しもた屋之噺(269)

杉山洋一

すっかり今までの気候の感覚がずれてしまうような、肌寒い6月が過ぎました。本当に今までなかったほど雨が良く降ったので、庭の樹もよく葉を繁らせているし、芝も奇麗に生えそろっています。毎日のように、ひどい夕立が降り、その度にミラノの街並みは冠水していました。夕立といっても、嵐と呼べばよいのか、竜巻一歩手前というのか、雨と雷と風が吹き荒れる、見たこともない一カ月が過ぎていったのです。冬に羽織った薄手のジャンパーをいつも携えているのも初めての経験で、何か今まで回っていた歯車がずれてきているのを感じます。

6月某日 ミラノ自宅
サンドロの家を借りて、久しぶりの指揮のプライヴェート・レッスン。7月初めにティラナの音大で卒業試験を受けるFが朝早くからレッスン。
アルバニアの音大でレッスンをしたから雰囲気はわかるが、指揮者と演奏者は常に距離を保って交わらないのは何故だろう。販売されているCD録音を使って指揮のレッスンをすることも多いと聞いたが、その影響か。その昔、アルバニアとソヴィエトの国交があったころ、音楽教育も大きく影響を受けたそうだが、指揮はどういう位置にあったのだろうか。F曰く、アルバニア最初の交響曲はザデーヤが1956年に書いた交響曲第1番だ、と力説していたが、あれほど古い歴史のある国で1956年まで交響曲が一切生まれなかったのが、どうにも解せなかった覚えがある。
1939年から43年まではイタリアが統治していて、ティラナにはファシズム建築も残されているのに、56年以前まで大規模な管弦楽作品そのものがなかったのは信じられない。F曰くアルバニアは民族音楽が盛んなので、クラシック音楽の定着が非常に遅かったのだそうだ。

6月某日 ミラノ自宅
家人と二人、自転車を漕いでサン・パオリーノ通りの市役所出張所にでかけた。家の前にあるミラノ・アレッサンドリア線の線路とナヴィリオ運河をまたぐドン・ミラーニ陸橋は、足が本調子ではない家人にあわせ、自転車を押してゆく。
ファマゴスタ駅手前で横道に入りしばらくゆくと、少し古めかしい、どこか打ち捨てられた佇まいの団地群があって、出張所は団地のアーケード一角にあった。予めインターネットで予約をとって家人の住民票登録がされていない、と相談にでかけたわけだが、お世辞にも親切ではない窓口の女性曰く、必要な書類をもってくれば今からでも作ってあげます、というので、家人を残して一旦家にもどった。怪しげな場末の出張所だからか、意外に融通が利くのである。
結局3,4時間かかってしまったが、家人の住民票登録は無事完了して、近くの喫茶店でフレッシュジュースを飲んで家に戻った。面白いのは、住民登録はできるが、夫婦としてではなく、同居人として取敢えず今日は登録しておくわね、と言われたことだ。20年前、家人をイタリアに呼び寄せる時に作った、公印、アポスティーユ付きの結婚証明書を持って行ったが、それでは古すぎて現在の婚姻関係を証明できないと言われた。婚姻証明書は3カ月しか有効ではないらしく当然だろう。書類ですら3カ月以上の婚姻関係は保証できないということだ。まあ、とにかく奧さんをミラノに入れてあげることが先だから、と妙に頑張ってくれる。同居人か夫婦かの肩書の違いで、税金の支払いや権利には一切の違いは生じないという。
よくわからないのは、その昔、モンツァから引っ越した際、何かの手違いで彼女の分の住民登録がこぼれてしまったにせよ、しっかり国民健康保険証はミラノ市から発行されていて、無償のがん健診など、定期的に市からお知らせが届き、市から家人のためのかかりつけ医も決められていて、無償でレントゲン撮影のための保険局のチケットなどは、そのかかりつけ医がいつも書いてくれている。管轄が違うと言われればそれまでだが、ここまで書類が電子化されそれぞれ簡便に共有されているのに、まだ紙で書類していたころの名残がそこはかと感じられて、少し懐かしいような切ないような不思議な心地だ。
家人より、垣ケ原さんが手首を骨折したと聞き気を揉んでいた。電話をかけても出るのが大変ではないか、メッセージを書くのも大変ではないかと逡巡しながら、結局お見舞いのメッセージを送ると、すぐに返事が届いたから、少し安心した。中央スーダンでRSF(即応支援部隊)により100人余り死亡との報道。

6月某日 ミラノ自宅
今日は日がな一日、学校で聴覚訓練クラスの試験であった。一人20分程度かかるから、朝9時から始めて、夜の7時半までかかった。こちらはずっとピアノの前に座って質問をだしていて、一人終わる毎に、学生は一度外にでて、マルレーナとクラウディアと3人で点数を決めるまで待ってもらう。よく出来る生徒であれば、ものの5秒か10秒ですっと点数が決まるが、そうでなければ、どことどこを間違えたから何点相当だが、前の何某には何点を出したからこのくらいが相当だ、などとていねいに話し合うことになり、紛糾すれば5分とか10分とかかかることもある。それから、学生を呼び込んで、われわれはこの点数を提示するが、受け入れるかどうか尋ねる。提示された点数に納得できなければ拒否ができて、次の試験シーズンに再試験となる。
教え始めたころは、このやり方がどうにも不思議だったが、大学の卒業時の成績に少なからず影響を与えるから、仕方がないと思う。入学時から積み重ねてきた一つ一つの試験の成績の平均点から卒業試験の最低点が決められ、そこに最終的に審査員が何点足すかで、卒業時の点数が決まる。卒業試験で審査員が足せる最高点は7点で、学院長だけが特別に何点か足す権限を持つ。110点が満点だが、それまでの試験の平均が27点なら卒業試験の出発点は101点となり、卒業試験で最高点をとっても108点となる。論文や口頭試問もあるから明らかに外国人には不利だろう。尤も、点数を気にする学生もいれば、実力に自信があって、卒業時の点数など意にも介さぬ学生もいる。
日本の大学は4年生だが、現在イタリアの音楽院では、大学課程と同じく、3年でまず学士号のディプロマがあって、その後2年間の研鑽を経て修士のディプロマをとる。今日の試験はほとんどが「トリエンニオ」とよばれる学士課程の学生だったが、数人修士課程の学生も交じっていた。
とあるイタリア歌劇場のオーケストラで弾いているフランス人がいて、イタリアのオーケストラに就職するためイタリアのディプロマが必要だとかで、今年から修士課程に登録している。去年の秋に学校から電話がかかって来て、彼は演奏に忙しくて通えないが、優秀な演奏家なので、能力には問題ないだろう。どうか試験だけ受けさせて通学したことにさせてやってくれ、という。よく出来る学生がわざわざ授業で時間をつぶす必要はないと考えているので快諾したのだが、その学生が今日の試験にやってきてみると、驚くほど全く何もできなくて、我々は頭を抱えてしまった。
授業には通えないが、コロナ禍の遠隔授業のためにつくったヴィデオで自習する約束ではあったが、哀れなくらいに出来ていない。それどころか、こんな難しい課題はできない、フランスではこんなことはやらない、などと不平までこぼすものだから、同僚もすっかり怒り心頭である。
彼の性格なのだろうが、なるほどフランス人がイタリアの教育機関をどう見ているのかも垣間見られて、「あらあら、おフランスはよほど文化水準が高すぎて、何もできないのかしら」と、フランス人の口真似をしながらフランスを貶す同僚たちの姿にも、普段は隠している複雑なイタリア人の本心を覗き見たようで興味深かった。外国語に堪能な彼女たちがあんな風に話すのを見たのは初めてである。
もちろん、フランス人学生は今まで何人も教えてきたし、イタリア語もみな上手で、言われなければ気が付かないことすらしばしばである。同僚たちがこうした学生を批難するのは見たことがない。
イスラエル軍ガザで4人の人質救出成功。奪還作戦に巻き込まれて死亡したパレスチナ市民は、210人死亡とも274人とも報道されている。何が正しいのか、間違っているのか、誰が正しいのか、自分の頭で考えることすらむつかしくなってきている。
欧州議会選挙では極右政党Fratelli d’Italiaのメローニ首相のイタリアはじめ、ドイツ、オーストリアなど右派の台頭が顕著であった。フランスでは極右政党「国民連合」が与党連合に圧勝、マクロン大統領は下院解散総選挙発表。

6月某日 ミラノ自宅
試験の翌日、エルノに住むピーターを訪ねる。コモからベッラッジョ行のバスに乗り、湖畔沿いをしばらく走ってネッソの瀑布を超えたところで右に折れ、ティヴァーノの方へと山道を登る。ピーターは途中のネッソ停留所から乗り込んできた。バスと言っても乗客は6人ほど、そのうちの3人はアメリカ人の観光客で、ピーターと知合いだった。ピーター曰く、昨日彼らがネッソで路頭に迷っているところを助けてあげたらしい。
ネッソからそのまま湖畔を走れば、次の町がレッツェノになる。6、7年くらい前まで、息子を連れてよくここの湖魚料理屋に通っていた。レストランの経営者が漁師で、週に何回か湖でとってきた魚を食べさせてくれるのが、実に美味であった。そうして食後、腹ごなしに、近くの浜を散歩して、息子と湖面に石飛ばしなどして遊ぶのが楽しみだった。
エルノは、ネッソからバスで20分ほど山道を登った先にあって、ネッソの滝の源流にかかる古いアーチ橋の手前が集落の入口になる。ここを登った先が自由広場で、ここから眺めるとエルノはこじんまりとした集合住宅が固まる、そこそこ立派な村に見える。このすぐ先にあるヴェーレゾ村に属するエルノ集落という扱いになっていて、村に住民登録されている人数はわずか50人足らずだというのが信じられない。ちなみに店は一軒もなく、8割以上がセカンドハウスか、空家なのだろう。
食料を買うためには、ネッソかヴェーレゾに出かけるしかないそうだが、ピーターの近所に住む恰幅のよいシニョーラ・アンジェラなどは、ネッソからときどき食料を宅配してもらっているらしい。ピーターはパン焼き機を購入して、自分でパンを焼いていた。
このあたり独特の細い石造りの路地が集落中を縫うように張り巡らされていて、咲き乱れる薄紫のラヴェンダーが美しい。その前の建物には、消えかかった屋号が「某食堂」と辛うじて読める。その隣の建物には、「某精肉店」とも読める。その昔この集落にも活気があったころを偲ばせるものだ。
隣のヴェーレゾ村へ徒歩で向かうには、トレッキング靴で、さきほどのネッソの瀑布源流を踏み石伝いに渡ってから、そこそこ急峻でぬかるんだ山道を登るしかない。街灯などどこにもないから、暗くなったときには、頭に懐中電灯を巻いて歩く。一度、ピーターがこの山道から滑落したときは、山岳救助隊がヘリコプターで救助にきて、病院に搬送されたそうだが当然であろう。
ピーターの家の窓からは遥か眼下にコモ湖が、そして目の前には雄大な山々がひろがっている。空気が美味しいねというと、まあ不便だけどとピーターは笑った。食事と打ち合わせを終えて、少し散歩をすると、シニョーラ・アンジェラ含め3人のご婦人が、幅2メートルもない細い路地の上り坂の中ほどで楽しそうにけたけたと談笑していた。50人足らずの住人のうち、ピーターを含めすでに4人に会ったことになるから大した確率だと思ったが、結局その後はバス停で1人見かけただけで、集落はずっと閑散としていた。ちなみに、50人のうち、ピーターがイギリス人、年金暮らしのドイツ人が一人、あとタッキの工場で働くアジア人家族が住んでいて、おそらく5、6人は外国人が交っているということだ。
ピーターが「こちら日本人の指揮者の方です」と紹介すると、「あらそれならアレーナ野外歌劇場で振れるといいわねえ」と言われる。どうしてここから近いミラノのスカラ座ではなくて、わざわざヴェローナの野外歌劇場が口をついてでてきたのだろう、と不思議に思っていると、目の前に7、8頭のヤギが放牧されていて、こちらの姿を見つけるなり、ビャアアアア、ビャアアアアと声を上げて寄って来る。その隣の路地には、1メートル強の小型の猪が5頭ほど群れていて、悠然と歩いていた。猪は野性だそうだ。
19時6分の最終バスでコモに戻ろうと「自由広場」で待っていると、15分過ぎてもバスが来ない。ただ遅れているだけかと思っていたが、どうやらバスはなくなってしまったらしい。ピーターは、「ヒッチハイクで、ネッソまで乗せてもらおう」と橋のところで、親指を立てて暫く立ってくれていたが、一台も止まる気配はなかった。車の運転手からしても、事情がわからず不気味な二人に見えたに違いない。
仕方がないので、橋のたもとから少し下った先までピーターに送ってもらい、徒歩でネッソまで下ることにする。
「ここからひたすらまっすぐ歩いていってね、どこまでもまっすぐ行って、突き当ったらOnzanigoを探して」と不安そうに言われ、これを持って行って、とトレッキング用の杖を貸してもらう。
ネッソからエルノまでの車道は多少勾配はきつかったが、きれいな道だったし、湖畔まで出ればあとは何とかなる、と気軽に考えていたのが間違いであった。
歩き出して暫くゆくと、先ほどの8頭のヤギの放牧地の端にでて、相変わらずビャアアアアとけたたましく鳴き声をあげていたが、とにかくそこを過ぎたあたりから、俄かに雲行きが怪しくなった。想像をはるかに超える下り坂で、杖がなければ簡単に転びそうである。このところずっと酷い雨が続いていたから、ぬかるんでいるところは滑りやすい。足場の左側は急峻な山腹で、そのはるか奥には、先ほどの沢だか川だかの激しい水の音が聞える。携帯電話の電波はほぼ入らない状態でバッテリーも切れかけている。一番の問題として、日が暮れたら万事休すであった。
こんなところに来るとは想像していなかったから、普通の靴しか履いていない。これではさすがに危ないし心許ないこと極まりない。ここで足を滑らせても、救助を呼ぶことすらできないが、日暮れは近づいているから、出来るだけ早足でひたすら下ってゆくが、どこまで行けども湖の陰すら見えない。歩いていると、さきほどの猪の群れを思い出して、嫌な気分になる。普段なら猪はかわいいと思っているが、こんなところで5頭の猪に出会って、突き落とされたらどうしようもない。最近日本では、山でクマに襲われたニュースが頻繁にきかれる。ネッソの山で最終バスに乗れず山道を歩いて熊に襲われ行方不明、ではさすがにやりきれない。
南無妙法蓮華経とおもいながら歩き続けると、途中ふと高い梢が絶えて見晴らしのよい場所に出た。眼下を眺めると、足下まだ遥か彼方にほんのちらりと夕日が湖面が光ったときには絶望しかけたが、今更エルノにもどっても日が暮れることには変わりがない。ここで猪や熊の餌にはなりたくない一心で必死に下り続けると少しずつ足場がしっかりしてきて、間もなく家が見えて、ああ助かったとおもう。
ちょうど道がつきあたりになった辺りに、一人坂を上ってくる年配の男性がいて、彼にOnzanigoの通りを教えてもらった。バス通りまではまだここから暫くある、ということだったが、取り敢えず生きて帰れるとわかり、安堵しきったのか一気に疲れが噴出してきた。
幸い、バス通りまで出たところでちょうどコモ行のバスに乗れたので、さほど遅くならずにミラノに戻れたが、流石に動悸が止まらなかった。どのくらいの時間歩いていたのか、後から計算してみると、たかだか40分程度に過ぎなかった。バスで20分もかかるのを徒歩40分で降り切ったのは悪くない。
コモ行きバスの運転手に、エルノの広場で待っていたのだが最終バスが来なかった。あそこは通らないの、今日は何かで運休だったの、と尋ねると、隣に座っていた乗客が、その最終バスなら、その下のバス停を走っていくのを見たよ、という。運転手曰く、今日は特に運休の話は聞いていないが、運転手が広場まで上がるのを忘れたか、乗客なんていないだろうと寄らなかったのだろうよ。へえそれで、ネッソまで歩いてきたのかい。いやあ、そりゃあいい運動になってよかった、あっはっは、と明るく笑い飛ばされてしまった。家に帰って調べると、ネッソは海抜300メートル、エルノは集落のあたり海抜750メートル、エルノ山の頂上は海抜1050メートルにもなると書いてある。40分で450メートルも一気に下るのなら、それなりに見合った靴は必須であった。

6月某日 ミラノ自宅
ピーターの家を訪ねた帰り、コモ行のバスに乗った時のこと。最前列の乗客が運転手に盛んに大声で話しかけていて、どうやらこのあたりに住んでいるらしい。彼がコモ湖を訪ねる世界中の観光客を口汚く罵っていて、聞くに堪えない。運転手もうんざりしながら相手をしている。狭いバスに大きなトランクを平然と積み込み、年配者が立っているのに席の間にトランクを置く。とんでもないやつらだ。言っていることは尤もだが、あまりに汚い言葉が続くので、堪らない。
日本でも以前からオーバーツーリズムは問題になっているが、コロナ以前は各国ともに今ほど深刻な問題に捉えていなかったように感じる。何がきっかけで潮目が変わったのか。コロナ禍の不況解消か、精神的ストレスか、さもなければ地球の気候変動か。
日本のインターネットサイトでは、訪日欧米人の日本文化発見や紀行文、日本食のレポートが人気を博しているが、イタリアのサイトでイタリア人向けに、イタリア訪問中の外国人観光客のレポートは見たことがないし、あっても殆ど興味もひかないに違いない。
何しろ、ゲーテの「イタリア紀行」やアンデルセンの「即興詩人」を始め、文豪たちの文章には事欠かない。和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」は、今もミラノの自宅にしっかり本棚に並んでいるし、改めて読んでも実に深い文章だと思う。
「イタリア」と名前がつく音楽作品を羅列すれば、枚挙に暇がない。バッハ「イタリア協奏曲」、シューベルト「イタリア風序曲」、ベルリオーズ「イタリアのハロルド」、メンデルスゾーン「イタリア交響曲」、リスト「ヴェネチアとナポリ」、チャイコフスキー「イタリア綺想曲」「フィレンツェの思い出」、リヒャルト・シュトラウス「イタリアより」と、特に外国人作曲家が作った作品であれば際限なく続けられそうだ。それに比べると、イタリア人が「イタリア」と銘打ったり、「イタリア」をテーマに作った作品は、当然ながら限定的である。
元来イタリア人作曲家はロッシーニの「アルジェのイタリア女」のように、イタリアを一見茶化す性格のオペラのリブレットに、うまい具合にイタリア人やイタリア文化を忍び込ませていた例は散見できそうだ。第一、ローマ時代の神話などを題材にオペラを書けば、舞台は名指しされなくともイタリアを想像してしまう。19世紀になってヴェルディが、「アッティラ」や「シチリアの晩鐘」のようなイタリア各地の故事を使ってオペラを書き、国家統一運動の精神的な支えとなったのはよく知られている。そしてそれらは、過去の音楽文化の遺産の再評価へとつながってゆく。レスピーギの「リュートのためのアリアと舞曲集」などはこの潮流の先にある。その頃になると、文化と政治がかつてないほど近しい関係を築くようになり、結果として「ローマ三部作」やカセッラの「イタリア」のような作品に収斂されてゆく。
クラシック音楽における日本文化でよく知られているのは、「ジャポニズム」と呼ばれた異国趣味が高じたもので、遊郭に売られる少女を描くマスカーニの「イリス」や、芸者が主人公のプッチーニの「蝶々夫人」だから、日本の文化や風土との関わりは二次的なものになる。カウエルの「富士山の雪」も、蛾の姿をした少女の魂が富士山を登ってゆく姿に霊感を受けているそうだ。
プーリア州でのG7サミットに於いて、フランシスコ法王が人工知能に言及。今後更なる不公平を生む可能性があると懸念をしめした。
パリ郊外のクルヴェヴォワの公園で、12歳のユダヤ人少女が、12歳の少年1人、13歳の少年2人より「汚いユダヤ人」という理由で性暴力被害をうけた。加害者の年齢があまりに低いため、どのように扱われるのか、さまざまな意見が噴出している。
息子が小中学校時代、仲の良かった友人二人の家に、或る早朝、突然警察が訪ねてきたという。警察がまず彼らに通告したのは、ここで自主的に隠し持っているものを警察に渡せば減刑されるが、隠しているものを警察が見つけたら罪が重くなるということだった。果たして、二人は所持していた大麻を警察に差し出し、そのうち一人の少年は秤も提出したという。秤の所持は、使用しただけではなく、密売に関わっていたことを意味するのだそうだ。二人とも特に恵まれた家庭に生まれたし、何不自由なく育てられたのも知っている。本当に可愛らしい子供たちだった。仲間がデザインした服を着て、街角でグラフィティをスプレー書きする姿をSNSに投稿して、人気もあったという。

6月某日 ミラノ自宅
ミラノ大学の前の美容院に散髪に出かけた。自転車でスフォルツェスコ城辺りを通ると、親パレスチナのデモ行進が終わるところだったようだ。すごい人いきれで、辺りは厳重に警官が並んでいる。散髪中に、何とも不気味な、低いどよめきとも叫び声とも判然としない、奇妙な音があたり一面に響き渡った。
デモは終わりかけていたように見えたから不思議に思っていたのだが、帰りしな、ミラノ大学の入口からふと中に目をやると、大きな旗を掲げる親パレスチナを訴える学生たちが中庭一杯埋め尽くしていて、無意識に恐怖を感じて逃げ出してしまった。彼らが何か一言発すると、その界隈一体に重苦しいような、波打つようなエネルギーを持った音響が広がってゆくのだった。
考えてみれば、息子と同世代の学生たちだ。毎日のように学校で教えている学生たちだし、実際教えている学生のなかでも、ミラノ大学とダブルスクールをしている学生は何人もいる。パレスチナを支援したいのは充分理解できるが、この無意識に感じた恐ろしさは、社会がどうにも分断され、引き剥がされてゆくその途轍もない力を感じたからだ。
対ドル為替160円。38年ぶりの円安水準。もはや対ユーロでは為替は170円を超えるのが普通になりつつある。

6月某日 ミラノ自宅
家に帰っていると、出し抜けに息子から、好きな協奏曲はなにか、と問われ、はたと言葉に窮す。
特にこれが好きな協奏曲、という曲名は思いつかないが、好きな演奏家とよく聴いた録音は、三つ子の魂なんとやらで未だにどうしても切り離すことができない。一番最初の記憶では、ハイフェッツが弾くグラズノフの協奏曲で、いつも鳥肌を立てながら聴いた。今と違って当時はさまざまな演奏家を気軽に比較して聴けるような情報量もなかったから、どうしてもその演奏を繰り返し聞くことになる。コ―ガンの弾くショスタコーヴィチの1番や、オイストラフの弾くショスタコーヴィチの2番。当時あんなにレコードが磨り減るほど聴いた演奏を、それもヴィデオで演奏風景まで見ることができるようになるなんて、全く想像もできなかった。初めて見るコ―ガンの演奏風景は凡そ想像していたとおりの姿勢だったが、オイストラフが2番を弾いている姿は、レコードで想像している姿からはまるで違って、もっとずっと激しく、文字通り全身全霊で弾いていた。どちらもヴィデオが見られたのはちょっと言葉にできない感動を覚えた。エルマンの弾くハチャトリアンは個性的で大好きだったから、各箇所の独特の節回しのルバートまでよく覚えている。プロコフィエフの3番のピアノ協奏曲は、曲としては昔から好きだったけれど、本人が弾いている演奏を聴いて初めて全体の構成がよく見えた。こうしてつらつら思いつくままに書き出すと、案外ごく普通のクラシック愛好家の愛聴盤と変わらない気もするが、それを知って息子は果たしてどう思うのか。
対ドル為替は一時161円。米大統領選テレビ討論会で、バイデン大統領悉く不評。

6月某日 ミラノ自宅
フランス下院総選挙でマリーヌ・ルペン率いる極右政党「国民連合」躍進。最大政党となり、マクロンの与党は3位。
このところ、事あるたびに思う。我々はいま、1930年の少し前、今から100年前ごろの世界を追体験しているのではないか。作曲家たちが何を考えていたのか、何も考えていなかったのか。政治的に現在言われているのは正しかったのか、間違っていたのか、或いはそうせざるを得なかったのか。とどのつまり、自分は何を考えるべきなのか。若い頃、戦前戦後の逸話を読みながら、当時はどんな世界だったのかと想像を逞しくしていた。そして現在、半世紀以上生きて襲ってくる既視感は、本で読んだことのある一世紀前の世界の姿を、まるで追体験しているように感じるからだ。そう感じているだけならよいが、現実に追体験しているとしたらどうだろう。
市民のなかから、ナチスはどのように芽生えたのか、芽生えなかったのか。実際のところ、本心では、当時の社会をどう受け止めていたのか。本当に望んだのか、そうでなかったのか。どこかに恐ろしさを感じていたのか、無邪気に表面だけを見ていたのか。音楽家は政治とどう関わったのか、関わらなかったのか。綺麗ごとではなく、我々自身が今この状況をどう感じているのか。
ナチス傀儡政権下でフランス人は自身の文化の誇りをどう保ったのか、保たなかったのか。優れたインテリだったはずのムッソリーニは、結局イタリアの伝統文化の価値を正しく理解していたのか。カセッラやマスカーニやレスピーギは、それぞれファシズムをどう捉えていたのか。資料としてではなく、追体験を通して、我々自身が自分事として不可侵であった、当時の芸術文化活動を身をもって理解しようとしている。ローマ三部作の本来の意味も、今であればより現実的に感じられるかも知れない。
本で読みながら彼らは何を感じていたのかと自問していた部分を、我々は今、恐らく各人それぞれの思考をもって対処しつつあって、進むべき道を選択しつつある気がする。何が正しいとか正しくないではなく、イデオロギーだけでもなく、究極としてこれは純粋に各々の人生の選択なのかもしれない。
仕方なく世情を受け容れ、迎合した芸術家、市民も多かったに違いない。それを今、我々は追体験している。我々が歩んでいる方向は、全世界の人間が、ほぼ無意識に少しずつ舵とりに加担してきた結果なのだ。だから、それを覆すのは簡単ではないし、覆らないと思う。
自分は移民として外国にいるのだから、極端なナショナリズムには異議を唱えざるを得ないが、ナショナリズムが台頭する理由も、それに賛同する市民の気持ちも理解できないわけではない。実際自分の周りにいる人々は、こうしたポピュリズムを望んでいて、その結果が現在の世界を生み出している。尤も、民主主義といっても、文化や伝統に沿って、国ごとにそれぞれの形態をあらわすから、日本とヨーロッパの民主主義を凡そ比較するだけでも、内情は大分違う実感がある。正義を求めているのではなく、今まで自問してきた疑問を、自分自身で考え、答えを与えたいだけだ。そうやって、体内に溜め込んできた塵や澱を吐き出して身軽になりたい。まるで年代物のずっしりと重い外套を脱ぎ捨てるように。

(6月30日ミラノにて)

スラマット・リヤディ通りのパレード

冨岡三智

6月には天皇皇后両陛下のイギリス訪問があり、ザ・マルで馬車パレードがあった。今回初めて知ったのだが、ザ・マルは19世紀後半から20世紀前半にかけて建設された約930mの儀式用道路で、バッキンガム宮殿が終点である。王室の祝賀行事や国賓訪問でこのように馬車行列が行われるという。というわけで、今回はザ・マルに似ていないこともない、ジャワ島はスラカルタ市にある大通り:スラマット・リヤディ通りJl.Slamat Riyadiで行われるパレードの話。

スラマット・リヤディ通りはスラカルタ市を東西に貫く大通りで、オランダ時代からある。幅30m、全長12㎞、西から東への一方通行で、東の端がスラカルタ王宮正門前(グラダッグGladagと呼ばれる)である。ただし、バッキンガム宮殿のように道路の真正面に王宮が見えてくるわけではなく、道路の右手(つまり南側)に外壁の門があって、そこから広場を通過し内壁の門をくぐってやっと王宮の正門に至る。…と、ここまで書いて気づいたが、このスラマット・リヤディ通りを直進した先にあるのはオランダが18世紀に建設した砦(Fort Vastenburg)だ。正確に言えば砦の南西の角に行き当たる。この砦はスラカルタ王宮に隣接して、王宮を監視するように建っている。

まずはジャワ暦大晦日の夜に行われる、スラカルタ王家の宝物とそれに従う人々が巡回する行事。2020年9月号に寄稿した記事「ジャワ暦大晦日の宝物巡回」にも書いたように、そのルートはグラダッグから北上、続いて東に曲がって電話局を通りパサール・クリウォンの交差点から南下し、ガディンからフェテラン通りを西に進んだ後北上して、スラマット・リヤディ通りに出(確かパサール・ポンに出る)、そこから東へ進み、再びグラダッグに戻ってくる。

これを書いた時には意識していなかったが、この電話局前の道というのは上に書いた砦のすぐ北側を通る道である。そして、ガディンというのは王宮南広場前にある一帯(ここにガディン市場がある)のこと。というわけで、ここまでは王宮+砦の敷地の外側を北~東~南へぐるりと巡ったことになる。その後は王宮南広場の前の道をずっと西に向かったのち北上してスラマット・リヤディ通りに出るが、北上する通りは上の記事にある「確かパサール・ポンに出る」通りではなく、ヨス・スダルソ通りだとスラカルタ市のサイトにあった。私の記憶間違いだったようだ。そして、スラマット・リヤディ通りを東へ進んで王宮に戻ってくる。というわけで、このルートではスラマット・リヤディ通りを通るのは600~700mくらいで短いのだが、巡回のクライマックスと言える。

次にスラカルタ市民に親しまれているのは、断食月21日目になる夜に行われるマラム・スリクランと呼ばれるパレードである。断食も残すところあと10日となり、この日から夜店が出るようになって断食明けまでのカウントダウンが始まる。その日に王宮モスクからスラマット・リヤディ通りを西に進んでスリウェダリ公園まで約3㎞、王宮の人々や儀礼ガムラン、供物の行列があり、それに民間のイスラム歌唱団体などの行列も続く。スリウェダリに着くと供物が集まった人々に配られ、王宮のイスラム指導者によるお祈りがある。スリウェダリは元々はオランダ時代にスラカルタ王家により建設され、クボン・ロジョ(王の庭園の意味)と呼ばれていたので、王家ゆかりの施設である。今ではスタジアムにワヤン・オラン劇場、遊園地がある娯楽施設となっている。

ちなみに、このスリウェダリ公園の西側のブロックがスラカルタ市長公邸であるロジ・ガンドロンで、スラカルタ王宮からロジ・ガンドルンまでの間は高層建築を建ててはいけないとことになっていたと聞く。スラカルタのザ・マルに当たるのはこの区間だなあという気がする。

6月

笠井瑞丈

ハギとモギ
うちにきて六か月
初めての巣籠です
二人とももう一ヶ月近く
自分達の寝床から降りて来ません
二人は姉妹なので本当に仲良しです
いつもハギがモギのお腹に顔を入れ
ただ時間が過ぎるのを過ごしている
ハギが窒息してしまうんじゃないかと
いつもちょっと心配しているのですが
本人きっとそこが一番安心なんだろう
暖かいお腹の中に頭を入れていい夢を

二人は何をするにもいつも一緒です
たまに降りてきては一緒に砂浴び
そして二人とも一緒に寝床に戻る
二人はどんな感情を持っているのだろうか
二人の思考に入れるものから入りたいものだ
二人を譲ってもらった時も
二人一緒にという条件付きだった
二人を引き離すのは可哀想だということで
本当にその通りだった
今も二人一緒に暮らせて良かった

今週は金沢でワークショップとパフォーマンス
もちろんハギとモギそしてナギも連れていく
強制的に自分達の寝床から離れるので
東京に戻った時には巣籠も終わるだろう

巣籠は実は相当エネルギーを使うらしい
本当はなるべく早く辞めさて方がいいと言われている
辞めさせる方法を色々ネットで調べたのですが
色々試したけれどもどれも効果がなかったので
自主的に諦めるまで待つスタイルをとっている

自分の命を削って熱を与え
新しい命のため光を与える

なぜか巣篭もり中の顔つきは
不思議と力強い顔つきに変わる
生命的な力を身体から発するのだ
この年に数回しかないこの行為は
本当に神秘的な事だと思う
きっと人間には真似が
出来ない事だ
それもあんな
小さな身体で
と思うと
本当に
頭が




今日久しぶりに寝る前
本を読んでいたら
ナギが枕元に飛んで来た
これは嬉しいことだ
電気を消し一緒に寝る

朝起きたらハギ モギも枕元に
何かしら通い合うものがあるのだろう
それが生命というものだ
今日はいい一日になるだろう

仙台ネイティブのつぶやき(96)ハサミとのりで読む

西大立目祥子

1日の終わりに、新聞を広げて残しておいた方がいいなと思う記事を切り取る。そして、大きなクリアファイルにざっくりと決めたテーマごと、はさみこんでおく。これは主に仕事用。そのほかに、小さくてどこかに飛んでしまいそうな記事を、A5判くらいのノートに貼り付ける。このノートはマルマンの正方形のクロッキーブックで、紙はクリーム色、のりはトンボの消え色スティックのり。

小さな方は、シベリアの永久凍土から1万年前のライオンの子どもが見つかったとか、動物園でサイの赤ちゃんが生まれたとか、回転寿司は人生そのものだという投書だとか…私以外の人が見ても何の意味もないようなたわいもない雑多で細々したもの。でも、わざわざ切り取ったのは気持ちが動かされたからで、兄弟なのか凍土層から折り重なるように見つかったライオンは推定で生後一ヶ月だったという記事に、突然命を落としたのはなぜだったのか、はるか昔の寒々しい森でじゃれあう2匹を想像せずにはいられないからだし、小ちゃなサイがお母さんを見上げながらそっくりの格好で走る姿は生きるよろこぶにあふれているからだ。逃した寿司皿を一巡してめぐってきたときにゲットする達成感や、先に誰かに取られてしまった絶望感を記す投書は何度読んでもクククと笑えて、煮詰まった頭に風をとおしてくれるようだ。

イラストやカットも貼る。投稿の写真も貼る。選び取ったのは小さなひらひらした新聞紙の破片に過ぎないのだが、貼り付けると細切れの紙が固定化されてつながって、記事がたまった先には、親しみに満ちたじぶんの世界ができ上がっていくような気がする。

そもそもハサミやカッターで新聞紙を切り抜き、のりを付けて紙に貼るという行為が好きなのだと思う。振り返ってみると、スクラップ初体験は9歳のころ。新聞に連載されたサザエさんの4コマ漫画をノートに貼り付けたのが最初だ。じぶんで思いついたのか周りの大人がアドバイスしてくれたのかわからないけれど、無地の白いノート1ページに2日分を貼り、子どもながらにそれだけではつまらないと感じたのかマンガのまわりをクレヨンのカラフルで素朴な罫線で囲んだ。チューブ入りのヤマト糊を使い、ノートはたしか近所の店でもらった景品。デカデカと商品名が書かれた表紙がいやで、カバーでおおいクレヨンで「サザエさんマンガ①」とタイトルを書いた。これで1冊でき上がり。大人の読む新聞からマンガ本ができあがっていくおもしろさを感じたからか、本棚には5冊か6冊たまり、ときどき取り出しては読んでいた。

それからずっとスクラップ道を歩んできたというわけではないが、つくりたいと思った料理のレシピはけっこう長いこと貼り付けている。まぁ、つくったのは1割に満たないけど。でも好みの料理の輪郭は見えてくる。これが料理か?と思えるくらいのシンプルなやつ。豆腐をくずして炒めるだけとか、カボチャの煮物とか、でもそこにスパイスを効かせると別物になる。豆腐はごま油で炒めカボチャは八角と煮るという具合に。どちらもウー・ウェンさんのレシピだ。

スクラップが再燃したのは、一昨年、多和田葉子さんの新聞連載小説が始まったときである。予告でタイトルが『白鶴亮翅(はっかくりょうし)』と知って胸が高鳴った。太極拳をやっている人ならすぐにわかる、右足に体重を乗せ、左の手のひらを地に向け、右手を鶴の翼のように高々と上げるあの型。ちょうど私は太極拳5年目で、だれもがマスターする24式という太極拳がひと通り身についたころだった。

始まってみると、小説はベルリンを舞台にした太極拳サークルの人々の話であり、溝上畿久子さんという人の挿画も版画のようなタッチで反古にするのは惜しい気がして、スクラップを思い立った。でも、横長の記事を貼るような大きなスクラップブックにはしたくない。
作者には悪いけれど、印象に残った文章を数か所切り取り、挿画と合わせていつもの正方形の小さなノートに貼ることにした。

40回目を数えるあたりから、ノートにただ新聞を貼るだけでは物足りない気がしてきて、新聞紙のカラー刷りの部分を手でちぎったり、ハサミで切り取ったりしてコラージュ風に張り込んでみた。考えてみればサザエさんのマンガを色とりどりのクレヨンの線で囲んだのと同じ発想だけれど、色紙を貼るとただのスクラップの紙面が作品にも見えてくる。

60回を数えるあたりからはだんだんノッてきて、朝新聞を広げると、まず小説を読み挿画をチェックし、さてどの紙面のどのカラー印刷部分をどんなふうに活かそうかと考える頭になってしまった。太極拳サークルのチェン先生は長春生まれのかわいい人で、玉ねぎのようなてっぺんがとがったヘアスタイルで登場する。その挿画のわきにはローズピンク色の紙面を玉ねぎ型に切り抜いて貼った。なかなかによい。ヒロインが隣人と第二次世界大戦の死者の話をした日は、薄緑色の中から光が漏れているような模様の紙面を割くように切って貼った。緑色は救いの色のよう。サークル仲間の女性が赤いセーターで描かれた日には、新聞をめくって赤い部分を探し出し丸く大きく切り抜き貼った。これは友情の証のつもり。

毎日やり続けていると、つぎつぎいろんなアイデアが湧いてきて、シニア向け広告のブラウスの柄を幽霊の話に使うとか、きれいな青空を細い羽のように切って「一羽の鶴のように人間の愚かな争いを空から見て」という文と挿画の上に重ね張りするとか、ますますおもしろくなっていく。通販のお菓子や牛肉、魚介の広告のアップの写真なんかも、ヨーロッパの複雑な民族の話や深いグリム童話を思わせる森の奥のお菓子屋の話に陰影を与えてくれて、かなり役に立つのだった。

ところで、チェン先生の太極拳の教えは、私の先生とまるで同じだった。太極拳は踊りではありません、武術なのです。おへそを上に向けるように立って。腕だけを使うのではありません、足の力を全身に引き上げるように使って…。そして、休んでも大丈夫です。繰り返し何年も練習しますから、というところまで。もちろん、チェン先生の太極拳の説明も切り抜いて貼っておいた。スクラップは太極拳指南書にもなったわけである。

だが、170回目をこえたところで、スクラップは止まってしまった。2年前の7月末、母がコロナに感染し介護していた私もやられ、母の住まいで半月の隔離生活を余儀なくされたためである。疲れ切って自宅に戻ると、家人が「楽しみにしていた連載小説は終わったよ。新聞はとっておいたから」というではないか。見るとテーブルの上には新聞紙がうず高く積み上げられている。なんだかまるでシューっと音をたてるみたいに、小説、挿画とのコラボスクラップ熱はしぼんでしまったのだった。

とりあえず切り抜きして終わりまで読んではいたのだか、クリップの束のまま2年。本棚の隅にしおれたようになっていた切り抜きが不憫に思え、この6月にわかに再開した。177回目より、一日一話ずつ188話まで。2年のブランクは大きく、アイデアは何にも沸かずいまいち冴えない紙面の仕上がりである。

それでも187話には力を入れて、新聞紙とにらめっこしきれいなブルーを探した。『罪と罰』に登場する金貸し老婆と同じアリョーナという名の太極拳仲間が、資産目当ての若い恋人に後ろから火かき棒を振り下ろされそうになる場面。アリョーナの身体は無意識のうちにすばやく動いて白鶴亮翅の技を繰り出し、大きな羽のように広げた腕で若い男を振り飛ばすのだ。鳥の翼の形に切った青い紙を挿画を取り囲むように2枚貼った。

白鶴亮翅で後ろからの攻撃をかわすとは。練習を重ねていけば、いつかそんなふうになれるんだろうか。スクラップはようやく完成し、丸々2冊ができあがった。こんなふうに手を動かしながら小説を読んだのは初めてだ。しかもチェン先生の教えも生きている。うれしいことがもう一つあった。スクラップが完成したあとの太極拳の練習で、初めて先生によくなってきたよ、とほめられた。

時の間とことのあいだの

北村周一

はじまりは点描にしてまたひとつ見るよりはやく落ちてくる雨

点描はことのはじまりあわくして絵ふでのさきにともす眼差し

ぽつりまたぽつりとひらくつかの間を雨と呼びあう窓べの時間

ひぐれのち雨の気配はカンヴァスにありていろ濃くたわむ空間
 
 
ひとりごとうつし出すごと人かげは窓べにありて雨待つごとし

日のゆうべ絵を描くまでのときのまを映しだすごと裏窓はあり

愁いつつ外の面みやれば日の昏れを駆け寄りきたる雨という声

ふかぶかと窓のめぐりに夕かげはくだり来たれり雨呼ぶごとも
 
 
なにごとか思い出すごと日は落ちて雨の匂いにしずむまなざし

黒い雨を降らせることもあるらしき雲にまぎれて浮かぶ灰いろ

さまざまのいろの雨降る唐突をそらに見上げて逃げまどう日よ

空間にほつりほつりとふる雨のかげしろくしてたちまちに消ゆ
 
 
線描はときのはじまりまたひとつ追いつ追われつ絵筆に乗せて

終わりへの兆しもとめて過ぎゆきは線となりつつこの世を繋ぐ

絵ふで手に問いつ問われつかさねゆく線の数かず筆触ともいう

限りある過ぎゆきにしていっぽんの線の終わりを絵筆にむすぶ
 
 
時の間に隠れみえする線描の 線のかずだけ時雨ふる雨

雨淡き圧もてひとつまたひとつ水のおもてにひらく点描

みずの面に雨の滴のかげりたち 線から点へ点から円に

空間はそらの広さを省みて恥じ入るごとも雨をうらやむ
 
 
みたされしものから順にこぼれ出す雨という名の後さきおもう

塗りのこしにわかに失せて雨音の変わりゆくみゆ しろき雨脚

絵は音に音は絵となるひとときをうたい出したり雨垂れのごと

ひとすじの雨の奥行きてのひらに包まんごともデッサンをとる
 
 
描線を雨に見立てて仕上げゆく 彫り師の腕のみせどころ見ん

不意の雨にさやぎ立ちたる充実は摺り師の腕のみせどころなり

夜の灯の明りもとめてしぐれ降る雨のめぐりに浮かぶみち行き

離れ見ることの大事を説くように窓辺はありぬゆう暮れいろの
 
 
ちちいろの雨降るなかに差し出せる中指はけさ突きゆびしたて

時の間とことのあいだのつなぎ目を労るごともハミガキするも

重力のおもし解かれてすみやかにそらに閉じゆくひとすじの雨

くだり来てかなた遠のくひとすじの雨とは蓋しヒカリのうつゝ

愛とお金は奪い取るもの

さとうまき

今回の旅の目的は、わずかな遺産が私にも巡ってきたので、そんなものは役に立つように使ってやれと思いアレッポの小児がんの子どもの治療費と、最近しつこくお金をせがんでくるダラアのマフムードの手術代に当てるつもりでいた。

マフムードは、24歳になっている。13歳の時にシリア内戦で左腕を無くし、内臓も破裂すると言う重症を負った。彼は流暢な英語で 度々手術が必要だと言ってお金をせがんでくることがあった。多分翻訳ソフトを使ってるのだが返信が早い。いつの間にか彼は大人になり生き延びる術を身につけていたのだ。ともかくしつこくお金を要求してくる。根負けして送金しても金を受け取っても連絡してこない。だからそういう態度には少しイラつく。

シリア人からも彼に対する悪い噂が聞こえてきた。麻薬に手を出していると言う。私も相手にしないようにしていた。いいところもあって、近所のガンの女の子のために人肌脱ごうとしてお金を要求してきた。ところがマフムードは、女の子をバスに乗せてダマスカスの病院に連れて行き、タクシーに乗ったことにして差額をポケットに入れてしまったのだ。僕はもうウンザリしてしまった。

今度は、お腹に腫瘍ができた。検査したので150ドル送れと言う。放って置いたら検査結果に関しては何も連絡はなく、いつの間にか足が腐ってきた手術代が必要だと言う。僕はもう彼とのやりとりにはウンザリしていたが、腐ってきた足の写真を見てさすがに可愛そうになり,.シリアに行って彼をとっ捕まえてその場で病院に連れて行って足の手術をさせて医者に直接お金を渡そうと考えたのだった。

ところが、こともあろうに僕はイスタンブールでスリにあってしまい全財産を無くしてしまった。シリアに行く金もなくなり帰国するしかなかったのだ。マフムードはしつこく連絡してくる。
「ごめんね。スリにあって全財産取られちゃったんだ。君に払う金はないんだ」
「それは、大変だったね。でも僕は150ドル欲しいんだ。いつ送ってくれる?」

無視するとしばらくたって、「元気かい」とメッセージが入る。
「今度は母が脳梗塞で入院して大変なんだよ」
「それは大変だ! 君のお母さんが早く良くなるように。ところで僕は手術しなければいけないので150ドルはいつ送ってくれるんだい」
こいつなんてやつなんだろう。メッセージのたびに必ず添付してくる足の写真は日増しに腐ってきている。ここまで酷いんなら近所のシリア人が少しづつカンパすれば大した金額じゃないのになんで誰も彼を助けないんだろう。謎は深まるばかりだ。

ともかく私は一文なしになってしまったので、俺の金を盗んだ奴がどこかでマフムードのことを聞きつけて手術代を出してあげて欲しいものだ。

アパート日記6月

吉良幸子

6/6 木
まず出稼ぎ、半休取ってこの前道端で知り合ったおばあちゃんちへ着物もらいに行った。部屋へ案内されてびっくり、でっかいピロスマニ展のポスターが貼られているではないか!!むっちゃ好きなんですよ!と興奮気味に言うたら、私も好きで岩波ホールに何度も足を運んだわとのこと!道でたまたま声かけてくれはったおタカさんとはびっくりする程共通点が多い。おもろい縁やなぁと思う。おてんば話を小一時間聞いて、友達と私と2枚の着物と帯1本をそれぞれいただいた。
おタカさんとこを出てそのままさばのゆの吉坊一人会へ。店主が急に亡くなったのもあり、半年ぶりの開催でお馴染みさんでいっぱい。この前、本の市した時に来てはった方がたくさん来てて私もひとりぽっちじゃない感じやった。会の後、急にあっちへ行ってしまった須田さんへみんなで献盃。さばのゆでの一人会は続けるらしく、また来ようと思う。

6/12 水
下駄が欠けた。通勤で自転車乗り回してたのが悪かったんやと思う。直せるのか分からんけど品川の下駄屋へ朝から持っていく。ほしたら、ここだけ直すのはできんから台替えるしかないと言われて新しい台を選んだ。たった数ヶ月でぼろぼろにして可哀想なことしてしもた、堪忍してや。落語に出てくる桐の畳表があって、うわぁ贅沢やなぁと見てたらさすが商売人、若女将がこんなんありまっせと夢にまで見た台を手にニッコリしておる。素足で履いたら気持ちええですよと言われて、じゃあそれにします!と言うてしもた。お金もないのにこんな時だけ決断力がある。落語に出てくるケチは、この桐の畳表を丁寧に履いて、平らになったらノコギリ入れて八ツ割で履く。それもすり減ったら畳表は外して鍋つかみ、鼻緒は羽織の紐にして、台は釣りの浮きを彫って釣具屋に売りに行くらしい。浮きまではいけへんやろうけど、今度はもっと長~く履けるように大事にしようと思う。
品川から御茶ノ水へ。炎天下の中歩いて古書会館でやってる佐野繁次郎の展示を見に行った。甲賀さんが装丁集を持ってはって、見た時力強さにびっくりした。今回の展示では初めて原画を見れて更に感動した。どれもこれもかっこええ。
明るいうちに帰るとざこばさんの訃報が入ってきた。もう言葉にならん。去年、動楽亭に行った時に運よく久しぶりに高座に上がってきはったんやけど、生きてるうちに顔見れてほんまによかったと思う。そん時も呼吸がしんどそうで、出てきてすぐ、今日は落語しまへん!と代わりに肋骨が折れた話しはって大いに笑った。落ち込んでもしゃーないし、風呂いこかと思ったら、献盃しなくちゃ!と公子さんが言う。ほんまや、酒は冷えてるか、冷えてないやないか!と、酒だけ冷やして風呂へ行く。一升瓶から一合ずつ冷やして、今夜はこれで我慢ネ、というのがアパートのスタイル。帰ってきてすぐ台所で一杯、公子さんと献盃。それも立ったまま。今夜はもっとゆっくり呑んでーやと大酒飲みのざこばさんに言われそう。

6/15 土
今日はおかぁはんが上京してくる日。明日のいわと寄席を目当てに遊びにくる。出稼ぎをさっさと終えて帰ろうと思ってたんやけども、こんな時に限って携帯に電話が入る。出てみたら「ニシンです!」と。この前着物くれはったご婦人、おタカさんや!ニシンっちゅうのは、鳥取で美味しい魚を食べて育ったおタカさんが、上京して初めてニシンを食べた時に「これは死魚や!」と言うて周りから袋叩きにあったという逸話からついたあだ名。仕事終わりにちょっとだけ寄って、とのことで断り切れずに約束した。
仕事中にはお馴染みさんが着物の山を持ってきてくれはって、みんなで山分けしてねとのこと。ありがたい。ご自身も着物で来てくださってかわいかった。そして夕方から店に取材が来て仕事も長引く。その後にはニシンさんとこへ行って、ピロスマニの話で盛り上がる。こんなとこでジョージア話ができるなんて夢にも思わんかった。
そんなこんなで結局おかぁが待つ旅館に着いたのは夜の22時過ぎ。長い長い1日やった。

6/16 日
いわと寄席、金原亭馬久さんと林家きよ彦さんの日。
毎月やってたいわと寄席は一旦今回でおやすみ。ほんま、さみしいなぁ。

6/19 水
末廣亭夜席へ。今日は私にとってはお得な顔付けやった。桂二葉さんはなんだかんだ初めて。甲高い声と関西弁で捲し立てたら分からんと東の人はよう言うてはるけど、想像した程には早ないし私にはよう分かった。やっぱし上方の落語は言葉がええなぁ~聞いてて楽しい。ねづっちも初めて高座で見た。新橋の喫茶店でたまたま隣に座ったことはあるけど。小痴楽さんも代打で出てはって2倍増しなお得感。やっぱりうまい。ほんでほんでお目当ては松鯉先生!出てくるだけで嬉しい!!今日もにこにこええ一席やった。でもいつも5時起きやし肝心のトリの時間は猛烈におねむで、桟敷で軽~く船漕ぎながら、ごめんやで~。

6/22 土
この前の土曜に、先週待ってたのとニシンさんから言われたので一応電話してみる。ちょっとおいでということになった。ほんまにちょっとだけ寄って帰るつもりやったんやけど、話してるうちにニシンさんも川島雄三を好きなことが発覚!もう完全に趣味一緒やんかいさ!!!あの映画良かったよね~とかあの俳優誰だっけな、とか思いがけずめちゃめちゃ盛り上がった。ほんで、幕末太陽傳の石原裕次郎は下手だったよねぇ~と散々裕次郎の悪口でもうひと笑い。古い映画好きで良かった、こういう時ほんまに楽しい。夕方には帰るはずが気付いたら夜まで喋っておった。帰る前に私が唯一持ってなかった川島雄三の本をもらう。今まで何度も読み返して大事に取ってた本らしくありがたい。

6/25 火
夜、家へ帰るのに駅から歩いてると、うちの一本手前の道で見慣れたツートンの猫に遭遇。あら、ソラちゃんですか?と声かけたら、え!?もしかしておねぇちゃん?って顔して寄ってきた。外でも分かるんやね。着物ででっかい猫抱えて家まで帰った、変なの~。

6/28 金
しまい込んでた草履ほど壊れやすいっちゅうことを実感した日…。
出稼ぎ先のお客さんにもろた草履を履いて出勤。いかにも長年使ってませんでしたという感じの、茶色のぴかっとした草履で、雨の日に適当に履くのにちょうど良さそうと思ったんやけど…もう電車の中で立ってるそばから接着剤の取れるねちゃって音出してる。乗り換えの駅に着いて階段降りてたらまず右足の台がぼろっと取れた。朝早うて眠たいし耳は落語聞いてるし、ぼんやりして何があったか分からんとそのまま階段を降り切ったら、なんか左右の足の長さが変わったらしい。もう階段まで戻るには人の波がすごくてそのまま乗り換えのエスカレーターへ。そして次のホームへ着いたところで左足の台もめでたく取れた。さすがにそん時には目が覚めてるし、左の台だけは回収して、足を見てみると鼻緒つきの天生地だけ。よく見ると鼻緒が台を通さず天生地だけに付いてて、鼻緒付きの生地を台に接着剤でつけとっただけ。なんやこれ、そりゃ取れるやろ!!!文字通り、地面に鼻緒をすげたみたいなうっすい草履の残骸で目的地の駅までがんばった。裸足で歩いてるみたいに足裏で地面を感じる。駅からは自転車で、カゴに入れてた自転車用にしてる下駄に履き替えて事なきを得た。取れた右の台は回収できず、変なもんを駅に落としてきてしもた。すんまへん…。

本小屋から(9)

福島亮

 久しぶりに朝早く目覚めたので、白む空を見ながら軽く散歩をすることにした。外に出ると、湿気をまとった空気に包まれる。風は吹いているのに、大気はもったりしている。亜熱帯の空気を感じながら、7年前、初めてマルティニックを訪れた時の朝の景色が記憶の底からじわじわと甦る——就寝前につけたレモンの香りの蚊避け蝋燭がまだ灯っていて、部屋の隅で仄かな光が揺れている。目を覚ました私は、その光を蚊帳の内側からぼんやり眺める。やがてスコールが屋根を打ち、建物に穴があくのではないかと思うほどの轟音が響く。だがそれも5分もすれば静かになって、寝る前からずっと聞こえていたはずの蛙の鳴き声が再び聞こえてくる。蛙といっても、親指の爪よりも小さい極小の蛙。笛のような高音を奏でるから、私の耳にはヒグラシの蝉時雨のように聞こえる。身を起こし、冷たいタイルの床にそっと足をつき、綿のシャツを着て家を出ると、微かに空は白んでいて、隣家の犬や野良の鶏が濡れた草の上ですでに活動を開始している……。

 多摩川の岸辺に出る。早朝ランナーが2、3人。それから、魚の観察でもしているのか、浅瀬に入って何やら話し合っている人が3人。シロツメクサやムラサキツメクサが広がっている。石ころと花のあいだを歩きながら、東中野ポレポレで観た奥間勝也監督「骨を掘る男」(2024年)のことをぼんやりと考えていた。沖縄戦遺骨収集ボランティアとしてガマを掘る「ガマフヤー」具志堅隆松さんを追ったドキュメンタリーだ。冒頭、真っ暗なスクリーンにガマの闇と小さなライトの光が映る。井戸の底を覗き込むような怖さと苦しさが込み上げてくる。その闇のなかに、80年近くにわたって弔われることなく置き去りにされた人々がまだいるのだ。具志堅さんは小さな道具を用いて慎重に土を掘る。もうずいぶん深く掘っただろうに、と思った途端、瑠璃色の茶碗のかけらが出てくる。たしかにそこに人がいた痕跡。傷つけないよう細心の注意を払って掘り出される遺骨や遺品の数々は、彼らがどのようにして死なねばならなかったのかを言葉すくなに語り始める。片方だけ脱げた靴、かんざし、ひしゃげたキセル、乳歯。

 私が「骨を掘る男」を観ようと思ったのは、南部土砂問題に関心を持っているからだ。来年で戦後80年になる。だが、土を掘ればいまだに遺骨が出てくる。遺骨の収集がまだできていない土を削り、石灰岩を掘り起こし、それを辺野古の埋め立てに使う計画が進行している。「骨を掘る男」のなかでも取り上げられているように、DNA鑑定による遺骨の身元特定を厚生労働省が行なっているが、埋め立て用土砂に遺骨が混ざってしまった場合、その身元は永遠にわからなくなるだろう。そもそも、地上戦が行われ、おびただしい砲弾が撃ち込まれ、幾人もの人々が殺された土地を掘り返し、米軍基地移設の土台に使うことがどうして許容されようか。そのような死者の尊厳の蹂躙に加担する仕組みのなかにいることの後ろめたさを感じる。

 じつはカリブ海でも奴隷制時代に埋葬あるいは遺棄された奴隷の遺骨の発掘が少しずつなされている。もうしばらく前になるが、人々が海水浴を楽しむ浜辺の下、数十センチのところから奴隷の遺骨が発掘されたこともある。もっとも、古いものとなれば300年以上前の遺骨だから、どれほど精密な科学的分析が可能か私にはよくわからないのだが、やはりDNAの分析は行われている。会ったことのない人、しかし、たしかにそこにいた人に辿りつく、ほとんど最後の手がかりが遺骨だ。南部土砂問題の向こうに、私は微かにカリブ海の砂浜を透かし見ている。

 「骨を掘る男」は東中野ポレポレで7月中旬頃まで上映される予定だという(https://pole2.co.jp/coming/65f2f7eca236de71aef20d99)。北海道シアターキノ、宮城県フォーーラム仙台など、全国の映画館で上映されるそうだ。

言葉と本が行ったり来たり(24)太陽がいっぱい

長谷部千彩

こんにちは。六月最後の週末、海辺の部屋でこの手紙を書いています。昨夜の大雨のせいで今日は雲が多く、あいにく太陽は見えないけれど、十分すぎるほど明るいのは、眼前に広がる海に光が反射しているから。むしろ眩しすぎず、読書にはうってつけの日よりです。
この場所へ通い始めて半年が経ちますが、滞在の目的はバルコニーに椅子を出して、のんびりと海を眺めること。そして波の音を聞きながら本を読むこと。小さなボリュームで音楽を聴くことも楽しみのひとつです(時にはうたた寝も)。辺りを散策すれば、史跡名所や洒落たショップなどいろいろとあるようですが、ひとの多い東京で暮らす私には、海しか見えないこのバルコニーで過ごす時間が何よりの贅沢。日が昇り、日が沈むまで、できる限りここに座っていたいのです。
ひとつ発見したのは、私にとってリラックスできると思っていた曲が、ここで聴くと意外とテンポが早く、緊張感のあるものだったということ。波のゆらぎの前では、それらが都会の音楽であることを認めざるを得ず、同時にそれらを安らぐと感じるほど速度のある街で私は生活しているんだなと改めて気づかされました。
でも、だからといって、こちらのほうが、とはならないのですが。やっぱり私は都会の暮らしを愛している。海辺の部屋に滞在しながら、頭の片隅で東京に戻ったらあの美味しいお蕎麦屋さんに行こうとか、あの美術展にはまだ間に合うかしらと考えてもいる。先ほどバルコニーで過ごす時間が何よりの贅沢と書いたけれど、正しくは、文化をたっぷり享受できる場所と自然をたっぷり享受できる場所、その行ったり来たりが私には何よりの贅沢ということなのでしょうね。随分と平凡な結論になりました。
ちなみにいま聴いているのはパブロ・カザルスのバッハ 。無伴奏チェロ組曲です。ここ数年、クラシックはコンサートホールでしか聴かなくなっていたけれど、この部屋ではまたアルバムをあれこれ聴くようになりました。
東京へは今夜戻ります。それまでパトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』を読むつもり。トム・リプリーの最後が映画とは違うと知り、原作を買ってみたのです。まだ前半で、彼らは船出さえしていないけれど、既に映画と違う描写が多々あり、これをああいう風に脚色したのかと興味津々でページをめくっています。東京では人文書ばかり読んでいる私ですが、この部屋では小説をよく読んでいます。作家の方々には申し訳ないけれど、小説って心に余裕がないと楽しめないものかもしれません。

2024年6月29日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(23)『歳月がくれるもの』ふたたび 八巻美恵

果実の身代わり

イリナ・グリゴレ

暴力の泉があるとしたら、山の森の奥にまだ誰も歩いたところに、黄色い岩から流れる黄色い水のようなものだ。傷がついたとき最初に出てくる鮮やかな血ではなく、血が止まった後の黄色いリンパ液のようなものだ、と彼女は想像していた。樹皮を包丁で削り、木にハートの形を刻み込む村の恋人たちを嫌っていた。自分達のイニシアルを刻み付け、それをハートで囲むあの人たちは、永遠の愛を得ていると勘違いをしているだけで、永遠の愛とは人間同士だと難しい、彼女はそう思った。木から出る黄色い液体を彼女は指ですくって食べて見たことがあるけれど、愛の味など感じたこともない。焼きたてパンと果物の方がよほど愛の味がする。樹液は数何千万年もの時間を経て宝石として採掘されると村の図書館で読んだ。最高級の石はハエ、 ハチ、アリなどの昆虫が中に閉じ込められたものだとあって驚いた。

樹液を毎日舐めていた9歳の自分はカブトムシとアリの身代わりになって、それはとても腹心地のいい満足のできる食べ物だと思っていたが、まさか食べている樹液に逆に食べられるなど一度も考えていなかったので恐れを覚えた。けれども同時に何千万年もアリの姿のままであの液体に閉じ込められ、宝石に磨かれて人間の首を飾るイメージはあまりにもおかしかった。本の中でしか見たことないが、あの虫入り琥珀の中のアリがまた動きだしたりしないか何度も確認した。目を逸らした瞬間にまた動くのでは、と。アリを殺すと悪いことが起きると思っていたから、樹液に殺され地中に埋もれていくあのイメージが頭から離れなかった。そう、彼女の生まれ育った村には暴力が溢れていたといつ気づいたのか。目の前で犬が撲殺された時か。いいや。飼っていた白いウサギは野苺のように赤い目玉をしていて可愛かった。ウサギは何匹も飼っていた。毎朝新鮮な草と木の枝をとってきて食べさせていた。たまにもふもふのウサギが毛皮になって洗濯物のように物干しにぶら下がっていた。野苺の眼がもう空っぽになっていると気づいて、命が入ってなかったとわかった。

彼女の村、彼女の世界は命で溢れていた。しかしあの樹液がアリを包み込み殺していくように、地球が同時に暴力で溢れていることに小さい頃から気づいていた。6人兄弟だったので貧しい家族の中で産まれたとも気づいていた。それでも牛を飼って、ヤギを飼って、鶏を飼って、うさぎを飼って、村は果実で溢れていたので食べ物に困ることはなかった。姉は16歳で結婚してすぐ妊娠したので、姉のために毎日下の弟と釣りに出かけていた。そんな人生、貧しい暮らしだったがそれを苦しいと思ったことはなかった。夏になると果実を食べることが一番の楽しみで、川に弟と向かう途中他人の庭に二人で入りこみ、少しだけ食べた。その家の人に気づかれたことは一度もなかった。これも小さい時から観察している虫から学んだことだった。自分と弟の気配を消す技だ。さくらんぼの季節にお腹いっぱいさくらんぼを食べた後で気づく。さくらんぼの中にたくさんの幼虫が入っていたこと。ラズベリーの中にカメムシがいたこと。

人間であっても彼女には虫から習うことがたくさんあった。大好きな果実の食べ方もその一つだった。虫は小さいから少ししか食べないと思われがちだが、実はわざとそうしているのだ。杏の実が庭に落ちている。拾ってみるとまだアリがついている。ハエもたかっている。他にも色々な虫たちがその実のところにやってくる。そして、どの虫も少ししか食べない。わざとたくさんの果肉を残し、他の生き物にもその庭、その土の美味しい実の甘さが届くよう、みんなとその味と喜びを分けている。果実は人間だけのものではない。それに、人間と違って虫の間には暴力という考え方がない。最後に人間は果実を収穫してジャムを煮たり果実酒に漬けたりするが、その前にたくさんの虫がその味を確認していたのだった。

虫と同じ気分で果物を食べ始めたら彼女は一度も大人に見つかることがなかった。虫の時間と動きで行動していたら、虫がカムフラージュするように、村のどこの家の庭に入って果実を食べても誰にも何も言われなかった。弟は彼女を太陽のように見ていた。いつも美味しい木苺、プラム、さくらんぼ、ナッツをくれる姉。彼女だって弟を小さな可愛い虫のように見ていた。彼はとても目が青くて、金髪で、まるで女の子のようだった。気が弱くて泣き虫で、守るべき存在だった。彼女も金髪だったが肌は日に焼けて黒かったし、草むらに入り、木の上に登り、膝や肘がいつも傷だらけで、まるで男の子のような格好だった。釣りも村の誰よりも得意で、自分は女の子だと思っていなかったかもしれない。いつも穴が開いっていたタンクトップと短パンで、髪の毛も短い。目の色は弟の青空の色ではなく、灰色に近い色だった。同年代の男の子よりネズミ狩り、釣り、木の実の知識、土地勘が優れていた。ただし、欲するままに取りつくすことは許せないのだ、と観察していた虫たちから教えられて覚えたので、自分と弟の食べる分しか取らない。

けれども、この幸せな暮らしは長くは続かなかった。ある日、彼女は泣く弟に腹を立てた。お腹が空いていた彼はもっとラズベリーが食べたいといつも入っていた空き家の庭で喚いた。彼女は代わりにモモをあげた。でも弟は泣きやまず、アリが食べていたそのモモを地面に投げつけ、足で潰した。モモのなかで食べているアリも潰された。彼女はこれをあまり良い兆しではないと一瞬で覚ったけれど、何もすることができなかった。それでも川に行ったさきでフナがたくさん釣れたことに気を取り直し、二人で牛と一緒に川に入り体を洗った。そうしたら、川から上がった後で彼女の腕に人生で初めて見たと思うほどの大きなヒルがついていた。それを見た弟はいきなり大声で泣き始めた。その声に彼女はびっくりして自分の身体を見ると、腕だけではなく身体全体にびっしりとヒルがたかっていて、自分の血が全部吸い込まれるのではではないかと感じたほどだった。落ち着いてくっついたヒルを一匹ずつ引き剥がして川に捨てた。何日間も皮膚に跡が残った。首と耳の下には一生消えないアザになった。小さな虫のようなものたちは暴力的ではないと思っていたけれど、あのヒルのせいでこの地球の全ての生き物が暴力的なのではないかと疑うようになった。そうだ、果実を食べていた自分はヒルの果実の身代わりとして食べられたのだ。

彼女にとっての本当の暴力がその後の人生から始まった。しばらく近寄りもしなかったラズベリーの庭に弟と再び入ってみた。すると家の中から音が聞こえ、窓を見ると家に一人の老婆が椅子に腰かけたままじっと座っていた。よく見ると足に怪我でもしたのか、象のように腫れ上がっていて皮膚も半分ほど腐っている様子だった。老婆は大柄な体つきで、椅子から何百年も動いてないという印象だったけれど、急に頭を動かして窓のほうを振り向いたのでびっくりして逃げようとした。そしたら背後にも誰かがいてぶつかって転んだ。弟が泣き始めた。高校生くらいの男の子が、家の中にいる老婆と同じようなメガネをかけ、その目で彼女と弟を見つめていた。

後でわかったことだが、その人物はあの女性の孫で、夏休みにいつも村に遊びに来ていた若者だった。何より驚いたのは、彼は彼女と弟が庭で果実を食べに来るのを知っていて、いつも見張っていたのだった。その家はそもそも空き家などではなく、足が腐ったおばあちゃんの住処なのだった。彼女が患った足が腐る病気は砂糖の取りすぎで、なにか難しい名前の病気だったので、「あなたたちも果実を食べすぎると病気になるよ」と言われた。でもたまに遊びに来て、と彼は寂しそうに誘った。彼女は初めて街の人と会って、砂糖をほとんど口にしたことのない二人に彼はチョコレートをくれた。彼女が止める前に弟はチョコレートを口に運び、口の周りを真っ黒にして、笑いながら美味しい、美味しいとあたりを飛び回って喜んだ。

彼女は怒って、喜ぶ弟を連れてすぐその庭から逃げた。もうすぐ秋で、夏の果実の季節も終わりに近づいて、入れ替わりにクルミ、トウモロコシ、ブドウの季節がやってくる。そしたらもうあの庭にいく必要はない。あの若い男性もとても恐かった。彼の周りはガとスズメバチが飛んでいるような暗い雰囲気があった。たまに村の唯一の店まで父親のタバコを買いに行った時に見かけたが、彼女を変な目付きで見て、チョコレート、角砂糖、飴など甘い物をくれようとする。すぐ逃げた。

ある朝、ヤギと牛のミルクを絞ってバケツに集め、煮沸消毒する手伝いのために弟を探すがいくら探しても周りにいない。牛の乳から直にミルクを飲むのが好きな弟は、普段なら近くにいるはずだが、その日は姿が見当たらなかった。半日経ってもいつも遊ぶ周りにさえいないので探し始めたけれどどこにも姿がない。最後に思いついたのはあの家だった。近づけば近づくほどたくさんのハチに刺されたように皮膚にブツブツが出ている気がした。庭から弟の声が聞こえたような気がして急いでフェンスをよじ登って乗り越え、家のすぐそばに降りた。そして窓から家の中を覗くと、ベッドの上で太った女性が死んだように寝ていた。足の傷から滲む血のせいで白いシーツが汚れていた。

彼女は気分が悪くなり吐きそうになったが、その後で目に入った光景が人生で一番恐ろしいイメージとなった。物置から声が聞こえ、すぐにそこへ向かった。中に入ると裸にされていた弟が泣いていた。彼の後ろにはメガネを外した汗だらけのあの街からきた高校生が興奮したような鬼のような形相で立っていた。床には溶けた飴が落ちていて、埃まみれのそれを食べようとアリがたかって黒く固まっていた。彼女は声を出そうとした。あのときもし声を出すことができていたら、その後はもっと違う人生となっていたはずだと何度も思った。でもその時は口を開けても声が出なかった。半分開け放ったドアに虫のようにぶつかって逃げた。弟を家に連れ帰り、祖父にあの家に行くように伝え、その後爆発のような光を脳裏に感じた。

彼女はしばらくの間言葉を喋れなくなった。大好物の果実を食べることもできなかった。ただただ、石に潰されるアリのように自分のその後の人生に潰された。姉と同じ16歳で結婚し、村の店で働き、夫の暴力を毎日受けながら子供を3人産んだ。彼女の願いはあの男が死ぬこと、それだけだった。あの日の出来事が何をしても忘れることができず、自分も砂糖の取りすぎからか糖尿病を患い、ずんぐりと太った身体を村の医師から何度注意されても賞味期限が切れたチョコレートと飴を店で買いあさって食べ続けた。そしてこの生活から解放される日がきた。あの男が自分で首を絞めて死んだという知らせが入ったのだ。彼女はあの庭に何年ぶりに戻り、草むらにラズベリーを見つけて食べた。口の中にカメムシの味が広がった。死んだら、アリになりたい、虫になりたい、と思った。

235 駅に鳴る

藤井貞和

駅に鳴る高田馬場の発車音。省線電車の通過 まぼろし 
電化こそ 戦後のあかし。夢灯る 稲沢駅の電気機関車
東海道本線、「つばめ」走り来る丹那トンネル、架線(がせん)のこすれ
停電を繰り返すなり、感電も。日に一度、二度、理科部員、われら
 ○
全児童をまえに研究発表する少年の結論――水は電気を通しません
アトム、ナウシカ、AKIRA、ゴジラ。四大アニメすべて原子力(川村湊)
誇るべき少年文化、幼きがいつか推進の徒になる原子力
ゆけ、われら、人力発電所を発明し、つみほろぼしの子々孫々に
黒雲の国に葦葺く二十一世紀。省線電車よ、われらを乗せて
  ○
回し読みする一冊の『少年』誌。われら御用学者の汚名をいまに
夢の原子力、平和産業の思い、黒雲となる御用学問
信じられる! 安全管理、その努力! だましたりうそついたりするはずがない!
御用学者われらよ、ラララ 科学の子。戦後を誇る平和のあかし

(御用学者とは「非難」じゃなくて、文学だっても御用じゃない? 『少年』は掲載誌、一九五一年四月かな、連載がはじまった。
 原発「増設」認める方針、経産省
  廃炉分、自社の他原発に建て替える
   二〇二四年六月一六日附け〈朝刊より〉。)

失敗の判断、判断という失敗

高橋悠治

先月の実験「白鳥の」は演奏してみて、そう悪くはなかった、と思ったのは、ピアノを弾いていて、「風ぐるま」の仲間たちと違和感なくできたからかもしれないが、楽譜として客観性があるのか、知らない演奏家たちが、指示なくわかる楽譜なのか、そこはわからない。

最少限の 記号を使う、という考え方自体、20世紀後半の考え方から脱け出せていないのかもしれない。「考える」ということ自体、あらかじめ構成した何かを試してみる時には、良いと思えることが多いかもしれないし、何かが起こってから判断するのでは、自分の手が加わっている以上、客観的な判断になっていないのかもしれない。だが、客観的な判断などというものがあり得るだろうか。

少ない記号だけを使って、それぞれの記号の範囲を広げてみると、記号自体が曖昧な(粥のような)になっているのか、せいぜい重なる範囲を持つ、と言ったらいいのか、たとえば、「短い音」は「長い音」との比較でしか決まらないから、それ自体ではなく、その環境のなかで初めて範囲が決まるものとなり、ドリーン・マッシーの「場所」のように、動かない点や、内外が決められた輪郭ではなく、時間とともに呼吸する空間の過程であるような、そうなると、時間も空間も、固定した軸ではなく、そのなかの物と一緒に揺れ動く膜であるようなもの、となると、定義された記号の束ではなく、前例に似た見かけ、その変化とも感じられる、厳密に定義されていない、自由な走り書き、空白の多いスケッチ(ルネ・ディドロの素描 rapidissimi)から思い描くなかで、多様で矛盾を含む線や斑点の遊びのあいだから、意図されない線が見えてくるならば、その先もあるだろうか。

考える習慣をやめて、感じるのはむずかしい。以前は、目覚めた時に、幻覚ではないが、音の動きを指に感じることがあったが、この頃は、空白のままだ。構成を通さずに、感覚の雫が降り積もる塔を、眼で計るより指で触れながら残していく忍耐を持てるだろうか。図書館で偶然眼にしたボリス・ピリニャークの『機械と狼』をめくりながら…

2024年6月1日(土)

水牛だより

きのうの天気予報では暑くなるといわれていた東京ですが、あにはからんや、晴れる時間も短くて涼しい夕方です。初夏ともいいがたい、不安定な夏に近い一日です。

「水牛のように」を2024年6月1日号に更新しました。
新年度の疲れがたまってくるころだからか、今月はお休みの人が多いのですが、年に一度くらいの割合で続いている「編み狂う」が届きました。
その昔、水牛通信を編集していたころ、津野海太郎さんが当時暮らしていた荻窪で、近くに住む女性から編み物を習っていたことがありました。どんなことも自分なりの論理で納得していた津野さんは、編み物っていうのはさ、毛糸を2本の編棒の左の棒から右の棒へ移していくことなんだな、と言うのでした。そうね、その通りです! あのとき、何を編んだのだったか、きっとメリヤス編みのちいさなマフラーくらいだったはず。でも、実際に手を動かしたからこそわかることもあるという、ひとつの思い出です。
神奈川近代文学館で明日までひらかれている橋本治展、手編みのセーターが展示されているのを見たいと思っていましたが、果たせず残念です。

それではまた来月に!(八巻美恵)

編み狂う(12)

斎藤真理子

「あと一段、あと一段」と思っているうちにどんどん時間が編み目に溶けてしまう。それが編み物の魔法。
 みたいなことをここに何度も書いてきたが、実は、「あと一段」というのは、正確じゃないと思う。
 なぜなら編み物(ここでは棒針編みを指す)は基本的に、二段がセットになって進むからだ。
 針を持ち、糸をひっかけ、右端から編み始めて左端まで至る。これで「表を一段編んだ」ことになる。
 そしたら次は編み物を裏側にひっくり返す。さっき編み終わった左端がこんどは右端になる。そこからまた編みはじめて左端まで至る。このプロセスが「裏を一段編んだ」ことになる。
 これが一緒になって、編み物ワールドの基礎地盤を作っている。
 行って帰って1セット。二段そろって1セット。編み物の表面にあらわれるいろんな模様は、表の段を編むときに操作を加え、裏の段を編むことでそれを定着させるというオペレーションで成立する。だから、完成形の編み物の段数は必ず偶数だ。奇数で終わることは、原則的にありえない。
 そして、どうやらこの「二段で1セット」というのが、時間を溶かす魔法のキモらしいのだ。
 特に私のような、模様編みばっかり編んでいる人間にとってはそうだ。表でやったことの結果を、裏で出す。繊細なレース模様も、大胆なアラン模様も同じ。この二段セットのリズムが、いっそうの馬力を蓄えて、編み棒を持った私を押すのだ。
「表・裏、表・裏」、「1・2、1・2」。このリズムに乗ってしまうと、あとは白熱するのみ。「早く裏を編んで、確認/納得/高揚したい」という強いモチベーションに駆り立てられて、二の倍数で時間が収奪される。階段を一段飛ばしでガンガン上っていくときみたいな乱暴な推進力である。
 このように駆り立てられた「表・裏、表・裏」のリズムは、例えば

 実行⇄定着
 実行⇄確認
 
 というプロセスの反復かもしれないし、また、

 呼⇄吸

 という身体の機能にも似ている。
 それはランニングのときの「スッスッ・ハッハッ」にもちょっと似ていて、だから編み物ってほんとに有酸素手芸だと思う。もう一度くり返すと、ここで言ってる編み物は、棒針編みだ。かぎ針や刺繍の規則性はちょっと種類が違っていて、このリズムは生まれない。
 そして、さらに恐ろしいのは、この「二段1セット現象」が、表と裏とで打ち消し合って、無の境地をかもし出すことだ。
 編み狂っていて加速度がついてくると、頭の中に「虚⇄実」とか「肯定⇄否定」とか「種まき⇄刈り取り」みたいな情緒が立ち込めてくる。実際には、編み物はどんどんできていくから、プラス、プラス、プラスの世界のはずなんですよ。でも、毎段裏返すからか、二段ごとに必ず原位置に戻るからか、手元にはプラスマイナスゼロの感触が残りつづける。
 輪をかけて白熱してくると、「虚無⇄充足」「妄想⇄現実」「一瞬⇄永遠」といったバリエーションがどんどん繁茂してきて、それは最終的にはどこかで「生⇄死」のプラマイゼロに通じているに決まっているので、編み物に油が乗ったときは最終的に無常感に接近するのである。
 だから、編んでいるときの実感としては、前へ前へと進んでいる感じはない。永遠に表と裏を反復して、足踏みしながら何かを目撃しているというか、ランニングマシンの上で無限に祈っている感じというか。
 そのとき、表・裏・表・裏のオペレーションに乗って、とてもネガティブな感情が湧いてくることもある。「アノヤロ、コノヤロ、バカヤロ」とか、「とりかえしがつかない、つかない、つかない」とか。
 たぶん、編んでいるときがいちばん身も蓋もないことを考えている。だけどそれも裏の段を編むときに去勢され、なし崩し/腰砕け/尻すぼみになってゆく。そういう効能も、糸と針にある。
「とりかえしがつきませんよ⇄つかなかったらそれが何だというのでしょう」。二の倍数で駆り立てられて頭の中には暴風が吹いてても、外から見れば凪に見えるだろう。表が裏を無効にし、裏が表を有効にする。反復だけが武器なのだ。たぶんとりかえしはつかないままで、一人が一生に編んだ編み目の全部がそろっていっせいにかがやく、そういう一瞬を想像する。きらきらと光を反射して、一匹の大蛇が全うろこを裏返す一瞬。
 

ひさ散歩

笠井瑞丈

久しぶりの休日
母を誘い出かける
どこか行きたい所あるかと尋ねる
どこでもいいよ連れてってくれるなら
いつもの定型文が返ってくるかと思いきや
行きたい所があるんだよねのビックリ回答
神代植物公園に行きたいとの事
ウチから車で30分で行ける所
早速車を走らせて向かう
途中コンビニに寄って
ミニシュークリームを買う
神代植物公園の駐車場到着
平日なのにかなりの混んでる
障害者専用の駐車場が一台空いてた
そこに停めさせてもらう
車椅子を下ろし正門に向かう
子供250円
大人500円
障害者無料
付き添いの僕まで無料になった
薔薇園に行きたいとの事だったので
入ってまずそこを目指す
沢山の種類のバラが大きな一画に
一杯キレイに区画され咲いている
その間を車椅子をゆっくり走らせる
写真を撮って家にいる叡さんに送る
そこから雑木林の方に向かう
車椅子を降りて自分で歩行する
車椅子をカート代わりに一歩一歩
数年前に寝たきりだったのに
よくここまで回復して歩けるようになった
これは本当に毎日のリハビリの成果だ
とても強い意志がないと出来ない事だ
しかし首が曲がってしまってるせいで
前を向いて歩く事が出来ず
歩くといつも下を向きっぱなし
だからアスファルトを眺めながら一歩一歩歩く
自分の内面に耳を向けてカラダの音を聞くのだ
母は僕にそのように言う
周りの景色
匂いを感じ
自分の中に新しい景色を想像する
途中雑木林の中でも一際目立つ木
母はその木々を興味津々で眺めてる
木々たちが踊ってるとポツリ

全ては想像の中に
また出かけよう

アパート日記5月

吉良幸子

5/1 水
新宿・末広亭昼席へ。トリが雷門助六師匠で、最後はみんなで踊って賑やかに。また桟敷席で足投げ出して観た。月頭から寄席行けるなんて最高やん!

5/2 木
仕事終わりに公子さんと古今亭始さんと打ち合わせ。始さんは9月に真打昇進で、甲賀さんの文字ののぼりが寄席に立つ。嬉しい。実物はむちゃくちゃ大きいから実物見るのが今から楽しみ。打ち合わせがてら誕生日とタロットで占ってくれはるおじさんがいる飲み屋へ行った。公子さんは前占ってもらったし、始さんと私だけ見てもらう。こっちからは何も言うてへんのに2人ともズバリ言い当てられて感服した。私の方は常識に囚われんと、とにかく好きなことをブレずにやったらええねんて。ほんで上手くいくかどうかは来年考えたらええから、今年はとにかくやりたいことを始めなさいと言われた。そうか、ほいだら始めてみましょか。

5/4 土
出稼ぎ先で一日下駄で働いてみた。立ち仕事で下駄履くのなんて初めて。お店も混んでよう走り回って足の裏はじんじんするほど疲れた。でも腰は全く痛くない。背筋が勝手にしゃんと伸びるようになってるんやね。お店に来てくれた80代くらいのおばあちゃんが、下駄かわいいねと言うてくれはった。

5/10 金
お客さんのおばあちゃんに捕まって立ち話。よう~喋る!同じ話を2、3べんするのはようあるけど、かれこれ10ぺん以上同じルートを辿って全く同じことを白熱して話さはる。最初は、いつ終わるんやろか…という感じやったけど、途中から「住吉駕籠」に出てくる酔っぱらいのおっちゃんみたいやん!と気付いて、最後の方は落語の中におるみたいでおもろかった。

5/12 日
友達と「大吉原展」へ。朝早く行ったのに地下の展示はものすごい人・人・人!御徒町の方へ行くとこれまた人の波がいつもよりうねっておる。なんでかいなと聞いたらお祭りらしい。神輿担ぐ格好した人もちらほらおる。ふんどし締めたおっちゃんらが立ち話してはって、そん中のひとりのふんどしが食い込んでて下スッポンポンに見える。昔はこんな風景が日常やったんかなァとおっちゃんのたくましいお尻を眺めた。

5/16 木
家でちょこちょこ練習して普段着の着付けだけ自分でなんとかできるようになった。早朝から必死で着付けして、やっと念願叶って着物で仕事に出る。電車を乗り継ぎ、自転車に乗り、働いて帰るまでやってみた。腰紐をむっちゃきつく結んだからか、案外家に帰ってくるまで問題なくいけた。一緒に働いてるおばちゃんは大喜びで写真まで撮ってくれはった。今日着たんは高橋茅香子さんにいただいたもので、茅香子さんも知人から譲り受けたものらしい。紺地に絣模様が入ってて、裏地に朱色が綺麗やった。

5/17 金
今日の着物は公子さんが中学の時に着てたお気に入り!当時の普段着、銘仙に初めて袖を通したけど、この上なく軽くてさらっとした肌触りやった。50年くらい前に公子さんがこれ着てはったんかと思うと不思議な感じ。着物の日は着物に合わせて帯やらを前の日に選んでおいたら、次の朝それを一生懸命着るだけでええからある意味むっちゃ楽チン。洋服やといつもあーでもない、こーでもないと時間ギリギリまで脱いだり着たりするし。

5/19 日
皐月のいわと寄席、古今亭始さんと神田松麻呂さんの回。先月末、大龍寺の法要に来てたお子たちがまた来てくれて、一番前の真ん中でかぶりつくように観てた。講談は初めてやったみたいで、松麻呂さんが張扇たたいてみる?と高座に少年をあげてくれはった。おお…こんな景色なんか…!てなことが顔に書いてある。パン、パンッパン!と笑顔で叩いて楽しそうやった。

5/22 水
友達と樋口一葉記念館へ。むちゃくちゃ充実していて面白かった。歩きまくって休憩しに友達んちに寄ったら、吉原神社が目と鼻の先でびっくりした。一葉さんちのご近所やがな。

5/23 木
昨日の友達が出稼ぎ先へ来てくれて、帰り道一緒に歩いてたら近所のおばあちゃんに話しかけられ、着物いいわね、私は終活中でもらってほしいから、今度ふたりでおいで!と言われた。いやはや、着物着てると色々あるわね。

5/24 金
風ぐるまのライブにお呼ばれして伺った。私にとってお久しぶりの悠治さんはいつも通りの登場で。ただ美恵さんを見つけられんかった。会えんでむっちゃ残念。

5/26 日
公子さんが経堂にあるさばのゆで、ちぃさい本の市を店主さんと企画。そこで売り子してhoro booksで作った本たちと古本を売った。後半には公子さんが甲賀さんのよもやま話をしはって、来てたお客さんたちも喜んではった。特製の飲み物やおつまみ食べながらみんなでわいわいして、こじんまりやけど楽しい会やった。美恵さんの本も一冊売れましたよ。夏に第二回を開催予定。

5/29 水
甲賀さんの文字ののぼりができたようで古今亭始さんから写真が届いた。素敵~そしてうれし~~!寄席に出るの、早く見たいなぁと公子さんと何度ももらった写真を眺めた。

製本かい摘みましては(187)

四釜裕子

4月末、今年も近所の公園のナンジャモンジャが白く細い花びらをもりもりつけた。区立の小さな御徒町公園という公園だが、その一部がちょっとした庭園風になっていたりミニ八幡神社があったり藤棚をはじめ草花の種類も多く手入れが行き届いているのは、元伊予国大洲藩主・加藤泰秋子爵の屋敷の一部であった名残りだろう。八幡神社の鳥居の横には八幡神社の文字が彫られた古い標柱があり、その側面には小さく「史蹟 旧加藤邸久森山跡」と彫り加えられている。このあたりは極めて平らだから、広い庭の一角に土を盛ったりしていたのだろうか。ナンジャモンジャにはこんな説明板がある。〈この木は、俗に「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれ、朝鮮・中国にも分布していますが、日本では本州木曽川流域と九州(対馬)のみで知られている珍しい木です。昔、青山練兵場にあった大木よりふやして、台東四丁目の荒沢鍈治郎氏が大事に育てたものです。(略)珍木であるため異称が多く、ロクドウボク(六道木)・アンニャモンニャ・フタバノキ・ナタオラシなどとも呼ばれています。  ヒトツバタゴ Chionanthus retusus  モクセイ科 ヒトツバタゴ属 【落葉高木】 台東区〉。

荒沢鍈治郎さんとはどんな方だったんだろう。ネットで検索したらイコモス国内委員会が明治神宮あてに出した「神宮外苑を象徴するヒトツバタゴ大径木の現地保存のお願い」(2023.11.21)がヒットした。”外苑を代表する元天然記念物である「ヒトツバタゴ」(通称ナンジャモンジャ)を事例とした環境影響評価において完全に欠落している歴史的樹木の検討”が示されていて、この中で、文言は台東区の説明の域を出ていないが荒沢さんと御徒町公園にも触れていた。それによると、ヒトツバタゴは江戸時代から外苑にあり、明治18年に青山に練兵場を作る頃にはそれがなぜか予定地近くの萩原三之助邸にあり、整備するにあたって買い上げられた。大正13年に天然記念物に指定されたが昭和8年に枯死。実生では増やせなかったが根接という方法で〈小石川植物園、その他、2、3の所に分根〉して命は繋がり、このたび〈小石川植物園、東京大学資源活用推進部、日本植物友の会の木川発夫様のご協力をえて〉調査したところ、そのうちの1つは、荒沢さんが育てて昭和6年に関東大震災の復興小公園として整備された御徒町公園に植えられたものだと〈推察される〉。公園で見るかぎり植物をうまく育てる荒沢さんという方がいたんだなと思うばかりだったけれど、何か奇妙な温度差を感じる。

現在の御徒町公園一帯は関東大震災でみな焼けている。震災後、加藤子爵邸の敷地には内務省復興局東京第三出張所が置かれていた。公園にはこの界隈(東京第31地区)の復興区画整理完成記念碑があり、背面に整理委員の名前が記されているのは見ていたので、もしかしてと思い改めて見に行ったがそこに荒沢さんの名前はなかった。なんとなく、なんの根拠もないのだけれど――荒沢さんは子爵のお屋敷のお抱えの植木屋だったのではないだろうか。外苑にあったヒトツバタゴ1世の子の一人は何かの縁で加藤子爵邸に引き取られて育てられていたが、震災で焼け出され、近くに住んでいたお抱え庭師の荒木さんがそれを救い出し、屋敷再建の折にはまたお庭にと慈しんで育てたが帝都復興計画によって叶わず、主人にそのことを話すと「今までよく尽くしてくれた。この木は好きなようになさい」と言われ、屋敷跡が公園になると決まると知ると、恩義に報いようというような、その地へ花をたむけようというような、そんな思いで一市民として提供した――。荒沢さん、すみません、勝手に妄想して。

こういうときは『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』(下町風俗資料館 平成11)だ。膨大な聞き書きを集めたこのシリーズは、ほしい情報がありやなしやのときには頭から読まないと見逃すので大変なのだが、「植木屋の荒沢さんが……」とか「ナンジャモンジャの木が……」とか何とかしゃべっている人がいないかしらと探したが見つからなかった。代わりに「伊豫の殿様」と料亭「伊豫紋」の話が目に入った。〈加藤様が江戸へいらっしゃる時にそれに付いて来て、きっと料理番だったんでしょう、あるいは家来だったか、その人がもんさんっていうんで、それで、伊豫のもん、伊豫紋という名前でやりましてね。(略)横山大観が非常に伊豫紋を愛好したそうですね〉。料理場は御影石が敷いてあり、しょっちゅう水が流してあって清潔だったそうである。森鴎外の『雁』や森茉莉のエッセイにも出てくるし、ここの庭は広かったと他で読んだ記憶もある。伊豫の殿様お抱えの植木屋は必ずやいただろうし、働く人を大事にするようすも感じられるし、落語の「青菜」よろしく荒沢さんが水撒きしていても全然おかしくないんだよなぁ。

などと思っていたらば、ASA上野御徒町発行の「あさネット」197号(2024.5.7)にここのナンジャモンジャが出てきた。月いちで新聞に挟み込まれてくるB4サイズ2C両面刷りのASA新聞で、チケットプレゼントのお知らせと所長さんによる地元ネタ中心の読み物が楽しいのだ。コロナでしばらく中断して、再開したときはうれしかった。やはり4月の末に同じ公園でナンジャモンジャを見たようで、牧野富太郎のエッセイを紹介したあと、〈ドラマの通り、植物採取のためなら何でもやってしまう人だったようです〉と締めていた。なにしろ明治の中頃、〈人力車夫を傭って〉夜中に青山練兵場に忍び込み、ナンジャモンジャの花を採集するために〈人力車夫に頼んで木に登らせ、その花枝を折らせた。夜中で、人が見ていなかったから自由に採集できたが、昼間ではとてもできない芸当だった。それに、その頃は練兵場も荒れていたので、自由に行動できた〉(「ナンジャモンジャの真物と偽物」より)というのだから所長さんが呆れるのも当然だ。ちなみに牧野は花の様子をこんなふうに書いている。〈白紙を細かく剪ったような白い花が枝に満ちて咲く〉。こちらは納得。

牧野をモデルにした昨年の朝ドラ「らんまん」はおもしろく見た。各地の植物愛好家とのやりとりは実際どんなものだったのか、それを裏付けるような話が昨年はたくさん出ていたと思う。木曽川流れる岐阜県恵那市はヒトツバタゴの自生地の1つで、市が大正11年6月の牧野の手紙を保管していたのもニュースで知った。同市の後藤治郎さんが送った標本に対する返事で、それはヒトツバタゴではないかと書いてあったそうだ。その後きっと現地を訪ねたのだろうし、翌年、地域のヒトツバタゴが天然記念物に指定されたのは牧野の影響があるのでは、という記事だった。実は加藤泰秋子爵(1846-1926)と牧野富太郎(1862-1957)にも接点があった。これも昨年そういう流れで何かで聞いたのだと思うが、その”加藤子爵”が御徒町公園の”加藤子爵”だとはそのとき気づいていなかった。北海道の洞爺湖周辺の開拓事業も手がけていた子爵は山草研究家でもあり利尻山への採集に牧野が同行したそうだ。さらに、岩手の早池峰山で見つかった新種に牧野が付けたカトウハコベの名は加藤子爵に由来するというのは定説のようだが、解釈はいろいろあるようだ。即席ながら御徒町公園派から言わせてもらうなら、子爵が望んだことでも、こびてつけられたものでもないだろう。

御徒町公園の説明にあったヒトツバタゴのもう1つの自生地、対馬については、帚木蓬生さんの『襲来』で読んだのが忘れられない。日蓮の蒙古襲来の予言を確かめるべく対馬に遣わされた見助が、地元の娘・なみを見送りながら隠れ家を探すシーンだ。〈春になると対馬は、ひとつばたごが咲き誇り、船からみると島全体が雪に覆われたように白一色になる〉。〈山道にも岩の上にも、ひとつばたごの小さな花びらが白く散り敷いていた〉。場所を決め、屋根をかけて岩などを積み、ヒトツバタゴの幼木を割れ目に植え込んで、生長すれば目隠しになるだろうと段取りしてその場を離れる。ここでなみと再会することを密かに夢見るも叶うことはなく、その地はまもなく真逆の色に染まった。博多湾に築いた”防塁”のおぞましさよ。

牧野富太郎つながりで最後にもう1つ、岡本東洋撮著『花鳥写真図鑑』第六集(非売品 昭和5 平凡社 装幀:辻永)のことを少々。全何巻かも知らずに1冊だけ買っていたものだが、牧野が植物の解説をしている。この本、表紙の芯が硬くて重くて、丸背ハードカバーで天金で見返しの刷りも金で函入りで豪華なのに、かがりが3穴のブッコ抜き(打ち抜き綴じ)なのだ。岡本東洋は竹内栖鳳や横山大観などに請われて絵画資料としての写真も多く撮っていたそうで、同じく岡本による『東洋花鳥写真集』全75集(芸艸堂 昭和8)は〈全75集、計1500点の写真が掲載された大部のもので、画家が使用しやすいように製本せずに、印刷した写真を封筒に入れて刊行するという工夫も凝らされ〉たそうだ(「うみもりブログ」竹内栖鳳×岡本東洋 日本画と写真の出会い4 2020.7.17)。ならばこの本も、必要なページを簡単にばらせるようにとのはからいということになろうか。写真、特に動物の写真がものすごく柔らかくていいんだけれども、なにしろかがり糸が切れているし表紙もボロボロだし重たいからいい加減処分しようと見るたびに思うのだが、かがりと装幀のあまりのアンバランスがおかしくて今夜もまた棚に戻してしまいました。

『アフリカ』を続けて(36)

下窪俊哉

 前回は最後に少し話が逸れてしまったが、『アフリカ』を始めた直後に小川国夫さんと川村二郎さんが昔話をするのを目の前で聞きながら、『近代文学』や『青銅時代』の作家たちがとても身近に感じられた。あの夜くらい饒舌に語るふたりを、私は初めて見たような気がした。

『アフリカ』の1冊目である2006年8月号には小説4篇の他に、短い雑記を3つ載せた、と書いた。そのうち自分の書いた「好きな本のかたち その二」について少し触れておこう。冒頭は、こんなふうだ。

 先日、保坂和志さんのエッセイをインターネット上からもらってきた。それなりの長さがあったので、適当にレイアウトしなおして、プリントして読んでいた。そのとき、ふと思った。あ、ぼくはこれで十分なんだ、と。調子にのって、なんだ、本なんか買わなくても、自分で編集しなおしてしまえばいいんだ、などと思ったりもした。

 本をつくることにかんして恐怖心を呼び起こすまでになっていた自分には、「本」というものをあらためて捉え直す必要があった。インターネット上からというのは、保坂さん自身のウェブサイトで公開されていたものだろう。ウェブにあるものを読むのは、気が楽だった。本も、もっと楽に読んで、書いて、つくってゆくことは出来ないものだろうか、と考えていた。

 テキストだけ安く売って、つくりたければ「本」もつくればいい。そんな気楽な時代は来ないものだろうか。

 本も、「本」という思想を引き継ぎながら、どんどん変わっていくのだろう。そのことを悲観する必要がどこにあるだろうか。

 そんなことをつぶやくように書いている。しかし自分だけで「本」のことを考えるのには無理があるというもので、津野海太郎さんの『新・本とつきあう法』(中公新書)に影響を受けていた。その本のことにも、ちゃんと触れてある。まずは未来の自分へ宛てた記録と言えそうだ。
 久しぶりに『新・本とつきあう法』を出してきて、開いてみる。「活字本とつきあう」「電子本とつきあう」「インターネットでの読書」「図書館とつきあう」という4章に分かれているが、いまでは「電子本」と「インターネットでの読書」は混ざり合ったものになっていると言えるだろう。1998年の本である。あとがきには「この本をようやく書き終えようとしているころ、インターネットに「青空文庫」という小さな電子図書館が誕生した」とある。
「活字本とつきあう」は、「雑誌は破りながら読む」に始まる。次が「ふつうの本も破る」、次が「本はパンフレットである」、そして「読者も編集せよ」。こうやって項目を並べてみるだけで、何のことはない、この本に書かれていることを自分流に解釈して実践しようとしていたということがわかる。その次の「歩きながら読む」は、たぶん笑って読み飛ばした。
 その章の最後は「天幕(テント)生活者の読書」で、晩年の長谷川四郎さんを自宅マンションに訪ねたエピソードが出てくる。「書斎はなく、畳敷きの居間に中くらいの大きな書棚が一つ(いや二つだったか)置かれていた。たったそれだけ」だったらしい。津野さんはその書棚に『中国の思想』という「入門シリーズ」があるのに目をとめる。長谷川さんには『中国服のブレヒト』という「名著」があるのだが(2006年にはまだ読んだことがなかったが、数年後に古本屋で見つけて読んだ)、津野さんはそこでこう思う。「なるほどね、なにも自分の書斎におびただしい専門書をかきあつめなくとも、一般向けの啓蒙書や概説書だけでも、ちゃんとものを考え、あんな魅力的な本を書くことができるのだな」
 私は当時、これからどうやって生きてゆこう、と途方に暮れていたわけだが、「天幕生活者」であっても本は読めるし、書くことが出来るのだとわかれば、ははあ、それならやってゆけそうだ、となった。
 都市の中であっても移動して暮らす人にとって、大量の本を抱えては生きてゆけない。出来るだけ身軽でいたい。と、これからの時代を見据えてそう考えた。
 ところで、書店に積んである文芸雑誌も、大学発行の雑誌も、当時の私が手にしていたものはどれも分厚くて、電話帳のようで、寝転がって読もうとすると腕が疲れて仕方なかった。しかし『アフリカ』を始める前に書かせてもらった個人誌はどれも薄くて、軽やかで、好印象だったのだ。自分も今後はこれでゆこう、と思った。『アフリカ』2006年8月号はA5判・40ページ、「パンフレット」である。気分がよかった。
 関係各位に郵送で配るのは止めることにしたが、限られた人には送り、寄贈で送ってこられた本や雑誌への返信には『アフリカ』を同封することがあった。
 当時の反応には、どのようなものがあったのだろう。「どうしてアフリカなんだ」と言われた話はこの連載の(2)で書いたが、「小さくまとまっちゃったね」と言われたのもよく覚えている。その前にやっていた雑誌が大所帯だったので、そう見えるのもまあ仕方ないか。この話を先日、ある人にしたら「どうしてアフリカを小さいと思ったんですかね?」と言っていて可笑しい。
 富士正晴記念館で話した安光奎祐さんにも送ったのだが、その後、いつだったか『VIKING』の例会に顔を出したときに、「『アフリカ』読んだよ、フレッシュだねえ」と言われた。いまでも私には、空のうえの安光さんに送って読んでもらおうというつもりで、つくっているところがあるかもしれない。

 ここまで4回にわたって「2006年の『アフリカ』誕生の真実に迫るノンフィクション」を書いてきて、ふと思った。自分の作品といえるものを書き始めたのが1999年なので、それまでの7年間、20代の大半を「文芸」の世界に生きて、いろんな人や本(や雑誌)と出合い、読み、書いて、つくり、考えていった先に導き出したとりあえずの結論が『アフリカ』だったのかもしれない、と。
 夏を越した頃、ようやく再就職して京都から大阪に戻り、ラジオの取材や企画をしたり、それを冊子にしたり、という仕事を始めて、生活は少し落ち着いた。それと並行して、続けるつもりのなかった『アフリカ』は年2回のペースで出すことになったのである。
 当時のノートによると、9/9(土)に京都の西院で行きつけになっていたDeep blue Cafeにて「アフリカの夜」が実現、とある。これは執筆者が集まって飲んだのだろう。誰と誰が集まったのか記録がないけれど、関西在住者のみだろうから、垣花咲子、神原敦子、守安涼、私の4人だったのではないか。守安くんから島村利正の本を紹介されたのは、その時らしい。二次会は西院駅そばの「印」、『アフリカ』がまず読まれることになった場所である、立ち飲み屋だ。
 その頃、向谷陽子さんから『アフリカ』のお礼が手紙で来ている。切り絵はもっと大きなサイズでつくった方がよかったかな、と言いつつ、「このサイズの方がよい緊張感は出ていると思います」。自らのことを「ポストカード・アーティスト」(ポストカードサイズの切り絵をつくる人)と言い出すのは、もう少し後のことだろうか。『アフリカ』を受け取って、読んでみて、読むのが得意ではない自分には苦手な作品もあった、でも「音のコレクション」は良かった、と書いてある。「最後のあたりが少し難しかったけど。相変わらずの音と色彩の感じられる小説で読んでいて心地良かったです。特に緑(の?)色と風の音が鮮やかでした。これで香りも感じられたらいいなあと思います。」
 私はこのような読者を頼りにして、『アフリカ』で再出発することにしたのだった。

 さて、3月に亡き向谷さんを訪ねるため広島に向かう新幹線の中で、何かがひらめいた話を前々回に書いた。そのひらめきを元に展開して、これからつくる『アフリカ』の36冊目は、18年前につくった『アフリカ』の最初の1冊を、この2024年に再びつくるとしたら、どのようになるだろうか、ということを思いついた。
 そのためにはしかし、短篇小説が4つ、集まらないといけないような気がする。近年の『アフリカ』がどのような雑誌だったかを思うと、誰か4人が小説を書くというのは、ちょっと難しいような気もした。そのうちの1人は自分として、あと3人。可能性がないわけではないので、そのつもりで待つことにした。そうしたらまた『アフリカ』が不思議な力を発揮して、意外な人が書き始めたのである。

メソポタミア

さとうまき

僕は数日前からメソポタミアにいる。つまりは、現在でいうところのイラクにいる。目的は、ギルガメッシュの物語のデジタル紙芝居の絵を頼まれたのでその取材のために博物館や遺跡を回っている。

20年以上前に、初めてイラクへ行った。バビロン音楽祭に参加する人達をコーディネートするように当事のイラク大使館から依頼されたのである。イラク戦争が始まろうとしていた2002年のことで、メソポタミアがどうのという今から5000年以上の前の話などには全く興味がなかった。アメリカがハイテク兵器を用いて攻撃してくるのに、日本で言えば縄文時代とか弥生時代がどうのと言ってる場合じゃない。

ところが音楽祭に参加するメンバーの日本人には、メソポタミア文明オタクが一人混ざっていて、遺跡に行きたいとめんどくさいことをいう。イラク政府も自分達こそ世界で一番最初に文明が栄えたことを強調して、アメリカへの抵抗心をあらわにする。メソポタミアは、政治的なプロパガンダとして使われていた。政府の案内で博物館も連れて行ってもらったがあんまり記憶に残っていない。

それが今回訪問したら、すごいのである。2日間通い模写したりしてタイムスリップしたりしている。バスラに辿り着いてこの文章を書いている矢先に停電だ。
詳しくは次号で。

仙台ネイティブのつぶやき(95)米づくりをあきらめない

西大立目祥子

「悪いけど、田植えだから先に出るよ。帰り『むすびや』寄る?だったら店から借りてたこの桶返してくれっかな。じゃあね」 そういって宿の主は軽トラで出ていった。
外はしとしと雨ふりだ。でもこのくらいの雨ならやるんだな。今日明日くらいで決めないと6月になってしまうから。仙台からここ鳴子温泉に来る途中の田んぼには水が張られ、青い空を写す鏡のような水面には植えられたばかりの細い稲が風に揺れていた。
館内はしんと静まっている。下駄箱には何足か靴があるから泊り客はいるんだろうか。でも人の気配はしない。ひとり、タオルを下げておふろに行く。この宿のお湯はぬるめ。琥珀色のお湯の中で体を伸ばすと、目の前には大きな曇ガラスを通して緑がやわらかく透かし見え、湯舟の隅から静かに流れ込む源泉からぽこぽこと泡が生まれ漂っては、ぱっと消える。おもしろくて、しばらく見入っていた。

前夜は「鳴子の米プロジェクト」の19年目の理事会だった。久しぶりに旧知の人たちと顔を合わせ、あれやこれやと話し合い、それから飲んだ。ここまでよく頑張ってきたねえという感慨に加え、少し明るい見通しも立ってきたこともあって和やかで気持ちのいい飲み会になった。

プロジェクトが始まったのは、2006年。政府が国際競争力を持つ農業の担い手を育てようと、経営規模の拡大や効率化、合理化を目的にした「品目横断的経営安定対策」という政策を打ち出した年だった。米に関していうと、4ヘクタール以上の規模の大きな農家に支援を集中するもので、小規模の農家は担い手とは認められず支援を受けられないことになった。当時、鳴子町には620戸の農家があったが、支援を受けられる大きな規模の農家はわずかに5戸。平野部と違って標高の高い山あいに田んぼを開き、雪解けの冷たい水を引き入れながら、それでもあきらめず続けてきた鳴子の農家の米づくりは危機に直面することになった。

当時は米の値段が下がり、農家はいつまで米づくりを続けることができるのか不安を覚えていた時期でもあった。何か手を打たなければ米づくりをやめる農家が増え、地域は耕作放棄地だらけになってしまうのではないか。危機感を抱いた役場職員の安部さんが動いた。以前から鳴子にも縁が深く東北を中心に地域づくりの提唱をしていた結城登美雄さんに相談に行き、中山間地域の鳴子でどうすれば農家がやりがいをもって米づくりができるか打ち合わせを重ねていった。

結城さんが提示した案はこうだった。事業を推進し支えるために鳴子内外の人を集めてプロジェクチームをつくること。農家と支え手(消費者ということばをあえて使わなかった)をつなぎ、ともによくなる道を探ること。それがブランドをつくり上げることになる。農家が希望をもって米づくりを続けられるよう1俵(60キロ)を2万4千円で販売し、1万8千円が農家に入り、6千円をプロジェクトの事務局の運営費にすること。まだ栽培されていない鳴子のような寒冷地でもよく育ち病気にも強いおいしい米を探し、試験栽培するところから始めること…など。

安部さんは古川農業試験場で、耐冷性がありイモチ病にも強く、食感はもちもちしておいしいという「東北181号」という米を見つけ出した。まだ名前がない米だった。これを鳴子の中でも最北、秋田県境の鬼首という地域の3軒の農家で試験栽培をしてもらうことになった。夏でも冷涼な気候で、宮城県の米はうまく育たず秋田県の「あきたこまち」を栽培してきたという地域である。5月に田植えをし、無事に稲刈りを終え、11月にはチームの関係者が集って水加減を変えて米炊き実験をした。この時は私も調理室にいて実験を見守っていたのだけれど、通常より2割以上水加減を減らした炊きあがりを試食したメンバーが、「これが一番おいしい」「粘りがあってうまい米だ」とつぎつぎと口にしていた記憶がある。

「東北181号」は翌年「ゆきむすび」と命名され、栽培する農家が増えていった。事業立ち上げのためにつくったプロジェクトチームはNPO法人となり事務所を構え、5年後にはおむすび店「むすびや」を開店させた。2万4千円という価格も取り組み内容もずいぶんと話題になり、地元のテレビ局から農業雑誌まで取材が相次いだ。このプロジェクトを卒業論文のテーマにしたいという学生も何人もあらわれ、農家に寝泊まりしながら取材と調査を重ねていった。鳴子の農家の人たちのホスピタリティに心打たれるのか、学生さんたちは卒業後も鳴子を訪れ、交流は何年も続いている。

私は農業のことも米づくりのことも経験も知識もないままこのNPO法人にかかわってきたのだが、地域を支えるための米づくりをきちんと理解して買ってくれる人が決して少なくないことに、世の中捨てたもんじゃないなぁと感じてきた。試験栽培をした農家の1人、曽根さんが稲刈りのあとの交流会で「つくりやすくてうまい。60年米づくりをしてきて本当によかった。そして山の中の鬼首に大勢の人たちが集まってくれるなんて、こんなにうれしいことはない」と笑顔であいさつしていたのが忘れられない。それまでは苦労して米をつくっても農協に出荷し、あとは口座に入金があるのを待つだけ。どんな人が食べてくれているのか、どんなふうに味わっているのか、知る由もなかったのだ。それが、直接「ありがとう、おいしかったです」といわれるのだから農家冥利につきることだったろう。

こんなふうに書くと順風満帆の19年のようだが、決してそうではなかったことも記しておきたい。到着が遅い、今年の米はおいしくないといった苦情が入り対応に追われるのは例年のこと。東日本大震災では鳴子はあまり被害がなかったので、かかわりの深かった地域に米を持って支援に入ったが、その後は福島原発の影響で注文が激減するという事態に見舞われた。そんな中、大口の注文が入り出荷して胸をなでおろしたら、それは詐欺で集金できず数百万という穴をあけることになった。震災後、東北ではあちこちの農家が同じ手口で被害にあっていたようだ。

そして、20年近い歳月は人も変える。50歳の人は70歳に、60歳の人は80歳になるのだ。プロジェクトでは基本、天日干しで米を生産してきたのだが、刈り取った稲の束を高い杭に掛け、途中天地返して日に当てるということが困難になってきた。いまは機械で刈り取るコンバイン生産も行っている。ずっと同じ顔ぶれで事業を継続するのも難しい。農家を続けてきてよかったと話していた曽根さんは、そのあと病に倒れた。私と同じように町外からかかわり活動の記録を担っていた千葉さんも、事務局を1人で切り回してくれていた高橋さんも…。

何人もの人を見送りながら、それでもプロジェクトは続いている。ここ数年の間に2世代目へとつながる農家が2軒あらわれた。人も農家も減っていく中でいい兆しだ。もしこのプロジェクトが立ち上がらなかったら…と考えてみる。鳴子の米づくりは消えていたかもしれない。そして私は米づくりのことなんて何も知らず安い米をスーパーで探していたに違いない。

5月、田んぼに水が入り青い空を映す風景は希望に思える。新たな季節の始まりだ。それは人が手をかけつくっていく風景であり、今日ごはんを食べることで守られていく風景だ。今年の田植え交流会は6月1日。この原稿がアップされるころ、私はたぶん田んぼの中にいる。

区民盆栽の会・定例会議

植松眞人

 都内に一つだけ残った都電の終着駅の目の前に喫茶店がある。窓際の席に座ると、ホームが窓いっぱいに広がっている。小さくブレーキがかけられる音が店内にも響いてきて、窓際の席に陣取っていた老人たちが一斉に、窓の外を見る。何人もの乗客たちが降りてきて、その中に南条がいる。
 南条を見つけた斉藤は、思わず声をあげる。
「南条くんだ」
 すると、他の老人たちも次々に声をあげる。
「あ、ほんとだ。若手だ」
「若手がいちばん遅いよ」
「走ってるよ。そんなに急ぐことはないんだ」
 などと、笑いながら言い合っている。南条はこの集まりでは最年少の六十九歳。若手と言っても、私も来年七十ですよ、というのが今年の誕生月である四月を過ぎてからの定型の挨拶になっている。それを面白がって、みんなが若手若手と呼ぶようになった。
 喫茶店のドアを開けて、南条が駆け込んできた。先に集まっていた五人の老人たちが席を詰めて、南条が座る場所をつくる。
「若手の登場だ」
 会長の佐竹が声をかける。
「若手、ここだ、ここ」
 会長の向かいの席で最古参の衣笠が言う。
「おはようございます」
 南条が汗をハンカチで拭きながら、席につく。
「若手のくせに、重役出勤かい」
「すみません。出がけに仕事の電話とかいろいろあって」
 南条が言うと、斉藤がコーヒーを飲みながら笑う。
「なんだよ。若手の仕事自慢かよ。どうせ、オレたちは隠居してて暇ですよ」
 自虐的に言って、笑う斉藤に、南条は深呼吸をするふりをしながらため息をつく。
「仕事じゃないですよ。孫からの誕生日プレゼントの催促ですよ。それに、若手と言っても」
「来年は七十なんだろ」
 会長の佐竹が笑いながら答える。
「南条くんとこ、孫がいたのか」
「うちは子どもが早かったもんで、孫も早くて、もう幼稚園の年中なんです」
「幸せだなあ。うちの娘なんて、四十でまだ家にいるよ」
 南条は、佐竹の話に肩をすくめながら、ショルダーバックからA4サイズの書類を取り出し、一部ずつ五人に配る。
 表紙には「区民盆栽の会・定例会議」と書いてあり、副題として「春の品評会の振り返りと夏の品評会に向けて」とある。
 南条が表紙をめくって、内容を読み上げようとするのだが、もう会長の佐竹が一枚一枚勝手にうなずきながらページをめくっている。数枚しかない書類はあっという間に終わる。それを見て、南条は書類を読み上げるのを諦める。斉藤も衣笠も同様に読み進めていて、同席している高橋と鈴木は書類を眺めているだけで、きちんと読んでいる気配はない。その様子を見ていた佐竹がふいに高橋に声をかける。
「高橋さん、あんたが出してた松」
 突然の声に、高橋が驚く。
「松?」
「うん、松。あれ、こないだの品評会で買いたいって言ってた人がいたよね」
「いたいた。あれ、商店街の前の会長でしょ」
 隣に座っていた鈴木の方が答える。
「ああ、あの話ね。あんなのまとまんないよ。それに、あの人にはオレは絶対売らない」
「なんでよ」
「いやなんだよ、あの人。前にさ、オレが大事にしてたのがあったじゃない」
「ああ、あれも松だった」
「そう、松。小さいけどさ、いい奴だったんだよ。それをさ、買いたいって言うから、売ったのさ。こっちも、認めてもらえるのは嬉しいからさ。それに、あいつ金は持ってるからね。ちゃんと前金で払ってくれてさ」
「じゃあ、いいじゃねえか。嫌わなくても」
「それがさ、オレがてめえで持っていってやったんだよ。わざわざ、あいつのボロ屋敷まで」
 ボロ屋敷という言葉に南条がコーヒーを吹き出しそうになっている。
「そしたら、あいつ、ゴルフのパターの練習してんだよ。庭の隅っこで。下手なくせに。で、ちゃんと盆栽のこともオレのことも見ねえで、その辺に置いといてくれ、なんて抜かしやがって。ゴルフなんて一旦やめて、ちゃんと受け取れっていうんだよ」
 最古参の衣笠が笑う。
「そういう奴なんだよ、あいつは。オレは同級なんだけどさ。ガキの頃からそういう奴。なんか気に入らねえ雰囲気出しやがるんだ」
「だろ!しかも、パターの練習を盆栽の置いてあるとこでやるなんざ、オレからすれば盆栽好きの風上にも置けねえわけよ」
「で、どうしたんだよ」
 会長の佐竹が聞く。
「いやまあ、置いてきたけどさ」
「置いてくるなよ。おめえなんざに売らねえって、持って帰りゃよかったんだ」
「ま、その晩に酒の約束もあったから、ちょっと金がね」
 高橋が照れながら言うと、みんなが大笑いする。
 笑いが収まったあたりで、最年少の南条が少し改まった声で切り出す。
「宴もたけなわですが、少しお願いが…」
 そう言って、南条が正面に座っている斎藤の方に向き直る。
「去年の終わりに田所さんが亡くなって、副会長が空いたままなんです。それで、私としては斎藤さんにお願い出来ないかと」
 斎藤が驚いた顔をする。
「えっ、オレ? 無理だよ。パソコンできないもん」
「いや、パソコンは必要ないんで。あったら、私がチャチャっとやるんで」
「だけどさ、メールでみんなに連絡とったりしなきゃいけないじゃない」
「あれは、去年からLINEに変わったじゃないですか」
「えっ、LINE」
「そうだよ、LINEだよ」
 斎藤がLINEに切り替わったことを知らなかったことで、みんなが驚いている。
「斎藤さん、私がLINEの設定とか、登録とかやってあげたじゃない」
 鈴木に言われて、斎藤が怪訝な表情でスマホを取り出す。斎藤のスマホの画面を正面からのぞき込んでいる南条。そこには、LINEの緑色のアイコンがちゃんと光っている。
「LINEのマークがあるでしょ。そこに小さな数字が59って書いてあるじゃないですか。それ、去年からのメッセージが59個たまってますよって意味ですよ」
 斎藤が呆れている。
「そんなこと言われても、字が小さくてわかんないよ」
 会長の佐竹が南条に目配せしながら、斎藤に話しかける。
「なんか、LINEで話しかけても、斎藤さんだけ返事しないと思ってたんだよ」
 斎藤は佐竹には答えずスマホの画面を見ながら、なるほど、そうかそうか、と独りごちている。
「じゃあ、あんた、なんで今日会合があることを知ったんだよ」
 すると、斎藤の代わりに高橋が答える。
「あれだよ、昨日、商店街でばったり斎藤さんに会ったんだよね」
 斎藤も嬉しそうに加わる。
「そうそう。酒のアテがないってかみさんに言われてさ。買いに出たら、高橋さんに会っちゃって。明日、来るんでしょっていうから、明日は空いてるからいいよなんて言ってさ」
 佐竹が呆れた顔をしている。
「斎藤さん…」
 佐竹に声をかけられても、斎藤はまだ笑いながら昨日の話をしている。
「斎藤さん」
 少し、緊張感のある声で佐竹が言う。
 斎藤と高橋が口を閉じて、佐竹を見る。
「斎藤さん、ちゃんとしなきゃだめだよ。ほら、LINEに変えましょうって話も、前の会合のときにして、あんたも賛成してたんだから」
 斎藤さんが少し椅子に座り直す。
「いや、ほんと、申し訳ない。家族とか、みんな電話で話してばかりなんで…」
「まあ、これからはちゃんと見てよね。ほんとに」
 斎藤が少し拗ねた表情で下を向いて、コーヒーカップを引き寄せる。
「もし、次わかんなきゃ、オレが教えるから。ね、ね」
 高橋が見かねて言う。斎藤はうなずきながら苦笑いをしている。
 南条が空気を変えようと、小さく咳払いをする。
「じゃ、みなさん。とりあえず、最後のページを見てもらえますか。これが前回の品評会の収支です。会費を貯めていた分から、会場費を引いて、残りが三万二千百五十一円。これはそのまま繰り越しておきますね」
 みんなが手元の用紙をめくる。そして、数字を追いながら、南条の言葉にうなずいている。
 一通りの説明が済むと、南条が、報告はだいたい以上ですね、と用紙をバッグにしまう。それをきっかけに、みんなも同じように用紙をバッグに入れたり、折りたたんでポケットに入れたりしながら、片付け始める。
 南条がみんなの手が落ち着いた頃合いを見計らって話し出す。
「みなさん、次の品評会が秋になるので、それまで元気で盆栽を楽しみましょう。では、会長の佐竹さんから一言しめてもらいます」
 言われて、佐竹が苦笑する。
「そこまで仕切れるんだから、若手が会長やってくれねえか」
「どこの盆栽の会で、最年少が会長やってるんですか」
 そう言われて、佐竹が少し身仕舞いを正す。
「今日もよく集まってくれました。区民盆栽の会がこの区に出来たのが昭和五十三年だそうです。四十年以上前ですね。都内のあちこちに盆栽の会はありますが、ちゃんと区が補助してくれているところは、三つくらいしかなくて、そのなかでもうちが一番古くて、一番大きいらしいです」
 ここで、佐竹はポケットから手帳を取り出し、自分で書いたメモ書きを探している。
「えっと、いまうちの会員数は三十二人。男性が二十五人。女性が七人です」
 そこで、衣笠が口を挟む。
「まあ、女性七人は元々旦那が会員で、旦那が亡くなって名前だけ残してるみたいな感じだけどね。オレたちで亡くなった旦那の盆栽を預かったりしてるから」
 すると、最年長の衣笠が声をあげる。
「そう言えば、去年、若いお姉ちゃんが二人ほど入会したんじゃなかったっけ」
「もう、退会しましたよ、きぬさん」
「え、もう?」
 佐竹が呆れた顔をしている。
「去年の秋の品評会の会場で、入会したいって二人がやってきたとき、あんたなんて言ったよ。こんな若いお姉ちゃん、久しぶりだなあ。良かった良かった、オレになんかあったら介護してよ、なんて言っただろ」
「そんなこと言ったっけ」
「言ったよ。おかげで、その日の夜、やっぱり辞めますって、電話があったんだよ」
 そう言われて、衣笠はしょんぼりしている。
「ということで、若い女性会員が次にやってきたら、若手がちゃんと対応して、オレたちはみんな口にチャックだからな」
 佐竹が半ば本気で言う。
 鈴木が急に思い出したように、
「あ、そうだ。去年の終わりに亡くなった田所さんの盆栽も預かってあげたほうがいいんじゃないの」
 と、心配そうな顔をする。
 会長の佐竹が、小さく頷く。
「そうなんだよ。その辺もちょっと心配なんで、明日にでも田所さんのとこに挨拶に行ってくるよ」
 神妙な顔をして聞いていた会員たちが、お願いします、と頭をさげる。
「そう言えば」
 今度は、南条が口を挟む。
「そう言えば、斎藤さんは、田所さんと仲が良かったですよね」
「うん。幼なじみなんだ。小中と同じ学校でさ。高校は別のとこに行ったんだけど、それでもたまに遊んでたなあ」
 斎藤が窓の外を見る。ちょうど、都電がホームに到着して、たくさんの人が降りてくるところだ。小学生の男の子が数人かたまりで降りてきて、ふざけ合っている。その後ろから降りてきた中年の男に叱られて、男の子たちは謝っている。しかし、中年の男が通り過ぎて行くと、男の子たちは、男の背中に舌を出したり、鼻の下を伸ばしたりして、ふざけた顔を見せる。斎藤はそんな男の子たちの顔を見て、笑う。
 南条は笑っている斎藤を見ながら、立ち上がる。みんなも南条につられて立ち上がる。
「では、一番若手の南条も頑張りますので、みなさんも元気で頑張りましょう」
 そういうと、みんなが口々に、頑張りましょう、と声を出す。
「あ、それから、斎藤さん。副会長の件、よろしくお願いしますね」
 南条が軽い調子で言うと、斎藤はさっき男の子たちを見て、笑ったままの笑顔で、
「うん、わかりました。頑張るよ」
 と答え、区民盆栽の会の役員たちは喫茶店を出て、それぞれの帰路につくのだった。(了)

ひとの心はどこまで拡張するかまたはどこ吹く風

北村周一

理由はよくわからないのですが
以前住んだことのある家らしき建物の
ほぼ三階の高さから妹が飛び降りてしまったのです
すべては夢の中の出来事なので
妙な夢を見てしまったくらいで済ませたいのですが
後味があまりに悪かったので
みどりの測量野帳にひっそりと
そのときの様子を書き留めておいたのでした
ほぼ三階の高さまで梯子が掛かっていたのに
妹はなぜそれを利用しなかったのでしょう
梯子はふつう外に背を向けて昇り降りするはずなのに
妹は違っていました
まるで滑り台から降りてくるような感じで
逆向きに梯子にぶら下がったのでありました
そしてそれから何を思ったのでしょうか
不意に飛び降りたのでありました
もともとスポーツが得意だったからかもしれませんが
モモンガみたいに舞い降りたのでありました
そして無事着地したまではよかったのですが
起き上がろうとして立つことは立ったのですが
頭を抱えてふたたび倒れ込んでしまったのです
それを見ていて家族の皆は慌てました
けれども不思議なことに階段が見当たりません
階下へ降りてゆきたいのに
この家のどこにも階段がありません
ではどうやってここまで昇ってきたのでしょうか
梯子ではとても恐くて昇り降りができません
皆で右往左往していると
どこからか声が聞こえて
こう言ったのでした
「曜日が違う」
えっ曜日が違う?

 夜の底の無垢のひのきの食卓の節目模様にやどる星々

本小屋から(8)

福島亮

 5月にはいって、それまでウンともスンともいわなかったバオバブがいっせいに芽吹いた。枯れ木にしか見えなかったそれに、緑のイボができはじめ、そのイボは日に日に大きくなり、ある日見覚えのある手のひらのような形の葉が飛び出してくる。そのタイミングをみはからって灌水すると、冬のあいだ一滴も水を与えられていなかった彼らは、我を忘れて飲み干す。耳をすませばグビグビと音が聞こえてきそうだ。根の先端から木の頂点まで、淀んだ粘液の沼のようになっていた樹液が水を含み、堰をきったように流れ出し、その奔流が一枚一枚の葉となって萌え出る。バオバブの葉っぱは食べられるそうだが、たしかに、この出たばかりの柔らかい葉を摘んでさっと茹でたり、油で香ばしく揚げたら美味しそうだ。

 去年の秋に購入し、ベランダに放置しておいたエケベリア(多肉植物)数鉢も、冬の寒さのなか肉をぎゅっと引き締め、その柔らかな成長点を北風や霜から守っていたが、暖かくなり、しかも最近は適度に雨も降るので、みずみずしく膨れあがり、赤ん坊の手の甲のようにふくふくとしている。もっとも、それを日々観察しているわけではなく、時々思い出したらじっと眺める程度の注意しか払っていないのだが、5月のある日、何の気もなしに目をやると、その赤ん坊の手の甲の幾つかから針金のようなものがにゅうっとのび、橙色をした小さな釣鐘のような花が咲いていた。その日は5月だというのに暑い日だったが、熱と湿気をふくんだ濃厚な風に吹かれて、橙色の釣鐘は、小さなモビールのように揺れていた。

 5月中旬、カリブ海で出版社を経営しているフロランが日本に遊びにきたので、滞在中何度か会った。ちょうど2年前、まだ私がパリにいた時分、それまで見ず知らずの人だった彼からメッセンジャー経由で連絡が来て、モンパルナスのカフェで会った。マルティニックとグアドループに拠点を置く小さな出版社の存在は知っていたが、それをどんな人が運営しているのかまるで知らなかった。約束の時間にカフェで待っていると、50代くらいの背の高い男性がやってきた。あとで訊くと、彼はケベック生まれで、いまはケベックとフランスの二重国籍を持っているとのことだった。

 大学卒業後、どういうわけかカリブ海で自動車関係の仕事につき、ある出来事をきっかけにその仕事を辞めてから、失業保険を元手にいまの出版社を立ち上げた。今年で17年目になる。彼の父親は68年5月の時——息子が生まれるのはその翌年だ——他の学生と同様政治青年だったらしい。ケベックでの子供時代、直接目にしたわけではないが、ケベック独立運動がもっとも苛烈な形をとった頃の生々しい出来事を周囲の大人を介して知った……早稲田から高田馬場まで、もうすっかり少なくなってしまった古本屋街を一緒に歩き、ときに何冊かの古本を手に入れながら、そんな話をした。ケベック生まれの青年が立ち上げた出版社は、いまではカリブ海の名だたる作家たちの書物を刊行しているし、セリーヌやエルノーといった有名作家のフランス語作品をクレオール語に訳したものも刊行している。数年前のことだが、ラファエル・コンフィアンと会った時に、これまでクレオール語で書かれた作品はフランス語に翻訳されなければ誰も見向きもしなかった、だが、これからはフランス語の作品がクレオール語に翻訳される時代だ、と言っていた。翻訳の試みは次々形になっているが、それを支えているのはフロランだ。

 彼が特に力を入れているのは児童書、そして青少年向けの書籍の出版だそうだ。マクドナルドは知っていても、「パンの実」が何なのか知らない子どもが増えてきた。そんな子どもたちに土地の動植物の名を教えるための児童書を多く刊行している。フロランが編集した本を通して、はじめて「パンの実」の存在を知った子どもたちは、もうじき親になる。 

傘を嘆ず

篠原恒木

傘について思うところを述べたい。
傘はなぜ進化しないのか。
ヒトは雨が降るといまだにあの傘をさしている。おれもそうだ。
だが、傘をさすたびにおれは思う。
「なぜこの傘は傘のままなのか」
不思議でならない。人類が雨に濡れない方法は「傘をさす」こと以外にないのか。だって、これだけテクノロジーが進歩しているんですぜ。
電車に乗るときも切符を買わずに済むし、駅員も改札口にいない。カードをピッとかざすだけだ。建物の中に入るときも入口に立てば自動でドアが開く。クルマだって自動運転機能が搭載されつつある。部屋の掃除もルンバが勝手にやってくれる。観たいTV番組、聴きたい曲はアレクサに言えばすぐ流れてくる。インターネットから3Dプリンター、VRまで登場してきた。そうそう、AIで音楽もアートも小説も作れちゃう。先端医療も日進月歩だ。

なのにだ。傘は相変わらず傘ではないか。これだけいろんなものが進化を遂げてきているのに、雨が降ると、いや、たかが雨ごときに対して、人類はあの傘に頼るしかすべはないのが現状である。雨に濡れたくなければ「やれやれ」と溜息をついて傘をさすしかないのだ。この現状は信じがたい。霊長類ヒト科が技術革新をいちばんなおざりにしてきたツールは間違いなく傘だろう。

傘の構造は原始的だ。和傘も洋傘もたいして変わりはない。はたして傘は目覚ましい進化を遂げてきたのだろうか。検証してみたい。
ジャンプ傘が登場してきたときは驚いたが、よく考えたら何のことはない、バネの力で自動的に開くだけだ。畳むときは自力で手がびしょびしょになる。折り畳み傘は不器用なので使ったことがない。ビニール傘は比較的安価だが、強風が吹くと悲惨な目に遭う。
「この暴風雨のなか、傘をさしていることにどれほどの意味があるのか」
と思いながら歩いていると、たちまち傘は裏返しになり、無残にも骨はバラバラに破壊されてしまう。あれは恥ずかしい。惨めだ。ずぶ濡れで新しい傘を買うためにコンビニを探すはめになる。

降っていた雨が止むと、傘ほど邪魔なモノはない。大荷物を抱えているときなどはなおさらだ。この傘さえなければ両腕の自由度が少しは増すのに、と歯嚙みしながら歩くことになる。
「傘を捨てればいいだろう」
という声もあるだろうが、どこに捨てればいいのだ。そんな場所は見当たらない。厄介極まりない存在だ。

傘というものがどうにも好きになれなかったおれは、ある名案を思いついた。十年以上も前のことだ。
「高級品を買えば、傘への愛着心が芽生えるかもしれない」
おれは思い切って英国王室で愛用されているフォックス・アンブレラを一本購入した。当時の値段で五万円以上だったと記憶している。分不相応だとは自覚していたが、傘という原始的なツールに価値を見出したかったのだ。
このフォックス・アンブレラは逸品だった。傘の生地に当たる雨粒の音が全然違うのだ。熟練の職人が手作業で高いテンションをキープしながら貼っているので、雨粒が弾かれるような、イキがよくてきめ細かい音を立てる。雨が傘に当たる音で心地良さを感じたのは初めてのことだった。
傘を畳むと、不器用なおれでも信じられないくらい細く畳めた。まるでステッキのように細身になる。素晴らしい出来栄えの傘だった。おれは傘も悪くないな、と初めて感じた。
だが、この傘はすぐに盗まれた。雨の夜、食事をするため店の外にある傘立てに置いたら、帰るときには消えていたのだ。おれは泣きながら帰った。おれの頬を濡らしたのは雨ではない。紛れもなく涙だった。

以来、おれはますます傘が嫌いになった。雨に濡れないためには傘しかないのか。あの傘が人類史上最終形の雨除けなのか。だとしたら人類はいままで何をしていたのか。「狼煙→手紙→伝書鳩→電報→固定電話→携帯電話→スマートフォン」という通信手段の目覚ましい進歩に比べて、雨除けは「傘→傘→傘→傘→傘」のままである。現代のテクノロジーをもってすれば、傘なんてささずに雨の中を歩ける方法くらいは朝飯前に開発できるのではないだろうか。

おれはツマにそのことを話題にした。すると敵、じゃなかった、彼女はこう言い放った。
「バッカじゃないの。傘だって進化してるじゃない。折り畳み傘、ジャンプ傘、ビニール傘、みんな世紀の大発明でしょ?」
「いや、傘でなくてさ、もっとこう、最新テクノロジーを活用してさ」
「たとえば?」
「うーん、手の平サイズのボタンを押せば、自分の体が透明なバリアに包まれて、そのバリアが雨を弾くとかさ」
「バリアの中でどうやって息をするの?」
どうやらツマは完全に論破モードに入っているようだった。
「そ、そうだね、この話は忘れてくれ」
「バッカじゃないの、本当に。寝言は寝て言ってよね! 傘がなかったらアンタの好きな映画『雨に唄えば』も『シェルブールの雨傘』も作られなかったでしょ?」
「そうだねそうだね、『カサブランカ』もそうだね」
「全然面白くない、それ」
ツマはカサにかかって攻めてきた。君の瞳に完敗。

しもた屋之噺(268)

杉山洋一

このところ、ミラノは本当に酷いにわか雨に見舞われています。スコールと言った方が近いように思いますが、実際は、酷い雨と風のなか雷があちらこちらに落ちる、轟音を立てて大粒の雹がふりつもり、街路樹は暴風で倒れていて、まるで世紀末的な情景です。驚くほどの降水量に道路は排水が追い付かず、歩道の高さまで水たまりが広がっています。その中を自転車を漕いで学校へでかけるのは、何ともデカダンスですし、気温もあまり上がっていません。異常気象と片付けるのは簡単ですが、これを引き起こした原因が、本当に我々にあるのなら、これから先、地球がどうなってゆくのか、一抹の不安を感じざるを得ません。

ーーー

5月某日 ミラノ自宅
一昨日、母は初めて平塚に住む従兄の操さんを訪ね、せつさんの話を随分聞いたという。生前のせつさんの様子を知る親戚も、もう操さんだけになってしまった。秦野だか鶴巻温泉あたりまで娘の美和さんが迎えにきてくださって、そこから車で平塚の操さん宅へ向かった。母が一人で、小田原までゆき、東海道線で平塚まで行くのは難儀だと心配していたから、とても嬉しい。
どういうわけか、このところ息子がよく話しかけてくる。怖いものやら、飛行機の揺れが怖くて、遺書を携帯電話に書いたとか。
それを無事に残すために呑み込もうか、などと考えていたらしい。
ずいぶん長い間リスがベランダの石壁の上にぺたりと身体を伸ばして日向ぼっこしている。なんだか、飛んでいるモモンガのようだ。小刻みに動いては身体の向きを変えるのだが、いわゆる、ネズミとゾウの時間のように、リスにとっては、のんびりと少しずつ身体を動かしている感覚なのかもしれない。ダルフールの人道状況悪化。

5月某日 ミラノ自宅
朝から日がな一日学校。漸く一曲譜割りが終了。全く先が思いやられる。
RAI(イタリア国営放送)大規模ストライキ。アナウンサーなど全てストライキに参加していて、ラジオもテレビもすべて前以て用意された収録番組を放送している。4月25日、イタリア解放記念日の放送内容に、メローニ政権側からの指導と検閲があったことへの猛反発と、妊娠、病気等の欠員分の補充をせず、他の労働者がしわ寄せを受けているという。
ハマスは停戦受入れ発表。イスラエルは反発。米イスラエル向け武器輸出停止を発表。

5月某日 ミラノ自宅
家人のニグアルダ病院、ジャルダ先生の診察に付添う。診察室は10年近く前、息子が入院していた北病棟にあって、息子がリハビリに通った、2階のフランカ先生の施術室もあった。尤も、フランカはもうリタイヤしたから、入口が開け放たれていた当時のフランカの部屋は、違う器具が置かれていた。
ドナトーニが最後に入っていた病院もここだし、彼が亡くなり夏の暑い盛りに一人、地下の霊安室を訪れたのもこの病院だった。

5月某日 ミラノ自宅
日がな1日学校。映画音楽作曲コースの指揮法試験。皆、見違えるほどさらいこんであって、すっかり驚いてしまった。
夜、受講生の一人、アレッサンドロから、授業に参加した皆がものすごく喜んでいます。この授業のお陰で、作曲の方法も音楽に対する考え方も変わりました。本当にありがとうございます、とメールが届く。
夜半、ボローニャに住むクラリネットのラヴァ―リアから「おい、お前RAIのテレビに出ているよ」とメッセージが届く。不思議に思ってテレビをつけると、確かに2000年にエミリオと一緒にやったノーノのプロメテオ公演の抜粋映像が流れていて、当時の自分の指揮は、格好だけは今よりエミリオに似ているけれど、圧倒的に音楽に横幅が足りない。推進力を全開にした細身の潜水艦のようである。何より四半世紀経ち、自分はずいぶん肥えたものだと呆れる。

5月某日 ミラノ自宅
「星雲」譜割りを途中までやり、諦めて庭の芝刈りをする。このまま芝刈りをせずに日本に戻ったら、月末には芝が育ち過ぎて簡単には刈れないからだ。「星雲」のフレーズ決めは大変だろうと想像はしていたが、文字通り遅々たる歩みである。母の日に因んで、町田に鹿児島のさつま揚げを贈った。

5月某日 ミラノ自宅
朝、学校へ出勤前に「星雲」譜割りを終え、マックマホーン通り角の喫茶店でコーヒーとパンを購い出勤する。聴覚訓練の授業の最後に、いつものようにシャランを皆で歌い終わると、今日は学生の間から自然と拍手が沸き起こった。どうやら学生たちはよほど曲が気に入ったようで、何故シャランを知っているのか、彼が他にどんな曲を書いたのか、まだ生きているのか、と矢継ぎ早に皆から質問を受ける。シャランと仏語風に発音する輩もいれば、チャッランと伊語読みする学生もいるが、さまざまな作曲家の倖せの形があるものだと感慨深くおもう。夕方、サンシーロ病院にて家人のレントゲン予約。

5月某日 ミラノ自宅
どうにも解せないので、イタリア内務省のサイトで住民票をくまなく調べ、ミラノ市役所の住民票には家人が同居人として登録されていないとわかる。当方、未婚でも既婚でもなくて、「不明」となっていた。最初に家人がイタリアに住み始めたときのビザは、家族を呼び寄せるためのビザだったから、当然夫婦として受け入れられていたのが、どこかで書き換えがおざなりにされて、未だ彼女だけ以前のモンツァに住民票が残っているらしい。尤も、家人は「未だわたしたちは結婚していなかったのよ」と、息子に面白そうに話している。「それでこれからどうなるの」と息子が尋ねると、「お父さんとお母さんはこれからまた結婚するのよ」と嬉しそうである。

5月某日 三軒茶屋自宅
目の前の小学校校庭で、毎日、運動会の応援合戦の練習をしている。自分が小中学生だったころの応援合戦を思い起こすと、長い学生服を着て、声を嗄らした応援団員が思い切り胸を張って叫んでいて、改めて考えてみれば、何とも不思議な伝統である。尤も、今はずいぶん円やかになった。その昔、時々日本の学校に通っていた息子は、どんな心地で参加していたのだろう、ともおもう。イランのライシ大統領が墜落死。イスラエル、ネタニヤフ首相が国際刑事裁判所から戦争犯罪人として告訴の可能性との報道。

5月某日 三軒茶屋自宅
戦争では一人でも多く殺した方が英雄になると信じて疑わなかったが、ネタニヤフ首相告訴のニュースを聞くと、これだけ簡単に情報が共有できる現代においては、一概にそうとも言いきれないのかも知れない。パレスチナとの共存を選択して、彼らの生活をより豊かにすることこそ、イスラエルを利するように思うが、それは素人の浅はかな理想論なのだろう。

5月某日 三軒茶屋自宅
イタリアのニュースでは、アイルランドがパレスチナを国家として正式に承認したことがセンセーショナルに報道されている。スペインとスロベニアも続く予定だそうだ。同日、ノルウェーもパレスチナ正式承認を発表。せめても平和に役立ちたいのだ、との政府のコメントが書かれている‘‘。

5月某日 三軒茶屋自宅
東フィルはいつも明るく肯定的な雰囲気で、音は情熱的。そのお陰で、こちらは練習をすっかり楽しんでいる。
帰宅してRAIのストリーミング放送をつけると、国際司法裁判所で、ネタニヤフ首相を戦争犯罪で告訴する映像が延々と生中継されていて、関心の高さがうかがえる。大戦中の日本は、今のイスラエルに近い感じだったのだろうか。結局誰であれ、自らのDNAの一部に、通常では想像もできない狂暴性がセットされているのかもしれない。

5月某日 三軒茶屋自宅
練習が終わって、夜、町田の実家へ食事に出かけた。江の島で揚がったかますを焼き、カボスを搾って頂くと、大変美味であった。久しぶりに口にする蕨も、適度なえぐみが実にうれしい。イタリアメローニ政権、EUで初めてパレスチナのムスタファ首相を公式に招待。

5月某日 三軒茶屋自宅
マーク・アントニーは、とてもチャーミングで深い音楽家であった。楽譜の表面ではなく、実際に音になったとき、自分の心に何が伝わってくるのか、それを大切にしたい、と話していた。ドレスリハーサルが終わり、チェンさんは、感激して思わず泣いてしまいました、と皆に話した。
ロベルト・ベニーニ、世界子供の日のためのモノローグを、ヴァチカンのローマ法王の前で演じたことが話題になっている。
「お前たち、どこまでも深く善人であれ、イエスは言ったよね。それが人生というものなんだ。愛なんだ。人の悲しみを理解して、限りない深い憐みをおぼえる。だからね、世界が君たちにやさしく手をさしのべるのを待っているのではなくて、君たちが世界に手をさしのべて、やさしくしてあげてほしいんだ。せめて、君たちのすぐそばにいる人を、愛してほしい。愛するんだよ、いいかい。誰でもいいから、君たちの傍らにいる人を、愛するんだ。善良な人間でいてほしいんだ。愛して欲しいんだ。愛すること、みんな、愛ってなんだか知っているよね。君たちが愛をなんだかわからないと言うのなら、君たち自身が愛そのものなんだよ。まさに君たちが目に見えるようになった愛そのものなんだ。子供たちは、目に見えるようになった愛なんだ。だから、もし君たちが愛がなんだかわからない、といってしまったら、一体だれが愛を説明できるっていうんだい。君たちのお父さん、お母さんもよく知っているよね。君たちがすごくちっちゃかったころ、ゆりかごをやさしく押してくれていたでしょう。覚えているでしょう。ある有名な詩人はね、こう言ったんだ。揺りかごをおす手こそ、世界をおさめる、ってね。その通りだよね。でも、慈悲が、愛がなにかを知らないような人たちが世界をおさめて、実に愚かな罪をおかすこともある。戦争だ。戦争。よく聞いてほしい、この言葉がどんなに汚らわしいか。戦争!君たちの前で、君たちと一緒に、この広場で、とにかく汚らしく、すべてをどす黒く塗りたくる言葉だ。まったく聞いてられない。戦争!絶対、こんなことは終わりにしなきゃいけない。子供たちが戦争ごっこをするときは、誰か一人、子供が傷ついたらやめるでしょう。戦争ごっこはおわり。それなのに、戦争がはじまり、最初の一人の子供が辛い思いをしているとき、傷ついたとき、どうして戦争をやめられないんだろう。どうして?どうしてなんだ。なんて卑怯なんだ。アメリカの詩人イヴ・メリアンは、生まれてくる子供が、お母さんに、戦争っていったいなあに、って聞くような世の中が夢だと言ったんだ」。
ライフ・イズ・ビューティフルと全く同じ口調で、飄々と、少し畳みかけるように我々に語りかけ、我々の胸を抉ってゆく。全世界からあつまった、小学生くらいの子供たちへ向かって語りかけていて、言葉はしごく簡単なのに、涙がこぼれた。家人と一緒に国営放送を眺めていて、家人がいみじくも、なんだか齋藤晴彦さんみたいね、と呟いた。

5月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんと佐藤さんによる、「待春賦」録音。沢井さんは、弾けば弾くほど音に力が漲る。二重奏だが、できるだけ二人の音が重ならないよう互いに心を配っていて、二つの楽器から繰りだす二本の糸は、一つに縒りあげられてゆく。沢井さんの名前を数字に読みかえながら調絃を決めたが、書いた時期もプロセスも全く違うのに、どこか先日の野坂さんのための「夢の鳥」に似た響きがするのが不思議であった。
夜Sさんから、本番の演奏のあとホセが涙を拭っていたと聞く。作曲家が音を書く作業の深さ、それは一体何に喩えることができるのだろう。

5月某日 ミラノ自宅
昨日は日がな一日、学校で今年最後の指揮のレッスンをやり、今日は朝早くからシャリーノに会いにいった。朝7時の特急でフィレンツェへ向かい、駅構内のバールで朝食を摂ってから急行でアレッツォに向かって、車でチッタ・ディ・カステッロを目指す。日帰りは流石に強行軍だが、他に仕方がなかった。
パスタチェーチとパンを削ってクスクス状にしたウンブリアの郷土料理に舌鼓をうちながら、Infinito NeroとDa gelo al geloは舞台ではなく、映像、つまり映画として作りあげたら自分の考えていた世界に近いものができる、と話していた。「ファウストの劫罰や、メフィストフェレスだって一緒でしょう。舞台で作曲者が望んだことを実現するのは、限りなく不可能に近い」。
シャリーノの最初期作「あかあかと」は、いつか浄書をしようと思いつつそのままになっていて、今実演しようと思っても、演奏するマテリアルがないそうだ。「あかあかと日はつれなくも秋の風」をはじめ、彼が日本文化に感化されたのは、まだわずか12歳のころ、先生から芭蕉の句集を見せられてからだという。

5月某日 ミラノ自宅
ずっと長いあいだ学校の隣の部屋で室内楽を教えていたMaria Di Pasqualeが亡くなった。暫く前にクモ膜下出血でたおれ、そのまま昏睡状態が続いていた。ブラジル音楽が好きで、自分でアンサンブルをつくって、振ったりすることもあり、少しでも時間ができると、こちらの部屋にきてじっと見学していた。時間が余裕があるときは、何度か指揮の手ほどきをした覚えがある。親しかった友人からユダヤ教に興味を覚え、改宗試験を経て無事ユダヤ教徒になっていたはずだ。
スロヴェニアがパレスチナを国家として正式承認。トランプ、有罪決定。

(5月31日 ミラノ自宅)

6/1バリ舞踊の日に思うこと

冨岡三智

日本では6月1日がバリ舞踊の日となっていて、バリ舞踊のイベントがよく行われている。1964年6月1日にインドネシア大統領の特派使節団が初来日し公演したことに因むらしく、2018年に日本記念日協会により正式に認定されたという。どこがこの認定を推進したのか私は知らないのだが、実はこの記念日について「なぜこの日にしたのだろう…?」とずっともやもやしたものを感じてきた。せっかくバリ舞踊界で盛り上がっているのに、水を差したくないという気持ちもあるのだが、日付を見直してもらえたらなあと正直思っている。

●大統領派遣芸術使節団

その理由は2つある。第一に、日本に初めて大統領特派芸術使節団が来たのは1964年の6月ではなく1961年の1月だから。その時にすでにバリ舞踊も披露されている。大統領特派芸術使節団が来日したのは、1961年、1964年、1965年の3回である。実は私の舞踊の師匠の義弟、義妹がこの1961年公演の出演者に選ばれていたので、私もいろいろ当時の写真をいただいている。

大統領特派芸術使節団(misi kesenian kepresidenan)の派遣は初代スカルノ大統領が打ち出した芸術政策で、公式の第1回は1954年で、行き先は中国である。ちなみに、私の舞踊の師匠夫婦はこの第1回目の出演者に選ばれている。インドネシアの複数の地域から代表を選出し、代表団はジャカルタで合同練習を行い、大統領がその成果を直接視察して送り出した。派遣先は、当時のインドネシアの友好国である東側諸国が多かった。スカルノが1965年9月30日事件で失脚するとこの政策も終了し、以後はインドネシアが送り出した芸術使節団は「大統領特派」ではなくなる。

この、1961年の初来日公演はインドネシア大使館と朝日新聞社の主催である。初来日とあって朝日新聞社の宣伝にも力が入っており、来日前の1960年12月29日から帰国後の2月5日まで10回にわたって新聞に記事が掲載された。以下、その記事に基づいて公演の詳細について記す。実は、この使節団の来日と合わせて、インドネシアの巡航見本市船:タンポマス号も来日している。使節団の来日は1月15日。24日と25日に朝日新聞東京本社講堂にて「インドネシア文化の夕べ」と題した音楽と舞踊についての解説があり、26日夜に東京神田の共立講堂で公演があった。公演はこの1日だけの予定だったが、チケットが完売したため、25日昼、朝日新聞東京本社講堂での公演が追加された。また、28日夜にはNHKで1時間の公開放送があった。ちなみに、私の師匠の義弟によると、インドネシアでテレビ放送が始まるのはこの翌年からで、おそらくインドネシア側もテレビ放送の現場視察を希望していたのではないかと言う。一行は29日に大阪へ向かい(記事にはないが、彼らは宝塚歌劇を見学している)、2月4日に香港、マニラ、シンガポール経由で帰国した。

この時の来日メンバーは75名で、内訳はバリから42名、スラカルタから13名、ジョグジャカルタから4名、バンドン(西ジャワ)から12名、ジャカルタから4名である。このジャカルタの4名はおそらく引率の政府役人を指すと思われる。私の師匠の義弟、義妹はスラカルタ代表である。当時はまだ生演奏による公演だったので、バリとジャワの楽器セットを舞台に置いた。西ジャワの音楽はスラカルタのガムラン・セットで代用が可能で、太鼓だけ西ジャワのものを用意する。ジョグジャカルタからの参加者は踊り手と太鼓奏者だけで、スラカルタの演奏者たちが太鼓以外の楽器を演奏した。バリからの出演者が過半数を占めるが、記事によればケチャの上演もあったそうなので、そのためかとも思う。

というわけで、インドネシアの公式の芸術使節団初来日に焦点を当てるなら、その日付は正しくは1月15日である。

●パンチャシラの日

そして、第二の理由がインドネシア舞踊代表が来日した日を「バリ舞踊の日」としたこと。しかもそれが6月1日であることである。上で述べたように、使節団はバリ舞踊団ではなく4地域の代表から成り、しかも、地域代表はいないものの、スマトラの舞踊も上演レパートリーに入っていた。インドネシア政府としては多様なインドネシア文化を紹介したかったのである。

昨年2023年6月号の水牛に寄稿した「パンチャシラの日によせて」でも書いたけれど、インドネシア政府は2016年に6月1日をパンチャシラ誕生の日として国民の祝日に指定した。パンチャシラはインドネシアの国家五原則のことで、当時国内外でイスラム過激派の動きが活発化したことなどを背景に、多様性の中の統一をあらためて確認するべく打ち出したと考えられる。バリ舞踊の日が認定されたのは2018年だから、すでにパンチャシラの日は祝日になっていた。もっとも、祝日制定以前からパンチャシラの日は記念日となっており、特に公認宗教以外の信仰を持つ人たちにとっては拠り所となる日で、その日に記念行事を行ってきた。そのような日をバリという特定地域の舞踊だけを称揚する日と定めることは、インドネシアの国家原則を尊重していないように見えてしまう。インドネシア芸術と関わるならば、そこには注意を払うべきではないか…と思える。実際、インドネシア教育省の元役人にこの「バリ舞踊の日」制定について話をしたら、やはり機嫌が良くなかった。

バリ舞踊の日を制定する動機となったのは、2015年にバリ舞踊がユネスコの無形文化遺産に登録されたことだったようだ。それならば、そのユネスコに登録された12月2日をバリ舞踊の日にすればよいのに…と思う。

落下すること

越川道夫

春はずっと林に路肩に菫を追いかけている。地面近くに薄紫の小さな花を咲かせる、あの姿が好きなのだ。雨の降った後に、泥だらけの顔で、それでも姿勢をなんとか保とうしているのもいい。きっと菫は、私たちが思っているよりも強靭なのだと思う。地面に這いつくばって菫を覗きこんだ写真を撮ったりしていると、大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか、と抱き起こされることもしばしばである。調子を悪くして倒れているのと間違われたのだ。まったく人騒がせなことである。

日本には50種類ぐらいの菫があると言われ、そのうえ亜種も変種もあるとしたら、私などにはとても同定することはできない。実のところ植物の名前には、ほとんど興味がなかいのだ。そもそもカタカナの名前が覚えられない。そこで生えている、その姿を眺めることが好きなのである。5月も半ばを過ぎれば、菫はすっかり姿を消す。林ではエゴノキの白い花が満開になって散り、今では樹の根元にびっしりと敷き詰められたように生えたドクダミが白い十字の花を咲かせている。その隙間からホタルブクロが背を伸ばし、首を垂れたように花を咲かせている。また春になれば、私は飽くことなく菫を追いかけることだろう。

二十代の後半は、撮影所の助監督に嫌気がさして、映画館で映写技師をしていた。映画は今ではデジタルのデーターの映像になってしまったが、私が映写をしていた頃はまだ35mmフィルムの時代である。映画は直径が50cmほどのアルミやプラスチックの缶に収められている。1時間45分の映画となれば、巻き方にもよるが、だいたいこの缶が4つか5つ。大体1巻が30分くらいだろう。これを映写室に備えつけてある2台のまるで恐竜のような映写機で交互に切り替えながら映写していくのである。即物的な意味で映画の正体は、これである。缶に収められた巨大なフィルムの塊。本のように読めるわけでもなく、絵画のように眺めるわけにもいかない。死んでいる。映写技師だった頃、そう考えていた。ただのフィルムの塊である時、映画はその生を生きてはいない。眠っているというよりは、生きていない、死んでいるのだと。それを映写機に掛け、機械が動き出し、一秒間に24回の明滅を繰り返しながらプロジェクションされ、映画はその「生」を生きはじめる。何度でも。映画は一からその「生」を生きる。

深夜、オールナイトの映画を上映しながらこんなことも考えていた。映画は多くショットで構成されているが、このショットには何が映っているのだろう。映画が表現しようとしている物語のことではない。カメラが一定の持続する時間、対象を見詰め続けそれがフィルムに映っている。これをショットと呼ぶのだが、このショット自体には何が映っているのだろうか。深夜の朦朧とした脳が導き出したのは、このような答えだった。いうまでもなく人生はすべて崩壊の過程である、と言ったのはフィッツジェラルドだったか。存在するものは刻々と崩壊している。1秒後の存在は1秒前の存在に比べて崩壊している。ショットに映っているのは、そのカメラが見詰めている存在の崩壊の過程なのだ。どのショットもどのショットも、その崩壊が映っている。すべて倒れんとする者。その倒れようとする姿をショットは掬いとっているのではないか。掬いとり、掬いとり続け、倒れる前に崩れ落ちる前に次のショットへ…その連続である。そう考えると、多くのショットが繋がれている映画というものが、まるでサッカーのリフティングのように思えてくる。ボールを地面に落とさないように宙で蹴り続けること。地面に落下してしまえば終わりである。

書くこともまた同じだろうか。「この『判決』という物語を、僕は22日から23日にかけての夜、晩の10時から朝の6時にかけて一気に書いた。」終わりを決めず、一度書き始めたら、可能な限り「一息に」、可能な限り中断することなく書いてしまおうとしたカフカ。彼は、作中人物がどのように発展するかを知ることなしに、暗いトンネルの中をペン先についていくように書いたと言われている。ペンが先に進もうとしなくなったら、そこで終わり。ノートには横線が引かれ、その後を書き継ごうとする余地さえ残されてはいない。そのように一気に書いたカフカには、書いている間に「落下している」という感覚がなかっただろうか。落ちていく、落ちていく。落ちていくものをジャグリングの芸人のように掬いとり掬いとり、言葉を継いでいく。そして、もう落ちる余地がなくなったら、そこで終わるのである。

フィルムは映写機によって1秒間に24回の明滅を繰り返し、止まっては掻き落とされていく。(映画の絵が動いているように見える原理は、いわゆるパラパラ漫画である)フィルムは掻き落とされ続け、落ち続け、落下し、落下し続ける。これは何もかも深夜の妄想であるだろうか。フィルムの一コマ一コマが掻き落とされていくのを見ながら、いつか見たアニメ映画『トイ・ストーリー』にこんな台詞があったのを思い出す。

「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。カッコつけてな」

話の話 第15話:本の虫

戸田昌子

その昔、わたしが若い頃、町の本屋は立ち読みには寛容で、中学生のわたしはよく本屋に行っては文庫本を立ち読みしたものだった。2時間ほどで2、3冊は読み切ってしまうくらいのペースだった気がする。なぜ文庫本だったのか。それは当時、わたしが読んでいたのが主に小説だったからだし、大きなハードカバーの本を立ち読みする勇気はなかったからである。そんな中で立ち読みの対象になりがちだったのは瀬戸内晴美(のちの寂聴)や五木寛之など、ちょっと読みたいけど、読み返す必要はないな、という類の本だった。それでも出家する前の瀬戸内晴美はいま思い返せば、とても純粋な心を持った人だなあという印象はあって、「信頼」ということについて独特の考え方を持っていたから、影響を受けた。だから後で実は出家していたのだと聞いたとき、さもありなん、と納得した覚えがある。当時、わたしが通っていた本屋には、ハタキをばたばたと振り回しながら「ゴホン、ゴホン」と咳払いをするなんていう、漫画に出てくるような意地悪な書店主はいなくて、静かな立ち読みの時間を過ごせたものだった。

物心ついたときから、ひたすらに本を読む子どもだった。絵本の読み方も独特だったようである。通っていた保育園で定期購入していた、うすっぺらい福音館のこどもの本のシリーズは、きょうだいが多かったせいで、数百冊にのぼる冊数が家にはあった。だからわたしは時々気が向くと、100冊ほどを床に積み上げ、1冊ずつ読んでは隣に置いていく、という読み方をした。もちろん最後の1冊までちゃんと読むのである。これは自分が読んでない本をチェックするための作業なのだが、そういう読み方は、たぶんあまり、普通ではない。

そういうわけで「本の虫」とわたしが呼ばれるようになったのは、かなり古いことのようだ。小学校低学年のうちに小学館の「世界少年少女文学全集」は読み終わってしまったので、もう一度、いや、もう二度、いやいや、さらにそれ以上にと、繰り返し読む。好きなものだけではなく、好きではない巻も何度も読んで、これは好きじゃない、ということの確認作業もする。あるとき、このシリーズを読んでいたときに、母が階下から、子ども部屋にいたわたしを大きな声で呼んだ。ふだんは呼ばれたらすぐに返事をするのだが、そのときはたまたま「返事をしなくてもかまわないだろう」と思った。なぜそう思ったのかはわからない。たまには無視しても怒られないかな、という浅はかな考えだった気がする。しかしそう思ったのが運の尽き、そのとき母はきっと虫のいどころが悪かったに違いなく、ドスドスと階段を登ってきて、わたしが持っていた本を取り上げ、怒ってびりびり引き裂いた。いくら意図的に無視したからと言って本を破くなんて、とショックを受けるわたしだったが、「あえて」無視したという後ろめたさもあるのでバチが当たったんだな、といたく後悔したものだった。ちなみに、そのとき破かれた本のタイトルは「愛の一家」だった。

小学生にしてはたくさん本を読む子だった。いじめられっ子で友達がいなかったことや、家では漫画やテレビが禁止だったので、本くらいしかエンタメがなかったせいもある。親が言うには、もう学校に行ったと思っていたら玄関に座りこんで本を読んでいた、なんてこともしばしばあったそうなので、少々、異常だったかもしれない。道を歩きながら本を読むのも得意だったし(漱石のようだ)、夜、布団に入った後も、かけ布団の中で豆電球をともして本を読んだりもした。そんなふうだからある日、小学校の先生が、「みなさん本を読みましょう。毎日、読んだページ数を報告して、1ページ1キロに換算して、地図につけて、みんなで日本一周しましょうね!」というアイデアを出してきたときは、こんなわたしでもクラスに貢献できると発奮したのである。先生は「1日5ページでもいいんですよ、みなさんで頑張りましょうね!」とおっしゃる。翌日、全員が読んだページ数を報告する段になって、みな27ページとか、がんばって50ページ、などと報告している中で、わたしはひとりで500ページ超えの数字を報告する。先生は一瞬とまどい、読んだ本のタイトルとページ数を書いた紙を見つめて沈黙する。数字のかさ増しを疑われているのかと思い、つい「解説のページは数えていません」などとごにょごにょ言ってはみるが、ドツボにハマった感が否めない。そして気を取り直した先生は、「戸田さんは特別だから、みんなこんなに頑張らなくていいよ!」とおっしゃった。いや、頑張ったわけじゃなくて、毎日これくらいは普通に読んでいるんです、と言うほどの勇気もなかったわたしは、翌日、さらに600ページ超えの数字を報告してしまう。次第にしらけていく教室。日本の海岸線は35,293キロメートルである。わたしひとりでもこの調子なら2ヶ月あれば一周できる、などという計算をわたしがしたかどうかは覚えていない。3日目、わたしの報告した数字が何ページであったかは覚えていないが、ともあれその読書マラソンが1週間と続かなかったことだけは確かである。

そんな調子だから、小学生のうちに、家中の本を読み尽くしてしまった。父の本棚に並んでいた「日本思想体系」にも手を出したが、さすがに「おもろさうし」は読んでも意味がわからなかった。父の持っていた岩波のアンデルセン全集は旧仮名旧漢字で書かれていて、最初はわからなかったのだが、他に読むものもないのでこころみに手に取ってみる。小学6年生くらいのことである。眺めているうちに、ああ、「體」は「体」だな、などと、なんとなくわかってくる。「畢竟」という字も、いつのまにか読めるようになる。辞書を引く習慣はなかったので、想像で補っているうちにほとんど正解が出せるようになってしまう。そもそも、わからない言葉を両親に尋ねようにも、共働きで不在なので、質問をする習慣はなかった。そのおかげで習わずとも、旧仮名旧漢字はすらすらと読めるようになってしまい、これは中学に入ってから、古文や漢文の授業で役に立つことになる。

中学に入るといよいよ、読む本がなくなってしまう。そのころハマったのが井上靖や遠藤周作である。でも家には数冊しかない。そうすると父があわれんで、「書籍代」を出してくれるようになった(そもそも小遣いは存在しない)。父は社団法人の研究員をしていたので、自分の書籍代が使いきれないときは、レシートをくれれば何を買ってもいいよと言って、わたしに本代を融通してくれることがあった。たぶん、半年に1度くらいの頻度で、1万円をくれていたと記憶している。もらったわたしが向かうのは八重洲ブックセンターである。なぜならそこは本のワンダーランドで、私の母は、近所の本屋には置いていないような本が欲しいとき、八重洲ブックセンターに電話で注文しては、わたしに取りに行かせていたからである。だからわたしは、父に1万円札を握らされると、いつも八重洲ブックセンターへ向かうのだった。

そんなある日のこと。わたしが八重洲ブックセンターで本を選んでいると、高校生くらいの少年が本棚を見つめているのに気がついた。自分のことは棚に上げて言うけれど、ここは少年少女が出入りするような本屋ではない。どうも気になってしまう。するとその子もなんとなく自分を気にしているような気がする。そう思うと急に緊張してしまう。本を選びながら、その子の後ろをさっと通り過ぎる。やはり気にされているような気がする。すっとした好ましい顔立ちの少年であるのは、通り過ぎた瞬間の印象である。わたしはさりげない風を装って本棚の間を歩き続けるが、緊張してしまってうまく本が選べない。仕方がないので、視線を振り切ってエレベーターに乗り、2階へと上がった。少年はついてはこなかった。

恋どころか友情さえもろくに知らない中学生の少女のことだから、そのときは緊張して逃げてしまったけれど、あのとき話しかけてみたりすれば恋が始まったりしたのかもしれない、そういえば八重洲ブックセンターには中2階にナイスなカフェも併設されているのだから、そこでお茶をすることもできたかもしれないのだ、などなど、後になって思い返すことが何度かあった。とはいえ、そんな勇気が中学生の少女にあるわけもないのである。もし万が一、声をかけたとしても、喫茶店で向き合ってから、さあ本の話をしよう、などと思っても、ろくな話になるわけもないのである。少女漫画のハラハラドキドキなど、完全に架空の世界の物語であった。

しかし世の中には奇妙なことがあるもので、自分はそのときの少年だと名乗るおじさんに、その後、わたしは再会することになる。「むかしよく八重洲ブックセンターに行ってたんだよね」とわたしが言うのをきいたその人は「僕もよく八重洲ブックセンターに行ってた!」と言った。「え、じゃあ、会っていたのかもしれないね」とわたしが言うと、彼は「買い物カゴで本をたくさん買ってた中学生くらいの女の子でしょ。」と言い始める。確かに、当時、わたしは買い物カゴで本を買っていたが、それは普通ではないのか。とわたしが言うと「買い物カゴで本を買う中学生の女の子なんて他にいるわけありません」と断言する。高校生のころ、八重洲ブックセンターで買い物カゴに本をぽんぽん入れていく中学生の女の子を見かけた彼は、その姿に「打ちのめされた」のだそうだ。そんなふうに誰かを「打ちのめしていた」ことには気づいていなかったわたしの買い物カゴに、そのとき入っていたのは『オーウェル対訳集』、『旧約聖書 出エジプト記』、そしてカフカの『城』あたりだったと記憶している。

クラスメイトと読んでいる本が違いすぎて困ったことがある。小学5年生くらいのころ、講談社の「コバルト文庫」というのが大流行した。ここのところ、クラスの女の子たちがみんなで文庫本を回し読みしている。かわいらしいイラストのカバーもついていて、みんなでキャッキャッと言いながら本を見せ合っている。ちらちら見ていると、どうやら挿絵もついているらしい。あの文庫本はなんだろう? しかし友達のいないわたしに、それを解説してくれる人もいない。でもどうやら文庫本ブームは来ているらしいから、わたしも文庫本を学校に持っていけば、仲間に入れるかもしれない。そしてあわよくば、友達ができるかもしれない。そう思ったわたしは、家にある文庫本を適当に選んで学校へ持っていく。そして教室でこれみよがしに読んでいると、クラスメイトの一人が声をかけてくる。「戸田さん、何読んでるの?」しめしめ。「うん、これね、半村良の『獣人伝説』!」そのあとのクラスメートとの会話の展開は、なぜか全く覚えていない。

代弁、ならぬ代読をしたこともある。わたしが中学生くらいのころ、父が読まなければいけない新刊書がしばしば山積みになってしまうようなことがあった。すると父は夜中にわたしの部屋へやってきて、デスクに本を積んでいく。特に「読め」と指示されたわけでもないのだが、暗黙の了解というやつで、本が積んであれば、わたしはとりあえず3日以内に全部読む。読み終わったころに、父がやおら「どうだった」とわたしに尋ねる。しかも父はそれを、いかめしい雰囲気で、重々しく言うのである。わたしはあらすじや感想を簡単にまとめて伝える。父は小さなノートを出して、わたしのコメントを小さな文字でしたためていく。しかし、それを彼がどのように「活用」していたかについては、わたしの関知するところではなかった。

考えてみれば、兄にもよく本を押し付けられていた。自分が読んで面白かった本は全部、わたしに読ませないと気が済まない兄である。わたしは遠藤周作が好きだったのだが、『イエスの生涯』や『キリストの誕生』『海と毒薬』などの硬派な本に偏っている。一方、兄は「孤狸庵先生」シリーズと呼ばれていた、遠藤周作の面白おかしいエッセイが好きである。趣味は違うものの、兄が持ってくる孤狸庵先生の本は、わたしも楽しく読むことができた。その他には、アガサ・クリスティーなども兄から渡されて熱心に読んだ。しかし問題もあった。わたしはホラー小説が苦手なのだが、兄がスティーブン・キングにハマったときは、次々に差し出される『ペット・セメタリー』や『イット』などの、背筋も凍る分厚い文庫本に圧倒されたものだった。しかも兄は、わたしが読まないと不機嫌になるのである。仕方がないから読む。そしてわたしは夜、眠れなくなってしまう。

中学1年生のころ、2つ年上の姉が登校するときに、いつも一緒に行く友達がいた。ある日、姉が体調不良で休んでいたとき、わたしがその彼女と一緒に学校へ行くことになった。彼女が「昌子ちゃんって本が好きなんでしょ? いま何の本読んでるの?」と聞くので「古事記です」と正直に答えたが、もちろんそれでは普通の中学生には二の句が告げない。とりあえず「古事記っていうのは、日本の古い神話時代の話が書いてあるもので、」と説明してはみるのだが、かえってドツボにハマってしまう。仕方なしに「あ、でも、井上靖も読んでます!『額田女王』がいちばん好きです」と言って、そのときカバンに入っていたその文庫本を見せたのだけれど、彼女は今で言うところの「ドン引き」の表情をしている。ああ、またやってしまった、と当時のわたしが思ったか、どうか。普通に考えれば赤面するところだが、当時はまだ、そこまで考えていなかったかもしれない。

そんなわたしでも、高校生になると、自分をはるかに凌駕する本読みの友達に出会うのである。その人とは演劇部で知り合って、たまたま家の方角が一緒だったので、学校帰りにおしゃべりをするのが楽しみだった。彼女が日本史オタクであったので、わたしも日本史オタクになり、彼女は梅原猛を端から順にわたしに貸してくれた。下校途中の電車のなかで、弓削皇子ってかわいそうだよね、いや、草壁王子もわりと辛くない? などと熱く語り合う女子高校生2名。そんなふたりがひたすらに語り合っているのを横合いからずっと聞いていた別の友人が、しまいに「お前らさあ! 会話ってのはキャッチボールなんだよ! ドッチボールじゃねえんだよ!? ふたりとも自分の話しかしてねえじゃん!」と呆れ果てて言ったのは、また、別の話。

わたしを神保町の古本屋街へといざなったのは、この彼女である。そして古本屋を回るだけでは飽きたらず、古書会館で金曜日に本を買うテクニックを教えてくれたのもまた、彼女である。彼女はわたしが知っている人の中では、夫を除けば最も博識な人物だったのであるが、神保町のドトールでバイトしながら本を買うのが一番いいから、という理由で大学へは行かなかった。必ずしも頭のいい人が大学へ行くわけじゃないんだな、ということを知らされたのは、彼女によってである。そういえばこの彼女とふたりで、早稲田にある高校の先生の家を訪ねたことがあるのだが、彼は古本マニアで専用の図書室を持っており、本を3冊まで借りてよろしい、と許可してくれたので、借りたことがある。そのとき借りた本はタイトルは忘れたが刺青の歴史についての本と、日本史関係の本、そしてロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』であった。その昔、その描写が「猥褻か芸術か」が話題になった「チャタレイ裁判」についてはぼんやりした知識しかなかったので、それが理由で借りたというわけではなかったのだが、なんとなく有名な本だから読んでみよう、というような気持ちだったと記憶している。それは伊藤整による翻訳ではあったものの、しかし肝心な部分、すなわち「みだらな性描写」はきっちりカットされていたバージョンであった。それでも男と女のむにゃむにゃとした繊細な機微の描写は面白かったし、森番とできてしまう主人公の満たされない思いにも説得力はあったようだ。本を返却に行ったとき、先生が「どれが面白かった?」と尋ねたので「『チャタレイ夫人の恋人』が面白かったです」と即答したら、「あっ……えっ……あっ、そう、そうなの。そう……」と動揺されていたのが、当時は不可解であった。しかし大人になったいまでは、そりゃ女子高校生が「『チャタレイ夫人の恋人』が面白かった」と平然と言ったなら、先生としては何も言えなくなるよね、ということは、さすがにわかるわたしではある。

234 夕暮駅

藤井貞和

JRの駅ビルで、
柱に凭れて口寄せしていると、
むらさき色のプラットフォームに、
母親が降りてくる

真っ青なかおを、
わたしのまえに俯せにして泣く。
姉はあの世に落ち着いたらば、
もういちど来たいと言っていると

人生の総仕上げを始めた矢先でした、
運がわるかったのよ、と、
あなたも駅ビルの柱に凭れて坐る

わたしの傍らにやってきてつぶやく、
だれも恨んではいないよと。
絹色の雲が舞い降りる夕暮駅
 

(一九八〇年代に九州でお会いした宗教芸能者のなかには、口寄せするらしい方もいた。山鹿良之師は口寄せしない。師は五十種近い語り物を演唱する。儀礼の一つ一つを伝承して語り物に番(つが)える。言葉がよくわからなかったので、いまになお残念である。閏月(うるうづき)は聞き返して理解できたものの、その年に「閏」があったと言うことか。友人の関根賢司が、『源氏物語』には閏月がないのではないか、と言い出して、私と議論したことがある。月がかさなるように見えるところもあるので、議論になる勘定である。でもそれは私の誤解で、正解値は太陽暦と太陰暦とのいわゆる「二元的四季観」というやつであるらしい。昨年は閏二月があったので、お月見のだんごのかずは十三個。旧八月十五夜は旧暦を守り続けるらしい。)

実験の続き

高橋悠治

時間の線に沿った音、響きの線、響きの揺れ動くのを書き留める、できるだけ少ない記号を使って。音の長さは周りの響によってその場で決まる、というか、その場でも決まらない、といった方がいいのか。一歩、次の一歩、一歩ごとの方向、目標や意図のない動きから、思っていなかった音の集まりが見える。

と期待して、試してみても、何も見えてこない。1950年代のセリエル、理論めいたこと、クセナキス、ケージ、響きの好み、武満、まったく違うが、小倉朗、ある種の潔癖さ、それらの混ざり合った状態から脱け出すのは難しい。だが、そんな必要があるのだろうか。

言いさし、ためらい、フレーズの中断、その時の突きと返し、あしらいと見計らい、そうした小さな発見を連ねて、思いつくままに、ピアノを弾いていくように、紙に書いていく。そんな試みを2021年の “Ion” のスケッチを見ながらクラリネット、ヴィオラとピアノのための『Ion 移動』と2022年の無伴奏ヴィオラのための『スミレ』を書いた。

今度は、ことばに頼りながら、歌の線を書き、ことばの切れ目とフシの切れ目をずらしながら、書き続ける、というふうにして、世阿弥のことばによる『夢跡一紙』(2023年)を作ってみる。

芭蕉の連句のように、付きと転じを繰り返しながら、始まりのフレーズから離れていく。「付き」は元の句の変形、「転じ」は前句と並べて繋がればよしとする。それ以上の定義は、「転じ」かたを縛ってしまうだろう。

今年は、アンサンブル「風ぐるま」のために「白鳥(しらとり)の」を作ってみた。万葉集から大伴坂上郎女の歌2首と笠女郎の歌1首、楽器の組み合わせを変えながら序と間奏2つを書いて、演奏してみたが、どうだったのか。