職務質問

篠原恒木

おれは街を歩いていると、警官から職務質問をたびたび受ける。
特に渋谷は鬼門だ。JR渋谷駅の南口がいちばん危ない。
大抵の場合、警官は二人組で、
「ちょっといいですか」
と声をかけてくる。おれは、
「いくない! 全然いくない!」
と思いながらも、足を止めざるを得ない。
ここで書いておきたいのは、おれが職務質問を受けるのは真夜中に千鳥足で歩いているという状況では決してない、ということだ。そもそもおれはサケが呑めない。したがって深夜の渋谷に用などない。声をかけられるのは昼間である。白昼堂々である。
警官は十中八九、
「どちらへ行かれるのですか」
と訊く。またかよ、と思いながらもおれは、
「仕事でパルコへ向かうところです」
と、きわめて明快に答えるのだが、テキは、
「念のためそのバッグの中を拝見できますでしょうか」
と、さらに面倒くさいことを言ってくる。
ここで再び書いておきたいのは、おれのルックスにいかがわしいオーラが漂っているわけでは決してない、ということだ。確かにスーツにネクタイという格好はしていないが、奇抜の極みのようなファッションに身を包んでいるわけでもない。ドン・ファンやカサノヴァのようなオーラも身に纏っていない。ドン・ファンとカサノヴァはどう違うのかと問われたら「ヨクワカンナイ」と答えるしかないのだが、つまりはそれほど遊び人には見えないし、これまで六十一年間、これといった賞罰もなく、名もなく貧しく美しく生きてきたつもりである。賞罰の「賞」が無いのが情けないし、お世辞にも「美しく」とは言い切れない人生だが、それはおれだけの責任ではない。
ここでバッグの中身を見せる見せないという展開に持ち込むと、事態は悪化の一途をたどることになるのをおれはよく知っている。おれは何を隠そう、TV番組の『警察24時!』をついつい観てしまうクチなのだ。あの番組では持ち物検査を拒否すると、警官たちが、
「何も入っていないのなら見せてくれてもいいでしょ?」
などと言って、応援を呼び、気がつくと一人対四、五人という状況になってしまうのだ。だからおれはしぶしぶバッグを相手に渡す。驚いてしまうのは彼らの執拗さで、バッグの中に入っている財布、定期入れの中身までしらみつぶしに調べるのだ。長財布に収納してあるカード、診察券のたぐいまでいちいち抜き取って、その隙間に何か入っていないかを確認してから元に戻すことを繰り返す。
「何も入ってないよ」
おれは吐き捨てるように言う。厳密に言えば、カード、診察券などがぎっしり入っているのだから「何も入っていない」というのはおかしな話だ。つまり、この場合の「何も」とは、大麻、および覚せい剤のようなものを指すのだということは、『警察24時!』を好んで視聴しているおれにとっては常識なのだ。
ここでまたもや書いておきたいのは、おれの眼はギンギンかつランランとしているという事実はまったくない、ということだ。つまりはアチラ方面の常用者によく見受けられる眼はしていない。強いて言えばバカな眼だ。五代目古今亭志ん生の言葉を借りれば、
「こいつはバカなんです。眼を見てください。バカな眼をしてるでしょう。バカメといって味噌汁の実にしかならないんです」
というような眼だ。いや、威張ってどうする。
やがてテキはバッグをおれに返し、今度は着ているコート、パンツのポケットの中身を見せてくださいと言う。根がスタイリッシュなおれは、服のポケットが膨らんでシルエットが崩れるのを嫌う。したがって煙草とライターをコートのポケットに入れているだけだ。それらを差し出すと、警官は煙草の箱の中まで調べる。ここでようやく彼らはあきらめ、
「ご協力ありがとうございました」
と、おれに向かって言うのだが、いつものこととはいえ、腹の虫がおさまらない。
「あのさあ、あなたがたは名刺までチェックしておれの名前も把握したわけだよね? なのにおれはあなたがたの名前も知らないという、この不公平な状況は理不尽じゃない? あなたがたの名前を教えてよ。署はどこ?」
ところが、テキは必ずと言っていいほど名乗りたがらない。同じ質問を何度か繰り返したのちに、ようやく二人とも署と苗字を言うが、善良だが残忍性を秘めている市民のおれは、
「フルネームで言いなさいよ。おれのフルネームを知ったわけだから」
と追及の手をゆるめない。彼らはしぶしぶフルネームを名乗る。それを聞き出したおれは手帳にメモするふりをする。メモしたところでどうにもならないからだ。
「だいたいさぁ、なぜおれなの? なぜおれに職質をかけたの?」
警官二人組は「強権タイプ」と「懐柔タイプ」でコンビを組んでいる場合が多い。一人が居丈高で、もう一人は物腰が低いと相場が決まっているのだ。懐柔タイプのほうの警官が言う。
「いやいや、お忙しいところを恐れ入ります。最近、物騒な事案が多いものですから」
そうか、おれは物騒な存在に見えるのかと愕然としながらも、強権タイプのほうの警官に向かって問う。
「最初に声をかけたのはあなただよね。なんでおれだったの?」
強権タイプは答えを言い淀んでいたが、しつこく「なんで? ねえ、なんで?」と詰め寄ると、ついに奴は落ちた。完落ちである。
「本官のことを見たら、目を逸らしたように思ったから」
ここでおれはキレる。
「はあ? 誰もあんたのことなんて見てねぇよ。あんたなんか眼中にないよ。振り返るほどのいい男でもないだろう? そういうのを自意識過剰と言うんだよ」
強権タイプはふくれっ面をし、懐柔タイプは「まあまあ」とおれをなだめる。かくして『警察24時!』のような、
「職質のプロは怪しい男の動きを見落とさなかった! 男は覚せい剤所持の容疑で現行犯逮捕された! 悪は決して見逃さない!」
というドラマティックな展開にはまったくならず、解放されたおれはパルコに十五分遅刻し、用事を済ませると、その足で「長崎飯店」へ向かい、皿うどんに酢をドボドボとかけてガシガシと食べるのであった。

スペース、または1ダースの月 ’22

北村周一

はつはるや
 希望のひとつ
ふたつほど
 ゆびに数えて
うたう一月

   縁側に
ねむる子猫の
 ふりをして
そろそろ春が
芽生える二月

ともどもに
 未来はつくる
  ものなりと
   きみに説きつつ
    託す三月

とりどりに
     根本悪を
散らしめて
     花の樹の下
ほころぶ四月

ボール蹴る
  少女の影を
    追い越して
  少年にわかに
はにかむ五月

 ガラス窓に
映るうつしみ
     消さんがに
     吐息吹きかけ
みがく六月

アプリオリに
     あるかのように
           擬態する
              デモクラシーが
                    消える七月

不幸より
幸福よりも
    ごりやくが
    ひとの大事と
    願う八月

    あたらしい
    憲法よりも
    なが生きの
    母をま中に
    月みる九月

     眠剤に
   ネロと名づけて
    ふかぶかと
    神の不在を
    なげく十月

十二音
  技法のずれを
       ただすごと
階段降りて
    来る十一月

       十二月
希望という名の
       スペースを
空けて待つらむ
       聖なる夜は

『アフリカ』を続けて(8)

下窪俊哉

 いま、『アフリカ』vol.33の”セッション”の最終コーナーに差し掛かっていて、他のことをしていても『アフリカ』が頭の中をかなり占拠しており、気持ちに余裕がないなあと思う。もしかしたら自分は本をつくるのにも、何かするのに他人を巻き込むのにも苦手意識があるかもしれないとよく思う。その割には自ら本をつくって、そこに他人を巻き込むのに熱心だ。
 書き手としての自分と、編集者としての自分、いつも何かの企画を考えている自分、本のデザインや組版をしている自分、つくって売ることに向かおうとしている自分、たくさんの自分がいて引き裂かれているような気もしないではない。しかもそれを日々の仕事の傍らでやっているのだから呆れる。なんてぶつぶつ言っていても仕方がない、手を動かそう。

 元々の『アフリカ』は短編小説が幾つかと、その間を埋めるような雑記が入った小冊子だった。小説がメインだったのは小説を書く人が集まっていたからだ。その頃の書き手が1人、2人と去り、その頃に『アフリカ』を止めようと少しも考えなかったのは不思議なのだが、そういえば、そもそも続けようと思っていなかったのだから考えようがなかった。同時期に1人、2人と新しい書き手がやって来ていたので、さあまたやりますか、となる。
 その中には詩とエッセイを書く人もいて(遠慮なく書いてもらった)、そういうことが決まっていない人もいた(でも書きたいことはハッキリしており、書いてもらったらすごく面白いものが出てきた)。

 ジャンルというのは、けっこうあやふやなものだと思う。
 いまつくっている『アフリカ』に載っているある文章で「短編小説集」として紹介されている翻訳本は、その日本語版を出している出版社によると「エッセイ集」なのだが、いや、「小説」でしょう? という話し合いを書き手とした。その出版社が「エッセイ集」としている根拠は、作者の体験を書いているものが多い(らしい)から、という程度のことであり、では小説とは作者の体験と関係のないつくり話のことなのか? というと、そうではない小説もたくさんある。訳者のあとがきを読んでも、エッセイ集という位置付けになるのかもしれない、というくらいの言い方であり、そのへんは曖昧なのだ。
 作者が小説と言えば小説であり、エッセイと言えばエッセイでよいのかもしれない。どちらとも言っていない場合に出版社は困るのだろう。
 私は、というと、小説の中にもエッセイや詩があり、エッセイの中にも詩や小説があるということなのではないか、というくらいに思っている。では、小説とは何だろうか。エッセイとは何だろうか。詩とは何だろうか。そんなこともたまには(たまにですよ)頭の隅で考えながら作業を進める。

 長く『アフリカ』を一緒にやってきた仲間のひとり・髙城青が、ある時にこんなことを書いていた。

 初めは字を書いていたんだけど、今は何故か漫画ばかり描かせてもらっている。「何故か」って本当は「字ばっかり書くのんイヤ。漫画描かせて。」とわたしが言ったからで、編集人はすんなり「いいよ。」と言った。彼はだいたいいつもこんな感じで「イラストに短い雑記を付けたい。」「いいよ。」「イラストと詩を書きたい。」「いいよ。」である。(「一度だけのゲストのつもりで」、『アフリカ』vol.20/2013年7月号より)

 要するに『アフリカ』は何を書いてもいいのである。字数制限も基本的にはない。絶対に文章でないといけないという決まりもない。青さんに限らず、『アフリカ』に書く・描くのを面白がって続けている人たちは「『アフリカ』は自由だ」と言う。どこまでも自由で、気まま。いつも行き当たりばったりだ、ということでもありそうだ。
 その同じ文章には、こんなエピソードも出てくる。

 編集人が最初に声をかけてくれたとき「タブーはないよ。」と言った。わたしはそれで、やろうと思った。いいよ、いいよ、と一緒に実験してくれるけれど、やりっぱなしは許してくれない。何を書いても描いても一段階突き詰めないと載せてはくれない。だからどんなにゆるく見える作品でもそういう気概でやっている。

 突き詰めないと載せないと話したことはないはずである。しかし書き手はそんなつもりでやっているのかもしれない(人によるだろう)。
 それにしても「タブーはないよ。」とは、どんな話の流れでそんなことを言ったのだろう。
 以前、「でも、ヘイトスピーチのようなのは載せないでしょう?」と言われたことがあった。もし「ヘイトスピーチのような」原稿が寄せられたとしたら、「ヘイトスピーチのような」何事かが自分の身近にやってきているということだろうから、気にはなるだろう。しかし古今東西の文学作品には殺人も書かれるし、社会的に悪とされていることもたくさん出てくる。そうではなくて、人種差別的な主張を『アフリカ』から社会へ向けて発表したいとやって来る人がいたら、私はどう返事をするだろうか。「やりっぱなしは許してくれない」そうである。そこで激論が交わされるのだろうか。あるいは?

 さて、『アフリカ』から自由を感じるのは何も書き手だけではないようだ。

『アフリカ』は自由な雑誌だと思う。下窪さんを見ていると「出版とは何か」を改めて考えさせられる。書きたい人が書き、作りたい人が作り、読みたい人が買って読む。シンプルな構造が『アフリカ』にはある。商業出版とプライベート・プレスを同じ土俵で語るのは無理があると言われるだろうが、究極そこに立ち返ることが出来たら、本はもっと美しいものに生まれ変われるのではないだろうか。(笠井瑠美子「一冊の価値を問う」、同じく『アフリカ』vol.20/2013年7月号より)

 そこまで言われると照れてしまう。笠井さんは私が初めてトーク・イベントを開いた時に、来てくれたのだった。私はどうして『アフリカ』がこんなに続いてしまったのだろうと思いながら話していた。

 そういえば、「水牛」に書きませんか? と八巻美恵さんから誘われた時に、「なにかきまりがありますか?」と聞いたら「きまりごとはなにもないです、モチのロン」という返事が来たのでしたね。

仙台ネイティブのつぶやき(69)火焔土器に出会う旅

西大立目祥子

「新潟に火焔土器を見に行かない?」と、長年のつきあいのある林のり子さんからお誘いを受けたのは、昨年の秋のことだった。もちろん、二つ返事で「行きます!」と答えたのだけれど、電話を切ったあと笑いがこみあげてきた。1月に、豪雪地帯の新潟へ?
林さんは雪が好きなのだ。東北に暮らしていると、積雪→アイスバーン→スリップ→追突とか、積雪→凍結→転倒→骨折とか、つぎつぎ悪い連想をしてしまう。実際、私のまわりでは雪の多かった昨冬は、雪道で転び骨折する知人友人が相次いだ。でも、林さんは子どもように雪にはしゃぎ、心踊らせる。4年前くらいだったか、宮城県北部の町に泊まり翌日東京に戻るのに、雪景色が見たいとわざわざ仙台に一泊して、山形新幹線で帰っていったことがあった。その翌日、嬉々とした声で電話をもらった。「すばらしい雪景色だったの!」と。

今回の旅は、東京と宮城から中高年女子が4人参加、新潟では春日さんという方が水先案内をしてくれることになっていた。どこか修学旅行のようでもある。
とはいえ、年が明けたらコロナ感染者が増え始め、日本海側は大雪警報が出た。旅の先行きもあやしくなったのだが、みんなで念のためのPCR検査を受け、私は雪に備え仙台からゴム長靴で足元を固めて新幹線に乗り込んだ。

まる2日間、春日さん運転の大きなワンボックスカーに乗り込み、助手席でナビゲーションをしてくださる春日さんの友人のあやさんの元気な声を聞きながら、ひたすら火焔土器を見続けた。まずは、昼食もそこそこに訪れた長岡市の馬高縄文館、次に新潟県立博物館。そして新潟中越地震で大きな被害を被ったという小千谷市の山間地を訪ね、「おっこの木」という古民家の登録文化財の宿に一泊し、翌日は十日町市博物館。最後は津南町農と縄文の体験学習館「なじょもん」を訪ねて、学芸員の佐藤雅一さんからみっちり2時間の講義。すべて春日さんの段取りです。ありがとう、春日さん。ちなみに、春日さんは長岡で生ハムを、あやさんは焼き菓子をつくっている方である。予定は決めずにふらりと出かける旅もいいけれど、これだけ濃密な旅はやはり現地を熟知する水先案内人がいなければ、決して実現できない。

火焔土器って、めらめら燃える炎みたいな意匠の…?程度のおぼろげなイメージしか持っていなかったのだけれど、ここまで集中して対峙するような見方をすると、その造形のすごさに圧倒される。土器の多くは上部に4つの角を突き出していて、この角は張り出した形を保つために表と裏のある二重構造になっている。火焔とはいうけれど、水しぶきのようでもあり、頭と尻尾を持つ動物のようでもあり、鶏のトサカにも見える。この角のあるめちゃめちゃデコラティブな王冠のすぐ下はすぼまって切り替えがあり、底部に向かってたいてい縦縞の文様がつけられている。燃えさかる頭の下は、一転して凹凸の少ない静かな意匠のものが多い。

じっと見ていると、この躍動感あふれるフォルムをいったいどうやってつくったのだろうかという疑問がふつふつ沸き起こってくる。やわらかい粘土でこの大仰なデザインを実現するためには、まず板の上でこのトサカ状の角の表と裏を別々につくり、本体の上に乗っけたところで貼り合わせたのだろうか、とか。あるいはこの器全面につけられた水紋のような意匠は、まず粘土を細い紐状にして張り込み、エッジを竹べらのようなもので立てていったのだろうか、とか。いやいや、粘土を厚めにして本体をつくり、小枝のような道具で掘り下げていたのだろうか、とか。踊るような意匠は歌いながらつくったから生まれたのではないかな、とか。

これら火焔型土器とよばれる一群の土器は、信濃川流域に集中していて、地域的な広がりはそうないのだそうだ。川は重要な交通路だったろうから、船で行き来する中で意匠が伝播したのだろうか。村々で生まれた意匠が婚姻とか流通の中で広がりをみたのかもしれない。ほとんど土器の知識のない私でも、想像するのは楽しく心が踊る。雪の中の信濃川は雄大で神々しかった。やはり、水を運び人を運ぶ川がその地域をかたちづくるのだ。

東南アジア周辺の土器づくりから類推すると、たぶんつくり手は女性なのだそうである。若い人たちは食糧の採集や食事のしたくや子育てで忙しいから、年配の女性たちがになったのかもしれない。格別に造形力に優れた人があらわれ、身近な人たちがそれを模していくうちに村ごとに意匠が発展をみたのかもしれない。
冬場に土器をつくれば、おそらく寒さで仕上げた器が凍りヒビが入ってしまうに違いない。粘土は充分に乾燥させなければ焼けないだろうから、乾いた風の吹く秋に、女たちは何か呪術的な意味を込めて手を動かしたのだろうか。

それにしても、縄文の時代は1万年続いた。長い時間だと思う。明治維新から現在までざっと150年と考えると、その66倍。環境を破壊し生きものを絶滅に追い込み、すでに行き詰まって先が見えないようなところにいる私たちと縄文の人たちを、ついくらべてしまう。急激な隆盛をみた文明は、長らえることはできないのかもしれない。

豪雪地帯に暮らす人たちは、知らず知らず身の内に覚悟のようなものを育てていくのだろうと思う。あせらずはやらず、自然のめぐりに合わせて生きる時間感覚と暮らしを。車の中から、あちこちで屋根に上がり、雪下ろしをする人を見た。絶え間なく雪は降り、下ろさなければ家はつぶれてしまうのだ。何ヵ月もの間、数メートルもの雪の壁の中で暮らす人に、何で春のきざしを感じるの?と聞いたら「ブナが芽吹くとき」といっていた。真っ白な世界から淡い緑色へ。それは美しいんだろうな。遠くから答える縄文の人のことばのように聞いた。

207 定家さん、定家さん(世界最大の歌合せ・1)

藤井貞和

呼びかける、定家さん起きて。
わたしは 「別室で」という作品を書いて、
しばらく待つ。 すると、
別室のドアを生き霊が押す。(そう思えただけ)

定家さん、来て。
そうなるとわかり切っており、出会いたい。
最初から、なかった別室であり、
ただ脳裡の奥に泛かぶ。 思考という名の、

初版をひらく。 歌合せがまもなく始まる。
いたはずの聖牛の毛並みを筆にして、
これは 夢とちがう。 別室につぎつぎ乗り込む影であり、
判者も、会衆も、あしたを知らないというのに。

かわいそうだ と思う? 叙事を解体する、
草原の坂の別室。 惨劇は ことばのみで終わる。
象徴詩の苦痛に耐える言語としてのこる。
譫妄がひらく思考の雑誌に数値をのこしておいたよ。

静かな画面が流れる。 あなたには 見えない。
きのうは きょうのかたわれで、
あしたは もっと断片になる。 そんなこと わかり切って、
虚(キョ)だよな。 虚の終わる記号の前面。

ふいに曲がるかどのあちらこちらのさかいめの、
あなたが通過する昨夏の炎道も 譫妄である。 真冬の、
氷のびゃくどうも 思考の実験である。
わたしは 追う、立ち上がる。 白いみこ姿が亡霊だったと気づく。

だれ? 中世のやみからやって来て、
すっと去る、別室へ。 神の獣を別室に閉じ込める。
聖牛は 立ったままである。 惨として、
影は ものがたる。 惨として問う。 ことばがこちらを向く。

夢では ない。 別室が燃えている。
つらいな。 音数を組み合わせる歌合せ、
動画がまきもどす。 惨劇をもう一回見る、
これがさいごでありますように、世界最大のうたとうた。

数世紀にわたる、上映が断ち切られるみたい、
閃光と閃光とのあいだで。
二個よ、二個よ。 呼び出しているうたとうた、
二個の声がわたしに聞こえるというのか。

文法のない詩を終えると、出ようとする、
ドアが声なのか、わたしの日本語が文法なのか。
応えよ、別室で。 二個の誠意が、いまの汚染に耐えている。
世界に発信する、一個と一個。 

文法のない詩の訪れ。 やってくる深夜の数時間後に、
取り憑かれる鬼であるから、舞台から、
転がり落下すると思う。 二個を押し上げる天井裏。
どんな律がふさわしいか、あなたの論文を投げ入れよ。

まだ書かれない歌合せなのに、完成するというあなた。
空気を通して筆記用具を別室へ送る。 底深く講座が、
ひらかれようとする。 講師よ、受講者たちよ、
歌合せを受けよ。 その声に届かせよ。

飲むミルクの清澄な水分のように、
倒れた送電線よ、うたを送れ。
詩人たちが全員、消えたあとで、
倒れた鉄塔を修理せよ、ない「うた」のために

(起きて判者、定家さん。あしたのことばを別室に置きっ放しにして、きょうも定家さんは爆睡ちゅう。)

アジアのごはん(111)味噌汁の出し問題

森下ヒバリ

1年前に仕込んだ味噌を食べ始めることにした。カメのふたを開けて重石を取り、ラップをはがし、酒粕蓋をはがす。いい匂い。ちょっと全体を混ぜてからぺろっと舐めてみる。う~ん、うまいっ。今年もおいしくできた。このまま酒のつまみや、ご飯のお供になりそう。

さっそく、お昼に味噌汁にしてみる。ずずっと・・あれ? さっきの感動はどこへ。まあ、おいしいけど・・? 翌日、ブロッコリーを茹でたお湯があったので、それにカブや揚げやワカメをいっぱい入れてみそ汁を再び作る。みそを入れようとして、おっと、いつものホッティーの無添加ダシ(カツオの粉末のダシの素)をまだ入れていなかったぞ。試しに汁を少し飲んでみると、野菜の出しがいっぱい出てすでにおいしいスープだ。

「味噌汁を作るのに、だし汁(鰹と昆布)は不要です。水で具材を煮て味噌を溶く、それだけで充分と心得てください」この間読んだばかりの『お味噌知る。』(土井善晴 土井光著 世界文化社)の一文を思い出した。読んだときは、味噌汁にダシを入れなくておいしいわけないやん・・土井先生も無茶なことを・・と思ってスルーしていたのだが、いや待てこの食べてめちゃおいしい今年の味噌ならいけるんちゃうか?

そして、鰹ダシは入れないまま味噌を溶きいれる。テーブルに並べ、いただきます。まずは味噌汁。ふ~、うまい。さっぱりしていて、野菜の味もして、味噌の香りに包まれて、深い満足感。昨日と違う。ああ、そうか、この味噌には鰹ダシは要らなかったのだ。むしろ、邪魔だったのだ。

これまで食べていた味噌では、鰹ダシを入れ忘れたら間抜けな味になったので、野菜だけではやっぱりダメだと思い込んでいた。そうか、味噌汁には鰹ダシ、と作るときに機械的に投入していたが、味噌の種類や具材によって、ダシはカツオが合うときもあり、昆布や野菜だけが合うこともあるのだ。こんなことに今頃気づくとは・・! いやはや、奥深いなあ、味噌汁は。

ヴェジタリアンは、いつも気の抜けた味噌汁を飲んでいるのだろうな、などと思っていたことをちょっと反省。今日の味噌汁はビーガンのあなたにも深い満足感を与えられまっせ。
旨みの多いカブやブロッコリーなどの具材でないときには、昆布水を入れて作ってみると、これも今年の味噌と相性ばっちり。

生まれ育った岡山の生家の味噌汁のダシはイワシの稚魚を干したイリコであった。もう、なにがあってもイリコ一筋である。味噌汁と豆腐汁(醤油味)の汁ものは必ずイリコでしかダシをとらない。しかも、ある時からカルシウム源だとか言い出してもったいないからと汁から引き上げなくなり、味噌汁の具として扱われるようになってしまった。しかし、だしがらのイリコはまずかった。子供の頃のことなので、イリコの品質も悪かったのかもしれないが、食べるのはとても苦痛だった。その記憶のせいもあってか、自分で味噌汁を作るときにイリコのダシで作る気がしない。

南インドのカレー料理には菜食のものが多く、どうして野菜や豆だけでこんなにおいしいカレーが作れるのか、といつも思ってしまう。野菜や豆、スパイスの使い方が本当に上手なのだ。南インド料理の豆は素材であり、ダシでもある。南インドの味噌汁的存在の豆のスープカレーであるサンバル、タマリンドの入ったラッサムは豆を煮て、煮汁は捨てずにそのまま煮詰めてペースト状にして作る。半割にしてあるダールを使わないときでも、豆の煮汁は大切なダシである。

日本人は豆の茹で汁とか野菜の茹で汁とかをあまり料理に使わない気がする。なぜだろう。漬物の汁も料理に使わないよね。おいしいスープのダシになるのに。アクが煮汁に出るようなほうれん草とか大根葉はともかく、カブやブロッコリー、カリフラワーなどの茹で汁はおいしい。大豆はいまいちだが、青大豆の茹で汁もおいしい。青大豆を一晩水に浸し4~5分茹でてピクルスやポン酢漬けをよく作るが、その時に出る青大豆や白いんげん豆などの煮汁はスープやシチュー、カレーのダシとして使っている。

豆や玄米などで気をつけたいのは、水に一晩浸したら、必ずその水は捨てることだ。豆や穀類などは、水に浸しておくと発芽準備が始まり、胚芽に含まれる発芽抑制物質が水分に溶け出すからである。この物質は人間には毒といわれているので、水は新しく変えて煮ましょう。そうすれば、豆の茹で汁はおいしく使えます。

土井善晴先生の著書『一汁一菜でいいという提案』を読んでから、料理に対する気持ちがとても楽になった。そして、昨年末に出版されたこの『お味噌知る。』。味噌汁をもっと簡単に自由に。ダシなしでもおっけー!

大人になって自炊をするようになってから気をつけていたのは、カレーのときでもスパゲティのときでも、できるだけ味噌汁をつける、ということだった。一人で食べるときにはついつい簡単な一皿料理になってしまうが、味噌汁さえあれば、だいじょうぶ。たまにはインスタントだってかまわない。もちろん、常に食べる味噌はきちんと発酵させた本物の味噌をね。ブースター打つより、味噌汁とビタミンD(日光浴)で免疫を上げましょう。

紫式部

イリナ・グリゴレ

2年前に、春になると玄関のすぐそばに見知らぬ植物が生え始めた。小さな庭にラズベリー、ラベンダー、ミント、ミニトマト、ピーマン、薔薇、カモミール、葡萄、イチゴ、デイジー、鈴蘭、杏、ルーマニアの家庭料理で使われているさまざまなハーブ(ルーマニアの酸っぱいスープ、チョルバに欠かせないラベージと言うハーブが特に弘前の気候に合っているみたいで毎年食べきれないほど生えている)、スグリをぎっしり植え、自分の育てられた祖父母の家の庭をミクロなスケールで再現しようとしている。それに、引っ越した年から、小鳥が運んできたタネから自然にさまざまな野生植物が生えはじめた。中でも、紫が大好きな私へのプレゼントと思わせるぐらい、ポーチの階段と玄関のドアが塞がるほど大きな紫式部が育ってきた。秋になると鮮やかな紫の丸い実が迎えてくれて、どんなに落ち込んでも心の奥深くまで紫色に染めてくれる。

この実は、私たちの家を訪ねる人々の注目ももちろん浴びる。近所の子供が口に入れたこともある(食べたくなるぐらい綺麗だという気持ちは理解できる)。私が不在の時、手紙を届けに来た友達が、後で植えたいからタネが欲しいという。そんなさまざまな反応があった。けれども、この紫式部は私にとってもっと深い意味合いを持っている。ある日、「日本の文学が女性によって作られた」と、尊敬する男性友人から言われ『源氏物語』を読んだ時の感覚が蘇る。そう、自分の家に入るたびに紫式部のこと思い出すという不思議な現象が発生した。どうやってあんな文章が書けるのか、彼女の才能がどこからきたのか、植物の紫式部を観察しながら考えた。文学評論の本を読むよりも、彼女が選んだ名前の由来の植物を見るとわかる。あの鮮やかな紫の実が、彼女の秘密をギュッと引き締めるイメージが浮かぶ。実→見→身という単純な言葉遊びをしてみた。そうだ、彼女の女性としての実、見、身のことが浮かんだ。女性の身とは、人類の始まりから実っていたこと、命が詰まっているクリエイティブな身であると共に、支配される身でもあるが、紫式部のように突破し、男並の力を持つ身になれることを忘れてはいけない。これは全ての女の子に伝えたいと、授業でも知らないうちに口癖になってしまっている。

『源氏物語』を初めて読んだとき、それはルーマニア語訳だった気がする。その次は英語版だ。実は日本語でまだ読んでないが、今更ながら、もしかしたら私は日本語を覚えようとしたのも日本語で源氏物語を読むためだったと思うぐらい日本語で読みたくてたまらない。どの訳で読んでも物語の世界はとても魅力的だったから、日本語で読めばどれだけ素晴らしいだろうといつも高揚する。次はフランス語で読んでから、最後に日本語で読もうとも思う。最後の楽しみにしたいからだ。

ここで、源氏物語の一番好きなエピソードを語って見たい。まず、全体で言うと、大昔の日本では人々、特に男女が和歌でコミュニケーションを取るところだ。現代を生きる日本人の間にはない習慣であり、とても残念な気持ちになる。紫式部の生きた時代が羨ましいかもしれない。それから、何よりも生霊になる六条御息所の話である。この話から、紫式部は、どれだけ女性の身体を理解していたのかわかる。ここで一番大事なのは「女性」というカテゴリーに入る人間がさまざまということであって、光源氏との交際によって彼女らの像が見えてくる。

六条御息所に加えて、彼女の生霊を見て死んでしまう夕顔もそうだが、愛を求める女性の行動と感覚が伝わってくる。登場している女性の全ては、著者の分身であると文学評論もされている。だがむしろ、光源氏の方こそが著者の別の分身である。自分の女性としての身体を知れば知るほど女性が嫌になる気持ちが私の共感するところなのだ。女性として生きる苦しさから解放されるため、書くしかないと彼女は早くから理解したに違いない。書くことによって男性と同じ扱いをされるからだ。そして自ら源氏になって、愛が不足している女性に向けて、愛と情熱を届けた。

中国の女性監督、ヤン・リーナーの映画『Longing for the Rain』(春夢、2013)を観た時も、女性の好色と夢をここまでカメラで探ることはできないと思った。彼女はそれを見事にリアリティと悲しみに溢れたやり方で成功させている。彼女は踊りの経験があるから、ここまで女性の身体がわかるのだろう。この映画は、女性に関するステレオタイプとタブーを見事に壊している。全ての女性について語っているわけではないが、現代中国社会の一人の主婦の物語でありながら、盲点に触れることができる女性監督として彼女を尊敬している。少なくとも、テレビの洗剤のC Mに描かれている女性像よりも、女性という生き物がもっと複雑であることが伝わる。もう完璧な主婦を演じなくてもいいと、彼女のメッセージが身体レベルで伝わる。

主人公の友人がホストクラブで酔い潰れて泣きながら吐いた言葉が印象的だった。The things women do for love… (愛のため女性がやること)。カメラワークは時にドキュメンタリータッチで、北京の街並みは社会格差を浮き彫りにする。その勝ち組であるはずのターワーマンションに住んでいる主人公は、一人娘の子育て、家事、買い物以外することがない。娘を保育園に迎えに行き、信号待ちで物乞いの子供と女性たちと比べると、どう見ても幸運で豊かな人生を送っている。彼女は現代女性の欲しいものを全て手に入れたが、生活には愛がない。もちろん、娘のことは大好きで、一緒に大事な時間を過ごすし、笑ったり踊ったりする。だが、仕事から家に帰った夫は寝る直前までタブレットのゲームに夢中で、彼女に触れる余裕がない。この日常描写から、監督はこの世界を全て壊す。そして、一番注目するのは彼女の夢である。そう、女性というのはたくさんの夢を見る生き物なのだ。

主人公の夢は愛に溢れている。毎日のように夢で男性の幽霊に憑かれて自分を失うまで、日常生活できなくなるまで愛を生きる。ここのすごいところは、彼女は北京のタワーマンションに住んでいる21世紀の中流以上の女性であることだ。そこに、普通とは何かという監督の問いが聞こえる。彼女の夢は、女性の身体で生まれた彼女にとって普通であるかも知れない。彼女は夫の祖母の死を細かく正夢に見て、現実に本人が死亡すると、葬式で履かせるべき靴とそのありかまで夫に教えている。ある日、夢に疲れた彼女が友人に連れられて、中国の占い師のところ行く。そこで、夢に見た男の幽霊が、前世の彼女の恋人、つまりソウルメイトだと告げられる。そして、彼女はもう幽霊を追い出さず、ともに夢を見続けることを決心する。そこには夢でしか感じられない愛という皮肉が溢れている。現代の女性とは幽霊と恋しかできないのか。

この流れで、彼女が大好きな娘も家族を失うことになり、夫はふしだらな女と呼んで(相手は幽霊であっても男のプライドが傷つくから)彼女は捨てられる。この時、彼女を育てた叔母が電話する。夢で彼女の死を見たという。そう、また夢で繋がった。この叔母は彼女を女性の巡礼で有名なお寺に連れていく。ヤン・リーナーは、たくさんの女性がバスから降りて、雪に囲まれた寒い地域のお寺の有名なお坊さんから託宣を受ける場面を、現実の巡礼の光景から撮っている。女性の問題を解決する場がここしかないという暗示である。

ラトゥールのいう通り、確かに「我々は近代人であったことがない」1。私たちは近代という幽霊に憑かれているだけかも知れない。アメリカの人類学会ニュースレターの10月号のタイトルを見た瞬間に少し驚いた。それはThe thing about Ghosts and Haunting(幽霊と憑き物について)という。この雑誌でいつも学問の世界のトレンドをタイトルで扱っているので、私がヤン・リーナーの映画を見た後の自分の中の幽霊のトレンドと重なった。ページをめくるとアメリカの雑誌にありがちな3コマの風刺漫画が目に入る。ゴーストバスターズ風に最初は4人の人類学者のチームがエスノセントリズムという名前の幽霊に再帰性という武器で追い払う。その次は、植民地主義の幽霊を脱植民地化の武器で追い払う。最後に現在の幽霊が登場する。この幽霊の名は長く、「組織的人種差別、環境的不公平、構造的暴力、グローバルな不平等、気候変動」という。この、今までと比べて何倍も大きな幽霊の前で、ゴーストバスターズの人類学者チームは武器がない…、どうすれば良いか、戸惑う、「uh-oh! Ideas? Anybody?」( 誰か、アイデアないか)。

この漫画は今の学問の限界を完璧に表している。ただし、絵の中には私から見れば小さなミスがある。人類学という学問の始まりから登場するゴーストバスターズチームのメンバーは、後ろ姿で描かれているものの、さまざまな人種であり書き手の気遣いが分かる。しかし、問題はこのチームの中に女性が一人もいないことである。これは歴史的事実とちょっと違う。エスノセントリズムの幽霊からベネディクトとミードがいたし、植民地主義の幽霊を倒すにはストラザーンとショスタックなど多勢の女性人類学者がいた。忙しい男性漫画家はこれに気づかなかったし、編集部も見落としたまま雑誌に載った。素晴らしい漫画だが、もの足りない。女性学者はこの歴史から消されている。

私たちは、現代人であったすらないのかもしれない。そもそも子供は現代人ではない。ドライブに連れていった時に、ふと後ろを向いたら娘たちは色鮮やかな豚の溶かした骨で出来ているハリボのグミをサングラスに付け、髪の毛と車内に飾り、大きな声で笑っていた。これは明らかに現代人と違うと思った。欲しがっていた蝶々のイヤリングをピザトーストに押し付ける姿もそうだ。叱ると困った顔をして「可愛いから」という。

ところで、ルーマニアのスープに欠かせないラベージというハーブは、英語でlovageと書く。愛のハーブなのか。香りが強めのセロリの一種なので、苦手な人もたくさんいるだろう。それが私の庭にたくさん育つとは思わなかった。この文章を書いている最中も、娘たちはテーブルの向こうで不思議な姿勢をとりながら自分たちの足の裏を描いている。そうだ。ラスコー洞窟の壁画を描いたのは女性だったかも知れない。先日見た夢の中で、ハチミツがたっぷり入った二つの茶碗をもらった。ドライブから家に戻ると、雪に埋もれている玄関に紫の実が光って、紫式部の笑い声が聞こえた気がする。今ハマっているルーマニア出身のシュールレアリズム詩人のGherasim Luca の詩が頭に浮かんでいる。

J’aime… (好きです)
…mourir(死ぬのが)
mais de rire…(でも死ぬほど笑うのが好きです)
…de fou rire(激しく笑うのが)

(1 箭内匡の『イメージの人類学』からの引用)

タイガーマスクをもう一度

さとうまき

友人が、シリアの孤児院を支援していると聞いて手伝うことにした。10年間で40万人が死んでいる内戦だから戦争孤児も相当数いる。

トラの年賀状を売っていて思い出したのがタイガーマスクだ。そういえば、2010年に伊達直人と名乗る人物が各地に表れてランドセルや文房具などを寄付していくという現象がはやったことを思い出した。

アニメのタイガーマスクは、戦争孤児と思われる伊達直人がちびっこハウスという孤児院で暮らしていたが、ある日、抜け出して「虎の穴」という悪役レスラーを養成する組織で訓練を受ける。えげつない悪役レスラーは話題性もあり商売的にも儲かるというわけだ。世界中から、みなしごのようないじめられて世間に憎しみを抱くような青年をスカウトして地獄のようなしごきで鍛える。半分は訓練に耐えられず死んでしまうという。大人になった伊達直人は悪役レスラー、タイガーマスクとしてアメリカでデビューを果たし、日本に凱旋する。50%は上納金として「寅の穴」に納めなければならない。久しぶりにちびっこハウスを訪れた伊達直人は、ハウスが借金で火の車になっているのを知りファイトマネーをおいていく。最初はちゃんと上納金を収めていたが、ちびっこハウスの借金は利子が膨らんでしまい、伊達直人は上納金にも手を付けてちびっこハウスへおいていった。最初は、「必ず上納金を払うから」と許しを請うタイガーが結構せこい。だが、マネージャーのミスターXは許さなかった。裏切り者にされて刺客を送られる羽目になったタイガーマスクだが、ベビーフェースに転向すると、あちこちで施設などにお金をおいて行って、みなしごたちの幸せを願うという話。

広島に巡業に行った時は、原爆資料館を見学して、ちびっこハウスの子どもたちに「このような悲劇が絶対にあってはならない」ことを教えたいと、原爆ドームのお土産を探し回る。しかし、原爆ドームは売り切れ。内職でドームを作っている職人さんの家まで行って売ってくれと頼む。卸し値が1500円と聞き、「僕は、お店の定価の3500円で買うからさあ。うってくれよ」というが、「あんたが3500円で買ってくれても一回だけじゃないか。お店の人は毎日買ってくれるんだ」と断られる。平和記念公園で休んでいると、職人の子どもたちがおなかをすかせてやってきた。昼間は仕事の邪魔にならないように外で過ごす子ら。伊達直人が不憫に思ってごはんをご馳走しようとするが、子どもは、「哀れみはいらない。100円持っているから」と粋がる。公園のベンチで勉強している子どもたちを見て、伊達直人は民生委員と掛け合い、子どもの居場所づくりのためにお金をおいていく。第50話「此の子等にも愛を」

つまりこの話で伝えたかったことは、社会から愛されずひねくれて育った子どもたちは、力が欲しい。原爆ですら容易に受け入れるに違いないから、正しく生きてほしい、核兵器を廃絶したいというタイガーの願いが込められているのだろう。ここら辺は、職業がらイスラム国との対比をしてみたくなるのだが、とりあえず解説してみる。
 
僕はリアルタイムでTVで見ていたが、孤児院の話はあまり覚えていない。改めて見てみるとリアルに貧困と闘う子どもたちが描かれている。番組の終わりで流れるみなしごのブルースは、直人が、終戦直後の瓦礫の中をさまよい、靴磨きをしている姿を回想している。今のシリアにつながるのだ。ダマスカスの孤児、ヌール(中学一年生)が話してくれた。

今思うと、私の家は家庭崩壊状態でした。父は戦争で5年以上前から行方不明です。父については写真と祖母から聞いた話以外何も知りません。母は、いなくなった父を憎み、私たち子どもたちを理由もなく罵りました。母には責任感が一切ありませんでした。母は父と結婚する前に一度結婚をしていました。その時にできた子どもたちに別れを告げ、父と再婚しました。しかし父が行方不明になった後、私たちもまた捨てられることになりました。私と4人の兄弟姉妹が稼ぎ手にならないと気づいた母は、突然姿を消しました。その後別の男性と結婚したと聞いています。
私たちはダマスカスの田舎の家を失い、公園にあった廃屋に住んでいる祖父と祖母の元に移り住みました。廃墟のような家は半分破壊されており、夏の暑さも冬の寒さにも耐えられません。最低限の生活を営むための公的サービスも受けられません。普段使う水はもちろん、安心して過ごせる家もなく私たちは苦しんでいました。病気の弟が治療を受けられずに病状が悪化して死んでいきました。腰が曲がり年老いた祖父は、パンの値段にもならない小銭を必死に働いて稼いでいました。私たち兄弟は生活の為に路上で物乞いを始めました。見知らぬ人に物乞いをして食べ物や小銭を手に入れ、朝から晩まで恥ずかしく、見苦しい毎日を過ごしていました。
日々が過ぎ、私たちは保護センター(Bee ways)に移り住み、私たちと同じような悲しい過去を持ちながらも、素朴な夢をもち生きる子どもたちと一緒に暮らすようになりました。ここで私たちは生きることの本当の意味を知りました。誰かが自分に注意を向けてくれる喜びを知り、また愛情をもって受け入れてもらいました。空っぽだった胃袋を満たす食事にありつける幸せ、暖かくて清潔で柔らかいベッドで寝られる幸せを手に入れることができました。普通の生活がしたいというシンプルな夢は叶えられ、学校に通うことでより大きな夢を持つことができました。

このシリアの孤児院の話は、日本の虐待の話ともつながっている。タイガーマスクの時代には、家庭内の虐待という話はほとんどクローズアップされていなかったような気もする。残酷な社会が敵だった。で、ちょっとタイガーマスクにはまり、寅年だし、新年早々大学生たちと駅前で募金をやるのに、寅のマスクをつけてみたのだが、殆ど受けなかったし、タイガーマスク運動の起爆剤にはならなかった。コロナでぎすぎすしているなあ。

ベルヴィル日記(6)

福島亮

 1年ほどかけて翻訳していたアラン・マバンク『アフリカ文学講義』(中村隆之・福島亮訳、みすず書房、2022年)が刊行された。「アフリカ文学」とタイトルにあるが、論じられているのはフランス語圏アフリカに関係する作家たちである。著書マバンクの人柄については、「ベルヴィル日記(3)」で述べた。フランス語版の単行本は、ブルーのすっきりした表紙、そして文庫本の表紙はカラフルなアフリカの地図をデザインしたものである。日本語版は、というと、クレーの絵を用いた、暖色のあたたかい雰囲気に仕上がった。

 「アフリカ文学」というと、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれない。「アフリカ」という「国」はないし、「アフリカ語」という「国語」もないではないか……、と。そういう方には、是非とも本書の第五講「国民文学と政治的デマゴギー」をご一読いただけたら嬉しい。というのも、この第五講は「『国民文学』という用語は矛盾を抱えています」という挑発的な出だしから始まるからである。申し添えておくならば、「アフリカ文学」という言葉が抱える違和感のうちに、20世紀のフランス語圏アフリカが抱えるナショナルなものをめぐる諸矛盾が内包されている、と私は考えている。だから、第五講は違和感や矛盾を解決する、というよりも、むしろ複雑にするはずだ。と同時に、これまでなんの違和感もなしに口にしてきた「日本文学」や「フランス文学」という「国民文学」もまた、矛盾を抱えたものに見えてくるはずである。

 本書の刊行にともなって、飛び上がりたくなるほど嬉しいこともあった。東京堂書店神田神保町店3階で、今、「遙かなるアフリカ」というフェアをやっている。私はパリに住んでいるので残念ながら訪れることができないのだが、写真で見て、こんなにも多くのアフリカ関連の本が日本語で読めるのか、と驚いた。普通、本屋は分野ごとに棚が分かれている。そのため、例えば私の場合、文学や思想の棚は見ても、経済やホビーの棚はチェックしていないことが多い。でもどうだろう。『アフリカンアート&クラフト』という本。むくむくと読書欲が湧き上がってくるではないか。「遙かなるアフリカ」フェアでは、「アフリカ」という主題のもと、分野に縛られずに本が集結しているため、これまで存在を知らなかった本、出会いそこねていた本がずらりと並んでいる。その多彩さに、ただただ舌を巻く。実は今、パリのジベール書店という大型書店でもアフリカを特集したコーナーができているのだが、東京堂書店の棚は規模で見るとジベール書店の数倍はありそうだ。これだけ集めた書店員の方には頭が下がるし、自分の不勉強さが恥ずかしくも思う。と同時に、写真を見るだけでもワクワクするのだから、実際に東京堂書店に訪れることができたらどれほど楽しいだろう。神保町に駆けつけることのできる人が心底羨ましい。

 本書は中村隆之さんとの共訳だ。今から10年前、大学1年の時、刊行されたばかりの『カリブ海文学小史』という中村さんの本で私は勉強した。要するに、本の著者として中村さんと出会ったのだ。だから共訳できたのは光栄だ。経験値ゼロの私にとって、共訳作業は計り知れないほど勉強になった。手順としては、私がまず翻訳し、それに中村さんが手を入れてくださり、さらにそれから何度もZoomやメールでやりとりして原稿を作った。

 ここでは、こういった一連の作業のうちの最初の段階、いわゆる下訳にまつわる個人的な思い出話を一つしておこうと思う。『アフリカ文学講義』の第七講は、「ブラック・アフリカにおける内戦と子ども兵」と題されている。取り上げられるのは、コートジボワール出身の作家アマドゥ・クルマの『アラーの神にもいわれはない』とブルンジ出身の作家ガエル・ファイユの『ちいさな国で』である。実はこの章を訳しているとき、私は学生寮に住んでいて、真向かいの部屋にブルンジ出身の青年が住んでいた。キッチンなどで彼とはよく会ったので、少しずつ仲良くなった。引っ越した時は、新居に遊びにきてもくれた。彼は私と同じくらいの歳なので、ブルンジ内戦の時、まだ2、3歳だったそうだ。そのため、『ちいさな国で』で描かれるような壮絶な虐殺は記憶にないという。でも、フランスでの勉学生活が終わった後は、多分ブルンジには帰らない、とも言っていた。この第七講を翻訳している時に、思い浮かべていたのは、そんな彼のことだった。『アフリカ文学講義』を開くと、幾つもの地名が登場するが、それらを読みながら、私は友人や隣人の顔をふと思い浮かべる。

 翻訳書を手にしながら思うことはいくつもある。そのうちのひとつは、この本を、私にフランス語圏文学という世界を教えてくれた立花英裕先生にお渡ししたかった、ということである。先生は去年の8月16日、旅立たれた。

 ある日、入院なさっていた先生から、電話がかかってきた。いつもと少し声が違った。察するものが、確かにあった。しばらく話したのち、唐突に、ルチアーノ・ベリオの「シンフォニア」を聴いたんだよ、と先生はおっしゃった。先生にとって、ベリオは思い入れのある作曲家だ。そんなベリオの「シンフォニア」の第3楽章で、「Keep going」と発声する箇所がある。その言葉が耳に残った、と、そう先生は電話でおっしゃった。それから、「Keep going」と何度も口にされた。次第に、声に力がこもっていった。電話の向こうから聞こえてくるその声に、私は何も答えることができなかった。このメッセージを、私は受け取るに値するだろうか。この言葉の重みを、私は受け止められるだろうか。Keep going——それでもこの言葉ほど、マバンクの本にふさわしい言葉もないのではないか。今、ようやくそう思えるようになった。ここから始めるのだ、と。

旅 その一

笠井瑞丈

高橋悠治×笠井叡『モンポウを踊る』
気付けばあれから一ヶ月が過ぎた
時間というのは「待った」は聞かず
無責任に振り向くことなく進んでいく
去年年末三泊四日の車中泊の旅に出る
雪が見たくとにかく東北に車を走らせ
去年葬儀のため仙台に向かった同じ道
真夏の暑い日だったのを思い出す
それとは真逆で今日は車に付いている
外気の温度計はどんどん下がっていく
途中少し道を外れ日光に向かってみた
両脇木に囲まれている長い道
トンネルを走っているかのような
前を走っている車のブレーキランプ
消えては光り光っては消える
闇に吸い込まれていく感覚になる
しばらくそんな道を車を走らせる
気付けば温度計もマイナスになり
辺りは白い雪化粧の世界に変わっていた
そしてしばらくすると空からも白い雪が
近くのコンビニに少し寄りコーヒーを
今日は大晦日の夜
沢山の人だろうと思いながらも
目的地にした日光東照宮に向かう
着いてみたら駐車場には全く
車も停まってなく人もいない
冷やっとした山道を少し歩き
日光東照宮の入り口にたどり着く
ここに来るのは小学生以来だ
ここは集合写真を撮った場所
あの時のまま何一つ変わってない
タイムスリップした気分
少し先から女性の笑い声が近寄ってくる
「写真撮ってもらえないでしょうか」
声をかけられ携帯電話を受け取る
何枚か写真を撮って携帯を返す
五人組の多分女子大学生だろう
そして少し徘徊してから車に戻る
道中出会ったのは五人の女子大生だけだった
次第に雪も強くなっていく
中禅寺湖に寄っていくことを断念する
あと少しで新年を迎えるなか郡山に向かう
そして郡山に着く頃には吹雪に変わっていた
そのまま猪苗代湖に向かうつもりだったのだが
天候悪化のため郡山で一泊目をすることにした
広いパチンコ屋の駐車場に車を停める
何台か同じようにここで車中泊している車があった
今回の旅の為に買ったポータブル電源
電気毛布をつなげてスイッチを入れる
その上に寝袋を敷いて寝床に就く
氷点下の車中でも快適に眠れる暖かさ
吹雪の轟音が鳴り響くなか眠りにつく
朝なにも無かったかのように太陽は登る

(続く)

むもーままめ(15)豪栄道の断髪式

工藤あかね

実は少し迷っていた。コロナ禍で延期になっていた元大関・豪栄道の断髪式に行くか、行かないか。何を隠そう、豪栄道豪太郎はわたしの推し力士だった。迷っていた、というのはコロナ禍、ということもあるけれど、豪太郎さんの髷に鋏が入るのを見て、取り乱すかもしれないと思ったからだ。

コロナに関しては、国技館はかなり気をつけてくれている、と思う。大相撲の本場所が行われる時は、扉は開けっぱなしで、風がびゅうびゅう入ってくる。そんな環境なので、まず換気はしっかりしている。場内では飲食も制限されているし、こまめに手を洗えばリスクはだいぶ減らせる。観客は、推し力士の名前が記されたタオルや横断幕などを掲げて無言で応援する。横綱が土俵入りしても「よいしょ〜!」の掛け声もなし。一観客としては、喉まで出かかった声をぐっと飲み込んで腕を組み、じっと土俵を眺めるしかない。稽古場や土俵下の審判席で、親方が弟子を見守る気持ちって、この感じに近いんじゃないかな…。

結局、断髪式には行った。豪栄道ファンとしては、これまでの相撲人生に区切りをつけ、武隈親方として新たな生活が始まる、その瞬間に立ち会わなければならない。この儀式は豪栄道本人だけのものではない。ファンも、髷が切り落とされる瞬間をしっかりと見て、豪栄道は終わり武隈親方が始まるのだと自分に納得させるために必要なプロセスなのだ。

当日の朝、なぜか緊張しながら両国駅に降り立つと、触太鼓の音がかすかに聞こえてきた。舞い上がっていたのか、お相撲さんを見かけて、「今日はおめでとうございます」と口走ってしまったが、ただの出席者であって豪栄道の境川部屋関係者とは限らないから、恥をかいていたかも。

豪栄道の母校、埼玉栄高校の相撲部らしい少年たちも来ていた。彼らにとって豪栄道センパイは憧れの人なのだろう。そして国技館の門をくぐると、紋付袴の堂々たる姿で豪栄道センパイがお出迎えしているではないか。ぎゃーーーーー!!!最後のまげ姿〜〜〜〜!!こんな姿を見たら、膝から崩れ落ちるに決まっている!!!!

ご本人と写真が撮れるのは後援会の関係者のみらしい。だから私は、館内設置の豪栄道パネルと2ショットを決めた。すぐそこに本人がいるのに変な気分だけれど、それは致し方ない。

館内を進むと、埼玉栄高校出身の現役力士たちがぞろぞろ。この日同行してくれた筋金入りの相撲ファンである友人は大興奮で写真や動画を撮り、「国技館は我々のディズニーランドですからね!!」と、名言を放った。

さて断髪式は引退力士のまげに鋏が入るだけではなくて、さまざまな催しが用意されている。この日は、触太鼓からはじまり、幕下力士の選抜トーナメント戦があり、それから十両土俵入り。

そのあとは、相撲の禁じ手をコント形式で行う初切(しょっきり)、十両取り組み、美声のお相撲さんたちが朗々と歌う相撲甚句、豪栄道後援会会長の挨拶、そして断髪式。この日は、400人くらいの鋏が入った。そして新妻とお子さんからの花束贈呈があり、横綱・照ノ富士の綱締実演が入る。

幕内力士と横綱土俵入りの中入りのあとは、櫓太鼓の打ち分け(この日は名手・太助の実演)がきて、幕内の取り組みと弓取り式が行われ、最後に武隈親方になった元・豪栄道がお礼の言葉を述べてお開きとなる。

胸いっぱいの内容である。だが実際のところお酒の販売はしていないし、お弁当も飲み物も指定の場所に移動しないと口にすることができないので、場内で一連の催しを見ている限り、お腹いっぱいになることはありえない。見どころしかないような会なので、いつ食事に抜けるかは結構むずかしい問題だ。

友人たちは、断髪式が延々と続くことを見越して、そのタイミングでお弁当を食べに行くと言う。だが、彼女たちいわく、わたしにとっては断髪式こそがメインだから、先に食べておくのが最良なのではとアドバイスしてくれた。それに従い、一人で最後の「豪栄道弁当」(国技館には大関以上の力士のプロデュースによる力士弁当が売られている)を黙食した。

最後の豪栄道弁当、なんとなく以前食べたものと揚げ物の形状が違う気がしたけれど、まあそれは大した問題ではない。推し力士がいる人間にとっては、そのお弁当の具がどうとか、美味しいかどうかではなく、そこに”豪栄道”とか”貴景勝”とか書いてあることこそが重要なのだ。

この日は豪栄道グッズも買った。よく考えるとどうしても欲しいものではなかったのに、結構散財した。けれど一種のお祝儀だから、これでいい。

豪太郎さんの入場、着席。ついに断髪式が始まった。他の力士の断髪式では、鋏が入る時に涙ぐんだりする名場面もあるので、豪太郎さんの表情を見ていたが、人形焼のようなベビーフェイスは誰が鋏を入れても判を押したように変わらない。他の力士の断髪式では、正面・向正面・東西をくるりと一周したのを見たこともあるので今日はどうなるかと観察していたが、豪太郎さんは最初から最後まで正面を向いていた。正面には舞妓さんがずらりと並んでいたり、ジャニーズのタレントを応援するような横断幕を掲げる人々や、桃色の豪栄道ハッピを着た女性もいる。いろいろな応援の仕方があるものだなあと、ぼうっと眺めた。

後ろに回ってみると、切られた髪の毛が緋毛氈の上に落ちていた。これはこれで、またいい眺め。師匠の境川親方の止め鋏の時は後ろから見ていたから、豪太郎さんの表情はわからない。だが、ほぼ人形焼のベビーフェイス状態だったのだろう。なぜなら、その瞬間をの写真をニュースで見たが、同じ顔だったから。

一連の催しの最後、武隈親方となった元・豪栄道がタキシードにオールバックの髪型で再登場すると、会場がどよめいた。体一つで戦い続けてきた人が!タキシードを!着ている!謝辞を述べる豪太郎さんの言葉は、もらったパンフレットに書いてあった言葉とほとんど同じだったけれど、そんなことはどうでもいい。この一連の行事を見届けたのだから、わたしにとって、とても良い一日だった。

帰り際、友人が言った。
Q:「こんなに力士に夢中になっているのを見て、旦那さんはやきもち焼いたりしないんですか?」
A:「大丈夫です。実害がないとわかっているみたいです。」

一日中、お相撲さんや親方たちを見て過ごしたせいか、体格の大小の感覚が変わってしまった。帰宅して夫を見たら、とてもスリムな人に思えたのだ。やっぱり、良い一日だった。

宇宙船で泣く

植松眞人

 宇宙船の中はとてもせまい。そこに様々なスイッチ類がついたシートがあり、その真ん中に私ともう一人の男が座っている。私の記憶は飛んでいて、なぜここに座っているのかわからない。それでも、私の指先は器用に動き回って宇宙船をきれいに操作している。宇宙空間にはいるようなのだが、太陽らしきものや地球らしきものがまったく見えず、ただただ真っ暗な闇の中に宇宙船は浮かんでいる。
 私の目の前には小さなモニターがたくさん並んでいて、その中のひとつに私らしき男の顔が映っている。どうやら私の健康状態をチェックするためのモニターらしく、私が片目を閉じるとモニターの男も同じタイミングで片目を閉じ、私が口を開けるとモニターの男も口を開ける。そのモニターを信じるなら私は黄色人種の男でそこそこベテランの域に達した乗組員らしい。私の位置から隣の男の顔は直接見えないが、隣の男のモニターは見える。私がそっと男のモニターに目をやると、男は泣いていた。身動ぎもせずに、ただ滂沱たる涙を流し続けまっすぐに前を見据えている。男は白人で私より少し若いくらいだろう。おそらく四十代の後半くらい。シールドのようなものを被せられているので、男が声をあげて泣いているのかどうかはわからない。私の耳にはただピッピッという電子音が一定のリズムで聞こえているだけだ。
 なぜ、男が泣いているのかわからないまま、私は目の前の真っ暗な空間を見つめる。まだ何も思い出せないはずなのに、真っ暗な空間がスクリーンのように男のこれまでの場面を写し始めた。若い日の愛おしい出会いや友人の裏切り、肉親の死や子どもの誕生などが次々と映し出されている間に、私は私の鼓動を聞き始めた。そして、スクリーンに映し出された男の顔が知らぬ間に自分の顔になっていることに気づく。極彩色の私自身の人生の断片は、私を混乱させる。ふと気づくと隣の男は私と同じシールドの中にいて、強く私の手を握っているのだった。(了)

何語を使うのか?(晩年通信 その26)

室謙二

 日本人が外国に出かけていく文章を日本語で読むと、この人はそこで何語を話しているのかな?ということが気になる。
 というのは、私がすでに三〇年以上カリフォルニアで暮らしていて、もちろん時々は日本に帰るが、カリフォルニアにいるときは英語が、家の外でも家の中でも日常言語になっているから。
 私には息子が四人いて、そのうち二人は今の妻の息子で、妻もその息子も日本語が話せない。私が日本から連れてきた二人の息子は、中学の途中から、高校、大学とアメリカの学校に行き、英語を教育言語としてきた。そして日本語については、私が読み書きを教えたので、翻訳でも生活ができる。
 家庭では日本語が分からない人がその中にいた時、つまり妻とか妻の息子二人とか、アメリカ人の客人がいた時は私たち日本語家族も英語を使う。しかし息子と私たちだけでいるときには、日本語を使っていた。それが家庭内の英語・日本語の使用ルールであった。
 こういうバックグランドがあるので、日本人が外国に出かけて行った文章を読むとき、この人は何語を話しているのかなあ、と気になる。通訳を使っているのか、外国語がわかっていないのか、カタコトなのか、流暢なのか。
 それとこの頃は、携帯の自動翻訳を使っていて、役に立つと書いている時もある。驚いた。あれは信用すると、とんでもない間違いをおかすことになる。インド・ヨーロピアン言語の間ではいいのかもしれない。それと誰かが、日本語と韓国語の間では使えるよ、とも言っていたが。
 言葉が分からない国に出かけていくときは、もちろんその国の言葉を数週間前から勉強するのがいいけど、その国に着いたら、まず自分は言葉が分からないですよ、と相手にわからせる必要がある。いい加減にわかったふりをするのは最悪だな。わからないけど、コミュニケーションをしたいという姿勢をとること。身振りでもなんでも。そうすれば関係を結べる可能性がある。たとえ乗り物の切符を買うときでもそうです。

  漢字の国に行く

 漢字の国に行くときは、中国とか台湾とか、必ずすぐに書けるノートを持っていく。それに漢字を書いて、相手とコミュニケーションする。日本語風の中国語であっても、大抵はわかる。買い物をするときとか、値切る時も、漢字とクエスチョンマークを使って、相手にも返事をそこに書いてもらう。中国語の発音は全くわからないからね。
 紙がないときは、手のひらを開いて相手に見せて、そこに漢字を指で書く。インクがないのだから動きだけで、漢字を書くわけです。これでもわかることがある。国際会議で中国から来た人と、ロビーで手のひら漢字コミュニケーションで「話をしていたら」、そばで見ていた津野海太郎がわらっていた。
 もう二十年以上前に、妻のNancyと台北から台南まで、台湾汽車旅行をしたことがあった。汽車が駅に止まったり、駅をゆっくりと通り過ぎたりするときに、素早く駅の名前を漢字で「読む」。私は中国語の汽車の地図を持っていたから、それでいま私たちがどこにいるか確認した。まだ台南まで一時間以上あるなあ、なんてNancyに言うと、感心して「Kenjiが中国語ができるとは知らなかった」と言う。そうじゃないの、中国語は全くできないけど、漢字を知っているから、それを使って切符を買ったり、駅の名前とか次の駅の名前とか、中国語の地図が読めるのさ。と言っても、漢字の機能が分からない外国人だから、その意味がわからなかった。
 もっとも、このように漢字に頼るのはヨロシクないと言われたことがある。
 
  漢字は特別のものではない

 このエピソードを書こうと思ったら、中国人とか日本人が漢字の機能に頼りすぎるのは良くない、漢字が特別の言語の道具だと思うのも良くない。と私に言ったヨーロッパ知識人の名前を忘れている。もの忘れが激しいんだ。認知症の初期だと、数年前に医者に言われてショックを受けた。妻に、Kenjiはこの頃物忘れが激しいから、また医者のメモリーテストを受けましょう。と数日前に病院に連れて行かれた。結果は数年前と変わらない。ちょっと安心。でも妻は、納得しない。
 それでは元に戻り、名前を思い出せないそのヨーロッパ知識人は、本をドイツ語とフランス語と英語で書いて出版していて、カソリック司祭のバックグランドだった。彼はカソリックの信仰は離れていると思うのだが、私と話した時は国連の援助で日本で研究休暇を取っていて、友人のダグラス・ラミスの紹介で、下駄屋の二階にガールフレンドと下宿していた。
 彼によれば、カトリック司祭というのは自分では辞められないとのことで、バチカンが司祭ではないと決めないといけないらしい。私はまだバチカンにそう言われていないから、きっとまだ司祭でしょう。でも司祭のルールは守っていない。セックスは禁じられているけど、ガールフレンドと暮らしているしね。
 もっとも私のカトリックの友人によれば、結婚している「元カトリック司祭」というのは、たくさんいるらしい。でもバチカンは、それを司祭のルールを守っていないとして破門したりしないらしい。というのは、いずれカトリック司祭も結婚してもいいということになる可能性もあり、その時のことを考えて破門しないのだ、とのこと。バチカンは少なくとも数十年、あるいは数百年の単位で考えているのさ。とそのカトリックの友人は言っていた。
 元カトリック司祭は、日本人とか中国人は漢字を特別だと思いすぎだよ。と言う。あれは他の言語の文字と同じように、単なる書き言葉コミュニケーションの道具にすぎない。言葉というのは、それで伝えられる内容が重要なんだから。内容を伝える言葉は、内容が伝わったら捨て去られていいものだ。
 この話を聞いたときに、なるほどこれは普遍主義だな、と思った。言葉の向こうに普遍的世界があって、それを描いたい伝えたりするための道具が言葉なんだ。その道具を普遍的世界の内容と混同してはいけない。漢字を使う民族は、漢字を特別なものと崇めているけどね。

  道元は外国語の「使い手」だったらしい

 先月は家族とメキシコ旅行をしていた。そのときに道元の本を何冊か持っていった。そしてときどき、スペイン語と英語が飛び交うプールの、パラソルのしたで読んでいた。道元も、何か国語の中で生きていた。
 道元は天皇の家系につながりがあり、子供の頃から将来、天皇システムのエスタブリッシュメントになるべく教育をうける。だから日本語の古典も、論語とか経典とかの古典中国語、当時の中国(宋)の話しことばも学び、中国に出かけて行ったときは、それらを手に持っている。そして船で中国についても、まず船の中で中国人から中国語を習ったり話したりしている。道元は中国語に堪能であった。「典座経典」の最初に、まだついたばかりの道元が中国語を話している。あるいは、漢字を紙に書いて話していたのかもしれない。典座(てんぞ)は寺の料理人のトップのことで、道元によればそれは仏教の大事な修行の一つである、とのこと。別のところで道元は、仏教と食は「等」であるとも書いている。
 道元は中国に本当の師を探して四年いたが、最後に如浄(にょじょう)に出会う。その時のことが「宝慶記」に書かれている。如浄の弟子が寂円(じゃくえん)であり、彼は道元が日本に帰った後に追いかけて日本にやってくる。そして日本人で弟子になった懐奘(えじょう)と中国人の寂円と道元の三人が日本で禅(曹洞宗)を始めるのである。曹洞宗は今では大きな禅宗だが、その時はまだ数人の集まりであった。
 その三人の集まり、曹洞宗の始まりの三人は、何語を話していたのか?
 三人とも当然、書き言葉の古典中国語は堪能であったはずだが、三人の間では、宗音の中国語を話していたと思う。少なくとも道元とまだ日本にやってきたばかりの寂円は中国語で話していた。懐奘も寂円とは中国語を使っていただろう。道元は中国語で仏教について書いていたし。つまり始まったばかりの道元の日本での宗派は、中では中国語を話し書き、外に向かって、日本人の僧と信者に対しては日本語で呼びかけていた。
 道元の仏教は、中国で如浄に学んだとしても、中国とも日本ともインドとも離れた普遍性を持っている。その普遍性によって、道元の仏教はアメリカでも、道元の使っていた言語(古典中国語、宋の中国語、日本語)を離れて、英語で広まっていく。元カトリックの司祭が言っていたように、言語から離れた普遍性を持っていた。
 師の如浄は道元に、日本に帰っても権力に決して近づくな、と言う。如浄は道元がロイヤルファミリーの出であることを当然知っていたはずだ。日本に帰ってきた道元は、日本人の弟子懐奘と中国人の寂円の三人で、貧乏に新しい仏教を始めた。お互いに中国語で話しながら。
 メキシコでプールサイドで道元を読みながら、多国語の道元について考えていた。私も多国語の中で死ぬのだからなあ。と思いながら。

製本かい摘みましては(170)

四釜裕子

筑摩書房、中央公論新社、河出書房新社、角川春樹事務所の4社が、2月の刊行分から文庫本の本文紙をそろえるそうだ。王子製紙が共同開発したものに順次切り替えていくという。〈用紙の確保と調達価格の安定が狙い。中央公論新社によると業界初の取り組み〉。〈製紙会社側が出版社ごとの用紙生産を維持するのが難しくなり、共通化を協議してきた〉(共同通信 2022.1.21)。

いわゆるファンシーペーパー(ファインペーパー)でも数年前から銘柄の廃番が増えている。松田哲夫さんの『「本」に恋して』(イラストレーション内澤旬子 新潮社 2006)によると、〈本というものは、刷り続け、売り続けている限りは、最初のかたちをきちんと踏襲し続けている〉〈一つのかたちで刊行された本は、よっぽどのことがない限り、造本などの変更はさせない〉そうだから、廃番による変更に苦慮する版元も多いのだろう。松田さんは続けて〈実際には、すべてを守り続ける必要はないだろう。でも、かたちも含めて文化だという意識は大事に持ち続けていたいものだ〉と書いている。

ファンシーペーパーの一つである「タント」(1987年発売)は色数の多さが売りで、こちらは2019年に200種となって以降、今もそのままあるようだ。これらがずらっと並んだ紙見本を眺めてあれこれ悩むのは楽しい。楽しいけど、東急ハンズなどで断裁済みのA4サイズものから縦目を数枚選んでレジに並んで、折れないように台紙を1枚添えて店の紙袋に入れてもらってありがとうございましたなどと言われると、「私、何やってんだろう」感を覚えたのも確か。居心地がよろしくない。

紙の違いを触り比べたり、製造工程の工夫などは聞くほどにおもしろいからそれがなくなるのは惜しい。本文紙についても「いろいろ」が減っていくのは残念だけど、今回のことはいいなと思っている。手元にあるそれぞれの文庫本を並べて開いてみた。比べると違いは感じるけど正直よくわからない。版元ごとの用紙の違いというのは、私の場合、読むにもめくるにも愛でるにも影響はなく、このニュースもたちまち忘れるだろう。こうした試みはもっと増えていいと思うし、王子製紙が4社と折り合いをつけるにあたっての肝はどんなところにあって、それによって製造から流通、在庫などがどう変わったのか、むしろそういうことを知りたい。

東日本大震災のあの日は、担当していた月刊雑誌が校了して代休をとっていた。当時はひと月の間で一番呑気に過ごせる日だった。津波によって、いつも使っていた本文紙が調達できなくなったと編集部に知らせが入って、別の用紙で代用することになった。用紙や印刷、製本、流通、それぞれの現場のたいへんな尽力で、予定通りの17日に発行できた。いつもより少し色が濃い紙になったけど、読者からの問い合わせはなかったと思う。そもそも世の中がそれどころではなかった。この号だけはずっと手元にとってある。隣には佐々涼子さんの『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』(早川書房 2014)を置いている。

装丁関係で「そろえる」ということについて、なんと本当にたまたま昨夜古いスクラップ帳からはらりと落ちた記事にこうあった。「装丁にもブランド作戦 シリーズや出版社で統一感 印象を強めて販売戦略に」(朝日新聞 1992.6.7)。一冊ずつではなく、シリーズものとして、あるいは版元のイメージをつくるための装丁が増えているとして、岩波書店の「物語の誕生」シリーズ、文藝春秋の「書下し文芸作品」、ちくま学芸文庫、装丁を一新したNHKブックス、メディアファクトリーの「ライフ・ストーリー」などを例にあげている。〈メディア状況の変化とともに読者と本のかかわり方が変わり、「本は中身だ」という二十年ほど前の「常識」が常識でなくなったばかりか、装丁はもはや中身を引き立てるものでさえなく、中身とともに一つのメッセージを伝える一人前のメディアになったという見方だ〉。

続いて〈こうした流れの中で、デザイナーの仕事も変わっている〉とし、菊地信義さんと戸田ツトムさんに取材している。お二人の顔写真もある。戸田さんは最後に〈言葉のメッセージ力が弱まっているのではないか。その対症療法として、デザインがもてはやされている気がする〉と話していて、続けて記者は、出版社が装丁をそろえようとしている背景をこう書く。〈本の流通の問題もある。(中略)一点の本が書店に並べられる期間が短くなった。そこで、シリーズ化して書棚を確保しようということらしい〉。版元にとっては用紙の確保や調達価格の安定の側面が大きいだろうし、本屋で本を探す者にとっては、とにかく並んでいることでおおいに助けられた面はある。

記事はさらにこう続く。〈装丁は、ベテラン編集者とブックデザイナーたちが勘を頼りにつくる「趣味の世界」の時代から、手に取り買ってもらうための「戦略的なメディア」の時代へ移り、様々な形が認められるようにあった。だが、あまりに雑多になった書店の棚では、目新しさを狙った装丁もお互いが効果を殺し合ってしまう。そこで、「ゆるやかな統一感」がもたらす静かな存在感が、かえって人を引きつけるという新しい考え方が生まれてきた。(中略)際限なく多様化していくように見えた「装丁」も、転換期を迎えようとしているようだ〉。やすい代理店のパワポを見せられたような不快なもの言いだ。だからこそ、戸田ツトムさんの言葉がふわっと浮き上がる。突き放したような、というか、「人」側ではなくて「言葉」や「デザイン」側から発しているような、その態度。

戸田さんの追悼号となった2020年12月25日発行の「ユリイカ」1月増刊号を開く。「デザインと予感」と題されたインタビュー。聞き手は平倉圭さん(2006年2月27日、戸田事務所にて。初出「未來」2006.4号)。

〈風邪を引くのが好きなんです。風邪って、外気と自分の内部の関係がうまく割り切れない。外に対してナイーヴに接している粘膜がまずイカれちゃうから、外部と内部の感覚がおかしくなるんですよ。それが大好き(笑)。自分そのものが環境化していくような感覚。風邪が起きたらすべての症状を許していくんですよ――かっこつけて言えばね〉

〈風邪は、「自分」を場所として扱いますね。そのことに対する混乱としてさまざまな症状がある。自分の感覚としては、図も地もないよと教えてくれる〉

もちろん、戸田さんの健康について聞いているのではない。

〈……レイアウトイメージというのはだいたいそんな感じですよね(笑)〉

こんなふうにも話している。

〈こうすればこの本は良く売れる……。ひとつのポジティヴな経済の方程式があるわけですね。ただ、その方程式の読みかえを出版社はしないんですね。(中略)つねに強く明確な標榜を求められる。書店で本を買うときの浮遊感や心の揺らぎ、そして「読まずに」本を買おうとする人々の心の中に広がる曖昧な想像の領域……。こういった事情を考慮せず、作り手の安心を補填すべきではないでしょう。とくにこれからの時代、エフェメラルなものへの強さへの意識は強く求められると思います。ルネサンスの直前もそうだった〉

同じく「ユリイカ」から。加島卓さんの「――デザインはいかにしてメディア論の問題となるのか 『観測者』としての戸田ツトム」にある戸田さんの言葉。

〈強い輪郭をもったメッセージやデザインにかんして、人々はある種の安心感を感じるかもしれないけれど、そこには余剰や余白は見つけにくく、想像力を投入しにくい。(中略)明示を受けた「視る者」は、想像してはいけない、という指示も同様に受けたことになります。たとえばテレビはスイッチを入れてちゃんと映るまでの間、その時が最も情報量が高い瞬間なはずです〉

〈可能性の束をそのままにしておく、という態度がおそらくデザインには必要なんじゃないか〉

ばるぼらさんが聞き手となったインタビュー「時代の交換期という最中の断面(パートⅡ)」(2012.3.6 戸田事務所にて)ではこんなふうに話している。

〈だから最初に、かなり遠くから大前研一なんて名前が見えちゃったら近づかないですよね。その人はそれに弾かれてしまう。徐々に魚を釣るようにして、段階を経て文字に入っていく。……ということをやっぱり広告の世界が撹乱しちゃったのかな〉

戸田さんはフライフィッシャーだった。「d /SIGN」12号(太田出版 2006)では、フライタイヤーで『水生昆虫アルバム』(フライの雑誌社 2005)の著書もある島崎憲司郎さんにインタビュー(「水面下の心理へ… 期待と予測のデザイン」)している。島崎さんが作るフライについて〈自然の認可を得るという点で、とてもはっきりした評価をもたらしました〉とか、〈そして自らの立ち居振る舞い、選ばれた道具とフライ…これら一連にまつわる選択が「デザイン」を生む〉などと話している。ここでも、なにかこうその一部になって、ひとりごちているような語り口だ。

どんな方だったんだろう。デザインでも釣りでも、関わるものすべてがおしなべて在って、その一部である戸田さんが「人」に聞かれてしゃべって「人ら」に伝えてるみたいな感じ、とでも言えばいいか。魚が釣れるまでの間、テレビが映るまでの間、風邪を引いて粘膜がイカれて外部と内部が割り切れないでいるような時間に怪しまれることなく耳を澄ますために、戸田さんは仕事であるデザインもしていたんじゃないかとすら思えてくる。

水牛的読書日記 2022年1月

アサノタカオ

1月某日 年末の深夜から年始にかけての静かな時間に、かならず読む長編小説がある。たった1人でおこなう儀式のようなものとして。研ぎ澄まされた文学のことばによって、1年のあいだに自己にまつわりついたさまざまな贅肉をそぎ落とし、むき出しの裸の心でふたたび世界に向き合うための作業。宮内勝典『ぼくは始祖鳥になりたい』(上下、集英社)。1998年の刊行時から23年間、ずっと続けている。

1月某日 チョ・へジンの長編小説『かけがえのない心』(オ・ヨンア訳、亜紀書房)を読了。物語の背景にあるのは韓国の海外養子制度、米軍の基地村の女性たちの存在。そしてフランス在住の韓国系の国際養子が帰郷の旅で直面する、翳ある家族の歴史。だがそこには、苦難の時代にあってなお生きることの尊さに心を傾けずにはいられない人びとの姿もあった。「自分」が奪われそうになる恐怖や悲しみの中で、過去と未来につながる記憶が、信じるに値する何かへと変わる。主人公ナナの抑制の効いた語りを通じて、その変化のプロセスがじんわりと伝わってくる滋味深い作品だった。翻訳がよかった。

1月某日 出版社で営業の仕事をする橋本亮二さんのエッセイ集『たどり着いた夏』(十七時退勤社)を読了。動き続ける感情の輪郭を指でなぞるようなことばたち。揺らぎの中に、たしかさがある。どうしたらこんなすてきな文章が書けるのだろう、とため息が漏れた。タイトルにも関わる一編「風の音を聞く」には、とりわけ胸打たれた。エッセイの中で橋本さんが紹介する本、いろいろ読んでみたい。

1月某日 ファン・ジョンウンの小説集『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)を再読。暴力に苦しむもの、抗うものが描かれる。でも社会問題について直接語るのではない。社会問題のかたわらで語りながら、複雑で繊細な暴力批判の思考のプロセスを小説のことばで表現している。それがファン・ジョンウンの文学の本質ではないだろうか。好き嫌いを超えたところで、強く引き寄せられるものがある。

1月某日 もろさわようこさんの『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)が刊行された。96歳の女性史研究家による、およそ50年前に刊行された著作が新版・新編で、しかも文庫で読むことができるなんて本当にすばらしい。編者は、もろさわさんの取材を長く続ける信濃毎日新聞記者の河原千春さん。増補として沖縄や被差別部落の問題についての論考、河原さんと韓国文学翻訳家の斎藤真理子さんの新たな解説を収録することで、もろさわさんの思想の厚みが表現されている。文庫版の編集には、「いま」という時代に、ふたたびことばを届けるための配慮が随所に感じられた。とてもていねいな本作り。

1月某日 文学フリマ京都に出店するため、京都へ。新型コロナウイルスの感染流行がふたたび拡大しつつある状況、小田原駅から乗車した新幹線「ひかり」にはほとんど乗客がいなかった。窓越しにみえるのは、午後の日差しを浴びる太平洋側の町々ののんびりした風景。そこにあるのが、パンデミック下の世界であるという実感がわかない。

車内で『暮らしの手帖』12-1月号をひらく。巻頭記事は「オリジナルでいこう わたしの手帖 森岡素直さん 中井敦子さん」。よく知るお二人で、自分が編集を担当したホ・ヨンソン詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳、新泉社)の装画を以前、中井さんにお願いしたのだった。記事が紹介するのはある家族のかたち、やわらかな人と人とのつながり。取材・文はライターの桝郷春美さん。心の底から、読んでよかったと思える記事だった。

京都から在来線に乗り換えて、阪急水無瀬駅まで行き、駅前の長谷川書店へ。サウダージ・ブックスの新刊を納品した後、京都で会う約束をしている1歳のおともだちにプレゼントする本を、店主の長谷川さんに選んでもらった。ちいさな誰かのために本を探す時間は、やさしい気持ちになれる時間。「これ!」と思える一冊がみつかって、旅の鞄があたたかい。

1月某日 底冷えを感じて、早朝に目が覚めた。京都・蹴上の林の中、貸し切りの宿舎の机を借りて、編集を担当している詩集の校正刷に終日向き合う。窓の外で冬の風にちいさく揺れる枝をじっと眺めながら、あることばの意味をなんども自分の中で反芻し、確かめる。あいまに、クォン・ヨソン『まだまだという言葉』(斎藤真理子訳、河出書房新社)の読書。読み進めるにつれて、ページを握る親指の圧がぐっと強くなるような小説集だ。

1月某日 京都市勧業館「みやこめっせ」で開催された文学フリマ京都へ。「文フリ」にははじめての出店だったが、よい出会いがたくさんあった。例年参加している人に聞くと、出展者も来場者も3分の1ぐらいではないか、とのこと。ブースに立ち寄ってくれたお客さん一人ひとりと話をしているうちにあっという間に終了時間。サウダージ・ブックスの新刊の装丁を担当してくれた納谷衣美さんたちご一行に会い、1歳のおともだちに絵本のプレゼントを渡すこともできた。とても楽しかったが、ひとりで店番をしていたので、訪ねたいブースを訪ねることもできなかったのが残念。となりに出店していたぽんつく堂さんのZine『個人的な生理のはなし』を購入、巻末に「どうぞ男性も手にとってください」とある。

終了後、あわただしくブースの片付けをして、ごろごろとキャリーケースを引きながら京都・丸太町へ歩いて移動。文フリに来てくれた桝郷春美さんが自転車でさっそうと走る姿をみかける。街の書店・誠光社を訪問し、堀部篤史さんにご挨拶。サウダージ・ブックスの新刊を納品し、店内をゆっくりめぐって京都発の雑誌『NEKKO』2号など数冊購入した。『NEKKO』の特集は「自治はじじむさいか」、表紙はふしはらのじこさんのかぶの絵。

『愛と家事』(創元社)の作家の太田明日香さんと待ち合わせ、誠光社のとなりのカフェItal Gabonでお茶をしながらおしゃべりをした。太田さんが主宰する夜学舎の発行する雑誌『B面の歌を聞け』をサウダージ・ブックスの本と交換。Vol.1の特集は「服の自給を考える」、太田さんが長年関心を寄せてきたテーマだ。

1月某日 京都・蹴上の定宿を出発し、銀閣寺方面のバスに乗車。ホホホ座でも、サウダージ・ブックスの新刊を納品。そして店主・山下賢二さんの『完全版 ガケ書房の頃』(ちくま文庫)を、山下さんの日記『にいぜろにいいちにっき』(ホホホ座浄土寺店)とシール付きのセットで買う。『ガケ書房の頃』は夏葉社版を読んだけど、あらためて。『にいぜろにいいちにっき』には、山下さんの娘さんが韓国へ旅立つ日のことが記されていた。ホホホ座では、そのほか、佐久間裕美子さんの旅のZine『ホピの踊り/沖縄の秘祭』(Sakumag)も購入。K-POP好きの子を持つ親同士、山下さんとひさしぶりにゆっくりお話しできたのが、うれしかった。

歩いて古書・善行堂まで行き、早田リツ子さんの『第一藝文社をさがして』(夏葉社)を購入。店主の山本善行さんの解説付きというところにも惹かれて手に取り、道中で読みはじめたのだが、早田さんの文章がとても好きだ。発見のよろこびを噛みしめるようにして淡々と綴られるある歴史——。1934年、滋賀県大津市で第一芸文社を創業したひとりの出版人のどこかさびしげな肖像が浮き彫りにされていく過程に、どんどん引き込まれてゆく。誠実な本、という印象を受ける。

東京などの大都市ではない地域で暮らしながら、人びとの生活史や女性史を丹念に記録し、伝える。そんな地道で尊い仕事に取り組む在野の作家は、全国各地にきっとたくさんいるのだろう。自分はまだまだ知らないけれど、ここ数年、いくつかのすばらしい本との出会いがある。早田さんの著作もその1冊だ。

ふたたびバスに乗って左京区から上京区に移動。KARAIMO BOOKSのお店の前には、ずいぶんやせたなごり雪の雪だるまがいた。紫色ののれんをくぐり、情報紙『アナキズム』20号、古本で金石範の小説などを購入。同紙には店主の奥田順平さんのエッセイ「カライモブックス開店しています。」が掲載。店内の新刊・韓国文学のコーナーには、韓国語の原著も並んでいるのがうれしい。奥田順平さん、直美さんと、韓国文学のことなどをおしゃべり。「韓国の小説、次は何を読んだらいいでしょうか」と思案顔の直美さんに、チョン・セラン『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)をすすめた。その間も、客足が途切れない。「今日はなんでこんなに人が来るんだろう。おかしいなあ」と順平さんが言っていて、おかしかった。

しばらく京都・二条あたりの町を散策してから、夕方帰路につく。新幹線の車内では編集中の詩集の校正刷に集中。自宅につくやいなや、妻から「ニュースは見たか?」と聞かれる。スマートフォンなどはもたないし、移動中は極力情報を遮断するので「見ていない」と答えると、トンガ諸島で起きた海底噴火のことを教えてもらった。インターネット上で気象衛星が撮影した画像を見て、その規模の大きさにことばを失った。

1月某日 クォン・ヨソン『まだまだという言葉』読了。巻頭の短編小説「知らない領域」の父の苛立ちは、父をやっているものとして身の覚えがあるもので読んでいて痛い。彼の心が囚われている「昼月」、あれはなんだろう。ぼんやりとしたもの、どこか場違いなもの、かすかにしか見えないもの。自分自身のこと、あるいは自分と他者との関係を象徴するものだろうか。来し方も行き先も判然としない感情の渦の中をさまようようにして、短編「爪」「稀薄な心」「向こう」「友達」と読み進める。この不穏な見通しの悪さ、息苦しさはカフカの小説世界に似ていると思ったら、後半の作品でまさにその名が出てきた。W・G・ゼーバルトの名とともに。

1月某日 尊敬する仏教僧であり、アジアの詩人思想家であるティク・ナット・ハンが亡くなった。ベトナム戦争の体験がひとつのはじまりとなった、長い長い平和への祈りの旅。その途上で書かれた多くの著作が日本語に翻訳されている。本を読もう。

私は両手に顔をうずめている
けれど 泣いてはいない
私は両手に顔をうずめている
孤独をあたためようとして——
両手は守る
両手は養う
両手は留める
心が私を
怒りの中におきざりにするのを

——ティク・ナット・ハン「ぬくもりのために」(島田啓介訳『私を本当の名前で呼んでください』より)

「ぬくもりのために」はベトナム生まれのティク・ナット・ハンが《ベン・トレの爆撃の後の、「私たちは、その町を救うために爆撃したのだ」というアメリカの指揮官のコメントを聞いたときに書いた詩》とされる。彼の遺した思想に「慈悲」の実現が見られるとしたら、それは戦争の「無慈悲」をくぐり抜けた上での何かなのだろう。日本語環境に流通する「マインドフルネス」などという底の浅いキャッチコピーには、到底収まり切らないものだと思う。

1月某日 最近、佐久間裕美子さん主宰のSakumagが発行する旅のZineや『We Act!』を追いかけている。というのは、すこし前に『現代思想』2020年10月臨時増刊号の総特集「ブラック・ライヴズ・マター」に佐久間さんが寄稿しているエッセイ「私を守ってきてくれた人たち」を読んで、文章からも内容からも大変な感銘を受けたからだ。

エッセイで語られるのは、佐久間さんが暮らすニューヨークの住宅ビルのオーナーで黒人女性であるミス・バードとの出会いについて。人びとの声を伝える一種の聞き書の作品だと思ったし、それゆえ藤本和子『ブルースだってただの唄』(ちくま文庫)のスピリットを継承する仕事だと感じた。魂のこもった仕事、ことばはこんなふうにして次の時代へと確実に受け渡される。

言葉と本が行ったり来たり(5)『食べるとはどういうことか』

長谷部千彩

八巻美恵さま

明けましておめでとうございます――と言うには遅いけど、旧暦で数えれば今日は一月一日だから、ご挨拶としては間違っていないはず。恭喜發財!

巷ではオミクロン株が猛威を奮っていますが、八巻さんはいかがお過ごしですか。三回目のワクチンは打ちましたか。
私は、今年こそは腰を据えて机に向かい、文章を書こうと考えていたのですが、また映像作品の制作に関わることになり、その準備に落ち着かぬ毎日です。時々ふと、予定変更を重ねる自分は一体どこへ流れていくのかと思ったりもするのですが、同時に先のことなど考えず、行き当たりばったりで流れていったら、どんなところへ辿り着くのか見てみたい気もしています。死ぬときに、いろいろやったなと感じるのか、何もできなかったなと感じるのか。いろいろやったとも思うし、何もできなかったとも思う、その当たりに落ち着くのかなと想像していますが。

先月いただいた八巻さんからのお返事に「最初はあんなにワクワクしたインターネットなのに」という言葉があり、私も、インターネットが登場し、徐々に生活に入り込んでくるのを経験した世代なので、当初のワクワクした感覚を懐かしく思い出しました。「お金をかけずとも」とか「個人でも」とか「自由に」とか、初期のインターネットはそんなイメージを纏っていたように思います。
でも、いまはインターネットが完全にビジネスの場となったと感じるし、すべてが経済に吸収されていくという哀しい現実を見せつけられるもの、私にとっては、巻き込まれないように警戒しながらつきあうものです。それに、特別ユニークな使い方をしているひとも見ないし、人間の創造力って、やっぱりそれほどでもないんだな(納得&苦笑)という感じ。
「お金をかけずに」という部分は、ブログサービスやSNSサービスを無料(もしくは安価)で利用しているから実感できるとはいえ、それもやっぱりサービス提供側のビジネスだし、「自由」においては、みんなで行儀良く区画の中に家を建てて住んでいるぐらいの自由で、はて、それが自由なのか?と思うのです。だからといって、それに抗って、私はインターネットをこう使う!と燃えているわけでもなく、便利に使ってはいるけれど、特に期待もしていない何か、という薄い存在になってしまいました。

さて、ここからは本の話。この二ヶ月は、結構な冊数を読みました。忙しいから全然読めないという時と、忙しさゆえ意地になって何冊も読んでしまう時があるけど、最近は後者。相変わらず硬軟取り混ぜた乱読です。そのうちの一冊が『食べるとはどういうことか』で、これは、著者である農業史研究者・藤原辰史さんが、小学生から高校生まで九人の子供達と行った座談会を収録したもの。
その中で私が感動したのが、「いままで食べた中で一番おいしかったもの」という問いに対する十五才の少年の答えです。
彼の「一番おいしかったもの」は、自分で種を採って育てたトマト。そこで成った実の中で美味しいと感じたトマト個体の種を蒔いて、また成った実の中で美味しかったトマト個体の種を採って蒔いて・・・を繰り返していくと、トマトがどんどん自分好みの味・食感に寄っていく。毎年夏に美味しいトマトが更新されていくというのです。それを小学生の頃から続けて七年目だと。これこそワクワクしませんか。農家の方には常識なのかもしれないけれど、農業経験のない私はパフォーマンスアートでも見るかのような興奮を覚えました。そんな楽しいことができるなんて。私も今年の夏から挑戦したいと思います。
藤原辰史さんの本は、彼の講演を聴く機会があり、面白かったので何冊か買い込みました。友人が、藤原さんの著書だと『ナチス・ドイツの有機農業』が良かった、と言っていたので、次はそれに手をつけようと思っています。

長谷部千彩
2022.2.1

弟とアンドロイドと僕

若松恵子

阪本順治監督の新作映画「弟とアンドロイドと僕」が、1月7日からロードショウ公開された。阪本作品が好きで、新作を楽しみにしてきたが、不意打ちの公開だった。

豊川悦司を主人公に迎えたこの作品が撮影されたのは2019年6月、コロナの影響などで公開まで時間が掛かってしまったようだ。コロナ禍の前に構想された映画ではあるけれど、公開が遅れたことでむしろ、コロナが蔓延する閉塞的な時代に重なる映画になってしまった。「どうやって宣伝したらいいんだ」そんな声が聞こえてきそうだ。ロードショウも2館のみの上映だし、映画のパンフレットも作られていなかった。

「他者と関わりを持てない不安、自分が固い殻に覆われている感覚のようなものは、実は従来のフイルムにも部分的には滲んでいた気がします。でも今回は、その自問自答をあえて映画の軸に据えて、ある種の奇譚、怪異譚に仕立てられないかなと考えた。ある意味、これまでなかったほど私小説的なアプローチに徹した作品だと思います」阪本監督の横顔の写真のそばにそんな言葉が書かれて映画館の壁に掛かっていた。

「奇譚」というのはぴったりだな。私的にいびつで、でも忘れられない印象を残す映画だった。

自分そっくりのアンドロイドをつくる孤独なロボット工学者が主人公だ。彼がアンドロイドを作る目的は明らかにされていない。何かをさせようとしてアンドロイドを作っているわけではなさそうだ。自分にぴったりの友達を求めてのことではないか、いや、そんなセンチメンタルな理由ではなくて、単なる探求心、どこまで人間そっくりに作ることができるか、科学者の力試しなのかもしれない。いずれにせよアンドロイドの制作に夢中になることで、彼は自分の生を支えている。

いつも雨が降っている。古い映画のフイルムの傷のように降りかかる雨の中、傘をささずにレインコートで濡れている豊川悦司がかっこいい。フードをすっぽりかぶり、護送される犯人にも似て。「どこもかしこも雨が降っている『ありえない』状況を見せることで、『リアリティの観点で見るべきではない』というこの映画の見方を示唆するものになればと。」とキネマ旬報のインタビューで阪本監督は語っている。いつも降っている雨、この映画をおとぎ話のように感じさせる理由が、こんなところにもある。

ひとり満足がいくまでアンドロイドを作っていたいのに、主人公の生活に様々な闖入者が登場して仕事は邪魔されてしまう。生きていくには誰とも関わらないというわけにはいかないからだ。そもそも人は人から生まれてくるのだから、どうしても逃れられない親という存在がまず決定的にある。異母兄弟の弟が、世俗にまみれた人間の代表として「僕」の生活に暴力的に入り込んでくる。逃れられない人たちによって思わぬ方に転がっていく物語、それがこの奇譚だともいえる。闖入者自身は、人の生活を壊しているなんてちっとも思っていない。そこにある滑稽さ、おかしみも生まれる。

主人公は、時々自分の右足が自分の足と思えなくて、動かせなくなり、動く方の左足でケンケンするという癖を持っている。「脳の欠損によって、右足を自分の体だと認識することができなくて、こういうことが起こるのだ」と解説するおせっかいな医者が出てくるが、主人公にとってはそんな理由など何の役にも立たない。

豊川悦司を見舞う突然のケンケンが何かの象徴として繰り返し描かれる。身体のちょっとした欠陥、人と違っている部分が理由となって、そのことに躓いて人との距離をつくってしまうという事はあるのだろう。他人にとってはどうでも良いような小さなことが、人と打ち解けられない、一生を左右するような躓きとなるのだ。

阪本監督自身も、自分の胸骨が大きくゆがんでいることが子どもの頃からのコンプレックスだったとキネマ旬報のインタビューで語っている。阪本の「他者と関わりを持てない不安、自分が固い殻に覆われている感覚のようなもの」は肉体のこのコンプレックスから生じたものかもしれない。そんなに単純な因果関係ではないだろうけれど。

この映画は、監督自身がずっと持ってきた「のどに刺さった棘」、ずっと抱いてきたその違和感から紡いだ物語だ。私的な物語を映画にしていく事をOKしたキノフィルム、阪本の頭の中にあったイメージを具体化させて見せた美術スタッフ、生きてみせた俳優によって映画にすることがかなった。キネマ旬報のインタビューで「『のどに刺さった棘は抜けたな』と思います。」と阪本監督は語っている。棘が抜けたのは、ずっと抱えてきた個人的なものが薄まることなく映画というフィクションになったからだろう。

春節に思う~ゴー・ティック・スワン/ハルジョナゴロ氏のこと

冨岡三智

今年は2月1日が春節。1998年にスハルトが退陣し、2000年1月に中国文化禁止令が破棄された。それから22年、今の大学生は華人文化が禁止されていた状況をもう知らないのだなあとしみじみ思う。

春節にちなみ、今回はハルジョナゴロ氏(1931-2008)のことについて少し書き留めておきたい。氏は華人系ジャワ人で、スラカルタ王家から最も高い称号=パヌンバハンを授けられた最初の華人である。一般的には、氏は1957年にスカルノ大統領の下で、インドネシア各地の模様や色を融合させて国を代表するバティック・インドネシアを作り上げたことで知られている。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校からはバティックとクリスの分野におけるウンプーempu(マエストロの意味)に叙せられ、ジャワ芸術の保護発展に尽力した。

2001年8月17日、氏は国からサティヤルンチャナ勲章を受章した。本来なら大統領官邸で授与式に臨むところだが、氏はスラカルタの芸術大学で授与されることを希望して許され、10月13日に大臣がスラカルタに赴いて授与した。実はこの事情については芸大教員・ルストポ氏の著作で知った。ちなみにこの時、私は日本に一時帰国中だったのでこの受賞式には出席していないが、後に氏からその授与式の模様のビデオを頂戴したので、今それを確認しながら書いている。

この授与式でのスピーチにおいて、ハルジョナゴロ氏は、叙勲決定通知書面の宛名はKPT(=カンジェン・パンゲラン・トゥムングン、当時のスラカルタ王家からの称号)ハルジョノ ゴー・ティック・スワンであり、当局の方からは名前を再三確認されたが、二重国籍時の名が「ゴー・ティック・スワン 別名 ハルジョノ」であって一致していること、自分自身はインドネシア国籍の方を選択したが、この時インドネシア国籍を選び別名を名乗った者はごくごく限られていた、と語った。国籍についてだが、これは1960年にインドネシアと中国の間で二重国籍を解消するための条約が批准され、どちらかを選択しなければならなくなったことが背景にある。実は、このスピーチは大臣からの祝辞の後に行われているが、大臣自身はそうは呼ばず従来通り「KPTハルジョナゴロ」と呼び、この映像のサブタイトルもそのようになっている。

これ以降に出された論文や本では―ルストポによる氏の伝記(2008)など―では主としてゴー・ティック・スワンと呼ばれるようになっている。この受章の機会をとらえて二重国籍の話をわざわざ語ったのは、取り戻した華人としてのアイデンティティと、しかしインドネシアのために努力する方を選んだ人生だということを示しておきたかったのだろう。

年の夜で

仲宗根浩

大晦日にジョン・コルトレーンの映画を見る。眠い。マイルス・デイビスの映画を見たときも眠かった。ジャズの映画は眠くなる。でもビリー・ホリデイのドキュメンタリーは眠くならなかった。最後にブルー・トレインが流れて目がさえる。最初に買ったジャズのレコードがこれだったか。アトランティックのものはラジオで流れるのをちょっと聴いたくらいだから中学生の頃こればっかり聴いていたからあたりまえか。

五勤二休の堅気の生活をしていると暦とは関係なく正月から仕事が始まり、三日にはスクールバスが走っているのを出勤時にみてアメリカの学校は始まるのが早いんだ、と今頃気づく。

去年、メールをしても返信が一切来ない近藤さんとLineでつながり、一月の半ばに平井さんが亡くなったと連絡が来る。肺炎を患っていたと聞いたのは八月か九月頃、昔の弟子仲間から。沢井門下である期間にいたものは渋谷のアートフロントプロデュースの事務所に先生の用事で行ったり、そのあとは中目黒のコレクタの事務所でアルバイトをして臨時収入を得ていた。結婚したあと食い扶持を心配したのであろう一恵先生からコレクタに行くように言われ、吉原すみれさんの楽器セットのアルバイトをするようになった。それからいきなり舞台監督をやらされ、田川律さんの下につくようになり音響、照明の人とチームのように動くようになった。学生時代からお筝屋さんのアルバイトで舞台装置、道具の事は知っていたがいきなりの責任ある立場を任されて、なんとか事故など起きないようひやひやしながら。
北九州の響ホールの音楽監督だった数住岸子さん、杮落としと翌年の音楽祭を手伝い、サルドノ・クスモの響ホール公演の舞台監督をやらせてもらった。それから筝の演奏会の裏方、たまに師匠の後ろで演奏し、舞台監督をしたりするようになった。
色々あり、やくざな生活から足を洗い大手CDショップの定職に就き子供を授かり、父親が亡くなったことで沖縄に戻った。戻った時にしばらくして平井さんから数住岸子さんが亡くなったとメールが来たのが最後のやりとりで、そのあとささいな意見の違いで一切連絡をとらなくなった。五年くらいの仕事の付き合いしかないけれどかなり濃密な時間だった。

しもた屋之噺(240)

杉山洋一

フランクフルトから乗り込んだ羽田行の機内は、愕くほど閑散としています。去年、日本に戻った頃は、オリンピックやらパラリンピックがあって、往来も随分活発だったのでしょう。外国人の入国も止められているのですから、仕方がありません。低く立ち籠める黒ずんだ雲のせいか、フランクフルト空港の滑走路もどこか寂し気に見えました。

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1月某日 ミラノ自宅
年末年始はただ仕事だけしていて、父子生活に於いては全く変化がない。
大晦日の夜半、寝かかった頃に、響き渡る花火の音で目を覚ました。久しぶりにミラノで年を越したが、何時ものように花火があちこちから打ちあがっていて、そのまにまに、赤く明滅する沢山のドローンがゆっくりとたゆたっていた。
こちらはすぐに寝てしまったが、息子は午前2時過ぎまで花火を見たり、友達とやりとりしていて、寝不足にて年始は一日不機嫌。
息子と二人で過ごした年始は、殆ど正月らしいこともしてやれなかった。本来、大根とはんば海苔だけのすっきりした雑煮を食べるところ、はんば海苔は仕方がないが、大根を探しに出かける時間もなくて、味噌仕立ての野菜のごった煮に餅をいれ、雑煮の代替とさせてもらう。こんな正月は初めてだ。

1月某日 ミラノ自宅
クリスマスカード、年賀状を多少でも日本の親戚に送ろうと思ったが、イタリアから日本の航空郵便が止まっているので、電話にする。カードの方が喜ばれると思っていたが、実際声を聞いて話込むのも良いものだ。まるで自分が小学生だったころのように、おばさんたちと他愛もない四方山話に花を咲かせる。日本でも、ヨーロッパ、イタリアの感染拡大は大々的に報道されていて、誰からもひどく気の毒がられる。
明後日に3回目接種を控えていて、それ以降副反応でどれだけ仕事が出来るかわからない。可能な限り仕事を進ませておきたい。

1月某日 ミラノ自宅
朝、自転車でガンバラ駅隣にある、トリブルツィオ養老病院に出向き、ワクチン3回目接種。感染爆発が酷いのでどれだけ混んでいるかと思いきや、殆ど待つこともなく済んでしまった。医者から今まで受けたワクチンの種類を尋ねられ、アストラゼネカとファイザーだと答えると、今回はモデルナだから三種の神器でもう怖いものなし、と太鼓判を押される。
ロンバルディア州は昨日からイエローゾーンになり、喫茶店のグリーンパスチェックも厳しくなった。イタリアの新感染者数は170844人で、死亡者259人。陽性率13,9%。前日の死亡者数は140人だから、かなり急激に死亡者が増加した。今まで繰り返してきた、あの重苦しい感覚を思い出す。感染者が増え、重傷者がそれを追ってきて、そして最後に死亡者たちが、我々の頭上を夜の帳で覆いつくす。感染が収束しても、死亡者はしばらく高止まりが続く。

BBC放送を聞きながら譜割りをしていると、専門家が世界中が協力して今年上半期までにワクチンを打たなければ、これからも我々はずっと新変異株に悩まされ続ける、と話していた。
恐らく、何時かは人間がこの感染症に打ち克つと信じているが、万が一それに失敗したなら、地球上から人間だけがすっぽりと抜け落ち、空気は澄んでゆき、温暖化も収まり、動物たちが新しい繁栄を遂げるのだろう。その時、我々が残した遺構を誰が発見し、解読するのだろうか。
どこかの時点で、世を捨て森に入った少人数の部族が、言葉も文明も失いながら細々の生き延びて、何時しか我々の社会を末端を、偶然見出すかも知れない。尤も、電力がなければ、何も読み取れないかもしれないが。
そうして、彼らは又新しい人間社会を構築してゆくのかもしれないし、その頃には人間より優れた知能が、どこかに誕生しているかもしれない。
そんな新しい「地球」に於いて、「音楽」は何某かの意味を持ち続けられるのだろうか。

1月某日 ミラノ自宅
ワクチン3回目接種後、発熱なし。多少腕に疼痛が残るが、想像より遥かに症状は軽い。
昨日、ミラノの北部鉄道は感染拡大により170人の運転士不足で300便運休。ミラノ市地下鉄バスは、350人病欠により減便。まだ学校再開前だと言うのに、既に街は機能していない。
マリゼルラに誕生日祝いを書き送ると、腰を打ってしまって骨折したという。慌てて電話をするが、想像以上の痛みだそうで、こういう友達からの沢山の励ましが何よりの薬よ、と話していた。
堺のFさんからメールをいただく。
「川口さんの奏でる調べと共に、今といういろんな意味で大変な時、旅路を、聴きながら歩みました。私は時折聞こえてくるリストのメロディが、あの鐘の音へ誘うピーターパンのティンカーベルの羽の音のように聞こえました。父の他界の際に、杉山さんにおしえていただき何度も何度も耳にを澄まして聴いた曲なのでとても印象に残っていて、自分の旅路のはずが、いつしか父の旅路のようにも感じられました」。

1月某日 ミラノ自宅
今日より市立音楽院授業再開。2月1日よりスーパーグリーンパスがなければ大学の授業はできなくなる。Mより、2月1日より学校で働けなくなる、と連絡あり。何故これほど意固地になるのか、良くわからないが、理由はそれぞれ少しずつ違うのかもしれない。No Vaxの人たちも、各個人はとても善良で真面目に違いないのだから、職場はおろか地下鉄にもバスにも乗れず、美容院にも行けず、食堂に足を踏みこむことすら許されない生活を、何の理由もなく、わざわざ望むはずがない。Y先生の新作遂に完成。

1月某日 ミラノ自宅
久しぶりの国立音楽院オーケストラの仕事が始まった。偶然にもコンサートミストレスのサラは息子と一緒に小学生の頃から劇場の合唱団で歌っていたからよく知っている。
前回の国立音楽院のオーケストラには、彼女の姉のソフィアがチェロを弾いていた。普段リハーサルで言語化することのない注文を、一つ一つ敢えて口に出して、説明しながら音を紡ぐ。低音の愉悦に、旋律が耳を傾け、その合間に、内声部が自らを滑り込ませてゆく。特に、モーツァルトのフルート、ハープの二楽章冒頭では、何度か様々な音を試した。
初めは穢れなき透き通った美しすぎる音だったが、敢えて、よりくぐもった、さまざまな複雑な感情の襞の絡んだ人間の声を望むと、不思議なもので、少しずつ音が変わってくる。弾いている彼らの顔つきも変わってくる。
会場で練習を聴いていたA曰く、聴きながら少し涙ぐんでしまったそうだ。皆それぞれに思うところがあって、こんな毎日のなか、それぞれ人生に疲弊しているのかもしれない。
あちこちのパートに感染者が続出し、その度に演奏者を入れ換えるから、裏方は大変な思いをしているに違いないが、自分はこの若者たちから、沢山の大切な事象を学んだ。
新鮮な体験でもあったし、自らの脳裏をあらためて整頓する作業でもあった。いつも大雑把に暮らしていることを痛感し大いに反省させられながらも、我々の社会において、やはり音楽は生き残ってほしいと思った。
休憩中家人より電話があり、平井さんの訃報を知る。帰り路、ジョルジアの前の大きな教会を通りかかると、夕暮れに、がらんがらんと荘厳な晩鐘をついている。

1月某日 ミラノ自宅
昨日朝8時前にトリブルツィオ養老病院に出かけ、息子のワクチン3回目接種。実は彼は注射が本当に苦手でとても緊張していた。息子は3回全てファイザー社製ワクチンを接種。未成年へのファイザー接種を優先するため、我々はモデルナを打つ。現在微熱で、解熱剤を与えるほどではなく、腕に疼痛。
平井さんから最後に届いたメールは12月31日で、ご自宅の住所を伝える簡単なメッセージだった。その前27日には、「お二人に深謝。編集していない本番録音は、一刻も早く」とメールをいただいていた。平井さんらしい、メッセージだった。
平井さんからご紹介にあずかり、フォルテピアノの川口さんに新作を書いたばかりだったが、あんな曲を書いた自分がいけなかったのでは、と落胆する思いばかりが身体に纏わりつく。
昨年の6月末、原題「Addio ai monti」をどう邦訳するか悩んで、結局「山への別れ」とするとお伝えすると、「素晴らしいタイトルですね。ありがとうございました」とだけお返事をいただいた。あのとき、すこし妙な胸騒ぎがしたが、気のせいだと思っていた。

1月某日 ミラノ自宅
町田の母に電話をすると、従兄の操さんから電話があったと言う。操さんは、母の誕生後、数日で亡くなった実父の兄の息子だが、操さんは知る由もないものの、奇しくも今日は母の実母の命日だった。目は不自由だが明るく闊達で生命力に溢れていて、目が見えているようにしか感じられない。超能力でも使えるのかしら、と内心おもっている。
チューリッヒで仕事をしているティートから電話があり、2月23日イラリアの誕生日に「河のほとりで」と「山への別れ」を演奏したい、と言う。2月20日に6日間だけ、試験をやりにミラノに戻る予定だが、偶然にも23日だけ試験がなかった。奇妙なこともあるものだ。

1月某日 ミラノ自宅
2年ぶりにフェラーリ邸で週末のプライベートレッスンをした。当時と全く何も変わっていない。そこだけ時間が止まったままで、不思議な感覚に襲われる。生徒もピアニストもフェラーリも皆2年前のまま、違うのは皆律儀にFFP2マスクをしているところくらいか。
2年前、武漢で始まったCovid 19がイタリアに上陸したところでレッスンは中断され、高齢のフェラーリを慮って、2年間そのままになっていたが、音楽を愛する建築家にとって、自分の家から音楽が消えたのは耐えられないと、彼の方からレッスン再開を要望してきた。この2年間で彼は2回Covidに感染し、そのうち1回はある程度酷い状況に陥った。今日来るはずだった7人の生徒のうち半数が、発熱や濃厚接触者の自宅待機、旅行不能で来られなかった。

1月某日 ミラノ自宅
この所しばしば思うのだが、兎も角元気で生きていれば、後はさほど大きな問題ではないのかも知れない。現在の世情を鑑みれば、息子たちの将来に不安が過るのは仕方がないが、それでも元気でさえいてくれれば、それだけで有難いと思う。
平井さんには本当にお世話になった。お世話になった分に比べて、こちらは全く恩を返せなかった。知り合ったばかりの頃、世の中の人はあなたよりずっと忙しいのだから、届いたメールは24時間以内には返事をしないといけない、とお説教を受けて以来、最後まで励まし続けて下さった。
まあ、もう随分お手伝いしたからいいでしょう、杉山さん、後は自分で頑張んなさい、そう言われている気がする。同じように感じている人は、世の中に沢山いるに違いない。他人のことは沢山綴っていらしたけれど、波乱万丈のご自分の人生について、殆ど文章に残されなかった。最後に直接お目にかかったのは、今から1年前、悠治さんの3回目の作品演奏会だったが、今でも、メールを差上げれれば、平井さんらしい、簡潔なお返事がすぐ届くような気がする。でも、何もお返事頂けなかったらショックだから、お便りする勇気がない。

1月某日 ミラノ自宅
毎日朝10時から夜8時半まで、オンラインで授業をしている。2月にやるはずの授業を前倒しして詰め込んでいるが、集中してやると見えてくるものも多い。
最近、学生に次のように説明して、非常に好評を得ているので、忘れないよう書留めておく。
自分の裡には、二人の人物がいる。一人は自分自身で、彼は社会に関わり、論理的に思索し、作業をする。もう一人は無意識の自分の分身(alter ego)で、彼は、直感的にものを捉える傾向があるから、非常に豊かな表現に長けるけれど、論理的でないから、勘違いしがちである。
ともすると、我々は自分自身と分身の棲み分けが上手に出来ない場合があって、そうすると、自分自身よりも、分身の方が優位に立つことになる。すると、我々の思考や思索は、分身に乗っ取られてしまう。
せめて対等の立場を目指すべきだが、我々演奏家などは、恐らく自身が6割で、分身が4割、もしかすると自身が7割で分身が3割くらいを目指す方が、舞台上でやるべきことが明確になるのではないか。恐怖に駆られて、何もわからなくなってしまう、などこの典型だ。
大脳生理学でどういわれているのか専門的な見解は皆目知らないが、我々音楽家に関していえば、頭の前と後ろで二つの人格を棲み分けるつもりでいると感覚的に分かりやすい。ちょうど耳はその真ん中にあるのだが、面白いもので、絶対に同時に両方の人格の聴覚を司ることは出来ない仕組みになっている。
頭の後ろ半分、つまり何となく頭の奥で音を聴いている感覚の時は、それは分身が脳の中で作り出した音を聴いている状態であって、外で鳴っている音とは実際あまり関係がなく、脳も外とは何ら関係を生み出していない。もちろん、外で聴こえている音と合致する場合もあるだろうけれど、それは感覚的に捉えているだけで、その音に具体的に自らが働きかけることはできない。
本人にとって、確かにその外界と関係ない音は聴こえているのだが、それは外から聴こえているのではなく、裡から自らが発している音を、まるで外から聴こえていると勘違いしているに過ぎない。
だから、敢えて耳を使わずに、常に頭の前半分から先の部分、例えば視覚などを使って、音を意識的に前方に投影することで、頭の後ろの分身に引っ張られそうになる音を、前に押しとどめておく。
音を聴くとき、どうかしらと自らに問い質すのもいけない。その隙に分身がお節介を焼いて、我々の耳を誑かしてしまうからだ。
最初から最後まで、頭の前半分と視覚だけを使って、自らの思索で音を紡ぎ続ける。指揮などその最たるものに違いない。何しろ自ら全く音を発せないのだから。
音を聴く行為は、あくまでも無理を強いるものであってはいけない。根本的に音を聴く行為は、少なくとも音楽に関する上に於いては、何らかの喜びがそこに介在すべきではないか。喜びを感じずに聴くと、根本的に音楽として成立がむつかしいだろう。

1月某日 ミラノ自宅
息子の眩暈が酷く、ベッドから起き上がれない。感染爆発の最中にある現在の世情では、誰かに彼の看病を頼める状況にはない。このまま体調が戻らなければ、彼を一人で放って日本に発つことは出来ないだろうが、それも仕方ないと腹を括った。彼が入院していた頃を思い起こせば、何という事はない。もう仕事は頂けないかもしれないが、学校などでなんとか食い繋げばいい。そう思うと急にすっきりした。もう昔のように、先が見通せる時代ではなくなってしまった。

1月某日 ミラノ自宅
マルチェロより、ワクチン反対派のMが2月以降も指揮クラスで働けるようになった、との連絡。大学卒業課程から外れた課程で指揮を教えているのが幸いした。彼女に早速連絡すると「物凄く嬉しい。いや、そんな言い方よりも、もっとずっとずっと嬉しい」、と何だか憑き物が取れたような、落ち着いた、柔らかい声が電話口から聴こえてきた。
ヴィオラの般若さんに、ティートからのお願いを伝える。
「私はこの曲を演奏する度、自ずと彼女を思うのですが、亡くなってからの出会いもあるのだとしみじみ感じています」。

1月某日 ミラノ自宅
朝7時、息子には生姜焼きをつくり、自分には豆腐と野菜を炒めて弁当箱に詰め、学校へでかける。
教室では既にジェノヴァから来たマルティーナとピアノのエレオノーラが待っていたが、もう一人のピアニストのMがくる気配がない。気を揉んでいるところにMの婚約者から電話があって、彼女はPCR検査で引っかかり、再検査のため学校近くの薬局に並んでいると言う。ワクチン反対派のMは、48時間ごとにPCR検査の陰性証明を提出して、1月末までは学校で仕事が許可されるグリーンパスが発行してもらっていた。
彼女に電話をしても通じず、「今は気分が酷くて、到底話せる状況じゃないの。ごめんなさい」とメッセージが届いた。それでも何とかレッスンを続けていると、昼前になって、事務局のシルヴァーナが慌てて教室に駆け込んできた。入口にMが居座り泣きじゃくっているが、どうしようもないと言う。代りのピアノを弾いてくれていたマルチェロと二人で降りてゆくと、果たして入口の机に突っ伏して、Mが3歳の少女のようにさめざめと泣いている。「大丈夫かい」と声を掛けた瞬間、糸が切れたように、突然ギャアともキェとも言えない奇声を発して、石床に大の字に伸びてしまった。
ひきつけのように躰を硬直させて余りに大声で叫び続けるものだから、学校中から人が集まってきたが、皆遠巻きにして、憐憫の眼差しを落とすばかりだった。
3人がかりで何とか彼女を抱き上げて、事務局の椅子に座らせるのに15分はかかっただろうか。先に電話をもらった婚約者に電話をして、迎えにきてもらうことになったが、彼がいなければ、救急車を呼ぶところだった。
彼女の野太い断末魔の叫び声はいつまでも耳から離れず、こちらの精気まですっかり抜き取られたようであった。一日中その声に打ちのめされていたが、夜になって、何とも言えない怒りが沸々と湧いてきた。誰に対してでもない、無力な自分たちに対しての怒りかもしれないし、パンデミックへのやりどころのない怒りだったのかも知れない。
我々はどこへ行こうとしているのか。Mは何故そこまでして意固地になっているのか。何故我々はワクチン反対派をそこまでしてつるし上げ、社会から疎外しなければいけならないのか。
Mからすれば、No Vaxは人権蹂躙を糾弾する天命なのだろうが、この感染爆発中、旅費と時間を費やして、ジェノヴァやトリノ、果ては遥々ウィーンからやってきた生徒たちに対して、何と説明すればよいのか。
尤も、Mからすれば、彼女の人生は48時間毎に区切られているようなものに違いない。48時間以上先の彼女の人生は、現在恐らく何も見えないはずだ。どれだけの緊張を強いられて日々生活しているかは想像に難くない。到底自分の生活以外顧みられる状況にはないのだろう。
彼女と同じように、48時間毎のぎりぎりの日常を送る人々が、ミラノの街中の薬局でPCR検査をするべく早朝から夜まで長い行列を成している。

1月某日 ミラノ自宅
Mが学校の石造りの床に放心状態で身を投げ出したとき、集まってきた同僚たちの様子もまた、何とも言えないものであった。憐れんでいるようでもあり、蔑んでいるようにも見えた。Mは自分は犬以下の存在だ、と公言して憚らない。犬は未接種でも喫茶店にもレストランにも入れるが、自分は拒否されると言う。2日毎に陰性証明を出してワクチン接種者よりもずっと安全なはずなのに、わたしは、病原菌の塊りみたいな扱いを受けている、という。そんな存在でありながら、もし彼女が実際に感染してしまえば、状況は途端に逆になる。快復した証明書でスーパーグリーンパスが発行され、突然人並みの生活が営めるようになるのである。実際、先日罹患した生徒は、今は寧ろ強気でいられる、妙な感じだと言っていた。
そんな混沌とした中にあって、結局Mはまだ陰性だった。だが、SMSで国から送られてくるはずの陰性証明がなかなか届かず、学校の玄関で泣きじゃくり、絶望し、破綻してしまった。本当に気の毒ではあったが、ただ、自分は高い授業料を払って学校へ通ってくる生徒たちを優先に考えざるを得ない、とも思う。これからどうなるのか全く分からないし、自分がどうすべきなのかも、良く分からない。
社会の分断は、確実に一線を越えてしまった。昔のように、好く回る油のさされた社会の歯車はもう戻らない。逆に言えば、今まで見えていなかった綻びが、この機会に全て炙り出されて、白日の下に姿を晒しただけかもしれない。我々が見たくなかったものに、否が応でも対峙せざるを得ない状況に置かれているだけなのかもしれない。
ロンバルディア州の感染拡大は確実に下降傾向へ近づいている、オレンジゾーンにはしない、経済は止めない、とミラノ市長が強気の発言。つい先日まで毎日イタリアの死亡者数は400人を超えていたのだが。

1月某日 ミラノ自宅
Mからメッセージが来て「もうずっと前から戦い続けてきたの」と書いてある。それに対し、「自分はずっと負け続けてきたから、未だに何とかイタリアで生き延びているのだと思う。もし身体的な理由でワクチンが打てないのなら、その証明書を作るべきだし、そうでないのなら、柔良く剛を制す、せめて負けたふりをしたらどうか」と返事した。
しかしながら、Mからは続いて、「今、われわれが立ち上がらなければ、絶対に後悔するわ、永遠に自由が失われるのよ」、と頑なな長い文章が送られてきて、返答に窮した。
人権蹂躙とワクチンは、ある程度別問題として考えなければ、これから先どうやってゆくつもりなのか。
やはりこの国のこうした権力観の強靭さを見るにつけ、過去のある時期、ムッソリーニのような政治家が現れ、それを迎え入れる大衆も存在し、それを倒すべく内戦を繰り広げた、パルチザンの生まれた国であったのを思いだす。
敗戦後、我々日本人は彼らとは全く違う形で現在まで歩んできたように見える。尤も、イタリアは敗戦国ではなく、正確には戦勝国なのだけれど。

1月某日 ミラノ自宅
昨日は朝6時に自転車を飛ばしてインガンニ駅の裏にあるCDIでPCR検査を受ける。帰りに新聞を買いに寄ったキオスクで、思いがけず、息子の小学校時代の親友、グリエルモのお母さんに再会。互いに、目深く帽子をかぶり、マスクで顔の半分は覆われているから、誰だかさっぱり分からない、と二人で笑う。
10時から遠隔授業が始まるが、家から授業が出来るのは本当に助かる。庭を訪れる鳥を眺めながら、授業が出来るのも精神衛生上とてもよい。この所、赤い腹をした5センチほどの小鳥が、こちらが朝クルミを出すのをずっと待っている。今朝は、久しぶりに顕れたキツツキが、嘴で樹を軽くつつきながら、上からゆっくり降りてきた。しばしば15センチくらいの、見事な緑色のインコだかオウムのような鳥も現れるのだが、どこからか逃げだして野生化したのか。見かけによらず逞しそうに見える。
こんな毎日を積み束ねていきながら、前向きになろうする気持ちと、困憊し疲弊しきった精神が、一日の間に何度も入れ替わり交互に訪れる。夕刻、CDIから陰性証明が届く。

1月某日 フランクフルト行機内
タクシーは朝の7時45分に呼んであって、7時半頃息子は眠そうに起きてきた。多少不安げにも見えるが、大丈夫だろう。
リナーテ空港での搭乗手続きは思いの外簡単に済んだ。あとは無事に日本で仕事ができて、予定通りイタリアに戻れるよう祈るばかりだ。
快晴のミラノ上空、左手後方に、小さく中央駅をみる。そのずっと奥、我が家の方向をじっと見つめる。ひときわ高い建物があるから、あのあたりかも知れない。
マッタレルラ再選決定。イタリア国民の期待に応える、とある。マッタレルラのスピーチを新聞で読んで、涙がこぼれそうになった。感動したからだろうか。それとも2年前から今までの時間を、無意識に想い返したからだろうか。
最近、時世のせいか、音楽をするのは「希望」を表現するためのように感じられる。特定の誰かへの「希望」ではなく、「希望」そのものを顕すため、「希望」そのものを消し去らぬため、我々が「希望」を失い枯渇しないため、音楽をやっている気がする。
音楽など社会には全く必要ないが、しかし音楽がない人生を我々が歩むことなど、出来るのだろうか。
一面純白の雪を頂くアルプスが、真っ青な空と耀く朝日に映える。

(1月31日 羽田行機中にて)

かろみ、しなり、そして…

高橋悠治

1月の終わりに、山田うんの『ストラヴィンスキー・プログラム」で、『5本指』(1921) と『ピアノ・ソナタ』(1924) をソロで、『春の祭典』を青柳いづみこと連弾で弾いた、弾いているとダンスは見えない。いつも見えると、楽器に触る手の動きと踊りの身振りを別な時間にするのがむつかしくなる。「垣間見る」のがよいのかもしれない。眼と手のずれは、ストラヴィンスキーが言う「踊りと音楽の対位法」で、なめらかな流れに波を立てる。手からいうと、意のままに操る音の重さにしばられない、思いがけない「かろみ(芭蕉)」で、音が発見であるように、「印象が表現である馬 (Clarice Lispector) 」。

楽譜を見ながら弾いているとき、知っていると思っていた音楽を、初めて見るようにはできないが、指の手順を躓かない程度に覚えて、眼で見てから手が動く時間を一定の拍から前後に外すことはできるだろう。そのリズムを作るのは、身体を囲む空間、そこに感じる気配との対話かもしれない。かすかな空気の変化が音と絡まって、意識以前に手が動いている、表現の重みなしに。

意味や感情、わかりきった感覚のパターンから離れて宙吊りになっている響き、そのときは指も垂れ下がって、さぐりながら一歩ずつキーからキーへ歩いている。

響きは、音の記憶とも言えるだろうか。手が楽器に触れて出す音は、瞬間に過ぎて帰らないノイズ。だが余韻は音の感じがする。まとまった響きがばらばらになって、それぞれに静まる成り行きに聞き入るのはどんなものか。

手を動かすと言うより、なかばまどろみつつ、動かされている手を見ているような、できれば見ないでも、感触がおのずから動きを続けていくような…

一歩が次の一歩の踏み出しを決める。楽譜があれば、どこに行くかは決まっている。リズムが書かれていれば、おおよその時間も決まっている。かえってそのような限定の内側で、意図もなく思いもなく起こるできごとの、ちいさな揺れ。踏み込み、ためらいが撓(しな)りとなって、撓り、押したり撓めて撓うのでなく、緩めたり緩んで撓うのでもなく、…

ゆらぎ散っていく気づかないこの瞬間の闇 (Ernst Bloch) を残しておく、次の発見のために。石田秀美は「移ろう音の風景に埋もれ、響の縁をさまよう」と書いていた。どうしてこんなことばで書けるのか、…