2021年5月1日(土)

水牛だより

一昨日の雨に洗われて、きょうの東京はきらきらとした光のあふれる朝でした。眠っているあいだに届いたメールをチェックして、さあ、水牛の更新だ、と考えているところに揺れがやってきて、長い時間それが続きました。これはどこかで大きな地震がおきているとわかる揺れでした。そして午後は一点にわかにかき曇って雨がふり、夜になると激しい雷雨で、竜巻注意報まで出ました。

「水牛のように」を2021年5月1日号に更新しました。
コロナ禍と地震禍に苛まれていても、生きている日々は続いていきます。ひどい時代に生きているのだとしても、疫病や災害がすべてというわけではありません。ふと訪れる静謐な時間もあります。そんな時間に水牛を読んでもらえたらうれしいけれど、踊ったり、製本したり、本を読んだり、詩作したり、思索したり、山菜の天ぷらをつくったり、ちゃんばらしたり、ぼんやりしたりするのもいいですね。

それでは、来月も更新できますように!(八巻美恵)

展示するカラダ

笠井瑞丈

去年の12月から新作を作り始めました
その作品を今月で天使館で発表しました
タイトルは『展示するカラダ』としました
ダンサーは若手女性ダンサー4名

ダンス作品が作品である前に
カラダそのものが作品である

そんな思いからこのタイトルを選びました

音はバッハの『フーガの技法』
演奏は高橋悠治さんの
音源を使わせてもらいました

このフーガの技法は以前
高橋悠治さんの生演奏で
一度踊ったことがあります

その時は笠井叡振付で
私を含め4人で踊りました

今回この作品を作ると考えた時
最初に『フーガの技法』というのが
頭にパッと浮かびました

一曲一曲に自分の中でテーマを決め

浸色
油絵
動物
植物
鉱物
壁画
時間
空間
人間
身体

それに沿って振付のイメージを決め
それをダンサーに伝えました

4ヶ月この音楽と
4人のダンサーと

過ごした時間が

また新しく作品を作る感覚を養ってくれた

踊りが作品なのか
身体が作品なのか

その問いを考え

また何か作ろう

声と話す

璃葉

気持ちよく外に出られない状況が続くなか、電話で用事を済ませたり話をする機会が圧倒的に多くなった気がする。
PCと睨めっこをしながら仕事の電話。打ち合わせや雑談も電話やメール。だからなのか、時折人に会うと一瞬、不思議な気持ちになる。

電話は、嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。電話越しの相手の声は明るかったり、暗かったり、気怠かったりでおもしろい。会って話すクリアな声とは少し違う、フィルターがかかったような、篭った声だ。その声色から相手の表情を想像してみるけれど、実はあんまり浮かんでこない。全く違うものを想像していたり、話の内容によって次々とイメージが切り替わる。
しかし、心の機微は伝わってくる。これは実際に会って話すよりも、敏感になるのかもしれない。

これといって何もない日の夜、なんならちょっとくさくさして面倒くさい感じになっているとき、気の置けない友人と電話をした。スピーカーホンに切り替えて、お互い酒を飲みながらかなりくだらない話をだらだらする。
まだ肌寒い夜だったので、足元にある赤外線ストーブをつけると、ちょっとだけ焦げ臭い香りが漂った。

どの文脈からそうなったのかは忘れたが、この状況が落ち着いたらどこへ行きたい?という話になった。
ウイスキーをちびちびやりながら、web上の世界地図を見る。向こうは海に行きたいそうだ。わりと寂れた街の海がいいらしい。
自分だったらどこだろう。ああ、とっても透き通った湖を見たい。そう思った。人はいなくていい。圧倒的に自然が強い場所へ行きたい。
じゃあどこの地域が良いだろう、どんな国がいいだろうかと話すうちに、自分の声も向こうの声も、弾けるような明るいものになった。
声と声の間に、何か暖かいものがほわほわと浮かんでいる気がした。
何だか無性に、自分のそばに置かれたボトルに入ったウイスキーを相手のグラスにも注いであげたい気がした。
友人はおそらくワインを飲んでいるのだろうか。なんだか受話器の向こうからどばどば注ぐ音がきこえる。
やっぱり声だけでなく空間すべてを共有したいし、向かい合って話したいのだと、ほろ酔いになりながら思うのだった。

しもた屋之噺(231)

杉山洋一

ミラノで暮らしていて、周りから、ニュースを見なくなった、新聞を読まなくなった友人の話を幾たびも聞きました。
クルツィオ・ルーフォ、クルティウス・ルーフスの格言「歴史は繰り返す」を、反芻するばかりの毎日にあって、時間さえ作れれば、今は本を、特に歴史書を読みたくなります。読み返せば、今だからこそ合点がゆく史実がそこここに散見されるはずですから。

4月某日 ミラノ自宅
ミーラとズームごしに会った。フランコが亡くなり7年になるけれど、片時も忘れられなくて辛い、と絞り出すように話す。滞在問題を抱えた貧しい外国人の面倒をみるボランティアをしているが、悲惨な身の上話ばかり聴いていて、すっかり気が滅入って堪らないと言う。もちろん担当の精神分析医もいるそうだが、少し鬱気味に見える。連絡くれて本当に有難う。助かったわ、とつぶやいた。  
新感染者数21932人で、陽性率は6,6%。死亡者数501人。

4月某日 ミラノ自宅
夜明け前、アブダビ空港でトランジット中の家人より連絡あり。ミラノ便は定刻出発予定とのこと。息子は12月末から4か月以上家人に会っていないので、あと何日でお母さんは帰って来ると、小さな子供のように指折り数えて待っていた。
ジョルジアで復活祭の「鳩ケーキ」を購った帰り道、サボナ通りを歩いていると、マンションの一角に「ここは家です。学校ではありません」と大きく書かれた垂れ幕が下がっているのに気づいた。きっと中には中高生の子供がいて、目を皿のようにして毎日授業を受けているに違いない。
新感染者数21261人で、陽性率は5,9%。死亡者数376人。

4月某日 ミラノ自宅
復活祭の連休前に、ティートへ「河のほとりで」の音列表を届けたいと思った。
地下鉄2番線でミラノ市からチェルヌスコ市まで行くのだが、もし途中警察の検問があって、友達にこれを届けなければならないので、とA2版スコアにびっしり書かれた音群を見せたところで、果たして通行が許されるだろうかとぼんやり思う。恐らく罰金対象になるだろう。

果たして、検問もなく無事チェルヌスコに着いた。駅前には小さな市が立っていて、ポルケッタを焼く匂いが辺りに充満している。
駅の裏の公園でティートと15分くらい話す。出し抜けに、何故ト長調が好きなの、と尋ねられ、言葉に窮する。言われてみればそうかもしれない。考えたこともなかった。

自分には絶対音感がないので、どの調性も同じに聴こえるのだけれど、絶対音感があると、振動とか色彩とか違ってみえるものかね。彼が少し遠くを眺めてそう呟いたところで、公園の木々に風が渡ってゆき、目に眩しい新緑が心地良い音を立てた。

彼の父親は、生前、自分の葬式ではぜひリストの「夕鐘・守護天使への祈り」を弾くようティートに頼んでいた。あちこちの教会の鐘楼がからからと鳴り響く「夕鐘」は、息子が毎日練習している「婚礼」と表裏一体だ。「婚礼」は天から降り注ぐ祝いの鐘。「夕鐘」は天に昇りゆく願いの鐘。
携えていった音列表は、ピアノの傍らに似合いの空間があるから、そこに飾るという。もうすぐ日本に帰ると言うと、何故日本は誰もワクチンを打たないのかと不思議そうに尋ねられた。
新感染者数18025人で、陽性率は7,1%。死亡者数326人。

4月某日 ミラノ自宅
レプーブリカ紙によれば、2019年に比べて今年の復活祭消費は40%減の見込みという。ロンバルディアは4月18日までレッドゾーンの予定で、相変わらず演奏会も開催できない。
ジャンべッリーノ通りの大型スーパー前を通りかかると、二十歳前後と思しき小ざっぱりとしたジャージ姿の妙齢が、「お腹が空いています」と書かれたカードを手に、何とも言えぬ顔でこちらを見つめている。そこに立つ物乞いも初めてだし、ジプシーでもないごく普通のイタリア人女性のようだ。そんな姿は余りに珍しく目を引くのか、道行く人も一様に驚き、気の毒そうに眼を伏せる。
イタリア国内の80歳以上のワクチン接種率は現在56,76%。70歳から79歳までは11,11%。学校関係者は68,17%。ロンバルディア州は、それぞれ57,32%、4,40% 、76,85%と書かれている。学校関係者に限ればモリーゼでは100%。フリウリ・ベネチア・ジュリアでは90,11%とあり、思いの外進んでいるようだ。
新感染者数17567人で、陽性率は5,4%。死亡者数344人。

4月某日 ミラノ自宅
学校より教員枠ワクチン接種一時中止の連絡が届く。70歳代の接種優先のためだそうだが、尤もだと思う。先日も玄関先で久しぶりにサンドロに会うと、未だ接種を受けていなくてねと困ったように笑っていた。隣でナディアが、恥ずべきことよと憤慨していたが、彼女は放射線医だから接種を終えているのだろう。
今日の休暇明けのレッスンに、マッテラは帰郷先のサレルノから、電車でかけつけた。15日から走り始めたあのcovid free特急で帰ってきたのかと尋ねると、あれはローマ-ミラノ間のみの運行で、ナポリまで通っていませんと笑った。
covid free特急とは、乗車の際PCR検査の陰性証明を提出するか、その場で簡易検査を受けて陰性でないと乗車できない特急のこと。ピアノの前に座っていたマルコが、何て馬鹿げた生活よ、と嘆きの声を上げた。
新感染者数15943人で、陽性率は4,86%。死亡者数429人。

4月某日 ミラノ自宅
毎朝、家人と散歩のたびに見上げていた建設現場の巨大なクレーンがあって、こちらの10階分の高さがあるから、日本で言えば15、16階分は優にあるだろう。鉄骨で組まれた櫓の天辺に小さな運転室がついていて、作業員はそこで操作しているように見える。どうやって作業員があの運転室まで上るのか夫婦とも興味深々である。
櫓の中央には地上から運転室まで梯子が組んであるのだが、それ以外登る手立てがないように見える。あんな高所まで、まさか梯子で登るとは思えない。
家人は運転台後部の小さな籠で昇降するに違いないと言うが、それにしても心許ない小さな籠に過ぎない。
そんな塩梅で、毎朝そこを通る度に、夫婦で上を見上げて話しているうち、先日は遂に彼方の運転台の作業員が手を振ってくれるではないか。

決まって毎朝7時にブザーが鳴って作業が始まるので、今朝は7時少し前に出かけて様子を見ようと眺めていると、ブザーが鳴るとそのまま動き始めてしまった。運転室は無人に見える。
暫く二人とも呆気に取られてクレーンを見つめていたが、意を決して家人は建設現場の関係者に事情を尋ねに出かけてしまった。女性はこういう時は現実的だ。一人なら夢が壊れそうで、誰にも尋ねなかったに違いない。
家人曰く、運転室の作業員はやはり梯子を伝って、片道10分くらいかけて昇降するそうだ。普段は地上でリモート操作していて、ごく稀に、必要な場合のみ運転室まで昇ると言う。あんなところまで毎日昇っていられないという口ぶりだったそうだ。
新感染者数12694人で、陽性率は5,5%。死亡者数251人。

4月某日 ミラノ自宅
今日はリッチャルダのラジオ番組収録で、高橋悠治「歌垣」のCDについて話し、「歌垣」と「般若波羅蜜多」をかけてもらった。
マデルナやブーレーズ、バーンスタインと悠治さんの関わりについて話した。マデルナとは1964年、西ベルリンでRIASとアイブスOrchestral Set. N.2収録で知り合ったこと。エオンタ初演前にバーデンバーデンにブーレーズに初めて会いに行ったときのこと。フィリップ・アントルモンの代役で、バーンスタイン交響曲第2番の演奏に参加し、バーンスタインから高く評価されるようになった話など。
上流階級のイタリア語があるとすれば、少しくぐもった響きのリッチャルダのような抑揚を言うに違いない。

暫く日本に戻るので意を決して芝を刈る。一通り芝を刈ってから、向いの校庭との境に、去年から放置していた西洋イラクサが繁茂しているのに気づく。棘と格闘しながら漸く刈りとって、気が付くと半日近く経っていた。
西洋イラクサは薬効もあって美味だそうだが、今は到底そこまで手が回らない。家人は隣で、庭の樹の下枝をもぎ取っていた。
来月のマルトゥッチの演奏会の解説文を送付したが、果たして譜読みは間に合うのか。第一演奏会は実現できるのか。
新感染者数12074人で、陽性率は4,1%。死亡者数390人。

4月某日 ミラノ自宅
家人と連立って、自転車で市立音楽院のレッスンに出かける。弁当は家人が炊込みご飯を作った。家人を先に学校に行かせ学校近くで新聞を買い菓子パン2個を購って入口で検温していると、「奥さんはもう教室に入ったと言うのに、あんた後から来るなんて寝坊でもしたのかい」とジュゼッピーナに大笑いされる。
グエッラのブラームスに心を揺り動かされた。明らかに何か吹っ切れたように感じる。制御しなければという気負いから開放されたのだろうか。音楽がしなってうねる毎に、裡にエネルギーを蓄えてゆくのが判る。

4年間続いた矢野君と浦部君のレッスンも今日で一区切りとなり、ただ感慨深く今までを反芻している。
今後ますます頑張って欲しいと話しかけながらも、将来を何も確約できない現況がただ恨めしい。演奏会さえあれば、劇場さえ開いていれば、紹介したい相手もいるけれども、この状況で連絡しても、相手も返答に困るだけだ。
頑張ればきっと報われるからと、誰が気軽に云えるのだろうか。
新感染者数13844人で、陽性率は3,9%。死亡者数364人。

4月某日 ミラノ自宅
ピーター・バートが解説文を書き、小野さんが見事に翻訳して下さった「歌垣」と「子供の情景」CDが、レコード芸術で特選に選ばれたそうだ。
武満徹の研究者という印象が強いピーターだが、ルチアーナ・ガッリアーノとともに長年日本の現代音楽を熱心に研究している。彼の裡で合点のゆく事柄がそれぞれ、しっかり有機的に繋がっているからか、文章はきめ細やかで理解しやすく、美しい。
先月は、夫人の林原澄音さんに「花」を初演していただいた。20年前に書いたきり忘れていた「さくら」の小さなパラフレーズ。チベットの子供たちに教育支援もしている澄音夫人に、チベット民謡による「馬」を弾いていただいたことを思い出し、「花」も彼女に合う気がしたのだ。林原さんから頂いた中勘助の「銀の匙」と彼女の音楽にも、何か共通の味わいを覚える。

4月某日 ミラノ自宅
この所、毎日のように領事館と航空会社からメールが届く。その殆どが、日本政府が入国審査を厳格化して以降、東京から強制送還されているので気を付けるよう促すものだ。
日本到着72時間以内のPCR検査陰性証明が必要で、その際、日本政府発行の証明書式の使用が推奨されている。通常、PCR検査は各試験所が発行する証明書を指定時刻にインターネットからダウンロードするため、日本政府の書式使用を頼むのは非常に難しい。誰か知合いの医者に転記を頼むにしても、検査から結果を貰うまで24時間かかるため、余程首尾よく取計らわなければ間に合わない。

結局、何軒も連絡した挙句、CDI(Centro diagnostico italiano)で日本政府の書式転記を了解して貰った。普通は英語の記載があれば問題ないはずだが、日本政府にも事情があるのだろう。
尤も、CDIのコールセンターに電話した所、どのCDIでも可能なわけではなく、数多くあるCDIの検査場から転記可能な場所を探す必要があると言われる。

フランクフルト経由で帰国予定だから、ドイツ入国48時間以内の検査陰性証明も必要になる。元来、帰国前日は朝から晩まで1日中授業とレッスンを予定していたから、どれかを変更してPCR検査を受けざるを得ない。
日本に帰る毎に日本とイタリアで2週間ずつ、計1カ月の自宅待機を強いられる。よって、授業もレッスンも短期間に集中的にやるしかないし、その間、譜読みも作曲も手につかない。結局、今日は一日コンピュータの前に座り、確実に日本に戻れそうな方法に思案を巡らせて終わってしまった。ワクチンも打っているし、自国に帰国するだけの話だが、フランクフルトの搭乗拒否が目立つので、別の航空会社の可能性も考える。
新感染者数16232人で、陽性率は4,4%。死亡者数360人。

4月某日 ミラノ自宅
今日は昼前、運河沿いにコルシコまで自転車を走らせ、CDIでPCR検査を受けた。指定時刻15分くらい前に着いたが、予め余裕もって予約を受付けているのか、存外にのんびりした雰囲気で、待つことなくすぐ受付に通された。
そこで改めて日本政府の事情を説明すると、受付嬢は随分気の毒がってくれ、あちこち電話をかけて、日本政府の証明書式分は直接メールでスキャンを受取れるよう手配してくれた。
自転車を漕いで行って汗をかいていたので、看護婦から「あらやだ、あなたそんなに緊張しているの、大丈夫よ」と笑われる。

4月某日 ミラノ自宅
間宮先生ピアノ協奏曲、粗読み。速度表示が数的に書かれている箇所とそうでない箇所があって、冒頭1小節7秒から8秒の指定を概ね4分音符34とし、2番目の速度指定1小節5秒から6秒を概ね4分音符48と考えると、他の速度指定もこの二つの数字と何某かの比率に収まりそうだと気づく。
数的に演奏する積りは毛頭ないが、基本的姿勢として、数的に速度が指定されていない箇所についても、先ずは一旦これらに準じて譜読みしてみようと吉川君に提案する。

珍しくピアノを聴いて欲しいと息子に頼まれて、ピアノの少し上を見つめ、そこに浮き上がってくる音を聴くよう話す。力づくではなく、ピアノが欲している音を出させてやること。常にピアノと会話しつつ、ピアノが出したいと感じている音を、出来るだけ素のまま外に放出させてやるんだよと説明する。
解釈など、自分が好きなようにやればよいし、第一ルカに習っているのだから、親が口出しする必要は皆無だ。人から強制された解釈など、聴き手の心に響かない。ピアノであれオーケストラであれ、楽器やオーケストラが鳴らしたい音を、こちらが素早く理解するのが基本だろう。幾らピアノの裡に入魂したところで、音が感情を吸い込むだけ硬化して倍音は鳴らないし、重くなるから響かない。
新感染者数14761人で、陽性率は4,7%。死亡者数342人。

4月某日 ミラノ自宅
早朝家人と散歩をしながら、次に会うのは恐らく7月末だねと四方山話。彼女は来世でも夫婦になりたいそうだが、こちらは来月の演奏会の行方すら分からず、その先まで到底頭が回らないと言うと、すっかり気分を害してしまった。
コロナ禍で往来がすっかり難しくなったが、思えば以前は世界中の誰でも軽い躁状態に陥っていて、地に足が着いていなかった気もする。
息子の自転車はブレーキが消耗して危険だったので、ソラーリ通りのザナッツィへ修理に持ってゆく。
新感染者数13817人で、陽性率は4,3%。死亡者数322人。

4月某日 フランクフルト空港
朝4時半にタクシーを呼んでいたので、早朝3時45分くらいにそっと起きると、隣で家人は眠りながら大笑いしている。何の夢を見ているのだろう。
日本の感染状況は悪化の一途を辿っており、演奏会が出来るかは未だわからない。引き摺られるような、重苦しい心地で身支度する。
7時発のフランクフルト行の空港チェックインカウンターには5時前に着いたから、すぐに受付が完了した。ここでは日本政府用の陰性証明は確認せず、CDIが発行する陰性証明だけが確認の対象だった。

思いがけず、ゲートで同便でミュンヘンに向かう浦部君に会ったので、フランクフルトまで隣に座ってもらって話し込む。彼や他の学生を見ていると、その昔、指揮レッスン後でエミリオと話し込み将来の不安を聞いて貰っていたのを思い出す。
当時は未だミラノ・ブッローナ駅が残っていたから、ベネゴーノに戻るエミリオを駅まで送りながら、電車の到着を待つ間、駅のバールで10分くらい話を聞いてもらっていた。或る意味で、人生で一番、期待と不安が募る年代に違いない。それだけでなく、世界が少し見えてきたところだろうから、その不条理に心を高ぶらせることも多かろう。
何度となく、エミリオに指揮の勉強はやめさせて欲しいと、それこそブッローナ駅の構内で懇願したのを思い出す。その度にエミリオは、イタリアに残るべきじゃない、ここでは音楽は出来ないからね、と繰返したが、それでも指揮は続けた方がいいよ、と静かに微笑み、いつも同じように執り成してくれた。当時は純粋だったし、指揮にせよ作曲にせよ、自分が感じていた音楽はもっと儚く繊細だったに違いない。
彼らより多少長く生きる上で見えてきた物は、何があっても、最終的に水は流れるべき所へ流れてゆくこと、そしてそれを信じることだろうか。結果を急いでも、例えそれが一時的に巧く行ったとしても、将来後ろを振り返って俯瞰すれば、それはほんの小さな歪みに過ぎないとわかる。
オーケストラも同じだろう。正しいことを正しくやれば良い演奏になるわけではない。オーケストラの各人を信じ、音楽の力を信じるから生まれる演奏がある。
作曲も全く同じに違いない。そもそも、音楽など、我々の体内には存在しないと思っていて、我々は、ちょうどシャーマンのように、イタリア語で言うtramite、媒体のような存在に過ぎないと思う。
これは過信でも何でもなく、寧ろその正反対ではないだろうか。自分はそれ程までにちっぽけな存在であって、万象に抗う力などまるでない事実を素直に受け入れ、全てを司る何某の力に、自らを預けることではないか。

浦部君と話しながら、自分の裡の別の自分が、静かにそう呟いていた。眼下の雲海は朝日で朱に染まり、波打つ雲のまにまに南アルプスが赤赤と突出している。

4月某日 羽田行機中
フランクフルト空港は、昨年暮れに訪れた時よりずいぶん賑やかだ。未だ閉店している店舗もあるが、これは有事だからなのか、単に今日が週末だからかも定かでない。往来を見る限り、人が少ない印象はない。羽田行のゲートに着いて、少し長椅子に身体をうずめたところで眠り込んだ。

乗込む乗客も12月末より幾分多い印象を受ける。ブラジル、と書かれたスポーツ選手のグループもいて、何でも水泳の選手団だと言う。彼らの他にも数人外国人がいる。みな順番に窓口に呼び出されて、携帯している陰性証明が日本政府の基準に準じているか確認してもらう。果たして、自分も携帯する全ての証明を確認して貰うと、日本政府の証明書式分のみを提出するよう助言を頂く。
すぐ傍らには、携帯電話を手に未だ検査証明が届かないと困り果てた様子の女性も、英語の記載がなくこれでは乗れないと係員に諭され呆然とする若い男性も居て、ただただ気の毒に思う。政府の説明を聞かなかったのだから自己責任、と冷たく放言する状況ではない。
今週は殆ど自分の仕事もせず、家人に手伝って貰いながら帰国の準備に明け暮れた挙句、何とか漸く羽田行に搭乗できた有様なのだから。彼ら二人が最終的に搭乗できたことを心から祈っている。

4月某日 両国ホテル
昨日は、朝7時40分に羽田空港到着。10分程空港内を歩いて、反対側に位置する検疫所へ向かう。PCR検査の陰性証明を提出して先へ進むと、次のチェックポイントでは、政府の質問票に答えて出力したQRコードを提出し、感染拡大地域からの帰国者目印として左手首に緑のカードをつけられる。学園祭とか、何某スタンプラリーに参加する心地だ。

次のチェックポイントで唾液を採取し提出すると、次のチェックポイントでは搭乗者一人一人に別々の係員があてがわれる。中国訛りの若い男性係員が、日本の携帯電話にグーグルマップが入っているかを確認後、接触確認アプリCOCOAと位置情報確認アプリOELをその場でダウンロードし、インストールするよう指示される。「お客さん二週間ね、二週間我慢ね、二週間我慢したら終りね」と心優しい。

次のチェックポイントに進むと、やはり中国訛りの妙齢がwhat’s appのアプリでヴィデオ通話が可能か確認し、電子メールアドレスが使えるかを確認された。それが終わって今度は2階に上がり、受付では政府の用意する待機ホテルは禁煙だが問題ないかと確認される。
アストラゼネカワクチン1回目接種は行ったと伝えるが、現在日本ではワクチンは考慮対象外だと申し訳なさそうに教えてくれた後、30分ほどぼんやり検査結果を待つ。そこまで自動販売機も何もなかったように見受けられたが、丁度手持ちのミネラルウォーターがあったので、それで喉を潤す。

番号が呼ばれて陰性と告げられた後、今度はホテルに向かうシャトルバスに乗るため、別の場所に並んだ椅子に座って暫く待つ。10分ほど経ったところで、5番のゼッケンを付けた可愛らしい妙齢が自己紹介をして、あなたとあなたとあなた、という具合に我々同行者4人のグループを即席で作り、今度は税関検査まで5番の彼女についてゆく。皆、黙って少しずつ距離を開け、一列になって歩く。添乗員と観光客の気分で、長旅の後だと愉快ですらある。
これで2階の受付付近にゼッケンをつけた若者が屯っていた理由が分かった。これは日本の細やかなおもてなし文化なのだ。パスポート検査の前で「はいこちらにどうぞ」と彼女の前に集まるよう指示され、手荷物を受取ると、改めて5番の彼女の周りに集まるよう指示される。

税関検査を終えて出口を出たところで、今度は別の初老の男性二人に呼び止められた。バス係員のようだ。彼の指示に従い数人のグループが出来るまでそこに一列に並んで待つ。5人ほど集まったところで、今度は彼についてシャトルバスへ向かう。そこまでしなければ、逃げ出すような不埒な輩がいるのだろう。
こうして第3ターミナル入口脇の駐車場にてバスに乗り込むと、時計は10時01分を指していた。バスは空いていたから、数人乗り込むのを待って、それから10分ほどしてから両国アパホテルへ出発した。

高速道路が混んでいたので、ホテルに着いたのは11時40分を回っていた。チェックインし、体温計とルームキーが渡される。食物にアレルギーがないかと質問を受けた際、出来れば肉のない食事が嬉しいと伝えると、ベジタブル弁当があるとわかって、ひどく安心する。ホテルでは家族からの差し入れ、デリバリー、ネットショッピングサービスは受付可能だが、各部屋へは到着翌日の午前中に配られる。冷凍、冷蔵品、アルコール飲料は不可だ。
コインランドリーも有料で使えるようだ。勿論、部屋を出なければならないので、予め受付に連絡をして許可を得る必要がある。

4月某日 両国ホテル
18階の部屋は決して広くはないが、機能的で清潔感もある。髭剃りなど完備していて、窓の真下に国技館が、その向こうには両国駅が見える。両国は上野に鉄道が開通するまで、北へ向かう鉄道のターミナルだったと聞いたことがあるが、駅舎前に国技館があるのは、当時のヤードの名残りかしらと想像する。このホテルに着く直前には、両国門天ホールの脇を通り、何とも不思議な心地。ベジタブル弁当は美味。

4月某日 両国ホテル
弁当は毎日8時、12時、18時と決まった時間に、外のドアノブに吊るしておいてくれる。配り終わると、マスクをして弁当を受取るよう日本語と英語でアナウンスがかかる。野菜炒めやラタトゥイユ、豆腐ステーキなどにご飯が付き、サラダとフルーツも小さな別容器でついている。食後、再び先ほどの袋に入れて扉の前に出しておく。同じ料理にならないよう、配慮も行き届いている。

朝は7時から8時に検温し、AIチャットで報告する。報告先はどこなのか定かではないが、ホテルか保健所に違いない。
18階なので窓が開かない。部屋から出るのは禁止されているので、この3歩ほどの部屋の中で、誰にも会わず、誰とも言葉を交わさず3日間過ごす。家人が荷物に入れてくれた、即席チゲスープやポタージュスープ、モンカフェやみそ汁は、気分を変えるのに役立つ。

朝から晩まで大判スコアをベッドに広げて、譜読みに勤しむが、一日足を無理に曲げて仕事しているから、酷い筋肉痛になった。
息子がオーディション一次審査通過との連絡あり。日本の通信高校の授業を受け、午後は国立音楽院に出かけて授業を受けている。この生活スタイルを続けるのか、秋からミラノの高校に入学するのか分からないが、先ずはイタリア中学卒業試験を外部生として受験すべく準備している。
卒業試験では、生徒がそれぞれテーマを決め、それに沿って30分ほどの発表をし、教師たちからの質疑応答に答えなければならない。パワーポイント、ヴィデオなどの使用も可能で、そのテーマの中で、それぞれ主要科目に関わる論点を含めるのが従来の方針だったが、今年からは敢えてその発表に、多くの科目を含める必要はなくなり、より自由に深く踏み込んだ発表が求められるようになった。
息子の担当になった教諭にその理由を尋ねると、どれだけ自分の力で一つの物事を深く追求し、それを咀嚼できるかが重要で、質疑応答の様子を観察すれば、生徒が何をどの程度理解しているか分かる、と言われる。確かにその通りかもしれない。
息子は様々な視点から「日本」について発表すると決めたようだ。
先週からミラノはイエローゾーンに戻ったので、息子は今年初めてソルフェージュの対面授業を受けた。家人曰く、随分楽しそうに帰ってきたそうだ。考えてみれば、ここ一カ月以上、彼は同世代の友人と会っていなかった。

4月某日 三軒茶屋自宅
昨日は6時半に起床、7時に唾液採取の容器をドアノブにかけてもらい、7時半に検査官が受取りにくるまでに、唾液を採取しておく。7時半過ぎ、防護服に身を包んだ係員に唾液を渡した後、11時半ごろ、予定では16時だったシャトルバスの出発時刻が早まりそうなので、14時には出られるように支度をしておくように電話が入った。果たして15時にはバスの呼出しがあって、慌てて体温計とカードキーを返却し、もう一度日本の携帯電話番号を確認してから、思いの外あっさりとバスに乗る。シャトルバスには何人か外国人も乗車していた。また門天ホール脇を左に折れ、羽田へ向かう。よく知っている風景が、少し遠く感じられる。
携帯電話のアラームで気が付くと、現在地確認のアプリケーションOELが、「今ここ」というボタンを押して現在地を申告するよう促している。予め申告した場所から移動しないか確認しているのだ。

バスは最初と同じ第3ターミナル入口脇の駐車場に戻って、そこで解散となった。このあと11日間、自宅待機が続く。
家人によると、現在ドイツから帰国する人の多くに書類の不備が見つかり、強制的に6日間、政府施設での待機が課せられているらしい。6日間、殆ど歩くこともできず、外の空気も吸えず、誰の顔も見ず過ごすのは辛いだろう。
尤も、6日間待機は入国審査が厳格化される前の話かもしれない。領事館から届くメールによると、現在では成田、羽田で入国拒否と判断されると、搭乗地へ強制送還と書いてあった。日本政府は漸くインドも感染症流行地域に含める決定を下したそうだ。
新着メールを開くと、毎日届く、厚労省からの「健康状態確認のお願い」だった。
(4月30日 三軒茶屋にて)

製本かい摘みましては(162)

四釜裕子

中宮彰子が初めてのお産で男児を産んだ1008年、産後の里帰り中に女官の一人でもある紫式部を呼び出して、すでに話題となっていた「源氏物語」の豪華本を、夫・一条天皇への贈り物として作るのを命じたことが「紫式部日記」にある。〈色々の紙選り整へて、物語の本ども添へつつ、所々にふみ書き配る。かつは、綴ぢ集めしたたむるを役にて、明かし暮らす〉(山本淳子編『紫式部日記』)というのだが、期限付きのこれらの作業が、いったいどんなものだったのかと思うのだ。

山本淳子さんの講演録「紫式部、『源氏物語』への道 試練・覚醒・自己陶冶」(京都府「KYOあけぼのホームページ」http://www.pref.kyoto.jp/josei/documents/1242623531904.pdf)によると、〈清書は能書の人に頼んだわけです。原稿は能書の人が自分の所に持っておきつつ、書いたきれいな字の清書の紙が届く。そしてその分を綴じ集めて一冊の本にする。その本が幾つあったかはわかりません。ともあれ紫式部はこの係にあたり、これを仕事にして夜を明かし日を暮らす。彰子も一生懸命にこの仕事にあたっています。一枚の敷物の上で、冷たいのに産後2か月ぐらいの人が、朝から晩まで紫式部と差し向かいで仕事をしています〉。

いったい何人に清書を頼んだのか。先方に送るための原稿も紫式部が書いて用意したということか。その作業のうちに修正することもあっただろう。依頼主をおもんばかった加筆もあったか。清書されて次々戻ってくるものを、手元に残した原稿に照らし合わせて確認もしただろう。訂正はどうしたのだろう。やっぱり一から書き直させたのか。完成品を順番に揃え、二人で話をしながら手ずがら折ることもあったのだろうか。そしてどう綴じたのだろう。誰が製本したのだろう。仕上げた冊子は何冊なのか。

綴じ方について、橋口侯之介さんの「和本で見る日本書物史 第3回 書物の歴史 平安 物語と冊子本 『源氏物語』の原本に至るまで」(2014年成蹊大学文学研究科文献学共通講義 http://www.book-seishindo.jp/bunken2014/kyotu_2014A-03.pdf )に推理があった。

〈「とちあつめ」とあるのは「綴じ集め」ということである。綴じるのは糸などで縫うことをいい、糊で貼っていくのと微妙に違う。『枕草子』に「薄様(うすよう)の草子。村濃(むらご)のいとしてをかしくとちたる」という一節がある。「薄い紙に書いた草子の村濃の糸(濃い色と薄い色で染めた糸)で優美に綴じたもの」ということで、糸を使って綴じている。書かれた紙を丁寧に折り重ねて、そのノドのところをきれいな糸で綴じる方法で、結び綴(むすびとじ)という(いまはこれを大和綴という)。これは技術的に容易なので個人でもできる製本方法である。表紙や糸にセンスのよい選択をすれば、美しい本ができあがる。『紫式部日記』に出ててくる草子はこの方法ではないかと私は想像している。糊は虫を寄せ付けて虫害のもとになるので避けたかった。組糸にすると丈夫さでは糊以上、糸が切れたら取り換えればよい。紫式部にできた製本はこれだろう〉。

彰子の前でも紫式部が手ずから製本したのではないか、ということか。

改めて考えると、薄い幾重の美しい紙を折り重ねて配色よく紐できっちり結ぶのは、つくづく着物の着付けに似ている。でもいかに紙や糸が貴重だったとはいえ大和綴じはあまりにシンプルだし、綴じ糸をプチンと切ればばらばらになるから仮留め的で、雅なる宮廷世界には似つかわしくないように感じてしまう。山本信吉さんの『古典籍が語る』(八木書店)を読んでみる。

〈したがって、私は大和綴という装幀は、綴じ穴が上部に二つ下部に二つの計四穴で、上部二穴、下部二穴を色糸で織った平織、あるいは組紐で綴じた装幀法を指すものであること、しかしこの装幀法は当初からのものではなく、粘葉装本が糊り離れをした場合に応急手当てとして行われた日本的な綴じ方と考えていた〉。
しかし、冷泉家の時雨亭文庫にある古写本に大和綴装が多いのを見た山本さんは、〈製本にさいして始めから綴じ穴を上二つ、下二つとあけて、それぞれを色糸で綴じた装幀法が、平安時代後期に日本的装幀法として成立していたことは確かであると思われる。この装幀法の特色は『源氏物語』のなかで草子の綴じ糸の鮮やかさを愛でている源氏の姿にみられるように、本の料紙と綴じ糸の変化の妙を求めたことにあったのであろう。しかし、その成立の原因は粘葉装本の糊り離れした料紙を応急処理のため糸で綴じたことに起源があったことは間違いないと思っている〉。

仮留めとして始まったにせよ、糊ではなく糸を使った新しさにいち早く反応したのも、清少納言や紫式部だったということか。

ここからはなんの根拠もなくて妄想の域を出ないけど、糊でいちいち貼る粘葉装よりも、大和綴の最後にぴしっと糸で締めるというしぐさというのも紫式部好みな気がする。それで「源氏物語」も大和綴で仕上げようとしていたとして、このときの二人の作業を見た彰子の兄・道長が「お産直後でしかも寒いのになんでこんなことしてるの?」とか言いながら、いろいろな高級紙や墨、筆、硯を差し入れしている。しかし大和綴の肝になるであろう糸や紐はそこに含まれておらず、さすがの道長も手が出ないのか、出せないのか、出させないのか。いずれにしても、天皇に捧げる超豪華冊子を最後に締め上げる紐をどうするかの相談は、密室で女二人というのがよく似合う。

山本淳子さんは「源氏物語」の新本作りについて、一条天皇が源氏物語を読んでいることを聞き知った中宮が、一条天皇へのプレゼントと考えたと思っていたそうだが、ある研究者が「これは彼を引き寄せるためのものだ」と言ったのはそのとおりだとして、〈彼を惹きつけることができる源氏物語の新しい部分「お読みになったことのない部分を紫式部に書かせました。どうぞ、読みに来てください。」というわけです〉とも話している(前出講演録より)。単に制作を指示するのではなくて、作者を身近に独占して作業にあたらせたのはそういうわけか。彰子はたった一人で最初の読者になりたかったのだろうし、その物語を綴じて最後に特別な紐で作者と二人で締め上げるというのは、必要な儀式だったようにも思えてくる。

水牛的読書日記(5)ぱくきょんみ『ひとりで行け』について

アサノタカオ

 日曜日の電車を乗り継いで、西荻窪の書店・忘日舎へ。コロナ禍のなかで引きこもる日々がつづいているが、ひさしぶりに訪ねた店内には、新刊や古書の詩集を集めた棚が新設されていた。ここ数年、店主がひとり、ふたりで営むいわゆる「独立系書店」をめぐっていて気づいたことだが、「いまこそ詩のことばを届けたい」という思いを持つ本屋さんが少しずつ増えていると思う。
 忘日舎のカウンターには、一冊の小さな、まあたらしい詩集が置いてあり、店主の伊藤幸太さんが「すばらしい本ですよね」とそっと差し出してきた。
 ぱくきょんみさんの第五詩集『ひとりで行け』(栗売社)。手に取った瞬間、余計なもののない、それでいて必要なすべてが揃っている本だと直感した。画家の高橋千尋さんの装画を用いたデザイン(装幀は中山雄一朗さん)も、詩人の井坂洋子さんのメッセージが掲載された栞も、すばらしい。そしてもちろん、ぱくさんの詩も。
 
 ホンジャ カラ
 ホンジャ カラゲ
 
 ひとりで行け
 ひとりで行くんだ
 
 母をふり返り、ふり返り、歩く。

 ——ぱくきょんみ「ひとりで行け」より

 詩集の最後には、「済州島へ——跋に代えて」と題された文章が収められ、在日一世の父とともに、父の故郷である島を歩いた経験がつづられている。
 昨年、韓国・済州島の詩人ホ・ヨンソンの『海女たち』の日本語版(姜信子・趙倫子訳、新泉社)が刊行され、この詩集は済州四・三虐殺事件など、動乱を生きのびた島の女性たちへの聞き書きをもとに、彼女らの声にならなかった声をつたえる内容だった。
 ぱくさんの『ひとりで行け』は、『海女たち』へのアンサーソング的な詩集とも言えるだろうか。巻頭に置かれた表題作は、四・三の動乱を逃れ、海女だった母と生き別れ、日本行きを決意した在日の父の個人史が背景にあることがうかがわれ、読んでいると胸がふさがる思いにおそわれる。
 しかし同時に、そこでは、特定の事件や出来事をめぐる個別的な経験を超える何かが語られていると思う。
 人間の歴史の中で、「何から逃げようとしていたのか、わかっていた」という痛ましい記憶を押し殺すようにして生きなければならなかった、そして逃げ続けなければならなかったすべての無名の人たちのため息、歯軋りのような何か。
 
 「何から逃げようとしていたのか、わかっていた。いくつもの海を渡ってきた。また、こうして海を渡って、ここから逃げようとしている。」

 ——ぱくきょんみ「海と ここと」より

 「ことばにしたら真実を隠すことになるのかもしれない」とぱくさんは慎重に語る。英雄主義的な大きな物語からこぼれおち、漂流する小さな声のかけらたちを拾い集めるようにして編まれた詩を読みながら、いま、自分自身の歴史意識がはげしく揺さぶられているのを感じている。内側からこみあげる、この名づけがたい不安で不穏な気持ちは、いったいなんだろう。

 わたしたち
 何から
 逃げようと
 してきたのでしょうか

 わたし 足を挫いても 歩いてきました
 あなた 待ってくれませんでした
 わたし かみしだいた 気持ちになりました
 あなた 待ってくれませんでした
 わたし 手のひらからこぼれる 水のようでした
 あなた 待ってくれませんでした

 ——ぱくきょんみ「ひかり」より

シャルル猫(ボードレールのLe Chat から出発して)

管啓次郎

ボードレールが生まれて200年
彼が生まれたのは1821年4月9日
それでその日は花祭りに1日おくれて
砂糖黍の茶色い砂糖を入れたマテ茶を飲みながら
『邪悪の花々』を読んだ
おりしもベランダにやってきた
茶虎色のどこかの猫にむかって
「猫」をその場で訳して聞かせたんだ
その猫の名前は知らないが
近所のどこかで飼われているにちがいない
人なつこく
物に動じない
いい猫だ
「おいで、かわいい猫よ、愛するぼくの心臓の上に」
ぼくに愛はあまりないが
受け入れることも愛の一形態だとしよう
胸に乗られたら重いな
「足のつめは引っ込めて
金属と瑪瑙が混ざった
おまえのきれいな目にぼくを跳びこませてくれ」
突然シャルルらしくなるのは
メタリックな輝きと瑪瑙を目に見るせいか
2つの名詞をもって猫の目を形容しなさい
古墨と琥珀ではどうだろう
「ぼくの指が気ままに
おまえの頭としなやかな胴を撫でるとき
おまえのびりびりする体にふれて
ぼくの手がよろこびに酔うとき」
猫の体が電気的なのは自明
経験的にいってもそうだ
ここではélastique とélectriqueが作る
呼応にシャルルがいる
そのどちらにもelle(彼女)が
半ば姿を見せている
それで
「ぼくはぼくの女を心に描く。彼女のまなざしは
かわいい獣よ、おまえのそれとおなじく
深く、つめたく、短剣のように切る、裂く」
深く(profond)
つめたく(froid)
切る(coupe)
裂く(fend)
ああ、シャルルが全開だね
こうしてくりかえされる f の音は
呼気をともなわないかぎり意味をなさない
つまりf が生じるたび
存在は破れる
そんな f の反復を
あらかじめ断ち切っている(coupe)のも
シャルルの天才か
猫よ、わかるかい、この coupe
にはcou すなわち首が潜んでいるよ
予告された斬首のように
「そして、爪先から頭まで
繊細な空気、危険な香りが
おまえの茶色い体のまわりを漂うんだ」
シャルルは猫に女と共通するものを見たが
そんな擬人法は一種の洒落にすぎない
じつは猫そのもののほうが
はるかに魅惑的だ
この場の空気を猫の
のびやかな体が切り抜いてゆく
猫にかぐわしい匂いはないが
精妙な動き、微細な振動が
まるで香りのように感じられるのはよくわかる
それは存在に特有な危険の香り
寝そべる茶虎の体にふれると
茶虎はごろごろとのどを鳴らして答える
春の日向であたたまって
猫はぐんにゃりとやわらかい
猫は人ではない
人を意に介さない
詩を読まない
詩を考えない
でも詩は猫の存在を
一面の存在風景から切り抜いて見せる
シャルルが呼びかけたあの猫は
ほぼ2世紀を超えて
寝そべるぼくの胸に乗ってくる

1980年代のジャカルタで生まれたブドヨ~『キロノ・ラティ』

冨岡三智

4月29日は世界ダンスの日である。インドネシアのタマン・ミニ(テーマパーク)でも毎年舞踊公演が行われてきたが、今年はコロナ禍の折柄、各団体の公演映像が配信された。スリスティヨ・ティルトクスモ氏の2作品:スリンピ『チャトゥル・サゴトロ』とブドヨ『キロノ・ラティ』も、タマン・ミニに所属する舞踊団により上演された。前者については『水牛』2021年1月号に書いたので、今回は後者の作品を本人へのインタビューに基づいて紹介しよう。

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ブドヨ『キロノ・ラティKirono Ratih』はスリスティヨ・ティルトクスモが1982年に振り付けたブドヨ作品(9人の女性による舞踊)である。初演時は『レンゴ・プスピト Renggo Puspito』という題だったが、後に『キロノ・ラティ』と改題された(後述)。弓を射る鍛錬をする女性たちを描くことを通して、自立や信念のために戦う女性の強さの中にある美しさを描いている。弓は武器であり、また素早く的確に伝わる思いや感情のメタファとなっている。

●振付家
1953年スラカルタ生まれ。幼少より複数のスラカルタ宮廷舞踊家に師事。1969~1971年『ラマヤナ・バレエ』で2代目ラーマ王子をつとめ、その間、全国ラマヤナ・フェスティバル(1970年)、国際ラマヤナ・フェスティバル(1971年)に出演。1971年にジャカルタに移り、舞踊家、振付家として活躍。スラカルタ宮廷のスリンピやブドヨを多く伝承する他、主な振付作品にはスリンピ『チャトゥル・サゴトロ』(1973年)、ブドヨ『キロノ・ラティ』(1982年)、ブドヨ『スルヨスミラッ』(1990年)。現代舞踊作品『パンジ・スプ―』(1993年)などがある。

●音楽と振付
この作品では「ボンダン・キナンティ」という曲を使用する。ロカナンタ社からマンクヌガラン王宮で録音された曲のカセットが市販されているが、氏はそのカセットを聴いていた時、「ボンダン・キナンティ」の曲からテンポが速くなって「ラドラン・スマン」に移行する部分でインスピレーションを得て、この作品を振り付けたという。したがって、曲の進行はこのカセット通りなのだが、テンポが速くなるとジョグジャカルタ宮廷の舞踊のようにスネアドラムとトランペットの音を追加し、踊り手が勇壮に弓を構え何度も左右を睥睨(へいげい)するシーンの表現としたところに、この振付家の独自性が現れている。1970年代以降、スラカルタの芸術大学では新しい宮廷舞踊作品(スリンピやブドヨ)がいくつも創られたが、スネアドラムやトランペットを取り入れたものはないようだ。氏は母親がジョグジャカルタ出身であることから、自身のルーツの表現として意識的に取り入れたという。

この作品では踊り手は弓を手に登場する。スリンピやブドヨの振付には必ず戦いのシーンがあるものの、実際に武器を手に持つ演目は少なく、戦いは抽象的に描かれる。しかし、本作に限らず氏の作品では武器を実際に所持し(スリンピ『チャトゥル・サゴトロ』ではダダップ、ブドヨ『スルヨスミラッ』ではピストル)、古典的な振付よりも激しく戦い、リアルさを感じさせるのが特徴である。

これらの武器の中でなぜ弓を選んだのかとたずねたところ、特に理由はないが、弓は自分自身の一部のように感じているという。氏自身、『ラマヤナ・バレエ』のラーマ王子や古典舞踊のクスモウィチトロ(演目『サンチョヨ×クスモウィチトロ』)の名手として有名だが、これらのキャラクターはいずれも弓を持つ。そういえば、現代舞踊として振り付けた『パンジ・スプ―』でも、氏は弓を手にしていた。

本作で使う弓には矢がセットされており、スリンピやブドヨ専用のデザインである、この場合、踊り手は箙(えびら、矢を入れる筒)を肩に背負わない。このデザインの弓を持つスラカルタ宮廷の舞踊はスリンピの『ロボン』か『グロンドンプリン』しかないが、氏はこれらの舞踊は見たことはないという。では、弓の扱いは何を参考にしたのだろうかと思っていたところ、Tyra Kleenというスウェーデン人画家が1920年代に描いたスラカルタ宮廷の踊り子の絵画を参考に、イメージを膨らませたとのことだった。

本作の前半では、スリンピ『ゴンドクスモ』や『タメンギト』の動きが多く取り入れられている。テンポが速くなると、踊り手はまず一列横隊になって弓を構え、場所移動して次は飛行機のようなフォーメーションで一方向を向いて弓を肩の高さに掲げ、再び移動して今度は弓を放つ(といっても矢はセットされているので、飛んでいかない)。テンポが速くなると上述したようにスネアドラムとトランペットの音が入り、踊り手はその音に合わせて軍隊のように力強く頭を左右に振り、裾を蹴る。そのシーンは非常に強い印象を与える。弓を射るや一転してシルップ(鎮火の意。音楽が静かになる)となり、外側にいる5人が座り、中央にいた踊り手4人が立って踊る。シルップのシーンの動きはスリンピ『スカルセ』から取られている。シルップが終わると踊り手は最初の位置に戻って曲が終わる。その後扇を取り出し、それを扱いながら退場する。『チャトル・サゴトロ』でも最後に扇を取り出すが、これはフェミニンな雰囲気を取り戻す効果を狙っている。このように、氏はダイナミクスの変化をはっきりと打ち出すことを重視している。

本作は初演時は約25分の作品だったが、その後様々な機会で上演できるように本人の手で短縮され、現在は約15分の作品となっている。また、次で述べるように初演時はファッションショーとしての上演で、舞台は狭いT字状のキャットウォークだったため、フォーメーションは現在とは異なっていた。なお、1985年からは大統領宮殿で国賓を迎えての行事で上演されるようになった。

●初演とイワン・ティルタ
この作品が初演されたのは、1982年12月14日、ジャカルタのマンダリン・ホテルである。雑誌社のフェミナ、バティック(ジャワ更紗)作家のイワン・ティルタ、化粧品会社のレブロンがスカル・ムラティ財団のために行ったチャリティショーの一環であり、自身のデザインしたバティックをプロモーションすべく、イワン・ティルタがスリスティヨにブドヨ作品を依頼したのである。1970年代末頃からイワン・ティルタはジャカルタにおけるジャワ舞踊公演のパトロンとして活躍するようになっていた。スリスティヨはこの公演の前に何度か共同したことがあり、この後約30数年にわたり彼と共同することになる。初演時の衣装はイワン・ティルタがデザインしたドドッ・アグン(上半身に大きな布を巻き付ける着方)で、バタッ(最重要の踊り手)はガガッ・セトgagak setoと呼ばれるモチーフの、それ以外の8人はスメンsemenと呼ばれるモチーフ(ジョグジャカルタ王宮で結婚式に用いられる柄)のバティックのドドッ・アグンを着用した。しかし、それ以降はドドッ・アグンの場合もあればビロードの上着に冠を被ることもあり、上演の場に応じて自由に選ばれている。

●初演とムルティア王女と作品名
実はこの初演時にバタッを務めたのが、当時22歳だったスラカルタ王家のムルティア王女である。スリスティヨは元々スラカルタ王家の踊り手であり、王女のきょうだいたちと懇意だった。当時、ムルティア王女はジャカルタの国会図書館で研修を受けており、それを知ったスリスティヨが自身の教える舞踊団の練習に参加するよう誘ったのである。その際に王女からスリンピ『スカルセ』を習い、それを『キロノ・ラティ』の振付に生かしたという。このチャリティーショーの様子を取材した雑誌フェミナの記事には、王女にとってこの上演が王宮外で踊った最初であると記されている。

当初、スリスティヨは作品の題を「レンゴ・プスピト(レンゴの花)」としていた。女性たちを花にたとえたのである。しかし上演後、イワン・ティルタから題がバティックのモチーフ名と同じで、舞踊作品名としてはふさわしくないと言われ、改題することにした。そこで、大学でジャワ文学を専攻していたムルティア王女に命名を依頼し、その結果王女が考案した名が『キロノ・ラティ(月光の意)』だった。バティックのモチーフ名を舞踊に使うのがなぜふさわしくないのか、スリスティヨはその理由を聞いていないそうだが、おそらく、バティック作家であるイワン・ティルタにとっては、舞踊のイメージとバティックのモチーフのイメージにずれがあったのではないかと想像する。

なお、このような経緯があるため、スラカルタではブドヨ『キロノ・ラティ』の作者がムルティア王女だと信じる人もいるが、実際はスリスティヨ氏の作品である。とはいえ、王女がこの作品の成立に影響を与えたことも事実である。

むもーままめ(6)自動筆記の巻

工藤あかね

パソコンに向かい外から聞こえる車の音はうるさく集中すると聞こえなくなるのあらどうしてだろうと思うけれど隣の部屋でオンライン授業をする声が聞こえて人の歌声が聞こえて訓練されていない声の美しさに聞き惚れたら空が青いだろうと思って外を見たら雲が薄くしか浮かんでいなくてつまんないなもっと強烈なやつが欲しいと思ってぼんやりとしたものより極彩色のアートが好きで渋谷の雑踏のモニターを見たら心が落ち着かなくてなにがビビッドかわからないところに冷麺が急に食べたい陽気だと言うことはやっぱり季節はめぐってきてなぜ冷やし中華ではなくて冷麺なのかと思うと私にも選択肢が増えたなと思って買い物かごの中身をみたら野菜がたくさんあったから野の植物に触れたい動物と触れ合いたいけれど水族館はつるつるしているからもふもふした匂いのするところに行きたいけれど電車ではなくてカゴに入れて箱に入れられてAmazonで知らない人の玄関先に届けられたいそうしたら開けた人が驚いてクレオパトラみたいだねって言ってなんで絨毯入っていないのこれじゃびっくり箱だねと言ってそれではかなり格が落ちるねベランダのジョウロがこっちむいていて水がはいっていないのに水なんかいつでも出してやるぜと言う顔しているのがなんだか生意気で白いジョウロの向きを変えたいけれど窓を開けるのも面倒くさいから念だけで方向変わらないかなととしばらく念を送ったけれど動かなくて私も力が落ちたな緑の葉っぱはこっちむくと太陽のパワーもらえないから向こうむいていていいよがんばれ遠くの背高のっぽのクレーンは今日も働いているなんのために誰のために桜の木の上に生えてる赤いカニの足空に飛んでるやじるしは右から左へあれは宇宙からのメッセージが届いているの灰色だから白い背景には目立ちにくい路地の影なら影は青色と赤色でネオンの名残が朝には消えてもうそんな街はしばらくないからかわりに地面に座って飲み明かした若者の気配が残る空き缶と日の出まで付き合わされてドクターペッパー飲んでいた若者の本当は水でも良かったのに薬草が手に入らなかったから河原に行って片っ端からよもぎを摘んで魔女のやりかたを想像して鍋で煮てみる生き物を入れるのはかわいそうで嫌だから自分の指をお湯にひたしてどうにかならないか企んだけれどやっぱりなんの魔力もなかった人間だから知らないでいいことたくさんあるしできなくていいことたくさんあるしそのほうがもしかしたら神様から見て可愛げがあるかもしれないのだからできないことを誇りに思う今日はいちにち窓際で昼寝をしたいし気が向いたらぼんやり本を読んで寝っころがって天気がいいのに洗濯もしないで怠惰の権化になりたい

新・エリック・サティ作品集ができるまで(3)

服部玲治

軌道修正。間髪入れず。
いささか壮大な「コロムビア×高橋悠治プロジェクト」の提案は、悠治さんのひとことで取り下げとなったものの、それがために、せっかく気持ちが向いてくれているサティすら成就しなかったら目も当てられぬ。
それまでの流れは無かったかのようにふるまい、本題のサティを切りだす。
現在80曲ほど遺されているサティの作品すべてを記したリストを差しだし検討を始めた。
リストには、録音を希望する曲にしるしを付けてあった。当初は、旧録音には収録されていない曲を中心に構成することも考えたが、やはり、王道的なレパートリーもバランスよく入れて話題性を喚起したい。
「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」、「ノクターン」などをメインに据えつつ、そこに旧録音には入ってなかった「星たちの息子」「サラバンド」や「愛撫」「メデューサの罠」などを組み合わせて丸をふっていった。
そのリストを一瞥した悠治さん、わたしの希望する渾身の丸はそこそこに、こうおっしゃる。
「新たに最近出版された作品を含め、子供のために作曲した作品を中心にだったら」。
サティはいまなお新たに発見される曲があり、サティブームと言われていた70~80年代にさまざまなピアニストによって録音された全集には収録されていない曲がいくつもある。
以前の録音時にはこの世に存在が知られてなかった「新・子供の音楽集」と「コ・クォの子どもの頃」のことを悠治さんは教えてくださった。
なるほど、とても面白い。元来のサティ好きとしての心中はそうつぶやいている。ただ、もうひとりの音盤プロデューサーとしての自分とせめぎあう。サティといえば、のジムノペディのような王道曲と組み合わせるならばもちろん素敵だが、「子供のための作品集」というフレームだと、押しがいささか弱くなるやもしれぬ。ついさっき、「高橋悠治×コロムビアプロジェクト」で風呂敷をひろげた際には、シュールホフやらヴィシュネグラツスキやら、王道とは言えない作曲家の提案をした人間が何をかいわんや、である。
とはいえ、ひとつのポジティヴな提案が仙人、否、悠治さんから提案されたことがなにより嬉しく、その日はいただいたコンセプトを満場一致の面持ちで歓迎したように思う。
 
その後、悠治さんとのコンタクトは、ほかならぬこちらの事情でしばらく途絶えてしまった。わたしが担当する別の音楽家、冨田勲氏が逝去し、その追悼公演の制作に追われてしまったのだ。気づけばもう年末。お詫びをしつつメールをすると、翌朝には返信が。
「何を入れるか もうすこし考えてから と思っています/いままで出た曲目だと 定番のジムノペディ それに入れてなかったサラバンドくらいですか」
定番のジムノペディ、という文字に目が釘付けとなった。はて、「子供のための作品集」は?

パンとサーカス

北村周一

圧うすき線描のごともレシートの文字は出で来て酒量を告げる

足るを知れと言われて少しかんがえてコップをきょうはさかずきにする

畳み掛けてきたる正論まえにして声に呟くそれはぼくのコップだ

歩みつつ憤慨しつつそを口に出しつつ老いてゆくんだろうな

へらへらと缶の蓋など撓ませて凹みいるなり ぎんいろの顔

朝起きて夕の献立思案する吉本隆明氏的煩悩おもゆ

おおいなる表面張力濡れた手がいできて指に〈おいだき〉を押す

駅前で目と目が合えばてのひらにテュシューいただくECCの

町田駅連絡通路に躓いて泳ぐ左右の自分の手足

旧陸軍の射撃場跡真直ぐな県立相模原公園に遊ぶ

音なれど泥いろにしてこんなにも近くを飛んでゆくヘリコプター

はたはたとはためくもののいきおいに絆されにつつ投票を終える

自治会に自衛隊にといざなえる横断幕は長さが同じ

公民と自治の名のもと粛々と刃物研ぎ師が刃物研ぎおり

戦争へ行ったことある父さんの話はふんとねむくなるだよ

戦争に行かず仕舞いの叔父さんの話はいつも軍歌で終わる

いつのまに家の南に新幹線北に東名 五輪の前後

絵葉書や切手とともに抽斗へ仕舞いわすれし東京五輪

TOKYOに五輪の来ること心から祝福したいとテレビは言うも

お笑いに出るを目指してがんばったと五輪選手が目かがやかせいう

原子力ムラ感染症ムラ電波ムラ五輪音頭に酔い痴れしわれら

パレスチナの記憶喪失

さとうまき

4月から、大学で少し教えさせていただくことになった。タイトルは、地球地域と中東という壮大なテーマである。

で、まずは、中東の本質的な問題はパレスチナだ!と気合いを入れてみるが、なんせ、20年前のパレスチナの事なんかすっかり忘れてしまった。というか僕はイスラエルに入国拒否をされてしまった2002年にすべてパレスチナを封印してしまったのだ。だってもう二度といけない国なので、とっととそんなことは忘れるのがいいに決まっている。

かつて、パレスチナとヨルダンを行き来してた時、タクシーの運転手がパレスチナ難民と聞けば、僕は得意げに、「いや、俺さー、エルサレムから来たんだよ。あんたのふるさとどこ?」なんて聞いてパレスチナ難民に受けようとしていた。

「あの、パレスチナっていうのがいかに素晴らしいかっていうのは、あんたらが言うもんでなくて、僕たち、難民として生まれ、パレスチナを見ることのないものが言うんだよ。そして、そのパレスチナっていうのは、今はどうなっているかっていうと、イスラエルが破壊して自然公園なんかにして、僕たちが持っている鍵で開ける門なんていうのはもう存在しなくて、かすかに石が残っているだけなんだ。さもなければ、ユダヤ人が接収してとっくの昔に立派なビルを建てちゃっているってことぐらい知しってるさ。それでもそこが僕らのパラダイスっていう意味、分かんないかな、君には。」
そんなまなざしを奥にひそめながらも、ドライバーは、「そうかい、そうかい!パレスチナの解放のために戦ってありがとう!」とお世辞を言ってくれた。

2002年になると、イスラエルは難民キャンプやらをやりたい放題に攻撃した。で、そういうのを外に出されるのは嫌がり、ジャーナリストや、パレスチナシンパの人間は極力入国を拒否しだしたのである。イスラエルから入国拒否されるのは、勲章みたいなものだった。同僚たちは、入国拒否のスタンプをパスポートに押されると飛行場の中にある特別な部屋で過ごして、乗ってきた飛行機にまた乗せられて戻される。

そこの部屋には、Free Palestine!とか、ゲバラの似顔絵が書いてあったり、かなりクールだったのだ。井下医師を送り込んだ時、彼はクソまじめに「わしは、攻撃を受けているパレスチナ人の治療のためにやってきました。」「パレスチナ?どこよ。それ?」こうなるとイスラエルの入国審査官の神経を逆なでしてしまい、
「そんな国はない!あんた入国拒否ね!」と一発退場。

井下医師にとっては、誇り高い退場だった。壁にしっかり、落書きをしてきたと自慢げに話していたが、彼が何を書いたと言っていたかは全く覚えていない。

井下医師を説得し、パスポートを作り直させて、「いいですか!あなたは、医者ではなく尺八奏者です。病んだユダヤ人の心を鎮めるために、コンサートをします、といってください。むきにならないように。まず、入国できなければ、僕たちが、パレスチナ人の命を救うという計画がだいなしですよ。いいですか!」

ユダヤ人は、実は尺八に弱く今度はいとも簡単に入国できた。実際に、井下が尺八を見せると興味津々だ。吹いてみようものなら、うっとりして、尊敬の念まで抱く始末。「モサドなんてちょろいもんだ」と僕らは調子に乗った。

続いて、井下医師の助手を務める看護師を送らねばならない。彼女は尺八やその手の音楽は全くダメ。ならばと普通のギャルになりきってもらい、テルアビブにすむ日本人女性ににわかに友人になってもらって、遊びに来ました作戦にした。井下とは一切無関係。迎えにも行かず、エルサレムで落ち合う手はずだった。彼女が入国審査を受け、テルアビブにすむ日本人女性のことを詳しく説明した。

ところが、どういう言うわけか、井下医師が尺八片手に飛行場に現れ、「わしは、尺八奏者じゃ!秘書を迎えに来たのじゃが、まだ出てこないのでどうしたものか」といってきたというのだ。そこで、職員が怪しげな尺八オヤジを尋問しようとしたところ井下医師も我に戻り、このままだと自分も強制送還されそうだと悟り、走って逃げてしまったというのだ。

こうなってくると怪しい。イスラエル得意の拷問が待ち受けていた。
「おまえ、普通のギャルだといいながら、怪しい親父が飛行場に向かいに来ていたぞ。尺八奏者とのつながりは何だ?」
「あいつはなにものだ?テロリストか?」
「し、しりません。ただの変質者かと」
「まあいい、いずれにしてもあなたは、あやしいので入国はできません」
ということで彼女も、結局、収容施設に入れられ、とんできた飛行機に載せられて帰ることになった。

同じ部屋には、妊娠中のコロンビア人の女性がいた。なんでもユダヤ人の彼氏が麻薬の密売に手を染めて、逮捕され、国外追放されることになったらしい。彼女は、パレスチナ抵抗運動の象徴となったカフィーヤをコロンビア人にプレゼントし、コロンビア人はお返しにポンチョをくれたそうだ。

2002年といえばちょうどワールドカップの日韓大会の真っ最中で、日本VSチェニジア戦をイスラエルの警察は楽しそうに見ていたらしい。

次の作戦は、看護師にもパスポートを作り替えさせて、正攻法で行くことにした。僕は直前まで、UN関連の仕事でアメリカのNGOで働いていたのでイスラエルから発給されたビザが残っていた。期限はきれていたが、テロリストとは思われないだろう。イスラエルはアメリカに弱いから、アメリカのNGOにも推薦状を書いてもらった。政治的には中立で、ともかく人道支援をしに行くという真っ向勝負を選んだ。しかも今回は陸路でヨルダンからアレンビー橋を超えることにした。陸路の場合は飛行機のハイジャックとか空港での爆破とかそういうのがないので、審査は楽だろうという読みだった。審査官も緊張感なく、僕は無事に許可が出た。しかし、看護師のチェックになると尋問するまでもなくコンピューターにすでにデーターが入っていたらしく、「この娘はダメ。」「怪しい娘を入国させようとするあんたもダメね」というわけで、「さあ、かえってちょうだい」という。うん? どうやって?
「その辺んにタクシーいるでしょ」
「あの、どこかの施設に入れられるのでは?」せめて落書きくらいさせてほしいのだけど。結局僕たちを連れてきてくれたのと同じタクシーが止まっていたので、しぶしぶそれに乗せられた。

それで、僕のパレスチナでのお話はおしまい。あまりにもあっけなく、扉は閉じられ、二度とイスラエル、いや、パレスチナの地を踏むことはなかった。そして、僕は、悔しさのあまり、パレスチナのすべてを忘れることにした。銀行にお預けてあってお金。買ったばかりのコーヒーカップ。

さあ、あれから19年がたった。生徒たちを教えるので、なんでもいいから思い出さなきゃ。だって、5年もそこで暮らしたんでしょう?

朝日楼

仲宗根浩

三ヶ月弱の歯の治療が終わる。削られ、貼られ、埋められ、磨かれると、半年後またと言われる。この前はそう言われてずるずると六年経っていた。
四月に入り清明の季節になり一番過ごしやすい時が来る。台風で天気が悪くなったので墓掃除の日を変更して行く。まん延防止なんとかで今年の清明も県外組は遠慮してもらうことにした。宮古の旧暦一月十六日も人が集まらないようにこじんまりとなり、毎年ニュースになる石垣の高校受験時、お昼を家族一緒に学校内で運動会のように食べるニュースもなかった。市役所からワクチン接種券が母親のもとに届く。後期高齢者は早い。中身を見ると予約開始がいつからか記載がない。問い合わせセンターに電話をして確かめる。電話での対応はネット予約へと誘導するかんじだ。九十を過ぎた年齢、パソコンもスマホもないので、代理でネット予約を頼まれているのではなからそのつもりではあるが。接種券、問診表が入った封書は持って帰る。

最近、購入したCD類、すぐ開封して聴くことはなくなってきた。今、専用の再生装置が無いのと、根っからの怠け癖。年末に買ったものを今頃車に乗るときに聴く。ジョニ・ミッチェルの「朝日のあたる家」から始まるアーカイヴ音源五枚組はだんだんとギターに変則チューニングを取り入れ、コードも独特なものになり変化していき、中学生の頃に初めて耳にしたジョニ・ミッチェルになる。でも歌声は二十歳ですでに完成されている。次はサム・クックのボックスセットが待っている。その上サブスクリプション、というのに手を染めてしまった。昨年トータルで半年くらい無料で試してみて必要ないな、と思っていたけど、二年間百円値引きしますよ、という文面に引っかかった。

今の感染症蔓延の中、憲法があるため強力な外出禁止のような対策はできない、とテレビで識者と言われる人や政治、行政にたずさわる人が言っているのを見ると、散々憲法解釈を変えて通した法律の数々はなんなんだ、と。解釈変更あんなに得意だったのに。

仙台ネイティブのつぶやき(61)ちくちく針仕事

西大立目祥子

 友人たちもほとんど親が死んで、そろそろ自分の終活もという年齢にさしかかっているので、たまに会うと、モノを捨てるとか、結局困るのは服と本だとか、という話になる。一方で、企業を定年退職した独り身の友人は、マンションをリフォームしてホテルのようなすっきりした部屋に暮らし、荷物整理は集中してやらないとね、とあっさりいってのける。でもねー、そうはいってもねー。私はお菓子の空き箱とか空き瓶なんかも捨てられないタチである。

 モノの絶対量を減らさないとあとあと大変というのはわかるけれど、ガンガン捨てまくるあの「断捨離」っていったい何なんだろうか。昨年のコロナ禍での非常事態宣言のときは、みんながモノの整理に励んだせいか、たしか仙台市のごみ焼却場も満杯となり、処理は限界といっていたような。つまり、やっているのは大量廃棄じゃないか。断捨離を提唱する女性が、衣服には旬があるので自分は1シーズンごとに服を買い換えると書いていたのを読んで、こういう考えとは絶対に相容れないなと感じた。数ヶ月で処分ということは、モノへの愛着はない、ということなのだろうか。私は衣服は皮膚の上にまとう、もっとも身体に近いものであると思っているので、それを数ヶ月でゴミにすることには根本的な疑問が湧く。モノと人の関係って、そういうものじゃないでしょ。

 というわけで、ということでもないのだけれど、いま私がいちばんやりたいと思っていること、それは「繕いもの」です。このところ遠ざかっていた糸と針を使って、あれこれ直したい。親指のところに穴の空いた靴下とか、使い古して真ん中がすりきれた暖簾とか、ところどころ虫に食われてしまったセーターだとかを、直して蘇らせたいなあ。そう思っていたら、友だちがダーニング用の木製のダーニングマシュルームをプレゼントしてくれた。ダーニングというのは、ヨーロッパの伝統的な布やニットの修繕方法で、穴の補修がしやすいように裏からキノコ型の道具を当てて使う。昔、靴下の穴を繕うのに電球の玉を使ったと聞くけれど、それと同じ。こういうモノも、現代の消費者に合わせて手芸メーカーがつぎつぎと商品化している。それにも疑問は感じるが、友だちがくれたのは、知り合いの木工作家、筑前賢太さんがろくろで挽いてくれたものだ。

 さっそく母の緑色の虫食いセーターにダーニングを試みた。安価なものだったけれどきれいなグリーンでウール100%だから、捨てるのは惜しい。穴にキノコを当て、手持ちのオレンジ色とクリーム色の刺繍糸を3本どりにして、ちくちくと穴をふさいだ。祖母や母がやっていた繕いは、緑の布なら緑の糸を使ってなるべく目立たないように仕上げるものだったけれど、本やネットで見るダーニングはあえて目立つ色の糸を用いて、「ここ直しましたよ」と宣言でもするように修復している。

 胸元にオレンジ色のテンテン模様のアクセントができて完了。ま、いいか。なかなか楽しいので、靴下のダーニングもやってみる。こちらはグレーの地に青とオレンジの模様なので、足先の穴をこの2色の糸でふさいだ。マイナスをゼロに戻す繕いとは少し違って、きれいな色の糸を通していると、小さくても新たなものを創り出す楽しみみたいなものが感じられてくる。こうやって、直して直して。傷んだら、また刺して。手をかける中で、ちっぽけな靴下やどうということもないセーターが息を吹き返して、再び着用ができるものに蘇ってくるのは、ささやかながらよろこびだ。

 東北には「ぼろ」とよばれてきた継ぎ接ぎの衣服がある。擦り切れたところに布を当てざくざく縫って、さらに傷めばまた布を重ねて縫う。もう原型がわからないほどの継ぎ接ぎだらけの夜着や野良着だ。30年くらい前、佐渡の民俗資料館で見た当て布だらけの漁民の手袋が、私のぼろとの出会いだったのだけれど、ごわごわの布の塊のようなミトンは、どこかおだやかで平穏なものと思い込んでいた女の手仕事のイメージを吹き飛ばした。

 それは貧しさの中の工夫であり、生活の一つのあたりまえの行為なんだろうけれど、布の当て方とか針の刺し方の工夫に、創造のよろこびを感じる一瞬があったのではないのだろうか。
そして、ぼろは柳行李や簞笥にしまわれ、代々女たちに受け継がれ繕われてきたのだから、必要に迫られてやる仕事だったとしても、糸を通せば、誰かを思ったり、長い時間の中にじぶんを位置づけて考えるようなひとときもあったかもしれない。

 ちょっとの繕いものでも、気持ちが急くときは針目は曲がりがちで、落ち着いた構えのときは針目がそろう。おもしろいものだ。10年前の大震災のとき、三陸に暮らす友人のところに雑巾を縫って持っていたことがあった。泥に汚れたところをぬぐうのには雑巾だ、という単純な思いからだったが、いま振り返ると、雑巾なんてとんと縫ったことのなかったじぶんが、なぜそんなことをしたのかわからない。それからしばらくの間、タオルを2つに切って折りたたみ、雑巾を縫う小さな習慣ができて、縫っていると気持ちが落ち着いた。津波があまりに乱暴に土地も人も奪っていったから、その対局にあるようなことを反射的にやろうとしていたのだろうか。

 さて、というわけで、連休は少しでも繕いものをしたい。ついでにいうと、もう衣服に高いお金はかけたくないし、新しい服をどんどん買うこともしたくしない。からだになじんだものを大事にして、父が着ていたカーディガンとか、祖母の形見のマフラーとか、おしゃれだった母がこの先残していくだろうあでやかなツーピースなんかを、なんとか地味好みの私に合うように直せないか工夫しながら、じぶんがここにいることを確かめたいなあ。
 

釣り堀の端 その四

植松眞人

 高橋に釣りを教えてもらいながら、耕助はずっと釣り堀の水を眺めていた。循環器の水の流れと釣り堀のそこに仕込んであるいくつかのエアポンプから出る小さな気泡が釣り堀全体に奇妙な波を作っている。自然の池や海とは違ううねるような波は、釣り堀全体が実は緑色の薄いフィルムのような膜で被われているのではないかと耕助には見えるのだった。
 高橋はそれほど熱心というわけでもなく、自分の動きをただ言葉に置き換えるように耕助に釣りの仕掛けの説明をしている。耕助は耕助で釣り堀の水面を眺めながら高橋の言葉にうなずきながら真似をして仕掛けを作る。
「だいたい、ここの仕掛けは雑なんだよ」
 高橋の言葉に耕助はふいをつかれて顔をあげる。
「雑ですか」
「雑だよ。だって、もうウキもオモリも針もばらばらなんだもん」
「ばらばらですか」
「ばらばらだよ。普通はもうちょっと一定というか、さすがに客にバレない程度に同じような仕掛けにするんだけどさ。ここのは、付いてりゃいいでしょ、ぐらいの感じで、ほら、これとこれ見てみなよ。全然違うだろ」
 高橋は耕助の仕掛けと自分の仕掛けを目の前にあげて比べてみせる。
「だから、それを自分で調整するってわけだよ。まあ、先代の時からずっとこうだけどな」
「でしょうね。僕は置いてあったやつを真似して作ってるから」
 耕助がそう言って笑うと、高橋は少し呆れ顔で笑う。
「ま、それがここのいいとこだよ」
 そう言って、高橋は手先を動かしながら、美幸たちのいる小屋を眺める。
「しかし、耕助くんは羨ましいよ。奥さんがあんなにきれいなんだから」
 そう言われて、耕助も顔をあげる。小屋の窓の中で美幸と三浦が笑いながらこっちを見ている。
「きれいですか?」
「きれいだよ」
「そうかなあ。ブスじゃないと思うけど」
 高橋は笑う。
「ブスじゃなきゃ可愛いかきれいなんだよ」
 高橋の言葉に耕助はじっと美幸を見つめる。美幸はそれに気付いて高橋に手を振ろうと片手を高く上げようとした。すると、身体全体のバランスがくずれ、なぜか三浦くんの身体が美幸のほうに引っ張られたのだった。ほんの僅かではあったが、それが耕助にはわかった。なるほど、いままで、美幸と三浦くんは身体の後ろの見えないところで手をつないでいたのだな、ということが耕助にはわかったのだった。高橋はそれにはまったく気付かずにいる。
「可愛いときれいなら、どっちかというときれいだよ、美幸ちゃんは」
 高橋はそう言うと、針を釣り堀に沈めた。
 しばらく耕助は高橋の竿の先の糸が釣り堀の水の中に沈んでいる部分を眺めているふりをしながら時間をおいてから、もう一度小屋を見た。美幸はまだ手を振っていた。三浦くんはさっき美幸に引っ張られた手をかすかにさすりながら小さく眉間に皺を寄せていた。耕助はため息をつきながら自分の竿を持ち、エサを確かめてから釣り堀に針を沈めた。そして、ため息をついて笑った。
「馬鹿だなあ」
 耕助は知らず知らずに小さく声に出した。高橋が隣で、誰が、とこれも反射的に声に出した。しかし、耕助が答えるよりも先に、高橋は問わず語りのように、言うのだった。
「ほんと、三浦くんは馬鹿だよ」
 耕助が目の端で高橋の表情を読もうとしていると、高橋はしっかりと耕助のほうを向いて、
「おれもああいう馬鹿は嫌いじゃないけど、女は好きだからね。ああいう馬鹿が」
「おれも嫌いじゃないっす」
 耕助が答えると高橋は声に出して笑う。
「困ったね、こりゃ」
 耕助も笑い出す。
「困りましたね」
 二人の笑い声は互いに響き合ってだんだんと大きくなって住宅街に響き始める。やがてその声は小屋にいる美幸と三浦くんにも届く。二人は耕助と高橋が笑っているのを眺める。
「なに笑ってるんだろ」
 美幸が楽しそうに言う。
「おれたちのこと笑ってるんじゃないですか」
 三浦くんがそういうと、さっきまで笑っていた美幸が急に真顔になる。そして、もう一度、三浦くんの手を握る。三浦くんは一瞬とまどい手を引こうとするが、美幸がその手を意外に強い力で戻す。そして、外からは見えない古びたデスクの上に、美幸は三浦くんの手を抑え付ける。三浦くんは抑え付けられた手を暫く眺めたあと、笑っている耕助と高橋に視線を向ける。二人はまだ笑っている。こっちを見て笑っている。
「ねえ、三浦くんって、意外に勘が良いよね」
 そう言って、美幸は楽しそうに微笑みを浮かべて、三浦くんの手をなで回す。三浦くんは居心地の悪そうな笑顔を浮かべ、身動きせずにこっちを見て笑っている耕助と高橋に笑顔を送っている。
 耕助たちの笑い声が聞こえたからだろうか。釣り堀のすぐ隣にある二階建ての住宅の二階の窓が相手、丸坊主の中学生がパジャマ姿のまま顔を出して釣り堀をのぞき込んだ。中学生は耕助を見て、高橋を見た。そして、視線を小屋へ移す。二階からだと小屋のなかで三浦くんが手を押さえられているのがよく見えた。手を押さえつけられたまま三浦くんが困ったような顔をしているのを中学生はしばらく眺めていた。中学生はやがてこの大人たちの関係を一瞬にして理解して大笑いして窓を閉めた。(了)

絵コンテとシナリオ

三橋圭介

アントニオーニのスクリプト(台本)やシナリオについて前に書いた。それは設計図のようなものであり、映画が完成された後、映された意図通りに説明を加えてシナリオとして完成を迎える。もうひとつこれとは別に絵コンテという方法もある。これも映画の完成にむけたより具体的な設計図である。というのも何をどのように撮影するかかが詳細に書かれている。当然、カメラアングルも分かるし、カットのコマ割りも分かる。黒澤明の絵コンテは展覧会もするくらいなので非常に有名だが、今回2つの絵コンテを手に入れた。ひとつは宮崎駿のアニメ映画「風の谷のナウシカ」(スタジオジブリ絵コンテ全集1:徳間書店 2021)、もうひとつはポン・ジュノの「パラサイト」(A Graphic Novel in Storyboards PARASAITE : Grand Central Pub 2019)である。

「ナウシカ」はほぼ映画を見ているようにカメラアングル、コマ割りが正確だが、シナリオはなく、核となるセリフのほんの一部がだけがある。できあがった物語の内容に沿ってコマ割りを描き、核となるセリフだけ入れて時間を作りだしていく。何度も見ている人はこの絵コンテだけで物語の世界に入ることもできる。一方、実写の「パラサイト」は絵コンテにシナリオとカメラの動きなどが付属し、本のタイトルにあるようにグラフィック・ノベルとして読むことができる。構成は一場面(たとえば冒頭の半地下の家族の様子など)をひとまとまりとし、それを積み重ねていく方法を取っている。そのため部分間の繋ぎでシナリオの言葉が多少変わっている。また削除部分はたとえば、第2部分のピザの社長とのありとりの後、きょうだいがスーパーで泥棒をするシーン(第3部分)が絵コンテには描かれている。おそらく、社長をやりこめ、お金をもらったこともあり、続けての泥棒シーンは効果がないと判断したのかもしれない。

絵コンテとは何か?  ホン・ジュノ自身が本の序文に書いているので、ここで全文訳してみよう。

「わたしは絵コンテなしで作られた、たくさんの素晴らしい映画があることを知っている。偉大なスティーブン・スピルバーグがしばしば絵コンテなしで映画を撮っていることもきいている。この本の目的は絵コンテがよい映画を作るための近道である、ということではない。実際、わたしは自分の苦悩を鎮めるために絵コンテを書いている。手の内に、その日撮るべき絵コンテがあることに安堵する。絵コンテなしでセットに向かうときはいつも、混雑する場所に下着姿でたたずんでいるように落ち着かない。だが、絵コンテだけが私を正気に保つというのも間違いだろう。絵コンテは細かくショットがいかに構成されるかを示すものである。それらは描かれたような正確なショットとなり、撮影クルーにとって価値ある青写真を提供する。撮影された映画は絵コンテから決してかけ離れることはなく、さらにクルーたちにその撮影プロセスに信頼を与えてくれる。過去に一緒に仕事をしたクルーのメンバーたちは、特にこのことを熟知している。朝、クルー全員はその日の絵コンテをもらうのを楽しみにしている。絵コンテによって、かれらはその日のゴールに向かって集中できるし、その日撮るショットについて話し合うこともできる。その時、絵コンテはクルーだけでなく、わたしの恐れも和らげてくれるのだ。しかしもうひとつの恐れがわたしの内部にある。カメラフレームのなかにある絵コンテのフレームが、マンネリズムに陥らないかと恐れはじめるのだ。その日のセットに漂う沸き立つ活気を取り損なうのではないかという恐怖である。こうしたすべての詳細なプロセスがこの本にある。しかし絵コンテと映画の間の小さな違い、つまり絶えず生じる絵コンテのシーンに存在する恐れとカメラフレームのなかの自発性との刺激的な瞬間があることもじゅうぶん承知しているのである。」

アントニオーニにとってスクリプトからシナリオへの変化は映画の完成と共にある。プレイボーイ誌のインタビューで「スクリプトは出発点だ。固定したものではない。私が紙に書いたものが正しいか正しくないを理解するために、カメラを通して見なければならない」と述べる。役者が目の前にいて、動き始める。それをカメラが見ている。表面的な部分、それは即興的ということもできるが、そうではなく、それ自体が映画を撮るということなのだと。スクリプトから始める映画と絵コンテから始める映画では、前者のほうが予定外のふり幅が大きいだろう。ポン・ジュノの絵コンテとカメラにまたがる「マンネリズム」への恐怖は、アントニーニには存在しない。彼の最後の映画「愛のめぐりあい」の共同監督のヴェンダースが撮影日誌で書いているが、取るはずの場所をその場で変更するのは日常茶飯事のようだ。ポン・ジュノが絵コンテで撮影クルーを安心させるのとはちがい、アントニオーニの撮影クルーは未完成のシナリオにいつも振り回されている。リアルに意味(象徴作用)を積み重ねて強度の時間を構築するポン・ジュノのリアリズム的な映画と、リアルではない表現でリアルを求めるアントニオーニの意味するものを開いていく映画、どちらも繊細な配慮の上でなされている。個人的にはアントニオーニのリアルなものへの懐疑、ゆるさを許すその用心深さが見るものをその視線の欲望へと誘い込むように思える。

山菜の苦み

イリナ・グリゴレ

東北の冬の話をしても実際に体で感じないと分からないことがたくさんある。私の場合は冬の終わりのころに寒さに耐えられなくなる。泣きたいぐらい寒いと感じる。自分の限界を感じる日がある。しかし、限界だと思う日に幻のように、冬が終わりそうもない中で、窓の下の石の間からフキノトウの黄緑の葉が見える瞬間がくる。

フキノトウはしばらく目で十分に楽しんだあと収穫し、津軽地方でいうバッケ味噌を作る。春を身体で感じる瞬間と言ってもいいぐらい喜びを与えてくれる。軽く炒めてからお酒と味噌を混ぜ、瓶に入れる。冷蔵庫で一か月くらい寝かせると、苦みは甘味に変わる。でも、我慢できないので作った日に一口、二口味見する。苦い。ものすごく苦いが、この苦みは人生そのものだと感じる。この日のために冬を過ごしたように。

この苦みを少しずつ味わう季節が今年もやってきた。近くの有名な公園の桜の花よりも、私にとってはバッケの苦みが春と再生の証拠になってきた。歳とともにこの地域の味が分かるようになったのかもしれない。私の喜びが電波で通じたのだろう、次の日に、お向かいに住んでいる方に誘われて、庭のフキノトウが取り放題になった。その夜は天ぷらに。苦くってカリカリし、日本酒に合う。私を天ぷら達人にした新鮮なフキノトウに感謝。

青森県に住んで、すこし狩猟採集民の気持ちを味わっている気がする。春には山菜、秋にはキノコの達人がいる。物々交換の習慣がまだ残っている。ある秋の日、夫と散歩した山で立派なムラサキシメジを発見した思い出がいまだに魂に刻み込まれている。生まれて初めて紫色のキノコを食べた。いまでも山菜と同じで、人生で食べた一番おいしいもののトップになっている。おいしさの秘訣は新鮮で、自分で取っていることに加えて、野生の物であることだ。山の幸という言葉がぴったり。山菜は自分に嘘をつけない。だから苦い。

何年か前に、父親がたまたま山菜の季節に来日した時のことを思い出した。近所のお母さんから山菜の詰まった袋をもらって天ぷらにした。山ウドを初めて口にした父は「肉みたいだけど肉よりおいしい」と言った。たしかに肉のような美味しさだ。山菜とは世界の肉だ。世界の肉は苦いし、濃い緑色をしている。食べると身体も緑になるが、この世で一番おいしいものなのだ。四月中旬に各道の駅に山ウド、タラの芽、こしあぶら、コゴミ、ボンナ、ねまがりだけ、しどけ、うるい、かたくり、にりんそう、ハンゴンソウの芽などを売っている。名前はおまじないの言葉みたいで私の身体に音からなじむ。白い冬の後にくる緑の波のイメージが私の脳を鮮やかにする。

記憶をたどると、この濃い緑は子供の頃から味わっていた。春先に、ルーマニアではイラクサの若芽を食べていた。津軽ではアイコと呼んで食べる。農作業で手の皮膚が固くなっていた祖母は素手で採って煮て、ポレンタと一緒にお皿にもりもり載せていた。イラクサの濃い緑のペーストと鮮やかな黄色のポレンタの組み合わせは美しかった。伝統的な陶器の食器と木のスプーンも自然のもので、復活祭の前の食事に欠かせない一品だった。こういう暮らしにノスタルジーを感じる自分がいるからこそ、毎日この時期に山菜の天ぷらを永遠に揚げる。こういう時に私は本当に幸せだと思う。解放されるから。いろんなことから、いろんな人から、いろんな世界から。私と山菜と家族の小さな物語をリピートで再生するコツを見つけたわけだ。

休日にいろんなことを考えながら、七号線で秋田へ向かった。山菜を探しに。ラジオから昭和の名曲が流れ、道沿いでは山桜と梅の花が終わりを迎えるなか、ニシンの歌の中のニシンが光る海と桜の景色が同じに見えた。夫は空海と道元の思想を説明してくれる。あっという間に二ツ井に到着。縄文時代の面と古代の杉の木が飾ってあるところで、今月が誕生日だった私は、おまけのハートがついているソフトクリームを買う。子供たちは大喜び。

読んだばかりのジャン=リュック・ナンシーの本「福島のあとで」を思い出す。カントは「人間とはなにか」が答えられないというが、今日は私たちが答えなければならないとナンシーはいう。私も一番知りたいことだ。二ツ井のきみまち坂の写真を見ながら、なんとなくこういう時期が来たと思った。恐怖からの解放、いろんなものからの解放のために、この問いが必要になってくる。山菜と同じで、味が苦いかもしれないが。

狼の眉毛という道具がほしい。先日、夢の中で恐ろしい鬼の頭が道端に落ちていた。はっきり見えて、頭の皮膚が向けられて裏返しになって叫んでいた。「鬼滅の刃」の社会現象が、私の夢にまで延長していたと少し驚いたが、そういう時期なのかと改めて思った。これから苦い啓示の時代なのかな。

198 京都

藤井貞和

はくぎんの衣裳が踏みつぶしてゆくね、京都を。
能舞台から下ろして、着替える時のわたくしの涙。
八万四千字を書き込む祈り。 南無かんなづき。
真言を集める徒歩の列もまた踏みつぶされる。
もう終わる眼下の都市を見ています。
不意にその涙が湧いてくる一人の聖人です。
それから修行の日の奥の院の失敗。 浅瀬での禊ぎの手抜きに、
明けない護摩壇の暗部から、
未明というより、ほの明るくて朱塗りの地底です。
あけの桟橋が崩落する。 嵐山電車が大悲を乗せて走る。
三千の眼もまた祈る。 
大文字の高度を斜面で受け止める経文。 
比叡から吹き下ろす山風。 そこは小野の里。
まちの幻影の旧い古代。 旧い怪異。
北山通に流れる読経はあなたのかげを思い出させる。
光背の灰があざやかな肌の匂いを立てましたよ。

(「京都」という題で書いてみたかった。それだけ――)

善玉の殺人(晩年通信 その21)

室謙二

 もう二十年か三十年前だが、殺人の冤罪で数十年間刑務所に入っていた人が出てきて、テレビのインタビューに答えているのを見た。
 外に出てきて驚いたことは、多くの人々が殺人と殺人事件に、とても興味を持っていることだった。と言っていた。人はなぜあんなに「殺人」に興味を持つのだろう。私は人を殺したということで、冤罪で刑務所に入っていた。だから殺人と殺人事件について 普通の人より知りたいのは当然だが、犯罪に関係ない普通の人が、殺人に異常に興味を持つ。なぜだろう?
 人びとは、実は殺人が好きなのだろうか?
 誰かを殺したいと、どこかで思っているのだろうか?

 日本における殺人の数は、他の先進国に比べて少ない。
 国連の統計によれば(United Nation Office on Drugs and Crimeの2018年統計による)、人口十万人あたりの殺人数はアメリカで5件、イギリスで1・2件、フランスで1・2件、ドイツで0・9件、韓国は0・6件で中国は0・5件。ところが日本は0・3件で、もっとも低い国はシンガポールの0・16件であった。日本の殺人の数は、アメリカの約16分の1になる。
 しかし殺人への興味は高い、と殺人の冤罪で出獄した人間は思った。あれは何十年が前のことだが、今では殺人関連の件数(未遂と予備を含める)は1955年の三分の一以下に減っている。

  黒澤明のチャンバラ

 黒澤明の映画を立て続けに三本みた。まず「七人の侍」(1954年 昭和二十九年)で、主演は三船敏郎と志村喬。志村喬がすばらしい。次に「用心棒」(1961年 昭和三十六年)、主演は三船敏郎と仲代達也。それから「 椿三十郎」(1962年 昭和三十七年)、これも三船と仲代の主演、を立て続けに見た。すでに見ている映画だけど、やはりおもしろかった。
 いずれも有名な映画なので筋書きは知っているかもしれないけど、「七人の侍」は、定期的に襲う野武士の集団から、浪人が飯を食べさせてもらう代わりに村を守る話だ。その中の一人が三船敏郎。
 「用心棒」は、宿場町で対立する二つヤクザ集団を、三船が衝突させる話。
 「 椿三十郎」は汚職を告発しようとしている若侍たちに、三船が加担する「 椿三十郎」が三本の中では、いちばん娯楽映画としてよくできている。最後に登場する悪玉だと思われていたが実は善玉家老(伊藤雄之助)の奥方が、トンチンカンでよろしい。長あごの伊藤雄之助もよろしいが。

 この三本の映画では、チャンバラは一本目から三本目に向かって、激しくなる。人がどんどんと切られて死ぬのである。
 村を守る七人の侍のうちの四人が死んでしまう。そのなかに三船敏郎も入っている。この映画では、善玉も死ぬ。
 「 椿三十郎」で、最後に悪玉の仲代達也が三船敏郎に切られるところでは、血が体からどっと吹き出す。残酷なシーンだが、血が霧のように飛び散る美的な効果を持っている。モノクロの映画ではあるが。
 私はこれらの映画を子供の時に見たわけではないが、あの当時の子供たちは、そのへんに落ちている棒を片手に映画のようなチャンバラをしたのである。ただ真剣に、相手の体を叩くわけではない。相手を本当に傷つけてはいけない。バシバシと棒を叩き合う男の子の遊びであった。
 やられると「切られた!」と叫んで倒れる。切るのと切られて倒れるのは、演じられるドラマである。一度切られて死んでも、また立ち上がり相手を切る。今度は相手が倒れて、死ぬことになる。

  シェーンの防衛的殺人

 子供の私のチャンバラごっこ時代と、第二次大戦以後の「ちゃんばら映画」の盛んな時代は重なる。「ちゃんばら映画」は、1920年代(大正末期から昭和の初め)以降、サイレント映画時代に盛んになり、1930年代にはいよいよ盛んになった。第二次世界大戦以後は、その初期にGHQ(連合軍司令部)によって禁止されたが(敵討ちストーリーも禁止された)、私の子供時代、1950年代(昭和30年前後)には盛んになる。
 それはまたハリウッド西部劇映画が日本で盛んになった時代とも重なり、私もカウボーイ・ハットをかぶり、オモチャのピストルでバンバンとカウボーイになったのであった。チャンバラとカウボーイは離ればなれの世界だが、1950年代の日本の男の子の中で一緒になる。そして日本でいっせいを風びしたカウボーイ映画「シェーン」は、1953(昭和二十九年)の公開であった。
 南北戦争後の西部、ワイオミング州での開拓農民と、元からいる牧場主の争いの場に、流れ者のシェーンがあらわれる。シェーンは開拓農民に加担して牧場主とたたかう。話は村の農民の立場に立ってたたかう「七人の侍」と同じようになる。そして当然に相手がたには殺し屋が登場して、三船敏郎が剣で仲代達也とたたかうように、シェーンは、ピストルの打ち合いで悪玉と戦う。
 善玉シェーンは相手を撃ち殺すのだが、これも三船が行うような「合法的殺人」であった。相手がピストルを抜くと、即座にシェーンもピストルを抜き、撃ち殺す。相手がピストルを抜くことが肝心である。その後にシェーンが抜く。防衛戦である。

  ボーボワールと冷戦

 何十年も前に、シモーヌ・ド・ボーボワールの自伝を読んでいたら、そこにボーボワールとサルトルがハリウッド映画の見るシーンがあった。ボーボワールによれば、1950年代のアメリカ西部劇が、悪玉がピストルを抜き撃とうとした瞬間に、善玉がピストルを抜き、防衛として悪玉を撃ち殺すシーンを中心にして話が組み立てられているのは、アメリカとソ連の冷戦構造をあらわしているとのことだった。相手(ソ連)が核ミサイルを撃とうとした瞬間に、アメリカが核ミサイルを発射してソ連を叩き潰すことを正当化しているのだと。
 最初に読んだ時は、もう40年ぐらい前のことだが、あまりに原理的にすぎるなあ、と思った。しかし今になって考えれば、この言葉は当時の冷戦とアメリカ文化を適切に表現しているのではないか。あの当時の日本の子供たちは知らなかったが、ガン(銃)は一貫してアメリカの信仰である。正義の銃とそれの「防衛的発射」は、現在たびたび報道される事件を新聞で読んで分かる通り、アメリカの確固たる信仰、文化なのである。全米ライフル協会(NRA)は、議会に対する政治的力を持ち、また巨大な経済力を持ち、ガンコントロールを跳ね除けている。銃を買ってそれを手に入れるまでに一定期間を設けて、買った人間についてのバックグランド・チェックをすることに反対している。アメリカ憲法修正条項は、個人の武装権を認めている。それがNRAを支える。
 シェーンが相手がピストルを抜いた瞬間に、ピストルを抜き「防衛的」に相手を撃ち殺す時、その後ろにはアメリカの人びとのガン信仰と、全米ライフル協会がある。ボーボワールが指摘したように、それは冷戦の文化での表現であったが、しかし今でも善玉が武装して悪玉を防衛的に殺すことは、アメリカで広くある文化である。合法的殺人を、当然のこととして受け入れる文化である。

  善玉と悪玉の世界

 戦争というのもある。これは合法的殺人の国家・集団レベルのものだ。
 世界中で戦争が行われている。戦争といっても一概に同じレベルではない。あるものは人びとを抑圧する戦争であり、あるいは人びとの側からの解放の戦いかもしれない。あるいは、そんな簡単に戦争を分類はできないよ、とも言える。
 人種差別による合法的殺人もある。ナチのアウシュビッツでの殺人はその一つであった。それはきわめて組織的に行われた。いま読むと唖然とする。

 私たちだって、合法的殺人あそびを、棒の剣を振り回すチャンバラと、おもちゃのピストルを撃つカウボーイごっこをして、大きくなったのだった。
 もっともアメリカと違って、日本ではガンも刃渡りの大きなナイフも手に入れにくい。この文章の最初にあげた国連の調査によれば、日本の殺人の数は、アメリカの約16分1のであり。しかしこれは日本でガンが一般に出回っていないからだとは簡単には言えない。それも要因の一つではあるが、殺人の少ないことはアメリカと日本の社会的構造の違い、文化の違いも大きい。しかしこれも最初にあげたように、殺人への興味は高い。日本のメディアでは殺人が広がっている。
 殺人の冤罪で刑務所に入っていた人が外に出てきて、多くの人々が殺人と殺人事件に興味を持っていることに驚いた。人はなぜあんなに「殺人」に興味を持つのだろう。
 人びとは、実は殺人が好きなのだろうか?
 誰かを殺したいと、どこかで思っているのだろうか? 
 私たちは子供の頃から、合法的殺人の文化の中で訓練されている。
 もっともある宗教は、ある宗派は、善玉と悪玉の違いがあることを認めない。ある宗教は全部が悪玉だといい、ある宗教は全部が善であるともいう。
 しかしながら、善玉と悪玉に分ける考えは、善玉は悪玉を殺していいということは、子供のチャンバラから、国家の戦争まで横断する主要な文化である。

投げ出された影

高橋悠治

三木卓さんと冨田真帆さんから「福井桂子詩集」が届いた(思潮社 現代詩文庫248)

日記のように音楽を作ること 日々それらを弾き またスケッチする
Kurtág の Játákok また Christian Wolff の Keyboard Miscellany
パソコンのフォルダにスケッチを集め
ひらくたびに すこし変えることもあるだろう として
不安定で 変わりやすいものの 仮のかたち 仮置き場
散らし書き 散らし模様

まだ思っているだけで 実行していない
音楽を職業としていると 自分のための音楽を作ることから遠くなってしまった

安定した低音をもたない 対位法や和声のような連続した関係ではなく アシラヒの距離 入りと止めのあいだの見ハカラヒの時
節は折れ曲がり それはできる 途切れ これができない
音は消えても 意識がつながっていると 次の音は関係を作りながら 立ち上がる
響きは 動きが消えた後に殘る聞こえ 消えかたをくふうするより 自然に手を放した という感じがあればよいのかもしれない

20世紀の音楽を思いだしても 遠い昔のことのようだ 読んでしまった本を読み返して 読んだ覚えのないことばに出会うよりも まだ距離がとれていない 調性・和声・対位法 構成と統一にしばられるより 逸れる 外れる 道のないひろい空間のなかで しかも楽器の手触りを残したまま 聞こえる響きが 聴き慣れない翳りを帯びて どことなく居心地がわるく そのかんじに追い立てられるように 思わぬ方向に一歩を踏み出すときを待っている状態

2021年4月1日(木)

水牛だより

四月が来る前にソメイヨシノが散り始めるなんて。この暖かさをぼんやりと楽しんでいますが、もしこのままの速度で夏になったら、ことしも厳しい暑さになりそうですね。どこからどのように考えてみても、オリンピックどころではありません。

「水牛のように」を2021年4月1日号に更新しました。
今月号は原稿の数が多く、また長いものも多いせいか、目次が2ページに渡ってしまいました。はじめてのことです。管啓次郎さんと高橋悠治さんのものはページ最下段の「過去の投稿」をクリックすると表示されます。ご注意ください。
ひさしぶりに斎藤真理子さんの「編み狂う」が戻ってきました。待っていてくださったみなさん、きっと満足していただけると思います。「編み狂う」斎藤真理子さんは、水牛的読書日記(4)に登場するファン・ジョンウン『ディディの傘』の翻訳者でもあります。

3月22日に平野甲賀さんが亡くなりました。この水牛のタイトル文字も平野さんのものです。
平野さんが肺炎で倒れる前には、ちょうどいまごろ、東京に来るという予定があったのです。その第一の目的は、津野海太郎さんたちと会うことだったので、そのときには密かに録音機をONにしようと思っていました。「水牛通信」のころ、平野甲賀、津野海太郎、鎌田慧、高橋悠治という1938年寅年うまれの4人にそれぞれの戦争および戦後体験を話し合ってもらい、「トラたちの8・15」という座談会記事にしました。敗戦時、彼らは6歳か7歳だったので、話題は子どものころのことでした。その少年たちが80歳を超えたいまについて、集まるのを機会にまた語ってもらったらおもしろいに違いないと楽しみにしていたのですが、その機会は永遠に失われてしまいました。
平野さんとはいろんなことをいっしょにやってきましたが、そのどれもが遊びだったような、軽々として隙間の多い明るい経験でした。出来上がってくるものは平野さんでしかありえない際立って斬新なデザインなのに、そこにはいつも静かさが満ちているのでした。亡くなったばかりの人について書くのはむつかしいことです。

それでは、来月も更新できますように!(八巻美恵)

編み狂う(8)

斎藤真理子

 たとえば力を入れて糸をびゅんびゅん撚って、ぎりぎりまで撚り上げたところで手を放し、縒りが戻るにまかせ、ほどけるとこまでほどけて止まった地点を最適解として、そこで寝たり起きたり景色を見たりしていられればいいだろうけど、そうはいかないので、最適値ではないところで労働をしたり生殖をしたり、生殖の結果に責任を負ったりしなくてはならなくて、こんなつもりではなかったんだけどなあという気持ちが、編み物をしていると、どこかから煙のように湧いてくる。

 煙のようだが、実はそれは火かもしれなくて、なぜかといえば生きていると積もってくる釈然としなさには引火性の高いものもあるからで、そのせいかどうか、「火がついたように」といった形容が似合ってしまいそうな勢いで、「編みふける」から「編みいそぐ」「編みばしる」「編みだおれ」へとボルテージが上がっていき、また「白熱」といった単語が立ちこめてきて空気の何パーセントかを占めるので、何にせよやはり温度は高く、そこで特に意識されるのは、編んでいるときは生産と消費が常にプラマイゼロだという強い感覚であって、要は毛糸を1メートル編めば毛糸1メートルが消費されるわけだが、一方で1段とか2段とか編み物が進むので、生産したことにもなってプラマイゼロとなり、そのことにはなぜか一種の安堵感があり、これは自分が何か作っているというより、何かを移動させているだけみたいな気がするので、こういうのを私がよくわかっていないエントロピーの法則にあてはめたらどうなるのか、わかっていないのだからわかるわけがないのだが、絵の具で絵を描いたり小麦粉・砂糖・卵・バターでケーキを焼くのと編み物が絶対に違っている点は、編み物の場合、右から左へ移動したものがほどけばまた左から右へ移動することで、いつでもほどけるんだからねというこの偉大な担保がなかったら多分、こんなに長いこと編み物なんかやってこなかっただろうなあ。融通無碍と徒労が紙一重のところでこんなに白熱しているのがきわどくてよいと思いながら編んできた。

 というのは、生産性なんか少しも上げたくないと私が思っているからで、人間がもっと効率がよく生産性だけが高い生物であったら、とっくに地球は滅びていると思うし、もっといえば生産することにも消費することにもためらいと後ろ暗さがあり、その点、生産すると同時に消費する編み物はどっちつかずともいえ、双方向ともいえるのがよく、何となく一種の緩衝地帯のような感じがして、そこで火がついたように編んでいるのは一瞬が永遠に間延びしたような幸福感もあったし、編んでいなくて白熱しないときにも足湯だけは使っているような気持ちで毛糸のそばにいたら、あっというまに時は過ぎ、いったいそれは何の緩衝地帯だったのか、何と何のせめぎ合いの中で成立した緩衝地帯だと思うのか、そろそろ結論を出せ、判断を示せ、(見切りをつけろ、)と言われているような還暦を迎えてしまった。

 手元に、祖母が編んだ、昔ふうにいえばトッパーコートのようなものが私の手元にあり、それは黒い中細毛糸のメリヤス編みだけで仕上げたもので、別に編んだ襟が千鳥かがりでつけてあり、全体に白い縁取りがあしらわれ、この縁取りをバランスよく編むのはとても難しかったと思うが、そんなの何でもありゃしないというように上手に仕上がっている、編み目もたいへんそろっていて、見るたびに、おばあちゃんきちんとした人だったもんなあと思うけれども、このコートに感じる熱中の質は私のとはかなり違っている、はずだ、だって祖母のころに服を手作りするのは絶対的な必要があったからで、それは母の時代にも引き継がれ、母は手編みと機械編みを両方やって膨大な衣類を作り上げていたが、それだってやはり大幅に必要があってのことで、だからだけではないだろうけど、安価なニットがいっぱい出てくるころには母は編み物はやめてしまった、手しごとはもはや趣味になり、母たちは趣味のために毛糸を買うなんて贅沢なことはしなかったのだ、私の代にはもちろん、自分で編まなかったら寒い日に着るものがないとか風邪をひくといったことなどあるわけがなく、むしろ、手編みのものなんぞ着ていたら暖房のききすぎた地下鉄の中で倒れそうになるほどで、しかし必要に迫られない編み物は合理性を欠くことも多く、お金がもったいない・時間がもったいないといわざるをえないものもずいぶん編んできてしまったよね、だから祖母・母への引け目もあるし、生産と消費のジレンマもいっそうのっぴきならなくて、手に余る。

 けれども、祖母も母も私のときにも変わらなかったはずなのは、編み物には常に目数と段数というものがあるということで、それは自分が常にx軸とy軸が交差した一点に立ってることを意識するのと同じで、また、マトリックスのどこかに存在する「今」を意識せざるをえないということで、そうであればこの人たちも白熱する時間の中で編みいそぎ、編みばしっていたときがあったと思う、夕鶴が機織りしている現場を与ひょうが見ないのと同じように、子供はそんな母親や祖母を目撃しないのだが、刻々と変わる目数段数に乗って小止みなく動きながら、生産と消費が打ち消しあってまたは乗り上げあって、あの人たちも火を吹いた一瞬があったと思う。

 糸と針と人がスパークしてね。

 編みながら、自分にも、びゅんびゅん音を立てて縒りがかかっていく。
 縒りが戻ってほぐれていって止まったところ。
 そこには、自分が行きたいときに行けるわけではないんだよな きっと。祖母も母もそうだったはず。

 どういう緩衝地帯だったかは容易にわかりそうになく、でも、目数段数のマトリックスに足を踏み入れると骨が鳴る。古い氷河期時代の骨で作った風鈴が鳴る。そこから見ると、祖母と母と私の違いは誤差で、そう思うと、羊や蚕のいる方向へ向けて、息ができる。

197 あなたの詩を評す(作品の書き方)

藤井貞和

彼女は世界の子どもをぜんぶ集めて、しかし一人だけ足りないと、
伝説の扉をぜんぶ開け放して、しかしひとつだけ開かなくて。

そのようにして、手つきのやさしい女性の正義で探し求めて、
そのようにして、彼女は地上を終わらせるみたいにして、その直前で。

彼女のからだはガラスをぜんぶ壊した球状で、しかし一箇所だけ、
心をのこしたので、そのようにして破片から、少しやり直して。

さらにはいろう、ぜんぶの森が終わるから。 しかしさいごの樹木が、
彼女をそっと包みいれて、そのようにして送るよ、のこりの香りで。

ひとつだけ足りない、世界の詩集のさいごを、あなたは書こうね。
神さまならば、そのようにして去っていっていいよ、さようならね。

ひとつだけ足りない、世界の歌集が集める誠意や情熱、
うたはそのようにして降りてくる、息がかかってくるのを待って。

詩集の題の究極のこちらがわ。 世界人類はぜんぶ平和で、しかし一部で、
平和が足りなくて、どんな作品がほしいの?

むこうがわの子は歩いてやってくる、扉に手をかけて、
むこうがわにいる声がして、しかしあなたは作品を手渡すことができないで。

作品を手渡すことができる。 かたちの成長にともなって、
それらはどこかにあって、しかし真上にひらいた天井のひっかききず。

音便を言文一致のすきまで叫ぶ。 字は叫ぶ、ひっ|かき|きず。
そのようにして発生する、まぎれるなまり、擬態語、無敬語地帯。

どこかで会うひとがぜんぶ平安でありますように。 しかしひとりの、
不安のためにあなたは書いてたね、今夜の反時計回り(不幸なあなた?)。

現代語は病気である。 ああ、そうじゃなかったのかい。
そのようにしてだれもが書けなくなってゆき、回復するすべはない?

死語からみると、あなたは可能性。 あなたのほかはぜんぶのぜんぶ狂歌です。
しかしながら、だじゃれは禁物。 不可能性の「ふせひめ」さん。

発見でん(八犬伝)とか言っちゃって、「きょうぼくだめかね」=京極為兼。
きょうのぼくはだめだから、あなたは「いい詩」を書きつづけてね。

(詩を書いたので読んでほしいと頼まれて。)

毎日の魚

イリナ・グリゴレ

マニ・コウル監督のUski Roti(私たちの毎日のパン)という映画を朝の4時に見た。1970年に撮影されたインドのニューウエーブ・シネマの名作である。最近、「時間」というものは「私」と関係なくどこか消えてしまうだけの繰り返しの中にある何か、もっと正しく言えば「ない」という感覚が強く、この映画もまさに私の感覚を正当化してしまった。このごろ朝4時か3時半に起きてシネマの名作を見る。今一番やりたいこと、高校生の時にやりたくてもできなかったことだ。朝4時に映画館が営業すればいいのに(今の映画館で見られる映画に興味ないけど)と思ったりしているが、結局のところスマートフォンの小さな画面で寝ている娘たちのつま先のそばで見ている。朝のこの時間、今の時期の青森県はまだ暗い。スマートフォンで見る映画の歴史に名を残す作品は、大スクリーンでの上映のために作られていたはずだが、今の世界ではこのような映画を大きなスクリーンで見られる場所はほとんどない。それでも、私は幸せ。ずっと見たかったから。こうやって暗く静かな「時間」の中、別の世界に入る。娘たちから隠れて、自分だけの時間を満喫する。映画をみて、論文を書いて、本を読む。この三つの行動はこれからも譲れない。

家族が起きだす時間が来ると、私はすでに一日が終わったように疲れている。罪悪感と戦いながらパジャマのままで簡単な朝ごはんを作り、牛乳を温めて、ピンク色に溢れる洋服に着替えさせ、娘たちの髪の毛にブラシを通し、ゴムを探して髪の毛をまとめる。髪の毛の時間だけすこし落ち着いて、その次は靴下を探す。現代の家族ではお揃いの靴下を見つけることがなかなか難しい。なぜかというと、私の精神状態を表すかのように、大人のも子供のもすべてバラバラになっているから。したがって、毎日家族全員は色が違う靴下を穿いている可能性は、毎朝朝日が昇るのと同じくらい高い。それでも楽しんでいる人がいる。次女はこれが当たり前だと思っているので、苦労してペアの靴下を大事にとっておいても、わざわざピンクと青にしたりして、色づかいのセンスはまるでデザイナーだ。二人の娘は毎日のファッションのこだわりが強い。色はピンクとキラキラ模様、それにふわふわスカートと、女の子らしいものがいいみたいだけど、3歳の次女は季節に関係なく着たいものを選ぶ。真冬に半袖とノースリーブを着ようとするので、10分以上交渉時間がかかる。ある朝、彼女はひとりで子供部屋のタンスに服を選びに行った。どかどかと階段から音が聞こえ、中履きの運動靴を右左あべこべに履いたまま、下半身はピンクのふわふわスカート、上半身は裸という新しいファッションを考えた。「着たいもの見つからなかった」と言いながら。皆を笑わせた。

着替えが終わった5歳の長女は、ゆっくり、ゆっくりテレビを見ながら朝ごはんを楽しんでいる。彼女も私に似ていて他の人の時間と違う時空間を生きている。「ゆっくり」と「早く」が真逆になっている。そして交渉が始まる。「いかない」と強く主張している娘たちに対して、私はおもちゃとスイーツを買う約束をしなくてはならない。靴の選び方にもこだわりがたくさんあって、毎日の気分に合わせている。次女は相変わらず右と左を履き間違え、そのまま平気で歩くので、私はむしろ感動する。でも彼女の才能はもっと深いのだ。天気予報が晴れでも彼女が執拗に雨靴を履こうとするとき、昼にはかならず天気が崩れて雨が降る。こういった感覚が大人になってからは失われたかのように皆は生きているが、最近やっとわかった。皆は隠しているだけ。私も母親になっても「しっかりしている大人」になかなかなれない。逆に、これから子供の感覚へ戻ってもいいのではないかと勝手に思う。

娘たちが遅れて出かけたあと、家の状態を観察し、限られた「時間」の中で優先順を頭で決める。原稿を書くことから始めると、お迎えの時間があっという間に来てしまう。休息の時に、洗面台の上をふきながら自分の姿を鏡でみる。髪の毛が癖毛で一本一本違う方へ向いて、目の下真っ黒、パジャマのままで色が白っぽい。現代のお母さんの像だ。これから着替えて化粧するなんて、時間の無駄だ。でもそれだけではない、自分の靴下も娘と同じように毎日左右が違っている。鮮やかな色の靴下が好みだったころから残っているもので、ネオンピンクとネオングリーンの組み合わせなど、毎日足元が賑やかだ。昼ご飯は食べる時間があまりないので、最近では茹で卵にはまっている。お腹がいっぱいになると気づいたから。それで足りないなら、卵かけごはんにする。スーパーに晩ご飯の新鮮な野菜とお魚、肉など買いにいくときは、パジャマの上に黒いコートを着て、違う色の靴下もブーツで隠す。こんな私、自分でも人間の範囲に入らないと思う時があるが、本当に世間の人たちは皆しっかりしているのかと疑い始めた。自分がこうなったのは本当の自分を受け止めたからだ。もう、無理しないと決めた。隠すのはもう嫌だ。今の自分がそのままの自分だ。

娘たちを迎えに行くときはさすがに黒いパンツに着替えて、部屋着のままの上半身はコートで隠し、軽く化粧して、少し芝居の準備をする。でもこれだけでも疲れて、家に帰ったらもう晩酌したくなる、まだ昼過ぎなのに。世間の人々は疲れないのか?と独り言を言い始める。それはそうだよね。大人とは、次女みたいにお風呂から出たばかりの裸のままで、台所に置いてある砂糖の入れ物に手をすっぽり入れて、口に砂糖を繰り返し運び、繰り返すうち小さな身体は砂糖だらけになって、子豚の砂糖漬丸焼きみたいになれない生き物だ。娘たちは大人と子供の違いが分かっていて、今のうちにいたずらをたくさんしておこうという哲学だろうが。子供は人間以外のものにもなれる。ある日、娘たちは子猫ごっこをしはじめたが、長女はそういう気分ではなかったようで、次女に「もう猫やめよう、猫じゃないもん、人間だ!」と言った。次女はその現実を受け入れるのは難しかったらしく、激しく泣き始めた。「人間嫌だ!人間は絶対嫌だ!こわーい!」と5分くらいの間さめざめと泣き続けていた。

私は毎晩のように海の夢を見る。ゴッホは海を描いていないが、ゴッホのように青い色の海を見たり、津波の来る夢を見たり、不思議な空間の中にいる。先日、長女の一つ年上の男の子の友達の家にいった。一緒に遊んだら娘は落ち着いて、純粋な愛、小さな愛の始まりを感じた。人間とはただお互いに愛されたいだけなのではないかと思った。なにか、大事なことを思い出したような気がした。神社の庭で遊んだいたら、キジのつがいも現れて、寒かった私は急に暖かくなった。男の子は誰かが捨てたカキの殻を見つけて長女に説明した「昔はここは海だった、そして今は人間が住んでいる、この貝はあの時からあるよ」。私は最近魚を毎日食べたくなる理由が分かった気がした。その日にたまたまスーパーで見つけた県産の小さめの天然真鯛を買わずにはいられなかった。鱗はキラキラしていて、娘たちの笑顔を思い出させた。あまりにも美しい鯛だったから幻かと思った。私を待っていたかのように、人間だらけのスーパーに置いてあった。自分でさばくから低価格で買って家に持って帰った。なぜか、魚を裁くことが大好きな私。この時間には自分は自分にうそをついていないし、すべて並行に並んでいる気がする。人生は間違っていないと思う時間になる。私もあの鯛のように鱗がキラキラして空間という海の中に泳いでいるのだ。私も鯛になっている。今日の靴下は緑と肌色だ。肌色は何色とでも合う。

映画Uski Rotiに登場するインドの村に住む女性は、毎朝のようにバスの運転手である夫にロティ(ナンに似ている)を届けるためにバスを待っている。夫は町に女ができていて一週間のうちに火曜日しか家に帰らない。彼女はコートを直したり、帰る時にやさしくマッサージしたりして、抗うこともなく毎朝パンを焼き、遠く離れているバス停まで歩いて行く。映画の一つ一つのシーンがとても美しく、インドの独得な時空間と景色、自然の一部としての人間の在り方が表現され、感動を与える。時間は彼女の内面的な時間に変わり、見る側には分からないことがたくさんあっても説明されないまま終わる。女性の人生とは何か、深く考えさせる映画であり、彼女の間違っていない生き方に共感できた。孤独を感じることは人間である限りだれでもできるが、この映画の通り、皆が自分の時空間を生きていることは確かなのだ。

 

3月の記念日におおさわぎのこどもたち

さとうまき

3月はいろいろな記念日が重なる。311は、東日本大震災から10年、315は、シリア内戦から10年、320はイラク戦争開戦から18年。3月は大忙しなのである。10周年というと区切りがいいが、イラクの18年は長すぎで中途半端だし、コロナだし。それでも、高遠菜穂子が、3日前に突然オンラインイベントをやろうと声をかけてくれた。リレートークで一人10分ずつ話す。

18年前は、僕は日本国際ボランティアセンターという団体に所属して、イラクに行き来していた。先日その団体は、長くかかわっていたイラク事業からの撤退を宣言して、現在はイラクを語る人はいなくなってしまった。原文次郎は私の後任だったが、彼も現在はイラクから離れ、日本で反貧困ネットワークで活躍している。私も自ら立ち上げた小児がん支援の団体を去り、いろいろ思い出もあるのだが、後任の池住義憲氏が今回話をされることになっていたのでがんの子どもたちの話はそちらに任せることにしたが、結局話をされたのは、自ら活躍された自衛隊イラク派兵違憲訴訟の話だった。改めて感じるのは、個人としてどうかかわったか。

僕がイラクにかかわって、こだわっていたことは、子どもたちとの出会いの中で描いてもらった絵だ。当時、出版社から谷川俊太郎の詩を絵本にしたいので、適当な絵を貸してほしいと相談された。違和感があった。谷川さんの詩とそれに合うような絵をきれいにくっつけて絵本にすること、それは何かこう、デモに出かけてピースと訴えること自体が目的になって満足している日本の大人たちを満足させるためのものなのだろうか? 手足がもぎ取られ死んでいく子どもたちのことを思えば、是が非でも戦争をとめなければいけなかったのに、そういう上から目線がいやだったから、谷川さんの詩を見せてもらって、なおさらいやになって、お断りをしたのを覚えている。「僕のやり方でやらせてほしい」。結局、2003年の7月にイラクに行って、子供たちに谷川さんの詩を読み聞かせて感じたことを絵にしてもらった。

僕が初めてイラクに行ったのは、バビロン音楽祭に参加するという名目だったので、その足で音楽学校を何度か訪れた。そこで出会った少女がスハッドちゃんで当時11歳だった。彼女が戦争前に描いてくれた、男の子が手を広げて女の子を守っている絵には、ハートマークとJAPANと書かれていて、日本に守ってほしいと訴えているようだった。僕は、その一部を使って「イラクを攻撃したら世界は平和になりますか?」と書き足してポスターを作った。気が付いたらいくつかの団体が印刷してくれて新聞の一面に、このポスターを持って戦争反対のデモに参加している人々の写真が載っていた。今回のトークイベントでは、ワールドピースNOWの高田健氏が当時の新聞を持ってこられてうれしくなった。

スハッドちゃんのお父さんは用務員として学校で働いていたので、一家は学校の建物で暮らしていた。ワークショップをやるときにはいつも兄弟で参加してくれた。絵本には収録されなかったが、マイケル・ジャクソンのWe are the world を一緒に歌ったときに描いた絵がある。地球を子どもたちが手をつないで取り囲んでいる。

人間の盾で参加した相沢恭行は、NGOを立ち上げて活動していたが、現在はミュージシャンに戻り、アラブ音楽とフォーク・ロックを取り混ぜたバンドChalChalを結成して活躍している。彼にCDのデザインをたのまれた。コンセプトは、「コロナ禍を中東と日本を結び音楽で元気にすること」。シリアの子どもたちの絵をたくさん入れ込んでみた。やっぱりイラクの子どもたちの絵も外せない。

スハッドちゃんに連絡を取って、もう一度この絵を使いたいという話をした。そうそう、ソーシャルディスタンス。マスクをつけなくちゃね。手をつないでいる子どもたちにマスクをつけることにした。改めて、子どもたちの絵を見直してみる。原画は手元にないが、データーをあちこち探していた。「この絵を使って!」「僕も!」「私も!」と訴えかけてくる。落書きですら騒ぎ出して大変なことになってしまった。

谷川さんの詩で作った絵本『お兄ちゃん、死んじゃった』の中の「こころを平和にする」では、人を憎んだり、差別したり、無理に言うことを聞かせようとしたり、自分の心に戦争につながるそういう気持ちがないかどうか。心の中で戦争をなくすことから始めようと訴えている。

この18年間、戦争はなくならないし、僕自身個人的に嫌なことがあって人を憎んだり、やられたらやり返したい、些細なことから、大きなことまでいろいろある。こころを平和にするのはたやすくはないけど、努力していかないとなあと。

 18年の歳月を経て、トークイベントはまさに同窓会のように盛り上がった。イベントが終わった後も朝の5時ごろまで皆で語っていた。

ChalChalはこちら

仲宗根浩

仕事から家にもどり、シャワーを浴びていると爪がぽろっととれた。やっと、とれた。去年の七月にちょっとしたことで右足の拇指の爪が剥離した。剥離であって完全に剥がれたのではない。爪の根本はつながっているいるのでとれていない。ぐらぐらの状態で爪はなんとかつながっているし、爪も伸びていた、というより新しく生えた爪が剥離した爪を少しづつ押し上げていたんだろう。爪の白い部分に沿って段差がつきもう少しで外れそうだったし、パカパカ動くし。

去年の十一月ごろだったか仕事中、カーゴのストッパーを足の拇指で押したとき爪になんか負荷がかかったような感じがして、その後に軽い痛み。右足をかばうように歩いていたがそれより負荷をかけてはやく爪が自然に取れるように、ふつうに歩くようにした。それでやっととれる。毎日、患部が炎症をおこさないように軟膏をつけガーゼで巻いていた生活が終わった。

そんな時期をおくりながら、今度は一本残っている親知らずが腫れる。六年ぶりに歯医者に行くとまあ面倒なことになり抜歯となるが、痛み止めや抗生物質を処方してもらい腫れがひき、レントゲン撮影をするとこの親知らずが見事にまっすぐ生えている、これはもったいないので温存しましょうとなった。腫れがまた起こるようであれば親知らずを覆っている部分を切開すると。親知らずはきれいに生えてなくてこぶみたいなものに覆われている、それが腫れの原因だと。とりあえず三十年ぶりの抜歯はまぬがれた。そのあと頭をちょいとぶつけて早乙女主水之介の向こう傷からだいぶずれたところに横型の傷ができる。加齢による身体の空間に対する認識の衰えか、こんなことがよく起こるこの頃。

感染者の数字はだんだんと増えていく。数字に翻弄されていく日がとうぶん続くのだろう。

水牛的読書日記(4)忘れられたものたち、忘れてはならないものたち

アサノタカオ

 曇り空の京都。久しぶりに訪ねた古本屋さんで、棚からさまざまな本を取り出しては指先でぱらぱらとページをめくり、棚にもどすことをくりかえしながら、書きあぐねている原稿のことを考えていた。あたえられたテーマは「人生で、はじめて出会った本」。親に読み書かせてもらった絵本のようなものではなく、子どもころ、かすかな自覚の芽生えの時期にみずから手に取り、読んだ思い出深い本、記憶をさかのぼってもっとも古い「読書」の体験を紹介する、ということらしい。

 何を書いても「聡明な少年時代」という偽の物語を捏造するようで気が進まない。小学生を卒業するまでは国語の教科書以外には漫画や図鑑を読むだけ、というそれほど珍しくない経験があるだけで、どれだけ記憶のなかを探しても、「海外の児童文学を読むのが趣味でした」といった気の利いた話はみつからない。それ以上に、「そんなものはない」という答え以外思い浮かばないのだ。

 そんなものはない、のではないだろうか。頭で読むよりも早く、手が本に触れていた。自分の幼年期は、読書家の祖父が身近にいたために、比較的恵まれた蔵書環境にあったとは言える。函やカバーを外して転がしたり、匂いを嗅いだり舐めたり、落書きをしたり紙を破ったりした数多の書物との愛着の時間を経て、あるとき、肌身離さず持ち歩くお気に入りのおもちゃやぬいぐるみのように、製本がくたびれて表紙の色あせた一冊の本のページに手ひらをおき、文字や絵や写真を指でなぞりはじめる。やがてお話を読み上げる声が、自分の内へ消える。しずけさのなかで、「ここではないどこかの世界」が魔法のように不意に目の前に現れ、幼い自分は興奮し、おののいたことだろう。

 それはたぶん一回や二回のことではなかった。記憶の深いところには、はっきりした「読書」以前に、本と関係を結んできたそれなりに長い時間が落ち葉のように堆積している。いまも自分の指先には、子ども時代、家にあった「もの」としての本を介して「ここではないどこかの世界」に遭遇したときに刻まれた、疼きのようなかすかな感触が残っている。しかしこの「未知との遭遇」は名前の手前、物語の手前、言語の手前でおこった出来事だから、「人生で、はじめて出会った本」を同定することはおそらくできない。それはまるで蜃気楼のようにゆらめく本以前の「非在の本」で、だからタイトルや著者が判明したところで意味がないとも思う。

 記憶の領土の立ち入ることのできない、鍵のかけられた門の向こう側に隠れてしまった本。それゆえに、永遠にあこがれの感情を呼び起こす本。僕が何十年もあきもせず本を読み続けているのは、自覚と無自覚の境界線上で、決定的なかたちで生き別れた一冊の本との、ありえない再会を願っているからではないだろうか。

 思想家のヴァルター・ベンヤミンは、読書論と関わりのある「字習い積み木箱」というエッセイで、こんなことを書いている。「いったん忘れ去ってしまったものを、再びそっくりそのまま取り戻すことは、決してできない。……私は、かつてどんな風に歩行を覚えたかを夢想することはできる。だがそれは何の役にも立たないのだ。私はいま歩くことができるが、それを覚えることはもはや叶わないのである」

 僕はいま本を読むことができる。いくらでもできる。でも、いったん忘れ去ってしまったあの「はじめての本」との出会いを、言葉によって取り戻すことはたぶんできない。ふるえる指先で「読む」ことを覚えたあのはじまりの日のように、はじめての本をはじめて読むことは、もう二度と叶わないのだから。

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「いったん忘れ去ってしまったものを、再びそっくりそのまま取り戻すことは、決してできない」というベンヤミンのことばから、韓国の作家、ファン・ジョンウンの『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)のことを連想した。所収の「d」を何度も読み返し、この小説についてずっと考え続けている。ここ数年のあいだに読んだ韓国文学のなかで、もっとも心揺さぶられた作品のひとつ。人間にとっての「喪失」の意味を深く問いかける小説だ。

「d」の舞台は、2014年のセウォル号沈没事件から一年後、新自由主義的な政治経済に支配された社会の矛盾が噴き出し、地揺れするソウルの街の一角。主人公のdは病弱そうな青年で、あごに大きな傷があり、半地下のアパートに暮らしている。「もの」に触れることを避け、人と交わることを避けている。

 それは、幼馴染であり愛する人であるddを無残なバス事故で失ったから。同居するddが部屋に残したタオルやカレンダーや食卓の「ぬくみ」は、かえってddの非在を際立たせることでdを苦しめ、かれは外出もせず、電話で誰かと話すこともなく、「もの」たちとともに引きこもっている。

 この小説は、(おそらく)小学生時代のdとddとの出会いめぐる印象深いエピソードからはじまる。終業後の教室で、dは稲妻が窓を越えて走るのを見た。教室の床の焼け焦げた跡をのぞき込んでいると、ドアに前にddが立っていた。

「見てみ。/dは床を指差してみせた。/雷が落ちたんだ。ちょっと前に。/dが先に指でその跡を触ってみて、ddも触ってみた。/ここだけ熱い。/すごい。/dとddは頭が触れるほどくっついてしゃがんでいたが、焼け焦げの跡にもう一回ずつ触ってから立ち上がった」

 翻訳者の斎藤真理子さんは「この小説は熱で始まって熱で終わる」と鋭く指摘しているが、付け加えれば「熱に触れる手で始まって、熱に触れる手で終わる」とも言えるだろう。あるいは、触れる手と拒絶する手、手と手のあいだの痛ましい相克の物語というふうにも言えるだろうか。

 ddはdにとって「言葉」であり、「身体」だった。差し伸べる指の先にあるべき存在が永遠に失われてしまったとき、愛する人との触れ合いの記憶すら耐え難い何かに変わる。だからdはふたりの思い出の品である「もの」を捨てはじめる。ddの非在とともにあるために、dはみずから「空白」になることを選んだ、ということだろうか。何も記憶に残さない生、死と変わりない生、未来の訪れない「停止した今」を生きている、とかれは言う。

 そんなdを外の世界へ連れ出したのは「声」だった(これも斎藤さんの指摘)。

 半地下のアパートの庭で、朝鮮戦争時代の記憶などを問わず語りに語る大家の老婆、そして世運商街という衰退しつつある電気街でオーディオ修理店を営むヨ・ソニョ。商街で宅配業者の集荷の仕事をはじめたd(かれは常に両手に軍手をはめている)に、60代後半と思われる初老の技術者であるヨ・ソニョが偶然呼びかけるところから、物語の時間が再び動き出す。

 そして「音楽」。
 ヨ・ソニョが用意した真空管アンプのオーディオにdは執着し、ddの実家から取り戻したddのレコードをターンテーブルにのせ、耳をすませる。かつて同じ空間で音の海にひたり、ふたりで同じ音楽に耳を震わせ、からだを震わせた体験をくりかえし想起することで、何かを取り戻したいと必死に祈り続けるように。dは幼い頃から音に敏感だった。

 何かを取り戻したい——。
 dのまわりにいる人たち、たとえば父、「父の妻」と独特な距離感をもって語られる母、ddの家族、大家の老婆、世運商街の住民たちは一様に、華々しく喧騒にみちた社会の日の当たる場所からはじき出され、それぞれに生きづらさを抱え、取り戻すべき何かをあらかじめ奪われているような人たちだった。「僕もddもそして、あなたも。僕らがあまりに取るに足らなくて、一度の衝撃によって、投げ出されてしまう」

 セウォル号沈没事件の犠牲者を追悼し、時の政権の退陣を要求するデモの群衆と警察が対峙する夜のソウルで、dが友人のパク・チョベとさまようシーンも印象深い。声を上げる群衆が立ち去り、警察車両の壁にはさまれて空っぽになった世宗大路の交差点という「空間」に、dはおそらく自分の抱える空白と同じような空白を発見する。目撃されることなく、公的に追悼されることのない死のための空白。「取るに足らない」存在、「滓(かす)のような」存在、そして口をつぐむかれらの沈黙だけが立ち入り、通過することのできる空白。

 物語の最後、「突然流れが消えたあの空間」について考えながら、dはオーディオの電源を入れ、光の灯る真空管にふいに素手を差し伸べ、ガラスを握りしめる。

「疼きが走った。dは驚いて真空管を眺めた。もう手を引っ込めたのに、その薄くて熱いガラスの膜が手に貼りついているようだった。疼痛が皮膚を貫いて食い込んだ棘のように執拗に残っていた」

 読むものの感情のもっとも奥深いところに訴える、ファン・ジョンウン文学の真骨頂とも言える繊細で切実な描写だと思う。

 疼いてもいい、痛くてもいい。共に触れた記憶、共に触れ合った記憶、共に音に震えた記憶を確かめたい、何度でも。ある日突然、不条理のかたちでかけがえのない命を奪われ、にもかかわらず社会の中からあまりにもたやすく忘れ去られてしまう存在。ddを、ddの生の意味を、ddと共にあったみずからの生の意味を取り戻したいと希求しながら、それが叶えられることのない願いであることに絶望するdの悲しみは終わらない。

 しかしその悲しみの内には、個体発生が系統発生をくりかえすように、歴史のなかで語られることのなかった「取るに足らない」存在たちの、集団的な声なき声がしずかに合流し増幅しはじめている、と言えないだろうか。真空管のなかの電気のように。音楽にうながされるようにして再び「もの」に触れ、熱い痛みを感じるdの手、その「たしかさ」から開かれる世界がある。

 個人の感情を超える何か。小説の物語と緻密で複雑な文体を通じて、ほかならぬdの人生の悲しみ、痛みを辿りながら、前進して止まることを知らない時間を生きるために人間が別れなければならず、捨てなければならず、忘れなければならなかったものたちが、瓦礫の山となって積み上げられている荒地の風景を目撃したような気がした。刹那の想像に過ぎないが、こうしたことは、文学でしか味わうことができない体験だ。

 dの友人のパク・チョベが書いた本のタイトルは『Revolution』で、「革命」がこの小説のキーワードでもあった。警察車両の壁にはさまれて空っぽになった世宗大路の交差点を眺めながら、「革命はもう到来していた、これがそれじゃないか」「革命をほぼ不可能にさせる革命」と直感する主人公のdにとって、それは政治体制の打倒といったような一般的な意味での革命ではない。Re(再び)+volution(回る)、忘れられたものたちの回帰、忘れてはならないものたちのいまここへの回帰を暗示するものだろう。

「名前知ってます?……わかるんですか、僕の名前が……」。dとdd、忘れられたものたちは固有の名前を記憶されないものたちでもあるのだろう。しかしその名を知らずとも呼びかけることで、そして「ぬくみ」ある手を差し伸べることでdを支えたのが、大家の老婆やヨ・ソニョら、長い人生の時間を生きぬいてきた老い人たちであったことも思い起こしたい。そこに、読者に託されたこの小説の痛切な祈りがあると僕は思う。

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 京都の古本屋さんというのは、KARAIMO BOOKSのこと。お店を営む旧知のJさんは棚を眺める僕に、「開店以来、これまでにないぐらい女性史やフェミニズムの本が売れているんです。とくに若い人たちに」とうれしそうに語り、チリのフォルクローレ歌手、ビオレータ・パラのアルバムCDをプレイヤーに滑り込ませた。「人生よありがとう/こんなにたくさん私にくれて/……私の歌は同時にあなた方の歌/私個人の歌であるとともにみんなの歌/人生よありがとう」(濱田滋郎訳)

 書きあぐねている原稿のことはいったん忘れよう、と心に決めて棚から抜き出した森崎和江さんの『闘いとエロス』と詩集を数冊抱え、新刊コーナーの平台に目を落とすと、『ディディの傘』があった。赤と紫のカバーにそっと手を触れると、「ほんとうにすばらしい小説ですよね」とこんどはレジの向こうのNさんが声をかけてくる。「dは自分だ」と言い切ってしまいたいぐらいの強い思い入れと共に読んだ『ディディの傘』について、Nさんとじっくり話し合いたいと思ったが、雨が降りはじめ、トタン屋根を打つ音が少しずつ店内をみたし、おのずと会話は中断された。

 やがて雨脚はさらに強くなり、ビオレータの美しく芯の通った歌声もかきけされ、僕らは本をあいだに挟んでただ押し黙っている。火照った自分の額もゆっくりと冷やされていく。ひとりひとりの内に決して思い出せない本があるように、人と人とのあいだには、語ることができない本があるのだろうか。そういうのも悪くない、と思って、再び書棚にむきあうしずかな午後のひととき。

仙台ネイティブのつぶやき(60)ごちゃまぜの3月

西大立目祥子

 自治体の仕事をしていた時期がけっこう長かったので、年度の終わりの3月はなんとも気ぜわしい気分で過ごしてきた。何といっても、締め切りがあるから。
 それでも日差しが明るくなり梅の花もほころんで、仕事の合間に文具店に行くと束のノートが平積みになっていたりして、もう新学期とは縁がなくなっても新しい生活が始まる期待感をおすそ分けされたような気分になる3月は、けっこう好きだった。10年前までは。

 あの大震災があってから、3月は柔らかい日差しを楽しむ月ではなくなった。お盆の最中に終戦記念日がくるように、春彼岸の前にはおびただしい人の死やさらわれてしまった海辺の風景をいやがおうにも思い出す時間がくる。よく話す機会があった仙台市の職員のSさんは、住民の避難誘導のため海辺の集落に車を走らせ津波で命を落とした。3日前の3月8日に会って、中旬に合う約束をしていたのだった。生きていたら、と自分とそう歳の違わなかった彼の年齢を数える。

 今年は10年という節目であることもあって、もう2月から地元新聞社は特集を組み、テレビでも何本ものドキュメンタリーを放映した。いま、私は津波の映像が流れると苦しくてつい目をそらしてしまう。黒い水の中に飲み込まれている人が思い浮かんで苦しくなる。
 夕飯のあとテレビをつけたらNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組で、震災の後、被災地を訪問した回の再放送をやっていて、九死に一生を得た人から根堀葉掘り、どう逃げ延びたかを聞き出すのを見て、腹立たしくなってしまった。答える方もだんだん辛くなって涙ぐんでしまう。でも、震災直後は私も津波の映像を案外と平気で見ていたのだ。あれは何だったのだろう。異常事態に放り込まれて、興奮状態にあったのか。過酷なものばかり見ていると、それが普通になってしまうのかもしれない。

 被災地の近くにいながらボランティアにも行かなかったし、仕事で5年ほど取材に通った以外は、みずから進んで被災地に足を運ばないできた。出かけるとあまりに変わり果てた風景に呆然として、とても抱えきれないほどの荷物を背負わされた気分になってしまうのだ。かさ上げされた土地の底の方に残された震災遺構やどこまでも続く防潮堤を見ると、これは誰が望んでいた復興だったのか、と思わずにはいられない。

 3月11日が過ぎれば報道はぱったりと減って、何事もなかったように日が過ぎる。そうこうするうち春彼岸。寺町近くに住んでいるので、あたりにはどことなく線香の匂いが立ち込め、仏花を抱えた人と行き交う。歩いて10分ほどの祖父母と父の眠る墓にお参りを済ませ安堵した夕刻、ぐらりと2度目の地震がきた。

 1度目は2月13日の夜11時過ぎ。このときは東日本大震災を思わせるような揺れで、震源は福島県沖、宮城県は震度5強。本棚の本が崩れ落ち、ランプシェードが揺れてはずれ金魚の水槽を直撃したらしく、金魚が飛び出て床は水びたし。ほうきで水をかき出し、雑巾がけをすませたら深夜になってしまった。翌日、濡れた本を選り分け本棚に戻した。友人たちも、倒れた本棚の復旧に2日かかったといっていた。この揺れは10年前の震災の地震の余震というのだから、まったく気が抜けない。

 それからひと月後の地震。宮城県はまたも震度5強。震源地は宮城県沖で牡鹿半島の目と鼻の先。これも10年前の余震だという。津波注意報も出たので、気仙沼の友人たちのことを思った。震災からの復興といってもまったく完了してはないし、いまだ避難先にいる人もいる。その落ち着かない生活に揺れはどこまでもつきまとう。プレートとプレートの重なる実にあやういところに張り付いて、私たちは暮らしている。何かが起こればたちまちに崩れてしまうようなぎりぎりのバランスを保って。

 今度の地震は前ほど被害はなかったよ、などと話していたら、宮城県のコロナ感染者数が深刻な状況となってきた。10万人あたりは全国ワーストワン。仙台市に限ると、東京の3倍にもなるという。この原稿を書いている3月31日の夕刻、宮城県の感染者が過去最高の200人になったと速報が出た。宮城県の人口は230万人。東京都は1390万人。ざっと東京が6倍だと考えると、これが東京だったら感染者は1200人を超えたことになる。

 なぜ急速にこれだけ増えたんだろうか。飲食店への時短要請の解除、go to eatのチケット販売再開に加えて、2月13日の地震や3月11日の震災10年を上げる人もいる。2月の地震では東北新幹線が10日ほど止まり首都圏との行き来はバスになった。震災10年で被災地を訪ねようと仙台に降り立ち、ここから三陸に向かった人も大勢いたことだろう。首都圏と行き来する受験生も多い。とにかく人がシャッフルされると感染者が増えるのは間違いない。

 先週、感染者が急増してから、仙台市は仙台市の施設をほぼ全館クローズした。図書館も行けないし、ミーティングのための会議室の予約も5月末までできなくなった。会議もまち歩きも中止。1年前の緊急事態ほどではないけれど、突然生まれた空白の時間に宙ぶらりんな日が過ぎる。

 毎年、桜が開き始めるこの季節は、季節の移り変わりに体がついていけず、花粉症もあってか何ともしまらない精神状態になる。先月、 八巻美恵さんがブログに書いていたけれど、ぼんやりとして、仙台弁でいうところの、これぞ「かばねやみ」そのものだ。桜の満開にも焦点が合わない感じでいるうち毎年、桜はあっという間に散ってしまうのだが、今年の仙台は観測史上最も早く、何と今日、満開になった。梅と桜がいっしょに開いている。

 仙台の桜は、たいてい4月1週目くらいに開花して、10日頃に満開を迎えるものなのだ。3月中に満開なんてありえないよなぁと思っていたら、ブレーカーが落ちた。電力会社を呼んだら漏電が発覚し、明日は漏電箇所を調べに電気屋がくる。

 庭では10日ほど前に冬眠から覚めたカエルがゲコゲコ鳴いている。数年前になぜか2匹のカエルが死んでしまい、こいつはたぶんあぶれオスだ。友だちがいないのは気の毒だなあ。窓の外を三毛猫が通り過ぎて行くというのに、うちの猫どもは窓際で眠りこけている。
 ごちゃまぜの3月が終わった。4月はどうなることやら。

新・エリック・サティ作品集ができるまで(2)

服部玲治

初めてお会いし、打ち合わせをしたのは、夏のさかりの8月だった。
どんな場所でお会いするのが適当なのか。チェーン型大型資本系の喫茶店は、悠治さんとの邂逅にそぐわない、それどころか、そんなお店を提案した日には、怒って来なくなってしまうのではないか。メールでのやりとりばかりだから、わたしの中の悠治さんのイメージは日々増幅し、霞をはみ、世俗をさける仙人の様相を呈していた。
「渋谷は混んでいるので避けてほしい、会社の近くでも」。
日時の指定とともに、これまで通り、無駄なく要件のみのメール。そうか、渋谷、やはり。かといって、社のある虎ノ門界隈も、オフィスワーカー向けのざっかけないチェーン店ばかりだ。ウェブでくまなく検索をかけ、「本とクラシックに囲まれて」「小さな隠れ家」などのレビューが寄せられた、漱石の作品名が冠された喫茶店を、まだ行ったこともないのに、悠治さんとの出会いにふさわしいと断定。
「ではそれで」。
仙人からのたった五文字の電子返信、ぞくぞくしたのを、いまもおぼえている。
 
約束の時間の間際、店に入ると、お客さんはひとり。16時からの打合せを15時からと勘違いし、本を読んで待っていた悠治さんだった。1時間もお待たせしてしまったのか。身にのこった外気の熱と、緊張と、かたじけなさと。途端に額から汗が流れ落ちてやまない。
バロックの流れる店内は、喧噪の街中と隔絶した静謐な空間で、悠治さんとの邂逅にまことにふさわしいものの、初めて対面するぎこちなさを覆い隠すよすががみつからない。呼吸を整える間もなく、沈黙を埋めるように、やおら企画の話を向けた。

この初めての打合せが決まってから、わたしは悠治さんとコロムビアで、継続的なプロジェクトを企画したいと夢想していた。パソコンのフォルダの片隅には、その時に悠治さんに提示した提案書が残っている。2016年8月3日の日付、「コロムビア×高橋悠治プロジェクトのご提案」。
1枚目のサティを皮切りに、6種類のアルバムの提案がここには記されている。2枚目はバッハ。3枚目、ドビュッシーとラヴェルにメシアン。4枚目はショスタコーヴィチとヴィシュネグラツスキ(はたして、どうやって微分音ピアノを入手しようと思っていたのだろうか)。5枚目にはベルクとともにウルマン、シュールホフなど退廃音楽作曲家の作品集、そして最後にバルトーク。
バッハを除けば、20世紀前半に活躍した作曲家を中心に構成したシリーズで、これまでの悠治さんのアルバム・ラインナップとは色あいの異なるコンセプトで展開できないか。サティはともかく、他に名をあげた作曲家は、はたして悠治さんがいま、好きな作曲家なのか、そもそも演奏したことがあるものなのか、用心深く調べることもなく、自分の嗜好のままに編んだアイデアだった。それを悠治さんにいきおい提示してしまったのは、いま思えば、ひどく思慮に欠けた行いだったのかもしれない。

このとき、どんなやりとりがなされたのか。緊張ゆえか、あまり覚えていない。ただ明らかだったのは、
「先のことはともかく、まずはサティの話を」。
わたしの夢見るシリーズコンセプトは、いったん棚上げになった。

ノマドランド

若松恵子

映画「ノマドランド」は、ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞し、今年度のアカデミー賞6部門にノミネートされている話題作だ。キャンピングカーで生活しながら季節労働の現場を渡り歩く現代のノマド=遊牧民を描いた物語だ。ジェシカ・ブルーダーが2017年に発表したルポルタージュ『ノマド 漂流する高齢労働者たち』を原作にしているとの記事を読み、ロードショウ公開されたばかりの日曜日に見に行った。

主人公ファーンを演じるのは『ファーゴ』、『スリー・ビルボード』でアカデミー賞主演女優賞を受賞したフランシス・マクド―マンド。原作に共感した彼女は、この映画の制作者としても関わっている。実際にキャンピングカー生活をしている人々のなかに入っていって撮影し、印象的な脇役であるリンダ・メイやスワンキーは実在の人物だという。

冒頭、原野で用を足し、ズボンをあげて小走りに車に戻るシーンがある。誰も見ていないのに、身体から恥ずかしさが滲み出ていてかわいい。マクド―マンド、うまい!という感じだが、キャンピングカー生活では排泄が大問題なのだ。ノマド生活のリアリズムを感じるシーンだった。

ファーンは夫を亡くし、思い出の品をキャンピングカーに詰め込んで出発する。夫が務めていた企業がつぶれて社宅も閉鎖され、その企業城下町ごと消えてしまったからだ。ファーンがキャンピングカーで移動していくのはアメリカの西部。まだまだ手付かずのままの広大な自然を背景にした車上生活は、西部開拓時代を彷彿とさせる。一方、彼女が季節労働者として働くのがアマゾンの配送センターであるというのは、苦い現実だ。

企業の倒産によって住む家を失ったのだけれど、彼女の悲しみの中心にあるのは経済問題だけではないのだという事が段々わかってくる。夫という唯一の理解者を失ったことで、彼女は居場所(家)を失ってしまったのだということ、そのことが大きな悲しみであることが分かってくる。

車の修理代を借りるために、久しぶりに姉の家を訪ねるシーンがある。「あなたは昔から変わり者だった。家を飛び出して、そしてボー(ファーンの夫)と暮らすようになって」と姉が述懐するシーンからは、理解し合う事が難しい姉妹の間柄と、変わり者だと家族から疎まれていたファーンの唯一の理解者が夫だったのだということが想像される。もう、どこに住んだって、理解者を失った寄る辺の無さは同じなのだろう。

姉の夫は不動産業だ。同僚を招いたバーベキューで、「ローンを組めない人たちに無理やり家を売りつけて」と非難めいた事を言って場を白けさせてしまうファーンは、姉家族と一緒に住むことなどできないのだ。

珍しくスカートを履いて姉の家を訪問するファーンが、帰りにはいつものジーンズにパーカー姿になっているのを見ると、自分のことのようで身につまされる。

末期がんを患っているスワンキーは、かつて見たアラスカの美しい風景をもう一度見たくて旅をしている。ある日、ファーンのスマートフォンに、スワンキーが語っていた美しい風景の動画が届く。何の言葉も添えられていないけれど、ついに到着したのだというメッセージが、ファーンの胸を打つ。

生活を成り立たせるために、ファーンのノマド生活は続く。唯一の理解者を失った悲しみは癒えない。代わりの人など見つからないことは分かっているからだ。しかし、広大な自然の中を自由に移動して暮らす素晴らしさというものが、ほんとうにかすかに、小さな希望として見えるところで物語は終わる。

それは、ノマドの先輩であったスワンキーが教えてくれたことかもしれない。かつての家の裏庭からは、何にも遮られない広大な砂漠とはるか遠くに連なる山々が見えていた。夫と暮らしていた頃には背景に過ぎなかった広大な砂漠の中に、思いがけずも分け入っていく事になったファーン。そこに人生のおもしろさも感じさせる物語であった。