釣り堀の端 その二

植松眞人

 その日、耕助は営業時間の三十分ほど前に釣り堀に到着した。入口の脇に自転車を停めて掘っ立て小屋のような事務所へ顔を出すと汗だくの三浦がスマホを見ていた。
「おはようございます」
 三浦の元気だけれどあまり気持ちの入っていない挨拶が、耕助は嫌いではなかった。大学を出て新卒採用で東京の会社に勤めたとき角度まで決められて大きな声で挨拶をしろとよく怒られたことを思い出す。決められた角度まで腰を折り、大きな声で「おはようございます」と叫ぶように言っていても、教育担当を任された二年上の先輩は許さなかった。「気持ちが入っていない」と何度も挨拶を繰り返されたのだった。馬鹿馬鹿しくなって適当な挨拶を繰り返すと、尻を蹴られた。蹴り返してやろうかと思ったが、なぜか笑ってしまったのだが、笑っている耕助を見て先輩は何も言わなくなった。
「おはよう。気が抜けてていいねえ」
 耕助が言うと、三浦は笑いながら
「抜けてませんよ。こんなに気合い入ってるのに」
 と笑って返した。
「昨日、俺が出てから何人くらいきた?」
「昨日はいつもの高橋さんだけですよ」
「高橋さんすごいなあ。ここ二ヵ月くらい皆勤ですよ」
「ありがたい、ありがたい。あ、今日も来たよ」
 耕助の声で三浦が釣り堀の入口を見ると、常連の高橋が自前の竿を持って現れた。
「おはようさん」
 高橋が事務所に声をかける。いつものことなので高橋は事務所に寄ることもなくそのまま釣り堀の定位置に向かう。高橋のいつもの場所は事務所から一番遠く隣の家庭菜園に一番近いところだ。ここだと家庭菜園と釣り堀を隔てるフェンスを背負って吊ることになり、後ろを誰も通らないので煩わしくないのだ。それに、釣りに飽きてくると高橋は家庭菜園にやってくる主婦たちと談笑にふけるのである。定年まで大手事務機メーカーでインストラクターをやっていた高橋は話題が豊富で主婦たちも話すのを楽しみにしているようだ。いつか、三浦が「高橋さん、魚釣りに来てるのか主婦釣りに来てるのかわかりませんね」と笑って話していたことがあった。
 高橋の来場と同時になし崩しに営業開始となった釣り堀を、耕助は久しぶりにゆっくりと歩いてみた。そして、高橋の隣に小さな木箱を置くと椅子代わりに座った。
「お、めずらしいね。耕助くんが釣り糸垂れるなんて」
「この店ついで一年くらい経つのに、一度も釣ったことないんですよ」
「いつもはどこで釣ってるの?」
 高橋が嬉しそうに聞く。
「いや、釣りなんてやったことないんです」
 耕助が言うと、高橋はもっと驚いた顔になる。
「釣りもしたことないのに、釣り堀を継いだの?そりゃすごいや」
 高橋があまりに驚くので、耕助は面白くなって笑ってしまう。
「今日は、高橋さんに釣りを教えてもらおうと思って」
「いいよ。じっくり教えてあげるよ。でも、不思議なもんだよ。おれは、耕助くんのおじいちゃんに釣りを習ったんだよ」
 今度は耕助が驚く番だ。
「そうだったんですか」
「うん。定年してさ。何して良いか分からなかったから、毎日この辺散歩してたんだよ。そしたら、耕助くんのじいちゃんが『毎日目の前通って行くなら、一回くらい釣ってみろ』って」
「強引だなあ」
「強引なんだよ。で、釣りなんて知らないって言ったら、教えてやるって言い出してね」
 そう言うと、高橋は耕助の手から釣り竿を受け取り、仕掛けを確認し始めた。耕助はそんな高橋の手元を見ながら、会ったこともない祖父のことを想像してみるのだった。しかし、目の前の高橋を見ながらだと、どうしても頭のなかの祖父の顔が高橋にしかならず苦笑するのだった。
 事務所の窓から二人を眺めていた三浦が後からやってきた美幸に笑いかけて、
「あの二人、仲よさそうですねえ」
 と声をかける。
 耕助と三浦の二人分の弁当を作ってきた美幸が、ほんとうだ、と声をあげる。そして、窓の外からは見えない角度で、そっと三浦の背中に掌を当てる。三浦は振り返って、美幸に笑いかけるが、美幸は窓の外の耕助と高橋を見つめたままで笑っている。(つづく)

ワヤン(影絵)の思い出

冨岡三智

そういえば、ここでインドネシアのワヤン(影絵)について書いたことがない。私は特にワヤンの愛好家でもないが、ジャワの舞踊や文化を知る上では見ておいた方が良いと思っていたので、留学中や留学前から機会があれば見に行った。と言っても、ワヤンの村祭りのような雰囲気が好きなだけで、内容や言葉についてはあまり勉強しなかったが…。というわけで、今回はインドネシアで見たワヤンのうち印象深いものについて書いてみよう。

●1994年3月22日(火) アノムスロトの家で見たワヤン
 まだ留学前、2週間ほどスラカルタに行った時のこと、有名なダラン(影絵奏者)のアノムスロトが毎月(ジャワ暦で35日毎)自宅でワヤンをやっていると宿の人が教えてくれて、見に行った。当時はどういう趣旨でやっているものか全然知らなかったが、かなり後になって、アノムスロトが後進への指導のためルギの水曜日(彼の誕生曜日)になる夜に自宅でワヤンをしていたと知った。今調べると、その日はルギの水曜日になる夜なので、その一環だったのだろう。私が見た時の演目はブロトセノ(キャラクター名)の話だった。見に来ていた人の多くはワヤン好きの近隣の人という感じだった。子供もいたし、私の隣には不倫カップルと思しき中年の男女もいて、女性が男性に膝枕してもらって見ていたのを覚えている。突然行った私も入れてもらえ、絨毯敷きの床に座って一晩見た。全然意味は分からなかったが、一晩のワヤンてどういうものだろう…という好奇心だけで、頑張って見た気がする。

●1996年5月16日 仏教のワヤン
 スラカルタ王宮のシティヒンギルという空間で見る。仏教の祭日であるワイサックを祝うイベントで、ワヤンの前に仏教徒の大学生たちによる仏教テーマの舞踊が上演された。ダランはテジョ何とかという人。何枚か撮った写真を見る限り、ワヤンの人形などは普通のワヤンと同じだったようだ。

●1998年2月20日 ルワタン・ヌガラ
 ルワタン・ヌガラとは国家的な災厄を祓う儀礼という意味。このワヤンについては、『水牛』2008年3月号「スハルト大統領の芸術」で紹介したことがある。当時のインドネシアはアジア通貨危機に端を発する経済危機に見舞われ、また、スハルト長期政権に対する人々の批判も高まっていた。その時期に、スハルト大統領は全国各地で(確か50ヶ所くらい)ルワタンと称してして「ロモ・タンバック」という演目を上演させた。これは『ラーマヤナ』物語の中で、ラーマがアルンコ国に渡るためにサルの援軍の助けを借りて川を堰とめるという内容である。スハルトはクジャウィン(ジャワ神秘主義)の師から自身はラーマに当たるとされていたため、この国家的災厄をラーマたる自分自身の手で乗り切ることを示す意図があったのだろうと感じられる。スラカルタではグドゥン・ワニタ(婦人会館)で、女性の女性問題担当国務大臣を迎えて上演された。ダランは3人、演奏は芸大で、有名どころの歌手がズラーッと並んだ。ワヤンの導入部ではスカテン(ジャワ王家のイスラム行事で演奏される音楽)をアレンジした壮大な曲が演奏された。

●2000年10月28日 ワヤン・ゲドグ
 ブンガワン・ソロ・フェアというイベントの一環としてマンクヌガラン王宮で上演される。ダランはバンバン・スワルノで、彼は同王家付きのワヤン・ゲドグのダランであり、芸大教員でもある。演目はパンジ物語を題材とする『ジョコ・ブルウォ』。ワヤン・ゲドグというのはパンジ物語やダマルウラン物語を題材とする演目群である。現在ではワヤン(影絵)やワヤン・オラン(舞踊劇)の演目のほとんどはマハーバーラタ物語で、私もパンジ物語の演目を見たのはこの時しかない。当初の話では2時間短縮版ということだったが、4時間以上の上演だった。実は、ワヤン・ゲドグではグンディン・タル(影絵開始前に上演される曲)として宮廷舞踊『スリンピ・スカルセ』で使われる一連の曲が演奏される。

●2000年大晦日 ミレニアム・ワヤン
 2001年は1000年に一度のミレニアム・イヤーというわけで、スラカルタにあるタマン・ブダヤ(州立芸術センター)のプンドポ(伝統的なオープンなホール、儀礼用)ではいつもとは違う特別のワヤンがあった。一晩のワヤンなのだが、夜中の0時に一時中断して、各公認宗教の長たちが集まって祈りを捧げ、続いて詩人のレンドラが登場してガムラン音楽をバックに詩を朗誦した。この音楽を担当したのはデデッ・ワハユディだが、ワヤンのようにレンドラを登場させるイメージで音楽をつけたとのこと。そして、ワヤンのダランはトリストゥティ。実はこの人、1965年9月30日事件(共産党によるクーデター未遂事件と公称される)で投獄されて14年間島流しとなり、釈放後の20年間も活動ができなかったが、スハルト退陣により1999年からダランとして再活動できるようになったという人である。スハルトはこの事件をきっかけに頭角を現し、30年余の軍事独裁政権を敷いた。今調べたところでは、トリストゥティはスカルノ大統領の尊敬を受けてしばしば招聘されていたが、共産党とは関係がなかったという。ところで、このミレニアムという概念はそもそもキリスト教のものだが、当時のインドネシアではこれまでのスハルト時代の終焉と自由の時代の到来に対する希望が託されていたように思う。

●2001年1月20日 クリスマスのワヤン・ワハユ
 インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のプンドポで見る。年が改まったがクリスマスに付随するイベント。ワヤン・ワハユはキリスト教の聖書を題材にしたワヤンのこと。ダランは同芸大教員のスボノで、彼はクリスチャン。芸大と隣の3月11日大学(=UNS)のクリスチャンの集まりが主催だったが、上演の最後にキリスト教関係の催しでの上演承ります~!と宣伝していたことが印象に残っている。

●2002年3月31日 集団ルワタン
 ウォノギリ県にあるガジャ・ムンクルという人造湖畔にある観光施設で行われた集団厄払いのワヤンである。地元の若い人に伝統文化に触れてもらうため、また観光誘致用に行われたもので、集団ルワタン以外にマンクヌガラン王家による宝物巡行や、人々が家宝にしているクリス(剣)のお清めサービスが行われた。ちなみにマンクヌガラン王家が協力しているのは、ウォノギリが元々同王家の領地だから。ルワタンの方だが、キ・ワルシノというルワタンができる家系のダランによって行われた。厄除けされる人たち(自治体に参加申し込みをする)の人数が多いという以外は普通のルワタンと同じで、多くの供物を用意して昼間に行われ、時間も長くはない。ダランは祭司としてルワタン用のワヤン演目を上演し、最後にマントラを唱えて、厄払いを受ける人たちの髪に順次鋏を入れていく。ここではその髪を白い布に包み、湖に沈めて儀式は終了した。私がワヤンのために遠出をしたのはこの時だけで、ダランと懇意な知人に一緒に行ってもらった。

●2007年8月26日 ジャカルタ新知事を迎えてのワヤン
 ジャカルタ市政62周年&ジャカルタ知事選挙の成功を祝してのワヤンで、新ジャカルタ知事(ファウジ・ボウォ)と副知事を主賓として開催されたワヤン。ダランはマンタップ、演目は「Sesaji Raja Suya」と記録にある。王への捧げものという感じの意味のようで、新知事を祝福するにふさわしい演目に見える。実はこの日、私はジャカルタ芸術大学でたまたまスリンピの公演をしていた(私自身のプロジェクト)。スラカルタの芸大教員3人と上演したのだが、私がジャカルタに来ることを知った人からこの公演にVIPとして招待されたのである。その人とはこの公演の少し前の8月16日夜に放映されたトーク番組『キック・アンディ』に出演した時に知り合った(番組収録は8月1日)。というわけで、私は公演が夕方に終わって共演者を駅に送ってからワヤン会場に直行した(開始ぎりぎりに滑り込み)。一応、新知事とも握手をしたのだが、夜の12時頃から新聞社での取材があったので、11時過ぎに会場を抜けた。

踊りとダンス

笠井瑞丈

この前ある席で

私はダンスだけど
あなたのは踊りだ

そのような会話から

踊りとダンスの違いについて
議論になりました

それ以降

踊りとダンスについて考える

私は今まで自分の事を

踊りと言う時もあれば
ダンスと言う時もありました

今まであまりその辺を意識して
考えたことがありませんでした

言葉の違いだけと言えば
それだけの違いだけかもしれません

しかし

そこには大きな違いがあると思い
色々と自分なりに考えてみました

私の考える踊りとダンス

『踊り』はカラダという言葉に結びつき
『ダンス』は動きという言葉に結びつく

このような違いが二つの言葉にあるのではないか

そう考えると

踊りたいと思う

むもーままめ(4)アラビアの女の巻

工藤あかね

 アラビアを旅していた時のことだ。私は列車のボックス席に座り、開けはなたれた車窓の向こうに広がる金色の大地を眺めていた。ときおり強い風が吹いて、乳白色のカーテンがねじれたり、ひらひらと不規則にはためくように、砂ぼこりが勝手気ままに舞いおどっているのを見て、美しいと思った。

 車内は聞き慣れぬ言語で満ち溢れている。声のトーンだけでは、彼らが怒っているのか、それとも楽しんでいるのか、私には皆目見当がつかない。ひとことも言葉がわからないというのに、不思議と心は落ち着いている。おそらく不安な気持ちよりも、誰も私を知る人がいない国にいる、という気楽さのほうが優っていたのだろう。

 私の座るボックス席は4人がけだったが、私はとなりの座席に荷物を置いて、ゆったりと座った。はす向かいには、もうひとり乗客が座っていた。一見して華やかな女性だと思った。とはいえ、顔かたちが見えたわけではない。頭から足先までを覆うように濃い紫色の衣服を身に纏い、肌がちらちらと見えるのは手首から先と、足指のみだ。光沢のある滑らかな手肌は、黄金のブレスレットといくつもの豪奢な指環で飾られている。俯き加減の顔はすっぽりとベールに覆われて、目のあたりだけが深い影になっている。用心深く、身を屈めるような姿勢だが、時おりベールや裾の乱れを正す指先はきれいにそろっていて、仕草のひとつひとつに気品が見え隠れしている。敵に追われ、身分を隠して逃げている高貴な人のようだ、と私は思った。

 車内を物色するようにして通路を歩いてくる男がいる。男は肩越しに右へ左へと目をぎらつかせながら、ボックス席にどんな人々が陣取っているかを瞬時に判断して、興味がないとみるや軽く鼻息を立てて、次の一歩を踏み出している。私は、気が気ではなくなった。斜め前に座っている高貴な女性は、もしかするとあの男に追われているのではないか。

 男は確実にこちらへと近づいてくる。そして私たちのボックスの横で立ち止まると、射たれたような顔つきで固まった。今しがたまでギラついていた目つきが、みるみるうちにいやらしく、柔和なものに変わる。太い眉毛を目からクッと離して、あの高貴な女性の耳元に何かを囁きはじめた。
「やめて…」
私は心の中で叫んだ。くだんの女性は頑として男と目を合わせようとしない。男は身を低くかがめて、女性の顔の周りにまとわりつき始める。私はその気色の悪いやり取りを見ているだけで、何もできずにいた。

「誰かこの方を助けて。」
心の中で強く訴えながら立ち上がって車内を見回すと、鮮やかな青い布を頭から巻きつけた女性がこちらへ近づいてきた。青い服の女性は、男にまとわりつかれて身じろぎしている紫色の女性を一瞥してから、流暢な英語で私をなだめるように言った。
「この国では、男と目を合わせると処罰されるのよ。彼女は目をそらし続けるのが上手だから、きっと女優ね。私たちのように普通の女はこうしているわ」

 青い服の女性はいったん私に背を向けると、頭からベールをはずし、ゆっくりと向き直った。目もとが異様に妖しい光を放っているのでよく見ると、両目ともトパーズ色の義眼が嵌まっている。
「コンタクトレンズと同じよ。慣れると取り外しも楽でいいわよ。こちらからはちゃんと見える上に、私がどこを見ているかは、外からはわからない。」
 青い服の女性はさらに、肩から背中にかけて服をはだけてみせた。背中には、無数のみみず腫れや切り傷のあとが、痛々しく残っている。
「もう二度とこうならないために。あなたも…気をつけて良い旅を。」
 そして青い服の女性は、ゆっくりと口角をあげて、寂しげに微笑んだのだった。
 
……いつか見た、夢の話である。

今年は話題の音楽を通ぶっているかもしれない

三橋圭介

最近、オーディオ・インターフェイスを使って24bitのハイレゾをAmazon Music HDで聴いている。以前DTM用に買ったインターフェイスが16bitだったので、ハイレゾ用に買い換えた。ポップスからジャズ、クラシック、現代音楽までほんとうにたくさんある(民族音楽はあまりない)。ハイレゾ音源もかなりの数があるが、最低限CDの音質(16bit)なので、どれをきいても音質は保証されている。この環境があればCDを買う必要はほとんどない。小学生の頃、お金をためて買った最初のレコードはたしかエンニオ・モリコーネだった。それからピアノのレッスン用と偽りながら買ってもらったりもした。そうやって少しずつ集めたレコードは何度も聴いたし、選択にもこだわりがあった。そしてなにより財産だった。CDの時代にはいっても同じだ。いまおそらく数千枚ものCDがある。クラシック、現代音楽、ジャズ、ポップス、民族音楽と分けているが、それを探し出す前にAmazon を検索すれば探している音源が簡単に出てくる(ただ民族音楽はほとんどない)。しかも一月2000円程度なのでCD一枚分にすぎない。物だったものがデーター情報になったが、Web上のどこかにあるだけで所有することもない。画期的なことだ、と簡単にいうことはできない。だが本もそうだが、物が多くなりすぎた。配信なるものが生活システムにすでに組み込まれ、私自身その一部をなしているのだとすれば、これを否定することもできない。今年は話題の音楽を通ぶっているかもしれない。

時々、テレビで

若松恵子

ニュース番組は、人を脅かしてばかりで嫌になる。その日の最初のニュースが、あおり運転で逮捕された人の、フロントガラス越しのすごい形相だった時には、いいかげんうんざりした。社会にとって、切実なニュースがそんなものなわけがない。どうして加速度的にこんな事になってしまったのか。朝の支度をしながらや、夕食後のひと時にテレビをつけているのが癖になっていて、もうこんな風にテレビをつけているのはやめようと何度も思う。

けれど、時々、テレビからはっとする映像が届くこともある。
この前、タモリが司会をしているミュージックステーションという音楽番組で、竹原ピストルが歌うのを見た。アメイジング・グレイスのメロディに勝手に歌詞をつけたもので、カバーとも言えないのだと前置きして歌ったその1曲に、心が揺さぶられた。

ミジンコみたいに小さくなって、あなたの頭によじ登り、あなたの白髪を黒く染めたい
ミジンコみたいに小さくなって、あなたの掌によじ登り、あなたの生命線を長く伸ばしたい
ミジンコみたいに小さくなって、あなたのおなかの中に入り、刺し違えてもいいから、あなたのがんをぶっ殺したい

正確ではないが、記憶の限りではこんな歌詞をギターを弾きながらひとり歌ったのだった。誰か、身近な大切な人への祈りである事はすぐに伝わった。声は、そのまま心の形だった。3分くらいの短い持ち時間の中で、ひとりの歌い手が自分の存在を全て注ぎ込んで歌うのを見た。

朝出かける前のつかの間に、イッセー尾形がブラジルから日本に移住した人たちを描いた一人芝居を上演したというニュースを見た。宮藤官九郎の脚本で、ブラジルからの移民の人たちが多く住む団地で上演されたという。日本のゴミの分別が細かすぎて、よく間違えて叱られてしまうなど、日本に来ての彼らの苦労話が「そういう事あるある」とユーモアたっぷりに描かれる。そしてクライマックスは、団地のベンチで孤独死をした高齢の男性の、実話に基づく物語が、イッセー尾形のひとり芝居で語られていく。彼は日本に来て不幸だったのか、ひとりぼっちだったのか。救いを求めて、彼はひとりぼっちじゃなかったという虚構が演じられる。

団地の広場のようなところで上演される一人芝居を見るブラジルの人たちは一緒に笑い、一緒に泣いていた。日常会話に苦労しない程度には日本語が上達した彼らだと思うけれど、心の深いところで分かり合うには、言語ではなく演劇という肉体による言葉が最適だったのだろう。

インタビューを受けるイッセー尾形は舞台上のように饒舌には語らないけれど。ブラジルから日本に来た人たちへの、日本人としての歓迎の気持、遠い旅へのねぎらいの気持を持って演じたのではないかと思った。役を離れている時の彼はジャブジャブ洗って洗いざらしになってしまったような顔をしていてカッコ良かった。ほんの小さなカケラでも、心を打たれる人がいれば、何万人という単位での影響力があるのがテレビだ。時々テレビでそんな、閃くカケラをつかむことがある。

製本かい摘みましては(160)

四釜裕子

〈山麓生活をはじめた主な動機は、天の高みへの憧れからだったが、おもいがけなくも、赤ら顔の詐欺師が、天ならぬ地界への扉を、こんこんと叩いてぼくを導いた。急がば回れ、足もとからこそ鳥が立つ〉。

2月に刊行された画家でエッセイストの渡辺隆次さんの画文集『森の天界図像 わがイコン 胞子紋』(大日本絵画)の冒頭にあることばだ。「詐欺師」とあるが、イギリスではキツネタケケをそんなふうに呼ぶらしい。渡辺さんが八ヶ岳界隈で採取したキノコの胞子紋を組み込んだ新旧の作品に、書き下ろしのエッセイ一編と、これまで発表されたエッセイの中から抜粋したことばが編んである。机上に開いてそれらの絵をのぞき込んでいると、文様が眼球のように浮かび上がってきたりヘルメットマンが疾走したり。天を映す湖面に吸い込まれそうになって我に返るのと似たこんな状態に誘われるのは、ぴったりと気持ちよく開く「コデックス装」で仕立てられたことにもよるだろう。

コデックス装とは本の背がむき出しになった糸かがり並製本で、普通ならこのあと背に寒冷紗などをはって補強してから表紙をつけて断裁し、さらに表紙カバーをつけて完成となる。ところが中身を糸でかがってノリで固めたところでおしまいにするという、言わば「途中の状態」がコデックス装だ。これを選ぶ一番の理由は、手でおさえなくてもすべてのページがよく開いて、絵や写真がノドでくわれないこと。背に何もはらないと強度が心配されてきたけれど、接着剤の質や技術の向上でもはや問題にならないところまで来ているのだろう。『森の天界図像』の場合は二つ折りした厚めの紙が表と裏の表紙となり、黒地に銀で胞子紋が刷られ、そこに表紙カバーがかけてある。ブックデザインは上田浩子さん。

コデックス装という呼び名を私は2010年に刊行が始まった林望さんの『謹訳源氏物語』で初めて聞いた。改めて見るとこう書いてある。〈本書は「コデックス装」という新しい造本法を採用しました。背表紙のある通常の製本法とはことなり、どのページもきれいに開いて読みやすく、平安朝から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装」という古式床しい装訂法を彷彿とさせる糸綴じの製本です〉。

この方法は『食うものは食われる夜』(蜂飼耳著 思潮社 菊地信義装丁 2005)などのようにそれまでにもなされてきたし、林さんが書いておられるように「綴葉装」のいわば仲間だし、おおまかに言って目新しいものではなかった。しかしあまりにも糸かがり本が減っている世の中にあってそれをウリにするわけだから珍しいし、なにより「コデックス」+「装」という、ピンとこない名付けながら由緒ありげで響きがよく、これがその後の流行に大きく貢献したんじゃないかと思っている。しかしなんでコデックス装なんだろう。

2013年に『謹訳源氏物語』全10巻が完結したあと、日本豆本協会会長の田中栞さんがブログ「田中栞日記」でこのことに触れていた。〈この言葉、語感は良いのだが「コデックス」というのが冊子全般を示して背表紙の有無とは関係がないために、この形態の製本構造のイメージにストレートに結びつかないという難点があった〉。田中さんはこの形態を示すものとして、〈「背表紙がない造本形態」であるとわかる言葉にするべき〉として、〈雉虎堂の八嶋浅海さん発案で「バックレス製本」という言葉が作られた〉。さらに林望さんとやりとりする機会を得て、〈「無背装(むはいそう)」という語はどうか、という新たな提案を受けた〉そうである。背表紙のないものが多い和本で背を包んである形態を指す「包背装(ほうはいそう)」という語があり、それに対する「無背装」として、〈これはなかなか良い用語であると思う〉。当時も今も読んでなるほどなあと思う。

「デザインのひきだし41 製本大図鑑」(2020)にもコデックス装はもちろん出ている。やはり製本会社が背固めに使うノリを工夫するなどして、ノートとして使っても壊れないほどの強度を実現しているようだ。人気についてはこう書いてある。〈製本途中のような無骨な感じがいいと思う人が多いせいか、ここ10年ほどでかなり使われることが多くなった製本。本誌で初めて取り上げたとき(12年ほど前)は、「コデックス装」といっても通じない場合も多かったくらいだが、今ではどこの製本会社でも「コデックス装」で通じるほどメジャーになった〉。

2008年ころにはすでにこの名称が使われていたということになろうか。また、見た目や雰囲気としての流行もあることがわかる。「デザインのひきだし41」には背に寒冷紗を巻いた「クロス・コデックス装」も出ている。〈名前が特になかったので本誌編集部が便宜上そう呼んでいる名前なだけなのだが〉とのことだけれども、「デザインのひきだし」のお墨付きだからここに間違いなく名前を得て誕生したと言っていい。

背がむき出しになった製本ということでいうと「スケルトン製本」なるものもあった。こちらは糸でかがるのではなく、無線綴じやあじろ綴じの背にPUR(ノリの一種)を塗る。不透明で白っぽいEVA系ホットメルトに比べて透明度が高いPURを使うのがミソで、篠原紙工さんが名称も含めて考案したそうだ。「ノリではるだけでしょ?」と思うことなかれ。ノリを塗布しても〈この状態で製本機から取り出せず、またそのままだと糊の表面も平滑にならないため、一度、PURが接着しない加工を施した仮の表紙をつけて製本し、製本機から出てきたところでその表紙を剥がす〉。これで初めて、きれいな背になるという。なるほど――。

思い起こせば、紙をもっと手軽に綴じて本にしたい、正確に言うと、ノリの扱いが苦手なのでノリを使わずに本のかたちにするにはどうしたらいいだろうと、「糸だけ製本」と称して試していたのは2004年のこと。大きめの紙を折り、その折り山も同じ糸でかがって表と裏の表紙にすることに落ち着いたのだが、これもいわゆるコデックス装ですっきり気持ちよくページが開く。「楽譜にもよいのでは?」と採用してくださったのが八巻美恵さん。これが『高橋悠治ソングブック』(水牛 私家版 限定100部 2008)の製本のお手伝いにつながった。

『高橋悠治ソングブック』の最初の曲は「ぼくは12歳」(岡真史 詩)の「みちでバッタリ」。私が初めて聞いたのは矢野顕子さんバージョンだった。〈そして両方とも/知らんかおで/とおりすぎたヨ/でもぼくにとって♪〉のあとすぐのジャン♪が、怖かったんだよなあ……。そのくせ街でことさらに誰とでも知らんかおですれ違うのが気持ちよかったのだった。

196 金メダルをメキシコ湾の湖へ沈める

藤井貞和

みずうみのな、底にはむかしの親たちの墓の村があってよ、
わしら運転手のはこぶ移転の通知には宛て名が書かれておる、それを、
ゆらゆら藻のかたちして出てくる腕二本へわたすのや。
そのとき、ぎゅっと腹をにぎってくるのが不快で、
ふと気をとられたら、もうわしらは霧のなかよ、
道路の枯らし剤を食いあててバンパーがこぼれる。
ちりぢりになるわしらのタクシーがみずうみに残骸をさらしてよ、
日にあびるボデーのかがやきには思わず感心しちまうほどよ。
町のな、蟻の巣から出て湖上に走りつづけて、
わしらの抽選付きの乗車カードで銅メダルでも銀メダルでも買えるんやから、
なつかしいパンのかたちのそいつと思ってくれていい、
わしらの言い伝えではたましい状のまるいかたちとも称しているわ。
遠い少数の人に宛ててはがきに歌を書くわ、
死んだばあさんに呼びかけてよ、
ぎゅっとなにをにぎってくる世間話や、
みずうみにはすきまがあって身体がものとものとの「あいだ」にこすられて、
わからんうちにしばられるという話をして、
きみらに聞かせる散るタクシーの歌、
聞きながらなにが移転とそのまえとによってわしらの残骸に、
わずかな変化がこもるか、いうこと、
いとおしさの心のちがいが生じるかということよ。
火は蟻のかたちをしていてこっちが巣から覗くまぶしい朝日に思う、
優勝はきみのためにある、むかしの金メダルの伝説はほんとうで、
きらりと光るそいつがみずにゆれて沈みながら、
叫んだというはなし。さあもう行くで、
わしらのタクシーはみずうみを一回りして来にゃ稼ぎにならん。


(観光客をな、わしらのしごとは湖へあんないするんや。ゆうひが出払って、朝日を待たないで、深夜の太陽がな、あの岬からのぼる。祈りを忘れたら、あかん。祈りの詞は教えられん。でもな、教えたる。あんたは研究のために、こんな、地球のうらまできたのや。研究して、研究して、研究して、それでも足りなかったら祈れ。滅んでも、滅んでも、滅んでも、隕石のひとつを持って帰れ。わしらの一九六四年の、東京でな、あの隕石が金メダルや、キラキラしてる。一九七二年のぎゃくさつで、わしらの故郷はもうないんや。おぼえてる神話はないで。無事にお帰り。)

思い通りにならない

高橋悠治

まだ終わらないコロナ騒ぎのなかで 昨年録音したCDが続けて発売された 波多野睦美の「ねむれない夜」 青柳いづみこの「物語」「高橋悠治ピアノリサイタル とりどりの幻想 白昼夢 夜の想い 記憶と再会」 

それから台湾のピアニストJulia Hsu のための「夢蝶 Dream Butterfly」(2017) と低音デュオ(松平敬と橋本晋也)のための「ぼうふらに掴まって」2018) (川田絢音の詩)を含むOpen Space 43 に続いて こちらが Craig Pepples の「Example1」を弾き Julia Hsu が 「遇見・歧路・迷宮 Encounter Crossroad Labyrinth」を弾いてくれた Open. Space 44 そして Roger Turner と2019年に静岡の青嶋ホールで即興演奏の記録 Yuji Takahashi + Roger Turner imaszok 03 がこれから出るらしい

栃尾克樹とのシューベルト「冬の旅」のことは書いたかな アカデミー賞をもらったという記事を読んで どこのアカデミーかと思ったら「レコード芸術」の賞だった

なにかがうまくいったと思えるとき こんなはずではなかった これではないと思いながら 仏教でdukkha (苦と訳されるが むしろ思い通りにならない状態か)というのはこれか いるべき場所もなく 行く先も定まらずに 何を待つともしれず 待っている状態 

日本では自主規制とか自己責任というようなことばで ロックダウンではなく 拘束社会を作れる 21世紀型の「自発的隷属」とも言えるだろうが どこかはっきりしない違いがある この風土のなかにいて 過去が造り上げた檻の外に出るのは いっそうむつかしいのかもしれない

数学や論理 分類や分析から離れて 身体の感覚から音楽を創ろうと思ったのが1970年代だった もう半世紀前になる それから東南アジアや 日本をふくむ東北アジアの伝統音楽を観察しながら だんだん20世紀現代音楽の風潮から離れて あれこれの小さな探りをくりかえし さらに うごこうとする前の一瞬のためらいで 思っていた方向やリズムとはちがうものに変わってしまう そこから崩れる感じ 外れて逸れ それに気を取られて さらにずれていく 隙間の空間 そこに垣間見る風景 この不安定な状態を保つのはやさしくない 気がつくと しっかり押さえて 止まっている それでも止まっているように見える内側でうごいているなにか 

うごいているときは逆に でこぼこ道をすべったり跳ね上がったり傾いたりしながら どこへともなく風景が移っていく

昨年4月23日にオフ・ガーディアンで読んだローズマリー・フレイの「パンデミックから全体主義への7歩の道」  は パンデミックの緊急事態宣言からあいまいな情報を伝えながら 全員を孤立化させ スマホによる位置測定とワクチン接種で 監視社会を作りあげるプロセスが書かれていた 分子生物学者から医療問題のフリー・ジャーナリストになった人の予測は 今振り返ると 当たっていた この先どうなるのか そもそも「先」があるのか 世界は暗い

2021年2月1日(月)

水牛だより

2月1日のやや遅い時間の更新になってしまったので、今月は手短に。

「水牛のように」を2021年2月1日号に更新しました。
杉山洋一さん企画の「高橋悠治作品演奏会 III フォノじェーヌ」はとてもおもしろい演奏会だったと思います。何のあてもないところから自分たちで作り上げたというところは、予定調和のふつうの演奏会とはまったく違う。演奏家たちが解放されていたのも、杉山さんの「これをやるのだ」という(ものずきな)情熱が演奏会全体を貫いていたからだと感じます。この演奏会に先立つ「I」と「II」を収録したCD2枚組も作ってしまい、日本では今月末ごろの発売になるようです。詳細は来月お知らせします。

管啓次郎さん訳のパティ・スミス『M Train』(河出書房新社)は回想録ですが、なんだか変な本で、忘れがたい。写真がたくさん入っていて「フリーダ・カーロの松葉杖」「芥川龍之介の墓」「シルヴィア・プラスの墓」「ヴァージニア・ウルフの杖」などには見入ってしましました。

それでは、来月もきっと!(八巻美恵)

195 神の誘い子は物語に対す

藤井貞和

わたしの炎天忌、
あなたの野の花忌、
季節が決まりませんね、いまは。

いつか決まる、
ぼくらの季語。
行けども、砂の原。 
物語を壊して、
氷の結晶を踏み、
苦しむことなく迎えよう、
辿りつき、和歌を脱ぎ、
わたしたちの教会で。

わたしの炎天忌、または零下の
筺(コバコ)に一句、また一句、
容れものに遺した祈り。
あなたの天使に祈る、きょうは。

あなたの野の花忌、神の誘い子は、
苦しむことなく、
狭い門を越えて、
あかりをめざして、
それでも物語ですか、旅よ。

楽器は何にしよう、ゴッタンや、
水成岩の壁。 叩いて、
花瓣のような音や、
したたる自然水銀の重い音。
すべては、
若かったぼくらの旅であり、
短めの一生でした。

布目ごとに、虹が洗う、
ゆうぐれの時、
岩のうえで待つあなたのあしたは!
ごとごとごと、時と時との
あいだで歳月は楽器です。
和歌でしょう、咲いている、
野の旅の終りです。

寄せ木よ、誘い子は、
眠りに誘われ、百年の
眠りです、白雪姫みたい。

いいえ、戸板に載せて、
捨てられるのです。 虹の根を探して、
沈みから立つ虹、
葉陰から立つ鶸に
名を呼ばれて、旅人は、
それでも記憶する、
おまえの物語。 それが、
生涯でしたか。 いいえ、
樹にさがり、身は白龍になる、
なって天下にふりそそぐ、
炎天を眠らせろ、天の泪と、荒れる心。

ゴッタン、ゴッタン、
起きてくる鮫。 りゅうぐうに、
学校のあかりに、
祈る拝所に、
ぼくらの島国の教会に、
潮薫り、踊りゆたかに、
ここにいて、できないこと、
どこにいて、できないことに、
うに、くらげ、
旅で出会う海のほおずき。

(反歌)
起きて! 出勤ですよ。(あなた)
雨の足が、白雪になる。 すべての戸がひらきかげんで、
遠景が恋しくて、火に近づいて、葉かげにかざして、
ここから泳ぐ蟹の子、なまこの卵。
浮き舟に、女の歌かず。 酒やあわもり、
薫りに酔い、また踊り、
こぶとりの神楽、鬼さん。
沈み岩、沢蟹の色、
まくらことば、安らぎ、
遊び疲れて、かず歌い、
まだ眠る、出勤まえのパパ象に、
矢がつきささります。(起きて!)

(生前に自分の季語を決めるとは、季節がいつになるかわからないという冗談です。俳句を作ったことはないけど、季語があったってよいのでは。)

『ブルースだってただの唄』のこと

川野太郎

 自分には、へこたれるもんか、という弾性がある、という。土台をつくってくれたのは、故郷のキーウェストの老婆たちだったと思うのだ。

   何があなたたちを支えているのだろうか。

ジュリエット 怒り。わたしの場合は怒り。静かな怒り、冷たい怒りであるかもしれないけれど、怒り。これまでわたしが身につけようとしてきたのは、怒りを何かしら建設的なものに向けようとする姿勢だったのよ。

『ブルースだってただの唄 黒人女性の仕事と生活』には、それぞれの章に、先で語られる事柄を聞き手としてまとめた導入部があって、それからインタビューが始まる。その一連の流れのどこに秘密があるのだろう? どうして自分ではないだれかの、気楽とはけしていえない語りに、こんなにもすんなり入っていけるのだろう。
「自分には、へこたれるもんか、という弾性がある」というのは、直後に「、という。」があるから、ジュリエットの言葉を引いているとわかる。そのあとの「土台をつくってくれたのは、故郷のキーウェストの老婆たちだったと思うのだ。」も、そう思ったのはやはりジュリエットだが、ここには――引用符やそれに準ずる文言を伴わないからというだけではないだろうけれど――そう「思った」語り手の実感を、そのつど自分の内側に響かせるように聴き、確かめ、書き進める聞き手の姿がある気がした。読者は、その実感の言葉を、やはり胸の近くに引き寄せて響かせてみるようにして読むことになる。そうするのをうながすような調子が、この本にはつねにある。
 これ以降いろいろな言い方で、聞き手からも、語り手からも問われ続けられる問いかけから、最初の傾聴ははじまる。「何があなたたちを支えているのだろうか」という問いかけはいきなり核心をついているが、かといって、突然のものとも思われない。「土台をつくってくれたのは……」という、問いかけへのひとつの答えをすでに明かしているような言葉をふくむ冒頭のエッセイを読むことで、すでにその話が語られる場所へと向かっていたからでもあるだろう。ひとつの仕方で語られたことを、そうではない仕方で繰り返し語る言葉に出会うことが、『ブルースだってただの唄』を読むリズムのような気がしていた。
 読んでいると、たびたび「あれ、この内容、さっきも読んだ気がするな」と思うことがあった。リード文や概要文と呼ばれるものには、むきだしの「本文」だけでは一望できない内容を短くまとめて理解を助けることを目指すものも多い気がするけれど、『ブルースだってただの唄』の聞き手の書き言葉と聞き書きは、要約と本篇という関係をこえていて、そこには、より深い、繰り返す、ことの力が秘められていると思えた。
 各章冒頭のエッセイのみならず、話されたのが英語なら、聞き起こしの部分も、日本語への言い換えと繰り返しを経ているはずだった。つまり、本のなかの言葉のすべては、言い換えや翻訳の過程で〈はたしてその反芻の言葉は妥当かどうか〉という形で浮上する彼女たちの経験と語りへの根底的な問いを、書き手が自ら(と読み手)に問いつづける、実践の結果なのではないか。
 第二章には、はじめ第一級殺人罪で終身刑を言い渡されていたウィルマ・ルシル・アンダーソンが書いた、恩赦をもとめる嘆願書のあらましが、そっくり収録されている。それは、司法制度のなかで自分を助けるためには、過去に経験した過酷な出来事を何度も話し、証明しなければならないという側面を伝えてもいる。しかし言葉をめぐる状況は、最初の裁判で「検視官の供述をくり返しくり返し聞いた」ときとは、決定的に異なってもいる。
 読者は、嘆願書を通して、聞き手の言葉やウィルマ自身の言葉ですでに知っている事件の経緯をあらためて読むことになるが、これは余剰の重複とは思われない。そこまで読んだ私たちは、その出来事に至るまでの生活とそれからの生活が彼女のなかでどれだけ反芻されてきたかを、そしてそのなかで彼女がなにを発見し、決意したかを知っているからだ。あらためて何度でも読み、状況に出会い、そこにある微妙なニュアンスの違いを読み取ることが、大切な気がしている。
 読み進めているものが、その人の「ことば探しのたたかい」の一端であったことは、先行する聞き手の言葉で書かれていた。

なぜなら、「女たちの家」の住人はことばを探している女たちであったから。彼女らは「わたしの中の牢獄」を、自らの生に対して感じる虚無や無意味ととらえることもあって、自らの生の輪郭が不明であることに焦燥と深い悲愁を感じているように見えた。自らの生に意味をあたえ、生の輪郭を見せてくれる魔術はないか。混沌や茫洋にかたちをあたえることができるもののひとつがことばであるなら、それは魔術のようなものだ。
 わたしは女囚から話を聞かせてもらった。そしてその過程で、自分史を語りうる女たちのことば探しの過程が見えてくると感じた。

 その「ことば探し」が、いかに自身たちの「黒人らしさ」を持続させるか、というこころみに通じてもいること。それが、いまここにある肉体で生き延びることと無関係ではないこと。同じ本の別の場所では、そのことについても書かれていた。

彼女たちは抽象的に民族意識や歴史体験の意味について語っていたのではなかった。黒人と呼ばれる社会集団の、明日の命について語っていたのだ。アイデンティティ、とわたしたちが片仮名で表記することばに関わる哲学的な悩みについて語っていたのでもない。自らのものではない姿勢をとることによって、共同体は収縮する、生きのびたように見えたとしても、死はちかい。彼女たちは肉体の存続について語っていたのである。その危機について。

 気付いたらこんなに読み進めていた、というときもあれば、自分のなかに積もった考えや思いの重さがこたえて、いちど本を閉じることもあった。読み出したら止まらなくなるようにさせているのも、読み進める前に、途中でひと呼吸おかなければ、と思わせるのも、凝り固まっていない言葉に、しかしなくなることがない緊張感のためではなかったか。
 言葉を通じて知っただれかの経験が心身にこたえたり、自分とはまるっきり無関係な人の無関係な出来事などではない、と思うようになることを可能にする力を「共感」と言ってみてもいい。だが、それが、個別的なものから出発して普遍に至る、というような、あまりにも単純化されたプロセスの上にはないことは、気づいていた。というのもここには、〈彼女らと私たちは、あらゆる背景をこえてまったく同じ事情を抱えているのだ〉というような虚構の立場に立っていないからこそ尋ねて、答えられた、アメリカに生きる黒人の女性たちに固有の経験、彼女たちの家族の来歴、彼女たち自身が歩んできた歴史の細部があり、それが私をたえず「撃つ」からだ――「普遍性のなかにやすらぎを見出すよりも、他者の固有性と異質性のなかに、わたしたちを撃ち、刺しつらぬくものを見ること。そこから力をくみとることだ、わたしたち自身を名づけ、探しだすというのなら」。
 ここでの言葉は、安易な「同化」に疑問を呈し続けなければ読み進めるのが難しくなるようにできている。
 エピローグは、アトランタに住む一〇四歳の女性、アニー・アレグザンダーさんの話を聴くというもので、その屋敷の周囲と明かりの様子が書かれたところを読みながら、私は気づいたらそこまで運ばれてきたことに驚いた。アニーさんの声から見えてくる光景というのは、聴くことであらわれる比類のないものだと感じた(ぜひ読んでください)。これは耳を傾けることの奥の深さと広さをしめす本で、こうして読み返しながら書いているときりがなく、それを読むという道のりの先はほんとうに長いと痛感する。

***

 読んでいるとき、コロナのことがあって途絶している読書会があるのを思い出していたのは、「女たちの家」での仲間同士での対話が、そのひとそれぞれの言葉を獲得する助けになっているのを目の当たりにしていたからだ。集い、語り、聴く、ということを、いままでとはまた違うふうに見るようになっていた。「床のうえの扇風機がまわっていた。額や背や脚に汗がながれ、女たちがたたかいとよろこびと人間の威厳について語っていた」といった一節で描写された時間と空間があったのを知ったことは、これからの自分にどう作用していくのだろうかと考える。
 ほんのさわりを読んだ時点でなぜか思い浮かび、すぐメッセージを送った人が大学時代の友人Mさんで、彼女はけっきょく私が読む前に『ブルースだってただの唄』を読み終えていた。先日、遅れて読み終えたあとであらためて感想が聞きたくなって、電話した、ということがあった。
 そういうわけで、『ブルースだってただの唄』読書会(ダイジェスト)をお送りします。

――どういうふうに読みはじめたの?

M とりあえず読みはじめたのは、ちょうどいい大きさだったっていうのが理由だったんだけど……

――文庫本ってこと?

M そう。軽いし、通勤のときにちょうどいいって思って読み始めて。で、すごい面白いなー、みたいになって。まず最初に思ったのは、前もいったけど……日本語として、すごい。こういう日本語あんまないよな、みたいな感じ。なんとか「でしょうが」とか、いうじゃん。

――「でしょうが」あったね。

M いま、あんまいわなくない? でも、いってそうだな、って。この人たちの声を日本語にするとこんな感じになるんだなっていうのが、けっこう、新鮮で面白かったりとか。あとは単純に、後景がわかる。社会のなかで、どういう位置付けなのかとか、教育とか学校とか、「黒人」といってもいろんな……膚の色があって、とか。そういうところで、見えてくる社会というか。それもすごい、へー、みたいな。なんか、いっこ思ったのが、自分たちの世界――というのかな――があるじゃん? 過去と未来がないと、いまだけじゃ生きていけない、みたいな。

――あった。「おれたちはまっ裸よ」っていうところだよね。……「自分たちが以前はどういうものたちであったかを知らなければ、裸同然なんだ」

M そうそうそう。わたしは去年けっこう、日本の歴史に興味を持って、いろいろ読んでいたってことがあったんだけど。この本に出てくる人たちって、自分たちのことに誇りを持つことが大事だと言ってる。でも、わたしが日本の歴史を読むのは誇りとかじゃなくて、むしろ……どこにこの、病気の原因があるんだろう、みたいな。そういう……

――不具合の理由を探すというか……

M そう。ぜんぜん違うな、って。
みんな、自分の膚の色とか、置かれている環境とか、そういうものにたいして意識的で、それも印象的だった。すごい考えてさ、すごい向き合ってさ、しかもそれにたいしてほんとに卑屈じゃなくて。わたしは膚の色が濃い自分のことが嫌い、とか、若いときはそういうこともあったかもしれないけど、でも……受け入れてる。娘が生まれたときに、自分の膚のことを受け入れた、とかさ。そういうのがあって、ほんとに正面から、自分とか自分の人生に向き合ってるなあ、っていうのは、すごい……強いよね。なかなかできないと思う。

――読んだあとはどうだった?

M 元気出た。すごい励まされたし。こんなに逞しく生きている人がいるんだ、ってことはすごい、励みになった。自分の苦しい過去とかをさ、私は友達に話してたりしたときもあったけど。あのときは苦しかったから、話さずにはいられなかった部分があって。でも、いまそこから離れたときに、もういちいち他人に話そうと思わないわけ。もうそこに戻りたくない、思い出したくもなくて。でもそういう経験、たぶん私の場合は――ただ災難に巻き込まれたとかだったら別かもしれないけど、そういうわけでもなくて――いろんな背景があって、経緯があってそれが起こっていて……私の身に起こったことは、ある意味で構造的に……構造的な要因があったりして。だからそういうのを振り返って、いっかい自分のなかで整理をして。同じようなことで苦しんでる人ってたくさんいるから……なにかそういうことに活かせればいいな、みたいなのは、思うっちゃ思うんだけど、なかなかね、そういう気持ちにもなれない。
 だけどここにいる人たちって、みんな言葉にしてるじゃん。自分が辛かったことも、自分が犯してしまった罪とかもさ、ぜんぶ……ちゃんと捉えてて、しかもそれを社会的ないろんな要因とか視点から見て、それを自分のなかで消化して、表現して、しかも行動にも繋がってる。それはすごいなって思って。たぶん私も、いまはちょっとまだそういう気にはなれないけど、いつかもうちょっとちゃんと真剣に、いろいろ向き合わないといけないな、みたいなのはすごい、思った。

――はじめのほうに、「その彼女らの視線は、にほん列島に生きる少数者に、同化が答えです、といって疑うこともなかったわれわれにほん人を撃ちはしまいか」という一節があるんだけど……

M そういう意味だと、ほんとにさ、日本人が学ぶとこいっぱいあるよね。日本でどうやって外国の人たちと生きていくのか、みたいなこと。同じ土地でね。みんなそれぞれのコミュニティがあってそれぞれの文化があって、それでも一緒に生きていくってどういうことなんだろ、みたいなのは、たぶんこの本を読めば、ひとつのヒントは出てくるよね。同化じゃないよね、っていうのはすごくよくわかった。

***

 感想文、といっても、字数の指定がなかったせいもあるのか、いまが深夜だからか、ひとつ引用したら、引用しなかったほかの全ての文に触れていない自分を責めてしまいそうになる。だって、そっくり一冊を書き写すこともできるのだから(それはそれでやってみていいことではなかろうか)。でも、ひとつ話したら、だれかが、たしかにそうだ、いやそうではないはずだ、私はこう感じていたと、応えるはずだ、その途中なんだと思って、切り上げようとしている。
 最後に、日記を書いておきたい。こうしていると、この本が復刊されたころ(二〇二〇年の秋)、私が知らないときところのことを話してくれた人の声を思い出すのである。こういう思い出が『ブルースだってただの唄』とセットになっている。
 そのころはちょうど九州にいて、福岡で一年ぶりに会った、木工の家具を長年作っておられる年長の知人が「藤本和子さんは、アメリカの黒人女性作家の作品の選集を編んだ人だったんですよ」と教えてくれた(私はそのことを知らなかった)。自分が立ち会わなかったときところが、しかしたしかにあったんだ、と感じられるのはこういうときだ。『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』を新刊として手に取ったことのある人が、いままさに目の前にいて話している、ということで。『ブルースだってただの唄』を手にしたのはその翌日で、私が生まれ育った熊本にある「橙書店」で買った。たまたま、生前の原田正純さんに教えを請うたことがあるという方がいらしていて、そのお話を聴いたのもあって、岩波新書の『水俣病』も一緒にレジにもっていった。

仙台ネイティブのつぶやき(59)床から起き上がる

西大立目祥子

 新年明けて2日、母が転倒し救急車を呼ぶ事態になった。高齢者の転倒は半分が室内、というけれど、母の転倒も寝室のベッド脇、しかも私の目の前でのことだった。朝、ベッドを整えていた私の横にトイレから戻ってきて、あぁっと思ったときは床にバタン! パジャマの裾をじぶんで踏んだようだ。
 床に尻もちを着いたら、母はもう自力では起き上がれない。私一人の力では立ち上がらせることができず、すぐ前に暮らす義妹を呼んできて2人で何とかベッドに引き上げた。そして、大したことはないだろうとそのまま寝かせ、私はのんきに新年の初売りに出かけてしまった。

 11時ころだったろうか。お雑煮を整えて、起きたらと声をかけ上体を起こしかけると「痛い、痛い」と訴える。無理に誘導すると、認知症の母は事態が飲み込めず怒り出す。だましだましリビングまでそろそろと歩かせて椅子に座らせ、まずは食事をとらせた。

 つかまり立ちくらいはなんとかできるのだけれど、歩かせようとすると悲鳴のような声を上げる。もしやこれは「大腿骨骨折」なのでは? ひやりとした。高齢者は布団の上で転んでも骨を折る、すぐに手術、そして入院…最悪の事態がつぎつぎと思い浮かぶ。調べると、車で10分ほどの急患センターは整形外科もあるようだ。でもいったいどうやって車に乗せたらいいんだろう。2、3歩の歩行がやっとやっとなのに。それは、無理。そう考えて119番に電話することに決めた。でもお正月だしなぁ。そうも思って「あのー、サイレン鳴らさないできていただくわけには?」と恐る恐る聞くと、「それはできません」と一蹴。

 運び込まれた病院での検査の結果、幸い骨折もヒビもないことが判明して、胸をなで下ろした。いま冷静な頭で考えると92歳の事故としては、かなり稀有なことかもしれない。
 しかし、介護は看護に近いものとなり、当初1週間ほどは施設に預けることもできず過酷な毎日だった。寝かせてばかりでは筋力の低下が心配で日中は起こしたいのだけれど、歩行が困難だから、2メートルおきくらいに椅子を並べ、あそこまで、次にあそこまでと寝室からリビングまで歩かせる。最初は頑張る母も痛みに耐えかねて怒り出す。結局、車椅子をレンタルし
室内も車椅子で移動。一日中、座らせたままにする日が続いた。
 事故前は、達者とはいえないまでもあちこち動き回っていたのに、いっこうに歩こうとはしない。立ち上がることはしても歩かせようとすると「痛い」と股関節を押さえる。骨折もヒビもないというのに、何が起きているんだろう。不安が募った。

 私たちは意識もせずに骨と筋肉を動かして動きまわっているけれど、自力歩行が困難になった母を前にしてひとつひとつの動作を考えると、相当複雑なことをやっていることに気づく。そもそも母はなぜ床から自力で起き上がれないのか?
 床に仰向けになったところから体の起こし方を考えると、まず右か左に大きな寝返りのように向きを変えないといけない。背筋、腹筋など大きな筋肉の力がいるし、肘を立てて上体を起こし首を持ち上げる筋力も必要だ。そして、腹ばいになったところで、今度は膝を立て這う姿勢になって、つぎに右足か左足を前に出し踏ん張らなければならない。立ち上がるためには、大腿四頭筋、太ももの裏側のハムストリング、お尻の大臀筋も欠かせない。このうちのどこかの筋肉の機能が落ちると、起き上がれなくなるのだろう。母の場合は、どこの筋肉力が不足しているのか。それとも柔らかさに欠けているのか。

 2週間たっても、歩けない状態は続いた。車椅子にはしっかりと座っていられるし、立ち上がることもできる。しかし歩行になると、とたんにダメ。あれこれ、体の動きを考える日を送った。
 図書館で借りてきた『リハビリ体操大全集』(講談社)という本には、骨盤を立てて座っていられるかどうかが寝たきりになるかどうかの分かれ道という記述があった。確かに、背もたれなしの椅子に座るためには、腹筋も背筋も骨盤まわりの筋肉も使う。いまはすっかり寝たきりとなった叔母と3年ほど前に会ったとき、ソファによりかからせても体位を維持できなくてぐずぐずと横に倒れていってしまったことを思い起こした。もはや背骨まわりの筋力もなかったのかもしれない。母は椅子に腰掛けていられるから、寝たきりまでにはまだ猶予はあるのだろうか。

 母のようすを観察しながら、「寝たきり」ということばにもはやじぶんも無関心ではいられない。私は仕事場では椅子とテーブルだけれど、家で仕事をするときはもう20年近く、座布団に正座で通してきた。食卓で仕事をすることもあるけれど、座った方が集中力が途切れない。おへその下の丹田に力が入るからなんだろうか。背もたれは当然ないから、気づかないうちに背筋や背筋を鍛えているのかもしれない。正座は膝関節、股関節の可動域を広げることにもなるらしい。  
 以前、幸田文を主人公にしたテレビドラマを見ていたとき、文が女学校に出かける前に台所でお膳にご飯と味噌汁と漬物かなんかをのせて座敷に運び朝ごはんを食べるシーンに心動かされて、一時期、朝食をお膳で食べていたこともあった。あれも復活しようか。寝たきりを遠ざけるためにも。

 3週間が過ぎる頃から、母はときどき自分で椅子から立ち上がることが増えてきた。歩きたいのだ。歩こうとして、違和感に気づき座り直す。促さなければ立つことはなかったのに、自ら動こうとする。そのようすを見ていて「自発」ということばが浮かび、ケガの治癒の局面が変わった気がした。
 動こうとして動けないというのは、苦痛をともなうことだ。たとえば、意識のある人が寝返りを打てないというのは虐待にも近いような苦痛であるらしい。そのために、介助者は動こうとする意思を汲み取り、寝返りを打つ手助けをしなければならない、と本にあった。母も動きたくて動けず苦しいのだろうか。どこかいらいらした表情にそんな思いを読み取る。

 そして4週目を迎えようとする1月末、お泊りサービスから帰ってきた母は、なんと!じぶんで歩いていた。92歳の復活劇。これには、私たち家族もヘルパーさんたちも舌を巻いた。いやー、すごいね、と。誰もがこのまま車椅子生活になると思っていたのだ。
 自発的な意思を受け止めるやわらかな身体があって、人は動く。意思と身体のスムーズな連携。それは見ていてよろこばしいものなのだ。赤ん坊でも高齢者でも。母の表情はどこか和んできた。復活劇の要因は何?と聞かれる。答えは一つ。よく食べること。

 この1年ほど、どこか施設に預けようかと迷い続けてきた私は、このまるでドラマのようなひと月を過ごしてようやく決心がつきつつある。私自身の介護疲れを恐れてというより、母の自発力と復元力がまだまだ信じられると思えたからだ。どんなにまわりが気をもんだとしても、ケガをしたその人に力が備わっていなければ復活はありえない。この人はまだ大丈夫。どこか新たな生活の場に連れ出しても、じぶんの世界の中でけっこう楽しく残りの数年を生きていけるのじゃないか。

しもた屋之噺(228)

杉山洋一

真っ暗な闇に、満月が煌々と輝いています。
年末に緊張しながら日本へ発った時、一月後に臨むこの静かな佇まいの月など、到底想像できませんでした。
日本に戻れば自主隔離で出かけられず、祖父母にすら会えない。漸く再開された残り僅かな学校の授業も、音楽院の対面レッスンも受けられない。オンライン授業も日本で受ければ8時間の時差で毎日真夜中になる。それ位なら一人でミラノに残らせてほしい、と真顔で息子に言われたときは、流石に言葉に詰まりました。
彼の言い分は至極尤ですが、Covid-19の第二波がやっと落ち着いたばかりのミラノに息子を置いてゆくのに、不安に駆られない方が難しいでしょう。
そんな複雑な状況にあって、Hさんに息子の食事をお願いできたのは本当に幸運で、ただ感謝あるのみです。
医者の友人たちも、万が一の時には力になると励ましてくれていたものの、運を天に預ける思いで夫婦共に気の落着かない、忘れがたい一ケ月となりました。
今日の日本の状況を鑑みれば、息子の選択は正解だったと思いますが、今後何かにつけ、正しい選択など分からない日々が続くかと思うと、やり切れません。

  —–

1月某日 三軒茶屋自宅
夫婦共に三軒茶屋で自宅待機が続く。息子のいない夫婦だけの正月は初めてで落着かない。林間学校やキャンプに送り出しているならいざ知らず、それぞれが感染症にまみれた街で離れて暮らすのは、気が気でない。
尤も、たまに連絡をすると、ごく普通に暮らしているようだ。
級友も揃って息子が一人と知っているので、毎日一緒にオンラインで集っては勉強などして寂しくないという。学校の皆さんにも感謝に余りある。
昨年、家族揃って祖父母と正月を過ごせて、本当に良かった。
目を皿のようにして、武満賞の譜読みをするが、間に合うか分からない。
ミラノの息子は、Hさん宅で、我が家で見たこともない豪華豪華絢爛なおせちを頂いていて、深謝。Hさんが、大丈夫よ、今までよりずっとしっかりするからと大きく構えて下さっていて、我々も漸く足を踏み出せた。ただただ有難い。

東京都の新感染者数783人。衝撃的な数字との都関係者のコメント。全国の新感染者数3106人。死亡者54人。
イタリアの新感染者数22211人で陽性率14,1%。462人の死亡者。ミラノは年末年始の移動規制もあり1月4日のみオレンジゾーンで、その後1月6日までレッドゾーンが続く。

1月某日 三軒茶屋自宅
工藤あかねさんより連絡あり。ブソッティ曲中のアルメニア語テキストを、オンラインでスイス在住アルメニア人に稽古してもらったと言う。
「発音するのが楽しい言語なので、原語のまま音を当てたい」 と頼もしい。

東京都の新感染者数884人で2人死亡。全国の新感染者数3302人。死亡者56人。イタリアの新感染者数10800人で陽性率13,8%。348人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
朝、イタリアから持ってきたパネットーネ二個を水町さんに渡す。自宅待機中なので、玄関外に荷物を置き、持って行ってもらう。
昨晩は「アフリカからの最後のインタビュー」三重奏版をインターネットで拝見。楽器二人にエレクトロニクス一人であっても、クラシックの三重奏と同じく、より能動的で有機的な関係が互いに必要となるのが面白い。ヘッドフォンで聴くと、エレクトロニクスが驚くほど直截で生々しい。

東京都の新感染者数1591人で8人死亡。全国の新感染者数6001人で65人死亡。イタリアの新感染者数20331人で陽性率11.4% 649人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
菅首相が、東京都と近隣三県に非常事態宣言を決定。福永さんに電話して、悠治作品演奏会開催について話す。
政府からの演奏会自粛要請、もしくは演奏者から延期を希望されない限り開催の意向と伝える。
延期しても、将来の感染状況は分からず、リハーサルが始まっていれば、関係者に陽性者が出れば、全員が濃厚接触者となり演奏会は中止になるかもしれない。
第一、半年後、一年後、自分自身が陽性になる可能性も充分にある。ワクチンに期待するのは、もう少し先の話だろう。
だから、現在開催できる状況にあるのなら、聴衆いかんに関わらず実現しなければ、今後は誰も保証できない。演奏者の理解が得られるなら、感染対策をして演奏会はやるべきだと思う。
トランプ支持者が議会乱入。

東京都の新感染者数2447人で11人死亡。日本全体で7570人。死亡者は64人。
イタリアの新感染者数18020人で陽性率14,8% 414人の死亡者。ミラノは今日と明日のみイエローゾーンに緩和され、レストランも再開されるが、明後日からオレンジゾーンに戻り、飲食店は営業できない。

1月某日 三軒茶屋自宅
昨年耳の訓練の授業を教えた弱視の女学生より、指揮を勉強したい、入試を準備したいと連絡が来て、答えに窮している。耳はよいが、直接オーケストラとアイコンタクトを取らずに指揮が出来るか、出来ないか、正直わからない。確かに、指揮者で目が悪かった人は沢山いたし、今もいるだろう。流石に、弱視はまた別かも知れない。彼女がやりたければ、どんどん挑戦すればよいとも思う。可能性は他人が予め決めるものでもないだろう。

東京都の新感染者数1219人で重傷者131人。日本の新感染者数4876人で48人死亡。大阪、京都、兵庫への緊急事態宣言発令を検討。
イタリアの新感染者数12532人で陽性率13,6% 448人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
covid-19に対する政府の給付金は有難いが、我々が払ってきた有限の税金を、我々が自身が現在のように使うのが本当に適切か、考える必要はあるかもしれない。
パンデミックが起きると、国力、経済力を痛感する。医療体制から、ワクチン購入や経済支援と、人と資金が潤沢かどうかが利点に大きく作用する。
政府の資金に余裕があるならいざ知らず、今後も不足分を政府が刷って補えばよいだけなら構わないが、将来的にそれだけで安心してよいのか、無学故に、些か不安も過る。
コロナ禍に於いて、減給される医療関係者を生み出すべきではないし、満床の病院を手を拱いて眺めている場合でもない。
欧米と比べ感染者や死亡者数がずっと少ないのに、既に施されるべき治療が受けられない現状こそ、一番の問題ではないのか。

一日かけて悠治さんの「橋II」を拍子分けする。元来拍子なしで書かれていたが、指揮をすると決めたので、便宜上拍子が必要になった。
同時に、隠れていたフレーズや息遣い。思いがけない対位法的やり取りが浮かび上がる。躓くようなリズムは、既にこの頃に生まれていた。
思いがけず複雑な譜割りになり、書き込んだ楽譜をスキャンして演奏者に送る。
当初、悠治さんはどのように演奏する積りだったのだろう。指揮なしで演奏するには、楽器間の同期指示が多い上に、指定の速度は極端に早い。
自分でも振れる自信はないが、遅いテンポから少しずつ練習してゆくと、風景が見えてきた。

有馬さんより連絡を頂く。「フォノジェーヌ」テープ3は、スコアに書かれた6’44’’ではなく、6’43’’から始めることになった。よって以降全て1秒繰り上がる。曲尾は、スコアの指示9’51’’より元素材そのものが短く、9’25’’で終わる。

東京都の新感染者数970人で重傷者数は144人に増加。2人死亡。日本の新感染者数4539人で64人死亡。イタリアの新感染者数14242人で陽性率10,05%、 616人の死亡者。今日まで791734人ワクチン接種。

1月某日 三軒茶屋自宅
ブソッティリハーサル初日。最初の練習で「肉の断片」を止まらずに最後まで演奏できて驚く。全体は俯瞰され、各演奏者の音への興味が具体化してゆく。事象の連続から、有機的に絡む構造物へ変容する。ためらいや衒いが抜けて姿を顕す、思いがけず濃密な時間。
日野原さんとやりとりしつつ、ブソッティのテキストを訳出。

Un ragazzo per moglie
娶られた少年

ぼくと     果てしなく
官能のおもむくまま お前は裏切った
不在の愛人を
われわれが「良人」と呼んでいた
あの情人を 

愛を重ねたい 幾度も
幾度も それはまるで 
お前の調子っぱずれの歌声が
耳を つんざき
乱暴に やさしく
お前を 突き立てながら
下から お前を求める

男性至上主義の 哲学
南国的な 固定観念
女神的な 美学
女性的な 喜び
天国的な 尻臀

破壊し 縫合する
ブオナローティの言葉を借りるなら
《舌先で くびれで いたみで
性器で 瞳で 門歯で》
1920年代の肉体の
性愛に 飽くなき
疲れ知らずの ローマ風の接吻のなか

すべては うまれた
とある惣菜屋
揚げ物並ぶ 店先の
一年つづいた 眼差し
倒錯した 空虚な夢は

すべての欲望を 焼き尽す
娶られた少年の  野蛮な作法 
お前の番に お前はいない
ぼくは 心震わせ 腰をおろす
この地上の たった一つの岩の上に
お前のことを 思いかえす
それが お前を想い お前を見るということ

1983年 7月23日 トーレ・デル・ラーゴ
2003年 12月11日 16時 ミラノにて書写
(官能的な期待のなか
沈みゆく太陽のもと)
斜光差し込む 樅木通り
(日野原、杉山共訳)

当初、当惑しつつ訳出していたが、一度書き下して距離を置いて眺めると、生々しい表現の奥に、恋人への純粋な愛情が溢れることに気づく。今は年老いた二人を姿を思い出し、素朴な感動を覚える。

東京都の新感染者数1433人で重傷者数は135人。日本の新感染者数5871人で97人死亡。ラジオでニュースを聞いて、思わず大声を上げてしまった。イタリアの新感染者数15774人で陽性率9% 507人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
ブソッティを練習しているとき、もっと普通に記譜してあればリハーサルも効率的だとも思う。ただ、このように書くことで生まれる固有の表現は確かに存在する。手稿を見ながらバッハを演奏するようなものだろうか。暫く続けていると、自分が読めるようになればよい、と頭が切り替わる。歌垣のCDがとどく。松平さんが、中川さんの楽譜のようだと繰返していて、なるほど面白い視点だと思う。

東京都の新感染者数1502人で重傷者数は135人。3人死亡。日本の新感染者数6005人で66人死亡。数字を聞き続けていると、感覚が麻痺してくる。イタリアの新感染者数17246人で陽性率10,7% 522人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
ブソッティ演奏会。全体を通すことで炙り出される、音の美しさ。Voix de femmeは実に丹念に、有機的に音がからむ。
図形楽譜と一括りにされるけれど、ブソッティに関しては、愕くほど有効に、そして定着された楽譜との整合性を保って挿入されている。
日野原さん曰く、ブソッティは自らの即興をそのまま楽譜に定着し、耳で書いてゆく部分が多いという。
ブソッティもドナトーニも、齢を重ねて日本人の助手を選んだのは妙な因縁だ。

東京都の新感染者数2001人で重傷者数は133人。10人死亡。日本の新感染者数7133人で78人死亡。イタリアの新感染者数16146人で陽性率5,9%へ急激な減少。 477人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
ブソッティ演奏会後、夜、自宅で武満作曲賞のファイナリストとズームで話す。練習が始まる前に作曲者と指揮者が話してもあまり具体的にならないので、互いに手探りで話すが、わからない奏法や記譜などを確認する。
東京都の新感染者数1809人で重傷者数は136人。3人死亡。日本の新感染者数7014人で56人死亡。イタリアの新感染者数16310人で陽性率6,3% 475人の死亡者。ミラノは再びレッドゾーンになり、息子は遠隔授業を受けている。

1月某日 三軒茶屋自宅
中国在住のシンヤン君だけが日本に入国できた。書き込みした楽譜をヴィデオに撮らせてほしいと、全頁をヴィデオに撮っている
最初のリハーサル中マスクが苦しく、途中から意識がぼんやりして、自分自身身の危険を感じた。
二週間の自宅待機で体力が落ちている上に、夏に使っていたウレタンマスクではなく、不織布マスクで呼吸に負担がかかったのか。
オリンピック選手もこれでは大変だ。

Rさんより連絡あり。肺炎で入院していた、ご高齢のお父さまが退院の見込みとのこと。本当に良かった。

イラリアの訃報。「お前、今日本だよね」と号泣したTより夜電話がかかる。
もう長い間イラリアには会っていない。最初に彼女と知り合ったとき、彼女は未だ高校生だった。
Tの妹は、聡明でお転婆な女の子で、皆で何度遊んだか、食事したか、思い出せない。
カルヴィーノやエーコについて、何時までも彼らの両親と夜遅くまで話し込んだのが懐かしい。イタリアに住み始めたばかりで、家族のように接してもらった。

Tとはあれからも常によき仕事仲間で尊敬しているが、互いに仕事が忙しく、なかなか会えなくなった。
彼女も社会人となり結婚して充実している、と大分前にTから聞いていた。でも俺は間違っていた、もっとみんなで会うべきだった、と電話口で泣いている。こんな彼の姿を見たのは初めてだった。
ちょっと読んでくれ、と、彼女が逝く直前に送ってきたメッセージを転送してきた。

「わたし、この苦しい毎日にあって、今まで旅してきたことが自分にこんなにかけがえのないものになるなんて、思ってなかった。
この3日間ばかり本当に辛かったけれど、その間わたしから離れなかった酸素ボンベのゴボゴボいう気泡音がね、ずっとわたしを京都に連れていってくれるのよ。
庭で雨水の打つ音、そしてまた打つ音があるでしょう。繰返すとても心地良い音なんだけど、今になって、やっとわかったの。どうして日本の映画で、この雨の音がしつこいくらい使われているか。
どんな我慢を強いるのかは、よくわからない。でもこの音がなければ、わたしは耐えられないの。
この音が途切れた風景の遠い遠い世界に、わたしを再び誘ってくれるの。このかすかなリズムが、いつかわたしをこの悪夢から連れ去ってくれるといいな」。

イラリアは明るい少女だったが、生まれてからずっと、血液の難病と戦っていた。
T曰く、秋に陽性がわかって以来、Covidのせいで持病の治療も、持病のせいでcovidの治療も儘ならなかった。それでも大分持ち直してきて、大丈夫だろうと安心した矢先、年末に急激に体調が悪化して帰らぬ人となった。

イタリアの新感染者数12545人で陽性率5,9% 377人の死亡者。この数字の中にイラリアもいるのかと思うと、やりきれない。
東京都の新感染者数1592人で重傷者数は138人。5人死亡。日本の新感染者数5759人で49人死亡。

1月某日 三軒茶屋自宅
武満賞のため、スペインとロンドンと遠隔リハーサル。演奏動画はVimeo経由で送って会話はzoomを使う。
指揮台脇にマイクとモニター。演奏者などを撮影するカメラは舞台下手の2階にあつらわれた。
zoomは、ほぼ時間の誤差なしに会話できるが、高精度のvimeoの音声は、相手に届くまで30秒ほどかかり、実際の距離感を実感する。
ヘッドフォンをつけ、こちらの演奏に聴き入っている作曲者は、こちらが演奏を終わって30秒経たなければ、演奏が終わったと気が付かないので、黙って待つ。
そうして、ヘッドフォン中の演奏が終わると、vimeoを聞いていたヘッドフォンを外して、zoomを会話をする。スムーズにはいかないので、リハーサルの効率を考え、最初に細かい練習をし、通し稽古まではこちらで引受け、その後少し作曲者の意見を聞くことにする。
東京都の新感染者数1204人で重傷者数は133人。3人死亡。うち一人は自宅療養中の容態悪化で搬送先機関にて死亡確認。日本の新感染者数4925人で58人死亡。イタリアの新感染者数8824人で陽性率5,6% 。昨日と同数の377人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
武満賞演奏会。舞台前方2階に巨大なテレビモニターを4枚並べて設置してあり、それぞれ別のzoomで作曲者や審査員と繋がっている。
東京の感染状況が酷いので、ずっと両親にも会っていないし、演奏会にも呼んでいなかったが、今日の演奏会は会場も広く、聴衆も少ないと聞いたので、気分転換になればいいと車を用意して両親を招く。
演奏会後に電話すると、思いがけず明るい声で興奮していて、こちらが愕いてしまった。物凄い喜びようだったから、やはり会場で直接体験する音楽は、何物にも替え難いのだろう。

最後にカルメンの候補曲を演奏している際、彼女曰く涅槃の世界に差し掛かったところで、ふっと亡くなった恩師や友人たちの顔が音のまにまに浮かんできて、最後には若いころのイラリアの笑顔もうっすら見えた。音楽とは不思議なものだ。

歳をとるというのは、こういう事なのか。以前は天使や聖人が天国で並んで出迎えるカトリックの宗教画がまるで理解できなかったし、悪趣味にすら感じていたが、何時の間にか、河の向こうで皆が待っているのが理解できるようになってきた。

東京都の新感染者数1240人で重傷者数は155人。16人死亡。日本の新感染者数5321人で104人死亡。イタリアの新感染者数10497人で陽性率4,1% 603人の死亡者。ここまで陽性率が下がっても、亡くなる人は増えてゆく。いくら引揚げても後ろに続く地引網が、死者を無下に絡めとってゆく。中世の死の舞踏の絵を思い出す。

1月某日 三軒茶屋自宅
早朝から、「フォノジェーヌ」譜読み。本来一つぶりで書かれている楽譜を、4小節ずつまとめて4つぶりにすると、楽曲のフレーズが浮き上がる。音の密度はとても濃い。
「橋2番」を練習すると、どうしてこれほど難しく書かれているか恨めしくなる。演奏の決定はこちらの事情だから、作曲者に文句も言えない。
「フォノジェーヌ」も「橋2番」も、弦楽器群は、弓を使うグループとピッツィカートのみのグループに分けられていて、交わらない。
音をパラメータ化していたのがよく分かるが、このように合理的に分けられている作品も珍しい。

東京都の新感染者数1274人で重傷者数は160人。10人死亡。日本の新感染者数5550人で92人死亡。イタリアの新感染者数13571人で陽性率4,9% 524人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
高橋悠治作品演奏会リハーサル。悠治さん曰く、「橋2番」の完全四度集積の和音は、出来れば純正な響きが望ましいそうだ。
「こういう曲だったのね」、と最初に呟いていらしたのが印象的だった。
旋律を紡ぐための決まりはあったが、リズムは自由に書いたと聞き、どう自由に書くと、こんな複雑なリズムになるのか不思議に思う。

帰り道、悠治さんと話していて、その昔サンディエゴでカスティリオーニの「Cangianti」を弾いたときの話になった。
当時、カスティリオーニもサンディエゴに住んでいたが、カスティリオーニは道に迷って、辺りを何時間も歩き回った挙句、演奏会には来られなかった。

これからどうなるかという話になる。
コロナ禍は戦争とも言われるけれど、世界大戦後、どうしてあれほど皆元気で、希望に燃えていたのかと尋ねる。
「全て焼けてしまったから、一から作らなければいけなかったし、戦争が終わって嬉しかったからね。活気があった」。
外に目をやると、市ヶ谷辺りの風景は、コロナ禍以前と変わらない。
ただ閑散としているだけで、ビルも焼け落ちていない。
ただ、一見何も変わらない表面をめくれば、溜まっていた以前の澱が異臭を放ち始めている。

東京都の新感染者数1471人で重傷者数は159人。7人死亡。日本の新感染者数5653人で94人死亡。イタリアの新感染者数14078人で陽性率5,2% 521人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
悠治作品演奏会リハーサルが終わり、帰りの電車で、母が送ってきたパオロ・ジョルダーノの「コロナ時代のぼくら」を読む。
Corriere della Seraに寄稿していたコラムを集めたもので、当時ウェブ新聞上でお金を払わず読んだ部分は何となく覚えていた、
まあ妥当な内容だと思いながら読み進み、あとがきになって、突然ひきこまれる。
一般新聞購読者向けに書いたコラムのあとがきにだけ、彼の直截な心情が表現されていたのかもしれない。あとがきに心を動かされるのは初めてだ。

Rさんよりお父様退院の知らせ。退院直前の元気そうな写真も送られてきて嬉しい。PCR検査でCovid-19陰性と聞きほっとした。
自宅に戻られると、早速Rさんが目を離した隙に、時計を直そうとベッドに立ち上がってバランスを崩したとか。お元気なのは嬉しいが、気力余って少々心配。

東京都の新感染者数1175人で重傷者数は158人。9人死亡。渡航歴のない都内の女児よりイギリスの変異種確認。陽性判明後12日間入院調整がつかなかった90歳代女性死亡。日本の新感染者数5045人で108人死亡。イタリアの新感染者数13633人で陽性率5,1% 472人の死亡者。

1月某日 三軒茶屋自宅
朝、オランダの後藤さんの訃報を受取る。俄かには信じられない。仲間内では一番アウトドアで行動的だったし、想像ができない。
京ちゃんに連絡すると、電話口で絶句している。

酷い雨だが、自転車で幡ヶ谷へリハーサルに出かける。
「白鳥」は、二人の演奏者の距離を思い切って離してみると、とても弾きやすくなって、羽ばたくおおとりの姿が浮かび上がる。
フォノジェーヌでは、テープをアンサンブルがなぞる実感を共有するだけで、それまでまちまちだったアンサンブルの音が急に纏まる不思議。
左奥歯が痛い。

東京都の新感染者数1070人で重傷者数は156人。9人死亡。日本の新感染者数4717人で83人死亡。
イタリアの新感染者数13331人で陽性率4,6%。 488人の死亡者。現在までの死亡者数は85000人を超えた。

1月某日 フランクフルト行機中
炒めたジャガイモに卵を載せ、朝ご飯。トランクに荷物を詰め、正午からのドレスリハーサルに出かける。東京文化会館の響きは本当にすばらしい。

会場で聴くと、音の位相を次々に変化させてゆく「橋3番」は心躍るような響き。本番会場の響きのなかで「うなり」をどのように聴かせるか確認する。悠治さんは、和音ではなく、一つの音の紙縒りのように聴かせたいと伝える。

「橋2番」の冒頭を少しだけ弾いて、悠治さんに意見を求めると、「これが書かれている速度ですか」と質問される。
書かれているテンポはもう少しだけ速いと答えると、「もっとゆっくり弾いてみてほしい」と言われて、一同拍子抜けした。
表示の速度は16分音符480とあり、かなり速く練習しておいたお陰で、遅めに弾くと、余裕をもって音楽的に演奏できるようになった。

演奏会で聴いていて特に印象に残ったのは、「フォヌルループ」と「白鳥」だろう。
「フォヌルループ」は、ドレスリハーサルのとき、文化会館の壁面のオブジェをなぞるように、ちょっと即物的に、感情を敢えてこめずに試してもらったところ、突然音が明るくなり、音の纏う空気が流れ始めた。本番に至っては、音の方から自由に空間を動き回っているようにすら感じられた。
最初の練習から、悠治さんは一貫して、これは弾いていて面白いですか。面白く弾いてみて、と言ってらしたが、演奏者は本番はとても面白そうに弾いていた。

「白鳥」では、般若さん曰く、本番の魔法なのか、普段と全く違う世界へ自分が連れて行ってもらった感じだったという。般若さんがお経を唱えるのが、個人的にとても気に入っていた。洒落ではなく似合っていた。

「橋2番」も、弦楽器は、弓を緩めてフラウタートで弓を多く使い、音を弦上で止めるようにして、管楽器であれば、舌で振動を止めて音を切ることで、余韻を残さないよう遅めのテンポで演奏すると、何とも不安定な、悠治さんらしい表面が一定でない音楽が紡ぎだされて面白い。作曲者の言葉は、やはり何物にも替え難い深さがある。
楽屋では、須山さんが大好きなカニーノの話に熱中していた。

演奏会後、無人で暗い空港に暗澹としながら、羽田空港のベンチで弁当を食べる。
電光掲示板には、乗込む0時50分発フランクフルト行のすぐ下に、0時55分発ミラノ・マルペンサ空港行と書かれていて、運行状況欄は「運休」とある。

東京都の新感染者数986人で重傷者数は156人。3人死亡。日本の新感染者数3990人で56人死亡。イタリアの新感染者数11629人で陽性率5,3% で299人の死亡者。ミラノは今日からオレンジゾーンに戻り、息子も今日から登校。家に着く頃、彼は学校に行っているはずだ。

1月某日 ミラノ自宅
ミラノの家につく。
リスに胡桃をやると、すぐに樹から降りてきて食べている。
昼食に、ニンニク、アンチョビーに乾燥トマトの油漬けを併せ、食べる直前、存分にチーズをかけて簡略なパスタを作る。
こんな粗食に思いがけず甚だ感激するのは、緊張が解けたからか、日本に戻って大根の味噌汁と豆腐屋の美味い木綿豆腐を食らうようなものか。
一ケ月ぶりに息子に会うが、ひと月一人で暮らしていたというのに、再会しても互いに別段大仰な感慨もなく、ごく自然に以前の生活に戻ってゆく。
家族とはそんなものか。一ケ月離れていたのもすぐに忘れる。
帰宅直後は、自分の皿を自分で片付けたり、残っていた洗い物を洗ってくれたりして、驚天動地の思いだったが、程なく以前通りに戻ってしまい、寧ろ安心もしている。

東京都の新感染者数618人で重傷者数は148人。14人死亡。そのうち4人は自宅療養中だった。日本の新感染者数2764人で74人死亡。イタリアの新感染者数8561人で陽性率5,9% で420人の死亡者。

1月某日 ミラノ自宅
林田さんに宛てたお返事から。
「知とは、昔から言われる通り、知らないことに気づくことと痛感しました。知っているつもりで、実は何もしらなかったとを知る、それにつきます。若い演奏家たちは、悠治さんを演奏するたびに好きになっていくようです。彼らからすれば、知らなかった音楽の在り方をしることなのでしょう。僕らからすれば、知っているつもりの高橋悠治を、何も知らなかったと知ることなのでしょう。
知識など、澱のようにどんどん下に溜まってゆき、腐臭を放つものだと思います。悠治さんの細胞が半世紀前から今まで同じわけがない。当たり前なことですら、実演に接して漸く理解できることが沢山ありました。
古典についても同じだと思うのです。バッハだって、生きているなかで、まるで違う音楽に変化していたかもしれない。正しいバッハ像、モーツァルト像、ハイドン像、シューベルト像なんてありえないのです」。

市立音楽院で教えているのは、エミリオから学んだことを、同じ場所で若い人に伝えていく必要を感じているからだろう。悠治作品の演奏会を続けてきたのも、それに近いことかも知れない。
こうして自分は、無知のまま馬齢を重ねる。

東京都の新感染者数1026人で重傷者数は148人。13 人死亡。日本の新感染者数3852人で104人死亡。イタリアの新感染者数10593人で陽性率4,1% 541人の死亡者。

1月某日 ミラノ自宅
EUが日本からの渡航を原則禁止を発表。日本政府は非常事態宣言一ケ月延長の検討に入った。
胡桃を食べ終わったリスが庭に面したガラス戸前にきて、達観したように5分ほどこちらをじっと眺め、蔦の中に戻ってゆく。先日は外に置いていたエケベリアの葉を齧っていたから、慌てて部屋に仕舞った。
そのエケベリアの鉢の下敷きに雨水が溜まっていて、毎朝リスとツグミが交替でやってくる。リスは美味しそうに水を飲み、黒ツグミは水浴びをする。こんなに寒いのに大丈夫なのかと不安になる。
犬を散歩に付き合う人たちも犬につられて立ち止まり、寒空の下、じっとリスを眺めている。
東京都の新感染者数868人で重傷者数は147人。17人死亡。全国の新感染者数3539人で96人死亡。イタリアの新感染者数13574 人で陽性率5,05% 477人の死亡者。

1月30日ミラノにて

アジアのごはん(106)みそと浅漬け

森下ヒバリ

最近のお気に入りのおかずは、浅漬けである・・で終わってしまいたいほど近頃はやる気がない。海外への旅が出来なくなって、さらに国内の旅も、音楽ライブも、外食さえも慮られるようになって、もう1年が近づいている。
ああ。
さすがに最近ちょっとしんどさがじわじわ効いてきた。出来るだけ散歩に出かけるようにはしているが、先日、雨の日が三日続いて家から出なかったら、気持ちがネガティブになり、これはウツの始まりな精神状態だとちょっとあわてた。

こういう時は、日に当たる、身体を動かす、反復運動をする、というのがよく効く。脳にセレトニンを分泌させるのである。ついでにおいしいものでも食べて幸せ物質でも供給するか。

やる気の出ない毎日ではあるが、きのうは何とか自家製味噌を仕込んだ。毎年5升のカメを2つ仕込むのだが、1日でやるのは大変なので、まずは5升瓶ひとつ分である。

乾燥大豆1.5㎏:生麹2kg:カンホアの塩850gの割合。いつもは乾燥麹で仕込むが、今年は生麹にしてみた。乾燥麹の場合は1.5kg+煮汁500㏄ で。
2日前から大豆を水に浸して戻す。冬は一晩では戻らないからだ。この量だと、ぷっくり膨らんだ大豆は3回に分けて煮ることになる。5リットルの圧力鍋で2回、並行して5リットルの普通の鍋でコトコト2時間かけて煮る。
1回分のやわらかく煮えた大豆を煮汁から上げてハンドブレンダーで潰して、麹と塩とよく混ぜる。麹と塩も3回分に分けておくと簡単。混ざったら野球ボール大に丸めて瓶に投げるように入れていく・・これを3回繰り返すと終了。表面を平らにならし、少し塩をふる。

次は酒粕の出番である。酒粕が板状になっている板粕がのぞましい。これを仕込んだ味噌のうえにぴったりとのせて隙間なく覆う。瓶と接する部分もぴっちりと密着するように伸ばしながら蓋をするのである。うちではこの上に無添加ラップを敷いて、平たい皿をのせて重しをのせる。

この酒粕蓋はカビ除けにすばらしい効果がある。1週間前に、去年仕込んだみそを開封してみたが、茶色く染まった板粕をぺりぺりとはがしていくと、下からカビひとつない美しいみそが現れた。かめと接している部分に少し白い産膜酵母がついているぐらいだ。はがした酒粕はみそもついているので、みりんを足して魚のみそ粕漬けに使える。もし酒粕にカビが生えていたら、捨てればいいのである。この酒粕蓋のおかげで、表面にカビが生える、というみそ作りの大きなストレスがあっさり解消された。酒粕蓋、最高!
乾燥大豆500gで作るなら、煮るのも1回で済むし、とても簡単なのでみそを作ったことのない方はぜひお試しください。

冷蔵庫を整理していたら、去年の春に作ったふきのとう味噌が出てきた。ふきのとうの風味はやわらいでいるものの、ご飯のお供においしく食べることができた。そろそろ今年のふきのとうも早いやつは出てくる時期。早く食べたいな。よく寝かしたふきのとう味噌もいいのだが、ワタクシは取れたてのふきのとうを生のままみじんに刻んで、味噌をのせて一緒に包丁でさらに刻みながら和えるだけの切り和えが大好きなのだ。野趣あふれる切り和えをつまみに、辛口の日本酒をきゅっとね。ふきのとうと味噌だけで完璧なつまみができます。

うちの相方も再びの緊急事態宣言でライブの仕事がなくなって家にいるので、毎日家でごはんを食べる。外食もなし、友人宅での会食もなし、という毎日がこう続くとメリハリがなくなり、正直言ってゴハンづくりにやる気が出ない。かといってスーパーのお弁当もまずいし、おいしいお惣菜屋も近所にはないし。

なんとか手間をかけずに食事を整えるには、やはり作りおきおかずをいくつか冷蔵庫に常備させておくことしかない。その中で最近のお気に入りが「浅漬け」である。本格的に何週間も塩漬けするような白菜漬ではなく、3日で食べられる冬野菜の簡単漬け。毎年かぼすを買っている九州の菊之助さんのブログで浅漬けにかぼす果汁をたっぷり入れて漬けるとうまい、というのがあり、やってみたら、本当においしかった。

白菜は株の4分の1とか5分の1とかを2センチ幅ぐらいに刻む。大根は5ミリぐらいの棒状に切る。カブはいちょう切りに。カブの葉っぱがあれば刻んで入れる。柚子やかぼすの皮を薄く刻んで少し。鷹の爪も細く切って1本分。刻み昆布があれば軽くひとつかみ、無ければ昆布を細く刻んで入れる。

とにかく、家にある冬野菜を刻んで、お好みの塩加減で揉んで、仕上げにかぼすなどの柑橘果汁をぐっと絞りこむ。カボスの場合、2~3個分。たっぷり柑橘果汁を入れるのがポイントだ。絞ってある果汁を入れてもいい。大匙2~3杯は入れたいね。

塩はふつうの漬物より、かなり薄めに。そのままばくばく食べられる塩加減で。あとは漬け物器で軽く圧をしてもいいし、そのままジップロックに入れて冷蔵庫で寝かせるだけでもいい。塩は物足りなければ後で足せばいい。

3日ぐらいで味が深まります。これはいわゆるご飯のお供のしょっぱい漬け物ではなく、和風のサラダとでも思っていただきたい。冬野菜のシャクシャクした歯触りとかぼす果汁のさわやかな酸味でいくらでも食べられます。お酒のつまみにもぴったり。

コロナに疲れ、ごはんづくりに疲れた日には、ごはんと自家製味噌のみそ汁、そしてこの冬野菜の浅漬けだけの一汁一菜でも十分なんじゃなかろうか。まあ、間違いなくうちの相方は「え、これだけ?」と言うだろうけどね‥。

むもーままめ(3)コロナキョウカの巻

工藤あかね

 昨日、東京に雪が降りました。部屋の中から雪を眺めつつ、窓枠を額縁に見立てる脳内遊びをしていたら、まるで動く絵のよう!ずっと見ていられる気持ちになりました。なぜだか、美術館に行きたい欲もほんの少しだけ満たされました。そういえば、ちょうど去年の今頃にも、雪が降った日がありましたね。あの頃はまだ、コロナ禍がこんなにひどくなるなんて思いもしませんでしたけれど。


1:いてうより はやりやまひのきたるとて うましさけもて どくけしながらふ

(大意:中国からの感染病が上陸したというので、美味しいお酒を飲んでアルコール消毒をして、生き延びよう。2020/1/30)

 ちょうど去年の今頃、ダイヤモンド・プリンセス号での集団感染のニュースとともに、日本でも新型コロナウイルスが話題にのぼるようになってきました。けれどもわたしが作った歌の調子からすると、まだまだ対岸の火事として捉えていたようです。この後まもなく、手指消毒用のアルコールやマスク、トイレットペーパーなどが一斉に、スーパーやドラッグストアの棚から消えることになりました。

 それにしても…。お酒で喉のアルコール消毒ができるのでは?などと、都合の良いお気楽なことを言っていたのですが、その後飲酒がコロナ予防には効果なしという記事を読みました。これに肩を落としたお酒好きは、きっと私だけではないはずです。


2:昏き春 いはばまさにのまつりごと たみのなやみは 忘れゆましじ

(大意:希望を持つのが難しい春になった。進まない政治。人々の苦しみを、私はこの先も忘れることができないだろう。2020/2/29)

 2月末ころには、新型コロナウイルスが想像以上に厄介なものだということが、肌身にしみるようなりました。テレビをつければ感染症対策について喧々囂々、SNSもさまざまな情報が入り乱れ始めました。演奏会の開催もあやうい状況になり、演奏予定の楽譜を眺めながら「果たしてこれはホールで演奏できるの?できないの?」と心がざわつき始めます。ストレスも溜まってきました。
 
世の中にはストレスの発散に買い物をする人がいます。このころ私は、ネットで何をポチったのか。自分の精神状態がどうだったのかちょっと気になったので、調べてみました。

・就寝用のマットレス…先代がへたってきたので買い替えどきでした。

・米、料理用のだし、麦味噌、梅干し…おいしいご飯とお味噌汁、それに梅干しがあれば幸せです。

・ノーズマスク(鼻の穴に直接入れる花粉症対策グッズ)…シェンキェーヴィチ「クオ・ワディス」の中で、変装する時鼻の穴に豆を詰める描写がありましたよね。この商品も鼻の穴がふくらむので見た目はちょっと変かもしれませんが、症状が軽減されるので重宝します。

・種村季弘「書物漫遊記」「迷信博覧会」…面白かった!!でも万人向けではないです。

・ちりとりとほうきのセット…ステイホームで掃除をしようと思ったらしい。

・子猫のラバーマスク(頭にかぶる変装グッズ)…ライオンのラバーマスクはすでに持っているのですが、ちょっとリアルすぎて可愛くなかったので、今回は猫ちゃんのマスクを入手しました。かぶって歩けば自然にソーシャルディスタンスが出来上がると期待していたのですが、ゴム製だし空気穴が小さくて息が苦しかったので、子猫姿で買い物に行くのは断念しました。


3:ちぢむけに せきあふ心をかさぬれば からげらるるは、人のたまなり

(大意:外出を制限されて縮こまりながら生活する日々である。我慢ばかりしていると縛られてしまうのは人の体ではなくむしろ心だ。2020/3/10) 

 3月といえば、少しづつ気温も上がってきて春の気配を感じる頃。私は春の気配を鼻や目に感じる花粉で察知するので、毎年この時期になると「とうとうきたな…!」と見えない敵を迎え撃つ感じになるのです。ところが、去年は四六時中室内にこもり、常時マスク使用!手洗い消毒!買い物に出たら帰宅後まっすぐにお風呂に向かい頭からシャワーを浴びる生活をしていたせいで、花粉とほとんど戦わずに済んでしまいました。

 人とは会わず、たとえばったり出会ってもキャピキャピ話さず、極力外出を控えて、電車にもほとんど乗らず、外食もなるべくせず…とやっていたら、ある時ハッと気づきました。わが家の窓から見える景色、いつもと変わらぬ外の風景が、なんだかニセモノみたいな感じがしたのです。ちょっと恐ろしくなって、ベランダに出てみたのですが、やっぱりなんだか感覚がぼんやりしている。刑務所にいる受刑者もこんな感じになるのかな。そうするとやっぱり、心身を健やかに保つために大切なのは規則正しい生活?

 ほんのひと月くらいでこのような感覚になるのだから、長らくゲットー地区に居住していたり、潜伏生活を続けていたユダヤ人の方々の生命力って、ものすごい逞しさなのではないか…。心はいつだって自由なはずなのに、行動の制限を受けると心まで縮こまってしまうのは、なぜなのでしょう。「アンネの日記」をまた読み返してみようかな。きっとコロナ時代にも通じるものがあるでしょうから。


4:時ならず 桜きよめる玉のちり さえの神まつ ゆきげとともに

(季節外れの雪が桜を洗うように降っている 疫病を防ぐ神さまがやってきて 溶ける雪とともにコロナも消してくれますように。2020/3/29)

 私が子供の頃は、小学校の入学式頃にちょうど桜が満開だったように記憶しています。それがいつの頃からか、花の時期が前倒しになっているように思えます。昨今は、花はまだ肌寒い時に咲き始め、少し気温があがって世間がお花見シーズンを演出したい時期には、散り始めるようになってしまいました。

 去年の桜の花は例年と違い、人もあまり寄せつけず、ひっそりと咲いていました。私も散歩の時に流し目をしながら花を愛でるくらいで、立ち止まったり、ましてやその下で一杯…、なんてこともせず。すぐそこにあるのに美しいものを存分に見ることのできないのは、思いの外つらいものです。

 そんなある日、急に寒くなって雪が降り出しました。季節外れの雪。急に三島由紀夫「春の雪」を思い出して、聡子の呼びかける「清さま」という声色を妄想したりしながら、桜の枝にしなだれかかる白いちりを窓から眺めていました。

 その数日後、とても感じの良いおばあさまが切り盛りしているお酒屋さんが閉店しました。その後、シュークリームのおいしい洋菓子屋さん、時々行っていたイタリアン、それからワインバーやお寿司屋さんが閉店してゆきました。

 あの日、雪が溶けると同時にコロナも洗い流して欲しいと天に願いましたが、まだその願いは叶っていません。

丑年がはじまった

さとうまき

年末に、年賀状を発売してみたら、これが意外と売れた。インターネット時代に年賀状など書かない人も多い。500枚くらい売って、わずか数百ドルでも収益をシリアの青年の治療費にあてようと思った。新聞が取り上げてくれるとインターネットなど使わないというお年寄りが電話をしてきてくれ、気が付くと18000枚が売れたことになり、てんてこ舞いの配送作業。気が付くと年が明けてしまい、水牛の原稿も描けなかったという有様だった。

さて、シリアの内戦が始まって間もなく10年がたつが、戦争の傷跡はいまだにくっきりと残っているのだ。

2011年3月。シリアの革命はダラアという町から始まった。10代前半の子どもたちが学校の壁にふざけて落書きをした。「ドクター、今度はあなたの番だ」
確かに、壁に落書きをするとはとんでもないガキどもだ。そこで、シリアの治安警察(秘密警察)は子どもたちを取り調べのために連行したという。たかが落書きだけで?

このドクターとはバッシャール大統領のことを指しており、チェニジアやエジプトのように革命が起きて転覆するぞ!という意味らしい。

子どもたちが帰ってこないことを心配した親たちが抗議すると、当局側は「あんな子どものことは忘れろ。子どもがほしければ新たに作れ。子作りのやり方を知らないなら、おれたちが教えてやる」といわれたという話は繰り返し引用されて報道されているが、元情報があいまいになっている。

3月18日、ダラアで住民を巻き込んで大規模なデモがおきた。子どもたちは、その後解放されたが、天井からつるされ拷問を受けて傷だらけで戻ってきたという。もう、ダラアの市民たちの怒りは収まらず、ついに武装蜂起が起きて自由シリア軍が結成され、政府軍との内戦へと突入してしまった。

2013年から14年ごろは、ひどい戦争だった。兵士と民間人の区別があいまいだったので、子どもたちも戦争に巻き込まれ、手足をもぎ取られて、国境を越えてヨルダンに治療に来るシリア人が絶えなかったのだ。子どもたちは自分が怪我した時の映像を持っていて、誇らしげに見せてくれる。「革命のために僕も犠牲になったんだ」と言いたげだった。

ダラアは、長く反体制派の拠点となっていたが、2018年に政府が奪還した。そのころには、「革命」に希望を見出す人たちはほとんどいなくなり、憎しみだけを抱えて、再びシリア政府の支配へと甘んじていった。

昨年「僕のこと、覚えている?」というメッセージが届いた。青年は20歳になっていたが、13歳の時に迫撃砲を受けて左腕を失い、内臓も破裂してしまった。気丈なお母さんがヨルダンまで青年を連れてきた。いろいろ面倒見てやった子供の一人である。ダラアに戻ったとは聞いていた。

「体が痛むんだ。ヨーロッパで手術を受けに行きたいだ。戦いが続いて安心して暮らせないシリアにはいたくない。お金が欲しい」という。
「申し訳ないけど、僕はもう仕事辞めてしまったので支援はできないよ。そもそもコロナで海外に行くのはあきらめた方がいいよ」といわざるを得なかった。
「この前、病院に行ったら、張り紙が貼って会って腎臓を買ってくれるっていうんだよ! いい話だと思わないかい?」という。
「いくらで買ってくれるんだ?」
「3500ドルから4000ドルだって。治療費はこの範囲内で収まると思うんだ」
「君の体は、爆撃で内臓かなりやられているけど、大丈夫なのかい? そもそも、腎臓を買うっていうやつは信頼できるのか?」
「ほかに手はないよ。(ジャーナリストの)兄さんは殺されてしまったし、父さんは高齢で働けやしない。ぼくは片腕がないから力仕事もできないし。今のシリアじゃ、仕事はないし、物価は上がってきて大変なんだ!」

アメリカやヨーロッパは、アサド大統領の退陣なくして復興支援はあり得ないとし、経済制裁を課している。ガソリンや、灯油が高騰しており、停電もたびたび起こるようで彼らの暮らしは日増しに苦しくなってきていた。
「わかった、絵を描いて送ってくれ。それを使って何か作って売ってみる。猫とか鳥とか、ダラアにいる動物がいいかな」

数日後彼が書いてきたのは、ディズニーに出てくるネコのコピーだった。
「コピーはダメだ。ダラアに牛はいるのかい?」
「ああ、いるよ。じゃあ、牛がオリーブ加えているなんて言うのはどうだい?」
といって僕は見本にこんな風に描いたらいいというスケッチを送ったのだ。すると青年は、
「これは、君が書いたの? 僕はもっとうまく書けるよ」といって、やっぱりかわいくない牛の絵を送ってきた。
「いやーこういうのではなくて、もう少し、こんな感じかなあ」と添削して返す。そんなやりくりをしてできた牛で年賀状をつくったのだ。

最近連絡が途絶えていると思ったら、16歳の弟が警察に捕まったという。
「検問で、秘密警察に連れていかれたんだ!」
「拷問されているのか?」
「ああ、殴られているらしい」それでも以前とは異なり面会には行けるそうで、お母さんが頻繁に会いに行っているらしい。

結局70日間尋問されて無事に釈放されたらしいが、タバコの火を押し付けられたり電気ショックを加えられたりしたという。20キロ痩せて、ストレスで皮膚が炎症しているという。急に涙が出てきたりするらしい。政治的な事件ではなく、怨恨関係がこじれたのか隣人が何者かに殺されたらしく、殺人の容疑がかけられたとのことだった。

「10年経つけど、夢とか希望はあるの?」
「ヨーロッパに行ってテレコミュニケーションの勉強をして、会社を立ち上げる。それでシリアに戻ってきて多くの若者を雇用するんだ! シリアのために。それが僕の夢なんだ。ヨルダンにいたときにスエーデンのNGOが、ソフトウェアの学習コースを作ってくれて、そこを僕は終了したんだ」
「今10年前に戻ったとしたら、君は、デモに行って世の中を変えようとするだろうか?」
「いや、戦争が起こる前は幸せだったと思う。そのまま健康で、腕を失うこともなかった。お兄さんも殺されなかったし、幸せな家族でいられたんだ。」
「つまり、デモにはいかないと?」
「僕は(革命を)共有しようとはしない。ただ家族とだけ共有すればいいと思っている」
「憎んでいる?」
「兄を殺した奴と僕の腕をもぎ取ったやつ、友人を殺した連中。そして、少年時代を奪ったやつを許せない」
「それはアサド?」
「アサドは、自分で武器を運んで、ロケットを発射で出できないでしょう。悪いやつは実際に引き金を引いたやつなんだ。そいつらを許せない」

青年は、年賀状の収益で治療を続けている。同じ時期にヨルダンで治療を受けていた別の青年はカナダに移住。毎月1000ドルほどの治療費は、カナダ政府が全額を負担しているという。

回想録のなかの人たち

若松恵子

日が暮れるのが少しずつ遅くなっている。5時過ぎても暗くならないのに気付いて、春が近づいているのだとわかってうれしい。

年末年始に、積読だった本を並べ直して、気ままに選んだ本を読んだ。2冊の回想録。本の中にたくさんの人が生きている。

森まゆみ著『路上のポルトレ―憶いだす人びと』(2020年11月/羽鳥書店)は、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』の編集人であった森が出会った忘れ得ぬ人のことを綴ったエッセイ集だ。雑誌『小説すばる』に連載したものに、あちこちから頼まれた追悼文を加えて編んだ1冊だという。原田氏病を患ったこともあり、忘れることが早くなったそうで、「こぼれ落ちる記憶をたなごころですくい、そっと温めるように書いておくことはできないか」との思いがあったという。「あと十年もしたらそもそもここに書いてあることも忘れてしまう気がするから」と。登場する人の大半が今はもうこの世を去ってしまったという事もあり、1編1編しみじみと読んだ。特に自分の名を冠した仕事を残したわけではない、裏方として働いた人たちの面影に心魅かれた。森の仕事の岐路となった『鷗外の坂』を担当した若き編集者木村由花について書かれた章が心に残る。彼女ともうこの世で出会う事はないだろうけれど、彼女が編集した本に、きっとどこかで出会うことになるだろうと思うのだ。

満州事変勃発から太平洋戦争終結までの暗い時代に「精神の自由を掲げて戦った人々」について書いた『暗い時代の人々』(2017年5月/亜紀書房)のまえがきには、森が書名を“引用”したハンナ・アレントの一文が載っている。「最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらゆれる、多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のもとで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろうことを」(『暗い時代の人々』)

この言葉は,『路上のポルトレ』に登場する人たちにもそのままあてはまる。コロナ禍の閉塞感のなかで、彼ら彼女らは、ちらちらゆれる灯明のように見える。

もう1冊、椎根和著『銀座Hanako物語―バブルを駆け抜けた雑誌の2000日』(2014年3月/紀伊國屋書店)は、マガジンハウスの週刊誌ハナコの創刊編集長を務めた椎根和(しいね やまと)の回想録だ。椎根は雑誌ポパイについての回想録も書いていて、おもしろかったのでこの本も買っておいたのだった。こちらも『週刊読書人』に連載したものを加筆修正して1冊にまとめたものだ。「ハナコ現象」という言葉を生むようになる週刊誌「Hanako」の1988年創刊から椎根が編集長を降りる1993年までの編集部の物語だ。副編集長を務めた柿内扶仁子をはじめ、デザイナー、写真家、ライター、編集部に配属された新入3人組など個性的な人たちが登場する。海外ブランド、ボージョレヌーボー、ティラミス、デパ地下、ホテルでのクリスマスなどバブル期に数々のブームを巻き起こすきっかけとなった特集記事がどんな経緯で生まれたのかを知っておもしろかった。どのブームも編集部のあるメンバーの「好き」から発していたのだというのは興味深かった。椎根も含めて「趣味の偏った人物」のアンテナがキャッチしたものが大当たりしたというのは、運の良さも半分影響していたのかもしれない。当時の編集部の人たちも、おいしいものを食べ、海外旅行に行き、高価なブランド物を買う事ができる高給を保証された特別の人たちだったということもある。自分には全く無縁の世界ではあるけれど、雑誌にワクワクした時代の風雲録は、読んでいておもしろかった。

椎根和が1942年生まれ、向田邦子の盟友であった柿内扶仁子が1940年生まれ。スポンサーに忖度せず、マーケティングもあまり気にしないで、自分の力を信じて切り開いていく古き良き仕事人の姿を読むのがおもしろかったのだと思う。

文学とは何か

管啓次郎

そんな主題で詩が書けるものだろうか
だがぼくがわからないのは日本語では以前から
仏文学者といえばフランス文学研究者
国文学者といえば日本語文学研究者
ただ文学者といえば小説家・批評家・詩人などの文筆家で
言葉の定義がどうにも曖昧すぎる
いったいなぜこうなったのかということだ
そもそも文学とは何か
その定義からはじめなくてはならないだろう
文学とは文についての学
文とは語の連鎖により意味のかたまりが生じたもの
しかしこれではセンテンスの定義で
日本語が「文」と呼ぶものは
センテンス
パラグラフ
文章
のいずれでもありうる
書き言葉のつらなりのすべてが「文」だということか
それが「学」であるというとき
「学」の内容は3つに分かれる
1 ひとつは知識、すでにわかっている知識と情報を身につけ博識をめざす
2 ひとつは研究、すでに書かれた作文(=作品)のかたちを確定し読む
3 ひとつは制作、まだ書かれたことのない文を実現することを試みる
この3つを混同しているから「文学者」の意味がわからなくなる
冒頭でいった「仏文学者」の活動は1と2に
創作家の活動は3に
しかし批評家の活動は2と3にまたがっているのかもしれない
文学をやろうと決めた人の多くはまず1にむかうが
1を洗練させるとき必ず2に関わることになり
その先に3がある
いや3が最初から全面的にある人もいるが
3だけで1と2を飛ばしていると非常に幼稚なものになる
それでも文は知識や経験から生まれるのではなく
それを証明するのが詩というジャンルだといってもいい
文学をやるのだという気持ちは決意だが
そう明言しなくてもいつのまにか始めてしまう人も多い
もっとも簡単には
読むことの小道をたどるうちに
書くことの空き地にたどりつく
読むことが書くことの前提だと気づいたとき
文学がはじまっている
いちどはじめてしまうと文学はつづく
やめることができない
どんどん激化し過激になる
どうもそういう性質がある
また文学をはじめるといろいろなことが気になる
特に気になるのは言葉のつらなりで、たとえば
「メランコリックな村」
といわれたとき、そのフレーズがまったく理解できなくなる
文学という精神的態度の本質は「理解できない」
ということにあるので
いろいろなことを理解できる人は
どんどん文学から脱落していい
もっとも基本的には
文学はむかしの文を読むことにはじまり、続くので
その秘密を考えておきたい
こんな例をあげておく
「ケルト人のこんな信仰が
ぼくには大変に腑に落ちるのだ
われわれが失ってしまった人々の魂が
何か人間以下の存在の中に囚われているということ
獣だったり、植物だったり、無生物だったり、
実際そうしてわれわれにとっては失われたまま
ある日
いや多くの者にとってはその日はけっして訪れないのだが
たまたま樹木のそばを通りかかって魂たちの
牢獄になっている物を拾い上げてしまう、そんな日がやってくる。
そのとき魂たちはふるえ、われわれに呼びかけ、
われわれがかれらに気づくとたちまち
魔法が解けるのだ。
われわれによって解放されて
魂たちは死を打ち負かし
われわれとともに生きるために
帰ってくる」
(プルースト『失われた時を求めて』「コンブレー1」より)
それはまったく書物がこうした樹木や
石ころや蝉の抜け殻だということで
魂という言語的構築物が
本の中に閉じ込められ宿っている
それはわれわれが本という物に近づいたとき
何か言語を超えた呼びかけか促しをもって
われわれに働きかける
この本を開きなさい
開いてちょうだい、手にとって
声に応えてきみがそうすると
魂が飛び出してきて
以後、きみとともに生きることになる
きみが生きているかぎり
きみの発話に偏差を作り出しながら
それでわかったのではないでしょうか
きみはなぜいまそうするような文を記すのか
何を通過し
何に呼びかけられたのか
文学とはそういうことだ
次はどこに行きますか

2021

笠井瑞丈

去年は大きな変化の年だった
誰もが予想しない時代がやってきた

私たちの
カラダも生活も
全ての常識が変わった

そして今年に入りもう1ヶ月が過ぎようとしている
時間は私たちのカラダの感覚よりも倍の速さで進んでいる

昨日のことは過去に変わり
明日の未来もすぐに過去に変わる

未来はどのように変わり
どのような時代が来るのか

そんな大問題を抱えながら
今年の新しい航海は始まる

大変な時だからできること
新しいもを生む力にを探す

そんなことを少しづつ
変わることなく

2021年

続けていこう

ふと昼寝から覚め
目の前を眺めると
隣にチャボが一緒に寝てる

そうだ一緒に生活している

そんな時間が今は大切だ

釣り堀の端 その一

植松眞人

 自転車でこの町を走っていると、自分が生まれ育った町に似ているなあといつも耕助は思う。それほど大きな家があるわけではない。かといって、町家が軒を連ねている京都のような風情があるわけでもない。なんの特徴もないごく普通の家々が淡々と並び、互いが互いの家よりも目立たないようにと考えて建てられたかのような慎ましさだ。時々、自転車で走りながら、そこらじゅうのブロック塀を蹴り倒して化けの皮を剥がしたい衝動に駆られる。
 耕助がこの町にやってきたのは、ここに母方の祖父が亡くなったからだ。どんな事情なのかまったく聞かされていないのだが、祖父は遺言状にこう書いたのだった。
『経営してきた釣り堀については、孫の耕助にすべてを相続する』
 祖父にあったこともないし、母からも聞いたことがない。そもそも、母とだって年に一度か二度会うか会わないかだ。祖父が亡くなって初めて知ったのだが、祖父は母を始めとする子どもたちから疎まれ、祖母と死に別れた後、すぐに失踪してしまったらしい。そして、長らく行方不明だったのだが、五人いた子どもたちは誰一人として、祖父を探そうとは思わなかったという。
 耕助は何の迷いもなく祖父の生業だった釣り堀を継ぐことにした。三十を過ぎてから結婚したが、どうしても仕事に打ち込めず、耕助は仕事を辞めたばかりだった。妻の美幸はスーパーのパート勤めだったから、「どこへ行ったって、レジ打ちのパートくらいあるんじゃない?」とあっさり賛成した。
 釣り堀のオーナーになってちょうど一年が経った。祖父の頃からの常連の釣り人が何人かいて、ほとんど毎日のようにやってくる。アルバイトの三浦くんも祖父がオーナーの時から働いてくれている。いま大学の二年生でこのバイトを始めたのは中学生だという。よほど、釣りが好きなのかと聞いたら、ブラックバス専門で鯉や鮒は釣らないのだという。ただ、時給は安くてものんびりできるバイトがいいと、募集もしていない釣り堀に来たのだという。
 三浦くんはいわゆるイケメンで、なんでもそつなくこなしてくれる。一度、将来何になりたいのかと耕助が聞くと、彼は「何にもないですねえ」と答え、耕助さんはどうですか、と返してきた。耕助が「何にもないですねえ」と返すと、
「広告とかやったほうが良いんじゃないですか」
 三浦くんはそう答えた。
「やっぱりSNSとかで情報発信かな」
 耕助が言うと、三浦くんは驚くほど大きな声で笑う。
「さすがIT企業出身ですね」
 と小馬鹿にしたように言い、
「こんな釣り堀、SNSで広告したって一瞬人が来てお終いですよ。チラシだろうなあ。新聞の折り込み広告と、あとは電信柱に勝手に貼り紙かな」
 それを聞いて、それもそうだと耕助は苦笑いするのだった。(つづく)

「砂丘」

三橋圭介

アントニオーニの「砂丘」(1970)。ずいぶん前にDVDを買った。きっかけは映画よりピンク・フロイドの音楽だった。コロナ期間に改めてこの映画を見直した。「情事」「夜」「太陽はひとりぼっち」の三部作は「愛の不毛」として知られている。そのあとのロンドンを舞台にした「欲望」をあえて「現実の不毛」と呼ぶなら、この「砂丘」はロスアンゼルスを舞台にした「アメリカの不毛」と呼ぶことができる。「不毛」とは土地がやせて作物ができないことだが、アメリカは60年代に「消費資本主義社会の夢」を実現していた。物や広告にあふれ、学生運動、フリー・セックス、銃社会というアメリカは、部外者であるイタリア人のアントニオーニにとって非常にゆがんだ社会に映ったのだろう。学生運動から逃げ出してしまう貧しい主人公は盗んだセスナで逃避行し、ヒロインの女性に出会う。死の谷の快楽のあと、セスナを返しにいった主人公は殺されてしまう。あとでそれを知ったヒロインの怒りが丘に作られた豪華な別荘を(幻想のなかで)爆破する。それだけの話である。有名なのは粉々になる別荘がさまざまな角度から何度も何度も繰り返されるシーンで、このとき流れるのがピンク・フロイドの”Come in Nummber 51,Your Time is up”。Nummber 51は別荘の番地だろうか。「51番地においでよ、きみの時間はもうおしまい」。アントニオーニはこの最後の爆破を撮るために映画を作ったのだろう。別荘全体の爆破に加え、その家のなかにある消費文化を表すさまざまな物(衣装、テレビ、冷蔵庫、本棚)も砕け飛ぶ(https://www.youtube.com/watch?v=vyS7CrANBnk)。最後にヒロインがそれを見上げ、満足した様子で去っていき、映画は終わる。「欲望」と違い、この映画がヒットしなかったのは、二人の主人公たちを通したアントニオーニの視線がアメリカ「消費資本主義社会の夢」を粉々にしたからだろう。「イージー・ライダー」「俺たちに明日はない」など、アメリカン・ニュー・ウェーブ(アメリカン・ニュー・シネマ)というアメリカ内部からの批判にたいして、「砂丘」は外側からのアメリカ全体への批判であった。トランプを太らせたあの時代は去り、残された「証言」のひとつがこの「砂丘」である。”Come in Nummber 51,Your Time is up”

やっと終わった(晩年通信 その18)

室謙二

 トランプの時代がやっと終わった。という文章を書きたいのだが、実はそれは終わったのだが、まだ終わっていない。
 NYタイムスの「プラウド·ボーイがトランプを見捨てた」(Jan. 20)とか、BBCの「誰がホワイトハウスに突入したのか?」(Jan. 7)あるいは同じくBBCの「プラウド·ボーイとかアンティファとは誰のこと?」なんかを読んでいれば、トランプ個人の時代は終わったが(多分ね)、トランプ派の力がまだまだあることは分かる。だけどそんなことはもういいな、トランプのことなんか話したくない。インターネットのニュースでトランプの顔が写ると別のチャンネルに変える。別の生活をしたいのです。
 プラウド·ボーイというのはトランプを支持してきた右翼グループで、それが今では、トランプのような弱腰は見捨てるということらしい。私の方も、トランプを見捨てたい。

 それで私が何をしているかと言えば、リコーダー(たて笛)を吹いている。それと「ロミオとジュリエット」というネコとタヌキの話を書いている。晩年通信に「アメリカは燃えているのか?」というのも準備中だが、これはトランプに関係あるから、書くのはやめるかもしれない。

   五年一組 むろけんじ

 「リコーダー(たて笛)を吹くんだ」と言うと、小学校のころに音楽の授業で吹いたことを思い出して、子供みたいだねと思われる。
 でもリコーダー(たて笛)は子供のものではないよ。数えてみたら十歳の時から65年間も、時々思い出したように取り出して、リコーダーを吹いている。完全に遊びです。ずっと初心者だけど楽しい。バッハでもビバルディでも、リコーダー初心者用に簡単なフレーズにしたものがあって、それを吹いている。
 リコーダーは音が単純で表現力がない、と思うかもしれない。確かに初心者には音の強弱をつけにくい。音にいろんな色彩をつけるのが難しい。初心者にはタンギングがうまくできない。タンギングとは、くちびると舌(タン)で音に力と表情をつけること。これができないと、小学生がリコーダーを始めたばかりのような、単純な音とフレーズになってしまう。ビブラート(音を特に高音を細かくふるわす)のかけかたも学ばないと。
 まず息を安定して、静かに確実にリコーダーに吹き込むのが難しい。おなかの下から、息を上にあげてきて、リコーダーに吹き込む。
 強く吹くのではない。確実に安定して静かに吹き込む。
 そうしないと音程の低い音が、きれいに出ません。
 誰にでも簡単に音が出せる楽器だけど(それに安い)、これで音楽を歌うのは、けっこう難しいんだ。初心者でも吹くのは楽しいが、でもそれを聞かされる方は、きっと苦痛だね。
 私の場合、65年たっても聞く方はまだ苦痛だろう。

 私の古いリコーダーには、父親の字で「5の1 むろけんじ」と刻んである。小学五年生の時のもの。音楽授業でリコーダーを始めた。このリコーダーは確かスペリオパイプという名前で、インターネットによれば、当時一本百八十円だった。昭和三十年(1955年)発売とあるから、その次の年から授業で使い始めことになる。

   ポッキリと折れた

 ところがその「大事な」スペリオパイプを、三歳の孫娘がオモチャにして振り回して、ポキリと折ってしまった。うーん、ガックリした。音程もちゃんとしていて、バッハだってビートルズだって吹けたのです。いまは強力接着剤でくっつけてある。だからいちおうは使える。
 また壊されてはたまらないので、遊びにくる孫娘のためにグリーン色リコーダーを買いました。六十五年前のものはクリームがかかった白で、年季が入っている。安物新品のとは存在感が違うよ。
 安物と書いたけど、リコーダーは木製の手作りでなければ、また特殊なものでなければ安い。大手のものであれば、安くても音程もしっかりしている。音色だって安定している。安いけど立派な楽器なのです。(注)

 リコーダーを使った音楽教育は、かなり日本独特のものらしい。最初はイギリスとかドイツから学んだものらしいが、もっとも今でも、私が小学生の頃のようにリコーダーを使った音楽教育をしているかは知らない。あの頃は、クラス全体が何十人かで、一斉にリコーダーを吹く。だから他人がどんなふうに吹いているか、自分の音とフレーズはどうかなのかが、何十人のリコーダーの音に埋もれてわからない。もともと一人ひとりが吹く楽器だと思うのだが。曲は日本の唱歌が多かったね。
 『戦後日本の小学校における、たて笛およびリコーダーの導入過程」(山名和佳子 音楽教育実践ジャーナル vol.7 no.2 2010.3)に、どのようにリコーダーが戦後に導入されたか詳しく書いてある。日本には文部省という国家が教育を管理する機関があって、それがリコーダーを音楽教育に導入した。アメリカにはそんなものはない。州ごとに違っているし、カウンティ(郡と言ったらいいかな)にも違っている。

   一緒に演奏して一緒にうたう

 Nancyに小学生だった1950年代の音楽教育クラスについて聞いたら、「そんなものはなかった」と言う。「えっ?」と聞き返した。
 アート·クラスというのがあって、一週間に一度ぐらい音楽クラスがあった。と言っている。これも地域地域で違う。「何をしたの?」と聞いたら、「覚えていない」とのこと。アートなんて重要ではなかったのだろう。リコーダーなんて、触ったこともなかった。
 同じころ、私たちの場合は、週何回か(だったと思う)音楽クラスがあって、みんなで歌をうたう。この一緒にうたうことが、「アート」より、「集団の一部になること」が重要だった。今や私は老人になって、集団でリコーダーを吹くのではなくて、一人で遊んでいる。
 久しぶりにリコーダーを始めるので、まずインターネットでリコーダーの吹き方を教えているリンクを探したが、私むきのがないねえ。それで次にマニュアル(本)を探した。インターネットでみると、大量に日本語のリコーダー入門書がある。だけどいずれも子供むきだったり、中学生むき。
 私はマニュアルを読むのが大好きだけど、マニュアルを何種類か書いたこともあるが、私の水準に届くものはほとんどない。でも英語のものはかなりちゃんとしたがあるよ。

 レコーダーを楽しんで学ぼうと言うなら、英語の”Recorder Fun! Instruction Book” $8.99という本がいい。練習曲は、ほとんどがバッハとかビバルディ以前のもので、簡単なフレーズのフォークだ。インターネットにオーディオ·ファイルがあるので、ダウンロードする。それを聞きながら、楽譜を見て吹く練習。最終的には、オーディオ·ファイルも聞かない、楽譜も見ないで(これが重要)、暗記した音楽を楽しく吹かないとダメだね。
 もう一つは、”Progressive Beginner Recorder” Koala Music Publications $8.88で、これはCDだけではなくてDVDもついている。でも練習曲は”Recorder Fun! Instruction Book” の方が、古いヨーロッパのフォークでいいなあ。 
 これを読んでいる多くの人は、子供の頃にリコーダーを吹いた経験があるはずだから、ここでもう一度、リコーダーを手に入れて吹いてみたら?
 それを聞いて、下手だなあと馬鹿にする家族なんて気にするな。

   まずは買ってみたら

 音楽は聞くだけではなくて、演奏するのが楽しい。
 グールドのバッハとか、グルダのモーツアルトの聞いてから、自分で入門書を読みながらリコーダーを吹いてみて、あまりのひどさに(グールドと自分の演奏の違いに)ガッカリする事はない。あっちは天才で、こっちは素人の初心者だから。その両方を楽しめばよろしい。
 私はソプラノ(C)だけではなくて、アルト(F)のリコーダーも買った。誰かに教わるのが嫌いだから、全部自分でやっている。つまり自分で、自分のマニュアル(入門書)を書くんだね。それを元に練習する。これは私が何かを始めるときに、いつもする方法です。
 この文章を読んでいる人も、これまでリコーダーとかギターとかピアノを練習したことがあるはずだ。また始めたら?うっとしいアメリカのトランプ時代が終わったのだから、何か新しいことを始めるといい。


(注)
Amazon .co.jpでYamahaのリコーダーを売っている。安いけどオモチャではないよ。立派な楽器です。

Yamaha YRS-37lll ABS樹脂製ソプラノ·リコーダー 1036円(送料1310円)
Yamaha YRA-302Blll ABS樹脂製アルト·リコーダー 2500円(送料1367円)

Amazon.comには、Akai Professional EWI-USB www.akaipro.com
もあります。これはデジタル·リコーダ·シンセサイザーで、私はセールで299ドルで買った。でも定価は497ドルらしい。パソコンにつないで、専門ソフトで設定して、パソコンのスピーカーかパソコンにつないだオーディオシステムで演奏する。

1970年代のジャカルタで生まれたスリンピ〜『チャトゥル・サゴトロ』

冨岡三智

先月末、ライブ配信を通じて15年ぶりくらいにこの舞踊曲を見て、いろいろ感じるところがあったので、今回はこの舞踊曲について紹介したい。なお、ここに書いた内容は本人へのインタビューに基づいている。

『チャトゥル・サゴトロCatur Sagatra』はジャカルタ在住のスリスティヨ・ティルトクスモが1973年、弱冠20歳の時に創ったスリンピ(ジャワ宮廷舞踊、4人の女性で踊る)形式の舞踊曲で、初めて振り付けた作品である。

●振付家
氏は1953年にスラカルタに生まれた。幼少より複数のスラカルタ宮廷舞踊家に男性舞踊を師事し、特にクスモケソウォの弟子として1969~1971年に『ラマヤナ・バレエ』(1961年に開始し現在まで続く大型観光舞踊劇)で2代目ラーマ王子をつとめた。その間、全国ラマヤナ・フェスティバル(1970年)、国際ラマヤナ・フェスティバル(1971年)に出演し、その後1971年に大学教育を受けるためジャカルタに移った。ジャカルタではジャワ舞踊優形の名手として活躍する一方、兄がマネジメントを務めるバラウィディヤ舞踊団でジャワ舞踊を指導し、この曲を嚆矢として以後様々な舞踊作品を振り付けている。

●作品のコンセプト
曲名は、チャトゥルが4、サが1、ゴトロが塊を意味し、4つのものが1つにまとまるという意味。その名前およびコンセプトは氏が1970年にジョグジャカルタ王家のパグララン・ホールで見た同名のイベント(公演&展覧会)に由来する。そのイベントはジャワの4王家(マタラム王国から派生したスラカルタ王家とその分家のマンクヌゴロ家、ジョグジャカルタ王家とその分家のパクアラム家)が共催して回り持ちで開催していたもので、明らかにこのイベント名は4王家の結束を象徴している。それまでスラカルタ王家の様式しか知らなかった氏は、4王家が各様式の舞踊を上演しているのを見て大いに驚き、目が開かれるような思いだったと言う。1973年、氏は「ミジル・ウィガリンテャス」の曲を聞いていたときに、ふと3年前に見たイベント『チャトゥル・サゴトロ』を思い出し、それを見たときに抱いたイメージを体現するような作品、すなわち4王家の様式をすべて取り込んだスリンピ作品を作りたいと思いつく。それも単に各様式の動きをモザイクのようにつなぎ合わせるのではなく、全体として4王家の様式が溶け合ったものを目指した。その結果生まれたのがこの舞踊曲である。

●作品を生み出した背景
とはいえ、20歳の若者がスリンピを作りたいと強く思った動機は何なのだろうか。氏が言うには、当時舞踊を習うのはほぼ女性のみであったため、女性舞踊のレパートリーを増やしたかったというのが第一の動機だという。さらに、当時、ホテル・インドネシア内にあったレストラン『ラマヤナ』では毎週土曜夜に伝統舞踊の上演があり、ジャカルタの各舞踊団に回り持ちで上演依頼があった。氏が指導するバラウィディヤも月に一回程度公演していたが、互いにしのぎを削っているジャカルタで、他の舞踊団にないオリジナル作品を上演して舞踊団のクオリティを高めたい、それによってより多くの上演機会を得たいという強い思いがあり、それが第二の動機だという。というわけで、本作の初演はこのレストランであり、以後上演のたびに改訂を続けて現在の振付に落ち着いたという。

1970年代というのは、実は門外不出だったスラカルタ王家の宮廷舞踊が初めて一般の人に解禁された時代である。ジョグジャカルタ王家が早くも1918年に宮廷舞踊を解禁したのに対し、スラカルタ王家はPKJT(1969/1970年度から始まった国による中部ジャワ州芸術発展プロジェクト)の依頼に応じて、初めて一般の人々に宮廷舞踊を解禁した(王家の宝物とされる『ブドヨ・クタワン』を除く)。スラカルタではPKJTを中心に伝統舞踊の復興と創造の時代を迎えていたが、ジャカルタでも同様に知事が芸術政策に力を入れており、指導者としてスラカルタからガリマン氏を招聘するなどジャワ伝統舞踊の活動が盛んだった。つまり、この舞踊曲はPKJTと同時代に生まれた作品であり、似たような傾向が見られる。
 
PKJTプロジェクトでは上演に1時間近くかかる宮廷舞踊も約15分の長さに短縮され、様々な機会に上演されるようになった。さらに、若い人に受け入れられるようテンポを早くして緩急をつけるなど、演出の手が加えられた。つまり上演芸術化したのである。ジャカルタという都市で上演芸術=見せる芸術として創られた本作もまた、PKJT作品と同様に約15分と短く、早いテンポで一気にクライマックスに向かう性急さと華やかさがあり、私はそこに70年代特有の雰囲気を感じ取る。

●作品の振付
スリスティヨ氏はスラカルタ出身なので、振付や音楽の奏法はスラカルタ王家の様式をベースにしている。4人の女性は左手にダダップ(盾の一種)を持ち、帯の前身頃に短剣を挿している。ちなみに、スラカルタ王家でダダップを使う女性舞踊曲はかつて存在したが(『ブドヨ・カボル』)、現在には伝わってない。

楽曲構成は入場曲が①ラドラン形式の『ラングン・ブロント』で約2分。踊り手が床に座って本曲が始まり、1曲目が②クタワン形式の『ミジル・ウィガリンテャス』で約5分半、その後続けて2曲目の③『スレペッ・クムド』に突入し、戦いの場面を繰り広げたのち剣を納めるまでが約4分、その後座る(立膝)までが約20秒。本来ならその最後のゴングの音で合掌するはずだが、ここでは合掌しない。④パテタン(音取の曲)が始まり、ラク・ドドッ(膝行のような歩き方)で踊り手が元のフォーメーションに戻るのに約1分。入場と同じ退場の曲が鳴って合掌して立ち上がり、退場するのに約2分となっている。

①と②の曲はマンクヌゴロ家の舞踊『ブドヨ・ブダマディウン』でも使われるが、氏は当時まだ同舞踊を見たことはなく、音楽を録音で聞いたことがあるだけだったという。しかし、②についてはジャカルタで活躍する舞踊家レトノ・マルティ女史がこの歌を得意にしてよく作品の中で歌っており、なじみのある曲だった。①の入場曲ではジョグジャカルタ王家でやるようにスネアドラムの音が追加される。踊り手は左手で持ったダダップを肩の高さに掲げ、右手でサンバランと呼ばれるジャワ更紗の裾を手に持って入場するが、これはマンクヌゴロ家の舞踊『スリンピ・アングリルムンドゥン』で弓矢を持って入場するときのやり方と同じである。勇壮なマーチで軍隊が移動するように、踊り手は入場する。②の曲のイントロで先頭の踊り手1人が立ち上がって『スリンピ・アングリルムンドゥン』特有の動きを踊る。この動きはスリンピ各曲の中でも白眉で、多くの舞踊家が自作に取り入れている。その後残りの3人も立ち上がって全員で踊るのだが、スリンピでは曲の最終部で使われるプンダパンがきたり、曲のテンポが変わらないまま2人の踊り手が座る場面があったりと、古典のスリンピにはない動きのつなぎ方をしている。

その後、踊り手4人が剣を抜いて舞台中央に集まったところで太鼓がチブロンに変わり、③の曲に移行して戦いのシーンとなる。スリンピには戦いのシーンがあるが、そこでチブロン太鼓(動きの振りに合わせて激しく太鼓を叩く)を使うのはジョグジャカルタ王家風である。スラカルタ王家ではチブロン太鼓を使うことも、ここで曲が変わることもない。本作で2組の踊り手が右肩合わせの位置で剣を交わすシーンはジョグジャカルタ王家風、裾をいちいち蹴りながら横に移動する(エンジェル)シーンはマンクヌゴロ家風だが、本作の戦いのシーンの激しさはスリンピというより、むしろワヤン(影絵)の戦いのシーンを彷彿させる。素早い場所移動と剣を突く所作、テンポを少し落としてのエンジェルや対決シーンなど、緩急のある戦いの場面が交互に続くので、4分という短時間でも強い緊張感が続く。また、スリンピでは戦いのシーンの後にはシルップ(鎮火する、の意)と呼ばれる静かでゆっくりしたシーンが続き、勝った方が負けた方の周囲を廻るということが2回繰り返されるのだが、本作ではシルップ風にはなっていても戦いはそのまま続いており、また同じシーンの繰り返しではなく戦いのパターンが変わるので、それらがさらに緊張の度合いを大きくする。

最終場面について。宮廷舞踊では本来、踊り手は元の位置に戻って合掌するが、本作では元の位置にも戻らず合掌もしていない。しかし、その後に宮廷特有の歩き方であるラク・ドドッを15分の上演時間のうち1分割いて行い、その後立ち上がる前に合掌をしたことで違和感が薄まって、沈静的な宮廷舞踊の雰囲気を取り戻せるように感じられる。そして入場の時と曲は同じだが、武器として掲げていたダダップを今度は扇のように扱いながら退出する。私自身はこの扱いは好きではないが、入場時の武装したような雰囲気が解除される効果はある。

本作を久しぶりに見て感じたのが、マスキュリンで怒りのエネルギーに満ちた作品だなあということ。一般的にスラカルタ宮廷の舞踊は流れる水のようにフェミニンであると言われ、ジョグジャカルタ宮廷の舞踊はマスキュリンであると言われる。しかし、本作は曲の前半(②)ではスラカルタらしい動きが使われているにも関わらずフェミニンな感じがあまりない。その時間は実は戦いのシーンより長いものの、作品全体の中では印象が薄く、またつなぎ方にも無理があるように感じられる。作品全体から戦いに臨む姿勢が全編に満ちていて、スラカルタ様式のくびきを逃れようとする抗いのようなものまで感じられる。それに比べて後半(③)の戦いのシーンの方が強く印象に残り、完成度が高いように感じる。

●衣装
現在、この舞踊の衣装は冠を被り、ビロードの袖なしの胴着がスタンダードになっている。特にバティック作家イワン・ティルタ氏の提案で、マンクヌゴロ家の冠(金属製)をコピーした冠が使われている。だが、制作当時は冠ではなく、髪を後ろに三つ編みにしてまとめてリボンをあしらった髪型(ジャワの少女期の伝統髪型)にし、ロンピと呼ばれるシンプルな胴着であったらしい。当時は豪華な衣装を揃える余裕もなかったからだという。イワン氏の見立てた金属製の冠は戦闘的な衣装に見え、振付の雰囲気にハマっているように思う。

また、ダダップについては、現在、把手にはめ込む水牛の皮の文様は4人とも同じデザインだが、かつては1人ずつ各王家の紋章を描いたものを使っていたという。

●作品の意味の拡大
1988年、ジャカルタと東京の姉妹都市提携構想が持ち上がり、ジャカルタから東京に舞踊団が派遣されることになった。芸術監督に指名された氏は文化的な融合の象徴として「チャトル・サゴトロ」をテーマとして打ち出し、受け入れられた。そして、4王家の王(実際は3王家の王、パクアラム王は本家のジョグジャカルタ王が外遊中は国内に残らなければならないという取り決めがあったため)が揃っての海外渡航が初めて実現したという。本作はこの舞踊団派遣とは何の関係もない(作品も上演されていない)が、自身の作品の舞踊理念が王家の王たちに受け入れられ、現実社会において意味を獲得したと氏は感じている。
さらに2007年、元・社会相のナニ・スダルソノ女史によりジャカルタ在住の4王家王族のための芸術事業プログラム『チャトゥル・サゴトロ』が立ち上げられ、その後、同名の王族たちのコミュニティも創立された。これは同女史が発案者であるパク・ブウォノXII世(1945~2004)から長らく依頼されていた事業だという。そして、『チャトゥル・サゴトロ』はこの団体が開催する公式行事のオープニングで必ず上演されるのが決まりになっている。スダルソノ女史からスリスティヨ氏にそうさせてほしいと依頼があったという。ここに至り、1970年に見た各王家の公演に想を得て創られた本作は、モチーフとした4王家によってまさにその統合の象徴/アイコンとして託されるに至ったと言えるだろう。
このような過程を見ると、やはり氏の歩みをその師のクスモケソウォの歩みと重ね合わせたくなる。クスモケソウォはスラカルタ王家の舞踊家であり、その当時の同世代の宮廷舞踊家の中でもバリバリの保守派だったが、その時代の使命として「インドネシア化mengindonesia」に取り組み、1961年に始まった『ラマヤナ・バレエ』の監督を務め、スラカルタ、ジョグジャカルタ、+αの様式を取り込んで、インドネシア的なるものを打ち出した。それは芸術の形をとっていたからこそ、スハルト時代になっても、その後もインドネシアのアイコンであり続けている。『チャトゥル・サゴトロ』もそんな作品になっている。

満月と水牛または「二月のひかり」

北村周一

満月は気づかぬうちに欠けはじめ
消えてなくなれカキクケコロナ

コンペイトウいろはの坂を転げ落ち
五輪音頭に嵌まりたるらし

ガマン強い民族にしてひといきに
のみ込まれゆくカーニヴァルへと

代名詞そ、そ、そ、そ、それに守られて
それでもソーリ、ソーリと呼ばれ

殊更に日本モデルをいうひとの
薄らわらいをテレヴィは映す

一ミリでもマシなほうへと冷笑の
時代を生くる冷めたる笑みは

未使用の棺桶二つ軽トラの
荷台にありて運転手居らず

その家も草木もなべて根こそぎに
地主守屋家跡形もなし

年始め通りすがりの老いびとに
それはりっぱな大根貰う

指のツメ剥がしながらに現代の
ピアノ曲弾くおとこの受難

脳いまだわれを語らずエラテル・ア二ミ
カント読む日のこころの弾み

切り通し油画に描かれし霜月の
代々木坂上大正四年

朝日から毎日にかえてそののちに
東京を経てアカハタとする

陽性者増やしたくない思惑が
民を突き上ぐヒノマルを振れ

あんないにお知らせまでと記し置く
コロナ配慮の個展切なし

ゆうぐれは星の数ほどあらんことも
みちみちに月は口説きおるなり

であいとはときのほころびいま一度
ふれ合うために閉ざす眼差し

描くより見るよりふかくわが胸の
うちにひろがる二月のひかり

水牛的読書日記(2)越えていく「ことば」たち

アサノタカオ

「ご出身は?」
 と聞かれるたびに、口ごもってしまう。自分がそこで出生した家屋や病院の所在地を聞いているわけではないだろう。精神的に帰属していると感じる土地、自分の個人史のみならず家族の歴史も書き込まれた故郷、つまり「あなたのルーツはどこなのか」という質問の含意に、居心地の悪さを感じてしまうのだ。
 いまそこに住んでいなくても、お盆やお正月に里帰りをする実家がそこにあり、一年に何回か、両親や祖父母、兄弟姉妹や親戚があつまって宴会や墓参りや初詣をしたりする、そんな土地はあなたにとってどこなのか? となり近所には、いつまでも自分を子ども扱いするおせっかいなおばちゃんがいて、幼年時代の記憶をわかちあう気の置けない同級生がいて、成人男性だったら秋祭の季節には万障繰り合わせて帰省し神輿を担いだりする、そんなコミュニティがきっとあなたにもあるだろう、と。
 自分には、そういうものすべてが欠如している、という感覚をもって生きてきた。それはいまも変わらない。原因は、はっきりしている。ぼくら一家の長である父に、そういうものすべてが欠如していたからだ。
 父は台湾生まれの「湾生」、台中と台北で少年時代を過ごした植民者の子だった。日本が戦争に敗れ、引き揚げた後、糸が切れた凧のようにふらふらと移動の多い人生の道を歩きはじめ、高度成長期のこの国でサラリーマンになり、母と結婚をし、姉とぼく、ふたりの子どもが生まれてからもいわゆる「転勤族」として関東、中部、北陸、関西と渡り歩いた。
 お盆やお正月などの年中行事にはきわめて淡白で、「やりたかったらやればいい」というスタンス。伝統的な土地の祭りのようなものにも、まるで関心がない。というか、日本においてそういう類の行事に参加したことは一度もなかったのではないだろうか。
 もうこの世の人ではない父から、台湾の話を聞いたことは一度もなかった。戦後に再訪したこともないと思う。父のふるさととしての台湾については、母から教えられた断片的なことがらしか知らない。
 ぼくは子どものころ、父がテレビの前にすわり、中国での日本人残留孤児の報道番組をみながらこっそり涙しているのを、何度も目撃したことがある。涙の理由がはっきりわからないから、少年であるぼくは同情よりも、見てはいけないものを見てしまったような気まずさしか感じなかった。
 けれど人前で決して感情を表したりしなかった、典型的な「昭和の頑固者」である父が手で口を押さえて嗚咽をこらえているのだから、そこに何かただならぬ事情があることだけはうすうす感じていた。そんなふうにして、「あなたのご出身は?」という問いにかかわる「すべてが欠如している」という感覚を、ぼくは父の無言から受け継いだのだった。

 ***

 ここのところ、藤本和子さんの『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』を読み続けている。1986年に刊行された本が、2020年ちくま文庫で復刊された。アメリカに暮らし、英語文学の翻訳を仕事にする藤本さんが、ウィスコンシン州の懲治局につとめる臨床心理士ジュリエット・マーティンと彼女の女友だちのグループ、そして担当する刑務所の服役者から聞いた話を書きとめた内容だ。
 語り手の共通項は黒人であること、女性であることで、著者である藤本さんはアメリカで黒人として生きるとはどういうことか、女性として生きるとはどういうことかを尋ねている。黒人たちがアフリカから連行され奴隷にされた時代から、1960年代・70年代の公民権運動の時代まで、人種差別とそれへの抵抗の歴史を踏まえつつ、「アメリカ社会は良くなったか」という問いに、彼女らは答える。「たたかいなんて、まだ始まってもいない」。
 このことばのもつ意味は、それが語られた時点からさらに切実さを増しているように聞こえる。昨年、アメリカではアフリカ系アメリカ人の男性ジョージ・フロイドが白人の警官の不当な暴行によって命を落とし、「ブラック・ライブズ・マター」の怒りの声が世界中に轟いた。名著と呼ぶに値する、時間の腐食作用に耐える本はこんなふうにして未来に訴える力をもつのか、と驚いた。
 アメリカの黒人たちが生きのびること、集団の歴史を知ること、みずからを語ることばを探すこと。それらについて証言する女性らの語りの随所にエンピツでアンダーラインを引き、目印の付箋の数はどんどん増えてゆく。いまも古びることのないこの本の魅力を知るには、実際にこの本を読んでもらうしかない。さあ、本屋へ行こう。

 ひとつだけ感想めいたことを記すとしたら、ぼくはこの本で黒人女性たちのことばを読みながら、彼女らの語りの背後に、じっと耳をすませる著者の倫理的な態度を一貫して感じ続けた、ということだ。たとえばデブラ・ジャクソンというテレビ局のオーナーの聞き書きの導入部分で、藤本さんはこんなことを書いている。

 「彼女が独身であるか、結婚しているかたずねなかったことに、わたしはいま気づく。ほかの女たちにも、わざわざたずねなかったが、彼女らが話した。デブラはそのことについて、何もいわなかった。わたしはそれでいいと思うのだ。どちらの場合であるにしろ」
 
 社会学者や人類学者であれば、「それでいい」とは思わないだろう。調査票の婚姻歴の空欄を埋めるために、あわてて電話かメールで追加取材するのではないだろうか。しかし、北米の黒人女性の聞き書をまとめたもう一冊の著書『塩を食う女たち』で藤本さんは、自分がやっているのは民俗学的な調査ではない、というようなことを書いていた。
 自分の研究や取材に必要なデータを集めるために、あなたの話を聞いているわけじゃない。今日という日の一期一会の出会いの中で、あなたがいまここで伝えたいと思うことをわたしに聞かせてほしい——。
 語り手である黒人女性たちが、ひとりずつ劇場の舞台にあがるようにして、みずからの人生に意味を与え直す大切な物語を披露する。話すことを通じて彼女らが主体的に生きる、ほかの何物にも変えがたい固有の時間のようなものに、客席に座る藤本さんは最大限の敬意を払う。それが聞き書き家としての彼女の流儀なのだろう。ぼくもまたそれでいいと思うし、むしろそれでこそいいと思った。
 藤本さんは『ブルースだってただの唄』のエピローグを、かつてアトランタで出会い、106歳で亡くなった黒人の老女アニーさんの面影を回想しつつ、このような文章でしめくくっていた。「それを見たければ、わたしにはすぐに見える。どこにいても、ふり返りさえしたら、すぐ見える」。旅の物語の最後に置かれることばとして、もっとも美しいもののひとつだと感じた。
 本を読み終えて目を閉じると、舞台作品のカーテンコールのように登場人物の女たちが手をつないで整列している。壇上に立つ彼女らのすべてを知っているわけではない。みな文字の世界の住人だから、顔すら知らない。しかし、「ことば」を通じて彼女らの人生に一端にふれたという、たしかな手応えがある。いまや自分の中で忘れがたい存在となった黒人女性たちひとりひとりに向かって、立ち上がって大きく手を振りたい気持ちになった。あらんかぎりのリスペクトを込めて。
 
 ***

 『ブルースだってただの唄』には解説として、韓国文学の翻訳者である斎藤真理子さんのエッセイが収録されている。これがすばらしい内容なのだ。藤本和子さんの聞き書きが、詩人・作家の森崎和江さんの仕事の背中を追うものであることの意義を、斎藤さんはていねいに説いている。森崎さんの代表作『からゆきさん』は、明治以降の九州からアジア各地に渡り、娼婦として仕事をした女たちを追うノンフィクションだ。
 『ブルースだって』の中で黒人女性たちは、アメリカの主流の白人社会への「同化」はありえない、と口々に強調していた。それを受けて藤本さんは、朝鮮植民者の子として植民地主義という暴力の歴史を抜きにしないで日本の近現代を問い直した森崎さんの声をおそらく身近に感じながら、こんなことを書いている。「彼女らの視線は、にほん列島に生きる少数者に、同化が答えです、といって疑うこともなかったわれわれにほん人を撃ちはしまいか」。
 植民者二世の父の子である「にほん人」として、苦く重い宿題も渡された。

 なぜ、いま女たちの声なのだろう。どうして、これほどまで気になるのだろうか。
 あいかわらずそんなことをぼんやり思いながら、東京・学芸大学前にあるSUNNY BOY BOOKSに立ち寄った。これから新天地に旅立つという店主の高橋和也さんが、「フェミニズムやジェンダーに関わる本は、うちでも売れていますね」といいながら一冊の本をさしだしてきた。
 ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』(西山敦子訳、C.I.P. BOOKS)。モダニズムやロストジェネレーション、文学史上の画期を代表する作家たち。T・S・エリオットやスコット・フィッツジェラルドやポール・ボウルズらの妻や恋人たちが、いかに男性作家の「ミューズ」として創作に貢献し、同時に声を奪われてきたかを論じながら、著者自身がアメリカ社会で感じる女性としての生きづらさを語るメモワール、自伝的なエッセイでおもしろかった。
 この本に登場する男性作家たちの多くは、ぼく自身にとっても文学的なヒーローであり、ザンブレノの本のページをめくるたびに、心の中の殿堂に飾られた彼らの肖像画がべりべりとはがされるような気分を味わった(余談だが、エリオットといえば長編詩「荒地」。日本の詩人グループに「荒地派」があり、このグループにおける最所フミの存在を思った)。
 フランス語翻訳者の相川千尋さんと会うことになったので、彼女が訳したヴィルジニー・デパントのフェミニズム・エッセイ『キングコング・セオリー』(柏書房)を読む。おもしろい、というにはあまりに苦しい著者みずからの性暴力の被害体験や売春体験が語られるのだが、パンチの効いた文体にぐいぐいと引っ張られて、彼女がトラウマ的な記憶をふりかえり、怒りの声をあげ、自分自身を取り戻してゆく物語を一気に読んでしまった。
 現代フランスを代表する女性作家といわれるデパントが本の最後に記す「フェミニズムは革命だ」の前後のくだりは、ひとりでも多くの人に読んでほしい。男である自分も、読んでいて身も心も打ち震えるのを感じた。
 男性優位主義社会に対して、抵抗と不服従の声をあげる。声をあげることが力になる。そして声をあげるデパントが魂の手に握りしめていたのが、パンクロックの音楽とともに、アメリカなど外国のフェミニストの思想や文学の本に記された「ことば」だったことも見過ごすことはできない。
 地縁を越えて、血縁を越えて、時代や国や人種のちがいをも越えていく「ことば」が、女たちの、そして人びとの長い暮らしといのちを支える杖となる。

 「ご出身は?」と聞かれると口ごもるぼくは、毎年12月になると「今年はいつから帰省するの?」などと聞かれることも苦手だ。里帰りすべき故郷がある、という実感がまったくないから、どう答えていいかわからない。しかし昨年から新型コロナウイルス禍の影響で、感染拡大予防のため長距離移動を控える自粛ムードが社会に広がり、年の瀬が近づいても周囲で帰省や里帰りが話題になることが少なくなったと思う。面倒なことがひとつなくなり、これはこれで気分がいい。
 根なし草のぼくは今日もまた本を読み、本を追いかけ、読むことの川のほとりをさまよい歩いている。女たちの声が過去から受け継ぎ、未来に受け渡す「ことば」のひとつひとつに、ずどんずどんと撃たれながら。

鬼は来ない日もくる

イリナ・グリゴレ

ある日マタニティーブルーから解放された。マタニティーブルーではなく、マタニティーブルースと呼ぶことにする。母親になることはジャズだ。その日5年ぶりに頭がはっきりして、長い冬眠からさめた。「むらかみ」という昭和の雰囲気がまだ残っているケーキ屋さんのスポンジケーキを買いに行ったのがきっかけだ。スポンジケーキは次女の大好物だが、それを自分で発見した。大人は日本のケーキ屋さんでなかなか見当たらないサバランを買った。次女はいくつかの種類のケーキの中から迷わず「これ」と指さして、スポンジケーキを選んだ。白くて、なめらかで、高級な生クリームにちょっぴりバニラの風味が入っている。次女は顔全体にそのおいしい生クリームをつけて、ゆっくり、ゆっくり味わっている。この世の最高の食べ物でしょうと、丸い目がキラキラしている。フランス人形のような小さな身体で椅子に座って食べている。その日から、ケーキが食べたくなったら「むらかみ」まで、車で30分かけていく。女将さんの笑顔と、帰りに車から広がる雪、晴れている日に見える岩木山、ラジオから流れている90年代のロックがケーキの味に加わる魅力なのだ。田んぼに積もった雪はスポンジケーキのようになめらかで、食べたくなる。きっとバニラの味がする。サバランには酒がたっぷり入っている。授乳を終えてから私の一つの楽しみになったお酒をサバランでも楽しめる。小学生の時、田舎から町に引っ越したばかりのこと思い出した。馴染めない町の雰囲気と学校で心がボロボロだった。ある日、学校の帰りに母が町のケーキ屋さんに連れていってくれて、テラスでサバランを食べた。小学校時代の唯一のいい思い出となった。あの工場だらけの町はジョン・レノンの曲「ワーキング・クラス・ヒーロー」の雰囲気と同じだった。

マタニティーブルーになった時、自分でもそれに気づいた。でもすることはなにもないと思った。寂しくて、ブルーな気分になっていたこともあるが、一番つらかったのは言葉がごろごろ炭酸の泡のようになって消えていくことだった。気づくと周りにいた人もいなくなったし、踊れなくなった。東京にいてお腹が大きくなった頃は、世田谷の図書館に引きこもってずっと絵を見ていた。お腹の娘が見えている色が普通と違っていた。ものすごく鮮やかだった。谷川俊太郎の『すてきなひとりぼっち』を見つけた。あの青い表紙がとても鮮やかに見えた。谷川俊太郎は私を助けてくれた。言葉はごろごろ、私と世界の間にあってもいいと教えてくれた。シャボン玉のように、毎回世界が壊れてもいい。図書館から出たあと、近くの公園の草の中でビー玉を見つけた。近づくとそのビー玉に写っている世界に、草、木、土、空とともに私もいた。私もいていいと初めて思えた。いて、いい。この世界、この地球、この宇宙に娘たちと同じ、小さな命から私も始まっていた。そして今まで出会った人の中で私の心を傷つけた人もいていい。皆のいていい場所がちゃんとあるのだ。あのビー玉は世界と同じ、小さくてまるこいが、皆でいていい。

生まれてきた長女は天才で、色はお腹にいたときと同じ、鮮やかに毎日絵に描いている。彼女のためにリビングの壁を展示場にした。鮮やかなイメージと窓から見えている吹雪、一生懸命この冬に生き残ろうとしている植物たち、太っている金魚もこのまま、この世にいていい。長女の言葉の表現は豊かだ。この前は突然「鬼は来ない日もくる」と言われた。この言葉は私の日常をよく表している。いつ来るのかわからない恐怖感、不安と苦しみが鬼であって、ブルーになることが多かったこの何年間のあいだ、解放される日も来るだろう。私を苦しめた鬼たちは来る日もあるけれども、近頃は来ない日も多い。

今年に入ってからある日、スーパーで新鮮な鯵を買って捌いた。子供の時によく自分で釣った魚を捌いたので、あの時の感覚に戻りたかったのだ。鯵はフナと違うので、戸惑う。内臓を出して、刺身にするか、アジフライにするか迷った一瞬に、一つの世界が壊れた。結局、アジフライにすると決めた。手で、爪で一つ一つ骨をとった。鯵の細い骨が私の指先を刺して痛いが、なにも感じないより痛みを感じるほうがいい。手で触るのが一番だ。縄文時代に戻りたくなる。娘たちに一匹の鯵を触らせようとしたが逃げられた。「もう死んでいる」といいながら追いかけたら怖いと騒ぐが、もっとこういう経験させなければと思った。

ジョン・レノンは5年間もハウスハズバンドになって、息子のお世話と毎日のパン焼きで精いっぱいだったという。男性なのにと世間が騒いだ。私も母親でありながらやりたいこと、やり残したことたくさんある。でももう怖くない。パンを焼きながら古い世界を手放して、新しい世界を生み出す。ジョン・レノンがいう通り「愛が答え」だ。悪い経験を手放し、春に向かって「この世界にいていい」と自分にいう。

ここ何日間か昼間はすごく忙しくて、クルミと自分で干した干し柿だけを食べた。人間はこのぐらいでも生きていける。辛かった時、誰にも話せなかった時に、スーパーで働いているパートのお母さんたちが私に話をかけて、私も人間であることを思い出させてくれた。世界は私なしで回っていくが、私もなにか、皆の役に立っていることができる。私にしかできないことがあるから。

ある夏、田舎に戻って、朝早く釣りに出かけた。壊れた橋を渡り、修道院が見える場所で、川から上がる霧と反対側の深い森を見た瞬間、町の重さから解放された。前の日は雨が降っていたから、地面はまだ柔らかかった。一つ丘を越えたとき見えたた風景は一生忘れられない。白いキノコが目の前にあざやかに広がっていた。喜びのあまり釣りのことを忘れて、キノコをいっぱい詰めて家に帰った。皆で食べた。毒キノコではなかった。与えられたものをこれからはただ受け止める。

道なき道?

高橋悠治

1月には3つのコンサート 栃尾克樹のバリトン・サックスで『冬の旅』 波多野睦美のシューベルトとシェイクスピアによるコンサート 杉山洋一の探してきた楽譜による『高橋悠治作品演奏会 III フォノジェーヌ』

声の音楽は 1曲が長くない その前後に楽器の音楽が入るのが 自然に聞いていられる音楽のありかたなのかもしれない それぞれの部分に ちがう動きと響きの手触り それらのゆるい組合せが 物語や風景をひかえめに彩り 短すぎず長すぎない時のあいだ続く 19世紀までの音楽はそうだったと思う 世界を映す手鏡を差し出す手や 操る手の陰の暗さに眼を向けることはなく 余韻とともに消えれば それ以上の巧みはいらない

これからしばらくは コンサートもなく 作曲の予定もない 忘れる時間 忘れていたきっかけを思い起こす暇 注意深く過ごす期間 それは決まっているしごとをしていればよい日々よりは かたちもなく きまりもなく かえってむつかしくて ただ流れ去ってしまうだけになるのではないか

音楽を創る(造る)作業は ペーネロペイアのように 昼は織り 夜は解いて待ち続ける 何を? 織り上げた結果が作品となれば 作者は身を退き 身を隠すことになる どこへ?

シモーヌ・ヴェイユのように拒食症にならず イサーク・ルリアのカバラーのように 収縮=ツィムツムとしての創造に耐えて生き延びる 「創る」と「耐える」 「器を破る」と「痕跡を集める」が同時にはたらく場を仮定して かけらにのこる光を集めてのを修復=ティックンにたとえれば バロックの non-mesuré と stile brisé にヒントを得た「あそび」という作曲を 多重プロットに組み上げる 多くの場面が同時に あるいは切り返しで進行する だが 中心になるテーマがまだ見えない

コロナ禍で失われたのは 人は集まる動物だというあたりまえのことで それがなりたたないならば 集まり方を変える実験があってもよいだろう 音楽の実験はそういうものではなかったか 1990年ソ連崩壊以来 多様性の時代と言われているのに アメリカの単独覇権が続いた コロナの後に この矛盾が社会の収容所化とファシズムに向かうのか 単独覇権の「国際社会」の崩壊と近代の終焉と まだ展望の見えない次の社会を探る過渡期の実験期に入るのかは まだ決着のつかない 複雑な葛藤のなかにある そこで何をしていようと いままでのやりかたは続けられないし 回復や回帰はしないだろう 国や社会のなかにいても それらにしばられない一点 アルキメデスの足場をどうやってみつけるのだろう それとも固定した足場はもうありえなくて 距離をとって しかも離れずに 動き続ける そのために あらゆる資源と技術を応用するのか 考えることは多い 考えるより 風を感じて判断する と言ったらいいのか

2021年1月1日(金・祝)

水牛だより

あけましておめでとうございます。
新しい年を静かに迎えました。東京は気温は低めの晴れ渡った元旦ですが、ワクワク感はほぼゼロです。

「水牛のように」を2021年1月1日号に更新しました。
いつも元旦には更新の作業をしていますが、ことしはお雑煮を食べ、おせちを食べ、朝から日本酒を一杯飲みはしましたが、おめでたい気分はまったくわいてこないのでした。でも、こんなときにも原稿を送ってくださるみなさんには感謝しています。アサノタカオさんの「本は水牛である」という最初のセンテンスは楽しく美しいですね。これこそわたしにとってのお年玉だと思いました。

福島亮さんの「『水牛通信』を読む」を独立して読めるようにしました。一号ごとに力作なので、ぜひ読んでください。
「水牛通信」のころといまの「水牛」とがどのように繋がっているのかいないのか、あまり考えたことはないのですが、同じではありえないにしても、少なくともスピリッツは受け継いでいると思っています。「水牛」についてはブログに少しずつでも書き続けていこうと思います。

それでは、来月もきっと!(八巻美恵)

水牛的読書日記(1)本は水牛である

アサノタカオ

本は水牛である。正確な表現ではないが、そのようなことをエドゥアール・グリッサンが言っていた。グリッサンはカリブ海のマルティニック島出身で、フランス語で書く黒人詩人だ。この一見、奇妙な発言は『全—世界論』に収められたエッセイ「世界の本」の中にあり、日本語にも翻訳されている。

詩人は、万物がたえまなく流れ転がり混ざり合う世界の写し絵が本だと考える。さらに言えば、川が山中の源泉から流れはじめて滝になって落ち、そのうちいくつも支流が合流し、やがて分流して河口に三角州を形成し海に注ぐ、その一本の大いなる川の「変容のなかの不変のもの」こそが本ではないか、と。上流であれ下流であれ、流れる清水に人が足を浸せばどこにいてもいかなる時も、「ミシシッピ川」を「ミシシッピ川」と感じる何かこそが本ではないか、と。

エドゥアール・グリッサンの文学という川についてみれば、フランス語を介したヨーロッパの古典の世界が「変容のなかの不変のもの」として滔々と流れていることはまちがいない。ホメロスの叙事詩や『ローマ帝国衰亡史』や『ヨーロッパ文学とラテン中世』、あるいはマラルメの『骰子一擲』などがそれだろう。

と同時に、そこにはヨーロッパの植民者の言語とアフリカ人奴隷の言語の混ざり合いから生まれたクレオール語の話し言葉の世界も、ゆたかに流れ込んでいる。ところがカリブ海の島の女たち、男たちがしゃべるクレオール語の話し言葉の世界は、西欧の伝統的な書物と文字の世界からも、電子的な情報文化の世界からも疎外されていて、本の世界に居場所がない。グリッサンは、この歴史的に疎外されてきた声をも「変容のなかの不変のもの」として受け止める本、ヨーロッパの古典の世界とも、電子的な情報文化の世界とも異なる「世界の本」を想像する。

ここにいたって、グリッサンの語る「川」は比喩的で抽象的な図式のようなものから、きわめて具体的で親しみのある風景にかわる。

ほら、島の川原をみてごらん。そこにはクレオール語を話す日に焼けた労働者たちがいるじゃないか。そして水牛がいるじゃないか。わかるかい、あれが「本」だよ。雲がやってきて、ハリケーンがやってきて、川が氾濫してあふれる水に流され、大波にのまれ、無数の水牛が死んでいった。なんてこった! けれど雲が去って太陽があらわれ、水が引いて土地が乾いて草が生えて風が渡る、すると川原には何事もなかったように、ほら、水牛がいるじゃないか。流れ転がり混ざり合う世界とつねに変わらず共にある「あの孤独な、連帯する、動じない水牛」、わかるかい、あれが「本」だよ——。

本は水牛である、というグリッサンの哲学的なヴィジョンの真相については彼の著作をちゃんと読んで学んでもらうこととして、ぼくにとってこの定義は体験的に腑に落ちるところがあった。

10代の頃、地方の町で自覚的に書店や図書館に通いはじめ、本を集め出して活字中毒になり、あれから30年。部屋は、夏の空き地に日に日に草が茂るように本で埋め尽くされていった。しかし20代からふらふらと移動の多い生活を送ってきたので、引越しのたびに荷物を減らすために本を手放してきたし、いまから10年ほど前、いったん本の世界から離れたいという思いにも駆られて蔵書のほぼすべてをある人に寄贈した。

身軽になったと感じたのはほんの一時期のことで、しばらくすると部屋はふたたび本で埋め尽くされていった。当たり前といえば当たり前の話だ。ぼくの職業は編集者で、すなわち本を作ることを仕事にしているので、仕事のために必要な資料としての本、いつか仕事のために必要な資料になりそうな本、必要な資料かどうかわからないけど気になる本が、生き物のようにわらわらと手元に集まってくる。個人的なたのしみのために読む不要不急の本も、もちろんある。子どものために買ったつもりがけっきょく自分で読んでいる本なんかもある。そして出版業界には「献本」といって同業者同士、企画に関わった本を近況報告の代わりに贈り合う習慣があるので、この仕事を続ければおのずと蔵書の量は増える。やれやれ。

マルティニック島の川原の風景と同じだ。雲がやってきて、ハリケーンがやってきて、川が氾濫してあふれる水に流され、大波にのまれ、無数の水牛が死んでいったように、人生の転換期に合計で何千冊かの蔵書が目の前から消えていった。しかしいつのまにか川原に水牛の群れが戻ってくるように、部屋はふたたび少なくない数の本で埋め尽くされていった。といっても、いまそこにあるのはいわゆる「新刊書」ばかりではない。いったん消えたはずの、ある種のなつかしい古い本たちが——実際には、手放したあとになかば無意識に買い戻したりしているわけだが——なおも棚の中に悠然と並んでいることに最近、注意が向くようになったのだ。そしてまるでグリッサンのいう「あの孤独な、連帯する、動じない水牛」のように、「変容のなかの不変のもの」としてこちらの人生をじっと見つめ続ける一群の書名のことが、どうも気になって仕方がない。

たしかに、本は水牛である。流されても流されても、水牛は、いつもそこにいる。
 
たとえば、リチャード・ブローティガンの小説などアメリカ文学の翻訳で知られる藤本和子さんの本。若い頃からいつか読もう読もうと思いつつ、思うだけでほったらかしにしてきた80年代の彼女の著作『塩を食う女たち——聞書・北米の黒人女性』と『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』が近年立て続けに文庫化されこともあり、わが視界に戻ってきた。10年越し、いや20年越しの無言の呼びかけに応えるように、いよいよこれらの本の読書がはじまるという予感を抱いている。

それを言えば、部屋に積み上げられたままになっている、詩人で記録文学者の森崎和江さんの本たち、画家の富山妙子さんの本たちも、いまの自分にとってどういうわけか同じように気になる大きな存在だ。偶然なことに、彼女ら3人はいずれも、このウェブマガジン「水牛のように」の前身となる80年代前後の「水牛楽団」や「水牛通信」、あるいはその周辺の活動となんらかの関わりがある書き手で、みなさんおのれの信じる道をひとり歩みつづける「いっぽんどっこ」タイプという感じがする。

藤本さんが編集・翻訳した『女たちの同時代——北米黒人女性作家選』(全7巻)という本もある。アリス・ウォーカー、トニ・モリスン、ゾラ・ニール・ハーストン、一時期それなりに熱心に読んだはずなのにこまかい内容をすっかり忘れてしまった彼女らアフリカ系アメリカ人のウォマニスト作家の文学も再訪したい。昨年2020年はアメリカで、「ブラック・ライブズ・マター」の怒りの声があがった。

そして「水牛」と関わりがあるはわからないけれど、今年は在野の女性史研究家、もろさわようこさんの仕事を尋ねることになりそうだ。やはり80年代前後に刊行されたもろさわさんの主著が自分の仕事用のデスクに並んでいて、彼女が主宰する「歴史をひらくはじめの家」のミニコミ的記録集(京都の古本屋KARAIMO BOOKSでバックナンバーを購入した)のページをめくって行ったら、富山さんの名前があった。

なぜ、女性の書き手なのだろうか。以上にあげた著者たちには、いずれもライフワークとして「女性史」に取り組み、アメリカ黒人の世界であれ日本の辺境の世界であれ、フィクションであれノンフィクションであれ非言語的な芸術表現であれ、歴史の中で語られてこなかった声なき声に耳をすまし、「ことば」を与えるという冒険的な仕事をしてきたという共通点がありそうだ。しかしなぜいま、彼女らの本を読むという予感にとらわれているのか(そしてわざわざ断る必要があるかわからないけれど、なぜ「男性の読み手」である自分がそれを読むのか)、よくわからない。

でも、わからないなりに「孤独な、連帯する、動じない水牛」としての本の群れを追いかけながら、自分自身の読むことの小川をたどる旅をこれからはじめようと思う。牛使いの小僧になったようなつもりで、ともかく歩き出してみることにする。