ゆうべ見た夢

浅生ハルミン

 昼間でも夜ベッドに入った時でも、目をつむると暗黒の空間があらわれますが、それはどのくらいの面積や高さや奥行きがありますか。私の場合、両目を起点にして顔の周りに、西瓜を切り分けたような、櫛形のステージが見えます。今ちょっとやってみたら、扇型であるような気もしてきました。天井は行き止まりではなさそうな、逆・底なしの井戸という感じもするし、意外と浅いような気もします。意識が眠りにほうに傾いていくと、櫛形のステージの輪郭も曖昧にぼやけて、次に気がつくのは目が覚めたときです。
 その目覚めの直前に、私は夢を見ています。夢の中ではJR山手線の日暮里駅と上野駅の間に岩井駅という駅が増えていたり、会ったことのない有名人が私に欲しいものを授けてくれたり、そうしたあり得ない出来事が何食わぬ感じで連鎖しています。自分では考えつかないようなストーリーの夢を見ることもあります。夢から覚めた時の気持ちは「なんだったんだ、ああ面白かった」。掛け布団を払い除けて、歯を磨くと水に流されてしまう気がするので磨かず、忘れないうちにメモをしたり、Twitterに書き込みます。指先からつるつると、チューブの絵の具のように押し出されてくる言葉や場面の連なりは、本当に私が考えたことなんだろうか。もし私が考えていないとしたら誰が考えているんだろうか。

   ✳︎

 長い夢を見た。出来事が鮮明ですごかった。――春、夢の中で私は山手通りを歩いているようだった。その辺りは道路拡張のせいで、長いあいだ工事をしていた。蕎麦屋、焼き鳥屋、ピッツェリア、自転車屋、生花店、中華飯店が並んでいた。そこに放置自転車やバイクや工事用ガードフェンスが混じり込んだ、落ち着かない景色だった。それを私は見慣れた景色のように感じているようだった。川沿いの桜並木に提灯が下げられて、遠い町からも花見客がやってきて観光地のように混雑していた。
 その古い一軒家のお店。いつもシャッターが降りているのに、珍しく途中まで上がっている。シャッターは一枚ものではなく、右半分と左半分に分かれ、独立して上げ下げが可能なタイプで、今は左半分が上がっているので白いスプレーペンキで落書きされた「silence」という文字が「nce」とだけ見えている。確かこの店は、元気な時は印鑑屋さんだったような気がした。店内は商品も什器もなんにもない、すべて取り払われて、ざらざらとした土埃が入り込んでいた。おじいさんが折りたたみ椅子に腰掛けて、お店を営業していた時分もそのように腰掛けていたんだろう、という様子で店番をしていた。売り場の奥には六畳間があって、そのまた奥には縁側もあるようだった。ガラス戸は開け放たれて、おんぼろなのに気持ちが良く、木っ端と土埃の積もった六畳間にはよく陽が当っていた。
 おじいさんは阪神タイガースのユニフォームを着て、黄色いメガホンを首から下げていた。印鑑屋さんは阪神ファンだったのか。こんな格好で店番だなんて、この界隈の名物おじいさんかなにか? まあそのお歳までお店を続けてこられたとなれば、好きな服を着たっていいよね、と私は納得していた。
 おじいさんは立ち上がった。背が高くてひょろりとしていた。足元に灰色の猫が二匹、まとわりついて遊んでいる。
 はんこ屋さん、猫飼ってたんですね。
私はしゃがんで猫を撫でようとした。
「猫とね、いつも一緒にいてね。猫がいないなんて考えらんないよ」
 ですよねえ、はんこ屋さんは猫好きだったんですね。
「好きなんてもんじゃないよ。ずっと一緒だよ」
 私も猫すきです。ちょっと触っていいですか。
おじいさんは、「どうぞどうぞ」と言って、パイプ椅子を店の外に持ち出して自分はそこに座った。私は思う存分猫を触ったり、床で猫と同じ低い目線になることを楽しんだ。おじいさんは自分の猫歴を語り、世田谷区の奥地にある川辺でこの猫たちを拾ったと言った。
 
 私は、その世田谷の奥地をくねくね蛇行して流れる川辺まで歩いていった。カラスノエンドウやオオイヌノフグリがはびこって、晴れた空をさえぎるもののない土の道を気持ちよく歩いた。ハナニラや野生のチューリップの匂いがして、もう何十年も前の春、小学校に入学した四月、自分の家から初めてひとりきりで遠くにある学校まで歩いた時、自分の家の庭の松やさつきといった、その時は老人趣味と思えて無視していた庭木ではない可憐な花が、通学路の途中の野原に勝手気ままに生えているの目の当たりにして、まるで外国に来たみたいな夢うつつな気持ちになったことが思い出された。夢うつつ、というのは、欧米の少女が野の花を摘んで髪の毛に編み込む「ティモテ」のような感じを思っていただけたら幸いです。話がずれてしまいましたが、夢の中で夢うつつになったり、思い出が蘇るなんておかしいかもしれないけれど、春の野草のはびこった景色と、そのむうんとした匂いは私の脳内でセットになっている。夢の中でも。匂いの記憶は、脳味噌のどのあたりに格納されているのか私は知るに至っておりませんが、春の植物の匂いを感じると、身体の奥底に何かが湧き出たり、もよおしたりしませんか。

 おじいさんの言ったとおり、私は世田谷の奥地の川を歩いたのちに、荻窪であるらしき見知らぬ住宅地をさまよった。そこは、実際には荻窪とは何十キロも離れている、我が家の近所のお地蔵さんのあるY字路の、いつも行かない方の道の先にある町として夢にあらわれた。穏やかな町を歩きながら、おじいさんの猫歴と縁のある場所をたどり、おじいさんが猫と過ごした時間を想像して、私は夢の中でひと仕事終えた満足な気持ちになっていた。
 川に行ったことをおじいさんに報告しようと思った。店の前まで行ってみるとシャッターが降りていた。当分は開きそうにない雰囲気だった。そうだよねえ、そんなにちょうどよく開いているわけがないよねえと肩を落とした。生花店のご主人がじょうろを持って店から出てきた。店先の売り物の鉢植えに水分補給をしているようだった。
 はんこ屋さん、今度はいつ開きそうですか?
「はんこ屋さんはおじいさんがずいぶん前に亡くなって、息子さんが今度ビルに建て替えるって言ってたよ。もう商売やめちゃうんじゃないかなあ。だってこの通りははんこ屋さんが他に2軒もあるからねえ」
 確かに同じ通りに成美堂、善文堂というお店が並んでいた。おじいさんの印鑑屋さんの閉まったままのシャッターには、「silence」というスプレーの落書きがあいかわらず、消されずにあった。よく見るとその下から「宮尾印店」という太字の屋号が浮かび上がってきた。えっ?ミャオですか?

話の話 第1話:寝返りはうたない

戸田昌子

私の母方の祖母は、名前はコンさんと言って、大正時代の生まれ、福島の出身である。曽祖母は早いうちに亡くなってしまい、その後妻さんのもとに次々生まれた子どもたちの家には居づらかったようで、18歳で東京に出た。手に職もないので、まず准看護婦になり、順天堂病院で働いていたが、その後、試験を受けて看護婦になった。学校を出ていないので、注射を練習する機会がない。そのため病院の中で一番上手だと言われる先生の横に張り付いて、その指先を睨みつけながら自己研究を重ねた。ある日、「お前、注射が打てるか」と医師に尋ねられる。なぜか「打てます」と即答した祖母は、迷いのない手つきで支度をして患者さんの腕にブスリ。その注射針が見事に血管をとらえ、それ以来、「注射の得意な看護婦さん」として信頼されるようになったそうである。

わりあいに大胆な性格の人だったらしい、というのはこのエピソードからも知れるが、人にへこへこするようなタイプではもちろんなく、遠慮がなくて口さがないところもあったらしい。ある日のこと。とある医師、もうそろそろ頭頂部のヘアが後退してきていて、それをどうにかうまく見せようと、耳の脇側に僅かに残ったヘアを、櫛とポマードで撫ぜあげてご出勤。それを見た祖母が一言、

「あーら綺麗に並んだ夜店のステッキ」

「おまえは全くもう!」

となったらしいが、これにはきっと解説が必要でしょう。ここで言われている「夜店のステッキ」というのは、木村伊兵衛の写真などにもしばしば写りこんだりしているもので、むかし、縁日の夜店などで売られていたステッキのことをさす。見栄え良くきちんと並べられた夜店のステッキのように、束状の髪の毛が均等にぴしりと整列したさまを述べた表現で、電飾のキラキラした夜店の風情をたたえた、なかなか風雅な表現であると言える。朝っぱらから開口一番、言われた方はたまったものではないが。今で言うなら「バーコードヘア」となるところ。

しかし私の記憶のなかにある祖母は、そういう口さがないおしゃべりをするような人ではなく、ただひたすらに、ニコニコした人。しばしば、実家の印刷屋の土間に置いてある、背丈ほどもあるペーパーカッターにぶら下がって紙を切っている祖母であった。祖母の足が宙に浮くと、ざり、という音を立てて紙が切れる。面白いものだとよく見惚れていた。今、あらためて写真を見てみると、小柄で綺麗な足をしていて、ハイヒールがよく似合っている。祖母は従軍看護婦として大陸へ渡っており、当地で紹介する人があって写真師の祖父と結婚した。北京に住んでいたころは、ダンスホールが好きでよく踊りに行っていたとか。物おじしないので軍人さんに好かれて可愛がられた、という話が伝えられている。

ある日、母方の叔母さんがうちに来て、お布団を洗ったのだ、という話をひとしきりしていった。お布団を丸洗いをしてくれるサービスがあるのだけど知っている?という話題で、その営業マンが家にやってきたのだと言う。「でも、何パーセントかは縮みますよ」と営業マン。「あら、お座布団みたいになるのかしら?」と叔母。「いや、そんなことはないですけど、ちょっと固くなります」「あら、おせんべみたいにパリパリになっちゃう?」「いや、そんなことはありません」「それなら問題ないわ、よろしくお願いします」とお願いしたのだそうである。叔母の話のなかでは、ふかふかのお布団は小さなお座布団やおせんべのように伸び縮みしてしまう。叔母のこういった調子の良さは、どうやら祖母ゆずりのようである。

お布団といえば、むかし、「せんべい布団」という言葉があった。いまや布団はどれも化繊で、潰れればぺちゃんこと言うよりただのヒラヒラ、せんべいにすらならないのだが、昔のお布団は真綿が入っていたので、潰れれば濡れせんべいのごとく芯のあるぺちゃんこになり、わりあい寝やすい布団であったという記憶がある。我が家は六人きょうだいなので、もちろんベッドを置くスペースなどはなく、毎朝毎晩、布団の上げ下げをしていた。シングル布団に子どもが二人ずつ寝るのである。私はすぐ下の妹と、このせんべい布団を半分ずつ分け合って寝ていたのだが、寝相の悪い子どもたちのこと、すぐに領域侵犯をしあってしまう。そのため足が少しでも中心線を飛び出してくると、相手の足を蹴りかえして押し戻す。しかし寝ぼけているので、ある朝、目覚めたら、妹を完全に布団から蹴り出していたことがあった。幸いなことに妹は眠りが深いので、足で転がしてそのまま布団に押し戻し、私の過失はなかったことになった。こうしたさまざまな経験を経て、私は直立不動で眠る癖がついた。いまだに寝返りはうたない。妹の寝起きは後々になるまで非常に悪かった。

寝起きエピソードと言えば、ピアニストの姉。私のきょうだいは全員、母の希望で、それぞれにピアノを習わされたのだが、一人最後までピアノを続けて音大へ行き、結局、ピアニストになってしまったのが一番上の姉である。ある日、妹が姉を起こしに行く。姉がなにかもごもご言っている。妹が「だめよ!ようこちゃん!小指動かしたってダメ!起きて!」叫んでいる。なんのことかと思ったら、(起きてるよ……もう大丈夫だよ……ゆうちゃん……)と声に出して言いたいのに、眠たくてなかなか声が出ないので、仕方なく指を動かして合図しようとしたらしい。しかしその前夜、寝る直前まで左手小指のトレーニングを続けていたので、なぜか一番最初に左手の小指が動いてしまったのだという話だった。姉は朝ごはんをもりもり食べながら「さすがのピアニスト根性」と自画自賛している。妹はそういった他人の過失を、目覚めている限りは、決して見逃さない。

そういえば、私は布団を燃やしたことがある。私が大学生になったころ、姉がフランスに留学するというので家を出、そのあと二番目の姉が自活のため家を出て、兄と弟は別々の部屋をもらったので、私は子ども部屋で一人寝起きするようになっていた。ある時、思いついて、友達を呼んで部屋で鍋パーティーをした。しかし部屋に換気扇がないので、部屋中に食べ物の匂いが充満してしまい、どうにもこうにも気持ちが悪い。仕方ないので、真冬の夜ではあるものの、窓を全開にして寝ていたが、さすがに寒いので、電気ストーブを布団の脇に置いていた。それが間違いのもとであった。この電気ストーブは、アルミホイルを乗せて卵を割れば目玉焼きができるほど加熱してしまうような電気ストーブである(実験済み)。これを布団の脇に置いていたために、次第に掛け布団が加熱され、真綿に火がついて、こもったような状態でジリジリと焦げ始めた。夜中、なぜかふと目覚めた私は、布団が妙に熱いことに気づき、ほかほかと熱を発しているその状況を見て、(困ったな)と寝ぼけた頭で考えた。布団が何かの拍子に一気に燃え上がることは知識として知っていたので、事は一刻を争うのはわかっている。ゆっくりと起き上がり、スタスタと廊下に出てコップに水を汲んできて、ジャッと布団にかけてみた。消えない。もう1杯。消えない。3杯目。消えてきた。4杯目。だいたい消えた。

問題はそこからである。親を起こして怒られるのは、大学生にもなった身としては、さすがに面倒くさい。そしてとても眠い。考えるのは後回しにして、とりあえず寝よう。と、そう思い、そのまま布団をかぶって寝た。そして朝。忙しいので、そのまま布団をたたみ、押し入れに入れて、出かける。それを毎日続ける。そのうち、布団は乾いてくる。そうだ、カバーを縫い直そう、と思いつく。端切れを探し出し、パッチワークふうのカバーを作って、ふわっと包んで完成。これで無事に何もなかったことになった。その後も、親に燃した布団のことについて指摘されたことはないが、彼らは全く気づかなかったのだろうか。いつのまにかその布団も処分されていた。私はいまだに直立不動で寝ている。

ベルヴィル日記(17・最終回)

福島亮

 帰国して、約2週間経った。

 フランスでは、退職年齢の引き上げ——62歳から64歳(!)への引き上げ——に対する反対デモが巻き起こっており、鉄道の本数が減らされているから、空港まで無事に行くことができるか不安だった。荷造りはすっかり済ませてある。だからあとは11時25分発の飛行機に間に合うように家を出れば良い。鉄道を使う場合、家からシャルル・ド・ゴール国際空港まで通常ならば1時間くらいかかるから、7時に家を出れば十分間に合う。だが、デモで電車が止まってしまう危険がある。そこで、タクシーを呼ぶことにした。タクシーといっても、Uberのような配車アプリを使用するもので、目的地を設定し、登録したカードで料金を支払うと、近くを走っている登録車両が来てくれるらしい。普段は23kg以内におさめている手荷物も、今回ばかりは30kgほどありそうだ。なによりも鉄道が機能しないという状況だけはどうしても避けたい。というわけで、初めてのことなのだが、Free nowというアプリで車両を呼ぶことにした。

 タクシーには苦い思い出がある。留学する前、初めてカリブ海に行った帰りのことだ。どうしても電車では空港まで間に合いそうになく、タクシーを利用したところ、通常価格の4倍近い値段をぼったくられた。だから、アプリを通して先払いできるシステムは魅力的だと思った。配車を依頼し、支払いを済ませてから、私は30kgの荷物をエレベーター無しの7階(フランスでは1階を地上階と呼ぶので、日本でいう8階に相当する)からどうにか引き摺り下ろす。玄関を出る時、ポストに鍵を入れ、歴代の住人の名前が刻まれたその箱に別れの言葉をかけた。

 その日は火曜日だったので、ベルヴィル通りには市場が開かれていた。威勢の良い売り声や、風に乗って漂ってくる野菜や魚のにおいを嗅ぎながら、通りの隅で自動車がやってくるのを待つことにした。よく行く青菜の店に行くことももうないだろう。ここ最近、天井知らずに値上がりしている卵を不平を言いつつ買うことももうないだろう。そんなことを思いながら、5分、10分とタクシーの到来を待った。売り声が高く響いている。手元のスマートフォンには、配車依頼を受け取ったドライバーの位置が表示されている。だが、彼がやってくる気配はない。威勢の良い声が、まだ少し寒い春先の空気を震わせている。まだ車はやってこない。市場の客が次第に増え、いつもの賑やかさが漂い始めた。通りで待ち始めてから15分経った頃、ドライバーの表示が突如消えた。キャンセルされてしまったのである。またしても、私はタクシーで苦い経験をしたわけだ。

 メトロの入り口までできるだけ早く歩く。本当は走りたかったのだが、私の脚では走ったところでそこまで時間は変わらないし、右手に30kgのキャリーバッグ、左手に電子機器の入ったトートバッグ、背中には書物でパンパンに膨れ上がったリュックサック、といういでたちで走るのは危険である。転んで骨折でもしたらおおごとだ。キャリーバッグの車輪が軋んでいる。この小さいが有能な部品が、重さと道路の凸凹で壊れてしまうのではないかと不安だった。最寄りのメニルモンタン駅からメトロ2番線に乗り、まずラ・シャペル駅で降りる。ここから連絡通路を通って北駅まで行くのだが、そのためには比較的長い階段を降りる必要がある。30kgの荷物を憎みながら、意を決して階段を降りようとすると、スッと手が伸び、私の荷物を誰かが掴んだ。見るとそこには、背の高い、アフリカ系の青年が立っていて、「手伝うよ」と言う。カバンの取っ手を二人で持つと、先ほどまで憎らしく思っていたカバンが嘘のように軽い。私が持つべき重さを、彼が肩代わりしてくれたのだ。下まで二人で荷物を下ろし、礼を言う。彼は微笑み、立ち去った。

 連絡通路を通り抜けると、そこは北駅だ。空港へと通じる郊外線が走っている。Bと書かれた電車に乗る。中には私と同じよう格好の人々が乗っていた。やがて扉が閉まり、車両が揺れ、窓の外にはパリ郊外の住宅街が広がり始める。汗まみれになりながらどうにか鉄道に乗ったわけだが、心は穏やかだった。朝の柔らかい光の中に広がる集合住宅の群れを見ながら、私は、いましがた荷物を下ろすのを手伝ってくれた青年の微笑みを反芻していた。あの青年に会わせるために、タクシーはやってこなかったのではないか。ふとそんな考えが頭をよぎった。

「図書館詩集」6(暗闇が暗闇に見えないくらい)

管啓次郎

暗闇が暗闇に見えないくらい
視神経が昂っている
夜の火山に炎を見たせいか
こうして目が灼かれることがあるんだ
赤いマグマの光が空に映り
噴煙の中を稲妻が飛ぶんだ
子供たちは海釣りの堤防に並び
一斉に観測用の凧を上げている
いや、科学だけでなく
風神にも雷神にも奉仕するつもりか
それもまた夢の惑い
犬たちが鳴くような声がした気がして
だんだん目が覚めてきた
アイラ、アイラ
と海を渡ってゆく声がする
アイラ、カルデラ
と良く知らない言葉ばかりが聞こえる
Aira? Irie!
Mandala, gondola,
午後の内海を行くこの船の航跡も
空から見れば鳥たちがこの世を渡るための
曼陀羅に見えたりして
「桜の女王」という渡し船に乗って
しずかにこの火の島から離れてゆく
Sombra, penumbra,
しずかに予想を裏切ってゆく
運命の漂流だ
溶岩の海は潮の壺
精霊の学校のようにお行儀よく
魚たちが憩っているのは
ただ見えないだけかな
三つか四つの知らない言語が
ガヤガヤと響いている
海で鳴く小鳥の声は
彗星の沈黙
海で談話する人間たちの声は
過去にしか聞こえない
(過去のことばかり考えるのを
止めなくてはいけないな……)
だが水面をわたる風と
船のエンジン音が執拗に回帰するのだ
三十九年前にわたった国境地帯の湖では
かもめたちが遊ぶように飛んでついてきた
パン屑を求めていたのかもしれないが
人間は星屑のように話し声をばらまいて
山間の湖ではその標高のせいで
時間はそれだけゆっくり経過した
それを思うと海はほぼ絶対的に平等だ
月の引力や地形により上下することがあっても
海が海だというだけで「海抜」を語れる程度には
地球のどこでもおなじ高さにある
アルテミスとアマテラスの区別もつけないし
ましてや肌の色には無頓著に生きている
揺動の見破れないゆらぎにまぎれて
クラゲやウミウシがおとなしくしている
すばらしく落ち着いた存在たちだ
ああ、また思い出した、昔あの湖をわたるとき
ブラジル人の巨漢がいてイタリア人の真似をして
みんなを笑わせていたっけ
Mira, mira, mira!
Qué rico, qué maravilloso, qué divino!
正確にはイタリア人の真似ではなく
イタリア風の抑揚を保持する
ポルテーニョ(ブエノスアイレス)訛りの老女の演技
絵葉書むけの完全に美しい風景を見わたして
大袈裟な身振りで
胸のまえで祈るように両手を組んでそういうので
みんな笑った
イギリス人らしい幼い兄妹がその台詞を覚えてしまい
何度もくりかえすので
みんなまた笑った
初老の大男は一人旅だといった
なんでも手でふれてみたいんだと彼はいった
話に聞いたり写真で見たりするだけではなくてね
水があれば跳びこんでみせるよ
砂でもいいし火でもいい
生き延びることを保証してくれるなら
あの火口のようにエグゾティックな場所にでも
ためらうことなく入っていくさ
それは非常にむずかしいよ、とぼくは意見を述べた
きみときみの命が別離を決意したとき
そのとき初めてその行為を実現してよ
物にふれる(tocar)ことより
今は世界風景という幻の映画を一緒に楽しもうよ
なるほど楽しむのはいいが愉快だが
あのときたぶん六十歳を超えていたきみは
今では九十九歳にはなっているだろうし
きみの真似をしていたあの幼い兄妹も
立派な中年か死者になっていることだろう
そのさびしさ
火山の一呼吸のあいだに
人は何十世代を魚のように生きるのか
安永の大噴火では井戸が沸騰し
海水は紫色に染まったそうです
山頂の黒煙の中に雷光が見えて
シラス大地の元となる火山灰が降った
そういえば大正三年の大噴火となると
それに遭遇した黒田清輝先生がみごとに描いていたっけ
ほら、さっき電車道の歩道に立っていた
あの小柄な銀色の男だよ
実際、噴火くらいすばらしいものは地上に他にない
ブルカノ式噴火も
プリニー式噴火も
ストロンボリ式噴火も
プレー式噴火も
そのつど人間の居住を再定義する
火山の魅力には抗しがたいものがある
カリブ海の島グアドループで
噴火が間近だといわれ地元住民が避難したあとの火山
ラ・スフリエールに登ってゆき
ドキュメンタリーを撮影したのは
ヴェルナー・ヘルツォーク
狂っている
どれだけ危ないかわからないのか
ヴェスヴィオ山といえばナポリ近郊
壊滅後のポンペイの調査におもむいたのが
偉大な学究、『博物誌』の大プリニウス(プリニー)
噴煙を吸い込んでそこで倒れて死んだ
この山に呼びかける美しい歌を書いたのは
スフィヤン・スティーヴンス
「ヴェスヴィアス、火の火
さあ、ぼくを追ってくれ
ぼくは幽霊の味方」
桜島の火口に次々に人々が跳びこむとしたら
それは陰惨な想像だな
跳びこむのが巨大な桜島だいこんなら
それは楽しい想像になる
ザビエルさまは十六世紀に鹿児島に上陸したとき
桜島をどうごらんになっていたことか
彼はナポリを見たことはあったのかしら
彼の時代ほとんどの陸路の旅は
みずから徒歩で行くしかなかっただろうから
(海岸をゆく船を利用したとしても)
気楽に行ける旅などまったくなかった
それが十六世紀の人だ
芭蕉さまだって十七世紀後半なのだ
いま気軽に旅をして
飛行機やバスが混んでいるといって文句をいう
われわれはバカだ
気を取り直して、いながらにして
詩の旅を試みるか
あらゆる詩は「書き直し」re-writingともいえるよ
あらゆる旅が「なぞり」であるのとおなじく
あらゆる顔が模倣であるように
すべて本歌あり、本歌取り
なるほど、だったら

黒森をなにといふともけさの雪(芭蕉)
シュヴァルツヴァルト言語喪失けさの雪(犬)
海くれて鴨のこゑほのかに白し(芭蕉)
海くれて鴨とかもめの暗黒誦(犬)
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き(芭蕉)
視野すべて水のうすぎぬ富士不可視(犬)

などと遊んでみるのもいいかもしれない
せっかく日本語を覚えたんだから
読み書きを覚えたんだから
それくらいの遊びがあってもいい
ところでザビエルが日本語を
どれだけ知っていたのかは知らない
彼にはお付きの日本人がいただろう
ヤジローはおそらく元海賊、人を殺して鹿児島を逃れ
ポルトガル船に乗り込んでマラッカに来た
改心して洗礼を受け
やがてザビエルを薩摩の坊津へと案内した
ヤジローはどんなポルトガル語を話したことか
ザビエルが日本で知り合った少年はベルナルド
日本名を残さなかったベルナルド
やがて初めてローマを見た日本人
「薩摩のベルナルド」*
ザビエルは二人の従者(フェルナンデスと
ベルナルド)とともに
堺で船を降りて陸路みやこをめざしたという
京までは二日の道のり
護衛付きの貴族の一隊に加わるかたちで
この旅をした
道中にはよく盗賊が出て危険なのだ
貴族を乗せた車か駕篭を追って
みんな小走りでついてゆく
ここでぼくが想像を好むのは
そのときのザビエルの姿だ
(これは後にベルナルドがローマで語った挿話)
貴族の馬車の後をザビエルは
上機嫌で柿を空中に投げ上げたり受け止めたりしながら
走ってついていったのだ
ザビエルはじつは遊び好きで快活な人だったのだろうか
別の時代に生まれたなら
バスクの競技ハイアライの選手にでもなっていたかも
このときのザビエルの姿を後にローマで語るベルナルドは
イエズス会の先輩たちに対して
いくらか得意に思っていたかもしれない
ジャグラーのように
少し息を切らせながらも
京にむかう高揚に疲れも感じず
空にむかって柿を投げ上げるフランシスコ
その薫陶を受けたベルナルドも
周囲の人々に強い印象を与えたらしい
慎み深く気高い精神だった
「彼と話した人は熱心に彼の言うことに耳を傾けた」
一五五四年のクリスマス前
ナポリでベルナルドに会った神父がそう記している
ナポリすなわちヴェスヴィオ火山が見える港町
それを見て桜島を思い出すなというほうが無理
薩摩のベルナルドは遠い火山に何を思ったことか
遠いザビエルにむかって感謝の言葉を送ったのか
ローマで教皇パウロ4世の足にくちづけを許されてから
ベルナルドは修行のためにポルトガルに戻り
病は癒えず
一五五七年の灰の水曜日に
コインブラ学院で死んだ
二十三歳だった
ザビエルの日本到着から
わずか八年後のことだった

天文館図書館(鹿児島市)、2023年3月7日、晴れ、噴煙あり

*ベルナルドの生涯についてはホアン・カトレット『薩摩のベルナルドの生涯 初めてヨーロッパに行った日本人』(高橋敦子訳、教友社、2013年)に学んだ。

製本かい摘みましては(181)

四釜裕子

この春、小学1年生になる親戚の子がランドセルを見せてくれた。落ち着いた水色だったのでちょっと驚いて、「薄紫と桃色が好きなんじゃなかったっけ?」と聞いたらば、「そう。だからランドセルは水色にしたの」。人間6年余にしてコーディネートを語るのか……。なにかと桃色のものを土産にしていた自分の傲慢を恥じる。さてこちらからの入学祝いは、小学館の「きみの名前がひける国語辞典」にした。小学校低学年向けの『小学館はじめての国語辞典』をベースにして、約18000ある収録語の中に、見出し語として子どもの下の名前を入れたものを特別注文で作ってくれるというものだ。奥付にも、「2023年○月○日 ○○さん版発行」と名前が入る。

小学館のサイトに「きみの名前がひける国語辞典」の誕生秘話がある。辞書に子どもの名前を入れる企画自体は、2013年に『ドラえもん はじめての国語辞典』の発売1周年記念の販促キャンペーンのプレゼントとして始まり、2015年からは小学館の社員の子どもたち向けに制作されてきたという。2021年に『小学館はじめての国語辞典』が発売されると、ランドセルメーカーとのコラボ企画で「きみの名前がひける国語辞典」を販売。そして2023年、単品での一般販売を開始すると予定していた100冊が早々に売り切れとなり、私が注文したのは第二弾の100冊の募集枠のようだった。その子の下の名前と読み方と、40字弱にまとめた紹介文(語釈)を用意して、3月中旬に申し込む。第二弾枠の完成は夏以降になるらしい。

注文者が用意した名前と語釈を、1冊ずつ、それぞれ的確な場所に入れてオンデマンド印刷するわけだが、校正・校閲はどんなふうにするのだろう。3行なりなんなりを追加したからといって、ただそれだけを見直しておしまいなわけはなく、だからといってその前後をどの程度見るものなのか、どんな手間がかかるのだろうと思っていたら、同サイトに、〈他のページに影響が出ないように、このページ内だけの調整で完結させなければならない。他の収録語の行数を調整するなど、言葉の意味が変わらないように細心の注意を払いながら編集していく〉とあった。なるほど――。印刷・製本のしくみは、小学館の辞書編集室と大日本印刷が10年をかけて共同開発したそうだ。

愛読者はがきによるアンケートを分析したところ、自分の名前を調べる子どもが結構いると気づいたことが、企画のきっかけの一つになったとも記してあった。確かに私もその昔、「釜」とか「裕」とか国語辞典で引いたことがあったよなぁ。製本を習って数年した頃に、広辞苑を「あ」とか「ま行」などでいくつもバラして製本し直して、「きょうは【あ】の日」とか「きょうは【ま行】の日」とかいって持ち歩き、広辞苑にない言葉を採取して書き足す遊びをしていたことがあったけれども、【ま行】本がまだ手元にあるので見てみたら「マイブーム」「マヴォ」「マカヴェイエフ」「まきちゃん」「まったくもー」「マハリクマハリタヤンバラヤンヤンヤン」「マデラ酒」「マニピュレーター」とかあって、友人をはじめとして人の名前が結構あるのに笑った。

さて入学祝いの「きみの名前がひける国語辞典」、表紙の色は10種類から選べるのであった。薄紫色も水色も桃色もあって迷ったけれど、結局薄紫にした。彼女はいつ、その中に自分の名前を見つけるだろう。笑うかな。びっくりするかな。そうでもなかったりなんかして。入学おめでとう。いらなくなったら私にちょうだい。

落花九相図

越川道夫

毎日、飽かず立ち枯れてゆく西洋鬼薊を見にいく。
立ち枯れていく植物の姿が好きだと言うことは前回書いた。花が咲いた後枯れたものは、それでも白い綿毛となる種子をいっぱいにつけ、蓬髪とでも言うように萼の部分を金色に開きながら枯れている。しかし、本来であるならば風に煽られ飛んでいくはずの綿毛は、ついに飛散することはない。雨が降り、ひどく寒い日があるかと思えば、奇妙に暑い日がある。そんな日日が過ぎる中で、太陽を思わせるような形を見せていたその薊の頭も、縮れ、捩れ、やがて、ゆっくりと地面に向かって倒れ始めた。尖った葉も、触れればその鋭さは相変わらず指先を刺すものの、もう乾き切ってバリバリと砕けてゆく。
そんな姿を見ながら、ふとある画家のひとが書いたエッセイの一節を思い出していた。確か、その画家は若い頃、太平洋戦争の最中学徒動員で軍隊に応召された。戦地で病を得て、帰国し終戦。そのうちに母親の縁つづきの女性が満州から戻ってくる。彼が幼い恋というような感情を抱いた女性である。彼女は結婚し、夫と赤ん坊とハルビンにいた。夫は終戦間近に兵隊にとられ、彼女は子供を背中にくくりつけて逃げた。逃げている途中赤ん坊の鳴き声がしなくなったことに気づき、背中から下ろすと赤ん坊はすでに死んでいた。背中から下ろす時に、子供の皮膚がひっついて剥がれたのだと言う。彼女は衰弱していた。ただじっと上を向いて目を開き、体を横たえていた。「この家に辿りついたことで、力はもう尽きていたのかもしれない」とその画家は書く。
 
「洗われたような美しい顔になっている。ああこんな顔になってはいけない。」(野見山暁治「一本の線」)
 
エッセイのこの部分を、私は「人はこのように美しい姿になってはいけない」と覚えていた。この文章の別の箇所で画家は、病で死んでいく同じ画家・今西の姿を「次第に声もかすれてきた。表情をもちえなくなった骨格だけの今西さんを美しいと思い、その気持ちを打ち消すことに懸命になった。」と書いている。
 
春になり、路肩の菫が咲くことになると、それまで溢れるように咲いていた椿が花を木の足元に落とし始める。椿の花は、花びらを散らすのではなく、花ごと落ちる。そして、堆く積もっていく。積もった花は、落ちた順に下から色を失い、茶色に朽ちていくのだ。やはり花ごと。その有様は凄惨だが、ひどく美しい。特に乙女椿と言うのだろうか淡いピンクの椿が、朽ちて茶色になっている。やがて花はバラバラとなり、花としての体をなさなくなる。その上にまた新たに花が丸ごと落ちるのだ。その花の一つ一つを撮った写真を見ながら、まるで九相図のようだ、と思う。そこには、さまざまな段階に朽ちた花が、それぞれの有り様で写っている。そのどれものがかけがえのないものであり、だからこそ美しい。
 
人間の屍がときの推移につれて朽ち果てていく様を九段階に分け、その様を描いたものを「九相図」と言う。これは、人の屍を凝視し観想することによって自他の肉体への執着を滅却する、九相観と言う仏教の修行に由来するといわれている。執着が滅却できるかはさておき、私がこの図に惹かれているのは確かである。『閑居友』などには、修行のために夜な夜な墓場に出かけ、爛れた屍を見つめて声を上げて泣きながら無情を悟ろうと修行をする僧の姿が書かれているが、読みながら考えが横滑りしてしまう。もちろん僧は修行のためにそうするのだろうが、なぜ「その屍」の前に座り、見つめ、声を上げて泣こうとしたろうか、と。そうしようとした「屍」が、なぜ「その屍」であり、「あの屍」ではなかったのだろうか、と。もしかすると、その僧は、「その屍」を美しいと思ったのではないか、と。「その屍」が愛しいものと思ったからではないか、と。
 
「美しい」と思うことは、「愛しい」と思うことなのかもしれない。
 

名前を変える

植松眞人

 姓名判断が出来るという人に、ひとつ見てもらおうとわざわざ出かけていく。互いに頭を下げて「よろしく」などと挨拶をするのだが、なんとなく向こうのほうが、階段で言うと一段か二段ほど高いところにいるような顔をしている。
 挨拶が終わると、話すこともないので、さっそくとこちらの名前を相手が聞いて、相手がそれを半紙にさらさらと墨で書く。書かれた文字はなかなかの達筆で、ほほう俺の名前はなかなか良い字面をしていると思って口元が緩む。それを相手が察知したのか、ふむふむなどと声にならない声を発して、ちらりとこちらを見たりする。
 さあ、どうなんだ、とじっと相手を見るが、相手は朱色の筆に持ち替えて、ふむふむを続けている。やがて、本当に黙り込むとこちらも何事かと相手の朱色の筆先を見つめる。見つめながら、子どもの頃に怪我をしたのは名前が悪いからかとか、免許を取った頃に起こした事故はどうなんだとか、結婚して三十年を超えたけれど毎年のように家族に小さな波乱が起こるのももしかしたら、などと考え始め心が落ち着かない。
 こちらがそんな気持ちなのは、いつものことと思っている癖に相手の筆はなかなか動かずイライラしてきて、もう占ってなどもららわなくても、と声に出かかった瞬間に相手の筆がさらさらと動き始める。姓と名にわけて朱の線を引き、そこに数字が書き入れられ、漢字ごとに何やら小さな数字や丸やらバツやらが入り、あっという間に半紙が朱に染まる。

そしてやにわに、全体的に運勢は悪くないと相手が言う。ほほう、そうですか、とこちらが答える。悪くないと言われるとまんざらでもない。ただ、相手が続けて、悪くはないがお金はたまりませんね、と笑われるのは困る。なぜたくさん入ってくるのに貯まらないのかと聞くと、入ってくる以上に出ていくから、とこれまた当たり前のことを言われてしまう。なんだか悔しい気持ちになって、その後言われたことはあまり覚えていない。そして、なぜ悔しい気持ちになったのかと言えば、相手が言った通りで、これまで大金を稼ぐことは多々あったのに、それ以上に病気だトラブルだ訴訟だと予期せぬことで稼いだ以上の大金が出ていってしまったからだ。
 なんとなくそんな人生だとは思っていたが、姓名判断を商売にもしていない趣味人に朱色で言われると穏やかな気持ちではおられなかった。それでもご家族、特にお子さんたちは幸せな人生を送るはずと言われたことを救いに、なんだか還暦を超えた人生に烙印を押されたような気持ちになってしまう。さらにその趣味人がこちら参考までに、と別の半紙にさらさらと書き記したのは、こちらの生年月日も鑑みて考えてくれたと言う、運勢の良い名前らしい。これはサービスでご参考までにとは言うが、今度はその名前が気になって仕方がない。苗字は同じで下の名が少し違う。この名前なら金が貯まると言う。
 相手にこちらの動揺を感じられないようにと、ではまたなどと、次などあるものかと思いつつ言い合って辞した翌日。三十数年寄り添った家人とたまに行くチェーンのレストランで遅い朝食を摂る機会があったのだが数組の待ちがあった。待合には待機リストの用紙があり、そこに新しい名前を書いてみると、隣で覗き込んでいた家人が、あらいい名前、と言った。

公演『幻視 in 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(1)

冨岡三智

今回は3月11日にフェニーチェ堺・小ホールで行った公演の演出について書き残しておきたい。いつものごとく、自分の公演について主観と言い訳交じりで語るのだけれど、何十年か後にはきっと当事者が語る貴重な証言になっているに違いない…と思うことにする。まず、プログラムは以下の通り。

第1幕:ガムラン音楽とスラカルタ王家の儀礼映像
 ・「夜霧の私」(山崎晃男作曲)
 ・グンディン・ボナン「ババル・ラヤル」
 ・「ガドゥン・ムラティ」
第2幕:宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版

●ウィンギット(wingit)なるもの

ジャワの宮廷芸術で目指す境地を表す語は?と問われたら、私は「ウィンギット」だと答える。この語については『水牛』2009年8月号「ジャワ舞踊の美・境地を表す語」でも書いたけれど、「超自然的な存在(それは神でもあり災厄でもあるだろう)に対する恐れ、畏れ」のこと。その災厄から王国を護るため、畏怖心から行うものが宮廷儀礼であり、今回の公演では宮廷儀礼の奥にあるそのウィンギットなるものを表現したいと思っていた。

今回の公演会場は一般的な音楽向けのホール(300席)である。第1幕の背景は白のホリゾント幕とし、そこに宮廷儀礼の映像を投影したが、第2幕の背景は黒幕にした。演奏者の衣装も上半身は黒とし、女性はお揃いの生地・デザインでクバヤ(ジャワの伝統的なブラウス)を仕立て、男性も全員、黒のビスカップ(スラカルタ様式の男性上着)にした。前回の堺公演でも女性のクバヤは黒にしたが、各自手持ちの物を着てもらったので、デザインや質感には多少ばらつきがある。背景が黒一色になるとそのばらつきが気になると思えたので、新たに仕立てたのだった。男性の場合、前回はジョグジャ様式の正装(スルジャン)とスラカルタ様式の正装(ビスカップ)が混在していたが、柔らかい織り素材で色も真っ黒ではないスルジャンだと、やはり他の人や背景幕からも浮くように感じたので、黒のビスカップで統一した。演奏者からは、衣装の色が背景と同化して生首が並んでいるように見えないかな?という不安の声もあったのだけれど、実は敢えてそうしていた。通常のコンサートでは黒をバックに演奏家を際立たせるが、逆に黒のバックに溶け込ませたかったのである。

どの曲も前奏は暗い中で始まり、音が出てから舞台がだんだん明るくなるように、さらに映像は音楽のテンポが安定してから投影されるようにして、まずは音に集中してもらえるようにした。そして、歌声だけが際立たないように気をつけた。もともと、ガムランでは歌も楽器の1つとされているのだけれど、ジャワでも宮廷外では歌い手を目立たせすぎることが多い。この公演ではそれを避けた。人の声とも楽器の音とも区別のつかない響きが暗闇から聞こえてくる…、それは狼の鳴き声のようにも、風が空を切る音のようにも聞こえる…、遠くから大いなる存在が発現するような気配がする…。そんな風に、公演の音全体が聞こえてほしいと思っていた。舞台に載っている人の存在感を消すことで、そんな世界が存在することが見えてくるのではないか…と考えたのだった

●1曲目

通常、ジャワ・ガムランで開始の曲と言えば「ウィルジュン」だが、今回はそうしなかった。というのはグンディン・ボナンという種類の曲「ババル・ラヤル」を演奏すると先に決めていたからである。この種の曲は宮廷では即位記念日や結婚儀礼の前夜に演奏され、そのとき精霊たちが祝福を与えに降りてくると言われている。「ウィルジュン」は儀礼当日の最初に演奏される曲だから、それをグンディン・ボナンの前に演奏すると時系列が前後してしまう。さらに、その精霊が降りてくる曲の後には、供物を準備してお祈りしないといけない「ガドゥン・ムラティ」という曲が控えている。供物やお祈りを欠くと災いがもたらされるという。「ウィルジュン」(つつがなくの意味)は文字通り儀礼がつつがなく終わるようにと演奏するものだが、今回のプログラムのような重い曲の演奏が続くことは想定されていないと私には感じられる。というわけで、1曲目の役割は観客を未知の世界にいざなってくれるようなものが良い、むしろガムランの現代曲から選んだほうが良いと考え、ダルマブダヤ代表の山崎晃男氏が作曲した曲の中から選んだのが「夜霧の私」である。他の2曲が少々長いので、「夜霧の私」は1曲全部ではなく途中までしか使っていないが、なんだかジャワから懐かし気に呼ばれているような心持ちになる曲だ。それで、この曲には王宮にだんだん近づいていく映像をつけようと思いついたのだった。

●音楽と映像とα

第1幕ではガムラン音楽の演奏にあわせ、舞台奥のホリゾント幕に映像を映した。上映した映像はウィラネガラ氏が制作し、来日してオペレーションも行った。氏は2004年に亡くなったスラカルタ王家当主:パク・ブウォノXII世のドキュメンタリー映画を制作した人で、その作品によりインドネシア・フィルム・フェスティバルで最優秀映像賞を受賞している。私は2000年かそれ以前からスラカルタ王家の儀礼で知り合いになっていた。

映像を入れようと思ったのは、音楽だけではジャワ王家の儀礼の雰囲気はよくわからないだろうなと思ったからだった。楽曲そのものだけでなく、それを取り巻く環境も感じてほしかった。王宮の建物はどんなものか、人々はどんな衣装を着ているのか、王宮儀礼ってどんなものなのか…。人が真剣にやっている儀礼というのは、意味がわからなくとも何か伝わるものがある。それが美しい響きの音と一体となって観客の記憶の中にしみこんでいってくれたらいいなと思う。

それで、ウィラネガラ氏に、今まで王宮儀礼に入って撮りためていた映像から、王家の守護神である女神ラトゥ・キドゥルに関連する儀礼、女神の棲む南海岸、王宮での精霊に対する様々な祈りの場面などを取り出し、曲の進行に合わせて映像を編集してもらった。公演であって研究会ではないから、説明的な映像の見せ方ではない。王家の人々の間で信じられている女神の存在が映像から感じ取られ、そのイメージの断片が心の中に残って、今後ふと思い出してくれることがあったら嬉しい。

音楽と映像に加えて、1曲目は映像の情景にあわせて語りをかぶせ、3曲目はお祈りのパフォーマンスとワヤン(影絵)も上演した。1曲目で語りを入れたのは、王と女神が南海岸で出会ったとか、八角形の塔で王と女神が交信していたとか…少し手掛かりになる情報があると映像世界に入りやすいようにと思ったから。

3曲目のお祈りパフォーマンスは舞台用としてアレンジしたものだが、王家の儀礼で多くの人々が準備に関わっていて供物を運んでいく様子を描こうと思い、衣装をつけた踊り手4人と演奏していない演者がぞろぞろと蛇行しながら舞台を練り歩くように演出した。背後の映像では実際の儀礼における行列シーンは映し出されているが、第2幕の舞踊用に舞台手前は空けてあるから、その空間を埋めたかったのである。舞踊曲もある公演だと、演奏者はどうしても舞台奥でじっとしている感じになり、舞踊がないときは観客の前にぽっかり空いた空間ができる。普通、舞踊公演では踊り手は自分の出番がくるまでは観客の前に衣装を着て出てくることはないので、何か批判なり反応なりがあるかも…と思っていたが、全然なかった。こういうもんだと思ってくれたみたいだ。

このお祈りのシーンでは京都にあるバリバリインドネシアというレストランに供物を作ってもらい、ジャワでやっているように大きなザルに盛ってもらった。3種類のうち1つはクタンビル(スラカルタ王家で女神のために作られるお供え)を見様見真似で、1つはアプム(パンケーキ、一般的だが儀礼用に作られる)、1つはお任せである。クタンビルは当然レストランの人は食べたことがないので宮廷での味とは違うけれど、たぶんその努力に免じてラトゥ・キドゥルは赦してくれるだろう。やはりお供えがあると出演者のテンションが上がる。舞台では先頭にお香を持った私、お供えの菓子が続くのは元スラカルタ王家の踊り手だった2人の指南による。本当は踊り子がお香を持つのは変なのだが、私が持つということで消防に届けてしまった。全員が座ると、私は四方に向かって合掌し、最初の1回は他の人も一緒に合掌する。このように四方に向かってするお祈りは王家で行われていて、特に「ブドヨ・クタワン」で踊り子がやっているのがとても印象に残っている。

3曲目の「ガドゥン・ムラティ」は複数の曲がつながっていて、テンポが速くなったところで、最後のアヤアヤアンという部分に移行する。影絵人形操作をするナナンさんはこのアヤアヤアンの前奏部分を歌って出てきて、お祈りの人たちがはけていくのと入れ違いに影絵の世界が始まる。影絵の場面を作ったのは、ルワタンという魔除けの影絵は南海の女神から授けられたという伝承があるから。この「ガドゥン・ムラティ」の曲は南海の女神の許を訪れた王家のグンデル(この曲の前奏を弾いていた楽器)奏者の女性が女神から授けられたという伝承があり、どちらも女神ゆかりの―それゆえに霊力がある―ものとして共通点がある。影絵奏者が出てくるところから照明を落として影絵が始まるまでのしばらくの間、王家の影絵奏者の映像が少し挟まれる。そして、ナナンさんが観客に背を向けると、彼のビスカップの背中にある絵羽模様が目に入る。これはナナン氏が黒留め袖の着物をビスカップに仕立てたもので、前から見ると普通の黒いビスカップなのである。背中を見せると、それまでの演奏者がダランに変貌するのが面白いかなと思ったのだが、どうだろう。

…ということで、今回の話は時間切れになってしまった。舞踊演出については来月書きます。

めんどくさい

篠原恒木

季節の変わり目になると、特に冬から春に移り変わる頃は、あらゆることがめんどくさくなる。いまおれは「めんどくさい」と書いたが、我がPCは「めんどくさい」という文字の下に赤い波線をつけてきた。
「あのぉ、『めんどくさい』ではなくて『面倒くさい』ではないですか」
と要らぬお節介をしてきたわけだ。これからして実にめんどくさい。ゆえに無視だ。

毎朝、髭を剃るのがめんどくさい。
おれは電動カミソリではなく、シェーヴイング・フォームを顔に付けたあと、T字型の替刃式カミソリで剃るのだが、あれは本当にめんどくさい。ならば髭を剃らずに伸ばしたままにすればいいではないかとも思うのだが、伸ばせば髭のかたちを整えなければならない。それはさらにめんどくさい状況に陥るではないか。仕方なくおれは今朝も髭を剃る。

風呂に入るのがめんどくさい。
特に湯船につかるのが大儀だ。だからおれは冬でも朝のシャワーだけで済ませてしまう。寒い寒い。風呂場を出ると体がブルブル震える。しかし、それでも「夜寝る前には、ゆっくり湯船でリラックス・タイム。うふふ」などとホザいている奴の気が知れない。めんどくさいではないか。長年にわたって深夜帰宅してきたおれは、風呂に入るより睡眠時間の確保が大切だった。その習慣がいまでも続いていて、夜の風呂はパスして、翌朝のシャワーで一丁上がりなのだが、そのシャワーですらめんどくさい。

服を着たり脱いだりするのがめんどくさい。
できればパジャマのままでカイシャへ行きたい。冬はことさらめんどくさい。重ね着をしなければならないからだ。おれは寒がりなのでたくさん着込まないとすぐ風邪をひいてしまう。したがって三枚も四枚も重ね着をすることになるのだが、根がスタイリストに出来ているので、いちいちインナーからアウターまで破綻のないようにコーディネートしながらレイヤーしていく。これが実にめんどくさい。そして長い一日が終わり、帰宅すればその服をいったん脱がなければならないのだが、この「脱ぐ」という作業もめんどくさい。コートを脱いでハンガーにかけ、次にセーターを脱ぎ、畳んで箪笥の引き出しに収納しなければならない。さらにヒート・テックを脱いで洗濯物の籠に入れる。これらの行為を「めんどくさくない」と言うヒトをおれは信じない。夏だとTシャツ一枚をあらよっとばかりに脱いでしまえばそれでおしまいなので、夏という季節は嫌いではない。脱ぐのがめんどくさくないという状況は、好きなあのコとお泊りするときだけだ。うふふ。

出掛けるのがめんどくさい。
カイシャに出勤するのがいちばんめんどくさいのは当たり前だが、好きなあのコとメシを食うのもめんどくさくなってきた。会う約束を取り付け、店を予約した時点では、ドキドキ、ウキウキ、スキスキと、全面的に「キ」が多い気分になるのだが、その日が近づくと「なんだかちょっとめんどくせぇな」という気分になってくる。当日になると、さらにその気分は濃厚になり、「ああ、約束なんてするんじゃなかった。めんどくさい」という気持ちに囚われてしまうのだ。これはあまりにも不遜ではないか。よくないと思う。相手は若いコだ。こんな汚らしい六十三歳になろうとしているジジイと会ってくれるだけでも有難いと思わなければいけないところを「めんどくさい」とは何事か。バチが当たってしかるべきだが、めんどくさいものはめんどくさいのだ。

苦労してチケットを手に入れたコンサートもそうだ。
この四月には、おれが十五のときからずっと大ファンでいるボブ・ディランの来日公演が予定されている。これには万難を排して駆け付けなければならない。来日の一報が入るや否や、おれは逆上してチケット最速抽選に申し込んだ。東京公演全五回のうち、四回にエントリーした。どうせ観るなら良席がいいと思い、すべて五万一千円のGOLDシートを指定した。
「相手はあのボブ・ディランだ。チケット争奪戦は必至だろう。当選する確率は限りなく低いに決まっている。それでも四公演も申し込めば、一公演くらいは当選するのではないか」
と考えたからだが、驚いたことに四公演すべてGOLDシートが当選してしまった。二十万円以上が吹っ飛ぶことになるが、ディラン様だけには逆らえない。おれはなけなしのへそくりをはたいて四公演すべてに足を運ぶことにした。これで素晴らしい席でボブ・ディランを四回も観ることができる。おれは多幸感に包まれた。かねは無くなったが、その四公演を楽しみに生きて行こうと思った。ところが、である。東京公演の日が近づくにつれて、ライヴへ出掛けるのがめんどくさくなってきた。会場は有明の東京ガーデンホールである。有明はアクセスが不便だ。行くのも時間がかかるし、帰るのも難儀だ。ああ、めんどくさくなってきた。おれが今いるこの場所へディランが出張してきて、目の前で十五曲くらい演奏してくれないかなと思うが、流しのおじさんではないので、それは無理というものだろう。おれが行くしかないのだ。しかも四回も。なんとまあ、めんどくさいことではないか。

ジムに通うのもめんどくさい。
できれば筋トレやらジョギングなどをしないで体型をキープしたい。なぜかねを払ってあんなツライことをしなければならないのだろうと思う。だが、運動をしないと腹が出てしまう。腹が出ているジジイにはなりたくない。かといって、やみくもに筋トレしていると、体が分厚くなってしまうのでトレーニング・メニューをきちんと立てなくてはならない。大胸筋が異常に発達するのも嫌だし、上腕二頭筋だって単に太くするのではなく、細かい筋肉を刺激して腕にきれいなカットを入れなくてはダメだ。めんどくさい。時間をかけてジョギングをしないと脂肪は燃焼しない。脂肪は人生の垢だ。だからおれは「ああ、やだやだ。めんどくせぇな」と思いつつも、重い腰を上げてジムへと向かう。
「これは仕事なのだ。仕事であればやらなければならない」
そう呪文のように唱えながらジムへ到着するが、めんどくさいあの着替えが待っているではないか。そうしてめんどくさい運動をした後はめんどくさいシャワーを浴びて、再びめんどくさい着替えをしなければならない。本当にめんどくさい。

そんなおれは仕事仲間のヒトビトにこう言われていると、あるヒトが教えてくれた。
「シノハラさんはいろいろとめんどくさいヒトだから、気を付けたほうがいい」
心外だと思ったが、ムキになって否定はしなかった。めんどくさいから。

マギさん

笠井瑞丈

チャボのマギさんが他界した

四年前にうちに来てくれてからいつも
家の中を明るくしてくれた存在だった

本当に毛が真っ白の美人の白チャボさん
ちょっと不器用でもう一羽のゴマさんには
よくイジメられたりしていたけど
おっとりした性格で昼寝が大好きで
お気に入りの枕の上でいつも寝てて
飛ぶのもあまり上手ではなく
寝床の場所に上がる時壁に激突したり
夜寝ている時に寝床から落ちたりして
でもいつもゴマさんの後をついて歩き
寝るときはカラダを寄せ合った寝てて
よくゴマさんのカラダに潜り込んだり

思い出すとたくさんのことがあった

そしてそんなマギさんの
調子が変だと気づいたのは
三月の初めのことだ
もともとそんなに
活発的な子じゃないけど
明らかに様子がおかしい
三月に入ってからいつも
机の下だったり
椅子の下っだたり
何か天井のある所にいて
あまり動かなくなった
ご飯もあまり食べなくなり
自分の体の中に頭を潜らせ
ただただ寝ていることが多くなった

そして病院に連れて行った
体温が下がっていてあまり
良い状態ではないとの診断
とにかく温めてあげた

しかしその二日後
夜中バサバサと大きな音が
慌てて寝床を見に行ったら
大好きなゴマさんの横で
息を引き取った
きっと最後の力を振り絞って
羽ばたこうとしたんだろう
まだカラダは暖かく
今その瞬間までそこに
まだ生命が宿っていた

朝まで抱きしめて一緒に寝た
少しづつ体温が下がっていき
うつろうつろ現実と夢との境の中
カラダと魂が分離する瞬間を感じた

僕は浅い眠りの中であなたと初めて会話をした

「一緒に過ごした時間ありがとう
そして本当に大好きでした」と

これを伝えられてよかった



目覚めた時には
腕の中にはマギさんのカラダはあったけど
もうそこにはマギさんはいないと思った
そこにあるのはもうカラダと言う受け皿なのだ
そう思ったら悲しみが込み上げてきた

久しぶりに大泣きした

またお尻をのしのしと左右に揺らし
不器用に歩くあなたの後ろ姿が恋しい

これかも大好きな小松葉を食べ
ゆっくりとお休みください

どうよう(2023.04)

小沼純一

りぼんすき
はなたばやおかしのはこをむすんでる
りぼんはきっととっといて
そこらにあるもの
むすんでく
いろがあってるかあってないかより
むすべるものがあるのがだいじ
ぬいぐるみ ほそくちのかびん 
たんすのとって とびらののっく

はこがすき
おおきすぎずたかさがあるのがいい
なにをいれるかあてはない
かたちをそのままとっときたい
なにかいれても わすれてしまい
いちいちあけるも
わるくない
ビールのおうかん ワインのコルク
いろんなカード まっちばこ

あといちじかん
ゆうはんのしたく
あるものですますから
かえっててまがかかるかも
それまではいちじかん
のびたりちぢんだり
やりすごす

あといちじかん
そとにでなくちゃ
きがえはそこにだしてある
かばんのなかは
みなおさないと
それまではいちじかん
よゆうあるよで
しっかりぎっちりしばられて

いき
いそがない
ゆっくりと
いきすって
いきはいて

いきいそぐ
まいにちを
ゆるゆると
ゆるやかに
いき

いき
すこしため
すこしはき
とめながら

からになった
からだへと
きれぎれと
ぎれをこめ
いき

いき
いきする
いきいきして
いきまいて
いき

ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえで

てんめつが
きにならない
めがあたまがどうかしちゃった
ほしじゃない
まばたきじゃない

ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえ

てんめつ
っていわないか
よびかたがわからない
ほらこっち
って
せかしてないせかしてる

ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえ

なれちゃって
こなれちゃって
なんでもちかちかあたりまえ
そうねこれ
からだもおんなじ
わたしでんきでいきている
ううんげんきでいきている

あのひとこのひと
おともだち
そのひとかのひと
おともだち
たくさんたくさん
おともだち
それぞれべつの
おともだち
たまたまあっても
うまくはいかない
ずれずれで
きくきくで
そんなものかな
おともだち
たくさんいるけど
おともだち
みんなべつべつ
おともだち
おとも たち

『アフリカ』を続けて(22)

下窪俊哉

 先月(3月)末に『アフリカ』vol.34を出した。まずは表紙に、見られる。そこには切り絵の羊が顔を出していて、「アフリカ」の文字は横に倒して置かれている。あとは例によって「3/2023」とだけ書いてあり、どんな本なのか表紙だけではサッパリわからない。表紙も『アフリカ』に寄せられた作品のひとつなのだから、なるだけシンプルなものにしたいと思っている。それは17年前の、続ける気のなかった創刊時から一貫してそうだ。

 表紙を開くと1ページ目から、なつめさんのエッセイ「ペンネームが決まる」が始まっている。『道草の家のWSマガジン』vol.1(2022年12月号)に載っているものから推敲を経た、とりあえずの完成形で、昨年の秋、東京の下町から長野県の村に移住した経緯から、新しい名前が決まるまでを書いている。適当に、いい加減に、ということの難しさを感じつつ、ふとしたことからその名前はやってくる。

 そのあとに目次がくるというのも、いつものパターン。虚実入り乱れたクレジット・ページも相変わらずで、そこを見るのを楽しみにしているという読者もいらっしゃるから止められない。そこではここぞとばかりにふざけたいのだが、長くやっているとネタ切れにもなる時もある。今回はちょっとそんな感じかもしれない。

 今回の『アフリカ』には珍しく詩が3篇も載っている。神田由布子さんの「vehicle」は、『WSマガジン』vol.1に載っているものをそのまま載せた。しかしあれは横書きなので、これはぜひ縦書きで読みたい、と思った。新たな旅立ちの歌。重さの中にある軽さの発見が作品になったような詩。

 竹内敏喜さんから私が原稿を受け取るのは、じつに18年ぶり。『アフリカ』を始める前にやっていた『寄港』に書いてもらって以来だった。一昨年の秋、久しぶりに手紙を出してやりとりが復活した時に、最近は殆ど発表の機会がないと知らされて驚いて、よかったら『アフリカ』に書きませんか? という流れになったのだった。「蛇足から」は今回、1〜3を掲載しているが(続きがあるとのこと)、いま書くことの怖れを感じつつ、「善」と「正義」への考察が繰り広げられる。いや、考察ではないのかもしれない。ことばを探っている。それは「詩をひらく鍵」だという。

 もうひとつは、いつもの犬飼愛生さんによる「寿司喰う牛、ハイに煙、あのbarの窓から四句(よく)」という長いタイトルの詩。犬飼さんの作品は詩とエッセイで「同じ人が書いたの?」と言われるくらい落差がある、けれど、この詩にはエッセイの中にあった要素も流れ込んできているようで、ついには短歌が挿入されたりもして見開き2ページの中でごった煮になっている新境地。人と人が敵対するというのはわかりやすいが、そうではなく、テーブルの上に玉石混淆、雑多なものをズラリと並べて「おいしく食べあいましょう」と呼びかける。ややこしいし、厄介かもしれないけど、それが本当の平和というやつじゃないかなあ、などと思っているところだ。

 編集を通して、この3篇には、詩を書くことにかんする詩である、という共通点も見えてきた。それらの詩でサンドイッチにしたように、今回は短篇小説を2つ、収録してある。まずは、UNIさんの「日々の球体」、交わったり、すれ違ったりしている男女三人の人間模様を描く快作と思う。UNIさんは妄想を豊かに働かせて書ける人で、たとえば登場人物の誰かが何かを見ると、そのものを見るのに留まらず別の何かが必ず思い出される。そんなイメージの広がりがある。しかしそんなふうにして長く書くというのは、なかなか困難なようだったが、今回は(400字詰め原稿用紙で計算して)30枚ほど。小説というのはやっぱり、長さがモノを言うところもある。最初に読ませてもらったバージョンからも加筆があり、そこまで書いてようやく現れてくるものがあった。

 もうひとつは私(下窪俊哉)の「四章の季節/道草指南」で、「日々の球体」と同じくらいの長さの短篇小説。22年前に書いた「四章の季節」は二人称を試してみた習作だったが、その型を使って、全然違う話を書いてみた。1日という時間、1年という時間、人生という時間、そんなふうなことを重ねて思い巡らせているうちに、フィクションの街、人が出てきてくれた。私は10数年前から「道草さん」と呼ばれることが増えたが、ちょっとした道草論を書いてみたいという気持ちは前々からあった。この小説は、そんな自分の気持ちに少し応えた。 

 そうやって詩や小説が並ぶ中、雑記とかエッセイというような散文をどう生かすかというのが、『アフリカ』編集人の腕の見せ所だ。髙城青さんのエッセイ漫画「それだけで世界がまわるなら」は2020年秋以来の続編で、お父さんを亡くして2年たった家族の現在を、そのお父さんが大好きだった珈琲を介して描いている。それを読みながら私は、珈琲とは我々にとって何とさり気ない味方だろう! と感嘆する。

「自然を感知した人〜井川拓と空族の黎明期」は、富田克也さんが若き日の盟友・井川について語った貴重な記録(約8千字)。昨年の春、井川さんの遺作『モグとユウヒの冒険』を本にした、その制作時に連絡したら「話しましょう!」と返事が来て、3時間を超えるロング・インタビューが行われた。いや、インタビューと言えるかどうか、私が何も問わずとも富田さんは延々と話してくれた。井川拓の話をするということは、富田さん自身の若い頃、映画をつくり始めた頃の話をすることになる。話は徐々に、映像制作集団「空族」の誕生秘話にもなってゆく。『雲の上』の前に撮影され、未完に終わった『エリコへ下る道』がどんな映画だったのかも、ようやく聞くことができて嬉しかった。

 RTさんの「ここにいること」は、「心がぴったりとついてこない」と感じるこどもが大人になり、さまざまな時間を経て「人の為に何かしたい」と思うまでになる経緯を書いたエッセイ。経済活動から少し離れたところで営まれている活動に、救われる人の話でもある。「鬱」ということへの言及と、空を眺めているところなど、「自然を感知した人」に通じる要素が幾つもあり、並べて載せることにした。

 〆は犬飼愛生さんのエッセイ「相当なアソートassort」シリーズの今回はその2で、銀行で起きたある事件について書かれた「通帳持って」。元のバージョンはもう少し長かったのだが、最終的には前回と同じくらいの長さになった。話をしつこく延ばしてゆくことによって生まれる笑いと、文章を削って短く切ることによって生まれる笑いがあるよねえと話して、このシリーズでは削る方に向かった。犬飼さんのエッセイ集『それでもやっぱりドロンゲーム』を開いて、「キレイなオバサン、普通のオバサン」を読めば、その逆のパターンがわかるはず。

 執筆者などを紹介するページや、五里霧中になっているページを経て、最終ページは編集後記だ。後記をエッセイにしたのは、’00年代の一時期、その頃『VIKING』の若き編集人だった日沖直也さんが書いていた編集後記を毎月読んで、いいなあと思っていたからで、『アフリカ』の編集後記はレイアウトも含めそれの真似だ。今回は『WSマガジン』のことを中心に書き、その流れで『水牛』のことにも少し触れた。

 完成したばかりなので、まだ売るのもこれから、読まれるのもこれから。しかし『アフリカ』を仕上げた後はいつも、どこか不安で、つくっている最中ほど楽しくはない。けれど、読んでもらわないとね。と思っていたら、常連の読者の方々がさっそく入手して読んで、SNSで語っているのが目に入る。聞いていると、書き手よりも書き手のことがよくわかっているようで、心強い。文芸の創作ワークショップでは作家が育つのではない、まず読者が育つのだ、と考えた20数年前のことが思い出された。

むもーままめ(27)スパークリングワインの開け方、の巻

工藤あかね

先月もおしゃべりしたいことが山盛りにあったのに、今年の2月は28日までしかなく、1日が24時間しかないせいで「むもーままめ」をおやすみしてしまいました。今月もよろしくお願いいたします。

さて、何を話しましょうかね…と。桜が早く咲いた今日この頃、都内のお花見の名所という名所は人でごった返しています。たしかにお酒のひとつも飲みたい季節ですよね。我が家は安くて美味しいワインを探すのが好きなのですが、今日もお安いスパークリングワインを開けながらふと思いました。

みなさん、スパークリングワインの簡単な開け方をご存知なのでしょうか?「スパークリングワインの栓を開けるのが怖い」とか、「なかなか開かなくて嫌だ」とか、さまざまな意見を聞くのですが、このライフハックを知ったらバンバン栓を開けたくなりますよ(飲み過ぎ注意♡)。

1:まず、スパークリングワインはちゃんと冷やしましょう。ぬるいスパークリングワインほどイケていないものはありません。できれば「呑むぞ!」と決めた日の2日くらい前から冷蔵庫に入れましょう。そう、祭りには気合いと心構えが必要なのです。

2:ワインセラーやお酒用の冷蔵庫を持っていない人は、スパークリングワインを冷蔵庫に入れたら、扉を乱暴に開け閉めするのをやめましょう。扉のポケットに入れたならなおさらです。おいしくお酒をのもうと思ったら、こうした心配りを惜しんではいけません。

3:おつまみを用意しましょう。赤ワインと比べて、合う食べ物の守備範囲が広いお酒です。お肉やお魚、野菜はもちろん、酒盗とクリームチーズを合わせたり、スモークサーモンで一杯やったりするのもいいですねぇ。お寿司にも合わせられます。あっそうだ、塩辛でスパークリングワインを合わせた時はちょっと生臭みがでちゃったかな。それが好きな方は止めませんので、どうぞトライしてください。

4:お酒を直前まで冷やすために、グラスは先に用意しましょう。ワインクーラーがあれば、氷を入れて準備しましょう。たとえワンコインで買ったスパークリングワインだったとしても、VIPをお招きするかのような心構えが大切です。

5:ここからが抜栓のしかたです。スパークリングワインの栓を開けるのを怖がっている人、もう大丈夫ですよ。怖い思いをせずに、簡単にスパークリングワインを開けられるようになりますからね。

スパークリングワインをそっと冷蔵庫から取り出します。「イエーイ!!ドンペリ、ドンペリ~~!!!」などと言って歌いながら仲間にコールをせがんだり、調子に乗って瓶を振ったりしないように。落ち着いて丁寧に取り扱ってください。お酒は神の雫ですからね。安定した台などに置いたら、ナフキンなどの布をボトルの頭からふわっとかぶせ、布の下から手を入れて留め金をゆっくりゆるめます。ゆるめるだけで外しませんよ。ここ、みんな意外に知らない大事なポイントです。コルクだけ引くのは、握力のない人には結構大変ですからね。留め金付きでひねれば、強い力をかけなくても開きます。

留め金の上にナフキンをかぶせたまま、コルクをねじります。右、左、右、左、と引きながら回せばラクに栓が抜けます。
はい、栓が抜けました。グラスにはゆっくり注ぐこと。泡が多いのでドバーツとそそぐと、大抵あふれて大惨事になります。

みなさま、節度を守っておいしいワインタイムをEnjoy!!!してくださいね。

仙台ネイティブのつぶやき(81)遠くにみる先生

西大立目祥子

 母のコートの裏地の背中のところがほつれた。たぶん、動いてすれるうち生地が糸に引っ張られ、しまいに端から破れてしまうんだろう。安物は縫い代に余裕がないからなぁ、とぶつぶついいながら直す手立てを考えていて、首のところから裾まで幅広のリボンを縫い付けることを思いついた。ちょうど幅3センチくらいの赤いタータンチェックのリボンがあったので、当ててみるとなかなかかわいい。まずはリボンの端をきちっと折って、アイロン。と、反射的に考えたとたん、中学時代の家庭科の授業が思い浮かんだ。
 ええと、五十嵐先生といったっけ。小太りで、目がくりくりしたどこかユーモラスな雰囲気をただよわせていた先生。ブラウスにスカート、ワンピースまで縫わされた授業で、先生はときおり、ミシンをかける生徒の間を歩きながら澄んだ声を張り上げた。「きれいに仕上げるにはこまめにアイロン!」ソーイングが趣味でもないじぶんの中に、50年以上もこのことばが生きているなんてなぁ。先生のひと言どおり、アイロンを当てて縫い始めたリボンは曲がることなく、ぴったりと裏地に縫い付けることができた。

 10代でからだに入り込んだことばは、ずっと深いところに降りて定着するのだろうか。そして、何か気持ちが揺れるようなことがあったりすると、ふっと水面まで上がってくる。
 ひとり、忘れがたい先生がいる。佐藤正志先生。私に宮澤賢治の「雨ニモマケズ」を教えてくれた人だ。担任だったのはたった1年なのだけれど、この先生が担任になったとたん、教室のすみっこに縮こまっていた男の子が、子犬がじゃれるように先生の腰に抱きついて相撲をとったりするのに目を見張った。じぶんに心を開いてくれるおとなを、子どもは瞬時に鋭く見極める。

 ある朝登校すると、黒板の上にほぼその幅に合わせて模造紙でつくった大きな原稿用紙が張り出されて、マス目を埋めるように「雨ニモマケズ」の詩が黒マジックで書かれていた。教壇に立った先生がいった。「ひと月で、この詩を覚えるように。来月、ひとりひとりに暗唱してもらうよ」えーっ。むりー。長過ぎるー。教室に叫び声のような声の渦が沸き起こった。でも、ひと月後、50人をこえる10歳の子どもたちは残らずこの詩を覚えた。意味の理解はどうあれ。

 詩のことばの咀嚼はずっとずっとあとになってからついてきた。平成5年の大冷害の年、私は仙台近郊で長いこと米づくりをやってきたおじいさんたちを手伝って、地域誌をつくっていた。連日、曇り空で肌寒く、ヤマセといわれる冷たい風が吹きわたる田んぼの稲は青く突っ立ったまま。そのとき記憶の底から、ことばが上がってきてふっと口について出た。「サムサノナツハオロオロアルキ」
 気温が上がらないとき、田んぼでは深水管理をする。農家の人たちはくぐもった顔で空を見上げ田んぼをあっちこっちと歩きまわる。歩いては腰をかがめて水に手を入れ、稲はこの寒さを乗り切れるだろうかと案じるのだ。あの冷害の年、出穂はあったのだろうか。稲は花を咲かせることなく夏は終わったのかもしれない。宮城の米の作況指数は37。重たいコートを着て歩く宮澤賢治のよく知られた写真があるけれど、あれは夏だったのではないかと想像した。

 「一日ニ玄米四合」は、私が食べる一日のごはんの4、5倍。1年に換算すると、米3俵半を超えている。そこに添えられた「味噌」は味噌汁なんだろうな。歩きまわる田んぼの近くには、命を支えるための大豆畑と野菜畑も整えられているのだ。宮澤賢治は収穫した大豆に麹を加えみずから味噌をつくることはあったのだろうか。土間の上の方には、藁でしばった味噌玉がぶら下げられていたんだろうか。

 そして、「東ニ病気ノコドモ」「西ニツカレタ母」「南ニ死二ソウナ人」「北ニケンカヤソショウ」というところは、これを覚えようとする10歳の子どもたちを「えーと、東はなんだっけ?」と悩ませる箇所だった。でも、理屈としてはわからないけれどイメージとしてはつかまえられるような気がする。東には薬師如来がいるのだから、病気の子どもは治るだろう。夕日が沈む西には、薄暗くなってなお野良仕事をする母が見える。いま年老いて死なんとする人は少しでも日差しの入る暖かいところに横にしてあげたい。そして北風が吹きすさむところには、つまらない争い事が起こりそう。
 覚えてもう半世紀は超えているのに、ぐずぐずと反芻する牛のように、私は湯船につかっているときなんかに、「小サナ萱ブキノ小屋」の屋根の葺き替えは誰に手伝ってもらったんだろう、と考えたりしている。

 佐藤先生が音楽の時間に、小さなポータブルのプレーヤーを持ってきて突然レコードをかけたことがあった。「この曲を知っている人は?」みんなが首を横にふると、先生はいった。「グリーグという人がつくったペール・ギュント組曲の朝という曲です」たしか、音楽の教科書に載っていた覚えがある。1週間後、先生はまた同じ曲をかけた。「この曲知っている人は?」3、4人が手を上げた。次の週も次の週も、そのまた週も、先生はこの曲をかけ続けた。2ヶ月が経つ頃には、全員が「あーさー!」と答えるようになっていた。
 町はずれの小学校のクラシックなんて縁のない子どもたちに、先生はみんなが入れる小さなドアを用意しようとしていたのだろうか。そうかもしれない。でもたぶん、先生はこの曲が好きだったに違いない、とも思う。4分弱のこの曲にいつもじっと聴き入っていたから。先生の家は、仙台南部の田園地帯にあった。もしかすると家は農家で、朝、草取りをしてから学校にきていたのかもしれない。草原に朝の光が満ちあふれていくようすを描いたこの曲に、すがすがしい朝の田んぼの風景を重ねみていたのだろう。「雨ニモマケズ」にしても、深い共感がまずあったのだと思う。

 苦手だった跳び箱を跳べるようにしてくれたのも先生だ。体育の時間にひととおり全員が飛ぶようすを見た先生は、飛べない子だけを集めると、「勢いよく走り、踏み台を強く蹴って、跳び箱の上に乗っかれ」といった。走る勢いと蹴る力があれば、誰でも跳べることを知っていたのだろう。全員が乗れるようになると、次には手をついて飛ぶように話し、ひとりひとりが踏み台を踏み込んだ瞬間に先生がお尻を持ち上げてくれる。先生は本気だった。次々と声がかかる。「よし!」「ほら、行け!」足の力で空中に飛び出し、降りていくときに腕の力で跳び箱を押すようにして前へ。たった45分の間に全員が跳べるようになっていた。できなかったことが、できるようになるうれしさ。そして、体がふぁっと浮かぶ楽しさ。どこか夢のような授業だった。

 もうひとつ、女子校時代の先生のことも書いておこう。2年生の自習の時間だったか。夏だった。監督にたしか森先生という体育の先生がやってきた。ハンドボール部の顧問だからかよく日焼けしていて、いま思えばユーモアのセンスがあったのかもしれない。教室に漂うやる気のなさに気を許したのか、やおら映画の話を始め、そこから急にマリリン・モンローに話題を移し、突然こういった。「あのな、男がみんなモンローみたいな女が好きだと思うなよ」17歳45人がどっと笑った。さらに先生はこう続けた。「俺はオードリー・ヘップバーン派なのよ。かわいいよねぇ。わかる?わかんねえかなぁ」また、みんながどっ。わかったのか、わからなかったのか、じぶんでもわからない。
 あれは何だったんだろう。白いブラウスからぷくぷくした二の腕を出し、机の下にょっきりと足を投げ出すメス化しつつある女子の群れの圧を感じての本音だったのか。
 先週だったか、赤信号でクルマを停めふと横を見たら、店のガラス戸にポスターが貼ってありモンローが肉感的な表情をこちらに向けていた。わぁ、先生。
 大切なことを伝えてくれるからいい先生なのではなくて、本気と本音で向かい合ってくれるからいい先生なのだろうと思う。だからこそ、胸の奥底にその後姿とことばはとどまり続けているのです。

灰とダイヤモンド、明日はワルシャワ

さとうまき

2023年、2月6日 大きな地震がトルコ、シリアを襲った。そのおかげで、わさわさと騒がしくなり、旅に出る計画がなかなかまとまらなかった。もちろん行き先はイラクである。今年はイラク戦争から20年なのだから。イラクの土地に初めて足を踏み入れた時の不思議な感覚。この土地には、悪魔が宿っている。足元からそう感じた。土地は生き血をたっぷりと吸い込んで肥沃になっていく。アメリカに復讐を誓う人々はテロに身を染め、「神は偉大なり」と叫び人質の首を切断する。生き血が渇いた大地を潤してきた。僕は、よく夢をみた。黒装束で黒い中折れ帽をかぶった男が現れ、僕を指さす。「お前は、これ以上かかわるな。さもなければ、ぐうの音も言えないようにしてやる」ここはイスラム国なのか?

気が付くと4年たっていた。コロナがどうのこうので、4年もイラクを離れていれば、あの男に言われなくても、かかわる理由などとっくになくなってしまい、ぐうの音も出なくなっていた。記憶が薄れるとともに、自分の存在すら信じられなくなってしまうものだ。本当に自分はイラクにいたのだろうか?「そろそろ、戻らないといけないなあ」というわけで、僕は旅に出ることにした。しかし、地震がトルコ・シリアを襲い、トルコとシリアに行くのが最優先じゃないか、と悩み始め、ああだのこうだの考えているうちに時間は過ぎ去り、もともと円高や燃料費の値上げで高騰した航空券はさらに高くなっていた。

旅行会社に工面してもらったチケットは、ワルシャワ経由?だった。トランジットで8時間くらい時間がある。これは、旅行のおまけとしては少しうれしかった。というわけでいきなりポーランドに行く羽目になったのだ。ポーランドと言えば、隣接するウクライナから多くの難民を受け入れているということで、最近はよくニュースにも登場する。しかし、僕はそれよりも、昔買った水牛楽団のテープ、「ポーランドの禁じられた歌」に入っているいくつかの曲や、映画「灰とダイヤモンド」(1957年)を思い出した。

1980年代、大学生だった僕は、早稲田に下宿していたので、高田馬場のACTミニ・シアターという畳で寝そべりながらのオールナイトを見に行ったり、池袋の文芸座ルピリエなんかもよく歩いて通った。映画の歴史に追いつこうと昔の白黒映画をむさぼっていた時期があった。あの昭和の名画座の雰囲気は楽しかった。今は便利に家でネットが見られる時代だがなかなか名画となると配信がないのは寂しい。その時に見たのが「灰とダイヤモンド」である。1945年5月8日、ポーランドを占領していたナチスドイツの降伏の一日を描いた映画である。主人公のマチェックは、パルチザンの兵士であるが、敵はもはやナチスドイツではなく、ナチス後に支配するだろう共産党だった。しかし、当時は複雑な歴史とは関係なしに、マチェックのカッコよさだけが印象にのこっていたのだ。

朝の6時に飛行場につき、乗り継ぎ時間が6時間くらいあったので、バスで町中まで出てみた。ワルシャワの旧市街は、ワルシャワ蜂起でナチスドイツに返り討ちにされ街は破壊しつくされたが、ポーランド人は丹念に昔の通りに町を再現した。その情熱に世界遺産にも登録されている。お土産屋さんには、ワルシャワ蜂起を描いた絵ハガキや女性兵士の置物が売っている。そのわきに金貨をたくさん持っているユダヤ人の人形もあった。
「これはなんです?」
「ユダヤ人はお金にがめついからね」と店員が説明してくれた。
「そんなユダヤ人を差別しても大丈夫なんですか」
「ただのジョークですよ。ポーランド人はジョークが好きなんですよ」と説明してくれる。
町中にはウクライナの国旗もちらほら飾ってあった。
「ウクライナ人? 彼らはお金をねだってくるが、実は結構お金持ちだったりしてもううんざりしている」と通りすがりの老夫婦が文句を言い出した。

実は、1996年にもポーランドを旅したことがあった。その時は、アウシュビッツを訪れるのが目的だった。中東を旅した最後の仕上げだった。2年間シリア政府の工業省で仕事をしていた時、シリア人の同僚たちは、「ホロコーストなんかなかった。あれはユダヤ人がでっちあげたものだ」。彼らはそう信じていた。その言葉は衝撃的だった。だから僕は、アウシュヴィツとビルケナウに行く必要があった。あの匂いを嗅ぐために。それは、人間の内部に誰しもが持ついやらしいかび臭い匂いだった。今でも覚えている。

僕がシリアを去って15年たったら内戦が始まった。10年間で40万人が殺された。難民は600万人をこえた。瓦礫と化した街並みはいつになったらワルシャワのように元に修復できるのか? シリアの禁じられた歌は私たちを魅了するのだろうか? 2013年には、ヨルダンで次から次に運び込まれる手足を失った子どもたちの支援を行っていたし、自由シリア軍の兵士たちの話を聞いて早くシリアに民主主義がもたらされればいいなと思う反面、彼らが殺されていくのがつらかった。ウクライナにしても、もちろん彼らが国を守るしかないのだが、人が死ぬことがただ単に悲しくてつらい。憎しみ合う人々を見るのがただ辛い。レジスタンスに高揚するよりもただつらいのだ、そんなことを考えながら飛行場に戻るバスの窓からチューリップの市場が見えたので思わずバスを降りてしまった。うっとりと美しい花に見とれているうちに時間が過ぎ僕は慌ててバスに飛び乗った。しばらくすると、警察官が2名乗り込んできた。これはやばい雰囲気だ。ゲシュタポが、バスに乗り込んできた。こういう時レジスタンスならどうする?窓から飛びおりて逃げるか?
いやいや、さりげなくパスポートを出した。
「切符を見せてください」
「あ、切符ですね。」
しまった! 僕は無賃乗車がばれて罰金を取られる羽目になった。正確には切符を買う時間がなくて飛び乗ったのだが、駄々をこねるとどこかに連れていかれそうな怖い警察官だったし、飛行機の時間が迫っていたのでおとなしく罰金を払った。まあ、旅の出だしとしてはあまりよくないが、気持ちを切り替えて旅を続けようと思う。

卵を食べる女(上)

イリナ・グリゴレ

彼女は毎日生きることとはどういうことなのか考えていた。それは食べることに深くつながることであると幼い頃から気付いたがある日から食べ物の味が全く感じなくなった。この出来事は自分が生まれた村と違う場所に住むようになったからだったかもしれない、あるいは自分が生まれた国と違う国で暮らすようになったからかもしれない。その国に着いてから間も無く流産のような経験をした。1ヶ月以上出血は止まらなくなって、彼女の身体が透明に近い青い白い色になって、気絶も何回も繰り返した。隣の部屋に住んでいた聞いたことない国の陽気で、明るい、ゲイの女性友達に言ってみた。「もう、これ以上、このままこの身体から心臓も、肝臓も、全ての器官が出ると思う」。すでに、鮮やかな血というより、黒くて大きな血の塊が出ていて、押さえる布が1分でいっぱいになってトイレまで行く時間さえなかった。部屋で倒れてこのまま血塗れになって終わればいいと思ったこともある。

あの日、隣の部屋の友達にタクシーに乗せられて、救急で病院に連れて行かれたが手遅れではなかった。タクシーで吐いたことも仕方なかった。彼女の身体が勝手ながら彼女と全く関係ないところで反乱していたとしか思わないような状態だった。彼女の身体は彼女を食べていたような感覚を説明できなかった。以前見た、ある恐竜が違う恐竜の卵を美味しいそうに食べる再現ドキュメンタリーのイメージを思い出した。自分の身体は自分を食べているとはどういうことなのか。

病院で若手医師が遠慮しながら彼女のお腹を触って「妊娠の可能性は?」と聞かれた。可能性はないと答えたが検査をした。妄想の妊娠というものもあるとどこかで読んだことが思い出した。それなら、ありえる。彼女の身体が勝手にそうなることが多い。あの後、薬を飲んだら出血が治った。当時、原因は不明だったけど、違う現象が身体に起きた。それは食べ物の味が分からなくなったことだった。どんな美味しいものを食べても味がさっぱり分からなかった。お肉も、野菜も、お菓子も。紙を食べていると同じだ。最初は薬の副採用だと思ったが、薬を飲まなくなった後でも同じ。いろんなことを試した。食べ物以外のものも試した、土も、草も、お花も。全く味がしなかった。このことを周りの人にぜったいに言わないこと決めた。匂いを感じないということではなかった。逆に、高校生の時、読んでいたパトリック・ジュースキントの『香水』の主人公のように匂いにものすごく敏感になったと。しかし、匂いを感じても味を感じないということは、あり得ない。周りにこんなことを言ったらきっと誰も信じない。

あまり味が分からないと食欲もない。ただ、お腹が空く感覚がある。あるのに、食べたあと吐き気する、味が分からないと何を食べても同じ。ある日、唯一味がするものがあるとわかった。それは彼女も驚いたことだった。卵の味だった。卵か。思い出して見れば、子供の頃は卵アレルギーだった。彼女の祖母が鶏を育てていたから雛の世話は彼女の仕事だった。祖母は一所懸命、春になるとお母さん鶏の下にある卵を見守って、その母鶏のケアもしていた。水とトウモロコシの粉を与えて、復活祭の前に必ずあの卵から小さな雛が孵った。彼女のような小さな女の子が森へ出掛けて、その春の一番のスミレをたくさん持って帰ると雛がたくさん生まれると信じられていた。でも、雛にならなかった卵もあって、そのまま鶏の庭に捨てられて、割れた臭い卵から小さなまだ形がはっきりできていなかった雛の遺体が土の上にそのままになっていた。それを他の鶏が食べるのも見た。

鶏が小さな鶏を食べるイメージは、恐竜が他の恐竜の卵を食べるシーンと同じだと何年か後にわかった。そういえば、雛の世話を任された子供の彼女はもう一つの矛盾を発見した。産まれたての弱い雛の餌はトウモロコシの粉と水とゆで卵を混ぜたものだった。雛に卵を食べさせるなんて幼い彼女は驚いた。経済的ではないので、最初の二日だけ、その後はトウモロコシを水に混ぜて手で溶かしただけの餌になった。彼女は毎日それを作って、雛を日当たりのいい場所と草が綺麗な場所に連れていき、何時間も小さな雛の身体についていたシラミを一つ一つ取って殺した。シラミから血が出て、黄色いふわふわの雛にこんな赤い血が流れていたことが驚きだった。彼女と同じだ。血が流れている生き物だ。

毎日のように食卓に出ていた茹で卵と祖父がとても得意だった自家製ベーコンとラードのスクランブルエッグを食べると、彼女の身体は酷い蕁麻疹で苦しんだ。腕と足に赤い点々たくさん出て、痒みに耐えられないまま血が出るまで擦る。

彼女が特に好きだったのは、まだ産まれてない卵。週に一回ほど、来客がある時など祖母は鶏を殺して家族で丸ごと食べる。祖母は皮がついた足しか食べなかった。子供に美味しいところを残すため。鶏の臓物を捨て、雌鶏の中に生きていたらこれから産むはずだったさまざまなサイズの丸い黄色い鉱石のような卵をスープのため他の肉と煮てある。祖母はそれをレバーと一緒に彼女にあげていた。毎回。塩もつけないで。10分前に生きていた鶏のまだ産まれてない卵とレバーはとても美味しかったが、卵アレルギーの彼女の身体にはその夜にブツブツの森ができてかゆみと何日も闘っていた。すると祖父は森で拾ったハーブとラードの手づくり軟膏を塗ってくれた。次の卵を食べるまでなんとか頑張っていた。それでも卵を食べ続け、知らない間にアレルギーが治ってしまった。

いーすたー

北村周一

しずみそうな しみずのまちの  
かわぞいの  うみのにおいが  
みちみちに  のこるいっかく  
このあたり  かこうにちかい  
はずなのに  うみがみえない  
そのかわり  むこうぎしへと  
いくつかの  はしがたがいに  
ひとのめを  いざなうように  
のびていて  そのこうけいは  
それなりに  ふぜいがあって  
たちどまる  ひともちらほら  
いるようで  さすがにみなと  
まちらしい  どこへゆくのか  

しずみそうな しみずのまちの  
かわぞいの  ふるいいえいえ  
たちならぶ  とおりをすぎて  
かわのきし  はしのたもとに  
たちどまり  とおくみている  
かわむこう  ながめながめて  
いるうちに  はらりはらりと  
めのまえに  まいおりてくる  
ものがある  むかしえがいた  
えにっきの  かたいぺーじを  
むりやりに  めくりはじめる  
ようなおと  わすれたはずの  
できごとが  はらりはらりと
めのまえの  はしのたもとに  
ときをこえ  よみがえりくる

しずみそうな しみずのまちの  
かわぞいの  ふるいいえいえ  
たちならぶ  とおりをすぎて  
かわのきし  はしのたもとに  
たちどまり  ふりかえりみる  
みちのさき  おもてどおりは
そのむかし  ろめんでんしゃが 
ちんちんと  おとたてながら  
げんきよく  はしっていたし  
あのころの  でんしゃどおりは 
ひとのでも  おおいにあって  
だいしょうの みせもそれぞれ  
にぎやかで  まちはかっきに  
みちていた  おもいかえせば  
あのころの  ざわめきのなか  
おずおずと  いちりょうきりの
しでんから  ごえんはらって
おりてくる  こどもがひとり
いたことも  まんせいちょうと 
いうえきで  しでんをおりて 
まっすぐに  ひろいとおりを  
いっぽんの  はしにむかって
とぼとぼと  あるきはじめる  
しょうねんの そのあしどりは  
みるからに  おもおもしくて 

しずみそうな しみずのまちの  
かわしもの  ふるいいえいえ  
たちならぶ  とおりをすぎて  
かわのきし  はしのたもとに  
ひとしきり  あゆみをとめて  
かわむこう  ながめながめて  
ひとりきり  わたりはじめる  
いしばしは  おもったよりも  
つめたくて  ゆびのつめたて  
らんかんに  こすりながらに  
だらだらと  あゆみすすめる  
そのとちゅう いつものように  
ここへきて  おもいとどまる  
はしのうえ  くろくにごった  
どぶがわの  みずのながれは  
どんよりと  くらくよどんで  
それよりも  さらにおぐらき  
うつしみが  ゆらりゆらりと  
みずのもに  かげをおとして  
たよりなく  ゆれていたっけ  

しろじろと  かかるいしばし  
さむざむと  むこうぎしへと  
のびていて  わたりきるまで  
くらぐらと  はしのしたから  
もうひとり  のぞくじぶんが
いるようで  わたりおえても  
きがおもい  さかのうえには  
せんとうが  ふたつながらに 
じゅうじかを あたまにのせて  
さっきから  こっちをむいて  
こわそうに  つったっている  

しかたなく  てんをあおいで  
にちようの  あさのくうきを  
おもいきり  すってははいて
かねのねが  いそげいそげと  
よぶように  なりだすまえに  
きょうかいへ あゆみすすめる  
さかのみち  あんそくにちの  
おつとめも  まもるほかなく  
せつせつと  あさはしょくじも 
とらないで  いわれるままに  
いえをでて  ひとりきている  
このさかの  みちのとちゅうに 
いりぐちの  いしのかいだん  
ひだりてに  みえてきたとき  
なぜかしら  ほっとしたっけ
         
そろそろと  いしのかいだん  
のぼったら  みどうのまえの  
なかにわに  すでにおおくの  
ひとたちが  あつまっていて
とくべつな  みさのはじまり  
まちながら  はなしをしたり  
わらったり  だれもがみんな  
にこやかな  かおをしていた  
とつぜんに  からんころんと  
きょうかいの かねがおおきく  
ならされて  しんじゃのひとも 
そのこらも  みどうのなかに  
しずしずと  あつまりだして  
おもむろに  しさいはみさの  
はじまりを  つげたのだった 

とくべつな  みさがはじまり  
ろうろうと  しさいのこえも  
とくべつな  ふっかつさいの  
にちようび  みどうのなかは  
とくべつな  いのりとうたに  
みたされて  いつしかみさは  
おわりへと  みちびかれつつ  
しずけさに  つつまれていた

きょうかいの かねがふたたび  
ならされて  しさいにつづき  
つきびとが  みどうのそとへ  
あしばやに  さってゆくのを  
かわきりに  とびらがひらき  
いっせいに  しんじゃのひとも 
そのこらも  みどうのそとへ  
ぞろぞろと  ながれるように  
でていった  だれもかれもが  
なかにわの  あかるいほうへ  
つどいだし  ふくらみかけた  
ふじだなの  はなのきのした  
からふるな  たまごのやまに  
でくわした  ぱすてるからーに 
そめられた  たまごのやまを  
まんなかに  おやもこどもも  
みんなして  よろこびのこえ  
つつましく  あげたのだった  

やまもりに  ざるにもられた  
ゆでたまご  ぱすてるからーに 
そめられて  おしえのにわに  
はながさく  ざるのなかから  
ひとつずつ  わけてもらって  
からふるな  そのゆでたまご  
むきながら  くちにはこべば  
たのしくも  きはずかしくも  
あったっけ  たまごのからは  
ぽろぽろと  むかれておちて  
なかにわの  じめんのうえに  
あでやかな  はなをさかせて  
あたたかな  はるのおとずれ  
ほのぼのと  ちりばめていた

ちちがまず  かみをしんじて  
ははがその  あとをおいつつ  
さんにんの  こらをなかまに  
ひきいれた  くるしいことが  
あったのか  くやしいことが  
あったのか  それともほかに  
なにごとか  ゆるせぬことが  
あったのか  そのいきさつは  
なぜかしら  おさないこらに  
しらされる  ことはなかった  

それなのに  とおいいこくの  
かみさまは  どこにいたって  
わたしらを  いつもまもって  
くださると  ときふせられて  
そのながい  ながいおはなし  
とうとうと  きかされながら  
ときどきは  かみしばいまで  
みせられて  はなしのたねは  
いつまでも  つきることなく  
つづくとも  けれどいつでも  
けつまつは  おなじところに  
なんどでも  おちてゆくのに  

しずみそうな しみずのまちの  
かわぞいの  ふるいいえいえ  
たちならぶ  とおりをすぎて  
かわのきし  はしのたもとに  
たちどまり  とおくみている  
かわむこう  おもいおこせば  
きりすとの  だいじなしとの  
そのひとり  せいよはねとは  
もともとは  がりらやという  
みずうみの  りょうしであった 
あにはなを  やこぶといって
おとうとの  よはねとともに
がりらやで  りょうをしていた 

ひるがえり  みればそもそも  
わかいころ  しみずのりょうし 
でもあった  ちちがよはねと
いうひとを  しらないでいる  
はずもなく  おりにつけては  
ふりかえる  こともしばしば  
あったかと  おもうこのごろ

しずみそうな しみずのまちの  
かわしもの  うみのにおいが  
みちみちに  いろこくのこる  
このあたり  かこうにちかい  
はずなのに  うみがみえない  
そのかわり  むこうぎしへと  
いくつかの  はしがたがいに  
ひとのめを  いざなうように  
のびていて  そのこうけいは 
それなりに  ふぜいがあって  
きしべには  あゆみをとめて  
このかわの  けしきにみいる  
ひとかげも  あちらこちらに  
みえはじめ  おもいおもいに  
りょうしまち らしいゆうべの  
おとずれを  まつかのように  
おりてきている

言葉と本が行ったり来たり(15)『香港少年燃ゆ』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 桜も満開、春ですね。重いコートも不要になって身も軽い。私のベランダではフリージアが咲き始めました。
返信に半年もかかってしまい、すみません。身内に入院する者が出たり、住環境の変化があったり、自分自身についても考えねばならないことが多く、落ち着いて机に向かう時間が取れずにいました。八巻さんはお変わりありませんか。お元気ですか。

 先週になりますが、入国条件が緩和されたと聞き、香港に行ってきました。観光客が本格的に増える前に、ささっとチケットを取って、ささっと支度をして、ささっと飛行機に乗る、もちろんひとり旅です。
 国際線の飛行機に乗ったのは、2019年の秋、ブエノスアイレスへの旅以来。最後に香港に行ったのはその前だから、3年9ヶ月ぶりです。コロナウィルスが流行る前は毎月訪港していた時期もあるほど頻繁に足を運んでいた街なのに、だから空港から市街に入って行く時には、タクシーの中で柄にもなく緊張してしまいました。疎遠になっていた友達と再会するみたいで。

 あいにく滞在中はずっと曇天、時々雨、時々豪雨。一度も空が明るくなることはなかった。そのため、すぐには気づかなかったのです。あれ?香港って、こんなにどんよりした街だったかな?と首をかしげ、だけど、きっと陽の光さえ差せば、埃を払ったように色鮮やかな街が浮かび上がってくるはず―私はそう確信していました。でも、その夜にはわかった。3年9ヶ月の間に、香港名物、路上に所狭しとせり出していたネオンサインはすっかり撤去され、目抜き通りの彌敦道(ネイザンロード)までもが薄暗い。エネルギッシュで、グラマラスで、混沌としていて、キラキラと眩しい、そんな香港は跡形もなく消えていた。そうか、ネオンという美しい羽根をむしり取ると、煤(すす)けたビルが延々と建ち並んでいる、それがこの街の素顔だったのか。まるでジャ・ジャンクーの映画に出てくる中国の地方都市みたい・・・。そう心の中でつぶやいてからすぐに、いや、香港も中国の地方都市ではあるんだけどね・・・とつけ加えたのですが。
 夕食の後、散歩していると、灯りのつかないビルの多さが目につきます。立ち退きが済み、どのフロアも無人となったビルがあそこにもここにも。入居者のいる暗い窓と退去後の暗い窓は、暗さが違うからわかるのです。ここと隣とそのまた隣のビルを解体して、大きな区画にしたら新しいビルを建てるのね。そしてそれはいままで建っていたのとは全く趣の違うものになる、たぶん。
 10年程前、九州大学の先生が書いた『香港の都市再開発と保全―市民によるアイデンティティとホームの再構築』という本を読み、香港の再開発については既に多くのことが決まっていると知りました。だけど、頻繁に足を運んでいたために、私は街の変化を“少しずつ”としか感じ取れなかった。けれど、今回の滞在で実感させられました。実際はそれが激流のごとく進んでいることを。
 私の憧れは次々と新しい何かに置き換わっていく。それでも私は香港に通い続けるのか。ネオンの代わりに設置されたデジタルサイネージを見上げ、自分に問うてみるけれど、正直なところまだよくわかりません。

 そんな香港滞在中に読んでいたのが、『香港少年燃ゆ』という本。2019年に起きた香港での大規模デモで出会った少年との3年に亘る交流を、フリーライターの著者が綴ったルポルタージュです。
 15歳の少年ハオロンは、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や周庭(アグネス・チョウ)のような高等教育を受けた青年たちとは違い、教養もなく、やることなすこといい加減、勇武派として民主主義のために闘っていると自負しているけれど、その根拠もあやふやです。でも、その浅はかさも含め、彼は実に少年らしい少年でもある。確かに行き過ぎた暴力行為に及んだのは、こういった少年たちだったのでしょう。けれど、ともすれば一方的な非難に晒されそうな彼の危うさに、著者は、《 賢く理性的で、十分な知識と教養のある者しか政治的な発言ができないのだとしたら、その社会は民主的な社会とは言えないだろう。無知で短絡的で粗暴で直情的な思いもまた、民主的な社会を形づくる一つの意見に違いない。》(第7章別離 306p)と正面から向き合う。このルポルタージュの秀逸な点は、国安法が施行された後の、つまりは実質上運動が敗北した後も少年を追い、描いているところにあると思うのですが、夢破れ絶望しても、ひとは生きていかなければいけないという現実、そしてその現実をその若さで受け止めなければならないという切なさが、読後の胸に痛みとして残ります。

 それからもうひとつ、著者の慧眼にはっとさせられた箇所がありました。
《香港という非常にコンパクトな街は、換言すると、“国外”に出る術を持たない凡庸な人間は、一生このミニチュアのような空間で過ごさねばなないことを意味する。(中略)「とりあえず東京に出たい」、「大阪に出たい」。人生のどこかで、自分の出生地や現在地から離れ、遠くの町で人生を仕切り直したいと思うことは、誰しもあるのではないだろうか。あるいは、進学や就職で、予期せずに仕切り直すことも多い。(中略)日本人を含む多くの国の人々が当然のようにしていることが、香港人にとっては、かなりハードルが高いことなのかもしれない。グローバルに通用する高度なスキルがない人間は、“遠くの町”へ行くことができないのだ。ハオロンのような八方塞がりの若者だったら、今いる場所と違う遠いどこかへ行き、人生を仕切り直すのは決して悪くない選択肢のはず。それが容易ならざることは、香港人の抱く閉塞感や不満の一因になっているに違いない。香港には“上京物語”が存在しないのだ。》(第4章母親 122p)
 私にとって、知り合いがひとりもいない香港は、東京での暖かくも煩わしいつながりを一時(いっとき)断ち切ることのできる場所です。だから、香港にいる私の心の中には風が吹き抜ける。その解放感を、羽田からたった4時間の移動で味わうことができる。だけど、香港のどこかにいる少年ハオロンがそういった場所を手に入れるのは難しい。彼と私は非対称の関係にある。だからどうということでもないのです。けれど、そのことを考えると、香港の夜の街がほんの少しだけ、私には違って見えたのでした。

 久しぶりということもあり、長い手紙になりました。
 次回はもっと短くしますね。それでは、また。来月に。

2023/03/31
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(14)『夏』八巻美恵

しもた屋之噺(254)

杉山洋一

この一カ月余り人にも会わず、ただ粛々と仕事に明け暮れていて、母は米寿を迎え、息子は18歳になりました。Covidが話題に上らない代わりに、ウクライナ侵攻や度重なるシチリア沖の移民船海難事故など辛い記事が続き、あまり熱心にニュースを読むこともしませんでした。
コロナ禍で我々が気が付かなかった、もし気が付かない振りをしてきた歴史の次頁を、そろそろ目をあげて読みださなければいけない時がきているのかも知れません。急に春めいてきて、庭には小さな花が沢山咲いていますが、朝晩はまだぐっと冷えこみます。

3月某日 ミラノ自宅
町田の母が米寿を迎えた。彼女が使っているコンピュータは旧いWindows8で、メーカーサポートも中止されたので、次回帰国したら新しいコンピュータを贈ろうとおもう。暫定的にカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」と「日の名残り」とラベンダーオイルなどを届けた。
彼女が今もこうして元気に暮らしているのは、長い間熱心に水泳に打ち込んでいたからだろうか。離れて暮らしているので、両親ともに健康であるのは何にも替え難く、心から感謝している。元来母は童顔で小柄なので、歳とともに、何だか可愛らしいお地蔵さんのように見えたりする。なるほど地蔵の顔は中性的で、童子のようでもあり、達観した老人にも見える。
母が大事に育てている蘭が幾つかあるのだが、今年はどれも驚くほど見事な大輪を咲かせていて、彼女は鼻高々。

3月某日 ミラノ自宅
音楽が痩せて聞こえるのは、発音と発音の間の空間に音楽が満ちていないからではないか。沈黙が物質的な無音状態に陥ると、聴き手の脳は自動的に音の表面をなぞり始める。沈黙は無味乾燥とした箱になり、演奏されている空間から有機性が失われてゆく。
サラと息子がシュトックハウゼンの「ソナチネ」とダニエレの新作を弾くので、国立音楽院にでかける。ピアノパートは、ケルン音大卒業時に書いたもので、それに後からヴァイオリンパートを付加したものだそうだ。シュトックハウゼンの遊び心がしばしば顔を覗かせるのも愉快だし、彼が既に当時の技法の先を見つめているのを感じる。実験的であったり挑戦的であったりするためには、常に真面目腐っている必要はなかった。こうして何の先入観も持たない若者がこの作品を弾くのは、見ていて気持ちがよい。
ダニエレの「パッサカリア」。音は極端に少ないが、ヴァイオリンは単音を最弱音でとても長く弾き続けるので演奏は難しかったはずだが、見事で有機的な演奏であった。
シュトックハウゼンがミラノの国立音楽院を訪れた際の逸話が披露され、それによると舞台照明を最大限明るくするよう執拗に注文を付けたことと、演奏会後の会食では、家族が演奏した自作のテンポが指定と違うことに神経質になっていたとのこと。

3月某日 ミラノ自宅
労働者会館に、アルフォンソが弾く間奏曲6番を聴きにゆく。決して狭い会場ではないのに、超満員の人いきれで、愕く。自分で書いておきながらこの曲を聴くのは2回目。
3.11の直後で、全く作曲ができなくなり、音楽表現そのものがわからなくなった時期に書いたのは覚えていたが、どんな曲だったか、殆ど記憶にも残っていなかったし、思い出したくもなかった。単調で、殆ど音らしい音も存在しない。まるで魂を抜き取られた心地で毎日を暮らしていたし、音楽によって自らをせめても亢進させ奮い立たせようと、何かを模索していたような記憶がある。
我乍ら聴いていて違和感を覚えたのは、曲の殆どを、思いの外明るい和音で書いていることだった。文字通り自分の躰と音が完全に分離してしまっていて、文字通りまるで自分が生きていないような、さもなければ、正気を失って薄ら笑いだけが独りでに続いているような、居心地の悪さであった。最後にかすかに現われるコラールだけが、自分の裡に残っていた音楽なのだろう。
アルフォンソの演奏は実に濃密で、ひたむきな姿に心を打たれる。ダヴィデのクラスでは、この曲を学生に弾かせているそうだ。
大江健三郎逝去。レプーブリカ紙は真ん中に大きな肖像写真を掲げ、両面を割いて追悼記事を掲載している。

3月某日 ミラノ自宅
息子18歳の誕生日。日本でもイタリアでも成人として扱われるようになる。夜、知合いの高級日本料理屋にでかけ、二人ならんでカウンターで寿司を握ってもらう。揃って酒を嘗めるのも初めてだが、何とも不思議な心地だ。18歳で成人は時期尚早という気もするが、ともかく息子が未成年を終わるまでを見届けたので安堵したともいえる。
自分が18歳の頃は、決してこんな否定的な空気が世界に充満していたわけではなかった。当時自分が住んでいた東京は、皆が浮足立っていてどこか熱に魘されているようでもあって、こんな時代が永遠に続くはずがないと皆感じてはいたけれど、時代を先に進めたい、歴史の次章を読みたいという、皆の強い希望に満ちていた。
ベルリンの壁が壊されソ連が崩壊した時、チャウセスクが逮捕された時、これからは世界が一つになり、平和で幸福な時代が訪れると信じていた。ポジティブなエネルギーが世界に充満していて、我々若者もそれを肌で感じていた。
近い将来ヨーロッパは通貨が統合され、パスポートなしで往来できるようになるらしいが、どうしてそんなことが実現できるのか、絵空事で信じられなかった。
あれから世界は一巡したのだろうか。こんな時代に息子が成人を迎えたことを、親として彼に何と言うべきか。彼が成人して法的責任はなくなるけれど、彼が今、そしてこれから立ち向かう現実は、我々が作り出してきたものだ。彼が倖せになるのも、不幸になるのも、何某かの要因は親である我々にある。
強く、したたかに生きて行ってほしいと思う。我々が甘えて全て壊してきた半世紀を、彼らが建直してほしいと切望する。その為には我々よりずっと強靭でなければならないだろう。18歳の息子は、それには随分頼りないようにみえるけれど、人間はその環境に適応してどうにでも強くも弱くもなれる。余りに自分が頼りないと思ったからイタリアに移住して、少しずつ逆境に耐えて今まで生き延びてきた。恐らく今の息子の方が、当時の自分より確り物事を判断できる気もする。

3月某日 ミラノ自宅
朝起きて、布団の中でただ黙って作曲中の曲を考える。自分の裡には何も音楽がない。目の前のスクリーンに音が映り何をすべきか考えるが、そのとき音には感情は入らない。
逆に、時にはピアノで音を鳴らしてみることもある。そのとき、ピアノから聴こえてくる音には、明確に、何某かの表情が現れていて、はっとする。
自分の裡に、演奏するときに似たマグマのような触感を感じ、それを楽譜に写し取りたいと思うときもある。そんな時は、その触感だけを体の隅に記憶させておき、また目の前のスクリーンに音符を投影する。
作曲中のヴァイオリン協奏曲は、その触感が割と強く作品に働きかけているようにおもう。まるで洗練されていないと自覚しているが、ごつごつ、がさがさした手触り、何とも形容しがたいこの数年自分の中で常に脈々としている一種のフラストレーションのようなものは、強く反映されている。
ゴッホみたいな筆致で書けたらどんなにか良いだろうと思う。彼は本当に洗練されているし、色調もあまり暗くない。自分の色調は、どんどん暗くなってきているから、どう足掻いても近づくことはむつかしい。せめて、あの筆致だけでも真似したいと思う。
岸田首相キーウ訪問。

3月某日 ミラノ自宅
チュニジア沖で移民船が難破。チュニジアのスファクスから出港しイタリアを目指していた移民船が沈没し、現在のところ収容された死亡者は29名。
この週末だけでシチリア沖では3000人のアフリカ系移民が救助されたという。今年に入ってから既にアフリカ人2万人が海路で入国している。カラブリアクトゥロ沖では、2月26日にトルコから出港した移民船が沈没し、91人が亡くなる事故が起きたばかり。

3月某日 ミラノ自宅
和音で空間を支配するのは、自分で作曲するときはどうもしっくりと来ない。方向性をつくるのが下手だからだ。トータルセリエール的なものも、機能和声の方向性の否定から端を発しているので、自分が使うとやはり飽和状態になるので苦手だ。
クセナキスのように、それをずっと巨視的にみて、古典的な音のエネルギーを素直に表現する方が自分には近しい気がする。クセナキスも、音の選択で篩にかけた旋法を使うこともあった。旋法そのものには音楽の方向性は発生しない。
非和声音という言葉がある。和声構成音に属さずにいるから、ちょうど磁石のように、非和声音が和声構成音にひっぱられるようなエネルギーが生まれ、緊張がうまれたり、解決するときに開放感と安心感を覚える。一つの事象が別の事象へ変態してゆくとする。コンピュータを使って極めて高い精度でそれをすると自然すぎて方向性やエネルギーや張力すら感じないかもしれないが、敢えてアナログでやれば、網目が粗すぎて事象を受け取る側が補填、補正しながらついてゆかなければならない。そこには能動的なエネルギーが発生するのではないか。
人工知能ではできないこと、情報の蓄積では処理できないこと、その網目の粗さから手触りが浮き上がってくること、それは一体何であるのか、模索している。

3月31日ミラノにて

220 良心

藤井貞和

国の利益よりも大切な何かがあると教えることのできる人間の先生。

不利益になっても表現されなければならない無言の叫びがあると教える人間の教室。

 

 国民感情が高まっている時、理性が示す本当の価値は国民感情にないと、

はっきり言うことができる、人間の芸術家、人間の思想家。

 

最後に、人間の兵士たちへ。もし思想が、あなたたち兵士の持つ、もっとも人間的な、

何かをなくそうとするならば、あなたたちはその思想にさえも銃を向けるの?

 

(言おうとしても、消されるね、人間の良心。むらさきいろのつくえのうえに、人かげはもうない、消されたから。世界は当て字にただ一つの意味、そんな書き方を消す。空色のペンがひらかれた窓を消す、なくす手で。帰らないよ、消されるから。)

誤用・誤解、わざと…

高橋悠治

1960年代までは、数式や計算で、想像できなかった音の風景を造り出せるつもりでいた。でも、確率分布のそれぞれに「顔」があると言われてみると、それぞれの「型」のなかでうごいていただけだったのか。

点の組み合わせではなく、短い線の配置で音を思い描き、描いてみる。これではバロックとちがわないかもしれない。ちがう点があるなら、音よりも、前後の間がだいじで、「はしり、なごり」がおもく、「さかり」はかるくすぎるだけ、という点、というか、それだって、まだ「つもり」にすぎないが。

これも通過点にすぎない、とする。思い描くのは、じっさいにまだやっていないこと、その思いがつきまとっているあいだ、じっさいの道(未知)は、さらにずれていく。でも、それについて考え、ことばにして描いてみないことには、ずれは起こらないだろう。引用もまちがった使い方のきっかけ。