どうよう みっつ

小沼純一

きたことがある
しっている
どうしてかわからないけど
たぶんまえ
ずっとまえ

大きな広場
ひだりに彫像
みぎに噴水
むこうとこっち
あっちとそっち
みちがはしって
あいだはみせ
カフェ かべ みせ みせ

おぼえてるみちだった
いけばわかる わかるはず
いくとなんだかちがってた
おぼえがない みおぼえない
しらないここで
とほうにくれる

そうね
知ってる
あなたも きっと
わたしはきのうここにきた
あなたといっしょ
わたしたち

ゆめがたたかう
きみの わたしの
かちまけつかない
つくことあるか
わからない
さめれば
なくなる
ゆめ ゆめのたたかい

めざめて おぼえてない
おぼえてるのは
もらすひとこと
もらすふたこと
きこえておきたら
きこえてこたえたら
かち それとも まけ
きめてない
きめてないから
おわらない
ゆめ ゆめのたたかい

ふって
ふってくる
あめ ゆき ほこり
は はな かれは

ふって
ふってくる
しせん におい おと
はきけ めまい みみなり

ふって
ふってくる
ふけて くる
ひと はか はかり
はかい しに

バスを降りる。

植松眞人

 人間にはバスに乗る者と乗らない者がいる。そして、バスに乗る者は毎日のように乗り、乗らない者はめったに乗らない。そして、それは好き嫌いに関係なく住んでいる土地によって縛られることが多い。
 バスは不便だ。鉄道のように専用の通路があるわけではない。自動車の通行量が増えると図体のでかいバスは行く手を阻まれて運行時間がどんどん遅れていく。時には十分、二十分と予定時刻を過ぎてもバス停に待たされることがある。また、郊外になるとバスの本数そのものが少なく、一時間に一本あれば御の字ということだってある。
 だから、多くの人はバスに乗るくらいなら、とマイカーに乗ったり自転車に乗ったりする。しかし、マイカーは財力がないと乗れないし、自転車は体力がないと乗れない。結果、バスの中は年寄りが多くなる。
 さて、年寄りが多くなると、座席の重要性が問題になってくる。そう、すべての座席が優先座席となり、乗り込んでくる年寄りを見て見ぬ振りをすることが難しくなるのである。ただし、どんなに若くても揺れるバスの中で立っていたい、と思うものは稀だ。出来ることなら座りたい。しかも、見ず知らずの他人が隣に座るよりも、一人でゆったり座りたい、と願う。
 私はバスに乗る側の人間だが、私が普段乗っている市バスも例に漏れず年寄りが多く乗ってくる。しかし、都心に仕事で通う人も多い土地柄なので若い人がいないわけではない。時間帯によっては年寄り九割ということもある。私はそろそろ還暦を迎えるのだが、年寄りとくくられるほどには耄碌していない。この間も試しにつり革を持ったふりだけをして、つり革に手を触れないままで二つほどのバス停に到着するまで立ったままバスに乗車してみた。電車と違ってバスはよく揺れる。その中を立ったまま過ごすのはなかなかに難しい。しかし、私はそれをやってのけたのだ。つまり、私はそこそこ歳だが、そこそこバランス感覚もいいし足腰もしなやかで強い、ということになる。
 それでも、座りたいのだ。それなのに、明らかに私よりも若く、明らかに馬鹿そうに見える男が私の目の前にある二人がけの座席のど真ん中に一人で座っている。そして、スマホを横に持ちゲームに興じている。
 これが年寄りならゆるしてやる。社会の常識を知らなくても、間もなく逝ってしまうのだから、今さら私から言ってあげることはなにもない。しかし、目の前の男はまだ四十代とおぼしき生々しさと脂っこさが見てとれる。なんなら、実際に脂臭い体臭がする。こんな奴をのさばらしておいてはいけない、と私は考え、思い、ほぼ条件反射的に言葉を発してしまう。
「申し訳ないのですが、奥に詰めてもらえますか」
 私がそう言うと、男はちらりと私を見て無視をしたのであった。大の大人が、大の大人に声をかけているのに無視をされるという状況を上手く飲み込めずに、私はもう一度声を出す。
「奥に詰めてもらうことはできますか?」
 すると、男はやけにはっきりとした声で返事をする。
「いやです」
 その声はおそらくバスの真ん中あたりに座っていたすべての乗客に伝わるほどのはっきりとしたものだった。私はそう言ったまま再びスマホゲームに見入って顔も上げない男をしばらくの間眺めていたのだが、不意に男の姿が滲んだことに気付いた。私は泣いていたのだった。なぜ泣いているのか、私にはわからなかった。理由もわからないまま泣くとき、人は泣いていることになかなか気付けないものなのかもしれない。
 ちょうどバスがバス停に着いた。降りるバス停ではなかったし、誰も降車ボタンを押していなかったのだが、降車口に向かった私を察した運転手が降車口のドアを開けた。私は素早く降りた。降りたバス停は小さな小川のほとりにあった。(了)

製本かい摘みましては(174)

四釜裕子

コロナ禍で始めた「東京水際二万歩次」、最初は「一万歩」だった。自宅から何かしらの水際をたどってほうぼうへ歩く。途中お店で休憩することもできない日帰りの散歩なので、せいぜい一回一万歩だった。それから徐々に電車に乗るようになり、店で休むこともありになり、今も続いていて四万歩を超えることもある。歩いたところをGPSで記録したこともあったけど、あとで地図を見ながら道をたどるほうが断然楽しく、しかしこんなに長く続くとは思っていなかったので、あとさきを考えずその都度適当な倍率で地図をプリントして塗り塗りしてきたので、収集がつかなくてちょっと困っている。

2020年の初夏には旧江戸川沿いを歩いた。JR浦安駅からディズニーリーゾトラインに乗り換え、リゾートゲートウェイ・ステーションから東京ディズニーランド・ステーションまで、ひとステーション乗ってみた。閉館中で客のいないランドの周りを海岸線にそって一周し、旧江戸川へ。川沿いを上ると、ほどなくしていい感じの船だまりがあった。さらに歩くと小さな水門、猫実五丁目、橋の手前の船宿には、大きく「山本周五郎著『青べか物語』」の文字。ん、ここが青べかの舞台なの? 本で地図で見ていたあの場所に、行き着いてしまった。

……みたいなのが、この散歩の楽しみでもある。最近では利根川への合流地点から鬼怒川沿いを歩き継いでいたとき。携帯に電話が入り、長話になりそうなのでちょっと脇にそれたらば、なんとそこは「真景累ヶ淵」のお塁の墓がある法蔵寺だった! 手を合わせて、新吉が江戸の根津から連れ逃げてきたお久を殺めた土手ってこのあたりなのかなと、裏に回って土手に出てみる。木陰で青空文庫の「真景累ヶ淵」を開いてその場面を確かめる。

〈と下りようとすると、土手の上からツル/\と滑って、お久が膝を突くと、久「ア痛タヽヽ」 新「何うした」 久「新吉さん、今石の上か何かへ膝を突いて痛いから早く見ておくんなさいよ」 新「どう/″\、おゝ/\大層血が出る、何うしたんだ、何の上へ転んだ、石かえ」と手を遣ると草苅鎌。田舎では、草苅に小さい子や何かゞ秣を苅りに出て、帰り掛に草の中へ標に鎌を突込んで置いて帰り、翌日来て、其処から其の鎌を出して草を苅る事があるもので、大かた草苅が置いて行った鎌でございましょう。お久は其の上へ転んで、ズブリ膝の下へ鎌の先が這入ったから、夥しく血が流れる〉

ただ読むとなんてことないんだけど、この草刈鎌が登場するところがいいんだな。新吉がこの鎌でお久を殺めてしまうと、あたり一帯に雨が降り雷が鳴り響く。それを藪の中から見ていたのが地元の悪漢・甚藏で、そしてこの男が……と話は続く。われわれがこの土手にいる間は雨もなし雷もなし。そして藪ごしに見た鬼怒川には、小さな舟で気持ちよさそうに糸を垂らす男の人がいた。

とまあ、青空文庫にはこんなふうにもお世話になっているわけだが、先月、ブログの書籍化サービスをするMyBookから「青空文庫も本にできるようになりました」と案内が届いた。私はここで、自分のブログを何度かに分けてプリントしている。いずれブログサービスもなくなるだろうから、バックアップのつもりで自分用に一冊ずつ。〈Mybooks.jpにログインして、上部ナビの「+新しく作る」から「青空文庫を本にする」を選んでください。(中略)5作品までをまとめることが可能です。(表紙等含め480ページ以内)〉。本にできない作品があること、著作権が存続している作品があることなどなど、細かな注意書きもある。岩波文庫版『真景累ヶ淵』は解説抜きで464ページ。MyBookで文庫本サイズにするならば、マックスでだいたいこんな見当になるだろうか。

今見たら青空文庫には山本周五郎の『青べか物語』もあった。こちらは初出が「文藝春秋」の1960年1月号から。川島雄三が『青べか物語』を撮ったのは1962年だから結構早いような気がする。実際にこの場所を訪ねたあとに改めてこの映画を見たときは、冒頭で映し出された東京湾上空からの映像にまずぐっときてしまった。東京タワー、勝鬨橋、夢の島あたり、造成中の京葉工業地帯、べか舟がひしめきあう境川と周囲の家々、そしてなにより旧江戸川河口の広大な大三角。

浦安市の公式サイトの「市の歴史」から、そのころを読んでみる。1958年、本州製紙江戸川工場からの排水で界隈の魚介類が大量死滅。漁場汚染と海面埋め立てがそれぞれ進み、1962年には浦安の漁業者が漁業権の一部を放棄、その3年後には埋め立てが本格化、とある。子どもたちに向けた記述の中には、昭和23年・昭和47年・平成5年の空撮写真を矢印で進めて、「昔の浦安は小さかったのね」「そうだね 埋め立てによって 今の浦安の面積は明治42年(1909年)の約4倍にも広がったんだ!」と書いてある。埋めた土砂はどこから持ってきたんだろう。近くの海砂と聞くけれど、その場所は今どうなっているんだろう。

さっきまでうまいうまいと食べていたものを満腹だと言って捨てたとたんにゴミ扱いにする、われわれの思考のフラクタルにめまいがするし、水際というものの後戻りのできなさに呆然とする。水際を歩くときにはせめて下の下あたりまででも響いてくれと願いながら、せいぜいよく地面を踏みしめていたい。

ナメクジの世界

イリナ・グリゴレ

ある朝、玄関に行くと思わず身体の奥から大きな声が出てしまった。音が聞こえるかどうかわからないが「どうしたの? 何の騒ぎ?」という目で見られた。立派なナメクジが私の真っ先に立っていて動けない。虫だとすぐ逃げるのに、この出逢いでは私の方が逃げるべきかどうかとすこし迷った。なぜかというと、大きくて、太くて、顔立ちまで素晴らしいナメクジだったから。「この家の主はあなたか」と聞こうと思ったぐらい、空間の感覚を失った。態度はともかく、立派、男前というか「こんなデカイ私を見て欲しい」というか、じっとして動かないし、私の方が邪魔扱いされた気がした。感覚で言えば、アリスが芋虫と出会うシーンと言えば通じるかもしれない。自分の大きさを忘れてしまうほど、自分が小さくて、ナメクジが大きく見えた。

この家には最初から子どもと共にさまざまな生きものが住んでいる。ゲジゲジもペットとして娘が可愛がってきたし、家をジャングルにしたい自分がさまざまな植物を植えて、増やして、その土からさまざまな生き物が出てくる。その一人はナメクジ。家にいたい気持ちもわかる、家の外では石の下に天敵のコウガイビルが発見された。大きかったらしい。黄色かったらしい。あとはスズメバチも昨年はミントの花に寄ってきて危なかった。なので、ナメクジがカタツムリの殻を捨てて進化した理由は、家に住めるからだったかもしれない。自由に動けるからではない。そのぐらい、この家を気に入っていて、私の方はなぜここにいるという顔をされた。一瞬、ナメクジの目から見えた自分の存在が消えた。なぜ、ここにいる? ナメクジみたいに綺麗なキラキラした跡も残せないのに。

梅雨明けの東北。夕方になると同時に違う方向から毎日のようにネプタ練習の太鼓と笛が聞こえ、そしてその音に負けない蛙、蝉、鳥たちの声。蚊取り線香の匂いと公園のハスの香りで落ち着くけど、お祭りの前の雰囲気が家の植物までわかっているみたいで、新しい青葉がみえる。ネプタの時期は、昔は子供が作られる時期でもあった。鯵ヶ沢の海開き、メーロンロードのスイカとキャンプ、バーベキュー、ホームセンターから買った花火、短い夏の日々が忙しくて、ワクワクであっても線香花火のように最後にポンと落ちて消えてしまう。8月の中旬からお盆のお迎え火と送り火が町と周りの村に見えたらもう冬だ。ナメクジの跡が見えなくなり、この家ごと殻に戻ると想像しながらカーラジオから好きな番組、「音楽遊覧飛行」が流れて、アルジェリア出身のD Jがアルジェリアの音楽をアメリカで流行らせたという。

私は日本の音が好き。世界で流行らせたい。お祭りの時、交差点に立つと色なところから同時に聞こえるお囃子の音がばらばらと世界を再構築する。そんなインスタレーションを作りたい。日常からいろんな音をサンプラーで集めて、聞こえないナメクジのために(生き物の生態に詳しい長女によればナメクジには音が聞こえない)作品を作りたいと思う。電動でも伝わるかもしれないし、どういうふうに世界を見ているのかナメクジにならないとわからない。なめくじが文書を書けないのは一番残念だと思う。でも長女によれば書けるので、ナメクジの文書が以下に続く。長女はナメクジの心の中を明らかにするらしい。

「僕はナメクジです。昨日の夜、〇〇ちゃんという女の子に会いました。僕のお家を一所懸命に作ってくれました。そして帰ってしまいました。次の時に来てくれました。また僕を見つけてくれて、僕は岩の隙間に隠れていたら〇〇ちゃんが新しいお家を頑張って作ってくれました。また来て欲しいよ、でも僕は突然〇〇ちゃんたちが家づくりの途中で、逃げてしまいました。それで〇〇ちゃんたちが探しても僕の姿を見せませんでした。そして〇〇ちゃんたちが帰ってしまいました。」ナメクジより

ナメクジの文書を文学作品として評論したら、進化の中では殻を失ってしまったノスタルジーが残っているみたい。もっと言えば、性別がないナメクジにとって、家父長制のノスタルジーも見られるかもしれないが、最後に女の子から逃げていることは色んな解釈ができ、ミステリアスな雰囲気を残すため解釈をしない。確か、いろんなパースペクティブから世界を見ないと分からないことたくさんあると思う。生き物の気持ちと声をまだわかっている娘たちにもっと聞いて見たい。

人間と同じように、ナメクジによると思う。普遍的なナメクジがいない。S Fアニメのように受け止めたらもしかしたら、ナメクジは「これは俺の家だ(お前を含めて)」と言われたように思われるかもしれない。未来ではどうせ、この家を自分のものにする、核を生き延びて、この日のナメクジの先祖代々が誰も食べられない放射線たっぷりの庭のイチゴを吸って生き延びるのだ。未来のナメクジ社会を家父長制に戻さなくていいし、家(殻)はないままでいい、ノマドの方がいいと思う。漫画家並みに上手な絵を私の横で描いている娘のイノセントな目を見ると考えすぎたことに気付かされる。娘の絵では、虹色スカートの女の子は眼がキラキラで、誰かを抱っこしようとしている腕を広く広げて、素敵な笑顔にほっぺたがピンクで、髪の毛にピンク色の可愛い動物がいる。今日は公園で見た野うさぎの可愛いバージョンが描かれている。この明るいオーラの女の子が未来の女の子に受け継がれてほしい。ナメクジを含めた世界の多様性をもっと疑わずに見たい。

町の音の話に戻ると、私が子供の時のルーマニアの田舎の音は野良犬の声だった。野良犬は群れを作って、世界の終わりの背景に近い状態で街を支配していた。誰が誰を支配していたのか曖昧なところだが。学校の帰りに野良犬の群れに追いかけられたりしてすごく怖かった。どこの道を通っても団地の間から犬が出てきて、吠える。一番危ないのは母野良犬で、自分の子供を必死で守ろうと人が近づかないようになんでもする。確かに、田舎では子犬が産まれるとその日のうちに母親犬の元から離して大きな袋に入れ、袋を縛って川にそのまま流したり、村はずれの森の片隅に捨てたりしていた。

人間のやることにはもう驚かないけど、夕方、森や川のそばを通ると子犬の鳴き声が聞こえて心が折れそうになった。車に轢かれた小さな子犬と猫の死体が完全に乾燥してアスファルトにぺたんこになるまでどこの道にもあった。それでも生き残る子犬がいて野良犬の社会を作っていたので街の中は彼らの声で賑やかだった。人間とうまく付き合う者もいれば、人間に殺される犬も、群れから離れて一人で生きる犬もいた。子供からみれば、いつ襲われるのかわからない状態で、団地の前で遊ぶ時も、駅や学校まで行く時も、その辺をなわばりに暮らしていた犬に用心する。襲われたら、パンでもやれば逃げられると思ったけど彼らは大体ゴミの周りに集まっていたので腹がそんなには空いてない。ここは、蜂と同じように、刺激を与えず、必死で落ち着いたふりをして、そっと、そっと、通り過ぎる。野良犬の方こそ相当人間という生き物が怖かっただろう。何をされるか分からないし、いつも犬の死体があったのは、誰かに殺された後だったから。

それでも街は命に溢れ、家の中は蚊とゴキブリで溢れていた。一年に一度、私たちが住んでいた団地から遠くない空き地にサーカスも来ていた。とても痩せているライオンと象を見て、生ゴミを食べる野良犬の方が太っていると感じた。いつも野良犬の群れで賑わっていた空き地に急に大きなテントが現れ、動物と人間の汗の混ざった匂いがして、ショーの音が聞こえた。テントの前で美味しそうな林檎飴を売っていたが、母はこの林檎飴はおしっこしているバケツ(昔のルーマニアの家はトイレもお風呂もないため、夜は玄関にバケツか樽を置いてそこで用を足す人もいた)で作られるからと言って買ってくれなかった。サーカスのテントが何日後もう何もなかったように消えてしまうと、また空き地に野良犬の群れが現れ、残されたゴミを食べて、すべて日常に戻る。

野良犬といえば、Andrea Arnold の10分の映画、『Dog』を思い出した。私が育った地方の街と同じ雰囲気で暮らす女子高性は、母親に叱られながら短いスカートを履いて彼氏とデートへ出かける。彼女はストリートで見かけるカップルを羨ましそうに見ていた。こういうシーンを入れるのが、Arnold監督の上手いところ。ただ、恋の温かさを求めている若い女性の心の奥までにカメラが入る。デートといっても彼は彼女のお母さんから盗んだお金で大麻を買って町外れで一緒に吸うことしか考えてなかった。麻薬を買った時も、部屋に集まっていた若い男性が彼女の短いスカートをべとべとした視線で見ている。脳が薬でやられていた顔の男性がものすごく気持ち悪く写っている。

草むらはゴミだらけで、近所の子供が遊んでいたのを彼氏が追い出して、捨てられたソファの上で行為をし始めようとしたところ。どこからか現れた痩せた野良犬が下に置いてあった買ったばかりの麻薬を食べてしまった。そのシーンを見て彼女は夢中になっていた彼を無視して少し笑った。なんで笑うと聞かれると犬を指していたら、彼がしょんぼり。ナメクジに塩だ。怒って、彼女をソファにおいたまま、犬を強く足で叩き始める。犬は死ぬ。女の子の目の前で。行為の途中で犬が殺される、あまりにも不思議な展開に彼女はびっくりして逃げる。恋のようなものを求めた最初の経験はトラウマにしかなってない。犬を殺すことによって彼氏の本質が現れた。急いで、家に戻ると、先ほど怒っていた母親が待っていて、すぐに彼女を叩き始め、暴力を振るう。彼女は大きな叫び声を出して部屋に閉じこもる。家に帰っても本質的に暴力である。この映画は10分しかないにもかかわらず、さまざまな悪い条件に攻められた人間の方が野良犬よりよっぽど危ないとわかる。

スライムに入れるラメを発見した次女が家中に散らかして、床と階段、ベッドと人の身体までにキラキラしたラメが残っている。何百ものナメクジは家中歩いて跡を残したとしか思えない。

喜びの詩

笠井瑞丈

八月笠井家公演第三弾を行う

私が構成・演出・振付となっているが
基本みんなで作って私が編集をする

これまでに二作やってきた
2020年『世界の終わりに四つの矢を放つ』
2021年『霧の彼方』

そして今作三作目
2022年『喜びの詩』
三部作の最後の作品になる

2020年コロナという
未知のウィルスにより
世の中の状況が180度
ひっくり返ってしまった

人と人との距離が変わり
舞台芸術のあり方が変わり
様々なものが新しい形式に変わった

色々なものが失われれ
変化していく時代の中

不変的であるカラダ
そして
ダンスを提示したい

そんな僅かなことだけど
でも続けていればいつか

今作ではずっと挑戦しようと思っていた
バッハの平均律とベートーヴェン第九第四楽章

バッハの平均律は去年と同様
島岡多恵子さんにピアノを弾いてもらう

ベートーヴェン第九第四楽章
フルトヴェングラー指揮音源を使用

第一作はモーツァルトのレクイエム(前半部)
ベートーヴェンのテンペスト

第二作はモーツァルトのレクイエム(後半部)
モンポウとバッハのシャコンヌ

平均律の中で特に好きなプレリュード12番を
笠井叡さんに新作フォルムを書き下ろしてもらい

これを四人で踊る

霧は晴れ
光に向かって

言葉と本が行ったり来たり(13)『片づけたい』

長谷部千彩

八巻美恵さま

本日も猛暑。まだ七月だというのに、今年は夏の始まりが早かったので、既に残暑の気分です。前回のお手紙でご紹介いただいたイリナ・グリゴレさんの『優しい地獄』、先日亜紀書房の斉藤さんよりお送りいただけると知らせを受けました。拝読するのを楽しみに待とうと思います。

最近は時間を見つけては“真の”断捨離に精を出しています。断捨離ではなく、“真の”断捨離です。というのは、数カ月前、ふと、自分の所有している物を、ボールペンの果てまで、とことん見直してみたいと思ったのです。今の自分、これからの自分に必要なものは何か、また必要のないものは何か、この辺りで再考しておこうかと。ですから、目的は物を減らすことではなく、今の自分、今後の自分について考えること、となるでしょうか。

友人にその話をしたところ、こんなのが出ているよと一冊の本を勧めてくれました。『片づけたい』――古今の作家たちによる片づけにまつわるエッセイ集です。収められているのは三十二編。ジェーン・スー、谷崎潤一郎、柴田元幸、沢村貞子、内田百閒、向田邦子、出久根達郎、佐野洋子、澁澤龍彦・・・目次には錚々たる名が並びます。しかし、ページをめくっていくうちに、私は段々といたたまれない気持ちになっていきました。なぜかというと、いまいち、というか、全然面白くないものがいくつか混じっているのです。個別に読めばそれほどでもないのかもしれないけれど、アンソロジーとして集めると書き手の技量が露呈してしまう。うまい書き手に挟まれたまあまあの書き手は、読み手には救いがたいほど下手な書き手という印象を残す。どなたもエッセイの名手と言われている書き手なのに、アンソロジーって恐ろしい。私は勝手にまあまあの書き手の心情に思いを馳せ、針のむしろに座した気分で最後のページまで読み進めたのでした。

そしてもうひとつ、興味深いと思ったのは、退屈に感じたエッセイはどれも読後に同じ感想を――「この人は凡庸な人なのかも」という感想を抱くということです。日常生活では、突飛なことばかり考えるひとは困りものだけど、エッセイにおいては凡庸であることは致命的、凡庸と言われたらおしまいという気がします。なんだか怖い言葉です。と同時に、それもひとつの見方でしかなく、今の時代、誰もが経験し、誰もが感じる「あるある」「わかるわかる」を綴ったものが好まれ、人気を博してもいる。凡庸さって何なのかな、と考え込んでしまいます。

『片づけたい』の中には、もちろん面白いエッセイもありました。さすがだなと思ったのは幸田文。
“人は清潔が好きであると同時に、汚なくしておくのもまた楽しがる性質を、みんな持っている。清潔には慎みと静けさがあり、汚なさには寛(くつろ)ぎと笑いがある。”(「煤はき」より)――この一文なんて実に愉快じゃありませんか。
小学生の姪が、「本当にやりたいことは何なの?」と訊かれて、「少し散らかった自分の部屋でずっと本を読んでいたい」と答え、母親を唸らせていたけれど、確かに片づき過ぎていても落ち着かない、適度に雑然とした部屋に寛ぎを覚えることも事実です。

ちなみに、私の部屋でスペースを占拠しているのは大量の本。電子書籍での読書が増えつつあったのに、去年、オットマン付きのラウンジチェアを買って、また紙の本を読むようになりました。本ならば好きなだけ買って良いと言われて育ったため、その数は増えるばかり。つまり、もしも私が部屋を「片づけたい」と願うならば、本を手放すしかなく、本を手放すためには積読本を読み終えなければならない。 読書は私にとって部屋の片づけでもあるということです。そんなわけで今年の夏もダラダラと本を読み耽って過ごすでしょう。八巻さんはいかがですか。私の中では、八巻さんは荷物も本も増やさない人、というイメージがありますが。

2022/07/24
長谷部千彩

 

言葉と本が行ったり来たり(12)『優しい地獄』(八巻美恵)

紫の光の、

越川道夫

数日前、詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』が日本で出版されたばかりの韓国の作家ハン・ガンさんのオンラインイヴェントを視聴していた。その中で、翻訳された斎藤真理子さんときむ ふなさんが、この詩集のタイトルにもあり、本の中に何度も登場するおそらくハン・ガンさんの重要なモチーフの一つである韓国語の「저녁(チョニョク)」と言う言葉を、どう訳すかと言うことについて話されていた。本の巻末にある斎藤さんときむさんの対談によれば、「저녁(チョニョク)」とは「夕方と夜を両方さすような単語で、きれいな韓国語の言葉、漢字語ではない固有語」(斎藤さん)であり、「空にまだ青や赤、グレーなどの色彩が残っている時間」(きむさん)を指す言葉であり、「たそがれ」「夕暮れ」「夕べ」「夜」と逡巡した末に「夕方」と訳すことにしたと話されていた。「日本語の『夕方』は『저녁(チョニョク)』よりも時間の範囲が狭いような気がします」(きむさん)。
その話を聞きながら、私はある時間の光のことを考えていた。
ここにも書いたけれど、昨年、放っておけば1年で失明と宣告されて眼の手術を、私はした。その頃の私の目のレンズは赤茶色に濁って凝固しており、医師は「特に右目はもう色も形も見えていない」と言い、「でも、見えているのですが」と言う私に医師は「それは脳が補正しているのです」とキッパリと言い切った。幸い手術は成功して、術後も良く、私の眼のレンズは赤茶色に濁ったものから人工的なものではあるが透明なレンズになった。そうすると、もちろんだけれども色の見え方が全然違う。
ある日の夕方、家の外に出て、あっと立ちすくんだ。目の前の小さな道を、立ち並ぶ家家を包み込む夕方の光は、赤でも青でもなく、言ってみれば「青に近い紫」の光に包まれていたのだ。それは、赤茶色のレンズで世界を見ている時には、意識されなかった、見えていなかった「色」であった。そうか、夕方は紫なのか、と思った。自分の掌の中にも、その紫の光はあった。言ってしまえば、灼けた夕陽の赤い色がまだ空に残っていて、これからこの世界を包み込もうとする深い青色が混ざった光、だと言うことなのかもしれない。朝早くのある時間にも、この光が風景を浸しているのを見た。
この紫の光を見たくて、それから毎日ように夕方になると外に出て、この光が充満するのを待ち焦がれるようになった。もちろん、その紫の光は世界に満ちると刻々と夜になる青さの中に溶け込んでしまうのだったが。みんなは、この光の色を見ているのだろうか。そして、この紫色の時間を人はどんな言葉で呼ぶのだろう。私は知らない。
『引き出しに夕方をしまっておいた』の訳者の一人である斎藤さんの単著『韓国文学の中心にあるもの』を読み終えて、読後に私の胸の中を占めた感情を表す「言葉」を探した。しっくりくる「言葉」がどうしても見つからず逡巡するうちに、やっとふさわしく思える言葉に行き着いた。
「ちむぐりさ」。
もちろん、私はこの言葉を使う土地の水を飲んで育ったわけではないので、身についたものとしてこの言葉を使うことはできない。しかし、一言で本土の言葉には翻訳することができない微妙なニュアンスを含んだこの言葉が、『韓国文学の中心にあるもの』を読み終えた後の私の感情に最もしっくりと寄り添ってくれたと思う。そして、この本をお書きになった斎藤さんの核心にも、この「ちむぐりさ」と言う感情があったのではないかと思わずにはいられない。
 
最近、深夜にまた狸の姿を見ることが多くなった。あの震災の前、東京の住宅地でも頻繁に狸の姿を見ることがあった。ある時は、ゴミを漁っていたし、酔った人が残していった吐瀉物を食べている姿に出会ったこともあった。それはそれで辛い光景ではあったが、あの震災の日を境にぱったりと見かけることがなくなっていたのだ。私が見なかっただけかもしれないが、それにしても10年間もである。それが、また近頃になって狸たちと出くわすようになったのだ。子供の狸が二匹で駆け去るのを目にし、大きな道路を横切っていくのを見ることもある。彼らは、これまでどこでどうしていたのだろう。また戻ってきたのはあるまい。深夜、仕事場からの帰り道、よくそんなことを考える。

いやな感じ

篠原恒木

『いやな感じ』という高見順の小説があったが、日々の暮らしを慎ましく営むおれにも「いやな感じ」がするモノ、ヒト、コトがある。

住宅街の夜道を歩いていると、突然光るライトがある。あれはいやな感じだ。
「人感センサー・ライト」というらしい。あの灯りは無言のうちに、
「おまえは不審者か?」
と、問われているような気がする。昨今とみに物騒な世の中なのはわかるが、
「悪いことをしようとしても、そうはいかないぞ。ちゃんと見ているぞ」
と、あのライトは善良な市民であるおれを威嚇しているのだ。そうに違いない。いやな感じだ。

レストランなどで、最初にこう言われることがある。
「苦手なものはございませんか?」
あれもいやな感じだ。だからおれはこう答えることにしている。
「そういうことを訊いてくるヒト」
おれはなんでも食う奴なのだ。落ちているものまで拾って食うのだ。食いしん坊なのだ。顔つきを見れば、ひとめで「食い意地が張っている」ことくらいわかるだろう。いやな感じだ。

料理を出されて、
「よくかき混ぜてからお召し上がりください」
と言われることがある。いやな感じだ。かき混ぜてから持ってきてくれ、と思ってしまう。なぜおれがかき混ぜなければならないのだ。面倒くさいではないか。いや、気持ちは分かる。料理は目でも楽しむものだろう。たとえばグチャグチャにかき混ぜたあとの石焼ビビンバをいきなりドスンとテーブルに置かれれば「ゲッ」となるかもしれない。ならば、かき混ぜていない状態のもの、つまりは牛肉の細切れ、ほうれん草、キムチ、ゼンマイ、大豆もやし、卵、ニンジンなどが見目麗しく盛り付けられたどんぶりをいったんこちらに見せてから、
「では、かき混ぜて再びお持ちしますね」
と言って、プロの手で撹拌したものを再度供すれば完璧ではないか。石焼ビビンバはかき混ぜ方ひとつで味が違ってくる。おれのような横着者にとって、あの撹拌作業は向かない。ただし「イワシのなめろう出汁茶漬け」ぐらいだったら、あの言葉、
「かき混ぜてからお召し上がりください」
は許す。だって簡単だもん。サラサラッと混ぜるだけでいいからね。とにかくあの言葉はいやな感じだ。

懐石料理もいやな感じだ。おれはサケが一滴も飲めないので、ちんまりと盛られた小鉢が出てくるたびにペロッとひと口で食べ終わってしまう。秒殺だ。あとは次のちんまりが供されるまで何もすることがない。ほかの奴らはサケを喰らい、ガハガハ笑いながらチビチビと「鱧の湯引き・梅肉ソースを添えて」のようなものを愛おしそうに箸でつついている。いやな感じだ。
ようやくひと通り、先付やらお造りやら煮物やら焼物やら八寸やらのコースが終わると、こう訊いてくるではないか。
「このあとのお食事はいかがなされますか? 炊き込みご飯かお蕎麦をお選びいただけますが」
ガーン。するってぇと何かい? おれが今まで食っていたのはお食事とやらではなかったとでも言うつもりかい? と、おれは激しく混乱してしまう。あの訊き方もいやな感じだ。

懐石料理の話が出たので「箸休め」で書いておこう。うまい。いや、別にうまくないか。
おれがここで言う「いやな感じ」というのは、殺意を覚えたり、殴打したり、罵倒したりするほどの憎悪は存在しない。それほどあからさまな嫌悪感はないが、でも、明らかにいやな感じがするという事柄だ。箸休め、おしまい。

炎天下に犬の散歩をしているヒトを見かける。「オサレ」と言われている街に多い。いやな感じだ。可哀想に、犬は舌を出してハアハアと苦しそうではないか。アスファルトの温度に肉球が耐えられるわけがない。地面に近いお腹だって相当の照り返しを受けているはずだ。ヒトサマの犬だから厳しく注意もできないが、いつも内心では、
「おまえも毛皮のコートを着て、犬と同じポーズで裸足で歩いてみろ」
と、毒づいている。明らかな動物虐待である。あれは実にいやな感じだ。

電車内で短い脚をドーンと伸ばして座っているヒトがいる。いやな感じだ。
そのくせ、おれがそこを通り抜けようとすると、スッと脚を引っ込める。引っ込めるくらいなら最初からきちんと座っていればいいではないか。さもなければ初志貫徹、徹頭徹尾、鬼が来ようと蛇が来ようと、そのままドーンと伸ばしっぱなしにしておけばいいではないか。その中途半端な公共心は理解に苦しむ。非常にいやな感じだ。

知り合いの不倫現場に出くわすことがある。いや、おれがホテルの部屋に入ったら、ベッドで知り合いの男女がコトをいたしていたというわけではない。そんなシチュエーション、あるはずがない。
おれが今までもっともヒヤヒヤしたのは、予約していたレストランに入った瞬間に、不倫カップルが隅の席でイチャつきながら食事をしているのが視界に飛び込んで来たときだった。二人ともよぉ~く知っている。男が上司で女性が部下という関係だった。さあ、どうする。奴らは店に入って来たおれのことなど気づきもせず、ねっとりと見つめ合っている。いやな感じだ。
幸いにおれの席は、ねっとりテーブルから離れた席だったが、いつ奴らがこちらに目を向けるか気が気ではない。いやな感じだ。だいたい、なぜおれがこんなに気を遣わなければならないのだ。
「密会するのなら、こんなメジャーな繁盛店を選ぶな。もっと隠れ家的な店で個室を押さえろ」
と、おれは舌打ちをする。あっ、しまった。そういうおれも女性連れだ。どうしよう。おれは慌ててさしむかいで座っている女の顔を見る。妻だった。
「そうか、おれはいいのか。セーフだ」
ホッとしたが、モンダイは奴らだ。二人でテーブルに肘をつき、指と指をからませたりしているのが遠くに見える。大変な事態だ。気づかれたらどうしよう。そのときは、
「やあやあ、これはまたお盛んでどうも」
あるいはグッとくだけて、
「サンカミにはショナイでチャンネーとシーメですか」
とでも声をかければいいのか。いや、それは後日厄介なことになる。おれは帽子を被ったまま、ひたすら下を向き、止めど溢れる我がオーラを全力で消し去り、妻との会話もうわの空でメシを咀嚼し続けた。あれはとてもいやな感じだった。

「ペーパーレス化の促進化について」と書かれたペーパーが会社の机の上に置いてあった。とてつもなくいやな感じがした。

「おまえの悪いようにはしないから」
という言葉もいやな感じだ。おれは上司に何回か言われたことがある。そのたびに思ったのは、
「なぜ赤の他人のあんたが、おれにとっての悪いこと、いいことを知っているのだ?」
ということだった。だからおれはその台詞を言われるたびに、あとに続く話を断わっていた。するとそれからのおれはあまりよくない、いや、相当よくない、つまりは悪い立場へとことごとく追いやられる羽目になった。こうなるとなおさらいやな感じではないか。

ここまで書いて読み直すと、これを書いたおれがいちばんいやな感じのするニンゲンのような気がしてきた。まずい。こうなったら「自己肯定感を高める百の方法」「私らしく生きるヒント」「自分らしさを大切に」などといったジコケーハツ本を読もう。うーむ、読むわけがない。あれほどいやな感じのする本はない。

蕎麦

璃葉

今まで、蕎麦というものがあまり好きではなかった。好きではないというか、あまり興味がなかったと言うべきか。美味しい蕎麦屋で食べたことは何回かあるし、誘われれば行く。ただ自分から積極的に食べることは一切なく、あー今日は蕎麦食べたいなあー!という日は1日たりとてなかった。…そんな私が、近ごろ蕎麦ばかり茹でている。

それは先日、ブラジルの血が流れているKの家に遊びに行ったときのことだった。職場仲間でもある彼とは何回か飲んでいるし、家に遊びに行くのは2回目だ。友人Bも加わり、貧困(苦笑)のわたしたちのためにKが簡単なご飯を作ってくれるということになった。ちなみにKはシェフである。彼は先月1ヶ月ほどブラジルに帰省していたので、その話も聞きたかったということもあって、のんびり家で晩御飯を食べようとなったのだった。
K宅に着いて、べらべらしゃべっているうちに、彼は大量の蕎麦を茹で始めた。大皿に山盛りの冷やし蕎麦(氷の塊が2つ埋まっている)、その隣に大量のキュウリの輪切りが盛られ、テーブルにどんと置かれる。小口切りのネギもわさっと乗っかって。めんつゆとポン酢を合わせた蕎麦つゆは、寿司屋で出されるようなでかい湯呑みに入って出てきた。ええー、なんか非常にワイルドだけど、すごく美味しそうだ。これは日本では絶対に見ない盛り付けであるが、正直、蕎麦がこんなに美味しそうに見えたことなんてなかった。良い意味で雑な感じが食欲をそそるのだろうか。カルディで買った安い赤ワインと一緒に、ずるずる食べる。ここ最近夏バテ気味で食欲がなかったのが嘘のようだ。冷えたきゅうりも美味しいし、もう夢中である。Kのブラジル話を聞きながら、箸がとまらない。彼は気さくで自由奔放でかわゆく、男女問わずモテるので、恋愛の話はとくに面白い。素敵なエピソードを聞かせてもらいながら、Bと私の箸を持つ手はやはりとまらなかった。

食べ物の好き嫌いは、印象で好みが変わることがあるのだなと実感する。みんなでげらげら笑いながらつついて食べたことによって愉快で楽しいイメージがついたし、酸っぱいものが好きな私には、Kの合わせた蕎麦つゆがとてもマッチしたのだ。

さて、単純な私は次の日、自宅で蕎麦を茹でた。きゅうりの輪切りも添えて、蕎麦つゆも昨夜の通りにやってみた。やっぱりとても美味しくて、結局週に3回ほど食べるぐらいにハマってしまったのである。後日Kにそれを伝えると、かわゆくキャッと喜んでいたので、それもまた嬉しい。

むもーままめ(21)太陽のせいだ、の巻

工藤あかね

じゃがいもを放っておいたら芽が出たので土に埋めて毎日水をやったら立派に実がなって嬉しかったから今日買ってきたアボカドの種は土に埋めてお水をあげてみようと思う毎日話しかけていたら植物がいつか言葉を返してくれるのではないかと期待しているけれどかれらは身振りが言葉だから嬉しい時は葉っぱをぐっと両手いっぱいに広げているからそれでよしとしよう昔一緒に暮らしていて溺愛していた猫のむすめにわたしは千以上の名前をつけて毎日違うバリエーションで彼女を呼んだが悲しかったのは彼女が一度も私の名を呼んでくれなかったこといやそんなことはない猫の口がそうなっていないだけで彼女はあのかわいい声で精一杯わたしの名を呼び続けてくれたのかもしれないと思ったら急に申し訳なくなってかわいいかわいいあの子の小さな骨壷をさすったああわたし少し心が弱っているのかないやちがう心が弱っているのではなくてただ暑いだけだ彼女に申し訳ないと思うのはむしろたくさん呼び名をつけすぎてしまったから最後の瞬間に私が彼女の名前を呼んでいることを彼女がわかってくれていたかどうかやはり太陽のせいだ太陽が私の正常な判断力を殺菌してしまっている海のかわりにぬるいお風呂に浸かってクラゲのことでも考えたり日焼けを心配したりしてみようか山へ行くかわりにベランダに出て植物たちに雨を降らせて雨宿りしてみようかかき氷をひさしぶりに食べてみようかと思ったけれど氷は水じゃないかと思ったら急に執着がなくなったから冷静にかき氷を口に運ぶことができてちょうどよかった水を凍らせてもう一度削って味をつけてなんという手間をかけているのかこの手間がなければ石清水を飲むのが最高だったけれど軟弱な気分では蛇が浮いていたかもしれない水はちょっと昆虫に好かれるかもしれないから山に登るのもなかなか勇気がいるそんなわたしでも一人で奥多摩に迷い込んでタウンシューズのまま断崖絶壁を渡りきったし熊出没注意の看板を横目に日が暮れていつ増水するかもしれない川の勢いを目の当たりにしながらやっぱり私生きていると思ったのはなんでだろうときどき自然の脅威を感じて孤独を味わうのは生命力のテコ入れに必要なんだなと思ったこんなことを冷房の効いた部屋でつらつら思い出しているのはスケールが小さいからすくなくとも外に飛び出して地面に寝っ転がって目玉焼きみたいにじりじりと太陽に灼かれてみたい

冬薔薇(ふゆそうび)

若松恵子

阪本順治監督の最新作「冬薔薇」が6月3日にロードショウ公開された。予想通りマスコミは冷ややかな対応で、話題になることもなく、もう、地方の映画館での上演しかなくなってしまったけれど、この映画について書いておきたいと思う。時々、思い出しては考える、そんな映画だからだ。

伊藤健太郎の復帰作の依頼を受けた阪本監督が、彼を主人公にオリジナル脚本を書いた。「ファンの前に伊藤君を無事にお連れするのが、自分の役目だった」と完成した際のインタビューで阪本監督が話していて心に残った。「映画はスターのアップを見るものだ」という事も彼は度々言っていて、映画は伊藤健太郎のアップから始まり、印象的なアップで終わる。

不祥事があっても彼のファンをやめなかった人たち、彼のファンであり続けた人たちは、完成した映画を見て、きっと嬉しかっただろうなと思う。伊藤健太郎が出ていればうれしい、そう思うファンの存在がどんなに貴重なものか、阪本監督にはわかっているのだ。

伊藤健太郎は、若手俳優として人気が上り坂の時に、交通事故の現場から逃げてしまい、逮捕された。その事件をきっかけに、彼の素行の悪さや、周囲の人に失礼な態度を取っていたエピソードなどが報道され、芸能活動休止に追い込まれたのだった。事件当事者でもない「世間」が、彼を非難する。「掌を返す」ように冷たくなる。もともと、強力な営業力によってお勧めされて彼を好きになった「世間」だから、そんなことになっても仕方がないのだ。

「人気」も「不人気」も本人とは関係のないところでつくられた蜃気楼だ。なのに、その芸能界に君は再び戻ってくるのかい? そんな思いはきっと阪本監督自身にもあったのではないかと思う。

伊藤健太郎のために用意されたシナリオは、心機一転、彼が生まれ変わって再出発という内容ではなかった。映画の主人公と役者はイコールではないけれど、「映画によって生まれ変わらせる」というものではなかったのだ。この作品によって次回作のオファーが殺到するという事には、なりそうにもないと感じた。その点からすれば、伊藤の事務所や伊藤自身にとって、この作品は失敗作だったのかもしれない。しかし、私はそこにリアルなものを感じ、やはり阪本作品はいいなと思ったのだ。

事件を乗り超えたからと言って、急に演技力が増すわけではない。人間に厚みが増すわけでもない。伊藤の魅力は、事件前と同じ、生まれ持ったルックスの良さであり、そのことだけでまず勝負するしかないのが現実だ。阪本が用意した主人公、ルックスの良さだけで世渡りしているいいかげんな主人公を、そのまま演じることが、まず彼の役わりなのだ。あとは、演技力のある役者が物語を成立させてくれる。父親役の小林薫、母親役の余貴美子、叔父役の真木蔵人、チンピラ役の永山絢斗が存在感のある演技によって物語に現実感を与えてくれている。そのことを、伊藤自身は理解しただろうか、できない役を欲しがったりせずに、自分の姿を見るだけでいいと言ってくれるファンを大事にしながら映画の世界で粘り強く仕事していこうと思うようになっただろうか。チンピラ役を魅力的に演じた永山絢斗のように、もって生まれた肉体の魅力を活かしながら、自分とは全く違う人格を演技によって存在させる、そんな役者になっていってほしいと思う。

映画は、伊藤健太郎が実生活で経験したように、ちょっとした行き違いによって引き起こされる不幸とその取り返しのつかなさを描いてせつない。「そうであっても、なお」という思いが冬に咲く薔薇、冬薔薇(ふゆそうび)というタイトルに込められているのだろう。この作品によって芸能界に戻ってきた伊藤健太郎に贈られる励ましであり、寄せる希望でもあると思う。

『アフリカ』を続けて(14)

下窪俊哉

 先月は2年半ぶりに故郷・鹿児島に帰省してきた。前回帰った時、ちょうど横浜の港に新型ウイルスをつれたあの客船が着いて大騒ぎになっていたので、コロナ禍に突入する直前だった。いろんな形の鍵を並べた表紙の『アフリカ』vol.30(2020年2月号)を入稿した直後でもあった。そんなふうに『アフリカ』を思い出すこともある。

『アフリカ』の何年何月号というのは発行年月なので、多くはその少し前か、さらに前に書かれたものということになる。2020年2月号を見てみると、冒頭で柴田大輔さんが牛久の「農業ヘルパー」制度と、彼の通う畑のすぐ先にある「東日本入国管理センター」のことを書いている。
 田島凪さんの文章にも入管の話は出てきて、そこには実際に難民となった人たちとの交流がある。語り手は入院していて、病室で一緒になった人たちに(勝手に)名前をつけて呼びかけたり、見知らぬ人の日常に想いを馳せたりもする。
 犬飼愛生さんは「秋の日、突如として現代に現れる大正ロマン」と始まる二葉館をモデルにした詩を書いている。
 芦原陽子さんは2019年後半の日めくりエッセイのベストセレクションを寄せているし、中村茜さんの「フェスティバルと混乱」も秋の出来事を書いている。いまとなってはコロナ禍直前の、いわば嵐の前の静けさをそこに読んでしまう(「混乱」があってもその中に静を感じるというか)。
 静けさといえば、鍋倉僚介さんの小説「おとずれ」は「静か」な中に聴こえてくる音が印象的だった。
 髙城青さん恒例のエッセイ漫画では、猫と暮らし始めた話の続きを書いて(描いて)いるが、ストーブの前に猫が”落ちて”いるというシーンに始まるので、これは冬だ。
 犬飼さんが連載していたエッセイ「キレイなオバサン、普通のオバサン」はこの時、自身の「作家/宣材写真」を撮るのにカメラマンと共に森の中の”とっておきの場所”にゆき、オオスズメバチと遭遇してしまう(秋ですね)。
 ついでに自分も書いていて、それは「吃る街」という10年くらい前まで書いていた小説の続きだ。書かれている季節は冬だけれど、いちおう2005年頃を舞台に書いているつもりなので、直近の話ではない。コロナ禍になる前から、書く人としての自分の関心は過去に向かい出していた?
 そして編集後記を見ると、再開した文章教室に触れて「自分から外に出て、場をひらいていなければ、他者と出会うことはできない」なんて書いている。

 2019年は思うところあり、それまでやっていたワークショップを休んで「外に出て」ゆくのを少なくして、『アフリカ』のマイナーチェンジをはかり、あとはとにかく日々の仕事をこなしつつ毎日書いて、自分のリハビリに費やした(たまにそういう時期が必要になる)。それでいよいよ2020年は「外に出て」ゆく年にしようと思っていたのだが、ちょうどそのタイミングでコロナ騒動が始まったのだった。

 私はどちらかというと、ひとりでいるのが好きな人のようだ。あまり人と会いすぎていると、元気をもらうより吸い取られてしまう。たまに、本当に会いたいと思う人に会いにゆくというのは、いいものだけれど。そこでコロナ禍が始まったことにより私は、無理をして出てゆくなと言われた気がした。とはいえ、出て行ったり、引っ込んだり、両方必要で自分なりにバランスをとろうとしているんだろう。
 考えてみれば『アフリカ』も人前に出てゆくように始めた雑誌ではなく、むしろ人に背を向けて離れてゆくようにして始めた雑誌だった。でも、悪くないんじゃない? と、それに付き合ってくれる人たちがいたのだからありがたいことだ。つくっている自分にはふてくされたような気分もなかったとは言えないが、面白いふてくされ方もあるもんだ。人に背を向けて出て行った先にはまた人との出会いがある。そのまま続けていたらどちらが背でどちらが腹だったのか、背を向けているのはどちらなのかわからなくなってくる。

 さて、表紙にカマキリがいる最新号(vol.33/2022年2月号)を出してから、もう半年がたとうとしている。
 1冊仕上げると、そこにはある種の断絶が生まれる。仕上げないうちには持続している感じがあるけれど、仕上げるといったん終わったという感じが嫌でもするのである。
 次号には、何がどうつながる? そんなことはわからない。前回と今回、今回と次回は別のものだ。それを『アフリカ』という同じ名前で、同じ雑誌としてやっている。
 始めた頃には「1回、1回のセッションがあるだけで、続いているのではない」などと言っていた。しかし16年、33冊も続けていると、何か次をやらなければという気持ちも芽生えてくる。だからこそ再び「1回、1回のセッションがあるだけ」という自らのことばを思い出さなければ。続けなければならないということはない。いつ止めてもいい。
 そんなことをぶつぶつ言っていたら、「『アフリカ』は編集人がつくりたくなった時につくればいいよ」と話してくれる方あり、励ましと慰めが混ざったような声として受け止めたが、ちょっと待って、この編集人はつくりたくなった時に『アフリカ』をつくっているんだろうか?
 だとしたら、いつ、どんな時につくりたくなるかを研究すれば、続けられそうだ。
 しかし自分はいつでもつくりたいし、いつでもつくりたくない。つくりたくなる時を待っていても、そんなことが明解にわかる時は永遠に来ないかもしれない。いや、気づいたらつくり始めていたなんていうことも稀にあるのかもしれないが、それを待っていたら『アフリカ』という営みは続かないだろう。
『アフリカ』はつくっていない時でも毎日続いていて、どこにいても存在しているような気がしているのだった。そこに私は”場”というものを生々しく感じる。

アジアのごはん(113)バンコクの甘酒と新型コロナ

森下ヒバリ

久しぶりにタイに来ている。新型コロナが流行り始めた2020年のはじめに旅に出て以来の外国の地だ。京都駅で関空行きの特急はるかに乗るのもなんだかドキドキした。ふう、いいね、こういうの。新鮮な気持ち。

タイ政府は、新型コロナをインフルエンザなみの病気として扱うことに決めて、入国規制を緩和してきた。7月からは面倒なアプリの登録も、入国後隔離も一切なしになった。ワクチン証明か陰性証明を飛行機のチェックインの時に航空会社の係員に見せるだけである。証明書は入国審査でも一切見ない。

京都の駅前にあるトラベルクリニックでPCR検査を受け、陰性証明書を受け取った時には、おもわず「よしっ」と口に出た。これで、行ける。そして、愛用していたLCC航空のエアアジアは関空から撤退していたので、久しぶりにタイ航空に乗る。乗客は7~8割。思ったより多い。5時間半で無事バンコク着。空港からタクシーに乗ると、荷物3つ目から荷物代がかかるようになっていた。ふむふむ。高速道路の巨大な広告看板が白いままなのが多い。車がちょっと少ない。なんだか、空がきれいに見える。

いつもの月借りのアパートメントに着いて、いつもの部屋に入る。北側の窓から見える高校がホテルに変わっていた。校庭はプールになっている。おお。食事のためにロビーに降りると、マネジャーがちょうどいて、挨拶してくれる。そして、外していたマスクを指さして、「マスクをちゃんとしてね」と注意された。あれ、タイ政府はマスクの着用義務を廃止したのではなかったのか。近所の食堂へ歩く道すがら、すれ違う人はみんなマスクをしている。たまにしてない人が居ると思えば外国人だ。タイ人は全員している。完璧だ。う~ん。

2年4か月ぶりに会うバンコク在住の友人たち、おなじく規制緩和されたのを知ってさっそくタイにやって来た高知の友人たちと再会して一緒にタイ料理を食べる。そういえば、新型コロナがはやり出して、帰りの便がフライトキャンセルになりまくり、なんとか運行が止まる直前に日本に戻ったその最後の夜もここで食べたのではなかったか。いやはや。ちょうど、オミクロン新型株の感染が増えて来たので、今回はあまり友人たちには会わず、ライブもあまり行かずにおとなしく過ごすことになりそうだ。

宿のあるランナム地域は歩いているとシャッターの降りた店がけっこうある。近所のお気に入りの化学調味料を使わないクイティオ食堂(タイのラーメン屋さん)がなくなっていたのは悲しかった。よく行っていたラーン・カウ・ケーン(ごはんにおかずをかけてくれる総菜食堂)は健在だったが、いつも10種類ぐらいあった総菜が3種類ぐらいしかない。店主にこの間どうだったのと聞くと、「仕事がなくなって人が田舎に帰ってしまい、客がものすごく減ってね。リモートの人も増え、とにかく客が減って大変だったのよ。なんとかやってるけど‥最近は少し持ち直してきたかな」「政府から補償金とかはないの?」「5000バーツ(1万8000円くらい)もらったけどね」「月に?」「この2年で2回だけよ」残念ながら店のおかずは味の濃いものばかりになり、どうも素材の質がかなり落としてある。いつも昼時は満員だった店内が半分以下の入りだ。ふう。

ランナムではシャッターを下ろしている店がかなりある一方で、巨大なコンドミニアム(日本で言うなら高層高級マンション)の建設がいくつも始まっていた。古い店の連なる長屋式の家屋があったエリアもコロナ不況で商売を止めて土地を売ったのかもしれない。

少し離れたプラトゥーナムに行くと、慣れ親しんだ迷路のようなプラトゥーナム衣料品市場がごっそり更地になっていた。もともと王室の土地で立ち退きを要求されていたので、新型コロナが直接の原因ではないのだが、バンコクの猥雑で庶民的な巨大市場がひとつ、こうもあっさりなくなってしまうのは何とも言えない気持ちだ。そして、跡地にはその周辺にたくさんある同じようなブランドの入った同じようなショッピングモールか、高級ホテルが建てられることになるのだろう。この市場の表通りに面した古いショップハウスは観光客向けのお土産やTシャツを売り、歩道には屋台を出す小商いの人々が連なっていた。この不況の中、ショップハウスの2階に住んでいた家族、路上の商い人達はどこに行ったのだろうか。

おいしい麺を食べたくて、クイティオ屋を探して散歩して、そのままどんどん歩いてしまいあまり行ったことのない路地に迷い込んだ。そこは昔からの下町の雰囲気が残っていて、なぜかメニューが日本の学生食堂みたいな鉄板で肉を焼いている屋台もあった。なんちゃって日本食の店であるが、安い。学生や若いタイ人の客がエビフライやポークソテー、ハンバーグ定食を食べているのだった。面白いのでミックスグリル定食を食べてみたら、昔東京で働いていた時によく食べたキッチンジローの味そのまま・・いや、かなり近い。今度エビフライ食べてみようかな。

高架鉄道BTSに乗って繁華街プロムポンに買い物に行ってみると、以前とあまり変わらない賑やかさだ。もっとも以前はいつも満員だったBTSの車内がちょっと空いていて乗りやすい。このあたりに住んでいると、あまりタイは変わっていないと思うかもしれない。日本食品をたくさん売っているフジスーパーに行き、タイ産の有機の大根と納豆を探す。タイの大根は小さくてスカスカしているが、漬物を作りたいので、買う。

宿に戻る途中で、コンビニでカオマーク(甘酒)を買った。タイのコンビニにはどういう訳か、冷蔵品お菓子のコーナーにゼリーやケーキの横にさりげなくカオマークという甘酒を売っているのである。一袋20バーツ。甘酒ではあるが、コウジカビの麹から作るのでなく中国系のクモノスカビの麹から作る。液体というよりはご飯の塊に近い形態。そして、かなりアルコール発酵していてお酒っぽく、甘い。このまま食べてもいいのだが、さっき買った大根と合わせてべったら漬けを作ってみようと思ったのである。

大根は皮をむいて縦に四つ割りにして塩をまぶし、ジップロックに甘酒と塩昆布と一緒に入れて冷蔵庫に置いておくだけだ。常温にしばらく置いておいた方が発酵しやすそうだけど、常夏の国ではあっというまに過発酵してしまうので最初から冷蔵庫に入れてしまう。3~4日経つと、なんとか漬物っぽい味になっては来た。タイにはあまり薄味の漬物がないので、作ってみたのだが、いまいち。タイの大根はじつはあまりおいしくない。甘酒で漬けたらおいしくなってくれるかもと期待したのだが、食べられないことはない、程度の味にしかならなかった。そうだ、次はキュウリで作ってみよう。友達にもあまり会えないので、こんなことをして遊んでいます。

眠っていた楽器を起こす

仲宗根浩

音楽のサブスクをやめた。古い音源を検索すると録音年代、いつマスタリングされたものなのか詳細な情報が少ない。参加ミュージシャンの情報も無い。であればパッケージのほうがいい。クレジットを読むのが好きな者にとっては必要がない。レコードの時代、やっと買うことができた貴重な盤でクレジットを読み尽くし、何回も何回も聴きたおした者はサブスクリプションはむかないかもしれない。

三月頃からかずっとほったらかしの楽器を引きずりだした。一番小さいところからマンドリンを取り出し弦を替えチューニングするとネックは見事に順反り。12フレットから上は弦は次のフレットに触れて使えない。もともと安いマンドリンをネックやフレットの調整に出すまでもないかととおもい下のフレットを使えば問題なかろうと弾いていると微妙にフレット音痴な状態だがまあいいか。

次に取り出した楽器が箏。これがまた変ないわくつきのものでいただいたもの。糸は19が張ってる。柱を立てて調弦をする。どれくらいの張りで糸締めされているのか確認する。巾の裏、弾かないほうの音と実際に弾くほうの糸でどの音が合うか確かめるとDisになった。七本あたりか。箏の糸締の張りの強さは本で表す。一本がAでそれから半音づつ上がる。本は笛の穴を全部押さえた時、一番低い音に使われている。Dであれば六本調子などなど。で糸の太さの19は匁、重さの単位。なんともめんどうくさい邦楽器。最近糸の太さの、匁について教えてもらった。がここで睡魔が、、、(続く)

ジャワの物語(3)マハーバーラタ

冨岡三智

前回取り上げたラーマーヤナ同様、マハーバーラタも古代インドの叙事詩である。4世紀頃に現在の形になったと考えられ、東南アジアに伝播した。内容は、王位継承に絡んで、コラワ一族の100人兄弟が従兄弟のパンダワ一族の5人兄弟を陥れようと姦計を繰り返してバラタユダ(大戦争)に至るが、この大戦争は神が定めたものでパンダワの勝利に終わる…そののち静かな時代が訪れるもののパンダワ5王子は世を儚み次々と昇天していく、というもの。

現在、ジャワのワヤン芸能(影絵や劇)の題材はマハーバーラタのエピソードが多いが、インドネシアのアイコンや東南アジア紐帯のアイコンとしてコラボレーションの題材となっているのはラーマーヤナが多い。その一方で、マハーバーラタは西洋や日本において何度も取り上げられてきたという印象がある。

私が思い出すのは、ピーター・ブルックによる『マハーバーラタ』(1985年アビニョン演劇祭初演、1988年銀座セゾン劇場)、②横浜ボートシアターによる日イネ合作『マハーバーラタ 耳の王子』(1996年、水牛2022年3月号のエッセイを参照)、③宮城聰によるSPACの『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(2003年~、2012年ふじのくに⇄せかい演劇祭、2014年アビニョン演劇祭など)、④宮城聰による歌舞伎の『極付印度伝マハーバーラタ戦記』(2017年歌舞伎座)、⑤小池博史によるアジア6か国のコラボレーション『完全版マハーバーラタ』(2013~2020年10か国で上演、2021年東京)などだ。ただし実際に見たのは②のみである。

インドネシアのワヤンで描かれるマハーバーラタは叙事詩全体ではなく、その中の個別エピソードで、物語全体を知らなくても作品を楽しむことに差支えはない。というか、大戦争やパンダワ昇天といった重大なシーンはめったに描かれない。一方、①のブルック作品は全編舞台化を謳っていて、初演時の舞台は9時間、のちにそれを編集して映画にしている。⑤の小池作品もブルック以来の全編舞台化を謳っている。②と④はカルノを中心に組み立てているが、②はカルノにインドネシア独立戦争に参加した残留日本兵の葛藤と悲劇を重ねている。カルノはパンダワ側であるアルジュノと同母兄弟ながらコラワ側で養育され、後にアルジュノと一騎打ちすることになる点で、同族内の対立を象徴する人物だ。③は、コラワの姦計(さいころ賭博)によりパンダワが王国を失って流浪していた時に賢者が聞かせた恋愛物語「ナラ王の物語」を下敷きにしている。未見なので、マハーバーラタ全体のテーマや人間関係をどれほど反映しているのかは不明である。

マハーバーラタの方が登場人物が多くて話もややこしいのに、なぜブルックやら日本人やらはマハーバーラタの方を好んで取り上げるのだろう…と実は不思議に思っていた。もっとも、なぜラーマーヤナではなくマハーバーラタなのか?という問いはきわめてジャワ的だ。上の演劇作品を手掛けた人たちは、インドから伝わった2つの物語しか知らないわけではないのだから。

今年、NHKで放送している大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていて、ふとマハーバーラタは族滅の物語だとあらためて意識する。族滅という言い方が普遍的なものかどうかは知らないが、この大河ドラマを語るツイッターではこの語がよく使われている。大河ドラマの方では頼朝の死が7月初めに描かれた。頼朝が自身のきょうだいや他の源氏一党をつぶしていく様が今まで描かれ、今後は源氏の子孫、北条一族、それら縁続きの御家人同士の殺し合いが描かれていくはずだ。思えば、鎌倉時代の北条氏が主人公となる大河ドラマは1979年の『草燃える』以来で、戦国時代ものや幕末ものに比べてかなり人気がない。

マハーバーラタで敵味方になるコラワとパンダワは従兄弟同士で、争いになる発端には王位後継問題がある。ラーマーヤナの主人公のラーマの場合、継母がラーマを追放するとはいえラーマは異母兄弟の間で戦ってはいないし、むしろラーマに忠実な義弟のラクスマナは一緒に追放される。また、ラーマがランカー国の王・ラヴァナと戦うのは妻のシータ妃奪還のためで、ラーマ自身の王位継承のためでもないし、国同士の覇権争いでもない。

「A国とB国の戦い」や「諸国統一」の物語よりも、マハーバーラタのように「A国内における身内間の権力闘争」の物語の方が個人のむき出しの欲望とその結果の悲劇を極限の状態を描けて、現代の演劇向きなのかもしれない。

サンタとサタン

北村周一

一昔前の、テレビコマーシャルを想い出している。
映画監督の黒澤明が出演して話題となった、ウイスキーのCMである。
そのときのコメント、曰く、「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」。

調べてみたら、1970年代後半にオンエアされたものらしい。
このキャッチフレーズと同名のタイトル本が、自身の書籍として、1975年に出版されていることもあり、多くの人の記憶に残っているようだ。
ちなみに、テレビのコマーシャルに流れていたときのBGMは、ハイドンのシンフォニー94番ト長調「驚愕」の第2楽章だといわれている・・・。

いま、一枚の写真が目の前にある。といっても、パソコンの画面の中だけれど。
色艶のいい二人の男が、固い固い握手を交わしているそんな場面である。
黒い座卓を直角に挟んで、たがいに相好を崩しつつじっと見つめ合ってもいる。
卓の上の皿に盛られたミカンが、二人に負けないくらいつやつやしていて、ちょっと異様な雰囲気を醸し出している。
比較的恰幅のいい初老の男は、向こう正面にすわりながらやや中腰の姿勢。
座卓の右手にどっしりとすわっている強持ての男は、すでに老人である。
二人は、20歳以上年が離れているが、きわめて仲が良いことは、この古い写真を見ていてもわかりすぎるくらいわかる。

 たちまちに 意気投合の 証しにて サンタとサタン 握手の写真

向かって左側にすわる、比較的恰幅のいい初老の男に白いひげをつけて、赤い上下の洋服と帽子とを纏わせれば、サンタクロースに早変わりと相成ろう。
向かって右側にすわる強持ての老人は、昭和の妖怪という異名をとっているだけに、見るからに肝が据わっている。

 ニヤニヤと ニタニタのちがい 妖しきに 目尻を下げて 老いを楽しむ

ところでこの握手の写真は、いつごろ撮られたものなのか、ことのついでに調べてみたら、1973年の、11月23日という記載が見つかった。
場所は、教会の本部とも書かれている。
東京では、木枯らし1号が吹くころか。
それにしても、立派なミカンだ。

 追い詰めて みればすなわち 土俵際に 追い詰められても ゆく二人連れ

黒澤監督の、座右の銘でもある、天使と悪魔の譬えに話をもどすと、天使はいつだって神がうしろについているから大胆不敵になれるのであろうし、一方悪魔は、つねに神の目を盗むようにして悪事を働くわけだから、当然用意周到に事を運ばざるを得ないのであろう。

ベルヴィル日記(10)

福島亮

 第一次安倍内閣が2006年9月26日に発足し、一年たらずで終了したとき、私は中学生だった。2009年の民主党への政権交代のときは高校生、そして第二次安倍内閣が2012年12月26日に発足したときは大学生だった。時系列的にみると、私の人生の少なからぬ部分が安倍晋三と共にあったわけだ。だからなのか、彼が亡くなって、ぽかんと穴が空いたような気がした。悲しいというのではない。私の実人生において、彼と自民党の主張が具体的に大きな障壁であることは間違いないからである。むしろ、どこかで障壁が崩れるかもしれないという期待の甘さを思い知らされたような気がしてならないのが穴の原因だ。

 ぽかんと空いた穴の奥にあるのは、安倍晋三は「安倍晋三的なもの」に殺された、という思いであり、その思いを私は事件以降拭うことができずにいる。「安倍晋三的なもの」とはなにか、といえば、敵と味方の線引きを政治利用し、その線のうちで、本来問われるべき責任のありかを空虚化するという態度、そして傲慢さである。必然的に言葉もまた空虚化し、常に「立場」だとか、「〜としては」といった限定による保険つきの言葉でしかものを語れなくなる。私がときどき怖くなるのは、そのような「安倍晋三的なもの」を自分のなかに探りあててしまうときだ。たとえば、文章や話をするなかで「保険」をかけてしまうとき、私は内心それを「安倍晋三的な」書き方だとか、「自民党的な」語法だと思ってきた。それはある種の競争社会が構造的に要求するものであり、仕方ないものなのかもしれないが、そもそもこの仕方ないという心情が「安倍晋三的なもの」の養分なのではないか。養分がある以上、「安倍晋三的なもの」は生き残り続けるはずだ。安倍晋三本人を食い破ってしまった「安倍晋三的なもの」は何一つダメージを受けておらず、ますます強固に地上を徘徊しているような不気味さがある。

 空虚といえば、高校時代の世界史の教師がよく言っていたことのひとつに、政治家が形容詞を用いたら用心しろ、という言葉があった。形容詞というのは中身がないから、というのがその理由だった。「美しい」という形容詞がその教師の念頭にあったことは間違いない。実際その通りで、この「美しい」という形容詞には、誰にとって美しいのか、何をもって美しいといえるのか、といった具体性が一切ない。つまるところ、私が中学から大学まで過ごした時間の大部分は、そのような空虚に順応する時間の経過だったのかと思うと、ぽかんと空いた穴はますますその空虚さを増していく。

 この空虚さをおぞましいと感じる感性が、時に摩耗しそうになるのをどうにか堪えたいと思っている。そう思いながら、報道を横目で見ていると、「国葬儀」なるものをコストパフォーマンスという観点から擁護する意見があると知って愕然とした。それは二重の意味でおかしい。第一に、葬儀はあくまで弔いのためにあるべきで、そこにコストパフォーマンスなどという言葉をあてがうのはおかしいはずだ。私は安倍晋三の政治思想にはまったく共感できないが、一人の人間に対する弔いをコストという観点から見ることには吐き気がする。弔い、という行為は、そもそも政治的なものである。であればこそ、兄の亡骸に砂をかけたアンティゴネーは獄死することになるのだが、その政治性すらも引き裂いて、金勘定が顔を覗かせる、その味気なさがおぞましい。そして第二に、こちらの方が重要だが、コストという言葉にこれまでさんざん騙し/騙されてきた挙句、またもや白々しくコストなどと口にできる厚かましさがおかしいのである。東京五輪をみよ。なにが「コンパクト・オリンピック」だ。そもそも、いくらかかるのかまだよくわからない「国葬儀」について、コストを云々する時点で論理としては崩壊している。試算などというものがあっけなく無視され、湯水のごとく資金が投入された「平和の祭典」はそんなに昔の話ではない。

 つらつらとそんなことを思いつつ、窓の外に目を向けると、なんだか賑やかなベルヴィル通りの風景があり、この微かな喧騒は私の耳に快い。7月の中旬は熱波がひどく、いっときは40度近くになった。津島佑子の小説『あまりに野蛮な』(講談社、2008年)を走り読みしていると、その中に露店のスイカに主人公の一人であるミーチャがかぶりつく場面があった。私が住んでいる家にはクーラーがないから、暑くなると窓を開け放し、小説を真似て市場で買ったスイカにかぶりつく。ミーチャが憧れ、決して行くことのできなかったフランスにこうしているのがなんだか不思議だ。赤い果汁を介して、台湾とフランスが結ばれる。

 家の前にあるスーパーに台所洗剤を買いに行った時のことだ。こちらでは店員に対して挨拶をするのが普通のことだから、「こんにちは」とレジの女性に声をかけた。朝10時頃だったと思う。挨拶をしたのは常識だったからである。店員と客の立場がほぼ対等なフランスという国の流儀に倣って、客として当然の振る舞いとして「こんにちは」と言ったのだ。ところが彼女は、「こんばんはって言ってもらえるといいな。じつは昨日夜の仕事があって、頭の中で昼夜が逆転しているから」と言ってきた。日常の中に溶け込んでいた立場主義的な感性から何の気なしに挨拶をしていた私は少々面食らいながら、なんの仕事をしていたの、などと言葉を返し、二言三言会話をする。フランスのこういうところが、私は結構好きだ。あまり理想化するつもりはないが、頭の中が昼夜逆転しているから「こんばんは」の方が自分にはしっくりくる、という彼女は、きっと「安倍晋三的なもの」からもっとも遠い位置にいる。

ウェゲナー

管啓次郎

土地の物語にはどこでも始まりがあったはずだ
それはいつともわからない古来の言い伝えかもしれないし
歴史のあるときに生じた事件の報告だったかもしれない
物語には共有された物語と
まだ共有されない私的な物語がある
それらは循環し
姿を変えてゆく

でも始まりについて
こんな例を考えてごらん
アルフレート・ウェゲナーのことだ

1910年は彼が30歳になる年
この年のある日、大西洋を中心とする世界地図を見ていて
彼にはある途方もない考えがひらめいた
南米大陸の東の海岸線と
アフリカ大陸の西の海岸線は
なぜこんなに似ているんだ?
おいおい、ぴったり重なるじゃないか
これらの大陸はじつはもとひとつで
それに亀裂が入り、やがて分かれていったのではないか

いいかい、それまでに人類にどれだけの個体がいたか知らないが
そんなことを最初に考えたのは彼なんだ
彼ひとりがその歴史を見抜いたんだ
現在われわれが知るような大陸になるまえ
北アメリカとユーラシア大陸はひとつのローラシア大陸
南アメリカとアフリカはひとつのゴンドワナ大陸だった
しかも両者はそのまえには
ひとつの巨大大陸パンゲアだった
それが彼の著書『大陸と海洋の起源』(1915年)の主張
ただ、どうして大陸が漂流をはじめたのかは
彼にもわからなかった

それでもこの物語の比較を絶したすごさは変わらないだろう
パンゲアが土地だった
それが始原の場所だった
人の始まりどころではない
世界の始原のそのはるかにまえだ
そのことは誰ひとり知らなかった
そしてこの土地(パンゲア)の最初の物語を
ウェゲナーが語ったのだ

ぼくは彼の生涯について詳しいわけではない
でも彼の名を聞けばそれだけで
反射的にグリーンランドを思わずにはいられない
天文学者にして気象学者の彼は
気球に乗ってはるかな上空に滞在した
5回にわたってグリーンランドを探検したのち
50歳の誕生日にそこで雪嵐に遭い遭難した
物語はそこまでつづく

彼の理論には何か心を奪うものがある
ヒトという種の進化史には
いくつか恐ろしいまでの頭のよさがきらめいた個体がいただろう
どんな瞬間にその洞察を得たのだろう
たとえば月光が太陽光の反射だということを
最初に見抜いたのは誰?
それはひとりだったのか、それとも
世界の各地で何人もの明察が個別に生じたのか

しかしそんな天才たちだって
ウェゲナーにはシャッポを脱ぐだろう
だってわれわれが立つこのterra firma (不動の大地)が
じつは舟のように漂流をつづけてきたというのだから
なんという物語
足元がゆらいで当然だ
ほら船酔いしてきた
われわれは
不確かだ
水惑星に
ただ浮かんでいる

213 赤い計算機

藤井貞和

字をおしえてくれたのは、あんただから、「私ら、
うれしい」と、小母(おば)さんが言ったこと、
あんたに伝えるね。 貸してくれた、あんたの、あの、
手作りの本。 字が大きいね、『ともだちの本』。 

『ともだちの本』を小母さんは、
声にして読みました。 あんたもうれしいな。
代わりにあげるね、わたしの計算機、
これで会計の資格をとったことがある。

うれしいと思うと、みどりの煙が盆地のそらにたなびく。
みどりの煙が盆地のそらにたなびく。 小川に沿って、
隔離のかべがつづく。 小母さんの奈良をむかし、むかし、
岸辺のない川に喩えたひとがいたけれど。

会計の資格を、あんたもとるために、計算機をあいてに、
机に向かう。 青い細部が点滅する、
蛍光ランプのしたで。 その時、計算機が赤くなり、
どうしても読めない数字が一つ、点滅をくりかえし。

(暑中見舞い、安全でありますように。)

水牛的読書日記 2022年7月

アサノタカオ

7月某日 東京・下北沢の Bookshop Traveller へ。写真家の宮脇慎太郎と訪問。お店には彼の写真集『UWAKAI』ほか、サウダージ・ブックスの本が揃っていて、なんと面出しされている。そこに行けば感謝の念を込めて手を合わさずにはいられない、われらの「聖地」だ。

聖地としての本屋さんを巡礼する旅の道——。それは、オーストラリアの先住民、アボリジニの人びとが歩きながら天地創造の神話を学ぶという「ソングライン」みたいなものかもしれない。ぼくは、書店に限らず土地土地の「本のある場所」でさまざまな物語に出会い、知恵に出会い、それらをつなぎあわせるようにして歩いてきた。本の道、歌の道。自分の中にも、そんな魂のルートマップがあるのだと思う。

夜の下北沢では、古本カフェ・バーの気流舎に移って文化人類学者の今福龍太先生と宮脇くんの対談に参加。『UWAKAI』刊行記念のトークイベント。今福先生は、愛媛・宇和海と同じリアス式海岸の地、スペイン・ガリシアへの旅について語り、19世紀の女性詩人ロサリア・デ・カストロの「風」をテーマにしたガリシア語の詩を朗読。地図で見るとガリシアと宇和海の地形はほんとうにそっくりで、気候風土も似ているみたい。

7月某日 『徳島文學』4&5号をまとめて読む。久保訓子さんの小説は「枯野」も「夜の波」も大変読み応えがあった。ラテンアメリカ文学を彷彿とさせる幻想的な物語、文体のうねり。それらの力に激しく揺さぶられながら、最後の一行に辿り着く頃には途方もない世界へ心がさらわれていく。まさに徳島のマジックリアリズム! 作家の久保さんから直接お話を聞く機会があったのだが、メキシコの作家ファン・ルルフォや、アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルを愛読されているとのこと。深く納得。

5号所収の髙田友季子さん「ゼリーのようなくらげ」も強烈な小説。「地方」における女性に対する有形無形の暴力が主題で読後に重苦しいものを受け取ったが、これは感じることが必要な重苦しさだと思う。文芸誌『巣』で髙田さんは「好きな作家」として韓国の作家チョン・イヒョンを挙げていたが、たしかに「ゼリーのようなくらげ」には『優しい暴力の時代』(斎藤真理子訳、河出書房新社)と通じるものがある。

7月某日 以前、新潟の砂丘館で入手した『記録集 阪田清子展——対岸 循環する風景』(小舟舎)を再読。在日の詩人・金時鐘の長編詩「新潟」が問うものに応える美術家の作品や関連するトークの記録を集成した一冊。いつか阪田さんの作品をこの目でみたいと思う。

7月某日 鄭敬謨『歴史の不寝番(ねずのばん)——「亡命」韓国人の回想録』(鄭剛憲訳、藤原書店)を読みはじめる。日本の植民地支配からの解放後、朝鮮半島の激動の現代史における数々の画期的な現場に立ち会い、亡命者として日本から韓国民主化と祖国統一を訴えた評論家の回想録。翻訳は著者の息子の鄭剛憲さん。

7月某日 参議院選挙の応援演説中に安倍晋三が銃撃されたとの一報に驚いた。日々更新される報道によれば、事件の背後には、日韓の戦後政治史に巣食う「カルト」と反共イデオロギーの存在が見え隠れし、それゆえに鄭敬謨『歴史の不寝番』を読む意味が一段と重みを増す。

7月某日 文芸誌『すばる』8月号で、今福龍太先生の連載「仮面考」4回(金芝河論)、くぼたのぞみさんと斎藤真理子さんとの往復書簡「曇る眼鏡を拭きながら」7回を読む。

7月某日 斎藤真理子さん『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)読了。すばらしい本だった。大文字の歴史が、小さな個人の心身を擦過して行くときに残す具体の痕跡を描き出すのが「韓国文学」の力であれば、研究や評論の高みから傍観するのではなく、あくまでこの時代を生きるひとりの「個」という立場で真正面からそれを受け止めようとする。そんな斎藤さんの読解の姿勢に打たれた。

『韓国文学の中心にあるもの』の随所に「水」の比喩があらわれる。水面下、水圧、水底、波形、沈んでいるもの……。第2章のテーマであるセウォル号以後文学との関連を考えれば、これは単なる修辞ではなくこの本に一段深い意味の襞を刻んでいるように感じられた。

その他、この本を読んで知ったこと。韓国現代美術館で開催された崔仁勲『広場』(1961)をテーマにした企画展。それに合わせて短編小説アンソロジーが編まれ、作家パク・ソルメが『広場』の主人公・李明俊と金時鐘、永山則夫を「密航者」として繋げる作品を寄せているらしい。これはいつか読みたい。また自分と同世代の韓国の文芸評論家シン・ヒョンチョルが、「人生の書ベスト5」で柴田翔『されど われらが日々——』を取り上げたエピソードにも興味を引かれた。1995年に読んだという。この年、自分はどう生きて何を読んでいたのだったか。

7月某日 東京・西荻窪の忘日舎で、韓国の児童&青少年文学の作家イ・グミの小説『そこに私が行ってもいいですか?』(里山社)の読書会に参加。韓国文学を愛読する人びととの出会いもうれしかったし、本書の翻訳者で日韓史研究者の神谷丹路さんによるレクチャーもすばらしかった。この小説については、水牛的読書日記番外編「私たちは読みつづけている」に、2022年5月15日の熊本日日新聞に寄稿したこの本の書評を転載している。

https://suigyu.com/2022/06#post-8276

行き帰りの電車で、韓国のグラフィックノベル作家パク・ゴヌンの『ウジョとソナ——独立運動家夫婦の子育て日記』を再読。こちらも神谷丹路さんの翻訳、里山社刊。イベントのあとに、里山社の清田麻衣子さんから移住した福岡での暮らしに関する話もいろいろと。

7月某日 旅仕度をしていると郵便がどっさり届く。エッセイを寄稿した掲載誌など。『CUON BOOK CATALOG』Vol.3には、「金石範『満月の下の赤い海』について」。こちらは、先月クオンから刊行され、編集を担当した小説集の紹介。そして『現代詩手帖』2022年8月号、特集「わたし/たちの声 詩、ジェンダー、フェミニズム」には、「『女性』と『詩』に関わる本の編集を通じて」。ペリーヌ・ル・ケレック『真っ赤な口紅をぬって』(相川千尋訳、新泉社)のことなど。特集は非常に充実した内容で、旅から戻ったらしっかり読みたい。

7月某日 早朝、自宅の最寄駅からバスで羽田空港へ行き、飛行機で山口宇部空港へ。JALの機内誌『スカイワード』をぱらぱらみていたら、リトルプレス『ライフ 本とわたし』の写真家・疋田千里さんのごはんの写真を見つけた。

山口・阿東の農場で取材をした後、湯田温泉の中原中也記念館へ。家族宛の中也の手紙を鑑賞。《さあこれから郵便局に行ってそれから本屋に行きます。ああ、本を買うことは嬉しい!》。本好きの人間がやることと考えることは、昔からたいして変わらないんだな、と思った。

暑いけど、吹く風が気持ちいい。湯田温泉の駅前をぶらぶらしていると、《本当の出会いのなかで人は何度も新しい自分を発見します》というメッセージとシュールな絵画を看板として掲げるポラーノ文庫を発見。扉をひらいて店内に入ると、雑多な書物と雑貨のラビリンス! ここはかなりすごい古本屋なのではないだろうか……。心の準備ができていなくてあまり本を買えなかったのが悔やまれる。購入した柴田翔『されど われらが日々——』(文春文庫)を旅先の宿で読みはじめる。

7月某日 柴田翔の小説「ロクタル管の話」(『されど われらが日々——』所収)、これがなかなか興味深い。のっけから臆面なく開陳されるラジオ工作少年《ぼく》のオタク語りにひるんだが、この難所(?)を越えると、物語の世界にひたひたと押し寄せる「不穏な歴史」の影の方へ引き込まれていく。

不穏な歴史というのは、朝鮮戦争のこと。1960年初出の柴田翔の小説「ロクタル管の話」への関心は、最近読み続けている斎藤真理子さん『韓国文学の中心にあるもの』より。朝鮮戦争と日本語文学の関係を語る文脈の中で、この小説のことが紹介されていた。

そして斎藤さんの『韓国文学の中心にあるもの』を介して、ロクタル管=真空管をめぐる想像は、時代と場所をこえて韓国の作家ファン・ジョンウンの小説「d」につながってゆく。セウォル号事故以後の現代、主人公のdがさまよう暗い路地「世運商街」にも真空管があった。こちらは、ファン・ジョンウンの作品集『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)に収録。

7月某日 湯田温泉から新山口まで、平日午前中のローカル線がのんびりしていていい感じ。地元の高校生や大学生がちらほらと。新幹線に乗り換えて新大阪へ。そのまま緑地公園の blackbird books を訪問し、画家のマメイケダさん『ふうけい3』(iTtohen Press)を購入。旅の風景画をまとめた冊子で、移動中の気持ちにしっくりきた。店主の吉川祥一郎さんのメッセージを印刷した紙片も挟んである。

7月某日 神戸・栄町の本屋 1003 へ。移転後のお店をようやく訪ねることができてうれしい。以前に増して、ゆったりとした気持ちのよい本の空間に。文芸誌『オフショア』を主宰する山本佳奈子さんのエッセイ『個人メディアを十年やってわかったこととわからなかったこと——オルタナティブ・ネット・音楽シーン』(オフショア)を購入。これはおもしろそう。

元町から阪急の王子公園駅へ移動し、古本屋ワールドエンズ・ガーデンへ。こちらもひさしぶりの訪問。『翻訳文学紀行Ⅲ』(ことばのたび社)と、編集者の故・安原顯の著書(古本)などを購入。「スーパーエディター」を自称したヤスケンのことが、あらためて気になりはじめている。店主の小沢悠介さんと一緒に近所のゲストハウス萬屋に挨拶。オーナーの朴徹雄さんらが、韓国文学の読書会を開催しているそう。

7月某日 大阪・松原にある阪南大学の総合教養講座でゲスト講義をおこなう。国際コミュニケーション学部の教授で、ノンフィクション『歌は分断を越えて』(新泉社)の著者である坪井兵輔さんのお誘い。テーマは「編集とフィールドワーク——「つたえる」の意義を考える」。夏休み前の最後の授業ということで、だらだらしゃべらないようにし1時間ほどでスパッと切り上げた。

それにしても、大都市の灼熱地獄のような暑さはひどい。影のない歩道を数分歩いているだけで、焼き殺されるような気持ちに。

7月某日 大阪・淀屋橋のCalo Booksop & Cafe で2冊本を買って店主の石川あき子さんとおしゃべり、おいしいスパイスチキンカレーをいただいたあと、歩いて北浜のFolk old book storeへ。昨年末、代表の吉村祥さんがお店のとなりに子どもの本屋「ぽてと」をオープン、こちらははじめての訪問。「ぽてと」でFolk が発行するブックガイド『肝腎』を入手。暑い。

7月某日 大阪から京都へ移動し、古書・善行堂へ。店主の山本善行さんと久しぶりにゆっくり話すことができた。これからの本作りのことなど。京都から新幹線に乗り、帰路につく。車内で、善行さんが編集した『文と本と旅と——上林曉精選随筆集』(中公文庫)を読む。「人」をテーマにした随筆がすばらしい。おみやげにもらったフリーペーパー『かげ日なた』もよかった。

7月某日 旅先で訃報に接した。尊敬する出版者・編集者・詩人でトランジスタ・プレスを主宰する佐藤由美子さん。旅から戻り、佐藤さんがオーナーをつとめた新宿のカフェ・ラバンデリアへお別れの挨拶をしにいった。本当はお別れでない挨拶をしたかったのに……。サウダージ・ブックスを最初期から応援してくれて、本作りについていろいろなことを教えてくれた恩人。佐藤さんと旅の話を、本の話をもっともっとしたかった。

1950年代のアメリカ発、ビートニクの精神を継承し表現するトランジスタ・プレスの本はどれも最高にかっこいい。京都・誠光社店主の堀部篤史さんが、ヤリタ・ミサコさん『ギンズバーグが教えてくれたこと——詩で政治を考える』を絶賛している。《著者翻訳による5編の詩とその細部に及ぶ解説を添えたポケットサイズの非常に美しい上製本》

https://www.bookbang.jp/review/article/528146

7月某日 昨晩につづいて、カフェ・ラバンデリアへ。今日という日で、佐藤由美子さんとほんとうのお別れ。美しい人は、美しい野の花に囲まれて、最後まで美しい人だった。棺には、彼女が心を込めて作ったビート文学の本たちも。佐藤さん、本当にありがとうございました。長い長い旅の道、どうか安らかに歩いていってください。涙がとまらなかった。

赤ベコとウクライナ

さとうまき

ロシアのウクライナ侵攻が始まってから5か月がたった。ニュースは毎日ウクライナ情勢を伝えてはいるが、人々の、いや明らかに僕の関心は薄れている。それは悪い事ではない。僕はイエメンとかシリアのことをやんなきゃいけないので「黄色と青」に染まっているわけにはいかないのである。

そんなある日、松戸の古い友人がいきなり電話をかけてきた。
「ウクライナのチャリティイベントを知ったんだけど、あなた、興味あるでしょ」
松戸の美術家協会が、松戸在住の作家から作品を寄付してもらい販売することで、収益を松戸市に避難してきたウクライナ人に寄付するらしい。
「あなたも作品出しなさいよ。主催者に電話しといたから」
友人は人のいうことは聞かない。ほっとくと一人でしゃべり続けるが主語がよく抜けるので要領を得ないことが多い。
「はあ? 作品って? 僕は、ウクライナ行ったことがないし、松戸にも関係ないし」
「聞いたら、あなたのような国際協力やっている人に参加してほしいって。松戸市民でなくてもいいって!」
なんでも、近所のアパートにウクライナ人が越してきて、ごみの出し方をやさしく(厳しく)教えてあげているうちに国際協力に目覚めたらしい。
「ともかく主催者の版画家の宮山先生には話はついているので、ちゃんとHP見てから連絡して」
と言われて電話が切れた。

HPを調べてみる。宮山広明氏の作品は、6枚の銅板に色を混ぜて刷られており、一見日本画のような繊細な花が色鮮やかに描かれていた。「花は様々な役割を果たすモチーフである。だが多くの人は、誰に教わることもなく花に人の心を見る。歴史という直線は、人の心を得て広大な面として立ち上がる」という。こんなすごい人たちが作品を売るわけで、第一僕がなにか描いたところで、売れもしないから全然貢献できない。そもそも何を描くのか? 時間もない。

また友人から電話。
「先生に連絡した? あなたに会いたいって言ってたわよ」としつこい。
僕はたまに、はったりをかますことがあるから、先生が誤解していると困るので、ともかくお会いして断ろうと思った。というわけで好奇心もともない、アトリエを訪問することにした。先生はすい臓がんを患っていらして、病院から帰ってきたところだという。化学療法の影響か、顔色は土色に焼けていた。「肺に転移していることがわかり余命数年と言われてますが、あと数年生きれば、新しい薬ができるから、自分は死なないんですよ」と前向きだ。同時に今できる事をやらないと明日はわからないという覚悟も感じた。何とかこの先生に協力したいと思い始めた。

それで、赤ベコを作ることにした。赤ベコは、2011年福島原発事故の際には復興のシンボルとして注目された会津の郷土玩具である。当時はウクライナから専門家が来ていろいろ日本を助けてくれた。私たちもチェルノブイリの経験を学ぼうと必死だった。ガイガーカウンターがなかなか入荷せず、やっと手に入いれた日本製の物は、高い割には数値があてにならない。何台か買い換えて、ウクライナ製の物に落ち着いたのを思い出す。今度は、ウクライナが大変な時だから、赤ベコで恩返しだ。

使用済みのコーヒーフィルターでボディをつくる。これは、イエメンへの思いを表現している。実は、僕は1994年にイエメンの工業省で2年間働くはずだった。しかし、たったの一か月で戦争になり追い出された無念さがある。2015年にはまた内戦になり、今世紀最悪の人道危機とまで言われている。イエメンはウクライナ産の小麦を輸入していたので、戦争の影響をもろにうけ、食料危機に拍車がかかっているのだ。僕は、最近イエメンのモカ・コーヒーを買って何とかイエメンを豊かにしたいと思い、ひたすらイエメン・コーヒ―を飲んでいる。フィルターも捨てずにとっている。そこに、図書館から廃棄する英字新聞を貰ってきて、ウクライナ戦争のキーワードを切り出して、黄色と青のマスキングテープで貼り付けていくのだが、黄色と青はきれいなコントラストとは裏腹に僕には不安や恐怖を掻き立てる色になってしまった。そんな、わさわさした今を表現してみた。

宮山先生の展覧会は無事に終了した。そもそもこんなものは、あんまり売れるものでもなく、幸いなことに材料はリサイクルなのであまりかからないが、伝統的な張り子の技術を使うので手間暇がやたらとかかる。今回は値段を下げて買いやすくするというコンセプトだったので全部売れて何とか貢献することができたが、版画と違い複製がきかないから費用対効果がわるい。

それに比べて、NGOのウクライナ支援はすばらしい。日本政府は、2億ドルの人道支援と6億ドルの財政支援をウクライナに約束した。日本円で合計1000億円ほど。35億円がジャパンプラットフォーム(JPF)という援助業界を牛耳るNGOを通して8団体で分け合うそうだから一団体4億円が取り分だ。もっとも、計画中のNGOも含めると20団体になるそうで、そうなると一団体当たりの取り分は1.7億円くらいに減ってしまう。そこで、民間からも5億円集めようとHPで呼びかけている。援助ビジネスにのっかればお金も集まり、援助団体も儲かり、ウクライナの人たちもハッピーになる。それに比べたら、なんで僕はこんなに効率の悪いことやっているんだ?と時々反省する。「ま、いいか」と納得するしかないのだが、ジャーナリストは、どうなんだろう。

戦争取材はお金もかかるが、映像は高値で売れる。ドキュメンタリー写真家の森佑一さんは、協力隊でヨルダンに行き、その後写真家に転向した。数年前に内戦下のイエメンを取材したが、金がかかり、殆ど回収できてないと言ってた。ウクライナと違って、イエメンはもともと注目されていない。今回は、うまく回収できるだろうと見守っていたが、現地では取材そっちのけでボランティアをしていたというから、なんとも費用対効果の悪い取材になってしまい、またしてもほとんど回収はできていないそうだ。

そこで、僕たち2人で費用対効果の悪い展示をしようということになった。ま、そういうのもいいんじゃないか?
8月15日(月)~8月28日(火)下北沢のギャラリーカフェ&バー、ルーデンスにて詳細は以下
https://www.facebook.com/events/719106075825835/

しもた屋之噺(246)

杉山洋一

家人の演奏会を聴くため、ミラノから乗った特急でバルレッタまで、アドリア海に沿って南へ下っていて、列車は程なくフォッジャに着こうとしています。つい先ほどまで、燃え立つような夕日が一面を黄金色に染め上げていましたが、今は遠くの地平線あたりが、微かに紅を帯びて浮かびあがるばかりで、そのすぐ背後には、低く漆黒の帳が果てしなく広がっています。ミレーを思わせる薄暗い日暮れのなか、見渡す限り続く田園風景に風力発電の風車が静かに回っていて、その姿は幻想的ですらあります。

 ——

7月某日 フィレンツェ・ポンテ・ヴェッキオ近くの貸部屋
部屋を借りるのを忘れていて、直前になって慌てて劇場近くのホテルを探すが、万事休す。運よくここに無人の部屋貸しを見つけた。とにかく邪魔されずに仕事だけしたかったので、寧ろ都合がよい。昨日の夕食は近くのスーパーで見繕った鯖缶、サラダにチーズにパン。今日の朝食は、昨日買ったスモークサーモンに、湯沸かしで作った茹で卵二つとヨーグルト。怪しげなホテルを取るより安価で充実していて、すぐに食べられるので便利だ。街は観光客の人いきれで、特にこのポンテ・ヴェッキオ界隈は芋を洗うよう。
息子が未だ幼かったころ、二人でフィレンツェを訪ねて、この橋の辺りで写真を撮った。写真を見返すと、彼は小学生半ばのようだが、何故二人きりでフィレンツェに来たのか、全く思い出せない。
リハーサルの合間に、4年ぶりにダニエレと再会する。ボルツァーノで会って以来だ。かの地のオーケストラ芸術監督の任期が満了となり、今年からフィレンツェで手腕を揮っているという。ただこの齢だからね、芸術監督ではなく、あくまでもアドヴァイザー役でね、と謙遜していた。オーケストラの雰囲気はすこぶる良い。第二ヴァイオリンのトップは、まだミラノで学生だった頃からよく知るフランツィスカであった。3年前からここで家庭を築いていて、小さな娘もいる、と嬉しそうだ。昼食は劇場前のバールでモチ麦を食すが、大変美味である。少しくすんだ雰囲気のヴェルディ劇場は重厚なファシズム建築で、ロビーに並ぶどっしりした大理石の円柱が荘重。愉快なのは、昼食休憩中に劇場もシャッターを下ろして閉めきってしまうところだ。午後練習の開始時刻近くまで団員は入口で屯して待っていて、開始5分前に突然シャッターが開いて、皆慌てて雪崩れ込んでいったが、これが日常茶飯事なのだろうか。
 
7月某日 フィレンツェ・貸部屋
昨日のマーラーのリハーサルと違って、ノーノの練習には一貫して、この音を是が非でも引出す、揺ぎ無き信念が必要である。尤も、予想より演奏者の呑み込みがずっと早かったので、とても助かった。何しろオーケストラ団員に雑じって、キジアーナ音楽院の学生もいるから、それぞれ特殊奏法もていねいに説明しなければならないし、強音はどうしてもオーケストラ演奏の常識的範囲で演奏するので、先ずはその先入観を崩し去り、全く新しい演奏の空間を提示し、且つ共有しなければならない。書いてあるものを書いてある通りに演奏するだけでは、恐らく不十分なのである。書いてある記号の解釈をノーノの尺度にまで展開させなければ、演奏は成立しないし、その展開方法を互いに齟齬なく共有しなければ、唯一無二の巨大で強靭な表現とはならない。微分音程も、それぞれが正しい微分音を演奏しようとすると、ただ混沌とした響きしか生まれないが、中心音から各人が耳を使って協和させようと努めれば、互いに離れて配置された7つのグループ通しで4分音のきざはしを渡しあいながら、陽炎のような光度をもった響きが動いてゆくのが見える。一旦4分音の目盛を可視化さえできれば、微分音は思いの外美しく、明確に響く。2000年にエミリオと一緒にプロメテオを演奏した折々の記憶が、不揃いのモザイクのように、陽光を受けながら不規則に明滅する。
練習後、団員に旨い食堂を尋ねると、トスカーナ料理なら劇場裏のOsteria dei Pazziが一番と言う。リハーサルを訪ねてくれた浦部君を誘い、ごくシンプルなトマトのパスタSpaghetti alla Carrettieraを頼んだが、余りの美味に驚愕する。
トスカーナ地方、特に内陸部のフィレンツェ近辺で残念なのは、この一帯は、やはり肉料理が真骨頂であることだ。フィレンツェ風ビフテキは言に及ばず、内臓料理や猪肉のラグーなど、今となっては食べたいとすら思えないのが我乍ら恨めしい。
 
7月某日 シエナ・ホテル
最後にシエナを訪れてから20年以上経つ。どこまでも続くなだらかな丘の稜線が、初夏の光線に眩くけれど、同時にしっとり落ち着いた佇まいも見せていて、気品が香るようだ。10時にフィレンツェ劇場前から皆でマイクロバスに乗り、12時過ぎホテル着。今年の1月、ミラノ国立音楽院オーケストラで弾いていたコントラバスのファブリツィオと再会を喜ぶ。先日、スカラ座のオーディションに最後まで残りながら、最終試験直前にCovid-19陽性で失格となってしまった、と悔しそうに話した。
道中南部訛りの運転手と四方山話に花が咲く。何でも、長くストックホルムに暮らしていたが、当時の妻と離婚し、流れ着くままイタリアに戻ったと言う。子供も2人、スウェーデンの元妻のもとに残してきたそうだ。今は新しいイタリア人のガールフレンドと暮らしながら、シエナで観光タクシーの運転手をやっている。シエナは娯楽が一切なくてつまらない街だ、シエナ人は旧態依然とした、頭の固い連中ばかりだと繰返していたが、かなり変わった観光タクシーの運転手なのだろう。あれで仕事になるのか、気掛かりである。
昨日がパリオ祭だったので、カンポ広場には競馬用の土が残っている。キジアーナ音楽院入口にはノーノの看板が立っていた。最初にここを訪れたのは丁度30年前の1992年7月20日前後で、その時に初めてドナトーニとも知合った。30年後に演奏会のために戻って来るとは、想像もできなかった。当時は指揮など全く興味もなく、勉強すら未だ始めていなかった。つくづく、人生とは不思議なものだとおもう。
理由は何であれ、こうして再訪すると強烈な郷愁に襲われる。30年前、2か月暮らしたアパートは、今も同じ緑色の雨戸をつけていて、昨日のパリオ祭で優勝した「ドラゴン」チームが、細い路地の2階に誂えられた小さな鐘を、景気よく打ち鳴らす。その周りには若者が賑々しく集い、小太鼓とシンバルで行進の調子を整えていた。
街の風情は以前のままだが、目抜き通りに軒を連ねる店だけが入れ替わっている。一瞬、時間は止まったままに感じられたが、昔は点在していた、場末の鄙びた立ち飲み喫茶など、今や姿かたちもなく、隔世の感を強くした。
歴史的中心街を一回りしたが、食欲をそそるめぼしい食堂は見つからなかった。その代り、ホテルにほど近いOsteria Nonna Gina食堂は素朴な佇まいで、迷わず暖簾をくぐった。
グリーンソースのニョッキと、カボチャの花のフライ、それに玉葱のオーブン焼きを注文したが、どれも心から堪能した。
夕刻、街角に立つと、方々の教会の鐘が美しく鳴り響いていて、そのほのかな彩の端麗さに鳥肌が立つ。シエナが、これほど強烈な印象を搔き立てる街とは、露ほども想像していなかった。
当時、30年後の地球の世情など、誰が予見できただろうか。あの頃はエイズが社会問題になっていて、ヨーロッパを訪れるのすら、多少の恐怖を覚えた。
ふと気が付くと、ホテル横から伸びる、だんだら坂の眺望には覚えがあった。その昔級友たちと連立ち、この道を辿って先の教会へと夜の演奏会に出かけたのである。ウーギとカニーノの室内楽演奏会ではなかったか。今は、この真赤な夕日に染まるトスカーナの丘稜をなぞりながら、鳩やツグミの啼き声を耳にするだけで、思わず涙が零れそうになるのは何故だろう。あの頃、自分は本当に無知で無頓着であった。もしかしたら、当時は当時なりに沢山感動して、一所懸命その瞬間を生きていたのかもしれないが、今や何も覚えていない。
 
7月某日 シエナ・ホテル
ドロミーティのマルモラーダ山から氷河崩落。12人死亡。2004年から2015年の間に、この氷河の割合は30%から22%に減少。今後20年から25年の間に消滅すると予測されている。異常な熱波が原因というが、いよいよ世界規模で気候変動が顕著になってしまった。
 
7月某日 ミラノ自宅
今朝はイタリア全国でタクシーがストライキをやっていて、ホテルからシエナ駅まで、イギリス人の老夫婦と一緒にマイクロバスで送ってもらった。
厳格な審査を通過し、大枚はたいて漸く落掌したタクシー運転証を、今後はウーバーの運転手にも等しく供与、と政府が提案したのだから、タクシー協会が激昂するのは当然である。
シエナからフィレンツェに向かう二両編成のローカル線は、観光客と通勤客が相俟って、文字通りの鮨詰め状態になった。ドアが壊れているのか、10秒ごとに低いアラーム音が鳴りつづけて姦しい。
昨日の演奏会直前、短いドレスリハーサルが終わったところで、第一ヴァイオリンで弾いていた男に声をかけられる。
「最初のリハーサルで、あんたが微分音云々言っていたときは、何冗談言っているのかと笑っていたが、耳が慣れてくると、あんたの言う通り聴こえてくるものなんだねえ。こりゃ驚いた。目から鱗が落ちるとはこのことだ」。
ミラノのタクシーも当然ストライキ中なので、中央駅手前のミラノ・ロゴレード駅で下車し、のんびりバスを乗り継いで帰宅した。昼食を摂り昼寝して、陽に翳りがみえたところで庭の芝刈り。
 
7月某日 ミラノ自宅
昼過ぎ、浦部君と一緒に在チューリッヒでイタリアを旅していた増田君来訪。この処酷暑が続いていて、最初に西瓜とメロンを出して喉を潤してもらった。
今や庭に大きな叢をつくるセージを摘み、玉葱のパスタに加えた。彼ら若者にはサラダと一緒にソーセージなど焼いて出す。増田君はチーズとワインを、浦部君はジェラートを土産に持ってきた。二人とも、何某か方法を見つけて、このままヨーロッパに残りたいと希望している。不安と期待が入り雑じった彼らの話に耳を傾けつつ、その昔、この時期になるとエミリオがたびたび自宅に招いてくれたのを思い出していた。
奧さんや子供たちがヴァカンスで田舎に出かけ、演奏会シーズンも終わったちょうど今頃、適宜あり併せの食材で、シンプルながら美味な料理を、手際よく用意してくれたものである。
食事も終わり、彼らを送り出そうとする頃になって、外に駐車していた青い小さな自家用車のなかで、少年が喚いているのに気が付いた。周りには少年を執成そうとする母親が姿もみえるが、手に負えず困り果てている。喚く、というより泣き叫んでいるようでもある。事情は判らないが、兎も角悲嘆に暮れ、放っておいてくれよ、と怒鳴るばかりだ。
皿を洗い終わっても未だ叫び続けているので、流石に心配になって、水筒に氷水を入れ、母親のところへ届けに行った。
「大丈夫ですか」と尋ねると、母親は「大丈夫ではないどころか、彼は今絶望の淵にいるのよ」と深く溜息をつき、頭を抱えてしまった。聞けば、子供のように喚き続ける少年は実は既に18歳で、恋煩いに嘆き苦しんでいると言う。相手の少女は未だ15歳で、彼女の両親が交際には若すぎると反対していた。
「兎も角わたしが届けても取り付く島もないので、申し訳ないけれど、あなたがこの氷水を届けてやって貰えないかしら」。
相変わらず車中で泣き叫ぶ少年のところに赴き、「ほら、氷水だよ」と水筒を差し出した。すると、突如泣き止んだかと思うと、「ありがとう」と素直に受け取ったのには、寧ろこちらが驚いてしまった。余程喉が渇いていたのか、一心不乱に喉を鳴らして飲み始めたので、安心して家に戻った。
すると、すぐに浦部君から電話がかかってきた。何でも増田君が拙宅にパスポートを置き忘れていったらしい。彼はチューリッヒ行の長距離バス乗り場で気が付いたらしい。
確かに床に黒の書類入れが落ちていたので、慌ててそれを拾って、自転車でロット駅まで届けようと玄関を出たとき、前の中学校庭のあたりを、件の少年が静かに歩いていた。
彼はやさしく車椅子を押していて、凛とした風情の黒人の少女が坐しているのが見えた。
 
7月某日 ミラノ自宅
目を覚ますと、家人から「あべさんがうたれた」とメッセージが届いていた。夕方のレプーブリカ紙には「日本のSP、犯人に気づかず」とある。
町田の両親はワクチン4回目接種。引続きファイザーとのこと。母だけ青痣が浮き出てきたが、副反応はないらしい。
息子は東京から愉しくシエナの外国人大学のオンライン講座を受けているそうだ。ミラノ生まれだから伊語の発音ばかり良くて、しかし内容が伴なっていない、と本人は気にしているらしい。
 
7月某日 ミラノ自宅
昼前に歯科に行き、残っていた一方の親知らずを抜歯。その場で抗生物質を飲むよう指示され、錠剤を口に放り込む。しかし、麻酔が効いていて薬が口に入ったか、呑み込んだかも判然としない。話すこともままならないが、それでも何とか看護婦にその旨を伝え、口を覗き込んでもらって、薬を無事呑み込んだことを確認。ロシアからドイツへのガス供給停止。
 
7月某日 ミラノ自宅
余りに日中が酷暑なため、日暮れを待ってマリゼルラの家を訪ねる。先日のシエナの話を彼女が聞きたがったからだが、会ってみると、思いがけず戦争の話ばかりになった。
マリゼルラの父は調律師であった。パルチザンではなかったが反ファシストで、黒シャツ隊が通りかかっても敬礼もせず背中を向けていたと言う。ファシストたちに告発されると、彼らの家のピアノを無償で調律しては、見逃してもらっていた。
戦時中、彼らファシストは、ユダヤ人など強制収容所に連行された家族から、留守宅の鍵を預かっていたのだが、実際は留守宅から家財を盗んでは売飛ばしていたという。マリゼルラの父は殆ど戦時中の話をしなかったそうだが、彼らを警察に告発しなかったことを最後まで悔やんでいた。
自宅の入っていたアブルッツォ通りのアパートは爆撃で崩壊したが、マリゼルラや彼女の兄、母親は疎開していて、父親は防空壕に避難していて無事であった。崩落したウクライナのアパートの写真を見るたび、当時のミラノを思い出すと言う。大戦中、ミラノはイタリアのなかで最も爆撃を受けた都市の一つであった。
ロマーニャ地方出身のマリゼルラの母は、若い頃、むしろファシスト党の婦女子社会協力隊の活動を愉しみにしていた。それが友人と外出できる唯一の機会、という他愛もない理由からだが、友達と気兼ねなく話せる貴重なひとときが、実はファシスト活動と知ったのは、それからずっと後、マリゼルラの父と結婚して、ファシズムの事実を理解するようになってからだった。
女性に初めて選挙権が与えられた時は本当に興奮して、彼女は朝の7時から投票所入口の階段に座って開場するのを待っていた。そんな時代であった。
43年1月にマリゼルラが生まれたのは、当時ムッソリーニが創設したばかりのニグアルダ病院であった。その日は大雪で灯火管制がひかれていて、マリゼルラの父親はロレートから遠く離れたニグアルダ病院まで、生まれたばかりの娘見たさに、雪の中を必死に歩いてきた。
戦争が激化し、彼女の母親はマリゼルラや彼女の兄を連れ、故郷のロマーニャ地方に疎開していた。しかし或る時、このままどうせ死ぬのなら家族一緒で死にたいと心を決め、幼い子供たちを抱えて、夫の待つミラノに戻ったという。
 
ロレート広場に吊るされたムッソリーニの死体を、母親は子供たちに見せたがらなかった。それでも彼女の兄は、一度通りかかって目にしてしまい、その姿は目に焼付いたまま今も取れないという。昨今のウクライナ報道を目にするたび、マリゼルラは両親の話を思い出す。もし母が存命だったらどれだけ悲しんだか、と声を落とした。
戦時中、国立音楽院の教師はファシスト党に忠誠を誓わなければ教職を続けられなかったが、それを拒否して身を潜めるものも多かった。そんな中にあって、音楽学者フェデリコ・モンペ―リオ(Federico Mompellio)は、図書館に保存されていた貴重な自筆譜資料全てを、自らの手で運び出し戦禍から守った。彼は反ファシストであった。
53年にマリゼルラが国立音楽院に入学したとき、爆撃を受け大破したままだった大ホールは、ぽっかり口を開いた巨大な穴でしかなかった。ミラノ市民が真っ先に再建したのは、スカラ座劇場であった。
再建されたヴェルディ・大ホールの杮落しには、音楽院の全学生、全教師、全関係者が集って、演奏会を催した。弦楽器、管楽器などオーケストラに参加できる学生、教師は全員オーケストラに参加し、マリゼルラらピアノ科学生などは合唱に参加し、国歌やその他の作品を演奏したというから壮観だったに違いない。その中には恐らくドナトーニも教師として参加していた筈だが、当時は互いに顔すら知らなかった。
ドナトーニが住んでいたヴェローナは、ナチス傀儡政権のサロ共和国のすぐ隣にあったので、若者はSSに捕らわれないよう、1年間は防空壕や教会などに隠れて、息を潜めて暮らさなければならなかった。SSはドナトーニくらいの若者を捕まえると、すぐさまファシスト軍の兵隊として前線に送り込み同郷人との戦闘を強制した、今日のドネツク共和国の内情は、実際どうなのだろうかと、考え込まずにはいられない。
ドラギ首相、2回目の辞職願をマッタレルラ大統領に提出。ドラギ首相を見ていると、先般の菅総理の姿と重なる部分が多い気がする。就任から辞任まで、立場は随分違うけれども、どこか近しいものを感じる。
 
7月某日 ミラノ自宅
異常気象で水不足が続く。スペイン・ポルトガルでは熱波により既に1700人死亡の報道。ミラノの北部鉄道では車両の冷房故障などが相次ぎ、軒並み運休。空港職員のストライキと相俟って、イタリアでは空の便400便欠航。ミラノ地下鉄パッサンテは来週火曜まで運行停止。世界保健機関がサル痘緊急事態宣言発表。
国会で万雷の拍手に迎えられたドラギ首相は、感激のあまり、思わず「中央銀行員の心も、時として動かされることがあります」と述べた。余り感情を表に出さない、彼らしからぬ言葉であった。この一週間ほど前に、彼は自分のお気に入りの笑い話として、次のようにスピーチしていた。
心臓移植患者に向かって主治医が言う。「ここに二つ心臓があります。頗る壮健な18歳スポーツマンの心臓と、84歳中央銀行員の心臓。あなたはどちらをご希望ですか」。
「先生、そりゃもちろん84歳の中央銀行員の心臓です」。
「おや、それはまた何故です」。
「今まで一度として使われてないからですよ」。
心と心臓はヨーロッパ語では同意である。
世界銀行や、イタリア銀行総裁、欧州中央銀行総裁を歴任したドラギらしいスピーチであった。
 
7月某日 ミラノ自宅
家人が演奏会のためにミラノに帰宅したので、息子は東京に一人で滞在中である。こちらから連絡をしても、返事も寄越さぬ彼が、突然ヴィデオ通話をかけてきた。画面にはラーメン店の自動券売機が映っていて、どうやって買えばよいのか、どれを買えばよいのか判らないと言う。「ラーメン」を選ぶと麺だけ出てくるのではと心配している。
食べ始める段になって、どこから食べ始めたらよいかと改めてメッセージを送ってきた。蘊蓄を詰め込みすぎているのだろうか。順番など決まっていないと言っても、納得していない様子であった。
食べ終わったところで、改めてメッセージが届く。スープは全部飲まなければいけないのか、と至極心細い風情である。当然ながら、飲みたくなければ残してよし、と返事を認める。ところで、ラーメンは旨かったかと尋ねると、食べる時に麺を啜れないのが恥ずかしいし、味もしつこいので余り好きではないとのことであった。
 
7月某日 ミラノ自宅
「ウクライナのバラードUkrainian Ballade」自作自演。
ウクライナ・ナショナリストの行進曲”We are born in a great hour”とウクライナ国歌、ギリシャ正教葬送歌断片をもとに作曲。これを書かなければ次の作曲ができない、単にその衝動に駆られたものだ。書かずにはいられなくて作曲したため、誰に演奏を頼むわけにもいかず、結局自分で弾いて簡単に録音した。数音間違えてしまったが、さほど気にもならない。自己満足と言われればその通りだと思うし、音楽作品として成立しないと批判されても、特に返す言葉も見つからない。自作自演の録音など、大学時代の焼酎のコマーシャル曲以来である。
それでも、ヴァイオリンのアルテンはとても感激していたから、やはり書いてよかったと思う。彼が未だキーフに戻らずここに居るのを知って、少し安心した。弾いたものを聴き返しても、陰鬱なばかりだから、演奏会で聴きたいとも思えない。社会的な主題に則りつつ、作品から社会性が根本的に欠落している。そういう音楽の成立もまああるのだろう。
我々はどこに向かうのだろう。我々が長年培ってきた文化や文明に、未来はあるのだろうか。
(7月31日 レッチェ行特急車内にて)

影の輪郭

高橋悠治

指を伸ばして触れた感じ。指がすべって先へ行く。先は見えない。手は動いて、向きが変わっているかもしれない。手首から先のどこかへ伸びてゆく、指先の触れたところの冷えた手触りが、たちまち慣れた滑らかさに消されていくうちに、古い鏡が曇りながら描き出す地図は、鉛筆を持った手を、眼で追いながら紙の上を辿る物の輪郭とはちがう。眼を向けないで、頭の内側で膨れ上がっていく形のない動きの蝋の積もる滴り。

物音が一瞬途切れた時、耳の奥で張りつめる蝉の声。一度気がつくと、物音のざわめきの裏にその唸りが張り付いているばかりか、首から肩へ、左右の空気に滲み出し、細波を立てて囲みかかってくる。

物の縁を光らせる輝きの線ではなく、縁の外側にある見えない空気の側からぼんやり霞んでいる、何もない空間の縁取り。音が始まる前、また途絶えた後の、聞こえない窪みに薄く辿る北の木魂。

直接考え、書き表し描き出せない、言葉を連ね論理の鎖で示せない、一つのイメージ、ひとこと、響きの崩れで、それではないところに心を向けることが、できるのか、届かず落ちる弾みが、消える姿でそこにあるはずのない輪郭を顕すのか。そこには、「なぜ」もなく、「どのように」もありようのない、1音の次の1音、というより、一手の次の一手、どこへとも知れず彷徨う手の偶然の出会いを待つしかないように思われる。ただし、音もそれを運ぶ手、聞き取る耳も、静まり、細い小径を乱さないでいられるならば…