ミラノに戻った翌朝、庭の樹は見事に黄金色に染まっていて、枝の下は、既に落ちた葉が地面の雑草とあいまって、ちょうど19世紀おわり、イタリア分割主義(ディヴィジオニズモ)の絵画の筆致をおもわせます。久しぶりにこちらの姿を確認したリスは、また餌が途切れては堪らないとでも思っているのか、樹の根元あたりに穴を掘っては、餌箱にやったばかりのクルミをせっせと運んでは溜め込んでいます。小鳥たちはそれを周りからじっと眺めていて、ときどき、こちらのすぐ近くに飛んできてこちらの様子をしばらく伺っては、またリスのそばにもどって作業を見守っています。鳥の翼の赤が、紅葉の風景にやさしく溶け込んでいて、おもわず心がなごんでくるのです。
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11月某日 三軒茶屋自宅
勤務先の学校を運営する財団より一斉メール。たとえ、学校とは直接的には関連はないが、我が校に関する新聞記事に大変憂慮をおぼえる。我々は性虐待問題について、非常に強い態度で臨んでゆく。万が一、身の周りでそのような問題を見聞きした場合、すぐに連絡されたし、とある。何があったのか全く見当がつかず、学校名で新聞記事を検索すると、目ぼしい大手新聞社が軒並み、我が校の教師とその卒業生が、性加害者として訴追され1月に出頭命令。ずいぶん詳しく書いてあって、教師と彼の元生徒が、一人の女子学生と夕食後に暴行に及び、被害者は警察に通報した。教師のイニシャルまで書いてある記事もあり、揃って、学校は無関係だと主張している、と締めくくられていた。
ひがな一日譜読みに明け暮れているが、ひどい時差呆けで気が付くと、机につっぷして寝ている。急がば回れともいうけれど、急ぎ続ける生活は厳しい。何かを根本的に間違えているような気もする。あとひと月頑張って指揮に専心したら、譜読みや指揮とも距離をとって静かに作曲する生活にもどる。本来、自分は田舎の学校でつつましく教鞭をとっているのが向いている人間だとおもう。
11月某日 三軒茶屋自宅
対イラン政策のため、米重爆撃機B52来伊。100年前、ヒットラーはチェコ国内で迫害を受けているドイツ系住民を解放する名目でチェコに侵攻した。他の地域も似たようなものだろう。あれから1世紀過ぎて、さまざまな惨い戦争で諍いの無意味さを理解したはずでも、原爆で人が瞬時に消滅する姿に慄いたとしても、まったく同じ方便を使って、人は人を殺めつづけているのは、おどろくべきことだ。大部分のナチス時代のドイツ国民が、ユダヤ人迫害をしらなかったように、もしくはしりたくなかったかのように、加害にたとえ無意識にでも加担している人々も、一人一人はおそらくとても優しく、人間味あふれる人々に違いない。
小学1年生の終わりに、教室に置かれていた「はだしのゲン」を読んだときの衝撃は今でも忘れられないし、その思いは未だにトラウマになって体内のどこかに残っている。小学校の終わりごろ、学校の代表だったから、原爆で黒焦げになった遺体の写真何枚かについて、感想文を書かなければならなかった。何を書いたのか全く記憶にはないけれど、ただ、「はだしのゲン」を初めて読んだときの恐怖などを、まざまざと追体験しながら書いたのは覚えている。
そのころ、子供心に本当に不思議だったのは、こんな酷い目にあいながら、いまなぜ日本はアメリカと仲が良く、大人たちはどうしてアメリカ人を嫌ったりしないのだろうという、文字通り素朴な疑問だった。その頃は相模原に住んでいたから、米軍座間キャンプが近く、近所にはそこで通訳として勤めている人もいて、どうしてアメリカ人が怖くないのか、憎らしくないのか、実は本当は憎らしいのか、などと考えていたのを思い出す。そうして、実際に座間キャンプなどに勤めていた米軍関係者のこどもと知り合う機会もあって、自分と同じごく普通の子供だった。
息子がミラノの現地小学校に通っていたころ、同級生のフィリピン人に、「戦争中日本人はフィリピン人をたくさん殺した。だから、フィリピンのひとは日本人がきらいなんだよ」といわれ、とてもショックを受けた。この同級生が、誰からどのように教わったか知らないし、それを事実に反するというひともいるかもしれないが、とにかく息子の同級生は、そのように思っていた。朝鮮半島や中国に残る、日本に対してのわだかまりも、それに準じる皮膚感覚なのかもしれないが、自分が小学生のころ抱いていた漠然とした恐怖を思い返せば、少しわかる気もする。もちろん、場合によっては政治家はその皮膚感覚を利用してきたかもしれないが、それは今に始まったことではないだろう。それとは別の次元で、刻み付けられた傷を後世に伝えたい意志は、ほとんど意識そのものと重なっているかもしれない。
先日までイタリア中部で洪水が続いていたが、今度はスペインのヴァレンシア地方で甚大な被害。被害者は現在のところ212人と報道されている。
11月某日 三軒茶屋自宅
NHKホールにて作曲コンクールの録音。録音といっても、ごく普通と同じようにドレスリハーサルがあって、審査員5人のための演奏会がある。ドレスリハーサルも石川さんの曲になり、甲斐さんが舞台に現れるのを待ってさあ始めようとしたところ、客席から、パキッと大きな物音がする。念のため、ドレスリハーサルも録音していたので、大きな雑音が入るのは望ましくないとおもい、特に後ろを振りかえらず「始めますから、すみません!」と声をかけ、また振り始めようとすると、パキッと大きな物音がした。後ろを振り返ると、音のするあたりに、関係者が駈け寄っていて、なんだろう、と眺めていると、またパキッと音がした。「すみません、何もありません。長年、ここで収録してきましたが、こんなこと初めてです」とNHKの方が言うので、一瞬だけ鳥肌が立ち東フィルのみなさんもみな緊張した面持ちになったのだが、「ああ、なんだ西村先生そこにいらしたんですねえ!」と声をあげると、オーケストラからどっと笑いが起きた。西村先生は、本当にみなさんに愛されていたのだろう。
もしかしたら、湯浅先生とか一柳さん、三善先生かも!などとオーケストラのメンバーからもはずんだ声がきこえる。なんだ、そこで皆さん聴いていらっしゃるなら、今日の演奏はもうお任せして大丈夫ですね、とすっかり気分も大きくなったが、その通り、本番は実に素晴らしい演奏ばかりであった。情熱ほとばしる甲斐さんの独奏には、オーケストラ一同すっかり惹きこまれたし、まだ大学に通っていらしたころからよく知っている中澤さんが、急な代役を見事にこなされたのにも、大変感銘をうけた。
生まれて初めて、どうやらラップ現象と呼ばれるものと遭遇した塩梅であるが、あんなに愉快で幸せな気分になるものとはしらなかった。リハーサルが終わり控室に戻ると、なんだかすっかり感激してしまって、涙が溢れて仕方なかった。
審査員のみなさんの拍手と相俟って、コンクールらしからぬ、心地良い演奏会となったのは、どなたかがムードメーカーで眺めていらしたからかしら。トランプ前大統領再選。
11月某日 三軒茶屋自宅
朝「1通の手紙と六つの唄」を初めてリハーサルしていると、ピアノを弾いていた家人が「マエストロが来てるよ」という。振り向くと、敢えて呼んでいなかったシャリーノが微笑みながら座っている。演奏がとてもむつかしい作品だったから、最初からリハーサルを聴かれても困ると思っていたが仕方がない。思いの外元気そうなので安心する。
午後は作曲のワークショップ。まずシャリーノは、皆が周りにあつまるように促した。彼と二人、舞台の端に腰かけて、客席前列と、舞台にも椅子を並べて、みんなで6人の若者が書いた書きかけの楽譜をながめながら、レッスンとレクチャーのあいまった濃密な時間が展開した。
シャリーノは自分の書きかけのスケッチを見せてくれる。五線紙ではなくグラフ用紙に時間軸にそって、細かく丹念に書き込まれた音のうごき。自分はこんな風に音を視覚化して、俯瞰していると説明した。
若い頃には、自分の作品など殆ど演奏の機会にめぐまれなかったし、周りが前衛音楽一辺倒の時代において、自分の音楽は後ろ向きだと批判ばかりされた、と笑う。
シュトックハウゼンやブーレーズなどを真似て、ずいぶん色々と自分なりに実験してみたが、書法の洗練に特化したブーレーズより、自分はシュトックハウゼンの姿勢に共感をおぼえたものだった。
理論で作曲するのではなく、自分の書きたい音に耳を傾けるよう、繰り返した。確かに、彼は自分の書いた音がすべて聴こえているようであった。それは作曲家にとって、決して容易なことではない。
日が暮れた皇居の外苑濠を二人で散歩していると、シャリーノから街路樹の名前をたびたび質問される。横断歩道できこえる視覚障碍者のための電子音が特にお気に入りで、ぴよぴよ、ぴよぴよっているあれは、何の鳥かねと尋ねられ、スズメじゃないかしらと適当に答えてしまったが、案外違っているかもしれない。中国を訪れた際、漢字を二つ覚えたという。一つは人が手を広げた形をあらわす「タイ」。あれは「大きい」という意味だそうだね。もう一つはチュンコウ(中国)のチュン。真ん中ってことなんでしょう。九段の坂あたりの食堂や商店にかけられた「営業中」などの漢字を見ては大喜びしている。
あそこにある駐車場つきの小さな公園は何かと言われて、連れて行ってもらったところ、夜だったので既にしまっていたけれど人生初の靖国神社訪問となった。
11月某日 三軒茶屋自宅
音楽大学生の弾くシャリーノ作品に作曲者が助言をする。ピアノの中西さんには音をやわらかく弾くように、とアドヴァイスを始めた。一音一音を際立たせるのではなく、フィギュア全体を聴かせるように。思いの外クラシック作品を弾くときのような美しい響きを求めていて、アグレッシヴな響きは好みではないようであった。「前奏曲」のような楽譜であっても、フレーズを大切にしていることがわかる。低音域からのグリッサンドを高音域まで撫で上げると、そのまま次のフィギュアまで一つのフレーズでつないでほしい、と、何度かていねいにやりなおしていた。彼がリコルディ社で写譜の仕事をしていたころの手書きの作品で、これはデュラン社のドビュッシー「前奏曲」の楽譜をパロディにしているんだ。題名の書体もそっくりでしょう。下段に書いてあるscherandare という造語も、当初のデュラン版に書かれていた誤植をそのまま真似して書いたものだそうだ。現行のデュラン版ではscherzandoと訂正されているという。
「2台ピアノのためのソナタ」と「前奏曲」のみに使われている、この独特な不定記譜法は彼の創作ではなく、当時彼が読んだ「前衛音楽の記譜法」に書かれていたものをそのまま用いたのだが、演奏にあたり、結局演奏者が一つ一つ音を自分で決めなければならず、ある演奏家が、すべて通常の五線譜に書き直しているのを見て、再び五線譜に書くようになったという。「夜の」や「演奏会用練習曲」は、全ての音符を五線譜に書き込むようになったばかりの頃の作品。
ヴァイオリンの田中さんには、カプリッチョ1番で冒頭2段目のpiù lentoを楽譜通りにテンポを倍に落とし急激に速度を上げるように助言していた。32分音符と64連音符の比率も楽譜通りに。
シャリーノ曰く、確かにこんな風に弾く演奏家は殆どいないという。6番冒頭のタッピングは、全ての音が聴こえるように、早すぎない演奏を望んだ。コーダに入る直前、フェルマータをはさみsi volti subito(すばやく譜めくりして)と書かれたシンメトリーの音型を、できるだけ聴きとれるように演奏して欲しいと注文をつけた。
クラリネットの木津さんには「目覚める前に死なせて」は、愚直なほど楽譜に書かれた通りの演奏を望んだ。32分音符のトレモロは64分音符の倍の遅さで、決して急がずに。最初に指定してあるとおり、「Tranquillo e uniforme おちついて、まだらにならないで」曲を弾き通してほしいという。低音と高音のハーモニクスを出すところと出さないところ、高音のハーモニクスが小さく書かれているところか、大きく書かれているところか、あくまで楽譜に指示されている通りに演奏してほしいという。
重音は記述されている通りの指使いで、指定された音が全て聴こえるようにし、楽器に合わせて出しやすい重音を選ぶのは認めなかった。舌打ちと重音の続く音型も、あくまで一つのフレーズに収まるように。
Stretto はアメリカのマーチングバンド風に。
どれも極端にむつかしい注文ばかりだったにも関わらず、中西さん、田中さん、木津さんはそれぞれおどろくほどの力量で彼の言葉を実現していた。市村さん曰く、シャリーノはあんなにも若い人たちが自分の昔の作品をこれほどていねいに素晴らしい演奏をしてくれて本当に感激だ、と話していたそうだ。
作品があまり有名になってしまうと、作曲者の意図を反映しない演奏も多く聴かれるようになり、それを手本にした演奏も増えてゆく。作曲者は、案外もっと素朴に書いてあることを書いてある通りにやってほしいのだ。
11月某日 三軒茶屋自宅
シャリーノ講演会後、とある年配の女性が「今日の講演会、聴きに来て本当によかった。シャリーノさんの言葉、なんだかすごく心に刺さりました。人生が変わるような体験でした」と言い残してゆかれたそうだ。
今日はリハーサルの後、橋本さんと二宮さんが、シャリーノ滞在中の部屋を訪ねてくださった。12階の部屋のベランダからは、摩天楼とでも呼べばよいのか、美しい東京の夜景が目の前一杯に広がっていて、思わず歓声をあげた。机の上にはシャリーノの書きかけの五線譜がひろげてあったが、出前の寿司が届いたので片隅に片付けた。
シャリーノと橋本さんは揃ってローエングリン公演のヴィデオを鑑賞していて、言葉にできない感動をおぼえる。シャリーノは、橋本さんが自らを見事に客体化し、立ちつくし、極限まで表現を追求しきった勇気を、何度となく讃え、感嘆していた。谷川俊太郎死去の報道。
11月某日 三軒茶屋自宅
シャリーノ室内楽演奏会。「1通の手紙と6つの唄」。薬師寺さんが言葉をとても大切にして演じてくれている、とシャリーノはとても感銘を受けていた。和泉式部のテキストからは恋煩いから神経衰弱に陥る女の姿が浮かび上がる。ウンガレッティのテキストが愛惜の奥底に溜まる澱だとすれば、シチリア、マルサラ方言によるデ・ヴィータの「本」は燃え上がる憂愁。ウンガレッティはイタリアに俳句をひろめた詩人でもあり、文体も俳句のよう。
1通の手紙 una lettera
風のおと。吹き付ける風は、まるで最後まで残っていた葉までふるい落とすのだと心に決めていたよう。怪しげな雲が沸き立つかとおもえば、ささやくような雨がふる。希望はない。「終わらない秋。涙でくたくたになった袖。はらはらとほんの少しの雨がふる」。悲しい、なのに誰も気がつかない。風に翻弄される葉は何か哀れ。枝から滴るしずくは、まるでわたしのよう。縁側に横たわったまま、わたし、もうすぐいなくなるのかも知れない、と思う。眠り込んでいて、わたしの話につきあってくれない使用人たちに、苛立っている。遠く、野性の雁の鳴き声に耳をすます。他の人なら感激するにちがいあるまい。でもわたし、この音が我慢できない。「ねむれない夜。野性の雁のさびしげな声」。違う。わたしは障子をあけて、地平へ落ちゆく月をみたい。霧の中、梵鐘のおとと、鶏の鳴き声がひとつになる。今までも、これからも、こんな瞬間はなかった。あたらしい着物の袖の色まであたらしく感じる。「ねむれぬ夜」。だれかが戸を叩く。誰だろう。「ねむれぬ夜」。あなたもこんな思いに駆られながら、この夜をやり過ごしているの。
和泉式部/サルヴァトーレ・シャリーノ
N.1 貝殻
愛しいおまえ/闇の貝殻/預言の耳をちかづけたら/こだまのまにまに消えてゆきながら/どこからあの喧騒がきこえるの/ どうしたってそう問いかける
恐怖にまみれ喧騒に耳を澄ます/あのこだまから生まれた喧騒を/お前がよく調べたなら/お前の心臓はおののき/口をつぐむにちがいない/
問いかける者に答えをつたえる/「あの耐えられない喧騒は/愚か者の恋物語がひきおこす」/もはや、唯一感じられるのは/亡霊の刻む時のなか
ジュゼッペ・ウンガレッティ
N.2 貝殻
愛しいおまえ/闇の貝殻/預言の耳をおしあてたら/魅惑的な声のあいだで/突然おののき心臓を凍らせるあの喧騒が/導いてくれるというの/きっとそう問いかける
もしおまえがあの恐怖を/もしおまえがよく調べたなら/わたしの臆病な恋人よ/もはや、ただ思い起こすしかできない/愚かな愛について/苦しみながら話してくれるだろう/亡霊の刻む時のなか
神のお告げ/遠い未来で既に亡霊となったわたしを/呼び覚ますよう告げる/貝殻の一吹き/それがもしお前の前に現れれば/おまえはもっと苦しむにちがいない
ジュゼッペ・ウンガレッティ
N.3 道教のうた
道教に形も音もありません。細くて、知覚するのもむつかしい。
(血液の循環についての考察) 菩提達磨/サルヴァトーレ・シャリーノ
N.4 運動と精神のわらべうた
どんな運動も、精神の運動です。運動の向こうには何もありません。運動には精神が欠けていて、精神は本質的に不動です。精神のない運動はありませんし、運動のない精神もありません。精神の本質が無であれば精神は動きませんし、その無も動きません。運動は精神に等しいのですが、精神は不動です。
(血液の循環についての考察) 菩提達磨/サルヴァトーレ・シャリーノ
N.5 本
本たちは孤独。皆から嫌われて権力に翻弄され、本棚にぎゅうぎゅうに詰めこまれても、沈黙を守る人たちのよう。湿気にシミをつけられ、低くて暗い場所でカビにのみ込まれながら。
本たちは、僕らには分からぬ胸のはりさけそうな悲しみにさいなまれている。 掛け替えのない宝物であったり、深い思索であったり、インクで紙を汚したものたちとのふれあいを、大切に胸へしまい込んでいる。そんな本たち。
(Sulità) ニーノ・デ・ヴィータ
N.6 ミューズのこども
だれでも陽気で清らかなミューズの神殿にいらっしゃい。どんなに竪琴がうまくても、無垢じゃなきゃだめですよ。
ウルビーノ宮殿の碑文 サルヴァトーレ・シャリーノによる
11月某日 三軒茶屋自宅
馬込に出かけアルド一家を見送って、掃除の手伝い。町田で夕食をいただく。アジのタタキ、アジの煮つけ。味噌田楽。カレイの唐揚げにカキフライ。ぎんなんを炒ってくれていて、マツタケご飯まで用意してある。一体どれだけ時間をかけて用意してくれたのかわからないが、クリスマスとお正月分のご馳走をすべて味わった心地。満腹感を表現するとき、伊語では「食べ過ぎでお腹がさけそう mangiare a crepapelle」という。同じく「笑いすぎてお腹がさけそう ridere a crepapelle」というのもあって、国民性をあらわしている。
11月某日 三軒茶屋自宅
代々木上原で久しぶりにすみれさんやアキさんにお会いした。福士先生も現音のみなさんもお変わりなくうれしい。さまざまな作品を聴きながら、自分がしらなかった世界を学んだ。三善先生の音楽が、現在どのように若い演奏家に受け入れられているか、垣間見ることもできたし、家人が初演したみさとちゃんの曲もあった。中学生だったころ、ヤマハで買った楽譜をぽろぽろかいつまんで音を鳴らしたりして、それなりに知っているつもりだった「光州1980年5月」も、実演を聴くのはもしかして初めてだったかもしれない。国際刑事裁判所、ネタニヤフ首相、ガラント元国防相、ハマス・カッサム旅団・デイフ司令官に、戦争犯罪に関わったとして逮捕状発行。今も昔も、諍いは止まない。
11月某日 三軒茶屋自宅
作曲の篠田さんは、98年にドナトーニが日本で講習会に参加していて知り合った。その頃からピアノが上手だったのをよく覚えている。同じく作曲の久保君は、最初は秋吉台の講習会で知り合い、その後ミラノにやってきて、Covidまで数年間イタリアで研鑽を積んだ。先日はシャリーノのワークショップを仕切っていただいた。その二人が並ぶ姿に感慨をおぼえる。久保くんは、イタリアの作曲家たちについて、潮流をつくらず一つの形態を徹頭徹尾つづけると指摘した。「天の火」をピアノのみで聴く。ひたすら続く遠く離れてしまった女への、もの寂しい男の問いかけ。
演奏会後、家人と台信さんと一緒に中華料理。台信さんは、境内に捨てられていたチャボを飼っていて、「よく懐いて可愛らしいものですよ」。
11月某日 三軒茶屋自宅
帰りしな、スーパーマーケットに寄り、夜気楽に料理をつくるのが気分転換。先日は、安売りの刺身とししとうをふんだんに使ったトマト味魚介パスタをつくったが、今日はシラスとジャガイモと紫蘇で辛味のあるパスタにした。少し深みをだすためアンチョビー少々。美味。
11月某日 三軒茶屋自宅
「考」演奏会。熱くたぎる響きも幽玄なおもかげもささやくような風音までも、みごとな表現を実現されていた。舞台袖で、和服姿のメンバーがにこやかに談笑している姿をながめながら、邦楽の演奏では、裡にひめた情熱は露わにしない、遥か昔の思い込みを、ふと思い出す。おそらく、元来日本人の感性は、繊細さと大らかさが共存していたのだろうとおもう。ヨーロッパ文化との比較からか、ともすれば、繊細さばかりに焦点が合わせられがちだが、その細やかさを包み込んでいた、素朴で大らかな土壌を豊かに表現することもできるだろう。
演奏会後、田中賢さんと眞木さんの話。賢さんと眞木さんが秋田の国際音楽大会に出席の折、石井漠メモリアルホールをおとずれたときの話をきく。眞木さんが戦時中疎開していた海辺の街に足をのばし、一緒に大海原をながめていて、あれ、眞木さんどうしたのかな、と不思議に思ったそうだ。体調を崩されるほんの少し前のことだった。
まだ小学生だったころ、祖父の海の家を湯河原に眞木さんと賢さん、藤田さんが遊びにきてくれたことがあって、「可愛らしい少年だったねえ」と目を細めていらした。「採れたばかりの魚料理を、盛り沢山だしてくださって。ええ、こんなに食べていいのっておどろいた!」。眞木さんは、さっさと沖に浮かぶ休憩台まで泳いでいって、ここまでお出でよと手を振っていたが、怖くて泳ぎだせなかった。
11月某日 ミラノ自宅
ローマでメールを開くと、昔の走り書きをピアノ用になおして西村先生にささげた小品を大井さんが収録との連絡がとどく。
深夜ミラノに着くと深い霧に包まれていて、独特のつんとしたガスの匂いが漂っている。気温6度。着陸直前まで、機内からみえる外の風景は、乳白色一色であった。
イスラエルとレバノンの停戦発表。イタリア、カナダは、国際刑事裁判所のネタニヤフ首相の逮捕令状執行との姿勢。オランダ、フランス、ドイツ、ハンガリーは免責対象と発表。
(11月30日 ミラノにて)