラカルタ王家当主
 - パク・ブウォノ12世(1925生、1945~2004)
 - パク・ブウォノ13世(1948生、2004~)

マンクヌゴロ家当主
 - マンクヌゴロ8世(1925生、1944~1987)
 - マンクヌゴロ9世(1951生、1987~2021)

ジョグジャカルタ王家当主
 - ハメンク・ブウォノ 9世(1912生、1940~1988)
 - ハメンク・ブウォノ10世(1946生、1989~)

パクアラム家当主
 - パク・アラム 8世(1910生、1937~1998)
 - パク・アラム 9世(1938生、1999~2015)
 - パク・アラム10世(1962生、2016~)

スラカルタのパク・ブウォノ12世は日本軍占領時代末期の1945年6月に弱冠20歳で即位し、マンクヌゴロ8世もその前年に19歳で即位している。それに対してジョグジャカルタでは、ハメンク・ブウォノ9世は28歳で即位してインドネシア独立宣言時には33歳、パク・アラム8世は27歳で即位して独立宣言時には35歳だった。この独立宣言時点でジョグジャカルタの当主たちの方がスラカルタの当主たちよりも一回り以上年齢が上で、5年以上在位して宮廷内での地位も固まっていたであろうことが、政治的に立ち回る上で有利に働いたように感じる。その意味ではスラカルタ王国には運がなかった。

●スラカルタ王家のお家騒動

スラカルタの本家の方では、パク・ブウォノ12世が2004年に逝去したのち、現・13世とテジョウラン王子による後継者争いが起きた。12世には皇后がなく、6人の妻との間に35名の王子、王女をもうけたが、生前に後継者を指名していなかった。現・13世の名はハンガベイといい、これは王の最初の王子に付けられる名である。皇后がいない以上、ハンガベイ王子が後継するのが妥当だが、諸理由からそれに反対する声も12世在世中からあった。ハンガベイ王子を押す同母きょうだいと、テジョウラン王子を押す他のきょうだいたちが対立していたが、2012年に和解が成立した。とはいえ、その後も別の内紛が続いている。

私は1996年以来2007年までの間で通算6年余り、留学や調査でスラカルタに滞在し、スラカルタ王家の宮廷舞踊練習や様々な伝統儀礼への参与観察の機会を与えてもらった。そのうち5年余りはパク・ブウォノ12世の在世中である。逝去された時点では大学院進学のため日本に帰国していたが、100日目の供養には出席することができた。だから、内紛続きのニュースを聞くたびに、胸がつぶれる思いがする。

木立の日々「風の吹く日」

植松眞人

 風の強い日はマンションの前を走る車が増える。県内を走る鉄道が海沿いのひらけた場所を通るので、強い風が吹くとすぐに止まってしまう。地元の人たちはそれをよく知っている。だから、列車が止まっていなくても万一を考えてマイカーで動きはじめる。だいたいこのあたりは車社会なので仕事もプライベートも車なしでは活動しづらいのだ。しかも、このあたりは風の強い日が多い。海から吹く風と山から吹く風が町のなかで様々な方向に舞う。
 マンションの二階のベランダから外を眺めながら、木立は風を思い、自分の名前のことを考えていた。木立と書いて「こだち」と読むのだが、この男か女かわからず、かわいいかどうかも微妙な名前を木立自身は気に入っている。というよりも、だんだんと気に入るようになっていた。
 木立が生まれた日にも風が舞っていたらしい。産婦人科の母が入院していた病室の窓から見える木立が風に揺れていたから、木立という名前をつけたのだと父から聞いたことがある。幼稚園だった私が泣いて、せめてひらがなの名前がよかった、こだちちゃんなら可愛いけど、漢字で木立って書くと男か女かわかんない、と抗議した時に笑いながら父が教えてくれたのだった。
 いまは「こだち」という響きも、「木立」という字面も嫌いではなかった。
 その父が家を出たのは木立が高校生の頃だった。理由は母との関係が冷え切っていたからだが、そうなったのは木立のせいだった。
 中学生になったばかりの木立は、父の携帯電話に浮気相手の写真があることに気付き、それを母に伝えた。その時はなんとなくドラマのワンシーンに自分が参加しているような気持ちだったのだけれど、母の凍り付くような表情と父のあからさまな嘘を聞いているうちに自分がとんでもないことをしたのだと気付いた。しかし、後には引けず笑いながらその場を逃げ出したのだった。塾へ行き帰ってくると、家の中は何事もなかったかのように穏やかになっていたのだけれど、その日から父と母が二人だけで話をすることはなくなった。
 父は今まで以上に帰宅が遅くなり、母は飲めなかったアルコールを台所で飲むようになり、小学生だった弟は木立にばかり懐くようになった。父と母は冷え切った関係のまましばらく暮らし、弟が東京の大学へ進学すると同時に離婚した。
 両親の離婚からもう三十年ほど経った。父も母も離婚後十年ほどの間に病気でなくなったのだが、どちらも自死と言ってもいいほど自暴自棄な生活を送った末のことだった。
 弟の和道はそのまま東京で就職し、結婚し、子どもも二人いて、何不自由のない暮らしをしているようだ。ただ、木立が連絡する以外、向こうから連絡があることはない。たった一人の肉親が自分に冷たいのは、きっとその原因を作ったのが木立だと思っているのだろう。
 ふいにベランダから見える遠くの山々のその向こうに和道の家族が住んでいるのかと思うと木立は胸が締め付けられるような気持ちになった。
「そろそろ行かなきゃ。遅れちゃう」
 木立は声に出して言うと、ベランダを出て戸締まりをした。今日から新しい仕事が始まるのだ。町外れに出来たホームセンターのレジ係の仕事なのだが、これは望んだ仕事ではなかった。木立は大学を卒業してから小さな商社で事務の仕事を三年ほどしてから結婚した。相手は同期入社の男だったが、木立の両親と同じ理由で離婚することになった。離婚して、両親と共に暮らした家に戻ってみたのだが、あまりの痛み具合と一人では持て余す広さに売り払うことに決めたのだった。しかし、たいした金額になったわけでもないので、このマンションを買うのが精一杯だった。このマンションに決めたのも、東京に戻ってマンションを買うとなるととても手が届かないので、なんとなく地元の中古マンションを買ったのだった。

 木立の地元は都心まで車で二時間ほどのところだが、近くに温泉があることから温泉療養施設付きのマンションがいくつも建てられたことがある。しかし、急な雨雲が星を掻き消したような不景気の闇が続き、この町にはいくつもの中古マンションが格安で売られるようになったのだ。最近では若い夫婦たちがそんなマンションを購入して、自分たちでリノベーションするのが流行っているそうだ。なかにはマンションの一階部分を購入し奥を住まいにして玄関側をブティックにする若い人もいて、ちょっとオシャレなスポットとして雑誌に紹介されることもあるくらいだ。
 しかし、木立は長く専業主婦だったので、どんな仕事をすれば良いのかもわからず、ホームセンターで商品の仕分けでもできないだろうかと電話をかけたら、レジ係ならと言われパート勤めを決めたのだった。まだ勤め始めて三月ほどだが、まだ少しでもイレギュラーなことがあると木立の担当しているレジだけが長蛇の列となり、昨日も店長からため息交じりに叱られたばかりだった。
 今日の仕事は午後からだったので、午前中ゆっくりとコーヒーを飲んだ後、木立は車に乗り込むと海沿いの県道を走った。夕べからの強い風のせいで道路は混んでいたが、もう風はおさまっていた。(了)

チャボ

笠井瑞丈

ゴマちゃんとマギちゃん
また巣篭もりに入った
一度巣篭もりに入ると
一ヶ月から一ヶ月半は
テレビの裏の自分達の
場所から出てこない

お腹が空いた時に
こっそり出てきて
水とお米などを食べ
また戻っていく

そしてただただ卵を温めて過ごす
中雛の時にうちにやって来たので
誰に教わることなくそれを行なっている
そう考えるととても賢いと思う
それが動物的本能なのかもしれない

最初はゲージに入れて飼っていたのが
いつの間にか常に外にいるのが当たり前になり

そして気づいたらテレビの後ろの
お気に入りの場所を見つけ
そこが二人の場所になった

放し飼いで一緒に生活しているので
この時期が来るとやはりちょっと寂しい
いつもなら朝起きると必ず近くに寄っているのに

ただ何処お構いなしに糞をするので
その分少し掃除が楽になっている

八月はワークショップで静岡の富士市に行った
大雨の中なおかさんとチャボさん二人を連れて

この四人で行く旅もだいぶ慣れた

道中沼津を通った
沼津は二人の故郷

この沼津でこの二人を譲ってもらった

うちにやってきて
早いものでもう二年

四人で旅をした

そしてこれからもずっと元気でいてほしい

また旅に出よう

仙台ネイティブのつぶやき(65)寝ても覚めてもお湯のこと

西大立目祥子

「湯守」とよばれる人たちがいる。温泉宿の源泉を守る人たちだ。小さな宿の場合、ほとんど宿の主人が湯守をかねている。
 温泉旅館を訪れる側は、宿に着くと休息もそこそこに浴室へと急ぎ、湯船に満々とたたえられた湯の中にからだを沈め、「あ〜いいお湯だ」と目を閉じため息をもらしてお湯を堪能する。湯口からとうとうと流れ出るお湯を見て、ちょっと知ったかぶりで「やっぱ源泉かけ流しは違うねぇ」などと、口に出したりもする。

 でも、この源泉というもの。これはかなりの苦労を湯守に強いるものらしい。朝目覚めてから夜寝床に潜り込むまで、問題なく湯が湧き出ているか気に病み、ときには深夜に源泉が止まる夢を見て、がばっと起き上がることもあるのだそうだ。たしかに、旅館を営むうえでの生命線が源泉なのだから、源泉がストップなんてことになったら‥それは恐ろしい事態だ。

 宮城県北に位置する大崎市鳴子温泉。ここには、奥羽山脈のふところに向かって、手前から、川渡(かわたび)温泉、東鳴子温泉、鳴子温泉、中山平温泉、鬼首温泉と、5地域の温泉があり、合わせて鳴子温泉郷とよばれている。鳴子温泉郷内の源泉数は約400本。温泉地によっては、1つの源泉を何軒もの旅館が共同で使うのもめずらしくないらしいが、鳴子温泉郷の旅館はほとんどが自家源泉を持っている。中には泉質の異なる数本の源泉を維持している旅館もある。地域ごとに泉質は大きく異なり、さらにもっと細かくみていけば、隣り合う旅館であっても色も温度も泉質も違ったお湯が湧き出ているのだ。

 長年仕事で通い、ついでにひと風呂浴び、旅館のご主人たちや源泉の調査や調整をする人の話を聞くうち、源泉というのはそう生易しいものじゃないということは私にもぼんやりとわかってきた。長い時間をかけ山や川から染み込んだ水が、地中奥深いところで地熱にぐらぐらと沸かされたのが源泉なのだから、そこには荒っぽい野性がついてまわる。人智は及ばず、取り扱いをあやまればしっぺ返しを食う、どこか恐ろしいもののようにも感じる。湯船に入ったお湯はおとなしく穏やかだけれど、壁一枚隔てた屋外の枡に注ぎ込む源泉は、 100メートルも200メートルも深い地中の状態を映し出し、日々色を変え、量を変え、あるときは止まる。

 源泉とのつきあいを「放蕩息子を抱えているようなもの」と表現する旅館のご主人もいる。思うようにならない源泉にいらだったり、振り回されたりするからだろう。人の性格が異なるように、源泉の性質も千差万別。温度や泉質はもちろん違っているし、素直な良い子もいれば、しょっちゅう学校から親の呼び出しがかかるような破天荒なのまで、実にいろいろなのだ。

 友人で、川渡温泉で「山ふところの宿みやま」を営む板垣幸寿さんの源泉は、けっこうひんぱんに主を悩ませる。源泉の湧出口は宿から350メートルほど離れた林の中。源泉が旅館の浴室のすぐそばにあるとは限らず、中には500メートル〜1キロもパイプを敷設して湯を運ぶ旅館もある。離れていれば、夏はほどよく冷めていいのだけれど、冬は冷めすぎて湯船に流す前にヒーターで温めなければならない。そして、やっかいなのが「スケル」だ。スケルといってもわかる人はほとんどいないだろうけれど、湯の花のようなもので、このスケルがパイプに付着し詰まらせる。放っておけば湯量が減りしまいには止まってしまうので、定期的に除去作業をしなければならない。一昨年だったか、板垣さんは源泉が突然止まるという事態に見舞われ、ひと月旅館を休んで復旧に奔走していた。さすがに憔悴しきった表情だった。

 一度、スケルの除去作業を見学させてもらったことがある。湯量が少なくなったことの原因を探るための作業だったのだけれど、源泉に深く下ろしている長いホースを引き上げると、内側にも外側にも黒く粘り気のある真っ黒いスケルがべったりと張り付いていた。除去作業をする板垣さんは泥まみれ。地中深いところで起きるトラブルに対応することの大変さを目の当たりにした。このときはホースに破れ目が見つかり、交換したとたん湯量は回復した。「いやあ、お湯を拝みたくなる」と板垣さん。
 このスケルも源泉によって付着量がかなり違うのだそうで、数ヶ月にいっぺん除去作業が必要な源泉もあれば、1年にいっぺんという旅館もあり、一方でほとんど付着しないために除去はしたことがない、という旅館主もいる。したがってトラブルの多寡もまた、源泉それぞれ。

 板垣さんは「朝起きるとまず源泉を見る」という。何か異変はないか、じっくりと観察するらしい。一番怖いのは地震だともいう。確かに地熱は地球内部から地表に向かって動いているというから、プレートが動けば、地下水の温められ方も大きな影響を受けるだろう。「湯量が減っていないか、増えていないか、にごりはないか。そのあとにごりは改善されていくか。増えたら増えたで、そのあとがこわい」。「1日に3度は必ず見る」という旅館主もいる。お湯のわずかな差異から、現れてくる変化の振幅がどれだけのものかを探ろうとしているのだろう。自然につきあうというのは、こんなふうに大きな力で動くものを恐れつつ、そこに起きてくる小さな変化の兆しを感知するために観察することが基本なのだと教えられる。

 こんな湯守たちの苦労を知ると、お湯につかるのもまた違った意味合いを帯びる気がする。
 地中のエネルギーを直接浴びるというのか、想造もつかないような水と熱の織りなす地球の営みとダイレクトに対話するというのか‥。

 そしてもう一つ、板垣さんのスケル除去作業には、源泉管理のプロの千葉さんという人がつきっきりだったことも記しておきたい。源泉に問題が起きたときにいつも駆けつけてくれる技術者。こうした地域に根ざしたプロが継承されないと、私たちはのんびり安心して温泉にひたるなんてできなくなるかもしれない。

むもーままめ(10)あるCDショップの想い出の巻

工藤あかね

私にとって池袋は青春の地である。子供の頃は東口の西武百貨店の屋上で遊ぶのが楽しみだったし、学生時代は西口によく出没していた。最初に通った大学はまさに西口にあったから、授業の合間には池袋マルイにあったCDショップに入り浸って、中腰の状態で目を皿のようにしながら棚を漁った。

視聴コーナーでは新譜も聴けたので、半分目を瞑った状態でヘッドフォンを頭から被り、買って帰るかどうか吟味した。もちろん視聴できるものばかりではないけれど、ジャケ買いをするかどうか、ウダウダオネオネしながら何日も迷ったのも楽しい思い出だ。そのショップにはコンパクトながらオペラのコーナーもあったし、CDジャケットを見ただけで聴いてもいないのに勝手に胸がときめいてしまうような商品がわんさかあったのだ。

当時の私はホセ・カレーラスというテノール歌手がとても好きだったから、彼がオペラの扮装で表に出ているCDを片っ端から全部買い揃えることができたらどんなにいいだろう、と思っていた。当時は今よりも値段が高めで2枚組や3枚組のCDを何組もそう気軽には買えなかったので、まずはお店でジャケットを見てうっとりし、裏面をひっくり返して出演者の一覧を見てため息をついて、帯の言葉を反芻し、値段を見て、結局棚に返す、という切ない工程を連日繰り返していた。だから、何かの弾みでお目当ての商品を買う勇気が起こった時は、宝物を抱えるみたいにして家に帰り、ドキドキしながら対訳を開いて音楽をかけるのが至福の時間だったのだ。

それから数年後、久しぶりにそのCDショップに行ってみようと思い立った。一時期とくらべて、CD販売の店舗数が急激に減ってきている時期だったから、すこし不安はあった。果たして行ってみると、やはり、もう、そのお店はなかった。

あの頃に、もっともっとたくさん買い物していたら、お店はなくならないで済んだのだろうか。
申し訳ないような気持ちになった。

今度は、そのCDショップが入っていた池袋のマルイ自体が閉店してしまった。あのマルイが閉店するなんてこと、考えたこともなかった。そして、マルイのすぐ近くにある、わたしの行きつけのビストロも9月から休業するという。池袋西口が、これ以上寂しくならないことを祈るばかりである。

沈黙と憂鬱、または在りし日のファースト・レディの微笑それとも

北村周一

旧友のU君がこの春に他界した。

朝なかなか起きて来ないので、家人がようすを見に行ったら、すでに息も絶え絶えの状態だった。
それから三日後に亡くなった。

カラフルな釣り具のわきに釣り師いて寡黙なり雨の江尻埠頭に

思い起こせば、2016年の6月の夜に、清水のまちのとある飲み屋で会ったのがさいごとなった。
そのときの出来事は、なんとなく気になったので、ノートに書き留めて置いた。
そのメモのようなものが、こんさーとという一片の文章になるとは思いもよらなかった。
清水銀座の花屋の2階にある古ぼけたバーでの一夜は、印象深いものだった。
もう一人の高校時代の友人Ⅰ君は、残念ながらすでに酒を断っていたのだけれど、つきあいは頗る良いほうだったから、夜の更けるまで一緒だった。
つぎの日の朝、ぼくは宿を出て、清水のまちをぶらついた。
巴川べりから歩き始めて、カトリック教会を外から眺めたのち、清水港に向かった。
梅雨の時期だったから、少しだけ雨がぱらついていた。
それでも江尻埠頭には、なんにんもの釣り人が岸壁にならんでいた。
さきの一首は、そのときの光景をうたったものなのだけれど、いま読むと、まるで釣り好きなU君の後ろ姿をほうふつとさせているような、妙な感覚にとらわれる。
いつもの寡黙で(ふだんは饒舌なのに)猫背の後ろ姿が目に浮かぶのだった。

高校に入学して間もなくの頃だった。
ぼくとU君は連れ立ってとなり町の静岡に遊びに行った。
ある人(名前は忘れてしまった)の個展を見るためである。
静岡の繁華街の一角に、その会場はあった。
着いてみると、そこは喫茶店だった。
ぼくらはたんにコーヒーの店と呼んでいたような気がしないでもないのだが。
高校一年生には、喫茶店は敷居が高かったのである。
それでもドアを開けて店の中に入ると、コーヒーの匂いがして、たぶんタバコのけむりの臭いも混じっていて、真新しい学生服姿のぼくらはちょっと怖気づいた。
階段を昇りながら、二階へ上がった。
額縁入りの小さな絵が、壁ぞいにならんでいたから、おのずとそれを見ながらさきへ進んだ。
個展を見るのは、はじめてではなかったが、やっぱり緊張するなあと思いつつ、階段を昇った。
Sさんが、奥の方からやって来た。
高校のクラスメートの女子である。
Sさんは、美術部でもある。
そしてU君とは小学校の同級生でもあった。
彼女がぼくらを個展に誘ってくれたのだった。
Sさんの知り合い(親戚?)が絵を描くらしいことを聞きながら、ぼくらは喫茶店のイスに座った。
彼女は、ほんとうに来てくれたんだあとうれしさを隠し切れないようすで、絵について語り始めた。
なんどか抽象という言葉をつかった。
ほんとうは抽象を描きたいんだともいっていた。
主語は、個展の主なのか、それともSさん自身なのか、わからなかったけれど、ただすごいな、そんなこと考えているんだと感心しつつ話を聞いた。
話が途切れると、絵を見るために再び三度階段を昇り降りした。
Sさんがお礼にといって、アイスクリームをご馳走してくれた。
金属のお皿に乗ったアイスクリームとウエハースを、ぼくらはゆっくりと食べた。
口が冷たくなったら、ウエハースを食べるのよといいながら、まるでファースト・レディのようにSさんは微笑んだ。

それからU君とぼくはコーヒーの店を後にして、七間町の映画街に向かった。
『ミクロの決死圏』を観るためである。
事故にあって脳内出血を起こした科学者を救うために、医療チームをミクロ化して体内に送り込むストーリーなのだけれど、映像というか、視覚効果がすばらしく、しばらくはその影響をまともに受けていたように思う。

その後、Sさんは美術部を止めて、弓道部に入り直した。
高校三年になった頃だったろうか、Sさんから絵が一枚欲しいといわれて、とてもうれしく思った記憶がある。
でもその約束(?)は果たされることなく、卒業し、もう50年が経ってしまった。

この町から抜け落ちてゆくさまざまの思い閉ざしてシャッター開かず


*U君と、Ⅰ君は、はざーどまっぷという一文にも顔を出しています。清水の桜の名所、船越堤での花見の箇所です。2021年4月号に書きました。

万華鏡物語(14)今月は休みます

長谷部千彩

 八巻さん、毎日本当に暑いですね。私のベランダの植物も葉を垂らして、なんとか生き延びているという感じ。いまの時代、夏の花はもう夏には咲かない。開花するのは、少し涼しくなってからです。
 東京ではパラリンピックがまだ続いているけれど、オリンピックが終わったら、世の中もさっさと通常営業に戻ってしまい、ここまで露骨に温度差を出しちゃっていいのかしらとハラハラします(と言っても、オリンピックもパラリンピックも私は今回観ていませんが)。熱狂の側面は、いつだってこんなですよね。
 
 私はといえば、去年の夏は、母を預かっていたので、その相手で手一杯でしたが、今年の夏は、仕事と勉強に忙しく過ごしていました。勉強といっても、八巻さんもご存知の通り、余裕があるとき以外、課題は出さない、試験も受けないと決めているので、プレッシャーは全くありませんが。
 最近聴講した中で面白かったのは、優生思想がどのように生まれてどのように使われたか(ナチスの大量殺害のことです)、歴史を辿っていくというもの。なかなかヘヴィな内容でしたが、遺伝子操作ベビーや安楽死問題など、現代にも形を変えて優生思想は存続しているというところにまで話がいって興味深かったです(この講義、誰か一冊の本にすればいいのに!)。

 と、まあ、そんな生活をしていたので、読書の時間がぐっと増えました。去年の夏に読書用にと注文したオットマン付きの椅子が、春の終わりに届いたので、もっぱらそこに座って読んでいます。
 講義ごとに渡される参考文献リストを手に、こんな本が出ているなんて知らなかった、これも読んでみたい、あれも読んでみたい、どれも面白そう~!と、気持ちばかり逸って、時間が足りないのが本当にもどかしい。
 高校生の頃、一生に読める本の量を計算してみたことがあって、これっぽっちしか読めないのかと愕然としたのですが、あのときの焦りを思い出します。
 
 最近、考え直したいことがいろいろとあり、そのことを少しずつ書いていけたら、と思っています。まだまとまっていなくて、頭の中で粘土をこねている状態です。
 という訳で、今月はエッセイをお休みします。
 また来月からよろしくお願いします。

新・エリック・サティ作品集ができるまで(6)

服部玲治

どこまでも濃ゆい漆黒のカレーは仙人の胃袋に消え、やがて白くて簡素な音の連なりが奏でられた。「いちばんむずかしい」と悠治さんがいう「ノクチュルヌ」から始まり、「サラバンド」、「3つの歌曲」と続く。譜面をじっとみながら訥々と。テンポは縦横に揺らぎ、まるで、一見するとそこには見えないけもの道のような道なき道を、さぐりさぐり逍遥するような、そんな演奏だった。このプロジェクトを発想するきっかけは、2004年の「ゴールドベルク前奏曲」のアルバムであることは以前にも書いた。レコーディングがスタートして、いまの悠治さんの演奏に接し、今回のサティは、バッハの時以上に、さらに脱水して、さらに「いきつく先が遠くて見えない」ような、そんな印象を受けて心が動いた。

最初は1曲奏するたびにフィードバックを確認していた悠治さん、次第に聴かなくなっていった。しばしば悠治さんの調律を手がけられている水島さんからそっと耳打ちされる。「信頼したからかもしれませんよ」と。

21時まで予定していたレコーディングはするすると終わり、夕方には予定曲数を超えて収録することができ、1日目は終了。初めてのスタッフとのレコーディング、さぞかしお疲れのこと、早々にお別れの雰囲気になるかと思いきや、悠治さんからまたもや意外なひとことが飛び出した。「今日は夕飯食べて帰ると伝えちゃった」。

この日が悠治さんとの初めての酒宴となった。たまたま不動前の大衆酒場が空いていて、スタッフと調律の水島さんふくめ総勢7名。わたしは嬉しさあまって勢いよく杯を重ねていたが、悠治さんも焼酎のボトルをオーダーし、みるみるうちにロックであおっていて、それも無性に嬉しかった。明日のレコーディングのこともしばし忘れて、わたしは悠治さんにここぞとばかりに、以前いったん棚上げになった次回アルバムの構想を、焼酎片手に口角泡を飛ばしてお話ししたのを今もおぼろげに覚えている。新たにジェフスキの「不屈の民変奏曲」やケージの「ソナタとインターリュード」の再録音を持ちかけたかもしれない。悠治さんはいずれも笑いながら、肯定とも否定ともつかぬかわしをされていたように思う。

翌朝、レコーディング2日目。少しお酒が残っていた悠治さんだったが、「グノシェンヌ」「ジムノペディ」「ジュトゥヴ」と実に順調にレコーディングは進行。夕方にはすべての予定楽曲がレコーディングを終えた。

3日間予定していたレコーディングは2日のみで終了。昨日の痛飲を反省し、躊躇していた悠治さんを半ば強引に誘い、この日も五反田の焼き鳥屋へと繰り出したのであった。

しもた屋之噺(235)

杉山洋一

日本のニュース記事など何気なく読んでいて、「日本のような先進国が」とか、「先進国だが」という文言が目に付くようになりました。自分が気が付かなかっただけで、今までも普通に使われてきた言葉かもしれませんが、何度も立て続けに目にすると、少しぎょっとさせられます。
トニ・モリスンを読んだせいか、「先進国」という言葉の裏に、現在まで曳きずってきた長い影を、これから未来に向けて伸びる防潮堤のような巨大な黒い影を見出して、暗澹たる思いが過ります。
 
—-
 
8月某日 ミラノ自宅
予定から大きく後れて、漸く自作の譜割りを始め、自分にとって、作曲は対位法的横軸の作業、指揮は時空間を区切る縦軸の作業と改めて気づく。これら二つは実際あまり交雑しないので、指揮するため自作を読む作業は非常に苦痛だ。知っているつもりの作品なのに、気の遠くなる譜読みしなければ演奏できない、無力さ。
作曲したいのに、良く知っている筈の自作の譜読みに時間と集中力が吸取られてゆく。
 
水とタンパク質と何某による細胞から、人体が形成されていると知っていても、完成した人体をデッサンや彫刻で表現したり、その人体を使ってバレエや演劇を成立させる上で、水とタンパク質云々の知識は役に立たない。
他者の作品を譜読みするのは、さまざまな発見があって愉しみもあるが、自作の場合、読み込んでいっても発見はない。どうしてこう書いたのか疑問が残るだけで、答えてくれるものも誰もいない。自分が想像した答えが、そのまま正答になるのは、ちょっと虚しい。
作曲しているときは、或る種のフロー状態にあるから、譜読みをしている自分とは別の人格なのだろう。無関係ではないが、指揮する自分とはあまり接点がない。
ところで、アンゴラとクメール共和国の国歌が同時に鳴る機会など、他にあるだろうか、妙なものだ。
 
8月某日 ミラノ自宅
家の裏を走っているミラノからアレッサンドリアへのびるローカル線だが、8月の閑散期に運行を休止して、朝から夜中まで保線作業をしているので、その作業を眺めて気を紛らわせている。
階下で仕事をしていて、向こうから近づいてきたディーゼル音が壁の向こうでとまると、今日は何の作業かしらと、思わず仕事の手を止め、作業の様子を見物に階段を昇る。
木製の枕木を剝ぎとり、専用の車両でコンクリート製の枕木と交換したり、長い貨車を連ねた車両が、ものすごい砂煙を立てながらバラストの砕石を猛烈な勢いで線路に敷き詰めるさまを眺めるのは、なかなか痛快だ。
 
日本政府は、Covid19中等症患者を今後自宅で治療と発表。息子は朝8時にPieve EmanueleのHumanitasでファイザーワクチン二回目接種完了。このあと副反応で熱が出てくると、明日に予約したPCR検査が出来なくなり気掛かりだ。
 
8月某日 ミラノ自宅
日本に帰るため、ミラノのシティライフにてPCR検査。息子は初めての鼻からのPCR検査で怖がっていたが、すんなり終わった。何度もやっているこちらは、相変わらずえずいて洟がでて、息子と看護師に笑われる。
夕方には国の保険局から携帯電話にメッセージが届き、陰性とのこと。
国の検査機関でなくとも、PCR検査の結果は一括して国で管理されているらしい。息子のグリーンパスも携帯電話に届いた。
 
8月某日 ミラノ自宅
フランス国際放送のラジオを聴いていると、「世界の街角から」特集の最終回に、「出来すぎた街」と題してオリンピック開催中の「東京」が登場。
電車は時刻通りに走り、人々は一刻も時間を無駄にせず、互いに効率よく過ごせるよう腐心する。
欧米で既によく知られる「Hikikomoriひきこもり」に続き、日本では「孤独死」が問題になっている。
特派員曰く、会社員は仕事が終わると「飲み会」で親睦を深め、その後「ガールズバー」に出かけて妙齢とよもやま話に花を咲かせる。女性司会者がそれは売春宿かと尋ねると、特派員は、妙齢に話相手になってもらうだけだと笑った。「孤独死」や「自殺率」が高い日本社会のつながりの危うさを言いたいらしい。
欧米で知られる「Kimbaku緊縛」のようなサド・マゾ趣味を始め、日本は放埓な性風俗でも知られるが、たとえばデモ隊などとても平和的でフランスとは違うそうだ。オリンピック反対を叫ぶデモ隊も、警官隊の先導をうけ、感染症対策を施しつつ秩序正しく行動する、と感心している。
 
ところで、最近日本と近隣諸国との軋轢が深まっているが、英語のみならず、必修第3外国語として韓国語か中国語、露語を小学校か中学校から勉強させたらどうだろう。長い目で見れば、相互理解と政治戦略に一番有益ではないか。
イタリアでも、中学校からは英語の他、仏語、西語、独語のどれかを学ばなければならない。在日中国、韓国人の地位も需要も、将来的に大きく変化する可能性もある。
 
8月某日 機中
イタリアでは、8月6日から食堂に入る際などグリーンパス提示が義務化された。立飲みの喫茶店では不要だが、レストランのようにテーブルで食事を摂る場合は、提示が義務だという。
どうせ口だけだと高を括っていたが、空港で息子と昼食を摂ろうと食堂に入る際、本当に二人ともグリーンパスのQRコードをスキャンさせられて吃驚した。観察していると、確かにQRコードがなく断られている客もいて、空港に入る際、既に陰性証明書は提示しているから充分だと思っていたが、そんな甘いものではないようだ。
今日のところ、物珍しさから、客は概ね面白がってQRコードを読み取らせていたが、我われの行動は、こうしてより詳細に国に報告され、管理されてゆく。仕方がないとは言え、そこはかとない末恐ろしさを禁じ得ない。
空港で新聞を購い最新の決定事項を読むと、教師のワクチン接種も義務化され、法を犯せば3000ユーロまでの罰金、とある。
 
ミラノからフランクフルトへ向かう途中、アルプスを少し超えたあたりで、こちらの機体の直ぐ上を物凄い轟音を立てて別の航空機が横切って行った。こんな体験は初めてで、まさかこれは所謂ニアミスではなかったかと後で鳥肌が立ったが、素人の思い過ごしと気にしないことにする。
ともかく無事に搭乗できてよかった。
 
8月某日 三軒茶屋自宅
浦部君から連絡あり。ピンチャーさんのリハーサル代振りを頼まれたと聞き、心底嬉しい。新しいチャンスの切っ掛けとなるよう切に願っているが、彼ならきっと大丈夫だと確信している。
こちらの譜読みは相変わらず牛歩を引き摺ったまま。以前は大学の授業もずっと少なく、毎日時間を持て余していたから何とか間に合っていたのが、今のように立て込んでくると、自らの能力不足を恨めしく思うばかり。
仕事の合間、ラジオで室生犀星の「或る少女の死まで」の朗読を聴き始めると、面白くて止まらない。音になって、本来の日本語の美しさはより際立つ。
 
トニ・モリスンの「他者の起源」を読みながら、自分が作曲したり、演奏する意味について考える。そこに何か意味を発生させられるのか、何もできないのか。
「他者の起源」は、現在までのアメリカの黒人奴隷の歴史を紐解きながら、我々が誰しももつ暴力性や二面性、その他さまざまな惨たらしい感情の発露について問いかける。
 
8月某日 三軒茶屋自宅
アフガニスタン・ガニ大統領出国のニュース。タリバンによりカブール陥落。米軍の輸送機に犇めく人々の顔。
「自画像」を書いた半世紀間に、アフガニスタンは3回国歌が変更された。一番最近の民主政権下の国歌は、またその一つ前のタリバン政権の国歌にとって代わられるのだろうか。それとも、また新しい国歌が制定されるのか。国歌は、権力や国威発揚の象徴でもある。香港の民主化運動組織解散。「自画像」で使った香港の代表的州歌は、今や歌うことも禁じられている。信じられない。
 
イタリアとオーストリアの境にある、アルプスの麓ボルツァーノに仕事に出かけると、いつも劇場前にある場末のアフガニスタン食堂に入り浸っていた。
肉が食べられないし、魚料理は少ないから、あの地方のイタリア料理はあまり食べるものがなく、屋号には「インド料理」と書いてある、この、小さなあまり見栄えのよくない食堂で、白米に野菜を載せて、毎日食べた。これがインド料理とは思えなかったので、どこの料理かと尋ね、アフガン料理だと話が弾んだことから、店主と話すようになった。ここにはアフガン人やパキスタン人が集うんだ、と毎日色々とサービスしてくれた。
正直に言えば、まだ9.11の恐怖は残っていたし、フランスなどでイスラム過激派のテロが多発していたから、ここがそうしたテロ組織の温床だったら、との思いも過ったが、それならそれで、寧ろここは安全に違いないし、彼らの片言のイタリア語で、熱心にイスラム入信を勧められても、簡単に断れそうだったし、何より、食事が驚くほど美味だった。
甘くて温かい紅茶と一緒に、ピラフのような料理に毎日違う野菜の煮つけを載せ、ヨーグルトで和えた辛い爽やかな香りのソースをかけて喰らうのだが、大変美味だった。イタリア人客は皆無で、文字通り、アフガン人やパキスタン人が家族で屯して静かにお茶を啜っていたりして、居心地が良かった。
オペラをやっていた頃は、一ケ月近く滞在することもあったから、イタリア語はあまり通じなかったが、随分話し込んだ。
以前に比べれば、アフガニスタンの治安はずいぶん良くなったが、経済は未だ立ち遅れていると話していた。自らのペルシャ文化をとても誇りに思っているようだった。
イタリアに来る前は結構大変だった、と体格のよい初老の店主がぼそっと話したこともある。
 
8月某日 三軒茶屋自宅
オランダのハリー経由で、ヴァンクーヴァ―のリタ・ウエダさんよりお便りが届く。トニ・モリスンとはまた少し傾向が違うけれど、数年前に、ヴァンクーヴァ―の日系作家、ジョイ・コガワの詩に基づいて曲を書いたことがある。リタは偶然その演奏会も聴いていたそうだ。
やはり、幼少から「他者」を意識して生きなければならなかったジョイ・コガワの文章は、「他者」との距離が、どこまでも深く続く、鈍い属音ペダルのように響く。
 
自分が「他者」や「社会」を意識するのは何故だろう。長くイタリアに住んで、もう15年以上もアラブ人地域との境で暮らしているからか。イタリア社会に特に同化したいとも思わなくなり、不思議な浮遊感と遠近感との距離感のなかで、ごく個人的な営みとして、自らの文化背景と対峙しているからか。
日本に戻っても、かかる浮遊感と距離感が消失しないのは、逐次更新し続けてきたはずの自分にとっての日本社会が、本質的には25年前のまま止まってしまっているからだろう。
 
まさか、交通事故で欠損した指を囃し立てられた幼少期のトラウマでもなかろう。確かに、今でも障碍者を見ると無意識に指先に疼痛が走り、無意識にそして身勝手に身障者の苦労に思いを馳せ、等しく身勝手に息苦しくなる。
たかだか指程度でこんなに苦労したのだから、もし目が見えなかったら、片足がなかったら、と思いを巡らせる自分が嫌だが仕方がない。全て無意識に脳が反応してしまうのだから。
 
自分が今日生きていられるのは、これまで何度か死にかけ、その度に誰かに助けてもらいながら、その余生を今日も誰かに生かせてもらっている、という感覚が強い。
有難くこれだけ元気に生かせてもらったから、明日死んでも後悔はない。両親より先に逝くのは親不孝だから、できれば彼らの後であれば有難いが、息子もすっかり快復したし、何時でもいいとは思う。しかるべき時になれば、自ずとあちらから呼ばれるだろう。余り恐怖心がないのは、事故に遭って気を失っているときに見た、暗闇に輝く燦燦たる扉があまりに神々しく美しく、安寧に満ちていたからだ。
生への固執や死への恐怖が希薄だと成人して気が付いたが、それは音楽にも何某か影響はあるのかも知れない。
 
イタリアでは今日だけで600人のアフガニスタン市民を無事に出国させたとの報道。アルジャジーラとABCニュースをつけっぱなしにして、仕事をしている。
 
8月某日 三軒茶屋自宅
椎野先生と稲森作品リハーサル。とても深い音楽で、その滋味溢れる演奏は、無為なセンチメンタリズムを排した稲森くんの音楽によく似合う。椎野先生の練習ピアノをミラノにいた矢野君が担当していたと聞き、誇りに思う。先日の浦部くんと揃って、ミラノで一緒に勉強した二人がこうして近くで頑張っていて、大変励まされる。
 
他の作品の譜読みが面白くて、明日から練習が始まるのに、自作をどう演奏するか何も決めていなかった。
指揮者として演奏に能動的には参加せず、淡々と時を刻み、歴史的事象を客観的に絵巻として表現するのが理想だと考えていたが、カブール空港の自爆テロに衝撃を受け、やはり自分も生身の演奏家として演奏に参加して、そこに何かを刻み込まなければ、一生後悔すると考えを改めた。他人から見て見栄えする演奏姿勢ではないかもしれないが、結局、自分の音楽は、かかる不格好な姿をしているのだろう。
 
8月某日 三軒茶屋自宅
2年ぶりに新日フィルにお邪魔すると、本当に懐かしく、嬉しい。思えば、最後に演奏したのは、Covid-19の前だったのだ。今年は、西江さんの隣に幼馴染の山田さんがいらして、少し気恥しくもあり、でも心強い。
毎回思うけれど、いつも献身的な態度でリハーサルに臨んでくださって、指揮していてとても倖せになる。
演奏者に極端に集中を強いる桑原さんの作品でも、一貫して誠実な練習と見事な演奏をしてくださった。誰にでも同じように、ここまで無理は言えないと思いながらも、リハーサルになると、どうしてもその無理を言いたくなってしまうのは、作品がそれを強く望んでいたからだ。その強靭な説得力に演奏者として本当に魅せられてしまった。
演奏者を弾きたくさせる作品は、それだけで価値があるとおもう。
 
原島さんの音楽は、聴くのと演奏とではまるで印象が違っただろう。
特にオーケストラ部分は、とても堅固に構築され書き込まれていて、それだけで成立している。それを敢えて独奏と併せることはせず、原島さんによれば、無理に原島さんが我々に合わせようと努力する、儚ささえ感じる関係性から生じる、少し夢見るような齟齬、音楽そのものと言うより新しい人間の関係性が、実に魅力的な時空間を紡ぐ。
簡単そうに見えながら、演奏はとても難しかったし、新鮮だった。
 
稲森くんの作品を演奏したのは、これで3曲目だけれども、毎回より本質が直截に顕されるようになってきて、楽譜を開くのが楽しみだった。彼は以前、ドイツで管弦楽法を教えていらしたけれど、とにかく効果的に鳴るオーケストラの音が、とても理知的に磨き上げられていて美しいこと。楽譜を見れば当然のようにかかる音が並んでいるのだが、それは誰にでも出来るわけではなく、既にそれは明らかに彼の個性となって浮き彫りになっている。
前回演奏した作品は、愉快で痛快だったけれど、今回の新作は、人としての彼の優しさが全体を包み込んでいて、演奏していてとても温かい心地がした。
 
自作に関しては、市川さんの弔礼ラッパも、柴原さんや打楽器の皆さんが奏でた深い弔鐘も素晴らしかった。本番前、これは「音楽」と呼べるようなものではないけれど、それぞれの演奏者が、自分の生きてきた時間のなかで、何か身近に感じられるようなことを、演奏中少しでも思い出してもらえたら嬉しい、とだけ伝えた。
我々の世代であれば、子供のころ、ベトナム戦争の映像やインドシナ難民のニュースが流れていたのを覚えているだろうし、アフガニスタンであればソ連侵攻も、911もテロ戦争もよく覚えているだろう。もっと若い人でも、香港の民主化運動デモの映像は記憶に新しいだろうし、戦争は普通の精神状態で行われるものではなく、アフリカの少年兵のように覚醒剤漬けにされ、脅迫されて自分の親を殺し、四肢を切断させたりして、人格を破壊してゆく。戦争とはそんな狂気の歴史だから、別に音楽として成立させるようと演奏する必要はなく、もしかしたら、これがもっと平和な日々に演奏されれば、全く違ったスタンスで演奏してもらったかもしれないが、アフガニスタンなど、正に我々が生きているこの時間を刻印するため、それぞれが感じたことをそれぞれ自由に弾いてほしいと思った。
 
8月某日 三軒茶屋自宅
小田原の久野、茅ヶ崎、三浦半島の堀之内と、約束してあった母の墓参に駆け足で付き合う。久野の霊園に出かけたのは、物心ついてから初めてだったが、母によれば4歳くらいの頃、一度訪ねたことがあるらしい。そう言われると、うっすら記憶が甦る気もするが、恐らく後付けの記憶なのだろう。深い山に囲まれた、しっとり落ち着いた空間で、夏の盛りをほんの少し過ぎ、少しだけ濃い日本の木々の色が懐かしかった。
小田原から茅ヶ崎にかけ、東海道線から眺める相模湾は、相変わらず深い色をしていて、何度見ても美しい。久しぶりに眼下に広がる海を眺め、母の心も解れたに違いない。堀の内の駅の端からも、三浦半島を挟む東京湾が垣間見られて、倖せな心地がした。
 
グリーンパスがあれば、日本からイタリア帰国の際PCR検査は不要だったが、8月28日のイタリア政府発表で、グリーンパスの有無にかかわらず、PCR陰性証明が必要と変更になった。日本の感染拡大の影響なのだろう。慌てて、今夕のPCR検査を予約する。
今月初めイタリアを出る頃には、10月から施行される可能性もある程度に言われていた、公共交通機関のグリーンパス義務化は、明日9月1日から早速施行される。学校の同僚からは、ワクチン義務化反対の署名運動一斉メールが届き、学生もグリーンパス提示がなければ、対面授業も対面レッスンも出来なくなり、学校にメールが殺到しているという。
 
アフガニスタンからの米軍撤収完了の瞬間、タリバンが夜空に向けけたたましく無数の祝砲を撃つ姿が長く中継され、アフガニスタンに残っていたドイツの報道関係者の家族が、コメディアンKhasha Zwanが、禁止されていた抵抗の民衆音楽を紡ぎ続けたFawad Andarbiが、タリバンに無残に殺害され、同時に、米軍は誤爆で市民や子供を殺害した。
ローマのチャンピ―ニ空港には、アフガニスタンからの最後の空軍機が到着し、ディ・マーヨ外務大臣は、タリバンにアフガニスタン出国を希望する市民のリストは絶対に渡さない、と公的なタリバンとの人道的交渉を一切否定した。

(8月31日三軒茶屋にて)

記憶と夢へ

高橋悠治

8月18日富山妙子が亡くなった 最後に会ったのはいつだったか 通りを隔てたケアハウスに届け物をすることはあっても 立ち寄ることをしなかったのは なんのための遠慮だったのか

1976年に林光と黒沼ユリ子の録音を林光のかわりに編集したのがはじまりで その「しばられた手の祈り」をピアノの変奏曲にして以来 スライドから映像 版画 コラージュを使った絵巻物の音楽を作ってきた 1980 年5月光州の「倒れた者への祈祷」 1986年「海の記憶」 1995年「20世紀へのレクイエム・ハルビン駅」 1998年「きつね物語・桜と菊の幻影に」 2009年「蛭子と傀儡子 旅芸人の物語」 2011−15年「海からの黙示」まで そして2016年の「終わりの始まり 始まりの終わり」はギヨーム・ド・マショーのカノンのタイトルから思いついた油絵「始まりの風景」が残されている https://tomiyamataeko.org/

メキシコ ブラジル キューバ インド ひとり旅 記憶の海 今年3月から8月末までひらかれた韓国延世大学博物館・東京大学東洋文化研究所主催『富山妙子の世界 記憶の海へ』展覧会  5時間22分の開幕式記録がある 日本語版はこれ  https://www.youtube.com/watch?v=s9KXZxyL58g

筑豊炭鉱にひとりで行って描いた絵からしばらくは ドイツのケーテ・コルヴィッツのように知的な黒い版画だった いつ頃からか 色彩や神話世界がよみがえってきたのは アジアの感触と手の舞う曲線 感情の暖かさ 荘子の笑い フェミニズムと東南アジアや中南米の先住民の表現を背景に 近代と戦争を越えてゆく夢のひろがり

2021年8月1日(日)

水牛だより

今朝、というのか、まだ真っ暗なときに突然ミンミンゼミが鳴きだして、すっかり目が覚めてしまいました。羽化したばかりだったのでしょうか。ミンミンゼミは午前中に鳴くと言われていますが、そうも感じられないこのごろです。セミにとってもどこか異常なのかもしれません。

「水牛のように」を2021年8月1日号に更新しました。
しばらくお休みが続いていた斎藤真理子さん、イリナ・グリゴレさん、璃葉さんがそろって戻ってきました。休んでいない人たちと合わせて、楽しんでください。

8月がスタートしたばかりなのに、すでに暑さに疲れています。オリンピックの開会式は一応見たのですが、見てよかったとは思えないままでした。その後はスケボーとサーフィンを少し見て、これらも利権の網にとらわれることになるのか、と。。。

ともあれ、この夏を生きのびて、来月も更新できますように!(八巻美恵)

編み狂う(9)

斎藤真理子

 世の中には「編み込み派」と「地模様派」というのがある。編み物の世の中のことです。編み込みは、さまざまな色の糸を使って複雑な模様を作っていくことで、地模様は、色は一色のままで、編み物の表面に縄だの溝だの格子だのでこぼこを作っていく技法だ。
 
 編み込み派はさらにフェアアイル閥、北欧閥、橋本治閥などの分派に分かれ、地模様派にもアラン閥、ガーンジー閥、各種レース支部などがある。私は元来、編み込み派のどこかに属したかったが、色彩感覚がだめなのであきらめ、結局、地模様派・アラン閥/ガーンジー閥のかけもちということに落ち着いた。
 
 大造りにいえば、編み込み派は世界を色で把握し、地模様派は立体感で世界を把握している。私の属する地模様派は、糸のループを互いにからませたり重ねたり、交差させたりしながら凸凹を操っていく。基本は一つのループ、つまり一目にすぎないが、それを何重にも組み合わせた結果、「ふるいつきたいような」模様編み、「そそってそそってたまらない」「狂おしいような」模様編み、というものがこの世に生まれる。

 例えば「枝先にボッブルをつけた生命の木」とか、「中を2目かのこで埋めたダイヤ」とか、「1目×2目の交差を左右対称に並べてウイングみたいにしたやつ」、「ホースシューの両サイドをモックケーブルあるいはハニカムの1列だけを配置」……などと、編み物をしない人には何のことかわからないと思いますが、書いていくだけで脳内にその手触りが再現されてアドレナリンが出るし、実際、こうしたふるいつきたい模様編みが上手に編まれ、着られているのを道で見かけ、その人の後をずっとつけたこともあった。

 あれは子供のころ、地表のいろんなものに思わず触れたかった衝動と何も変わらない。ぽこぽこした、ぷつぷつした、ざらざらした世界のテクスチャーの、問答無用の牽引力だ。こんもり、みっしりと地上に盛り上がってどこまでも続くシロツメクサの畑、枝先からあふれる百日紅、馬酔木の花や山葡萄の房の連なり方とばらけ具合。ナラの木の根元に散らばったどんぐりの笠の粒々、大木の根元で盛り上がって入り組んだ細い根っこたち。また、草の茎の途中でふくらんでいたカマキリの卵のあぶく、セミの羽根に透けて見える波模様。規則性と不規則性、世界の粒立ちと波打ちとうねり具合。毎年まっさらな顔をして現れては輝いていた、何でもないぽこぽこした、ぷつぷつした、ざらざらしたものたち。

 それらに近いものを手と糸と針で作り出せるというのは、ちょっとうっとりするようなことだ。

 たぶん最初に魅了されたのは、「かのこ編みと縄編みの組み合わせ」だったと思う。かのこ編みとは編み物の表面を一様に細かくざらっとさせる手法で、縄編みは「ケーブル」というやつ、量販店のセーターに最もよく出現するあれです。でも、手編みの縄編みと手編みのかのこ編みを組み合わせると、縄の盛り上がり方がぐぐっとアップするので、「これがほんものの……こんもり・くっきり・ふっくらというやつ!」と静かに興奮する感じになる。

 このたまらなさ、何かに似ていると思っていたが、最近になって気づいた。あれは、私が大学時代に一応専攻したことになっている考古学で扱う縄文土器、特に縄文中期の土器の表面ではないのかと。

 縄文土器の表面の模様は、自然界にあるさまざまなものを利用してつけられる。植物の繊維を縒ったもの(縄)を転がす。それを棒に巻いたものを転がす。または刻み目を入れた棒、貝殻のぎざぎざの縁、それから竹を半分に割ったもの。

 竹を半分に割ったものを粘土板の上でぐっと強く引くと粘土のひもができる。そもそも縄文土器自体が、粘土のひもを巻き上げたり、積み重ねたりして作ったものだ。そして、粘土ひもを渦巻きにしたりうねらせたりして、細かい網目模様で埋めた土器の表面に貼りつけると、私の好きな「かのこ編みと縄編みの組み合わせ」そっくりになる。写真が載せられないけど、「加曽利E式土器」などのワードを入れて検索してみてください、私の言ってることがわかるかもしれないから……。

 こうした装飾を土器の縁に積み上げたりして、縄文土器の立体感はどんどん開花暴走していく。その頂点が火炎土器だろう。一方、弥生土器ではごつごつした凹凸は消え、全体の美しい曲線的なフォルムが特徴だ。その上に彩色したり、部分的にあっさりした刻み目模様を施したりする。

 どうやら人類には、世界の表面を引っかいたり穴をあけたり何か貼りつけたりして凹凸を作りたくなる人たちと、世界の表面をすべすべにしてその上に模様を描きたくなる人たちとが、いるみたいだ。日本列島で作られた土器はこの順番で現れたが、どっちが進化してるというわけでもない。

 それと同じく、編み物における編み込み派と地模様派のどっちがえらいわけでもない。えらくはないが、テクスチャーを作り出す地模様派には、なかなか奥深いところがある。

 昔、一世を風靡した編み物デザイナーの戸川利恵子先生という方がいて、その方が「2目×2目の縄編みを、6号針でゆるめに編むのと7号針できつめに編んだのでは、同じ糸でも色が違う」といったことを本に書いていらした。これもまた編み物をしない方には何のことかわからないにきまっているが、これは真実だ(真似したのでわかる)。

 なぜ色が変わるかというと、実に微妙な手かげん一つで、編み目の盛り上がり方が変わり、結果として同じ光を浴びても影のできの方が変わるためだと思う。つまり大げさにいえば、編み物でテクスチャーを作り出すのは、光と影を支配することだ。

 地模様派の人は、そんなに広くないセーターの表面に何種類もの柄を並べようとして、その並べ方に苦心惨憺する。並べ方を変えるたびにそれぞれの模様への光の当たり方が変わり、全体の景色が変わるからだ。ほんとに、どの模様の隣に置くかによって、好きな模様のテクスチャーがぐっと引き立ったりまるでだめだったりするのだ。

 それは、縄文土器の模様の組み合わせを工夫していた何千年も前の人たちの仕事と多分、あんまり違っていない。縄文土器もアランセーターも、空間恐怖症みたいに「素」の面積が少なくて、複数の模様がびっしりと表面をおおっている。世界のテクスチャーを選びとり、配置して、光と影の塩梅を見る。箱庭を作って俯瞰している小さめの神みたいでもある。

 俯瞰できる面積は狭い。一枚のセーターとか一個のかわらけとか。セーターは破れる、土器は割れる。生きているうちに目の前で壊れるものの表面を、ぽこぽこした、ぷつぷつした、ざらざらしたもので埋め尽くしたいという欲求は、何か圧倒的にきりがなくて、個人の力量を超えている。

 なので私は、もう模様配置の開発はやめてしまった。ほぼ理想に近い箱庭が二種類できたので、今はそれを反復して編んでいる。でも、道で、ふるいつきたい模様編みが上手に編まれ、着られているのを見かけると(以下略)

 俯瞰できる面積はほんとに、圧倒的に狭い。自分が今歴史のどこにいるのかが、結局、すっきりと一望できないのと同じように。だから箱庭の中を歩いて、世界の疎と密を手で触って確かめるしかない。そしておりがあれば、自分の箱庭から出て歩いていくしか。

 視覚障害者は、晴眼者が見て気づかない編み間違いに、指で触ってすぐに気づくと聞いたことがあった。

201 焔喩

藤井貞和

わたくしは 「火焔瓶」という
焔をここに書きました

  ここ ここ

白いページにそれだけ書いてやめました
やめるのだな
わたくしは ひとつも完成することなく
こわしては 作り
作っては さらにこわす

わたくしは ふかみどりの焔のために
書きましたか

  書きました

売れましたか  見えない瓶が
ほんとうのことを言うと
行き暮れて
内ポケットにまだ投げられないままだし

にぎりしめる
その焔は
ほんとうのことを言うと
売れのこりです

空のどこかを飛びつづけて
あなたにとどかないふかみどりを
噴きあげていますよ

  ここ ここ

書くのは わたくし  ここに


(書かれるはずのことが終るとは。試掘の穴は埋没する。足場のない工事もまた終る。難解だな、通り越して字が水のように流れる。うつむくばかり。書くまえに消し、涸れるのを待つ。)

しもた屋之噺(234)

杉山洋一

ミラノから特急でフィレンツェまで行き、そこからピサを通って着いた港町、リヴォルノの場末のホテルでこれを書いています。夜半、カモメの啼き声が通りに響きます。息子の付添いで強制的に挟み込まれた3日間の夏休みを愉しんでいます。ほぼ書き上がっていた原稿をクラウドに保存したところ、ホテルのインターネットが不安定だったのか、見事に消失していて、これからすべて書き直すところです。

  —
 
7月某日 ミラノ自宅
サッカー欧州選手権準決勝に勝利して、夜半、外はクラクションの嵐。半時間は軽く続いただろう。元旦のカウントダウンどころの騒ぎではなく、今まで溜まっていた鬱憤を一気に発散しているようだ。非常に煩いのだが、嬉しさが伝わってくるので嫌な気分にはならない。花火も沢山打ちあがっている。これでもし優勝したら一体どうなるのか。
息子はミラノ・シティライフ集団接種会場Palazzo Sintilleにてファイザー1回目接種。
自動的に2回目接種の日程が8月16日と指定されたが、それではこちらが日本に戻れなくなるので、コールセンターに電話をして変更してもらう。息子は接種まで緊張していたが、これで安心したようだ。明日熱が出ないと良いが。
 
7月某日 ミラノ自宅
早朝ナポリ広場まで歩き新聞と朝食の甘食二つを買う。庭の芝生に水を撒きながら、オムレツを作り、昼食に二人前のクスクスを作って半分を弁当箱につめる。息子の分は冷蔵庫で冷やし、それぞれ昼にレモンの搾り汁をたっぷりかけて食べる。
2か月ぶりに溜まっていたレッスン補講がはじまる。うちの学校は17世紀のヴィッラを流用しているため、新消防法に則り屋内を改装することになり、7月から9月までは同じミラノ市立学校の通訳、翻訳専門学校の教室に小さなグランドピアノと縦型ピアノを搬入してレッスンすることになった。
とても短いカルキ―ディオ通りに面した専門学校は、音楽学校と等しく大学相当の組織でストラスブール大学と提携していて、拙宅に近いサンタゴスティ―ノ駅近く、街外れに佇むうちの学校と反対に、ミラノのファッションショーをやる界隈にあって、ピアノのマリアなど雰囲気が最高だと大喜びしている。とにかく学校の建物に惚れ惚れする。1930年代から40年代に建てられた見事なファシスト建築で、天井が高く荘厳だ。
内装にはふんだんに磨き上げられた大理石が使われ、窓枠など昔のままの木枠だが、全て最近塗り直されていて美しい。簡素でありつつ贅沢な味わいを醸し出す典型的なイタリアらしさが光る。
東京に非常事態宣言発令決定。
 
7月某日 ミラノ自宅
朝、カルキ―ディオ通りの学校に出かけると、学校が閉まっている。普段この学校は週末は閉まっているらしく、今日に限って我々のために開くはずだったのを忘れたらしい。エンツォ何某という男性がマジェンタで車のタイヤを交換してすぐに駆け付ける、と連絡が入る。仕方がないので、最初のレッスンは急遽自宅で行う。
見ず知らずの我らがエンツォ氏はなかなかやってこない。彼は絶対アロハシャツに短パンの出で立ちで、濃いサングラスをかけているに違いないと、と笑いながら門の前の日陰でコーヒーを飲みながら待つ。
マリアなど、この状況ですっかり陽気になってしまい、大胆に道端で胡坐をかいて、呑み終わった紙コップを自分の前に置きっぱなしにしていて、誰かが間違ってお金でも恵んでくれそうだったから、あわてて屑箱に片付けた。
歩道に座り込む我々の後ろで、自分のマセラッティを自慢しにきた身なりのよい紳士が、友人と思しき男性に、この間は何某を乗せてヴェローナまで走ってきた、などと話していて、なるほど、ミラノコレクションの界隈だと思う。
15分ほど、そうやって木陰で大笑いをしていると、エンツォ氏は、レゲエを大音量で鳴らしつつ、シャツの胸元を大胆に開け放ち、笑いを振りまきながらやってきた。余りにも我々の想像通りだったので、同僚と改めて顔を見合わせて大笑いした。いやあ、何だか今日は大変だねえ、とエンツォ氏も笑っている。イタリアらしくてよい。本来であれば、この時期はレッスンやら授業をするより、レゲエをかけながら、浜辺のビーチパラソルの下で寝ているべきなのだから。
つい身体に力が入って硬くなりがちなベネデットに、今までと全く違うアプローチを試してみる。掌を擦り合わせ、そっとそれを放す。その裡に目に見えない球体の存在が感じられるかと言うと、わかるらしい。「気」の初歩の初歩のような感じだが、彼に気功について話すつもりはない。ただ、そのふわふわと感じられる感覚を保ちながら振ってみるように話すと、肩から背中にかけて、今まですぐに硬くなりがちだった部分が解れた。強音を出したければ、その見えない球体を強くバウンドさせるつもりでやらせる。
頭がその球体に集中しているから音も耳に入りやすいようで、うまい具合に振れている。今までこの感覚に気付かなかったそうだ。
面白いので、その後来た生徒二人にも同じ練習をやらせてみると、やはりうまい具合に肩から背中の力が抜けて姿勢がよくなる。皆揃ってこんな感覚は初めてで興味深いと言う。
指揮というのは本当に面白いもので、指揮者の身体の状態が、ある程度奏者にそのまま反映される。指揮者が息苦しいと思いながら振れば、息苦しい音がでるし、身体を硬直させながら振れば、奏者も同じように硬直する。以心伝心というのか、無意識の共感から欠伸が伝染するようなものだろうか。だから、指揮者が身体が緩んで気持ちよく呼吸が出来る状態でいれば、オーケストラも同じように気持ちよい音がでる。簡単な理屈だが、実践するのはとても難しい。
 
この翻訳、通訳専門学校はもちろん既に夏休みに入っていて、だから教室を貸してもらえるのだが、補講などで、やはり学校に来る学生も多少はいて、開け放した窓から見える指揮のレッスンに興味津々だ。
自動販売機あたりに屯う若者たちが、指揮はこうだとか、仰々しく意見を言い合っていて微笑ましい。ミルコが「運命」を最後まで通し切ったところでは、外から「格好いい!」と妙齢たちから黄色い大歓声があがった。ミルコははにかみつつもとても嬉しそうだった。最後までミルコは渾身で集中していたから、揶揄っているのではなく素朴に感激したのだろう。彼女たちが入口の階段に座って、見物していたのもミルコは全く気が付いていなかった。
予めエンツォには18時半までレッスンと伝えてあったが、18時頃には開けっ放しのドアの外にやってきて、音楽はいいね、ブラボーなどとお世辞を言いつつ、何度も教室に顔を覗かせるので、出来るだけ早く切り上げるから向こうで待っていてくれというと、機嫌よく戻っていった。イタリアの喜劇映画そのままである。
 
7月某日 ミラノ自宅
サッカー・欧州選手権イタリア優勝決定。最後の一蹴をゴールキーパーがとめた瞬間、街中から、ウォーというどよめきとも歓声ともつかない声が沸き上がり、無数の花火と無数のクラクションが辺りを埋めつくした。今日は朝から街中ずっと浮足立っていた。レプーブリカ紙の表紙は、一面が緑色で「イタリア対イギリス」とだけ大きく書かれていた。午後になると、街のあちこちの喫茶店が歩道に机と椅子を並べ、大画面のテレビを立てて、即席の観戦席を拵えていて、両若男女がビールなど呷りつつ、試合を心待ちにしている光景は微笑ましかった。
息子は21時半過ぎには眠たいと言って寝てしまったが、素晴らしい試合だったから、こちらは一度見始めたら止まらなくなった。皆、イギリスは手強いから勝利は期待できない、と話していたが、今日は、昼間のレッスン中にも、生徒たちから自然にイギリス戦の話題が口をついてでてきた。スポーツが国を一つにするというのは、こういうことかと思う。文字通り国を挙げて沸き立っているのがわかる。本来、日本のオリンピックもこうなる筈だったのだろう。
 
7月某日 ミラノ自宅
今日のレッスンは、自分も含めて皆少し寝不足気味だ。コモに住んでいるアレッサンドロは、昨晩の試合後、暴徒に車のタイヤを切り付けられパンクさせられて、学校に来られなくなった。マッタレルラ大統領が「きみたちがイタリアを一つに結び付けてくれた」とサッカー選手たちを激励したとレプーブリカ紙に書いてある。早速EURO20で観客に感染が拡大しないか、と危惧する記事も掲載されていた。。
 
7月某日 ミラノ自宅
朝4時起床。稲森作品譜読みを続け、朝9時前、半時間ほど寝てから、「ジョルジア」まで歩く。週末なので、息子の希望に応えて、朝食にパスティチーニと呼ばれる小さな洋菓子を買う。暫く外食していないので、このくらいの贅沢を許してやりたい。最近、彼はリキュールに浸したババーを楽しみにしていて、食べるたびに酔っぱらって眠くなっている。
2週間弱、朝から晩までレッスン補講を続けて溜まった疲労は、正直なかなか抜けない。そんな中でも朝、40分ほどナポリ広場まで歩くのは続けていて、その間だけは頭を切り替え、作曲中の作品について思索を巡らせることができた。脳がマルチタスクをこなせないのと同じで、指揮と作曲、大学の仕事を同時には処理できない。
これだけ集中してレッスンをすると、生徒たちの顔つきも目の輝きも変わってくる。司祭を目指すアレッサンドロは、変わることなく我々の心を揺さぶる音楽を紡いでくれたし、映画音楽作曲科の指揮の手解きをしていて、なかなか素敵な「坂本龍一様式による課題」を書いてきたジョヴァンニには、自分の作品だからと言って、無理に身体から音を引き剥がす必要はないと伝えた。もし自分の音楽に感動したかったらそれは構わない、と伝えると、彼は音楽に浸りながらとても感動的に自作を振り、演奏後はその感動で茫然自失したまま、30秒ほど言葉が出なかった。あの経験は、一生彼の身体のなかに残ってゆくと信じている。
 
昼食後は芝刈りで困憊。本日のレプーブリカ紙は、2面、3面、4面の全面が東京オリンピック関連記事のみ。最初の一文「バブル方式に孔が空いた」に始まり、オリンピック開催準備の不備、この状況下で日本に出かける選手たちの精神状態、日本国民のワクチン接種率がイタリアほぼ半分の20%、連日東京の新感染者数は1000人を超え変異株の感染が拡大、など、かなり厳しい口調で糾している。
特に、オリンピックを機に漸く再開されたアリタリア便では、ローマから羽田に飛んだ選手たちが、機内に陽性者が発見されて、濃厚接触者となって行動が制限されている現状や、万が一陽性者が出た時点で出場ができなくなるため、極度の緊張を強いられる毎日だと伝えた。
イタリアは基本的に日本に対して好意的だ。日本を糾弾する記事も、こうした大手新聞で読んだ記憶はない。だから、このように厳しく書かれたのは意外だったし少なからずショックを覚えた。福島の原発事故や津波の際も、日本の悲劇を報道していても、やはりどこか当事者意識は低かったのか、可哀そうという論調が目立った。
今回は、突然落ちこぼれた優等生を目の前にして、「一体、どうしちゃったの」と困惑する声が、記事のまにまに見え隠れしている。
 
7月某日 ミラノ自宅
庭で「キュキュキュキュキュ」と鳥が啼いている。今まで旅行で家をあけることが多かったから、動物は飼えなかったが、毎日庭には黒ツグミの親子やら、もろもろ小鳥やらリスやら沢山やってくるので、寂しくはない。
レプーブリカ紙ミラノ版文化欄に、マリオ・シローニ(Mario Sironi 1885-1961)没後60年を記念して、彼の作品を集めた大規模な展覧会が20世紀美術館で開催とある。シローニというと、未来派のなかでは特に若くて、ボッチョーニらが亡くなっても最後まで活動した画家の印象を持っていたが、ちょうどレスピーギ、マリピエロ、カセルラと同じ、1880年代生まれで、等しくファシズムに傾倒、迎合したとの烙印を押されて、戦後長く顧みられなかったという。
暗い色調と、少し陰鬱な表現、全体的に肥大した構造も、前述の作曲家の作風にも一部共通していて興味深く、どうしても訪れたいと思っている。
自分が偏愛してきたイタリア文化は、「特別な一日」や「自転車どろぼう」のような映画のような、「武骨で暗澹としたイタリア」だった。「イタリアン・リアリズム」を音楽で具現化したからこそ、ドナトーニに興味を覚えたのだろう、と今となって改めて思う。自分にとってミラノが居心地がよいのは、ファシズム建築が数多く残る、少し陰を帯びた街並みだからかもしれない。
 
第二次世界大戦は起きるべくして起きたのかもしれないが、もしあの大戦がなければ、世界はどうなっていただろう。ファシズムの歴史に黒シャツ隊など現れず、せいぜい大規模農業政策の実験を発展させるだけで現在に至り、エチオピアあたり一帯は早晩平和的に解放されて、世界が友好的に現在まで発展を続けていたらどうだったか、と想像する。
未来派たちが唱えた建築など、ファシズムに飲み込まれず、そのまま未来派建築として現在まで輝かしい発展を遂げていたら、さぞ面白いものになっていただろう。
日本の戦前文化がそのまま隆盛を誇り、朝鮮半島や台湾も友好的に解放されて(そんなことが出来るのかわからないが)、太平洋戦争もアジアの侵略戦争もなく原爆もなかったら、日本はどうなっていただろうか。
暫く考えてみても、余りにも非現実的で結局想像がつかなかった。それでも、一つだけ確信を持っているのは、少なくとも現在のような「現代音楽」は生まれなかったであろうし、生まれる必要もなかったということだ。
 
イタリアでは、ワクチン義務化が急ピッチで進められ、大学生はグリーンパスと呼ばれるワクチンパスポートが登校の際必須になるとか、教員の接種は義務化とか、毎日のように新しい「法規」が提案され、各都市のワクチン反対派デモは激化している。
8月6日以降、レストランの食事にも「グリーンパス」携帯が義務化されてしまった。つい先日まで、こんな世界を誰が想像できただろうか。
100年前のスペイン風邪流行後に生まれた、あの「ファシズム」の機運をもしかしたら我々は今身をもって追体験しているのかもしれない。薄い恐怖が我々頭上に果てしない帳をひろげてゆく。
 
7月某日 リヴォルノ・ホテル
ほぼ1年半ぶりに、ミラノ中央駅から列車に乗ったが、それだけでもひどく感動を覚える。昨年の3月、ノヴァラからミラノに早朝の一番列車で戻った際、また列車で旅行できる機会が訪れるとは想像もできなかった。
あれから飛行機には既に何度か乗っていて、初めてフランクフルトを訪れたときは、同じように感動を覚えたが、列車は地上を走る分、実感や現実感が増すのかも知れないとおもう。
特急が何度となく通ったエミリア・ロマーニャやボローニャの駅に停車するたび、昔の記憶が甦ってきて感慨に耽る。乗り換えでフィレンツェ駅に降りたつと、Covid対策なのか、構内はいくつものパーティションで仕切られ動線が制限されていて、以前の広々とした駅の印象は消えていた。
息子と二人で泊りがけで旅行するのも、2年前に彼が同じようにコンテストを受けにリグーリアへ出掛けた時以来だ。あの頃息子は声変わりの途中だったが、今では電話をかけてきた家人ですら勘違いするほど父親そっくりの声色になった。今回、彼は自分の携帯電話に表示されるワクチン接種のグリーンパスを提示しなければコンテストに参加できない。
毎日、二人で外食するのも、本当に何時ぶりだろう。リヴォルノ生まれのモディリアーニの愛称、Modìという食堂がホテル近くにあって、そこで毎食新鮮な海の幸を使ったリヴォルノ料理を堪能した。
店内所狭しと飾られたモディリアーニのレプリカを眺めつつ、この画家に憧れていた父を思う。ゴルドーニ劇場で息子が弾いた革命のエチュードは、我が息子ながら実に立派だったと感心した。東京の新規感染者数4000人を超えた。
(7月31日 リヴォルノにて)