別腸日記(3)ボグランドの水(後編)

新井卓

2015年8月、スコットランド西海岸、マル島での短い滞在の最後に、ストーン・サークル(環状立石)を求めて島の南側を訪れることにした。片面焼きのダブル・ベーコンエッグ、ハッシュブラウン、自家製ソーセージにリンゴ、パンとコーヒーの朝食をしたため、親切なB&Bの女将に別れを告げて、トバモリーの町を発った。微風に吹かれ燦々と太陽を浴びながら、何とも気持ちの良いドライヴだったのが、本土を結ぶフェリー港クレイグヌアを通り過ぎるころから、次第に雲行きが怪しくなり、程なく暗雲から大粒の雨がフロントガラスを叩き始めた。時折雲間からはまばゆい陽光が差し込むので、一条の川と化したフロントガラスは乱反射を起こしほとんど何も見えない。

北海から運ばれてくる嵐には、どこかしら、わたしたちの知らない切迫感がある、かすかに轟いてくる遠雷は、車中にあっても身をすくませる凄みを帯びている。しかし、どうせここまできたのだから、と猛烈に往復するワイパー越しに目をこらしつつ、ハンドルにかじりついて車を走らせた。やがて目的地のロックビーに到着するころには、風はすこし収まり、驟雨は小雨に変わっていた。なだらかな草地が奥の方で急に立ちあがって、山々が衝立のように立ちならんでいる、その前景のところどころに、可愛らしい家がぽつり、と点在している。墨を流したような空を背景に、それはどこか現実離れした風景に思えた。

ストーン・サークル、といえば名高いストーン・ヘンジがまず思い浮かぶ。しかし、グレートブリテン島や島嶼部に無数に存在するメンヒル(巨石記念物)は、その多くが地図に載っておらず、まして案内板などどこにも立っていないのが普通である。それらはしばしば広大な畑や牧草地のどこかに現存しており、牧場主の厚意で訪問が許されていることも多い。

メンヒル愛好者のウェブサイトに載っていた座標を手がかりに、それらしい牧場の入り口に車を停める。果たしてゲートの脇に「ストーン・サークル訪問者へ」と小さな看板が出ており、「石を目印に進め/家畜が逃げるから門は必ず閉めること」とつづく。目印の石というのはどこにあるのか──しばらく探しあぐね、ようやく50メートル程先に、ペンキで白丸が印されたそれらしい石を見つけ、歩き始めた。途端、くるぶしまで足が沈み込む。どうやら一帯はもともとボグランド(湿地帯)で、折からの雨でそこら中がぬかるんでいるらしかった。一つ、また一つと案内石を頼りに、慎重に進む。指示された順路は右へ、左へ折れ曲がっているので、タルコフスキーの『ストーカー』を想わずにはいられない。30分ほど歩いただろうか、ついに目当てのストーン・サークルに辿り着いた。

ロックビーのストーン・サークルは、1石が真北に位置する、計9石が描く円の真中心に、1石の独立したスタンディング・ストーン(立石)を擁し、さらに南東、南西、西南西方の離れた地点にそれぞれ立つ二つの離れ石で構成されている。列石が並ぶひらけた草地は周辺より数センチほど沈みこんでいるらしく、そこに入り込むと、しぶきを立てながら、浅い池のおもてを歩くような格好になった。

青銅器時代、いったい誰が、何のために石を立てたのか。太陽の運行に関連があることはほぼ確かとしても、その解釈には諸説あり、検証の手立てがないいま、結局はそのどれもが仮説にすぎない。数千年の年月によって意味だけが完全に揮発したモニュメントは、かつてそこにあった何者かの存在のシグナルとして、ただ明白に、時を超えてそびえつづけている。その実在の異様な強度に眩暈を覚えながら、わたしは長い時間、ただ立ち尽くしていた。

自分はいったい、何が起きるのを待っているのか──ふと我に返ると、あたりにはいつしか乳のような霧がたちこめている。

帰りのフェリーに間に合うためには、もう出発しなければならない時刻だった。あたりが急に暗くなった。また、雨雲が空を覆っているのだろうか。ただでさえ霧で視界が悪いのに、これでは目印の石は見つけられそうにない。しばらく右往左往したあと、思い切って近道をすることにした。羊たちが立っているあたりなら、それほどぬかるんでいないだろう──そう思って数歩進み、あっと驚く間もなく、膝まで一気に湿地にはまり込んでしまった。やれやれ、と思い片足を上げて踏み出そうとする、と、軸足がさらに深く、泥に飲み込まれてしまう。慌ててもう一歩、すると今度は踏み出した足がさらに奥へ──なんと、ものの数十秒で胸の下のあたりまで沈んでしまった。おっとこれはまずい、ちょっと死ぬかも、と内心焦ったが、何とか気持ちを落ちつかせ、身体を動かすのをやめた。動かなければ、とりあえず現状は維持されるようだ。

不思議なことに、羊たちはすぐ目の前を平然と歩き回り、暢気に草を食んでいる。人が一人死にかけているというのに、目もくれようとしない。エディンバラで毎日、酒のアテに、スコッチをたっぷりと回しかけたハギース(ミンチ羊肉の胃袋蒸し)をやっていたことへの恨みだろうか。それとも、羊どもはケルピー(馬の姿の妖怪で、河童よろしく旅人を水に引きずり込む)の手先で、まんまとその罠に落ちてしまったとでもいうのか──。

助けを求めたところで、周囲十キロ四方には、おそらくだれもいないだろう。それに、だんだんと身体が冷えてきたので、じっとしていても低体温症でお陀仏となるだろう。こうして人知れず湿地に沈み、いつかピート(泥炭)となって切り出されてウィスキーへと生まれ変わるのだろうか、ならばそれもけっこう悪くないかも、などと下らないことを考えながら、以前、どういうわけかYouTubeで見た「底なし沼からの脱出法」を試してみることにした。

まず、手に握りしめていた三脚を泥から引き抜いて水平に持ち替え、わずかな浮力を稼ぐ。それから、腕で泥を掻いて身体を少しずつ後方へ倒し、背泳ぎの体制に近づけていく。10分ほど格闘しただろうか、ようやく湯船に浸かっているような姿勢まで立て直し、あとは振りかえって、そこに生えていたイグサの束を掴んで這い上がった。

ほうほうの体で車まで戻り、全裸になって震えながら体を拭いていると、向こうからトレッキング姿の若い男女が歩いてやってきた。やはりストーン・サークルが目当てだろうか、ゲートの方へ近づいていく。「近道するな、死ぬから!」と親切に教えてあげたのに、変な顔をして黙って行ってしまったのは、もしかすると今ごろ、二人仲良くピートになっているかもしれない。

それにしても命あっての酒種、ではなく物種というものだが、こうしてストーン・サークルに詣で、ボグランドの洗礼を受けたからには、これから誰に恥じることもなく存分に飲んでよい、ということなのだろう。

クレイグヌアへと急ぐ道中、曇天が割れ傾いた太陽が濡れた道路を黄金色に輝かせていた。冷え切った身体は、アルコールも入れないうちからぽかぽかと指先まで暖かく、乾きはじめたジーンズから、泥の匂いとともに植物性の香気が立ちのぼってきた。

斜め格子

高橋悠治

青柳いづみこと『ペトルーシュカ』連弾版を練習している キュビズムの多面体 音やパターンの伸縮や切断と組みかえ 4本の手の位置が入れ替わる リズムや質感の思いがけない変化 断続は非周期だが機械的な拍にもとづいている 『春の祭典』連弾版は大きなブロックの交代だった

5月の終わりにはストラヴィンスキーの『ピアノソナタ』(1924) と「イ調のセレナード』(1925)を浦安音楽ホールで弾く ディジタル(指)な運動 みかけはバロック 機械的な長いフレーズのなかの対斜や半音移動 近代主義の裏に漂う喪失感と儀式性か

練習で反復は避けて可能性をためす 変化の枠を崩し 響きの止んだ後に自由な空間を見渡す 音から遠ざかり 複雑を単純に還元しないで 不規則に分節する 動物の跳躍 身軽さ

作曲は『散らし書き』から『移りゆく日々の敷居』へ 映像と短歌とピアノの音 吉祥寺美術館の北村周一個展『フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前』の関連コンサートのため はためくうごきや斜め格子 まばらに散る音 あしらう音 からまる線 残る指をふちどる点 揺れ動き 波打つ空間

2017年3月1日(水)

水牛だより

春は名のみと思っているうちに、少しずつ春を感じられるようになってきました。温度計では少し前とおなじ気温を示していても、陽ざしはやわらかくて、なんとなくその温度より暖かい気がします。数字だけではあらわせない世界があるということか、あるいは自分の感覚が不確かということなのかもしれません。友人が自宅の庭で収穫したというふきのとうを貰って、苦いのこそ春だとも思うのでした。

「水牛のように」を2017年3月1日号に更新しました。
年度末のせいか、今月はお休みしますというメールが何通か届きました。
お酒の魅力、というとキチンとしすぎていますが、飲む人のおかしな話が好きなので、そんなコレクションができたらと密かに思っています。先月から新井卓さんを迎え、今月から吉田純子さんを迎えました。
少し前に沖縄で飲酒運転で事故をおこした小学生のことがニュースになりましたが、飲酒運転はともかく、こどものころから飲む習慣のあった人は周囲に案外たくさんいます。最年少はひな祭りの甘酒を飲みすぎて酩酊し、裏山(!)で眠ってしまった4歳だったころの彼。私自身は30歳を過ぎてから嗜むようになったので、残念ながらまったくの未熟者です。
先月お知らせした「憲法いいね!を耕す集い」での小泉英政さんのスピーチの原稿が届きました。直前に用件が出来て参加できなくなったという自分の理由もあり、掲載の許可をいただきました。

それではまた!(八巻美恵)

くそにまみれた友情

さとうまき

今年一月からオープンした、JIM-NETの小児がん支援ハウス。日本政府が、少しお金を出してくれることになった。小児がんというと、受益者が少ないわりにお金がかかるので通常は支援対象にはならない。しかし、劣化ウラン弾だけではなく、戦争による環境破壊で多くの子どもたちががんにかかっている可能性は高いし、イラクはいまだに、治安が良くならず、石油の収益を医療に回すことすらうまくいっていない。

だからこそ、日本政府には、イラク戦争を支持した責任を果たしてほしい。苦しんでいるがんの子どもたちを見殺しにしてほしくないと思っていたからハウスを作ることは大きく一歩前進したと思う。

ハウスは、まず遠方からの意患者さんの家族の泊まる場所だ。病室は、がん病棟にもかかわらず3〜5人の相部屋になっている。お母さんたちが子どもに添い寝するから、お父さんは夜は外に出ていく。ホテルを借りるお金などないから、ロビーに寝たり、夏は病院の庭に寝ているのだ。

これを何とかしてあげたい。

しかし、警察が反対をしてきた。
「がん患者を泊めるのか? がんはうつる病気だろう。民家の中にそんな施設は作れない」
「いやいや、がんはうつる病気ではないし、患者は病院にいてとまるのはその家族です」
「家族というのは、アラブ人もいるのか? モスルから来た連中は、イスラム国と関係していたらどうするんだ」

結局警察は許可を出してくれず、家は事務所と患者家族らがリラックスできる場所として借りて、宿泊は近くのモーテル2部屋を年間契約で借りることにした。

イスラム国から解放されたモスルの人たちは、難民キャンプにはいかず、そのまま住み続けている人が多い。家は壊されていなくても病院が破壊されたり薬がなかったりで、クルド自治区にある病院に来なくてはいけない。しかし、イスラム国に関係しているかもしれないというので、検問でチェックされ、許可を得るのに時間がかかる。病院にたどり着いたらすでに夕方になっており、出直すと、又許可の取り直しでいつまでたっても診察してもらえないということにもなってしまうから、ホテルがあると非常にありがたい。彼らの多くは本当に貧しくお金もほとんど持っていないので、その辺で一夜を過ごすしかない。JIM-NETが借りたモーテルは、そんなんで、あっという間に利用者が増えた。役に立っているなと思うとうれしくなった。

日本に帰ったらしばらくして、担当の斉藤君からメールが来る。
「大変です。患者家族のホテルの使い方が悪く、ホテルのオーナーが苦情を言ってきました」
「え?」
「トイレの使い方が悪いそうです。あまりにも汚いから掃除できないといっています」
「ホテルで働いている掃除のおい兄さんはそのために給料もらっているんだから、それくらいやってもらわないと」

斉藤君がホテルのオーナーと交渉するも、トイレはくそだらけになっており、結局JIM-NETのスタッフ全員で掃除することになったという。
「うむ。ここは日本とは違い、トイレ掃除は身分の低い人がするものとなっている。スタッフに掃除させると彼らは、耐えられなくなってやめてしまうのではないか?」と心配になった。

しかし、わがスタッフたちは、クルド人、シリア難民、ヤジッド教徒らがおり、医者からドライバーまでみんなが力を合わせて、くその処理をしたという。

アラブ人のトイレは、日本式の金隠しをとったタイプと、洋式の座るタイプがある。どうも、モスルから来た人たちは西洋式のトイレを使ったことがなくどこにくそをしていいかもわからなかたらしい。

なんだか、彼らがくそまみれで仕事をしている姿を想像すると、ジーンと熱いものがこみ上げてきた。くそまみれの友情こそが、民族や宗派を超えて平和を作るのに違いない。イラクの平和はすぐそこに来ている。

ワイルドフラワーが春風に揺れる

くぼたのぞみ

「われわれ」ということばを信じなかった。無条件に「われわれ」と口にする人と話をしたくなかった。男とも、女とも。母とも、兄とも。

 われわれ。

 だれそれ? 

 勝手に含めないでよ。そういいたかった。きみ、と、わたし、は違うかもしれないでしょ。考え方だって、感じ方だって、違うかもしれない。どうして気づかないの? その鈍さがきらいだった。ずっと。だれかが「われわれ」とか「わたしたち」といって近寄ってくると、トイレに立って席に戻らなかった。

 きみはきみで、わたしはわたし。無理に「われわれ」にならなくていいのに。いつも「われわれ」でなくていいのに。それがわかる人となら話ができた。それがわかる人とならいっしょに暮らせた。ふと気がつくと、あたりにはだれもいなくなって、小さな人たちも旅立って、たったひとりのわたしが、たったひとりのきみの肩に手をおき、たったひとりのきみが、たったひとりのわたしに声をかける。野原で風に吹かれている。

 ワイルドフラワーが群生する。
 曙光をあびてぐんぐん育つ。
 風に吹かれて揺れる。

 よい景色だ。

狂狗集 3の巻

管啓次郎

あ あこんかぐあアリストテレスの未知の山
い 異郷なりレモングラスで蚊を避けよ
う 嘘つきの心を拝み倒すよ洗い熊
え 絵心が白紙を燃やす稲妻描く
お 王国の地図にまぎれて隠れん坊
か カルタで城を作つたよすぐ倒れたよ
き 気温が下がった霊魂眼鏡で対抗だ
く 苦海に浄土あり客家(はつか)に放山チキンの正餐
け 警戒せよひたすら論破せよそのむなしさを知れよ
こ 航海術海に流れる星拾ひ
さ 再起せよ世界はきみを待つてゐるかも
し 師走越えれば正月なんて暦の幻影
す 西瓜糖甘美な心のノスタルギーヤ
せ 正解はハバロフスクの焚き火です
そ 騒擾の裏に沈黙音の反動
た 黄昏は目撃不可の道(たお)の光
ち 地球というが見たことがあるのか球なのか
つ 追跡癖がトラブルを生むからそこで待て
て 天上への添乗員を募集します
と トンガは「南」南の南を見に行くか
な 茄子色に夕なずむ世に犬一匹
に 西の森のそのまたむかうに帰つてゆけ
ぬ ヌクアロファ浜辺の豚と潮干狩り
ね ねはんを期待するのか修行もしてない癖に
の 農学校のビーグルが兎をかわいがるんだつて
は 葉隠れとはコロボックルの忍術か
ひ 氷見を見よ氷山群が流れてる
ふ 不死を誓つて細胞を金属に置き換える
へ 変換ミスだよ私の顔はこんなぢやない
ほ 侯孝賢と中山北路ですれちがう
ま 鉞をかつぐのはいいが振り下ろすのはいやだよ
み 未開の心をなだめ四種の果実をとつてきた
む 夢窓国師よきみの窓から何見える
め 「明解な妄想」頭の上のバルーンなり
も モナリザの後頭部は禿げてゐるらしい
や 焼芋のうまさを忘れてたしみじみ旨いな
ゆ “You have a cut,” 場面が場面を呼んでゆく
よ 「妖怪人間」そのコンセプトに脱帽です
ら らつこの毛皮がボディ無きまま踊つてゐる
り 李朝の宮殿にリーボックを履いて行つた
る “Ruthless!” と彼女がいつてゲームオーバー
れ 恋愛の秘密は結晶への興味
ろ ロックンロールに心を託してロールオーバー
わ 山葵ありてわびさびなしこの冬山裸

148 日本史

藤井貞和

あかつきの物語が終わってエ 倭人伝は草へ帰るウ
さびしさのオ 表情ゆたかに歴史の筺で息絶える古代史イ
さきをゆく水軍のあとの白波イ 偽書の集成される内海(ないかい)もんじょオ
群書るいじゅうがびしょぬれで歴民博へたどりつくウ ない城壁にイ
のろしの火を塗るウ 学芸員の手腕がもっとも問われるところオ
調べがついたらア 吟遊の人々よオ 館長室で酒を飲めエ 近代史のオ
背後に延びるかげの植民地を史料から史料へ移せエ
国冬さんと呼ぶ声がするウ 十三世紀ぐらいのひとでエ(津守氏)
住吉の神がみなとを守るウ あくとう(悪党)は濫妨をこととするかア
お国が冬になるかア 漢字で書かれる速報やア
感じで十分に伝わる中世史になるとオ わたしはふぶいてエ
はたらいたりイ 吹きつけたりイ 「国家としてのオ
日本の別の空間」と古層は言うウ 市民運動の成熟をオ
そういう文学や文化からのオ 踏み込みでエ 丸山真男ではないがア
見えてくる地平がさらにあるのではないかア!
歴史家はふたたびとって返せエ 狼藉と朝鮮人少年とオ
少女像とのためにイ 氷解する現代史イ 吉田茂政権からの六十年ン
占領態勢イ ドッジラインからの脱却ウ わたしなりのオ
わたしたちなりの経過してきた時代から鑑みてエ
共感できる見解かなと思える一方でエ 戦後史よオ
歴史はどんな時代にも生産されつづけたのでありイ
アートの試み映画演劇イ 小田さん(実)の「何でも見てやろ」オオ
身を躍らせていた仮面よオ それらのオ
積極面(芸能史)をどう評価してゆくかア 歴史の最難関ン

(われらあくとう、あくとれす、なんちゃって。釜山の少女像について、韓国ではたくさん書かれているので〈と思います〉、われらあくとう、あくとれすも、何十年ぶりか、街頭へ出てラップ〈乱舞〉です。朝鮮人少年は石川淳『焼跡のイエス』より。)

そろりそろり

吉田純子

新橋で飲むのが好きだ。おとなりの銀座とはちょっと違い、世の中の流れや人の顔色をうかがう必要のない、ゆるやかな時間が流れている。

なかでも、烏森神社の参道に並ぶお店は格別にいい。人懐こいイラン人の店員が迎えてくれるビストロ。5人ほどしか入りそうにない、カウンターのみのしっぽり居酒屋。狭い入り口からは想像もつかないほど、ソファがゆったりとしつらえられた昔ながらのバー。

いずれも少し割高だが、清潔で、背伸びした大人の時間が過ごせる。「最近、焦ってない?」「頑張り方、間違えてるんじゃないの?」などと、ちょっと立ち止まり、酒のグラスを媒介に、いまの自分と対話することができる。

その一角にある「菊姫」という店が、昨年5月に亡くなった音楽家の冨田勲さんは好きだった。飲むならここ、と完全に決めていた。

名前のとおり、石川県の銘酒「菊姫」しか置いていない。純米吟醸、ひやおろし、山廃純米。ありとあらゆる種類の「菊姫」を飲み比べることができる。お酒と一緒に運ばれてくるのが、やはり石川、大野川の汲み水。濃い緑色の瓶に入れ、氷を張った木桶とともに運ばれてくる。この水の、五臓六腑への浸透性は驚くほど高い。お酒と一緒にくいくいと飲み干せる。酒を翌日に残さない。同郷の名サポーターとでも呼ぶべきか。

ここの名物のひとつが「にごり」である。冨田さんと行く時は、誰でもまずそれをいただく「しきたり」があった。理由はないが、何となく定着していた「しきたり」である。にごりだから当然だが、白い糟が下に沈殿し、上は澄み切って透明になっている。冨田さんと飲むときは、とにかく瓶を揺らさないように気を付けて、「そろりそろり」を合言葉に、その上澄みだけをまず、静かにいただく。「ああ、おいしい」。シンセサイザーをいじっているときとはまた別の、子供のようなあどけない表情になった。

しかし、当然のことではあるが、飲み続けると、沈殿した糟がゆっくりと混じってくる。底のあたりになってくると真っ白で、さすがに舌がざらざらしてくる。「そろりそろり」の上澄みに、ゆっくりと糟が混じり、味が刻々と変わってゆく。この贅沢な時間の流れを、冨田さんはとても大切に味わっていた。

ある時、レコード会社の冨田さんの担当プロデューサーと2人だけで、「菊姫」のカウンターに座ったことがあった。「とりあえず、にごり」と頼んだら、いつもの女将が寄ってきた。てきぱきと接客をしつつ、よく笑い、人肌感のある気配りができる。新橋の女将はこうでなくちゃいけない。冨田さんもお気に入りだった女将である。

「あれねえ、ほんとのにごりの飲み方じゃないのよ。上澄みは確かに美味しいかもしれないけど、その下のどろどろのところを飲まされるあなたたちがいつも気の毒で。にごりってのは本来、よく振って飲むものなの。でもね、センセイが『そろりそろり』って言うもんだから。あなたたちも大変よね」
いかにも「鬼の居ぬ間に」という感じのヒソヒソ口調に、厨房の料理人までが噴き出した。
「じゃあ、きょうは振っちゃいますか!」。我々は盛大に瓶を振り回し、罪悪感までも振り払い、女将がいうところの「本来のにごり」を存分に堪能した。むろん、瓶の最後の一滴まで。

でも、その後も冨田さんが同席するときは、やっぱり我々は厳粛に「そろりそろり」をやった。ざらざらした残り糟まで、できるかぎり飲み(舐め)干した。冨田さんの「そろりそろり」の時間を守ることは、私たちにとって、とても大切で幸福なミッションだった。「振るほうが正しいのに」などと、ヤボなことを言う人はこの店には誰ひとりいなかった。

お酒を誰かと飲んでいて楽しいのは、その人だけの時間の流れ、そしてその人と自分との「違い」が見えてくるときだ。仕事や家庭では、そういうものが何らかの関係のひずみになったりするものだが、良き酒飲みこそは、そうした違いをいとおしみ、酒の肴にする。誰かの時間を大切にすることは、自分の時間をも丁寧に愛すること。良き酒飲みと過ごす時だけは、ゆっくりと倦んでゆく酒場の空気が桃源郷に感じられる。

いまは、「にごり」はとことん振ってから飲んでいる。冨田さんも、肩をすくめながら許してくれているだろうと思う。

別腸日記(2)ボグランドの水(前編)

新井卓

最近、絵描きの藤井健司君と飲んでいた夜のことだった。その日かれは昼から同窓会でしこたま飲んできたらしく、もう目が完全に据わっている。そろそろ勘定して終電に飛び乗ろうか、という時刻、不意に「あんたに言いたいことがある」と切り出すので仕方なくもう一杯、アイラ・ウイスキーを注文した。何のことかと思えば、「そう言ってもあんた、けっこう酔っ払うで」と不興にも咎めるようなことを言い出すのは、どうやら、先月ここで「いくらでも飲める」というようなことを書いたのが気にくわないらしい。あれは18かそこらだった頃の話であり、少々飲み疲れた不惑間近の今、そんな皮肉を言われては困る。

とはいえ藤井君の言うとおり、いままで日本酒ばかり飲んできたのがここ数年、なんだか体に堪えるようになってきてしまった。そこで近ごろは蒸留酒を、とくに茶色い酒ばかり飲んでいる。ちなみに藤井君はウィスキー狂いで、最近は会ってもモルトの話しかしない。バーでは吃驚するような値段の稀少シングル・モルトを「お値打ち」とか言ってまっしぐらに注文し、ニタニタしながらグラスを傾ける雄姿には開いた口が塞がらないが、その傍らで色々と教えてもらうのは、まあ結構楽しい。

たいへん面倒くさそうなウィスキーの世界に足を踏み入れたのは、二年前の夏、展覧会に呼ばれてスコットランドに旅した時のことだった。エディンバラに滞在中「ザ・スコッチ・ウイスキー・エクスペリエンス」という博物館で蒸留方法についてレクチャーを受け、まわりの人たちからストレートの嗜みや加水の方法などを教わった(パブで隣り合ったモルト・オタクのアメリカ人紳士には、氷でもいれてみろ、ぶっ殺してやるぞ、と恫喝された)。天気のいい昼下がり、見晴らしの良いカルデラ(火山性の丘)に登って友だちがくれたミニボトルを試飲したりするうち、気づけばすっかりスコッチの虜になってしまっていた。

日本酒やワインで酔いつぶれると、心に去来するのは片付いていない数々の不義理や、音信不通の昔の女の人についてなど──要するにネクラな悔恨ばかりである。一方、口中で刻々と移ろうウィスキーの芳香に刺激されてフラッシュバックする記憶の断片は、鮮明で透きとおっており、より映像的といえるのかもしれない。

エディンバラでひととおりの仕事を終えたあと、友人の写真家ジェレミー・サットン・ヒバートとの対談の催しのため、グラスゴーを訪れた。かつての一大工業都市には大雑把な雰囲気が漂っており、アーティストたちの威勢もよく、川崎育ちのわたしには、京都的スノッブさを感じるエディンバラよりもずっと水があった。

当地では、打ち合わせなどで顔が合えばいつでも、理由をつけてみんなでパブに直行する。ビールを1パイント、ゆっくりやって、グラスの空いただれかがスコッチを頼みにいく。すると、いよいよきたか、とちょっと場の空気がピリッと引き締まるのだが、特に形而上学的になるわけではなく、お下品なジョークにいっそうのキレが加わる、というくらいの話である。

そうこうするうちにジェレミーとの対談も無事に終わり、せっかくここまで着たのだから、と、一人、西へ車を走らせた。はるか昔、何者かが立て、8000年をこえていまだ立ちつづけるメガリス(巨石記念物)が多数現存するというマル島を、どうしても訪れてみたかったからだ。

未明に出発してアーガイル・アンド・ビュート行政区の町、オーバンへ。そこからマル島東端の港町、クレイグヌアまでフェリーで1時間弱。さらに北の街トバモリーまで、車で30分ほどの道のりを、寄り道しながら2時間かけて走る。島内では、車ですれ違うとお互い手を上げて挨拶するしきたりのようだ。中には窓から親指を突き出して(サムズ・アップして)くるドライバーもいて、余所者の心を明るくしてくれる。

海岸の際を伸びる道は濃霧でしっとりと濡れており、角のとれた礫質の浜辺でウミネコが静かに羽をやすめていた。時折視界にひらける圧倒的な断崖や荒涼とした丘陵地帯、毛長牛の群が、永遠に周回しつづける太古からの時間に意識をつれ去る。窓を開けて走り抜ければ、島全体に名状しがたい蜂蜜のような香気が満ちていた──。

グロッソラリー―ない ので ある―(29)

明智尚希

「1月1日:『やれやれ。松子も当てにならないな。ほんとやれやれだ。人の資質は判断力で決まるなんていうけど、俺は完全に駄目人間だな。わはは。駄目でいいよ駄目で。全然構わないよ。駄目の何が悪いんだってんだよ。誰だって欠点の一つや二つはあるだろうに。なんで判断力だけでその人全体を全否定するんだ。わけわからねえよ』」。

(`ε´) ぶーぶー

 汝自身を知れという格言がある。自身の諸相とは日常生活の随所ではち合わせる。繰り返しの日々にあって、この自覚的な認識の線から漏れる相もある。自身を知るとは、漏れた相へ頻々と目配せして魂の配慮をしろということなのだろう。が、自身を知った上での言動を求められるのが現代である。格言を刻んだ哲学者は、やはり古代に収まる。

エートォ (・o・) エートォ ?

 「ごめんちょっとだけ言わせてほしい。食欲があるから性欲があるのか。性欲があるから食欲があるのか。食欲がなくても性欲はあるのか。性欲がなくても食欲はあるのか。食物があるから静寂があるのか。静寂があるから食物があるのか。植物があるから聖女がいるのか。聖女がいるから植物があるのか。ああんもう、どうかなっちゃってるわ」。

(´◉◞౪◟◉) (╬ಠ益ಠ)

 人間の特質上、日々が幸福の連続だったなら、幸福にうんざりするか幸福を失うことへの不安で一杯になるかのいずれかだろう。前者なら、かりそめの恵まれない生活に身を落とし、疲れて帰ってコップ一杯の水で不運でないことを知る機会を得られるが、後者だと、立ち直るのも困難な恵まれない生活、ことに精神生活を送ることになる。

((((_ _|||)) ))ドヨーン

 げらえもてらえも 菜ちゃせりぱっぱ
運じゅあしがら どのおとめんこ
ずいしゃあこらた 四どくばいさ
ぐらいい火らりい づまごくれんよ
どんで見かそれ うーたらごんさ

〈( ^.^)ノヽ(^。^)ノあっそれそれ

 失敗は成功の元というが、あまりにも失敗に失敗を重ねると、失敗に対する認識に狂いが生じ、失敗という言葉が不似合いになり、失敗している状態が普通もしくは常態となる。それだけではない。いつも通り失敗街道を安心して進んでいる最中、突如として成功に出くわすと、これはもう恐怖以外の何ものでもない。この成功が原因で失敗する。

ビクッ! ウソーン !!Σ(;゚ω゚ノ)ノ

 「1月1日:『あとカネな。彼女作るのでも、若い頃でも二十代半ばはまだいい。後半になってくると年収はどれくらいだの貯金はいくらだのと聞いてくる。俺と付き合うのかカネと付き合うのかわかりゃしない。俺みたいな安月給の貯金なしは、そこでアウト。良家のお嬢様ぶった女に限って、というかだからこそ、カネへの執着はすごい』」。

カネ щ(▽‐▽щ) カネ

 巧みに巧んだ内弁慶の外地蔵が、荒物屋のパノラマと平仄が合うので八方突破して、ここより入る者、一切の望みを捨てよ、を突き抜けた。ぶっちがいに出来したあまのじゃくは、角をなまらせて後事を託し、大所高所の憂国論を展開した。白玉楼中の人は三味線かもしれず、幸福な社会を作るには、分かち合いでなくパイを拡大すればいい。

‥( ̄し_ ̄;)‥ぇ?

 苦痛から逃れたいのなら、とことんまで苦痛を味わうことだ。苦杯があれば自らすすんであおり、苦難があれば喜んで飛び込んでいく。人間は飽きっぽい。人間は何にでも順応する。長い間この苦行と付き合っていれば、苦痛の威力は減退するだろう。もっとも、精神・神経が磨滅し、もはや人間と称せない状態になっているかもしれないが。

皿≦)。゜。ううううぅぅぅ

 わしにも敵はいる。二三人、七八人、いや全員じゃ全員。この国の国民全員。いや世界中じゃ世界中。み〜んな敵。敵は知恵を絞って嫌がらせを仕掛けてくる。その嫌がらせの対象が、わしの弱点ということじゃ。こちとら弱点を突かれて崩れまいと、自己存在に密着する。効果はあらたかじゃ。こうして弱点と敵を懐柔しとけばよかったんじゃ。

( ^ー^)⌒ノθスリッパアターック!

 「1月1日:『でも本物の良家のお嬢様ってカネカネ言わないぞ。世田谷世田谷言わないぞ。俺の知る限りでは、本物は、そんなものには全く興味なさそうな穏やかな表情をしていて、なおかつ無口なんだ。話題を振ってはじめて小さい声で喋りだす。しかも微笑を浮かべている。本人の口から聞かずとも良家のお嬢様ってわかるんだよな』」。

ポッ(。-_-。)。。oO

 決まった時間に駅へ行き、決まった車両に乗り、決まった場所に立つ。決まった人が下車し、決まった人が乗ってくる。確定しすぎた現実は胡乱なものである。Aが確固たるものであるほど、逆にあるBを連想するのが人間の哀しい性。胡乱なものの同類項として夢や希望がある。だがそれらは輪をかけて胡乱なものとしか言いようがない。

イイ夢ミテネ─゚+。d(`ゝc_・´)゚+。─ッ♪

 何事もじっくり待つのが肝要。ただし待つのを待ってはならない。

待ッテルョ_〆(*´∀`*◎))o

 アートか猥褻かという議論は百年以上前からあり、野菜、おかず、ご飯と食べる順番を変えていくが、契約成立後は訂正できない。有名人になるととかくねだられがちな日本列島の太平洋側では、SNSが民主主義を後退させ石造りの町へと変化し、艶熟の極みに達した大人の女の魅力と女性の美を感じさせるコンプレックスを抱いている。

(。・ρ・)o―⊂ZZZ⊃ フランク食べる?

 受益者負担に任せて、一人だけ前貼り一枚で逆噴射。オートポイエーシスに割り込んで最後通牒ゲームをした結果ミーメーシスに死す。青方偏移しながら、エスニックジョークを飛ばしに飛ばす。とばっちりの白夜行をしたわけではござらん。ブロック時空で遊んだだけ。守破離、徳目、無慮幾万。手元不如意につき右手で思わず自らを慰めた。

わかりま━─━((乂(д― )三( ―д)乂) )━─━糸泉

 同じ人に何度も欠点や弱点を指摘されても落ち込むことはない。悪口ばかり言う人たちほど、センシティブでもろいプライドの持ち主はいないからである。口撃して悦に入るが、口撃されると心棒が容易に折れてしまう。そのくせ執念深さでは右に出る者はなく、心棒を修繕しながら、過去の口撃に倍する復讐を実行するタイミングを測っている。

バチバチ…( ・_・)–*–(・_・ )バチバチ…

 「1月1日:『おまえもいずれは彼女を作るんだろうけど、似非お嬢様には気をつけろよ。昔なぽろっと貧乏だからと言ってしまった女がいて、大慌てで『貧乏症だから』と必死に訂正してた。もういいじゃん貧乏で。実際そんなにカネ持ってなかったから、まあおごらされるわ。飲めもしないのにワインバーとか行って全部こっち持ちだ』」。

フザケンナコノヤロウ (#゚Д゚)┌┛)´Д`).:∵

 出会いは別れの始まり。特にスクランブル交差点では、出会った瞬間に別れが連続的に来る。一期一会。出会いなど大切にしていられない。まちまちの服装をしそれぞれの方角へ向かう人間。その多さ。人間の大量生産という気持ち悪い事実に、逃げ出したくなる。だが逃げ出したところで、多少趣を異にする人間地獄に行き当たるだけである。

(☝ ՞ਊ ՞)☝✌( ՞ਊ ՞)✌

 「酒臭いぞ」「そうか?」「飲んだだろ」「飲んでない」「いや、飲んだろって」「だから飲んでないって」「じゃあなんで酒臭いんだよ」「昔飲んだにおいだろ」「昔って午前中だろ」「午前中は飲んでない」「飲んだ」「飲んでない」「飲んだって」「飲んでないって」「正直に言えよ」「正直に言ってる」「飲んだと言えばそれで終わるのに」「飲んだ」。

(_ _,)/~~▽パタパタ マイッタ

 逆境の中にいることが順境になっている人は恐ろしい。長い苦痛や困難は人格を歪め、価値観を転倒させる。喜怒哀楽の感情の全てがフラットになり、そのまま他人に適用される。何気なく人を傷つけても、また命を奪っても事前と同じ心理でいる。どんな講釈や説教も通じない。こうしたサイコパスを見ると、地獄はあるのかもしれないと思う。

(・△・) ムヒョウジョウ

 絶対知が得られないのを残念に思いつつ、わしゃ自己の格率に乗ってここまで来た。何度も途中下車して不毛な限界状況と対峙し、非力と猜疑心を強くしたもんじゃ。その度に格率を軌道修正し、最後にはあってもなくても同じ内容になった。赤子と老人は似ているというが、まさにそうじゃな。絶対無知。風呂を沸かす時間も、もう忘れたわい。

(。・~・。)バブー

とどいたらきえるもの

長縄亮

チベットの旗タルチョには
風の馬ルンタが描かれている
ルンタが風にきえるとき
祈りはかなうという

Yoko Onoの Wish Treeに 君が書いた祈り
それは
〜平和の祈りがいつかなくなりますように〜 

「平和の祈りがとどいたとき
平和の祈りは消えるから」

とどいたらきえるもの ゆき
とどいたらきえるもの きり
とどいたらきえるもの にじ
とどいたらきえるもの ひかり

ぼくらの生きているいまは
誰かの祈りがとどいたいま
祈ってくれたひとは
もう世界にいないけど

「ぼくの祈りがとどくとき
誰も泣かない 泣かせない」

とどいたらきえるもの うた
とどいたらきえるもの ほし
とどいたらきえるもの なまえ
とどいたらきえるもの いのり

温故知新?

大野晋

最近、自分も古い方に分類されるようになってきたなと感じることが増えてきた。古いことよりも新しいことに興味を感じるのが若さだとすると、それが新しさを作り出す厳選なのだろう。しかし、それだけでいいのかとも思う。

上辺の新しさは、実は誰かが通った道なのかもしれない。誰かの失敗の経験があるとすると、無理にその道を通って失敗する必要もない。歴史は古い事象を知るとともに、そこから今や未来に経験を生かすための学習だろう。ならば、そこから十分な経験を得なければならない。物事を表層の現象にとらわれて、その真相を見なければ決して歴史から学ぶことはできない。人間の教育の中で一番大切なのは歴史の年号ではなくて、事象を抽象化させて、そこから共通項を取り出す練習なのではないか?などとこの頃考えている。

新しいは未来を紡ぐ源泉になる。しかして、過去の柵を引きずる歴史の経験をふまえない方法は新しい未来を開くきっかけにはならないのではないか。そう考えると、本当の新しさの難しさが見えてくる。

設計図

植松眞人

 新幹線の東京駅のホームを駆け下り、人混みの中を抜けてから中央線のホームへと駆け上がる。ちょうど発車間際の車両に乗り込んで、ほどよい混み具合に少し奥へと押されていく。扉の前から横一列に並んでいる人たちの前へ。その真ん中当たりに男は座っていた。年の頃なら六十を越したあたりか。最高級とは言えないまでも、そこそこ値段の張るようなスーツを着て、背筋を伸ばして座っている。膝の上には大きなプラスチック製のデザインバッグが、少し膝からはみ出して置かれている。
 発車を告げる妙な電子音のメロディが鳴り響くと、列車が走り出し、ほぼ同時に男がデザインバッグを膝の上に立てて、中に入っていた紙の束を取り出す。A3サイズほどの大きめの紙の束には細かな線や文字がびっしりと書き込まれていて、一見するとグレーの紙を取り出したのかと思うくらいだった。
 そこには設計図が描かれているのだった。素人目にはそれほど意匠を凝らした建物の図面には見えず、どちらかというと近所の田畑が急に整地されて建てられる単身者向けの賃貸マンションのように見えた。長細い敷地に長細い建物が建てられ、真ん中に廊下があり、左右に数部屋ずつ配置されている。
 男はパラパラと図面をめくり、そんな設計図が十数枚ほど束になって簡単な製本が施されていることがわかる。男は膝の上にデザインバッグを置き、その上に設計図を置いた。胸のポケットから取り出したペンは太い軸で、その中に何色かの色鉛筆の芯が仕込まれているようだった。男は赤色の芯を選択すると、さっとく設計図に書き込みを始めた。
 まっすぐに引かれた線を少し斜めに修正してみたり、途中に小さな文字で何か書き込んでみたり。赤い線を入れた上に、さらにもう少し角度を変えた赤い線を描き加えてみたり、男は一枚の設計図の向こう側にもう一つ別の世界があるのではないかと思わせるほどに線を描き加えることで奥行きを作り出していく。いや、その建築の素人から見て奥行きに見えるものは、男の思慮の深さを示しているのかもしれないし、もしかしたら、この設計図の混乱や混沌を示しているものなのかもしれない。どちらにしても、男の目の前の設計図はどれもそのままでは形にすることができない、ということをどこかの誰かに思い知らせるために、徹底的に赤入れされている。もしくは、男が自分で作り上げた図面を再構築している真っ最中なのかもしれない。
 男は中央線が東京駅から新宿を過ぎるあたりまでの間に、目の前にあった図面のほとんどを真っ赤にしていくのだった。そして、中野駅を過ぎたあたりで、男は小さいけれど長いため息をついて、最後の一枚を開いた。それは、さっきまでの図面とそれほど大きく違うようには見えない、ごく普通の賃貸マンションのそれのように見えた。しかし、男はさっきまでと違い、その図面にはすぐに赤入れをせず、しばらくじっと図面を眺めているのだった。何を見ているのかはよくわからない。線を追っているふうでもなく、なんとなく図面全体をぼんやりと眺めている。
 私は男の前のつり革にぶらさがりながら、ずっと男と設計図とのやりとりを見ている。そして、ここへ来て立ち止まってしまったかのような男をじっと見つめている。まもなく、列車は吉祥寺を出て三鷹へと向かう。私の降りる駅も近づいている。
 電車がクンッとしゃくり上げて走り出した瞬間に、男の手が動きペン先が最後の図面全体を右上から左下に大きく斜めに線を入れた、ように見えた。しかし、実際には男の手は動いただけで赤を入れることはなかった。もし、本当にペンが図面に接していたなら、あれは赤入れではなく、きっと図面全体に対する駄目出しの斜線だったのではないかと、私は思った。また動かなくなった男を見ながら、私も目が離せなくなっている。右へ左へ、前へ後ろへと揺れ続ける列車の中で、私と男の揺れはシンクロして、二人の間に揺れはなかった。揺れのないクリアな視界の中で、私は男を見つめ続け、男は図面を見つめ続けていた。
 やがて、男は最後の図面に小さな書き込みをいくつかして、図面の束を閉じ、デザインバッグの中にしまい込んだ。
 列車は次の駅へと滑り込んだが、それが私自身の降りる駅なのかわからず、私はホームの駅名を必死で探し続けた。(了)

ジョン・ライドンの恋人

若松恵子

家人が読みかけている『ジョン・ライドン新自伝』(2016年5月 シンコ―ミュージック)が部屋に転がっていたので、ふと手に取って、ところどころ読んでみるとなかなかおもしろい。

ジョン・ライドンはパンク・ロッカー。セックス・ピストルズ、PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)のボーカリストとして世界中の若者に絶大な影響を与えた人だ。80年代はじめの彼は、不揃いに切った短い髪をくしゃっとさせて、アルチュール・ランボーみたいでかっこいい。まずこの風貌に参ってしまったのだと、グラビアページの彼を懐かしく眺める。

年齢相応に体格が良くなってしまった現在の彼も、やはり、ただ者ではない面構えで魅力的だ。若返り美容なんて絶対しないだろうなと思わせるところが良いし、いい年してツンツン立てた髪を緑と赤の2色に染めて堂々としているところはもっといい。そんな彼の写真を見ると、年をとっていく事なんてへっちゃらに思えて、励まされる。

風貌だけでなく、現在も彼は彼の音楽を奏でていて、2011年の夏と2013年の春の来日公演を見に行ったけれど、過去の栄光なんかにちっともしがみつかない円熟したロックを聴かせてくれて圧倒された。ジョン・ライドンは現在進行形で気になる人なのだ。

本の冒頭、献辞に「本書を正直さに捧げる」とある。世の中が強いてくるいろんな思い込みをはねのけて、自分に正直でいるのがパンクだ。ジョン・ライドンが「正直でいること」を何よりも大切にし、貫いていることが、自伝のなかのいろんなエピソードでわかる。人々が押し付けてくるイメージ、時には商売に利用されそうになる自分のイメージから自由になろうとする闘いの歴史が彼の自伝だ。「正直でいる」ためには、自分自身の心も注意深く眺めなければならない、ごまかしてはいけない。

ジョンはノーラというパートナーを見つけているのだけれど、彼女との事を書いた短いコラム「HUGS AND KISSES, BABY!(「ギュッとしてチュッだぜ、ベイビー」と訳されている)の部分がおもしろい。有名になったとたん、女の子が自分を見る眼が「うげえ、ナニあの隅っこにいる変なヤツ」から「あーら、ちょっとアナタ素敵じゃない!」に変わって、有名人と付き合いたい女の子が押し寄せてくる。でも、そんな刹那的な経験をいくら重ねても不毛だ、自分が本当に探し求めてたのはちゃんとした恋愛関係だということが、ノーラとの関係を築くなかでわかったと言う。

ちゃんとした恋愛がもたらす幸せというものについて、ジョンはこんな風に書く。「自分のありのままの姿を、欠点も何もかも含めて丸ごと受け止めてくれて、いかなる理由においても、自分に対して自分を恥じる気持ちにさせない、そんな相手だ。正しいパートナーであれば、自分に対する疑念を消し去る方法を教えてくれるんだよ」と。

ノーラとジョンの写真も何点か掲載されているが、2人とも素敵だ。好きな人を好きと言って堂々としている。女の子の人気を取ろうとパートナーの存在を隠したりしない、楽屋にひっこんでろとも言わない。そういえば、最近読んだ『すべてはALRIGHT』というRCサクセションの1985年の写真集に、仲井戸麗市のパートナーへのラブレターが載っていたのけれど、同じことを感じた。
本物のロッカーが教えてくれる恋愛は実に参考になる。

しもた屋之噺(182)

杉山洋一

仕事で家人が数日間日本に戻り、ミラノに一人残った息子は、この数日メルセデスの家で過ごしています。今週の劇場の仕事を終えて週末の休日を使ってミラノに戻る列車に乗り込むと、目の前にちょうど息子と同じ年頃、中学生と思しき少年と、母親が座りました。
「ヤコポ、宿題をしないと」、少し厳しい口調で母親が急かし、コンピュータを開くや否や「ほらメールが来ているわ。宿題は283ページ何某、早くなさい。地理でしょ、地理」。
そう言うと、かばんから地理の教科書を出しました。ヤコポ少年は最初厭がっていましたが、目の前で教科書まで開かれると、仕方なく宿題をやり始めました。
15分ほど経ち、ヤコポ少年が教科書に突っ伏し気持ちよさそうに寝込んでいると、コンピュータで仕事をしていた母親は、やおらヤコポ少年を起こして声を掛けました。
「さあ答えて。アメリカ合衆国独立は何年。アメリカは何人が作ったの」「1865年は何があったの」「どうして南北戦争が起きたの」。
「ええとリンカーンが最初の大統領で南北を統一…」。
「でも何故南北を統一したの。経済的理由かしら、それとも政治的理由から」。
「奴隷制の廃止でしょう」。
「それなら先ず何故奴隷制が必要だったのか言ってくれないと困るわ。南部は綿業が盛んだったでしょう。綿業は奴隷の力があってこそ実現できたのよ」。
「お母さん、もう厭だよ」。
「あらまだヤコポ、国語が残っているでしょ、頑張りなさい、ほら」。
「あら、ヤコポ、ここの自習問題もやってないじゃないの。いい加減にしたら駄目じゃない」。
「お母さん、何度言ったら分かるの。ここは自分で勉強したんだよ。どうして信じてくれないの」。
ヤコポ少年は突然大粒の涙を流して泣き出しました。
「ヤコポ何を泣いているのよ。お母さんは何も言っていないじゃないの」。
後ろの席から、歴史の復習をしている小学生の声も聞こえてきます。
「ええとネロ帝は37年生まれ68年に亡くなって、ええと芸術が好きで黄金宮殿を作って、それから大火災の後のローマを再建して、セネカが家庭教師で云々」。週末のイタリアの列車内はなかなか賑やかです。
ネロと言えば、権力欲の強い母アグリッピーナに犯され、終いは憎しみの末にアグリッピーナに刺客を差向け暗殺したのではなかったかしらん。昔から母は強し、などと不謹慎なことを考えていました。
この数日、ちょうど息子の歴史の試験のため復習を手伝っていて、大変な試験勉強を他の親はどうこなしているのか疑問に思っていたところでした。ですから、目の前の二人の様子は何とも微笑ましく、まるで他人事とは思えぬ心地で眺めているのです。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
ルカの立稽古の指示は、実に細かい。モダンダンスの振付けを一から学べる素晴らしい機会。動きに合わせて、シャとかシュというような擬音を口三味線でつけている。あれは何だったかとずっと考えていて、カンフー映画の効果音だと思い出した。練習が終わって、あの動きはどこから想を得ているのかと尋ねると、果たして東洋の武術だった。彼自身は武術をちゃんと習ったことはないという。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場 
早朝軽い朝食を摂り、川べりを40分程歩く。橋の下では、10歳くらいの少年二人がナイフを柵に刺して遊んでいて、少し怖い。ミラノではこうした光景は見たことがない。劇場のトイレにも、女性の暴力追放とポスターが貼ってある。実際に住んでみれば色々その土地の問題はあるのだろう。
散歩がてら劇場からほど近い橋からずっと川沿いに歩いて、アパートへ戻る途中、右手に鉄条網の張り巡らされた、一際背の高い壁がそびえている。その壁のちょうど真ん中にある、ガラス張りの監視塔で、看守がサンドウィッチを頬張っているのが見え、その奥に顔を覗かせている薄汚れた鉄格子の端々に、シャンプーのボトルなど立てかけてある。

細川さんがアラン・ポーの物語に能を見出したのは、実に自然で、ルカは細川さんの音楽は切れ目がなく、一つの大きな息だという。50分近い一つの大きな息に、どれだけ細かく遠近感を作り上げてゆくかが、演奏者としての挑戦でもある。同じことを二人で思っているが、お互いどこまで迎合せずに相手に拮抗できるかで、最終的な舞台の仕上がりが変わってくると思っている。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
アラン・ポーを読んで、アンブローズ・ビアスを先ず思い出したのは何故だろう。時代もスタイルも境遇も違うはずだが、無意識にどこかビアスのように「大鴉」を読もうとしている気がする。個人的にビアスは乾ききって枯渇した恐怖の印象があって、それは日本語で読んでいないからかもしれない。「大鴉」も邦訳で読むと、印象が違って、正直よく分からなかった。自分にとって彼らの描く恐怖は現代のホラーとも怪奇譚とも違うもの。空気が乾くほどに、身体に染み込んだ恐怖はひりひりと肌を焼く印象がある。それを芥川のように生々しい恐怖に捉え、細川さんの音楽を重ねると、言葉と音楽の間にある空間の何かが、有機的に反応しないのだった。それは恐らくルカの演出の方向性とも関わっているのだろう。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
相変らず肉を全く受け付けないので、ボルツァーノで何を食べればよいか、実はとても心配していた。劇場前の「サフラン」という怪しげなピザ屋が、それを払拭してくれた。「サフラン」に足を踏み込むと、アラビア語を話す男たちばかりで、最初はこちらを物珍しそうに眺めていた。ピザの影などどこにもない。カウンター横のショーケースに、大きなトレイが6つくらい並び、そのうち二つはいつもご飯が入っていて、一つは白米、もう一つはどことなく赤みを帯びたピラフ風ヒヨコ豆ご飯。後は、ラムなどの肉料理のトレイと、煮込んだ豆や野菜のトレイが幾つか並ぶ。

平皿にピラフ風ご飯をよそって貰い、周りに肉以外のさまざまな豆料理、野菜などをかけてもらう。日によっては、ジャガイモを揚げたオヤキが乗っかっていた。それに自分の好みで青唐辛子の辛いソースをかけたり、ヨーグルトをかけて食べる。実に美味な上、少なくとも肉を食べない限り胃がもたれたことはない。お茶を頂戴というと、砂糖をふんだんに入れた温かいジャスミン茶が出てきて、料理にとても合う。

聞けばこれはアフガニスタン料理だった。コック服を着こんだアフガニスタン人の主人が作っていて、何でもボルツァーノには30人くらいアフガニスタン人がいるそうだ。この数が多いのか少ないのか、よくわからない。アフガニスタン料理は、イラン料理やタジキスタン料理とほぼ一緒で言葉も通じる。何しろ我々は同じペルシャ人だから。ペルシャ人、という部分を殊更に誇らしげに語った。ところで、国の方はどうなのかと尋ねると、駄目だねと困ったように手を挙げた。イランに移住しコックをして暮らしていたが、イランでは子供たちが学校に通う資格を与えられなかった。だからボルツァーノにやってきたんだ。ここでは子供たちは学校に通っている。イタリアの教育システムは素晴らしいよ、と話してくれた。

 2月某日 ボルツァーノ 劇場稽古場
ルカは細川さんからの二つのキーワードを軸に演出をつけてゆく。「大鴉」の内容と能舞台の相似。主人公の男性が託されたメゾソプラノのシャーマン性。能の幽玄な世界は、現代のホラー映画として表現はできない。メゾソプラノが詩を語る、本来別人格である主人公が、第三者である彼女の身体を借りている。その透明な客観性こそ、細川さんの音楽の魅力を浮き立たせる大前提だと思う。全てを、べったりと塗りたくるような演奏では、どこか凛とした、張り詰めた空気の緊張と恐怖は表現できない。全て独白のみによって成立する音楽には、細かな遠近感の設定が不可欠だが、それらを壊さずどこまで長いフレーズを作れるか、結局のところ音楽稽古はそれに尽きる。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
昼休み、ルカと二人「サフラン」で話し込む。ちょうど二人ともいるので、思い立ちブソッティに電話をする。先日家人が会いに行った時は、ずっと口を噤んでいたというので二人とも心配していた。ロッコに呼ばれて電話口に出てきたブソッティの声が明るくて、思わず涙腺が緩んだ。
メゾソプラノのアビーとは「大鴉」の韻をどう踏んでゆくか、あれこれと考えている。普通に韻を強調すると、実につまらない。大きな弧を描くフレーズの方向性の中で、同じ調子が続くことをていねいに避ける。水の上をはねてゆく石のように、それぞれの点から水紋が広がると、方向性が与えられ遠近感が生まれる。言葉が吸い込まれてゆく空間は、無限に広がる闇。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
歯に詰め物をされ、とても厭だという夢にうなされた翌朝、ミラノの家人から歯の詰め物が取れたとメールが届く。
朝、トレントの音楽高校生劇場訪問。演出家と指揮者と対話する会とのこと。ルカは日本文化の特徴について話、能について話す。いかに日本文化が西洋文化から遠い存在かと殊更に強調しても始まらないので、能舞台と古代ギリシャ劇の関わりについて話す。今でこそ東洋も西洋も時間は一方通行で進むけれど、キリストが生まれるまでは、西洋も東洋も、時間の推移に対して今よりずっと繊細だったに違いない。
アパート前の道を20メートルほど進んだ角の金物屋。ナイフや斧が並ぶショーウインドウに、カウベルと角笛が鎮座している。今まで観光客用と思い込み気にも留めなかったが、店内を見るとずらりとカウベルが並んでいる。形は3種類ほどだが、ごく小さなものから大きなものまで一揃い20個は下らない。もしかすると牛飼いは、放牧牛を全てカウベルで聴き分けられるのか。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
林原さんから頼まれていたヴァイオリン小品を送る。彼女はチベットの子供に教育支援をしていて、日本にいるチベット人の友達も聴きに来るので、チベット音楽を主題として、最後は元気よく終わること。それから政治的アピール絶対禁止。
こういうリクエストを受けて曲を書くのは初めてだが、本当に古くからの友人なので、面白がって引受け、道孚県の旋律を使うことに決める。タウは中国チベットの境にあって、華麗な家造りの伝統が守られている土地。その昔はタウを「道塢」と書き、チベット語で馬を意味したと読み、題名は素直に「馬」とする。リズムを西洋式に定着するだけで、音楽が途端につまらなくなり、途中何度か続けるのをやめてしまった。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
「大鴉」に関しては、音楽と演出は有機的に関わりあうので、音楽稽古と立稽古を分けずに、同時に練習を進める。原文の解釈について喧々諤々さんざん話し合った後、演出はルカが本能的に頭に浮かんだ動きを付け、音楽は前後の関係を鑑みて、繋がるように論理的に組立ててゆく。ルカは内容を説明するようには演出したくないと言うのを聞いて、羨ましく思う。自分には本能的に決めてゆく自信はないが、かと言って、詩と無関係な音も作れない。尤も、方向性さえ決めてあれば、後はそれを本番で崩すかだけに集中できる。

 2月某日 ボルツァーノ アパート
折角、景色のよいアルプスの麓にいるからと、早朝川沿いを歩いている。どうしたことか、チロル帽と伝統衣装に身をまとった若い男女3人、まだ全く人気のない路地を、笑い声とともに走ってゆく。誰もいない路地に彼らの姿だけを認めると、まるで時代がすげ替わったよう。ここに来たばかりの頃、整わない身なりで裸足の男性が、目抜き通りに仁王立ちしているのに驚いた。行き交う人々は全く気にも留めないのも、不思議だった。
たとえ比較的暖かい土地とは言え、真冬にここで裸足で歩く男性に会うと、さすがに衝撃を覚えたが、彼はあれから何度も街ですれ違っているので、恐らく誰もが慣れているに違いない。丁度時期的にカーニバルに差し掛かるところで、顔を白塗りにしたジプシー女性が、アルルカンの衣装で寂しそうに風船細工を売り歩く。

川沿いの道を歩くと、四方の山々は乳白色の靄に包まれ、まるで見えない。鳥の囀りと、川のせせらぎだけが聴こえる。山の方へ歩いてゆくと、規模は小さいが立派な屋敷が散在している。屋敷というより、ちょっとした城に見えるものすらある。
しきりに息子が歴史の試験が大変だとこぼすので、西暦400年から900年くらい、フランク王のメロヴィング朝とロンゴバルド王国あたりから、カール大帝、カロリング帝国の凋落辺りまでの勉強を手伝ったが、こうした屋敷は、もしかしたらカロリング帝国終焉期から乱立した貴族が建てたのかしら、などと想像すると面白い。

前にトリノの貴族の屋敷に遊びに行った時のこと、小さな丘向こうの別の貴族とは今も本当に仲が悪く、ずっと悪口を言っている姿は、まるで冗談のようだったのを思い出す。理由も奮っていて、「先祖代々仲が悪いから」だと言っていた。
詳しく知らないが、もしカロリング朝で生まれた貴族層が今に続いているのなら、彼らの先祖はカロリング朝フランク王の友人だか親戚ということか。日本の貴族のように倭国の豪族が起源と言われると、天皇家に近い印象もあるが、イタリアの貴族のようにそれより500年近く後のカール大帝のお友達と考えると、今の政治家と大して変わり映えもせず、よほど世俗的で愉快な気がする。

川に沿って歩いていると、突然黒々とした鴉六羽がバサバサと大きな羽音をさせて飛んできて、目の前の枝に留まった。何か貰えると思ったのか、こちらをじっと見つめている。そのうち一羽は諦めて飛び去ったが、何故かまた戻ってきた。5分程互いに立尽していたが、時間もないので散歩を続ける。

橋を渡り少しゆくと、目の前に小さなロープウェイの駅がある。普段ロープウェイに別段興味はないが、駅の下に立つと、切立った崖の向こうには何があるか、俄然興味が頭をもたげた。早朝で周りに人影はなかったが、始発の丁度5分前に臙脂色の駅舎に電気が灯った。古ぼけた小型ロープウェイで、聖ジェネージオに向う時はまず崖を一気に昇りつめ、そこから山伝いに這うようにして進み、10分程で山上の小さな街に辿り着く。

乗客一人車掌一人だったので、勢い四方山話に花が咲く。ボルツァーノにある飛行場を、市民投票で廃止したこと。誰も使わないし、大気汚染の原因だと言う。思わずミラノで出会ったタクシー運転手が、ボルツァーノ市民を酷い言葉で罵っていたのを思い出す。ボルツァーノは自治県なので、市民の税金は国に納めずに県に納めるのだと言う。その上、国から特別助成金を貰っているのだから、当然経済は潤沢になる、というのが、タクシー運転手の言い分だった。

聖ジェネージオは標高1087メートル。ボルツァーノは標高262メートルだから随分高くまで昇った。ボルツァーノの街からは想像すら出来なかった見事な眺望が広がり、山一つ越えれば別世界になる山の魅力を思い出した。眼前の山々の尾根が朝日に真っ赤に染まると、流石に言葉を失うばかりだ。尾根と言っても、この辺りは南チロルの土柱と呼ばれる、尖った柱状の奇観が続いていて、尾根という言葉のなだらかな印象からは乖離している。雪が野原のそこかしこに残っていて、ボルツァーノに比べずっと寒い。伊独語二カ国語が標準語として認められているボルツァーノでも、街で見かける表示は、全て伊語そして独語の順番だったのが、聖ジェネージオでは、独語、伊語の順番に入れ替わっていた。後で読んだが、3000人の住民のうち97パーセントが独語話者だと言う。

 2月某日 ミラノ自宅
週一日の休日を使って自宅に戻る。息子からのリクエストで毎回ボルツァーノからはジャムを二瓶持参。余りに美味なので、二瓶買っても、数日で底をついてしまう。先週は息子のために理科科学の本を、今週は歴史関連の本を買ってミラノに届けた。
「大鴉」でのオーケストラとの練習風景を思い出す。一見易しそうだけれど、こういう楽譜を納得ゆく音に仕上げるのは、決して簡単ではない。西村先生の練習もそうだったが、自分が欲しい音、楽譜が欲している音が出るまで諦めてはいけない。一度音の質感、フレーズの方向性、音の温度、空気の密度、明度、楽器の彩度、沈黙の質感、そんなものが見え始めれば、後はオーケストラ自身が一気に仕上げてくれる。その瞬間まで、自分と目の前の作品とそして何よりも目の前の音楽家を信じ続ける。
すると、見事に音楽が一気に変わる瞬間が訪れる。
強烈な皮膚感覚を伴う体験だから一度目にすると忘れられないし、演奏者の眼の光がまるで変わるのが不思議で、輝いてくる。

(2月27日ミラノにて)

7年

笠井瑞丈

7年
ぶりの新作
僕が所属してるM-laboratory公演
『Moratorium end』
終わりました
いつも考える
主催の三浦さんの作品作りは小説的感覚
僕は自分で作品を作るときは映画的感覚
たくさんの違いがある
それがまた面白い
三ヶ月稽古してきました
振りを覚えるという感覚よりも
セリフという言葉の動きを
カラダに覚えさせるという感覚
これは僕にとっては全く新しい感覚
7年
カラダの周期も
7年
たぶん僕の今持つカラダはもう7年前のカラダではない
でもきっと普遍的なこともあるはず
そんなことをカラダの記憶に残していけたら
いろいろなことを失い
いろいろなことを得た
そんな
7年
また新しいことに向かっていこう
そして僕にとって一年で
一番辛いシーズンが始まる
花粉シーズンスタートです
くしゃみが連発
次は『花粉革命』です
よろしくお願いします。

「私の憲法」をもつこと

小泉英政

三里塚で小泉よねさん、通称、大木よねさんの養子に夫婦二人でなって、有機農業を始めた頃、鶴見俊輔さんが、ぼくのことを書いてくれて、その中にこういう言葉がありました。
「農業そのものの中には非暴力の精神の根をおろす場所があるように思う」(『鶴見俊輔集8私の地平線の上に』筑摩書房)
その言葉を見て、なるほどと思いながら、当時はそんなに気にとめませんでした。

その言葉を強く意識するようになったのは、1997年から始めた循環農場からです。外国からの輸入穀物に頼らない有機農業、牛糞や鶏糞を使わない、ビニールやポリフィルムを使わない、タネも自家採種をめざす、たどり着いたのは、里山で落ち葉を集め、米ぬかを発酵させて肥料を作るなどの方法でした。そのような取り組みをぼくは、非暴力農業とも呼びました。

ベトナム反戦運動でも、成田の空港反対運動でも、個人的にはずっと、ぼくは非暴力を貫きました。でも、激しい反対運動の中で、非暴力という言葉を発しないでいました。その後、二つの反対同盟と距離を置くようになり、更に、循環型の非暴力農業を始めて、再び、非暴力の意味を問うようになりました。

どうして自分は非暴力という方法を選んだのか? たどり着いたのが、日本国憲法でした。ぼくは、1948年生まれの戦後世代です。それ以前の暗黒の時代を知れば知るほど、憲法の素晴らしさを歓喜をともなって感じた世代です。戦争を放棄して、平和外交で争いを防いで行く、なんて勇気ある決断だろうと思いました。ぼくにとって憲法は、非暴力の精神のみなもとだったのだと気付きました。

その憲法、そのものが危機にひんしている。安保法制の強行採決、自民党の憲法草案、不安材料ばかりです。それにどう向き合うか。なかなか答えが出ませんでした。そんな中、もう一度、非暴力について考えました。非暴力は、権力を強いる者への抵抗の手段です。反対と言う言葉が枕につきます。でも、非暴力を農業にまで拡げて考えると、非暴力は肯定とか、創造とかの概念と近寄ります。そこで、これだ!と思いました。

憲法の危機に、憲法肯定で向き合おう! 憲法いいね! 変える必要ないね!

憲法いいねの会、出発時は、憲法肯定デモってどうだろうの会と言ってました。まだ生まれて、10ヶ月ほどで、よちよち歩き状態です。循環農場の会員の有志の方々、野菜を売ってくれるエコロジーショップの有志の方々、ぼくの知人の方々、まだ小さなグループです。昨年、6月に、この会場半分のスペースで「憲法このままでいいね!」と集いを行いました。参加者は約50名ほどでした。ガイアの女性たちが頑張ってくれました。

今日は2回目の集まりになります。倍のスペースに100名来ていただけるよう、知恵をしぼって、企画を立てました。(実際はどうだろう?)

1回目の集いの後に、参議院選挙があって、改憲勢力が3分の2を獲得し、その後、国会で憲法審査会が開かれています。自民党の憲法審査会部門では、緊急事態条項の検討に入ったと報道されています。沖縄では高江で、オスプレーの訓練を行うヘリパッドの工事が強行され、辺野古の海でも埋め立ての工事が着手されました。

アメリカではトランプ政権が発足し、世界的にも、「自国主義」の動きが活発化しています。緊張を緩和し、融和を目指すのではなく、自分たちの利益の為には、相手をののしる醜い政治手法が幅を利かせています。憎しみの連鎖、脅威の連鎖、軍備の増強、際限がありません。おたがいが、たがいを脅威だとして、自国の国民に危機感を煽りながら、互いの軍備増強に役立てている様にも見えます。

そんな時、「憲法いいね!」の声を上げるのは、時代の空気を読めないかのように受け取られるかも知れません。「許さないぞ!」との強い抗議の声を上げるべきだと言われそうです。その抗議の声を否定する気持ちは、全くありません。しかし、憲法いいねの会は、敢えて、足元から出発しようと考えています。

国民の反応はどうどうでしょう。安倍政権を支持する人は、50%を越えています。人々は憲法についても多くを語りません。自由に発言することをためらい、萎縮しています。自民党の憲法草案にハッキリと示されているように、改憲を主張する人達は、国民の自由や権利より国を第一に重んじようと考えています。憲法が変わると法律も変わります。戦前に逆行しかねません。

成田の駅頭で、この間、3回チラシを蒔きました。受け取ってくれる人は、10人から20人に一人ほど、みんな足ばやに通り過ぎて行きます。特に高校生は受け取りません。そういう状態、土に例えれば、ガチガチに堅く固まった状態に見えます。或いは、砂漠の様な印象を受けます。そういう大地に、いわば半分しおれかかった憲法を生き生きと蘇らせるのは、たやすい事ではありません。「憲法いいね!を耕す」とはそういう作業を智恵と力を寄せあってやってみようとの呼びかけです。

堅い大地を豊かにすることは、一朝一夕では成し得ません。肯定という考え、対話という方法、非暴力という形、丁寧な作業、芯の強いこころざしが必要です。それでは具体的にどうするのか。まず、それぞれが「私の憲法」をもつことだと思います。

この言葉は、『朝日新聞』1998年2月2日〜5日まで4回連続して掲載された鶴見俊輔さんの談話、鶴見俊輔の世界(3)私の憲法 国民投票を恐れないで(2月4日号)で見つけました。鶴見さんは当時53歳でした。その中で次のように語っています。

「私の憲法」をもつこと。慣習法としての憲法で、人を殺したくない、平和であってほしいと願うなら、そのことを自分の憲法にし、心にとめておいたらいい。書いたらだめですよ。知識人の欺瞞性はそこから発するんだ。いろんな「私の憲法」に支えられるような憲法になれば、欺瞞性やはりぼては薄くなる。

欺瞞性やはりぼてとは何なのか? 鶴見さんはこう言います。

戦前も議会や裁判所があり、法律もあったのに、軍国主義に利用されて戦争を推進した。それが戦後になって「自分は民主主義者だ」とか「戦争に反対していた」などと言い始めたが、そういえるのは獄中にいたわずか数人だけだ。それ以外の人がいくら護憲と叫んでも、はりぼてなんだ。

「私の憲法」をもつこと、個人の信念に支えられた「私の憲法」、それを、それぞれもちませんか。時流に流されない、時の政権に操作されない「私の憲法」、とても大事だと思います。

野菜の箱に入れている会員向けのチラシに、「憲法肯定デモってどうだろう」と「憲法肯定を紡ぐ」という文章を書きましたが、それは、結果的には、期せずして、自分の憲法を探ろうとした作業だったと言えます。1度目の集まりを持ってから、この先この会をどう継続していくのか迷いました。一度、肯定デモを行って見ようかとも思いました。しかし、ほんの少数の人数になりそうだし、そのデモのスタイルも、従来のものに新しさを加えるような発想は出て来なくて、さてどうしょうと言う時に、この言葉に出会い、救われました。ひとりひとりが、それぞれ、自分が生きて来た過程を振り返って、自分の足元をまさぐって、「私の憲法」をもつこと、それが大事だと思います。

ぼくは、東京でこの憲法いいねの会の準備と並行して、地元、成田では、成田平和映画祭実行委員会に参加してまして、丁度1週間前に沖縄のドキュメンタリー映画『標的の村』の自主上映会を、成田の市民運動の人たちや有志の人達と力を合わせ、開催しました。そして、予想を上回る300人の観客を集めることができました。

映画は、とても衝撃的で、ゲストでお呼びした三上智恵監督の話もとても具体的で、高江にしても辺野古にしても、負担の軽減どころか、米軍基地の強化を狙ったもので、そのことによって、沖縄はまた戦争に巻き込まれる事になると話されてました。
アメリカ軍は、日本を守ってくれないんですよ。どうして日本のためにアメリカの若い兵士が血を流さなければならないのですか。アメリカ軍は自国の利益の為に、日本に駐留しているんです。映画、監督の話共々とても感動的で、上映会を企画してとても良かったと思いました。

観客のアンケート回収率60%、そのうち感想を書いてくれた人77%、その人たちとどうつながっていかれるか、きちんと考えなければと思っています。知人にチケットを勧める時、久しぶりの人には、時間があれば、「私」を語りました。最近、肯定と言う考えに至ったこと、その姿勢で、再び、世の中と関わろうとしている事などを話しました。それは、共感を得たと感じています。

成田と東京と、二つの市民運動に関わる事によって、一つの運動のタコツボにはまらずに、双方から刺激を受けていると言うことも感じています。

「私の憲法」をもち、それを軸にして、周りの人たちに「私」を語る。憲法を語る。その連鎖反応として、平和を考えるグループが生まれる。出入り自由なゆるやかな集まりです。そういうグループがあちこちに育つことを望みます。名乗りを上げなくていいんです。それぞれをつなげるのは信頼です。信頼を維持し合うのは難しいことです。自分を率直に出すことが大切だと思います。

次に目指すもの、まだ個人的な意見ですが、「憲法いいね!をひろげる集い」をやりたいと思っています。

友人からメールで、電車の中吊りにこんな広告があったと知らされました。
渋谷陽一責任編集「SIGHT」70年間戦争しなかった日本にYESと言いたい

調べてみると、渋谷陽一さんは音楽評論家、ロッキング・オン・ジャパンの編集・発行人とある。東京に出た時に手に入れ、早速読んで見ました。
「僕はこのSIGHTで、今の日本に必要なのは肯定的なメッセージであると何度も書いてきた。YESというメッセージがないと人は前に進めないと書いてきた」
「今、僕たちが行うべきは、この戦後70年の平和主義を思想化することだ」

多くは披露できませんが、まだ手に入ると思いますので、是非読んでみて下さい。共感できるところが沢山あると思います。渋谷さんに手紙を出しました。そのうちお会いしたいと。

今日も沢山の方々の参加をいただきました。そのうち、皆さんの御協力を得て、憲法肯定の動き、憲法いいね!憲法YES!、変える必要ないね!の動きを世の中伝える大きな集会を開きたいと考えています。
音楽やアートや詩を交え!今日もこの後、歌と詩の朗読があります。楽しみです。

鶴見俊輔さんから学ぶこと

僕にとって鶴見さんは、最も信頼を寄せていた人、一緒にすわり込んだ時から47年の年月の節々で、励まされ、前に進む言葉を示してくれた大事な人です。最初に会ったのは、1967年、すわり込みの現場です。ぼくが19歳、鶴見さんは45歳でした。最後に会ったのは、2011年、原発事故のあと京都のご自宅に、かって、共にすわり込んだ仲間たちとお見舞いを兼ねてお邪魔しました。ぼくが62歳、鶴見さんは88歳になられていました。思い出されることは多々ありますが、どれをとっても穏やかな時間が流れています。

鶴見さんとのエピソードはいろいろあるのですが、今日はその時間がありません。そのうち、今日とは逆に、黒川さんにぼくが呼ばれて、鶴見さんとすわり込みの運動について、話さなければならない時が用意されるようなので、その時にします。

憲法いいね! を耕すことを、先ほど土を耕すことに例えました。我が家、循環農場では、野菜を育てるのに、落ち葉の堆肥と米ぬかの発酵肥料を使っています。落ち葉堆肥はじっくり土を豊かにする働きがあります。発酵肥料は、直ぐその作物に効きます。鶴見さんは、落ち葉堆肥だと思います。堆肥も材料によって色々です。例えば、稲わらの堆肥は土の中で短期間に分解されます。一方、落ち葉の堆肥は分解がゆっくりで時間をかけて、土の状態を改良します。鶴見さんの言葉は噛み応えがあります。地味豊か、滋養に富んでいます。

鶴見さんは2015年7月20日に亡くなりました。93歳でした。鶴見さんに学ぶこと、それはとても、一言、二言では語れません。鶴見さんの本は沢山出ています。今日もSUREの本が販売されています。是非、読んで頂きたいと思います。ぼくが思うには、鶴見さんは、非暴力直接行動に生きた人だと思います。その原点は、鶴見さんの戦争体験にあります。

引用するのは、「『不逞老人』鶴見俊輔」(ききて 黒川創、河出書房新社)からですが、その中で鶴見さんはこう述べています。

「海軍のドイツ語通訳になって、ドイツの基地があったジャワにいたときに、違法に捕虜にしていた中立国ポルトガル領ゴア出身の民間人を殺せという指令が、私のすぐ隣の軍属に下った」
「もしも、あのとき、自分が捕虜たちの通訳をつとめて、しかも、その相手を射殺することまで命令されたら、自分はどうしたか。それはずっと私自身の問題になって、戦争が終わってからも自分の問題として続きました」

そのことについて、他の本(『身ぶりとしての抵抗』鶴見俊輔コレクション2)でこう述べています。

「第二次世界大戦での日本の立場が正しい思ったことはなく、日本が負ける以外の終末を考えることはできなかったが、同時に、戦争反対のための何らの行動もおこすことはしなかった」
なぜか?
「しようと思うのだが、指一本上がらなかった」
「この前の戦争当時のようなひどい時代になると、もう一度、ああいうふうに、体がすくんでしまうのではないかという恐怖感をぬぐいさることはできない」
どうしてか?
「そういう行動の起動力となる精神のバネが欠けていた」
「それは、知識の構造に欠けたところがあるためでなく、肉体の反射の問題だ。思想という言葉を知識だけでなく、感覚と行動とをもつつむ大きな区画としてとらえるならば、それは思想の問題だ」と述べています。

また、非暴力直接行動についてこう述べている。「私としてはこうしないと、自分の同一性が失われると思うからこういう行動をとる」と。

鶴見さんは1960年、日米安保条約の強行採決に抗議して、東京工業大学助教授を辞職しました。その後、同志社大学の教授になるのですが、1970年、大学紛争で教授会が構内に機動隊を導入したことに抗議して辞職します。その少し前、1965年、ベ平連結成、翌年、アメリカ軍のハノイハイフォン爆撃に抗議して、アメリカ大使館前にすわり込み、1967年にはアメリカ軍の空母、イントレピット号からの脱走兵を受け入れ、脱走兵援助組織、ジャテックを作るなど精力的に活動しました。

まさに、知識と感覚と行動をもって、戦争に対して指一本あげられなかった体験と向き合いながら、自分の同一性を保とうとした人生だったと思います。今、憲法の危機を前にして、焦らず、丁寧に、人々と交わり、憲法十二条に書いてあるように、自由と権利を守るために不断の努力をしょうとする時、鶴見さんの残した言葉と行いは、とても貴重なものだと考えています。

今日は、鶴見さんととても親しい関係で、一緒に仕事に取り組まれた黒川創さんをお招きしました。黒川さんの話、楽しみです。

こんなところでぼくの話は終わりです。
ありがとうございました。

静かな日

璃葉

あるところから、廃棄物処理にだされる前の、スチール製の業務用棚をもらった。
棚は組み立て式のものだ。4本の支柱をたてて、ボルトで締め、棚板をはめていく。かんたんな作業のはずなのだが、いざ、これを力のない素人ひとりで組み立てようとするのは、何度か挑戦してむりだと悟った。支柱の高さはおよそ2mで、まあまあ重い。本棚としてつかうには、充分な大きさだ。
棚を置くために家具を動かしたり、ついでに使わないものを分けたりなんかしていたら、すぐに、泥棒に荒らされたような自室ができあがった。動かして行き場のない家具、棚の部品、工具類、くずれた本の山、キャンバス、紙類、楽器、ホコリ、その他、、。やけに煩さを感じた。誰もいない、わたしひとりだけなのに、この雑然とした部屋になんだか責められている気がした。要するに、疲れたのだった。
外から鳥のさえずりがきこえる。散歩にでよう。すべてを放って。

身動きがとれなくなったつらさから、無意識に中谷宇吉郎の文庫本を一冊持って部屋から飛び出すと、外の清々しい空気が流れこんできた。川沿いの遊歩道を、いつもよりゆっくり歩くことにした。曇り空をながめながら、晴れていたらもっと気持ちいいのに、とおもう。桜の木の枝には、たくさんのつぼみが育っていて、その真下にあるベンチに腰をおろした。まわりには、めずらしく誰も歩いていない。
中谷宇吉郎は、雪の結晶の研究をしていた学者だ。本を読むと、さまざまな極寒の地に出かけていたことがわかる。アラスカのページを読みかえしてふと空を見上げると、いくつもの層がかさなった雲間から陽の光が漏れて、川向こうの木々を照らしていた。去年の9月に滞在したフェアバンクスの曇り空と、すこしだけ似ている気がした。もちろん空気はもっと乾燥していて、森の匂いが立ち込めていて、この場所より何百倍も雄大なのだが。
しばらくぼんやりしてから、またうろうろとアテもなく歩きまわって、あのうるさくも愛着のある部屋にもどることにした。雲はいつのまにか流れ、薄水色の空がひろがっていた。
静かな一日がおわる。

音がそこにある

高橋悠治

1月には「風ぐるま」でテレビの録画をし その後ナレーションの録音もした 作曲した曲と それにつながる過去の音楽を集めたプログラム シューベルトの歌曲とシューベルトの詩に作曲してみた曲 アイヴァー・ガーニーが作曲した曲とガーニーの詩に作曲した曲のように 時代も場所も離れているが 抑圧的な政治や戦争のなかで 細い糸で外につながるような 微かな風を感じられるような 弱く遠い響き合い マラン・マレの『膀胱結石手術図』のような バロックの曲を バリトンサックスやピアノのように 当時は存在しなかった楽器で演奏するとき 楽器もちがう響きを立てる

2月はピアノ・リサイタル「めぐる季節と散らし書き 子どもの音楽」 そのために作曲した『散らし書き』は和歌を書き写した色紙の筆跡を音の線でなぞる もとの色紙は 仮名の連綿体と分かち書きを ことばの切れ目と一致させない書きかたで ことばの途中で改行している 字は撓って入り 手が浮いて消えるか 筆を軽く当てて 次の字に降りる それをなぞる音は 墨の濃淡や線の幅は筆の速度によるとみなして 濃く太い線は長い音 細い線は早い音の動き 曲線は音程の揺れ 音の始まりは 前の響きを拾い 終わりは音程を外す その線を右手と左手に振り分け ちがう音域に移し もうひとつの線をあしらうか 絡めるか 背景に鹿の声の線を入れる 二つの線がかさならないように 楽譜の見かけと演奏でずらす と言っても 安定した位置に停まっているのではなく いつも動いている感じがするように

音の線は横で 響きは縦のイメージだが あらゆる方向に散る音を 見えない糸でつなぎとめて網をつくり その網が形を変えながら動くと感じるなら 斜め方向がすべての場合を含み 横や縦を特別なものとはしない それぞれの音がかってに動きながら 瞬間の星座を作っては崩す おなじ音の並びにもちがう結びつきをかさねて 多次元図形が現れるようにも感じる 近くの音たちと見えない糸でつなぎとめられて その位置にある音を 網のかたちを変えても 網を破らないで どこまで動かせるか

書かれた筆跡をなぞり 音として納得がいくまで細かく直す 作業には時間がかかる それでも筆跡の曲りからは もとのことばは浮かんでこない 続け字を書くような音の曲りを作る手の舞からはじめて 斜めにずれていく網が見えるような音の並びを残して消えていく

2017年2月1日(水)

水牛だより

午前中に時間の決まっている予定のない晴れた朝に、その日はじめてのコーヒーを寝床で飲むのは、小さな幸せの一つです。

「水牛のように」を2017年2月1日号に更新しました。
コーヒーを飲んでからPCを立ち上げてチェックしてみると、来るはずの原稿がいくつかまだ来ていません。お昼まで待つことにして、そのあいだに少し先の仕事のことを考えたりします。自分がいまやっているのは本当に自分にあっていることなのかどうか、常にギモンがあります。年齢を重ねてからは、職人になるのがよかったのではないかと思ったりするのですが、当然遅すぎます。そうした無駄なことを考えているうちに午前中は過ぎていき、順次原稿も届いたのでした。
最後に届いたのは連載開始の新井卓さんのもの。じつは一昨日、明るいうちから彼といっしょに飲み、ついでに原稿をお願いしました。今月が無理なら来月からでもいい、とは言いましたが、密かに今月から来るだろうと思っていたのです。新井さんはダゲレオタイプの写真家です。ちょうど2月26日まで横浜市民ギャラリーあざみ野で「ある明るい朝に」という写真展が開催中です。水牛ではお酒の話を書いてくれることになっています。一回目から快調なので、これからどんな酒が出てくるのか楽しみです。

「憲法いいね!を耕す集い」のお知らせです。
「水牛のように」でもおなじみの小泉英政さんを発起人とする「自分の言葉で憲法を肯定する」こころみです。
日時:2017年2月12日(日)13:00(開場12:30)〜16:00
会場:明治大学紫紺館3F 参加費:1000円
プログラム
○鍬を入れる 小泉英政(農民)
 憲法いいねの会とこの集いが目指すもの、鶴見俊輔さんから学ぶこと、など。
○歌の種を蒔く 高鳥佑太(シンガーソングライター)
 ミニ・ライブ。
○時には父と母を偲んで 長谷川修児(詩人)
 詩の朗読
○憲法を耕す講演 黒川創(作家)
 「鶴見俊輔と憲法」を主な題材として

それではまた!(八巻美恵)

埋まらない隙間

西荻なな

トランプがアメリカ大統領に就任して10日あまり、アメリカ国内に住む友人からは、早くも憤りと叫びにも似た声が聞こえてきている。大統領選前後からチャットで頻繁に情報交換をしていて、現地の空気と自身の見解を伝えてくれる親友は、ボストンで精神科医をしている。アメリカリベラルを体現するアカデミックな土地柄、トランプ当選が決まった際には、あまりのショックに彼女のクリニックに来る患者さんは増えたというし、何よりLGBTの友人たちの生活が脅かされるようになるのでは、と当初から心配を募らせていた。彼女が善いと信じるアメリカのリベラルな価値観がなし崩しにされかねないことに、心底怒っていた。それは日本にいても共有するものだ。アメリカが全面的に好きでなくとも、人種もジェンダーも乗り越えて行ける価値観を体現してくれる国が倒れては、生きづらさが増していくばかりだ。日本で女性として生きていくことの難しさを10代から語り合う中だった彼女は、自由に呼吸できる場所を求めてアメリカへ移住した。その選択が間違っていなかったことは、彼女がどんどん解放されて、その才能と持ち前の明るさを開花させていく姿から感じ取っていた。トランプによる大統領令で中東地域出身の人たちのアメリカ入国、再入国が閉ざされる(その後、司法の働きによって最悪の事態は回避されたかに思えるが)と思われた一昨日の嘆きは、とりわけ深いようだった。シリアとスペインのハーフの友人はギリシャに一時的に仕事で行っているが、戻ってこれないかもしれない。もう一人のシリア系の友人には子どもが生まれたばかりだが、彼女の家族に会いに来るはずだった両親はアメリカに来られなさそうだ。でもそんな彼らはまだ幸福な方かもしれず、受け入れを期待していたシリア難民たちの生活はどうなるのだろう、というところまで話は及んだ。トランプの経済政策に期待する声も大きい一方で、家族や友人の輪が国境によって分断されかねない事態に(想像していたとはいえ)、気持ちは暗くならざるをえない。

一方で、ではトランプ大統領の誕生は間違っていたのか、といえば難しい。ヒラリーがよかったのかといえば答えに窮する。痛みを感じている人たちを受け止めるべき存在がなかったのだから、必然的にこうなったのだという思いもある。”リベラル”を説く人が今の経済システムの根本にメスを入れないことが、この時代にどう映るのか。その想像力を持っていたのか。本来のリベラルとは別の、資本主義にリベラルな価値が結託する形でのネオリベ的あり様がもたらした階級社会。マイケル・ムーアの映画作品が突撃していった先の超金融資本主義の恩恵に与れる人と、そうで無い人たちとの分断。国境を越えて日々自由に世界を飛び回る人たちと、飛行機になど乗ったことなど無いローカルな日常を送る人たち。日々の暮らしに困窮していては、生活はむしろ豊かになるためのものではなく、サバイブするもの、生き延びる目的そのものなのだ、という事実に、”Hillbilly Elegy:A memoir of a Famiy and Culture in Crisis”という昨年のアメリカのベストセラーを読んで気づかされた。著者はトランプ支持の厚かった、中西部のラストベルト(脱工業化が進んで錆びてしまった地域)で成長した31歳の青年。祖父母が生きた時代は産業に未来のある豊かな地であり、古き良きアメリカの家族と暮らしがそこにはあった。それが代を下り、父母の時代になり、様相は変わってゆく。しかし、その中で暮らしている人たちにとっては、そここそが”世界”。ドラッグと暴力と転々として定まらない暮らしに、心は砕けそうになるが、最後は祖母が拠り所になった。勉強できる環境を確保し、アメリカの良き”アファーマティブアクション”の助けを得て、アイビーリーグヘと進み、未来へと道をつなぐことができた。今は投資会社のCEOを務める身で、そこだけ見れば成功者だろう。でも筆致はきわめてニュートラルで、情に流されるでもなく、冷たくもない。今だから”Hillbilly”(白人労働者階級)とは何なのか、経済的に恵まれない忘れ去られた存在として生きる哀しさとは何なのか、記憶の中からすくい上げるように、淡々と個人史を紡いでいる。でもこの私小説にも似た読み物は、同じくラスト・ベルトで生きることがどのようなものなのか、その事実を余すところなく伝えていた。教育とは無縁で、ドラッグ漬け、家族の形も壊れかけている生活に身を置いていれば、リベラルな価値は届かないし、触れることがあってもいきおい”高級なもの”にならざるをえないし、等しくその恩恵が届かないのであれば、それはむしろ反感を買う対象になってしまう。社会政策から取り残され、”忘れられてしまった人々”(forgotten people)の支持を結果的にトランプが得てしまったことは、彼らがさらに置き去りにされるであろう未来を思うと二重の意味で不幸でしかないけれども、「America,First」「Bring Back America」という標語の繰り返しが、”忘れられた人たち”の心に確実に響いた事実は重い。その人たちにとっては、当面の生活が改善されるかもしれないという期待において、合理的な判断だったのだろうから。

友人の嘆きには心から共鳴するし、彼女の憤りの多くの部分は私の憤りでもある。とはいえ、彼女の生きるアメリカの良き価値観を体現するコミュニティの特異性を思うにつけ、分断の隙間を埋めることの難しさを思わずにはいられない。羨ましいという感情が羨ましい、を超えて、妬ましさに転じてしまった時、あるいは負の感情すら、何の感情の接点すら持てないほどに世界が離れてしまった時に、どう向き合っていったらいいのか。Facebook的な世界に現実が飲み込まれてしまったいま、アメリカと日本の距離も込みで、自分の課題として考えていきたい。

147 ひとりして

藤井貞和

「美化されて
長き喪の列に訣別の
歌ひとりしてきかねばならぬ」(岸上大作)

すべての美化は
はじき返されるしかないと
佐藤泰志はうたう
二十一歳

少女の愛にも斃れることのできる
優しい魂だけが
ほんとうに「革命」を行い得るのだと

樺美智子を
生きのこったにんげんの
身勝手な美化に置いてはならないと
いうけれど

祈る姿を人に見せない
心遣いをたいせつに秘めて
歌人は逝ったと

「巧妙に
仕組まれる場面おもわせて
一つの死のため首たれている」(同)

 

 
(思い立って「この世界の片隅に」〈アニメ映画〉を観に行き、帰って『帝国の慰安婦』無罪判決のニュースに接しました。二十一歳の佐藤が「私の読書ノート」を書いたのは一九七一年五月のことで、岸上全集に向けての感想です。詩で少女像にふれることはむずかしいですが、いつかふれたいと思います。)

アジアのごはん(83)マレーシア華人のカレーパン

森下ヒバリ

クアラルンプールから友人の車でイポーという町に向かうことになった。「途中のカムパーという町に巨大なカレーパンを食べさせる店があるんだけど」と友人が言う。「何それ、行く!」カレーパンは大好きである。「華人の店?」「うん、そう」中国系のレストランで、どんな巨大カレーパンが出て来るのか、とても楽しみだ。そこで昼食をとることにする。

KL(クアラルンプール)から2時間余り。ちょうど華人の正月、春節の只中なのでKL市内は空いていたが、高速道路は帰省する車で少し混み合っている。とはいっても日本のお盆やゴールデンウィークとは比べ物にならないが、まあ日本の方が異常だろう。

カムパーの游記酒楼という店に入ると、客はみんなその名物だという巨大カレーパンを食べているようす。さっそく注文すると、あっという間に出てきた。つややかに茶色く光るそのカレーパンは、ふつうのカレーパンの・・10倍以上の大きさである。でかいよ・・。揚げてあるのではなく、大きなオーブンで焼いてあるものだ。

持って来てくれたおばちゃんが、パンにサクサクとナイフを入れ、切り開いていく。ああ、かぶりつくわけじゃないのね。まず真ん中を一文字に切り、今度は横に5センチ間隔ぐらいで切り込みを入れて上部を切り広げると、ワックスペーパーに包まれた鶏肉のカレーが出てきた。

日本のカレーパンのように、水気を無くしたカレーでなく、汁けたっぷりのチキンカレーがどーんと豪快に仕込まれていた。チキンもぶつ切りにしてあるとはいえ、おそらく半身分はあるだろう。じゃがいもが数切れ。まわりのパンをちぎって、さっそくカレーをつけていただく。「うん、おいしい・・けどパンがすごく甘い・・」カレーはなかなかおいしいのだが、このパンの甘さが苦痛である。パンだけで食べれば、焼きたてのふわふわで甘い菓子パン。それなりにおいしい。で、これをチキンカレーにつけて一緒に食べるのは、ちょっと違和感がある。マレーシア華人はこの甘さがいいのか・・な。

中身のチキンカレーは、日本のとろみのあるカレーとも、インドカレーとも微妙に違う。インドカレーに近いとはいえ、何か中華ふうな気配がする。スパイス使いに、どこか中華好みが混じっているのだろう。中華の山椒の花椒や、豆板醤? はたまた中華のスパイスミックスの五香粉か?

「え〜っと、ご飯もらおうっか」「いいね」ということで、最後はカレーパンの中身の中華チキンカレーを白飯にかけてライスカレーにして食べる我ら日本人。パンは半分ぐらい残してしまった。カレーパンを3人で食べている間にも厨房からはどんどん焼き上がったカレーパンが運ばれていく。持ち帰りの客もどんどん来るし、店は大流行りだ。

マレーシアの華人の料理にはカレーを使ったものが何種類かあり、日常的によく食べられている。カリーミーというカレースープの汁麺。魚の頭のカレー煮込。いわゆるチキンやマトンのカレー。それらはマレーシアのインド系、マレー系の料理とよく似ている。似ているのだが、やはりどちらも微妙にスパイスが中華系、ダシが中華系なのである。

日本の家庭で愛されているカレーライスは、インド人からすれば「インド風スパイススープのあんかけご飯」とでもいうものだろう。ご存知の方も多いと思うが、小麦粉でとろみをつけたカレーはインドから伝わったのでなくイギリスから伝わったものだ。インドではカレーという料理はなく、スパイスを素材に合わせて調合を変えて味付けする。とろみも基本的につけない。イギリス人がインド料理の一部分を抜き出して万能スパイスミックスとして作ったものがいわゆるカレー粉だ。鶏肉などをそれで炒めて最後に水溶き小麦粉を加えて、とろみのついたソースに仕立てるのがイギリス風のカレーである。

そして、そのカレー粉が日本でまた独自に進化を遂げて、脂分ととろみの小麦粉を加えて固められ、ジャワカレーだの、ハウスのリンゴとはちみつ入りカレーだの、星の王子様だののカレールーになった。この固形カレールーを使って作る日本カレーは、野菜や肉を入れたスープにとろみをつけた状態のもので、かなりの水分量だ。

マレーシアには華人と呼ばれる中国人たちが人口の3割ぐらい住んでいる。華人には、ふたつの大きな系統があって、15世紀の明の時代に移住してきた福建出身者を中心とする貿易商人たちの末裔と19世紀初めのスズ鉱山の開発にイギリス人に集められた広東や客家出身者を中心とする肉体労働者たちの末裔である。

数でいえば圧倒的多数の鉱山労働者たちは、鉱山や貿易港の周辺などで華人の町を作り、集まって住んで自分たちの中華文化を守り続けて今に至っている。これから行こうとしているイポーもカレーパンを食べたカムパーもそういう華人の町である。かれらはタイなどの周辺国の華人に比べると、中国人としての文化を相当維持していて、本土の現代中国ではもう失われた古き良き中華文化を残している。マレーシアに生まれ育ったのに中国語しかしゃべれない華人も多い。毎日食べているのは出身地の中華料理である。インド料理やマレー料理は基本的に食べない。文化は辺境に行くほど古い形が残される、という説があるが、まさに共産革命以前の漢民族の中華文化は元の中国から遠く離れたこの地でひっそりと保守されている。

それでも、いつのまにかインドやマレーの料理が姿を変えてマレーシア華人の食卓に上がっている。それがカレー系の料理である。そしてそのカレーには五香粉などの中華スパイスがこっそり加わっている。日本人が、刺激的なカレーの料理をマイルドにしてあんかけご飯スタイルに工夫して受け入れたように、華人もカレーに中華料理のスパイスを加えて、インドやマレーの料理をわずかに受け入れて楽しんでいるのだった。保守的だけど、ちょっぴり革新。そうして辺境で文化は生き残っていくのかもしれない。

イポーの町に着いて、永成茶室というひなびた店でまったりとギネスを飲みながらそんなことをぼんやり思う。百年と五年経つというこの店には沢山の種類のビールと量り売りのウイスキーが置いてあり、地元の華人とインド系の酒飲みたちがひっきりなしにやってくる。華人の喫茶店である茶室にインド系のおっさんが来るというのも珍しい。真っ黒な肌のこわもてのおっさんが店の猫を膝に置いてウイスキーをゆっくり飲んでいる。目が合うとおっさんはニタリ、と笑った。

別腸日記(1)口切り

新井卓

よい酒は水のように流れて記憶の砂地に消え、いつまでも宿酔いのごとく思い出に居座るのは、悪い酒ばかりである。

自分が思いのほか飲めることに気づいたのは十八のときで、浪人生として鬱々と過ごした冬の日だった。当時アルチュール・ランボーや中原中也などの悪い詩人たちに傾倒していたわたしは、映画館から帰る途中の酒屋で一番安いパック酒を一升、どうにかして買ってきてベッドに忍ばせた。

本当は、火鉢にあたりつつ股座に一升瓶を挟み「人肌燗」という中也の真似をしてみたかったのだが、火鉢はなかったのでベッドの中で抱いて、本でも読みながら温めることにした。抱卵するペンギンの気分で待つこと数時間、深夜を待ってパック酒の口を切った。

コップに注ぐと、人肌にぬるんだ液体から人造アルコールのむっとする刺激が匂いたち、口に含むといつまでも纏いつくような甘さが舌に残った。ところが、一杯、二杯とアテもなくただ飲みすすめても、いつまでも一向に酔う気配がない。そうしているうちに一升、ついに飲みきってしまってから、そら恐ろしい心持ちになった。

その後も頻繁に料理用ワインや「ホワイトホース」などの低級な酒を買い込んでは試し飲み、ベッドの下にはさまざまな形の空瓶が蓄えられていった。ブコウスキーの『詩人と女たち』を読むときはカティ・サークを舐め(これは少々奮発しなければならなかった)、金子光晴の『ねむれ巴里』では赤ワインを空けて、光晴がいうように本当にウンコが黒くなるのかどうか、確かめた。

やがて酩酊とはどんな気分か理解するようにもなったが、その「境地」に至るまでに、かなりの分量のアルコールが必要ということも分かった。それは、わたしに四分の一流れる奄美の血のせいなのか、よくわからなかったが、とにかくそのように一人で通過儀礼を終えて以来、失敗の方が多い酒とのつきあいが始まった。

仙台ネイティブのつぶやき(21)餅はごちそう

西大立目祥子

年が明けて、早ひと月が過ぎた。
ところで、みなさん、お正月はお餅を食べましたか? いま、必ず食べるという人はどのくらいいるものだろう。都会に暮らす若い人たちは、お餅のことなど忘れて年越しをしているかもしれない。

餅といえば正月だけれど、ここ宮城は餅の王国といえるところで、お祝い事には餅、農作業の区切りがついたら餅…と年中、何かにつけて餅を搗いて食べてきた。いま、手元に「大崎栗原 餅の本」という薄い冊子があって、─「大崎・栗原」というのは宮城県北の米どころといわれる地域なのだけれど─そこに昭和30年10月の「各市町村別各月餅食回数」というNHKが行った調査が載っている。驚くなかれ、最も回数が多い町は年間70回。5日に1回は餅を食べているのだ。ざっと見ると、平均は年30回ぐらいだろうか。

餅を食べるといっても、前日に餅米を水に浸し、臼と杵を用意し、台所のかまどに火を起こし蒸籠を重ね、餅米を蒸して…とその手間は、いまとは格段に違っていたはずだ。あれこれの準備や段取りの面倒よりも、餅への情熱の方がはるかに勝っていたのだろう。

餅は最高のごっつぉう(ごちそう)! そして、朝から晩まで田畑の仕事に明け暮れる農家の人々にとっては、暮らしの大きな楽しみだった。神社の祭りに、年中行事を行う日に、冠婚葬祭に、農作業の節目に、そして客のもてなしや休み日には、決まって餅を搗いた。いや、餅があったからこそ、きびしい労働に耐えられたに違いない。

機械化前の時代、農作業は田植えも草取りも稲刈りも、頼りは馬と牛、そして人。大家族で家には若い働き手がたくさんいたし、大きな農家となると近隣から住み込みや通いで働き手を雇い入れないと仕事は立ち行かなかった。これといった娯楽もなく、そもそも休み日がそうないのだから、この作業が済んだら餅、この行事のときには餅、とつぎつぎやってくる餅の日は、たらふく食べて一息つける安息の時間だったと思われる。

仙台も変わらない。「昔はね、何でかんで餅!」 大津波で被害を受けながらも多くの家が戻った市内若林区三本塚でたずねたら、間髪入れずにそんな答えが返ってきた。毎月1日と15日の休み日には決まって搗いたという。今日は休みだ…と寝床でもぞもぞしていると、隣の家や向かいの家からぺったんぺったんと餅搗きの音が響いてきて、「ほら、隣り始まったぞ。早く起きて搗け、と起こされたよ」とここで生まれ育った小野吉信さんが苦笑いしながら教えてくれた。

搗きたての白餅は、女の人たちがつぎつぎとちぎってあんをまぶし、重箱に詰めて親戚のところに届けるものだったという。自転車で遠くまで行った、という話に、子どものころ、兼業農家だった母の実家で年末に家族が総出で、ときには親戚の手も借りて餅搗きをしていたのを思い出した。畳を上げ、土間に杵と臼を出して餅つきして、搗き上がると丸めて鏡餅をつくったり、薄い木の箱に餅をのして板餅つくる。庭先で湯気の上がる蒸籠から、蒸しあがったばかりの真っ白でふわふわのおこわを手のひらにのせてもらい、あちちといいながら口にふくませると何ともおいしかった。そして、何日か過ぎると、従兄弟が自転車で固くなりかけた板餅を届けにくるのだった。

福島県中通りにある山間の町では、端午の節句の柏餅は母方の祖父母の家に届けるものだったと、と聞いたことがある。畑に育てておく柏の木の葉っぱでくるむ小豆あんを詰めた餅はもちろん手づくりで、「母親に、ばあちゃんのとこに届けてこう(来い)といわれ重箱を渡されると、田んぼの中の道を歩いて行ったね」となつかしそうに話していたのは60代後半の男性。柏餅は、娘から実家の親への元気の便りだったのかもしれない。

分家した兄弟へ、娘の嫁ぎ先へ、餅は届けられた。餅のまわりには決まって人がいた。餅は一人で食べるものではないのだ。みんなで準備しあい、でき上がれば遠くの人にも振る舞い、シェアしていっしょに食べるもの。どこか特別な食べ物としての位置づけは、あの白い粘りに力が宿ることを教えているようだ。

三本塚では、親が亡くなって葬儀が終わると、兄弟が囲炉裏をはさんで向かいあい、搗いた餅を引っ張り合う儀式があったという。ちぎれないように兄弟仲良くという意味を込めたものだろうか。
福島では昭和の祝言の再現に立ち会った際、披露宴の席で何人かが竪杵で餅を搗き、搗き上がった餅を杵で高く掲げると、参列者が祝言袋をつぎつぎと餅に貼り付けていく儀式があって驚いた。こちらは餅の粘りがご利益を引き寄せてくれるという願いを表しているのだろうか。

いまは、もちろん仙台でも農山村でもひんぱんに餅を食べることは少なくなってきた。それは大勢で過ごす暮らし方が変わってきたからなのかもしれない。でも、何か地域で催しをやることになって地元のお母さんたちにお振る舞いの料理を、とお願いすると、彼女たちは決まってこういうのだ。「やっぱり、餅だっちゃ!」

葡萄の棚

大野晋

小さな頃、観光バスに乗って林間学校に向かうと決まって甲府盆地での休憩は高い位置に棚がつくられた葡萄園だった。大きな観光バスよりも高い位置にある葡萄をどのように取るのか不思議だったが、年中売っている葡萄やワインや甘い葡萄ジュースをみやげにするのが決まり事になっていた。

一昨年から葡萄酒に関する表示義務が変わって、より厳格にぶどうの産地を表示しなければいけなくなった。ただし、即時に対応するという話ではなく今年いっぱいはまだ移行期間となり、来年、2018年から施行となっている。なぜ準備期間が長いのかという問題については歴史を追うことでみてみたいと思う。

日本で葡萄酒が最初に作られた正確な時期は定かではない。古い時期に、山梨県などで今でも作られている甲州という品種が入ってきていることから葡萄自体の伝来は早いようだが、ふつうに水が飲める日本では低アルコールの発酵飲料が一般に飲食に用いられることはなかったようだ。というよりも、稲作文化の日本では米から作られる日本酒やどぶろくが一般的な飲み物となったのは想像に難くない。葡萄酒の製造が大きくとりあげられるようになったのは明治期で、外国人や外国船に対する販売を目的に、殖産産業として葡萄栽培と葡萄酒の製造が奨励された。このまま、順調に成長すれば、東洋唯一の生産地となり、莫大な利益が上げられたのだが、ことは順調に運ばない。世界的な葡萄の病害の蔓延で日本も例がいなく壊滅的な被害を受けた。このとき、欧州産の葡萄とは異なる品種であったために甲州種は被害を免れ、これが山梨県が今にまで至る葡萄産地となる遠因になる。

ちなみに、殖産政策で中国からも葡萄の苗木が持ち込まれており、これが長野県に残って善光寺葡萄と呼ばれて細々と栽培されていた。近年の研究では中国の竜眼という品種とDNAの同一性が指摘されており、信州の特産種として葡萄酒が作られて長野県内で売られている。

さて、一端は病害の蔓延で中断された葡萄酒の製造だったが、国産の洋酒として日本人の好みに合うように改良されて、甘味を増した酒が大阪の寿屋から発売されて大ヒットする。現在のサントリーの始まりは模倣洋酒の販売から始まった。ワインは甘いものという刷り込みもこのときから始まるのである。この甘みの強い模倣葡萄酒は爆発的に売れ、全国にこれを製造するための葡萄畑が作られた。このとき作られた葡萄畑の特徴は、病気の影響を受けない米国産の品種で、粒も房の大きさも大きいナイアガラやコンコードといった品種が多く植えられている。長野県などでこうした品種の栽培が多いのは甘味果実酒の原料として作られていた歴史的な背景がある。

この後、第二次世界大戦になると、葡萄酒の副産物が兵器製造に使われたため、全国で葡萄酒が増産されている。ところが、こうした副産物目当ての葡萄酒は味に無頓着であったことから戦後に急速に衰退する。葡萄の栽培適地である山形県で葡萄酒の製造が少なくなっていた原因はここにあると言われている。

戦後もしばらく続いた甘味果実酒であったが、東京オリンピックの頃から変化する。食生活の欧米化と海外からのワイン輸入の自由化で、甘味果実酒がワインの王座から陥落したのだ。この傾向をいち早く察知したのは、大都市から遠く、甘味果実酒向けの葡萄を多く栽培していた長野県の塩尻付近の農家で、大取引先であったメルシャン社との協議の中で、当時、地元のワイナリーが栽培に成功していたメルロー種の栽培だったと伝えられている。その後、20年ほどかかり、桔梗が原と呼ばれるこの地域のメルロー種を使用したワインが欧州のコンクールで受賞することで、一躍信州が欧州系葡萄の産地として脚光を浴びることになる。今では、メルシャンの桔梗が原メルローは1万円以上の売価で販売される高級ワインとして知られている。現在の長野県は加工用ブドウの栽培では全国二位。高級ワインの原料の供給元としてはぶっちぎりの供給量を誇るまでになっている。

さて、戦後に起きた変化として忘れられないのが、農地法である。これによって、大きな農地が分割され、法人が農地を所有できなくなったのだが、ワイナリーはこの制限によって、加工用の葡萄を農家や農協から購入しなくてはならなくなった。この栽培と醸造の分離が他の国にはない日本の事情であり、コスト高を招く原因であり、そしてもっとややこしい事態を招く原因になっている。

変更された葡萄酒=ワインの表示義務として、国産のぶどうを100%使用したワインを「日本ワイン」と呼べることになっている。これは、輸入ワインや輸入果汁を原料にして国内で製造されたワイン全てを国産ワインと呼ばれていることに対する日本農産物を使用した農産加工品の証である。また、地域名称を呼称として使用する場合には、その地域の葡萄を85%以上使うこと。複数の品種や産地の原料を使用する場合には、原料として多い順に並べるなどが求められている。

ところが、最近まで多くのワイナリーでは、自産地以外の葡萄の使用や海外ワインの混入などが多く行われてきた。これは、ワイナリーが原料の葡萄の栽培まで行わない日本ならではの傾向であるが、販売場所を栽培場所と勘違いを起こしがちな消費者からすると、産地偽装とも思える事態でもある。ただし、これが日本の普通の中小のワイナリーの実情であった。そして、葡萄は購入するものであるので、産地を気にせずに手っ取り早く入手できる品質のよい、高級品種の葡萄が製造者では問題であったのは当然で、解らないことでもない。

そこで、ぶどうの産地表示やワインの呼称に関するルールが発表されたために、時間がかかる騒動が生じたというのが現状なのだ。現在、呼称問題にかかるワイナリーでは、駆け込みで苗木を購入して葡萄の増産にかかっているという。このせいで、苗木が不足する事態になっているともいう。ただし、葡萄の木が植えてから実をきちんとつけるまでに数年。きちんと成熟したよい実を付けるのなら10年以上必要なことを考えるとあまりにも付け焼き刃な感じがしてならない。

本来、第六次産業化を目指す葡萄の加工産業に関する政策が矢継ぎ早に出された背景には、従事者の高齢化で年々荒廃していく日本の農地対策という側面があったはずで、醸造事業者の手を借りて、農地を葡萄畑に再生したいという思惑があったはずだ。なんとなく、今の騒動が的外れな印象を受けてならない。

そう言えば、小さな頃に立ち寄った葡萄屋さんは、よく考えるとあそこで生産しているわけはなかった。葡萄もワインもジュースも買い込んだものを、葡萄園よろしい店舗に呼び込んだ観光客に販売するための売店だったのだろう。そう考えると消費者とは実態を見ずにイメージだけで判断する生き物だ。葡萄畑の中で葡萄酒を売っていれば、それはそこで作った葡萄の製品なのだと思い込んでしまう。昔から行われていることとは言え、消費者の誤解を前提にした商売は今後、厳しく律せられていくのだろう。

地方の小都市の街中にメガソーラーが置かれている昨今、できれば、農地の中には光り輝くソーラーパネルよりも青々とした葡萄畑が広がっていて欲しいものだと思う。
2018年がそういう年の起点になるといいと思いながら、騒動を眺めたい。

そうそう。正月は休んでしまったので、本年初めとなります。
読まれた皆様には2017年がよい年になられますように!

しもた屋之噺(181)

杉山洋一

突然肉が食べられなくなって、10日は経っています。食べられなくはないのですが、食べても美味しくなく、食べたい欲求も生まれません。生まれて初めての体験で、不思議やら驚くやら。但し、魚はこちらでは高価なので、肉が食べられないと厄介です。

1月某日
細川さん「大鴉」譜割り。アランポーのテキストを読むとき、譜面をみながら英語のテキストを見るとよく解る不思議。無駄がなく、効果的に書かれている。フレーズの構造は微妙に不規則で、各楽器がそれぞれのフレーズ構造をもつ。

1月某日
三軒茶屋自宅にて両親と再会。すまし汁に大根のみ、大げさな程たくさん入れた、父方の田舎独特の雑煮を食べる。子供の頃はこれに湯河原の叔父さんが採ってきたハバノリを沢山ふりかけて食べた。
コーヒー豆が切れていて、渋谷のトップでブラジルとマンデリンを挽いてもらい、歩いて帰る。良く晴れた正月休みは国道を通る車もまばらで、246沿いにある池尻の稲荷神社と、中目黒の氷川神社に寄る。元旦でないので並ぶ人も少なく、巫女さんたちものんびり談笑。ふと40年ほど前、自分が子供だったころの風景を思い出す。

1月某日
朝起きてコーヒーを淹れ、卵を焼きヨーグルトをかき込み自転車で荻窪へ出かける。三善先生の仕事部屋のピアノの上には、自筆の桐朋用ピアノ初見課題が置いてある。その傍らに、ラヴェルノートの自筆原稿が重ねてあり、ベルクのピアノソナタを分析した書込みを見せていただく。ピアノの足元には、マルティーノのオーケストラ用五線紙の束。

先生の遺影の傍らには、掌にすっぽり入る可愛らしい地蔵さんが二つ並んでいて、由紀子さんが蒐集したという。先生が軽井沢で作った、小さな模型飛行機が置いてある。居間で宗左近さん作の碧い杯でお屠蘇を頂く。味醂からつくったお屠蘇は、旧めかしく不思議な香り。普段から呑みなれていないからかもしれない。塩茹での長野の海苔豆にとても合う。青梅街道も車が少なく、自転車を漕ぐには心地良い。

1月某日
セーターを買おうと渋谷のデパートへ出かけたが、値も張ればイタリアで買えそうなものばかりで早々に諦め、久しぶりに本屋に足を向ける。本屋をうろつけば、時間を忘れることすら忘れていた。中学高校の頃は、レコード屋で何時間も買えないジャケットばかり眺めて過ごした。好きな本も読まず、会いたい家族や友達に会わない生活とは、何だろう。
思い立ってデパ地下で父親が好きなショートケーキを土産に買い、町田へ出かける。丁度、母親が珍しく買ったアワビが煮付けてあって、納豆と豆腐、蜆の味噌汁を前に、この上ない倖せ。

1月某日
功子先生に久しぶりにお目にかかる。会議で「それが学生のためになるのなら」が三善先生の口癖だったという。現代音楽をやって良かったのは、自筆譜から作曲家の意図を汲み取る訓練になったこと。さまざまなアーティキュレーションの持つ意味を、作曲家とともに読み解くことが、古典における読譜の姿勢に大きく影響したという。
現代音楽をやることで、普通ヴァイオリンニストでは出会う機会のない、声明のお坊さんらと親しく交流するようになってことは、人生に大きな変化をもたらした。小学校6年生くらいの頃、功子先生と一柳慧さんが池袋のコミュ二ティカレッジで演奏して、弟子に作曲を志している男の子、と紹介して下さったそうだが、そのまま話が弾むことはなかったそうだ。

悠治さん、波多野さん、栃尾さんと味とめに集い、鰮鍋を囲みつつ初めてホッピーを嗜む。息子が「蝶々夫人」をやっている話から、悠治さんが若いころ、二期会でピアニストをやった最初の演目が「蝶々夫人」だった話し。マンボウの刺身と書いてあって、久しぶりに食べたくて注文したが、湯通しで締めてあって当然かと独りごちる。ホッピーの前は、氷を浮かべた黒糖焼酎。

1月某日
一柳慧さんがレセプションで現代性、社会性について話された。もうすぐ誕生する新しいアメリカの大統領の名前も挙がる。
一柳さんは常に時代の最先端の技術を作品に採用して来られたでしょう、と川島くんが話していて、成程と思う。一柳さんご自身がハイテクではなくローテク好きだと仰ってらした印象が強く、川島くんのように捉えたことがなかった。時代の最先端、というフレーズから、前に悠治さんから聞いた真木さんの言葉を思い出した。「前衛というバスは既に発車してしまっていて」というあの件だ。
真木さんが1936年、悠治さんは1938年生まれ。それより少し前、1929年生まれの湯浅先生、1930年生まれの武満さん、1931年生まれの松平さん、1933年生まれの一柳さんくらいまでを、真木さんは前衛バスの世代と感じていらしたのだろうか。

1月某日
家人が日本に戻っていて、息子と二人韓国料理屋へ出かける。頼むものはいつも決まって、息子の好物のチュユポックンと、豚肉のグリル。焼きニンニクやトウガラシ、キムチと一緒にレタスで巻いて食べる。ミラノに韓国料理屋は何軒かあるが、この行きつけの店だけ雰囲気が違うのは、調理する小母さんもウェイトレスの妙齢も中国の朝鮮族で、中国人が経営しているからだろう。他の韓国料理屋よりずっと気の置けない雰囲気で、常連客に中国人も多い。朝鮮族は北方だから、これは北朝鮮料理かと尋ねると、延吉料理よと笑われてしまった。

サンチュを頬張っていた息子が突然「戦時中の日本人は良かった」と言うので、思わず聞き返す。すると、「戦争中の日本人は、今より頑張っていた感じがする」、「戦争中、日本、ドイツとイタリアは仲間だったのでしょう」と当然のことのように話すので愕く。理由は「火垂るの墓を見て、戦争中の日本人は頑張っていると思った」とのこと。
韓国料理屋で、出抜けにこんな話をする息子も不思議だが、ともかくそこでは戦後日本人は前轍を踏まないよう努力してきたのだよ、と声を潜めて説明することしか出来なかった。自分も戦争を知らないが、傷痍軍人の姿は目に焼き付いていて戦争の恐怖へ繋がっている。息子に対して、何をどう伝えるのが正しいのか。

1月某日
昨日は朝学校でレッスンをしていると、隣で室内楽のレッスンをしていたマリアが真っ青な顔をして飛び込んできた。「中部で地震よ!今朝もあって、今しがたもう一つ大きな揺れが来て大変。どうしよう。わたしはローマに娘を一人で置いてきたの」。
あれからずっと、マリアは廊下の教員用コンピュータに齧りついて、細かい地震情報に見入っていた。
仕事をしながら、合衆国新大統領就任式の中継を見る。家人は「時代の変わり目だから」と階下で宿題をする息子を呼んだ。非現実的で不思議な心地だが、大統領を選んだのはアメリカ国民なのだと納得させる自分がいる。

1月某日
夕食の肉に当たったのか、酷い胸やけの後、夜半洗面所ですっかり吐く。その音に愕いた隣の犬が吠え立てるのに困ったが、あれから肉を見ると、同じ胸やけを感じるようになってしまった。人体はかくも繊細かしらと呆れつつ、毎日魚を食べる。
ニューヨークの小野さんが、「禁じられた煙」のリンクを貼って下さる。新大統領の人種差別発言と関りがあるかは知らない。この曲を書いたとき、人種差別は時代錯誤だとばかり思い込んでいたが、数年たって間違いだったことに気づいた。

1月某日
27日のホロコースト解放記念日を前にして、息子は中学校で「ライフ・イズ・ビューティフル」を見ている。今まで歴史で習ってきた様々な出来事は、彼の中でまだ順番すら整理されず混沌としていて、白紙に一つの横棒を書いて説明する。

真ん中あたりに0年と書く。キリストの生まれ年。キリスト教徒により、時間が一方方向に流れると規定された年。それまで時間は円を描く存在だったが、個人的にはこちらの方がずっと良い。0年にキリストがユダヤ人に磔刑に処されたと言うと、息子は異を唱える。「でもその後生き返るのだから、殺されたわけではない」。そうかも知れないとも思う。
「何故大戦中、ユダヤ人が沢山殺されたのか」という息子の質問に、「キリストをユダヤ人が殺したから」と応えるのは、さすがに単純化し過ぎで、我ながら情けなくなった。尤も、20年以上住んでも彼らの心の奥底は解らない。彼ら自身も理解しているとは思えない。
イタリアの高校生は、この時期しばしば学校ぐるみでアウシュビッツを訪問する。それに向けて、中学一年の頃からホロコーストについて学んでゆく。しばらく息子はアウシュビッツ収容所の写真を見ていたが、恐くなって手を止めた。日本とイタリアとドイツが同盟を組んでいたのはこの頃だと言うと、息子の顔は少しくぐもった。

1月某日
今井さんの「子供の情景」のため、どうしてもカルロ・ゼッキの校訂版を読みたくて、「音楽倉庫」にクルチ版を買いに走る。指使いやペダル、テンポ指示より寧ろ、各曲にゼッキが印象的なコメントを載せていて、それがどうしても読みたかった。
1961年にプリントされた古本。最初のページの右肩に赤ペンでサインが記されているが、崩れていて名前はわからない。Bruno Panella、のように見える。紙は大分日焼けしているけれど、手触りはとてもよい。昔らしい丁寧な造り。

「昔々、とてもどこか遠い国でのこと…。詩人は彼の幻想的な物語を語りはじめる。ほら、この言葉が幼い子供たちを幻想にいざなう。ほら、すっかりつぶらな瞳を見開いて」(知らない国々)。

「夜。すべてが口を噤んでいる。沈黙と漆黒の深みから、天上の声が立ち昇る。天使の声かしら。いや違う。それは詩人(この情景の目に見えぬ証言者)が、ほんの一時、思索と幻想と夢のまにまに佇み、思い出の、希望の、若かりし日の情熱の世界に迷い込んだのだ。
金の竪琴の上で、感動に突き動かされて、詩人は私たちにささやく。
どんな障壁や苦悩をも打ち砕きながら、私たちは高みを、天上の和音が鳴り響き、至高の精霊が君臨し、すべての懊悩が忘却の彼方へ消えゆく、高峻な絶頂を目指す歩みを、止めたことはなかったと」(トロイメライ)。

「まぶたは、疲れた瞳の上におりてくる。辺りのすべてが口を噤み、ざわめきは小さな部屋の入り口に消えてゆく。終夜灯は、青ざめた光を眠り込んだ小さな顔に投げかける。そこでは、単調な揺り籠の上げるきしみ以外、何も耳にはいらない」。(こどもは眠る)

「考え抜かれ尊い体験に満ちた言葉。
…子供たちよ、君たちの世界は全てが愛と詩だ!君たちは喜びの中にいるんだ。
君たちの年齢が与えてくれる喜びだけを、知っているのだからね…
これらの音符に、男の諦観が満ちているのを聴くようだ。レオパルディの「村の土曜日」の言葉のように。

お前は、愉しむがよかろう。
これは心地よい季節。これは甘美な時間なのだ。
他に何もいうことはない。
お前の集いが遅れたとしても、悪く思わないことだ」(詩人のお話)

誰でも知っている「村の土曜日」最後の4行だけが、とても小さく印刷されている。
土曜日は労苦から解放され、希望と喜びに満ちた最高の時間。それをお前は愉しめばよい。
待望の日曜日になれば、新しい辛苦の憂いに悩まされるのだから。レオパルディは青春を土曜日に喩えた。

インターネットでゼッキのインタビューを聴く。
「1941年の冬のことだった。アルベルト・クルチがこの部屋にやって来たんだ。
当時はエレベーターはなかったがね。それで僕にこう言った。
“失礼だがカルロ、お宅にオリーブ油は足りてるかね”。
“いいや全然だ。うちは油がなくて一週間何も料理していない”。
“そうか。じゃあ子供の情景をやってくれないか。ほら、これがオリーブ油だ”。
“そりゃ凄い!もちろん喜んで引受けるよ!”。
こうやって子供の情景が始まったんだ。

それから2週間後にアルベルトがまたやってきた。
“ああ、どんなにかクライスレリアーナについて知ることが出来たら最高なのになあ!300グラムの小麦粉でどうだい”。
“何と言ってよいか。感謝の至りだよ。僕もうちの女房も君に何とお礼を言ってよいのか解らない!”。
かくしてクライスレリアーナの仕事は無事に終わった。

それから2ヶ月経って、またアルベルトがやってきた。
“カルロ、多分お宅はハムなどなかなか手に入らないのではないかね”。
“ああそうなんだよ、大変なんだ”。僕がそう言うと、
“これはどうだ”と言って、アルベルトは持ってきたトランクを開けたんだ。そこには大きなハムが入っていて、こう言った。
“ダヴィッド同盟はどうかな?”。
“ああアルベルト、何て有難いことだ!”

そんなこんなで、ダヴィッド同盟、クライスレリアーナ、子供の情景、ソナタ、ピアノ協奏曲など、僕のシューマンの校訂版は、貧しかった戦争中の滋養の糧だったというわけさ」。

まるでレッスンのように、一つ一つフレーズごとに書き込まれたゼッキの注意書きを読みながら、「戦争中の日本人は頑張っていた」という息子の言葉を、思いかえす。

(1月30日ミラノにて)

グロッソラリー―ない ので ある―(28)

明智尚希

「1月1日:『まあ今すぐ買い変えなきゃならないってわけじゃないんだけどさ、こういうのって結構長く使うものだから、ついつい慎重になっちゃうんだよな。みんなが変えたからって俺もまねしたら、前のほうがよかったなんてことにもなりかねないしな。後悔先に立たずっていうだろ。でもまあここまで悩む必要があるのかどうかだな』」。

(´-ω-`) ナヤムナア

 天中殺で蒙を啓かれたヒゲの世の中、胡蝶の夢のごとくのごとく、創造とは逆境の中でこそ見出されるものじゃ。ドミノシステムが横行している今、友人で敵の痰と鼻汁が割を食い、運任せの暮らしを強いられている。江戸病に悩んでいる暇はない。我々はパワー指数を捨て、理論を背負ってものを見るのじゃ。世界性を獲得し、東を制服せよ。

パチッ☆-(^ー’*)bナルホド

 Xは働いていない。一日中ベッドで横になっているか、旅を繰り返しているという風の噂。だがXに働かれてしまったら、存在価値が落ちるというものだ。なぜなら、どこかで必ず生きているということが貴重なのだから。働くことなど簡単だ。そんなことより、いかにして時間から逃れられるかが、Xにとっては最重要な課題なのである。

:::( ^^)T ::: 雨だ

 協調性がないと言われ続けておる。幼い頃から今の今まで。辞書的な意味じゃなく、協調性ってなんじゃ? 他人に媚びたり、おべっかを使ったり、ずるずるべったりの付き合いをしたりすることか? 非の打ちどころのない下衆の適格者なんぞ、ご免こうむる。協調性がないならないで良いが、逐一そんなことを言いに来られるのもご免じゃ。

なかよし♪( ´ー`)⊃⊂(´ー` )こよし♪

 「1月1日:『やっぱり買い換えたほうがいいかもな。みんなが持ってるってことはそれだけいいものなんだろうし。迷ったら買うなとか言う人もいるけど、今回ばかりは反対させてもらおうかな。迷ったから買う。なんか変だな。迷っても買う。まあどんな言い方でもいいんだけど、今は買うほうが八割、買わないほうが二割ってとこだな』」。

( ̄ヘ ̄)┌ ハヤクキメナサレ

 ほどほどの発熱は、日々に丸みをもたらしてくれる。不安の元とは、そもそも全方位に伸びた先鋭にして鋭敏な神経にある。熱によって麻痺すれば、常人並みに楽に呼吸できる上、物体からの言いがかりや数字・色に度肝を抜かれることも減少する。時間も常になく時宜を得る。ご多分に漏れず、発熱もまた病気であることに変わりはないが。

( ~ д ~ )ハ・・・ハ・・ ( ~ д ~ )・・・出ネェヤ

 「動く」とは、形を持つ無機物もしくは有機物が、現在接している地面からずれること、ないしは現在の底部が接している地面との角度がずれることである。また、特に二足歩行をする有機物に関する外的な状況が、継続してきたものと異なってくることや、最上部にある器官が司っているものが、継続してきたものと異なってくることでもある。

ε=ε=ε=(ノ^∇^)ノスタコラ

 「お前が先に言ってきたんだろう!」「言ってねえよ!」「言ったね」「言ってねえって」「言った言った」「だから言ってねえって言ってんだろ」「言っただろうが」「言ってねえよ」「言ったくせに何言ってんだよ」「だからおまえが言いだしたんだろうが」「俺じゃねえよ」「お前だよ」「言ってねえって」「言ったね言った」「だから言ってねえって」。

_(*_ _)ノ彡☆ギャハハハ!!バンバン!!

 悪夢の登場人物とは、実は我々のほうである。脳幹出血で亡くなった知人。永遠に目を開けることのない清澄な尊顔を前にして、そう思った。彼女はようやく悪夢から目覚めたのだ。彼女を失望させたものや幻滅させたものが、決して出入りの許されない扉の中へ入っていった。誰でもいい何でもいい、早くこの悪夢から目覚めさせてくれ。

(^オ^)(^ハ^)(^ヨ^)(^ウ^)(^ー^)

 「最後に校長先生から一言。神、そして人生の目的、これらについて私は何を知ろう。私の知るのは、世界があること。眼が視野の中にあるごとく、私は世界の中にある。世界の意味は世界の中にはない。生とは世界である。生の問題の解決は、その問題の解消にある。しかし生が問題をはらまなくなっても、なお生き続けることは可能だろうか」。

( ̄ー ̄?)…..??ありゃ??

 ギッフェン財を本懐成就のあてがい扶持として、計上の及ばないきぬぎぬの囲われ者に六月無礼をするんじゃ。雁行するTFTとシュレーディンガーの猫、それからボードレールの黒猫をゆめゆめうそぶくべからず。物見高いもろみの泡ではあるが、あやかしの首実検を太平楽にしゃれこんだら、今昔の感に堪えず、光の裏には影があったのじゃ。

\(^_^)/ばんざーい..(/_^)/なしよっ

 「1月1日:『そうだ。松子に聞いてみればいいんだ。なんで気づかなかったんだろう。なんか抜けてるんだよなあ俺は。こうやってずっと一人で考えても埒が明かないし、確かあいつはスマホを持っているはず。松子おばさん、知ってるだろ? 俺の妹だよ。会ったことあったっけ。ない。あそう。え。忘れた? まあそのうち会うだろう』」。

モイチド (0’∀^0) マツコデス

 まああれじゃな。なんちゅうか、人間は小さい。小さいから壮大なものを前にすると、自分でも仰天するような宗教感がじわじわ湧いてくる。歴史ある宗教の原始の信者たちは、何か壮大なものと近しくしていたのじゃろう。物体であったり考え方であったり、その辺はわからんが、当時にしては革命的な一件と生活が結びついていたんじゃろうな。

アーメン( -ω-)m †

 同じ案件にもかかわらず、一日のうちで刻々と考えが変わるのは自然なことである。ただし一過性であれ思考の結論として、絶対や真実などという突拍子もない表現は避けなければならない。どれだけ結論が最上のものと確信したとしても。絶対や真実は裏街道に隠れつつも安請け合いはしない。したがって大抵の結論は思い込みということなる。

(・ ・ * )。。oO(想像中)

 某国に対する意識調査。有効回答数八十余名(某全国紙夕刊)。

ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

 表現者たるもの、自らの弱点を吐露しなければならない。駄目と弱点は異なる。前者は共感を呼ぼうとする下心のある喧伝にとどまるのに対し、後者は枝葉状に広がる思考回路を培養する内的な呟きである。良い目と耳は、そこかしこに点在する、自信という裏書きのない小声の表現を逃さない。この際どさ峻別できる人は本当にいるのだろうか。

m9っ( ̄ー ̄) ニヤリッ

 そうじゃなあ。わしは一人しかおらんが、いろんなわしがおる。今現在のわし、畏まったわし、脳髄が千々に乱れたわし、エッチなわし、これ大好き。もうお祭り状態。カーニバル&フェスティバル。万歳六唱。三日三晩徹夜。まさに天国。いやそうではなくてじゃな、わしがここで強調しておきたいのは、ここには書けないということじゃ。

イクー(;´Д`)♂

 「1月1日:『じゃあ、ちょっと電話するわ。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい』」。

… (((-‘д-)y-~ イライラ

 芸術家は、忘れ去られた不具者と同様に、社会において役割を持っていない。社会の規則や凡俗の慣習によって判断されることは不可能である上に、それらを受け入れたり拒絶したりすることで、褒めることもけなされることもない。芸術家は人生の幸運児ではない。しばしば命取りとなるような苦しい仕事を完遂しなければならないのである。

(w_-; ウゥ・・

製本かい摘みましては(126)

四釜裕子

「ハラペコ カーニバル!!」を合い言葉に幕が開く「せいほんげきじょう」という話をまとめた小さな冊子があります。葉書サイズで、柄入りでろう引きしたようなオレンジ色の紙がカバーです。観音に開くようになっていて、さしずめこれが最初の幕でしょう。開くと、ワニ君とニンジン君とカブ君が白い緞帳の前でお出迎えです。幕の下部はエプロンのフリル、あるいは菓子の下にひくレース模様の白い紙のよう。よく見ると、本という字や本を開いたシルエットが切り抜かれています。

ハラペコ カーニバル!! 掛け声とともに緞帳があがります(白い紙を上にめくる)。すると中綴じ冊子の真ん中のページがあらわれて、ワニ君は左側のページに立ち、左に向かって闊歩し始めます。追いかけていくと……、本の神様のもとに生まれた本の妖精が、製本職人のところへ魂を背負って旅立つというお話のはじまりです。

製本ワークショップの始まりにおこなう、「製本とは?」というような簡単な質問に答えながら、それを本文として、小さな冊子に仕上げるという課題に対する作品のひとつです。職人が、長い旅をしてきた妖精のつかれをいやすために「おやつもわすれません」というセリフも良かった。自分の中にあるものが、手の中からこんなふうに本のかたちとなって現われてくる経験は、きっと楽しいものだと思っています。

シンジャールを忘れない

さとうまき

1月13日、ナブラスの家族を訪ねた。ちょっと寄り道をしていて、ナブラスの家についたときは、日が暮れていた。
「昨年、同じ日にナブラスは亡くなったんですよ」母親が出迎えてくれた。
一年前、父親が電話をくれたのを覚えている。なくなる数日前に訪れたナブルスは、薄暗いコンクリートブロックを積んだ建てかけの家で、痛みに悶えていた。

シンジャールの村を追われたのは2014年の8月3日だ。突然、治安を担当していたペシュメルガといわれるクルド政府軍が撤退してしまった。ナブラスの家族たちはドホークにのがれ、建設途中の建物にとりあえず落ち着いたが、キャンプもまだなく、逃げてきた人たちは、ドホーク市内の学校や、同じように建てかけのビルなど、住めそうなところに寝泊まりしていた。逃げ遅れた人たちは連れ去られ、殺され、レイプされたという。

亡くなる前、ナブラスは、「シンジャールにもどって学校に行きたい」といっていたのを思い出す。
「ナブラスは、その日、割と調子よさそうでしたが、急に容態が悪化しました。とても冷静で、モニターを見ながら、『私は死んでいくのね』といっていました。」

お母さんは、ナブラスが元気だったころの写真をたくさん見せてくれた。ほとんどの写真は、逃げてきてから写したものだ。ともかく、逃げることを考えていたから、写真などもほとんど持ち出せなかったのだろう。

モスル解放作戦が進み、「イスラム国」の支配地域は、狭まっている。
「シンジャールにそろそろ戻るつもりなのですか」と聞くと、「シンジャールに戻る気はありません。私たちはここで暮らしていきます」という。

翌朝、クルド政府の職員らとシンジャールに行くことになった。夜明け前にホテルで待ち合わせる。検問所からは、ペシュメルガの兵士がエスコートしてくれるという。なんと兵士は2人とも女性であった。

まず、最初に我々が向かったのは、シャファディーンというシンジャール山のふもとの村だった。カースミシャーシというヤジディ教徒のリーダーに挨拶しに行くという。「イスラム国」が襲ってきた時、彼の部隊は、ひるむことなく、村を守った。ヤジディ教徒の中では伝説ヒーローである。

いかにも、親分といういでたちで、兵士たちは、敵が攻めて来たらいつでも応戦できる体制で配備されていた。検問で働くイラク警察官が3人ほど呼ばれ、何か口論していた。カースミシャーシの部隊は、ペシュメルガに参加している。クルドとアラブで内戦が始めってもおかしくないような緊張した雰囲気だった。なんでも、イラク警察に失礼な態度があったとのことで、叱られていたそうだ。今、シンジャールは、「イスラム国」はいなくなったものの、クルドのKDP、PUK、シリア系のYPG、トルコからPKKなどが入り、勢力争いの渦中にある。イラク中央政府は今一つプレゼンスを示せていないようだ。

その日は、カースミ・シャーシュの息のかかった地域を案内してもらうことになった。
検問を超えてシンジャールに入る。村の入り口のあたりには、人が戻り始めている。サッカー場もあり、そこは激しく壊されていた。町中の治安部隊本部の周辺にはちょっとした雑貨屋さんが開いていたが、町中を回ると、激しく破壊され、がれきだらけだった。シンジャールは、モスルやファルージャと違う。もっと小さな町。歴史の名から完全に忘れ去られるのだろうか。と思わせるくらいの破壊のされかたである。

2014年8月から、シンジャールから避難してきたヤジッド教徒の人たちと出会い、時にはレイプされた女の人の話を聞いた。時には、ナブラスのようにがんの子どもたちに寄り添った。シンジャールが忘れ去られないように、子ども達が描いてくれた絵を展示する。

2月10日―15日 ギャラリー日比谷にて 「イラク、シリアの子ども達へ、バレンタイン展」を開催します。
詳しくはhttp://jim-net.org/blog/event/2017/01/210215.php