2023年

笠井瑞丈

今年は色々あった

悲しい別れ
新しい出会い
新しい事への挑戦

悲しい別れ

家族同然だった
チャボのマギとゴマの死
ずっと同じ時間を過ごし
色々な場所に一緒に旅行した
本当に大好きだった二人
いつも明るく照らしてくれた存在
今は記憶の中に生きている
碁石と白と種は違えど
とても二人は仲良かった
小さい時から二人でウチにきて
二人は何をするにも一緒だった
いまもきっと天国で仲良くしてるだろう

新しい出会い

新しい家族との出会い
チャボのナギとハギとモギ
マギゴマが亡くなって間も無く
里親の大村さんが譲ってくれた
二羽が三羽になって五人での生活
二羽の時は個と個という感じでしたが
三羽になったとたん群れ感になった
この質感の違いは大きな違いだ
皆仲良く性格も違う
いまは人間二人と鳥さん三人
五人での生活です
楽しい日々

モギ ゆっくりの人
ハギ おっとりの人
ナギ せっかちの人

新しい事への挑戦

初めて芝居の舞台
そしてショパンを踊る
言葉と音楽そして踊り
そんな一年でした
年々変化していくカラダ
その変化に耳を傾けて
もう昨日の身体はないのだ

希望だけを持って
踊るしかない

来年もチャボとそして
踊りを続けていきたい

どうぞ来年もよろしくお願いします

仙台ネイティブのつぶやき(90)年取りの準備の時間に

西大立目祥子

この原稿を書きながら、おせち料理の仕込みをしている。まぁ、おせちといっても、このところ広告でよくみかける3段重にぎっちりと豪華に海老やら蟹やらきんとんが詰まっているものには程遠い。

必須は雑煮。それからお煮しめ、ナメタガレイの煮付け、仙台五目引き菜、数の子のひたし豆、なます代わりのマリネ、チキンロール、余力があれば松前とろろに豚の角煮。そして、黒豆、小豆のあんこ。
…んー、とここまで書いてきてけっこうあるじゃない、と気づく。これはやはり段取りが大切だよな。段取りが悪いから、いつもぎりぎり大晦日の夜6時に滑り込みみたいなことになるんだ。元日の朝に味わう雑煮は別にして、仙台では、こういうごちそうを、大晦日の夜に「年取り」と称して食べる。年にいっぺんの弟の家族と開く大宴会と相成って、テーブルには所狭しと皿や重箱が並ぶ。みんなで味わう料理とお酒とおしゃべりはもちろん楽しいが、私にとっては今年の黒豆は固すぎたとか、お煮しめに味のしまりがないとか、3日間の怒涛の中でつくった品々をチェックし反省し、1年の幕引きとなる。

ところで、12月は忙しい月だ。仕事の締め切りに加え、引き伸ばしにしてきた友人との約束があったり、打ち合わせが入ってきたり、親戚にお歳暮を送ったり雑事が重なって疲れがたまり、それに加えて、2週目あたりから日を追うごとに弱まっていく日差しと日没の早まりで、気分はうつに傾いていく。ここ数年は、冬至に向かって命が削られていくような気分にさえなる。今年もあと何日と、終わりの日が押し迫って来るのもなんともつらい。日の短さが底を打って、クリスマスも過ぎると、いくらか気分が上向きになっていくのだが、こういう一年で最もしんどいときに、どうしておせち料理をつくるのをやめないのか。去年は三段重を買って食べきれなかったとか、どこぞのおせち料理はおいしいとか耳にするたびに、買うくらいなら食べなくていいや、とつぶやいているじぶんがいる。

おせち料理の思い出を探ると、まっさきに思い浮かぶのは煮上がったお煮しめを重箱に詰める父の姿だ。煮炊きにもけっこう手出ししていたのかもしれない。いずれにしても、仕事納めのあと買い出しに出向き、そう乗り気でない母をなだめ、台所仕事も手助けして、大晦日の晩の食卓には煮しめとナメタガレイの煮付けと、酒の肴を整えていた。仏壇と神棚に料理を上げ、下ろしてきたら熱燗で乾杯。こういう暮らし方は、さかのぼれば、父から祖父母へ、そしてその前の代へとつながるささやかな家の文化なのだろう。考えてみれば、みんな仙台ネィティブ、宮城ネイティブである。

重箱の中の煮しめは、ゴボウ、こんにゃく、人参と一品ごとに詰められていたから、今思えば、手間暇をかけて一種類ずつ別々に煮炊きしていたのだ。
おせち料理にしか登場しない食材として印象深いのが、クワイだ。ほくほくしていてほろ苦く、一年の悲喜こもごもを口の中で味わうようなクワイ。子どもなのに、私はこの苦味が好きだった。角があるから縁起がよいとしておせちの材料になったのだろうが、父の煮るクワイに角はなく、ゆで卵に包丁を入れてギザギザに切り分けたように2つにされていた。思えば、高価なクワイを家族に2回ずつ行き渡るようにする苦肉の策か。年取りの番から食べ始め、重箱に隙間ができると詰め直すのも父なのであった。

私も一年にいっぺん、クワイを求め、煮る。子どものころのクワイはもちろん国産だったろうが、いま国産は高すぎて手が出ない。角がくずれ落ちないようにやさしく扱いながら出汁と醤油でそぉっと煮る。そして人参も一年にいっぺん、梅と桜のかたちに型で抜いて晴れ姿にする。数年前から抜いた外側もいっしょに煮ることを思いついた。間の抜けた感じが何ともいい。

煮しめは「つきじ田村」の田村隆さんのきょうの料理のレシピを参考に、黒いものと白いものを別々に煮ている。ゴボウとこんにゃくと椎茸をひとまとめに、凍み豆腐と人参と筍をひとまとめに、火の通し方が難しい里芋とクワイをいっしょに鍋に入れる。黒と白と人参の赤のコントラスト、角のあるクワイの造形、その上に緑のスナップエンドウ。味はともあれ、見た目は楽しくきれいだ。
くたびれている12月につくるのをやめないのは、料理の細部を味わいたいからなんだろう。醤油の加減、火の通し方の違いで首尾よくいったり失敗したりを毎年のように繰り返している。年齢を重ねて味の好みが変わってきたじぶんに気づき、鍋をのぞき込むときに家族の記憶がおりてきたりもする。年に一度のこの集中した料理の時間に、生きていることが凝縮されているような気さえする。
と、ここまで書いて、筍を煮るのを忘れていたことに気づく。あと3時間、急がなければ。

冬至から1週間。少し日が長くなり、少しずつ気持ちにも日が差し込んでくる。新しい年もいいことが起こるとは思えないけれど、みなさまどうぞよいお正月をお過ごしください。

むもーままめ(35)飯テロはカレーのにほひ、の巻

工藤あかね

2023年の終わりをひょいと跨いで2024年にたどり着けたようにも思えますが、実は年を越せるというのは、とてもおめでたいことなのだなと思う今日この頃です。みなさまはどんなお正月を迎えられたでしょうか。

年末年始、いつもより膨張した時間の流れを感じながらSNSを彷徨っていたりすると、とにかく人の顔と食べ物の写真がすごく多いなと感じます。食べ物の写真は普段もあるといえばあるのですが、どういうわけか夜、仕事から帰ってきて一息ついた頃に見てしまったりするので、なんだか妙に口寂しくなって、夕食を食べたり散々飲み食いして帰ってきたにも関わらず小腹が空いたような気になってしまいます。これが俗にいう、「飯テロ」っていうものですよね。

最近、この飯テロを経験しました。知人のクラリネット奏者が大のカレーマニアで、しょっちゅうおいしそうなカレーの写真をアップロードしているのですが、彼が掲載している写真は家庭的なカレーライスではなくスパイスが強烈に香ってきそうな、鼻腔を刺激するような本格派カレーなのです。しかもご本人は、インドやパキスタンの方達のように、妙なテンションの高さがある人でもなく、淡々と、粛々と、品よくカレーの写真を、日々の記録がわりに掲載しているのが清々しい。この人の投稿を見るとなんとなく細胞がざわざわと反応しカレー欲がにわかに増してくるのですが、それと同時に、外国人が経営しているお店にわざわざ行かないと味わえないスパイスカレーへの手の届かなさもあって、吸引力の強い飯テロとは言え少し距離を置いて見ていられるなと安心していたのです。

ところが事件はその後起きました。このカレーマニアの方と仕事のメッセージのやりとりをした直後のことでした。メッセンジャーを閉じるやいなや、私のSNSページにどどーんと現れたのは自宅で簡単に作れるスパイスカレーの広告、しかもとてもおいしそうで、すぐに注文できる感じ。なんだこのカレーホイホイは…! 衝撃を受けつつも、おそるおそるそのページを開いてしまう私。するとめくるめくカレーの香りが漂ってくるよう。だめだ、もう抗えない。カレーマニアの方とのメッセージのやり取りには20%くらいはカレーの仄めかしはあったかもしれないけれど、どうしてこの絶妙なタイミングでこんな脳天を直撃するような広告を打ってくるのだ。恐ろしすぎる、インターネット!

しかしながら、ぱっくりと口を開けて私を待ち構えているように見えたスパイスカレーのサイトは怪しくなさそうだったので思考停止したまま口コミを読み、美味しそうだったので勢い余ってポチッと注文してしまいました。果たして数日後に届いたカレースパイスは、これがまたとても調理が楽で美味しい。しかも体に効きそう。食べると汗が体中から吹き出し、細胞が刺激されるような気がする。これにハマった私は、ふと思い出してはこのカレーを作って食べていたのですが、ある時外から帰宅したオットが言いました。

「なんか…すごい匂いだね、この家。」そりゃそうだ。いまならインドのご家庭に負けない勢いでスパイスの匂いが充満している自信がある、と思ったのですが、服にも髪にも体にも、家具にもこうして染み込んでいくのはちょっといけないかもしれないと思い直し、数日間一生懸命換気しました。しかし、2~3日カレーを作らず換気をしても、外から帰宅するとやはりまだカレーの残り香を感じます。そんなこんなしているうちに、また家でカレーを食べたくなってしまうのだから、もうスパイスの匂いが取れる間などないのです。年末の大掃除で、あちこち拭いたり窓を開けたりしていたから、今は少しだけましかもしれないけれど、私ときたら年越しそばも食べず、年が明けたらおせちではなくてカレーを作って食べてしまうのかも。

あああ、某クラリネット奏者のカレー飯テロは、静かに、じわじわと年を跨いで我が家に忍び寄っていたのです。ちなみにそのクラリネット奏者とは、大晦日のランチでカレーを食べたことも追記しておきます。

水牛的読書日記 水俣旅行編

アサノタカオ

12月某日 地図や時刻表を眺めながら、熊本・水俣への旅程をあれこれ検討した結果、空路を使うことにした。自宅から近い横須賀港と新門司港を結ぶフェリーで九州入りし、鉄道でのんびり現地まで向かいたいという思いもあったが、結局、時間的にもお金的にももっとも経済的なルートを選択したのだった。

水俣病の歴史をもつ土地を、はじめて訪れる。旅の前に、書棚に並ぶあれこれの関連書を読んで「予習」などをしようとする小賢しい自分がいた。が、一夜漬けの試験勉強のような読書で仕込んだ知識や情報を持ち歩いたところで、いったいそれが何になるのか。今回はできるかぎり丸腰の、白紙の状態で土地に出会おう。もし水俣への旅から問われるものがあれば、そのあとに本を読み、考えればいい。戒めるようなつもりで、自分に言い聞かせる。

12月某日 リュックサック一つに荷物をまとめて夜明け前に出発し、羽田空港からLCCで鹿児島空港へ。詩集を一冊だけ、リュックに忍ばせた。

空港の売店で地元紙の南日本新聞を購入。先月末から、米軍オスプレイの屋久島沖墜落のニュースを、歯ぎしりするような気持ちで見続けている。このタイミングで鹿児島に来たからには、屋久島に渡りたかった。そしてこの火急の事態について、背後にある世界情勢について、信頼を寄せる島の人たちから意見を聞きたかった。そこには声高に語らずとも大きな力に抗い続け、ひとりで感じ考え、生きることに心を傾ける人がいる。かれらの声に、自分の心の綱を繋ぎ止めておくべき、ぎりぎりの希望を見出したいと思った。が、今回はその気持ちをぐっとこらえ、鹿児島空港からバスで北上する。

出水駅に到着。ローカルの電車が来るまで、誰もいない待合室ですごす。ふと、駅舎に吊り下げられた生々しい鶴の模型が目に入り、ここが韓国の作家キム・ヨンスの小説「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」の舞台だと思い出した。出水でナベヅルを撮影した、亡き写真家をめぐる物語だ(短編集『世界の果て、彼女』〔呉永雅訳、クオン〕所収)。バスの車窓から何羽も灰色のアオサギを見た、と思っていたのだが、あれは鶴だったのだろうか。

午後、水俣駅で恩師の上野俊哉先生と合流。英語圏で『苦海浄土』の作家・石牟礼道子の論考を発表している上野先生の運転で、まずは「エコパーク」なる海岸の人口緑地へ行ってみた。そこの地中には、水俣病の原因企業であるチッソ排出のメチル水銀によって汚染されたヘドロや魚を詰め込んだドラム缶が何千本も埋め立てられている。

海岸の遊歩道から、はじめての不知火海を眺めた。ほとんど波のない穏やかな内海で、想像以上に閉ざされた湾。半島や島々の影にぐるりと囲まれた、まさにアーキペラゴの風景だった。この日の水俣の気候は晴れ。都市生活をする旅行者からみれば「美しい」としか言いようのない青い空、青い海が目の前に広がっている。

そしてこのあたりを歩くと、道路沿いの標識や看板には「エコパーク」「親水公園」「恋人の聖地」などの名称が、能天気な顔つきで並んでいる。風景に散りばめられたこれらの記号が、水俣病の歴史と記憶を埋め立てているのだ。企業と行政があからさまに推進する「歴史の健忘症」に憤りを覚えつつ、それに抗う想像力について上野先生と語り合う。

その後、水俣病資料館やJNC(チッソの子会社)、チッソが猛毒の工業廃水を垂れ流した百間排水口などを見物し、袋という浦の集落をめぐる。そして夕方、丘の上にある水俣病センター相思社へ向かい、集会所で開催された座談会に参加した。

座談会のテーマは「私たちのつながりあう百年の物語」、関東大震災の起こった1923年以降の在日の百年、東北の百年、水俣の百年について。語り手は、震災時に虐殺された朝鮮人の追悼活動をおこなう在日二世の慎民子さん、宮城・南三陸のコメ農家に生まれ育った歴史社会学者の山内明美さん、相思社職員の葛西伸夫さん。葛西さんは、日本による朝鮮支配とチッソの関わりの歴史について詳細に解説。近代と植民地主義の暴力はいまここでも続いている。いろいろな資料をもらったので、しっかり読み直して反芻したい。

12月某日 水俣のあたりをドライブして体感したのはこの地は、名前の通り、水俣川と湯出川という二本の川の流域(watershed)、「水の分かれ目」だということ。今回、ぼくらは湯出川沿いのひなびた湯の鶴温泉に投宿し、旅の興奮を鎮めるために深夜の湯に浸かり、早朝の湯に浸かった。

宿では韓国の詩人キム・ソヨンの詩集『数学者の朝』(姜信子訳、クオン)を読んだ。詩のことばには日常性に根ざした優雅さがあり、しかし描き出される世界には底なしの不穏を感じる。「定食」という詩などは、一度読めば忘れられない作品だと思う。旅の道中で、詩人のエッセイ集『奥歯を噛みしめる』(姜信子監訳・奥歯翻訳委員会訳、かたばみ書房)も入手した。早速ページを開くと、冒頭に「わたしは母の娘ではなく、母の母として生きてきた」とある。石牟礼道子の文学(たとえば『妣たちの国』)と繋がるものを感じて驚いた。

水俣滞在2日目。作家の姜信子さんのお誘いで、前日の座談会からはじまる「百年芸能祭」に参加するのが、今回の旅の目的だった。水俣病の犠牲者を祀る乙女塚や、エコパークの慰霊碑の前で、姜さんが案内人をつとめる遊芸集団「ピヨピヨ団」による奉納パフォーマンスがおこなわれた。

「これまでの百年の間、周縁に追いやられ、踏みにじられ、つながりを断ち切られ、消されていったすべての命に祈りを捧げ、これからの百年が生きとし生けるすべての命が豊かにつながり合い、命が命であるというそのことだけで尊ばれる世界となることを予祝する、そんな芸能の場を、『百年芸能祭』の名のもとに開いていきます」
 ——「百年芸能祭」ウェブサイトより

さらに相思社の集会所に場を移し、水俣のミュージシャンと「ピヨピヨ団百年デラックスBAND」のライブも。ソーラン節、安里屋ユンタ、アリラン、水俣ハイヤ節など、島々のように歌が連なり、声が渦巻く。夜、会場にアナキスト哲学者・森元斎さんが長崎よりギターを抱えて合流。

「百年芸能祭」のイベントのあいまに、上野俊哉先生とぼくらは古書店のカライモブックスへ。今年の春、京都から水俣の石牟礼道子夫妻の旧宅へ移転した店を、なんとしても訪ねたかったのだ。

途中、場所がわからず、道ゆく人に「すみません、石牟礼さんの……」と尋ねると、「ああ、弘先生の家ね」と教えてもらう。辿り着いたカライモブックスで、久しぶりに会った店主の奥田直美さん、順平さんが元気そうでうれしかった。店内には石牟礼道子が使っていたタンスや机、原稿用紙や文房具、座布団や献立表なども展示されている。順平さんの案内で、旧宅からすこし離れたところにある石牟礼さんのかつての執筆部屋あたりを散策し、そばに立つイチョウを見上げた。黄昏時、斜めから射す冬の光の中で黄色い葉っぱが輝いていた。

不知火海沿いの湯の児温泉にも行った。我が心の師である思想家・戸井田道三(上野先生は戸井田さんの『日本人の神様』〔ちくま文庫〕の解説を執筆)は1975年に水俣病患者の療養施設である明水園を訪れ、ここの温泉宿に滞在。「透明な補助線について」という題で、水俣の人々と出会い、揺れ動く自らの心の模様を道化的・批評的に語るという風変わりな旅行記を残している。この文章にはテレビ・ドキュメンタリー『苦海浄土』への言及がある。これは、一緒に湯の児温泉に浸かった森元斎さんが『国道3号線』(共和国)で書いている木村栄文の作品のことだろう。

ところで、九州の西海岸に来たからには壮麗な日没を見たいと思っていた。相思社のある丘の上で、その願いが叶った。すぐそばの畑で仕事をしているおばあさんが作業の手を休め、「このあたりの夕陽はきれいでしょう」と話しかけてきて一緒に夕日を眺めた。

12月某日 水俣滞在3日目。朝、温泉宿をチェックアウトして相思社にふたたび立ち寄り、水俣病考証館を見学。「百年芸能祭」に集う人たちに別れの挨拶をしたあと、『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』(ころから)の著者で相思社職員の永野三智さんと少しことばを交わした。水俣病について証言する人の声を聞くことはもちろん、これからさまざまな事情で語ることのできない人の沈黙をどう継承していけばいいのか、ということを話していた。透き通ったまなざしが印象的だった。

ここからは上野俊哉先生と森元斎さん、そしてぼくの三人でのドライブ。水俣の南にある長島から天草へフェリーで渡り、各地のカトリック教会を訪ね、さらに長崎へ向かった。森さんの運転で外海地方にも足を伸ばし、19世紀末にド・ロ神父が創設した旧出津救助院も訪問(日本のマカロニ発祥の地、困窮する女性たちのコミューンなど興味深い側面を持つ)。夜の長崎では、木村哲也さん『来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』などすばらしい本を出版する水平線編集室の西浩孝さんたちとの、よい出会いがあった。

製本かい摘みましては(185)

四釜裕子

年末、MORGAN SALONで開かれた『VISUAL POETRY OF JAPAN 1684-2023』(TAYLOR MIGNON編 KERPLUNK!刊 2023)のイベントでハサミ詩を読んだ。

「ハサミ詩」というのは切り取り線を組み込んで作った詩で、私が勝手にそう呼んでいる。描かれた切り取り線を読み手が切って初めて作品が完成するもので、いつもは「gui」という同人誌に載せている。自分の手元では、見開き状の紙を舞台に書いて切って折ったりもして、最低一度は完成している。それを毎回、冊子に封印しているようなものだ。なにしろ同人誌だから、自分のわずかな持ち分の中で「ここを切るとこの詩は完成するのでやってみて」と誘うのはかなりの傲慢だろう。実際はほとんどの人が無視してくれている。私も読む側ならやらないと思う。結果、ほとんどのハサミ詩は読まれていない。

生前「gui」の同人でもあったヴィジュアル・ポエット、高橋昭八郎さんに、ハサミ詩を見ていただいたことはない。間に合わなかった。昭八郎さんにはポエムアニメーション5『あ・いの国』(1972)という作品がある。8枚の長い紙を2枚ずつ組み合わせて三角形に折りたたんだものが含まれているのだが、これがまぁ組むのも開くのも相当難しい。そんなわけで、この作品について語る人は結構いるが、体験している人はかなり少ないと思われる。昭八郎さんはこう書いている。組んであるものを開くことからしか、〈いつの間にか大きくひろがっていく触発的な現場に〉〈立ち会う〉という体験はできない。これらは〈グラフィッカルなイベントを演出する大魔術団〉であり、〈次つぎにひらいていくとき、手と眼と目と…読者であるあなたの意識・身体全体をそれらはつつみこむだろう〉(高橋昭八郎「詩集 あ・いの国へのeyEs」『VOU』133号)。

私もハサミ詩で、〈グラフィッカルなイベントを演出する大魔術団〉をやってみようと思ったわけです。

AかBかの二者択一にさらわれないで残っていくものがそれぞれの”自分”で、その可笑しさと頼りなさとかけがえのなさをハサミで切るという作品の特別バージョンを、A5判中綴じに刷って台本とした。1、2、3……とページを順に切り落とし、残った「背」を丸めて「ノド」を開くと、空也が現れ、「小口」から南無阿弥陀仏が続々吹き出す……。『VISUAL POETRY OF JAPAN 1684-2023』の表紙が空也小人像だったのだ。なんとかかんとか最後までたどりつき、足元に落ちた切れ端を拾って客席に戻ると、みなさんに笑って声を掛けてもらえてうれしかった。

背もノドも小口も本の構造の呼び名だが、いかにもうまく人体に見立てたようでいて実際は背とノドが表裏一体なのだからキュビスムだ。日本語以外でノドはなんと呼ぶのだろう。一方、改めて思うと「天」と「地」なんて大げさだけど、斎藤真理子さん訳の『李箱作品集 翼』(光文社古典新訳文庫 2023)のあとがきに、”ページの逆立ち”を思わせるシーンがあったので記したい。斎藤さんが偶然見つけた李箱の詩集が、ひと折だけ天地逆だったことがあるという。あってはならぬが起こりうるミスだ。そこには「嗅覚の味覚と味覚の嗅覚」という作品があったそうだ。〈(立体への絶望に依る誕生)/(運動への絶望に依る誕生)/(地球は空巣である時封建時代は涙ぐむ程懐かしい)〉。天地逆は意図したものではなかったか。あるいはこの折、自分で逆立ちしたのではないか――そう思ったって、いいだろう。

読んでいて「肉体」を感じさせる本といえば、村野四郎の『体操詩集』(北園克衛 構成 アオイ書房 1939)もある。〈中学生のやうなキチンとしたフオームは次第に大学生のやうな仕様のないフオームを示しはじめてゐます。これは勿論年齢のせいもありますが、体操の正課が新たな修身の課目によつておかされてゐることを示すものです〉(自作解説より)。つい先日、旅先の公園で鉄棒を見つけ飛びついたところ、逆上がりができなくてびっくりした。もちろん年齢のせいだが、果たしてそれだけなのか、なにものかにおかされていないか、気をつけておかねばならぬ。

最後にもう1つ。栃折久美子さんは装幀を、「服を着せる」というより「皮膚」に近いというふうに書いていた(『製本工房から』1978)。かつてその生っぽさがやけに重く厳しく感じたことを、澤直哉さんの『架空線』(港の人 2023)で思い出した。この本は、ブックデザイン、特に物としての本についての澤さんの講義をまとめたもので、栃折さんの”皮膚説”にも触れている。〈皮膚としての本を作ること、これは読者を魅了するイメージを拵えるのとはまったく異なる行為であり、まさに作品の「出生」に関わろうとすることでしょう。このように考えられたらどれほどよいか、と思います。しかしこれは大変険しく、厳しい道です〉。

前述の『李箱作品集 翼』における、李箱作品と斎藤真理子さんの翻訳・解説・まえがきとの関係も、これだと思った。

澤さんは続けてこう書く。〈こうした思想を、思いを知っておくことは、どうやったらうまいデザインができるかどうかより、よほど大切なことだと思います。私たちの心が手と協働して物を作るのですから、性根が腐っている者に、まともなものを作れるわけがない〉。

あかーん

篠原恒木

おれは急いでいたのでタクシーに乗った。日が暮れた頃だった。
目黒の権之助坂に差し掛かったとき、その事件は起きた。
おれが座っている後部座席の尻のそばで、携帯電話が鳴ったのだ。聞き慣れない着信音だったので、おれの携帯電話ではない。誰かが、おそらくはおれのすぐ前に乗った客が、座席に置き忘れたものだろう。
「運転手さん、携帯電話が鳴っているのですが、おれのものじゃないんですよ。忘れ物だと思うのですが」
「ああ、さっきまで乗っていた男性のお客さんの携帯かなあ」
携帯電話は鳴り止まない。もう十回以上はコールしている。鳴り止んだら運転手さんに渡そうと、おれはその携帯を手に持った。ところが電話は切れない。ピロピロ、ピロピロとしつこく鳴り続けている。そうだ、これはきっと落とし主が忘れ物に気付き、自分の携帯に電話をかけているのだろう、いや、そうに違いないとおれは判断した。

おれも携帯電話をいろいろな場所に置き忘れるが、そんなときはとりあえず別の電話からオノレの携帯にかけて、
「頼むから誰か電話に出てくれ。そしておれの電話はいまどこにあるのか教えてほしい」
と、すがるような思いで親切な誰かがおれのコールに出てくれるのを願った経験が何度かある。

この執拗なピロピロ、ピロピロ着信音は、この携帯の持ち主が必死になってかけているに違いない。自分の経験上、そうおれは確信した。ここは出てあげるべきなのだろう。
だが、そのとき、着信音は鳴り止んだ。ほっとしたおれは運転手さんにその携帯電話を渡そうと身を乗り出した。ところがその瞬間、またピロピロ、ピロピロと鳴り出すではないか。
「ははあ、これは携帯を置き忘れて相当焦っているな」
おれは仕方なく電話に出ることにした。声が聞こえた。
「もしもし」
電話の声は女性だった。運転手さんによれば「さっき乗っていた客」は男性だったはずではないか。
「あ……はい?」
女性はおれの戸惑う声にも構わず、勝手に喋り出した。
「あっ、あなた? まだ大阪でしょ?」
おれはすっかり虚を突かれてしまった。大阪? ここは東京の目黒だ。そして大変申し訳ないが、おれはあなたにとっての「あなた」ではない。
「ええと、そのぉ……」
おれはそう口ごもりながら、灰色の脳細胞を活性化させて、次の仮説を導き出した。

1.携帯電話を置き忘れたのは、おれの前に乗った男性客であろう。
2.その男性の携帯に女性が電話をかけてきた。
3.女性は携帯の持ち主である男性と親しい。妻もしくはそれ以外の深い仲だ。

残念なことに、この時点ではこれ以上の仮説は思い浮かばなかった。おれの脳細胞の限界である。しかし、電話をここで切るわけにもいかない。おれはおずおずと切り出した。
「あのぉ、いま私が出ているこの電話、私のモノではないんです。タクシーの座席で鳴っていたものですから、つい出てしまったわけで」
相手の女性は、しばし沈黙した。
「そうなのですか。大阪のかたですか?」
大阪。そうだ、確かに大阪と言っていた。おれの脳細胞が再び活性化されてきて、さらなる仮説を組み立て始めた。

4.携帯の持ち主である男性は大阪に滞在していることになっている。
5.その男性は、妻もしくは深い仲の女性に対して4という嘘をついた。
6.だが男性は「大阪へ行く」と言っておきながら、ちゃっかり東京に居残っている。
7.そしていまおれが話している女性は、その男性の妻に違いない。どうやら深い仲の女性ではなさそうだ。
8.なぜなら深い女性とはこの東京でいまヨロシクやっている最中で、その女性に嘘をつく必要はない。男が嘘をつかなければならないのは妻だ。

おれはここまで推理して、完全に狼狽してしまった。なんだか松本清張のミステリ小説のような展開ではないか。今度はおれが沈黙する番だ。電話からは女性の声が畳みかけるように聞こえてきた。
「失礼ですが、そちらさまは大阪のどこにいらっしゃるのでしょうか」
おれの背筋から冷たい汗が噴き出した。どうしよう。
「せやねん。大阪でっせ、正味なハナシ。ワシはいま北新地やで。なんでやねん」
そんな台詞も頭をかすめたが、あとあと面倒なコトに巻き込まれそうな気がした。いや、もうすでに巻き込まれているやん。わて、ホンマによう言わんわ。

インチキ関西弁での思考は放棄して、おれは正直なところを話すことにした。
「あのですね、こちらは大阪ではなく、東京です。東京でタクシーに乗っている者です」
おれの言葉を聞いて、女性はしばらく絶句していたが、やがて口を開いた。
「昨日の朝、二泊で大阪へ行くって……。いまそちらは東京のどこですか?」
「ええと、ここは……目黒、かなぁ」
「目黒?」
「はい、目黒ですね」
「そうなんですか……」
そう振り絞るような声を出して、女性からの電話は突然切れた。おれにとってもこれ以上の会話はスリルとサスペンスに満ち溢れそうだったので、このガチャ切りは有難いことだったが、苦い後味が残った。
おれは運転手さんに携帯電話を渡し、大きなため息をついた。
「大阪って聞こえましたが」
携帯を受け取った運転手さんはニヤリと笑っておれに言った。
「そうなんです。参りました」

なぜおれがこんなにモヤモヤした気分にならなければいけないのだろう。電話に出なければよかったのだ。しかし持ち主からの電話だと思い込んでいたので、つい出てしまっただけである。小さな親切、いや、大きなお世話が仇となってしまった。
おれは反省しながらタクシーを降り、目的地まで歩を進めた。男は無事に携帯を取り戻せるだろうか。いや、そんなのは些細なことだ。携帯を置き忘れた男とその妻は、今後どうなるのだろう。夫は妻の激しい追及をうまくかわせるだろうか。

「ただいまー。大阪出張、疲れたぁ。これ、おみやげ」
男はそう言って、大阪名物のクッキー「道頓堀の恋人」を妻に渡す。もちろん大阪で買ってきたものではない。帰宅途中に東京駅の「諸国ご当地プラザ」へ寄って、ササッと買ったアリバイ工作のクッキーだ。レシートはその場で捨てた。おれもよくそうしている。いや、してないしてない。それにしても「道頓堀の恋人」はよくない。男が逢っていたのは「目黒の恋人」なのだから。
妻はおみやげには目もくれず、唐突に切り出す。
「あなた、昨日の晩はどこにいたの?」
「大阪だよ、もちろん」
「嘘つき! 目黒でしょ」
それを聞いた夫の眼が虚空をさまよう。
ああ、想像するだけで胃がせり上がって来る。

平和だった家庭に亀裂が入るのだ。すべてはおれが悪いのか。
「あかーん。あかーん。知らんがな、もう」
と、おれは独り言を呟きながら、自分の携帯電話がバッグの中にちゃんと入っているかどうかを確かめた。

麗蘭の磔磔再び

若松恵子

麗蘭(れいらん)は、RCサクセションの仲井戸”チャボ”麗市とザ・ストリートスライダーズの土屋“蘭丸”公平が結成したロック・バンドだ。麗市(れいち)と蘭丸で「れいらん」。日本が誇る2人のロックギタリストは雑誌の対談で出逢い、ちょっとしたセッションをする予定が新曲を作り、ツアーを回り、新しいバンドとなって、30年の年月が流れた。ベースに早川岳晴、ドラムにジャラを迎え、時々集まっては麗蘭としての音楽を奏でる。それまでの時間にメンバーそれぞれが聞いた音楽、奏でてきた音楽が麗蘭に注ぎ込まれて成熟したサウンドを形作っている。曲をいっしょに作るという事は、当たり障りのない付き合いを超えてお互いの中に入り込まなければならない。仲井戸麗市が最初のセッションの時から持っていたその意志を土屋公平も受けて、麗蘭がこんなにも続いたことは幸福なことだと思う。麗蘭は2人の成長(成熟)の物語でもあるのだ。スタジオアルバムもミニアルバムを含めて4枚発表されている。

京都の古い蔵を改装した老舗のライブハウス、磔磔(たくたく)での年末ライブは恒例で、ファンにとってはこれが無ければ年が越せないという特別なライブだった。2020年のコロナ以来できなかったが、今年やっと4年振りに開催されることになった。こんなに嬉しいことはない。年の瀬に新幹線に乗って出かけてきた。

まだ、コロナが完全に終結したわけではないから、以前のようにギューギュー詰めというわけにはいかない。椅子を入れて少し間隔を取って、入場数は減らしての開催だったけれど、磔磔での麗蘭のライブはやはり特別な感慨があった。磔磔では海外の有名アーティストもたくさんライブをしている。100年たつ蔵にはロックやリズム&ブルースの良い演奏をたくさん聞いてきた音楽の神様が住んでいるから、音が特別に良いのだ。

チャボが「新旧取り交ぜてやるよー」と言っていたけれど、今年の新曲が5曲も演奏されたことは頼もしくも嬉しいことだった。そして2つも戦争が起こっている今の時代が、麗蘭の音楽にも大きく影響している。湾岸戦争の時に作ったというコメントで演奏された「悲惨な戦争」は、2023年版アレンジになっていて鮮烈な印象を残した。素朴に平和を願う心、それはロックに教えてもらったし、ロックを聴くこと(体感すること)でその気持ちは確信に変わる。麗蘭の今年の演奏を聴いていてそんなことを思った。

ビートルズの歌詞がちりばめられた「ゲット・バック」という曲では「さあ長い夜に嘆くのはもう終わりにして、俺といっしょに口ずさもう、いつかのあのメロディー」と歌われる。「帰ろう、今夜、いかしてる音楽へ」と。厚みのある肯定的なギターサウンドが、理屈ではなく、体感として大切なものを確信させてくれる。彼らの音楽にも流れ込んでいるビートルズのスピリットも合わさって、揺るがない強さをもたらせてくれる。平気で人を傷つけたり、不正を働いたりする人間にならないようにつなぎとめておいてくれる。まともな人間でいるためにロックを、麗蘭の音楽を聴いているのだと言ったら笑われてしまうだろうか。1年の終わりに、磔磔で麗蘭を聴く理由、聴きたいと思う理由はこの辺にあるようだ。恒例ではあるけれど、前回をなぞるような事は決してしない彼らの演奏を、これからも可能な限り聴きに行きたいと思う。

ヴェンダースが撮る木漏れ日

植松眞人

 渋谷の公衆トイレをリニューアルするという計画が立てられ、これを広くPRできないかと企画された映画が公開されている。かつてニュージャーマンシネマの騎手と呼ばれたドイツのヴィム・ヴェンダースが監督を務めた『PERFECT DAYS』という作品だ。
 ヴェンダースと言えば、小津安二郎に強く影響を受け、日本で『東京画』という日記映画を制作したこともあった。そんなヴェンダースが小津から最も遠い日本の広告代理店の依頼で、小津のようにきらめくような木漏れ日をすくいとったかのような作品を完成させたのだ。
 金に汚れた日本の製作システムの中でも、ヴェンダースの純粋な映画愛は汚されなかったと言うべきか、もしかしたら、単に白人外国人には強く物申せない国民性がこの作品にとって良い方向へ働いたのか。どちらにしても、『PERFECT DAYS』は見事に世界を映画作品として定着させている。
 渋谷で公衆トイレの掃除を淡々と続ける平山という男が主人公。この役所広司演じる男は、ジム・ジャームッシュの『パターソン』のように、同じように見える毎日を繰り返している。しかし、同じように見えて、実は同じではないというところも『パターソン』に似ている。
 そう言えば、若き日のジャームッシュは、若き日のヴェンダースに余ったフィルムをもらって、あの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を完成させたのだった。小津によって刺激されたアメリカとドイツの才能が結びついて、いま再び、『PERFECT DAYS』という作品になったと思うと、なんとも言えない感慨がある。
 ここで、ふと思い出したのは、もう一人、小津に人生を変えられたフィンランドの映画作家、アキ・カウリスマキである。『PERFECT DAYS』が公開される半月ほど前に、引退宣言を撤回したアキ・カウリスマキが撮り上げた新作『枯れ葉』が公開されたばかりだった。この映画はさらに小津の色濃い影響を画面の隅々に反映して、様々な要因で膿んでしまったかのような世界を(映画を見ている時間だけでも)浄化させてくれたのだった。そして、その映画の中に引用されていたのが、ジム・ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』というコメディタッチのゾンビ映画だった。
 どうしようもない日本のどうしようもない片隅で、小津安二郎の影響を受けたドイツ、アメリカ、フィンランドの三人の男たちの名前が繋がることは、奇跡なのか必然なのか。
 『PERFECT DAYS』の中でふいに影踏み遊びを始める役所広司と三浦友和のように、小津の子どもたちが遊んでいる姿を僕たちはこれからも見続けることができるのだろうか。

長い引っ越し

北村周一

ともどもに
判を押したる
その夜を
寿ぐごとも
聖夜は来たり

ももいろの
気泡のどかに
はじけるを
のみ干しにつつ
燥ぐ一月

恥ずかしくて
とても人には
言えざるを
あの手この手の
母さんが怖い

二十年の
月日をかけて
わが母が
済ませしはずの
長い引っ越し

まなぶたに
あの人までも
あらわれて
賑やかなりぬ
不眠時間は

あのイヤミ
得意のポーズを
決めながら
こころ静かに
寝ねんとするも

うちつけに
叫んでみたり
泣いてみたり
自作自演の
ゆめ醒め遣らず

神経を
病んで夢見に
しのび泣く 
さきゆくひとの
石を踏む音

くらぐらと
まぶたの裏に
見入りたる
目覚めし朝の
ブラックボード

朝起きて
さいしょに開く
一ページ 
測量野帳に
種蒔くごとし

日に五たび
根深き闇に
立ち向かう
ごともハブラシ
動かしており

持ち主なき
しじまに向けて
放たるる
音符はなべて
目的格なし

幾重にも
走る細道
さみしきに
萎えにけるらし
性なるみちは

米国産
豚バラ肉の
脂身の
みごとなるさま
星条旗のごとし

古典から
すこし外れて
泳ぎわたる
マティスみたいな
絵の終わり方

おわらいと
食と旅とに
生きのびる
テレビ画面に
消えゆくわれら

パーティの紙皿寒し名刺飛び 冬の星座は大きく動く

『アフリカ』を続けて(31)

下窪俊哉

 先日、井伏鱒二『荻窪風土記』を読んでいたら、「小山清の孤独」と題された文章にぶつかった。私は今回、その人の名を初めて知った。井伏さんによると戦後、同人雑誌は「影をひそめ」ていたそうだ。そんな頃、小山清という人を中心に『木靴』という同人雑誌ができた。小山さんという人はよく書いた人のようだが、やがて『木靴』の原稿集めにばかり熱心になり、自分の書く方は思うようにゆかなくなったらしい。もちろん同人雑誌では暮らしてゆけないので、周囲は「資金カンパ」をよく集めていたという。
 私には何だか、他人事のような気がしない。執筆で暮らしを立てようとしたら、自分も似たような状況に陥ったと想像できる。かといって、文学をめぐる日々の営みは、世間で「出版」と呼ばれているものとは少し違うのである。執筆でも出版でも暮らしを立てまいとすることが、私の仕事においては重要なことになった。しかし「趣味」というような軽いものでもない。説明に苦労するところだ。
「小山清の孤独」には関口勲さんという人の「小山清と木靴」という文章が引用されていて、「年間平均して二冊出るか出ないの遅いペースである。息も絶えだえに続いていると見るのも自由だが、牛歩にも似た息の長さを自讃し得なくもない。」とある。それって、まるで『アフリカ』のことじゃないか! と私は思う。

 編集に手を染めると、自分の書く方が疎かになる、というのは、かつて『VIKING』の編集人だった日沖直也さんから聞いたことがあって、「下窪くんのように両方を、並行して続けている人というのは、あまり見たことがない」と言われたのを印象深く覚えている。私はちょっとびっくりして、そうなのか、と思った。

『VIKING』といえば、この秋、富士正晴の新しいアンソロジーが中公文庫から出た。『新編 不参加ぐらし』という(以前あった同名の本とは違う)。そこに収録されている内容が、文庫で手軽に入手できて読めるようになったことを喜んだ後、しかしその選には、ちょっと感心しないところもあった。選者による解説を読んで、その感触は深まった。
「竹林の隠者」という生前のパブリック・イメージをそのまま受け継いでおり、何やら、その「身の処し方」を見て面白がったり、もしかしたら慰められたいのかもしれない。富士さん自身はそれを受けて文中で煙たがっていることになるので、そう思って読むと面白いような気もしないではないけれど。
 そしてこれが肝心なことなのだが、選者は『VIKING』にあまり興味がないようだ。同人雑誌を、文壇に出てゆく足がかりというくらいにしか見ていないのかもしれない。それでは富士さんの精神が、あまり伝わらない(『VIKING』の話は、この連載の(1)に出てきて、(20)で少し踏み込んだことを書いた)。だから、とくに初めて富士さんの本を読む人には、この本ではなく、ちくま日本文学全集の『富士正晴』を古本屋か図書館で探すことを勧める。ちなみに、その両方の本に収録されている文章がひとつあり、それは「わたしの戦後」だ。

 そんなことをブツブツこぼしていたら戸田昌子さんが「これをふと思い出しました」と言って、岡村春彦さんの「群れの終末 -青銅文学創刊の前後-」という文章を送ってきてくれた。『青銅文学』という同人雑誌の最終号に載っていたものらしい。読むと、戦後すぐの頃の子供と大人の「混乱」と「不信」が描かれている。記録されている、と言ってもよい。子供は、あっという間に成長する。『青銅文学』をつくったのは札幌の高校生たちだった。

「既に高校では旧体制の教師の復権が行われ、若手教師の新らしい教育は壁にぶつかり悲壮感がただよっていた。その中で彼等の中の数人が同人雑誌を作ることを志ざす。それは学校のサークルの外でアウトサイダーとして、独立した雑誌となる。「群れ」が「徒党」への飛躍を試みる。」

「あるものは、小説を、あるものは詩を。だが作品を書かない者もいた。それは何かを表現しようと望む十代の若者たちの集まりであった。従ってそれだからこそ、「徒党」への試みは、「群れ」の部分を残したまま破局へと向う。」

 その雑誌の中心にいたのは、樫村幹夫という人らしい。彼が東京へ行き、続けられた『青銅文学』は、しかしもう元の性格の雑誌ではなくなっていたという。

「“群れ”の雑誌は“個”の雑誌となる。しかしその“個”は何故か私には“他”を求めるものに思えてならない。」

「おそらく、総ては徒労なのかもしれない。だが、やはり、どんなに悪い時代であってもそれは自分の生れ、死んでゆく時代なのだ。それを個としてとらえ、真の連帯の意味を見い出し、“徒党”が生まれるとき、羊の“群れ”は蘇える。」

 その背景には戦争があり、子供時代に「彼らが疎開児童であった」ことがある。太平洋戦争が終わった1945年、彼らは10歳くらいだろう。ちなみに、私がいま書いているこの文章の他の登場人物たちが当時、何歳くらいだったかというと(各々の生年からザッと計算して)井伏鱒二は47歳、小山清は34歳、富士正晴は32歳である。皆、それぞれのやり方で、戦争の影をずっと引きずって行った。私はそれを受け取って、読んだり、考えたりしているのである。

 それにしても、“群れ”が“個”となり、“他”を求めているようだというのは、何だかいまの時代の、私たちの話をしているようにも感じられないか。

 書くということは、そういった試行錯誤のなかに浮かび上がってくる。またそれを記録しておくということ、アーカイブする場を持っておくことの大切さを私は思う。
 岡村春彦さんが『青銅文学』を手元に置きながらその時代を書いたように、『VIKING』が自らの歴史書をその時代、その時代の人たちで書き継いできたように、私は『アフリカ』を傍らに、これから何を書けるだろう。

「道草」の「道」

越川道夫

「道夫」の「道」は「道草」の「道」とは、幼い頃に父親が言った言葉である。小学生の頃、学校から街中で洋品店を営んでいた家に帰ると、店の中で父が地図と睨めっこをしている。そして、言うには、お前はどこをどうやって帰ってくるのだ、と。聞けば、あそこで見た、ここで見た、と私の目撃談が父に届くのだと言う。それをもとに地図を広げてみると、真っ直ぐはおろか、帰る意志があるのかも分からないぐらいの迷走ぶりだそうである。仕方がないのだ。あそこの犬と会って、とか、そういえば貸本屋に寄らなくちゃ、とか、あのドブでイトミミズを相手に遊んで、とか、果ては石蹴りをして、石の飛んだ方に歩いていくのだ、とか、子供は子供でいろいろと忙しいのである。とてもじゃないが、真っ直ぐなど帰ってはいられない。おまけに本を読むことを覚えてからは、歩きながら読むのである。雨が降っていれば傘を差しながら読む。夢中になれば、道にしゃがみ込んだり、公園やら木の上で読む。おまけに電信柱にぶつかって血を流し、近所の人に介抱されたりする。生まれてこの方、真っ直ぐなど歩いたことはないのである。
 
今だって事態はさして変わらない。たとえば映画館に映画を見にいこうとする。映画の上映時間は当然のことながら決まっている。もちろん間に合うように外出するのだが、時間通りについた試しはないのである。映画どころか、ライブも、芝居も、その時間に着くことはない。決まって遅れるか、間に合うために最後は走る羽目になる。したがって、時間が決まっているものは億劫だと言うことになり、出不精にますます拍車がかかるのだ。そもそも、歩きながら河を覗き込み、草叢に分け入ったりしているのがいけない。今日は、真っ直ぐに、と言いながら、畦道に咲く花に蝶が来ているのではないか、そろそろ蛇に合うのではないかとか気もそぞろで足がそっちを優先するのがいけない、それに引き換え本屋はいい。もちろん開店時間も閉店時間もあるのだが、何時何分に行かなければならない、というのがないのがいい。要は50歳を過ぎようがなんだろうが、あの頃とちっとも変わっちゃいないのである。だから目的地にわき目もふらず真っ直ぐ行こうという人、道中キョロキョロしない人と一緒に行動するのは、ひどく苦しい。おそらく、そういう人にとって「道中」は、おそらく「無駄」なのである。こっちはそうではない。目的地に着かなければならないのは分かっている。分かっちゃいるが、目的地に着くよりも、その「無駄」な「道中」の方がむしろ大切なのである。
 
「人」は中枢的身体を持っている。中枢的身体は、その身体が行う行為を、より効率良く行うために、行為のために「有効」な「知覚」を残し、それ以外の「知覚」を排除、選別する。そりゃそうでなくてはならないのだろうが、「人」という生き物の中に、自分にとって「有効」なものを「選別」し、「無効」なのものを「排除」する機能が搭載されていることに絶望的な思いを抱えている。このあらかじめ搭載された機能に抗おうとするのが、「知」と言うことになるのだろうか。一冊の本を読み始める。読み始めれば、あちらこちらを刺激され、連想のようにその本を読み終わらないうちに別の本に手を出すことになる。別の本を開けば、そこからまた別の本へ…。こうして一冊の本は読み終わることがない。そんな読書が面白い。読み終わったらからといって、それがどうだと言うのだろう。そんな読書が面白い。

しもた屋之噺(263)

杉山洋一

今年の大晦日は雨です。とは言っても凍えるような寒さではなく、摂氏8度もあるから、暖冬とよべるでしょう。コロナ禍以来、年の瀬、恙なく一年を過ごした実感などすっかり消え失せてしまいました。ここ暫くウクライナの戦場から送られてくる凄惨な情報で気が滅入っていたところに、今年の秋からは、爆撃された病院であったり、傷ついた乳幼児の映像ばかり目にするようになり、新しい鬱の襞が自分の裡に育っていて、ぞわぞわ毛羽立っているのを感じるのです。最近はウクライナの劣勢を伝える報道が多くなり、教え子の海外在住のウクライナ学生まで召集されないかしらと、薄く慄いてもいます。

12月某日 ミラノ自宅
ミラノの国立音楽院で、イタリア全国の音楽院で選ばれた優秀作品を集めた演奏会。イヴァンとファビオ、ガブリオが審査して最優秀者を決めた。ちょうどケルンから岸野さんがイヴァンの古希を祝いにミラノを訪れていて、演奏がおわると顔を出してくれた。昨夜は彼女とコロンボ・タッカーニ夫妻、ボノーモと一緒に、ミラノの和食レストランで鰻重に舌鼓をうった。
どういうわけか、息子が「水牛」を読んで、なぜ自分を「愚息」と書くのか、「愚息の愚はおろかという意味だろう」と言われ応対に窮す。まあ、その通りだが通例だと体裁を繕う傍ら、家人が大笑いしている。

12月某日 ミラノ自宅
普段なら余り夢は覚えていないが、昨日の夢だけは未だに鮮明に思い出せる。こんもり盛り土された、案外背の高い堤が真っ直ぐ伸びていて、這っている単線のレールを古い1両のディーゼル車が走ってゆく。目の前は見通し良く開けていて、一面大きな池が広がっている。空は澄んだ青空。水辺には背の高い葦がたくさん茂っている。
先ず、そのローカル線の車内から、そのうつくしい風景を眺めてから、池に沿って、水辺を歩いた。近くでみると、葦は自分の背丈より高くてびっくりする。どこからともかく、「ねえ、きれいでしょう」と明るく、そして優しそうな雨田先生の声がする。そうだ、雨田先生のお宅はこのすぐ近くにあって、夢で先生に会いにきたのだった。先生の姿は見えなかったけれど、会いに来たのは覚えている。
先生は今、あののんびりとして素敵な場所で憩っているにちがいない。

12月某日 ミラノ自宅
早朝、運河沿いを散歩していると、暫く見かけなかった魚影が戻ってきていた。水草が繁茂しているあたりに、隠れるように固まって泳いでいる。30センチを超える成魚から、数センチたらずの稚魚まで併せた数十匹単位のコロニーがあちこちに形作られていて、一種の家族のようなものか。こんな寒い最中、何故、わざわざ姿を隠すのだろうかと訝しく思っていると、その視点の先には、鴨の親子が悠々と泳いでいた。あの魚はウグイかクチボソの類なのだろう。

12月某日 ミラノ自宅
何しろミラノに戻ると、溜まっていた授業をこなすために、朝から晩まで学校に残らなければならない。学校にも作曲の道具はもってゆくが、休憩すらままならないから殆ど捗らない。
夜、やっとの思いで家にたどり着くと、困憊で作曲も出来ない。だから夕食を摂り、倒れるように布団に入り、朝早く起きてから学校に出かけるまで作曲する。どうか霊感が下りて間に合うように祈ってほしいと家人にいうと、あなたの作曲ってただ規則通り書いているだけだと思っていた、と言われる。それから息子に向かって、「お父さん大変らしいわよ。あんたもお父さんに作曲の霊感が下りてくるよう神様に祈んなさいよ」、と揶揄される。ガザの地下トンネルにイスラエル軍が海水注入との報道。

12月某日 ミラノ自宅
寒くなってくると、ポロ葱のスープやらひよこ豆のパスタのような田舎料理が身体をあたためる。息子はアマトリチャーナが好物でしばしば作るが、こちらは肉を食べないから彼の分だけ調理する。パスタだけ多めに茹でて、パスタと一緒に何か余っていた野菜でも茹でて、その野菜とパスタを皿に盛り、パルメザンチーズもふんだんにかけてから、生徒の実家で作ったオリーブ油をかけて食べることもあるが、アマトリチャーナよりよほど美味だとおもう。
アマトリチャーナは豚の頬肉をそのまま火にかけ、そこから染み出させた脂をワインで軽く伸ばし、トマトソースをつくる。毎回、きつい脂の匂いに閉口しながら作り、味見も一切しないが、最近息子はこの類のトマトソースのパスタをよく食べる。

家人が日本に発ったので、息子の滋養強壮を優先しながら、いかに簡便に息子と二人の食事を用意するか考えていて、ピッツァ職人風ソースなら、主菜の肉とパスタを同時に用意できて便利だと気が付いた。ピッツァ職人風ソースも同じトマトソースだが、10分ほどかけてソースを用意すれば、パスタを茹でている間に薄切り牛肉をそのソースで調理し、パスタをソースと絡める直前に、肉を取り出して息子の主菜皿に盛り付けて、残ったトマトソースにパスタを絡めれば、別皿でパスタも食べられる。どことなくソースに牛肉の匂いは残っていても、トマトソースだけのパスタであれば息子と一緒に食べられて、一石二鳥。こうやって簡便に二皿用意するのが、本来あるべきピザ職人風ソースの姿だろう。ところが、後で食べると肉が固くなるからと息子は順番を無視して、先に主菜の肉を食べきってから、パスタに手を伸ばす。ともかく、彼との二人暮らしではパスタ料理が多くなりがちで、体が重くなって仕方がない。
学校に行く前日の晩には米を炊く。朝起きたときに一晩解凍して水気を切っておいた冷凍のサーモンのフィレに塩をまぶして二枚焼き、同時に卵焼きもつくる。学校に行く日の昼食は何時も同じだが、献立を考える手間もなく、時間も計算できてよい。
この塩鮭の一枚は弁当に入れ、もう一枚は息子の昼食になる。卵焼きとご飯で朝食を摂り学校に出かける。学校の教室は天井がとても高く広いので、冬は暖房が効かず寒い。温かい紅茶をポットに入れて持参するのは必須である。

12月某日 ミラノ自宅
ここ暫く、或る伊文の邦訳を日本女性3人と続けていて、これが実に面白い。原文は女性が主人公の官能的な内容を、男性が書いている。今回それを、まず男性が粗訳してから、女性3人と一緒に練り上げているのだが、特に生理的な表現に関して、女性が女性自身の感覚で選択する表現と、男性が想像力を逞しくて女性の感覚を形容する表現とのあいだには、常に微妙な差異が生まれて興味深い。主人公の女性の感覚について、彼女たちは自分事としてずっと切りこんだ大胆な表現をする。
最近、性自認不適合が社会問題視されるようになったが、いわれのない差別根絶は当然ながら、もってうまれた男女の感覚差は、むしろ大切にしたい。必要なのは、相手への思いやりだけである。
本年、イタリアのクリスマス商機は低調との報道。物価が異常な物価の高騰だから、当然だろう。

12月某日 ミラノ自宅
夜明け前から居間の大きな食卓で仕事をしている。夜が明けるかと思しき7時半ころ、庭に面した窓にリスが二匹やってきて、じっとこちらを見つめていて、気が付いたところでクルミをやる。こちらが仕事に没頭していて気が付かないでいると、やがて尻尾でバンバン鉄の手すりを叩いて注意をひく。リスはしゃがれた声を出せるのだが、警戒していたり、諍いのときにしか出さず、食事をねだろうとすると、これはどういうわけか無言である。尤も、至近距離からまんじりともせずこちらを凝視しているだけで、充分な威圧感を醸し出すのだから大したものだ。

12月某日 ミラノ自宅
指揮レッスンの前日、夕食の支度をしていると、学校から帰ってくるなり、息子が「ベートーヴェン1番の冒頭の和音は四度調のドミナントでしょう」と言うのでおどろく。明日初めて「兵士の物語」を読み始める予定だが、息子曰くそちらは自信があるそうだ。ピアノのレッスン前にそんな台詞を聞いた記憶はないが、どういうことか。
ヴァーギ先生から先日頂いた採りたての自家製蜂蜜は、ねっとりと濃厚な味わい。家人が好物のOsellaのクリームチーズと併せてパンにつけて食べると、極上の味。
蜂蜜を採集しようと彼が自分の養蜂場へでかけたところ、巣箱には蜂の姿が全くみえない。何かに追われたのか、蜜を巣箱に残したまま旅立ってしまったらしい。本来、半数の蜂は巣箱に残って巣箱を管理し、巣を離れる半数は蜜を栄養源として取ってゆく。今回、蜜は手付かずのまま残されていたから、蜂たちはどこかで息絶えてしまう恐れがある。
息子とは、テレビで見たスカラ初日「ドン・カルロ」の話。どこかスペイン風の演出に感じられたのは、ウィスキーだったか、昔のテレビコマーシャルを思い出したから。小人ダンサーやアルルカンが登場して、たしかガウディがテーマだった。

12月某日 ミラノ自宅
息子も日本に発った。無人の自宅の鍵を開けながら、ちょっと新鮮で不思議な感覚にとらわれる。誰もいない自宅は珍しくないけれど、普段であれば、家そのものが、そのうち誰かが家に帰って来る、という雰囲気を醸し出している。
年末の散髪帰りだからか、その昔ミラノを訪れた家人から、出し抜けに散髪されたのを思い出した。当時、彼女は人の髪をカットするのが楽しみだったからだが、当時は一文無しで、よほどむさ苦しい格好をしていたのかもしれない。
年末というと、息子が小学生だったころ、しばしば二人でキャヴェンナへ出掛けた。大晦日、二人で小さなホテルのレストランで、慎ましくも美味な夕食に舌鼓をうち、きれいに飾られたケーキを食べるのが、年越しと洒落こんだささやかな贅沢だった。
元旦早朝、夜明け前のバスで北上してアルプス、マデージモのスキー場に息子を連れていったこともある。それよりずっと後、3月くらいの初春に、マジ―ジモで息子にそり遊びをさせた記憶もある。秋だったか、日本から訪れた母を連れてキャヴェンナからスイス・アルプスまで遠出もした。
思えば家人と三人で、お金もないのに随分あちこちに出かけたものだ。早晩、そんなことも出来なくなると分かっていたからかもしれないし、暇を弄んでいただけかも知れないし、単に自分が父にしてもらったことを息子にしたかった、言ってみれば単なる自己満足だったのかも知れない。一人でいると、様々な記憶があちらこちらからひょっこり顔を出す。
いつしか、毎朝、世界の戦争のニュースが流れるのが普通になってしまった。次第にニュースを読むのも聞くのも嫌になってきている。世界保健機構、4割ガザ市民が食糧不足と発表。

12月某日 ミラノ自宅
締切り過ぎたファゴット曲を書く。朝起きてそのまま作曲をはじめ、気が付くと日が暮れている。昨日は朝食も昼食も食べ忘れてしまった。今日も昼食を食べなかった。昨夜は作業しながら、ポロ葱とインゲン豆、それに残っていた屑野菜で簡単なカレーを作ったので、今日は朝も夜もその残りをたべた。冬らしく、固くなったパルメザンチーズの外皮とツナも一緒にトマトソースで煮込んでから、最後にルーをいれる。
ロンバルディア州で、Covidとインフルエンザの感染状況悪化との報道。なんでも、新種のインフルエンザはLa long flu、長期性インフルエンザと呼ばれていて、治るのに従来よりずっと時間がかかり、症状も重いという。街中でマスクしている人の数もめっきり増え、ミラノでは12月3日より病院のマスク着用が義務になった。

12月某日 ミラノ自宅
一柳さんのための新作は、一柳さんの迸る才気をおもいだしながら、あたかも一柳さんの作品を演奏している心地で書いた。一気呵成というか、音楽が自分をドライブするような感覚にとらわれた。

野坂さんのための曲は、操壽さんと惠璃さん、お二人の演奏を想像しながら、もっと触感で書いた。25絃の独奏は初めてで想像以上に調絃をきめるのに苦労したが、それは当初絃が多すぎると感じられたからだ。ところが、実際書き始めると妙なもので、他の筝のときよりずっと押し手が多くなってしまった。
ところで、仕事机には、操壽さんのお葬式でいただいたカードがおいてあって、その表には祈る聖女の姿が描かれ、裏には「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5・8)」、そして操壽さんのお名前と洗礼名、生没、洗礼、改宗年月日などが書かれた12cm
x 7cmほどの小さなカードで、日本のカトリックのお葬式では普通に配られるものかもしれない。
いま見ると、聖女の挿絵の左下にはPax-6と印刷され、右下にはほんの小さく、Bonella Milano Copyright F.B. Printed in Italyのロゴマークが入っていた。Fratelli Bonella社は1931年からカトリック関連の印刷物を扱っているミラノの老舗で、このカードがミラノと所縁があったとは、まるで気付かなかった。描かれている聖女も、操壽さんに洗礼名を授けた聖女と関わりがあるのだろう。

塚原さんのためのファゴット曲では、その前に旋法色の強いものが続いたので、敢えてそこから少し身を遠ざけている。当初、叙情的な曲を書こうとファゴットを選んだが、後になって奏者の超絶技巧に焦点をあわせたプログラムだと知った。
先の見えない毎日をやり過ごすのは運河の閘門を進む船に似ている。閘門を閉め水位を調整する間、先の風景はおろか、目の前に見える風景が運河の両壁だけに制限されることだってあるだろう。
この日記を書くのも同じだが、日々の雑感を楽譜に取り留めなく書きつけているだけであっても、以前は影も形も存在していなかったものが、いつしか何某か目に見える形に具現化されているのが興味深い。

12月某日 ミラノ自宅
先日のロシアからの攻撃により、キーウだけで少なくとも23人死亡との報道。ウクライナ全土あわせると、この日だけで42人もの市民が犠牲になったと報道が更新されている。翌日はウクライナからベルゴロドへの報復攻撃があって、市民から22人もの犠牲者がでた。今朝がたのあたらしいロシアからの報復攻撃が、今日のガザの難民キャンプ爆撃とともに報道されている。
もちろん世界の紛争はこれだけに留まらない。アフリカからイタリアへ鈴なりの船で渡航する難民、亡命者は増え続けるばかりだ。
このように、我々の生命はとどのつまり、数字へと変換されてゆく。数字として理解され消化されてゆく。日記や曲を書いてみたり、録音を残そうとするのは、無意識ながら子孫を残そうとする本能に近いかも知れない。自分が土に返ったとき、ささやかながら生きた証をどこかに残したいと思っているのではないか。

12月某日 ミラノ自宅
夜半に楽譜を送ってから、なぜ軽々しく仕事を引き受けてしまうのか暫し沈思する。作曲も日本語も書いていなければ忘れてゆく。その忘却が社会に迷惑をもたらすわけではないが、いよいよ死ぬ段になったとき、自らの裡にひろがる空洞に気が付くかもしれない。
書けば腕のあがる類ではないが、書き終えてこそ見えてくるものはある。無限に続く、ほんのささやかな試行の繰り返しだ。書くときくらいしか頭を使っていないとすれば、単に自分は仕事量が少なすぎると気が付いて、暗澹とする大晦日。

12月31日ミラノにて

229  日記

藤井貞和

蘖曜日
 ひこばえを剪る
哥曜日
 うたを送る
翠曜日
 みどりの糸を垂らす
黙曜日
 沈鬱な高校生
忻曜日
 よし、今週こそは
努曜日
 実りますように
 
(受験生の季節。頑張ってね。)

不連続、跳び跳びに

高橋悠治

ピアノの鍵盤に指を下ろして手を動かす、と想像しながら、紙に音符を書く。1950年代の終わりというと、もう70年も前になるが、その頃から作曲をしているのに、全然馴れない。あの頃も、まず楽器の組み合わせがありきたりに思えて、そこに音符を書き入れることが、なかなかできなかった。

ピアノを弾くほうも、滑らかな動きが気に入らなくて、この音をすこしだけ際立たせ、あの音はちょっとだけ遅らせて、と毎回ちがう細部に気づいているうちに、飽きてしまう。同じ動きを繰り返して手を慣らし、その動きを使って、というより、そのように動く手は半ば忘れて、全身がゆっくり揺れ動く波に乗って漂う、それが音楽の時間であるように、と書いてみるが、その感覚は伝わらないだろうな。

何日もぼんやりして過ごしている。何か仕事があれば、小さく細かい部分を磨いて過ごすかもしれないが、コンサートも作曲も、仕事が減っている分、世界に何が起こっているのか、毎日いくつかのニュースサイトを見ていると、日本のメディアはウソとお笑いしかないような印象を受ける。世界は激しく変わる時期に入ったが、日本は沈んでいく側の最後列にいるらしい。

一つの世界が壊れて、多くの破片になれば、統一や安定を探すのではなく、部分的で多彩な組み合わせ、あるいは矛盾を含んだ運動の、故障・中断・脱落など、未完成なまま放り出された箇所をそのままに、イメージで埋めるか、それとも躓きと片足跳びで隙間を残すか。綻びのある線を絡め、撚り合わせて。

ことばが滑ってゆく。そのまま手から離れないうちに掬いあげて。

2023年12月1日(金)

水牛だより

激しい寒暖の差に翻弄される日々です。衣類は夏と冬のものがあればいいし、衣替えは不要。とはいえ、すでにこの夏の猛暑の記憶は薄れて、せりがたくさん入ったきりたんぽ鍋が食べたいな、などとすっかり冬の思考になっています。

「水牛のように」を2023年12月1日号に更新しました。
まだ今年がおわるという実感はありませんが、今年最後の更新です。
一日一日の暮らしのなかには小さなよろこびや笑いはありますが、世界という大枠は壊れかかっている。壊れかかっているのではなくすでに壊れているのだと言う人もいます。この暗い時代をどのように生きていくのか、日々の小さなよろこびのなかにいても、ふと考えてしまうことの多い2023年でした。来年はもっと厳しくなるのかもしれません。

笠井瑞丈さんのダンスをどうぞ。
今、ショパンを踊る
日時:2023年12月5日(火)19:00開演
   6日(水)19:00開演
   7日(木)19:00開演
*開場は開演の30分前、受付開始は60分前
会場:国分寺市立いずみホール
(JR中央線・武蔵野線 西国分寺駅南口ータリー前、東京都国分寺市泉町3丁目36−13)
構成・演出・振付:笠井叡
出演:笠井瑞丈、上村なおか、浅見裕子、川村美紀子

今月はお休みですが、越川道夫さんの最新作「水いらずの星」と
ロングインタビュー「映画という名の「傷」をつくっている」をどうぞ。

そして、下窪俊哉さんの「アフリカ」の詳細と購買は「アフリカキカク」からどうぞ。

それでは、来年も無事に更新できますように!(八巻美恵)

想像できないことを「想像してごらん」( ジョンの命日に)

さとうまき

年賀状のシーズンがやってきた。国際協力年賀状ということで今年で4回目になる。イスラエルとハマスの戦争でガザがたいへんなことになってしまったので、デザインもパレスチナ寄りになってしまった。僕は1997年から2002年までパレスチナにすんでいたので、こういうことになると、なんかしなくてはいけないと思ってしまうのである。とりあえず、当時のことをいろいろ思い出してみようと思って、パレスチナの子どもたちが描いた絵を探しだしてなんだかうっとりしてしまった。

2000年の夏。ボランティアやりたいって若者が訪ねてきた。ビートルズのコピーバンドをやっているとかいう女の子だった。若いのに珍しいなあと思い、ベツレヘムの難民キャンプの子どもたちに音楽を教えてもらうことにした。

僕がビートルズを聞き出したのは、中学生の時で、解散して4年たっていた。初めて買ったレコードは、Let it be のカットバンだったような気がする。そんなにレコードなんか買える時代ではなかったから友達から借りた。だから、友達は大切だった。ビートルズの4枚組ベスト盤になぜかジョン・レノンのイマジンが入っていた。不思議なピアノの旋律。あまり歌詞の内容とか理解しなくても彼らの音楽は好きだった。まだベトナム戦争が終わってなかったけど、中学生の僕は世界の平和とかそんなことはどっちでもよかった。文化祭で誰かが、戦争をテーマにしようと言い出し、戦争って言っても、交通戦争とか、受験戦争とかいろんな戦争があるよね!ってそっちの話になってしまっていた。日本は平和だったというよりも中学生なんてそんなもんだろう?

あれから大人になり、30代半ばの僕は、パレスチナにいた。イスラエルが建国されてから50年。つまりパレスチナ人の大惨事から50年の1998年。1999年にはオスロプロセスでパレスチナができるかもしれない。何よりも20世紀が終る瞬間にそこにいるという盛りだくさんでエキサイティングな時期だった。

ビートルズのLet it beをパレスチナで聞くとこんな風に聞こえた。

And when the broken-hearted people
テロやイスラエル軍の襲撃で家族が殺され,収監され、心が打ちのめされてしまっても
Living in the world agree
国際法で守られた世界で生きている限り
There will be an answer, let it be
答えは見つかる。なるようになる

For though they may be parted
たとえ意見が対立して、交渉は断絶しても
There is still a chance that they will see
チャンスはまだ残されている
There will be an answer, let it be
答えはきっと見つかる なるようにしかならない

当時は、イスラエルのミュージシャンもアラブ人と一緒にビートルズをよく演奏した。
We can work it outもその一つだった。

イマジンはもっとストレートに響いた。

想像してごらん。
国境も宗教もない
殺す理由も、死ぬ理由もない
みんなが平和暮らすことを

毎日パレスチナ人が収監され、殺されイスラエルという国が拡大していく現実。現実はあまりにもひどい。日本で暮らしている僕らには到底想像なんかできない。僕もそうだ、2019年までは、イラクとかシリアで目いっぱいで、パレスチナのことは、殆ど追っかけてなかった。

今年はすでに、かつてないくらいのパレスチナ人がイスラエル軍に殺害され拘束されていた。この夏、僕は、イスラエルとパレスチナの若者たちを日本に招いて「仲良くなる」プロフラムのアドバイザーの仕事をしていた。とはいってもロジのサポートの仕事で中身は参加させてもらえなかったのだが、パレスチナ人とイスラエル人はうまく対話ができなかったらしい。パレスチナ人は、イスラエルの人権侵害をみんなに知ってもらいたかった。イスラエル人にとっては、挑発的に絡んでくるパレスチナ人はうっとおしかったのだろう。

「仲良くなる」という目的を達成するためには、議論を遮るしかない。結果、フラストレーションだけがのこり彼らは帰っていった。そして、我々日本人も彼らがおかれている立場もよくわからぬまま、10月7日がやってきた。ハマスは1200人を殺害し、イスラエルは15000人を殺した。そしてもう精神的に参っている。

パレスチナの若者がかかわっているというイスラエルの団体のHPには、いろいろなファクトが掲載されている。
https://www.btselem.org/

今回、ハマスとイスラエル政府との人質交換で明らかになったのは、8000人ものパレスチナ人がイスラエルの刑務所に拘束されているということ。10月7日以降で3000人もが拘束されているという。中には、SNSでイスラエル政府を非難しただけの人もいる。2200人が裁判も告訴もなくただ拘束されているのだという。

実際にエルサレムのパレスチナ人が教えてくれた。「IDを見るよりも先に、イスラエル警察は携帯を見せろという。それで政府に批判的だったり、ガザに同情的だったら直ちに拘束されてしまう」
11月29日夜の時点で、ハマスが解放した人質は102人。イスラエルが釈放したパレスチナ人は210人となった。しかしイスラエルはあらたに116人のパレスチナ人を拘束したという情報もある。またハマスは、生後10か月の最年少の赤ちゃんはイスラエルの空爆で死亡したと発表している。そもそも人質交換なら、15000人のガザの人々を殺す必要はなく最初からイスラエルとハマスが交渉すればよいのではないか。もう、狂っているとしか言いようがない。

2000年の夏に話を戻そう。僕が働いていたNGOは、ベツレヘムの難民キャンプの子どもセンターを支援していたので、難民キャンプの子どもたちにイマジンを教えることにした。
キャンプのリーダーがやってきて、「なんだい? この曲は?」彼は、いつも周りを気にしていた。「みんな、国境のために命を失っているんだ。宗教がない世界っていうのは、僕ら的には、OKなんだけど、ハマスが聞きつけたら大変なことになるなあ」そのキャンプは世俗派の党派が支配していた。でも彼はとてもこの曲を気に入って、英語の先生を連れてきて、子どもたちにきちんと発音するようにと諭した。

そして、キャンプデービットでは、パレスチナの独立に向けて最終的な調整が進んでいた。イスラエルとの2国共存は目の前に迫っていた。約束の1999年は過ぎてしまったがパレスチナという国家ができることは皆疑わなかった。もう21世紀になったのだから。

難民キャンプで広島の展示をしてそのセレモニーで子どもたちはイマジンを歌った。今じゃ信じられないだろう。難民キャンプの子どもたちがイマジンを歌った。ジョンの世界が想像できたのだから。イスラエルの首相は労働党のバラクだった。「私がパレスチナ人なら、石を投げる気持ちがわかる」とまでかれは言ってのけた。

しかし、私たちはただの夢追い人だった。バラクは支持を失い首相をネタニヤフに譲り渡した。そして和平は死んだのだ。まだ僕らにチャンスはあるのだろうか?

国際協力年賀状ガザ支援はこちらから
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ゴマ

笠井瑞丈

うちに来て四年半
碁石チャボのゴマ
とりあえずボスです

そして今年来た
白チャボのナギ
暴れん坊です

今年亡くなった
白チャボのマギ
おっとりです

鳥さんとの共存生活
ともにいろいろな所にも旅した
うちの中に光を灯してくれる存在

うちは部屋の中で放し飼いにしてる
鳥さんをそのように育てているのは
かなり珍しいと思っている

うちにやってきて
自分で自分の場所を探し
自分で自分の生活を始めた
だから自由にしてあげたい

それが共存だ

向こうには向こうのルールがあり
こちらにはこちらのルールがある

朝自分でテレビの裏から降りてき
昼間大抵は大好きな枕の上で昼寝
夜は自分達の場所のテレビの裏に戻る
そして僕が寝るのと同じに眠りにつく
基本はこのルーティンの繰り返しだ

しばらくして

一番大事な行事の産卵期がやってくる
基本二日に一個卵を産む
そして多い時は毎日産む
そして三週間くらい続く

それが過ぎ放卵期がやってくる
じっと24時間卵を温め続けるのだ
テレビの裏に長い時は2ヶ月近く篭る
体力をすり減らしただただ卵を温める
仕方なく強制的にご飯を食べさせる
そうしないと自分の身体を削ってでも
卵を温め続ける

人間は誰かに教わらなきゃ何もできないのに
鳥は誰に教わることなくそれを本能で行うのだ

チャボには
全動物には
それができるのだ
これは本当にすごいことだ

生命とは不思議なものだ

しかしそんなゴマが
肺炎になってしまった
巣篭もり中で体力が
落ちていたのだと思う
そしてもうだいぶのお年だ
呼吸が荒く
何も食べない
全く動かない
歩いても
ヨタヨタ

正直かなり危険な状況
注射器に栄養剤をいれ
口に流して食べさせてる

全く自分から食べようとしなくなった
野生であれば自分で食べれないということは
それは遅かれ早かれ死を意味していることだ
それがきっと自然の正しい在り方なんだろう

だから僕がやっていることはそれに逆らう行為
それでも構わないので前のように戻ると信じて
看病する

きっと良くなる
きっと良くなる

先日お世話になっていた
衣装デザイナーが亡くなった
ギリギリで病院に駆けつけることができた
話しかけると手をあげたり目をパチパチさせ
最後の力を振り絞って会話ができた
作ってもらった衣装を着て行ったので
とても喜んでるように感じた

人間であろうが
動物であろうが
平等にいつかは
死は必ず
やってくる

お見舞いに行った一週間後
息をお引きとりになった

そして今日これを書き終えた今
ゴマちゃんが旅立った

大好きなマギちゃんのところへ

たくさんの思い出をありがとう

どうぞ安らかに

228 索(あしたの)引

藤井貞和

新刊書の読み方の一つに、索引を作りながら読むというのがあります。
それはよいのですが(あしたの)がはいりこんできて、うごかないのです。
あしたの索引という理由です。月やあらん、あしたという日がこの索引を、
必要とすることでしょう。中欧、中東戦火のいま、この一冊が出たことは、
あしたを歴史に刻みこむために。

金ヨンロン『文学が裁く戦争』岩波新書を読みながら

 

(赤瓦の家159 明日の知性19 或る遺書について05 イアンフ161 海と毒薬61 奥のほそ道201 折れた剣81 壁あつき部屋46 神と人とのあいだ96 黄色い日日22 キムはなぜ裁かれたのか197 グラウンド・ゼロを書く202 飼育65 小説・東京裁判130 神聖喜劇138 審判71 巣鴨の恋人52 砂の審廷107 赤道の下のマクベス193 戦争犯罪人37 戦争は女の顔をしていない206 蝶の絵27 月や、あらん207 東京裁判(映画)130 東京裁判の判決08 東京プリズン189 閉された言語空間139 ながい旅129 夏98 判決の記05 BC級戦犯とその妻129 非情の庭56 羊をめぐる冒険147 ひとり207 溥儀皇帝の悲劇15 文学以前のこと16 北岸部隊20 迷路13 夢の裂け目170 夢の泪(なみだ)174 夢の痂(かさぶた)179 落日燃ゆ118 レイテ戦記130)

仙台ネイティブのつぶやき(89)人が、いなくなる

西大立目祥子

久しぶりに宮城県北、鳴子温泉で米の配送の仕事をしているササキさんに電話をして、「元気?」とたずねたら、「それが、運転中にクマが飛び出してきてぶつかって、車つぶれて修理したんですよ」と聞かされた。「こけし館のとこの坂道わかります?あの坂を下って、いきなり道路に出てきたんです。ぶつかったあと、立ち上がって車の横を走り出したんで怖かった。こんなの初めてですよ」

このところ東北が話題の全国ニュースというと決まってクマの被害が報道されているけれど、ついに身近なところで事故にあう人があらわれたとは。「日本こけし館」は鳴子の観光スポットで、飛び出してきた道路というのは山形や秋田に向かう車両の多い国道47号線だ。
国道をクマが歩いているのだ。気づけば、地元紙、河北新報の宮城県内版には「クマ目撃情報」の欄が設けられ、前日の出没が報道されるようになった。たとえば「▷午前6時30分 加美町原町道端▷午後6時20分 仙台市青葉区荒巻青葉」のように時刻と住所が記されている。日に5件は下らない。そういえば、数日前、この欄にササキさんの働くすぐ近くの住所を見つけたのだった。「それ、ウエノさんの家ですよ。罠にかかったんです」

ササキさんが働くのは「鳴子の米プロジェクト」というNPO法人の事務所だ。ウエノさんはそこの理事長で農家。米をつくり、牛を飼い、畑をつくっている。牛舎のそばにクマが出たのだから、ひやひやものだったろう。
 
このプロジェクトは、2006年に農家と消費者をつなぎ中山間地の農業を守ろうと始まった。私も農業のことは何もわからないまま、かかわってきた。当時は米の価格が下がって農家の経営が難しくなり、町内でも米づくりをあきらめる人がじわりと増え、耕作放棄地があちこちに目立つようになってきていた。加えて、国の農業政策が、経営規模を拡大して効率化を図る方向に転換されようとしていて、標高の高い山間地に小さな田んぼを維持してきた農家の人たちは生業を継続できるのか大きな不安を抱えていた。

このままではこの町の農業は立ち行かなると考えた役場職員が、本気を出した。まず、標高が高くうまい米はできない、といわれ続けてきた雪深いこの地域でも、おいしく育つ品種を探す。農家が天日干しでていねいに育てて、来年も米づくりをしようと希望を持てる持続可能な価格で売り出す。多少高くても、それが農家の暮らしを守り、自分の食生活の基盤をつくることになる、と理解して買ってくれる人と手を結び、長く付き合う。そんな計画を立て、プロジェクトは始まったのだった。

ササニシキを生んだ宮城県古川農業試験場で寒冷地向けとして開発され眠ったままになっていた「東北181号」という品種を特別に提供してもらい、試験栽培をしたところ、米づくり50年の農家が「山間地でもよく育つ力強い稲だ」と太鼓判を押すほどに苦労なくすくすくと育った。試食してみるともちもちとして冷めてもおいしい。米は「ゆきむすび」という名前で品種登録され、プロジェクトでは事務所経費をのせ、1俵(60キロ)2万4千円で売り出すことに決めた。農家には1万8千円が支払われる。当時の生産者米価は1万3千円を切っていたので驚かれ話題にもなったのだけれど、“農家が希望を持って続けていける価格”に賛同してくれる人は全国に広がり、参画する農家も2年目には21人に、やがて35人くらいまで増えていった。

東日本大震災も乗り切ってきたのだが、このところ参画する農家の数がめっきり減った。今年は12人。プロジェクトが年月を重ねる中で、担い手の農家が高齢化しているのがその理由だ。60歳で参加した人は、もう78歳。あと3、4年が限度だろう。息子が農業を継ぐという人は数軒にとどまっている。先日、NHKスペシャル「食の“防衛戦”主食コメ・忍び寄る危機」という番組を見てひやりとした。日本の稲作農家は、1995年には201万戸だったが2025年には37万戸になるという。あと5年で主食のコメは危機に陥る、と番組は告げていた。中山間地、鳴子の米づくりは日本の稲作の縮図だ。プロジェクトを立ち上げた当初、農業の担い手の高齢化を教えられ、ここで農家を支援する仕組みをつくらなければ私たちの食があやうい、とみんなで勉強したとおりの未来がきた。農業をやる人がいない。農業だけでなく、地方、特に中山間地からは人がどんどん激しく減っている。

話をクマに戻す。ブナがひどい不作だったとか、どんぐりも実らなかったとか、今年の特殊事情はもちろんあるのだろうけれど、クマ出没の背景には、里山に暮らす人の激減があるに違いない。特にコロナ禍以後、米づくり農家、特に外食産業を支えてきた農家が農業をあきらめた。田畑には草が繁り、森の手入れをする人もじりじりと減り、そこにクマが勢力を延ばしているのだと思う。

実際、鳴子の米プロジェクトの事務所の近くは空き家ばかり。18年前の平成の大合併で、町内では3つあった中学校が1つに統合され新校舎で再スタートを切ったのだが、生徒がさらに減りサッカーや野球の部活ではチームがつくれず、隣町の中学校に進学する子も少なくないのだそうだ。町内の公民館の館長さんには「見て、公民館の前の道路は両側ずっと全部空き家」と聞かされる。

でも、食卓に載せる食材がどこで誰がつくっているかを考えない限り、それは見えない。この原稿を書いている窓の外では、先週から恐竜のような姿の3台のパワーシャベルが住宅を解体し、大きな音を立てている。たぶん戸建ての建設がすぐに始まるだろう。近くに地下鉄駅が開業してからというもの、住宅の新陳代謝が一気に激しくなり、少し北側では、東北最大級のマンションの計画が持ち上がっている。やがて何百というファミリーが越してくるのか。その向こうに、私は生い茂る山の中で朽ちていく空き家の風景を見てしまう。

昨日はすぐ近くにサルが出た。なんだかどこもかしこもちぐはぐだ。連続性も秩序も安定もない。何でも手に入るかに見えて、私たちの食が薄氷の上にあることは確か。近い将来、超高層マンションのピカピカのキッチンで飢える人が出るかもしれないことを、想定しておこうと思う。

母の熟したトマト

植松眞人

 母が生まれてすぐに戦争が始まった。もともと貧しい家に生まれたのだが、戦中戦後の混乱の中で辛酸を舐めた。六人兄弟の真ん中に生まれた母は長男長女ほどの愛情も注いでもらえず、弟や妹ほどにお金をかけてもらうこともなかったらしい。
 小学校に入学しても弟や妹の面倒を見るためにほとんど通えず、母はいまも読み書きがほとんどできない。学校の思い出はと言えば、文房具がまともに買えず、消しゴムの代わりにズック靴の底のゴムを刻んで使ったが、ノートが破れるばかりだったとか、弁当を持って行けず水ばかり飲んでいたという貧しさの話しか出てこない。
 子どもの頃に、母からおやつをもらいながら、昔のおやつはどんなだったのか、と聞いたことがあった。母は、おやつなんかなかった、と言った後で、しばらく経ってから、あの時食べたトマトは本当に美味しかった、と呟いた。
 母が子どもの頃、三度の食事を摂ることもままならなったと言う。腹を空かせた母は、学校や用事の行き帰りに、低く茂ったトマト畑を見つけた。そこには真っ赤なトマトが実っていた。けれど、他人の物を盗んではいけない、という教えだけは擦り込まれていて、ただ毎日赤く実っていくトマトをじっと見つめていたらしい。
 ある日、いつものようにトマト畑の前を通った母は、あんなに実っていたトマトが全部なくなっていた。農夫によって収穫されたのだ。誰の口に入るのだろう。どんなふうに食べられるのだろう。母は想像をするだけでぺこぺこのお腹が動き始めた。その活発な動きを支えられなかったのか、なんとなく力が抜けて、トマト畑の側に座り込んでしまったそうだ。すると、目線の下がった母の視界にひとつだけ、形の悪い小さめのトマトがぶら下がったままになっているのを見つけたのだ。
 それから毎日、母はその農夫に忘れられたトマトを見に出かけた。木になっている間は農家のものだが、熟して落ちれば食べてもいいのではないかと思ったからだ。
 来る日も来る日も母は弟や妹を背負いながら、トマトを眺めた。誰にも知られないように、そっと周囲をうかがってから、トマト畑に近づき身を屈めた。トマトは日に日に赤くなった。
 何日めだっただろう。母が畑に行くと、トマトが落ちていた。熟しすぎて、落ちたトマトの皮は破れ、形をなくしていた。それでもトマトは陽の光に輝いていて、母は思わずそれを拾うと多少の汚れも気にせずにむしゃぶりついた。トマトはこの世のものとは思えないほど美味しかった。酸っぱさが鼻を突き、土の匂いがした後に甘みが口の中に広がった。
 あのトマトは忘れられへん、と母は言い、今食べているトマトとどっちが美味いかと私が聞く。母は間髪入れず、そりゃ今食べてるトマトの方がきれいでおいしいがな、と笑うのだった。

『アフリカ』を続けて(30)

下窪俊哉

 コスモス色の表紙のなかで孔雀が、羽をひろげている。その目は、俯き加減ではあるものの、黒々として生命力に溢れている。こちらを見据えてはいないのだが、大きく、画面からはみ出すまでひろげられた羽のなかに、じつは幾つもの目があり、見つめられているような気がして私はハッとする。咲き誇った花に見られているようでもある。羽をひろげている孔雀はオスだろうが、そのなかに、私はある女性の目を感じている。

 10月末、『アフリカ』最新号(vol.35/2023年11月号)の入稿をすませた日の午後、自室の片付けをしていたら、ふとしたところから手紙が出てきた。それは8年前(2015年)の5月、向谷陽子さんから届いた『アフリカ』の切り絵に添えられていたもので、作品を作者に戻した後、その封筒のなかには手紙だけが残されていた。
 いつも『アフリカ』は予定より1、2ヶ月は遅れて完成するので、〆切が来たからと言ってそんなに焦る必要はないのだが、向谷さんはいつも、ギリギリになってごめんなさい、と手紙のなかで謝っていた。が、このときは「かつてないピンチ」だったらしい。「モチーフ選びは大事だな」「でも出来上がったものに関しては満足」していると書かれている。
 その後を読んで、私は思わず仰け反った。
「表紙にはパイナップルをオススメします。孔雀だと拡大した時に切りの甘さが目立ってしまうので。切り始めてから、和紙じゃなくてケント紙にすれば良かったと思いました。後の祭。」
 ああ! そうだったのか。私は今回、そのとき孔雀を表紙に使わなかった理由を「あまりの力作でアフリカの文字の入る余白がなかったのだろう」(編集後記より)と想像したのだが、全くそういうことではなく、作者の希望だった! できれば表紙には使わないでほしい、という。
 その年の夏、珈琲焙煎舎で『アフリカ』をめぐるグループ展(「鳥たちのその後」展)をした際の手紙も、同じ封筒に入って残っていた。そこには、「孔雀は展示NGでお願いします」とまで書かれている。
 よほど納得いってないというか、技術的な問題を感じていたらしい。
 大急ぎで、装幀の守安くんに知らせようと思った。そのメールを書きながら、何かじわあっと熱く、伝わってくるものを感じた。そうか、入稿が終わるまで、待っていてくれたんだね、と。
 守安くんからは、こんな返信が来た。
「それを聞いていたらさすがに躊躇したとは思うけど、やっぱり今回はこの孔雀でしょう、という気がします。展示NGだなんて、こだわってるところが逆にいいよ。作家の人間味がにじみ出てる。毛羽立ちや汚れはいつも気になったらデータを触ったりもしてたんだけど、今回はあえて何もしてなかった。それでよかったな、といまは思っています。」

 8年前のことで、すっかり忘れていた。そのことが判明してからも、果たして本当にそうだったかな? と思う気持ちがまだ残っている。それくらい忘れていた。
 こだわっていた、ということは、それだけ大事なものだった、ということだろうと私は考える。
 なぜ、どのように大事だったのか、いまとなっては訊くことができない。しかし、訊けたとしても、そんなことを容易く話すことが出来るだろうか。
 理由は何であれ、とにかく大事なものだった。
 彼女が突然いなくなった後、その、いなくなった彼女と一緒に『アフリカ』をもう1冊つくろうとした私が、守安くんの助けを借りて、その孔雀を見出したのだと思うと、気持ちが波を立てて、この孔雀の切り絵の良さを、作者に向かって語り聞かせたくなってきた。

 この11月、ザ・ビートルズの最後の新曲(になるだろうとポール・マッカートニーが言っているらしい曲)が話題になっている。あの4人が(時空を超えて)揃って演奏しているというふうに言われているが、何が、どうあれば、”ザ・ビートルズの曲”と言えるのか、当人たちにとって実際にはもっと感覚的な、何とも言えない部分もあるのだろう。

 向谷さんの切り絵という〈顔〉がなくなった後、どうあれば、『アフリカ』だと言えるだろうか。

 そう考えると、もう『アフリカ』でなくてもいいのではないか、という気もしないではない。そうすると、この「『アフリカ』を続けて」も終わってしまうわけだが、などと思っていたら、これまでになかった現象が起こり始めた。
 最新号が出来たばかりで、まだ宣伝もままならない状況のなか、すでに次号への原稿が送られてきている! しかもひとりではない、そういう人が、ふたり、さんにん、と現れてきた。
 止めるなよ、と言われたら私はすぐにでも止めたくなる、天邪鬼である。しかし、送られてきた原稿を疎かにはできない。これを(次号に載せるかどうかは、さておき)どうやって生かそうと考えるのが自然だからだ。

 そこで思い出す。『アフリカ』を始めたときにも、そんなふうだった。もうこんなことは止めよう、でも、すでに生まれてきているものは生かしてあげたい。そう思って始めたのだ。だから雑誌名なんか何でもよかった。つまり、その場限りのものになるはずだった。

どうよう(2023.12)

小沼純一

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
やってるんだが
からだがうごかん
ひふのした
にくがびりびりしびれてる

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
あたまのなかは
あっちにこっちに
あたまとからだが
べつべつで

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
やってるってば
からだいっばい
いきている
すこしもうごきはしないけど

いしつたわんない
いんりょくさからえない
ここばっかりが
いんりょくがつよい
ほんとかな
ほんと
ほんとだよ
わたしには

しごとのつきあいだった
冗談だって雑談だってかわしてた
食事もしたしお酒ものんだ
そんなひと何人も何人も

何人もってまとめなくって
もすこしよってって
このひとこっちのひと
ひとりひとりの顔
顔、顔、おもいだせず
なまえだけだったりもして
あんなこんなひといたよね

どしてるんだろ
やせたりふとったり
家族がいたりするんだろ 
ホルンはふいてるかな
サーフィンはしてるかな
かわいがってたいぬは
げんきかしらん

あうことなんてないのかな
さほど距離ないところにいても
とおいんだな
おもいだすのもまれだけど
たまにはなぜか
あのひとかのひと
せまいところにいるようで
まわりのひとはいれかわり

おぼえてるおぼえてない
よどみ
かきまわすのも
きまぐれゆうまぐれ
おうまがとき

ほんのいっぽんちがうみち
ねこがけげんにこちらみる
しらないねこのはずなのに
いっぴきよくみるやつがいる

ほんのいっぽんちがうみち
みせでみかけるおばさんと
ねこにえさやるおじさんが
でてくるやしきがありました

ほんのいっぽんちがうみち
ひるましずかなねむるまち
よるはふらふらすいきゃくが
すいこまれてゆくネオンがい

ほんのいっぽんちがうみち
ビニールシートのすぐわきは
くさぼうぼうのかこいべい
ねこさそってるはいおくも

ほんのいっぽんちがうみち
いちがいくにふたつみつ
ながいながいへいがのび
なかのみえないふしぎなやしき

話の話 第9話:つい、うっかり

戸田昌子

天気予報では雨が降ると言っていたのに、家を出るときに晴れていた、などの理由で、「つい、うっかり」洗濯物を干して出かけたあと、土砂降りになる、そんな失敗をしてしまったとき、人はそれを「マーフィーの法則」と呼ぶ。われわれは失敗しないために先回りして対処するという知性を身につけているはずの人類であるが、それでも状況をみくびってしまう癖を持ち合わせているのである。たとえば、「お母さん、牛乳ちょうだい!」と子どもに言われて、面倒くささから、つい「冷蔵庫にあるから自分で入れなさい」と言い捨てたあと、ふと振り返ると子どもがコップから牛乳をだぼだぼと溢れさせている姿を見たとき、わたしは子を叱るよりもまず、自分の愚かさを恥じる。なぜ状況をみくびってしまったのか、と。そして雑巾を淡々と手に取り、絨毯にこぼれた牛乳を拭き取り、消臭スプレーを吹きかける。そう、失敗はなかったことにする、それがわたしの基本原則である。

そんな事例は無数にある。たとえばレストランでトマトソースのパスタを頼んでしまったあとで、自分が真っ白なシャツを着ていることに気づき、仕方ないからできるかぎりそーっと食したにも関わらず、トマトソースを胸元にはね散らかしてしまうなどの悲劇は、年に1回くらいの確率では確実に起こる。例えばその日わたしは、10個入り600円のタマゴを1パック、有機食材のお店で購入した。なぜそんな分不相応に高額なタマゴをわたしが購入したのかはさだかではないが、おそらく気が大きくなっていたのではないだろうか。そしてまだ10歳に満たなかった小さな娘に、そのタマゴの袋を持たせた。なぜならわたしはそのとき、本が何冊も入ったリュックサックと、野菜や肉などの入った大きな買い物袋を抱えていたからである。タマゴの袋を持たされた娘はいつものようにルンルンと私の隣を歩いていた。そして、ものの3分も経たないうちに、その袋は彼女の手から滑り落ち、アスファルトの路上に落ちてカシャンと小気味の良い音を立てた。そのときわたしの頭をよぎったのは、「なぜわたしはよりによってこのタマゴの袋だけを娘に渡したのか?」という疑問だった。その疑問に、わたしは答えることができない。そして自身のうっかりに激怒しながら帰宅してパックを開けると、タマゴはすべて割れていた。割れたタマゴは保存がきかないので、その日の夜ご飯は当然のことながら、とても大きなオムレツとなった。忘れられない600円の激怒オムレツ。

ちょっとしたうっかりが尾を引く事例は多い。たとえば、中学のときの姉の同級生で、ずっと「ジョージ」と呼ばれていた少年がいた。姉がその理由を尋ねると、彼は自分の体操着を「おれのジャージ取ってきて!」と友人に頼もうとして、うっかり「おれのジョージ取ってきて!」と言ってしまったのだという。それ以来、彼は卒業するまで「ジョージ」と呼ばれ続けた。うっかりジョージ。

その昔、中学のときのわたしの同級生に、親分肌のごつい少年がいた。体が大きく、声が大きく、いじめをするクラスメイトを見つけては大声を出して「おまえ何やってんだ」と注意してくれるのはいいのだが、ついでにそいつをゴツンとこづく、という悪い癖もある。その彼が、目の敵にしていた理科教師がいた。その学校に転任してきたばかりの女教師で、気を張っていたせいなのか、あまり空気が読めなかった。のんびりした公立校なのにもかかわらず、宿題忘れや理解の遅い子に対して厳し過ぎる態度を取る。その厳しさが気に入らなかったと見え、彼はその先生の授業中、なにかと先生に反抗したり、腹が立つと教室を出ていってしまうことが多かった。当然、先生はいきりたって追いかける。そのため理科の時間になると、教室には緊張が走った。当時、40歳くらいの独身女性だったこともあり、そのことを揶揄されたり、次第に教師いじめに近い状態になっていた。ある日の授業中、彼は立ち上がって、いつものように先生に対してかみついていた。彼女も感情的になって、しだいに自分が何を言っているかわからなくなり、一生懸命ではあるのだが、話がとんちんかんなことになり始めた。それがきっかけとなって、一触即発だったその場の緊張感が、ふと緩んだ。そして次の瞬間、彼はにやりと笑い「先生、かわいいね」と口にした。実際、そのとき生徒たちはみな、一生懸命な先生の姿がかわいいと思ったのじゃないかと思う。しかし先生はそれに反応しようとして……おそらくは、ついうっかり「あたりまえです!」と怒鳴り返してしまったのである。そして教室は笑いの渦につつまれた。憮然として「何がおかしいんですか!」と怒っている先生。それ以来、彼はその先生が大好きになり、しきりとついてまわるようになった。しまいには、よその教室でその先生の授業中に生徒が騒いでいるのを聞きつけては、わざわざ自分の教室から出張し「お前ら、先生がしゃべってんだから静かにしろよ!」と注意して回る始末であった。「先生を困らせるやつは許さない!」などと彼は言っていたが、その行動によって、先生はちょっと迷惑していたのではないだろうか。しかし卒業まで、先生と彼は仲良しであった。彼は植木屋の息子だったが、のちに植木屋を継いで今でもやはり親分肌である。

ひとが失敗すると、それが「かわいい」と見えてしまうのはなぜなのだろう、と考える。わたしは失敗の多い人間であるせいか、失敗したとき人に笑われ、「かわいいね」と言われてしまうことがある。たいていの場合、失敗したときは、何も言わずに落ち着き払って対処すれば、人目には失敗だと気づかれないことも多い、というのは長年の教師経験から学んで実践していることである。しかし、目ざとい人は、わたしのうっかりには気がついているらしい。たとえば家族や親族には気づかれているわけである。たとえば妹の夫はフランス人で、日本語がほとんど話せない。ある日、彼は簡単な日本語を覚えようと、「まあちゃんは、まるい」という短文を作り出した。そしてそこにさらに文章をつなげようとして、「でも、かわいい」と続けた。「まあちゃんは、まるい。でも、かわいい」という文章を作り出した彼は、それがひどく気に入ったらしく、妹とふたりで「まあちゃんは、まるい。でも、かわいい」と日本語の練習を続けた。しかし気に入らないのはわたしの方である。「まるい、でも、かわいい」などというのは、体型に対する侮辱ではないか。「でも」じゃないだろう!と反論していたわたしだったが、あるとき友人が言う。日本語の「でも」に相当するフランス語の「mais」という言葉には、逆接の意味だけでなく、順接、すなわち「だから」や「そして」などの意味もある、と。すなわち、「まあちゃんはまるい、だから、かわいい」という意味なのではないかと。意外な発見に、ほほう、と感心、うっかり納得してしまったわたしだったが、しかし、ちょっと待て。「まるい、だから、かわいい」……それはどういうことだ。まるいからかわいいなら、結局なにも変わらないじゃないか。

つい、うっかり、やってしまうこと。毛糸のセーターを洗濯機で洗ってしまえばフェルト化してまうのは物理の法則を持ち出すまでもなく必定なのだが、「もしかして大丈夫なんじゃないかな」と思えてしまうのはなぜなのか。つい、洗濯機に放り込んでしまうことがある。アメリカにいたとき、買ったばかりのセーターを、温湯で洗浄する洗濯機につい突っ込んでしまい、みごとなチビT並みのサイズにしてしまったことがある。セーターでヘソ出しルックになるわけにもいかず、泣く泣く手放したわたしとしては、過去の過ちは繰り返したくないのにもかかわらず、時々それをやってしまう。友達の結婚式のために手に入れたステキなウールのカーディガンを、なぜか洗濯機に入れてしまった結果、5分の3ほどのサイズに縮んでしまったときは確かに悲しかったが、そのときはもう子どもがいたので、「もしかしてこれは、子どもの洋服にすればいいのでは!」という天啓が訪れた。娘に着せてみたら見事にぴったり。これははじめから子ども服であったと考えればちっとも惜しくない、高い服だったけれど、子どもに贅沢をさせている、と考えればいいのだ。わたしはそう自らを説得し、長いことそのカーディガンを娘に着せ続けた。そしてそれはとても似合っていた。

論文を書きながらぼんやりとご飯を作っているときには、うっかりミスが多い。肉じゃがを作っているつもりで、いつのまにか豚汁を作っているつもりになってしまい、やたらだぼだぼと水分の多い、大根とごぼうと油揚げの入った肉じゃがが完成してしまったことがある。それをみた夫と娘が「これは何?」と尋ねるので「……おいしいよ」と答えると、「だから、これは何?」と重ねて尋ねられた。しかたなしに「肉じゃがと豚汁の中間」と答えると、「じゃあこれはとんじゃが」だね、と言う娘。「いや、肉汁じゃない?」と言う夫。肉汁。それは聞くだに、とても残念なメニューだね。

失敗の多い人生のなかでも、特に気を付けており、かつ職業的にやってはいけないこと、というのは、校正ミスである。しかしこれはどんなに頑張っても、なかなかゼロにすることができない。特に翻訳ものなどの場合は難題で、最近はカタログ論文などで英訳の校正をしなければならないことが多くて頭が痛い。これは平然とやり過ごそうにも文字として残ってしまうからである。たとえば大阪の問屋街の地名である「船場」を「a dock」と訳されてしまったり、映画会社の「松竹」を「Matsutake」と訳されてしまったりするような事例は、笑うに笑えないし、冷や汗をかきながら修正する。ちなみに自分自身がこれまでやってしまった校正ミスのうちで最も致命的だったのは、2014年に東京都写真美術館で行われた岡村昭彦写真展カタログであった。国内外を飛び回った国際的な報道写真家、岡村昭彦についての文章だから、校正者の力量も問われ、刊行元の編集者は新聞社の校閲部に校閲を外注した。そのためたいへんに緻密な校閲が行われ、内容的には大きなミスなく進行できた(小さなうっかりミスはあった)。しかし、である。その奥付だけは、最後に作られたために、校正の手がまわらなかったのだろう。展覧会オープニングの前日、写真美術館に届けられたカタログをみて「……これ、刊行年が20014年になってます」と気づいたのが誰であったかは、もう覚えていない。20014年って、どんな未来の宇宙なんだろうねぇ、と遠い目で語り合ったわれわれが、どんな対処をしたのかすら、すでに記憶の彼方である。たぶんちょろっとした紙ペラの正誤表が挟まれただけだったのではなかっただろうか。

宇宙、と言えば、数年前、久しぶりに鰻を家で食すことになり、冷蔵庫の山椒の瓶の賞味期限をみたら、2001年だったことがあった。急いでスーパーに走って事なきを得たが、気づかなければ、あやうく2001年宇宙の旅の鰻となるところであった。

マーフィーの法則と言えば、マーフィー岡田さん。実演販売で有名なマーフィー岡田さんは、この業界で50年以上活躍する、その筋では有名人。わたしのキテレツな伯父と岡田さんは高校の同級生である。この伯父に関する逸話は尽きないが、現在は消息しれず。テレビや雑誌で彼の姿をみかけるたび、わたしの母は「ああ、岡田さん」と言う。それにつられてわたしもつい、彼を見かけると「ああ、マーフィーさん。伯父さん、どうしているかなぁ」と、つい呟いてしまう。それで最近、どうされているのか気になって、つい検索をかけたら、なんと、X(旧Twitter)にアカウントが存在している。ああ、お元気なんだとほっとし、うっかりフォローしてしまった。ああ、マーフィーさん……。

プカプカ

篠原恒木

おれは喫煙者である。

この一文を読んで、これから先を読み進めることを拒否する方々もいるだろう。だが、書き出してしまったのだからもう遅い。「可哀想なヒトだ」「馬鹿なヒトだ」「死ねばいいのに」と思いながら読んでいただきたい。

「喫煙」という文字を見ただけで眉をしかめ、嫌悪、拒絶、忌避、軽蔑、罵倒、非難、憎悪、憤怒の念を抱くヒトはあまりにも多い。言語道断、断固反対、悪逆無道、徹底拒否、極悪非道、無法千万、非難轟轟、陰翳礼讃などの四字熟語もアタマに浮かぶ。いや、最後の四文字は違うか。喫煙習慣のせいで、つい筆が滑ってしまった。

とにかく煙草がやめられない。十八歳のときからショート・ホープを一日二十本吸っている。もう喫煙活動四十五周年だ。おお、アニヴァーサリー・イヤーではないか。めでたい。吸い始めたときは一箱五十円だったような記憶があるが、今では三百円だ。よく考えたら高いよ、バカヤロー。気軽に「一本ちょうだい」などと言われたら、そいつには真空飛び膝蹴りをかまして、ダブルリストロックから膝十字に移行、最後は腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪ってやりたい。

ああ、思わず逆上してしまった。話を戻そう。ショート・ホープは一箱十本入りというのがいい。箱も小さくて好ましい。味は独特の辛味があり、吸ったときのキック感も抜群だ。箱の脇に書いてある表示を見ると、一本当たりのタールの量は14mg、ニコチンは1.1mgと書いてある。ちなみにメビウス・エクストラライト・ボックスはタール3mg、ニコチン0.3mgだそうだ。おれはメビウス・エクストラなんたらという煙草を吸ったことがないが、これを見ても、我がショート・ホープはいわゆる「キツい煙草」だということが分かる。いや、誇らしげに書いているわけではない。さぞや体に悪いだろうなあと慄きながら書いているのだ。でもやめられない。

昔はよかった。どこでも吸えた。駅のホームでも吸えた。飛行機の中でも吸えた。病院の待合室でも吸えたのだ。ところが今では喫茶店でも吸えない。「珈琲と煙草」なんて「梅に鶯」ではないか。町中華に入ってラーメンの汁を飲み干したあとでも、その場では絶対に吸えなくなった。「ラーメン後と煙草」なんて「獅子に牡丹」のはずなのに。まだまだあるぞ。ここでおれは「竹に雀」「波に千鳥」「松に鶴」「紅葉に鹿」などの慣用句を駆使して煙草と相性のいい状況、アイテム、場所を列記しようとしたが、知っている慣用句を列記したことで満足したのでやめておく。

時代は変わったのだ。煙草は害悪なのだ。「今日も元気だ たばこがうまい!」「たばこは動くアクセサリー」などという広告コピーは昔々の話になってしまった。今や煙草の屋外広告も掲出不可だし、テレビのコマーシャルからも締め出されてしまった。ドラマでも登場人物が煙草を吸うシーンはご法度だ。昭和三十年代を時代設定にしたドラマでも、煙草を吸う人は誰一人として出てこない。ここまでいくと不自然なのではないかと思うが、すべては時代の変化なのだ。映画配信のチャンネルでもわざわざ冒頭に「+13 喫煙シーンあり」のテロップが小さく映し出される。もはや煙草は「吸ってはいけないもの」なのは常識で、「吸うのを見てもいけないもの」なのだ。当たり前だ。あれほど健康に悪いものはない。周りの方々にも多大なる迷惑および健康被害をおかけしている。

なので、もう煙草をプカプカと吸う場所はない。おれは血眼になって喫煙所を探す。あるいは喫煙可の喫茶店を探すのだが、「喫煙可」と謳っている大抵のカフェも狭苦しい喫煙ブースに閉じ込められるし、場合によっては「電子タバコのみ」などと言われて排斥されてしまう。おれは大手のカフェ、喫茶店チェーンに向かって声を大にして言いたい。
「アンタがたの不味い珈琲を味わうために店に入ったことは一度もない。我がすべての目的は煙草を吸うためだったのだ。勘違いされては困る」

ついでに書いておこう。あの「電子タバコ」というのは何なのだ。太いストローを短く切ったようなものを握りしめて大の大人がチューチュー吸っているさまは見ていて失笑を禁じ得ない。煙が少ない? 匂いが少ない? なに寝ぼけたことを言っている。屁ぇこくときは思いっきり音を立ててこくもんだ。すかしっ屁とは姑息な奴がするものだ。

家でもプカプカできない。我がツマは煙草が大嫌いなのだ。換気扇の真下でも許さない。俺は世にも狭いバルコニーに出て、真夏の夜の蒸し暑さに耐え、真冬の凍てつく冷え込みに耐え、プカプカする。家の中に入れば洗面所に直行し、指先を石鹼で洗い、リステリンを口に含みブクブクする。それでも居間へ戻れば、愛するツマからの罵声が飛ぶ。
「タバコくさい!」

こんなおれでも煙草をやめたくなるときがある。昔、真冬の午前三時に目が覚め、煙草を吸いたくなった。ところが迂闊にも肝心のショート・ホープが切れていた。一本もない。我慢してそのまま再び寝てしまえばいいのだが、一服することに憑りつかれたおれはパジャマからスウェットの上下に着替え、ダウン・コートを羽織って、近所のコンビニへ行き、ショート・ホープをワン・カートン買って、帰宅後に凍えながらバルコニーで吸った。馬鹿な話だ。睡眠時間が大幅に削られた。このときばかりはあまりのバカバカしさに「禁煙しようかな」と思い、一度は試みたのだが、禁煙開始の二日後に見た夢は「トイレで隠れて煙草を吸っている自分」というものだった。この夢はおれにとってダメージが大きかった。隠れて吸っている、というのがあまりにも情けないではないか。精神的に追い込まれていると判断したおれは翌朝から喫煙を再開した。

もう仕事中でも煙草は吸えない。アイデアを練るとき、ラフ・コンテを描くとき、タイトルをつけるとき、原稿を書くとき、すべて昔は煙草をくわえてプカプカしながら行なっていた。そのほうが素敵な案が浮かんだような気がする。煙草を吸いながら物事を考えるのが喫煙者の習慣なのだ。
「よし、仕事がひと区切りした。休憩して一服しよう」
が本来の姿ではないか、というのは嫌煙家の考えである。おれにとって喫煙とクリエイティヴな作業はボーダーレスだったのだ。しかし時代は変わった。よし、ここまで書いたからバルコニーに行って一服しよう。続きはそのあとだ。

煙草を吸ったら次に何を書くのか忘れてしまった。

アパート日記11月

吉良幸子

11/1 水
なんとなく、やなことが続いた10月が去った。神さんがみんな出雲へ出かけてはったから不都合が多かったのやろか。今日から月も変わったし、ええことありますように。と言うてるそばから、夜シャワーしてる時にねずみがぴゃっ!と目の前を走ってギャッ!と叫んだ。

11/2 木
『吉坊ノ会』へ行ってきた。うちのおかあはん共々吉坊さんの落語は大好き。昨日の『吉朝一門会』はええ会やったと電話で聞いたところやった。開口一番の九ノ一さんはパワーが溢れかえる方で、元気で見てて嬉しなった。ほんでお目当の吉坊さんの三十石は、道中色んな人に出会って長旅した気持ちで、終わった時にはほんまに旅が終わったみたいな感じやった。50分くらいやってはったんやけど、途中に掛け合いなんかもふんだんに入って長く感じへんかった。上方落語は鳴り物がたくさん入って賑やかで楽しい。今日はええイチニチやった!
今日の落語:桂九ノ一「時うどん」、桂吉坊「江戸荒物」「三十石夢乃通路」

11/3 金・祝日
昨日の落語会が始まる前に歩いた人形町でお祭りをやってて、今日も仕事前にちょっと寄った。人形町ってごはん屋さんがどこもええ塩梅な佇まいで、甘酒横丁なんかもあって雰囲気がめちゃめちゃええ。これで寄席があったらいるもん全部あるわと思ってたら、昔はあったのよと公子さんが言うてはった。なんと残念な。

11/4 土
今日は3回目のいわと寄席の日。三連休の中日で予約が少なく、一番に来はったお客さんに日本シリーズの日やと教えてもらう。そりゃもうあかんわ。とにかくそんな中、来てくださったお客さんにはほんまに感謝感謝やった。
今回は舞監の晢さんがおらんからアシスタントのはるえちゃんが手伝ってくれた。第1回目に初めて落語を見たというハタチの大学生でええ仲間。今日は二人で高座を作った。
はじめにコバヤシさんのマジック。ふう丈さんはものすごい人の良さが滲み出た方やった。始さんは真打昇進に向けて気合入ってはるみたい。おもろうてよう笑った会やった。会が終わって、演者さんと裏方とで一杯飲んだ。話は弾み、酒は進む。ああ、ええ会やったなぁと感じる。あとの課題はお客さんを増やすことだけ。
今日の演目:コバヤシユウジのマジック、三遊亭ふう丈「タイムパッカー」「ゲセワセワ」、古今亭始「目薬」「片棒」

11/5 日
朝5時からソラちゃんに叩き起こされる。撫でてほしいらしく、半分寝ながらおしりをぽんぽん叩いてあげる。そのまま起きて、二度寝して、昼寝もして、4時くらいから銭湯へ。明るいうちの銭湯は一番贅沢やと思う。あったまって5時に蕎麦屋で公子さんと待ち合わせ。丸屋は私の中では一番のお蕎麦屋さんで、住んでる町にあるのはものすごい幸せやと思う。冷やし紅たぬきそばを食べた。でっかい紅生姜のかき揚げが入ってて、公子さんと半分こにしたらそれをアテに日本酒を飲んではった。

11/8 水
ソラさんが外から帰ってくるときは、必ず派手に、陽気に、賑やかに家へ上がる。にゃぁにゃぁと三言は言うて、私らが恭しく迎え入れるのを待ってから入る。せやからなんも言わんと帰って来たときは、よっぽど注意しないかん。
夜の10時半。公子さんの部屋の庭側から、そ~っとソラちゃんが入って来た。怪しいと思った公子さんが目をやると、口にねずみ!おねぇちゃんにも見せなネ、と私の部屋へ直行!!部屋の中で口離されたらどないもならんし、とりあえず台所へ誘導。ねずみが走って逃げまくる!!戯れるソラちゃんでてんやわんや!幸い、玄関の方へ逃げ隠れて、ほうきで外へ追うたら足元滑りながら必死に外へ駆け出した!!よかった~と玄関を閉める。
そのあと、どこ行ったんや?と探しまくってたけど、あれは夢やったんやとなだめて、ごはんをあげた。もういっぺん外へ、と考えてるおっさん猫を私の膝の上へ乗せて興味をそらす。ほんだら遊び疲れた子どものように寝てしもうた。熟睡のソラちゃんを膝へ乗して日記を書く。猫がおると全然飽きひん。

11/9 木
古道具屋で買った高下駄をおろした。歯が二枚でどうしてもこけそうやから、まずは地元で慣らしてみる。
小豆島からものすごい甘くて美味しい干し柿が届いて、太呂さんち(公子さんの息子さん)とお世話になってる整骨院へ持って行った。帰ったら家に丹さん(公子さんの娘さん)も来てて、今日は公子さんの親戚ほとんどに会った感じ。

11/12 日
昨日から急に寒なった。公子さんが布団を洗ってきてくれはって、毛布2枚に布団でぬくぬくと寝る。
晩ごはんに里芋・ネギ・豚・お豆腐・卵が入った煮込みうどんをさっと作ってくれた。ぺろっと食べる。里芋が最近むちゃくちゃ美味しい。夜に食べるおうどんは身体がちゃんとあったまる。

11/20 月
数日前にソラちゃんが耳を怪我して帰ってきた。初日は、俺って怪我してかわいそうやし慰めてほしいねんと演技がかってしおしおしてた。膿が流れてる時は拭いてあげて、あとは自分で舐めて懸命に治しておる。ごはんもモリモリ食べる。今日は結構元気になって、傷口は相変わらず痛そうやけど本人は平気な顔してる。猫の治癒力はすごいわ。

11/23 木・祝日
いつも行く銭湯は露天もあって、浴室にもテレビがあって、猫もおる。銭湯でしか会わんおばちゃんもおって、銭湯って最高や。今日は日替わり湯がルイボスティー湯で、今までで一番ええ匂いのお湯やったかもしらん。

11/24 金
朝、公子さんの長いうめき声が…うなされてるのか、ちょっと歌みたいにも聞こえた。ソラちゃんはびっくりしたらしく、私の元へきて、どないしたんやろと言うておる。後で公子さんに聞いてみたら、高下駄履いた小天狗の集団に追いかけられる夢を見てたらしい。そりゃ怖いわ。

11/27 月
風呂のサッシが引っかかって開かんようになて、それを直しに朝からおじさんが来てくれた。公子さんが応対してくれはるのを布団の中でソラちゃんと夢うつつで聞く。ソラちゃんは私より真剣な顔で聞いてる。家が古くて傾いてるからどうしようもないんです~とおじさん。開ける時のコツも教えてもろた。

11/28 火
おかあはんとビデオ電話した。彼女はものすごいアクティブで、根っからのスポーツ大好きっ子。そんな母がキラキラした顔で、合気道始めてん!と、その話でもちきり。実に充実してて楽しそうや。

11/30 木
私、実家に帰らせていただきます!!!
(…一泊二日やけどね)

本小屋から(5)

福島亮

 11月はじめ頃は、コートを着ていると昼間など少し暑いと感じる日もあったのに、半ば頃から急に冷えて、朝は寝床から出るのも一苦労だ。壁の薄い本小屋で、しかも窓のすぐ近くに机があるために、冬は寒いだろうなと覚悟はしていたが、パソコンに向かっていると足元や指先や背中がどんどん冷えてくる。

 小学生くらいまでの家族写真を見返すと、冬の写真には褞袍——どてら、ってこんな温かそうな漢字なんだ——を着て雪だるまみたいにふくれた子どもたちが写っている。灯油ストーブに乗せたやかんの笛のけたたましさ、「みかんを焼くと甘くなるんだって」と、きっと友だちか、あるいは「伊東家の食卓」から情報を得て、橙色の皮をストーブで焦がしたときの微かに甘い匂い。そんな遠い記憶がふと甦ったかと思うと、写真の子どもたちは、急にいきいきと灯油ストーブの上で様々なものを炙って食べはじめる。干芋、餅、団子、するめ、林檎。灯油ストーブの上には小さな鍋も乗っていて、酒粕で作った甘酒が熱くなっている。

 5歳か6歳の頃——というのも、7歳の時に子どもたちは田舎の家に引っ越したから——、子どもの膝くらいまで雪が積もったことがあった。彼らが暮らす群馬県渋川市有馬のアパートには、広い共用駐車場があり、その一面が雪で埋もれた。本で読んだ「かまくら」を作ってみたくて、雪をかき集めると、高さ1メートルくらいの山ができた。今度はそれをくり抜いて、人が入れるようにする。どれくらい時間がかかったか、やっと作った小さなかまくらに潜り込むと、ぼんやりとした薄暗さと、不思議な暖かさに包まれた。「雪がかき氷だったら良いのに」と思っていた彼には、かまくらの中から見る雪が、なんとも美味しそうに見えた。指で雪を摘んで口に含むと、冷たさの後に微かな水の甘さと鉱物のような味が残る。もう一口、もう一口、と雪を食べ続ける。と、途端に視界が真っ暗になった。かまくらが崩落したのである。彼は、シロアリが家を朽ちさせるように、かまくらを内側から食べ、崩してしまったのだ。

 その後、誰からか忘れたが、「雪は汚い」と教えられた。確かに、コップに雪を入れて放置しておくと、とても飲みたいとは思わない濁った水になる。雪、というものの成り立ち自体が、空気中の埃を核に結晶ができるわけだから、綺麗なはずはないし、大気中に漂う物質をこれでもかと吸着しているはずだ。だが、それでも彼にとって、雪を口にふくみたいという誘惑に争うことは至難の業だった。今年は雪が降るだろうか。寒々とした本小屋で指先をかじかませながら、あのふうわりとした雪を思い出してみる。

背表紙

北村周一

シロアリに食い荒らされしカント本全六冊の重さとかるさ

背表紙は
どこへ消えたの?
三つある
批判書どれも
岩波文庫

純粋も
判断力も
実践も
捨てるほかなく
焚書の如し

たのしみに
取って置きたる
ユリシーズ
全4巻も
打ち捨てにけり

蟻たちの
餌食となりし
失われた
時を求めての
背表紙いずこ

群れにつつ
闇から闇へと
這いまわる
肌いろアリの
生態淫靡

とりどりにならぶ背表紙いまは亡きひとの住まいにみるは切なし

本棚に
のぞく背表紙
おもくあり 
売りに出されし
家の暗さに

遺品数多
残るすまいに
またも来て
雨戸開ければ
二月のひかり

見上げれば
城跡のこる
鳥羽やまの
そらに半月 
九月が終わる

あたらしき
家の南の
そら高く
のぼる月あり
天竜へ来ぬ

せつせつと
ふりこ時計に
身包みを
着せて抱っこの
お引っ越しかな

トクホンを
貼ってくれろと
振り向けば
ぴたりぴたりと
当たりお見事

つかわないと
毀れてしまう
端末の
一部始終は
雲のみが知る

旧き友と出会いし夜にみていたる夢のつづきは苦くもありぬ

むもーままめ(34)虚空の花見 2023年6月29日

工藤あかね

虚空の花見 
灰色の夜闇一面に
満開の真白な桜
眼をきつく結び
飽かず眺めていたいのだ

されどおまへは留められぬ
微生物のごとく解け
薄明とともに霧散する

6月29日

ワヤン公演『デワルチ(デウォルチ)』

冨岡三智

先月、東南アジアのイスラム化に関する国際シンポジウム:”Islamization in Southeast Asia as reflected in literature, archival documents and oral stories” の一環としてジャワのワヤン(影絵)『デウォルチ』の公演があった。というわけで今回はその紹介と簡単な感想。

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『インドネシア・ジャワの影絵芝居ワヤンとガムラン デワルチ』
■日時:2023年11月3日18:30~20:30
■場所:大阪大学箕面キャンパス・大阪外国語大学記念ホール
■出演
 影絵:マギカマメジカ(ナナン・アナント・ウィチャクソノ、西田有里)
 語り:イルボン
 演奏:ダルマ・ブダヤ、Al-aliyin
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『デワルチ』(ジャワ語読みでデウォルチ)はインド伝来の叙事詩『マハーバーラタ』の一節として上演されるが、実はジャワで創られた演目である。ジャワにイスラムを広めたワリ・ソンゴ(イスラム九聖人)はスーフィズムの系統で、布教にワヤン(影絵)や音楽などの芸能を積極的に利用したと言われる。『デワルチ』の物語は18世紀後半のスラカルタ宮廷詩人ヨソディプロI世の創作とされるが、このような土壌から生まれたと言える。
 
『デワルチ』の主人公はビマ(ジャワ語でビモ)である。『マハーバーラタ』は、王位継承に絡むコラワ一族の100王子とその従兄弟のパンダワ一族の5王子の対立を描く。ビマはパンダワの5王子の1人で、剛勇な人物である。ある日、ビモは師の命令で生命の水を求める旅に出る。実は、これはビマを倒そうとするコラワ側の奸計によるもの(ビマの師匠もそれにのせられた)だった。ビモは大海の底で大蛇と戦って死にそうになった時に、自分に似た小さい人物に出会う。それこそ彼自身の内なる神デワルチだった。ビマはデワルチから生命の真理を授けられ、再び師匠の許に戻る。…という物語で、神との合一、マクロ・コスモス(大宇宙、大自然)とミクロ・コスモス(小宇宙、人)の合一、…などのイスラムの教え、ジャワの教えがテーマになっていると言われる。

会場は平土間形式の四角い空間で、真ん中に影絵の幕を張ってその両側に観客席が設けられた。観客は自由に移動して見て良いとのことだった。ダラン(人形遣い兼語り)はジャワ人のナナン氏で、登場人物の会話は彼によって日本語で語られるが、複雑な状況説明は日本人のイルボン氏が講談のようにハリセンを打ちながら語る。ガムラン演奏はダルマブダヤで、そのメンバーの1人が箏も演奏した。ガムランの伝統曲もあるが、そのオリジナル曲、また箏(こと)のオリジナル曲が多い。このチームのワヤン公演を私は昨年2月にも見ているのだが(水牛2022年3月号記事「カルノ・タンディン(カルノの戦い)」を参照)、ジャワのようにシンデン(女性歌手)が華やかに競演するワヤンより、音楽と語り中心のこのスタイルの方が物語のテーマが際立つ気がする。

なお、演奏にはAl-Aliyinという団体(6,7人)も出演して歌を歌った。これは大阪を拠点とするNU(インドネシア最大のイスラム系組織:ナフダトゥル・ウラマー)のショラワタン団体で、日本在住のインドネシア人たちが参加している。ショラワタンはジャワのイスラム歌唱のことで、ルバナという片面太鼓を叩きながら歌う。ルバナはアラブ起源で、マレー系の国々でイスラムの祈りの音楽に使われる。ちなみに、この団体の人によるとNUのショラワタン・グループは現在日本に11あり、この大阪支部は9番目の設立だそうだ。

さて、今回の演出で印象的なのは第一に音楽構成である。ビマがデワルチに出会うまではインストルメンタルな曲できたのが、その後、歌が入ってガラッと雰囲気が変わるのだ。ビマがデワルチに出会う。音楽は箏がアラブ風のメロディを奏でる。ビマはデワルチに「私の耳から私の体内へと入りなさい」と命じられる。その体内に入ると、月と太陽が互いに引き合うように巡る幻想的な大宇宙がスクリーンに広がる。ここで音楽は『ロジョスウォロ Rajaswala』というガムラン伝統曲に変わり、演奏者が一斉にその歌を厳かに歌い出す。この歌い出しを聞いたとき、本当にぞわっと鳥肌が立った。それまでずっと歌がなかったから、人の声にものすごく力が感じられる。しかも、この曲の歌詞は「太陽、月、そして星」で始まり、「大宇宙」も含んで宇宙を構成する要素が歌い込まれているから、この場面と歌詞がぴったり合ってもいる。そのあと音楽はショラワタンになり、たくさんのビマが出て来てくるくると回る。この場面は、ビマが次第に神との一体感を感じていくことを表現しているとのこと。先ほどの月と太陽といい、回る動きにスーフィーの旋回舞踊が連想される。ルバナの音と男性ばかりの歌声には、さきほどの歌とは異なる高揚感がある。そのあとに静かに『イリル・イリル Ilir-Ilir』の歌が流れる。この歌はイスラム九聖人の1人スナン・カリジョゴが作った歌だとされていて、悟りを得て終焉に向かっていくような境地が感じられる。ナナン氏も、ビマの心の声「私はすでに感じることができる。私がどこから来て、どこへ向かうのかを」を表したとのこと。こんな風に、神との合一の境地に至る過程が音楽的段階的に表現されている。

第二に印象的だったのが、ビマがデワルチの体内に入るシーンの視覚表現だ。自分より小さい者の体内へ、しかもその耳の穴を通って入るという、言葉の上ではナンセンスでしかない現象をどのように影絵で表現するのか、全然見当がつかなかった。だが、ナナン氏は影絵というメディアをうまく使った。影絵では人形と光源との距離を調節することによって、スクリーンに映る人形の大きさを変えることができる。だから、ビマの影はどんどん小さくなり、逆に小さいデワルチの体の影はどんどん大きくなって、デワルチの耳穴の位置に小さくなったビマの影が重ねられることで、ビマがデワルチの耳から体内に入ったことが表現された。これは舞踊劇では到底できないやり方だなあと思う。

というわけで、忘れないうちに書き留めておく。

水牛的読書日記 2023年11月

アサノタカオ

11月某日 「パン屋に爆弾を落とすな」。兵庫・西宮で自家製酵母パン屋 ameen’s ovenを営むパン屋詩人ミシマショウジさんの詩を読み返している。これは2011年以降のシリア内戦を背景に書かれた作品だが、詩のことばは「パリに、ベイルートに……」と別の時間、別の場所に向けても呼びかけている。おそらくは、スペイン内戦中に焼夷弾で空爆がおこなわれたバスクの街、ゲルニカにも。そして現在、イスラエル軍の無差別攻撃によって戦火に包まれているパレスチナ・ガザ地区にも。

パン屋に爆弾を落とすな
パン屋を攻撃するな

そこには旧式の大きなオーブンがあり
そこには一週間ぶりに届いた小麦粉の袋があり
そこにはガタガタ音をたてて回るミキサーがあり
そこにはくろびかりした天板があり
そこには粗悪なイーストのブロックがあり
そこにはこねあげられたパン生地があり
そこには焼きあげられたパンがあり
そこにはパンを求めて駆けつけた人々がおり
そこにはパンを焼きあげる者たちの手があるのであって
機関銃を握る手があるのではない
そこはいのちの最前線であって
おまえたち戦争の最前線ではない
……

 ——ミシマショウジ「シリアのなんとか大統領へ」より

11月某日 東京の表参道アトリエで佐々琢哉さんの絵の展示「Pastel Journal 四万十の日々」を鑑賞。会場で佐々さんとおしゃべりし、刊行されたばかりのエッセイ集『TABIのお話会』と画集『暮らしの影』(TABI BOOKS)を入手。

11月某日 朝の東京・神保町のカフェで、キム・ウォニョンさんに会う。韓国の作家、ダンサー、弁護士で車いすユーザー。大阪・京都で障害者訪問介護事業を展開するNPOココペリ121のスタッフによるインタビューに同席した。知性も人柄も素晴らしく、すっかりファンになった。さすがダンサーで、目力や身振り手振りの表現の豊かさにも感嘆。インタビュー後、日本語を話すウォニョンさんとダンス談義になり、ピナ・バウシュなどの話を。いつかかれのダンス公演を生で観たい。

午後、神保町の日本出版クラブへ移動し、ノンフィクション作家の川内有緒さんとキム・ウォニョンさんの対談「車椅子で韓国からやってきたウォニョンさんと考える:「バリア」ってなんだ?」に家族とともに参加した。

《わたしたちの人生には、それぞれの未知なる荒野がある》。キム・ウォニョンさんは、川内さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)の韓国語版の一節を朗読。ここは、川内さんの本の中でぼくも好きな箇所だった。対談では、障害や病気のある人々など未知なる存在を、ことばを持つ障害や病気のない者が代弁するのではなく、そのような未知なる存在とかたわらにいる人々が共に語ることの大切さが話し合われた。川内さんの仕事はまさにそのようなものだろう。深くうなずいた。

11月某日 キム・ウォニョンさんとの出会いの余韻を反芻しながら、週末に著書の日本語版『希望ではなく欲望』(クオン)、『サイボーグになる』(岩波書店)を一気に読了。いずれも牧野美加さんの翻訳で、後者はSF作家キム・チョヨプとの共著。どちらの本にも学ぶことが多々あり、特に後者、『サイボーグ・フェミニズム』で知られるダナ・ハラウェイの思想を創造的かつ批判的に受け止める議論に目をみはった。

11月某日 引き続き、キム・ウォニョンさん『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(五十嵐真希訳、小学館)を読む。障害や病気のある人々の生は「不当な生」なのか、といった重く厳しい問いを突きつけられるが、読み応えのあるよい本だ。

11月某日 くぼたのぞみさん、斎藤真理子さんの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)、『翼 李箱作品集』(斎藤真理子訳、光文社古典新訳文庫)が届いた。キム・ソヨン詩集『数学者の朝』(姜信子訳、クオン)も、坂上香さん『根っからの悪人っているの?』(創元社)も。読むぞー!

11月某日 一昨日までは、近所の郵便局に行くぐらいであれば半袖半ズボンにビーチサンダルだったのに……。ビーサンをシューズボックスに片付け、ここ数日の急激な気候の変化に「寒い、寒い」と震えながら、翌日の二松学舎大学でのゲスト講義の資料を作成。大学にはちゃんとした靴を履いて行きます。

11月某日 二松学舎大学「文化とコミュニケーション」でゲスト講義。「本のある世界と本のない世界」と題して、編集者としての個人史を話した。「本のある世界」からの学びがあり、「本のない世界」からの学びがあった。寄り道が多い旅の人生なので話はあちこちに飛ぶ。それでも授業後に、「おもしろかったです」という学生が現れて一安心。大学時代に自分がもっとも影響を受け、30年間読み続けている一冊として紹介した文化人類学者の今福龍太先生の主著『クレオール主義』(青土社)を、その学生は読んでみたいと言ってくれた。うれしい。

講義後に、大学の近くの中華料理屋でひとり出版社・コトニ社の後藤享真君とおしゃべり。制作中の「異形の本」の話を楽しく聞いた。

11月某日 東京・上野にて、東京藝術大学大学美術館で開催中の「芸術未来研究場展」を鑑賞。同展の監修は学長で現代美術家の日比野克彦氏。瀬戸内海分校のコーナーで写真家・宮脇慎太郎君が島を撮影した大型のパノラマ写真が展示され、宮脇チームによるインスタレーション「島とタマシイ」(瀬戸内海歴史民俗資料館)の解説パネルも。サウダージ・ブックスから刊行したかれの写真集『霧の子供たち』『UWAKAI』を藝大図書館に寄贈した。

11月某日 明星大学で編集論の講義。「私の好きなものたち」をテーマにした個人ウェブサイト制作の講評。アイドルの推し活、ゲームの解説、サッカー観戦、アニメのコラボカフェやライブハウス巡りのレポートなど、どれもおもしろい。高野文子さんの漫画が好き、というシブい学生もいて「おお、趣味が合うな」と。この授業では今後、グループワークによるZINEの制作に進む。

夜、大学からの帰路、分倍河原駅前のマルジナリア書店へ寄り道。お店を営む小林えみさんの短編小説集『かみさまののみもの』(よはく舎)を購入。帰りの電車の中で読んだ。ミスドを舞台にした表題作がすばらしい。掌編「毛玉から南極へ」も。喪失と回復、遠く離れたものへの思いとその変化。とてもよい本だった。

神話や歴史上の女性をテーマにした後半の作品も大変読み応えがあった。とくに最後に置かれた小説「クリュムタイムネストラ」、ギリシア神話の女たちの迫力ある語りにぐっと引き込まれた。

11月某日 マルジナリア書店では、朱喜哲さん『バザールとクラブ』(よはく舎)も買ったのだった。哲学研究者である朱さんによる思想家リチャード・ローティの短い論文の翻訳と解説。あとがきを含めて60頁。軽やかな出版のスタイルが魅力的。ローティと文化人類学者クリフォード・ギアツの論争が主題となっている。海外の著者の短い小説や論文やエッセイ、1〜2篇の翻訳と解説だけをまとめた薄い本は、サウダージ・ブックスでも真似して出したいと思った。

後日、喫茶店で大学生の娘とおしゃべりした際、「この本、よかったよ」と『バザールとクラブ』を差し出したら、スマホで写真を撮ったりして興味を示すので渡してきた。父親の与太話を聞くより、実際に本を読んだほうがいい。

11月某日 キム・ウォニョンさんの『希望ではなく欲望』『サイボーグになる』『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』をすべて読み終えて、同時代のすばらしい思想家に出会えたことに深い感銘を受けている。翻訳者と出版社の皆様にも感謝。

障害者運動の歴史を踏まえ、「正当な生」と「不当な生」を分ける非障害者中心主義的な権力や制度を批判的に論じる視点から、もちろん多くを学んだ。一方でそれらに対し、当事者によるアイデンティティの政治ではなく、「差異」の思想を提示するところに共鳴した。どういうことか。「障害者だけが障害の問題や魅力について語り、論じることができるという立場」を相対化すること。個人の状況を特定のアイデンティティに還元することなく、「差異」や「交差性」「非一貫性」のもとに考えること。そこから障害者と非障害者の連立可能性を探ること。再読してさらに考えたい。キム・ウォニョンさんは小説も書いているというので、そちらも翻訳出版されるといいな。

11月某日 編集者・文筆家の仲俣暁生さんたちのイベント「軽出版のススメ」。高円寺パンディットでのトークの動画配信をアーカイブで視聴。そこで紹介されていた2冊の本、横山仁美さんの雨雲出版から刊行された南アフリカの作家ベッシー・ヘッドの作品集、小説家・藤谷治さんの『新刊小説の滅亡』(破船房、こちらは仲俣さんが主宰する出版レーベル)は年内に読みたい。

盛りだくさんの内容のトークの中では特に、「すべての本棚を図書館に」というモットーを掲げて本のサービスを提供する会社、リブライズの地藏真作さんの話に引き込まれた。地藏さんによる、ISBN(国際標準図書番号)とは別のオルタナティブな本のIDの提案は大変刺激的で可能性を感じたのだった。

サウダージ・ブックスは以前、ISBNを付した商業出版に踏み込んだものの、そこから離脱。ぼくらは地藏さんのように理路整然と考えていたわけではないが、ISBNという一元的な管理思想に依拠する流通システムとは別のフィールド、別のネットワークで、マイナーなスモールプレスとしてより遊動的に本をつくり、本を届ける活動をしたかったから、という理由が大きい。同時に書誌情報の伝達と共有はきちんとしたいと考えているので、「軽出版のススメ」での話には響くものがあった。

それとは別に。日本文学であれ海外文学であれ、いま商業出版の中で小説などの文芸書を刊行することってほんとうに難しいのだな、と思い知った。最近では大手出版社の文芸誌で作品が掲載・連載されても、書籍化されることなく、文芸誌の愛読者以外の読者の目に触れないまま埋もれることもある。数年前まで出版社で仕事をしていたので業界のこうした状況を知らないこともないのだが、現場からの生々しい報告を聞いて最近のさらに厳しい現実を突きつけられた。

11月某日 『現代詩手帖』2023年12月号のアンケート「今年の収穫」に寄稿。とくに印象に残った下記の5冊の詩集などを紹介。

高田怜央『SAPERE ROMANTIKA』(paper company)
管啓次郎『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社)
キャシー・ジェトニル=キジナー/一谷智子訳『開かれたかご』(みすず書房)
大木潤子『遠い庭』(思潮社)
佐峰存『雲の名前』(思潮社)

同誌の2023年代表詩選に、川満信一さん「胞衣に包まれた詩」が掲載。飯沢耕太郎さん、高良勉さん、管啓次郎さんの作品も。詩人・岸田将幸さんの表紙の写真がよい。これはどこの風景だろう。

11月某日 最寄りの本屋さん、神奈川・大船のポルベニールブックストアがオープンから5周年。おめでとうございます。お店に行って、森元斎『もう革命しかないもんね』(晶文社)を購入。店主の金野典彦さんから神奈川の最新書店情報を教えてもらった。

11月某日 東京・外苑前の Nine Gallery にて開催中、写真家の渋谷敦志さんの写真展「LIVING」(PHOTOGRAPHERS’ ETERNAL COLLECTION 展)を訪問。 CanonDream Labo5000出力の高精細プリントの美しさに驚いた。フォトジャーナリストとして世界各地の紛争や飢餓や児童労働、災害の現場を取材する渋谷さんと会場でゆっくりおしゃべり。戦争化する世界についていま何を考え、どのようなことばを発すればよいのか。人間を数珠つなぎにする集団性ではなく、それぞればらばらの単独性に立った連帯は可能なのだろうか。パレスチナ系アメリカ人の批評家エドワード・サイードのいう「冬の精神」を手掛かりにして、渋谷さんと対話を続けている。