仲宗根浩

仕事から家にもどり、シャワーを浴びていると爪がぽろっととれた。やっと、とれた。去年の七月にちょっとしたことで右足の拇指の爪が剥離した。剥離であって完全に剥がれたのではない。爪の根本はつながっているいるのでとれていない。ぐらぐらの状態で爪はなんとかつながっているし、爪も伸びていた、というより新しく生えた爪が剥離した爪を少しづつ押し上げていたんだろう。爪の白い部分に沿って段差がつきもう少しで外れそうだったし、パカパカ動くし。

去年の十一月ごろだったか仕事中、カーゴのストッパーを足の拇指で押したとき爪になんか負荷がかかったような感じがして、その後に軽い痛み。右足をかばうように歩いていたがそれより負荷をかけてはやく爪が自然に取れるように、ふつうに歩くようにした。それでやっととれる。毎日、患部が炎症をおこさないように軟膏をつけガーゼで巻いていた生活が終わった。

そんな時期をおくりながら、今度は一本残っている親知らずが腫れる。六年ぶりに歯医者に行くとまあ面倒なことになり抜歯となるが、痛み止めや抗生物質を処方してもらい腫れがひき、レントゲン撮影をするとこの親知らずが見事にまっすぐ生えている、これはもったいないので温存しましょうとなった。腫れがまた起こるようであれば親知らずを覆っている部分を切開すると。親知らずはきれいに生えてなくてこぶみたいなものに覆われている、それが腫れの原因だと。とりあえず三十年ぶりの抜歯はまぬがれた。そのあと頭をちょいとぶつけて早乙女主水之介の向こう傷からだいぶずれたところに横型の傷ができる。加齢による身体の空間に対する認識の衰えか、こんなことがよく起こるこの頃。

感染者の数字はだんだんと増えていく。数字に翻弄されていく日がとうぶん続くのだろう。

水牛的読書日記(4)忘れられたものたち、忘れてはならないものたち

アサノタカオ

 曇り空の京都。久しぶりに訪ねた古本屋さんで、棚からさまざまな本を取り出しては指先でぱらぱらとページをめくり、棚にもどすことをくりかえしながら、書きあぐねている原稿のことを考えていた。あたえられたテーマは「人生で、はじめて出会った本」。親に読み書かせてもらった絵本のようなものではなく、子どもころ、かすかな自覚の芽生えの時期にみずから手に取り、読んだ思い出深い本、記憶をさかのぼってもっとも古い「読書」の体験を紹介する、ということらしい。

 何を書いても「聡明な少年時代」という偽の物語を捏造するようで気が進まない。小学生を卒業するまでは国語の教科書以外には漫画や図鑑を読むだけ、というそれほど珍しくない経験があるだけで、どれだけ記憶のなかを探しても、「海外の児童文学を読むのが趣味でした」といった気の利いた話はみつからない。それ以上に、「そんなものはない」という答え以外思い浮かばないのだ。

 そんなものはない、のではないだろうか。頭で読むよりも早く、手が本に触れていた。自分の幼年期は、読書家の祖父が身近にいたために、比較的恵まれた蔵書環境にあったとは言える。函やカバーを外して転がしたり、匂いを嗅いだり舐めたり、落書きをしたり紙を破ったりした数多の書物との愛着の時間を経て、あるとき、肌身離さず持ち歩くお気に入りのおもちゃやぬいぐるみのように、製本がくたびれて表紙の色あせた一冊の本のページに手ひらをおき、文字や絵や写真を指でなぞりはじめる。やがてお話を読み上げる声が、自分の内へ消える。しずけさのなかで、「ここではないどこかの世界」が魔法のように不意に目の前に現れ、幼い自分は興奮し、おののいたことだろう。

 それはたぶん一回や二回のことではなかった。記憶の深いところには、はっきりした「読書」以前に、本と関係を結んできたそれなりに長い時間が落ち葉のように堆積している。いまも自分の指先には、子ども時代、家にあった「もの」としての本を介して「ここではないどこかの世界」に遭遇したときに刻まれた、疼きのようなかすかな感触が残っている。しかしこの「未知との遭遇」は名前の手前、物語の手前、言語の手前でおこった出来事だから、「人生で、はじめて出会った本」を同定することはおそらくできない。それはまるで蜃気楼のようにゆらめく本以前の「非在の本」で、だからタイトルや著者が判明したところで意味がないとも思う。

 記憶の領土の立ち入ることのできない、鍵のかけられた門の向こう側に隠れてしまった本。それゆえに、永遠にあこがれの感情を呼び起こす本。僕が何十年もあきもせず本を読み続けているのは、自覚と無自覚の境界線上で、決定的なかたちで生き別れた一冊の本との、ありえない再会を願っているからではないだろうか。

 思想家のヴァルター・ベンヤミンは、読書論と関わりのある「字習い積み木箱」というエッセイで、こんなことを書いている。「いったん忘れ去ってしまったものを、再びそっくりそのまま取り戻すことは、決してできない。……私は、かつてどんな風に歩行を覚えたかを夢想することはできる。だがそれは何の役にも立たないのだ。私はいま歩くことができるが、それを覚えることはもはや叶わないのである」

 僕はいま本を読むことができる。いくらでもできる。でも、いったん忘れ去ってしまったあの「はじめての本」との出会いを、言葉によって取り戻すことはたぶんできない。ふるえる指先で「読む」ことを覚えたあのはじまりの日のように、はじめての本をはじめて読むことは、もう二度と叶わないのだから。

 ***

「いったん忘れ去ってしまったものを、再びそっくりそのまま取り戻すことは、決してできない」というベンヤミンのことばから、韓国の作家、ファン・ジョンウンの『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)のことを連想した。所収の「d」を何度も読み返し、この小説についてずっと考え続けている。ここ数年のあいだに読んだ韓国文学のなかで、もっとも心揺さぶられた作品のひとつ。人間にとっての「喪失」の意味を深く問いかける小説だ。

「d」の舞台は、2014年のセウォル号沈没事件から一年後、新自由主義的な政治経済に支配された社会の矛盾が噴き出し、地揺れするソウルの街の一角。主人公のdは病弱そうな青年で、あごに大きな傷があり、半地下のアパートに暮らしている。「もの」に触れることを避け、人と交わることを避けている。

 それは、幼馴染であり愛する人であるddを無残なバス事故で失ったから。同居するddが部屋に残したタオルやカレンダーや食卓の「ぬくみ」は、かえってddの非在を際立たせることでdを苦しめ、かれは外出もせず、電話で誰かと話すこともなく、「もの」たちとともに引きこもっている。

 この小説は、(おそらく)小学生時代のdとddとの出会いめぐる印象深いエピソードからはじまる。終業後の教室で、dは稲妻が窓を越えて走るのを見た。教室の床の焼け焦げた跡をのぞき込んでいると、ドアに前にddが立っていた。

「見てみ。/dは床を指差してみせた。/雷が落ちたんだ。ちょっと前に。/dが先に指でその跡を触ってみて、ddも触ってみた。/ここだけ熱い。/すごい。/dとddは頭が触れるほどくっついてしゃがんでいたが、焼け焦げの跡にもう一回ずつ触ってから立ち上がった」

 翻訳者の斎藤真理子さんは「この小説は熱で始まって熱で終わる」と鋭く指摘しているが、付け加えれば「熱に触れる手で始まって、熱に触れる手で終わる」とも言えるだろう。あるいは、触れる手と拒絶する手、手と手のあいだの痛ましい相克の物語というふうにも言えるだろうか。

 ddはdにとって「言葉」であり、「身体」だった。差し伸べる指の先にあるべき存在が永遠に失われてしまったとき、愛する人との触れ合いの記憶すら耐え難い何かに変わる。だからdはふたりの思い出の品である「もの」を捨てはじめる。ddの非在とともにあるために、dはみずから「空白」になることを選んだ、ということだろうか。何も記憶に残さない生、死と変わりない生、未来の訪れない「停止した今」を生きている、とかれは言う。

 そんなdを外の世界へ連れ出したのは「声」だった(これも斎藤さんの指摘)。

 半地下のアパートの庭で、朝鮮戦争時代の記憶などを問わず語りに語る大家の老婆、そして世運商街という衰退しつつある電気街でオーディオ修理店を営むヨ・ソニョ。商街で宅配業者の集荷の仕事をはじめたd(かれは常に両手に軍手をはめている)に、60代後半と思われる初老の技術者であるヨ・ソニョが偶然呼びかけるところから、物語の時間が再び動き出す。

 そして「音楽」。
 ヨ・ソニョが用意した真空管アンプのオーディオにdは執着し、ddの実家から取り戻したddのレコードをターンテーブルにのせ、耳をすませる。かつて同じ空間で音の海にひたり、ふたりで同じ音楽に耳を震わせ、からだを震わせた体験をくりかえし想起することで、何かを取り戻したいと必死に祈り続けるように。dは幼い頃から音に敏感だった。

 何かを取り戻したい——。
 dのまわりにいる人たち、たとえば父、「父の妻」と独特な距離感をもって語られる母、ddの家族、大家の老婆、世運商街の住民たちは一様に、華々しく喧騒にみちた社会の日の当たる場所からはじき出され、それぞれに生きづらさを抱え、取り戻すべき何かをあらかじめ奪われているような人たちだった。「僕もddもそして、あなたも。僕らがあまりに取るに足らなくて、一度の衝撃によって、投げ出されてしまう」

 セウォル号沈没事件の犠牲者を追悼し、時の政権の退陣を要求するデモの群衆と警察が対峙する夜のソウルで、dが友人のパク・チョベとさまようシーンも印象深い。声を上げる群衆が立ち去り、警察車両の壁にはさまれて空っぽになった世宗大路の交差点という「空間」に、dはおそらく自分の抱える空白と同じような空白を発見する。目撃されることなく、公的に追悼されることのない死のための空白。「取るに足らない」存在、「滓(かす)のような」存在、そして口をつぐむかれらの沈黙だけが立ち入り、通過することのできる空白。

 物語の最後、「突然流れが消えたあの空間」について考えながら、dはオーディオの電源を入れ、光の灯る真空管にふいに素手を差し伸べ、ガラスを握りしめる。

「疼きが走った。dは驚いて真空管を眺めた。もう手を引っ込めたのに、その薄くて熱いガラスの膜が手に貼りついているようだった。疼痛が皮膚を貫いて食い込んだ棘のように執拗に残っていた」

 読むものの感情のもっとも奥深いところに訴える、ファン・ジョンウン文学の真骨頂とも言える繊細で切実な描写だと思う。

 疼いてもいい、痛くてもいい。共に触れた記憶、共に触れ合った記憶、共に音に震えた記憶を確かめたい、何度でも。ある日突然、不条理のかたちでかけがえのない命を奪われ、にもかかわらず社会の中からあまりにもたやすく忘れ去られてしまう存在。ddを、ddの生の意味を、ddと共にあったみずからの生の意味を取り戻したいと希求しながら、それが叶えられることのない願いであることに絶望するdの悲しみは終わらない。

 しかしその悲しみの内には、個体発生が系統発生をくりかえすように、歴史のなかで語られることのなかった「取るに足らない」存在たちの、集団的な声なき声がしずかに合流し増幅しはじめている、と言えないだろうか。真空管のなかの電気のように。音楽にうながされるようにして再び「もの」に触れ、熱い痛みを感じるdの手、その「たしかさ」から開かれる世界がある。

 個人の感情を超える何か。小説の物語と緻密で複雑な文体を通じて、ほかならぬdの人生の悲しみ、痛みを辿りながら、前進して止まることを知らない時間を生きるために人間が別れなければならず、捨てなければならず、忘れなければならなかったものたちが、瓦礫の山となって積み上げられている荒地の風景を目撃したような気がした。刹那の想像に過ぎないが、こうしたことは、文学でしか味わうことができない体験だ。

 dの友人のパク・チョベが書いた本のタイトルは『Revolution』で、「革命」がこの小説のキーワードでもあった。警察車両の壁にはさまれて空っぽになった世宗大路の交差点を眺めながら、「革命はもう到来していた、これがそれじゃないか」「革命をほぼ不可能にさせる革命」と直感する主人公のdにとって、それは政治体制の打倒といったような一般的な意味での革命ではない。Re(再び)+volution(回る)、忘れられたものたちの回帰、忘れてはならないものたちのいまここへの回帰を暗示するものだろう。

「名前知ってます?……わかるんですか、僕の名前が……」。dとdd、忘れられたものたちは固有の名前を記憶されないものたちでもあるのだろう。しかしその名を知らずとも呼びかけることで、そして「ぬくみ」ある手を差し伸べることでdを支えたのが、大家の老婆やヨ・ソニョら、長い人生の時間を生きぬいてきた老い人たちであったことも思い起こしたい。そこに、読者に託されたこの小説の痛切な祈りがあると僕は思う。

 ***

 京都の古本屋さんというのは、KARAIMO BOOKSのこと。お店を営む旧知のJさんは棚を眺める僕に、「開店以来、これまでにないぐらい女性史やフェミニズムの本が売れているんです。とくに若い人たちに」とうれしそうに語り、チリのフォルクローレ歌手、ビオレータ・パラのアルバムCDをプレイヤーに滑り込ませた。「人生よありがとう/こんなにたくさん私にくれて/……私の歌は同時にあなた方の歌/私個人の歌であるとともにみんなの歌/人生よありがとう」(濱田滋郎訳)

 書きあぐねている原稿のことはいったん忘れよう、と心に決めて棚から抜き出した森崎和江さんの『闘いとエロス』と詩集を数冊抱え、新刊コーナーの平台に目を落とすと、『ディディの傘』があった。赤と紫のカバーにそっと手を触れると、「ほんとうにすばらしい小説ですよね」とこんどはレジの向こうのNさんが声をかけてくる。「dは自分だ」と言い切ってしまいたいぐらいの強い思い入れと共に読んだ『ディディの傘』について、Nさんとじっくり話し合いたいと思ったが、雨が降りはじめ、トタン屋根を打つ音が少しずつ店内をみたし、おのずと会話は中断された。

 やがて雨脚はさらに強くなり、ビオレータの美しく芯の通った歌声もかきけされ、僕らは本をあいだに挟んでただ押し黙っている。火照った自分の額もゆっくりと冷やされていく。ひとりひとりの内に決して思い出せない本があるように、人と人とのあいだには、語ることができない本があるのだろうか。そういうのも悪くない、と思って、再び書棚にむきあうしずかな午後のひととき。

仙台ネイティブのつぶやき(60)ごちゃまぜの3月

西大立目祥子

 自治体の仕事をしていた時期がけっこう長かったので、年度の終わりの3月はなんとも気ぜわしい気分で過ごしてきた。何といっても、締め切りがあるから。
 それでも日差しが明るくなり梅の花もほころんで、仕事の合間に文具店に行くと束のノートが平積みになっていたりして、もう新学期とは縁がなくなっても新しい生活が始まる期待感をおすそ分けされたような気分になる3月は、けっこう好きだった。10年前までは。

 あの大震災があってから、3月は柔らかい日差しを楽しむ月ではなくなった。お盆の最中に終戦記念日がくるように、春彼岸の前にはおびただしい人の死やさらわれてしまった海辺の風景をいやがおうにも思い出す時間がくる。よく話す機会があった仙台市の職員のSさんは、住民の避難誘導のため海辺の集落に車を走らせ津波で命を落とした。3日前の3月8日に会って、中旬に合う約束をしていたのだった。生きていたら、と自分とそう歳の違わなかった彼の年齢を数える。

 今年は10年という節目であることもあって、もう2月から地元新聞社は特集を組み、テレビでも何本ものドキュメンタリーを放映した。いま、私は津波の映像が流れると苦しくてつい目をそらしてしまう。黒い水の中に飲み込まれている人が思い浮かんで苦しくなる。
 夕飯のあとテレビをつけたらNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組で、震災の後、被災地を訪問した回の再放送をやっていて、九死に一生を得た人から根堀葉掘り、どう逃げ延びたかを聞き出すのを見て、腹立たしくなってしまった。答える方もだんだん辛くなって涙ぐんでしまう。でも、震災直後は私も津波の映像を案外と平気で見ていたのだ。あれは何だったのだろう。異常事態に放り込まれて、興奮状態にあったのか。過酷なものばかり見ていると、それが普通になってしまうのかもしれない。

 被災地の近くにいながらボランティアにも行かなかったし、仕事で5年ほど取材に通った以外は、みずから進んで被災地に足を運ばないできた。出かけるとあまりに変わり果てた風景に呆然として、とても抱えきれないほどの荷物を背負わされた気分になってしまうのだ。かさ上げされた土地の底の方に残された震災遺構やどこまでも続く防潮堤を見ると、これは誰が望んでいた復興だったのか、と思わずにはいられない。

 3月11日が過ぎれば報道はぱったりと減って、何事もなかったように日が過ぎる。そうこうするうち春彼岸。寺町近くに住んでいるので、あたりにはどことなく線香の匂いが立ち込め、仏花を抱えた人と行き交う。歩いて10分ほどの祖父母と父の眠る墓にお参りを済ませ安堵した夕刻、ぐらりと2度目の地震がきた。

 1度目は2月13日の夜11時過ぎ。このときは東日本大震災を思わせるような揺れで、震源は福島県沖、宮城県は震度5強。本棚の本が崩れ落ち、ランプシェードが揺れてはずれ金魚の水槽を直撃したらしく、金魚が飛び出て床は水びたし。ほうきで水をかき出し、雑巾がけをすませたら深夜になってしまった。翌日、濡れた本を選り分け本棚に戻した。友人たちも、倒れた本棚の復旧に2日かかったといっていた。この揺れは10年前の震災の地震の余震というのだから、まったく気が抜けない。

 それからひと月後の地震。宮城県はまたも震度5強。震源地は宮城県沖で牡鹿半島の目と鼻の先。これも10年前の余震だという。津波注意報も出たので、気仙沼の友人たちのことを思った。震災からの復興といってもまったく完了してはないし、いまだ避難先にいる人もいる。その落ち着かない生活に揺れはどこまでもつきまとう。プレートとプレートの重なる実にあやういところに張り付いて、私たちは暮らしている。何かが起こればたちまちに崩れてしまうようなぎりぎりのバランスを保って。

 今度の地震は前ほど被害はなかったよ、などと話していたら、宮城県のコロナ感染者数が深刻な状況となってきた。10万人あたりは全国ワーストワン。仙台市に限ると、東京の3倍にもなるという。この原稿を書いている3月31日の夕刻、宮城県の感染者が過去最高の200人になったと速報が出た。宮城県の人口は230万人。東京都は1390万人。ざっと東京が6倍だと考えると、これが東京だったら感染者は1200人を超えたことになる。

 なぜ急速にこれだけ増えたんだろうか。飲食店への時短要請の解除、go to eatのチケット販売再開に加えて、2月13日の地震や3月11日の震災10年を上げる人もいる。2月の地震では東北新幹線が10日ほど止まり首都圏との行き来はバスになった。震災10年で被災地を訪ねようと仙台に降り立ち、ここから三陸に向かった人も大勢いたことだろう。首都圏と行き来する受験生も多い。とにかく人がシャッフルされると感染者が増えるのは間違いない。

 先週、感染者が急増してから、仙台市は仙台市の施設をほぼ全館クローズした。図書館も行けないし、ミーティングのための会議室の予約も5月末までできなくなった。会議もまち歩きも中止。1年前の緊急事態ほどではないけれど、突然生まれた空白の時間に宙ぶらりんな日が過ぎる。

 毎年、桜が開き始めるこの季節は、季節の移り変わりに体がついていけず、花粉症もあってか何ともしまらない精神状態になる。先月、 八巻美恵さんがブログに書いていたけれど、ぼんやりとして、仙台弁でいうところの、これぞ「かばねやみ」そのものだ。桜の満開にも焦点が合わない感じでいるうち毎年、桜はあっという間に散ってしまうのだが、今年の仙台は観測史上最も早く、何と今日、満開になった。梅と桜がいっしょに開いている。

 仙台の桜は、たいてい4月1週目くらいに開花して、10日頃に満開を迎えるものなのだ。3月中に満開なんてありえないよなぁと思っていたら、ブレーカーが落ちた。電力会社を呼んだら漏電が発覚し、明日は漏電箇所を調べに電気屋がくる。

 庭では10日ほど前に冬眠から覚めたカエルがゲコゲコ鳴いている。数年前になぜか2匹のカエルが死んでしまい、こいつはたぶんあぶれオスだ。友だちがいないのは気の毒だなあ。窓の外を三毛猫が通り過ぎて行くというのに、うちの猫どもは窓際で眠りこけている。
 ごちゃまぜの3月が終わった。4月はどうなることやら。

新・エリック・サティ作品集ができるまで(2)

服部玲治

初めてお会いし、打ち合わせをしたのは、夏のさかりの8月だった。
どんな場所でお会いするのが適当なのか。チェーン型大型資本系の喫茶店は、悠治さんとの邂逅にそぐわない、それどころか、そんなお店を提案した日には、怒って来なくなってしまうのではないか。メールでのやりとりばかりだから、わたしの中の悠治さんのイメージは日々増幅し、霞をはみ、世俗をさける仙人の様相を呈していた。
「渋谷は混んでいるので避けてほしい、会社の近くでも」。
日時の指定とともに、これまで通り、無駄なく要件のみのメール。そうか、渋谷、やはり。かといって、社のある虎ノ門界隈も、オフィスワーカー向けのざっかけないチェーン店ばかりだ。ウェブでくまなく検索をかけ、「本とクラシックに囲まれて」「小さな隠れ家」などのレビューが寄せられた、漱石の作品名が冠された喫茶店を、まだ行ったこともないのに、悠治さんとの出会いにふさわしいと断定。
「ではそれで」。
仙人からのたった五文字の電子返信、ぞくぞくしたのを、いまもおぼえている。
 
約束の時間の間際、店に入ると、お客さんはひとり。16時からの打合せを15時からと勘違いし、本を読んで待っていた悠治さんだった。1時間もお待たせしてしまったのか。身にのこった外気の熱と、緊張と、かたじけなさと。途端に額から汗が流れ落ちてやまない。
バロックの流れる店内は、喧噪の街中と隔絶した静謐な空間で、悠治さんとの邂逅にまことにふさわしいものの、初めて対面するぎこちなさを覆い隠すよすががみつからない。呼吸を整える間もなく、沈黙を埋めるように、やおら企画の話を向けた。

この初めての打合せが決まってから、わたしは悠治さんとコロムビアで、継続的なプロジェクトを企画したいと夢想していた。パソコンのフォルダの片隅には、その時に悠治さんに提示した提案書が残っている。2016年8月3日の日付、「コロムビア×高橋悠治プロジェクトのご提案」。
1枚目のサティを皮切りに、6種類のアルバムの提案がここには記されている。2枚目はバッハ。3枚目、ドビュッシーとラヴェルにメシアン。4枚目はショスタコーヴィチとヴィシュネグラツスキ(はたして、どうやって微分音ピアノを入手しようと思っていたのだろうか)。5枚目にはベルクとともにウルマン、シュールホフなど退廃音楽作曲家の作品集、そして最後にバルトーク。
バッハを除けば、20世紀前半に活躍した作曲家を中心に構成したシリーズで、これまでの悠治さんのアルバム・ラインナップとは色あいの異なるコンセプトで展開できないか。サティはともかく、他に名をあげた作曲家は、はたして悠治さんがいま、好きな作曲家なのか、そもそも演奏したことがあるものなのか、用心深く調べることもなく、自分の嗜好のままに編んだアイデアだった。それを悠治さんにいきおい提示してしまったのは、いま思えば、ひどく思慮に欠けた行いだったのかもしれない。

このとき、どんなやりとりがなされたのか。緊張ゆえか、あまり覚えていない。ただ明らかだったのは、
「先のことはともかく、まずはサティの話を」。
わたしの夢見るシリーズコンセプトは、いったん棚上げになった。

ノマドランド

若松恵子

映画「ノマドランド」は、ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞し、今年度のアカデミー賞6部門にノミネートされている話題作だ。キャンピングカーで生活しながら季節労働の現場を渡り歩く現代のノマド=遊牧民を描いた物語だ。ジェシカ・ブルーダーが2017年に発表したルポルタージュ『ノマド 漂流する高齢労働者たち』を原作にしているとの記事を読み、ロードショウ公開されたばかりの日曜日に見に行った。

主人公ファーンを演じるのは『ファーゴ』、『スリー・ビルボード』でアカデミー賞主演女優賞を受賞したフランシス・マクド―マンド。原作に共感した彼女は、この映画の制作者としても関わっている。実際にキャンピングカー生活をしている人々のなかに入っていって撮影し、印象的な脇役であるリンダ・メイやスワンキーは実在の人物だという。

冒頭、原野で用を足し、ズボンをあげて小走りに車に戻るシーンがある。誰も見ていないのに、身体から恥ずかしさが滲み出ていてかわいい。マクド―マンド、うまい!という感じだが、キャンピングカー生活では排泄が大問題なのだ。ノマド生活のリアリズムを感じるシーンだった。

ファーンは夫を亡くし、思い出の品をキャンピングカーに詰め込んで出発する。夫が務めていた企業がつぶれて社宅も閉鎖され、その企業城下町ごと消えてしまったからだ。ファーンがキャンピングカーで移動していくのはアメリカの西部。まだまだ手付かずのままの広大な自然を背景にした車上生活は、西部開拓時代を彷彿とさせる。一方、彼女が季節労働者として働くのがアマゾンの配送センターであるというのは、苦い現実だ。

企業の倒産によって住む家を失ったのだけれど、彼女の悲しみの中心にあるのは経済問題だけではないのだという事が段々わかってくる。夫という唯一の理解者を失ったことで、彼女は居場所(家)を失ってしまったのだということ、そのことが大きな悲しみであることが分かってくる。

車の修理代を借りるために、久しぶりに姉の家を訪ねるシーンがある。「あなたは昔から変わり者だった。家を飛び出して、そしてボー(ファーンの夫)と暮らすようになって」と姉が述懐するシーンからは、理解し合う事が難しい姉妹の間柄と、変わり者だと家族から疎まれていたファーンの唯一の理解者が夫だったのだということが想像される。もう、どこに住んだって、理解者を失った寄る辺の無さは同じなのだろう。

姉の夫は不動産業だ。同僚を招いたバーベキューで、「ローンを組めない人たちに無理やり家を売りつけて」と非難めいた事を言って場を白けさせてしまうファーンは、姉家族と一緒に住むことなどできないのだ。

珍しくスカートを履いて姉の家を訪問するファーンが、帰りにはいつものジーンズにパーカー姿になっているのを見ると、自分のことのようで身につまされる。

末期がんを患っているスワンキーは、かつて見たアラスカの美しい風景をもう一度見たくて旅をしている。ある日、ファーンのスマートフォンに、スワンキーが語っていた美しい風景の動画が届く。何の言葉も添えられていないけれど、ついに到着したのだというメッセージが、ファーンの胸を打つ。

生活を成り立たせるために、ファーンのノマド生活は続く。唯一の理解者を失った悲しみは癒えない。代わりの人など見つからないことは分かっているからだ。しかし、広大な自然の中を自由に移動して暮らす素晴らしさというものが、ほんとうにかすかに、小さな希望として見えるところで物語は終わる。

それは、ノマドの先輩であったスワンキーが教えてくれたことかもしれない。かつての家の裏庭からは、何にも遮られない広大な砂漠とはるか遠くに連なる山々が見えていた。夫と暮らしていた頃には背景に過ぎなかった広大な砂漠の中に、思いがけずも分け入っていく事になったファーン。そこに人生のおもしろさも感じさせる物語であった。

製本かい摘みましては(161)

四釜裕子

スピカさんに花マルをもらった。いつも担当してくれる歯科衛生士さんで、本名かどうか知らないけど似合う名前だなあと思っている。この人のおかげで年に一度の検診も億劫ではなくなったし、フロスも使えるようになった。定期検診はいつも3月中旬、去年はコロナでその後のクリーニングは行かずじまいになった。今年もその時期だけど手書きの案内はがきがこないのはなぜだろう。
検査が終わると、スピカさんは2色ペンをカチカチいわせて使い分けて、結果と注意などを話しながら歯周検査表の余白にいろんなことを書き込んでくれる。二重線とか星マークとか、「歯がとけてくる」とか「毎日!」とか「2cm」とか。それで去年はついに花マルをもらった。オイオイという感じはしたけど、うれしかったというか、スピカさんはすてきだ。

山本貴光さんは『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社 2020)の中で、本以外の余白への書き込みについても書いている。楽譜があったけど、さすがに歯周検査表はなかったな。歯周検査表なんて公的な書類じゃないし持ち帰って見直したところでそれほどどうってことないのに、こうしてすきまに自在に書き込まれた文言とか花マルがあるから今も捨てられずにいる。お守りとかおまじないみたいなものか。マルジナリアのオマジナイ。

『マルジナリアでつかまえて』で取り上げられている多くは、自著であれ他の誰かの本であれ自分があとで読むことになる書き込みだ。それとは別に作家と編集者が交わす校正ゲラの例もあって、山本さんはこれを〈他人によるマルジナリアとの対話〉と書いていた。読んで、吉村昭さんのエッセーの、あれはどうだったかなと思った。お若いころに刑務所内の印刷所とのやりとりで原稿以外の文字をみつけたという話、あれは「余白」にあったのだったかどうか――。

「刑務所通い」という一編だった。吉村さんは大学の文学部で「赤絵」という雑誌を編集していて、資金集めのために落語会を開いたりもしたが、印刷費削減のために刑務所の中の印刷所にお願いしたという。60ページで12000円、市価の6割だったと思う、と書いてある。初校ゲラまで1か月、再校ゲラまで1か月、刷り上がりまでさらに1か月もかかったが安さにはかえられず、2年ほど小菅に通ったそうである。原稿はところどころ〈巧みに直され、誤字は一字残らず訂正されているのが常であった〉。そのうち〈奇妙な親密感めいたものが生まれてきて〉、〈かれらは朱を入れた私たちの文字に外界の空気を吸い込んでいるように感じているようだった〉。

それがある日、原稿にない文字が入ってきたという。〈或る時、ゲラに朱を入れていた私は、その最後の部分に妙な一節が加えられているのに目を据えた。/そこには、「雨、雨に濡れて歩きたい」という活字が、ひっそりと並んでいた。それは、あきらかに囚人がつけ加えたもので、その活字を消すことは、私にとって苦痛だったが、やはり、私には自分の作品が大事だ。/私は、複雑な気分で、赤い線を一本遠慮しながら引いた。〉

「雨、雨に濡れて歩きたい」と活字を拾ったその人に、新國誠一さんの「雨」を差し入れしてみたかったと思った。

ところでこれは「書き込み」と呼べるのかどうか。最初に「刑務所通い」を読んだ記憶では欄外の余白に付け足されていたように思っていたが、今回改めて読んでみたら、吉村さんの原稿の最後に改行して入れられたように思える。欄外じゃないし、なにより手書きじゃないので、マルジナリアの仲間ではないのかな。
でも「余白」に記されるマルジナリアは「メイン」を持つことが条件で、それは満たしていると言えるだろう。それに、欄外である必要はなさそうだ。「雨、雨に濡れて歩きたい」その人は、わかるひとだけにわかるしかたで精神の脱獄を図る方法があることに気がついて、〈他人によるマルジナリアとの対話〉にかけたみたいだ。拾った活字が印刷されることはなかったけれど、ささやかな対話はここにまた再開された。姿を消したマルジナリア。書いた人も受け取った人もみな消えて。

実際自分はどうかというと、ふだん本を読むのに書き込むことはほとんどない。試しに『マルジナリアでつかまえて』を鉛筆片手にマルジナリアン気取りで読んでみたけど無理だった。でもそれで思い出した。古い広辞苑をバラして紙を加えて製本しなおして遊んでいたことがある。ま行をとじた「ま行本」が棚の奥にまだあった。「マヴォ」「マカヴェイエフ」「まはりくまはりたやんばらやんやんやん」「まじ?」……、あるある、マルジナリア。ない項目を書き足すみたいなことをやっていたのだったか。他の人の筆跡もあるのはなぜだ……。「きょうはま行の日」とかいって「ま行本」を持ち出して「ま」で始まることばを探して書き込むみたいなこともやっていた気がする。せっかくだから、「マージン」のところに吹き出しで「マルジナリア」をマルジナリアして本を閉じよう。

はざーどまっぷ

北村周一

しずみそうな
しみずのまちの かわべりの
かすかにうみの においがする
ぎんざどおりの かたすみに
そのかみきれは おちていて
はらりはらりと はるかぜの
ふくにまかせて みちのはた
みぎにひだりに つつましく
ゆれていたっけ 
まどいつつ
ひろいあげれば からふるな
ちずのもようは いちまいの
おりたたみしき あんないの
いわばはざーど まっぷにて
たたんでみたり ひらいたり
まわりみわたし あたらしい
もちぬしとなる ことにした
そのないようを よみながら
しればしったで なおさらに
ふあんばかりが ましてゆく
どこへいこうか
しずみそうな
しみずのまちの かわべりの
あーけーどがいの なかほどの
よつじのかどの ふるぼけた
はなやのまえの みちばたで
はざーどまっぷを てにひろげ
ちずのなかへと まよいこむ
しらずしらずに ときがたち
ぎんざどおりの いっかくも 
ひとのざわめき とりもどし
みればいつしか ひのまるを 
てにてにもって えんどうに
ひとがきできて たのしそう
とおいせかいの できごとの
ようにうそぶく ひともいて
きせつはずれの かぜがふく 
それでもくろい ふゆがすぎ 
ふたたびみたび あおあおと
はるがおとずれ すぎさりし 
ときのふかさを おもいだす
どこへいこうか
しずみそうな
しみずのまちの かすかにも
うみのにおいが みちてくる
くらいとおりは けだるくも
みのおきばなき あのはるの
うれいはいまも わすれない
どこへいこうか
あおいとり
ぶるーばーどは こしょうがちで
すけっちぶっくを ともとして
ふうけいかいても ものうくて
じがぞうだけが たよりだった
どこへいこうか
しずみそうな
しみずのまちの あたたかな
うみのにおいに みたされた
まちのしずけさ おもいだし
うとうざかから まんかいの
ふなこしづつみ めぐりゆく     
はなのきのした わらいつつ 
さくらのみちを みんなして
あるいたことも わすれない
どこにいたって むねのおくに
ひろがっている そのことを
わすれずにいよう
しずみそうな
しみずのまちの あたたかな
うみのにおいに みたされた
あのはるのひの しずかなことも 


こんさーとの続篇でもあります

むもーままめ(5)

工藤あかね

 まだコロナ禍が世界を襲う前のある日、銀座の雑踏の中で私は途方に暮れていた。次の予定まで時間が中途半端に空いてしまって、ちょっとお茶でもしようかと思ったが、どこもいっぱいで入れない。道端でぼうっとしていたら中年の女性に声をかけられた。

「お時間おありでしたら、ご協力くださいませんか。アイスクリームのお味を見ていただく調査です。だいたい20分くらいですが、どうでしょう。ご協力の御礼にアイスクリームの商品券も差し上げます。」

 20分ならちょうどいいし、アイスクリームを食べる調査だなんてラッキー!しかも商品券までもらえる。私は二つ返事で、その女性にホイホイとついていった。


  ⭐︎⭐︎⭐︎


 雑居ビルをエレベーターであがり、通された場所は大きな会議室だった。なぜか、このような調査にありがちな個別の仕切りがなく、100人くらいの老若男女が長机の前に座っていた。一見したところ、誰もがちょっと戸惑った様子で、居心地悪そうに座っているのがわかった。

 これはいけない。失敗したかも…。雰囲気から察するに新興宗教団体か、ネズミ講への勧誘か。早く逃げた方がいい。あわてて出入り口を目視して立ち上がった瞬間、高圧的な音ともに扉が閉まった。

 ああ…これは詰んじゃったかな…。もっと早い時点で異変に気づくべきだったのに。アイスなんかにつられた私がバカだった…。

 そこへスーツ姿の男がつかつかと寄ってきて、作り笑いをしながら言う。「ど~うっぞぉ!おかけください。」

 薄気味悪いことこの上ない。しかもなんとなく逆らえない空気があったので、とりあえず従順なふりをして座った。けれど頭のなかは脱出計画のことでいっぱいだ。


  ⭐︎⭐︎⭐︎


 突然、怪しげな音楽が大音量で流れ始めた。素人が安いシンセサイザーで作ったような音響だった。これは完全に新興宗教だ。洗脳されないためにはどうしたら良いだろうか。あまりに逆らおうとするとかえって飲み込まれるかもしれない。私は適当に流す感じで聴こうと、努力した。

 続いてアナウンスが流れる。
「そろそろ星に帰る時が近づきました。みなさま心の準備をしてまいりましょう…。謹んでお知らせ申し上げます。あなた方は……タブラ星人です。」

 え、私、地球の人じゃなかったの!? これが本当なら、新興宗教よりもよっぽど深刻な事態では…。

 集められた人めいめいに、なぜかタライが手渡された。みんな訳がわからずタライをもてあそんでいたが、しばらくすると誰からともなくそれを頭にかぶり、トントンと叩き始めたのだった。会議室はあっという間に、スコールがトタン屋根を弾くときのような、ザーッという音で包まれた。

 私も恐る恐るタライを被ってみる。するとなんたることか、暖かいような懐かしいような気持ちになる。両手首を頭上において、二、三の指でタライを叩くと、やたらにいい音がした。夢中になって叩いているうちに、とうとう自分がタブラ星人であるという、はっきりした記憶が私の中に蘇ったのだった。


  ⭐︎⭐︎⭐︎


 さて、星に帰るとなると、これまで地球で家族や、友人だと思ってきた人たちと離れなければいけない。けれども、いまこの会議室で一緒になってタライを叩いている人たちが、実はわたしの家族や友人かもしれない。もっと一生懸命叩いたらタブラ星にいたときのことをたくさん思い出して、地球を離れることがさみしくなくなるのかな…。

 泣きながら頭上のタライを叩いた。必死で叩いた。全てを捨てることのつらさ、もうきっと地球には戻ってこられないだろうという悲しさで胸いっぱいになりながら、渾身の力をこめて叩き続けた。

 その時である。前方に設置してあったテレビが急に点いて、ドラえもんが画面に走り込んできた。
「勝訴!!みなさぁ~~~~~ん!! 勝訴したから、帰らなくていいですよ~~~~っ!!」

 昭和世代のドラえもん、大山のぶ代のダミ声が会議室に響き渡る。ドラえもんは墨で堂々と「勝訴」と書いた紙を上下に広げて持っていた。私は、ひゅんと我に返ったようになりながら、会議室に集められた見知らぬタブラ星人仲間たちと、地球に残留できることを爆発的に喜び合ったのだった。

 けれども、わたしはここに白状する。この時、心にはほんの一ミリだけ、タブラ星に戻れない寂しさが残っていたような気がすることを。


  ⭐︎⭐︎⭐︎


 今号も夢の話でした。眠りが浅いのか、妙な夢ばかり見るので、ひところは夢の内容を覚えておこうと、起きたらすぐに家族に話したり、内容を書きとめたりしていました。タブラ星の話も、そんななかの一つです。それにしても、タブラなのになぜタライ状だったのかは、自分でもよくわかりません。

釣り堀の端 その三

植松眞人

 釣り堀は車がやっと一台通れるくらいの道路に面していて、両隣は建て売りと思われる二階建ての家屋である。裏にも家があり、釣り堀は周囲を住宅に囲まれている。そして、釣り堀は建売住宅ばかりが建っている区画から家を三軒分くらい更地にして作られたくらいの大きさだ。
 景気の良い頃は、都心まで一時間半ほどかかるこのあたりも不動産が飛ぶように売れたらしい。しかし、長い不景気が訪れると都心の不動産が値崩れして、みんなごみごみとした都心部へとまた帰っていったのである。
 釣り堀の客も同様に減ったが、耕助にとってはちょうど良い数だった。客が来ない日は常連が一人か二人。多い日は十人程度。これでは食えないけれど、美幸のパート勤めと合わせると、なんとか二人で食べていける。なにしろ、もともと爺さんが残した釣り堀だし、自転車で通えるところに爺さんが残した小さなぼろ家がある。元手がかかっていないだけ、耕助は気楽に構えていた。
 美幸としては耕助がそれで良いというのならどこへでも付いていくつもりだった。パートの仕事なんてどうでもよかったし、なんとなく結婚してからも子どもを持つかどうかという話になったことは一度もなかった。家計がぎりぎりだったということもあるけれど、それ以上に子どもを好きだと思ったことがなかった、ということが大きい。もちろん、街中で小さな子と出会い頭にぶつかりそうになってその子が驚いて目を丸くしてから微笑んみながら「こんにちは」なんて言ってくれたら、なんて可愛いんだろうとは思う。けれど、子どもが欲しいなんて思ったことはなかった。子どもを見て可愛いと思うときはいつもペットショップで高級な血統書付きの仔猫でもみているような気分になる。可愛いけれど自分には関係ない。耕助はたぶん子どもが欲しいのだと思う。けれど、彼は自分から絶対に子どもが欲しいなんて言わない。言えば責任が生じてしまうとでも思っているんだろう。そんな考え方をすることが自分にもあるので、美幸は耕助のそういう態度が嫌いではない。もちろん、好きでもないけれど。
 だからといって、今の生活が最高だとは思わない。ぼんやりと耕助と自分という対になったひとつの形が、日々形をはっきりさせているような気がして、そして、それと同時に輝きを失い、表面に細かく小さな粉のようなものを振りかけられているような気がしている。だから、耕助に地方に引っ込んで釣り堀を継ぎたいと言われた時にも、最初に浮かんだ言葉は「お似合い」だった。耕助にも私にも寂れた地方都市のおそらく客がほとんど来ない釣り堀がお似合いだと思えた。
 もともと職を失っていた耕助も、パート勤めだった美幸も引き留めてくれる人もなく、美幸の実家の両親が僅かに眉を顰めたけれど、結局出てきた言葉は「いいんじゃない」だった。
 そんなことを考えながら、三浦くんが背中に触れていた手を美幸はそっとさげた。三浦くんはその手を艶めかしく握った。釣り堀の小屋の窓は横に広く縦に短く、耕助たちからは二人の上半身しか見えなかった。見えない位置で三浦くんは耕助たちに微笑みかけながら美幸の手を握り続けた。美幸も同じように手を握られながら耕助たちに微笑んだ。
 不思議だなあ、と美幸は思う。ここに越してきてまだ数ヵ月。三浦くんと顔を合わせてまだ二週間しか経っていないし、こうして外から見えると言いながら三浦くんと二人っきりの空間にいるのは初めてのことだった。それなのに、こうして三浦くんと手を握り合って、耕助を眺めていることがごく自然のことのように思えるのだった。これから先、三浦くんに抱かれるのかどうかはわからない。どちらかというと、邪魔くさいことにはなりたくないから、そういう関係にならなければいいな、とは思うけれど、こればっかりは成り行きのような気がした。三浦くんが美幸の人差し指と薬指の股のところを自分の人差し指の先で撫でた。最高に気持ちがよかったので、美幸は強く三浦くんの手を握り返しながら、たぶんこの一年でいちばん楽しそうな笑顔を耕助に送った。(続く)

自転車を買う

三橋圭介

自転車を買う。折りたたみ式の小型のRoverで、毎日一回朝8時頃から40分くらい乗る。車輪が小さいので小学生にも追い抜かれていく。いく道は2つくらい、まず白楽の家から片倉町経由で新横浜、菊名、白楽というコース。横浜駅というコース(片道16分)もあるが、これは短いし、あまり景色もよくないのでやめた。もうひとつは三ツ沢経由で東神奈川、白楽コースでは梅、桜並木を眺めることもできる。東横線沿いは山沿いなので多少の坂はあるが、自転車を降りて歩かなければならないほどの急坂はない。最近は新横浜コースをスイスイと進んで、朝の体操がわりにしている。なぜ自転車を買ったかというと、一年間自宅でオンライン授業をやっていたこともある。新学期からはほぼ毎日学校に行くので、体力づくりということでもいいかもしれない。これまでに自転車はなん度か購入し、盗まれたり、マンションの駐車場に放置して破棄されたりしてきた。実際、自転車に乗るための用事がなかった。買い物にはCOOP(生協)がすぐ近所にあるし、コンビニも2軒ある。この環境で自転車に乗るならば、乗ることを目的としなければいけない。でも私は方向音痴である。実は新横浜コースを探すのに苦労をした。暗くなってどうやって帰れるか、こっちか、あっちか、そっちか、どっち? さんざん迷走したあげく、「すべての道はローマに通ず」と何度も心でとなえ、ようやく一本の道を見出し、そしてくり返した(一度、新横浜コースを逆行してみたが、行きつけなかった)。折りたたみ自転車なので帰れなくなれば、最終手段としてタクシーか電車に乗ればいいと思いつつも、それではいけないと思いガラホ(INFOBAR xv)からスマホ(Iphone12 mini)に乗り変えて、Google Mapを携えた。しかしスマホを見ながらのサイクリングはつまらないことにすぐ気づく。結局スマホは使わずに固定したコースを少しずつ逸れながら彷徨うことにした。わが愛車Rover、その意味は「放浪者」、その名にふさわしいサイクリングを目指していく。

ぶらり旅

笠井瑞丈

久しぶりに車で
ぶらり旅に出る
チャボを連れ
なおかさんの故郷
金沢まで車を走らせる
行きは高速で松本まで行き
そこかから下道で
高山まで山道を走り

また高速に乗り

富山そして金沢へと

いつもは松本から長野
そして糸魚川を抜け
そして金沢へと

全ての道中を高速で行くのですが

もう雪も溶けているので
高山の山道を走るルートで行く

私はこのルートの方が好きで
冬以外はこのルートを使う

ところどころ残っている雪
ヘッドライトを消し
星の光だけの世界

川の音
森の匂

デジタル化した都会の
世界からの脱出した気分

二時間おきに
運転を交代
何も考えず
十代を過ごした
ヒットソングをかけ
外の景色を眺め

10年前は片道2500円の青春18切符で
12時間かけて鈍行列車で
東京から金沢まで移動した

これはこれでとても楽しかったけど

今はもう出来ないだろう

時間とともに変化するもの変わらないもの

なおかさん
そして
二羽のチャボ

この旅は楽しい

ゴロベースで遊ぶ(晩年通信 その20)

室謙二

 ゴロベースというのは、ピッチャー役が、ゴムボールを転がす。指でボールを捻って、変化球を転がしたりするのだが、地面が平でないとボールは思ったようには転がらない。バッターは低い姿勢で構えて、地面を走ってくるボールを右手親指の根本で打つ。注意しないと手が地面をこすっていたい。うまく打てば、ボールは早いスピードで地面を転がり、守りの間をすり抜ける。あるいはライナーになったり、フライになってホームランだ。
 友だちとゴロベースで遊んでいたのは、9歳か10歳ぐらいで、だから小学校の3、4年生だったろう。1955年(昭和30年)ぐらいかな。江戸川アパートの中庭だった。ベースは一塁、三塁にホームの三つなので、三角ベースともいった。3人いれば狭いスペースでも遊べる。ベースといっても、白いキャンバスの四角ベースは必要なし。ただここがベースだと言えば、それがベースとなる。大きめの石でも棒切れでもいい。

 あの頃ラジオの野球中継を聞いていると、アナウンサーが興奮して、「バッター打ちました、サード·ゴロ。ファーストに送球」とか、「ピッチャー·ゴロです。あっゴロをこぼしてエラー」」とか、ゴロという言葉がたくさん出てくる。
 ゴロは、ボールが地面を小さく飛び跳ねたり、転がったりしていくことだね。インターネットで調べたら、ゴロの語源は、英語の発音のgrounderが転じたものだとか、擬音語の「ゴロゴロ」が転じたのかもしれないとも書いてある。
 それでゴロとベースが一つになってゴロベースになった。ゴムボール(軟球テニスボール)と素手を使いどこでも遊べる。ひとチームは2人以上、つまりピッチャーと守り手。この二人で一塁も二塁も三塁のベースも守備範囲にできる。一人で掛け持ちしたっていいんだ。だからプレイヤーは1チーム最低2人、でも3人いた方がいいなあ。それ以上何人いてもいい。楽しかった。江戸川アパートの中庭、大きな銀杏の木の下で、日が暮れるまでやっていて、母親が「食事ですよ」と呼んでくれる。

  Play catch

 ゴロベースは、もちろん英語ではない。キャッチボールも、英語ではないね。英語だとPlay catch。
 キャッチボールは、ボールを相手に取りやすいように、だけど早い球で投げる。それを胸の前で受け取り、投げ返す。私は十三歳上の兄さんと、このキャッチボールをよくやった。兄さんは都立高校の硬式野球部で、ショートを守っていた。だから野球はうまくて、十三歳下の弟に教えてくれた。そのころは私は小学生高学年で、兄さんはまだ大学生か大学を卒業したばかり。そしてついに買ってもらった革のグローブと、軟式ボール(プロ野球が使う硬式ボールではない)でキャッチボールをしたのです。
 だけど30年ぐらい前にアメリカに住み始めて、近くの広場とか学校の校庭を見ても、あまりキャッチボールを見ない。だいたい東京に戻っても、子供たちがキャッチボールをしているのを見ない。と言っても、別に統計をとっているわけでもないから。
 試しに英語でPlay catchをGoogleしても、Youtubeでも、例はそんなに出てこない。私の記憶によれば、あのころ、つまり1950年代の少年はキャッチボールをよくやったと思うのだが。あれは戦後の一時期に盛んだった遊びなのだろうか?

  キャッチボールと民主主義

 雑誌「思想の科学」編集会議に、鶴見俊輔さんが寺山修司をゲストに呼んで話しをしてもらったことがある。寺山さんは、キャッチボールと戦後民主主義の話をした。
 爆撃の焼け跡に、一人がボールを持ってあわられる。
 そして他人にボールを投げる。その人はボールを受けて、最初の投げ手に投げ返す。そこに別の人が現れて、3人でキャッチボールを始める。そこにまた別の人が現れる。そうやって何人もの人が、輪になったボールを投げあう。これは争いではない。共同作業なのである。いい球を投げないといけない。助け合いの楽しみだ。
 寺山修司によれば、こうやって戦後民主主義が始まった。寺山修司によれば、民主主義は焼け跡の何もないところで、ボール一つを他人が投げ合ってグループを作っていくことだったのである。でもなにしろ50年以上前のことで、私は22歳だったかな、聞いたことの記憶は、都合のいいように変えられているかもしれない。
 寺山修司は、その方言のアクセントが、当時メディアでからかわれることがあった。中原弓彦(小林信彦のペンネーム)の名前で書かれた「虚栄の市」、もっとも現在出ている「虚栄の市」の作者は小林信彦になっている、その中では寺山修司らしき人間は、徹底的に揶揄してからかわれている。その中の寺山はメディアの中で有名になりたいと動き回る、東北弁訛りの知的でない男である。
 だけど実際に私たちの会議に現れた寺山修司は、背が高く、ハンサムで頭の切れる男であった。メディアで揶揄われている寺山さんを知っていた私は、ちょっと驚いた。もっともいま考えると、演劇的人間である寺山修司は、鶴見俊輔に招かれたので、知的な人間を演じたのかもしれないが。

  日本主義者は中国服を着る

 あるとき天井桟敷(寺山さんが主催していて演劇運動)のティーチインに招かれた。パネラーの一人に日本主義を演じていた男がいて、詰襟の中国服を着ていた。まあこれは日本の中国好きのある種の「伝統」だが。
 それでその人をからかった。私もその男性も若かったのである。
 さっきから日本主義的な言葉を発しているけど、それと詰襟中国服とはどういう関係なのかな?と。その人は、私の言葉を受け流すことができないで、猛烈に不愉快そうな顔をした。
 その時寺山さんは客席にいたらしい。後に友人から伝言がやってきて、あのからかいは、舞台を演劇的にしてよかったよ。というものだった。
 テレビで天井桟敷を見ていて、登場人物が「時代はサーカスの像に乗って、解放された動物園からやってくる」と叫ぶのを聞いて感動した。なぜ感動したのかその時も分からず、今も分からない。
「解放された動物園」ではなくて、「アメリカ」だったかもしれない。でも「時代はサーカスの像に乗って、アメリカの方角からやってくる」だと、寺山さんにしてはちょっと政治的すぎるな。寺山さんの話してくれた焼け跡のキャッチボールが戦後民主主義だというのも、ある種政治的ではあるが、あれは寺山流なんだ。

  寺山さんに教えられて

 野球はインターナショナルである。もっとも北米·中南米·アジアに比べてヨーロッパでは、あまり盛んではないらしい。焼け跡でキャッチボールが始まった時、それは日本でも戦前から行われていたが、野球言語が戦前も今も全て英語であることで分かるように、それはアメリカであった。戦時中は、軍部はそれを全部日本語に、ひけ(アウト)、よし(セーフ)、停止(タイム)にした。傑作なのはバッテリーで、対打機関にした。
 寺山さんの言う焼け跡のキャッチボールは解放であった。それはインターナショナルであり英語であった。しかし同時に戦前から定着していた、日本化されたものだった。キャッチボールは日本語英語であり、ゴロベースに至っては完全に日本語で子供たちに使われた。
 天井桟敷の「時代はサーカスの像に乗って、解放された方角からやってくる」と叫ぶのを聞く時、その「解放された方角」とはどこだったのかな?やってきたものはなにだったのか?キャッチボールとかゴロベースであったのか。寺山さんは、キャッチボールが戦後民主主義だと言ったが、子供の私はそんなことは知らなかった。ただそれを遊んだのである。それは貧乏民主主義の野球·ゴロベースであった。
 あの時、勝ち負けはそんなに重要でなかった。何人かで集まり、ルールだって確かではなく、わいわいと騒いで遊ぶ。そこには上下関係はなく、封建主義はなく、他のスポーツのように審判がいて、正しいことと正しくないことが、明らかにされることもなかった。あの時代を生きたことを幸福に思う。貧乏民主主義を生きたことを幸福に思う。グローブもバットも買えなかったが。

万華鏡物語(10)夜と朝、その間

長谷部千彩

 ステイホームが呼びかけられてからというもの、「ライフスタイルの見直し」が大ブームだ。どの雑誌も軒並み特集はそれで、タイトルはおろか、内容まで似通っている。早起きして、珈琲をドリップして、植物に水を遣り、物の少ない片付いた部屋でMacBookに向かう。適度に運動をし、栄養のバランスを取った食事を心がける。もちろん自炊で。世の中、多様性を謳うわりに、やること考えることはみな同じ。
 まるで正しい夏休みの過ごし方みたいだな、と思う。それも小学生の。
 
 外出自粛は確かに求められたけれど、部屋の中でどう過ごすかなんて自由なはず。そして、通勤から解放されたひとびとにおいては自分でデザインできる時間が確実に増えたはず。なのに、なぜこうまで目指すところが一緒なのだろう。
 時間を無駄にしてはいけないとか、日々を実りあるものにしなければいけないとか、そういった強迫観念にでもとらわれているのだろうか。勤勉というのはもはや宗教なのかもしれない。
 そもそも日本人はなぜ早起きをそこまで推奨するのだろう。社会生活に支障を来していなければ、何時に起きようと、何時に眠ろうと、どうでもいいと思うのだが。確か三島由紀夫は昼夜逆転した暮らしを送っていたはず。ジェームズ・ボールドウィンも執筆は真夜中だった。
 ふと閃く。久しぶりに私も夜型の生活を送ってみようか。飽きたら戻せばいいのだし。
 そして始めた夜更かしが数週間続いている。十年以上、早寝の生活を送っていた身には、これがなかなか新鮮で楽しい。
 
 小さな音量で音楽をかけ、ハーブティーを飲みながら明け方まで貪るように本を読む。
 電話も鳴らない。メールも来ない。眠る街はしんと静か。昨夜はそこに雨の音と自動車が濡れた車道を通り過ぎていく音が加わり、なんとも贅沢な気分を味わった。
 カーテンを寄せ、窓の外を眺めると、信号機が律儀に闇に青く光っている。いつもと違う位置に月が見える。ベランダに出て、春の風を胸に吸い込む。眼下には満開の桜の木。街灯がその花びらを白く浮かび上がらせる。東の方角に目をやれば、遠く重なりあうように建つ高層ビル群の障害灯が赤く明滅している。蛍のようにゆっくりと。清少納言なら、この眺め、このひとときをどう書き綴るだろう。
 気まぐれに広東語の復習をする。気まぐれに古い写真の整理を始める。気まぐれに友だちに長い手紙を書く。夜は気まぐれを優しく許す。
 そして、空が白み始める頃、サイドテーブルのキャンドルの炎を吹き消し、ベッドに潜り込む。私の朝は十一時から始まる。
 
 こんな生活は、いまの時代、決して雑誌に紹介されることはない(ここまで景気が悪くなる前は夜遊びをするひとも多かったけれど)。これも「ライフスタイルの見直し」のひとつなのに。
 先週受けた講義の中で社会学の先生が、資本主義の世界には、自分の時間の中心に労働を置くこと、労働の規律を中心に据えることが無上の価値であるという根深いモラルがあり、それは資本家にとって大変都合が良い。そのモラルとネオリベラリズムという新しい労働イデオロギーが結びついたのが現代社会だ――というようなことを言っていた。私はぼんやりとその話を聞きながら、つくづくその通りだなあ、とうなずいた。ほんとにね、みんな無駄なく有意義に時間を使うことは正しいと信じ切っているものね。頼まれなくても自ら良き労働者になっていこうとするよね、私たちは。

 一方、小学生の姪は、自宅からよりも学校まで近いという理由で、私の部屋によく泊まりにくるのだが、彼女は大抵朝四時に起きる。そして、朝食までの一時間半から二時間、必ずアニメを観る。放課後には宿題があるから、なんとしてもこの時間を活用しなければ、と思っているらしい。それは彼女の何よりの楽しみで、寝ぼけ眼などということではない。目覚ましが鳴るやいなや飛び起きる。先日は、アラームの時刻設定を間違えたようで、夜中の三時半に真っ暗な中、ひとりでアニメを観ていた。このひとは朝の中にいるのか夜の中にいるのか。この早起きは精勤と享楽、どちらがふさわしい表現なのか。その小さな背中を見つめ、私はしばし考え込んでしまった。結論は出ていない。わからない。

その⾔葉はまだこの地上にあって

越川道夫

春になった。
春の花は⾜早だと思う。咲いたと思うとちょっと⽬を離した隙に終わってしまう。仕事場へ向かう⼆駅ばかりの道のりを歩くだけでも、上を向いたり下を⾒たり忙しい。地表の近くにオオイヌノフグリが咲き、⼟筆が顔を出したかと思うと、その後からナズナやカラスノエンドウがぐんぐんと伸びていき、上から草たちを覆い隠していく。

オオイヌノフグリが⼩さな花を咲かせはじめた頃、4年前に93歳で亡くなった鈴⽊清順監督のことがしきりに思い出された。晩年の数年間お仕事でご⼀緒し、その仕事が終わった後、当時お⼀⼈暮らしだった監督のお宅によく遊びに⾏かせてもらった。何も持って来なくていいからな、なんでもあるんだから、と清順さんは仰るのだが、私は、おはぎやら⾖⼤福やらを持っていく。持っていくのだけれど、お宅に着くといつもテーブルの上には、朝スーパーで買ってきたと思われる寿司やら菓⼦やらが積み上げられているのだった。

世もすがら花か団⼦か愚宇猪⽛叭亜
猪突々々にあきたいのしゝ

亥年⽣まれの清順さんからいただいた寒中⾒舞いに書き添えられていた歌である。
公団の監督の部屋には雀が⼊ってくる。雀がお好きなのだ。清順さんが窓際の床に雀たちのために⽶を撒く。それを啄むために雀たちがやってくる。そうするとその⽶粒を狙って鳩がやってきて雀たちを追い払う。それを⾒た清順さんが⾆打ちをして鳩を追い払う。やがて、また雀が来る。また鳩が雀を追い払う。その鳩を清順さんが追い払う。その繰り返しを私は眺めている。
寿司や菓⼦をつまみながら清順さんから様々な話を伺い、コシカワくんは学がないねえ、と叱られ、最後は⼀緒に清順さんが監督をする前提のプロットを書かせていただいた。

「監督の脚本の書き⽅って、まずアッと思わせる仕掛場⾯を3つ設定するんですよね」
「そうだねえ、3ついるねえ」
「主役の動きを追って筋⽴てはない」
「そう」
「登場⼈物の性格や話の筋は後回しで、まず3つスペクタクルを決める」
「そうそう」
「3つ決めたら、その3つを⼿放さないようにしてつなげて⼀つの話にする」
「じゃ、まず3つ決めようか」

それから、私たちはああでもないこうでもないと離しながら3つのアッと思わせる仕掛場⾯を決めたのである。

「…あとは⾒せ場と⾒せ場をつなぐ筋⽴てと登場⼈物の設定で、多少の話のつじつまは合わなくても⾒せ場が⾯⽩く固唾を呑むよう筋を持ってゆけばいゝ訳です。こゝいらが⼩説や詩、思想哲学と違う映画の醍醐味で、つじつまの合わぬところを素知らぬ顔で⾒せてしまうのが、私たち職⼈芸のたる所以です。」

⾃分だけが特別であったという思い上がりはないが、役得と⾔えるような何かではあったと思う。思いがけず⽼魔法使いに弟⼦⼊りをしてしまったような、それでいて思い出されるのはいつも⼩春⽇和のようなどこか間の抜けた⻑閑な部屋の光景である。清順さんはこの企画が気に⼊ってくれたらしく、脚本にもし、亡くなるまで何とか映画にと動いてくださったようだが、ついに映画にはならなかった。最後にお電話をした時、電話の応対をしてくださった奥様の声の向こうから肺疾患であった監督のなんとも苦しそうな咳込む声が聞こえてきて、代わってもらうこともせず、特に⽤事ではないのだからと早々に電話を切ってしまった。程なくして、流れてきたニュースで私は清順さんが亡くなったのを知ることになった。「いつかこの⽇が来るとは思っていたが寂しい」、清順さんが亡くなってすぐにメールをくれたのは名古屋の映画館の⽀配⼈だった平野さんだった。その時、私は電⾞を待つホームで泣いていたのだった。平野さんも2年前に癌で亡くなり、もういない。

⾟夷が咲き、⽩⽊蓮が咲き、その花弁を開けるだけ開ききって、そしてあっという間に散っていった。⾵は強いが暖かな⽇が続くと桜の蕾が綻び始め、いよいよ満開かと思う頃に、装丁家の平野甲賀さんの訃報が、やはりニュースで流れてきた。私は平野さんの仕事の⼀⽅的なファンであってほとんど接点はない。ただ若い頃からずっと平野さんの仕事を追いかけ、特に映画の宣伝配給を⽣業にしていた頃には、仕事に⾏き詰まると必ず読み返していたのは、『平野甲賀〔装丁〕術・好きな本のかたち』(晶⽂社刊)ともう⼀冊は菊地信義さんの『装幀談義』(筑摩書房刊)の2冊であった。他の映画宣伝を⾒て⾃分の映画宣伝の仕事のことを考えない、と決めていた私にとって、この2冊が指針であったことは間違いない。映画の宣伝配給という作品と観客の間を繋ぐ仕事をしていた私は、⾃分の仕事を装幀家の仕事に重ね合わせ、平野甲賀、菊地信義という⼀⾒対極に⾒える⼆⼈の仕事の間で⾃分の仕事について考えようとしていたのだと思う。だからずっと平野さんの仕事は、私の側にあったわけである。
平野さんの訃報を聞き、夜中に『平野甲賀〔装丁〕術・好きな本のかたち』を読み始めた。何度も読んだ本なのに、まるで初めて読む本のように平野さんの⾔葉が⾝体の中に⼊ってくる。「攻撃的に」「マンガ的に」。私はこの本をまったく読めていなかったのではないだろうか、と思いの中で⼀気に読み終えてしまった。どこに書かれていたのかを忘れてしまったが⻑⾕川四郎さんは「仕事をしよう」というのが⼝癖だった、と読んだことがある。平野さんの⾝体は失われてしまったが、その⾔葉はまだこの地上にあって「仕事をしよう」と私の背中を押すのだった。

瀑布のように咲き乱れた桜は、⼆三⽇で散り始め、花筏がコンクリートに固められた川を下っていく。路肩や樹の根元に咲いた菫は、何度も⾬に降られ、泥まみれになりながらまだ咲いている。

杉山洋一作品集 Liner note

ピーター・バート

杉山洋一作品集

杉山洋一による作品だけを集めたこのアルバムは、「ポートレート(肖像画)」と呼ぶにふさわしいだろう。収録された4つの作品に、今日に至るまでの彼の伝記的要素と関連する出来事を見つけるのは難しいことではない。

最初期のそうした出来事は、彼がとても幼い頃に起きた。1969年に東京に生まれた杉山は、ヴァイオリンを3歳のときに始めた。桐朋学園音楽部門に進んだのだが、在学中に器楽の演奏家になる道を諦めてしまう。幼少期に演奏家――特に弦楽器の演奏家――を視野に入れていたという体験は、明らかにこのCDに収録されている大原美術館と今井信子の委嘱による《子供の情景 ヴィオラ四重奏編》(2017)に際立って現れている。「R. シューマンに」と付された副題は、シューマンの13のピアノ曲をたんに“編曲”したことを示しているのではない。むしろ、曲の冒頭で素材が “ウェーベルン的”な断片に細かく短く分解されてホケットのように組み合わさり、弦楽器による豊かな音色旋律を作り出していることからわかるように、驚くべき作曲技術と想像力でヴィオラ四重奏のために創られている。曲全体にわたって、ハーモニクス、微分音、グリッサンド、指板の上を叩く、金属製のミュートを使う、「LPレコードあるいはトランジスタラジオのよう」な音を出す、あるいは、ある箇所ではおどけたようにメロディーを口笛で吹くなど、弦楽器のさまざまな現代奏法が使われている。シューマンの原曲は再作曲というほど手は加えられておらず、きわめて「近代化」されているといえよう。

このことは杉山の経歴において、二番目に重要な側面を思い起こさせる。すなわち、早い段階から現代音楽に触れていたという事実である。またしても、始まりは早かった。最初のヴァイオリンの師である篠崎功子は、新しい音楽を演奏するアンサンブル、「ヴァン・ドリアン」で演奏していた人だった。つまり杉山は、すでに子どもの頃から日本の現代音楽シーンの重要人物に出会っていたことになる。その後まもなくして、杉山は作曲を始めた。13歳のときに三善晃の門を叩き、桐朋学園大学音楽学部でも三善のもとで学んだ。そして大学時代に同世代の作曲家の伊左治直、福島康晴、新垣隆とともに現代音楽祭「冬の劇場」を開催したり、弦楽合奏グループ「ミザン・ロージュMis en loge」を設立し、西村朗、高橋悠治の作品をとりあげ、NHKのラジオで放送したりした。既存の素材であるシューマンの強く調的な特徴を起源にもつにもかかわらず、《子供の情景》には杉山の現代音楽との密接な関わりをはっきりと見てとることができる。そして同様のことが、このアルバムに収録されているすべての作品においてもいえる。

杉山の現代音楽への関心は、別の方向へも広がりを見せた。「ヴァン・ドリアン」アンサンブルは日本にイタリアの作曲家を紹介する活動もしていた。そのなかで杉山はイタリアに住むフランコ・ドナトーニとサンドロ・ゴルリに師事し、それがきっかけでミラノへ移住する決意を固めた。こうしたイタリアとの縁は、さらなる副産物をもたらした。ゴルリが杉山に自身の作品の指揮を委ねたことから、エミリオ・ポマリコのもとで杉山は本格的に指揮を学び始めることとなった。そしてこの作品集と同じレーベルの初期のものとなる、ドナトーニの作品集でみせたきめ細かな演奏による録音を含め(NEOS 11410)、傑出した指揮者としてのキャリアもスタートさせたのだった。

指揮者でもあるという杉山の伝記的要素は、このCDにも反映されている。逆説的に聞こえるかもしれないが、このCDで指揮者としての杉山の存在は、目立っていない。しかし、もし指揮者の役割がスコアを固定された「もの」として扱うのではなく、生きた解釈の青写真を提示することにあるとするならば、杉山は確かにその役割を十分に果たしている。たとえば、ミュージック・フロム・ジャパンからの委嘱で「この年に起きたさまざまな事件の多くの犠牲者に捧げられた」、女声と器楽のための《杜甫二首》(2014)を例にとってみたい。この曲に総譜はない。決められた音価のない音高を記したパートのセットがあるだけである。そのほかのパラメーターは演奏者の解釈に委ねられており、奏者はいくつか記された指示をもとに演奏する。演奏者にそのような重要な決定を渡すというのは、作曲家として自信があるのだろう。それは杉山が指揮者として積んだ豊富な経験から得たものではないだろうか。あるいは杉山自身の言葉を引用するならば、杉山が目指していることは、「演奏者が自身で創造的なフレーズを演奏すること」なのである。

《杜甫二首》には、《子供の情景》と同じように、杉山が発見したものが組み込まれている。唐王朝の詩人、杜甫(712–770)ゆかりの西安の民謡である。これは杉山のもうひとつ別の履歴とつながることである。すなわち、「民族音楽と民族楽器」の探求である。それは、“民族”楽器そのものを用いたという意味において、彼の師である三善を追憶し、彼に捧げられた十七絃箏のための《鵠~白鳥の歌》に顕著である。《鵠》にも、発見されたものが用いられている。雅楽の誄歌(るいか)である。この歌は、天皇の葬儀のみで歌われるもので、尊が白鳥に姿を変えることが詠まれる。このことは音楽的な素材としてだけでなく、緩―急―緩―急の四部構造にも反映されている。しかし、何人かの日本の作曲家とは異なり、杉山はこれらの“伝統的”な要素を“東”と“西”の略図を示す方法としては用いていない。彼が日本とヨーロッパを行き来して生活しているように、両者の接点を探している。たとえば、“シルクロード”(中国の杜甫)や、16世紀にポルトガルの宣教師によって日本にもたらされたグレゴリオ聖歌があげられよう(伝統楽器である箏の曲《六段》はグレゴリオ聖歌に影響を受けたものであり、杉山はかつて箏のための別の作品で引用している)。《鵠》では、器楽のために書くことで、より緻密なつながりが生まれたように思われる。この曲でも伝統的な書法とはっきりと耳に残るペンタトニックの響きを含む音でさえもが、現代西洋の奏法と混ぜ合わされ、見事に使いこなされている。ピッチベンド(音高をしなやかに変化させること)なのかグリッサンドなのかなど、実際にどのカテゴリーに分類されるかを判断するのが難しい場合があるが――。

杉山が最近、新たな展開をみせていることを示すのは、「政治的状況をより意識するようになった」という2003年のイラク戦争を端緒として書かれた作品である。彼のそうした認識は、東京現音計画の委嘱で書かれ、2011年の津波の犠牲者に捧げられた五重奏曲《アフリカからの最後のインタビュー》(2013)で全面に現れてきた。ここにも杉山が関心を抱いている多くのことが表れている。演奏は指揮者なしで行なわれ、スコアはいわば“開かれた”もので、個々のパートは完全には固定されておらず、キューが示されているだけである。この曲では、既存の“エスニック”な素材が用いられている。それはナイジェリアの作家で活動家のケン・サロ=ウィワの墓で毎週唱えられる祈りで、ここではアフリカの歌そのものを想起させる一種の騒々しいヘテロフォニーを生み出す微分音のユニゾンに近い形で提示される。演劇的要素も取り入れられており、演奏者はアフリカの衣装を身につけ、一人ずつ登場する。そして打楽器奏者はアフリカのシンボルのようなオイル缶を叩いて前へ進み、その後「ナイジェリアのトーキングドラム」をもって歩き回る。この曲は五重奏曲だが、五番目のメンバーは録音済みのサウンドモンタージュで曲の最後にだけ登場する。それはサロ=ウィワの最後のインタビューを200回繰り返すもので、曲に政治的側面を加える。野心的な作品であり、もっとも完全な形で「成熟した作曲家である芸術家の肖像」を伝えるものである。ただし、これまでの杉山のキャリアがダイナミックに展開したことをかんがみると、将来はまた変わるかもしれない。するとこのCDは、完成された肖像画というよりも現時点での肖像画ということになるだろう。
(訳・⼩野光⼦)

しもた屋之噺(230)

杉山洋一

萌え立つ新緑が、春らしい明るい光線にまばゆく輝いていて、午後の公園は溢れんばかりの子供たちで賑わっています。目下ミラノは変異株の拡大で都市封鎖の真っ最中ですが、学校に行かれない子供たちを、小学校の遠隔授業の終わった午後、親たちが思い思いに公園に連れ出しては、こうして溜まった鬱憤を発散させているに違いありません。

今朝がた、郵便受けに突然六通もミラノ市から書留が届き、何かと思って郵便局に受取りに行ったところ、すべてゴミ税滞納による思いもかけぬ多額の過料通知でした。復活祭直前の厄落としと思いつつ、事情もわからず未だ狐につままれた思いです。

3月某日 ミラノ自宅
一日遠隔にて試験。悲しいかな、必要に迫られ我ながら慣れてきた気がする。授業で苦労していた学生が随分しっかり勉強している。授業時間は削減されたが、昨年最初のロックダウンの際に録画した、独習用ヴィデオをみな繰返し使って復習しているらしい。この形態でも、この時間数でもこなせると分かると、これが基本スタイルと認識されそうで、少し怖い。本来、もっと学生同士もコミュニケーションを取りながら、愉快に授業をしていたものが、今は最小限の時間数で、試験に間に合わせるために教えているから、どうも世知辛い。
ロンバルディア州がオレンジゾーンになり、コモは監視強化地域(zona rafforzata)となった。いつまで対面レッスンが出来るのか。新感染者数17083人、陽性率は5,1%。死亡者数343人。

3月某日 ミラノ自宅
母86歳誕生日。ミラノも今日から濃オレンジゾーンになった。
「深橙色」、「濃橙色」、という表現がイタリアらしく微笑ましい。レッドゾーン(危険地域)に近い、オレンジゾーン(準危険地域)を意味する。
息子が通う残り少ない日本人学校も遠隔授業になり、卒業生のみ登校となった。卒業制作として、マスクなしの在校生の姿を残そうとヴィデオを作ったそうだ。
日本政府は、海外からの帰国後三日間は政府指定滞在先で待機と発表。卒業後すぐに帰国する息子の同級生たちは、帰国後の処遇に不安を募らせている。
あと数日間作る積りだった息子の弁当も、こうして思いがけず終了した。分かっていれば最後くらいもう少し手の込んだものを作りたかったが、生憎食材が切れかけていて、アンチョビーと干しトマトの油漬けで、ごくシンプルなパスタを作って済ませてしまった。
弁当を作らないと、早朝、急に時間の余裕もできた。
息子のためには毎日何某かパスタを作っているが、彼に付き合って毎日食べていて身体がすっかり重たいので、代替にカネリーニ豆を食べるようになり、もう二週間ほどパスタを食べていない。お陰で身体がとても軽くなった気がする。
新感染者数24036人で、陽性率は6,35%。死亡者数297人。

3月某日 ミラノ自宅
沢井一恵さんより「芸術とは何でしょう」と質問をうける。何かを深く感じさせるものであれば、それは芸術ではないだろうか。反駁も可能だが、その反駁も含めて芸術の一部となりえるのではないか、とお答えする。この年齢になって、不協和、不調和な響きの面白さと美しさを見出したのは、なぜか。新感染者数23641人で、陽性率は6,6%。死亡者数307人。

3月某日 ミラノ自宅
女性の日。レプーブリカ紙の表紙も女性。
後期の聴覚訓練授業を受講しているロザーリオは男性だが、見るからに女性的で柔和な物腰だ。
「わたしをローザって呼んで」などと言うものだから、無意識にこちらも相手を女性として女性形で話しそうになる。これは本来どちらで話すべきなのだろう。
性別の問題は、日本語より寧ろ西欧語の方が厄介で複雑な気もする。相手は、女性として扱ってほしいから女性形で話してほしいと思っているかも知れないが、他の学生の前で、君の性別をどう扱うべきかと話せるものでもない。今まで何人もの同性愛者は教えてきたが、ここまで艶めかしい学生はいなかったので、気にしたこともなかった。
「女々しい」「雄々しい」「勇ましい」「姦しい」「嫌」「雄叫び」などの言い回しは今後は使えないだろうし、「嬲る」「嬶(かかあ)」も使用禁止は免れないはずだ。
新感染者数13902人で、陽性率は7,5%。死亡者数318人。イタリアでのパンデミックの犠牲者数が10万人を超えた。

3月某日 ミラノ自宅
日本人学校卒業式。朝息子を6時に起し、簡単な朝食をこしらえ散歩に出て、道すがら菓子パンを二個買う。帰宅後息子のワイシャツに糊をつけアイロンをかけ直すと、それを着て最後の登校をする。自分の服装など全く考えていなかったが、父兄の写真撮影もあると聞いて、慌てて自分のワイシャツにもアイロンをかける。ネクタイをしめるのは、何年振りか。卒業生のみが登校し、卒業生の父兄は家族につき一人まで参加可能となった。在校生は在宅でズーム中継を眺める。卒業式が出来なかった昨年より恵まれているそうだ。

オランダの後藤さんのお葬式をヴィデオで拝見する。無駄のない、心温まるセレモニーで、相変わらず少女のような後藤さんは、眠っているようにしか見えない。
参列できない我々に用意されたヴィデオは、オランダらしく合理的で進歩的な発案だが、それを眺める我々の姿を、飄々とした後藤さんなら、あちらから微笑みながら眺めてくれているはずだ。
イタリアの葬儀より、漂う空気が少し軽い気がするのは、カトリックとプロテスタントの土壌の違いか、宗教色を排したお別れの会だったからか。柩に並べられた、揺らめく小さな蝋燭がうつくしいと思った。
柩の蓋を近親者が、木製とおぼしき大きなねじで締めてゆく姿は印象的でもあり、温かみを感じて嬉しかった。
当地だと葬儀社が電気ドリルで大きな音を立ててねじを締めてゆくのだが、何度見てもあれには馴染めない。もう少し優しく扱ってほしいと常々思っていた。
思いがけず、ヴィデオの終わりに昔ヴェニスでご一緒したときの演奏風景が流れた。彼女が喜んでくださっていたのなら、これ以上のことはない。
あまりに現実離れした光景だったから、ずっと淡々と眺めていたが、出棺風景になったとき、突然悲しみが溢れてきた。
新感染者数19749人で、陽性率は5,7%。死亡者数376人。

3月某日 ミラノ自宅
来週からまたレッドゾーンになるそうだ。学長より指揮レッスンの一時休止が伝えられた。息子がイタリアの中学卒業試験を受けると言い出して、慌てて願書受付先を探す。
日本の入国制限強化により一日2000人の入国となり、日航、全日空ともに三月中の新規入国予約が停止された。
息子の級友も帰国後三日間の国指定の宿泊所の様子がわからず、特に小さい子供を抱えた家庭は同室になるのだろうかと気を揉んでいる。新しく発表された対策でまだ誰も様子が分からない。差し入れも宅配も不可なので、念のため二週間分の荷物を持ち込む家族もいる。昨日左目に軽い出血。息子は病院に行けと大騒ぎしている。

母から町田の市役所屋上から撮った箱根山の写真が届き、「遠くに二子山、神山がみえて、俄かに里心がつきました」とある。彼女が疎開していた山北を訪れたこともなく、殆ど何も知らないと気づく。母から教えてもらった疎開先の磯崎邸は、現在も当時と同じ場所に残っていた。この大きな邸宅の離れに、家族全員で疎開していた。
駅前のセンダ時計店も、小学校六年生の頃通っていた坂の上の川村小学校も、道すがら建っている室生神社も残っていた。尤も、グーグルマップのストリートビューを送ると、昔の面影が残っているのは神社だけね、と嬉しそうに笑った。

息子が昨年秋まで通っていた、ノヴァラの国立音楽院の57歳クラリネット教師、サンドロ・トニャッツィが、アストラゼネカのワクチン接種後数時間で体調を崩して死亡。ノヴァラのあるピエモンテ州、アストラゼネカワクチン使用を停止。新感染者数26062人で、陽性率は6,98%。死亡者数317人。

3月某日 ミラノ自宅
アメリカのPよりメール。すっかり返事を書かずに申し訳ない、とある。
教鞭を取っていた大学で、女子学生から言われなきセクシャルハラスメントで訴えられ、大学から一方的に解雇されたと言う。
実家のあるカリフォルニアに戻ったところ、体調を崩していた父親も亡くなり、すっかりふさぎ込んでいるという。冤罪をはらさなければ、今後一切の活動ができないから、絶対に裁判には勝たなければならないが、弁護士料はとても高額だという。返す言葉が見つからない。
新感染者数15267人で、陽性率は8,5%。死亡者数354人。

3月某日 ミラノ自宅
学長より連絡があり、指揮の対面レッスン再開許可が得られたそうだ。大慌てで学生とピアニストに連絡し、明日のレッスンをやると伝える。
Hさんより「本当にこのパンデミックはいつまで続くのでしょうか。”にもかかわらずコンサートする”状況のなかでは、恐怖心と感謝する気持ちが混在して、ふとしたことで涙してしまいます」と便りが届く。
イタリア全土でアストラゼネカワクチン使用停止。ドイツとフランスも一時的に使用を停止した。新感染者数20396人で、陽性率は5,5%。死亡者数502人。

3月某日 ミラノ自宅
日がな一日学校でのレッスンの後、夕刻になって市立学校を運営する財団より、ワクチン接種受付開始の通知あり。ロンバルディア州のサイトより登録。
パンデミック期間中において、イタリアは先進国で唯一書店の購買数が増加した国だと、レプーブリカ紙は誇り高く書いている。特に中小の書店の貢献度が高いそうだ。このところ、新聞の一面はワクチン分配状況の詳細な分析に割かれている。
新感染者数23059人で、陽性率は6,2%。死亡者数431人。

3月某日 ミラノ自宅
ストラヴィンスキー歿後50年特集。レプーブリカ紙付録の「il venerdì金曜日」でストラヴィンスキーが長年愛して止まなかったイタリアとストラヴィンスキーの関わりについて、興味深い記事が掲載されている。彼がヴェニスに埋葬されるとき、神父が立つゴンドラに揺られて柩が海を渡る姿の写真も印象的だ。
生涯イタリアに移住を望んでいたストラヴィンスキーがアメリカに留まったのは、アメリカで糖尿病の先進治療を受けたかったからだと言う。マルチェッロ・パンニが奔放にインタビューに答えていて、読んでいてちょっと心配になるほどだ。ストラヴィンスキーは芸術家というより寧ろ職人だった、彼の指揮は良くも悪くも書かれている音を再生させるだけだった、という塩梅で、マルチェッロを知っていれば、凡そどんな口調でインタビューに答えているのかも想像がつくので、ご愛敬と呼べばよいのか。
本日15時よりアストラゼネカワクチン再開。新感染者数25735人で、陽性率は7,05%。死亡者数386人。

3月某日 ミラノ自宅
一日自宅にて遠隔授業。昼休みは1時間しかないので、朝のうちに昼食のソースを準備をしておき、1時に授業が終わり次第パスタを茹でて息子と二人で昼食。
器楽科学生のための聴覚訓練授業のズームリンクは息子にも送って、見学させている。21時過ぎ携帯電話にショートメッセージが届き、明日18時55分にワクチン接種とのこと。昨日からアストラゼネカの使用が再開されたためだろう。
新感染者数23832人で、陽性率は6,7%。死亡者数386人。もうこれ以上状況は好転しないのかと虚しい心地だ。

3月某日 ミラノ自宅
早朝ジョルジアまで歩き、朝食のパンを購いつつ息子の誕生日ケーキを予約する。

帰宅後はレスピーギとカスティリオーニの譜読み。その傍ら、息子はここ数日昔のイタリアの教科書を読み返している。夕刻、東京にいる家人より電話。アブダビ経由便をアリタリアから予約したが、どうも処理がうまくいかないという。息子が家人にワクチン接種の件を話してしまい、彼女は興味津々。「怖くないの」。

18時半ころ自転車で旧見本市会場6番ゲートに着いた。人が屯う入口で係員に携帯電話のショートメールを見せると、そのまま2階に進むよう言われる。
巨大な螺旋階段の途中で、接種が終わって戻ってくる人たちとすれ違うが、皆、加減が悪そうには見えない。尤も、加減が悪ければ歩いて降りてこないだろう。
大きな見本市会場なので、2階とは言え普通のビル6階程度の高さはある。そのだだっ広い見本市会場の2階が、パーテーションで迷路状に仕切られている。
最初に番号札と問診票を受取ったのだが、順番が思いの外早く回ってくるので、誰も問診票を最後まで書きこめない。問診票の最初には、アストラゼネカの接種を許可するか拒否するか記入するようになっている。自分は健康だから、アストラゼネカのワクチンでも構わないと思い、許可する、にチェックした。

5分と待たず、通された次のブースで妙齢から保険証の確認を受け、続いて長い廊下を伝って、ぽつぽつと置かれたパイプ椅子の待合所で改めて5分ほど待った。
続くブースで若い女医から改めて細かく問診を受け、アレルギーや基礎疾患の有無を何度も確認されたあと、サインをもらい、赤いパイプ椅子が4つほどおかれた隣の2畳ほどの小さな待合室に進む。問診は3,4分ほどだったろうか。隣では、一つ一つの問診を外国人の被験者のため、英語に通訳していた。
待合室では、陽気で恰幅のいい南米出身の看護婦が采配をふるっていて、あそこに行って、ここに行って、と要領よく指示を出している。
5分と待たずに順番が回ってくると、手前から二番目の仕切りに進んだ。
陽気な中年の看護士に、開口一番「わかった!あなたは外国語大の先生だね」と言われたので、やんわり否定する。
職業をたずねられたので、音楽をやっていると答えると、また暫く考えてから、今度は出し抜けに「クラヴィチェンバロか、ヴァイオリンだね」とまた大声を上げた。その度ごとに、仕切の後ろで妙齢たちの笑い声が沸き上がる。
ヴァイオリンは昔少し弾いていたけれどと答えると、それなら何の楽器を弾くのかと食い下がるので、実は何も弾けないと白状すると、とても不服そうな顔をされて、申し訳なくなった。思いの外痛くない注射で、思いもかけず直ぐに終わった。予後観察室で15分間様子を見て、何もなければ帰宅してよいと言われる。
予後観察室は見本市会場のフロアを真ん中にのびる長い廊下で、壁に沿って点々とパイプ椅子が並んでいるにすぎない。そこで、各人思い思いに時間をつぶして、暫くすると帰っていく。
ここについたのは未だ18時50分だったから、本来の予約時間にすらなっていない。信じられない程手際よくこなしているが、イタリアの底力かとも思った。特に痛みもなく、あっけない印象しか残っていない。
接種後の酷い脱力感を想像していたので、帰りは自転車をおいてタクシーで戻らなければいけないかと心配さえしていたが、全く問題なく帰途に就いた。
首都圏の非常事態宣言解除。イタリアの新感染者数20159人で、陽性率は7,2%。死亡者数300人。

3月某日 ミラノ自宅
昨晩は寝苦しく、酷く魘されていた。少し熱も出ていたのだろうか。目が覚めると両眼とも充血していて疲労感もあるが、ワクチンと関係あるのかわからない。朝方、イタリアの中学より息子の資格試験について電話を受けるが、呂律が回らず、頭もぼんやりして、何だか自分の身体ではないようだ。息子が願書を出した中学の校長からも電話がかかってきた。
午後からは軽い疲労感のなかで在宅で授業をやっていたが、夕方学校へ自転車に出かける辺りから、口を開けるのも話すのも億劫なほどの疲労感に襲われた。
それでも朦朧としながらレッスンをして、帰りしな、指揮伴奏の木村さんより、他の同僚たちは皆38度、39度と高熱を出し軒並み休講していると教えてもらった。そんな中自転車でよくここまで来たものだと感嘆され、心配される。
ぼんやりしたまま、頼んでおいた中華の持帰りを受取って帰宅。
大規模な社会実験に参加しているのだから、多少の不便は仕方がない。
社会参加の一環ともいえるが、これが新たな不均衡や、差別の対象とならないよう切望する。
昨日は何ともなかった注射跡に疼痛が走るようになり、気が付くと左手に力が入らない。疲労感で口も開けたくないが、食べれば食事は美味だったので、安堵する。
新感染者数13846人で、陽性率は8,1%。死亡者数386人。

3月某日 ミラノ自宅
朝、ベルリンと東京を結んでズーム会議。緊張しているせいか、倦怠感もなく頭もすっきりしていて、これで普通の生活に戻れるかと思いきや、会議が終わった途端、猛烈な倦怠感に襲われて驚く。目の充血も取れない。
自転車でブレラ通りのペッティナローリに息子の誕生日祝を買いに出かける。身体が宙を浮いているような塩梅なので、のんびりペダルを漕ぐ。結局イタリアの手漉き紙ノートを購入。2017年1月から使っていた自分の日記帳も使い切ったところだったので購入した。日本から戻る機中、細川さんの「大鴉」を譜読みするところから始まっていた。

甲賀さんの訃報をニュースで知り、目を疑い思わず3回読み返した。
ワクチンの後で既に力が入らない身体だったが、腰から下が突然砂状になったように力が抜けた。
今まで、基礎から積み上げるような、真っ当な人生経験をしてきていない。礎を築いてから理解を深めてきたものは何もなく、どれも好い加減で大雑把なまま、完璧なものは何もない。どうして「水牛」を知ったのか、最初の切っ掛けは最早思い出せないし、水牛がなんであるかなど知らないまま、「水牛」の題字を意味も分からず毎月眺めているうち、何時しか自分も音楽をやっていた。流れに任せて生きてきた自分の時間を反芻しながら、しなやかな水牛の角のような、焦げ茶と日に焼けた深紫の間のような、うつくしい水牛の題字をおもう。
今月、日記を美恵さんに送れるのだろうか、神戸の中華料理屋を思い出しながら、ぼんやり考える。結局送ることになるのだろう、砂の下半身のサラサラいう音に耳をそばだてつつ、考えている。新感染者数18765人で、陽性率は5,59%。死亡者数551人。

3月某日 ミラノ自宅
今日も一日学校でレッスン。息子の誕生日祝を用意し、午後にケーキを受取りにゆくよう指示を書き朝早く学校に着くと、正面玄関脇のベンチでタバコをふかしていたチェロのアルフレッドに声をかけられる。
「ワクチン打ったよ。物凄く調子が悪くなって39度の熱が出た。普段ワクチンなんて打ったこともないから、より酷く副反応が出たのかもしれない。今はもう大丈夫だけれど」。
こちらはまだ注射跡の疼痛も取れず、左手は余り力が入らず、口を開くのも億劫な感じがつき纏っているから、羨ましい。レッスン中もいつものように動き回れなかったし、頭はぼんやりしたままで、腕も自分のものではない感じ。
オリンピックに際して、選手たちのワクチン接種を義務化されると、本来の力を出せない選手も出てくるに違いない。
アストラゼネカのイタリア人研究者のインタビューが載っていたが、この副反応こそ免疫反応の記だからよい兆候だという。そうやって体に記憶させてゆくものだ、と明快な説明が付されている。新感染者数21267人で、陽性率は5,8%。死亡者数460人。

3月某日 ミラノ自宅
ミャンマーで110人以上の国軍による市民虐殺発生。
金沢で般若さん「河のほとりで」初演。「河のほとりで」のリハーサル録音を墓前で聴かせてきた、とティートから涙声で電話をうける。丁度今日が初演だったと伝えると、おどろいていた。新感染者数23839人で、陽性率は6,7%。死亡者数380人。

3月某日 ミラノ自宅
未だ朝起きると、軽く眩暈が続く。持病の眩暈と違い、疲れが原因ではないと自覚できるのが興味深い。暫く頭を持ち上げていれば気にならなくなるので、少し慣れてきた。

久保君から「かぎろひうつろふ」の楽譜を拝受する。初めて秋吉台で彼の楽譜を見たときから事あるたびに、materiaを信じて掘り下げるべきと伝えてきた。人を信じるように音楽を信じ、materiaを信じてほしいと思ったからだ。今、目の前にある楽譜は、文字通りmateriaが言葉を発していて、きらめく瞬間がそれぞれ質量のつまったmateriaに昇華し、心を穿つ。materiaに対応する日本語が思いつかないが、素材でも材料でもなく、中身の詰まった質量の高い存在のなにか。美味しい材料だからと殆ど手も掛けずに調理するときの、食材に近いもの。
「陽光に貫かれ 大地の胸に 一人佇む。気が付けば 思いもかけず 夜はおとずれる」。クワジーモドの有名な死の暗喩が、楽譜尾に書きつけられている。
若いのだから、そんな風に思わなくてよいと諭したくもなるが、思うところもあって少し泪ぐんだ。夜半、遠くで賑々しく花火が続いている。新感染者数16017人で、陽性率は5,3%。死亡者数529人。

3月30日ミラノにて

千年川

管啓次郎

百人の子供が死んで
ちょうど十年死んでいる
合計すれば千年の
成長がこの世では失われた
川を流れていった
空は青い
山は別の青さ
でも本当は
失われたものは何もない
千年が今に注ぎ込まれ
土地を美しくする
辛夷が咲いた
もうじき燕が来る
川はゆたかに流れて
空は春の青
みんな大きくなったね

平野甲賀(1938−2021)

高橋悠治

貼り交ぜ屏風 隙間だらけの空間 新しいアイディアや 他のひとたちの参加できるいい感じ 楽にやるのがいちばん 平野甲賀の本のどこかから ことばを綴りあわせると こんなことになる

本の装丁だけでなく カフカのノートから断片を拾い集めた『可不可』を作ったときは 舞台美術もやってもらった 木彫りのオドラーデク人形も 舞台の真上に吊り下げて それはだれも見なかった

太い指 手書きの頃はペン一本で だれよりも先にコンピュータを使うようになると 一筆ずつがあちこち向いて それでもぎりぎりで文字になる描き文字 手描きからフォントにするコウガグロテスク グロットは洞窟 手探りですすむ 暗闇の手触り

1978年「水牛新聞」を始めたときから 「水牛通信」もコンサートのチラシも すべてまかせていた 2015年に小豆島にそれから高松に移ってもずっと 2020年10月に会いに行き 今年3月に来るはずだったのに

シアターイワトの前にいる平野甲賀を思い浮かべながら『長谷川四郎の猫の歌』を作曲したことがあった コウガグロテスクや貼り交ぜ屏風のことを書きながら しばらく前から頭の隅に取り憑いている聞こえない音楽がある

一筆ごとに 太く 細く みんなそっぽを向いている線の集まりが一文字ならば そんな集まりがまばらに浮かぶ空があり 勢いある筆の跡が ことばの流れを断ち切って 線ではなく 前後左右上下のある立体を錯覚させる塊になり 別な塊と喚び交わす

筆の勢いは 石川九楊の「筆蝕」ということばのうちの 液体が表面に染み込み変質させる力よりは硬い 石をえぐり削り込むような 不器用な力の痕に見える

断片を吊り下げ それらを空間に浮かべる 見えないオドラーデクがくるくる回っている

2021年3月1日(月)

水牛だより

3月を迎える日は、ひと月前の2月を向かえるのとはちがって、これから春が来るのだというあたたかな気持ちがします。近所の沈丁花の花がいっせいにひらいて、春の香り匂い立つ日です。

「水牛のように」を2021年3月1日号に更新しました。
今月はじめての登場は服部玲治さんの「新・エリック・サティ作品集ができるまで」です。これまで何度か書いたように、水牛通信の読者のなかでもっとも若かったのは杉山洋一さん、当時14歳ですが、ここに当時3歳のときに水牛楽団を聴いたという人があらわれました。そういえば、親に連れられていった水牛楽団のコンサートをなにがなんだかわからずに聴いたという人には何人か会ったことがあります。コンサートはいまでもこどもを連れていけないことが多いと思いますが、水牛ではそういう「禁止」はしなかったので、いやいや連れていかれたこどもたちがわりとたくさんいたのですね。なんらかの種を彼らにばらまいたのかもしれない、と今になって考えます。そして、そういう場所があるのはいいなとも思います。こどもの感受性は、音楽が好きで詳しいおとなとは違うところがおもしろい。こども向けとかなんとかいうことを考えすぎずに、大人である自分とおなじように聴けばいいし、演奏中にこどもが泣き叫ぶことがあってもいいじゃない、と思います。
ピーター・バートさんの「高橋のふたつの側面」は、杉山洋一さん企画のコンサート2回分を録音したCD「KAGAHI」の解説です。

それでは、来月も更新できますように!(八巻美恵)

新・エリック・サティ作品集ができるまで(1)

服部玲治

きっかけは過去の録音の再発売だった。
2016年、作曲家生誕150年となる年を記念して、わたしは悠治さんが過去にDENONレーベルへ残したサティの作品群を再発売することを企画した。
3歳の時、母親に導かれ水牛楽団のコンサートに行き、カセットテープで水牛のアルバムを何度となく聞いていたわたしにとって、高橋悠治という名は常にとおくにあって燦然と輝く存在だった。
そしてサティ。小学生の時分、CMで「エリック・サティの音楽のように」というナレーションとともに流れてきたジムノペディのメロディに魅了され、当時上梓されたばかりの秋山邦晴「エリック・サティ覚え書」をクリスマスプレゼントに親へせがみ、何度も読みふけって以来このかた、わたしにとってはクラシック作曲家の一番星なのである。
レコード会社に勤めてまだ10年に満たないキャリアのわたしにとって、サティのアルバムの制作に携わることができるのは悲願のひとつだった。そしてましてや、悠治さんの音源にかかわることができるなんて。
その存在を知ってからずっと、孤高の哲人のイメージを抱き続けていた悠治さんに、再発売の許可を求め、はじめて連絡をとるのは、ぴんと張り詰めた緊張感をともなった。タイプする指に汗をにじませながら、思い切って送信ボタンを押す。
「いまなお色あせぬこのアルバムを末永く、そして今の若い世代の人々にも届けたいと願って企画しました」
そんな言葉を添えて。
 
返事はほどなくやってきた。再発は、どうぞご自由に、そんなニュアンスの短いメール。それでも、返事が来たこと自体が、なにか止まった時間が動き出すかのように感じられたのを今でもありありと覚えている。すぐに再返信をするにあたり、わたしは欲がでた。
ひょっとして、悠治さんと、サティの新しい録音はできないか。
2004年に発売された「ゴールドベルク変奏曲」の悠治さんの再録音を思い出していた。1976年の旧録音を愛聴していた身としては、この新録音の演奏の大きな変化に釘付けとなった。まるで一転倒立のような、重力から解き放たれたような揺らぎに衝撃すら覚えたのだ。
サティも、80年前後の録音のころとは、大きく変化したものが現われるに違いない。
つたなくも、提案をまとめメールをしたため、意を決して送ると翌日には返信。
「サティをもう一度出すのは、おもしろいかもしれません」

しもた屋之噺(229)

杉山洋一

どういう理由かわからないのですが、夜中の0時の時報とともに、外で花火が盛んに打ちあがっています。今日がロンバルディアがイエローゾーン最後の週末で、変異種感染が進んで来週からまたオレンジゾーンに戻るため、飲食店の店内飲食が禁止になる前の、最後の夜だからかもしれません。
今から一カ月前、ロンバルディア州のフォンターナ知事が「皆さんの努力のお陰で感染をここまで減少させられました。イエローゾーンになることが決定しました」と嬉しそうに話していたのが、遠い昔のようです。ワクチン接種が進み、世界が安心して生活を営めるようになるのを、切に祈るばかりです。
 
  …
 
2月某日 ミラノ自宅
今日からロンバルディア州はイエローゾーンになる。久しぶりに飲食店での店内飲食が18時まで許可されて、市をまたぐ州内の移動が自由。22時から5時までの夜間外出禁止令は続行される。美術館は再開されるが、演奏会や劇場の閉鎖は継続されるそうだ。10月末に劇場が閉鎖以降、聴衆を入れた演奏会は未だ再開されない。当初閉鎖は一ケ月、二週間の時点で状況を鑑みて開放を検討と話していたが、三カ月過ぎても変わらない。世界中でストリーミングの情報量だけが膨大に増えてゆく。イタリア新感染者数7925人。陽性率5.5%。死亡者329人。
 
2月某日 ミラノ自宅
小野さんから、表紙に「冥界のへそ」と書かれた楽譜があると伺い、内容を悠治さんに確認していただくと、違う時期の試作のコピーだった。アルトーの詩の朗読と、軋り音サンプル録音の変形を併せたテープ音楽が「冥界のへそ」で、それとともに「フレーズを書いた数枚の楽譜を低音楽器群に演奏させたもの」が「アントナン・アルトーへの窓」だと言う。だから、本来「冥界のへそ」の楽譜そのものもあるはずがないのかも知れない。悠治さんより、「冥界のへそ」の京都での録音が存在するらしいと伺ったので調べてみたい。作曲者本人にすれば別段興味もない話に違いないが、作曲は完成して世に問われた時点で、作者の手を離れて社会性を手にするともいえる。イタリア新感染者数13189人。陽性率4.7%。死亡者476人。
 
2月某日 ミラノ自宅
父が85歳になった。大層矍鑠としていて、自分の父親ながらただ感嘆し深謝している。
夕方ミラが連絡をしてきて、今日は運河地域の先でボランティア活動だから、帰りに寄ると言う。これから毎週、運河の向かいのルドヴィコ・イル・モーロ通りの外れで、滞在許可に問題を抱える外国人の相談窓口を担当すると言う。
以前からアムネスティ・インターナショナルとも親しかったから、その関係だろう。シリンで使っていたピアノの下敷きも持って来てくれる。
必要とあらば彼らに弁護士を紹介し通訳もし、病院に付き添ったりもする。ここ数年、熱心にアラビア語を勉強していたのはこのためだったのか。こうした事情があるから、優先的に明日最初のワクチン接種を受けるのよ、とガッツポーズ。イタリア新感染者数10630人。陽性率3.9%。死亡者422人。
 
2月某日 ミラノ自宅
Covid19のミラノ変異種発見のニュース。ミラノ大研究グループの発表によると、ウィルスはスパイクタンパクからではなく、ORF6タンパクから侵入する特徴があるそうだ。現在のところワクチン効果に影響なしと読んで安堵する。
イタリアの感染者の5分の1はイギリス変異種が占めるようになり、この変異種をvarianteと呼んでいるが、この言葉を初めて聞いたとき、思わず中世写本の異本を思い出した。
当初は書士や修道士の意志が介在していたのか知らないが、繰返されるたびに少しずつ変化を来し、何時しか当初の姿はみる影もなくなる。文化や文明も変わらない。ウィルスも一つの文化なのか。
2021年であっても、止められない変化も予測できない未来も昔と同じ。イタリア新感染者数15146人。陽性率5.1%。死亡者391 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
武満賞を受賞し中国に戻った王君から、三週間の隔離機関が漸く終わったと連絡をもらった直後、「今しがた、ひどいニュースを見ました。ご家族は日本にいらっしゃいますよね。皆さん地震は大丈夫でしたか。心から心配しています」とメールをもらう。
授業をしていて知らなかったので、慌ててニュースを付け、日本にも連絡して無事を確認したが、酷く慌てたことは言うまでもない。
王君は2008年中国を襲った大地震で家を失い、家族中が大変な思いしたので、到底他人事とは思えなかったと言う。イタリア新感染者数13532人。陽性率4.6%。死亡者311人。
 
2月某日 ミラノ自宅
自宅待機が終わったところでTから連絡をもらい、モンツァ近郊のオレーノまでイラリアの墓参にでかける。近所のサンクリスト―フォロ駅からサロンノ行の近郊電車に乗って、自宅脇を通り過ぎモンツァまで40分ほど。久しぶりに車窓から眺める風景は、この数年で思いの外変化していた。
ポルタ・ロマーナ駅やセスト駅の広大なヤードは、長年放置されて草生す鄙びた佇まいが魅力だったが、都市再生計画なのか、きれいに剝がされた錆びたレールばかりが、一所に山積みになっていた。久しぶりにモンツァを訪ねると、完成したばかりの真新しい出口階段にTが立っていた。
彼はスイスで椿姫を準備していたが、ドレスリハーサルを終えたところで劇場は閉鎖され、11月に延期になったと言う。春にはロシアで仕事があるが、この調子ではどうだか、と溜息をついた。
オレーノに着くころには寒も緩み、青空が広がっていて、背の高い梢にかこまれた集合墓地は、年季の入った漆喰の外壁からして、随分古い墓地のよう。温かい日差しに深緑の芝が映えていて、心地よい。
門を過ぎると、まず墓石に彫像などを誂えた記念墓地群がならび、その奥、剥げかけた古いレンガ造りの門の先に一般墓地がみえた。
その門をくぐってすぐ左手空地の一番手前に、未だ墓石もない、真新しく掘り起こされた墓があって、賑々しく春の花がたくさん供えられていた。
鉢植えにしようかとも思ったが、結局供花は切り花にしてよかった。鉢植えは沢山供えられていたし、供えられていた供花は少し萎れかけていた。盛り土された墓に立つ、小さなイラリアの近影は、思いがけず昔のままだった。
隣でTは涙ぐんでいたが、当然だろう。イラリアの後、彼の父親の容体が急変し、ごく普通の70歳だった容姿が、二週間ほどで100歳のようにすっかり老け込んだと話した。
今は一時でも多く傍にいてやりたいと話す。せめても自分の演奏会のヴィデオを見せてやっているんだ、と辛そうに話した。「普通の演奏会じゃ詰まらないだろうから、オペラものを選んでね」。
裁判官だった彼らの父と最後に話し込んだのは、朝の通勤列車でミラノに向かうときだった。Tの活躍ぶりを目を細めて話し、イラリアの将来も大層愉しみにしていた。イラリアの墓参はもちろんだが、長く会えなかったTの顔も見たかった。帰りの電車に乗った途端に空が曇り出し雨粒もこぼれてきた。家に着くころには、すっかり凍える真冬の陽気に戻っていた。
イタリア新感染者数10386人。陽性率3.8%。死亡者336 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
五十路を過ぎ、益々自らの無知に唖然とする機会が多くなった。若いころは、無知の事実にすら気付かず過ごしていたに違いない。
マルトゥッチの楽譜を読みはじめて、想像していたドイツ純粋音楽的などとはまるで違う、明らかにイタリア的な作曲家だと瞠目する。譜面の印象だけを見れば、ブラームスなどより、寧ろ   ヴェルディが近いとも思う。単に、オペラではないだけだ。ドナトーニにも近い譜面の書き方だと思う。
イタリアにはイタリアらしさが明確にあって、生真面目で観念的ではない音楽観がその礎にある。観念的でないだけ分かりやすい筈だが、どうにも弾きにくい箇所が散見されるのは、楽器が鳴りにくい調性のせいか、彼自身がピアニストで、ピアノ奏者的な音の運びをするからだろうか。そんなところもドナトーニに似ていると独り言ちた。
イタリア新感染者数12074人。陽性率4.1%。死亡者369 人。
 
2月某日 ミラノ自宅
昨年、イタリア、ロンバルディア州のコドーニョでCovid19の患者第一号が確認されて一年になる。1年前、薬局に貼られていた「マスク売切」のステッカーは、現在はワクチン接種の手引きにとって代わられている。
一周年記念式典のためインタビューを受けた市民のなかには、毎朝、無事に一日が過ぎるようまず神に祈る、と答える男性もいた。ヨーロッパのCovidはあの時から一気に顕在化し、人々をなぎ倒してゆきながら、誰にも想像できなかった一年が過ぎた。
16日から、イエローゾーンのロンバルディア州の一部が限定的にレッドゾーンになり、都市封鎖が決まった。ボッラーテのように、どこも大都市とは呼べない小さな市町村だ。これら全て変異種の感染拡大によるもの。イタリア新感染者数15479人。陽性率4.8%。死亡者353人。
 
2月某日 ミラノ自宅
般若さんのためのヴィオラ曲は、讃美歌「Shall we gather at the River 河のほとりであいましょう」とグレゴリア聖歌「De profundis clamavi ad te深き淵よりあなたへ叫ぶ」に基づく。上野で般若さんとお会いしたとき見えていた風景を、どう音にできるか。イラリアの誕生日に彼女の名前で書いた音列を書き終わったのは偶然だが、それが46回の繰返しで、この日イラリアは46歳を迎えるはずだったのも偶然か。イタリア新感染者数13314人。陽性率4.4%。死亡者356人。
 
2月某日 ミラノ自宅
ヴィオラのマリアから連絡あり。昨年演奏するはずだった「子供の情景」を、5月初めにノヴァラで演奏するとのこと。彼女の住むピエモンテ州は、希望すれば教員は誰でもワクチン接種が受けられるので、早速もう一回目をやってきたの、と嬉しそうに話す。2週間後には二回目の呼出しがあると言う。ロンバルディアも暫くしたら出来るわよ、と声が明るい。
「演奏家が感情を込めて弾くのを肯定する反面、作曲で一切感情は込めないと強調するのに理由はあるのか」と山根さんから質問を受け、しばし考える。
イタリアで一番苦労した部分だからに違いない。ドナトーニから音の裏には何もないと言われても、何年も理解できなかった。
指揮を勉強するようになって、同じ壁にぶつかった。音楽は感情を込めて演奏するものには違いないが、音符そのものは感情をもたない単なる記号と理解するのに、長い時間が必要だった。
先日、浦部君が書き上げたばかりのオーケストラ曲を見せてくれたが、立派に自分の言葉を話すようになったことに大変感心した。昨年見せてもらった久保君のチェロの独奏曲からも同じ感銘を受けた。二人の音楽には、明らかにイタリアで過ごし、それぞれが自問自答しながら過ごした、真摯で誠実な時間が刻印されている。
ところで、浦部君や他の学生の指揮を見ながら、ある感覚をどう説明すべきか思案してきたが、先日ベネデットのレッスンの際、思い切って音が聴こえた後に拍を入れるよう指示してみて、漸く少し腑に落ちる。言われた本人は訳が分からず当惑していたが、今までの説明の中では最も具体的で本質に近い表現だと思う。
音に触れながら振るよう指示してみたり、表現を変えながら同じ感覚を伝えてきたが、音の質量と重量が重力によって落下するなかで、着地直前まで拍を打たずに我慢するのはとても勇気が要る。しかし落ちきる前に音に触れてしまうと音楽が上滑りし、運動がいたずらに消費される。
子供のころ落下傘花火が好きだったが、音はゆっくり落下する落下傘花火に似ている。
イタリア新感染者数20499人。陽性率6.3%。死亡者253人。この新感染者数は元旦以来だと言う。死亡者数が減少し、新感染者数が増えてゆく。変異種が新しい波を起しかけているのだろうか。
 
2月某日 ミラノ自宅 
カリフォルニアのロジャー・レイノルズからメールが届く。悠治さんのCDをとても喜んでくれて、写真嫌いの悠治さんのポートレート写真が撮れただけでも凄い、昔の思い出が、次から次へと頭に浮かんでくるね、とある。
ヤニス・クセナキスとフランソワーズにユージが紹介してくれたエオンタ初演の際、金管楽器奏者が各パート一人ずつでは吹ききれずに、ブーレーズが二人ずつに増やして交代で奏させざるを得なかった逸話などが綴られていて、添付された彼のテキストには、悠治さんがサンフランシスコ音楽院でピアノ教師をしていた時には、悠治さんが余りにも易々と弾け過ぎて、目の前の学生がなぜ黒鍵のエチュードが弾けないのか理解できなかった話や、カリフォルニア大サンディエゴ校で自作を指揮しながらリハーサルする様子にも触れている。
それによると、演奏を始めるや否や、2小節めトロンボーンは遅れています、3小節目のクラリネットは音程が高すぎます、と言った調子で、静けさのなかで、何時間もかけて出来るまでリハーサルが続けられ、それは宗教儀式のようだったそうだ。。

これは、サンディエゴで悠治さん指揮で演奏された「和幣・ニキテ」の練習風景に違いない。ニキテは儀式でこそないも知れないが、宗教儀式に近いから、あながちレイノルズの指摘は間違っていない。
現在の悠治さんのリハーサル風景とはまるで違うけれど、少し想像できる気もする。確かに「あえかな光」の練習風景は、静けさに包まれていたし、訥々と悠治さんが各所の響きを確認してゆく姿は、儀式のようでもあった。
 
スタンフォード大のベンジャミン・ベイツから連絡あり。「歌垣」CDを図書館に入れてくれるとのこと。
ロンバルディア州の感染は拡大し、来週からまたオレンジゾーンに戻り、飲食店は持ち帰りのみ。演奏会開催など夢のまた夢。イタリア新感染者数18916人。陽性率5.9%。死亡者280人。

2月28日ミラノにて

⾼橋のふたつの側⾯

ピーター・バート

2枚のCD、肖像を描いたふたつのコンサートのライヴ録⾳

⾼橋悠治の第1の側⾯は、1960年代の⾼橋である(そしておそらく、⻄洋のある世代の者は今もその印象をもっている)。つまり、作曲家で現代⾳楽における輝かしいヴィルトゥオーソであり、「鍵盤楽器に課された前代未聞の要求を、ものの⾒事に弾きこなし」(ロジャー・レイノルズ)、「演奏不可能」な前衛的複雑さをもつ作品をこともなげに演奏する⼈。「1961年にクセナキスの《ヘルマ》の楽譜を受け取り、1 ⽇1ページ、多くて1時間くらい練習し、1ヶ⽉で準備した」*という⾼橋は、ベルリンでクセナキスに作曲を学び、⾳節の多い単語をタイトルにした、厳格に決められた構造をもつ挑戦的な作品を書いた。「密度、持続、動きのパターン、リズムは確率計算から」書かれた《メタテーシス Ⅰ》(1968)、「ピッチと時間感覚は確⽴計算」によって書かれた《クロマモルフⅠ》(1964)、「18世紀の数学者レオンハルト・オイラーによる⼀筆書きの数学理論」に基づく《オペレーション・オイラー》(1968)がそうした作品である。“Six Stoicheia”という欧⽂タイトルをもつ《6つの要素》(1964)(“Stoicheia”とは、ギリシャ語の数学者エウクレイデス[ユークリッド]の著書『原本』の意であり、「ステップ」もしくは「要素」の意)は、複雑なポリリズムとマイクロトーンのある、恐ろしく演奏が難しい曲である。《ローザス》(1975)は、「ステンドグラスの薔薇窓純正律の⾳階を短7度で4回積み重ねた⾳階 調⼦外れに感じられる」と⾼橋が述べる作品。クセナキスのもとで学んでいた時期について、「ベルリンには、アラン・ダニエルーによる⽐較⾳楽学研究所があった。よくそこで本を読んだり、⾳楽を聞いたり、インドやイランの⾳楽家に会った」*と⾼橋は述べているように、すでに次なる⾼橋、すなわちもうひとつの側⾯である、第2の⾼橋へ移⾏する予兆がある。このCD に収録されている1960年代後半と1970年代の作品には、そうした第2の肖像がみえる。作曲にあたり「CDC6400コンピュータを⽤いた」という《般若波羅蜜多》(1968)は、録⾳済の3層にライヴ演奏を重ねることで実現される。テキストは般若⼼経の原⽂であるサンスクリット語からの抜粋。《和幣(ニキテ)》(1971)も、「⼿順は機械化され、コンピューターにかけられ、数秒間で完了した」というコンピュータを⽤いた作品であるとともに、「ニキテ(和幣)は⿇や紙のふきながしで、異教の祭で霊をよびおこすためにつかわれる」ものであり、さらには「⾳の構造よりも⼈の関係を重視する」。《歌垣》(1971)というタイトルは、「春(秋)分に⾏われる古代⽇本の祭り」からきている。「ペアを組むが⽇の出前に別れる運命にある男⼥が集い、グループ間で交換する歌」を反映したピアノとオーケストラが掛け合う作品。

そして時は流れ、⾼橋は急激に政治的な出来事へ積極的に関与するようになり、「ヨーロッパの⾳楽は極度に発展し、いまや⽅向を変えるときがきた」と、⻄洋の前衛に幻滅する時代がくる。そのこと⾃体が政治的な背景を持つ問題だった。「20世紀⾳楽は、いままでに獲得したもの上に、特殊な⾳⾊や奏法、複雑なうごきを付け加えただけだった。“あれもこれも”という消費の加速のはてには、⾳楽の死が待っている」。つまり20世紀の⾳楽は「17世紀以降に始まる植⺠地主義と奴隷制に⽀えられた貪欲な⽂明の表現」*であり、⾔いかえれば、政治と関連し他の⽂化に強い影響を与えていた。「アジア・アフリカ、ラテンアメリカは、経済的・政治的・軍事的に、帝国主義・新植⺠地主義の⾷いものにされている。⽂化や芸術の領域も例外ではない」。しかし、抵抗運動もあった。「⺠衆の声は強く、するどい。それは抑圧に負けないだけでなく、すすんで敵を攻撃しようという姿勢をもつ。(中略)アジア⼤陸、半島、島々の⺠衆の歌声は、こうした特徴をもっている」。もちろん東洋のすべてではないとして、続けて⾼橋は、アジア半島および島々のなかで「アメリカによって温存され、助⼿役をつとめながら勢⼒をのばした」と⽇本の帝国主義的態度について記す。ここで⽇本の伝統⾳楽は例外になるのだろうか?答えはNoである。というのも、「⽇本の伝統⾳楽は、さまざまなアジアの要素を取り⼊れている」*からだ。これは伝統的なマルクス主義の“国際主義”に反することだろうか。それとも新しい主義のもとにある“汎アジア”的なナショナリズムだろうか。それも答えはNoである。「固有の⽂化価値の再⽣は排外的⺠族主義ではなく、さまざまな伝統の相互学習によって、鎖国状態から脱出することを必要とする」。むしろ必要なのは、「⺠衆の側に⽴ったもう⼀つの国際主義」なのだ。

そしてこの2枚のCDには、今80歳代を⽣きる第2番の⾼橋(1938年⽣まれ)の肖像が収録されている。初期の⾼橋作品の所在はわからなくなっている。つまり1960年代の楽譜は出版社のカタログから削除されている(したがって、初期の作品を演奏し録⾳するためには熱⼼な学者による国際的な探偵のような調査が必要となる)。著作権はコピーレフトとされ、スコアはオンラインで無料で⼊⼿できるhttp://suigyu.com/yuji_takahashi/。“楽譜”というのは、そもそも疑わしいものなのだ。「⾳楽はもはや楽譜として固定された構築物ではない。⾳を聞いたり、楽器に触れたりする演奏をとおしてなりたつという、⾳楽の原点に帰るものである」*。そこでは⾳を出すという物理的な⾏為が優先される。「⼿や指、息で楽器に触れたとき、⾳は⽣まれる」*と⾼橋はいう。あるいは、《さ》(1999)の作曲家の⾔葉にあるように、「唇、左⼿のバルブ、ベルに⼊れた右⼿の組み合わせ」で⾳が鳴る。⾼橋は、国際的なコンサートという場を放棄した。しかしその代わりに、特定の演奏家のために作品を書いた。ロシアのチェリスト、ウラジーミル・トンハーのために書いた《⽯》(1993)、オーストリアのアンサンブルのために書いた(しかし、所望された写真を作曲家が送らなかったために委嘱が取り消されたという)《タラとシシャモのため》(2015)、「楽譜を送ったがその後依頼者とは⾳信不通」になったという《散ったフクシアの花》(2010)。東洋の⾳楽、演奏の実践、儀式からの影響による作品もある。《さ》はそのひとつ。「古代⽇本語で“さ”という⾳は、霊的なものに満たされた状態をあらわしていた。(中略)この⾳楽は、ホルンという楽器にその記憶をとりもどさせるための、⼼をこめた儀礼だと、考えてくれてもいい」と作曲家は記している。とはいえ、⾼橋の⽬が⽇本に向けられ、排他的になったのではない。ほかの⽂化からの影響もあることが「もうひとつの国際主義」を物語っている(たしかに⾼橋が百科事典的に多⾔語を読むことができることを証明している)。《散ったフクシアの花》は、ダイアン・ディ・プリマによる俳句4⾸、《タラとシシャモのため》はヴォルフガング・ボルヒェルトの詩「灯台」、《あえかな光》(2018)はウィリアム・イェイツの詩「⾁体の秋」(1898)による作品であり、また《⽯》はオシップ・マンデリシュタームの詩「沈黙」の⼀節を演奏前に朗読する、といった指⽰がある。

「⾼橋は、鍵盤楽器の優れた演奏家であり、作品解釈にきわめて鋭敏な感性をもち、それまで考えられなかった⼿法を必要とする創作を次々とこなした若きヴィルトゥオーソの時代から、持ち前のキャラクターや理知的な探求⼼を失うことなく、⾃⾝の主義主張を満たす選択をして⼈⽣を歩んできた」(ロジャー・レイノルズ)。しかし、このCDに収録された演奏でとくに印象的なことは、あらゆることが継続しているということである。「きく者の興味をおこさせるが、⼼にうったえることはしない」と述べていた頃と同じように、今⽇の⾼橋の⾳楽は妥協を許す余地はなく、⾏者のような厳しさがあり、ストイックである。そして1960年代と同じように今も、パフォーマンスに重点がおかれている。「演奏する者がいてこそ⾳楽がある。演奏とは、物理的な⾏為でもある(中略)⾳を作るとは、⾳に触れ、⾳を聴くことを通して外界を探ることを意味する」*。若きヴィルトゥオーソだった⾼橋は、1960年代にそれを知っていた。このCDでは、⾼橋からみたら⼆世代後になるヴィルトゥオーソたちが演奏している。若い彼らは、⾼橋の初期の作品にみられる⼿、指、息といった感覚に彼ら⾃⾝の神経を集中させながら、若い⾼橋の感覚も若い各々の感覚も即座にとらえたことが前⾯にでている演奏をしている。2 枚のCD、肖像を描いたふたつのコンサート――いや、究極的には唯⼀である⾼橋という存在がこの2 枚のCD には収められている。
(訳・⼩野光⼦)

訳注)⽂中の引⽤は、楽譜やプログラムに掲載された作曲家の⾔葉、および下記の書籍から。
『ことばをもって⾳をたちきれ』(晶⽂社、1974)
『⾳楽のおしえ』(晶⽂社、1976)
『たたかう⾳楽』(晶⽂社、1978)
Yūji Takahashi (with Jack Body), ʻWie eine rollende Welle: Yūji Takahashi in Gesprächʼ, MusikTexte 59
(June 1995)
*のつく引⽤は、英⽂からの和訳、およびドイツ語からの重訳。

Das Kapital

管啓次郎

 1
トリーアの町を歩いていると
ポルタネグラのそばでカルリートに会った
アンデス山脈出身のフォルクローレ歌手
最近はこの付近で歌っていることが多い
でも今日は浮かない顔をしている
どうしたの、カルリート、今日は一人?
聞くと相棒の二人兄弟は兄が病気になり
かれらが仲間と本拠地にしている
アムステルダムに帰ったそうだ
カルリートはひとり残された
彼はトリーアを離れるつもりはないので
ギターの単独弾き語りでしばらくやってみるという
英語のロックやフォーク
ポルトガル語のボサノヴァ数曲
「メヒコ・リンド」などラテンアメリカ他国の歌
フランス語のシャンソンのスタンダード曲
イタリア語の “Volare, cantare…”
ぜんぶ合わせれば優に100曲にはなるので
場がもたないということはない
いま考えているのは
お客の中に一緒に歌ってくれる人がいれば
そしてその人がある水準以上にうまければ
短期(1日〜1週間?)の相棒として
一緒にbuskingを試みるということ
「きびしそうだが、ともかくやってみるよ」
ぼくは、よかったらお昼でも食べようかと彼を誘い
ぼくらは中国料理店に入った
そこから話は思いがけない方向に進んだ
食べ終わって
金属製のポットに入ったお茶を飲みながら
ぼくは初めてカルリートの背景を知った
彼はペルーの山岳地帯少数民族出身だが
中学生のころに首都リマに出てそこで育った
それから大学に進学し
奨学金を得て
ここトリーア大学に来た
だったら学生なの、とぼくは尋ねた
「一応ね。博士論文を書くつもりだったが
そこで足踏みして。どうしようかと迷っている。
でも歌はずっとうたっていたよ」
研究分野は?
「社会学、というか開発研究。でもかなり行き詰まった」
それはなぜ?
「開発のすべてが、ヨーロッパが作り出した近代に
巻き込まれてゆくことだとはっきりしているから。
かれらの市場で、かれらのやり方で
かれらに利益を与えながら
生存を図るしかない。
でもその大きな構図の中で何を語っても
そこに自分の道はない
パチャママ(大地母神)の道はない」
ヨーロッパ近代が行きついた場所が
現代のグローバル化された資本主義だから?
「そういうこと。巨大な、逃げ場のない網の目。
そしてこのシステム自体が、大地を離脱し
大地のすべてを収奪している
人々を蟻のように
海に追い落としながら」
このあとの数日、ぼくは何度かにわたって
カルリートの話を聞いた
資本主義を構成するいくつかの原則について
カルリートが話してくれたことを
ここにまとめてみることにしよう。

 2
資本主義とは何かって?
ひとことでいえば
それは「資本」に対する信仰さ
資本というものがあって
それがその本性にしたがってふるまうのを
人はただ諦め切ったかのように
傍観する
仕方がないと信じこまされることを含めて
大きくいって3つの原則が
資本主義を支えているだろうね
まず1、「資本は無目的」
それをどこにふりむけてもいい
資本家が投資に成功すれば
それに見合った取り分が生じる
ここに誰も疑いをはさまないわけさ
まるでお金が利子を生むことが
この世の第二の自然であるかのように
貨幣が見せる至高の単性生殖こそ
資本の永遠の目的
自己増殖という目的
ついで2、「あらゆるものは商品になりうる」
所有者がいて欲しがる者がいるかぎり
けれどもあらゆる価格は
じつは無根拠
それを決めるのは
小さな交渉の積み重ねでしかない
商品になるのは物
人、労働、サービス、貨幣、情報
なんでも
歌、踊り、芸能、文学
なんでも
そのものがなぜその値段になるのか
誰にも本当のところはいえない
その価格がある時点から次の時点までのあいだに
だいたいいくらくらい上昇するかを予想できれば
その予想自体が売買の対象になりうる
このことにも誰も疑いをさしはさまない
最後に3、「人は好きなだけ商品を買える」
お金という無色透明なものが用意できるなら
きみは好きなだけ商品を買える
現物の量的制限以外そこには歯止めがない
それで人は必要をはるかに超えて
買うこと買い集めること自体を
目的にしたりもする
そもそも「もの」とは何かにつかれた
気持ち悪いものでもあったはずだが
ここに大きなトリックがある
売買すること自体が
物を洗うんだ
(いわゆるマネーロンダリングも
この性格を利用している、貨幣もまた
商品なのだから)
つまりね、売買は起源を消す
商品は来歴を失い
記憶をリセットされる
作られた神話が貼りつけられ
収まりのいい他所ゆき顔をしても
商品を構成する物質たちはもう
二度と声をあげることがない
商品の中の商品というべき
貨幣の沈黙をまねるだけ。

ざっとこうした原則によって
私たちの世界は支配されている
文化を超え言語を超えて、これ以外の
合意のあり方を私たちはまだ
作り出せずにいる
でもこんなことのどこが
当然だといえるのか
資本の意志だけが支配を貫徹すれば
ゆきつくところは惑星いちめんの死
息も絶え絶えになった地球で
残された者は泣きながら石を積む
貨幣とはさびしい発明だ
数を指標とする欲望の代替物だ
目当てのない欲望をひとつにとりまとめ
人をそのマリオネットとする
ついで、遊ぶ貨幣が資本の始まり
あらゆる剰余を吸収して
この世を幻想の海に投げこむ
幻想は幻想としてどこまでも肥大し
物的限界にぶつかるまでは
速度をゆるめることすら知らない
そのとき
心はどこに行った?
幻がかたちをとった
根をもたずに地上に浮かぶ森に迷いつつ
絶望的に笑いながら私たちは
私たちを住まわせる商品の森に
火をつける。

(初出「びーぐる」47号を全面改稿)

寒空の下で

璃葉

いつからか、冬の曇り空が好きになった。
晴れの日よりも冬ならではの尖った空気をはっきり感じ取れる。
この寒空の下でウイスキーを飲むのもいい。土や草のような香りを一層強く味わえるから。

その日は特別に寒かった。陽の暖かさが届かないほど、空は分厚い雲に覆われていた。
夕方が近づくにつれて、さらに容赦なく冷たくなっていく。
そんな日に屋外で、グラスに注いだモルトウイスキーをゆっくり体に循環させる。
自分のペースで、香りや味をしっかり確かめながら。

ウイスキー狂いの友人たちがやってきて、とっておきのボトルを持ってきてくれる。
数人でシェアをして、その恐ろしい美味さに驚く。日はとっくに暮れてさらに冷たい風が吹き荒んでいるにも関わらず、
深みのあるモルトの味にみんな夢中である。土や草花、スパイスやフルーツの甘み。まろやかで、水のように飲めてしまう。
一人が突然、「地球を飲んでいるようだ」と呟いた。こんな天気の日に外で飲んでいるからかもしれない。
ふだん浮かばないことばがぽつぽつと出てくるようだった。
ああ、そうだね、その通りだ、とみんな深く頷き、引き続きグラスを傾けた。

水牛的読書日記(3)「牛」と「らば」と「烏」、生きのびるうつくしいものたち

アサノタカオ

 「女こそ牛なれ」

 歌人の与謝野晶子がそう書いたのは、1911年、明治・大正の「新しい女」たちが集った雑誌『青鞜』創刊号の巻頭詩、「そぞろごと」でのことだった。「水牛的読書日記」なる文章をつづる自分にとって、見過ごすことのできないことばである。
 「そぞろごと」において、「山の動く日来(きた)る」「すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」などの強烈なメッセージを次々に繰り出し、同時代の女性たちの自由と自立を鼓舞した晶子は、「元始、女性は太陽であった」と訴えて青鞜社を立ち上げた評論家、平塚らいてうの先輩にあたる。晶子もまた、婦人参政権など女性問題について数多くの評論を執筆した。

 「女子が男子と同じ程度の高い教育を受けたり、男子と同じ範囲の広い職業についたりすると、女子特有の美しい性情である「女らしさ」というものを失って……よろしくないというのです。
 私は第一に問いたい。その人たちのいわれるような結論は何を前提にして生じるのですか。」

 2018年のこの国では、東京医科大学など複数の大学医学部が入試において女子受験生らを一律減点するなど不正に扱ってきた事実が明らかにされ、性差別・性暴力に対する抗議と怒りの声が高まった。いまから100年以上前の晶子の問いかけは、とりわけ教育における男女差別の問題をいち早く指摘した点など、現代でも通用する鋭さをもつ。
 しかしその女性論は、今日的な視点から読むと、社会背景をめぐる慎重な考察を抜きにして個人主義的な自助を強調するきらいがあり、素直にうなずけない箇所もある。そして太平洋戦争時には、かつて「君死にたまふことなかれ」と反戦を歌った彼女の思想は、心情的な戦争協力へと傾いた。
 しかし、読者としていつも心がけていることがある。先達の言論に関しては批判すべきは批判しつつ、けれど高をくくってあっさり退けることはしたくない、ということ。「山だ!」「おなごだ!」「目を覚ませ!」「動け!」「太陽だ!」「進め! 進め!」と吠え、体制派の男たちから糾弾されてもなおひるまずに吠えた胆力によって、まだ名付けられていないフェミニズムを拓いた彼女らの功績を決して過小評価すべきではないとも思う。歴史の声に、耳をすませたい。受け取るべきバトンが、きっとあるはずだ。
 さて、「女こそ牛なれ」を含む与謝野晶子の詩の一連は以下の通りである。

  「鞭を忘るな」と
  ツアラツストラは云ひけり。
  女こそ牛なれ、また羊なれ。
  附け足して我は云はまし。
  「野に放てよ。」
 
 「また羊なれ」と続くのだから、ここでいう「牛」は先々月に紹介したあの「孤独な、連帯する、動じない水牛」(エドゥアール・グリッサン)の思想とは異なるものだろう。鞭打たれ、こき使われ、飼い慣らされる「家畜」といったところか。
 鞭を忘れない主人は、女嫌いの男たちである。封建的家父長主義に隷属させられ、自己が自己でないものにつながれる「牛」であり「羊」である女たちの「ゴルディウスの結び目」を晶子は詩によって一刀両断し、「男女平等主義」と「人類無階級的連帯責任主義」に向けてわれらを解放しよう、と呼びかける。
 さあ、女を、自分自身を野に放ちなさい。精神の自由へと超えていきなさい。砂漠のような荒地でおたけびをあげる誇り高い野牛のヴィジョンに、晶子は女性解放の未来を透視した。

  * **

 「この世のらば」

 ゾラ・ニール・ハーストンの小説『彼らの目は神を見ていた』(松本昇訳、新宿書房)の中で、かつて奴隷だった老婆が語ることばである。ハーストンは1891年生まれ、アフリカ系アメリカ人の女性作家の先駆者、ちなみに与謝野晶子や平塚らいてうの同時代人だ。
 1920〜30年代のニューヨークで起こった黒人文化運動「ハーレム・ルネッサンス」の渦中を彼女は生き、小説のみならず人類学や民俗学の仕事も残し、やがて人びとの記憶から消えていった。白人社会の人種差別に抵抗した運動家や作家、男たちの名前は「レジェンド」として後世に伝えられたにもかかわらず。
 1970年代に入って彼女の再評価のきっかけをつくったのが、『カラーパープル』(柳沢由実子訳、集英社文庫)で知られる後輩の黒人作家、アリス・ウォーカーだった。ハーストンの著作は、いまから20年以上前のことだが、大学生の時代に熱心に読んだことがある。ちょうどその頃、新宿書房から作品集の翻訳が次々に刊行されたのだ。
 そして興味を惹かれて読んだアリス・ウォーカーのエッセイ(『母の庭を探して』[荒このみ訳、東京書籍])を通じて、彼女たちが亡きハーストンの本の復刊を企画するかたわら、フロリダでこの忘れられた作家の足跡を探して墓石のない墓所を発見し、お金を出し合って新しいお墓を建てたということも知った。思い起こすたびに、胸の熱くなる文学史上のエピソードだ。
 
 「黒人であり女であるとは、この世でもっとも低い場所に押しこまれていることなのだ、白人から圧迫され、黒人の男たちから圧迫され、つまり黒人であるということは「この世のらば」であるということだ……。「この世のらば」という表現は、いまでも黒人の女たちに共感をもって使われている。繰り返しこの言葉が発せられるのをわたしは聞いた。……
 けれども、なんとしなやかな「らば」たちであることか。いのちの力をあふれさせた、うつくしい「らば」たちであることか。彼女らのしなやかさと力強さと美しさの源泉は何か。」

 ハーストンのことばを引きながら、こう語るのは『塩を食う女たち——聞書・北米の黒人女性』(岩波文庫)における藤本和子さんだった。あいかわらず藤本さんの著作をこつこつと読み続けているわけだが、先月取り上げた『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』の前作にあたるこの本もまた、本当にすばらしい。
 タイトルにあるように聞き書きの本だから、主人公は語り手の黒人女性たちで、聞き役に徹する著者の声が舞台にあがることはあまりない。
 だが『塩を食う女たち』には、「生きのびることの意味——はじめに」という、やや長めの藤本さんによる序文が収録されていて、聞き書きをする自己の内にある問いについて省察している。歴史的な苦難の中で、人間らしさを失わず生きのびるとはどういうことなのか。女であるとは、黒人であるとはどういうことなのか。知るだけでなく、自分は何を学ぼうとしているのか。
 聞き書き家としての藤本さんの「耳」は、出会った一人ひとりの黒人女性たちによるほかならぬ個人の語りを、個人の語りとして尊重しながら、その中で集団的な歴史がなにごとかを語りだすあり方に注意を向けている。
 「声」の個体発生は、系統発生を繰り返す。いまここで黒人女性たちが発する喜びや悲しみは、単に個人的な感情を吐露するものではない。それはきっと彼女の母親たち、祖母たち、共同体の無数の祖(おや)たちがかつて経験した喜び、悲しみを、凝縮した形で一から語り直し、生き直していることばである。語り手は「代弁者」として、声のバトンを運んでいるだけ。
 「けれども、なんとしなやかな「らば」たちであることか。いのちの力をあふれさせた、うつくしい「らば」たちであることか」。黒人女性たちの語りの中で、生きのびることをめぐる個人の意志と集団の意志がふと重なる瞬間を、藤本さんは「うつくしい」と表現しているのだと思う。そんなふうに、ぼくは理解している。
 『塩を食う女たち』を読みながら、聞き書きをする藤本さんの背中越しに、たとえばユーニス・ロックハート=モス、39歳の「強さや勇気」「しなやかなところ」があるひとりの黒人女性の体験談に耳をすませる。
 彼女は西アフリカ、ゴレ島へと旅をした。セネガル、ダカールの先にあるちいさな島。それは、「ルーツ」への回帰の旅だった。フェリー乗り場で、針金のように細い体のアフリカ人の女が大きな薪の束を頭に乗せて運んでいるのを見かけたユーニスは、自分でも試してみたいと思ったが、薪の束を持ち上げることすらできない。その場にいた、大きな体の白人の男にも持ち上げるよう頼んでみたが、できなかった。
 そのとき、ユーニスの心にある「理解」が訪れた。アフリカ人は無力なのではない。黒人の祖先は、白人社会で言われるような愚か者でも怠け者でもない。逆に特別にすぐれているからこそ、大西洋の中間航路を横断する海の旅と奴隷の時代と解放後の歴史を生きのびることができたのだ、と。「それなら、あたしもきっとすぐれているのだ。個人としても」。
 その後、ユーニスはアフリカの内陸部、ニジェールあたりの砂漠を旅したようだ。あたりには、牛の死体がごろごろ転がっていた。この不毛の地を自分は無事に横断できるのだろうか、強く感情を揺さぶられたまま、旅するユーニスはこんなことを思う。

 「あの牛にもできなかったことじゃないか、あたしにできるわけがあるのだろうかって。」

 またしても「牛」である。生きとし生けるものたちが、砂漠という過酷な自然環境の中で生きのびることの厳しさに、ユーニスの「いのち」の記憶はおののいたのだろう。けれども、アフリカの大地で自己に生きるための古く新しい道を見いだし、誇り高い精神の野牛となり、「新しい女」として生まれ変わった彼女は、精神の砂漠をたしかに渡りきった。文庫本のページを閉じて、そんな思いをかみしめた。

  ***
 
 「今年は『青鞜』創刊から110年、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の刊行から120年。節目の年です」

 信濃毎日新聞文化部の記者、河原千春さんがそう教えてくれた。河原さんは同紙で、長野出身の女性史研究家もろさわようこさんに関する連載「夢に翔ぶ——もろさわようこ94歳の青春」、そして「いま、もろさわようこ」を執筆している。粘り強い取材と調査にもとづく力作の記事なので、関心のある人はバックナンバーを探してぜひ読んでほしい。
 さて、今回なぜ与謝野晶子の話からはじめたのかといえば、目下、晶子の評論集を制作中だからだ。それは、もろさわようこさんが編集と解説を担当し、1970年に出版された『激動の中を行く』を再編集した本で、新版は晶子の「女性論」のベストセレクションと言える内容になっている。河原さんにも編集の協力をしてもらい、現在96歳のもろさわさんから、新しい序文の原稿もいただいた。世紀の時間を宿した文のたたずまいに一読、背筋がぴしっとのびた。
 もろさわさんは、1970年代前後より在野の立場で女性史の研究と著作活動をおこない、やがて東京ではないローカルを拠点にして交流施設「歴史を拓くはじめの家」を長野・沖縄・高知に開設している。芯の通った思想と行動のひとで、電話で打ち合わせをした際に聞いた凛とした声の調子からも、そのことを感じた。「平塚先生がおっしゃっていましたが……」などと、歴史上の人物との出会いを懐かしそうに語っていた。
 「おんな」という用語を手掛かりにして人間の歴史の中に「自由・自立・連帯」のヴィジョンを探求するもろさわさんのことばも、未来の世代に伝えたいと願うバトンのひとつである。
 「彼女らの語り声は、わたしたちの背の向こうで、いつか声を与えよと待っている日本の女達の生を掘り起こし、彼女らの名を回復しようとする私たち自身に力を貸してくれるかもしれない」。北米の黒人女性の聞書集の冒頭に藤本和子さんが記したメッセージを心の片隅におきながら、『おんな・部落・沖縄』(未来社)や『南米こころの細道』(ドメス出版)など、出会いを求め、辺地を旅するもろさわさんの著作を読み返している。
 「私が書き残さなければ、女性達の本当の姿が浮かび上がらない使命感ですよ」と信濃毎日新聞の連載記事で、もろさわさんは河原さんに答えていた(2019年2月27日)。
 デビュー作『おんなの歴史——愛のすがたと家庭のかたち』の旧版(合同出版)の巻頭には、もろさわさん自身が若き日に山深い故郷からの旅立ちの決意とともに記した一篇の詩が掲載されている。

  烏よ
  風は梢の緑をうら返すだけなのに
  お前はなぜそんなに騒ぐのか

 女たちの書物の中に、精神の「牛」がいて、精神の「らば」がいて、精神の「烏」がいる。声が聞こえる。隷属の結び目をみずから断ち切った、自己を生きる誇り高き野のものたちの。主人に飼い慣らされることも、「わきまえる」こともしないものたちの。詩は、こうつづく。「声たてている烏よ/お前は知っていたのか/ひとりの女の質素な心が/生きる傷(いた)みに堪えながら/それでもなお生きることを喜ぼうとして……」
 「お前はなぜそんなに騒ぐのか」。歴史を生きのびてきたうつくしいものたちが時を告げる集団的な声に、女性史研究家としての出発の日、もろさわさんもまた耳を澄ましていたのだ。

リボンちゃん初めて死んだ

イリナ・グリゴレ

リボンちゃんとは家で飼っていた金魚だ。長女の初めてのペットだった。昨年の秋に保育園でいろいろあって元気を出すためにペットを飼うことにした。大人とはいつもこうだ。人間関係の寂しさから人間じゃないものに逃げたくなる。私の場合は植物をたくさん集めて増やす。それでも枯れるときあるからその時には悪いことしたと違和感が残ったまま、また新しい植物を買ってしまう。ペットも死んだら新しく買えばいい、と人間は勝手なものだ。でも交換できない命がある。ほとんどの生き物の場合はそうだ。飼っていた金魚はあまりにも個性的で、ユニークだったので、同じような金魚には二度と会えない。名前は長女がつけた。真っ白いミックスランチュウで頭のてっぺんに赤いリボンのような模様がついていたからだ。女の子に相応しい。デザインしてもこんなにかわいくできないかもしれない。でもミックスランチュウということは、人間によって勝手に作られていたということだ。ランチュウと金魚、様々な種類の物を混ぜる、遺伝子組み換えの植物、品種改良、今の時代だとたくさんある。自然のままと呼べるものが少なくなっているだろう。

金魚のリボンちゃんは、娘たちに愛されて、短いけれどいい一生を送ったと思う。今のスーパーで売っている鳥肉の鶏と同じだ。三か月の間に大きくなるのではなく、たったの一か月で普通の金魚の何倍にもなった。毎日食べすぎぐらい元気にワンちゃんのように餌を求めていた。そして食べる時は、映画で見たアマゾンのピラニアのように、一瞬のうちに獲物がお腹の中に。そのお腹は爆発する、リボンちゃんはどんどん動けなくなった。

死んだ日の朝は非常に寒かった。飼い始めてから四か月がたっていた。北国の二月は生き物にとって一番辛い。室内で育てている植物も半分が枯れ始める。日が伸びて、昼間は少しお日様も見えているのに、夜と昼の温度差が大きく、人間も植物もすべての生き物が苦しい。その日は健康記念日だった。何かを感じて朝の四時前に起きて下に降りた。裸足で階段を踏むと氷の上を歩くみたい。室温は四度しかなかった。四時にストーブのタイマーがついていたが五分前だったので思わずつけた。でも寒い。水槽に近づくと動いていなかった。それはそうだよ、寒いのだ。

私も二度寝する。八時に子供は先に起きて、いつも通りリボンちゃんの水槽の近くに行った。なにも聞こえないから大丈夫と安心した。「動いている」と子供たちの声が聞こえたから。休みの日に夫はいつも水を変える。30分後に降りて水槽を見た。だれも気付かなかったが生きているように死んでいた。丸い、太っている身体がポンプの泡に乗っていた。死ぬと軽くなるのだ。太りすぎてすごく重かっただろうが、命が亡くなると泡に浮くぐらい軽い。でも泳いでいるようにも見えるから、本当にわからないぐらい静かな死だった。私が言うしかない。長女は大泣きした。家族のメンバーがなくなるのと同じ気持ち。夫は手に取って確認した。夫の手の平と同じぐらい大きく見えた。「こんなに丸いのだ」と一言いう。皆が悲しい。先ほどまで一緒にいた命はどこ行ってしまったのか、明らかに命があった時とない時とは違っていた。お魚には瞼がないから本当にはわからないが、なんとなく目が違うのだ。

その時長女が泣きながら言った一言が感動的だった。「リボンちゃんは可哀そうだ、初めて死んだ」。五歳の子供が生き物の死と向き合う姿勢はこんなに素晴らしい。生き物はいつか死ぬが、そのとおり「初めて死ぬ」のだ。何回も死ぬことはできないのだ。もしも二回目があったなら、一回目の経験を活かすことができるのに。娘の声のニュアンスはそれを示していた。深いのだ。この死は初めてだったから次は大丈夫ということもあるが、「初めて」を最後まで残せるというのも生き物だからこそできること。この体験をとおして次にいくことができる。次があるということだ。長女の言葉は仙人のようだ。「可哀そう」というのは初めてなにかを体験することに対して、まだ分からないことがたくさんある段階にいるからで、これから少しずつわかるようになる。

夫が庭に埋めた。建国記念日がリボンちゃんの命日になった。そのあと海の方に出て魚屋でお刺身を買おうとした。海が荒れていたので、いいものはなかった。子供の時にたくさんの生き物の墓を作っていたことを思い出した。死んでいる生き物を見つけるたびに、家の裏に埋める。家の裏にカモミールのお花で飾た小さなお墓がいっぱいある日もあった。小さな枝で十字の形を作って、お葬式を考えながら一日中遊んでいた。子供のほうがよくわかっている。死には儀礼が必要なのだ。

村の子供たちとは、お葬式だけでなく結婚式や雨ごいもやっていた。結婚式では、花や家から盗みだした様々な布でお嫁さんとお婿さんの役の子供を飾り、行列の後ろには鍋と棒で音楽を作って近所を回る。音楽担当の子はなかなかセンスがよく、声と鍋の音でみんなはトランス状態になる感じだった。この音楽を作る兄弟は当時もう二十代だったはずで、障害を抱えていた。こういう想像の儀礼という遊びの時だけは、子供と一緒になって、差別もなく平等だった。普段は道端に一日中座って、道を歩いている人にあいさつするだけなので、男の子に怒鳴りつけられて、虐められることがあった。が、結婚式ごっこの時は、彼らは音楽担当の立場を得て、幸せそうな顔で歌を歌った。あのときの雰囲気はフェリーニの映画のシーンのようだった。

雨ごいの儀礼は暑い夏の日の遊びだ。これは女の子だけで行う儀礼ごっこ。見たことはないが、皆で考えて、泥で人形を作り、人形と自分たちの頭に花を飾り、地面を強く叩くステップを踏み、乾いた埃を飛ばして長く踊り続ける。すると一時間後に必ず嵐のような雨が降り始めた。笑いながら家に戻って、雨が上がるとまた外に出て、村中にできた水溜まりを裸足で歩いて、泥水を楽しんた。たまにだれかが瓶の欠片を足で踏んでケガをするが、その血も必要な犠牲だといって遊びをやめる。

リボンちゃんが「初めて死んだ」次の日、水槽があったところがあまりにも空っぽで寂しそうだったから花を活けてみた。リボンちゃんと同じ、鮮やかな花を買った。紫とピンクのスイートピーとピンクのチューリップ。写真も飾ろうと思う。死んだ時に「提灯みたいだった」と夫が言った。何日か後、友達と弘前公園の雪祭りを見た。雪のなかで光るロウソクを見て、頭の中で「これはリボンちゃんの葬式だ、こんなに人が集まっている」と感じた。命を失ったものはこういう綺麗な葬式をやればいい。金魚ねぷたがたくさん飾ってあるところに来て、娘に「見てごらん、リボンちゃんは金魚ねぷたになって光っているよ」と言ったら、嬉しくてたまらないという表情をした。「リボンちゃんは綺麗だ」と娘が言い、一緒に写真を撮った。初めて死んだリボンちゃんは、なかなかのパフォーマンスを見せてくれたようで、初めてだと思わないぐらいだった。

死はいつか皆に初めてやってくるが、深く考えると自分の中でなかなか納得できない部分がある。私の場合は初めてではなく三回目ぐらいになるのかと思う時がある。私は三人分の命を背負っている気がするから。ルーマニアの暗い歴史、チャウシェスク政権下でたくさんの中絶が行われた。あの時の雰囲気をよく表す『4か月、3週間と2日』というクリスティアン・ムンジウ監督の映画がある。カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を取った映画だが、違法中絶の話が中心になっている。妊娠4か月、3週間と2日の時だ。ルーマニアではよくあった話で、私の母もそうだった。しかも二回も。当時の女性の選択肢や経済状況など様々な理由があったのだろうが、はじめて父からそれを聞かされた時、倒れそうになった。「あなたと弟を育てるために、しかたなかった、皆やっていたから恐ろしい」。うん、社会主義が恐ろしい。私と弟が大きくなるために犠牲になった命があったなんて。お母さんはそれについて喋らない。自分が弱かった、自でそれを許したことにたいして聞けない。「二人とも男の子だった」と父に泣きながら言われた。「性別が分かるまで大きかった、私が育つため、私だったかもしれない、私の代わりにどうぞ、今どこにいる、いつももっと兄弟ほしかったのに、ひどい、私が代わりになっていい」との思いが頭に浮かぶけれど、知りたくない事実にたいしてなにも言い返せない状態だった。当時の社会の圧迫感を感じる。これは消せないものだ。私の身体に二人の命を誘いたいぐらい、私の身体を借りていいから。お葬式もなかっただろうが、リボンちゃんみたいな金魚ねぷたにもなれない。

娘は三歳のとき「ママを選んだ」と言ってくれた。「大きなスクリーンショットでみた。美人で、踊っていた」と突然言われた。スクリーンで見るのか。娘に選ばれたのか。五味太郎の絵本『ウサギはやっぱり』の「ピンクうさぎがでました」と読むと「ママだ」という娘たち。「いつも踊っているから」ママに似ているという。ピンクうさぎでよかった、私。でも、自分の中には、あと二人分のうさぎがいるはず。二人の分の人生も生きることにした。なに色だったのかな。「オレンジうさぎ」と「むらさきうさぎ」と「みどりうさぎ」が絵本ではピンクうさぎの次だからきっとこんな感じだったに違いない。弟はオレンジうさぎにそっくりだ。むらさきうさぎとみどりうさぎに会いたかった。

 

ロミオとジュリエット(晩年通信 その19)

室謙二

 犬は飼ったことがないが、ネコは飼ったことがある。
 私が覚えている最初のネコは、ロミオとジュリエットというカップルで、私はロミーとジュリーと呼んでいた。
 ロミーは乱暴なネコで、ちょっかいを出そうとすると、私を睨みつけて歯を見せる。もっと遊ぼうとすると、爪で引っ掻いてきたり噛みついてくる。ジュリーの方はよく覚えていないんだ。
 最初のネコと乱暴な付き合いだったので、二十年ぐらい前までは、私はネコを時々乱暴に扱う。すると友人家族に怒られる。私の子供の頃、1950年代日本での飼い主と飼いネコの付き合いは、今のネコ好きとネコとの優しい付き合いとは違って、けっこう緊張感のあるものだった。
 食料が余っている時代ではなかったから、ネコに行く食べ物はあまりものだったり少量だったり。人間が食べたくないもの(古かったり、汚かったり)だった。ネコだってそんなものは嫌だろうが、食料がない時代だから、ネコもお腹がすいている。
 あの時代、ペットショップで買った、ネコ用の食料なんかありません。だからネコの方も、すきがあればテーブルの上の食べ物を盗んで逃げる。

  ネコといっしょに飲み食べる

 アメリカに来てから聞いた話で、家族全員が旅行に行くので、ペットの世話に人に泊まってもらったとのこと。冷蔵庫の中のものはなんでも食べていい、というので食べかけの缶詰を食べたらしい。なかなかおいしいよ、と帰ってきた家族に言ったら、ネコの食べ物だったとのことだ。
 それなら、私も一度食べてみようと試した。一口食べてみたけど、あれは人間にも食べられるものだね。

 京都のほんやら堂を、みんなで作ったばかりの頃、東京からやってきたときに二階に泊まっていた。ほんやら堂に出入りしているネコが、夜中に私の寝床に入ってくる。ネコは好きだけど、うるさいんだ。
 追い出しても、寝ているところにニャーとやってくる。私は酔っ払っていたので、寝る前に飲んでいたウィスキーを少量、ほんの少量だよ、ネコの口の中に注いだら、ネコは「ぎゃー」と、爪を立てて飛び上がって。走り去った。
 ひどいことをしたものだ。でも次の日は平気な顔をして、またやってきた。
 あれは虐待だね。だけど子供のころネコと、とっつき合い、爪で引っ掻かれたり歯で噛まれて血が出たり、との乱暴な関係だったので、その感じがその時まで続いていた。今みたいに、おネコ様との優しい関係ではないのです。

 三十年ぐらい前からなあ、もっと前かもしれない、ソラノ通りにあるフライ釣りの店に行ったら、小さなネコがいた。オーナーの奥さんのネコの子供で、誰かもらってくれないかと置いている。そのネコが好きになった。ネコの方も、私を気に入ったみたい。妻のNancyに電話をして、「ねえネコを飼わない」と言ったら、彼女もその気になった。
 これが何十年ぶりかのネコで、ゴロー(五郎、吾郎)と名付けた。私たちには二人合わせて4人の息子がいるので、5人目の息子(五郎)です。それに迷いの世界を超えた悟ったネコになってくれよ、という意味の吾郎(ゴロー)でもあった、ところが、これが悟りとは正反対の、徹底的馬鹿ネコだった。だからいっそう愛した。

  結局、噛まれて死んだ

 ゴローは、二階の窓が開いている時に、窓の枠に座って外を見るが好きだった。ところが窓が閉まっていてもガラスで外が見えるので、勢いよく床を走ってきて、窓の枠に飛び上がる。そして頭をガラスに打ちつける。床に落ちて転がり、しまったとばかり、私を見上げる。オイオイ大丈夫か?
 ゴローは雷の音が嫌いで、雷が鳴ると怖がって床を走り回って、それからベットの下に入り震えて出てこない。雨が降ってきて雷音が響く。
 雷は怖いらしいが、隣の犬は怖くない。その大きな犬と喧嘩をするのだ。犬と喧嘩する猫なんて初めてだ。まずは塀越しで、吠えられたり唸り返したり。犬はついに塀の下を掘って我が家に入り、ネコを追いかけて、ゴローは物置きの建物の上に飛び上がって逃れた。
 だけどその前にお腹を噛まれて、何針も縫うケガ。犬の飼い主がすまながって、何百ドルかの治療代を出してくれたけど、あれはゴローの方が悪い。
 そして最後には、その隣の犬に咬み殺されてしまった。死んだ体を運んで、ペットショップで手続きをした。葬式をしてもらった。犬の飼い主にお金も出すと言われたのだけど、馬鹿ゴローが犬を挑発したのを知っていたので、自分たちで出したよ。

  最後のネコ

 ゴローから何代かネコを飼った。
 でも、もうネコはいない。いまネコを飼えば、きっと私たちより長生きするだろう。ネコを後に残して、私たちは死ねないよ。だから近所の散歩の時に、近所ネコと友だちになっている。それが私の楽しみ。
 Nancyと散歩しても、私のところだけに寄ってくる。不思議だね。私にはたくさんネコ友だちがいるんだ。本当はネコを飼いたいのだけど、それで我慢している。
 ペットショップでネコの食べ物を買って、歩きながら与えて仲良しになろうと思ったが、飼い主は自分のネコの食べ物に注意を払っているだろうからやめなさい。とNancyに言われて我慢している。
 ゴローが隣の家の犬に殺されてしまった後は、エミコだった。隣近所の掲示板で飼い主を探していると言うので、その家に行ったらかわいかったので貰った。母ネコの名前がエミーだったかな、それでエミコという名前にした。
 この子が亡くなった後に、クッキーを、これも近所から貰った。
 これが最後のネコだね。

  中に入れてほしい、と言う。

 クッキーはまだ若いのに、ヘルニアで足が痛くなって素早く歩けなくなった。それで外ネコだったが、家の中に入れてくれ、と言う。
 ネコを飼うときに、まずは内ネコとして飼いたい。外ネコにすると、外で喧嘩したり、他の動物に噛まれたり、自動車にはねられたり、外ネコの命は内ネコの半分なのだそうだ。
 長生きしてほしいので飼いネコは内ネコにしたいのだけど、どうしても出て行きたがる。隙があると外に出て行ってしまう。と言っても、隣近所の庭ぐらいまでで、時には小さな通りの向こう側まで行ってしまこともあるが、ちゃんと食事に戻ってくる。
 かつては、隣とその隣の家の床下を住処とするタヌキ(Possum)一家がいて、タヌキは乱暴な動物なんだよ。小さなネコなんか、噛み殺してしまうかもしれない。そのタヌキ一家が、クルマがビュンビュン走るテレグラフ通りを悠々と歩いていて、ここはバークレーなので、人が降りてきてタヌキさま一家のためにクルマを止めて歩かせる。もうあのタヌキ一家はいないなあ。そういう動物は、我が家の周りにはいなくなる。何年か前にどこからかタヌキが一匹、我が家の裏庭に迷い込んできた。あれが最後だね。

 最後のネコのクッキーは、足が悪くなった。ネコ病院に連れて行くとヘルニアだそうだ。痛がるのでクスリをあげたかなあ。手術も必要だと言われたが、かわいそうだけどほっておいた。
 クッキーはずっと外で遊んで、食事だけ帰ってくるネコだったが、ヘルニアが悪くなって家に入れてくれと言うようになった。ずっと外ネコだったので、寄生虫とかノミとかダニがついているかもしれない。だから家に入れたくなくて、段ボール箱にタオルを入れて二階のデッキに置いて、そこがクッキーの住処になった。
 でも体が弱ってきて、家に入れてよと鳴く。
 私がドアを開けて外に出るときに、足元から家の中に入り込む。
 ダメだよ、と外に押し出す。
 クッキーは体が痛いので、ゆっくりと二階デッキの階段を裏庭に降りていった。それがこのネコを見た最後だった。

 クッキーが食事に帰ってこないので、何日も近所を探した。「クッキー、クッキー」と呼びながら、近所の家の床下を覗き込んだり。でも見つからなかった。
 体が弱っていたから、病気で床下で死んで、タヌキに食べられてしまったのかもしれない。かわいそうなことをしたなあ。
 あれ以来、ネコとの別れが悲しいので、ネコは飼っていない。
 今になれば私の方が先に死ぬだろうから、後に残したくないのでネコは飼っていない。

万華鏡物語(9)春が来るのに

長谷部千彩

 喫茶店にいる。窓際の席でコーヒーを飲みながら、この原稿を書いている。ガラス窓の向こうの空は明るい。気温は低いが、来週から三月だ。
 この文章がひとの目に触れる頃、この店は閉店している。十年以上通い続けたけれど、営業日は残すところあと三日。コロナ禍とは無関係。テナント契約の問題だ。
 ジャズが流れていること。テーブルが四角く広いこと。天板が厚く、書きものをするのにちょうどいい高さだということ。店内の真ん中に一本の通路。その両側に、ボックスシートの車両のように向き合ったベンチスタイルの椅子が並ぶ。後ろの席との仕切りも兼ねた椅子の背凭れは高く、他の客が視界に入らないため、自分たちの話に集中できるのが何よりありがたかった。
 仕事の打ち合わせはもちろん、私用でひとに会うのにも、私が指定するのはもっぱらこの店。ひとりで本を読むためにも訪れたし、ここで原稿を書くことも多かった。週に四回、訪れることもあったのだから、常連客と名乗っても許されるだろう。

 私が数人の知人と運営するウェブマガジンは六年を数えるが、そのもととなるアイディアを口にしたのは、まさにいま座っているこの席で。耳を傾けていた女性編集者は「やりましょうよ!」と即答してくれた。
 それ以来、チームのミーティングもずっとここで行ってきた。本業の仕事の合間を縫って集まるこの場所は、私たちにとって部室のようなもの。各テーブルにひとつずつ置かれた紫のシェードの小さなランプ、その電源コードはテーブルの下に伸びていて、作業が長引き、持参したノートPCのバッテリー量が心細くなると、天板の下に頭を突っ込み、ランプのコンセントを抜いて自機のACアダプターを繋いだ。
 夏のアイスコーヒー。秋のミルクティー。冬のココア。東京の最も美しい季節がやって来るというのに、私たちはこれからいったいどこを根城にすればいいのか。

 もうひとつ、この喫茶店を贔屓にしていた理由がある。それは、飲み物を供される器だ。例えばいま、キーボードを打つ手の脇には、エインズレイのカップが置かれている。この店では有名な陶磁器ブランドのカップを何種類も揃えていて、今日はどんなカップで運ばれてくるのか、洋食器好きの私には、それが小さな楽しみだった。

 スターバックスやブルーボトル、ドトールコーヒーや上島珈琲。チェーン展開するコーヒーショップは街を覆うように増えていく。休憩するなら、お喋りするなら、他の店でも大丈夫。ましてやここは東京、素敵なカフェなら星の数ほど存在する。けれど、落ち着いて考え事ができ、落ち着いて本を読み、落ち着いて文章が書ける喫茶店を見つけるのは、なかなか難しい。神経質な私には。

 居心地のいい店を見つけるまで、区立図書館に通ってみようかとも思う。そこへは飲み物を持ち込めるだろうか。キーボードを叩くパチパチという音は、周りの迷惑にならないだろうか。その席のそばに窓はあるだろうか。その窓からは、何が見えるのだろう。
 この店が面した広場には、クリスマスが近づくと、巨大なクリスタルのオブジェが設置される。パリにアパルトマンを借りて暮らした二年間を除き、私は、毎年、その煌めきを窓の外に眺めながら、ひとときを過ごした。特別な思い入れはなかったけれど、次の冬、私が同じ時間を持つことはない、そう思うと奇妙な気分に襲われる。
 在るものが消え、消えた後、何食わぬ顔でまた何かが現れる――そのことに慣れ切っているはずなのに、もはや何の疑問も抱かぬほど、都会に長く住み続け、年を取ったというのに、なぜだろう、この先もずっとこの店に通い続けるような気がしていたのだ。
 ここで待ち合わせた人々の顔が次々と浮かぶ。私の中のひとつの時代が終わる。それは大袈裟な表現だろうか。感傷だと笑われるだろうか。

 もしも、行き場が見つからなかったら、どうしよう。テーブルの下、投げ出した脚。私は、キーボードを打つ手を止める。頬杖をつく。四角く広いテーブル。天板の厚み。ベンチシート。私好みのカップとコーヒー。小さな音で流れるジャズ。ガラス窓の向こうの青空。そのときは、自分で喫茶店を開けばいいのかな。そんな考えが頭をよぎる。私は夢想に耽る。

アレッポのこそどろ

さとうまき

シリア内戦からまもなく10年になる。今何がいちばんたいへんかというとアメリカが課している経済制裁だ。

国際社会は、内戦が始まると、ともかく「父親の時代から独裁」を続けるアサド大統領の退陣を求め、1)大統領や側近の資産凍結、2)反体制派の支援、3)逃げてきた難民の支援、4)アサド政権崩壊後の復興支援を掲げた。

ところが、反体制派のリーダーがこれまた食わせ物だったこと。ロシアとイランがアサド側についたこと。そして何よりも、イスラム国が割り込んできて、主役を奪ってしまったこともあり、シリア革命はしりすぼみになってしまった。現在は、国土の大半は、アサド政権の支配下に置かれ、ロシア軍や、アメリカ軍、トルコ軍が駐留して治安は安定してきている。

しかし、欧米諸国は、アサド大統領の人権蹂躙を問題視し、アサド退陣なくして、復興支援はないとし、アメリカは、昨年の6月には、議会で決議された経済制裁を始めた。このアメリカの経済制裁は、結構えぐい。対象となるのは
特定の団体や産業との取引やサービス等の提供を行った個人・団体
特定の地域の復興に関係する契約を締結した個人・団体
つまり、アメリカ人だけでなくて、僕が、シリアと取引したとしたら、日本での銀行口座が差し押さえられ、もちろんアメリカには入国できなくなり、国際実業家に転身した僕としては、生命がたたれるというわけなのだ。

とあるシリア人から、「今シリアポンドが暴落しているから、投資するのはチャンスですよ」と。フォーシーズンホテルは無理でもシャームホテルくらいなら買収しようかと考えていたところだったのでこれはショックだ。

ただ、やはり、このアメリカの制裁が足かせになっている。実際、シリア国内では大変なことになっていて、公務員、例えば学校の先生の給料は一か月40ドル、国軍は15ドル程度しかもらえないらしい。ガソリンも不足、電気も停電が続いて、灯油もなく寒い冬を過ごしている。もう、アサドを支持する人もしない人も、疲れ切っているらしい。

国外のシリア難民たちは、国際社会が約束したほどの支援が受けられているのかというと、570万人もの難民がいて国連も財政が厳しいようだ。難民たちもそう仕事に就けるわけでもないのだが、皮肉なことに難民支援の国際NGOで働くと600ドルから2000ドルほど給料をもらえる。シリア国内にとどまるよりは、この手の仕事につければラッキーなのだ。

こういう一部の裕福になった難民は、ヨーロッパを目指した。ブローカーに一人3000ドルほど払えば、今度はヨーロッパの市民になれる。彼らのシリア国内への送金によって、どうにか食いつないでいるというのが現状らしい。しかし、家族や親せきが海外にいなければ、仕送りもなく生活はどん底である。

2月15日は、国際小児がんの日である。シリアのBASMAは、小児がんの子どもたちを支援するNGOで、2月中は小児がんの子どもたちへの支援金を集めるキャンペーンを実施していた。シリアの会社8社がキャンペーンに賛同していて、ビスケットやツナ缶、パスタ、ハーブティ、ミルクなどの商品を買うと、いくらかはBASMAを通して小児がんの支援になるそうだ。

BASMAには、日本からお金を送ることはできないのだが、親戚や友人への生活費などの送金は制裁の対象にはならない。そこで実業家の僕が考えたのは、友人のシリア人に生活費を送り、これらの商品を片っ端から購入して、結果的に小児がんの子どもたちを救おうという「砂漠のお買い物」作戦。

実は、いま、治療が必要な子どもたち3名に仕送りをしているのだが、彼らにも声をかけて商品を買わせた。本当に彼らの生活は厳しい。アレッポのサラーフ君10歳は、お父さんが内戦に巻き込まれて行方不明になっている。お母さんが気丈に育てているが、周りから援助を受けるしかすべがない。お母さんは、とてもフレンドリーに連絡してくれて、サラーフの写真や動画を頻繁に送ってくれる。僕らは治療費しか出していないが、栄養を取らないとがんにまけてしまうので、月5000円は食費に回してもらうことにした。すると、こんなものを食べたとか、食材の値段を教えてくれたりと頻繁に情報をくれるので楽しい。なんと、年末には泥棒が入って、絨毯を盗んでいったらしく、踏んだり蹴ったりだ。サラーフ君の家には、絨毯くらいしか盗むものがなかったのだろう。

今回10000円で、買い物をしてほしい。これはBASMAの支援になるからと説明すると、お母さんがとっても張り切っている。やはり、人の役に立つというのは、誰でもうれしいのである。「5000円分でミルク、ツナ缶、ビスケット、ハーブティ、石鹸をかったわ」という報告があり、サラーフ君がおいしそうにビスケットをかじっている写真が届いた。リストには、8社があり5つまで見つけたそう。
「あと3つ探してみるわ」
「いや、無理して全種類買わなくてもいいから、牛乳とか一番必要なものにして!」と伝えてもらったつもりだったが、最後の一社は下着メーカーで、送られてきた写真はどうも矯正下着とか、ピンクのパンツとかで、5000円だった! 半分は下着代かい! まあ、いいか。おかあちゃんもたまにはこういうので贅沢してもらうということで。ともかく、下着泥棒に入られないように願うばかりだ。

えーと、実業家に転身した僕の取り分は? アメリカの経済制裁がなければ、矯正下着でも輸入して儲けるのになあ。

(一部話を誇張しています)

長男の立場

北村周一

 長子偏愛されをり暑き庭園の地(つち)ふかく根の溶けゆくダリア  塚本邦雄

ちょうなん【長男】最初に生まれた男の子。長子。総領。嫡男。
辞書を引けば、こんなふうに出てくるが、もうお馴染みのことばだから、それほど注意しなくても、ああそうだよねって、納得してしまうんだよね、きっと、たぶん、やっぱり・・・。

同じく、塚本作品から、
 父とわれ稀になごみて頒(わか)ち読む新聞のすみの海底地震

長男とかぎらなくても、父と子のあいだには、怖れというか、隔たりというか、特にオトコの子には、なんらかの(得もいわれぬ)空間(空気)が存在する。

同じく、塚本作品から、
 うす暗くして眩しけれ父と腕触る満開の蝙蝠傘(こうもり)の中

つづいて、岡井隆作品からふたつ、
 風道に紅顔童子立てりけり髪を率(ひき)ゐて佇(た)てりけるかも
 歳月はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて

  * *

つらつらと思い出すまま、塚本さんと、岡井さんの短歌をいくつか引用してみたけれど、現在目の前で起きている事件は、なんとも不可解でおぞましい。

 軽いノリで
 父の話芸を
 真似ることも
 別人格とう
 語彙の貧しさ
~父は「令和おじさん」とも呼ばれていた

 父母の期待
 一身に受け
 まなび舎に
 男子つどえば
 長男ばかり
~次男三男は、数が少ない

 左を見て
 右見て前に
 進まんに
 手取り足取り
 父がみちびく
~まずは秘書官になりなさい

 無職子の
 長子溺愛
 その父が
 授けたまいし
 総務のオキテ
~コネがすべて

 長男の
 立場たびたび
 悪用し
 歪められたる
 国家の大事
~恐怖政治のゆくえ

 棄てられて
 はじめて気づく
 人格の
 それより暗き
 血のいろの濃さ
~蔓延る二世議員たち

 これ以上
 ぼくの時間を
 奪わないでと
 いいたげに
 終わる会見
~説明責任果たさぬ人ら

 歳取ると
 そとを見ること
 多くして
 テレビの函も
 窓べのごとし
~国会中継をさぼるNHK