瓦礫の中で自撮りする16歳の女子高生はシリア難民

さとうまき

翌朝、僕はイネギョルというブルサの東側の村に行くことにした。ここには、カハラマンマラシュで被災したシリア人家族が避難しているというのでお見舞いに行くのである。

その家族というのは、サラーハの父親の妹だ。サラーハという男の子はシリアのアレッポにいる小児がんの子で、父親が2015年に行方不明になり、母親一人で育てるのは大変だろうということで、2020年から僕がお金を集めては仕送りをしている。というのも、ダマスカスの専門病院に行くのに毎回一万円はかかってしまう。行方不明になったお父さんの妹一家がトルコで暮らしていたのだが、カハラマンマラシュで地震の直撃を受け娘がなくなったというのだった。イネギョルはイスタンブールから車で3時間はかかるらしいが、大地震のために何かしなければという思いで旅程を一泊のばしてこの家族に会いに行くことにしたのだ。

イスタンブールのホテルは、一泊5000円くらいだが、朝飯がうまい。オリーブに何種類ものチーズ、サラダも美味だ。意外かもしれないが中東に行くと野菜がたくさん食べれるのである。

朝から小雨が降り肌寒い。アブドラとムハンマドは寝坊したのか約束の時間に一時間遅れてやってくる。結局僕らはフェリーに乗って、マルマラ海を渡ることになった。舟の旅は快適だったがどんよりとした天候で、灰色の海は不気味にも見えた。昼過ぎには、無事にイネギョルにつく。

被災した家族は、カハラマンマラシュをさり、兄弟の家に身を寄せていた。地震の話に入る前に、どうしても聞きたかったこと、サラーハのお父さんのことだった。
「兄は、行方不明になりました。彼の車は見つかり、身分証明が車の中にあったのです。タイヤは燃やされていました。しばらくしたら、シリア政府の刑務所から釈放されたという人がいて、兄と一緒に刑務所にいたというのです。彼は私たちに連絡してきて、情報がほしいならお金を払えと言ってきた。それは、私たちが払える金額を超えていたし、おそらく詐欺師だったと思います。」
サラーハの父はおそらくイスラム国に殺された可能性が高いが、いまだに母は、アサド政権が発表する恩赦のリストの中に夫がいるかを探している。

妹の一家は、2015年にアレッポを出てトルコに移り住んだ。夫は仕立て屋を営み小さなワークショップを持っていたという。地震が襲い、気が付くと瓦礫の中にいた。妻と夫は、12時間瓦礫の中に閉じ込められていたが隣人に救出された。それから一時間後に13歳の双子の息子たちが救出。頭にけがをして出血していたが、大事には至らなかった。

娘3人は閉じ込められたままだった。サラ(18歳)イスラ(16歳)と、マルワ(14歳)だ。イスラはもう自分は死ぬことを覚悟していた。そしてスマホのバッテリーが残っている間に、自撮りした。「私が生きていたことをしっかりと家族に残したかったの」彼女が見せてくれた動画は、がれきの中に挟まっていて、殆ど身動きが取れないでいる自分の姿だった。妹のマルワにも呼びかけるが、声はするもののどこにいるのかわからない。数時間するとマルワは、呼びかけても答えてくれなかった。ものすごく喉がかわいたという。
「幻想をみたの。誰かがやってきてくれて、私に水を飲ませてくれた。助かったと思ったけど、それは幻想だった。」

父もスマホを見せてくれる。「ここにうずくまっているのが私だ。娘たちはこの穴の中にいる。」最初の一日目は、トルコ政府もパニックになっており、誰もレスキューに来てくれなかったので、友人たちで掘り出して救援活動をやっていた。簡単なドリルで穴をあけて行って埋まっている人たちを救出している。穴の中をのぞきながら娘たちが出てくるのをじーっと待っている父の後ろ姿が映されていた。

2人の双子の少年は、興奮気味に当時のことを語り、ムハンマッドの通訳も追いつかない速さでしゃべりまくっていた。僕は、絵に描いて説明してもらい何とか状況を理解していた。

イスラの目の前に光が現れ、気が付くと病院に運ばれていた。地震が発生してから40時間後だった。サラも無事だったが、マルワは、さらに数日後に遺体となって発見された。
「7日後に同じアパートで7歳の女の子が生きて発見されたのに」父は悔しがった。
これからどうするのです?
「わかりません。カハラマンマラシュにはもう家もない。いつまでも親戚のお世話になっていることもできないので、住むとこをまず探さなければ」

トルコにいるシリア難民は350万人。彼らの存在は、国の財政の負担になっている。今回の地震で輪をかけて、トルコ人たちの冷たい目線を感じるという。先日行われた大統領選挙でも現職のエルドアン大統領、対立候補のクルチダルオール氏も難民をシリアに返すことを選挙公約にあげていた。

シリア難民たちにとっては厳しい状況だ。がれきの中で、生きている事を伝え残そうともがいていた、16歳の少女の強さに胸が撃たれた。まさに、シリア難民が置かれている状況を象徴しているかのようだった。

しもた屋之噺(256)

杉山洋一

久しぶりにミラノに戻ると、とても不安定な天気が続いていて、毎日照り付ける太陽があるかと思うと、夜には酷い雷雨に見舞われて、朝には街中の道路が冠水しています。お陰で、イタリア北部の旱魃は大分緩和されましたが、エミリア・ロマーニャでは甚大な洪水被害が尾を引いています。雨は落ち着いても、2度目の氾濫のあと、もう10日以上経っているのに冠水が収まらず、電気も回復していない箇所があります。衛生問題が深刻になっています。しかし旱魃による農業被害のため、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルは、EUに総額4億5千ユーロの援助を求めていますが、ウクライナ侵攻も相俟って、生活費全体の価格高騰のスピードは緩みません。イタリアの各地の大学前では、学生たちがテントを張り、家賃が払えないと抗議する運動が広がっています。

5月某日 ミラノ自宅
整体のヴァーギさんに診て貰うと、軽く触れられているだけなのに、肋骨はじめ、躰全体が変化してゆく。あれは一体何をやっているのか不思議で仕方がない。自転車ももう乗って良いと言われる。肋骨よりもむしろ、そのせいで身体全体が歪んでいる方が問題だという。
施術後、伊語訳江本勝「水からの伝言」を引っ張りだしてきて、この名著について君と今度語り合いたいと言われ、言葉に窮す。

5月某日 ミラノ自宅
隣の部屋から、息子が練習する「エオリアン・ハープ」が聴こえてくる。これを耳にする度に切なくなるのは、コロナ禍最初の厳格なロックダウンで、彼と家人が日本に戻り、離れて暮らしていた時のことを思い出すからだろう。あの時は、もう二度と家族の顔を見られないかもしれない、と覚悟を決めて暮らしていた。
世界保健機関は新型コロナ緊急事態宣言終了を発表。累計感染者数は約7億6522万人。累計死亡者数、692万人。神経が麻痺しているのか、飽和状態なのか、この数字をどう捉えてよいか分からない自分自身に、少なからず当惑している。

5月某日 ミラノ自宅
今年初めての芝刈り決行。家人には、芝刈り機のコードを持っていてもらい、刈った芝を線路脇に捨てるのも彼女に頼んだ。ダリオ・マッジの訃報にショックを受ける。本当に温和でよい音楽家だった。最初に彼の曲を聞いたのは、ドナトーニの「Toy」が収録されていた、チェンバロとマリオリーナ・デ・ロベルティスのチェンバロとトリオ・ディ・コモのレコードではなかったか。彼の作品の指揮を何度も頼まれかけていたのに、結局実現できずに亡くなってしまい、無念でならない。

5月某日 三軒茶屋自宅
3年ぶりにローマ経由で日本に帰国して、感慨を覚える。アリタリアは倒産し、イータに引き継がれたが、昨年暮れまでイータはコロナ禍の入国規制が厳しい日本向けの旅客便は飛ばさなかった。漸く規制緩和後に日本便が就航したので、今回初めてイータに乗った。ローマのラウンジは以前のままで、懐かしい。機内は満席で、9割以上がイタリア人、その殆どが日本を訪れる観光客のようであった。こんな経験は30年近くイタリアに居て初めてで、ただ驚くばかりだ。日本政府はこの3月末にも、「観光立国推進基本計画」を閣議決定していたから、さぞ喜んでいるだろう。左胸は未だ少し痛い。

5月某日 三軒茶屋自宅
母の日、米寿祝を兼ねて町田まで母にPCを届ける。胸の痛みは普段はさほどでもないが、満員のバスなどは甚だ恐怖を覚える。胸の怪我は水を吸い込む海綿のように、体力を吸い取ってゆく。
功子先生宅へインタビューに出かけた折、隣の福泉寺で菅子先生ご夫妻のお墓に手を併せる。何でも丁度お施餓鬼の日だったそうで、お参りをする人で思いの外お墓は賑わっていた。
八幡神社へ足を向けると、神社の境内にひっそり佇む、一発の砲弾に気が付いた。近くで掃除をしていた氏子に尋ねると、戦後掘り出されて、そのまま展示されているとのことだが、詳細不明だという。手前には小さな碑があって、丗六年だか、廿六年と彫られているらしいと何んとか読めるが、それ以外は消えてしまっている。
すぐ隣には、日露戦争の15、6人の出征者と9人ほどの戦没者名簿が彫られた明治40年の大きな石碑が立っていたから、ふと当時の砲弾かと思ったが、日露戦争で代々木に砲弾直撃とは聞いたことがないから、間違いなく太平洋戦争時の空襲時の不発弾なのだろう。
功子先生のお宅は、当時、この一帯で唯一焼け残った邸宅だったと聞いた。
何も覚えていないけれど、最初に功子先生に連れられて阿佐ヶ谷の三善先生宅を訪れたとき、先生は、パリから届いたばかりだと言うリラの花束を先生に贈ったところ、三善先生は何だか不思議な顔をされたという。それで、帰り路、ふと見れば、辺りには沢山のリラの花が咲き誇っていたそうだ。母にその話をすると、三善先生は当時、「この子には手伝いをしてもらいますから」と笑っていらした、と話してくれた。お約束したお手伝いがまだ仕上がっていなくて、先生にはただただ申し訳ない思い。
功子先生に、息子がカニーノさんのところに室内楽を習いに行っている、というと、以前、掃除をするときには、決まってカニーノのレコードをかけていた、と教えてくれた。輝くような音の彼のレコードをかけると、掃除が捗るのだという。わかるような気もする。
メローニ首相来日。洪水被害が広がっているから、訪日するのか訝っていたが、結局G7の先頭を切って空軍の政府専用機で来広。

5月某日 三軒茶屋自宅
14時起床。時差呆けを治したいが、胸が心配で、しっかり寝ないのも怖い。今日も床に就いたのは朝の6時であった。尤も、胸は多少疼く程度。先月まで、折れた3本の肋骨が笑う度に体内でジャラジャラと音を立てて不快極まりないどころか、激痛であった。家人に蕎麦を茹でてもらい、啜ろうとすると思わず涙が出てきたし、くしゃみが出た時には息が止まり、なるほど肺を患うとこうなるのかと、妙な覚悟までできた。
絶対安静を命じられながら、学期末が近づいていて日本にも行くので休講にも出来ず、結局学校には通ったが、学生たちは笑うとこちらが痛いのが分かっているので、出来るだけ笑わないように努めてくれた。ところが、そうすると余計皆が可笑しくなって笑ってしまい、肋骨もジャラジャラ音を立てて笑ってくれる、という悪循環でもあった。ともかくあんなことはもう御免である。普段、どれほど健康を享受して暮らしてきたのか、痛感する毎日が続く。
先月の肋骨骨折の折、一週間経って救急病院に駆け込んで、医者に呆れられた。一週間経って生きているのだから運が良かった、大丈夫だと真面目な顔で言うので、妙な冗談を言う女医だと思っていたが、その後かかりつけ医の再診の折にも全く同じことを言われたから、あれは冗談ではなかったのかと気が付き、初めて青くなった。ここ数日俯せにもなれるようになったし、かなり恢復が進んだ感あり。
ゼレンスキー、仏機で来日。早足でタラップを降りる姿が印象的。つい先日、ローマを訪れたばかりだが、今回のG7に向けて色々と詰めの調整をしていたのかも知れない。

5月某日 三軒茶屋自宅
家人より、ピアノ・シティでの息子の演奏会は立派だった、今までとは意気込みが全く違った、と連絡あり。オーベルマンの谷やスカルラッティ、平均律、エオリアン・ハープなどのハーフ・プログラムで、数年前に左半身が麻痺していたのが信じられない。
メローニ首相、G7を切上げて水害被害対応のため帰国。この状況下で良く日本まで来たものだと、彼女の胆力をみた気がしていた。広島を発ってカザフスタンで給油し、そのままリミニに飛んだ。G7では、メローニが自分の携帯電話を取り出して、フィノッキオ山の土砂崩れのヴィデオを、スナク首相や、トルドー首相、フォン・デア・ライエン委員長に大統領に見せている様子が報道されていた。イタリアから政府要人が日本を訪れているさまを、イタリアの報道でその動向を追うと、少し不思議な感覚に陥る。EUをはじめ各国から支援の申し出を受けたが、まだ被害状況を把握すらできていないと話す伊女性首相の姿は、まるでローマの記者会見場で話しているようで、日本を訪れている実感は殆どなかった。
日本の報道では、皆が揃って会議に臨むさまや宮島の記念撮影など、当然ながら別の視点で切り出されたG7の姿が映し出されて、興味深い。
メローニは原爆資料館の記帳で、「本日、少し立止まり、祈りを捧げましょう。本日、闇が凌駕するものは何もないことを覚えておきましょう。本日、過去を思い起こして、希望に満ちた未来を共に描きましょう」としたためた、と報道されている。イタリア人らしさが感じられて、正直、なかなか良い文章だと感心したが、「本日、闇が凌駕するものは何もないことを覚えておく」、の下りは、原文はどう書かれていたのだろう、と思う。「本日」、というのも、おそらく「oggi」の直訳なのだろうが、真意が量りかねたのでイタリアの新聞を読む。
Oggi chiniamo il capo e ci fermiamo in preghiera. Oggi, non dimentichiamo che l’oscurità non ha l’ultima parola. Oggi ricordiamo il passato per scrivere, insieme, un futuro di speranza.
今日、いまここで、わたしたちはこうべを垂れ、ここに足をとめ、祈りをささげましょう。このような今日にこそ、暗やみが最後の言葉など握っていないことを、わたしたちは忘れてはいけません。今日、いまここで、わたしたちが経験してきた過去に、今一度想いを馳せようではありませんか。ともに希望に満ちた未来を描くために。

5月某日 三軒茶屋自宅
分からないことは、分かっていないことである。ソルフェージュ能力が低いのか、リゲティでもシューベルトでも、判然としない部分を少しずつ紐解いてゆけば、単に自分が分かっていなかったと自覚するだけだ。分らない部分も、聴こえない部分も、理解していないから、分からない。理解していないから、聴こえない。当然ではあるが、身につまされる。
リゲティのリズムにしても、自分が解らないのなら、因数分解のようにして単純な言葉に置き換える手間を、決して煩わしく思うべきではない。

5月某日 三軒茶屋自宅
ソリスト合わせの後、蛇崩の沢井さん宅に寄る。コロナ禍があって、お目にかかるのは3年ぶりくらいだろうか。思いの外お元気な様子にすっかり安堵した。コロナ禍のように、本当に辛い時を過ごした時にこそ、我々の底から深い芸術が生まれると信じる、との言葉に深く感銘を受ける。
後から佐藤さんもいらして、先日の一柳先生の演奏会の様子を話してくださる。悠治さんが柱にしがみついて出す音が、とても芸術的で感動した、と繰り返していらした。

5月某日 三軒茶屋自宅
神奈川フィルリハーサル終了後、練習場に程近い星川杉山神社に寄る。参道入口の「杉山神社」と書かれた鳥居の写真を撮っていると、「お参りですか、ようこそいらっしゃいました。どうぞゆっくりしていってください」と、突然背後から神主と思しき男性に突然声を掛けられる。
そのタイミングと台詞が、まるで杉山神社の神さまに歓迎されたようだったので、吃驚もしたが、大変愉快であった。
なかなか落ち着いた趣を湛えていて、大変居心地のよい神社であった。同姓の誼みか、厳めしさを感じさせない、素朴でしっとりした印象を受けた。
そのまま町田の両親宅に足を伸ばし、先日母に贈ったPCのセットアップをして、金目鯛の兜煮と、自家製きゃらぶき、山芋ソテー等々、豪勢な晩餐に舌鼓。美味。

5月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラ練習後、矢野君の結婚祝、近況報告を兼ねて、桜木町の駅ビル食堂で夕食。日本に帰国して2年で目覚ましい活躍ぶりだと目を見張る。現在18歳になった息子のことも、矢野君は5歳くらいから知っているのだから、思えば長い付き合いである。
軽い出血なのか、左眼の充血がここ2,3日続いていて、少し見にくい。この2か月、肋骨恢復のため、出来る限り躰を動かさなかったためか、立ったまま何時間かリハーサルをすると今まで身に覚えのないような困憊にも見舞われた。

5月某日 ローマ行機中
昨日の演奏会が、実に引き締まった良い演奏になったのは、オーケストラの力量は謂うまでもなく、コンサートマスターの戸原直さんに負うところが大きい。本番はとても演奏が収斂していて、月並みながら、室内楽を愉しむような面白さに酔った。副指揮の小林さんも実に的確で優秀だったから、すっかり甘えて助けてもらった。垣ケ原さん曰く、ソリストのMINAMIさんは数住岸子を思い出した、と形容していらしたけれど、なるほどその通りである。彼女の気迫と音楽の推進力にはすっかり舌を巻いた。
演奏会まで出来るだけ身体を庇いながら振っていたが、流石に本番はそうもいかず、リゲティで振り絞るような大音量を引出すところで、思わず左半身にも力を籠めてしまい、左胸が疼きながらシューベルトを振っていたので、すわ大事に至るかしらと焦ったものの、どうやら大丈夫のようだ。思えば、日本で指揮の仕事があるが大丈夫かと医者に相談した際、あなたどうせ右手で振るんでしょ、左手を使わなきゃ大丈夫よ、とイタリア人らしく軽くいなされたのが功を奏したとも云える。
演奏会1曲目のレスピーギを振っているとズボンがどんどんずり落ちて来て、内心困り果ててずっと腰のあたりを押さえて振っていた。先月から5キロも痩せたので、考えてみれば当然なのだが、慌ててレスピーギの後、袖にいらした鎌形さんにベルトを貸してもらい事なきを得た。
今朝、羽田に向かう前に、高野耀子先生宅で朝食をご一緒したが、頗るお元気で安心した。カラ元気よと仰るけれども、病気は気からとも言うから、カラ元気も強ちわるい遣り口とも思えない。ピアノを弾くとき、譜めくりが不便なので、AIで弾いている部分を認識させて、そのまま少しずつ後ろにスクロールしてゆく譜めくり機があると良い、と発明家のご友人に頼んでいるそうだ。
日本文化について。たとえば、畳は隣の部屋でも、隣の家であっても入れ換えて使える。西洋ならば、簡単に隣の部屋の床と入れ替えるという発想はない。和服は、生地を縦に裁っているから、さまざまな体型に合せて着付けが可能だが、洋服は、体型に合せて生地を曲線で裁つから、使いまわしが出来ないし、すぐに傷まないように生地を上下に入れ替えながら使ってゆく。もちろん、雑巾から襁褓にいたるまで、無駄なく再利用してきた。そんなお話を、十穀入りパンにカシス、チェリーとイチジクのジャムをつけていただきながら伺う。美味。
羽田空港では海老名さんを初め、以前のアリタリア成田スタッフの皆さんと、3年ぶりの再会を喜んだ。

5月某日 ミラノ自宅
昨日は朝8時半から夜8時半まで学校。2か月ぶりに自転車に乗り、ちょっとした感動を覚えた。朝は指揮レッスン、午後は聴覚訓練、夜は映画音楽作曲科試験。家人は今日から日本。晩御飯を食べながら、息子より、お父さんはどうやって作曲しているのか、旋律を思いつくのか、和音とか和声とか?と畳み込まれて言葉に窮す。モスクワ郊外にてドローン攻撃。暗やみが最後の言葉なんて握っていない、あらためて、そう信じたいと思う。

(5月31日ミラノにて)

パンチャシラの日によせて

冨岡三智

6月1日はパンチャシラの日(インドネシアの国民の祝日)。というわけで今月はパンチャシラ関連の思い出について。

●パンチャシラの日とは

この日の正式名称はHari Lahir Pancasila(パンチャシラ誕生の日)と言う。パンチャシラはインドネシアの国家五原則のこと。1945年6月1日(日本軍政期)の独立準備調査会の席上で、スカルノ(のちに初代大統領となる)によってその概念が提唱され、独立後に制定された1945年憲法の前文に掲げられた。1970年代末以降国民統合の象徴として称揚され、道徳教育として学校や公務員に浸透している。これが国の祝日に指定されたのは2016年、ジョコ政権下(2014~現在)になってからである。大統領はこの国際競争社会の中、パンチャシラ精神があれば逆境を克服することができると呼びかけたのだが、その背景には初の華人系キリスト教徒のジャカルタ知事・アホック氏に対するイスラム強硬派の抗議や、海外におけるISなどイスラム過激派の動きの活発化と国内の過激派団体の同調などがあり、多様性の中の統一の維持を強く打ち出したかったのだと思える。パンチャシラの5原則の第1項は唯一神への信仰である。インドネシアでは現在6宗教(イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンドゥー、儒教)が公認されており、このうちどれかを信教しなければならない。パンチャシラは宗教の別を問わず統合の象徴として存在している。

●2007年12月3日 タマンミニでのアンゴロ・カセ

この行事については、実は2008年1月号の『水牛』に寄稿した「外から見たジャワ王家~ジャカルタでのアンゴロ・カセ」で書いているので、そちらも読んでいただければ幸いである。ジャカルタのタマン・ミニ公園で開催されたアンゴロ・カセというイベントは、2007年1月から観光文化省の唯一神への信仰局(Direktrat Kepercayaan Terhadap Tuhan Yang Maha Esa)がタマン・ミニと協力して始めたもので、意見の異なるさまざまな信仰団体の人たちが直接意見を戦わせる場として設けられ、毎回ゲストスピーカーを招いて話を聞き、質疑応答が行われていた。実は2006年8月から就任した信仰局長(スリスティヨ・ティルトクスモ氏)が始めたイベントで、それ以前にも同様の機会がなかったわけではないが、長くは続かなかったらしい。私が出席したのは第9回目の開催だった。最初、まず全員起立して国歌「インドネシア・ラヤ」を斉唱し、続いてパンチャシラ(建国5原則)を唱える。インドネシアでは信仰と宗教は区別され、管轄も違う。このアンゴロ・カセに集うクジャウィン(ジャワ神秘主義)の団体は観光文化省唯一神への信仰局の管轄で、上でのべた公認6宗教は宗教省の管轄である。そのことはすでに知っていたが、信仰を持つ団体の拠り所もまたパンチャシラであるということに、私はこの場で初めて気づいた。

●2011年5月31日~6月1日 トゥガルで踊る

中部ジャワ州トゥガルにある信仰団体Padepokan Wulan Tumanggalのパンチャシラの日の記念式典で踊ってほしいと依頼がきた。この時でパンチャシラの式典は5回目くらいだったと私はブログに書き残している。ということは、上のタマンミニでのアンゴロ・カセ開始を機に始まったのかもしれない。段取りはまず前夜の5月31日夜に開会式。後援する観光文化省信仰局長(代理)やら警察やら市の関係者やら多くの来賓を迎えてホールで式典ののち食事、その後舞踊上演。私は自作の『妙寂アスモロドノ・エリンエリン』を披露した。翌6月1日朝9時から屋外の広場で国旗掲揚ののち、各種芸能の上演があった。この日は太鼓上演や東ジャワのレオッグなど大人数で大音量で上演するものが多かったが、私は1人でガンビョンを踊った。その後昼食があり、午後1時から4時まで「Pembinaan “Hari Pancasila”(「パンチャシラ」の育成)」をやったあと閉会式。この午後からのイベントがどういう内容だったのか思い出せないのだが、講演かディスカッションだったような気がする。

この信仰団体のパデポカン(施設)は、この種の施設としてはかなり規模が大きい方らしかった。確かに広大な敷地の中に開会式を行ったホールや国旗掲揚広場、信者たちが修行のため寝泊まりする建物が点在していた。修行のため信者はアスファルトの上に直に寝るということで、寝泊まりする部屋の床はアスファルトのままだったことを覚えている。さすがに私の部屋には敷物を敷いてくれたが…。またパンチャシラの日だけでなく、ジャワ暦正月、カルティニの日など、国の記念日に際してさまざまな式典を行っているのも、この種の施設としては他にないようだとのことだった。

実は2011年~2012年はジョグジャカルタで調査していた。今度、パンチャシラの日の記念式典で踊るんだよと知り合いの先生に知らせたら、インドネシアのために有難うという返事がきて、パンチャシラというイデオロギーの重みを少し実感したことを思い出す…。

●2011年9月16日バンドンで踊る

西ジャワ州バンドンにある信仰団体Budidayaの式典で踊ってほしいと依頼が来た。この団体はスカルノがパンチャシラの概念を打ち出すのに影響を与えたメイ・カルタウィナタ(Mei Kartawinata)が立ち上げた団体で、1927年の9月16日にメイに啓示となる出来事があって発足したようだ。RRI(国営ラジオ放送局)バンドン支局でその式典は行われた。これも信仰局が後援。私は自作「Nut Karsaning Widhi」を初演したが、実はこの式典のために作った曲である。音楽はスラカルタの芸大教員であるワルヨ氏に委嘱し、イベントの趣旨を伝えたところ、olah batin=心の鍛練をテーマに歌詞と音楽を作ってくれた。タイトルもワルヨ氏がつけ、「魂を研鑽し、梵我一如となる」という感じの言葉らしい。Budidayaの人たちに聞いた話だが、この団体を始め信仰団体が開催するイベントはしばしば過激なイスラム団体によって妨害されるらしい。西ジャワは中部ジャワよりもイスラムがきついからかもしれない。私がRRIにいた間は大丈夫だった気がするが、開催にこぎつけるまでにいろいろあったようだ。

●2011年大晦日 チャンディ・スクーで踊る

この時のことについては2012年1月号の『水牛』に「チャンディより謹賀新年」として書いている。これは、スプラプト氏が毎年注ジャワのチャンディ・スクー(ヒンドゥー遺跡)で開催している「スラウン・スニ・チャンディ」という催しで、これもやはり信仰局が後援するイベント。スプラプト氏はスピリチュアルな舞踊の第一人者とも言うべき人だ。実はこの時に私が上演した「Angin dari Candi(寺院からの風)」はバンドンで上演した「Nut Karsaning Widhi」と同じで、場に合わせてタイトルだけ変えたもの。私は衣装を借りに行った先で信仰局の人たちと鉢合わせしたのだが、彼らは芸術イベントが終わった後に開催される夜のお祈りで着る伝統衣装一式を借りに来ていた。ジャワの芸術家界隈には多いクジャウィン(ジャワ神秘主義)もインドネシア全土では少数派で、多数派のイスラム教徒からは受け入れられにくい存在らしく、信仰局としてはクジャウィンの活動をバックアップしたいということだった。


というわけで、6月1日が来ると、この2011年の一連のイベントを思い出す。

どうよう(2023.06)

小沼純一

天には
楽をかなでるものたちが

にしもひがしも
楽をかなでるのは
おんなひと
にみえるのは
どうしてなんだろう

あのひとは
てんにょのようなひとだった
ちょっと地からういていた

まえに大陸の
石窟寺院で
飛天をさがしたんだった

ひらひらとまう
ようなかんじではなく
ただちょっとういている
あのひとはそんなだった

楽をかなでる
すって はく
いいなあ いいえらびだったなあ
いまも手にして
かなでてる
すこししたら
またきかせてほしいなと

さしさわり
ない
やりとりで
するすると
ものごとがすすむ

さし

ささ
れつ

さし
ぬかれ
さし
もどす

いつか
さしてしまいたい
させば
しまいがおとずれる

ちるちるみちる
ちるちるおちる
おちおちねむる
ねむりはみちる
ねおちておやすみ
いいそびれ

きしきしきしる
きしきししみる
こおりをかんで
のうみそひやす
みがいてはぐきに
にじむのなあに

きみかえるの
かえるの
なにかえるの
なにかかえるの
いつかえるの
なにがかえるの
かえないの
きみかえれる
しろみかえる
しみかえる
かえるなの
じゃりばかり

じゃけん
じゃんけん
じゃのめ
じゃのみち
じゃばらひらいて
じゃんばらや

じゃりみち
じゃりたれ
じゃりじゃりふんで
じゃりじゃりかんで
じゃくにくきょうしょく
じゃからんだ

話の話 第3話:忘れえぬナンパ師たち

戸田昌子

とりあえず細かい事情は省くが、若い頃、ボストンに半年ほど住んでいたことがある。ある日のこと、宿の向かいにあったカフェでチャイティーを飲んだあと、天気が良かったので外のベンチで足を投げ出してひなたぼっこをしていた。するとアメリカ人のおにいちゃんがその足につまづいて……ではなく、つまづいたふりをして、おっとっと、と大袈裟に転ぶ格好をしたあと近づいてきて、「君さ、まるでその靴のモデルさんみたいだよ!」と言い出した。そのとき私が履いていた靴は、妹のマウンテンブーツ。妹も私も山登りはしないが、服飾の勉強をしてモデルさんもやっていたことのある妹の選ぶものはいつも趣味が良い。どこのブランドだったかは忘れたが、この大きくて頑丈なウォータープルーフのブーツは妹がフランス留学する時に日本に置いていったもので、私がアメリカへ渡るとき、「頑丈な靴があったほうがいいから……」と半ば堂々とパクった靴であった。「洋服が黒いしさ、靴がとっても映えるよ! 靴、売ってくれるの?」などとその彼はその靴の件を深掘りしようとしている。ちなみに当時の私は毎日、ほぼ着の身着のままだったので、そのとき着ていた服は濃いグレーの、ウールの地味なマキシワンピースに、黒のタートルと黒のパーカー、ウエストポーチが標準装備だったはず。暖かい日だったから、きっと9月ごろ。なぜならボストンは10月にもなると厳しく冷たい風が吹き始めるのだから……。当時、知り合いもあまりいないボストンだったから、わたしは、そんなふうに街中で人に話しかけられて話したりすることがたびたびあった。相手にも電話番号をいきなり聞き出そうとか、いわゆるナンパの感じはあまりなかった。いま思えばかの地では、街中で女の子に声をかけるのは礼儀の一環、みたいなところもあった気がする。わたしはひとしきり話したあと、なにか楽しい気分でそこに座り続けていた記憶がある。ちなみにそのカフェには虹色のフラッグがいつもはためいていた。

しかしナンパの本場といえばやはりフランスである。私の妹は19歳でフランスに留学し、そのまま現在まで外国暮らしを続けている強者だが、数限りないナンパに遭遇した。妹がパリに住んでまだ2年ほどのころ、遊びに来ていた母を美術館に案内していたときに美術館警備員にナンパされたということがあった。明らかに勤務時間中の警備員は「ぼく、このあと仕事が○時に終わるから、そしたらお茶飲みにいこうよ」と妹を誘ったので、妹は「母と一緒なので(だめです)」と断った。すると彼、「それなら、ぜひお母様もぜひご一緒に!!!」とのたもうた。さすがのフランス人、お母様付きでもナンパを諦めない、と、聞いた誰しもが驚嘆した、という話。

一方、日本のナンパにはこうしたエスプリは感じない。私の大学院生時代、常磐線沿線に出没していた、なぜか東大女子を見分ける特殊能力を発揮するテンガロンハットをかぶったナンパオヤジがいた。なんのことやらさっぱり、なのだが、ある日、わたしが研究会での発表を控え、日暮里駅に近いドトールの2階で発表資料を読み込んでいたときのこと。私の資料をちろちろ覗き込んでいた、明らかに周囲に溶け込まないテンガロンハットの50歳前後の男性が、「勉強しているの?」と、にこにことわたしに話しかけてきた。無視するのも感じが悪いので、「あぁ……これから研究会で、発表なんです(一人にしてもらえないかな、の意)」と言ったら、「そう、きみ東大?」と尋ねてくる。「そうです」と言ったら、「僕、東大で教えているんだよ」と言い始める。え、先生なのか、とちょっと引き気味になると、自分は普段はアメリカに住んでいるのだけれどもいまは東大の理系の研究室に一時的に在籍しているのだと説明する。理系にはいろんな客員研究員や授業を持たない教員などが無数にいるので、なるほどと思いつつ、話をやめない彼にうんざりし、「先を急ぎますので」とドトールを出ることにした。翌日、研究室で「昨日変な人に会ってさ」と後輩女子にその話をしたら「え、その人、テンガロンハットかぶっていませんでしたか?」と言い始める。「そうだよ」とわたし。「それならその人、私がナンパされた人と同じです。なぜか東大女子を見分ける特殊能力があって、他にも声かけられた人がいるんです。常磐線沿線に出没しがちです」と教えてくれた。ちなみに彼がほんとうに東大で教えているかどうかについて、真実はいまだ明らかになっていない。

私の場合、ナンパされていたのに、そのときは気づかず、あとで気づくケース、というのもある。ニューヨークにいた頃、ルームメートの所属する研究室のハッピーアワーというイベントへ行ったことがある。それはジャンルを超えた研究者の交流会で、言ってみれば大学院生の懇親会だったのだが、そこで出会ったブライアンという名の黒髪の青年に「きみ、写真の研究者なの?ぼくは映画研究者なんだ。ジャンルも近いから電話番号交換しようよ。ぼくね、日本に行ったことがあるんだよ。リュージュっていうスポーツをやってて、長野五輪のときは補欠で行ったんだ。競技には出られなかったけど。日本はいい国だね!」とまくしたてられて、電話番号を交換した。その2週間後、ルームメートとともに大学で行われた夜間映画のイベントに行ったとき(上映作品は是枝裕和「幻の光」だった)、ルームメートが短髪の男性と立ち話を始めた。その男性が私に話しかけるので、「はじめまして、戸田昌子です、写真の研究をしています」と自己紹介をした。その男性は、どうやら映画の研究をしていて、日本にも長野五輪で行ったことがあって、名前はブライアンだと言っている。前に会ったことのあるブライアンと似た経歴なので、私は思わず、「私ね、映画の研究者で、リュージュやってて、ブライアンという名前の人に会ったことがあるよ」と応答した。すると彼は「そう、ぼくがそのブライアン」と言った。同一人物であった。「お、おぅ……」となった私は、「だってほら、髪型が……違う……」などと、もごもご言ってから謝ることしきり。その脇でルームメートが爆笑している。あまりの恥ずかしさに早々に退散した帰り道、ルームメートは「そもそも彼は昌子に気があったんだから!あれはさすがにひどいねー」などと言う。そもそもの電話番号交換はナンパだったのか、とショックを受けている私。かたわらでルームメートは「これで、完璧に諦めてくれたね。ユー、バッドガール!」などと喜んでいる。それと知らずに撃沈してしまうまで、ナンパに気づかないというのも困ったものである。

ちょっとびっくりするようなナンパと言えば、これもだいぶ昔の話だけれど、研究会に参加するために大阪に出かけたときのことだった。二泊三日のうち用事は飛び石だったので、2日目はすることがなかった。ひとりきりだったし、真夏だったし、東京を離れていて解放感があったためか、普段は履かないようなシフォンの焦茶色の短いスカートにNatural Beauty Basicのヌーディーなサンダルを履いて、ブルーのノースリーブで美術館へ出かけた。千里中央の駅でコーヒーを飲んでから駅のホームに立っていると、「日本庭園はこちらですか?」とかなり高齢のおじいさんに尋ねられた。フリーパスを使って日本庭園へ行きたいのだという。私は万博公園へ向かっていたので、「同じ方向ですからご案内しましょう」と、どうせ暇なこともあって親切心を出し、日本庭園まで案内することにした。道中、その方が長年にわたり鰻屋のご主人だったこと、仕事はもう息子さんに譲ったのだという話を聞く。しかも生まれてこの方、大阪を一度も出たことのないという81歳であった。そんな話をしているうちに日本庭園に着いた。「日本庭園はこちらです、私は万博公園まで参りますので」とお別れしようとしたら、「どうせ暇なので、美術館、僕もご一緒します」と言い始める。私は少しためらった。その方は少し足腰がおぼつかないし、なにしろこれから私が見に行く展示はメールヌード、しかもファットヌードの展示である(ローリー・トビー・エディソン展、国立国際美術館、2001年)。おじいさんは卒倒してしまうかもしれない。「写真ですよ?あまり面白くないかも」と言ってはみるが、あまり具体的に言うわけにもいかず、らちがあかないので、ええい、ままよ、と同行することにした。駅を降り、ゆっくり歩いて美術館へ向かい、男性器の存在もあらわな写真を、(普段こんな写真ばかり見ているわけではありません)と心のなかで言い訳しながら、展示室をまわっていく。おじいさんは黙ってゆっくりついてくる。展示室を出るとほっとして、日本庭園へと向かうことになった。到着すると、おじいさんは「おつきあいさせてすみませんね、お茶でもおごりましょう」とペットボトルのお茶を買ってくれ、日本庭園を眺めながらふたりでお茶を飲んだ。時間はゆっくりと経ち、夕闇が迫ってくる。では、そろそろ帰りますと立ち上がるとおじいさんは「今日は、勇気を出してお声をかけてほんとうによかった。とても楽しかったです」と言われ、私の両手を握りしめた。見ると、目には涙が浮かんでいる。「電話番号はお聞きしません。このまま綺麗にお別れしましょう。今日の思い出は冥土の土産になります。どうもありがとう」とおじいさんは重ねて言う。当方としては道に不案内なお年寄りをエスコートしていたつもりが、どうやらナンパされていたらしい(よくよく考えてみれば、生まれ育ちも大阪のおじいさんが、東京から来た若い娘に電車の乗り方をたずねるはずもないわけである)。けれどおじいさんは真剣である。なんと言っていいかわからないまま、こちらこそ、楽しかったです、と、私はもごもご言って、呆然としながらお別れをした。東京に戻ったあと、母にこの話をしたら、「あら!それはまあちゃん、とってもいいことしたわねぇ!」と快活な声を出されて、気持ちがすっきりした。ときどき思い出すナンパ話である。

先日、美しいダンサーの友人と、久しぶりにお茶をした。海外生活の長かった彼女は、コロナ禍で鬱屈していて、そろそろ海外へ踊りに行きたいのだと言う。二人でどこがいいか、根拠もなしに適当なことを言い合っていて、南イタリアがいいんじゃない?となった。南イタリアといえばやはりあれよね「苦い米」って映画があるじゃない、と私が言う。「ああ、あれは父のfavoriteなのよ」と彼女が応える。「あの映画すごいよね、ひらひらのワンピースをお股のところでたくしあげて、田植えをするじゃない。信じられる? ワンピースで田植えよ!」と私が言うと、「でもイタリアで田植えに出る女の子たちって、あれでナンパしたりされたりして、デートの相手を見つけるのよね、そのために田植えに行くでしょう」と彼女。確かに南イタリアの田植え労働にはそういう文化的背景があるのだとどこかで読んだことがある。納得しかかったとき、「でも、うちの祖母はまさにそれで祖父に見初められたのよ」と彼女が言い始めた。それは、友人の祖母が川に洗濯に行ったときのことである。お着物の裾を(まるで「苦い米」のように)お股のところでたくしあげて、両足を川に突っ込んで、ごしごしと洗濯をしていた友人の祖母を、通り過ぎる汽車から見初めたのが、その友人の祖父であった。彼は会津の人で、会津戦争のあと北海道に追われたが、樺戸の刑務所の囚人に作らせた家具を内地で売る仕事で成功した商人であったという。ビジネスに成功して会津に凱旋し、そこで友人の祖母に出会った。「でね、その足がね、白くて立派な太腿だったらしいの!祖父はそれを見初めて、人を遣って祖母に申し込んだの」と友人は言う。たいへんなかなかに風雅で色気のある話。

ある日、私がふと「最近ナンパされないんだよね」とつぶやくと、夫がふうんという感じで、「最近ってどれくらい?」と聞く。ちょっと考えて私「そうね、15年くらい」と答える。「15年はちっとも最近じゃないじゃないか」という言葉を飲み込んでいる様子の、しばしの間があったあと、夫「分かった、それじゃあ質問を変えよう。ナンパされたい?」と尋ねてきた。しばし考えたあと、私「んーとね、ナンパを断りたい」。しばらく押し黙った夫だったが、その後「……わかる」とつぶやいた。そんな私であるが、つい最近、京都で久しぶりにナンパされてしまい(京都め!)、せっかくの長年ナンパされなかった歴が破られてしまった。いささか残念なので、この話は今回は、やめておく。

むもーままめ(29)光の夏がやってくる、の巻

工藤あかね

立ったまま原稿を書くといつもと違う思考回路が刺激されるような気がして洗濯機の上にパソコンを置いて水vs電気を企んでみたけれどきっと電気は水にかなわないだって海につながっているから雨雲からぼたぼた落ちてきて水溜りができたところに長靴履いた小さい頃の私がちゃぷちゃぷやって遊んでいる今だって長靴あるけど水が入り込んで足がぐちゃぐちゃになるには水がたりないどぶがたりない長靴の短さが足りない喉が渇いた水が足りない肌が乾燥している水が足りない育てていた植物の元気が足りない水が足りない太陽が足りない光が足りない光が足りないってどういうこと眼科の医院に光明って名前がついたところを見かけた光は必須なの闇と光どっちも必要だけどみんな光が好きなんだね瞼を失った人は自分で闇を作れないのが苦しいらしいからみんな自分がシャットダウンできる能力あるのにシャットダウンはどこにある睡眠中にあるのいやないねだって夢ずっとみてるもん私の闇はどこお寺の胎内巡りをした時も本当の闇はなかった闇に慣れておきたいのに外に出たらモグラの気持ちが少しわかって監禁されてたヨカナーンも外に引っ張り出されて目が潰れそうだっただろうな目って一体なんなの見るっていったいなんなのじゃあ聴くってなんなの匂いってなんなの感覚ってなんなの幻想なのわたしだけのものなのみんなのものなのわたしとみんなのものなのわたしとあなたのものなの境目がわからなくなったとき息吸ってるのか吐いてるのか止めてるのか混乱するエラ呼吸ができる生き物はいいね水陸両用はかっこいいね空と地上の区別がない生き物はいいね聞こえない声で鳴く鳥はいいね聴こえる声で鳴く虫もいいね田んぼでカエルが鳴いて怒っている住民とか温泉宿で川の流れがうるさくて眠れないと文句を言う人がいるらしいけどその発想はなかったないろんな感性の人がいるね雑音ってなに雑草ってなに自然の音ってなに人工物ってなにクリオネみてたらこんなに小さくても生きてるんだと思ってうれしかったしクラゲなんてこんな単純な体なのにすばらしく美しく生きている命の尊さに涙が出る気がしたから夏の終わりに海でクラゲを脅かしてあげないでみんなあっちだって必死で生きてるのだからクマだってイノシシだってハクビシンだってみんなそっとしておいてあげてもしかしたらなついてくれないかなクマちゃんにおんぶして学校に通いたかったイノシシの背中に乗せてもらって大阪城まで行ったりハクビシンを抱っこしてたぬきとレッサーパンダの違いをみんなに教えたりできたらいいのにかわりにクマちゃんがクマ仲間に人間の友達連れてきたよって言ってどんぐりご馳走になったりしないかないい大人なのにこんなことばかり言っていることをぜったい反省しない私はなかなかの強情っぱりだと思うもうすぐ光の夏がやってくる

ゆうべ見た夢 03

浅生ハルミン

二つの夢。二つ目の夢に出て来た私の弱音は、「結婚」という言葉から私が無意識に連想する事柄です。「夏」といえば「暑い」、「階段」といえば「つらい」、「発車」といえば「オーライ」などと同じように、「結婚」といえば「できない」なのです。長い間にそうなりました。その原因を考えることはむしろ私の趣味となりつつあります。ですので、この文章をお読みになったどなたも回答をお寄せになりませんよう、お願い申し上げます。

夢のなかで私は、私に片思いをしている男の人に誘われて、お屋敷に向かっているようだった。男の人は私を誘っておいて、自分だけスピードを上げて自転車を走らせた。どんどん先に行ってしまった。出窓のある瀟酒なお屋敷に到着して、私だけがその家のマダムに会って、料理について取材した。取材を終えても、男はあらわれなかった。

あの店にいるに違いない。私はひとり、バラック闇市のような商店街の一画にある、イタリアンレストランへ入った。その男の人はいなかった。本を読むのが好きな三姉妹が、けらけら笑いながらソファー席に腰を掛け、
「こんど××さんの書いた料理の本が出るんだって。たのしみね」
と、いなくなった男の名前を持ち出す。
おやおや、ひどいね、まったく。なにもかも攫われた気分。夢のなか特有の、脈絡のない灰色の場所転換が起きて、目の前の風景が地下鉄駅の、むやみに長い上りエスカレーターに変わった。
これに乗ればいいんでしょう?
私は片方の足を段に乗せた。靴先に五円玉がこつんとあたった。拾う。あっと思って見まわすと、百円玉も落ちていた。拾う。そこいらじゅうに散らばっているお金を拾いまくる。五円玉と百円玉が、エスカレーターの上から、無尽蔵に転がり落ちてくる。

夢のなかで私は、実際には会ったことがない小説家Z子さんと同じ家に暮らしているようだった。同じ箪笥から洋服を出し、同じアイロンでしわを伸ばす安穏な毎日。居間の中央には、ホットカーペットよろしく人工芝を真四角に敷いた場所があって、その上に赤い屋根の犬小屋が建っていた。犬のほかに、紅茶色の綿をまるめたような可愛らしい小動物が部屋中をちょろちょろと駆け回っていて、私たちはそのようななかで暮らしていた。動物たちの吐き出すものが撒き散らされているなどということもなく、部屋はいたって清潔で、なんの匂いもしなかった。

寝床から這い出した私は、小説家Z子さんに恋愛について弱音を吐いた。小説家Z子さんは私からは見えない部屋にいて、それは台所かお手洗いのようだった。
あのさ、私がずっと独り身なのは何が原因だと思う? 周りに結婚相手を探している人はけっこういたはずなんだけど、その全員が私じゃなくて、私の友だちと結婚の約束をするみたいなの。
Z子さんはこう言った。
「大丈夫。私もだよ。そんな奴らには鰹節をかけてやれ」

以上のやりとりを、私たちは関西弁でかわした。小説家Z子さんが、唯一身につけていた赤い水玉模様のエプロンを脱ぎ捨て、人工芝の上で、仰向けに寝ている私に覆いかぶさってきた。柔らかな毛髪が顔にまとわりついて、まさぐると甘い匂いがした。Z子さんもそうなんだ……私は安らかな気持ちに包まれている。

「図書館詩集」8(この海岸にかつて栄螺が住んでいたんだって)

管啓次郎

この海岸にかつて栄螺が住んでいたんだって
さざえさんはここらで生まれたんだって
冗談ではないんだよ
ももち(百道)の海岸を散歩しながら
町子さんは磯野家を考案した
そのはるか以前には百済人もいただろう
やがて唐人もオランダ人も通過しただろう
おなじ道だって百通りに体験される
ここは交通の町、港あり
物資のメタボリズムをよく計算して
地球をレース編みにしてゆく
「驚異と怪異」ばかりを見て
頭がふつふつとおかしくなっているようだ
人間のようなかつらをかぶったさざえが
二足直立歩行で目の前を横切っても驚かない
世界を編みなすいろいろなかたちの生命が
少しずつ誤訳がつけいるとでもいうように
少しずつかたちを変えてきた
魚ひとつとっても
人の顔をした魚や
牛の頭をもつ魚や
猿の上半身をもつ魚がいて
まことに賑々しく次々にご来店される
ああなっては水の中に住めないどころか
どこにも住めない
生きている世界には住めない
となると死の世界のほうが
概して自由度が高いともいえそうだな
死において最終的に
あるいは最初的に解放された
自己か非自己を見出すとでもいうか
そうだよ昔はここらも湿地帯だった
その中の干上がった砂地の上で
モンゴル兵たちと地元の兵士が戦ったそうだ
いやいやの戦いだったろうな
何を賭けてか誰に命ぜられてか
兵士の生命は乾いた涙よりも軽い
(命令する人間は気楽でいいよ、ブツブツ
私ら一般兵が、ブツブツ
なぜ言葉も通じない相手と、ブツブツ
戦わなくてはならないのか、ブツブツ)
しかもモンゴル兵といっても草原から
はるばる来たわけではなく
半島の衛星国の兵士だったわけだろう
また別の時代だが武将というか
諸々の臣たちがこのあたりで
Vtacaxôyôをして無為に日々を
すごしたこともあった
「鵜鷹逍遥」といってね
どちらも鳥を使ったつれづれの遊び
飼いならした鵜に魚をとらせ
飼いならした鷹に小動物を追わせて
それで楽しむのだ、殺害を
まこと人ほどの害獣はなし
私を驚かせるのは『エソポのファブラス』
ESOPONO FABVLAS (1593) 天草ローマ字版
なんというみごとな書物だろう
『伊曽保物語』といってね
自分の人生もそのころから
Fablesとしてやり直せるなら楽しいだろう
さしあたって物語に逃げるなら
さしあたって物語か語り手になれるなら
この男エソポいと見苦しく
言葉もよくできないので
ふさわしい仕事がないといって
牛馬の世話係をしていたそうだ
(それ自体は良い、おもしろい仕事
動物相手の仕事は人間相手よりずっといい)
いずれにせよ私はエソポに遠くおよばず
物語を知らず知恵もなし
生きる術もなく仕事もない
さてさて学問でも修めるか
そこで読んだのは「狐と狼の事」

 有狐、子を儲けけるに、狼(おほかめ)をそれて名付け親とさだむ。
 狼承けて、其名を「ばけまつ」と付たり。
 狼申しけるは、「其子を我そばにをきて学文(がくもん)させよ。
 恩愛のあまり、みだりに悪狂ひさすな」といへば、
 狐「実も」とや思ひ、狼に預けぬ。
 (『伊曽保物語』下巻の第10)

ばけまつ!
なんと愛らしい名前でしょう
しかし狐も狼も犬といえば犬なのに
狐がそこまで狼を恐れるのはかわいそうだな
いっそ犬になってしまえば犬どうしの交友は
チワワとニュー・ファウンドランドだって
仲良くさせるのに
思うにこの物語の狐と狼は
人間の言葉を話すようになったのが敗因か
それで不平等が起源する
このあたりのことはよく考えるんだ
言語はどう使うのがいいのかって
ぼくの大きな悩みは
現実を取り逃してしまうことだった
たとえその場に居合わせても
ほとんどのことはただぼくに関与せず
過ぎてゆくのだった
あまりにあまりに少なくしか
気づくことも知覚することもない
それを言い出せば
現実を知ることはできない
すみずみまで知ることはできない
ごく粗いスケールの描写ができるだけ
そして知覚を少しでもつなぎとめて
おきたいと思うなら
言語は避けられない
どれほど現実を知っても/知らなくても
言語はいわばすべてを「均して」くれる
心の手に負える程度にまで
ひどく単純化してくれる
言語にはまた一定水準の
熟達がありうる
だから
言語学習にうちこむことには
一定の実用性がある
簡単に確実に生きるために
ぼくはエソポに話しかけたくなった
いやね、どれほど話しかけても答えはないが
物語は物語に転生するし
文字は文字を反復する
誤訳だっていわばそれは接木の一形態で
根付いて成長をはじめるならそれでいいわけだ
ぼくがどれほどラ・フォンテーヌを好んでいるか
きみは知らないでしょう
「フランス文学の絶頂はラ・フォンテーヌとランボー」
とミシェル・ビュトールはいっていた
そしてラ・フォンテーヌはエソポの模倣者
それを別の言語において模倣することもできるだろう
たとえばこんなふうに

 狼は少し有名になりすぎた
 その土地の羊たちのあいだでね
 これからは頭の勝負
 そうだよ、おれが羊飼いになってやろう
 そんな格好をして、ぼろぼろのコートも着て
 適当な棒を杖にして、バグパイプも準備
 帽子にはちゃんと書いておいた
 「おいらはギヨ、羊飼い」
 こう姿を変えて
 杖に助けられ二足歩行で
 偽者ギヨは羊に近づく
 そのころほんもののギヨは
 若草にねっころがってお昼寝の最中
 犬も寝ている、バグパイプも寝ている
 羊たちも大部分がうとうと
 しめたと思った偽者は
 羊飼いを起こさないようにして
 羊だけを連れ去るために
 言葉を使おうと思った
 仮装だけでは足りない気がして
 これが失敗のもとでした
 狼には羊飼いのことばを
 まねることができなかったのだ
 狼の声音が森にとどろき
 みんなが一斉に目をさました
 羊たち、犬、ほんものの羊飼い
 あれあれ、みんな大騒ぎ
 ところが偽ギヨ、コートを着込んだばかりに
 足がもつれて逃げられない
 杖もバグパイプもじゃまになり
 身を守る機敏さを失った
 ああ、ああ、狼は
 狼として終わることができなかった
 そういうことだね
 悪巧みは必ずしっぽをつかまれる
 「馬脚をあらわす」というが
 「狼尾をあらわす」という言葉はない
 言葉知らずの狼に
 人間のまねはむりだった焉
 身のほどを知れよ焉
 狼は狼らしくするしかない焉
 そしてギヨはバスク人のように
 ユタ州かチリに移住するしかない
 (ラ・フォンテーヌ『寓話』、岩波文庫の今野一雄訳を参照した)

ともあれ教訓を得て、ぼくは
狼としての自分を偽らないことにした
狼として生まれたなら狼として死ぬ
ただそのごまかしをなくすための一生だった
そんなところでどうかな?
けれども人間世界は無情の辺土
古来、人間世界を追放された人間を
人狼として遇した歴史あり
なんらかの罪を犯して
人でなしと見做されるようになれば
人々は人狼を思うがままに打ち殺す
ざんにんなことだ
事実であれ想像であれ
歴史も物語も血まみれだが
さしあたって
この街はいい街
地形が好きなんだ
今日はこれから海沿いをぐるりと歩いて
海ノ中道まで行ってみようか
なんという奇跡的な地形
と思っていたらあれあれ
なんだこの人工島は
湿原も干潟も省みず
海に具体的な蜃気楼を出現させたのか
そこに住むつもりかニンゲンばかりが
海の生きもの空の生きものを追放し
架空のニンゲンばかりで自足して?
恐ろしいことをするなあ
信じられない愚かさ
居住の冒険主義はやめよう
海に人は住めない
海に支えられて
陸でつつましい村を作ればいい
「シティ」はいらない
すべて開発=利益の計略
浅はかな未来像
せめて作ってしまったこの人工島を
もういちど土地の鳥獣虫魚に返して
コンクリートの皮膜を剝がして
あめつちの論理に百年ほどまかせて
リワイルディングを生きさせてほしい
いや、冗談ではないんだよ
それ以外には未来はないんだよ
ニンゲンにとっても
千年の門をもつ都会なら
千年を過去の生態系に探るべし
過去にこそ未来あり
その逆説のみが生命を救う
きわどく細い砂洲を歩いて歩いて
島に向かえばそこで金印が見つかったというので
幽霊の群衆がさわいでいた
金印を落としたという者も
その金印を使ったという者も
よく探せばどこかにいるのかな
死後の魂として
歴史とは幽霊の発生装置
ダンテの地獄も
チリの露天掘りの銅鉱山も
いまここに広がっている
ただ見えないだけ
陸繋島は海の犬
つながれて海を見ながら
潮のような大声で吠えている
島にむかって
半島にむかって
ニンゲンよすべてを海に返せよ
海と陸とそのひとつらなりの生命に返せよ
島の頂上にはその祈りを
なんとかかたちにしようと
バリ島のバロンの仮面をつけて
ひとり舞う少女がいた
天気雨の夕陽の中で
ニンゲンであることをやめた
彼女の舞がニンゲンを批判する

福岡市総合図書館、二〇二三年三月二一日、雨

本小屋から(1)

福島亮

 日本に帰るために、ずいぶん多くの本を古本屋で売った。それでも日本に送った本の数の方が多い。フランスは文化政策の一環として、フランス語の書籍や文書を国外に郵送するための特別料金を設けており、私も当然それを利用した。クロネコヤマトの単身引越しサーヴィスを使うという手もあるのだが、貧乏学生が手を出せる金額ではなかった。まあ、特別料金とはいえ、全部ひっくるめればかなりの金額になる。それを見越して、やりくりはしていたが、実際に荷造りしてみると、一度に送れる量が思ったよりも少なく、さらに深刻なことに、一度に運べる量はもっと少なかった(私はエレベーター無しのフランス式7階、ようするに日本でいう8階に住んでいたのである)。本は砂嚢用の頑丈な袋に詰め、結束帯で口を縛った状態で送る。一度に運べるのは20キロが体力的に限界だった。あたふたよたよた郵便局通いをしていたから、結局いくらかかったのか計算する余裕はなかった。しようと思えば送り状があるからすぐに計算できるのだが、気分の良いものではないから、計算はしない。

 ある知人は、書籍をすべてデジタル化し、iPadひとつあれば事足りるよ、と得意そうにしていた。うらやましくもあるが、私の場合、きっとそうはなれないだろう。原稿も、書類も、あらゆるものがPCひとつで済むのは便利だが、画面を睨み続けていると目の奥の方が痛くなってくる。それに比べて、紙の本は目が疲れないし、お気に入りのペンや鉛筆で書き込みできるのも楽しい。付箋を貼り付けて好きな頁を好きな時に繰ることができるのも便利だし、時には関連する記事の切り抜きを挟み込んだりもする。ちなみに、私は小学生が使うような赤と青が半々になった鉛筆を愛用している。帰国も近くなった頃、国立図書館で作業していると、隣の席の若い女性が小さな声で「これ、どこで買ったの?」と囁いた。これ、というのは、赤・青鉛筆である。文具屋で見つけたそれは、よくある六角形や丸形の軸ではなく、三角形の軸をしたいわゆる「おにぎり鉛筆」というやつだった。文具屋で見つけたんです。たくさん持っているから、よかったら一本どうぞ。

 こんなふうに、赤、青、黒、さらにはダーマトグラフの黄色で着色された本たちだが、さすがにそれらすべてを連れ合いの家に置くことはできない。5年前、私が渡仏したのと同じタイミングで、連れ合いは東西線沿いに単身用のマンションを借りた。帰国するたびに私もそこにお世話になっていたのだが、何しろ一人用の部屋なので本を置くスペースはない。というか、実は連れ合いもずいぶん本を持っていて、それらによって居間はおろかクローゼットの中まで占領されているのだ。

 そこで、帰国後すぐ、本小屋を探すことになった。本を置くための部屋。もちろん、贅沢は言えない。物置、あるいはプレハブ小屋のようなもので十分だと思いながら物件探しをした。幸い、良い不動産屋と巡り合い、都心から少し離れた小田急線沿いに本小屋が見つかった。大学生の頃住んでいた西武新宿線沿いの、列車が通るたびに揺れる木造アパートよりもさらに安い家賃なのだが、環境は格段に良く、いまのところ申し分ない。引っ越した当初は、あまりにも周囲が静かなので心細くもあったが(ベルヴィルでは常に通りから音楽が聞こえていた)、それも時間が解決してくれた。物音ひとつしない部屋で本を読んでいると、遠くの方を走る車の音が聞こえてくる。そうだ、15年前は、それが日常だった——。

  *

 一人暮らしにずっと憧れている高校生だった。群馬県渋川市祖母島。小学生の頃から幾度となく発音し、読み、書いてきた住所だが、いつかそこから出て一人暮らしするのだと、物心ついた頃から思っていた。実家の周辺には、「島」という字がついた地名が多く、それはおそらく吾妻川の流域に点在する小さな地域を示しているのだろうが、この「島」という文字を見るたびに、外と遮断され、幽閉されているような気持ちになったものだ。じつは同じことを、マルティニックの知人から聞いたことがある。その知人は、マルティニックのことを「島(イル)」と呼ばれるとあまり良い気分がしない、と言っていた。その言葉を聞いた時、知人の気持ちが、少しだけわかるような気がした。

 幽閉というのは、移動の自由がない、ということ。もしかしたら「島」と呼ばれる場所はどこもそうなのかもしれないが、徒歩や自転車で移動する人はほとんどいない。運転免許が取れるようになると、一人一台自動車を手に入れ、たった200メートル離れた所に行くのにも自動車を使う。自動車道の両脇にあるべき歩道はほとんど整備されておらず、落ち葉が積もっていて、歩くのは難儀だ。自動車以外の移動の自由のなさが何よりも息苦しかった。私の故郷において、一人前であるとは自動車を運転できるということであり、運転免許を持たない私は今でも帰省すると肩身が狭い。

 大学に入り、中野区沼袋のアパートに引っ越した日、荷運びをしてくれた父がそのままアパートに一泊した。3月末で、まだ寒かった。沼袋をまだよく知らない二人は、どこで買い物をしたら良いのかわからず、とりあえず駅の近くにあった100円ショップでインスタントコーヒーを買い、電気ケトルでお湯を温め、飲んだ。手のひらに収まりそうな小瓶に入った黒っぽい粉を溶かすと、その色は薄く、味は焦げたパンのようだった。父もそう思ったようだが、何も言わず、色つきの湯を啜っていた。二度と飲まないだろう、と思いつつ、食器棚の奥にコーヒーの小瓶をしまった。悠長なことはしていられない。一服したらバスに乗り、中野駅の近くのドン・キホーテに買い物に行くことにしていたのだ。沼袋から中野駅までは徒歩で20分もあれば行くことができる。平和の森公園の前を通り、真っ直ぐ行かずに新井天神通りに曲がり、中野通りの桜並木に出る、という行程は、住んでしばらくしてからわかったのであり、引っ越した初日は、とりあえず中野駅行きのバスに乗るだけで精一杯だった。私はSuicaで支払いを済ませ、後に続いて父もバスに乗った。父は緊張していたのか、何も喋らなかった。普段自動車に乗っているだけに、その自動車が使えない状況が不安だったのだろう。

 バスのなかで二人は揺られていた。どんどん乗客が乗り込んできて、身動きできなかった。ようやくバスが中野駅につき、降りようとした時のことだ。お客さん! 運転手が大きな声を出し、父を睨んでいる。そこでようやく発覚したのだが、父は乗車料金を支払っていなかったのである。私がSuicaをタッチしたのを見て、2人分支払われたと思い込んでいたようだ。慌てて料金を支払い、バスを降りると、父は今にもベソをかきそうな顔をしていた。

 その後、二人で何をしたのか、よく覚えていない。ドン・キホーテで買い物をしたはずだが、何を買ったのかはっきりしない。覚えているのは、父の歩みが非常にゆっくりだったということだ。これだから田舎の人は、と思った。自動車ばかり乗っているから、足腰が弱いにちがいない、と。そうではなく、父の体力が目に見えて落ちていると、どうしてわからなかったのか。一人暮らしをはじめた嬉しさに、父の変化に気づいていなかったのだ。父の胃に影が見つかったのは、それからしばらくしてからのことである。

 尽きていく時間の流れは、早いような、ゆっくりしているような、奇妙な実感を伴っていた。葬儀を終え、沼袋のアパートに帰って食器棚の中をふと見ると、そこにはあのインスタントコーヒーの瓶があった。粉が湿気で固まり、飲める状態ではなかった。だが、捨てることはできなかった。

  *

告知

6月9日から11日にかけて、調布市せんがわ劇場で「死者たちの夏2023」と題した以下のようなイベントを行う予定です。

公演情報
■ 音楽会 Music Concert
「イディッシュソング(東欧ユダヤ人の民衆歌曲)から朝鮮歌謡、南米の抵抗歌へ」
6月9日(金)19:00 START
出演:大熊ワタル(クラリネット ほか)、
こぐれみわぞう(チンドン太鼓、箏、歌)、
近藤達郎(ピアノ、キーボード ほか)
解題トーク:東 琢磨、西 成彦 ほか

■ 朗読会 Reading
「ヨーロッパから日本へ」
6月10日(土)14:00 START
「南北アメリカから日本へ」
6月11日(日)14:00 START
出演:新井 純、門岡 瞳、杉浦久幸、高木愛香、高橋和久、瀧川真澄、平川和宏(50音順)
演出:堀内 仁 音楽:近藤達郎
解題トーク:久野 量一、大辻都、西 成彦 ほか

場所:調布市せんがわ劇場 京王線仙川駅から徒歩4分
料金(各日):一般3,200円/学生1,800円
リピーター料金:各回500円割引
ホームページ:https://2023grg.blogspot.com
お問い合わせ: 2023grg@gmail.com (「死者たちの夏2023」実行委員会)

音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)
照明・舞台監督:伊倉広徳
衣装:ひろたにはるこ

■ 実行委員長:西 成彦(ポーランド文学、比較文学)
■ 実行委員(50音順)
石田 智恵(南米市民運動の人類学)
大辻 都(フランス語圏カリブの女性文学)
久野 量一(ラテンアメリカ文学)
栗山 雄佑(沖縄文学)
瀧川 真澄(俳優・プロデューサー)
近藤 宏(パナマ・コロンビア先住民の人類学)
寺尾 智史(社会言語学、とくにスペイン・ポルトガル語系少数言語)
中川 成美(日本近代文学、比較文学)
中村 隆之(フランス語圏カリブの文学と思想)
野村 真理(東欧史、社会思想史)
原 佑介(朝鮮半島出身者の戦後文学)
東 琢磨(音楽批評・文化批評)
福島 亮(フランス語圏カリブの文学、文化批評)
堀内 仁(演出家)
■ 補佐
田中壮泰(ポーランド・イディッシュ文学、比較文学)
後山剛毅(原爆文学)
■ アドバイザー
細見和之(詩人・社会思想史)

『アフリカ』を続けて(24)

下窪俊哉

『アフリカ』最新号(vol.34/2023年3月号)をつくった直後に、ある人から連絡があり、「下窪さんは文フリにはやっぱり出たくないですか?」と言われる。
 文フリというのは文学フリマの略称で、自分で本をつくっている人たちのフリーマーケットと言えばいいか。東京の文フリには13年ほど前に誘われて足を運んだことがあったが、京急蒲田駅のそばにある大田区産業プラザPiOの1階展示ホールが会場で、調べてみたら、現在の規模に比べて(出店者も来場者も)3分の1といったところか。今回は1435の出店と1万人を超える来場者があったそうだ。1日だけ、5時間だけのイベントである。会場は満員電車状態だったという証言もある。そういうのが好きな人はたくさんいるんだなあとボンヤリ眺めている。

 学生だった20数年前には、詩を書く人たちがつくった本や同人雑誌を売るフリマを手伝ったことがあり、その後、なぜか自分が編集長となって創刊した文芸雑誌『寄港』では、メンバーの中に詩のフリマに出たいという声が上がり、どうぞ、となった。いちおう自分も会場に足を運んで、挨拶くらいしたのだったか、その頃からあまり積極的ではなかった。
 という話でわかる通り、その頃、誘われたのは主に詩集や詩誌のフリマだった。小説や評論を書く人は新人賞を目指すのが当たり前のように言われていたのでそれどころではなく、今の『アフリカ』によく載っている雑記のようなものを精力的に書いている人は見当たらなかった。もしかしたら、雑記を書く人たちはいち早くウェブの世界に活動の場を移して、ブログのようなものに向かっていたのかもしれない。
 今回、Twitterで文フリの様子を眺めている限り、もう昔のようではなく、それなりに多彩な書き手が集まっているとは言えそうだ。しかしこれだけウェブの発達した時代になって、紙の本をつくって売ったり買ったりしたい人がそんなにたくさん出てきているのかと思うと奇妙な感じもする。昨今のアナログ盤ブームと似たところがあるだろうか、どうだろうか。

 20代半ばで会社勤めというものを始めてからは、会社でもツマラナイ原稿をたくさん書かなければならず疲れてしまい、それまでやっていた文芸のサークル活動のようなものを続けるのは苦しくなってしまった。なので止めることにしたのだが、ついでに会社も辞めてしまい、つまり失業してしまった時にある人から短編小説の原稿を託されて、それを載せる雑誌をつくろうとして始まったのが『アフリカ』だった。この話は前にも書いたかもしれない。
『寄港』と『アフリカ』の違いについては、2016年12月のトーク・セッションで写真ジャーナリストの柴田大輔さんから訊かれて話している。

 一番大きかったのは、『アフリカ』では文芸をやる人たちのサークル活動をしなくなったことじゃないかなあ。即売会とか交流会といったものをやらず、参加もせず、寄贈もほとんどを止めて……。変人だと思われたかもしれませんね。ただ書いて本をつくって読んでるだけになった。『アフリカ』がはじめて人目に触れたのはその頃ぼくが通っていた立ち飲み屋だったんです。はじめて買ってもらったときは嬉しかった。それまで文芸をやってる人同士で読み合うことしかしてませんから。

 それに応じて柴田さんは「同業の人たちじゃないところに、はみ出たんですね」と言っている。
 どうして「はみ出た」んだろう? と考えてみる。同業(同好)者の集まりはもう散々やったので、もういいや、となったのかもしれない。ひとことで言うと、飽きた。
 とはいえ、その頃(2006年)には私はまだブログも書いたことがなく、ウェブサイトをつくって『アフリカ』の情報発信を始めるのはまだ3年ほど先だ。イベントにも出ず、寄贈もごく限られた人のみ、ということは、たまたま出会った人に手売りしたり手渡したりする以外に読んでもらう方法はなく、早い話が売る気なし、宣伝する気なし、好き勝手につくっているだけである。気が楽になり、伸び伸びできた。
 そうなる必要が自分にはあったのではないか。でなければ、もう続けることができない、と。
 柴田さんとのトークでは、こんな話もしている。

 下窪さんは誰のためでもなく自分のためだけに小説を書く気持ちがわかりますか?
 そういう経験がないから、わかりません。わかるって言いたくないですね。
 ご自分ではそういうことをしてみようと思わない?
 常に読者がいたからでしょうね。幸いにも。少なくても、いたから。

 売る気がない割には、読者は必ずいると信じて疑っていない。これを自信というのかもしれない。また、自分すら他人と思っているところもありそうだ。『アフリカ』にはもちろん他の執筆者もいるわけなので、まずは身近なところに読者がいたのである。私も自分が、彼らの書くものにとってどのような読者になれるだろうか、と常に考えている。

 売る気というものをとことん薄めた理由として、私の暮らしにいつも余裕がない中でやっているということはありそうだ。書いて、読んで、つくる、それで精一杯なのである。本当はそれすら厳しいと言っていいだろう。こんなに余裕がないのに自分は一体何をしてるんだ? と、我に返るような時がある。売れもしない原稿をせっせせっせと書き、ワークショップをやったりして、バカじゃないのか、と。
 バカなのは認める。バカにならずにはやってゆけないこともあるのだ。『アフリカ』に助けられて、生き延びてこられたと思っているところが私にはある。生きるために書き、闘うために雑誌をつくっているのだ、と考えてみたらどうか。一体『アフリカ』は何と闘っているのだろうか?

 そんなことを思いながら、文フリに出るのは「やっぱり気が乗らないので」と返事していた。そうしたら、文フリに出るのだが、『アフリカ』も一緒に売りたい、ということらしい。それなら構わないというか、ありがたい申し出を受けて、私の手を離れた『アフリカ』だけ会場に向かうことになった。

「せかいのおきく」を心にしまう

若松恵子

阪本順治監督の最新作「せかいのおきく」が4月28日よりロードショウ公開されている。
今回は、白黒の時代劇。明治まであと10年という江戸末期を舞台にした青春映画だ。
溌溂とした青春というわけにはいかないけれど、主人公たちが「これからの人たち」なのだから、やはり「青春映画」と呼びたい。

黒木華演じる主人公「おきく」は、今は落ちぶれて長屋暮らしをしている武家の娘だ。母はなく、何かの理由でお家断絶に追い込まれてしまった父と2人暮らしだ。近くの寺で子どもたちに読み書きを教えている様子から、名家に生まれたらしいとわかる。今は長屋暮らしだけれど、周囲の人たちに溶け込んで、境遇を苦にせず、けなげに父を助けている。その「おきく」さんが、雨宿りをきっかけに2人の青年と出会う。羅生門を思い出させるような雨やどりの場面が印象的だ。紙くずを集めて紙屋に売る「紙くず拾い」の中次と糞尿を買い取って近郊農家に売る仕事をしている弥亮の2人だ。映画のパンフレットを引用すれば「わびしく、辛い人生を懸命に生きる3人は、やがて心を通わせるようになっていく」のだ。ご飯を食べて排泄するのは人間だれしも平等なのに、この社会で排泄物を片付けるという一番大事な仕事をする者が蔑まれ、邪険にされるという矛盾。その不合理を黙って引き受けて生きている弥亮を池松壮亮が魅力的に演じている。

当初短編映画として企画していたものを、撮影するうちに手ごたえを感じて長編にしたとのことで、第一章むてきのおきく(安政五年・秋)、第二章むねんのおきく(安政五年・晩冬)、第三章恋せよおきく(安政六年・晩春)というように題字が入り、物語が展開していく。章が変わる直前に、カラーの映像が少し挿入される。第一章の終わりでは、顔を洗う黒木華のアップがカラー映像に変わって、彼女の着物の色合いとともに、娘ざかりの素顔が美しくてハッとした。

おきくは、追ってきた侍に父を殺され、口封じのために喉を切られて声を失ってしまう。黒木華の演技は、後半、セリフの無いものとなる。一方読み書きができない中次は、自分の気持ちを言葉にして表すという事がうまくできない。話したり書いたりというコミュニケーションを奪われている二人の心の通い合いにセリフは使えない。セリフで説明しない阪本映画の真骨頂がここから始まる。

阪本映画を見ていて、泣いてしまうことが度々ある。「泣くところあった?」と聞かれることも多いのだけれど、物語の筋に泣いてしまうというのではなくて、俳優の佇まい、ふとした体の動きに胸を打たれて泣いてしまうのだと思う。阪本映画の良さは、たとえば「人間の真剣さ」や「まごころ」のような目に見えないものを横顔や、立ち居振る舞いによって見せてくれるところなのだと思う。そこに人間の美しさを感じて、いつも涙が出てしまうのだ。

おきく、中次、矢亮の三人のこれからがどうなっていくかまだわからないけれど、もうすぐ明治になると分かっている時点から見れば、もうすぐ士農工商も無くなって、自分の力一つで切り拓いていける世の中になる、きっと三人は自分の力を発揮していくだろう、もっと広い「せかい」に出ていくだろうと明るい未来を感じることができる。

コロナ禍で、辛い毎日を生きている若い人たちの姿を重ねてこの映画を見ることもできるだろう。日々懸命に生きている現在の若者への励ましも込められているこの映画を、心にしまっておきたいと思った

ぼくがおれに変わった日

篠原恒木

おれは昔、ぼくだった。
「ぼく」だった頃がこのおれにもあったのだ。生まれてこのかた、ずっと「おれ」だったわけではない。

四十年も前のことだ。ぼくは出版社に入社して、週刊誌の編集部に配属された。そう、この頃は「ぼく」だったのだ。右も左もわからず、ひっきりなしに編集部にかかってくる電話を取るのがひたすら怖かった。ぼくは間違いなく会社の中でいちばん仕事ができないニンゲンだった。そんなある日、デスクはぼくにこう言った。
「鎌倉の大仏にセーターを着せよう。おまえが担当しろ」
「は?」
「大仏様も外で寒いだろう?」
「はあ」
「そこで読者にお願いして、要らなくなったセーターを集めるんだ。その集まったセーターをパッチワークで大仏様のサイズに編む。出来上がったらそれを大仏様に着せて写真に撮る。どうだ、名案だろう」
「そんなこと、お寺が許すとは思えないのですが……」
「企画書を書いて、鎌倉のお寺に持って行け。そこでお願いするんだ」
「ぼくがですか」
「ほかに誰がいるんだよ」
ぼくだったおれは手書きで企画書を作った。縦書きの便箋二枚分になった。ワープロもPCもない時代である。企画書をデスクに見せた。
「まあいいだろう。これを明日お寺に直接持っていって、読んでもらったら、その場で話をまとめろ」
「あのぉ、来訪の旨を事前に電話したほうがいいですよね」
「しなくていい。いきなり訪問しろ」

ぼくはその夜眠れなかった。企画書をお寺の誰に読んでもらえばいいのだろう。その前に、こんな馬鹿げた、バチ当たりな企画をお寺が許可するわけがないと思った。だが無情にも朝になってしまった。ぼくは横須賀線、江ノ電と乗り継いで、長谷駅で降りた。そこから十分弱歩けば鎌倉大仏が鎮座する高徳院がある。しかし誰に、どのようにお願いすればいいのだろう。ぼくの足取りは重かった。だが、思い悩んでいるうちに高徳院に着いてしまった。拝観料を支払い、参道へと進み、青空の下で大仏様を見上げた。巨大だった。さてどうしよう。ぼくはすぐに寺務所を見つけた。もう行くしかないな、と観念した。場所はお寺の境内だ。これほど観念という言葉がふさわしい状況はないだろう。いや、ウマいことを言っている場合ではない。
「すみません」
寺務所でそう言うと、袈裟を着た男性の方が出てきてくれた。ぼくは名刺を渡し、
「ご住職様はいらっしゃいますでしょうか」
と尋ねた。
「どのような御用でしょうか」
ぼくはその人に封筒に入った企画書を渡して、企画内容のようなものを口頭で説明した。汗が噴き出ていた。袈裟を着た人は封筒を開け、便箋二枚に目を通し、静かに言った。
「このようなことは……お引き取りくださいませ」
ぼくには食い下がる気力がなかった。
「大変失礼いたしました。どうかお許しください。申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げ、ぼくは事務所を辞去した。顔は真っ赤になっていたはずだ。
「無理に決まっているじゃないか」
「無理に決まっているじゃないか」
「無理に決まっているじゃないか」
ぼくは何度も何度もつぶやきながら、いま来たばかりの参道を出口に向かって歩き、お寺の外へ出た。そのすぐ脇には電話ボックスがあった。ぼくは中に入り、十円玉を何枚か入れて、編集部の番号をダイヤルした。デスクが電話に出た。
「すみません、ダメでした」
「ダメ? 何がダメだったんだ?」
「鎌倉の大仏様にセーターを着てもらうという企画です。丁重にお断りされました」
「ああん? おまえ、いまどこにいるんだ?」
「鎌倉の高徳院ですけど」
受話器の向こうから呆れかえった声が聞こえた。
「嘘だろ? おまえ、本当に行ったのか?」

コンプライアンス、パワハラなどの言葉は影も形もなかった頃である。受話器を戻した瞬間、ぼくはおれになった。すっかり、完全に、これでもかというほど、やさぐれてしまったのだ。この仕事は、ぼく改メおれには向いていないと心の底から思った。あの日以来、おれはおれのままである。

エレガントマンション

植松眞人

 急に斜めに折れたり、行き止まったり、三叉路になったり。都市計画という観点が微塵も感じられない路地を歩く。近くを流れる一級河川が氾濫すれば、このあたりは見事に水没するという真っ赤な地図も見たことがある。そのためか家賃が安く、年寄りと外国人、そして、芸大の学生が卒業してからもこのあたりから逃げられないらしい。それでも町の鎮守の森はしっかりとあり、梅雨時に始まる大きな祭には法被をきた男たちが路地の角ごとに祭に協賛した商店や個人をを公表する看板を立てる。
 遠くでは祭り囃子の練習をしている太鼓の音が聞こえる。不思議なもので、祭り囃子が聞こえるだけで、さっきまで貧乏くさく見えた曲がりくねった路地が、意外に味のある路地のように見えてくる。そのことを知っているのか、法被を着た男たちも、普段よりも少し自信ありげな顔をして、知らず知らず道の真ん中を歩いてしまい、自転車の年寄りに迷惑そうな顔をされている。
 なんとなく目の前を歩く法被の男の後を追う形になる。そこに、別の法被を着た男が合流して目の前を二人の法被の男が歩いている。その後を付いていくと古いマンションのある三叉路にやってきた。男たちは互いに言葉を交わすと三叉路を右と左に分かれて行く。どちらの後を付いて行こうという気持ちも起きずに、古いマンションの前に取り残される。見上げると白い外壁には職人の手によって模様が付けられている。そこに長年の汚れが入り込んで、まるで薄い模様の入った風呂敷で包まれているかのようにも見える。そして、外壁には大きく太い文字が表記されていて、『エレガントマンション』とある。一昔前の美容室の店名によく使われていたようなゴシックのようでいて、払いの部分が妙に装飾されていたりする。『エレガント』という文字を表記するからには、文字の種類もエレガントでなければということなのだろう。
 そんなことを考えている間に、左右に分かれて行った法被の男たちの姿は見えなくなっていた。どちらかに付いていけば良かったのかと思ったが、もうすっかり出遅れていて、そろそろこの三叉路を右に行くのか,左に行くのかを決めなければと思いながら、ふと振り返るとまた別の法被を着た男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。(了)

仙台ネイティブのつぶやき(83)田んぼの中で眺め見る

西大立目祥子

 仙台市東部、海寄りの地域に七郷(しちごう)とよばれる水田地帯がある。江戸時代に新田開発とともに開かれたところで、地名から想像できるように明治22(1889)年までは7つの村だった。平成のはじめ、この地区の地域誌づくりにかかわったことがある。大がかりな区画整理事業が実施されることになり、農地が消え新しい道路が引き直されて風景も暮らしも大きく変わってしまうことに大正生まれのおじいさんたちが危機感を抱き、何か記録をと画策されたのだった。

 当時働いていた小さなデザイン事務所の一社員として、縁もゆかりもなかった地域に4年も通うことになった。土曜日の午後、当時はまだ運転免許も持っていなかったのでバスに乗り会場の市民センターに向かうと、会議室には7つの地区からそれぞれ2、3人が編集委員として出てこられていて会議が始まる。兼業にせよ、専業にせよ、長くこの地域で農業にかかわってこられた方が多く、暮らしてきた地域に対する思いは想像以上に深かった。全体をとりまとめていたのは代々米づくりをされてきた堀江正一さんという方で、いつもにこにことして、会議で出る意見の相違も対立を際立てることなくうまくまとめ上げる。ムラの長というのはリーダーシップを発揮してじぶんの意見を声高にのべるのではなく、人の意見にじっくりと耳を傾けるこういう人をいうのだな、と教えられた。

 会議を重ねながら本のイメージを話し合い、目次を立て、と作業は進んでいったのだが、分担を決めていざ原稿、となったところで、盲点に気づいた。資料がない! 城下町仙台なら江戸時代初期からの城下絵図がそろい、地名についても文献があり、郷土史家が書き残した本もあれこれあるのに、七郷に関してはというか、城下町周辺のムラだった地域にはほとんど資料は残っていないのだった。ちなみに七郷村が仙台市に編入されたのは昭和16(1941)年のことだ。

 結局、現場を歩き一次資料をつくるかたちで作業は進んだ。納屋に機械化前の農機具を保存している方がいたので訪ね、一点一点写真を撮り使い方を教わったり、おばあさんたちに集まってもらい嫁いでからの苦労話を聞いたり、違う世代の人たちに子ども時代の遊びについてたずねたりした。地名の由来から伝説までを、編集委員の人たちが思い出を絞り出すように記し、中には狐に化かされた話を10篇もまとめて持ってきてくれた人もいる。気の合う2人の編集委員が、七郷全域に残る石碑を丹念に歩き回って調べ尽くしまとめ上げた一覧表は圧巻で、のちに仙台市史編纂の際の基礎資料になった。

 私にとって忘れられない経験になったのは、広瀬川から取水されこの地域と周辺の水田1500ヘクタール(当時)に水を送ってきた七郷堀と、長喜城(ちょうきじょう)という集落に残る屋敷林、居久根(いぐね)の取材をする機会を得たことだ。
 七郷堀は江戸時代初期の城下絵図に描かれている農業用水で、荒地を開拓しながら東へ東へと進んだ新田開発にともない延伸し、毛細血管のように地域に張り巡らされていった。同僚のカメラマンといっしょに幹線をたどり分水堰で枝分かれするその先を追い、田んぼへと流れ込む水を見届けた。大発見!と胸が踊ったのは、城下絵図に描かれている広瀬川取水口近くの堰守の屋敷が変わらずに同じ場所にあり、そこに堰守の方が住んでいたことだ。80歳は優に越していると思われた大黒五郎さんという堰守のおじいさんに会いに行き、取水する水の量を加減する作業に同行して話を聞いた。江戸時代からずっと同じ場所で、空模様を眺めながら細やかなに水の管理をしてきた人がいたことに圧倒された。稲作は何よりまず水の管理に始まることなのだろう。

 居久根の「居」は屋敷、「久根」は屋敷境を意味するらしい。長喜城はいち早く集落で共同で米づくりに取り組んできた地区で、計画されていた区画整理事業には加わらず、このまま地域を維持していくことに決めていた。見事な居久根に囲まれた家が数軒残っていたことも、そんな決断を後押ししたのかもしれない。

 緑の樹林は、まるで水田にぽっかりと浮かぶ島のよう。S家は約1500坪。専門家の力を借りて図面をとり、樹種と本数を調べると、スギが31本、ヒバが21本、ヒノキが10本もあり、そのほかツバキ、カキ、ウメも10本ずつ、全部で160本を超える木が分厚く家のまわり、特に風と雪を防ぐために北西部を固めていた。9代目というご主人によれば、昭和42(1967)年に建築した家は、樹齢200年超えのスギを10本、そのほかケヤキなども倒し、ほぼ居久根の木だけで建て替えたのだという。

 落ち葉や倒木した木は風呂炊きに使われていた。なんとお風呂は五右衛門風呂。稲を脱穀したあとの籾殻もいったんヌカ小屋に貯蔵されたあと燃料となり、さらに燃やしたあとの灰はアク小屋にとって置かれ田や畑の土壌改良に使われる。もちろん、カキやウメは食用。居久根の中には見事な循環のシステムがあり、居久根は近場に山のないこの地区のヤマであり、農業と自給自足の暮らしを支える基盤なのだった。

 この5月中旬、私の母校の高校の1年生が水をテーマに地元でフィールドワークをすることになり、ご縁と思い案内役を引き受けた。240人に付き添って七郷堀の取水口へ、そして長喜城ではお許しをいただいて敷地に入り、居久根の説明をすることになった。気がつけば、あれこれと地域のことや農業のことを教えてくれたおじいさんたちはみな亡くなられ、いつのまにか私は伝える側に立っているのだった。
 15歳、16歳というと…こんな比較はおかしいけど、うちの猫より若いのである。デジタル育ちの子たちにどう伝えればいいんだろう。私のムラへの目を開いてくれた七郷堀と居久根なのだ、ちゃんと伝え受け止めてもらって足元の地域と農業に目を向けるきっかけにしてほしい。ついつい力が入る。

 昭和30年代の七郷堀の写真を見せては、「こういう写真を見るときは、じぶんと無関係の風景と思わないで。この時代、あなたのおじいちゃん、おばあちゃんはいくつ?きっと見ていた風景です」と話しかけ、水路の走る江戸時代の絵図では「おもしろいでしょう?私たちはいまも城下町の上に暮らしているんだから」と興味を喚起したつもりだったけれど…。

 彼ら彼女らにとってはスギといえば花粉症なのである。「ほら、まっすぐ垂直に伸びているでしょう。だから家の建て替えの用材として欠かせなかった」と話し、「居久根は自給自足のための基盤」と説明する。話をする先から「自給自足」が果たしてわかるだろうかと心配になって保存食に話を転じ、「樽に夏場にたくさん取れるキュウリを塩をきつく漬け込んで冬まで」といったあとで、「樽」を知っているかしら、「塩をきつく」なんて塩分取りすぎと思われちゃ困ると不安にかられ、話はどんどん横にそれていくのだった。

 生活体験がまるで切れてしまっている中で、江戸時代にも通じるような自然と農に向き合う暮らしがあることをどんな切り口で伝えれば10代の子たちの胸に響くんだろう。汗をかきながら説明を終えたあと居久根から目を転じれば、もうすぐそこまで宅地とショッピングモールが迫っている。あの頃には想像もしなかったような風景だ。「いま記録を残さなければ何もかもが変わってしまい何も伝わらない」と話していたおじいさんたちの会話が、耳の奥底に響いてくる。

水牛的読書日記 2023年5月

アサノタカオ

5月某日 先月末、神奈川・小田原へふらりと遊びに行った。菜の花くらしの道具店で布作家・早川ユミさんの展示を観るのと、本屋・南十字を訪れるため。

駅前の地下街にある菜の花くらしの道具店では、高知の里山からやってきた早川さんと東南アジアの少数民族のことなどについておしゃべりし、新刊のエッセイ集『改訂新版 ちいさなくらしのたねレシピ』(自然食通信社)を入手。早川さんは「暮らし系」の人と受け止められることが多いかもしれないが、ぼくは「思想家」だと考えている。南十字では2012年に急逝した駒沢敏器の長編小説『ボイジャーに伝えて』(風鯨社)を購入した。

ということもあり、5月に入り早川ユミさんと駒沢敏器の著作をいろいろ読んでいる。

5月某日 戸谷洋志『SNSの哲学』を読む。創元社のシリーズ「あいだで考える」の1冊。《SNSを使っているあなた自身が何者なのか》。日常的な事柄から哲学的な問いへごく自然に読者を導く読みやすい構成の本、それでいて考えるヒントがぎゅっと詰まっている印象。

本シリーズ「あいだで考える」は《10代以上すべての人のための人文書》で、編集は藤本なほ子さん、装丁は矢萩多聞さん。今後の展開が楽しみだ。『SNSの哲学』を読み終わったら、大学で哲学の勉強をはじめた10代の娘にすすめてみよう。

5月某日 東京の武蔵野方面へ。「かまくらブックフェスタ」(港の人主催)というフェアを開催中のくまざわ書店武蔵小金井北口店を訪問。ここには、サウダージ・ブックスの本も並べてもらっている。お店では『現代思想』2023年5月臨時増刊号(総特集=鷲田清一)を購入、哲学者の永井玲衣さんによる鷲田清一さんへのインタビュー、臨床哲学者の西川勝さんのエッセイ「鷲田さん、とのこと」を読む。

その後、JR中央線で武蔵小金井から三鷹へ移動し、本屋UNITÉをはじめて訪れる。店主の大森皓太さんのお話を聞きながらおいしい珈琲をいただき、時間をかけて本を選んだ。帰りの電車で、大森さんにすすめられて購入した堀静香さんのエッセイ集『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)を読む。歌人でもある堀さんのことばを追いかけていくうちに、通い慣れている道のはずなのに見覚えのない景色の中を歩いているような、不思議な気持ちになった。中盤の1編「はみだしながら生きていく」を読み終えて、いったんページを閉じる。ここで深呼吸、よい本。

百万年書房の新レーベル「暮らし」の本は、どれも読んでみたい。シンプルな装丁もすてきだ。

5月某日 先月三重・津を旅した際、HIBIUTA AND COMPANYで三島邦弘さんのエッセイ集『ここだけのごあいさつ』を購入した。出版社の新レーベルとしてこの本の発行元である「ちいさいミシマ社」にも注目している。『ランベルマイユコーヒー店』(詩=オクノ、絵=nakaban)など詩の本の刊行から新レーベルを旗揚げするのを見て、これまでのミシマ社とちがう風を感じたのだった。

詩や小説の本づくりは、文芸誌を発行し、文学賞を主催する大手・老舗の限られた版元の世界に偏りがちだ。でも「ちいさいミシマ社」は、こうしたいわゆる「文壇」とは異なる、かといってリトルプレス的な個人出版とも異なる、ミシマ社らしさも活かした第三の文学の道を切り開いていこうとしている。

なかでもちいさいミシマ社から刊行された前田エマさんの『動物になる日』は、すばらしい小説集でひさしぶりに読み返した。表題作は、ジョルジュ・バタイユが語ったような「世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」いきものの感覚世界、そこに片足を入れていた幼年時代のゆらめく生のリアリティがみごとに描かれていて、読んでいてぞくぞくする。所収の「うどん」もシブい中編小説で味わい深い。

HIBIUTA AND COMPANYが発行する2冊のZine『日々詩編集室アンソロジーVol.1 わかち合い』、南野亜美さん・井上梓さん『存在している 編集室編』も読んだ。

5月某日 出版社トゥーヴァージンズ(TWO VIRGINS)のnoteで、詩人・翻訳者の高田怜央さんの連載「記憶の天蓋」の第1夜「ジョバンニの切符」を読む。星と宮沢賢治についてのエッセイ。

5月某日 東京・町田の和光大学へ公開シンポジウム「〈ヘトロピア群島・沖縄〉の精神史 川満信一から仲里効へ」を聞きに行く。登壇者のひとり、昨年90歳になった詩人の川満信一さんは映像での出演。川満さんらしい飄々とした詩の朗読で、100名を超える聴衆の心を一瞬でつかんでいた。そして那覇から会場に駆けつけた批評家・仲里効さんの講演が圧倒的だった。沖縄の「復帰」の複雑な内実について、そしてシンガーソングライター佐渡山豊の歌について。この日のために、『ラウンドボーダー』(APO)から『沖縄戦後世代の精神史』(未來社)まで仲里さんの著作群を集中的に読んできたのだった。

本シンポジウムは恩師の今福龍太先生と上野俊哉先生が企画、台湾からは谷川雁を研究する羅皓名さんが参加した。夜は大学内で焚火パーティー、徳島・祖谷の「なこち LIFE SHARE COTTAGE」管理人である稲盛将彦さんなど、しばらくぶりの知人友人に再会し、うれしかった。

5月某日 吉祥寺ZINEフェスバルに出展。駅前PARCOの地下1階の会場で、サウダージ・ブックスおよびトランジスター・プレスの書籍を販売。本はよく売れたし、購入者にはトランジスター・プレスを創業した佐藤由美子さんが制作したZine『This is Radio Transistor』『Planet News Bookstore』をプレゼントし、持参分を配り切った。日本のZinesterの草分け・佐藤さんのスピリットが伝わりますように。

隣の露店書房のブースでは、驚いたことに自分が編集した山尾三省の詩集『火を焚きなさい』(野草社)を面だしで販売していた。会場では出版社クオンの代表・金承福さんにばったり遭遇するなど、お客さまや才能に溢れる出展者たちとのよい出会いに恵まれ、愉快な1日だった。

5月某日 小田原から新幹線に乗り、静岡・浜松へ。認定NPO法人クリエイティブサポートレッツの営むちまた公民館で開催された、西川勝さん『増補 ためらいの看護』(ハザ)の読書会に参加。会の前に谷島屋書店連尺店に立ち寄ると、レッツ代表の久保田翠さんの姿を発見し、すこし立ち話をする。西川さんや読書会に集うみなさんとゆっくりおしゃべりしたかったが、最終の新幹線で帰宅しなければならず。

5月某日 今年も作家・李良枝を偲ぶ会に。東京・新大久保で開催された李良枝『石の聲 完全版』(講談社文芸文庫)出版記念を兼ねた集いに参加。早稲田大学時代に一時期交流のあった鄭剛憲さんのスピーチなど、心に残るよいお話を聞き、おいしいごはんをいただいた。感謝。

家に帰り、『石の聲 完全版』を読む。巻末に収められた妹の李栄さんによる「没後三十年、あらためて姉ヤンジをたどる」に感動、尊い証言だと思った。李良枝は早逝ゆえにぼくらのちの時代の読者にはやや謎めいた存在だったのだが、このエッセイによって書物の背後にある作家のイメージにはじめてあたたかい血が通ったように感じる。

5月某日 5月は年1回発行される地方文芸誌『徳島文學』の季節。待望のVol.6 が到着。なかむらあゆみさんの最新小説「白鳥ミュージアム」を読む。そこで描かれる人間模様には見慣れた現実から少し外れた「異形」味があるのだが、読後には物語の世界のすべてを肯定したい気持ちにさせられる。なかむらさんの他の作品にも共通して感じる不思議な魅力だ。

Vol.6掲載の小説では髙田友季子さん「金色のスープ」、久保訓子さん「夏が暮れる」を続けて読む。どちらも地方に暮らす人間の生に忍び寄る影を繊細に描く力作で、最後までページをめくる手が止まらない。若松英輔さんの批評「孔子の叡智」も。若松さんの言う「読むとは何かという問い」に深くうなずいた。

5月某日 小田原から朝一番の新幹線に乗車し、香川・高松へ。旅の道中で、韓国の作家ソ・ユミの小説『終わりの始まり』(金みんじょん訳、 書肆侃侃房)を読了。逃れ難い人と人との関係ゆえの痛みを静かに描き出す、読み応えのある小説だった。共感というべきか、共苦というべきか。読み進めるごとに、ページの端を押さえる指の圧がだんだん強くなっていくのを感じた。

JR高松駅で写真家の宮脇慎太郎くんと合流し、石の民俗資料館で開催中の写真展「Photo×Book」へ。宮脇くんがデビュー前から撮影してきた写真、蔵書、旅の資料を一室に集め、写真家として現代の聖地を巡礼するかれの世界観を再構成する趣向。脳内のカオスモス(混沌宇宙)の運動の軌跡を明らかにする実験、と言えばよいだろうか。まさに珍品博物館的な「宮脇慎太郎のワンダー・キャビネット」、圧巻の展示だった。

はじめて訪れた石の民俗資料館は、屋島から高松の町までを一望のもとに収める眺めのよい場所にあった。高松ではデザイナーの大池翼さん、画家・イラストレーターのうにのれおなさん、話題のノンフィクション『香川にモスクができるまで』(晶文社)の著者・岡内大三さんらと再会。ローカルのクリエイターたちに刺激を受ける。

翌日は高松・瓦町で、愛媛・松山の松栄印刷所の桝田屋昭子さんと今後の本づくりについて打ち合わせ。その後、本屋ルヌガンガ、古本屋のなタ書、YOMSというお決まりのルートをあわただしく回って、昼過ぎに成田空港行きの飛行機に乗るため高松空港へのリムジンバスに。

本屋ルヌガンガでは『些末事研究』第8号を購入。特集は「行き詰まった時」で、YOMSを営む齋藤祐平さんのエッセイ、サイトウマドさんの漫画が掲載。なタ書では、深山わこさん『アカイトコーヒー物語』(民宿カラフル)を購入。どちらもよい冊子で、道中で読み終えた。

5月某日 四国への短い旅から自宅に戻ると、韓国SFの作家キム・ボヨンの作品集『どれほど似ているか』(斎藤真理子訳、河出書房新社)が届いていた。不思議なタイトルにひかれて、さっそくひもとく。巻頭に置かれた短編「ママには超能力がある」を読んだだけでもう心の震えがおかまらない。空想科学的なはるかに遠い物語が、ほかならぬ自分の身に沈められた情動を強く喚起させる韓国SFのこの感じ、いったいなんなのだろう?

製本かい摘みましては(182)

四釜裕子

埼玉県の吉見百穴に行った。近くを通って、その日はなかなかの暑さだったので休憩もしたかった。「発掘の家」という売店に入って明治20年の発掘当時の秘蔵写真や資料を見て、ところてんを食べながら店主にいろいろ話を聞くことができた。6~7世紀の横穴墓群といわれる吉見百穴を利用して地下に作られた軍需工場の跡地には、〈崩落の危険があるため点検・調査中〉とのことで入れなかった。昭和20年にもなって突貫で工事が始まり、稼働することなく上書きされて「工場の跡地」となった部分だ。金網にかけてあった説明板には、掘削を担ったのは全国から集められた3000人から3500人の朝鮮人労働者で、ダイナマイトを使用した人海戦術だったとあった。目の前に広場が必要だからと、近くの市野川の流れもこのとき変えられている。

吉見百穴から道をはさんですぐのところに「巌窟ホテル」の跡地があるが、こちらは旺盛な草木に隠れてほとんど見えなくなっていた。明治37年から地元の農家・高橋峯吉さんと泰次さんが2代にわたってノミやツルハシで掘り続けた洞窟で、実際には「ホテル」ではないがそう呼ばれてきたようだ。写真家の新井英範さんが42年前に撮影した写真をまとめて『巌窟ホテル』(2022)を出していて、ネットでその一部を公開している。科学実験室や電話室、バルコニーなどもあり、これは実物を見てみたかった。1980年代になると台風などで崩れるようになり、入り口は閉鎖された。現在は3代目が道向かいで「巌窟売店」を営んでいて、ホテルの資料や写真を大切に保管されているそうだ。

吉見百穴では自生しているヒカリゴケを見ることができた。「天然記念物 ヒカリゴケ 自生地 →」という看板の先にのぞき穴があり、歓声をあげている子どもたちのあとに続いてのぞいたので、たぶん私の目にも見えていたと思う。ヒカリゴケといえば武田泰淳の「ひかりごけ」。熊のような表情(実際に見たことないけど)で肉をくらう三國連太郎、海に逃げようとする奥田瑛二をつかまえて抱きしめた三國連太郎、裁判官・笠智衆の表情などがぱっと浮かぶ熊井啓監督の映画版は観ていたけれども、原作は読んでいなかった。帰って古本で求めて、いわゆる「戯曲」の前の部分も面白く読んだ。

〈殺人の利器は堂々とその大量生産の実情を、ニュース映画にまで公開して文明の威力を誇ります。人肉料理の道具の方は、デパートの食器部にも、博物館の特別室にももはや見かけられない。二種の犯罪用具の片方だけは、うまうまと大衆化して日進月歩していますが、片方は思い出すさえゾッとする秘器として忘れさられようとしている。〉

パク・チャヌク監督の映画『お嬢さん』を観て目をそむけた場面が、なぜだかここに重なった。簡単に言うと、製本道具で人の体を傷つけるシーンだ。そこまでの経緯はいろいろあるのだけれども、稀覯本を模した本を地下で作っては、都合よく姪を”役者”に仕立てあげ”朗読会”を開いて好事家を集め競売にかけている最低で変態で偏執狂な男、だけれども”本への愛”はあると思えた男が、共謀者であった男への憎悪をシザイユやプレス機で果たすという、そんなことはあり得ないだろうととっさに思ってしまった。映画ではその前に、地下室の棚に並んだ秘蔵本を姪の”救世主”がばっさばっさと抜いて破ってインクをたらして畳を剥がして水の中にぶちこんだりするのだけれども、これには一瞬あっ……と思うもまもなく痛快を覚えて喝采したのに、だからこそ、そのあとの道具を犯さんばかりのシーンに過剰に反応した自分の態度をいぶかっている。再見せねば。

千年の雨

北村周一

千年の
雨の愉楽を
煽るごとく
地団太踏んで
はしゃぐ神神

風(ふう)の神
雷(らい)の神ある
これの世の
天地をむすぶ
千年の雨

絵空事に
あらずやさらに
万年の
雨をおもえと
雷鳴りはじむ

天竜は二俣川の橋ひとつ落ちたる夜の千年の雨

百年の
水の溜まりを
越境し
決壊を待つ
ダムの図あわれ

野分き跡
ふたまた川の
橋ひとつ
落ちたるさまを
カメラに残す

野分き跡
ハザードマップに
ふかぶかと
沈む家あり
浮かぶ家あり

千年に
一度の雨の
確率の
わかりにくさを
地図上に知る

県は県市は市なれども国は国ハザードマップに望みつなげば

オニゴロシ飲んで気配を消す努力
ハザードマップにゲンパツは見ず

ダムの底に
沈められたる
家々の
家電のかげの
ハザードマップ

河原べに
子らと遊びし
あの頃の
宮ケ瀬おもゆ
ダムの上より

みやがせの
湖底に沈みし
河原べを
ふとも思いつ
新緑の中

水枯れのダム湖の底にあらわれしかつての水郷なかつ渓谷

さつき闇
水位の下がりし
宮ケ瀬の
湖底に浮かぶ
家々の屋根

雨降れば海山川に水溢れすがたを変えて人を貶む

雨降れば海山川は忽ちにすがたを変えて水と戯る

巡る水に
洗われしのちの
青みどり 
溺れる月の
かげなお蒼し

震度6強という字が揺れのこる
奥能登はいま雨雲の下

5月

笠井瑞丈

久しぶりの連休
思い立って水上温泉に向かう
以前は群馬四大温泉地と呼ばれ
バブル時に栄えた水上温泉
しかし今はかなりの廃墟化が進み
現在ではバブルの遺産となる
駅前のお店はほとんどが閉まっており
廃墟化した旅館があちらこちらに
もちろん営業している旅館もあるが
きっと一時期の来訪者と比べれば
とても少ないのではないだろうか
栄えていた時のことを想像し
夜の街をぷらぷらと散歩する
若者むけの飲み屋やバーの光
足湯などから上がる湯気の煙
夜の街を綺麗に光り輝かせる
ここにも人々の生活がある
街は亡くなってるわけではない
むしろこれから復活する力を
蓄えているようにも感じた
いつか行った鬼怒川温泉も
廃墟化が進んでいたけど
あそことは違うものを感じる
また来ようと思う

初めて芝居の舞台に出る
5月中旬劇場でプレ稽古
初めて会う演出家と共演者
中には何人か知ってる人もいたが
やはり初めての現場は緊張する
おまけに芝居となればなおさらだ
今回この芝居に出る経緯
ダンスシーンを振付する
振付家が知り合いだったため
出演のオファーが来た
少し悩んだが
今まで芝居そして
商業の舞台は
ほとんど出たことが無かったので
新しい挑戦だと思い出演することを決めた
簡単な自己紹介の後演出家の意気込みを聞き
すぐに稽古に入る
簡単な体を動かすワークショップ
そしてセリフの練習
初めての経験ばかり
本稽古は6月からだ
どのような舞台が作られていくのだろうか

久しぶりのセッションハウスでの公演
そして初めて出てもらう三人のダンサー
そして初めて作品全部を即興にしてみた
簡単のルールを決めそれに沿って即興で踊る
最近あまり振り付けすことに気が向かない
いつも同じものしか出てこない自分が嫌になる
その瞬間に生まれるもの
その瞬間に亡くなるもの
踊りというのはそんな感じがする
振付をすることで何かを固めてしまう
自由であり不自由でなければいけない

あと少しで今年も折り返し
きっと未来は明かるい

222 伝承の木

藤井貞和

大江さんの詩を引いて、
あなたは書きました。

 四国の森の伝承に、
 「自分の木」があって、
 谷間で生き死にする者らは、
 森に「自分の木」を持つ。
 ……

という一節です。

大江さんの詩を、
わたしは知らなかったので、
机のうえに投げ出したままで、
疲労にとりつかれます。

「そこにいるのはだれですか。」
「幽霊さんです。」
あなたを追悼する文を、
あしたまでに書かねばなりません。

あきらかに幽霊のわたしです、
と、そこまで書いて、
古い夢だったなと思い出す。

あなたはすこし距離を取るというか、
大江さんに対して、
だれもが距離の詩を書く今日ですが、

わたしは、
自分の木を持たないです。
午後の陽がここにして弱くなり、
わたしを見捨てて顧みないかのようです。

午睡から醒めると、わたしの、
「自分の木」が消えてゆきます。

(福間健二さんの追悼詩を書こうとして、あしたが締め切り。福間さんの「詩について語る」『詩論へ』①〈二〇〇九・二〉をぼんやりひらくと、大江さんの詩というのが引用されている。)

卵を食べる女(下)

イリナ・グリゴレ

大人の女性になってから彼女の卵アレルギーが治ったものの、突然、他の全てのアレルギーが悪化した。寝ている間だけは大丈夫だったが、それ以外の時間は朝から晩まで全身の皮膚が痒くなって、塩漬けされたイカが海の風の当たる場所に日干しにされるような感覚が抜けなかった。それでも、毎日、卵だけ食べ続けた。生きるため。彼女は生きたかった。死ぬことを全身で否定していた。絶対に死なないでやると思っていたからだ。でも、この誰しも簡単にできることが、彼女にはとても難しかった。生きることは彼女にとって簡単なことではなかった。卵しか食べられないし、ストレスを感じると空気にさえ触れれば皮膚が痒くなるし、体力もほとんどなかった。その上、音と人の声にとても敏感で、例えば、気に入った声と出会えば、その声以外の声を聴きたいと思わなかった。でもそういう人は、男性であれば彼女をすぐ嫌う。しつこいからかもしれない。野生動物のような性格の持ち主だからかもしれない。純粋すぎるからかもしれない。大人なのに少女のように笑うからかもしれない。正直者で嘘をつくことができないからかもしれない。目が夜でも光るからかもしれない。卵しか食べられないからかもしれない。理由はいくつか考えられる。だから、男性と一緒に暮らすことができない。もし暮らしたら、彼女のお母さんと同じように殴られるかもしれない。嘘をつかれ、彼女の身体を利用して、野良猫のように捨てられるに違いない。

高校生の頃、彼女のお母さんは初めて見た若い女性を連れてきて、その夜は家で寝かせると言い出した。その子は家出して、団地の前のベンチに寂しそうに座っているところを彼女の母が見つけた。寒い夜をあのベンチで過ごすわけがいかないので、彼女の母はその子を家に連れてリビングで一晩寝かせておいた。突然知らない若い女性が家にいて、家の雰囲気が変わって、彼女もなかなか寝付けなかった。彼女の母はその子が寝た後で、小さなカバンをチェックしていた。着替え用のパンティと歯ブラシ、わずかのお金しか入ってなかった様子で、本当に慌てて家を出た感じだった。彼女のお母さんの話によると、父の暴力が嫌で出たが行くところもなく、次の日に家に帰るように彼女の母が納得させた。彼女はその子のことずっと考えて眠れなかった。とても羨ましいと朝になって気づいた。こんなに簡単に逃げられるなんて、彼女もやってみたかった。自由を求めて。朝まで、小さなカセットプレイヤーでピンク・フロイドの『クレイジー・ダイアモンド』を聴きながらそう思った。

Now there’s a look in your eyes
Like black holes in the sky
Shine on, you crazy diamond

知らない間に、彼女は知らない国で暮らして、卵しか食べられなくなった。いつの間にか一人で電車に乗って、飛行機に乗って、確かにアイスを自由に食べられる飛行機だったが、アイスどころではなかった。そして隣に座っていたフランス人がアニメでしかみたことない大きなイヤホンで同じピンク・フロイドの曲を聞いていた。目を一度しか合わせてないし、彼に全く興味なかったが、彼のオーラから彼女がその後に出会う世界の冷たさを感じた。包丁で間違えて指を切る時のような感覚。冷たい鉄が皮膚を切って、身体に入る瞬間、血が出る瞬間だ。身体が冷えて、震えそうな感覚。そして、その後、トイレに行ったとき、CAの笑い声が聞こえた。飛行機に初めて乗ったが寒気しかしなかった。世界はとても冷たいところだと予感した。

You were caught in the crossfire of childhood and stardom
Blown on the steel breeze
Come on, you target for faraway laughter
Come on, you stranger, you legend, you martyr, and shine

色々試してみたが一つの好きな卵の食べ方、それは、昔、自分の母が作っていたスタッフドエッグだった。卵を茹でて、皮を剥いて、半分に切る。黄身だけをとり、違う皿でマスタードとマヨネーズと混ぜて、残った白身の穴にそのクリーミーなものを埋める。上にパセリの葉っぱを乗せたら完成だ。でも、今は卵の味しかわからなくて、マスタードの風味がないと美味しく感じない。このままだと、卵さえ食べられなくなるので病院で診断してもらうため病院へ行ったのだが、身体は異常なしと言われた。すると、待合室で突然人が彼女の前で倒れた。そういえば、いつシカゴの空港で目玉焼きを食べながらそのまま倒れた人がいた。一瞬で、テーブルの下に落ちて、一瞬で元の場所に戻って店の人々と話をし、救急車を呼ばないで、朝ごはんを食べ続けた。先ほども、病院の待合室で人が倒れて、お医者が呼ばれて、救急車は呼ばれてなかった。気づいたら全部が元に戻った。何もなかったように。人が倒れるのをみたのは彼女だけだったのか?

You reached for the secret too soon
You cried for the Moon

病院で、精神の病だと診断された。それはそうだと彼女も思った。生きるだけで病むから。普通に。みんなはそうではないのか。おまけに、ある夜に卵と鶏肉の工場についてのドキュメンタリーを見た。病気になった雛が大量に殺されるシーンがあまりにも衝撃的だったため耐えられなくなった。その日から卵さえも食べられなくなった。彼女は何も食べない状態では何日も持たないと思っていたけど、動く体力もなくなった。刺青を入れる夢を何日も見た。その刺青はただの番号だった。彼女は知らない間に、刑務所みたいなところに入れられた。きっと隣のアパートに住んでいた友達が彼女は狂っていると気づき、彼女を連れてきた。でも記憶になかった。長い間、床に横になって、寒さ以外何も感じなかった。隣に牛乳のような白い液体とピンクの薬のようなものが置いてあった。でも寒さ以外、飢えも何も感じなかった。牛乳なんて、昔から大嫌いだったし、あの薬はいつか田舎の畑で植えたインゲン豆みたいだった。この薬を飲んだら身体の中からインゲン豆の苗が生えればいいのにと思った。でも、動く体力もないし、話す体力もなかった。脳梗塞のような体験だった。病院で倒れたのは隣の人ではなく、彼女自身だったのではないか? 何年も外国語で一生懸命会話をしてきた彼女は急に言葉を話せなくなって、言葉が出なくなった。話かけられても、その言葉の意味が不明のように感じた。言葉とは結局、何のためあるのか、わからなくなった。言葉は包丁のような冷たいものとして感じた。

体が石のように重くて、何日か後、背中に大きな痛みを感じるようになった。いつか読んだ、ガルシア・マルケスの短編で、突然に人の庭に落ちた天使の話を思い出した。記憶はモヤモヤしていたが、あの話で、あの天使の羽が泥だらけになって皆に無視されていた気がして。思い出せなかった。こんなに背中が痛いので、もしかしたら彼女にも背中に羽が生えるかもしれないと一瞬、光のように思った。そうだ、あれだけ卵を食べたので、きっと天使ではなくても鳥になれるに違いないと思い始めた。鳥より、天使がいいとそのあと思った。その方がいい。子供の頃、彼女の祖母は天使の話をよくしていた。天使には性別はないので、天使がいいとすごい喜びと当時に何年振りに微笑んだ気がした。

Well, you wore out your welcome with random precision
Rode on the steel breeze
Come on, you raver, you seer of visions
Come on, you painter, you piper, you prisoner, and shine

彼女は何日間も背中に羽が生えるまで待った。痩せて骨と皮膚しか残らない腕を背中まで伸ばそうとしたが、届かなかった。でも、彼女は祖母と天使の話とともに、祖母が子供の頃に教えてくれた自分の守り天使への祈りを奇跡的に思い出した。そうだ、誰も助けてくれないときには守護天使にお祈りすればいいと祖母が教えていたのだ。その祈りを母語で思い出し、頭で繰り返し始めると、重かった身体が軽く感じ、身体が急に軽くなった。こうして、何日間も光のようなものを感じ始め、飲んでも吐き出していた水も飲めるようになった。彼女の身体に大きな変化が起きた。そうだ、思い出した。天使の身体が光っているということ。実際に見ることができなかったが、あの日まで感じていた世界の冷たさが消えて、光のような温かみを感じ始めた。世界は見えないものでできていると思いながら、看護師のような、制服を着ている彼女に全く関心なさそうな女性に言った「家に帰りたい」。その言葉は何ヶ月振りに出た言葉のような語感だった。

卵を食べる女は奇跡的に回復し、電車に乗って飛行機に乗って生まれ育った村に戻った。ちょうど、ジャスミンとアカシア、村に白い花が咲いている季節で、歩きながら、アカシアを摘んで、口に入れて甘い蜜と花の香りをたっぷり味わった。最初に自分の母親に食べたいと頼んだものは卵ではなく、葡萄の新しい透明な酸っぱい葉っぱに包んである挽肉の郷土料理だった。

変化と不安定

高橋悠治

変わろうとしないが、変わってゆく。変えようとしなくても、変わってしまう。それが自然なら、変えるくふうはいらない。思いついたことを書き留めるだけ、置いておくだけで、それが変化していく。

音は空気の振動だとすれば、空気が揺れ動いて、音が聞こえる。動かない空気は聞こえない。色が見えるのも同じことがだろうか。動物の眼が動いているものが見える、というのは、遠くから危険が近づく前に、どうするか判断できる、隠れるか、逃げるか、立ち向かうか。でも、何も起こらずに、危険が通り過ぎるのが、いいかもしれない。

音楽や絵が表現だと考えるのは、危険な考えかもしれない。音や色を自分のものとして操る理由はなんだろう。

音や色で遊ぶには、それらが危険なものではなく、変化しながら吹きすぎるままに、時間をすごすことができるように慣らしていく、という面があるのかもしれない。

そうした遊びに使われる音楽や絵は、だんだん当たり前の現象になっていく。音や色の限られた組み合わせが使い古され、忘れられる時が来る。

と書いたが、絵はどこかに置かれて、そのままそこにある。音楽は、楽譜だけがどこかにしまわれて忘れられる。忘れられた絵が捨てられることが、どのくらいあるかわからない。忘れられた音楽は、楽譜だけになっている。最近は録音が残ることもある、といっても、録音方法は変わるから、機械は使われなくなり、記録された演奏も、聴かれなくなる。

何年か経って、少数の楽譜を読みなおすと、それが作られた時代とはちがう響きを立てることがある。音の組み合わせが変わるわけではなく、演奏スタイルが変わっただけなのに、何がちがうのだろう。それがわかれば、音楽は音の組み合わせではなく、演奏スタイルということになるのか。

そうかんたんにはいかない。図形楽譜や、ことばやアイディアだけを書いた作品は、演奏されなくなった。と言えるだろうか。おそらく、音符だけが音楽でないように、それを作った人たちの活動を離れては、「作品」だけが意味をもつわけでもないのだろう。そして「活動」が過ぎても、「作品」が残っているならば、それは同じ音楽ではなく、なにか別な音楽がそこに生まれて、元あったものに置き換わったのかもしれない。

と書いて、読み返すと、思っていたこととはちがうことばが並んでいる。