しもた屋之噺(261)

杉山洋一

新山口駅脇のホテルで原稿を書きはじめました。薄く透明な青空に、絵に描いたような小さな雲がひとつ、目の前にこんもり突き出た、小さな山のすぐ隣に棚引いています。ときどき、2,3秒のうなるような風音を立てて新幹線が通過してゆき、そこから、あの可愛らしい雲が噴き出されたように沸き立つのが、そこはかなとなく微笑ましく感じられるのでした。

10月某日 ミラノ自宅
来週に迫ったアルバニア滞在の日程が二転三転している。こちらはともかく、企画をしている大使館のみなさんは、さぞ大変だろう。ハマスの攻撃にイスラエル猛反撃とのニュース。2014年、イスラエルとパレスチナの国歌で母の悲しみをうたう曲を書いた、あの時の無力感。ガザの爆撃で死亡した母親の胎内から取り出され、5日間人工保育器で生きた嬰児シマーを思う。誰が正しくて、何が正義か。そもそも正義など存在するのか。ウクライナ侵攻とイスラエル建国、西側の矛盾を見事についた攻撃ではあった。子供の頃、父親に将棋の相手をしてもらっていて、敵陣を詰めかけた途端、決まってぴしゃりと「王手飛車取り」と角を張られたのを思い出す。

10月某日 ミラノ自宅
7月に東京現音計画の演奏会で聴いた Dror Feiler の音。耳を塞ぎたくなる、生理的に嫌悪感すら覚える程の爆音が、どこまでも続く。聴き終わると、耳は飽和していて、奇妙な焦燥感が体内に残っているのに気づく。理解出来なかったし、好きな音響でもない。ただ、彼がその音を、発さずにはいられぬ必然と、そこに至る切迫感に、胸が一杯になった。
ファイラーの人となりを何も知らずに聴いたが、後で読んだ彼の経歴には、彼は1951年テルアビブ生まれで、ストックホルム「イスラエル・パレスチナ和平のためのユダヤ人(JIPF)」会長と書かれている。彼の母は、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区の移動健康管理センターに勤めていた。
ミラノ日本領事館より緊急メール。サンバビラ広場でパレスチナ支持集会が予定されていて危険であり、日本人学校のあるアルザーガ通り、グアステルラ通り、サンジミニャーノ通り付近は、ユダヤ人関連施設が多く警備強化とのこと。日本人学校の真向かいはユダヤ人学校で、以前からイタリア軍が厳重に警護していたが、現在はその比ではないのだろう。

10月某日 ミラノ自宅
一柳さんのための小品の題名を、「炯然独脱」とする。「慧眼」が最初に頭に浮かんで、「炯眼」から臨済義玄の「炯然独脱」。確かに、本條君から一柳さんと「禅」を意識した作曲を依頼されたが、「無」に拘り過ぎて音が未だ五線譜に載っていない。身体の裡には存在しているのだが。

10月某日 ミラノ自宅
ピラーティ「ピアノと弦楽のための組曲」を読む。時に生硬にすら感じられるほど、バロック的で生真面目な和声進行を、9度、11度、13度の和音で繋いでゆく。家人曰く、イタリア未来派的だと評したが、なるほど、堆くつみあげられた5個7個の和音は、未来派時代のファシズム建築の石柱のよう。言葉にするとフランス印象派のようだが、噎せるようなイタリアの匂いに満ちているのは、人懐っこい民謡調の旋律と、転回形を多用した滑らかな低音進行を敢えて避けているから。たとえばマリピエロが、絵画におけるデ・キリコのように、自らの未来派的特徴をより前衛的、進歩的に活かそうとしたのに対し、マリピエロよりずっと後年に生まれたピラーティは、出土した古代コリント風石柱をそのまま使って、古めかしく、温かい手触りの1925年の建築物を造った感じ。

10月某日 ティラナ ホテル
朝9時から夜7時半まで授業をやり、そのままマルペンサ空港に向かう。1年ぶりのアルバニア・ティラナの空港に降り立ったのは深夜1時。ホテルに着いたのは1時半。ミラノと比べ極端に暑い印象はなかったが、それは恐らく深夜だったからだろう。前日からティラナに入りしていた家人が、レストランから魚のグリルを取り寄せておいてくれたので、夜食を摂って就寝。9時間以上の授業の後の移動で困憊。

10月某日 ティラナ ホテル
アルバニア日本文化週間のため、アルバニア文化省から国立芸大でレッスンと演奏会を頼まれたのは良いが、首相が急遽芸大訪問を決めたため、日程が全て変更になった。3日間学生オーケストラと練習する予定は1日になり、1日学生オーケストラを使ってレッスンする予定は、キャンセルになった。大学を訪問すると、いきなり2時間ほど時間が空いたので、相談を聞いてくれという指揮学生とコーヒー片手に話し込む。オーケストラを振る機会は数えるほどしかなく、CDの録音に合わせて振ったり、指揮伴奏ピアノを使ってレッスンを受けなければならないのが不満だそうだ。基本的にロシア・メソードだから、それに則ったレパートリーを中心に、アルバニアの作品も学ぶ機会が多い。大学課程は1セメスターでロマン派交響曲を最低1曲は習得し、その他の作品を段階に応じて増やすのだと言う。
去年は、指揮の学生と指揮伴奏のピアニストの学生しか知る機会はなかったが、今年は弦楽オーケストラの学生とも関わるので興味深い。彼らが全体でどのレヴェルなのか分からないが、特に高くも低くもない。アルバニアの学生は決めた事を堅実に実行する習慣があるのか、自由闊達にやってほしいというと、最初は戸惑っていた。直線直角は得意だが、曲線や波線で輪郭をなぞるのに馴れていない印象を受ける。皆明るく素朴で、素敵な若者たちであった。

10月某日 ティラナ ホテル
17時からのドレスリハーサルのため大学に赴くと、アルバニア政府関係者がそっと近づいてきて、耳元で囁やいた。「これより、首相の奥さまが急遽学校見学にいらっしゃることになったので、申し訳ありません、20分ほど外で時間を潰してきていただけますか」。
なるほど保安上の理由から、学内は一時的に全館立入禁止になるようであった。ちょうどばらばらとオーケストラの学生たちが集まり始めたところで、理由を説明すると「ああ、うちの政府ときたら…」と絶句して、皆揃って落胆している。芸大の学長と現首相が懇意なので、しばしばわれわれ学生はこうして振り回されるんです、やり切れません、本来あるべきではないことでしょうが、と言われる。指揮の教授からも、政府の混乱に貴方がたを巻き込み申し訳ないとメッセージが届く。
アルバニア国立芸大は1920年代のイタリア統治時代に建てられた、端麗なファシズム建築で、入口のファサドの格子柄が美しい。入口は3階まで吹き抜けになった明るいアトリウムとなっていて、この建築物に1920年代30年代にレスピーギやピラーティが書いた作品が響くと、不思議なくらい溶け込むのだった。
家人が、平尾貴四男の「春麗」や、三善先生の「夕焼小焼」を大学教授陣と演奏するのを聴き、なんの先入観もてらいもなく取組んだ、純粋で情熱的な演奏に感銘を受ける。家人と「夕焼小焼」を弾いたメリタがこの曲をすっかり気に入っていて、メリタはまるでラフマニノフのように弾く、と家人はいたく感心していた。

10月某日 ティラナ ホテル
サラと息子による、ミラノ「ヴェルディの家」での室内楽演奏会。こちらはアルバニアで演奏会を聴けないので、サラの両親からヴィデオが送られてきた。シューマン、カスティリオーニ、ヤナーチェク、ブラームス3番というプログラム。サラも息子も本当に成長したと瞠目する。サラは、11月からボローニャのテアトロ・コムナーレで仕事を始める。実に伸びやかで豊かな音楽を奏でるようになった。その演奏もそれぞれ素晴らしいと感じたが、ヤナーチェクは愕くほど深く、大胆にこちらの胸を抉る瞬間が何度もあった。それまでは、二人とも慎重に表現する印象を持っていたから、これは本当に意外な喜びでもあった。

10月某日 ティラナ ホテル
二日間の指揮レッスンを終えて。皆とても真面目で、よく勉強していて好印象である。指揮のメソードが違うので、技術や解釈には一切注文は付けなかった。それぞれ、自由に自分が表現したいことを、目の前の音楽家と一緒に彼らの音を使って、その場で作りあげるように頼む。
予め決めてきたことを、頭の中で音を鳴らしながら目の前の架空のオーケストラに向かって振るのではなく、最初の一音を、どんな質感、どんなキャラクターで始めたいかだけを決めたら、そのアウフタクトに必要な情報を全て籠めるように集中し、そこから先は目の前のピアニストの眼を見て音を聴き、彼らとその場で作るのを愉しむように話すと、一様に最初はぎょっとした表情をするのが印象的であった。
これは、弦楽オーケストラの学生たちへ注文をつけた内容と基本的に一致している。皆が揃って「そんなことしていいんですか」という表情をするので、こちらは内心、いけない琴線に触れたかしらと危惧したが、その後すっかり表情も変わって感謝もされたので、何か感じるものはあったのだろう。それで良かったかどうか、正直わからないけれども。
作曲も指揮も、自分が望む表現を自由に実現できなければ成立しない。作曲指揮のみならず、演奏、芸術、表現全般において、他人に押し付けられた表現の再生産では、おそらく最終的には成立し得ない。そして、将来的には人工知能で事足りるのではないか。一方的に指揮者に強制された演奏を続けるオーケストラも、きっとどこかで破綻する。
ひいては我々の人生における選択の一つ一つも、他者から提案された選択の可能性であれ、最終的に自発的、自主的に決定した内容でなければ何時か破綻するのかもしれない。
明朝3時半、ホテルに空港行きのタクシーが迎えにくる。

10月某日 ミラノ自宅
早朝リスに胡桃をやり、朝8時から山田剛史さんのピアノコンサート配信で、「君が微笑めば」の演奏をみた。家人曰く、山田さんが未だ7歳か8歳のころ、家人がソアレス先生に山田さんを紹介したばかりにピアニストになってしまった、と今も彼のお母様に笑われるらしい。
一週間前、高校、大学と作曲の同期だった星谷君のお父様と電話で話した。何十年かぶりだったが、大学時代の名簿にある電話番号にかけてみると、そのまま使われていた。
お父様の声は昔と全く変わっていなかった。「足の調子がちょっとね、だからなかなか遠出できなくなってしまって」と笑っていらしたけれど、お母様は数年前にお亡くなりになっていた。「今は目の前で伸太郎の隣に並んでいるよ」と伺い、お電話を差上げたことを深く後悔した。
衝動的についお父様に電話しようと思い立ち、一度は躊躇ったけれど、これもきっと伸太郎君の気持ちではないかしらと、つい、お電話してしまった。或いは正しかったのかも知れないし、とんでもない間違いをしたのかも知れない。

閑話休題。山田さんは、「君が微笑めば」を弾きだした瞬間、音が綺羅星のように耀くのをみる。30光年遥か向こうで、微かにやっと明滅を認めるばかりの自らの姿。アルテル・エゴ(分身)ほどの身近な感覚もなく、ただ遠過去の一点に置き去りにした、意識の一部のようなもの。
ただ、当時全く気付いていなかったが、冒頭のモティーフは、毎日こうしてミラノで聴いている教会の鐘の音そのものであった。あれは旋律ではなく、朝陽が乱反射する、強烈な郷愁を誘うような山田さんの音のように、高い鐘楼に並んだ鐘が、澄んだ朝、偶然紡ぎだす旋律そのものであった。
まるで、ソラーリ通りを下った先、デル・ロザリオ広場の教会の鐘にそっくりじゃないか、そう自分の裡の誰かが呟くのを聴いて、30年前の自分が覗いていた、現在の自分に気づく。
理由はわからないが、聴きながら何度か目頭が熱くなり、演奏を聴き終えて、ちょっとうまく言葉が発せなかった。隣の家人に向かって何か言おうとすると、喉が詰まって涙が零れそうになるので、困ってしまった。こんなことは初めてで、すっかり当惑してしまった。
少なくとも、自作に感動したのではない。山田さんが無心で奏でる音は純粋に胸を穿ち、電話口の向こうで、少し言葉につまっていた星谷君のお父様の声が聴こえ、30年後の自分に向かって語りかける、若々しい自分の声と言葉に愕き、彼が亡くなって、同期の皆が集い彼の遺作CDを作った時のことを、ほんの少し、思い出したからかもしれない。よくわからない。

10月某日 三軒茶屋自宅
The Palestinian people have been subjected to 56 years of suffocating occupation(56年間占領下の息のつまるような56年に曝されてきたパレスチナ人)。グテーレス国連事務総長のこの言葉の意味は大きい。
単に自分は戦争に対して慄いているだけだろうか。今回ばかりはイスラエルもアメリカもイギリスも、大きな過ちを犯したのかもしれない。そう考えると、ふと怖くなる。
これから1世紀後、地球上の経済勢力図は、当然現在と全く違ったものになっているとして、今回のSNS時代におけるイスラエルのガザ爆撃は、もしかすると欧米諸国の衰退、崩壊の具体的要因になりかねない危機かもしれない。そうならないよう切に願う。
小学生の終わりだったか、既に中学生だったか、渋谷ユーロスペースで見た「水牛楽団」コンサートが、最初ではなかったか。「パレスチナのこどものかみさまへの手紙」で、美恵さんが薄く大きなタイコを叩いていて、悠治さんがトイピアノを弾いていたように記憶している。或いは違っていたかもしれないが。
狭い会場はぎゅうぎゅう詰めで、今にして思えば、一体どんな聴衆が集まっていたのか。周りの殆どは自分より年上だったが、自分を含めわれわれは何を感じ、何を期待していたのか。何かを共有しようとする熱気のようなものを、朧気に覚えているのだけれど、何を求めていたのだろう。
ただ、軽快な音楽に皆で一緒に身体を揺らして聴き入っていたわけではないと思う。幼かった自分ですら、よくわからないが、そうではない何か、を薄く理解していた。

10月某日 新山口 ホテル
最終便で22時半、宇部空港に降り立つと、得も言われぬ感激におそわれる。コロナ禍前、毎夏秋吉台を訪れていた頃が、ただ無性に懐かしい。ホテル脇のコンビニエンスストアで弁当を買って夕食にする。弁当には白米が入っていない。レジで少量、普通、大盛を指定してその場で詰めてもらう。気のせいか、山口は白米好きな人が多いような気がする。
町田の母から、今月二輪目の月下美人の写真が送られてきた。前回を上回る大輪である。最近、彼女はまたピアノを触っているという。簡単なバッハの楽曲など、指に負担のかからないものを弾くのは、時間も忘れるほどの愉しみらしい。確かに、バッハなど、頭の中で絡みついた蔓やら、さび付いた扉など、少しずつていねいに解して、磨いてくれるような気がする。

10月某日 新山口 ホテル
駅前で田中照通先生と再会。お元気そうで嬉しい。タクシーに同乗して芸術村へ向かう。その道すがら眺める、美祢の風景が心を打つ。
今までは青々とした真夏の美祢しか知らなかったが、今目の前に広がっているのは、秋めいた黄金色の姿である。とても暑い場所だとばかり思いこんでいたが、この時期、気温はあまり東京と変わらずひんやり涼しい。冬になれば、時に雪すらも積もると聞いた。
田中照通先生の作曲による、山口の誇る画家香月泰男の手記に基づく70分ほどのオラトリオを、山口交響楽団、美祢の合唱団さくらなど、自分以外全員、山口県の皆さんと一緒に、芸術村開村25周年を記念して演奏することになった。演奏者、関係者は皆明るく、本当に気持ちの良い人々ばかりである。
香月は、1945年から47年までの悲惨なシベリア抑留体験を、克明に描いた「シベリア・シリーズ」で知られる。彼が1945年最初に収容されたセーヤ収容所は、奇しくも、今まで演奏会のために2回訪れたことのある、クラスノヤルスク郊外にあった。それを知った時には、少し信じたくない気持ちにすらなった。
クラスノヤルスクで会った人々は、皆心温かい人々であった。街並みは美しく、料理はとても美味しかった。クラスノヤルスクで食べた、ウーハの魚スープが忘れられず、今も家人が真似して作ってくれる。ホテルの前を流れる雄大なエニセイ川は神秘的な水面を湛えていて、毎朝立ち昇る水煙に噎せるのをみた。
収容された旧関東軍俘虜1万人の1割が、栄養失調と過労で死亡したと言われるセーヤ収容所は、演奏会をした国立オペラ劇場裏からレーニン通りを4キロほど下った、シベリア鉄道クラスノヤルスク駅の鉄路を少し北へ進んだ辺りにあったようだ。その情報が正しければ、現在は色とりどりの背の低いガレージが並ぶあたりだろう。
クラスノヤルスクを訪れた時、日本人墓地へ連れて行って欲しいと頼んだことがあったが、ここからは少し遠くて行きにくいんです、とやんわり断られたのを思い出した。日本人墓地は、収容所からずっと山の方向、西へ下った、広大な墓地の一番奥の一角にあって、香月の戦友たちは今もここに眠る。
照通先生のオラトリオは、苛烈な香月のテキストを、時には調性を浮き立たせながら、音列と音程操作を用いて淡々と書き進められ、余分な情感を排した精緻で透徹な筆致が、むしろ悲しみを際立たせている。
「意図せずとも、ずいぶん現在の地球の世情を反映した上演となってしまいましたね」、そう照通先生に話しかけると、「平和は、元来戦争と戦争の谷間に許された、ほんの一時の休息でしかない、そう読んだことがあります。悲しいかな、人間は古来、戦争をしている時代が普通なのだそうです」。

(10月31日 新山口にて)

「渾沌」の歌

越川道夫

今年の金木犀は、香ったと思うとすぐに満開になり、満開になったと思ったら強い風に散ってしまった。昨年はひと月ほど早く咲き始め、散った後もまた蕾を膨らませて二度咲いたように記憶している。今年の金木犀はとても儚い。もう少し長くあの花の香りが町中に香るのを楽しんでいたかった気がする。
 
金木犀がどこからか香る季節になると思い出すことがある。小学校の頃、ということは今から50年近く昔のことになるが、学校で急に高熱を出し搬送されたことがある。原因は分からない、風邪気味だったわけでもなく、それまではピンピンしていたのだから周囲の人たちは皆首を傾げていた。熱を出した当人は、もちろんそれどころではない。しかし、子供の急な発熱など珍しくもないのだから、と思っている父に、母が、まるで取り乱したように訴え出したと言う。うちの玄関の脇に柘植の木と金木犀の木が植えられている。その強い柘植の枝が伸びて金木犀の木に当たって傷つけている。金木犀は、あの子の木だから、それで急に熱を出したのだ、と。早く金木犀を傷つけている柘植の枝を払ってくれ、切ってくれ、と母は何度も譫言のように繰り返したという。
 
家の玄関の脇には確か柘植と、その隣に金木犀が植えられていて、確かに柘植の枝が伸びて金木犀に当たっている。しかし、その二つの木は庭を作ってくれた庭師がただ植えてくれたもので、金木犀は「あの子の木」というような謂れがあって植えたわけではない。ただ母があまりに憑かれたように懇願するので、訳がわからないながら父は彼女の言う通りに、柘植の枝を払った。すると、私の高熱はすぐ下がったのだ。母がそのようなことを譫言のように言い出したのは、後にも先にもそれきりである。私の熱が下がってしまえば、そう言った母自身も、そんなこと言いましたっけ、くらいの勢いでけろりとしている。金木犀が母に憑いて、自分を傷つけている柘植の枝を切らせたか。よく分からないが、それ以来、うちでは「金木犀」は「私の木」ということになった。あれから随分と時間が経って、父も母も老いたが、金木犀はまだ玄関の横にあって秋になれば花をつけ、周囲にあの花の香りを漂わせている。柘植の木は、もうない。
 
この秋は、ずっと石川淳の短編小説ばかりを読んでいた。読んだからどうするということでもないのだが、何か今読まねばならないような気がしたのだ。何度目かの再読である。「佳人」から始まり、「普賢」「山桜」「葦手」「雅歌」「処女懐胎」と、とにかく思いつくままに読みたいものを次々と読んでいく。小説でも映画でも面白いもので、若い頃に読んだ時はもちろん、ちょっと前に読んだ時とも感触が違う。今回は、まるで水が染み通るように石川淳の小説は私の中に入ってきた。さらに「鷹」「秘仏」と読み続けて、「紫苑物語」を読み終えた時、深いため息が体の中から出た。「紫苑物語」は、もはや「小説」でも「物語」でもないのではないか、と思ったのだ。この一編を批評する言葉を私は持たない。「小説」でも「物語」でもないとすれば、それは何だ、と問われれば、強いて言えば、それは「歌」だと答えるかもしれない。平安の頃の話だろうか、歌道の家に生まれた宗頼は、歌道を否定し弓に憑かれるが、狩りをしても何をしても森羅万象に対して自分の中に、それは自らに禁じた「長歌短歌のたぐひのもの」とは違うにいても「いかなる方式も定形も知らないやうな歌が體内に湧きひろが」っていると悟るや、それも否定する。弓で命を奪うことは、具体的なことである。「死」は「死」であり、「殺」は「殺」である。宗頼は弓で命を奪い続け、その體内に湧き広がる「歌」を殺す。血が流れた跡に、「わすれさせぬ草」である紫苑を植える。宗頼の「殺の矢」に命を奪われたものたちの夥しい血を吸った地面には、夥しい数の紫苑が植えられる。そしてついに「救い」をも宗頼は殺し、自らも谷底深くに落ちて死ぬだけでなく、愚かな一族郎党もすべて滅ぼしてしまう。人が絶えた後に残ったのは、「紫苑の茂み」である。そして、風雨を受けて、「そこに歌を發した」。愚かな人間が去った後に残ったのは「紫苑の茂み」と「歌」である。
 
「紫苑物語」は、その最後に残った「歌」を「鬼の歌」と呼ぶが、読み終えて「鬼」とは別のものを思った。中国の古い神話に「渾沌」という怪物がいる。神かもしれない。諸説あるが、「渾沌」は、目、鼻、耳、口など七孔がなく、手厚くもてなしてくれた「渾沌」の恩に服いるために七孔を「渾沌」にあけたら、「渾沌」は死んでしまったという。脚が六本と四枚の翼。腹はあるが五臓がなく、徳のある人がいると、出かけて行ってぶつかり、凶悪な人がいると、近づいていって擦り寄る。いつも自分の尻尾を咥えてくるくると回り、天を仰いで笑っている、という。この「小説」は、「渾沌」が歌った「歌」ではないかと思ったのだ。目も口も耳もない「渾沌」は、どんな「歌」を歌うだろうか。「渾沌」は歌うだろうか。

日記

植松眞人

 二十歳の秋に日記を付け始めた。その日記はいま実家の押し入れの段ボールに詰め込まれているので、日付まではわからない。けれど、日記を付け始めたときのことはよく覚えているのだ。
 確かNHKのテレビ放送で南方熊楠が取りあげられていて、そこに熊楠が綿密に書き込んだ日記のようなものが映し出された。筆で書かれたのか踊るような文字で、草木のことが書き込まれ、その横には隙間を埋めるようにビッシリと草木の絵が描かれていた。それを見た瞬間に胸を打たれてしまい、書こう、今日から日記を書かなければと思い立ったのだ。
 それが二十歳の秋だったということを覚えているのには理由がある。高野悦子の『二十歳の原点』を二十歳の間に読まなければと読んだ記憶があるからだ。高野悦子の日記を読んでも日記を書こうと思わなかったのに、なぜ熊楠の日記を読んでせき立てられるように日記を書こうと思ったのか。なぜだろうと確かに考えていたので、私が日記を書き始めたのは二十歳に違いない。さらに、思い立ってすぐに駅前の文房具屋に行ったのに、今すぐ使い始められる日記帳がなかったのだ。日付を自分で書き込めるタイプのものがなく、日付の入ったものも翌年の一月からスタートするものしかなかったのだ。私は文房具屋のおばさんに「途中からでも書きたいので、今年の日記帳はないですか」と聞いた。すると、おばさんは「もう十月だからねえ」と言ったのだ。
 夕方のテレビを見て、日記を書くことを思い立って駅前の文房具屋まで自転車を走らせた半日のことを四十年経っても私は覚えている。私が日記を付け始めたのは二十歳の秋、十月なのである。
 私はもう四十年も日記を付けているのか。しかし、あの日、私にそう思わせた熊楠のような日記は書いた試しがない。途中で堂々と何ヶ月もサボったりしながら、なんとか書き継いできたのは日記と言うよりもメモに近いもので、最初のうちは一年分の日付が振られた、いわゆるダイアリー手帳のようなものを使っていたのだけれど、途中からは普通のA5版のツバメノートを使っている。予定は書かず、だいたい一日の終わりにその日の出来事を書くのだ。二十代から四十代くらいは自分でも感心するくらいによく働いたので、一日を記録するだけで数ページにわたって書き込むこともあった。
 ところがである。ないのだ。書くことが…。仕事のことを書こうとしても、集中力がないから一日にそんなにたくさんの仕事をすることができない。結局、日記に書くのは、息も絶え絶えな仕事の欠片のような記述ばかり。
「午前中、電話で三十分ほど打ち合わせ」
「頼まれていたウエブサイトのコピーを半分ほど」
 これだけ書いて、まだ三分の二ほどが白紙のままのノートをぼんやり見ているのだ。そして、白紙を埋めようと、「昼は大島屋で鴨南蛮」と書いてみたり、「コンビニでガリガリ君」と書いてみたり。
 もう今となっては、である。明日書くことは今のところ何にもない。明後日は仕事の打ち合わせがあるのだけれど、明日は何もない。何もないけれど、白紙のままにしてしまうと、おそらく明日を境に日記は書かないことになるという予感がする。そうならないようにするためには、何か書かなければならないのである。何かを記録するために日記があるのか、日記を続けるために何かをするのか。そんなことをぼんやり考えていると、歳を取るということがほんの少し見えた気がするのだった。そして、まだ二十代の娘が昨日買ってきたという来年の手帳は次に私が使う新品のツバメノートよりもなんとなくピカピカとして見えるのだ。絶対に気のせいだけれど。(了)

むもーままめ(33)花占い 2023年6月24日

工藤あかね

漠然と囚われの身になりて
規則正しき怠惰の日々
外から圧され内から軋む
深海にて耐うる潜水艇のごとく

萎れかけた一輪の花に雫を落とし
哀れな希みを託してみようか
甦れ、甦れと

斃れたならば眼に
滲んだその姿を刻みつけよ
我が身代わりの花びらを

柿の木の杖

北村周一

隣りの家には、それは立派な一本の柿の木があった。
南に面した広い庭の西の片すみにその柿の木は植えてあった。
柿の木の種類は次郎柿であったかと思われる。
最初のうちはまだおさな木でなかなか実をつけなかったが、
4、5年してすこしずつ結実するようになった。

隣家の主人はまことに几帳面な男だった。
夏の盛りには朝に晩に水遣りを欠かさなかった。
菜種の油粕も肥料として丹念に撒いていた。
そのかいあってだんだんに収穫量は増えていった。

たくさん穫れたときにはわが家にもお裾分けをいただくことがあった。
甘くて噛むほどに味わいの増すおいしい柿だった。
なんでもチョウジュロー(長寿郎)という品種名がついているらしく、
見るからにとても品のいい甘柿だった。

毎年11月になると、東京に暮らす息子さん一家にも食べてもらおうと、
長寿郎を箱詰めにして送ることを楽しみにしていた。
そんなある日、あんなに見事な柿の木が根元から伐られてなくなっていた。
何があったのだろう。
柿の木に虫でもついたのだろうか。
ほかの庭木に影響が出ないように、手を打ったのかもしれない。
でもそれにしても・・・。

後からわかったのだけれど、どうやら息子さん夫婦からの一言が原因だったようだ。
隣家の主人はほんとうに几帳面な男だった。
しかしながら、それゆえかどうかたまにキレることもあった。
お隣りから、怒鳴り散らす声や、物を壊す音が聞こえてきたりもした。
夫婦仲も決していい状態ではなかった。
あんなに丹精込めて育てていた柿の木を、文字通り一刀両断のもとに無きものにしてしまうなんて。

それから数年して隣家の主人は亡くなった。
母屋を解体するというので、それならと近所のみんなで手分けして、庭の草木を分けてもらうことになった。
物置小屋も片付けていたら、妙に細くて長い杖のようなものが見つかった。
あの柿の木の幹を削りに削ってつくった杖であることが、後でわかった。

KODAMA AND THE DUB STATION BAND のこと

若松恵子

仕事終わりに、KODAMA AND THE DUB STATION BAND(こだま アンド ザ ダブ ステーション バンド)のライブに出かけている。バンドのホームグランドである立川の小さなライブハウス、AAカンパニーで、大人のライブは仕事が終わった後に行けるように20時から始まる。平日の夜に出かけて行くのをどうしようかと毎回迷うのだけれど、こだま和文のトランペットの音を聞いた途端、やっぱり出かけてきて良かったと、毎回思うのだ。

ジャマイカのレゲエ歌手、マックス・ロメオが来日した時に、西新宿の高層ビルでライブが開かれた。ディスクユニオンで配布されていたタダ券をもらって出かけたライブの前座に登場したのがミュートビートだった。高層ビルの谷間の広場の階段に座って、何の期待もなく聴いた、こだま和文のトランペットの音に魅了された。1985年、高層ビルも新しかった40年も昔の話だ。

今もなお、彼のトランペットの第一声を受け止めた途端に感じるものは、あの時と同じだ。息が奏でる音楽には、歌と同じようにその人の人柄がそのまま聞こえる。そして、彼が選んだレゲエは抵抗の音楽なのだ。自分を、人間を抑圧してくるものに対する抵抗。負けない気持ち。それはダブステーションバンドのサウンドになって私を励ます。

2015年からのバンドメンバーは、こだま和文(Tp/Vo)、HAKASE-SUN(Key)、森俊也(Dr)、コウチ(B)、AKIHIRO(G)、そして2018年にトロンボーンを吹く歌姫ARIWAが加わった。ベースのコウチが「僕自身、こだまさんと演奏できることが本当にうれしい」とライブで語っていた。演奏すること自体が、まず、メンバーの喜びであり、それが伝わってくるライブなのだ。

コロナが来て自由にライブが開けなくなった時も、検温をして、換気のための休憩をはさんでライブは続けられた。今、戦争が2つも起こって、やりきれない気持ちのなかでも、あきらめないでまっすぐに立って音楽を、こういう時にこそと選ばれた曲が演奏されてきた。こだま和文も、トランペットを吹くように歌をうたう事が増えた。じゃがたらの江戸アケミが残した「タンゴ」を今の時代に歌い継いでいる。

10月4日に、最新アルバム『cover曲集 ともしび』がリリースされた。
「花はどこへ行った」、「Is This Love」、「FLY ME TO THE MOON」、「MOON RIVER」、「WHAT A WONDERFUL WORLD」ライブで演奏されてきた珠玉のカバー曲が収録されている。もちろん「タンゴ」も。ミュートビート時代の「EVERYDAY」も再演されていて、青空に突き抜けるような、清々しいトランペットを聴くことができる。

10月25日には、渋谷のライブハウスWWWで単独ライブが行われた。昔シネマライズという映画館だったところだ。久しぶりの渋谷でのライブにはお客さんがたくさん集まっていて嬉しかった。昔からのこだまさんのファンが集まったのだと思う。

「人の営みは毎日繰り替えせど、一時として同じ日常はない。いわば「日常のヴァージョン」を繰り返す。『cover曲集 ともしび』は、「日常のヴァージョン」に寄り添う力強いサウンドトラックだ。個人の様々な記憶とともにある楽曲の旋律で、まさに「日常のヴァージョン」を“ともしび”として彩り、新たなヴァージョンを作り出していく。おそらくそれは、この先もずっとこの音楽に触れる者にもたらされる「灯」であろう」

そのライブのお知らせのチラシに、河村祐介が書いていて、その通りだと思った。

ジャワ舞踊のレパートリー(3)自作振付

冨岡三智

先月に続き、今回は自作の紹介。振付は2回目の留学時(2000~2003、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校)から始めた。男性優形舞踊を師事していたパマルディ氏に振付も師事している。

●「妙寂 Asmaradana Eling-Eling」
単独舞踊。初演:2001年7月、サンガル・ヌグリ・スケットにて。音楽は故マルトパングラウィット氏(スラカルタ王家の音楽家で、芸術大学でガムラン教育に携わった)の曲「アスモロドノ・エリンエリン」。この作品は亡き妹を描いているのだけれど、クレネンガン(演奏会)でこの曲を聞いた瞬間に舞踊作品にしたいと思いついて、ずっと心の中で温めていた。その時にたまたま録音していたので、のちに録音を舞踊作品で使いたいと主催者に許可をもらいに行ったのだけれど、私が作品について説明する前に、「じゃあ、亡き人をテーマにした舞踊曲を作るのね?」と尋ねられて驚く。聞けば、マルトパングラウィット氏自身が亡き子(確か)をしのんで作った曲らしい。マルトパングラウィットの楽曲集にはそんなことは書いていなかったので、その後、芸大の先生にも再度確認したのだけれど、やはり同じことを言っていた。解説がなくても、曲だけでも思いは伝わるものなのだ…とあらためて音楽の力に驚く。この作品は合掌に始まり合掌に終わるのだが、入退場をどうしようかと考えて、モチョパット(詩の朗詠)でアスモロドノの詩を芸大の女性の先生に歌ってもらい、それに自分で録音した虫の声をかぶせた。

●「陰陽 ON-YO」
ドゥエット。ただし、ドゥエットで踊ったのは初演時だけで、あとは単独で踊っている。初演:2002年12月31日、中部ジャワ州立芸術センター(TBS)にて。音楽は芸大の舞踊スタジオ所属で舞踊音楽を多く手掛けるデデ・ワハユディ氏に委嘱。宇宙が混沌から分離生成し消滅するまでの過程、人の生から死までの過程、神人合一の過程などのイメージを重ね合わせている。冒頭では古事記のイザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みのシーンのテキストをモチョパット風に朗詠。このあとガドゥン・ムラティ~アンジャンマスと古典曲とつなぎ、クマナの音が響いてペロッグ音階のブダヤン歌(斉唱)となる。途中で転調してスレンドロ音階になり、かつフル編成ガムランの伴奏になって歌が続く。デデ氏が作曲した曲は歌いやすく、メロディも覚えやすく、音楽の方から動きをのせてくれるような感じだ。伝統舞踊に使われる曲はわりと限られるのだが、それはたぶん、こういう要素を兼ね備えた曲は限られるからだと思う。

私が「陰陽」を初演する数か月前に、デデ氏が音楽を手掛けた舞踊劇の中で「陰陽」の最後に使う曲がペロッグ音階で使われた。また、2003年頃に芸大教員のダルヨ氏が振り付けた舞踊「スリカンディ×ビスモ」(音楽はデデ氏)の中でもその最後の曲が同じスレンドロ音階で使われていた。ダルヨ氏の作品はたぶん私が帰国後に振り付けられたもので、私は長らくその存在を知らなかったのだが、コロナ禍の時にyoutubeで見つけてびっくりした。たぶん、デデ氏にとっても会心の作で、何度も使いたくなる曲なのだろうと思う。

●「すれ合う伝統」/「Water Stone」
ドゥエット。現代舞踊家・藤原理恵子さんとの共同作品。初演:2005年8月、リアウ現代舞踊見本市(インドネシア)にて。音楽は七ツ矢博資氏の1999年の作品で、ピアノとガムラン楽器を使う。初演時は舞踊作品のタイトルを「Water Stone」としたが、楽曲の原題は「すれ合う伝統 ~インドネシアにて思う~」。この作品については2021年8月号の『水牛』で「すれ合う伝統」と題して書いているので、そちらをご覧いただきたい。

●「Nut Karsaning Widhi」
単独舞踊。初演は2011年9月、バンドンの国営ラジオ放送で開催されたブディ・ダヤというジャワ神秘主義実践者たちの集まりにて。音楽は芸大教員のワルヨ・サストロ・スカルノ氏。このイベントで上演するために委嘱した曲で、心の鍛錬がテーマ。何度か上演したけれど、実は振付は決めていないので、毎度踊るたびに考える。ワルヨ氏の専門は歌で、デデ氏とは違うスタンスで作曲してくれることを期待して委嘱。この曲を依頼したのは調査でジョグジャカルタに住んでいる時で、コンセプトは伝えたけれど、録音以前に細かいやり取りはしなかった。しかし、録音の際に旋律やらテンポやらについてその場でさまざまなリクエストをし、それに対してワルヨ氏からも「それなら、これはどうだ?」と、丁々発止のやりとりがあって、ものすごく勉強になったなあと思う。踊る時より録音の方が楽しかった気がする(笑)。

狂った季節 ガザとヒロシマ

さとうまき

今年の夏は暑かった。庭の木が伸び放題になってしまっていた。とうとう二階の屋根まで達していた。隣人に迷惑をかけまいと春先にある程度の剪定はしたはずだった。しかし、ものすごい勢いで枝が伸びている。隣の家の柿の木も同じように伸びていたからこの気候変動の影響なのだろう。生垣のつつじですらまるで違う食物のように枝が伸びだしている。剪定しなければとは思いつつもあまりの暑さにそのままになっていたのだがさすがに隣人から苦情が来た。
「お宅の枝が伸びていて、落ち葉が落ちると雨どいに詰まるから、何とかしてくれないと困るんだよ」
申し訳ないという気持ちと、隣人との共存のためにひたすら頭を下げるしかなかった。

イスラエルのガザ攻撃がはじまって2週間がたっていた。イスラエルに自衛権はある。しかし、ガザの子どもを3000人殺す権利はない。パレスチナにかかわっている友人たちも精神的に疲弊している。僕はほとんど気力をなくしていたが、重い腰を上げざるを得ず、そのためにもパレスチナを象徴する白黒のカフィーヤを頭に巻いて、右手にはチェーンソーを持ち、行く手を阻む木々を倒していった。「伸びきった枝を切るのか、根こそぎ切り倒すのか」ともかく僕は格闘しなければならなかった。生きるために。

25年前、エルサレムのヘブライ大学のトルーマン研究所に行った時に、トルーマン大統領の功績を示した写真パネルが飾られていた。イスラエルという国を真っ先に承認したことにならび、原爆投下の写真が飾ってあった。「広島、長崎に原爆を投下したことで、戦争を終わらせ、多くのアメリカ人の命を守った」というようなことが書かれていた。そこには、ヒバクシャや死んでしまった20万人の人々のことは一言も触れられていなかった。我々日本人は原爆のことをしっかりと伝えていかないといけないと思い、原爆写真展と映画上映、パレスチナの子どもたちと創作ダンスや朗読会などを3年間やった。イスラエルの子どもたちをどう巻き込むかが次の課題だったが、2002年にイスラエルを追放され、僕の仕事はそこで終わってしまった。

2012年、ギラッド・シャロンは「イスラエルは、ガザを更地にしなければいけない。アメリカは広島で日本は降伏しなかったから、長崎でも原爆を投下したように」と言っていた。今回のガザ攻撃では、イスラエルは原爆を使わなくてもそれに近い破壊をする覚悟がある。

この夏、僕はイスラエル人の若者を広島に連れて行った。広島に行く予算はないと言われたし、広島は暑い。それでも何とか説得した。広島を見た若者たちが、シャロンのように思うか、「ノーモア、ヒロシマ」を叫ぶのか、真価が問われている。

ガザの解説はこちら
https://youtu.be/wCqT81pt6wo

話の話 第8話:まぎらわしい

戸田昌子

最近、近所に小さな古書店ができた。車がめったに入ってこない路地裏の散策路であるためか、子ども向けの絵本が入り口に置いてあって、奥には読み物が置かれている。入り口のラックには、ここ数日間「うきわねこ」という絵本が面陳されている。わたしはそれを見るたび「うわきねこ」と空目してしまう。もしかしたら著者はこの空目をむしろ期待して、こんなまぎらわしいタイトルをつけたのではなかろうか、と疑ってしまうほどに、毎度、空目してしまう。もうすでに5回目である。この空目は、たとえば「このどろぼう猫!」という慣用句にあるように、奔放だったり、ふらっといなくなったりするような猫のイメージのせいではないだろうか。それとも、空目してしまうわたしのほうが、もしかして浮気性なのだろうか。そんなことをいちいち考えさせられ、かつ自分を反省してしまうような迷惑な面陳なので、早く売れてほしいと切に願っている。それとも私が買ってしまえばいいのだろうか。ここのところの小さな悩み事である。

目を使う仕事であるため、年齢とともに目が衰え、空目の回数は以前より増えた。「梅しそかつお」を「悔しそかつお」に空目してしまったり、「シンデレラ」を「ツンデレラ」と空目してしまったり。「わけぎ」が「わきげ」に見えてしまったり、「おみやげ」が「もみあげ」になってしまったり。「靴下」を「陛下」と空目してしまったときには、「何の関係もないのに、意外に似ている……」と思ってしまった。英文の校正をしていて「Harikomi Nikki」(張り込み日記)を「Harakiri Nikki」(腹切日記)に空目してしまったときは、「どちらもなんだか日本ぽいなぁ」と感心した。ちなみにこの「張り込み日記」というのは、写真家の渡部雄吉(1924-1993)によるフォトストーリーで、雑誌『日本』(大日本雄弁会講談社)の1958年6月号に掲載されたものだ。とある刑事が、コロシ(殺人)のホシ(容疑者)を追って、ヤサ(家)をガサ入れ(捜索)する捜査の流れを追ったものだが、演出過剰にも見える刑事ドラマ風のフォトストーリーは時代がかっている。この写真は近年、とある古書店から外国のコレクターの手に渡り、フランスで出版されたことをきっかけに再評価が進んでいる。しかしそれにしても、Harikomiは日記になるが、Harakiriは日記になりようがない。

まぎらわしいと言えば、麦茶とコーヒーは、どこか似ている。麦茶と薄いコーヒーは色がまず似ているし、少し焦げたような香りがするという点も、ちょっと似ている(反論は許容する)。そういえば、あまりおいしくない麦茶にはインスタントコーヒーを少しだけ入れると味が良くなる、という話を聞いたことがある。コクの少ないカレーにチョコレートを少し入れるとまろやかなコクが出る、というのと似たような感じだろうか。ともあれ、私の母は昔からコーヒー好きで、よくコーヒーをドリップしていた。しかし、一度ドリップしただけでは豆がもったいないと思うのか、一杯めをドリップしたのち、出涸らしをさらにドリップして、ガラスコップに入れっぱなしにしておく、という習慣があった。その薄いコーヒーにお砂糖と牛乳を入れてコーヒー牛乳を作って飲むのがお気に入りだった小学生のころの私は、ある日、学校から帰って一人だったときに、いつものように出涸らしでコーヒー牛乳を作っていた。しかしひとくち飲んでみたところ、なんだか味が変である。もしかしてこれはコーヒーでなく、麦茶だったのではないだろうか、という疑いが芽生えた。しかし、すでに牛乳も砂糖も入れてしまったので、捨てるのはもったいないし、どうしよう、と考えこんでいたところに、弟が家に帰ってきた。こころみに「これ飲む?」と尋ねてみたら、「飲む!」と即答するので、コップを渡すとそのまま受け取って、ごくごくと飲み干してしまった。途中で気づくだろうと思いながらそれをじっと見守っていたわたしだったが、飲み終わったあと弟は「おいしかった!ありがとう!」と元気よくのたもうた。もう飲んでしまった後だし、真実は明かさなくてもよいか、と思いながらもやはり正直さが肝要かと思い、「それね、コーヒー牛乳じゃなくて麦茶牛乳なんだ」と言ってみた。驚愕する弟。「わからなかった?」と尋ねると「うん、わからなかったよ!麦茶なの?えー!」と言う。人を疑うことを知らない素直な弟を騙したのは悪かったと反省しつつ、ひとくち飲んで「味が変」と気づかなかった彼が悪い……と心の中で言い訳をした。とくに恨まれることはなく、弟はとてもいい子であった。

世の中には、まぎらわしいがゆえに誤用される言葉がたくさんある。たとえば「追撃」。そもそもの意味は「追い討ち」と同じで、勝っている側がさらに相手を叩きのめす、といったような意味なのだが、この10年ほど、「反撃」の意味で使われているのをよく見かける。さらに似たような事例に「鳥肌」がある。これはもとはと言えば「怖い」「おぞましい」などのネガティブな意味で使われる表現だったはずなのだが、最近では「鳥肌もの」というような形で使われ、「すごい」「かっこいい」といった意味になりつつある。誤用の定着というやつである。そうした誤用の典型が「こだわり」という言葉だろう。もとはと言えばこれは「執着する」というような、よくないイメージの言葉だったのが、最近では「こだわりの逸品」というような、ポジティブな用法が定着してきている。かつて日本語教師の母が「こだわりは捨てるものよ!持つものじゃない!」と繰り返していたため、私はこの誤用が今でも使えないままである。しかし誤用も文化なので、あまり目くじらを立てないようにしよう、と思ってもいるが、ときどき考え込んでしまうこともある。たとえば先日、わたしより一世代若い人に「ぼくは世間ズレしているので」と言われて首を捻ってしまった。つい気になって「あの~、世間ズレっていうのは、世間知があるってことですよね?」と言ってみたら、「世間知」が通用しなかったのでさらに話が通じず、話は有耶無耶になった。あとで調べ直してみたが、やはり「世間ズレ」というのは世間のことをよく知っていている、という意味で、自分が世の中からずれているという意味ではないことが確認できた。しかしその彼は「世間ズレ」を表現したデザインの名刺まで作ってばら撒いているので、これはやはり、わざわざ突っ込まなくて良かったな……と安堵した次第。

まぎらわしいと言えば、「半」のつく表現は、本当に半分かどうかが、かなりまぎらわしい。たとえば「半グレ」という言葉がある。これは暴力団に所属せずに犯罪を行う集団のことをさす言葉らしいが、わたしの印象では「半分グレている」と言うよりかは「相当グレている」という感じがする。とどのつまりはただの犯罪者で、「半分」どころではなくグレているのである。この「半分どころではない」というのは、さまざまな事例がある。たとえば「半狂乱」。これは半分どころか「かなりイカれている」と言えるし、「半信半疑」はまじで疑いまくりである。「半殺し」はだいぶ死にかけだし、「半裸」はほとんど脱いでいる。「なんでなのかなぁ、半人前はけっこういい感じなのに」とは、娘の言である。

「まぎらわしい」と言えばなにかある?と夫に尋ねたら、「113系と115系はまぎらわしいよ」という返事が返ってきた。しかしまぎらわしいどころか、わたしにはそもそもなんのことだかさっぱりわからない。「どこがどう、まぎらわしいのよ?」と尋ねると、「えーとね、見た目がちょっと違う」という返事。「いや、だから、どこがどう、まぎらわしいのよ?」と重ねて尋ねると、「んー、機能がちょっと違う」と返ってきた。いくら尋ねても、なにが似ていて、なにが違うのかがはっきりしない。結局のところ、そのまぎらわしさの程度は、わからずじまいであった。

フランス語話者が日本語の「ありがとう」を覚える方法のひとつに、「ありがとう」と音がよく似たフランス語の「アリゲーター」という語を利用して覚える、というのがある。アリゲーターはワニのことだが、フランス語では「ありがとぅふ」という発音に近い。そのためフランス語話者が「アリゲーターございました」と言うと日本語話者には「ありがとうございました」に聞こえる。ある時、フランス人の知人がそれを覚えようとがんばって、頭のなかでワニをイメージしながら「ワニございましたワニございました」と練習を繰り返した。しかしいつのまにやらそのワニが「アリゲーター」から「クロコダイル」に変換されてしまっていたらしく、実際に言う段になったときに彼が口にしたのが「クロコダイルございました!」。クロコダイルは、ワニはワニでもちょっと大きめのワニ。言われた方は何がなんだか、さっぱりだったことだろう。日本語ではアリゲーターもクロコダイルもどちらも「ワニ」なので、まぎらわしいどころか、違いはぜんぜんない。

ワニと言えば、「ワニの涙」という慣用句がフランスにはあるそうだ。「嘘泣き」を意味する慣用句だが、そんな言葉が生まれたのは、ワニが捕食をするときに涙を流すからだと言われている。生きた獲物を捕食するのに、食べるのがかわいそうだとワニが泣く……わけはない。本当の涙か、嘘泣きか。これは、まぎらわしくない。

まぎらわしさが商業的に利用されるケースも多い。たとえば東京ディズニーランドが千葉県浦安市舞浜にあるのは有名な話だが、東京ドイツ村は千葉県袖ケ浦市にある。なぜ、浦安ネズミーランドとか、千葉ドイツ村ではいけないのか。しかしこれ以上言うと東京住みのスノッブ発言になりかねないので、深掘りはやめておく。他に商業的に利用されているまぎらわしさの例としては、「手揚げ風あぶらあげ」などもある。決して嘘は書いていないのだが、パッと見には「手揚げかな?」と思わされてしまう、あれである。商業的なまぎらわしさは、人の期待感にそっと寄り添う形で利用されることが多いようである。

ある日、鳩尾がスーパーできゅうりを買ってきた。「朝採りきゅうり」と書いてあったので、てっきりその日の朝に摘み取られたきゅうりだと思い込んだ鳩尾は、ルンルンと包丁の刃を入れた。しかしそのきゅうりはなんだか古い感じで、とてもその日の朝に採られたとは思えない。「なるほど”朝”とは書いてあるが”今朝”とは書いてないね……」と不意に気づく鳩尾。たしかに、それは、騙されちゃうね。

製本かい摘みましては(184)

四釜裕子

バージンプラスチック製のボトルを持っている。5リットル入り洗濯用洗剤の容器だ。なくなったのでまた買おうとしたら品切れで、もうずっとこれだったのでじゃあ他のどれにしようかと迷っている。公式サイトからも削除されているから製造をやめたのだろうか。実は前回買ったときに異変があった。ふだんのパッケージの上に丸いシールが貼ってあり、そこに「このボトルは、コロナ禍で生じた再生プラスチック不足により、バージンプラスチックで作られています」と書いてあったのだ。それまでつつがなくあった道の一つがここでも途切れていたのであった。途切れて初めてこちらはその道を知るのであった。ボトルが100%再生プラスチックなのも売りの一つにしているメーカーだから、コロナ禍での一時しのぎのつもりが元の製造体制になかなか戻れずにいるのかもしれない。それにしても、再生ではないプラスチックのことをバージンプラスチックと言うのか。「再生」なるものが出てきたからこその言葉なの?

バージンパルプという言い方もある。パルプと聞けば紙の原料と思うけれども、実際のバージンパルプはそれ以外に大いに用途が広がっている。今でこそ明らかに紙の需要が減っているから納得だけれども、日本製紙がパルプから牛の飼料を作ったというニュースを聞いたときには驚いた。凸版印刷が TOPPAN ホールディングスに社名変更したみたいに、いずれこちらも変えざるをえないのだろうか。TOPPAN について言えば、社名変更の告知動画で繰り返される「凸版印刷から印刷が取れて、TOPPAN になる」という快活なセリフは寂しかった。「TOPPA!」「TOPPA!」とも言っていて、せめて「凸パ!」とか「凸PA!」にしといてほしかった。しかしもうだいぶ重荷だったんだろう。これまでありがとうと言って手を振るしかない。改めて日本製紙のウェブサイトで牛の飼料について見てみると、「紙製品の副産物ではありません。製紙技術を応用して製造しています」としっかり書いてあった。

話は飛ぶけれど、私は大豆ミートが好きで家でよく使っている。しかし「まるでお肉」とか「肉の代替え品」とか、いったい人はいつまで言うのかなと思っている。パルプ由来の牛の飼料も、「まるで牧草」とか「牧草の代替え品」とか、やっぱりしばらく言われるんでしょうね。ところがこちらはネーミングがすごい。「元気森森」に「にんじん森森」。これだけではなんのことやら皆目見当がつかないでしょう? というのを狙ったんだろうけれども、かなり壮大。「高エネルギーのセンイ」で「消化がおだやか」で「国内製」で……やがてわれわれの食卓にも??  「にんじん森森」はパルプにニンジンジュースを吸わせているらしい。これを食べれば生草飼育に比べて不足するβーカロテンも一緒にとれます。ウクライナ侵攻を機に飼料の海外依存度の高さも露わになったから、以降、国産飼料推進の後押しを受けて利用が増えたりしているのだろうか。

パルプ以外のものを混ぜて作る混抄紙業界でのエコやリサイクルも日々進む。富士共和製紙には、古着の繊維を50%以上配合しながら印刷もできる紙があるそうだ。配合して抄いた紙にはどうしても凹凸が残るから、パルプで薄く抄いた紙でそれを挟むことで表面を滑らかにしているらしい。きれいに印刷するための紙は表面が平らでなくては。かつて製紙工場を見学したとき、紙を透けにくくしたり白くしたり光沢を出したり平らにするのに、抄く過程で混ぜたり表面に塗布する粉、填料なるものがあることを知った。いわゆる化粧だ。粉は炭酸カルシウムやカオリンなどで、ふっくらした質感を出すのにも用いられていた。写真集や画集に好んで使われるようなつるつるした紙にいたっては、パルプ繊維に石粉をからめてプレスして超薄の板に加工したという感じ。重たいはずだ。そう考えると手漉き和紙というのはさながらすっぴん? なんと露わなことだろう。

いま暮らしている住まいの近くは、その昔「紙漉町」と呼ばれていた。いわゆる浅草紙を作っていたところで、現在の浅草雷門近く、旧浅草田原町一丁目、二丁目、三丁目に当たる。落語の「紙くず屋」よろしく集めた古紙を分別して、水に浸して煮て叩いて漉き返して落とし紙などを作って売っていた。落語の「二階ぞめき」で聴くように浅草寺裏の吉原近くでも漉いていて、山谷堀公園には「紙洗橋」の親柱が、また交差点名としても残っている。紙の原料を水に浸している間、手持ち無沙汰の職人たちが吉原に向かい遊ぶでもなくぶらぶらしていたのが「冷やかし」の語源と言われる。これがもしわが故郷・山形で二階ぞめきしていたならば、「冷やかす」は「うるかす」になっていただろう。洗った米を水に浸けておくとか、おしどりミルクケーキの包み紙を水に浸けて文字を浮かすときに「うるかす(うるがす)」と言った。長風呂して指がしわしわになると「うるげだ」と言った。戻した乾物の具合をたずねるには「うるげだが?」と聞いた。「ふやかす」とはちょっと違う。ともあれ冷やかすもうるかすもふやかすも、過程やうつろいを宿すいい言葉だなと思った。

『アフリカ』を続けて(29)

下窪俊哉

 前回、『アフリカ』の表紙を飾っている切り絵の作品数を、2枚(表紙と裏表紙)×34号=68作と書いたのだが、切り絵を使っていない2009年3月増刊号も34分の1にカウントしているのと、表紙から裏表紙にかけて1枚の切り絵を巡らせている号もあるので、正確ではなかった。表紙に使われなかった切り絵も含め全81作という数字も、現時点で私が確認できている数であって、これから新たに出てくるものがあるかもしれない。
 他の人にすれば、そんなことはどうでもいいことのように思われるかもしれないが、私にとって、できるだけ正確な情報を探って、残しておくことがすごく大事なことのように感じられる。

 次号の表紙は色のついた切り絵を使ってカラー印刷する気で満々だったのだが、装幀の守安くんに全作品の画像を送ってメールのやりとりをしていたら、「こんな作品、あったっけ? すばらしいね! 今回はぜひこれを使いたい」と言われる切り絵があり、白と黒だけの作品なので、いつも通りのモノクロ印刷でゆこうと決まった。
 今後は表紙のみカラー印刷でゆこうか、という考えも頭の中にはあったのだが、やめておけ、ということかもしれない。
 オール・モノクロの小冊子で、制作費を抑え、身軽に号を重ねてゆこうという原点に、再び立ち返ってみよう。
「しかし、そのときはどうして、これを表紙にしなかったんだろうね?」と言われる。
 そんなことを訊かれても、例によって、思い出せないのである。想像するしかない。しぶとく想像して、それを元に作業を進める。

 10月末、『アフリカ』vol.35(2023年11月号)の入稿をすませたところだ。アフリカキカクのウェブサイトに目次を出したので、その内容について少しずつ触れておこう。

 ラストを飾っているなつめさんの「バウムクーヘン」が、じつは一番早い時期にもらっていた原稿で、見開き2ページの掌編。コンビニで初めて「バウムクーヘン」を購入したなつめさんが、それをどうやって食べたらよいのか、と考えている。それはどうやら、とても困難なことのようだ。もともとは『道草の家のWSマガジン』に送りそびれた(?)ものとして送られてきたのだが、これ、『アフリカ』に載せません? となった。

 戸田昌子さんの「喪失を確かめる」は「いくつかの死」をめぐるエッセイで、後半は「外部から眺めるしかできなかった喪失の出来事」として、戸田さんがたまたま遭遇した9.11のニューヨークへゆく。写真を撮るとは、どういうことなのか。書くとは、どういうことなのか。「喪失を確かめる」とは、どういうことなのか。個人史から見た写真論であり、文章論であると言える。読んでいる私は、この文章を傍らに置いて、いろんなことを見てゆきたいというふうに感じる。

 犬飼愛生さんの「ドレス」は、忘れもしない、向谷陽子さんの訃報を伝えるメールの返信として届いたもの。自分もいつ、どのようにして死ぬかわからないと思うと、出し惜しみしている場合ではない、書けたものを送っておきたい、と。「こどものための詩シリーズ ①」とある。「『アフリカ』は続ける気がない」と言っているのに、こうしてシリーズを構想している人がいる。前号の「寿司喰う牛、ハイに煙、あのbarの窓から四句」とはまた全然違う、新境地。犬飼さんはエッセイ「相当なアソートassort」シリーズの新作「家出」も寄せている。

「日記と小説」はこの春、夫婦で静岡から北見(北海道)へ移住/引っ越しして、そこに至る日々を日記形式で綴った本『たたかうひっこし』をつくったUNIさんのインタビュー。聞き手は、私。じつはその直後にUNIさんは「円満離婚」して、故郷・神戸へ戻ることになっていた。そんな夏の終わりの、ある朝のオンラインによる対話。子供の頃から日記を書く習慣があったというUNIさんは、ある日突然、病院の待合室で小説を書き始めた。なぜ書くのか、何を書くのか、どうやって書くのか、といったことを幼少の頃から現在まで、彼女の人生を語ってもらいつつ、共に考えているといったもの。

 スズキヒロミさんによる「その先の、今の詩集」は、犬飼さんの新詩集『手癖で愛すなよ』について何か書いてもらえないだろうか、とお願いして実現したもの。誰か文学者に依頼して犬飼愛生論を書いてもらうことも微かに考えないではなかったが、『アフリカ』では市井の、いち読者がどんなふうに詩を読んでいるか表すものを載せたい。スズキさんは『アフリカ』の愛読者で、『道草の家のWSマガジン』には何度か書かれているけれど、今回のようにまとまった原稿を発表するのはたぶん初めて? 草稿をくり返し読ませてもらって、興味深いやりとりがたくさんできた。

 私の小説「ハーモニー・グループ」は「朝のうちに逃げ出した私」(作品集『音を聴くひと』に収録)の流れに属している短篇で、これは駅前の広場で歌っているグループの中のひとりによって、その場が語られるというもの。このような短篇や、もっと小さな断片を集めて編んで、ある女性の音楽家を描こうとしているのだが、まだどうなるかわからない。

「『アフリカ』の切り絵ベスト・セレクション」は9月に一度完成させていたが、10月に再構成した。切り絵の原画は殆どがポストカードになっているので、そのサイズで見てもらおうと厳選していたのだが、縮小してもいいからもっとたくさん作品を見てもらおうというふうに方向転換して、賑やかになった。2013年の向谷さんによるコメントに、2023年の私のコメントを加えて、制作の舞台裏も伝えている。実際には行われていない展覧会の図録のように感じられたらいい。

『道草の家のWSマガジン』からは今回、矢口文さんの木炭画「夏草の勢い」を転載。ウェブマガジンで見るのと、印刷されたもので見るのでは、また違った印象を持たれるかもしれない。『WSマガジン』には絵の背景を伝える文章もあるのだが、それはあえて省いて、絵だけを載せた。

 今回は編集後記を書くのが怖かった。そこで向谷さんのことを書いてしまったら、いよいよ本当に、何かが終わってしまうような気がして。書きながら、声に出して読んでいたら、悲しくて仕方なかった。でも、それくらい正直なところが、表れているような気もする。とくに最後の数行が、なかなか出てこなかった。しばらく苦悶したのだが、最後にはちゃんと出てきてくれて、「まだ終わらないね」ということを確かめたのだった。

227 改稿 ―平和―

藤井貞和

ドームのしたには、原爆部落(と言った。)がひろがり、
石川孝子(女教師)は、教え子のひとりひとりを、
尋ねてまわる。 ある子は粗末な墓碑のしたに眠る。
特撮は、爆風に蹴散らかされる廃都をスクリーンに映す。
小学生たちが、みんなで泣きながら手をつなぎ、
映画館から出てくると、なぜかきょうは令和五年の夏だ。

 
(改稿と言っても、「平成22年4月25日」を「令和五年の夏」に変えただけです。ずるいね。ぼくらは乙羽信子を憎みました。数年ぶりに広島を訪れた女先生が、滝沢修の岩吉爺さんから孫の男の子を奪い取って、島へ連れ帰ります。そのことの意図を思うと、言いたくなる、いろいろはありますが、何を言っても今がむなしいな。学生のころ、東京から鈍行を乗り継いで長崎を訪れ、資料館と言ったか、平和公園と言ったか、その夜また乗り継いで帰ったことがあります。その長崎で編集室水平線を展開する西浩孝さんによる、増補新版『言葉と戦争』(初版は大月書店、二〇〇七・一一)が、今日で校了です。この本の重要な意義の一つは、パリ不戦条約(一九二八・八)が戦争を否定し、それの放棄を掲げた点に注目することでした。『非戦へ』(おなじく水平線、二〇一八・一一、「平和」初稿を含む)に引き継がれます。ええっ、戦争の廃絶が唱えられて世界はまだ百年しか経ってないのですね。こんにちに世にあふれる、それの悲惨を告発し、軍備を批判する議論はたしかにたいせつです。そうでなく、起源から廃絶へ論じる本が、なぜすくないのかな、どうしよう。)

歩くように指をうごかし

高橋悠治

コロナ以来、人と会うことがすくなくなった。ぶらぶら歩いて店をのぞいたり、どうでもいいことをしゃべっていれば、たまにはどうでもよくないことの一つも思いつくかもしれないが、こんなことではしようがない。毎月作曲することを考えながら書いていることのほうが、よほどどうでもいいことにちがいない。だいいち、文字に書いてしまったことは、音ではできないし、しようとも思わなくなる。

鍵盤の上でぶらぶら歩いたり、どこかに立ち止まったりしていればいいのかもしれないし、こんなことも意識しないのがあたりまえになれば、音が発見と感じられるのかもしれないが。ピアノを弾くときは掌を高く、指をぶらさげて、鍵盤の上で歩いたり跳んだりしながら、音を一つ、それから次の音と、あいだを見計らいながら続けていくだけ。意味や表現はいらない。音の長さ、強さ(というより弱さ)、指のうごき、手の知っていることがあり、耳がそれを追認する。と書いてしまうが、そんなことがあるわけはない。

と書くことがまた、考えすすめるのを邪魔している。分析は動きを止めて、あり得るいくつかの変数を代入する。最初の思いつきに代わる案はそれほど出てこない。最初の思いつきの余韻に引きずられているせいもある。自分一人だけで、ちがう出発点を見つけるのは、最初から複数の場合を用意していないと、うまくいかないだろう。その時も、最初に一つ選んだそのことが、後の選択に影を落としている… というように、考えはぐるぐる回っていく。

いま想像しているのは、何枚かの半透明なスクリーンが重なり動いていく映画館。スクリーンは折り重なったまま、それぞれが揺れているだけでなく、それぞれ独立に近づいたり遠ざかったりしている。それと並行して下に字幕が走っているのが、この文字になるはずだが、半透明のスクリーンは、芥川龍之介の「歯車」に出てくる半透明の歯車の記憶がスクリーンになっただけかもしれない。想像自体が頭痛を持っている気がするが、それこそ気のせいだろう。

重なった半透明のスクリーンは、半ば独立の線の重なる空間のイメージかもしれないが、こんな思いつきで満足はできない。だが、記譜法が問題だ。今はそこまで。

2023年10月1日(日)

水牛だより

暑いのはきっと明日までね、と言い続けて10月を迎えてしまいました、いやはや。
いつもいく近くのスーパーマーケットと隣家との境にある植え込みに、カラスウリの蔓がからみついていて、レースをまとったような白い花が夕方にいくつも咲いているのを見つけたのは、この夏のささやかな収穫です。赤い実がなるか、黄色いのがなるか、これからの楽しみです。タネがめずらしいかたちらしいので、もしも実ったら、そっとひとついただこう。

「水牛のように」を2023年10月1日号に更新しました。
イリナ・グリゴレさんの「蜘蛛を頭に乗せる日」は、これまでのエッセイとは違って、不思議な短編小説の趣です。次はどんなのが送られて来るのでしょうか。管啓次郎さんの「図書館日記」は今回が最終回です。12回で完結です。でも、次号からまた趣向を考えます、ということなので、また楽しみがふえます。管さんの軽々としたフットワークはいつも驚きですが、それはちゃんと詩に反映されていると感じます。そして、さとうまきさん「やっぱりバスラ」のサブリーン。彼女が亡くなったあと、東京で小さな追悼会があり、参加したことを思い出します。遺言によってさとうさんに託されたサブリーンの遺品も見せてもらいました。絵を別にすると、遺品はそのとき彼女が身につけていたほんのわずかのもので、一枚のビニール袋にすべて納まってしまうものでしたが、死んだあとはさとうさんとともに生きるのだというサブリーンの強い意志がしっかりと伝わってきたのでした。

それでは、また来月に!(八巻美恵)

蜘蛛を頭に乗せる日(下)

イリナ・グリゴレ

結婚式が始まった。蜘蛛を頭に乗せたまま。誰も気づかなかったのか、気付かないふりをしていただけなのか彼女にもよくわからなかった。古い、壊れたバオイリンを弾きながら、歯がない年取ったジプシーの男は、彼女を家から引っ張り出して不思議な儀礼に参加させた。その日は冬のはずだったのに、なぜか暑い鉄の塊を握るような感覚で、生まれて初めてとても濃い化粧されていたにも関わらず、汗でダラダラと白いパウダーが流れていた。それでも彼女の肌は幽霊のような白さだったので目立つこともなく、「村で一番美人な花嫁」という噂が広がって、次々と門の前に黒い服を着ている村の婦人たちが集まってきた。

ジプシーの音楽家が突然しわがれた声で花嫁と両親の別れの歌を歌い始めた頃、集まった婦人たちは大声で泣き始めた。そのとき、彼女は忘れていた蜘蛛のことを思い出した。手で触ってみるとまだ頭に乗っていたが、それは死んでいた。いや、死んだかどうか判断が難しかったが、動いてなかった。家の前に広がる葡萄畑を見ながら、ジプシーの声を聞いて逃げ出したくなるような気分が収まっていった。その瞬間とても強い風が風いて、儀礼によれば足を水が入ったバケツに入れるはずだったが、バケツが倒れ、水は凍った土に吸い込まれていった。この気温で水がすぐ凍らないのは不思議だと思った。彼女の足がとても熱かったからかもしれない。どうやら大分熱があったみたいだが、この村では一度結婚式というものが始まると誰も止めることができない。結婚式は花嫁が倒れても続く。

彼女はその後、家の門の外に座り、その日に母親が焼いたパンをジプシーの男が頭の上で割り、集まっていた村人に分けた。すると、どこからかわからないぐらい大勢の子供が出てきて彼女を囲み、手を伸ばしてパンを奪おうとした。その小さな手を見てボロボロ泣きだした自分が切なかった。花嫁になるから泣いてのではなく、自分も子供の時、この村で結婚式を見て、手を伸ばしてパンをもらって食べていた。幼い自分がそのパンを世界で一番美味しい食べ物だと思っていたのに、自分が花嫁の立場になった今はとても気持ち悪かった。熱のせいかもしれないが、遠くでパンを取り合って喧嘩する村の子供を見ながら吐きそうになった。なぜ子供の頃は美味しいと思ったのか、あんなまずいもの。口にしてないがまずいとしか思わない。

彼女は何回も倒れそうになったが誰も気付かなかった。おまけに頭に乗っていた蜘蛛が動いているのを感じた。村の教会までどうやって歩いたのか覚えていなかったけれど、それも子供の時に見た花嫁の行列と同じだったかもしれない。いくら考えても思い出せない。儀式は行われたのか、行われなかったのか、それさえも思い出せなかった。しかし、朝からたくさんの人が目の前にいたのに、花婿を見ていない気がした。自分があの蜘蛛と結婚したとしか思えない。誰かに言わないといけないが、もうすでにテントはジプシーのバンドの音楽で賑わって、殺された豚が大きな二つの鍋でシチューに煮込まれていた。親戚やら知り合いやら、人々がテントに集まって食べて踊っていた。彼女が椅子で気絶しても、あまりの賑やかさに誰も気付かなかった。

結婚式の日は彼女の人生で一番長い日のようだった。時間が止まっているというより、何百年もこの日を繰り返してきた感覚だった。全く同じことをなん度もなん度も繰り返していて、その繰り返しのループから抜けないまま一生を終えたような。
結婚式の夜に初めて、どこからかわからない暗闇から花婿が現れ、彼女を家の一番奥の部屋に引っ張り込んで、裸にして、頭に乗っていた蜘蛛を激しく潰した。その後、最初は手で彼女の足の間を触って、あの蜘蛛を潰したスピードで同じ指を彼女の身体に入れて変な声を出しながら興奮していた。彼女は熱のせいか、自分の頭に本当に蜘蛛がいたショックのせいなのか、あの蜘蛛が悪気なかったことを初めて理解したとともにとても気持ち悪くなって、彼を止めようとした。人の前で裸になることも、指で足の間を触られたことも、目の前の蜘蛛が殺されたことも初めてだったので耐えられなかった。でも彼は止めるどころか、もっと興奮してベッドで彼女の上に乗った。そして、彼女はあんな暗い部屋だったのにその後、雷のような光が痛みと共に訪ねたと思った。自分の肉が骨から離れたような痛み、そして離れただけではなくその瞬間に腐ったような匂いがした。

2分しか経ってないのに、彼女は何時間もその状態で声も出ないまま、壁にあった時計の音を聞いて自分の身体から離れようとした。彼は彼女に何も言わず、髭についていた豚の油を拭き、彼女から真っ白なシーツを引っ張って、何かを確認し始めた。シーツについていた血の跡を発見した瞬間、大喜びで賑やかなテントに向かった。しばらくすると外から大きな叫び声と賑やかな音楽が聞こえた。彼女はしばらく動けなかったから、一人で、部屋で泣いていた。あまりにも複雑な気持ちになって、ベッドの横の壁の白いペンキを爪で削って口に運んで食べ始めた。大人の女性とはみんなこのような人生なのかと思いながら。

しばらく経って彼女は起き上がった。足の間に何か冷たいものを感じたが身体は鈍くなって、拭くことさえできなかった。裸で出ようとしたが、突然、部屋の奥から白いモンシロチョウが飛んできた。びっくりしてドレスのことを思いだして手が普通に動き始めた。冬にモンシロチョウが飛ぶのも不思議だったけど、熱のせいで幻を見ただけかと思った。自分で白いドレスを着て外に出てみると、結婚式のテントの前に賞品のようにシーツが張り出されていた。血がついたまま。恥ずかしくてまた涙が出た。顔の上に涙が凍った。すっかり酔っぱらってふざけて老婆の服を着た若い未婚の男たちが後ろから近づいてきて、彼女を担ぎ上げて踊りの中に運び、鶏を彼女に持たせて言った「よかったね、あなたは処女で、この鶏を殺さなくてよかった」。まるで道化師のようにげらげら笑った。

彼女はそこからなんとか逃げ出し、気づいたときは裸足だった。葡萄畑に隠れたが葉っぱはなく、寒かった。花婿はどこを見てもいなかったけど、そもそも見たくはなかった。そのまま花嫁の姿で森へ歩き始めた。どこかに消えたい気分で、暗い森の中に入った。すぐ歩けなくなった。そのまま横になって、眠りたかった。森の中で雪が降り始めたが寒くなかった。血の匂いがした。朝方だったため光が木の姿の間から入り始めた。突然、子供の時に見た鹿が近づいてきて、また幻のように消えた。一緒に行きたかったのにと思った。寒くなってきた。森は彼女を追い出し、人間のところに戻って部屋で倒れた。

その後の人生は枯れた葉っぱのようにただ、たくさんの枯れている葉っぱがある土の上に落ち過ぎた。2回流産して二人の男の子を産み、都会にしばらく住んで60歳を過ぎた頃、全く一滴の愛情も注がなかった夫が死んだ。彼女は村に戻り、育った家で静かに暮らした。ときおり黒い服を着て結婚式と葬式に出かけた。ある日、突然自分が小さな女の子だと思って走って森に入った。そこには鉄砲を持った男と殺されたばかりの鹿がいた。遠くから「誰かが鹿を殺した」と大きな叫び声が聞こえた。

「図書館詩集」12(宗谷で生まれた宗谷トム)

管啓次郎

宗谷で生まれた宗谷トム
この先には海しかないとは思わなかった
知っていた、島影が見えること
知っていた、あちらと行き来する人々がいたこと
巨大な黒いからふと犬がわんわん吠えて
北へ行こうよ、北へ帰ろうよとせかす
出発をはばむのは勇気の欠如?
いや、国境だ
宗谷トムはトンコリを弾きながら
サハリン生まれだったばーちゃんを思い出す
ばーちゃんが飼っていたからふと犬の
ミーシャを思い出す
海辺で鳥が遊ぶのを
よく眺めていた犬だった
ばーちゃんの夢は青森に行くことで
それはばーちゃんが目の青い父親から
話を聞いていたから
ほんとうに森が青い、その森が
どこまでもつづくというのだが
それはたぶんばーちゃんの想像
ばーちゃんは旭川までしか行ったことがない
札幌も知らない
北端よりはるかに南にある土地だから
青森では
夏が長く春は早く山は青いと思ったのでは
ばーちゃんがもしからふとを覚えているとしても
それはたぶん子供として見聞きした
村の風景に限られていると思う
心にしかない土地が
いつか見た土地とおなじ重みをもつのが
人の心の仕組み
見たこともない土地を
水平線に見ている
それで心が騒ぐ
宗谷トムの想像は全方位にむかう
見えないものも
見てはいけないものも
全方位から岬に押し寄せてくる
やってくるたび岬が再定義される
耳がうさぎのように伸びる
海の上をおびただしいうさぎが
跳ねてくる、やってくる
海の中ではおびただしいにしんが
泳いでくる、やってくる
空にはかもめ舞い
太陽が黒々と光る
宗谷岬からサハリンまでは43キロ
ちょっと遠いな
竜飛岬から北海道までは19.5キロ
海が荒れていなければなんとかなるかも
縄文人は本州の子猪を道南に運んで
それを育てては「送って」いたらしい
その儀礼のやり方が
アイヌの「熊送り」とつながってくる
子熊を捉えてニンゲンのこどもとともに
まったくおなじように育てるのだ
子熊はよくなつき、かしこく、愛嬌があり
ほんとうにほんとうにかわいい
「子供たちもすっかり元気になり、
養っていた子グマと一日中、
楽しそうに遊んでいました。
この子グマは、ほんとうにかしこくて、
人間の言うこともすることも
なんでもわかるのです。
政代と末子が棒を持って
「ブランコ、ブランコ」と言うと
走ってきて、
左右をちゃんと見て、
棒の真ん中をつかんでぶらさがるのです」*
それはなんという夢のような
遊びだろう
だがそれは夢とは正反対
熊とかれらとの直接的な
肉体的なふれあい
それなくしては動物どころか
世界のことが何もわからないふれあい
私たちの社会にあまりに欠けているふれあい
ぼくとしてはこの世を限られた時間
歩きながら少しでもそんな
ふれあいを取り戻したい
この手でふれるのが無理ならせめて
物語を真剣に思い出したい
そのとき現実と物語をむすびつつ
ニューロンがどんなふうに発火
するのかを体験したい
知里幸恵『アイヌ神謡集』が
最初に出版されてから百年が経った
その百年がひきつれるのは
その前の一千年一万年の記憶
聞き覚えた物語を
初めてアルファベットで記し
それを日本語に訳して
初めて文字で届けてくれたのは
まだ十代の少女の偉大な魂
彼女が聞きみずからも口にした音が
塗りこめられた文字列を
なぞりながら
その意味もわからないままに
唱えてみようか
トワトワト
ハイクンテレケ ハイコシテムトリ
サンパヤ テレケ
ハリツ クンナ
ホテナオ
コンクワ
アトイカ トマトマキ クントテアシ フム フム!
トーロロ ハンロク ハンロク!
クツニサ クトンクトン
カッパ レウレウ カッパ
トヌペカ ランラン**
以上、きみはそれを三度でいいから
声に出してくりかえしてください
たとえ意味がわからなくても
必ず声に出してください
そこに不思議を感じないということが
あり得るものだろうか
よみがえるよみがえる
文字を手がかりに音を口ずさむ
文字を乗り物として音がみずから
やってくる
そのとき音を乗り物として
やってくるのが神だ
誰が口にするのかは関係なく
その場で生まれている空気のふるえに
振動によって
事物の関係が変わっている
そのことが神だ
そんなことを考えながらどんどん
歩いていくと
となかいの群れがいた
ラップランドから連れてこられたのかな
逃げるわけでもないが
なつきそうにない
それほど殊更こっちに無関心
耳に切り込みがあるのは
飼い主の徴か
橇、毛皮、肉、乳のいずれのためでもなく
ここにいるんだとしたら
どう扱うべきか挨拶に困る
どうどうどう、はいやー
飼われているのがとなかいで
野生のものがカリブーだというが
これらのとなかいはカリブー化したいのか
サハリン島のウイルタは
飼馴鹿をウラー
山馴鹿をシロと呼び
シロの狩猟のために囮にする化け馴鹿を
オロチックウラーと呼ぶのだということを
『ゴールデンカムイ』に学んだ
あれはものすごい漫画だよ
われわれの歴史・地理観を変える
こっちは狩猟民ではなく
漁撈民でも採集民でも
農耕民でも商人でも
技術者でも官僚でもなく
せいぜい最終民
ニンゲン世界の終わりを見届ける者だが
悲嘆にくれている暇はない
となかいに乗ることを断念して
ほらそこをゆく男と一緒に
これから海岸線を歩こうじゃないか
これからまだまだ
まだまだこれから
男は小柄だ、身長148センチだって
天塩川のほとりですでに会っている
僧侶の風体に北方民族の装身具をつけて
どちらまで?
いや、樺太帰りでね
これからオホーツク海の海岸線を
どんどん歩き
知床まで行くのだよ
もしやあなたが宗谷トム?
そんな名前は知らないな
私の名は「多気志楼」とも書きます
この名のユーモアがなんとも好ましい
気が多いやつなんだよ
頭の中で万国と森羅万象が渦巻いている
志すのは、めざすのは楼閣
それがどこにも見つからなくても
彼は歩いていく
「弘化二年(一八四五)、二八歳ではじめて
蝦夷地へと渡った松浦武四郎は、太平洋側を歩き、
夜の明け切らぬうちに知床半島の
先端にたどり着いた。/日の出を待つ間、
案内してくれたアイヌの男性二人に、瓢箪に入れた
お酒を振舞うと喜んでくれ、彼らは海岸に下りると
大きなアワビをとってきて、アワビの刺身で
一杯やりながら輝く朝日を一緒に眺めた」***
多気志楼以外のどの和人にそれができただろう
いったいどれだけの距離を歩いたというのだ
二八歳でそれを果たすことができなかったぼくには
それは曙光の中のぼんやりした夢でしかない
まだ二八歳にみたないきみには
ぜひそんな歩行を試みてほしい
いったい岬までの道はどんな道?
未明の森に羆の気配を感じることはあったのか?
かれらは鮑の刺身を
醤油、ひしお、塩のいずれで食べたのか?
そんな疑問がいくつも生まれる
そして空想の土地と現実の場所を
空想の過去と現実の未来を
つなげてゆこうと思うなら
ただちに歩いていこう
いま出発して
知床を目指して歩くのだ
世界がまた終わるまえに
シルエトクとは大地の果て
トワトワト
トワトワト

*砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』(福武文庫、1990年)より
**知里幸恵『アイヌ神謡集』(岩波文庫、1978年)より
***山本命『松浦武四郎入門』(月兎舎、2018年)より

稚内市立図書館、2023年8月22日(火)、快晴

やっぱりバスラ

さとうまき

3月15日
結構、迷ったけど結局バスラに行くことにした。明け方、飛行場に迎えに来たガイドは、調子よくハグしてくる。円安と燃油サーチャージが急騰し、ここから先はケチりまくるツアーになるから「よろしくね」というとバスラの市内を通り過ぎて、彼の暮らすズバイルという町まで連れて来てくれた。これといった古い風情のある建物があるわけでもなく、雑な街並みは、薄汚くてゴミが反乱している。粗末なアパートがホテルだという。チェックインしていると、いきなり警察官だという男が話しかけてきた。何か尋問されるのかと思ったが、客として泊っているらしい。研修のためなのか2階を彼らが占領していたので、僕は3階の部屋をあてがわれた。夜になると彼らが戻ってきて廊下は彼らが脱いだブーツで一杯になっていて、牢屋に入れられているかのような妄想を楽しませてくれるが、汚いホテルだった。

イラク戦争から20年だ。会いたい人がいる。いろいろ面倒を見てやったがんの子ども達もそうだ。

1991年の湾岸戦争では、アメリカ軍は劣化ウラン弾という砲弾を使用した。こいつは、ウランを濃縮した後の残りかすのウランを固めたもので、発射されると鋭い矢が飛んでいく。硬いから、戦車の装甲も簡単に突きさす。めり込む時の摩擦熱で、火花が出て、戦車を簡単に爆破させてしまう。しかし、劣化ウランは放射能出すから、微粒子が体の中に入ってしまうと白血病などのがんに罹ってしまう。

2003年も米軍は、劣化ウラン弾を使った。「安全な量しか使っていない」というが、一体どれくらい使ったか、どこに使ったかは、「言わない」のである。特にバスラでは、多くの劣化ウラン弾が使われたと言われて、破壊された戦車が放置してあった。「戦車の墓場」とも呼ばれていたのだ。初めてバスラに来たときには、このあたりが放射能で汚染されているのか?と思うだけで不安な気持ちでいっぱいになった。僕たちは恐る恐る破壊された戦車の横を通り過ぎる。子どもたちは、そんなことはお構いなしに戦車の中で遊んでいた。「あぶないよ」と言っても言葉は通じないし、これ以上は近づきたくはなかった。

しばらくすると、イラクは内戦状態になってしまい、僕たちはイラク国内に入る事すらできなくなってしまった。日本では、劣化ウラン弾への関心が高く、放射能の影響でがんが増えているという報道もあり、抗がん剤を子どもたちに届けてほしいと寄付する人たちがたくさんいた。そこで僕たちはヨルダンに事務所を構えることにしたのだ。そんな時に、バスラから避難してきていたイブラヒムという男に出会ったのだ。この男は、妻を白血病で失い、幼い子供を3人も抱えて途方に暮れていた。ちょうどいい、バスラに行ったり来たりしてもらい薬の運び屋をやってもらうことにした。なんだかそういう風に言うと怪しいことに手を染めているように聞こえるだろう。イラクにはやばい連中がたくさんいて、高価な薬だとわかると盗まれ、闇で転売されてしまうから、極力目立たないように、古着の中に忍ばせたりと苦心した。

ある日、イブラヒムは薬を届けてバスラから帰ってくると嬉しそうに「がんの子どもたちに絵をかかせてみたんだ」という。イブラヒムには全く絵心はなかったが、がんの子どもたちの人気者になったらしく、子どもたちはイブラヒムのためにたくさんの絵を描いたという。

そんな中で、忘れられない絵があった。サインペンで描かれた絵は線が躍動していた。
「これは?」
「サブリーンという11歳の少女がおりまして、まだサダム・フセイン大統領が健在だったころ、お父さんは、兵役から逃れていたのを捕まり、牢屋に入れられました。こいつはいけないやつだということで、耳をそがれたのであります。するとそこから感染症になり、お父さん、獄中で死んでしまった。少女がまだ1歳の時のこと。お母さんは大変だ。女手一つで生活は成り立たない。それで、お母さんは、再婚したというわけですが、ところが、新しい亭主、こいつがまた、定職につけず、貧乏でとてもじゃないがサブリーンを学校に行かすお金もない。まあ、12、13くらいになれば早めに嫁に出してしまおうと考えていたのだろうが、ところがサブリーンは癌になってしまった。サブリーンが病院に来た時にはもう右目は腫れあがり、摘出するしかなかった。お父さんは、相変わらず仕事がなくいつもイライラしてサブリーンをしかりつける始末。なんというかわいそうなお話し、何とかしてください」
ということで僕は彼女の絵の虜になり支援をはじめたのだ。

サブリーンは、がんになったことでみんなに迷惑をかけていると嘆いていた。どうせすべては手遅れだということも知っている。病院に行ってもお金がかかりみんなに迷惑をかけるだけだと。どうせ死ぬんだからもう病院には行かないと言ってこなくなってしまった。しかし、そうは問屋が卸さない。僕はと言えば、彼女が今度はどんな絵を描いてくれるんだろうかと楽しみにしていたからだ。

そんな僕の思いが通じてサブリーンは病院に戻ってきて、また絵を描いた。僕はうれしくなってみんなにサブリーンの絵を見せてまわった。サブリーンの描いた絵のファンも増えてお金も集まるようになり、病院に薬を届けることができた。サブリーンのおかげで他の患者たちの薬も買うことができた。彼女は生きていることの意味をしっかりと感じることができたのだろう。しかし、病気は進行していった。もう目も見えなくなって、彼女は「ありがとう、幸せでした」と言って死んでいった。

その話はどんどん膨らんでいった。ある人は、講演会で「サブリーンが死ぬ前に、私に手紙を書いてくれたんです」と言いって涙を誘い、募金を集めてくれた。
「どうだい? みんなこの話をするとお金をたくさん寄付してくれるんだ」と自慢げだった。ただ、サブリーンは目が見えなくなっていたから、手紙なんか書ける状態ではなかった。その人の話し方がうまくて僕も感動したぐらいだ。なんだか、人をだましているようでどうも釈然としなかった。

サブリーンに会いたくなった。でも彼女は天国にいる。そこで、サブリーンのお母さんに会いに行くことにした。ガイドに頼んでサブリーンの家を探す。2013年にお母さんを訪ねたことがあり大体の道は覚えていた。彼女たちの住んでいる貧困地区には鉄くずなどの資源ごみが集められて、そういうのを売買している人たちが暮らしていた。おそらくその中には劣化ウラン弾の放射能で汚染された鉄くずなども混ざっていたのかもしれなかった。

バスラも最近ではモールができて、65000人が収容できるサッカースタジアムもある。ここにきてようやく復興が進みだしたが、貧困地区の開発は絶望的だ。サブリーンの家の周辺は全く変わっていない。家の前の空き地は、ゴミ捨て場になっており、ごみの回収はいつ行われているのか全く分からないような状態で悪臭が漂う。ただ、以前は、治安の問題から日本人であることを知られないように、隠れるように移動していたので生きた心地がしなかったが、今はそんなことはなく、堂々と道を歩ける。これは大きな進歩だ。

お母さんが扉を開けて家の中に入れてくれた。家で小さな雑貨も売っていて、近所の子どもたちがお菓子を買いにやってくる。サブリーンの弟は結婚して子どもができたばかり。妹たちはというと大学に行っているという。そのうちの一人のファーティマは、成績が優秀で私立の大学に奨学金を貰って通っていて、薬学を勉強していた。サブリーンは学校にまともにいくことはなく、がんになって初めて院内学級でいろんなことを学んでいった。妹の世代は、貧しくても、チャンスがある。「戦争がない状態」は、若者達に未来を与える。日本だと当たり前のこと。イラクは20年経ってようやくそういう段階に来たんだ。そう思うとなんだかとてもうれしくなった。

10月16日は、サブリーンの命日なのである。未だに彼女のことを思いだすだけで何か勇気をもらえるのだ。

ジャワ舞踊のレパートリー(2)男性舞踊優形

冨岡三智

先月に続き、今回は男性舞踊優形のレパートリーについて。私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。男性舞踊については留学後にゼロから始め、芸大の授業履修と教員のパマルディ氏に師事と両輪で進めた。女性舞踊と違ってまだほとんど見通しがなかったので、パマルディに選曲してもらった基本的な演目をやることになった。以下、★印は日本あるいはインドネシアで上演したことがある曲。

最初の留学で習った演目を順番に挙げるとまず「タンディンガン」、次いで「トペン・グヌンサリ(ガリマン版)★」で、これらは1年生後期の授業内容である。1セメスターで2曲習う。留学してクラスに入った時にはすでに授業が始まっていたので、クラスの内容を追いかける形でレッスンを始めた。「タンディンガン」(戦いの意)は芸大では男性舞踊の基礎としてラントヨ(セメスターI)の次にやる演目として位置づけられ、男性優形のクラスでは優形の人物2人の戦い、男性荒型のクラスでは同じ曲で荒型2人の人物の戦いとして同一曲で練習する。戦いものの練習曲だが人物設定はないので、自分でキャラクターを設定したり、また荒型×優形のように組み合わせたりして上演できるようになっている。

その後は「パムンカス」、「メナッ・コンチャル★」、「ガンビルアノム」、「トペン・グヌンサリ(PKJT版)★」といった単独舞踊を習う。これまで挙げた6曲にはすべて市販カセットがある。トペン~とあるのは仮面舞踊で、パンジ物語出典の舞踊は仮面を使う。「メナッ・コンチャル」については『水牛』2014年2月号、2つのグヌンサリについては『水牛』2014年4月号に寄稿した記事で書いているので参照を。「パムンカス」以外はキャラクターがある。パマルディ氏曰く、ここまでは基本的な舞踊なので、アルスをやるなら全部やりなさいとのこと。単独舞踊としては芸大には他にワハユ・サントソ・プラブォウォ氏の振り付けによる「ブロマストロ」があるのだが、それは習っていない。パマルディ氏曰く、それはもう少し難しい曲だから、基礎演目をやったあと自分の方向性として強いキャラクターをやりたいなら習ったらいいという話だった。

2回目の留学ではパマルディ氏は一層忙しく、また当時は現代舞踊・創作を教えることが多かったので、私は授業だけでなんとかマスターし、試験も受けた後でパマルディ氏に見てもらってアドバイスしてもらうという形にした。以前に習った曲を再度授業で履修しつつ、新たに「パンジ―・トゥンガル★」、「カルノ・タンディン」、「パラグノ・パラグナディ」、それから「バンバンガン・チャキル」を履修する。これらには市販カセットがなく、芸大が授業用に録音したものを使う。いずれも芸大で3年生後期以降のカリキュラムだ。前の3曲は古い宮廷舞踊を復曲させたもので、アルスの極みのような曲。「パンジー」は単独舞踊(トゥンガルは1人の意)だが、もともと2人でやる曲を1人でできるようにガリマン氏がフォーメーションを変えたもの。この曲については『水牛』2015年10月号に寄稿した記事「パンジ・トゥンガル」を参照。次の2曲は戦いもの。優形同士のキャラクターの戦いである。「カルノ・タンディン」は複数つながっている曲の最初が、スリンピでも使う「ゴンドクスモ」。グンディン・クタワン形式の曲で、この形式の曲はスリンピでいくつか使われるけれど宮廷舞踊らしい曲でラサ(味わい、感覚の意味)を出すのが難しい。「パラグノ・パラグナディ」は戦いの場面に続くシルップの場面でイラマIVが出てくるところが難しい。このテンポが出てくるのは、私が知る限りではこの舞踊だけ。

「バンバンガン・チャキル」は見目麗しい武将と羅刹チャキルの戦いもので、チャキルは荒型である。昔から商業ワヤン・オラン舞踊劇で人気の、スラカルタを代表する演目だ。この演目についても『水牛』2004年6月号に寄稿した記事「バンバンガン・チャキル」で書いている。この授業では、学生はチャキルを踊ってくれる相手方を自分で探し、授業外に自分たちで振付を考えて試験に臨む。相手役は同じクラスの人でも、他のクラスや学年の人に頼んでも良い。決まった振付がないのは、昔から踊り手が振り付けるのが伝統だからとの理由だったが、4年生後期のカリキュラムになっているので、自分で振り付られるようになって一人前ということなのだろうとも思う。

留学を終えて2003年の夏、ジャカルタで「スリ・パモソ★」を習う。これは宮廷舞踊家クスモケソウォ(私の宮廷女性舞踊の師匠であるジョコ女史の舅)の曲で、2003年2月に上演された。その経緯については、2020年11月号『水牛』に寄稿した記事「『スリ・パモソ』作品と復曲の背景」に詳しいが、その時に復曲させ踊ったスリスティヨ・ティルトクスモ氏に習った。私はその復曲の過程も見ていて、さらにその曲も自費録音させてもらっていたので、格別の思い入れがあった。

どうよう(2023.10)

小沼純一

あたま いた
あたま いた

あたま いない
いない いない

あたま いる
あたま いらない

あたま いたい
あ たま いたい
いた いた いたい
いなかった

いいときは
わるいこと
わるいとき
おもい
ださない
おもい
だし
にくい

かならず
でも
いつも
でも
ないけれど
わるいときにわるいこと
おもいだし
つづいてゆくと

たべるのにつかってるから
はなしのためにはつかわない

のり
つくだに
つけもの
うめぼし
とうふ
たまご
とまと
しらす
みょうが
だいこんおろし
なっとう

しょくよくなくて
じかんがかかる

たまにもれる
みじかなけいよう

あまい
にがい
こい
うすい
かたい
からい

しずかなしょくたく
はしのちゃわんのおとばかり

ひとくちおわると
ためいきひとつ
ひとくちのこる
おみおつけ

ひきどをあけて
しょうじをあけて
もひとつ
がらすまどあけて
あまどをとぶくろに
あみどももどし
えんがわに
えんがわまえのくつぬぎいし
なにもない
つっかけないから
はだしのまんま
にわおりて
あしうらにははっぱやじゃり
いたいくすぐったい
きもちいい
きもちわるい
わかんない
このままどこかにいっちゃいたい
いけのきんぎょは
どこかつれてってくれるかな
かえるとくらすのどうだろな
へいのむこうはいけなそう
にわからそとはどうだろう
いつかいつか
へいのどこかわれるまで

『アフリカ』を続けて(28)

下窪俊哉

 前回は途中まで呑気に「出来ないこと」と「帰ってくる場所」について書いていたが、向谷陽子さんの突然の訃報を電話で受け、しばらくは耐えていたが、もうこれ以上は書けないと思い、亡くなったことを伝える文章を添えて、それで終わりにした。
 ふり返ってみれば、亡くなった夜に、私はそのことをまだ知らなかったが、『アフリカ』に送られてきた「言葉にならない喪失の体験」について書かれた文章を読んで、返信のメールを書いていた。何日かたって、そのテキストが、私の気持ちに寄り添ってくれるように感じられてきた。何も言わない、何かよくわからない音の中で、一緒に座っていてくれている。

 いろいろなことを思い出しながら、これまでに向谷さんが『アフリカ』の表紙のために切った作品、切り絵をスキャンしたデータを整理して制作順に並べ、パソコンの画面上で眺めてみた。
 亡くなった直後には、次号の『アフリカ』へは切り絵が届かなかったのだから、切り絵が不在の、文字だけが置かれた表紙の『アフリカ』をつくろう、と考えていた。それが『アフリカ』にとって喪に服すというか、追悼の仕方になるだろう。あの有名なホワイト・アルバムのように? 急に訪れた大きな転機を前に、まずは白紙を受け入れよう、と。しかし彼女が『アフリカ』に寄せた全81作品をくり返し眺めるうちに、考えは変わってきた。編集人が意図的に、喪失や不在を際立たせるようなことは、しない方がいい。これまでと変わらず、一緒につくろうじゃないか。
 向谷陽子の作品は、切り絵としての技を見せつけるようなところがない。いま何を切りたいかというモチーフ集めから始まり、そのデザインと、切り絵という方法が、上手く絡めば絡むほど力強い〈絵〉となる。
 毎号、表紙と裏表紙のために、2枚の新作を送ってもらっていた。
 81作あると書いたが、『アフリカ』最新号はvol.34なので、合わせると68作。残りの13作は表紙にも裏表紙にもなく、ページの中に置かせてもらうようにしていたが、殆どは目立たない扱いになっている。とくに初期の頃は、余力があったのか暇があったのか、そうではなくて試行錯誤の結果だったのか、多めに送られてくることがよくあった。中には、切った作品を鮮やかな色の和紙のようなものに貼り付けた、カラーの作品もある(『アフリカ』は全てモノクロ印刷なので、その色は消えてしまったのだけれど)。
 作者本人は、私から誘われるまでに自分の作品を発表しようと考えたことが、一度でもあったかどうか。『アフリカ』を除くと、おそらく知人・友人に宛てたハガキぐらいでしか”発表”していないはずである。
 私たちは20歳前後の頃にア・カペラのコーラス・グループをやっていた関係なのだが、その時代の友人たちは殆どが疎遠になり、いまでは音信不通だ。『アフリカ』に書いている人たちは、ほぼ全員、彼女と顔を合わせたことがない。やりとりも私との間にしか存在せず表にも出てこなかったので、どういう人だったのか、誰も知らない。親しみを覚えつつ、「どこかミステリアスな存在だった」と話してくれた人もいる。
 みんなが知らない人の追悼文集は、つくれそうにないし、唯一人私の中にあるのは、ごくごく個人的な思い出ばかりだ。外向けに発表するようなものではないだろう。『アフリカ』の切り絵についてを例外として。
 そんなことを考えながら過去のデータを探っていたら、2013年の夏に珈琲焙煎舎で開催した「『アフリカ』の切り絵展」の記録写真が出てきた。それを見て驚いたのだが、展示用に選んでもらった作品のひとつひとつに、作者のコメントが添えられている。すっかり忘れていた。ああ、彼女のことばが、残っていた。当時のコメントを読んでいると、それがきっかけとなって思い出されることが、また次から次へと出てきた。
 そして、これを使わせてもらって、向谷さんとつくる最後の『アフリカ』を編んでゆこう、と決めた。

 7月、最後に手紙を書いた時に、いま、ハーモニー・グループの話を書いているよ、と伝えたのだった。若い頃、もっとも身近にあったそのことをなぜか書いたことがないと気づいて、というのは半分嘘で、かつての自分たちをモデルにしたわけではないのだが、でも半分は本当だ。あの経験と、いま書いている原稿は、きっとどこかで通じているはずだから。
 その原稿は8月末の時点でかなりのところまで進んでいたのだけれど、思うところがあって一度止め、はじめから書き直すことにした。自分の中の気分というか、音の響きが、あの出来事によって大きく変わってしまったから。

 思い出すのは昔のことが多いのだが、『アフリカ』の今後にも目を向ける。最近、自著を出した仲間がふたりいるので、その2冊については、内容を深めたり、拡げたりするような企画を『アフリカ』誌上でやりたい。
 そんなふうにして、『アフリカ』はまた、自然と浮かび上がってきてくれた。

 それにしても、これで『アフリカ』はますます止められなくなってしまったと思う。向谷さんに「わたしがいなくなったから『アフリカ』が終わってしまった」と思われたくないから。この後、『アフリカ』の表紙のバトンを受けてくれる人は、どんな人だろう。いまは何も決められない。アイデアを胸に秘めて、なりゆきの風に吹かれていたら、きっとまた、よい出会いはあるだろう。でも、いまは何も決められない。
 そこで私はハッとする。ああ、そうだった、『アフリカ』は、続けないんだったね! 続けようとしない。ただ、次の1冊をつくるだけだ。またそうやってやってゆこう。

むもーままめ(32)2023年8月3日

工藤あかね

凍える雲

透きとおる青を覆うのは
氷河を映し取った夏雲
見上げれば
地の溶炉をひととき忘れる

あきれるほどに
蒼白の敷布は果てしなく
水の波紋は
時の記憶を封印する

大胆に連なり
浮かぶ氷山は
なにものにも侵されず
矜持に満ちる

極東のちいさな檻で
囚われの白熊が遠吠える

天は血に染まり
凍える幻想は
しらじらと溶けた

話の話 第7話:まずいかうまいか

戸田昌子

友達と待ち合わせをした。約束したJR御徒町の駅前に、わたしより早く到着した友達は「いま⚫︎⚫︎ダ焼きの前にいます」とメッセージを送ってきた。慌てたわたしは「まって!⚫︎⚫︎ダ焼きは買っちゃだめ!」と大急ぎで電車の中からメッセージを送った。なぜならそれは「⚫︎ンダ焼き」と名前はついているものの、中身はあきらかに、あの「ベビーカステラ」だからである。飲みすぎた深夜などに正気を失った状態で買ってしまうあれは、いつもおいしかったことがない。それを知っていながらつい買ってしまうのは、その実態に反してそれがいつも、とてもおいしそうな匂いを発しているからである。鳩尾いわく「買って後悔しなかったことがない」という代物。街中でそうそうまずい食べ物に出会うことが少なくなった昨今でも、毎回ハズレを引くことが可能な食品として名をはせている。

21世紀に入って、世の中からはそうそうまずい食べ物が減った気がする。20世紀には、どこか出かけた先でえもいわれぬ食べ物に出会うチャンスがあった。尾道のバケツチャーハンとか、四谷駅前の「来々軒」の手のつけようのないほど伸び切ったラーメンとか。ちなみにこの店の、味の逃げ場のないチキンライスは影の最強で、自分を試してみたい時に頼むのがオススメだと夫は主張するが、わたしは試したことがない。一方でおいしい食べ物に出会う才能のある人というのはいて、数ある選択肢のなかで抜群のセンスを発揮して、アタリの店を引くのである。そういう人は「わたしは食いしん坊だから、ぜったい失敗したくないから勘が働く」のだと説明する。わたしはその真逆のパターンで、「ここでいいかなー」と手を抜いて選び、口に入れたとたんに無の表情になってしまうことがしばしばある。たとえばいま住んでいる駅前に、かつてあったそば屋。味わい深い下町にあこがれて転居を決め、昼飯を食べようとなって、それならそば屋なんかいいんじゃないかと夫とふたりで入ったその店で、わたしはざるそば、夫はかけそばを頼んだ。しかし夫はあろうことか、なぜかそこで大盛りを頼んだ。特大のどんぶり鉢で運ばれてきたそれには、運んできた店主の親指が、汁のなかに見事にインしていた。つまりは汁が十分に熱くないのだということがすぐに見てとれる状態だったということである。茹で上がったそばのぬめりを洗ったあと、湯をかけて温め直す手順は省かれたのだろう。ぬるいかけそば大盛り店主の親指入り。そしてそば自体も汁からこんもりと溢れかえり、さすがの夫も食べ切ることができなかった。ひそひそと「なぜ大盛りを頼んだの……」とたずねるわたし、「だってお腹がすいてたんだよ……」うつむきがちに答える夫。その店は数年後に潰れ、そのあとコンビニになった。

昭和の時代には、もらったはいいけれどまずいご当地土産というのもよくあった。たとえばハワイ土産の定番だったマカダミアナッツチョコレート。わたしの小学生時代はバブル全盛期で、八百屋のおやじさんでさえゴルフ会員権などを買っていた時代である。我が家はバブルの恩恵を受けることがなかったので、わたしはといえば、その八百屋で白菜2個、キャベツ1玉、玉ねぎ2袋、にんじん2袋、ピーマンに長ネギなどのご無体な買い物をひとりでしていた小学生であった。話を戻すと、マカダミアナッツチョコレートである。このころはハワイ旅行が流行っていたので(松田聖子全盛期であるからして)、クラスに2、3人が、夏にハワイへ家族旅行する。すると土産は当然、マカダミアナッツチョコレートになる。夏休み明け、得意げに教室で配られるそれは、日本では馴染みのないナッツが入っていて、それがマカダミアナッツであった。ナッツと言えばピーナッツかアーモンドくらいしか食べたことのない小学生にとっては、甘すぎるチョコレートをまとうこってりと油っこいそのナッツは、確かに珍しいものだった。しかし、牛肉すら食べたことのなかった昭和の欠食児童にとり、マカダミアナッツの油脂は強すぎてお腹に重たい。チョコレート自体も、日本のチョコレートと違ってざらざらと溶けにくいし、とにかく甘ったるい。はっきり言えば、まずい。ハワイのなんたるかすらよくわからない小学生にとっては、羨ましくもなし、おいしくもなし、という、えもいわれぬ記憶として残っている。ちなみに牛肉はその後、関税自由化の影響によって、わたしの口にもしばしば入るようになった。

チョコレートと言えば、連想するのは大相撲チョコレートである。わたしの母の叔父、すなわち大叔父が福島の人で、百姓であった。彼は大相撲が大好きで、大相撲のお茶屋さんで長年アルバイトをしていた。本場所期間中は東京、大阪、名古屋、福岡、いずれにも行く。東京場所のときは、我が家に滞在する。百姓らしい、たくましい小さな体を持ったすてきな人だったが、鎌で自分の指を切ってしまい、病院へ行かず放置したら、その形のままくっついて、変な方向に親指がくっついている。とまれ、大相撲では、やきとりや赤飯などのお弁当が提供される。大叔父は余った弁当をいつも持ち帰るので、我が家の欠食きょうだいたちは、それを温め直して食べるのを楽しみにしている。いつも谷内六郎の絵がついたふりかけが配られるので、おまけのカードを集めるのを楽しみにしており、谷内の絵にはそれで親しんだ。そして場所中に1回、大叔父がかならずお土産に持ち帰るのが、この大相撲チョコレートである。「力士人形チョコレート」と言われているらしいそれは、お相撲さんの姿をかたどった小さなチョコレートが、大きなお相撲さんのチョコレート2体を取り囲んでいる。子供達はそれをひとつずつ食べる。もちろん頭からぱくりといくのである。一方、大きなお相撲さん2体も平等に分けられなければならないから、当然それは解体されることになる。おやつを公平に分配するのは当時、わたしの仕事だったから、わたしは大きな包丁を出してきて、力士を切り分ける。切りやすいところで切るので、もちろん首はばっさりいかなければならない。包丁に力を入れながら、ザク、ザク、と力士を解体していく。胸とお腹もばっさり。まわしもばっさり。若干の良心がちくちくと痛む作業である。なぜこんな食べにくいものを作ったのかと毎回、うらめしい思いになる土産であった。チョコレート自体は、おいしかった。

どうしようもなくまずい店といえば、忘れられないのが、当時住んでいた亀戸の中華料理屋「⚫︎⚫︎ダ」である。友人となにか話があって、そのあと飯を食っていこうとなって、わりといつも繁盛しているから、という理由で入ってみた。チャーハンと春巻を頼んだ。値段は安いが、量は多いと言うので、とりあえずそれだけ頼んだら、まずチャーハンが来た。見た目は水っぽいおじやのようである。パラパラなんていう概念とはかけ離れている。そして、量がとんでもなく多い。まわりを思わず見まわしたが、みな普通に食べている。一口食べてみたら、もちろんまずい。なにせ油の滲みたおじやなのだから、おいしいわけがない。どうしよう、食べ切れるかな、と不安になったところで、次の皿が来た。頼んだ覚えのない料理のように見えた。キャベツの千切りのとなりに、不思議な物体が乗っているのである。「え、これ、なんですか」と尋ねる。「春巻デェス」と店員が答える。春巻。それは、野菜や肉を春巻の皮で包んだ食べ物のはずなのだが、それは明らかに爆発している。そして焦げている。どう見ても揚げることに失敗した春巻である。普通こんなものを出すか、と思ったのだが、もしかしてこれはこの店のスタイルかもしれない。食べてみたら意外といけるかも?……結論から言うと、それは完全に、油で揚げた生ゴミであった。言い換えると、食べられる生ゴミ。もちろん食べきれない。友人とふたりで、これは無理だとなって店を出ることにし、会計を頼んだ。食べ残しを見た店員が「包みますカァ」と言う。断るのもなんなので、包んでもらう。なんだかしけた気分になって友人と別れて帰路についたが、それを家に持ち帰ることになんだかイラっとしたわたしは、途中で見つけたゴミ箱に袋を叩き込んでしまった。あんなに驚いた中華料理はそれ以降、まだない。

ちなみにその店は、なぜかわからないが繁盛を続け、その近所にもう一軒、「ニュー⚫︎⚫︎ダ」という店を出店した。亀戸民の味覚は信用できない、と心に刻んだ出来事であった。ちなみに亀戸は変な町で、30数年前、駅の敷地内の土手でヤギが飼われていたことも忘れがたい。通学時に電車に乗っていると、亀戸駅にしばし電車が停車しているあいだ、窓の外にヤギが杭に紐で繋がれているのが見える。「ヤギ」と思う。それは確かにわたしの乏しい知識においてもヤギなのだが、なぜそこにヤギがいるのかはわからない。今と違ってインターネットもないし、理由を尋ねる相手もいない。だからわたしはいつも車窓からぼんやりヤギをみつめ、ヤギは草を見つめ、しばし「ヤギ」と思ったあと、電車が発車する。そんな状態は十数年続いたが、いつのまにかヤギはいなくなり、記憶のかなたへと消えた。そのうち21世紀に入ると、ヤギがいたその場所には小さな畑が作られて、大根が栽培されはじめた。それが亀戸大根であった。ちなみに亀戸大根は、小ぶりで味が強くて、とてもおいしい。

まずいかどうかを確認することが身の危険をともなうケースもある。ある事情で、数年間、大阪に住むことになった。家探しのために内見をしていて、移動のためにタクシーに乗っていたときのこと。あちらこちらで「スーパー⚫︎出」という派手派手しい看板が目につく。話すともなく、「よくこの看板みかけますね。地元のスーパーなんですか」と運転手に話かけると、「あぁ?地元。まあいろんなとこにありますわねぇ。僕はよう入らんのですけど」と口を濁された。不思議に思ったがあまり気にせず、そのことは忘れる。のちに大阪で知り合ったパパ友とその「スーパー⚫︎出」の話になったとき、とにかく安いが品が悪く、特に惣菜は腹を下す確率が高いので自分は入らない、と説明してくれた。「でも」と彼は言う。「飲んだくれて気が大きくなって、つい⚫︎出のポテサラを買ったことがあるんやけど、まぁ腹は下した」のだそうである。ポテサラで腹を下すとはかなりのレベルの危険値である。やはりポテサラは家で作るべきなのだろうか。自分の身をもって確認する勇気の出ない案件である。

なぜ、ひとは、まずいとわかっている食べ物に手を出すのか?それは勇気なのか、それとも自暴自棄なのか。これひとつとっても、ひとは必ずしも合理的な判断をする生き物ではないということが証明されている気がする。

確認できない、といえば、謎肉。わたしは大阪で謎肉に出会った。大阪では肉と言えば牛肉で、カレーにも牛肉が入るのだと聞き及び、東京では基本的に豚肉を入れていたわたしも、大阪に住んでいたころはなんとなく牛肉を入れてみることが多かった。こころみに「カレー用の肉をください」と言ってみると、薄切りの牛肉が提供される。おおこれが大阪か、と感心することしきり。しかしあるとき、ふとみかけた肉屋で、こんな張り紙があった。「牛肉」「鳥肉」「豚肉」に続けて、「肉」と買いてある。肉といえば牛肉、ということかとも思ったが、牛、鶏、豚はすでに出ている。そして「肉」である。この店でもし「お肉ください」と言ったらこの謎肉が出てくるのだろうか。そしてその肉は一体なんの肉なのであろうか。試してみる勇気は出なかった。

ある日、鳩尾が「どうしても食べろ」と言うので、「祇園饅頭」のみそ餡の柏餅を食べることになった。これはわたしと鳩尾の間で長年懸案になっていた食べ物である。というのも、ある日、わたしが「柏餅といわれて食べてみたらみそ餡だったらがっかりする」と言ったら、鳩尾は「みそ餡はおいしいですよ」と主張して大論争になったのである。わたしは「もちろんみそ餡でも食べないわけじゃない。一口くらいなら食べるけど、やっぱりあんこ」と大譲歩してみたが、鳩尾は納得しない。「祇園饅頭のみそ餡は格別だ、これを食べたら考えが変わる」と鳩尾は言うのだが、「でもみそ餡はみそ餡でしょ。柏餅はあんこです」と反論するわたし。ふたりとも肝心なところで譲らず、いっときはそれで喧嘩別れしそうなほど険悪になった。販売時期が6月のみという期間限定である上、日持ちもしないのでわたしに郵便で送りつけることもできずじりじりとしていた鳩尾は、わたしが6月に京都を訪れたタイミングを見計らって祇園饅頭のみそ餡の柏餅をいそいそと持参した。「これなんすか」「祇園饅頭のみそ餡柏餅です」「これをわたしに食べろと」「もちろんです。だっておいしいから」「そりゃおいしいでしょうが……」「まあ食べてみてくださいって」と押し問答したのち、ぱくり。「あー……うん。おいしいですね」。鳩尾、満足。お茶まで差し出してくれた。長年の懸案がひとつ片付いたものの、これでよかったのか。少なくとも、今後、わたしがみそ餡の柏餅を食べるたびにそのときの鳩尾のドヤ顔が浮かんでしまうことは間違いない。

誰だっけ

篠原恒木

ヒトの顔と名前が覚えられない。
複数回会って、打ち合わせや食事をしているのにもかかわらず、その本人を目の前にすると、
「ええと、このヒトは誰だっけ」
という事態に直面することがしばしばある。

顔は認識しているけれど名前が出てこない、というケースなら、まだマシなのだが、顔も名前も、その両方が我が記憶中枢から消去されているのだ。これは深刻なモンダイだ。

先日も南青山の裏道を歩いていると、美しい女性に声を掛けられた。
「シノハラさーん」
誰だっけ。こんなきれいな女性と知り合いだったっけ。おれは狼狽しながらも、手掛かりを探すべく、相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。こんなところで何をしているんですか」
「やだ、私の会社、すぐそこですよ。シノハラさんも何回かいらしたじゃないですか」
そう言われて、さらに激しく狼狽したおれだが、相変わらず目の前の女性の素性がわからない。
「そっかそっか、ははは。ですよねですよね。お元気そうで。ではまた」
おれは逃げるようにして、その場を立ち去る。誰だっけな。五分後に思い出した。つい一か月ほど前に二人で食事もご一緒した、アパレル会社でプレス業務をしている女性だった。やれやれ、さしむかいで最近めしを食べているのにこの有様だ。

ある夜、経堂の農大通りを美女と二人で歩いていると、おれの名前を呼ぶ別の女性の声がする。
「あれ、シノハラさん?」
おれはその声のする方向に顔を向ける。声の主はTシャツにショート・パンツでサンダルを履き、手にはスーパー・マーケットのレジ袋をぶら下げていた。
誰だっけ。まったくわからない。おれのそばを歩いていた連れの美女は、リスク・ヘッジのためか、サッとおれから離れ、無関係なそぶりをしてくれた。またもや狼狽していたおれはココロの中で彼女に手を合わせながらも、手掛かりを探すべく、ここでも相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。ぐ、偶然ですね。こんなところで何をしているんですか」
「やだ、私の家、すぐそこですよ。シノハラさんこそ、こんなところで何しているんですか」
おれの家は経堂からとても離れたところにあるので、この逆質問はじつに的を射たものであった。ニンゲンは核心を突く質問に対してあまりにも脆い。
「んと、えと、ちょいと食事をしようかな、と」
「わざわざ経堂で? お気に入りの店があるんですか」
「んと、えと、あるようなないような。あるといえばある、のかな」
「えっ、どこ? どこ? アタシが行ったことのある店かな」
おれはしどろもどろになりながら、焼肉店の名前を教えた。
「ああ、あそこはアタシもときどき行きますよぉ。美味しいですよね」
「うん、美味しい美味しい」
「いつもお世話になってます。偶然ってあるんですね。ではまた」
謎のレジ袋ぶら下げ女性はにこやかにそう挨拶すると、おれから去っていった。
一緒に歩いていた美女がおれのそばに戻る。
「お知り合い?」
「そのようだけど、誰だかわからないんだ」

後日、経堂で遭遇したあの女性からメールを貰った。「あのときはどうも。あんなところでお会いするなんて」という内容だった。「失礼いたしました」とも書かれていた。失礼したのはこのおれなのだが、この「失礼」とは、「女性連れなのに声を掛けて、立ち話を続けて失礼しました」という意味なのだろうか。しまった、気付かれていたのか、と思ったが、すぐに「まあどうでもいいかぁ」と思うことにした。おれが偶然に会ったのは、広告会社に勤務する女性で、何回も仕事で会っているヒトだった。

この二つのケースに共通しているのは、
「思いもよらぬ場所で、急に遭遇した」
という点である。おまけに後者のケースは、相手が普段とまったく違う格好をしていたので、完全なる不意打ちを喰らった格好になる。だが、二人の女性とも仕事で浅からぬお付き合いをしているヒトなのだ。つくづく「顔と名前を覚えられない」のは不都合が多い。

パーティが嫌いなので、どうしても顔を出さなければならないもの以外は欠席することにしている。たまに出席しても受付に案内状と名刺を置き、会場に入っても十分後には退出してしまう。おれのパーティ嫌いの理由のひとつは、
「会場で声を掛けられても、そのヒトが誰だかわからない」
というケースがあまりにも多いからだ。最近のパーティでは名刺をホルダーに入れて、胸元に付けている場合が多いが、おれは視力に問題があるので、名刺に書かれている名前が読めない。なので、そういうヒトからいきなり挨拶されても「誰だっけ」という状態になる。だが、まさか目の前に立っているヒトの胸元に顔を近づけて、名刺をまじまじと見るわけにはいかない。おれは狼狽しながらも手掛かりを探すべく、ここでも相手に調子を合わせる。
「どうもどうも。最近どうですか」
「いやぁ、どうもこうもないですよ。ボチボチやっております」
おれの発した質問はむなしく空振りに終わった。相手の答えはあまりにも形而上で抽象的ではないか。仕方なくおよそ二分間、おれは相手の素性がわからないまま会話を続けて、
「ではまた」
と話を切り上げ、そそくさと立ち去ることになる。声を掛けられたときに、
「失礼ですが、どちらさまでしたっけ」
と正直に質問する度胸はおれにはない。そんな質問をしたら、相手は不快に思うに決まっているではないか。反感も買うだろう。何様のつもりだと思われるに決まっている。

この「ヒトの名前と顔が覚えられない」というオノレの性質、いや、もはや欠点が顕著だなぁと思うのは、あらかじめアポイントをとって、カイシャにいるおれを訪ねてきてくれたヒトに会うときだ。
「ちょっとご無沙汰していました」
相手がそう言っても、おれは、
「あれ、このヒト、こんな顔をしていたっけ。でもって、このヒトの名前、何だっけな」
と背中に嫌な汗をかいている。わかるのはこのヒトが所属しているカイシャの名前と、このヒトがどんな仕事をしているかだけだ。近頃ではマスクを外して顔を全面的に見せてくれるので、おれはますます混乱して、顔も認識できず、名前も出てこなくなる。

若い時分からこのような状態なので、最近では完全に開き直っている。
「だいたい仙台で務めているのに名古屋という姓はおかしい。広島本社勤務なのに山口という姓はややこしい。紛らわしくて覚えられないではないか」
そんな言いがかりのような屁理屈をつけて、オノレの欠点を覆い隠そうとしている。
だが、世にも珍しい名前なら覚えられるかというと、これもきわめて怪しい。初対面のときに名刺をいただいて、
「珍しいお名前ですねぇ」
と言って、このヒトの名前なら覚えられるだろうと思ったのだが、
「あれ、三十郎だったっけ、藤十郎だったっけ、何だっけ」
という事態になり、名刺の束を捜索したら「傳十郎」だった。その傳十郎さんの顔も覚えていない。挙句の果てには、次のような不遜極まりない思いが頭に浮かぶ。
「名前が平凡なヒトは、絶世の美男美女か、あるいはその逆か、どちらかにしていただきたい。強烈なヴィジュアルを備えていなければ、このバカなおれがいちいち覚えられるわけがないではないか」

自分の顔を鏡で見てうっとりするような趣味もないので、顔や手を洗うときにチラリとオノレの顔を見るだけの毎日だが、ときどき驚くことがある。
「おれはこんな顔をしていたっけ」
眼鏡を外した自分の顔は見知らぬ他人のように思える。だが、この顔が六十三歳のシノハラ・ツネキの顔なのだろう。不思議な気分だ。そうなのだ。曖昧なのはヒトサマのお顔だけではないのである。

なので、どうかおれを街で見かけたときは、そっとしておいてほしい。そのほうがお互いのためなのだ。そしてこの場を借りて、我がツマにもお願いをしておきたい。おれを街で偶然見かけたときは、一緒に歩いている女性が存在する場合もごくたまにあるので、どうかそっとしておいてほしい。そのほうがお互いのためなのだ。

尾を引くように~「塩狩峠」から

北村周一

塩狩峠というタイトルの映画を観たことがある。原作は三浦綾子。
調べてみると1973年に公開された映画で、監督は中村登、音楽は木下忠司、脚本は楠田芳子との記載があった。
北海道の塩狩峠付近で実際に起きた鉄道事故が下敷きになっているのだが、小説は読んでいない。この映画を公開されてほどなくに観たように記憶している。その記憶が比較的鮮明なのは、いやいや観に行ったからだと思う。
当時親しくしていた大学の同学年の友人、水沢パセリ(彼のペンネームである、自称詩人)にしつこく誘われたからである。
水沢パセリはその頃プロテスタントの教会によく出入りしていた。
といってもキリスト教に入信したというわけでもなく、ただ英会話の勉強のために通っているというようなスタンスだった。
数人の熱心な信者さんたちからこの映画を観るようにいわれて、引くに引けなくなったのかもしれない。それでみんなで池袋駅前の映画館文芸坐へ観に行くことになった。
文芸坐は、上京したての頃の下宿先が雑司ヶ谷鬼子母神前にあったので、ほぼ毎日のように通った映画館であった。いつも満員だった。地下も地上も入館料は百円の時代だった。
ところでこの松竹の映画「塩狩峠」は封切りだったのだが、残念ながらお客さんはわずかだった。俳優座の役者さんたちが大勢出ていて、映画自体は丁寧に作られてはいたのだけれど……。それからみんなして教会のある世田谷の経堂までもどった。
じつはその頃の下宿先は、このプロテスタントの教会のすぐ西側にあったお宅の二階を間借りしていたわけで、さらに水沢パセリはこの教会の東側にあったアパートの二階に下宿していたのである。
同じ大学同じ学科といっても大量の学生が通ってくるのだから、神田駿河台にあった学内で遭遇することはめったになく、そもそも水沢パセリとの出会いはいかがなものであったのか、それを書いておこうと思う。

思い起こせば当時の神田駿河台は荒れに荒れていて、まるでバラックの中に学び舎が存在しているような感じで、真面目に学問するような雰囲気からは縁遠いところにあった。
とはいえ学内にはそれなりにさまざまな研究会があり、取り敢えず美術研究会に籍を置いてみることにした。研究会の顧問は東京都内の画家のようで、渋谷にあった画家個人のアトリエを開放していた。青山研究所といわれていたように記憶している。そこで一、二回デッサンを試みたのだけれど面白くなくて通うのを止めてしまった。一度だけ飲み会に参加したことがあった。そこに賑やかな男がいてそれが水沢パセリだった。ようするに青山研究所は絵を描くためというよりも、一種の溜まり場になっているらしくそれはそれで興味深かったのだが、それきりになってしまった。
それから時間が経って、雑司ヶ谷から経堂に移り住んでしばらくしたのち通りを歩いていたら、向こうから見覚えのある男が近づいてきた。
じっと見ていたら向こうも気がついたらしく、互いにアッと声を上げてそれから互いの下宿先を指差したのであった。
あまりに近いから毎日のように行ったり来たりした。
そうこうしているうちに、プロテスタントの教会が出来上がったのである。

さて映画「塩狩峠」についても少しだけ触れておきたい。
調べてみたら、音楽の木下忠司と脚本の楠田芳子は兄と妹であることを知った。
ともに静岡は浜松の出身であることも。
この二人の兄が、映画監督の木下恵介である。
木下恵介が監督した映画やテレビドラマの音楽の大半を実弟の木下忠司が担当していた。
たとえば1957年公開の「喜びも悲しみも幾歳月」。
この主題歌は、映画とともに大ヒットした。
テレビドラマでは、TBS系列で1970年~71年にかけて放映された木下恵介アワーの中の「二人の世界」。あおい輝彦歌う同名のこの主題歌もドラマとともにヒットした。
このテレビドラマの主人公は、竹脇無我と栗原小巻。栗原小巻の弟役がソロに転じたばかりのあおい輝彦であった。あおい輝彦は、このドラマ出演の3年前まではある4人グループの一員として活躍していた。いわゆるアイドルであった。

  どこまでも尾を引くようについて回る固有名詞が顔を出すとき

散歩

植松眞人

 散歩に行こうと誘ったのは向こうだった。なにか話したいことがありそうな口ぶりだったので、電話を切った後、すぐにスニーカーをつっかけて川沿いの道の方へと歩き始めた。向こうも同じようにスニーカーをつっかけて、どこか慌てて出てきたように見えた。自分から誘ったくせにと思ったけれど、やあ、と小さく手を上げて声をかけた。向こうも、やあ、と声を出した。
 大きな橋がかかっていたが、そこには入らず、土手をまっすぐに歩いた。歩く速度は普段よりもほんの少し遅くて、いかにも散歩といった感じだったが、それが向こうの散歩の速度かどうかはわからなかった。そういえばこんなにわかりやすく一緒に散歩したことはなかった。一緒に歩いたことはあったけれど、どこかに行くために電車の時間を気にしながら、とか、たまたま同じバスで帰宅して、ぼんやり家の方角へ一緒に歩いたり、とか。歩くことを目的とした、散歩、という行動自体をもしかしたらしたことがないのかもしれない。それなのに、その散歩デビューを事前の打ち合わせもしないまま始めてしまったことが普通のことなのかどうか、歩きながらずっと考えていた。
 向こうも同じように考えていたのか、ときどきこちらを見ている。さぐりさぐり、あたりの景色の中に自分たちがちゃんと溶け込んでいるのかを確かめながら歩いているようだった。同じ川沿いの道を歩いてるはずなのに、向こうは川向こうを歩いているように感じられたりもした。不思議なのは向こうがときどきふいにこちらに来たり向こうに戻ったりする感覚があることだった。それでも一緒に歩き続けているとオレンジ色のきれいな花が自生している場所を通ることになった。遠目には丸いイメージなのだけれど、間近で見るとその花びらは細長く、それがたくさん集まって丸いフォルムを作り出しているのだった。
 こちらはその花を初めて見たような気分だったが、どうやら向こうはその花に慣れ親しんだ気持ちを持った様子で、明らかに表情がほどけている。そして、何を考えたのかその花の一本に手をかけて、すっと抜き取った。力を込めなくても、抵抗なく抜けたように見えたことがなんとも気持ちが悪く、向こうがまるで手品でも使ったかのような印象だった。なんとなく負けてはならんという気持ちが芽生えて、同じようにオレンジ色の花の一本に手をかけてすっと抜こうとすると、思いのほか抵抗が強い。歩きながらスッと抜こうとしたのに、歩みを引き留められるほどに抵抗があった。向こうがそれを見ながら笑う。結局、花は茎から抜けず、そのままスライドした私の掌がオレンジ色の花を握りつぶすことになった。
 その後の散歩中、向こうはオレンジ色の花を手に持って歩き、こちらは掌の中に生々しい感触を持ったままだったが、向こうの花は暑さのせいかあっという間にしおれてしまい、こちらの花の生々しい湿気と、掌に擦り付けられたオレンジ色は向こうと別れて家に帰ってからもなかなか取れなかった。

古本まつりで出合った1冊

若松恵子

お盆休みにふらりと寄った池袋西武の別館で、古本まつりが開催されていた。時間に余裕があって良かったと思いながら覗いてみた。個性的な古書店がいくつか集まっていて、児童書や雑誌、サブカルチャーの分野の本も多く並んでいて、こんなのあったねと懐かしく思う本や書評が心に残っていたけれど現物を見るのは初めてという本もあって(たいてい頭にくるほど高い値段が付けられている)わくわくしながら棚を眺めていった。

実家に持っていく手土産を買いに来たのだから、そうたくさん本を抱えるわけにはいかないと自分に言い聞かせながら見ていくうちに、井田真木子の『フォーカスな人たち』という新潮文庫を見つけた。井田真木子は好きなノンフィクションライターだったけれど、この著作については全く知らなかった、見かけたこともなかった。文庫本なのに透明なカバーがかけられ、きれいな保存状態で、古書店が大切に扱ってきたような感じが本にあって、その点にも魅かれて買うことにしたのだった。「古書と古本 徒然舎」という水色の小さな紙が最後のページに付いていた。古書店の住所は岐阜市美殿町だ。

『フォーカスな人たち』は、雑誌「オール讀物」に連載した記事をまとめて『旬の自画像』として文藝春秋社から出版したのち、文庫化にあたって大幅に加筆し、書名も変えて出版されたものだ。1980年代半ばから90年代初頭までの10年間、バブルと呼ばれた時代に注目され、はやしたてられ、無残に退場し、そして忘れ去られた5人の人たちの肖像が描かれている。

登場するのは黒木香、村西とおる、大地喜和子、尾上縫、細川護熙。『フォーカス』という写真誌ともども、今ではすっかり忘れ去られた存在だ。いたね、そういう人、という感じだ。ある時期テレビや雑誌でたびたび目にしたけれど、自分には縁が無いと思っていた人たちだ。井田真木子がこんな有名人を取り上げるのか?という違和感も少しあった。しかし、読んでいくうちに「勝手に持ったイメージで決めつけていてごめんなさい」という思いになった。特に黒木香については、イメージが変わってしまった。自分とは縁が無いと思っていた人たちの物語に引きこまれて読んだ。

連載時の担当編集者だった白幡光明が『井田真木子著作撰集2』の巻末付録の対談の中で印象的なことを語っている。「非常に質の高い優れた作品なんですが、あまり売れなかった(笑)。彼女が焦点を当てるところを理解できる人が少なかったんですね」と。また、彼が大宅賞の候補作として『プロレス少女伝説』を初めて読んだ時の衝撃として「私は当時女子プロレスをお遊びぐらいにしか見ていなかったし、興味もなかった。でも井田さんはその中にああいう意味を見出した。すべての人に存在意義はあるというのが彼女の発想の原点でした」と。『フォーカスな人たち』もまさにそんな彼女の姿勢によって書かれ、そのことによって私も黒木香、村西とおる、大地喜和子、尾上縫、細川護熙と出会いなおすことができたのだと分かった。久しぶりにちゃんとした文章を読んだと思った。

目が覚めるような思いがして、買ったままだった『かくしてバンドは鳴りやまず』(2002年2月/リトルモア)、『十四歳』(1998年5月/講談社)と続けて夢中で読んだ。井田の最後の作品となった『かくしてバンドは鳴りやまず』は、井田が「私の本」と呼ぶほど大切にしているノンフィクション作品とその作者について書いたものだ。『世界の十大小説』のノンフィクション版をという編集者の求めに応じて雑誌『リトルモア』に連載を始め、井田の急逝により3回で未完に終わった。「井田さんが同業の作家たちを素描するために採った方法は極めて特異なもので、それゆえ、これまで誰も書いたことのないタイプのノンフィクション作家論になった。」と未完ながら出版した経緯をリトルモア編集部の中西大輔と大嶺洋子が単行本の冒頭に書いている。第1回の「トルーマン・カポーティとランディ・シルツ」の中に、井田のノンフィクション論とも思える印象的な文章があるので長くなるが引用する。

  *

 ともあれ、勉強ができなかったシルツとカポーティは、訓練によって能力不足を補った。
 そして、聞いたことを正確な文章にして表せるようになったのだ。
 実は、この訓練こそ、事実の理不尽さと対決するのに不可欠なものだ。
 見聞きした〈なにものか〉を自分の五感を通して文字という動かない形におさめてみたとき、初めてそこに、人間の想像力を超えた事実が姿をあらわす。
 やわな想像力など軽々と凌駕する事実をとらえるために、よく聞き、よく見て、忠実に書く。その作業なしには、事実は、ただ抽象的なものに留まるだけだ。事実の本性―とてつもない野蛮さーは、ただ見て、聞いて、書き取ることでしか補足できない。
 そして野蛮な事実とわたりあうことで、作家の『私』や『僕』は、その野蛮さを自分のものにする。カポーティもシルツも、とても野蛮な作家だ。物事をあからさまに、無遠慮に身も蓋もなく書いていく。その野蛮さはパフォーマンスによって得られたものではなく、彼らが事実と格闘を続けているうちに、自然に身についたものだ。それが結果的には読者の『私』や『僕』も目覚めさせ、野蛮な読者、身も蓋もない事実を貪り読む人々を生産することになるのである。

  *

井田真木子は寝食を忘れて、身を削るように書いていたと、複数の人が回想している。彼女も野蛮な作家となり得たのだろうか。また、彼女の作品を読むということは、身も蓋もない事実を貪り読むという域にまで達したのだろうか。2001年に44歳で急逝した後、今では彼女の著作はすべて絶版になっているという。

そんな事情を知らずに彼女の著作の在庫を求めてジュンク堂池袋本店に行ってみたら、『井田真木子著作撰集1』(2014年7月/里山社)が店頭にあった。出版当時は手が出なかった本だ。10年近く経って再び手に取った今、こんなに丁寧につくられた本だったのかと感動した。ビートルズのベスト盤のように、著作撰集1の表紙が赤で、2の表紙が青だ。それぞれ深みのあるいい色が選んである。持ち歩いて何度も読み返す人のために、やわらかい表紙に透明ビニールのカバーが外れないようにしっかり掛けられている。書名の「井田真木子」の部分は本人の筆跡が採用されている。彼女の姿と重なるかわいらしい味のある字だ。目次をめくると少女のようなおなじみの井田真木子のポートレートが現れる。雑踏のなかで振り返って笑う彼女の頬にえくぼが見える。

いちばん最後に、この撰集を作った里山社の清田麻衣子の文章が掲載されている。思いはあふれるほどだろうが、撰集のページを余分に使ってしまわないように、1ページにまとめられた彼女の井田真木子論が胸を打つ。深い理解者によって、井田真木子の本は、後の世代に手渡していけるようになったのだ。

二つの作品

笠井瑞丈

二つの新しい作品に取り組む
ひとつは笠井叡振付『今ショパンを踊る』
ひとつはナイトセッション『うるむ』

今ショパンを踊るは題名通り
音楽は全曲を使ってショパンで踊る

うるむの方は
音楽は全曲バッハを使って踊る

二つとも偉大な二人の作曲家の曲だ

音楽があって踊りがある
踊りがあって音楽がある

そんなことをたまに考える

今ショパンを踊るのリハ

いつも叡さんは稽古場に必ず
サングラスかけて入ってくる
外からやってくるのではなく
隣の母屋からやってくるのに
そして入ってくるなり必ず
目がよく見えないからと言い
ダンサーの顔を深く覗きこむ
でもそれは明らかに近すぎる

この一連の儀式の後
挨拶と繋がる

稽古場にひとつ
違う空気が流れる

ちょっと不自然とは思うが
この作法はいつも変わらない

僕が思うに
彼にとって

リハと言うパフォーマンスなのだ
パフォーマンスと言うリハなのだ

そしてそれが形となり作品となる
リハそのものが作品の一部となる

そこが笠井叡のすごいところだ

そんな事をたまに考える

うるむのリハ

ナイトセッションとは
僕がお願いしたダンサーと
一時間即興セッションを行う企画

この企画はセッションハウスで十四回
場所をうつし天使館で今回で十一回目

ダンサーは僕が一方的に
思い浮かんだ人にお願いしてる

思い浮かんだ時に開催するから不定期なのだ

でも不思議と

なぜか思い浮かんだ時には
全てが完結してしまってる

今回も思い浮かんだ時に
バッハと決めていた

リハ初回が一番大事だと考える
初回が噛み合わないとそのあと
修正していいくのが大変なのだ

だから思う
リハには何かしら決まった作法が
必要なんだ

これから作法を考えよう

思考して作品が生まれる
作品があるから思考する

まあどうでもいい事だけど
そんなことをたまに考える

仙台ネイティブのつぶやき(87)細く煙の上がる家

西大立目祥子

どうやってあの場所にたどりついたのだろうか。そしてどうやって帰ってきたのだろうか。前後はほとんどなにも覚えていないのに、そこだけがぽっと明るく照らされたように残っている記憶がある。
夜、暗い雪の山道を上がっていくと大きな門を構えた旧家があり、真っ白な庭に灯った明かりに導かれて庭木の間を進んだ先には大きな土蔵があった。中には大勢の人の話し声が充満していて、すでに宴は始まっているようだった。

やがて、前の方の少し高い席に、ほろ酔いの敏幸さんがにこやかな表情で座った。語り出したのは、ここ宮城県鬼首(おにこうべ)地区の民話。いつものやわらかな低い声は、お酒が入ったせいか、つややかさが増しよく通る。心地よい抑揚の中で展開する話に引き込まれ、音楽を聴くように民話に酔った。宮城の方言はなつかしい歌のよう。
あのときは80歳をこえたくらいだったのだろうか。お開きになって、見送ったゴム長の後ろ姿が白い雪の中に黒く切り絵のように浮かんだのを、いまも忘れない。

敏幸さんは、山の暮らしがどんなものか、その細部を教えてくれた人だ。山菜採り、馬の飼育、米づくり、お膳づくり、炭焼き、材木の切り出し、ウサギ狩り、クマ狩り、野火つけ(山の野焼き)…。季節に追われるようにつぎつぎと異なる仕事をこなさなければならないのは、何か一つの仕事で家族の暮らしを維持することが難しいからだった。1つの専業を持って生涯を生きるという価値観が、そもそも豊かさに基盤をおいた戦後の発想なのかもしれないと気づいた。敏幸さんは、若い時分には分校の先生としても働いている。

季節の細かい仕事をこなしながら胸にあったのは、餓えへの恐れだったと思う。母から受け継いだ民話を聞かせる活動は、仕事の合間のささやかな楽しみだったのだろうか。いやそれ以上に、きびしい現実を乗り越えるために口ずさむ詩のようなものだったのではないだろうか。

話を聞きに通ううち、奥さんの五十子(いそこ)さんともよく顔をあわせるようになった。漬物や山菜をあれこれテーブルに並べ、何度もお茶を注ぎ足しながら、これまたやわらかい口調で話される。特に家族を評する話しぶりにはなんともいえないおかしみと温かみがあって、聞いているとくすっと笑ってしまう。家族の行動のあれこれをじっくり観察し、やんわり受け止めるユーモアのセンスというのか。嫁にきたときは14人家族だったというのだから、大勢の中で暮らすうちに身につけたセンスと生きる術だったのだろうと思う。

玄関で何度もごめんくださいと声をかけても、誰も出てこないことがあった。お留守なのかなと思いながら裏手へまわると、突き出た煙突から細い煙が上がっている。ガラス戸越しにのぞくとたたきにダルマストーブが据えられていて、その脇の板の間でお二人が芋虫のような格好で寝入っていて、笑ってしまった。なるほど、ここなら畑で作業をしたあと、ゴム長のまま入って食事をとり昼寝もできる。プライベート空間なのだから二人ともしぶったけれど、一度無理をいって入らせてもらった。薪ストーブのじんわりと染み込むような暖かさよ。必要が生み出したなんとも快適な小部屋なのだった。
「ここの煙上がってると、みんな、いたのー?って入って来んの」とおかしそうに話す五十子さん。それ以来、私も煙が上がっているかを確かめるようになった。さすがに「いたの〜」とはいえなかったが。

五十子さんは地元に伝わる在来野菜「鬼首菜」の伝承にも熱心で、90歳近くまで、息子の一幸さんとともに自家採種と種まきを続けてこられた。嫁にきたとき仕込んでくれたおばあさんのやり方をみようみまねで始め、70年近く守り抜いてきたのだという。4年ほど前、台所に入り込んで、軽くゆがいて塩に漬け込む「ふすべ漬け」の漬け方を教わった。栽培種にはないカブの辛味を味わう即席漬けだ。

漬物を教わる機会をつくってくれたり、鬼首菜の種まきから刈り取りまでの一連の作業を教えてくれたのが息子の一幸さんである。敏幸さんが山の暮らしの入口を教えてくれたとしたら、一幸さんは実際の作業に招き入れて地域を教えてくれた人だ。私は集落の男衆に混ぜてもらって広大な高原に火をつける野火つけに参加して炎の中を走り回り、ロープをつたって峡谷に降り雪で傷んだ河川の改修と隧道の掃除を体験する機会を得た。小学校の運動会となれば子どものいない家も草刈りに出向き、校庭の桜の手入れまですることを一幸さんの話を通して知った。地域の共同体があるから暮らしと生産が維持できることを、生活の内側からささやかではあるけれど体験をとおして知ることができたのだった。

敏幸さんが亡くなったことは、2015年11月のこの『水牛』に「古老のことば」として書いた。その後も何度かお邪魔して話を聞いていたのだが、昨年9月に五十子さんが亡くなられ、まだ一周忌を迎えないこの8月に、突然、一幸さんが逝ってしまった。私に東北の山間地の暮らしがどんなものかを教え、その原像をつくってくれたといってもいい3人がいなくなり、いまは山の暮らしを考える足場が失われたような思いがしている。私にとっては大切なフィールドである鬼首という地域との具体的なつながりを、これからどうつくっていけばいいのだろう。

語り部であった父と、在来野菜を守りぬいた母の存在があったからこそ、息子の一幸さんも、この土地の価値を十分に知り、よそ者の私に地域の文化を伝えようとしていたのだ、とあらためて思う。野火つけのあとは恒例で高原に円座をつくりお弁当を広げ酒を回すのだったが、鬼首のシンボルでもある禿岳(かむろだけ)が、「山笑う」の季語そのままに微笑みはじめる時期で、「きれいでしょう?」と誇らしかった一幸さんの口ぶりを思い出す。
友人と二人で訪ねたときは、屋敷裏の小川で「いくらでも取っていい」といわれ、野芹をどっさりいただいてきたこともあった。山菜を送ってくれたり、いただいたものは数しれない。森におおわれ、季節季節の花が咲き、実りをもたらす土地の豊かさを、おそらく両親以上に知る人だったのだ。

遠く離れた仙台にいて、人気の消えたしんと静まった家を想像する。朝日が上り日が当たるガラス窓や、満月に照らされる玄関を想像する。前庭では敏幸さんが植えたアケビがもうすぐ実をつけるだろう。裏庭では来春になれば、タラの芽と行者ニンニクがいっせいに芽吹くはずだ。裏山から湧き出す水を引いていた水屋の水槽は、今日も豊かな湧き水で満たされているのだろうか。そして、8月の鬼首菜の種まきはどうしたのだろう。一幸さんの田植えした田んぼの稲刈りは、代わりに何人かでやるといっていたけれど。もう、あの小部屋に煙が上がることはないのだろうか。
静まる家の映像がぬぐえない。私の耳底には、民話の語りも、ユーモアのにじむ話も、春山の美しさを話す声もまだまだ響いているというのに。

言葉と本が行ったり来たり(18)『男が痴漢になる理由』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 今日は曇り空。風も少し吹いている。夏がやっと去ろうとしています。
 今年の夏は例年にも増して厳しく、 園芸仲間はみな、顔を合わせれば口々に猛暑に耐えられず枯れていった植物の話をします。いま農業史研究者・藤原辰史さんの『植物考』を読んでいますが、そこにも書かれている通り、植物が育たなければ、地球上の全ての生きものが死に絶えるというのは本当のことで、暢気な都市生活者にもさすがにその恐ろしさが現実味を帯びて迫ってくる、そんな夏でした。いや、植物が夏を超えられないってまずいです、やばいです、マジで。

 そういえば、『天気の子』というアニメーション映画では、ラスト近くで、主人公が、愛する女の子を救えるなら雨ばかりの世界になっても構わない、みたいなことを叫んでヒロインを救うのですが(劇場で観たくせにうろ覚え、間違えているかも)、そのシーンを観た時、ラブストーリーとしての高揚よりも、「何言ってんの!生態系壊れるよ!植物が育たなかったら、救う救わないの前に誰も生きていけないんだからね!」と、私はそっちに頭が行った記憶が。植物を育てる人は、現実主義者でもありますね。

 閑話休題。最近依存症について書かれた本を何冊か読みました。というのも、アルコール依存症なのでは、と感じさせる友人がいるからです。以前から酒量が多いとは思っていたけれど、暴れたりするわけでもないし、翌日ちゃんと朝から仕事をしている。彼女とは時々しか会わないこともあって、私もそれほど深くは考えていませんでした。たぶんまわりの人たちも、彼女を、お酒が強い、お酒好きな人だとしか認識していないと思う。でも、なんとなく飲み方に違和感を覚えるのです。量が尋常じゃないし、飲んでいる時間も長い。今日はやめとくわ、という日がない。毎晩飲んでいるのではないかしら。私の取り越し苦労ならいいのですが、このまま進んでいったらまずいことになるのではないか、いや、もしかしたら、本当はもう依存症なのではないか、と気になって。また、いわゆるアル中のイメージ――朝から飲むようになったり、手がブルブル震えたり、幻覚に襲われるまで、「ホントに(お酒が)好きだよね~」とみんなで笑って見ているのだとしたら、それも不気味な気がして。
 そもそも「依存」というのは「やめられない」ということですよね? 醜態をさらしたとか記憶をなくしたとか、そういった状態を指す言葉ではありませんよね? そこから興味が湧いて、アルコールに限らず、さまざまな依存と依存症について調べ始めたのです。

『男が痴漢になる理由』(斉藤章佳著)というのも、その中の一冊。男尊女卑の強い国に痴漢が多いというのは想像できていたけれど、どうやらそれはかなり強固に結びついているらしい。痴漢という行為は、女=受容する性というイメージがリンクしているとか、弱いものを支配することでストレスコーピングしているとか、読んでいると、ああああ・・・と合点がいくことばかり。つくづく家父長制は百害あって一利なし、と感じます。
 その本には「認知の歪み」という言葉が度々出てきますが――これは精神医学や心理学の本には頻出するワードですが、今まで私は、「歪み」というのが、具体的にどういうことを言うのか、いまいちつかめなくて、でもこの本に書かれている一例を挙げると、「暗い夜道を歩くと痴漢に会うことがあるから控えましょう」というポスターがあったとすると、そのポスターを見て、「それでも暗い夜道を歩いている女がいるなら、それは痴漢をしてもいいということだ」と認識する人がいる――。そんなバカな!と思うけど、そういうのも「認知の歪み」のあらわれだそうです。

 でも、痴漢はさておき、考えてみると、日常においても、え?どうしてそんな話になるの? なんでそんな風に読み替えられちゃうの? と驚くことはよくある。行き違いや誤解というレベルとは明らかに違うやりとりに出くわすことが。ぼつんぽつんと頭に浮かぶ。あれも「認知の歪み」にあたるのかな。あの人のあの発言にも「認知の歪み」があったのかもしれない。その歪みはまわりの人の心を傷つけて、傷ついた人たちはみんなすごく苦しんでいた。
 八巻さんは私よりも長く生きているから、その分多くの人を見ていると思いますけど、アート / エンタテインメントの世界には、笑えないレベルで変わった考えをする人も、わりと許された形で生息していますよね(歴史を見てもそう思う)。そういう人たち、そういった発言に、私もすっかり慣れてしまって、いちいち傷ついていられないとやり過ごしているけれど、実は歪みだらけ歪みまくりな業界という気もします(どの業界でも歪みには遭遇するでしょうけど)。

 話は戻って、その本の結論は、痴漢は依存症である、逮捕は必須、でも逮捕だけではだめ、有罪判決を受けて、その上で依存症の治療プログラムを受けさせる必要がある、依存症である限り再犯する可能性があるから、ということでした(大雑把なまとめ)。
 人間賛歌という言葉があるけど、人間って本当に素晴らしい生き物なのかなあ。人間って素晴らしい、生きるって素晴らしいと言えたらいいけど、人間って生き物としてはかなりつらい存在なんじゃないの?――駅前のペットショップの前で、お腹を出して寝ているトイプードルの仔犬を見つめながら、そんなことをしんみり考えた九月最後の金曜日でした。
 またお手紙書きますね!

2023.09.29
長谷部千彩

言葉と本が言ったり来たり(17)『人生は小説』八巻美恵

226 見合わせる

藤井貞和

駅のホームにたたずんでいると、聞くともなしに、
母と子との会話が聞こえてきます。

坊や「電車が来ないことをどうして〈見合わせる〉って言うの?」
母親「……」。

そりゃ答えに窮しますよ。 たしかに駅のアナウンスが、
〈しばらく運転を見合わせる〉などと言っています。

ところが、お母さんは答えようとします。
「ホームで待っているひと同士が、顔を見合わせて、

〈電車が来ないわね〉などと言い合うからよ」。
まだ当分、来そうにない若葉台駅の午後です。

(昭和20年代の前半〈1945~1950〉には、置き引きやかっぱらいという被害に遭っても、母のせりふだと〈いまはみんな貧しいからね、そのうちに悪いことをする人がいなくなる平和な時代がやってくる〉と、私はそれからの、ええっ、60年、70年を、〈そのうちに平和な時代が訪れる〉と、母の言を信じて現在に至る。新聞やラジオの報道は小学生の人生や教養の一部を形成したから、それらがGHQの統制(プレスコード)下にあったことをまったく知らない。〈落とすやつがいなければ落ちて来ない〉というような、危険な不協和音は〈しっ、静かに〉とかき消され、代わって戦後ということ、平和の式典、さらには平和公園を訪れるなど、いわゆる〈国民国家〉論がこの国の骨の髄にまで浸透する。それはかまわない、私どものだいじな人格形成の一部になったのだから。昭和27年だけは、解禁された書物や映画が世に問われた。しかし、概してプレスコードの時代は続いたというように見られる。言いたいことはそのさきにある。今年の夏は関東大震災の百年めでもあり、暑さにやられながら新聞(私の場合は朝日新聞)をわりあい丁寧に手にしているうちに、はっと気づいたことがある。プレスコードが77年後の今日にもそのまま生きているということを。悪いやつがいるとは、暗黙の統制下に集合意識化されて、報道される限りでは戦時下の苦労話や美談が口承文学や物語になり、まぼろしの〈平和公園〉をみなが訪れるのである。それでよいのだとは繰り返したいにしろ、前世紀の遺物としての戦争の時代もまた、たらたら繰り返される。願わくば大統領と首相とが駅のホームで顔を見合わせて、そいつの運転を延期させてほしいように思う。ああ、おれはだいじなことを言おうとしているのに、だれも聴いてくれない。)