柘榴、またはぶら下がる心臓

越川道夫

失うことの多い一年だった。
コロナでというわけではないにしても身辺の幾人かが立て続けに亡くなり、去らざるをえなかった人は去った。
とりわけ17歳で出会い、40年近く私の〝師匠〟であってくれた澤井信一郎監督の死は、いまだ受け入れ難いものとしてある。この数年、お電話をするたびに弱々しく、老いた病者の声になっていく〝師匠〟の声に、わたしはどこかでひどく怯えていた。「お前が撮っていいからな」とかつて彼が書いた脚本を預かってはいたが、その映画化は遅々として進んではいなかった。また間に合わない。これまで何人もの人たちと一緒に仕事をする約束をし、約束は結局果たされることなく、その人たちは逝ってしまった。彼らがわたしを責めることはなかったし、もはや責めようもないのだが、責めを負わなければならないのはわたし自身の怠慢である。わたしの胸の内に間に合わなかったという後悔だけが降り積もっていく。死者の数だけ。
9月になって、〝師匠〟は亡くなった。もう3ヶ月も前から意識が無かったと言う。疫病が蔓延する最中、見送ることすら叶わなかった。
 
それでも12月には小さな映画を撮っていた。人が不意に何の前触れもなくいなくなってしまったり、遠く離れざるをえなかった人に思いを馳せたりするそんな映画だった。それは、この失うものの多かった1年を過ごした実感だったかもしれない。この間、わたしはチェーホフを読み、ひどく惹かれて徳田秋聲の「死に親しむ」を繰り返し読んでいた。
その日は撮影の最終日、千葉の砂丘の近くですぐに暮れてしまう太陽と追っかけっこでもするように慌ただしく撮影をしていた。遅い昼食をとろうしていた時、その電話あった。ほんの1ヶ月前に電話で話し、ではまた、と切ったその人が亡くなったと言う報せだった。しかも、火事で。電話の向こうもこちらも混乱していた。その人も長く一緒に暮らしていた方を亡くされたばかりだった。
 
それは映画とは何の関係ないことだ。仮に映画を撮っていなくても起きてしまったことなのかもしれないが、お互いに無関係であったはずのものが、引き寄せ合うように、わたしの眼の前にある。わたしはこんなことを望んではいない。こんなことのために映画を作ってはいない。望むはずもない。しかし、もし「偶然」ということがこの世にあるのであれば、このようなものを呼ぶのかもしれない。悲しい。悲しいし、痛まし過ぎる。
 
撮影を終え、体調の崩れを感じながらそれでも毎日仕事場までいつもの川沿いの道を歩いていく。昨夜は、またいちから始めなければならないと思いながら、若い頃に度稽古場の助手をつとめた演出家が遺した本を読んでいた。彼は「劇」というものを仔細に疑いながら、その半ばで性急に「劇の希望」を書きつけていた。
 
「しかし、表現者が表現の現場にいるということは、希望を見ているということだ。そして、そういう表現に触れようとすることは、そこに希望を見ようとしているということだ。それは希望でなければならない。希望を見ているから表現があるりうるのだし、それなしにはありえないのである。」(太田省吾『劇の希望』)
 
見上げると道端の柘榴を数羽のメジロが食べている。鳥たちに啄まれ尽くしてぶら下がっている柘榴の実の残骸。それは腑分けされ、吊るされた心臓の形をしていた。あれはわたしの心臓だ。そう思った。
こんなことを書くと〝師匠〟はまた「なんで風景に逃げるんだ」と怒るだろうか。

206 メリー・クリスマス

藤井貞和

私の貧しい友だちの狸。
タクシーが置き去りにする、
眠る狸の死体。 自分の毛皮を、
買いもどそうとした友だち。

身を包む暖かさを取り返そうとして、
タクシーから投げ出された、
冷たい路上の狸。 だれに看取られることもなく
死体のような私の友だち。

と、子狸が私に書いてよこしたので、あるいて探した挙げ句、
とある剥製店で見つけたので、買いもどして、プレゼント、
子狸に送りました。 生きて帰りはしないであろう。
私の悲しみの聖夜が暮れようとしておりました。
   
あれ! 大狸、子狸がそとを歩いておりましたので、
呼び止めますと、狸ども、からから笑うて帰ってゆく。
毛皮を売って、かれらは暖かい冬を迎えることでしょう。
たぶん、私はよいことをしたのだと思います。

(狸の勝ち、化かされたのは私。昔、校舎の隅を、尾のふさふさした敏捷な生きものが駆け抜けたのを、居合わせた学生たちが、「たぬきかしら!」「いたちかも!」「いぬみたい!」と評定して、イタヌチキと名を付けていました。アナグマだったと思います。謹賀新年。)

『アフリカ』を続けて(7)

下窪俊哉

 自分のつくった最初の本は何だろう? と考えたら、中学生の頃に書きつけていた詩(のようなもの)のノートを思い出す。文庫本くらいのサイズの小さなノートだったが、いま思えば、そこに直接本を書いているようなつもりだった。その頃は小説の文庫本をすごい勢いで読んでいたが、その後の数年はほとんど何も書かず、本も数えるほどしか読まなかった。自分を観察していると、熱くなると数年は続くが、その後には嘘のように醒めて止めてしまう、という性質がありそうだ。

 詩(のようなもの)を書いたノートの次につくった本は、20代のはじめ頃、大学を卒業するに際して、それまでの4年間に書き溜めた自作を集めて、編んだ2冊の本だ。本文はワープロでレイアウトして、表紙は見開きにした本文用紙より大きい紙に絵と文字を切り貼りして、ちょうどよいサイズに折り、本文の束の背に糊をして包むようにした。ザラ紙を見返しに使って、少し気取ったりもして。10部か、15部くらいつくった。
 大学では文芸創作を学んでいた。と、いちおうは言えるが、創作を学んだ場は大学の中にあったワークショップであり、「こうやって書けばいい」ということを教わったわけではない。そんなことを教えられる人はいない、と前もって知っていたような気もする。どうやって書けばいいかは、自分自身で探らなければならない。同じように、本のつくり方も、前もって誰かに教わったのではなかった。
 どうやって書いてゆくかを探る場を自分でつくろう、と考えたのではなかったか。どうせなら他人を巻き込んでやりたい、となったのは、私の性格によるものだったかもしれない。雑誌をやることになった経緯はきっとそのようなことだろう。
 人を集めたら、けっこうな人数になった。さあどうやってつくろう? 印刷も手掛ける町の製本屋さんを紹介してもらって、訪ねて行った(それ以来、現在まで20年近い付き合いになっている)。
 その頃、パソコンというものを初めて所持し、Adobeという会社がつくっているDTP(パソコンにおける組版)ソフトの存在を知った。仲間に協力してもらって、試しに使ってみようということになる。チームで作業するなら「ページメーカー」というソフトが初心者にも使いやすそうだと言った人がいて、少し使ってはみたものの、初心者用とは使いづらいものであるという結論に至ったので、それ以降「インデザイン」一辺倒になった。2003年のことだ。当時はプリントで入稿する紙版印刷だったので細かいことは言いっこなしだが、しっかりつくり込もうとしていた(ただし表紙は最初からイラストレーターのデータで入稿していたような気がする)。
 チームでつくるというやり方は、しかし、日々の暮らしや忙しい仕事の傍らで、片手間にやるには向いていなかった。若き編集長になった私はいつも疲れていて、つねに何か不安を抱えていた。その雑誌は3冊つくって、そのあと手元に残っていた原稿をかき集めるようにしてもう1冊、4号を出した。『アフリカ』を始める前年のことだった。
 その頃には早くも、(雑誌に限らず)本をつくるのが苦痛になっており、怖くなっていた。何かつくると、必ずどこからか文句を言われそうだった。実際には誰からも責められていないとしても、そんな感触が本や雑誌をつくるという行為の中に感じられて苦しいのだった。
『アフリカ』を最初に、1冊だけというつもりでつくったのには、そんな個人的な背景があった。つまり『アフリカ』には、この編集人にリハビリをさせようという狙いがあった。
 そこで今度は、チームでやるのではなく、できるだけ自分ひとりでやろうということにした。続ける気はない。続けるのは苦手なはずだし、続けなければならないものだとも思っていない(そんな話はこの連載の最初の回でも書いた)。とにかく、少しも大げさなことにはしたくない。できることなら、誰にも知られずひっそりとやっていたいとすら思っていた。
 そうやって始めてみたところ、自分の中から湧いてくるのは冗談というか、怖がっている自分ではなく、必死でふざけよう、ふざけようとしているもうひとりの自分で、ページの隅にいたずら書きをし出したのは我ながら可笑しかった。「この雑誌はだいたい信用できます」に始まり、「もし落丁本を見つけたら、貴重です。大切に!」「終わるまで、続きます」とまあそんな調子だ。「ぼんやり口をあけてご覧ください」などと読者に指示(?)を出すこともあった。雑誌をめくっていると、たまに、小さな字でそんなつぶやきが記してある。

 6冊つくったあたりで、それまで書いていた人たちが1人、2人と続けざまに抜けてゆくということがあった。数人で始めた雑誌なのだから、一気に2人いなくなるだけで大きい。いわゆる同人雑誌なら、そこで終わってもいいはずだったが、1人去れば、新たな1人との出会いあり、また1人去れば、呼ばれたようにもう1人やって来てくれた。良い書き手がやって来ると、つられて良い読者もやって来るということになっている。それで、この『アフリカ』という雑誌には何かあるなあ、と感じ始めたのだろう。7冊目から、目次の隣に関係各位のクレジットを入れることにした。
 装幀、切り絵、写真、イラスト、校正、印刷、製本あたりまではいいとして、制作協力、広報ときたらそんなことをする人や団体が実際に存在するわけじゃないので「つくる」ことにした。書いているとノッてきて、演出、台本、音読、本棚、録音、声援、財布、配達、出前、エトセトラ、つまりフィクションなのだが、嘘であることを隠そうとしていないので、逆に実在するような気がしてくる。たとえば、いつも「差入」をしてくれている「粋に泡盛を飲む会」も本当にあるような気が、しません? その中に、特別賛辞(スペシャル・サンクス)として実際にお世話になっている人や団体の名前も潜り込ませた。

 その「ふざける」ということの中にも、何かありそうだ。
 いまでも苦しいときには、さて、どんなふざけ方をしようか、と考えると妙なやる気が出てくる。
 なぜ、ふざけようと思うんだろう? 誰か(何か)を牽制するためだろうか。牽制すれば、どうなるか。その間合いにハッとした気づきがあるのではないか。ハッとしながら見ると、何やら必死でふざけているのである。そこに、笑みがこぼれる。
 そうやって思わず笑うことには、人を楽にさせる効果があるようだ。
 楽にやろうよ、どうにでもなるさ、やりたいようにやろう。自分の中のベースを、そこに置いておく。そして困難にぶち当たるたびに、そのことを思い出す。

仙台ネイティブのつぶやかき(68)ミヨコのギフト

西大立目祥子

大晦日、午前11時。ちらちらと雪が舞ってきた。日本海側が大雪の予想のときは太平洋側にも山を越えて雲が流れてきて、仙台でも雪が積もることがある。寒さきびしい年越しだ。
母は、9時前にデイサービスのお迎えの車がきて出かけていった。認知症という診断を受けて、そろそろ20年だけれど、大晦日と元日に家にいない、というのは初めてだ。昨年(2021年)は新年明けてすぐ転倒して救急車を呼ぶ事態になったこともあって、このお正月は預けることに決めた。少し楽な気持ちになって、おせちの仕上げにかかる。

 このところ、母の認知症の進行が著しい。ことばの理解が難しくなってきていて、ジェスチャーを交えないと、私が何をいおうとしているかがわからない。トイレも着替えも洗面も、脇にぴったりと張り付いて手助けしないとひとりでは無理。夕暮れで暗くなったガラス窓に映る自分を誰か親しい人のように思うのか、話かけたりするのだから、歯磨きのときに鏡に映る姿も自分ではない誰かと認識しているのかもしれない。もうとうに、そばで介助する私のことを娘とは思っていない。

 でも、認知症が進行してうつうつぼんやりとしているのかというと、決してそうではない。そわそわと動きまわることが多いし、絶え間なくわけのわからないことをしゃべりまくる。デイサービスから戻った直後などは、裏返ったような甲高い声で自問自答するように話し続け、大きな声で歌ったりする。いったい何の曲かと注意深く聴いていると、「勝ってくるぞと勇ましく〜」という歌詞ではないか。めちゃめちゃになった記憶の奥底に、軍国少女にならざるを得なかった母の人生が塊のように眠っているようで、不意をつかれる。

 会話は成り立たない。話には何の文脈もなく理解不可能。生活のすべてに介助不可欠。いってみれば、生活のすべてにケアが欠かせない母。最も身近にいる私は、いろんな人たちの力を借りて何とか乗り切っているものの、ときにくたびれ果ててもうこれ以上は無理、と匙を投げたくことがひんぱんだ。

 それなのに。あらゆる場面で人の手を必要とし、娘の私にとってすら重たいやっかいな存在になりかかっているというのに。母はケアマネージャーさんにも、ヘルパーさんにも人気なのである。
 ケアマネさんはいうのだ。「ミヨコさんと話してると明るくなるの、だから会いたくなるんですよ」。ヘルパーさんも「ミヨコさんみたいな人いないもの。気持ちがいい。いっしょにいて楽しいもの」と、来るたびそう話す。

 話しているって、会話になっていないでしょ? 母が口にするのは、ちぐはぐな脈絡もなにもないことばの連発だ。そこに意味を見出だせない私は、聞いているうちに耐えきれなくなっていらいらする。でも、彼女たちは違うのだ。意味なんかなくても、感情を受け止める。
何かをいいたい、何か伝えたい思いがある。その気持ちをすくいとって、うなずきながら母の一方的なしゃべりを聞いている。「あら、そうなの」「そうなんだ」「よかったねぇ」…。そこに否定のことばは一切ない。まるごと受け止められるうち、母の表情はおだやかになって、相手を思いやるようなひと言がもれる。「がんばるんだよ」「人生、ちゃんと生きないとね」…。へぇ、この人が認知症?と思わせるようなひと言。こういう思いがけないことばにみんなが救われ、なぐさめられている。

 「そもそもミヨコさんは明るい人、楽しい人」とヘルパーさんがいう。ほかの利用者さんはどんな話をするの、とたずねたことがある。「お迎えがきてほしいっていう人もいるしね、いままで自分がされてきた嫌なことばかりをずーっと話す人もいるのよ。自慢話ばかりの人もいるわねぇ。まぁ、人が自分がよかったときのことは、ずっと長く残っているんだと思うの。でも、ミヨコさんってそうじゃないでしょう。何ていうかなぁ、いつも前向きなの」
 嫌なことをされると怒鳴ったりすることもあるけれど(例えば、病院での注射とか)、確かに母は後ろ向きではない。肯定的な人だ。

 数ヶ月前から、従姉妹が母の相手をしにひんぱんにきてくれるようになった。母の姉の娘である彼女は、母の手や一瞬一瞬の表情に自分の亡き母の面影を重ね見て、なつかしい思いにかられるようだ。実は、昨年、大病して手術をし加療のために入退院を繰り返していたのだけれど、治療が終了したいま、母のケアに通うことが闘病中に感じていた不安感を払拭するものになっているらしい。ありがとう、とお礼をいうと、彼女はいうのだ。「違うの。お礼をいいたいのはこっちなの。話していると、楽しいし、ほっとするの。だってちゃんと反応あるじゃない」
 従姉妹もまるごとの母を受け止める。うなずきながら、話を聞いている。ことばを介さなくても、感情の交歓の中で対話は成り立ち、なぐさめあう関係が生まれるのか。そこでは母は、もらうだけでなく、与える存在になっている。

 自分のことすら満足にできないことになっても、人は誰かに何か大切なものを与えられる。そして、ケアすることはケアされることでもある。少しずつ衰えていく自分のこれからの時間の向こうに、このことを忘れずにおきたいと思う。

アジアのごはん(110)うっぷるい海苔のお雑煮

森下ヒバリ

昨年の正月から、わが家の雑煮は澄まし汁に茹で丸餅と三つ葉、そして具のメインは十六島海苔(うっぷるいのり)、ということになった。その理由は以下の通り。

1 乾物を入れるだけなのでめちゃめちゃ簡単である
2 うっぷるい海苔、という魔訶ふしぎな名前のものを使いたい
3 すっきりとしておいしい

これは出雲あたりで作る雑煮で、澄まし汁を作りさえすれば、うっぷるい海苔は出来上がりにちぎって入れるだけなので、とにかく簡単である。おそらくうっぷるい海苔を入手することが一番むずかしい工程だろうが、うちでは出雲の友人のヨネヤマさんが送ってくれるので、何の問題も準備もいらない。ありがとうございます、ヨネヤマさん。

「うっぷるい海苔」この不思議な語感の海苔は、出雲市の十六島町でとれる岩ノリのことである。アサクサノリの一種で、本州日本海沿岸から北海道小樽付近の岩場に生育する。韓国の日本海側にも生育するらしい。やや紫がかった色をして、うすい板状に伸ばして乾かす。出雲の十六島町の岩場でとれる海苔を十六島海苔と呼び、出雲地方では古くから珍重されてきた。出雲國風土記(733年)にもこの海苔のことが記載されているほどだ。

初めはこのふしぎな名前にひかれて入手したのだが、お雑煮にとてもお手軽な上に香りもなかなかいいので、すっかり気に入ってしまった。ヒバリは岡山・備中地方の生まれで、生家の雑煮は、澄まし汁に(あまり澄んではいなかったが)人参・大根・里芋などの煮た野菜、そして塩ぶりの煮たのをのせたものであった。親戚などの雑煮もほぼ同じであったし、年末になると近所の魚屋では塩ぶりの予約販売があったので、ご近所も同じ塩ぶり雑煮であったと思われる。

塩ぶり雑煮は中国地方の山地のもので、戦前は日本海から運ばれてくる塩ぶり市が年末には各地で立っていたという。山地といっても、生家は車で40分ぐらいで瀬戸内海に出るので、雪深い中国山地のただ中ではないのだが、冷凍技術や道路事情のよくなかった戦前では、海から新鮮な魚介が届くにはちょっと距離があったのだ。

大人になって、雑煮を作ろうとなっても、塩ぶりを乗せようとはあまり思わなかった。こどものころ、塩ぶり雑煮は嫌いではなかったが、そんなに好きでもなかった・・のね、やはり。脂分が多くてちょっと魚臭く、ゴテっとした味なので。しかし、うちのいなかでは塩ぶりは大人のごちそうであった。一匹とか半身とかで買った塩ぶりを母親は大切に使っていたものだ。

塩ぶりの文化はともかく、「うっぷるい」という地名はどこから来たのだろう。アイヌ語にありそうな音だが、アイヌ語に「うっぷるい」という言葉はないようである。また出雲周辺にアイヌ語の地名もほかにない。出雲は古来、朝鮮半島との交易の場であり、人の行き来も多かった。古代朝鮮語の断崖絶壁という意味であるという説や、出雲國風土記に出てくる海苔の採れる岬の地名「於豆振埼(オツフリのさき)」がなまった説などいろいろあるものの、決め手はない。

日本藻類学会の学会誌「藻類」(121-122,July 10,2007)に「藻類民俗学の旅」というコラムがあった。「濱田仁:十六島(うっぷるい)とウップルイノリ」濱田仁先生によるその記事によると、十六島の岬の岩場に十六島海苔は生えるのだが、その海苔の採れる平らな岩場を当地では「しま」と呼んでおり、かつてはそういう「しま」が十六島湾の内外に十六あり、それを十六の家がそれぞれ所有していたという。

うっぷるい海苔の採取の様子の写真を見ると、かなりけわしい岩場で、激しい波が打ち寄せる。そこに至るのも大変で、そこで作業するのも大変そうだ。険しいだけでなくけっこう広い平らな岩場もあり、なるほどこれが「しま」なのだな、と分かる。おそらく、「うっぷるい」という音がはじめにあり、十六島という漢字表記は音と関係なくあとからつけたものだと思われる。

藻類民俗学という言葉を初めて知ったが、これはなかなか面白そうだ。日本人は古代から海藻を食べて来た。塩を得るためにも使えたし、ミネラル豊富で食物繊維も豊富、ダシも出る海藻は日本人の食生活になくてはならないものだった。海藻はただ食べるだけでなく、海に近いところでは旧正月の元旦明け方にワカメを刈る神事もあるし、海辺でなくとも正月飾りに昆布やワカメなどの海藻を使うことも多い。

うちは同居人が大の海藻好きなので、かなり海藻を食べるほうだとは思う。ダシは羅臼昆布をたくさん使うし、みそ汁や酢の物にするワカメは鳴門ワカメを徳島から送ってもらう。ワカメの根元の固い部分であるメカブを刻んだものも一緒に買い、つくだ煮にしているが、これがまたウマイ。さらにヒバリの最近のお気に入りはアカモクというホンダワラ科の海藻である。自分で刻むのは大変なので、刻んである冷凍ものを買うが、これは解凍してかき混ぜるととろとろになって、酢醤油を入れてご飯にかけても納豆に混ぜてもみそ汁に入れてもおいしい。おいしいうえに、ねばトロは摂取しにくい水溶性食物繊維の宝庫なので、お腹の腸内細菌ちゃんたちも大好きな食事がもらえて大喜び。

自分の好きな海藻たちの産地を訪ねる旅っていうのもいいなあ。出雲、鳴門、佐渡、羅臼・・。さて、お椀に茹で上がった丸餅を入れて、澄まし汁を注ぎ、三つ葉を添えて、と。紫色の十六島海苔を7~8センチ角ぐらいちぎってお椀にほわりと入れる。湯気と一緒にふわっと磯の香りが立ち上がり、ほおが緩む。フフッ。ではいただきます!

しんしんと

北村周一

ダイヤモンド・
プリンセス号という
大いなる
船のみずぎわ
おもう一月

村々の
春や錆びたる
長どちの
思考回路を
うれうる二月

Dappiの
かげにおびえて
もの言えぬ
報道なんて
さらば三月

税金で
花見している
ろくでなしに
愛想わらいを
振りまく四月

あのナチスと
緊急事態
条項との
熱き交わり
はぐくむ五月

安倍逮捕の
声が天から
降りてくる
ような気がして
仰ぐ六月

油えの具
投げつけてみたり
踏んでみたり
もはやアクション
あるのみ七月

夏五輪
その後の自宅
放置へと
すすむ暗黒史と
しての八月

こわれかけの
ホーム・パン計器
わたされて
一家心中
余儀なし九月

国会は
いまだ開かずや
挿げかえし
おとこの首の
かろき十月

六度目の
なみの始まり
音もなく
検疫ぬけて
くる十一月

カレンダー・
ガール並べて
しんしんと
神のおしえを
説く十二月

*副題は、一ダースの月2021。意に反して社会的傾向がつよく出てしまいました。

2021

笠井瑞丈

あてもない旅
何も考えず車を走らせ
iPadから音楽をを流す
気付けば今日は大晦日

今年もコロナの影響もありながら
色々とやれることをやった

一月ダンス現在 vol.19
水越朋さんのソロ公演をプロデュース
『グラスグニー』

二月 ダンス現在 vol.20
笠井叡ポスト独舞踏
『聖堂騎士団員のひとりが、
今、この日本に生きているなら!』

三月 ダンス現在vol.21
上村なおかソロダンス
『Life3』

四月 ダンス現在 vol.22
若い女性ダンサー四人の振付作品を発表
高橋悠治さんの音源フーガの技法全曲振付
「展示するカラダ』

五月 ダンス現在 vol.23
小暮香帆さんのソロ公演をプロデュース
『Dear』

六月 ダンス現在 vol.25日
笠井叡ソロ ポスト舞踏公演
[櫻の樹の下には]を踊る  

七月 横浜ダンスダンスダンス参加

八月 ダンス現在 vol.26
宮脇有紀さんのソロ公演プロデュース
『ゆるし色の緒の』

八月 ダンス現在 vol.27
笠井叡ソロ ポスト舞踏公演
『使徒ヨハネを踊る』

九月 セッションハウスダンスブリッジ
笠井瑞丈振付作品
『霧の彼方』
笠井家出演

十月 ナイトセッション
『秋の虫達』
笠井瑞丈×鈴木ユキオ

十一月 笠井爾示写真展でパフォーマンス
笠井瑞丈×上村なおか

十二月 笠井瑞丈×上村なおか主催公演
『未来の世界』
伊藤キム 小暮香帆 上村なおか 笠井瑞丈

十二月 ナイトセッション
『白い恋人』
笠井瑞丈×中村要チェック

十二月 ダンス現在 vol.28
笠井叡×高橋悠治
『フレデリック モンポーを踊る』

来年もよろしくお願いします

ラントヨ

冨岡三智

この「水牛」には2002年11月号から寄稿させていただき、この1月号で19年と2か月目になる。その記念すべき第1回目に書いたのが「ラントヨ」だった。ラントヨはスラカルタ様式ジャワ舞踊の基礎練習法のことだが、このエッセイの出発点でもある。そのラントヨを制定したクスモケソウォ(1909-1972)は、2021年8月12日、国の芸術に多大な貢献をした人物に贈られる勲章としては最高位のパラマ・ダルマ文化勲章を授与された。というわけで、あらためてラントヨについて書き残しておきたい。

クスモケソウォはスラカルタ王家の舞踊家で、1950年にインドネシアで初めてのコンセルバトリ(現・国立芸術高校スラカルタ校)が設置されると、初のスラカルタ様式の舞踊の教師となった。ラントヨはそのコンセルバトリで舞踊を教えるために作られたもので、舞踊の動きの基本を練習するためのものである。私の師匠であるジョコ・スハルジョ女史(1933~2006)はクスモケソウォの長男の妻に当たる。コンセルバトリ開校時からコンセルバトリに勤め、1956年からはクスモケソウォの助手に採用され、その後定年までコンセルバトリでスラカルタ舞踊の基礎を教えた。クスモケソウォの教えを一番受け継いでいる人である。ここでは私がジョコ女史から学んだクスモケソウォのラントヨについて記す。

●ラントヨI

ジャワ舞踊には女性舞踊(タリ・プトリ)、男性優形(タリ・プトラ・アルス)、男性荒型(タリ・プトラ・ガガー)の3つの型があり、それぞれにラントヨIとラントヨIIがある。ここでは女性舞踊のラントヨに沿って紹介する。

ラントヨIは基本的に足運び(ルマクソノ)を練習するものである。クタワン形式の曲に合わせて足が出て、それにつれて手が出て、その手についていくように首(視線)が動く…これが滑らかに連動するように練習する。

ラントヨをする時はサンバランといって腰に巻いたジャワ更紗を引きずるように着付ける。これは宮廷舞踊の着付である。ルマクソノの歩き方は独特で、1=ドゥブッ(足の平で床を打つ)、2=グジュッ(つま先をもう一方の足の踵の後ろに下ろす)、3~4=体重移動して1歩前進、のように歩く。このドゥブッ、グジュッという足の動きも宮廷舞踊独特のもので、グジュッの前にサンバランの裾を蹴る。というわけで、ラントヨはジャワ舞踊と言っても宮廷舞踊あるいは宮廷舞踊を基にした舞踊の基礎を学ぶために作られたものであることが分かる。

また、ラントヨはジャワ舞踊の振付の基本を身につけるためのものでもある。ジャワ舞踊では、主となる動きを変える時にはつなぎの動きをはさみ、しかもそれは曲の周期の終わりにくると決まっている。音楽にのって歩けるようになるだけでなく、つなぎの動きを曲の正しい箇所にはめ込めるようになるのが大事なのだ。ラントヨでクタワン形式の曲を使うのは、形式が小さくて(16拍で1周)つなぎの動きをはめ込めるチャンスが多いためである。

ルマクソノは手の動きにより6種類ある。また、ラントヨIで使うつなぎの動きは5種類(①二グル、②サブタン、③スリシッ、④オンバッバニュ~スリシッ~シンデッ、⑤シンデッ)あって、その長さは8拍、12拍、4拍とバラバラである。指導者が学習者に「次は二グル…」と指示すると、学習者は正しい箇所で二グルの動きを始め、次に指示される動きへとつなげる。

そして、ラントヨIでもIIでも、最初と最後には床に座って合掌する。ラントヨIの合掌の方が簡略化されており、ジョコ女史は「スンバハン・ワヤン(ワヤン・オラン舞踊劇の合掌)」とも呼んでいた。ラントヨIができれば、まだ踊ることはできなくてもワヤン・オランに端役で出演することもできると言っていた。そう言われれば、つなぎの②や④も舞踊劇の入退場で使われるものである。

●ラントヨII

元々のラントヨIIは次のような構成になっている。①~⑨はスカラン(ひとまとまりの動きの型)の名称で、ここではつなぎの動きは書いていないが、つなぎはシンデッかスリシッである。ラントヨIの段階では歩いて手を動かすだけだったのだが、ラントヨIIでは体の各部の動きが組み合わさってある程度の長さとまとまりをもったスカランを修得することが目的となる。また④や⑦ではホヨッと呼ばれる胴の動きが加わっている。このように、ラントヨには素朴ながら動きを分解して段階的に学習するという意識が見られる。

①合掌
②ララス・サウィッA~ララス・サウィッB~ララス・サウィッA
③ゴレッ・イワッ
④リドン・サンプール 
⑤ウクルカルノ
⑥エンジェル・リドン・サンプール
⑦ガラップサリ
⑧エンギエッ
⑨合掌

これらのスカランはいずれも宮廷舞踊のスリンピやブドヨで使われるもので、しかも①~③は『ガンビルサウィッ』、『スカルセ』、『ゴンドクスモ』などのスリンピの展開パターンに同じである。ララス・サウィッとは『ガンビルサウィッ』で使うララスという意味での命名だが、スリンピでは合掌の後に必ずララスと呼ばれるスカランがある。また、⑧はスリンピの曲の終わりで座って合掌する前に必ず使われるスカランで、ラントヨを通してスリンピの振付の始めと終わりの定型が身につくようになっている。
 
ジョコ女史は幼少からジャワ舞踊に親しんでいた人だが、これら宮廷舞踊のスカランはコンセルバトリでラントヨを習うまでは全く知らなかったと言う。それだけ宮廷舞踊と一般の舞踊には隔たりがあり、宮廷舞踊は非常に難しいものだったようだ。しかし、これらのスカランは、ラントヨの普及とその後作られてゆくいろんな舞踊作品に取り入れられることで、ジャワ舞踊の基本としてすっかり一般化した。

犬、少年、公園

植松眞人

犬が歩いている。その後を少年が歩いている。付いて行くでもなく、従えているでもなく、なんとなく一緒に歩いている。たがいに僅かに距離をとりながら日比谷公園に向かう街路を歩いている。イチョウ並木はすっかり葉を落とし、それを犬がカサカサと音を立てて踏む。少年は、おそらく中学生くらいだろう。犬が歩く周辺をザサーザサーと枯れ葉を蹴り上げながら行く。どちらも散歩を楽しんでいる、というよりも、決められたことを決められたとおりにやっている、というように規則正しくカサカサと音を立て、ザサーザサーと蹴り上げる。

少年の母親は近くの駐車場にドイツ車のSUVに乗ったまま、少年が帰ってくるのを待っている。「一緒に行こうよ」と少年は毎回誘うのだが、「飼いたいと言ったのはあなたでしょ」と母親は車を降りようともしない。犬はビーグルと呼ばれる犬種で、とぼけた顔をしながらなかなかに精悍な体つきで、人間でいうなら成人したばかりの男子のような生命力を見せつけている。

都心の小学校なら三つくらいは入りそうな広大な敷地をその公園は持っている。しかし、子どもだけを楽しませるような遊具は敷地の片隅に追いやられていて、そのことが公園を真摯で健全なものにしていた。誰かから叱られそうな凜とした雰囲気が公園のそこかしこから感じられ、犬の散歩にきた人たちも決して糞を放置したりはしない。

だが、少年はそんな公園の雰囲気に違和感を持っていた。なんと説明していいのか少年にはわからなかった。ときどき目を見開くように振り返り、少年を見つめるビーグルも少年と同じように感じているらしかったが、彼が何に違和感を持っているのかは少年にはわからなかった。

「ちゃんと説明しなさい」が母親の口癖だったが、それはつまり「説明できないなら黙っていろ」ということだと少年は思い、知らず知らず無口になってしまった。「あんなによく笑う子だったのに」と母親に悲しそうな顔をされるとどうしていいのかわからなかった。

イチョウの葉っぱをザサーザサーと蹴り上げながら歩いていると自分が子どもじみて思え、カサカサ音を立てながら歩くビーグルが大人に見えた。そう思った瞬間、ビーグルはカサカサという足を止め、少年を振り返った。目を見開くように少年を見ると、NHKの日本語教室のように「あの公園が嫌いだ」と明瞭に声に出した。そして、再び前を見るとカサカサと音を立てて歩き始めた。少年はビーグルの波打つ背中を見ながら、「あの公園が嫌いだ」と復唱した。

製本かい摘みましては(169)

四釜裕子

本屋で立ち読みしていて、これは買わねばとなったときにそれではなくて別のを出してもらうしかない本がある。小林坩堝さんの『小松川叙景』(2021 共和国 ブックデザイン:宗利淳一)も私にとってはそれだ。三方小口が見返しと同じ朱で染めてあって、初めてページをめくるときにかすかにメリッと音がするくらい、わずかにくっついている。アンカット本をペーパーナイフで開くのにちょっと似た快感がある。本文には三方から小口の朱がわずかにニジニジしみている。

実際は刊行を待ってネットで買ったので冒頭のできごとは起きていない。でももし本屋で見かけて立ち読みしてたら、きっとそうしていただろう。そもそもこの詩集、書店側では立ち読みできるようにしているだろうか。シュリンク包装でもされてたらあの快感も味わえない、というか、そもそも一冊について一回きりだからなかなか罪な装丁だよね。子どものころ、日焼けした肌をむくのに夢中になったはこの快感にちょっと似ている。それから古い本を解体して修理するとき、背に残ったのりを執拗にとる感じにも似ている。見返しを貼るのにのりがはみ出たのに気づかずプレスしてしまって、本文紙にくっついたのをそーっとはがしてうまくいったときの感じとかも。

かつて製本を習った栃折久美子ルリユール工房では、のりのはみ出しを防ぐための3点セットの使用を習慣づけられたものだ。「3点」とは、ケント紙、ワックスペーパー、のりひき紙。例えば見返しと本文用紙を貼り合わせるとき、のりを入れる紙の下に、下から順にケント紙、ワックスペーパー、のりひき紙を重ねてノドまでさし込み、のりを入れたらのりひき紙をただちに抜いてプレスする。抜いたのりひき紙は2つに折って、机の上に放置しない。汚れ拡散防止の大原則だ。こういうことを早々に体で覚えさせてもらってよかったと、あとになってつくづく思う。

2021年8月6日、広島での平和記念式典で菅前首相が挨拶文を読み飛ばしてしまった。ありえないよなと思うけどそういうことがないとは言い切れないし、さすがにご本人が記者会見の冒頭でおわびをしていたのでよほど体調が悪かったのかもと思っていたら、驚いたのはその日のうちに報道された「政府関係者」の発言だった。蛇腹状の挨拶文の一部の「のりが付着してめくれない状態だった」「完全に事務方のミス」だという。確かに誰かがのりで貼って、もしかしたらちょっとはみ出たりしたかもしれない。だけど気づいたら直すだろうし、なんといってもその実物でリハーサルもしたでしょう。それをどうしてそんなことをわざわざ言って、それで何をやりすごそうとしているのか、それで何を守ったつもりというのだろうか。でも今のこの国の「政府関係者」ならいかにもやりそう。「どうせすぐ忘れるから言わせておけよ」、そういう声すら聞こえてくる。

実際はどうだったのだろう。広島在住のジャーナリスト、宮崎園子さんが追っていた。12月8日、「Radio Dialogue 」で聞いた。あれが政府の公式見解だとしたら実名を出さないのはおかしいと、聞いたことをそのまま報道するメディアに対する疑問をまず言っていた。第一報を聞いたとき、宮崎さんも〈まさかそんな粗相、あるのかしら〉(「InFact」2021.10.1 【総理の挨拶文】のり付着の痕跡は無かった 文・写真/宮崎園子 以下同)〉と感じたという。そして挨拶文の実物が公文書として広島市に保管されていることを知り、それを見れば、めくれない状態になるほどのりがはみ出していたかどうかは確認できると思ったそうだ。さっそく広島市に開示請求をして、9月の下旬には手にとって見ている。どのような状態だったのか、「InFact」にこう書いてある。

〈挨拶文は、A4サイズの和紙のような薄紙を、横に7枚並べたものだった。会議室の横長の会議机からはみ出る長さ。2メートルほどあった。紙と紙の継ぎ目部分は、幅約2センチの同材質の紙を裏側からのりのようなものでくっつけた形状だった〉

記事には写真もある。A4紙1枚が4つに蛇腹折りされ、縦書きで1行20文字、ひと折りに3行、ゆったり組んである。のりがはみ出た痕跡があるか、宮崎さんは〈入念に挨拶文を観察〉する。

〈紙と紙の間を接続する細い紙は、表面ではなくて裏面に貼り付けてある。万が一のりがはみ出したとしても、裏面同士がくっついてしまう構造であるため、蛇腹をめくれない状態になどならない。接続部分をよく見てみると、たるみやシワ、うねり、ズレが何一つなく、ピシッとのり付けがされている。貼り付け部分からのりがはみ出した形跡もまったくない。ましてや、くっついてしまった部分を無理にはがした跡もなかった〉

裏側から撮った写真もある。既製品のテープのようにも見えるが、そうではないようだ。

〈あまりに美しかったので、テープ状ののりか何かを使っているのかと思ったぐらいだ。ひとつひとつ、ハサミを入れた跡があったため手仕事とわかる。蛇腹の幅もピチッと揃っていて、これを準備した現場の役人の仕事ぶりにはただただ感銘を受けた。にもかかわらず、「完全に事務方のミス」(共同通信)と罪をなすりつけられたのならば、現場の役人が気の毒でならない〉

この実物を広島市が保管していることは、元愛媛大法文学部教授の本田博利さんに教えてもらったそうだ。本田さんも〈「そんな訳がない」と確信し〉、先に同じ手順で確かめていた。本田さんは広島市役所に30年近く務めた元職員でもあり、挨拶を終えた首相は挨拶文を壇上に置いて去ることも知っていた。〈「挨拶が済んだら、挨拶文は広島市の取得(入手)文書になる。読み飛ばしが発覚した時点で、『政府関係者』はその状態を見られるはずがない。どうして『のりが付着していた』などという説明ができるのか」〉。

蛇腹であること、のりで貼ること。「政府関係者」の頭にはとりあえずこれがあって、そしていつか昔、何かをのりで貼ってはみ出したときの記憶が重なったのかもしれない。自分自身ではなく、それは友達だったのかもしれない。かわいかったね、そのころの君。長じてあっさりうそがつけるようになった。誰かのせいにできるようになった。やりすごせば済むと思えるようになった。おめでとう、成長。

Radio Dialogue で宮崎さんは、広島市の担当者の戸惑いも話していた。平和記念式典のようすはテレビでもラジオでもネットでも生中継されたし、読み飛ばし部分を補った全文は首相官邸ホームページなどで公開されている。通常、情報公開請求というのはその中身を知りたいからであって、「実物を見たい」という理由での請求は本件が初めてだと苦笑いされたそうだ。そして、この式典における広島市長の「平和宣言」はその原本を広島平和記念資料館に保存しているが、首相の「挨拶文」の原本の扱いについては市に規定がないそうである。「挨拶文」自体の形態や所作についてはどうなんだろう。紙に書いて(プリントして)蛇腹にたたむこと、胸のポケットから出して読んで終わったら壇上に置き去ることが慣習として残っているだけならば、早晩どちらもやめたらいい。ちなみに宮崎さんは一連の取材の中で、〈「内閣広報室として、挨拶文作成などのロジには関わっていないので質問の回答はできない」〉という回答を得ている。

小林坩堝さん『小松川叙景』を改めて開く。この詩集の舞台は東京のある土地だ。人工度は極めて高く、地中深い。小口の朱色の本文への侵食はその人工的な地中から人工的な地表にしみるものたちを思わせる。〈密室〉たる本文にこうして〈風〉を送りつけながら読む私の指のはらにはページが刀みたいになってひと筋ずつ朱を残す。8月、緊張と暑さで決して乾燥はしていなかったであろう人の指のはらをなでた蛇腹の折り山たちを思い、詩集にある「おれを歴史にしてくれるなよ」(「HOMEBODY」)「戦後でも戦前でもなくひたすらの事後である肉体/を瞬間の自由に放り出す」(「三月」)がなぜだか響き、「おれを歴史にしてくれるなよ」、そう言って折り山を確実に開いて飛びゆく蛇腹を見送る年の瀬である。

片岡義男と編集者の物語

若松恵子

新刊を待ち望んで、ただひたすら飽きずに読んできた唯一の作家が片岡義男だ。
『アップルサイダーと彼女』で出会った頃は、ちょうど赤い背表紙の角川文庫が次々発売されていて、雑誌のように気軽に片岡の新刊をどんどん読めたのは、その同時代を体験できたことはラッキーだったと思う。

「片岡作品でお勧めはどれですか?」と時々聞かれるけれど、今となっては膨大になってしまった作品群からどれかを選べと言われると難しい。次々にパッケージをあけて、新鮮なうちに読んでしまうという(食べてしまう)のが、いちばんふさわしい読み方で、どれも片岡作品なのです、気に入るものが見つかると良いね、という感じだ。

書店から赤い背表紙の文庫本は姿を消したけれど、今は片岡作品を電子化しているサイトがあるから、気になったものを手に取って次々読んでみるのが一番良いのではないかと思う。

これだけ長い間書き続けていて、作品数も膨大になる片岡義男だが、作家論のようなものは書かれていないようだ。彼を研究したり、批評したりする人はまだ登場していないのだろうか?彼の作品は、最初から今に至るまで片岡義男そのものだから、何か、深化の道筋を研究するような対象ではないのかもしれない。けれど、これだけ長い間読み続けていると、何か変わったな、と感じた時が何回かあって、作品を読み直して、潮の変わり目となった作品をもういちど見つけ出してみたいと思っていた。

○○紀のように、片岡作品に流れるいくつかの時代を名付けてみたいなと漠然と考えていた。そんな空想をしていたある日、片岡作品の変化は、片岡に作品を依頼した編集者によってもたらされたのではないかと思いあたった。「作品が書かれるきっかけは、編集者からの依頼です」と、かつて彼は語っていたではないか。

「あとがき」やエッセイに登場した編集者を思い浮かべてみる。
まずは、片岡に「あなたは作品を書く側の人になりなさい」と言った『マンハント』の編集長だった中田雅久。『ワンダーランド』を一緒に作った晶文社の津野海太郎、『野生時代』の創刊号に小説を依頼した角川春樹、毎月のように同紙に小説を掲載することになった時代の担当編集者(たぶん加藤芳則)、『小説新潮』に小説を掲載し、80年代末から90年代初めに新潮社からの出版が続く時代に担当していた編集者(たぶん森田裕美子)、雑誌『スイッチ』の新井敏記、『日本語の外へ』執筆のきっかけをつくった吉田保、これまでの片岡作品とは、がらっと違う表紙をつくった『白い指先の小説』からの八巻美恵、文芸誌『群像』に片岡作品を登場させた(たぶん須田美音)、『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ』以降の作品で再び片岡義男ブームを起こした篠原恒木。それぞれの編集者から見た片岡義男を聞いてみたいなと思う。彼ら、彼女らが片岡のどこに魅かれ、どういうことを考えて作品を依頼することになったのか。実際に出来上がった作品を見てどう思ったのか。

編集者の数だけ片岡義男像があるのだろうと思う。それを束ねることで、片岡義男論になるかもしれない。もう亡くなってしまった人については、片岡さんから話を聞くしかないのだろうけれど、また、写真集をつくるきっかけとなった編集者の存在はわからいのだけれど、こんなことを考えて遊んでいる。

水牛的読書日記2021年12月

アサノタカオ

12月某日 『現代詩手帖』12月号に「アンケート 今年度の収穫」を寄稿。世界の土地土地から消してはならないことばを「いま」につなぎとめる詩人たちの静かな、しかし揺るぎない意志に敬意を表して以下の本と作品を紹介した。

ウチダゴウ『鬼は逃げる』(三輪舎)
川瀬慈『叡智の鳥』(Tombac)
ミシマショウジ『パンの心臓』(トランジスタ・プレス)
ぱくきょんみ『ひとりで行け』(栗売社)
清水あすか『雨だぶり。』(イニュニック)
和合亮一・吉増剛造「石巻から/浪江から」(『現代詩手帖』連載)
文月悠光の詩「パラレルワールドのようなもの」(『現代詩手帖』9月号)

『現代詩手帖』12月号の「2021年代表詩選」には、ミシマショウジさんの詩集『パンの心臓』より「ヴォイスビートの少年」が掲載されている。

『現代詩手帖』と言えば先月も紹介したが、同誌11月号の「特集=ミャンマー詩は抵抗する」はクーデターによって権力を奪った軍に抵抗する市民たちの声に応答するミャンマーの詩人と日本の詩人たちが、鼎談とエッセイで詩という表現の本質をあらためて問い直す充実の内容でなんども読み返している。月刊誌だから月が変わると多くの書店からフェードアウトしてしまうのがあまりにも惜しい。特集を再編集したブックレット的な本になるといいのに。

12月某日 『神歌とさえずり』(七月堂)の著者で詩人の宮内喜美子さんより、琉球弧の詩人・高良勉さんの主宰する詩と批評の同人誌『KANA』をご恵送いただいた。特集は「沖縄の日本復帰50周年と私」。勉さんのほかに、詩人のおおしろ建さん、今福龍太先生らの寄稿。安冨祖ゆうさ氏の掌編小説も。2021後半の最高の文学のおくりものだ。大切にしたい。

《72年沖縄返還という、沖縄社会の大きな世替りと、日本国家・国境の変更、拡大からの歴史的変化を、同人一人一人がどのように受け止め、考え、生活してきたか。その過程における個人史を大切にしたかった。》
——高良勉「半世紀を」

『KANA』のページをめくっていたら電話があり、それはなつかしい奄美からの呼び声だった。沖縄、奄美、琉球弧へ。サウダージ・ブックスで「群島詩人の十字路」という沖縄の詩をひとつのテーマにした詩集を作ったのが、いまから10年ぐらい前のこと。高良勉、川満信一、中屋幸吉……。琉球弧へ群島詩人の声を訪ねる旅をまたしたい。

12月某日 日本写真家協会・第4回笹本恒子写真賞を渋谷敦志さんが受賞。サウダージ・ブックスから刊行した写真集『今日という日を摘み取れ』の編集を担当したご縁で、東京で開催された授賞式に出席した。フォトジャーナリズムの仕事を続けることの難しさ、そして新型コロナウイルス禍。渋谷さんは受賞のスピーチで「それでも撮れない時間が、自分の写真を深めてくれるとつねに信じている」と語っていた。

同協会会長で写真家の野町和嘉さんからの賞状授与の後、選考委員を代表して雑誌『風の旅人』編集長の佐伯剛さんからの講評があった。渋谷さんの写真には「まなざしのやさしさ」があり、その作品には一人ひとりと関係性をむすび、信頼を醸成する長い時間が込められている、と。すばらしい内容のお話で、編集の仕事をするぼくにとっても感無量だった。

2000年代、ぼくが20代後半のころ、『風の旅人』に掲載された野町さん、セバスチャン・サルガドら世界的な写真家の作品、そして思想家や作家の文章によって、上澄みだけをすくうような皮相な情報からは知りえない世界や時代の深層を見つめるまなざしを鍛えられたのだった。

「生命系と人類」をテーマとする15号は、なかでも忘れられない1冊。毎号隅から隅まで貪るように読み込み、企画・構成・印刷の緊張感あるクオリティに圧倒された。そして編集長の佐伯さんの後記には、つねに妥協や追従や忖度のない読者への厳しい問いかけがあった。写真とことばに向き合う佐伯さんの厳しさには遠く及ばないが、せめてその後ろ姿を見失わないよう本作りの道を歩いていきたい。

12月某日 大阪の南田辺で臨床哲学者の西川勝さんと編集中の「認知症移動支援ボランティア養成講座」に関する本のことなどに関する打ち合わせ。その後、西川さんに誘われて、近鉄を乗り継いで奈良まで行き、奈良女子大学名誉教授で心理学者の麻生武さんが主宰する読書会に参加。麻生さんはご自身の子どもの成長を長期間にわたってつぶさに観察した記録をもとにしたおおきな研究をまとめていて、その成果を近年『〈私〉の誕生』(東京大学出版会)や『兄と弟の3歳仲間の世界へ』(ミネルヴァ書房)として発表している。

読書会のテキストはジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの哲学書『アンチ・オイディプス』(宇野邦一訳、河出書房新社)。難しい……。2022年は1年をかけて道元の『正法眼蔵』を読むそうだ。夜の奈良駅前は雪でも降りそうなくらい寒く、つめたい風がびゅうびゅう吹いていた。

12月某日 大阪・北加賀屋の名村造船所跡地で開催されたイベント、KITAKAGAYA FLEA 2021 AUTUMN & ASIA BOOK MARKE(LLCインセクツ主催)にサウダージ・ブックスとして出店。ぼくらのブースではサウダージ・ブックスと先輩の出版社トランジスタ・プレスの出版物を販売。詩、エッセイ、写真の本。また2022年春、サウダージ・ブックスより刊行予定の見本や校正刷、チラシも持っていった。

2日間、リバーサイドのきもちのよい空間でたくさんの人、たくさんの本、たくさんのことばに出会うことができた。祝祭的な市(いち)のにぎわい。コロナのパンデミック発生以降ひさしぶりの「対面」と「接触」、やっぱり人間どうしのリアルなコミュニケーションはいいものだなと実感。

拙随筆集『読むことの風』(サウダージ・ブックス)のほかに、トランジスタ・プレス発行のミシマショウジさんの詩集『パンの心臓』とヤリタミサコ氏のエッセイ集『ギンズバーグが教えてくれたこと』、サウダージ・ブックスの2冊の写真集、『今日という日を摘み取れ』と『霧の子供たち』が売れた。ちなみに『パンの心臓』は初日でスピード完売。

イベントには、ミシマショウジさんとも親交のある自家製天然酵母パン・Pirate Utopia も出店していた。昼過ぎに訪ねると、パンはすでにほぼ売り切れ。残っていた野菜と花の美しくおいしいパンをいただいた。

12月某日 KITAKAGAYA FLEAの2日目。本の販売が落ち着いたところで、ほかのブースを駆け足で見てまわる。『71歳パク・マンネの人生大逆転』(パク・マンネ+キム・ユラ著)を訳した韓国語の翻訳者で編集者の古谷未来さんが出店していた。彼女の紹介する韓国のSSE Projectのアート系Zineがかっこよくて一目惚。ソウルの詩集専門書店wit n cynicalから送られてきた詩の本や6699pressの写真集も購入する。

別のブースでインドネシアの作家ソチャさんの本、台湾旅行記、淡路島をテーマにした本なども。2日間、ほぼひとりで店番をしたのでどっとつかれたが、読みたい本がぎっしり詰まった帰り道の鞄の重みがうれしい。

新大阪駅発、最終の新幹線の車内でキム・ヤンヒ監督「詩人の恋」の上映パンフレットをひもとく。ヤン・ヨンヒ監督「かぞくのくに」で見て以来、すっかりファンになった韓国の渋い俳優、ヤン・イクチェンが主演する映画だ。上映中に映画館に行けなかったので、パンフレットをずっとほしいと思っていたのだが、イベントに出店していたLONELINESS BOOKSのブースで購入することができた。

「詩人の恋」は、韓国・済州島を舞台にした映画。その後Netflixで鑑賞したのだが、なかなかよかった。上映パンフレットに収録された文月悠光さんのエッセイ「悲しみの在り方を問う」の中で、済州の詩人ホ・ヨンソンの詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳)が紹介されているのを見つける。このパンフレットには文月さんの詩「遠い世界へ」も掲載。

12月某日 KITAKAGAYA FLEAで購入した本やZineで我が家でもっとも評判がよかったのは、寺田くれはさんの『100均商品だけで食品サンプルを作ってみた』(クレハフーズ)だった。大学に通いながら食品サンプル職人養成スクールに通った著者による本。

きつねうどん、サンドイッチ、エビフライ、たこ焼き。これらの食品サンプル作りのプロセスを綴る文章がおもしろく、興味深いルポルタージュとして読んだ。100均の「皮むき手袋」って、たしかにエビフライそのものだ。会場でお会いした寺田さんとはK-POPのことを少し話したのだが、いつかトッポギとか韓国の屋台料理の食品サンプルを作ってほしいと思う。

12月某日 東京・新宿のアイデムフォトギャラリー「シリウス」で、日本写真家協会・第4回笹本恒子写真賞の受賞記念、渋谷敦志写真展「今日という日を摘み取れ」が開催され、最終日に見に行った。在廊していた渋谷さんから2022年の作品や展示のプロジェクトについて聞く。会場では写真集『今日という日を摘み取れ』に収録した作品に加えて、コロナ禍をテーマにしたカラーの新作も展示。年の瀬、熱心に鑑賞するお客さんが途切れることなく訪れていた。

雑誌『世界』12月号に、渋谷さんが寄稿している。タイトルは「「いつ割れるかわからないガラスの上を歩いている」——コロナ病棟の看護師たち」。渋谷さんはパンデミック発生以後、医療者たちのコロナとの闘いをいちはやく最前線で取材したひとりだ。現場から問いかける写真家のことばが胸に重く響く。

《私たちの生活は、もっといえば人生は、彼女(看護師)のようなケースワーカーに支えられている。一方で思う。そんな彼女たちに私たちの社会がちゃんと報いたことがあっただろうか》

12月某日 大阪から神奈川にもどり、横浜・妙蓮寺へ。KITAKAGAYA FLEAで隣のブースで出店していた本屋・生活綴方を訪ね、安達茉莉子さんの絵と文章の展示を鑑賞。タイトルは「穴のあいたひとたち」。いま、自分のこころのどこに穴があいているのだろうか、と内省するしずかなひととき。安達さんのエッセイ『私の生活改善運動』vol.1〜4(本屋・生活綴方)を購入。個に根ざした運動のことばは信頼できる。電車の車内でちいさな本を読みはじめ、心が熱くなった。

12月某日 東から西へ、西から東への旅の道中で、韓国の日本文学翻訳家、チョン・スユンのエッセイ集『言の葉の森』(吉川凪訳、亜紀書房)を読み終えた。万葉集などで詠われた恋の歌、その韓国語訳を灯にして、著者自身の胸の奥にしまわれた思い出にひとつひとつ光をあてるようなすばらしいエッセイだった。

《事物はそれぞれ違うように見えるけれど、私たちは巨大な一つだ。私たちはすべて完全に融合していて、引き離すことができない。自然も人間も国家も人種も政治も、互いに別のかけらのように見えているけれど、私たちは一続きのジグソーパズルの中に生きている。みんなそれを知っているのに、気づかないふりをしているみたいだ。》

本の最後のほうに記された、翻訳者ならではの著者のヴィジョンに深くうなずき、鉛筆でしっかりとアンダラインを引いた。

翻訳という仕事の本質は、単にひとつの言語を別の言語に移し替えることだけではない、とも思う。例えば著者は、あるエッセイの中で「木漏れ日」という古き日本語から連想して、ソウルの夏の夜に「木漏れ月」とつぶやく。存在しない、でもすてきなことばだ。読書の最中、ことばのはざまを生きる経験から開かれるこんな思いがけない創造の風景に遭遇するたび、豊かな気持ちになった。異語でもない原語でもない、人間の声が遠く離れながら呼び交わす未知の「言の葉の森」が目の前に広がる。また読み返したい本。

それからチョン・スユンさんのおかげで、自分は山部赤人の歌がけっこう好きなんだなと気づかされた。「春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける」。赤人って元祖バックパッカーじゃないか、いいね。

12月某日 あいかわらず韓国文学を読んでいる。チョン・セランのSF小説集『声をあげます』(斎藤真理子訳、亜紀書房)を一気に読んでしまった。とりわけ巨大ミミズ譚「リセット」に感銘を受けた。人新世的な視点からの文明批評や環境批評のヴィジョンを物語によって創造するという著者の明確な意志がはっきり伝わってきて、しかもめちゃくちゃおもしろい。

所収の短編「リセット」「声をあげます」「メダリストのゾンビ時代」。いずれもコロナ禍を彷彿させる地球規模の人間社会の苦境が描かれるものの、読後にはそこに参加したいと思わせる希望の場が心の中で開かれる感じ。この勢いを借りて、チョン・セランの長編小説『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)も読みはじめる。

12月某日 目が割れる、ということばが思い浮かんだ。ぱっかーん、と「見る」という経験が真っ二つに割れて、目の前にまあたらしい道が開かれるような。特別な機会をいただき、在ブラジルの記録映像作家・岡村淳監督の短編『富山妙子 炭坑に祈る』(2020)の映像データを深夜に自宅で視聴し、あまりのすばらしさにモニターの前で打ち震えた。

『富山妙子 炭坑に祈る』は、岡村監督自身がつねに意識しているであろう写真家セバスチャン・サルガドの大著『WORKERS』の対蹠地をなす映像作品と直感した。サルガドの写真群が人間の労働の風景から荘厳なる祈りのマクロコスモスを押し開くとしたら、本作はミクロコスモスへと収斂していくベクトルを持つ。荘厳なるものの対極にある簡素なイメージに、しかしサルガド作品に感じるのと同じ深い祈りが込められているのだ。

炭坑労働をテーマとする画家・富山妙子の素描の細部、スケッチ帳に記された文字を含む線の動きや震えにまで官能的に肉迫する岡村さんの「まなざし」を借りて、特定の時代と場所に生きたはずの坑夫たちの残像が、自分の中で何か普遍的な聖なるもののイメージへ次々に変容していくのを感じて興奮した。

杭のようなものを担ぐある坑夫の素描が「十字架の道行き」に見えたのだ。興味本位の連想ではない。岡村さんは長年ブラジルで社会的弱者のために奉仕するキリスト者を記録しており、岡村さん本人から教えてもらったのだが、当地のカトリック教会堂内に飾られた「十字架の道行き」図も作品の霊感源になっているという。

類例のない作品。これまで岡村さんの数々の作品を「ドキュメンタリー」の範疇で理解してきたが、本作はそれを越える「記録映像詩」という新ジャンルの試みだと言える。最後のクレジットで「構成・撮影・編集 岡村淳」のキャプションが添えられた富山妙子の人物スケッチにも驚愕。音楽は高橋悠治さん演奏のピアノ曲、サティ「ジムノペディ」。すごい作品だ。

12月某日 『声をください』に引き続き、刊行されたばかりのチョン・セランの『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)を読んでいる。韓国、ハワイ、ドイツ、フランス、そして韓国。戦争と移動の時代である20世紀を生き抜いて4人の子を育てたひとりの女性、美術家で作家のシム・シソンからはじまる女の人たちを中心にした家族三代記。

これも、おもしろい。読書はまだ途中だけど、すばらしい小説でぐいぐい引き込まれている。さまざまな旅の物語を内に抱える女の人たちが一堂に会する小説のおもな舞台が、「ハワイ」というところもしっくりくる。海山のあいだで歴史、文化、人間が混じり合うやわらかなクレオール主義世界。抑圧的で排他的な純血主義社会と対極にあるような。

作中の「シム・シソン」はきっといろいろなモデルを参考にして人物造形がされているのだろう。ちょうど韓国と関わりの深い富山妙子の著作をいろいろ読んでいるところで、彼女が対話した画家・朴仁景のことを思い浮かべた。植民地時代と朝鮮戦争の経験、ヨーロッパへの移住、「シム・シソン」と同じような時代を生きている。

《解放前の朝鮮で、女が画家になるというのはよほど特別のばあいです。……今から六十年以上前に、羅蕙錫は女性解放の思想をもっていたのですから、ほんとうに先駆的な女性だったのです》。朴仁景の発言、富山妙子らとの共著『ソウル-パリ-東京』(記録社)より。これを、シム・シソンの声に重ねてみる。小説の続きを読もう。

12月某日 2009年にサウダージ・ブックスの出版活動をはじめたとき、「先達」と仰ぐ出版社がふたつあった。社会批評的なラディカリズムを内に秘め、文学やアート、知への愛をベースにした個人運動として本作りをおこなう版元。ひとつが佐藤由美子さんの営むトランジスタ・プレス。ビート文学関連書を出している。

もうひとつが小川恭平さんがはじめたキョートット出版。先日、大阪のKITA KAGAYA FLEAで小川さんに会うことができて感激した。キョートット出版のトム・ギル『毎日あほうだんす』は聞き書きの名著、2020年に完全版が刊行された。もんでん奈津代さんの『ツバル語会話入門』もある。

12月某日 高校生の娘が「ほら」とスマホを差し出してきて、同級生が公開のSNSアカウントにアップした今年読んだ本の写真を見せてくれた。その同級生はチョン・セラン『屋上で会いましょう』(すんみ訳、亜紀書房)を読んでいる、と以前娘から聞いていて、もちろんその本も写っていた。

ずらりと並ぶそのほかのタイトルも知れば、ぼくの周囲にいる出版関係者はきっと感涙にむせぶと思うが、詳細を明かすのは控えておきたい。本の森を旅する若い人たちを、そっと見守りたいと思うから。どうか、かれらの先に希望ある道が開かれますように。

小説家、詩人、エッセイスト、翻訳家。世界各地のお姉さんから日本の女子高生たちへ。本作りに取り組む人びとの日々の努力によって、ことばは国境すらこえて次世代にしっかり届いている。それは部数だの何だの数の論理では測ることができない書物の真価だ。

12月某日 ぼくも今年(この文章が発表される時点では去年だが)読んだ本をあげてみよう。2021年に、インデペンデント系のスモールプレスや個人が出版した本から、10タイトル。

安達茉莉子『BECAUSE LOVE IS LOVE IS LOVE!』(mariobooks)
小鳥美茂『Sunny Side』(BEACH BOOK STORE)
丸川愛ほか『聞かせてください、あなたの仕事』(horo books)
植本一子『個人的な三ヶ月』
しいねはるか『未知を放つ』(地下BOOKS)
Sakumag Collective『We Act! #2』
壇上遼、篠原幸宏『声はどこから(文庫版)』
橋本亮二『たどり着いた夏』(十七時退勤社)
大阿久佳乃『パンの耳』5〜10号
安達茉莉子『私の生活改善運動』vol.1〜4(本屋・生活綴方)

優しい地獄(下)

イリナ・グリゴレ

大雪注意報中、クリスマスイブにプレゼントを急いで買った帰り道に、車のラジオから昼という時間帯には珍しくレッド・ツェッペリンのStairway to Heavenが聞こえた。車の窓に大きなスノーフレークがぶつかった瞬間がスローモーションで見えた。溶ける直前の雪の結晶の形ははっきりしていて、窓にぶつかった時に音が聞こえた気がした。信号待ちの車の中で青森県でしか見たことがない大きなスノーフレークが窓にぶつかる瞬間をずっと見届ける自分が虚しくなった。「命」も「自由」もなんて、こんなもんだ。「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす」。平家物語とレッド・ツェッペリン、仏教徒とキリスト教、人類の歴史と未来、全てはこの溶ける雪結晶の美しさにあると思った。

今年のイブとクリスマスは大館の正教会で過ごす予定だったが、体調がすぐれず叶わなかった。100年以上前の小さな木造の教会に、日本で初めて女性としてイコンを描いた山下イリナのイコンがある。私と同じ名前、イリナ。彼女が描く光の優しさに出会ってから私の心はますます素直になった。タルコフスキーの映画、『アンドレイ・ルブリョフ』を思いだした。人間とはイコンのようなイメージを追いかけないと。大館の北鹿ハリストス正教会の中に入ると、いつも祖父母の家に戻る気がする。中から見える円屋根の青の色合いと山下イリナのイコン、日本まできて全てが繋がった。

クリスマスの時期の思い出があまりにも重くて身体が真っ直ぐ立てない。ライダ・レルチュンディ監督の映画「Autofiction」の中で、ずっと横になって、動く時に這う女性たちの身体を思い出した。これでもどこから来るのかわからない優しさを感じた。突然ルーマニアから電話した弟の声が、昔と同じように私を癒す効果があった。そういえば、昔から弟の優しさに救われる自分がいた。

当時、高校生になった私が「家を出る計画」を考え始めた。それは、団地のアパートから、父の暴力から、家族のドラマから逃げたかったのだ。「私がいなくなったら」みんな反省すると思った。みんな、もっと幸せになると思った。私を探す両親を想像しただけで嬉しくて、そしてきっとこれをきっかけに仲良くなれると思った。なので、何日も何回も逃げる作戦を想像した。この団地も、いつも追いかける野良犬も、高校のクラスメイトも私を探し始めるが、私はこの街から消えた不在な存在になるというイメージがしばらく頭から離れなかった。問題は優しくしてくれた弟と祖父母に会えなくなることだった。これに悩んだ。

しかし、弟はある日私の想いが伝わったように、彼のクラスメイトが逃げた話をし始める。彼女も父親の暴力が嫌だったので家を出るが、結局のところ西ヨーロッパのどこかで売春ネットワークに捕まって身売りされ、そこからやっと逃げて恥を忍んで家に戻ったという。この話を聞いて家出は諦めた。それは、1990年年代のルーマニアを生きていた私が、状況の全てを把握しきれない状態だとわかった瞬間だった。当時の人身売買組織、臓器売買の社会問題と自分の身体の危機に気づいた。このタイミングで家から逃げたら違う地獄が待っているのだ。弟の目の青い色合いが、イコンで描かれている青に似ていると今気づいた。彼は子供の時から特別な力を持っていた。彼が女の子、私が男の子で生まれてくればよかったのに。

こうして、私の家出計画は終わりを迎え、高校2年生の夏休みに、ルーマニア北部にある古い修道院を訪ねる旅行に参加した。バスに長い時間乗って、団地の暗い雰囲気から解放された旅になった。ルーマニアの自然に溶け始めたころ突然バスが止まった。二人のヒッチハイカーが乗ってきた。それは若いフランス人男女だった。話を聞くとカップルではなく友達同士で、当時のフランスで人気の旅行先だったルーマニアにやってきた。彼らは私にとって初めて会う外国人だった。男性が私を見つめ始めた。やつれた私の顔はどこが魅力的だったのかわからないが、目が会うたびに何か不思議な優しさを感じた。でも、彼はもう少しでバスから降りてまた旅をする。二度と会わない一瞬の悲しさを感じた。彼の名前は覚えてないが、リヨンという街の出身なのは覚えている。しばらく目で話した気がする。「あなたを助けてあげるよ」というふうに聞こえた。バスがまた止まった。彼は急いで紙にリヨンの住所と電話番号を書いて私に渡した。一緒に旅行していた先生と学生が笑いはじめた。ナンパされたと私をいじるけど、彼が降りた後、小さな包みを開いて鉛筆で薄く書いてあった知らないリヨンという街の住所が恋しくなった。彼に手紙を書くことはしなかったが、世界が広いと初めて分かった瞬間だった。

私にとって、ルーマニア北部の修道院を訪ねる旅がしばらく続いた。印象的だったのはボロネツ修道院だった。この教会の壁は特別な青で描かれていて、世界中から芸術家がこの色を生で見るため集まってくる。私もしばらく言葉を失った。西の外壁のフレスコ画の「最後の審判」のイメージをみた瞬間に自分の中で何か変わった。南にある地獄、北にある天国、天使と悪魔の戦い、人々の魂はどこへ行くのか。でも描かれているシーンの激しさよりも、人と神、聖人と天使、悪魔と大きな魚に乗っているモーゼ、悪魔と人の魂の間に広がる青の色合いが目に染みる。人が文字を読めない時代にイメージでイコンと教会のフレスコ画によって、聖書の言葉の全ては伝わっていた。空よりも、周りの木の緑よりも、神秘的な色を生み出す心が人間に救いを与えると感じた。「ボロネツの青」はどうやって作られたのか未だに知られていないが、直に見るこの色合いが、遠い未来に人間がいなくなった時でも、人間がどんな生き物だったのかわかる気がした。魂の色合いがこの青だ。

ボロネツを離れたバスは、モルドバ地方からマラムレシュ地方に向かった。サプンツァ村にある墓地を訪ねた。それは陽気な墓(Cimitirul Vesel)という名所だ。この墓の十字架に、故人の絵と彼らの人生をコミカルに表現した詩が書いてある。例えば、「私の義母がこの重い十字架の下に休む。もう三日生きていれば、この下に眠るのは彼女ではなく私で、この詩は彼女が詠んだだろう。あなたたち通行人は彼女を起こさないように。また何かやかましく言われても、私にはどうしようもない。この詩を読んでいるあなたが私みたいになりませんように。良い義母を見つけて一緒に平和に暮らせますように。享年82。」

あの時、このような詩を沢山読んで、泣き笑いという複雑な現象が自分の身体に起きた。その時まで感じた生き辛さが消えて、どんな状況でも生き続けることを決心した。そしてたくさん笑うと決めた、最後の最後まで笑うと決めた。死が笑いに変わる瞬間が必ずあると分かった。ブランショがいう「jouissance」が私の中に目覚めた瞬間だ。この間、青森での調査の中で辛い半生を生きた私に、キーインフォマントの女性が言った同じような言葉が浮かんだ。彼女にはどんな恐ろしいことが起きてもいつも踊ったり、笑ったりする力が浮いているという。「私たちは似ている、同じ自由人だ」と彼女に言われた瞬間、救われた。

そう、笑うこと、「腹を抱えながら笑う」という瞬間が必ず訪ねてくる。それは東京に住んでいた時、私が世界で一番尊敬しているダンサー、田中泯さんの舞踊団に入っていたころの、人生で一番刺激を受けた時期だった。ある日、4人一組で踊りを作り、私は元社会主義国からきた一員として、フレームに入らない人々、はぐれるという踊りを考えて、他の人々から暴力を受け、最後に舞台から投げられるというシーンを作った。そしたら、泯さんが私たちのパフォーマンスを見て「最後に立って笑うのよ」と言われた。そうだ、人生で最高のアドバイスを受けた。

さて、高校生の時のルーマニア北部の旅行から団地と工場の街に戻ったあとは、もう家から逃げることを考えることはなくなった。図書館から何十冊もの本を借りて、田舎に戻って、祖父母の家で本を読み続けた。あの時に庭のクルミの木の下で読んでいたカミュの『ペスト』は、今を生きる世界とあまり変わらないが、あの時期に自分の中で目覚めたjouissanceのおかげで泣きながら娘たちと笑う自分がいる。そしてすっかり娘たちにもこのjouissanceが受け継がれた。いつか、娘たちにボロネツの青を生で見せたい。色の感覚が鋭い長女のリアクションが目に浮かぶ。

大学に通うためブカレストに引っ越したときある展示を見に行った。それは人身売買された若いルーマニア女性の写真展だった。金髪で、青い眼、東ヨーロッパの娘たちのライフヒストリーと共に、彼女らのイメージはどこかイコンのようだった。彼女らも14歳の私みたいにただ逃げたかった。暴力から、貧困から、全てから。そして逃げた先には違う地獄が待っていた。でも、写真に残っていた彼女らの美しさが、私に何かを訴えるようだった。私の方が確かに恵まれていた。大学に行けるなんて、勉強し続けるなんて、恵まれている方だと分かった。だからあの時に私は博士課程まで上がりたいと決心した。そして世の中の何かを変える、どんなに大変でも、どんなに苦しくなっても、単純なことだけどみんなやればいいだけの話、自分のできる範囲で。

先日の女性の調査の中で友人の個人史を聞く機会があって、思いもつかない事実に出会った。子供の時から才能に溢れ、絵がとても上手い天才のような彼女が、高校の時にいじめにあい、傷ついたまま社会に出て職場でのいじめにも耐えられなくなって、ある日自殺を図った。手首を切ると痛みがあって、薬を飲む。幸い母親が帰宅し、病院に連れて行く。1ヶ月間の入院で彼女は人間の地獄を見る。さまざまな出会い。統合失調症で入院している、毎日ばっちりと化粧するお河童頭の女性には「愛している」という声が聞こえるそうで幸せそう。ずっと忙しくしていたサラリーマンは、退院したらまた編集者として頑張るというし、自分のところで雇うと言い出す。同じ病室に入院している叔母さんたちは、血圧が400と笑いながらいうような毎日。

そんなある日、同じ20代の女の子といつも通り話をする。その子はそろそろ自分の病室に戻るといい、外を出た途端に何か大きな音が聞こえる。誰かの叫ぶ声。病室から出ると、さっき部屋を出て行った女の子が窓から飛び降りたという。次の日、何も変わらない。看護師さんは相変わらず忙しく動き回り、統合失調症のお河童頭さんには相変わらず愛されているという声が聞こえ、サラリーマンの男性が早く退院して仕事がしたいといい、同じ病室のおばさんたちは血圧を測って「また400だと、ハハ」笑う。その時、友人は悟った。こんなに身近に人が死んでも何も変わらない。「私が死んでも何も変わらない」。死んでも何も変わらないのであれば、生きて世界を変えよう。

里芋、大根、大豆(2022年のために)

管啓次郎

これはみんな伝え聞いた話です。

あるときあるところに
大変な知者という評判の僧侶がいて
彼の大好物は里芋の芋頭(いもがしら)だった
芋頭というのはね
種芋から最初に発芽して
そこに生じるいちばん大きな芋のことさ
彼はとにかくこれが大好き
大きな鉢にうづ高く盛り
膝下に置いてこれを食いながら
読書したんだって
(タロイモ読書?)
病気になったらきっぱりとこもり
一週間、二週間と静養する
治療としてはよい芋頭を選んで
それをたっぷり食う
それで万病を治した
彼は他人には芋頭をあげないんだ
ぜんぶ自分で食べるんだ
すこぶる貧乏な人だったので
師匠が心配して遺産をのこしてくれた
「銭二百貫と坊ひとつ」
坊というのは僧侶がひとりで暮らせる
質素なストゥディオ
ところが彼は、じょうしんは、
この坊を百貫で売ってしまった
これで手持ちのお金はかれこれ三万疋(一貫=百疋)
このすべてを芋頭につぎこんだ
これだけのお金をすべて都に住む知人に預け
芋頭を十貫分ずつ取り寄せて
ふんだんに食べ
やがてさっぱり遣い果したそうだ
まあ、思い切りのいい坊さまだね
(タロイモをたっぷり食べて
ポリネシア人のような体格になったんだろうか
ポイはそのころの日本にはなかっただろう
いや日ごろ飽食してなければ
そんな体型にはならないか)
お金に頓着ない
ただ芋頭を食いつくす
ことほどさように単刀直入
人々は感心した
この僧侶は「みめよく、力強く、大食にて
能書・学匠・辯舌、人にすぐれて」
この宗派の「法のともしび」とも思われていた
でも曲者でね
癖者といってもいいが
万事につけ「自由」な人なんだ
すなわち他人にはしたがわない
饗宴でも膳が全員のまえに揃うのを待たず
さっさとひとりで食って帰ってしまう
食事時も何もかまわず
腹が減れば夜中でも暁でも食う
眠いと思ったら昼間からごろり
どんな事件が勃発しても
他人のさしずには従わない
慌てない
目が覚めれば幾晩でも寝ない
何をしてることやら
(タロイモ食って、本読んで)
そういう人間だったけど
みんなに嫌われることもなく
なんでも許されたという
自由が認められていた
いい話だね
みんなこれからは里芋を食おう
小さなきぬかつぎではないよ
大きな芋頭をガンガンとね
それも修行か
少なくとも道だ。

またどこかにこんな人がいた
大根こそあらゆる病気に効く
薬だと信じてるんだって
それで毎朝二本ずつ焼いて食う
来る日も来る日も
何年も何年も
ただ大根を食う
体が大根で置き換わるくらいのものさ
彼が住んでいたのは「館」(たち)といって
まあ家というより小規模な砦
どんな役割を果たしていたのか
一種の前線基地か行政機関か
ある日、館から人が出払っているときに
敵の急襲を受けた
むかしは野蛮だねえ
いつ戦闘があるかわかったものではなかった
男はたぶん「敵だぞ、迎え打て」
くらいのことはいったんだろうが
誰もいない
誰にも聞こえない
万事休す
館は包囲されてしまった
するとね、館の中から
突然見たこともない兵が二人出てきて
これが強いのなんの
何の恐れも見せずに勇猛に戦い
ついには敵をそっくり追い払った
むかしは野蛮だねえ
でも話に聞いている分には
痛くも痒くもない
痛快といえば痛快
戦いが収まって
主人はいったわけさ
「きみたち日ごろここにいる顔ではないな
よく戦ってくれて助かった、ありがとう
ところできみたちは誰なんだ?」
「むかしからおなじみの
毎朝毎朝だんなが召し上がっている
土大根でございますよ」
そういってふと姿を消してしまった
どうだいこの話?
大根はいつも男に食われてるんだよ
ところがあまりに食われたために
男が大根の仲間になったとでも思ったのか
あるいはそこまで「大根は万病に効く」と信じた
男のその信にほだされたのか
男の危機にあたって大根が助っ人に来たんだ
けなげな話じゃないか
まるで忠犬物語だね
忠根だ
大根を食べるには1センチ5ミリほどの
厚みで輪切りにして
フライパンで弱火で両面を焼いて
火が通ったころに醤油をたらして
焦げ目をつけるといい
よい香りが立ち上る
焼くと甘味が凝縮されて
うまいしいかにも清浄な感じがする
そんな大根を一日も欠かさず
十年くらい食べてごらんよ
身も心もきれいになって
何かが起きるかもしれないな
きみにも
助けに来てくれるかもしれないよ
きみを
きみが敵に囲まれ
命が進退きわまった
そのときに。

もうひとりは法華経をひたすら
読誦した上人さま
その功徳により「六根浄」をはたした
眼・耳・鼻・舌・身・意がきよらかになり
最大限の働きをするようになったのさ
見える見えるよ、見えないものが
聞こえる聞こえるよ、聞こえないものが
体は元気はつらつ
意欲はみなぎって
上人さまは旅に出た
ずいぶん歩いてから
閑散とした村の粗末な家に
宿ろうと入ってみると
ちょうど豆殻を燃料として
豆を煮るところだったらしい
豆というのは大豆のことだよ
するとね、上人さまの耳には
煮える大豆のこんな言葉が聞こえたんだ
「よく知っているおまえたちなのに
恨めしいよ
おれのことを煮て
辛い目に合わせるんだなあ」
これに対して、焚かれる豆殻の
パチパチと鳴る音はこんな言葉だったって
「そんなつもりじゃないんだよ
焼かれるのも耐え難いことだが
どうしようもないのさ
恨まないでおくれよ」
もとはといえば兄弟だ
そんな豆殻と豆の会話は切ないが
悪気はない
上人さまはその会話を聞いてしまったが
いかんともしがたい
彼が何を思ったかは知らない
あくまでも澄みきった心で
にこにこ笑っていたのかも
その日の食事は煮豆に塩をひとふり
おいしくいただいて
むしろに体を休めたあとは
また明日も旅をつづけるだけ。

いかがですか、みなさん
里芋と大根と大豆
われわれがずっと食べてきた
そんな植物のみなさんのことを
今年は考えましょう
考えつつ、思いつつ
いただきましょう
あなたの体は
心は
結局はそんな植物によって作られ
かれらの体にも心にも
かたくむすびついているのですから
まずはいつものやり方を変えて
この新春には餅を食さず
里芋ばかりたっぷりいただきますか
里芋を食って本を読み
里芋を食って人新世を論じ
里芋を食って病気を治す
心身を整える
そんな年もなかなか
いい年になるかもしれませんよ

(物語の出典は吉田兼好『徒然草』60段、68段、69段)

メキシコ通信その1(晩年通信 その25)

室謙二

数日前にメキシコから帰ってきたところ。
20代の終わりに、カリフォルニアから友人とメキシコ旅行をした時は、ときには2人でときには1人で、汽車とバスを使って、埃にまみれて旅行した。あれとは違う。
今回は大名旅行です。 妻の息子二人とその家族。妻の姉夫婦とその息子夫婦とか、そのまた息子と友人。全部で十七人。上は84歳から下は9ヶ月の子供まで。
私の妻(78歳)は2回手術をしていて、再手術はメキシコ出発の二週間前でした。感染症もないから、医者は行ってよろしいと。だけど1月からは、また化学療法を始めないいけない。それと姉夫婦の夫(84歳)は、この何年間に数回の腰の手術で、杖を使ってやっと歩ける。二人は共に長期間は歩けない。空港では二人とも車椅子で移動。妻は、ホテルでの階段は、私が手を繋いで上がり下がりします。
もっとも妻の息子の一人は、緊急治療室とペインクリニック(痛み管理治療室)の医者だし、家族の一人(甥)は外科医だから、二人の医者がグループ内にいてクスリなども準備していた。
症状が悪くなってもなんとかなるだろう。

最初は私たちと息子たち家族との旅行だったのだけど、それに拡大家族が参加した。そのまた友人も参加していたので、それも含めれば全部で二十二人。病人と赤ん坊を含む、大グループなのです。
飛行機でカリフォルニアからメキシコのIxtapaに飛んで、そこに地中海クラブのスタッフが迎えに来た。30分「メキシコ」を走って、地中海クラブの中に入って、そこからほとんど外に出なかった。楽しかったけど、地中海クラブは絶対にメキシコではないね。
7日間の滞在中、ニュージーランドにいる息子とか、日本の友人にメールを書いた。それを以下に引用します。もう一度書くのがめんどくさいから。

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「日本の友人へのメール1」

Ixtapaの地中海クラブ(Club Med)にいます。
ここはメキシコといっても、メキシコではないね。
もっとアメリカ人がいるかと思ったら、ほとんどメキシコ人の中産階級。中産階級の植民地です。「現地メキシコ人」は働いている。
空港からここに来るまで、道路の両端に「メキシコ」が見えました。

従業員にも英語が通じない。もっとも我らの大グループの一人の女性は両親がメキシコ人で、英語・スペイン語の完全なバイリンガルで、テッドもモーゼスもスペイン語が堪能だから、それらに頼っています。Nancyだってスペイン語は少ししゃべる。
Club Medの食事はいい。ビュフェでいろんなものあり。ちゃんとしたレストランもいくつかある。プールは子供用と大人用で全部で四つあり。ビーチは目の前だし。

アジア人は、私と、妻の息子の奥さんの香港系アメリカ中国人、それともう一人の息子の奥さんの日系カナダ人の三人だけ。白人も私たちグループ以外に、ほとんどいない。
あとは何百人のメキシコ人。仲間の一人の女性は過去の経験からメキシコが大嫌い。それでメキシコ(地中海クラブ)は嫌いだと公言しているけど、ここはメキシコではないのだけどなあ。メキシコ中産階級の植民地です。生活様式も食事もメキシコ様式というよりアメリカ式、というよりカリフォルニア式だね。

私は1973年1月に、カリフォルニアから汽車とバスを乗り継いで、数日かかってメキシコ・シティにいた鶴見俊輔に会いに行った。あのときはちゃんとメキシコを経験した。ちゃんと下痢もしたし。今回はグループの誰も下痢をしない。安全な食事だった。
汽車とバスのメキシコ旅行は、埃まみれになって、安宿にメキシコ人と一緒の飯屋は二十代の後半だった。
帰ってきてその話を友人にしたら、彼もメキシコに行った。別の女性の友人に話したら、彼女もメキシコに行って子供まで作って、その父親まで連れて日本に戻ってきた。

「ニュージーランドにいる息子へのメール1」

明日カリフォルニアに戻ります。
今日は最後の日で、いろいろ催し物に参加します。
カリフォルニアに戻るので、またコロナの検査をしました。
妻も私も元気です。ご心配なきよう。

「息子へのメール2」

IxtapaからLA行きのUnited Airに乗っています。
UAの食事がまずいのは、カリフォルニアと東京の往復をUA Airで繰り返ししていたから知っている。
だけどこれほどまずい食事は、これまで経験したことがない。
後ろの席に座っているNancyがわざわざ、これはひどいわねえと言ってきた。
UAがビジネスクラスにアップグレードしてくれたので、ビジネスの食事ですよ。
IxtapaのClub Med(地中海クラブ)の食事は、カフェテリア形式で勝手に好きなものを取れる。それがおいしかったから、飛行機の食事のひどさが目立つのだ。

Club Medは、申し込んで全額支払った段階で、部屋代から食事代、ワインでもなんでも、食後のケーキも、ガイドも、空飛ぶ凧に乗るのも全部ただ。タダというわけではない。最初に払ったものに、全部が入っているわけだね。
今回行けなかった息子よ、今度どこかに一緒に行こう。

「日本の友人へのメール2」
昨日の夜、メキシコのIxtapaから戻りました。

最後の日に、夕方、もう日暮れにビーチで寝ていたら、海に黒い塊が見えた。海岸に大きな黒いカメがゆっくりと上がってきた。そして砂浜に深い穴を掘って、タマゴを産んだ。それから砂をかけて、海に戻っていきました。見ることができて、幸運だった。
ビーチの監視員が、上がってきたカメを保護するために、縄を張って、我ら見物人は離れて見ます。その卵が自然に孵化して、カメの子供がよちよち海に向かって歩くはずだが、今は監視員がタマゴを孵化するところに、安全のために持っていく。

親ガメが海から上がってきて、タマゴを産んだ砂浜に監視員が黄色のテープをはって、入れないようにしている。真ん中の円の下にタマゴが埋まっている。後で掘って安全なところで孵化する。

孵化した後のカメの子供も見たけど、真っ直ぐに砂浜を海に向かって進む。反対の方向に向かう赤ん坊のカメはいません。どうして海の方向がわかるのかなあ。なかなか感動的でした。そしてその子供のカメが母親になってタマゴを産むときには、またこの同じ海岸に戻ってくる。
どうやってそのことを記憶しているのか?

最初はメキシコは嫌いだ、と言っていたモーゼスの奥さんも、最後にはメキシコが好きになっていた。

カメの赤ん坊。これから放す。プラスティックの洗面器のなかでも、海の方を向いている。放せば海に向かって、よちよち歩きます。

地中海クラブは、事前に一度に払うお金に、部屋代から食事代、その他の全てが入っています。滞在中は何も払う必要なし。財布を持ち歩く必要はない。広いビュッフェで、ピックアップする料理はおいしかった。
朝起きてレストランに行って朝食を食べる。それから急がずにプールに行って、パラソルの下でのんびり。持って行った本を読んだり、道元の本はあまり似つかわしくなかった。バッハの平均律の第二集は、青空の下でピッタリだった。
ランチは、いつ何を食べるかなあ、なんて考えている。プールに入って少しバチャバチャと。
ランチの後は昼寝をする。昼寝の後はビーチに行ってパラソルの下でまたのんびり。一緒に行った青年たちが泳ぐのを見ている。
そうするとディナーの時間だね。その後は、野外のステージで音楽があったり、室内のステージで子供たち向けの催し物があったり。それを一緒に行った子供たちと見ている。
つまりボケーと、移動日を除くと完全に一週間を、そうやって過ごしたのです。
頭痛とも解放されて。

「ニュージーランドの息子への簡単なメーセージ」
海太郎へ。自宅に戻った。
疲れているけど、冷蔵庫はからっぽ。明日、食品の買い出しに行かないと。

闇のなかで聞く

くぼたのぞみ

若い医師の声を聞いて
窓から
夕闇にぽつりぽつり
灯る あかりを見ながら
バッハのピアノ曲をかける

涙ぐむまいと思っても
音楽を聴く心をなくしていた
数週間は
迷路とも 砂漠ともちがう
きっとちがう
烈風が吹いていたのが
いまはわかる それが
凪いだのが
いまはわかる

音が耳に心地よく入ってくる
やわらかく
含んだ
音のつらなりに
この世にまだあるという

運命のやさしさをまさぐるように
ぽつりぽつり灯る火に
たちまち濃くなる闇に
全身で感じる
ある と知るぬくもり
いる と感じるぬくもり

行間

高橋悠治

ちがうところ、形のない、土台のない、家のない、見る人もいない扉や窓、本も末もない、川を作らない流れ、クラリセ・リスペクトルの本のどこかで読んだ、ことばにもイメージにもならず、印象がそのまま表現でもある馬の場合。

ピアノを弾いているときは、一音ごとの入りと止めの間を図っている。楽譜という地図を、初めて見るかのように見ているからできること。暗記したものを心の眼で辿ったり、習い覚えた手の動きにまかせると、なめらかな流れのままに通りすぎてしまう道筋の、その時の気がかりに楔を打って、そそこに生まれるわずかな隙間から抑揚を創り出す。この歪みは繰り返せない。

作曲は、全体を想定しながら細部を定着していく作業とすれば、書くことのできない隙間、線のゆるみ、曖昧さを含んだ痕跡をどこまで紙の上に定着するか。書かれた音が毎回ちがう響きを立て、よけいな音がないのに、音は手の意志が消えた後の響きの余韻が「表現であり印象となる」。それにもまして、「線の行間」、それはただの「沈黙」ではない。「行間」は流れていく。変化して止まらない。形がなく、聞くたびにちがう時間、ちがう空間のひろがりがある、と言ってみる。

演奏も作曲も、毎回の実験から生まれる。その場に、楽器があり、人がいて、その場の人たち、手の動き、気象。

2021年12月1日(水)

水牛だより

昨夜から夜明けにかけて、嵐のような雨が降りました。冬にあらざるような暖かさをともなってなにやら不穏な感じでした。起きてカレンダーをめくると、ことし最後の一枚です。

「水牛のように」を2021年12月1日号に更新しました。
このひと月、パソコンを新しくしたことやサイトの問題など、主にネットワークに関する試練に見舞われましたが、なんとかみなさんの原稿をアップできたようで、ホッとひといき。自分自身におこるトラブルと、また騒がしくなっているコロナの新型株のニュースと、どちらを向いても落ち着かない日々でした。

先月お知らせするべきだった情報です。
10月にくぼたのぞみさんの新しい本が三冊も出版されました。さすがはJ・M・クッツェーのオタクだと自認するくぼたさん、二冊はクッツェー本です。
『少年時代の写真』(クッツェー著のくぼたさんによる翻訳)
『J・M・クッツェーと真実』(くぼたさんによるJ・M・クッツェー論)
そしてもう一冊は『山羊と水葬』です。これまで「水牛のように」に書いてもらったエッセイがたくさん掲載されていて、とりわけうれしい一冊です。北海道という土地が持っているあれやこれやと、そこで生きている幼いころのくぼたさんの真摯なまなざしは、いまの彼女とおなじです。

それではみなさま、よい年をお迎えください! などと書いてもまるで実感が湧きません。(八巻美恵)

ハマオカ

北村周一

ことあらば
避難場所にも
なるらしき
展望台より
浜岡を望む
*10月の末に静岡県御前崎市にある中部電力浜岡原子力発電所をたずねた。正確には発電所に隣接する浜岡原子力館ではあるが・・・
地上約
60メートルの
たかみへと
昇りゆくなり
原発を見に
*海抜62メートルからの大パノラマ!入場料は無料むろんエレベーターで・・・
はまおかの
海と砂丘と
げんぱつが
眼下にありて
わたしは小舟
*実のところ高いところはあまり好みではないなんとなくノアの箱舟を連想しつつ・・・
大鳥居と
送電塔とに
守られて
ならぶ原子炉
ハマオカともいう
*池宮神社の参道に建立された朱色の大鳥居。どうみても場違いな感じがしたので調べてみたら中部電力が協力金として地元に出資したものらしいその額総額3億円なり・・・
活断層
すなに埋もれて
見えねども
原子炉五つ
その上にあり
*活断層が原発の真下に4本はあるといわれている・・・
世界一
危険なること
いましばし
わすれたるごと
浜岡に遊ぶ
*原子力館は一度は見ておきたい代物です(予約がおすすめ)・・・
遠洋の
マグロ獲っては
棄てしことも
核とげんぱつ
根っこはおなじ
*御前崎の北に位置する焼津漁港~浜岡からほど近いところにあるので当時の記憶を思い出しつつ・・・
死の灰に
まみれし黒き
雨がさを
振りまわしつつ
ATOMはいずこ
*太平洋上で行った核実験の産物死の灰。子供のころ雨傘を指していれば大丈夫と教えられもしたのですが・・・
物差しで
はかる半径
地図上の
ハマオカあわれ
塵のごとしも
*半径30キロメートルの範囲とよくいわれるけれど根拠あるのだろうか・・・
いいことも
あるのだろうが
風向きと
距離が気になる
浜岡近し
*中電のソフトなイメージ作りがあちこちで目に付くこのごろ地元での好感度アップが狙いなのでしょう・・・
地震にも
津波にも耐えて
いきのこる
ゆめの原発
おもいみ難し
*日本全国地震はいつどこで起きてもおかしくないのだけれど・・・
遠州は
いいところだよと
からっかぜ
身に受けながら
給油所のひと
*浜岡のセルフではないガソリンスタンドで給油したついでに女性の係員と少しく話した・・・
ゲンパツに
反対のこえ
遠州の
かぜよりつよく
ふくかぜ見たし
*上州のからっ風より遠州は厳しいといわれる~事実であろう・・・
北にリニア
みなみに原子
力ありて
不穏なりけり
中部電力
*リニアは大量の電力を消費するそれを支えるのが中部電力・・・
再稼働
うながす声は
あきらけく
西に東に
ハマオカにても
*司法の判断にゆだねるしかないのだろうか・・・
廃炉への
みちのり淡し
はまおかの
嵩上げされたる
防波壁異様
*堤防がだんだんに高くなっているようだけれど自然を騙すことはできないというメッセージもあります・・・
ふる雨に
ぬれて艶めく
茶ばたけの
みどりかぐわし
ゆれるハマオカ
*延々と茶畑が続く牧之原台地その片陰に浜岡原発はある・・・
くらぐらと
深けゆく秋の
一夜ありて
浜岡原発
みて来たりけり

205 海鳥たち、2(輝く)

藤井貞和

(四回ほど、富山さんについて、書いてみようと思って。)

描きの力。 旅芸人の力。 武藤さんは、「すべてが、
どうして輝くのか、出現する」と書きました。

『中南米ひとり旅』(一九六四)をいまひらいています。 ひらいたところに、

銃をもった民兵はコーヒー店のラジオから流れるリズムに合わせて、
小銃を打楽器にし、「ビバ・ラレボルシオン・チャチャチャ」
毎日、日一日とキューバ危機が迫ってくる――

わたくし(藤井)は、一九六一年か、何やってたんだろうな、チャチャチャ。
革命家になる、民兵になる、そんな希望が無くもなくて、
自治会室を訪ねたことがあります、チャチャチャ。 体(てい)よくあしらわれて、
すごすご、その足で、歌舞伎研究会に寄り道しました。

武藤さん「海鳥たちの骸骨がコツコツ、キーボードを叩くさまは、
ほんとにいいですね。 大真面目で、働き者で、
どこかおかしみがあり、この連中のメッセージは必ずどこかに、
衛星経由で、陸上にも届き、解読されそうだと予感させます」

「さらにいえばその貝は1950年代に描いた炭鉱で見ていた、
アンモナイト(図7)に接続するのではないか」と、坂元さん。
「火種として評価したに違いない」と、高際さん。

富山さん「メキシコに行って、リベラの家に泊まるんです。
で、メキシコ革命があるでしょ。 リベラと、トロツキーと、ブルトンと。
リベラは歓待役なんで、国賓のように迎えるわけですね。
……それが39年で、その、トロツキーとブルトンとが、
宣言出すんですね。 反ファシズムのね。 ところがもう、時代が、
出したとき、そこに刺客が来て、トロツキーは殺されるんです、メキシコで」

(高際さん、『東洋文化』101、より)

 富山さんがリベラの家に泊まったみたいですね。(そうかも知れません。)

きょうは絵のページだけ見ることにしました。
セルリアン・ブルーの銅鉱石を見て、富山さんはチリの鉱山へ行きたいと思いました。
日本を出発しました。 太陽と馬、11ページ。
香港の水上生活者、23ページ。 香港からは多くの難民が乗船する。

藍銅鉱かな。 孔雀石かも。 鉱石をへやに並べて、富山さんは好きだった。 日本の鉱山をふらふら歩いて、そこから炭坑です。 暗い地底から太陽の輝くところへ向かう。

武藤さんが言う、「レベッカさんに漏らしたぼくの疑問。 どうして富山さんの世界は、すべて輝くのか」。
「進歩の先回りをして、待ちわびていたとすら思える」と小林さん。

私は清津峡小学校最後の卒業生です。 まさか、ここまで素晴らしい作品になるとは。

とてもきれいで、「こんな学校にかよってみたいな」とおもいました。 ……学校、つぶさないで! 針ケ谷小学校女子

(2010、アジアを抱いて、全仕事展パンフレット、火種工房、より)

(『群像』の今月号に、私の「ビラヴド」(一九九五)を、斎藤倫さんが「ポエトリー・ドッグズ」(連載)で、石牟礼さんの「茜空」にならべて引用している、思い返す。書くのに十年、書くというより、書けなかったな。書いたとしても、内容からすぐには世に出られなかった。こんにちの報道にも「いじめ」が聞かれるたびに傷ましく思い出す。もう四半世紀かよ。題名をトニ・モリスンの「ビラヴド」から(勝手に)受け取った日に、ようやくかたちをなし出した。四半世紀かいな。おいらのうそつきの〈詩語〉が一瞬、きらっと輝いて消えた時、ところ。藍銅鉱がおいらのコレクションのなかできょうも眠っている〈アンモナイトも、孔雀石も〉。)

オールドスクール≒古い人間

仲宗根浩

ガソリン給油、二千円を切った。そういえば距離走ってない。前の月は映画を見に行くため那覇に二回行った。自動車税の還付金があったので北に向かって最初に見つけた銀行で手続きをしようと遊びで久しぶりに海を見に行ったり、次の週は銀行に行くついでに漁港食堂のフライ定食を食べる気満々で行ったら漁港食堂はしばらく休業、また次の週も北に向かい道の駅のATMを見つけそこで野菜を買ったりと、北上遊びでけっこう走った。今の世の中、だんだんとガソリン車に乗っている人間は喫煙者のように肩身の狭いおもいをするようになるのかな。内燃機関があってこそ車、という考えは古くもう時代ではないかもしれない。

感染者の数も減り、飲食店も本来の営業時間ももどったけどもう前のように外に出ても短い時間で帰る。自粛ばかりで外に出ることもいつの間にか億劫になったのかもしれないし人がいる場所が面倒くさいのか。相変わらず聴きたい音楽はあり、注文していたものが届く。アリサ・フランクリン四枚組は聴き終わり、バッファロー・スプリング・フィールドの五枚組、ブルース・スプリングスティーンの二枚組、アトランタ・リズム・セクションは八枚組をこれからゆっくり聴こう。面倒な事も片付きそうな今のうちに。

「トラ・トラ・トラ」作戦

さとうまき

湘南の学生たちは、いけていて、SDGsとかLGBTに関心があるという。海が近いから、マイクロプラスチックの問題とかにも取り組もうとしている。だが、シリアという国が出てくると途端に距離を感じるようである。居眠りしている生徒もいる。でも仕方がない。コロナ禍で、海外に遊びに行くという選択肢は最初から除外されているのだから。

そこで、今年はシリア支援の年賀状を学生たちに作らせることにした。去年牛の絵を描いてくれたブラヒは21歳になっており、オーバーエイジ。絵の中に子供らしさがない。ただ、大人が描くへたくそな絵も時には面白いのだけど、今回はブラヒには説明が無理そうなのでやめておく。ブラヒに近所の子どもを集めてオーディションを受けさせた。3人の子どもが受けた。ラマちゃん7歳の子の絵がいい! 早速ブラヒに、福島の張り子の寅の写真を送って、ラマちゃんにトラの絵を描いてもらった。これがまた面白い。写メして送ってもらうのだが、解像度が悪かったり、スマホの影が入ってしまうので、何度もこうやって映してくれと説明する。これが結構手間がかかり、なかなか伝わらないのである。生徒に課したのは、このトラの絵に湘南・鎌倉の名所を背景にして年賀状を作りなさいという課題。年賀状を売ってその収益で、シリアの孤児院の子どもたちの食費にあてようという作戦だ。

実は、僕は、どうも神奈川県が苦手なのだ。別に深い理由はないのだが、家から遠い。前職では、WE21というリサイクルショップにお世話になり、ちょくちょくお話会を企画してもらったのだが、グループで店舗がたくさんあり、午前中にお話会が組まれることがほとんどで、朝に弱い僕にはつらかった。いつもとんぼがえりで湘南とか鎌倉のいいところなんか全然知らないわけだ。生徒たちにしらす丼のこととか、鳩サブレとか、いけてるカフェとかを教えてもらう。一応大学だから試験問題も作らなくてはならない。

「SDGSとは、国連が定めた持続可能な開発目標で、17の目標があり、2016年から2030年の15年間で達成するために17の目標と、さらに169の具体的なターゲットが決められてます。」

問 以下の文章を読み設問に答えなさい。
来年の干支はトラである。シリアにもかつて北部にはアムールトラが生息していたという。しかし、森林が伐採されると、トラの餌となる野生動物も減り、餓死していくトラが増えた。トラは、小型化を余儀なくされ、進化したトラは、とらじまのネコとなったのである。
2021年の暮れ、ダマスカスの路地裏には、トラの末裔の猫たちがたくさんいてごみ箱をあさっている。10年続く内戦で、トラ子の両親も殺されてしまった。①尤も人間は約40万人が殺されたといわれている。物価は高騰し、人様の食料も不足するありさまで、ごみ箱をあさってもろくなものにありつけない。シリアから逃げた難民は600万人近くになり、今世紀最大の人道危機とまで言われている。
そこで、トラ子は、ゴムボートに乗って、トルコからヨーロッパに向かう難民の群れに紛れ込んだ。「この人たちは、ヨーロッパにパラダイスがあると信じている。うまいものが食えそうだにゃー」
ところが、トルコからギリシャに向かうボートが揺れる。必死にしがみつくトラ子であったが、トラ子の爪がゴムボートに穴をあけてしまった!
気が付くとトラ子は、湘南の海岸に打ち上げられていた。
②2021年3月には、日本政府は、2億ドルをシリア支援(難民支援を含む)拠出することを表明した。ドイツ、アメリカなどに次ぎ世界で6番目の額である。果たして人ではないトラ子がこの支援を受けることができるかどうかは定かではないが。
そこで、サーフィンを覚え、調子に乗ってあそぶトラ子。おなかがすき、海に潜って大好きな魚を食べようとするが、クラゲと間違ってビニールを飲み込んでしまう。
③2050年には、魚の数と、プラスチックごみの数が同じになると言っている人もいる。
「シリアのゴミ箱がなつかしい」
おなかをすかして鎌倉にたどり着いたトラ子は、鶴岡八幡宮にお祈りする。無病息災を祈る人々がそこにいた。シリアでは、コロナのワクチンは2.7%しか摂取されておらず、医療崩壊を起こしている。「祈るしかにゃいのか」そして大仏にたどり着く。「にゃんだ?この偶像は?」
⑤「これはですね、日本ではたびたび飢饉が起きて、餓死する人が絶えず、人々を守ってほしいと大仏が作られたのです。」ガイドさんの説明を聞き、大仏の手のひらで居眠りするトラ子は、幸福な気持ちになったのであった。

設問 赤字部の①から⑤に対応するSDGsのゴールを述べよ。
ゴール1 貧困をなくそう
ゴール2 飢餓をゼロに
ゴール3 すべての人に健康と福祉を
ゴール4 質の高い教育を
ゴール5 ジェンダー平等を実現しよう
ゴール6 安全な水とトイレを世界中に
ゴール7 エネルギーをみんなに、そしてクリーンに
ゴール8 働きがいも経済成長も
ゴール9 産業と技術革新の祈願を作ろう
ゴール10 人や国の不平等をなくそう
ゴール11 住み続けられる街づくりを
ゴール12 つくる責任つかう責任
ゴール13 気候変動に具体的な対策を
ゴール14 海の豊かさを守ろう
ゴール15 森の豊かさを守ろう
ゴール16 平和と公正をすべての人に
ゴール17 パートナーシップで目標を達成しよう

①ーゴール16

②ーゴール10、ゴール17

③ーゴール14

④ーゴール3

⑤ーゴール2

というわけで、年賀状を売り出している。
本当は4人くらいがちょうどいいのだけど、11人の生徒がゼミを受講していて、平等に仕事を与えるのが難しい。イスラム教徒は4人まで妻をもってよくて、ただし4人を平等に愛する必要がある。SDGs的に言えば男目線でアウトなのだが、ジェンダーフリーにして女性も男性も、4人を平等に愛するというお題としてかんがえてみてはどうだろう。すごいテーマである。実の子どもですらえこひいきが出てしまい「愛されてないんだ」と、子どもだった自分が愛されてないって悩んだ人は少なからずいると思う。

先生と生徒なので、愛は置いておいて、仕事を平等に作ってあげるだけでどれほど時間が割かれるのか、一人でやってしまった方が楽なんだけど、僕もじじいになってきたから、自分が楽するよりは、苦しくとも若い人たちに何かを持ってかえってほしいというのがある。それは、このSDGsでいうゴールの17、パートナーシップなのかもしれなくて、人間が暖かいものだということを一番教えたい。残念ながら人生は厳しくて裏切りだらけで、皆さん少なからずひどい目にあっているのでは?

僕はと言えばひどい目に合うようなことをあえて避けて距離を取ってきたけど、そういうひどい目っていうのは、ある日突然避けようもなく、はめ込んでくる。これが、神なんだろう。聖書に出てくる神の仕打ちは結構ひどい。でも人生捨てたもんじゃないのは、本当に少なくても応援してくれる人が必ずひとりはいることで、捨てる神あれば拾う神ありってよくいったなあと思う。一神教ではありえないけど。これは、日本人として素晴らしい概念かもしれない。まあ、学生がそういうのを体験するのは社会に出てかもしれない。

年賀状プロジェクトは組織とかを持たずやると本当に大変なんだけど、「このプロジェクトが続けばいいですね」とかコメントしてくれたり、応援してくれる人が一人でもいるっていうことは、とてもうれしくて、シリア支援の年賀状を50枚買ってくださって、50人に送るわけだから特別な意味がある。単なる募金とは違う意味がある。SNSがすすみ年賀状そのものが毎年減っていく中でも残していきたい文化で、シリアの子どもの絵を選んでいただけることは光栄そのもので、学生にもニュアンスが伝えられればいいと思う。
郵便局の皆さんありがとう!

年賀状はこちらから
http://teambeko.html.xdomain.jp/team_beko/postcard2.html

新・エリック・サティ作品集ができるまで(8)

服部玲治

悠治さんの身体から解き放たれた音楽をたずさえて、今度はわれわれが外側のプロダクトを作り上げていかなければならない。アートワークのデザイナーとライナーノーツの執筆者は、あえてこれまでクラシックの世界にあまりかかわりがなかった人を選定。デザインを手がけたのは、かつて星野源さんが展開していたバンドSAKEROCKのジャケットなどを担当していた大原大次郎さん。そして、ライナーは、人間行動学を専門とする細馬宏通さん。お二人ともに、悠治さんの作品に携わることを心から喜び、熱のこもったアプローチを果たしてくれた。
プロモーションのための取材や、インストアイベント、プロモーションビデオの作成など、レコード会社がリリースの際に執り行う定食的なあれこれ。当初、悠治さんはどこまでやってくれるものなのか、いささか心配したが、蓋を開けてみれば、とても協力的にこなしてくださった。
リリース後、嬉しい反響が多々あった。クラシックのいくつものタイトルのリリースにかかわってきたが、悠治さんのサティの反響はそのいずれとも異なり、受け身ではない、なにか聞き手の態度表明のような意志を感じるものが多かった。
わたしの通っている、新宿駅の中にある小さな、しかし独特の異彩を放つカフェ「BERG」(店名はあの作曲家からとっている)。リリースからほどなくしてビールを飲みに赴くと、店内で悠治さんのジムノペディが流れてきたときは、いくつもの新聞や雑誌のレビューで取り上げてもらうよりも無上の、なにか腹の底からうれしさがこみ上げてくるような思いがしたものだった。

その後、悠治さんと会うたびに、第2弾のリリースの無心を、手を替え品を替え、お話ししてきた(主に酒席で)。が、そのたびに、いつも苦笑ともなんともつかない表情を浮かべながら、明言を避けるようにすり抜けていき、今なお実現に至っていない。
一度だけ、真に迫ったやりとりがあった(と、わたしは勝手に思っている)。あれはリリースから2年ほどたったある日。三軒茶屋の悠治さんの行きつけの居酒屋さんで、ご一緒する機会を得た。またもや、しつこいと思いながらも、次のレコーディングの話を向けたとき、悠治さんがとつとつと話を始めた。いわく、今年はクセナキスの難曲を2回も演奏する機会がひかえているが、肉体のおとろえを自覚していて、思うように弾けるかどうかがわからないという。レコードを録音するのは、ある意味完成したものを作る営みだが、それと今の状態は噛み合わないと。
僕はドキュメントとして録りたいのです、と伝えた。

こんど誘われて1枚にまとめた再録音では、貧しいものの音楽、小さなもののつつましさ、ひそやかさ、その息づかいや、鍵盤に触れるその時に生まれる発見から次の一歩が決まるような、どことなく危うい曲り道を辿る、音から次の音へのためらいがちな足どりの、未完の作曲家サティにふさわしい進行中の記録にとどめておきたい気もあった。
『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』ライナーノーツ所収
「サティの再録音に」より 高橋悠治

ドキュメントと言ったとき、この“進行中の記録”という一文が念頭にあった。おとろえという制約があるからこそ、「これしかできない」ものの中から生まれるものが録りたい。
加えて、悠治さんは、どこか白い結晶のような演奏になっていってる気がします、とも言うと笑われた。白い結晶と口に出た時、わたしの頭の中には、サティと交流のあった彫刻家ブランクーシの「接吻」という作品と、サティ最晩年の「ソクラテス」の白い音楽を思い浮かべていた。いろんなものを削ぎ落し、純化し、でもその向こうに隠し切れずにじみ出てくる歌と情感。今回のサティの録音にもそれは横溢していたように思う。
わたしがしつこく録音、録音、と言ってくることについては、「提案するのは自由だから、悪いこととは思ってない」とはっきり。これはなによりの収穫だった。
『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』はいまもなお多くの人に聴かれ続けているのは、昨今CDを駆逐して主流となりつつあるデジタル配信において、DENONレーベルの上位にずっとこの作品集がランクインしていることからもわかる。
リリースから4年。このプロジェクトは立ち消えてないと考えており、むしろ、悠治さんとまたご一緒したい気持ちは高まっている。
「誘われて」
と悠治さんのライナーノーツにあった。まだみぬ2枚目のアルバムのために、誘い続けようと思う。まずは、三軒茶屋の居酒屋さんに、いきませんか、悠治さん。
(了) ※今後動きがあれば不定期に継続します

ベルヴィル日記(4)

福島亮

 今朝、寝起きにスマートフォンの室温表示を見ると4℃だった。板張の床の冷たさを思うと、なかなか布団から出られない。窓の外はまだ暗い。それもそのはずで、冬は朝の8時くらいまで暗いし、くわえてここ最近曇りが続いている。空は、じくじく湿り、重たい。先日27日、名古屋外国語大学ワールドリベラルアーツセンター主催で、野崎歓氏の講演があり、ボードレールの「秋の歌」へと話が及んだ時、パリの冬の空がいかに暗いか、という話になった。やはり布団にくるまりながら——時差があるから、朝早かったのである——オンライン配信を視聴していた私は、そのお話に深く共感せずにはいられなかった。とはいえ、もう秋はとっくに終わり、あとは冬の深度が増すばかりだ。なにせこれからもっと寒くなってゆくのだから。

 冬の影は、初秋の頃嬉しそうに買い求めていた根菜類にも及ぶ。蕪も人参も葉付きのものはすっかり減って、どこかの倉庫で保存されていたと思われる根の部分だけが市場に並ぶ。まれに葉付きの人参があっても、その葉は和毛のようで、なんだか弱々しい。かわりに、蜜柑や柿は豊富に並んでいる。それはそれで美味しいのだけれども、もりもり茂る葉の方が私は好きなのだ。はやく暖かい季節になってほしいものだ。なにか手頃な冬の愉しみでも見つかればよいのだけれども……。

 そんなふうに思っていたところに一つの小包が届いた。歌人の川野里子さんがご著書を贈ってくださったのだ。『幻想の重量——葛原妙子の戦後短歌』(新装版、書肆侃侃房、2021年)と『葛原妙子——見るために閉ざす目』(笠間書院、2019年)である。葛原妙子は1907(明治40)年に生まれた。葛原の名前を、私は川野さんから教えていただくまでまったく知らなかった。だが、頂いた書物を読み進めていくうちに、葛原のものと知らずに記憶していた歌があることに気がついた。「晚夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて」という歌だ。いつだろう……屹立するどことなく静謐な酢の姿が脳裏に浮かぶ。思い返してみると、それはもうずいぶん前のことなのだが、永田和宏『現代秀歌』(岩波新書、2014年)のなかでこの歌が紹介されていたのである。そこで改めて『現代秀歌』を読み返してみたところ、なんと川野さんの歌も紹介されているではないか。知らずしらずのうちに、私はすでに川野さんとお会いしていたのだ。本のなかで。

 この歌と何年かぶりに再会する直前、私はもうひとつ別の、屹立する液体のイメージに出会っている。それは、つい先日刊行されたばかりの吉増剛造『詩とは何か』(講談社現代新書、2021年)のなかで紹介される田村隆一のエピソードである。それによると田村はある日武蔵野でケヤキを見ながら、「あの木、あれは武蔵野の水が立ってるんだぜ」と吉増に言ったという。このエピソードと葛原の歌とのあいだには、おそらくなんの因果関係もない。だが私としては、武蔵野の水が壜のなかの酢を呼び寄せたのだと勝手に思い込んでいる。そしてその酢は、かつて読んだ永田の書物へと私を立ち返らせ、そこで思いがけずして川野さんとも再会することになったのだ、と。

 冬の寒さと食卓の寂しさになんだか拗ねていたのだが、幾重にも繰り返される再会と想起があれば、今年の冬も乗り越えられるだろう。では、よい年末を。

むもーままめ(13)世界で一番美しい声の巻

工藤あかね

 美しい声、というのは一体なにか。歌をうたって暮らしている身なので、このことに思い至らぬ日はない。

 水晶のような声、トランペットのような声、太陽のような声、天使の声…古今東西、ジャンルを問わず、様々な文字列で美声をたたえられる人たちを、何度うらやんだことか。

 私が録音で最も数多く聴いたのは、マリア・カラスというソプラノ歌手だ。彼女の声は、喉が開いていないとか、美しくないとか、世間ではさんざんに言われてきた。確かに同時代のソプラノには美声で鳴らしたテバルディもいたし。けれど、私が何度も聴いてしまうのは、テバルディではなくカラスだった。ありていにいえば、彼女は私のアイドルだった。学生の頃イタリアに行った時、彼女の豪華な写真集をみつけた。分厚くて大きく、やたら重たかったが、何のためらいもなく何万リラも払って持ち帰った。のちにそれが日本でも安価で手に入るようになっていたのには、少なからずがっかりしたが。

 じゃあ、マリア・カラスの何がそんなに良かったのか。わたしは、彼女が自分の全存在をかけて出した声に惹かれたのではないか、と思っている。そもそも人間なんて、美醜、清濁の渦巻いた世界に生きている。オペラであれ何であれ、何かを表現するのに完全に無垢なものだけ抽出したとして、果たしてそれが本物といえるのかどうか。

 美しい声の人にはたくさん出会ってきた。けれど私には、一度聞いただけなのに、いまだに忘れられない声の持ち主がいる。

 それは、駅のホームで大泣きしていた女性だった。

 ある仕事で、東京都下に通っていた時のこと。リハーサルが終わり、駅のホームにたどり着いたら、歳の頃が30歳くらいの女性が、文字通り「爆泣き」していた。その方はどうやら一般で言うところの障害を抱えているらしく、介護役の女性がついて一生懸命なだめていたが、ホームどころか近隣に響き渡るような彼女の爆泣きと叫びは、一向にとまらなかった。

 母音が刻々と変化していたから何か言葉は言っているようだったけれど、なぜ彼女がそんなにも大泣きしていたのかはわからない。ただ一つ言えることは、彼女の泣き声が、恐ろしいほどに胸を打つ響きだったことだ。

 人前で大声を出してはいけません、騒いではいけません、女の子なんだから、おしとやかにね。

 しつけと呼ばれる、さまざまな制約から解き放たれた人間の声は、こんなにも轟いて、響いて、強くて、輝かしいものなのかと、本当にうっとりしてしまう声だった。

 ちなみに泣き声の高音部分は、どんなオペラ歌手でも羨むような音色である。喉に全く余計な力が入っていなくて弾力があり、ふくよかでシルキー、メタリックな響きもあり、よく通り、声量もすごい。

 彼女には申し訳ないけれど、爆泣き声は録音させてもらった。その録音は今でも持っていて、あれはすごい声だったと思いながら時々聞き返す。歌うたいが目指すべきは、本能に基づき、野生を取り戻すことかもしれない。

新作公演

笠井瑞丈

12月新作公演
『未来の世界』
共演者は

伊藤キムさん
小暮香帆さん
上村なおかさん

三人です

九月からリハーサルを行ってきました

作品作りは

まず

ソロなのか
群舞なのか

それを決め

劇場探し

そこから始まります

今回は一年前に

ひょんなことから
ずっと憧れの存在であった
伊藤キムさんと飲む事になり
伊藤キムさんと踊りたい
次第に私の妄想が膨らみ
そんな事から恐れ多くも
出演オファーを出しました

そしたら出演をオッケーしてもらい実現する舞台です

劇場は中野テルプシコール

テルプシコールは数多くの
舞踊家達が床に汗を落とした劇場です

そして伊藤キムさんが
以前作っていたカンパニー
『輝く未来』の
旗揚げ公演を行なった場所でもあります

そしてもう一人のダンサー小暮香帆さん
彼女は僕が新進芸術家海外留学制度で
ニューヨークから帰国した年
私の作品に出てくれたダンサーです
当時彼女は大学三年生でした

そしてその後何度か私の作品に出てもらい
笠井叡の作品にも出演することにもなりました
そして現在はソロや群舞の振り付けなどをしています

そして共に主催をしている上村なおかさん
ずっと毎年ひとつ二人でプロジェクトをやっています
二人だからやっていけることがある
これからも続けていこう

続くけていればいいこともある

ダンスは人を繋げてくれるます
だから踊るのなだと思います

過去に今の自分を想像できるか
今から未来自分を想像できるか

どうぞお立ち会いください

外国人監督が描いた日本の物語

若松恵子

「MINAMATA」と「ONODA」。外国人監督が描いた日本の物語を2つ、11月にロードショーで見た。今、なぜ水俣なのか、小野田少尉なのか。歴史の教科書で知っているからと言って、本当に知っていることになるのか? そこに生きた人々の姿から、本当に学んだのか。そんなことを考えた。

気候変動や新型コロナウイルス、今もゼロにはならない戦争。今、「水俣」や「小野田少尉」を描くことに意味を見出した外国人監督によって、国を超えて、人間の問題として、50年経ってまだ解決されていない物語として編みなおされて、届けられたのがこの映画なのだと感じた。「知っている」と思い込んでいた日本人は取り上げないテーマだったのだろう。

「MINAMATA」では、ジョニー・デップがユージン・スミスを演じている。映画のパンフレットに川口敦子が書いている。「すでに土本典昭監督作はじめ水俣と向き合った渾身の記録映画が見事な成果を差し出した後に、「史実に基づいた物語」とのことわりを冒頭に掲げた劇映画に何が描けるのか」と。しかし、このような偏見、先入観、予断から不安を持って見始めたけれど、「映画「MINAMATA」が劇映画として、ドキュメンタリーとは別のルートで現実と向き合い、そこにある真実へと近づこうとしていること、つまりは客観的な記録映像こそが真実への唯一の扉といった先入観を覆してみせたこと、その果敢な選択がユージンとアイリーンが向き合ったミナマタの真実と可能な限り共振するための術―と、監督アンドリュー・レヴィタスも、主演デップも撮影ブノワ・ドゥロームも迷いなく覚悟を決めて、それが映画の妙味を浮上させていく。」と。

川口のこの見方に私も共感する。確かに、ユージンが水俣に到着した直後に出会う「アコーディオンの少年のいる淡い緑の雨の夕べ」の風景は、いつまでも心に残るシーンとなる。作り物の限界を感じつつも劇映画として分かりやすく、「MINAMATA」を現在に再び伝えることは必要なことだったのではないかと思った。水俣病が公式に確認されてから65年、いまだ救済を求めて裁判が続いているという事、水俣のように人間によって引き起こされた環境破壊と人への被害が世界中で起きていることがエンドロールで紹介されるのを見てそう感じた。

「ONODA」は1981年生まれのフランス人監督、アルチュール・アラリによる作品で、2021年度のカンヌ映画祭の「ある視点」のオープニングに上映された。15分間のスタンディングオベーションを受けたという事だ。日本人俳優による日本語での演技。そのまま日本映画のように見ることができる。日本人が見て違和感を覚えるような日本人の描き方になっていない所が良い。上映時間の2時間54分を、小野田少尉の横で過ごしたように感じる映画だった。「小野田さんの時間を生きて見せた」そんな俳優陣の演技が良かった。小野田さんの内面の葛藤がモノローグで語られる演出など一切なく、上官の命令を守って赴任地を離れようとしない小野田の姿と、彼の判断に従って同行する4人の男たち、事実通りなのだろうが、最後まで小野田のそばを離れず、忠誠をつくし、命を落とす、そんな人間の在り方の不思議さをしみじみ感じた。日本に帰るヘリコプターの中で、これまで自分の世界の全てだったルバング島を小野田は上から眺める。セリフも字幕もない、小野田の顔のクローズアップのラストシーンだ。俯瞰してみて、島のあまりの小ささに愕然としたのではないか。そんな思いを重ねて私は見ていた。シチュエーションを変えて、同じような悲劇が今でも起こっているのではないか、そう思わせる象徴的なシーンだった。

水俣については、その後こんなニュースが入ってきた。
原一男監督のドキュメンタリー「水俣曼荼羅」(3部構成で上映時間6時間12分)が完成し、11月27日からシアター・イメージフォーラム他で上映されるという事だ。見てみたいけれど、6時間に耐えられるだろうか。
「MINAMATA」の映画の写真を帯につけた『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』という石井妙子による評伝が出版されている。ユージン・スミスの写真により「水俣」と出会い直し、福島原発事故によりアイリーンと再会した石井妙子が、コロナ禍の2021年に取材に出かけ、ユージンとアイリーンについて書いている。読み始めたところだ。ほぼ同世代の石井妙子によって描かれるユージンとアイリーンの姿にも興味を惹かれる。

『幻視 IN 堺~能舞台に舞うジャワの夢~』こぼれ話 

冨岡三智

10月にやった公演についてまだ書くのか!と呆れられそうだが、備忘録としてもう少し書き留めておきたい。

 ●モチョパット

公演の一番最初に、モチョパットと呼ばれる詩の朗誦をナナンさんにお願いする。これは当初ちらしに書いていたプログラムにはない。実は今、関西のジャワ・ガムラン界ではモチョパットがブームになっている(勉強会まである!)という事情もあるが、ジャワでは詩の朗誦が盛んなこと、そしてそこに霊的な力があると考えられていることを示したいなと思って入れた。コロナ禍の収束を祈るような内容で…とナナンさんに詩の選択を一任したら、「シンガ・シンガ…」で始まるスラカルタ宮廷詩人・ロンゴストラスノのパンクル形式の詩(1929年)を選んでくれた。これは「災厄よ、去れ」という内容なのだが、実は私の舞踊作品用に委嘱した音楽『陰陽 ON-YO』(2002年)で使われている詩でもある。作曲者が私が好きそうな詩だといってこの詩を使ってくれたのだ。そんな経緯を全然知らないナナンさんが今回これを選んでくれたのが、個人的に嬉しい。

 ●スリンピの衣装

今回、能舞台で上演することもあって、スリンピ本来の衣装の組み合わせとは違う衣装にした。今回の演目『スリンピ・ロボン』はスラカルタ王家の演目である。同王家の女性舞踊では通常サイズよりも1.5倍長いバティックを裾を引きずるように腰に巻いて着付け、この裾を蹴りながら踊る。しかし、私は今まで2度能舞台で踊った経験から、足袋を履いてこの着付けをすると裾が足首に絡まって非常に踊りにくいと感じていた。ジャワ舞踊を踊る時は素足である。素足だと布は足に絡みつかないのだが、木綿の足袋を履くと摩擦が起きるのか、裾が足袋からうまく離れてくれないのだ。以前私が踊った時は、上演の1か月前くらいに下見で能舞台に上がらせてもらって感触をつかんでいたから、家で十分練習ができた。しかも1人で踊り、古典舞踊そのままでもないから、足さばきがうまくいくよう振付も改変できた。しかし、今回はコロナで移動が制限されていることもあって、他の踊り手は直前のリハまで能舞台に立つ機会がないし、4人で古典舞踊を踊るから振付は変えられない。というわけで、裾を引きずるのは断念したのだった。

しかし、ジャワの正装なら通常サイズのバティックをくるぶし丈に着て、引きずる裾もない。これなら足袋を穿いても着物と同様に足の捌きは良いはず…と思って試してみたところ、全然違和感がない。というわけでバティックは正装の巻き方にする。それに合わせて上半身も正装で着用するクバヤ(ブラウス)にした。私は4着お揃いのクバヤを持っていなかったが、関西のジャワ舞踊界にジャワのクバヤを仕立てられる人がいることがこの公演を決めた後に分かり、仕立ててもらったのである。宮廷舞踊の衣装がクバヤというのは普通はないけれど(ジャワで年配の人がクバヤを着る例は近年増えつつあるが)、能舞台に着物で立つというイメージからすれば、肌を覆った衣装は似つかわしい。しかも、白の布地でシンプルに仕立てたクバヤは私の持つ天女の衣のイメージに合致する。自画自賛だが、能の伝統的な空間にこのクバヤはしっくり収まったような気がする。衣装がバティック・クバヤの組み合わせになったので、頭部はバングン・トゥラッという髪型にした。これはスラカルタ宮廷に入る時の髪型である。

ちなみに、能舞台での上演ということで足袋を履く前提だったが、他の能舞台の中には舞台に敷物を敷いて素足での上演に対応している所もある。実は、私も当初は館主とそれを検討した。実際にそうしている能舞台に連絡したり、敷物の見本を取り寄せたりしたが、最終的には舞台には何も敷かずにそのままでいこうということになった。というわけで床でなく衣装の方を変えたのである。

 ●つるつる、揺れる、冷える能舞台

能舞台はつるつるに磨き上げられているのでよく滑る。ちなみに能舞台は年に何度か牛乳で磨き上げるのだと大澤館主が言っておられた。能舞台というのは維持するだけでも大変なのだなあとつくづく思う。そのつるつるの舞台でスリシック(爪先立ってやや小走りに移動する)やケンセル(横に滑る)をすると、ちょっと足が取られそうに感じる時がある。今回のスリンピ上演はスラカルタ王家の通常テンポよりゆっくり目なのだが――私の好みでもあるし、今回の演奏陣のバランスがちょうどよくなるテンポでもあった――、公演後、踊り手同士でテンポがゆっくりで踊りやすかった、滑らないようにと緊張していつもよりも足が疲れたという話になった。スリ足とゆったりしたテンポはつるつるの床で舞うには必然なのかもしれない…という気がする。

また、4人一緒に能舞台に載って気づいたのが、意外に舞台の床が振動することである。今まで1人でしか舞ったことがなかったから気づかなかった。宮廷女性舞踊では足を上げることはないが、それでも4人揃ってスリシックやケンセルで移動すると、床から足元へ腰へと揺れが伝わってくる。特に、床に直に座るシルップと呼ばれる場面ではなおさらである。揺れるのは、音響効果のため能舞台の床下が空いているからだろう。そういえば、以前、豪華客船でスリンピを踊った時も、シルップの時に波の揺れが伝わってきて酔いそうになったことを思い出した。

舞台で足元が冷えるのも、床下が空いているからだそうだ。特にリハの日は前日までより冷え込んだせいか、足袋を履いてしばらくするとすぐに足の指がつって、踊り手は皆苦労した。公演の日はわりと暖かかったようで、冷えあがってくることはなくほっとした。

 ●演奏席

ガムラン楽器だが、歌い手やルバーブ(胡弓)、グンデル、ガンバンなど、柔らかい音色で旋律を細かく装飾する楽器は舞台横の地謡座に、太鼓やサロン、ゴング類など重くて主旋律を主に担う楽器は舞台下に配した。もとより地謡座には楽器は全部収まりきらないし、上に書いたように舞台床下は空いているから、重い楽器はできるだけ上にあげたくない。舞台(舞踊スペース)は空けたいし、背後の松はきちんと見せたい…ということで館主に相談すると、観客席が外せるという。というわけで、地謡座に近い辺りの観客席を外して台を設置し、そこに楽器を配置した次第。演奏者が2か所に分かれるのは演奏しづらいのだが、仕方がない。

というわけで、試行錯誤の過程やら能舞台と取り組んだ記憶も少し書きとどめておきたいと思って今月も公演話になった。

水牛的読書日記 2021年11月

アサノタカオ

11月某日 ある読書会で出会った方がお亡くなりになった。病気であることは知っていた。かつてともに読んだ本を開いて、その人の声を思い出す。これからも。ありがとうございました。

11月某日 韓国文学翻訳院の主催、小説家のチョン・セランさん、津村記久子さんのオンライントークを高校生の娘と視聴した。司会者の発言を受けて「そうかな? チョン・セランの「リセット」は暗いだけの小説じゃないよ」と娘がとなりで。「最後には希望もある」と。ぼくは「リセット」をまだ読んでいないので、よくわからない。この作品は『声をあげます』(斎藤真理子訳、亜紀書房)に収録されている。

11月某日 『現代詩手帖』2021年11月号を購入。特集は「ミャンマー詩は抵抗する」。今年2月、ミャンマーで起こった軍事クーデター。2019年にミャンマーを旅した妻とともに、一連の報道を注視していた。SNSを通じて、軍事政権に抵抗する民主化運動の前線に詩人がいることも伝え聞いていた。いてもたってもいられない気持ちで詩誌のページをひらき、3月3日、デモに参加して治安部隊に射殺されたケイ・ザー・ウィンの詩「獄中からの手紙」を読む。詩人の四元康祐さんによる訳。

11月某日 在日の文学者・金石範先生の小説を読む。2010年代以降の比較的近年の作品、『死者は地上に』『過去からの行進』『海の底から』(以上、岩波書店)を集中して続けて。『金石範評論集Ⅰ 文学・言語論』(明石書店)も読みはじめたところだが、これはイ・ヨンスクさん監修、姜信子さん編集によるすばらしい企画。金石範先生が70年代に発表した『ことばの呪縛』『口あるものは語れ』『民族・ことば・文学』などの評論集は、日本語環境で「ポストコロニアル」という用語が広まるはるか前に、帝国主義的な国家と歴史のイデオロギーに抵抗する批判精神の上に立ってみずからの文学や言語の思想を語るきわめて先駆的な内容だった。評論のベストセレクションがこうして一冊のあたらしい本にまとめられ、ていねいな解説や解題とともに読めるようになったことはうれしい。

関連して雑誌『対抗言論』2号のふたつの座談会を読む。康潤伊さん、櫻井信栄さん、杉田俊介さんによる「在日コリアン文学15冊を読む」、温又柔さん、木村友祐さんらによる「共同討議 文学はいま何に「対抗」すべきか?」。前者では、金石範先生の小説「虚夢譚」が紹介されていた。

11月某日 最寄りの書店ポルベニールブックストアで、「TAIWAN BOOK FAIR 閲読台湾!」の冊子をもらう。それとは別に、台湾文化センターが発行する「TAIWAN BOOKSTAR 2021」という文庫サイズのおしゃれな冊子ももらった。作家・呉明益の小説をはじめ、台湾書籍がいろいろ紹介されていて眺めているだけで楽しい。

11月某日 アメリカの作家、カレン・テイ・ヤマシタさんが全米図書賞のthe Medal for Distinguished Contribution to American Lettersを受賞。おめでとうございます。同賞は過去にトニ・モリスン、レイ・ブラッドベリ、アーシュラ・K・ル=グウィンら錚々たる作家が受賞している。カレンさんは受賞後のオンライントークで、アジア系アメリカ人の作家としてはじめて同賞に選出されたマキシン・ホン・キングストンのことから語っていた。マキシン・ホン・キングストンの小説については、藤本和子訳で『チャイナ・メン』(新潮文庫)がある。

ぼくは20年来、カレンさんと親しく交流していて、彼女のエッセイ「旅する声」(『「私」の探求』[今福龍太編、岩波書店]所収)と小説「ぶらじる丸(抄)」(『すばる』2008年7月号)を今福龍太先生と共訳している。カレンさんの小説の日本語訳は、本としては『熱帯雨林の彼方へ』(風間賢二訳、新潮社)1冊のみ。『ぶらじる丸』と『オレンジ回帰線』(これはめちゃくちゃおもしろい小説!)は抄訳のみあるが、ほかの作品も翻訳出版されるとよいなと思う。

11月某日 妻が10日ほど旅したので、その間、Netflixで韓国ドラマを集中して鑑賞した。『秘密の森』『補佐官』『イカゲーム』『マイネーム』『地獄が呼んでいる』『調査官ク・ギョンイ』……。凝りだすととまらない。韓国映画も含めて昼夜のべつまくなしに映像を見まくって、これが「ネトフリ廃人」かと思った。
東京・新大久保のコリアタウンへ娘と繰り出し、『イカゲーム』に登場した「タルゴナゲーム」を実地調査。カルメラ焼きみたいなお菓子にさまざまな模様の型をおしあて、爪楊枝や針などできれいにくりぬいたら勝ち(?)、という韓国の遊びらしい。傘の模様にチャレンジしたが、途中でぱきんと割れてしまう。ドラマの中ではこの瞬間、射殺される。無念。

11月某日 明星大学の日本文化学科で「編集論」のゲスト講義をおこなった。この授業は、先輩の編集者・竹中龍太さんが担当。詩人・山尾三省の本の生誕80年出版企画を素材に、本をつくることと場所を知ること、編集とフィールドワークの関わりについて話した。リアクションペーパーを見ると、学生のみなさんに話の内容は伝わっているようでひと安心。多摩センター近くの大学キャンパス周辺の紅葉がきれいだった。

講義を終えた夜、「もしかしたら」と京王線分倍河原駅で途中下車。かねて訪ねたかったマルジナリア書店へ行くと、さいわいオープンしていた。拙随筆集『読むことの風』(サウダージ・ブックス)が棚に並んでいてうれしい。よはく舎刊行の『YOUTHQUAKE U30世代がつくる政治と社会の教科書』を購入。自分とU30世代の娘のために。

11月某日 突然の訃報がまたしても。長谷川浩さんがお亡くなりになった。ぼくは編集者の長谷川さんのお誘いで、『Spectator』などいくつかの雑誌で文章を書かせてもらった。むかし住んでいた神奈川県葉山町の一色海岸でともに遊ぶ人としても、お付き合いしていた。やさしい人で、いつも幼い娘と遊んでくれた。思い出の中で、夏の海、シーカヤックに乗って沖をゆく子どもと長谷川さんの姿がきらきら輝いている。

長谷川さんは下北沢の対抗文化専門カフェ・バー&古本屋である気流舎の運営メンバーでもあり、お店で偲ぶ会が開催されるとのことで訪問。祭壇に置かれた革ジャン姿のかっこいい遺影に手を合わせた後、久しぶりに会ったメンバーとおしゃべりし、棚の本を眺めた。長谷川さんは長年、集英社で仕事をし、90年代に文芸誌『すばる』の編集にもたずさわり、のち編集長に。ずらりと並ぶ長谷川さんが手がけたバックナンバーがなつかしい。学生時代に熱心に読みこんだ特集の数々、ある意味ぼくは「長谷川チルドレン」だったのだ。長谷川さんは書籍編集者としてもワールドワイドに活躍し、『神経政治学』のサイケデリック心理学者ティモシー・リアリーからミハイル・ゴルバチョフまで交流のふり幅の大きさにも驚いた。

不思議と本の話をしたことはない。まして出版社での仕事の話は一度も聞いたことがない。一色海岸で少し猫背の後ろ姿に声をかけると、長谷川さんはいつも「ああ、アサノさん」と片手を上げてはにかんだ笑顔でふりかえった。夏の夜、おたがいの旅の話をしながら、ビールを片手に浜辺のバーのとまり木に腰を下ろし、打ち上げ花火を眺めたこともあった。おーい、長谷川さん。そのうち彼岸のバーでまた会えますか。でも、本の話をするのは、やっぱりやめておきましょうね。生きているあいだに、ぼくらはもういやというほど読んで読んで読んだのだから。

11月某日 宮内勝典さんの待望の新作長編小説『二千億の果実』(河出書房新社)が届く。『文藝』での連載を毎回、興奮しながら読んできたが、いよいよ一冊の本に。年末年始に全身全霊を捧げて読書したい。2005年に刊行された宮内さんの小説『焼身』(集英社)はもともと『すばる』に連載され、当時編集長だった長谷川浩さんが編集を担当したのだった。

言葉と本が行ったり来たり(3)『ロボ・サピエンス前史』

長谷部千彩

八巻美恵さま

以前、お話ししたことがあるかもしれませんが、若い頃、私は自分で作ったパソコンを使っていました。身近にそういった趣味を持つ友人がいて、プラモデルみたいなものだよ、と言うので、それならば、と自作するようになったのです。
ケースを選び、CPUを選び、メモリを選び、グラフィックボードを選び、作業の半分以上はパーツ選び。そこから先は本当に簡単で、言葉通り、プラモデルを組み立てる要領です。不要なパーツが出ると、新たにパーツを加え、パソコンをまた別に組み立てて、頼まれもしないのにひとにあげたり。作ることがとても楽しかったのです。
ですから、八巻さんからいただいたお手紙の“パソコンはなくてはならない道具だけれど、単なる道具という閾をとっくに超えてしまっているのに、その芯の部分のようなところがわたしには理解不能です。”という一文を読み、私はパソコンを電動自転車のようなものと捉えているけれど、それは私にとってパソコンがブラックボックスではないからかもしれない、と思いました。

私に自作を勧めてくれた友人は分解マニアでもありました。ゲーム機など新機種が発売されると入手して、ケースを開けて構造を確認するのです。型番違いのものも調べたいと言うので、私のゲーム機を彼のゲーム機と交換したこともあります。中を見たくて仕方がないようでした。
東京を離れた彼とは疎遠になり、いまは連絡先もわかりません。でも、当時の彼は私にとって頼れる友達で、パーツを買いに秋葉原へ同行してもらったことなど懐かしい思い出です。
バイク便のライダーの彼とブランド物で身を固めた私は、傍目には奇妙なコンビだったかもしれません。けれど、私も洋服を買ったら、必ず裏返しにして仕立てを確かめるし、訪れた国の政治情勢がどうなっているのか調べたくなるし、いま思えば似たもの同士だったのです。
解体したり、裏返したり、構造を確かめると、それに対する認識がダイナミックに変わるというのは、ひとつの事実だと思います。あえて知らないままにしておくという選択もありますが。

今月読んだ中で面白かった本は、島田虎之介さんの『ロボ・サピエンス前史』。SFコミックです。ロボットの数が人間の数よりもはるかに増えた未来が舞台。ロマンティックで素敵なストーリーなのですが(そしてせつない)、私が「いいなあ」と思ったのは、メインキャラクターがロボットということもあり、台詞が少なく、表情が極端に抑制されているところです。
一般的に表情が豊かというのは良いことのように語られます。でも、その豊かな表情が必ずしも感情をそのまま表しているわけではない。例えば、人間の笑顔の半分ぐらいは、円滑に会話を進めるため、敵ではないことを示すために浮かべているものではないでしょうか。少なくとも私はそうです。
では、恣意的に選んで顔に載せる表情、他者へのメッセージとしての表情を排したら――?感情の表出だけに表情を浮かべるなら、案外人間も淡々としたものかもしれない。内面では多くのことを感じながらも、言葉にするのだって実際はほんの少しですし。そんなことを常々考えているので、笑い転げたり、泣き出したりしない、わずかな表情だけを使い分けて生きるロボットのほうに、私はむしろ裸の人間の姿を見たのでした。
作中、核廃棄物が無害化するまで、25万年もの間、ひとり静かにロボットは貯蔵施設の管理を勤めます。ひとは物語が好きだから、一生をドラマティックに綴りたがる。それはきっと欲望のひとつですよね。けれど、神の視点で見下ろせば、人間もそのロボットと同じように、80年なのか90年なのか、孤独の中を粛々と生きているのかもしれません。

今年も残すところあと一ヶ月。八巻さんに紹介していただいた『センス・オブ・ワンダー』は、年内中に読もうと思います。次の手紙には感想を書けるかしら。
東京もだいぶ冷えてきました。風邪など引かぬようお気をつけ下さい。
それでは、また。

長谷部千彩
2021.11.30

 
 
*編集部註:言葉と本が行ったり来たり(2)『センス・オブ・ワンダー』(八巻美恵)は長谷部千彩さん主宰のサイト、memoranndom.tokyoに掲載されています。まさに、行ったり来たり、です。