014 桜のおなら ――伊勢物語から源氏物語へ

藤井貞和

(竪穴住居にて)お父さん「ちょっとそとに出て、こいてくるら」
と言ったかどうか、狭い穴から吹き出すことを「こく」というのは、
数千年の歴史のある縄文語彙だと思います。 「み」にたいして、
「から、へ」という、それらは旧来のことばで、
だいじな古文の一環です。 『伊勢物語』は歌語りだから、
まじめなふりをして、とんでもない古語がうち混じる。
  いにしへのにほひは いづら。桜花。
  こけるからともなりにけるかな  (六十二段)
漢字に宛てると、「去にし屁の臭ひは いづら」かな。
  出ていったにおいはどなたさんの?
  あなた、桜花さんね! (すみません)
  放(こ)き出している空気となってしまいましてなあ
「こけるから」です。 桜の優雅な文学と思っていたら、
スカトロジー歌なのですね。 返し歌も当然、スカトロです。
  これやこの、われにあふみを遁れつつ、
  年月ふれど、増さり顔なき
  (コリャ、これなのでは。 私に出逢う実(み)よ、
   逃げながら大きな顔しないでね、年月を経ても)  
なぞなぞでしょう、すぐにはわかりません。 裏をさぐると、
「あふみ」は「から」(空気)にたいして「み」(実質)です。
身をはなれて厠(川屋)へ逃れ(流れ)出たばかりの実質は、
自身でしょうか、それとももう別ものでしょうか。
百人一首の伊勢大輔歌はこれらと同想です。
  去にしへのならのみやこの、やへ桜、
  きょうここのへに、匂ひぬるかな
桜のおならだから、いい匂いなのですよ。 ここからが大問題です。
『源氏物語』の匂宮の「匂」はなんの匂いでしょう。 もしかして、
桜のおならではあるまいか。 そして薫の君の「薫」は、
蝋梅でないにせよ、濃艶な梅が香ではありませんか。

(和歌をめぐって、わいわいがやがや、談義する歌語りだから、とんでもない五七五七七が混じってくる。桜のトンネルをとおりながら。)

屠殺場

北村周一


上級生の
吐息がかかる
ウラギルナ
捩じ曲げられゆく
人差し指は




いわゆるBG論についての考察その【序】の二

以下は
日々携行しているミドリの測量野帳からの
移し書きでもあります。

**
いまは市営のアパートが一棟建っているだけなのだけれど、
そこはむかしは屠殺場だった。
姓は忘れてしまったが、富士人(ふじと)くんの家でもあった。
かれは、ぼくよりふたつ年上で、三人きょうだいの末っ子。
上にふたり姉がいた。
ぼくら一家が越してきたときにはすでに屠殺は止めていた。
ついこの間まで屠殺していたことを聞いて、
ぼくはすこし残念におもった。

屠殺場の
ゆかの黒きを
みつめつつ
友の吐くその
白濁の唾

昼なお暗き
屠殺場のなか
床黒き
わけをききにき
耳打ちされて

***
屠殺場の
慰霊碑を翳す
柘植の枝の
横に伸びたる
さま近寄れず

クモの巣に
透かしみている
青天へ
挑みかかれる
雨雲の群れ

どんよりと
海かぜ澱む
この町の
はたて巣くえる
ジョロウグモの巣

黒に黄の
縞縞絶えて
うごかずば
女郎蜘蛛かも
ひと待ち顔に

屠殺場に
アブラゼミ鳴き
迷い来す
イヌネコさらに
人待つオンナ

電柱の
かげ踏む女
したたかに
哭きいるセミの
翳に重なる

****
富士人くんの家は、黒く塗られた板の塀で囲まれていて、
裏手におおきな屠殺場があった。
かれの自宅では時折寄り合いがひらかれた。
新年会も催されていた。

とさつ場に
婦人ばかりは
松のうち
あたりたゆたう
甘き香は何

ゆのみもて
くず折れし人の
手許より
床にしたたる
赤玉ワイン

肌襦袢
みだれしひとの
靠れいる
窓のべあわれ
湯呑の落ちて

*****
屠殺場の
コンクリートの
床鳴らし
遊ぶわれらの
ローラー・スケート

濁音は
頭に充ちやすく
どざづばの
ゴングリ土間に
ずべるズゲード

当時ローラースケートが流行っていた。
屠殺場のコンクリ土間はモルタルの肌理が粗くて、
まあまあ滑ることはできたのだがあたまに音が響いた。
因みに濁音とは、ガ・ザ・ダ・バ行音とそれらに対応する拗音のこと。

******
学生時代、某宅配業者の事務所の夜間警備をしていたことがある。
場所は南品川。
むかえに巨大な食肉市場があった。

屠らるる
番待つ豚の
交合に
呼吸を合わせし
門番居たり

明方の
ブタの交尾は
さむざむし 
ヒカリ待つ




吊るされし
番号もともに
肉叢の
列潔く
陽なかにいづる

*******
屠殺場のゆかのくろきにしみじみと戦嫌いのキジバトは眠る

芦川和樹

蹴って少しずつ運ぶほかないね
「岬」色鉛筆で描き加えた声が聞こえる
海までかなりあるよ
でも丈夫だから、蹴って運べるよ
傷んだところは取り替える?

傷んでないよ、枝だよ
じゃあいこう
角膜つるつるのランドセルしょった角膜が
蹴る。「岬」が滑る
「鉄塔」ちょうどブレーキになって
止まる

「曲がった鉄塔」だった
乾いた砂を、小石とかも、つれていく
蹴るとは(半袖だとやや寒いなむだぐち)
大がかりな移動だった
         たら
海          ーん
 水
  がじゃれあう、尻もちついて笑う。ハ
、ンバーガーを買う。買わないか。口を開
けた魚(?)の腹に錨をおろす。歯にぶつ
けないでねひびくから。もちはもち屋が▢

  ない人に
 係    、
関      人なんていないのだった
▢      今月はいるかも。人に、
       ちょっと黙れ「門」から
       入れ、嘘をつくな。飾っ
                 て
ちょっと黙れ「もち屋をよぶ」   あ
                っ
     せ返を「岬」実い青 た
底が
青い実。林檎から水がしたた、り
何枚もの雲を割る、ふやけてしまうのだ
岬と「岬」のわだかまりがなくなる

▢関係ない、麩菓子たち。人なんていない、関係ない人なんていない「門にて」「門てけっこう好きだな」林檎を売る麩菓子たち。お山の麓で、ふもとで。どこでも。めんどうなことだらけ、よふけ。蹴って少しずつ運ぶほかない。

島の記憶

笠間直穂子

 家の裏の斜面にある香りのいい白梅が満開を過ぎ、表側の庭にある淡い桃色をした豊後梅が咲き出した。うつむいていたミツマタの灰白色のつぼみが、次第に首をもたげ、黄色みを帯びる。このくらい空気が暖まってくると、時々、八丈島に行きたいな、と思う。

 最初に行ったのは十六年前で、ほとんどなんの予備知識もなかった。非常勤講師としてあちこちの大学に通っていて、忙しくしているうちに春休みが終わりそうになり、とにかく新年度の授業がはじまる前にどこかへ行きたい、できれば別世界のようなところがいい、けれども貯金がない、と思っていたら、留学時代から使っていない航空会社のマイルがあることに気づいた。半端なポイント数に思えたが、調べてみると、閑散期に入る四月あたまの八丈島なら行ける。

 そのときは、なぜそう大きくもない離島にジェット旅客機が離着陸する立派な空港があるのか、考えなかった。行ってみて、この空港が海軍練習飛行場を前身とし、太平洋戦争末期に整備されたものと知った。旅行から戻って数か月後に、八丈島に取材した加藤幸子の小説、『〈島〉に戦争が来た』が刊行された。南洋の島々で敗退した結果、突如「帝都を守る最前線」となって三万人もの兵隊が投入された小さな島を舞台に、飛行場や地下要塞の建設現場で厳しい労働を強いられる朝鮮人の少年と、島に住む少女とが出会う物語だ。外海に身をさらす島々は、国家の暴力が吹き溜まる場所でもある。

 八丈島空港に降りたつと、「フリージア祭り」の最終日とのことで、到着した全員にフリージアの花が一本渡された。もう夕方で、宿へ着く前に日が暮れ、薄暗い坂道を歩く途中、海風に乗ってどこからかフリージアの濃く甘い匂いが漂ってきた。

 毎日、路線バスに乗って、亜熱帯の植物が生い茂る岩場の滝を訪れたり、港を眺めたり、丸い石を積んだ石垣のある集落を歩いたりした。最後の日に、だれもいない広い公園で、風に吹かれていたら、急に眠くなった。よく晴れた日で、東京都心でいえば夏そのものの強い日差しが照りつけるのに、風は凍えるほど冷たくて、その熱さと冷たさの組み合わせが、激しすぎるくらい、猛烈に快い。眠気と心地よさに耐えられず、ピクニック用に設えられたコンクリート製のテーブルに横たわった。目を閉じ、腕で目を覆うと、皮膚に灼けつく日差しと鋭い涼風のコントラストが、いっそう強く感じられた。

 以来、島に惹かれて、いくつかの島を旅したのち、三年前に再度、八丈島を訪れた。前に来たときはもっていなかった四輪の運転免許があるので、車を借り、山にも登るつもりで登山靴を持参した。前回は準備していなくて、山を諦めたのだ。

 ある夕方、市街地から一番遠い温泉のある漁港へ、車を走らせた。ひとけのない港に着いたが、付近に温泉施設らしきものは見当たらない。しばらく探して、港の敷地内の、倉庫だと思っていた年代物のコンクリートの平屋に、小さな木の看板が出ていることに気づいた。入ると、長年温泉水を浴びて茶色く変色した大きな湯舟に、なみなみと湯が満たされて、あふれている。源泉を運ぶ金属のパイプが天井から壁沿いに湯舟のふちまで下り、そこから熱い湯がごぼごぼと大きな音を立てて、絶えず流れこむのだ。せっけんやシャンプーは使用不可なので、香料は匂わず、澄んだ湯の匂いしかしない。ほかに客はおらず、恐ろしい贅沢のような気がしながら、滾々と湧く湯に一人でつかった。

 賑やかな温泉もあった。町の風呂屋のようなところで、地元の常連客のやりとりを聴くのが楽しい。浴槽内で場所を譲り合った年上の女性と、出口でまた会ったので、言葉を交わすと、彼女はわたしと同様、旅行者で、しかも同じ県に住んでいた。まあ、と、ひどく嬉しげに驚いて、少しすがるような目にまでなるのを、不思議に思ったところ、友だちと旅行する計画が、相手の都合で頓挫したのだけど、わたし、どうしても行きたくて、思いきって一人で来ることにしたんです、と言う。六十代だろうか、これまでそんな好き勝手をせずに生きてきたのだろうと思わせる、優しく控えめな顔だちに、不安と決意の瞳がきらめいて、聴きながら胸が熱くなった。

 島には、新しい山と、古い山がある。最後の噴火からまだ三百年あまりの八丈富士は、高さ八五四メートル強。名のとおり、いかにも火山らしい、天辺が水平に切れた円錐形をして、岩がちで木は低く、山頂では火口のふちを一周することができる。観光名所として広い階段が設置されて、のぼりやすい。高木がないので、途中もずっと視界がひらけている。

 小さな島の山は、「本土」の山と違い、のぼっていくと四方を海に囲まれる。海は、さらに、遠くで空とつながるので、周囲が上から下まで青く、虚空に浮いている感覚になる。火口のふちは、灌木に覆われた狭く足場の悪い溶岩の小径で、両側が急斜面になっている。片側の崖は火口内の、迷うと出られなくなるという森。もう片側は空と海の青い空間で、落ちればどこまでも落ちそうな気がする。足がすくむ思いをしながら歩いた。

 三原山のほうは、約七〇〇メートルだが、ここはひとつの山というより、いくつもの峰のある小さな連山で、長い時間をかけて育った深い森がある。緑がかった青色の水面が美しい沼、腹の赤いヤモリが群がる滝壺、岩盤に穿たれた甌穴(ポットホール)が数百メートルも連なる清流、林のなかの明るい湿地など、変化に富む。水をふくんだ植物の生気が、肺を満たしていく。

 山頂へ向かう斜面は、途中まで、狭い階段がつづく。目の粗いコンクリートの直方体を太い鉄棒で固定した、無骨で年季の入った階段で、登山客のためのものとは思えない。いまは舗装道路が整備された海上保安庁の無線鉄塔まで、かつてはこの階段をのぼっていったのだろうか。戦中のこの島が帝都防衛の拠点とされたなら、当然、山頂に近い無線基地は、肝要な場所だったに違いない。ふと、軍服を着て、こんなふうに山をのぼったことがある気がしてくる。南の島、斜面の道、戦争、無線を使う任務……。そうだ、梅崎春生の「桜島」だ、と思った。

 けれども、無線基地を過ぎると、足元は土と枯葉の山道になる。森が途切れて、山頂付近へ出ると、緑の濃い山の連なりが見渡せて、その向こうに海と空が茫洋と広がっている。山頂を過ぎて、いったん坂をくだり、ふたたびあがりきったところに、見晴らしのいい、ちょうど部屋ひとつ分くらいの広さの平たい草地があったので、ここで休憩することにした。朝、街のスーパーで買っておいたおにぎりを食べて、茶を飲む。周囲は山の景色なのに、その景色の全体が、海と空のなかに浮かんでいて、海の匂いの混じる風が吹く。

 上も下もない、青い空間を、わたしのいる山の天辺の小さな草地が、ゆらゆらと漂っているような錯覚に陥る。平衡がとれず、心許ない。そのうち、眠くなってきた。今日は同じコースを歩く登山慣れした様子の男性がいて、何度かすれ違って挨拶を交わしたが、いまはほかにだれもいない。リュックを枕にして、草の上に横になる。目を閉じると、闇のなかでわたしの体だけが宙に浮いている感じがした。

     *

 一度目の八丈島行きの二年後に、沖縄本島を訪れて、那覇の市場のなかにある古本屋に行った。いまは店主が何冊か著書を出していて、読書界では知られた店だと思うけれど、当時は、まだ開店して間もなかった。アーケードの通りから見えるところに何竿かの書棚が並ぶ、とても小さな本屋だが、覗いてみると沖縄関連の本が充実していて、なにか見つかりそうな予感がする。岡谷公二『島 水平線に棲む幻たち』が目に留まった。

 代金を支払ってから、この本を読むのにいい喫茶店が近くにありますか、と聞いてみると、落ち着いていて読書向き、という店を教えてくれたので、そこへ行って、吸いこまれるように読んだ。

 一九八四年刊の『島』は、その時点ですでに三十年にわたり著者が旅してきたという、さまざまな国内の島について記したエッセイだ。その三年前に世に出た『島の精神誌』と、逸話は一部重なるが、後者が旅行記的側面をもちつつも、全体としては学術的な参照を備えた論考の形を採り、また半分はフランスの作家・画家を扱うのに対し、前者は個人的な体験と印象の記述に徹した、親密な筆致の散文集となっている。

 新島、式根島など伊豆諸島の島々から、復帰前の石垣島と西表島、瀬戸内の島々、福江島、上甑島、口永良部島、トカラ列島、種子島。多くはリゾート開発などはじまる前の時代の話だ。港のない島へ、艀で上陸し、宿を探す。宿のない島なら、知人づてで島の住人に頼んでおく。地勢の描き方も、会う人びとの肖像も、陰影が深く、岡谷公二の本のなかでも、特別に好きな一冊になった。

 最初に訪れた島は、まだ忘れ去られた「他界のような」場所だった、一九五〇年代の新島だ。わたしが八丈島でぼんやりと感じたことを、彼は丹念に、繊細に、書いている。

「はじめて知った島という土地は、私にはなにもかも珍しかった。とくに海の近さが私を驚かせた。ちょっと小高いところに登れば、島のどこからでも海が見えた。波音のきこえない場所はほとんどなかった。前浜から遠ざかると、すぐに裏側の羽伏浦(はぶしがうら)の激浪の音がひびいてきた。たとえ海が見えず、波音がきこえなくても、風や光の中に、はっきりと海が存在した。海は、密偵のようにあらゆる場所に入りこみ、一切を支配していた。」

 さらに、新島のあと、式根島、神津島を回ってみて、三つの島が「地形も、景観も、人々の暮し振りも」異なり、まるで「それぞれが小さな国のよう」だと感じた彼は、それがまさに、島が海に囲まれているがゆえであることに思いいたる。

「なるほど本土の町や村にも特色はある。しかし本土では、少なくとも旅行者の眼には、一つの町や村が正確にどこではじまり、どこで終わるのかよく分からない。[…]それに反し、島では、陸は海で[ママ]はじまるところで終わる。この明確さが、島の個性的な顔立ちをきわ立たせる。島に一歩を印するとき、私たちは、未知の、新しい世界に歩み入るのである。」

 けれども、その未知の世界を、ただ好奇のまなざしで傍観する、というような態度を、無論、岡谷公二はとらない。冬の利島で、暴風が五日経っても止まず、生活用品が不足しはじめて、一見平静な島民も「心なしか、表情に焦燥の色が滲むように」見えてきたとき、彼は思う。

「私は、島の孤立ということを思わずにはいられなかった。なるほど島々は、小さな国々にはちがいない。しかし島の大小、本土からの距離、地形や風景、風俗習慣の目をひく相違にもかかわらず、孤立という点では、島々はひとつである。それが島の基本条件であり、宿命であり、不治の病なのだ。それがすべてを支配し、島の生活の一切に濃い影を落としている。」

 そして、こうつづける。

「たえずつきまとう閉塞感、疎外感、それと裏腹の強い自恃や誇り、外の世界に対する憧憬、過度の敏感さ、過剰な期待、そしてその期待が裏切られたときの失望の深さ……だが島とは、私たち自身のことではないだろうか?」

 海によって隔絶された小宇宙であるからこそ、島は、わたしたちがなんであるかを、くっきりと照らし出す。島にいると、不安も、陶酔も、濃すぎる感じがあるのは、そのせいなのだろうか。だからわたしはいま、島を思うのだろうか。

煙(下)魔と摩の間は鬼と手の違いがある

イリナ・グリゴレ

この世界では静かな場所を見つけることがもうできない。最初から静かな場所ではなかったのもあるが、歴史をどう考えてもパズルでしかない。知らないことが多すぎる。どうしても知りたいと狂ってしまう、あるいは周りから狂っていると言われる。どうしても知りたい自分が最近、脳から煙を出しているようだ。いつか読んだルーマニアの聖人のテキストでは「一般の人が知っていたら耐えられない」という言葉が骨に響く。でも知りたい。歴史と化学がどこまで嘘なのか。どこまで私たちが騙されているのか、弱くさせられているのか。真実はいつも自分の身体にあると思うのに、次々にやってくる病気、感染とウイルスとの戦いで自分の身体の痛みに負ける。それでも諦めないこの身体に感謝。母が言うように「なんで、私たちが負けると思っているの」。

どこからこの生き残る力がくるのか。古代から、数えきれない時からあの土地、あの場所に止まった私の先祖に会えるようなシーンがある。遅い秋に祖母がクルミの木の下で落ち葉を片付けて、燃やす時。あの煙の香りがこの前に鍼灸院でお腹から出た煙とよく似ている。ある類の儀式のようだった。いくら誰が否定しても、人類というのは様々な形で儀式をする。この話が洞窟の深い所まで探ることができる。言っておくけど、マルクス・レーニン主義も信仰の一つに過ぎない。モスクワのレーニン廟を訪ねると、レーニンの遺体が革命を見守り続けている。それにしてもボルシェヴィキ時代に、正教会がたくさん燃やされて信者が処刑された。大きな虐殺が繰り返されるたびに、なんらかの形で火が登場する。

燃やすことについて、煙について、火の儀式について書かれたことはたくさんあるが、子供の時にロウソクの火と火事の火、豚が丸ごと燃やされる火と薪ストーブの火、また後になってあるドキュメンタリーで「人類は近代でもう一つの危険の火を見つけた。それは核の力だ」と言われ、幾つもの火があって同じ火だと思えない。それか、与えられた火の使い方が使う人によって違って、絶滅に至るミスがあり得そう。それにもう一つの火がある。身体の中に流れる火のような発熱ともう一つは、心が燃えるときの熱。

冬になると青森では火事のニュースが多い。火除けの札も神社で買える。日本どこでも。火の災害は日本でも大きな災害の一つ。昨年のクリスマスの日、朝早く大館のホテルの窓から近くの住宅の火事を目の前に見た。大きな煙の雲が真っ直ぐ雪の中から空へ昇った瞬間を、消防車が来る前に見た。火事のときには遠くから煙の匂いがする。地震のときも火事が一番怖い。実際に今までそうだった。そしてこの世界では一番苦しい死と痛みは、生きたまま燃やされることだと言われている。二番目は子供を産むこと。この順位の矛盾に、消防団の火除けの音を脳内で鳴らす。

子供の頃、教会の壁の悪魔と地獄の絵は必ず火に燃やされる人々の絵と一緒だった。このような昔からの知恵に耳を向けることさえできない近代に生きる私たちが、毎日ネットで2年間、爆弾で一瞬で燃える子供たちの虐殺を見続けた。それに、私たちが知らない所でたくさんの子供が殺されて、食べられた。人類学をやると人喰いは初耳ではないし(また別の機会に書きたい)、生まれたばかりの子供に対するある決定的でしょうもない暴力が日本にも水子としてあったのだが、今回はあまりにも納得の範囲を超えるような出来事だった。人類の歴史を見直さないといけない時点に私たちがたどり着いた。つまり、儀式で、あるカルトに従って子供を食べる人類(同じ人類かどうかまだわからないところもある)がいると認めざるを得ない。貧しい地域の子供を。誘拐された子供を。古代から続いて、植民地主義にも現れて、それは当たり前の裏世界、表の世界となった。子供をだれも助けない世界に生きているということだ。だれも止めない。権力のため、上の立場にいるためこのような儀式に参加する。許せない。まだ、こんな弱い自分にもすることがある。弱いから抵抗できないというのは大きな勘違いだと思う。

祖父はマッチの工場で長い間働いた。いつも家に綺麗なマッチの箱があった。彼はたぶん、黄リンのせいで心臓に被害があった。結局、心臓の不思議な病気で亡くなった。だれも調べてない。子供のときに棒を石に打ちつけて火を起こそうとしたことがある。煙しか出なかった。これは日本語で摩擦熱という。漢字で見ると不思議に思う。「摩擦(まさつ、friction)とは、固体表面が互いに接しているとき、それらの間に相対運動を妨げる力(摩擦力)がはたらく現象をいう」。

魔と摩の間は鬼と手の違いがある。こする。手をすりあわせる。なでさする。すれる。あ、人に触れられたくない理由を見つけた気がする。漢字の中に知恵がたくさんある。自分の先祖が代々住んでいた土地を離れた彼らの遺伝子の中で、私だけだった理由もわかった。わかるため。パースペクティブを変えるため。そうだったのか。書きながら考える。摩擦という言葉についてしばらく考える。真の言葉にもう一つ出会えた。エネルギー源。力。

しかし、この世界ではいつももう一つの力があると思う。たとえば、一つの例は、手を繋ぐ時の力。この力を大事に使わないと悪い煙が出る。ある話を思い出した。最近、趣味で(だれも知らない人の話を聞く趣味というか仕事の一部)刑務所に入っている女性の物語をよくネットで見ている。彼女らはいつも子供か自分を救うため男性を殺して刑務所に入る。ある日、まだ20代後半の女性の話を聞いた。彼女は16歳のときに村の大好きなジプシーの男性と一緒になって結婚した。彼がイケメンで最初は仲良しだったけど、隣に住んでいた彼の家族が同じジプシーではない彼女を気に入らなかったし、子供が二人できて毎日忙しかった家庭にヒビが入って彼が浮気し始めた。家に帰って、彼女に暴力を振るうようになった。 

ある日、大喧嘩して彼女に出ていけと言われたが、酔っ払っていた旦那はそのまま寝た。幸いに子供が隣の彼の両親の家にいた。彼女は怒りのあまり、泣きながら隣の部屋にあった自分の服を引き出しから出して部屋の隅に置いて燃やし始めた。その後、泣きながら家を出た。次の朝早く、避難していた隣の町のカフェで仕事を探すため新聞を読み始めたが、テレビで彼女の村のニュースが流れて、自分の家の映像とその家で一人の男性が火事で亡くなったことが報道された。彼女の旦那だった。すぐ警察に行って昨夜の夫婦喧嘩の話を伝えて、自分が知らない間に大好きな旦那を殺したことも分かった。インスタグラムの動画を通して刑務所でこの話をする彼女の声がまだとても可愛かった。彼女は死なにかを守ろうとした。あのミスでなくなった彼のことが今でも愛しているという。彼は隣の部屋で燃える彼女の服の煙を飲み込んで寝たまま死んだ。彼女の愛の煙だったのか。この話を聞いてからずっと煙の匂いする。

与謝野晶子と温泉

若松恵子

古書店で『与謝野晶子 温泉と歌の旅』という本をみつけた。著者が杉山由美子だというところに魅かれて買った。2010年6月20日発行のこの本のことを全く知らなかった。出版から16年も経ってしまったけれど、この本の良さがわかる年齢になって出会えてかえって良かったかもしれないと思った。

杉山由美子の著作との出会いは、『赤ちゃんができたらこんな本が読みたい』(草思社)というブックガイドだった。1995年発行のこの本を、子育て真っ最中の頃に読んだ。1951年生まれの彼女は、仕事と子育ての両立に奮闘した第1世代だ。10歳下の私たちの前を歩いて見せてくれた姉たち。勇気づけられる同時代子育てエッセイ、子どもといっしょに楽しむファンタジー、子育て中の心さみしき母が読む本、健康という幻想、子育て中にふさわしいミステリーとホラー。今、目次を追ってみてもワクワクする。なぜずっとこの本を持っていたのかがわかる。久田恵、千葉敦子、伊藤比呂美、宮迫千鶴、子育てにすぐ役に立つノウハウは無いけれど、きまじめで、子どもと共に育つことの奥深さを教えてくれるような本ばかりだった。その後、塾やおけいこごとの本を出しているのを見かけたけれど、そのジャンルには興味が無かったので遠ざかってしまっていた。

2004年に『卒婚のススメ』という本を出していて、そのネーミングが話題になっていたけれど、当時は何だかなあと思って読まないでいた。その本の文庫版をブックオフでみつけて、ふと読んでみた頃に『与謝野晶子 温泉と歌の旅』にも出会ったのだった。

『卒婚のススメ』には、杉山由美子が40代に入り、夫との関係、思春期を迎えた娘たちとの関係に悩み、中年期を迎えて体調もすぐれず思い悩む日々が綴られていた。題名から卒婚というあり方を勧める本かと誤解していたが、自身のこれからに悩みながら同じように中年期に差し掛かった6組のカップルから話を聞いた本だった。カップルの話よりも、自身について語る部分が印象に残った。きまじめで不器用な杉山由美子が、子育てと仕事を両立しようとがむしゃらに頑張ってきて、心身ともに疲れ切って「これで良かったのか」と佇んでいる。『赤ちゃんができたらこんな本が読みたい』の、はずんだ季節から遠く離れて、今は中年期の重い季節を先に歩いて見せてくれていたのだった。

『卒婚のススメ』のエピローグに「そうしてわたしは、短い旅を重ねている。はじめは健康回復のための温泉旅行が目的だったけれど、しだいに11人の子持ちなのに旅した与謝野晶子に興味を持つようになり、日本の風景や文化に心惹かれたりするようになった。日本という国の奥深い文化にもめざめ、今は日本の47都道府県制覇をめざしている。」という文章がある。『与謝野晶子 温泉と歌の旅』につながるものだ。与謝野晶子の足跡を追う旅に、明るい兆しが見えている。

そして『与謝野晶子 温泉と歌の旅』においても、旅のあいまに語られる杉山自身についての物語がいちばんおもしろい。家族から離れてとにかく疲れを癒すためだったひとり旅は、娘や友人、確執があった母との旅にまで広がっていく。そして温泉への旅をたくさん重ね、与謝野晶子の仕事と人生を辿ることを通して「中年期は関係を壊して、まっさらなスタートを切るときではない。ほころんだ関係をなんとか修復し、まわりといい関係をむすびなおす時期ではないか。長年連れ添ったパートナーとの関係は、相手の非をあげつらえば、そういういびつな関係を築いてきた自分に返ってくる。子どもはいつか離れていく。親もいずれ亡くなる。失うことのほうが多い後半生を、さらにさみしく孤独になることを選ぶのはどうだろう。晶子のように雄々しく夫も子どもも友人も仕事もひっかかえて、ただ寂寥のうちに立つというのが人間らしいのではないか。いずれは仕事すら消えていくのだ。旅しながらしきりにそんなことを思った。」というところにたどり着くのだ。杉山のこの述懐は、これから老年期を迎える私にとっても参考になる言葉だ。

この本によって、与謝野晶子は50代以降、個人歌集を出せなかったけれど、生涯たくさんの歌を詠み続けたという事を知った。叙景歌に打ち込んでいて、良い歌も多いという事だ。歌集をさがして読んでみようと思う。そして、温泉も恋しい。

しもた屋之噺(290)

杉山洋一

歳とともに涙脆くなってきたのかもしれません。30年前、イタリアに住み始めた頃は、美術館の名画の一つ一つや、教会のフレスコ画を見るたびに、身体の裡が躍るような鮮やかな感動を覚えたものですけれども、あれは知らなかったものを発見する喜びに近かった気がします。実に初々しく瑞々しく輝かしいものでした。最近心を動かされるものは新奇だからではなく、寧ろずっと以前からよく知っているもの、感じているもの、味わっているものばかりという気がします。当然の摂理と信じていたものは、実は氷河の天辺のようになっていて、下をのぞきこめば、無数の偶然がどこまでも堆く重なり合って顕れていたことに気づく、そんな齢になったのでしょうか。目に見えるもの一つ一つ、聴こえる音の一つ一つ、話す言葉の一つ一つ、綴る音の一つ一つ、全てが途方もなく掛け替えのないことに。

—–

2月某日 ミラノ自宅
無数の音の襞。心地悪く儚くそして夥しいもの。書きながら胸の詰まる思い。母曰く最近父が元気がないらしく、少し心配している。明日がオリンピック開幕だからか、夜半1時でも2時でも、ちょうど30分毎に列車が通る。それも保線車両ではなく普通の旅客車両のようだ。仕事をしていると、後ろで家人が明るい声で寝言。「ご縁がありますねえ!」。

2月某日 ミラノ自宅
学生時代から現在まで、ずっと加藤訓子さんや星谷伸太郎君のような友人をはじめ、さまざまな名前を数字に置き換えて作曲し続けていることに今頃になって気が付いた。「三つ子の魂某」である。確か、ゴルリが自作のレクイエムの分析レポートのコピーを呉れたのが切っ掛けだった。ゴルリは名前を数字に置き換えたのではなかったと思うが、どのように並べて音を作るかに関して言及していた。当時自分が何を考えていたのか知るために、機会があれば読み返してみたい気もする。
マッタレルラ大統領がミラノの路面電車に乗って、サンシーロのオリンピック開会式会場に駆けつける短い動画が人気を呼んでいる。開会式の国歌斉唱のあたり20分ほど、家族三人でテレビの前に座って静かに眺めた。

2月某日 ミラノ自宅
息子が音楽院で「白と黒で」を弾くのを聴きにでかける。演奏前、第2ピアノを担当するディエゴは、第一次世界大戦中に書かれた「白と黒」の愛国的側面について話した。以前と違い、世界全体がきな臭い毎日でそう聞くと思わず暗澹たる心地に駆られる。ドビュッシーも書かずにはいられなかったのだろう。自民党の歴史的大勝を伝えるラジオニュースの向こうで、息子がラヴェルの「トッカータ」を譜読みしているのが聞こえる。「クープランの墓」も、大戦の記憶の哀しみを紡いだ珠玉の組曲であった。

2月某日 ミラノ自宅
父90歳の誕生日。母が「90」と書かれた赤いケーキを買ってきて、二人でケーキを前に写真を撮って送ってくれる。お祝いにと二人で小田急の「天松」に出掛け、大好きな海老の天ぷらに舌鼓を打ったそうだ。両親ともに卒寿を迎え、未だ健康に過ごしている倖せは、僥倖と呼んでも許されるだろう。本人二人への感謝は言うまでもなく、両親二人を取り巻く全て、目に見えるもの、目に見えないもの全てに対して心を動かされ、深謝している。こればかりは、当人にも家族にもどうにもならない何かが作用して今日に至る、としか表現できない。古来、運命を一人の神として崇め奉っていた気持ちも、すこし理解できるようになった。それは「生かされている」という確信にも近い。無政府主義者の一団がオリンピック開催に合わせ、イタリアのあちこちで鉄道網を壊している。ラヴェンナ通りからほど近い旧市営市場も焼き討ちに遭った。

2月某日 ミラノ自宅
ひどく複雑に見えながら単純なこと。沢山あるようだけれど、言いたいことは限られていること。隣人が自分と違う行動をとっても、その隣人を否定する必要はないだろう。自分が正しくなければいけない、とまでは思わないが、自分が正しいと信じることをする必要に迫られているのかもしれない。自らの思う正しい行いを、出来るだけ他の人を巻き込まずに静かに行うこと。未だにのんびりアリストテレスを開いては、読んでは戻り読んでは戻りと徘徊しているが、ソクラテスや老子を読み返したい。真理とはなにか。実存するものは何か。バッハのように、歴史が我々に残してくれた「叡智」。

2月某日 ミラノ自宅
今日も書いていて不思議なことがあった。音に方向性をあたえ収斂点に向けて書き進めると、どうしても放物線になってしまう。そうしないためにはどうしたらよいか。3と4の間の数字を表現するのに、何が一番しっくりくるのか数日頭を悩ませていたが、結局334と3334を交ぜることにする。
ミュンヘン会議でメルツ独首相が欧米同盟は破綻と発言し波紋を呼んでいる。直後、ルビオ米国務長官がアメリカは欧州から生まれた子供と取り繕ってみせたが、一体これからどうなるのだろう。メローニ伊首相はエチオピアのサミットを理由にミュンヘンにすら出向かなかった。数年後、あの時自分は一体何を心配していたのかと笑い飛ばせる未来であってほしい。あんなことを書いたら、今は恥ずかしいでしょう、と皆に馬鹿にされたらいい、と考えるようになった。沢山考え、その殆どを忘れてゆく。そのまにまに僅かに掠め取ることのできた事象だけを書き残す。

2月某日 ミラノ自宅
生きると言うのは、毎日驚くほど沢山の出来事に曝されつつ、偶然の連鎖で事象が影響し合い、次の事象を生み出す「うねり」に自らを委ねること。つまり、音楽と酷似している。そこで幾ら櫂を漕いでも、海峡の流れから抜け出すのは容易ではない。
ほぼ無意味な言葉を毎日綴りつづける。それらが現在意味を持たないのは確かだが、将来万が一にも何かの役に立つかもしれないし、無意味なだけで塵芥になるかもしれないが、無意識に何かを信じて書く。仕上がりのイメージから出発し、少しずつ自分が望む姿へと変化させていくのが人口知能と我々の関係性なのであれば、可能な限り、先入観もイメージも排除して、ただ現実に手にしている情報だけを組み合わせていく。敢えて俯瞰せずに世界に目を向けると、見えてくるものはあるだろうか。一体どういう姿をあらわすのか。
三善先生は反戦三部作をどんな気持ちで書かれたのだろうか。音に没我していらしたのか、むしろ自らを厳しく律して自らを音楽に近づけないようになさっていたのか。スーダン内戦の被害者が双方合わせて死者6000人との報道。人が一人死ぬだけでもこれだけ辛いというのに。どうしたら諍いをせずに暮らしていけるようになるのだろうか。

2月某日 ミラノ自宅
庭の樹に設えた餌場に、割った胡桃を置いてやると、早速近くで見守っていた小鳥たちが飛んできて啄みはじめた。それを見て、慌ててリスたちが降りてくる姿は少し不格好。
朝、仲宗根さんのメールで沢井さんの訃報を受け取る。溜息しか出てこないのは何故だろう。もしかして鳥になったのかしら、とぼんやり思う。ご家族はもちろん、野坂さんや平井さん、真起子さんにも再会されたのだろうか、と折れた雑木の切り口に坐るリスを眺めながら思う。風見鶏ならぬ風見栗鼠。気が遠くなりながら作曲。気が付くと机に突っ伏して寝込んでいる。

2月某日 ミラノ自宅
トランプ大統領の平和評議会にイタリアはオブザーバーとして参加を表明。恐らく日本も同じだろう。艦隊を派遣して、米軍がイランの攻撃を準備している、と盛んに喧伝している。ウクライナとロシアとの停戦交渉もアメリカが調停役。
佐藤康子さんが信玄の菩提寺、乾徳山恵林寺の本堂で演奏した、「待春賦」25絃独奏版のヴィデオをみる。写っているのは、煙道の大地漠氏が焚く煙である。漆黒の背景に、ゆらめきながら様々な造形を紡ぐ白煙に光があてられ、浮きあがってみえる。不在の沢井さんがそこにいるのを実感できて、音楽はこういう時には都合が良い。こちらの単なる勝手な思い込みにしても、なんだか素敵ではないか。
元来沢井さんの17絃と佐藤さんの25絃のために書いた曲だったから、沢井さんの不在が殊更に際立つけれど、沢井さんの名前を使って紡いだ音は、白煙と絡み合いながら沢井さんの姿を立ち昇らせる。筝の衰弱音を聴き続けているだけなのに、消えてゆく響きが、沢井さんの輪郭をなぞっているように感じるのだ。以前、沢井さんの名前をどう使ってこの曲を書いたのか佐藤さんが興味を持ったことがあって、一度当時のスケッチを送ったことがある。佐藤さんはそれを解読して丹念に曲全体に分析を施してくださったのだ。ある時リハーサルの合間に佐藤さんがその説明を沢井さんにしたところ、「康子さん、それをちゃんとわかるようにしておいてね」と、殊の外面白がっていらしたのが印象的であった。尤も、作曲者がどう書いたのかすっかり忘れているのは、書く作業そのものが思考や記憶を吐き出す作業なのだから仕方がない。最早自分の裡には何も残っていない。

2月某日 ミラノ自宅
現実と見紛う人工知能が盛んに話題へ上っている。コンピュータが正しいものを正しく作りあげるのに秀でているのは当然だ。こうなると、我々が正しいと認知するものが正しいのかすら判然としない。我々は不可思議な仮想現実に、最早無意識に染まりつつある。そうした日常における真理とは何を意味するのか。消えゆく音の陰に、たとえば誰かの姿が見えた気がするのであれば、それは既に一つの真理を形成しているのかもしれない。
スコットランドのエディンバラで、沢井さんへ捧げる追悼演奏しました、と長谷川将山さんから「望潮」の録音が届く。「望潮」は沢井さんを介して生まれた。慟哭が貫かれた前回と異なる解釈による演奏に、おもわず魂が震えた。長谷川さんの初演の解釈を楽譜に書き入れようと思っていたが、このように全く違う演奏解釈も成立するのなら、作曲者が余計な茶々を入れない方が良いかもしれない。
アメリカ連邦最高裁判所は9人の判事のうち、6人の多数意見により、トランプ政権の相互関税政策を違憲と判断。ロシアのウクライナ侵攻5年目に突入。

2月某日 ミラノ自宅
義父の宏さん誕生日。宏さんは高校の頃に英語の教科書で読んだ、ヘッセの「Como Lake」がとても印象に残っているという。コモ湖にはヘッセ博物館があるくらいだから、ヘッセがコモ湖に触れた文章は多く残されているはずだが、教科書に採用されるくらいだから、よほど知られているものに違いない。とすれば、ヘッセが1913年に書いた随筆 Spaziergang am Comer Seeの英訳と考えて間違いないだろう。
尾崎喜八の名訳で「コモ湖の散策」として日本語にもなっているが、尾崎の文章は実際のコモ湖畔の風景をそのまま彷彿とさせる、見事なものだ。ルガーノからやってきたヘッセは、コモから汽船に飛び乗り、トルノを経て、対岸のモルタージオまで足を延ばした。
「…そういう集落の一つでトルノと呼ばれるのが、或る綺麗な岬の上にじつに優美に孤立して載っているので、私はあやうく船を下りようとした程だった。船は陽気な入江の岸に沿って走っていた。若いぶなの木の薄緑をした林のうしろには、このあたりでは今まで見たこともないような一すじの長い音もない滝が、人目につかずひっそりと、神秘的に白く薄絹のように懸かっていた。トルノの集落そのものは小ぢんまりとして軽やかに岬の丘を登りながら、湖水の方へその愛らしい清らかな感じのする正面を向けていた。幅のひろい平たい石の段々をならべて、水際にボートをつないだ船着き場兼洗濯場、弓がたの門と小さい露台のある緑に被われた家、静かに明るい石敷きの広場と、その背後に見える美しい教会堂の正面と尖塔、若木を植えた優しい半円形の防波壁、それはまさに完璧な、よく調和のとれた一幅の画であって、しまいには、事によると自分が悩殺されてしまいはしないかと心配したほど可憐な一角だった。私は座席にすわったまま、この小さい宝石が通りすぎ、だんだん位置を変えて小さくなってゆくのに任せながら、感謝の心で会釈をし、かろく別れの挨拶を送った。いわゆる『一目惚れ』である」。
最後の「いわゆる一目惚れである」は、コモ湖やトルノの村を形容するのに現在もしばしば使われる名文句だ。トルノを過ぎて少しゆくとネッソの集落があり、そこから山を登って行ったところがエルノになる。この文章を義父に送ったところ「数年前に故人となった無二の親友も、この一文に魅惑されて晩年コモ湖を旅したようです」と返事をいただく。

2月某日 ミラノ自宅
突然息子が代役でプラネタリウムで弾くことになったとかで、日がな一日、学校で試験をしてから、自転車でパレストロの市立オエプリ・プラネタリウムに出かける。「このプラネタリウムは1930年に完成したので、もうすぐ100年になります。現存するプラネタリウムとしては最も古いものの一つで、あなた方が座っているその木製の回転椅子は、なんと100年前のままなんです。あなた方が見上げている直径20メートルの白いこの穹窿も、プラネタリウムとしては最も大きなものの一つですが、よく見るとこの円天井の下の端に、360度、全景が黒く細かく街の影を切り絵で細工しているのがわかりますね。これは、1930年当時の、この地点から見えた本物のミラノの街の風景です。今のように背の高い建物もありませんでした。このプラネタリウムを訪れて、ここの椅子に腰かけているあなた方も、この建物が刻む、歴史の一端を担っているのですよ」。
300人収容のプラネタリウムは7割方埋まっていて、地味ながら根強い人気があるに違いない。一度訪れるとまた来たくなる、不思議な場所である。校外授業と思しき高校生の一団も熱心に聴き入っている。
天井一杯に映し出された無数の星を眺めていて、ベートーヴェン「狩」のメヌエットが始まったところで、不覚にも涙がこぼれた。変ホ調の寒色系の響きは確かに夜空と確かに親和性があるけれど、ベートーヴェンが音を通して伝える人の手触りや温もり、それらがそっと我々に語りかける言葉に、思わず胸が一杯になってしまったのだ。死んだら星になるというのは、あながち間違いではない気がする。

(2月26日 ミラノにて)

レーベルをたちあげる、たちあげてしまった(2)

仲宗根浩

具体的にどのようなデザインにし、どのような体裁のものにするか、プロデューサーである作曲者の要望を聞きながら前提をきめる。限定版にしない。曲の解説の英訳、海外への販路。その次に曲解説の原稿。これは2017年のコンサート開催時のパンフレットをそのまま使用し、新しく録音した曲に関しては書き下ろす。ジャケットのデザインは2017年のコンサートのチラシのイメージで、ということなのでその旨デザイナーに伝えチラシのPDFデータをわたす。ブックレットは最大16ページ、それに収まるように日本語解説、コンサート時の写真をはさんで英訳解説にし、あとはパンフレットのデータを待つ。その間に翻訳者をまずオーストラリア出身で先生の弟子でもあるマクイーン時田深山さんに決め、英訳が無い出演者のプロフィールを訳してもらう。プログラムのデジタルデータが届き、内容を確認すると万葉集、漢詩の引用がある。一恵先生自身による復元楽器の解説は音楽学的な部分で確認するところがあるため昔ご一緒したことがある柿沼敏江さんに依頼。いろいろ聞いてみると日本の古典や漢詩に関して既に英訳されたものは引用する場合には訳者の許諾が必要になり場合によっては使用料を求められる場合があるとのことなので、杉山さんが粗訳をしそれをピーター・バードさんにブラッシュアップしてもらう、という提案を受け進める。ブックレットに使用する写真は故平井洋さんが当時撮影したものが多くあり、ご本人のコンサート評が note にもあるので写真の使用許諾をご遺族に得る。こういう作業をしながらジャスラックへの確認、JANコードの取得を進める。マスタリング担当の櫻井さんより曲それぞれの収録時間がわかったので、ジャスラックへオンラインで申請すると、突き返される。二枚組CDの場合はそれぞれ一枚づつ申請せよ、よって先に申請した二枚目の分を削除し、新たに二枚目の分を作成し申請するように、と。オンライン上の使い勝手がいいとは言えないインターフェイスで削除、修正を終え再申請。

タイトルは新しく録音した曲名である「待春賦」に決まったので、デザイナーの林さんからデザイン案ができ、杉山さんに見てもらう。デザイン、色味に関してはOKをもらうがタイトルの「待春賦」を大きく、できれば太め揮毫、可能であれば一恵先生自身のもの。ウッ、となる。すべては先生の体調次第。先生にお願いのメールを送り、娘さんのかなちゃんにも同じ内容をLINEで送る。途中、たまに先生のご様子を伺いに行っている者から自室には筆と紙が用意されて書く気はある様子、と連絡が入る。お願いのメールを送って十日余り、毛筆のものと筆ペンのもの二種類が書きあがったとのこと。両方とも送っていただくようお願いし書が到着、すぐにスキャナーでスキャンしデザイナーへデータを送り、二つのジャケット案ができた。杉山さんにどちらがいいか見てもらう。原案より毛筆のほうを少し大きめにし表ジャケットは完成。ジャケット他のクレジットも形になっていく。ブックレットの英訳も翻訳をお願いしたみなさんからいろいろな意見が出てくるが最終的には私の判断で表記を決める。結局デザイナーの林さんにはブックレットの原稿の流しこみを含めてDTPに関わる作業を全て担ってもらった。集まったテキスト、画像データはプレス会社指定のフォーマットにレイアウトされ、櫻井さんのマスタリングされたデータも指定の形式ですべてが納入完了した。発売日が決まり、オンラインショップに海外へは郵便で配送してくれるところも見つかった。

盤が出来上がって、関係各所にサンプル盤と製品盤を送る。で、「待春賦」の録音年が2023年になっているとの指摘。急ぎお詫び訂正のステッカーを作成し手元にある盤に貼り、まで販売にいたっていない盤用に送付、SNSで告知をする。大手オンラインショップに収めた最初の30枚には貼ることができず、おのれの詰めの甘さに落胆する。全部のデータを見たら自分が入力した時点から間違っていた。まあこれもまぬけな自分らしいか、と諦める。ジャスラックへの最初の電話問い合わせ以外、やり取りは全てメールのみで済んだ。

二月の最後の日、土曜日。一恵先生の二七日。

教育の名言(5)

増井淳

人類が現代人のような言葉をしゃべり始めたのはわずか7〜10万年前。そして、人間がチンパンジーとの共通祖先から分かれ、独自の進化の道を歩み始めたのは700万年前です。つまり、進化の過程のうちほとんどの時期は言葉を使っていませんでした。言葉は脳を大きくした原因ではなくて、結果だったのです。 山極寿一 
(山極寿一『老いの思考法』文藝春秋)

山極寿一は霊長類学者・人類学者。元京都大学総長。京都大学の伊谷純一郎のもとでサルやゴリラの研究をはじめ、40年に渡る霊長類の研究を通して、人間とは何なのか、どこから来てどこにゆくのかを探求。サルや類人猿の生態観察から、人類のルーツがどこにあり、なにが人間を根源的に特徴づけるものなのか、700万年の進化史を通して、人間の本質を明らかにしようとしている。
「進化の過程を遡れば、人間は長らく生身の身体の共鳴を大事にする社会を形作ってきたのです。人が言葉を話すはるか以前から、音楽があり、踊る身体が発達しました」(山極寿一『老いの思考法』)

  *

人類の言語史の、ごく新しい時代に文字と書きことばが生れ、それを管理するための文法と言語エリート層が形成された。フリッツ・マウトナーが言うように、文法が生れる以前は、だれも文法の誤りなど犯さなかったのである。文字のもたらした言語知識の独占に対し、言語学を含めて近代の精神は解放へのみちを模索してきた。その精神とは、なるべく少ない知識と、わずかな約束ごとによって、すべての人が読み書きの世界に参与できるように、自由な言語活動への土台を保障しようというものであった。明治以来、日本も基本的にはこのみちをはずれることはなかった。我々はいまになって、この歯車の逆さまわりを許してはならないのである。 田中克彦 
(田中克彦『ことばの自由をもとめて』福武文庫)

田中克彦は言語学者。中国とロシアというふたつの大国にはさまれたモンゴルを研究する中で、言語学へと活動の幅を広げた。「正しい文法」や「単語の知識の管理人」に対して、言語学のゆたかな知識を駆使しながら、民衆のもつことばのいきいきとした働きを擁護しつづけている。
「ことばのものしりのためにおどしつけられ、ものも言えなくされてしまった人間のためにこそ、ゲンゴガクだの科学だのが役立たねばならない」「美しいことば、力強いことばは、苦労してやっと字引きの中からさがし出して来るものではなく、いじけぬ、きがねのない言語活動の中から生まれてくるものである」(田中克彦『ことばの差別』農山漁村文化協会)

  *

森羅万象のうち、じつは本名をもたないもののほうがはるかに多く、辞書にのっている単語を辞書の意味どおりに使っただけでは、たかの知れた自分ひとりの気もちを正直に記述することすらできはしない、というわかりきった事実を、私たちはいったい、どうして忘れられたのだろう。本当は、人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾るためでもなく、私たちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要だったのに。 佐藤信夫 
(佐藤信夫『レトリック感覚』講談社)

佐藤信夫(1932〜1993)は言語哲学者。元国学院大学教授。佐藤の一連の「レトリック」に関する著作を読んだときの驚きは、今でも忘れがたい。彼の本が出るまでは、レトリックとは「口先だけの美辞麗句やごまかし。また、誇張した表現」(『現代国語例解辞典〔第三版〕』小学館、2001)と一般的には思われてきたし、今でもそう考えている人が多いのではないだろうか。
ところが、佐藤によれば、レトリックは古代から《説得する表現の技術》であり《芸術的表現の技術》であったし、さらに《発見的認識の造形》でもあるという。
「言語は、技術的苦労なしに、すなおに正直に忠実にものごとを記述しうる道具である、という恐るべきうそ」(『レトリック感覚』)を私たちは信じ込んでいたがゆえに、レトリックのもつゆたかな意味と必要性を忘れていたのだ。

うたと家族と、るう (3)

植松眞人

 三・歌えないうたを抱いて

 うたが生まれた頃、優作は音楽レーベルの取締役に収まっていた。最初はアーティストのマネジメントをしていたが、歳の近いアーティストが薬物によって逮捕される事件が発生すると、法務とのやり取りを任されることになった。その時の仕事ぶりが買われ、弁護士とのやり取りや書類の処理が主な仕事になり、優作はクリエイティブな業務からは完全に離れる結果となった。都内の内装の豪華な産婦人科で、ハイブランドのスーツを着てうたを抱いている優作の写真は、まるで冗談を合成写真にしたように不自然だった。その隣で、淡いパステルカラーのマタニティウェアを着ている美代は、優作とは不釣り合いだった。
 うたの最初の記憶は、父と一緒に歌っている風景だった。誰かの記憶と混ざっているのかもしれないけれど、行ったこともないような田舎の風景の中に、スーツを着た優作に抱かれた自分をよく思い出した。優作に抱えられた自分は腰のあたりで身体がくの字になり、目の前には揺れる砂利道があった。不思議と息苦しくはなく、揺れる砂利道を見て、うたは笑っていた。そして、その揺れに合わせるかのように、優作の歌声が聞こえた。何を歌っているのかは分からなかったけれど、うたは心地よくそれを聞いている。聞いていると、優作の声に混ざって美代の声がかすかに聞こえる。なんと言っているんだろう。美代は、おかあさんは、私たちと一緒に歩いているんだろうか。それとも、どこかから声だけが聞こえているんだろうか。そう思った途端に、ほんの少しだけきれいなピアノの音が聞こえた。そして、ピアノの音の間から美代の声が聞こえた。「お父さんに歌の題名を聞いてごらん」とその声はうたに言うのだけれど、美代の声はうたを緊張させた。その緊張が優作の手に伝わったのか、優作は歌うのをやめてうたを抱え直した。うたは美代の声を聞いてしまったことがいけないことのような気がして、優作に抱えられながら息を殺した。
 うたの家は広かった。幼稚園の頃から遊びに来る友だちが「うたちゃんのお家は広いねえ」と繰り返すので、うたは自分が大きな家に住んでいる恵まれた子どもなのだということをはっきりと自覚していた。けれど、それを自慢したい気持ちはなく、みんなと違うところに住んでいるという居心地の悪さを感じていた。そして、自分以外の友だち同士は互いの家を行き来したり、時にはお泊まりで遊んだりしている話しを聞いて、自分だけはその輪の中に入れないのだということを知っていたような気がするのだった。
 一度、幼稚園の年長さんが終わる頃に、たくさんの友だちが遊びに来たことがあった。うたの友だちと言うよりも、美代と話ができるママ友が数名、子供を連れてきた、という感じだった。実際、こんにちは、と遊びに来た同じ幼稚園の子のなかには、一度も同じクラスになったことがない子もいたし、同じクラスでもほとんど話したことがない子もいた。
 それでも母親同士が楽しそうにしているので、うたもその他の子たちもできるだけ楽しそうに話し、絵本を読み、玩具で遊んだ。
 そのうち、リビングルームに置いてあるアップライトのピアノをママ友たちが話題にし始めた。深い青色のピアノの色にみんなが魅了された。
「ねえ、美代さん、さわってもいい」
 誰かが言う。美代は嫌な顔を見せずに、ピアノの蓋を開けて見せた。真っ白な白鍵と漆黒の黒鍵が並び、鈍く光っていた。その美しさにママ友たちが魅せられ呆然としている間に、美しいということが理解出来ない馬鹿な女の子が一人、ママ友たちの間をピアノに向かって歩いていることにうたは気が付いた。どうしよう、ママのピアノにあの子の汚い手が触れてしまう。そう思った瞬間に、美代がピアノと女の子の間に身体の移動させるのが見えた。女の子は行く手を阻まれたのだけれど、どうしてもピアノに触れたかったのか、美代の身体を押し退けるような格好で、鍵盤に触れようとした。すると、美代はみんなから見えないようにその手をすっと自分の両手で包み込んだ。女の子は美代の顔を見上げたけれど、美代は笑ったままだった。そして、女の子の手を下に降ろさせた。流れるような動きだったのだけれど、その時、女の子の表情が歪んだ。女の子は飛び退くようにピアノから離れた。森の中で遊んでいて、急にスズメバチの羽音に気付いた時のように、女の子は歪んでいた顔をさらに歪ませて、自分の母親を探した。うたも同じようにその子の母親を目で追ったが、その子のママは美代のピアノの美しさに夢中で自分の子どものことは何も見ていなかった。ふいに、そのママが声をあげた。
「ねえ、ナナちゃん、ちょっとだけピアノ弾かせてもらおうか」
 その声に、ママ友たちから歓声があがり、拍手が起こった。美代は笑ってナナちゃんと呼ばれた子を手招きした。ナナちゃんはさっき誰にも知られず美代から包み込まれた右手をギュッと握りしめながら、そこに立っていた。
「ほら、いいって。この前、発表会で弾いたでしょ。あれを弾いてあげて」
 ナナちゃんママがそう言うと、ナナちゃんはもう一度、恐る恐るピアノに近付いてきた。美代はピアノの椅子の高さを調整して、それでも足りないと分かっていたので、別の部屋から硬めのクッションを持ってきて椅子の上に置いた。準備ができると、ナナちゃんママがナナちゃんを抱えてそこに座らせる。他のママも協力して、椅子をピアノに近付けると、演奏の準備が出来上がった。
 うたは美代を見ていた。美代はナナちゃんたちを見ながら笑っていた。
 ナナちゃんはピアノを弾こうとしなかった。ナナちゃんママが何度言ってもナナちゃんはじっと動かなかった。ナナちゃんママが焦って、いつもは弾くじゃない、と少し大きな声を出すと、ナナちゃんはギュッと握りしめていた右手を差し出した。その手は赤く腫れていた。ナナちゃんママが、その手を見た。
「どうしたの。腫れてるじゃない。こけたの。打ったの」
 矢継ぎ早に聞くが、ナナちゃんは答えられない。その時、美代がナナちゃんに問いかけた。
「ねえ、どこかで転んだの。それとも、幼稚園でお友だちとケンカしちゃったのかな」
 うたは美代の言葉にナナちゃんが答えられないことを知っていて、なぜかナナちゃんの助けないといけない、と思ったのだった。
「ママがピアノを弾いて。私が歌うから」
 うたがそう言うと、美代はとても嬉しそうに笑った。
「ほんとに。うたちゃん、いままでうちで歌ったことないもんね」
 そういうと、ナナちゃんを椅子から降ろし、椅子の高さをアッという間に調整しピアノの前に座った。
 ナナちゃんのことは何もなかったかのように、演奏の準備が整った。ナナちゃんママは、勝手に戦いを挑んで、勝手に負けてしまった人のように打ちひしがれていた。ナナちゃんはすでにさっきのことも手が腫れていることも忘れて、これから始まる美代の演奏とうたの歌に目を輝かせている。その様子を見て、うたはナナちゃんが可哀想でならなかった。これからもずっとナナちゃんは私の歌を待っているんだと思うと、なんて可哀想な女の子なんだと涙が出そうになった。そして、そんなナナちゃんを育てたナナちゃんママは悪い人だと思った。もしかしたら、ナナちゃんママは悪い人じゃないのかもしれないけれど、ナナちゃんが可哀想な子になってしまったら、ナナちゃんママは悪い人になってしまうんだ、とうたは二人を見つめた。その時、うたはこれからどんなことがあっても、可哀想な子にはならないと決めた。できるかどうかわからない。けれど、少なくとも自分で自分を可哀想だと思うような子にはならないと決めた。いま、目の前のナナちゃんは可哀想だと思って欲しい顔をしていた。
 美代はしばらくぼんやりとリビングの中を見渡したあと、少しだけ空いた大きな窓を見ていた。そして、たまに吹き込む風でレースのカーテンが揺れるのを見ていた。みんなの視線は美代の指先に集中していた。美代は見つめていたカーテンがふいに浮かびあがった瞬間に両方の手をほんの少し上げて、そのまま降ろした。和音が鳴った。とても綺麗な音が響いた。その場にいたママたちと子どもたちがしんと静まり返った。ナナちゃんママの顔はもっと悲しそうな顔になったし、ナナちゃんの顔はもっと可哀想に見えた。
 うたは、美代が弾いたその曲を知らなかった。聞いたことのない曲だった。美代が家でピアノを弾くことはないし、もしかしたら、ピアノの蓋を開けたのも今日が初めてだったかもしれない。そんなことを考えていたら、今日は家の中の何かが、美代の何かがこれまでと違ってしまった日なのかもしれないと、うたは思い始めた。美代の演奏は少しずつ和音を重ねていく。うたは細く小さく、あー、と歌った。和音の間に、うたの声が不協和音となって差し挟まれた。美代がピアノを弾く手をとめる。最後に弾いた音だけが残響として響き続ける。うたの細い声もその音の美しさをはぎ取るかのように続く。心地の悪い不協和音が次第に音が小さくなっていくのに、響きだけが大きく鳴っていくかのような印象をリビング全体に残していく。
 十九歳になったばかりのうたは、時々、あの日のことを思い出す。あの日、なぜ母はあんなにたくさんのママ友や幼稚園児を家に入れたのか。日ごろ、人を招くことなんてないのに。そして、普段は家でピアノを弾いたりしないのに、なぜ、ピアノを弾いたのか。なぜ、自分は歌など得意でもないのに、歌うと言い出したのか。なぜ、母の弾く和音を乱すような声を出したのか。いや、出せたのか。あの日からうたは歌わなくなった。正確には、歌えなくなった。うたという名前なのに、と誰に揶揄されても、例え、音楽の授業で成績が付かなくても、うたは歌わなくなった。美代は時々、ピアノを弾くことはあるけれど、あの日のように弾くことはない。誰もが知っている楽譜通りの音を、まるで自動演奏のピアノが弾くように弾く。

立山が見える窓(8)

福島亮

 ジュスイ……チュエ……イレ……エレ……。音声ファイルを再生すると、辿々しく小鳥が囀るような声が聞こえてくる。「初修第二外国語」(と、記してみて、「第一外国語」ってなんなのだろう……という自問がどうしても浮かび上がってくるのだが)としてフランス語を学んでいない学生を対象とした春休みのあいだの集中レッスンをしており、その課題として、指定した箇所の録音ファイルを送るように言ってある。その最初の課題が提出された。習いたての動詞の活用を掌に乗る小さく薄い機械に向かって吹き込む彼ら彼女らの声はまだ自信がなさそうなのだが、しかし、「わたしは、きみは、かれは、かのじょは」という、まだ不器用ではあれ確かな意味を持った言葉たちを聞いていると、15年前、大学の教室で同じ動詞の活用を初めて口にした時のことが思い出される。震災のため連休明けまで授業がなかったから、買ったばかりの教科書を持って教室に入った時には、ややくすんだ窓の外の5月の緑が鮮烈だった。あの時教室にいた初夏の雛鳥たちもやはり、ジュスイ……チュエ……イレ……エレ……と、どういう仕組みかもよくわからぬままに、英語のbeに相当する動詞を口に出し、覚えようとしていた。フランス語を学ぶ際に真っ先に覚えさせられるこの動詞は、その活用のややこしさを除けば一見単純なように見えるけれども、そこに秘められた意味と用法の多様さを理解するのは一苦労で、5月の教室の黒板の前に立っていた親鳥はきっと、そんな先のことまで想像し、いつか彼ら彼女らにそれがわかる時が来ることを信じながら、辿々しい呟きを聞いていたのだと思う。

 外国語は、学ぶよりも教える方がずっと楽しい。もちろん、外国語の入門書を手にすると胸がときめくし、例えば「ひよこ豆」を英語でなんというのかとふと気になって調べてみるのは楽しいことだ。けれども、それを継続的に行うとなると、根気が必要になり、そして残念ながら私に決定的に欠けているのはこの根気だから、一冊の入門書を計画的にこなすよりも、あれやこれやに手を出して、結局何もものにならない。けれども、教えるとなると話は別だ。その時に必要なのは使い慣れた教科書で、しかも欲を言えば、できるだけ薄くて簡素で一見不親切なものが良いのだが、それさえあれば、チョークでアスファルトに描いた線路の上を機関車になって進むように、一つ一つの停車駅にとまることができる。教師という立場が避け難く持ってしまう優位性を味わっているのかもしれないけれども、実感としてはむしろ、自身の理解のあやふやさにビクビクしながらの運行だから、教えながら教わっているという方が近い。きっと外国語というのは教わるよりも教える方がずっと得るものが多いのだ。だから時々、例えば学生が外国語を教わるのではなく教えることでその言語を学ぶような授業を組み立てられないかと夢見ることがある。教師は教室の隅に座っていて、見守り、彼ら彼女らが教える内容が間違っていたら指摘してやり、発音ができなければなおしてやる。15人程度の小規模な教室ならば、もしかしたらそんな教え方でもうまくいくのではないか、などと思いつつ、まだ実行はできていない。

 先に教科書について、できるだけ薄くて簡素で不親切なものが良い、と記した。職業柄手元には多くの教科書が送られてくるのだが、それらは基本的には多色印刷で、美しい写真やイラストがふんだんに添えられており、紙の質もそれにあわせてツルツルしている。ほとんど強制的に選択させられる「初修第二外国語」の学習経験を可能な限り心地よいものにしてやろうという教科書執筆者の思いやりのあらわれだろうし、また、徐々に必修の枠から外され、それに伴って加速度的に学習者が減少している「第二外国語」であるから、「お客さん」にできる限りアピールして、選んでもらいたいという商魂のあらわれでもあるだろう。そのどちらも大切だということは、私自身も語学を教える立場にあるから理解しているし、たしかに、多色刷りで紙の質の良い教科書は、驚くほど高度な教授テクニックがそっと盛り込まれていて、それ自体、語学教育にかんする最新の学術的知見の産物なのだということがよくわかる。けれども、教科書に対する「フェティシズム」という観点からいうならば、そのような親切な教科書が必ずしも魅惑的とは限らない。むしろ、一見不親切な薄っぺらい教科書の方が何年経っても忘れられないということが、私自身について言えば、よくある。数年前、さる高名な批評家が語学教師として作った初級フランス語の教科書が復刊されて話題になった。1981年という、今とは比べ物にならないほどフランスの文化的威光が眩かっただろう時期に作成されたその教科書の一見簡素でありながら贅沢な造本はなんとも蠱惑的で、しかも、やや硬めの紙で作られた表紙は、半年も使っていれば手に馴染んで柔らかくなり、そうなればもう手放せなくなるだろう。現在の教科書の水準から見たら不親切に見える簡素な文法説明も、よく読んでみると、著者の経験に裏打ちされた貴重な助言に満ちていて、それを初学者が受け止めきれるかどうかは別だけれども、親切に思えてくる。

 外国語を教えることと学ぶことをめぐるこのようなフェティッシュな感覚は、おそらく指標化された言語の運用能力とはまったく別の次元のものだろう。日々進化していく外国語教科書は、そのことをよくわかっている。けれども、機関車になり、冷や汗を流しながらチョークの線路を進みつつ、ふと思うのは、そういった運用能力とは別の次元で、ある言語に執着できるかどうかこそがきっと大切なのだということ、また、執着という観点から見るならば、ノスタルジックな教科書も決して馬鹿にはできないということだ。そしてなによりも、どの時代にあっても、初級フランス語の教科書は、あの動詞の活用を辿々しく不器用に発音しつつ覚えることから始まる。それだけはきっと、どれだけ教授方法が進歩してもさして変わることはないだろう。ジュスイ……チュエ……イレ……エレ……。

見えないガザを歩く(2025年12月1日)

さとうまき

一日だけ時間ができたので、スデロットを訪れることにした。スデロットはガザ北端に隣接し、丘の上からガザを見下ろせる町だ。2014年の戦争では、イスラエル軍の空爆を見学しにユダヤ人が集まって、歓喜していたことから「恥の丘」とも呼ばれている。そんな場所に自分が行くのは気が咎めた。停戦合意はしたもののガザの友人からは、状況がひどいことを聞いていた。迷った挙句、少しでもガザに近づきたい気持ちが勝り、電車を乗り継いで向うことにした。

スデロット駅につき、ガザ方面へ向かって歩いていくと、ニル・アムというキブツにつく。中をのぞくと、銃を持った警備員に制止され、仕方なく諦めて歩いて帰ろうとすると、先ほどの警備員がジープで追っかけてきて、案内すると言ってくれたのだ。キブツを通り抜けると、ガザが見える。破壊され、瓦礫の山となった町がはっきり見える。手前にはエレツ・チェックポイントにつながる分離壁、奥には地中海が見える。波音が聞こえてきそうな距離だが、上空ではドローンのZZZZという音が鳴り続けてる。

警備員の若者は、「君にはわからないだろうけど、とても複雑な気持ちなんだ。僕はネタニヤフが大嫌いなのに、非難しないようにと言い聞かせなければならなかったんだ」と複雑な心境を打ち明けてくれた。すると、ドカーンと大きな音がして、煙がまいあがる。ドローンによる空爆だ。

これだけ、多くの民間人を殺してこれからイスラエルはどうするのか。僕は、イスラエル人が実際何を考えているのか、聞いてみたかったが、本音を聞き出すすべを知らなかった。しかし、警備員の青年は、問わず語りに話し始める。

彼は予備役で今回も何度かガザに入ったそうだ。「ガザの人たちは、ハマスに支配されて、彼らに逆らえば、仕事ももらえない、食っていけない。最悪殺されてしまうんだ。ハマスはユダヤ人を憎むように教育する。ハマスの軍服を着てなくても、僕らがガザに入って行くと武器を手にして殺しに来る。だから民間人も同じなんだ。だから、ガザの市民をハマスと切り離すために僕たちは戦っている。僕たちは、ガザを占領しようとは思わない。彼らにも僕たちのように国ができればいいと思うけど」「僕の家族や友人が殺された。僕には、ガザから働きに来ていたパレスチナ人の友人もいたけど、彼らはガザで生きているのかどうかわからない。難しいけど、僕たちは、平和に暮らしたいんだ」別れ際には、「本当に、見に来てくれてありがとう」と感謝の気持ちまで伝えてくれた。

時間のない中で、タクシーを拾って、ハマスの襲撃を受けた警察署にも立ち寄った。そこは、建物はすべて撤去され、公園になっていた。戦闘を伝えるようなものは残っておらず代わりに18本の大きな柱が天に向かってそびえている。18はヘブライ語で「命」という意味があるそうだ。2年が経ち、この町は、日常を取り戻し、過去の悲劇よりも未来に向かっていることを強調していた。ユダヤ人の団体が入れ代わり立ち代わり訪れて説明を受けていた。避難していた町の人々も帰還して10月7日は勝利の歴史として過去のものになったのだろうか? 上空には常にZZZZというドローンが飛ぶ音。イスラエルの市民にとっては、自分たちを守る音。ガザの人には命を脅かす音だ。

電車にのり、テルアビブで下車。人質広場についた。戦争が始まってから「Bring them home now !」と掲げ、人々が集い、ポスターやモニュメントを展示して人質解放を訴えた場所だ。ガザで殺されているパレスチナの子どもたちのことには触れず、きちんと交渉をしないネタニヤフ政権に対する抗議の意味合いが強かった。最後の20人が生きて帰って、終わったという安堵感が漂う。「お祭りの翌日」といった雰囲気もあった。人質広場のボランティアのおばさんは、これからは、ガザ戦争の「正義」を伝えていくことがミッションだという。「イスラエル軍のジェノサイドはありません!問題はハマスです。彼らが病院や学校の下にトンネルを作るからこのような悲惨な結果になったのです」ととてもソフトに語り掛ける。

多くのイスラエル人にとってガザの人たちは、本当に「見えない存在」になっていることを強く感じた。先日、日本で、イスラエル関係の勉強会があり、イスラエル政府からは「戦争は終わりました。自由貿易協定の話を進めましょう。ワーキングホリデイ協定を締結して日本の若者の皆さんがイスラエルに来て働いてください。日本の外務省は、危険度2から1に下げて、日本人がたくさん観光に来るようにしてください!」とこれからの日本とイスラエルの友好関係の構築を強調していた。しかし、空らの口から、ガザが語られることはない。

ガザでは、国連も、NGOもイスラエルによって活動が制限されたままだ。家屋は破壊されたまま。避難所では、寒い中テントすらも支援がなく自分たちで調達しなければいけない状況である。日本では報道も少なくなり、我々日本人も、ガザの人々が見えなくなるのは簡単なのである。

二月の異世界転生

新井卓

咳をしても一人……というわけもなく狭いアパートに三人家族で暮らしているのだが、こんこんと咳き込んでいる間に二月を見送ろうとしているのは確かだ。高熱に浮かされたこどもを看病しながら飛沫をあびまくった結果、本人がすっかり元気になって走り回るころには、代わりにわたしが布団に臥せっていた。きっと、性質の悪いインフルエンザに違いない。だから、ベルリンの日本大使館に在外投票に出かけた二月一日以降の記憶があまりない。ようやく起き上がり外に出られるようになった頃には、日もずいぶんと長くなり、シジュウカラ(こちらのシジュウカラは鮮やかな黄色のお腹をしている)が巣の材料を探して飛び回り、素敵なさえずりを響かせていた。

最高潮に調子が悪かった時期、義理の兄のヤーニスが休暇をとってベルリンにやってきた。かれはドイツ西部のボーフムのWG(ヴェーゲー)つまり共同住宅に六人で暮らしているのだが、休みになると一人になりたくてうちに泊まり、タブレットを抱えて小部屋に引きこもってアニメ三昧で過ごすことにしているらしい。かれがいるとこどもは嬉しいし、完全に病人のわたしに代わって家事をやってくれるしで、正直とても助かった。

ヤーニスがいま特にはまっているのはいわゆる「異世界転生」もので、一日一シーズンの勢いで制覇しオンラインで見られるものはだいたい二周目に入っているという。わたしはそのへんの知識が全くないので、リクエストに応じてアニメに出てくる料理を作ってあげたりするだけだが、かれのうんちくを聞きながら、もしかするとわたしもどこかで異世界に転生したんではないか、という気がしてきた。41度台の熱で朦朧としながら、選挙を勝ち取った日本という国のリーダーたちの顔を見、毎日公開されるなんとか文書の関係者の顔や、よその国をテロ国家と名指しするテロ国家の元首の顔を見ながら、吐き気がひどくなってスマートフォンを放り投げた。空気を入れ替えよう、と窓を開けると、固く凍りついた残雪はすっかり消えてなくなり、路上に、まるひと冬のあいだヒトが投げ捨て、ヒトが連れ歩く犬たちが残したぞっとするような量の汚物が露わになっていた。しかし世界のどこを見ても、うちの前の通りそっくりじゃないか。でも、残念なことに世界には、通りや公園の汚物を一夜にして片付けてくれる、魔法使いみたいなBSR(ベルリン市清掃局)はいない。

ごみだらけの辻々を嬉々として跳躍するクロウタドリたち、軒先からリンデン(西洋菩提樹)へすばやく渡りあるくリスたちや、そして、たまに何食わぬ顔ですたこら歩いている街のキツネたちは本当にすごい、といつも思う。ヒトが自分の汚物で埋めたてた空間、直線にしか進まずいつか終わることにされている壊れた時間とはまるで違う時空で生き、全然違う風景のレイヤーを見ている。擬人化せずにはほかの生きものを──移民もこどもも宇宙生命体も──愛せない人にはきっとそれが見えない。できるならキツネに転生したい。しゃれこうべ柄のデザインがおかしいヒメジュウジナガムシでもいいし、厄介もののイタドリでも、サルオガセ(これだと二種共生欲張りセットだ)でも、べつにだれでもいいけど。

そうこうしているうちに、ベルリン、ノイケルンでの暮らしも終わりに近づいてきた。連れの転職先が見つかり、急きょドイツ西部への引っ越しが決まったから。ようやくできた仲間たちとの別れは名残惜しいが、少し距離が離れたところで何も変わりはしない、とお互い知っている。転生はつづく。

シリツしたのだが

篠原恒木

前回までのあらすじ……横着しないで前号のバックナンバーを読みましょうね。

目が覚めた。いや、意識が徐々に戻ってきたと言うべきか。おれはストレッチャーに載せられ、シリツ室から病室へ運ばれているらしい、ということがぼんやりとわかってきた。
そうか、シリツが終わったのだ。成功したのだろうか。何時間かかったのか。術前の説明で執刀医は「九十分ほど」と言っていたので、ぴったりなら想定内、それ以上かかっていたらやや苦戦したということだろう。おれはどうやって時刻を確認したのか、まるっきり覚えていない。ナースに訊いたのか、運ばれた病室の時計で確認したのか、今となっては皆目検討がつかない。だが午前十一時三十七分だったということはくっきりと覚えている。手術開始時刻が午前八時三十分からだったので、予定通りなら九十分後の午前十時にはシリツ終了のはずではないのか。時間がかかり過ぎだろう。いまが午前十一時三十七分ならば、何時間かかったことになるのか。三時間か。三時間は九十分の二倍ではないのか。ウッソー、ヨクワカンナイと思ったら、再び意識が混濁した。次に痛みで目覚めたのは午後一時だった。

二月二日の午前八時三十分、おれは大学病院のシリツ室に横たわっていた。まず腰のあたりに硬膜外麻酔のチューブを挿入された。これが痛かった。次に左手の甲に点滴用の針をブスリと刺され、口元は麻酔のマスクで塞がれた。
「大きく深呼吸してくださーい。すぐ眠れますからね」
おれは言う通りに大きく息を吸った。ゆっくりと五回吸ったが、意識がまったく薄れてこない。
「大丈夫かな。麻酔が効いてこないじゃん」
そう思った瞬間、それからの記憶が三時間消えた。

気がつけば午前十一時三十七分だったのだ。頭が朦朧としていて、記憶が曖昧だが、再び午後一時に目覚めたおれは左膝の激痛でどうしようもない状態になっていた。ベッドのそばにいる誰かに助けを求めた。誰か、と書いたのはそれがナースなのか医師なのか記憶がないからだ。ツマではない。シリツ当日の面会は禁止されていたから、それは確かである。とにかく呻き声で、
「痛くて痛くてどうしようもありません。麻酔を追加してください」
というような意味の言葉を吐いたことは確かだ。

シリツ時に腰へ入れたチューブは硬膜外麻酔だから、そのボタンを自分で押しなさい、と誰かに言われたおれは必死でチューブの先端についているボタンを探したが見当たらない。誰かがボタンをおれの手に握らせてくれた。
「痛くなったらこのボタンを押すのです。そうすれば背中から麻酔が入りますからね」
おれは必死にボタンを押した。親指に力が入らなかった。ようやくカチッという音がしたが、麻酔がモンダイの左膝に到達しているのか、まったく実感できずにいた。
「効いてないよー」
おれは再びボタンを押したが、今度はカチッという音がしなかった。どうやらボタンの連打はできない仕組みになっているらしい。「麻酔の入れ過ぎ注意システム」が作動しているのだ。ちくしょう。痛くて目を閉じると両目尻から涙が頬を伝わった。

どうしてこんなに痛い思いをするシリツをしてしまったのだろう。おれはあり得ないほどの痛みのなかで激しく後悔していた。シリツなどせずに、鎮痛剤を飲み続けて、痛みと騙し騙し付き合う人生のほうがまだマシだったのではないのか。

おれは入院日の一月三十一日に麻酔科のセンセと面談したのだが、そこで麻酔医がフト漏らした言葉を思い出していた。
「この手術は、術後の痛みにかけてはトップクラスですからねぇ」
そうなのか、とそのときは深く考えなかったが、一方で執刀医の
「左膝の壊死した骨を削り、その骨の代わりにプレートを嵌めて、また縫合します。傷口の長さは縦に十五センチほど」
という説明も思い出していた。聞いたときは「ふーん、そうか」というだけで、何の疑問も持たなかったが、あのときにもっと想像力を働かせておけばよかったのだ。たとえばこのような想像力。

「骨付きのフライドチキンを骨が見えるようになるまで食べるには」

おれの頭の中はそのヴィジュアルでいっぱいになり、また痛みが増した。
骨に到達するには表皮、真皮を切り、さらに内側の筋肉、筋膜を切って骨まで進み、壊死部分を見つけ、そこの骨を削って代わりのプレートをつけるというわけだ。痛いに決まっている。迂闊だった。

結局、シリツ当日は午後一時から次の日の朝まで一睡もできず、キリキリと痛む左膝におれはあっさりと白旗を上げてしまった。真夜中にナースが鎮痛剤の点滴を二回交換しに来てくれたが、喋るのも辛かったおれは脂汗をかきながら寝たフリをしていた。このようなバクハツ的な痛みは、オノレの精神状態まで大きく変えてしまうことがよおくわかった。ナースに「ありがとう」のひと言も言えない自分に戸惑いながら、
「ちくしょう、もうどうだっていいやあ」
と、一晩じゅう心のなかでホザいていた。

シリツ翌日の朝、いきなり尿カテーテルと酸素マスク、心電図のケーブルが外された。もっともこれらは、のちにナースへ
「あのときは何を外したの?」
と質問してわかったことで、そのときは
「おいおい、激痛は治らないのに、一気に何本かのスパゲティが外れたな」
としか思えなかった。余裕ゼロだったのだ。

そしてナースが二人掛かりでおれをベッドから起こし、そばに置かれた車椅子にそおーっと腰掛けさせた。曲げた左膝は当然悲鳴を上げた。だが、この「車椅子に座らせる」というのがリハビリの最初の一歩だということが次第にわかってきた。

「痛いでしょう。でもね、この車椅子でトイレまで行って、トイレの便座に移動して用を足してまたベッドまで戻ってくるのが大切なんです」
ナースの言葉におれは反論した。
「でも、こんなに痛いのにもう動かさなければならないのですか?」
「そうです。問題ナシということで尿カテーテルも取ったので、これからは用を足したくなったら、ナースコールで私たちを呼んでください。車椅子にご移動するのをお手伝いして、トイレでは腰掛けるのをサポートしますので」

どうやらこのシリツは、問題がなければ術後すぐに膝周りを積極的に動かし、次のステップであるリハビリテーションに繋げていくようだ。術後なるべく早くに、どれだけ膝周りの筋力を回復させられるかがポイントになってくるらしい。だが、おれは思った。
「ションベンがしたくなるごとに若いナースを呼んで。トイレまでお世話してもらうのは男の股間、いや、沽券に関わるではないか」

三回目の尿意が来たとき、おれは病室に持ち込んだ杖を持って、ベッドから立ち上がってみた。膝がカクンとなりそうになったが、なんとか持ちこたえ、杖をついて自室のトイレまで行くことができた。便座に腰掛けるのも激痛を伴ったがイケた。立ち上がるときは左膝にビリビリと高圧電流が流れたが、そのまま杖でベッドまで戻ることができた。

これはとてもいいリハビリなのではないか。

そう思ったおれはそれ以降、ナースを呼ばずに杖をついて一人で何回もトイレとベッドを往復した。そのたびに膝が動くので激痛が走り、ベッドに戻ると汗びっしょりになったが、メスで切られた筋膜や筋肉の線を早く回復させるにはとにかく動かして筋力をつけて、しかもその可動域を広くさせてやることが大切なのだ。

この「車椅子すっ飛ばし・自力歩行でトイレへ」作戦は、しばらくしてナースに見つかり、怒られてしまったが、彼女は同時に驚いていた。
「もうご自分でトイレに行ったのですか? 昨日手術したばかりなのに」

ツマが見舞いに来てくれた。
「痛い?」
「痛いよう。昨日は一睡もできなかった。今夜もたぶん同じだよう」
「明日になったら痛くなくなっているよ」
「どうしてそんなことがわかるんだよう」
「わかるんだよ。大丈夫だよ」
ツマはそう言うと帰っていった。

そしてシリツ翌日は、いくつか投入された追加の痛み止めの点滴と、おれがボタンを押す硬膜外麻酔の甲斐なく、激痛はちっとも緩和されずに終わっていった。眠れたのは一時間ほどだった。

潮目が変わったのは術後二日後だった。ぐるぐる巻きにしていた左膝の包帯が取れて傷口を見ることができた。見た瞬間に卒倒しそうになった。もうグラビア・タレントは引退だな、と思った。それはそれは物々しい傷跡だったのだ。傷の長さも十五センチ以上あるような気がする。膝上から膝下にかけて縦にまっすぐ二十五センチ以上はあるだろう。だが、包帯を外したら、それまでこもっていた激しい痛みが外へ流れていったような気がした。

少しだけど、昨日より痛みが和らいでいるような気がする。

ベッドの上から窓の外を見る余裕が出てきた。落ち着きのないおれはまたナースに内緒で一人で窓のところまで杖で歩き、窓を開けてみた。十五センチほどしか開かなかった。窓越しに見える下界は、ヒトビトが行き交い、横断歩道を小走りに渡るヒトの姿も小さく見えた。

ああ、外に出たい。そのことをおれは痛切に思った。病室は空調が効いているが、外は寒いんだろうなあ。しかし、いまのおれはその寒さをしっかりと感じたかった。外に出たい。
「シノハラさん、また自分で移動してる!」
部屋に入ってきたナースに見つかってまた怒られた。

仕方がないのでベッドへ戻り、TVをつけてみた。手術後初めてだ。つまらないのですぐに消す。どうやらTV局のカタガタはいまだに「お茶の間」というとっくの昔に消滅した幻想空間に向けて番組を作っているのだな、と思った。

術後三日目になると、膝の激痛は鈍痛に変わりつつあることが自覚できるようになった。もうここからはリハビリ勝負らしい。おれはリハビリテーション科の若い担当先生に訊いた。おれからすると孫娘のような先生だった。
「頑張って膝の曲げ伸ばしをすると、傷口がパカッと開いて血しぶきが飛ぶ、なんてことはありませんか」
「ありえません。そんなことがあったらニュースになってしまいます」
先生は笑いながらそう答えてくれた。

よおし、それならば痛みに耐えてリハビリに励もう、とおれは決心した。
退院後の生活の質もこのリハビリにかかってくるのだし、なによりあの術後二日間の激痛にきっちりとオトシマエをつけてやらなければならない。あの痛さに比べたら、リハビリの痛さなんてたかが知れている。

医療ドラマはシリツまでの患者、医師、ナースの物語にほとんどの尺を費やすが、術後の痛みを描いた作品はあまり見かけない。そうだよなあ、地味だもんなあ。でも、ここから退院までのおよそ十日間が、おれにとっては煉獄の日々だった。

リハビリの痛みはソーゼツだった。先生は若くて可愛らしい顔なのに、かなりサディスティックだった。おれは昔からマゾヒスティックだったので相性が良かったのかもしれない。二倍に腫れ上がった膝をいろんな運動でイジメ抜いた。
おれは終始歯を食いしばり、全身から脂汗が流れた。リハビリテーション・ルームから自室に戻っても、その日に行なった運動の反復練習をした。膝はますます腫れ上がった。凍ったジェルが入った袋でアイシングしても、すぐジェルがぬるくなってしまった。何度ナースに交換を頼んだかわからない。

ベッドの上ですることといえば、リハビリの自主トレと三度のめしだけだった。
TVをつけても衆議院総選挙のことばかりだ。もうおれは誰がソーリ大臣になろうと、どの党がセーケンを取ろうと、何の期待感も持てなくなってしまった。
しばらくすると選挙のことなどなかったことにされて、ミラノ・コルティナ五輪のニュースでTV画面は埋め尽くされた。おれは日本がメダルを何個取ろうが取るまいがどうでもいいニンゲンである。ゆえにつまらない。おれはTVを消して自主トレに励んだ。

気がつくと杖を使わずに歩けるようになっていた。一歩踏み出すごとに痛みはあるものの、何とか十分間は歩行可能になった。階段はまだ二足一段で昇り降りしなければダメだったが、これは文字通り「進歩」ではないか。
リハビリの先生からは、
「私が今まで担当した患者さんのなかで、いちばん回復が早いです」
とまで言われたおれは鼻の下を伸ばして、ますます自主トレに励んだ。おれは褒めて伸びるタイプなのだ。

入院から十五日経過した二月十四日、おれは退院した。タクシーで自宅へ帰るとき、窓を全開にした。気持ちがよかったが、同乗してくれたツマに「寒い」と怒られた。

入院中は平均二時間ほどの睡眠だったのが、家のベッドだとノンストップで九時間眠ることができた。病室の空調は完璧に作動していて、寒くもなく暑くもなく、そういう意味では快適だったのだが、まったく空気が動いていなかったということに気づいた。家の自室は狭くて汚くてどうしようもない有様だが、空気は動いているのだ。これは生きているニンゲンにとって活力になるのだなあと思った。

膝の術後の痛みは大きく分けて四つに分類される。
⑴25センチほど縫った傷口のつれるような痛み。チクチク痛む。
⑵骨を削って人工骨を入れた箇所の痛み。ジンジン痛む。
⑶切断された筋膜などの痛み。ズキズキ痛む。
⑷リハビリによって虐められた筋肉痛。シクシク痛む。

おれはチクチク、ジンジン、ズキズキ、シクシクの波状攻撃を受けながら、退院後も毎日たゆまずリハビリ自主トレを続けている。今日は家の周りを1kmほど歩行訓練した。運動すると左膝がすぐ腫れ上がるので、アイシングも欠かせない。いろいろと厄介だ。シリツはしたけれど、いつになったらこの膝の痛みから解放されるのか。先は見えない。三月三日には退院後初めての外来が予定されている。そのときに執刀医と膝を交えて話をするしかない。ニーと笑える日は来るのだろうか。

再会

笠井瑞丈

家族でドイツに渡り
1985年僕は母と兄を残し
父と二人で日本に戻った
最初友達もいなくて
話し相手と言えばもっぱら祖母だった
そいう事もあって
僕の方から習いたいと
言ったのか記憶がないのですが
ウチから10分位のところにある
公共施設みたいな所で
毎週日曜日の朝
合気道のクラスがあるのを見つけた
そして僕はそこに通うことになった
先生は当時25歳くらいの男の先生だった
今で言えばとてもイケメンの先生だった
当時僕がハマっていた刑事ドラマ西部警察
そこに出ていた俳優さんにも少し似ていて
とにかくかっこいい先生だった
子供のクラスは僕を含め2人しかいなかった
そのもう一人の子とは正直僕はソリが合わず
よく喧嘩をしたことを思い出す
その喧嘩をいつも止めるのが先生だった
いつも優しい声で僕らの間に入った
真冬の道着の着替えはとても寒かった
先生の黒い大きな袴を着る姿がいつもかっこよく見えた
日本に帰ってきて初めて触れたかっこいい大人だった
そこでは色々なことを教わった
挨拶から合気道の基本まで
特に受け身をたくさんやった
あの時に習ったことは
今でも僕の体に染み付いてる
それは今ダンスにも通じるものがある
そこからしばらくして場所が府中に変わり
バスで通うことになった
そして多分中学生に上がる頃に
僕は合気道を辞めてしまった
大好きだった先生は今どこで
今も道場かあった所を通ると
いつも思い出す

先月いま病と闘っている恩師に会いに行った
僕にとってはダンスの道を作ってくれた人だ
もう気づけば20年以上お世話になっている
よく一緒にお酒も飲んでたくさん話をした
そして色々なことを僕に教えてくれた人だ
久しぶりに会う先生と目を合わせて挨拶した
すっと吸い込まれそうになったあの瞳の輝き
あんな美しく悲しい瞳を見たのは初めてだった
久しぶり色々な昔話をする
当時の事が鮮明に思い出す
最近は未来を想像することより
過去を思い出す事の方が多くなった気がする
それはきっとこれから起こることよりも
過去の分量の方が
多くなってしまったからかもしれない
でも未来に希望を持ってない訳ではない

僕の大先輩の伊藤キムさんのカンパニー名は
『輝く未来』というネーミングだった
僕はこのネーミングは
いつも素敵だと思ってた
もう解散して何年も経ちますが
来年また復活するらしいという話を聞いた

ずっとパンクして動かさなかったバイク
ずっとエンジンをかけていなかった
これはあまりにも可哀想だと思い
久しぶりにバイクのカバーを取り
エンジンをかけるため
キック式でかけてみる
というのもこのバイクはセル式ではなくて
キック式しかないバイクなのだ
何度キックしてもかからない
ずっとほったらかしにしてたらか仕方ない
キュルキュルキュル
キュルキュルキュル
諦めかけた最後のキック
ブーンと久しぶのエンジン音が響く
またバイクに命が宿った瞬間だ
バイクといっても一つの生命なのだ
やっぱりちゃんと手入れをしなくては
バイク屋に連絡して修理の依頼をする
乗っていく事が出来ないので
かなり重いので面倒なのだけど
バイク屋に手で押しながら
トボトボと歩きながら運ぶ
しばらく続く狭い道で
角から合流した若いカップルが僕の横を歩く
なんでバイクを押してるんだろうという顔で
チラチラ僕の方をたまに見てくるので
ちょっと気まずい雰囲気だと思い
パンクしちゃってと話をする
向こうは笑顔で運ぶの大変ですねと
そして次の角で挨拶して別々の道に
バイクの修理が一日では終わらないと言う事で
バイク屋にバイクを預けていく
そしてまた同じ道を帰ろと思ったけど
それはつまらないと思い違う道を選択
花粉が飛び始めたとても暖かい日だ
途中コンビニでビールを買い歩きながら飲む
まだ陽がある時から飲む歩きビールは最高だ
途中小さな看板で合気道という文字を発見
ガラス張りの小さな合気道の道場がそこに
中には黒い袴を着けた真っ白な髪の老人が
僕に気づいて外に出て来てパンフレットを
少し立ち話をして
昔少し合気道をやっていた話をする
しばらく話してるうちに
はっ
あれっ
もしかして
その瞬間一瞬なにか真っ白な光を感じた
これが運命なのだ
本当にベートーヴェンの運命が
かかった位の衝撃が走った
また再会する人とは
不思議なもので再会するものなのだ
運命というものはこういう事なのか
40年ぶりに先生にお久しぶりですと
そしてありがとうございますと
ちゃんと挨拶する事ができた
とても嬉しい気持ちになった

やはり未来は明るい

翌日バイク屋からバイクが直ったと連絡が来る
バイクを無事引き取り久しぶりにバイクに乗る
帰り道はバイク屋に持ってくる時の道で帰ろと
持ってくる時は大変だったと思い出しながら
帰りはとても楽ちんだなと思いながら帰る

向こうから若いカップルが
僕に笑顔で手を振っている
あれっと思いながら
昨日のカップルに同じ道で会うという偶然

これもまた運命だと

僕も笑顔で手を振った

未来は明るい

むもーままめ(55)Tさんとなわとび、の巻

工藤あかね

 何かをした覚えがないのに、急にお礼を言われることがある。一番古い記憶は小学校一年生の時の冬。普段さほど交流を持っていなかった同級生のTさんから、年賀状が届いた。そこには「いつもなわとびをおしえてくれてありがとう。またおしえてね」と書いてあったのだ。「え?なわとび?おしえたっけ?」と狐につままれたような気分になった。

 誰かと間違えたのかな?という可能性もチラリと思いつつ、年賀状には「またなわとびやろうね」と書いて返送した。だがポストに入れた後になって、やはり誰か他の人と間違えて年賀状送ってきたのではないか……と、内心ドキドキしていた。

 それからしばらくして、Tさんのお誕生会によばれた。それまであまり一緒に遊んだ覚えもないのになぜ声をかけてもらえたのか不思議だったが、プレゼントを用意してTさんの自宅に向かった。Tさんのお母様が丁寧に出迎えてくださった。お食事のあとに七段飾りのお雛様の前でしばらくお話ししていると、お母様が「いつもTが体育で助けてもらっているそうで、ありがとうございます。これからもどうか仲良くしてやってください」とおっしゃるではないか。なわとびさえ教えた覚えもないのになぜか感謝されていると思ったら、今度は体育?わたし何手伝ったっけ?余計わけがわからない。

 Tさんは、華奢で声が小さく、物静かな人だった。当時、なわとびには技によって級が設けられていて、基本のまえとびができるようになったら、あやとび、うしろとび、うしろあやとび、二重跳びetc…と進んでゆく。そういえば、Tさんはまえとびも上手にタイミングがとれなかったのだった。ある土曜日、下校しようとしたらTさんがまえとびの練習をしていた。Tさんの足がちゃんと地面から離れていなかったので、なわを持たずに垂直にジャンプするところから付き合うことにしたのだ。次は片手だけに縄を持って、飛んだタイミングで縄をピシャリと地面に打ち付ける。仕上げに、まえとびをするTさんの前に立って、縄がまわるタイミングで一緒にジャンプした。とうとうTさんは安定してとべるようになった。それを見届けてから家に帰った。

 夏のプールの時期には、ひとつの教室の中で男子も女子も一斉に着替えなければならなかった。あるときTさんが着替えに手間取っていたら、男子にからかわれてしまったのだ。ある男子がTさんにちょっかいを出そうとした時に、わたしは隙をみて、彼のタオルスカートのゴムをバチンと引っ張ってやった。その瞬間から標的がこちらに変わったので、Tさんは無事になった。もしかしてその時のことを、Tさんがお母様に話して、お母様が夏から桃の節句までずっとそれを覚えていて、わたしに感謝してくださったのだろうか。

 T さんは、私とよい友達になろうとしてくれたはずなのに、私は鈍感でちゃんと気づかなかった。Tさんのことをよく知ろうとしなかった。彼女について知っているのは、学校では口数が少ないのに家では声が大きくてのびのびしていたこと。彼女がピアノを習っていて、音楽が好きだったことくらい。たぶん彼女は学校という場がそんなに得意ではなかったのだろう。私もそうだった。彼女、どうしているのかなあ。今ならとても仲良しになれる気がするのに。

スラカルタ王家の代替わり

冨岡三智

2023年1月号に寄稿した「ジャワ王家の世代交代 その後」で書いたのだが、2022年2月27日、ジャワのスラカルタ王家の当主パクブウォノ13世は息子のプルボヨを皇太子に据えた。当時から健康状態が悪かった13世は昨年の2025年11月2日に逝去し、11月5日に葬儀が執り行われた。

ちなみに、翌11月6日、スラカルタ王家の踊り子たちや演奏者を招聘した公演『楽舞玲瓏―王家の子女たちに託された祈りの舞―』が東京であり、私もそれを見るために上京した。ただ、その公演で舞いを披露することになっていたワンダンサリ(旧名ムルティア王女、以下ムルティアと呼ぶ)は13世の同母妹なのでさすがに来日できず、お詫びのビデオレターを主催者に送ってきていて、それが会場で上映された。主催者はかなり大変だったに違いない。

閑話休題。

13世の葬儀の日、その棺を前にしてプルボヨは「パクブウォノ13世の命により、本日、私がパクブウォノ14世となる」と自ら宣言した。3年半以上前から皇太子となっているとはいえ、一族によって後継者に認められるという手続きを経ずに、あわただしく葬儀の場で宣言してしまうのはいかにも異様だ。

これはプルボヨの異母兄をけん制する目的だったと思われる。13世は3度結婚しており、プルボヨは3度目の妻、つまり現王妃の生んだ男子である。13世は離婚した2番目との妻との間に長男マンクブミがいる。13世逝去の時点でプルボヨは23歳(2002年生まれ)に対し、ハンガベイは40歳(1985年生まれ)だ。この異母兄は、プルボヨ立太子の約10か月後の2022年12月24日、王家の慣習評議会の長であるムルティアの意見により名前をマンクブミからハンガベイへと改名していた。ハンガベイは王妃以外の妻から生まれた最初の男子に与えられる名であり、父13世の即位前の名前だ(12世は王妃を持たなかった)から、改名には後継を狙う意図と同時にそれをムルティア率いる評議会が支持する意図が感じられる。

11月15日、プルボヨの即位式が行われ、プルボヨはシティヒンギルにおいて王となったことを宣言し、馬車で王宮の周辺をパレードした。葬儀から10日後というのも早ければ、本来上演されるべき『ブドヨ・クタワン』(王の即位式および毎年の即位記念日にのみ上演される舞踊)が上演されたというニュースもなかった。何よりも王家のマハ・ムンテリ(最高大臣)であるテジョウランがこの即位式への出席を拒んだ。曰く、40日あるいはそれ以上服喪すべきであり、ちょうど海外から招待を受けていると。ちなみに、このテジョウランは13世やムルティア王女の異母きょうだいで、12世没(2004年)後に現13世と当主の座を争ったが、2012年に13世と和解したのち王の代理たるマハムンテリに任じられている。

ところがその2日前の11月13日、王宮内のサソノ・ホンドロウィノ(レセプションルーム)において、ムルティア率いる慣習評議会がハンガベイの即位式を執り行った。そこには、テジョウラン以下多くの王族(12世のきょうだいたち)の姿があった。テジョウランによれば、その日は王族内で後継者問題について会議をするはずだったが、行ってみると様々な供物が準備されていてその場でハンガベイの即位式が始まったので、全員がそれに立ち会う形となったと主張した。そして、どちらの陣営であれその即位式は有効ではなく、話し合いが必要だとした。一方、プルボヨ陣営を支えるティムール王女(旧名ルンベイ王女、13世の長子)は、そのような会議の案内は受け取っていないと主張した。

13世の40日忌(それまで喪に服する)は、12月10日にハンガベヒ陣営により、翌11日はプルボヨ陣営により王宮内の別々の場所で執り行われた。

年明けて2026年1月18日、インドネシア政府のファドリ・ゾン文化大臣は、スラカルタ王家内の対立を解決させるため、テジョウランをスラカルタ王家の責任者に任命した。1月21日、大臣はこのことをインドネシア下院第10委員会でも発言している。実は、インドネシア国家予算によるスラカルタ王宮修復計画が2023/2024年度から始まっていた。王宮北広場および南広場と文化遺産に指定されている建造物の修復と通行エリアの整備のためである。私も昨年スラカルタに行った時に、修復中のソンゴ・ブウォノ塔が足場で囲まれているのを見た。大臣の発言は、インドネシア政府はスラカルタ王家の内政に関与せず、つまり両陣営のどちらにも与することなく、予定されている文化遺産の修復のみに関与し、その補助金の受取窓口として最高大臣を指名したという訳なのだ。

2月9日、13世の100日忌が昼にハンガベイ陣営により、夜はプルボヨ陣営により王宮内の別々の場所で執り行われた。

現在の状況は以上のような感じだ。今回はプルボヨとハンガベイという2人の14世候補と、かつての13世の対抗馬で現在は13世の代理である最高大臣テジョウランとの駆け引きが続く。パクブウォノ13世のときは和解まで8年を要した。ああ、また王家で騒動か…という気分は決してスラカルタ王家のためにもスラカルタという都市のためにもならない。うまく収束してくれればよいのだが。

『アフリカ』を続けて(57)

下窪俊哉

 2月の最後の週、14年間暮らした家を出て、引っ越した。新居は少し古めのマンションの3階にある部屋で、元の家からは徒歩20分くらい、最寄り駅までの歩行距離はこれまでと殆ど変わらない。

 2012年3月に引っ越した時のことは、『アフリカ』vol.15(2012年7月号)の編集後記に書いて、2020年に出した私の作品集『音を聴くひと』にも収録してある。その時々の『アフリカ』がどんなところでつくられているかは、重要なことだろうから書き残しておきたかった。
 その家は築40〜50年(推定)の木造2階建てで、私たち家族はそこを借りて住んでいたが、2年前に、家の老朽化や大家の高齢化、不動産屋の廃業などを理由に挙げられ最後の契約更新ということになった。住んでいる方に何の理由もなく引っ越さなければならないというのは私には初めてのことで、戸惑いが大きかったが、同じ家に14年住んだというのも初で、私の人生の最長記録となった。
 荷物の整理をしていると、14年間の痕跡は深く、とても冷静ではいられない。自分の心をないものとして、移動するために物を捨てる、捨てる、捨てるとくり返した2月だった。
 私の部屋には、やはりというか当然というか、本や印刷物が多い。雑多な本は少し大きめの段ボール5箱分を売却することにして、業者に持って行ってもらった。数百冊を手放したはずだが、これもまたやはりというか、殆どお金にはならないので、売ったというより処分したと言った方が自分の気分には近い。それが自分の蔵書の何パーセントを占めていたのか、と数えてみても、おそらく大した割合ではないだろう。残された本を押入から引っ張り出してみて、それでも部屋が占拠される。私は精神的に、というか何というか、本の群れに潰されかけていたと思う。大元を辿ると、それは樹木である。隣に立っているタイサンボクを窓から眺めては、木は強いね、と心の中で語りかけた。本が怖くなったが、木はなお親しい存在としてある。これからの人生、どこへ行っても、私はそのタイサンボクを忘れることはないだろう。

 その木が植えられたのは数十年前、お隣さんが幼稚園生の頃だそうである。彼女の父親が植えたタイサンボクは、当時の子供の背丈より低かった。そこは土が良いのだろう。草の勢いがすごい。その木もどんどん伸びて、家の背より大きくなり倒れてきそうになるので(そう見えるだけだろうが)仕方なく枝葉を散髪される。そうなると少しシュンとするように見えるが、やがてまた元気になり、家の背を抜いて大きくなっている。というのを、私たちが住んだ14年の間にも、何度もくり返した。初夏には甘い香りを振り撒きながら、眩しいほどの大きな白い花を咲かす。今年はもうそれを見ることが出来ないと思うと、やはり寂しい。

 その家の住所には「台」という字が入っている。新居は「町」である。
 高台から町へ下りて、新たな暮らしを始める、ということになった。すぐそばにスーパーやコンビニがある。郵便局もある。注文を受けて本を送るのにも便利だ。ただ、これまで不便な暮らしをしてきたという実感はなくて、比較対象があってこその感想にすぎない。

 アフリカキカクの住所は2019年より「横浜市道草区道草本町1丁目1番地」になっているので、それは変わらない。架空の土地、フィクションである。
『アフリカ』を最初につくった20年前には、当時私がひとり暮らしをしていた京都市中京区のマンションの一室が発行所になっていた。
 その翌年には前に住んでいた大阪に戻り、同じく私の暮らす部屋が発行所になった。
 2010年の春には東京都府中市に引っ越して、その翌年の秋、隣の長屋に珈琲焙煎舎が開店して仲良くなり、私が結婚して横浜に引っ越す際には、『アフリカ』の発行所はその店に引き受けてもらった。
 2018年には短期間、武蔵野市の美術アトリエに所在していたこともあるが、その頃にはもう、アフリカキカクの所在地がどこにあるかなんて重要なことではないと気づいていたかもしれない。
 現実には、私という発行者がいるだけだ。そして、その私は、書く人でもあるのだった。

 書かれたものは何であれ、本質的にはフィクションである。ことばというもの自体がフィクションだからだ。ただし、読んでいる人がそれを嘘物語として読むかというと、けっしてそうではない。現実として読む。フィクションというのは嘘物語ではない。もうひとつの現実が立ち現れるというか、作者の側から見ると、嘘をつくことで、書いたものが現実を超えてゆく。

 アフリカキカクは書くものの中に、間に、ある場所なので、住所も書くものの中に、間に、ある。ただしフィクションの住所から本は送れないので、封筒にはちゃんと現実問題として私の住所を仕方なく書いてある。開封して(あるいはどこかの本屋か本の市で見つけて手に取り)本を開き、奥付を見ると、「道草区道草本町」が現れるというわけだ。

 自分たちの住む家を「道草の家」と名づけたのは、私だったかもしれないし、当時、珈琲焙煎舎にいた焙煎士だったかもしれない。私の愛称が「道草さん/道草くん」だったので、「道草」の住む「家」ということだったのか、狭い路地の、袋小路の奥にある家なので「道草」を誘ったのか、もう覚えていない。
 しかし私はいつしか、「道草の家」は自分のいる、ここにだけあるのではない、どこにでも存在する、と考えるようになった。それがどういうことなのか、私にはまだわからない。

 アフリカキカクの在庫は持ってゆかねばならない。しかし、これが重い。14年前にはまだ『アフリカ』は創刊から6年たったところで、今から思うと大した在庫数でなかった。今年、創刊20周年である。その日常を旅しているらしい雑誌だけではなく、いろんな本をつくってきた。在庫を段ボール箱に詰めながら、「これ、まだつくり続けるの?」という気持ちに少しでもならなかったかと言えば、なった、と素直に認めよう。ウンザリしながらも私は、そこに、あたたかく生きているものを感じる。

水牛的読書日記 2026年2月

アサノタカオ

2月某日 臨床哲学者・西川勝さんを囲むオンライン読書会に参加。課題図書は宮沢賢治の「マグノリアの木」。中国の西域を思わせる、霧の降る険しい山谷をひとり旅する諒案(りょうあん)。もう何度読んだかわからない、ぼくが大好きな賢治寓話だ。

「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」

2月某日 西川勝さんが発起人をつとめるエッセイを中心としたZINE『かなりあのたまご ケアする人の文芸誌』(ハザ)が届く。西川さんの巻頭言の一部を引いておこう。

「タイトルの「たまご」というのは、準備号というほどの意味である。『かなりあ』というのは近い将来に発刊する計画の文芸雑誌の予定タイトル名である。重度訪問介護などのケア業務を仕事とする人たちが中心になって組織された読書会および文章教室での活動が源泉になっている。……ケアに関わる人たちが仕事をしながら、文章を書いていくことで、何が生まれるのか、明確なイメージはいまだ持ち得ていない。とにかく、やってみようということになったのが実情である」

文庫サイズの糸かがりの冊子。「顔」「声」「場所」などをテーマにした短文が集まっている。手乗りの黄色い鳥のような本から、どんな歌が聞こえてくるのだろう。

2月某日 韓国発のヤングアダルト小説、チョン・スユン『波の子どもたち』(斎藤真理子訳、岩波書店)が届く。「10代からの海外文学」、岩波のSTAMP BOOKSのシリーズの一冊。北朝鮮を脱出した若者たちの物語。心して読みます。

2月某日 今月は編集や執筆や学校の授業のために膨大な資料を読んだ。その代わりに本を読めなかったし、どこにも行けなかった。

古屋日記 2026年2月

吉良幸子

2/1 日
朝6時、ソラちゃんの、にゃあ!いつまで寝てんねん!?の声ではっと目を覚ます。やってもた、寝過ぎた、日記書けてない!!大急ぎでパソコンへ向かう。が、今日は演芸場の初日。ということは、いつもよりも30分出勤が早い。焦りながら必死でカタカタとキーボードを叩く…も、既に出勤の30分前…あかん、もう間に合わん、と大急ぎで準備、家を出たのは出勤10分前。坂もあるけど間に合うのか、いや、走るしかない!と学生以来の本気さで走り抜けて無事3分前に滑り込んだ。咳き込みまくりで、風邪ひいたん?と聞かれるも、いえいえ全力疾走しただけです。はぁ、美恵さんほんまにすんません…と思いながら掃除を始めた。
さて、頼れる元気で明るい娘ちゃんは今日から劇場には来んし、場内はスタッフが少なくててんやわんや。千穐楽にした大掃除の後に先月の劇団さんの荷物を出し、今月の劇団さんが入ってるからまた汚れておる。朝から大掃除並みの掃除をしている間に開場時間になっておった。初日はやっぱり慌ただしくなる。
今月は太夫元がちぃこいわんちゃんを連れてきてはって、夜の入れ込みの時におかみさんがお散歩してはってかわいい。どう見てもソラちゃんより軽そう…と思い、聞いてみると2キロ弱らしい。ソラちゃんが何キロか知らんけど、絶対2倍以上あると思われる。

2/4 水
ソラちゃんの最近の趣味は、たまに窓の外を通る猫から自分のトイレを守ること。野良ちゃんは全く気にしてへんのやけど、机の上からじぃーと見守っておる。トイレの後ろ、ガラスで見えるとこを野良ちゃんが走ろうもんなら、嗚呼!俺の愛しのトイレを使おうとしとる!と躍起になって外まで追いかけようとする。今まで外で用を足してたし、自分の専用のもんが案外嬉しいらしい。ささやかでかわいいじいさん猫やで。

2/6 金
茅香子さんに教えてもろたジョージアが舞台として出てくる映画『クロッシング 心の交差点』を観に大宮へ行く。引越してから埼玉がぐっと近くなり、電車一本で大宮へ出れるのにはびっくりした。駅の近くの住宅街にぽつんとある、カフェ兼映画館での上映で、数十人しか入らへん小さいとこやけどスクリーンも大きく、座席も段々になっておって見やすかった。この映画はジョージアに住むおばちゃんと青年が、トランスジェンダーの姪を探しにトルコへ向かうおはなし。トランスとか同性愛という括りで話すのが勿体なく、そういうテーマなしで素敵な映画やったと思う。特に自分は目下、大衆演芸に演劇、ついでに映画や文学までどっぷり日本文化に傾倒していたせいか、スクリーンに映るイスタンブールの雑多な街は素晴らしい程生々しくかつ人間的で、ドイツにいた頃経験した西洋のざっくばらんな生活を強烈に思い出した。映画はジョージア語とトルコ語で進み、その音の違いも楽しかった。ジョージア語の勉強をサボって早2年、それでもかろうじて聞き取れる単語はまだあって、ゆるくでもまたジョージア語を学びたいなぁなんて思ったりもした。

2/8 日
東京にも久しぶりに雪が降った!天気予報はいつも大袈裟やけど、今回ばかりは当たったらしく、朝起きるとちょっと積もってしかも吹雪いておった。傘をさしながらいつもと違う風景にちょっと心を踊らせて歩いていると、公園で子どもたちが雪合戦したり、雪だるま作ったりとやっぱりみんな嬉しいみたい。住宅街を歩くと各家の前にひとつは大小色々の雪だるまがあってかわいかった。

2/9 月
ずっと行きたかったけど行けてなかった浅草の大衆演芸場、木馬館へ初めて行く。隣の木馬亭へは何度か浪曲聴きに行ったことがあんねんけど、木馬館の方は勤め先と同じ経営やしなんとなく行けてへんかった。独りで行くのも心細いし、先月に退職した娘ちゃんを誘って浅草に向かう。今月浅草に乗ってる劇団さんは去年の秋、十条で上演してたとこで芝居に定評がある。切符を買って木戸に行くと、去年入り口で一緒に立っていた太夫元の母上がいらっしゃって、お久しぶりですと挨拶する。木馬のスタッフさんにも挨拶して初めて客席へ入ると、席に段差がついててどこに座っても舞台が見やすい感じがする。色んな場所に行くとそれぞれに違っておもしろい。初めて前の方に座ると、すぐそこに役者さんがいてさすがに恥ずかしい。仕事中、前の方の席を案内する時に躊躇するお客さんの気持ちが分かった気がする。その分、舞踊は自分まで舞台に上がったような臨場感があった。芝居も幕間が切れずに進む演出でむっちゃおもろかった。
おもしろかった~と壁に貼られた演目を見ると、13日「文七元結」というのが目に飛び込んできた。落語の演目をどう芝居にしはるんかむっちゃ気になる…と、この日は行ける!と娘ちゃんとまた来る約束をして、この日は別れた。

2/13 金
今日は二の午の日でお稲荷さんで凧市がある日!初午は演芸場初日で逃したし、今日は息勇んでお稲荷さんへ向かう。参道にはずらっとたくさんの露店が出てて、幼稚園のお子たちは狐の耳と尻尾をつけて先生と一緒に綿飴を買うところやった。お祭りはやっぱり雰囲気から楽しい。お参りをすましてわくわくしながら参道を歩いて駅へ向かう。というのも今日は今月2回目の木馬館へ行く日。駅のホームで娘ちゃんと落ち合ってまたもや浅草へ。今日も人が多い仲見世通りをぬけて演芸場に着くと、え?また来たの!と木戸でびっくりされた。落語では人情もんとしてやる「文七元結」、芝居では思っきし笑いに振り切るらしく全く違う演出。文七でこんな笑うと思わんかったけど、これはこれでむっちゃ分かりやすく楽しい話になっておってよかった。
そして今日の元々のお目当ては鈴本演芸場夜の部、扇辰師匠の「正直俥夫」。こっから寄席に行くとまた3時間くらい座ってる計算になる。娘ちゃんを誘ってみたが、お尻がもう痛いと断られた。ともあれ、一旦御徒町まで出て吉池食堂でふたりで腹ごしらえ。でっかいアジフライの乗った定食でお腹をいっぱいにしすぎながら鈴本へ。着くと前座さんがもう上がっておったんやけど、演劇との落差で落語を見ると不思議な芸やなぁと初めて思った。演劇やとセットに衣装もあって分かりいい。落語は広い舞台の真ん中に座布団がひとつ。その上に座ってひとりああだこうだやって、それでお客さんが笑ってる…すごい稀有で特異な感じがした。そうは言ってもトリへと向かって何人も噺家が出てくると段々と慣れてゆき、お目当ての噺の頃にはすっかり元の感覚に戻って楽しめた。講談でしか聞いたことない話をどう落語にしはるんかしらと思ったけど、うまいことまとまっておって扇辰師匠の落語の方もええなぁとじんわり余韻に浸りながら帰った。なんという演芸三昧の一日。

2/15 日
公子さんの体調が芳しくないので、様子を伺いがてら久しぶりに丹さんがうちへやって来た。ということは、ソラちゃんのメンテナンスデー!爪を切ってもらい、新しい首輪も付けてもらって嬉しそう。みんなで喋ってる真ん中に座って、話を聞いておる。毎日見てると分からんけど、数ヶ月ぶりに見た丹さんによるとかなりおじぃ猫になっておるらしい。そういえば最近家の中でぼんやりすることが多くなってきた。喜多見では走り回っておったし、そろそろのんびり隠居生活かしら。

2/19 木
この前、初めて木馬館へ行ったと同僚に言うたら、じゃあ人気劇団の関東最後の公演を一緒に観にいく?と聞かれ、ふたつ返事で今日は三吉演芸場へ。商店街の先にある演芸場で、まずは入る前に腹ごしらえで蕎麦屋に入る。たまたま入っただけやけど、店内に少し前の笑点メンバーのサインと歌丸さんの写真が。何やら歌丸さんがよく来てた商店街らしく、あちらこちらに「歌出没注意」のポスターが貼られておった。今でもふらっと出てきてくれはったらええのに、と思いながら歩いていると、どこからともなく太鼓の音が聞こえる。お客さんの入れ込みの時に太鼓を叩くらしく、追い出し太鼓の鈴本演芸場と逆か!と新鮮やった。昼の部は歌舞伎でもやる演目、鰯売恋曳網。さすが平日のお昼から大入りの劇団さん、みんな芝居がうまくて引き込まれる。姿かたちのかっこよさだけじゃなく、結局お芝居がうまくないとどんならんのやなぁと改めて感じた。こうなってくると夜の部に何すんのか気になってくる。ファンの方に聞くと、夜は新派もんをするらしい。…それは観たい!と、結局夜まで残った。演目は風流深川唄。途中から泣きに泣いて観劇した。かなり会話だけで進む話やけどむちゃくちゃ感情移入できる演出で、会場全体で泣いてた感じがあった。終演の頃にはもう日も落ちて真っ暗、それでもみんな、あ~夜まで残ってほんまによかった!とわいわい言いながら帰路についた。またこの劇団が来たら行きたいと確かに思える舞台、でも今年はもう西での公演が続くらしく、今度近くへ戻ってくるのが待ち遠しい。

2/21 土
公子さんが、沢村貞子さんの文章すごくええよと言うので図書館へ探しに行く。私の中での沢村さんのイメージは女優で止まったまま、色んなことを書き残してはるのは知らんかった。目当ての本が2冊もあったし、借りて近くの喫茶店へ行って読む。どちらも暮しの手帖で連載されてたもんで、花森さんはやっぱりすごい嗅覚を持ってはったんやなぁとしみじみ思った。『私の浅草』最後の方、大好きな加東大介の最期の様子が書かれていて、もうどうしようもなく哀しくて、ひとりボロボロと泣いてしもた。喫茶店のマスターに変に思われたやろか、まぁでもしゃぁないわ。
公子さんの体調が回復してきたので夕方、久しぶりの蕎麦屋へ。先にひとりで入ると、いつもいるお馴染みさんに今日はひとり?と聞かれ、給仕のおばあちゃんもお茶をふたつ持ってきておった。後から来ますよ~と言うとなんや2人とも安心しておるみたい。色々のおつまみをとってお酒は少しに、公子さんは玉子とじ蕎麦に私はもり一枚でお腹いっぱい。ほろ酔いで帰って寝る…なんて幸せなんや。

2/24 火
今月のハイライト、新橋演舞場へ『お光とお紺』の観劇に、いや、正確には藤山直美を見るために行った。藤山寛美を生で観たくてももう叶わへん、ならば役者が元気なうちに行くのが吉や!と意気込んで、色々と芝居を探した結果辿り着いた。演舞場へ行くのも初めて、着くとバスの団体のお客さんでロビーがごった返しておった。大衆演劇とは桁違いの集客をする舞台、まずその大きさに驚いた。幕が上がってまたびっくり、こんなに奥行きあるとこでやんの!?という感じで、なんし舞台美術が大掛かりですごい。音響もしっかりしてるし照明もバッチリ、もちろん役者は素晴らしい演技をする方ばかり。ただひとつ気になったのが、幕間が多くて長い!いや、分かるねんで、あんだけのセットを動かすのやもん、時間かかるやんなぁ。でも一幕でもっと役者に話させる進行にでけへんのか…こんなカットばっかりやとドラマの作り方やないのさ!演劇でするならもっと一幕長くせな、幕見にきてんちゃうねん、役者見にきてんねん!というのが正直な感想やった。まぁでもともかく、ころころと動き回る直美ちゃんはかわいかったし、やっぱし彼女が舞台に出てくるだけでお客さんが皆うわぁっと浮き足立つ。DVDで見た寛美さんにそっくりで、お父さんの血をしっかり引いてはる感じがした。

2/26 木
演芸場、2月公演の千穐楽。今月は短いのやけど、バタバタとしてどことなく長かったような気もする。いつもお客さんの入れ込み中にお散歩をしていたわんこ、チャチャとも今日でお別れ。15才のちぃこいトイプードルで、掃除をしに楽屋の方へ行くと太夫元の後をついてあちらこちらへと歩き回っててかわいかった。最後には運び出しの邪魔になるからと、おかみさんの肩にかけた鞄に頭を出して入れられてて、じゃあまたね!と手を振った。楽屋の荷物が運び出されるまで待っていると、私たちが掃除に行く頃には何室かをすっかり綺麗に掃除して明け渡してくださって感動やった。荷造りだけでも大変やのに、ありがたすぎる。今夜、今月の劇団が出ていくと、もう明日には来月の劇団がやって来る。まだ半年くらいしか働いてへんし、毎月がはじめましての劇団さん。来月はどんなやろか、楽しみや。

2/27 金
真打昇進の時に幟を贈った伝輔さんが、初めて寄席で主任をするということで鈴本演芸場へ。甲賀さんの文字で作った幟がひらひらとはためいておって思わず写真を何枚も撮った。幟の後ろに写るのはお隣にある老舗、酒悦。公子さんからいいお店だよ~と聞いて入ってみるとおいしそうなご飯のお供がずらり!いただいたお出汁をちょっと飲みつつ、試食に食べた菜の花のお漬物を買ってから寄席に入った。今月は色んなものを観て吸収する月やけど、ちょっと詰め込みすぎで容量オーバーな気もする。ということで今日の寄席はぼんやりと眺めながら楽しんだ。久しぶりの伝輔落語は相変わらず明るくてテンポよく、賑やかやった。

2/28 土
お昼過ぎに兼太郎ちゃんに誘われて千駄木の落語会へ行く。なんじゃかんじゃとバタバタしてたせいで年明けて見にいくのは一発目。今日は前座さんに講談のようかんさん、ゲストに上方から九ノ一さんが来るということで、いつもがら空きの千駄木の会が異例の満員御礼やった。勢いある後輩に助けられ、賑やかな楽しい会やった。落語会が終わって一息、今夜のメインイベントは、うちのおかぁはんが上京してくるのを迎えに行くということ。明日、綱引きの全国大会があるということでチームのみんなはもうお昼過ぎには東京へ来てるのやけども、おかぁはんだけは用事があって別便でやってくるという訳。どうせホテルで泊まるならうちに泊まった方がええし、大都会で迷いそうなのもあって東京駅まで迎えに行く。駅に着いたと思わしき時間に電話を掛けると、案の定、どこぉ~??とよう分かってへんらしい。こっちの方へと説明してると奥からピンクで短パンの丸っこいのがやってきて、嗚呼、全然変わってへんわという感じ。それでも隣に並んだらやっぱしちぃこくなっておって、私が伸びたのか、はたまたおかぁが縮んだのか。そんなことを考えながら公子さんが待つ家へ急いだ。晩ご飯を作ってくれてはって、おいしくいただいてふたりで銭湯へ。綱引きは体に負担が多いしあっついお湯であったまれてよかった。疲れてたんか帰ってすぐに就寝、私はちゃんと朝には日記を送るべくおかぁはんが寝てる横でカタカタとキーボードを叩く。と、ソラちゃんが膝の上で寝たり、外へ行ったりと色々しておる。好きにさしとこ…と日記を書いていると、後ろから、えー!?という声が。見ると、横向いて寝とるおかぁの上に、何を思たのかソラちゃんが乗っかって寛いでおる…別にこのままでもええけど…というので、とりあえずそのまま寝てしもた2人を尻目に日記を書く午前3時…。

仙台ネイティブのつぶやき(114)ガラス越しの鳥たち

西大立目祥子

猫がいなくなって7カ月が過ぎた。以前は、トトトと階段を降りてくる音、シャッシャッとトイレの砂をかく音、2階の窓辺の机からトンッと床に飛び降りる音が聞こえたりして、姿が見えなくたって気配を感じていたのに、いまは人が動かない限り無音。夜なんかは変に耳の中の音が聞こえるような気がしたりする。音だけでなく、金魚が水槽の中で朱色の体をひらりと返すのも目に入っていた。離れたところから聞こえてくるかすかな音や視線を変えたときにふと目に入る動きに、安らいでいたのかもしれない。生きものがいないというのは、どこか物足りないというか物寂しい。

そうだ、と母が元気だったころ、庭の木にミカンを置いてヘルパーさんと3人で野鳥がやってくるのを眺めていたのを思い起こし、そのとき使っていた手のひらサイズのカゴを探して出してミカンを二つ割にして入れ、梅の木に下げてみた。2日、3日…と待っても、なかなか鳥はこない。あのとききていたのは、メジロのつがいだったのだけどな。
 
5、6日たったころ、小鳥がやってきた。2羽のメジロだ。スズメより小さく、体はうぐいす色で、目のまわりにくるりと白い輪がある。高いところと低いところ、2か所に置いたミカンに2羽は飛び跳ねるように近づいて、細いくちばしでつつくようにミカンの房の中の果肉だけを食べる。2羽がいっしょにつつくことはなくて、食べているところに別の1羽が近づくと、パッと離れて別のミカンに行ったり、まるで相手にゆずるように近くの枝に飛び移ったりする。俊敏で、枝から枝へ移るのも速く、枝の間をすいっと抜けるように飛んでいく。

母と眺めていたのは、4年前のことだ。このつがいはあのときのメジロなんだろうか。調べたらメジロの寿命は4年、とあった。メジロに縄張りがあるのかどうかわからないけれど、もしかしたらあのつがいが営巣してここから巣立った子メジロかもしれない、と想像した。というのも、2、3年前にきてくれた植木屋さんが、これどうする?と手渡してくれた鳥の巣があったから。それはYの字の細枝の二股のところに器用にかけた小さな巣で、ほれぼれするような見事な出来栄えだった。植物の茎や荷造りテープを細く裂いたようなものまで上手に使いながら、小さいけれど深みのあるなかなかに居心地のよさそうなベッドをこしらえている。とても捨てる気にはなれず、玄関に宝物のように飾ったままだ。

ミカンの食べ方もこの巣のつくり方のように見事で、一房ごと薄皮は残して中だけを見事にくり抜いたように食べつくす。1月は何にも食べ物がないからか、2羽は1日に何度もきて、大体1日に1個は平らげていく。食べたあとのミカンは、あまりに職人仕事の凄技なので捨てられず、じっと眺めては写真を撮っていた。

そのうち、つがいとは別のもっと小さなメジロが1羽でくるようになった。2羽が食べていると離れたところで見ていて、いなくなるとミカンにパッと近寄り、このときとばかりに懸命についばんでいる。もしや去年の春に生まれたまだ幼いメジロなんだろうか。

小鳥を見ているうちに、小学生のころ飼っていた手乗り文鳥のことを思いだした。白いのと黒いのと2羽飼っていたのだが、手に乗せたりカゴの中をのぞいて間近で見ていたせいか、人差し指に乗せたときの爪のちくちくとした感触やまぶたのビロードのような質感や、分厚い大きなピンク色のくちばしがふちの方は白っぽく透明だったことまでよみがえってくる。白い方はなつこくて、カゴから出すと部屋の中を飛んで肩に乗ったり呼ぶと腕に止まったりしたが、黒い方は野生味を残しているというのか気性が荒くていつまでも慣れなかった。あれは飼い始めてどのくらいたったときだったのだろう、一年くらいは面倒をみたあとだったのだろうか、家族中であわただしくしていた5月の運動会の朝、急いで餌を替えようとカゴのふたを開けたすきに黒は飛び出し、天窓のところに一瞬止まったあと、東の青い空へ飛んでいってしまった。

葉が落ち緑が失せる殺風景な冬の庭は、高いところからもミカンの色がよく目立つのだろう。数日後にはヒヨドリが2羽、3羽とやってくるようになった。朝早いうちにきて高い木のてっぺん近くや電線の上に止まり、見張りをするように眺めてはピィーッと鳴く。縄張りの主張なのだろう。くちばしは細く頭の毛は立っているように見え尾はピンと長い。メジロの4倍か5倍はある体で威嚇するように追い回したりミカンを独占したりするのだが、案外メジロはちゃっかりしていて、別の木の茂みの奥の方に隠れ隙をねらってひょいと出てきてはパクパク。用心深いのはヒヨドリの方で、ガラス越しに人が動いただけでも飛んでいくが、メジロは平気な風情で食事を途中で中断したりしない。

おもしろがってミカンをリンゴに替えてみたら、また違う鳥がやってきた。でかい。ヒヨドリより太身で羽は茶色、お腹はぶち模様がある。図鑑を調べてみたら、ツグミのようだ。ヒヨドリのようなシャープさはなく、なんとなく鈍重な感じで、リンゴを食べたかと思うと地面の上を歩いては餌を探し回っている。
 
バケットをガリガリと切って出たパンくずをまいたら、キジバトも現れた。ドンクのバケットの焼けた皮のところだからおいしいんだろう、と思いながら見ていると、食べ物がなくなると梅の木の上にじっと止まって動かない。日が照ってくるとわずかに羽を広げ、またじっとしている。メジロは大きなハトに遠慮することなくちょこまかとふるまう。平和の使者といわれるのは旧約聖書のノアの方舟の物語に由来するというけれど、この静かにたたずむ姿のためかな、などと考えた。

ほかにも落花生に集まるシジュウカラ、ちょっと鳥の餌をまけば群れなしてくるスズメ、といろいろな鳥の観察を続けた冬だったのだが、仙台も先週15度超えの日があり、その後はやってくる鳥の数が減ってきた。メジロのつがいも朝にきたきりこない。ツグミもこなくなった。落花生がカラスにねらわれるので庭に置くのをやめたら、シジュウカラはぴたりとこなくなった。めっきり春っぽく明るくなった日差しの中で、梅の花が開き始め、近くの野山においしいものが増えてきて、好みの餌を求めてあちこち飛び回っているのかもしれない。メジロはどこかで巣づくりの準備中だろうか。ツグミも別の場所に移動したのだろうか。

もう半世紀以上もたっているのに、ごくたまにあの手乗りにならず飛んでいった文鳥のことを考える。窓に止まったあと明るい光の方へ消えてしまった姿が、いまも目の奥から消えない。カラスに狙われたか餓死したか骨になりチリになって消えたか。そう思うといまも少し胸の奥がちりちり痛む。人に飼われた生きものは野生には戻れないから。でも、ガラス越しに眺めていた鳥たちは違う。どこかで元気にやっているでしょう、季節がめぐればまたやってくるでしょう、と思う。暖かい部屋の中で冬を越し春を迎える人の想像をはるかに超える深い知恵で、小さな鳥たちは懸命に生きている。

アタック日記 2026年2月

渋谷慶一郎

2026.02.01 時差ボケで冴えない1日。このパリのアパートで冬を迎えるのは初めてなんだけど、暖房をガンガンつけるには電力が足りないことがわかり戦慄する。お湯が出ないとか電気が足りないとか日本では考えられない不便が襲ってくるのがパリ。それが結果的にリアルエコになっているという気はする。

2026.02.02 Sushi Tech Tokyoの方たちとオンラインでミーティング。ジャスティン・ビーバーがグラミー賞でやったパフォーマンスが感動的に良かったからそれについてXに書いたら思いのほかバズって30万近いビューが。簡単に言えば69年のジミヘンのベトナム戦争に対する抗議はギターフィードバックによるノイズと即興による抵抗。そして現在、ジャスティンはギターもベースもループさせて鏡の前で裸で歌う虚無の表現による抵抗。しかしこれくらいたくさん見られるとバカがトンチンカンなコメントをか送ってくるものだな、やれやれ。今日の夜からパリでのヨガ通いが復活。

2026.02.03 1日中BLUEの楽譜の仕上げをやる。譜面を丁寧に書くというのも日本のバタバタした時間軸よりこっちの方がやりやすいと思ったり。夜はパリで気に入っているヨガスタジオで90分ハードなヨガ。前回滞在してた時に買ったチケットの有効期限が2月9日までと気づいて焦る。強制的に今週毎日通うことに。しかし強制はいつも正しい。時に自由意志より尊い、なんてね。

2026.02.04 ヨガのチケットの期限が切れそうなので今日はなんと1日2回もヨガのレッスンを受けてしまった。朝10時から75分、夜8時から90分。身体が意味不明に仕上がってきてる。夜は久々の外食で10年くらい通ってるマレの街中華へ。ここの店員は完璧に英語が出来ないのでロストイントランスレーションが10年続いていて、しかし満面の笑みで親切にしてくれる。こういう関係に萌える僕の病理に意識的でいたい(嘘です)。

2026.02.05 今日も昼は仕事をして夜は駆け込みヨガ。しかしこの生活だと持ってきたオシャレなコートとかは出番がなく、毎日PALACEのダウンばっか着てるな。

2026.02.06 朝8時過ぎのTGVでロンドンへ2時間半の旅。ウェイン・マクレガーと作る新作の打ち合わせのため。着いたらまずサマーセットハウスに行ってウェインの大回顧展を案内してもらう。その後、脚本や内容に関する打ち合わせをたっぷりと。これだけ凝った脚本があるダンス作品は珍しい。オペラともダンスとも言えないものになりそう。夜はロンドン名物のフィッシュ&チップスを食べてからロイヤルバレエ劇場でウェインのバレエ作品「Wolf Works」に案内してもらって鑑賞。音楽はマックス・リヒター。冒頭から何分かはミニマルなモジュール組み合わせとハーモニーの絡ませ方が独特で、というかあまり聴いたことがない感じで面白かった。ショーの後は疲れてホテルへ直帰。クラブとか行こうかと思ったけど挫折。

2026.02.07 ロンドンの朝。9時(!)から映像編集のスタジオへ。去年のサントリーホール公演の映像をロンドンのチームに撮影を編集をお願いしているのだ。ディレクターは最近Vice Magazineのワールドのクリエイティブ・ディレクターになった奇才Ben Ditt。狂ったアイディアが炸裂してて良い感じ。終了後、隣りのビルのLN-CCなどを覗いたりブラブラ。夜はSANAA LONDONのルーシーとBrawnで打ち合わせを兼ねて食事。ここは美味しい。というかロンドン、開拓すると美味しい店が増えてる。

2026.02.08 ロンドンの朝、2日目。サーペンタインでピーター・ドイグの展覧会を見たりしてからパリに帰還。帰る前にロンドンでバーガーキングを食べるのが定番。僕はファーストフードとか全然食べないんだけど、なぜかバーガーキングは好き。と思ってたら唯一のオーガニックで添加物ゼロのファーストフードらしい。自分の味覚を褒めてあげたい。

2026.02.09 パリの朝。さすがに疲れててダラダラ。夜はヨガのチケットラスト1枚を期限切れの日に見事に使い切った後に、フォアグラのカルパッチョを食べるという背徳。

2026.02.10 基本的にはスタジオの日。夕方にグランパレの出口さんとカフェして情報交換。ここには書けまい。

2026.02.11 念願だったゲルハルト・リヒターの大回顧展を観にファンダシオン・ルイヴィトンへ。東京でやった展覧会の2〜3倍のボリュームで時系列的に展示されているから、「ああ、リヒターでも80年代はあまり良くないな」とか分かったりして秀逸な展覧会。素晴らしかった、というかノイズや揺れ、亡霊的など音楽的なインスピレーションに溢れていて、めちゃくちゃ触発された。

2026.02.12 パリのクィア・マガジン、Feu Magazinをやっているファブリスと昼間カフェで打ち合わせ。彼は自分がDJするときに、昔僕が東くんとリリースしたイニシエーションのB面のRTリアリティとかかけちゃうくらい僕のファンで詳しい。今、次号で僕の特集を作ろうとしてる。ミーティングの後、初めてパリのジェントルモンスターに連れて行かれる。夜はシンスケさんの展示のオープニングに顔を出す。今回、初めてこっちの日本人の友達にたくさん会った。

2026.02.13 午後、パンテノンの近くの脳やAIの研究所で新しいプロジェクトのミーティング。Shoちゃんという日独ハーフの才媛の研究者の友達が誘ってくれて気軽に行ってみたらZOOMとかも繋がってて、ガッツリとミーティングモードだった。色々言いたいことを言って帰ってきたけど面白くなりそうではある。

2026.02.14 ジュスティーヌと5月の大阪公演の話など。英語で「男も女も等しく育てろ」と書いてあるTシャツをあげた。

2026.02.15 10年来くらいのフランス人の友達のエマニュエルに誘われてギャラリストのホームパーティーへ。カップルが多く、男はフランス人で女は中国人というパターンがほとんどという奇妙なパーティーだった。また謎の熟女に好かれてるのか?と思ったら同い年だった。

2026.02.16 今日はスタジオから出ずに仕事。雨で寒い日が続くと鬱々してくる。周りもそういう人が多い。僕自身は日本で天気に気分に左右されることはあまりないんだけどね。

2026.02.17 今日もスタジオで仕事。あと悠治さんの次のコンサートの曲目についてあれこれシュミレーション。段々見えてきた感じ。夜はJajaというビストロへ。あまり知らないところに行くと大概、美味くも不味くもない、どちらかというと不味いみたいなパターンが多いのがパリ。ここもそんな感じだった。

2026.02.18 ずっとこもって仕事ばかりしてて結構鬱々してきたので、マレに出かけてLEMAIREで買い物。ベージュとグレーの良いセットアップがあった。

2026.02.19 今日も再びスタジオで仕事の日。ひさびさにiris2というソフトを使ってみたら頭の中にあった朧げな感じが音になった感じ。しかしこのソフトはもう生産停止でサポートもされてない。「未来に存在しない技術が生成した音、というのはかなりあなた的です」とかAIに言われて笑えた。夜はヨガ90分。

2026.02.20 昼間、パレドトーキョーに川俣正さんの展示を見に行く。見事な仕上がりだった。パレドトーキョーは10年以上前にレジデンシーアーティストになって、パリでの生活がスタートしたきっかけになった場所だからいつ来ても懐かしいという感覚がある。その後、リックオウエンスで取り置きしていたジャケットをピックアップ。夜はLE BOUGAINVILEという地元の食堂みたいなビストロでご飯。ここは安くて美味しくて、観光客みたいなのがいなくて良い。

2026.02.21 再びShoちゃんに誘われてパリのAIの研究者と食事。とにかくよく喋る人だった。彼女は普段はアメリカにいるらしく、NYはAI研究はゼロ、もっぱらLAが盛んらしい。ヨーロッパでのAIの受容は2~3年前とはかなり変わってきてて、今は会う人はほとんど興味を持ってて、誰と会ってもAIの話になるくらい。でも、今だに恐れてたり嫌ってたりする人はいるよね、という話になって「それは頑固な処女みたいなもん」と言ったら女性研究者2人は腹抱えて笑ってた。アンドロイドオペラはヨーロッパのAI関係者に映像を見せると質問攻めになる。

2026.02.22 今作っている新作は音の感じや方法論を一新したくて色々調べているんだけど、新しいソフトや機材の相談はとにかくAIが強い。しかもこっちの欲求も大体わかってるから話が深くなるのが早い、明らかに人間よりも。気づくと延々と相談している。音の生成は最新、エフェクトはヴィンデージモデリングというのが一番良さそう。夜はNONOTAKのタカミがスタジオに遊びに来る。

2026.02.23 悠治さんの次のコンサートのプログラムがだいたい決まった。熟考して良い感じになったので悠治さんにメール送信。夜はHANOI1988というベトナム料理屋でフォー。夜だと物足りなかったがここのフォーは美味しい。

2026.02.24 昼間はうんと仕事をして夜は10年来の親友でレベノン出身のアーティストのシャルベルと食事。彼とはパリに戻るたびに食事をしているけど、毎回面白い。結構前に青山目黒で展示したらしいけど、日本でもまた展示したいらしい。コンセプチャルアートの極北なんだけど美しくミニマルな仕上がりなのが良い。で、思考が深いから議論になっても面白い。モンマルトルの僕がパリで一番好きかもっていうビストロでウサギを食べながら色々話してワインも一本空いた。

2026.02.25 昨日同様、昼間は集中的に仕事。夜はギャラリストのノエルさんと12区のレストランで食事。前から来てみたかったところだけど当たりだった。食事の途中に友達のマオから「今からSilencioに行かないか?」という連絡。デヴィット・リンチが作ったクラブで10年前くらいにライブをしたこともある。行ってみたらライブ中で観てたら気づいたことが。前からMIDIコントローラーとかいわゆるデジタル機器のツマミを感情移入たっぷりに捻ったりする「パフォーマンス」には違和感があったのだが(だって音は別に変わらないから)、いよいよ奇妙に見える気がした。これはデジタルの特徴である「スイッチ一つ押すだけで劇的な変化が可能」な現実を前にして、人間が首振りながらツマミいじってても意味がないのは現実なんだが、Chat GPTを日常的に使っていると、それこそ自分が押したリターンボタンに対してあり得ない量と角度から膨大なレスポンスが現れる。この感覚が日常になった現在、苦悩に満ちた表情で首振りながらラップトップとかMIDIコントローラーいじるパフォーマンスはナシなのではないか?とか思いながら会場をブラブラしてると友達に会ったり紹介されたりして夜が更けていった。

2026.02.26 一歩もスタジオから出ずに仕事をして夜はヨガスタジオへ。しかしすごい世界になってきたな。

2026.02.27 今日もスタジオで仕事。雨なので一歩も出ず。NeveのUADのシュミレーターのプラグインは素晴らしい出来だと思う。

2026.02.28 最近外に出ないで仕事をし過ぎて具合が悪い。やや風邪かも。夜はダミアン・ジャレのSKIDを観に行く。フェネスの反復する冷凍保存されたロマン主義によるニマリズムと神話性、宗教的崇高だけがバリエーションで提示される40分。めちゃくちゃ良かった。具合が悪かったので楽屋には行かず帰宅。

即興、演奏、作曲

高橋悠治

音楽に関わることを三種類に分けて考えてみた。そのどれもが専門と言えるほどでなく、中途半端に混ざり合っている。子どもの頃、母が近所の子供たちを教えているので、自分も教えてもらおうと思ったが、その頃使われていた教則本がつまらないので、うちにあった楽譜、当時の現代音楽を集めた、いわゆる海賊版から、弾けるところを弾いて遊んでいた。そんなことではいけないと思った両親が、知り合いの音楽家たちに教えてもらおうとしたが、どれも長続きしなかった。彼らも子どもを教えるより、自分たちの生活で忙しく、鎌倉は遠い場所だった。

それ以来、ちょっと離れた場所にいる感じがしている。自分のいるべき場所ではないところで、他人の仕事を手伝っている。自分の場所と呼べるようなところもなく、自分の仕事と呼べるものもない。ところが、他人の仕事と思うものをしていると、それが何か違うものに変わってしまう。

誤解というか失敗というか、そこにある違いを追求していけば、何かポジティブな道が開けるのかもしれない、と思うこともあるが、そんな回り道をするより、何もしないで、待っている方が良いかもしれないし、思いついた断片を並べて見ていると、それだけでいいような気もする。断片が断片である限り、それらの繋がりから、まとまった構成を作り出すより、隙間や踏み外しのある歩行を辿る方がおもしろいかもしれない。

そう思う時もあるが、そうなると、今度は逆に、安定したまとまりができてしまうような気がする。何十年か職業として音楽をやってきた後で、音を辿って遊ぶのは、単純なことではない。