ベルヴィル日記(3)

福島亮

 ここ数日、雨が続いている。二週間ほど前になるが、洗面所のガラス窓のガラスが、もともとはいっていたヒビにそって外れてしまい、二日ほど窓に穴があいた状態で過ごすはめになった。どうにかテープで応急処置をしたから今は風が吹き込むことはないのだが、その二日間に風邪をひき、いまも鼻風邪が続いている。いまだにフランスの冬には慣れない。

 10月12日の夜、コンゴ共和国生まれの作家アラン・マバンク(1966- )と会うことができた。とある小さな書店で、マバンクとセネガル生まれの詩人スレイマン・ディアマンカ(1974- )が対談をおこなっており、立ち会うことができたのだ。

 2006年に発表した『ヤマアラシの回想』という小説でルノドー賞を受賞したマバンクは、現代フランス語文学を代表する小説家の一人だ。マバンクは現在、合衆国でカリフォルニア大学ロサンゼルス校教授をつとめつつ、フランスで刊行されている「ポワン・ポエジー」という叢書の責任者も担当している。この叢書の紹介をすることがイベントの目的だった。ベルヴィルとはあまり関係ないけれども、今回はこのイベントのことを備忘録風に書いておこうと思う。

 なんといっても、ディアマンカの朗読がすばらしかった。彼は、がっしりした身体をしているが、雰囲気は物静かで、すこしはにかんだような目をしている。どんな詩人なのだろう、と思っていたが、いざ彼が口を開くと、原稿も本もなにも見ていないのに、途切れることなく、とうとうと詩句が流れ出すので驚いた。彼のパフォーマンスは、「スラム」や「スポークン・ワード」と呼ばれるものなのだが、その詩にはなんともいえないリズムと言葉遊びがあった。朗読しているあいだ、ディアマンカの身体はかすかに前後に揺れており、その揺れに合わせて、言葉が身体から湧き出てくる。不思議な感覚なのだが、彼の身体から溢れ出す言葉を聴きながら、まるで、ディアマンカの身体のなかに書物があり、それが彼の舌を通じて音声に変換されているような心持ちがした。(ディアマンカの「紙の蝶々(パピヨン・アン・パピエ)」という作品がYouTubeにあがっていたので、リンクをはっておこう。この作品もあの日の夜、朗読された。https://youtu.be/mq_1QnemAWc

 朗読には、マバンクも舌を巻いていた。「なんでそんな風に朗読できるの?」と思わず質問をする。ディアマンカの答えはこうだった。彼の両親は文字の読み書きが自由にできず、ディアマンカは子どもの頃から記憶を駆使する生活を送っていたのだという。本を読んでは、それを記憶に刻みつけ、口にしていたらしい。だからなのだろうか、ディアマンカが話しているのを聴いていると、べつに詩作品を朗読しているわけではないのに、どこかリズムを感じる。ゆっくりと揺れるようなディアマンカのフランス語。この人のフランス語ならば、どうにか身につけてみたい——そんなふうに思っている自分に、驚きもした。あるテレビ番組では、ディアマンカのことを「現代のグリオ」と紹介していた。言い得て妙だと思う。

 会場は人で埋まっていた。その多くがアフリカ系の人たちだ。老若男女、さまざまである。みな、同郷の作家や詩人に会うためにやってきているようだった。もちろん、人気作家マバンクを目当てにやってきている私のような人もいただろうけれど。この有名作家に誰もが関心をよせている。

 マバンクとディアマンカの対談が終わって、会場に質疑応答がふられると、ある紳士がおもむろに手をあげて、こう質問する。「マバンクさん、私はあなたの本をまだ一冊も読んだことがないのですが、何を手始めに読んだらよいでしょうか?」会場からは笑い声。マバンクも笑いながら、「誰かおすすめを言ってやってくれ」となげかける。「『明日、僕は二十歳になる』なんかどうだろう」「『割れたグラス』がいいと思うよ」と会場から声があがった。

 会場のすみで控えめに手を上げている若い女性がいる。大学生だろうか。彼女はギニア出身だという。「マバンクさん、パリだとこんな風に本屋があって、誰でも本を手に取ることができます。あなたの本も自由に読むことができます。でも、私の国の若者はそうはいきません。そもそも本がないのです。あなたは有名人なのですから、政治家にかけあったりして、どうにか状況を変えてくれませんか。」「すでにしています、何度もやっています」とマバンクは答え、「文化事業の担当者、いや非=文化事業の担当者にも掛け合いました(会場からは笑いがおこる)。でも思い起こしてみてください。アフリカの国の大統領で、だれか演説中に文学作品を引用したことのある人はいたでしょうか。フランスの大統領を見てください。文学作品の引用をしています。でもアフリカはどうですか。誰もいません。誰もいないのです。」私の後ろに立っていた男性は、それがアフリカさ、とつぶやいた。マバンクはさらに続ける。「政治家が率先して文化に関心を持たなければならないのです。そうでなければ……」

 ふと日本の首相はどうだったか、なにか文学作品を引用したりしていただろうか……と自問し、答えに窮してしまった。

 イベント終了後、マバンクは彼と言葉をかわそうとする一人ひとりと談笑し、サインを求められれば、一人一冊などと言わず、目の前に積まれた本すべてにサインをしていた。ディアマンカの方は、音楽をやっているというやはり物静かなちょっと不思議な青年とゆっくりと語り合っていた。不思議な、というのは、質疑応答の際にこの青年も手を挙げて、(おそらく)詩と音楽の関係について質問をしていたのだが、それは聞き取れないほどか細く静かな声で、しかもゆっくりした口調だったからである。それは何かを伝えようというよりも、かろうじて聞こえる独白のようだった。ディアマンカもまた、朗読以外のタイミングでは、ゆっくりと静かな声で話す。二人の世界はどこかで響き合っているようだった。

 一足先に書店から出て、帰路につく。まだ店の中には大勢の人がいたから、あの後もずっと談笑が続いたに違いない。メトロに乗りながら、まだ、あの場にいた人々の語り合う声が耳元でこだましているような気がしていた。

水牛的読書日記 2021年10月

アサノタカオ

10月某日 京都への旅から帰ると、荘司和子さんがお亡くなりになったことを知った。荘司さんはタイ語の翻訳家で講師。著書に『ソムタムの歌』(筑摩書房)、訳書に『カラワン楽団の冒険』(晶文社)など。サウダージ・ブックスから刊行した『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』(八巻美恵編)の翻訳で大変お世話になった。一年に一度は電子メールでやりとりし、タイの詩について、歌について教えていただいた。荘司さん、本当にありがとうございます。

 彼は死んだ 森のはずれで
 ……
 彼は人知れず散った
 けれど今 その名は轟く
 人びとはその名を尋ねその人について知ろうとする
 その人の名は ジット・プミサク
 思想家にして著述家
 人びとの行く手 照らす灯火
 ――スラチャイ・ジャンティマトン「ジット・プミサク」(荘司和子訳)

荘司さんが訳したジット・プミサク詩集やスラチャイ・ジャンティマトン短編集はウェブページ「水牛の本棚」で読むことができます。
http://suigyu.com/hondana/index.html

10月某日 芥川賞や直木賞など日本の「文壇」賞にはまったく興味がないけれど、ノーベル文学賞の発表は毎回心待ちにしている。文学を通じて、世界の広さ、深さを知ることのできる喜び。昨年の受賞者、ルイーズ・グリュックの詩集『野生のアイリス』(野中美峰訳、KADOKAWA)を読みながら発表時間を待つ。と、第一報のニュースに「ザンジバル出身」の文字を発見し、驚いた。
2010年にサウダージ・ブックスから出版した飯沢耕太郎さんの『石都奇譚集』は東アフリカ、インド洋に浮かぶザンジバル島を舞台にしたトラヴェローグ。ぼくはこの本の編集のための取材をかねて飯沢さんとともにこの島を旅したことがあり、「ストーンタウン」と呼ばれる迷路のような石造りの旧市街を何日もさまよい歩いた。だから、気になったのだ。
2021年ノーベル文学賞は、タンザニア連合共和国に属するザンジバル出身の作家 Abdulrazak Gurnah が受賞した。現在は英国を拠点とし、英語で書くポストコロニアル文学の作家で、サルマン・ラシュディの文学の研究などもおこなっているようだが、邦訳された著作はまだない。日本の大学図書館でもその研究書以外の彼の小説(原著)の所蔵は少なそう。さまざまな書誌情報サイトを検索しても、日本語文献はあまり見つからない。
ノーベル文学賞発表後にいちはやく公開された『The Gurdian』の記事によると、Abdulrazak Gurnahは、1948年に当時英領だったザンジバル島のインド系の家庭に生まれ、1964年のザンジバル革命後に難民のようにして英国へ渡り、小説家になったという。アフリカ中心主義を掲げるアフロ・シラジ党による革命では、それまで支配階級だったアラブ系やインド系の多くの人々が迫害されたと聞く。むろんその大元には、ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地化の問題がある。こうした苛烈な歴史とディアスポラ(民族離散)の経験からどんな文学が生み出されたのか。近い将来、日本でこの作家の著作が翻訳、出版されることを期待したい。

10月某日 川内有緒さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)は、すばらしいノンフィクションだった。全盲の視覚障害者が美術を鑑賞するとは、どういうことか。最後のページを閉じてもはっきりした答えは見つからず、目の見える/見えないのあいだにある「わからないこと」がむしろ増えた。川内さんがつづるのは、「目の見ない白鳥さん」とともに全国各地の美術館や芸術祭、寺社をたずねる旅の物語。語り口は風通しが良く、文体はやわらかで軽妙。しかし読後にお土産として渡された問いはずっしりと重い。その重みを感じつづけることが大切だと今は思う。川内さんの紀行作品『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)も読み返したくなった。

10月某日 前夜、千葉県を中心に関東一帯で最大震度5強の地震が発生した。東日本大震災を思い出すほどの大きな揺れを感じたが、神奈川の自宅で被害といえるものはなかった。棚から落ちた何冊かの本、崩れた書類の山を片付け、避難用の防災グッズと靴を玄関に準備しておいた。
この日は早朝から大阪に出張する予定だったのだが、JRの在来線は地震の影響で広範囲で運休し、交通機関の混乱がしばらくつづいていた。東海道新幹線は多少の遅延はあるもののうごいている様子なので、予定を午後の出発に変更して大阪へ。道中では、「シリーズ ケアをひらく」より村上靖彦さんの『在宅無限大』『摘便とお花見』(以上、医学書院)を読む。看護師の語りをめぐる現象学的研究の書。
大阪・桃谷で、認知症の人と家族の会大阪府支部のつどい「認知症移動支援ボランティア養成講座」の実習に、取材を兼ねて参加した。森ノ宮医療大学の先生で作業療法士の松下太さんから認知症ケアの技法として注目される「ユマニチュード」や、車椅子など福祉用具の使い方を学ぶ。折りたたみ式の車いすを開いたこともなかったので、実際に手足を動かしてみてなるほどの連続。実習の後は、大阪市認知症の人の社会活動推進センター「ゆっくりの部屋」のライブラリーに立ち寄り、川内有緒さん『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を寄贈した。
講座終了後の夜、桃谷から鶴橋までの界隈をゆっくり散策した。桃谷には子が生まれた病院があり、なつかしい。病院に立ち寄り、消灯したロビーを外からのぞくと、待合室のシートにひとり座り、暗がりの中でスマホの画面をのぞきこむ若い男の姿が見えた。不安な夜を過ごす人々のあしたに希望の道が開かれますように、と心の中で小さな祈りを捧げた。

10月某日 昨日に引き続き、大阪のコリアタウン「猪飼野」の周辺を歩きながら思い出の古書店をめぐることに。子が生まれた2004年前後は一時的に大阪に住んでいて、南巽の日之出書房、鶴橋のあじろ書林、楽人館にほんとうによく通った。こういう店で、ぼくは韓国文学や在日文学の世界に本格的に出会ったのだった。日之出書房は閉店して、いまは谷町線の喜連瓜破駅に移転。地下鉄のアナウンスで見慣れない漢字の駅名を「きれうりわり」と読むことを知った。
先々月に亡くなった画家の富山妙子と李應魯、朴仁景との対話『ソウル—パリ—東京』(記録社)を楽人館で購入し、帰路、新大阪からの新幹線車内でじっくり読みはじめる。1985年刊。アジア一帯で日本がおこなった戦争と植民地支配の暴力の記憶はいまよりも生々しいものとして存在し、同時代の韓国社会は光州事件以後、軍事政権に抵抗する民主化運動のうねりに大きく揺れ動いていた。日本と韓国のアーティストが、これほどの知的な緊張感をもって対話をすることが今あるだろうか。ひとつひとつのことばの背後にある、ポストコロニアルな世界を激しく生き抜いた三者の旅する人生の振れ幅が大きく、読んでいてひたすら圧倒される。

「1970年秋、私は思いきって韓国をたずね、釜山から列車に乗り戦前に通ったおなじ鉄道沿線の風景をたどってみた。……あのころ私は釜山で青葡萄を一籠買い、マスカットのような大粒の葡萄を食べながら、車窓の風景を眺めたものだ。戦後『朝鮮詩集』を読み、李陸史の「青葡萄」という詩を知った」(富山妙子)

10月某日 台湾の作家、蘇偉貞の長編小説『沈黙の島』(あるむ)を読了。主人公の晨勉(チェンミェン)の物語と、彼女が想像するもうひとりの晨勉の物語が交互に語られるという凝った仕掛け。重厚な小説で、倉本知明さんの翻訳がよかった。
先月、名古屋の本屋ON READINGの黒田杏子さんから聞いた「閲読台湾」という台湾文化をテーマにしたブックフェアが、全国各地の書店ではじまる。今年2021年に入り、台湾の作家・呉明益の小説の日本語版が続々と刊行され、故・天野健太郎さんの名訳による『歩道橋の魔術師』と『自転車泥棒』が河出文庫、文春文庫で文庫化された。この機会に台湾文学も、いろいろ読みたい。
ちなみにぼくの亡き父親は植民地時代の台湾・台中に生まれた、いわゆる「湾生」だ。戦後の引き揚げ時は12、3歳で記憶はあるはずだが、子供たちに台湾のことを語ることは一度もなかった。植民地主義の歴史は、暗い影のようなものとして自分の内に存在している。

10月某日 北海道大学出版会が主催、朝鮮語学・日韓対照言語学が専門の野間秀樹さんのオンライン講演会に参加。同出版会から刊行された新著『言語 この希望に満ちたもの』をめぐって。この本は事前に読んでおり、講演のお話も興味深い内容、美術作家としての顔も持つ野間さんがみずから手がけた本の装丁についてのエピソードもおもしろかった。野間さんの『新版 ハングルの誕生』(平凡社ライブラリー)も手元にあるが、大著ゆえにこちらはまだ読むことができていない。

10月某日 雨の休日、神奈川県立美術館葉山館で開催された「生誕110年 香月泰男展」を家族で見に行く。画家・香月泰男が抑留体験を描いた《シベリア・シリーズ》全57点は強烈圧巻だった。絵画の圧が強すぎてやや心身不調となり、館内のベンチに座り込んでしまった。うちの子は《シベリア》以前の少年のシリーズ、妻は晩年の青がよかったとのこと。ミュージアムショップで図録『日韓近代美術家のまなざし——『朝鮮』で描く』を購入。読み応えあり。

10月某日 東久留米市立図書館で開催される「図書館フェス2021」。今年のテーマは「言葉をとどける、世界はカラフル」。「本屋さんのトビラ」という企画に参加し、おすすめの1冊として、温又柔さんの小説『真ん中の子どもたち』(集英社)を紹介した。

「台湾人の母、日本人の父のもとに生まれ、東京で育った大学生の主人公・琴子(ミーミー)が、中国の上海に語学留学する。台湾、日本、中国。国や民族のはざまで生き、迷い、悩む若者たちの人生が異郷で交差する。どの「普通」にも収まらない琴子ら「真ん中の子ども」たち。自分だけの言葉、自分たちだけの言葉を探す主人公たちの旅を描いた青春小説です。」

ぼくは都会の本屋さんに通うようになる前の少年時代、地元の図書館でよく本を借りて読んでいた。そこで日本と海外の文学の世界に目覚めたのだった。だから図書館で、とくにいまの中学生や高校生に読んでほしいと願って推薦文を書いた。この本をきっかけに、温さんのほかの小説や、日本語についてのエッセイにも関心をもってもらえるとうれしい。
https://www.lib.city.higashikurume.lg.jp/soshiki/2/chuou-tobira20211020.html#tobira15

10月某日 思うところがあり、年内は在日文学の大家・金石範先生が近年発表した小説を集中して読むことにする。『火山島』全7巻(文藝春秋)に代表されるように、1948年におこった済州島4・3虐殺事件を中心に、朝鮮半島の歴史、そして在日というディアスポラの歴史のなかで語れられなかった声に身を捧げるように、90歳を超えていまなお日本語で小説を書き続けている。多くの作品のモチーフ、登場する人物たちやエピソードには反復と連続が多いのが金石範文学の特徴だが、それは大切なことは何度でも語り直さなければならない、と作家がつよく信じているからだろう。なぜ書き続けるのか。そこには、近代文学の概念や作家個人の思想を超えた、太古の時代から無名の人々の群れによって語り継がれてきた「神話」のようなはたらきもあるのではないだろうか。

色川さんの贈り物

若松恵子

作家の色川武大に、特別な親しみを感じている。彼はきっと、出会った人みんなに、そんな思いを抱かせてしまう人だったのだろう。『色川武大という生き方』(田畑書店編集部編/2021年3月)は、彼の全集の月報をまとめた本で、32人の心の中に居る色川武大と会える本である。

最初の1篇、大原富枝の「たぐい稀なやさしい人」は、みごとなラブレターだ。これからは、純文学(自分の書きたいもの)だけを書いていこうと決心した矢先の色川の死を「わたしの胸をしめつける哀しみ」と大原は書く。けれども、作品の完成はみなかったけれど、彼は「他の人間が生涯かかっても遺せなかったような、妖しいほど透明な文学の美を遺していった。」と大原は続ける。彼が遺した透明な文学とは「一人の男の生涯として、悔いることのない美しい思い出とやさしさを、友人すべての胸に遺してゆくという、なまなかな人間には決して出来ない見事な生涯」そのものの事であると。

奥野健男は、「色川武大の作品は、ぼくがなぜ文学をこんなに好きになったかの根源を改めて思い起させてくれた。」と書いていて心に残る。

色川が『妖しい来客簿』で泉鏡花賞を受賞した際に、同時受賞した津島佑子の回想も胸を打つ。受賞式後の懇親会の席で、太宰治の娘である津島に「おまえの作品は父親を踏みにじっている、思い上がりもはなはだしい」と酔ってからむ相手を色川が魔法のように黙らせてしまったエピソードをひいて、「酒に酔った人を相手に、そのように冷静に、しかも突き放すでもなく、話しかけることができる人を、私は他に知らなかった。そして、今でも知らない。」と津島は書く。その後の、子どもも含めた色川との交流の思い出を語りながら、津島は文章の最後をこうしめくくる。「個人的な、この程度の出会いに、特別な意味など、あろうはずはない。作家について何かを語るのなら、作品のことを語るべきなのだ。そうは思うのだが、同じ時間を偶然、共有し、さりげなくそのまま遠のいていく、ということに、その時間の延長線上に今でもまだ、生きている者として、やはり、特別な思いを持たずにはいられなくなる。」と。

色川が遺して行った思い出そのものが、何より色川の文学であったのだということに私も共感する。重ねて、色川自身の心に遺された、年月を経て蒸留されたもの、思い出が彼の文学であったのだとも思う。多くの人がやり過ごす小さなことに目を留め、多くの人が忘れ去ってしまうささやかなことを忘れずにいる彼のやさしさが、彼の文学であったのだと思う。

私自身は、作品でしか色川武大を知らない。出会いは、『花のさかりは地下道で』だった。この文庫本をふと抜いた、金町駅前の本屋の風景を今でもよく覚えている。大学を卒業して働き始めた年で、私は家から家を訪問する営業の仕事をしていた。題名に自分の境遇を重ねたのかもしれない。

はぐれてしまった者に向けられる温かなまなざし。作者の色川と思われる主人公もまた、何かを求めて街を行きかう人を眺めていた。家族でもなく、愛人でもなく、まして敵でもない、「味方」と呼べる存在。彼は、はぐれてしまった自分を分かってくれる人を街のなかに探していた。「稼いでいるかい?」主人公が路上の仲間である街娼の「アッケラ」にかけるセリフを想像して、心の中で色川さんの声を思い浮かべながら、私も街を歩いたのだった。

色川さんにいっしょに歩いてもらって何とかしのいだあの年からしばらく経った頃、私は旅行で一関に泊まることになった。「色川さんが亡くなった一関だ」と思いながら、夕食のあと、ふらりと入ったゲームセンターで、子ども用のパチンコをして遊んだ。とんでもない大当たりになった。パンドラの箱を開けたみたいにとめどなくジャラジャラと出てくる玉を見て、「色川さんだ」と思った。色川さんからの贈りものに違いないと思った。ガム1枚とも交換できない当たりだったけれど「このくらいの運なら、プレゼントしても運、不運の足し算が狂う事はないだろう?」と色川さんが笑っているような気がした。

子ども用のパチンコをどうしてやってみようと思ったのか、思い出せない。何だか不思議な気がした。そして、うれしかった。どこか遥かなところから送られてきた、温かな色川さんの挨拶だった。

言葉と本が行ったり来たり(1)『自由への手紙』

長谷部千彩

 八巻さん、こんにちは。
 今日は生憎の曇り。衆院選の投票日です。
 私は昨日のうちに投票を済ませました。午後、青山で探検家角幡唯介さんの講演を聴き、その足で散歩がてら投票所である区民センターまで歩いたのですが、いいお天気だし、赤坂御所の緑を横目に、とても気持ちが良かったです。土曜のためか、期日前投票だというのに会場の入り口には行列ができていました。

 選挙というと思い出すのは、幼い頃、両親の投票にお供させられたことです。
 小学校の廊下に、土足で入れるよう、緑色の養生シートが貼ってあって、その日だけは子供たちの姿は消え、ひっそりした校内に大人しかいない。それが普段と違う雰囲気を醸し出していて、学校の隠された顔を見るようでドキドキしたのをよく覚えています。

 いま考えると、両親は――というよりも母の判断に違いないのですが、幼いうちから子供達に、選挙に行く姿を見せておきたかったのだと思います。母親になった妹も、子供が幼稚園児のときから投票に連れて行ったりしていたけれど、たぶんそれも同じ理由でしょう。
 私の兄弟が「選挙は欠かさず行く派」なのは、きっとその経験が影響しているのでは、と思います。

 だからと言って、母がそういったことを、「教育」として私たちに施したわけではないのです。
 ただ、毎日じっくり新聞を読むひとで、家事の合間に、畳の上に拡げたそれに正座して目を通す姿(母にとってはそれが楽な姿勢だった)――うつむいた首の角度や背中の丸み、体を支えるためについた片腕、右側に寄った重心、時折ひそめる眉、気まぐれにやってきて、その体に甘えてもたれる小さな弟、そこに差す陽光までも、幼い頃、目にしていた記憶が私の中に焼き付いていて、いま私は新聞をタブレットで読むので、大抵ベッドに寝転んでのことですが、そして母ほど熱心にではないけれど、新聞を読むのは私にとってごく自然な日常の行為です。
 だから、選挙に行くのも面倒と感じないし、票を投じるひとを選ぶのも迷わない。それは、親の習慣を抵抗なく引き継いだだけ、といえるかもしれません。
 なぜ、そんなところまで話を拡げたかというと、「子供の教育」というものについて、最近モヤモヤと考えていることがあるからです。もう少しまとまったら、八巻さんへのお手紙にも書きますね。

 さて、面白かった本を教え合いましょうというお約束、私が選ぶのはオードリー・タンの『自由への手紙』です。「台湾の最年少デジタル大臣が日本の若き世代に贈る、あなたが新しい社会をつくるための17通の手紙」と帯にあって、いやらしいビジネス本みたいですけど、というか、章立てもビジネス本仕様なのですが、読み進めていくと台湾の政策の数々が紹介されている興味深い本でした(台湾の政策研究の講義があれば受けてみたいと思った)。
 例えば、台湾はアジアで初めて同性婚を認めましたが、どのように理論を組み立てて合法化させたかなんて、同じ家父長制の文化を持つ国として参考になる内容です。
他にもコロナ対策、ジェンダー問題、ハンコ問題(ハンコ問題はハンコではなく紙の問題という指摘もユニーク)、移民に対する姿勢、ソーシャルメディアとの付き合い方、デジタルをどのように社会に活かしていくかという話など、もちろん提案の中には、そんなにうまく行くのかな、と感じるものもありましたが、一本すっと補助線を引くと問題が解けるということを実演してくれるような楽しい本でした。一時間程で読み終わるという手軽さも良かったです。

 さらっと読める短い手紙をと考えていたのに、すっかり長くなってしまいました。
次回は、八巻さんを見習って、「きりりと短く」を心がけますね。
お返事いただけるのを楽しみにしています。
それでは、また。お元気で。

長谷部千彩
2021.10.31

製本かい摘みましては(168)

四釜裕子

絶賛老眼進行中で、紙の本や辞書を見ながらモニターで作業するのがいよいよつらくなってきた。めがねの上げ下ろしをするのにカチューシャみたいにしてしまうと下げるときに髪の毛がばっさばさになって邪魔だし、ならばとおでこにめがねを止めるが、ああこれ、所ジョージだ、と思う。長く参照するときはもう迷わずスマホで撮ってモニターに大写しにして見ているし、引用する場合はまずはGoogleレンズでテキストをコピペしてしまう。ということをするようになって、今度は片手で本をおさえながらスマホ操作するのが大変になってきた。本をぺたっと開くことに抵抗はないが、左右に重石をのせても本がじっとしていないこともある。それでふと思い出した。数年前にネットで見た、”アクリルの本”。

”アクリルの本”というのは商品名でもなんでもなくて、ただ自分の記憶にある”それ”の呼び名だ。こんなんで探せるかなと思ったら探せた。「BOOK on BOOK」という。TENTさんという会社が作っていて、2013年ころになるのだろうか。〈BOOK on BOOK は、好きな本の好きなページを開いたままにするために作られた、アクリル製の透明な本です。使い方はシンプル、お手元にある本のお気に入りのページを開き、その上に BOOK on BOOK をのせるだけ〉。

当時、おもしろいなとは思ったけれど、 想定されたシチュエーションが〈写真集やアートブックを開いてインテリアに飾ったり〉や〈お茶とお菓子を楽しみながら読書したり外に持ち出して景色を読んだり〉とあったりしてぴんとこなかった。今改めてサイトを見ると、開発のそもそもから、試作、完成にいたる経緯が簡単に記されている。ごはんを食べているときも本を読みたいと思ったTENTの青木さんという方が、ならば開いた本の上に透明の板をのせればいいんじゃないか、まん中はくぼばせたほうがいいだろう、それならいっそ本のかたちにすればいいんじゃないかということで、まずは3Dプリンター+紙やすり研磨で試作したこと。周囲の好評を得て、量産へと舵をきったこと。最初はシリコン型を作ってエボキシ樹脂で試みるも失敗、その後さまざまな試行錯誤をへて、そしてようやくたどり着いたのがアクリル製だったそうだ。おお……。

ということで、買ってみた。幅21センチ、横18.5センチ。文庫本を開いた上にのせると左右がぴったりという感じ。5ミリ厚くらいの1枚のアクリル板を、1枚1枚手作業で成形しているそうだ。本ののどのところは、アクリル板との湾曲具合がどうしてもずれるから文字がゆがむし、大きい本にのせればアクリルの端が重なったところの文字もゆがむ。でもそれ以外はとてもクリアで安定している。光の反射もない。モノとしても美しいし、かわいらしい。全体の重さは220グラムで、おおかたの本はそれをのせれば落ち着いて開いていてくれるんじゃないか。のせた状態でさっそくスマホで写真を撮ってみる。Googleレンズで読み込ませてみる。快適だ。ページを開くたびにこの板を置き換えることになるが、いろいろな不便を天秤にかけると、こういう目的があるのなら難儀ではない。

BOOK on BOOK には〈電子書籍にはない、紙と活字の本だけの楽しさを伝える、本を楽しむために〉という売り文句もあったようだ。まあこちらにそんなつもりはない。むしろ電子と紙をつなぐ透明の PAGE on BOOK とでも呼んでみたいなとか思っていたら、高橋昭八郎さんの「蝶」という作品を思い出した。詩集『ペ/ージ論』(構成:金澤一志 2009  思潮社)の「蝶」のページ(p18)を開いて、 BOOK on BOOK をのせてみる。おっと、最初の見開きの左右ページに一行ずつ配された文字にアクリルの端がちょうど重なる! 全3見開き6ページのこの作品、BOOK on BOOK をのせるたびに不本意にかもしだされたゆがみが、ページをめくる前のどこかを映す。固定された文字のゆらぎやためらいをのぞき見るみたいだ。昭八郎さんにそのことを言ってみたくなった。

よみがえった「お兄ちゃん死んじゃった」

さとうまき

イラク戦争当時、ブッシュ政権で国務長官を務めたコリン・パウエルがコロナで亡くなったというニュースが飛び込んできた。

2003年1月29日、僕はバグダッドにいた。
ブッシュ大統領は、一般教書演説でイラク攻撃を訴えた。
いつ開戦宣言するのか、バグダッドの人たちはかたずをのんで見守っていた。僕が泊まっていた町中のぼろホテルにはパソコンが置いてあって、インターネットがつながっていた。ホテルの従業員がのぞき込んできて、「なんて言っている?」と聞いてくる。
「『2月5日に安保理で、パウエル国務長官が、イラクの違法な兵器開発計画と査察からの隠蔽、テログループとの関係について情報を示す』そうだよ。一週間は大丈夫だ」

そして、2月5日になるとバグダッドの人たちは、もっと緊張してTVを見ていた。僕ももう、明日にでも戦争が始まるのだろうと思った。ただ、パウエルの持ってきた証拠があまりにも信憑性がなかった。そもそもイスラム原理主義のオサマ・ビンラディンと、世俗的な社会主義を掲げるサダム・フセインが手を組むはずがない。アルカーエダのザルカウィというテロリストがイラクにいる証拠を説明していたが、その場所はクルド自治区であり、サダムの勢力が及ばない地域だ。でも日本を始めとしてそんな細かいことはどっちでもよくて、アメリカがそういうんだからそうでしょ、みたいな雰囲気で、やっぱり戦争になるんだろうか。って、僕は、どうなるんだろうなあ!このまま戦争に巻き込まれてしまうのだろうか?

しかし、さすがにパウエルの証拠はインチキ臭く、国際社会も、ちょっと待てよ?ということになった。演説の中で、引用した英国の諜報機関による「大量破壊兵器開発にかかる機密文書」は、実は、すでに発表されていた大学院生の論文だったことがすぐにばれてしまう。

そして、パウエルは、「カーブ・ボール」と呼ばれるドイツに亡命したイラク人が「フセイン大統領はトラックで移動が可能な生物兵器を所有しており、兵器工場を建設している」と証言したことも紹介したが、のちになって、「カーブ・ボール」は食わせ物で、難民として永住権を取りたいがために、ドイツ政府に嘘をついたことが判明する。

そういうわけで、パウエルは、とんでもない嘘つきで、イラクをめちゃくちゃにした張本人の一人として歴史に名を連ねた。本人は、のちにそのことを「人生最大の汚点」として反省している。

日本政府の対応もひどかった。原口国連大使が2月18日の国連の会合で、「日本政府としては、国際協調を重視しており、イラクが非協力であり義務を十全に履行していないという事実を踏まえ、国際社会の断固とした姿勢を明確な形で示す新たな安保理決議の採択が望ましいと考えております」と述べて、アメリカがイラク攻撃を容認する決議案をだしたら、国連は一致団結して賛成するように訴えたのだ。原口大使は、のちにパウエルのように、「人生最大の汚点」とは思わなかったのだろうか?

反戦運動が世界的に盛り上がっていった。戦争をやめさせるチャンスは十分にあった。僕は、バグダッドの子ども達に絵を描いてもらって日本で紹介することで、戦争反対の機運を高めるミッションを実行していたのだ。

安保理は、フランス、ロシア、中国、ドイツが、イラク攻撃に反対したために、国連の支持がないまま、アメリカとイギリスは、大量破壊兵器が見つかることを信じて戦争を始めてしまった。大量破壊兵器=神なのか??

そんなある日、出版社が僕のところに来て、「谷川俊太郎さんの詩にイラクの子どもの絵を使いたいので、貸してほしい」というのだ。聞くところによると別に谷川さんがイラク戦争の詩を書いたのではなく、今までの詩を集めて絵本にするのだという。なんか違和感があった。「そんなんじゃだめです。戦争を見たイラクの子どもたちが谷川さんの詩を聞いてどう感じるのか。そういうシンクロしないと意味がないんじゃないですかね」

それで、少し落ち着きだした2003年の7月に一週間くらいイラクの子ども達とワークショップをしてたくさんの絵を描いてもらったのだった。編集の仕方が気に入らず、結構編集者とその後ももめて出来上がったのが「『おにいちゃん死んじゃった』イラクの子どもたちとせんそう」という絵本だ。

今回、ようやく子どもたちの絵が僕のもとに戻ってきた。当時は、あちこちから展示したいという依頼があったが、イラク戦争から18年も経って、すっかり忘れ去られてしまっていた。絵を手にとると、わくわくしてくる。原画は、まるで生き物のようなもの。子どもたちの「イラク」! 僕の「イラク」がそこにあった。

ワークショップは、夏休み中の音楽学校の教室を自由に使わせてもらって、住み込みで働いていた用務員のサエッドさん一家の子ども達が毎日来てくれた。当時8歳だったムハンマッド君の絵に書き込まれた文章が楽しい。


  大切なもの

ともだち
お父さんとおかあさん
勉強
学校
学校大好き。とっても楽しいんだもん。
僕は、学校で勉強し、本を読み、友達と遊ぶんだ。
学校って、なんて素晴らしいんだろう。学校大好き。とっても楽しいよ。僕は学校で本を読んでいるよ。

このムハンマッド君は、イラクがその後地獄のように内戦化しほとんど外に出られない時も学校に住んでいたから、音楽を続けることができた。今でも音楽を続けていて、先生として教えていたり、バンドも作って海外のフェスにも出ているというからうれしくなってくる。

イラクでは、10月に国政選挙があり、子どもたちも立派に成人して、親になっている。選挙に行くのか聞いてみたら、皆行かないと言っていた。理由は、「イラクはだれを選んでも汚職だらけ。投票する人がいないよ。この国には未来がない」という。

投票率は41%。サダムの時代は、サダムしか選択肢はなく、投票率100%の得票率100%という驚くべき数字だった。こういう独裁者を排除して、アメリカがイラクを民主化すると言って始めた戦争だ。支持した日本の責任は重い。日本は、いまだイラク戦争の攻撃の是非を検証せず、日米関係が良好になったという理由で、「アメリカのイラク攻撃を支持したことは正しかった」としている。日本でも昨日は衆議院選挙の日だった。投票率は、55.78%だった。外交や国際平和が争点になることはなかった。だから、僕はこの絵を皆さんにつたえていかねばならない。


11月23日-28日まで 東京江古田の古藤という画廊で「イラクの子どもの絵」の展示を行います。アラブ音楽の演奏などもあります。詳しくはこちら
http://chalchal.html.xdomain.jp/Chalchal/index.html

夢の中(晩年通信 その24)

室謙二

 よく夢をみるようになった。
 まず一晩に何度も起きるのである。
 昨日の夜なんて、一時間に一度ぐらい起きて、そのたびに夢を見ていたらしい。起きた瞬間は、その夢を覚えている。だけどすぐ忘れてしまう。数分たったら、もう忘れているぐらいだ。
 夢日誌と言うものを作ろうと思った。枕元にノートを置いて、夢を見て起きたら、すぐにそこにどんな夢だったかを書きなぐる。だけど、あくる日に起きてその字が読めなかったりする。読めてもどんな夢だったか思い出せなかったりする。
 夢を見たときには「これは重要な夢だ」と思ったりするが、次の日にノートを見てもちっとも重要ではない。毎日の普通の出来事のことが多い。
 でも死んだ友人とか両親とか姉さんには、よく夢で会った。学校時代の夢も見る。出たくないクラスとか。飛行機に乗り遅れそうになる夢もあった。まだ以前の結婚生活を続けていたりする。これはちょっと焦ります。
 夢を見ている夢も見るしね。でも夢から起きられなくなったら、どうするのだろう。夢が現実になってしまったら、どうするのかなあ。

 フロイトとかユングは、夢は人々の意識の下にあることを象徴するものだと考えた。そしてその分析を通して、精神分析という科学と方法が生まれたのである。その理論はわかるけど、私の夢が、昨晩の何回も見た夢が、何かの象徴なのかなあ?フロイトとかユングのところに行って、聞いてみたいよ。
 かつてはユングの文章をたくさん読んだが、歳をとってしまって、記憶が悪くなって思い出せない。でも本棚のユングの本を取り出すこともしません。

  釣りの風景

 十年以上前に、よくフライ釣りに行っていた時は、釣りの夢を見た。釣りの夢というより、釣りをする場所、空間の夢である。
 川の流れとか山に囲まれた湖もあった。そしてフライ釣りのロッドを持って、ウェーダーを着て水際に立っている。あるいは、あの当時はカヌーを持っていたので、それで小さな湖に漕ぎ出している。
 川だと水が足の間を流れている。もっと川の中に進むと、水はもも近くまでやってきて、これだと転ぶと危険だな。フライをラインの先につけて、ひゅっと川上に投げる。魚のいそうなところにね。この魚のいそうなところというのは、本を読んだり、経験でだんだんとわかってくる。簡単に説明することはできない。
 湖だと水面をねらうフライではなくて、水面の下とか底へ、ルアーを投げる。そんな夢をみるのである。

 夢で見る釣りをする場所は、ほとんど決まっていた。ああまた同じところに来たなあ、と思う。場所、空間、それに空とか風とか、周りの風景、木々とか岩とかが、ほとんどが同じである。音はない。
 釣りというのは、だいたい見えない魚を釣るのである。フライは、水面に浮かばせて、川の流れるままに、そのフライが流れるのがいい。だけどフライにはラインが付いていて、それが抵抗になって、空中の昆虫が水面に落ちて、川の流れのまま流れていくようにはいかない。色々と試すのだが、水面下の魚は変な動きをするフライを見限ってしまう。それだけではなくて、さっさともっと深いところに潜って、もうフライを見てもいない。賢いのである。
 というのは、みんな釣り人の想像である。魚は見えないのだから、それに魚と話しあったわけでもない。こちらは魚がこうしているだろう、ああしているだろうと想像して、手管を使って魚を釣ろうとする。釣りは、つまり想像のゲームなのだ。

 フライ釣りの場合はあまりしないが、ルアー釣りの場合は重しをつけて、あるいは重いルアーで底釣りをする。カヌーからポトンと重いルアーを湖の底に落とす。ピンと張られたラインが底に着く感じが手に伝わったら、そこからちょっと上にあげて、また落とす。そんなことを、いろなやり方で試しているうちに、運が良ければ魚が食いついてくる。
 いつ魚がフライとかルアーに食いついてくるかは、分からない。今書いたように、釣りは想像のゲームなんだ。何時間もそんなことをやっていて、一匹も釣れなくて、がっかりと疲れてしまう。でも楽しい。
 だけど突然に、ラインに抵抗があって、竿がちょっと曲がる。魚がフライとかルアーにちょっかいを出したか、軽く食いついたか。さてそこでどうするか?

  無意識から引き上げる

 パッと合わせて、ロッドを数インチ持ち上げる。いや、もう少し待ってしっかりと食いつくまで待つか?でも、軽く食いついて、これは餌ではない(食べ物ではない)、木のルアーとかフライだと吐き出すかもしれない。神経を集中して、大の大人が小さな水面の下にある魚のことを考える。そして合わせて、引っ掛けたぞ万歳。というわけではない。それからラインを引っ張って逃げ回る魚を、引き寄せないといけない。それがまた息を呑む時間ですよ。最後に網に入れて、それから魚を逃がす。私のやっている釣りは、キャッチ・アンド・リリースだから。
 と釣りから帰ってきて、魚はどこ?と聞く女房に説明する。だけど、一体なんのために釣りをやっているの?と呆れられる。魚と戯れる高級な遊びなんだけどなあ。分からない人には分からない。

 水面下というのは、フロイトとかユングの言う無意識なのです。何十年か前にユングを読んでいて、山に囲まれた湖の水面下を無意識の領域だと書いていて、それで釣りが無意識とコミュニケートするゲームだということがわかった。もっとも釣りをそんな風に書いている文章は読んだことがないが。
 夢の話を書こうと思ったら、釣りの話になった。
 夢というのは、私たちが現実と思っている世界とは、別の世界のことらしい。それはどこにあるのか?
 釣りというのは、釣り糸(ライン)と餌(ルアーとかフライの時もある)をかいして、釣り人と魚がつながる。しかし魚はだいたい釣り人には見えない、別世界(水の中)にいる。夢と同じように、それは私たちが生きている、呼吸をしているこの世界とは違う世界なのだ。
 だから私にとっては、夢と釣りは面白い形で重なっている。釣りは、無意識の世界、水面の下から生きているものを引き出すゲームなのである。

  母と父の夢

 母の最晩年、もう歩けなくて病院のベットに寝たきりの時に、夢の話を何度もした。もっともあれは、目をつぶって眠った時に見る夢ではなくて、昼間にほんの瞬間に見る夢のようなものだった。
 何十年前の、まだ東京の日本女子大にいく前の大阪の出来事とか、病室の棚にあるものを取ってくれとか。お母さん、棚にある何を取って欲しいの?と聞くと、母親には見えていて、私には見えないものがあるらしい。現実に対応した意識と、別の次元の意識が交差するのである。
 父親の最晩年の時にもそういうことがあった。ケンジ、さっき神楽坂の照国から出てきたら、雨が降っていたよ。と言うのだけど、当人は病院のベッドに寝ていて、神楽坂に照国という食べ物屋はなかった。そしてだんだん現実と夢が重なってきて、私と話をしながら、目をつぶって寝てしまったり起きたり、ちょっと横を向いて、ブッダさん久しぶりですね、なんて言っている。早稲田大学を引退した後、熱心な仏教徒になっていたのである。もっとも日本のお寺や僧侶を信用していなかったら、戦争責任について厳しかった、一度もお寺にもいかず僧侶とも話をしなかった。半分夢で半分現実の中で、数行の遺書を書き、私が死んでも絶対に僧侶を呼ぶなと言うことで、兄さん姉さんと相談してそうした。
 母親も父親も、最晩年は夢と現実が交差する意識の中で、それでも家族のことを考えて、立派に生きたと思う。

多様性・迷い・不安定

高橋悠治

バルトーク「5つの歌」Op. 16 (1916) と ピアノ曲「スケッチ」Op. 9 を演奏する機会に、傷つきやすい(傷ついた)、壊れやすい(儚い)印象について思いめぐらし・・・

一つの中心を持ち、組織され、構成された硬い表面が押し付けてくる主張・表現の重み、強さ、バランス、運動が隠している弱さ、不完全、未完成、不均等、不純が表側に出て、中心のない散らばり、かけら、言いさし、言いなおし、揺らぎ、ぶれ、ずれ、一つひとつがそっぽを向いた小さな線の集まり、その不安定な集まりが、まだそこにない変化を呼び出すように・・・

19世紀の民族主義、20世紀の民族国家の独立、束の間の自律と従属、短い平和と長い戦争、そのなかで「無用なあそび」、「精神」や「思想」に還元されない「よけいなもの」である音、その振動の「触り」と離れていく「響き」と、消えてしまっても残る痕跡(余韻)・・・

ある村で民謡を採集し、それに基づいて作品を創るというしごとは、村の人ではない「よそもの」のすることで、それをしながら村から離れていくと気づけば、風景はひろがり、歩みはさらに遠ざかる。ハプスブルグ帝国が解体した時代に、国境線を引き直してその内側に落ち着くのではなく、起源や影響を追って国境から外に眼を向ければ、バルトークのようにハンガリーからルーマニア民謡を採集しただけで双方から非難されたり、さらにブルガリア、トルコ、アラブまで足を向けていくほどに、どこからも「よそもの」になってゆく。民謡にピアノの和音を付けるだけでも、同じメロディーに毎回ちがう和音の彩りを添えて、それはことばの意味やニュアンスを描くのかもしれないが、象徴としての機能をどこか外れて、メロディーとことばの関係を不安定にしていくのではないだろうか? これは仮のもの、ここに置かれていても、いつかは、なくなっているだろう。

バルトークの音楽の影響ではなく、「異質」で「外側」にいるという位置の取りかた、心をひらくのではなく、謎のまま、扉の向こうの闇、理解を拒む澄んだ水を、別な位置から感じること・・・

「異邦人の眼差し」を向けることは、確実な成熟や発展とはちがって、正統性や権威をまとうことはないだろう。そのかわり見えていたものは見えなくなり、見えなかった染みや影が浮き出してくる。風景は暗い。道は見え隠れ、垣間見えるだけ。

それでも、この不安定が誘う、「まだない」変化には仄かな光がさしている。迷いが呼ぶ、ことばにならないうごめき、安定しないから変化をやめない、ひとつにまとまることなく、組合せを絶えず変えながら、そのたびにすこしだけ折り合いをつけ、でも違いを失うことなく、流れ・・・

2021年10月1日(金)

水牛だより

東京の10月は台風をともなってやってきました。きのうまでの予報よりは降らず吹かずで、穏やかですが、ひんやりとした一日です。明日は台風一過で晴れるでしょう。雨と風とがエアロゾルを洗い流し吹き飛ばしてくれることを願います。

「水牛のように」を2021年10月1日号に更新しました。
管啓次郎さんによれば、Water Schoolsは、いずれもいまはなき閖上小学校(名取市)、大川小学校(石巻市)、小河内小学校(奥多摩町)のことです。

出版に携わっている人は、本が売れない、とよく言います。文芸作品で売れるのは賞を取ったものだけ、とも。それは事実でしょう。しかし、アサノタカオさんの読書日記を読むと、本というものが持っている本質的な明るい世界が見えます。大小さまざまな出版社が出す本は、新刊として売られたあとも古書としてどこかにありつづけて、人間よりもはるかに長生きしている。あげられている本のタイトルを検索すれば、ほぼ手に入るはずです。ひとりの人間が目にすることのできる本の数は少ないかもしれないけれど、なにかきっかけがあって求めれば、その本はあり、そこに書かれていることばが新しい世界へと誘ってくれる。自分がいまいるここよりももっと自分に近く感じられるところが遠くにあることもおしえてもくれます。自分の世界はせまくても、広い世界とちゃんとつながっていて、いまいるここを変える力になることをことばが気づかせてくれます。

莊司和子さんが一月前に急逝したことをお知らせしなければなりません。79歳の誕生日の日、胸が痛いと救急搬送されて、その日の夜に病院で亡くなったとのこと。心不全でした。莊司さんはタイ語のエキスパートであり、もう40年ちかく前のことですが、一ヶ月間のタイ語講座を受講したときの先生でした。偶然です。そこからはじまった関係はいままでずっと続いてきました。「水牛のように」の右側にある著者別アーカイブのスラチャイ・ジャンティマトンの翻訳はすべて莊司さんのものです。翻訳はいつだってタイの空気やスラチャイという人の感じがよく出ていました。ほんとうにうまい! ことしになって、そのスラチャイの短編集を一冊の本にまとめようとふたりで相談をしていて、夏にようやく目処がついたところでした。これまでの翻訳を見直し、さらに新作を加えて、というプランも出来上がっていたのです。急死した人は、自分が死んだことがわかるまである程度の時間が必要なのではないか、彼女の魂はまだこのあたりをさまよっているような気がします。和子さん、RIP。

それでは、来月も更新できますように!(八巻美恵)

911の思い出

さとうまき

911から20年がたった。僕は当時、JVC(日本国際ボランティアセンター)という団体で、パレスチナ事業を担当していた。ちょうどその日は、とある宗教団体に寄付をお願いに伺うことになっていたのだが、朝から台風かなんかで大雨が降っていた。

革靴が濡れるのが嫌だなあと、どうせなら傷んでもいい古い靴を探しだしてきた。しかし、雨が滝のように流れてきて、右側の靴底がなんとすっぽり取れてしまったのだ。しばらく歩くと今度は左側が取れた。つまり、見た感じは靴を履いているのだか底が取れてしまい、裸足で歩いているのと同じだった。なんともみすぼらしくて恥ずかしい。電車に乗っても気づかれないようにひやひやした。なんか、今日一日はろくなことが起きない予感すらしてきたのだった。立川に着くと駅ビルの中のデパートが開く時間だったので慌てて駆け込んで靴を買った。店員のお嬢さんに、「(はいていた靴)お持ち帰りになられますか?」と真顔で聞かれて、「捨ててください」と答えるのもとても恥ずかしかった。

夜になると雨は止んでいた。友人の妹がアーティストで、パレスチナの子どもたちの絵の展覧会をやろうということになり、彼女のアトリエ兼アパートで打ち合わせをやっているときだった。ドアをたたく音がして、近所のアーティストが駆け込んできた。

「大変だ、NYのビルに飛行機が突っ込んで燃えている!」変なことをいう人だと思った。TVをつけたのはいいが、室内アンテナのおんぼろのテレビで電波も乱れ、ノイズだらけでよく映らない。「映画?」

そうこうしているうちにもう一機がビルに突き刺さるように突っ込んできた。一体何がどうなっているんだろう。

ともかくなんだか大変なことになりそうで、慌てて家に帰ってTVをつけると、今度は、ビルが倒壊しはじめ、見る見るうちに崩れていったのだ。不覚にも「美しい」とさえ感じてしまった。

メディアは、犯人捜しを始めていた。映像では、パレスチナ難民キャンプで、大喜びで踊りながら飴を配っている人たちが映し出された。(後から湾岸戦争時にイラクから放たれたスカッドミサイルがテルアビブに着弾した時の映像だと判明する)翌朝の読売新聞には、「パレスチナ過激派の犯行か?」という見出し。記事には、DFLP(パレスチナ解放人民戦線)は、犯行を否定していると書かれているのに。

事務所に行くとさっそく電話がかかってくる。「テロを支援しているパレスチナを支援しているとはけしからん!」となぜか叱られる。ある程度そういう電話は予期していたが、今度は、画廊から電話が。「すいません、パレスチナの子どもの絵の展覧会は中止してほしい。風当たりが強くて」
まあ、しょうがないなあ。

実は、イスラエルとパレスチナの衝突は、一年前からエスカレートしており、イスラエルは、「テロとの戦いだ!」と言って戦闘機でパレスチナの村々を攻撃。多くの民間人が犠牲になっていた。本当はパレスチナと領土をめぐっての戦いが続いているのだが、「テロとの戦い」と言ってしまえば、パレスチナ人の独立や難民の帰還権を認めなくてもいい。イスラエルの民間人への攻撃はエスカレートしていき、国際社会では「イスラエルがやっているのは国家テロだ」と批判する論調も見られた。

しかし、911でブッシュ大統領が、対テロ戦争を掲げ、「我々側につくのか、テロリスト側につくのか」と問いかけると、「テロと戦うイスラエル」というイメージ戦略に出て、「国家テロ」という言葉は消え失せてしまった。「テロとの戦い」では、いくら民間人が犠牲になろうがそれはお構いなしという「哲学」は、アフガンやイラクにも拡大された。覚醒したブッシュ大統領は、アフガンを攻撃して、イラク戦争に突入して、民間人の犠牲者を出しまくり、破綻国家を作ってしまったのである。気が付けば20年だ。僕は、イラクでは散々な目にあったが、アフガンにはかかわることはなかったので、一体アフガンがどうなっているのかはよく知らなかった。

今年になって、JVCがアフガンの活動を終了すると発表。多分、終了するということはもう支援がいらない状況になったのかと思っていたが、米軍が撤退を表明するとタリバンがアフガンを再び制圧してしまい、一気に振出しに戻ってしまった。

JVCは、HPで約20年にわたってこれまで現地に関わってきたNGOとして、アフガニスタンを取り巻く状況と、国際社会、日本政府やマスメディアの対応に関して、意見を表明している。米軍占領下の20年の検証と、タリバンを孤立させてはいけないというのが趣旨だ。確かにそのとおりかもしれないが、じゃあ、市民レベルでどうタリバンと付き合っていくのか、そう簡単じゃないだろう。この20年、JVCが、どうタリバンと付き合ってきたのか気になるし、これからどう対話していくのだろう。ここぞというときに、活動を終了しているって残念でならないのだが。中村哲さんのように体を張ってほしいが、もうそういう時代じゃないのかもしれないし、僕も無責任なことは言えない。

これから世界がどうなるのか? この20年でアメリカは明らかに疲弊しているし、かつては、希望の光のように輝いていたNGOも私の眼には疲弊しているように見える。何よりもコロナ禍で、いろんなことが変わってしまって、世界のことなんかにかまってられないのかもしれない。でも一方で、リモートの技術やインターネット、AIがどんどん進んでおり、今までとは想像のつかないテクノロジーが出てくるだろうし、コミュニケーションの取り方も今までとは違ってくる。それがいいのか悪いのか、でもなんか、少し僕は希望を持っている。これ以上ひどくならないという気がするからだ。人権とか民主化とか口だけの美しさより、多少汚くても、戦争がない方がいいから。

Water Schools

管啓次郎

しずけさが海からやってくる
何も音がしない午後だ
私たちが屋上にかけあがると
周囲はすべて水
灰色の空が下りてきて
髪や頬を撫でた
たしかに見たのは鳥たち
からす、かもめ、鳩、白鳥が
とまどったように、でも騒ぐことはせず
空をゆったりと旋回している
下を見ると冷たい春の海の中に
無音の風景がひろがっていた
松林あります、町あります
青緑の光の中を小さな船がすすむ
私たちは手をつなぎ体を寄せ合って
今夜歌うための歌をみんなで考える


コンクリートの壁にともだちが住んでいた
いろいろな民族衣装を着ている
みんなでっかい笑顔
ヒジャーブをかぶった女の子
タータンチェックの男の子
キモノを着た私たちが
パンダと手をつないでいる
空から光がさして
平面の子はアニメーションになる
遊ぼうよ、出ておいで
ひどい波だったね、もうだいじょうぶ
ぼくらがひっぱりだすとみんな出てくる
そのあとにつづくのは忘れられた子供たち
平面から出ておいで、記憶から出ておいで
だってあの日はそこにはない
空にある


山に人の子がいなくなって
小学校には河童がくるようになった
狸と兎と鹿と猪と
河童の学校だ
では授業をします
文字の代わりに○や△を描き
不思議なものを見たように笑う
ピアノには音が出ないキーがあって
弾いてみるとキノコ狩りのように楽しい
暑い夏には川まで下りて
水浴びしてはまた教室に戻る
ニンゲンはこのあたりに数百年住んだけれど
もう来ない、もういらない
これからは山の自主管理でやっていく
獣と人をつなぐのが河童の役目
山川草木鳥獣虫魚のニッポンへ

水牛的読書日記2021年9月

アサノタカオ

9月某日 自宅のポストに『現代詩手帖』9月号が届いた。ページを開いて真っ先に目に飛び込んできた文月悠光さんの詩を読む。

 ひとりで死ね!
 巻き込むな!
 無観客の喝采を浴びながら
 私は私の手を強く引いて、
 開会の赤い花火が噴き上がる 
 新国立競技場を目指した。
 ひとりにしない。
 誰も消させない。
 消せるものなら
 「消してみやがれ」

 ——文月悠光「パラレルワールドのようなもの」

新型コロナウイルス禍を背景にした繊細で力強い作品。世界的な感染流行に多くの人びとがつながりを絶たれて苦しむ中で、どうして「東京五輪」が強行されなければならなかったのか。「目の眩んだ者たち」の国家、マスコミ、アスリートを含む五輪マフィアが結託し、この間、金だの銀だの不謹慎に大騒ぎしながら「安心安全」と空言を吐き続けることで、人びとが共有することばの信用を破壊し尽くした。ことばから意味という魂が引き抜かれ、かわりに「無意味」が社会を占拠した。メディアを介して増殖する無意味なメッセージに心身が侵されると、自身の存在すら無意味化されるような虚無感に落ち込んでしまう。
文月さんの詩にはことばをめぐるそのような窮状に抗う批評があり、のみならずぎりぎりの希望がある。「消してみやがれ」の一語に目を瞠った。
読後にこみ上げてきた思いを自己検証すると、詩人と詩のことばに対する深いリスペクトだった。うん、これを大切にしたい。この国のいまに決定的に欠乏しているもののひとつが、詩(うた)だと思う。人びとの詩に対するリスペクトが減少するのに比例して、社会に流通する言語の荒廃度が増加するのではないか。そんな仮説をもっている。敬意を持って広く読まれなくなった詩のことばを、ではどうすればひとりでも多くの読者に届けることができるのか。本を作る編集者として自問自答がつづく。
コロナ禍の状況への詩人からの応答としては『週刊文春WOMAN』2020春号に掲載された文月さんの詩「誰もいない街」も深く内省的で、すばらしい作品だった。

9月某日 引き続き『現代詩手帖』9月号で、詩人の吉増剛造先生と和合亮一さんの対談「「記憶の未来」の先端で」を読む。
《コロナ禍の状況も踏まえつつも、全体的に何か新しいものに心のあり方も変えていかなくてはいけない。それに際して言葉の果たす力は大きい》。和合さんの真摯な発言に居住まいを正す。
「変えていく」と言っても、現代詩がわかりやすさになびくということでは決してない。わからなさ、わりきれなさ、複雑さにおいて現実を捉え直し、新しい「世界」の像を創造することば。何かを外に暴き立てるのではなく、むしろ内に深く折り畳み、隠し込むようなことば。詩人は時代の大声に流されない、消されないための、確かなことばの杖を読む者に渡してくれる。しっかりつかんでおかないと。

9月某日 三重・津のブックハウスひびうたへ、二度目の訪問となる。名古屋駅から近鉄に乗り換えて四日市あたりを過ぎると、車窓の風景が田畑の広がるのどかな感じに変わり、おのずと気持ちがゆるんでくる。
ところでスマートフォンを持たなくなって2か月が経った。出張前、地図と路線情報のアプリを携帯していないことが不安だったが、宿泊先などについては事前に調べておいたし、行けないところには行けないと割り切れば何も問題はない。旅先では野性の勘でなんとかなることもある、という感覚を長いこと忘れていたかもしれない。実際、なんとかなった。
ブックハウスひびうたでは、『のどがかわいた』(岬書店)の著者・大阿久佳乃さんとのトークをおこなった。大阿久さんが詩や文学について語る文章のファンなので、念願叶ってのイベント。いちおう拙随筆集『読むことの風』(サウダージ・ブックス)の刊行記念ということで、お互いの著書についての感想や、また好きなアメリカ文学のことを語り合う。
J・D・サリンジャー、カーソン・マッカラーズ、アレン・ギンズバーグ。大阿久さんはいま関心を寄せているアメリカ文学者の作品の特徴を《じたばたして喚(わめ)くもの》と発言。いやなんかそれすごくわかる! と心の中で思わず膝を打った。
ぼくのほうは、尊敬するアメリカ文学の研究者で翻訳家で詩人でもある金関寿夫先生の本をちいさなちゃぶ台の前に並べて話をした。ビートニクスからエスノポエティクス(民族詩学)までの北米の文学運動を受け止め、本格的なアメリカ先住民詩のアンソロジーを編んだ唯一無二の文学者。亡くなる前には、ミシシッピ川とアニミズムの研究を構想していたという。「世界」という、ここではないどこかへとぼく自身の想像力の背中を押し出してくれた原点にいる人なのだ。
イベントに参加してくださったえこさんが、『韓国文学ガイドブック』(黒あんず編、Pヴァイン)をかばんからさっと取り出した。自分もコラムを2編寄稿したのだった。本をあいだにはさんでおしゃべりを。韓国の作家キム・エランの小説集『外は夏』(亜紀書房)の古川綾子さんの翻訳が素晴らしすぎる! と意気投合。こんなふうにして、ローカルの本のある場所で気軽に韓国文学の話をできることに幸せを感じる。

9月某日 ブックハウスひびうたでのイベントを終えて翌朝は、津の中心地にあるニネンノハコへ。近鉄で久居から津新町へ向かい、閑散とした駅前のロータリーをぶらぶらしたり地元スーパーをのぞいたりしながら迎えを待つ。やはりイベントに参加してくださった「副委員鳥」さんの車で現地へ。
ニネンノハコは倉庫以上お店未満、本とZineのある共同のアトリエ。本棚を管理する複数のメンバーで営む。不連続紙面エッセイのZine『ひっそり』を発行し、またハコTシャツ会や「鳥」のいろいろをテーマにした楽しそうな集いも開催している。「副委員鳥」さんから「鳥」という単語を3年分ぐらい聞いた気がする。おもしろかった。隣には「天むす発祥」のお店の千寿があった。ニネンノハコのみなさんの差し入れ、天むすのお弁当を電車の中でおいしくいただく。また訪ねたい。
ハコのZineコーナーには佐藤友理さんと中田幸乃さんが企画・編集をつとめるエッセイ集の冊子『まどをあける』がおいてあった。

9月某日 さらに名古屋に移動し、昼下がりの地下鉄に乗って東山公園駅で降りる。中学から大学まで名古屋に住んでいたのだが、このあたりを歩くのは何年ぶりだろう。
本屋のON READINGへ。店主の黒田義隆さん、黒田杏子さんにひさしぶりに会えてうれしい。お店の前に犬もいた。ギャラリーで開催されている「並行書物展」をみて、香港を拠点にするイラストレーターで漫画家のリトルサンダーやホモ・サピエンスの道具研究会の本などを買う。
レジの前で杏子さんと、台湾文学についておしゃべり。地元の出版社あるむから刊行されている台湾文学セレクションのことを教えてもらう。倉本知明さんが訳した蘇偉貞『沈黙の島』もセレクションの一冊。お店には台湾文学翻訳家の故・天野健太郎さんの句文集『風景と自由』(新泉社)も置いてあった。編集を担当した思い入れのある本。天野さんの俳句の中国語繁体字訳を掲載した付録冊子を制作したのだが、倉本さんにもご協力いただいたのだった。
ついで地下鉄に乗り昔馴染みの今池駅で降りたものの、まるで方向感覚がつかめない。ランドマークの新今池ビルがない。さら地になっている。通い詰めたレコード店のピーカンファッヂがない(雑誌『中くらいの友だち 韓くに手帖』で連載をしていた李銀子さんが営んでいたことを後に知った)。そしてウニタ書店がない。10代の日々を過ごした記憶の場所がまるごと消滅していた。裏路地をさまよっていると名古屋シネマテークのビルにたどり着き、そこにウニタ書店が移転していた。こちらも前職の出版社で編集を担当した、姜信子さんの旅のエッセイ集『はじまれ、ふたたび』(新泉社)が新刊棚に面陳されていた。読者とのよい出会いがありますように、と念を込める。
歩いてちくさ正文館へ。蘇偉貞『沈黙の島』をここで購入し、隣の公園のベンチで読みはじめる。10代の頃はお金もないしコメダ珈琲などに行く習慣もなく、書店をはしごして入手した本をまずこの公園で読んだ、真冬でも。きれいとはいえないどんより淀んだ空気感が相変わらずだ。
配達員用の大きなリュックを足元に下ろして一心不乱にスマートフォンのモニターをのぞきこむ人たち。さまざまな外国語で会話する声が聞こえる。

9月某日 旅の道中で、金壎我さん『在日朝鮮人女性文学論』(作品社)を読了。深く尊敬する大阪猪飼野の詩人・宗秋月を「はじまり」に据える歴史記述は理屈とは違うところで胸に熱く訴えるものがある。李良枝論もよかったが、この本を読んで深沢夏衣の文学により強い関心を持つようになった。彼女の作品集を読んでみよう。
どうでもいいことだが、ひさしぶりの名古屋行きで思い出したことがあった。大学時代に自分は宝石店で仕事をしていた。ただしジュエリーではなく、鉱物関係の方。アルバイトだったが、入社を熱心に勧められた。その道を選んでいたら、今頃どうなっていただろう。その後、仕事を辞めてブラジル留学を経て本作りの道に進むのだが、宝石店でも日焼けした社長から南米での買い付けを担当しないかと誘われていたのだ。

9月某日 旅から戻ると、編集人をつとめるサウダージ・ブックスのことでうれしい知らせが。ブラジル留学つながりの畏友で写真家の渋谷敦志さんの『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)が第4回「笹本恒子写真賞」を受賞した。
アフリカ、アジア、東日本大震災以後の福島、ヨーロッパの難民キャンプなどを旅しながら、人間を見つめ、人間から見つめ返される「まなざしの十字路」の情景を記録した写真集。《最新作『今日という日を摘み取れ』に代表される……民族紛争、飢餓、難民、環境破壊といった不条理に晒され、生存を脅かされている弱者に寄り添った、長年に渡る真摯でアクティブな取材活動》が評価された。目下、渋谷さんはコロナ禍の中であえて海外に飛び出し取材活動中、受賞の知らせをアルメニアの国境地帯からバングラデシュに移動した直後に受けたらしい。
笹本恒子写真賞は戦前より日本初の「女性」報道写真家として活動し、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館の「The New Woman Behind the Camera」展で作品が展示されている笹本さんを記念して創設。日本写真家協会による新しい写真賞だが、渋谷さんにふさわしいと思う。
というのも、アフリカ諸国など各地で紛争や飢餓から逃れてきた人びとが集うキャンプを取材する渋谷さんは、現場でまず目にするのが圧倒的多数の「女性」の姿であり、子どもたちの姿であることを常々語っているから。写真集からも、そのリアリティは伝わると思う。制作チームである装丁の納谷衣美さん、印刷をお願いしたイニュニックの山住さんに受賞の連絡。バングラデシュの渋谷さんからも、メッセージが来た。互いに遠く離れながらも共に魂を込めて本を作り、本を届ける仲間がいる。そのことの幸せを噛み締める。感謝。

9月某日 前職時代に取りまとめた山尾三省詩集の韓国語訳の企画、着々と進んでいる様子。この話は『五月の風』と『新装 びろう葉帽子の下で』(野草社)の刊行がひとつのきっかけになっているので、本を世に送り出してやはりよかった。翻訳版は前期と後期の作品の選集で、一冊で三省さんの詩業の全体像を見渡せる本が韓国語ではじめて誕生する。韓国語の読者がうらやましい。
ウェブマガジン『PLAY EARTH KIDS』に「“火が永遠の物語を始める時” — 山尾三省の詩の教え」というエッセイを寄稿した。

9月某日 旅の疲れを癒す休日。神奈川・大船にある最寄りの書店ポルベニールブックストアを訪ねると、すばらしい本に出会ってしまった。しいねはるかさんのエッセイ集『未知を放つ』(地下BOOKS)。江ノ島の海岸で昼過ぎから日没まで読書に没頭し、思考と感情を深く揺さぶられたその余韻を味わっている。《婚活、家族、終活、分断、生活……》。地下BOOKSのブログでこの本の目次をみて、ぴんときたらぜひ読んでほしい。内容も文章も本当にすばらしい。介護やケアに関心のある人にもおすすめ。
ちなみに地下BOOKSの第1作、小野寺伝助さんの『クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書』もよい本だった。

9月某日 大阿久佳乃さんの自主制作冊子『パンの耳』8号を読んでいる。テーマは《焦り、混乱、うわの空》。大阿久さんや地下BOOKの本のほかにも今年はスモールプレスや自主制作で力作がたくさん。

安達茉莉子『BECAUSE LOVE IS LOVE IS LOVE!』(mariobooks)
ぱくきょんみ『ひとりで行け』(栗売社)
小鳥美茂『Sunny Side』(BEACH BOOK STORE)
植本一子『個人的な三ヶ月』
清水あすか『雨だぶり』(イニュニック)

などなど。昨年の刊行だが、児玉由紀子『新しい日の真ん中に』、田口史人『父とゆうちゃん』(リクロ舎)もよかった。夏葉社の島田潤一郎さんによるインディペンデント出版レーベル、岬書店の本もすばらしい。どれも、ことばは個人的でちいさな声を守るもの、ということを信じている人たちの本。

9月某日 今年亡くなった沖縄の詩人・中里友豪さんが主宰した同人誌『EKE』。終刊して一年、追悼の詩文を集めた『EKE』の番外編が届いた。阪田清子さんの装画が美しい。同人で沖縄・那覇の古本屋ウララの店主・宇田智子さんの作品「封筒」から読み始める。中里さんが逝き、その前には与那覇幹夫さんも逝った。琉球弧、群島詩人たちの声を思いながら、中里さんの最後の詩集『長いロスタイム』(アローブックス)をひもとく。
群島詩人といえば、奄美の詩人・泉芳朗(1905~1959)の未発表作品が発見されたというNHKニュース。いつか読めるようになるといいな。

9月某日 韓国の作家で詩人でもあるハン・ガンの小説『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)を読んだ。韋編三絶しているのだが、今回は物語ではなく詩を読むように、ことばそのものとイメージに心を傾けて。半影の世界でひとつ何かがうっすら見えてくると、ふたつ何かが暗がりに隠れるような。心にひっかかりを感じた文の前で何度も立ち止まりながら読み進めると、物語の流れを味わう時とは少し違う印象を抱いた。ほんとうに不思議で魅力的な小説。いろいろな読み方ができるし、読むたびに目の前にあらわれる景色が変化する。
『ギリシャ語の時間』に引き続き、彼女の小説『回復する人間』(斎藤真理子訳、白水社)、『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出書房新社)を読了。どちらも集中して読むのは2回目、ハン・ガンの造形する詩的な世界への感銘が一段深まる。

9月某日 そろそろ中秋の名月。月のせいだろうか。ふと思い立って韓国の作家・韓勝源の小説『月光色のチマ』(井手俊作訳、書肆侃侃房)を読みはじめる。ずっとむかしに「海神」という短編小説を読んで、濃密な民俗の空気を感じてその世界に一気に惹きつけられた。『月光色のチマ』は母親の個人史とその背景にある歴史を題材にした長編小説だが、臆面もなく語られる母なるものへの思慕もここまで突き抜けるとすごいと思った。また、東学農民運動の歴史のことなどを知る。
あすからの旅には韓勝源の子であるハン・ガンの本をふたたび。

9月某日 早朝からモノレール、電車、新幹線、地下鉄と乗り継ぎ、大阪の天満橋へ。認知症の人と家族の会大阪府支部が主催する「認知症移動支援ボランティア養成講座」に2日間参加した。元看護師の哲学者・西川勝さんのお誘いで。
クリエイティブサポートレッツの理事長、久保田翠さんのお話しに感銘+衝撃を受けた。静岡・浜松で芸術や文化という方向から、障害福祉サービスという枠組みを超える人間と人間のおつきあいの場を創造する久保田さんの名言、《かたまって、やらかす!》。そのほか講師陣の議論にもみっちり学ぶ。となりの席の受講者が休憩中、島田潤一郎さんの『あしたから出版社』(晶文社)を読んでいて、うれしい気持ちになった。
本作りに関わる者として個人的には、支部代表の神垣忠幸さんが認知症ケアとの関連で『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒著、集英社インターナショナル)を紹介したところで、「おお!」と声を上げてしまった。これは必ず読まねば。
講義のあいまに、淀屋橋のCalo Bookshop and Cafe を訪ねる。世界文学の棚に、サウダージ・ブックスから刊行した「叢書群島詩人の十字路」の2冊『マイケル・ハートネット+川満信一 詩選』『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』が並んでいるのを発見。いまや版元品切れの貴重な本。
お店にはインドネシア語のアートや文学の本、Zineがいろいろあって興味を引かれる。ギャラリーでは森栄喜さんの映像インスタレーション展「シボレス」を開催していたので鑑賞した。

9月某日 認知症移動支援ボランティア養成講座を受講後、桃谷にある大阪市認知症の人の社会活動推進センター「ゆっくりの部屋」を訪問。
このあたりは、子が生まれた病院が近くにあるので懐かしい。布施から鶴橋まで毎日のように自転車を漕いでいた日があったなあ、と。病院への行き帰りに高坂書店やあじろ書林にかならず立ち寄り、金芝河や高銀などの韓国文学や在日文学の本を熱心に探し集めていた。このあたりが韓国文学のマイブームのはじまりだろうか。あのころ、あじろ書林の棚で赤と黄色の『宗秋月詩集』の古本を発見し、子の未来と土地の過去を思いながらなにか切実な思いで彼女の詩のことばをむさぼり読んだのだった。
「ゆっくりの部屋」では、まちライブラリーを開設している。さまざまな本のなかに、西川勝さん『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)や砂連尾理さん『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)など、自分が編集を担当した本も。
スタッフのみなさんとおしゃべり。手羽先と大根のしょうゆ煮と味噌汁、手料理のお昼ごはんをいただきながら。「ゆっくりの部屋」ピアサポーターの元永まさえさんがSOMPO認知症エッセイコンテスト後期優秀作品を受賞されたとのこと。題して「目標は認知症バレエ団1期生」。これはほんとうにすばらしい文章なので、「ゆっくりの部屋」のウェブサイトからぜひ読んでほしい。
https://sites.google.com/view/osakayukkuri/home

元永さんの文章の印刷されたコピーをいただいて、定宿への帰り道、なんどもなんども読み返した。

9月某日 この数日間で収集した認知症ケアに関する山のような資料やパンフレットに目を通しながら、Caloで購入した和合亮一さん『Transit』(ナナロク社)を読む。よい詩集。そして旅は続く。こんどは、京都へ。

製本かい摘みましては(167)

四釜裕子

〈印刷物のパッケージとしての書物〉、その製本様式が日本で大きく転換したのが19世紀後半から20世紀初頭。洋装本が現れて定着するまでを、大妻女子大学文学部教授の木戸雄一さんが昨春からnoteにまとめておられる(https://note.com/kidoyou/)。〈書物の技術と当時の新聞広告や目録の記述などを照らし合わせつつその変遷と展開を跡付けてみたい〉とのことで、自前の古書の、例えば破れからのぞき見える素材の細部やかがり方がわかる写真、各地の図書館がネットで公開している画像へのリンク、またこれもご自身によるものなのか、構造をわかりやすく図解した手書きのイラストなども添えてあって、いつも更新を楽しみにしている。

〈洋装本の外形の記述を本格的に始めたのは出版広告だった〉そうである。明治6年、「東京日日新聞」(1873.12.17)に出された『医療大成』の広告にある「西洋仕立ニテ簡便ナル美本ナリ」がそれで、「簡便ナル」という表現が気になる。noteには『医療大成』の写真もあって、装飾もなくて確かに簡便、だけどそれまでの和装本に比べたら簡便ではないと思うし、まして初めて「洋装本」であることを売りにするなら「堅牢ナル」とかでもいいように思うけれど、本格的なものではないですという正直がうかがわれる。いずれにしても最初は見た目について述べていたようで、〈少なくとも広告レベルでは、西洋から来た新しい造本(印刷を除く)の呼び名として見た方が妥当であろう〉と木戸さんは書いておられる。

製本家で書籍修復家の岡本幸治さんの仕事にもたびたび言及されている。木戸さんが最初のほうでリンクを張って紹介している岡本さんの講演(1997)録「『独々涅烏斯草木譜』原本は江戸期の洋式製本か?」の中から、以前「製本かい摘みましては 63」でも触れたけれども岡本さんの徹底的な探偵ぶりのほんのさわりをここでもちょっと紹介しておこう。

岡本さんは佐竹曙山が残した『写生帳』を修復したとき〈日本最古の洋式製本の事例〉と思ったそうだが、その後『独々涅烏斯草木譜』の修復経験から、〈構造的なことをきちんと理解した上のことではなくて、その場での真似事に過ぎなかったのではないかと思う〉に至る。『独々涅烏斯草木譜』の調査により、これは〈洋式製本の構造をまねしているだけではなくて、表紙を動かすとこのように力がかかる、だからこうして補強しなくてはいけない、ということを製本者は理解している〉と確信できたからだ。例えば表紙布の裏打ちの仕方や布の角の仕上げ方に和装本の技法が見られる、表具師が行う打ち刷毛の跡が和紙に見えるなど、〈和装製本の感覚〉が次々に現れたというわけだ。科捜研には文書分野があるそうだけれど、マリコ(沢口靖子)さんが岡本幸治さんを訪ねる『科捜研の女』を見てみたい。

和装本が洋装本にとって代わられようとする時代にもし生きていたとして、洋装本に憧れを持ち、手持ちの和装本をいじくりまわして試してみようとするならば、やっぱりまずは薄くて硬いもので全体をコの字に包もうとするだろう。そして棚に立て、指で抜き、両手に持って広げ、ページをさらさらめくってみる……。理屈抜きでまずは見た目に走るしかない。では硬いものをどう手に入れるか。周りにある紙は柔らかいものばかりだろうから、ノリでベタベタに何枚も重ねて貼って重石をのせて固めるだろうか。あるいは牛乳パックで紙を作るような塩梅でチャレンジする? あるいは板? いや、板を薄くするのは無理だろう。木戸さんの連載によると、「ボール表紙本」の最初はやっぱり和紙を重ねてプレスして使っていたようだ。これが1871年とか1872年頃、やがてストローボードやミルボードなる輸入板紙も見られるようになるという。

東京の荒川区南千住の小さな公園に「板紙発祥の地」の碑がある。紙を貼り合わせるふうのオブジェはその構造をあらわしているのだろう。1890(明治21)年8月10日、秀英舎の創業者の一人でもある佐久間貞一がこのあたりに東京板紙株式会社の工場を建て、イギリスから抄紙機械を輸入して技師も呼び寄せ、稲わらを原料に板紙の生産を始めたそうだ。佐久間は、洋装本による『改正西国立志編』の印刷製本を請け負うにあたって板紙製造の研究を開始。最初はもちろん手漉きで、明治10年8月上野公園で開かれた第1回内国勧業博覧会に国産初の板紙を出品したそうだ(『大日本印刷130年史 資料編』2007)。機械化して国内量産が始まるまでここからおよそ10年、『改正西国立志編』の表紙ボールは、どのあたりから国産品になったのだろう。ちなみに「朝野新聞」(1876.11.5)に出された『改正西国立志編』の広告には〈活字版にて全部一冊に纏め西洋仕立に致し来る〉〈旧日本の儘を活字版西洋仕立にて発売せんとする〉とあり、活版+西洋仕立が強調されたようだ。

木戸雄一さんのnoteの連載は2021年9月で15回を数える。ここまでで実は一番おもしろく読んだのは、日本の洋装本が米国版の教科書をおおいにまねしてモデルとしたことを解き明かしていくくだり。いわゆるルリユールだけではなくて一般書籍の洋装本化もヨーロッパがモデルとなんとなく思ってきたけれど全然違った。当時の実物を見たことがなかったし、まさかテープを用いた平綴じとか、知らなかった。木戸さんはことごとく残された実物にあたって検証を重ねて証拠を見つけていく。日本の洋式製本化は明治の初めに印書局に招かれたパターソンさんが伝授したことに始まると聞いてきたけれど、木戸さんはそれも同様の検証のすえ、〈1873年にはすでに民間で国産の洋装本を製作できる職人や工房が活動していた〉と断言している。このあとの連載、そしてやっぱり写真や図版たっぷりでの書籍化が楽しみだ。

ベルヴィル日記(2)

福島亮

 ある人へのメールに、住んでいるだけで元気になるような街です、と書いた。そうは言っても、住んでいるだけで元気を失う街にこれまで住んだことはないから、どこに住もうと住んでいるだけで元気になるような街です、と私は口にするのかもしれない。が、ここでなければ言えないことも確かにあって、それは住んでいるだけで食欲のみなぎる街です、ということだ。明日(金曜日)は週に二度ある市場の日である。それを思うと、胃のあたりがもぞもぞと力を帯びるのがわかる。

 パリの市場の魅力というものをこれまでほとんど知らなかった。もったいない。前に住んでいた14区でも、毎週市場は開かれていた。しかし、魅力的だと思ったことはなかった。例外は夏の終りから秋の初めの市場である。前にも少し書いたことがあるが、大小様々色とりどりのプラムが並ぶ様子を見ると、心底嬉しくなる。でも、それは例外で、これまで3年ほどパリで暮らしてきて、市場があってよかったと今ほど思いはしなかった。そもそも、私にとって、市場といえば、パリではなくマルティニックの市場なのだ。フォール=ド=フランスで開催される市場の色彩豊かなこと。コロソル、パンの実、グロゼイユ……どんな味か想像もつかない野菜や果物が山積みになり、所狭しと熱帯の切り花が並び、容易に前に進めないほど人で溢れたあのマルティニックの市場。それが私にとっての市場だった。ベルヴィルの市場は、どこかフォール=ド=フランスの市場を思わせる。さすがに熱帯の切り花はないけれども、店の人々の活気溢れる言語活動が、どこかカリブ海と通じている。

 市場の魅力はなんといっても売り手との距離の近さである。引っ越してきてまだ一ヶ月ほどだが、すでにお気に入りの屋台ができた。根菜を得意とする屋台だ。カブ、大根、人参はそこでしか買わない。ひと月、毎週通って、ようやく顔を覚えてもらえた。ひいきにする理由は、その屋台の根菜にはいつ行っても立派な葉っぱがついているからである。葉つきの人参は二週間くらい冷蔵庫に入れておいてもみずみずしい。対して、スーパーで買った人参は、あっという間に腐ってしまう。前の14区の家で、一度、どうにも部屋が酒臭いと思っていたら、冷蔵庫の野菜室で人参が酒(らしきもの)に変わっていたことがある。

 市場の他にも、ベルヴィルで初めて知ったものがある。アラブ菓子の魅力だ。ベルヴィルは北アフリカ出身の人が多く暮らしており、私の家のすぐ近くにもチュニジア人のパン屋兼菓子屋がいくつもある。見たこともないほど大きな丸パンや、道端の大鍋で調理される作りたての揚げパンなど、視覚的にも嗅覚的にも聴覚的にも楽しいのだが、そういった魅惑的なアラブの食べ物のなかでも、もっとも自制心を強いてくるのはアラブ菓子だ。糖蜜にとっぷり漬けた揚げ菓子や、全体に蜜を絡めた焼き菓子は、頬張れば歯が溶けるのではないかと思うほど甘い。それをこれまた砂糖をたっぷり入れたミント茶と一緒に楽しむのが一般的なのだが、私はほうじ茶と一緒に楽しむことにしている。

 こんなふうに食べてばかりいては健康が心配だ。だから、国立図書館まで歩くようにしている。片道、約1万歩である。歩いてみて気がついたのだが、ベルヴィルは少し歩けばマレ地区なのだ。まだ私にとっては少々よそよそしい感じの、とがった商店や喫茶店が至るところにある。でも、どこか懐かしさも感じる。なんとなくだが、原宿から代々木を通って新宿に向かうあたりの雰囲気とどこか似ているようにも思うのだ。

 7階の家の窓から頭を出すと、隣家の煙突がすぐ近くにある。隣家の一階はパン屋だ。だから、たぶんその煙突からだと思うのだが、早朝、焼きたてのパンの匂いが部屋に漂ってくる。それはいかにもパリらしい匂いだ。だが、一歩外に出ると、そこにはフォール=ド=フランスや、チュニジアや、東京がひしめいている。私は今、そんな街で生きている。住んでいるだけで元気になるような街です、という感想は、やはりここ、ベルヴィルでなければ発せられなかっただろう。

敬老の日

北村周一

秋の日の
充実にして
みちばたに
拾いしへびの
抜け殻ひとつ
*あんなにも完璧な蛇の抜け殻は見たことがなかった・・・
さよさよと
ヘビのぬけがら
わが祖母が
財布の底に
仕舞いゆくまで
*敬老の日が近かったので祖母にあげたらとても喜んでくれた金運御利益願い事成就・・・
つつかれて
逃げゆくヘビを
梨畑に
追い込みにつつ
空井戸のあり
*それは黒くて長い蛇だったので棒で叩いて殺して空井戸に捨てた・・・
舐めごろの
ドロップひとつ
零れ落ち
田んぼの道に
ひらくコスモス
*ドロップ舐めたりガムを噛んだりしながら遊び呆けたしょっちゅう虫歯にもなった・・・
近隣の
騒音悩まし
音を消す
ために聴きいる
〈ミクロコスモス〉
*ご近所に木材屋があり早朝から夕方遅くまで騒音が絶えないその対抗策としてバルトークを聴いいていたのだったが・・・
挿げ替えし
おとこの首の
背後より
あらわれ来たる
政治力学
*賞味期限切れの安倍川餅というべきか・・・
つくり置き
存分にある
ゆたけさも
糠よろこびと
なりにけるかも
*ワクチン信仰目に余るよね抗原検査もしかり・・・
気晴らしに
西の空など
見上げおり
遠のくいろの
むらさきのはての
*中西夏之という画家がいた・・・
絵をえがく
さいしょの動機
つらつらと
思いみるとき
幼児にもどる
*三つ子の魂とはいうけれど侮り難し・・・
ものなべて
幼きころの
記憶へと
帰りゆくらし
絵ふでが誘う
*描くとは絵筆の先と画面とのたゆまざる接触に次ぐ接触の末のできごとなのかもしれず・・・
苦き唾
咽喉にのみ込み
一枚の
自画像はいま
仕上がりにけり
*若い頃よく自画像を描いたあまり楽しくはなかった・・・
目に映る
それより昏く
ながれいる
河口のみずよ
大川に見る
*友人の展覧会が福岡県にある大川市立清力美術館でまもなく開催されるそのパンフレットを見ながら・・・
菊の花
みずにあふれて
長月は
いちにち置いて
命日のあり
*義父と父と一日置いて命日がつづく・・・
舌の脇に
歯科衛生士さんの
おゆびありて
しばしコロナの
災禍忘るる
*かかりつけ歯科医に通う9割以上歯科衛生士が面倒を見てくれる・・・
願わくば
祈りの如き
しずけさに
この身横たえ
ねむりたかりき
*不眠症だから仕方がないのかもしれないが眠剤あまり飲みたくない・・・
年老いて
しまいし父母の
行く末を
案ずるごとも
セミがまだ啼く
*自分の親のことかそれとも自分たちのことなのかやや不明な一首・・・

仙台ネイティブのつぶやき(66)外でゆらゆらと揺れる

西大立目祥子

 体調をくずした4年前、何か定期的に運動したほうがいいかなと考えて思い浮かんだのが太極拳だった。運動が得意じゃない私でも、ゆっくりと体を動かすのならできるような気がしたのだ。フラダンスもいいけど、あれはふくよかな体型でふわふわのロングヘアじゃないとね。
 近くに気軽な感じのサークルはないかなと思っていたら、チャンスは向こうからやってきた。近所でばったりと出会った知人が「私、いま太極拳の帰りなの」というではないか。聞くと、私の家から自転車で7、8分の公園で週に一度の練習をしているという。試しに見学に行ったら、ゆらゆらと揺れるように動き続ける動作がなんとも魅力的に感じられて、その場で入れてもらうことに決めた。

 このサークルはもともとすぐ近くの仙台管区気象台の職員が、昼休みの短い時間を利用して健康づくりのために始めたのだという。やがてOBが増えていって、そこに私が入り、公園でやっているから人の目につきやすいのかウォーキングしている人が入れてくださいと加わり、いまではほとんどが通りすがりに入ってきた人の集団になった。つい2日前の練習でも、また一人新たな人が加わった。でもまだ現役職員の人もいて、週末のくわしい天気情報や異常気象について教えてくれたりする。大型台風接近のとき気象庁の記者会見のテレビを見ていたら、東京転勤になった練習仲間が登場!ということもあった。週一の練習のときだけ会うわけだからちょっと距離がある一方で、1時間半ほどの間は同じ動作をともに繰り返すという何とも不思議な関係が続いている。

 仕事や用事で休むこともままあり、家で復習を繰り返す熱心さにも乏しい私でも3年が過ぎるころから、「24式」という基本のかたちは何とか身についてきた。自転車乗りと同じように、頭で次々と先の動作を考えなくても体は動く。とはいっても、型をそのまままねるように動くだけではもちろん不足で、からだの動きの一つ一つをじぶんの感覚で体得していくのは何とも難しい。自転車なら倒れずに走れれば体得できた、ということになるのだろうけれど、太極拳の場合はただまねているのか、本当に骨盤に体が乗っているのかをまだ習得の途中にあるじぶんが判断するのは至難だ。でも、スポーツのフォームや楽器演奏の姿勢をプロである先生が見れば、打てるか、いい音が出せるかがすぐわかるように、動作のまねにとどまっているか体を使い切って動いているかどうかは、先生はお見通しなのだろうけれど。

 昨年からは新しい人がつぎつぎと加わったこともあり、基本に立ち返り、ひとつひとつをていねいに復習する練習が多くなってきた。たとえば、「両腕で大きな球を持ち抱えるようにして動く」というのが太極拳の基本なのだけれど、あらためて意識しながら動いてみると、これまでのじぶんの動きでは不足していたことがわかる。より大きな弾力ある球体を、常にからだの前に抱え持っていなければならないのだ。これまで私が持っていた球は小さ過ぎたな、と教えられる。体得するとは、こうやって繰り返し繰り替えし基本に忠実に動く中で、からだの実感を深めていくことなのだろう。

 西洋と東洋のからだの使い方の違いについて、気づかされることも多い。たとえば、小学校で習い覚えたからだをピンと伸ばす直立不動の「気をつけ」の姿勢は、もろくて疲れやすい。太極拳では直立不動ではなく、膝と背をゆるめた姿勢をとる。この方が長時間立っていても疲れにくいのだそうだ。そして「お腹」というとき、中国では胴周りを、おへそまわり、その上の胃のあたり、さらにその上の胸に近いあたりと、3つの部位に分けて指し示すのだそうだ。背骨の関節を基本にして、お腹をとらえているのだろうか。だから、からだを前、後ろ、左右に倒す準備運動も、お腹の高さごとに4回ずつ、つまり12回もやるのです。

 と、こんなことを書くといかにも真面目な生徒のようだけれど、外での練習なので、ときおり吹き渡る風にうっとりとし、すこんと抜けたような青空に晴れ晴れとし、曇天は曇天でまた少し落ち着いた心持ちになるという具合で、相当にこの野外で過ごす気持ちよさに支えられているのは確かなことだ。
 いつもすぐ近くには、わざわざテーブルと椅子を運んできて麻雀に興じる年配男女グループがいるし、テリアやプードルや柴犬にリードをつけて集まっている飼い主集団もいる。
 汗だくになって走り続けるランナーがいるかと思えば、フードデリバリーのリュックを背負った若い人がベンチに座り込んでスマホを見続けていたりする。公園ののどかな風景を目にすると、私はすぐ集中力が途切れてしまい、子ども連れよりペット連れが多くなったのはいつごろからなのかなあ、デリバリーのお兄さんは時給いくらくらいなんだろう、などとつい世相を考えてしまう。
 そして、草の上で何かをついばむ鳥の姿に、帰ったら図鑑で名前を調べようと考えたり、腰をかがめば目に入る虫の動きに気をとられて人と違う動きをして苦笑い。振り返れば中学高校のころも、風が入る窓際の席でよそ見ばかりしていたっけ。

 こんな気の抜けた練習ではあっても確かに効果はあるのだと思う。9月はそれを痛感した。用事が重なり2週続けて休んだら、石でも詰まったようにからだが重く苦しくなり、椅子に座っているのもつらくなった。一昨日のわずかな練習で、石はどこかへ消え、ふっと楽な感じが戻ってきている。

 練習は冬も外だ。幸い屋根付きのスペースがあるので、雨が降っても、木枯らしが吹いても、雪がふっても外。みんな「外だからいいんだよね」といいあいながら集まってくる。気象台のプロが、「相当危険だから中止」と号令をかける以外は。

霧の彼方へ

笠井瑞丈

セッションハウス主催ダンスブリッジ
毎年行われているこの企画
今年も参加させていただきました
今年は家族出演の作品を作りました

ダンスブリッジの企画ではないですが
去年8月セッションハウスで
家族総出演の作品を発表させて頂きました

去年の作品構成は
前半ロック クラシック 環境音 様々な音と久子さんの言葉で踊り
後半Mozartのレクイエムの前半ラクリモサまでを踊りました

今回ほその続編という意味合いもあったので
前半にMozartのレクイエム後半部からスタート
後半はモンポーとシベリウス バッハのピアノ曲
今回は島岡さんというピアニストの生演奏で行いました

そしてピアノの生演奏に久子さんの書き下ろしの詩の朗読を
そして長男笠井爾示さんの空を撮った写真を壁に写しました

去年は作品の核となるシーンとして

ベートーヴェンの『テンペスト』をオイリュトミーで踊りました
ことしはバッハの『シャコンヌ』をオイリュトミーで踊りました

父笠井叡にフォルムをお願いし
兄と二人で音解析を行いました

不思議な事で音解析をする事により
今までと全く違うシャコンヌと出会いました

10分以上の長い曲なので五月頭から稽古に入り
四ヶ月近くシャコンヌと向き合った日々でした

この曲はとても大好きな曲で
以前 高橋悠治さんの演奏でも
踊ったこともある思い出の曲です

天使館に週に何度か
家族が集まり

稽古をする

そんな些細な時間

コロナという問題が起きたから
このような時間に向き会う事ができた
やはり家族は小さな宇宙みたいなもの

今はまだ困難なトキ
そして困難な時こそ
身体はそれを克服しようとする力を持つ
そのチカラが作品を生むチカラに変わる

作中に母の言った言葉

「壊れていくカラダを恐れるな」

母の言葉はチカラ強く
誰よりも大きい

今は

恐れるな前に進んで行こう

新・エリック・サティ作品集ができるまで(7)

服部玲治

「全体というのはない」
レコーディングを終えて、ある雑誌のインタビューで悠治さんがそう答えた。探る演奏、そうも言い換えた。テイクを重ねるたびに、異なる道程をさまよう悠治さんのサティ。そのありようを示しているように思う。
それにくわえて、濃密なレコーディングにともなった連日のおびただしい飲酒のせいで、どこに向かうかわからない演奏と千鳥足の酩酊が、記憶の中で奇妙にリンクして今に至っている。

焼き鳥屋での打ち上げ、酒も旺盛に進んだところでわたしは、思い切って、ある告白を悠治さんにした。わたしが3歳のころ水牛楽団のコンサートに連れていったこともある母は、父とともに60年代から学生運動に積極的に参加していた。わたしの名前は、父がつけたもので、子の時分、風呂に入っているときに由来をたずねたら、親友のペンネームからつけた、と言われたことを覚えている。あまりそれ以上詳しくは語りたがらなかった父。けれどやがて母から、その人の名は青木昌彦さんという学者のペンネームであることを知らされた。それは姫岡玲治といった。

時は経ち、レコーディングからさかのぼること1年前、佐野眞一の「唐牛伝」を読んだ母から突然メールをもらった。この姫岡玲治の玲治は、玲はレーニン、 治は親友の高橋悠治からとったと書いてあったという。自分の名前の中に、もうひとつ古層のようなものが垣間見えたようで、さらに以前から演奏に接していた存在が、どこか遠くからつながってきたようで、ひとり興奮を覚えた。
そのことを、酒の勢いも手伝って、鼻息荒く告白したように思う。が、こちらの劇的な告白の高揚感はよそに、そこまで盛り上がらず、いつしか別の話題に移行。宴は狂騒の中終わりを迎え、タクシーで悠治さんを送り出し、果てたように記憶している。

とはいえ、録音翌日、二日酔いのわたしのもとに悠治さんから届いたメールは、なによりの宝物になった。
「2日間きもちのよいチームワークでのしごとができました どんな響きになっているか たのしみです」。

むもーままめ(11)冷蔵庫買い替えの巻

工藤あかね

 調子良く物事が進んでいる時こそ、油断してはならない。そんなこと、すっかり忘れて生きていたのだけれど。

 つい先日、これは順調!と思える日があった。朝はそこそこ早起きし、洗濯機を回し、きちんと朝食をとり、作曲家とのリハーサルに出かけてみっちり稽古をし、いったん帰宅。午後から予約していたエアコンクリーニング業者の作業がサクサクと進んだおかげで、会期終了間際で行くのは無理かもしれないと諦めかけていた展覧会にも、急遽行くことができた。
 
 おまけに、帰り際ふらりと入ったお寿司屋さんが結構良くて、ホクホク。元気が出て調子に乗ってしまったのか、夕食を作る必要もないのにスーパーで生鮮食品などを買い込んで、自宅に到着した。

 ここまでは順調だった。超順調。完璧。

 それなのに、神様はどうして意地悪をするのだろう。私が調子に乗ったから?コロナ禍なのに展覧会とかお寿司屋さんに行ったから?

 自宅の冷蔵庫の下に怪しげな水もれを見つけたのだ。お化け屋敷に入る人みたいに超警戒状態で恐る恐る冷凍庫を開けてみると…ギャーーーーー!!!

 アイスクリームはドロドロに溶けて、ロックアイスは半分以上が液体に戻り、キノコ類はびしゃびしゃ、お魚もお肉も、今すぐ火を入れないと取り返しがつかないレベルまでぬるくなっていた。

 冷蔵庫からも冷気が出ていない。コンセントを入れ直したらなんとなく送風されているような気もしたけれど、だめだこりゃ。さっき買ってきちゃった、お肉やお魚や野菜はどうなるのーっ!!

 救えそうな食材という食材すべてに火を入れ、お弁当を作る時みたいに濃いめの味付けをした。せっかく夕食を食べて帰ってきたのに、おかずが大量にできてしまったので、酒盛りするしかなかった。無理して飲んだせいか、悪酔いした。

 翌日、冷蔵庫を買いに行った。痛い出費だけれど、冷蔵庫なしで暮らすのは厳しいから仕方がない。それにしても最近の上位機種には、共働きファミリーにも便利な機能がバンバンついている。ちょっと心惹かれたのだが、わが家ではハイエンド&大容量は求めていないので、物欲しそうな顔つきを封印してスルー。結局、野菜室が真ん中にある、使い勝手のよさそうな機種に決めた。

 あとは会計だけ、という段になった時、お店に常駐している携帯電話会社の営業が猛攻を仕掛けてきた。携帯電話の料金、自宅のインターネット環境、電気会社を見直さないか。うまくいけば今日の会計から大幅値引きができるという。説明は15分で済むから、ご検討いただいてから会計を、といわれて話を聞いたが、結局いろいろ契約をすることになったので3時間半座りっぱなし。まあ、携帯の料金が安くなるらしいのはありがたいけれど、電気屋さんに冷蔵庫を買いに行って、まさか会計を人質にとられるとは、予想外すぎた。

 数日後、わが家に新しい冷蔵庫が届いた。超快適である。こんな劇的なきっかけでもないと買い替える気にもならなかっただろうから、「塞翁が馬」かもしれない。家電はいきなり寿命がくるから、10年後くらいに壊れないかドキドキしながら構えても無駄だよね。それなら大いに信頼して油断して、バタッと壊れた時に急いで対処すればいいか。

木立の日々(2)「盗まれた工具」

植松眞人

「こだちって、可愛い響きですね」
 いきなりそう話しかけてきたのは今日初めて一緒にレジを組んだ中村くんだった。このホームセンターではレジのシステムにその日の担当者の名前を入力することになっている。そして、入力した名前がモニター画面の一番上にフルネームでカタカナ表示されるのだった。
「どんな字書くんですか」
「どうして?」
 木立はとっさにちょっと迷惑そうに答えてしまう。親しげに話しかけられることに慣れていないのだ。
「だって、わからないことって知りたいじゃないですか」
 中村くんはこの町に十年ほど前にできた大学の一年生で、可愛らしい顔立ちをしている。色白で目が大きくあごが小さい。今どきの若い男の子の見本のような顔で、目の上ギリギリで流された前髪は、流行の歌手のようだ。
「最初、すだちかと思いました」
 人の名前で遊ぶように言うと、中村くんは屈託なく笑う。その声が少し大きくて、通路の向こう側のレジをチェックしていた店長がチラリとこちらを見た。
「ほら、サボっているように見えるから大きな声で笑わない」
 木立がさらに意地悪そうに言うと、
「じゃ、名前の字と由来を教えてください。そうすれば黙っているから」
 この手の大人しいのか強引なのかわからない若いのが苦手だ。木立がこれまでに振り回された男の大半がこのタイプで、結局、こいつらは私を小馬鹿にしているのだと思う。
「木が立つって書いて木立。私が生まれた産婦人科が木立に囲まれていたのよ。私が生まれた日は風が強くてその木立が揺れていたの。でも、折れることなくしなやかに揺れる木立を見て父はその名前を我が子につけることにした。以上」
 私が唇をほとんど動かさず、小さな声で早口で説明すると、中村くんが「素晴らしい」とつぶやいた。何が素晴らしいのかわからなかったが、中村くんはそのまま何も聞かず、やってきた客の対応を始める。中村くんがレジを通した商品を木立は一つずつ客が持参したバッグに入れるのだった。
 朝から勤務していた中村くんが退社したのが午後三時。入れ替わりに木立のレジのサポートに入ってきたのが林さんだった。林さんは私より三つ年下だが、このホームセンターの別の支店からオープンニングスタッフとして移動してきた人なので仕事の上では大先輩といった存在だった。木立の教育係でもあったので、彼女と話す時は少し固い敬語になってしまう。
「中村、どう?」
 林さんが単刀直入に聞く。彼女が中村くんのようなアルバイトを信用していないということは勘でわかっていた。
「頑張ってますよ。若いから覚えも早いし」
 木立がそう答えると、
「覚えが早いのはどっちでもいいのよ。それより安心して任せておける人物かどうかだわ」
 林さんはそう言いながら、木立のほうをみてニヤリと笑う。木立が働き始めて三ヵ月ほど、すでに木立の後に入って辞めていった学生アルバイトが男女併せて三人もいる。男子一人、女子一人の計二名が三日目の朝に電話一本で「辞めます」と伝えてきたらしい。もう一人の女子は二ヵ月ほど働いたあと、店長に「林さんが怖い」と泣きながら訴えたのだそうだ。店長から緊急事情聴取を受けた林さんは、その女子アルバイトのこれまでの不手際と友だちが来店したときの馴れ合いの様子、さらに休憩時間の倉庫裏での喫煙を進言した。
「何も言わなければ、就業時間に遊んでいるし、下手すれば倉庫が火事になっていたと思いますよ」
 林さんがそう言うと、女子アルバイトは芝居がかった表情で、
「全部嘘です!」
 と叫んだそうだ。林さんは「全部嘘です、なんてドラマの中か、歌の歌詞でしか聞いたことがないわよ」と本人の前で大笑いしたそうだ。
「ねえ、でも、中村って、木立のタイプでしょ」
 林さんは木立が独り者だということを知っていて、時折、男関係の冗談を言う。下手をするとセクハラパワハラですよ、と笑って言い返すのだが、木立は特に気にしていない。それよりも、林さんには木立と同じ三つ年上のお姉さんがいて、そのお姉さんが去年病気で亡くなったのだということを聞いていたので、林さんの顔を見ながらお姉さんはどんな顔をしていたのだろうと想像してしまうのだった。
 林さんは背が高い。百七十㎝くらいはあるだろう。男の店長よりも背が高いので林さんを店長だと思っている客も多いらしい。店長は店長で、そのほうが気楽でいいや、と笑える人なので、林さんと店長は仲が良く、それがこの店の雰囲気を作っていると言える。店長はこの店がオープンするときに採用された大卒の中途入社で、前職はファミレスのスーパーバイザーらしい。この店長が一人前になったら林さんは東京の本部に戻るのだそうだ。
 午後八時に閉店し、スタッフが一斉に在庫のチェックや棚の商品の陳列の確認を行う。木立もその日担当していたコーナーの商品をチェックした後、控室に戻り帰宅の準備を始めていた。そこに林さんがやってきて、「ちょっと来てくれる」と木立を連れ出した。
「マキタのドリルセットがないのよ」
 林さんはスタッフ専用の喫煙所に木立を連れていくと、煙草に火をつけながら言った。朝日がカーテンの隙間から差し込んでくるときくらいに自然に言ったので、木立はしばらくそれがリアクションの必要な問いかけだということも失念するほどだった。
「ドリルセット?」
 ようやく木立が答えたときには、林さんは煙草を何度か吸ったあとだった。
「そう、マキタの」
 木立はマキタというブランドネームを受け取り反芻した。
「マキタの」と木立。
「マキタの」と林さん。
「ドリルセット」と木立。
「そう、ドリルセット」と林さん。
 やっと木立の中でマキタのドリルセットの具体的なイメージが浮かび上がってきた。
「手前に陳列してある一万五千円のやつですか」
 木立が答えると林さんは笑う。
「ううん。棚のいちばん奥に置いてある五万円超えるやつ」
 ここで初めて木立は驚いた。それは一週間前に木立が発注して翌日に届いた新製品だった。しかも、いま置いてあるマキタのドリルセットの中ではいちばん高いものだった。
「売れたという話じゃないですよね」
「そう、売れたという話じゃないの」
「盗まれたという話ですか」
「うん。盗まれたらしい」
 少しぼんやりした木立の言葉をいちいち型押しするように林さんは圧の強い物言いで世の中を明確にしていく。
「今日の午後三時過ぎになくなったことがわかっているの。その頃に盗難防止用のタグが解除されている」
「でも、あのタグはスタッフカードがないと外せませんよね」
 木立が言うと、林さんは半歩、木立との距離を詰めた。
「そう。そして、誰のカードで外されたかが記録されているの」
「じゃ、犯人は」
「犯人は木立なのよ」
「えっ」
 木立はここ数年でいちばん驚いた声を、ここ数年で発した中でもいちばん小さな声で口にした。
「わかってる。あなたが犯人じゃないことは。でも、記録上はあなたがタグを外したことになってるの」
 木立は動揺して、汚れた窓越しに店内の様子を見たり、喫煙所にやってくる他のスタッフたちの様子を見たりしていた。早く身の潔白を証明しなければ、という焦った気持ちになってしまっている。
「木立、大丈夫。落ち着いて。犯人は中村なの。あなたのスタッフカードをレジから持ち出して、ドリルセットのタグを外したの」
「いつのことですか?」
「タグを外したのが昨日の夕方。商品を持ち出したのは今日のバイト終わり」
 林さんは極力ビジネスライクに、自分の感情を込めずに話した。それは木立を慌てさせないための林さんの優しさなのだとわかった。
「中村ってミニバイクで通勤してるのよ。で、自分のバイトの制服でドリルセットを包んで持ち出そうとしたのをほとんど同時に入社した子に見られたのよ。で、それなにって聞かれて、慌てたんだろうね。アクセルふかしたら、足元に置いてた工具セットを落としちゃって、それでバレたってわけ」
 とても身近な童話をひとつ読み聞かせて幼稚園の先生のように、林さんは木立にニッコリと笑いかけた。
「というわけで、ドリルセットは箱が汚れちゃったので、明日から二十パーセント割引で出すから」
 そう言うと、林さんは煙草を消して、喫煙所から出て行く。そして、あっ、と小さな声をあげるともう一度木立のところへ戻ってきてこう言った。
「もちろん、中村はもう来ないから。客として来たら断れないけど、相手しちゃだめよ」
 そう言うと、林さんは店内に戻っていった。木立は照明が半分消えた駐車場のほうに顔を向け、一台また一台と消えていく客の車を眺めていた。そして、盗んだばかりのマキタの高級ドリルセットをスクーターの足元に置いて走り去ろうとしている中村くんを思い浮かべようとした。すぐに彼のバイクと彼の顔を思い出したのだけれど、マキタのドリルケースのパッケージデザインだけが浮かばなかった。(了)

『幻視 in 堺~能舞台に舞うジャワの夢~』公演のお知らせ

冨岡三智

もう10月…というわけで、今回は今月23日に迫った主催公演の宣伝である。秋以降にはコロナもだいぶ収束しているのではないか…という期待を持って進めた企画で、練習場所を分散したりオンラインを組み合わせたりして練習を乗り越えてきた。なんとか無事に実施できたらなあと思っている。


公演: 幻視in堺 ― 能舞台に舞うジャワの夢 ―
    ジャワ舞踊&ガムラン音楽公演

日時: 2021年10月23日 (土) ①12:30~ ②16:00~
場所: 堺能楽会館・能舞台

プログラム
前半: 舞踊『ガンビョン』(オリジナル振付)
    間狂言(あいきょうげん)
後半: スラカルタ宮廷舞踊『スリンピ・ロボン』(完全版)

※ 堺市文化芸術活動応援補助金対象事業(舞台芸術創造発信事業)

● 幻視 in ~ シリーズ

タイトルに『幻視 in ~』とあるが、実はこれをタイトルにした公演は今回で3回目である。1回目は1998年10月、最初の留学から帰国した年に国営飛鳥歴史公園の野外で実施した『幻視in飛鳥~万葉人の見たジャワの夢~』で、スラカルタ宮廷舞踊『スリンピ・アングリルムンドゥン』を単独で上演した(録音使用)。ちなみにスリンピは4人の女性で踊る舞踊。日没時間を調べて、曲の第1部の終わりで日没となり、第2部で篝火を焚くという風に構成した。ただ、台風がきて1週間延期した上に開演前にまごまごしていたら、開始時点ですでに暗くなってしまったが…。古代から異国文化が入ってきた飛鳥の地でふと目にしたかもしれないような舞踊の幻影…というイメージを創り出してみたかった。

2回目は2005年11月に橋本市教育文化会館大ホールで行った公演『幻視in紀の国~南海に響くジャワの音~』。今回の公演にも出演するダルマブダヤの演奏で、自分で振り付けた『陰陽 ON-YO』と男性優形の舞踊『スリ・パモソ(人の歩む道、の意)』を上演した。『ON-YO』は宮廷舞踊のような感じで作ってもらった曲で、私はドドッという宮廷特有の衣装を着て踊った。この時は橋本市で狂言を習っている姉妹が扮する太郎冠者と次郎冠者が、ジャワ王家を守護するという南海の女王の宮殿に迷い込み、女王の私に出会う…という物語構成にした。南紀からジャワの南海が地下水路でつながっていくようなイメージを出してみた。

そして3回目が今回。今回は能舞台でジャワ舞踊を上演する。前半では現世の女性が登場し、その一生を舞踊で語る。それを聞いていたのは、南蛮船の荷にあったジャワの影絵(ワヤン)から抜け出てきた二人の男。彼の地の言葉やらいろんな言葉を駆使して堺の町をさまよっている間に、松原の向こうに天女が降り立つ姿を垣間見て心を奪われる…。この人の男の場面は機能的にはまさしく間狂言(二場物の能で前ジテの退場後,後ジテの登場までのあいだをつなぐ役)なのだが、『幻視 in 紀の国』の公演の時の太郎冠者、次郎冠者のシーンも私は間狂言とプログラムに書いていたことを最近発見した。間狂言を挟んで異次元にいく構成が私は好きらしい…とあらためて気づく。前回は間狂言をはさんで女性から男性へと変わり、今回は現実の女性から天女へと変わる。

● 間狂言とワヤン

今回の間狂言ではジャワ人のローフィーとナナンがワヤン人形から抜け出したキャラクターになって港町・堺をうろうろする。実はこのシーンは2人に任せているので(全体の構想はあるが)、どうなるか私も予想がつかない。声が低くて老成した雰囲気のあるローフィーと、声が高くて年齢以上に若く見えるナナンがコンビで動いたらきっと面白いに違いないと思っている。2人をワヤン人形から抜け出したキャラクターにしたのは、実は会場の堺能楽会館・館主の大澤徳平氏との話から思いついた。この能楽会館は、大澤氏の母が私財を投じて創設した個人所有の能舞台である。大澤家は堺で江戸時代から続く商家で、自宅は空襲で焼けてしまったが、ワヤンのような人形があったのだと言う。最初の打ち合わせで大澤氏と会った時に、共演者たちの舞台写真を色々見せていたところ、ワヤン上演の写真に目を留めて、こんな影絵人形がうちにもあったよ…という話になったのだった。どういういきさつでその人形が大澤家に来たのか今となっては分からないが、なんだか堺を感じさせる話だなあと思っている。

● ガンビョンとスリンピ

ジャワの芸能は大きく宮廷起源のものと民間起源のものに分かれる。女性舞踊であれば、宮廷舞踊はスリンピとブドヨ、民間舞踊であればレデッ、タレデッ、ロンゲンなどと呼ばれる女芸人の舞踊(スラカルタの場合はガンビョン)しかない。1817年に書かれたラッフルズの『ジャワ誌』に掲載されている女性舞踊の種類もスリンピ、ブドヨ、ロンゲンの3つしかない。現在は舞踊の種類も増えているが、それらはスリンピ+ブドヨ極とロンゲン極の間に存在し、両極の性質が混じっている(他の外来要素が混じっていることもある)と言える。だからこの公演ではこの2極を見てもらう形になる。

この2極の特徴を対比してみると、
宮廷舞踊(スリンピ+ブドヨ):ブダヤン斉唱が作るメロディーにのって踊る、歌い手と踊り手が分離、大太鼓を使う、集団で決まった振付を踊る
民間舞踊(ガンビョン):太鼓が作るリズムにのって踊る、歌いながら踊る、チブロン太鼓を使う、1人で半ば即興的に踊る
となる。

留学していた時、私はスラカルタ宮廷のスリンピとブドヨの元々の長いバージョンを全曲修得するという目標を立てたが、同時にガンビョンを自由に踊れるようになりたいという目標も立てた。ガンビョンには、太鼓の展開パターンや規則に従いつつも半ば即興的に踊る余地がある。女性が歌いながら踊るという煽情的な踊りがガンビョンの元になっているため、実はガンビョンが一般子女が踊ることのできる健全な舞踊になったのは1960年代以降である。その健全化の過程の中で、ガンビョンは宮廷舞踊のように集団女性が決まった振付を踊る舞踊へと変化していった(これには市販カセットの普及という要素も大きい)。しかし、太鼓との駆け引きの中で自分の個性で踊るのがガンビョンの醍醐味だと私は思っている。

ガンビョンはチブロン太鼓の奏法と共に発展し、実はどんな曲でも踊ることができる。大別すればラドラン形式の曲で踊るか、グンディン形式という規模の大きい曲で踊るかの2種類しかない。それで、既存の曲(カセット化されている曲)を全部習ったあと、太鼓の先生にいろんな太鼓のリズムを叩いてもらって録音し、それを舞踊の師匠の所に持って行って練習した。師匠のジョコ女史はまだパターン化する前のガンビョンを知っている世代なのだった。というわけで、今回もそうだが、私が生演奏でガンビョンを踊る時は全体の演出と太鼓の手組を自分で考える。カセットと同じこと、そして過去の公演と全く同じことは二度としない。これは太鼓奏者と演奏者の1人がジャワ人で、私の意を汲みとって形にしてくれるからこそできるというのもある。伝統曲で新しいことをするのは意外にむずかしい。外国人ガムラン奏者だと、どうしても正しいか正しくないか(カセット録音されたものと同じかどうか)という点が達成度を測る目安になってしまいがちな気がする。

逆に、スリンピやブドヨは古い長い振付(40分~1時間)で踊るというのが私の信条である。ジャワでも王宮であれ芸術大学等であれ、短縮したバージョン(15~30分)を踊るのが普通になっていて、たぶん短縮しないバージョンを公演した経験では私は多い方に属するかもしれない。宮廷舞踊は曲の展開と振付が対応している。短縮版ではこの対応関係がずれてしまっている場合もあり、不満を感じることも多い。宮廷舞踊はその長い振付構成でなければ場面展開の構成のうまさや動きの妙は伝わりにくい。

思えば、日本で4人揃ったスリンピをした公演するのは今度が初めてである。2012年の島根公演では4人揃っていたが、あの時はインドネシア国立芸術大学スラカルタ校の一行を招聘し、私以外の3人の踊り手も芸大の先生たちだった。しかし、今回の上演では踊り手4人とも日本在住者である。うち2人は元々スラカルタ王家の踊り子で、結婚して日本に在住している。今回の出演者は、岸城神社(岸和田市)で2009年から10年間、毎年『観月の夕べ』公演を一緒にやってきたメンバーが中心だが、もう1人の踊り手の岡戸さんは私と留学先の大学も大学院(大阪)も同じで、何度かこの『観月の夕べ』公演に出演している。

今回上演する『スリンピ・ロボン』では、踊り手は弓を手に優雅に戦う。後にパク・ブウォノVIII世となるスラカルタの王により1845年に創られた。同じくVIII世が即位前に作った作品としては、他に『スリンピ・ガンビルサウィット』(1843)、『スリンピ・ラグドゥンプル』(1845)があり、動きの語彙や展開に共通性が見られる。

というわけで公演PRに終始した今回の記事だが、私のジャワ舞踊観も少し知ってもらえると嬉しい。

『アフリカ』を続けて(4)

下窪俊哉

 この夏、犬飼愛生さんのエッセイ集『それでもやっぱりドロンゲーム』を「アフリカキカク」でつくって、雑誌『アフリカ』と同様に、主にウェブで販売している。犬飼さんは詩を書く人(詩人)で、これまでに詩集を3冊発表しているが、エッセイ集は初めて。2009年から今年(2021年)前半にかけて『アフリカ』に発表してきたエッセイと、『京都新聞』の「季節のエッセー」に書かれた連載を中心に、未発表原稿を含む27篇+α をたっぷり収録した。

「アフリカキカク」というのは、極私的な出版社(出版体?)で、もともとは「アフリカ企画」だった。『アフリカ』を始めた時に、版元は『アフリカ』を企画しているところだから「アフリカ企画」でいいんじゃないか、と考えて適当に名づけた。いつから「アフリカキカク」になったのだろう? 覚えていなかったので調べてみたところ、vol.14(2012年5月号)からのようだ。意味をあやふやにして、「企画」「規格」あたりを匂わせつつ、どうとでもとれるように「キカク」とカタカナにしたのだろうか。あるいは、カタカナにした方が洒落てるな、と思ったのか。よく覚えていない。いい加減だ。
 最近、「アフリカキカク」でつくっている本の大半は書き下ろしではなくて、10年、20年の間に書かれたものを集め、著者と共に(自分が著者の場合はふさわしい誰かに付き合ってもらって)じっくり読み直し、手を入れようとなったものには手を入れて、編集している。そうすると嫌でも、時間の蓄積を感じる。

『それでもやっぱりドロンゲーム』には「デザートのように」と題された前書きがついていて、その文章だけは私(下窪俊哉)が書いている。犬飼さんから「編集者のことばがほしい」と言われて、そのリクエストに応えた3ページ、その中で、『アフリカ』には当初、詩作品を載せないつもりだった、と書いた。ほんとうにそう思っていた。詩の雑誌は当時、身近にたくさんあったから。
 詩を書く人たちの間では、まだ同人雑誌の営みが生きている。小説を書く人たちの間からそれが消えつつあるのは、なぜだろう? と考えると、出版社が公募している新人賞が流行っているからだろうと想像はできた。人は金のなる木に群がるのであり、金の離れていくような木には寄ってこない、というわけか。
 それなら、まあ仕方ないかな、と思う。けれど、なぜ書こうと思うの? といえば、動機の物語は、書く人の数だけあるはずだ。それを読むのにふさわしい場所は、いろいろあるはずなのだ。
 自分はどうか? 私はそんなに、書くことが大好き! というわけではなさそうだ。むしろ、書くことを強制されたら苦しくなる。小説も書いてはきたが、小説をこそ書きたいとは考えていない。理想を言えば、いろんな文章を気ままに書いて、気ままに読むなら、いいのだけど。それではたぶん職業にはならない。
 ただの個人の営みにしてしまえば一番自然なのかもしれない。
「アフリカキカク」は、いわばプライベート・スタジオである。でもせっかくつくるなら、自分だけが使えるスタジオというのでは詰まらない。いろんな人が入ってこられるような「場」をつくりたいと思った。

 最近は、文章教室という名のワークショップをひらいて、『アフリカ』をつくる際にメールで行われている”セッション”を現実の空間の中で、顔を突き合わせてやってみている。そこでは各々が書いてきたものを読んで、例えば、どうしてフィクションが書かれるんだろう? というような話をしたり、個人的なことを書いて、それって他人に読ませるようなものだろうか? という話をしたりする。

 ことばはどこから来るんだろう?

 もともと私は23年前に、大学の文芸創作ワークショップに入って書き始めた。それ以前には、自分の作品ですと言えるようなものは何ひとつ書いたことがなかったし、書こうともしていなかった。たまたま巡り合って、入学したそこで影響を受けて、書き始めた。
 そこで過ごした時間の一端は、今年の春に「アフリカキカク」で本にした『海のように、光のように満ち〜小川国夫との時間』という本の中に書いてある。
 ことばというものを考えるうえで私の先生となった作家・小川国夫さんは、はじめて雑誌をやろうとしている若者(私)に声をかけて「仲間とやりなさいよ」と言った。「親しい友人とやるというのじゃない、雑誌をやることで仲間になるんだ」と。
 そういうわけなので、私はひとりぽっちで書いていた経験がない。いつも必ず身近に読者がいた。彼らはいつも親身であり、厳しくもあった。また自分自身も常に、誰かの身近な読者だった。書き手と並走できる、よき読者に恵まれるかどうかは書く人にとって大きい。雑誌はそういう人との出合いを生み出す「場」でもある。
 よく思うことだけど、雑誌という「場」にとって、ほんとうの主役は書く人ではなくて、読む人なのかもしれない。

 さて、20年前に「消えつつある」と思っていた個人的な雑誌の営みは、じつは社会のあちこちで生きていて、続いていた。自分が知らなかっただけかもしれない。最近はよく、SNSを通じてその存在が見えてくる。「雑誌」と言うと不思議そうな顔をされる。「ZINE」と呼ぶ方がしっくりくるらしい。いまの『アフリカ』にはエッセイも小説も(詩も!)漫画も写真も、対話の記録も載っていて雑誌らしく(?)なってきたが、もともとは短編小説と雑記だけだった。少なくても人が集まって、つくっているのを見るといいなあという気持ちがわく。たまに、こんな書き手がいるのか! と驚くような出合いもある。彼らにはプロフェッショナルの自負どころか自覚もないだろう。洗練されてはいない、粗削りの中にこそ感じられることばの力というものもあるような気がする。

しもた屋之噺(236)

杉山洋一

2021年10月1日。今日はブソッティ90歳の誕生日です。中学生のころ、澁澤全集と漆黒のサド全集を古本屋で蒐集して、ロートレアモンと一緒に読み耽っていた自分にとって、ブソッティは、澁澤の耽美で倒錯した世界を具現化する稀有な存在でした。
尤も、イタリアで知己になったブソッティの印象は少し違って、三輪明宏と寺山修司、そこに政治信条こそ違えども、僅かばかりの三島由紀夫のエッセンスを雑ぜたような、刺激的で不思議な存在でした。
パゾリーニを想像させる部分もありましたが、底辺には常に音楽とオペラが流れていたように思います。

9月某日 三軒茶屋自宅
昼過ぎ、鈴木優人君のオルガンを聴きに初台に出かける。自転車を漕いで渋谷でPCR検査の陰性証明を受取り、そのまま宇田川町を抜け初台へ向かった。躰が困憊しているのを痛感。鈴木君の演奏を聴いていると、溌溂とか颯爽、闊達という形容詞が頭に浮かぶ。
グランドオルガンが、こうも切れ味良く、メリハリのある楽器だと実感していなかったので、認識を刷新した。聴いていて、ふと、シャリーノの2台オルガンのための「アラベスク」の楽譜を、ぜひ彼にプレゼントしたいと思う。
昨年はオーケストラをオルガンに見立て、彼のオルガン演奏、指揮姿を頭に描きながら作曲したが、その想像通りだったので少し驚いた。オルガン奏者も指揮者も、聴衆に背を向け演奏するのは等しい。
アンコールは、この所家人が家で練習しているバッハのフーガであった。
演奏会後、外は酷い雨が叩きつけていて、持参した雨具を着込み自転車に跨る。

9月某日 三軒茶屋自宅
東京よりお便りをいただく。
「作曲家は間に合わないと叫びますが、間に合います。M式のひとつは、全く違う質やジャンルの仕事を同時並行でやることでした。編曲のことですが、おかしな例えだけど、毛糸のセーターの糸を解いては蒸気に当て、糸を柔らかくして編み直す。色も形も同じだけれど、新しい編み手がいるということかな」。

9月某日 ミラノ自宅
一日、川口成彦さんのための作曲。
パラリンピックが終わるや否や、ドイツは日本を感染拡大国に指定した。
イタリアは市民のワクチン接種を義務化するという。それに対し、8割の国民が賛成しているそうだ。徹底的に経済が打撃を受けたので、仕方ないのだろう。これからどうなるのか。

母が結婚前に世話になった、小田原は関本の大角の照ちゃんの行方を捜していたところ、インターネットの電話帳にそれらしい名前が見つかる。
早速母が電話すると、照ちゃんは肺炎で4年前に亡くなっていた。94歳のご主人は矍鑠としていて、半世紀以上経って初めて電話したのに、直ぐに誰だか分かったのよ、と母は驚いていた。

アリタリア航空が10月で会社を閉めるので、引延ばしていた家人と息子のチケット払戻しのため、朝から電話を繋ぎっぱなしにして仕事をする。新聞では誕生から現在までのアリタリア航空の変遷を紹介する記事が盛んに掲載され、「アリタリア航空」の名義を公に売りに出している。
右肩から腕にかけて、誰かが乗移ったような妙な感覚。

9月某日 ミラノ自宅
イタリアに戻って感じるこの解放感は一体何か。さして日本で清廉潔白に過ごしているわけでもあるまい。正しく音楽をやり過ぎているというのか。
ツインタワーのテロから20年が経った。自分の人生に於いて911は大きな転機となった。同世代で同姓同名の杉山陽一さんが犠牲になられて、まさかお前じゃないだろう、お前は元気かと何度となく連絡を貰い、その度にツインタワーの映像が甦った。
彼のお名前は漢字は少し違うけれど、ローマ字では同じ綴りだ。
その所為か、完全に他人事とは思えず、烏滸がましくも自分は生かして頂いている、暮しの節々でそう感じるようになって、現在に至る。
911を機に自分の音楽も次第に社会に近づいていったが、日本に住んでいれば違ったかも知れないし、やはり同じだったかもしれない。

気にかけてくれる友人も恩人もいるし、彼らは亡くなっても、どこかで等しく気にしてくれているように思う。塞翁が馬だと感じつつ、生き長らえる中で、漸次パズルは解けて来た。パズルが完成してあちらの世界に行ったとき、落語の「朝友」のように、別の生き生きしたパラレルワールドが広がっていることを期待している。

昼過ぎ、電話をしていると物凄い音がして、窓ガラスに鳥がぶつかった。
夕方、窓ガラス下の黒い物体に気が付いて、良く見ると黒ツグミが死んでいた。
目から一筋、細い血が流れていて、躰を持ち上げるとベランダには体液の染みが残った。ツグミの巣のある土壁の袂、随分前に息絶えていたツグミを埋めた辺りに、穴を掘って埋めてやる。

9月某日 ミラノ自宅
明け方川口さんに楽譜を送ったので、これから少し寝ようと思う。次の譜読みにどれだけ時間がかかるか、ある程度の目算を立ててから次の作曲にかかりたい。
前回、巨視的に作曲した同じプロセスを、今回は微視的、内視的にやろうとしている。

ここ暫く、一家総出で庭に集う黒ツグミたちの囀り声は姦しいほどだったが、昨日の一件以来一羽も現れず、静まり返っている。悼んでいるのか、慄いているのか。
昨日死んでいた鳥に何があったのか、判然としない。何かの拍子にパニックに陥り窓ガラスに突進したのだろうか。
附近には背の高い梢が並んでいて大小様々な鳥が訪れるが、空を羽ばたく姿を眺めていると、人間より余程能力が長けているように思えてならない。
玉葱を軽く炒めて古いゴルゴンゾーラチーズを絡め、パスタを加えて茹で汁で全体を伸ばしよく馴染ませてゆく。秋の味がする。

9月某日 ミラノ自宅
家人がメタテーシスやピアソラを弾くオンライン配信を聴く。メタテーシスもこなれて来たのか、彼女が弾くとフリージャズのように響く。元来旋法的に書かれていて、それが目まぐるしく変化し、重複してゆくから、ある意味当然かもしれない。悠治さんのお話を伺っていると、音符をデジタルに再生する必要はないようだから、フリージャズやルイ・クープランのように弾いても構わないだろう、などと思いつつ楽譜を貼っていて、ブソッティの訃報が届く。
シルヴァーノがこの夏も無事にやり過ごせて良かった、10月1日、90歳の誕生日を皆が賑々しく祝うだろうと考えていた矢先だった。

9月某日 ミラノ自宅
学生時分、間借りした部屋の幼児の幽霊に水を出すようになって以来、宗教心は皆無のまま家族や恩師、友人らに水を上げ、手を併せている。今朝からそこにブソッティも加わる。宗教とは無縁だから、彼も気にしないだろうし、死は逝く本人より残された周りの人間が作り上げる概念だろうから、当人は最早興味もないだろう。

ブソッティは火曜に荼毘に附された後、土に帰されるだけだという。宗教儀式を一切執り行わないのは、故人の宗教観に基づく。告別式も葬式もなくてはお別れも言えない。マンカはブソッティの訃報が報道機関から不当に軽視されていると憤慨している。彼曰く、エツィオ・ボッシはテレビの追悼番組まで作られたのに、べリオもドナトーニもブソッティが死んでも、皆一様に知らない振りをしている。

9月某日 ミラノ自宅
亡くなった人を想い浮かべるとき、死後そこには彼らの優しさだけが残る。生前彼らが周りに分け与えた愛情だけが残る。恩師や家族、友人も等しく、その温もりだけが、残り香のように漂う。死ぬと人は誰でもそうなるのか。自分がいなくなった時、誰かに向けて同様に温もりを留められるだろうか。
死ねば数ケ月と待たず自身の痕跡も記憶も消失するだろうが、自分の個が明確でなくとも、何某か微かな温もりが、空気か土か、コンクリートかアスファルトの上に、ほんのり色を加えられれば倖せかもしれない。
ブソッティの訃報を受けて、そう思う。

フォルテピアノの川口さんは、既に「いいなづけ」の本まで落掌されたそうだ。深謝。
今から200年前の1827年、マンゾーニはそこから更に200年遡った1629年から2年間に亙るミラノのペスト大流行の姿を資料に基づき忠実に描いた。
「いいなづけ」から100年後にスペイン風邪、200年後にCovid-19がミラノを舐めてゆくなど、露ほども考えないで書いたのだろう。
さもなければ、ペスト禍のミラノをあそこまで緻密に描きあげなかったに違いない。
昔、ミラノにはこんな惨事があった、と透徹に後世に伝えようとしたのだろう。
スペイン風邪は知らないが、Covid-19に関しては、当時ワクチンこそなかったにせよ、陰謀論者が現れるところまで、マンゾーニが書き残した世界は現在と酷似していて、読んでいて居心地が悪くなる。

9月某日 ミラノ自宅
「水牛」に書く原稿と自分の作曲が、最近頓に似てきている。私事と公事を区別せず、日記を並置してゆく。それは概念的でも観念的でもなく、音や文章を無から捻り出す能力や創造力の欠落であり、それ以上でもそれ以下でもない。
1月に東京で演奏した、ブソッティ「和泉式部」断片を、久保木さんが故人を悼んでヴィデオ編集してくださっていて、感謝している。

9月某日 ミラノ自宅
久しぶりにスカラに出かけ、ティートの演奏会を聴く。
桟敷入口でワクチンパスポートを提示し、検温して入場する。知合いに会うのが煩わしく天井桟敷に席をとると、目の前で6人ほどの若者が天井桟敷最前列から身を乗り出し、熱心に聴き入っていた。
作曲を勉強する一団だったようで、フィリディ新作の演奏が終わると興奮冷めやらぬ様子で絶賛しながら、それぞれ口角泡を飛ばして意見をまくしたてている。
彼らの一致した意見によれば、フィリディの最高傑作は「葬式」だそうだ。そんな瑞々しく情熱的な姿を、好感を持って眺める。
後半ドナトーニが始まると、面白そうに聴くものと、スマートフォンを取り出しチャットを始めるものと別れた。チャットの彼の携帯電話は、目の前で画面が点滅して煩わしいが、平土間前列の婦人など、前半からスマートフォンを触り続けているから、この若者を批難する気はおきない。
演奏後、ティートはドナトーニのスコアを高々と聴衆に掲げて賞賛を示した。冒頭の低弦楽器の部分の扱いが流麗で感嘆する。
演奏会最後はストラヴィンスキー「うぐいすの歌」だったが、オーケストラでピアノを弾くヴィットリオが余りに際立っていて、思わず演奏会後に彼にメッセージを送った。

9月某日 ミラノ自宅
ブソッティの告別式も葬式もないと聞き、ちょうどフィレンツェで行われている、ブソッティ90歳記念行事の一つ、Bussotti par lui-même 上映会に出かける。
LGBT、性的少数者の関わる映画祭の一環でもあるので、カヴール通りのLa Compagnia映画館の受付や観客もそれらしい風貌の人たちが集って賑々しい雰囲気だ。
観客の殆どは音楽関係者ではなかったようで、上映会後、観客からは、彼の音楽をもっと聴きたいとの声が口々にあがった。
上映前の簡単な座談会で、ロッコが、スイス国営イタリア語放送局のこのドキュメンタリー番組制作当時の逸話を話す。
当時自分はまだ23歳で未熟だったから、即興で踊りを繋ぐこともできず、途方に暮れながら3小節間立ち尽くしたこともあるという。尤も、観客には、トルソの3小節も充分深い印象を与えたに違いない。
スイス国営イタリア語放送がデジタル化したこの番組は、原版が傷んでいたというために、ロッコが「友人のための音楽」や「水晶」を踊る場面や、エリーズ・ロスが「サドによる受難劇」を歌う場面も割愛されていた。

ロッコ曰く、マスクをしていたから、最初は誰だか分からなかったそうだが、それにしてもお前はなぜフィレンツェにいるのかと驚かれる。
追悼式の予定がないのは、遺言でもなんでもなく、単に今のところ誰からも提案がないからだそうだ。自分で企画したら、誰に任せて誰を招くのか、到底決めかねると言う。
イタリア国営放送ラジオでは、オレステが特別追悼番組を放送して、ブソッティの死を悼んだ。

9月某日 ミラノ自宅
「50年前の演奏です。50年前のふたりです」
雨田光弘先生から、50年前にご夫婦で演奏している録音が送られてきた。日付は1973年8月16日。今はなき福井の松木楽器店の録音、とある。
サンサーンスの「白鳥」と光弘先生の音楽を奏する動物画とともに始まる。
痩せて華奢な信子先生が、ぴんと背をのばし、飄々とした面持ちで演奏される姿が目に浮かぶ。
先生の掌を思い出しながら、ほろほろ、ほろほろと紡ぎ出される音に聴き入る。
無心で耳が音を追うに任せる。音に先生の思いでを投影しながら聴きはじめれば、きっと落着いて耳など傾けていられない。
去年の正月に先生宅を訪れて、おせちを少しご馳走になった。あれからもうすぐ2年になるなど信じ難い。7年間も習っていたが、それは酷い生徒だった。

9月某日 ミラノ自宅
夜半早朝、秋らしさが増してきたとはいえ、未だ緑の葉に覆われている庭の樹の梢で、今朝はリスが盛んに尾を振っている。裏の線路と隔てるレンガ壁に垂れた枝を伝って、茂みに潜り込んでゆく。

久しぶりに入試でマリアに会う。血栓の出来やすい体質でワクチンが打てないと聞いていたから、ワクチン接種証明がなければ学校にすら入れない昨今どうしているか心配していた。相変わらず元気そうで安心したが、48時間ごとに自費でPCR検査をしているという。「もちろんよ。これがなければ、働かせてもらえないんだから」。

9月某日 ミラノ自宅
東京の家人より日本で打ったワクチン接種証明の写しが届く。一昨日それをグリーンパス発行の保険局のサイトに登録したところ、今日、グリーンパスを発行する暗証番号とQRコードが送られてきた。
母からは、笑顔の父の近影が掲載された小冊子の写真が届く。電話口で「どこの好々爺かと思ったわよ」と笑っていた。

先日の入試で、ヴァイオリンのフランコ・メッツェーナの講習会伴奏をしていたナポリ国立音楽院の大学院生、ガブリエレが入学した。大学院は10月半ばに修了予定だそうだ。
南イタリアの学生らしく、とても慇懃で、幾分古めかしい言い回しのメールが届く。
「先生のクラスへ入学許可を頂き誠に有難うございます。大変嬉しく存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。お礼を申し上げておきながら、早速このようなメールを差上げる失礼をお許し下さい。レッスン開始から2週間は、カラーブリアの実家に戻らなければならず、すぐに先生のレッスンを受けられないのです。大変申し訳ありません。実家のオリーブ収穫を手伝わなければならなくて」。
「全く問題ないですよ。いいね、カラーブリアのオリーブだなんて。羨ましいです」。
「もちろん先生にはお届け致します。これもわたくしどもの習わしです。どうぞ楽しみにしていて下さい」。
(9月30日ミラノにて)

天道虫の赤ちゃんは天道を見ることができなかった(下)

イリナ・グリゴレ

手術を受ける日はすぐ決まった。難しい手術でも成功させるという若手外科医を紹介された。私は黒い水に溺れる感覚だった。この感覚は子供のころにもあった。村の外れの沼地のこと思い出す。育てられた村は沼と森に囲まれていた。この村を出たら、私はあの黒い沼に溺れるに違いないという予感があった。村の外にあったとうもろこし畑にたどり着くためには、森に沿った道を30分歩いてから、沼地の近くを通る。でも、私はあの沼地のそばを歩くと寒気がした。自分の身体の外側にある沼にも関わらず、身体の中側にまで広がっている気がした。

小学校に通うために町に引っ越してから、毎日のように沼で溺れる夢をみ続けた。黒い水の中に自分の体が沈んでいるのを感じた。水草の間で息ができなくなる感覚があまりにもリアルで、夢から起きてもしばらく息が苦しかった。

CTスキャンで自分の体の映像を見たとき、自分の中に沼地の一部があることを確信した。この世界にある、何か黒い、悪い、恐ろしいものが「私」だけのものではなく、みんなにあると思った。私が病気ではなく、世界が病気だ。私はただ、生まれた。生まれてきた命が謝る必要はない。生まれたらどんな状態でも、生きる。

小学校の遠足でブカレストの国立自然史博物館を訪ねたときに、人間の体の構造の展示を見た。たくさんの本物の人間の器官が白くなって、透明なビンに浮かんで、棚に並べてあった。腎臓、心臓、肺、卵巣、脳。その次は、様々なステージの胎児、実物はすべて透明なびんに浮いているままで飾られてあった。生きてないと知っていたが、目が合った気がした。「大丈夫、こっち側も同じだから、こっち側にもあなたと同じ実験を生きている」と言いたくなった。人生で初めて見た展示はかなり衝撃的だったが、共感して、私の身体も世界という大きな展示場にぶら下がっていると思った。

現代とは、客観的にみれば人間の身体に何をしてもと許される時代なのだとなんとなくわかった。でも展示されていた胎児たちのイメージがずっと頭から離れなかった。手術前にあの胎児たちを思い出しながらピンク・フロイド
の『Embryo』という曲を聴いて、病院へ一人で行って入院した。Embryoは胚という意味だ。

麻酔から覚めたら、裸のまま集中治療室のベッドで機械に繋がっていた。痙攣しても、誰も気づいてくれなかった。動けないままで、どうやって前の状態に戻るのかわからなく、ひたすら機械で自分の心臓の音を聞いていた。耳から入ってくる周りの情報を少し把握しはじめた。同じ集中治療室に何人かの患者がいることがわかった。痛みに耐えられなくて大きな叫び声を出している男性の声が体に響く。恐ろしい声だった。やっぱり、手術しても同じだ、同じ世界に戻る。叫ぶ患者の気持ちがわからなくもない。私も叫びたいが痛みが強すぎて声がでない。元々声があったのか。このベッドに置かれている私は世界からみればどうでもいい。あの博物館の胎児と同じだ。透明なねばねしたば液体に浮かんで、身体が白くなるまでここにいるのかもしれない。裸で、寒い、動けない。麻酔のために喉が乾いて唇の皮膚から血が出て、唇がくっついている。あまりの苦しみにただボロボロと涙が出る。自分の涙が頬に流れるところがかゆいけれど、手を使えないから、涙はただただ流れる。意識と感覚だけはあるのに、身体が動かせない。完全に麻酔からまだ覚めてない状態がしばらく続いた。その後、何回も痛みで気絶した。

何時間たっても麻酔からはっきりと自分の体の感覚を取り戻せないから、起きていることに誰も気づかない。しばらくすると病院の男性看護師が私の口を水に濡らした布で拭いた。ものすごく喉が渇いてい、たからあの優しさに感動した。私は裸だと気付いた。寒いと気付いた。他の看護師を呼んで、一緒に私に服を着せてくれる。小さい子供のように私の身を彼に任せる。この人は天国に行くと思った。迷いなく人を助ける人。彼の仕事だとしてもこんなに優しく触れる。今でも彼は本当にいたのか、天使が人間の形をしたのかとおもうほど、優しい気配を感じた。入院している間に彼の姿を二度と病院で見たことがない。まるで幻のような人だった。

その後は医師が来て様子を見る。手術は成功した。でも思っていたより何時間も長くかかった。患部は足にまで広がっていたので、雑草のように手で引っ張った。一度は私の内臓を体の外に出したという。痛みで喋れない私はそのシーンを想像した。生きている人の内臓を体外に出すということできるなんて。このシーンを何回も想像した。その瞬間に自分を上から見た気がする。手術台の上に麻酔で動けない自分の身体から内臓が外に出ているのは、子供の時に遊んでいた人形のお腹からでている綿のようなイメージだ。それは自分なのか、自分ではないのかわからなくなった。医師は嬉しそうにこの手術を研究発表できると言った。

モルヒネを点滴で入れられる。静かな、痛みを感じない、何も感じない世界に入る。体の暑さと、破れたての血管の、点滴の針との違和感、ドレーンや尿のチューブの違和感は感じるけれど、痛みはもう感じない。そうか、あの展示されている胎児はこんな感じでいるのか。ドレーン排液の透明袋の中に溜まっている私の体から出た液体を見ながら、夢のようにまた黒い水に浮かぶ感覚が戻る。その夜に不思議な夢を見た。古代エジプトでの儀礼に参加していた。私は地下の部屋で、石の台の上に横になっていた。ヒエログリフに描かれているような格好の人が火を持って自分の周りに来て、不思議な歌を歌い、火に関わる儀式をし始めた。

回復するまで何ヶ月もかかったが、一度身体がこのような経験をしたら、本当に回復できるかどうか曖昧だ。ダンゴムシのように丸くなって傷の痛みが消えるまで待った。麻酔が強かったせいか、目の網膜に黒い点がふたつ残っている。それ以来、いくら美しいものをみても私にはそのイメージと黒い点二つが同時に見える。

歩いても、話をしても、何をしても傷が痛い。だるさと疲れと闘う毎日が続いた。身体は元の状態に戻らない。しばらくの間、傷跡が生々しい状態なので、バイ菌入らないように一生懸命にケアをしなければならない。人間の肉、皮膚、細胞はこんな生々しい。普通の身体を持つとはどんな状態なのかもわからない。毎日、茶色い液体を痛い傷に塗って、動く度に痛みで叫びたくなる。一番辛かったのは笑う時だった。笑えない世界をどうやって生きるのか? くしゃみをすると、傷が開くような気がして、止めるのに必死だった。私の身体は大きな傷だけでできていた。それでも自分の身体に追いつけないぐらい生きたい気持ちが湧いてくる。しばらは実家にいてから、ブカレストに戻った。シネマテックがあるから。

しばらくするとあの子から連絡きた。会ったとき、私が座っていたベンチの後ろからシャボン玉を飛ばした。振り向いた時、彼の明るい顔を初めてみた気がした。その夜はブカレスト祭という大きな祭りがあって、サーカスとストリートパフォーマンスなど、音楽と風船があちこちから見えて、あの子と手をつないで歩いた。これでいい。このままでいい。全てを忘れる、本当に幸せになれる。子供のように笑って周りのスペクタクルを楽しんだ。そう、私は弱い人間だ。ただ、愛されたい、だから生まれてくる。その後は二人だけの世界を生きることにした。誰もと連絡を取らず、紙袋ふたつで家を出て一緒に引っ越し、そのまま結婚して、二人の女の子を作ろう、と二人で夢を語った。彼はアルコールと薬物から回復し始めた。笑うようになった。バレー、演劇、映画を一緒に見に行ったり、長い間、街の中を歩いたりして、時間は音楽のように流れていた。手術後の私の身体も奇跡のように回復し始めた。人は薬ではなく、愛で治るのだと知った。彼が優しく私の傷を触るたびに、本当に傷が奇跡のように薄くなっていた。

しかし、ある夜、不思議なことを経験した。それは金縛りだった。寝ているときに意識はあるものの身体を全く動かせない状態で、夢だとわかっているのに起きられないし動かせない。声も出ない。しばらく起きられなかった。それは変な予感だった。後日、頭痛でずっと悩まされていた彼は検査の結果、脳腫瘍と診断された。

彼の手術の日の前に子どものようにお風呂に入れて、星形のキラキラした紙を部屋全体に散らした。奇跡を信じるための空間を作りたかった。どこを踏んでも床が光っていて、彼を子どもの感覚に戻したかった。手術を受ける日にオペ室の前で待っていた私は、5分後にドアの向こうから彼が出てくる姿を見た。手術服のままオペ室から逃げたのだ。手術をしたくないとひとこと言って、病院を出た。そうか、その選択肢があったのか。毎日頭痛で苦しんでいた彼は、パニック状態になった家族に引き取られ、私とはもう会えなくなった。一人で家に引きこもって彼を待っていた日々は、あの沼に沈む感覚。二日に一回ドアの鍵が開く音が聞こえ、彼の姿が見えると薄い希望のようなものを感じる。一緒に逃げることを話したが、結局、彼はすぐ家に帰っていく。そのまま時間が止まった感覚に耐えられなくなった。

やはり、この私たちが生まれた世界では愛は許されない。ある日、私は一人で逃げた。ドアを閉めて、鍵を投げて、頭のなかで、アントニオーニ監督の『砂丘』の終わりと同じように、愛が許されない世界が爆発しているのが見えて、一人で逃げた。私は逃亡者だ。逃げることによって世界をいつでも更新させるのだ。

先日のこと、庭の杏の葉っぱにてんとう虫の赤ちゃんを発見した。しばらく観察しようと思って毎日のように様子を見に行ったが、何日経っても初日とあまり変化がなく、そのままの状態だった。葉っぱの裏に透明なフィルムのようなものに囲まれて点が二つしかできてなくて、そのまま死んでいた。家で飼っていた芋虫も、何日間もお腹いっぱい葉っぱを食べて大きくなり、待ちにまった脱皮の瞬間に鮮やかな緑から黒に変わってそのまま死んだ。たまたま公園で出会った幼稚園のお母さんに話すと「今年の天気のせいだ」と息子が飼っていた虫も上手く生きられなかったと言った。私は天気ではなく、この時代のせいではないかと一瞬思った。変身しきれない虫たちのことを考えながら思い出したようにスマホを開いて、「チェルノブイリ放射能を浴びた人画像」を無意識に近い状態で検索し始める。たくさんの赤ちゃんの画像、奇形児が透明のビンに浮いている画像が私の身体を震わせる。「自分と似ている」としか言葉が出てこない。

震える手で、事故当日から二日の間のヨーロッパの放射能マップを検索した。SF映画のような赤に染まっている放射線マップだ。私の村があるところも濃い赤に染まっていた。やっぱり、私もあの奇形児と似たももの同士だ。きっと、私だけではないはず。奇形児は美しく見えた。この世界では印象派の絵と同じで、光の変化で美しく見える。私も光が当たると眼の色も髪の毛の色も変わる生き物なので、太陽の光があるかぎり変身し続ける。

203 原爆の図丸木美術館にて

藤井貞和

終わりの始まり、富山さんの海峡、富山さんの背筋、富山さんが光(ひかり)の
州(しま)に佇つ。 となか(海峡)のまぼろし、となか
地上絵のめぐり、くねり、のたうつ、ゆく、むかう、みんな、みんなして
土偶も、空の神も、むなしい世紀に(1984年の藤井が
光、州を通過したとき)、案内員のBさんが、「ここからは だまります
言いません、若い人たちが、みんなで哲学の徒であろうとしたとき」と、しかし
海つ路を行く念いと、そこにうずくまる若者たちとを、富山さんは見据え
描きとるのでした
(2011年)
  海の炉芯をだきしめよ    幼い神々
こえを涸らして、「東アジアが祈りの姿勢にはいった」と、富山さんは
描き出しました。 表情のない喪志の希望に、難解であることがみんなの
詩らしい詩、そのようにして無為を叩くキーボードのうえで終わる、終わらない
または始まる。 いくり(海石)に立つにんぎょひめです、母よ
若者はすべての比喩をやめる。 みんなの叙事詩のたいせつな情報を載せて
針は斃れ、胎内で聴く母語のはて、やさしいな、待ってて
  海つ路に波がさらう    潮合いの迎え火
現実ならば醒めないで。 遠い原野と至近の原野と
ふたつの過酷さのあいだで、みんなが生まれる、みんなとみんなとの
あいだのように、あいだのように迎え火を振る
  震央の水が凜として向く    潰(つい)える三月
どうあるべきかを問う子供の思想だった、胎内で聴いた鈴の音と、波の音とを
二つに分ける、背中のたてがみのように。 海底のひがし市場と
にし市場とをわける、霧雨のなかで、どうあるべきか、〈子供の科学〉に
希望はあるか
  たいまつをかざして    国つ罪が沸きあがる四海
釜山から向かう昭和二十年(1945)。 十月のぼく(藤井)は広島を通過する
きょうのみんな、わたしたち、おいら。 海の炉芯に祈る
祈るな。 歳月をして語らしめよ。 しめるな。 日本語の背理
歴史の構想力。 抽象による数学的自然。 だれもいなくなったあとの
夕月夜(ゆうづくよ)と かげかたち。 落涙型の土偶のあしどりに
かげがなくなる、いなくなるかげに、それでも希望をかかげる?
  草原に遠き乳牛    かげが斃れて
浜通りよ、空の神が降りてくる、みんな、降りてくるのは乳のあめ牛
浜づたいに啼いている、みんなのあめ牛、病む仔牛を曳いてどこへ去る
母牛のあしおと
  炉の芯を匍いずり    水源がなめ尽くすまで
なめくじら息の緒の銀線をなすりつけて匍いよるところ
かたつむりら舞う国の罪人のために、涸れる海底の井戸
類的実存を一千ページ余のかなたへ、学習するカードには書き記してあった
いまはない、哲学者のみんなが去る
  校舎のありしあたり    神々が浜通りを去る
なあ、叙事詩の主人公たち。 言えなくなった、意志・苦痛、意志・苦痛
「うつく・しい」と、さかさに言おうとしただけなのに、みんな
虫のことばになりました、消える人称的世界!
  負けないでZARD   海底の卒業式ができなくなっても
風のチョウチョがひらひらとただよい去ってゆきます。 それだけ
ただそれだけなのに、きょうはね
  波間からとりだせなくて   風だけが
  はいっていました   USBメモリー
風の音を送ります。 遠雷に載せて、壊れたぼくのEメールで
  送るよ   走り火の海の底から
訪ねて来て! どこ、辺りの「どこ」、眠らずに来て
海底の虹が住む    住所不明のゆうびん番号
どこへ行けばよいのか分からない、みんなの山彦よ
玉つひめ、葛(くず)のしげりに、無色のちりに
  まがつ神おまえの建て屋に祈る   ゆき向かえ いま
  絃を切れ弁財天女    おしら神はかいこをつぶせ
哀吾、哀吾よ、きみの名は「哀吾」。 建て屋を描く
富山さんのシカゴ大学のホームページの表紙
画面の叙事詩に、一人また一人、名まえが浮上する
終りの始まり
  うたへ講義がさしかかる    まがつ火ノート
  こころに波をうち据えるうた    海やまのあいだにうたう
来週は休講ですよ。 原爆の図丸木美術館での
富山妙子展(2016)から帰ってきました。 題名「となか」(渡中)に
霊獣の物語を。  海峡の辺りは白い波です
 
 
(光州にバスが近づくと、アンネーウォンのBさん(おなまえ忘失)が、その〈経過〉を語り出した。まったく知らないことで、仰天した。バスがいよいよ街にはいるというときに、「ここからは言いません」と、彼女は案内を終えた。韓国への「観光」旅行を友人たちと試みたのだった。まだ、富山さんの活躍をぜんぜん知らなかった。博物館などをまわり、そこに一泊したのだが、Bさんの話を聞いたあとだったので、物音のない、人影のない、死の街の底に沈むような思いだった。真鍋祐子さんの著を知るのはずっとあとになってからである。今年の延世大学校での開会イベントのようすについて、悠治さんの先月の「水牛のように」が5時間のユーチューブを紹介していたので、リアルタイムの富山さんにお会いすることができた。真鍋さんのご好意にあまえて、いくつか、『東洋文化』などを送ってもらった。みんな、みんなありがとう。)

遅く、もっと遅く

高橋悠治

今年は休みたいと思っていたのに、しごとに追われているのはどうしたことか。しごとがおそくなったと気づいたのは1年前、それまでは、作曲をたのまれたら演奏のひと月前には楽譜を渡すようにしていたのに、それができなくなっている。

ピアノの練習もおそくなっている。メガネに慣れないだけでなく、いま弾いている音よりすこし先を見ながら演奏を続けるという習慣が、身につかないせいかもしれない。では、メガネがいらなかった時には、それができていたのはどうしてか。

知っている音楽をくりかえし弾いて磨きをかけるより、知らない楽譜を読む、あるいは、知っていると思いこんだ楽譜を、知らないもののように読むと、気がつかなかったものが見えてくるのを待って、そこから立ち上がる響きを聞く。毎回すこしずつちがう結果をためしながら、でもどこかで折り合えるように、一つに固定しないで、ゆるくあいまいな範囲でその場でうごける、即興に聞こえるような流れ。鍵盤の上に垂らした指が歩くようにして、使う指が自然に決まれば、流れはかえって自由にならないか。自分でうごかすのではなく、かってにうごいていった指が触れるかんじ。指だけがすばやくみつけた位置に行くのと、ちいさく、弱く、かすかな響きが生まれるのがひとつのことであるように。

今年はじめに亡くなった岡村喬生とシューベルトの『冬の旅』を練習していたとき、よく言われた、「遅く、遅く、もっと遅く」。

2021年9月1日(水)

水牛だより

今朝目を覚ましたときには、すっぽりと肌掛け布団にくるまっていました。肌もひんやりとして、暑さにあきあきしていた身には気持ちがよかったものの、この気温の低下は自然な秋というには極端すぎるものだと思います。

「水牛のように」を2021年9月1日号に更新しました。
暑いさなかの8月18日に、富山妙子さんが亡くなったという知らせ。2日後には荼毘に付されて、富山さんのスピリッツだけがわたしたちに残されました。日本でよりは韓国で大きく報道されたのもそのスピリッツのひとつです。

森下ヒバリさんのおかずがけご飯! タイ語ではおかずのことを「ごはんといっしょに」といいあらわします。まずご飯があり、それからおかずです。ともかく、ご飯といっしょでなくてはいけない。目玉焼きをひとつ乗せるのはいい考えですね。たしかにそれだけでごちそうになります。我が家では、おかずかけご飯を「かけご」と短く言って、ずいぶん前からの定番となっています。

パリでどうしているのかと心配していた福島亮さん。ベルヴィルの市場のおいしいものを食べすぎて、太らないねないようにしてくださいね。

室謙二さんのもろもろの部位の痛みは、同じ年齢のわたしもいくらかは経験しています。老化はいたしかたないことなので、治すというよりはある程度の状態を保っていければいいだろうと思うようになりました。ある程度の状態とは、ときどきは痛いのを忘れていられるくらいのことでしょうか。

最近の天気予報は信用できないものになっていますから、きょうは涼しくて快適だとしても、夏が終わったのかどうかは不明です。

それでは、来月も更新できますように!(八巻美恵)

202 海の道の日(原ポルトガル語)

藤井貞和

3月30日、バグダッドへの空爆はさらにはげしく、市の中心部で四つの爆発があったようだ。前日、空爆されたある市場では55人(他の情報源では58人)の市民が亡くなった。

日本の外務大臣川口順子(よりこ)はNHKのある朝の番組で言った:「戦争が終ったときは四歳だった。空襲のとき逃げたことを覚えている。下で怖がっている人たちのことや戦っている兵隊の辛さを思うと、テレビをちゃんと見ることができない」。

本当? 彼女には空襲の記憶があるの? 番組を見た人たちやこのことを後で知った人たちは少し驚いたかもしれない。日本の総理大臣小泉純一郎は川口とともにイラクへの武力行使を容認し、オープンにアメリカ(とイギリスと)を支持した。

川口の言う空中襲撃は1945年の襲撃のことである、当然ながら。あの戦争のことに関しては空中襲撃というのに、今度の戦争に関しては空中爆撃という。

戦後55年間を生きた人たち、終戦後生れた人たち、もっと若い人たち、戦争についてのニュースを聞いたり見たりする経験が初めての人たち、高校生、中学生、そして小学生まで、すべての人が戦争について考える権利がある。

戦争で戦った人たちや空襲の記憶をもつ人たちだけが戦争の経験を生きたというに過ぎないならば、終戦後に生れた人たちは戦争を知らない世代ということになってしまう。

私たちは戦争を知らないのか? 学校で習う歴史や毎日メディアから伝えられるニュースは、戦争を遠いもの、経験できないものとして見せるのか?

戦争にまきこまれていない地域が、ある限られた地域の戦争に関して無関心でいることはできない。ある特定の地域の戦闘であってもそれは世界戦争である、つまり、世界中をまきこむ戦争である。私たちはこれを自覚しなければと思う。

私たちは世界戦争を生きているのではないか? メディアの問題――検閲、かたよった情報の操作、確かな情報の不足のため間違っているかもしれない、挑発的な解説、急に忙しくなった軍事に詳しい専門家たち、戦争批評者になり、多くの解説をうみだす分析者たち。にもかかわらず、このようなメディアを経験することは戦争の経験ではないのか?

小泉と川口の武力行使容認は罪であると言える。しかしこのような批判に対する答えが「彼らはただ保守的な政治家としてふさわしい選択をしただけだ」――であるならば、私たちはさらに有効な反論を見つけなければならない。なぜなら、日本がこのまま武力行使を支持し続けるならば、高い代償を払うことになる。

でも、このことに気づくほとんどの人たちはこの経済援助を国にとって有利だと考える。政治家はこのように言い、支持を得ようと、かんたんに影響されやすい日本社会に訴える、「私たちは戦争に反対だが、現在の危機はイラクによってひきおこされたのだから、私たちは武力行使を支持する以外に選択はなかった」と。「日本にとって、アメリカを支持する以外に選択はあるのか? 現実的な決断だった」と。

イラク復興に協力したいという願いがあの国を助けたいという純粋な気持ちからも発しているということを認める。そして戦争に反対だと言うことは決してまちがっていない。日本はアメリカになんでも従うからアメリカのサルだと言われているようだ。今後、日本社会や日本人がテロ攻撃の的になる可能性は大きい。もし無防備に外国を訪れる日本人観光客が誘拐や攻撃の的になったなら、日本政府は自衛隊を派遣しなければならなくなるかもしれない、そして、後悔するようになるかもしれない、「こんなことなら、アメリカを支持するのではなかった」と。

このような時期に特に反米だと言い始める解説者を見ることは耐えられない。これらの解説者は専門家のように見せ、風潮をつくる。このような日本社会の傾向を好む人もいる。このようにして国民感情はつくられるのだろうか。

「私たちは反米である」――これが討論などの中心的なテーマだ。反米であるというのは現在の国民感情にアイデンティファイしている以外の何ものでもない。どの国でもこのような経験をしているだろう。風潮が反米であったり、その風潮が過ぎ去ったり。東アジア諸国の反日感情を知るならば、少しでも常識のある人ならば国民感情をはっきりあらわして反米だなどと言えないだろう。

あるテレビの討論では次のテーマが与えられた。1.日本が武力行使を支持したことについてどう思うか? 2.今後、日本はどうすべきか? 参加者は朝までこのテーマを討論していた。あなたたちもこれらのテーマを学校で、家で、仕事場で議論していると思う。

しかし、なぜ別な問いをたてないのか。例えば、3.空爆の一番の的になっているイラク市民のことを第一に考えると、彼らの恐怖のことを思うと、国の利益を考えるより先に、人間として、考えることとすることがあるのではないか。

4. 戦争の恐怖があるとして、その恐怖が想像であっても現実であっても、そして戦争以外に選択がないとしても、実際の攻撃は避けなければいけないこのような思想を表現すること。

5. 戦争に反対であること、または非暴力の考えは練習によって得られる思想であり、高度な人間的智恵である。私たちは国民感情が武力行使を支持する方向へ向かわないためにも、このような考えを洗練しなければならない

6. でもその一方で、私たちは言わなければならない:平和に慣れっこになることは何がいけないの? それはいい面もある。私たちはブラジル住民が百年以上も戦争を知らないということ、そして平和に慣れているということをうらやましいと思わなければならない。また日本国憲法を思い出すのもよいだろう。

7. 例えば、沖縄の歌手、きな・しょうきちはイラクへ行って表明した:武器を楽器に代えましょう。世界中で何万人もの人が街へ出て戦争に抗議をした。インターネットでは戦争反対のメッセージやイラストが流れ、人間の盾となるためにイラクへ行った人もいる。それぞれの人がそれぞれの方法で、戦争反対、または非暴力を訴えている。人文字、反戦広告。人間の尊厳の名においてこれらすべてを認めなければならない。小さな行為でも、思想は体を動かすこと、そして声からはじまる。

8. アメリカでもイギリスでも武力行使に反対する人たちがいるということを想像する権利。パレスチナ、アラブ諸国に生きている人たちのことを想像する時間。中欧や東欧に広がっている悲しみを想像できる可能性。東アジアの海、沖縄東海岸のジュゴンを想像する教室。

9. 国の利益よりも大切なものがあると子供に教えることのできる人間の先生。このような先生がもっといてほしい。不利益になっても表現されなければならない無言の叫びがあるということを教える人問の先生。

10. 国民感情が高まっているとき、理性が示す本当の価値は国民感情にはないとはっきり言うことができる、日々を生きる人たち、人間の芸術家、人間の思想家たち。

最後に、人間の兵士たちへ、もし思想が、あなたたち兵士たちが持つもっとも人間的なものをなくそうとしたら、あなたたちはその思想にさえも銃をむけるの?
 

(〈富山妙子「海の道」の制作を見ようと高橋悠治、小林宏道らが火種工房へあつまった雨の夜、2003年4月4日、藤井貞和(試案)〉とあるものの、趣旨をつかみにくく、私の文とすこし違う。ポルトガル語(ブラジルでの諸言語)の併記があり、Eunice Tomomi Suenagaが担当する。しばらく富山さんについて書きます。)

今日は楽しいシェア祭り

さとうまき

大学生たちが手伝ってくれているクラウドファンディングを成功させるためのお祭りらしい。昨年大学生だった馬場ちゃんたちが中心となって、支援を始めたアレッポの小児がんの子ども2名の資金がそろそろ尽きるので、先月からクラウドファンディングをはじめたのだ。

9月1日には、より多くの人たちに知ってもらい、コロナ禍でも大丈夫な人のところまで届いてほしいなあと思うわけだ。
https://www.facebook.com/events/229088655813801

サラーフ君10歳を紹介しよう。
治安はよくなったけど、まだ内戦は続き、シリア人同士の相互不信はぬぐえないから、いろんなことを聞きにくい。こんなこと聞いていいのかなあと不安になる。しかし、一年たつと大体状況が分かってきた。

サラーフ君は、多発性骨髄腫という特殊ながんで苦しんでいる。普通は子供はかからないがんらしく、骨髄にできたがん細胞が骨を溶かしていくらしい。アレッポにはがんの専門病院があったが、反体制派の武装勢力が爆破してしまった。ダマスカスまで通わなければならない。

お母さんがおしゃべりが大好きなのか頻繁にチャットしてくれるが、すべてアラビア語。最初は馬場ちゃんが訳してくれていたが、彼も卒業してしまい、忙しいようで、仕方がないからグーグル翻訳を使って直接やり取りをすることが多くなった。いつも、ダマスカスに着いたら写真を送ってくれる。アレッポ市内に住んでいることは知っていたが、実際どんなところに住んでいるのかなあ。

飛行場の近くで暮らしていたが、反体制派にこの地域が支配されると、国内避難民としてアレッポ大学の学生寮に避難していたという。2013年、アレッポ大学にロケット弾が撃ち込まれ、その時の爆発で80名以上が死亡するという事件が起きた。寮が避難所になっていて、周辺地域から避難してきていた国内避難民たちが3万人ほどいて、巻き込まれた人もいた。サラーフ一家は無事だったが、2015年には、運転手の仕事をしていたお父さんがダマスカスへ向かう途中で行方不明になってしまう。いまだに消息は分からない。2016年の暮れには、アレッポの市中が解放され、サラーフ君の一家が住んでいた地域も安全になったが、帰る家は破壊されてなくなってしまった。

そして、サラーフ君はがんが再発したことを知らされる。
子どもは7人いるので、家を空けられず、毎回日帰りでアレッポとダマスカスを往復している。かつては、政府、反体制派と支配が複雑で道路が封鎖されていて、10時間ほどかかったが、今では高速道路が開通して4時間30分くらいで行けるそうだ。

「私たちの家は、破壊されてしまい、街そのものも廃墟になってしまいました」
家を借りているんですね? 家賃はいくらくらいするのです?
「空き家に住んでいます。大家さんは、私が未亡人で7人もこどもを抱えて、サラーフががんであることを知ってるので、無料で住まわせてくれています。」
それはよかったですね。
「水道も、電気もないのです。ジェネレーターを持っている人から線をつなげてもらってます。水は週に2回給水してもらっています」

その日は夜になっていたので翌日町の写真を送ってもらうことにした。届いた写真を見ると驚いたことに、サラーフ君の住んでいる町は瓦礫だらけ。かろうじて破壊を免れた家に住んでいた。アレッポの町中の修復はかなり進んでいると聞いていたので改めてびっくりした。

「ガソリンは少ししかなく、料理のためのガスもうちには3ヶ月ありません。ガス・ボンベは、もし買おうと思えば、50000SP(2500円くらい)します。でもそれだと15日もすれば無くなります。あらゆる燃料の値段が高いんです。とても大変です。だから時々(ガスがないので)料理しないんです。」

「今年の3月には、ガソリンがびっくりするほど値上がりしました。タクシーの運転手は、16万SP(シリアポンド)要求してきましたが、13万SPしか渡しませんでした。タクシーの人に言ったんです、こんな値段で行けません!って。次はもっと値段の安いところを尋ねないといけません。」

ところが、今では、18万SPまで値上がりしてしまった。ちなみに一年前は6万SPだった!日本円にすれば、1万円を超える。毎月4回ほど病院に通うから交通費だけで4万円近くかかってしまうのだ。

「ダマスカスによく行きます。医者がサラの状態について何と言っているかを説明したいと思います。彼の病気は非常に厄介で、サラーフは、一生病気と付き合わなければいけません。このままでは、彼は骨の痛みに苦しみ続けるでしょう。1つの椎骨が折れると、多くの椎骨骨折を起こし、完全に麻痺を引き起こし、誰も彼を救うことができなくなります。
医者は私に彼の状態を説明しました。そして私たちはアレッポからダマスカスの通院とサラーフが痛みに苦しむのに、うんざりしていて、神は私たちの状況を知っているのに、どうしてこのような苦しみを与えるのだろうと、私は非常に悲しくなり、怒りすら覚えます。サラーフは数年間化学療法を受けていたせいで、歯がとても痛いといいます。今まで4回再発しました。そしてまた再発です。がんは、サラーフのやせ細った体を食いつくしていきます。
データを見て、どのようにがんが骨を侵食しているか見てください。昨年は6番目と10番目の2つの椎骨がやられました。それで、私たちは、何度もダマスカスに通わなくてはいけません。週に2回行かなければならない時もありますが、私はもうくたくたになります。1回行くだけで精いっぱいです。多発性骨肉腫は、まれな病気です。再発しなければいいのですが、サラは4回再発したため、抗がん剤も効かないほどがんは強いのです。
ええと、彼は今、彼が所有して遊ぶことを夢見ている自転車に乗ったり、泳いだりすることを禁じられています。
私の説明が明確で、私の文章を理解してくれることを願っています。」

そもそもなんでこんなにシリアの物価が上がって大変になっているかというと、欧米諸国の課す経済制裁だ。特にアメリカは、アサド政権にシリア国民に対する虐待を止めさせ、シリアが法の支配、人権と隣国との平和共存を尊重するよう図ることで、そのために包括的な制裁を課すとした。シリアの通貨は急落(最近だけで3分の2下落)し、医薬品などの生活必需品の輸入がさらに困難になるとともに、物価が急騰し、国民生活の困窮は一層強まった。また石油・ガスが制裁の対象とされたことも日常生活に一層支障をもたらすことになった。さらに建設業が制裁の対象とされたことで、戦闘が行われた地域の瓦礫の撤去が進まず、国民の生活の基礎である住の確保が進まない状態にある。このように国民のためであるはずであったシーザー法はかえって国民の生活を一層脅かす結果を招いてしまっているのだ。海外からの送金があれば、物価の上昇分を、SPの下落分で相殺できる。しかし、シリア国内でいくら稼いでも、給料が上がる要素はない。

シリア難民が500万人を超えているが、国際社会は、人権問題をあげて、シリアに帰れる状況ではないというが、シリアに戻っても仕事はなく、彼らが難民としてとどまって仕送りすることで家族が食っていけるという構造を国際社会が作っていることも事実だろう。仕送りする家族が海外にいない場合は? 悲惨だ!

アフガンを見ても感じるけれど、国際社会は自分たちの価値観の言葉に酔いしれ、思考停止になっている。人権って、声の出せる人たちだけにしかないのですか? 貧しくて、弱い人にはないのですか? サラーフのお母ちゃんのおしゃべりが、彼らの耳に届くことはない。アメリカ人のほとんどは、こういう人たちが苦しんでいる事なんて知らないから、反対運動もなく、無責任な経済制裁を続けるのだろう。

僕も、サラーフのお母ちゃんのおしゃべりがなかったら何も感じないままだったと思う。なんとか、シリアの人々がもう苦しまなくてもいいように。
まずは、サラーフ君に生きてほしい。

『アフリカ』を続けて(3)

下窪俊哉

『アフリカ』の書き手は、その時々の、編集人(私だ)の交友関係から現れてくる。「書きません?」と誘うこともあるし、頼む前に送られてくることもある。書く人は『アフリカ』という場を出たり、入ったりしている。長い間、続けて書いている人もいるにはいるが、それでも毎回、必ず書いているわけではない。
 何を書くかは、書き手に委ねている。訊かれたら、「いま一番、書きたいと思うことを書いてください」と伝えることにしている。字数制限もなし。何を書いてもいい。それで書く気になった人から送られてくる原稿に、突き動かされるようにして雑誌が立ち上がってくる。はじめに設計図があり、それに合わせてつくるというようなことはない。
 その号の特集テーマを決めたこともない。いや、少しあった。個人的にお世話になった作家の小川国夫さんが亡くなった時に、数人に声をかけて追悼文を書いて、載せたことがあった。書き手の常連である犬飼愛生さんが久しぶりに詩集を出した時には、論考を書いたり、メールでやりとりしてインタビュー記事をでっちあげたりしてまとめて載せたこともある。しかしそこには特集とは書かれておらず、よく見たら小特集のようになっているという具合だ。
 いま、書店へゆくと多くの雑誌で、特集が目立つようにつくられている様子を観察できる。リトルプレス(ミニコミ)にも、その影響は及んでいるのではないか。
 特集テーマを決めて、書いてもらう、というやり方はつくりやすいのだろうし(考えやすいという方がよいか)、買う人も特集が何かを見て選べばいいので買いやすいのだろう。わかるような気がする。でもそればかりでは、予想を外れたもの、超えたものが出てこない。『アフリカ』のような小さな雑誌で、できることは何かと考えると、その「予想を外れたもの」へ近づいて、入ってゆくことではないか。
 準備はほとんどしない。
 出たとこ勝負で、集まってきた原稿を並べて、流れを見る。
 打ち合わせたわけでもないのに、ある人の書いていることが、別のある人の書いていることへの応答のようになっていることがよくある。不思議なことだ。

 表紙にあるのは切り絵(をスキャンして配置したもの)だ。『アフリカ』を最初につくった時、向谷陽子さんから届く年賀状や暑中見舞いが切り絵になっていたのを思い出して、依頼してみたのだった。それから15年、『アフリカ』の表紙にはいつも彼女の切り絵が躍っている。
「何を切ろう?」という相談を受けることがあるが、それも基本的には「いま切りたいものを」で、切り絵も『アフリカ』に集まってくる作品のひとつなんだというふうに思っている。それでも相談されるので、最近は毎回、リクエストをいくつか出して、その中から選んでもらっている。ただし、そのリストにないものを切って送ってくる場合もある。予想していなかったものが届くと、『アフリカ』が喜んでいるような気がする。
 さて、その表紙には、切り絵と「アフリカ」の文字があり、発行年・月が書いてあるだけである。
 これではどんな雑誌なのか、実際に手に取り開くまでサッパリわからない。”アフリカの雑誌”だと思ってしまう人がいるのも仕方がない。
 そんな『アフリカ』でも、3、4冊つくるともう「次の『アフリカ』はいつですか?」なんて親しみをこめて呼んでいる人がいる。「どうして『アフリカ』なんだ」と言われていたことも、次第に過去のことになる。
 5冊目の『アフリカ』になって初めて、奥付に号数を記した。号数のない雑誌ではなくなった。しかしそれ以降も、現在に至るまで、第○号と記してあるのは奥付だけである。あまり大切なことではないんじゃないか。毎回、毎回の、その1冊があるということに比べたら。

 先日、32冊目の『アフリカ』をつくった後で、ある人たちと話をしていて、32号って、すごいですよね、と言われた。そうかな? だって、1年に2冊つくっていたら、10年で20冊、15年で30冊じゃない? でも1年に2冊つくるのだって、大変ですよ? そうかな、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 昨年、下窪俊哉(私)の作品集『音を聴くひと』をつくった時に、それまで20数年の間に書いて発表してきたエッセイや小説に加えて、『アフリカ』の編集後記を全て載せた。
 数年前、フリーマーケットに『アフリカ』を出した時に、立ち読みをしていた見知らぬ人から「この編集後記、面白いから、これだけをまとめた本があるならそれを買いたい」と言われたのが印象に残っていて、そのアイデアを本の一部として生かしたのだった。
 いつも校正を手伝ってもらっている黒砂水路さんからは、こんなことを言われた。「(編集後記を続けて読むと)力んでいるのか脱力しているのかわからない面白さがある。”続けることは変わること”というようなことを、くり返し書いてあるのが印象的だった」

 一定してはいない、常に揺れている、ということかもしれない。「つづける」ということは変わりつづけるということだなあと思う。しみじみ、そう思ってます。(第26号/2016年8月号の編集後記から)

 書いた時には、次々と起こる変化に、戸惑いがあったのかもしれない。いまでも、変わってゆくことを意識すると、自分の中から力が湧いてくるのを意識すると同時に、寂しさも感じている。『アフリカ』を取り巻く人たちも変わったし、自分も変わった。生きてゆくことは、別れと出会いの連続ではないか。いなくなった人の存在を感じながら、まだ続いている。

アフリカキカク