しもた屋之噺(260)

杉山洋一

朝焼けがきれいな季節になりました。夏の酷い嵐に耐えた庭の樹は、どこかやつれて見えます。
雨ざらしだったマンション入口の天井は全て夏の嵐で剥げれ落ちていて、掃き集められたガレキが、玄関下に山積みになっています。外装がとれ剝き出しになった骨組みも、どこもすべて降り曲がっていて、どれだけ強烈な強風にあおられたのか、想像がつきません。今年のような異常気象が今後続かないことを、心から祈るばかりです。

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9月某日 三軒茶屋自宅
伊豆熱川に住む義父母と熱海で落合い、「スコット」にて昼餐。あわびのコキュールが大変美味しい。エスカルゴに舌鼓を打ちつつ、肉と魚、どちらに近い料理なのかと自問。
パンデミックがあって、義父母に会うのも3年ぶりだったが、思いの外元気そうで安堵する。息子と家人の顔に会って、彼らの顔もすっかり綻んでいた。
食事のあと海岸沿いを歩いて、駅へむかう。隣の湯河原はよく知っているが、熱海はまるで雰囲気が違って新鮮だ。熱海に比べて、湯河原はずっと規模が小さいのかもしれないとおもう。義母行きつけの喫茶店「讃」にて一同喉を潤して、解散。
熱海駅からスコットに向かう道すがら、タクシー運転手に、湯河原は良く知っているが、熱海は随分感じが違うね、と水を向けると、彼は伊東に住んでいるが伊東の人間は熱海が嫌いでね、と返答され、言葉に窮す。不思議な運転手であった。

9月某日 三軒茶屋自宅
安江さんのリサイタルを聴きに、名古屋しらかわホールへでかける。
何でもしらかわホールが来年春で閉館するという。2000年にカニーノさんと大井くんの演奏会で訪れて以来かもしれない。名古屋に降り立って驚いたのは、地下鉄ホームに溢れんばかりに並ぶ人いきれ。ホーム幅が狭いからか、行列は複雑に斜めに伸びていて、目の前の最後部がどこの列から来ているのか、馴れないと判別できない。列車がホームに到着して、乗客が一気に吸い込まれてゆくさまも、圧巻であった。
客席の様子は、東京で聴くよりずっと身近な印象をうける。単に、演奏を聴くという受動的態度だけではなく、自分のための時間を、自ら選択した演奏会に赴き、意義あるもの、自らの人生にとりこんで、豊かに暮らしているようにみえる。
拙作はもちろんのこと、安江さんのどの演奏にも大変感銘を受けた。高校生の頃、学校で初めてプサファを聴かせていただいたときの驚きを思い出す。

9月某日 三軒茶屋自宅
母と連立って、日がな一日墓参三昧。湯河原駅前のスーパーで一日分の仏花とお線香を買い込み、湯河原、小田原、茅ヶ崎、横須賀堀之内と、次々墓参する。文字通り神奈川の端から端まで訪れたにしては、母は疲れも見せず、いたく感心する。天候はここ数日不安定だったが、今日は愕くほど快晴であった。母の希望で、昼食は小田原駅構内の魚力食堂で盛沢山の海鮮丼を食べた。誰が死んでも、納骨後に当人が墓に居座る筈はなかろうが、それでも墓に水をかけ、新しい花を手向ければ、どことなく、墓石もご先祖さんも微笑んでいる感じがするのはなぜだろう。

9月某日 三軒茶屋自宅
ムジカーザで安江さんのリサイタル、東京公演を聴く。しらかわホールとは全く響きも違い、当然安江さんのアプローチもまるで違って面白い。
しらかわホールは舞台が客席より少し高い位置にあって見上げる格好だったが、ムジカーザは、舞台が客席より少し低い位置にあるから、それだけでも見方や聴き方が変化する。
会場が小さい分、楽器奏者の生み出す空気振動は、そのまま肌に迫ってくるが、打楽器奏者はどうしてあれだけ運動し続けても疲れないのか。こちらの躰のなかに、直截に飛び込んでくる響き。
ところで、三軒茶屋から代々木上原まで、当初は自転車で行くつもりだったが、出かける直前にひどく雨が降り出したので、慌てて世田谷代田までバスに乗った。
茶沢通り沿いにバスで下北沢まで出て小田急に乗ろうと思ったが、都合よい時間のバスがなかったのである。案の定、環七は雨と帰宅ラッシュで渋滞し、会場に着いたのは開演3分前であった。

9月某日 三軒茶屋自宅
三橋貴風先生と大倉山でお目にかかった。大倉山というと、高校生の頃、久木山さんと一緒に演奏会を企画したことがある。ヨーロッパ風の大倉山記念館の高い吹抜けで演奏会を開いたとき、まさか後年自分がかの地に住むとは、想像もできなかった。
その後、KさんとSさんと連立って大倉山の法華寺を訪ねると、普通の住宅街の一角に、突如、極楽浄土が現れるような錯覚を覚えた。まるでそこだけを、どこか別世界で切取ってきて、この空間にすっぽり嵌め込んだような、不思議な安らぎに満ちていた。
夜はKさんの作ったカレーを食べながら晩酌。一人だけ飲みなれていないので、すぐに麦茶に替えてもらう。

9月某日 三軒茶屋自宅
長津田にて、中学の恩師、稲葉先生ご夫妻に再会。中学生のころ、頑として登校拒否を続けていたから、先生にも両親にもすっかり迷惑をかけた。交通事故の加害者の子供が同学年に通っているのが耐えられなかったせいだが、馬鹿げた論理である。
よって、卒業式なぞ絶対出席しないと言張っていたある夜、稲葉先生が拙宅を訪れた。他愛もない話をするなかで、最近一番好きな曲はこれです、とジョンシェのレコードをかけたのを覚えている。そんな経緯があったから、この夏、ジョンシェを演奏したときは、稲葉先生をお招きした。当時、まさか自分がジョンシェを演奏するとは考えもしなかったが、こうなったからには先生に、ぜひ実演の「ジョンシェ」を聴いていただきたかった。
モロッコにて酷い地震発生との報道。

9月某日 三軒茶屋自宅
大森にて、山田剛史さん「君が微笑めば」リハーサル。美しい音で、ていねいな音運びに感動する。どうやって書いたのか、覚えているようでまったく忘れている。冒頭から最後まで順番に書き進んだのではなく、何度かやりかけた作曲の工程が中断される箇所がある。死んだ友人が、別の姿に変容していくさまを、淡々と描写したようにも見えるし、ある瞬間、ふとそこに恣意的に介入して、長年病床に臥せていた友人を、どこかで解放しようと試行したようにも見える。
西村先生の訃報に言葉を失う。西村先生が、その昔「冬の劇場」で、タイプライターを演奏して下さったときの姿を思い出している。クスリともせず、すごく真面目な涼しい顔をして、舞台の一角で黙々とタイプライターを打つ姿は、実に印象的で、理知的でもあった。当時、東京音大の西村クラスに潜り込んでは、先生と一緒に、ラッヘンマンのスコアなど、ああでもないこうでもないと話しては、楽しく眺めていたのが懐かしい。
最後に演奏した西村作品は「華開世界」だったが、リハーサルの時、この作品は、散り行く花とともに、一面にひろがる、まばゆく輝きながら花開こうとしている、新しい命の姿をあらわしていると話してくださった。
連綿と続く生命の営みについて話しながら、自分がこの世からいなくなっても、それでも世界は明るい未来に向かって発展し続けてゆく、だから寂しいと思うことはない、そんな風に聴こえるお話しだったから、なぜこんな話をするのかと不思議だった。
当時、ご本人もそんな深い意図はなく仰ったのかもしれないし、或いは何か感じるところがあって思わず口をついて出てきたのかもしれないが、実に忘れ難いお言葉をいただいたと思う。いつでも肯定的で開放的で、力強いエネルギーに満ちていた。いままでどれだけ励ましていただいたかわからないが、その言葉にどれだけお応えできたのか、不安にもなる。戸惑いばかりが先行して、何とも気持ちの踏ん切りがつかないまま、家路に着く。

9月某日 三軒茶屋自宅
明日リハーサル予定だった新作が漸く午後遅くに届いたので、慌てて譜読みをする。イタリア国営放送によると、現在のモロッコの地震の被害状況は2901人死亡、5530人負傷だという。昨日はリビアで大雨がダムを崩壊させたとの報道。世界は、どことなく世紀末的世相を呈している。

9月某日 三軒茶屋自宅
下北沢まで自転車ででかけ、代々木上原で邦楽アンサンブル、リハーサル。彼らの練習で愕くのは、練習の合間の休憩でもほぼ休みもとらず、個人練習に精を出すことだ。全く疲れ知らずとはこのことだ。こちらは邦楽などまるで分かっていないから、恐らく不適当な注文をつけているに違いないが、どんなリクエストにも、実に誠心誠意心を砕いて下さるので、申し訳ないほどだ。尤も、あまり限界を意識しすぎて無理も言わなければ、可能性も広がらないのかもしれない。
練習後そのまま町田に向かい、両親宅で夕食を食べて帰宅。先日の健康診断では尿酸がでているとかで、干物は食べないように言われてしまい、いよいよ日本で食べられる好物の幅が狭くなった。

9月某日 ミラノ自宅
久しぶりにミラノに帰宅。ローマ空港で口にしたイタリアパンに感動する。バターを使わないから硬いし塩味も強く、どちらかと言えばそっけない味のはずだが。
リビアの洪水被害者11300人死亡、1000人余り行方不明との報道。あまりの数字に、感覚が麻痺している。

9月某日 ミラノ自宅
ここしばらく首の付け根辺り、胸郭右上部の神経が少し鈍く感じている。左上部に比べて、薄皮一枚隔てている感覚があって、行きつけの整体療法士を訪ねた。施術前にまず身体の歪みなどを細かく確認してゆく。整体と言っても、マッサージも余りせず、時折肋骨や尾骶骨を少し押さえてゆるめる以外、ただ手を軽く当てて気を送っているように見える。そうして実際身体は確かに熱くなるし、身体の内部がゆるんだり重心が移動するのも実感できる。
興味深いのは、その施術の間、整体療法士が口の中で呪文だか祝詞のようなものを唱えていることだ。耳を澄ますと「天にまします処女マリア…云々…ハレルヤ」と言っているように聞こえる。てっきりマントラの真言でも呟いていると思いこんでいたから、カトリックの祝詞ならばそれはそれで興味深い。整体にまじないがどう役立つのか知らないが、実際身体は緩むし宗教団体に勧誘もされないので、マントラでもハレルヤでも構わない。部屋には小さなイコンはかけられているが、特にオカルトじみたものもない。

ところでミラノに帰宅すると、庭の樹に棲みついていたリス一家は転出していた。取敢えず、胡桃を置いて様子を見ていたところ、二日目どこからか一匹ひょいとやってきて、胡桃を熱心に食べていた。仲間への合図なのか、食事後、暫く頭を下にして木の幹にしがみつき、大きな尻尾を旗のように長い間振っていた。

9月某日 ロッポロ民宿
朝、庭を眺めると、小鳥たちも烏の番も庭に戻ってきて賑やかである。盛んに尻尾を振っていたサインが伝わったのか、早速リスは2匹に増えている。動物の気配がない時より、庭の樹も何だか嬉しそうに見える。
昼過ぎ、中央駅発トリノ行き列車で生徒たちと落ち合い、サンティア駅に迎えにきたトンマーゾの車で、ロッポロへむかう。
トンマーゾ曰くこの辺りは信仰心に篤い人が多いという。だから黒マリア像や黒イエス像なども多いし、土着の風習も未だに強く残っていて魔女も沢山住んでいる、と事も無げに言う。
後部座席に座っていたフェデリコも、「ピエモンテのマスケ(魔女)」でしょう、と楽しそうに話に加わってきた。フェデリコは、大学でキリスト教理学を専攻している。彼らの話を黙って聞いていると、白魔術はどうで黒魔術はどう、この辺りでは悪魔祓いも盛んだという。トンマーゾによれば、元来この地方の魔女は、男性に依存しない独立心の強い女性の象徴でもあって、その場合は悪者扱いもされなかった、というが、事情はよく分からない。
頭の中で、高校生くらいの頃に読んだ、黒魔術や錬金術あたりの逸話が書かれた澁澤の著書の記憶を必死に引っ繰り返していた。
ピエモンテの中心トリノと言えば、白魔術の三角地帯、黒魔術の三角地帯の重要地点らしいし、どこからか魔女も集まっているのだろうか。魔女が集まれば、悪魔祓いも必要となるだろうから、当然祓霊師も沢山いるのかもしれない。
そんなロッポロの古城は小高い丘の上にあって、一見無味乾燥な要塞のようだが、内部は思いの外絢爛であった。オーケストラ・リハーサルの広間の壁は、一面明るい水色に塗られており古めかしい沢山の肖像画がかかっている。天井からは美しいシャンデリアが垂れていた。
学生とディスカッションする中庭の軒先には、剥製の巨大な水牛の頭部が並び、いつもこちらを見下ろしている。少し顔を上げるたびに、薄目を開けてこちらを眺める水牛と目が合ってしまい勝手が悪い。

9月某日 ロッポロ民宿
朝起きると家人から連絡があって、息子の具合が悪いという。39度近い熱が3日続いていて、脱水症状も酷く、食事も摂れないらしい。救急病院に駆け込むよう促すが、家人自身も体調を崩していて、動けないと言う。すわコロナかとも思ったが、息子が食あたりと言い張るので、ともかく消化器科医に往診を頼むと、週初めに食した生肉が原因らしいと分かる。あと3日ほどで治ると言われたが、絶食で息子は4キロほど痩せたと言っている。尤も、この状態で救急病院に駆け込んでコロナを罹患するより、正しい選択をしましたね、と医者に褒められたらしい。

9月某日 ミラノ自宅
起床後、夜明け前のB&Bの共同台所で、自分でコーヒーを沸かす。冷蔵庫には、地元産チーズとマスカットなどが入っていて、トースターでパンを焼き、地産の栗蜂蜜とチーズを併せて、暗がりの中、一人で食す。シンプルながら絶品で、実に贅沢な味わいだ。
今朝はどうしても散歩に出掛けたかったので、ヴィヴェローネ湖とは反対方向に向かって丘を登り、ベルティニャーノの小さな湖を一周する。湖というよりむしろ池と呼ぶのが相応しい、宝石のように美しい小さな湖だが、その湖手前の祠には小さな白い祭壇があって、黒いイエス像を抱く黒いマリアが飾られていた。フェデリコ曰く、ヨーロッパ各地に残る黒マリア像の生まれた背景は諸説あって分からないが、パレスチナに暮らしたマリアの肌は本来褐色だった筈であることと、中世末期、退廃したカトリック宗教界に抗って、純粋な宗教心復興を求めた信者の願いでもあったという。
そう言われて、改めて黒マリア像、黒イエス像を眺めると、不思議と純朴な純粋な宗教心に溢れる顔つきに見えるから不思議だ。
昨日はオーケストラのリハーサル後、トンマーゾが車でヴィヴェローネ湖に連れていってくれた。夕日の映える湖面には、珍しい鳥も沢山集っていた。首から先だけが黒いクロエリハクチョウが悠々と泳いでいて、眺めていると鴨たちにちょっかいを出していて、性格はあまり良さそうには見えなかった。
対岸は渡り鳥が巣を作るため、人間の居住が禁止された鳥獣保護区となっていて、そこから少し離れて鳥獣観察所もある。その辺りには白鳥だけでなく、黒鳥も集っているという。
湖面の向こうに目をやると、遠く、アルプスはアオスタの辺りから伸びる古代の氷河跡が、一本の長い丘になって続く。雄大で奇怪な地形が眼前一杯に広がる。巨大な谷状に抉れた地形の突端にあたる薄い縁が夕日の逆光に耀いていて、その下に深く翳も延びているから、実に繊細な趣を醸し出す。ヴィヴェローネ湖に注ぎこむ川はなく、その昔ここに張っていた氷河の水が溶け湖のとなり、地底からの湧水が足されて現在の姿を保っている。

夜の演奏会後、城主のパトリックに城が収蔵する絵画のコレクションが見事だと話したところ、絵が好きなのかい、と非公開の収蔵作品を見せてくれる。
数枚のラファエルロは言うに及ばず、ジョット、ルーベンス、ダヴィンチも1枚あって、ヴァン・ダイクなどのフランドル派も数多く収蔵されている。ダヴィンチの個人収蔵作品は、世界に数点しか存在しないが、その貴重な一枚だと胸を張った。俄かには自分の眼が信じられず、無造作に壁に掛けられているこれらの絵画は本物かと尋ねると、パトリックは大笑いして、もちろん全てオリジナルだと言う。尤も、少しでも異常があればすぐに警察がかけつけるようになっている。
突如、パトリックは16、7世紀作とおぼしき聖母子像の裏にサインをしたかと思うと、お前の今回のロッポロ訪問の記念に、是非これを持ち帰ってくれ、と渡してくれた。

9月某日 ミラノ自宅
漸く、夏の間放置されていた庭の芝刈りをする。3カ月近く放ってあったので、雑草も延び放題だったが、8月の大嵐で庭の枝が散々折れてしまっていたから、まずそれらを搔き集めるところから始めた。
アゼルバイジャンのアルツァフ共和国、つまりナゴルノカラバフ共和国が、24年元旦をもって消滅との報道。「自画像」を書く上で知った、現在も続く国際紛争の多くが、結局、平和的解決を見出さぬまま、強制的、力学的解消へ向かう事実に、ただ無力感を覚える。戦いだけは、どんなに文明が進化しても変わらない。
政治背景はさておき、ハチャトリアンが作曲したソ連邦のアルメニア国歌は、個性的な響きが印象的に残る佳作だと思う。

9月某日 ミラノ自宅
ミラノ郊外のバッジョまで、家人とYさんと連立って息子のピアノを聴きにでかけた。スカルラッティ2曲に水の戯れ、ベートーヴェンの変奏曲にリスト2曲。先週の食中毒騒ぎで、元来痩せていた息子の躰は、いよいよ痩せ細っていたから心配したが、結局杞憂におわって感心している。
シャリーノが作曲した「ローエングリン」最初の録音は、シャリーノ自身が指揮しディズィー・ルミニがエルサを演じている。録音されたルミニの声や喉の使い方は、シャリーノとルミニが二人で研究したものだ。「ローエングリン」では、精神病院に収容されたエルサの妄想、妄言が、一人二役を演じながら、主要人格が曖昧模糊としたまま演じられる。あのルミニの録音で思い出したのは、カトリックの悪魔祓いの情景であった。
ディ・ジャコモ監督のドキュメンタリー映画「liberami」で、祓霊する神父が悪魔と携帯電話で話す場面などが有名になった。神父の言葉にぎゃあぎゃあ答える悪魔の姿は、まるで喜劇のようだ。カトリックの霊祓師は、精神科医と協力しながら悪霊祓いすることもあって、神経衰弱とか統合失調症の憑依状態は、見分けるのも難しい、とどこかで読んだ。
祓霊の儀式がまやかしか否かはさておき、ルミニ演じる精神病院患者のエルサの声は、憑依状態の患者の声を思わせるもので、案外統合失調症の声にも似ているかもしれない。
悪魔祓いが茶番なのか、現代の魔女が悪魔に何を誓っているのか、知る由もないが、自ら不可解な呪文で整体の施術を受けていたのを思い出し、あながち遠い世界の話ではないと知った。

(9月30日ミラノにて)

水牛的読書日記2023年9月

アサノタカオ

8月某日 「水牛的読書日記2023年8月」はお休みしました。8月後半は新型コロナウイルスに感染し、自宅療養。幸い重症化することはなく、療養中は自室に引きこもり、ベッドの上で姜信子さんの『語りと祈り』(みすず書房)をひたすら読み続けた。旅する作家が訪ねる説教、祭文、瞽女唄、浪曲の世界、あるいは足尾銅山、水俣、離散民の地。「近代」という力に抗う無数の声たちの渦に、心がのみこまれた。熱っぽいからだで姜さんの本にじっくり向き合う読書の時間は、特別な体験になった。この本についての感想は、いつか書きたい。

9月某日 関東大震災100年。戸井田道三の自伝『生きることに〇×はない』(新泉社)を読み返す。最終章は「ゆれる大地、関東大震災」。百年前、14歳の戸井田少年は神奈川・辻堂で被災し、藤沢〜茅ヶ崎間で起こった朝鮮人虐殺について語っている。次の引用は、凄惨な虐殺の場面をめぐる証言につづく自己反省の文章だ。

《大沢商店へ炭とまきを買いにいったとき、おやじさんが「朝鮮人が攻めてくる」と真剣にバリケードをつくっているのを見て、一種の恐怖心をもちました。わたしは、そのときの自分がたった十四歳の少年だからといって自分を許すことができません。……
 林蔵さんの話がウソかホントウかを問題にしているのではありません。朝鮮人を虐殺したという歴史事実があったこと、そのときに流言飛語をわたしが否定する判断力をもっていなかったということについて、自分を問題にしているのです。》

「自分を許すことができません」「自分を問題にしているのです」。戸井田のこの厳しいことばを深く胸に刻んでおきたい。ところで震災直後、かれは東京・青山の親戚宅へ避難した。そこで「朝鮮人を警戒しろ」という「デマ」を記した謄写版の通知書を見て、それを置いていったのは参謀本部の軍人だったとも語っている(いとこからの伝聞として、それはのちにインパール作戦を指揮した牟田口中将だったようだ)。これも貴重な証言だと思う。

9月某日 早稲田大学で開催されたカルチュラル・スタディーズ学会「CulturalTyphoon2023」に大学生の娘と参加。お目当てのシンポジウムは初日の「東アジアにおける新しい戦(中)前とフェミニズムをめぐる対話——陳光興をむかえて」、2日目の「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」。台湾の文化研究の重鎮・陳光興氏の発表は、「母の力」が戦争に抗うものになるかを問う論争的な内容。会場をさすらう陳光興氏の風貌が、黄色いサングラスのヒッピー風だったことが印象にのこった。

「CulturalTyphoon2023」の会場では、砂守かずらさんが企画制作した映像作品『Drifting Islands, Still Water』を鑑賞した。砂守かずらさんの父で沖縄出身の写真家、故・砂守勝巳の写真と文章から構成され、音も付けられている。いくつかの強烈なイメージと言葉が心に残った。会場の入り口では、『ははの声』という砂守さんと木村奈緒さんの展示も開催されていて、母親である女性たちを木村さんが撮影したポートレート「声をさがして」も見応えあり。

「未知の駅」を主宰する諌山三武さんのZINE SALONのブースを見つけて、諌山さんとひさしぶりにおしゃべり。池田理知子さん編『MCDスタディーズ——福岡+みつめる』(未知の駅)を購入した。

9月某日 「CulturalTyphoon2023」の2日目は娘だけが会場参加をしたので、「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」での高井ゆと里さん、三木那由他さん、水上文さんの発表については帰宅した娘から感想を聞きつつ、アーカイブ動画を視聴。その後、うちにある『すばる』8月号の特集「トランスジェンダーの物語」での高井さん、三木さんのエッセイ、『文藝』での水上さんの文芸季評を読んだ。

9月某日 香川から東京に来ている写真家の宮脇慎太郎くん、『香川のモスクができるまで』(晶文社)の著者・岡内大三さん、Wさんと待ち合わせ、三鷹市美術ギャラリーへ。宮脇くんの紹介で知り合った新田樹さんの写真展「Sakhalin」を鑑賞。写真集もすばらしかったが、オリジナルプリントで見る光の美しさに息をのんだ。サハリンに暮らす残留朝鮮人たちの肖像。寡黙な表情と静謐な風景のなかに旅の記憶の襞がいくつも折りたたまれていて、胸を打たれた。

新田さんの写真集『Sakhalin』(ミーシャズプレス)は第47回木村伊兵衛写真賞と第31回林忠彦賞をW受賞。今回の写真展は林忠彦賞受賞記念の企画で、会場にいた林さんに「おめでとうございます」と直接伝えることができてよかった。

9月某日 東京・三鷹の UNITÉ を訪問。宮地尚子さん&村上靖彦さんの対談集『とまる、はずす、きえる——ケアとトラウマと時間について』(青土社)を購入。お店の前では、秋祭りの神輿の行列ができていた。ついで荻窪の本屋Title へ。こちらでは宇田智子さんの『三年九か月三日——那覇市第一牧志公設市場を待ちながら』(市場の古本屋ウララ)を入手。リトルプレスのコーナーでみつけた貴重な一冊。

9月某日 東京・新小岩の「にこわ新小岩」で開催された本の展示販売会「TOKYO ポエケット」にサウダージ・ブックスとして出展。詩人のヤリタミサコさんにお誘いいただいたのだった。会場ではポエトリー・リーディングのイベントもおこなわれ、とりわけ浦歌無子さんとヤリタさんの共演による詩の朗読に感銘を受ける。会場で、浦さんの詩集『光る背骨』(七月堂)を購入。さっそく帰路の電車で読み、伊藤野枝をテーマにした作品「大杉栄へ——そのときあなたはもっと生きる」などに圧倒された。

そのほか入手した本やZINEは、ヤリタミサコさん&向山守さん編訳『カミングズの詩を遊ぶ』(水声社)、服部剛さん『我が家に天使がやってきた』(文治堂書店)、『カナリア』6号、サトミセキさん『リトアニア〜ラトビア バルト三国の時間を旅する』、『mini・fumi』40号。

9月某日 朝、近所のカフェで編集の仕事をした後に江ノ島の海辺を散策した。打ち寄せる波が生ぬるい。ビーチサンダルで歩けるあいだは、まだ夏。

9月某日 斎藤真理子さんのエッセイ集『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)を読む。タイトルが最高にすばらしい。頁と頁のあいだに挟まれた栞は、書物の内にある作品世界をぴしっとまっすぐ貫いていて、同時に書物の外に飛び出したスピンの先は時代や社会の風に吹かれてちいさく揺れてもいる。そんな「栞」のイメージは、「読書」をテーマにしたこの本の内容にぴったりだと思う。

『本の栞にぶら下がる』のもとになった『図書』の連載を読んでいたが、一冊の本としてあらためて通読。すると、韓国文学の翻訳者である斎藤さんが、世界の文学を遠望しつつ、「近代」という時代と社会において暗い影が落ちるところ(戦争、疫病、差別……)から聞こえる小さな声に注意深く耳を傾ける姿がよりはっきりと見えてきて、背筋が伸びた。

永山則夫や茨木のり子やジョージ・オーウェルについて。朝鮮・韓国の文学について、植民地時代の日韓の作家の交流とすれ違いについて、沖縄や炭鉱の文学について、多くを学ぶことができた。その他にも、いぬいとみこや森村桂やマダム・マサコなど、自分が知らなかった女性作家たちの存在に触れられて、うれしかった。

思い出す、古い本たちのこと。人生のさまざまな場面で読書をする斎藤さんの姿を通じて、かつてある「時代」が人間の心に何かを刻んでいった消息を知り、それが時を隔てていまを生きる自分が抱える問いを予見していたようにも感じられ、いろいろな思いを反芻している。読みどころは本当にたくさんあるのだけど、「「かるた」と「ふりかけ」——鶴見俊輔の断片の味」という一編が、いまのところ自分にとってこの本の「おへそ」かな。 

9月某日 今月から明星大学で編集論の授業がはじまった。授業後の夜、大学図書館で、木島始の詩やエッセイを拾い読み。学生時代、ラングストン・ヒューズの詩をかれの翻訳で読んで理解したつもりになっていたのだが、自分が読んでいるのはヒューズその人というよりは《詩人・木島始》のことばなのかもしれないと、あるとき思い当たった。同じころに、野村修のベンヤミンやエンツェンスベルガー、片桐ユズルさんと中山容のボブ・ディランの翻訳なども夢中になって読んでいた。藤本和子さんによる数々のアメリカ文学の翻訳にもその流れで出会ったのだと思う。こうした尊敬する翻訳文学者たちのことばは、いまもたしかに身に残っていると感じる。

9月某日 台湾の文学研究者・朱恵足さんから郵便が届く。なんだろうと思って封をあけると、『越境広場』12号。沖縄発の雑誌が台湾を経由して海を渡ってやってきた。朱さんの論考「ひと昔前の「台湾有事」を振り返る——金門島の視点から」が掲載。川田文子著『赤瓦の家——朝鮮から来た従軍慰安婦』から引かれた、巻頭のぺ・ポンギさんのことばから読む。今号には、姜信子さん『語りと祈り』の書評(評者は呉屋淳子さん)も載っている。

9月某日 大学の授業で、毎年恒例、ビブリオバトル形式の好きな本の書評発表会を開催。今年は小説やエッセイのほかに、人文社会の本(日本語学、環境問題など)もいくつか紹介されたのが新しい傾向。知らない本ばかりで、学生のみなさんの書評を読んで学びます。

9月某日 HIBIUTA AND COMPANYでの自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」。宮内勝典さん『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)の第2章を参加者とともに読む。移民の歴史や人種差別について、科学とアニミズムについて、色彩について、人物の名前や詩的な表現について。今月、ぼくはオンラインの参加だったが、来月は三重・津のHIBIUTAに行く予定。

9月某日 朝日カルチャーセンター新宿教室にて、今福龍太先生の「記憶と忘却の身体哲学——戸井田道三の〈前-言語〉的世界」を聴講。最終回となる第3回テーマは「戸井田道三と沖縄」。比嘉康雄さん撮影、1978年久高島のイザイホーの写真をよく見ると見物人の席に、民俗学者としての顔も持つ戸井田翁が座っている。その隣の隣に黒頭巾姿の作家・石牟礼道子さん。イザイホーは12年に一度おこなわれる島の女性たちの神事で、この年が最後の開催となった。

9月某日 最寄りの本屋さんである神奈川・大船のポルベニールブックストアで『本の栞にぶら下がる』発売記念、斎藤真理子さんのトークイベントが開催。不肖ながら聞き手を務めることになった。イベント当日の夕方、リュックサックに付箋だらけの斎藤さんの本と資料を詰め込んで、「あれも聞きたい、これも聞いてみよう」と渦巻く頭の中を整理し、心を落ち着かせるために自宅からゆっくり歩いてお店へ向かう。トークについては終わったばかりなので、あらためて報告したいと思います。

辿りと見計らい

高橋悠治

全体の構成から部分へ降りてゆくのではなく、思いついた小さな形を辿る動きからはじめて、その動きをくりかえすとき、指がすこし逸れてしまう。「すこし」を見計らいながら、辿り続ける跡に残る一本の線。

また「すこし」離れた場所から、もう一つの「形」を辿る別な指。音の高さを縦軸に取り、横軸を時間として描く図を思い浮かべてみると、そこからはじまる音楽は、構成ではなく、即興でありながら、続く部分、「先を見通せない」線の流れ。

線は過ぎ去るかと思えば、まためぐる。「めぐる」とき、一つの物を囲むときもあれば、あちこちをさまよい歩くこともあり、もとに返ることはなくてもよいだろう。さまよった末、もとに返れば、全体が生まれ、完結して静まる。そういう音楽はいままで多かった。冒険の果て、一段と強く大きくなった姿を見せて終わる。19世紀のヨーロッパ音楽、シンフォニー、コンチェルト、大編成オーケストラの響き、争い、競争、支配の音楽。

そうした装置を引き継ぎながら、それらを別な方向に動かすやりかたがあるのだろうか。19世紀から20世紀前半まで続いた音楽の革命は、1930年代の新古典主義に統合されて、そこから抜け出す道は、なかなか見つからないように見える。

1968年からはじまった反逆の試みも、90年代までに回収されたのではないだろうか。いわゆる「グローバリズム」は、拡大した国家主義の姿だったのか。

思いつかないままに、ことばに残す。これはだが、ほんの準備段階にすぎない。とりあえずは、思いついた動きを書き留めておく。「形」は「動き」の省略記号。読み取り、指を動かす、その感触から、「ふと姿が浮かぶ」(各務支考『俳諧古今抄』)次の音。無心所着。

これは言葉だった。次は音で試してみよう。

2023年9月1日(金)

水牛だより

ゆうべの満月、スーパームーンの夜は空一面に薄い雲がかかっていて、月の所在はわかるものの、おぼろにかすんでいました。今夜の十六夜の月は、雲ひとつない夜空につめたく輝いています。通りすぎていく風もほんの少し涼しくなったかな。

「水牛のように」を2023年9月1日号に更新しました。
毎月1日は水牛の更新をするので、予定をいれないようにしているのですが、きょうは午後から横浜までダンスを観にいってしまい、帰宅してからの作業となりました。いつもよりいくらか遅くなってしまいましたが、完了! ホッとして満月を眺めています。
毎月トップページを不思議なイラストで飾ってくれる柳生弦一郎さん。近刊のえほんを見つけたので、お知らせします。タイトルは『おだんごやま』、なんでしょうね、おだんごやま、って。はやく読みたいです。

それでは、また来月に!(八巻美恵)

どうよう(2023.09)

小沼純一

たべないの
たべたくないの
たべらんないの

たべるられるものないじゃない

たべられるかと
つくってみても
そっぽむかれて
へちゃむくれ

たべるものないじゃない

もんくはいっきに
のみこんで
はらふくれるのは
どっち
どっちだ

あのみせこのみせ
どしたんだろう

ときどきよって
カクテルいっぱい
バーはほとんどいかないけれど
あのみせだけはごくたまに
バーなのにタイの料理もだしていて
たぶんおなじくらいのひとがマスターで
とりとめのないはなしを
ぽつぽつと
すこしあいだをおいたらば
貸店舗のふだがさがってた

あのみせこのみせ
どしたんだろう

じゃけん
じゃんけん
じゃのめ
じゃのみち
じゃばらひらいて
じゃんばらや

じゃりみち
じゃりたれ
じゃりじゃりふんで
じゃりじゃりかんで
じゃくにくきょうしょく
じゃからんだ

さし 
さわる
さし
さわり
なし
さし
さわり
ない
やりとり
するすると
すすむ
ものごと

さし

ささ
れつ
さし
ぬかれ
さし
もどす

さし

しまいたい
させば
いつか
しまい
がおとずれて

肩を並べる

植松眞人

 社会人になって働くことの面白さや辛さもある程度経験した息子とは、年に数えるほどしか会わなくなったけれど、会うと必ず息子は小生意気な口をきく。小さな頃から小生意気だったので、それほど気にならないのだが私に似て腹の据わっていないところが見え隠れする言動にははらはらしてしまう。
 そんな息子には悪い事をしたなあと思うところがいくつかあり、その最たるものが引っ越しである。私の仕事の都合というか、簡単に言えば、事業の浮き沈みで引っ越しを余儀なくされることがリーマンショック以降多くなってしまい、なぜかそれが息子の受験と重なるのだ。高校受験も大学受験もそうだった。
 引っ越しも小さな家から大きな家へと引っ越すのであれば話が早い。あるものを全部持っていってもちゃんと収まる。けれど、大きな家から小さな家へと引っ越す場合は、持っているものを処分しなければならず、どうしても手間がかかってしまう。引っ越しの経験がある人ならわかるだろうが、持っているものを処分するというのは時間のかかるものだ。加えて、引っ越し前の数週間は家の中が持っていくものと処分するものでごった返して混乱する。
「なんで、僕の受験に合わせて引っ越しするかなあ」
 息子は不平不満で頰を膨らますのだが、仕方がない。ない袖は振れない。ない家賃は払えない。払えるところへ行くしかない。というわけで、リーマンショック以降、私たち家族は流浪の民のように少しずつ家のサイズを縮小しながら暮らしている。しかし、そんな流浪のなかでも住み心地の良かった家があった。数年間住むことになった千駄木の借家だった。猫を飼っていたため、マンションではなく借家を転々としていたのだが、千駄木の借家は隣に住む大家が元々猫好きということもあり、猫を飼うことにも好意的で、築年数は経っていたけれど広くて住み心地のいい家だった。
 千駄木の家に引っ越す前に住んでいたのは上石神井の借家で、ここはなんとなく陰気な感じのする家で、家が建っている周辺もうら寂しくなるような印象だった。神楽坂近くの矢来町から上石神井に引っ越す時がちょうど息子の高校受験と重なっていて、学校が終わると息子は馴染みだった神楽坂の夜はバーになるカフェで受験勉強をさせてもらっていた。バータイムが始まっても、客が少ないのをいいことにカウンターの端に居座って、参考書をめくり、わからないところがあるとカウンターの中にいた大学留年生に質問してページを進めるという毎日だったようだ。そんな暮らしの中でも息子は親孝行で、ちゃんと学費の安い公立高校に入学してくれた。
 しかし、どことなく陰気な上石神井の家にはたった一年住んだだけで千駄木へ引っ越すことになった。引っ越し前、千駄木の借家を下見に行った私は、居間の隣に小さな和室があるのを見てとても気に入ったのだった。静かな場所に建っている家で、その和室の窓からは隣の庭が借景となって気持ちの良い風がいつでも吹いているイメージをもたらしていた。それを見た時に、ここに机を並べれば、息子が毎日受験勉強をしていた神楽坂のカフェのカウンター席のようになるかもしれないなあと思ったのだった。それなら、私も息子の隣に席を並べて書き仕事をして、黙って時間を過ごすのもいいと思ったのだ。さすがに、そんな話を高校生の息子に伝えても嫌がられるだけだと思い黙っていたが、とりあえずそんなふうに作業ができるスペースだけは確保しようと考えたのだ。
 千駄木への引っ越しの日、業者が荷物を運び込んだあとの様子をみて、私は驚いた。荷物が溢れかえっていた。あれもこれも捨てたり処分したりしたはずなのに、まだまだ荷物があり、息子と肩を並べようと思っていた和室も物置と化した。そして、その状態は次の引っ越しまでそれほど変わらないままで、その間に息子は京都の大学に入学を決め、家を出て行ったのである。
 この話は息子にはしたことがない。しても嫌がられるか笑われるだけだと思い話さなかった。私自身もそれほど強く、それを願ってはいなかったはずで、それもいいなあという程度だったと思うのだ。それなのに、私と息子が肩を並べて、隣の木々が揺れる大きな窓に向かって、黙っている様子を今でも時々思い浮かべてしまう。そして、そんな風景を思い浮かべる時、もしかしたら、本当にそんなことがあったのではないかと思うくらいに吹いていたかもしれない風を感じ、どう考えても実際にはありえないような光のきらめきを思ったりするのだ。(了)

しもた屋之噺(259)

杉山洋一

ダヴィデより、トレントの山中レードロのぺルニチ山荘で、マーラーのアダージェットのピアノ編作を弾いているヴィデオが届きました。標高1600メートル、男性的な山肌に囲まれた山小屋のテラスに設えた小さなピアノの響きは、そのまま澄んだ山のまにまに吸い込まれてゆきます。

8月某日 三軒茶屋自宅
台風の接近により強風。小学校の校庭にはられたネットも風に煽られ鉄棒とふれて、カラカラ、チリチリ乾いた音を立てている。墓参の卒塔婆の音を想起させるのは、盆が近いからか。
クセナキスの楽譜を眺めていて、その昔、ギリシャ神殿で神々に畏怖を伝え、祈りを捧げる折、人々は何を思ったのだろうと考える。ひょっとしたら、ほんの少し、今の自分と重複するものがあるかもしれない。おののき、期待、不安、躍動。ディオニソス的な時間に足を絡み取られそうになりながら、なぎ倒されまいと懸命に足に力を籠めていて、とんでもなく巨大で壮大な存在が、うっすら浮かび上がる。外国為替は円安進行・1ユーロ159円とのニュース。日銀介入か。

8月某日 三軒茶屋自宅
毎日楽譜を開くたび、自らの読譜能力の欠落に憤りと不甲斐なさを覚え、呆れかえっている。
クセナキスのリズムは、出来るだけ読みやすく書き換えた。複雑すぎて現実的でない箇所は、一つ一つ近似値を計算し、簡単にして、頭で少しでも音が聴こえるよう腐心する。
尤も、複雑な連符群など、実際は単に音の揺らぎや連続的変化を数的に表現しているに過ぎず、それらも同族楽器群ごとには分けられていなくて、敢えてオーケストラを裁断し細分化したグループごとに変化するので、どう取り扱うのが一番真っ当なのか甚だ悩ましい。
ファジーな視点を排し、決然とした姿勢を心がけつつ、雨が降り、雪嵐にまみれ、つむじ風に翻弄される、自然現象に晒された自らの姿を、我々は直截に再現しなければならない。何某か確固たる指針を裡に築いておかなければ、漠然と立ちすくむばかりで、畏怖に翻弄されて、実体のない音を奏するばかりだろう。夜、息子と連立ち町田を訪ねる。彼はシチューを食べ、こちらは鯵のタタキを頬張る。

8月某日 三軒茶屋自宅
ちょうど1世紀前に作曲されたヴァレーズ作品について。
ピッチが不明瞭とされていた打楽器パートに旋律を与え、通常旋律を奏する管楽器は、使用する音高を徹頭徹尾限定してリズムを際立たせ、打楽器のように扱う。オーケストレーションの変革というより、発想の逆転である。とどのつまり、何の音であっても旋律は成立するのだ、君も漸く気がついたか、と諭されているように感じる瞬間すらある。
何がどう違うのか定かではないのだが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」や「ペトルーシュカ」のような打楽器的音楽とも、根本的に成立過程は相いれない。
ストラヴィンスキーは、機能和声の延長線上で複雑な和声構造が成立しているし、明快な論理に基づき、土俗的リズムを生み出した。オーケストレーションも、伝統的な見地をもってしても全く無駄がない。
ヴァレーズは、オーケストラの楽器が出しにくい音を選び、敢えて書く。ヴァレーズは、ベルリオーズなど、伝統作品の指揮をよく手掛けていたから、譜面から彼が熟知した楽器法はよく見て取れるし、如何にして既存のオーケストレーションの概念から抜け出ようと試行錯誤していたのか痛感する。
新動機や、変奏を忍び込ませつつ、全体は、意図的に把握の容易な二部構造を踏襲したのは、聴き手は遡及しながら作品の物語性の共有が可能であって、確固たる全体の屋台骨は正確に把握を欲していたのではないか。
一見、直感的に演奏すべきかと感じられる音楽だが、常に何かを逸脱しようとしていて、その「何か」を常に意識しておく必要がある。

8月某日 三軒茶屋自宅
ハワイ、マウイ島で大規模火災。マウイ島はおろか、ハワイすら全く知らないが、マウイ島ラハイナと聞き、「波の盆」のラハイナ浄土院「盆踊り」を思い出す。ラハイナ浄土院も大仏以外焼失とニュースが報じている。

8月某日 三軒茶屋自宅
湯浅作品を勉強していて、音楽の息の長さに改めておどろき、息の浅い自分に呆れた。長いフレーズを、モザイク画のように、或いはちぎり紙細工のように、さもなければ点描画法のように細分化しながら、表面の触感を大胆に変化させつつ大きな運動でうねりを生み出す。細部を明確にし過ぎれば、推進力不足でフレーズが角ばってしまう。推進力に重点を置きすぎれば、音の粒子は光沢を失い、くすんでしまう。最後の練習で、突然演奏者全員の力が抜け、靄が晴れた思いに駆られる。離陸後の飛行機が、立ち籠める厚い雲を超えて、澄みきった青空に飛び出した時のような、不思議な感動を共有する。勉強しているとき、時折ドビュッシーのオーケストレーションを思いだしたのは何故だろう。

8月某日 三軒茶屋自宅
演奏会の最後、湯浅先生は思いの外お元気で、幾度も舞台上で万雷の拍手に応えた。その凛々しい姿には、ただ深い感銘を受けるばかりであった。

8月某日 三軒茶屋自宅
無事に演奏会は終わっても、未だにクセナキスをリハーサルする夢を見ては、あそこが合わない、ここがずれた、と魘され続けている。目が覚めると夢でほっとする。
プリゴジンが搭乗していたとされる、自家用ジェット機墜落。福島原発では処理水放出開始。

8月某日 三軒茶屋自宅
草津音楽祭でカニーノさんのレッスンを受けてきた息子は、レッスン内容を色々教えてくれる。彼はレガートは指で繋ぎ、ペダルでは繋げない。ペダルは音色の変化に特化して踏むのだという。
ポジション移動の際、準備はせず、そのまま飛べるよう訓練すること。スカルラッティ繰返しの変奏は、強弱ではなく、音色と装飾音を変化させること。替え指を頭ではなく、無意識に出来るようになること。小指を強くすること。掌で掴む塩梅で弾くこと。後10年もすれば、誰も暗譜で演奏などしなくなる。暗譜にかけるストレスより、楽譜を見ながら、より開放的に自由に弾くよう望まれる時代に入りつつある、云々。
齢18の息子が嬉々として話し続けていて、思わず感慨を覚える。

8月某日 三軒茶屋自宅
母曰く、義理の妹ミツ代さんが七月十二日に間質性肺炎で亡くなっていた、と息子さんから電話がきたそうだ。ミツ代さんの言いつけで、訃報は暫く経って伝えられたらしい。姉妹の母が眠る大津の信誠寺ではなく、久里浜のお墓に入ることになるという。眼の大きな、明るくはきのある、それでいて芯の強い女性だった。もう長年会っていなかったから、なぜか小柄な印象を持っていたが、実のところ母より背が高かった。
長年、レッスンでピアノを弾いてくれているマルコよりメールが届く。
先日、学校の運営関係者から電話があって、マルコの9月分契約予定日の拘束は必要なくなった、と言われたそうだ。春先だったか、「長年学校に勤めていながら、未だ終身雇用扱いされないのは不当」と弁護士を介し学校に抗議していた。

8月某日 三軒茶屋自宅
レプーブリカ紙、福島産海産物に舌鼓を打つ岸田首相の写真を大きく掲載。中国による日本の海産物輸入拒否と関係あるのか、日本国内の海産物流通価格下落。帆立貝刺身も安くなっていて、町田の両親宅でも二パック分存分に振舞ってもらった。日本の漁業関係者が本当に気の毒だ。
西武池袋本店ストライキ。そごう西武を米投資ファンドに売却とのニュース。アール・ヴィヴァンやカンカンポア、「今日の音楽」や武満徹。ロンドン・シンフォニエッタやネクサス。フランソワ=ベルナール・マーシュやファブリチアーニ。我々の世代にとって、追いかける夢を常に与えてくれる存在だった。
野坂惠璃さんのための新作題名は「夢の鳥」とする。野坂操壽さんが、生前アッシジ訪問を切望されていたと伺い、深く心を動かされた。

(8月31日 三軒茶屋にて)

話の話 第6話:どうしても覚えられない

戸田昌子

わたしはいまひかりの座席に座っている。東海道新幹線のひかりである。京都へ向かっている。なのにどうしてのぞみでなくて、ひかりなのか。周知のように東海道新幹線は、のぞみ、ひかり、こだま、の順番で到着が早い。そしてのぞみは問題なく京都に止まるというのに、なぜわたしはひかりのきっぷを買ってしまったのか。それはたぶん大雨のせいだ。そしてたぶん、わたしのクレジットカードだけはいつも受け付けてくれない駅の(おそらくは旧型の)自動券売機にいらいらして。ホームに入線する新幹線を見てからようやくそれがひかりであることに気づいたという次第で、つい「こだまでしょうか?」「いいえ、ひかりで」とつぶやいている。

一時期ほどではないけれど、新幹線にはまあまあ乗る。いっときは週1くらいで乗っていた。いったい何百回乗れば覚えられるのか、と思いつつ、どうしても覚えられないことはあるのだ、とも思う。たとえばごみの分別収集日。何曜日が燃えるゴミの日で、何曜日が燃えないゴミの日なのかを、わたしは覚えない。覚えないことにしている、と言うべきかもしれない。なぜなら、もし覚えてしまうと、収集日にゴミを玄関先に持っていくのがわたしの仕事になってしまうからである。そうすると、夫の数少ない家事分担率が減ってしまうではないか。妻たるわたしが夫の仕事を奪うわけにはいかない。つまりは夫のためにも、わたしはごみ収集日を覚えるわけにはいかない、という必然的な理由もあるのである。これは、麻雀に似ている。いったん麻雀を覚えてしまうと、先輩諸賢にカモにされてしまうので、覚えないままの方がいい、という例の教訓的なあれである。世の中には覚えないほうがいいこと、というのが確かにある。

覚えないほうがいいことの筆頭が、煙草である。煙草をいったんのんでしまうと、その後、その人は煙草をのむ人生とのまない人生の二つの選択肢のあいだで揺れ動くことになる。のんだことがなければ、のんでみようか、という選択肢があるのみである。たばこをのまない人には選択肢は1択、のむひとには2択である。こういう選択肢の数の増減問題は、意外に気づかれていないようだ。ひとは中立な場所で、ものごとを選ばない。覚えてしまってからやめる、というのは、覚えない、ということと同じにはならないのである。

わたしがもっとも覚えられないのが、人の名前である。覚えようとするのだけれど、むずかしい。人の名前を覚えなければならない局面というのが、大抵、講演の直前や授業時などの、集中と緊張を強いられる状況が多いため、人の名前を覚えるどころではないからかもしれない。そのため、「名前を覚えるのが苦手なので、何度かお名前聞きますけど、いいですか?」とはじめに言うようにしている。アメリカに初めて行ったときも、何度か名前を尋ねても失礼ではない英語の言い回しは、友達に聞いてかなり早くに覚えた。「What did you say your name was?」というのである。これなら、「お名前、いちど伺ったんですけど、もう一回聞いていいですか?」というニュアンスが出る。自分の記憶力の悪さをアピールする方法である。これなら気を悪くされることは、たぶん、ない。

自分が名前を覚えないため、他人が自分の名前を覚えなくても全く気にしないことにしている。むしろ、わたしのような者は覚えてもらっていなくても当然、と思っているので、特に目上の相手には、自分の名前を何度も言うように気をつけてもいる。覚えられていなくても名前が認知できるように、という親切心からである。しかし、あるときだいぶ年上の評論家に10回目くらいに会ったとき「わたし戸田と申します」と言ったら「知ってるよ!」と、ずいぶんとムッとした反応をされたことがある。わたしとしては、飲み会で何度か同席しているくらいで覚えていただかなくても気にはしないのだが。というよりむしろわたしの存在など忘れてほしいといつも思っている。

さらに、最も名前を覚えられないケースというのが、苦手な人の名前である。これはどうやらある種の自動消去機能がわたしの頭脳にはついているようで、たとえばその人の本を何冊も持っていたとしても、覚えられないのである。いつでも、「だれだっけあのムカつくやつ、なんだか木へんがついていた気がする」とか「あのなんだか田んぼみたいな変な名前の……」と、などと言っている。実務的には困るので、パソコンのスティッキーズというアプリに、そんな理由で忘れられがちな人々の名前がリストにしてあって、必要な時にはそれを開く。しかしいったん開くと苦手な人たちの名前がリストになってダーっと出てくるので、それはそれで心の闇に引火する可能性があるため、あまり他人におすすめはできない。

さらには、どうしても覚えられない地名や固有名詞というのがある。なにか響きが似ていて、他のものに頭の中で置き換わってしまいがちなやつである。そうした地名の代表格が、わたしにとっての出町柳と四條畷である。でまちやなぎとしじょうなわて。言うまでもないが出町柳は京都の鴨川デルタの近くの駅名、四條畷は大阪は北河内にある市の名前で、名門の府立高校があることでも知られる。もちろんこの双方には、なんら関連性はない。共通点といえば、それらがともに3文字の漢字からなる6文字の地名であること、最初の漢字の1文字に1音が充てられていることくらいで、その音のリズム感によってこのふたつがわたしのなかで置き換えられる理由らしいのだが、これを関西在住の鳩尾に話しても、きょとんとするばかりで、まったく理解するとっかかりがないようだ。鳩尾にとっては関西の地名は馴染みすぎていて、間違いようがないのである。

ちなみにこの鳩尾とは、いつもカレーを食べる。カレーは烏丸御池のカマルのものである。この店はそのむかし、東京は原宿で伝説的な人気を誇ったカレー店「Ghee」の味を継承している銘店で、京都文化博物館の向かいにある。鳩尾とはいつも一仕事終えたあとにそこへ行く。虹色の美しいお漬物がみじん切りになって提供されるのが嬉しい。かつては乗せ放題だったのだが、今では別料金になっていて、不満を述べつつ、それを必ず頼む。わたしたちは長細い皿の両側に別の種類のカレーを組み合わせる合がけがお気に入りで、わたしはキーマカレーとバターチキンをよく頼む。ゆるベジタリアンの鳩尾は野菜系のものをよく頼む。今回の仕事もハードだったね、などと互いの傷を舐め合いながらカレーを食べ、ビールで乾杯する。ここではかつて、作品のネタとなった事件の話をすることが多い。なぜ喜志田が毎回、話の本筋とは関係なく刺されてしまうのかは謎である。致命傷であったことはない。たぶん前世の因果が悪いのではないだろうか。店内はうす暗くて、妙に静かである。店員の顔もいつも違っているように見えて、どうしても覚えることができない。

みょうがを食べると物忘れをする、と言われている。いろんなことが覚えられない私にとっては、物忘れは大変な問題である。そのため、みょうがを刻むたびに「これでわたしはいったい何を忘れていまうのだろうか」といちいち考えてしまう。つまり、みょうがを見るたび思い出してしまう、というわけで、これではいったいぜんたい、物忘れどころではないのではないだろうか。みょうがを刻むたびに、いつになったらこの言い回しを忘れることができるのだろう、と考えている。

そういえばさっき、レモンをしぼっていて思い出してしまったことがある。むかし、わたしの友人の勤めていた会社に不倫カップルがいた。女性のほうは独身で、男性のほうは既婚者であった。あるとき会社の社員旅行があり、ハワイに行くことになった。友人とその不倫カップルは同じグループで、皆で喫茶店でお茶を飲むことになって、その不倫カップルがともにアイスレモンティーを頼んだ。それだけでは別に変なことではない。しかし、その女性のほうが、自分のグラスのうえにレモンを絞ったあと、その彼のグラスに「わたしのレモンもあげるね」と言って、相手の返事もきかずに自分のレモンを彼のグラスの上で絞ったのだという。きれいにマニキュアを塗った彼女の指から滴り落ちるレモン汁を見ながら、友人は、「このふたり、できてる……」と勘づいたのだ、と私に話していた。わたしといえば、滴り落ちるレモン汁を見つめていた友人の深刻な顔を想像して、思わず笑ったのだった。そのときまで友人にはほぼ恋愛経験がなかったと聞いているので、かえって敏感に雰囲気を察知したのだろうか。レモンを絞るたびにどうしても思い出してしまう話。

「このふたり、できてる……」

慣れない外国語は、覚えづらい。父が母とともに、初めてパリへ行ったときのこと。父は、フランス語のさようならであるところの「Au revoir」を覚えようとして、どうやら楽器の「オーボエ」と覚えてしまったらしく、デパートやお店を出る時にいちいち「オーボエ」と言っていた。「オーボエ」は少し変だね、と姉たちと笑ってしまったが、実際のところ、間違いのレベルとしては、日本語の「さよなら」を「さよなれ」と言うくらいの間違いなんじゃないかね、という話になった。確かに、日本に来ている外国人が「さよなら」を「さよなれ」と言っていたとしても、それはそれで確かに通じないということはない。むしろ微笑ましい間違いという程度のものなのではないだろうか。

「じゃあね、さよなれ!」

「図書館詩集」11(世界というが世界を見た者は)

管啓次郎

世界というが世界を見た者は
誰もいない
世界はまるごとだがわれわれには
それはどうしても体験できない
見ることも聞くこともふれることも
いまの自分が置かれたその場だけのこと
それ以外は潜在する
届かないまま潜在する
隠されている
世界にとってわれわれはもぐら
地中にぷかぷか浮かんで
青空を見上げているように気楽
それでも世界はいつものしかかってくるのだ
大きな亀の背中に乗って世界があると
アメリカ・インディアンのある部族の人々は考えた
それで大陸を「亀の島」と呼んだ
ところがさぬきのこのあたりに来ると
あちこちに亀の背のような山が点在している
この平野はむかし海だったんだなあ
山あり、その陰画のごとく
溜池あり、そしてすべての溜池は
お大師さまが掘ったもの
水よ湧けといって奇跡を起こしたのではなく
独学で身につけた掘削技術を教え
村人たちの作業を指導したのだと考えるほうが
ずっと理にかなっている
そう「考える」ということを中心にしなくては
ほんの少しも世界には近づくことができない
空海さまはまんのう池を改修
その仕事は伝説となればたちまち十世紀を超えて
語りつがれる
弘法大師の実在を疑うわけではないが
人はよく生きるためには物語になる
しかないのかな
その偉業が伝説になればもう生も死もなく
人に代わって物語が生きていく
世界がもともと物語の藪なら
藪は無数の植物の塊として
みずから魂をおび
世代交代しながら時を超えていく
百年の果てに千年あり
千年の反復が万年を生む
亀が生まれ亀を産み
亀が山になりその脚で
溜池を掘り続けるとしたらどうだろう
よい天気の山城にいて
そんなことばかりばくぜんと考えている
むかしはまったく野蛮だったね
こうして城を日本中に建てて
そこにこもって敵をむかえ討ったのか
遊びと殺しの区別もない
そんな目的においてこの城の
このおなじ位置からかつて世界を
見たものがいたわけか
世界かマーヤ(幻影)かまーやー(猫)か
それでもあの海は変わらず、ただいろいろな
工業的施設や人間的墓標が増えただけだ
亀の領土を狭めつつ
しかしこの山城の
場所そのものは本当にすてき
地形がよくわかる
人間たちの動きもうかがえる
ただ心配なのは人間は結局は人間的
スケールでしか何も見ることができない
何も見えていない
この広大な空間に何が住み
この広大な時間で何が変わってきたかを
断然まるで知らずに生きているわけさ
無時の誘惑に身をゆだね
まどろみの中で自分の同類を探す
あまり頭のいい生き方とはいえないね
麦茶を一口飲んだら
そろそろ山城を下りて山城にむかうことにする
美術館は「猪熊」の名を冠して
それだけでboarとbearが意識に登場する
ニンゲンをおびやかす
その名前は強力、これから勝手に
「猪鹿熊ゲンイチロ」とでも名乗ろうかな
そうすればboar deer bear
すべて山の肉(しし)が
ニンゲンを超えている
ここにはチカコの作品を見にきたわけ
もののふたちの山城とは関係なく
こちらの山城の世界もざわめく戦さにみちている
戦いとは直接そのまま破壊行動ではなくても
緊張感をもって場がぶるぶるふるえているので
そうとわかる
それをいうなら「沖縄」のすべては
いまも継続された戦さの中にあるじゃないか
いまここでみずから複数化しながら戦うのは
アイスクリームを食べる彼女
ヤマトの国会議事堂の前で演説する彼女
墓場でテニスウェアを着て踊る彼女
マイクロフォンを束ねて海に沈める彼女
肉屋で働く彼女
肉屋の彼女を撮る彼女
ベラウの花を撮る彼女
ベラウの花を見る父親を撮る彼女
チンビン・ウェスタンを撮る彼女
戦さが継続されるならその戦さに対する戦いも継続
戦いすべて同時並行だ
芸術とは分身の術
ハラハラして見ているうちに
彼女は花や種々の緑や
海や空や土や
すべて生命の見方を教えてくれるだろう
あらゆる事物を体験したくなる
生き死にしつつ生きているすべてを
映像で見るならば
無音で耳がキーンとするような
そんな気分だろう
いつか自分も花畑に埋められて
ただ両手だけを地上に出し
ぱんぱんと手拍子を打ってみるか
何かを訴えるために
百合の花々のあいまから
世界に訴える
ダメだ、そろそろ文字の無音と
絶対的なおとなしさが欲しくなってきた
なつかしくなってきた
こうなったら
図書館で休憩することを許してください
見るもの聞くものふれるものに
(それらが良いものであるかどうかには拘らず)
ぼくは非常に疲れることがある
なのに文字列はおとなしい
どれほど過激で残酷で
騒乱的な内容を記していても
文字列そのものはおとなしい
非常にしずかだ
絶対の沈黙だ
その線まで退却して
またいろいろ考え直してみることにしようか
渇きに渇いて私は
トルストイの民話集を探しました
いま読みたい話があったのです
きみは知っていますか「三人の隠者」を
隠者といっても行者といっても乞食といっても
変わりはない
むかしあるロシアの僧正が
船で旅をしていると
どこかの島に住む三人の
まるでばかみたいな隠者の噂を聞いた
あまり口をきかない人たちで
なんの話もできない
見にゆくと三人は手をつないで岸辺に立ち
こっちをじっと見ている
ふびんに思ったのか僧正は小舟で上陸し
言葉もあまり知らないこの隠者たちに
本式のお祈りを教えることにした
かれらが神さまに救われますように
何度もくりかえさせて
夕方までかかってお祈りを教えた
隠者たちは素直にそれを習い
ぶつぶつと祈りをいえるようになった
かれらとしてはよくがんばった
もう日没なので僧正は本船に戻り
みちたりた気持ちでまた旅をつづけたのだ
そして夜、月夜、川面がよく見える
みんな寝しずまっている
僧正がひとり島の方角を見ていると
何かの影がすごい速さで近づいてきた
「舟かと思えば舟でもなく
鳥かと思えば鳥でもなく
魚かと思えば魚でもない
ちょっと見ると、人間のようでもあるが
人間にしては少し大きすぎるし、
それに第一、人間が海の上を歩ける
はずのものではない」(中村白葉訳、岩波文庫より)*
その正体はあの三人の隠者
手に手をつないで三人そろって
「水の上を、まるで
陸の上を駈けるように駈けているが
足は少しも動かしていない」
隠者たちはお祈りの言葉を忘れたので
僧正にそれを訊きにきたのだ
僧正は鳥肌が立っただろう
胸がぎゅっと苦しくなっただろう
髪の毛が逆立っただろう
僧正はすっかり恐れ入ってしまい
「おまえさんがたの祈りはもう
神さまに届いています
おまえさんがたに教えるものは
わたしではありません」と口にする
すると隠者たちはくるりと方向を変え
島へと帰ってゆく
水上を走りながら
「隠者たちが去ったほうからは
朝になるまで
ひとつの光が見えていた」
なんという恐ろしい話
そして魅惑的な話だろう
われわれは祈りつつ
自分が祈っているかどうかを知らない
祈りの言葉を口にしつつ
その祈りが正当なものかどうかを知らない
口もよくきけない
ばかみたいなニンゲンとして
ただ祈ることを知らない
どうやら船旅が必要だ
三人の隠者が住む
あの島にゆきつくには

*『トルストイ民話集 イワンのばか 他八編』中村白葉訳、岩波文庫、1932年

丸亀市立中央図書館、二〇二三年六月四日(日)、晴れ

私はロボットではありません

篠原恒木

先日、クレディット・カード会社から突然のメールが届いた。
「お客様のカードが不正利用された疑いがあります」
なんだと。それはよくない。まことにもって遺憾である。おれはメールの続きを読んだ。
「このお支払いにお心当たりはありますか」
アメリカのよくわからないECサイトで、おれのクレディット・カードから5,983円引き落とされそうになっているという。身に覚えがないので、
「心当たりがない」
という箇所をクリックしたら、
「それでは即時にお客様のカードを停止して、新しいカードを発行させていただきます」
との一方的な返信メッセージが届いた。こんな簡単なやりとりで瞬時のうちにおれのカードが停止されてしまうものなのだろうか。疑念のカタマリになったおれは、カード会社に直接電話した。例によってカード会社の電話というものはなかなか繋がらない。さんざん待った挙句にオペレーターの声が聞こえた。おれは状況を説明して尋ねた。
「こんなことって、よくあることなのですか? 失礼ですが、偽メールじゃないかと疑って電話しているのですが」
「最近多発しているのです。いまお調べいたしましたところ、確かにシノハラ様のカードが不正利用されております。5,983円のお支払いはストップさせていただきました。新しいカードは一週間ほどでお届けいたしますので、ご不便をおかけしますが、どうかいましばらくお待ちください」
新聞報道によると、最近クレディット・カードの不正利用が後を絶たないという。サイバー攻撃による情報漏洩、カード番号の規則性から有効な番号を機械的に割り出すという手口が横行していて、昨年の被害総額は前年比3割増の約四百三十七億円と過去最高になったらしい。困ったことだ。
カードを一週間も使えないのは不便だが、どうやらおれはカード会社に感謝すべきなのだろうという結論に至った。

だが、ECサイトでよく買い物をするおれにとっては長い長い一週間だった。五日ほど経った頃、カード会社からまたメールが届いた。
「本日、お客様の新しいカードを普通郵便にて発送いたしました」
俺は目を疑った。クレディット・カードを普通郵便で送るわけがないだろう、と思ったのだ。これこそがカード詐欺なのではないのか。猜疑心のカタマリになったおれは、再びカード会社に電話した。これもまた例によって、すぐ繋がるわけがない。自動応答の声が聞こえる。
「電話が大変混み合っております。オペレーターとお繋ぎするまで二十分ほどかかります。時間をおいてもう一度おかけ直しいただくか、このままお待ちください。なお、この電話はサーヴィス向上のため、録音させていただいております」
おれはこのまま待つほうを選んだ。毒にも薬にもならないBGMを挟んで、同じアナウンスが定期的に何度も何度も流れる。

話は横道に逸れるが、なぜああいう場合のBGMはつまらない曲ばかりなのだろう。客をイライラさせないため、ココロを鎮めるような曲調のものを選んでいるのだろうが、おれのココロは一向に鎮まらない。どうせなら「もうすぐ繋がるぜ。頑張れよ」というメッセージを込めて、ロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」や、ビゼーの「カルメン序曲」、あるいはレッド・ツェッペリンの「移民の歌」などを流せばいいのに、とは思うが、そんな曲を流せば客のアドレナリンが大量に分泌して、やっと繋がったときにはオペレーターが怒鳴られてしまうだろう。

それにしても待たせ過ぎだ。二十分間はゆうに経っている。いったん切って、時間をおいてかけ直すべきだったかと思うが、ここまで待って切るのも業腹ではないか。ずっと耳に当てたスマートフォンは熱を帯びてアチチ状態だ。おれはだんだん腹が立ってきた。その怒りが頂点に達したとき、ようやく電話がオペレーターと繋がった。
「この電話はサーヴィス向上のため録音させていただいております」
という例の機械的なアナウンスが一瞬頭をよぎったが、おれの煮えたぎった怒りはもう誰にも止められない。

のぉ、オドレ、だいたい「サーヴィス向上のため」に録音しているわけなかろうが。モンスター・クレーマーを減らすためじゃないの。そがなチンケな考えしていると隙ができるぞ。

おれの脳内はすっかり「仁義なき戦い」の菅原文太に侵されてしまっていた。電話に出たオペレーターにはこう述べた。
「あなたに申し上げても詮無いことだとは思うのですが、なぜ新しいクレディット・カードを普通郵便で送るのでしょうか。その了見が理解できません。どう考えても書留で郵送すべきではないですか。ウチのような集合住宅の場合は、部屋番号を間違えてポストに郵便物が入っているケースは日常的にあります。コスト・カットが目的なのでしょうが、誤配の危険性を考慮すれば私には愚策としか思えません。カードの不正利用を未然に防いでいただいたことには感謝を申し述べますが、肝心の新しいカードをそのような乱暴な受け渡し方法で済ますことには些かの疑問が生じております」

いや、実際はこのようなロジカルな口調ではなかった。二十分以上の待ち時間がおれを凶暴化させていたのだ。正直に言えば、
「録音上等、喧嘩上等よ。ワシゃ、ワレの命もらうも、虫歯抜くんも同じことなんで、殺るんなら、今ここで殺りないや、能書きは要らんよ。ワシが新しいカードを取りそこのうたら、オドレらどう責任取るのよ。知らん仏より知っとる鬼のほうがマシじゃけの。ワシはイモかもしれんが、旅の風下に立ったことはいっぺんもないんで。のぉ、のぉ」
というような、きわめてお上品な口調に終始してしまった。
だが、オペレーターは慣れたもので、おれの繰り出すへなちょこパンチをするりするりとかわし、謝り倒されて電話は切れた。プロの接客はすごい。
まあ、そもそもおれのカードの不正利用を未然に防いでくれたのはカード会社なのだから、感謝すべきであって、キレるのはまったくのお門違いなのだが、カードを普通郵便でポストに放り込むのはあまりにも不用心ではないのか、との不満は残った。

結局、普通郵便の悲しさゆえ、新しいカードは土日を挟んで、ようやく月曜日に配達された。だが、ここからが面倒だった。日常的に買い物をしているあまたのECサイトにいちいちログインして、新しいカードの番号をコツコツと打ち込まなくてはならない。

そもそもなぜおれはそんなにネット・ショッピングに依存しているのか。それには理由がある。おれの欲しい本は小さな書店では売っていない。そしておれの欲しいCDやレコードはCDショップでは売っていないのだ。もし売っていたとしても、たとえば渋谷のタワーレコードを例にとれば、6階、もしくは7階まで昇らないと、お目当ての売り場にすら到達できない。そんな気力はもうおれには残っていないのだ。だがネット・ショッピングなら簡単に手に入る。これを利用しないテはないではないか。

さて、各ECサイトに新規のカードを登録する作業に取り掛かった。予想していたことではあったが、この作業が混迷を極めた。新しいカード番号を登録するには、各サイトにログインして手続きをしなければならないのだが、その都度、
「私はロボットではありません」
というボックスにチェックを入れなければならないのだ。こんなにヒトを愚弄する誓約があるだろうか。このおれがロボットであるはずがない。ロボットはニラレバ定食を食べない。ロボットは些細なことで妻と大喧嘩をしない。ロボットは髪の毛が禿げることもない。だいたい前立腺肥大症が持病のロボットなど聞いたことがない。実にバカバカしいチェックだ。だがここでまたPC相手に「仁義なき戦い」の菅原文太もしくは梅宮辰夫あるいは松方弘樹的なアプローチを試みても始まらないので、おれはおとなしく
「私はロボットではありません」
のボックスにチェックを入れる。その徒労感および虚しさはハンパない。

さらにはそのあとに「画像認証」というテストのようなものが待ち受けている。
角版の風景写真が九分割されていて、
「横断歩道の画像をすべて選択してください」
ときたもんだ。ところがこの写真の分割のされ方が実に微妙で、
「ん? このブロックの右端にはギリギリで横断歩道の端っこが入っているような気がするぞ。いや、ここは素直に入っていないと解釈すべきなのか。ううむ、よくわからん」
というケースが多いのだ。横断歩道だけでなく、信号、自転車などといったヴァリエーションもあるのだが、画像が粗くて信号のちょっとした一部分が入っているような入っていないようなブロックがあるのだ。このブロックは選択の対象になるのか、それとも無視していいのか、躊躇してしまう。こういう場合、ロボットならスムーズに選択できるのだろう。だがそれならば、事前の
「私はロボットではありません」
という誓約と大いに矛盾するではないか。ニンゲンだから微妙な箇所にいちいち悩んでしまうのだ。悩んで選択を誤ることが何よりの「私はロボットではありません」の証明ではないのか。ところがこの画像選択をミスすると、何回も違う画像と設問が出て来る。
「ロボットではないから間違えるんだよ!」
と、おれは逆上する。

別のパターンもある。
「私はロボットではありません」
とチェックを入れると、わざと読みにくくしてある数字とアルファベットをランダムに組み合わせた七、八文字の羅列が出てきて、
「上記の文字を正しく入力してください」
ときたもんだ。またこれが判りにくい。アルファベットの小文字「q」と数字の「9」なんて紙一重だ。おまけに文字が歪んでいるので始末が悪い。これもロボットなら一発で判読するはずだから、この「テスト」も意味が分からない。ニンゲンだからこそ正しい文字が入力できない場合があるのではないか。

こうしてすべてのECサイトでカード番号の新規登録が済んだ頃には、おれはへとへとになっていた。せめて一店舗だけでもいいから、
「あまりにも当たり前のことで失笑を禁じ得ないのですが、私はロボットではありません」
という文言が書いてあるチェック・ボックスがあれば、おれはどれだけ救われたことだろうか。いや、いっそ、
「ワシも格好つけにゃあならんですけぇ、人間相手にロボットかと訊く馬鹿がどこにおる、このボケ。アヤ付けられたらカマしちゃれぃ」
というチェック・ボックスがあればと思ったんじゃが、ワシはどこで道間違えたんかのぉ。

ジャワ舞踊のレパートリー(1)女性舞踊

冨岡三智

突然ながら、今までどんなジャワの伝統舞踊(スラカルタ様式)を習ってきたのか、レパートリーを振り返ってみよう。何をどのように習っていくのか、その方法は様々で人によって違うことと思う。自分がやってきたことを振り返るのは恥ずかしく、また誰の参考になるものでもないけれど、ご笑覧下さい…。

私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。その後、同大学大学院をカウンターパートとして、2006年8月~2007年9月に宮廷舞踊調査(公演や記録制作の活動)していた。留学以前に、短期で4回(1か月ずつ)現地に舞踊を習いに行っている。その2回目の短期渡航(1992年)から女性舞踊を師事したのがジョコ・スハルジョ女史で、その当時はジョコ女史はまだインドネシア国立芸術高校スラカルタ校を定年になっていなかった。その時にはまだ気づいていなかったが、スラカルタ宮廷舞踊を全曲修得していたジョコ女史に巡り合えたことは僥倖だった。私は女史が亡くなる2006年までずっと師事することになった。

私が通算5年余にわたる留学で一番やりたかったのは宮廷舞踊:スリンピ10曲とブドヨ2曲の完全版を師匠のジョコ女史から全曲修得することで、幸い目標を達成できた。習った曲名を挙げると、スリンピでは「アングリルムンドゥン」、「ゴンドクスモ」、「ラグドゥンプル」、「スカルセ」、「ロボン」(ここまで完全版で上演済)、「ルディラマドゥ」、「サングパティ」、「タメンギト」、「グロンドンプリン」、「ガンビルサウィット」で計10曲。ブドヨでは「パンクル」(完全版上演済)と「ドゥロダセ」の2曲。実は完全版を習う前にジョコ女史が手掛けた「ゴンドクスモ」短縮版も習ったが、短縮版で習ったのはこれだけである。芸大の短縮版と違っていて非常に勉強になったけれど、やはり長いバージョンの方が充実感があって好きだなあと思う。

宮廷舞踊(スリンピ・ブドヨ)と対極にあるのが民間舞踊(ガンビョン)で、私はこの対極にある舞踊を二本柱にしていた。ガンビョンは太鼓のリズムにのって踊るもので、自分で太鼓の手組を考えたいと思い、太鼓も習っていた。まず、とりあえず入手できる音源は全部踊れるようになりたいと思い、次のような曲を習う:「パンクル」、「パレアノム(ガリマン氏版)」、「パレアノム(PKJT版=2ゴンガン版)」、「パレアノム(ジョコ女史版=3ゴンガン版)」、「ガンビルサウィット・パンチョロノ」。ちなみにゴンガンとは曲の長さのこと。これらは市販の音源がある。他に、芸術高校自主録音の「アユン・アユン」(4ゴンガン、ジョコ女史版)、ジョコ・ワルヨ氏が太鼓を叩いている市販カセット2本。1本は私がどこかの店で買ったもの、もう1本は太鼓の先生が持っていたものだが(テープは半ば伸びていた)、どちらもその後どこの店でも見かけたことがない。古くて再版されなかったものかもしれない。それ以外に、市販のカセットにない太鼓の手組を習いたくて、マルトパングラウィットの太鼓の本に採録されている古い手組を太鼓の先生に叩いてもらって録音し(10ゴンガン、太鼓の音のみ)、それをジョコ女史の所に持って行って習った。

それ以外の曲でジョコ女史から習ったのが「ゴレッ・スコルノ」、「ルトノ・パムディヨ」、「ゴレッ・マニス」。どれも留学前から習っていた曲で市販カセットがある。1,2曲目がクスモケソウォ(ジョコ女史の舅)の曲だが、実は市販カセットは短縮版である。ジョコ女史によると、カセット会社はテープの片面(30分)に2曲収録したいため、長い曲は短縮するようにと要請してくるのだそうで、これらの短縮はジョコ女史が手掛けたという。私は元の完全版も習いたかったので、どちらも完全版を自主録音した。

さらに、ジョコ女史が振り付けた「クスモアジ」も習う。この舞踊作品については『水牛』2020年8月号に寄稿した「ジャワ舞踊作品のバージョン(8)『クスモ・アジ』」で書いているけれど、結婚式で夫婦神が新郎新婦を祝福するために降りてくるという内容で、男女ペアで踊る舞踊で私が習ったのはこれだけである。他の人が振り付けたこの種の舞踊は男女がラブラブな感じで踊るので(演出にもよるが)、私には気恥ずかしい。実はこの曲も録音の準備を進めていたのだが、先生が亡くなるなどで取りやめになってしまった。

最後に、マンクヌガラン王家の「ゴレッ・モントロ」最短版も習ったことがある。同王家の太鼓奏者ハルトノ氏の息子さんの結婚式にミチも踊ってくれと言われて(私は氏が指導するガムラン練習に参加していた)、2,3か月くらいせっせと舞踊練習に通い、多くの踊り手たちと一緒に出た。踊ったのはこの時限りなので、もう忘れてしまった。この王家の舞踊はかわいらしくて好きなのだけれど、どうも自分にはその可愛さが足りない…と気になってしまう作品。

むもーままめ(31)永久凍土系・謎みかんカレーの巻

工藤あかね

9月になるというのに、この暑さはなんなのだ。
食欲はあるけれど、灼熱の太陽の下、わざわざ買い物には出たくない。

ある日わたしは冷蔵庫の中をぼんやりと眺めていた。ほとんど空なのは一目瞭然なのに、冷気にあたってしばし涼んでしまうくらいに、暑さで頭がやられていたのだ。家にある食料は鶏肉とカボチャの煮付け、レタス、きゅうり、いただきもののトマト。あとは缶詰とか調味料か…。鶏肉を焼いて、あとはサラダにするか…と思ったところで、なにげなく冷凍庫の引き出しを開けてびっくり。ロックアイスの下から手作りみかんジャムが出てきたのだ。以前、大量に大きめ柑橘類をいただいて、食べきれない分をジャムにした。だが使うあてもないまま、すっかり忘れていたのだ。永久凍土から発掘されたマンモスみたい。永久凍土系みかんジャム発見。

で、それをどうするか1秒だけ考えた。なにせ暑さで思考停止しているので、とりあえず冷凍みかんジャムのパックを流し台に置いて、使う気でいた鶏肉に塩胡椒して鍋に突っ込んだ。鴨のオレンジソースっていうお料理があるよね…と0.5秒くらい考えて、なぜか鶏肉の上から永久凍土系みかんジャムを載せた。だが、このままではいつまで経っても火が通らないと思ったので、少し水を足して蓋をした。

くつくつと音を立てるお鍋。そろそろ鶏に火が入ったかな、と思い蓋をとると、くだんの永久凍土系みかんジャムは、見事なとろみで鶏にからみついている。色合いもきれいだ。ちょっとだけ期待しながらスープ部分を味見したら…うえっ…ものすごく苦かった。そもそも鍋に白ワインだとか調味料を入れるという発想は完全に失われていた。それにこの永久凍土系みかんジャムは、かなり苦味のある大きめ柑橘類を煮たものだった。この果物の名前もわからない。玄人向けの謎みかんだったので砂糖をかなり入れて煮詰めたのだが、なかなか甘くならなかったことをようやく思い出した。

さてどうする? 煮込み系料理で血迷った時のソリューション、それはカレー化である。とりあえず、煮ているものの味が微妙になった時には、カレー粉やカレールーを入れて最初からそれを作るつもりだった風を装うと、たいてい巻き返せる。謎の永久凍土系みかんジャムで煮てしまった鶏を救うのはカレーしかない。とりあえず、カレー粉をばーっと鍋に撒いた。コクがたりなさそうな気がしたので、そこに洋風だしと、ミニトマトを入れた。そうだ、多国籍にしてしまえ。みりんとお味噌も入れよう、ケチャップも少し、めんつゆちょっと入れよう…。甘味と緑色が足りない。カボチャの煮付けも入れちゃえ。こうやって思い出して書き出してみても、なかなかの気色悪さである。…かくして出来上がったのは、オレンジ色のとろとろの中に、鶏と真っ赤なミニトマト、緑色のカボチャの皮が浮かぶ、謎みかんカレーであった。

全く期待せずカレースープを口に運んだら、ちょっと驚いた。ファーストアタックは普通のカレー、しばらくするとかすかに味噌の風味、そして最後にちょっとさっぱりした苦味がやってくる。大きめ柑橘類の苦味はカレーとしてどうなのかと思ったが、これが不思議とクセになる。夏にゴーヤを食べたくなる、あの感覚とちょっと似ている。

暑さで煮えた脳みそだからこそ出来上がった、謎みかんカレー。思いのほか悪くない出来だったけれど、もう一回やるかと言われればどうかな…。あっ…謎の大きめ柑橘類で作った永久凍土みかんジャムはもう一パック冷凍庫にあるみたい。さて次はどうしよう…。

仙台ネイティブのつぶやき(86)建物とつきあうということ

西大立目祥子

仙台市庁舎の建替工事がいよいよ始まると聞き、8月11日に「解体直前!仙台市役所建築見学ツァー」を開催した。主催は宮城県建築士会仙台支部まちづくり部会と、私たち「宮城県美術館の百年存続を願う市民ネットワーク」。2020年に宮城県美術館の現地存続活動を行い目的を達成した私たちは、会を解散せずに名称を変えて活動を継続している。あのときは全国の方々から会員のお申し込みをいただき、たくさんの署名も頂戴しました。ありがとうございました。

メンバーに建築を仕事にし、建物に関心を抱く者が多いこともあって、“解体”と聞くと何かがムズムズと胸の内で動き出す。長年働いてくれた建物にきちんとあいさつはせねば、とか、あらためてゆっくりと細部を見ておかなければ、とか…。その中には、残そうと思えば残せたのでは…という少しの後悔も入り混じっている。老朽化すると、いまだ直して使うという発想すら持たずに迷わず壊し新しい建物を立てる、何というのか建物への愛着が薄いこの仙台という地方都市で建築文化を育みたいというのが、私たちの共通の思いだ。

仙台市の本庁舎整備室に見学会のお伺いを立てると、拍子抜けするほどあっさりとお許しが出て、祝日なのに庁舎の鍵を開けてもらい、トークのための会場まで用意いただくことになった。

この市庁舎は3代目で、1965(昭和40)年に竣工。設計は山下寿郎設計事務所(現・山下設計)による。仙台は1945(昭和20)年7月10日未明に爆撃を受け、中心部のほとんどを焼失した。昭和20年代後半から仙台市公会堂などが整備されていったが、30年代に入ると現在も残る大きなビルディングが建設され、この仙台市庁舎が整って、戦後の仙台の街の骨格がくっきりと浮かび上がったように思う。

それから60年近く。1989(平成元)年に仙台市が政令市になって区政が敷かれるまでは、市民にとってもさまざまな手続きで出向くなじみ深い庁舎だったわけだが、建替えの話が出たとき、保存を訴える声はどこからも上がらなかったし、私も上げなかった。これまで3回、私は友人たちと解体目前の建物の保存を求める運動を起こしている。結果は3戦3敗。3年前の宮城美術館の現地存続運動が初めての成果なのだった。それは設計者が前川國男というビッグネームだったこと、そして周辺の自然環境を巧みに取り入れたプランに多くの人が深い共感を抱き、私たちの運動を後押ししてくれたことが大きい。では、この市庁舎は? 機能美を供えた好ましい建物だと感じつつも、やはり保存を求める気持ちには至らない。老朽化のせいだろうか? 魅力を捉えきれない自分自身のせいだろうか? 見学会の準備をしながら、自問自答する。

建築士をしているメンバーが、建設にかかわった山下設計の関係者を探し出してきた。
Kさんは96歳。構造設計に携わったという。「もともとは5階建ての計画で進んでいたのを、山下設計の支店長の考えで100尺規制(31メートル)目いっぱい使って、8階建てに変更したんですよ。当時はコンピュータなんてないですからね、そろばんと計算尺とドイツ製のタイガーという手回しの計算機を使ったんです。地震動の数値化されたものも国内にはなくて、米国のデータを使い東大の助けを借りて分析しました。当時の最先端ですよ。実施設計期間はわずか2ヶ月だったから、休みがなくて徹夜の連続、体調を崩したこともあったけど何とかまとめることができました。若かったからできたんでしょうね。現場は2交代制で休みなく働いていた。過酷で病気になる人もいたけど、まぁ、当時は日本中がそんな感じですよ。鉄骨は横須賀の工場で製造したものを船で運んできました。ここは地盤が固くてね、掘削も大変だったんです。地下から水も湧くし。あまりに固くて発破で掘削したこともあります。注意喚起のためにサイレンを鳴らしていたはずです」

うかがった話はまだまだあって書き切れない。
もう1人、Oさんは82歳。大学を卒業して入社するとすぐに市庁舎設計チームに配属されたという。見学会の準備のため、事前に市庁舎に出向いてもらってメンバー4人といっしょに庁内を歩き外観を眺めながら、話をうかがった。建築を生業にするメンバーが驚くのは工期の短さで、「8階建て、3万平米を着工から竣工まで1年7ヶ月でやるなんて信じられない」というのだが、Oさんの話には建築門外漢の私も驚かされた。

「昭和39年の3月に卒業して事務所に入ったんですが、そのときすでに着工されてたんですね。でもね、図面ができていなかったんですよ(笑)。正面の庇は鉄骨が立ち上がってから私がデザインして図面を引いたんです。100尺の高さに8階を収めてるから階高が低くてね、採光もありますけど、視界を開放するために中庭を設けました。でも1階の天井が低いのがずっと気になっていて、やはり今見ても気になるなぁ。そしてこれは「コンクリート打ち放し」ではなくて「コンクリート化粧打ち」。私はコンクリートの匂いが好きでね、型枠をはずすときは必ず現場に出向きました。妻側の壁面のタイルは杜の都をイメージして、あえて緑色のヴァリエーションが出るように窯変タイルを採用しています。そして、前庭も庁舎と一体のものとして整備しました。当時の島野市長が書いています。『都心部において特に不足しがちな新鮮な空気を太陽と緑をいささかでも市民のために取りもどすといったことを考えてこれを造りました』と。庁舎をさえぎらないように、噴水も掘り下げて設置して。私たちは、建築主、仙台市ですね、その後ろにいる市民に応えるために仕事をする、それが山下のモットーなんです」

この時代に“市民のための市庁舎”という明快なコンセプトが立てられていたことに、心を動かされた。そのため当初は、空調も窓口と市民の部屋と市長室にしか整備されなかったという。そしてもうひとつ、Oさんの「コンクリートの匂いが好きで」というひと言も、じんわりと胸にしみた。打ち込まれたコンクリートは熱を帯び、枠をはずすと、型枠の木の匂いも混じり合って、いかにも“生まれた”という実感をもたらすのだそうだ。あくまで固く強靭というイメージしかなかったコンクリートのまるで違う姿を教えてくれるひと言。同じように、現場で昼夜を問わず働いた多くの人が、その人にしかわからない時間と実感を育んでいたのだろうか。その総体がこの建物かと思うと、60年近い建物の生きた時間も重なって、はい、さようならと簡単にはいえないような割り切れない思いにさせられる。

関係者の話を聞くうち、私たちメンバーは口を開けば「いい建物だよ」「気づくのが遅かった」「せめて部材残せないの?」などといいあうようになった。細部のひとつひとつの価値をとらえる眼ができてきたということなのかもしれない。
見学会は午前、午後の2回で60名、そのあとのOさんが登壇してくださったトークには40名が参加。庁内をめぐって解説を重ね、話に耳を傾けるうちに、私たちと同じように建物の魅力に眼を開かれていったようだ。

竣工して58年。こんなふうに設計者の意図や思いを聞きながら、市民がこの建物を見学する機会はあったのだろうか、と考えてみる。もしかするとなかったのかもしれない。解体寸前の建物の見学会にどれほどの意味があるかはわからないけれど、でも確かにこういう機会があってこそ、愛着は生まれてくるものだろう。

Oさんに、「渾身の力を込めて図面を引いた建物が消えていく。そのことにどんな思いがありますか」と聞くと、「社会が変化して役割を終えていくのなら納得がいく。でもただ古くなったから壊すというのはちょっと…」と話された。

仙台の戦後史を振り返ると、新しい建築をつくり新しいことを始めるということが繰り返されてきた印象を受ける。リセットして始める感覚、いわば建物をつぎつぎと消費してきたといってもいいかもしれない。長くつきあいながら傷んだら直し、よみがえらせて新しい価値を創り出す。いまある建物を編集し直しリノベーションして使い続けることを、仙台でやれないものだろうか。東北でもすでに山形や秋田では試みられているというのに。

オスロから30年

さとうまき

この夏、イスラエルとパレスチナの若者たちが来日するというので、手伝いをすることになった。日本に来て、友達になるのが目的だ。参加した若者たちは、異口同音に「敵だと思っていたが、実は人間だった」と言って最後はハグをする という企画を84歳のおばあさんがたてた。平和のためのラボラトリーというのをうたい文句にしていて、2週間、日本の若者も加わって、広島や、長野、東京で共同生活をするうちに仲良くなっていくというロードムービーのような面白さがある。

しかし、イスラエルとパレスチナの関係はかつてないほど悪化している。今年の死者がヨルダン川西岸のパレスチナ人200人以上、イスラエル人約30人に上り、2005年以来、最悪の水準となっている。そんな状況で、仲良くなるなんて言うのは、実にばかげている。戦争している状態で、敵と仲良くするなんて言うのは裏切り者である。誰とでも仲良くなれたら楽しいが、僕の親友が、僕が大嫌いな連中と、仲良くしていたらもうそいつは親友じゃないってなるので、新しい友達を作るよりは、親友を失いたくない、そう考えると参加者がなかなか集まらないというのもわかる。

今から30年前、1993年9月13日のことを思い出す。「オスロ合意」の調印式がワシントンで行われていた。TV中継を見て、当時普通のサラリーマンだった僕はとても感動していた。イスラエルもパレスチナもよくは知らなかったが、ラビンの演説はよかった。「血も涙ももうたくさんだ。私たちは復讐したいとは思わない」。この老人の迫力。一方のアラファトは、まるで何もなかったかのように、さっと手を差し出し、嫌がるラビン首相の手を強く握って振り回していた。僕は、その時、会社を辞めることを決めて数か月後には中東で暮らすことになっていたので、他人事とは思えなかったのであろう。これから始まる新しい歴史に心は踊っていた。

実際に僕がパレスチナを体現するのは、シリアのパレスチナ難民だった。同僚のパレスチナ人が、自分の”故郷”がいかにパラダイスであるかを毎日話してくれる。その話と、ガッサン・カナファーニーの小説とが混ぜ合わされて、僕はパレスチナに夢中になった。ラビン暗殺のニュースもシリアで知ったが、彼らに言わせると、「ラビンこそがテロリストだ!」と語気を荒げていた。

結局僕がパレスチナについたのは、1997年だった。オスロ賛成派、反対派という議論もあったが、ハマスを強く支持する連中以外は、誰もが2年後にパレスチナという国家ができるものだと信じていた。ガザに飛行場ができて、パレスチナ航空が国際便を飛ばしだしたのだから誰にとってもメリットがあり、意見の違いはあってもパレスチナは後戻りはしない。しからば、和平をぶち壊すのではなく、どう和平にノッていくのか。今でいうSDGs的なノリで、誰一人取り残されることのない和平を考える教育が大切だった。

当時、いろいろな議論があった。イスラエルの教育大臣が左派だったこともあり、敵視教育をどう変えていくのかも政治レベルで議論されていたと思う。ヘブライ大学は、イスラエルとパレスチナの若者たちを引き合わせるプログラムを研究していた。ベツレヘムでは難民キャンプの中学生が、イスラエルの中学生と議論するワークショップを見学した。最初はアイスブレーキングで仲良くなって、その次は、自分たちがつらかったことを話す。パレスチナは、親や親せきが殺されたり、逮捕されたりした体験が必ず出てくる。特に難民キャンプはテロの巣窟とされているから、逮捕者も多い。イスラエル側もテロで、知り合いをなくしたという話もあるが、TVや新聞のニュースで見た程度だったりする。それでも、「パレスチナ人がテロをやるから、逮捕されるんだ」「テロではない、占領と闘っている。正義と闘っている」「占領じゃない、神が与えた土地だから」というお決まりの議論になっていき、泣き出す子どもたちもいた。

僕は、そのあとこのプログラムはどういう仕掛けがあるのか見たかったのだが、別の会議が入っていて最後までいられなかった。こういった平和教育の試みはうまくいかなかったのだろう。結局2000年のインティファーダですべて振出しに戻り、紛争は悪化し、僕はというと2002年にイスラエルから追い出されて、2度と入国はできなくなってしまったのである。名誉のために言っておくが、テロを支援したわけでもなく、パレスチナの医療支援をイスラエルの人権のための医師団と一緒にやっていただけだった。アレンビー橋を渡ろうとして、「あなたはダメよ」その一言だけで、追い返された。あまりにもあっけなかった。こで僕は、パレスチナでの思い出はすべて消去してしまったのである。

2023年8月、イスラエル、パレスチナの若者10名が来日した。20歳から29歳までの若者だ。僕は、最初の広島で、一緒に資料館を見学したが、そのあと彼らは長野で一週間合宿をしていろいろ話したらしい。最後の東京では、3つのチームでそれぞれ平和のメッセージを発表する事になっていた。会場に行くと疲れ切った表情の彼らがやってきた。意見が対立して「平和のメッセージ」をまとめることができなかったらしい。僕が嘗て見た、あの中学生たちと同じような議論になったらしい。「仲良くなってハグする」という目標に達せなかったことに、代表のおばあちゃんは、すごく落ち込んでいた。「このご時世で、無理に仲良くなったって意味ないし、それはそれで、現実を見せつけられたので、意味のある事じゃないですか?」と慰めたが、効果はなかった。一週間たっても残念そうに愚痴っている。僕は、別に仲良くならなくてもいいと思う。嫌いなものは嫌いでいい。嫌いだからいじめてやれとか、殺してやれとかそうのが一番よくない。

オスロ合意の調印式では、やたらクリントン米大統領がかっこつけていたのも印象的だが、そもそもノルウェーが、米ソを出し抜いて、秘密裡にラビンとアラファトを仲介したわけで、ノルウェーの手柄。スピルバーグ監督の「オスロ」では、ノルウェーの森で、イスラエル、パレスチナの交渉団が喧々諤々やりながらお互い理解し、尊敬しあっていく様子が描かれている。それでビートルズの「ノルウェーの森」って、どんな歌詞だったっけ? ジョンレノンの詩は政治的なものも多いが、たわいのないラブソングですらすぽっとはまってしまうことがある。まるで、イスラエルとパレスチナの駆け引きのようなである。女の子は、イスラエル? あるいはパレスチナ?

「ノルウェーの森」

僕は女の子を引っかけた
それとも僕が引っかかったと言うべきか
彼女は僕を部屋に招いた
「素敵なノルウェー調のお部屋でしょ?」彼女は僕に泊まっていくように言い
好きな場所に座るよう促した
部屋を見回したけど
椅子なんて無かった

じゅうたんに腰を下ろし
彼女がくれたワインを飲みながら、”その時” を待っていた。
夜中の2時までしゃべった後、彼女は言ったのさ
「もう寝なきゃ」

彼女は朝に仕事があると言って
笑いだした
僕は仕事は無いと言ったけど
バスルームで寝るはめになった

目を覚ますと、僕は一人
小鳥は逃げてしまった
僕は火を灯す
ノルウェー産の木材は素敵だね?

ということで、まだ日本に残っているイスラエルのルイとアンディは音楽ができるので、ノルウェーの森をみんなで歌おうというコンサートをすることになったのだ。

「9.6ピースセッション」
9月6日 中目黒楽 19:30―
https://www.rakuya.asia/event-details/9-6-peace-session-haishinari

トントコトン

北村周一

母と父が手と手をつなぎ児らは駈け
追いつくさきの夏祭りかな

音のする
ところ何処と
夏の夜の
そらにひびかう
祭りの太鼓

お祭りは
妻と子を率(い)て
みちみちに
遠く聞きいる
太鼓のひびき

トントコトン
さがしあぐねて
妻と子と
もどるほかなく
夏の夜の道

浜かぜや七夕竹をくぐりゆく 
祭りのあとの虫売りの声

はつなつの三保沖、江尻、生じらす 
月夜の晩に従姉をさそう

茹でジラス晩夏ほろよいゆうぐれは
袖師、横砂、かぜふくままに

海の面に
顔を出だせば
若夏の
ありてかたえに
妻となるひと

チョコバナナ
五百人前
売り上げて
町の祭りの
ビールに潤う

のこのこと
町内会の
祭りにも
顔を出しおり
秘書を連れいて

政もお祭り騒ぎもことのほか冷え冷えとして一夏過ぎ行く

薄ものを
纏いしのみに
縁台に
涼むじじばば 
こっち見ている

ノイズなき
夜を果無み
イヤホンの
自転車少女が
坂をくだり来

松林の
途切れしところ
青々と
空あり沼津
西高はここよ

体内に
蔓延るものら
粘りけを
なべて保てる、
真夏路上に

フリーダム・
スペース夜の
駅頭を
つぶつぶつぶつ
鳩は眠らず

ハード・コア
うつろなるその
中心に
ひとつあるべき
わが臍を見る

夜見の世の
入口にして
またひとり
テレクラリンリン
明るいお家

草津温泉

笠井瑞丈

車で草津温泉に向かう
夕方の高速を車を走せ
突然の雨で湿った山道

心地よい森の匂いを感じながら

今まで

鬼怒川温泉
水上温泉
銀山温泉

色々な温泉街を
巡ってはいるが

草津温泉は
一番好きな温泉街である

それは

草津温泉には
特別な思い出が

高校生の頃
夏の住み込みのアルバイト
草津温泉でしたことがある
ベットメイキングの募集で
友達四人で応募した

書類だけで無事採用が決まり
ドキドキしながら電車に乗って
草津温泉に向かった事を覚えている

初めての土地
初めての仕事

もし途中で嫌になったら
どうしようとかという不安

ホテルの事務所に着く

なぜか

僕だけ違う仕事に就かされた
三人はベットメイキング
僕はアパート型別荘の管理人の手伝い

多分僕だけ茶髪だったので
見た目が悪かったのだと思う

仕事時間も他の三人と違い
朝から夕方までの仕事

夜は完全にオフだった

他の三人は
朝仕事に行き
昼間はお休みで
夜仕事に行く

なので朝に顔を合わせるだけとなった
三人はいつも共通の話題で盛り上がり
いつも楽しそうにしているのを横目に
僕だけ仲間はずれとなった気分だった

オフの時間を
楽しもうという目的で
東京からはなれた草津に
住み込みのアルバイトを
四人で応募したのに

僕はいつも一人だった

夜は一人で湯畑に行き高校生だったが
ビールを片手に寂れたパチンコ屋で
パチンコを一人打って時間を潰したり
街をぷらぷら散歩をしたりした

ドキドキした初出勤日
上司にあたる管理人の
おじさんに挨拶をする
そしてその時たまたま通った
居住者に「おはようございます」と
僕は挨拶をした

まだ仕事の指導を受ける前に
たまたま通った居住者に挨拶した行動を
なぜかおじさんはすごく評価してくれて
僕のことをすごく気に入ってくれた

挨拶なんて当たり前のことだが

きっと茶髪だし見た目もあまり良くなかったので
変な若者が来たなと思ったのだと思う
なのであまり期待もしてなかったのに

挨拶できたことにビックリしたんだと思う

僕の仕事は

決められた時間に

玄関の掃除
お風呂の脱衣所の掃除
各階の廊下掃除
自動販売機の補充

それ以外の仕事はとくになく

時間を持て余す事が多々
なので仕事は管理人室でおじさんと
お話をする時間が多くを占めてた
本当にたくさんの事を教わった

これで給料をもらってもよいのかと
少し悪い気持ちになるくらいだった

昼食はいつも出前を
その支払いもいつも
おじさんがしてくれた

一度夕飯にも招待してくれた事もあった

なぜおじさんが僕の事をあれだけ
気に入ってくれたのか分からないけど
本当の息子のように面倒見てくれた

仕事のことで注意を受けることはあったが
一度も声を荒げて注意を受けたことはなかった

住み込みの期間が終わり
翌年に一度だけおじさんに会いに
草津温泉に訪れたことがある

本当にとても喜んでくれた

おじさんに会ったのはそれが最後だ

あの時間は僕にとって
貴重な時間だったと
たまにふと思い出す

もしいまおじさんにあえたら

心からありがとうと
今は伝えたい

本小屋から(4)

福島亮

 夏が終わった——と感じる瞬間がある。夕方、空一面に広がる鰯雲を見てそう感じる人もいれば、夜道を歩いていてふと聞こえてくる虫の音によって夏の終わりに気づく人もいるだろう。私の場合、その瞬間は、川面の色の変化に気づいた時だった。

 多摩川河川敷を歩いたり、走ったりしているのだが、ある日の暮れ近く、川面が朱色に染まる瞬間を見て、もう夏は終わってしまったのだ、と思った。あの朱色をどう表現したらよいかわからない。紅鮭色ともいえそうだし、朱鷺色ともいえそうだ。その色が川面に現れるのは、時間としてはほんの数分のことなのだが、それを見た瞬間、もう夏は終わってしまったのだ、と思った。久しぶりの感覚だった。群馬で暮らしていた頃、やはり近くを流れる吾妻川を見て、季節の移ろいを感じていた。忘れていたその感覚が、川を介して再帰したのかもしれない。

 川面の朱色と張り合うように、葛の茂みから真っ赤なカンナが何本も突き出しているのを、ある日見つけた。ダンドク、と和名で呼ばれるこの植物について、博物学者の磯野直秀が「明治前園芸植物渡来年表」に記すところを見ると、すでに寛文4年(西暦1664年)にはダンドクという名前が文献に見つかるという。学名でいうならば、Canna indica。インド(indica)とついているが、これは西インド諸島、つまりカリブ海のことだ。「ダンドク」という和名も、おそらくこの「インド」に由来するのだろう。英語ではカンナのことを「インディアン・ショット」とも呼ぶらしい。黒い種子が散弾のように見えるからである。その用例は、アイルランド出身の博物学者ハンス・スローンのカリブ海調査旅行記(1725年)に見つかるから、「インディアン」の参照先はここでも西インド諸島なのだろう。

 マルティニックでは、カンナのことをトロマン、あるいはバリジエと呼ぶ。トロマンはカンナの地下茎からとった澱粉のことも指す。市場に行けば、バリジエの切花が売られている。しなやかな長い茎に、火炎紋様のような真っ赤な花をつけたバリジエ。それはマルティニックを象徴する花だ。だからなのか、カンナの花が葛原のなかに赤い火の粉を散らしているのを見つけた時は、なんだか不思議な感じがした。マルティニックで見たバリジエの火炎が、地球の反対側のここ多摩川に噴き出しているように思えたのである。

 じっさい、植物は国境線などお構いなしに伝播する。多摩川の岸辺には地球の裏側の植物が「帰化」しており——「帰化」という語には、もともと服従的な語義があるけれども、「帰化」した植物たちはこの語義とはずいぶん遠い位置にいる——、例えば川縁を歩けば、ウチワゼニクサ、つまり、ウォーターマッシュルームと呼ばれて珍重されるあの植物が群生しているし、その近くをよく見ると、ゴワゴワと筋張った葉に、サイケデリックな散形花序をつけたランタナが生えていたりする。

 先日、本小屋の窓辺にやってきた来客も、そういえば、「外来種」であるらしい。キマダラカメムシのことである。カメムシというと、嫌な臭気を発するから毛嫌いされるけれども、その日は、この来客をじっくり観察することにした。濃い灰色の地に、星を散らしたような淡い黄色の模様があり、ゆっくりと歩む姿は堂々としている。彼らがここにいることをどう受け止めるのか、というやや距離を置いた視線と、精密な体の作りに見とれる没入した視線とを行ったり来たりしているうちに、キマダラカメムシはどこかへ行ってしまった。

 本小屋に引っ越してから数ヶ月たち、ようやく小屋の周辺にひしめく書かれていない文字たちを読む気持ちが動き始めたようだ。晩夏の訪れを知らせるあの川面の色は、その最初の徴だったのだと思う。

ゆうべ見た夢 04

浅生ハルミン

 深夜にNHK-BSでやっていた、科学をテーマにした番組を観ていたら、脳の奥には冷蔵庫のようなものがあってふだんは使わない思い出や記憶が整理整頓して保管されている、ふだんは忘れていても必要になったときにそれを取り出して前頭葉で調理する、と脳科学者が記憶について料理に例えて解説してくれていました。へえ、脳の中に記憶専用の置き場があるのか。扉が開くと中が明るくなる冷蔵庫のように、その部位の戸が開いたとき、記憶がスパークして取り出すことができるということ? 私は眠っている間に見た夢を書き留めようとするとき、記憶の薄れるスピードが日に日に速くなって困っている昨今なのですが(困ることでもないのですが)、それは、記憶が消えるというより、ドアが閉まるスピードが速くなったということなのかもと思い至りました。だから私の場合はドアが開いているうちに、つまり目覚めた直後に書き留めるのがベストなタイミング。歯を磨いたり、飲み物を用意したりしてもドアの閉まりに影響はないですが、シャワーの湯を浴びるとたちまちドアはパタンと閉まって、ドアがあったことさえわからなくなります。

 で、今日の夢は「ポメラニアンのハーネスが足首に絡んで転んだ」「俳優Oさんの白いランニング」「ブックファーストへ行く」という、三つの事柄を夢の記憶の冷蔵庫からいち早く取り出し、前頭葉の調理台で合わせてぺったんぺったん捏ねて、コロッケができあがったというイメージ。しかしテレビ番組を観たあと新たに浮上した謎は、日常生活の記憶と、夢のなかで体験したことの記憶は、同じ冷蔵庫に入っているのか? 別なのか? ということ。日常生活の記憶は何十年後にも、ふと、冷蔵庫の最前列に出てくることがありそうだけれど、夢の記憶は賞味期限が短いように思う……と、こんなとるに足らない想像をしているときが一番たのしい。

 夢の中で私は、住宅街のアスファルトの道を歩いているようだった。ひびの入ったアスファルトのところどころにスギナが生えていた。誰かが散歩させている茶色いポメラニアンが、私の足首にまとわりついてきて、足と足のあいだをくるくる何回もくぐったので、ピンク色のハーネスの紐が私の足を絡め取って、私はすてんと転んでしまった。誰かが近寄ってきて、それはポメラニアンの飼い主のようだった。長いハーネスの紐を自分のほうに手繰り寄せながら、私のほうへ来たその人は、テレビドラマの悪役を演じているのを見たことがある、ポマードの似合う俳優Oさんだった。
 それをきっかけに私とOさんは結婚を前提にお付き合いを始めた。
ポメラニアンは私の両手にすっぽりおさまる大きさだった。ポメラニアンを手の平に乗せると、手と犬の腹が触れ合っている面がネオン色に発光した。
 Oさんの部屋は木造の借家だった。カーテンは、適当な針金をカーテンレールにして白木綿の布を垂らしている簡易なもの。その前に焦茶色の木の本棚がひとつあるだけ。それが一切の家財道具。お金はなさそうだった。有名な俳優さんでもこんな感じなんだな、でもお仕事がんばってください、と思いながら、ぺったんこの敷布団の上で、ふたりで一枚のタオルケットをかぶった。
 Oさんと私とポメラニアンは、寺の境内を散歩しているようだった。砂利を敷き詰めた広いお庭。ノウゼンカズラが蔓に真っ赤な花をたくさんつけていた。借家の大家のおばさんは私たちを祝ってくれていたね。Oさんはしばらくしたら仕事に出かけていく。ランニングを着ている剥き出しの肩からも額からも、汗がぽたぽた落ちていた。汗は白いランニングに滲みていた。ちょっとOさん、その格好は似合っていてとても素敵だけど雑菌繁殖しないように気をつけてね。私もこれから自分の仕事へ出かけます。早くしないとブックファーストが閉まってしまう。ボタンのたくさんついたちゃんとした服を着て、ガラス張りの高層ビルの中へ私は消えた。建築中のビルが競うように高くそびえるこの街。

『アフリカ』を続けて(27)

下窪俊哉

 この夏は『アフリカ』をまたやろうと思っている間に過ぎた。しかし例によって夏の暑さは、もうしばらく続くらしい。まだ夏は過ぎ去ってはいないというふうに考えよう。そうやって自分がたいして動いていなくても原稿はぽつり、ぽつりと届くのだが、届くといつも嬉しい。原稿が添付されたメールを見て、おおー! と声を上げてしまうこともよくある。この歓びに代えられるものが他にあるだろうかとまで思っているのだが、これは一体何なのか。

 やろうと考えて、出来ないことは多い。私はいつの頃からか、何かを考え始めるとアイデアがどんどん湧いてくるようになった。『アフリカ』を始めた20代の頃は、でも全然そんなふうではなく、いろんなことを全て困難なことのように感じていた。出来るかどうかを先に考えるから、せっかく生まれようとしているアイデアが元気をなくしてしまうのだ。出来るか出来ないかはアイデアとは関係がない、好き勝手に考えてみよう、とすれば、アイデアは元気よくどんどん生まれてきてくれる。しかしそれを実行に移すかどうか、というのは別問題だ。
 例えば今年の春頃、休止して1年以上たった「道草の家の文章教室」を再び、一回だけ復活させようと考えていた。名付けて、道草の家の文章教室・最終回! いきなり最終回をやろうというアイデアに、ひとりでウケて、しばらく愉しんだ結果、それで満足してしまい、実際にやろうとはしなかった。
 そんなふうなアイデアは日々頭の中にあり、他人に話すこともあって、自分は企画倒れの名人だな! と思う。
 とはいえ、2010年代には、”プライベート・プレス”をめぐるトークイベントや文章教室、よむ会(読書会)など、実際にからだを動かして行った企画もいろいろとあった。
『アフリカ』はそういったことの何をやっても、終わったら帰ってくる場所であり、ベースキャンプのようだと言えばどうだろうか。うまくゆくこと、ゆかないこと、何があっても『アフリカ』に戻ってきて、さあ、また次のことをやろう、と考えることが出来る。
 それにしても、ベースキャンプが、なぜ雑誌のかたちになったんだろう。いや、そうじゃなくて、雑誌が先にあり、そこが次第に私たちのベースキャンプになったのだ。

 そこにはさまざまな人の訪問があり、出入りがあり、いろいろなやりとりが行われる。

 疎遠になった人たちがいる一方で、新しい出会いも『アフリカ』をやっていると次々あり、その不在と出会いの両方に『アフリカ』が支えられているのを感じる。疎遠になった人たちとも、お互いが元気で生きて暮らしていれば、いつか再会することもあるかもしれない。なくてもいいのだ、元気であれば、とたまに考える。

 この原稿を書いている途中で、向谷陽子さんの訃報が飛び込んできた。『アフリカ』が2006年8月にスタートして以来、これまで17年間、その表紙にはいつも、向谷さんの切り絵があった。事故に遭い、急逝されたとのこと。私とは大阪で大学時代に知り合い、とくに20代の前半には深い付き合いをしたが、大学卒業後は故郷の広島に戻って暮らしていた。個人的にひっそりと『アフリカ』を始めることになった頃、たまたま彼女から手紙が来て、パッとひらめいたのだった。この人がいつも私や友人たちに贈っている切り絵を、表紙につかいたい、というより、そうしなければならない、と。
 突然やってきた巨大な悲しみと喪失感のなかで、いま、『アフリカ』最新号の表紙にいる羊の切り絵と、向かい合っている。その対話を、私は言葉にすることが出来ない。

225 見返し

藤井貞和

あたしの非行のことを
わらったやつ
あたしの不良のために
泣いたやつ

あたしの非行のあとを
愛したやつ
あたしの不良のせいで
生まれたやつ

この世の親も
あの世のぼうやも
みんな友達

サインして、みんなに
お返しするね
新著の見返しへ

(前回、紫上の死去を7月と書いた。新暦以後、むずかしくなりました。7月7日は七夕で、お星様を迎え、空を見ながら織姫さんの非行を見届けます。一週間ののち、13~15日が旧盆で、送り火とともに紫上は昇天します。ことしの9月29日がお月見、つまり八月十五夜で、正確にお盆の一ヶ月あとです。お団子のことしは13個ですよ、というような話題は私の不得意領域で、まちがいがあったらだれか、訂正してください。和装本の見返しにも献呈のサインのいたずら書きを見たことがあります。洋装本ではサインできるようになっています。遊び紙に書いてもかまいません。ここでクイズ、月見団子はなぜ13個ですか。答え、閏二月があるからです。)

「而今」から

高橋悠治

本を読んでいると、「而今」ということばに行き当たった。「いま、現在」という意味の漢語、読みはジコン、本来はニコンと読んだようだ。中国語辞典にもおなじ意味で載っている。

朝、目が覚めたとき、ある音、ある響き、フシの切れ端が浮かぶことがある。それは聞いたことのある何かの一部かもしれないが、そう考えるのと、浮かぶものを感じるだけとは、どこかちがっている。

思い浮かぶそれを書きつけてみると、それは記憶のなかに残った音楽の一部かもしれない。そう思えば、それは書くまでもない。浮かんだ音のイメージを書きとるとき、それが本来もっていたはずの、他の音とのつながりから離れて、それだけで宙に浮かんでいるかのように見ること。こうして、読んだことばの続きにあった「前後際断」という、もう一つのことばに辿り着く。

読みながら考えているのは、音楽を創る方法のこと。全体の構成から部分に降りていくのでは脱け出せない、20世紀後半の音楽と、今過ごしている日常の、どことない異和感のなかで、「音楽を創る」とはどういうことか。

「創る」のは、作曲というだけではなく、それに引摺られた演奏のスタイルでもあるだろう。

定義すること、論理を立てるのではなく、瞬間の感触から、何かちがう表面を探り当てることが、どうしたらできるだろう、と思いながらも、ほとんどの時間は、日常のいろいろに溺れていく。

と書いてみると、「日常」と「瞬間の感触」は、ちがうものには見えない。

2023年8月1日(火)

水牛だより

暑い日々が続きます。昨夜はゴロゴロという遠雷から始まって、バリバリ、ドカーンと派手な雷鳴まで、少しだけ降った雨の音もあり、安眠を妨害されました。きょうの午後にはまたにわかにかき曇り、雷それから強い雨がふり、そのあと一気にすずしくなった東京です。ぼんやりカレンダーを見ていると、8日はもう立秋ではありませんか! いつもと違うこの夏、どのように終わり、どのような秋が来るのでしょう。人類滅亡までの残り時間は1分30秒だとか。

「水牛のように」を2023年8月1日号に更新しました。
お目当ての書き手の名前がなくても心配しないでください。今月は休む、という連絡があった人ばかりですから、きっと来月には復帰します。
アサノタカオさんからは今月は休んで、来月ふた月分を、というメールがあったのですが、きょうになって、番外の原稿が届きました。藤本和子さんのしごとのスピリットを受け継ぐという「在日コリアン女性作家選」のアイディアはうれしく、とても楽しみです。ゆるく束ねて差し出すことも必要だと思います。藤本和子選『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』全7巻の藤本さんによる解説は、水牛の本棚で公開しています。ぜひ読んでみてください。この7冊分の解説だけで1冊の本になると思います。
戸田昌子さんの「これはギネスではない」を読み、もう20年以上まえの夏のある日のことを思い出しました。ポイントはもちろん、ギネスです。その夏も暑く、エアコンのない部屋にひとりいて、お昼に何を食べようかと考えました。ふと、ギネスは栄養たっぷりだから食事がわりにもなる、と誰かに聞いたことを思い出し、ちょうど冷蔵庫にギネスの小瓶が入っているし、そうだ、昼食はそれだ、と決めました。飲み出すと、ますます暑く感じるようになり、よからぬことなどを考えているうちに眠くなり、たっぷり昼寝をしたのでした。ギネスに栄養があったのかどうかはわからなかったけれど、悪くない午後でした。

それでは、また来月に!(八巻美恵)

蜘蛛を頭に乗せる日(上)

イリナ・グリゴレ

14歳のころ、彼女は生まれ育った村で一番の美人となった。長い黒い髪の毛に白い透明な肌、緑色の目の色に落ち着いた歌声、どんな角度から見ても、人形のような見た目だった。同じ部屋にいると見るだけで癒しを与えてくれるような存在。誰にも愛されるような存在。6歳上の姉がいたが、性格も見た目も違っていた。彼女はただ誰も傷をつけず、誰にも傷つけられないような人生で十分と思っていた。それは虫であっても、植物であっても、動物や人間であっても変わらない。

人生はまっすぐの線のような物だと母親がタオルを織っている手伝いをしていた時に思った。長い、赤い糸のようなものだ。真っ直ぐ伸ばして、それを引っ張って丸めて、毛糸玉を作って、その繰り返し。一瞬、家に入った猫を見て驚いた。猫はネズミを捕まえて齧りながら歩いていた。でもこの赤い糸、切れたら、どうなると一瞬、緑色の人形のような目が鮮やかなミントティーの緑から暗い苦い液体のような緑に変わった。そういえば、不思議なことに彼女はあまり自分の子供の時の思い出がない。ずっと同じ家に住んで、村の学校に行って、母親の手伝いをして、歌を歌って、遊んで、でも印象に残るものは何もなかった、悪いことも、いいことも。猫はネズミを殺して、食べる、狩られるネズミの気持ちも、狩りする猫の気持ちもわからない。

14歳になった夜に不思議な夢を見た。住んでいた村が森に囲まれていて、父親と薪を拾いに入った時に鹿の親子を見かけることがあった。彼女にとってそれは森に入る時の楽しみの一つだった。まるでお互いのことを知っているような感覚だった。いつか自分もこうして母鹿のように母親になっていくし、そう、自分も鹿と変わらない。いつも刺繍を刺しながらそう思った。

でもその夜の夢の雰囲気は、いつもとは違っていた。時間は夕方で、彼女も同じ鹿だと思いながら、幸せな気分で鹿を追いかけて、その鹿と一緒に森に入ろうとした。突然、森と村の境に2メートルほどの雄鹿が立って、彼女を見た。「この森にもう入ってはいけない」と言われるような目だった。彼女は汗だくになって目醒めた。こんな感覚は初めてだった。ベッドを見た瞬間に驚いた。母親が織った真っ白なシーツは真赤に染まっていた。思わず大きな声を出して、隣に寝ていた姉が起きた。姉が説明したのは、「お客さんがきた」、それは後でわかったけど、女性の身体から毎月、血が出ることがあるのだった。村では誰も知らないふりをしていた。姉も母親も恥ずかしそうにしていたし、彼女自身もしばらく把握しづらかったけど、庭の薔薇と同じ赤の血を見て何も感じなかった。お腹のあたり酷く痛かったけど、それより、夜に見た夢が心に何か変化をもたらした。その日から彼女の目はいつもと違う色になったが、人形の顔は変わらなかったし、いつもと同じ平凡な日々を過ごして、ケーキを焼いて、刺繍をして、家のお手伝いに取りくんだ。

中学校を卒業した後、村のほかの若者と同じように電車で1時間ほど離れた町工場で働き始めた。始発に乗って缶詰工場に向かう。街に着くと電車から降りて大勢で駅から遠くない工場に向かう時間が好きだった。まるで虫のようだったから。集団で動くアリと同じで、安心を与えてくれた。この人生も悪くない、長い紐を伸ばして進むだけでいいと思った。工場では女性は特に多かったけれど、喧嘩に巻き込まれたことは一度もなかった。村一番の美人でも、工場では同じガウンを着て、頭にスカーフをかけて、髪の毛を隠す。そのせいで、誰も美人に見えなかった。人間にさえも見えなかった、そもそも生き物に見えなかった。人形と同じ、服を脱ぐと性別が分からないのと同じだ。家に帰るといつもの平凡な生活に戻るのもよかった。週末に友達と村のディスコで踊る八十年代らしい遊び方も彼女のテイストに合っていた。

ただ一度だけ、工場の帰りにいつもと違って街が大騒ぎになって、若者が殺され始めた日があった。彼女も周りの若者と同じく街の中心に向かって行くことにしたが、近くで人が撃たれたので逃げた。子供の時に見たネズミを食べる猫を思い出して逃げた。ここで赤い糸が切れたら無駄でしかない。それは革命と呼ばれても、なんと呼ばれても自分はあのまっすぐな紐を伸ばして生きる。ただそれが何のためなのかはわからなかった。

彼女は何年経っても村一番の美人だったため、結婚の申し入れが何件もあったけど、親が反対した。村の噂でこういう人たちの親戚がどうのとか、結婚となると裏で繋がっている女たちが出てきて、暗い噂を広げる。彼女は一人だけ気に入った若者がいたが、その人の母はお酒が好きという噂があったため自分の母親が反対した。それで、自分で全く決められないのであれば、誰でもいいではないかと思った。そして結婚をきっかけにこの村を出れば良いではないかと思った。木の実と同じように、女性も結婚の時期が近づくとハエが寄ってくる。あっちからもこっちからも話が飛んできた。ある日、働いていた工場で、自分の息子と見合いしないかと誘った女がいた。まず相手側の隣の村の親戚の結婚式に誘われて見合い相手と一緒に出かけた。帰りの電車を逃してしまい、二人で線路を歩いて村に帰った。その相手は背が低く、友達が多くて、賑やかな人柄の様子だった。二人で線路を歩くとき、まっすぐな道だったから結婚することにした。一緒に街に引っ越して、彼の親とアパートで暮らすことにした。

結婚式当日、不思議なことが起きた。花嫁の白いドレスを着て、美容室で黒い長い髪の毛をまとめてもらったときの出来事だ。白いドレスはとてもお似合いだったけど、自分の姿を鏡で見るとなぜか頭に乗っている白い紙の花が蜘蛛の形にしか見えなかった。まるで、大きな蜘蛛が頭に乗っているとしか思わないと一瞬、自分の花嫁姿を見て思った。そしてその日から毎晩のように蜘蛛の夢も始まった。

224 魂のさくいん

藤井貞和

ふと思うことがある、
われらはさくいんによって、
偽書から取り出されると

見たことがあるな、
われらの偽書づくりが、
詩集を生む

精巧な偽書から、
さくいんで引く、
意識のつきあたりのところ

思う時がある、
われらは偽造する、
書物から差しのばす意識

われらの誤読によって、
生きて帰ってくる、
人名さくいん

事項さくいんに、
み霊を集める、
灰を送る

かききえる和歌の
現代語訳
さくいんに浮く水面

(夏は大好きで、冬も好き、秋は嫌いで、春が大嫌い。そんなはずだったのに、今年の夏は暑すぎて、ぐったりする。源氏物語でいうと、紫上という女性の最晩年みたいな気分である。旧暦だから、彼女は6月〈晩夏〉になるともうぐったり。翌月の14日に死去する。ところで参考書も教科書も注釈書も、紫上の死去を8月14日と決めている。おもしろいな。かぐや姫の昇天に合わせたのだろう。6月のつぎは7月じゃなかったかな。あれ、かぞえられなくなった。偽書かもしれない。夏の夜咄。)

水牛的読書日記番外編「在日コリアン女性作家選」について

アサノタカオ

ホームからぼんやり線路を眺めていると、影のかたまりが動いている。空を見上げると、山から海に向かって次から次に雲が流れ、はるか向こうには天にそびえるような巨大な入道雲が見えた。吹く風が気持ちいい。夏だ。

小田原駅から乗車した新幹線の車内で、企画書などの資料を入念に確認しつつ新大阪へ。市営地下鉄を乗り継いで駒川中野駅で降りて、路上を照りつける強烈な日差しを浴びながら、新しい出版社ハザ(Haza)の事務所へ向かう。

夜に開催されたミーティングに出席し、真剣勝負のつもりで「在日コリアン女性作家選」の本のシリーズ企画を提案した。代表の長見有人さんや理事で臨床哲学者の西川勝さんら関係者のみなさんの思いのほか熱心な賛同をいただいてひと安心。これはアサノタカオ個人ではなく、サウダージ・ブックスのチームで編集を担当することになるだろう。このあたりの詳細については追い追い語るとして、何年もあたためてきた念願の出版企画なので、はじめの一歩をふみだすことができてうれしい。

ハザは、大阪・京都で障害者訪問介護事業をおこなうNPOココペリ121が2021年に設立した出版部門で、自分が編集人をつとめている。介護やケアに関わる本を出版していく予定だが、NPOココペリ121は多文化共生というテーマも大切にしている。だから、「在日コリアン女性作家選」を刊行するのに、ハザはふさわしい版元だと考えている。

在日・コリアン・女性……。いまぼくの頭のなかにあるひとりひとりの著者候補の方には固有の名前があるわけで、「在日コリアン女性」などとひとくくりにして呼びかけることにはためらいがある。間違いというわけではないだろう。しかし、ひとりひとり異なる彼女たちの声をゆるやかに束ねてより集合的な声として世に送り出したいと考えるとき、それ以外のふさわしい連帯のかたちの名称をいまのところ思い浮かべることができないのも事実で、もやもやしている。どうしたらいいものか。

振り返れば20年近く出版編集の仕事をしてきて、雑誌・ムック・報告書などの類も含めれば100冊ほどの本作りにかかわってきただろうか。仕事を通じてほんとうにいろいろな人の知遇を得たが、偶然と必然が絡まりあった不思議なご縁で、ぼくは何人もの「在日コリアン女性」の作家たちと出会い、日常的に多くのことを教えてもらい、また本作りに関しても応援してもらっている。みな、人生の先輩だ。

2022年、37歳で亡くなった芥川賞作家・李良枝の没後30年にエッセイ集『言葉の杖』(新泉社)を企画編集した。妹の李栄さんとのよい出会いもあった。ここ数年、作家の姜信子さんの旅のエッセイ集『はじまれ、ふたたび』(新泉社)や映画監督ヤン・ヨンヒさん自伝『カメラを止めて書きます』(クオン)の編集も担当している。しかし、「この人のことばを本にして伝えたい」と心のなかで思う「在日コリアン女性」の書き手は、ほかにもまだまだいるのだ。舞踊家、ライター、詩人、ミュージシャン……、さまざまな経験が交差する場所。

「韓国」と「日本」のあいだでひとりの表現者として、ひとりの女性として、ひとりの人間としてつよく生きる作家たち。その存在は、女性をはじめとするそれぞれのマイナー性、それぞれの差異を抱えながら人生を旅するものにとってロールモデルとなり、彼女たちの残したことばはかならず、後からやってくる若い人たちの心の杖となるにちがいない。そういう確信がある。尊敬すべき旅の先行者である彼女たちとの出会いから何を問われているのか、これから応えていくことになるのだろう。

「在日コリアン女性作家選」の本のシリーズは、1981年〜82年に作家で翻訳者の藤本和子さんが編集した『女たちの同時代 北米黒人女性作家選』全7巻(朝日新聞社)にインスパイアされるかたちで着想した企画だ。トニ・モリスン、エリーズ・サザランド、ヌトザケ・シャンゲ、ミシェル・ウォレス、アリス・ウォーカー、メアリ・ヘレン・ワシントン、そしてゾラ・ニール・ハーストン。日本語世界におけるアフリカ系アメリカ文学の紹介史上画期的な本で、伝えなければならないことを伝えるにはこれくらいのことをしないと、とページを開くたびに熱い気持ちになる。『文藝』2023年秋季号の「特集 WE❤LOVE藤本和子!」に掲載された岸本佐知子さん、くぼたのぞみさん、斎藤真理子さん、八巻美恵さんの座談会のなかで、くぼたさんが藤本さんの「北米黒人女性作家選」の仕事について、「日本語のなかに投げこむときに、ただ翻訳してあとがきを書いて出すというのとは全然違うかたちをとった。文脈を立てて、作品を立体化して見せた。あんなふうに選集を出した人を他に知りません」と言っているが、本当にその通りだと思う。編集、翻訳(一部)、解説と7冊の本のなかでひとり何役もこなす藤本さんの八面六臂の活躍ぶりがすごい。ぜひ読んでたしかめてください。

『女たちの同時代』というすばらしい本に込められたスピリットを編集者として自分なりに継承し、アンサーソングをうたうつもりでこれから本作りのプロジェクトに取り組もうと思う。上述の座談会での八巻さんの発言によると、藤本さんは李良枝ら在日の女性たちとも交流していたらしい。

旅から戻り、仕事部屋で保留中の書類ケースをひらいて何年か前に託された原稿のコピーをじっくり読む。日が昇ると同時ににぎやかに鳴きはじめる、蝉や鳥たちの声に耳をすませながら。まずはここから。

「図書館詩集」10(鳥が飛ぶときには必ず)

管啓次郎

鳥が飛ぶときには必ず
その羽毛に含まれる空気も一緒に
空を飛んでいる
誰かにそう聞かされてなるほどと思った
それと少し話はちがうが
鳥が飛ぶとき
鳥の体によって押しのけられた
いわば鳥の体によって切り抜かれた空間も
鳥と一緒に飛んでいるわけだ
正確に鳥とおなじかたちをした
不在が
空を飛んでゆく
これはまるで啓示
地上をゆくわれわれにしても
われわれの充満した身体のおかげで押しのけられた
空間の不在が
われわれとともに歩いているわけか
陰画のように
そういう存在観によって生きていくのはどうだろう
そこにあるものではなく
そこになくなったものがよく見える
存在が生んだ不在をよく感得しつつ
生きている
これからぼくがきみではなく
きみの不在にむかって挨拶するとしても
許してくれ
こんにちは、きみではない空白
さようなら、また会いましょう、きみの不在
ともあれこの町には世界の鳥たちが集まって
飛べなくなった空を見上げながら
異様な声で鳴いているのだ
フラミンゴも大鷹もペンギンも駝鳥もいたが
異彩を放つのはヒクイドリ
ニューギニアからやってきて
この雨雲の下で
じっと火の不在に耐えている
低い声でごふごふと鳴きながら
仲間も人間もいないのに
ほそぼそと降る雨に音声で対抗している
すぐそばでおとなしい小さなマーラ(齧歯類)が二頭
こっちを見上げている
白鳥だけが自由に
池から池へと飛び移っている
(あれは神に近い鳥だ
人間に止められるものではない)
このあたりには五穀神社があって
19世紀前半その祭礼では
「からくり儀右衛門」が人気を博していたという
「水からくり」とはどのようなものだったのかな
彼はやがて京都で「万年自鳴鐘」という時計をつくったり(1851年)
東京銀座で電信機関係の製作所を創立したりした(1875年)
それが「東芝」のはじまりなんだって*
水からくりの実際は知らないが
みずから何処にでもくり出す自動人形としてのわれわれは
きょうも地上の水と天の水のあいだで
火喰鳥におびえている
いきなり蹴られはしないかと
一方、魂は白鳥にあこがれて
さらに遠くまで歩いてゆく
やがて燃えるろうそくのような
ルピナスの花々に目を灼かれて
しずかな図書館に逃げこんだ
だって
活字に会いたいんだ
なぜなら
活字はしずかだから
夢のように怖い思いをせずにすむ
ヒクイドリのように鳴くこともない
目が覚めてコーヒーを飲みたいと思うように
活字に会いたいこともあるだろう
それは心が救われるから
沈黙を浴びるためです
水が降りしきる
水が上昇する
天地の水からくりの壮大
そこをわれわれ自動人形も歩いてゆく
立ち止まり、考える
立ち止まり、考えることは文字の効果
書物の効果だ
忘れてはいけない
ぼくは閲覧席の机にむかってすわり
考えるという夢想をはじめる
ぼくの切り抜かれた不在は
どんどん外に出てゆき
庭園を徘徊する
ぼくとぼくの不在をむすぶのは
見えないからくり糸
はりめぐらした糸にときどき鳥がひっかかり
それが白鳥ならいきおいでひっぱられてしまう
空へ、空へ、空へ
シベリアへ、シベリアへ、シベリアへ
あるいはどこでもこの世の外へ
いいよ、行こうじゃないか
しかし今日の課題はこの世には外がないということ
きみの考えは知らないがぼくは
世界とは地水火風の流動と考えてきたのだ
でもそれだけでは(個別の元素だけでは)
生命ははじまらない
どこかでむすびめが生じるはず
そこに命が始動しそれからその後は
ずっと途切れめなくつづいてきた
地上の動植物がたとえ大絶滅をむかえても
単細胞生物のあるものたちは生き延びて
またいつしか複雑化の歩みをはじめたし
はじめるだろう
栄誉あれ
そうはいってもこの地球の
大部分は無機物の塊
地表のごくごく薄い皮膜を
あらゆる生命体がバイオスフィア(生命圏)として
共同で運営している
共に生きている
いったい、おそろしいほどのはかなさだ
われわれの根拠はうすいうすい生命の膜
ここに住みこむことにおいて
あらゆる獣も鳥も
虫もバクテリアも
すべての植物と菌類も
はじめから全方位的・全面的に関わりあっている
われわれは命としてひとつだ
昨晩読んだ本に
こんな印象的な言葉があった
「私の祖父母は父母いずれの側も
1860年代の日本で生まれた。
世界人口が10億人に達したのは
そのわずか2、30年前のことで
そのころはまだ旅行鳩が空を暗くし
タスマニアン・タイガーがオーストラリアの
風景の中で獲物をうかがっていた」
(David Suzuki. The Legacy. Greystone, 2010.)
それからというものヒトの個体数の急増と
他の生物種の相次ぐ絶滅は
手がつけられない速度ですすんでいる
すべては人間が悪いのか?
いうまでもないでしょう
「人口が倍増するたび
生きている人間の数はそれまでに生きたすべての人間の
総和よりも多く、のみならずいま私たちは
過去の人間たちよりも二倍以上の長さを生きている。
人間は地球上でもっとも数が多い哺乳動物であり
その数と寿命だけでもヒトが残す生態学的足跡の
大きさは明らかだ。ヒトの基本的要求のためだけでも
おびただしい空気、土地、水が必要になる」
人口が少ない安定段階に達し
ひっそりとしずかに息をひそめるようにして
生きていければそれでいいだろうが
その段階に戻すための方策は?
食うものがやがて食われる夜を
1万世代くらいくりかえしてみるか
暗澹
だが19世紀なかば
北アメリカ大陸にどれだけの数の旅行鳩がいて
どれだけの数のアメリカ・バイソンがいたかということだ
そして日本列島には
狼がいただろうということだ
「からくり儀右衛門」が生きた世界は
まだそういう世界だった
なぜそのように生きられなくなったのか
これらすべての動物が絶滅させられたのだ
(話はまったくちがうが1944年ごろ
ぼくの父はここ久留米に住んでいた
陸軍予備士官学校の教官で
いわゆる学徒動員で士官としての訓練をうけること
になった元帝大生たちに
軍事の基礎を教えるのが仕事だった
教官と学生といっても
年齢は1、2歳しかちがわない
楽しい仕事ではなかっただろうが
のちに新聞記者=文筆家になったある人などは
新しい本が出るたびに父にも贈ってくれた
「恵存」という言葉をぼくはそれで覚えた
久留米にとって軍は大きな産業だったはずだが
町には特に痕跡もない)
いまやここには世界の鳥たちが集い
鳥たちとその不在とが
ヒトの世が終わったあとの
この世のやり方を話し合っている
またあるときアイダホ州の乾燥した高原で
アメリカン・ケストレルという小型の隼を
鷹匠が飛ばすのを見せてもらった
鷹匠といっても若い健康そうな女の子で
ケストレルのペニーはよくなついていた
ペニーが飛び、枝に止まり
合図をうけるとまた彼女の腕に戻ってくる
そしてごほうびに肉片をもらう
ごく小さな体だが毎日ねずみ1匹分の肉を食べるそうだ
鷹を使った狩猟は
アラビア半島の砂漠にもモンゴルの草原にもある
だが捕食者が狩られるものを滅ぼすことはない
ただ人間だけが銃器や毒や悪辣な策略によって
殺しつくす
それでどこにいっても
不在の群れが地表をうめつくしている
人間は不在の巡礼として
かれらにお詫びをいって歩くしかない

  *久留米市の観光案内板による。

久留米市立中央図書館、二〇二三年四月一四日、雨

携帯電話は携帯しましょう

篠原恒木

おれはその日、携帯電話を家に置き忘れて出社してしまった。
携帯電話はふたつ所有している。
ひとつは社用の電話で、会社から支給されている白いボディのものだ。もうひとつは私用、つまりはプライヴェートで使っている電話だ。こちらは本体が赤い。家に忘れてきたものは、赤いボディの私用電話だった。

忘れてきたのを気付かされたのは、妻からのメールだ。社用の携帯電話にそのメールは届いた。
「赤い携帯を忘れていますよ~」
と、短いメールが入っていたのだ。おれはこの短い文面に妻の残忍性を感じた。
「赤い携帯を忘れていますよ」
でいいではないか。「よ」のあとの「~」という一文字に、嘲笑、揶揄、冷笑、嘲弄、侮蔑の匂いをおれは鋭く嗅ぎ取った。おまけに「~」のあとには「歯をむき出しにして笑っている黄色い顔文字」が一個添えてあるではないか。これには陰険、剣呑、愚弄、失笑といったニュアンスが込められている。これにはさすがのおれも嫌な気分になった。

嫌な気分はそれだけではない。自宅に置き忘れたのが私用の携帯電話だったことに、おれは懸念を覚えた。私用の電話でかかってくるのは、プライヴェートな関係のヒトビトだ。電話が鳴ったら、かけたヒトの名前がディスプレイに浮かび上がるではないか。それを妻に見られたら些かマズイことになる。おれはしばらく考えた挙句、妻に電話をかけた。
「メールを見ました。連絡をありがとう。どこに置いてあった?」
「居間のソファの上」
「ありゃあ、そうか。しまったなあ」
ここでおれは再び考えた。普段はあまり物事を考えないおれだが、こういうときは考えるのである。
「電話が鳴るとうるさいだろうから、おれの部屋に置いてドアを閉めておいてよ」
と言おうとしたが、これはよくない提案だとおれは考え直して、その言葉を飲み込んだ。このようにお願いすれば、
「ツマに知られると都合の悪いヒトから電話がかかってくるのを隠したがっているオット」という構図が完成してしまうのではないだろうか。さらには、
「おれの私用電話が鳴ったとき、わざわざそのディスプレイを確認するであろうという、油断のならないツマ」
と、彼女のことを決めつけていると解釈されかねない。以上を0.7秒かけて考えたおれは平静を装って口を開いた。
「失礼しました。しょうがないね」
妻はオウム返しに応えた。
「しょうがないね。気を付けないとね」

電話を切ったおれは考えた。普段はまったくヒトの言葉尻など考えないおれだが、こういうときだけは深く深く考えるのであった。
最後の妻の言葉「気を付けないとね」とは、どういう意味なのだろう。
「忘れ物をしないように気を付けないとね」
という、至極単純な意見、説諭、感想なのだろうか。いや、あるいは、
「こういうフトしたことで、アタシに知られたくないことを知られてしまうことだってあるんだから、気を付けないとね。ぐふふふ」
という脅迫、牽制、警告なのかもしれない。そこまで考えて、おれは激しく動揺した。
「今日はできるだけ早く帰ろう。あらゆる危険を回避するにはそれしかない」
そう思ったが、間の悪いことに、その日は夜に予定が入っていた。もうこれは腹をくくるしかない、と思ったが、自宅のソファの上で携帯電話が鳴り、そのディスプレイに、
「ミーコちゃん」(仮名)
「リサちゃん」(あくまで仮名)
「モエちゃん」(しつこいけど仮名)
などという文字が大きく浮かび上がる光景、そしてそのディスプレイを凝視するツマの形相がちらつき、昼が過ぎ、夜になっても不安におののいていた。

その日の夜は会食が長引き、午後十一時三十分にようやくお開きとなった。一人になったおれは、ツマに「今から帰ります」という旨の電話をビクビクしながらかけた。電話に出た彼女はあり得ないほどの不機嫌な声でまくし立ててきた。
「もう寝るから、そっと鍵を開けて入って来てください。明日の朝は自分で目覚まし時計をかけて勝手に起きてください」
おれが「わかりました」と言う前に、一方的に電話は切れた。ここに至って、おれは最悪の事態を覚悟した。ミーコちゃん、リサちゃん、もしくはモエちゃん(すべて仮名)のうち誰かから電話がかかってきて、我が妻はその名前が浮かび上がった携帯電話のディスプレイを見たに違いない。まったくもう、ミーコ、リサ、およびモエはなぜLINEではなく、電話をしてきたのだ。LINEでいいではないか。だが、おれはLINEへの反応がきわめて遅い。気付くとLINEのアイコン上に「12」などという件数が表示されていることもしばしばだ。
「なぜいつまでも既読にならないの?」
「シノハラさんにはLINEを送るより、伝書鳩を飛ばしたほうが早い」
「いや、いっそ狼煙のほうが気づくかもね」
といった皮肉、不満、苦情を受けることも多いのだ。だからミーコ、リサ、モエ、ユカ(一人増えているけれど、すべて仮名)は電話という手段を取ったのだろう。そのときツマは咄嗟に名前を見てしまったのだ。あの徹底的に不機嫌な声はそのせいだ。迂闊であった。ディスプレイに浮かぶ「ミーコちゃん」などという文字ヅラはじつに間抜けではないか。
電話番号を登録するときに偽名を打ち込めばよかったのだ。「ミーコちゃん」は「マイナカード窓口」、「リサちゃん」は「ゆうパック集荷申し込み先」、「モエちゃん」は「運転免許証更新センター」、「ユカちゃん」は「内閣総理大臣秘書官」とでも打ち換えておけば何の問題もなかったはずである。だが悲しいことに、おれにはそれほどの「マメさ」がない。隠し事はするが、嘘はつけないという、たいそうリッパなオトコなのだ。

家への帰り道は憂鬱だった。おれは妻に気付かれないようにそっと玄関の鍵を開け、明かりもつけずに自室に直行した。赤い私用の携帯電話はおれの部屋にはなかった。ということは、いまだに居間のソファの上に放置されているか、あるいはすでに当局によって押収されているのかもしれない。おれは居間に足を踏み入れようとしたが、ドアを開けるときの音で妻が彼女の寝室から出て来る恐れがあるので自重した。午前零時過ぎから軍事大国による集中爆撃は浴びたくない。それに、ソファに置いてあるかもしれない携帯電話のディスプレイをいま見て、そこに浮かび上がった不在着信履歴の名前をチェックしたところでいったい何になるというのだ。恐怖と不安の一夜を過ごすことになるだけではないか。おれは自室から動かずに、精神安定剤と睡眠導入剤を服用して、
「もうどうだっていいやぁ。すべては明日だ」
と開き直って布団をかぶった。妻の寝室は静かだった。寝ているのか起きているのかも分からなかった。

翌朝、自分でセットした目覚まし時計の音で目が覚めたおれは、おそるおそる居間へ入った。妻はいなかった。我が愛犬、サブ(これは本名)もいない。早朝の散歩に出かけたと判断したおれは、ソファに置きっぱなしにされている赤い携帯電話を発見した。心臓が早鐘を打っている。マッハのスピードでディスプレイを確認すると、電話の不在着信はゼロ、LINEの着信もゼロ。メール着信もゼロで、画面はきれいなものだった。おれは心の底から安堵したが、それと同時に、おれは自分が思っているほど世のヒトビトから必要とされていないという事実を思い知らされた。自意識過剰というやつである。
では、昨夜の電話における妻の異常な不機嫌な発言は何だったのか。それには大きな疑問が残る。昨日、おれが不在のあいだに何かが起こったに違いない。それは何だ。別件で新たな物的証拠が発見されたのだろうか。いや、そんなはずはない。おれは疑心暗鬼になった。人生は、ひとつ悩みが消えると、すぐ別の悩みが頭をもたげてくる。

やがて妻がサブを連れて帰宅したが、相変わらず彼女は不愛想で取り付く島がない。静かだが、あからさまな嫌悪感をおれに抱いている。結婚生活三十八年間の経験則から、おれはこういうときに絶対に口にしてはいけない言葉を学習している。それは、
「何を怒っているの?」
というひと言である。この言葉を発して事態が良化したことはただの一度もない。したがっておれは無言のまま身支度をした。このとき大切なのは、おれまで不機嫌そうな態度を取ってはいけないということだ。あくまでさりげなく、「おれはフツーだよ。普段と変わらないよ」という素振りを貫かなければならない。もちろん二台の携帯電話はバッグの中に入れて、家を出た。
妻の機嫌は日を追うごとに良化し、五日後には平常の冷たさに戻った。冷たいことに変わりはないが、それはいつものことだ。一応は安堵の日々が続いているが、おれはあの夜の異常な不機嫌さについて、妻にその理由を訊いていない。時限爆弾の導火線の火が途中で消えたのに、また火をつけることほど愚かなことはないからだ。

そして俺の赤い私用携帯電話は、あの日からずっと電話もLINEもメールも受信していない。ミーコ、リサ、モエ、ユカ、ヒトミ(また一人増えているけれど、すべて仮名)も冷たいではないか。おれはいま、私用携帯電話の解約を真剣に検討している。

映画を観に新宿へ行く。

植松眞人

 娘が高校生、息子が中学生くらいの頃、我が家は火の車だった。経営能力もないのにバブルの残り香が漂っていた時代に、勢いで個人経営の会社を作ってしまったので、リーマンショックに直撃され、人員的にも経済的にもどうしようもない状況だった。
 そのことは子どもたちも分かっていたと思う。会計を担当していた家人とは言い争いがふいに沸き起こり、子どもたちはそれにそれぞれの部屋で聞き耳を立てていたに違いない。私学に通っていた娘には奨学金をとってもらい精神的にも不安な気持ちにさせたことだろう。
 それを誤魔化すかのように、当時、週末になるとよく新宿の映画館に映画を見に行っていた。ディズニー映画、マーベル映画などの子どもたちが喜びそうな映画を選んでは、「映画にでも行こうか」と誘ってみる。おそらく、家人も経営のことを忘れたいという気持ちがあったのだろう。ギスギスしがちな状況だったのに、毎週のように映画に行っていた気がする。親子四人で楽しむ遊びの中で、映画代を出すくらいが限界だったということもある。
 娘は中学生の頃から、よく名画座などにつれて行っていたので、アートシアター系の映画にも慣れ親しんでいた。ただ、息子の方はもう少しエンタテイメント嗜好の映画が好きだったこともあり、あまり二人では行くことはなかった。
 その日、家族で観た映画は、少しエンタテイメントに寄っている感じの映画で、娘は少ししらけた顔をしていた。家人と私は子ども向けならこんな感じだろうな、と納得していたのだが、この時、私は失敗してしまった。
 映画の後、食事をしている時に、こう言ってしまったのだ。
「お前は、ああいう映画が好きなんだよね」 そう言われた瞬間、息子は大粒の涙を流したのだ。一瞬、私は自分がなにを失敗したのかがわからなかった。そして、涙を拭いながら泣いていないふりをしている息子を観ながら、息子は息子でエンタテイメント映画が好きなのだろうと決めつけられていることが嫌でたまらなかったのだろう。ある意味、子ども扱いされているのと同様だし、なんなら姉ちゃんのようにちょっとは難しそうな映画を楽しみたいと思っていたのかもしれない。
「ごめん。そういうつもりじゃないんだ」
 と、私は取り繕ったのだが、そういうつもりで言った言葉は取り消せない。その時、息子に対して持った、すまなかったという気持ちは十年ほどたった今も忘れることができない。(了)

君たちはどう生きるか

若松恵子

宮﨑駿監督の新作長編アニメーション映画が7月14日にロードショウ公開された。
『風立ちぬ』完成後の引退宣言を撤回して、10年振りの新作が届けられた。今回は、『君たちはどう生きるか』というタイトルと鳥(?)のイラストが発表されるのみで、事前の宣伝は一切ない。「宮﨑駿の新作です」というだけで、どれくらいの人が劇場に足を運ぶのか?という実験なのだとしたら、「行きますに1票!」という感じで見に行った。

この世では見ることができない景色を見せてくれるファンタジーであった。
物語冒頭の戦時中の日本も、主人公が入っていく異界も、アニメーションだから成立できる世界で圧巻だった。見終わった後も「あれはこういう意味だったのかもしれない」と反芻して考える箇所がたくさんあって、つまるところは「命」だって「時間」だって「地球」だってそんな単純なものじゃないでしょう、という事を丸ごと感じさせるような映画だった。

風が出て、舟をのみ込むほどの波が立つ湾を勇敢に漕いでいくこと、雲が切れて月の光がさして闇から蒼い風景が見えてくること、満月の夜に生まれて、空に浮かび上がっていく命の種を鳥たちから守るために花火の銃を撃って威嚇する勇敢な娘のシルエット。目覚めた後もかすかに覚えている夢の断片のようなシーンが心に残る。「どういうお話だったの?」と聞かれても、あらすじを言って済まないファンタジーだから、見て、感じるしかない。

『君たちはどう生きるか』は、吉野源三郎の著作からとったタイトルであることは明確だ。主人公の少年が疎開先の家で見つけ、読み、大切な1冊として持ち帰る本として登場する。『君たちはどう生きるか』は、コぺル君が、「世の中の見方」についてコペルニクス的な転換を得て、そして、どう生きるかと考える物語だ。

宮崎の新作は、その物語を映画化したものではないけれど、宮﨑駿版の『きみたちはどう生きるか』だと言えるだろう。地球沸騰化、終わらない戦争、闇バイトによる強盗事件など、問題山積みのこの社会のなかで「きみたちはどう生きるの?」と問うにあたって、社会の見方を転換するためのひとつのものとして提示したファンタジーのように思う。
(転換するというのは大げさかもしれない。視点の幅を広げるというか、もう解決不能だとあきらめないために、くらいの感じだろうか)

目に見えているもの、時計が刻む時間だけが全てではないということ、見守ってくれる人がいるという尊さ、人と協力して乗り越えることの良さなどを物語によって体験させてくれようとしているのだ。映画の中で主人公と冒険をして、また現実に帰ってきた時に、閉塞感ばかりではないと思ってくれたら…。そのために力を尽くして映画を作ったのではないかと思う。大人として、この世の中を嘆いているばかりはいられないのだ。吉野源三郎の『きみたちはどう生きるか』を知っていて、しっかりしたファンタジーを作る力を持っている宮﨑駿だからできた仕事なのだと思う。

話の話 第5話:これはギネスではない

戸田昌子

確かにそのとき空には白い紙吹雪がもうぜんと舞い散っていたのだった。それはわたしにとっては2度目のパリで、2001年の10月半ばごろのことで、そしてそれは新婚旅行だった。つまりは同時多発テロの直後だったということだ。新婚旅行を終えてエールフランスでニューヨークに戻ったときには、アフガニスタン戦争が始まっていたのだから。騒然とした雰囲気は空港でもそうで、パリのシャルル・ド・ゴール空港には銃を肩にかけた兵士が何人もうろうろしていた。でも、パリの街に舞い散っている紙吹雪は、いったいぜんたいに意味不明だった。「何事か?」と首をひねるわたしと夫に対して、タクシーに同乗していた妹は「ああ」と言って、「あれは、道路掃除夫の人たちのデモよ。あの人たち、俺らがいないと困るだろ、っていうデモンストレーションで散らかしてんのよ」とこともなげに説明したのあった。白い紙吹雪に覆われた街は一見するとまるで革命の祝祭のようであって、おかげでタクシーはいやになるほど迂回を繰り返し、ホテルにたどりつくまでに通常の倍の時間を要した。翌日の早朝、わたしが窓から外をのぞくと、紙吹雪は掃除されてほぼ完全になくなっていた。マッチポンプとはこのことだ。しかし彼らはそうやって労働者としての権利を勝ち取ってきたわけだから、マッチポンプにはもちろん意味があるのであって、それはまさに「これがまさにフランスなのだ」という洗礼であった。それゆえ人々は、デモの衝突や、ストライキで郵便や交通が止まるたび、「これがフランスだから」と嘆息する。C’est la France.

7月に入ってからここしばらく、旅をしている。2週間弱、アイルランドのダブリンを拠点に、ダンダーク、そして北アイルランドのベルファストのあたりを行ったり来たりしていた。英国の植民地であったアイルランドは20世紀前半に南の共和国が独立し、北は英国領北アイルランドとなってふたつに分かれたが、実際には大きな一つの島である。この島は、天気が変わりやすいし、よく雨が降る。さぁっと雨が降ると気温が下がる。冬は乾燥し、夏は湿度が高く、晴れたと思ったらすぐにまた降る。ある時、ダンダークの港の脇にあったピンク色の壁のパブでビールを飲んでいたら、その日、何度目かの雨がまたさぁっと降った。そのときひとりの女性が「これがアイルランドよ」と言って肩をすくめた。この人たちはどれくらいの頻度で「これがアイルランドだから」というセリフを口にするんだろう?などと考えながら、わたしは2杯目のギネスを口に運んでいた。This is Ireland.

ギネスは海を渡ると味が変わる、と言われる。言うまでもなくギネスはアイルランドを代表するビールである。それが海を渡ると味が変わる、などとは大事ではないか。それは試してみないわけにはいかない、とわたし考えた。そういうわけで以前、アイルランドでギネスをしこたま飲んだあと、ロンドンへ行って、ギネスの味が本当に変わるのかどうかを試してみようと考え、ロンドンのホテルのバーで「ギネス」と言ったら、まず顔をしかめられた(気のせいかもしれない)。そしてその後、出てきたギネスはキンキンに冷えていた。ギネスは人によっては室温に近いほうがいいと言う人もあるくらいなので、キンキンに冷やしてしまうとあまり美味しく感じない。しかしこのあたりは人によって意見が異なるし、「室温」も夏か冬かによって異なるので、完全に信頼できる話でもない。しかしなによりこのときのギネスの問題は、泡が十分にクリーミーではなかったことだった。ギネスの注ぎ方は有名なので、バーテンダーが注ぎ方を間違えたわけではないのだろうが、それでもそれはよい泡ではなかったのである。ギネスは一度、4分の3程度をグラスに注いでから、ゆっくりと1分以上待って、そのあと泡をつくる。このギネスの泡は重たくて濃いので、飲むたびにグラスの内側に泡が溜まって線ができると言われているのだが、その線が、ない。そもそもこの泡が十分にクリーミーで甘さを感じさせるものでないと、ギネスはなんだか苦いビールになってしまう。一説によるとギネスは、一口目を味わってはいけないらしい。最初はごくりと飲む。それから2口目を味わえと言われている。それがギネスなのである。しかしこれも人によって意見が異なるので真面目に聞いてはいけない。そもそも酒飲みの酒についての蘊蓄など聞いてもろくなことがあるはずはない。ともあれ、ロンドンのギネスは、一回きりしか飲んでいないが、あまり美味しくなかった。海を渡るとギネスは味が変わる、という俗説を確認することができたので、わたしは日本でギネスを飲むときは「これはギネスではない」と呟きながら飲む。これはギネスではない。This is not Guiness.

そういえば最近日本向けのギネスは味が変わったらしい。そのことについて日本のギネスファンが紛糾しているのをSNSで見かけたが、そもそもギネスは地域によって味を変えたりしていると聞く。たとえばナイジェリアンギネスというのがある。これはアイルランドのパブでは提供されていないようだが、ナイジェリア移民の多いアイルランドのパブでは、缶入りを飲むことができる。ナイジェリアのパブではもちろん飲めるだろう(これは正確には、「Guiness Foreing Extra Stout」という名称で、「ナイジェリア」を謳っていない)。通常のギネスが大麦を使用しているのに対して、これはとうもろこしやソルガムを使用する。ソルガムは日本ではモロコシ、中国ではコーリャンと言われ、亜熱帯などの高い気温のもとで生育する。そもそも大麦はアイルランドを代表する穀物で、小麦が豊かさの象徴であるのに比べて大麦は貧しさの象徴だと言われたりする。この大麦を、亜熱帯の穀物へと置き換えたナイジェリアンギネスは、地元の食材を用いて地域の人の味覚に合わせたビールだと考えていいはずだ。そしてアルコール度数が通常のギネスよりも高くて7.5パーセントもある。そもそも通常のアイルランドのギネスは4.3パーセントと低め設定である。これは音楽を聴きながらひたすら何時間もノンストップで飲み続けるための度数設定だ、というのが俗説である。逆に言えば、暑い地域ではアルコールはさっさと蒸発してしまうのだろうか? これは一度飲んでみないわけにはいかないだろうな、などと考えながら、わたしは3杯目のギネスを口に運ぶ。次の予定があるので、これはハーフパイントにした。しかしこれはナイジェリアンギネスではない。This is not Nigerian Guiness.

そもそもアイルランドには、仕事のために行ったのである。ギネスを飲むためではない。岡村昭彦という写真家の展覧会が2024年4月からダブリンのアイルランド写真美術館で行われる予定で、その展示協力のために訪問したのである。額のサイズをどれにするかという相談の中で、センチとインチの換算に悩んだスタッフが「そもそもインチはイギリス人のものだから慣れていないんだよ」と言い訳をするので、アイルランドではインチは使わないのかと尋ねたら、あんな帝国主義者の度量衡法は使わないのだ、などとと言っては威張っている。「そうは言うけどアイリッシュはパイントはやめないわけでしょう。ミリリットルでビールを飲む気はないのでしょう」と言うと、「それはまあ、当然だよね」などと言う。パイントはヤード・ポンド法における体積の単位で、主にビールグラスや牛乳の瓶のサイズとして使われ、アイルランドでは1970年代にメートル法に切り替えた後もイギリス同様、パイント制を残している。「紅茶を一杯」が「a cup of tea」であるのと同様、ギネスもまた「a pint of Guiness」であって、けっして「a glass of beer」ではないのだ。そういえばジョージ・オーウェルが『1984』で描いたディストピア世界ではパイント制が消失させられたため、好みの量のビールが飲めないというエピソードがあった。パイントのない世界はディストピアなのである。No pint, no point.

アイルランドではすぐに「A cup of tea?(紅茶を一杯どう?)」と尋ねられた(これは英国でも同様であろう)。重ねて「Coffee?」と尋ねられもしたが、まずは「A cup of tea?」である。あるとき、本屋でスタッフに「A cup of tea?」としつこく尋ねてまわっているオーナーらしき年配の女性を見かけた。しかし聞かれたスタッフ全員が「わたしもう飲んでるからいい」「あとでいい」などと断っている。しかし彼女は諦めずに聞いてまわっているのが不思議で、あとで友達に「なぜあそこまでしつこくお茶に誘うのか」と尋ねると、「自分がお茶を飲みたいのに他人を誘わないのはものすごく失礼にあたるから」と説明してくれた。なるほどと思い、次からわたしも何かといえば「A cup of tea?」と人に尋ねるようになった。ある日ふと友達に「A cup of tea?」と尋ねたら、「いまは飲みたくないけど、昌子が飲みたいなら僕がお茶をいれようか?」と言われたので、「いや、わたしはほしくない。ただ聞いただけ、感じ良くしようと思ってね(I just tried to be nice)」と言ったら、ちょっとウケた。コミュニケーション大事。A cup of tea.

アイルランドでは、もちろんコーヒーもよく飲まれているようである。しかし不思議なコーヒー専用ポットがよく使われている。「フレンチプレス」というものだが、挽いたコーヒー豆をポットに入れて熱湯をジャバジャバと注ぎ、しばらく待ってから蓋と一体型になった棒のついた網の漉し器をゆっくり下にすーっと降ろす、というものである。一度、わたしがこれでコーヒーを淹れようと試みたとき、正しいやり方がわからないので、ちょうどそこへやってきたフランス人にやり方を尋ねてみた。すると彼女も「わたしもわからない。これはフランスでは一般的ではない」と言う。「フレンチプレスなのに!?」とわたしが言うと、「これはフランス人は使わない道具なの。たとえばほら、フレンチフライとかフレンチキスとかね、フレンチじゃないのにフレンチって言われるものってけっこうあるのよ」などと言う。そして「フレンチキスなんてフランス人のオリジナルなわけないじゃんね」などと表情も変えずに平然と言ってのけている。ソリャソウデスネ。This is not French.

これがアイルランドさ、とか、これがフランスなのさ、などという言葉が口をついて出るのは、理由はともあれ、とりあえずは受け入れるしかないような状況のときのようである。アイルランドなら天気、フランスならさしずめストライキといったところだろうか。さきごろわたしはアイルランドでの仕事をいったん終えて、10日間のバカンスのためにフランスはトゥールの田舎までやってきたところだ。到着前、フランスは記録的な猛暑だから気をつけてね、とアイルランドの人々には口々に言われたものだったが、到着してみるとひどく肌寒い。トゥールに住む妹は、近所のお金持ちがバカンスに出かけている間、自宅のプールを適当に使っていいよと言われて家の鍵を預かっている。だからまあちゃん、水着をもっていらっしゃい、と妹が言うので、わたしはプールを楽しみにしていたのである。妹の家族全員がプールにつかってブルジョワぶっている写真まで送られてきた。そのため雨のダブリンで安い水着を買って持ってきたというのに、雨ばかりでプールに入れる日がない。天気予報を見ても、わたしが帰る日までずっと肌寒い。どうしたフランス、と言っていたら、昌子はアイルランドから雨を持ち帰ってきたんだね、とまで言われる始末。いや、違う。これはフランスではない。Ce n’est pas la France.

お国柄について話していたとき、アイルランド人ってどう思う?と聞かれたので、「とっても親切だけど、場合によっては親切すぎる(Irish are too kind)」と答えたことがある。そう言われたアイルランド人はきょとんとしている。先般、南の共和国から車で北アイルランドへ向かっていたときのこと。アイルランドはEUの一員だが、北アイルランドは英国領である。しかし南北アイルランドはもともと国境がないような行き来が行われていたことを知っていたので、ブレグジットで国境線がどうなったのかに興味があった。しかし車で国境あたりにさしかかったとき、道路には目印すら見当たらなかった。ここが国境あたりかな、と車を路肩に停める。写真を撮って、さて行くかと車をリスタートさせようとしたところで、とつぜん車が動かなくなった。これは知り合いから借りた日産のオートマ車だったのだが、シフトレバーがパーキングに入ったままスタートできなくなったのである。アイルランドではまだオートマ車はそれほどポピュラーではないようで、運転してくれていた、元IRAの兵士だったという男性も直し方がわからない。このときわたしたちは2台の車に分乗して出かけていたのだが、同行の車はとっくに先へ行ってしまって、同乗者が電話をかけるが気づかない。困り果てていると、通り過ぎる車がいちいち止まっては「どうした?手伝おうか?」などと声をかけてくる。もう一台の車が戻ってくるのを待つから大丈夫、といちいち返事をしているが、同行の車は戻ってこない。一方で、通り過ぎる車がいちいち止まっていくので、返事をするのに忙しい。日本車だし夫に聞いてみよう、とわたしが夫にLINEを送って相談すると、ブレーキを踏んだままエンジンをかけ直せば良いのでは、との返事。その通りにすると、車がやっと動いた。国境線で立ち往生して親切にされるというたいへん稀有な体験をした。Irish are too kind.

そういえばアイルランドでは、「お財布を盗まれても持ち主のもとに返ってくる」という話がある。アイルランドはもともと貧乏な国で、すりや泥棒が多かった。しかし財布をすられるとお金がなくなるだけではなく、財布自体も買い直さないとならない。二重の損失である。だからスリの方も、財布をすっても中身は抜いて、財布だけをぽいと道端の郵便ポストにつっこむ習慣があるのだという。道で財布を拾った人も、郵便ポストに財布を入れていく。だからみな財布に住所のわかるものを入れている。そうすると、郵便局員が郵便物を回収するついでに財布も回収し、そののちに当該住所まで配達してくれるのだという。警察を介する必要のない、便利なシステムである。すりも財布までは取らない、という、共存と思いやりのシステム……である。Irish are…… kind.

親切といえば、わたしがパリの地下鉄で、カルネと呼ばれる回数券のきっぷを買って乗ろうとしたときのこと。どうやら一度使ったカルネを入れてしまったらしく、改札口が開かない。困ったな……と思っていたら、若いお姉さんが「ぶぶれぱせあべくもわ?(Vous voulez passer avec moi?)」と言ってきた。「わたしと一緒に(改札を)通る?」という申し出である。なんと親切な……!パリなのに……!と感動していたが、いやいやコントロールに見つかる方が面倒だと思い、「大丈夫ですありがとう!」と大急ぎで言って断ってしまった。「一緒に通らせてよ」と誰かにあつかましく言われることはあっても、「どうぞ一緒にお通りください」というのはあまりない。パリは大都市だし、人々はとげとげしく、そんなに親切ではないと思っていたのだが、そんなこともあるのだ。パリジャンもたまには親切。Les parisien sont parfois gentils.

ところでいまフランスでは、日本の柴犬を飼うのが大流行りであるという。なかでも豆柴と言われる小さなタイプの柴犬をしばしば見かける。ある日、妹がパリの日本領事館の近くで豆柴を見かけた。飼い主がその犬に「サム!サム!」と声をかけているので、「そうか、サムか……」と思っていたら、飼い主が「サム!サム!サムライ!」と続けた。サムはサムでもサムライであった。なるほど。いや、違う。これはサムライではない。Ce n’est pas le samurai.