むもーままめ(29)光の夏がやってくる、の巻

工藤あかね

立ったまま原稿を書くといつもと違う思考回路が刺激されるような気がして洗濯機の上にパソコンを置いて水vs電気を企んでみたけれどきっと電気は水にかなわないだって海につながっているから雨雲からぼたぼた落ちてきて水溜りができたところに長靴履いた小さい頃の私がちゃぷちゃぷやって遊んでいる今だって長靴あるけど水が入り込んで足がぐちゃぐちゃになるには水がたりないどぶがたりない長靴の短さが足りない喉が渇いた水が足りない肌が乾燥している水が足りない育てていた植物の元気が足りない水が足りない太陽が足りない光が足りない光が足りないってどういうこと眼科の医院に光明って名前がついたところを見かけた光は必須なの闇と光どっちも必要だけどみんな光が好きなんだね瞼を失った人は自分で闇を作れないのが苦しいらしいからみんな自分がシャットダウンできる能力あるのにシャットダウンはどこにある睡眠中にあるのいやないねだって夢ずっとみてるもん私の闇はどこお寺の胎内巡りをした時も本当の闇はなかった闇に慣れておきたいのに外に出たらモグラの気持ちが少しわかって監禁されてたヨカナーンも外に引っ張り出されて目が潰れそうだっただろうな目って一体なんなの見るっていったいなんなのじゃあ聴くってなんなの匂いってなんなの感覚ってなんなの幻想なのわたしだけのものなのみんなのものなのわたしとみんなのものなのわたしとあなたのものなの境目がわからなくなったとき息吸ってるのか吐いてるのか止めてるのか混乱するエラ呼吸ができる生き物はいいね水陸両用はかっこいいね空と地上の区別がない生き物はいいね聞こえない声で鳴く鳥はいいね聴こえる声で鳴く虫もいいね田んぼでカエルが鳴いて怒っている住民とか温泉宿で川の流れがうるさくて眠れないと文句を言う人がいるらしいけどその発想はなかったないろんな感性の人がいるね雑音ってなに雑草ってなに自然の音ってなに人工物ってなにクリオネみてたらこんなに小さくても生きてるんだと思ってうれしかったしクラゲなんてこんな単純な体なのにすばらしく美しく生きている命の尊さに涙が出る気がしたから夏の終わりに海でクラゲを脅かしてあげないでみんなあっちだって必死で生きてるのだからクマだってイノシシだってハクビシンだってみんなそっとしておいてあげてもしかしたらなついてくれないかなクマちゃんにおんぶして学校に通いたかったイノシシの背中に乗せてもらって大阪城まで行ったりハクビシンを抱っこしてたぬきとレッサーパンダの違いをみんなに教えたりできたらいいのにかわりにクマちゃんがクマ仲間に人間の友達連れてきたよって言ってどんぐりご馳走になったりしないかないい大人なのにこんなことばかり言っていることをぜったい反省しない私はなかなかの強情っぱりだと思うもうすぐ光の夏がやってくる

ゆうべ見た夢 03

浅生ハルミン

二つの夢。二つ目の夢に出て来た私の弱音は、「結婚」という言葉から私が無意識に連想する事柄です。「夏」といえば「暑い」、「階段」といえば「つらい」、「発車」といえば「オーライ」などと同じように、「結婚」といえば「できない」なのです。長い間にそうなりました。その原因を考えることはむしろ私の趣味となりつつあります。ですので、この文章をお読みになったどなたも回答をお寄せになりませんよう、お願い申し上げます。

夢のなかで私は、私に片思いをしている男の人に誘われて、お屋敷に向かっているようだった。男の人は私を誘っておいて、自分だけスピードを上げて自転車を走らせた。どんどん先に行ってしまった。出窓のある瀟酒なお屋敷に到着して、私だけがその家のマダムに会って、料理について取材した。取材を終えても、男はあらわれなかった。

あの店にいるに違いない。私はひとり、バラック闇市のような商店街の一画にある、イタリアンレストランへ入った。その男の人はいなかった。本を読むのが好きな三姉妹が、けらけら笑いながらソファー席に腰を掛け、
「こんど××さんの書いた料理の本が出るんだって。たのしみね」
と、いなくなった男の名前を持ち出す。
おやおや、ひどいね、まったく。なにもかも攫われた気分。夢のなか特有の、脈絡のない灰色の場所転換が起きて、目の前の風景が地下鉄駅の、むやみに長い上りエスカレーターに変わった。
これに乗ればいいんでしょう?
私は片方の足を段に乗せた。靴先に五円玉がこつんとあたった。拾う。あっと思って見まわすと、百円玉も落ちていた。拾う。そこいらじゅうに散らばっているお金を拾いまくる。五円玉と百円玉が、エスカレーターの上から、無尽蔵に転がり落ちてくる。

夢のなかで私は、実際には会ったことがない小説家Z子さんと同じ家に暮らしているようだった。同じ箪笥から洋服を出し、同じアイロンでしわを伸ばす安穏な毎日。居間の中央には、ホットカーペットよろしく人工芝を真四角に敷いた場所があって、その上に赤い屋根の犬小屋が建っていた。犬のほかに、紅茶色の綿をまるめたような可愛らしい小動物が部屋中をちょろちょろと駆け回っていて、私たちはそのようななかで暮らしていた。動物たちの吐き出すものが撒き散らされているなどということもなく、部屋はいたって清潔で、なんの匂いもしなかった。

寝床から這い出した私は、小説家Z子さんに恋愛について弱音を吐いた。小説家Z子さんは私からは見えない部屋にいて、それは台所かお手洗いのようだった。
あのさ、私がずっと独り身なのは何が原因だと思う? 周りに結婚相手を探している人はけっこういたはずなんだけど、その全員が私じゃなくて、私の友だちと結婚の約束をするみたいなの。
Z子さんはこう言った。
「大丈夫。私もだよ。そんな奴らには鰹節をかけてやれ」

以上のやりとりを、私たちは関西弁でかわした。小説家Z子さんが、唯一身につけていた赤い水玉模様のエプロンを脱ぎ捨て、人工芝の上で、仰向けに寝ている私に覆いかぶさってきた。柔らかな毛髪が顔にまとわりついて、まさぐると甘い匂いがした。Z子さんもそうなんだ……私は安らかな気持ちに包まれている。

「図書館詩集」8(この海岸にかつて栄螺が住んでいたんだって)

管啓次郎

この海岸にかつて栄螺が住んでいたんだって
さざえさんはここらで生まれたんだって
冗談ではないんだよ
ももち(百道)の海岸を散歩しながら
町子さんは磯野家を考案した
そのはるか以前には百済人もいただろう
やがて唐人もオランダ人も通過しただろう
おなじ道だって百通りに体験される
ここは交通の町、港あり
物資のメタボリズムをよく計算して
地球をレース編みにしてゆく
「驚異と怪異」ばかりを見て
頭がふつふつとおかしくなっているようだ
人間のようなかつらをかぶったさざえが
二足直立歩行で目の前を横切っても驚かない
世界を編みなすいろいろなかたちの生命が
少しずつ誤訳がつけいるとでもいうように
少しずつかたちを変えてきた
魚ひとつとっても
人の顔をした魚や
牛の頭をもつ魚や
猿の上半身をもつ魚がいて
まことに賑々しく次々にご来店される
ああなっては水の中に住めないどころか
どこにも住めない
生きている世界には住めない
となると死の世界のほうが
概して自由度が高いともいえそうだな
死において最終的に
あるいは最初的に解放された
自己か非自己を見出すとでもいうか
そうだよ昔はここらも湿地帯だった
その中の干上がった砂地の上で
モンゴル兵たちと地元の兵士が戦ったそうだ
いやいやの戦いだったろうな
何を賭けてか誰に命ぜられてか
兵士の生命は乾いた涙よりも軽い
(命令する人間は気楽でいいよ、ブツブツ
私ら一般兵が、ブツブツ
なぜ言葉も通じない相手と、ブツブツ
戦わなくてはならないのか、ブツブツ)
しかもモンゴル兵といっても草原から
はるばる来たわけではなく
半島の衛星国の兵士だったわけだろう
また別の時代だが武将というか
諸々の臣たちがこのあたりで
Vtacaxôyôをして無為に日々を
すごしたこともあった
「鵜鷹逍遥」といってね
どちらも鳥を使ったつれづれの遊び
飼いならした鵜に魚をとらせ
飼いならした鷹に小動物を追わせて
それで楽しむのだ、殺害を
まこと人ほどの害獣はなし
私を驚かせるのは『エソポのファブラス』
ESOPONO FABVLAS (1593) 天草ローマ字版
なんというみごとな書物だろう
『伊曽保物語』といってね
自分の人生もそのころから
Fablesとしてやり直せるなら楽しいだろう
さしあたって物語に逃げるなら
さしあたって物語か語り手になれるなら
この男エソポいと見苦しく
言葉もよくできないので
ふさわしい仕事がないといって
牛馬の世話係をしていたそうだ
(それ自体は良い、おもしろい仕事
動物相手の仕事は人間相手よりずっといい)
いずれにせよ私はエソポに遠くおよばず
物語を知らず知恵もなし
生きる術もなく仕事もない
さてさて学問でも修めるか
そこで読んだのは「狐と狼の事」

 有狐、子を儲けけるに、狼(おほかめ)をそれて名付け親とさだむ。
 狼承けて、其名を「ばけまつ」と付たり。
 狼申しけるは、「其子を我そばにをきて学文(がくもん)させよ。
 恩愛のあまり、みだりに悪狂ひさすな」といへば、
 狐「実も」とや思ひ、狼に預けぬ。
 (『伊曽保物語』下巻の第10)

ばけまつ!
なんと愛らしい名前でしょう
しかし狐も狼も犬といえば犬なのに
狐がそこまで狼を恐れるのはかわいそうだな
いっそ犬になってしまえば犬どうしの交友は
チワワとニュー・ファウンドランドだって
仲良くさせるのに
思うにこの物語の狐と狼は
人間の言葉を話すようになったのが敗因か
それで不平等が起源する
このあたりのことはよく考えるんだ
言語はどう使うのがいいのかって
ぼくの大きな悩みは
現実を取り逃してしまうことだった
たとえその場に居合わせても
ほとんどのことはただぼくに関与せず
過ぎてゆくのだった
あまりにあまりに少なくしか
気づくことも知覚することもない
それを言い出せば
現実を知ることはできない
すみずみまで知ることはできない
ごく粗いスケールの描写ができるだけ
そして知覚を少しでもつなぎとめて
おきたいと思うなら
言語は避けられない
どれほど現実を知っても/知らなくても
言語はいわばすべてを「均して」くれる
心の手に負える程度にまで
ひどく単純化してくれる
言語にはまた一定水準の
熟達がありうる
だから
言語学習にうちこむことには
一定の実用性がある
簡単に確実に生きるために
ぼくはエソポに話しかけたくなった
いやね、どれほど話しかけても答えはないが
物語は物語に転生するし
文字は文字を反復する
誤訳だっていわばそれは接木の一形態で
根付いて成長をはじめるならそれでいいわけだ
ぼくがどれほどラ・フォンテーヌを好んでいるか
きみは知らないでしょう
「フランス文学の絶頂はラ・フォンテーヌとランボー」
とミシェル・ビュトールはいっていた
そしてラ・フォンテーヌはエソポの模倣者
それを別の言語において模倣することもできるだろう
たとえばこんなふうに

 狼は少し有名になりすぎた
 その土地の羊たちのあいだでね
 これからは頭の勝負
 そうだよ、おれが羊飼いになってやろう
 そんな格好をして、ぼろぼろのコートも着て
 適当な棒を杖にして、バグパイプも準備
 帽子にはちゃんと書いておいた
 「おいらはギヨ、羊飼い」
 こう姿を変えて
 杖に助けられ二足歩行で
 偽者ギヨは羊に近づく
 そのころほんもののギヨは
 若草にねっころがってお昼寝の最中
 犬も寝ている、バグパイプも寝ている
 羊たちも大部分がうとうと
 しめたと思った偽者は
 羊飼いを起こさないようにして
 羊だけを連れ去るために
 言葉を使おうと思った
 仮装だけでは足りない気がして
 これが失敗のもとでした
 狼には羊飼いのことばを
 まねることができなかったのだ
 狼の声音が森にとどろき
 みんなが一斉に目をさました
 羊たち、犬、ほんものの羊飼い
 あれあれ、みんな大騒ぎ
 ところが偽ギヨ、コートを着込んだばかりに
 足がもつれて逃げられない
 杖もバグパイプもじゃまになり
 身を守る機敏さを失った
 ああ、ああ、狼は
 狼として終わることができなかった
 そういうことだね
 悪巧みは必ずしっぽをつかまれる
 「馬脚をあらわす」というが
 「狼尾をあらわす」という言葉はない
 言葉知らずの狼に
 人間のまねはむりだった焉
 身のほどを知れよ焉
 狼は狼らしくするしかない焉
 そしてギヨはバスク人のように
 ユタ州かチリに移住するしかない
 (ラ・フォンテーヌ『寓話』、岩波文庫の今野一雄訳を参照した)

ともあれ教訓を得て、ぼくは
狼としての自分を偽らないことにした
狼として生まれたなら狼として死ぬ
ただそのごまかしをなくすための一生だった
そんなところでどうかな?
けれども人間世界は無情の辺土
古来、人間世界を追放された人間を
人狼として遇した歴史あり
なんらかの罪を犯して
人でなしと見做されるようになれば
人々は人狼を思うがままに打ち殺す
ざんにんなことだ
事実であれ想像であれ
歴史も物語も血まみれだが
さしあたって
この街はいい街
地形が好きなんだ
今日はこれから海沿いをぐるりと歩いて
海ノ中道まで行ってみようか
なんという奇跡的な地形
と思っていたらあれあれ
なんだこの人工島は
湿原も干潟も省みず
海に具体的な蜃気楼を出現させたのか
そこに住むつもりかニンゲンばかりが
海の生きもの空の生きものを追放し
架空のニンゲンばかりで自足して?
恐ろしいことをするなあ
信じられない愚かさ
居住の冒険主義はやめよう
海に人は住めない
海に支えられて
陸でつつましい村を作ればいい
「シティ」はいらない
すべて開発=利益の計略
浅はかな未来像
せめて作ってしまったこの人工島を
もういちど土地の鳥獣虫魚に返して
コンクリートの皮膜を剝がして
あめつちの論理に百年ほどまかせて
リワイルディングを生きさせてほしい
いや、冗談ではないんだよ
それ以外には未来はないんだよ
ニンゲンにとっても
千年の門をもつ都会なら
千年を過去の生態系に探るべし
過去にこそ未来あり
その逆説のみが生命を救う
きわどく細い砂洲を歩いて歩いて
島に向かえばそこで金印が見つかったというので
幽霊の群衆がさわいでいた
金印を落としたという者も
その金印を使ったという者も
よく探せばどこかにいるのかな
死後の魂として
歴史とは幽霊の発生装置
ダンテの地獄も
チリの露天掘りの銅鉱山も
いまここに広がっている
ただ見えないだけ
陸繋島は海の犬
つながれて海を見ながら
潮のような大声で吠えている
島にむかって
半島にむかって
ニンゲンよすべてを海に返せよ
海と陸とそのひとつらなりの生命に返せよ
島の頂上にはその祈りを
なんとかかたちにしようと
バリ島のバロンの仮面をつけて
ひとり舞う少女がいた
天気雨の夕陽の中で
ニンゲンであることをやめた
彼女の舞がニンゲンを批判する

福岡市総合図書館、二〇二三年三月二一日、雨

本小屋から(1)

福島亮

 日本に帰るために、ずいぶん多くの本を古本屋で売った。それでも日本に送った本の数の方が多い。フランスは文化政策の一環として、フランス語の書籍や文書を国外に郵送するための特別料金を設けており、私も当然それを利用した。クロネコヤマトの単身引越しサーヴィスを使うという手もあるのだが、貧乏学生が手を出せる金額ではなかった。まあ、特別料金とはいえ、全部ひっくるめればかなりの金額になる。それを見越して、やりくりはしていたが、実際に荷造りしてみると、一度に送れる量が思ったよりも少なく、さらに深刻なことに、一度に運べる量はもっと少なかった(私はエレベーター無しのフランス式7階、ようするに日本でいう8階に住んでいたのである)。本は砂嚢用の頑丈な袋に詰め、結束帯で口を縛った状態で送る。一度に運べるのは20キロが体力的に限界だった。あたふたよたよた郵便局通いをしていたから、結局いくらかかったのか計算する余裕はなかった。しようと思えば送り状があるからすぐに計算できるのだが、気分の良いものではないから、計算はしない。

 ある知人は、書籍をすべてデジタル化し、iPadひとつあれば事足りるよ、と得意そうにしていた。うらやましくもあるが、私の場合、きっとそうはなれないだろう。原稿も、書類も、あらゆるものがPCひとつで済むのは便利だが、画面を睨み続けていると目の奥の方が痛くなってくる。それに比べて、紙の本は目が疲れないし、お気に入りのペンや鉛筆で書き込みできるのも楽しい。付箋を貼り付けて好きな頁を好きな時に繰ることができるのも便利だし、時には関連する記事の切り抜きを挟み込んだりもする。ちなみに、私は小学生が使うような赤と青が半々になった鉛筆を愛用している。帰国も近くなった頃、国立図書館で作業していると、隣の席の若い女性が小さな声で「これ、どこで買ったの?」と囁いた。これ、というのは、赤・青鉛筆である。文具屋で見つけたそれは、よくある六角形や丸形の軸ではなく、三角形の軸をしたいわゆる「おにぎり鉛筆」というやつだった。文具屋で見つけたんです。たくさん持っているから、よかったら一本どうぞ。

 こんなふうに、赤、青、黒、さらにはダーマトグラフの黄色で着色された本たちだが、さすがにそれらすべてを連れ合いの家に置くことはできない。5年前、私が渡仏したのと同じタイミングで、連れ合いは東西線沿いに単身用のマンションを借りた。帰国するたびに私もそこにお世話になっていたのだが、何しろ一人用の部屋なので本を置くスペースはない。というか、実は連れ合いもずいぶん本を持っていて、それらによって居間はおろかクローゼットの中まで占領されているのだ。

 そこで、帰国後すぐ、本小屋を探すことになった。本を置くための部屋。もちろん、贅沢は言えない。物置、あるいはプレハブ小屋のようなもので十分だと思いながら物件探しをした。幸い、良い不動産屋と巡り合い、都心から少し離れた小田急線沿いに本小屋が見つかった。大学生の頃住んでいた西武新宿線沿いの、列車が通るたびに揺れる木造アパートよりもさらに安い家賃なのだが、環境は格段に良く、いまのところ申し分ない。引っ越した当初は、あまりにも周囲が静かなので心細くもあったが(ベルヴィルでは常に通りから音楽が聞こえていた)、それも時間が解決してくれた。物音ひとつしない部屋で本を読んでいると、遠くの方を走る車の音が聞こえてくる。そうだ、15年前は、それが日常だった——。

  *

 一人暮らしにずっと憧れている高校生だった。群馬県渋川市祖母島。小学生の頃から幾度となく発音し、読み、書いてきた住所だが、いつかそこから出て一人暮らしするのだと、物心ついた頃から思っていた。実家の周辺には、「島」という字がついた地名が多く、それはおそらく吾妻川の流域に点在する小さな地域を示しているのだろうが、この「島」という文字を見るたびに、外と遮断され、幽閉されているような気持ちになったものだ。じつは同じことを、マルティニックの知人から聞いたことがある。その知人は、マルティニックのことを「島(イル)」と呼ばれるとあまり良い気分がしない、と言っていた。その言葉を聞いた時、知人の気持ちが、少しだけわかるような気がした。

 幽閉というのは、移動の自由がない、ということ。もしかしたら「島」と呼ばれる場所はどこもそうなのかもしれないが、徒歩や自転車で移動する人はほとんどいない。運転免許が取れるようになると、一人一台自動車を手に入れ、たった200メートル離れた所に行くのにも自動車を使う。自動車道の両脇にあるべき歩道はほとんど整備されておらず、落ち葉が積もっていて、歩くのは難儀だ。自動車以外の移動の自由のなさが何よりも息苦しかった。私の故郷において、一人前であるとは自動車を運転できるということであり、運転免許を持たない私は今でも帰省すると肩身が狭い。

 大学に入り、中野区沼袋のアパートに引っ越した日、荷運びをしてくれた父がそのままアパートに一泊した。3月末で、まだ寒かった。沼袋をまだよく知らない二人は、どこで買い物をしたら良いのかわからず、とりあえず駅の近くにあった100円ショップでインスタントコーヒーを買い、電気ケトルでお湯を温め、飲んだ。手のひらに収まりそうな小瓶に入った黒っぽい粉を溶かすと、その色は薄く、味は焦げたパンのようだった。父もそう思ったようだが、何も言わず、色つきの湯を啜っていた。二度と飲まないだろう、と思いつつ、食器棚の奥にコーヒーの小瓶をしまった。悠長なことはしていられない。一服したらバスに乗り、中野駅の近くのドン・キホーテに買い物に行くことにしていたのだ。沼袋から中野駅までは徒歩で20分もあれば行くことができる。平和の森公園の前を通り、真っ直ぐ行かずに新井天神通りに曲がり、中野通りの桜並木に出る、という行程は、住んでしばらくしてからわかったのであり、引っ越した初日は、とりあえず中野駅行きのバスに乗るだけで精一杯だった。私はSuicaで支払いを済ませ、後に続いて父もバスに乗った。父は緊張していたのか、何も喋らなかった。普段自動車に乗っているだけに、その自動車が使えない状況が不安だったのだろう。

 バスのなかで二人は揺られていた。どんどん乗客が乗り込んできて、身動きできなかった。ようやくバスが中野駅につき、降りようとした時のことだ。お客さん! 運転手が大きな声を出し、父を睨んでいる。そこでようやく発覚したのだが、父は乗車料金を支払っていなかったのである。私がSuicaをタッチしたのを見て、2人分支払われたと思い込んでいたようだ。慌てて料金を支払い、バスを降りると、父は今にもベソをかきそうな顔をしていた。

 その後、二人で何をしたのか、よく覚えていない。ドン・キホーテで買い物をしたはずだが、何を買ったのかはっきりしない。覚えているのは、父の歩みが非常にゆっくりだったということだ。これだから田舎の人は、と思った。自動車ばかり乗っているから、足腰が弱いにちがいない、と。そうではなく、父の体力が目に見えて落ちていると、どうしてわからなかったのか。一人暮らしをはじめた嬉しさに、父の変化に気づいていなかったのだ。父の胃に影が見つかったのは、それからしばらくしてからのことである。

 尽きていく時間の流れは、早いような、ゆっくりしているような、奇妙な実感を伴っていた。葬儀を終え、沼袋のアパートに帰って食器棚の中をふと見ると、そこにはあのインスタントコーヒーの瓶があった。粉が湿気で固まり、飲める状態ではなかった。だが、捨てることはできなかった。

  *

告知

6月9日から11日にかけて、調布市せんがわ劇場で「死者たちの夏2023」と題した以下のようなイベントを行う予定です。

公演情報
■ 音楽会 Music Concert
「イディッシュソング(東欧ユダヤ人の民衆歌曲)から朝鮮歌謡、南米の抵抗歌へ」
6月9日(金)19:00 START
出演:大熊ワタル(クラリネット ほか)、
こぐれみわぞう(チンドン太鼓、箏、歌)、
近藤達郎(ピアノ、キーボード ほか)
解題トーク:東 琢磨、西 成彦 ほか

■ 朗読会 Reading
「ヨーロッパから日本へ」
6月10日(土)14:00 START
「南北アメリカから日本へ」
6月11日(日)14:00 START
出演:新井 純、門岡 瞳、杉浦久幸、高木愛香、高橋和久、瀧川真澄、平川和宏(50音順)
演出:堀内 仁 音楽:近藤達郎
解題トーク:久野 量一、大辻都、西 成彦 ほか

場所:調布市せんがわ劇場 京王線仙川駅から徒歩4分
料金(各日):一般3,200円/学生1,800円
リピーター料金:各回500円割引
ホームページ:https://2023grg.blogspot.com
お問い合わせ: 2023grg@gmail.com (「死者たちの夏2023」実行委員会)

音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)
照明・舞台監督:伊倉広徳
衣装:ひろたにはるこ

■ 実行委員長:西 成彦(ポーランド文学、比較文学)
■ 実行委員(50音順)
石田 智恵(南米市民運動の人類学)
大辻 都(フランス語圏カリブの女性文学)
久野 量一(ラテンアメリカ文学)
栗山 雄佑(沖縄文学)
瀧川 真澄(俳優・プロデューサー)
近藤 宏(パナマ・コロンビア先住民の人類学)
寺尾 智史(社会言語学、とくにスペイン・ポルトガル語系少数言語)
中川 成美(日本近代文学、比較文学)
中村 隆之(フランス語圏カリブの文学と思想)
野村 真理(東欧史、社会思想史)
原 佑介(朝鮮半島出身者の戦後文学)
東 琢磨(音楽批評・文化批評)
福島 亮(フランス語圏カリブの文学、文化批評)
堀内 仁(演出家)
■ 補佐
田中壮泰(ポーランド・イディッシュ文学、比較文学)
後山剛毅(原爆文学)
■ アドバイザー
細見和之(詩人・社会思想史)

『アフリカ』を続けて(24)

下窪俊哉

『アフリカ』最新号(vol.34/2023年3月号)をつくった直後に、ある人から連絡があり、「下窪さんは文フリにはやっぱり出たくないですか?」と言われる。
 文フリというのは文学フリマの略称で、自分で本をつくっている人たちのフリーマーケットと言えばいいか。東京の文フリには13年ほど前に誘われて足を運んだことがあったが、京急蒲田駅のそばにある大田区産業プラザPiOの1階展示ホールが会場で、調べてみたら、現在の規模に比べて(出店者も来場者も)3分の1といったところか。今回は1435の出店と1万人を超える来場者があったそうだ。1日だけ、5時間だけのイベントである。会場は満員電車状態だったという証言もある。そういうのが好きな人はたくさんいるんだなあとボンヤリ眺めている。

 学生だった20数年前には、詩を書く人たちがつくった本や同人雑誌を売るフリマを手伝ったことがあり、その後、なぜか自分が編集長となって創刊した文芸雑誌『寄港』では、メンバーの中に詩のフリマに出たいという声が上がり、どうぞ、となった。いちおう自分も会場に足を運んで、挨拶くらいしたのだったか、その頃からあまり積極的ではなかった。
 という話でわかる通り、その頃、誘われたのは主に詩集や詩誌のフリマだった。小説や評論を書く人は新人賞を目指すのが当たり前のように言われていたのでそれどころではなく、今の『アフリカ』によく載っている雑記のようなものを精力的に書いている人は見当たらなかった。もしかしたら、雑記を書く人たちはいち早くウェブの世界に活動の場を移して、ブログのようなものに向かっていたのかもしれない。
 今回、Twitterで文フリの様子を眺めている限り、もう昔のようではなく、それなりに多彩な書き手が集まっているとは言えそうだ。しかしこれだけウェブの発達した時代になって、紙の本をつくって売ったり買ったりしたい人がそんなにたくさん出てきているのかと思うと奇妙な感じもする。昨今のアナログ盤ブームと似たところがあるだろうか、どうだろうか。

 20代半ばで会社勤めというものを始めてからは、会社でもツマラナイ原稿をたくさん書かなければならず疲れてしまい、それまでやっていた文芸のサークル活動のようなものを続けるのは苦しくなってしまった。なので止めることにしたのだが、ついでに会社も辞めてしまい、つまり失業してしまった時にある人から短編小説の原稿を託されて、それを載せる雑誌をつくろうとして始まったのが『アフリカ』だった。この話は前にも書いたかもしれない。
『寄港』と『アフリカ』の違いについては、2016年12月のトーク・セッションで写真ジャーナリストの柴田大輔さんから訊かれて話している。

 一番大きかったのは、『アフリカ』では文芸をやる人たちのサークル活動をしなくなったことじゃないかなあ。即売会とか交流会といったものをやらず、参加もせず、寄贈もほとんどを止めて……。変人だと思われたかもしれませんね。ただ書いて本をつくって読んでるだけになった。『アフリカ』がはじめて人目に触れたのはその頃ぼくが通っていた立ち飲み屋だったんです。はじめて買ってもらったときは嬉しかった。それまで文芸をやってる人同士で読み合うことしかしてませんから。

 それに応じて柴田さんは「同業の人たちじゃないところに、はみ出たんですね」と言っている。
 どうして「はみ出た」んだろう? と考えてみる。同業(同好)者の集まりはもう散々やったので、もういいや、となったのかもしれない。ひとことで言うと、飽きた。
 とはいえ、その頃(2006年)には私はまだブログも書いたことがなく、ウェブサイトをつくって『アフリカ』の情報発信を始めるのはまだ3年ほど先だ。イベントにも出ず、寄贈もごく限られた人のみ、ということは、たまたま出会った人に手売りしたり手渡したりする以外に読んでもらう方法はなく、早い話が売る気なし、宣伝する気なし、好き勝手につくっているだけである。気が楽になり、伸び伸びできた。
 そうなる必要が自分にはあったのではないか。でなければ、もう続けることができない、と。
 柴田さんとのトークでは、こんな話もしている。

 下窪さんは誰のためでもなく自分のためだけに小説を書く気持ちがわかりますか?
 そういう経験がないから、わかりません。わかるって言いたくないですね。
 ご自分ではそういうことをしてみようと思わない?
 常に読者がいたからでしょうね。幸いにも。少なくても、いたから。

 売る気がない割には、読者は必ずいると信じて疑っていない。これを自信というのかもしれない。また、自分すら他人と思っているところもありそうだ。『アフリカ』にはもちろん他の執筆者もいるわけなので、まずは身近なところに読者がいたのである。私も自分が、彼らの書くものにとってどのような読者になれるだろうか、と常に考えている。

 売る気というものをとことん薄めた理由として、私の暮らしにいつも余裕がない中でやっているということはありそうだ。書いて、読んで、つくる、それで精一杯なのである。本当はそれすら厳しいと言っていいだろう。こんなに余裕がないのに自分は一体何をしてるんだ? と、我に返るような時がある。売れもしない原稿をせっせせっせと書き、ワークショップをやったりして、バカじゃないのか、と。
 バカなのは認める。バカにならずにはやってゆけないこともあるのだ。『アフリカ』に助けられて、生き延びてこられたと思っているところが私にはある。生きるために書き、闘うために雑誌をつくっているのだ、と考えてみたらどうか。一体『アフリカ』は何と闘っているのだろうか?

 そんなことを思いながら、文フリに出るのは「やっぱり気が乗らないので」と返事していた。そうしたら、文フリに出るのだが、『アフリカ』も一緒に売りたい、ということらしい。それなら構わないというか、ありがたい申し出を受けて、私の手を離れた『アフリカ』だけ会場に向かうことになった。

「せかいのおきく」を心にしまう

若松恵子

阪本順治監督の最新作「せかいのおきく」が4月28日よりロードショウ公開されている。
今回は、白黒の時代劇。明治まであと10年という江戸末期を舞台にした青春映画だ。
溌溂とした青春というわけにはいかないけれど、主人公たちが「これからの人たち」なのだから、やはり「青春映画」と呼びたい。

黒木華演じる主人公「おきく」は、今は落ちぶれて長屋暮らしをしている武家の娘だ。母はなく、何かの理由でお家断絶に追い込まれてしまった父と2人暮らしだ。近くの寺で子どもたちに読み書きを教えている様子から、名家に生まれたらしいとわかる。今は長屋暮らしだけれど、周囲の人たちに溶け込んで、境遇を苦にせず、けなげに父を助けている。その「おきく」さんが、雨宿りをきっかけに2人の青年と出会う。羅生門を思い出させるような雨やどりの場面が印象的だ。紙くずを集めて紙屋に売る「紙くず拾い」の中次と糞尿を買い取って近郊農家に売る仕事をしている弥亮の2人だ。映画のパンフレットを引用すれば「わびしく、辛い人生を懸命に生きる3人は、やがて心を通わせるようになっていく」のだ。ご飯を食べて排泄するのは人間だれしも平等なのに、この社会で排泄物を片付けるという一番大事な仕事をする者が蔑まれ、邪険にされるという矛盾。その不合理を黙って引き受けて生きている弥亮を池松壮亮が魅力的に演じている。

当初短編映画として企画していたものを、撮影するうちに手ごたえを感じて長編にしたとのことで、第一章むてきのおきく(安政五年・秋)、第二章むねんのおきく(安政五年・晩冬)、第三章恋せよおきく(安政六年・晩春)というように題字が入り、物語が展開していく。章が変わる直前に、カラーの映像が少し挿入される。第一章の終わりでは、顔を洗う黒木華のアップがカラー映像に変わって、彼女の着物の色合いとともに、娘ざかりの素顔が美しくてハッとした。

おきくは、追ってきた侍に父を殺され、口封じのために喉を切られて声を失ってしまう。黒木華の演技は、後半、セリフの無いものとなる。一方読み書きができない中次は、自分の気持ちを言葉にして表すという事がうまくできない。話したり書いたりというコミュニケーションを奪われている二人の心の通い合いにセリフは使えない。セリフで説明しない阪本映画の真骨頂がここから始まる。

阪本映画を見ていて、泣いてしまうことが度々ある。「泣くところあった?」と聞かれることも多いのだけれど、物語の筋に泣いてしまうというのではなくて、俳優の佇まい、ふとした体の動きに胸を打たれて泣いてしまうのだと思う。阪本映画の良さは、たとえば「人間の真剣さ」や「まごころ」のような目に見えないものを横顔や、立ち居振る舞いによって見せてくれるところなのだと思う。そこに人間の美しさを感じて、いつも涙が出てしまうのだ。

おきく、中次、矢亮の三人のこれからがどうなっていくかまだわからないけれど、もうすぐ明治になると分かっている時点から見れば、もうすぐ士農工商も無くなって、自分の力一つで切り拓いていける世の中になる、きっと三人は自分の力を発揮していくだろう、もっと広い「せかい」に出ていくだろうと明るい未来を感じることができる。

コロナ禍で、辛い毎日を生きている若い人たちの姿を重ねてこの映画を見ることもできるだろう。日々懸命に生きている現在の若者への励ましも込められているこの映画を、心にしまっておきたいと思った

ぼくがおれに変わった日

篠原恒木

おれは昔、ぼくだった。
「ぼく」だった頃がこのおれにもあったのだ。生まれてこのかた、ずっと「おれ」だったわけではない。

四十年も前のことだ。ぼくは出版社に入社して、週刊誌の編集部に配属された。そう、この頃は「ぼく」だったのだ。右も左もわからず、ひっきりなしに編集部にかかってくる電話を取るのがひたすら怖かった。ぼくは間違いなく会社の中でいちばん仕事ができないニンゲンだった。そんなある日、デスクはぼくにこう言った。
「鎌倉の大仏にセーターを着せよう。おまえが担当しろ」
「は?」
「大仏様も外で寒いだろう?」
「はあ」
「そこで読者にお願いして、要らなくなったセーターを集めるんだ。その集まったセーターをパッチワークで大仏様のサイズに編む。出来上がったらそれを大仏様に着せて写真に撮る。どうだ、名案だろう」
「そんなこと、お寺が許すとは思えないのですが……」
「企画書を書いて、鎌倉のお寺に持って行け。そこでお願いするんだ」
「ぼくがですか」
「ほかに誰がいるんだよ」
ぼくだったおれは手書きで企画書を作った。縦書きの便箋二枚分になった。ワープロもPCもない時代である。企画書をデスクに見せた。
「まあいいだろう。これを明日お寺に直接持っていって、読んでもらったら、その場で話をまとめろ」
「あのぉ、来訪の旨を事前に電話したほうがいいですよね」
「しなくていい。いきなり訪問しろ」

ぼくはその夜眠れなかった。企画書をお寺の誰に読んでもらえばいいのだろう。その前に、こんな馬鹿げた、バチ当たりな企画をお寺が許可するわけがないと思った。だが無情にも朝になってしまった。ぼくは横須賀線、江ノ電と乗り継いで、長谷駅で降りた。そこから十分弱歩けば鎌倉大仏が鎮座する高徳院がある。しかし誰に、どのようにお願いすればいいのだろう。ぼくの足取りは重かった。だが、思い悩んでいるうちに高徳院に着いてしまった。拝観料を支払い、参道へと進み、青空の下で大仏様を見上げた。巨大だった。さてどうしよう。ぼくはすぐに寺務所を見つけた。もう行くしかないな、と観念した。場所はお寺の境内だ。これほど観念という言葉がふさわしい状況はないだろう。いや、ウマいことを言っている場合ではない。
「すみません」
寺務所でそう言うと、袈裟を着た男性の方が出てきてくれた。ぼくは名刺を渡し、
「ご住職様はいらっしゃいますでしょうか」
と尋ねた。
「どのような御用でしょうか」
ぼくはその人に封筒に入った企画書を渡して、企画内容のようなものを口頭で説明した。汗が噴き出ていた。袈裟を着た人は封筒を開け、便箋二枚に目を通し、静かに言った。
「このようなことは……お引き取りくださいませ」
ぼくには食い下がる気力がなかった。
「大変失礼いたしました。どうかお許しください。申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げ、ぼくは事務所を辞去した。顔は真っ赤になっていたはずだ。
「無理に決まっているじゃないか」
「無理に決まっているじゃないか」
「無理に決まっているじゃないか」
ぼくは何度も何度もつぶやきながら、いま来たばかりの参道を出口に向かって歩き、お寺の外へ出た。そのすぐ脇には電話ボックスがあった。ぼくは中に入り、十円玉を何枚か入れて、編集部の番号をダイヤルした。デスクが電話に出た。
「すみません、ダメでした」
「ダメ? 何がダメだったんだ?」
「鎌倉の大仏様にセーターを着てもらうという企画です。丁重にお断りされました」
「ああん? おまえ、いまどこにいるんだ?」
「鎌倉の高徳院ですけど」
受話器の向こうから呆れかえった声が聞こえた。
「嘘だろ? おまえ、本当に行ったのか?」

コンプライアンス、パワハラなどの言葉は影も形もなかった頃である。受話器を戻した瞬間、ぼくはおれになった。すっかり、完全に、これでもかというほど、やさぐれてしまったのだ。この仕事は、ぼく改メおれには向いていないと心の底から思った。あの日以来、おれはおれのままである。

エレガントマンション

植松眞人

 急に斜めに折れたり、行き止まったり、三叉路になったり。都市計画という観点が微塵も感じられない路地を歩く。近くを流れる一級河川が氾濫すれば、このあたりは見事に水没するという真っ赤な地図も見たことがある。そのためか家賃が安く、年寄りと外国人、そして、芸大の学生が卒業してからもこのあたりから逃げられないらしい。それでも町の鎮守の森はしっかりとあり、梅雨時に始まる大きな祭には法被をきた男たちが路地の角ごとに祭に協賛した商店や個人をを公表する看板を立てる。
 遠くでは祭り囃子の練習をしている太鼓の音が聞こえる。不思議なもので、祭り囃子が聞こえるだけで、さっきまで貧乏くさく見えた曲がりくねった路地が、意外に味のある路地のように見えてくる。そのことを知っているのか、法被を着た男たちも、普段よりも少し自信ありげな顔をして、知らず知らず道の真ん中を歩いてしまい、自転車の年寄りに迷惑そうな顔をされている。
 なんとなく目の前を歩く法被の男の後を追う形になる。そこに、別の法被を着た男が合流して目の前を二人の法被の男が歩いている。その後を付いていくと古いマンションのある三叉路にやってきた。男たちは互いに言葉を交わすと三叉路を右と左に分かれて行く。どちらの後を付いて行こうという気持ちも起きずに、古いマンションの前に取り残される。見上げると白い外壁には職人の手によって模様が付けられている。そこに長年の汚れが入り込んで、まるで薄い模様の入った風呂敷で包まれているかのようにも見える。そして、外壁には大きく太い文字が表記されていて、『エレガントマンション』とある。一昔前の美容室の店名によく使われていたようなゴシックのようでいて、払いの部分が妙に装飾されていたりする。『エレガント』という文字を表記するからには、文字の種類もエレガントでなければということなのだろう。
 そんなことを考えている間に、左右に分かれて行った法被の男たちの姿は見えなくなっていた。どちらかに付いていけば良かったのかと思ったが、もうすっかり出遅れていて、そろそろこの三叉路を右に行くのか,左に行くのかを決めなければと思いながら、ふと振り返るとまた別の法被を着た男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。(了)

仙台ネイティブのつぶやき(83)田んぼの中で眺め見る

西大立目祥子

 仙台市東部、海寄りの地域に七郷(しちごう)とよばれる水田地帯がある。江戸時代に新田開発とともに開かれたところで、地名から想像できるように明治22(1889)年までは7つの村だった。平成のはじめ、この地区の地域誌づくりにかかわったことがある。大がかりな区画整理事業が実施されることになり、農地が消え新しい道路が引き直されて風景も暮らしも大きく変わってしまうことに大正生まれのおじいさんたちが危機感を抱き、何か記録をと画策されたのだった。

 当時働いていた小さなデザイン事務所の一社員として、縁もゆかりもなかった地域に4年も通うことになった。土曜日の午後、当時はまだ運転免許も持っていなかったのでバスに乗り会場の市民センターに向かうと、会議室には7つの地区からそれぞれ2、3人が編集委員として出てこられていて会議が始まる。兼業にせよ、専業にせよ、長くこの地域で農業にかかわってこられた方が多く、暮らしてきた地域に対する思いは想像以上に深かった。全体をとりまとめていたのは代々米づくりをされてきた堀江正一さんという方で、いつもにこにことして、会議で出る意見の相違も対立を際立てることなくうまくまとめ上げる。ムラの長というのはリーダーシップを発揮してじぶんの意見を声高にのべるのではなく、人の意見にじっくりと耳を傾けるこういう人をいうのだな、と教えられた。

 会議を重ねながら本のイメージを話し合い、目次を立て、と作業は進んでいったのだが、分担を決めていざ原稿、となったところで、盲点に気づいた。資料がない! 城下町仙台なら江戸時代初期からの城下絵図がそろい、地名についても文献があり、郷土史家が書き残した本もあれこれあるのに、七郷に関してはというか、城下町周辺のムラだった地域にはほとんど資料は残っていないのだった。ちなみに七郷村が仙台市に編入されたのは昭和16(1941)年のことだ。

 結局、現場を歩き一次資料をつくるかたちで作業は進んだ。納屋に機械化前の農機具を保存している方がいたので訪ね、一点一点写真を撮り使い方を教わったり、おばあさんたちに集まってもらい嫁いでからの苦労話を聞いたり、違う世代の人たちに子ども時代の遊びについてたずねたりした。地名の由来から伝説までを、編集委員の人たちが思い出を絞り出すように記し、中には狐に化かされた話を10篇もまとめて持ってきてくれた人もいる。気の合う2人の編集委員が、七郷全域に残る石碑を丹念に歩き回って調べ尽くしまとめ上げた一覧表は圧巻で、のちに仙台市史編纂の際の基礎資料になった。

 私にとって忘れられない経験になったのは、広瀬川から取水されこの地域と周辺の水田1500ヘクタール(当時)に水を送ってきた七郷堀と、長喜城(ちょうきじょう)という集落に残る屋敷林、居久根(いぐね)の取材をする機会を得たことだ。
 七郷堀は江戸時代初期の城下絵図に描かれている農業用水で、荒地を開拓しながら東へ東へと進んだ新田開発にともない延伸し、毛細血管のように地域に張り巡らされていった。同僚のカメラマンといっしょに幹線をたどり分水堰で枝分かれするその先を追い、田んぼへと流れ込む水を見届けた。大発見!と胸が踊ったのは、城下絵図に描かれている広瀬川取水口近くの堰守の屋敷が変わらずに同じ場所にあり、そこに堰守の方が住んでいたことだ。80歳は優に越していると思われた大黒五郎さんという堰守のおじいさんに会いに行き、取水する水の量を加減する作業に同行して話を聞いた。江戸時代からずっと同じ場所で、空模様を眺めながら細やかなに水の管理をしてきた人がいたことに圧倒された。稲作は何よりまず水の管理に始まることなのだろう。

 居久根の「居」は屋敷、「久根」は屋敷境を意味するらしい。長喜城はいち早く集落で共同で米づくりに取り組んできた地区で、計画されていた区画整理事業には加わらず、このまま地域を維持していくことに決めていた。見事な居久根に囲まれた家が数軒残っていたことも、そんな決断を後押ししたのかもしれない。

 緑の樹林は、まるで水田にぽっかりと浮かぶ島のよう。S家は約1500坪。専門家の力を借りて図面をとり、樹種と本数を調べると、スギが31本、ヒバが21本、ヒノキが10本もあり、そのほかツバキ、カキ、ウメも10本ずつ、全部で160本を超える木が分厚く家のまわり、特に風と雪を防ぐために北西部を固めていた。9代目というご主人によれば、昭和42(1967)年に建築した家は、樹齢200年超えのスギを10本、そのほかケヤキなども倒し、ほぼ居久根の木だけで建て替えたのだという。

 落ち葉や倒木した木は風呂炊きに使われていた。なんとお風呂は五右衛門風呂。稲を脱穀したあとの籾殻もいったんヌカ小屋に貯蔵されたあと燃料となり、さらに燃やしたあとの灰はアク小屋にとって置かれ田や畑の土壌改良に使われる。もちろん、カキやウメは食用。居久根の中には見事な循環のシステムがあり、居久根は近場に山のないこの地区のヤマであり、農業と自給自足の暮らしを支える基盤なのだった。

 この5月中旬、私の母校の高校の1年生が水をテーマに地元でフィールドワークをすることになり、ご縁と思い案内役を引き受けた。240人に付き添って七郷堀の取水口へ、そして長喜城ではお許しをいただいて敷地に入り、居久根の説明をすることになった。気がつけば、あれこれと地域のことや農業のことを教えてくれたおじいさんたちはみな亡くなられ、いつのまにか私は伝える側に立っているのだった。
 15歳、16歳というと…こんな比較はおかしいけど、うちの猫より若いのである。デジタル育ちの子たちにどう伝えればいいんだろう。私のムラへの目を開いてくれた七郷堀と居久根なのだ、ちゃんと伝え受け止めてもらって足元の地域と農業に目を向けるきっかけにしてほしい。ついつい力が入る。

 昭和30年代の七郷堀の写真を見せては、「こういう写真を見るときは、じぶんと無関係の風景と思わないで。この時代、あなたのおじいちゃん、おばあちゃんはいくつ?きっと見ていた風景です」と話しかけ、水路の走る江戸時代の絵図では「おもしろいでしょう?私たちはいまも城下町の上に暮らしているんだから」と興味を喚起したつもりだったけれど…。

 彼ら彼女らにとってはスギといえば花粉症なのである。「ほら、まっすぐ垂直に伸びているでしょう。だから家の建て替えの用材として欠かせなかった」と話し、「居久根は自給自足のための基盤」と説明する。話をする先から「自給自足」が果たしてわかるだろうかと心配になって保存食に話を転じ、「樽に夏場にたくさん取れるキュウリを塩をきつく漬け込んで冬まで」といったあとで、「樽」を知っているかしら、「塩をきつく」なんて塩分取りすぎと思われちゃ困ると不安にかられ、話はどんどん横にそれていくのだった。

 生活体験がまるで切れてしまっている中で、江戸時代にも通じるような自然と農に向き合う暮らしがあることをどんな切り口で伝えれば10代の子たちの胸に響くんだろう。汗をかきながら説明を終えたあと居久根から目を転じれば、もうすぐそこまで宅地とショッピングモールが迫っている。あの頃には想像もしなかったような風景だ。「いま記録を残さなければ何もかもが変わってしまい何も伝わらない」と話していたおじいさんたちの会話が、耳の奥底に響いてくる。

水牛的読書日記 2023年5月

アサノタカオ

5月某日 先月末、神奈川・小田原へふらりと遊びに行った。菜の花くらしの道具店で布作家・早川ユミさんの展示を観るのと、本屋・南十字を訪れるため。

駅前の地下街にある菜の花くらしの道具店では、高知の里山からやってきた早川さんと東南アジアの少数民族のことなどについておしゃべりし、新刊のエッセイ集『改訂新版 ちいさなくらしのたねレシピ』(自然食通信社)を入手。早川さんは「暮らし系」の人と受け止められることが多いかもしれないが、ぼくは「思想家」だと考えている。南十字では2012年に急逝した駒沢敏器の長編小説『ボイジャーに伝えて』(風鯨社)を購入した。

ということもあり、5月に入り早川ユミさんと駒沢敏器の著作をいろいろ読んでいる。

5月某日 戸谷洋志『SNSの哲学』を読む。創元社のシリーズ「あいだで考える」の1冊。《SNSを使っているあなた自身が何者なのか》。日常的な事柄から哲学的な問いへごく自然に読者を導く読みやすい構成の本、それでいて考えるヒントがぎゅっと詰まっている印象。

本シリーズ「あいだで考える」は《10代以上すべての人のための人文書》で、編集は藤本なほ子さん、装丁は矢萩多聞さん。今後の展開が楽しみだ。『SNSの哲学』を読み終わったら、大学で哲学の勉強をはじめた10代の娘にすすめてみよう。

5月某日 東京の武蔵野方面へ。「かまくらブックフェスタ」(港の人主催)というフェアを開催中のくまざわ書店武蔵小金井北口店を訪問。ここには、サウダージ・ブックスの本も並べてもらっている。お店では『現代思想』2023年5月臨時増刊号(総特集=鷲田清一)を購入、哲学者の永井玲衣さんによる鷲田清一さんへのインタビュー、臨床哲学者の西川勝さんのエッセイ「鷲田さん、とのこと」を読む。

その後、JR中央線で武蔵小金井から三鷹へ移動し、本屋UNITÉをはじめて訪れる。店主の大森皓太さんのお話を聞きながらおいしい珈琲をいただき、時間をかけて本を選んだ。帰りの電車で、大森さんにすすめられて購入した堀静香さんのエッセイ集『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)を読む。歌人でもある堀さんのことばを追いかけていくうちに、通い慣れている道のはずなのに見覚えのない景色の中を歩いているような、不思議な気持ちになった。中盤の1編「はみだしながら生きていく」を読み終えて、いったんページを閉じる。ここで深呼吸、よい本。

百万年書房の新レーベル「暮らし」の本は、どれも読んでみたい。シンプルな装丁もすてきだ。

5月某日 先月三重・津を旅した際、HIBIUTA AND COMPANYで三島邦弘さんのエッセイ集『ここだけのごあいさつ』を購入した。出版社の新レーベルとしてこの本の発行元である「ちいさいミシマ社」にも注目している。『ランベルマイユコーヒー店』(詩=オクノ、絵=nakaban)など詩の本の刊行から新レーベルを旗揚げするのを見て、これまでのミシマ社とちがう風を感じたのだった。

詩や小説の本づくりは、文芸誌を発行し、文学賞を主催する大手・老舗の限られた版元の世界に偏りがちだ。でも「ちいさいミシマ社」は、こうしたいわゆる「文壇」とは異なる、かといってリトルプレス的な個人出版とも異なる、ミシマ社らしさも活かした第三の文学の道を切り開いていこうとしている。

なかでもちいさいミシマ社から刊行された前田エマさんの『動物になる日』は、すばらしい小説集でひさしぶりに読み返した。表題作は、ジョルジュ・バタイユが語ったような「世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」いきものの感覚世界、そこに片足を入れていた幼年時代のゆらめく生のリアリティがみごとに描かれていて、読んでいてぞくぞくする。所収の「うどん」もシブい中編小説で味わい深い。

HIBIUTA AND COMPANYが発行する2冊のZine『日々詩編集室アンソロジーVol.1 わかち合い』、南野亜美さん・井上梓さん『存在している 編集室編』も読んだ。

5月某日 出版社トゥーヴァージンズ(TWO VIRGINS)のnoteで、詩人・翻訳者の高田怜央さんの連載「記憶の天蓋」の第1夜「ジョバンニの切符」を読む。星と宮沢賢治についてのエッセイ。

5月某日 東京・町田の和光大学へ公開シンポジウム「〈ヘトロピア群島・沖縄〉の精神史 川満信一から仲里効へ」を聞きに行く。登壇者のひとり、昨年90歳になった詩人の川満信一さんは映像での出演。川満さんらしい飄々とした詩の朗読で、100名を超える聴衆の心を一瞬でつかんでいた。そして那覇から会場に駆けつけた批評家・仲里効さんの講演が圧倒的だった。沖縄の「復帰」の複雑な内実について、そしてシンガーソングライター佐渡山豊の歌について。この日のために、『ラウンドボーダー』(APO)から『沖縄戦後世代の精神史』(未來社)まで仲里さんの著作群を集中的に読んできたのだった。

本シンポジウムは恩師の今福龍太先生と上野俊哉先生が企画、台湾からは谷川雁を研究する羅皓名さんが参加した。夜は大学内で焚火パーティー、徳島・祖谷の「なこち LIFE SHARE COTTAGE」管理人である稲盛将彦さんなど、しばらくぶりの知人友人に再会し、うれしかった。

5月某日 吉祥寺ZINEフェスバルに出展。駅前PARCOの地下1階の会場で、サウダージ・ブックスおよびトランジスター・プレスの書籍を販売。本はよく売れたし、購入者にはトランジスター・プレスを創業した佐藤由美子さんが制作したZine『This is Radio Transistor』『Planet News Bookstore』をプレゼントし、持参分を配り切った。日本のZinesterの草分け・佐藤さんのスピリットが伝わりますように。

隣の露店書房のブースでは、驚いたことに自分が編集した山尾三省の詩集『火を焚きなさい』(野草社)を面だしで販売していた。会場では出版社クオンの代表・金承福さんにばったり遭遇するなど、お客さまや才能に溢れる出展者たちとのよい出会いに恵まれ、愉快な1日だった。

5月某日 小田原から新幹線に乗り、静岡・浜松へ。認定NPO法人クリエイティブサポートレッツの営むちまた公民館で開催された、西川勝さん『増補 ためらいの看護』(ハザ)の読書会に参加。会の前に谷島屋書店連尺店に立ち寄ると、レッツ代表の久保田翠さんの姿を発見し、すこし立ち話をする。西川さんや読書会に集うみなさんとゆっくりおしゃべりしたかったが、最終の新幹線で帰宅しなければならず。

5月某日 今年も作家・李良枝を偲ぶ会に。東京・新大久保で開催された李良枝『石の聲 完全版』(講談社文芸文庫)出版記念を兼ねた集いに参加。早稲田大学時代に一時期交流のあった鄭剛憲さんのスピーチなど、心に残るよいお話を聞き、おいしいごはんをいただいた。感謝。

家に帰り、『石の聲 完全版』を読む。巻末に収められた妹の李栄さんによる「没後三十年、あらためて姉ヤンジをたどる」に感動、尊い証言だと思った。李良枝は早逝ゆえにぼくらのちの時代の読者にはやや謎めいた存在だったのだが、このエッセイによって書物の背後にある作家のイメージにはじめてあたたかい血が通ったように感じる。

5月某日 5月は年1回発行される地方文芸誌『徳島文學』の季節。待望のVol.6 が到着。なかむらあゆみさんの最新小説「白鳥ミュージアム」を読む。そこで描かれる人間模様には見慣れた現実から少し外れた「異形」味があるのだが、読後には物語の世界のすべてを肯定したい気持ちにさせられる。なかむらさんの他の作品にも共通して感じる不思議な魅力だ。

Vol.6掲載の小説では髙田友季子さん「金色のスープ」、久保訓子さん「夏が暮れる」を続けて読む。どちらも地方に暮らす人間の生に忍び寄る影を繊細に描く力作で、最後までページをめくる手が止まらない。若松英輔さんの批評「孔子の叡智」も。若松さんの言う「読むとは何かという問い」に深くうなずいた。

5月某日 小田原から朝一番の新幹線に乗車し、香川・高松へ。旅の道中で、韓国の作家ソ・ユミの小説『終わりの始まり』(金みんじょん訳、 書肆侃侃房)を読了。逃れ難い人と人との関係ゆえの痛みを静かに描き出す、読み応えのある小説だった。共感というべきか、共苦というべきか。読み進めるごとに、ページの端を押さえる指の圧がだんだん強くなっていくのを感じた。

JR高松駅で写真家の宮脇慎太郎くんと合流し、石の民俗資料館で開催中の写真展「Photo×Book」へ。宮脇くんがデビュー前から撮影してきた写真、蔵書、旅の資料を一室に集め、写真家として現代の聖地を巡礼するかれの世界観を再構成する趣向。脳内のカオスモス(混沌宇宙)の運動の軌跡を明らかにする実験、と言えばよいだろうか。まさに珍品博物館的な「宮脇慎太郎のワンダー・キャビネット」、圧巻の展示だった。

はじめて訪れた石の民俗資料館は、屋島から高松の町までを一望のもとに収める眺めのよい場所にあった。高松ではデザイナーの大池翼さん、画家・イラストレーターのうにのれおなさん、話題のノンフィクション『香川にモスクができるまで』(晶文社)の著者・岡内大三さんらと再会。ローカルのクリエイターたちに刺激を受ける。

翌日は高松・瓦町で、愛媛・松山の松栄印刷所の桝田屋昭子さんと今後の本づくりについて打ち合わせ。その後、本屋ルヌガンガ、古本屋のなタ書、YOMSというお決まりのルートをあわただしく回って、昼過ぎに成田空港行きの飛行機に乗るため高松空港へのリムジンバスに。

本屋ルヌガンガでは『些末事研究』第8号を購入。特集は「行き詰まった時」で、YOMSを営む齋藤祐平さんのエッセイ、サイトウマドさんの漫画が掲載。なタ書では、深山わこさん『アカイトコーヒー物語』(民宿カラフル)を購入。どちらもよい冊子で、道中で読み終えた。

5月某日 四国への短い旅から自宅に戻ると、韓国SFの作家キム・ボヨンの作品集『どれほど似ているか』(斎藤真理子訳、河出書房新社)が届いていた。不思議なタイトルにひかれて、さっそくひもとく。巻頭に置かれた短編「ママには超能力がある」を読んだだけでもう心の震えがおかまらない。空想科学的なはるかに遠い物語が、ほかならぬ自分の身に沈められた情動を強く喚起させる韓国SFのこの感じ、いったいなんなのだろう?

製本かい摘みましては(182)

四釜裕子

埼玉県の吉見百穴に行った。近くを通って、その日はなかなかの暑さだったので休憩もしたかった。「発掘の家」という売店に入って明治20年の発掘当時の秘蔵写真や資料を見て、ところてんを食べながら店主にいろいろ話を聞くことができた。6~7世紀の横穴墓群といわれる吉見百穴を利用して地下に作られた軍需工場の跡地には、〈崩落の危険があるため点検・調査中〉とのことで入れなかった。昭和20年にもなって突貫で工事が始まり、稼働することなく上書きされて「工場の跡地」となった部分だ。金網にかけてあった説明板には、掘削を担ったのは全国から集められた3000人から3500人の朝鮮人労働者で、ダイナマイトを使用した人海戦術だったとあった。目の前に広場が必要だからと、近くの市野川の流れもこのとき変えられている。

吉見百穴から道をはさんですぐのところに「巌窟ホテル」の跡地があるが、こちらは旺盛な草木に隠れてほとんど見えなくなっていた。明治37年から地元の農家・高橋峯吉さんと泰次さんが2代にわたってノミやツルハシで掘り続けた洞窟で、実際には「ホテル」ではないがそう呼ばれてきたようだ。写真家の新井英範さんが42年前に撮影した写真をまとめて『巌窟ホテル』(2022)を出していて、ネットでその一部を公開している。科学実験室や電話室、バルコニーなどもあり、これは実物を見てみたかった。1980年代になると台風などで崩れるようになり、入り口は閉鎖された。現在は3代目が道向かいで「巌窟売店」を営んでいて、ホテルの資料や写真を大切に保管されているそうだ。

吉見百穴では自生しているヒカリゴケを見ることができた。「天然記念物 ヒカリゴケ 自生地 →」という看板の先にのぞき穴があり、歓声をあげている子どもたちのあとに続いてのぞいたので、たぶん私の目にも見えていたと思う。ヒカリゴケといえば武田泰淳の「ひかりごけ」。熊のような表情(実際に見たことないけど)で肉をくらう三國連太郎、海に逃げようとする奥田瑛二をつかまえて抱きしめた三國連太郎、裁判官・笠智衆の表情などがぱっと浮かぶ熊井啓監督の映画版は観ていたけれども、原作は読んでいなかった。帰って古本で求めて、いわゆる「戯曲」の前の部分も面白く読んだ。

〈殺人の利器は堂々とその大量生産の実情を、ニュース映画にまで公開して文明の威力を誇ります。人肉料理の道具の方は、デパートの食器部にも、博物館の特別室にももはや見かけられない。二種の犯罪用具の片方だけは、うまうまと大衆化して日進月歩していますが、片方は思い出すさえゾッとする秘器として忘れさられようとしている。〉

パク・チャヌク監督の映画『お嬢さん』を観て目をそむけた場面が、なぜだかここに重なった。簡単に言うと、製本道具で人の体を傷つけるシーンだ。そこまでの経緯はいろいろあるのだけれども、稀覯本を模した本を地下で作っては、都合よく姪を”役者”に仕立てあげ”朗読会”を開いて好事家を集め競売にかけている最低で変態で偏執狂な男、だけれども”本への愛”はあると思えた男が、共謀者であった男への憎悪をシザイユやプレス機で果たすという、そんなことはあり得ないだろうととっさに思ってしまった。映画ではその前に、地下室の棚に並んだ秘蔵本を姪の”救世主”がばっさばっさと抜いて破ってインクをたらして畳を剥がして水の中にぶちこんだりするのだけれども、これには一瞬あっ……と思うもまもなく痛快を覚えて喝采したのに、だからこそ、そのあとの道具を犯さんばかりのシーンに過剰に反応した自分の態度をいぶかっている。再見せねば。

千年の雨

北村周一

千年の
雨の愉楽を
煽るごとく
地団太踏んで
はしゃぐ神神

風(ふう)の神
雷(らい)の神ある
これの世の
天地をむすぶ
千年の雨

絵空事に
あらずやさらに
万年の
雨をおもえと
雷鳴りはじむ

天竜は二俣川の橋ひとつ落ちたる夜の千年の雨

百年の
水の溜まりを
越境し
決壊を待つ
ダムの図あわれ

野分き跡
ふたまた川の
橋ひとつ
落ちたるさまを
カメラに残す

野分き跡
ハザードマップに
ふかぶかと
沈む家あり
浮かぶ家あり

千年に
一度の雨の
確率の
わかりにくさを
地図上に知る

県は県市は市なれども国は国ハザードマップに望みつなげば

オニゴロシ飲んで気配を消す努力
ハザードマップにゲンパツは見ず

ダムの底に
沈められたる
家々の
家電のかげの
ハザードマップ

河原べに
子らと遊びし
あの頃の
宮ケ瀬おもゆ
ダムの上より

みやがせの
湖底に沈みし
河原べを
ふとも思いつ
新緑の中

水枯れのダム湖の底にあらわれしかつての水郷なかつ渓谷

さつき闇
水位の下がりし
宮ケ瀬の
湖底に浮かぶ
家々の屋根

雨降れば海山川に水溢れすがたを変えて人を貶む

雨降れば海山川は忽ちにすがたを変えて水と戯る

巡る水に
洗われしのちの
青みどり 
溺れる月の
かげなお蒼し

震度6強という字が揺れのこる
奥能登はいま雨雲の下

5月

笠井瑞丈

久しぶりの連休
思い立って水上温泉に向かう
以前は群馬四大温泉地と呼ばれ
バブル時に栄えた水上温泉
しかし今はかなりの廃墟化が進み
現在ではバブルの遺産となる
駅前のお店はほとんどが閉まっており
廃墟化した旅館があちらこちらに
もちろん営業している旅館もあるが
きっと一時期の来訪者と比べれば
とても少ないのではないだろうか
栄えていた時のことを想像し
夜の街をぷらぷらと散歩する
若者むけの飲み屋やバーの光
足湯などから上がる湯気の煙
夜の街を綺麗に光り輝かせる
ここにも人々の生活がある
街は亡くなってるわけではない
むしろこれから復活する力を
蓄えているようにも感じた
いつか行った鬼怒川温泉も
廃墟化が進んでいたけど
あそことは違うものを感じる
また来ようと思う

初めて芝居の舞台に出る
5月中旬劇場でプレ稽古
初めて会う演出家と共演者
中には何人か知ってる人もいたが
やはり初めての現場は緊張する
おまけに芝居となればなおさらだ
今回この芝居に出る経緯
ダンスシーンを振付する
振付家が知り合いだったため
出演のオファーが来た
少し悩んだが
今まで芝居そして
商業の舞台は
ほとんど出たことが無かったので
新しい挑戦だと思い出演することを決めた
簡単な自己紹介の後演出家の意気込みを聞き
すぐに稽古に入る
簡単な体を動かすワークショップ
そしてセリフの練習
初めての経験ばかり
本稽古は6月からだ
どのような舞台が作られていくのだろうか

久しぶりのセッションハウスでの公演
そして初めて出てもらう三人のダンサー
そして初めて作品全部を即興にしてみた
簡単のルールを決めそれに沿って即興で踊る
最近あまり振り付けすことに気が向かない
いつも同じものしか出てこない自分が嫌になる
その瞬間に生まれるもの
その瞬間に亡くなるもの
踊りというのはそんな感じがする
振付をすることで何かを固めてしまう
自由であり不自由でなければいけない

あと少しで今年も折り返し
きっと未来は明かるい

222 伝承の木

藤井貞和

大江さんの詩を引いて、
あなたは書きました。

 四国の森の伝承に、
 「自分の木」があって、
 谷間で生き死にする者らは、
 森に「自分の木」を持つ。
 ……

という一節です。

大江さんの詩を、
わたしは知らなかったので、
机のうえに投げ出したままで、
疲労にとりつかれます。

「そこにいるのはだれですか。」
「幽霊さんです。」
あなたを追悼する文を、
あしたまでに書かねばなりません。

あきらかに幽霊のわたしです、
と、そこまで書いて、
古い夢だったなと思い出す。

あなたはすこし距離を取るというか、
大江さんに対して、
だれもが距離の詩を書く今日ですが、

わたしは、
自分の木を持たないです。
午後の陽がここにして弱くなり、
わたしを見捨てて顧みないかのようです。

午睡から醒めると、わたしの、
「自分の木」が消えてゆきます。

(福間健二さんの追悼詩を書こうとして、あしたが締め切り。福間さんの「詩について語る」『詩論へ』①〈二〇〇九・二〉をぼんやりひらくと、大江さんの詩というのが引用されている。)

卵を食べる女(下)

イリナ・グリゴレ

大人の女性になってから彼女の卵アレルギーが治ったものの、突然、他の全てのアレルギーが悪化した。寝ている間だけは大丈夫だったが、それ以外の時間は朝から晩まで全身の皮膚が痒くなって、塩漬けされたイカが海の風の当たる場所に日干しにされるような感覚が抜けなかった。それでも、毎日、卵だけ食べ続けた。生きるため。彼女は生きたかった。死ぬことを全身で否定していた。絶対に死なないでやると思っていたからだ。でも、この誰しも簡単にできることが、彼女にはとても難しかった。生きることは彼女にとって簡単なことではなかった。卵しか食べられないし、ストレスを感じると空気にさえ触れれば皮膚が痒くなるし、体力もほとんどなかった。その上、音と人の声にとても敏感で、例えば、気に入った声と出会えば、その声以外の声を聴きたいと思わなかった。でもそういう人は、男性であれば彼女をすぐ嫌う。しつこいからかもしれない。野生動物のような性格の持ち主だからかもしれない。純粋すぎるからかもしれない。大人なのに少女のように笑うからかもしれない。正直者で嘘をつくことができないからかもしれない。目が夜でも光るからかもしれない。卵しか食べられないからかもしれない。理由はいくつか考えられる。だから、男性と一緒に暮らすことができない。もし暮らしたら、彼女のお母さんと同じように殴られるかもしれない。嘘をつかれ、彼女の身体を利用して、野良猫のように捨てられるに違いない。

高校生の頃、彼女のお母さんは初めて見た若い女性を連れてきて、その夜は家で寝かせると言い出した。その子は家出して、団地の前のベンチに寂しそうに座っているところを彼女の母が見つけた。寒い夜をあのベンチで過ごすわけがいかないので、彼女の母はその子を家に連れてリビングで一晩寝かせておいた。突然知らない若い女性が家にいて、家の雰囲気が変わって、彼女もなかなか寝付けなかった。彼女の母はその子が寝た後で、小さなカバンをチェックしていた。着替え用のパンティと歯ブラシ、わずかのお金しか入ってなかった様子で、本当に慌てて家を出た感じだった。彼女のお母さんの話によると、父の暴力が嫌で出たが行くところもなく、次の日に家に帰るように彼女の母が納得させた。彼女はその子のことずっと考えて眠れなかった。とても羨ましいと朝になって気づいた。こんなに簡単に逃げられるなんて、彼女もやってみたかった。自由を求めて。朝まで、小さなカセットプレイヤーでピンク・フロイドの『クレイジー・ダイアモンド』を聴きながらそう思った。

Now there’s a look in your eyes
Like black holes in the sky
Shine on, you crazy diamond

知らない間に、彼女は知らない国で暮らして、卵しか食べられなくなった。いつの間にか一人で電車に乗って、飛行機に乗って、確かにアイスを自由に食べられる飛行機だったが、アイスどころではなかった。そして隣に座っていたフランス人がアニメでしかみたことない大きなイヤホンで同じピンク・フロイドの曲を聞いていた。目を一度しか合わせてないし、彼に全く興味なかったが、彼のオーラから彼女がその後に出会う世界の冷たさを感じた。包丁で間違えて指を切る時のような感覚。冷たい鉄が皮膚を切って、身体に入る瞬間、血が出る瞬間だ。身体が冷えて、震えそうな感覚。そして、その後、トイレに行ったとき、CAの笑い声が聞こえた。飛行機に初めて乗ったが寒気しかしなかった。世界はとても冷たいところだと予感した。

You were caught in the crossfire of childhood and stardom
Blown on the steel breeze
Come on, you target for faraway laughter
Come on, you stranger, you legend, you martyr, and shine

色々試してみたが一つの好きな卵の食べ方、それは、昔、自分の母が作っていたスタッフドエッグだった。卵を茹でて、皮を剥いて、半分に切る。黄身だけをとり、違う皿でマスタードとマヨネーズと混ぜて、残った白身の穴にそのクリーミーなものを埋める。上にパセリの葉っぱを乗せたら完成だ。でも、今は卵の味しかわからなくて、マスタードの風味がないと美味しく感じない。このままだと、卵さえ食べられなくなるので病院で診断してもらうため病院へ行ったのだが、身体は異常なしと言われた。すると、待合室で突然人が彼女の前で倒れた。そういえば、いつシカゴの空港で目玉焼きを食べながらそのまま倒れた人がいた。一瞬で、テーブルの下に落ちて、一瞬で元の場所に戻って店の人々と話をし、救急車を呼ばないで、朝ごはんを食べ続けた。先ほども、病院の待合室で人が倒れて、お医者が呼ばれて、救急車は呼ばれてなかった。気づいたら全部が元に戻った。何もなかったように。人が倒れるのをみたのは彼女だけだったのか?

You reached for the secret too soon
You cried for the Moon

病院で、精神の病だと診断された。それはそうだと彼女も思った。生きるだけで病むから。普通に。みんなはそうではないのか。おまけに、ある夜に卵と鶏肉の工場についてのドキュメンタリーを見た。病気になった雛が大量に殺されるシーンがあまりにも衝撃的だったため耐えられなくなった。その日から卵さえも食べられなくなった。彼女は何も食べない状態では何日も持たないと思っていたけど、動く体力もなくなった。刺青を入れる夢を何日も見た。その刺青はただの番号だった。彼女は知らない間に、刑務所みたいなところに入れられた。きっと隣のアパートに住んでいた友達が彼女は狂っていると気づき、彼女を連れてきた。でも記憶になかった。長い間、床に横になって、寒さ以外何も感じなかった。隣に牛乳のような白い液体とピンクの薬のようなものが置いてあった。でも寒さ以外、飢えも何も感じなかった。牛乳なんて、昔から大嫌いだったし、あの薬はいつか田舎の畑で植えたインゲン豆みたいだった。この薬を飲んだら身体の中からインゲン豆の苗が生えればいいのにと思った。でも、動く体力もないし、話す体力もなかった。脳梗塞のような体験だった。病院で倒れたのは隣の人ではなく、彼女自身だったのではないか? 何年も外国語で一生懸命会話をしてきた彼女は急に言葉を話せなくなって、言葉が出なくなった。話かけられても、その言葉の意味が不明のように感じた。言葉とは結局、何のためあるのか、わからなくなった。言葉は包丁のような冷たいものとして感じた。

体が石のように重くて、何日か後、背中に大きな痛みを感じるようになった。いつか読んだ、ガルシア・マルケスの短編で、突然に人の庭に落ちた天使の話を思い出した。記憶はモヤモヤしていたが、あの話で、あの天使の羽が泥だらけになって皆に無視されていた気がして。思い出せなかった。こんなに背中が痛いので、もしかしたら彼女にも背中に羽が生えるかもしれないと一瞬、光のように思った。そうだ、あれだけ卵を食べたので、きっと天使ではなくても鳥になれるに違いないと思い始めた。鳥より、天使がいいとそのあと思った。その方がいい。子供の頃、彼女の祖母は天使の話をよくしていた。天使には性別はないので、天使がいいとすごい喜びと当時に何年振りに微笑んだ気がした。

Well, you wore out your welcome with random precision
Rode on the steel breeze
Come on, you raver, you seer of visions
Come on, you painter, you piper, you prisoner, and shine

彼女は何日間も背中に羽が生えるまで待った。痩せて骨と皮膚しか残らない腕を背中まで伸ばそうとしたが、届かなかった。でも、彼女は祖母と天使の話とともに、祖母が子供の頃に教えてくれた自分の守り天使への祈りを奇跡的に思い出した。そうだ、誰も助けてくれないときには守護天使にお祈りすればいいと祖母が教えていたのだ。その祈りを母語で思い出し、頭で繰り返し始めると、重かった身体が軽く感じ、身体が急に軽くなった。こうして、何日間も光のようなものを感じ始め、飲んでも吐き出していた水も飲めるようになった。彼女の身体に大きな変化が起きた。そうだ、思い出した。天使の身体が光っているということ。実際に見ることができなかったが、あの日まで感じていた世界の冷たさが消えて、光のような温かみを感じ始めた。世界は見えないものでできていると思いながら、看護師のような、制服を着ている彼女に全く関心なさそうな女性に言った「家に帰りたい」。その言葉は何ヶ月振りに出た言葉のような語感だった。

卵を食べる女は奇跡的に回復し、電車に乗って飛行機に乗って生まれ育った村に戻った。ちょうど、ジャスミンとアカシア、村に白い花が咲いている季節で、歩きながら、アカシアを摘んで、口に入れて甘い蜜と花の香りをたっぷり味わった。最初に自分の母親に食べたいと頼んだものは卵ではなく、葡萄の新しい透明な酸っぱい葉っぱに包んである挽肉の郷土料理だった。

変化と不安定

高橋悠治

変わろうとしないが、変わってゆく。変えようとしなくても、変わってしまう。それが自然なら、変えるくふうはいらない。思いついたことを書き留めるだけ、置いておくだけで、それが変化していく。

音は空気の振動だとすれば、空気が揺れ動いて、音が聞こえる。動かない空気は聞こえない。色が見えるのも同じことがだろうか。動物の眼が動いているものが見える、というのは、遠くから危険が近づく前に、どうするか判断できる、隠れるか、逃げるか、立ち向かうか。でも、何も起こらずに、危険が通り過ぎるのが、いいかもしれない。

音楽や絵が表現だと考えるのは、危険な考えかもしれない。音や色を自分のものとして操る理由はなんだろう。

音や色で遊ぶには、それらが危険なものではなく、変化しながら吹きすぎるままに、時間をすごすことができるように慣らしていく、という面があるのかもしれない。

そうした遊びに使われる音楽や絵は、だんだん当たり前の現象になっていく。音や色の限られた組み合わせが使い古され、忘れられる時が来る。

と書いたが、絵はどこかに置かれて、そのままそこにある。音楽は、楽譜だけがどこかにしまわれて忘れられる。忘れられた絵が捨てられることが、どのくらいあるかわからない。忘れられた音楽は、楽譜だけになっている。最近は録音が残ることもある、といっても、録音方法は変わるから、機械は使われなくなり、記録された演奏も、聴かれなくなる。

何年か経って、少数の楽譜を読みなおすと、それが作られた時代とはちがう響きを立てることがある。音の組み合わせが変わるわけではなく、演奏スタイルが変わっただけなのに、何がちがうのだろう。それがわかれば、音楽は音の組み合わせではなく、演奏スタイルということになるのか。

そうかんたんにはいかない。図形楽譜や、ことばやアイディアだけを書いた作品は、演奏されなくなった。と言えるだろうか。おそらく、音符だけが音楽でないように、それを作った人たちの活動を離れては、「作品」だけが意味をもつわけでもないのだろう。そして「活動」が過ぎても、「作品」が残っているならば、それは同じ音楽ではなく、なにか別な音楽がそこに生まれて、元あったものに置き換わったのかもしれない。

と書いて、読み返すと、思っていたこととはちがうことばが並んでいる。

2023年5月1日(月)

水牛だより

雨という予報が見事にはずれて、五月らし陽射しの午後です。やはり五月の訪れはこうでなくては。男性を含む旧友たちと、いまごろが盛りのライラックの花の美しさについてのメールが飛び交うのは、信州の高校時代にごくふつうに目にした花だからです。

「水牛のように」を2023年5月1日号に更新しました。
若松恵子さんと篠原恒木さんは、どうやら同じ日にボブ・ディランのライヴ会場にいたようですね。そして、下窪俊哉さんは戸田昌子さんの自宅でのトークライヴに登場しました。この日の夜は外出していたので、おしまいのところしか聞けなかったので、こうして文字の記録として残るのはうれしいことです。人がもともと持っている関係性が、少しだけ、水牛で具体的に明るみに出てくるのも楽しい。トップページのイラストもそんな楽しさを伝えてくれます。
生きていればどうしてもやってくる90歳代の自分を想像することはあまりありませんが、なんとなくイヤな感じはつきまといます。それはほぼこの国の政治のせいです。死ぬことに安心できないから、人は終活などということも考えてしまうのでしょう。この水牛も、誰かに引き継いでもらおうかなとふと思ったりもしますが、きょうのような美しい午後には、気持ちよく「死ぬまで続ければいいのだ」モードです。

それでは、来月もまた!(八巻美恵)

221 良心・2

藤井貞和

現代詩は しかしたいていの場合に、大魔王との対立を避けて、
裏通りの日常生活の悪人、微小な悪魔たちを自分のなかに飼うことをするから、
大きな文学になりにくいのです。

わたくしの思いは「大きな悪魔」そのものになく、「微小」な、
それらにとどまるのでもなく、その《あいだ》に定めることになりましょう。

とそこまで述べたとき、うしろの正面がひらかれ、大きな鬼が姿をあらわしました。
人食い鬼で、わたくしをむしゃむしゃ食いはじめました。 肉も、骨ものこりません。

〈藤井よ、おまえはきょうから鬼である。 これを食らえ。〉 骨と肉とを吐き出して、
わたくしに食わせました。 なんだ、私の骨と肉とであります。

(良心なんて、不味(まず)い食事ですよ。それでもあなたは食らいますか。皿を新しくして、おいしい料理へと作り替えませんか。消しましょう。)

311 トルコの旅

さとうまき

さて、僕は、久しぶりの海外旅行に胸をときめかせながらも、あまりにも日本に長くいすぎたために旅行の仕方をすっかり忘れてしまっていたのである。最後にヨルダンに行ってから3年もが経過していた。果たして準備ができていないことに不安を覚えながらもともかく旅に出た。

ワルシャワからイスタンブールに到着すると、飛行場には、シリア難民のムハンマッドさんが出迎えてくれた。今回の地震でいくらかお金を集めることができたので、トルコで被災したシリア難民にもお金を渡すことにしたのだ。

ムハンマッドさんは、シリアのダラアで生まれ育った。2011年の内戦は、ダラアの学校の壁に子どもたちが落書きをしたことに腹を立てたアサド政権の警察が子どもたちを連行して暴行したことで一気に広がって行った。ムハンマッドさんは、兄夫婦を失い、残された家族を一手に面倒を見て、今ではイスタンブールで暮らしている。ボランティアなのか、有給なのかはよくわからなかったが、トルコ政府に登録しているという小さなNGOで働いていた。

僕はできたら、トルコの被災地域まで出かけて行って何かしたかった。東日本大震災の時に、多くの人々が感じた「あれ」。つまり、自分が役に立たないっていうことを実感して、「死にたくなる」ような感覚。正確には、「生きていることの意味」を見いだせないという、あの感覚だ。当時の新聞などで、芸能人や芸術家と呼ばれる人たちの多くが、「あれ」のことを語っていた。

今の僕は、世界でどのような悲劇が起ころうが、自分は駆けつけることはない。外からつつましく応援するだけだ、それが年寄りがやる事だと思っていたが、「あれ」がどうしてもモヤモヤと沸き起こってくる。「貧乏な年寄りが行っても足手まといになるだけだ」というまっとうな考え方だけではなくて、僕にはそういうことをする体力も、気力も、財力もないというのが本音であり、トランジットでトルコに行くなら、イスタンブールの人たちがどういう風に、「あれ」を感じて苦しんでいるのか、そこは寄り添いたいなあという気持ちもあり、福島を応援してくれた友人のトルコ人に会いたくなったのだ。それで3月11日にトルコで飛行機を降りる事にしたのである。

トルコにはシリア人のネットワークもあり、いろいろ面倒を見てくれることになった。ともかく、イスタンブールにつくと、ムハンマッドさんが、わざわざ僕の名前を書いたプラカード(日の丸)付をもって迎えに来てくれ、ホテルまで一緒についてきてくれたのだ。

ムハンマッドはほとんど英語が喋れないので、通訳を買って出たアブドラとホテルで合流し、今日はガラタサライの試合の日だったので、僕たち3人はサッカースタジアムに向かった。といってもサッカーの試合を見に行くわけではなかった。確かめたいことがあった。なかなかタクシーが拾えず、途方に暮れていた老婆も一緒に、途中まで送ってあげた。「ここの建物は老朽化しているのよ。私たちの住んでいるところだっていつ壊れるかわからないから、怖くて仕方がない」という。

私たちがガラタサライの本拠地、ネフ・スタジアムについたときは、殆ど試合は終わりかけていた。トルコで最大のスタジアムで5万2000人が収容でき、いつも満席になるという人気のクラブだ。長友佑都も所属していたこともあった。今回の地震では、いち早く救援物資を現地に届けたり募金運動を積極的に行っていた。被災地では、ハタイ・スポルというクラブのクリスチャン・アツという元ガーナ代表選手や、クラブのスタッフ数名も死亡が確認されており、サッカー界も沈鬱な空気が漂っていたという。

この日もスタジアムは満席で、ガラタサライが勝利を収めていた。アブドラに頼んでスタジアムから出てくるファンに地震のこととか聞いてみた。「勝てたのはうれしいが、あまりいい試合じゃなかった。被災地ではサッカー選手も含めて多くの人たちが亡くなっている。我々のチームが、被災地支援を行っていることを誇りに思います!」

アブドラは、シリア難民で大学に通っているが、自分の話をしてくれた。「先日アンタクヤに行ってきたんだ。悲惨だった。僕は大学で勉強しているんだけど、同級生のシリア人だけじゃなくてトルコ人も家族を亡くした。最初の3日はほとんど救援チームもこなかった。4日目になってようやくチームが入ってきた。僕たちは誰でも死ぬ可能性があった。家族たちは天国で合うことができたと思う。安らかに眠ってほしい。」美しくライトアップされたスタジアムから流れ出る人々を見ながら涙ぐんでいた。

サッカーの試合を見るわけでもなくここへ戻ってきたのはそれなりの訳があった。 スタジアムにいる居心地の良さ。ちょうど4年前、最後のイラク出張の2週間は本当に地獄だった。そこで見たものは墓場まで持っていかなければならないような代物だった。もううんざりだった。ユニフォームに着替えてこっそりと一人でホテルを抜け出した。知らない人達と肩を組んで応援した。その時だけは幸せだった。ガラタサライは優勝して、ホテルに戻った僕は、何もなかったようにスーツに着替え、夜中の飛行機にのった。その後2度とイラクに行くことはなかった。
 
あの時の一体感、今世界はあの時の一体感を必要としているのかもしれなかった。
路傍には屋台が出ていてケバブサンドを売っている。日本で言うのとは違い、ひき肉を固めて焼き、フランスパンにはさんだもので、塩辛いヨーグルトドリンク付きだ。
相変わらず、肉は堅かったが4年前と同じ味がした。

苗字と名前

北村周一

足早に来ては去りゆく街宣の
 マイクの声は疲れを知らず

車上より手を振りながらウグイスの
 声はすぎゆく選挙の春は

街宣のマイクの声もたからかに
 選挙の春がまたも来ている

休みなく笑みをふりまく乙女らを
 乗せて選挙はいまがたけなわ

ゆく春を惜しむごとくに道々に
 選挙カーあり声を枯らして

街宣のクルマゆき交うこの町の
 空をあおげばオスプレイまで

ウグイスの声をマイクにのせながら
 最後のさいごのお願いに来る

選挙カーのウグイスさんと目が合って
 おもわず笑みを交わしてしまう

投票所まえの通りを行き来する
 街宣車の数ひごとに増しおり

きょうでみんなお終いとでもいうように
 街宣車は来ぬ候補者をのせて

候補者の肉声あちらこちらから
 聞こえおりあすはもう投票日

人の名を連呼しているゆうぐれの
 声は賑わし投票日はあした

マイク手に熱意あらわに道を説く
 候補者もまた夕暮れのなか

期日前投票に来て書き写す
 つごう四人の苗字と名前

持参せし2Bエンピツ取り出だし
 じっと見ている候補者名簿

短冊のような用紙に見も知らぬ
 ひとの名を書き投票箱へ

すずやかな新芽のほどのおもさもて
 渡されている投票用紙

ちり終えし花の樹のした候補者の
 顔と名まえはいまが満開

道端にならぶポスター眺めつつ
 思うことなし選挙が近い

選挙用の顔が居並ぶ一画を
 通りすぎつつ投票へ来ぬ

投票に来ての帰りに眺めゆく
 顔となまえはたぶん忘れる

かんばんと地盤とカバン三つとも
 継がせて貰って世襲となりぬ

声上げて覚えてもらうしかないと
 連呼している苗字と名前

候補者の顔となまえが集いたる
 立て看板はいつしかに消ゆ

司法の手に委ねられたる一票の
 格差すなわち主権のかるさ

ひげを剃りツメを切りして散髪に
 向かいしごとも投票へ行く

何事もなかったように春は暮れ
 なにも言わないテレビを笑う

やわらかに期待させては翻す
 癖あるひとの袖口は暗し

むもーままめ(28)飲酒時に起こる謎の全能感について、の巻

工藤あかね

GWですね。感染症対策でみんなが人の集まるところへ行くのを控えていたこの2年間とはまったく違う光景が広がっています。何にも解決なんてしていないのに。
コロナで行動制限がはじまってから、いろいろなことがありました。コロナ禍で行きつけのお店がいくつも閉店したこと。知人のご家族が危篤のときに、コロナ対策だと病院に言われ、ご家族が最期の瞬間に立ち会わせてもらえなかった話。国際結婚しているカップルの奥様が外国出身で出入国が難しく、出身国に戻って体調不良の親の顔さえ見るのが難しくなっていたこと。世界中を飛び回っている演奏家の知人が、国ごとに基準の違う証明書の準備に困り果てていたこと、入国後の隔離でかえって体調を崩してしまったこと…。

個人的にはコロナで自宅にこもっていた時期、外食できないせいもあって、酒量が増えました。予定していた本番がいくつも中止になったので、朝起きた時の体調を敏感に考える必要もなくなり、自宅に篭る時間も極端に増えていました。夕方くらいになるとその日何を飲むかでソワソワし、食事が終わってから空のボトルがさらにもう一本増える。なんとも自堕落な生活でした。しかもタチが悪いことにワインのボトルが一本空く頃には、謎の全能感が満ちてきて、まだ飲めるような気がしてしまうのです。あれって、いったいなんなのでしょうね。飲まない時の自分はそんなに抑圧されているのだろうか。だとすれば、アルコールひとつでそんなに解放されるなんて、随分簡単ですね。

コロナ禍での飲酒時、我が家ではまず、スパークリングワインのボトルの量が少ないんじゃないかという疑惑が持ち上がりました。750mlと書いてあっても「このワイン量が少ない気がする…」と、どちらともなく言い出し、最終的には「もう一本飲もうか?」という流れになるのが常でした。お酒が好きな友人と食事をした時にも、同じ現象が起こったので、わりとメジャーな行動パターンなのかも。とはいえ、量が少ない疑惑は単なる言いがかりであることはあきらか。へんな疑いをかけたことをお酒のメーカーさんに謝らなければ。なんといっても、飲んでいる時はまだまだ行ける気がしても実はしっかり酔っていて、まっすぐ歩けなかったりするのですから。

不思議なことに、アルコールだけではなく食べ物にも同じ現象が起こりませんか? まだ飲める気がしている時には、まだ食べられる気もします。さんざん食べた後にもかかわらず、飲食店で店員さんを見るなり「焼きそばください」「お茶漬けください」とか口走ってしまうのです。お水でも飲んで大人しく帰ればいいのに、もうひと押し胃袋をパンパンにしないと気が済まないあの感じ。それで帰りの道すがら、コンビニでプリンとかシュークリームとかを買い込み、家に帰るとそのことを忘れてバタン。翌朝それらを冷蔵庫で発見して「このお菓子なんだろう?」なんてとぼけたことを思ったりするのです。

翌朝、胃が重かったりするともうこんな飲み方はやめようと思うのに、夕方になるとまたソワソワ。これの繰り返し。つくづくダメな行動パターンだなと思いつつ、なかなかやめられないのがかなしい。最近はコロナ禍がひところよりシビアな感染拡大防止状況ではなくなってきて、人々の行動範囲も広がりました。個人的には一日中アクティヴに動いたり働いたりしているうちに、お酒を飲む時間がない日や家に帰るなりバッタリ倒れ込むように眠る日も増えてきました。これって健康的なの? それとも?

4月にボブ・ディランがやってきた!

若松恵子

春にボブ・ディランが来日した。2020年4月のツアーがコロナで中止になって、もうボブ・ディランの音楽を生で聴くことはできないのではないかと思っていたが、突然のお知らせに大げさに騒ぐ暇もなく、4月になってボブ・ディランがやってきた。

今回は、4月7日から16日まで。大阪3公演、東京5公演、名古屋3公演の計11公演。2020年に8年ぶりに発表されたオリジナルアルバム「ラフ・アンド・ロウディ・ウエイズ」を携えた最新ツアー(2021年~2024年)の一環としての来日だった。

有明にある東京ガーデンシアターで行われた東京公演の初日と最終日に出かけて行った。前回にも増してチケット代は値上がりし、「こんなに払っても聴きたいか?」とディランに試されている気がした(採算の問題なのだろうけれどね)。入り口でスマートフォンを指定の袋に格納させられ(どういうしくみか、パチンと閉めたらテコでも開かない)金属探知機を体に当てられ、手荷物検査をして双眼鏡が没収された。「歴史上の人物、ボブ・ディランを見た」と自慢したい人の出鼻をくじく対応なのである。こんなめんどうな作業をさせちゃって、さすがボブ・ディランだなと愉快になった。こんな対応をしているにも関わらず、さっそく隠し撮りされた日本公演のライブ映像や音源が配信されていて、ファンの根性もたいしたものだとうれしくなったりもするのだけれど。

ステージは薄暗く、中央に置かれた小さなグランドピアノを弾きながらディランは歌う。ギターを抱えてハーモニカを吹くディランのイメージから更新できていなかった人には、誰がディランかすぐには分からない。「風に吹かれて」も「ライク・ア・ローリングストーン」も「フォーエバー・ヤング」もやらない。かつてのヒット曲を期待して行った人には、知らない曲だらけで退屈だったのではないかと思う。知っている曲についても、ただいま現在のアレンジで演奏されているので、今日のディランに興味を持てないとちっとも面白くないだろう。

ディランが「うた」のなかから見出したリフレインをピアノで弾く。時に調子っぱずれでバンドのアンサンブルを壊しかねない突然のフレーズに、バンドメンバーが答えつつ演奏を展開していく。メンバーも手練れのバンドマンなのである。譜面通りでない一夜限りの演奏がうまくいったら、それこそがツアーを回るやりがいというものではないかという演奏なのだ。客もうまくいった演奏を聴いてうれしい。演者とともにその喜びをノリとして共有できる幸せ。81歳になった今も、予定調和ではなく、夜ごと新鮮に音楽を作り続けている姿に、ディランファンの多くは心惹かれているのではないかと思う。客の期待通りにやらないディランはガーデンシアターを満席にすることができなかったけれど。

ディランの熱心なファンからも信頼されている、みうらじゅんが、ラジオ番組で来日公演について話していて共感した。みうらじゅんは、「英語がわからないのに、なぜこんなに面白いと感じるのだろう。そのひとひとりの全てが歌われているからなんじゃないか」と言っていた。「英語の歌詞をなんにも理解せず、時々聞こえてくる単語、たとえば“キーウエスト”にしびれてる自分に、すごくない?と思う」と。ディランの「キーウエスト」に、私もしびれる。「キーウエスト」と歌われる1語に込められているディランというひとひとりの全て。

蜂飼耳の書評集『朝毎読』を読んでいて出会った印象的な文章を思い出す。
「いつ、だれが書いたのか、名前があってもなくても、どこかのだれかが書いた言葉や伝えた言葉が、読むこと、受け取ることを通して、身体を通過していく。抜けていき、忘れてしまうこともある。というより、むしろその方が多い。抜ける途上で、思いがけず身体に残るものが生じる場面もある。それは読書の記憶、痕跡となる。数えきれない記憶や痕跡が地層を成していく。この景観は、外側からはほとんど見えない。その人だけが知る精神的な地層だ。人が人と出会うときには、知らず知らずのうちに、さまざまな意味において、この精神的な地層を見せ合うものだ。心の中にある道や谷や崖、言葉の蓄積が模様を描く地層を、そっと見せ合い、何事かを納得する。読んでも忘れてしまう本や言葉が、そこに計り知れないほど含まれていることは不思議だ。覚えていることだけが重要なのではない。忘れてしまい、もはや復元できない経験は、覚えている事柄と同じくらい大切でかけがえがない。これは、ある程度大人にならないと気づかないことかもしれない。子どものあいだは、覚えなければいけないことがあり過ぎるから。」
「言葉」を「音楽」に置き換えて、この文章を読むこともできるだろう。演奏によって垣間見えるディランの地層は、とんでもなく深い。

都電の線路沿いの家

植松眞人

 東京に唯一残った路面電車が走るのは、ほとんどが専用軌道で、路面電車という呼び名から想像するような光景とはほど遠い。車や人の通行の邪魔にならない隅っこを申し訳なさそうに走っている路面電車には、バスが自由を奪われたような貧しさがある。
 私が乗る駅はあまり人の乗り降りがないところで、そこから乗り込んで駅を三つほど過ぎたあたりで降りる。時間にするとほんの数分で、民家の軒先をかすめるように走るばかりで目を見張るようなものはなにもない。
 ただ、かすめるように走るとは言いながら、これ以上近づくと屋根と電車が接触するのではないかと思うほどの場所がある。少し軌道がカーブし、そのカーブに合わせて、周辺の民家との距離もほんの少し軌道から遠のいている場所があるのだ。しかし、その一軒の家だけは逆に軌道に近づいているように見える。他が下がっている分、一歩前に出ているようにみえるのだが、周囲の人たちはその風景を見てもなにも思わないようだ。私だけが毎回驚き、時には息が詰まるほどに動揺してしまう。路面電車に乗る度に、毎回見ている風景なのに、毎回同じように驚いている事自体がおかしいのはわかっている。それでも、その微妙な差異とでも言えるような違和感は、慣れるどころか次第に際立っているように思えてしまう。
 昨年の五月五日、その日も私は路面電車に乗っていた。その路面電車が通過する場所には都内の大きな繁華街もあれば、学生街もあり、遊園地もあるので、意外なほどに電車は混んでいた。そして、私は自分が降りる1つ手前の駅で、降りる人たちに押し出されるように一度ホームに降りてしまうことになった。もちろん、一度ホームに降りて、降りる人たちをやり過ごしたらもう一度電車に乗るつもりだった。しかし、私はホームに足を付けた途端に電車に戻ろうという気持ちにはなれなかった。路面電車の駅の間隔はそれこそバス停と同じくらいでとても短い。目的地の駅まで歩いたってたかが知れている、という気持ちと、そう言えばあの毎回驚いてしまうカーブがすぐ近くだということに気持ちを奪われたのだ。
 ここから私の本来の目的地までは、路面電車沿いの歩道がない。路面電車を隠すように民家が建ち並んでいる。私は時折民家の合間から見える路面電車の軌道を確かめながら歩き始めた。いままで歩いたことのなかった道を歩き、知らなかった町名を確認しながら私は歩いた。歩きながら、いつも電車の中から見ているあのカーブにそろそろ行き着くはずだと注意はしているのだが、民家に邪魔されてはっきりとはわからない。そうこうしているうちに、本来の目的の駅に着いてしまった。しかし、どう考えても私はここまで真っ直ぐに歩いてきたように思う。どこかで道を折れた記憶がない。私はなんとなく不安になってもう一度来た道を返した。しかし、ここまで来るときには軌道ばかり気にしながら歩いていたことで気付けなかったが、いま来た道を見ると、どう見ても道は真っ直ぐでカーブなどしていないように見える。
 私はまた振り返って、目的地の駅の方を見つめ、また振り返って、来た道を見つめた。そして、とても仕方のない気持ちになって、その真っ直ぐに伸びている道に沿って走る路面電車が、民家で見え隠れしている間に、ほんの少し蛇行している様子を想像してみた。(了)

ボブとエリックの日々

篠原恒木

四月はボブとエリックの日々だった。僕とエリックではない。ボブとエリックだ。

ポール・サイモンに『僕とフリオと校庭で』という曲があったが、あの歌がラジオで初めて流れたとき、おれは『僕と不良と校庭で』だとばかり思っていた。ずいぶんと剣呑な歌だと感じたが、曲を紹介した当時のディスク・ジョッキーの発音が悪かったに違いない。いや、こんなことは今回の話とまったく関係がなかった。

ボブ・ディランの東京公演は四回行った。エリック・クラプトンの東京公演には二回足を運んだ。だから四月はボブとエリックの日々だったのだ。雇用延長、低収入の身で馬鹿なカネの使い方だと自分でも思う。妻にバレたらエライことになる。少ないへそくりは底をついた。
でも、もういいんだ、とも開き直っている。おれだっていつ何が起こるかわからない。少しでも観ておきたい、聴いておきたい、と思ったら、その欲望には従うべきなのだ、もうおれだってそういうトシなのだ。文句あっか。文句のあるやつは前に出て来い。妻が真っ先に出て来るだろう。彼女が前に出て来ると怖い。だからナイショなのだ。

ボブのライヴは有明の東京ガーデンシアターで行なわれた。素晴らしいコンサート・ホールだった。アクセスは不便だが仕方ない。へそくりがなくなったので、ツアー・グッズは買わなかった。おれは思うのだが、ヒトはあんなにイケていないTシャツやキャップを買ってどうするのだろう。まさか日常であれを着るのか。それとも記念品感覚なのだろうか。おそらくは後者だと信じたい。おれはライヴに行くと、記念品代わりにいつもパンフレットを購入するのだが、最近のボブのツアーはパンフレットを販売していない。GOLDシートのチケット購入者には特典として「記念品」が用意されていたので楽しみにしていたら、安っぽいトート・バッグとその中にいろいろと細々したモノが入っていただけなので、少しがっかりした。いま、おれのもとにはそのトート・バッグと中身のおもちゃが四セットある。四回行ったからだ。同じものを四セットも要らないのだが、貰えるものは貰っておこう。

席は四回ともステージ中央で前から二列目だった。僥倖ではないか。おれは席に座って間近に迫るステージを眺めながら、高校時代を思い出していた。ボブ初来日公演のときのことだ。おれは始発電車に乗ってプレイガイドの行列に並んでチケットを買ったのだ。インターネットなんて影も形もなかった頃だ。WEB予約などあるはずもない。少ない小遣いを貯めて足を運んだ初公演の会場は日本武道館だった。高校生のおれは二階席の座席に座って、ライヴが始まるのを待っているときにフト思ったものだった。
「おれはいまボブ・ディランと同じ屋根の下にいるのだ」
そう考えたら、感動、感激のあまり、おしっこがチビりそうになったのだ。ライヴが始まると、はるか遠くのステージにいるボブは豆粒ほどの大きさ、いや、小ささだったが、それを観たら鳥肌が立って涙が出た。ところがどうだ、今のおれは。
「お、いい席じゃん。嬉しや嬉しや」
「それにしても三階席がガラガラだなぁ。チケット代が高すぎたせいかな」
という、まことにもって味気ない感想しか胸に迫ってこない。
「これを堕落と呼ぶのだ」
と、おれは自分を戒めた。これでは正真正銘のすれっからしではないか。あの瑞々しい感性、若々しいミーハー気分はどこへ行ってしまったのだ。

四公演とも開演時刻きっかりにボブは現れた。二分前に登場したこともある。彼と待ち合わせをするときは十分前に到着していないと不機嫌になるだろう。以後気をつけよう。バンド・メンバーたちが登場する寸前にはいつもベートーヴェンの交響曲第九番の第一楽章が十秒ほど流れた。シブい。この選曲からしてボブは観客を煙に巻く。ステージにボブたちが現われても、客電は完全に落ちない。これでは満員とは言い難い客席の様子がボブの目から見えてしまうではないか。機嫌を損ねてそのまま帰ってしまったらどうしよう、と不安になったが、おれの目の前に現れたボブはすぐピアノの前に中腰で陣取った。グランド・ピアノが客席の正面を向いていたので、おれの座席からはボブの顔しか見えなかった。ボブが気まぐれを起こして、セッティングしてあったマイクの位置を下げた日があったが、その日はボブの口元がピアノで隠れてしまった。近距離でありながら顔の上半分しか拝めなかったのが悲しかったが、仕方ない。

四公演すべてのライヴ・レポートを書いてもいいのだが、退屈な文章になるのでやめておく。おれには音楽的な素養もない。だが、そのかわり、以下にボブがライヴでおれに伝えたかったことを演奏曲順に並べておこう。これがボブからおれへの手紙だ。十七曲分ある。

言いたいことはさほどないんだ
おれは砂だらけの土手に座って 川の流れを見つめている

おまえがおまえの道を行くのなら おれはおれの道を行く

おれはギリギリまで進む 最後までまっすぐ行くぞ
失われたものすべてが再びかたちになるところまで突き進むのだ

おれは一番だ 唯一無二だ ベストな人間のなかでラストの一人だ
残りの奴らは埋めてしまえばいい 

いつかすべては美しく輝くだろう おれが傑作を描くときは

おれの魂は苦しんでいる おれの心は戦場のようだ

おれは誰かを生き返らせたい 言っている意味は分かるよな

今宵、おれはきみの恋人になるのさ

おれはすべての希望を捨て去り ルビコン川を渡った

一日中働いて おれは甘いご褒美を貰う 
おまえと二人きりになることさ

おれは自分が正しいと思うこと、ベストだと思うことをしている

おまえがイギリスやフランスの大使だろうと
ギャンブル好きだろうと ダンスが好きだろうと
ヘビー級の世界チャンピオンだろうと 
おまえは誰かに仕えなければならない
まあ、それは悪魔かもしれないし 神かもしれないが
おまえは誰かに仕えなければならない

おれは絶望の長い道を旅してきた
ほかの旅人とは誰一人として会わなかった
おれは決めた あなたにこの身を捧げることを

そう、愛は愛だ 消え去るものじゃない
そう、愛は愛だ 消え去るものじゃない

おれは天命より長生きしてしまった
おれはいま身軽な旅をしている ゆっくりとhomeに向かっている

さらばジミー・リード さよなら おやすみ
おれはあなたの王冠に宝石をつけ 明かりを消すよ

おれはぶらさがっている 人間の現実性というバランスのなかで
落ちていくスズメのように ひとつひとつの砂粒のように

以上が、ボブがおれに伝えたかったことのすべてだ。おれはありがたくそれらを頂戴した。いや、そうではない、それはおまえの主観に過ぎない、という意見もあるだろうが、音楽や文学、絵画、映画などを客観的に判断してどうするのだ。主観のみで味わうべきだろう。そして、おれはこれらのディランの言葉を「愛、裏切り、信仰、苦悩、老い、傲慢、欺瞞、諦観、死、望郷」などというイディオムの羅列では語りたくない。あ、語ってしまった。いけないいけない、もともとボブの歌にメッセージなどはないのだから。

演奏は緊張感あふれるものだった。ボブの弾くピアノは相変わらず滅茶苦茶、いや、気まぐれだった。ギターやベースはボブの周りを取り囲み、必死に彼の手元を覗き込み、即興でフレーズを弾いていた。いつコード・チェンジをするのかはボブの気分次第だ。十四曲目には「カヴァー曲」を演奏するのが決まりで、ずっとThat Old Black Magicをプレイしていたのだが、東京公演ではカヴァー曲が日によってコロコロと変わった。これは嬉しいプレゼントだった。四月十二日は、なんとグレイトフル・デッドのTruckin’を初カヴァーしてくれた。おれは興奮してその日のライヴが終わり、外へ出てスマートフォンを見たら、
「今夜、ボブ・ディランは東京公演で、彼のキャリアでも初披露となる曲を生演奏した」
と、英語のニュース・サイトで速報が配信されていた。さすがはノーベル文学賞受賞者、セット・リストが一曲変わっただけで国際的なニュースになるのだと感心してしまった。十四日のカヴァー曲は同じくデッドのBrokedown Palaceになり、翌日の十五日にはバディ・ホリーのNot Fade Awayへと変わった。カヴァー曲のコーナーになると、バンド・メンバーがボブの周りに集まり、短い打ち合わせをして演奏が始まっていた。どうやら楽屋では何の曲を演るかは決めておらず、候補曲だけ挙げておいて、ステージ上のその場の気分で決めていたようだ。じつにボブらしい。最近のツアーではセット・リストが固定されていて、サプライズはなしというパターンが多かったので、これには胸がときめいた。もっとも昔のライヴでは、日によってセット・リストが半分近く変わる時代もあったので、それに比べれば大したことはないのだが、予想外のサーヴィスだった。

機嫌のいい日には「サンキュー」という言葉が二回ほどボブの口から出て来る。これだけで観客は大騒ぎだ。
「あのボブが喋った!」
という反応だ。今回のある日の公演では「サンキュー、ベイビー」と言ってくれた。
「おお、ベイビーをつけてくれた!」
またもやおれを含む観客席は大盛り上がりだ。ファンはみんなボブのしもべなのだ。
すべての演奏が終わると、ボブはピアノから離れて全身を見せ、お得意の仁王立ちをして観客席に向かい合う。客席はどの日も満員にならなかったのに、彼はクサらず、同じ曲でもアレンジをその日によって変えて最後まで演奏してくれた。素晴らしい四公演だった。

ボブが終わると、おれの四月はすぐさまエリックの日々になった。と言っても、エリック・クラプトンは六公演のうち二回しか行っていない。これには我が経済的諸事情のほかに理由がある。エリックはここ数年、
「これが最後の来日になるだろう」
と、いつも匂わせていたのに、また来日するので、おれは「来ない来ない詐欺」といつからか秘かに思っていたのだ。
「そっちが来ないと言うのなら、こっちも行かないぞ。気が変わった、やっぱり来ると言っても行くものか」
そう心に決めるおれなのだが、「来る」と言われれば、ついつい足を運んでしまうのであった。こうしておれはずっとエリックの来日公演に付き合っている。酒でボロボロ状態のときもあった。ギターが彼しかいないというバンド編成のときもあった。ヴェルサーチやアルマーニに身を包んで、バブルのセレブリティを気取っていたときもあった。ジョージ・ハリソンと一緒に来て「ライヴを途中でやめてしまったミュージシャン」と「とにかくやり続けてきたミュージシャン」の歴然とした違いを見せつけてくれたときもあった。かと思うと、デレク・トラックスやドイル・プラムホールⅡを伴って来日したときは、彼らのギターに任せて、自分はかなりサボり気味というときもあった。つまりおれはエリックが病めるときも健やかなるときも、せっせと彼のステージに通っていたのだ。ひと言でいえば「ファン」なのである。今回も観に行くしかないではないか。

おれがチケットを手に入れた日本武道館の四月十八日と二十四日の二公演は両日とも超満員だった。運よくアリーナの前列を確保できたおれはエリックを間近で観ることができた。高校生のときに、二階席の柱で遮られた席から体を斜めにしてはるか遠いステージを覗き込んでいたときとは雲泥の差である。だが、おれはトキメいていない自分に気が付いた。ボブのときと同じである。ここでもおれはすれっからしだった。自分が徹底的にいやな奴になったような気分になった。

エリックのステージについて書くことはあまりない。「よかった」と思える熟練のライヴだった。十八日のセットで披露したエレクトリックのLaylaが、二十四日にはCocaineに変わっていたが、基本的には安定のメニューだ。Laylaは驚くほどテンポを落として演奏していたので、引っ込めて正解だったような気もする。最近次々と亡くなってしまったジェフ・ベックやゲイリー・ブルッカ―の盟友たちに捧げる曲も披露した。ジョージ・ハリソンもかなり前に他界したが、かつてそのジョージがエリックに提供したBadgeも演奏した。
そして、おれがこのBadgeという曲で今回初めて気づいたことがあった。曲のタイトルは、ジョージが歌詞をメモに書き留めているものをエリックが見たときに「Bridge」(曲の繋ぎの部分)と手書きされたものを「Badge」と誤読したのが由来だという。だから発表当時のヴァージョンではバッジのことなど歌詞には登場しない。「バッジ」はタイトルだけで、バッジそのものとはまったく無関係な歌だった。だが、現在ではこのBadgeは発表当時にはなかった新たな歌詞が加えられている。それは最終パートの次のフレーズである。

Where is my badge?
Where is my badge?

おれのバッジはどこだ?
おれのバッジはどこへ行ったんだ?

この新しい歌詞がいつから足されるようになったのか、はっきりとした記憶はない。ジョージが死去したのは二〇〇一年だが、ひょっとしたらその頃からではないだろうか。いや、もっと前から歌詞は書き加えられていたような気もする。二〇〇一年十一月にジョージが亡くなったニュースが流れた当日も、エリックは日本武道館でこのBadgeを演奏した。「ジョージへ」と、ひと言だけマイクに向かって話してから演奏を始めたのは覚えているが、新しい歌詞のことは記憶にない。だが、ジェフ・ベックやゲイリー・ブルッカ―、J.J.ケイル、ボブ・マーリーなどの故人に捧げるかのように曲を演奏していた今回の彼を観るにつけ、このbadgeとはジョージ・ハリソンのことではないのだろうか、と初めておれは思ったわけである。「おれのジョージはどこへ行ったんだ?」と、エリックは繰り返し歌っていたのだ。確信はないが、きっとそうなのだ。

柄にもなくおれはセンティメンタルな気分になって武道館をあとにした。だが、おれには切迫したモンダイが生じていた。かねがない。高額ライヴに足繁く通ったため、へそくりが完全に底をついた。帰りの電車の中でおれはボブが書き下ろしたThe Philosophy of Modern Songという新刊本のページをめくった。そこにはこう書いてあった。

かねで買えるものは重要ではない。
あなたが椅子をいくつ持っていようと、そこへ乗せる尻はひとつしかないのだ。

いや、ボブさん、その通りなんですけどね、おれは一公演につき椅子をひとつしか買っていないのですよ。そのひとつしかない椅子にひとつの尻を乗っけただけで、素寒貧になったわけでして。え? 椅子を六つも買うからだ、ですって? そんなロクでもないことは言わないでください。

しもた屋之噺(255)

杉山洋一

今月も殆ど何も書き留められぬまま、一ヶ月が経ってしまいました。庭の芝刈りすら未だ出来ていないのですが、その理由はまた後日書くことにします。来月末にはさすがに芝刈りも終わっているでしょう。3年前、各地の紛争を調べながら「自画像」を書いていて、これから先、平和が続くよう、祈りながら様々な国歌をパッチワークしていました。しかし、ウクライナもスーダンも、アフガニスタンもシリアもイエメンもあの頃のまま紛争が続いているか、寧ろ状況はずっと悪化しているのを見るにつけ、その裏に無数の市民の命が吊り下がっていることを思い、ただ言葉を失うばかりです。

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4月某日 ミラノ自宅
フランチェスコ・シカーリに、ダンテ「新生」による小さな歌曲を送る。ダンテ協会のプロジェクトの一環で、3月に入籍したマリア・エレオノーラとアルフォンソの結婚祝いにかこつけて書いた。「Si lungiamente m’ha tenuto Amore (永きにわたり、わたしを繋ぎとめていた情愛について)」は、失ったベアトリーチェへの愛を謳う悲劇的なテキストでもあるけれど、その昇華した愛は無限な別世界を啓いていて、どこまでも清澄な姿にわたしたちは深く心を動かされる。自分にあてがわれたこのソネットが結婚祝に見合うか当初は逡巡したが、純化された愛情の表現をそのまま受け容れることにして、彼らへの小さなオマージュとなった。
息抜きに小さな歌曲を書くのは楽しい。ちょうど1年前、アルフォンソがリストによる「山への別れ」を弾き、そこでマリア・エレオノーラが譜めくりしていたのを思い出し、この小歌曲にもリストを忍び込ませた。

4月某日 ミラノ自宅
心を動かす音楽かどうかが、作品の価値基準となり得るか否かについて、ふと考える。直截に心に訴える作品は危険であるか。主観を厳密に排除し、作品意義、技術を客観的に判断することでより公平な判断が可能だとすれば、早晩、さまざまな芸術作品コンクールは人工知能に任せられるようになるかもしれない。
先の世界大戦中、大衆煽動に際し幅広く音楽が利用された事実は、際限なく顧みられるなかで、その後の現代音楽の方向付けに大きな影響を与えた。
誰にでも理解し易い傾向は、寧ろ危険とさえ認識されることすらあった。テレジン収容所のオーケストラや、フルトヴェングラーのワーグナーや第9など、演奏者の本意とは別に音楽を利用した反省から、新音楽たるは危険な主観を排し、技術的、論理的、倫理的に音楽を展開させることから、音楽の未来を託そうともした。あれから80年を経て、我々は何を考えているのか。
ミラノのサンマルコ教会で、エマヌエラの弾く「世の終りのための四重奏」を聴いた。壮麗な教会でメシアンを聴くと、演奏会場とは全く違った宗教儀礼に近い体験になる。闇を映す天窓から音が降り注ぎ、鈍く輝き、ゆらめく燭台の焔の向こうで、音は独特の陰影を湛える。
メシアンがゲルリッツ収容所で作曲し、収容されていたユダヤ人音楽家たちが初演したと説明すると、「きっと彼らには、特別な”役”が与えられていたのだろうな」と息子が言った。「でなければ、疾うに皆殺しにされていたでしょう」。
今日は夕方家族で連れ立って自転車で出かけ、演奏会前、慌てて教会裏のピザ屋で腹ごしらえをする。素朴なピザで美味であった。フィンランド北大西洋条約機構加盟完了。

4月某日 ミラノ自宅
最近、息子が学校の音楽史の授業でやっているグレゴリア聖歌史について、しばしば質問を受けるようになった。尤も、無学が祟って満足な答えもままならず、息子を落胆させるばかりである。
折角なので、今年は息子と一緒にヴァチカンで執り行われる復活祭ミサのテレビ中継を見た。国営放送では、何度となくウクライナ侵攻について言及がなされ、今年はロシア正教会やウクライナ正教会も何度か話題にのぼっていた。文字通り、今年は戦争と平和を象徴する復活祭であった。
それまで眠そうにテレビを見ていた息子が、あっと声を上げて思わず色めき立ったのは、合唱隊がグローリアを歌いだしたときだ。それは彼が一昨年に受けていた音楽院の合唱の遠隔授業で、毎週ずっとコンピュータに向かって声を張り上げていた、あの聖歌である。
息子の部屋から、一年中毎週決まった時間に同じ旋律を繰返し歌っているのが聴こえていて、covidの影を曳きずるそこはかとなく悲哀を湛える聖歌が、賑々しく絢爛豪華なヴァチカンから壮麗に流れてくるのは、何とも不思議な心地を呼び覚ます。

4月某日 ミラノ自宅
レッスンに来たトンマーゾは、才能あふれるコントラバス奏者だが、普段からオーケストラで弾いているからか、演奏者に気を遣いすぎて、素の自分を曝け出すのを躊躇う傾向がある。尤も、誰でも自分の身体の裡にある音楽を外に掻きだすのは容易なことではない。自分の前面に音符を投影し、その各音符に焦点を合わせながら振って貰うと随分違うが、なにか肝心なものが音楽に届いていない気がする。
試しに眼前ぎりぎりまで音符を近づけ、網目の向こうに見える風景に焦点を合わせてもらう。そうして符尾の網目の向こうに流れる、陽光に耀く心地よい小川のせせらぎを追うようにして音楽を奏でてみる。眼で追うと言うと何か少し違う気がするが、その流れを注視しつつ、流体の触感を共有する感覚だろうか。するとどうだろう、音楽はそれまでくすぶっていた彼の身体から抜けてゆき、恰も演奏者の懐へそのまま飛んでゆくようで、思わず驚いた。
馬齢を重ね、音楽が増々わからないと感じることがある。自分で分かる気がするのは、何も理解できていないことのみ。
久しぶりに浦部君と再会。元気そうで嬉しい。少し逞しくなったように見える。
復活祭でカラブリアの実家に戻っていたガブリエレは、実家で採れたオリーブ油を一斗缶に詰めて持ってきてくれた。早速夕食は庭で摘んだセージを千切り、パルメザンチーズを削ってパスタに載せ、採れたてのオリーブ油を存分にかけて頂く。至福の味である。

4月某日 ミラノ自宅
2年ほどの大工事を経て、この年始、二軒先に立派なマンションが完成した。ちょうどその玄関先に、高さ15メートルは下らない立派なケヤキが生えていて、往来の人々の目を楽しませていた。
流石に誰もがこのケヤキを切ることはなかろうと思っていると、ある朝造園業者の一団が、道路を通行止めにして上枝から順番に電動のこぎりで掃い始めた。そうして午後には、直径1メートル半ほどの切り株だけ残して、見事に全て切り倒してしまったので、近所の人々はみな呆気に取られた。
それから4カ月ほど経って春が到来し、そのケヤキの切り株の後ろから、思いがけず新緑が元気よく芽吹いているのを見たときは心が躍った。
朝の散歩の帰り道、家人とまじまじとその新芽を愛でていると、同じマンションに住む紳士が通りかかった。
「あんなに立派な樹だったのに、なんて罰当たりなことをしたもんだろうね」。「でも見てください、この新芽、こんなに元気ですよ。感激しますよ。ほら、凄いでしょう」。
「おお、そうだな。でも前の姿に戻るまで20年は下らんよ。それまでは流石にこちらが持たんだろうな」。
一瞥すると軽く溜息をつき、足早に我々のマンションに姿を消した。
息子は、先日フィレンツェでカニーノ先生のレッスンを受けたヤナーチェクのヴァイオリンソナタを練習している。カニーノさん曰く、冒頭の音型を彼は少し引掻ける塩梅で弾くそうだ。確かに少し角ばったような音像があると、燃え立つようで野趣も増し、ヤナーチェクの民族色も浮き彫りになる。そこにはイタリア的な読譜観が絶妙に共存していて、感嘆した。
無駄のない素晴らしい作曲家なのは言うまでもないが、観念に凭れぬ合理性がイタリア人の音楽観と多くを共有するのか、ヤナーチェクを絶賛するイタリア人音楽家はとても多い。
日本政府の有識者会議より、技能実習生制度廃止への提言発表。

4月某日 ミラノ自宅
運河の向こうに佇む「夢想者」食堂では、毎朝息子が気に入っているシチリア風甘食パンを焼いている。今朝あわててそれを買いに出かけた折、誤って強たか胸を打った。
その瞬間脳裏に甦ったのは、小学生の頃、父と連立って金沢八景に釣りに行き、何某かを堤防から海に落としてしまい、それを父が身を乗り出して拾ってくれたときのこと。その瞬間、彼はドーンという、鈍い、大きな音とともに、鉄柱に胸を打ってしまった。普段痛みに強い筈の父が、やっとの思いで起き上がると辛そうに酷く顔を歪めていて、暫く言葉すら出せなかった。
あの時、子供心ながらただ申し訳ない思いだけが残り、恐らくしっかり謝ることさえできなかったのではないか。何が起きたのか、よく分からなかったが、自分が胸を打った瞬間、ああこれだと独り言ちて、あの甘酸っぱい自責の念が、まざまざと蘇った。理解できなかったのではなく、子供ながら無意識に理解そのものを躊躇っていたのかもしれない。家族というのは、不思議な繋がりだとおもう。
ヘルソンにてレプーブリカ紙特派員コッラード・ズニーノとウクライナ人ガイド、ボグラン・ビティクがロシア狙撃兵の攻撃を受け、ビティクは死亡。スーダンより退避の邦人、自衛隊機で帰国。外国為替相場、対ユーロで円安が進んで14年ぶりに150円台に下落。

(4月30日ミラノにて)

どうよう(2023.05)

小沼純一

きょうからむしたちがなきはじめた
きのうとなにがちがうんだろう
ないてるのはすこしいた
ちがうんだずっとずっとおおいんだ
ずっとずっといろいろだ
ひはみじかくなってきてる
ひとがわかるのはそれくらい
すこしすずしかったかもしれない
あめもふったかもしれない
あついのはあまりかわらない
かわらないみたいにおもえるのに
むしたちはわかるんだきづくんだ
いっせいに

かんじることいっぱい
おもうこといっぱい
いろんなとこがうずまいて
おさえるだけでせいいっぱい
ぐっとのみこみのみこんで
かたちだけでもそれなりに
けんえついっぱい
うそもほうべん

くちにしなけりゃ
おなかいっぱい
やりすごすのはできても
いっぱいどこかにあながあく
いちょうのけんさは
このきずあとをかぞえるため
ほんと 
うそ
ほんともうそもそもって
ついくちさきで

よくいきてるっておもうよね

まだ
まだなの

なにもいってないよ
だれかがいってる
じぶんでいってる

じぶんがいちばんいやになる
することない
むりできない
することあってもできやしない

まだ
まだなの

いつ
いつまで
きになっても
こればっかりは

いってるじゃない
じぶんで
だれかじゃないよ

まだ
まだなの

よくいきてるっておもうでしょ

やりたいことしかしたくない
やりたくないことしたくない
やりたいことなどなにもない
やりたいことなどあるものか
やりかたばかりこきように
やりたいほうだい
やりがいなんてかいしらない
したくないことしたくない
したくないからなにもしない
したくしないとなにもしない

こちらにそのきはなかろうと
からだはかってにいきをして
なにかをみみはきいている
なにもしたくはないからに

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
ちずでさがしてしゃしんみて
よるにはまちをゆめにみる
はんとう いったことないとこばかり
せかいのほとんどそうだけど

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
しろくまさんではないけれど
ひぐまさんたちそばにすむ
たがいにいるなとおもってる
ひととひぐまのしれとこしゃりまち

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
うみにつきだすもりとまち
ひととくまさんしゃけをわけ
やさいとくだもの かわるいろ
いまかさきかとまっている 

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
地図で探して写真みて
夜には町を夢にみる
半島に行ったことはないけれど
世界のほとんどだっておんなじ

ゆうべ見た夢 02

浅生ハルミン

 恐ろしいものに追いかけられて、足裏は、あるようなないような地面を蹴ってはいるが、空回りして少しも前に進めない、という夢にたびたび遭遇しますが、ゆうべはその正反対の夢を見ました。夢の中で私はてきぱきとした、現実とは違う人柄になっていました。夢の中ではなぜ輝かしい人になれるのだろうか。そして眠りにつく前に、「素晴らしい夢を見たら、憶えているうちにメモしよう」などとけちな算段をする私は、眠れば明日も、今朝と同じように目が覚めると信じ切っているんだ、そう思いながら夜毎、寝室の明かりをぱちんと消しています。

   ✳︎

 中くらいの長さの夢を見た──夢の中で私は自分の部屋らしきアパートの一室に、仙台からやって来た友人Mさんと一緒にいるようだった。Mさんは叩きつけるような激しい雨の中を、銀色のリモワのスーツケースを転がして、たった今私の部屋に到着したようだった。窓の向こうは、雨ごしに団地のような、大型マンションのような、玄関ドアの集合体が見える。黄色いドアが多かった。雨は激しさを増し、その雨粒がものすごく大きい。おしゃれなしずく型の室内加湿器ってあるでしょう、あれくらいのサイズの雨粒がどんどん降ってくるのにもかかわらず、それを私とMさんは異常なことだと思っていないようだった。Mさんは窓を全開にして「こんなに降るなんてね」と空を見上げた。
 窓からアパートの前の道路を見下ろすと、急いで歩く人や、走り抜ける自動車。空中にはリャマに似た薄茶色の哺乳類が浮かんでいた。その哺乳類は一度もまばたきをせずに目を見開いたまま、ゆっくりと沈んだり、また浮上したり、見ていると気持ちがよくなる上下運動を繰り返している。
 雨の空中で、溺れそうになっている白鳥が私の目の前を通過していく。だめ!ここに着岸して部屋に転がり込みなさい、さあ早く。私は両腕を伸ばして、トングのように挟んだり、フォークリフトのように掬い上げたりした。ほわほわした羽根にくるまれた生温かさが徐々に近くなってきて、命からがらに窓の高さまで浮上したところをどさっと抱きかかえると、白鳥は見る間に大きな白い犬になり、床に放すとたちまち三毛猫になって元気に駆け回った。
 三毛猫は赤い首輪をしていた。内側のスリットに、猫ワクチンを接種した年月日と動物病院の名を記した紙片が仕舞われていることに気づいた。なるほど、これなら迷子になっても帰れるもんね。でも肝心の飼い主の連絡先は書かれていなかった。「このまま飼ってしまうとか?」とMさんがささやいた。
 知らぬ間に、お団子ヘアの女性とその弟子らしき人物が部屋に入ってきた。顔を見る前から、ああ怒られる、と肝を冷やした。この部屋は動物の飼育が禁止されているのだった。しかし空中で溺れている元・白鳥で現・猫が目の前にいたら、誰だって中に入れるでしょう、というもっともな理由と訴えを私は持っているのだった。お団子ヘアの女性に、白鳥から犬、そして猫になった経緯を説明した。夢の中で私は勇敢で、複雑な事情をすらすらと説明できる理知的な人になっていた。そして白鳥を抱え上げたとき、眠りの外の世界でも同じ手の形をしていたらしく、目を覚ましたとき、両腕の肘から先が寝床から少し浮き上がった格好のまま、掛け布団を持ち上げていた。

言葉と本が行ったり来たり(16)『音楽は自由にする』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 やってしまいました。自分でもいつかやるんじゃないかと思い、気をつけていたのにとうとう。
 いつものようにその夜もiPad miniを手にベッドに入り、Kindleアプリで本を読むつもりだったのです。新聞やSNSに目を通す日もあるけれど、その時間に私がするのは大抵読書。それが日々の楽しみだから。なのにふらふらっとウェブサイト記事を読み始め、その記事のリンクからAmazonに飛んで、そうするとおすすめの新刊などが表示されますから、それを眺めて、へー、今月の『芸術新潮』は坂本龍一特集なのか、『芸術新潮』って特集によっては即完売、入手困難になるよね、この号もそうなるのかなぁ・・・っていうか、え?芸新だけじゃない、この雑誌もこの雑誌も追悼坂本龍一特集、おまけに自伝も緊急(?)文庫化された、と・・・そうか・・・みんな教授が大好きなのね・・・私は・・・好きでも・・・嫌いでも・・・ない・・・けど・・・。この辺りでウトウトし始めて、きっと疲れていたのでしょう、気づくと朝。そして私のアドレスには、今月号の『芸術新潮』と文庫化されたという坂本龍一氏の自伝の注文確認メールが。え、どうして⁈ 私、ファンじゃないのに! 喉まで出かかったけれど、誰のせいでもない、私が悪い。ここまで簡単にネットショッピングできる時代になって、そのうち寝ぼけて注文なんてこともしかねない、普段からお財布の紐が緩い私だし、怖い怖い――そこまで予測していたのに。キャンセルすることも考えたけれど、既に発送作業に入っている様子。迅速すぎるのが恨めしい。仕方がない、己の行動には責任を持とう。覚悟を決め、届いた本『音楽は自由にする』のページを開くと、帯には「自らの言葉で克明に綴った本格的自伝」とあるものの、自叙伝ではなく、人生を振り返るインタビューを自伝風にまとめたものでした。

 ボリュームはそれほどでもなく、一日で読み終えたのですが、これが意外と面白くて。というのも、坂本龍一さんとは仕事の事務的なメールを数回やりとりしたことはありますが、直接お会いしたことはなく、先に書いた通り、彼の音楽は知っているけれど、私生活には興味がなかったので(音楽家に対しても作家に対しても、私の興味が向かうのは作品だけで、ほとんど人柄に向かわないので)、だから、よく知らないひと、自分に無関係のひとの身の上話を聞いているようで、それが新鮮だったのです。バーでたまたま隣に居合わせた人が生い立ちを語り出したから、これも何かの縁と思い、最後まで聞いてみた、みたいな感じ。
 他人の人生を一方的に知るって何だか変な気分です。聞いたところで影響を受けるわけでもない。でも、その距離感を以って聞く他人の人生は面白い。へー、とか、ほう、とか、心の中で感嘆しながら、世の中にはいろいろなひとがいるなあ、と思う。それ以上でもそれ以下でもない。ただ聞く、ただ知るだけの行為。それで終わるそれだけの行為。私はそれがわりと好きなのだと思います。逆に、文章に限らず、例えば映画でも、時々、登場人物に自分を強引に結びつけて没入し、号泣したり怒り狂ったりするひとがいるけれど、私はそういうのは苦手です。

 そしてふと思ったのですが、私が、ひとごとの距離感で聞く/知るという行為に面白さを感じる人間ならば、分厚さにたじろいで部屋の隅に積んだままにしているピエール・ブルデューの『世界の悲惨』も、案外するすると読めるのかもしれない(読む気が起きた)。友人が、岸政彦さんが編んだ、これまた鈍器並みに分厚い本『東京の生活史』を面白いと言っていたけど、それもひとごとの距離感で聞く/知る言葉としてなら読み通せるかもしれない(読む気が起きた)。

 話を戻すと、坂本龍一さんの本は東京の文化史のようにも読めました。入れ替わり立ち替わり登場するのが、三善晃、武満徹、大島渚、フェリックス・ガタリ、ベルナルド・ベルトリッチなどなど錚々たる顔ぶれで(この本にはものすごい数の人名が出てくる)、語りの中にそれをひけらかす感じは全くなかったけれど、とてもキラキラした物語になっています(10歳の頃に高橋悠治さんの公演を聴きに行ったという話も出てきます)。まあ、これは編集者がそういうエピソードを多く拾ったのかもしれませんが。ともあれ、政治家や財界人は別として、日本の文化人でここまでセレブリティであることを感じさせる自伝を出せるひとってそんなに多くない、と気づいたり。“世界のクロサワ”の評伝などは、どれももっと泥臭いですからね。

 今日は四月最後の日。お返事を待たずに書いてみました。「行ったり来たり」ではなく、「行ったり行ったり来たり」になるのも良いかな、と思いまして。
 それでは、また。今月こそはお会いしたいです。マスクを外して。

2023年4月30日 長谷部千彩

公演『幻視 in 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(2)

冨岡三智

第2部のスリンピ公演では、舞踊の展開に沿って照明をつけた。私が宮廷舞踊に照明をつけたのは、①2007年に中部ジャワ州立芸術センターで宮廷舞踊「ブドヨ・パンクル」完全版の公演をした時が初めてで、その次が②2012年に豪華客船ぱしふぃっく・びいなす号の「西オーストラリア・アジア楽園クルーズ」で「スリンピ・スカルセ」を上演した時(録音使用)、さらに③2017年に能舞台で宮廷舞踊「スリンピ・アングリルムンドゥン」の前半を単独舞踊にアレンジして踊った時(日本アートマネジメント学会第19回全国大会<奈良>関連企画)、そして、④2021年の公演『幻視 in 堺 ~能舞台に舞うジャワの夢~』で「スリンピ・ロボン」を上演した時である。また、⑤宮廷舞踊ではないけれど、自作の「陰陽」を2019年に能舞台で上演した時も、宮廷舞踊と同じコンセプトで照明をつけた。これらの照明プランは全部自分で考えている。

ジャワ宮廷舞踊で一番重要なのは、振付(動きとフォーメーション)が音楽形式と連関し、音楽の展開に沿って振付が変化していく点だと私は考えている。ジャワのガムラン音楽では曲の変わり目にテンポが速くなって、新しい局面(曲)に突入するのだが、一般の観客にとってはテンポが変化したかどうかすら分かりづらい。あるいは、舞踊の後半では2組の踊り手の間でそれぞれ戦い(ピストルを撃つ)が起こり、負けた方が座る。そのピストルを撃つまでの緊張感の高まりも分かりづらい(実はこの曲は似たような動きが多いので、演奏者にも分かりづらい)。このような変化を視覚的に分かりやすくするために照明をつけるというのが私の基本的な考えである。だから、生演奏で公演する時にはガムラン音楽が分かる人が照明を担当するか、あるいは照明担当者に指図する必要が出てくる。というわけで、③④⑤では元ガムラン演奏家でもある人に舞台監督兼照明指示係をお願いしている。②のクルーズ船での公演では録音を使用したので、秒単位で進行表を作成して指示出しをすることができたが、やはり生演奏ではそれは難しい。

ジャワで2007年に初めて照明をつけた時、実は賛否両論だった。日本では能や日舞といった伝統舞踊では地明かりにするのが普通なように、ジャワでも伝統舞踊にはフラットな地明かりというのが一般的で、照明をつけるなんて古典を冒涜していると批判した人もいたくらいだった。とはいえ照明は無色のみで、赤だの青だのは使っていないのだが…。日本でも同じことを言われるかもしれないという危惧はあったが、アンケート結果ではその批判は皆無だった。しかし、これが能の公演であれば言われる可能性はあるように思う。その差が興味深いが、日本人にとってジャワ舞踊は自分たちの伝統舞踊ではないということなのかもしれない。

上で、ピストルを撃つと書いたけれど、実際にピストルを手にするわけではなく(実際に持つ場合もある)、サンプール(ウェストに巻いて前に垂らした長いショールのような布)を手にすることでそのことを象徴的に表す。そして、戦いののち負けた方が座ると、立っている人だけを照らすようにする。もっとも、立っている人は座っている人の方に近づいていって周囲を廻るので、その時は座っている人も照らされることになる。たぶん、舞台照明なんてものがなかった時代、踊り手の一部が座るということは、その人たちは映像の画面から外れるようなものだったと思うのだ。舞踊が作られた当時に照明器具があったら、きっと、宮廷舞踊家は振付と音楽の展開だけでなく、照明の展開も一致するような作品を作り上げたに違いないと私は思っている。そして、それはきっとこんなものだったろうというものを、私は創造的に再現している。

『アフリカ』を続けて(23)

下窪俊哉

(戸田昌子さんによる前説)
 ここに『音を聴くひと』という本があって、下窪さんがやっているアフリカキカクというところから出ている本です。これは下窪さん自身の短篇集なんですね。私がTwitterで一度、下窪さんのブログを紹介したというか、ふっと見にいって、さーっと読んで、その読後感に特別な感じがあったので、へえ面白い! と思ってパッと書いたツイートがあったんです。それを下窪さんが見て、喜んでくださって、そのコメントをこの本の中で使ってもいいですか? どうぞどうぞ、となって、そのコメントも載っている。この本の中から、「そば屋」っていうのを朗読してみようと思います。

 私は小学生の頃、長いこといじめられっ子で、学校で誰とも喋らない毎日だったんですね。でも国語の授業で音読の順番が回ってくる、じつはそれをすごく楽しみにしていて、声を出したいと思っていた。読むということが好きだったし、読み終わる時に教室がしーんとしているということが度々あったんです。あとは高校生の頃に演劇部にいて、声がいいって言われていたというのもあって。朗読は好きなので、これから趣味でやってゆこうと思ってるんです。
 この「そば屋」は、じつは朗読するのが難しい。下窪さんはテンポが一定の文章を書く人だと思っているんですね。コンスタントに長く書いている人で、文章にもその感じというのが、とてもよく出ています。こういうテンポ感が安定して、ずーっと続いていく文章って、あるようでないっていうか、それが独特の読後感を生んでいるという感じがします。そういう文章なのに、ちょっとトリックがあるんですよね。そこをわざとらしくなく読もうと思うと、難しいんです。

(「ほとぼり通信」より、戸田昌子さんとの対話)
 じつは今日が初対面なんですよね。下窪さんと呼べばよいか、道草さんがいいか。
 どうもはじめまして。
 でもそんな気がしないですね。Twitterではかなり前からの知り合いなので。
 2018年か、それくらいからですよね。
 でもその前に、岡村展(「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」2014年、東京都写真美術館)には来てくれていたんですよね。岡村のことは、それ以前から知ってました?
 あの時に初めて知ったんじゃないかなあ。
 たぶんそういう人が多かったと思うんですね。
 何というか、目を逸らしたくなるような場面がたくさん写っているんだけど、なぜか見入っちゃうというか、くり返しその前に立ちたくなる写真が多かった。よく覚えてます。
 学芸員の方に「こんなに静かな会場って他の展示ではあまりないのよ」って。
 でも戸田さんの名前は、見たと思うけど、覚えてはいなかったですね。あの時の(実質的な)キュレーターだったんだと知ったのは、Twitterでお見かけするようになってしばらくしてからでした。その後、2019年の夏のある日、ご注文いただいたんですよね、『アフリカ』のキャベツの断面が表紙になった号で。
 私は岡村にかんする『シャッター以前』というミニコミをやってもいるし、そういう媒体への関心はすごくあるんですね。『アフリカ』っていう謎な名前だし、道草さんでしょ? 何か書いてあるらしいから、私にもちょっと見せろって思って。読ませてもらったんですけど、たぶんその時には何も言ってない。読んで、満足しちゃったというか。そのときの印象はあまり言葉にならなくて。
 そうですね、感想をいただいたりはしなかった。
 今回の号は、一番最初の方の文章がすごくよかった。こういったものを読むことは私の日常生活の中にはあまりないわけですよ。学術的なものを、すごい勢いで読みこなさなければならないといったものが殆どだし、情報収集という感じがあるから。これは、すごくテンポ感がいいんですよ、ちゃんと歩いている速さで歩いてる、それが私にとっては新鮮なんですね。なつめさんという方の「ペンネームが決まる」っていう文章なんですけど、書き始めたばかりの方?
 どこかに発表するというのは初めてのはずです。なつめさんのような、文芸作品を書こうとは思ってないような人がふらっと入ってくる場所なんです。
 へえ、そこが面白いんですよね。しかもその方の文章がなぜか一番最初に載っているというのが、『アフリカ』っぽいなと思ったんです。それを読んでね、俗っぽい言い方になるんだけど、癒やされたというか、これが生活のペースだよな、と思ってホッとした。
 今回の『アフリカ』で言えば、神田由布子さんも、翻訳者としての仕事はけっこうあるようですけど、詩を発表するのは初めてだそうです。
 詩といえば、詩とはなんぞやってことを考え始めているんですけど、私も10歳くらいの頃から詩は書いているんですね。岡真史っていう人がいるでしょう、『ぼくは12歳』という詩集があるんだけど、その年齢で自死した後に出された本なんですね。亡くなる少し前に両親の前で暗唱したという「便所掃除」という(濱口國雄さんの)詩なんですけど、「便所を美しくする娘は/美しい子供をうむ といった母を思い出します/僕は男です/美しい妻に会えるかも知れません」というのがあって。それを読んだ時に、私も詩を書いていいんだ? って思ったんですね。それで書き始めたっていうのがあって。ただ、それが詩なのかどうかっていうのは、わからないものだなって、ずっと思っていて。
 詩とは、書いてもいいもの、だけど、詩かどうかわからないもの?
 わからないんです。でも写真と似てるんです。
 えっ? そうですか。
 写真って、みんな撮るでしょう。それが作品っていうか、つまり人に見せていい写真なのかというのはわからない。結局自分が写真をやれてるかどうかっていう不安を抱くようなんですね。
 詩をやれているか、っていうことですね。
 わからないんですよ。私なんかは自分が満足できればいいと思っているし、別に発表してもいいけど、詩集をつくる気はないわけです。でも、こういう(『アフリカ』のような)場所に出すのはいいんです。学生の頃に文集をつくろうって言ってやっていたのと同じ感じで。
 あー、私も自分の本をつくるということには、ハードルを感じてましたね。あまりやる気がなかったというか。だから『音を聴くひと』も読みたいという人がいたからつくったのであって、自分の中で盛り上がるものは、そんなになかった。
 それまで書きためてきた短篇を、集めたものなんですよね。
 雑記もけっこう入ってますけどね。この中から今日、「そば屋」を朗読しようと思ったのは、なぜですか?
 このあまりにも短い、瞬時に終わるような感じに、びっくりしたんです。極小の短篇というか、あんまりないと思う。ちょっとした風景の描写のようにも見えながら、でも、そうじゃないか。これが架空の話なのか、実際にあった話なのかも曖昧だし、それは他のものにかんしてもあって、リアルな話なんだろうけどちょっと妄想なんじゃないかという部分がある。
 25年前に書いたものなんですね、19歳の自分には、これが精一杯だったんです。
 生まれてきたものという感じがしますよね。たぶん、これなんだな、っていう。
 原稿用紙にして2枚半くらいなんですけど、これだけ書くのに必死だった時代があるんですね、フレッシュでしょう?
 いまは毎日書いているのにね。でも私にはそんなフレッシュな時代一度もなかったな。だって小学校入って、原稿用紙もらって3枚書いて、もっと欲しいって言ったらごめんね3枚以上あげられないからって先生に言われた記憶があるもの。
 とにかく他の人みたいに書けないんですよ。でも周囲の人たちから言わせると、どうしてそんなふうに自由に書けるんだ? っていうことだったみたいで。
 これを読むとそう思いますよね。
「そば屋」はたぶん夢を書いたんじゃないかと思ってますけど、忘れちゃいましたね。現実じゃないことは確かです。
 そうなんだ? 私は「音のコレクション」っていう短篇にもすごく興味あるんですけど、人の収集した音を聴くっていう面白いことをやっている。
 そういう、小説の仕掛けですね。
 えー! 小説ですか? ちょっとショックを受けている私。『音を聴くひと』の中に収録されているんですけど。
 旅に、カメラではなくレコーダーを持って行くっていう人たちへの関心はもちろんありますよ。
 小説だったんだ。ドキュメンタリー的に読んでいた。この本は、私は8割方ドキュメンタリーだと思って読んでる。本当っぽく感じられるんだもの。
 これは失踪した友人の話ですね。フィクションですけど。
 その人が残した録音ディスクが山のようにあって、それをどうしようかっていうことで、この「彼」が聴くんですよね。私は仕事柄、亡くなった人の作品を大量に見せてもらいに行くっていうのが多いんです。誰かが残したもの、作品だけじゃなくて、手紙みたいなものもあったりするし、何かよくわからない、とにかく残してあるものがあって、そうか、「音」に執着する人っていうのもあるかもしれない。それって再生してみないと聴こえないわけです。だからね、再生して聴かなきゃいけないっていうのが、大変というかね、音は聴かなきゃ聴こえないんですよね、ということにふと気づいて。ちょっと朗読にも似てるんですけど、音として再生した途端に理解が全く違ってくる。目で追っているのとは、ひっかかってくるものが違うし。朗読って歌と近いというか、自分が楽器のようなものとしてあって、声を出すためにの楽譜のように考えているのかな。(ふだん本を読む時は、私は)5行くらい一遍に読むんですよ。スキャンしていくみたいに。でも音にするというのは、そのところを音にしていくということなので、テキストの使い方が全く違う。
 声に出して読むことは、意識しているんですね。戸田さんの朗読は、私にはとてもいいんです。2020年だったか、サン=テグジュペリの『夜間飛行』を読まれましたよね、あの頃からずっと聴いている。何がいいんだろう? と考えてみたら、やっぱりテンポ感かなあ。朗読がいいなあと思う人はじつはそんなに多くないんです。速すぎると感じたり、わざとらしさを感じたりして。でも戸田さんの読み方はスッと入ってきますね。
 小学生の頃に初めて自分でカセットテープに朗読を録音して、聴いたんですね、そういう学校の宿題があって。その時、(はじめて聴いた自分の声が)細くて高い声で、この人死んじゃうんじゃないか? と思ってびっくりして。
 それが自分の声なんですね。自分の声をわかって、自分の声で読んでいるからいいんですよ。「音のコレクション」を朗読したら、どうなるかなあ。元々は『アフリカ』の最初の号に載っている作品なんですけど。
 あー! これ? 素敵! いまの『アフリカ』はね、プロっぽいんですよ。えーとね、私の気持ちとしてはちょっと上手すぎるっていうか、でも、もちろん綺麗だから好きなんですけど、この微妙な感じがいいじゃないですか。この表紙の上の方にグラデーションが入っている、仄かなダサさ。でも1号ってこうありたいですよね。
 そうですか?
 いや、だって、1号から上手かったら、お前なに狙ってんの? ってなるでしょう?
 たしかに、そうかも?
 そういえばどうして今日、呼んだのかというと、理由のひとつには、私もそこに書きたいという気持ちがあるんですよ。
 えっ、それは嬉しい、いつでも書いてください。この話の流れは予想してませんでしたね。
 そう思っている人は他にもいると思う。でも自分からそれを伝えにゆくのは恥ずかしいというか。
 私は戸田さんも何か、ミニコミ的な何かを始めようとされているのかなあと予想して来たんです。
 それもね、じつはあります。
 たのしみですね。