グロッソラリー―ない ので ある―(32)

明智尚希

「1月1日:

(略)

なぜ (?_?) なぜ

 歴史上、幾千万以上の人間が死んできた。死後、彼らは何のメッセージも寄こしてこない。死後の世界があまりに素晴らしく、この世は無視に値するほど取るに足りないのか、業火に包まれ苦しくてメッセージどころではないのか、あるいは完全なる無となってこの世との縁が断絶したのか。人間は死そのものより死後に興味があるというのに。

【( ̄_ ̄)v】遺影

 薬味の効いた寸鉄で人を刺す。ふたつながらの勧進元は角をはやした。画がないのではない。師がいないのだ。岩佐又兵衛に菱川師宣。若き人類が見た夢。堕ちよ、生きよ。正弦波の遺伝的アルゴリズムの自己組織化現象は実はやおいという顛末。鉛の羽根、輝く煙、冷たい火、病める健康。今後は仮想的になんなんとす。心理的紐帯をちぎって。

( `ハ´) ワガハイガ師ダ

 とはいえ、鼻が詰まっていない人も楽観できない。常に鼻の通りはいいかもしれないが、ふと気づけばさらさらの鼻水が上唇を濡らしていることもある。いや、さらさらとはいかないまでも、ねっとりとした鼻水が鼻の下で何時間も落ち着いていることだってある。さらさらもねっとりも鼻水には変わりない。ちり紙でそっと拭き取ればよい。

σ( ̄ii ̄;) ダラー

 文化は精神、文明は物質だという。しかし文化のいかなる明察があれども、それとは無関係に文明はオートマチックに進む。文化の衰退はあっても文明の後退はない。二極分解しえるものが常に一対として語られる。現代は文明が優勢の時代である。そういう時代精神なのである。文化が副次的分際に甘んじている時、歴史的転換が起こりやすい。

ブンメイカイカノ <(个_个。) オトガスル

 1月1日:次郎おじさんは、僕の大好きなおじさんである。ただ無駄話で長広舌を奮う点に難がある。話が面白ければいいのだが、単なるだべりに堕している。それはともかく、次郎おじさんは永遠にこの本を読み続けることになるとかならないとか。僕のほうはといえば、慎重に慎重を重ねて考慮した結果、産まれてくるのをやめることにした。

(; ̄Д ̄)なんじゃと?

 いい歳をしておきながら、自分の発言内容の誤りを認めない人間がいる。誤りを認めないどころか、さも正論であるかのように主張し、相手のほうに非があると責める始末。この種の輩でも人間と呼ぶのだろうか。低劣で性格がひねており頑固、おまけに学がなく脳髄もいささか弱い。この手合いを愛せるか否か、博愛主義者の度量の見せどころだ。

(#゚,_ゝ゚) バカジャナイノ?

 「Cool Head but Warm Heart」。ケインズが師事したマーシャルの有名な言葉だ。聖者とされる人以外には当てはまらないのではあるまいか。先哲の言葉とは概ねそうである。この格言も事後に思い出す類いのものだろう。ケインズの信念のほうがぴんとくる。「It is much important how to be rather than how to do」。弟子がやや優勢か。

パチッ☆-(^ー’*)bナルホド

「ん? 右か。いや、左だ。まっすぐ? いや、やっぱり左で大丈夫だ。いや、駄目だ。右だ。え、左? それなら右だな。またまっすぐかよ。どこにするかちゃんとしてくれよ。もう右だ右。ああまた左だ。そこで右に来るかなあ。なんでそうなっちゃうかなあったく。ああもうすぐだ。左。右。まっすぐ。左。左。まっすぐ。うわっ」ガシャン。

自転車o孕o〜キコキコ

 全知全能の神は、何すべくしてこの世に生物を作ったのだろうか。太陽系における実験か。地球における推移の点検か。あるいは単なる観賞用か。そもそも全知全能なのだから、前二者は必要ないと考えると最後の一つということになる。だが、ペットたる人間・動植物の動向や一生も知り抜いているはずである。気まぐれにしては趣味が悪い。

~~\(゚-゚*)バサッ(*゚-゚)/~~ バサッ(-人-)

 しどくうどくの 婆さりめっけ
うんどく丸だら しゃほろいよ
めれべかんでれ なあ気をさるを
待ちらちてべて しんがるさよろ
なぶてぶっちゃり 刈りしゃぶよ

〈( ^.^)ノ ホイサッサ

 わしは犬になりたい。いつも上機嫌そうで、散歩している時なんかは尻尾をふりふりして実に愛らしくて健やかじゃ。見た目もそうなら、中身も充実しているのじゃろう。難しいことは考えずに食事を楽しみに待っとる。もし飼い主が夜逃げでもして、ただ一匹残されようもんなら死活問題じゃ。誰じゃ! 犬になりたいなどとほざいてるのは!

オテ(*゚▽゚)o”ヘU。・ェ・。U

 この国には四季があるという。そうだろうか? あるのは夏と冬だけのように思う。
春と秋はほんのおまけ。特に春はものの二週間もあれば長いほうで、冬日の翌日がいきなり夏日だったりする。秋も似たようなものだ。残暑が終わったかどうかのうちに寒くなる。秋はどこだ。この国の人は、意地でも四季に分けないと気が済まないらしい。

扇風機→”(((卍)))”o( ̄△ ̄o)ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛〜〜

 長生きは良いこととされている。誰もが長生きしたいと願っているとされている。いずれも死があるからこその表現である。人間は消耗品だから不老は免れまい。だがもし不死が実現したら恐ろしい。衰弱困憊の姿を超越しながら永遠に生き続ける。もはや生き物の埒外の姿形で横たわっている。我々は死があることに感謝しなければならない。

゚ヽ(*´∀)ノ゚.:。+゚ァリガトゥ

 やる気のある人間ほど使えない人材はない。

(´・∀・`) ヘェー

 困った時の神頼み。日常、神も仏もない生活を送っていながら、困窮状態に陥って弱りきっている時にだけ、手と手を握り合わせてひざまずき、にわかごしらえの教徒となる。硬直して祈る姿はまがまがしい人形でしかない。信仰心の薄いというより全くない上に弱り果てた人間の祈りなど、ひいき目に見てもとても宛先にまで届くとは思えない。

(;人;) オネガイシマス

さつき 二〇一七年六月 第二回

植松眞人

私の生まれ月を大切にしているようなないがしろにしているような不思議な両親だが、間違いなく私のことが大好きだ。家族愛とか言い出すと大仰すぎて気恥ずかしくなるが、まさに気恥ずかしくなるくらいに確実に両親は私を好きでいてくれることはわかる。
その割には毎年私の誕生日には誰もなにも言ってくれなくて、二日後三日後くらいに、ふいに「さっちゃん、お誕生日おめでとう」と父か母のどちらかが思い出して叫ぶように言う。小学生の低学年の頃は、これはわざとなのではないかと思っていた。忘れたふりをして私を驚かしておいて、私ががっかりした頃に声をかけて再び驚かせる。二重のドッキリなんだと私は思っていた。しかし、小学校も終わりの頃になると、ただただ両親が粗忽者であるということが私にもはっきりとわかるようになったのだった。なにしろ、二人の遺伝子をしっかりと引き継いでいるのだから。のんきな、というのか、ぼんやりしている、というのか。そんな気質を自覚するようになって、一人っ子の私は真面目に「几帳面にならなければ」と自分を律するようになったのだった。
高校の神谷先生が言うには、それが間違いの始まりだったな、だそうだ。
「それが間違いの始まりだったな。畑中の良さはのんきなとこなんだよ。それなのに、受け答えはやたらとハキハキしていて、何を頼んでも初動がものすごくいいんだよ」
「しょどうがいい」
私は「しょどう」という言葉がわからなくても問い返した。
「最初の動きで、初動。たとえばさ、今度、中庭の花壇をきれいにしなきゃいけないから、チームを組んで誰か担当してくれないか、という話をすると、いの一番に『はいっ!』って手を挙げるだろ」
「はいっ」
「うん、返事がよろしい。そんなふうに良い返事をしてくれるわけだ。そして、『じゃあ、私が何人かの声をかけて、チームを作っておきます』と言ってくれる。で、ここまでが初動だよ。初動はとてもいい」
「はい」
「でも、その後、実はのんびりしてるから、一人か二人に声をかけて断られたりすると、そこで全部ストップしちゃうんだよね。で、しかも、ストップしちゃってることも忘れて、『おい、畑中、あれどうなった?』って聞くと、お前、飛び上がって驚くだろ」
「はい…」
と、私の声をだんだんと小さくなっていくわけだけれども、神谷先生が言うには、最初からぼんやりした顔をしてくれれば、無駄な負荷をかけなくてもよくなるし、お前ももう少し気楽に高校生活を楽しめるのに、ということらしい。
でも、いまさらそんなことを言われても、私にはどうしようもない。一人っ子だけど、なんとなくのんきな両親のおかげで長女のような感覚で育ってしまったし、そこそこのコピーライターだった父は、そこそこだったおかげで飛び抜けた仕事にありつくこともなく、かといって、どうしようもない仕事に手を付ける気持ちにもなれずに、勤めていた広告代理店を辞めてしまっていた。最初のころはフリーランスで細かな仕事を拾っていたのだけれど、「そこそこのコピーライターは、そこそこ年齢がいくと仕事が減っていくのさ」とあきらめ顔だ。まあ、諦められてもまだまだ物入りな娘としては黙っていられないので、お父さんはそこそこじゃないよ、たいしたもんだよ、なんて父を励ましたりしているのだけれど、当然のごとくあまり効果はない。
というわけで、いまの畑中家を支えているのは母のデザイン仕事だ。もともと母は私が生まれてからは自宅でやれるデザイン仕事を請け負っていて、人見知りの分だけ誠実に丁寧に仕事をこなすと言うことで意外に仕事が途切れない。ただ、母が言うには、仕事は途切れないんだけど文句も言わずにやってくれると思われているみたいで単価が低いのよね、ということになる。郊外の特急は止まらないけれど通勤快速は止まる程度の街で生まれ育った母は単価の安い仕事が続いても、それはそれなりにありがたいという気持ちで仕事に取り組むことができる人だった。
去年の年末に私と父と母による家族会議が開かれて、父は厳粛な面持ちで私の目をまっすぐに見てこう言った。
「さつき、君は六月生まれだけれど、さつきという名前を持った、とても奥深く勉強のできる子だ。だから、是非とも勉強をさらに頑張って公立の高校に受かってください」
もともと、家から一番近い県立高校を受験しようと思っていた私にとっては今更な話なのだが、父と母はどうあっても私に高校くらいは卒業してほしいということらしい。しかし、私立だと学費の負担が重すぎてそれが実現できないということなのだった。
私は話し終わって厳粛などどこに行ったのかと思うほどにホッとした顔をしている父に、奨学金の話をした。私は私で家庭の事情を察していたので、中学の担任の先生と相談をして奨学金制度があるということを知っている。先生にも、申し込むことになると思いますと伝えて、用紙もすでにもらっている。だから、できる限り公立高校を目指すし、どちらに行った場合も奨学金をもらって父さんと母さんには負担をかけないようにするから、と伝えた。それを聞いて、ホッとした顔をしていた父は、今度は涙をこらえる顔になったので、そういうことで頑張るわ、と自分の部屋に引き上げたのだった。
早い話が、わが畑中家は昨日NHKのテレビで特集が組まれていた『増え続ける新たな貧困層』に当たるらしい。毎日、ご飯が食べられないほどでもない。かといって、何もかも安心して暮らせるほどではない。もし、今日、母が病気で倒れたら、いや倒れないまでも、母の使っているiMacの調子が悪くなって二三日仕事ができなくなったら、もしかしたらそれだけで家賃の支払いが滞るかもしれないほどには貧困なのかもしれない。そして、そう思うと、なんだかみぞおちのあたりがキュッと締め付けられるような気持ちになるのだけれど、負けるわけにはいかない、と私は自分の部屋のテレビのリモコンを知らず知らず力一杯握りしめながら思うのだった。
そんな気持ちはいま目の前の神谷先生に対しても抱いていて、決して先生に同情されるような人間にはならないぞと、面談中に握っていた鉛筆が小さくギリギリと折れる寸前の音を立てたような気がしたので、先生が気付かないうちにそっと鉛筆を握りしめていた力を抜いた。(つづく)

『花粉革命』を踊って

笠井瑞丈

振付を踊る
形の連続性
皮膚と空気
生命的チカラ

振付を踊る
点と点の線
内面と外面
新しい生命

振付を踊る
線と面の間
肉と骨の間
消える肉体

踊りが生まれる瞬間
振付が生まれる瞬間
その瞬間に立ち会う

同じ空気を吸って
同じ時間を共有し
同じ空間を共有す

踊ることと感じること
二度と踊ることのない踊り

時間を空間で輪切りにする
カラダで縫っていく作業

振付と血液
同じカラダを共有すること

私の中にあなたが
あなたの中に私が

そんな新しい感覚が生まれる瞬間

万歩計と歩き方

冨岡三智

先月、携帯電話をやっとスマホに替え、使ってみたかった万歩計をインストールする。先月は奈良から岡山まで電車を6回乗り継いで仕事に行く機会がちょくちょくあっていたので、カウントをのぞくのを楽しみにしていた。その何日目かの仕事日、自宅を出て最寄り駅から電車に乗ったところで、ふと自宅から駅まで(徒歩2分)の距離ではどれくらいの歩数だったのか知りたくなって万歩計をのぞくと、カウントが続いていたので仰天する。どうやら電車の振動でカウントされているらしい。その後乗り換えるたびに他の路線でもチェックしたのだが、他ではカウントしない。

調べてみると、万歩計は足が着地した時の衝撃加速によって歩数を計測するらしく、歩く時に上下や横の揺れが大きい人は実際よりも多くカウントされるようだ。それにしても、じっと電車に乗っているだけで歩行状態だとは、最寄駅からの数駅間はかなり電車の振動が激しいのか…とあらためて思う。

衝撃加速で歩数を測るということは、衝撃が少なければカウントされないということでもある。ジャワ舞踊の歩き方なら感知されないかもしれないと思い、自宅で試してみる。ジャワ舞踊では腰を落として歩き、頭が上下する、つまり体が上下する歩き方はダメである。果たして、何十歩歩いてもカウントは進まなかった。平面だけでなく階段の昇り降りも何度も試してみたが、こちらもカウントしない。ちなみにケンセルという、歩くのではなく床を横滑りするような動きもやってみたが、これも歩数はカウントしない。電車に乗っていてもカウントされるのに、自分で移動していてもカウントされないのは、なんだか不思議である。ジャワ舞踊の静かな動きが数値化された…と言いたいところだが、爪先立ちして小走りするスリシックという動きでは、さすがにカウントされた。しかし、上手の踊り手は本当に空を滑るようにスリシックする。もしかしたら、歩数カウントされないような奥義があるかもしれない、と思えてきた。

製本かい摘みましては(128)

四釜裕子

楮の皮をむきに茨城の利根町に行った。日本画家の中村寿生さんが中心となって始めた「文間(もんま)楮――利根町で育てる紙ノ木プロジェクト」の作業にまぜてもらったのだ。中村さんは廃校を活用したアートネ・アートスタジオに草茅舎という工房を構えていて、その庭に2011年から180株ほどの楮を育てて収穫し、新潟の門出和紙の工房で「文間和紙」として漉いてもらっているという。

取手駅で合流した車でしばらく行くと、明日は田植えかな、という田んぼががときどき見えてきた。同乗した青年が「うちも今日から田植えです」という。「いいのか?(by 先生)」「いいんです」「ほんとか?」「じいちゃんには悪いけど明日倍働きますから」「おおー」。「何反歩とか何ヘクタールとか言われてもわからないから今見えている田んぼと比べてあなたんちの田んぼはどれくらいあるの?」と聞いて驚いた。大農家じゃない。

着くとすでにたくさんの人がいた。陽射しも強く、晴れやかな佳境感がまぶしい。建物の外にすえられた窯から湯気があがっている。お昼は用意ありと聞いていたのでとっさに「うまそう」と思ったのだけれどもそうではなくて、1メートルくらいに切り揃えられた楮の枝を縦にして続々投入されている。ぎっしり詰めると上から木樽がかぶせられ、これから2時間蒸すという。やはり作業のタイミングを逸したのだろうか。建物の中に入ると、これまたたくさんの人がブルーシートを敷いた床に座って楮の皮をむいている。窯で蒸しては皮をむいて乾かすという作業を、この日、何度も繰り返すらしい。

軍手をはめて手順を習う。蒸したての楮は熱く、さつまいもやとうもろこしのようないい匂いがする。蒸すことで楮の中身が膨脹するようだ。枝の先っぽを両手で雑巾を絞るようにねじると中身から皮が離れ、それを手がかりにしてむいてゆく。手がかりさえつかめれば、シャー、シャーと、むける。蕗の皮むきと要領は同じではないか。ぐるり手がかりをつかめばまとめていっきにめくれそうだがそううまくはいかない。山積みにされていたであろう楮は間もなくなくなった。隣の少年が「もうないの〜?」といった。私も次の蒸し上がりが待ち遠しい。

むいた皮は6、7枚づつ上下をそろえて藁で束ねる。ぎゅうぎゅう縛らない。藁の先をひけばスルッと解ける方法を教わるが、皮がけっこう固いので難儀する。上下をそろえるのは後日の作業のためらしい。刃物で表面の皮をそぐのに向きがそろっているほうが効率がいいということか。これを風通しのいい通路に渡した丸太にかけて乾かす。かびがはえぬよう、注意が必要とのこと。干したようすはさながら昆布である。

身ぐるみ皮をはがれた枝は表面に綿のような繊維がわずかに残っていて、直径は2センチ程度、固くて真ん中に穴が通っていた。黄色みを帯びた白い肌が美しい。束ねられて次の薪になるのだが、子どもたちは外に出てコンコンといい音をさせてチャンバラをし、学生たちは両手に持ってストレッチをし、疲れた人は杖にして歩き、私たちも何かにできそうと2本ばかり選んだのだった。

外では窯の周りにひとだかりができている。隣に広がる楮畑は数センチの幹を残して刈り取られているわけだけれども、数本残された幹にホワホワした赤い花が咲いていた。刈り取ったままの幹も転がっていて、丈は3メートルもあろうか。1年でこんなに伸びるとは! 幹を太く長く育てるために、またのちに皮をむくときのやりやすさや最終的な和紙の美しさのためにも、夏のあいだの芽欠きが大事と聞く。話を聞きながら一連の流れがまざまざと浮かんだ。

結局つごう3度、皮をむいた。家に帰って改めて、寛政10(1798)年刊『紙漉重宝記』を見る。「楮蒸しの図。……二尺五寸三尺ほどに切て蒸す しバらくして小口のかハ少しむけかかるを見て熟せしを知る……」「楮皮を剥ぐ図。……手にもち皮をむきとるなり 中の真木たきぎの外用立なし」「楮皮干しの図。……くくりめをあバきよく干すべし……」。ほぼこの日見たままの図。非効率とか伝統の技とかいうのではなくて、いかにこれが人が楮から繊維をとりだすのに身の丈に合った方法かということだろう。

足をとめる

若松恵子

伊勢真一監督の『いのちのかたち』を下高井戸シネマで見た。絵本作家いせひでこを描いた、2016年のドキュメンタリー映画だ。

宮城県亘理町の吉田浜。いせひでこは、津波で倒れた1本のクロマツに出会う。東日本大震災で被災した友人を伊勢監督が訪ねた私的ロードムービー『傍(かたわら)』の撮影に同行していた彼女は「そこにいなかったこと」の意味の大きさ、深さを感じてスケッチ帳は持っていたけれど、歩く以外何もできなかったという。そんな時、無人の荒野に倒れて横たわる1本のクロマツに呼び止められる。「描きなさい、わたしを」というクロマツのピアニッシモの声を受けとめて、「えんぴつでそのいのちの姿を記憶すること」に取り組む。横たわるクロマツに雪が降り積もる映像と、いせひでこが想像の中で描いた雪のなかのクロマツの絵が同じ存在感を持って登場する。クロマツとの出会いから4年にわたる画家の旅を描いた映画は、絵本のような余韻を残した。

多くの人が通り過ぎ、見過ごしてしまうものたちに、静かなまなざしが向けられる。いせひでこが足をとめて見つめるものを伊勢監督もまた傍らで見つめている。倒れて横たわるクロマツは、いせにとっては「いのちのかたち」そのものに見えてくる。そのかたちをスケッチすることで、クロマツを自分のなかに刻み込む、記憶しようとする。記憶するという事は、そのものの存在を大切にするということ、愛するという事だからだ。

銘木でも何でもない、倒れてしまった木に足をとめる。通り過ぎることができないという思いを抱く、その姿に心を打たれた。そんな感想を持ったのは、『永山則夫―封印された鑑定記録』(堀川恵子 2013年岩波書店)を読んだばかりだったせいかもしれない。

堀川恵子もまた、忘れ去られようとする永山則夫に足をとめた人だった。この本は、永山則夫の遺品の日記を丁寧に読むなかから、精神鑑定に際して録音されたテープの存在に気づき、278日間にわたる対話を聞くことで、その封印された鑑定記録に光をあてた作品だ。カウンセリングの手法により永山に寄り添い、彼といっしょに幼い日々に戻り、事件に至るつらい日々をたどることで、連続射殺事件に至る真の理由をみつめようとした石川医師もまた、永山の声なき声(ピアニッシモの声)に足をとめた人であった。

石川医師に対して永山が語ったことは犯行直後の供述と矛盾し、石川鑑定自体の信憑性が疑問視される。そして裁判で取り上げられず、封印された鑑定記録となったのだった。しかし、子どもの虐待や貧困が問題となっている今、石川医師と永山則夫の対話から考えさせられることはとても多い。

映画の中で、いせひでこが語っていたことが印象に残った。「根っこもいいけど、津波で倒れた木の根っこがガラスを突き破って入ってきてたくさんのものを流していったんだよ」と言われたことがあって、その時に、彼女は、被災した人たちがどういう思いで自分の絵を見ていたんだろうと考える。でも「言葉もなく、絵もなく記憶もなく、見もせず、通り過ぎて、通り過ぎた事さえ自分が気づかず・・・ていうくり返しだったら、一人の人にも伝えることはできないってことなんですよね」「だから、そんな何百人、何千人に伝えようなんては思ってない。一人でも・・って思ったら、やっぱりどこかで足を止めるんだなって、それをやってきたんだな、とは思ってますけど」(『いのちのかたち』パンフレット映画採録より)絵の傍らで彼女はこう語るのだ。

いせひでこのこの言葉には、堀川恵子の仕事、石川義博の仕事にも共通するものを感じた。足を止める人が居ること。そのかけがえのなさを想う。たとえそれぞれは、ひそやかな行為であったとしても。

別腸日記(5)水を飲むこと

新井卓

夜更けにひとり、キッチンで水をのむ。カルキのほのかな生臭さを帯びたぬるい水──それでも、上等の氷砂糖を一片、溶かし込んだような甘やかな味がするのは、宿酔いのなせるわざだろうか。そんなときいつも、山頭火の「へうへうとして水を味ふ」の句が頭にうかび、へうへう、という声かたちのまま、背を丸めコップに口をつけて水をむさぼる自分の姿は、まるで大きな蛙かなにかのようだ。

2005年の梅雨どき、中越地震から半年と少し過ぎたころ、雑誌の仕事で新潟へ旅したことがあった。取材先の酒造会社をたずねると、担当の男性はひとしきり震災の話をし、それから不意に、わたしたちに問いかけた──なぜ、米どころ、酒どころに地震が多いか知ってますか? 日本という火山帯では、地殻活動が激しい土地ほどミネラルを含んだいい水が湧きだすんです……。
それから、新潟から山道を抜けて被害の大きかった小千谷に向かった。たしかに、彼の言うとおりなのかもしれなかった。
山肌を縫いトンネルを越えるたび、山野の緑は密度と強靱さを増していく。中越や東海、山陰あるいは東北の山あいなど、どこでも大きな広葉樹につる性の植物が覆い被さり、隙間もなく下生えが密生する日本列島の極相林は、ほかのどの国にもない凄みを帯びている。都市や里を離れ一歩藪に踏みいれば、自然はわたしたちを浸食し脅かす存在でもあったことを、忘れていたあの身体の緊張とともに、思い出すことになるだろう。
養鯉農家では、得意先のために早々と錦鯉の売り買いを再開していた。生け簀を循環する、昨晩飲んだ吟醸酒のようにとろりとして重たい水。模様や大きさによってより分けられた鯉たちが、プラスチックの青い盥に浮かんで身動きもせず、ゆっくりと鰓を動かしている。その姿を凝視していると、渇いてもいない喉が無性に渇いてくるのだった。

他所の国から東京へ帰ってきた途端、ああ帰ってきたのだ、と思う、その感覚の大部分はおそらく大気の湿度から来ている。空港を出て一息、戸外の空気を吸い込めば、したたり落ちるようにもとのくらしへ溶け込んでいくのは、風呂水に身を沈めるように、わけもないことに思える(しっとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地ここちおぼゆる/石川啄木)。大岡信が言ったように感情も思想も、身体の七割を占める水が感じ、水が考えているのだとすれば(『故郷への水のメッセージ』1989年)、この土地では思考と言葉は湿度を帯びて形なく漂い、人々は水の不分明に生き個々の境界なくうつろっていくのだろうか。

夜更けのキッチンで、ひとり、水を飲んでいる。地上のあらゆる生きものたちのように、取り残され、干上がりつつある一つの潮溜まりとして。

自由の地はどこにあるのか

西荻なな

次はどこへ行くべきか、ということが、しばしば周囲で話題になる。

それはちょっと旅に行ってこようと思うんだけど、いま旅するならばどこだろうか? という会話で始まることが多い。ひとり旅に慣れた女性たちは不思議と友人にいるもので、主要都市は一通りめぐってしまったから、次はメキシコだ、いやギリシャだ、はたまたインドのジャイプールだ…などと、未だ見ぬ地を探しての“辺境語り”になることが多いのだが、その先にはそれぞれに、日本を脱してさてどこに住むべきか、という未来への思考が続いている気がしてならない。

とりわけ東京近郊、特に東京の何の変哲もない土地に生まれ、上京という大きな引越し体験もが不足している者たちにとって、叶えるかどうかは別として、移住の地をあれこれ妄想してみることは、わりと現実的で切実な問題なのだ。もちろん、世界のどこへ行っても驚きの程度は昔ほどではないのかもしれない。まだ見ぬフロンティアを探すならば、何かをとことん突き詰めて、発見なり創作なりをするほうが、よっぽど意義深いことに思える。同じような風景、同じようなインフラが整備されている環境で育ち、着る服も、暮らしや仕事への価値観もどこか似通っていると、同世代ならば国境を超えて感じられることも多い。

でもそれでも、とりわけ同性の友人たちは“いまここ”ではないどこかを夢想し、緩やかな死に向かいつつある日本から抜け出そうと思っているような気がする。

旅、というよりも、次に住む地を探している旅の途上。それが期間限定で終わるのか、それとも現実のこととなるのかはわからない。でもその間、少なくとも思考は自由でいられる。

少し長期の休みをとって、オランダへ行ってきたのだが、それは今思う“自由”のイメージが、なんとはなしにオランダだったからだ。といってもLGBTに寛容、ドラッグも合法、といったわかりやすい自由の話ではなくて、グラフィックデザインを学びに再度留学した友人や、建築を勉強しに1年間滞在していた友人など、自由を謳歌する知り合いの顔が思い浮かんだからかもしれない。

そういえば、ベーシックインカムを実験的に導入しているような話も聞いたし、古い老舗の新聞社を退職して画期的なメディアを立ち上げた若きジャーナリストたちも、オランダの人たちだった。記憶の断片に、ディストピア的な未来をみすえて、なんだか新しい機運が生まれているような話が思い浮かんだ。

後付的に言えば、オランダ、イギリス、アメリカ、と世界の覇権国が移り変わってきて、もはや覇権国などなくなってしまった時代に突入した今、かつて栄華をきわめた国に行って、取り残された地で何が起きているのか、時間的な“辺境”を探ってみたかったのかもしれない。ここが世界の中心、という軸がゆらいでボーダレスになったかのように見えて、かえってカオス度が増したいまの世の中、降り立つとしたならば、それは時代的にも空間的にも取り残されたように見える、エアポケット的な場所なんじゃないか。そこにこそ自由の気風はあるんじゃないか。なんとなくの予感とともにアムステルダムの地を踏んで、帰ってきたいま、じわじわとその思いを強めている。

無機質で冷たいように見えて機能的で実はカラフル。駅舎や建物、家具のデザインを見て抱いた感想はそれに尽きるのだけれども、一見なんの変哲もなく見えて合理的、でもそれは暮らしの豊かさをむしろ捨てていない合理性なのでは、と感じ入ったのは、運河に集う人たちのあり方と、自転車に乗る風景そのものに現れているように思ったからだ。アムステルダムにしても、アムステルダムをもう一回り小さく牧歌的にしたユトレヒトにしても、街を貫く運河が街のリズムをつむいでいる。

運河の両脇には狭い国土を縦方向に利用したアパートが立ち並び、窓越しにのぞけば、人々の暮らしが見えるようだ。3フロアを機能的に使い分けているような風情、でも花や自転車が彩りを添えている。行く右手にアパートの変化を見ながら運河の脇をずんずん進んでいくと、街のゆるやかな表情の変化も感じられて、夕方にはミントティーやハイネケンを飲んで楽しそうにおしゃべりをする人たちが数多く外の時間を堪能している。誰もがスマホを手にすることなく、熱心におしゃべりに興じていて、日本では、とりわけ東京では忘れられた風景だと思った。お土産を探そうと思っても、オシャレな洋服を置いたお店があるわけでもなく、むしろ“coffee shop”が数多くみられて、通りすがりに煙草ではない香りが立ち込める。暮らしに重きがあるのか、雑貨や日用品を扱ったお店が数多くあるのは印象的で、外よりも内実を充実させるような趣さえある。

15世紀にはエラスムス、17世紀にはスピノザが生まれ、『方法序説』を書いたデカルトやジョン・ロック、ヴォルテールもが移住したり、あるいは亡命の地として一時を過ごしたオランダ。経済的な繁栄と軌を一にして、国の形の定まらないオランダはヨーロッパのエアポケットとして自由の気風を育んだ歴史があるのだと思う。それは今も形を変えて、逆にちょうど時代が一回転して、そこにあるのではないかと思えた。日がな一日、運河を前にぼーっとおしゃべりをしたり、本を読んだりする。これといって何もないけれども、シンプルでどこにいっても美味しいスープの味に歓喜しながら、ユトレヒトでしっかりアパートの値段をチェックして帰路に着いた。

がんとサッカーとシリア難民

さとうまき

ヨルダンのザータリ難民キャンプ。成長しないシリア難民の女の子がいるからみんなで手術を受けさせようと募金集めをすることになった。

しかし、その女の子は、ヨーロッパに移住が決まったらしく、手術はヨーロッパで受けることになった。そこで、急遽ほかにも手術が必要な子どもを探してほしいといわれ、ヨルダンにあるキングフセインがんセンターに相談したところハリッド君という16歳の青年が骨髄移植が必要だというのだ。

2013年、ハリッド君はシリアのダラーからヨルダンに避難してきた。お父さんと一番上の兄は、ダラーに残ったが、その後ヨルダン政府は、国境を閉鎖してしまい、家族は離れ離れのままだ。10人の兄弟姉妹とお母さんでザータリキャンプに入ったが、ハリッド君が喘息を持っていたので、1か月でキャンプをでた。国連の支援で230JD=36000円ほどもらっていて家賃15600円ほどを払っていたが、昨年の10月からはもらっていないそうだ。

ハリッド君は学校に通いながら、一日400-500円ほど稼げるパン屋のバイトをしていた。ある日、同僚から顔が腫れているといわれ検査をしたらリンパ腫だとわかったのだ。化学療法をやってもあまり効果はなく、骨髄移植しかないといわれた。

「一体骨髄移植したらいくらかると思う?」
1000万円近くはかかってしまうのだ。そんなお金は、難民でなくても払えないだろう。私たちの集めたお金で治療を再開し、ヨルダンのNGOが引き続き募金を集めてくれる。私たちは、支援金を振り込んで、ハリッド君の骨髄移植を支援することにした。

3月、病院にお見舞いにいくと、4日間は入院し、その後一日ごとに投薬を繰り返すような化学療法がはじまっていた。その日はお母さんとおばばちゃんが、ハリッド君の面倒を見ていたが、夜になると女性は出ていなかんければならないので、お兄さんがやってくる。しかし、一家を支えているお兄さんは、仕事も思うようにできないと嘆いているそうだ。。

ハリッド君は、薬の副作用で髪の毛が抜けていた。ハリッド君はあまり元気がなかったが、サッカーが大好きで、先日ワールドカップの予選でシリア代表がウズベキスタンに勝利したことを喜んでいた。「体制派、反体制派とか関係なく、サッカーではシリアを応援する。フィラース・ハティーブという選手は反体制派で、チームを去ったけど戻ってきたんだ。僕はシリアの選手すべてが好きなんだ!」

好きな選手を強いてあげれば、「バッセト選手が好きだったけど」という。
バセット選手は、シリアを代表する若手ゴールキーパーで、シリア代表U17、U20にも選ばれ、将来を有望視されていた。非暴力のデモに参加。若者たちを引っ張っていくが、やがて銃をとるように。ドキュメンタリー映画「それでも僕は帰る」に主役として登場する。

血気盛んで、演説もうまくリーダーシップを発揮していくバセットだが、戦いは長引き、おそらく多くのシリア人は、自由とか、民主主義とかそんなものはもうこれっぽっちの美しさも感じなくなってしまっている。ボールの代わりに銃を持ったバッセットにもシリアの若者たちもそろそろ愛想をつかしてしまったと見える。バセットは魂の抜けた抜け殻のようにしか私には見えなかった。

日本とシリアは似ているところもある。民主主義が大事だと若者が声をあげたが、大人たちの世界はそんな生易しい世界ではなかった。バセットは、リーダーであろうと狡猾に立ち回ろうと策をねりながら葛藤し成長していく。対照的に、ベッドの上のハリッド君は、純粋にがんと闘っていた。病魔に追い詰められる子どもたちがどんどんピュアになっていく姿を私は今までも見ていた。

シリア代表チームが来日し、日本代表と親善試合を行うというニュースが飛び込んでくる。隣にいたお母さんも、「絶対シリアがかつわ」と意気込んでいる。

6月3日 14:00からシリアのドキュメンタリー映画:「それでも僕は帰る」を上映します。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://jim-net.org/blog/event/2017/05/63.php

沈丁花 喪われた風景 滝の人魚

高橋悠治

吉祥寺美術館で北村周一個展『フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前」のために『移りゆく日々の敷居』を作曲し演奏する  旗のはためきは 単純な形が風になびいて変る フェンスは斜めの関係の網 

いくつかの線が交叉する直前の空間が旗に見える 空間のなかに旗があるのではなく ひるがえる空間を旗とよぶ

交差する点を沈丁花と見れば 班点がひらいて 細い茎を隠す 見えない網がひろがり 花々や小石は宙に浮かぶ 隙間の多い空間には中心がない 刹那に変る時間は流れない

絵のタイトルを読み その絵の映像を見ながら 音の短いうごきを手さぐりし  短歌のことばを とぎれとぎれに詠む 

できたばかりの浦安音楽ホールで 武満徹が1960年に書いた弦楽四重奏曲『ランスケープ』を聞く 静かな呼吸の風景 響きと余韻と間 それ以前の『室内協奏曲』の静かに残酷な響き 無名で貧しい時代の 喪われた音楽

イルマ・オスノの新しいCD『Taki Ayacucho』(TDA-001)を聞く アヤクーチョの歌 祭の響きが野をわたってくる 秩父の山かげに水子の群れが立っている ペルーから遠く 旅をして 別な世界でも 滝の人魚の遊ぶ声 雨や花 川の向こう 谷を越えて 帰ってこない悲しみが 声のなかに住んでいて また新しい歌を誘う

2017年5月1日(月)

水牛だより

2017年の三分の一が過ぎ去っていきました。だれにも止められない時間の経過によって変化し続ける、私を含むすべてのものにふと思いがいたるのは、きょうのように切りのいい日だからかもしれません。生まれたての緑輝く木々やいろんな色で咲いている花々を見れば、それらはそっくりそのまま時間の経過だなあと思います。

「水牛のように」を2017年5月1日号に更新しました。
ゴールデン・ウィーク中の更新ですから、いつも書いてもらっている人たちにはいっさいリマインドはしませんでした。今月はお休みします、と連絡してくれる人もいれば、そのまま静かにしている人もいて、一様でないのは水牛のよいところだと思います。
笠井瑞丈さんが、お父さんの笠井叡さんによる振付を踊る「花粉革命」は今週末です。詳細はこちらから。

それではまた!(八巻美恵)

別腸日記(4)悪魔の舌

新井卓

その男はガンダルヴァの家系で、サーランギー奏者なのだと名乗った。わたしが日本から忍ばせてきた安物のラムは、空になりつつあった。戸外は群青色に染まり、雨期に珍しい透きとおった空が薄暮時を告げていた。

目の前で愛おしそうに少しずつ酒をなめるその男は、わたしよりも一つか二つ上の二十歳くらいだったのだが、もう名前は忘れてしまった。何か難しい妊婦の病気で手術が必要、と男が言っていたその妻は、大きなお腹で乳飲み子を片手に抱え、暗がりで平然と鶏を調理していた。その身体の一体どこに異変があるのか、決して口をきかず食卓に同席しない女の横顔からは、伺い知ることはできない。

カトマンドゥのタメル地区で突然声をかけられ、およそ屈託のない笑顔にすっかり警戒心を砕かれて、男とはすでに2週間ほども行動を共にしていた。その間、時折「妻は母乳が出ない虚弱体質なので」と訴えられては、缶詰の粉ミルクやこまごまとした日用品を男に贈っていた。状況はうすうすと察知してはいたが、結局わたしは、男にすっかり魅了されていたのだ、と今は思う。

ネパールのサーランギーは、通常四弦からなる竹製の擦弦楽器である。あり合わせの針金やナイロンで作られた弦はおよそ粗末な代物だったが、男が弾き歌い始めると、とたんに耳の後ろが切なくなるような、瑞々しい音楽が四方の空間を支配してしまうのだった。

男はあれこれと無心はするが悪びれたところはなく、交わした約束は必ず守った。わたしたちはすぐに、手をつないで歩くようになり──この国では男同士でも親しい仲ならそうする──観光客が決して足を踏み入れない場所へ連れ立っていく仲になった。

ある日、彼の郷里という山奥に出かけていって、仲間にマダラ(両面太鼓)の手ほどきを受けた。「口で真似できないうちは太鼓は叩けない」と笑われながらも、演奏に加えてもらったのを覚えている。ろうそくの火を囲んで永遠に続くかと思われるセッションは、わたしの知らない、あるいは、これから決して知ることもない人間たちの世界の入り口の様に思え、わたしはいつまでもそこに留まっていたかった。

その夜、ガンダルヴァたちに言葉巧みに進められて、なけなしの金で、調弦方法も知らないサーランギーを買って街へ帰った。

食卓の鶏は、養鶏場に行きその場で捌いてもらった新鮮なものだった。スパイスで煮込んだ肉塊は、わたしの皿だけによそわれた。少しでも残しては、となるべくきれいに骨までしゃぶって皿の脇に置いた。すると男はそれを端からつまみ上げ、バリバリと噛み砕いて丹念に髄を啜るので、内心ぎょっとさせられ、また自分に染みついた無意識の贅沢さを教えられたようで居心地が悪かった。女は何も口にせず、時々こちらを無表情に見やりながら、赤ん坊に乳をやっている。

やがて甘ったるいラムを一瓶飲み干してしまった男は、よろよろと立ち上がり、宿まで送ろう、と言った。女はもう寝台に行ってしまったとかで、食事の礼もできずに、わたしたちはスラムを後にした。

あたりは闇に沈み、人通りのない郊外を野犬の群が駆け巡る時刻にさしかかっていた。

帰りの道すがら、男はまた金の無心を始めた。妻の手術には30万円ほど必要であり、それがなければ彼女は死んでしまうかもしれない、と数日前を同じことを繰りかえす。「こちらは学生バックパッカーでそんな金はどこにもない」といくら説明しても、男はなかなか引き下がらない。やがて、酔いが手伝ってか、現金がないならクレジットがあるだろう、それがだめなら本国から送金してもらえばよい、としつこく食い下がってきた。男の眼は充血して、いやな顔つきになっていた。ようやく大きな通りに出たので、人力車(リクシャー)を捕まえて無理矢理に男を押し込め、家に送り返した。不意に、それまで押し込めていた疑念が暗い感情となって沸き起こって来、宿に帰ってからも遅くまでベッドを転々とした。

カトマンドゥは、もう引き上げ時なのかもしれなかった。翌朝、わたしは逃げるようにバスに乗り湖の街ポカラへ出立した。それから一、二週間も経っただろうか、ふたたびカトマンドゥの安宿に戻ってくると、男は表でわたしを待ち構えていた。

男はあの無邪気な笑顔で「急にいなくなってどうしたんだ、誘拐でもされたかと心配したよ」と言い、親しげにわたしの肩を叩いた。わたしは男を無視して、宿の戸に手をかけた。「いったいどうしたんだ! 何で無視する」そう追いすがる彼に向かって、「お前は誰だ、お前なんか知るか!」咄嗟にそう叫んでから、自分の内にそれほどの憎悪が潜んでいたことに目のくらむような動揺を覚えながら、わたしは部屋へ逃げ帰った。

その夜、〈悪魔の舌〉という旅行客がたむろするパブに足を運んだ。その店は国産のククリ・ラムを使った、「ロングランド」アイスティーとかいう名前のカクテルを出していた。バックパッカーたちの間でガソリンが混ぜられている、と噂される得体の知れない飲み物で、それを吐くまで何杯も飲み干した。

わたしは怒っていたのだろうか?──とすればそれは、関係を台無しにしてしまった男の不実さについて、ではなく、結局のところ、与え/与えられる対等な供与関係をしてしか友情を信ずることのできない、わたし自身の冷たさに対して、だったのだろう。わたしが男を拒絶したその瞬間、彼の眼にありありと浮かんだ驚愕の色は、彼らからすれば豊かすぎる暮らしを享受する日本人に幾ばくかの金品を無心すること(カースト最下層のガンダルヴァたちは、何世代にもわたってそのように生きてきたのだろう)、そして、歳近いわたしたちの間に芽生えた友情らしきものとの間には、実のところ何の関わりもなかった、ということを端的に表していたのかも知れなかった。

その後、彼にはもう会うこともなかった。生まれて初めての異国への旅は、もう終わりに近づいていた。

ラムは、大航海時代ヨーロッパ列強によるカリブ海の植民地化とともに生み出されたという。今でも、ラムを口に含むたび、男の驚いて見開かれた眼と(もう顔を思い出すこともできない)、貧しく、それでいて輝かしく奔放なガンダルヴァたちの世界が記憶の奥でひらめき、かすかな痛みとなって、舌をひりつかせるのだ。

しもた屋之(184)

杉山洋一

国の決まりで、4月15日に決まってアパートのセントラルヒーティングが止まるのですが、今年は何故かその後2日ほど暖房が通っていて床も温かったのですが、それも切れた途端、急に冷え込んで、最高気温12度くらいで底冷えさえするようになりました。
その上ここ数日大雨続きで、ミラノ中の道路に泥水に覆われています。それでも雨が止む度、啄木鳥が戻ってきては、庭の樹を穿つ鈍いトレモロが断続的に響き、耳を癒してくれるのです。

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4月某日 三軒茶屋自宅
お手玉を落とす行為一つにしても、そこにあまり意味を考えず、淡々とただ落とすというのも、やってみると難しい。床に落ちたお手玉が音を発する前に、加速し落下する視覚的な運動も加わる。
発音に続いて余韻が残るのと反対の効果。テープやオープンリールを反転させて再生するあの感じ。単に拍手して貰おうと思っても、音楽家がやると音楽的になるけれど、寧ろそれは何故かと自問してみると、それまで「音」を包む不可視だった幕が、急に色を帯びて見えてくる。
今朝は、最近書いたヴァイオリンのチベットの主題による小品を林原さんが聴かせてくれる。林原さんはチベット語を勉強していて、チベット人の友達が演奏会に沢山来るとは聴いていたが、亡命チベット人だとは知らなかった。

4月某日 三軒茶屋自宅
安江さん演奏会、会場リハーサル。猿のように会場を徘徊しつつ、新作の動線を決めるのに2時間かかる。長いリハーサルの一日が終わり、ふと新聞を見ると、トランプ大統領シリア攻撃、とある。

4月某日 三軒茶屋自宅
安江さんの演奏会に出かける前に、会場近くのオムライス店で昼食を摂る。入口で、肉の入っていないオムライスはあるか妙齢に尋ねると、一度厨房に相談に行き、オムライスのご飯には初めから肉が混ぜてあるので、それを普通の白いご飯にしても構わなければ、と言うので、喜んで好意に甘える。席に着くと、先ほどの妙齢が戻ってきて、申し訳なさそうに肉の食べられない理由を教えて欲しいと言う。ベジタリアンなのかビガンか、さもなければアレルギーや宗教上の理由で問題があってはいけない、と言うので、いたく感心する。それらと関りはないので問題なく美味しいオムライスを頂いた。特に美味しく感じたのは、妙齢とコックの機転のお陰に違いない。

安江さん演奏会。悠治さんの曲は、会場で聴くと、原曲がより明確に聴こえてきた。一度安江さんのスタジオで聴かせて頂いた時の印象とも随分違った。安江さんから意見を求められたので、悠治さん風に演奏しなくても良いけれど、普通はルバートをフレーズ単位で崩すのを、悠治さんだったら8分音符の中を64分音符単位でグルーブをかけて、音を紡いでゆく感じか、と口から出まかせを言った。

増本先生の曲は、楽譜を初めて読んだ時に、こんな風に音が置ければいいと思ったが、その通りの響きがした。増本先生の曲は、音の背景に、晴れた空の、一昔前の日本の風景が見えるような気がする。騒音にまみれ、アスファルトで固められた今の日本が失った、もう少し鄙びた、空気の澄んだ街並みが見える。

「ツリーネーション」は、当時はこれ程楽観的な曲を書いていたのかと驚く。「放射能汚染が」「甲状腺がんが」「ミサイルが飛んできたら」「空母何某が」という記事が、毎朝の新聞に載るとも思ってもみなかった頃のことだ。ヨーロッパにはヨーロッパの大きな問題があるが、日本もすっかりきな臭い世相になってしまった。

「壁」は、前日にアメリカがシリアを爆撃したので、否が応でも黒いお手玉を落としては繰返し拍手する姿は、自分が想像していた以上に厭なものだった。本来は壁の向こうで手を叩くはずの音が、具体的な爆撃音のように聴こえてしまう。その度に、メタルシートが大きく撓み反射する。

ピアノ曲は、聴いていて当時の自分が羨ましくなる。自分の息子を見ていて、お前はいいね、羨ましいと嫉ましく思うのに少し似ている。それより加藤くんの音がとても温かく、心に沁みとおる。星谷君を知っていて弾いているに違いないと思い込んでいたが、直接は殆ど会ったことがなかったそうだ。

夜に両親に電話をすると、二人とも「壁」にとても圧倒されたらしく、とても興奮して感想を聴かせてくれる。それだけでも、書いて良かったと思う。演奏会として喜ばれたのなら、曲よりも寧ろ、聴き手は安江さんと加藤君の熱演に引きこまれたのだろう。自作を続いて聴くのは、どうも居心地が悪くて困った。

4月某日 三軒茶屋自宅
行きつけのトップ駅前店に行くためには、渋谷のスクランブル交差点か、井の頭線ホームに繋がる空中通路を通る。スクランブル交差点では、外国人の観光客が交差点を背景に記念撮影をしていて、空中通路からは、交差点を行き交う人いきれを眺める外国人観光客が窓際に並んで、口々にcool! amazing!と黄色い声をあげている。

交差点の前に立つと、巨大なスクリーンが3枚ほど目の前のビルに掲げられていて、それぞれに大音量で番組を流している。誰もが聴いているようで、聴いていない。見ているが理解していない。理解するために流す情報であれば、一つのスクリーンで、それぞれの情報を順番に流せば良いのだから、当初から伝えることが一義的な目的ではないのだろう。コンピュータの検索機能に頼るようになったので、たとえ生活全てを氾濫する情報で覆いつくされても構わないのかも知れない。

ルクレツィオを読んで痛感したのは、「何を知る」のは、それまで存在していた何かを失うということ。文明が進化する程に、事象を即物的、表面的、分析的に観察するようになり、常に懐疑的な視点を伴っていることに気づく。あの時代に於いて、ルクレツィオ自身が、限りなく、即物的、分析的、懐疑的だった。

4月某日 ミラノ某日
暫く家人が日本に戻っているので、息子と二人で朝食を摂る。最近の彼のお気に入りは、シナモンを交ぜたフレンチトーストもどきで、フレンチトーストと生焼きオムレツの中間のような代物。これにシチリア産の蜂蜜をたっぷり掛けて喰べる。
毎朝つけている、ABCのラジオニュースで、北朝鮮やらドナルド・トランプやらの名前が出ていたからか、フレンチトーストもどきを頬張る息子が、隣で呟いた。
「アメリカも北朝鮮に自由の女神像を贈ればいいのに。フランスがアメリカの独立と自由の象徴に、自由の女神像を贈ったように」。

4月某日 ミラノ自宅
先日演奏会の後悠治さんと話していて、「教わる」のは、教わった瞬間に既に誰かの真似ではないか、という話になる。そうかも知れない。それでも教えているのは、多分自分がまだ教えることで教わることが無数にあるからではないか。

大学卒業試験を控えるSがレッスンに来て、最近オーケストラの前に立っても、何の情熱も感じないと嘆く。どんな内容で音楽を作ってゆくだろうと黙って眺めていると、書いてある強弱やアーティキュレーションのことしか注文を付けない。楽譜にこう書いてあるのでこうやれと繰返すのは、レパートリーを振るのであれば奢りかも知れない、少なくとも自分はなるべく避けるよう努力している、と話す。予め書いてある記号の意味を咀嚼して、記号の向こうにある音楽の流れを理解した上で、自分が欲しい音像を出来るだけ明確に演奏者に示してゆくのは、容易ではない。フォルテと一言で言っても、大音量のイメージは無尽蔵にある。

Mはベートヴェンの第一交響曲の一楽章を、40歳代の男がよく晴れた昼下がり美しい山間の野原を歩いている姿に譬えた。提示部第2主題でナボコフ宜しく少女に出会い翻弄された挙句、最終的に男は振られて、傷心で展開部に入ると言う。

A曰く、同じ交響曲の最終楽章冒頭は、ナポレオン時代、戦闘から戻ってきた初老の「やる気のある」兵士たちが、足を引きずり困憊しながら街へ戻ってきた場面から始まる。アレグロに入るところで、彼らの後ろから走ってきた若い兵士たちが、老兵らをなぎ倒し、街めざして駈抜けてゆくシーンで、もちろん目指すは街で待っている娘達。展開部は、山あいに陽が暮れ始めて、遠くに見える街の明かりが点り始める場面。

娘たちは、玄関の扉を開けて待っているけれど、夜が訪れれば閉められてしまう。若い兵士たちは必死で街をめざして駈け抜ける。「やる気のある」老兵たちもそれなりに必死に追いかける。最後のファンファーレで、捨て置かれた老兵たちに反し、娘と抱擁を交わす若者たちの勝鬨の声。「やる気のある」老兵に差し掛かりつつある自分としては納得ゆかないが、こうして映像を頭に描いて指揮するだけで、音符を振っている詰まらなさが途端に消え去って、音が活き活きとしてくる不思議。常にフリッチャイがリハーサルを付けるモルダウのヴィデオが念頭にある。

M曰く、自信がなくてオーケストラに何を求めてよいか分からないと言う。とにかく、楽譜を振るのは止めるべきだと話す。譜面の紙は1ミリにも満たない薄ぺらいもので、その向こうに広がる無限の世界に足を踏み入れるための扉でしかない。彼がナボコフ風ベートーヴェン第一交響曲を演奏すると、確かに第2主題はコケティッシュな少女に聴こえたではないか。

作りたい料理を考えながら、指揮台に上がる。作りたい料理は予め考えておくけれど、作る素材は目の前のオーケストラの音の中から見つけ出して、その場で料理しなければならない。バジルがなければパセリで応用し、ニンニクがなければ、玉葱で下味を付け、アクセントが足りなければ別の香辛料をどこかから探してくればよいではないか。出来た料理をオーケストラに見せても、美味しい料理などは作れない。

水泳の例をあげる。泳ぐためにどの角度で手で水を切ればよいか計算式を覚えても、泳げるようにはならない。そればかりか、身体が固くなれば、沈んで溺れるだけだろう。泳ぐ喜びを何よりもまず味わいながら、毎回喜びを覚えつつ、この喜びはどこからやってくるのか分析するのは悪くない。

オーケストラと一緒にいられる時間への喜びはないのか、あれ程オーケストラを指揮してみたいと言っていたじゃないか。時間は戻らない。オーケストラと触れ合える時間がどれだけ貴重なことか。同じ曲を何度やっても永遠に同じ演奏には巡り合えない。

子供が出来て、時間が経つのがどれだけ早いか、そしてその一瞬一瞬がどれだけ掛け替えないものか実感するようになった。それに気が付くときは、深いノスタルジーで過去を振り返る時だけだ。それは君も子供が出来て実感できるのではないかと尋ねると、大きく頷いた。

君は自然が好きだと言うが、自然だってもう二度と同じ自然に巡り合うことはない。四季は確かに巡るけれど二度と同じ日が戻って来ない。だったら今日、この時間を精一杯生きなかったら、音楽を精一杯慈しまなければ、後で後悔するに違いない。
そう話してふと彼を見ると、Mは眼鏡を外して目を拭っていた。

4月某日 ミラノ自宅
ここ暫く、頭の中から音を一切なくしたい、と思っている。音がなければ、音が見えてくるに違いない。去年は、すみれさんのため「白鷺鷥」を理想の音で書いて、今年は反対に「壁」を生理的に厭な音楽として書いた。実際「壁」は、触感として凄く厭なものだった。

元来、作品は作曲家の精神状態など表さないと言張って来たが、この歳になって、その信念が揺るぎつつあるのを自覚している。

昨秋パルマのフェステイヴァルで、アルフォンソとセレーネが演奏した「天の火」のヴィデオが送られて来た。素晴らしい演奏なのだが、余りに胸が締め付けられるようで、聴き続けるのが辛かった。正直にそうアルフォンソに伝えると、「あの時は二人で演奏しながら、何かが降りて来た気がしたんだ」、と少し困惑した声で答えた。
「きっとフランコが訪ねて来たのだろう」。
「天の火」は、癌で逝った我々の友人、フランコのために書いたものだった。今、こうして書いている目の前に、フランコの形見分けで頂いた古い日本のお盆が飾ってある。

古代、音は神と繋がるための手段で、我々の把握をはるかに超越した存在だった。多分それは、音そのものへの畏怖ではなく、音が響くわたる空間に、まるで別の次元へ広がる裂け目が開くのを鋭敏に感じていたのかも知れない。

4月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めた20数年前は、ミラノの喫茶店で音楽はかかっていなかった。今では音のない喫茶店を探す方が余程むつかしくなった。譜読みをのんびりしようと思っても、あまり煩い音の洪水のなかで出来るものとそうでないものがある。
ガレリアの出版社に楽譜を取りに出かける前、少し時間があったので、ドゥオーモ地下の喫茶店でハイドン「悲しみ」の楽譜を開く。場末ではあるが、この界隈で音楽を流さない数少ない喫茶店の一つで、昼食なども美味で気に入っている。1楽章から楽譜を眺めてゆき、2楽章で言葉を失い、まるで自分の意識が混濁する。楽譜の上で、余りにも美しい音が、淡々と紡がれてゆく。朦朧としながら、強く石畳を叩く雨の音のなかで、コルソ通りのツェルボーニ社まで歩く。約束の楽譜を受け取ったのだが、夢見心地で出口をそのまま通り過ぎ、声をかけられて我に返った。

音が美しいから心を打たれているのではない。音符の向こう側に流れ続ける、空気のようなもの。その小さな割れ目からじんわりと滲みだす、感情の透明な液体。それは涙なのか、汗なのかわからないが、温かいのはわかる。

昔、政府の奨学金が突然打切られてから数年は、本当に貧乏だった。しばしば銀行から通知を受取るたび、開けるのが怖かった。それは決まって、口座の残高がマイナスになったので、何某か預けないと口座を閉める、という脅迫じみた催促状だった。色々音楽とは無関係の仕事をしながら、ここで何をやっているのかと情けなくて仕方がなかった。スコアなど買うお金は到底なかったから、なけなしの日銭で買ったポケットスコアはそれこそ宝物で、いつも持ち歩いては眺めた。
観光客がタックスフリーで買い物をしている傍らで、シューマンの楽譜を開いて目を皿のようにして読んでいる通訳兼ガイドなど、とても感じが悪かったに違いない。半年で解雇され、益々生活は苦しくなった。苦しいというより、もう暮らしてゆくのは不可能ではないかと思った。

ただ一つ。そうしながら、子供のころ事故に遭ってから身体の中を巡っていた、言葉にできない厭な液体が、少しずつ蒸発してゆく気がして妙に気持ち良かった。邪気を払うというのか、流行り言葉でデトックスというのか。自分のうちで自らが最も嫌っている何かが、どんどん蒸発し、流れ出してゆく気がした。すると身体の芯で、子供のころからずっと雁字搦めに封印されていた何かが少しずつ見えて来た。それは伽藍洞の、透明な筒のようなもので、それを感じるだけで、不思議なことに自分が生きていられることに言葉もなく感動した。

落ちるところまで落ちて、溶けるものは溶けきって、何か身体の中で、子供のころからずっと見たいと思っていて、すっかり見えなくなっていたものに、再会した喜びだった。

(4月30日 ミラノにて)

三日月と野草

璃葉

自宅の窓から見える桜並木が満開の花を咲かせているときの花見客のどんちゃん騒ぎから一変、花が散ったあとは見物人もいなくなり、まるで安心したかのように一斉に新緑の葉たちが生い茂った。辺りは緑だらけだ。

風でさわさわ揺れる葉、暖かい日差しを受けている植物をのんびり眺める。満開の桜をみることよりも好きかもしれない。

散歩をしていると、子供のころから見慣れている野草をどんどん見つける。一度覚えた草の名前はいつまでも忘れないから、不思議なものだ。

すこし遠出をして、野草を探しにいくことにした。山の近くの公園の川べりはまだ肌寒く、雨上がりの夕暮れの空はいつも以上に澄んでいた。三日月が浮かんでいる。

雨で湿った柔らかい土の上には青々とした草花が川向こうまで広がっていて、空の青を草が吸い取ったように濃厚な色をしている。都心にも生えているごくふつうの草花だが、生きている場所がちがうだけで、表情はまったくちがう。

雨露に濡れた葉をさわっているだけで手がシモヤケのようになってしまった。
目に留まった草と花をすこしだけ採集し、持ち帰って植物図鑑と照らしあわせてみた。

スミレ カラスノエンドウ ヤエムグラ ハルジオン アブラナ ホトケノザ ミコシギク

キク科やスミレ科の野草だけでも、似ていても名前がちがうものがいくつもある。

花弁のならび、実のつくりや葉のかたちから、これでもないあれでもないと絞っていき、やっとその名前たどり着いたときは、とてもうれしい。きっとわたしは、野草の名前と由来に惹かれている。和名でも英名でも知らない土地のことばでも、名前を知れば距離はとつぜん近くなる。

5月もはじまったので、山の麓へ鉱石を探しに行くついでに、野草探しもしてみようかと考える。標高の高いところの植物はまた表情がちがっていて、おもしろい気がする。

さつき 二〇一七年五月 第一回

植松眞人

「五月に生まれたから、さつきという名前なのね」とずっと言われ続けて育ってきたのに、私は五月生まれではない。そのことで意外な顔をされたり、感心されたり、ちょっと笑われたりする。
コピーライターをしていた父とグラフィックデザイナーをしていた母が六月に生まれた私にさつきという名前を付けたのは、ちょっとした遊び心だった。あなたが生まれることを心待ちにしていたくせに名前のことをすっかり忘れていたの、という母は、私が生まれた日に祖母に「ところで初孫の名前は」と聞かれて驚いたそうだ。
父と母は自分たちの粗忽さを大笑いして、ああでもない、こうでもないと私の名前を考えたのだった。その時、改めて私をまじまじと見つめた父が「ついさっき生まれたばかりなのに、髪の毛がふさふさしてるなあ」とつぶやいたのだった。母はそんな父に「そう、さっき生まれたようなものなのにねえ」ところころと笑って返したそうだ。それからしばらく、私のふさふさした髪を見ながら二人は笑い続けて、またうっかり名前を考えていたということを忘れそうになったというのだから本当に懲りない人たちだと思う。母の「そうそう、名前名前」という声を合図に、また二人は私の名前を考え始めた。
しばらくすると父が「さっきちゃん」と私に呼びかけたそうだ。「さっき生まれたばかりのさっきちゃん」と楽しそうに笑ったのだという。母が言うには、父がそう言った途端に私はキャッキャと笑ったらしい。本当だろうか。わからない。わからないけれど、母はどうでも良いところでしか嘘を吐かない人なので、きっとこの話は嘘ではない気がする。だって、自分の子どもの名付けというなかなか大切な場面での話だから。
父は私が笑ったことで、「さっき」という言葉に引っかかりを覚えたのだろう。コピーライターの職業病である「言葉転がし」を始めたそうだ。言葉転がしとは、気になった言葉を頭のなかでコロコロと転がして、さらにいい言葉を作り出したり、キャッチコピーらしくする病気だ。
さっき、さっき、とつぶやいていた父はふいに「サッキー」とかつての英国女性首相のように音引きで叫んでみたり、「さっきん」と無理矢理ニックネームのようにしてみたりしていた。そして、近くにあったチラシの裏に鉛筆で、さっき、さっき、と何回か書いてみた。しばらく、「さ」と「つ」と「き」という文字を何度も書いてみて、順番を変えてみて、あれやこれやと試している間に父は静かになった。静かになって、じっと文字を眺めていた。そして、指で文字を一文字ずつ押さえながら「さ・つ・き」と声にした。声にしたあと、ごろりと横になり、天井を見ながら、「さつきかあ…」と言ったのだそうだ。さつきさつき、と言いながら父はまた起き上がり、母に笑いかけた。
「ねえ、五月のことをさつきって言うよね」
父がそういうと、母は笑い返した。
「残念でした。今週から六月に入りました。この子の誕生日は六月一日よ」
とあきれ顔で答えたのだった。
「そうか。五月もさっきまでか。いいじゃない。さっきまで五月だったんだから。五月生まれだから、さつきなんじゃなくて、ついさ
っき生まれたから、さつき。ついさっき生まれた気がするのに、すくすく育ってくれるように。そして、ついさっき生まれたかのように、愛らしいままで育ってくれますように、って意味でさ」
と、父は「さつき」という名前についてのプレゼンテーションを始めた。まるで職業病だ。
「それにさ。五月に生まれたから、さつきなんですよねって、絶対に言われるでしょ。そしたらさ、実は父と母がさっき生まれたばかりだからって、さつきって名付けたんです、なんて世間話ができるじゃない」
父のその言葉が、人見知りで苦労した母にはえらく突き刺さり、さつきという名前候補が浮上してからわずか十分ほどで、私の名前はなんの迷いもなく決められたのだった。
二〇〇二年六月に生まれてから十五年が過ぎた。父と母が笑いながら私の名前を決めてくれてから、十五回目の春がやってきた。(つづく)

見えないもの

長縄亮

「見えない」とは
神様をいうための
ことばだった
一番はじめから そしていまでも

ぼくたちは
いつでも神様を
目で追っている
目に見えない神様を
目で追っている

ぼくたち
目の見えないものたちは
手で捜している
目に映らない神様を
手で追っている
手に当たるまで

ぼくたち
からだのないものは
かみさまを
いのちでさがしている
時の中を
さいごの時まで
たぐっていく

めにうつらない
てにはふれないかみさまに
いのちがあたるとき
ぼくたちはうまれる

グロッソラリー―ない ので ある―(31)

明智尚希

「1月1日:『自分で言うのもなんだけど、いつ誰か来てもいいように部屋はきちんと片づいていて、文学全集や文庫本のきっちり加減はすごいぞ。そんなに広くない部屋だけど、二千冊を書棚や自分で作った棚のなかにきっちり入れてる。それから映画のDVDや音楽CDも、本と同じようにきれいに収まっている。ちょっとした自慢だな』」。

( ̄ー+ ̄)どや

 書店に行くのはあまり好きではない。ずらりと陳列された書物群の全てを、一刻も早く読み尽して知識の上乗せを図りたいと思う反面、どの一冊を読んでも内容が悪辣な異物となり脳が拒絶反応を示して、優れたエクリチュールも単なる無駄な一物なのではとも思う。いずれにしろ月並みでない恐怖心を煽りに煽る。アチラコチラ命ガケである。

ぅあ───(((;’Д’ )))───!!!!

 健吾は健吾ではなく正人だった。正人は正人ではなく順子だった。順子は順子ではなく健吾だった。誰ともなしに言う「この関係も一時間おきにずれちゃんだよな」。「そうなんだよねー」。そして一時間が経過した。健吾は正人でなく順子、正人は順子ではなく健吾、順子は健吾ではなく正人となった。三人は手を振ってから、帰路についた。

(゚Д゚≡゚Д゚) エッナニナニ?

 さすがにわしも年齢を感じるな。忘れっぽい、覚えられない、語彙力の減少、心肺機能の低下など。わしから取り除いたら骨抜きになるものばかりじゃ。でもまだ一つある。思い出じゃ。若々しい歯並みをして青春を――ではなく、苦境に次ぐ苦境じゃ。物心ついてから今日まで、わしの栄養分たりえてる。美しくない思い出も力になるんじゃよ。

エートォ ?c(゚.゚*)

 「1月1日:『こうやって見てもわかるだろ。俺の趣味や嗜好が。しかも下世話なものばかりじゃない。教養として見聞きしておくべき最低限度のものプラスアルファの作品を並べてる。もちろん並べてるだけじゃないぞ。どこかにいる誰かさんみたくタイトルしか知らないなんて笑いものだしな。まあ一通りは見たし読んだよ。これも自慢』」。

( +・`ー・´) スゴイダロ

 小料理屋の女将をはじめ少なくない人が、人生において幸運と不運は等分だと言う。目下のところ、不運のほうが圧倒的に優勢だ。前説を信じるなら、今後の人生、幸運だらけとなる。だが正直、どうでもよい。自分の人生にさほど興味がないというのはさておき、幸運と不運の区別がつかないからだ。そんなことより今晩こそは眠らせてくれ。

∩(^∇^)∩ バンザーイ♪

 「生きていれば必ずいいことがある」「それ以上に嫌なことがある」「周りの人に迷惑をかけるだろ」「死んだあとのことは知らねえ」「両親が悲しむだろ」「両親は死んだ」「友達や知人が悲しむだろ」「そんなものはいねえ」「君は必要とされて生まれてきたんだ」「不必要だから死ぬんじゃねえか」「死んじゃ駄目だ」「生きてるのはもっと駄目だ」

wヘ√レv─(:D)╋━━ 死亡中

 早く眠りたいと毎日思う。いっそ目覚めなくてもいいくらいだ。不眠を克服したいというのとはわけが違う。一日をさっさと消化したいのだ。一日を大切に生きろという。現実は逆だから生まれた警句なのだろうが、抽象に過ぎて意味をなしていない。起きている間は、苦痛と不毛で埋め尽くされる。早く眠ったところでさして変わりはないが。

(〃∪_ゝ∪〃)。oO(悪夢) …

 落ち着きの悪いおのれの生は、電信柱に激突し電光閃々たるていたらく。そのままアウラとなってくれれば格好がつくが、こっちが勃てばあっちはかっさかさでまさにアポリア。マトリョーシカとタマネギの関係性をストックホルム症候群とした場合、ゴイザギがことごとにへそを曲げる。それで待つほうと待たせるほうではどちらがつらいかね。

(-__- ))) ソウデスナァ……

 頻繁に送られてくる文面や思わせぶりな写真から、想像に想像を膨らませて、いざ本人とご対面すると、相互にげんなりする。各自の内部にしかない彩られた虚像を外部に持ち込んでしまうと、現実の冷徹さを知ることになる。生活上、虚像や青写真は不可欠である。地下の暗室でネガを見ているほうが、前向きな息吹きを与えてくれるのだから。

///orz/// ガッカリ……

 「1月1日:『おすすめの映画は、一九九一年公開の『みんな元気』だな。高校生の時なんか学校なんか行かずにぶらぶらしてた。新宿か銀座のどっちだったけなあ、確か単館上映だったと思う。リアリスティックなとこがいいね。作り物っぽくないとこ。ちなみにそれ見た翌日、新宿の昭和地下に行ってるからな。これもまた現実。わはは』」。

ヾ(@^(∞)^@)ノわはは

 各人はそれぞれ受け取るものが違う。感覚の話だ。色、形、音、におい。それらの最大公約数が現実と呼ばれる。最大公約数や現実から漏れた要素が個性と呼ばれる。個性は生来の賜り物だ。よって個性は育成される代物でも伸ばされる対象でもない。勝手に育ち勝手に伸びていく。途上で多くの邪魔が入る。困難を突破するのもまた個性である。

/(。Д。)ヽコセイ?

 天来の頭痛持ちである。痛む箇所は額の裏、前頭葉と決まっている。薬を服用しても治まらない場合、寝たきりになる。少しでも腕なり何なりを動かそうものなら、血流の関係で爆発的な痛みが生じる。ものを考えられないこの状態が休息というなら、地獄もかくあらんと思う。思考と休息。いずれも真の休息ではない点も、また頭痛の種である。

ズキンズキン(_` ゞ) 頭痛い

 「1月1日:『本のほうは、そうだなあ、いろいろあるからなあ。映画より歴史が長いぶん、名作が多いんだよな。まあ同じくらい駄作も多いわけだけどな。ははは。古典もいいし現代ものもいいのがある。難しいね。でもまあやっぱり『グロッソラリー ―ない ので ある―』だな。なにしろ俺が出てくるからな。ちょっと読んでみるか』」。

(〃⌒∇⌒)ゞえへへっ♪

 セザンヌはデッサンがろくにできなかった。彼が円筒形、球形、円錐形に頼ったのは正解だった。あと二三年生きていたら、抽象の領域に足を踏み入れていただろう。後期印象派と印象派は自然主義から弁証法的に生まれた。絵画の歴史で最もわかりやすい時期である。デッサンの残存がある。ろくにできないという悲劇は、大発見の温床である。

デキナイ ((>ε<。 )(。 >з<)) デキナイ

 俺は世界四位のドル箱スターだぜぃ

(ノ゚ρ゚)ノ ォォォ・・ォ・・・ォ・・・・

 日常生活において、言葉が次々と口をついて出てくるのは、気分を害している時である。憤怒、中傷、悪口、侮辱、これらを主な構成要素として、相手もしくは第三者に対して吐き出される。自我が混乱し壊れそうな状態にありながらも立っていられるのは、我執や自己愛のおかげである。構成要素の裏の内容は、本人の内実に見事に該当する。 ガーガー ヾ(*`Д´*)ノ”彡☆ グチグチ  意外かもしれないが、わしはいろんな企業を見てきた。実にいろんな経営者がいるもんじゃ。現場介入主義者、放任主義者、理論主義者、精神主義者、体育会系主義者など。是非はなんとも言い難いが、経営者というのは押し並べて経験でしかものを言わんのう。新規案件に手を出さないからこそ、今があるというのももっともで不思議な話じゃ。 , (⌒‐⌒), えっへん  鼻が詰まっている人は大変である。鼻をかんでも必ずしも鼻水が出てくるとは限らないからだ。かんでもかんでも出てこない場合は、口で息をしないといけない。息が臭いとまさに弱り目に祟り目。かむのとは逆に吸ってみると、一瞬だけ動くか全部吸い上げられるかのいずれかである。後者の場合、晴れ晴れとした表情で飲み下す者もいる。 (>O<) ズーズーズー ( -.-) ゴックン

一列横隊、一列縦隊

冨岡三智

お昼に時代劇『大江戸捜査網』の再放送をやっている。放送開始は1970年。隠密同心と呼ばれる数人組が秘密捜査の末に敵を確定すると、「隠密同心 心得の条 …(中略)死して屍、拾う者なし、死して屍、拾う者なし」の名ナレーションにのって横一列になって大門から出発するのだが、この場面にくると、刑事ドラマの『Gメン’75』を思い出してしまう。

学校で友達とGメン歩きをやって叱られた記憶があるが、幼稚園や学校に上がると通学や遠足で2列縦隊で歩くことを教えられる。道いっぱいに広がって歩くのは他人や車の通行の邪魔になるし、危険でもある。それだけに、大人が横一列に歩くという演出にクレームはこなかったのだろうか…と少し気になる。それはともかく、横長のテレビ画面では横一列に俳優が並ぶと迫力のある構図になるとか、前後に並ぶと序列が表現されてしまうけれど、横一列だと同じチーム仲間だということが表現しやすい、などという演出意図があったのだろうと思う。

横一列という歩き方は、街道の道幅が今よりも狭かった昔には実際なかっただろう。『大江戸捜査網』は時代劇だが、制作しているのは『Gメン’75』と同時代の人たちだ。時代物で横一列になるということで思い出すのは、歌舞伎の『白波五人男』である。ただし、あれは細長い花道を縦一列になって歩いて登場したのちに、「回れ右!」という感じでバッと客席の方に全員が向く結果、一列横隊になるのであって、基本的に一列縦隊である。

横一列に人物が並ぶという構図は伝統絵画ではよくあるけれど、体や顔は横を向いている。つまり、一列横隊になっている。エジプトの壁画やジャワなどのワヤン(=影絵)がそうだし、西洋のルネサンス以前の肖像画も真横を向いている。こういう肖像画をプロフィールと呼ぶように、横向きにはその人「らしさ」が表現しやすいと古くから人は思ってきたようだ。遠近法がない時代、身体という立体を表現するには、横向きの方が都合が良かったのだろうと想像する。それだけに、観客に正対するのは、より現在的な感じを持つ表現だという気がする。

ここで話は急にジャワ宮廷舞踊に飛ぶ。本来の宮廷舞踊というのは4人や9人の群舞で踊るが、一列縦隊になって入退場するのが基本である。しかし、私の留学していた芸術大学では、入退場の時間を短縮するなどのため、2人ずつ並んで4人が入場したり、9人が最初からフォーメーションを組んで(3列になる部分もある)入場したりすることが多かった。私はこれが大嫌いで、自分が公演する時には絶対にやらなかった。複数人が横に並んで入場する様は、私の目には軍隊の入場のようにも現在風にも見え、せっかくの伝統舞踊のオーラが消えてしまうように見えるのだ。

ちなみに、ジャワ舞踊では横一列に並ぶフォーメーションを「ジェジェル・ワヤン jejer wayang」と呼ぶ。ジェジェルというのは横列のことである。そして、縦一列になるフォーメーションを「ウルッ・カチャン urut kacang 」と呼ぶ。これは豌豆などの豆(カチャン)がさやの中で一列に並んでいる(ウルッ)という意味。私の師匠はこの2つを区別したが、区別しない人もいる。私は一粒の豆になったつもりで並びたい…。

振付を踊る

笠井瑞丈

踊りを踊る

身体の造形
記憶の造形

血液の中に流れる
何万年前の記憶
カラダの隅々まで
血液は運んでくれる

脳の記憶
から
血の記憶

振付が生まれる瞬間
動きが生まれる瞬間

動く事より
止まるコト

摩擦エネルギー

空間と時間
それを捉える

九ヶ月の時間を
血液に擦り込む

本日は革命前夜
血は水よりも濃い

花粉革命
何万年さきまで
粉々になるまで

振付を踊る事
踊りを踊る事

振付を踊る事

そういう事

狂狗集 5の巻

管啓次郎

あ 朝ぼらけ嘘つき世界のSUNRISE
い 犬と走らういつもの街路のパルクール
う 雲海の下に讃岐うどんの音響
え えんどう豆を遠投すどこにも届かない
お オランダの折り紙大船団のヘゲモニー
か 観測せよ青空にひそむ青い霊
き キはこの土地の原音漢字以前の定冠詞
く くすぶる野火にイグアナのローストを嗅ぎつけた
け 健康を語るなら毎日十万歩歩きなさい
こ 交錯する運命ひとつの掌(て)には刻めない
さ 去りがたし地球されど金星に磁力あり
し 試行錯誤で牧場の柵を壊すろば
す 西瓜色のシャツだねお洒落な夏が来る
せ 正解は弥生三月に埋めてきた
そ 想像力は心の裏面の銀の箔
た 体幹を鍛へよ自転速度についていけ
ち 痴愚神礼賛調理師魂見せてくれ
つ つまりは焦燥つま先立つのは不推奨
て 天牛と書いて何と読むその名を誰がつけた
と 豆板醤(たうばんぢやん)心の低めのストレート
な 涙と山査子(さんざし)味わひ深い知行合一
に 肉を食ふなら地獄に行くのを覚悟せよ
ぬ ヌクアロファ豚と浅瀬を散歩する
ね ネメシスに出会つたの災難だつたね
の 濃厚な牛乳だここでは泳げない
は 春を春と呼べば別の情緒が生まれる
ひ 氷見(ひみ)を見よ氷を見るの?火を見るの?
ふ 船が光る水平線で光つてゐる
へ 変な光だ音だビビビとやつてくる
ほ 崩壊間近な国家もう家の役目を果たさない
ま まつかうくぢらが首相の尻を打ちすえる
み 「未生」と書いて生の神秘にふるへます
む 無芸大食牧羊犬にも出番あり
め めきめきと腕から枝葉が生へてくる
も 盲目のウード弾きが福島を訪ねてくれた
や やかんひとつ今日もただ湯を沸かすのみ
ゆ 夕焼けの朱で虹を大蛇を飼いならす
よ 幼虫の変声期を待つて幾千年
ら 羅生門に暮らして土砂降りをしのがうか
り 倫理なし論理なし理性なし知性なし
る 流亡に生きる民の気概に打たれてゐる
れ 裂帛の気に小数点打ち以下同文
ろ 老獪なる老女朗々たる老狼
わ ワイカトで子羊抱いて月見かな

チャック・ベリーの記憶

仲宗根浩

去年、電源すら入らなくなったカーステレオを換えてから六十年代から七十年代のロック、ポップス、リズム&ブルースで自分が持っている音源ばかり車の中で聴いている。フェイセズのチャック・ベリーの「メンフィス」のカヴァー曲が入っているアルバム「馬の耳に念仏」を聴いた翌日の早朝、ラジオでチャック・ベリーの訃報。その後ラジオでは追悼をいろいろやっていた。映画評論家の町山智弘が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で電話越しに主人公が演奏する「ジョニー・B・グッド」をチャック・ベリーに聞かせる、というくだりを映画として「やっちゃいけないこと」、と話していた。

ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが制作した映画「ヘイル、ヘイル、ロックンロール」でチャック・ベリー、ボ・ディドリー、リトル・リチャードが白人のラジオのディスク・ジョッキー、アラン・フリードの悪口を言う場面があった。曲をラジオでかけてもらうリベートとして作曲者のひとりとしてクレジットされ著作権収入を得る。ロックを聴き始めた頃、家にビートルズの編集盤のジャケットの中にビートルズの盤ではなく何故かチャック・ベリーのベスト盤が入っていた。LP盤のソングライターのクレジットにアラン・フリードの名前が入っていたのを覚えている。チェスのプロデューサーでソングライター、ベーシストのウィリー・ディクソンの曲もレッド・ツェッペリンがカヴァーした際、クレジットは無かった。こういうのが黒人の音楽を白人が盗んだ、と言われた要因のひとつになったのだろう。

キース・リチャードが「ヘイル、ヘイル、ロックンロール」を制作するきっかけは六人目ストーンズ、イアン・スチュアートがチャック・ベリーのバンドのピアニスト、ジョニー・ジョンソンはまだプレイしている、と言われたのがきっかけだったか、キース・リチャーズのインタヴュー記事で読んだ記憶がある。イアン・スチュアートのピアノを初めて聴いたのはレッド・ツェッペリンのアルバムに入っていた「Boogie With Stu」というお遊びのような曲だがピアノは見事。

チャック・ベリーはバンドを持たずツアーに出て地元のバンドをバックに歌う。映画では地元バンドとしてバックをつとめたブルース・スプリングスティーンがうれしそうに話すシーンがとても無邪気だった。バンマスのキース・リチャーズがギターのリフに関して執拗にチャック・ベリーからダメだしをされる。ほとんどいじめに近かった。本番ではチャック・ベリーの気まぐれにはキチンと首を横に振る、キース・リチャードは楽曲をきちんと演奏し記録することに徹していた。

チャック・ベリーの音楽はカヴァー曲で知り、オリジナルにたどり着く。最初に聴いた「ジョニー・B・グッド」はジミ・ヘンドリックスであり一番にガツンときた「ロール・オヴァー・ベートーヴェン」はビートルズよりマウンテンのライヴ盤だった。

夜空に銃声、絶望のイラクでシリア難民と共に

さとうまき

イラクのサッカー熱は尋常ではない。4月23日、バルセロナとレアルマドリードの試合が行われるというので、シリア難民のスタッフのリームが、家に呼んでくれて一緒にTVを見ようという。斉藤くんもアーデル君も一緒に見に行った。

リームは、クルド系シリア難民で、2013年にシリアからイラク北部に一家で避難してきた。まだ、20代前半だが、結婚して、最初は主婦業もぎこちなかったが、最近は貫禄が出てきた。旦那の兄弟や親戚なども集まってご飯を食べてからTV観戦だ。よく知らない近所のシリア難民も集まり15人くらいになった。
リームたちは、ロナウドのいるレアルを応援。旦那の兄弟はメッシのいるバルセロナを応援という風にほぼ2分された。

点が入るごとに大騒ぎで、あまりサッカーを見ない斉藤くんは、彼らの反応に驚き、楽しんでいた。リームの旦那の兄弟は、趣味でサッカーチームを作っているらしく、トロフィーも3つくらい飾ってある。

最後に、メッシがロスタイムで逆転すると、もう大騒ぎ。飛び跳ねて、抱き合い、そしてトロフィーをつかむと、床に思いっきりぶつけて壊してしまった。
「やめなさい!」リームが怒鳴っている。何とも恐ろしい光景だ。壊されたトロフィーのかけらが誰かにあたると、そこから大ゲンカになるんだろうなと考えるとぞっとする。

外に出てみると、あちこちから銃声が聞こえ、まるで戦争がはじまったかのようだった。翌日のニュースでは、流れ弾にあたり9人がけがをしたという。

イラクやシリアは、戦争が長引き夢も希望もなく、元気がないと思われているが、たかがサッカー、されどサッカーで、他国の国内リーグにこれだけのエネルギーを注いでいるのだ。このことは喜ぶべきことかどうかはちょっと複雑だった。

数日後、銃を撃った人たちが数名逮捕されたというニュースが流れてきた。
きちんと逮捕したというのにも少々おどろきだ。新しい秩序ができるのだろうか?

150 無季

藤井貞和

流れついた海岸の句集、
どこで生まれたの?
あかちゃん俳句。
投げ出された海岸で、
ほんだわらを食べ、
はすのはかしぱんに会い、
ふなむしのゲーム。
あかちゃんの句集が、
だんだん メッセージ詩の、
様相を呈し、
子規と虚子とのあいだで、
ふたつのはしら、
かべになる かなしいね。
墓のうえにぼおっと立ちゃす、
「おわぁあ」と鳴きゃす、
もう、いの、
海へ帰りたい。
のちのほとけに、
はな まいらせて、
句集をのこして、
さよなら、
ぼくらを二度殺したのはだれ?

(「瓦礫の石抛る瓦礫に当たるのみ」〈高柳克弘〉。無季の句であるために、それを逸脱だとするある俳句の団体から排除されたそうです。この水牛の詩「無季」とは無関係です。高柳さんの句には「災害の地にて」とあるそうです。)

魚の主(ぬし)

高橋悠治

しごとをはじめたばかりの時は 人に知られなければやっていかれないが 続けているうちに したことが次にすることの助けにはなるが 妨げにもなると思うようになる しごとを続けるために いまや無名で ふつうでいるほうが 望ましくなる

エピクロスの「隠れて生きよ」は 粒子の偶然の運動(クリナメン)から生まれる予測できない変化を知って 友情の庭をまもること 老子の「不敢爲天下先(あえて人の先に出ない)」は 人知れず技能をみがきながら 技術にたよらないこと 数少ないともだちは 近くにいないかもしれない ひととちがう考えをもつなら 耕された土地にかってに生えてくる雑草のようにひっそりとすごして ひたすら考え続けるのが イブン・バッジャーの勧め

ハンナ・アレントの『暗い時代の人びと』のなかのブレヒト論 そこに出てくる詩 Der Herr der Fische を見つけて とりあえず日本語にしてみる 

魚の主(ぬし)


来る時は決まらない
月とはちがう しょせん行くのはおなじだが
もてなしはかんたんな食事
でたりる


いる時は一晩中
みんなにまじって
何ももとめず くれるものは多い
だれも知らないが だれとも近い


行くのに慣れても
来るとはおどろき
それでもまた来る 月のように
いつもきげんよく


座ってしゃべる ひとのこと
出かけた時の 女たちのふるまい 
網の値段や 魚の水揚げ
とりわけ税金逃れのやりかたを


ひとの名前は
覚えきれないのに
しごとのことなら
なんでも知っていた


ひとのことなら話しているが
そっちはどうなんだ と聞けば
あたりを見わたし またたきして
別に何も と言いよどむ

7
こんなやりとりで
つきあいは続く
よばれずに来たが
分をわきまえて食べていた

8
ある日だれかがたずねるだろう
ここに来たのは どんなわけ
するとあわてて席を立つ 
空気が変わったと悟り

9
お役に立たなくて すみません
と外へ出る 暇を出された使用人
かすかな影もかけらも
籐椅子の隙間ほども残さずに

10
それでもそこに別なだれか
もっとゆかいなやつがいてもいい
そいつがしゃべっているあいだ
こちらはだまってすごせるならば

2017年4月1日(土)

水牛だより

4月の訪れは寒さとともに。花冷えと言うのでしょうが、開花の知らせはあったものの東京の桜はまだ硬い蕾のままで、咲いているのはほんの少し、花というには少なすぎます。週が明けて気温があがれば一気に咲いて、そして私はコートを脱ぎ捨てるのです。

「水牛のように」を2017年4月1日号に更新しました。
きょうは土曜日ですが、一部の企業では入社式がおこなわれたようです。これが明るいニュースなのかどうか、ちょっとギモンです。
3月もおわりに近い日に近くの小学校の前を通りかかると、その日はちょうど卒業式でした。校庭では式を終えた生徒たちと親たちが別れを惜しんでいます。男の子たちはブレザー姿が多いのは見なれているとして、女の子のなかに袴姿が何人もいるのに少しビックリ。いつの間にかそんな流行(?)になっていたとは。制服がない公立の小学校だからできるわけですね。女の子たちは体のサイズも大人に近づいているし、小学生とは思えない大人びた感じでした。彼らを待っているのはどんな4月なのでしょうか。そしてまたその先は?

それではまた!(八巻美恵)

アジアのごはん(84)ペナン島の食堂ライン・クリアー

森下ヒバリ

マレーシアのペナンにお気に入りのナシ・カンダール食堂がある。その店の名前はライン・クリアー(LINE CLEAR)。インド系がやっている地元民に人気の食堂だ。

ペナンの古い家並みを眺める散歩して2時前にお昼ごはんにやってきた。昼時の混雑を避けたつもりだったが、入り口には 13:00~14:00は休憩 と書いてある垂れ幕がかかっていた。あれ、この店は24時間営業じゃなかったっけ? しかもお昼時になぜ休む?

すこしぶらぶらして戻ってきたが、まだ開いていない。中をのぞくと、インド系の人だけでなくマレー系のたくさんの客がテーブルに座って待っていた。15分ぐらい遅れて、店のスタッフが位置に着いた。もう長蛇の列だ。

この店では、カレーが鍋やトレイに何種類も置いてあるコーナーに自分で行って、係りの人にごはんをよそってもらい、好きなカレーや野菜を選んでご飯の上にかけてもらうシステム。皿を受け取ったらその端っこの係りのおじさんに皿を見てもらって値段を紙に書いてもらう。代金は帰りに払う。

空いた席に座ると、飲み物係が注文を聞きに来る。ここのテ・タレ(ミルク紅茶)は、インドの味がするので好きだ。砂糖ちょっぴり、と注文したがめちゃくちゃ甘かった‥。

カレーコーナーに置いてある大きな魚の頭は、注文するともう一度鍋に入れてカレーソースに戻して温めてくれる。南インドとマレーシアの名物、フィッシュヘッドカレーである。大きくて、4人分ぐらいある。二人では頼みにくい。ぜいたくは敵、がモットーな相方とでは永遠に食べることはできない‥いつか食べてやるぞ。マレー系の家族連れがフィッシュヘッドカレーをつついているのを横目で見ながら、ひそかに誓う。

今日は、甲イカの白子のカレー煮ともやしの和え物にしよう。オクラの茹でたのもおいしいから追加。係りのおじさんが、グレービーソースは要らないのか? とすすめるので、ついオクラのカレーもご飯の上に載せてもらい、なかなか豪華なカレープレートになった。魚の切り身を揚げたのも美味しいんだけど、もう食べられない。これで7リンギ(200円)ぐらい。

夕方、チュリア通りの端っこにあるひなびたコピ・ティアム(中華茶室)でまったりギネスを飲んでいたら、店の前をライン・クリアーのインド系スタッフが何人も通って行く。店は割と近いけど、なぜだろう? ちょっと仲良くなったマネージャーのダンディなおじさんが手を挙げてにっこりしてくれた。ああ、モスクに夕方のお祈りに行ってたんだな、と気が付いた。

なるほど、1時から2時まで店が閉まっていたのも、お昼のお祈りタイムだったのだ。まだインドがパキスタン(イスラム教)と別れる前にこの地にゴム農園労働者としてやって来たインド人たちはイスラム教徒もヒンドゥー教徒もいて、彼らの末裔たるペナンのインド系住民たちも、この小さな島のインド人社会でもやはりイスラム教徒とヒンドゥー教徒がいるのだ。チュリア通りにはイスラムのモスクが幾つもあるし、リトルインディアと呼ばれる地域には立派なヒンドゥー寺院がある。

そしてライン・クリアーはイスラム系の店ということだ。そういえば店にはマレー系の住民がたくさん食べに来ていたのも、それで納得だ。通常、インド系の食堂にはインド系住民が、マレー系の食堂にはマレー系住民が、中華系の食堂には中華系住民が食べに行くので、ちょっと違和感を持ったのだが、同じムスリムなら問題ないわけだ。

インド系はイスラム教かヒンドゥー教で、マレー系はイスラム教、中華系は儒教かキリスト教、先住民族は精霊信仰かキリスト教が信仰されている。イスラム教徒が豚肉を食べない、酒を飲まないのは有名だが、どの宗教にもいろいろ食べ物のタブーはある。同じ宗教の人間が経営する食堂に行くのが安全だし、理にかなっている。

後日、ちょっと調べてみたら、いわゆるナシ・カンダール食堂というのは、純粋インド食堂とは違って、インド系ムスリムによるマレー食堂、ということだった。その経営者の多くがマレー人と結婚しているインド系住民。マレー人と華人の結婚による文化のミックスをババ・ニョニャと呼ぶことは知られているが、このインドとマレーのミックスも文化混合、ババ・ニョニャなのだ。

マレー人のマレー料理の食堂にはかなりインドっぽいところとそうでない店があり、完全インド食堂との差がファジーではあるとは思っていたが、インドぽいマレー食堂はニョニャということなのだな。ライン・クリアーは働いている人が全員インド人なので、インド系食堂と思い込んでいたが、そういえばマレーっぽいカレーも多かったし、もやしやキャベツを炒めた料理もあった。ふむふむ。インドカレーとマレーカレーの違いは、マレーはココナツミルクをよく使うのとスパイス使いがまろやかであることだろうか。う~ん、カレーソースがグレービー?

ナシ・カンダールとは、マレー語でナシはご飯、カンダールは天秤棒のことで、インド人商人が天秤棒を担いでご飯とおかずを売り歩いたことからこう呼ばれるようになったという。つまりはマレーシアのインド料理とマレー料理のミックス料理のおかずかけゴハンのことなのだった。

マレーシアの住民はマレー系、インド系、中国系、先住民系と別れるが、モザイク国家とよばれるように、それぞれの民族が自分たちの文化を大切にして共存している。経済の大半は中華系が牛耳っているし、6割を占めるマレー系の優遇政策もあるのだが、憎しみ合っているとかあからさまに対立しているとか、そういうぎすぎすしたところは、表面的にはあまり感じられない。民族の同化を目指すのではなく、それぞれの民族がマレーシアの一員、というやり方だ。

イポーの町で、中華系のコピ・ティアム、永成茶餐室(ウェン・セン)で一緒に酒を飲んでいた中華系とインド系のおっさんたちの姿が思い出される。たぶん、他のどこの国のチャイナタウンでも見ることはできない風景だろう。本来イスラムもヒンドゥーもお酒は飲んではいけないのだが、そこはまあ。さらに料理を出さない(つまり豚肉も牛肉もなし)ウェン・センだからこそ一緒に飲めるのだろうが、このゆるさ、いいではありませんか。

マレーシアに渡って来たインド人の子孫たちは、本国インドの厳しいカーストからもかなり自由になっている。もちろん、マレーシアでのインド人社会にカースト制度が残っていないわけではないが、インドに比べると相当ゆるい。もともとゴム園やお茶・コーヒー園などの労働者として移民してきた人たちなので、低カーストの人達が多かったことも関係があるだろう。

民族は違っても同じ価値観、優勢な民族の文化への同化を強く促す国というのは、息苦しい。無意味な差別意識も育てる。日本もそういう国のひとつだけど、最近タイもちょっとその気配が濃厚になっている気がする。

おいしいナシ・カンダールを食べに、またペナンのライン・クリアーに行こう。そういえば、この店大きなクジラの絵の看板が上にあるものの、実は建物と建物の間の通路のような場所にある。天井は半分、シート。床は地面。店の存在もまた、ゆるい。働いている人はゆったりとして穏やか。

149 目をとじて

藤井貞和

折口はんが、振り仰いではる。
なんでや、小町桜が、
降り積もる雪のなか、満開や

わいは謀叛人(ムホンニン)や
護摩木がほしいで。 大塩はんが、
やってくる、蓑笠つけて

ひと日、風邪のえまいに、
目をとじて、寝ておりますと、
つぎからつぎへ、
折口短歌が聯想(=うか)んで、
消えるのです

「かたきや」思うたら、
男を食い絞めなあかん。
傾城のくどきは、あんた死ぬで

(「関の扉(ト)に桜散る夜は―目つぶりて、音(ネ)に立ちがたき三味を 聴くべし」「誰びとか 民を救はむ。目をとぢて、謀叛人なき世を思ふなり」釋迢空〈折口信夫〉。)

しもた屋之噺(183)

杉山洋一

目の前で桃色の花がほころび始め、日本から戻ってきたばかりで、まだ刈り込んでいない庭の芝に、黄色いタンポポの花がきままに咲き乱れています。震災直後の4月初め、毎年少しずつでも日本の小学校を体験させたいと三軒茶屋の小学校に息子を通わせて早6年、今月無事に卒業式にも参加させていただきました。震災直後のあの頃も、恐らくこうして目の前にほころびはじめた桃色の花を眺めながら、先に日本に戻っていた家人と、息子の入学式について、喧々諤々電話していたのを思い出します。

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 3月某日 ボルツァーノ アパート
練習に出かけようと玄関を出ると、踊り場で女性に話しかけられる。中庭の茶色のコンテナを指さしながら「あの生ゴミ用コンテナに、ビニール袋で捨てたのは貴方?」。意味も分からぬまま頷いたところ、なんでもボルツァーノでは、生ゴミは支給される紙袋を使わなければ罰金なのだと言う。ミラノとはずいぶん違うと実感して、ボルツァーノの分別収集に関するサイトを見直すと、卵の殻と貝の殻も絶対に生ごみに入れてはいけないとある。今まで生ゴミに入れてしまっていて、反省することしきり。紙袋では油や水で底が抜けそうな気がしたが、防水加工なので問題なかった。この紙袋は街のどのパン屋でも使われていて、生ごみは市が支給するものか、パン屋で使われる紙袋を使うよう指示されている。

屋号にBeckereiとドイツ語で書かれた近所のパン屋に通う。どのジャムが美味しいかと尋ねると、これは特別と差し出さた瓶詰を手に取る。傍らにいた主婦も、そうなのよ、これは本当に美味しくて困ってしまうわ、と笑った。半信半疑で家でパンに塗ってみると、これが本当に旨い。ジャムより寧ろコンポートで、甘すぎず、独特の滑らかさと相まってとにかく口当たりよくて、繰り返し食べたくなる。ミラノに土産に持って帰る度に、一日であらかた食べきってしまうので、パン屋では「例の危険なジャムを頂戴!」と言うようになった。

 3月某日 ボルツァーノ アパート
ドレスリハーサルが終わり、荷造りしてミラノに戻る。最終公演の後すぐにミラノに戻り、そのまますぐに東京に発つので、一か月近く暮らした荷物の大半は今回ミラノに持帰る。息子は今日メータのペトルーシュカ最終公演。一度は見たかったのだけれど、日程が合わず、結局一度も見られなかった。バレエだから息子たちは単なる黙役で、市場のシーンなどで風船片手に舞台を歩き回るくらいのものだそうだが、楽しくて仕方がないらしい。ずっとペトルーシュカを口ずさんでいる。初演版の舞台装置はロシアの色味に富んでいて、実に賑々しく美しい。息子曰く「曲としては、春の祭典の方が良い感じ」とのこと。子供の頃に本物の舞台に触れられるのは実に素晴らしいが、お伽の国そのままの風景の中毎日を過ごしていると、公演の後すっかりもぬけの殻になって、学校の勉強に身が入らなかったりするらしい。

 3月某日 ボルツァーノ
午後3時、家人と息子を駅で出迎え、一度荷物をアパートに置くとすぐに劇場へ入った。角の金物屋の前で、ミラノからやってきた今堀くんとすれ違う。
もうすぐルカが横浜で演出する舞台があって、そこで英訳の「羽衣」を子役が謡う場面があるらしい。ついては、息子が手本代わりに録音して、それを子役に聞かせて練習させるのだと言う。発音も雅な英国復古調にし、リズムの付け方も、音程の流し方もあれこれ試し、漸く形になった。昨年録音して多少は慣れていたが、息子は相変らず英語が苦手で、緊張するとRをフランス語と間違えてしまうと言う文句が奮っていて、一同大笑い。
録音の後、本番前に少し身体を休ませようとアパートに戻る。家人は、近所で靴を買ってアパートに戻ると言って別れたが、案の定、道に迷って電話してくる。本番終了後パーティーに顔を出し、ずっと学校に出かけていなくて久しぶりに会った今堀くんとアパートで夜半まで話し込む。彼が暮らしていたパリやジュネーブに比べると、ミラノは住みやすく、演奏の機会も増えたと言う。これからも住み続けたいそうで、この世知辛いイタリアが意外ではあったが、頑張っている姿は頼もしく、嬉しい。

 3月某日 ボルツァーノ アパート
一日休日。作曲が日ごとに溜まっていくが、今日まで暫く家族で落着いて過ごす時間もなかったので、朝から川伝いに散歩に出かけ、そのまま3人でロープウェイに乗って、過日一人で出かけたサンジェネージオに出かける。朝食を摂ろうと、村の中心で喫茶店を探すが看板は皆無。通りがかった老人に尋ねると、目の前の建物だと言う。外見からは全く分からない。日本に数枚絵端書を書いた。
小さな村なので、郵便局の隣によろず屋が一軒あって、おばさんが一人で切り盛りしている。ハムの切売りもすれば、雑誌や切手も売っている。日本までの切手を贖い、美味しそうなクラッフェンを買う。麓のボルツァーノは、街中イタリア語とドイツ語の併記だが、サンジェネージオはドイツ語話者が97パーセントだとかで、教会脇の掲示板など独語表記のみ。よく手入れの行き届いた墓地には、小さな村らしくドイツ風の同じ姓ばかりが並ぶ。

 3月某日 ボルツァーノ アパート
リゲティの「アヴァンチュール」の放送があって、友人が録音を送ってくれる。身振りのある音から身振りをはぎ取り、聴こえなかった音、見えなかった音に焦点が合っている。人体模型をまず思い出し、何故か小学校の頃、買ってきたレコードで初めて「アヴァンチュール」を聴いたときの不思議な感覚がまざまざと甦ってきたのは何故だろう。感情を込めて発声するのではなく、感情が発声する音について、そしてまた、意思を持たせる発音ではなく、意思が発音する強さについて考える。リゲティを大岡さんと歌手の皆さんと作りながら、学んだことは数限りなくある。

 3月某日 ボルツァーノ 
最終公演の直前、山を越て訪ねてきた旧知の作曲家に会う。彼の奥さんは音楽祭を催すほど財力もあるし、彼も随分うまく立ち回っていると友人たちは陰口を叩いていたが、10年ぶりに会う彼は、見たことがない妙齢を連れていた。整った顔立ちなのだが、笑うと途端に顔が崩れる不思議な妙齢だった。彼が「去年は35回自作の本番があったが、今年は10回ほどしかない」と言うと、傍らの妙齢も悲しそうな顔をし、「しかし来年以降はオーケストラなど新しい大きな仕事が沢山あるから愉しみにしている」と明るい声を出すと、隣の妙齢も朗らかな顔をするので、まるで従順な犬を見ているようだったが、彼は話しながら手元のスマートフォンにずっと目をやっていて、こちらもこれから本番だし、忙しいなら無理に会わなくても良いのに、と意地の悪いことを思う。

公演が終わり、関係者一同自家製のビールを出すビヤホールに繰り出す。実は肉が食べられないと言うと、レスリング選手のような屈強なウェイターに、思い切り笑い飛ばされる。見れば周りは皆厚さが7、8センチはあろうかというステーキを頬張る輩ばかり。彼ら若者は揃ってチロル服を身に着けていて、どうやらチロルの祝日か記念日だったのかも知れない。彼らと別れてから、ボルツァーノを訪ねてくれた浦部くんとアパートで少し話す。マンカの作曲レッスンが思いの外良かったらしく、今秋からミラノに留学を決めたと言う。彼は決断が早い。

 3月某日 白河 ホテル
昨日は空港から大荷物を抱えて渋谷のトップに寄る。白河で自分の好きなコーヒーが飲みたくなるのは分かっていたので、いつもの豆を挽いてもらい、小さなドリップを買って荷物に入れる。ボルツァーノでも、馴染みのミラノの焙煎店で挽いてもらった豆を持参して、毎朝好きなコーヒーを淹れた。肉も最早食べられず、無趣味な人間の、ささやかなる愉しみ。

今日初めて地元の中学生6人の歌声を聴く。しっかりとした、そして純粋な声に感動する。歌いたいという意思がよく伝わり、でもオペラに対する不安と戸惑いも伝わってくる。「外国から来た怖そうな指揮者」を目の前にして、どうしても緊張するだろうし、今日で自分が演奏会に出られるか決まる心配もあるだろう。
気持ちと声を揃えて一つの大きな表現をするのが合唱なら、「魔笛」の童子役にはそれぞれ違った人格も個性も求められ、その個性が生む感情によって、初めて声が生まれる。個性や人格は、彼女たちの身体の芯でつぼみのように固くなっているものではなく、彼女たちの身体全体を外側からすっぽりと包みこむ、暖かい空気のようなものにならなければならない。肩の力を抜いて、無理にでも笑顔を作って歌って貰うこと。それから、指揮者の顔を見つめて、指揮者のために歌うのはやめること。

 3月某日 白河 ホテル
朝起きて、コーヒーを淹れる。部屋の窓が那須連山に面していて、毎朝山の姿を眺める。数日前までアルプスの麓で暮らしていて、毎朝、山頂は雪が被っているかしらと、確認するのが日課になっていた。那須連山は、雄々しいアルプスよりずっと嫋やかな印象を与える。「山」と一口に言っても、育った環境で目に浮かぶ光景はまるで違うと実感する。尤も、嫋やかに見えるのは、単になだらかに続く平野から遠くに山を望んでいるからで、間近で見れば全く違う迫力をもたらすに違いない。

石を刻み橋を渡して「きざはし」となった。アルプスは、恰も無限に続く天への嶮岨な階のように隔絶な趣だが、目の前の那須連山はなだらかで、かかる拒絶感を覚えない。朝日が眩しいと思っていると、正午前に外に出ると突然雪が降り始め驚く。青空のまま気温も下がらず雪だけが吹き付ける、超現実的な吹雪にも遭遇した。聞けばこれは那須や会津の雪を、風が運んで来るものだと言う。

昼食と夕食に、随分手の込んだお弁当が配られる。努力はしたがどうも肉は身体が喜ばないので、スーパーで寿司など買い込み練習に出かけていると、誰の機転か、数日後から肉抜き弁当を用意して下さって、心遣いに痛く感激した。作曲が遅れていて、誰かと食事に出かけるのもままならなかったが、土地の方の温かさだけは、事あるごとに身に染みた。
「実は放射能については今も疑心暗鬼なんです」と打ち明けられることもあれば、「寧ろ現実をずっと悲観していたので、予想より復興が進んで嬉しい」と言われることもあった。どちらもその通りなのだろう。そんな中、素晴らしい文化交流施設が開館したことの意味と重みを改めて感じている。

中学生の童子役の皆さんから、副指揮の森田君はとても慕われていて、全幅の信頼を得ている。彼に副指揮をお願いして本当に良かった。技術的な問題は文屋さんがとても親切に助けて下さるし、緊張をほぐすため舞台上で新海君や倉本君が飛ばす冗談で、彼女たちの顔もすっかり明るさを取り戻した。誰からも彼女たちは愛されている。彼女たちが懸命に頑張る姿を通して、我々の心も一つに繋がってゆくのを感じる。自分がこの機会に関われること、そしてこうした切欠を与えてくれた彼女たちに感謝している。

 3月某日 白河 ホテル
昨日は、飛込み用プールに閉じこめられ溺れかける夢を見たが、今日はローマで足立智美さんがピアノを使ったパフォーマンスを聴きにきた夢を見る。縦型ピアノのフェルトにセンサーがついていて、ピアノ音の替わりに、鍵盤を弾くと足立さんの声が流れる。家人がそのピアノを演奏するのだが、何故足立さん自身でパフォーマンスをしないのか訝しがっていて目が覚める。

立稽古の合間も休憩時間も、少しずつ作曲を続ける。頭の中で、「魔笛」と李白の詩と、古琴の音とトランプ大統領の濁声と、鉄板を叩く音と沢井さんの十七絃の音が、絡みついて離れない。それらは有機的な反応を互いに引き起こしているようで、それが良いのか悪いのか、正直なところよく分からない。南湖について李白が書いた詩を用い、洞庭湖の秋を描いた古琴の音を思い出つつ、ほんのすぐ近くにその南湖があるのを感じながら音を置いてゆく。

3月11日は、東京とは比べ物にならない程、この地にとって重く深い意味を持っているのを痛感する。練習の合間、伊勢さんの合図で淡々と黙祷を捧げただけだが、黙祷後の空間は、何かがまるで変化を来しているのを感じた。そこに居合わせた各人がそれぞれに思い出した時間の重さが、じんわり空間に滲みだしてゆくのが見える。所詮、上辺を繕った言葉で何かが言えるものではなく、淡々と黙祷をするだけで、思いを馳せるのには充分なのだろう。

 3月某日 白河 ホテル
東京より「盃」の打合せで有馬さん来白。エレクトロニクスに関してまるで無知なので、念頭にあることを逐一言葉で説明してみると、実際には意味を成さない内容が8割。残りの2割でほぼ頭に描いたものを実現する。

統計的確率的に抽出された予想上の音素材を、たとえ聴衆の耳に同じようにしか聴こえないとしても、敢えて規定された楽譜を通して読みすすめる、有馬さんの思考フィルターを通して発音させたいのは、「アフリカからの最後のインタビュー」の時と同じだ。それは一見徒労のようでもあるが、現代音楽で定着された音符など、乱暴な言い方をすれば、粗方アルゴリズムなどでどうにでも操作は可能ではないか。実際そのように定着された音符も無限に存在しているだろうし、それが悪いとも思わない。自分が敢えてそれを選択しないのであれば、そこに何らかの意味が生じると信じる。或いは、それは単なる「徒労」の意味でしかないかも知れないが。人間とは面白いもので、或る音を意識して聴こうとすれば聴こえたりするし、或る音に意味を感じて発音すると違った音色になったり、音と別の音に関連性を持たせると、無意識に演奏法が変わる位だから、何らかの有機的な変化は生じるに違いない。

 3月某日 白河 ホテル
余談。今回有馬さんが滞在中に「緩い」という言葉をよく使っていらして、当初意味が分からなかった。最近の流行り言葉なのだろうか。何度か問い質すうち、否定的な発言をオブラートに包み、アソビを持たせた表現が「緩い」だと理解したが、彼は長く関西の大学の教壇に立っているので、方言かもしれない。結婚当初、関西出身の家人が「この匂いを嗅いで」を「これ臭って」というのが不思議で仕方がなかったが、同じかもしれない。

「緩い」とは違うが、息子が書店で買ってきた若者向け小説を、最近気になって読んだところ、構成や設定は思いの外古典的で驚いた。使われている単語や表現の印象は違うので、自分の知っている日本語とは、別の言語で書かれた文章と思えば、違和感も覚えない。それぞれの登場人物の印象は、悪く言えば掘り下げられていないようでもあり、良く言えば、身の周りの友人たちの最大公約数の部分を使って描写しているようにも見える。絶対に彼や彼女でなければ、という強い表現の意志が薄められて表現されている印象を受けたが、案外言語が単純化してきているだけかもしれない。

古来の和色表現一つとってみても、現在の我々には想像もつかない微細な感覚が散見される。もはや使われなくなった古来の母音や子音表現の日本語の音が醸し出す、我々には知覚できない繊細な彩への感覚は、我々の可能性を遥かに凌ぐ。古代は、光もないままより深い色彩感覚があり、電気などなくとも、より深い音が聴こえていた。もろもろのヨーロッパ言語も、旧くはずっと複雑な言語体系を誇った。インターネットを介し、コンピュータでコミュニケーションするためには、そんな微細な差異は足を引っ張るだけに違いない。

では、音楽はどうなのか。少なくともまだ人間が、大方電気を通さない割と単純な発音体の楽器を使って、阿吽の呼吸で演奏するを良しとしているのであれば、そこまで音楽の内容を単純化しなくてもいいのではないか。もっと言えば、音楽の単純化とは、単純な音価で音符を定着することとは限らない。本当に複雑な音楽とは、単純な仕掛けから生まれる、定着できない揺らぎのようなものだったりするし、演奏するたびに違う音を生み出す音楽より、演奏するたびに同じ音がする音楽の方が、或いは 単純と呼べるかもしれない。

「壁」の作曲が全く遅れているのは、トランプ大統領の大統領令原文がどこに載っているのか調べるのに時間が掛かった、と言うと安江さんに怒られてしまうだろう。白河の歌手陣でも、早坂さんや高橋さんのようにアメリカ生活が長い人たちがいるので、どう調べれば大統領令が分かるのか質問したが誰も知らなかった。実際は「大統領令」Executive Orderと検索すればよかったのだが、慌てると灯台下暗し。

 3月某日 三軒茶屋 自宅
白河の新幹線駅に両親を迎えにゆき、タクシーを拾って南湖の畔の「火風鼎」に彼らを連れてゆき、こちらはそのまま会場に入り、本番直前まで控室で作曲。指揮者の大先生は本番前は集中するものと、周りは皆気を使って下さっているのか、お陰でとても作曲に集中できた。本当は、ただ洞庭湖がどうやら、古琴曲の音色やら、まるでモーツァルトとは無関係な想像を逞しくしていたわけだが。

「火風鼎」は、地元の十文字律子さんのお薦めで、歌手の皆が出かけて絶賛していた。ラーメンは食べられないが、替わりに駅前の「大福屋」には、休憩中何度かざるを駆け込みに走った。白河蕎麦も実に美味。まだ正午前で開店30分程度だと言うのに、もう外にまで客が並んでいるので驚く。本番終了後、思いがけず来白していらした池田さん、岩崎さんにお目にかかる。皆さんとても喜んで下さって、特に童子の評判が頗る宜しい。前日平井さんが来白された時にも、全く同じ反応だったので、やはり彼女たちを皆で盛り立てている何かが見えるのか、それに頑張って応えた姿が心を打ったのか。演奏会後、中学生たちから可愛らしい寄せ書きを頂く。

 3月某日 三軒茶屋 自宅
昼前上野の入谷口で待ち合わせて、チェロのフランチェスコと翁庵に行く。二人で「ざる」を食べ蕎麦湯を啜って、細川さんの講演を聴きにゆく。彼の奥さんエレナはその後16時から17、18世紀のフィレンツェに於けるオラトリオについて講演。彼女によれば、当時フィレンツェで無数のオラトリオが作曲されたがそれら殆どが消失し、ほんの数曲ウィーンの図書館に作品の一部が残るに過ぎないという。雨が降っていたが、フランチェスコは、滞在しているアパートから借りてきた女児用の派手なプリント柄の、それも数本骨の折れた小さな傘をさしていて、こちらは自転車に乗るときに愛用している汚らしいレインコートを被っていて、二人で入谷口の歩道橋下で顔を見合わせて笑った。

 3月某日 三軒茶屋 自宅
朝9時に高円寺に行き、まず貞岡さんに口頭でこんな楽器が欲しいと説明する。メタルシートというか、銅板というか、でも演奏者の身体がすっぽり隠れるくらいの大きさが必要で、サンダーシートのようなべこべこなイメージではなくて。「どんな音が欲しいか歌ってみてもらえませんか」。「真木さんなんかもね、もうこんな感じ!シャチャーン!とか言ってくれてね、そうするとこっちも、パーンと閃くんですよ」。

リハーサル室に入ると、既に3枚の巨大なメタルシートが用意してあり。どのメタルシートも、こちらに挑むような挑戦的な目つきでこちらを見つめている。自分が頭の中で描いていたものに近いものが一枚、もう少しクリスタルな響きなものが一枚、全く想像していたものと違うサンダーシートのお化けみたいのが一枚。大体思っているような音をあれこれ叩いて試していて、想像していた音の一枚にほぼ決めかけていたが、サンダーシートのお化けがどうにも気になって仕方がない。自分の想像以上に、豊かな音がする。他の板より柔らかいが、表現力も演奏効果も高い。何でもアメリカ大統領は高さ9メートルの「壁」を作るそうだから、本当ならあまり表現力のない、もともと想像していた固いメタルシートがよいのだろうが、サンダーシートのお化けの雄弁さに心を打たれて、結局これに決める。そういうと、他の二枚が恨めしそうにこちらを見つめた気がした。

 3月某日 三軒茶屋 自宅
息子の小学校卒業式。2列前に座っている父兄が、感激して泣き崩れている。自分の卒業式の予行練習を随分やったのを思い出す。恐らく初めて子供が卒業式に出る親は、誰もが同じことを思うだろう。懐かしいとも思うし、あの頃から同じ伝統が連綿と続いていることに愕くこともあるだろう。当時は、なぜ国旗に向かって敬礼するのか、意味がよく実感出来ていなかった気がする。敬礼していたのかすら怪しいし、国歌斉唱もちゃんとやっていたのだろうか。等とぼんやり思う。イタリアなら国旗に向かって敬礼はしないが、国歌斉唱は大好きで歌う時も胸に手を当てる、などと思いながら眺める。

自分が卒業式をやった頃は、40人学級で1学年6クラスだか7クラスはあった。今は2クラスで、それも25名程度。卒業式に時間的余裕があるからだろう、証書を授与される前、名前を呼ばれると、「はい! わたしは将来医者になって、みんなが苦しむ花粉症を治します!」と大声で自分の将来を宣言する。息子は「はい! ぼくは将来好きなピアノとフルートで、みんなを笑顔にします!」と宣言。へえ歌じゃないのね、と思いつつ、後で息子に尋ねると、先生が色々アドヴァイスを下さると言う。普段、劇場で稽古していて、この間までバレエに出ていたせいか、舞台で歩く姿勢が良いと感嘆。白河でずっと子供たちの舞台の姿勢を注視していたので、余計そう感じたのだろう。こんなところで舞台に出ている恩恵に与かれるとは思わなかった。

後半のクライマックスは「送る言葉」。在校生が卒業生に、卒業生が在校生に「送る言葉」というシュプレヒコール劇。そう言えばこんなことをやったかなあと思いながら、眺める。今まで6年間の出来事を反芻し、核になる言葉のところで、全員が大声で繰り返す。そして、最後は「これから旅立ちます! さようなら、さようなら!」と叫んで幕。周りの親御さんも感極まり号泣している。

「送る言葉」は、過日読んだ息子の小説の文体によく似ていた。恐らく20年以上も日本から離れているうちに、日本語そのものが変化したのかもしれない。毎年これを新しく用意される学校の先生方も、実はとても大変なのではないだろうか。しかし、高揚感など実によく書けているから、案外小説なども上手に書かれるのではないかしら、と余計なことが頭を過る。

「ぼくは将来好きなピアノとフルートで!」も同じだが、ヨーロッパで宣誓に立会う場面は普通に暮らしていれば皆無だ。選手宣誓も普通はないだろう。宣誓と言えば、結婚式で聖書に手を載せて永遠の愛を誓うとか、裁判で虚偽申告、偽証はしないと聖書などに手を載せて誓うくらいではないか。ヨーロッパで右手を挙げ大声上げて宣誓するのは、ムッソリーニ万歳かヒットラー万歳くらいなので、今でも右手をすっと上に向けて挨拶すれば、殆どのヨーロッパ人は露骨に厭な顔をする筈だ。別にヨーロッパ人の真似をする必要は全くないが、もし真似している積りで使っているなら止めた方がよい。

そもそも「シュプレヒコール」という言葉は何を表すどこの言葉だろう、イタリア語では何と言えるのか考えてみたが、相当する言葉はないようだ。合唱はイタリア語では、coroと言い、声を揃えて話す、程度の意味でも用いられる。「皆で声を合わせて言いました」「皆が声を上げました」と言う時もcoroを使う。「シュプレヒコールSprechchor」は独語、英語では「speaking choir」、日本語なら「話す合唱団」。「話す合唱団」を独語で検索すると確かに存在する。シュプレヒゲザングを多用する進歩的合唱団の印象を受けるが、実態はよく分からない。少なくとも卒業式の「送る言葉」で歌が挿入される理由は、「シュプレヒゲザングを多用する進歩的合唱団」だからだと知った。

 3月某日 ミラノ 自宅
昨日は息子と二人、ミラノに戻る機中、ずっとトランプ大統領のExecutive Orderのプリント片手に打楽器曲の作曲。長くこの文章を眺めていると、それなりに筋が通って見えてくるから不思議だ。日本を発つ前に、すみれさんと電話で話した。すみれさんと沢井さんのための新作について。何を主題にしようか考えていたが、初演するのはカナダだから、案外「日系人」かしらん、とぼんやり思う。大体日系人とは何を持ってそう呼ぶのか。自分ももうすぐ日系人なのかしら。息子は既に日系人かしら。イタリアに帰化しなければ日本人かしらん。それなら在日の韓国籍の人は、韓系人ではなくて、韓国人なのかしら。

朝から学校に出勤し、夜半、1時40分。家の庭を歩く二人の不審者と話す。布団に入って本を読んでいると、人影が通り過ぎるので、窓を開けて、「何やっているんだ」と声を上げると、「まあまあ落着きなよ。すぐに出ていくから。慌てなさんな Ora vado via subito, stai calmo, stai tranquillo」と思いの外ゆっくりした野太い声が応えた。イタリア人ではないようで、ジプシーなのか、アラブ系なのか、アルバニア系なのか、少し濁ったくぐもった発音だった。

 3月某日 ミラノ 自宅
ボルツァーノに入った頃から老子を読み始め、白河でも時間があると老子の本を開く。もう暫く眺めたので、最近ルクレツィオを読み始めた。悠治さんに薦められたスティーブン・グリーンブラッドの本が素晴らしくて、ずっとルクレツィオを読みたくて仕方がなかった。最近、歳とともに涙もろくなってきたのか、「物の本質について」を読み始め、ただ燦々と輝く力強い言葉に圧倒された。老子がじんわり身体に染み通る感動だとすると、ルクレツィオは、空から降り注ぐ太陽のようだ。彼がいなければ、我々のやっている音楽すら全く違った方向に発展したかもしれないと思うと、改めてその偉大さに言葉を失う。この二人は全く反対のようでもあり、しかしその中心はメビウスの輪のように繋がっているようにも見える。

(3月31日ミラノにて)

沈黙する世界

笠井瑞丈

カラダの中に流れる言葉の世界
世界に飽和している虚像の言葉

渋谷の薬局
電光掲示板
車のクラックション

音がオトに
鉛筆も親指に

生産され
消費され

オトが生まれる瞬間
ナミが生まれる瞬間
ヒトが生まれる瞬間
動きが生まれる瞬間
踊りが生まれる瞬間

いつか宇宙空間で躍る
そんなコトを考える

沈黙する世界 
カラダの中に
真空の世界に
沈黙する世界

そんな事。

池田晶子と片岡義男

若松恵子

3月5日に、新宿のビームスジャパンの5階にあるBギャラリーで詩人の小池昌代さんと片岡義男さんの対談を聞いた。池田晶子の没後10年を記念するブックフェアに関連して企画された連続トークイベント「池田晶子の言葉と出会う」のうちの1回だ。

日本の民藝をおしゃれに紹介するフロアの小さなギャラリーには、池田晶子の著作から抜き出した文章が壁にプリントされていて、ぐるりと読んでいくと、この壁もまた1冊の本のようだというのが企画者の意図だった。

考えの正しさは、考え自体の正しさであって、誰かにとっての正しさじゃない。本当に正しい考えと個人的立場とは、どこまでも無関係なんだ。(「14歳の君へ」より)

壁のこんなフレーズを読み上げて、片岡さんは「僕から考えの正しさが離れてくれると僕としてはうれしい」と言った。

片岡義男と池田晶子の出会いは、池田氏の新刊『ロゴスに訊け』(2002年/角川書店)の書評を片岡さんが『本の旅人』(2002年7月号)に書いて、池田さんから手紙をもらったことがきっかけだったという。珍しい書評だというのが、池田さんの感想だったらしい。「池田さんに珍しいと言われた僕は、非常に珍しい」のだと片岡さんはちょっと自慢していて、笑ってしまった。

「考えの正しさ」は、正しく考えた人のものだ。正しく考えられた人が居たから、正しい考えが発見されたのだ。普通は、そんなふうに思うのではないだろうか。だって有名な哲学者とか思想家とかが居るじゃないか。しかし、池田晶子も片岡義男もそうは捉えていない。池田晶子が著作で何度も「考えろ」と繰り返しているけれど、対談のなかで片岡さんも「気持ちでわかってはいけない。考えてわからないと」と言っていた。そして、壁のこんな文章も読み上げられた。

人が自分の体験を、そのまま思想化するとどうなるか。体験からしか言えない人は、体験が逆ならば、逆の意見を言うだろう。だから個人の意見などいくら集めてもしょうがないのだ。(「信じること知ること」より)

自分の体験から教訓を引き出してみんなに語るということが、そんなハウツー本が書店にたくさん並んでいるし、今はブログやツイッターを通してばら撒かれてもいる。しかし、池田晶子と片岡義男にとっての「考える」とは、こういう事ではない。

片岡の『白い指先の小説』(2008年/毎日新聞社)の印象的なあとがきを思い出す。小説を書く4人の若い女性を主人公にした短編集のあとがきのなかで片岡は、主人公の女性たちにとって小説を書くのは「言葉によって、つまり理論をとおして現象を超え、抽象化して理解したものをどのように書いていくかという、普遍的な問題と向き合う時間」であり、「思考とそれにもとづく行動のしかた、それが作り出す物語の構造は、可能性として無限にある。無限という自由が開けているからこそ、彼女たちが小説という表現にしかたを選ぶ。」と書く。「書いていくためにはいろんなことを考える。だから彼女たちは、自分で考える、という自由さを、日常のあらゆる時間のなかで、駆使している。これ以上の自由がどこにあるだろうか。」と、そして「目に見えるもの、かたちあるもの、手で撫でまわすことが出来るものなど、どこまでいっても具体物でしかないものにとらわれ、それが世界のすべてだと思い込むことによってもたらされる際限ない不自由さから、自分が言葉になることによって、彼女たちはとっくに脱出している」と続ける。これは、『ロゴスに訊け』のなかの「言葉が自分を表現するために私を道具として使うのであって、私が自分を表現するために言葉を使うのではない。」という文章に呼応している。

考えるときに使う「言葉」というものに対する2人の考え方もまた、独特なものだ。小池さんとの対談のなかで、池田晶子が著作で「ぼくは心だ」と言い、もっと正確には「言葉」だと言っている事に触れ、心とは何か、それは簡単に言うと主観であるということであり、その主観をできるだけ誤解なく多くの人にひろげていくために言葉が要ると片岡さんは言っていた。『ロゴスに訊け』の書評のなかでも片岡さんは「言葉というものは、正確に使われるほど誰のものでもなくなる」という池田の言葉を引用する。そして、先に引用したあとがきのなかで「その人が書くなり言うなりすれば、その言葉はその人のものになるというよくある誤解は、言葉についてあまりにもなにも考えない態度から生まれてくる。」とも書くのだ。

池田晶子と片岡義男、2人が立っている場所は独特だ。対談を聞いてはじめて2人の共通点を知った。池田はエッセイによって、片岡は小説によって「考える」ことの自由を体現した。物質世界から自由になって、普遍にむけて自由に滑空していく気持ちよさを見せてくれた。ひとりきりの自由ではあるけれど、普遍的であることによって(言葉という使いまわしのされているものを道具に使うからこそ)人とつながることができるのだということも示してくれている。

片岡義男の書く小説には固有名詞を伴ってたくさんの具体物が登場するから誤解されやすいのだけれど、いくつもの時代を書き続けてこられた理由に、「考えること」と「言葉」に対する彼のこの態度が関係しているのではないかと思った。たとば印象的な主人公がいないこととも関係しているのではないかと思う。