2024年5月1日(水)

水牛だより

東京は気温の低い雨の日です。この雨で、明日からの日々はさらに美しくなるのかもしれません。

「水牛のように」を2024年5月1日号に更新しました。
さとうまきさんの「たまには福島」に「恩返し」ということばが出てきますが、これは日本の文化を強く支えている思想だと思っています。ちょっと気をつけてみれば、日常にあふれている思想と実践であり、しかも資本主義経済からは逸脱している!

今月は水牛とかかわりの深い3冊の新しい本を紹介します。
アサノタカオさんの『随筆集 小さな声の島』
「サウダージ・ブックスの編集人である著者が雑誌、リトルプレス、ウェブマガジンに寄稿したエッセイを集成し、未発表の台湾紀行も収録。家族の歴史について、移動と定住について、小さな声を守る詩のことばについて、本のかたわらで考える随筆集。」

下窪俊哉「『アフリカ』を続けて」Vol.0
下窪さんは「水牛のように」に連載中の「『アフリカ』を続けて」をみずから一冊にまとめるらしく、その0号のちいさな冊子を送ってもらいました。100円という値段がついていますが、販売はしていないようなので、読みたければアフリカキカクのcontactから尋ねてみてください。

藤本和子『ペルーからきた私の娘』
1984年に出版されたものの新装版です。なんと40年ぶり! 収録されているいくつかのエッセイは、当時の水牛通信に掲載されたもので、懐かしさはあるものの、まったく古さを感じないのはさすがに藤本さんです。榎本空さんの解説もすばらしい。1984年にはまだ生まれていなかった榎本さんにバトンが渡ったのはとてもうれしい出来事です。

それではまた来月も無事に更新できますように!(八巻美恵)

たまには福島

さとうまき

原発事故から13年が経った。あれほどの事故が起きたのに、我々は多くのことを忘れていく。僕自身もここ数年は、原発のことにはほとんど向き合ってこなかったという罪悪感を感じていたので、4月の中旬に車を飛ばして出かけてみた。

震災当時、僕はイラク支援のチョコレートを売っていたのだが、なんだか、日本が大変な時に、海外のことをやっている場合ではないだろうという思いに打ちのめされた。それでチョコレートを売ったお金の一部を福島支援にも回すことにして、足しげく福島に通っていた。その一つが二本松の有機農業をやっている人達との出会いだった。

福島は、有機農業が盛んだったが、原発事故の影響をもろに受けた。放射能汚染で、今まで築き上げた顔と顔の見える関係を大事にした提携が一気に崩壊、消費者が半分以下にまで減った。福島で農業、有機農業を続けるのは困難ではないかと悩みながら、それでも作ってみなければ分からないと種をまき続けたという。僕たちも、ガイガーカウンターを片手に一緒に畑仕事を手伝いながら、放射能の勉強会を企画したりした。しかし所詮、部外者であり、ただ、彼らの悩みや苦しみをたまに出かけて行って一緒にお酒を飲んだりして聞くだけに過ぎなかった。

原発に頼らない生活を福島から発信しなくてはならない、という彼らの強い意思。そして僕ら東京の人間は、東京の生活が、福島原発に頼り切っていたことに恥じた。そこで、話に上がったのは、ソーラー発電だ。農地に太陽光パネルを設置し、下では畑を耕す(ソーラー・シェアリングという)。電機は売電する。2018年にはチョコレートの売り上げを300万円ほど寄付して、ソーラーパネルの購入に貢献した。パネルの設置作業を手伝ったのを覚えている。

今では、年間200万円をこえる売電収入が出ているそうだ。有機農業研究会のメンバーである近藤さんはサンシャインという会社を設立し、このソーラー・シェアリングを発展させている。麦を作り、クラフトビールも製造、さらに牛を購入して放牧させ、ソーセージも販売している。このビールを買いに行くというのが今回の旅の目的でもあった。

話は変わるが、僕は、去年からイラクへ行きはじめ、メソポタミアの研究を行っている。研究というほどものものではないのだが、紀元前3500年も前のイラクに人類最古の文明が栄えたことが気になってしょうがないのだ。シュメール人はすでにビールを発明して日常的に飲んでいたらしい。彼らは、楔型文字を発明し、やたらと粘土板に書き記していった。神々の神話から、料理のレシピ、ビールの作り方など。一説によると、彼らのルーツは縄文人だと言われている。あるいは、シュメール人が日本にたどり着いたとの説もある。にわかには信じがたい話だが、世界はつながっている感があっていい。最近、僕は、現代社会にはもううんざりしてしまったので、メソポタミアの時代のような、ビールを飲んで暮らしていきたいと思ったわけだ。

再会した近藤さんに、「メソポタミア風味のビールを作ってみたいんですけど」と相談すると、「いいですよ、イラクに恩返しできるなら!」と言ってくれた。恩返し! そうか、なんだかすっかり忘れていたが、僕は、チョコを売っただけでなく、恩も売っていたのだ。あらためて、農民の皆さんの当時の絶望の大きさを感じた瞬間だ。たとえちっぽけな支援でもしっかりと受け止めてもらえていた。なんだか僕は、この恩返しという言葉がうれしくなって、帰りに縄文資料館に立ち寄ることも忘れてしまい、温泉につかって帰ってきたのだった。

233 浮舟さん、その二

藤井貞和

f「甦った浮舟は、和歌の手習によって能力をひらき、つよい神がかりの君になります。
常陸のくにへもどって、カミサマとして名を馳せます。 薫の君も道心冷めやらず、
浮舟を追いかけて東国入りします。 しかし、かれには神がかりする能力がありません。
源氏の頭領ですから、武士たちが集まって、大きな領国をうち建てることになります。
京都では匂宮が即位して、国内は二つの政権あるいは王国からなる拮抗状態となります。
あやうくぶつかりそうで、薫と匂宮とはどこか意志疎通があって、昔のままです。
薫は出口王仁三郎になり、浮舟は教祖様になります。 世界の終わりが始まり、
ハルマゲドンです。 京都は潰滅し、東国では廃墟のなかから、
よろよろと起ち上がる薫と浮舟とが、しっかり抱擁して終わり、ってのはどうでしょう。」

m「きゃあ、古代インドの物語、ダイナミックな展開! ハルマゲドン!
想像の世界ですよ、わたしもあそびました。
浮舟さんは、シャーマンですね。心を離れなくて、いまも憑かれているきもちです。
神がかりする能力って、生まれ持った何でしょうかね…… でも、
教祖様になんかならないで、ディキンソンのような沈黙の詩人になってほしい気がします。
世界の終末、天が裂けて天使が顕われ、ラッパが鳴り、獅子が吼え、地上に闇が訪れ……、
舌の炎が降ってきて、ことばが生まれ直す。
クリムトの接吻(A・ウェイリー版『源氏物語』)は桐壺帝、桐壺更衣のイメージでしたが、
めぐりめぐって、浮舟と薫との抱擁のようにも見えてきます。」

(紫式部さん、国内物語に飽いて、大陸文学にも飽いて、さいご、インド神話に向かうのではないかという推測です。)

仙台ネイティブのつぶやき(94)母のこと街のこと

西大立目祥子

母が緊急入院となった。貧血がひどいことから病院で検査を受けると、心不全の診断が出て、即入院。私はもちろん、付き添ってくれた施設の看護師さんも予想だにしなかった展開である。胸の中に不安の黒い雲が広がっていく。この春は、本当に数年ぶりに晴れやかな気持ちで少しずつ開いていく桜を見上げ、やわらかな春の日差しを味わっていたのに。じぶんの時間が暗転する。

こういうことを、「禍福は糾える縄の如し」というのか。やさしい春のあとには、焼き尽くすような夏が来るのか。そう想像すると、来る前から、へろへろして倒れそうな気分だ。
この故事成語を印象的に使っていたのは、脚本家、向田邦子をヒロインにしたNHKのドラマじゃなかったっけ? 仲良しだった黒柳徹子が向田の部屋に遊びに行き、「“禍福は糾える縄の如し”ってどういう意味?」と聞くと、「いいことのあとには悪いことが来るっていうことよ」と答えた向田は、「あ、でもあなたにはいいことしか来ないかもね」とことばを重ねる。「ふーん」とよくわからない表情で返す黒柳。向田は、何事もいいことと受け止める、明るさとタフさを友の中に見ていたのだろうか。

この程度のことで動揺するへなちょこの私である。動揺するのは、年寄りの入院となると、医療と介護の間の渡れないような深い溝を思い知らされることも一因だ。いまどこにいるのか、何のためにこの治療をするのかわからない母を点滴の間じっとさせておくことなどとてもできないから、止むを得ず身体拘束が必要といわれ、家族は承諾書にサインを迫られる。それって本人にとっては虐待なのでは…という疑問を打ち消し、治療ができないからという理由をごくりと無理矢理じぶんに飲み込ませて書類に名前を書き込む。苦しい。動けなくなっている姿を想像すると、いたたまれない。
 
最近、80代の知人から聞いたひと言も何度も胸に浮かぶ。心臓の手術で入院してね、そうしたら退院するとき歩けなくなってしまってね。ベッドに横になったまま処置され食事をとる超高齢老人の2週間後はいかに。

母のことはさておき。今日4月30日。仙台市一番町にある老舗書店「金港堂」が店じまいした。地元で出版される本だけでなく、市民団体が制作した小さな冊子や地図までお願いすれば置いてくださる書店で、私もお世話になった。夜7時の閉店の店の前には200人ほどの市民が集まり、社長の藤原さんや書店員の方々に花束を贈呈、拍手が鳴りやまなかった。これで仙台市中心部にあった仙台資本の書店は、この20年ほどの間にすべて姿を消したことになる。

金港堂は当初は地下から2階まで3フロアの売場だったが、売場を縮小したあと、2階のフロアを古書市や仙台をテーマにした連続講座に提供してくださっていた。経緯の詳細はわからないが、個人商店のスペースを街に開放してくれたといっていいと思う。初めは、新刊を扱う書店が古書市を呼び込むなんてと驚きもしたが、本好きが集い、また仙台の街に関心を抱く市民の交流の場となり、それは回を重ねるうちにいつのまにかコミュニティに育っていった。

閉店が公にされると、この2階フロアに集っていたメンバーの中から感謝のイベントをやろうと声が上がり、4月20日・21日の2日間にわたり、トークイベント「まちとほんと13のものがたり」が開催された。社長の藤原さんをはじめ13人が歴史や文学、街や古地図などをテーマについて思い思いに話すという内容で、私も大正時代の地図についてしゃべったのだが、閉店の情報もあってか50人ほどのお客様が駆けつけ、フロアには最後のイベントを味わい尽くそうという熱気があふれた。

話しながら、こうやっていろいろな人が集い、話し込み、思いがけない人に会って雑談したりする、これが街に暮らす楽しさでありおもしろさと感じずにはいられなかった。人が交錯する中から、街の中につぎの動きが生まれてくる。小さくてよいから、たまり場のような、誰かのひと言を受け止めてことばを返すような、消費とは異なる場の必要。金港堂は本業は本業として守りながら、おおらかに隣り合わせのもうひとつのドアを開けてくれていたんだな、と思う。

いま地方都市はしんどい。仙台は人口110万人、東北の中心都市といわれるが、中心部繁華街は、ドラッグストアとコーヒーチェーンと高層マンションだらけとなり、地元の店は姿を消しつつある。本社の指示で動く店は、余計なコストと判断するのか七夕飾りも飾らない。地に足をつけない空中商店街みたいなものに変容しているといっていいのかもしれない。

閉店を見届けたあと、藤原社長と書店員さん、お世話になった人たち10数名が集い感謝の打ち上げをした。店の前の通りで一箱古本市を開催したいと社長に談判にいったら快諾してくれた話を披露する人、じぶんの著書の棚をつくってくださったと感謝を述べる作家さん、1階のレジを仕切っていたベテラン店員に何度もありがとうという人…。楽しく飲んで食べた3時間、その間はベッド上の母のことは忘れていたのでした。
 

水牛的読書日記2024年4月

アサノタカオ

4月某日 あたらしい年度の始まりに、神奈川・箱根の温泉旅館で一泊した。旅行中はオフライン状態にして、ネットやテレビを見ない。夜から朝にかけて熱いお湯につかり、大地のエネルギーをからだに蓄えて帰宅すると、メディアが台湾東部沖地震をいっせいに報道していて驚いた。震源地は花蓮だという。花蓮や台東出身の友人たちのことが心配で、胸騒ぎがおさまらない。数日前、横浜の本屋・生活綴方で会った、来日中の高耀威さんのことも思い浮かべる。かれがオーナーを務める「書粥」は震源地に近いはずだ。

ちょうどこの日の夜、東京・下北沢の本屋B&Bで高さんのトークイベントが開催されるので、自宅からオンラインで視聴した。台東のお店の被害はほとんどなかったと聞いて、すこし安心。トークでは、台湾書籍の版権エージェント業を営む太台本屋のスムースな司会と通訳で、高さんの書店や出版の活動を詳しく知ることができてよかった。いつか書粥を訪ねたい。

4月某日 文学研究者・阪本佳郎さんによる本格的評伝『シュテファン・バチウ——ある亡命詩人の生涯と海を越えた歌』(コトニ社)が届く。

台湾の友人から安否確認のメッセージへの返信が届いてほっとするが、誰も「大丈夫」とはいわない。自分のいる地域がこれだけ揺れたのだから、震源地・花蓮の被害が大きいのでは、と心配している様子だ。

4月某日 最寄りの書店、神奈川・大船のポルベニールブックストアへサウダージ・ブックスの新刊を納品しに行くと、取材でお店に来ていたBOOKSHOP TRAVELLER・和氣正幸さんとばったり遭遇した。本の世界の仲間とのこういう偶然の出会いは、いつもうれしい。ポルベニールで、中沢新一先生の新著『精神の考古学』(新潮社)などを購入。この本は、自分も読むつもりだが妻用のもの。

4月某日 午後、新刊の納品を兼ねて書店めぐりをした。横浜の本屋・象の旅をはじめて訪問。店名の「象の旅」は、ポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴの小説のタイトルから。海外文学の棚が大変充実していて心が踊った。フェルナンド・ペソア関連の本を買う。しばらく使っていないポルトガル語の勉強を再開したくなった。

横浜から東横線に乗り込んで学芸大学前へ行き、SUNNY BOY BOOKSヘ。こちらにも新刊を納品。詩人・真名井大介さんのことばのインスタレーション作品の展示を開催中だった。

電車を乗り継いで最後に、東京・三軒茶屋のTwililightへ。すっかり日は暮れて、ひと休みしようとバナナタルトとチャイを注文。お茶をしてすこし本を読んだ後、お店のギャラリースペースへ足を運ぶ。そこで、saki・soheeさんの作品を鑑賞して目を見開かされた。中東オマーンを旅するレバノン出身の友人Amienさんにおこなったインタビューをもとにした、テキスト・写真・映像から構成されるインスタレーション。saki・soheeさんは済州島にルーツを持つ在日コリアンで、雑誌の編集などの活動をしているという。ふたりのあいだでアラブの国々へのアラブ以外の国々に住む人間の歴史的想像力、そして現在進行形のイスラエルによるパレスチナ人虐殺をめぐって、メッセージが交わされている。ことばには親密で落ち着いた雰囲気が漂っているが、他者とともに共に考えぬこうとする姿勢に揺らぎはない。この展示の記録集となるZine『mirage 蜃気楼』を購入。巻末に置かれたsaki・soheeさんの「内省 introspection」という文章がすばらしかった。

4月某日 東京・九段下のメトロ駅から地上にあがると、桜目当ての花見客の大群衆にぶつかった。混雑するなかを縫うように進んで二松学舎大学にたどりつき、非常勤講師の説明会に参加。今年度から「編集デザイン論」「人文学とコミュニケーション」の授業を担当する。その後、神保町へ移動し、韓国書籍専門店チェッコリへ。社長の金承福さん、スタッフの佐々木静代さんとおしゃべり。春から新しい企画がはじまりそうだ。

店内では、いわいあやさんの写真展「はじめての済州、それから」を開催していた。写真とそこに添えられた詩的なキャプションをじっくり鑑賞する。文章には、済州島四・三事件をテーマにした金石範先生の小説『鴉の死』への言及もある。「私の海」と題されたいわいさんの韓日バイリンガル詩も展示されていて、これは目の覚めるようなあざやかな言語表現だった。いわいさんの写真と文を収めた『庭の中』(気儘文庫)、韓国文学Zine『udtt hashtag# 若い作家賞受賞作家編』、そしてイ・スラ『29歳、今日から私が家長です』(清水千佐子訳、CCCメディアハウス)を購入。春だからか、あれもこれもと本に手を伸ばしてしまう。

4月某日 韓国の作家ハン・ガンの小説『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)を読む。すごい。この小説について語るには、腹の底の底から、自分ひとりだけのものではないことばが浮上してくる時間が必要だ。

4月某日 ポルベニールブックストアで、アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『初めて書籍を作った男——アルド・マヌーツィオの生涯』(清水由貴子訳、柏書房)を買った。以前から読みたかった一冊。大学や市民講座のために、この本の他にも図書館で借りたメディア論や書物論の資料を読みながら、授業の準備をする。

4月某日 編集者・ライターの小林英治さんの訃報に接する。『Casa BRUTUS』2010年3月号に掲載された、サウダージ・ブックスの紹介記事「さまざまな声が交わる場所で」の取材と執筆をしたのが、小林さんだった。ぼくらのスモール・プレスの活動を最初期から見守ってくれた恩人のひとり。ご冥福をお祈り申し上げます。

4月某日 二松学舎大学で「編集デザイン論」の第一回目の授業をした。学生の中には、『週刊読書人』の「書評キャンパス」(現役大学生が自ら選書・書評するコラム)に寄稿したり創作活動をしたりしている人もいるみたいだ。

その後、東京・水道橋の機械書房をはじめて訪問。前職の出版社の近くにあるビルの一室がお店だった。マイナーな著者の本も含めて魅力的な詩や小説の本がいろいろ並んでいて棚から目が離せない。店主の岸波龍さんから強くおすすめいただいた、姜湖宙さんの詩集『湖へ』(書肆ブン)を買う。さっそく電車のなかで読みながら帰ると、夜の自宅で同書が小熊秀雄賞を受賞したというニュースを知って驚いた。偶然のことだが、なんというタイミング。「瞬き」という詩がとてもよかった。お店では岸波さんの日記本『本屋になるまえに』も入手。岸波さんはラテンアメリカ文学の愛読者で、お店にはペルーから詩人のお客さんも来たという。日記本のタイトルにはきっと、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(安藤哲行訳、国書刊行会)へのオマージュが込められているのだろう。キューバ出身の亡命作家による、ぼくも大好きな自伝的小説だ。

4月某日 読書会にオンラインで参加した。課題図書は、サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』(寺門泰彦訳、岩波文庫)。この日までに、なんとか上下巻を読了。予備知識なく読み進めたのだが、これほど奇妙奇天烈なマジックリアリズム小説だとは思わなかった。独立後のインドの歴史を背景にしためくるめく物語の渦に飲み込まれて、なにがなんだかわからないけれどもすこぶるおもしろかった。ところで、文庫の巻末には「作者自序」が収録されていて出版までの経緯が書かれており、その中でこんな一節を見つけた。

「(ラシュディの原稿を検討した)最初の査読者の報告は短く、けんもほろろのものだったという。『この作者は長編小説の書き方を身につけるために、まずみっちり短編で修行する必要がある』というものだった」

もし査読者だったら、なんて想像するのは馬鹿馬鹿しいことだが、まったく同じコメントをしかねない小心者の自分の姿がそこにいるような気がして、震え上がった。オリジナルの原稿は語りの背景にある人間関係がより複雑で、時系列がもつれていたというのだから……。「もうすこしわかりやすくしてくださいね」的なことはかならず言うにちがいない。ラシュディの持ち込んだ原稿を不朽の名作の原石として見出した、のちの編集者はほんとうにすごいと思う。こういう人が、真の「エディター」なのだろう。

4月某日 豊後水道で地震が発生し、愛媛と高知が大きく揺れたらしい。まさに宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』(サウダージ・ブックス)の舞台で、この本は印刷製本も愛媛・松山の松栄印刷所でおこなっている。まさか四国で……というのがニュースを見た直後の率直な感想だった。香川に住んでいたこともあり、地震が少ない地域と思い込んでいたのだ。電子メールやSNSで関係者の安否を確認。被害は少ないようでひと安心したが、住民にとっては不安な日々が続くだろう。ここのところ関東でも地震は続いていて、いつどこで災害に遭遇するかわからない時代だ。

4月某日 大阪・釜ヶ崎のココルーム(NPO法人こえとことばとこころの部屋)へ。ここを訪れるのは、コロナ禍をあいだに挟んで何年ぶりだろう。代表で詩人の上田假奈代さんと久しぶりに会って、居合わせた人たちと合作俳句などをして一緒に遊んだ。

4月某日 三重・津のHIBIUTA AND COMPANYへ。市民文化大学HACCOA(HIBIUTA AND COMPANY COLLEGE OF ART)で、昨年度に引き続き「ショートストーリーの講座」の講師を務める。前回の受講者の継続参加もあり、予想を上回る人数の熱心な受講者が集まった。この講座は、物語を書く人(書きたい人)のための編集講座としても設計されている。創作に役立つ編集の基本的な知識と技術を学ぶことで、受講者が「編集的思考」を取り入れつつ小説やエッセイのショートストーリーを完成させることが目標。第1回目の授業では、編集の歴史について駆け足で解説。これから受講者には一人二役、作家であると同時に編集者にもなってもらう。どんな物語が生み出されるのか楽しみだ。

講座の後、夜はHIBIUTAで自分が主宰する読書会を開催。お店に集う仲間とともに、宮内勝典さんの小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読み続けている。今回の課題、12章と13章は謎やしんどい描写の多い物語上の難所で、「これはどういうこと?」というさまざまな疑問をみんなで共有した。昼の講座の受講者も参加して、普段よりにぎやかな会になった。

HIBIUTAに行く道中では、孤伏澤つたゐさんの小説『ゆけ、この広い広い大通りを』(日々詩編集室)を読んだ。すばらしい小説で、多くの人にすすめたい。「地元」で生きる3人の元同級生、夫と子供と暮らす専業主婦のまり、トランスの女性で音楽の仕事をする夢留、都会からUターンしたフェミニストの清香の物語。お互いにわかりあえるわけではない。でも、わからないままにともにいることの希望が語られていて深く感動したのだった。HIBIUTAでは、孤伏澤さんの小説『兎島にて』(ヨモツヘグイニナ)を入手。

4月某日 HACCOAの講座の翌日、HIBIUTA AND COMPANY では文筆家の大阿久佳乃さんと対談した。拙随筆集『小さな声の島』(サウダージ・ブックス)の刊行トークという枠組みだったが、大阿久さんと語り合うのもこれで3回目になる。前半ではアメリカ文学エッセイ『じたばたするもの』(サウダージ・ブックス)を刊行した後の、大阿久さんの旅と読書についてじっくり話を聞いた。アメリカ南西部・先住民の保留地から、ニューヨークへの旅。気候変動、フェミニズム、クィア・アクティビズムへの現在の関心。フランク・オハラ、アドリエンヌ・リッチ、オードリー・ロード、エリザベス・ショップ、藤本和子さん、榎本空さんらの著作について……。『じたばたするもの』の最終章は「親愛なる私(たち)へ」と題されたアドリエンヌ・リッチ論ということもあり、対談では「リッチの詩はど根性!」なる大阿久さんの名言も飛び出し、ぼくとしては大変楽しく刺激的な内容になった。後半では、こんどは大阿久さんに聞き手になってもらい、『小さな声の島』で書いた台湾への旅ことなどを話した。最後に、大阿久さんがアメリカの詩人エリザベス・ビショップの訳詩を、自分が台湾の詩人・董恕明の訳詩を朗読してトークを締めくくった。

4月某日 三重から帰宅すると、島田潤一郎さんの新著の散文集『長い読書』(みすず書房)、申京淑の小説『父のところに行ってきた』(姜信子・趙倫子訳、アトラスハウス)、『現代詩手帖』2024年5月号が届いていた。『詩手帖』の特集は「パレスチナ詩アンソロジー、抵抗の声を聴く」。今月、パレスチナ侵攻を続けるイスラエルの本土にイランがミサイル攻撃をしたのだった。

4月某日 二松学舎大学で「編集デザイン論」の授業のあと、渋谷に立ち寄り、SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERSへ。夜の書店では、本が蓄えることばの体温がすこし下がるように感じられて、それが自分には心地いい。

4月某日 読書会の課題図書、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫訳、岩波文庫)を読みはじめる。ラシュディ『真夜中の子供たち』につづいて、これも摩訶不思議な小説だ。人間の脳髄は、なにゆえにこんなわけのわからない(でも、おもしろい)物語をえんえんと生み出し続けるのだろう。

あする恵子さん『月夜わたしを唄わせて』(インパクト出版会)を読み続けている。本書のサブタイトルは「”かくれ発達障害”と共に37年を駈けぬけた「うたうたい のえ」の生と死」。「うたうたい のえ」は、著者・あする恵子さんの子どもで、2008年に亡くなった。ようやく第4章まで、「ノンフィクション作家」であることに徹するあする恵子さんのことばとまなざしを借りて、のえさんの生の軌跡をゆっくりと辿り直す。

『アフリカ』を続けて(35)

下窪俊哉

 3月から4月にかけては、この連載を本にするために毎日、少しずつ推敲を進めていた。(1)から(33)までを並べて、いろいろ試してみた結果、現時点では、書いた順に載せることにしている。全ての回にタイトルをつけた。本文にはかなり手を入れた。大きく削除した部分もあるし、逆に加筆の激しいところもある。部分的に書き直した回もあった。33回分、2年9ヶ月の試行錯誤があり、その中に『アフリカ』を始めてから約18年間の軌跡が見え隠れしている。その背景には、ミニコミや同人雑誌をやってきた人たちの歴史もある。それを過去の資料として見るのではなく、実践を通してどう感じられるか、ということに迫れていればいるほどよいのだが、それは今後もっと書いてゆきたい。読み返していて不思議な気もする。自分は果たして、『アフリカ』という雑誌をめぐる物語の作者なのだろうか、登場人物のひとりにすぎないのではないか。
 しかしその本をどうやって出すかという計画は、まだ立っていない。自分もいつ死ぬかはわからないのだから(と、いまはまだそういう気分が濃厚で)、この本はさっさとまとめておきたい、と思い込んでしまって、一気にやってしまった。あとは煮るなり焼くなり、どうにでもしてください、と言い出しっぺである守安涼くんに投げたところだ。
 どうせならこの本もアフリカキカクから出してしまえ、という話はしかし、もう少し後でしてくれ、ということになっている。大きな再出発になる次の一手は、『アフリカ』次号でなければならないという想いがあるからだ。私の単著より雑誌の方が大事なのである。『アフリカ』に助けられて、ここまでやってきたのだから。

 さて、前回からの続きで、2006年の『アフリカ』誕生の真実に迫るノンフィクションの、3回目。引き続き当時のノートや手紙を探りながら書いてみよう。

 6/3(土)の早朝、『アフリカ』用に書いていた自分の小説「音のコレクション」(400字×約35枚)をいちおう書き上げた。「出来はイマイチだが、自分には収穫があった」そうである。その創作ノートの中からは、こんなメモに注目しよう。「わからない」と「わかる」は対極にあるのではなく、「わかる」の周囲に「わからないA」「わからないB」「わからないC」が存在している。どういうことだろうか。
 まだ『アフリカ』の制作には入っていない。何をしているかというと、すぐに次の小説「静岡さんの街」に取り掛かったようだ。再就職活動もしてはいるが、前年のことが相当響いているらしくて、半ばひきこもり状態である。「静岡さんの街」は後に『アフリカ』で連載する「吃る街」のこと。当初は100枚くらいの予定だったようだが、実際にはその数倍の長さになり、いまのところ未完に終わっている。
 その頃はまだ文芸雑誌をたまに買っていて、その月には『新潮』最新号で小川国夫「潮境」、小島信夫「「私」とは何か」、柴崎友香「その街の今は」を読んでいる。この3篇は心に残っているので、書き添えておこう。
 6/15(木)の夜から翌日の朝にかけて、『アフリカ』のレイアウト作業。全ページを自分でつくるのは初めてだったが、守安くんのつくった『寄港』のフォーマットを元につくった記憶がある。ただし、下にあったノンブルと柱を上にしたり、タイトルまわりを変えたりしたので雰囲気は違うものになったはずだ。
 巷ではサッカーW杯ドイツ大会が話題になっており、『アフリカ』の作業をしている途中には、中継を見ている人たちから声が上がるのがたまに聞こえたかもしれない。あるいは自分もテレビをつけて中継を見ていた。
 6/24(土)は「世界小説を読む会」で、パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』(平岡篤頼・訳)をとりあげている。その日は主宰者が不参加で、いつもの会場ではなく(と言っても、その頃の「いつもの会場」がどこだったか忘れてしまっているが)京大文学部の部屋を借りて開催。ファシリテーターは当時『VIKING』編集人だった日沖直也さんで、人文書院の編集者や京大独文科の学生、少し後に文學界新人賞をとるTさんなどが参加していたらしい。どんな話をしたかは覚えていないが、全員が初対面だった若い女性のTさんが打ち上げで泥酔して困った記憶だけ鮮明に残っている。そのTさんからは後日謝りの連絡があって、少し原稿を見せてもらったりもした。
 6月末、半年ほどカナダへ留学(?)していた神原敦子さんから、京都に戻ったという連絡が来た。その同じ日だろうか、広島の向谷陽子さんから切り絵が届いている。
 その時の手紙を見てみると、風邪をこじらせて、思うように作業できなかった、とある。『アフリカ』の表紙に、と考えてつくってみたのはキリンのシルエットで、「間に合いそうになかったので、イラストレーターの原画を送ることにし」たそうである。ということは、6月末を〆切にしていたのだろう。「切り絵という約束とも違うし、使えない場合は本当に使わないで全然構わないので」と弱気なことを書いてから、「あと、私の切り絵の作品も何点か同封させてもらいました。挿し絵に使ってもらってもいいし、拡大してこちらを表紙に使ってもらってもよいです。」
 同封されていた切り絵は3作で、朝顔と、百合と、蝶だった。
 その日のノートには、こう書いてある。「守安くんへ装幀をお願いできないか、打診中。どうだろう。断られたら、それも自分ひとりでやろう。切り絵、スバラシイ。」
 打診した結果どうなったのかは、もう書くまでもない。表紙に蝶の切り絵を使おうというのも、すぐに決まったような気がする。
 これも同じ日のノートだが、「『アフリカ』が山場、でもとくに大変なことはない、話をした時点で信頼しているから、その気持ちが伝わっているような気がする」とある。『寄港』や前の職場で誰も信用ならんと感じていたのとは対照的に、『アフリカ』では他人を信頼している。これがリハビリの効果だと見ることが出来そうだ。
 同時期、村上千彩さんが恵文社一乗寺店の奥のギャラリーで銅版画展をやっているのを観に行っている。村上さんは前職でお世話になったフリーランスのイラストレーターで、ヴィルヘルム・ラーベの小説の翻訳本をつくる仕事では表紙に彼女の銅版画を使わせてもらった。久しぶりに会って、自分が退職した後の話などを聞いたのだろう。凍りついていた自分の心も、そうやって徐々に解けてくる。
 7月最初の月曜日だろうか、垣花咲子さんがわざわざ原稿を持って訪ねてきている。〆切を過ぎていたからだろうか。その原稿は小説「メンソールじゃないけどさ」で、翌日までに読んで、返事を出している。いま書きながら思い出したのは、そのタイトルを相談されて、自分がつけたのではないか、ということだ。たしか本文中のセリフからとった。
 樽井利和さんの「目に張り付くもの」にかんする記録は、ノートの中に見つけられなかった。その小説は会話が全て地の文のようになっている掌編で、奇妙な味わいがあった。
 あとは短い雑記を3つ、垣花さんが書いた「ヒゲのお話」、私の「好きな本のかたち その二」(たぶんその一もあったんだろう)、守安くんの「遠い砂漠」を載せることにした。「遠い砂漠」は表紙を開いたらいきなり始まる。同人雑誌は表紙をめくったら扉ページがあるか目次がある、というのをよく見ていたので、そうではないようにしたかった。
 7/24(月)、『アフリカ』2006年8月号の入稿、『寄港』に続いて堺市のニシダ印刷製本にお願いすることにした。2003年に『寄港』創刊号をつくった際、少部数の印刷と製本を(安く)引き受けてもらえるところを幾つか当たってみたが、殆どはコミケ(コミックマーケット)に出す人たちをターゲットにしていたと記憶している。ニシダ印刷製本は大阪文学学校で同人雑誌をつくっている方から紹介された。いわゆる紙版印刷という方法で、最初の頃にはプリントで入稿しており、ページの順番が変わってしまうというような大きなミスも起こったのだが、ニシダさんしかないという思い込みのようなものが当時の自分にはあった。『アフリカ』を始めた頃には、PDFデータから面付けを行うシステムに変わっており、そういったミスはなくなった。後年、社長さんと久しぶりに会った際に「よくぞ使い続けてくださいました!」と言われたのを覚えている。
 この連載の(1)で書いたように、『アフリカ』の入稿直後、7/27(木)のようだが、茨木市立中央図書館の富士正晴記念館を初訪問している。入ってゆくと、『VIKING』の安光奎祐さんとバッタリ会った(仕事で来られていた)。展示されている『VIKING』創刊号を見ながら、当時は糸が買えなくて綴じていないといった説明をしてくれたのは安光さんだった。
 その2日後に、神原さんと再会。その日のことは他に何も書かれていないが、四条河原町近くのフランソアで会って珈琲を飲んだ記憶がある。その時に「音のコレクション」の感想を聞いたはずなので、メールで先に送ってあったのだろうか。それとも、その記憶は少し後の会合だろうか。どんな感想を聞いたのかも覚えていないが、感触はよかった。
 8/1(火)に『アフリカ』納品、三条烏丸のカフェneutronで仕事上がりの守安くんと会って出来たてホヤホヤの『アフリカ』を手渡して見てもらい、ハイネケンの生ビールを2杯ずつ飲んだ。彼がその時、「なんかおもしろいね」と言わなければ『アフリカ』は続かなかったかもしれない。翌日には「音のコレクション」を褒めてくれて、「吃音の文体」と言っていたようだが、それについてはよくわからないと書いてある。
 完成した『アフリカ』は執筆者の残り3人と切り絵の向谷さんに送って、あとはまず小川(国夫)先生に送ったようだ。そうやって送ると、いつも「相変わらずやってるね」と嬉しそうにされるのだった。
 それでも本づくりにかんする悪夢は見たようで、よく眠れない日が続いた。しかしもっと眠れていないだろう人を、その直後に私は見ている。
 8/9(水)の早朝、吉野の櫻花壇という宿にいて風呂に入ろうとしたら、真っ赤な顔をした川村二郎さんが出てくるところだった。いつも眠れないんだと言っていた。70代後半になった川村先生と小川先生が大阪芸大を退任された送別会に、なぜか私も呼ばれて参加していた。他は教授陣で、学生上がりなのは自分ひとりだった。当時のことを思い出すと、有名・無名に関係なく年配の文学者たちからいかに自分が期待されていたか、いまとなっては思い知るばかりだ。小川、川村に加えて葉山郁生さんと私の4人は夜中の3時まで語っていたそうなので、数時間も寝ていないだろう。私が川村先生に会ったのはその時が最後になった。前夜遅くにふたりがやり合っていた記録も、ノートに残されていた。その場でメモはとらない。数日後に思い出して、書いておいたものだ。

 小川「東大は砂漠だった。(大阪)芸大は違った。」
 川村「東大が砂漠だったということすらわからなかった。小川さんと違ってうちは軍人で失業して、食っていくのに大学は良い求人だった。」

 小川「埴谷(雄高)さんと飲んでいて、小川くん、キリスト教の真髄は何かね? って言うから、永遠の生です、って返したら、俺の真髄は死だって。」
 川村「ただのカッコつけだよ、そんなの。」

 小川「埴谷さんは作品を仕上げることを考えなかった。それより”考える”こと自体を重んじた。」

 川村「戦後文学の作家たちのことは、自分は(評論の)仕事で持ち上げたが、殆どがくだらない。でも藤枝静男と小川国夫は別で、花田清輝もよかった。『青銅時代』の創刊号はいまでも綺麗にして持っている。「アポロンの島と十二の短篇」(正確には「八つの短篇」)は鮮烈だった。言葉が屹っていると感じた。」

 真夜中にかなり酔っ払って喋っていることを考慮に入れて読んでいただきたい。「くだらない」と言っている川村二郎がその作家たちと一緒にたくさん仕事をして生きてきたことを、その場にいるメンバーはよく知っていたのだから。しかし「くだらない」と言い切ってしまう清々しさというか、生の感じに、私は熱いものを感じた。そこに当時20代の自分がいたというのは、夢の中ではなかったかと思う。『青銅時代』というのは小川国夫が1957年、30歳の頃に仲間たちと始めた同人雑誌で、6号くらいまでは小川が編集していたと聞いている(勤めがなくて他の人より時間があったからだろう)。その『青銅時代』については、いつかじっくり書きたい。

 その前に、私は京都駅の新幹線口で小川先生を待ち受けて、吉野まで案内している。近鉄京都駅で特急に乗ろうとしていたら、千円札を出されて、ビールとお酒を買ってきなさい、ということになる。自分が飲みたいというより下窪くんに飲ませようということなのだろうが、私は小川先生の前で酔っぱらうわけにゆかないので幾らでも飲める(何か変でしょうか)。京都から奈良へ向かう車中で、『アフリカ』と「音のコレクション」の話をしてみた。いつも私が何か言うと百倍返してくるような小川先生だったが、その時だけは、微笑むようにして、何も言わなかった。それはずっと忘れられない時間になった。

髭の生えないところ

植松眞人

 四月だというのにいつまでも桜が咲かず、長袖の薄手の上着が手放せない気候が続いた。なんとなくはっきりしない気持ちで、映画館にふらりと入った。平日の昼間の映画館に人があふれるような時代ではなくなって久しいけれど、この日はもう驚くほど人がいなかった。三百人くらいは入ろうかというそこそこ大きな箱の中に客は私を含めてたった五人。カンヌ映画祭で主演男優賞をとった映画なのに、この様だと本当に映画は終わったコンテンツに成り下がってしまったのかもしれない、という考えがよぎる。
 映画はとても興味深い内容だった。主人公は小津安二郎の映画で笠智衆が演じていた男と同じ平山という役名を付けられていた。毎日、丁寧にトイレ掃除をして、銭湯に行き、馴染みの居酒屋で一杯引っかける。そんな毎日の合間に、主人公の平山は木漏れ日をフィルム写真に撮り、木の根っこあたりに芽吹いた若葉を持ち帰り、部屋の中で育てたりしている。週に一度くらいは行きつけのスナックに顔を出し、歌がうまくて色っぽいママに、ちょっとえこひいきしてもらってにんまりする。
 日本を代表する役者が主演し、若い頃に憧れたドイツの監督が演出したこの映画がとても好きになった。翌日も観に行き、翌週にも観に行って二ヶ月の間に五回観た。五回観たときに、いやもういいだろう、と思ったのだけれど勢いでもう一回観て、都合六回も観てしまった。その六回目に観たときに、妙に気になったのは平山が髭を生やしているというところだった。
 平山は髭を生やしている。鼻の下にだけ髭を生やし、その他はちゃんと電気シェーバーで剃る。そして、生やしている部分が長くなりすぎると、小さなハサミできれいに揃えたりする。その場面が二度ほど繰り返されるの見てふと気付いた。平山は人生をリタイヤして、ただそれ以上堕ちないように踏みこたえているのかと思っていたのだが、それは間違いだということに。だって、人生を絶望してリタイヤしてしまった人間は、たぶん毎日丁寧に髭なんて揃えないだろうと思ったからだ。
 それで、私も髭を生やすことにした。今年六十二歳になるというのに、私はこれまでの人生で髭を生やしたことがない。無精髭が生えていたことはあるけれど、ちゃんと髭を生やしたことがない。だから、生やそうと思ってもちゃんと生えるのかどうかわからないし、髭が似合うのかどうかもわからない。でも、決めたからには生やす。なんだか決意にも似た気持ちになって、毎日髭を撫でてみたりする。
 二週間もすると、なんとなく髭を生やしている、というふうに見えるようになった。朝、鏡を見ると鼻の下が黒い。ああ、私は髭を生やしているのだと、たぶん周囲から見てもわかるくらいにはなった。すると、私の鼻の下のは髭の生えない場所が出てきた。真ん中よりも少し右寄り、縦に一ミリくらいの幅で髭が生えないところがある。そこを見ていて、子どもの頃に鼻の下をケガしたことを思い出した。
 小学校にあがったばかりのころ、散髪屋さんに行く途中、道の隅っこにあった細いドブ川を飛び越えて遊んでいたのだった。ドブ川の向こうとこっちをピョンピョン跳んで遊びながら散髪屋さんに向かっていたのだった。そして、落ちた。私は鼻の下をざっくりと切り、血を流して、病院にかつぎ込まれて二針か三針ほど縫ったのだ。
 髭が生えてこないのは、その部分だった。まだ中途半端に生えかけている髭を触りながら、決して髭の生えてこない部分を撫でていると、不思議なことに、あのケガをした日に誰かに背負われて病院に運ばれているときの揺れを思い出した。あの時、私を背負って走ってくれたのは誰だったのだろうか。父親だった気もするし、通りすがりの人だったのかもしれない。
 私はその人の背中がドブ川の泥で汚れていることを気にしていた。その背中で、私は血が付いてはいけないと顔を背中から上げていた覚えがある。本当にそうしていたかどうかは、わからないけれど、なんとなくそうしていたような気がする。たぶん、私は痛くて泣いていただろう。泣きながら、揺れている背中を心地よく思いながら運ばれていた。いま、そのときのことを思い出そうとすると、映画の主人公の平山が朝日を浴びながら泣きながら笑っている、あの奇妙な顔が浮かんでくる。その顔は、背負われている私の顔なのか、それとも私を背負って走ってくれた誰かの顔なのか。もしかしたら、二人ともあんな顔をしていたのかもしれない。
 私は少し様になって生えてきた髭を撫で、髭の生えないところを撫でて、このまま髭を生やすかどうか迷っている。(了)

むもーままめ(39)スーパー田中さん、の巻

工藤あかね

近年コンビニエンスストアに行くと、外国出身らしい店員さん率が本当に多いと感じる。留学生なのかとても優秀で、たいてい流暢な日本語を話す。彼らは商品を陳列したり販売するだけではなく、コーヒーマシンを掃除したり、接客の合間に鶏の唐揚げを作ったり、特選肉まんと普通の肉まんの微妙な差を客に説明したり。おにぎりを2個買うと何かがもらえる、みたいなキャンペーンもちゃんと把握して、条件を満たしたお客さんにはスクラッチカードを配布して当選商品は何月何日以降引換可能です、なんて伝えたりもする。はてはコピー機の使い方がわからない人を助けたり、宅配便の手配まで行う。母国語でも追いつかないような仕事をよくこなしているなあと、いつも感心してしまう。

あくまでも私個人の印象だが、外国出身の店員さんを見かける率が低めなのが、スーパーマーケットのレジだ。わが家から最寄りのスーパーは、おそらく地元住民と思われる方々が勤務している。どうみても電車に乗って他の街から通っているとは思えないご高齢の店員さんもいるし、レジの前の客に「うん、そうなの~!〇〇ちゃんとこは?」などとフランクに話しかけられている店員さんを見かけたりもする。スーパーが混雑するタイミングはコンビニに比べれば波があるから、落ち着いた時間帯だと近所の知り合いがやってきて、店員さんに話しかける事態は発生しやすいのかもしれない。

けれどもレジで話し込まれて精算が滞り始めると、後ろに並ぼうとする客にとっては微笑ましいだけではない時もある。そんな最寄りのスーパーに、丁寧かつ完璧にレジ業務をこなしつつも、客とは絶妙な距離を保っている店員さんがいる。その名も「田中さん」。

実ははじめて田中さんを見た時は、「大丈夫かなこの人?」と思ったのだ。田中さんはポヤンとしていて、動作ものろく、値札を読み上げる声も他の店員さんよりだいぶゆっくりしている。そのため、田中さんの列に並ぶことをためらってしまったのだ。店内が混み始めると、少なからず動作がスピードアップする店員さんが多い中、田中さんは店内に何が起こっても動じない。自分のレジの列に人がどんなに並んでいても、暇な時と同じスローなスピードで業務を淡々と行うのである。

ある日ぼーっとしながら精算に進んだら、そこは田中さんのレジだった。「田中さんか…」(実はそのときに名札を初めて見た)。「ながねぎ298えん、とまと158えん、しめじ98えん…」田中さんの声は鈴が鳴るような良いトーンで、ちょっとした催眠作用があった。しかも商品を精算済みカゴに移す手さばきが美しかった。田中さんは顔も手もふっくらとしていて、血色がよい。赤ちゃんみたいなモチモチの手で、商品を取っては次のカゴに入れてゆくのだが、がしっと掴んだりは絶対にしない。ふんわりとぴたっの間くらいの絶妙な力加減で手にとっては、テトリスの名手のように、重く壊れにくいものから繊細なものまでを隙間なくカゴに詰めてゆく。その手には一切の迷いがない。しかも冷凍食品は冷凍食品、冷蔵品は冷蔵品で固まるようにグルーピングまでされていて、ちょっと感動的な詰め方なのである。田中さんはのんびりしているように見えるけれど、最初から最後まで商品をレジに通すペースが全くかわらない。急に急いだり、遅くなったりせず、全スピードを均等にするほうが結果的にスムーズであるというのは、電車内で時々遭遇する、駅での時間調整と同じかもしれないなと思った。それ以降、スーパーで田中さんのレジを見つけるとなるべくお願いするようになった。いつも安心の田中さんクオリティ。卵もバナナもイチゴのパックも、必ず一番安定のいいところに置いてくれる。


そんなある日、私が店内をフラフラしていると、レジでやっかいな不具合が出ているのを遠巻きに見かけた。そのレジを担当していた店員さんはあきらかに慌てていた。一人ではどうにもならなくなったのか、その店員さんは他の店員さんにSOSを出した。すると真っ先に、どこからともなく現れたのは誰あろう田中さんだった。田中さんはおっとりとそのレジに近づいた。そしてパニクっている店員さんの話をひととおり聞くやいないや、瞬く間にレジの不具合&トラブルを解消してみせたのだ。私は買い物の足を止めて思わず見入ってしまった。実は田中さん、相当有能な人だったのだ。能ある鷹は爪を隠す。すごいよ、スーパー田中さん!!

けれどもさらに衝撃だったことがある。それは、レジの不具合の原因を他の店員さんたちに説明する田中さんが、超早口だったこと。おっとりした物腰は、レジの前に立つ時の田中さんのキャラ設定だったのだ。やられた。

モヤモヤ映画館

篠原恒木

大人になってから、映画館には一人で行っている。
二人で観に行くのは嫌だ。ツマとも行かない。男女問わず友人とも行かない。三人以上で観に行くなんて有り得ない。「デートで映画館へ」という経験が過去にあったかどうか、いまおれは思い出そうとしている。
あった。
ツマがまだツマでなかった頃、二人で映画を観に行った。覚えている限りでは二回だ。

『ロッキー』を一緒に観た。シルベスター・スタローン演じるロッキーがチャンピオンに殴られるたびに顔が腫れ上がってくる。そのロッキーの顔面がアップになるたびに彼女(現・ツマ)は、クスクス笑っていた。
「ここは笑うところではない。ヒーローのピンチ・シーンだ」
おれはそう思ったが、しばらく放置していた。ところが彼女があまりにも大きな声で笑い始めたので、周りの観客から注意されてしまった。あれには参った。あの頃からツマは笑いのツボがヒトとは違っていたのだ。

アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』も、当時ツマになりそうだったツマと一緒に観に行った。映画が始まって五分も経たないうちに、ツマは鼾をかいて寝てしまった。おれは隣の席で眠りこけている彼女を指でつついて、囁いた。
「出ようか」
ツマは頷き、二人は背中を丸めながら映写室をあとにした。もう少しでおれも眠りそうだったので、眠りのツボはツマと一致していたということになる。

この二回の経験を経て、おれは「映画を観るときは一人」のほうが気楽だということを学んだ。だが、二十五年ほど前から映画館に行くことがめっきり減った。理由は大小まとめていくつかある。

まずはシネマ・コンプレックス、略してシネコンの誕生、そして隆盛。これは大きい。あのシネコンがおれを映画館から遠ざけた。おれが観たいと思う映画は公開して数日すると「早朝もしくは深夜の一日一回の上映、しかもいちばん小さいスクリーンで」という扱いになってしまう。それに比べて、朝から夜まで何回も大きなスクリーンで上映されているのはアニメ映画だ。
「資本の論理だから」と言われたらそれまでだろうが、これでは観る気が失せるではないか。朝八時三十分から、あるいは夜の九時五十分から映画館へ足を運ぶのはあまりにもツライ。

そもそも「シネマ・コンプレックス」って何だよ。「映画に対して劣等感を抱いている人間」のことかと思っていたら、「コンプレックス」って「複合」という意味なのね。一か所で複数の作品を上映している映画館が「シネコン」というわけなのか。それ、早く言ってよ。こちとら知能はあるが知識がないんだからさ。考えてみたら、映画に劣等感を感じている奴が映画館に行くわけがないよな。この「シネコン」という名称も気に食わない。

シネコンが入っているビルの面構えも味気ない。昔の映画館ならば、主演俳優に似ているのか似ていないのか微妙な出来栄えの巨大な手描きの看板がドドーンと入口に飾られていて、
「さあ、ようこそ。ここからは夢の世界です」
と言わんばかりの迫力で出迎えてくれていたではないか。あのエネルギーに満ちたギトギト看板はどこへ行ってしまったのだ。それが今は、オフィス・ビルに入ってエスカレーターに乗ったらそこは映画館だった、という感覚である。高揚感というものがない。

そしていまの映画館は上映時間の途中で入ることができない。これもあんまりだ。その昔、いわゆる「三番館」では、いつでも好きな時間に入場できた。現在のような入替制などなかった。映画の途中から小屋に入り、満員なので立ち見して、休憩時間に空いた席にすばやく身を滑らせたものだ。やがて休憩が終わり、映画を最初から観て、
「あ、ここからはさっき観た」
というシーンで途中退場していた。暇を持て余していたときなどは、そのまま最後まで観続けたし、「もう一回観たい」と思ったら、そのまま居残りを決めて再度観ていた。映画館という場所は、まことに呑気な空間だった。

その感覚がいまだに残っているせいか、いまでも映画はあくまでフラリと観に行くものだと思ってしまう。しかし最近ではウェブサイトで上映館と上映時刻を検索していくと、そのまま劇場の座席表が画面に現れる。もう「ぴあ」のページを繰らなくてもいいのだ。いや、その「ぴあ」すら今は発行されていない。画面の座席表の空席をクリックすればチケットが買えてしまう。つまりはいつの間にか映画は全席指定になったのだ。あ、ご存知でしたか。いまや常識ですよね。でもおれはこのシステムを初体験したときは衝撃だったけどなあ。
「二日後の午後十二時に上映開始か。だったらなんとか行けるかも」
とおれは思い、座席を指定してカード決済でチケットを購入する。どうかおれの座席のすぐ前に座高の高いヒトが予約しませんように、と祈ることはもちろんだ。すると、数秒後には二次元コードがスマートフォンに届き、劇場の入口でこの二次元コードの画面をかざせばすぐ入場できてしまう。紙のチケットがないから「もぎり」のヒトもいない。「もぎり」なんて、もはや若い人には通じない言葉だろう。コレ、便利なようだが、おれはなんとなく気に食わない。
あんなに気楽な存在だった映画に自分の予定をガッチリと決められてしまうのが釈然としないのだ。生演奏のコンサートや演劇の舞台など、つまりはライヴならまだわかる。でも相手は映画じゃないか。何百回観たところで俳優の動きが変わるわけではない。それなのに、なぜ万難を排してその上映開始時刻きっかりに出向かなければならないのか。おまけにウェブでチケットを買うと、おれのスマートフォンのカレンダー・アプリには自動的に赤いマークがつき、日時、劇場名、作品名まで登録されてしまっているではないか。
「忘れんなよ。こちとらおまえの予定は把握してるからな」
とプレッシャーをかけられているようで、とても不気味だ。楽しみにしている映画なのに、気が重くなる。

ウェブでチケットを買うとき、おれは六十三歳なので「シニア料金」を選択する。お得だ。有難い。寿ぎである。ところが、だ。シネコンの入場口で二次元コードをかざすときに、受付のコはオレに対していっさい年齢確認をしてくれない。あっさりとノー・チェックで通してくれる。常日頃、
「まだ五十九歳に見えるのではないか。ひょっとしたら五十八歳にも見えるかも」
と、自己評価しているおれにとって、これは悲しい。
「お客さま、本当に六十歳以上でしょうか」
と呼び止めて、身分証明書の提示を求めてくれてもいいではないか。おれは胸を張っておもむろに運転免許証を見せる。すると受付のコはそれを見て、
「大変失礼いたしました。あまりにもお若く見えたものですから」
と、顔を赤らめておれに詫びる。おれは鼻の下を大いに伸ばしつつも低い声で言う。
「いえ、光栄です」
こうでなくっちゃね。
だが現実は違う。どこからどう見てもおれは「六十歳以上」と見た目で瞬時に判断されてしまっている。悔しい。だとしたらコンビニでのあの対応はなんなのだ。煙草を買うときにいつもいつも
「お客さまは二十歳以上ですか」
とレジの画面に問われ、そのたびに「はい」をタッチしているではないか。あの質問はおれのルックスが「ひょっとしたら未成年かもしれない」という疑いが生じたからだろう。そうじゃないのか。単なる決め事なのか。しかしだね、コンビニでは未成年の嫌疑をかけられ、シネコンでは「完全無欠の高齢者」と断定されるのは、どうにも納得がいかない。

いまは大抵の映画が配信され、自宅のTVで観ることができてしまう。そりゃあ映画館とは迫力が段違いだが、好きな時に寝転んで観られるのは有難い。好きなところで一時停止して、もう一度気になった数秒前のシーンを繰り返しチェックできる。途中でトイレにも行ける。主人公が劇中で煙草を吸っているのを観て、
「あ、おれも一服したい」
と思えば、一時停止してベランダに出て煙草も吸える。自由だ。快適だ。この快適さに慣れると、おれはますます映画館から足が遠のいてしまうことになる。

そして、もはやおれのカラダもココロも、三時間もの「超大作」を休憩なしでずっと鑑賞することに耐えられなくなっている。だが、映画館ではそれを強いられる。先日も『ポーはおそれている』を観たいと思ったが、上映時間三時間ということで、おれは断念してしまった。オシッコを我慢できる自信がない。ポーはおそれているのかもしれないが、おれも負けずにおそれているのだ。『オッペンハイマー』も三時間の作品だった。くたびれた。困ったことである。三時間を超えていいのは『七人の侍』と『ゴッドファーザー PARTⅡ』だけだよ。もっともどちらの作品も映画館で上映されたときは休憩時間が設けられていたけどね。
プロの映画監督なら、一作品はなんとか二時間以内でまとめてほしい。できれば九十分が理想だ。最近映画館で観た作品でいうと、タイカ・ワイティティ監督『ネクスト・ゴール・ウィンズ』は一時間四十四分、アキ・カウリスマキ監督『枯れ葉』に至っては一時間二十一分だったが、どちらも素敵な映画だったぞ。長ければいいってもんではないのだ。

しかしながらこの駄文も三千五百字を超えてしまった。ねっ、長ければいいってもんではないでしょ。

ゲバルトの杜

若松恵子

代島治彦監督の映画「ゲバルトの杜」が、5月25日から渋谷のユーロスペースで公開される。完成試写会でひと足先に見ることができた。

私は、「ゲバルト」という言葉をうっすら知っている、最後の世代かもしれない。私と同世代の人だって、「聞いたこともない」という人は大勢いるだろう。私だって、その意味を正しく知っているわけではない。改めて検索してみたら、「暴力」を意味するドイツ語。主に学生運動で権力に対する実力闘争をいう。とある。「内ゲバ」の凄惨なイメージも相まって、「ゲバルト」という言葉の響きは良くない。商業的には成功しそうもない映画を、また代島監督はつくってしまったのだ。「君が死んだ後で」に続く、学生の政治闘争を描くドキュメンタリー映画だ。

今、なぜ、学生運動なのか。「ゲバルトの杜」なのか。代島監督は登場人物たちと同時代を生きた者ではない。しかし、前作同様、学生運動が気になり、もし、自分があの場にいたらどうしただろうと問わずにはいられない人なのだ。それは、彼が素朴な正義感を持ち、社会に不正があったら見て見ぬふりはしていたくないと思うような質(たち)だからだろう。彼と同じような正義感や他者へのやさしさから政治運動に参加して行った学生が、なぜ殺しあうことになってしまったのか、命を落とすことになってしまったのか。自分だったかもしれない彼らについて、考えることをやめないのが代島監督なのだ。「自分だったかもしれない」、「自分だったらどうしただろうか」と問いながら私も映画を見ることになった。

「ゲバルトの杜」は、2022年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した樋田毅著『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文芸春秋)を原案としている。映画では樋田氏自身も登場して当時について語る。対立しているセクトのスパイだと疑われ、学校内でリンチを受けて学生が殺されるという事件が起こる。殺したのは、当時暴力的に学生自治会を牛耳っていたセクトだった。そのことに対して、一般学生が立ち上がって学生大会を開き、新自治会を樹立する。その臨時執行部で樋田は委員長になる。しかし、彼自身も鉄パイプで教われ重傷を負うことになる。

暴力的な運動に反対して結成した新自治会であったのに、暴力的な反撃に対して、身を守るためにヘルメットをかぶって、角材を持つんだという意見が出てきて、新自治会は分裂していく。ヘルメットをかぶって暴力的なデモを始める新自治会の動きに一般学生が離れていく。新自治会の運動は敗北する。この部分が一番身につまされた。最後まで踏みとどまって非暴力を貫けるのか。単純な正解などないのだ。

今回の映画に寄せて代島監督が書いている「なぜ半世紀前の地層に井戸を掘り、何本も映画を作ってきたのだろう。「死者にみちびかれて」これは大江健三郎の小説「万延元年のフットボール」第1章のタイトルである。「発酵した細胞群が肉体そのものの真に具体的な死を、酒のように醸している。生き残った者らはそれを飲まねばならない」(『万延元年のフットボール』第1章より引用)
(中略)あの時代、どれだけの若者が傷つき、殺されたのだろう(そこには無数の自殺者も含まれる)。ぼくたちは想像しなければならない。半世紀前の地層で死者たちが「酒のように醸している」ことを。そして「生き残った者らはそれを飲まなければならない」ことを。深い井戸を掘り、死者が醸した酒を汲みあげる。その行為の結果が、これまでのぼくの映画なのかもしれない。」と。映画は、過去の事件を教訓として、なんて単純なことにはおさまっていない。

アパート日記4月

吉良幸子

4/1 月
どうしても神保町へ行きたいので、映画の日にかこつけて行く。エノケンを1本観て、落語のCDとカセットを買って、ランチョンでお昼を食べて帰る。なんと楽しい休日。出稼ぎ先が遠なったから通勤中に長い落語でも最後まで聴ける。明日から楽しみや。

4/3 水
人生で初めてパーマをあてた。強めにやってくれたからくるっくるになる。短髪やしベティちゃんみたいね、と公子さんに言われた。あんなにセクシーじゃないけど、ちょっとの間、浪花のベティちゃんでいこか。

4/8 月
先月末岩国へ行き、そんまま実家に寄って東京へ戻った。そこから贅沢なことにも銭湯暮らしで、家のシャワーを1週間以上使ってなかったことになる。久しぶりに家でシャワーと開けたら、ねずみ捕りに小ねずみが3匹も丸くなっておった。朝一でギャァァァーと叫んでねずみたちに平謝りしながら処理する。どっから入るねんろ、ほんま色々出るアパートや。

4/9 火
丹さんがアパートへ来て久しぶりに会うた。昨日のねずみ話をしたら、丹さんは先月末、冷蔵庫の後ろで丸々と太って果てたヤツ1匹を…と思わず台所でねずみ会談。床に座って話してたら、ソラちゃんまで輪に入って熱心に聞いておる。あんたは連れてきて家ン中で逃すだけやがな!とつっこんだ。

4/10 水
長谷川町子美術館へ。企画展示は「長谷川町子のデザイン」。サザエさん連載中の題字がバリエーション豊かでずっと見てられる。単行本の原画から新聞広告、グッズ展開など色々あって面白い展示やった。常設展示のとこに、気晴らしで作っていたという人形があってそれがまたうまい!展示期間が長いしまた来よう。とりあえず図書館でエプロンおばさんを借りて読みはじめた。

4/12 金
最近のソラちゃんのブームは、公子さんの横でおしりに手ぬぐいかけてもらい、あやしてもらいながら寝ること。甘えたのおっさん猫が何やってんだか。夜中になると手ぬぐいを尻尾にさげたまま私のとこへ来て、ごはんくださいと言うてくる。お風呂上がりみたいでかわいいやないの。

4/13 土
仕事終わりに急いで「雷門助六一門会」へ。音助さんには来週のいわと寄席でお世話になる。助六師匠はいつもにこにこしながら高座に上がるので出てくると嬉しい噺家さんのひとり。末廣亭5月の上席は助六師匠がトリ。賑やかに踊るらしい。観にゆこう。

4/17 金
この前実家に帰った時はちょうど年度末で、NHK連続テレビ小説『ブギウギ』の最終回を観た。服部良一ええなぁ…と図書館でCDを数枚借りて携帯に曲を入れる。出稼ぎ先で準備中はずっとそのCDを流すことにした。一緒に働いてるおばちゃんも気に入ってくれて、2人でちょっとデュエットしながらごきげんに準備する。昔の歌は歌詞がとにかくおもろい。『チャッカリ・ルンバ』なんて聞いてて笑ってまう。

4/21 日
卯月のいわと寄席、金原亭馬久さんと雷門音助さんの会。2人っきりでやるの初めてらしいけど、2人ともとっても楽しそうやった。好きな噺家を裏方やりながらいわと寄席で聴けると、この上なく嬉しい。帰りしなに会場が入っているビルの一階で、天ぷら屋さんのおかみさんと会う。店主が倒れて閉店してしもうたらしく、食器類の中からどれでもお好きなのどうぞ、と言われる。土鍋や湯飲みなどええもんばっかし。焼酎用の黒ぢょかとおちょこのセットをもらってきた。公子さんも酒を入れる器をもらってきてる。アパートの酒飲み環境はこうしてどんどん良くなってゆく。

4/24 水
今週から出稼ぎ先がちょっと大変やし、のみ込まれんように気晴らしも多めに。いや、普段から仕事もそこそこやけど。今日は桂吉弥さんの独演会へ。朝が早くとも帰りに落語会へ行けるのはほんまにありがたい。『百年目』の後半に地震があって、聴いてる方はちょっと現実に引き戻された感じがした。でも吉弥さんは揺れがこようがなんにも動じず続けてはって、さすがやなぁと感心の方がまさった。

4/25 木
何週間も前から自分の部屋が山のような服に占拠されて汚すぎる。ようやく重い腰を上げて部屋の片付けと衣替えをした。夜には見違えるようにきれいな部屋になった。最近のアパート組みのハヤリ、日本酒でおつかれの乾杯。同郷・兵庫の剣菱が何と言ってもおいしい。小さい瓶のんはみな飲んでしもて、遂に一升瓶を買うてしもた。ああ、たのし。

4/29 月・祝
『喜劇 あゝ軍歌』を観にゆく。今やったら不謹慎やとか何とか言われることをやりまくった映画。不謹慎がなんぼのもんじゃい。むちゃくちゃ面白くて笑った。その後、数ヶ月間夢にまで見た下駄を作りに品川へ。連休やからかお店が混んでる。鼻緒をどれにするか散々迷って細めの赤いのをすげてもらう。よく考えたら鼻緒は後から調節も取り替えもできる。下駄ってほんまにようできた履物やね。

4/30 火
今月最後の会は「松鯉・鯉昇 二人会」。真ん中に座ったら拍手の圧が二つ目さんの会とは全然違うた。近くで松鯉先生を拝めて嬉しい。鯉昇師匠は顔がどことなーく去年亡くなったばぁちゃんに似てて、あぁ、ばぁちゃんが落語したらこんなかな?なんて時々思った。おふたりでやる会があったらまた行きたい。

金沢

笠井瑞丈

今年から始めた金沢での活動
二月は公演とワークショップ
四月は古民家での投げ銭ライブ

二月
金沢芸術村
ロープを引っ張り
バトンをおろし
一つ一つ照明を吊り
そしてパッチングをして
チャンネルと灯台の回線を合わせる
そしてスピーカを下し音響もを仕込む

普段は音響さんと照明さんに頼むけど
照明さん音響さん頼める予算もないので
照明音響の仕込みを全て自分達でやる
それから椅子を一つ一つ並べて完成だ

そこから一番大事な踊りをする
なおかさんとのソロ二本立て

僕の踊ってる時はなおかさんが照明と音響
なおかさんが踊ってる時は僕が照明と音響

踊って照明と音響やって
照明と音響やって踊って

そして無事公演も終わった
本当にクタクタの1日だった

金沢はなおかさんの地元
そんなことからここ数年
年に数回は金沢に行く
もう何年前かは忘れたが
初めて金沢に行った時を思い出す

なおかさんのお姉さんが
駅まで迎えにきてくれた
車の窓から眺めた金沢の夜景
年末のとても寒い時期だった
郊外のショッピングモール
雪解けのために道路から水が出てる
初めて見る景色に興奮したこと
ちょっと外国に来た気分だった

前は青春18切符で鈍行列車を乗り継ぎ
14時間くらいかけて金沢に行ってた
それが今は車に変わり車中泊の旅に

あの頃と景色は少しずつ変わり
自分も当たり前だけど年もとり
いろいろなものが変わってしまった

踊る事
続けていく事

自分の中に何か一つ小さなヒビが
カンカンとカラダの中から警報が
そんな事を少し感じる今日この頃

踊る事
続けていく事

そんな金沢も今は「帰る」という気分に変わった
自分にとって「故郷」みたいなものにも変わった

話の話 第14話:身に覚えがない

戸田昌子

KYOTOGRAPHIEの季節である。KYOTOGRAPHIEというのは写真のフェスティバルで、毎年1回、ゴールデンウィークをはさんだ1ヶ月あまり、京都の各地で写真の展示が行われる。これでもわたしは写真の専門家なので、毎年その時期に訪れて、なるべ無駄なく、できるだけ多くの展示を見てまわることにしている。「わたしの展示、見てくださいね」「自分がキュレーションしたんでよろしくお願いします」「うちで本出してる作家さんなんで是非」という案内が各所から来るため、義理を果たさなければならないからだ。そういうわけで、企業の協賛もついているメイン展示のほかにも、「KG +」(ケージープラス)と呼ばれている関連展示にもなるべく足を運ぶ。そうすると、いきおい、知り合いに会うことも増える。

そんなわけで、ふいに、「戸田さん!」と声をかけられるわけである。ふりかえると、ゼミの生徒さんである。「ああ、XXさん」と返事をすると、「あ、この人、社長です!」と隣にいた男性を案内される。きょとんとしていると、「ああ、XX(某有名レンズメーカー)の社長さんです!」と言われる。なあんだ、そのレンズメーカーだったらつい半年ほど前に、大学の学生さんたちと本社見学をしたばかりだ。言われてみれば、そのときに壇上で挨拶されていた社長さんである。そこでつい、「本社の見学ありがとうございました!ところでわたしの友人がXXのレンズの大ファンでしてね、XXでないと何も写らないんだと言っていましたよ!」とひとしきりレンズをほめ上げて調子良く会話を交わしてみる。お別れしたあと、ゼミの生徒さんに「XXの社長と友達なんだね、すごいね!」と話しかけると、「いえ、僕が一方的にお顔を知っているだけで、話したことはありません」と、あっさり。つまりその生徒さんは、ただ単に隣にいただけの有名レンズメーカーの社長さんを、私に一方的に紹介したというわけなのだ。社長さんにしてみれば、身に覚えのない知り合い風の人が、自分を勝手に知らない相手に紹介している状況が生まれていたわけで、申し訳ないこと限りない。結果、わたしは生徒さんとふたりで勝手に「社長!」と盛り上がり、一方的にまくしたてて帰って行った変な人に成り下がっていたというわけである。「そんな、いきなり社長さんですなんて言われたって困るよ……。変な人になっちゃったじゃないの」と生徒さんに文句を言っても、後の祭りである。

「知っている」というのは、実に変な言葉だ。仕事柄、名前が知られるにつれて、向こうが一方的にわたしのことを知っているだけで「戸田さんですか?知ってますよ!」と言い合っている人たちがいるらしいと聞いては、なおのことである。そんなことを言っている人がいれば「じゃあ紹介してよ」となることもあるわけで、そうなると、「いやいや、自分が一方的に知ってるだけで……」ともごもごすることになるのは必定なのだが、中には鉄面皮もいる。「こないだ、デザイナーのTさんに、戸田さん知ってる?と言われたから、ぼく、知ってますよって答えたんですよ!」とわたしに語っているその人は、そのときわたしの認識では初対面の人なのである。だから「いや、あなたとわたし、いまが初対面ですよね?」とつい突っ込んでしまう。しかし彼は、「いや、見かけたことがあるんですよ美術館の廊下で!」と言いつのる。わたしのほうは身に覚えがなくても、彼の方は断固「ぼくは戸田さんを知っている」という認識なのである。

とはいえ、人は年々、記憶力も薄れていくわけだから、身に覚えのないことでも、「知らない」とは言い張れないものである。なかでも酒を飲んでいて話したことややってしまったことは、だいたい身に覚えがないことが多いことだろう。たとえば朝、植え込みの中にばったり埋まっているサラリーマンも、場末の公園のブランコで「鬼殺し」の紙パックを片手にうなだれている人も、ストロング系チューハイを片手にパチンコ屋の開店を待っていたらタバコの吸い殻入れにしていた缶が右か左かどっちなのかわからなくなってしまった人なども、自分がしていることについては、だいたい身に覚えがないに違いない。

そんな人たちが朝の路上に散見される町で生まれ育ったのがわたしである。「鬼殺し」の紙パックを片手にうなだれている人を見かけたのは娘なのだが、そのうなだれ具合はどうやらとてもすごかったそうで、「日本うなだれ選手権」があったらトップクラスの点数を叩き出すに違いないほどうなだれていたのだという。もしそんな選手権があったなら、わが夫もきっと勝ち抜きたいに違いない、ぜひ出場してみては、とわたしが言うと「いや、ぼくが狙っているのは、こむらがえり世界チャンピオン」というのが夫の返答だった。たしかに数日に一度、夜明けに隣の部屋から声にならない悲鳴が聞こえることがある。「ああ、また、こむらがえりだ……」と、とりあえずしばらく放っておいてから、生暖かい声で「大丈夫?」と尋ねるのが慣例である。

「身に覚えがない」と言えば、娘は、自分の寝起きが悪いことについて、あまり身に覚えがないようである。冬将軍が去った春だというのに、我が家にはマダネル将軍が居座っている。そもそもマダネル将軍は年がら年中、居座ってはいる。朝、将軍を起こしに行くと、判で押したように「まだ寝る」とおっしゃるマダネル将軍。「わかった、5分たったらまた来るね」と言って、こちらはいったん退却する。そして再び起こしに行くと、ぐずぐずしつつ不満げではあるものの「止むを得ぬ」と将軍は起きてくださる。たまに「あと5分寝る」とおっしゃるゴフネル少佐が出る時もあるが、だいたいは時間を曖昧にしておきたいためか、将軍の出陣率が高い。こちらとしても「いますぐ起きるか、起きないか。イエスかノーか」を突きつけるとだいたい全面決戦となりろくなことがないため、ひたすら将軍を褒めたたえ、「仕方ないか、下々のためにも起きてやるか……」と譲歩させるという外交手腕を使うことが多い。

夫が持ち帰った秋田県の郷土菓子「バター餅」を一口ぺろりとした娘が「へぇー!」と声をあげる。わたしも一口いただく。バターの香りのする分厚い生八橋というていのお菓子で、カロリーだけはすごくありそうな味。娘は「ほうほう、寒い北の国では、カロリーがないと死に直結するからね」などと適当なことを言いながら渋茶をすする。彼女は、死に直結するような寒い思いをしたことはないはずなのだが、身に覚えもないことを口から出まかせで言う才能だけはあるようだ。

つい先日、フランスの妹の家に数週間滞在していた。彼女の夫は写真家、妹はデザインの勉強をして、いまはフランスの田舎町で食のアトリエをやっている。そんな夫婦と子ども2人の家族の家は、家具から食器から、目に入るものは何から何までこだわりのハイセンスな家である。さらに有機食品にも凝っていて、サステイナブルな暮らしを試みているので、使い捨てのものやプラスチック製品などには、ほとんどお目にかからない。各部屋にゴミ箱もないし、ティッシュ箱さえ、家族4人あたり1つしかないのである。大体のものは鉄製、木製、ステンレス、陶製で、プラスチックはほとんど存在せず、家電は最小限。洗濯機は80センチ立方程度の極小のものを使っていて、排水の問題もあり台所に所在なさげにちんまりと置かれている。「あんなちびの洗濯機でさえ、会議にかけないと買わせてもらえなかったんだから」と妹は不満げに言う。聞くと、彼らの家には「プラスチック会議」なるものがあって、プラスチックを使っているような電化製品はどんなものでも、買う場合には必ず家族会議が開かれるのだと言う。その会議では、全員に発言権があり、それは本当に必要なのか、プラスチック以外に代替手段はないのか、などについて事細かに話し合われ、全員が了承しない限り、そのプラスチック製品が購入されることはない。そのため、彼らの家には電子レンジがいまだに導入されていない。それは何度、会議にかけても、拒絶されてしまうからである。「このプラスチックのしゃもじだって、息子1が見とがめて、ぼくこんなしゃもじ買うなんて聞いてないよ、って言うんだよ」と妹。妹は「仕事で使うドイツ製の炊飯器を買ったら、ついてきちゃっただけだから!」と説明したそうなのだが、「ふーん」と疑りの眼差しで見られたのだという。身に覚えのない疑いを息子にかけられるとは、かわいそうな妹。

身に覚えがないと言えば、我が家の現在の冷蔵庫も、夫にとっては身に覚えのない家電であった。我が家の冷蔵庫は現在3台目である。2台目の冷蔵庫を買おう、と夫とわたしのあいだで相談していたとき、機能重視が行きすぎて「かわいい」という理由でものを買うことを否定してしまう夫は「これでいいじゃん」と、言われた途端にがっかりしてしまうような、灰色のつまらない冷蔵庫を指差したのだった。値段は確かに妥当だが、その冷蔵庫を毎日見て暮らすことを考えたとたんにブルーになったわたしは、もうこれは自分が好きな冷蔵庫を勝手に買うしかないのじゃないか、と考えた。そんなとき、まとまった原稿料が入った。これはもう、あこがれのユーチューバーさんが持っていたあの素敵な冷蔵庫を買う!と心を決めたわたしは、夫に無断で原稿料を投入し、冷蔵庫を購入。指折り数えて冷蔵庫の到着の日をわくわく待っていたが、さすがに身に覚えのない冷蔵庫がいきなり届いたら驚くだろうと思い直したわたしは、夫に「冷蔵庫なんだけど」と話しかけた。「ああ、そう、そろそろ決めないとね」と夫。「ううん、実はね、もうね、買ったのよ、自分で」とわたし。「え?」と夫。「どうしても欲しくてね。見た目がかわいいだけで機能は大したことはないし、そういう買い物するのをあなたに説得する自信はなかったから、ごめんね」とわたし。わたしの性格を知っている夫は、ほとんど絶句しつつも「まあ、いいけど……いつ届くの?」と尋ねた。「明日」と即答するわたし。ふたたび絶句する夫。そんな我が家では「プラスチック会議」は開くことは、今後もおそらく不可能だろう。

夫の会社には、責任を取らねばならないことにも、「身に覚えがない」で突っ走れるという、困った人材がいるそうである。アニメの異能力者や特撮キャラに例えると、たとえば「異能力!前言撤回」なんていう異能力者はは会社組織では珍しい存在ではないし、「異能力!責任逃れ」なんてのもゴマンといるそうだ。もちろん「異能力!責任転嫁」も出現率が高い。しかし、最近は新たなタイプの異能力者が増えつつあり、「異能力!意味不明」というのが存在しているそうだ。それはもちろん、何を言っているのかがわけがわからないのである。さらには言っていることが人間の想像力を軽く超えていく「異能力!奇想天外」というのが最近は出現しているそうで、それがありもしないエピソードを語りだすに至っては、「それって、ほぼ会社的には無能力ってことだよね」と突っ込まざるを得ない。「身に覚えがない」ということが、ただの記憶の欠落を超えて記憶の創作になってしまえば、それはたぶん会社的な無能力というよりも、世間的な無能力ですらあるだろう。修羅である。

わたしの場合は、身に覚えがないというよりも、うろおぼえのほうが多い。歌の歌詞などもいつもうろ覚え。「なんだか、こんな歌があったよね? マイクロバスに乗っています♩ どんどん道が狭いけど♩ うしろへどん♩ ごっつんこ、どん♩ 後ろの人は~ はじっこに♩ みたいな歌」と言ったら「それは、大型バスに乗ってます、って歌でしょ。うろおぼえにしても殺傷能力が高すぎるよ」と批判される。身に覚えはあってもうろ覚えすぎることが、わたしの最大の問題かもしれない。

夢を見るくだものまたは不眠その豊かさについて

北村周一

遠い遠いある国からたくさんの雌牛を連れてきて
自分の牧場に放したところ
それに対してとやかくいう人々があらわれたのです
どうしたものかと考えていたら 
まことに小さなヒョウタンみたいな形をしたくだものが
牧場のそこいらじゅうに生えてきたのでありました
ある女性アナウンサーはひどい不眠症にかかっていて
この眠り薬のようなくだものの評判を知ることとなり
毎夜毎夜寝る前に食べていたのでありました
しかし食べていいのは月に四つか五つぐらいまでで
ぐっすりと眠ることができるかわりに
食べ過ぎると低血圧気味になりやすく 
人に会うたび青ざめていたので
医師や年長者たちは心配そうに彼女を諭したのでした
やまいに苦しむようならと
彼女の未来の写真を見せながら
まるで晩年を振り返りみるように
眠れないことを悩むなと説いたのでありました
そしてこうもいったのです
よき眠りは豊かな老後を保証するとも
けれどもそのようなアンバランスで紋切り型の教訓は
役に立たないばかりか人によっては
余計なお荷物になりかねません
思うに他人の判断は往々にして結果論であり
当人の願望とはギャップが見られることもあるでしょう
一瞬にして忘れてしまうあけがたの夢の数々
よき眠りと不眠との境目いわゆる閾値は
どこにあるのかと疑わざるを得ません
むしろ目を凝らせばここにもあそこにも
雑草のように顔を出しているのかもしれません
ところで例のヒョウタン型のくだものの味なのですが
乳酸飲料とりわけヤクルトの味に似ていたのだそうです

 夜の空に星を見ているそれだけで輝きもするひとのいのちは

動く曼荼羅 スリンピ

冨岡三智

まだ行けていないのだが、奈良国立博物館で「空海KUKAI―密教のルーツとマンダラ世界」展(4/13~6/9)が始まった。関連番組を見ていたら、密教は陸のシルクロードだけでなく海のシルクロードも経由して伝わったということで、インドネシア国立中央博物館所蔵の小さい金剛界曼荼羅彫像群(10世紀、東ジャワ)も立体的に並べて展示されるとのことである。また大きな立体曼荼羅の例としてボロブドゥール遺跡も紹介されていた。

この番組で仏像が立体的に展示されているのを見ていたら、今にも動き出しそうな気がしてきた。そこでふと、2004年4月号『水牛』に「私のスリンピ・ブドヨ観」というエッセイを寄稿していたことを思い出した(バックナンバーに収録あり)。私は4人で舞う宮廷舞踊スリンピは一幅の曼荼羅を動画として描く行為なのではないか…と直感で書いた。当時、私は河合隼雄の本をよく読んでいて、曼荼羅がユング心理学において自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持つことを知って、スリンピ=曼荼羅説に意を強くした。…のだが、といって特に曼荼羅について勉強はしていなかった。この番組を見たあと曼荼羅が気になり、いま正木晃著『マンダラを生きる』(角川ソフィア文庫)を読んでいる。曼荼羅の視覚上の特徴は以下の5つという(p.26)。

①強い対称性
②基本的に円形
③閉鎖系
④幾何学的な形態
⑤完全な人工環境であり、自然はない

曼荼羅というと私には方形というイメージがあったので少し驚く。世界を4等分するような、数学の座標軸のようなイメージである。同書によると、曼荼羅は実際に方形のものも多いが、完成度の高い曼荼羅の基本形は円形とのこと。もっとも、私はスリンピの振付は中央にある磁場を回る舞踊だと思ってきたので、基本は円形だという認識は無意識にあった気がする。スリンピは人工的というのも分かる。振付には自然のモチーフから取られたものがあっても、それ自体を描写するわけではなくてとても理念的だ。人間の喜怒哀楽やらの感情をそこにこめて表現するということもできない。だから、私が留学していたインドネシア国立芸大の先生の中で、スリンピなどの宮廷舞踊が実は苦手だ、物語のある舞踊の方が表現しやすいと打ち明けてくれた人もいる。

スリンピは密教経典に基づいた教えを描いているわけではないので、あくまでも曼荼羅として私が解釈しているに過ぎない。けれど、正木氏の言うように上のような特徴を持つ似た図形は世界中に広くあって、ヒンドゥーにもキリスト教にもイスラムにも、古代ケルトにも、アメリカ先住民にも見られる。ユングも重視しているように、精神の原型とみなすことができる。「マンダラは、象徴という手段をとおして、対極にある存在どうしの熾烈な葛藤を調和に導き、崩壊していた秩序を再統合し、その結果、患者と世界が和解してゆくための、きわめて有力な方途になりうるとも、ユングは考えました」(p.45)とあるけれど、この説明は宮廷舞踊の特徴として説明される内容――欲望を抑え対立や葛藤を経て、調和や悟りの境地に至る過程を描く――と同じで、全人類に共通する根本的なパターンの表現だなあと感じている。

実は11月23日に再びスリンピを含む公演を堺市でする。堺市での公演はこれが3度目で、スリンピも3度目。また練習が進んだら内容を告知していきたいけれど、世界に共通する曼荼羅のイメージを描く舞踊をお楽しみに!

言葉と本が行ったり来たり(22)『わたしに無害なひと』

長谷部千彩

八巻美恵さま

八巻さんのお手紙を受け取ったのは、ちょうど海岸沿いのハンバーガーショップでアイスティーを頼んでいるときでした。車を持つ暮らしに戻ってからは、休みの日は何冊かの本をバッグに入れて都心を後にする―それが私の楽しみです。
ちなみにその日、私が読んでいたのは『わたしに無害なひと』(亜紀書房 2020年)。出版された頃にいただいて、途中まで読んだものの放置していたチェ・ウニョンさんの短編集です(最近は、こういう半端になっている本を読み切るという「片づけ」をしています)。
八巻さんも読まれたかもしれませんが、『わたしに無害なひと』に収められている作品は、若さゆえの哀しみを描いたものが多く、読んでいるとせつなくなってしまいます。
でも、自分のことを振り返っても、いや、たぶん誰しもそうだと思うのですが、10代、20代前半ぐらいまでって、大人が考えるほどキラキラもしていなくて、むしろ、むき出しの心が吹きさらしの状態で置かれている感じ。少なくとも私は、あの頃に戻りたいとは思わない。

《人って不思議だよね。互いを撫でさすることのできる手、キスできる唇があるのに、その手で相手を殴り、その唇で心を打ちのめす言葉を交わす。私は、人間ならどんなことにも打ち勝てると言うような大人にはならないつもり。》(チェ・ウニョン「砂の家」より)

これは文中にあった一文ですが、こういう語りを読むと、うん、そうね、でも意外と多くのひとがそういう大人になっていくよね、とひとりごちたりして、眼前には快晴の海が広がっているのにしんみりしてしまい、ううう、若いってやっぱりつらい、と思いました。
そして、その翌日。八巻さんが紹介して下さった『欲望の鏡』 を入手。早速、港の見えるラウンジで一気読みしました。これは最高の本ですね!
SNSに対して、というか、Instagramに対してすっかり興味を失った私ですが、始めた頃はそこそこ楽しめていたものが、なぜいまや深入りしたくないものになってしまったのか、その理由がこの本にはきっちり分析・解説されていて、著者にお礼を言いたいぐらいです。ちゃんと理屈にまとめてもらえて嬉しい、ありがとう!
また、この本は写真論にもなっていますよね。いま流行している写真を、私は全然良いと思えなくて、ありとあらゆるメディアに流れ出てきたインスタ世界、気持ちわる・・・と引いているのですが、そのことについても79pー81pに書かれていた!引用されているビョンチョル・ハンの著作を次はぜひ読んでみたいと思っています。
そして何より痛快だったのは、「アン、72歳」のページ。

《「若い人たち、人生の真っ只中にいる人たちを見ると、こう思う。あなたたちの周りにあるものすべてが、おそろしく大切なものなんだよ!ってね」
「でも、自分にとっては、そんな大事じゃない気がする!実際なんにもすごく大事って思えない!ハハハ」》(リーヴ・ストロームクヴィスト『欲望の鏡:つくられた「魅力」と「理想』より)

まだ72歳まで時間があるけれど、私も段々同じことを感じるようになってきて、そう、大事だと思っていたことがいろいろあったはずだけど、大抵はどうでもいいことだったんだ、とわかってきた。何が年を取って良かったかって、そこをわかり始めたことです。大事なこともないわけじゃないけど、大事なことに比べ、大事じゃないことのあまりの多さよ!リーヴ・ストロームクヴィスト風につけ加えるなら、「ついでにいうけど、大抵のおじさんの話はそんな大事じゃなかった!ハハハ」。

上野千鶴子さんの、ボーヴォワールの『老い』の解説は、NHKの「100分de名著」のムックで読みました。八巻さんが読んだのは、月刊『みすず』での連載ですよね?内容は同じなのかな。気になる。ボーヴォワールの『老い』は随分前に買ったけど、先日、さあ読むか、と思い、書棚を探したら下巻しか見つからなかった。老いる前に蔵書の整理だけはしないとな、と考えていたところです。

2024年5月1日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(21)『欲望の鏡』八巻美恵

しもた屋之噺(267)

杉山洋一

最近、朝方、鳥までが餌をねだりに来ているのに気が付きました。体長20センチほどのツグミから、4センチ足らずのシジュウカラまで、餌箱にクルミを入れるのを忘れて、こちらが黙々と仕事をしていると、近くに寄ってきてはじっとこちらを観察しています。まさかと思いながらクルミを用意し始めると、そそくさと餌箱置きにしている椅子のところへ飛んでゆき、こちらが持ってゆくのを待っています。
リスにしても鳥たちにしても、いつも仕事をしている食卓から2メートルくらいのところ、窓の手すりあたりか、春になって一気に蔦の緑に覆われた土壁の上あたりに座って、こちらが気付くのを待っています。こちらが顔を向けると、決まって少し目線を外すのが、妙に人間臭くて可笑しく感じます。照れ臭そうというのか、澄まし顔というのか。まあ、こちらの考えすぎでしょうけれど。

4月某日ミラノ自宅
フェラーリのところで、家人がアルドとフランチェスコとフォーレのピアノトリオと「浄夜」を弾いた。RAIラジオのクラシック放送の司会を長く務めるオレステが、演奏前、フォーレは、時代の潮流の狭間に捨て置かれ、不当に過小評価されてきた、と話した。つまり、19世紀が終わろうとしているころ、より先進的な音楽を目指した一群から見ればフォーレの音楽は古びていたが、伝統的な音楽を守ろうとした一群からすれば、フォーレは先を進みすぎていた。イタリアに限らず、フォーレを耳にする機会の少なさを、「不当」と強調して話したのは、オレステらしく、秀逸だと思った。
フォーレの音楽のカタルシスは、自分にとっては、三善先生の音楽のそれに繋がる。中学の終わりから、高校の終わるころまで、フォーレはプーランクと同じくらいずっと聴き続けていた。考えてみれば、先生からフォーレはいいよ、と言われた記憶もないし、先生はラヴェルにより興味を持っていたはずだけれど、自分にはあまり関係なかった。フォーレの繊細と無骨の共存する歌謡性、そこに深みを与える官能性、全てが魅力的であった。
フォーレの二楽章、アルドとフランチェスコが、ああ自分は音楽をやっていて本当によかった、と倖せを噛みしめながら切々と、そして朗々と歌を紡いでいたのが印象的に残った。演奏家がそう実感しながら弾いているとき、聴衆はともにその音楽を共有できた倖せに浸っている。
演奏会が終了後、ワインとフォカッチャ、チーズを囲んで世話話。極右ともいわれるメローニ政権で、文化面でも大きく変化が出ている。RAIのラジオで話すときに、検閲があるのか、これは話すな、とか規制はあるのか、と尋ねられ、今のところオレステはそれはない、と否定したが、新聞でも盛んに取り上げられている、スカラ座の団員95パーセントが継続を希望しているフランス人のメイヤー総裁の代わりに、現政権関係者がヴェネチア・フェニーチェの総裁、イタリア人のオルトンビーナ総裁を据えようしている話に、思わず皆が色めき立つ。
イスラエルがシリア、ダマスカスのイラン公館を攻撃。将官7人死亡。

4月某日 ミラノ自宅
アンリ・シャランの和声課題も、フォーレのカタルシスにも通じる勘所があって、三善先生は、シャランがその箇所を弾くとき、教室の生徒たちが決まってうっとりするのが苦手だと書いていらした。三善先生には申し訳ないが、そのシャランの和声課題を、毎週学校で学生たちに歌わせていて、彼らも同じようにうっとりする。例のカタルシスには、国境はないのである。メシアンやディティーユ、ガロワ・モンブラン、ピェイグ・ロジェ、マルセル・ビッチュなど、さまざまな和声課題を歌わせてみたが、アンリ・シャランの人気は抜きん出ていて、結局シャランばかりを歌うことになる。三善先生が見たら苦笑するだろうと思いながら。
イスラエル、ガザ地区で人道支援活動中のワールド・セントラル・キッチンの車列を砲撃。国連の職員7人を殺害。米大統領、イスラエル首相に対し、米イスラエル政策見直しの可能性を警告。

4月某日 ミラノ自宅
山田剛史さんが大阪で演奏した「君が微笑めば」の録音が届く。聴き始めると、階下にいた家人もあがってきたが、それほど、突き抜けたような、鬼気迫る名演であった。聴いていると、当時何かに引き寄せられながら作曲した感覚が甦り、その引力を司る「何か」を、山田さんがしっかり理解していることにおどろく。書いている本人が理解できずにいたものが、すっと返附されたような、欠けていたものが、すんなり嵌り込んだ様な、不思議な心地。

4月某日 ミラノ自宅
シャリーノから興奮したショートメッセージが届く。シャリーノの住むチッタ・ディ・カステッロからほど近い、サンセポルクロ村、サンタゴスティーノ教会を飾ったピエロ・デルラ・フランチェスカの名作祭壇画は、現在はリスボン、ロンドン、ニューヨーク、アメリカなどの美術館に分断されて保管されているが、500年の時を経て、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館がこれらを一堂に会し、オリジナルの複翼祭壇画の姿での公開に成功したという。この展示のための祭壇は、イタロ・ロータが設計した。こればかりは見逃せないからミラノへいくつもりだが、お前も一緒にどうかね、とのこと。確かに、これを逃せば一生後悔するかもしれない。
だしぬけに、家人が「もう、少ししか一緒にいられない」と言うので、てっきり成人した息子が早晩家を出る話をしているのかと思いきや、我々夫婦の話だというのでおどろく。彼女曰く、我々はここから思いの外早く老いてゆき、気が付けば死んでいる、ということらしい。客観的な「時間」クロノスと、主観的な「刻」カイロスが、家人の裡で自由に混在している。尤も、日々大学生や演奏家と顔を合わせていれば、こちらはさほど齢をとっていないつもりでも、相手からはすっかり老け込んで見えているはずだと理解できるようになったから、こちらもまあ似たようなものである。
そんなことを思っていると、ミラノのデ・アミ―ティス通りとコッレンテ通りの交わるあたり、パルチザン抵抗広場から息子が電話をかけてきた。突然歯が痛くなり到底我慢できないが、ミラノの見本市で道が混雑していて路面電車もタクシーも通らない、自転車で迎えにきてくれ、とのこと。
仕方ないので、自転車を漕いでパルチザン抵抗広場まで迎えにゆき、迎えに来るのに20分もかかるなんて、と文句を言われつつも彼が小学校の時のように、二人乗りで家路につく。家族全員クロノスが欠如している。
在シリア・イラン大使館攻撃への報復措置として、イランがイスラエルに向けてドローン170機、ミサイル150発の大規模攻撃実施。とんでもないことになった。

4月某日 ミラノ自宅
ドバイ国際空港に到着した友人家族が、暴風雨、冠水に見舞われ大混乱、立往生したという。最初息子からその話を聞いたとき、何を言っているのか全く意味がわからなかった。イタリアでは人工降雨が要因かとも報道されているが、果たして偽情報なのか。以前から偽情報は報道されていたが、現在真偽の見極めはより困難になった。
家人曰く、人工知能が発達して似たものが簡単に作れるから、わざわざ丁寧に基本を学ぼうとする姿勢は、最近急激に薄れているらしい。コンピュータの仕組みなど知らないが、こうして日記をコンピュータに打ち込んでいるのも、煎じ詰めれば同じかもしれない。
少しずつテクノロジーが我々の能力と知能を奪ってゆき、同時に、現実が仮想に少しずつ乗っ取られて、結局は我々の脳の電気信号だけが仮想世界で生き続けるのかもしれないし、どこかの時点で仮想世界の全プロセスが破綻して、手と足を使ってすべてを作動させなければならない時代が再び訪れるかもしれない。

4月某日 ミラノ自宅
日本公演に向けシャリーノから送られ来た文章を翻訳していた。
彼はインターネットを使っていないので、ワープロ打ちの文章を階下の文房具店でスキャンし、文房具店がこちらに送ってくる。こちらがシャリーノにメールしたい時は、文具店のメールアドレスに送ればシャリーノに届けてくれる。短い内容であれば、互いの携帯電話のショートメールで済んでしまうから、新旧混在したコミュニケーション手段ともいえる。
東京公演を前に届いた山田さんからのメールに、「作品と向かいあうということは、作曲した人間と密接に関わることと知った」とあり、なるほど、今回自分も久しぶりのシャリーノの演奏にあたり、同じ経験をしているのかもしれない。
パレスチナの国連加盟決議案採決においてイギリス、スイス棄権、アメリカが拒否権行使。イスラエルはイラン中部、イスファハーンをミサイル攻撃。

4月某日 ミラノ自宅
久しぶりに家人と二人、学校へ出かける。家人は足を痛めているが、リハビリを兼ね自転車でゆくというので、ゆっくりゆっくり自転車を漕ぐ。漕ぎ始めに股関節が痛むらしいので、出来るだけ信号で止まらないよう留意しながら、のんびりと進む。
もう10年近く前、息子の左半身麻痺が恢復したばかりのころ、用水路沿いの遊歩道を二人でゆっくりサイクリングしていた頃を思い出す。一日かけアッビアーテグラッソを通り、遠くパヴィアのベッレグアルドまで足を延ばしたことも何度もあった。
春先、咲き誇る色とりどりの花を眺め、水路に足を浸しながら二人で昼飯のパニーノを食べた。ベザーテの牧場では乳牛と戯れたものだ。将来息子の身体がどうなるか想像できなかったが、当時は彼の体力回復に必死だったから、たとえ途中で息子がへばっても、二人乗りで家まで連れて帰ればいいと思っていた。
その体力も覚悟もこちらに無くなった代わり、息子は見違えるように元気になった。彼曰く、当時を思いだそうとしても何も覚えていないという。まるで記憶がそこだけ抜けて落ちているように感じるらしい。階下で彼が変ホ長調の平均律を練習している音がきこえる。

4月某日 ミラノ自宅
ロー見本市駅から家人と連れ立ってトリノ行き急行に乗って一時間ほど、サンティアに着く。カミッラの運転する車でサルッソーラへ向かう。サン・ニコラ教会に着くと、サラと息子はリハーサルを始めたところだった。この教会はこの街に住む信者夫婦が、3年かけて教会内部を無償で塗り直したばかりだそうで、彩り鮮やかでとても美しい。
久しぶりに聴くサラのヴァイオリンは、音も深くすっかり堂に入り見事だったし、しばらく聴かないうちに息子の音も太くなっていた。ヤナーチェクの切迫感、緊張感などに耳を傾けながら、作曲していた大戦中の世情に思いを馳せる。
帰りの列車まで時間があったので、カミッラの車でロッポロ城やヴィヴェローネ湖を訪ねた。砂鉄のような黒く厚い雲が一面を覆っていて、山間に切り込んだアオスタの谷間のあたりから、一筋黄金色の陽光が差し込む超常的な光景。

4月某日 ミラノ自宅
ミラノ市から音楽、演劇、映画、語学など、一連のミラノ市立学校に対する給付金65パーセント削減を発表し大変な騒ぎになっている。新聞でも大きく記事になり、文化相をはじめ、さまざまな関係者からミラノ市へ送られた嘆願書が、学校から毎日転送されてくる。2026年ミラノ冬季オリンピックの経費捻出が直接的な理由らしいが、当然ながらミラノ市関係者は誰も言わない。今日の夕方は、スカラ座前広場、ミラノ市庁舎前で抗議集会が開かれ、学生たちや教員が多数集まった。
ガザ地区ラファへの空爆で破壊された家の話が、イタリアの新聞で大きく取り上げられている。夫と3歳の長女は死亡。妊娠30週の妻は重症だったが、お腹の赤ん坊は生存していて緊急帝王切開で取り上げられ、その後母親は死亡。この女の嬰児は、母親と同じサブリーンと名付けられた。
円安が加速して1ドル155円後半。アメリカでウクライナへの追加軍事支援予算が成立。

4月某日 ミラノ自宅
イタリアの終戦記念日、解放記念日の休日、ミラノ中心部は10万人もの人いきれに埋め尽くされ非常に危険を孕んだ一日となった。イタリア・全パルチザン協会、ユダヤ人団体、親パレスチナ団体が同時に集会を行い、親パレスチナ団体の一部がドゥオモ広場でユダヤ人団体に暴力行為におよび、逮捕される。
イタリア・全パルチザン協会によるファシズム解放記念集会、「ユダヤ人旅団」の名を冠し中高年の参加が目立った、ダビデの星を掲げるユダヤ人団体による反シオニズム糾弾集会、サングラスに黒マスクでパレスチナ国旗を掲げ、黒づくめの若者のひしめく親パレスチナ団体によるイスラエル糾弾集会。
親パレスチナの若者たちは、ユダヤ人団体を見つけると「人殺し、ファシスト」と叫び、間もなく小競り合いに発展。
今まで見えなかった分断が、見ないで済んでいた分断が、いよいよ可視化されつつあって、ユダヤ人への偏見もさることながら、常にくすぶっていた若年層の不満が、これを契機に爆発しつつあるのかもしれない。911の頃の恐ろしさをおもいだした。
親パレスチナ参加者たちは、ユダヤ人集会に混じるウクライナ人にも難癖をつけ、「お前らもう戦いに負けたんだ。後はプーチンが片付けてくれるからよ」と罵った、との新聞の報道。
率直に告白すれば怖い。何が怖いのか実体を理解できないことが、恐怖をより増大させているのかもしれない。70年安保闘争の写真を思いだしたからなのか、それ以前のユダヤ人迫害を想起させたからか、ベトナム戦争や太平洋戦争の写真が頭を過ったからなのか、今まで一緒に音楽をやってきた友人たちの目つきが変わってゆくのでは、との不安か。

4月某日 ミラノ自宅
BBCニュースによると、2月25日ブルキナファソ北部の2村落、マリ国境より20キロのノンディン村ソロ村虐殺において、56人の子供を含む少なくとも223人を、軍事政府軍が殺害したとのヒューマンライツウォッチの発表があったそうだ。14人の生存者などの証言に基づく検証の結果だという。この報道により、BBCとVOAはブルキナファソで2週間放送停止。
政府軍はまずノルディン村について、一軒ずつ訪ねて住人に外に出るように促し、男、女、子供の3グループに分けて至近距離から銃殺したのち、続いてソロ村に到着すると、なぜイスラム聖戦主義者が来訪を我々に知らせなかったのか、お前たちも同罪だと叫び、銃撃を始めた。
Covid流行の直前、ある国際作曲コンクールで審査に関わった折、一作ブルキナファソからの応募があった。素朴な作品で、結局本選に残すことができなかったが、審査員全員とても感激した。この作曲家は、果たして本国でオーケストラを聴く機会に恵まれるのだろうか、そんな議論にもなった。
今にして、改めておもう。この作曲家において、作曲する行為とは何を意味し、外国に作品を送る意味は何があったのだろうか、と。実は特に深い意味はなかったかもしれないし、全く不自由のない生活を送っているブルキナファソ人か、案外外国に出て、良い暮らしをしているブルキナファソ人かもしれない。そうであってほしい。

4月某日 ミラノ自宅
家人がミラノの日本領事館にパスポート申請に出かけたところ、初めてイタリア政府発行の身分証明書の提出を求められた。そんな話は30年近く住んで聞いたことがないけれど、最近始められた取り締まりだという。
イタリア政府発行の身分証明書にイタリア国籍と記載されていないか、つまり二重国籍や重婚を厳しく確認するようになったのは、なんでも、日本人でも悪いことをする人が大勢いるからだそうだ。
日本人口戦略会議が発表した2050年消滅可能性自治体には湯河原町も山北町も東伊豆町も含まれていて、信じられない。1ドル157円まで円安進行。ベネチアで日帰り観光客へ5ユーロの入域税試験開始。

4月某日 ミラノ自宅
町田の母が平塚に住む従兄の操さんに会いに出かけた。何十年もの間、互いに連絡先すらわからなかったから、母が操さんに会った記憶はなかったが、操さんは、母が若かったころ会ったと言っていたそうだ。数年前、茅ヶ崎に墓参の際、偶然操さん家族と出会って以来、直接の交流が続く。
互いに高齢でもあり、コロナ禍で会うことも侭ならず数年が過ぎ、漸く対面が実現した。操さんは母より数歳年上で93歳、母の父親、竹蔵さんの兄の三男坊にあたる。
母曰く、祖母テツさんは意志の強い人だったようだが、祖父の作次郎さんは、旧姓を山田といい、三橋銀蔵さんの娘テツさんの家に婿養子に入った。作次郎さんとテツさんは、9人兄弟の三男だった竹蔵さんをとても可愛がり、勉強の得意だった竹蔵さんを大学にまで通わせてくれた。竹蔵さんは家業の宮大工を手伝いながら早稲田に通った。当時、大学に通わせるというのは、大変なことだったんだよ、と操さんが説明してくれたそうだ。
鈴木万次郎さんとヨシさんの間に生まれた母の母親セツさんは、裕福な家庭に育ったそうだから、嫁ぐまで家事などする機会もなかったと思う。操さんはなぜかそんなことまで事細かに覚えていて、とにかく明るく聡明な方。母の生後わずか数日で竹蔵さんは病死してしまったが、操さんの両親が母を受入れる話もあった。「その頃は家が苦しかったから迎えてあげられなかったけれど、そうなっていれば、妹になっていたんだよ」。
ガザで瀕死の妊婦の胎内から取り出された嬰児サブリーン・ジューダ、5日間生存の後、死亡との報道。ガザで死んだシマ―のため、「悲しみにくれる女のように」による断章、変奏と再構築を書いたのが10年前の2014年。

4月某日 ミラノ自宅
朝9時から、学校で第二高等課程の学生たちの授業。今日は出席人数が少なくて、7人足らず。紅一点のピアノのエリエルはイスラエルからの留学生で、音楽を続けながら、スカラのバレエアカデミーも修了した俊英。彼女がトランペットのロレンツォやミケーレらと肩を組んで、笑顔で歌っているのを見ながら、これ以上世情が歪まないよう心の中で祈る。20年前2004年、バレンボイムのウルフ賞受賞スピーチの言葉を思い出しながら、平和を願う。
円安が進み、対ドル一時160円をつけた直後、一時間足らずで4円高騰。対ユーロでは一時171円に到達。ユーロ導入以来の最安値更新。アメリカでは週末にかけての親パレスチナの大学デモで275人逮捕。国際刑事裁判所、ネタニヤフ首相の逮捕準備との報道。週末モンツァの旧王宮で弾くことになった、息子のウェーバー2番ソナタを聴く。

(4月30日ミラノ自宅)

Ghosted(下)

イリナ・グリゴレ

駅に着く前から長年も戦っている恐怖症が発生してかなり息がし辛くなっていたが、あまりにも慣れていたせいで周りの人の誰にも気づかれない。電車から降りる支度をして落ち着くまで席に座って呼吸に集中した。息は見えないがシャボン玉の形をした、何か丸いものであると確信した。丸いものを飲み込むような感覚。中に空気が入っているが次の丸いものが口の中に届くまで空気がない状態。最近見た若手カナダ人アーティスト、Gab Boisの作品を思い出した。彼女はよく食べ物のモチーフを使うが自分の注目を集めたのはすごくシンプルな作品。普通の白黒の壁時計の針をマスキングテープで止めてある。ただそれだけ。でも考えてみれば凄いことだ。自分もあの日からマスキングテープで時間が停められたような感覚だから。      

なぜ彼女は電車で急に恐怖症になったのか、人類はいつか宇宙で暮らす時が来たら水も掬うように丸くしたまま飲むようになるけど、この飲み方はとても苦しいと思ったから。絶対に宇宙で暮らしたくない。生理の滴もまるいということだ。赤い丸い滴が宇宙ステーションの中を飛んでいるというイメージが急に美しく感じられた。それで思い出したのだ。そういうときに自然と落ち着くから、高校生の頃に読んだ2冊を出張に必ず持っていく。1冊目はマリー・カーディナルのLes Mots pour le dire (「言うコトバを見つけて」)だった。7年も原因不明の病気と闘う女性の物語。7年も生理が止まらないという生々しい病状。精神病が原因と思われていた。彼女もよくわかっている。少なくとも宇宙ではレイプする男が現れない。それは性行為が難しいからだと言われる。  

こういう女性は狂っているとみんなが思いがちだけど、女性ではなくみんなが狂っているだけ。自分だってあの日のことを一生忘れることがない。拷問のように再生される。それで、あの男性は誰だったのか、今は生きている(できれば死んでいてほしい)かどうか、人間だったと思えない時がある。幽霊のような気配。彼の感覚が彼女の子宮から出ていない、今でも。そう感じる。こびり付いている。それでいろんな男と肉体の関係を持っていればあの人が自分の子宮から出ると思ったけれど、逆に自分がもっと汚れてしまった。「ずっと一緒」と言う恋人同士の決まり文句は気持ち悪い。あの人だって、あの人の自分を触る感覚、ずっと一緒だから。

「大丈夫ですか? 終点です」と駅員の声が聞こえた時にも吐きそうになりながら、どうにか抑えて、身体感覚を取り戻した。駅から降りると、店が並んでいるところの花屋の前にジプシーの占い師がいて彼女を止めた。「奥さん、呪われている」と言われたけど自分は呪いなんて信じないから通り過ぎることにした。呪われているのもあるとしたらそれは生まれつきで、性別が分かった時点から。女性の身体で生まれて子宮がある時点から。セラピストはたまたま男性だったが何も分かってない。自分のトラウマのこと。わかっているふりをして頭を動かす。フロイドだってただの詐欺師だ。男性を嫌いになっているわけではないけど、どう接していいかわからない。彼女はもしかしたら呪いなどを信じないからこそ苦しいのかもしれない。信じたら楽なのか。男は昔から自分を物としてしか扱わない。結婚する前に妊娠中絶もあって、本の主人公と同じで、何ヶ月も生理が止まらないまま過ごした。その時の痛みはなんのためだったのか。誰の子供だったのかもわからない。悩み過ぎてまた自分の身体を傷つけた。バリバリ働く自分が苦しい。男性のようだ。長く同じ家に居られない。全ては劇のようだ。

彼女は駅前でタクシーを拾ってホテルへ向かった。運転手のお喋りは耳に入らなかった。またパニック状態となった。自分が思い出したくないことを思い出したから。何ヶ月か前に同じ場所にいたこと。そして、今日は花屋さんの前にいたジプシーの代わりにあの人が彼女を待っていた。そう、彼女には酷い癖がある。知らない人にナンパされたら、男の誘いに負けて、一晩一緒に過ごす。自分は価値がない人間だと自分に証明するため。それだけではない。あの人を探しているように、知らない人と肉体関係を持つことによって自分をレイプした人と再び会える感じがする。このメカニズムが理解できても、中毒のようで止められない。だから必ず出張先のホテルは二人用の部屋を予約する。彼女は一生、あの人の幽霊と生きるのだろうか。十分疲れたのに。あのジプシーの女性に相談すればよかったと急に考えが湧いてきた。何かヒントをくれたに違いない。タクシーの運転手はずっと喋っているのに何も聞こえない。英語で喋っても全く言葉の意味がわからない、声さえ嫌だ。男のコトバなんて前からわからない。いつからなのか、あの日からずっと。

高校性になって違うクラスの男子の家に行くようになった。毎日のように。妊娠してはいけないから、自分の身体をただの物にしていろいろやらされた。ああ。思い出したくない。ある日、彼の母親が早く仕事から帰ってきたので、急いで女友達のところへ逃げた。お風呂を使わせてくださいと真っ青な顔で言った。友達は優しいからすぐ家に入らせてもらって洗面所で顔を洗って吐いた。その後で何が起きたのか笑いながら友達に説明した。その実、彼女は笑ってなかった。自分でもなぜ笑っているのか分からなかったが笑うことしかできなかった。ただの物から人間の状態に戻るまでには時間がかかる。その繰り返しだ。自分の人生は。このループから出られない。飼っていたハムスターと金魚の死を悲しく思う、猫と小さな子供が好き。家から何日も出たくない。出たら、また性的なモノになってしまうだろうから。

タクシーがホテルの前に着いたので、支払いを済ませて降りた。運転手の声がまだ耳に響いていて、ひどく目眩がした。ちょうど降りた瞬間、ウェディングドレスを着たかわいい女性と目があった。羨ましいと思う自分がいてもっと目眩がした。こんな背の低い、かわいいらしい女性の姿には一生なれない。自分はいつも痩せていて、古臭いスタイルのワンピースしか着てない。結婚式も挙げたけど全ては演技のようだった。幸せになったことが一度もなかった。それでも自分は良い妻、良い母親であることには変わりない。料理も得意。でもあの日のことをどうしても忘れることができない。仕事から帰って、スープを作りながら考える。あの日がなかったら自分の人生はどれだけ違っていたのか考える。

「今日はお二人様ですね」とチェックインで言われた時。自分がまた二人部屋を予約していたことを思い出した。「いや今日は一人で泊まる」と答えると、若い女性スタッフは事情を想像ができるような共感しているような口調で「そうでしたか、わかりました」と答えた。部屋に着くと、潔癖症な彼女はすぐシャワー浴びて新しい服に着替えた。同じようなワンピースを何着も持っている。いつもいいホテルに泊まる理由がある。いいホテルに泊まると自殺したいと思わないから。酷い部屋だったら本当に考えるかもしれない。高校の時から父親の影響で聞いていたピンク・フロイドのWish you were here(あなたにここにいてほしい)という曲だ。

そう、自分が理解していると思っている
天国と地獄との違いを
青空と苦痛との違いを
君は緑の草原と冷たい鋼鉄の線路との違いを分かっているだろうか?
微笑みとベールに覆われた顔との違いを?
君は自分が理解していると思っているのだろうか?

彼女は歌詞をだいぶ昔から暗記して、いつも口にしていた。特に、「俺たちは金魚鉢の中を漂う二つの抜け殻の魂そのもの」というくだりが好きだった。こういう時に、時間が止まったように高校生のころに死んだ金魚を思い出す。様子がおかしいので親友を呼んで一緒に最期を見守った。瞼がない金魚は目を開けたまま死ぬ。この狂った世の中ではこの曲と2冊の本があればなんとか生きていける。ギターもこの曲のおかげで少しだけ弾けるようになった。ギターの先生にキスされるまで。またレイプされそうになったので、ギターはやめた。

今夜はどう過ごせばよいか考えてなかったが、久しぶりに一人でケーキを食べることにした。甘い物は好きではないが、ウイーンに来るたび本物のザッハトルテを食べるというちょっとした儀式をする。前回食べなかったから今日はホールで買ってホテルの部屋で食べることにした。

何ヶ月か前に同じホテルに泊まり、仕事で出会った男性と演劇を見て一緒に帰った。彼からの連絡は二度となかった。あれも幽霊のような男だった。劇を見ながら彼の息を自分が吸うような距離だった。あの時も恐怖症になって息ができなくなったが、隣が座っている彼の息を吸った。それしか覚えてない。ただ、全ての男性に言わなきゃいけないことがある。手で、指で激しく触ってほしくない。自分が絶望するほど嫌い、男の手の感覚が。そうだ、今日は一人だし自分に花を買うのだ。

彼女はホテルを出て夕方の光を浴びながら下町を歩きはじめた。近くのケーキ店でザッハトルテをホールで買って、花を買おう。今日はDemelのザッハトルテがいい。アプリコットのジャムとチョコレットの相性が良くて。もし自分の人生に味付けができたらこの味でいい。17センチのホールで注文して、きれいな木の箱に入ったザッハトルテを受けとって店を出た。たしかに近くに花屋があったはずと探し始めたとき、不思議なイメージを見た。地面に黒い服を着たすごく痩せている男性が倒れていた。

倒れているというより、彼は座って動けなかった。周りに警察官が3人いたが、彼らもただ固まって彼を見つめていた。あの男に何が起きたのか誰も想像つかないぐらい、彫刻のような固さだった。でも死んではいなかった。いったいなんで彼はウイーンの道の真ん中に座り込んで動けなくなったのか、彼女にはわからなかった。でもあの男性を何処かで見た気がする。いや、とても近くで見たことがある気がした。空から落ちたように彼があの場所に現れて、何も話さずにあそこに座って、彼女の目の前にいた。まさに、彼女の思い出からでも降りたように彼女に深い恐怖を与えた。彼女はびっくりして泣き始めた。そしてその場所を離れてホテルに逃げた。そっくりだった。確かに黒い服を着て、痩せていて、髪が長かった。全てが終わった後のあの姿勢もそっくり。座って、片方の膝の上に腕を乗せていた。何十年も前と同じ姿勢。警察官も彼を見ていたから彼女だけ見たはずではない。この男は逮捕される。

ホテルの入り口に着く。下を向くと白い羽を見つけた。その小さな羽を手に取ってエレベーターに乗った。誰かに言われたが、突然白い羽を見つけると近くに天使がいる。天使は彼女を通り過ぎて羽を落としたのか、と彼女は妄想した。急に落ち着いた。先ほどの男性が可愛そうと思い始めた。酷い苦しみの像のようだった。今まで彼女を性的なものとして扱っていた男性のことがかわいそう。

部屋に着いた瞬間に手をよく洗ってからザッハトルテの木の箱を開けて、箱の蓋の裏に貼ってあった真っ白なナプキンを何も考えずに長く望めた。綺麗だった。スプーンで一口取って食べた。気づいてなかったけどお腹が空いていた。このケーキの中のアプリコットジャムとはとても上品な味だ。チョコレートの甘さをよくおさえていて、お気に入りの酸味。彼女はもう一冊のいつも持っている本をカバンから出して読み始めた。それはサリンジャーの『フラニーとゾーイ』だった。

切れと余韻

高橋悠治

ことばで書くとき、試していないことを、つい断定して書いてしまう。でも、実験しつづけ、さまざまなやり方を試すのには、互いに矛盾した判断を書き並べておくほうがいいのではないだろうか。あれこれ迷う心をそのままに残す、それが考えの先端ではなく、痕跡として散らばっている、探る先端は鋭く細く、絶えず動き回り、痕跡は残響のように、薄く空間を彩っている。これなら動画として成り立つだろう。

音楽として聞くときは、動きまわる線とその線を包む響きの空間になる。その場合、響きは線の触れていく音の余韻かもしれないし、別な音で作られた背景かもしれない。

一筆で引く墨の線が途切れ、墨を付け直して線の続きを引くのは、失敗だろうか。長いフレーズで息が足りなくなったとき、息の最後を突いて切り、次の息で同じ音を受ける、この突きと返しという、フレーズの区切りと呼吸の間をずらすやり方で途切れる線を続けていくと、意外な起伏を含んだ長い線ができる。

ピアノの場合は、息ではなく、鍵盤による触覚と、指が隣の音にずれて、不正確な動きになるから、変化や拡散が続いていくと感じるなら、予想通りの結果や安定した図式にならない。管理された即興とか、即興とその修正というよりは、書く作業で予想しなかった発見(セレンディピティー)がないにしろ、歪みや逸れがあれば、それに従うようにする。

ここで「切れ」というのは、中断をちょっと強調するだけで、音の線を不安定にするだけのもの。安定と重みを避けて、迷い、試行錯誤の跡が見えれば、そこで中断しても構わない。

コンサートのたびに一曲作曲していたが、今はそんなわけにはいかない。サティのノートブックのように、思いつく音を書きとめておかなければ、何も思いつかなくなるような気がする。

2024年4月1日(月)

水牛だより

エアコンをつけなくても快適な4月のはじまりです。以前はエイプリルフールのこの日には、罪のない笑えるウソをつきあって楽しんだものです。いまはその楽しみを知らない人が多いようで、結婚する! とウソの宣言をした高齢の人にたくさんのマジなお祝いが寄せられているのを見て失笑しました。

「水牛のように」を2024年4月1日号に更新しました。
しばらくここに登場していない斎藤真理子さんが「編集は世界を作ること、翻訳は世界を歩くこと」とどこかに書いていたのをときどき思い出します。水牛に世界があるとすれば、それは作ったからではなく、自然に出来上がったものだと思います。出来上がったといっても、確固とした世界ではありません。寄せては返す穏やかな波のように、同じような繰り返しに見えていても、同じ波はありえない。どこかにたどりつけるかもしれないし、どこにもたどりつけないかもしれない、そんな揺れる世界なら繰り返す意味があるのかもしれません。

それではまた来月も無事に更新できますように!(八巻美恵)

マルハラ

篠原恒木

最近はいろいろな「ハラ」が登場してきてハラハラしてしまうが、ついにここまで来たかというのが、ご存知「マルハラ」だ
若者はLINEなどで句点、つまり「。」がついたフレーズを威圧的に感じるらしい
ならばどうやって文章を終わらせればいいのか、それは「!」や「絵文字」を文末に置くのがコツらしい
なぜ「。」ごときでそんなにビビるのか訳が分からないのだが、おじさんとしては「ハラスメント」と言われれば、おとなしく彼らに従うしかない しかしですね、
「電車が遅れたので遅刻します」
そうLINEで送られてきたら、
「了解です!」
と返信するのか、それとも「了解です」のあとに笑顔の絵文字、あるいは親指と人差し指でマルを作った手の絵文字を添えればいいのか、いずれにせよおれとしてはどうにも収まりが悪い 「!」をつけると積極的に肯定しているような感じがするが、そもそも遅刻はよくないことだ 肯定してどうする それに絵文字を乱発すると、ひところは「おじさん構文」と揶揄されていたではないか
「。」でそんなに恐怖感を覚えるのなら、きっと彼らは読点の「、」にも怯えているのだろう そうに違いない この場合は「テンハラ」だ したがって次からの文章はヤングなキミにも威圧感を与えることなく、句点はもちろん読点も一切使わずに書いてみようと思う

会社内でキャビネットの上に置いてある段ボール箱を取る必要があったキャビネットは二メートル以上の高さなので脚立が必要だおれは早速脚立を用意してヒョイと上り段ボール箱に手を掛けた想像以上に箱は重く両手で持ち上げたその瞬間に体のバランスが崩れた脚立の上でよろめいたおれの体は重たい段ボール箱を抱えながら落下しそのまま床に転倒してしまったしたたかに左半身を打ち付けたおれは無様にもしばらく立ち上がることができなかったようやく体を起こしたが左膝と左の脇腹から胸にかけて激痛がある間抜けなことに段ボール箱は抱えたままだった落下転倒する前にあの重たい箱さえ放り出していればこんなことにはならなかっただろうにおれは木口小平かしばらくしても左膝とアバラの激痛はおさまらないトイレに行きパンツをおろして左膝を見たら派手に擦りむいている激痛はそのせいだったのだとりあえず膝は擦過傷で済んだようだ問題は左のアバラだ時間が経過してもちょっと息を深く吸い込んだだけで飛び上がるほど痛い仕方なくおれは整形外科に行ったレントゲン撮影の結果左肋骨にヒビが入っていると医師から告げられた精神は若いままなのだが肉体は自分が思っている以上に退化しいているようだ悲しい一か月前に左大腿筋膜の肉離れを起こしたばかりなのに今度は左肋骨だよくチェックすると左肘も擦りむいて出血していた踏んだり蹴ったりではないか帰宅してツマに言うと「まったくもう気をつけてね!」と叱責された悲しい

ヤングなキミたちにもこれなら受け入れるだろう そう思って前段を読み返してみたら自分でも意味が取れない そうかLINEの短文のようにすればいいのか やり直してみよう

会社内で
キャビネットの上に置いてある
段ボール箱を取ろうとしたのね

キャビネットは二メートル以上の高さなので
脚立が必要だったわけ(ニコッ)

なので脚立を用意してヒョイと上り
段ボール箱に手を掛けたのよ

想像以上に箱は重くて
両手で持ち上げたその瞬間に
体のバランスが崩れちゃった(汗)

脚立の上でよろめいたおれの体は
重たい段ボール箱を抱えながら落下して
そのまま床に転倒してしまったwww

したたかに左半身を打ち付けたおれは
無様にもしばらく立ち上がることができなかったよ

ようやく体を起こしたけど
左膝と左の脇腹から胸にかけて激痛が(涙)

間抜けなことに段ボール箱は抱えたままだったwww

落下転倒する前に
あの重たい箱さえ放り出していれば
こんなことにはならなかっただろうに!

おれは木口小平か!(笑)

しばらくしても左膝とアバラの激痛はおさまらないわけ

トイレに行きパンツをおろして
左膝を見たら派手に擦りむいているじゃん!

激痛はそのせいだったのよ(泣)

とりあえず膝は擦過傷で済んだようだけどさ

問題は左のアバラだよ!

時間が経っても
ちょっと息を深く吸い込んだだけで
飛び上がるほど痛い‼

仕方なくおれは整形外科に行ったよ(溜息)

レントゲン撮影の結果
左肋骨にヒビが入っていると
医師から言われちゃった(テへ)

精神は若いままなんだけど
肉体は自分が思っている以上に退化しいているみたい(苦笑)

悲しい(涙)

一か月前に左大腿筋膜の肉離れを起こしたばかりなのに
今度は左肋骨だよ!

よくチェックすると左肘も擦りむいて出血していた(焦)

踏んだり蹴ったりだよねー(怒)

帰宅してツマに言うと
「まったくもう 気をつけてね!」
と怒られた(涙)

悲しい(泣)

あれ? 意外と読みやすいではないか 文末の(涙) (笑) (ニコッ) (怒) (テへ) (泣) (溜息) (焦) (苦笑)などには それにふさわしいと思われる絵文字を入れればいいのだ 「マルハラ」「テンハラ」に悩まされているヤングなキミにも これなら威圧感もなく読んでいただけるに違いない 小説もこんな感じで書けば 若者の「活字離れ」が食い止められるかもしれないな いや 問題があるぞ ページ数がやたらと多くなり 分厚くて値段の高い本になってしまう。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

アパート日記3月

吉良幸子

3/1 金
昨日は1日雨やったし、ソラちゃんは室外機の上のカゴに入って日向ぼっこ。後ろ姿は完全に露天風呂に入るおっさん。雨やったしビタミン取らなきゃね~なんて言いそう。さすがうちのアパートで一番美貌に気を使うメンバー。

3/3 日
おかぁはんが綱引きの全国大会へやって来たので応援に行った。田舎のおっちゃんらとやってて、私も高校の時一緒にやってたから大体みんな知ってる。順位はあんましやったけど、とりあえず篠山のみんなが元気そうでよかった。

3/4 月
甲賀さんの大きなパソコンがうちへ来た。私のノートパソコンがちょっと調子悪い時あるし、デザインするときに使わせてもらいつつ、甲賀さんのデータを整理しようという算段。それに加えてうちのご近所さんが籠の4段棚をご自由にどうぞ、と置いてはってもらってきた。パソコンと棚を入れると私の部屋は完全に汚部屋に変身。掃除するか!と思い立って朝から日が暮れるまで大掃除する。ソラちゃんは、また引越しか!?と心配して見に来たり、近くで寝ながら気にしてくれてた。片付いて部屋はだいぶと広くなったけど、身体は冷えるわ埃を吸うわで調子が悪なる。公子さんも朝から病院を2件はしごしてヘトヘト。ぼちぼちやりや、ということか。

3/5 火
夜に公子さんの孫、中1のななちゃんがミモザの花束を持って来てくれた。ちょっと会ってないだけで大きくなってる!!頭ひとつ分背が高くなっててびっくりした。甲賀さんが好きやったミモザがいっぱい家に来た。黄色がむっちゃきれい。

3/13 水
出稼ぎ先で必要なメニューのデザインと製本を夜中から朝までして、そのまま起きっぱなしで仕事へ行く。30過ぎたら夜なべはキツい。体力が全然戻らん。

3/15 金
出稼ぎの職場が変わって、急に朝6時前に家を出る生活になった。5時には起きるんやけど、ソラちゃんが眠たい顔して起きてきてくれる。まだ寝ててええねんで!と言うんやけど、準備してる私の横でうつらうつらしながら付き合ってくれる。ほんだら行ってくるね~と家を出たら、公子さんのとこへ、あいつシフト変わったん!?出て行くの早ない!?と、わざわざ起こしに行くらしい。

3/18 月
夢の中で一生懸命に下駄の鼻緒を選んでおった。昨日久しぶりに二枚下駄履いたからやろか。あったかくなってきて裸足で下駄履けるから嬉しい。新しい下駄ほしいなぁ。

3/20 水
体調を崩した。出稼ぎ先のリニューアルオープンに向けて無理したのと、急に朝型の生活になったのが原因やと思う。職場も底冷えがすごい。今日はもう体が動かんから途中で帰ってきた。悪寒と鼻水と喉痛と…あぁ、しんど。来週は広島行くからはよ治さな。

3/22 金
甲賀さんの命日。もう3年も経ってしもたんか。お昼下がりに孫のカイくんが、今日はじぃじの日でしょ!とアパートに来てくれた。元気いっぱいでかわいい。私はついに熱出して体調不良の真っ最中。献杯もできんとすんません、甲賀さん。

3/26 火
公子さんは今日広島へ出発。飛行機で岩国まで飛んで、そっから大龍寺という、ロゴが甲賀さんの文字のお寺へ。歌手でもある二階堂和美さんのご実家で、死んだらニカにお経あげてもらって、と甲賀さんが言うてたらしい。太呂さん一家は色々経由して、何と車でニカさんちへ。ニカさんの旦那さん、前住職のガンジーさんも急に亡くなり今年が三回忌。明日は法要と歌と落語会をする。私は明日、落語をやってくれはる古今亭始さんと一緒に岩国へ行く予定。体調もだいぶ戻った。
ソラちゃんが、なんで公子さんおらへんねん!とうろうろしとる。明日の夜には帰ってきはるから、今日は私と留守番や!とおしりをぽんぽんしながら寝た。

3/27 水
朝7時前に新宿に集合して、羽田から始さんと岩国へ。岩国行く飛行機って意外に混んでるんやね。岩国から大龍寺まで乗ったタクシーの運ちゃんが、飛行機の本数少ないからドル箱ですわ!と言うておった。
着いたらこどもも大人もいっぱい!賑やかであったかい法要やった。おつとめでピアノ伴奏が入ってるのって初めてで、ピアノが入るとすごく感じ良くてびっくりした。ニカさんは泣きながら歌って、その後公子さんがトークショーに出演。檀家さんたちが楽しそうに聞いてはった。そして最後に落語会。こどもたちが最前列に座って、キラキラした目で楽しそう。檀家のおばちゃんたちも腹の底から笑って落語会は大盛況やった。落語初めて生で見た方が多くて、すんごく楽しそうにしてはるのを見れて嬉しかった。
法要が終わってごはんをいただく。そして公子さんと始さんは東京へ飛行機でとんぼ返り。私は汽車で実家へ帰った。真っ暗な中、全く知らん駅をどんどん進む。ほんまに広島まで行くんかと不安やったけど、無事着いて新大阪まで新幹線、そして実家の方へまた鈍行列車。むちゃくちゃ久しぶりに福知山線に乗ったけど、東京と比べると人も少なくてのんびりしててええ。途中の駅までおかあはんが車で来てくれて実家までたどり着いた。それにしてもさぶい。さすが篠山や。寝ようと思ったけど、テレビ録画してるの見たら米朝さんの「たちぎれ線香」の映像がある!これは観ないかん!と結局夜中まで録画の落語を観た。ええなぁ、上方落語が普通にテレビでやっとる…なんて贅沢なんやろ。

3/28 木
せっかく関西まで来たんやし寄席へ行かんと勿体無い。ということで、おかあはんと大阪の此花千鳥亭へ行った。桂あさ吉さんは「時うどん」。私が上方の落語会行くと大体ひとりは時うどんしはる。笑福亭純瓶さんが「鹿政談」で桂文華さんが「景清」。上方の噺で聴いたことないやつをふたつも聴けてむっちゃ嬉しい。景清なんか笛と太鼓入って、寄席で鳴り物入るなんてめちゃめちゃ贅沢やな!!と思った。寄席が終わって千鳥温泉へ。暖簾の文字が甲賀さんで、手描きのタイル広告がある最高な銭湯。番台に座る店主の桂さんが甲賀さんの大ファンで、風呂から上がって喋った。千鳥橋って寄席も銭湯もあって、近くの商店街に色んなお店あるし、大阪で住むんやったらここほんまに最高やん!と実感した。

3/29 金
今日は東京へ戻る日。お昼過ぎに新大阪から新幹線に乗った。東京着いたら人の多さが全然違ってびっくり。家着いたらソラちゃんがお出迎えしてくれた。実家の猫が真っ黒で筋肉質のでっかい猫やし、ソラちゃんが小さく感じた。

3/30 土
体調不良でむっちゃ休んだから1週間以上ぶりに出稼ぎへ。一緒に働くおばちゃんがむっちゃ心配してくれてはった。仕事終わりに用事があって元の職場・銀座へ寄る。もう3週間ぶりくらい。ちょっと顔出すくらいのつもりが、みんながなんじゃかんじゃと話してきて夜までおった。久しぶりにみんなに会って話せてよかった。

拒否する勇気

さとうまき

春がやってきたというのに、気分が晴れない。その要因の一つにガザの惨状がある。もう半年になるのに、イスラエルは、戦争を続けている。僕たちはヒステリックにパレスチナに連帯し、
「今こそ停戦、パレスチナを解放せよ!」と叫ぶ。でもその声はどこにとどくのか?

フォトジャーナリストの森佑一さんは、イスラエルの人質解放のデモを取材した際、彼らには、ガザの人々のことなど眼中になく、身近な人のことしか考えていないことに理解を示しながら、平和構築の道を探らなければいけないと発信していた。

“SNS上で「パレスチナに関心を持たない人は非人道的だ」とか「パレスチナのことに沈黙している人は虐殺に加担しているのと同じだ」いったことを発信する人を散見するのですが、そんなことを言うこと事態ナンセンスだなと思ってしまいます”という。ナンセンスという言葉にひっかかった人は数人いたが炎上するまでには至らなかった

森さんは、昨年12月から今年2月までイスラエル・パレスチナに滞在。特にイスラエル側の平和運動に注目して取材したそうだ。暴走するイスラエルを止めるには、イスラエルの良心しかない。そこにどう寄り添えるのか森さんの見たイスラエルを紹介する会を設けることにした。4月6日 ポレポレ坐➡https://ispale-240406.peatix.com/

僕はというと、先日、高校でガザの話を頼まれた。「なぜ、ホロコーストを経験したイスラエルがここまでやるのか?」という疑問が高校生の中にもあるという。そこで、イスラエルの人達がどう考えているのか、森さんの記事も参考にしていろいろ調べてみた。

ヌリット・ペレド教授は、テルアビブ大学で、イスラエルの教科書でパレスチナがどのように描かれているのかを研究している。1948年のイスラエルの建国は、ユダヤ民族にとって輝かしい歴史であるが、その一方で70万人以上のパレスチナ人が難民となった。難民は結果ではなくて、パレスチナ人を難民として追い出すことで、ユダヤ人が大多数を占めるユダヤ人国家が建国できたのである。「民なき土地を、土地無き民へ」というシオニズム運動が正しかったことを教えるのがイスラエルの教育だ。つまり、イスラエルの教育の中にはパレスチナ人が存在しないのである。

ヌリットはゆがめられたイスラエルの教育を強く批判している。「学校の教科書は、イスラエルのパレスチナ領土占領政策を実施するために18歳で軍隊に入隊する少年を対象としている」。つまり、軍隊に行かないという価値観は教育からは生まれてこないということである。

1997年、私が初めてパレスチナで暮らし始めた時、立て続けにハマスの自爆テロがあった。その一つが、ベン・イヤフダ通りのカフェで起きたもので、現場を通りかかると、イスラエル警察が壁にへばりついた肉片を、DNA鑑定か何かに使うのだろう、ピンセットで採取していた。そのわきで、ユダヤ人たちが大声で論争をしていた。その時に亡くなった13歳の少女が、サマドールでヌリットの娘だった。当時の新聞から抜粋したものを「いのちってなんだろう」コモンズに書いた。

ヌリットは、「私はテロリストを憎むことはしません。イスラエルの政策がテロを生んでいるのです。娘はそうしたイスラエルの政策の犠牲者です。構造的にこの問題に取り組むべきです」と語っていた。そして、イスラエル・パレスチナ双方の犠牲者の家族に声をかけて、遺族会を作り、復讐ではなく、構造を変えていく活動を広めている。

ヌリットの父はマティ・ペレド将軍だ。イスラエルの独立戦争を戦い、1967年の第三次中東戦争では、先制攻撃を進言した立役者である。いわば、パレスチナ問題の根源を作り出した人物である。確かにパレスチナ問題をさかのぼれば、イギリスの3枚舌外交あたりから始めるのが妥当なのだろうが、もはや、イスラエルの問題は、占領だとしたら、このペレド将軍の功罪は大きい。しかしタカ派の軍人は、西岸ガザへの侵攻は、軍事的脅威に対抗するための純粋な軍事作戦として考えていた。イスラエルが占領した領土をその後何十年も占領し続けることや、併合・占領を目的とした入植地を設立することになるとは全く考えていなかった、と繰り返し、占領政策に激しく反対し、極左といわれるまでの平和活動家、政治家に代わっていた。アラビア語も学びヘブライ大学にアラブ文学科を創設したのも彼の偉業である。PLOとの対話もオスロ以前から言い続けていた。ヌリットは、このように本人が当事者としてイスラエルを変えようと尽力している。

兵役を拒否する勇敢な若者たちもいる。イスラエルは良心的徴役拒否が法律で認められている。しかし、パレスチナ人への暴力が嫌だからという理由は認められない。パレスチナの人権を奪ってイスラエルを守る事は良心そのものであり、それが嫌なら刑務所に入ってもらうということになる。またイスラエル軍は、兵役中に高等教育も受けられ、身に着けた技術で起業する人たちも少なくない。国が彼らに優遇的な融資をする。そんなにメリットの多い軍役を拒む若者はごく少数である。

徴兵拒否という映画は、イスラエルの高校生アタルヤが周囲から孤立しながらも、占領政策に疑問を抱き徴兵を拒否するに至る心の葛藤を表している。徴兵拒否者を支え、占領を終わらせようというNGOの存在も紹介していた。https://www.youtube.com/watch?v=GpdKhsUZow4
同じ世代の日本の高校生に紹介したいと思い、改めて映画をみて、僕自身も勇気づけられた。

ガザ戦争が始まって兵役を拒否する高校生はまだ数人しかいない。それはイスラエルが行ってきた教育のせいだ。これだけガザでひどいことが起きても、パレスチナ人を無視して、自分たちのストーリーを作っていく。軍のオペレーションを何らためらうことなく受け入れる教育がなされてきているのだ。

ヌリットはいう。「イスラエルの子どもたちは、従うことだけを教わった。”拒否する”ことを教わっていないのです。だから、”拒否する”ことを教えていかないといけません」
ガザの惨状ばかりが報道されるが、パレスチナ人の人権のために闘っているユダヤ人もいる。そのことがまだ、人間に可能性を感じる。そして他のユダヤ人も変って行けるのではないか。

日本でも同じだ。同調圧力はいじめにつながる。たとえ周囲と浮いてしまっても正しいことをつらぬく勇気を持ちたいし、そういう子たちを支えるシステムが必要だ。これからの世界は若者がつくっていくのだ。

キオクの匂い

笠井瑞丈

よく幼少期に過ごした
ドイツの事を思い出す

自分の最初のキオクとして
ハッキリと覚えているのが
ドイツからなのかもしれない

深夜目を閉じる
浅い眠りにつく
頭の中に遠い
キオクの匂い

春の草の匂い
夏の木の匂い
秋の空の匂い
冬の雪の匂い

色々な匂いとキオクが結びつく
不思議なもで匂いというは
キオクと繋がっているのだ

キオクというのは匂いであり
匂いというのはキオクなのだ

森の葉っぱや草の匂い
市電の座席の皮の匂い
雪降る町の寂しい匂い
クリスマの蝋燭の匂い

家の窓から外を眺めると
トウモロコシ畑が強風で
荒波のように揺れている
遠くまで続く雲の塊たち
それをずっと眺めていた

市場で買い物のレジの列にならぶ
前に並んでいたおじさんの足元に
カラフルな三色のアイスを落とす
灰色のスーツズボンの裾に落ちる
ストロベリーバニラチョコレート

市電で寝過ごして最終駅に
未知の世界に迷い込む
そこから出られない絶望
困りはてた僕を見て
知らないおばあさんが
家まで送ってくれた
二人で歩いた陽の差す道
長く伸びる二つの影が
アスファルトの上を
ゆらゆらと揺れている

初めて行くミュンヘン
あの大きなスタジアム
博物館にあった潜水艦
喫茶店で飲んだココア
窓から覗く町の景色
暗くなった町の街灯
全てが初めて見たものに思えた

森から眺める遠くの街の光
あそこには何があるのだろうか
きっと違う世界がそこにはある
夜空を眺めて遠い星を見ている
たどり着く事の出来ない星
そんな場所を想像してみる

生活
生きる
あの時は
全ての時間が
想像に溢れていた
幼少期の思い出だ

きっと何かに守られて
夢の世界に住んでいた

今はそう思う

夢の中で起きた夢の中の出来事
残っているのは匂いという記憶だけ

浅い眠り
から







朝の陽が窓から射す
庭の桜が咲いてきた

チャボ達も変わらず仲良しだ



製本かい摘みましては(186)

四釜裕子

正面に窓、窓辺に花。窓は大きく外に開いて海鳥が2羽飛んでいる。窓に向いた椅子に男が腰掛けていて、左手で本を広げて読んでいる。右手にタバコ、飲みかけの紅茶。花瓶が窓枠の外に描かれているからか、浜辺にそのままつながっているようで不安定だ。部屋は半地下かもしれない――実はこれは野村悠里さんの『或る英国俳優の書棚』(水声社 2023)で見た蔵書票にある絵だ。野村さんは製本・ルリユール・装幀の専門家で、前著に『書物と製本術――ルリユール/綴じの文化史』(みすず書房 2017)がある。400年前に出版されたイタリア史の英訳本の、マーブル紙の見返しにこの蔵書票を見つけたそうだ。絵の上には「誰も死ぬまで幸福ではない」、下には「セシル・F・クロフトンの蔵書」の文字。その名前を頼りに野村さんはかつての所有者探しに英国に向かう。『或る英国俳優の書棚』はいわばその探偵記だ。

その人はセシル・フレデリック・クロフトン(1859-1935)という元俳優で、俳優業を30代で引退していた。その後アンティーク・ショップを経営するなどしたようだが、手のひらサイズの本を集め続けて1932年に500冊をロンドン大学に寄贈している。自ら「リトル・ブック」と呼んだ小型本の大きさはおよそ縦12cm×横8cm。対象にしたのはイギリスやフランスで16世紀から19世紀に出版された古典や近世期のテキストで、アンティークの革装本を好んで集めた。見た感じは18世紀後半以降にまず女性たちの間で流行った「ポケット・ブック」に似ているそうだ。マナーや占星術や詩句が印刷され、19世紀になると革のカバーをつけて持ち歩く人が増えたという。

リトル・ブックというのはチャップブックの超豪華版みたいにとらえればいいのかなと思ったが、〈庶民の読み書きの普及を伝えるチャップブックのような廉価本でもなければ、ましてやテキストは初版本ではない。古典文学、小説、詩集、随筆等を再版したものの小型本〉だという。『或る英国俳優の書棚』にはロンドン大学に寄贈されたリトル・ブックのカラー写真もたくさんあって、これを見ると特別豪華な装幀ではない。とはいえ革装だしサイズが小さいともなると趣味性が高いのかなと思ったが、〈革装本としては、リトル・ブックは造本も装飾も一流とはいえない、個性派の脇役者のような装い〉で、〈名の知れた職人による装幀であれば、美術工芸品としてミュージアムに寄贈することもできたかもしれない〉けれどそうではなく、〈ある一定の階層にとっては日用品にしかすぎない類の本〉というのだ。実際、クロフトンはそれをよく読んでいたようで、〈舞台衣装の一部と思われるピンクや黄色の羽毛の飾りが、ふわふわと挟まっている本もある。外に行くときや地方ツアーに出かけるときは、小ぶりのシェイクスピアの本を持参することもあったのかもしれない〉と野村さんは書いておられる。

一定の階層にとって日用品にしかすぎない類の、というのがつかめない。アン王女をモデルにした映画『女王陛下のお気に入り』の中でエマ・ストーンがオフの日に馬で出かけて木陰で本を読むシーンがあったけど、ああいうときに持っていく感じなのかな。と思い見なおしてみたがよくわからなかった。投げ出したあの本は拾ったんだろうか。後にレイチェル・ワイズに「盗んだわね」と迫られたドライデンの詩集がこれだったりして。レイチェルの巨大な本棚はいろいろなサイズの革装本でぎっしりだった。暗闇に浮かぶ背や帳簿の表紙やエマが自分の顔を殴るのに使った本の小口の金箔がキラキラだった。エマがオーバースカートを前中央から左右にめくり上げたようなたわみに隠していた”毒”をレイチェルの紅茶に入れていたけど、そもそもあそこはポケットとして使う場所なんだろうか。別のシーンではエマがブランデーか何か飲みながら片手をそこに突っ込んでいて、そのふてくされぶりもよかった。常に本物の分解からスタートする衣装標本家・長谷川彰良さんなら、この映画の”ポケット”をどう解説されるだろう。

『或る英国俳優の書棚』は、クロフトンのコレクションの分解解説書と言ってもいいかもしれない。野村さんはロンドン大学に寄贈されたコレクションの調査結果を「書棚」と題した一連のコラムで俯瞰して、その意義を検証している。中で特に「本を綴じること」という章立てが2つあり、クロフトンの友人でジャーナリストのフランク・ハードのエッセー「本を綴じること」も紹介している。『ガールズ・オウン・ペーパー』(1897年)に寄せられたもので、個人で営む製本工房で見た作業工程なども詳しく記している。『ガールズ・オウン・ペーパー』は女性のための教養や職業などを紹介する1880年創刊の週刊誌で、1部1ペニーで売られていたそうだ。他にフランク・ハードは、美しい本の文化の中心はずっとフランスにあり、イギリスには製本職人が少ない、というようなことも書いている。

このあたりを野村さんの記述から補ってみる。フランスでは17世紀に王令によって書籍販売と製本の兼業が禁止され、〈国王の庇護のもとに高度な金箔押しとその治世を代表する装幀様式が発展〉したために、〈革装幀の歴史は王室製本師とともに語られてきた〉が、イギリスでは〈まさにアノニマスでその歴史は曖昧〉。したがって〈金箔押しの歴史を取り上げようとすると、多くはフランスの装幀様式を説明するところからはじまっている〉。しかし19世紀末になるとフランスでは画家や版画家との協働で表紙を飾るような試みが増え、一方イギリスでは技術的にはフランスの伝統を踏襲するものの、〈高度に発達したクロス装の方に、そうした具象的な表現が次々と取り入れられていった〉。1820年代以降はクロス装が普及して徐々に機械化が進んだというから、クロフトンのコレクションは〈そのはざまの手仕事の変化を伝える資料群〉になっていて、さらにフランス革命前後の出版物を含んでいることもこのコレクションをユニークなものにしているのだそうだ。

野村さんはクロフトンの人物像にもせまった。コレクションの1冊ずつの紙や革・箔などの素材のこと、製本や装幀の技術やデザインのこと、版元や書店・流通のこと、働き方のこと、所有者変遷にまつわること等々が、どんな時代背景のもとでクロフトンの生涯にクロスしたのかを書いている。人となりを調べるにあたっては、クロフトン自作のスクラップブックが大いに参考になったそうだ。細かくジャンル分けしてこれまた大量に作り続けていたようで、ロンドン大学やブリストル大学などに4冊だけ残っているそうだ。クロフトンは、公爵家の私生児という出自を隠していたのではないかと野村さんは推測している。小さい革装本を好んだ理由については、〈家柄に気兼ねなく、群衆にまぎれこむためのツールだったようにも思える〉。匿名で座礁事故を記録してライフ・セービンングの重要性を説いたり、アンティークを寄贈したり慈善活動をさまざましていたのは、〈ノブレス・オブリージュを果たしていたとも考えられる〉。

さらに蔵書票の絵の元になったと思われる自室の写真や風景画もつきとめていて、「誰も死ぬまで幸福ではない」という格言にも触れている。ヘロドトスの『歴史』に出てくるソロンの言葉だそうで、ソロンは「世界で一番幸福なのは誰か」と王に問われたときに、王の名前ではなく一庶民の名前を示したのだそうだ。私はこの絵について、冒頭で「部屋は半地下かもしれない」と言ったけれども、事情はわからぬが案外そう思ってもいいのかも。窓辺の花をクロフトンが外の”世間”へ手向けたものだと考えてみるならば、当時の世間からおよそ100年後の世間にいる私はその花越しにクロフトンをのぞいているようなものだろう。その部屋は浜辺にひそむ穴ぐらかポケットか。ズボンのポケットのすみにいつか拾った貝の破片が糸くずやほこりにまみれて固まっているのをしつこくまさぐるようにして、誰も認識できないアンタッチャブルな幸福をのぞき見る。

今年1月に刊行された羽良多平吉さんの『断章集 二角形』(港の人)の判型は、編集した郡淳一郎によると「芸大生の頃、右のポッケに岩波文庫の『地獄の季節』、左のポッケにピー缶だったんだ」という羽良多さんの言葉からおよそ縦18cm×横11cmに決めたという。東京での刊行記念トークイベントで話されたようだが、予約したのに行けなくなってしまったのが残念だった。実物を手にするまで、大きな本と思い込んでいたのはなぜだろう。そしてこの本は”別名 Pocketful of Rainbows”、というのも郡さんのXで見た。 ♪ポケットにいっぱい虹をつめて……愛・愛・愛・愛~♪  YMOが歌う「Pocketful of Rainbows」がプレスリーのカバーと知ったのはだいぶ後のことだった。本でも毒でも貝でも虹でも幸福でも、ポケットとは離れがたきものの隠し場所であり住処である。

かなへび

植松眞人

 まだ学校に上がる前、正人はとかげを殺してしまったことがある。見つけたとかげを逃さないようにと勢い込んで掴みにいき、自分の手のひらで圧してしまったのだった。あの時の手の感触はいまでも残っているのだが、それでも正人はとかげが好きだった。虹色に光るぬめっとした体が良かった。
 今日も学校から帰ると、家の中にランドセルを放り込み、草っ原へ向かった。とかげを捕まえようと草っ原に駆け込むと、すでに自分より年かさの近所の子どもたちが集まっていて、缶けりをして遊んでいた。一番年上が小学校六年生、一番チビが正人と同じ小学校二年生だった。何日か前、かくれんぼの最中に一番年上の子のズルを言い立てたことがあり、その次の日から正人は遊びに誘われなくなった。
 勢い余って狭い路地から草っ原へと飛び出したので、近所の子が五人ほど遊んでいる真ん中へ飛び出してしまった。缶を蹴ろうとしていた隣の家の子は、誘わなかった正人が突然現れたからとても驚いた。驚いて、缶を蹴るタイミングを逸して、足を缶の上に滑らせ、そのままもんどり返った。
「お前がびっくりさせるから、やろ」
 と一番年上の子が言った。
 その声に押されるように、その場にいた全員が正人を非難がましい視線でぐいっと睨みつけた。唯一、草っ原に横たわってしまった子だけが、恥ずかしそうに視線を落としていた。
 一瞬、その子と目があったような気がするのだが、目が合ったことが余計に恥ずかしいのか、相手も頑なだ。もう二度と顔を上げようとしない。缶はその子の体の下にあるので、みんなも缶けりを続けることもできず、かといって正人に殴りかかるほどの理由も勢いもない。正人が草っ原に飛び出してきたときのまま、近所の子どもたちがただじっと動けなくなってしまっていた。
 その時、草っ原に横たわっていた子が声を上げた。
「とかげや!」
 そういうと、みんなが一斉にその子が指差した方へわらわらと集まった。
「とかげはもっときれいやろ」
 六年生が言うと、みんなが正人を見た。正人は理科の先生から「お前は虫博士やなあ」と言われるくらいに理科が得意だった。特に昆虫や小動物に詳しく、みんなが採ってきた虫の名前がわからなければ、正人のところに持ってきて名前を聞いたりするほどだった。
 正人はみんなの視線の先にあった小さくすばしっこく動く動物をじっと見つめながら、「かなへびや」とつぶやいた。
「そうや、かなへびや」
 六年生が言うと、他の学年の子どもたちも同じように、「かなへびや、かなへびや」と声をあげた。声に驚いたのか、かなへびは草と草の間を縫うように逃げていく。正人はしばらくの間、逃げるかなへびを視線で追いかける。
「ぼくな、かなへびの茶色の体がかっこええと思うねん」
 正人がそう言うと、みんなも口々に、かっこええとか、早いなあとか、言い出し、なんとなく周辺の草を足でザクザクと触り、かなへびを草の間から追い立てようとしたのだが、かなへびはもう二度と出てこなかった。その代わり、驚いて倒れていた子は、すっかり立ち上がっていて、正人はかなへびという名前を知っていたおかげで、みんなとの距離を詰めていた。
 助かった、と思った正人は、用心深くみんなのあとをついて、草っ原をいちばん後ろから横切っていく。(了)

仙台ネイティブのつぶやき(93)種まく人になる

西大立目祥子

あ、源一郎さんだ。夕方のテレビのニュースを見ていたら、「その土地で暮らしを立て直してきた、という人を訪ねました」というナレーションとともに、旧知のメガネ顔が映し出された。
源一郎さんのもとを訪ねたのは、先ごろ出版され話題になっている『戦争語彙集』の著者で、ウクライナの詩人・オスタップ・スリヴィンスキーさん。仙台では日本語訳を手掛けたロバート・キャンベルさん、哲学者の鷲田清一さんの3人のトークが1月に行われていた。私はまだ読んでおらず、トークにも行けなかったのだけれど、「ウクライナの詩人、仙台へ」というニュースタイトルを見てつけたテレビは、スリヴィンスキーさんが大津波で流された地域を訪ね、喪失からどのように歩んできたかを問いかけながら祖国の復興を考える小さなドキュメンタリーに仕上がっていた。

東日本大震災では仙台の沿岸部にも約7メートルもの津波が押し寄せ、900人を超える人が命を落とした。源一郎さんの暮らす新浜も、ほとんどの家が津波で倒壊し60名近くが亡くなっている。源一郎さん自身も住まいと家族を失った。それでも、家を立て直し、親が残した畑を耕し米をつくってきた。
土地の再生と並行して、震災後、小説を書き始めた。作家の佐伯一麦さんを講師に活動をする「麦の会」のメンバーとして同人誌『麦笛』に短編を発表している。「前から書いてみたいと思っていた」と話すのだけれど、あまりに激烈なつらい体験を経験化するには、言葉で乗り越えるしかなかったのだと思う。テレビでは、国土が戦地となった遠くウクライナの詩人と、いつもとまったく変わらず訥々と少しぶっきらぼうに話す姿が印象に残った。

震災当時、源一郎さんは仙台市八木山動物園の園長という要職にあり、家族の安否を確認するために自宅へ車を走らせたものの、被災した沿岸部は瓦礫にはばまれて車を降りて徒歩で近づくほかなかったという。たどりつけば、地区が丸ごと瓦礫に変わり果てた悲惨な風景が広がっていた。

職場である動物園もまた大変な混乱で、餌不足から倒れる動物も出始めた。大型動物から小動物まで、数百頭の動物の餌の確保と生命維持のために、職員の多くが園に寝泊まりする数カ月だったのではないか。この3月の13年前の震災を振り返る地元紙の記事には、人気のチンパンジー「チャチャ」は低血糖から意識不明となり、カバの「カポ」は温水確保ができなくなって歩けなくなった、とあった。石油ストープを焚くそばで点滴チューブにつながれ横たわるチャチャの姿が痛々しい。

公私ともに修羅場としかいいようのない時間を過ごしながら、源一郎さんはいち早く家を再建し受け継いだ田畑を耕し始めたのだった。源一郎さんだけでなく、新浜の人たちはこの地に住み続けたいと仙台市に陳情し、今後住宅の再建ができない災害危険地区にしようとした行政の判断をくつがえした。海に近い、決して耕作に有利とはいえない土地にへばりつくように暮らしてきた地域の向こうっ気の強さがあるのかもしれない。

2013年の秋、源一郎さんに案内をたのみ周辺を歩いたことがある。海からわずか1.3キロほどの距離にある新浜は、海風や高潮を防ぐために長年にわたって松の植林を続け、それは戦時下をまたいで戦後も続けられた。その完了を祝う「愛林碑」が流されずに残ったという話を聞き、見たいといったのが発端だった。ゴム長をはき軍手をはめ源一郎さんの後ろを内陸側から歩き始めたのだが、横倒しになった松の大木が折れ重なり、その上を乗り越えて進めば、津波の残骸のような池にはばまれてしまう。どこまでも累々と横たわる松の倒木に、私は軽々しく見たいなどといったことを後悔していた。でも源一郎さんはどんどん前に行くばかり。どのぐらいの時間がたったのか、大木の墓場のようなところをくぐり抜けた先の藪の中に、愛林碑は台座からもぎとられ20メートルも押し流されて仰向けに倒れていた。幸い、石は割れていなかった。白い軍手で源一郎さんが泥をぬぐった先から、刻まれた碑文をノートに写し取った。

ずいぶんとあとになって、よくあんな大変なとこ歩いたよね、といわれた。そして、あれで石碑が新浜にとって大事だっていうのがわかったんだ、ともいわれた。源一郎さんは含羞の人というのか、めったに心情を吐露したりしない。へぇ、こんな本音を口にする人なんだ、と受け止めたが、その後、松林の再生をめざし植林が進んだ浜に、愛林碑が立て直されたと知ったときはうれしかった。これまた源一郎さんのあとについて石碑を見に行くと、碑は想像以上の大きさなのだった。

『麦笛』(16号)に掲載されている短編「男といきものたち」には、源一郎さん本人と思われる男と、家のまわりに出没する動物たちが描かれる。死んだままいつまでも放置された犬、烏についばまれようとする灰色の死んだ狐、足を怪我している雉…。動物たちはあやういところで命を保ち、何かの拍子にあっけなく死んでいく。倉庫に入り込んだ鼠を箒で追い出そうとして、男は鼠を殺してしまう。動かなくなった鼠に後味の悪さを感じた男は翌朝、見るに見かねて鼠を木の根元に埋める。そういう話だ。死んだ動物の向こうに、津波で死んでいった人の存在が浮かび上がる。

震災は、生きているものたちを冷酷に、生き残ったものとあの世にわたったものに分けた。親と兄弟は亡くなった。会えばあいさつをかわしていた地区内の人は60人がごっそりといなくなった。カバのカポとチンパンジーのチャチャは命を拾った。なぜじぶんは生き残ったのかを繰り返しじぶんに問う毎日だっただろう。
源一郎さんが何気なくもらした、「象のトシコと話をしていた」というひと言が思い出されてくる。「トシコ」はインド象で国内でも指折りの高齢だったのだが、震災を生き延び、翌年夏に死んだ。大地震と大津波にもみくちゃにされる中で動物と人の境界は薄れ、この世に残った者同士としての結束は強くなる。象舎の前に立って、源一郎さんはトシコに向かい、どうやって生きて行けばいいのだ、と問いかけたはずだ。動物は無垢な存在として人のまっすぐな言葉を受け止める。

定年退職して野作業に力を入れるようになった源一郎さんの畑には、友人知人が集うようになった。スリヴィンスキーさんを案内した小麦畑には、種まきからひと月がたってやわらかな緑色の芽が風に揺れている。みんなでつくった畑だ。津波による塩の影響をたずねられると、「雨が降り時間とともに抜けていった。週末農業を楽しみながら行うのも復興です」と答えていた。

源一郎さんとテーブルを囲んで向かいあったスリヴィンスキーさんがたずねる。
「震災のあと、自分にとって重要になった言葉はありますか?」
すると、源一郎さんはこう答えるのだ。
「種まく人になる、というかそういう人じゃないですかね」と。

モニターに向かい、えっカッコよすぎだよ、とつい声に出してしまったのだが、この「種まく人になる」という言葉で、源一郎さんのこの13年の時間がすーっと胸の奥底に降りてきた気がした。畑も田んぼも徹底して無農薬栽培にこだわるのもわかった気がした。源一郎さんは、稲にも農薬は一切使わず、津波で絶滅しかかったこの地域固有のメダカを田植えのあと田んぼに放ち、稲刈りの落水のときに回収して池に戻すという面倒なことを繰り返し、メダカの再生までを視野に入れた米づくりを実践している。種をまくことは土地の再生であり、生きものの復活であり、大きな循環の中に暮らしをよみがえらせること。何よりあきらめずに明日に希望をつなぐことなのだ。

源一郎さんに久しぶりに電話をして、カッコよすぎです、と伝えると、これまで書いた9篇を1冊に編んだと聞かされた。タイトルは、以前「山新文学賞」の準入選した作品からとった『風は海から吹いてくる』。さっそく送っていただくことにした。今年は源一郎さんの「仙台メダカ米」も久しぶりに食べることにしよう。

東北モノローグ

若松恵子

3月11日が近づいた頃、いとうせいこうの新刊『東北モノローグ』(河出書房新社)を本屋でみつけた。この作品の前に『福島モノローグ』が出ていたというのだが、知らなかった。東日本大震災から13年、すっかり忘れてしまっていた大災害を久しぶりに思い出すことになった。

「モノローグ」というのは、ひとりで語ることだ。東日本大震災での様々な経験が、インタビューを受けて答える形ではなく、文字に書き起こす形でもなく、ひとり語りの形で記されている。この形式をとった事には意味がある。いとうせいこうは、「まえがき」でこう語っている。「あちこちを回って人の話に耳を傾けてはそれを一人語りの文に直し」この本には17人の声が再現されているが、「けれど取材対象の方々それぞれの、そのひとつひとつの記憶の引き出しの中に、もっと多くの人々の声がわんわんと鳴っているのは、読んでいただければすぐにわかるだろう。」と。「あの災害の夜に取材対象に直接話しかけてきた人々、遠くで誰かに何か叫んでいた人、実際に聞こえはしなかったけれどきっとそう言いたかったに違いないと思われる声、災害が起こるずっと以前に共通して語られていたこと、厳しかったり優しかったりそれこそ無数の種類の声はあり、その分だけモノローグがあるはずなのだけれど、聞き手の私はたった一人しかいないので残念ながらすべてを再現することができない。だからそれは読み手の白日夢に出てくるといいのではないか。」と。

直接経験していない人が、経験者の声を聴くのは何のためなのか。「そもそも生きている時間は(生き残っている時間は、と踏み込んだ表現をしようか)、そのような見知らぬ人の声を知らぬ間に聞いてしまうことで複雑に成り立つように思うから。」「ここにあるモノローグはすべて、そのような多数の声の交じり合いの中で響いています。」と、いとうせいこうは書く。

事実を正確に伝えることなど人間にはできない。3月11日に起こったことは、人の経験の数だけあるのだ。そして、経験の記録の方法として、ひとり語りを選んだことは正解だったと思う。かつて、小説『想像ラジオ』のなかで、電気が無くても人は想像によって頭の中に音楽を鳴らすことができるのだ、想像する力によって死者が語る声を聴くことができるのだと発見していた、いとうせいこうの、これも大きな発見なのだと思う。

最初に、震災の語り部の活動をしている大学生が登場する。彼女は津波を見ていない。「当事者のなかでも当事者性は低いと自分は思ってて。つまり自分よりつらい思いをした人もいるなかで、なぜ自分が伝えてるのかということに葛藤も感じていて。そんななか、語り部にはなれないけれど、語り手になれるという考えが今出てきてて。」と彼女は語る。「語り部は経験をした人ですね。だけど語り手は、わかりやすく言うと、戦争を経験していない高校生とかも今語り始めているんです。そういう人たちは語り手、そういう分類になるのかなと思うんですけど。」と。

「語り部」が死んだ後も風化しないように、またその地域から離れた地域の人たちにも伝えていくために「語り手」が必要なのだと彼女は考える。この最初の章は、まさにこの本の役割を語っているな、と思った。理不尽な自然災害に遭遇した時に、人はどのような行動を取るのか、次に災害に見舞われるかもしれない人のために語り残しておく。その思いによって語る人たちの言葉を、夢中になって読んだ。

最期の言葉

越川道夫

今年の春は、この数年の中では寒さが続いたとみえて、花の開花も半月ばかり遅いように思える。それでもオオイヌノフグリは、まだこんなに寒いのにと言う頃から、ポツリポツリと青と白の小さな花を開き始め、少し気温が上がってくると路肩は満天の星空のような様相となった。白木蓮も蕾になった頃から、今日か今日かと花が開くのを待っていた。もちろん例年の如くその蕾を天ぷらにして食べたい、あの爽やかなほんのりとした甘みと苦味を味わいたい、と言うのもあるのだが、春に咲く花々の中でも白木蓮と辛夷の咲く姿が格別に好きなのだ。こちらも一気に満開になると、風が強い日が続き、まるで台風のような春の嵐もあって、あっという間に花弁は散り、花芯ばかりになってしまった。あんなに咲き誇っていたオオイヌノフグリも今はもう、後から伸びてきたカラスノエンドウの下に埋もれ始めている。
 
大伯父が亡くなったのは、二十代も終わりの頃だろうか。もしかしたら大学生だったかもしれないが、よく覚えていない。祖母の兄にあたる人なので、大伯父である。祖母は、チャキチャキとしたおしゃべりの気の強い人で、商売人に嫁ぎたいと望んで郡部の医者の家から街中の洋品店で店主である祖父のところに嫁いできた人である。その気の強さたるや、母が父と結婚した日に、あんたには負けないわよ、と言い放って、おっとりした私の母を震え上がらせたくらいである。祖父は嫌々ながら店を継いだ人で、私が幼い頃にはもう店を父に譲って、日がな一日油絵の静物画を描いているような人だった。祖母は当てが外れたのではないだろうか。うちはいわゆる「吊るし」の既製服を売る洋品店ではあったが、ズボンの裾上げをするように、ワイシャツもまた客の裄丈を測り一度解いて仕立て直すような店で、かなり晩年まで店でミシンを踏んでいる祖母の姿が目に残っている。
 
大伯父は、そんな祖母と違い、口数の少ない穏やかなや優しい人であった。何科なのかは覚えていないがやはり医者で、これまたお嬢さん育ちだと言われていたおっとりとした奥さんと暮らしていた。私は彼と誕生日が同日だともあって、ずいぶん可愛いがってもらったと思う。父もそんな彼を慕っていたようで、休みの日には車でご機嫌を伺いにいくことも多く、幼い私も大伯父の家一緒に行って高級そうな菓子など食べたことを覚えている。
その大伯父が癌になり、長く治療を続けていたが、やがてホスピスに入ることになった。医者だと言うこともあり、かなり正確に自分の病状を把握していたと言われている。在宅を望まずホスピスに入ったのも、オロオロするばかりの奥さんを気遣ってのことと聞いている。一度だけ彼の入所しているホスピスに見舞いに行ったことがある。病状の進んでいた彼はひどく大儀そうだったが快く僕を迎えてくれ、その穏やかな人柄は変わることがなかった。大叔父は、道夫君に形見分けをしようね、用意してあるから自宅に取りにいくようにと言った。形見は、惚れ惚れするように美しい、いわゆるトンビコートであった。僕はすぐにもそれを着たいと思ったのだが、父は、これは良いもので、お前はすぐにダメにしてしまうからと取り上げ、トンビを箪笥の奥深くに仕舞い込んだ。それ以来、僕はそのコートを見ていない。
 
ホスピスでの大叔父は模範的な患者だったそうである。元気だった時のように始終穏やかで、世話をしてくれる看護師の人たちを気遣い、我儘を言うことも、ひどく苦しむこともなく日々を過ごしていたと聞いている。ある夜、そんな彼の容態が急変した。そして、苦しい息の下から、懺悔をしたいので、神父さんを呼んでほしい、と言ったそうである。彼がカソリックであったとかそう言うことは聞いていない。多分違うと思う。入所したホスピスがキリスト教系の病院であったと言うことしか分からない。その彼が「懺悔」をしたいという。穏やかな、優しい、人格者として皆に慕われていた大叔父が「懺悔」をするという。一体に彼は何を「懺悔」すると言うのか。彼に死の淵で「懺悔」しなければならない、何か秘密でもあるというのか。深夜である。神父が駆けつけ、大伯父の懺悔が始まった。彼は、懺悔をすると言う。私は嘘をついていました。私は癌が苦しくて痛くて仕方がなかった。でも、私は痛いとか苦しいと言うことが出来なかった。私は嘘をついていました。懺悔します。
 
その夜、大叔父は亡くなった。死の際に、「懺悔」という形をとって「痛い」「苦しい」と言って亡くなったのである。

話の話 第13話:ぼんやりした話

戸田昌子

ここのところ、なんだか懐かしいような気持ちになっている。つまり、「会いたい人がいる」という感覚だけがはっきりとあって、それでいてそれが誰なのかわからない、という感じ。ただ、その感覚だけが、ある。つまり、もしかしたら、会いたい人にはもう会えているのかもしれない、とも思う。ぼんやりとした記憶の混濁と、感覚の遊離。

そんな時には忘れていたことが、蓋をあけると転げるようにして出てくる。いつかの昔、母が話し始めている。「あなたたちのおじいちゃんは、粉屋さんって言われていたのよ」。こう書いていてすでに嫌な感じである。というのも、母が言うには、「粉屋さんって言っても、小麦粉とかパン粉ってわけじゃなくて。お風呂に入らないから」。ああ、その先は、お母さん、続けないで。しかし、母は続けてしまう。わたしたちの祖父は、あまりにお風呂に入らないため全身がかさかさになってしまっていて、母が言うには、「立つと、歩くと、風が吹くと」、服の袖から裾から、ぽろぽろと粉が落ちるのだ。もちろん家族は迷惑なので、「どうぞお父さん、お風呂へ行ってください」と手をついて平身低頭、お願いする。すると「仕方ねぇな、風呂へ行ってやるか……」と祖父は重い腰を上げる(こともある)。ようやく風呂屋へ行く気になった、と家族は喜びいさんで(当時、長屋だった実家には備え付けの風呂がなかった)、祖父が気を変えないうちにと、洗面器に石鹸やタオルをセットして差し出す。しかし、その至れり尽くせりがわざとらしく感じられてしまうと祖父は、「なんだ、そんなにおれに言うことをきかせたいのか。気が変わった」とつむじを曲げてしまうこともあったそうで、天邪鬼な祖父であった。

「話し始めがぼんやりした人がいてさ」と、今度は夫が話し始めている。「話しているとさ、ずっと“ふりかけアメリカ人”って言ってるんだよ。でもなんのことか分からなくてさ。ほら、むかし、”焼肉フランス人”って店があったじゃない。だから”ふりかけアメリカ人”って店もあるのかなぁと思って聞いていたらね、なんのことはない、”アフリカ系アメリカ人”のことだったんだよね」。こんな話は、聞いているほうもぼんやりしてしまう。

似たような話に、娘がずっと「ボットン便所」のことを「ボストン便所」だと勘違いしていた、というのがある。娘世代には入った経験がほぼ、ないと思われる、汲み取り式便所、通称「ボットン便所」。娘は、ものの話にそんな便所がかつてあったことを伝え聞いて、ボストン発祥のおしゃれな便所だと勘違いしていたそうなのである。ボストンには迷惑な話なのであるが、じっさい、わたしの子ども時代には、田舎に行けばこの方式の便所はたくさんあったし、何を隠そう、田舎に行かずとも東京のわたしの実家はこの汲み取り式便所であった。冬になると、下の方からさらりと薫風が吹き上げるこの風流なトイレが怖くて、わたしは長年、夜中にひとりでトイレに行くことができず、ずっとおねしょをしていたのだった。「ちゃんと起きてトイレに行きなさい」といつも怒られてしまうのだけれど、「夜中にひとりでトイレに行くのが怖いから」という理由を説明することさえできないほど、このころわたしは内気だった。この便所を経験したことのない今の人には、「夜中にひとりでトイレに行くのが怖いからおねしょをしてしまう」という話をしたところで、そのリアリティはわかってはあまりもらえないのではないだろうか。考えると、悶々とする。

そんなふうだから、子どものころは怖いものが多かった。そのためか、奇妙なものを見てしまうことがあり、鬼もお化けも見たことがある。正確に言えば、「見たような気がする」という程度のものではあるのだが。

長屋の2階で、夜、子どもたちばかりで寝ている。夜中、わたしはトイレに行きたくなって目覚める。けれども、ひとりで布団から出ていくことができない。あのふんわりと風が吹き上げるトイレに行くことを想像すると、背筋がひんやりする。しかも眠たい。ああ、どうしよう、と悶々としていると、誰かが階段をとんとんと上がってくる。静かに扉が開く。大人の男の人が入ってくる。おかしい、父は出張で留守のはずだし、大人の男の人がここにいるわけがないのである。その男は押し入れへ向かって歩いて行き、押し入れの襖を開ける。そしてそこに立ちつくしている。そしてなぜが男が振り返る。布団の中から見ているわたしには、その頭に角が2本、突き立っているように見えるのである。どうしよう、鬼を見てしまった。そう思って布団のなかで目を閉じる。ひたすら目を閉じている。いつのまにか眠りに落ちる。そして目覚めると、やはりおねしょをしている。

そんなわけだから、わたしはおねしょ布団というものに寝かされてしまうことになる。そのうちに長屋は建て替えのために取り壊されることになった。だからわたしはそのとき一時的に、東京の西のほう、武蔵境というところに住んでいる。ここには小さいが、「森」が近くにあって、夜はとても静かだ。そしてわたしはいつも端っこに敷かれたおねしょ布団で寝ている。そして夜中、やはり目が覚めてしまう。だから手持ち無沙汰にカーテンを引っぱって、窓の外を見ている。すると、黒い小さな生き物がベランダにいるのが見える。最初は鳥かと思うのだが、鳥にしては形が奇妙で、鳴きもせず、静かにそこに佇んでいる。あれはお化けだ、そう思ったわたしはこらえて目をつぶる。そのうちに眠る。そしてやはりおねしょをしている。

しかし、長年「お化けを見た」と思っていたのは、おそらくは勘違いなのだ。場所柄と、それが深夜だった、ということを勘案すると、それはおそらくコウモリだったのではなかろうか。そこは確かに、夜中にコウモリが飛んでくるようなところだったのだから。

その武蔵境の家は、三階建のアパートメントであった。日曜の朝5時ごろになると、兄が早々に起き出して、玄関のドアを開ける。するとすでに玄関先にはアパートの男の子たちがずらりと整列している。そのただ中に「おう、おはよう」と悠然と出ていく兄。まるでヤクザのお出迎えのようだが、実際その通りなのである。アパートの子どもたちの兄貴分だった兄は、日曜ともなると、いつも子どもたちを連れて遊びに出掛けていた。子どもたちは兄が教えてくれる遊びが楽しみで仕方がなくて、いつも玄関で待ちかまえていた。そんな中、兄は「いくぞ!」と号令をかけて出掛けていく。そして日が落ちるまで帰ってこない。昼飯をどうしていたのかについては、母もさっぱり記憶がないという。

こうした兄の遊びには、わたしら妹たちはめったに付き合わせてもらえなかったが、アパートの庭で遊ぶときだけは一緒に遊んだ。アパートにはまわりをぐるりと木々に囲まれた大きな庭があったから、秋になると枯葉が山のように積もる。その枯葉を掃き掃除をする、という言いつけを、なにかの罰に、兄たちは与えられたのではないだろうか。兄は他の子どもたちに指示して「お前ら枯葉をここに集めろ!」と号令をかける。すると文字通り、子どもの背丈を越えるほどの小山ができる。そこに誰かが家から盗んできたシーツを乗せる。小さな子どもから順に、その上に乗ってよろしい、と兄の許可が出る。順繰りに枯葉のベッドに乗って遊ぶ。そのころ、そこに住んでいた子どもたちの誰一人として、ベッドに寝たことなんてあるわけがなかった。これがあの、夢にまで見た「ベッド」なのだろうか。こんなにふわふわとして幸せな。

そしてその後、妹たちは家に帰るのだが、兄だけはまだ遊んでいる。しまいに母が怒って玄関に鍵をかける。兄が帰ってきても、玄関のドアは開けない。困った兄は、外から家に侵入しようとして、3階建ての社宅の外壁を、雨どいをつたって、3階までも登ってくる。うまいことベランダに侵入した兄だが、今度は部屋に入ろうとして失敗する。ベランダから入ってくるであろうことをすでに予測していた母に、ガラス戸の鍵を閉められてしまっていたのである。しまいに兄はベランダで寝入ってしまう。母はやっとのことでガラス戸の鍵を開け、兄を起こし、顔を拭くように言って雑巾を手渡す。

日曜の朝になると、森を抜けて、父がパンを買いに行く。パン屋は森の向こう側にしかないからである。森のこちら側は、お店などは何もない住宅街である。食べられるものと言えば、森のどんぐりくらいであろうか。しかし、生のどんぐりは、渋くて食べられたものではないのは、すでに何度も試して知っている。

ずっとお腹がすいていた。よく見た夢が、山盛りのお菓子を与えられて、どれから食べようと迷ったあげくに、口に入れる瞬間に目覚めてしまう、というものである。食べたことのない、銀紙とプラスチックに挟まれた、色とりどりの、砂糖でコーティングされたあのチョコレート。あれはどんな味がするのだろう。大人になって、それを食べてみたところで、こんな味だったのか、と納得できるわけもない。あの夢のお菓子は、一体。

そしてどうやらわたしは、夢をみていたのである。玄関に、3人の男が立ち塞がっている。知らない男たちである。外へ出ていくことはできないし、しかたがないので、階段を上がって2階へ登ろうとする。すると階段の最上段に、黒服を着た覆面の男が立っている。わたしはまたそこで困ってしまう。すると、男が「怖いか」と尋ねる。わたしは迷ったあげく「怖い」と答える。すると男は「これは夢だ」と言う。そして男は、「もしこれから怖い夢をみて、目覚めたかったら、」と言う。「まばたきを3回すると、目が覚める」と続ける。「やってみろ」と男は促す。わたしは、まばたきを3回する。そして、目覚める。

それからしばらくは、怖い夢をみたときには、覆面の男に教わったこのおまじないをするようになった。面白いほど確実に、怖い夢から目覚めることができるようになったわたしは、そのうちにおねしょをしなくなった。

そしてわたしはその後、新しく建て替えられた家の窓から何度となく自宅に侵入することになるのだが、それはまた、別の話。