天道虫の赤ちゃんは天道を見ることができなかった(上)

イリナ・グリゴレ

 日曜日に生まれる子が神の子だ。あの子が何曜日に生まれたのか分からないが、会う前に夢で見た子だった。平地で何もないところで、世界が終わる直前に出会った。夢は白黒のサイレントムービーのようだ。ブカレストの中心部を一人で歩いていた私は、建物の壁に長い黒い影を見た。生身の人間というより、気配を感じただけだった。その影と共に歩き始めた。その時まで感じていた悲しみが消えた。愛のようなほかほかした温かみを感じた。ふんわりしたぬいぐるみを触るときの温もりのようだ。影でもいいからともに歩んでいる生き物がいるだけで救いのない世界から救われる。

 当時の私は大学を卒業する前に仕事をし始めた。生活費を稼ぐためだ。とりあえず会社に就職したが、自分探しの時間と少々のお金を稼ぐためだけだった。大学に進学しても生活費を自分で稼がなければいけないのは、私も同年齢の若者と同じだった。大学を卒業しても仕事を見つけられる確率が低いので、大学の専門分野と全く関係ない分野で働く。面接の心理テストでは芸術家の傾向があると言われ、ギリギリの採用だった。山猫をケージに入れてパソコン仕事をさせられるような感覚だった。毎日オフィスにこもっていたので、身体のストレスが厳しかった。仕事はすぐ覚えたし、トラブル解決が早いと評価されたが、このまま企業のために一生働くという意識はなかった。自分というものとやっている仕事の内容には、脳が整理できないぐらいに、大きなズレがあった。資本主義は完全に間違っていると思った。先進国の企業が安い労働力を探し、ルーマニアにたどり着く。ここには私の居場所がない。21世紀初期の矛盾を完全に受け入れることできない状態だった。

 仕事を終えると劇場かシネマテークに足を運んで、たくさんの演劇と映画を見た。自分の日常とのギャップが大きくて、喜びを感じるより恨みを感じることが多かった。上演後、一人で寂しくブカレストの中心部を歩いて、ホームレスの子供を遠くから観察していた。バスの中で歌を歌ってお金を集めた乞食の男の子は私のところにきて「かわいい」と言った。少し嬉しかった。ブカレストという街に馴染めない私にとって、ある類の優しさを見つけた気がする。ある日、バスに乗っていたとき、財布を盗まれて、盗んだ人に返してもらうまでお願いして泣いた。財布は返してもらった。バスの割引に使える学生証以外何もお金がなかったということもあるが、きっと私って本当にかわいそうに見えたのだろう。映画大学の受験で不合格だったモヤモヤが消えなかった。オアシスというイギリスのバンドの曲Don’t look back in angerを聞いて、希望のない毎日を送った。同じ映画大学の受験を失敗した人と偶然にコンサートで会ったとき驚いた。二人とも薬物で歯が黒くなって幽霊みたいになっていた。私は薬物に手を出すことも考えずに、ただ一人で苦しんでいたが、一歩間違えるとこうなるとわかったのだ。

 毎日、行くところもなくひたすら歩くことしかできなかったが、一人狼の私でも誰かに会いたい、誰かと喋りたいと思うときがあった。早くこの街から逃げないと。シネマテークからあまり離れていない古い建物の狭い道を通ったとき、別の空間に入った。ブカレストが小さいパリと呼ばれた時期からそのままの雰囲気の建物だった。窓から窓へ違う色の洗濯物を干している風景で、貧しい人々が住んでいる地区だった。トルコ、アジアとヨーロッパの出会う場はここだと思った。ジプシーの音楽家「ラウタリ」の音楽が一階のバーから流れていて、ウォッカを立ち飲みしている男性と目があった。一瞬だったが、空気が薄くなった。この場所には何回も来た。ただあのバーにいる人たちとすれ違うだけだったが、なぜか私の好きな場所になった。全てを失った人たちの集まりの場所に見えたからかもしれない。

 私も男性だったら一緒に酒を飲んでいただろう。彼らの絶望的な気分を受け継いだ気がする。一度でも人とすれ違うと、その人の細胞と交換する。私も死ぬまで強い酒を飲みたかった。いつも人が嫌いだと思っていた私は本当のところは人が好き。残りの人生を飲んでしまう選択をしたあの人が愛しかった。

 私はそのころから、自分の身体と形は内面と合ってないと気づいた。一瞬、人と目を合わせるとその人になる能力を持っていた。繋がるというのか、共感するというのか、永遠にその人のイメージが私の中に残っていて、自分というものはその人だと感じてしまう。デペッシュ・モードの曲、Only when I lose myselfと同じ、自分を失う時だけ自分を見つけることができるという状況だ。だから、私は薬物はいらなかった。ブカレストの雰囲気を生きることだけで十分に自分を失っていた。

 あの子と夢で出会った。壁に移った影とともに街を歩くあの夢を見た日はいつもと変わらなかった。朝に起きたら、本当に歩いたみたいに疲れていたが、いつものように街の外れにある遠いオフィス街まで、混んでいる地下鉄で通い、同じような服を着ているミドルクラスの若者と、窓のない建物に吸い込まれて、9時から5時までパソコンに向かって仕事をした。希望も夢も優しさもいらない、パソコン一つあればロボットの感覚になれる。

 昼休みに隣に座っていた同僚と散歩に出る。街を外れた場所なので、アスファルトのない道もあったが、大手企業はそこで安く土地を買えたのだろう。私たちをも安く買えたものね。同僚は3歳からピアノをならい、高校まではピアニストになる夢を見ていたが、食べていけないのでここに就職したという。5時になったらすぐ帰る私たちは白い目で見られたが、地下鉄の乗り場に着くとニヤニヤ笑う。5時までしか買われてないからな。いつもと同じ地下鉄から街の中心部で降りて、シネマテークに向かう。

 あの日はいつもの古い映画ではなく、現代日本映画の上映だった。友達と待ち合わせをしていたが、友達が来られなくなったので、私の隣の席が空いていた。日本の映画は人気だった。部屋は人でいっぱいになって、階段に座る人もたくさんいた。映画は始まったが私の隣の席が空いていたから、階段に座っている人に、座りませんかと声をかけた。暗かったしあまりよく見えない状態だったが空気が薄くなった。夜見ていた夢の影のような気配を感じた。階段から立つ瞬間に天井まで届いた気がして、隣に席に座った瞬間に空気は風に変わった。

 映画館から出て、街の空気に触れたとき、後ろから影のような人が私に近づいて、夢と同じように、しばらく共に歩いた。何も喋れないまま、夢の続きの予感がした。落ち着いた声でなにかを言ったあの瞬間に、すでに全てが起きていたと思った。2メートルぐらいの背の高い人で、ヒゲと髪を伸ばして黒い服を着て修道院から出たばかりのような雰囲気だった。話を聞くと私と同じ年だったが、そう思えないぐらい疲れていた。遠くから見ればストリートの子供、乞食しか見えなかったが、話し始めると落ち着いた雰囲気で、私と同じ若者だとわかった。不思議な丸っこい、悲しい恋の始まりだった。このブカレストの街でも恋ができるなんて思えなかった私が不思議な優しさに囲まれた。

 彼はブカレスト大学の建築科の大学生だった。私と同じ、複雑な家庭環境の中で大きくなったが、両親の離婚のその跡が深く彼の心を傷つけていた。父親は結婚後、大学に入り直して建築家になったあと、奥さんと二人の子供を残して独立し、再婚していた。建築大学に通っていたとき中学生の息子の彼を一緒に授業に連れていった。彼の才能は周りの学生と先生に気づかれて天才少年と呼ばれていた。父親といっしょに若いころから授業を受けていたせいなのか、大学生になった彼は全く学校に興味がなかった。建築関係の知識は父親を超えるレベルに至っていたが、私が会ったときの彼の心はひどく苦しんでいた。彼の静けさに驚いた。笑うところを見たことがなかった。父親の会社で建築の仕事をして、大学にほとんど行っていなかったが、天才的な才能があったので、試験は全てクリアしていた。

 二人が出会ったとき、もう彼は少しずつ壊れ始めていた。私たちは捨てられた子猫のように、寒さの中でお互いの傷を触れないように、短時間だけ身体をお互いの体温で温めるような感覚だった。二人とも愛に救いを認めない世界に生まれていたが、お互いの優しさにまだ敏感だった。ブカレストという街は私たちから全てを奪うカーニバルのような街だった。何度も分かれたり、また一緒になったりして、苦しかった。彼は薬物とアルコールに手を出していた。いろんな苦しみに耐えるためだろうが、私にはそれは理解できなかった。優しく触れる事しかできなかった。

 私の腫瘍が見つかったのは彼と出会って約数ヶ月後だった。突然、多量の出血を繰り返した。あのときの写真を見ると血が抜けていて、痩せていて、青白い顔をしている。死を覚悟した。この状態でも愛を感じること許されないだろう。闇の中で彼の痩せている手を触るだけで人間という状態に戻れた日々もあった。しかし、私が手術を受けた時に彼はそばに居なかった。手術後に病院に来た彼の目を見て、初めて愛とはある種の共感だとわかった。不思議な事に次は彼の脳腫瘍が見つかった。こうして二人はもっと深いところでつながっていた。彼の母親は私のせいだと言った。私から腫瘍が彼に移ったと酷く差別された。それがほんとうなら、私はそこまで彼に愛されたことになる。身体の細胞が交換されるぐらいの愛があるのか。でも違う。酷く痛んでいる二人の身体は、私たちはチェルノブイリの子供だったからだ。

仙台ネイティブのつぶやき(64)ホヤは夏の味

西大立目祥子

気温が30度近くになると、無性に食べたくなるものがある。「ホヤ」だ。
ジューシーで、ほんのり苦味があり、甘味と旨味も乗り、ぷりぷりした独特の食感。口に放り込むと、一瞬暑さが遠のいて涼しい風が吹いてくるようだ。口の中にこの味が残っているうちに、水を飲むと不思議。甘いのだ。

もちろん、丸ごと買ってきてじぶんでさばく。固いごわごわした殻を裂くと中からマンゴーみたいな鮮やかなオレンジ色の身があらわれて、ああ、夏の色だと思う。とはいっても、東北の太平洋側に暮らしているならともかく、丸ごとのホヤにはあまりお目にかかれないものなのかもしれない。以前、東京の人たちを数人、三陸の気仙沼に案内したとき、「さばいたのを食べたことはことがあるけど、丸のままというのは見たことがなかった」と聞かされた。鮮度が落ちるのは早いから、水揚げされたあと、さばいてすぐ冷凍したものが首都圏に運ばれているのかもしれない。

「海のパイナップル」といわれたりするあの形状を、見たことのない人に説明するにはどう表現したらいいのだろう。手のひらに乗るくらいの大きさで、たしかにパイナップルのような形で、表面はぼこぼこしていて、色は赤味の強いオレンジ色。まぁ、かなりグロテスク。
この得体の知れない見た目もあってか、ホヤくらい好き嫌いいがはっきりと分かれるものはない。「暑くなると、ホヤが食べたくなる」といったときの反応。好きな人なら間髪入れずに「私も!」と返ってきて、そのあとは目を輝かせてのホヤ談義。一方、嫌いな人は「ホヤはダメ〜」と顔をしかめたり、首を横に振ったり、身体表現で拒絶してくる。
先だって、しばらく疎遠になっていた高校時代の友人と久しぶりにゆっくりと話をする機会があって、ホヤの話で盛り上がり、空白の時間が埋まるような気がした。好き嫌いが鮮明なだけに、好きというだけで関係は縮まるというわけだ。

海辺に育ったからとか、子どもの頃から食べていたからとか。ホヤ好きに、育った環境が関与していると必ずしも言い切ることはできない。というのも、私にとって、ホヤは30代に三陸は気仙沼唐桑のまちづくりにかかわるようになって、地元の人に教えられた味だからだ。5年間手伝いに通った浜のお祭りでは、決まってどんぶり一杯のホヤがドンとテーブルに並んだ。「ほら、ホヤだ。夏はホヤなのっさ。ホヤ食べてすぐにビール飲むと、ビールがうまいんだよなぁ」とみんながいった。そして、私がホヤを口に入れ、ビールを飲んで「うまい!」というのを待ち構えているのだった。

そうか。振り返れば、子どもの頃、魚屋の店先で私の目を釘付けにしたのはホヤだったのだ、と思いあたった。子どもの目に、明らかに魚屋に似つかわしくないものとして写ったのが、バットにいっぱい盛られたホヤ。そして、四角い鯨肉のブロック。その形状からどう見ても、それが魚の仲間とは思えなかったわけである。ホヤは三陸の浜から、そして鯨は宮城の捕鯨基地、鮎川から水揚げされたものだったのだろう。鯨の方は給食に出てくる固い鯨の竜田揚げで味は知っていたものの、直方体の塊とは結びつけられなかった。そして、母が決して買うことのない丸っこいヘンな格好のものを、ときどき魚屋のおばさんと嬉々として話しながら買っていく人がいることも奇異に思えた。めぐりめぐって私の前に現れたホヤよ。

浜の人といっしょに台所に立ったわけではないのだけれど、いつしかみようみまねで、さばき方も覚え、どれがうまいか見立てもできるようになった。丸々として黄色っぽく透明感があるのがよい。鮮度が落ちるとしぼんで赤黒くなっていく。これは、気仙沼で1年間高校教員をしていた友人の、近所の人からおすそわけしてもらった透明なホヤを「腐っている」と思い込んで捨てたという失敗談に教えられた。
そして、さばき方。まずは頭に突き出た2つの角を観察する。なんとおもしろいことに角のてっぺんには「+」と「−」と刻みが入っているのだ。「+」は口で、「−」は排泄口。まずは「+」側を切り落として中の水を器に取る。次に「−」側を落とし、さらに根の部分を切り落とす。あとは殻と身を裂き、殻から本体を引き剥がしたあと、身を開いて親指の先ほどの黒い部分(肝臓)と、黒い筋のように見えるフンを洗い落として、食べやすい大きさに切っておしまい。でもここまでの間に、がまんがしきれず、半分くらいは食べてしまう。落とした根の部分にわずかに残る身をほじくって食べるのも、ホヤ好きの楽しみ。この話をすると、「あ、それ私もやってる、おいしいんだよねえ」と話す友人は少なくない。

というわけで、私のホヤは、料理とはいえない段階にとどまっている。さばいて、口に放りり込むだけだもの。それが先日、長年料理教室を開いてきた80代のH先生のお宅でごちそうになったホヤの一品には感服してしまった。金の縁どりの四角いガラスの鉢の底に盛られたオレンジ色のホヤ、その向こうには千切りの繊細なミョウガとキュウリが添えられ、ほんのりとした甘酢がかけられている。ああ、美しい。上等な衣装を身にまとったかのようなホヤよ。ひと夏に一度か二度は、こんなふうなよそ行きの姿で味わってあげないと、かわいそうだね。

私が三陸地方にかかわるようになった30年前は、まだ浜に天然のホヤを採る名人がいた。唐桑には、5メートルも6メートルもあるような竹竿の先に鈎をつけ、箱メガネで海底を見ながら見事な手さばきで岩場のホヤを釣り上げる三上さんというおじいさんがいた。
もういまでは名人もいなくなり、ほとんどが養殖で育つ。ホヤは、出荷されるまでに3年から4年を要する。筏に吊り下げられたロープに牡蠣殻などをつけ、そこに付着したホヤを水深、水温、海流に注意を払いながら育て上げる。台風、高潮、津波…そのたびの被害と復旧の苦労は、浜の友人たちからずいぶん聞かされてきた。東日本大震災の被害は復旧したかに見えていまも続いている。福島原発の事故が起こったために、韓国への輸出がストップしたままなのだ。韓国ではホヤはキムチの材料として重宝され、震災前は実に生産量の8割が輸出されていたという。宮城は国内最大の生産量というから打撃は大きい。浜にホヤがだぶつき、値が下がり、それは生産者の暮らしに跳ね返る。2016年から2018年までの3年間は、生産が過剰となり、水揚げされたホヤは焼却して大量に捨てられた。ホヤ好きを増やして、生産者を支えようと、宮城や岩手ではファンクラブをつくったり、首都圏に売り込んだり、いろいろな試みが行われている。
生産地のそばに暮らすということは、鮮度のいいおいしいものを味わえる一方で、こうした身近なつくり手の現実を知ることでもある。食べ物が捨てられるという現実はあまりにもつらい。食べることは支えることにつながる。この夏も暑い。食べよう。ホヤご飯もおいしいよ。

夏のきれはし

璃葉

気がついたら、夏になっていた。
陽射しは刺さるように強いし、蝉は全力で鳴いていて、夜になってもその勢いが消えることはない。

晴れの日がしばらく続いた後、突然に天気が崩れたときがあった。
その日は雨がざばっと降り、雷も鳴った。その次の日だったか。蝉の声はさらに増えた。一斉に羽化でもしたのだろうか。

茹だってしまいそうな昼の暑さは、夜になると少しだけマシになる。
家までの道をたらたらと歩くなか、通り抜けていく湿った風が生暖かくも気持ちいい。
きっと風自体は涼しいはずなのだろうが、日中、街中に存分に籠った熱気が一緒になって流れているのだろう。
風がなければその熱が漂うのみだから、苦しいのだろうな。

夏の夜の木々は湿ったような紺、黒、ふかみどり。
電灯の光が照らすその周辺の葉は蛍光緑に近い。
もし夏のイメージを聞かれたら、湿ったいろんな緑色の集まり、と答えるぐらい、わたしの中にはしっかりこの色彩が
染み付いている。
蛍光緑の葉の隙間から、ぽこりと少しいびつな月が見えた。ああ、昨夜は満月だったか。ちょっとだけ欠けている。

家に戻りブラインドを上げると、窓硝子の向こう、桜の木々の上に月はいた。
その光は眩しく、周りの薄雲も照らしている。

ラジオをかけて、ちょっと煙たいウイスキーのソーダ割りを飲んだ。
風があってもやはり蒸し暑いので、晩御飯を作る気にもならない。
友人にもらった惣菜パンをかじり、ハイボールで流し込んだ。
いつも静かな隣の部屋から、珍しく音楽が聴こえた。
ラジオ、壁の向こうからの籠ったドラムの音、極めつけに蝉。
賑やかな音や声と桜の緑、蒸し暑さがもわもわと立ち昇って、月をも包み込んでしまいそうだった。

アジアのごはん(108)加茂ナスマイラブ

森下ヒバリ

ねっとりと暑い日々が続いている。エアコンがあまり好きなほうではないのだが、午後になるとどうしても耐え難くなって、エアコンのスイッチを入れる日々。買い物に行くだけで、息が切れ、命の危険すら感じる。こんな時にスポーツ大会なんて、狂気の沙汰。

それでも、あの嵐電の踏切を越えて八百屋をのぞかなければ。くーっ、どうして電車が来ちゃうかなあ、じりじりと日が照り付ける。ふう、やっと行ったぞ。京野菜を中心においている小さな八百屋の前に立つ。水ナス、うんいいね、これは漬物だな。乱切りにして塩をふり軽くもんであとは冷やすだけでいい。あとは、九条ネギと・・万願寺トウガラシはちょっと飽きてきたから、今日は伏見トウガラシにしよう。焼いてカツオブシをかけ、醤油を回しかけ、細長いのを先から口に入れ、ガシガシと噛みながらヘタの所まで。まったくお上品ではない食べ方だが、同じ辛くないトウガラシでも似てるようで万願寺とは違うその食感がいい。

あれ、いないですよ・・丸いソフトボールみたいな加茂ナス君・・。すでに頭の中は、そのずっしりと重い丸い体を水平に切って、スキレットの上に乗せ、美味しい油で揚げ焼きにする情景でいっぱいだというのに。

はあ。仕方がない。本当は無農薬の加茂ナスを「よつば共同購入会」で注文したつもりが、一つ上の段の番号をあやまって記入してしまったらしく、今日届いた野菜は丸々とした加茂なす2個ではなく、わさわさと生い茂るトウガラシの葉の束が2つであったのだ。(どうする2束も・・)加茂ナスの田楽を食べる気まんまんだったのに。間違えたのが自分であるので、怒るわけにもいかず、近所の八百屋に走ったのである。

「今日は加茂ナスないの? まさかもうシーズン終了とか?」会計をしながら店主に話しかけると、「え? 出てませんでした?」横の倉庫スペースに走っていく。「出すの忘れてました~!」ごろごろと加茂ナスが揺れながら運ばれてきた。やったね!4つぐらい買い占めたいところだが、悪くなってもあれなので、2個にしておく。1個250円。去年は確か450円するときもあったぐらいだったが、今年は安い。豊作なのかな。

加茂ナスは京野菜の一つで、ようは丸ナスの一種なのだが、実がみっしりとしていて独特の風味があり、油との相性がとてもいい。実がつんでいて油を吸い過ぎないので、実にうまく油と絡んでしっとり、とろりと焼きあがる。

この加茂ナス、7月にならないと八百屋に顔を出さない。そしてその旬は短く、8月いっぱいまであれば御の字だ。大好きなのだが、ここ十数年の間ワタクシは7月後半から9月半ばはタイやミャンマーへの旅で日本にいなかった。加茂ナスの旬の時期にすっぽりと居なかったわけで、7月後半に旅立つまで数回食べられればラッキー、という不本意な加茂ナス事情だったわけである。

それが新型コロナ禍で、去年の3月末にタイから帰国して以来、十数年ぶりにず~っと京都で過ごしているものだから、去年の7~8月は「自分はこんなに加茂ナスが好きだったのか」とあきれるぐらい、加茂ナスばかり食べていたのである。

そして、今年の夏もまだ外国への旅はできない。それどころか国内旅行もはばかられる。さらにオリンピックでデルタ株の大爆発・・。やってきた加茂ナスのシーズンを楽しむしかない。

さて、ではまず加茂ナスに乗せる味噌を作りましょう。加茂ナスの食べ方だが、誰が何と言おうと味噌田楽です。よ~し、今日は白みそを使おう。小さなすり鉢で炒りゴマを摺って、そこに冷蔵庫にしまっておいた青山椒の実の塩漬けを15粒ほど。ゴリゴリと潰しつつ混ぜる。白みそを加え、みりんを少々、とっておきのニュージーランドハニーを入れて混ぜる。まったりした山椒味噌の出来上がり。ペロッと味見すると、このまま食べてもおいしいいい。山椒は粒のまま入れると、嚙んだ時に山椒の刺激が出過ぎるので、ここは適当にすりつぶして隠し味にするのがいい。実がない時は、葉っぱでもいけるかな。塩漬けでなくともみりんに漬けておいた山椒の実でも。

油は香りの薄いごま油、ココナツオイル、オリーブオイル、何でもいいが、おいしくて好きな油を使って焼きましょう。油は5ミリ~1センチ弱ぐらいでたっぷりとね。加茂ナスは、大きさによって2つから4つぐらいに水平に切る。焼きやすいようにそれをさらに半分に切っても。

じゅわじゅわと両面焼いて、出来上がり。山椒味噌をたっぷりのっけていただきます。

あ、熱っ! 分かっているけどハフハフしながら口に入れてしまいます。山椒の風味がすっと通り過ぎて、加茂ナスのうまみを引き立てて、消えた。

ちなみにこの加茂ナスの味噌に山椒を入れるのは、たまに行くおいしい料理屋さんの加茂ナス田楽の味からアレンジしてみた。店で食べたとき、「あ~、なんだこのおいしいのは・・」とうっとりしたのを覚えている。山椒は、入れ過ぎてもだめで、少なすぎても分からないので、加減してみて。

はあ、加茂ナス田楽おいしかったあ、と満足感に浸っていたら、ラジオのニュースで今日は京都も過去最高199人の陽性者、東京は4058人と。オリンピック、やってる場合ですか?

万華鏡物語(13)なし崩しオリンピック

長谷部千彩

 K君に会ったのは、連休前日のことだ。オリンピック騒ぎに嫌気がさして、明日から旅に出るという。数日前、打ち合わせで顔を合わせたIさんも言っていた。負のエネルギーが渦巻いている今の東京の雰囲気が嫌だから、九連休を取って沖縄へ行きます、と。
 オリンピック開催地が決まった八年前からずっと、開催期間は東京から離れる、と言い続けていたのに、日に日に増大していくコロナウィルス感染者数をぼんやりと眺めるばかりで、具体的な脱出案を考えずにいた私は、開会式の日を東京で迎えることになってしまった。

 K君と別れた後、書店へと足を運び、分厚い本を一冊買った。『パリ左岸:1940-50年』――いつも面白そうな本を読んでいるK君のお勧めなら、間違いないだろうと思った。
 私が知らずにいただけで、この連休、東京を離れる知人は、決して少なくはないのだろう。取り残されたような気分になり、急に寂しくなった。改めて考えると、私はその四日間、何も予定を入れていないのだ。
 片手にずしりと重いその本を開くと、最初のページには、ボーヴォワールが居室として使ったホテルの部屋の写真が載っていた。この本で週末の狂騒をやり過ごそう――そう思った。

 朝、起きると、窓の外には真っ青な空が広がっていた。今日も酷暑となりそうだ。洗濯機を回し、部屋に掃除機をかける。録画しておいた園芸番組を観ながら、ベッドのシーツを取り替える。
 インターフォンが鳴る。壁にかかった受話器を取り、配達員に伝える。荷物はそこに置いていってください、ご苦労様でした。届いたのは、花の植え替えに使う土。作業を始める前に日焼け止めクリームを塗らないと。そんなことを考えながら、アイス・カフェオレを作って飲んだ。
 ふと目にしたスマートフォンのディスプレイに、妹からのメッセージが表示されている。
「午後、プールの後にそっちに行くそうです」
 そうか、今日だったのか。夏休みに行われる水泳教室は私の部屋から通いたいと、小学生の姪が言っていたのを思い出した。返事をした記憶はないけれど、姪にとっては確定事項だったらしい。
 
 今日二度目のインターフォンが鳴ったのは、私がその本を十数ページ、読み進めた頃。玄関の扉を開けると、真っ黒に日焼けした姪が立っていた。勝手知ったる伯母の部屋。自宅に帰ったかのような顔で靴を脱ぎ、洗面所へと手を洗いに行く。
 私が後ろから声をかける。
「明日プールに行った後、またここに戻ってくるの?」
「うん、日曜日まで」
 さらりと返されたけど、私に予定が入っているかもしれない、とは考えないのかしら。まあ、予定がないからいいけどね。
 姪は、慣れた手つきで脱いだ制服をハンガーにかける。ブラウスとソックスを洗濯機の中に入れる。寝室の隅に置いてある彼女の荷物をまとめた箱から、Tシャツとレギンスを取り出して着替える。それから、くるりとこちらに顔を向け、眼を輝かせて私に尋ねた。
「かき氷、やっていい?」

 氷かきを購入したのは、去年のことだ。本体はオレンジ色の熊の形。頭の上についたハンドルを回して氷を削ると、黒い瞳がキョロキョロと左右に動く。
 それは、姪のためではなく、私自身のためのもの。運動が不足しがちなコロナ禍の暮らしの中で、せめて夏のデザートをカロリーの高いアイスクリームから、カロリーの低いかき氷に変えようと考えたのだ。
 ガリガリという音とともに、カップの中に白い雪のような氷が積もっていく。
「オリンピック、始まるね」と私がつぶやく。
「いつ?」
「土曜日が開会式かな。テレビで観られるけど・・・・・・観る?」
 ふたつのカップに雪山がひとつずつ。てっぺんからカルピスをかけると、かけたところだけ雪山は沈む。匙で掬い、口に含むとキーンと冷たく、そして甘い。
「観てみたい!私、オリンピック、観たことないから!」
 
 この数年、オリンピックといえば、ドロドロとした不愉快なニュースばかりが流れてきた。正直なところ、ほとほとうんざりしている。そもそも私は国を挙げてのオリンピック開催には反対だ。私は私の理屈を以て、招致されなければいいと願っていたし、いまだって中止になって当然だと思っている。スポーツ観戦に興味がないということもあって、開会式も一度もまともに観たことがない。今年も録画だけして、必要に迫られた時に必要な部分だけ観ればいいと思っていた。
 早々に食べ終えた姪は、二杯目の氷を削り始めている。
「じゃあ、土曜日、一緒にテレビで観ようか」
「うん!」
 大幅な予定変更になってしまったなあ。いや、私には予定自体、なかったのだけれども。
 退屈するはずの連休は、小学生との賑やかな時間に塗りつぶされることになるのだろう。
 すべてがなし崩しに進んでいく。まるで今年のオリンピックみたいに。
 私は長椅子の上に置かれた本に目をやった。ボーヴォワールよ、サルトルよ。それを開くのは、もう少し先になりそうだ。

新・エリック・サティ作品集ができるまで(5)

服部玲治

録音は2017年6月20日から3日間、東京・五反田文化センターで行われた。悠治さん推薦のホール、アクセスの利便性とリーズナブルなホール代、響きの良さから、いまやクラシックのレコーディングで引っ張りだことなっているが、まだこの頃は比較的おさえやすい状況だった。
準備は、万事メールでやりとりしながら進行していった。新たにピアノソロ用に編曲していただいた「3つの歌曲」の譜面も、録音4日前にメールで送られてきた。よもや準備は万全と確信していると、前日になり、あることに気づく。
食事のこと、全く考えていなかったではないか。
レコーディングのコーディネート業務の中でも、1、2を争う最重要事項、それは合間の食事の選択である。これまで数回、しかも喫茶店でしかお会いしたことがない悠治さん、はたして、どんなものならば口に運んでくれるのだろうか。
いまだ仙人のイメージを有していたものだから、無添加やオーガニックの食材でないと受け入れられない、はたまた、肉は召し上がらない、など勝手な想像を膨らまし、思い切ってご本人にメールで照会するも返事はなく、しまいには悠治さんと酒縁のある新聞記者の方に悠治さんの食の嗜好をおたずねすると、「うーん、嫌いなものとかあったかなあ。なんでも召し上がっていたと思うけど」と確信の持てぬ返事。
 
思い悩んだ末、気張って当日用意したのは、小鯛の笹寿司の折詰だった。これならば、壮大な空振りとなる確率もいくらか低いに違いない。そう思っていた。
 
録音初日、まずはマイクのセッティングに午前中を費やす。今回、わたしたちチームが至上命題としたのは、DENONレーベルの特色のひとつであるワンポイント録音を実施すること。悠治さんが70~80年代にDENONに残したサティの旧盤は、スタジオ録音だったが、今回はホールでのレコーディング。そのホールの響きの特性を生かし、よりナチュラルな音として仕上げるために、マイクを多く立てるのではなく、メイン・マイクロフォン2本のみを立てて収音するワンポイントにトライしたい。とはいえ実際のホールの鳴り方、楽器の鳴り方など複雑な掛け算で、理想のマイク位置が編み出せるかはやってみないとわからない。日本を代表するレコーディング・エンジニアのひとりである塩澤が試行錯誤を繰り返し、ここぞ、というポイントが時間内で設定できたのは、実に幸運なことだった。
 
セッティングの最中、悠治さんは悠然と、ホールの楽屋に登場。スタッフ間に凛とした緊張が走る中、試奏もそこそこに、昼食をはさんで、レコーディングがスタートすることになった。ロビーに長机をしつらえ、悠治さん用の鮨の折詰、そしてその横には、わたしたちスタッフ用に、ホールの近所にあったカレー屋さんの濃厚欧風カレーを積み上げて、いざ昼食と号令をかけた。
今日はお寿司を用意しました、と伝える間もなく、先に弁当の山の前にたたずんでいた悠治さん、「カレーですか」とつぶやきながら、こちらの意に反し、横の武骨な容器を手に取った。いくつかのトッピング・バリエーションの中でも最もカロリー高そうな、漆黒の牛すじカレーだった。
同じカレーをスタッフともども輪になって食べた。仙人に捧げる端正な寿司の折詰は、結果、皆で分け合った。いつのまにか会話が弾み、緊張や臆見はいつのまにか、霧消していった。

アレッポの小さなアスリート

さとうまき

アレッポの少年2人がひょんなことから、転がり込んできて、大学生たちがお金を集めてくれて毎月送金している。小児がんの治療費だ。そろそろお金が尽きるので、またクラウドファンディングをやる。お礼状に使う絵をアレッポの2人の少年に描いてもらって写メして送ってもらったが、サラーフ君が自転車に乗っている絵がなかなかかわいい。これをそのまま使いたいなあと思うのだけど、いつも解像度が悪いので苦労する。結構いじりまくって、できた絵を送ってあげると喜んでくれた。

自転車が欲しくてたまらないらしい。いつも事あるたびに自転車が欲しいって言っている。結構スポーツが好きみたいで、オリンピックのロードレースの写真を送って、「こんな風になりたいの?」って聞いてみたら、自転車に乗っている選手を僕だと思ったらしいとお母さんがメッセージ。お母さんはアラビア語でメッセージを送ってくるので、googleで翻訳して何とか対話しているからすごい時代だ。

いつも、お金を送ってくれるおじさんは、そんな風にかっこよく思われているのかなあと苦笑いする。水泳も好きだと言っていたので、オリンピックを見ているのかどうか今度聞いてみよう。でもお母さん曰く、彼のがんが背骨のところを侵していて、自転車には乗れないらしい。だから彼が自転車が欲しいというのは、病気を乗り越えて自転車に乗りたいということなのであって、ただおねだりしているのとは違うんだ!

シリアは経済制裁が続き、物価は20倍くらいに跳ね上がっている。内戦で難民になった人達はいまだに500万人。彼らがシリアに戻れないのは、治安の問題よりむしろ経済的な理由だ。シリアポンドもこの10年で20分の1くらいになってしまって、こういった難民が国内に送金するわずかなドルでも、残されたシリア人にはとってもありがたいというわけだ。しかし、ここ一週間でシリアの治安も悪くなってきている。オリンピック停戦とかは本当に口だけ。

 シリアは、6名の選手を送り出し、9名のシリア難民が難民選手団として参加している。こういう取り組みが、紛争解決につながるのかもどうか疑問だけど、彼らが活躍することで、シリアの子どもたちには勇気を与えるだろうなあ。

いろいろ言われているオリンピックだが、まさに、ダークな世界を露出して、この気持ち悪さの上でアスリートが純粋に戦っている姿がなんとも刺激的だったりする。世界はどこに向かうのだろう。

マグロの夢

三橋圭介

amazonやオークションで買い物をすることがけっこうある。
amazonはほとんど中古で買うことはないが、オークションは新品もあるが、基本は中古商品がメインだろう。
自分のオークションのやり方は決まっていて、買う金額を決めて入札し、最後まで見ない。
おおかた買えないだろうなと思っているし、買えないことが大半である。
そんなことなので、さほど必要がなくてもポチッとしてしまうこともある。
まあ、買えたらこんな値段で買えたのか、となるだが、そんなことがつい最近あった。
ローヴァーの折り畳み自転車(ギヤなし)を購入し、楽しく乗っていることは前に書いた。
いまもだいたい同じような道をくねくねとまがってさまよっている。
現時点では家を中心に4駅くらいの円を描きながらマグロの回遊をしている。
しかしこのマグロはこの周回から飛び出したいとも思っている。
だいたい一時間くらい乗っているわけだが、二時間くらい乗ってもいいかなと。
これには多少の冒険が必要になる。
「登り坂と下り坂は同じ道である」と賢人ヘラクレイトスは言ったが、この相対主義は私にはなかなかにして実践困難である。
なにせ登り坂から見える風景と下り坂から見える風景はまったく違って見えるのだから。
それはもはや同じようでまったく違う。
来た道はすでにはじめて見る道である。
一般化するなら方向音痴ということなのだろう。
いつもお店に入り、出る時は必ず左に曲がることが度々指摘されてきた。
それゆえ考えて右に行く(だめじゃん)。
こんな繰り返しで、いきてきた。
本題に入るなら、「海流を越えるマグロになるにはせめて6段ギヤのある自転車がいい」と感じていたわけだ。
そこですこし高級な自転車(ほぼ未使用)をポチッとしてみたのである。
もちろんマグロの意識ははかない夢を追うがごとく、ぼんやりとほぼ無意識にである。
しかし金額はきちんと安めに設定してあったようだ。
そこから最後まで入札に参加することは決してない。
せりは行わないのだ。
そして数日後メールが届く。
「あなたが落札しました」と。
嬉し悲しやとはこのことか。
まあ、距離は伸びることはマグロの夢でもある。
俺は夢を買ったんだな、と納得させるのである。

追伸:私は漫画というものをほとんど読んでこなかった。
ただ小学生のとき(滋賀県時代)、「サイクル野郎」という漫画に夢を感じたことを覚えている。
小学生二人が自転車で日本一周するはなしだった(そんなことが可能なのか?)。
ここから自転車に興味をもち、自分の新しい自転車にいろんなオプションをつけたりしていつのまにか自転車小僧になっていた。
先日ローヴァーがパンクして自転車店にいったが、当時は自分でなおしていた。
しかしである。
あるとき川沿いの道幅の狭い道路で大きなトラックとすれ違ったとき、私はところてんのごとく押し出された。
そして自転車もろとも7メートルくらいしたの川に落ちていった。
このとき最初の夢はゆるやかな川にさやさやと流されたのだ。

『アフリカ』を続けて(2)

下窪俊哉

「どうして『アフリカ』なんですか?」という質問には、慣れている。口ごもって、「あのアフリカとはあまり関係がないんですが…」と返すのも、いまではすっかりお家芸のようになった。
 というのも、自分のつくっているその雑誌が、どうして『アフリカ』という名前なのか、自分でもよくわかっていないのだ。

 当初は、ある漢字二文字の名前にする予定だった。その新しい雑誌をつくる計画を友人に話したら、「絶対に『アフリカ』の方がいい!」と強く言われたのだった。
 彼はその頃、『初日』という手づくりの雑誌をやっていて、私もそこに少しだけ書かせてもらっていたのだが、「執筆者紹介も自分で書いてほしい」と言われたので、冗談で「嘘が入っていてもいいですか?」と聞いたら、「OK」とのこと。それでは、と、ありもしない作品名と雑誌名が入った短い(自己)紹介文を書いた。その中に、なぜか『アフリカ』があった。彼はそれを覚えていて、「『アフリカ』がいいですよ!」と言ったのだ。
 それを聞いて、私は少し迷いつつ、どうしてアフリカなのかよくわからないけど、続けるつもりのない雑誌だし、まあいいか、と思った。
 いま思えば、それが運命の分かれ道だったような気もする。
 最初の号を出した後、知り合いの文学者から「この雑誌が、どうして『アフリカ』なんだ?」と怒ったように言われたことがあった。ふざけていると思われたのかもしれない。たしかに、ふざけていた。いや、大真面目だったよ、という気もする。よくわからない。
 新しい雑誌をつくった、と言っても、売っている場所はないし(推価=推定価格のついた雑誌で売る気もない)、その時はまだインターネットでの情報発信も全くやっておらず、知り合いに配るくらいしか読んでもらう手段はなかった。しかし意外なところで反応があった。私が当時、通っていた近所の立ち飲み屋で、親しくなったマスターに渡したら読んでくれて、「おもしろいね」という話になり、常連さんが買って読んでくれたりもした。中には、誌代のかわりに生ビールをおごってくれる方もいて、生ビールはたしか360円だった(当時の『アフリカ』は推価300円)。
 その店があったのは京都市の西院というところで、近くに京都外国語大学がある。買ってくれた方の中には、外大の先生もいたような気がする。でも、そこで会う常連さんたちのひとりひとりがどういう人なのかということは、ほとんど知らず、そこだけの関係だった。私は一番若い方なのになぜか「先輩」と呼ばれていて、「社長」さんはたくさんいるのに、「先輩」はたぶん自分だけだった。そんな中で、『アフリカ』はまず、少しだけ読まれた。
 そこで、「どうして『アフリカ』なんですか?」と聞かれたかどうかは、覚えていない。きっと聞かれたのだろう。でも、何と言えばいいか、その雑誌はその時すでに『アフリカ』になっていた。
 考えてみれば、その雑誌の名前が『アフリカ』であることにはたいした意味がないし、そうやって生まれた『アフリカ』というメディアには、大仰な意義のようなものがない。しかし、その『アフリカ』という名前の雑誌に惹かれて来て、読んだり、書いたりする人は相変わらずいるのである。

 アフリカといえば、アフリカの各地の音楽にはすごく興味があったが、文芸作品となるとほとんど知らなかった。思い出すのは当時、天神橋筋の古本屋で見つけて買った岩波新書の『現代アフリカの文学』だ。南アフリカの作家ナディン・ゴーディマが書いた『The Black Interpreters』という本の、土屋哲さんによる翻訳で、英語によって書かれたアフリカの(1970年代前半の時点での)現代文学と、「南アフリカの新しい黒人の詩」について書かれていた。
 その冒頭、「アフリカ文学とは何か?」と書き出される。一方で、当時それを読む私の中には「日本文学とは何か?」という問いが浮かんでいた。それまでの自分には、日本語で書かれた文学が「日本文学」だ、と思っているところがあった。しかし、「アフリカ文学とは何か?」という問いに、「アフリカ語で書かれたものだ」と簡単には答えられない。植民地時代にアフリカに入ってきた言語(英語、フランス語など)で書かれた文学がたくさんあり、しかもアフリカと言っても広い、文字のある・なしに限らず言語も無数にあるだろう、「アフリカ文学」と言っている時点で世界を見ている(あるいは、見ざるを得ない)のではないかと思った。ゴーディマは、こう書いている。

 こういった疑問に対する一つの解答としてまず私自身の定義を示しておきたい。私の考えでは、「アフリカの作品とは、アフリカ人自身が書いた作品と、それに精神面・心理面でアフリカ人と共通する経験を、他でもないアフリカで体得した人が書いた作品を言う。しかもその場合、皮ふの色とか言語による制約は一切受けない。」それにもう一点、アフリカの作家であるためには、世界からアフリカを見るのではなく、アフリカから世界を見ることが必要条件となる。したがって、〈アフリカが中心である〉という意識さえあれば、アフリカの作家は何を書いてもよいし、かりにほかの国のことを書いても彼の作品は、れっきとしたアフリカの文学作品といってよい。

 書いているあなたは、どこにいるか、どこに立っているか、と問われているような気がした。

『アフリカ』の2冊目をつくろう、ということになった時、雑誌名を『カナリア』に変えようというアイデアがあった。しりとりにしよう、というわけ(でも、その次はまた「ア」ですね)。雑誌名がしりとりになるというのは、我ながらおもしろいアイデアだなあと思ったのだが、思っているうちに面倒くさくなって『アフリカ』のまま、2007年3月号を出した。
 アイデアというのは、それだけでおもしろいと思ったら、それ以上育たないものなのかもしれない。このアイデアは何? よくわからない、と思うところのある方が、よく育つのだったりして。

 そんなふうにして『アフリカ』を何冊か出した後、「『アフリカ』って、いい名前ですね?」と言う方が現れてきたのだった。

すれ合う伝統

冨岡三智

先月末、タイトル名の曲に振り付けたデュエット作品を13年ぶりに再演したのだが、その初演時にも私はその上演のいきさつを『水牛』に書いていなかった。というわけで、今回は13年前と今年の両方の公演について書き残しておきたい。

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舞踊:冨岡三智、藤原理恵子
音楽:七ツ矢博資『すれ合う伝統 ~インドネシアにて思う~』(1999)

●初演
日時: 2008年8月7日
場所: Anjung Seni Idrus Tintin-Bandar Seni Raja Ali Haji(インドネシア・リアウ州プカンバル市)
演奏: 録音(2005年)
作品タイトル:「Water Stone」
公演名:第6回リアウ現代舞踊見本市(Pasar Tari Kontemporer VI / 6th Riau Contemporary Dance Mart)
主催: ラクスマナ財団(Yayasan Laksmana)、リアウ州文化芸術観光局

●再演
日時: 2021年7月31日
場所: 大阪市立大学・田中記念館ホール
演奏: 西村彰洋(ピアノ)、中川真(ガムラン)
公演名:『ピアノでできること/できないこと』
主催: 文科省科学研究費基盤B「アジアにおける社会包摂型アーツマネジメントモデル形成と応用」チーム

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(1) 制作のきっかけ

2008年にこの作品を作ったのは、インドネシアのスマトラ島で開催された第6回リアウ現代舞踊見本市に招待されたことがきっかけである。私はこの見本市に2005年の第4回にも招待され、単独作品(本来はデュエット作品)を上演していたのだが、今度は単独でないものを作りたいと思ったのだった。音楽については、インドネシアで上演するのだから、日本人の作品を使いたい。私がインドネシア留学するまで所属していた大阪のガムラン音楽団体(ダルマブダヤ、当時の代表は中川真)では、現代音楽家に委嘱した作品を積極的に演奏していた。そのレパートリーの1つであった七ツ矢博資氏の作品を使いたいと思って先生に連絡を取ったところ、意図していた作品には録音状態の良いものが
ないという。その代わりにと逆に提案されたのが、この『すれ合う伝統 ~インドネシアにて思う~』だった。インドネシアを意識した曲というのも提案理由だったのではないかと思う。

パートナーとなる藤原理恵子さんとは、2003年にダンス・ボックスの公演で知り合った。各ダンサーがそれぞれ自作を発表する場である。その時から気になっていたダンサーで、その後も彼女のワークショップに参加するなどして緩やかにつながりがあり、一度作品制作を一緒にやってみたいと思って声をかけたのが始まりだ。

ただ、リアウで上演した後この作品は再演しておらず、藤原さんとの共同制作もこの時だけだった。2020年1月、古い記録を整理していた時に、このリアウでのビデオが見つかった。それで久々に連絡を取って、まだ予定はないけれど再演してみたいと持ち掛けたのだった。そう言っている間にコロナで緊急事態宣言になって練習場所がなくなったり、私も五十肩になったりして中断もあったけれど、タイミングを見て練習を重ねている間に、生演奏で上演での上演という企画がもたらされたのだった。

(2) 初演版

2008年の上演では七ツ矢氏の曲の前後に虫の声の録音をつなげ、タイトルも”Water Stone”と変えている。別の音を足したのは、見本市の規定の上演時間がやや長めで、七ツ矢氏の曲(約15分)だけでは短いと感じたため。また、だだっ広い会場の中で七ツ矢氏の曲の雰囲気に入っていくための部分が欲しいと感じたのもある。一方、2021年は西村さんがピアノ・リサイタルの中で七ツ矢氏の作品を演奏するのが主目的なので、虫の声はカットした。

“Water Stone”のシノプシスやコンセプトについては、当時、現地の新聞に掲載されたので(私が見本市に出したシノプシスとインタビューが元になっている)、それを引用しよう。

● 2008年8月8日リアウ・ポス紙記事より
 …桜の国・日本から来た舞踊家・振付家の冨岡三智が「ウォーター・ストーン」という題で上演した。
 三智は単独での上演ではなく、もう一人の人と一緒に上演した。「風が吹き、石が呼吸し、水が流れる、太古の昔から」とある。
 三智が呈示した動きはゆっくりとしているが、内に秘めた強さがある。白い布を身体から垂らし、ピストルを手にしている。三智の動きともう一人の動きが入れ替わる。その女性が倒れこんだとき、もう一人が激しくすばやく動いたからだ。三智の作品は2人が入れ替わり、もう一人が白い布を巻いて、ピストルを手にしたところで終わる。

● 2008年8月9日コンパス紙全国版記事より

 冨岡と藤原は観客の想像力をさらって、2つの自我の強さを意識させた。それは混乱と調和であり、つのエネルギーが相補って人生を調和させる。調和は仏像の瞑想の舞いを通じて、一方混乱は激しいコンテンポラリ舞踊を通じて象徴される。
 ある時は、一人の踊り手がまるで彫像のように静かに、ゆっくりと移動する一方で、もう一人はあちこちに激しくのた打ち回って自爆する。しかし、ある時点で2人の踊り手は白い布を巻きつけて一体化する。剛柔は対立し得るものだが、しかし1つにもなり得る。それが人生なのだと冨岡は言う。

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2008年の上演だと、虫の声が響くなか舞台中央には私が野ざらしの仏像のごとく座っており、遠景を浴衣を着た藤原さんが横切り消えていく…という情景から始まり、その後七ツ矢氏の音楽が流れ、仏像が揺れ始める。私は1人で踊り始め、バーンという打撃音のところでピストルを撃って倒れ、それと入れ替わるように、強い音と共に藤原さんが客席から舞台に登場しその場を支配する。その後音楽が切り替わると、私は再びよみがえり、私の着ていた布にお互いが巻き付いて結合双生児(シャム双生児)のように一体化したかと思うと互いが入れ替わる。再び虫の声が響くなか、その布を巻き付けた藤原さんが仏像のごとくに舞台に残り、抜け殻になった私が舞台の端に消えていく。曲から静と動、仏陀とピストル、流水と石のような対立矛盾しながらそれらが入れ替わるような禅的なイメージが浮かび、それを2人で形にしていった。

今、これを書きながら気づいたのだが、この時は曲のタイトルの『すれ合う伝統』と向き合うことを私自身が避けていたような気がする。藤原さんに共同制作を持ちかけた時点で、曲名でなく”Water Stone”の構想しか伝えていなかったらしいのだ。曲から受けるイメージを元にして作品作りをしたけれど、曲のテーマを舞踊の形に置き換えようとは思っていなかった。

(3) 2021年版

●今回プログラムノートより

2人のダンサーが創り出す関係性の変化を表現しようと考えた。同じ空間に置かれた無関係な2人は、音楽に突き動かされ、空間の中で拡張収縮していくうちに互いに反応し始める。同調・反発・同化しようとする。ジャワ伝統舞踊がベースの冨岡と現代舞踊がベースの藤原は、それぞれ己の中にあるものに従って動きを生み出す。その己の中にあるものがおそらくは伝統なのであり、互いの反応の中に伝統のすれ合いが生成されるのだろう。

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今回も前の振付のイメージをたたき台にしているのは事実だが、シノプシスをそのままなぞってはいないので、できた作品は別ものと言える。前回は1人の中にあった相反する二面性が入れ替わるというのが(私の)基本イメージで、布にお互い巻き付いていく後半のシーン以外は舞台で絡まないのだが、今回は最初から2人がアイデンティティのあるものとして別個に存在していく形になった。そして、制作過程において『すれ合う伝統』の意味と格闘したのが今回だったと言える。音楽に振り付ける前の段階で、ガムランの音に合わせてジャワ舞踊の歩き方をやってみたり、また藤原さんがよくやっているように山や川など自然の中で2人で動いてみたりして、互いの身体が持っている伝統に近づこうとしたのだった。

私と藤原さんが1枚の布を巻き付けて結合双生児のようになる動きは前回も今回もある。しかし、前回はその布を私が体にサリーのように巻き付けていたが、今回は着用せずに舞台に川の字になるように細長くたたんで置いておくようにした。互いの間にある細胞膜のようなイメージである。横長の額縁舞台だとこんな風に空間を横切る線を置くのは難しいが、会場となったホールの舞台がちょうど客席に半六角形にせり出す形になっていたのは都合がよかった。私としては細胞の中にいるような感覚が保てた空間だった。

音楽はピアノとガムラン楽器(ボナンという旋律を引く打楽器、銅鑼、太鼓)を使い、ピアノは西村彰洋さんが、ガムラン楽器は中川真氏が演奏した。中川氏によれば、七ツ矢氏のこの曲は今までに5回演奏され、中川氏は全回ガムラン演奏に関わっていると言う。生演奏で踊るのは録音で踊るのとは全く違う体験で、楽器や演奏者によってここまで違うものなのかと改めて思い知る。録音ではピアノの音がもっと強くて衝動が溢れていたように私は感じたが、西村さんのピアノはそんなにガツンとこない。彼は、それよりも響きを大切にしているとのことだった。だから、録音を聞いて作っていたイメージが結構変化した。たとえば、ピアノの音の衝動に突き動かされていた箇所は、静かに抑圧されるイメージへ。引きの強い音に聞こえていた所は、星屑のようにキラキラと音が輝いているイメージへ…。リハーサルの時に話し合っていたら、私と藤原さん、西村さんと中川氏と、音に対して抱いているイメージは四者四様で、意外と違うものだと感じた。

まだアンケートを読んでいないので、どういう風に観客の目に映っていたのかは分からない。が、13年ぶりに旧作に向き合い藤原さんと共同制作したことで、様々なことを自分なりに振り返ることができた。そして現代的な作品を生演奏で踊れた経験は貴重だったと思っている。コロナ禍の状況下、上演できたことも幸せなことだった。

きみが死んだあとで

若松恵子

久しぶりに寄った神保町の岩波ブックセンターで『きみが死んだあとで』(代島治彦著 2021年6月晶文社)を見つけた。街の本屋さんでは見かけなかった新刊だ。今年の4月に公開された同名のドキュメンタリー映画の、3時間30分の中には収まり切れなかったインタビューを掲載した本だ。東京での上映を見逃していて、先に文章で出会うことになった。

「きみ」とは、1967年10月8日、ベトナム反戦のデモの中、羽田の弁天橋で命を落とした山崎博昭さんのことだ。彼は当時18歳、京都大学の1年生だった。山崎が通った大阪府立大手前高校の卒業アルバムのなか、社会科学研究部の集合写真に写っているメンバーのほとんどが、羽田のデモに参加していた。友人たちのその後の人生を描いたドキュメンタリー、「18歳のきみ=山崎博昭が死んだあとで、彼らはいかに生きたか。きみの存在は、彼らをいかに生きさせたか。ある時代に激しい青春を送った彼ら=団塊の世代の「記憶」の井戸を掘る旅」が『きみが死んだあとで』だ。

この作品について初めて知った時に、今なぜ学生運動なのかと思った。ヘルメットをかぶって闘っている人たちの映画、代島氏自身が経験してこだわってきたテーマによる私的な回想なのだろうかと思った。しかし、そういう映画(本)ではなかった。

1958年生まれの代島氏は、1967年から70年の学生運動に直接参加した世代ではない。しかし、子ども心ながらに闘う上の世代に共感を覚え(かっこいいと思ってしまい)生き方に影響を受けてしまったのだ。

「もしもぼくが団塊の世代に生まれたとしたら、どんな青春を送っただろうか。もしもぼくが1967年10月8日に羽田・弁天橋で死んだ18歳の若者の友だちだったとしたら、どんな人生を歩んだだろうか」

映画『きみが死んだあとで』の冒頭に掲げられている字幕だ。そして、本では「もしも10年早く生まれていたら、『きみが死んだあとで』に登場する14人のように「異常に発熱した時代」にぼくは絶対に巻き込まれていただろう。いや、巻き込まれていたという受動態ではなく、きっと「巻き込まれたい」気持ちを育てていた、少年時代から。」という記述が続く。代島氏のように思う者にとって、当時の経験者の記憶と今の思いを聞くことは、とても興味深い事だ。今の時代にこの映画が持つ魅力というものはここにあると思った。

インタビューを読むと、命を落とすことになった山崎氏も彼のように運動に参加した同級生たちも決して特殊な人たちではなかったという事がわかる。彼らは戦争に加担したくない、社会制度を変えたい(奨学金を受け取りに行った窓口で会った時に「やっぱり貧乏ってことかな」と闘いの動機を語った山崎博昭の思い出を岡龍二が語っているのが印象的だ)という素朴な思いから運動に参加して行った人たち、見過ごさずに何とかしようとした人たちなのだ。活動家ではなく、生活者として生きている今も、彼らの考え方が当時と変わってしまったという風にはあまり感じないところに希望を感じた。

14人にインタビューしながら代島氏も自身の事を見つめることになる。本ではインタビューの章の間に、代島氏自身の回想が綴られる。自分はなぜ、「団塊の世代」の運動する姿に憧れ、そういう価値観を自分の中につくっていったのか。本の最後に、秋田明大氏(元日本大学全共闘議長)を訪ねてインタビューする章が加えられている。そして、答えは出ない。絶対正しい答えなどない。みんなそれぞれの人生を生きているだけなのだ。

あとがきに「まだこんなルンペンみたいなことをやってるんかい!」と叱られるのを覚悟のうえでこの本を亡き母に捧げるという一文がある。代島氏にとってこの作品は、良かったのか、悪かったのか明確な答えが出ないとしても、これが自分ではないかと確かめる旅にもなったのではないかと思う。

この本で「10・8羽田救援会」の活動を知ったのは、私にとっての収穫だった。羽田のデモで逮捕された学生を支えるために、家族でも友人でもない一市民として差し入れをしたという。「18歳の未成年者が逮捕されていたので、こころにもない自白をさせられるのは目に見えるようで、自分の潔白を貫けるように支えなけゃいけない」と考えての事だったという。気持ちが明るくなるようにと白いセーターやショートケーキを差し入れたという。

本を読み終わった後で、映画化のきっかけになったという大手前高校の社会科学研究部の卒業写真を映画の公式サイトで見た。「シェー」のようなポーズをとっている無邪気な姿に胸を衝かれた。RCサクセションのスローバラードの「悪い予感のカケラもないさ」という一説を思い出したりした。近くで上映される機会をみつけて、彼らの肉声を聞いてみたいと思う。

むもーままめ(9)怠け者メガネの巻

工藤あかね

ここ数年で急激に視力が落ちたことを実感している。とはいえ、みすみす放置していたわけではない。コロナ禍で世界中が憂鬱になる前には、意を決してちゃんと眼科にも行った。

さまざまな検査を受けた後、医師が少し申し訳なさそうに言ったっけ。

「おそらく若い時から、とても視力が良かったと思うんですね。それで今は、文字がぼやけて見えることがあるということですが…。視力だけいうと、両目とも1.5ありますので全く問題がないんです。おそらく、見えにくいのは手元とか、近いところでしょうか。まずはこちらのメガネをお試しください」

サンプルでずらりと並んでいたのは、おしゃれな色合いの老眼鏡である。つまり私の視力悪化は、老眼だったことになる。観念しておしゃれ老眼鏡をかけてみたところ、たしかに文字は見えやすくなったので、購入して帰った。

ところが、おしゃれ老眼鏡をかけてみても、目の疲れは日に日に増すばかりなのである。コロナで外出を控え、楽譜を読んだり本を読んだり、ネットをさまよったり、視界の狭い生活をしているうちにとうとう、目の疲れが頭痛や肩こり、首の痛みにまで発展していった。そして、ある朝、薬指と小指がしびれて動かすのが難しくなり、料理中にフライパンを握っていられず落としてしまった。

その翌日は衣服の着脱も、バッグから交通系ICカードを取り出すのも時間がかかり、仕事に遅刻した。到着した先で事情を説明したところ、脳の病気だといけないから一刻も早く病院へ行くように勧められ帰宅させてもらった。家で待ち構えていた夫が青ざめた顔でタクシーを呼び、病院へ。

結論から言うと、2週にわたる精密検査を受けた結果、脳にも骨にも大きな問題はなかった。

となると、この痛みやしびれの原因は一体なんだ?もしかして本や楽譜を読んでいる時の首の角度が前傾していて、目も首も肩も必要以上に負担がかかっているのではないか?

これまでにストレートネック解消まくらはいくつも試したが。きわだった効果は得られなかった。
書見台も愛用しているがそれでも視線はまだ低く、首が正しい状態になっているとは言い難かった。

そんな時に、ネットの神様がおりてきて、わたしをアマゾン奥地へと誘ってくれたのである。そして出会ってしまった。

………怠け者メガネ!!!!

これは予想以上にすごい商品である。メガネ前方が大きく突き出した形で下方にレンズがついていて、メガネをかけると首の位置の90度下が見えるようになっている。つまり、首の位置と目の向きが正面の時に、足元が見える。

一般的な活用方法としては、メガネをかけて仰向けに正しく寝転がり、お腹の上に本や楽譜などを置く。姿勢が崩れない上に驚くほどちゃんと読める。テレビを足元に向けて寝れば、夕方の大相撲中継も、昼寝の体勢のまま余裕で見られるのがありがたい。お腹の上にスマートフォンを置いて操作することだってできるから、万が一、コロナやその他で自宅療養や入院生活になったら、すごく重宝するのではないか。

さらに、PCを操作する際にもこまめに怠け者メガネをかければ、首の位置は正しく保たれ、姿勢もくずれにくいときている。ここ数日、隙あらばこのメガネをかけてことに当たっているのだが、不思議なことに眼の調子まで良くなってきた気がする。こんなに素晴らしい商品だから、もっと知られても良いと思うのだけれど。

まあ、見た目がちょっとばかり奇異なことと、長時間かけるには重くて、鼻の上部にメガネの跡がついてしまうのが難点ではある。だがメリットとデメリットを天秤にかけると、私にとってはメリットの方が多い。しばらくは怠け者メガネの普及活動をしようかな。

懐かしい人

植松眞人

 ずいぶん前のことになるが、懐かしい人から電話があり驚きながら話したことがある。最初の数分はたがいの声の懐かしさを確かめ合うような具合だったが、やがて私の側はこの電話の真意を確認するような気持ちになり、相手は私に真意を伝える段階に入ったという声色を発するようになった。そのことは双方の同意事項であるはずなのに、それでも言い出しかねている間に、懐かしい話に連れ戻されたり飛ばされたりしている時間があった。そして、いざ聞いてみると以前のように仕事をしませんか、という申し出であり、こちらとしてもかまいませんよ、という気持ちだったのでそこで笑い合いながら電話を切ることになった。
 電話を切ってからが大変だった。懐かしい気持ちはあるのだが、なぜその懐かしい人と疎遠になったのかが思い出せないのだ。仕事をしませんか、と言われたら、はいわかりました、と言えるくらいに勝手知ったる仕事だし、同じような仕事は他を経由していまでも続けていたので、なぜ、その人とだけ疎遠になったのかが気になって仕方がない。
 疎遠になって数年。私は思い当たってメールを検索してみたのだった。その人の名前をノートパソコンのメールアプリの検索欄に入力すると、以前仕事をしていたときのメールが何度もスクロールしなければならないくらいに出てきた。五年近く使っているパソコンなのだが、買い替えた時にはすでに彼女と仕事をしていたので、このパソコンに残っている一番古いメールも彼女からのメールだった。こうして、古いメールを飛ばし飛ばし見ていると、いろんな仕事をしていたことが思い出された。時にはただ飲み会に行く行かないの他愛ないメールもあり、思わず微笑んだりしたのだが、ああ、そうか私はこの女性をわりと好きだったのだということを思い出した。気が合うのか合わないのかと言われれば気は合わないのだが、私はその女性の仕事への懸命さと顔かたちが割と好きだった。それで大きな下心もなくごくたまに飲んだりしていたのだが、大切なところで話が合わないし、気が合わないのでそれほど話が弾むというわけでもなく、飲み会の回数は年に一度か二度程度だった。それでも、メールを見返していると相手からはもっと頻繁に誘われていることに気がついた。相手が何度も誘いのメールをくれていて、ただ私の側が年に一度か二度応じているのだった。
 こうして十年ほど前から四年ほど前のメールを見返していると、私と彼女の関係を改めて辿っているようで懐かしさよりも好奇心のようなものが勝ってきた。彼女の名前は大久保由紀というのだが、取引先の広告代理店のディレクターをしていたころから私に仕事をふってくれていた。しかし、五年ほど前に退社し小さな制作会社へと移った。そこは、私と彼女の古巣である広告代理店を辞めた取締役が作った小さな会社だった。会社と言っても実際には私の上司でもあった取締役と大久保さんだけの二人の事務所で、この二人が男女の関係なのだろうな、と私は考えていた。そこに移ってからも大久保さんは私に仕事を振ってくれていたのだということは、メールをたどればすぐにわかった。なんとなく、転職して縁が切れていたと思っていたから少し意外だった。
 大久保さんからのメールが途切れたのは、彼女が転職してから約半年ほどしてから。私が書いた広告の文章へのフィードバックを彼女がくれて、私がその修正を加えて返したメールでやり取りが途絶えた。正確にはその後、二度、三度、大久保さんからのメールがあるのだが、私は一度も返していない。ということは、この最後の仕事に彼女と疎遠になった理由があるのだろう。私は私が最後に返したメールを読んでみた。ビジネスライクなただのメールだった。ひとつ前のメールも同様だったので、メールからでは理由がわからないのではないかと思いながら、もう一つ前のメール、彼女からの最初のフィードバックを読んでみた。そのメールは少し長かった。一度、先方がOKした文章に突然の変更が入った。制作側全員がこれはいい、と気に入っていた文章だったのだが先方がどうしても変えたい、というのだから仕方がない、という内容だった。いま読んでも、その申し出には異論はないし、ましてやそこで縁が切れるような内容でもない。それでも、私たちの仕事はここで途切れているのだから、なにかありそうなのだが、と思いながら私はそのメールを二度、三度と読んだ。そして、思い出したのだった。いや、正確には気づいたのだった。メールのCCに私たちの元上司のアドレスが突然記入されていたのだ。それまでずっと私と大久保さんの二人のやり取りだったのに、先方が無茶な変更を入れてきたというメールに限って、彼女は上司に同報していたのだった。それに気付いた私は、この変更が先方ではなく上司による変更だと直感した。それまでの経緯を考えると、そのクライアントがこのタイミングで変更を入れてくることなど考えられなかったのだ。しかし、私たちのかつての上司、そして、大久保さんの今の上司はそういうことが好きな人だった。入稿直前の原稿に些細なミスを見つけて変更を入れさせることで、自分の存在価値を見せつけるような人だった。そういえば、私はこの人が嫌いで早くにフリーランスになったことを思いだした。そして、同時にこの上司に入れられた変更をクライアントのせいにして、大久保さんは私を納得させようとしているのだ、ということを察知して、私は瞬間的に大久保さんとの仕事を最後にしようと決めたのだった。そのことをいま思い出してしまった。そうか、私が大久保さんと疎遠になったのはやきもちだったのだ。私は自分よりも上司との関係を優先させた大久保さんに腹を立てたのだった。
 いまも大久保さんはあの上司と一緒に働いているのだろうか。それとも別の男と一緒に別の制作会社にいて私に仕事をふろうと考えたのだろうか。そして、あの時、私が大久保さんになんの返信もせずに関係を切ってしまったのかを大久保さん自身は考えたことがあるのだろうか。いや、そんなことを深く考えない人だからこそ、私は大久保さんと飲みに行ってもさほど気が合わず話が合わなかったのだ。
 どちらにしても、一度仕事を請けると言ってしまった以上、また大久保さんとの仕事は始まってしまうのだろう。そして、彼女と仕事をしていればまた同じような腹立たしい場面が現れるに違いない。
 さて、どうしたものかと私はノートパソコンを閉じるのだった。(了)

七月

笠井瑞丈

気付けば
7月も終わり
8月が始まる
当たり前の事だけど
時間がどんどん進んでいく

変化すること
変化しないこと

7月なかば友人の父が亡くなった
僕もお付き合いのある方だったので
突然の知らせにびっくりした

以前からカラダの不調は聞いていたのですが
まさか亡くなるところまでとは思っていなかった

肺がんだった

仙台に住んでいる方だったので
決まってる予定をキャンセルしてなおかさんと
そしてチャボさん二人も置いていけないので
四人で仙台に車で向かうことにした

夕方東京を出発
行けるところまでは
高速を使わづず下道を走る

いつものことですが
チャボは最初は慣れない車移動のため
ずっとコッココッコと鳴いていますが
しばらくすると寝てしまいお饅頭に

郡山から高速に乗り
仙台の少し手前まで

道の駅で車中泊

車の後部座席を平らにして
窓ガラスを塞いで布団を敷き
缶ビール一本空ける

翌日仙台まで残りの道を走らせる
緑の綺麗な道をひたすらひたすら

12時 友人の実家に着く

丘の上のとても景色の良いところ
とにかく今日は天気が良くてよかった
仕事場に置かれた棺の中を覗き込む

これからは
空気となり光となり
ここに存在していく

ほんの少しの滞在時間
でも立ち会えてよかった

とんぼ返りで東京に戻る
帰りは仙台から高速に乗る
外の夕焼けがとても綺麗だ

家に着きカゴの中に卵が一個

生命はこの繰り返しだ

製本かい摘みましては(165)

四釜裕子

BBプラザ美術館で「ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』とビート・ジェネレーション 書物からみるカウンターカルチャーの系譜」展(2021.7.3ー.8.8)が開かれている。ネットで見ると、超優秀なタイピストでもあったケルアックがロール状のトレーシングペーパーにひたすら打ち込んだという最初の”オン・ザ・ロード”こと「スクロール版 オン・ザ・ロード」も展示されているようだ。巻いたトレペといえども何箇所かはテープでつないでいるはずで、それがいったいどうなっているのかを見たいと思った。ところが実はインディアナ州から借りる予定であった実物がコロナの影響で運べなくなくなり、それで会期が1年以上伸びてしまって、それならばとレプリカを作って展示しているそうである。

岡村印刷工業のウェブサイトにそのことが少し出ていた。国宝や重要文化財のレプリカ製作にも実績がある、細かいインクを霧のように吹き付けるデジタル版画チームが担当したそうだ。全36メートルになる今回の複製には和紙を用いたという。紙の継ぎはでんぷんのりで、ずれぬよう、苦労したようだ。借りるはずだった実物よろしくアクリル棒を芯にして巻いて、ぴったりサイズのアシッドフリー段ボール製収納函を作って納品したとある。私が気になったのは、そもそものトレペをつないだテープがどんなものでそれが今どうなっているのかだったけれど、それに対する記述はなかった。すでに「実物」が裏打ちされているようでもあったので、オリジナルの継ぎ目もきれいに修復して保存しているのかもしれない。

観に行けないので、カタログの『オン・ザ・ロード:書物から見るカウンターカルチャーの系譜 ビート・ジェネレーション・ブック・カタログ』(監修:山路和広 執筆:マシュー・セアドー トゥーヴァージンズ)を買った。「ジャック・ケルアック「オン・ザ・ロード」/ジャック・ケルアックの著作~ドゥルーズ伝/ビート・ジェネレーション ブック・カタログ/シティライツブックスとリトルマガジン/ゲーリー・スナイダーと日本のビート・ジェネレーション」に章立てされ、およそ1200の書影がカラーで掲載されている。「ケルアックとビート・ジェネレーション/アメリカと世界/日本のビートとカウンターカルチャー」の3つを並べた年表などもある。

「gui」の同人でもあった飯田隆昭訳のバロウズやトム・ウルフなどの本もたくさん載っていて、バロウズ著・飯田訳『爆発した切符』はサンリオSF文庫の中でも「特に入手困難」と但し書きがしてあった。北園克衛の作品が表紙になった『The Black Mountain Review』(1954ー)、今年亡くなったファーリンゲティの詩を原文で載せた海人舎の『Trap』 9(1988  表紙:北園克衛)、ヤリタミサコさんの『ギンズバーグが教えてくれたこと 詩で政治を考える』(トランジスタプレス 2016)、それから同じくヤリタさんの『ビートとアートとエトセトラ――ギンズバーグ、北園克衛、カミングスの詩を感覚する』(水声社 2006)はきちんと帯付きで載せてあってうれしかった。この本の帯は4種類あり、いずれも高橋昭八郎の『あ・いの国』(1972)という作品の中からその一部が印刷されている。売るための文言は一切帯にはないので、帯のかたちをした第二の表紙カバーと言っていい。ヤリタさんから「昭八郎さんの作品を表紙カバーにしたい」と言われ、私が装丁を担当した。こんなことを実現させてくれた版元はやっぱりすごい。

1200もの本が並ぶページをめくり続けるのはいつまでも楽しい。そして思うのは、やっぱり圧倒的に軽々しい装丁がいい。特にその軽々しい冊子たちがどういうわけかいつの時代もどこかの誰かに好まれて、巡り巡ってずっといつまでもこうして残ってしらっと現れるのがうれしい。中綴じもいいだろう。ホッチキス留めもいいだろう。ガリ版も活版も、コピーも手書きもいいだろう。本が破れたり汚れたらとてもいやだけど、破れたり汚れたからといって手放したくなるようであればもともと縁がないというものだ。

ボロくなって悲しいけれど手放すつもりも買い直すつもりもない本というのは実際あって、私にとってダントツ一番は『2角形の詩論 北園克衛エッセイズ』(1987 リブロポート)だ。造本装幀は戸田ツトム、造本協力に白石幸紀・松本早苗・木本圭子各氏の名前がある。装丁もすごく好きなんだけれど表紙カバーがだいぶ前に破けてしまい、そこからさらにめくれてしまって相当ボロくなっている。この紙はおそらく「筋入りターポリン紙」だろう。古賀弘幸さんの『文字と書の消息』(2017  工作舎 エディトリアル・デザイン:佐藤ちひろ)の表紙カバーも同じだが、こちらは今のところ、うちの棚では無傷である。

ターポリン紙(tarpaulin paper)というのは、クラフト紙にアスファルトをはさんで加工した紙だ。特に筋模様の入ったクラフト紙ではさんであるので、「筋入りターポリン紙」ということになるだろうか。筋になった薄い色の下から、時間がたつとアスファルトの黒っぽい色がわずかに濃く見えてくる。手元でボロくなってしまった『2角形の詩論』を見ると、この紙が三層構造であることがよくわかる。表面のクラフト紙がめくれると中は一面真っ黒だ。筋入りターポリン紙全体を見ても、たしかに少し濃くなっている。黒文字のタイトルは紙に埋もれてだいぶ読みにくくなっている。

いっぽう、『文字と書の消息』のタイトルと著者名は白箔で、時間がたつと全体の色が濃くなることを想定しての選択だろう。この白箔がかなりくっきり押してあり、紙の裏を見ると黒くはっきり鏡文字になって出ているのがおもしろい。ただ、時間がたつと見返しのきれいな黄色に筋入りターボリン紙の色がどうしてもうつってしまうから、新刊書店で手にした人がそれを「汚れ」と感じるのはしかたのないことだろう。

ターポリン紙というのは、1914(大正3年)に現在の品川にあった藤森工業(現ZACROS)という会社が特許をとっていたようだ。初代社長の藤森彌彦(本名環治)さんが、絹糸や絹製品を船便で海外に送るのに高温多湿下で品質が悪化するのを少しでも防ごうと、紙と紙の間にアスファルトをはさんだ防水・防湿紙「藤森式ターポリン紙」を生み出したそうだ。日露戦争のあとに沈んだ船を引き上げる仕事をしていたそうだから、そこでの体験もおおいに生かされたに違いない。最初に引き上げた船が彌彦丸で、そこから「彌彦」を名乗ったそうだ。

同社は「包んで守る先端技術」で100年超、いまや東証一部上場企業で、点滴や細胞培養のバッグや宇宙帆船、トンネル用防水シートなど扱う品目は多岐にわたる。「包む」ことから見続けたこの100年の始まりがターポリン紙だったとは! 拠り所となることばというのは、会社ひとつ、人ひとりにひとつずつで十分なんだろう。むしろだから思わぬところに深く広くつながっていく。その網に私もこうして引っかかり、1914年生まれのバロウズは藤森式ターポリン紙と同い年であることもわかった。

東京詩片

管啓次郎

【駿河台】
この坂はギターの森
音を鳴らそうと待ちかまえる
よく磨かれたボディたちは
どんな遠くから旅してここに集結したのか
きみは北米のメイプル
きみは中米のマホガニー
きみはハワイのコア
きみはアフリカのローズウッド
木々がとどめる記憶が
音の環となってはじけ飛ぶ
覚えていることを話してみてよ
獣や鳥はどんなふうだった
樹冠に住む昆虫たちは
星の光に反応したの
倒れて湖底にねむっているあいだ
きみはどんな夢を見ていたの


【渋谷】
黄色い地下鉄が空につきささると
忙しい谷間がひろがった
天体観測の練習とか
銀幕のゴーストたちのためによくここに来た
谷底を流れるのは虹を生む小川
右へ左へ何度でも流れをわたって
魂のような蛍を集めて遊んだ
片耳の折れたおとなしい秋田犬が
どこまでもついてくる
VIA PARCO というがここにイタリア人はいないね
香港人のチャーリーがぼくのともだち
一緒に坂をあがって区役所に行けば
巨大な魔物のようなボーイ・ジョージが
うたいながら踊っている
その先の草原では
見えない兵士たちが互いを敵として戦っている


【駒場】
「本を読むと決めたのだから」と友人がいって
彼は授業に来なくなった
ぼくは考えもなくぶらぶらと
スケートボードで通学していた
馬はどこにもいない
人間ばかりでどうもつまらない
仕方なくグラウンドをぐるぐると走ってみた
走るのは自由
立ち止まるのも自由
でも自由意志なんてそもそもないのかも
革のジャケットを着たギリシャ哲学者が
アメリカの黒人女性歌手の話をしていたのが
大教室で聴いた最後の講義
「モイラ」という単語が耳に残った
ひとりで校舎の屋上に出て
ギリシャの太陽を浴びながら昼寝した


【下北沢】
電柱に手書きの紙が貼ってあった
探し猫かと思ったら詩だったのでびっくりした
「ぼくの猫のナミなのだ」という最後の一行が
頭から離れなくなった
そのころは一日一冊本を読んで
読み終えると「幻游社」に売って別の本を買った
知識は心を流れてゆくだけ、何も残らない
それでもいろいろな考えが
少しずつ色合いを変えてゆく
「バンガロール」でカレーを食べながら
そこはどんな都会なんだろうと想像した
大柄なご主人と、若いころは
女優だったかもと思うような奥さん
老夫婦の小さな店だった
すべての店は必ず店じまいするのが商売の掟
ただ思い出の夕方のような光だけが残り


【青山通り】
路面電車が走っていた時代は知らないな
宮益坂を上がりつつ古本屋に寄り
文字にぶつかるたび心が千々に砕けて
難破船のように逃げ込むのはダンキンドーナツ
ここで何時間もフランス語を勉強した
ヘミングウェイがいう「清潔で明るい場所」とは
ぼくにとってはドーナツ屋の
フォーミカのカウンター
想像力の訓練にはもってこいの環境だ
外は雨、快晴、雪、くもり
青山通りは光のあらゆるグラデーションで
心を励ましたり翳らせたりする
まだこどもの城のできる前で
空き地は都営バスの駐車場だった
カセットテープの音楽を鳴らしながら
フライングディスクのネイルディレイを練習した


【吉祥寺】
金曜日には吉祥寺に集まって
ピンボールの勝負をする
ブラックナイトは画期的なデザイン
上下二面に分かれた構成で
四つのフリッパーで球を打つんだ
ゆらしてはいけない
It’s so sensitive, you know.
球を止め狙って打ち上げるのが
至上のテクニック
左上のポケットに球が三つたまると
特別なパーティーの始まりだ
乱舞する三つの球に
アドレナリンが全開
こうなるともう止まらない
どんどんクレジットが増えてゆく
ぼくのことはpinball wizardと呼んでくれ

水牛的読書日記 2021年7月

アサノタカオ

7月某日 東京の御茶ノ水へ。午後、用事の合間に湯島聖堂の散策路を歩く。ひさしぶりに「すだじい」に出会った。大好きなブナ科の広葉樹。かつて5年ほど暮らした香川の豊島にはスダジイの原生林があり、幼い娘を連れてよく散歩をしたのだ。木漏れ日を通す葉の茂みを見上げながらその「すだじい」の太い幹をさすっていると、たまらない懐かしさがこみあげてくる。
浅草方面に移動し、Readin’ Writin’ BOOKSTOREで『新編 激動の中を行く』(新泉社)と『シモーヌ Vol.4』(現代書館)の刊行記念トークイベント「フェミニズムと出版——「女性史」の可能性」に出席した。お客さんはオンライン参加が中心で、会場には関係者を含め数名。『新編 激動の中を行く』は、90歳を超えていまなお現役の女性史研究家であるもろさわようこさんが編者となり、与謝野晶子の女性論を一冊にまとめた本。『シモーヌ』は注目されるフェミニズムマガジンで、最新のVol.4では映画監督のアニエス・ヴァルダを特集している。今回のイベントでは、『新編 激動の中を行く』の編集協力者で信濃毎日新聞記者の河原千春さんと、『シモーヌ』編集長をつとめる現代書館の山田亜紀子さんが対談した。与謝野晶子、もろさわようこさん、アニエス・ヴァルダら、それぞれの時代と場所で女性解放の新しい道を切り開いた表現者の思想についていろいろな話を聞くことができて充実の時間だった。この三者に共通するのはつねに自分を新しくしようとするつよい意志、だろうか。社会を変えるためには、まず自分を変える。そして、表現者として決してひと所にとどまらない。トークでは、もろさわさんに対する河原さんの、アニエス・ヴァルダに対する山田さんのリスペクトと愛の気持ちがまっすぐ伝わってきて、それもよかった。帰りの夜道を歩きながら、もろさわさんの著作をもっと読みたいし、アニエス・ヴァルダの映画もみたいと思った。

7月某日 近所の書店で文芸誌『群像』2021年8月号を購入。おめあては小特集「ケア」。昼下がりの喫茶店に入り、丸尾宗一郎さんによる記事「ケアが語られる土壌を耕す 編集者・白石正明に聞く」を一気に読む。

《「看護師さんが何をやっているかを伝える本を作らなくちゃ」という意識があった。というのは、看護師さんって医療ヒエラルキー的には見下されやすいんですね》

白石正明さんのこの発言に、大きくうなずいた。白石さんがいまから約20年前に立ち上げ、編集を担当している医学書院の「シリーズ ケアをひらく」。およそ40冊の本のうちすでに何冊かは読んでいるが、求職中の時間のあるうちに読破しようと、まずは2001年刊行の武井麻子さん『感情と看護』(医学書院)を入手。このシリーズは出版の歴史に残る尊い仕事だと思う。自分も編集者としていつかこういう仕事をできるとよいのだけど、どうだろう……。

7月某日 引き続き医学書院の「シリーズ ケアをひらく」。小澤勲編『ケアってなんだろう』、向谷地生良さん『技法以前』、川口有美子さん『逝かない身体』、熊谷晋一郎さん『リハビリの夜』などの気になる未読本を次々と。読書が止まらない。シリーズのなかでは比較的新しい、昨年刊行された郡司ペギオ幸夫さん『やってくる』がおもしろい。というか、そこで語られる「何かがやってくる不思議な感じ」をめぐるさまざまなケーススタディが、どれも身に覚えがあって驚いた。夜な夜な魑魅魍魎の気配を感じ、知らない人に「よお、元気?」と声をかけてしまうことがあり、頻繁にデジャブを体験する。郡司先生、あなたもそうなのですか! 
日中は介護や福祉、ケアに関連する本を読んで勉強し、夜は韓国文学の時間。いま集中して読みつづけているのは、現代韓国文学を代表する作家のひとり、キム・ヨンスの小説。『夜は歌う』『ぼくは幽霊作家です』(橋本智保訳、新泉社)、『世界の果て、彼女』(呉永雅訳、クオン)、『ワンダーボーイ』(きむふな訳、クオン)。どれも翻訳がよい。僕は韓国語の読み書きはできないけれど、これらの本はまず日本語として読みやすいし、訳者がそれぞれの流儀で、原著の繊細な文学言語を慎重に日本語へと置き換えている配慮が随所から伝わってくる。自分は韓国文学のファンであり、韓国文学の翻訳者のファンでもあるのだと思う。最近はキム・ヨンスが聴いているという男性フォーク歌手、センガゲヨルム/Summer of Thoughtsの曲をネットで探してBGMとして流している。

7月某日 日曜日の朝、詩集が届いた。封を開けて手に取った瞬間、「本ってこういうものだよ」と思わずつぶやいていた。隣にいた妻も「うん、こういうもの」と応えていた。写真、装丁、印刷、すべてが最高に美しい本。もちろん詩のことばも。兵庫・西宮のameen’s ovenでパンを焼きながら詩を書くミシマショウジさんの詩集『パンの心臓』(トランジスタ・プレス)。

《パン屋に爆弾を落とすな/パン屋を攻撃するな/そこには旧式の大きなオーブンがあり/そこには1週間ぶりに届いた小麦粉の袋があり/そこにはガタガタ音をたてて回るミキサーがあり……》

本書に収録されたミシマさんの詩「シリアのなんとか大統領」より。版元のトランジスタ・プレスの佐藤由美子さん、そして詩人のミシマさんは、自分が妻と営むスモールプレス、サウダージ・ブックスの活動を最初期から応援してくれる二人。そして、「本は個人的な小さな声を守るもの」という出版者としての魂をいまなお教えてくれる二人。詩を愛する二人。微力ながら、尊敬する先達がつくった本を読み手に届けていくために協力したい。サウダージ・ブックスのウェブショップで佐藤さんとミシマさんの本の販売をはじめることにした。

7月某日 所用で大阪へ。小田原から新幹線各駅停車の「こだま」に乗車。「のぞみ」や「ひかり」に乗るほど、急ぐ必要はない。新大阪から地下鉄御堂筋線、南海、近鉄と電車を乗り継いで河内長野の汐ノ宮駅へ。小さな駅を降りるとずっと向こうの山の中腹に赤い塔が見える。大阪府唯一の木造の五重塔、とのこと。まだ明る夕方に、看護師で臨床哲学者の西川勝さんと会う。ご自宅にうかがい、西川さんがかかわる認知症の人と家族の会・大阪府支部でおこなう「認知症移動支援ボランティア養成講座」のことなどを詳しく聞く。

《障害者の移動支援をめぐる制度の歴史を紐解ければ、当事者たちが声を上げたことによって障害者の移動支援は少しずつ制度化されてきました。他方で、認知症の高齢者はこうした障害者の移動支援サービスをほとんど使うことができず、家族に頼ることしかできない状況です》

これは、同講座の講師で社会学者の天田城介さんが認知症の人と家族の会・大阪府支部のウェブサイトに記していることば。なるほど、世の中にはこういう課題があるのか、とはじめて知る。認知症ケアについて資料を集めて学びつつ、西川さんのすすめで、障害者の行動支援・移動支援をおこなうガイドヘルパー養成のためのテキストにも目を通している。
翌日の午後は京都へ。ある人の結婚パーティで「ハンガリーの伝統的なダンスを一緒に踊りましょう」という愉快なお誘いを某所から受けたのだ。道中では、立岩真也さんの『介助の仕事』(ちくま新書)と『人間の条件 そんなものはない』(ポプラ社)を。夜、無事にハンガリーのダンスを踊り終えて蹴上の常宿に落ち着き、西川さんから渡された本を読む。認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ発行の『ただ、そこにいる人たち——小松理虔さん 表現未満、の旅』。レッツは、「障害福祉サービス」とひと言でまとめられない、アートとケアを横断するさまざまな活動を静岡・浜松でおこなうユニークな団体。いつか訪ねたいな、と思っている。本書の編集は千十一編集室の影山裕樹さんが担当。これはレッツが発行する報告書なのだけど、現代書館から商業出版として書籍化もされているらしい。

7月某日 ウェブ版『とつとつマガジン』の「身体のエッセイ」コーナーに寄稿した「幕なしのダンス」が公開された(https://note.com/totsutotsu_dance/n/n86acac1913fc)。先月6月下旬、京都の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」にてオンラインで開催された砂連尾理さんのダンスワークショップについての文章。ダンサーの砂連尾さんと「グレイス」の高齢の入居者とのモニター越しのかかわりをみていて、ふと思いついたことを記した。書き出しは「関東では新型コロナウイルス禍に「東京五輪禍」がかさなり、身動きしにくい憂鬱なステイホームがつづく」。まったく、やれやれだぜ。

7月某日 東京西荻窪の書店・忘日舎にて、自分が主宰する読書会&トーク「やわらかくひろげる——山尾三省『アニミズムという希望』とともに」第2回を開催。詩人・山尾三省が、1999年に琉球大学で環境問題をテーマにおこなった集中講義の記録をまとめた本の読書会。僕の方から、詩人があくまで「個」の視点、「孤」の視点から自然と人間との関係を見つめていることなどを話し、出席者の感想を聞いた。ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。

7月某日 愛媛の松山へ。早朝の鎌倉方面からJRの特急「踊り子」や新幹線「こだま」を乗り継いでゆっくり西へ行くつもりが、東海道線の事故があり、あわただしくルート変更。新横浜から「のぞみ」で岡山へむかい、特急「しおかぜ」に乗り換えて瀬戸内海を渡って四国入り。鞄には、東松照明写真集『新編 太陽の鉛筆』(赤々舎)など写真集と写真論の本がぎっしりとつまっている。今回の松山行きは来年2022年2月、サウダージ・ブックスより刊行予定の宮脇慎太郎写真集の打合せをおこなうため。写真家の宮脇慎太郎、アートディレクションとデザインをお願いした大池翼さん、松山の松栄印刷所の桝田屋昭子さん、高松了吾さん、いずれも四国在住の本作りの仲間と一堂に会し、来るべき写真集の仕様や用紙について議論。夕方早めに解散。コロナ禍の中でも会わなければならない人と会わなければならない時であれば、可能な対策をとった上で会いに行く。人間はコロナ禍のみを生きているわけではなく、「人生」を生きているのだから。自分の人生から、「会わなければならない人」を抜きにすることはやはりできない。心配や不安は残るとしても。いまのところそんなふうに考えている。
翌朝は、松山駅前の宿からタクシーで松山観光港に向かい、クルーズフェリーで広島へ。瀬戸内海汽船の「シーパセオ号」に乗船。鉄人28号のようないかつい色合いと質感の船体は趣味じゃないが、座席も設備もきれいで快適だ。客は少ない。天気が良く、デッキに上がれば嘘のような青い空、青い海、青い影。ひさしぶりに、贅沢な瀬戸内旅の時間をあじわった。広島港から路面電車に乗り換えて、市内の本と器の店READAN DEATへ。買い物をしてレジへ商品を持っていくと、「去年も、Tシャツを買ってくださいましたよね」と店主の清政光博さんに言われた。そう年に1回、夏にこのお店で服を買うのが恒例になっている。購入したのは、HOLY’S 保里尚美さんの働くセーターTシャツ「a sweater」。かっこよくて一目惚れ。ほしかった植本一子さんの本『個人的な三ヶ月』も買うことができて満足。
READAN DEATでは、広島在住の画家のnakabanさんと待ち合わせをしていた。県内の福山にある本屋UNLEARNのギャラリーで「nakaban装画展」を開催しているので、一緒に訪ねることにしたのだ。これは、サウダージ・ブックスから刊行した拙著『読むことの風』の刊行記念として、装画・本文イラストに使用したnakabanさんの「コップの絵」のシリーズを展示するという企画。電車の車内でnakabanさんと近況を語り合う。コロナ禍の中で犠牲になっていることのひとつは、人間の多様なものの見方・認識ではないか、という話をした。世界を唯一のものとして世界化して押し付ける言論にはなんであっても抗いたい。本屋UNLEARNの店主の田中典晶さんが、JRの福山駅まで親切にも銀色の自動車で迎えに来てくれた。2キロをほど走って閑静な住宅地や学校の敷地を抜け、坂道を上がり眺めの良い丘の上へ。そこに立つ古い木造の洋館をリノベーションし、カフェやエステなども入る複合施設の一角にUNLEARNがある。本屋さんも展示スペースも想像以上にすてきな場所だった。自分は朝早くからの長旅のつかれもあり、やや休憩モード。木のぬくもりを感じる店内で心地よい静かな時間の流れをぼんやり感じながらおしゃべりしているうちに、あっというまに時間切れに。田中さんが本好きのお客さんと制作したというZine『本と暮らし』の創刊準備号をいただいた。

《もともと私が本屋をやろうと思ったことの理由の一つに、安心して孤独になれる場所をつくりたいということがあった。日々の身がすり減るような生活の中では、その人が「自分になる」うえで、安心して一人になれる時間というのが欠かせないはずである》

「本屋のレジに座りながら」と題したエッセイのなかで、田中さんが記す一節に深く共感した。本作りの仕事をするものとして、自分もまた、書物を通じて何よりもそうした「一人になれる時間」を届けたいと願っているからだ。帰りも、田中さんに車で福山駅まで送ってもらう。夕方の駅の構内であわただしくnakabanさんとも別れ、九州・山陽新幹線「さくら」に乗車。ゆったりとしたシートに腰を沈め、車内では植本一子さん『個人的な三ヶ月』を読み耽る。ジャンルとしては日記文学、というのだろうか。植本さんが家族とその周辺にいる人々との関わり合いの日々を記録することばは、主食のようにからだ全体にしみわたる滋味がある。ここのところ『かなわない』(タバブックス)をはじめとする植本さんの別の著作も読み返しているのだが、彼女のことばは、コロナの渦中にいるいまの自分にとって、ソウルフードならぬ「ソウルワード」となりつつある。主食が本来、うまい・まずいといった美食的な価値判断とは関係ないように、文章表現が巧みであるとかそうでないとかいうことを越えて、ことばが直接こころの糧となる。そう感じるのは、なぜだろう。新幹線が途中停車した岡山駅で、車窓越しに巨大な火の玉が燃え上がるような真っ赤な落日をみた。

連綿と散らし

高橋悠治

湿気と暑さのなかで無気力に過ごした7月も終わり、演奏はしばらくないが、作曲の予定は遅れるばかり。今までとちがうことをしようと思っても、やさしくはない。

1950年代の終わりにコンサートで、当時のゲンダイ音楽を弾くようになったのは偶然だった。武満徹や一柳慧を知ったのも、草月アートセンターで演奏しながらクセナキスやケージと会ったのも、その続きだった。今はもうおなじことはやらないし、時代も感覚も変わった。演奏技術は衰えていく。といって、当時の音楽をちがう眼(耳というべきか、それとも手の触りといったほうがよいのか)で作り直す時期はまだ来ていない気がする。いままでやってきたことの外側に新しい足場をさぐるのが先か。 

構成・構造・システム・方法ではなく、論理や精神ではなく、目標や方向でもなく、手で探りながら、すこしずつ移り、映し・写し、安定しない・止まらない・終わらない、うごき、変わり続けるには、中心を作らず、言うより聞き、言いさし・言い残し・言い直し、点でなく、線でなく、ひとひら、仮止め、ためらい、ゆらぎ、くずれ、そ れ、はぐれ、…

中途で止め、間をおいて続ける。中途だとわかるように、未完成で仮の姿と見せるのが、ひとたび置いてしまうと、むつかしい。

ひとたび同じであることなしに、どうして変わることができるのか。

虫の歩みとひらけていく空間。かすかなうごきに焦点をあわせることが、そのまわりにひろがる、何もない空間の大きさを感じるように、吊り橋を渡る次の一足を置くところを見定めるうごきが、足元の谷の深さを感じさせるのは、脈打つ時間の経過が、曇り空の深さとなるのは、どのような指先の振動か。

そうしてしばらく探りを入れたあとの、何も考えず、何にもこだわらず、何の意味づけもなく、遅すぎず速すぎず、むしろゆっくりでも速くもない、と言って一定とも言えないが、淀みも乱れも見えない、ただ過ぎてゆく流れ、いつか起こり、いつか消えて、かたちではなく、消えかける名残の響きを留める記憶の移ろいを。

2021年7月1日(木)

水牛だより

昨夜からずっと雨の一日。気温も低く、7月には似合わない今日です。

「水牛のように」を2021年7月1日号に更新しました。
初登場の下窪俊哉さん。ツイッターでの長い知り合い(?)です。一度はリアルなトークの場所でお見かけしたかもしれません。宣伝や強い主張を繰り広げることの多いツイッターで、下窪さんの投稿は彼自身の行動や考えだけが、行きつ戻りつ、書かれています。「アフリカ」というミニコミ(といっていいのかな?)を作っているのも親しい感じで、そのことについても知りたいと思い、書いてね、とお願いしました。でも、「アフリカ」について書くことを決めたのは下窪さん自身です。
自宅から歩いて2分ほどのところにスーパーマーケットがあります。チェーン店のなかでは小規模中の小規模店舗ですが、だいたいのものはここで調達できるため、通ううちに商品についてのシステムまで少しはわかるようになってきました。生鮮商品の新しいのが並んで、しかもすいているのは午後4時。消費者だって単なるバカではありません。
室さんの背中の痛いの、はやく治りますように。
「灰」はたしかに「はい」ですね、藤井さんの言葉に対する感受性をこころの底から愛でてしまいます。

オリンピックは強行されるようで、じつに憂鬱な7月です。来月も更新できますように!(八巻美恵)

『アフリカ』を続けて(1)

下窪俊哉

 2010年の春だったか、よく遊びに行っていた家で、ある小冊子を見つけた。そこは二階建ての、ちょっと変わった風貌の家で、知人の住居兼仕事場(デザイン事務所)だった。一階には古本が山ほど集められていて、よく覚えていないのだが、古本屋をやる計画があったのではないか。ある日、そこで本を見せてもらっていたら、隅っこの方に小冊子の束が見えた。あ、これがあの『水牛通信』か、と思い、何冊か手にとってみた。内容は覚えていないが、その薄さ、軽さ、モノクロ印刷の素朴な感じは印象深く覚えていて、親しみすら感じている。その時、どうして『水牛通信』の存在を知っていたのだろう。津野海太郎さんか平野甲賀さんのエッセイを読んでいたら出てきたのではなかったかと思うけれど、覚えていない。

 その頃、『アフリカ』という雑誌を始めて4年が過ぎていた。『アフリカ』は当初、続けようと思っていなかったのだが、なぜか続いてしまい、しかもその雑誌が呼んできてくれる人との出合い、仕事の流れまで出てきたので止められなくなってきていた。
 もともとは売る気もなく、「推価300円」という価格がついていた。「推価」とは、推定価格の略だ。なんて真面目に書いているのも何だか可笑しい。
 いい具合にやる気がなかったのだ。すごくなかったわけでもない。すごくあったわけでもない。
 『アフリカ』には創刊号がなくて、「2006年8月号」をいきなり出した。だいたい続ける気がないのだから、創刊も何もない。
 当時、京都で行われていた「世界小説を読む会」(翻訳小説の近刊を毎月1冊読んで集まり、お喋りをする会)で、年上の文学者から「いい書き手がいるから」と紹介され、短編小説の原稿を預かったので、「では、雑誌でも1冊つくってみますか」ということになった。読んで、ちょっと「いいな」と思った。「越境」というタイトルの小説だった。それに応えて、自分は「音のコレクション」という短編を書いた。あと縁のあった数人に声をかけたら、2人が応えてくれた。4人の作品に、短い雑記を幾つか入れて、1冊つくった。
 『アフリカ』では編集も、組版も、全て自分ひとりでやることにした。理由は簡単で、その方が楽だから。100パーセント自分だけで、というのは、しかしちょっとつまらない。と考えて、表紙のデザインは旧知の守安涼くんに頼んだ。彼は「デザイナーかもしれない」と自分で言ってしまうことのある編集者だ。わざと間違った拡大の仕方をしてガタガタになった「アフリカ」の表紙の文字は彼が考えた。
 その1冊ができて、その守安くんとビールを飲みながら、出来上がったばかりの『アフリカ』を見ていたら、「なんかおもしろいね」という話になった。
 それで魔がさしてしまって、「またやりましょう」という話になったのだろう。
 しかし「続けよう」とは考えないようにした。1冊、1冊をその時々につくる。つくりたくなくなったらいつでも止めたらいい。止めたら、次の新しい流れが見えてくるので、止めるのは得意だ。続けるのは、あまり得意ではないかもしれない。
 イン・デザインでつくるけれど、紙版印刷で、もちろんオール・モノクロ、当初の部数は100で(少ないと見るか多いと見るか)、しかもなるだけ薄い冊子にしようと思っていた。お金もなるだけかからない方が楽だからだ。
 ただ、楽したい楽したいと言っている割には、手がこんでいるような気もする。
 後づけで考えてみると、立派なもの、豪勢なもの、格式の高いものがあまり性に合わないのだ。
 簡素なものには、なぜか惹かれる。
 『アフリカ』2006年8月号を完成させた直後に、茨木市立中央図書館に併設されている富士正晴記念館を初めて訪れてみた。そこで、『VIKING』の創刊号を展示ケースの中に見た。何か、妙な感じを受けた。よく見てみる。あ、綴じられていないんだ、と気づいた。
 『VIKING』は戦地から戻ってきた富士さんが、井口浩さんや島尾敏雄さんらと共に立ち上げた同人雑誌で、創刊号は1947年10月、富士さんのエッセイ「VIKING号航海記」(『贋・海賊の歌 富士正晴評論集』収録)を確認したら、こんなふうに書かれていた。

 必要なものは何か。
 (1)原稿、これは楽だ。(2)紙、どっかで貰えばよい。(3)原紙、手持ちがある。(4)印刷インク、これは買ったかな。(5)労働力、ガリ版は井口が切った。印刷、島尾とわたしがすった。うじゃうじゃ言いながら家人に手伝わせて折る。そしてそれを重ねて綴ったかと言えば、絲が高いより手に入りにくいので、重ねたまま表紙ではさんだような気がする。表紙はわたしが木版でほって、刷った。唯、井口がガリ版切りで疲れると、彼の細君に厭味を言われたのがつらかった。

 何やら大変そうだ。そういう時代だった、といえばそれまでだろうが、戦後の若き文学者たちがせっせせっせと貧しい雑誌づくりに励んでいる様子から、2006年の夏にいた私は励ましに近いものを受け取った。それでもいいんだ! できるだけのことをやれば、何でもいいんじゃないか、本は何とかなるもんだ、と。

 それにしてもどうしてこんなことをしているんだろう? 『アフリカ』をつくっていると、いまでもたまに思う。どうして? さあ? 何なんだろう。

仙台ネイティブのつぶやき(63)友だちと眺める花

西大立目祥子

 6月は誕生月なので、遠くにいる友だちがおいしいものを送ってくれたり、しょっちゅう会う友だちからもおめでとう、とメールをもらったりする。そして、長いつきあいのゆみちゃんとは、必ず会っていっしょにごはんを食べる。出会ったのは高校生のころ。振り返ればもうそろそろ50年に近い。20代のころはお互い忙しくて一時期つきあいが途絶えたのだけれど、30代の半ばからまたときどき会って話をするようになった。
 2人とも仙台生まれ仙台育ちで、何となく家庭環境も似ているし、関心や興味も重なり合う。その上、40代はお互い病気の親をかかえ、その死も前後した。最近は、ずっと働き歳を重ねてきた者同士、私たちがんばってきたねえ、という共感もある。でも、何年たっても話し込んでいるときの感触は昔のままだ。不思議だな、人って。何か聞いたときの返し方、同調するときの反応…そういうものは変わらないのだ。そういうところに「気があう」と感じ、だからこそ、友だちでいられるのか。

 6月最後の日曜日、仙台市内の「野草園」という植物園で待ち合わせをした。この植物園のことは、「水牛通信」の2016年7月号に「森の植物園」として書いた。仙台市内の住宅地に残った丘陵地に近郊の山々に育っていた山野草を植え込み、若木を移植して開園したのは昭和29年。そこには、戦後、荒廃した里山を何とか復活させようと動いた理学者や市民の強い思いがあった。以来、背丈を伸ばす樹木を見守り、遷移していく植物の難しい管理を続け、植物の群落を育てて特徴あるエリアを整備し、時間をかけつくり上げてきた植物園だ。

 まだレジャー施設の乏しかった昭和の中ごろに子ども時代を過ごした私たち世代にとっては、家族で出かけるといえば野草園だった。おむすびを持って、季節の風景を楽しむために1年に何度も訪れた。だから、小さな池のほとり、水琴窟のある湿っぽい谷筋の道、芝生におおわれた緑地帯など、園内のあちこちに断片的な記憶が宿る。

「この芝生の上でゴロゴロしなかった?」と、広々とした芝生の上を歩きながら、ゆみちゃんが聞いてくる。「した、した」と答える。ゆるやかな凹凸のある芝生の上で横になり、体を低い方へゴロゴロ転がしていくのが楽しくて、子どもたちはシバだらけになりながら何度も芝生に寝転んだ。
 小さな池のそばで今度は私が「池でオタマジャクシ、取らなかった?」と聞く。「オタマジャクシがいたなんて知らない」と返される。私には、強い日差しの中で子どもたちがじゃぶじゃぶと池に入り、ひときわ黒い小さなオタマジャクシを追いかけては、空き缶か何かにすくっていた光景が鮮明に残っているんだけどなあ。

 この日はアジサイが満開を迎え、観察会が開かれていた。アジサイといっても、西洋アジサイのようにいくつもの花弁をつける花ではなく、つぶつぶの小さな花のまわりを4、5枚の花びらのようなガクが取り囲む山アジサイ。白に、紫に、青に、ピンクに…群落となって谷筋に続く花たちは、楚々としてどこか物憂くて美しい。実際、花びらに見えるガクは薄くて小さくて繊細。勢いを増す6月の緑を背景に、控えめな花たちがひときわ映える。「山アジサイ、いいねぇ、西洋アジサイもいいけど、こっちの方がなんかしっくりくる」といいながら花を背景に互いに写真を撮りあった。

「この小さな花、かわいいね。何?」「あ、ニワゼキショウ」
「これ何だっけ? この白いしっぽみたいなの…」「えーと、クサノオ」
 教え合いながら思う。私たち、いつのまにこんなに山野草好きになって、花の名まで知っているんだろ。さらに、ゆみちゃんが極めつけみたいなことをいう。
「すっかり花は終わっているけど、私すごく好きなんだ、この花。坐禅草。ほんとにね、お坊さんが座禅してるみたいで、カワイイ」
 へぇ!坐禅草といえば、山野草好きがあこがれる山野草の王様みたいな花だ。まぁ、渋好みになったものじゃないの。でも、それをカワイイというところがあなただよ。
「このごろ、椿、好きになったよ」と私がいうと、「椿! まだ、私にはわかんないね。まさか、茶花がいちばんなんていうんじゃないの?」と聞かれた。
 そう、私はここのところ茶花がいちばん胸に響いてくるようになった。あでやかな方から地味な方へ、目立つものから控えめなものへ、草花の好みが変わってきている。花屋の花は人に贈るのはいいけれど、じぶんの部屋に飾ろうとはあまり思わない。これは間違いなく歳をとったからだろう。
 
 じぶんの中の変化を私に重ね見るように、今度はゆみちゃんがいう。「人って歳をとると、気持ちは緑に向かうってよ。私は草花がなかったらもういられない」。彼女はコロナ禍の数年前から人混みが苦手になって地下鉄も避けるようになった。同い年の友だちの変化に、私はじぶんの老いを教えられる。こうやって、歳をとる実感を確かめ合いながら、いっしょに過ごしていくんだろうな。きっとこれからも。

 里山のような細い道をたどっていると、高いところで鳥がさえずる。
「あれ、何? 私このごろ、鳥ってかわいいなと思うようになったんだよ。だけど、鳴き声まではまだ聞き分けられない」そういうと、ゆみちゃんが「鳥はいいよ、私はもうベスト10の鳥が決まってるよ」とちょっと自慢気に返してくる。「何それ? いってみてよ」
「いちばんはオオルリだね。えーっと、あとは…いますぐにはあげられないけど、カケスも入っているよ」

 カケス?どんな鳥だっけ?
 家に帰って図鑑を広げたら、アクセントのように入った白と青の翼が目立つ、カラスの仲間だった。愛嬌のある目つきが、何ともユーモラス。ほかの鳥の鳴き真似がうまいという解説に笑ってしまう。これは、歳はとっても女子高校生ぽいところを残すあなた好みの鳥だね。
 
 翌日、園内で撮った写真が送られてきた。このところ、写真を撮ると想像以上にくたびれ果てた顔でがっくりくることが多いのだけれど、いつになくおだやかで元気そうな顔つきで写っている。私の撮影したゆみちゃんの写真をみてみると、ほぉ、これもまたアジサイを背景にいい表情で美人さんに撮れている。へぇ、緑の中を歩いたり花を眺めていい時間を過ごすと、人はこんなにもいきいきとしあわせそうな顔つきになるんだ。
 すぐに、写真を添付して返信した。「お互いよく撮れてるね。これ、いまのところ、私の遺影のベストだよ」と一文を添えて。

パレスチナの平和図書館の思い出

さとうまき

毎週湘南にある某大学で中東のことを教えている。
生徒に教えるからには事実を正確にチェックする必要がある。

「先生、今日は何の話ですか?」

「えーっと、ちょっと今まで、歴史の話とか難しかったと思うので今日は先生の体験談を話します」

ということで、家の中の段ボールをひっくり返してパレスチナ時代の写真を集めてきた。デジカメがなかった時代だから写真が束になって段ボールに入れてあったのだ。

「パレスチナの子どもたちに必要なのは教育だ! と先生は思ったわけです」

難民キャンプに行くと必ず子どもセンターみたいなところがある。そこで、子供たちに平和のイメージってどんなんだろうって絵に描いてもらった。ある男の子が、鳩の絵を描き始め オリーブの枝を加えている。そのうちのどが切られて血を流し、その男の子は、もううんざりだっていう感じでびりびりに破いてしまい、「平和なんていらない」という。
「じゃあ、平和って何なんだい?」
「それはパレスチナという国ができて、僕たちが難民じゃなくなることだ」
確かに、それは国連でも認められた権利なのに、そういった正義が通らない不条理な世界にこの子たちは生まれている。

「こういった子どもたちが、賢く平和をつかみ取ってほしいと考えて、図書館を作りました!」
 
場所は、エルサレム旧市街と、ベツレヘムの難民キャンプ、そしてイスラエルの入植地の近くのベドウィンの学校。実は、そこの学校が、イスラエルが入植地を拡大する計画があるというのでブルトーザーで壊してしまった。ひどいことをするなあ、そういう情報は、平和活動家のネットワークで流れてくるので、案内してもらって見に行ったのだ。

もともと粗末なプレハブの建物だから壊すのも簡単。ユダヤ人の平和活動家の弁護士も来ていてイスラエル軍を訴えるとかいう話をしていた。ここに毎週移動図書館で本を持っていく。僕らが通えば、イスラエル軍もそうは簡単に学校を壊したりしないだろうという目論見があった。そこで、非暴力を訴えて移動図書館をやっているというナ―フェズさんを訪ねて行って、「協力してほしいんだけど。ロバの図書館をやろうと思うんだ」

事情を話すと僕たちは意気投合して、さっそく街道でロバを貸してくれそうなベドウィンをあたった。彼らは、もちろん羊飼いではあるのだが、廃材とかを集めて売買していた。まるでそこは秘密基地のような作りをしていて、ワクワクするような場所だった。ナフェズが交渉するが、ロバ2頭で確か200ドルだった。それ以上はまけられないという。

それで、僕たちはロバに乗って本を運ぶことにした。学校の場所はワジアブヒンディと言って谷間に降りていく。ナフェズはかなり太っていたので、ロバが可愛そうだから歩いてついてくることになり、僕がロバに乗るも、ロバが動いてくれないのだ。結局子どもがロバに乗って、とっとと走り出し、僕たちは走って彼らの後を追うことになった。
「これ、なんか、イメージと違うね」
「ああ、そうだね」
ナフェズは息切れしてもうそのまま死んでしまうのかという感じだった。子どもたちは、本を読むのかどうかわからないけど、たくさん寄ってきて好きなのを持って行った。

次の週は、もうロバをやめて、ナフェズの車で何とか谷間に入っていく。車の底を擦らないようにゆっくりゆっくり進む。ロバの方が確かに早かった。子どもたちは、本当に本が大好きのようで、毎週喜んで駆け寄ってくる。ちゃんと読んでいるかどうかはわからなかったが、砂漠の退屈な学校では、刺激的だったに違いない。 

「先生にとって難民キャンプの図書館は、刺激的でした」

キャンプは政党が牛耳っていて、僕らのキャンプはPFLP系だった。子どもたちはデモに行き、石を投げて、運が悪いとイスラエルの催涙弾の攻撃や、ゴム弾で撃たれてけがをする。ある日僕は、キャンプのリーダーに提案した。
「今度の金曜日のデモに、子どもたちが、ガンジーのTシャツを着て行進するのはどうだろう。非暴力を世界にアピールするチャンスだと思う」

「それはいい考えだ」ということで急遽ガンジーの写真をTシャツ屋にもっていって、プリントしてもらった。ところが、前日に、リーダーから電話があり、「やっぱりだめだ。ハマースが文句を言ってくると面倒なことになるのでやめてくれ」ハマースは、イスラエルを認めずに徹底抗戦の構えだ。「それなら仕方がないね」せっかく作った50枚ほどのTシャツはお蔵入りになった。日本人なら別にハマースに気兼ねすることはないので、ボランティアで手伝ってくれていた日本人何人かで着て僕たちはデモに参加した。

2000年に第二次インティファーダが始まると、当時の私はUNV(国連ボランティア計画)の仕事をしていたので、国連のセキュリティに従わなければならず、いきなり避難を強いられた。国連のジェット機が迎えに来て、日本に帰国して、しばらく待機した後、パレスチナに戻り、難民キャンプに行くと、子どもたちが普段着のようにガンジーTシャツを着ている。着るものがなくなって勝手に持ち出したんだろうと思って、「そのTシャツなに? なんでそれ、着てんの?」と聞くと、
「おじさん、これガンジーだよ、ガンジー知らないの?」
レバノンに行ったときに、ガンジーとキング牧師の漫画を売っていたので、買って図書館に置いておいたのだ。彼らはそれを見て勉強したんだと思う。うれしかった。そして楽しかった。

で、調子に乗った僕は、ジョン・レノンのイマジンを子どもたちに教えた。キャンプのリーダーが、またやってきて、「宗教のない世界を想像するなんて、こりゃ、ハマースは黙っていないぜ! で、どんな曲なんだい?」
テープを聞かせてやると、「いい曲だね!」とリーダーも気にいったみたいだった。別にハマースの前で歌うわけじゃないから、問題はなかった。

「日本人としてやらなきゃならない事は何でしょう? 究極的な暴力としての核戦争のことを伝えることです」

毎年夏は、No more warというイベントをやった。広島・長崎の写真展や、丸木俊の「広島のピカ」の朗読。子どもたちが平和のダンスを作ったり。

日本人がなぜ、尊敬されているかというと、原爆が落とされて、あれだけの悲惨な経験をしても、復讐せずに、経済大国にのし上がったこと。戦争は強いものしか勝てない。そして、多くの人々を殺す。その数だけ憎しみが生まれ復讐が続く。だから、そんな戦争なんかしたくない。でも戦わないと自分たちが殺される。日本は、戦争しないで、経済大国になり、みんな幸せに生きている。そんな国に彼らはあこがれていたのだ。

広島、長崎のことを伝えるイベントをイスラエルでできないか考えていた。でも、2002年、すべては終わった。イスラエルの攻撃は激しくなり、日本とパレスチナを行き来していた私は、入国拒否されて、追放。つまりは、難民みたいなものになってしまったのだ。
「まさか? モサド? イスラエルで核兵器反対を訴えようとしていることに気づかれた?」
もはや、僕には何もできなかった。すべてを忘れることにした。そして、僕は、戦争が始まろうとしているイラクへ向かった。

「皆さんは、核兵器禁止条約を知っていますか? 日本は、核保有国が批准しない条約は意味がないとして署名を拒んでいます。でも、パレスチナはいち早くこの条約に批准しました。すごいでしょう?」

あの時の子どもたちは、とっても輝いて見えた。広島のピカの朗読、ガンジーTシャツ、イマジンの合唱、そういうのをほったらかして、パレスチナに入国できなくなった自分がとても情けなくなった。みんな、どうしているのだろうか? いつも国際社会から裏切られてテロリストのように扱われる子どもたち。みんな生きていて立派な大人になっていてほしい。

「今日の授業はこれでおしまいです。質問がなければ、終わります」

水牛的読書日記 2021年6月

アサノタカオ

「水牛的読書日記」と題したこの連載。1年間の読書のテーマやジャンルをしっかり決めて、毎月数冊の本を紹介しようと考えたのだが、気負いすぎたというか無理があったみたいだ。なぜかというと、自分は日々なんらかのテーマにしたがって系統的に本を読んでいるわけではなく、編集の仕事や個人的趣味による関心はそのときどきによってあっちに行ったりこっちに行ったりするから、読む本のジャンルもばらばら。すこし方針をかえて、そぞろ歩きの最中に気まぐれで描くスケッチのように、でも「水牛のように」という場に吹く風を意識しながら、毎月の読むことの記録を書いていこう。

6月某日 黄晳暎(ファン・ソギョン)の『たそがれ』(クオン)が刊行された。韓国文学を代表する作家による中編小説で、2019年国際ブッカー賞の候補作にも選ばれた。本作りのお手伝いをしたのだが、韓国文学の分野ではホ・ヨンソン詩集『海女たち』(新泉社)につづいて、訳者の姜信子さん、趙倫子さんとの共同作業になる。見本が鎌倉の自宅に届いた。美しい装丁と印刷。校正刷でテキストはなんども読んだのだが、まあたらしい書物のカバーや本文のページをなでたりさすったりすながら、あらためて読みかえす。
作家は1943年満州生まれ、解放後に平壌を経てソウルに移り住み、文学活動と並行して、光州事件など民主化運動の現場に身を投じた。朝鮮戦争を経験し、若き日にはベトナム戦争に従軍、のちに北朝鮮訪問後にヨーロッパへ亡命し、韓国帰国後に国家保安法違反容疑で逮捕され、5年間の獄中生活。朝鮮半島の激動の歴史を丸ごと抱えこみながら、時代の力にひとり抗い、文学界の大御所にもかかわらず過去に安住することなく、韓国社会の「いま」に真摯に向き合いつづける姿勢がすごい。
『たそがれ』の主人公のひとりは、軍事政権による開発経済の恩恵を受け、建築家として成功した初老の男性。こちらは作家のほぼ同世代と思われる。もうひとりは、急速な発展の結果として拡大した現在の格差の中で、多くをあきらめながら苦しい生活を送る、20代後半の劇作家の女性。交互に展開するふたりの語り、ふたつの世代の声のかさなりとすれ違いを通じて、「持てる者が失わなければならなかったものは何か。持たざる者がなお手放さないものは何か」を問う。
黄晳暎の自伝『囚人』全2巻(舘野晳・中野宣子訳、明石書店)。あまりの大著ゆえに編集作業中には手に取ることを控えていたのだが、満を持してこちらも読みはじめる。

6月某日 3年半ほど勤務した東京の人文社会系出版社を退職した。自由の身となったが、これからのことは未定。さて、どうしよう。

6月某日 西川勝さんのお誘いで、京都へ。「某」介護事業所で開催されている宮沢賢治の読書会に参加。コロナ禍ゆえにいちおう「某」などと自己検閲しているのだが……。関東方面からの往路の新幹線では、西川さんの著書『ためらいの看護』(岩波書店)と立岩真也さん『介助の仕事』(ちくま新書)を。介護、介助、看護など「ケア」の現場の声に関心をもつようになったのは、いまから7年ほど前、看護師で臨床哲学者の西川さんのエッセイ集『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)の編集をしたことがきっかけだ。小澤勲さんの編著『ケアってなんだろう』(医学書院)も車中の友だったが、この本を含む「シリーズ ケアをひらく」は全冊読破しようと決心しつつ、なかなか実現できていない。がんばろう。ちなみに、この日の読書会の課題作品は、賢治の「ひかりの素足」だった。
夜、現在は認知症の人と家族の会・大阪府支部の活動などに関わる西川さんと、久しぶりに近況を語り合う。一泊して翌日、午前中は鴨川のほとりのベンチで昼寝(朝寝?)をしてぼんやり過ごしたあと、開風社・待賢ブックセンターへ。店内で開催中の吉田亮人さんの写真展を鑑賞し、吉田さんの新著『しゃにむに写真家』(亜紀書房)を購入。帰路につく。

6月某日 『韓国文学ガイドブック』(Pヴァイン)が刊行され、見本が到着。黒あんずさんの監修、執筆陣は総勢15名。自分もこの本にライターとして参加し、韓国のエッセイと詩をテーマにした2編のコラムを寄稿した。近年は「ブーム」とも言われ、邦訳書も続々と刊行される韓国文学の背景にある歴史、社会をきちんと解説したうえで、また韓国の出版や書店、ドラマやK-POPなど周辺事情の話題も取り上げつつ、専門家というより読者に近い目線から作家や作品を紹介する構成で親しみやすい内容だと思う。編集の仕事で多少韓国文学に関わることはあるが、ひとりの純粋なファンとして、おすすめしたい本を紹介した。黒あんずさんの「まえがき」がすばらしい。「そう、だからこれは『私たち』の物語なのだ。これらの物語を読んだ私たちは、いつのまにか見えないバトンを手にしたのだ」。執筆陣のなかに、西荻窪の書店・忘日舎の主である伊藤幸太さんの名前があり、うれしかった。

6月某日 帰宅したうちの高校生から聞いた話。学校の同級生が、韓国の人気作家チョン・セランの小説『屋上で会いましょう』を教室で読んでいたという。我が家では自分はもちろん、K-POP(NCT)ファンのうちの高校生本人も読んでいて、よい本は次世代にもしっかり届き、広まっていくことを実感した。すんみさんの翻訳、亜紀書房の本。出版業界にいると「本が売れない」と暗い話を聞かされることが多いが、ひさしぶりに希望を感じた。

6月某日 特別養護老人ホーム・グレイスヴィルまいづるで開催されている「とつとつダンス」のワークショップに、オンラインで参加。講師でダンサーの砂連尾理さんや参加者のみなさんのお顔をひさしぶりに見ることができて、それだけでうれしい。以前、砂連尾さんの『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)の本作りのお手伝いをした縁で、「グレイス」を何度か訪問したことがあった。会社勤めをしていると平日のイベントやミーティングにはなかなか出席できなかったのだが、これは「退職」のたまものだろう。
砂連尾さんが東京から画面越しに、京都・舞鶴のお年寄りに身振り手振りを交えて語りかける。声をあげるひとあげないひと、動くひと動かないひと。なかには、終始はにかむように押し黙ったまま、でも砂連尾さんの身振り手振りをずっと真似ているおばあさんも。そんな様子を自宅PCの画面越しに見学しながら、みなさんのひとりひとりのお顔から大切な宿題をいただいた感じ。本棚から引っ張り出した戸井田道三『幕なしの思考』(伝統と現代)などをぱらぱらとめくりながら、いろいろなことを考えている。

6月某日 依頼があり、三重県津市のブックハウスひびうたへ。小田原から新幹線に乗って名古屋で下車、近鉄に乗り換えて紀伊半島の海沿いを南下し、久居へ。はじめての駅で降りると山も近い。海山のあいだなのだなあ、とひとり旅情にふける。
「ひびうた」では、ここ数年、自分が忘日舎など各地の書店で主宰しているトーク&読書会のイベント「やわらかくひろげる」を開催。いっけん難しそうに思える文学などの本を、自分自身の体験に根ざしたことばに引き寄せ、ほかの参加者の語りにも耳を傾けながら、想像力を「やわらかくひろげる」という主旨。今回の課題図書は、詩人・山尾三省の講義録『新装 アニミズムという希望』(野草社)。前半は著者とこの本について紹介し、後半は参加者のみなさんとともに三省さんの詩「土と詩」をじっくり読むワークショップをおこなった。毎回感じることだが、場の空気をほぐしながら意見を聞いてみると、ことばをめぐってじつに多様な視点や多様な解釈が飛び出しておもしろい。イベント会場には、愛読する『のどがかわいた』(岬書店)の著者、大阿久佳乃さんも来てくださり、自主制作する『パンの耳』5号をプレゼントしてもらった。所収の「散歩の話」という作品がとてもよかった。
「ひびうた」は「目の前の一人から、居場所をつくる」をテーマに、障害者福祉を軸にした事業をおこなっている。三省さんは70年代に家族とともに屋久島の一湊白川山に移住し、耕し、詩作し、祈る暮らしを続けた作家だが、彼にとっても「居場所をつくる」は切実なテーマだったはず。今回のイベントでは話し忘れたこともいくつかあるので、ここでの『アニミズムという希望』の読書会はオンラインを活用して継続的におこない、いろいろ掘り下げていきたいと思う。
ちなみに古い民家を改装した1Fがコミュニティハウス(まちライブラリー@ひびうた文庫)とコーヒーハウス。ノンカフェインコーヒーとハイカフェインコーヒーはどちらも絶品。そして2Fが本屋さん。イベント前にいただいた、伊勢屋の出前の定食がおいしく、主の親父さんがよい人だった。ごちそうさまでした。
翌日はふたたび近鉄に乗り、田中真知さん『旅立つには最高の日』(三省堂)を読みながら、のんびり奈良まで移動して市写真美術館で山内悠「惑星」展を鑑賞後、駅近くのお菓子屋「まめすず」でお茶とすもものケーキを。お店にはよい本があり、よい猫がいた。よい出会いの日々がつづく。夜、京都の定宿で休んでいると、西川勝さんから電話に着信があり、今月2回目のお誘いを受ける。

6月某日 京都の定宿を早朝にたち、大阪府堺市へ。某デイサービスで、全国各地から介護の仕事をするひとたちが一堂に会し、「自由と福祉」をテーマにした風変わりなイベントがおこなわれると聞いて参加。午前中は西川さんが「幸せについて」と題して哲学カフェを開催、午後はミュージシャンによるライブがあり、ダンサーらによるパフォーマンスがあり、宅老所のスタッフによる寸劇があり。お昼にはカレーとピザをたっぷりいただき、なかなかの濃「密」な時間。コロナ禍の自己検閲ゆえに詳しく書けないのが、くやしい。ここにあつまった介護福祉関係者は、どちらかというとアンダーグラウンドでアウトローでアナーキーで愉快な匂いがするが、本や雑誌でお名前をみかけたことのある方もいた。
会場では、A4判・12ページのZine『GST-1』を入手、帰路、大阪から東京方面へむかう最終の新幹線の車内で熟読する。著者は安田信行さん、かっこいいデザインは細川鉄平さん。ふたりともデイサービスを営み、老人介護の仕事をしている。「『ぼく』のこと」と題された一連の文章は、いずれもケアの現場でおこるさまざまな出来事のわりきれなさを淡々とつづるもので、感情がつよく揺さぶられた。読み終えて、窓の外の流れさる暗闇をじっとみつめながら、今日という日に出会ったさまざまなことばを反芻する。

むもーままめ(8)スーパーマーケット、何時に行きます?の巻

工藤あかね

わが家からほんの2~3分のところに、大型スーパーマーケットがある。調味料などが安いうえに種類が豊富だし、掘り出し物もあったりするので大変重宝している。今の住居に引越ししたばかりのころは、家の食材で何か足りなければ、ちょちょいと買いに行っていた。大変人気のあるお店でもあるので、土日ともなれば駐車場も駐輪場もいっぱい。一家総出で買い出しに来る人たちなどで、ごった返している。

コロナ禍になって、わたしは週一回で買い物を済ませるように心掛けているのだが、そのスーパーマーケットは相変わらず混雑している。特に土日祝日ともなれば、おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、子ども…と、一族郎党で来ちゃうご家族もあれば、友達同士でやってきてお酒を買い漁っているグループなど、コロナ禍とは思えないくらいノンビリ買い物をしている。時々床に買い物かごをおいて足で蹴ってレジに進んでいる人までいたりして、ぎょっとするのだけれど…。ある時とうとう「最小人数で来てください」と張り紙がされるようになった。でも、それぞれ事情があるからルールにしちゃうのは難しそう。

お店の人は大変ですよねぇ、棚のあたりで鬼ごっこしている親子がいても注意しにくいし、指を舐めてお札を取り出す方に当たっても逃げられないんだもの。昨年、初めての緊急事態宣言の頃だったか、お店のレジの方々には妙に悲壮感が漂っていた。そこで「いつもありがとうございます。こうして買い物ができるのは、あなた方のおかげです」と感謝のメモを書いて持っていって、レジでお店の方に見せたら、涙ぐまれたことがあった。やっぱり、つらかったのだな。

私は目当てのものだけバババババーーっとカゴに入れて会計を済ませたら、急いで帰宅し全身シャワーを浴びている。ちょっと気にしすぎかなぁと思わなくもないけれど、自分が感染するのも嫌だし、仕事がらお会いする方々に何かあっては本当に困るので、できる限りの予防はしているつもりだ。とはいえ、隙間時間にササッと買い物しておきたい時もあるので、何時ごろにお店に行くのが良いのか、いつも最適解を探っている。

開店直後は、意外と混雑している。とくに高齢者が多い、お買い物ゴールデンタイムである。彼らに割り込んで慌ただしく買い物に行くのは、なんだか申し訳ない感じがするので、朝はなるべく避ける。

10時を過ぎると主婦層が増える。買い物の量がある方々なので、レジの進みは遅い。正午前はお弁当を買いに来る方が並ぶが、レジの進みは早い。逆に、自分の買い物の多い時に行くと、お弁当とお茶程度の会計をしたい人をお待たせせねばならない。なんとなく申し訳ないので避ける。

夕方は再び主婦、それから会社員の方々が増えてくる。一人暮らしのような方も見かける。
閉店前は、会社員やお酒を買い足しに来る方などで、ごった返しているから、避けたほうがよさそう。店員さんたちも、早く帰りたそうな雰囲気で店じまいを始めているし。

となると、午後の2時~3時頃が一番落ち着いているような感覚がある。私もなるべくこの時間に買い物に行きたいのだけれど、じつは都合をつけるのが一番むつかしい時間帯かもしれない。さて、今後どうしようかな、ふむ…。

あくまでもわが家から近いスーパーマーケットでの実感なので、他の地域では適用されないかもしれない。それに、買い物一つでこんなに作戦を練らなければならないというのも、なんだか切ない。けれど感染リスクを少しでも減らしたいみなさん、あとしばらく一緒にがんばりましょう。

手を振る陸上選手

植松眞人

 その男は見るからに陸上選手だった。昨今のアスリートのように機能性の高い身体に貼りつくようなウェアではなく、一九六〇年代のオリンピック出場選手のような木綿製の体操着姿だった。白い半袖のシャツと白い短パンはどちらもゆったりとしていて、心地よさそうだった。
 男を見てすぐに陸上選手だと思ったのは、その姿もあるが足の太ももの筋肉がとても美しかったからだ。細すぎず太すぎず、いかにも走るために付いた筋肉という感じがした。そんな美しい太ももを露わにしながら、その筋肉の持つ力の一割も使わずに男は立っていた。陸上選手には似つかわしくない朝市の真ん中に立っていた。
 この朝市は昔からの歴史ある朝市ではなく、地方都市の町おこしのために都心の代理店が企画した『朝マルシェ』と名付けられた朝市だった。最初のうちはカフェを営む若い夫婦がスコーンを焼いて販売したり、大きな声で挨拶をする元気な女がアクセサリーを売ったりしていたのだが、かけ声ばかりでさほど人が集まらず、集まってもそれほど物を買わないとわかってからは潮が引くように彼らは去っていった。しかし、自治体が絡んで始めた以上、そう簡単にやめるわけにもいかず、周辺の市場で商売をしている店主に声をかけたところ、年寄り連中が駆り出され、結果、各地でいまも活況を呈している朝市のように、常日頃から必要な食品などを扱う露店が多くなり、逆に客も増えた。
 しかし、そんな朝市に露店を出している女たち、主に年配の女性たちだが、彼女たちは男をまったく気にせずに商売を続けていた。男もまるで自分の衣服を気にせず、一時間後にはスタートの号砲が鳴る競技場を下見するように、朝市の中を歩いていた。
 客はもちろん競技場に集まる客ではなく、朝市に集まる客たちで、地元の住人もいれば、少し遠くから休日の遠足のようにやってくる家族連れもいた。彼らは男のことはまったく気にせずに女たちを冷やかしながら、必要なものを買ったり、時に必要のないものを笑顔で買ったりした。
 母親に手を引かれていたまだ三歳くらいの女の子が露店の小さなカレイの一夜干しに気を惹かれて立ち止まった。母親はしばらく一緒にその露店の前に立っていたが、女の子がいつまで経っても興味を失わず、ついに座り込んでしまったので、勝手にあっちこっち行っちゃだめよ、という声を残して少し先の露店に向かった。じっとカレイを見ている女の子に向かって女が言った。
「カレイが好きなの?」
 聞かれた女の子は、目の前のものがカレイという名前なのだということに初めて気付き答えられずにいた。
「カレイが好きなの?」
 と女がもう一度聞き直すと、女の子は元気に「はい」と答えた。
 その返事に、女は重ねて聞いた。
「食べるのが好き? 見るのが好き?」
 女の子は答えられなかったが懸命に考えていた。しかし、考えても考えても答えがわからなかった。食べるのも好きだが、その姿形に惹かれている自分もいる。この場合、どう答えればいいのだろう。迷っているうちに、だんだんと目の前の女から攻められている気がした。そして、早くここから立ち去ってしまいたいと思うのだが、そんなことをすれば、目の前の女が何をするかわからない、という思いが強くなり余計に身動きできなくなった。困ってしまった女の子は、母親を探したが人出が知らないうちに増していて、しゃがみ込んだままの位置からは探せなかった。その代わりにまっすぐに目に入ったのが陸上選手の男だった。
 女の子から視線を受けて、男は迷いなく女の子がしゃがんでいる露店へと歩み寄った。その歩みは大半の客たちの動線に逆らうものだったのだが、男は誰にもぶつからず、誰の進路も一瞬でも妨害しないものだった。その迅速さと滑らかさは、女の子にとっては最も好ましいものだったので、女の子はすっかり安心して男のそばに立つのだった。
 男は背が少し高く、周りに年配者が多かったせいで周囲から彼を見つけることがたやすかった。女の子の母親はすぐに男を見て、その足元に立つ我が娘を見つけて走り寄ってきた。
「ありがとうございます」
 と母親は礼を言うのだが、男には状況が掴めなかった。しかし、礼を言われているのだから、いいことをしたのかも知れないと笑顔を浮かべた。
 女の子はもう少し男と一緒にいたかったのだが、一緒にいて何をすればいいのかわからなかったので、あまり男に興味がないふりをしていた。すると、母親が女の子の手を引いて去ろうとした。女の子もそれに従った。しかし、少し後ろ髪を引かれる思いがしたので、時々、男を振り返った。男は白い体操着を着たままこちらに手を振っていた。
 この男が本当に陸上選手なのかどうか。そして、なんのために朝市に現れたのか。数年後に女の子は何度も彼のことを思い出したのだが、彼が何者なのかはよくわからなかった。けれど、振り返ったときに手を振っていたぎこちない笑顔だけは忘れることができず、思春期を過ぎる頃まで彼女を悩ませ続けた。(了)

録音裏話

冨岡三智

前回、ジャワでの伝統「舞踊作品の撮影」について書いたので、今回は私自身が出資してジャワで行った録音の経験について書いてみたい。

私が録音したのは計6回で、うち3回が宮廷舞踊曲であるスリンピやブドヨの録音、2回が自分の舞踊作品のために委嘱した曲の録音、1回が他の人が主催した公演で復曲された曲や創作された曲の録音である。いずれも留学先の芸術大学の録音スタッフに手掛けてもらった。

●雨除け

録音場所は芸大のスタジオで4回、音楽科の教室が1回だが、芸大元学長のスパンガ氏の自宅にあるプンドポで録音したことも1回ある。プンドポとはジャワの伝統的な儀礼用空間で、王宮や貴族の邸宅には必ず設けられている。壁がなく柱で支えられたホールのような空間で、儀礼につきものであるガムラン楽器はこういう場所に置かれている。

スパンガ氏宅での録音については、実は2017年8月号の水牛寄稿記事「ジャワの雨除け、雨乞い」で書いたことがある。この録音は私の宮廷舞踊『スリンピ・ゴンドクスモ』の公演プロジェクトの一環だった。この演奏にはスパンガ氏宅で行われているガムラン練習に参加しているメンバーも多く参加していたからここでの録音となったのだが、それだけでなくプンドポの音響効果が素晴らしいからでもある。スパンガ氏宅は郊外の閑静な住宅地にあり、周囲は水田に囲まれている。とはいえプンドポには壁がないから、夜間に帰宅する車やバイクが家の前の道を通ると、その音が録音に入って困る…というのでその対策で警備係をつけ、家の前を通る道を封鎖して迂回してもらうようにした。実はそれ以上に懸念したのは雨(録音は本格的な雨季に入った11月)で、その対策で霊力のある人に来てもらって雨除けをした…というので、前述のエッセイを書いた次第。インドネシアでは大きな行事の前にこういう霊的な雨除け対策をするというのはわりとよくあることだと思うが、私が録音のために雨除けをしたのはこれ1回だけである。
 
●スリンピ、ブドヨの録音

スリンピやブドヨの曲は宮廷舞踊曲だから、その権威を示すように多くの人手を必要とする(それだけパートが多い)。私が録音したときの記録を見ると、楽器奏者が約18人、女性の歌い手と男性の歌い手がそれぞれ約4人、クプラ(舞踊家に合図を出す楽器)奏者が1人、計約27人となっている。もっとも、私が芸大のグループと一緒に日本でスリンピ公演した時は楽器奏者と歌い手を合わせて10人。予算の限度があればこんなものである。

この30人近くの人数で40分~1時間近くかかる曲を一発録りをしたのだが、この話をジャカルタの人にしたところ、人件費がものすごくかかると驚かれてしまった。インドネシアでは人件費の地方格差が大きい。2021年の最低賃金で比較してみても、私が留学していたスラカルタ市で月給2,013,810ルピア、一方ジャカルタでは4,276,349ルピアと倍の開きがある。つまり、同じ予算ならジャカルタでは13人くらいしか雇えないことになり、交通費がかかることも考えるとその人数はもっと減る。そのジャカルタの人も宮廷舞踊曲の録音経験があるが、演奏者を5人程度雇い、録音したものに未演奏パートをかぶせて演奏…を何度か繰り返してフル編成に仕立てたという。その人は半分の短縮バージョンで録音しているから、1曲の録音に要するスタジオ経費は私と似たようなものだろう。そのやり方なら人件費は抑えられるうえに、うまくいかなかったパートの録り直しも楽で、演奏技術的にはより間違いの少ない録音ができるのかもしれない。だが、全員で演奏するからこそ生じる音楽の勢いや、息が合った時の醍醐味は薄れるのではないかなあ…という気がしている。宮廷舞踊曲の録音では私もスタジオで踊っているので、特にそう感じるのだ。

私の初めての録音では、実はスリンピ完全版3曲を一気に録音した。今ならこんな鬼のようなリクエストはしない(笑)。これら3曲はスリンピの中でも短くて1曲40分弱だが、音楽はメドレーのように全部つながっている。さらに入退場用の曲がそれぞれ4~5分ずつある。この録音時、3曲目の終わりでこちらの指示以上にテンポが上がってしまった。スリンピでは開始時のテンポ(少し早め)に戻って終わるというのが普通のこととはいえ、いつもより速い。たぶん皆、これで最後、あと少しで終わる!というハイな気分で一致して疾走してしまったのだろう。音楽の勢いみたいなものを強く感じた瞬間だった。と同時に、終盤でテンポが速くなるのは、演出というより演奏者の自然の摂理なのかも…と感じたことだった。

●委嘱作品の録音

上の宮廷舞踊作品とは違って、自分の舞踊作品のために委嘱した2つの楽曲についてはどちらも一発録りではなく、部分的に録音してつなげている。どちらもいくつかの曲から構成された20分余りの作品だ。作曲者も演奏に参加し、演出しながら録音していくというのも伝統曲とは違うところである。

デデッ・ワハユディ氏に委嘱したガムラン曲『陰陽ON-YO』(2002)は、複数の伝統曲と伝統的な手法でデデッ氏が新たに作曲した曲をつないで23分の曲になっている。曲の大部分は5~6人の小編成で演奏するようになっているのだが、最後の6分半は宮廷舞踊曲の演出でフル編成の演奏に斉唱をつけているため、ここは上のジャカルタ方式で録音して、大勢でやっているように見せている。歌も同じ人たちが何度か繰り返し歌って録音したものを重ねている。この方式で良かったと思うのはコロトミー楽器(曲の節目にだけ鳴らすドラなどの楽器)の音入れだ。たまにしか鳴らないが、曲の雰囲気を作るにはそのタイミングだとか音色だとか音量だとかが決定的に重要で、何度か録り直しがあったように記憶している。

三峯神社

笠井瑞丈

昔防水工事のアルバイトをしている時
コンクリート工場の工事の為
初めて訪れた街秩父
こんな素晴らしい街が二時間くらい
離れたところにあるなんて

それ以来時間があればふらっと訪れる街

そんな秩父の街にこの前
なおかさんと父母を連れて行ってきました

秩父は1905年に絶滅したとされる
ニホンオオカミがいまだに目撃されるという場所です
ニホンオオカミは鹿や猪から農作物を守るということから
農家の人達からはカミサマとしてずっと崇められていた
オオカミのカミは神からきているらしい
しかし狂犬病の蔓延で人間を襲うようになり
次第次第に駆除される対象に変わってしまった
その結果絶滅に追いやられたと言う話を聞きました
これは本当の話かわかりませんが
1905年に絶滅したと言うことは事実である

秩父の街に着き
前々から気になっていた
外観が昭和レトロの
定食屋さんに入る

そこでたまたま手に取った雑誌に
ニホンオオカミの記事を見つける
そしてオオカミを守護神としている
三峯神社という神社が秩父の山の中にあるという情報を見つける

『これは行かねばと』

定食屋を出て車を2時間
山の中を走らせ
神社に向かいました
大きな駐車場に車を停め
徒歩で少し山を登り本殿まで歩く

境内入り口には三ツ鳥居が建てらている
この三ツ鳥居はとても珍しいものらしい

この日は辺りが霧が覆われていて
本殿までの道のりがとても神秘的でした
今にもどこかに天狗が現れて踊りだす雰囲気
そして狛犬代わりに神社各所には
狼の像が鎮座していました

そして調べたら

主祭神

いざなぎのみこと
いざなみのみこと

来月久しぶりにソロダンスを行います
そのテーマが
いざなぎのみこと
いざなみのみこと
これは偶然ですがきっと
何かここに魅きつけられたと感じました

ここに来るべきして今日ここに来たのだ

参拝後神社のお土産やさんに入る
そこに入りパッと目についたのが

有精卵と書かれた

6個入れのパックが売られていました
これは買わなければと1パック購入

自宅に帰り購入した卵を
ゴマちゃんとマギちゃんの前に置いてみた
二人は目の前の卵をすぐにクチバシをうまく使い
自分のお腹の中にしまい込みました

その瞬間二人の顔つきが変わったように見えた

それから抱卵生活が始まる
二週間後
初めて検卵をしてみました

卵の中にヒヨコの影がくっきりと現れ
はっきりと中で動いているのがわかりました

これは三峯神社から続く神秘だと確信しました
そして必ずこの卵は孵化すると信じました

ゴマちゃんとマギちゃんは交代交代で
どちらかが食べているときは
どちらかが卵を温めていました

三週間一日一食でずっと卵を温め続けてくれました
そして二人がお母さんになるのを本当に楽しみにしていました

しかし予定日が過ぎ
そしてまた1日が過ぎ
そしてまた1日が過ぎ

結局卵は孵れことはありませんでした
検卵の結果
もう死んでしまっていました
卵の中から出してあげました

胎児の形をしたヒヨコ
クチバシも眼も羽も
あと出てくるだけだった

庭に埋め
弔い上げました

結局産まれてくることは無かったけど
確実にそこに生命は育っていました

二人のカラダの体温が熱となり
一つの生命を生み出したのです

こんな神秘的な時間に立ち会わせてくれた
ゴマちゃんとマギちゃんにありがとうと言いたい

こんな小さな二人から
生命とは何かということを
また改めて考えさせられました

これは三峯神社の不思議な力の働きだったのだろう

そんな
不思議な6月
そして
明日から7月

万華鏡物語(12) 何もかもが

長谷部千彩

 「何もかもが嫌になっちゃうことってありませんか」 
 そう尋ねると、「あります」とMさんは力強く言った。
 隣に座ったYさんも「僕もありますよ」と続ける。
 その問いに「ありません」と答えたひとに、私は会ったことがない。

 打ち合わせを終え、ふたりと別れた私は、いつもよりも少し重いトートバッグを肩にかけ、品川駅へ向かった。
 スマートフォンをかざし、珈琲の入った紙カップを片手に改札を抜ける。いまどき、平日午後ということもあって新幹線ホームはがらがらだ。乗り込んだ車両にも、客は六人しかいない。みなひとり。無言で出発を待っている。
 閉所恐怖症の私が選ぶのは、いつも出口に一番近い通路側の席。けれど、今日は窓際に陣取る。
 シートを倒して足を伸ばし、窓の外に目をやると、列車が静かに滑り出した。ぐんぐん、ぐんぐん、スピードをあげていく。新幹線の車窓から眺める景色が好きだ。振り切るように、すべてが後方へ流れ去っていく。

 思い詰めるほどの悩みはない。食べることができる。眠ることができる。働くことができる。家族がいて、友人がいて、仕事仲間がいて、深い孤独に苛まれることもない。今日という日において言えば、私は恵まれた状況で生きている。
 なのに、何もかもが嫌になってしまう。ちょっとしたきっかけはあるにせよ、原因というほど大きなものはない。たぶん、それは気分的なもの。いつも突然やってくる。ある日、気づくと、植木鉢の隅に小さな葉をひょっこり覗かせている雑草みたいなもの。順調に廻っているからこそ鳴る軋み。
 そんなとき、私は日常から消える。明日、明日でなければ明後日、どこかへ行こう、と考える。できれば、知り合いのいない場所へ。そう、ひとりで。

 ローカル線に乗り換える。時刻表を見ると、どうやらこの路線は、一時間に一、二本しか電車が走らないらしい。下校時刻なのだろうか、高校生が数人、ホームではしゃぐこともなく、電車をぼんやり待っている。空いたベンチを見つけて腰掛けると、立ち食い蕎麦のスタンドから漂う醤油の匂いが。店の外壁に掲示されたメニュー。名物は、桜えびと生海苔とわさびが載った蕎麦らしい。確かにその取り合わせは美味しそうだ。時間に余裕があれば、食べてみたかった。

 天井に扇風機のついた古い車両に揺られ、長いトンネルをふたつ抜ける。初めて降り立つその駅は、小さな無人駅だった。年季が入った木造建築が、都心に暮らす私の目には物珍しい。時間的には東京からそれほど遠くないのに、こんな鄙(ひな)びた駅がまだ存在するとは。
 駅舎を出ると小さな階段があった。手すりの脇に白い紫陽花が咲いている。傘をさし、とんとんとんと降りていくと、広場とはとても呼べない、車をなんとかUターンさせられる程度のスペースがあり、白いワゴン車が私の到着を待っていた。
 車一台通れるだけの道幅の坂を下り、海沿いを少し走って、また急勾配の坂を上る。海が見下ろせる部屋という条件で探した、山面に建つ宿。あいにくの天気だけれど、それもまた良し。
 運転席の男性が私に声をかける。
 「明日は何時にお発ちですか」
 「まだ帰りの電車を調べていないので、送っていただきたい時間を後でお伝えしますね」と答えておく。
 明日の十五時には、日比谷で仕事をしている私。昨日も今日もずっと東京にいたような顔をして。「何もかもが嫌になった」だなんて、思ったことすらないような顔をして。

 高校生の頃、安部公房の小説をよく読んだ。都市からふっと消えてしまう男の話が好きだった。大人になるとそんなことを考えるようになるのだろうか。そもそも、そんなことが実行できるものだろうか。そしてそれは、奇想天外な話なのか、それともリアリティのある話なのか。
 子供の私にはわからなかった。でも、大人になるとわかる。逃げ出さねばならないことなどなくても、時々ふっと消えたくなる。消えることも、また可能だ。それは、煙草をくわえた三十分かもしれないし、私のように一晩かもしれない。そうでなければ、何日間か、何年間かの計画された旅かもしれない。消えて、消えた後、大抵の大人は戻ってくる。そして、何食わぬ顔をして小説にならぬ人生を続けるのだ。

背中が痛い(晩年通信 22)

室謙二

 朝起きたら背中が痛かった。急にである。
 右の肋骨の一番下の右の方。
 だけど、どこが痛いのか、自分でもうまく特定できない。
 触っても痛いところがない。体の中の方が痛いのだ。
 筋肉の痛みというより、神経の痛みのように思える。
 どうなったのだろう?

 すごく痛い。立ってられない。椅子に座るともっと痛い。横になってもまだ痛い。
 それで痛い痛いというと、妻がいろいろと質問してくる。彼女は出産を助ける専門看護婦で、と言っても実際は大学で教えているだけだが、男の背中のことなどわからない。
 息子の一人は、緊急治療室の医者で、急に背中が痛くなったのは緊急だと思うが、決まった手続きの質問をしてから、「緊急」でも心臓とか脳とか他の内臓の問題と違って深刻ではないと分かると興味を失う。それで、自分の勤めているKaiser病院に行ったら、と言うだけ。うーん、家族に見捨てられてしまった。そんな感じだ。
 結局、Kaiser病院には女房に連れられて二度行った。主治医にも会い、レントゲン検査も、全身の磁気イメージ検査も、尿の検査も血液検査もやったけど、いずれも問題なし。
 問題はないかもしれないが、背中はあいかわらず痛い。イタイーと手で押さえて唸りながら横になっていても、深刻じゃないそうよ、かわいそうね。と言う感じ。でもクスリはもらった。
 ところがもらったクスリは、麻薬で副作用で目眩もするし、吐き気もする。それで変えてもらった。次のクスリもやっぱり麻薬の一種で、4時間おきに(夜中もアラームで起きて正確に)のめば、なんとか痛くても耐えられるようになった。でもそんなの嫌だから、もっと普通の麻薬でない痛み止めに変えてもらいたい。ある程度痛くても、いちおう日常生活みたいなことができればいいから。
 だけどいつものように、本も読めない。料理なんかはできないよ。ソファーにゴロンと横になる。インターネットを見て時間を過ごす。まあソファー大の大きな猫みたいなものだ。週末の家族の集まりがあり、美味しいランチが持ち込まれても、横になってそれを見ているだけだ。
 
 しかし私が横になっている間に、何人かの専門医が検査の結果を検討して、その一人が磁気イメージ写真で、背骨の十番だか十一番で神経が刺激されているところを見つけた。ビデオ会議でこれを治療しましょう。と言うのだが、医療用語と医者の英語がわからない。だから女房と息子に任せてある。
 イタイ、イタイ、とあまり言うと、大きな男が、それも老人でいろいろと経験もあるのでしょう、黙っていなさい。みたいな目で見られる。(ような気がする。)
 ただ我慢していて、こんな痛みより何倍も何倍もイタイ経験もあったことを思い出した。あの痛さに比べたらこんなもの何ともないぞ、と決意して頑張っている。だけど今回のは、神経の痛みで、やな感じなんだ。。

  痛みで息ができないこともあった

 40年以上前の、ヤケドをして皮膚移植をした後の治療の痛みは、かなりすごかった。今でもそのあとが、右手にケロイドとして残っている。
 火傷しても皮膚移植の前はそんなに痛くなかったのに、移植後の治療が痛かった。毎日ガーゼを変えてクスリを付け直すのだけど、うーんすごい。
 イスの上で半分に折れ曲がって、息を止めて耐えている。横に付き添った女房が(別れた前の女房だけど)、「ケンジ、呼吸をしなさい、しないと死んじゃうよ」(そんなことはないけど)と言う。呼吸をする暇などない。ひたすら耐える。
 すると医者が看護婦に「ナントカなんとかモルヒネ。ラッシュ」とか言います。モルヒネは普通の治療室には用意していないらしい。それで看護婦がどこかに飛んでいって、手続きをしてから持ってくる。毎日そうなんだから、事前に用意していればいいのに。とイタイイタイと唸りながら、恨むのです。
 あの時の主治医はジョンソンというアメリカ人おじさんで、荻窪の衛生病院というキリスト教の病院で(それも新興宗教キリスト教』、日本に来る前はベトナムで治療していたとか。ベトナム戦争の兵士の傷に比べたらたら大したことはない。大の男がなんだ、という顔で痛いことに同情なんかないみたいだ。
 数分でモルヒネが届いて、注射をする。そうすると急いで病院を出てタクシーに乗って自宅に帰らないといけない。急いでください、と看護婦が言うのが、最初はなぜだかわからなかった。タクシーの中に担ぎ込まれてわかった。モルヒネで体が動かないなるのだ。
 自宅に着くでしょ。(病院からすぐのところに住んでいた。)そうなると自分ではタクシーから出て自宅に入れない。運転手と女房が支えて、玄関まで運ぶ。私は玄関の木の床に倒れ込んで、そこから先、ベットまで移動することなどできない。そこで毛布をかぶって何時間かじっとしています。モルヒネが好きな人がたくさんいるけど、私は嫌いだな。あんな状態よりノーマルの方がいい。マリファナ、コカインも特別に好きではない。普通の方がいい。
 あのときの痛みに比べれば、今回のは確かにましだ。だけどヤケドは45年も前で、私も若かった。今は老人です。痛みもつらい。ところが妻は、痛みに耐えるのは、死ぬ時の練習だと思いなさい。だとさ。親切な教えでありがたい。
 痛いので毎日の座禅瞑想は中止している。ブッダは何て言うか。痛くてもやりなさいかなあ。多分そうだろう。

  もっとモルヒネを

 今回もモルヒネから作るコデインを出してくれたのだけど、それがあまり効きません。飲み薬で、4時間おきに飲むのだが、ナントカ生きていることができる程度に効く。一体あれは本当の麻薬のなの?ちゃんとしたクスリをくれよ。もう中毒になってもなんでもいいのだから。と思うが、老人には量は用心して少なくしているのか。でもクスリのせいで便秘になる。その便秘をなおすクスリをまた飲む。
 30年ぐらい前、私の親父は90歳で入院中に肺がんが見つかった。痛い痛いと言っている。ところが医者は強い痛みどめを出さない。看護婦がくれるクスリは弱いのです。それで姉さんと一緒に病院の廊下を歩いている主治医を見つけて、親父が痛がっているので、強い痛み止めを、麻薬でもなんでも出してくださいと言う。いやMuro先生(大学の教師だと知っているのでセンセイなどと患者を呼んでいる)はまだ元気です。強い痛み止めの麻薬を使ったら、そのクスリで死んでしまいますよ。と私たちを振り切って歩き出そうとする。
 それで姉さんと私は、両側から主治医の両手を握って、当人は死んでもいいという覚悟のある人です、痛くてかろうじて生きるより、強い痛み止めで死んでも当人はいいと思います。どんどんと強いクスリを出して中毒になったっていいでしょ。すでに肺がんは末期なのですから。と詰め寄った。
 あれは30年ぐらい前で、あの頃は患者が医者に治療に関して文句を言ったりしなかったかもしれない。私は、患者が医者にモノを言うアメリカに住んでいたし、姉さんもはっきりとモノを言う人だから、「死んだっていいんだから」と言ったのだけど、権威主義の東大医学部出身の医者は、そういう患者がまだいない時代だったのか驚いていた。今は知らない。
 それでお父さん、これから私の治療がやってくるらしいよ。
 背骨に注射針を差し込む治療もあるみたい。
 何もしないで、ただ時間がたって治ることを待つこともあり。
 50パーセントの人が二、三ヶ月で治ります。
 手術の必要は今のところはありませんよ、だってさ。ありがとう。

 痛いので晩年通信は一回休んだ。
 そしてこの文章は、MacBook Airを高いテーブルの上に置いて、立ったまま数行書き、背中が痛くならないように背を伸ばして少し室内を歩いて、また高いテーブルに戻ってMacで書く、というように書きました。
 コデインのおかげで痛みはマシだが、コデインのおかげで頭がよくないので、どんな文章になっているのかわからない。もっとも第二次世界大戦後に、詩人金子光晴はコデイン中毒だったらしいが(そう自伝に書いている)、それでもいい詩を書いている。

 突然に、こんなに痛いことが起こるとは思わなかった。
 どうして?
 みんなは老化でしょ、と簡単に言う。
 そうだ、私たちは老人なんだ。
 若いころは、自分が老人になることなんか想像していなかった。
 鶴見俊輔さんは、友人はみんな死んだ。私だけ生き残った、愉快愉快と言っていた。
 私の友人も、ずいぶん死んだね。私は生き残っている。
 だけど痛いのはいやだ。
 

しもた屋之噺(233)

杉山洋一

感染状況が安定しているロンバルディア州は今週から屋外のマスク着用義務が廃止されました。そんな中、スカラ座もミラノのさまざまな街角での小中規模の公演を企画しています。オーケストラに限らず、バレエや合唱、弦楽合奏などもあります。市立音楽院校舎のシモネッタ館には、スカラ座女声合唱団が訪れます。ミラノの公団住宅の中庭などでは、パイプ椅子を並べて小規模の屋外映画館を作って、毎晩映画を上映しています。いきなりCovid以前の社会生活には戻れないのは自覚しているからこそ、少しでも生活に潤いを取戻すべく、皆が知恵を絞っているのでしょう。昨年のように、夏が過ぎて新しい感染が広がらないことを、誰もが切に願っています。
 
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6月某日 三軒茶屋自宅
日本歌曲協会での沢井さんの「六段」を拝見した。筝から独りでに音が湧いて来るようで、傍らに佇む沢井さんの姿に色即是空をおもう。包み込む空間全体は、虚無でありながら、世界の総体でもある。最後に向かって沢井さんの身体が熱を帯びてゆき、そこにじんわり色が浮び上がる。
町田の両親はファイザーワクチン1回目接種終了。父は全く問題なく、母は多少接種した腕が痛いそうだが、危険な副反応もなく安堵。
 
6月某日 三軒茶屋自宅
朝3時起床。5時過ぎに世田谷観音まで散歩するまで、間宮先生の楽譜を開く。高校に入ったばかりのころ、同門の先輩方が受けていた間宮先生の室内楽レッスンを、譜めくりしながら聴講していた。バルトークの「2台ピアノと打楽器のソナタ」が課題で、先生が時々さらりと弾いて聴かせてくださるピアノが素晴らしかった。少し乾いた、飄々としながら深く穿つ音に、胸が一杯になった。あのピアノの音だ、と目の前のページから初々しい当時の自分が語りかける。バルトークを通して、ドナトーニの質感とも通じるものがある。
家人はミラノでプレトニョフを聴き、楽譜から瞬間的に音楽が気化する様だ、と興奮冷めやらない。
 
6月某日 三軒茶屋自宅
ドナトーニの誕生日だったので、次男のレナートと便りを交わす。なかなかヴェローナの墓地に出かけられなくて、と書くと、生前フランコは、ヴェローナ記念墓地の「Ingenio Claris 誉れある偉人」神殿に埋葬されることだけ切望していたけれど、それ以外は何も興味なかったから気にしなくていい、と返事が届く。
現在、ドナトーニの亡骸は記念墓地のずっと奥にある、味気ない集合住宅のような区画に眠っていて、Ingenio Clarisの石碑には、フランコ・ドナトーニの名前だけが刻み込まれている。
妻のスージーの遺灰は故郷アイルランドの海に、長男ロベルトの遺灰はアイルランドの私有庭園に撒かれたように、フランコの遺灰は長年教鞭を取った、シエナのキジアーナ音楽院の古井戸に撒きたかったけれど、法律に抵触するので実現できなかった。
長男ロベルトより前に、マルコという赤ん坊が生まれた。マルコは心臓の欠陥をもって生まれたので数時間しか生きられず、洗礼すら受けられなかった。そのマルコも、ヴェローナ記念墓地に埋葬されていたが、死後25年経ってドナトーニはマルコの墓地契約更新をしなかった。そこにマルコはいないと確信したのだろう。親父らしいだろ、とレナートは書いた。このレナートという名前も、「再び生まれたre-nato」という、マルコの生れ変わりを意味する。マルコに捧げられた「最後の夜」をこの秋演奏するとき、自分は何を思うのか。
 
6月某日 三軒茶屋自宅
西村先生「華開世界」。楽譜を眺めていると、曼荼羅を描くにあたって、先ず幾何学的に空間を区切り、それぞれ順次内容を埋めてゆく姿を想起する。
その曼荼羅の客観的空間配置を描くべきか、そこに描かれる仏教の世界観を表現すべきか、曼荼羅を描く作者の心情を表出すべきか、曼荼羅に香る官能的な色彩感を立上らせるべきか、それらをどのように選択すべきかは悩ましい。
 
6月某日 三軒茶屋自宅
17時から24時までオンライン試験。イタリア時間で朝10時から17時まで。イタリアの昼食時間に、スーパーで慌ただしく買ってきた弁当で夕食にする。東京にいながら、イタリアの同僚とイタリアの学生の試験をするのは不思議な感覚。夕焼け頃に試験を始めるのも初めての経験で、終盤は意識が朦朧としていた。時々面白がって、学生に今こちらは東京だと話すと、一様に驚いていた。
 
6月某日 三軒茶屋自宅
朝5時に世田谷観音に出向くと、読経を初めから終わりまで通して聴けたので、何だか得をしたような有難い気分。早三拍子で大太鼓を打ちつつ、般若波羅蜜多と経文が読まれるのを聴いていると、悠治さんの「般若波羅蜜多」が折重なって聴こえてくるようだ。読経のあいだ手を併せていると、掌には気のようなものが溜まって、すっかり温かくなった。
今日、息子はミラノでイタリア中学卒業資格試験を受けたそうだ。東京の新感染者数はわずかに増え始めているが、日本政府は緊急事態宣言の解除を決定した。ロンバルディア州はホワイトゾーンになったそうで、何だか信じられない心地。
 
6月某日 三軒茶屋自宅
昨日はN響との最初のリハーサル。和気あいあいとした愉快な練習は、コンサートマスター、白井さんの存在が大きい。深謝。篠崎門下の白井篤さんとも初めてご挨拶ができて、ちょっと感激。西村先生も細川さんも大変満足していらして、演奏はすっかり出来上がっているから、指揮者は殆ど何もすることがない。ちょっと方向性を伝えると、そちらに向かって一気呵成にエネルギーが発散してゆき、疲れないかしらとこちらが心配になる。終了後、渋谷トップでサーディン・トーストとグァテマラ。グァテマラは今まであまり嗜んでこなかったが、こんなに美味なのになぜだろう。習慣とは妙なものだ。
 
6月某日 三軒茶屋自宅
昨晩西村先生と電話でお話ししたのは、とても有益だった。今日のリハーサルでは、曲全体をよりアジアの民族音楽的に捉え、スラー付きの細かい音符は西洋音楽的フレーズ感によらず、ガムランのような響きを提案してみる。
管楽器の情感豊かな唄について、西村先生はメシアンのようにと形容していらしたが、実際はメシアンが目指した極彩色のアジアの鳥を直截に歌っていて、迦陵頻伽やら鳳凰とか、むつかしい漢字の鳥の印象が脳裏を駆け巡る。
リハーサルの後、西村先生は作品に命が吹き込まれるようだね、とオーケストラを絶賛していらした。
大学が終わって少し時間が出来た頃、東京音大に大学院が開校した。伊左治君に誘われ、その大学院の西村先生クラスに何度となくお邪魔したのを思い出す。3、4人しかいないクラスで、皆で話込みながらラッヘンマンやリゲティのスコアなどは眺めていたのが懐かしい。
未だ、ラッヘンマンのピアノ協奏曲などが歴史的価値として認識される以前で、「最近発表されたばかりの新しい可能性」の音楽として、初々しくページを捲っていた。
その頃やっていた「冬の劇場」で、記憶違いでなければ、中川俊郎さんの新曲初演で、西村先生にはタイプライターだかワープロを打つ役で演奏にご参加いただいた。実に愉快で痛快な時代だった。
 
細川作品はIV、V楽章をオーケストラと一緒に丁寧に読み返す。押し寄せる津波に圧倒される部分と、その後、静まり返った波の上で、はらはら飛ぶ鳥の声を聴く。この作品の演奏の難しさは、音を直截に指揮し演奏してしまうと、途端に情景が消えてしまうところだ。
楽譜はとても精緻に書き込まれていて、ついそれら一つ一つを演奏しそうになるけれども、そうすると音符ばかりが浮かび上がり、海や波や空や鳥などが見えなくなる。
コロナ禍直前にこの作品を初演した時とパンデミックを経験した現在では、この作品を演奏して見える風景はまるで違う。
曲尾の鳥の歌では、われわれは鳥自身に同化せず、遠方から客観的に鳥の姿を俯瞰するように努め、漂う波と鳥の行き交う空との距離感を表現する。波の音には、極力感情を込めないようお願いした。
 
6月某日 三軒茶屋自宅
練習最終日。西村先生はみずから「自らは明るく死んでいく一方、新しい生命の華が次々と盛んに湧き立ってゆく」、と作品の意図をオーケストラに向かってお話しくださった。一同すっかり感じ入ったのは、作品にその姿が正格に映し出されていたから。作曲者を迎えて演奏できる贅沢を実感。
作曲者の意図を想像しながら演奏するのも楽しいが、作曲者自身が直截に作品を説明してくださると、全く違ってより具体性を宿した有機的な音になる。
練習の合間、何人かオーケストラ団員の方が控室を訪れパート譜確認をされてゆくのだが、皆さんが揃って、いい曲ですねえ、と明るく仰るのに愕く。素晴らしい!
昨日に続きリハーサル後渋谷トップで遅い昼食。奮発してオイスター・トースト。美味。PCR検査まで時間があって、ジュンク堂で丸谷才一の「後鳥羽院第二版」、セネカ「哲学する政治家」、カズオ・イシグロ「クララとお日さま」、服部正也「ルワンダ中央銀行総裁日記」購入。森林浴で心が癒されるのに似て、特に決めずに本屋をぶらつくのは、童心に帰ったような、言い尽くせぬ倖せ。
 
6月某日 フランクフルト行機中
今朝は先ず荷造りをしてしっかり朝食を摂り、8時くらいに改めて布団に入って暫く目を瞑った。10時過ぎに渋谷でPCR 検査結果を受取り、トランクなど一切を抱えて会場に入る。
昨夜から「ルワンダ中央銀行総裁日記」を読み始めたが、面白くて止まらない。「自画像」で取上げた時点のほんの数年前のルワンダ、ブルンジの独立直後の姿が綴られていて、さまざまに納得ゆく部分もあって興味深い。服部氏の矜持に感服。
読書の欠点は読み始めると止まらないところで、ドレス・リハーサルの合間も指揮台で「ルワンダ中央銀行総裁日記」を読んでいて、作曲者とオーケストラには失礼してしまった。
最初のリハーサルから本番まで、吉川君の一貫した強い信念には大変心を動かされた。真摯で誠実でありつつ、楽観と遊び心を忘れない姿勢は、長年のイタリア生活で培われたのだろう。それらが結実した本番の素晴らしい演奏にただ感嘆。間宮先生と吉川君の音の質感も、とてもしっくり噛み合っていた。
本番中、オーケストラの音は火傷しそうに熱を帯びていて、馬力のあるスポーツカーが頭に浮かぶ。アクセルをどれだけ踏み込んでも、まだ余裕が感じられる。演奏会終了後慌てて控室でシャワーを浴び、トランクをタクシーに積み込み羽田空港を目指した。
 
6月某日 ミラノ自宅
朝10時過ぎにミラノ着。機中、朝焼けの眼下に広がるアルプスや湖沼地帯の美しさに目を奪われる。荷物を受取り、多少なりとも検査はあるかと思いきや、EU宛てに帰国の詳細をオンライン登録し、日本のPCR検査証明を持っている以外、何のチェックもない。これがホワイトゾーンという事なのか。
つい数日前に規制改正があって、日本からのイタリア入国は、48時間以内のPCR検査陰性があれば10日間自宅待機は免除となった。午後、伸び放題だった庭の芝を刈る。
 
6月某日 ミラノ自宅
朝5時、朝焼けが始まろうかというころ、ナポリ広場まで散歩に出かけ、新聞と朝食の甘食を買う。イタリアも7月はワクチン供給量が少し減少する可能性があるらしい。
ワクチン2回目接種についてコールセンターに連絡すると、教員枠に関しては直接会場へ出向くよう指示を受けた。早速、自転車を漕いで旧見本市会場へ出向く。
アストラゼネカ1回目接種は3月21日で、2回目接種は本来6月8日だったが海外渡航中で接種不可能だった旨、受付で妙齢に説明すると、最初は「fuori range-2回目接種の期限を超えているかしら」と心配されたが、「でも大丈夫、何とかするから。ちょっと待ってね」と頼もしい。
医師に確認すると、何とかアストラゼネカの有効期限内だったそうで、「良かったわね、今日打っていってね」と明るく言われる。問診票と一緒に「アストラゼネカ2回目接種」と大きくプリントされたA4の紙を渡されて、これをもって歩いていると、5、6メートルごとに通路に並ぶ屈強な係員たちが、「はいよ、アストラ!」、「了解!はい、アストラ!」と伝言ゲームのように係員通し言葉をかけてゆく。その声に従って歩いてゆくと、何だか朝市で競りにかけられるマグロの気分。現在、使用が一時中止されているアストラゼネカは、確かに少し特殊な扱いなのだろう。
若い女医から問診を受け、「アストラゼネカ1回目はどうだった」と楽しそうに尋ねられ、答えに窮すると、大笑いされる。
「ともかく、今日はファイザー打って行ってね」、「最近流行りのミックスですか」、「そうそう!」。
そんなやりとりがあって接種は直ぐに終わり、15分待って帰宅した。
前回3月と比べ、明らかに接種会場の雰囲気は明るく、皆、顔がほころんでいる。前回、この会場は教員専用だったが、今回は車椅子の子供から年配者まで、様々な人種や年齢の市民が、まるでピクニックのように、楽しそうに接種会場を訪れているようだ。
3月の時点ではワクチンの効果も分からなかったし、自分も同僚も、ともかく社会実験に参加するつもりでワクチンを打ったから、皆どことなく不安な顔をしていた。今はある程度ワクチンの効果が実感できるようになり、ホワイトゾーンにまで状況が好転したのだから、表情が変わるのも当然だろう。
 
夜、ハノーファーの大植先生を訪問していたマルコとズームで話しこむ。何でも1時間半のレッスンを3回も受けられて、泊めてもらったドイツ人の学生が振る合唱団のリハーサルについていったら、ちょっと振らせてもらったそうだ。大植先生には夜遅くまでさまざまな話を伺ったんです、と興奮している。先生や美和ちゃんはじめ、皆さんのご厚意に感激。
天皇陛下、五輪とコロナ禍に憂慮を表明、とレプーブリカ紙に大きく掲載あり。吹かせる天皇陛下が直々に危惧されていて、今回ばかりは神風も期待できまい。それでも政府はまるで気にもかけず、なんともお気の毒だ。
 
6月某日 ミラノ自宅
早朝散歩から帰る道すがら、グェーグェーとリス2匹が樹の上で呼び交わし合っていて、お世辞にも可愛らしい声とは呼び難い。カラスに似た鳴声だが、共鳴体となる身体が小さく声は響かないから、ちょっと鼻がつまったような余計妙な塩梅になる。以前はネズミのような鳴声を想像していたから、初めて聞いたときは当惑した。庭のリスも、目を凝らせば枝から枝へとすばしこく走り回っているのがわかるが、葉がすっかり繁茂していて、リスの姿を目視するのはすっかりむつかしくなった。
近所の工事現場を通りかかると、件のクレーンの天辺の運転台に向かって、作業員が梯子を登っていた。おそらく12階分くらいはあろうかと思しき高所に鎮座する、鉄塔上の小さな運転台まで、休憩をはさみつつ少しずつ梯子を登ってゆく。
心地良い朝日と抜けるような青空を背景に、遥か彼方の小さな作業員の姿は、神々しく映える。
夕刻、保健省から携帯電話にグリーンパス、つまりワクチンパスポートのパスワードが送られてきた。Immuniという、日本のCocoaにあたるアプリケーションにこのパスワードを入れると、QRコードつきの正式なグリーンパスが生成される仕組みだ。
昨日打ったファイザーワクチンは、接種した腕に疼痛とほんの少しだるさを感じる以外、殆ど何も問題がない。前回のAZ接種後、呂律が回らず手に力が入らなくなり、眩暈が随分長く続いたのは、今にして思えば、軽い血栓の症状ではなかったか、と空恐ろしくなってきた。当時は、とにかく何か起きたら息子が一人になるといけないと気を張っていて、血栓の可能性など露ほども想像しなかった。町田の両親もファイザー2回目接種終了。
ジェフスキーの訃報に言葉を失う。
 
6月某日 ミラノ自宅
長く教えてきたBが、夜分拙宅を訪れた。折入って顔をみて話したいと言う。彼は、こちらが日本に帰る前の4月のレッスンで、教室にいた誰もが深く心を揺さぶられるような素晴らしい演奏をした。素晴らしい演奏という当たり前の形容とは少し違う、それは不思議な体験だった。
余りに吃驚したので、君はやはり今年、学校が終わっても指揮を真剣に続けるべきだ、よく考えて欲しい、と連絡して日本に発った。
彼はこちらがミラノに戻るのをずっと待っていたらしく、早速街の反対側から夜遅くにバイクを飛ばしてやってきた。
「将来についてなんですが」と話し始め、
「せっかくああ言っていただいたのですが、自分なりに色々と考えた上での先生へのお返事はまあ否定的なものなんです。でも、先生とは長年胸襟を開いて何でも話してきましたから、どうしても顔をみて話したくて」。
彼は音楽と同時に、ミラノ大で法学を学んでいる。卒業論文は既に提出してあり、7月12日の最終口頭試問をもって、無事法学部を卒業する予定だ。両親も人権派の弁護士だったと記憶している。
「実は、法曹界に進むつもりもないんです」。
「指揮と法学部だけではなくて、実は昨年秋から、もう一つ別の道を模索していて、それに掛けてみようと気持ちが固まったんです」。
「実は、聖職者になる決心をしたんです。去年秋から毎月数日ずつ、ローマの宣教団のセミナリオに滞在して少しずつ自分を試してきたのですが、やはり自分の人生を捧げたいのは、聖職だと確信をもてるようになってきたのです」。
「昨年の春、幼いころから世話になってきた親しい神父がCovidで亡くなり、教会の合唱隊で彼の葬儀に関わりながら、親しい教会関係者から話を伺っていて、もっと深く知りたいと切望するようになったんです。Covidによる都市封鎖が、落ち着いて自らを振返る時間をくれたんです」。
「4月のレッスンで、先生に嬉しい言葉をかけていただいたとき、自分でも明らかにそれまでと違う世界が開けたのを実感したんです。実はあのレッスンの直前、ローマのセミナリオに滞在していて、自分の裡で何かが解放される霊的な体験をしたばかりでした。その直後、レッスンでああいう不思議なことがあって、やはりこれは自分の核心にふれるものだと納得したんです」。
「まだ親にも兄弟にも誰にも話していません。ローマに行くときは、論文準備のために友人宅にでかけると嘘をついて今までやり過ごしてきました。宣教団からは、もう一年はローマに通いながら、自分と対峙する時間を持つよういわれています」。
「来年秋になって宣教団から受入れてもらえると決定すれば、もちろん両親には話します。きっと両親は喜んでくれると思いますが、長男の自分に彼らが期待してきたものとはまるで違う現実が待っています。だから、彼らがどんな風に感じるのか、全く想像もできません。一度その道に入れば、両親に会うこともままならないでしょう。クリスマスも離れ離れですし、宣教師として今後どの国で過ごすのかもわかりません」。
「7年の研鑽ののち、教会が自分を聖職者として迎えてくれるかどうか、それは神のみぞ知るところです」。
「音楽も指揮も、もちろん続けてゆきます。指揮コンクールを勝ちぬき成功を目指すような王道とは袂を分かちますが、無尽蔵の宗教音楽の世界について、これから少しずつ見識を深めてゆきたいとおもっています。まずは合唱指揮者に助言を乞うつもりです。以前から、ヴィクトリアとか大好きでしたから」。
「先生もご存じの通り、一昨年までちゃんとガールフレンドもいましたし、こんな人生を自分が選択するとは露ほども思っていませんでした。文字通りの青天の霹靂です。でも、自分が指揮を学ぶなかで実感した、時間や人生を他者と共有する喜びを、どうしても人生全体にまでひろげてゆきたいんです」。

(6月30日ミラノにて)