何語を使うのか?(晩年通信 その26)

室謙二

 日本人が外国に出かけていく文章を日本語で読むと、この人はそこで何語を話しているのかな?ということが気になる。
 というのは、私がすでに三〇年以上カリフォルニアで暮らしていて、もちろん時々は日本に帰るが、カリフォルニアにいるときは英語が、家の外でも家の中でも日常言語になっているから。
 私には息子が四人いて、そのうち二人は今の妻の息子で、妻もその息子も日本語が話せない。私が日本から連れてきた二人の息子は、中学の途中から、高校、大学とアメリカの学校に行き、英語を教育言語としてきた。そして日本語については、私が読み書きを教えたので、翻訳でも生活ができる。
 家庭では日本語が分からない人がその中にいた時、つまり妻とか妻の息子二人とか、アメリカ人の客人がいた時は私たち日本語家族も英語を使う。しかし息子と私たちだけでいるときには、日本語を使っていた。それが家庭内の英語・日本語の使用ルールであった。
 こういうバックグランドがあるので、日本人が外国に出かけて行った文章を読むとき、この人は何語を話しているのかなあ、と気になる。通訳を使っているのか、外国語がわかっていないのか、カタコトなのか、流暢なのか。
 それとこの頃は、携帯の自動翻訳を使っていて、役に立つと書いている時もある。驚いた。あれは信用すると、とんでもない間違いをおかすことになる。インド・ヨーロピアン言語の間ではいいのかもしれない。それと誰かが、日本語と韓国語の間では使えるよ、とも言っていたが。
 言葉が分からない国に出かけていくときは、もちろんその国の言葉を数週間前から勉強するのがいいけど、その国に着いたら、まず自分は言葉が分からないですよ、と相手にわからせる必要がある。いい加減にわかったふりをするのは最悪だな。わからないけど、コミュニケーションをしたいという姿勢をとること。身振りでもなんでも。そうすれば関係を結べる可能性がある。たとえ乗り物の切符を買うときでもそうです。

  漢字の国に行く

 漢字の国に行くときは、中国とか台湾とか、必ずすぐに書けるノートを持っていく。それに漢字を書いて、相手とコミュニケーションする。日本語風の中国語であっても、大抵はわかる。買い物をするときとか、値切る時も、漢字とクエスチョンマークを使って、相手にも返事をそこに書いてもらう。中国語の発音は全くわからないからね。
 紙がないときは、手のひらを開いて相手に見せて、そこに漢字を指で書く。インクがないのだから動きだけで、漢字を書くわけです。これでもわかることがある。国際会議で中国から来た人と、ロビーで手のひら漢字コミュニケーションで「話をしていたら」、そばで見ていた津野海太郎がわらっていた。
 もう二十年以上前に、妻のNancyと台北から台南まで、台湾汽車旅行をしたことがあった。汽車が駅に止まったり、駅をゆっくりと通り過ぎたりするときに、素早く駅の名前を漢字で「読む」。私は中国語の汽車の地図を持っていたから、それでいま私たちがどこにいるか確認した。まだ台南まで一時間以上あるなあ、なんてNancyに言うと、感心して「Kenjiが中国語ができるとは知らなかった」と言う。そうじゃないの、中国語は全くできないけど、漢字を知っているから、それを使って切符を買ったり、駅の名前とか次の駅の名前とか、中国語の地図が読めるのさ。と言っても、漢字の機能が分からない外国人だから、その意味がわからなかった。
 もっとも、このように漢字に頼るのはヨロシクないと言われたことがある。
 
  漢字は特別のものではない

 このエピソードを書こうと思ったら、中国人とか日本人が漢字の機能に頼りすぎるのは良くない、漢字が特別の言語の道具だと思うのも良くない。と私に言ったヨーロッパ知識人の名前を忘れている。もの忘れが激しいんだ。認知症の初期だと、数年前に医者に言われてショックを受けた。妻に、Kenjiはこの頃物忘れが激しいから、また医者のメモリーテストを受けましょう。と数日前に病院に連れて行かれた。結果は数年前と変わらない。ちょっと安心。でも妻は、納得しない。
 それでは元に戻り、名前を思い出せないそのヨーロッパ知識人は、本をドイツ語とフランス語と英語で書いて出版していて、カソリック司祭のバックグランドだった。彼はカソリックの信仰は離れていると思うのだが、私と話した時は国連の援助で日本で研究休暇を取っていて、友人のダグラス・ラミスの紹介で、下駄屋の二階にガールフレンドと下宿していた。
 彼によれば、カトリック司祭というのは自分では辞められないとのことで、バチカンが司祭ではないと決めないといけないらしい。私はまだバチカンにそう言われていないから、きっとまだ司祭でしょう。でも司祭のルールは守っていない。セックスは禁じられているけど、ガールフレンドと暮らしているしね。
 もっとも私のカトリックの友人によれば、結婚している「元カトリック司祭」というのは、たくさんいるらしい。でもバチカンは、それを司祭のルールを守っていないとして破門したりしないらしい。というのは、いずれカトリック司祭も結婚してもいいということになる可能性もあり、その時のことを考えて破門しないのだ、とのこと。バチカンは少なくとも数十年、あるいは数百年の単位で考えているのさ。とそのカトリックの友人は言っていた。
 元カトリック司祭は、日本人とか中国人は漢字を特別だと思いすぎだよ。と言う。あれは他の言語の文字と同じように、単なる書き言葉コミュニケーションの道具にすぎない。言葉というのは、それで伝えられる内容が重要なんだから。内容を伝える言葉は、内容が伝わったら捨て去られていいものだ。
 この話を聞いたときに、なるほどこれは普遍主義だな、と思った。言葉の向こうに普遍的世界があって、それを描いたい伝えたりするための道具が言葉なんだ。その道具を普遍的世界の内容と混同してはいけない。漢字を使う民族は、漢字を特別なものと崇めているけどね。

  道元は外国語の「使い手」だったらしい

 先月は家族とメキシコ旅行をしていた。そのときに道元の本を何冊か持っていった。そしてときどき、スペイン語と英語が飛び交うプールの、パラソルのしたで読んでいた。道元も、何か国語の中で生きていた。
 道元は天皇の家系につながりがあり、子供の頃から将来、天皇システムのエスタブリッシュメントになるべく教育をうける。だから日本語の古典も、論語とか経典とかの古典中国語、当時の中国(宋)の話しことばも学び、中国に出かけて行ったときは、それらを手に持っている。そして船で中国についても、まず船の中で中国人から中国語を習ったり話したりしている。道元は中国語に堪能であった。「典座経典」の最初に、まだついたばかりの道元が中国語を話している。あるいは、漢字を紙に書いて話していたのかもしれない。典座(てんぞ)は寺の料理人のトップのことで、道元によればそれは仏教の大事な修行の一つである、とのこと。別のところで道元は、仏教と食は「等」であるとも書いている。
 道元は中国に本当の師を探して四年いたが、最後に如浄(にょじょう)に出会う。その時のことが「宝慶記」に書かれている。如浄の弟子が寂円(じゃくえん)であり、彼は道元が日本に帰った後に追いかけて日本にやってくる。そして日本人で弟子になった懐奘(えじょう)と中国人の寂円と道元の三人が日本で禅(曹洞宗)を始めるのである。曹洞宗は今では大きな禅宗だが、その時はまだ数人の集まりであった。
 その三人の集まり、曹洞宗の始まりの三人は、何語を話していたのか?
 三人とも当然、書き言葉の古典中国語は堪能であったはずだが、三人の間では、宗音の中国語を話していたと思う。少なくとも道元とまだ日本にやってきたばかりの寂円は中国語で話していた。懐奘も寂円とは中国語を使っていただろう。道元は中国語で仏教について書いていたし。つまり始まったばかりの道元の日本での宗派は、中では中国語を話し書き、外に向かって、日本人の僧と信者に対しては日本語で呼びかけていた。
 道元の仏教は、中国で如浄に学んだとしても、中国とも日本ともインドとも離れた普遍性を持っている。その普遍性によって、道元の仏教はアメリカでも、道元の使っていた言語(古典中国語、宋の中国語、日本語)を離れて、英語で広まっていく。元カトリックの司祭が言っていたように、言語から離れた普遍性を持っていた。
 師の如浄は道元に、日本に帰っても権力に決して近づくな、と言う。如浄は道元がロイヤルファミリーの出であることを当然知っていたはずだ。日本に帰ってきた道元は、日本人の弟子懐奘と中国人の寂円の三人で、貧乏に新しい仏教を始めた。お互いに中国語で話しながら。
 メキシコでプールサイドで道元を読みながら、多国語の道元について考えていた。私も多国語の中で死ぬのだからなあ。と思いながら。

製本かい摘みましては(170)

四釜裕子

筑摩書房、中央公論新社、河出書房新社、角川春樹事務所の4社が、2月の刊行分から文庫本の本文紙をそろえるそうだ。王子製紙が共同開発したものに順次切り替えていくという。〈用紙の確保と調達価格の安定が狙い。中央公論新社によると業界初の取り組み〉。〈製紙会社側が出版社ごとの用紙生産を維持するのが難しくなり、共通化を協議してきた〉(共同通信 2022.1.21)。

いわゆるファンシーペーパー(ファインペーパー)でも数年前から銘柄の廃番が増えている。松田哲夫さんの『「本」に恋して』(イラストレーション内澤旬子 新潮社 2006)によると、〈本というものは、刷り続け、売り続けている限りは、最初のかたちをきちんと踏襲し続けている〉〈一つのかたちで刊行された本は、よっぽどのことがない限り、造本などの変更はさせない〉そうだから、廃番による変更に苦慮する版元も多いのだろう。松田さんは続けて〈実際には、すべてを守り続ける必要はないだろう。でも、かたちも含めて文化だという意識は大事に持ち続けていたいものだ〉と書いている。

ファンシーペーパーの一つである「タント」(1987年発売)は色数の多さが売りで、こちらは2019年に200種となって以降、今もそのままあるようだ。これらがずらっと並んだ紙見本を眺めてあれこれ悩むのは楽しい。楽しいけど、東急ハンズなどで断裁済みのA4サイズものから縦目を数枚選んでレジに並んで、折れないように台紙を1枚添えて店の紙袋に入れてもらってありがとうございましたなどと言われると、「私、何やってんだろう」感を覚えたのも確か。居心地がよろしくない。

紙の違いを触り比べたり、製造工程の工夫などは聞くほどにおもしろいからそれがなくなるのは惜しい。本文紙についても「いろいろ」が減っていくのは残念だけど、今回のことはいいなと思っている。手元にあるそれぞれの文庫本を並べて開いてみた。比べると違いは感じるけど正直よくわからない。版元ごとの用紙の違いというのは、私の場合、読むにもめくるにも愛でるにも影響はなく、このニュースもたちまち忘れるだろう。こうした試みはもっと増えていいと思うし、王子製紙が4社と折り合いをつけるにあたっての肝はどんなところにあって、それによって製造から流通、在庫などがどう変わったのか、むしろそういうことを知りたい。

東日本大震災のあの日は、担当していた月刊雑誌が校了して代休をとっていた。当時はひと月の間で一番呑気に過ごせる日だった。津波によって、いつも使っていた本文紙が調達できなくなったと編集部に知らせが入って、別の用紙で代用することになった。用紙や印刷、製本、流通、それぞれの現場のたいへんな尽力で、予定通りの17日に発行できた。いつもより少し色が濃い紙になったけど、読者からの問い合わせはなかったと思う。そもそも世の中がそれどころではなかった。この号だけはずっと手元にとってある。隣には佐々涼子さんの『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』(早川書房 2014)を置いている。

装丁関係で「そろえる」ということについて、なんと本当にたまたま昨夜古いスクラップ帳からはらりと落ちた記事にこうあった。「装丁にもブランド作戦 シリーズや出版社で統一感 印象を強めて販売戦略に」(朝日新聞 1992.6.7)。一冊ずつではなく、シリーズものとして、あるいは版元のイメージをつくるための装丁が増えているとして、岩波書店の「物語の誕生」シリーズ、文藝春秋の「書下し文芸作品」、ちくま学芸文庫、装丁を一新したNHKブックス、メディアファクトリーの「ライフ・ストーリー」などを例にあげている。〈メディア状況の変化とともに読者と本のかかわり方が変わり、「本は中身だ」という二十年ほど前の「常識」が常識でなくなったばかりか、装丁はもはや中身を引き立てるものでさえなく、中身とともに一つのメッセージを伝える一人前のメディアになったという見方だ〉。

続いて〈こうした流れの中で、デザイナーの仕事も変わっている〉とし、菊地信義さんと戸田ツトムさんに取材している。お二人の顔写真もある。戸田さんは最後に〈言葉のメッセージ力が弱まっているのではないか。その対症療法として、デザインがもてはやされている気がする〉と話していて、続けて記者は、出版社が装丁をそろえようとしている背景をこう書く。〈本の流通の問題もある。(中略)一点の本が書店に並べられる期間が短くなった。そこで、シリーズ化して書棚を確保しようということらしい〉。版元にとっては用紙の確保や調達価格の安定の側面が大きいだろうし、本屋で本を探す者にとっては、とにかく並んでいることでおおいに助けられた面はある。

記事はさらにこう続く。〈装丁は、ベテラン編集者とブックデザイナーたちが勘を頼りにつくる「趣味の世界」の時代から、手に取り買ってもらうための「戦略的なメディア」の時代へ移り、様々な形が認められるようにあった。だが、あまりに雑多になった書店の棚では、目新しさを狙った装丁もお互いが効果を殺し合ってしまう。そこで、「ゆるやかな統一感」がもたらす静かな存在感が、かえって人を引きつけるという新しい考え方が生まれてきた。(中略)際限なく多様化していくように見えた「装丁」も、転換期を迎えようとしているようだ〉。やすい代理店のパワポを見せられたような不快なもの言いだ。だからこそ、戸田ツトムさんの言葉がふわっと浮き上がる。突き放したような、というか、「人」側ではなくて「言葉」や「デザイン」側から発しているような、その態度。

戸田さんの追悼号となった2020年12月25日発行の「ユリイカ」1月増刊号を開く。「デザインと予感」と題されたインタビュー。聞き手は平倉圭さん(2006年2月27日、戸田事務所にて。初出「未來」2006.4号)。

〈風邪を引くのが好きなんです。風邪って、外気と自分の内部の関係がうまく割り切れない。外に対してナイーヴに接している粘膜がまずイカれちゃうから、外部と内部の感覚がおかしくなるんですよ。それが大好き(笑)。自分そのものが環境化していくような感覚。風邪が起きたらすべての症状を許していくんですよ――かっこつけて言えばね〉

〈風邪は、「自分」を場所として扱いますね。そのことに対する混乱としてさまざまな症状がある。自分の感覚としては、図も地もないよと教えてくれる〉

もちろん、戸田さんの健康について聞いているのではない。

〈……レイアウトイメージというのはだいたいそんな感じですよね(笑)〉

こんなふうにも話している。

〈こうすればこの本は良く売れる……。ひとつのポジティヴな経済の方程式があるわけですね。ただ、その方程式の読みかえを出版社はしないんですね。(中略)つねに強く明確な標榜を求められる。書店で本を買うときの浮遊感や心の揺らぎ、そして「読まずに」本を買おうとする人々の心の中に広がる曖昧な想像の領域……。こういった事情を考慮せず、作り手の安心を補填すべきではないでしょう。とくにこれからの時代、エフェメラルなものへの強さへの意識は強く求められると思います。ルネサンスの直前もそうだった〉

同じく「ユリイカ」から。加島卓さんの「――デザインはいかにしてメディア論の問題となるのか 『観測者』としての戸田ツトム」にある戸田さんの言葉。

〈強い輪郭をもったメッセージやデザインにかんして、人々はある種の安心感を感じるかもしれないけれど、そこには余剰や余白は見つけにくく、想像力を投入しにくい。(中略)明示を受けた「視る者」は、想像してはいけない、という指示も同様に受けたことになります。たとえばテレビはスイッチを入れてちゃんと映るまでの間、その時が最も情報量が高い瞬間なはずです〉

〈可能性の束をそのままにしておく、という態度がおそらくデザインには必要なんじゃないか〉

ばるぼらさんが聞き手となったインタビュー「時代の交換期という最中の断面(パートⅡ)」(2012.3.6 戸田事務所にて)ではこんなふうに話している。

〈だから最初に、かなり遠くから大前研一なんて名前が見えちゃったら近づかないですよね。その人はそれに弾かれてしまう。徐々に魚を釣るようにして、段階を経て文字に入っていく。……ということをやっぱり広告の世界が撹乱しちゃったのかな〉

戸田さんはフライフィッシャーだった。「d /SIGN」12号(太田出版 2006)では、フライタイヤーで『水生昆虫アルバム』(フライの雑誌社 2005)の著書もある島崎憲司郎さんにインタビュー(「水面下の心理へ… 期待と予測のデザイン」)している。島崎さんが作るフライについて〈自然の認可を得るという点で、とてもはっきりした評価をもたらしました〉とか、〈そして自らの立ち居振る舞い、選ばれた道具とフライ…これら一連にまつわる選択が「デザイン」を生む〉などと話している。ここでも、なにかこうその一部になって、ひとりごちているような語り口だ。

どんな方だったんだろう。デザインでも釣りでも、関わるものすべてがおしなべて在って、その一部である戸田さんが「人」に聞かれてしゃべって「人ら」に伝えてるみたいな感じ、とでも言えばいいか。魚が釣れるまでの間、テレビが映るまでの間、風邪を引いて粘膜がイカれて外部と内部が割り切れないでいるような時間に怪しまれることなく耳を澄ますために、戸田さんは仕事であるデザインもしていたんじゃないかとすら思えてくる。

水牛的読書日記 2022年1月

アサノタカオ

1月某日 年末の深夜から年始にかけての静かな時間に、かならず読む長編小説がある。たった1人でおこなう儀式のようなものとして。研ぎ澄まされた文学のことばによって、1年のあいだに自己にまつわりついたさまざまな贅肉をそぎ落とし、むき出しの裸の心でふたたび世界に向き合うための作業。宮内勝典『ぼくは始祖鳥になりたい』(上下、集英社)。1998年の刊行時から23年間、ずっと続けている。

1月某日 チョ・へジンの長編小説『かけがえのない心』(オ・ヨンア訳、亜紀書房)を読了。物語の背景にあるのは韓国の海外養子制度、米軍の基地村の女性たちの存在。そしてフランス在住の韓国系の国際養子が帰郷の旅で直面する、翳ある家族の歴史。だがそこには、苦難の時代にあってなお生きることの尊さに心を傾けずにはいられない人びとの姿もあった。「自分」が奪われそうになる恐怖や悲しみの中で、過去と未来につながる記憶が、信じるに値する何かへと変わる。主人公ナナの抑制の効いた語りを通じて、その変化のプロセスがじんわりと伝わってくる滋味深い作品だった。翻訳がよかった。

1月某日 出版社で営業の仕事をする橋本亮二さんのエッセイ集『たどり着いた夏』(十七時退勤社)を読了。動き続ける感情の輪郭を指でなぞるようなことばたち。揺らぎの中に、たしかさがある。どうしたらこんなすてきな文章が書けるのだろう、とため息が漏れた。タイトルにも関わる一編「風の音を聞く」には、とりわけ胸打たれた。エッセイの中で橋本さんが紹介する本、いろいろ読んでみたい。

1月某日 ファン・ジョンウンの小説集『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)を再読。暴力に苦しむもの、抗うものが描かれる。でも社会問題について直接語るのではない。社会問題のかたわらで語りながら、複雑で繊細な暴力批判の思考のプロセスを小説のことばで表現している。それがファン・ジョンウンの文学の本質ではないだろうか。好き嫌いを超えたところで、強く引き寄せられるものがある。

1月某日 もろさわようこさんの『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)が刊行された。96歳の女性史研究家による、およそ50年前に刊行された著作が新版・新編で、しかも文庫で読むことができるなんて本当にすばらしい。編者は、もろさわさんの取材を長く続ける信濃毎日新聞記者の河原千春さん。増補として沖縄や被差別部落の問題についての論考、河原さんと韓国文学翻訳家の斎藤真理子さんの新たな解説を収録することで、もろさわさんの思想の厚みが表現されている。文庫版の編集には、「いま」という時代に、ふたたびことばを届けるための配慮が随所に感じられた。とてもていねいな本作り。

1月某日 文学フリマ京都に出店するため、京都へ。新型コロナウイルスの感染流行がふたたび拡大しつつある状況、小田原駅から乗車した新幹線「ひかり」にはほとんど乗客がいなかった。窓越しにみえるのは、午後の日差しを浴びる太平洋側の町々ののんびりした風景。そこにあるのが、パンデミック下の世界であるという実感がわかない。

車内で『暮らしの手帖』12-1月号をひらく。巻頭記事は「オリジナルでいこう わたしの手帖 森岡素直さん 中井敦子さん」。よく知るお二人で、自分が編集を担当したホ・ヨンソン詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳、新泉社)の装画を以前、中井さんにお願いしたのだった。記事が紹介するのはある家族のかたち、やわらかな人と人とのつながり。取材・文はライターの桝郷春美さん。心の底から、読んでよかったと思える記事だった。

京都から在来線に乗り換えて、阪急水無瀬駅まで行き、駅前の長谷川書店へ。サウダージ・ブックスの新刊を納品した後、京都で会う約束をしている1歳のおともだちにプレゼントする本を、店主の長谷川さんに選んでもらった。ちいさな誰かのために本を探す時間は、やさしい気持ちになれる時間。「これ!」と思える一冊がみつかって、旅の鞄があたたかい。

1月某日 底冷えを感じて、早朝に目が覚めた。京都・蹴上の林の中、貸し切りの宿舎の机を借りて、編集を担当している詩集の校正刷に終日向き合う。窓の外で冬の風にちいさく揺れる枝をじっと眺めながら、あることばの意味をなんども自分の中で反芻し、確かめる。あいまに、クォン・ヨソン『まだまだという言葉』(斎藤真理子訳、河出書房新社)の読書。読み進めるにつれて、ページを握る親指の圧がぐっと強くなるような小説集だ。

1月某日 京都市勧業館「みやこめっせ」で開催された文学フリマ京都へ。「文フリ」にははじめての出店だったが、よい出会いがたくさんあった。例年参加している人に聞くと、出展者も来場者も3分の1ぐらいではないか、とのこと。ブースに立ち寄ってくれたお客さん一人ひとりと話をしているうちにあっという間に終了時間。サウダージ・ブックスの新刊の装丁を担当してくれた納谷衣美さんたちご一行に会い、1歳のおともだちに絵本のプレゼントを渡すこともできた。とても楽しかったが、ひとりで店番をしていたので、訪ねたいブースを訪ねることもできなかったのが残念。となりに出店していたぽんつく堂さんのZine『個人的な生理のはなし』を購入、巻末に「どうぞ男性も手にとってください」とある。

終了後、あわただしくブースの片付けをして、ごろごろとキャリーケースを引きながら京都・丸太町へ歩いて移動。文フリに来てくれた桝郷春美さんが自転車でさっそうと走る姿をみかける。街の書店・誠光社を訪問し、堀部篤史さんにご挨拶。サウダージ・ブックスの新刊を納品し、店内をゆっくりめぐって京都発の雑誌『NEKKO』2号など数冊購入した。『NEKKO』の特集は「自治はじじむさいか」、表紙はふしはらのじこさんのかぶの絵。

『愛と家事』(創元社)の作家の太田明日香さんと待ち合わせ、誠光社のとなりのカフェItal Gabonでお茶をしながらおしゃべりをした。太田さんが主宰する夜学舎の発行する雑誌『B面の歌を聞け』をサウダージ・ブックスの本と交換。Vol.1の特集は「服の自給を考える」、太田さんが長年関心を寄せてきたテーマだ。

1月某日 京都・蹴上の定宿を出発し、銀閣寺方面のバスに乗車。ホホホ座でも、サウダージ・ブックスの新刊を納品。そして店主・山下賢二さんの『完全版 ガケ書房の頃』(ちくま文庫)を、山下さんの日記『にいぜろにいいちにっき』(ホホホ座浄土寺店)とシール付きのセットで買う。『ガケ書房の頃』は夏葉社版を読んだけど、あらためて。『にいぜろにいいちにっき』には、山下さんの娘さんが韓国へ旅立つ日のことが記されていた。ホホホ座では、そのほか、佐久間裕美子さんの旅のZine『ホピの踊り/沖縄の秘祭』(Sakumag)も購入。K-POP好きの子を持つ親同士、山下さんとひさしぶりにゆっくりお話しできたのが、うれしかった。

歩いて古書・善行堂まで行き、早田リツ子さんの『第一藝文社をさがして』(夏葉社)を購入。店主の山本善行さんの解説付きというところにも惹かれて手に取り、道中で読みはじめたのだが、早田さんの文章がとても好きだ。発見のよろこびを噛みしめるようにして淡々と綴られるある歴史——。1934年、滋賀県大津市で第一芸文社を創業したひとりの出版人のどこかさびしげな肖像が浮き彫りにされていく過程に、どんどん引き込まれてゆく。誠実な本、という印象を受ける。

東京などの大都市ではない地域で暮らしながら、人びとの生活史や女性史を丹念に記録し、伝える。そんな地道で尊い仕事に取り組む在野の作家は、全国各地にきっとたくさんいるのだろう。自分はまだまだ知らないけれど、ここ数年、いくつかのすばらしい本との出会いがある。早田さんの著作もその1冊だ。

ふたたびバスに乗って左京区から上京区に移動。KARAIMO BOOKSのお店の前には、ずいぶんやせたなごり雪の雪だるまがいた。紫色ののれんをくぐり、情報紙『アナキズム』20号、古本で金石範の小説などを購入。同紙には店主の奥田順平さんのエッセイ「カライモブックス開店しています。」が掲載。店内の新刊・韓国文学のコーナーには、韓国語の原著も並んでいるのがうれしい。奥田順平さん、直美さんと、韓国文学のことなどをおしゃべり。「韓国の小説、次は何を読んだらいいでしょうか」と思案顔の直美さんに、チョン・セラン『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)をすすめた。その間も、客足が途切れない。「今日はなんでこんなに人が来るんだろう。おかしいなあ」と順平さんが言っていて、おかしかった。

しばらく京都・二条あたりの町を散策してから、夕方帰路につく。新幹線の車内では編集中の詩集の校正刷に集中。自宅につくやいなや、妻から「ニュースは見たか?」と聞かれる。スマートフォンなどはもたないし、移動中は極力情報を遮断するので「見ていない」と答えると、トンガ諸島で起きた海底噴火のことを教えてもらった。インターネット上で気象衛星が撮影した画像を見て、その規模の大きさにことばを失った。

1月某日 クォン・ヨソン『まだまだという言葉』読了。巻頭の短編小説「知らない領域」の父の苛立ちは、父をやっているものとして身の覚えがあるもので読んでいて痛い。彼の心が囚われている「昼月」、あれはなんだろう。ぼんやりとしたもの、どこか場違いなもの、かすかにしか見えないもの。自分自身のこと、あるいは自分と他者との関係を象徴するものだろうか。来し方も行き先も判然としない感情の渦の中をさまようようにして、短編「爪」「稀薄な心」「向こう」「友達」と読み進める。この不穏な見通しの悪さ、息苦しさはカフカの小説世界に似ていると思ったら、後半の作品でまさにその名が出てきた。W・G・ゼーバルトの名とともに。

1月某日 尊敬する仏教僧であり、アジアの詩人思想家であるティク・ナット・ハンが亡くなった。ベトナム戦争の体験がひとつのはじまりとなった、長い長い平和への祈りの旅。その途上で書かれた多くの著作が日本語に翻訳されている。本を読もう。

私は両手に顔をうずめている
けれど 泣いてはいない
私は両手に顔をうずめている
孤独をあたためようとして——
両手は守る
両手は養う
両手は留める
心が私を
怒りの中におきざりにするのを

——ティク・ナット・ハン「ぬくもりのために」(島田啓介訳『私を本当の名前で呼んでください』より)

「ぬくもりのために」はベトナム生まれのティク・ナット・ハンが《ベン・トレの爆撃の後の、「私たちは、その町を救うために爆撃したのだ」というアメリカの指揮官のコメントを聞いたときに書いた詩》とされる。彼の遺した思想に「慈悲」の実現が見られるとしたら、それは戦争の「無慈悲」をくぐり抜けた上での何かなのだろう。日本語環境に流通する「マインドフルネス」などという底の浅いキャッチコピーには、到底収まり切らないものだと思う。

1月某日 最近、佐久間裕美子さん主宰のSakumagが発行する旅のZineや『We Act!』を追いかけている。というのは、すこし前に『現代思想』2020年10月臨時増刊号の総特集「ブラック・ライヴズ・マター」に佐久間さんが寄稿しているエッセイ「私を守ってきてくれた人たち」を読んで、文章からも内容からも大変な感銘を受けたからだ。

エッセイで語られるのは、佐久間さんが暮らすニューヨークの住宅ビルのオーナーで黒人女性であるミス・バードとの出会いについて。人びとの声を伝える一種の聞き書の作品だと思ったし、それゆえ藤本和子『ブルースだってただの唄』(ちくま文庫)のスピリットを継承する仕事だと感じた。魂のこもった仕事、ことばはこんなふうにして次の時代へと確実に受け渡される。

言葉と本が行ったり来たり(5)『食べるとはどういうことか』

長谷部千彩

八巻美恵さま

明けましておめでとうございます――と言うには遅いけど、旧暦で数えれば今日は一月一日だから、ご挨拶としては間違っていないはず。恭喜發財!

巷ではオミクロン株が猛威を奮っていますが、八巻さんはいかがお過ごしですか。三回目のワクチンは打ちましたか。
私は、今年こそは腰を据えて机に向かい、文章を書こうと考えていたのですが、また映像作品の制作に関わることになり、その準備に落ち着かぬ毎日です。時々ふと、予定変更を重ねる自分は一体どこへ流れていくのかと思ったりもするのですが、同時に先のことなど考えず、行き当たりばったりで流れていったら、どんなところへ辿り着くのか見てみたい気もしています。死ぬときに、いろいろやったなと感じるのか、何もできなかったなと感じるのか。いろいろやったとも思うし、何もできなかったとも思う、その当たりに落ち着くのかなと想像していますが。

先月いただいた八巻さんからのお返事に「最初はあんなにワクワクしたインターネットなのに」という言葉があり、私も、インターネットが登場し、徐々に生活に入り込んでくるのを経験した世代なので、当初のワクワクした感覚を懐かしく思い出しました。「お金をかけずとも」とか「個人でも」とか「自由に」とか、初期のインターネットはそんなイメージを纏っていたように思います。
でも、いまはインターネットが完全にビジネスの場となったと感じるし、すべてが経済に吸収されていくという哀しい現実を見せつけられるもの、私にとっては、巻き込まれないように警戒しながらつきあうものです。それに、特別ユニークな使い方をしているひとも見ないし、人間の創造力って、やっぱりそれほどでもないんだな(納得&苦笑)という感じ。
「お金をかけずに」という部分は、ブログサービスやSNSサービスを無料(もしくは安価)で利用しているから実感できるとはいえ、それもやっぱりサービス提供側のビジネスだし、「自由」においては、みんなで行儀良く区画の中に家を建てて住んでいるぐらいの自由で、はて、それが自由なのか?と思うのです。だからといって、それに抗って、私はインターネットをこう使う!と燃えているわけでもなく、便利に使ってはいるけれど、特に期待もしていない何か、という薄い存在になってしまいました。

さて、ここからは本の話。この二ヶ月は、結構な冊数を読みました。忙しいから全然読めないという時と、忙しさゆえ意地になって何冊も読んでしまう時があるけど、最近は後者。相変わらず硬軟取り混ぜた乱読です。そのうちの一冊が『食べるとはどういうことか』で、これは、著者である農業史研究者・藤原辰史さんが、小学生から高校生まで九人の子供達と行った座談会を収録したもの。
その中で私が感動したのが、「いままで食べた中で一番おいしかったもの」という問いに対する十五才の少年の答えです。
彼の「一番おいしかったもの」は、自分で種を採って育てたトマト。そこで成った実の中で美味しいと感じたトマト個体の種を蒔いて、また成った実の中で美味しかったトマト個体の種を採って蒔いて・・・を繰り返していくと、トマトがどんどん自分好みの味・食感に寄っていく。毎年夏に美味しいトマトが更新されていくというのです。それを小学生の頃から続けて七年目だと。これこそワクワクしませんか。農家の方には常識なのかもしれないけれど、農業経験のない私はパフォーマンスアートでも見るかのような興奮を覚えました。そんな楽しいことができるなんて。私も今年の夏から挑戦したいと思います。
藤原辰史さんの本は、彼の講演を聴く機会があり、面白かったので何冊か買い込みました。友人が、藤原さんの著書だと『ナチス・ドイツの有機農業』が良かった、と言っていたので、次はそれに手をつけようと思っています。

長谷部千彩
2022.2.1

弟とアンドロイドと僕

若松恵子

阪本順治監督の新作映画「弟とアンドロイドと僕」が、1月7日からロードショウ公開された。阪本作品が好きで、新作を楽しみにしてきたが、不意打ちの公開だった。

豊川悦司を主人公に迎えたこの作品が撮影されたのは2019年6月、コロナの影響などで公開まで時間が掛かってしまったようだ。コロナ禍の前に構想された映画ではあるけれど、公開が遅れたことでむしろ、コロナが蔓延する閉塞的な時代に重なる映画になってしまった。「どうやって宣伝したらいいんだ」そんな声が聞こえてきそうだ。ロードショウも2館のみの上映だし、映画のパンフレットも作られていなかった。

「他者と関わりを持てない不安、自分が固い殻に覆われている感覚のようなものは、実は従来のフイルムにも部分的には滲んでいた気がします。でも今回は、その自問自答をあえて映画の軸に据えて、ある種の奇譚、怪異譚に仕立てられないかなと考えた。ある意味、これまでなかったほど私小説的なアプローチに徹した作品だと思います」阪本監督の横顔の写真のそばにそんな言葉が書かれて映画館の壁に掛かっていた。

「奇譚」というのはぴったりだな。私的にいびつで、でも忘れられない印象を残す映画だった。

自分そっくりのアンドロイドをつくる孤独なロボット工学者が主人公だ。彼がアンドロイドを作る目的は明らかにされていない。何かをさせようとしてアンドロイドを作っているわけではなさそうだ。自分にぴったりの友達を求めてのことではないか、いや、そんなセンチメンタルな理由ではなくて、単なる探求心、どこまで人間そっくりに作ることができるか、科学者の力試しなのかもしれない。いずれにせよアンドロイドの制作に夢中になることで、彼は自分の生を支えている。

いつも雨が降っている。古い映画のフイルムの傷のように降りかかる雨の中、傘をささずにレインコートで濡れている豊川悦司がかっこいい。フードをすっぽりかぶり、護送される犯人にも似て。「どこもかしこも雨が降っている『ありえない』状況を見せることで、『リアリティの観点で見るべきではない』というこの映画の見方を示唆するものになればと。」とキネマ旬報のインタビューで阪本監督は語っている。いつも降っている雨、この映画をおとぎ話のように感じさせる理由が、こんなところにもある。

ひとり満足がいくまでアンドロイドを作っていたいのに、主人公の生活に様々な闖入者が登場して仕事は邪魔されてしまう。生きていくには誰とも関わらないというわけにはいかないからだ。そもそも人は人から生まれてくるのだから、どうしても逃れられない親という存在がまず決定的にある。異母兄弟の弟が、世俗にまみれた人間の代表として「僕」の生活に暴力的に入り込んでくる。逃れられない人たちによって思わぬ方に転がっていく物語、それがこの奇譚だともいえる。闖入者自身は、人の生活を壊しているなんてちっとも思っていない。そこにある滑稽さ、おかしみも生まれる。

主人公は、時々自分の右足が自分の足と思えなくて、動かせなくなり、動く方の左足でケンケンするという癖を持っている。「脳の欠損によって、右足を自分の体だと認識することができなくて、こういうことが起こるのだ」と解説するおせっかいな医者が出てくるが、主人公にとってはそんな理由など何の役にも立たない。

豊川悦司を見舞う突然のケンケンが何かの象徴として繰り返し描かれる。身体のちょっとした欠陥、人と違っている部分が理由となって、そのことに躓いて人との距離をつくってしまうという事はあるのだろう。他人にとってはどうでも良いような小さなことが、人と打ち解けられない、一生を左右するような躓きとなるのだ。

阪本監督自身も、自分の胸骨が大きくゆがんでいることが子どもの頃からのコンプレックスだったとキネマ旬報のインタビューで語っている。阪本の「他者と関わりを持てない不安、自分が固い殻に覆われている感覚のようなもの」は肉体のこのコンプレックスから生じたものかもしれない。そんなに単純な因果関係ではないだろうけれど。

この映画は、監督自身がずっと持ってきた「のどに刺さった棘」、ずっと抱いてきたその違和感から紡いだ物語だ。私的な物語を映画にしていく事をOKしたキノフィルム、阪本の頭の中にあったイメージを具体化させて見せた美術スタッフ、生きてみせた俳優によって映画にすることがかなった。キネマ旬報のインタビューで「『のどに刺さった棘は抜けたな』と思います。」と阪本監督は語っている。棘が抜けたのは、ずっと抱えてきた個人的なものが薄まることなく映画というフィクションになったからだろう。

春節に思う~ゴー・ティック・スワン/ハルジョナゴロ氏のこと

冨岡三智

今年は2月1日が春節。1998年にスハルトが退陣し、2000年1月に中国文化禁止令が破棄された。それから22年、今の大学生は華人文化が禁止されていた状況をもう知らないのだなあとしみじみ思う。

春節にちなみ、今回はハルジョナゴロ氏(1931-2008)のことについて少し書き留めておきたい。氏は華人系ジャワ人で、スラカルタ王家から最も高い称号=パヌンバハンを授けられた最初の華人である。一般的には、氏は1957年にスカルノ大統領の下で、インドネシア各地の模様や色を融合させて国を代表するバティック・インドネシアを作り上げたことで知られている。インドネシア国立芸術大学スラカルタ校からはバティックとクリスの分野におけるウンプーempu(マエストロの意味)に叙せられ、ジャワ芸術の保護発展に尽力した。

2001年8月17日、氏は国からサティヤルンチャナ勲章を受章した。本来なら大統領官邸で授与式に臨むところだが、氏はスラカルタの芸術大学で授与されることを希望して許され、10月13日に大臣がスラカルタに赴いて授与した。実はこの事情については芸大教員・ルストポ氏の著作で知った。ちなみにこの時、私は日本に一時帰国中だったのでこの受賞式には出席していないが、後に氏からその授与式の模様のビデオを頂戴したので、今それを確認しながら書いている。

この授与式でのスピーチにおいて、ハルジョナゴロ氏は、叙勲決定通知書面の宛名はKPT(=カンジェン・パンゲラン・トゥムングン、当時のスラカルタ王家からの称号)ハルジョノ ゴー・ティック・スワンであり、当局の方からは名前を再三確認されたが、二重国籍時の名が「ゴー・ティック・スワン 別名 ハルジョノ」であって一致していること、自分自身はインドネシア国籍の方を選択したが、この時インドネシア国籍を選び別名を名乗った者はごくごく限られていた、と語った。国籍についてだが、これは1960年にインドネシアと中国の間で二重国籍を解消するための条約が批准され、どちらかを選択しなければならなくなったことが背景にある。実は、このスピーチは大臣からの祝辞の後に行われているが、大臣自身はそうは呼ばず従来通り「KPTハルジョナゴロ」と呼び、この映像のサブタイトルもそのようになっている。

これ以降に出された論文や本では―ルストポによる氏の伝記(2008)など―では主としてゴー・ティック・スワンと呼ばれるようになっている。この受章の機会をとらえて二重国籍の話をわざわざ語ったのは、取り戻した華人としてのアイデンティティと、しかしインドネシアのために努力する方を選んだ人生だということを示しておきたかったのだろう。

年の夜で

仲宗根浩

大晦日にジョン・コルトレーンの映画を見る。眠い。マイルス・デイビスの映画を見たときも眠かった。ジャズの映画は眠くなる。でもビリー・ホリデイのドキュメンタリーは眠くならなかった。最後にブルー・トレインが流れて目がさえる。最初に買ったジャズのレコードがこれだったか。アトランティックのものはラジオで流れるのをちょっと聴いたくらいだから中学生の頃こればっかり聴いていたからあたりまえか。

五勤二休の堅気の生活をしていると暦とは関係なく正月から仕事が始まり、三日にはスクールバスが走っているのを出勤時にみてアメリカの学校は始まるのが早いんだ、と今頃気づく。

去年、メールをしても返信が一切来ない近藤さんとLineでつながり、一月の半ばに平井さんが亡くなったと連絡が来る。肺炎を患っていたと聞いたのは八月か九月頃、昔の弟子仲間から。沢井門下である期間にいたものは渋谷のアートフロントプロデュースの事務所に先生の用事で行ったり、そのあとは中目黒のコレクタの事務所でアルバイトをして臨時収入を得ていた。結婚したあと食い扶持を心配したのであろう一恵先生からコレクタに行くように言われ、吉原すみれさんの楽器セットのアルバイトをするようになった。それからいきなり舞台監督をやらされ、田川律さんの下につくようになり音響、照明の人とチームのように動くようになった。学生時代からお筝屋さんのアルバイトで舞台装置、道具の事は知っていたがいきなりの責任ある立場を任されて、なんとか事故など起きないようひやひやしながら。
北九州の響ホールの音楽監督だった数住岸子さん、杮落としと翌年の音楽祭を手伝い、サルドノ・クスモの響ホール公演の舞台監督をやらせてもらった。それから筝の演奏会の裏方、たまに師匠の後ろで演奏し、舞台監督をしたりするようになった。
色々あり、やくざな生活から足を洗い大手CDショップの定職に就き子供を授かり、父親が亡くなったことで沖縄に戻った。戻った時にしばらくして平井さんから数住岸子さんが亡くなったとメールが来たのが最後のやりとりで、そのあとささいな意見の違いで一切連絡をとらなくなった。五年くらいの仕事の付き合いしかないけれどかなり濃密な時間だった。

しもた屋之噺(240)

杉山洋一

フランクフルトから乗り込んだ羽田行の機内は、愕くほど閑散としています。去年、日本に戻った頃は、オリンピックやらパラリンピックがあって、往来も随分活発だったのでしょう。外国人の入国も止められているのですから、仕方がありません。低く立ち籠める黒ずんだ雲のせいか、フランクフルト空港の滑走路もどこか寂し気に見えました。

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1月某日 ミラノ自宅
年末年始はただ仕事だけしていて、父子生活に於いては全く変化がない。
大晦日の夜半、寝かかった頃に、響き渡る花火の音で目を覚ました。久しぶりにミラノで年を越したが、何時ものように花火があちこちから打ちあがっていて、そのまにまに、赤く明滅する沢山のドローンがゆっくりとたゆたっていた。
こちらはすぐに寝てしまったが、息子は午前2時過ぎまで花火を見たり、友達とやりとりしていて、寝不足にて年始は一日不機嫌。
息子と二人で過ごした年始は、殆ど正月らしいこともしてやれなかった。本来、大根とはんば海苔だけのすっきりした雑煮を食べるところ、はんば海苔は仕方がないが、大根を探しに出かける時間もなくて、味噌仕立ての野菜のごった煮に餅をいれ、雑煮の代替とさせてもらう。こんな正月は初めてだ。

1月某日 ミラノ自宅
クリスマスカード、年賀状を多少でも日本の親戚に送ろうと思ったが、イタリアから日本の航空郵便が止まっているので、電話にする。カードの方が喜ばれると思っていたが、実際声を聞いて話込むのも良いものだ。まるで自分が小学生だったころのように、おばさんたちと他愛もない四方山話に花を咲かせる。日本でも、ヨーロッパ、イタリアの感染拡大は大々的に報道されていて、誰からもひどく気の毒がられる。
明後日に3回目接種を控えていて、それ以降副反応でどれだけ仕事が出来るかわからない。可能な限り仕事を進ませておきたい。

1月某日 ミラノ自宅
朝、自転車でガンバラ駅隣にある、トリブルツィオ養老病院に出向き、ワクチン3回目接種。感染爆発が酷いのでどれだけ混んでいるかと思いきや、殆ど待つこともなく済んでしまった。医者から今まで受けたワクチンの種類を尋ねられ、アストラゼネカとファイザーだと答えると、今回はモデルナだから三種の神器でもう怖いものなし、と太鼓判を押される。
ロンバルディア州は昨日からイエローゾーンになり、喫茶店のグリーンパスチェックも厳しくなった。イタリアの新感染者数は170844人で、死亡者259人。陽性率13,9%。前日の死亡者数は140人だから、かなり急激に死亡者が増加した。今まで繰り返してきた、あの重苦しい感覚を思い出す。感染者が増え、重傷者がそれを追ってきて、そして最後に死亡者たちが、我々の頭上を夜の帳で覆いつくす。感染が収束しても、死亡者はしばらく高止まりが続く。

BBC放送を聞きながら譜割りをしていると、専門家が世界中が協力して今年上半期までにワクチンを打たなければ、これからも我々はずっと新変異株に悩まされ続ける、と話していた。
恐らく、何時かは人間がこの感染症に打ち克つと信じているが、万が一それに失敗したなら、地球上から人間だけがすっぽりと抜け落ち、空気は澄んでゆき、温暖化も収まり、動物たちが新しい繁栄を遂げるのだろう。その時、我々が残した遺構を誰が発見し、解読するのだろうか。
どこかの時点で、世を捨て森に入った少人数の部族が、言葉も文明も失いながら細々の生き延びて、何時しか我々の社会を末端を、偶然見出すかも知れない。尤も、電力がなければ、何も読み取れないかもしれないが。
そうして、彼らは又新しい人間社会を構築してゆくのかもしれないし、その頃には人間より優れた知能が、どこかに誕生しているかもしれない。
そんな新しい「地球」に於いて、「音楽」は何某かの意味を持ち続けられるのだろうか。

1月某日 ミラノ自宅
ワクチン3回目接種後、発熱なし。多少腕に疼痛が残るが、想像より遥かに症状は軽い。
昨日、ミラノの北部鉄道は感染拡大により170人の運転士不足で300便運休。ミラノ市地下鉄バスは、350人病欠により減便。まだ学校再開前だと言うのに、既に街は機能していない。
マリゼルラに誕生日祝いを書き送ると、腰を打ってしまって骨折したという。慌てて電話をするが、想像以上の痛みだそうで、こういう友達からの沢山の励ましが何よりの薬よ、と話していた。
堺のFさんからメールをいただく。
「川口さんの奏でる調べと共に、今といういろんな意味で大変な時、旅路を、聴きながら歩みました。私は時折聞こえてくるリストのメロディが、あの鐘の音へ誘うピーターパンのティンカーベルの羽の音のように聞こえました。父の他界の際に、杉山さんにおしえていただき何度も何度も耳にを澄まして聴いた曲なのでとても印象に残っていて、自分の旅路のはずが、いつしか父の旅路のようにも感じられました」。

1月某日 ミラノ自宅
今日より市立音楽院授業再開。2月1日よりスーパーグリーンパスがなければ大学の授業はできなくなる。Mより、2月1日より学校で働けなくなる、と連絡あり。何故これほど意固地になるのか、良くわからないが、理由はそれぞれ少しずつ違うのかもしれない。No Vaxの人たちも、各個人はとても善良で真面目に違いないのだから、職場はおろか地下鉄にもバスにも乗れず、美容院にも行けず、食堂に足を踏みこむことすら許されない生活を、何の理由もなく、わざわざ望むはずがない。Y先生の新作遂に完成。

1月某日 ミラノ自宅
久しぶりの国立音楽院オーケストラの仕事が始まった。偶然にもコンサートミストレスのサラは息子と一緒に小学生の頃から劇場の合唱団で歌っていたからよく知っている。
前回の国立音楽院のオーケストラには、彼女の姉のソフィアがチェロを弾いていた。普段リハーサルで言語化することのない注文を、一つ一つ敢えて口に出して、説明しながら音を紡ぐ。低音の愉悦に、旋律が耳を傾け、その合間に、内声部が自らを滑り込ませてゆく。特に、モーツァルトのフルート、ハープの二楽章冒頭では、何度か様々な音を試した。
初めは穢れなき透き通った美しすぎる音だったが、敢えて、よりくぐもった、さまざまな複雑な感情の襞の絡んだ人間の声を望むと、不思議なもので、少しずつ音が変わってくる。弾いている彼らの顔つきも変わってくる。
会場で練習を聴いていたA曰く、聴きながら少し涙ぐんでしまったそうだ。皆それぞれに思うところがあって、こんな毎日のなか、それぞれ人生に疲弊しているのかもしれない。
あちこちのパートに感染者が続出し、その度に演奏者を入れ換えるから、裏方は大変な思いをしているに違いないが、自分はこの若者たちから、沢山の大切な事象を学んだ。
新鮮な体験でもあったし、自らの脳裏をあらためて整頓する作業でもあった。いつも大雑把に暮らしていることを痛感し大いに反省させられながらも、我々の社会において、やはり音楽は生き残ってほしいと思った。
休憩中家人より電話があり、平井さんの訃報を知る。帰り路、ジョルジアの前の大きな教会を通りかかると、夕暮れに、がらんがらんと荘厳な晩鐘をついている。

1月某日 ミラノ自宅
昨日朝8時前にトリブルツィオ養老病院に出かけ、息子のワクチン3回目接種。実は彼は注射が本当に苦手でとても緊張していた。息子は3回全てファイザー社製ワクチンを接種。未成年へのファイザー接種を優先するため、我々はモデルナを打つ。現在微熱で、解熱剤を与えるほどではなく、腕に疼痛。
平井さんから最後に届いたメールは12月31日で、ご自宅の住所を伝える簡単なメッセージだった。その前27日には、「お二人に深謝。編集していない本番録音は、一刻も早く」とメールをいただいていた。平井さんらしい、メッセージだった。
平井さんからご紹介にあずかり、フォルテピアノの川口さんに新作を書いたばかりだったが、あんな曲を書いた自分がいけなかったのでは、と落胆する思いばかりが身体に纏わりつく。
昨年の6月末、原題「Addio ai monti」をどう邦訳するか悩んで、結局「山への別れ」とするとお伝えすると、「素晴らしいタイトルですね。ありがとうございました」とだけお返事をいただいた。あのとき、すこし妙な胸騒ぎがしたが、気のせいだと思っていた。

1月某日 ミラノ自宅
町田の母に電話をすると、従兄の操さんから電話があったと言う。操さんは、母の誕生後、数日で亡くなった実父の兄の息子だが、操さんは知る由もないものの、奇しくも今日は母の実母の命日だった。目は不自由だが明るく闊達で生命力に溢れていて、目が見えているようにしか感じられない。超能力でも使えるのかしら、と内心おもっている。
チューリッヒで仕事をしているティートから電話があり、2月23日イラリアの誕生日に「河のほとりで」と「山への別れ」を演奏したい、と言う。2月20日に6日間だけ、試験をやりにミラノに戻る予定だが、偶然にも23日だけ試験がなかった。奇妙なこともあるものだ。

1月某日 ミラノ自宅
2年ぶりにフェラーリ邸で週末のプライベートレッスンをした。当時と全く何も変わっていない。そこだけ時間が止まったままで、不思議な感覚に襲われる。生徒もピアニストもフェラーリも皆2年前のまま、違うのは皆律儀にFFP2マスクをしているところくらいか。
2年前、武漢で始まったCovid 19がイタリアに上陸したところでレッスンは中断され、高齢のフェラーリを慮って、2年間そのままになっていたが、音楽を愛する建築家にとって、自分の家から音楽が消えたのは耐えられないと、彼の方からレッスン再開を要望してきた。この2年間で彼は2回Covidに感染し、そのうち1回はある程度酷い状況に陥った。今日来るはずだった7人の生徒のうち半数が、発熱や濃厚接触者の自宅待機、旅行不能で来られなかった。

1月某日 ミラノ自宅
この所しばしば思うのだが、兎も角元気で生きていれば、後はさほど大きな問題ではないのかも知れない。現在の世情を鑑みれば、息子たちの将来に不安が過るのは仕方がないが、それでも元気でさえいてくれれば、それだけで有難いと思う。
平井さんには本当にお世話になった。お世話になった分に比べて、こちらは全く恩を返せなかった。知り合ったばかりの頃、世の中の人はあなたよりずっと忙しいのだから、届いたメールは24時間以内には返事をしないといけない、とお説教を受けて以来、最後まで励まし続けて下さった。
まあ、もう随分お手伝いしたからいいでしょう、杉山さん、後は自分で頑張んなさい、そう言われている気がする。同じように感じている人は、世の中に沢山いるに違いない。他人のことは沢山綴っていらしたけれど、波乱万丈のご自分の人生について、殆ど文章に残されなかった。最後に直接お目にかかったのは、今から1年前、悠治さんの3回目の作品演奏会だったが、今でも、メールを差上げれれば、平井さんらしい、簡潔なお返事がすぐ届くような気がする。でも、何もお返事頂けなかったらショックだから、お便りする勇気がない。

1月某日 ミラノ自宅
毎日朝10時から夜8時半まで、オンラインで授業をしている。2月にやるはずの授業を前倒しして詰め込んでいるが、集中してやると見えてくるものも多い。
最近、学生に次のように説明して、非常に好評を得ているので、忘れないよう書留めておく。
自分の裡には、二人の人物がいる。一人は自分自身で、彼は社会に関わり、論理的に思索し、作業をする。もう一人は無意識の自分の分身(alter ego)で、彼は、直感的にものを捉える傾向があるから、非常に豊かな表現に長けるけれど、論理的でないから、勘違いしがちである。
ともすると、我々は自分自身と分身の棲み分けが上手に出来ない場合があって、そうすると、自分自身よりも、分身の方が優位に立つことになる。すると、我々の思考や思索は、分身に乗っ取られてしまう。
せめて対等の立場を目指すべきだが、我々演奏家などは、恐らく自身が6割で、分身が4割、もしかすると自身が7割で分身が3割くらいを目指す方が、舞台上でやるべきことが明確になるのではないか。恐怖に駆られて、何もわからなくなってしまう、などこの典型だ。
大脳生理学でどういわれているのか専門的な見解は皆目知らないが、我々音楽家に関していえば、頭の前と後ろで二つの人格を棲み分けるつもりでいると感覚的に分かりやすい。ちょうど耳はその真ん中にあるのだが、面白いもので、絶対に同時に両方の人格の聴覚を司ることは出来ない仕組みになっている。
頭の後ろ半分、つまり何となく頭の奥で音を聴いている感覚の時は、それは分身が脳の中で作り出した音を聴いている状態であって、外で鳴っている音とは実際あまり関係がなく、脳も外とは何ら関係を生み出していない。もちろん、外で聴こえている音と合致する場合もあるだろうけれど、それは感覚的に捉えているだけで、その音に具体的に自らが働きかけることはできない。
本人にとって、確かにその外界と関係ない音は聴こえているのだが、それは外から聴こえているのではなく、裡から自らが発している音を、まるで外から聴こえていると勘違いしているに過ぎない。
だから、敢えて耳を使わずに、常に頭の前半分から先の部分、例えば視覚などを使って、音を意識的に前方に投影することで、頭の後ろの分身に引っ張られそうになる音を、前に押しとどめておく。
音を聴くとき、どうかしらと自らに問い質すのもいけない。その隙に分身がお節介を焼いて、我々の耳を誑かしてしまうからだ。
最初から最後まで、頭の前半分と視覚だけを使って、自らの思索で音を紡ぎ続ける。指揮などその最たるものに違いない。何しろ自ら全く音を発せないのだから。
音を聴く行為は、あくまでも無理を強いるものであってはいけない。根本的に音を聴く行為は、少なくとも音楽に関する上に於いては、何らかの喜びがそこに介在すべきではないか。喜びを感じずに聴くと、根本的に音楽として成立がむつかしいだろう。

1月某日 ミラノ自宅
息子の眩暈が酷く、ベッドから起き上がれない。感染爆発の最中にある現在の世情では、誰かに彼の看病を頼める状況にはない。このまま体調が戻らなければ、彼を一人で放って日本に発つことは出来ないだろうが、それも仕方ないと腹を括った。彼が入院していた頃を思い起こせば、何という事はない。もう仕事は頂けないかもしれないが、学校などでなんとか食い繋げばいい。そう思うと急にすっきりした。もう昔のように、先が見通せる時代ではなくなってしまった。

1月某日 ミラノ自宅
マルチェロより、ワクチン反対派のMが2月以降も指揮クラスで働けるようになった、との連絡。大学卒業課程から外れた課程で指揮を教えているのが幸いした。彼女に早速連絡すると「物凄く嬉しい。いや、そんな言い方よりも、もっとずっとずっと嬉しい」、と何だか憑き物が取れたような、落ち着いた、柔らかい声が電話口から聴こえてきた。
ヴィオラの般若さんに、ティートからのお願いを伝える。
「私はこの曲を演奏する度、自ずと彼女を思うのですが、亡くなってからの出会いもあるのだとしみじみ感じています」。

1月某日 ミラノ自宅
朝7時、息子には生姜焼きをつくり、自分には豆腐と野菜を炒めて弁当箱に詰め、学校へでかける。
教室では既にジェノヴァから来たマルティーナとピアノのエレオノーラが待っていたが、もう一人のピアニストのMがくる気配がない。気を揉んでいるところにMの婚約者から電話があって、彼女はPCR検査で引っかかり、再検査のため学校近くの薬局に並んでいると言う。ワクチン反対派のMは、48時間ごとにPCR検査の陰性証明を提出して、1月末までは学校で仕事が許可されるグリーンパスが発行してもらっていた。
彼女に電話をしても通じず、「今は気分が酷くて、到底話せる状況じゃないの。ごめんなさい」とメッセージが届いた。それでも何とかレッスンを続けていると、昼前になって、事務局のシルヴァーナが慌てて教室に駆け込んできた。入口にMが居座り泣きじゃくっているが、どうしようもないと言う。代りのピアノを弾いてくれていたマルチェロと二人で降りてゆくと、果たして入口の机に突っ伏して、Mが3歳の少女のようにさめざめと泣いている。「大丈夫かい」と声を掛けた瞬間、糸が切れたように、突然ギャアともキェとも言えない奇声を発して、石床に大の字に伸びてしまった。
ひきつけのように躰を硬直させて余りに大声で叫び続けるものだから、学校中から人が集まってきたが、皆遠巻きにして、憐憫の眼差しを落とすばかりだった。
3人がかりで何とか彼女を抱き上げて、事務局の椅子に座らせるのに15分はかかっただろうか。先に電話をもらった婚約者に電話をして、迎えにきてもらうことになったが、彼がいなければ、救急車を呼ぶところだった。
彼女の野太い断末魔の叫び声はいつまでも耳から離れず、こちらの精気まですっかり抜き取られたようであった。一日中その声に打ちのめされていたが、夜になって、何とも言えない怒りが沸々と湧いてきた。誰に対してでもない、無力な自分たちに対しての怒りかもしれないし、パンデミックへのやりどころのない怒りだったのかも知れない。
我々はどこへ行こうとしているのか。Mは何故そこまでして意固地になっているのか。何故我々はワクチン反対派をそこまでしてつるし上げ、社会から疎外しなければいけならないのか。
Mからすれば、No Vaxは人権蹂躙を糾弾する天命なのだろうが、この感染爆発中、旅費と時間を費やして、ジェノヴァやトリノ、果ては遥々ウィーンからやってきた生徒たちに対して、何と説明すればよいのか。
尤も、Mからすれば、彼女の人生は48時間毎に区切られているようなものに違いない。48時間以上先の彼女の人生は、現在恐らく何も見えないはずだ。どれだけの緊張を強いられて日々生活しているかは想像に難くない。到底自分の生活以外顧みられる状況にはないのだろう。
彼女と同じように、48時間毎のぎりぎりの日常を送る人々が、ミラノの街中の薬局でPCR検査をするべく早朝から夜まで長い行列を成している。

1月某日 ミラノ自宅
Mが学校の石造りの床に放心状態で身を投げ出したとき、集まってきた同僚たちの様子もまた、何とも言えないものであった。憐れんでいるようでもあり、蔑んでいるようにも見えた。Mは自分は犬以下の存在だ、と公言して憚らない。犬は未接種でも喫茶店にもレストランにも入れるが、自分は拒否されると言う。2日毎に陰性証明を出してワクチン接種者よりもずっと安全なはずなのに、わたしは、病原菌の塊りみたいな扱いを受けている、という。そんな存在でありながら、もし彼女が実際に感染してしまえば、状況は途端に逆になる。快復した証明書でスーパーグリーンパスが発行され、突然人並みの生活が営めるようになるのである。実際、先日罹患した生徒は、今は寧ろ強気でいられる、妙な感じだと言っていた。
そんな混沌とした中にあって、結局Mはまだ陰性だった。だが、SMSで国から送られてくるはずの陰性証明がなかなか届かず、学校の玄関で泣きじゃくり、絶望し、破綻してしまった。本当に気の毒ではあったが、ただ、自分は高い授業料を払って学校へ通ってくる生徒たちを優先に考えざるを得ない、とも思う。これからどうなるのか全く分からないし、自分がどうすべきなのかも、良く分からない。
社会の分断は、確実に一線を越えてしまった。昔のように、好く回る油のさされた社会の歯車はもう戻らない。逆に言えば、今まで見えていなかった綻びが、この機会に全て炙り出されて、白日の下に姿を晒しただけかもしれない。我々が見たくなかったものに、否が応でも対峙せざるを得ない状況に置かれているだけなのかもしれない。
ロンバルディア州の感染拡大は確実に下降傾向へ近づいている、オレンジゾーンにはしない、経済は止めない、とミラノ市長が強気の発言。つい先日まで毎日イタリアの死亡者数は400人を超えていたのだが。

1月某日 ミラノ自宅
Mからメッセージが来て「もうずっと前から戦い続けてきたの」と書いてある。それに対し、「自分はずっと負け続けてきたから、未だに何とかイタリアで生き延びているのだと思う。もし身体的な理由でワクチンが打てないのなら、その証明書を作るべきだし、そうでないのなら、柔良く剛を制す、せめて負けたふりをしたらどうか」と返事した。
しかしながら、Mからは続いて、「今、われわれが立ち上がらなければ、絶対に後悔するわ、永遠に自由が失われるのよ」、と頑なな長い文章が送られてきて、返答に窮した。
人権蹂躙とワクチンは、ある程度別問題として考えなければ、これから先どうやってゆくつもりなのか。
やはりこの国のこうした権力観の強靭さを見るにつけ、過去のある時期、ムッソリーニのような政治家が現れ、それを迎え入れる大衆も存在し、それを倒すべく内戦を繰り広げた、パルチザンの生まれた国であったのを思いだす。
敗戦後、我々日本人は彼らとは全く違う形で現在まで歩んできたように見える。尤も、イタリアは敗戦国ではなく、正確には戦勝国なのだけれど。

1月某日 ミラノ自宅
昨日は朝6時に自転車を飛ばしてインガンニ駅の裏にあるCDIでPCR検査を受ける。帰りに新聞を買いに寄ったキオスクで、思いがけず、息子の小学校時代の親友、グリエルモのお母さんに再会。互いに、目深く帽子をかぶり、マスクで顔の半分は覆われているから、誰だかさっぱり分からない、と二人で笑う。
10時から遠隔授業が始まるが、家から授業が出来るのは本当に助かる。庭を訪れる鳥を眺めながら、授業が出来るのも精神衛生上とてもよい。この所、赤い腹をした5センチほどの小鳥が、こちらが朝クルミを出すのをずっと待っている。今朝は、久しぶりに顕れたキツツキが、嘴で樹を軽くつつきながら、上からゆっくり降りてきた。しばしば15センチくらいの、見事な緑色のインコだかオウムのような鳥も現れるのだが、どこからか逃げだして野生化したのか。見かけによらず逞しそうに見える。
こんな毎日を積み束ねていきながら、前向きになろうする気持ちと、困憊し疲弊しきった精神が、一日の間に何度も入れ替わり交互に訪れる。夕刻、CDIから陰性証明が届く。

1月某日 フランクフルト行機内
タクシーは朝の7時45分に呼んであって、7時半頃息子は眠そうに起きてきた。多少不安げにも見えるが、大丈夫だろう。
リナーテ空港での搭乗手続きは思いの外簡単に済んだ。あとは無事に日本で仕事ができて、予定通りイタリアに戻れるよう祈るばかりだ。
快晴のミラノ上空、左手後方に、小さく中央駅をみる。そのずっと奥、我が家の方向をじっと見つめる。ひときわ高い建物があるから、あのあたりかも知れない。
マッタレルラ再選決定。イタリア国民の期待に応える、とある。マッタレルラのスピーチを新聞で読んで、涙がこぼれそうになった。感動したからだろうか。それとも2年前から今までの時間を、無意識に想い返したからだろうか。
最近、時世のせいか、音楽をするのは「希望」を表現するためのように感じられる。特定の誰かへの「希望」ではなく、「希望」そのものを顕すため、「希望」そのものを消し去らぬため、我々が「希望」を失い枯渇しないため、音楽をやっている気がする。
音楽など社会には全く必要ないが、しかし音楽がない人生を我々が歩むことなど、出来るのだろうか。
一面純白の雪を頂くアルプスが、真っ青な空と耀く朝日に映える。

(1月31日 羽田行機中にて)

かろみ、しなり、そして…

高橋悠治

1月の終わりに、山田うんの『ストラヴィンスキー・プログラム」で、『5本指』(1921) と『ピアノ・ソナタ』(1924) をソロで、『春の祭典』を青柳いづみこと連弾で弾いた、弾いているとダンスは見えない。いつも見えると、楽器に触る手の動きと踊りの身振りを別な時間にするのがむつかしくなる。「垣間見る」のがよいのかもしれない。眼と手のずれは、ストラヴィンスキーが言う「踊りと音楽の対位法」で、なめらかな流れに波を立てる。手からいうと、意のままに操る音の重さにしばられない、思いがけない「かろみ(芭蕉)」で、音が発見であるように、「印象が表現である馬 (Clarice Lispector) 」。

楽譜を見ながら弾いているとき、知っていると思っていた音楽を、初めて見るようにはできないが、指の手順を躓かない程度に覚えて、眼で見てから手が動く時間を一定の拍から前後に外すことはできるだろう。そのリズムを作るのは、身体を囲む空間、そこに感じる気配との対話かもしれない。かすかな空気の変化が音と絡まって、意識以前に手が動いている、表現の重みなしに。

意味や感情、わかりきった感覚のパターンから離れて宙吊りになっている響き、そのときは指も垂れ下がって、さぐりながら一歩ずつキーからキーへ歩いている。

響きは、音の記憶とも言えるだろうか。手が楽器に触れて出す音は、瞬間に過ぎて帰らないノイズ。だが余韻は音の感じがする。まとまった響きがばらばらになって、それぞれに静まる成り行きに聞き入るのはどんなものか。

手を動かすと言うより、なかばまどろみつつ、動かされている手を見ているような、できれば見ないでも、感触がおのずから動きを続けていくような…

一歩が次の一歩の踏み出しを決める。楽譜があれば、どこに行くかは決まっている。リズムが書かれていれば、おおよその時間も決まっている。かえってそのような限定の内側で、意図もなく思いもなく起こるできごとの、ちいさな揺れ。踏み込み、ためらいが撓(しな)りとなって、撓り、押したり撓めて撓うのでなく、緩めたり緩んで撓うのでもなく、…

ゆらぎ散っていく気づかないこの瞬間の闇 (Ernst Bloch) を残しておく、次の発見のために。石田秀美は「移ろう音の風景に埋もれ、響の縁をさまよう」と書いていた。どうしてこんなことばで書けるのか、…

2022年1月1日(土)

水牛だより

明けましておめでとうございます。
元旦も夜になってしまいましたが、東京の昼間の青空はいつもよりも青く、南側のガラス戸から入ってくる太陽の暖かさを全身に浴びていると、ともあれ幸福です。

「水牛のように」を2022年1月1日号に更新しました。
年が変わる瞬間の前後一日くらいにたくさんの原稿が届きました。明るいのもあり、暗いのもあります。暗い時代がまだまだ続きそうな今年の幕開けです。
水牛にとっての明るい話題は、杉山洋一さんの「しもた屋之噺」が今月は239回ですから、来月には240回を迎えることです。240回は240月で20年です。この間、一度も休みなく、原稿が来るのを当然と思って、水牛の更新も続けて来ました。
ことしは水牛のオフ会をやろう。会って、ことばをかわしましょう!

来月も無事に更新できますように!(八巻美恵)

むもーままめ(14)新年リセットボタンの巻

工藤あかね

年末年始の独特な雰囲気が好きでもあれば嫌いでもあるのはクリスマスまでの浮かれた街の雰囲気が26日になると急に楚々とした感じになって街角には門松なんか立っちゃって正月飾りなんか玄関に飾っちゃってそれでもクリスマスリースと区別のつかない飾りを見ると安心したりするけれど何が嬉しいって大通りの車の数が急に減って空気が澄んだ感じがすることもしかして気温が低いせいかもしれないよねでも星がよく見えるしヴィーナス空がちゃんと青くてときどき赤紫でぜんぶなんとなく灰色がかっていておごそかな感じがするのがわるくない年末で一番いいのは大晦日なのだってなんにもしなくても許される気がするから逆に働けば特別えらい一年の締めくくりで達成感あるよねせっかくリセットしても次の日はちゃんと新年がやってきて1月1日になるとまたみんな生きてゆかねばならないのだからせめていつもよりちょっといいお酒を飲んで酔っ払ったままあたらしい海に漕ぎ出してゆきたいカモメが飛んでいる黒いね一羽だね動物と話したい猫の耳の三角形の先っちょをつんつんしてくすぐったそうにする顔を眺めながら水でもいいから飲んでいたいこの間はみんなが真面目な資本論について語っていた時わたしのバッグに入っていたのはマゾッホの小説でいつもおせちを何品か作るところを今年はあきらめて買うことにしたの少しづついろいろなものを食べられるから助かるね作って売ってくれた人ありがとうおいしくいただきますね夫は一年に一度しか触らないコンサーティナでバッハの練習をしだしてつっかえつっかえの演奏会が余興みたいでたのしくてこの間家にある一番いいお酒を飲んだと思っていたらそれが冷蔵庫に残っていてびっくり仰天してその日に撮った写真を見たらうちに置いてあった三番目に高いお酒だったあれわたしもだいぶヤキがまわったねだから一番いいお酒が残ってるそれともうちにはもうないふりして3月ごろにとぼけて味わうのもいいな家の片付けをしていたらもう使わない定期入れにちっちゃく折りたたんだ緊急用の一万円札が入っていた今すでにかなり忘れっぽいから3ヶ月後には今よりも3ヶ月分忘れっぽくなっているはずああ楽しみ忘れるの楽しいわすれたら覚え直すから覚え直すの楽しいゼロからやり直せるからうれしいリセットボタンを押してやり直せる新年は1月10日からにしようかな1月9日にリセットボタン押して10日から再起動するのもいいよねそれなら6月でも11月でもいいのかそうしたら一年中いつでもリセットできるねお得だねでもみんな一斉再起動もお祭りみたいで楽しいねそうかそれが大晦日と新年なのかなそうしたらまた産まれ直せるのだなそうしたら今日は産まれたての赤ちゃんのつもりで好き勝手やらせていただこう

ベルヴィル日記(5)

福島亮

 フランスと日本とは8時間の時差があるために、(フランスの時間の)夕方4時頃、連れ合いに新年の挨拶をした。それからフローベールの『三つの物語』をゆっくりと読む。なにやら外が騒がしい。クラクションが鳴らされ、花火をあげる破裂音も聞こえる。ふと時計に目をやると、新年だった。

 明けましておめでとうございます。

 ベルヴィルは中華街なので、アジア食材には事欠かない。年越し蕎麦も堪能した。皮付きの鶏肉を鍋で焼き、そこに「ポワロー」をぶつ切りにしたものを入れ(2020年10月の「ポワローと過ごす日々」をご参照ください)、醤油、味醂、水で戻した干し椎茸を入れて煮立たせ、しばらく置いておくと、ポワローと鶏肉に味が染みて、非常に美味しい鶏そばの汁ができる。

 とはいえ、旧年を振り返るのは今の私には無理そうだ。というのも、持ち越してしまった宿題が多すぎて、首が回らないからである。子供の頃から行動を起こすのがひどく遅かったが、ここ最近、というか留学してから、それがさらにひどくなっているような気がする。首が回らないと自分が嫌になる。こういう時に必ず思い出すのは、「師の言葉」である。

 大学の学部生の頃、同級生が「今日は先生からよい話をきいた」と嬉しそうにしていた。彼は普段から物真似が上手かった(余談だが、私が知る限り、物真似上手は語学上手が多い。彼もその例に漏れず、レオ・フェレの物真似などをして私たちを爆笑させていた)。「今日は先生からよい話をきいた」というのは、要するにコール・アンド・レスポンスのコールのようなものであるから、すかさずどんな話か尋ねてみた。すると彼は某先生の声を真似ながら、「留学中は1日ひとつ何かすればよし、というルールを作っていた」と教えてくれた。「今日は郵便局に行ったから、よし」というわけだ。「だってふたつもやったら疲れちゃうじゃない」とも先生は話してくれたとのことで、同級生は肩の荷が軽くなったような気持ちになったらしい。この高尚なる教えは、彼を経由して私にも吹き込まれ、留学をしてからは呪文のようにこの教えを唱えてきた。

 が、最近ふと、私は記憶を書き換えていたのではないか、と思うようになった。同級生が話してくれたのは「留学中は1日ひとつ何かすればよし」ではなく「留学中は1日ひとつ何か新しいことをすればよし」だったような気がするのだ。こうなると話が違ってくる。なるほど、「今日は郵便局に行ったから、よし」というのは、その前に手紙を書くなり、何か贈り物を用意するなりしているわけだから、それまでしていなかった新しいことをしているのであり、決してルーティーンではないわけだ。そもそも、「ひとつ何かすれば」というならば、屁理屈かもしれないが「今日は朝ごはんを食べたから、よし」でもよいことになってしまう(ちなみに、大晦日の日に私は国立図書館に行っていたのだが、朝寝坊をしたために朝食抜きとなった)。

 だが、たとえ記憶違いであるとしても、「1日ひとつ何かすればよし」ということにしようと思う。その方が、自分の心に優しくできそうだからである。

 というわけで、なんだか締まらない新年の挨拶でありますが、本年がみなさまにとってよい一年となりますように。

しもた屋之噺(239)

杉山洋一

数年前に息子が入院していた、ニグアルダ病院の巨大な大理石の正面玄関に、メリークリスマスの赤いスライドが投影されています。そこにはニグアルダの医師、看護師にむけて「心からありがとう」と書かれていて、その上に、亡くなった医療関係者のために「心からありがとう。自らの生命を捧げて、わたしたちを救ってくれた人たちよ」と感謝の心が綴られています。
乳白色の朝靄の奥深く、どこかの教会の鐘が「聖しこの夜」を打っていて、それは街のあちらこちらに反響して、不安定なカノンになりました。これは早朝から愉快なことだと独り言ちつつ、足早に朝食のパンを購ってきたところです。

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12月某日 ミラノ自宅
岸田首相、今月一杯の新規日本向けの航空券発行停止を発表。在外邦人帰国の新規航空券発行も一時中止。先日隔離期間短縮が発表されたので、それに合わせて帰国便を予約したばかりだった。改めて二週間の隔離期間に戻すべく航空券を変更しようと航空会社に電話したが、変更も同じ扱いで断られた。かかる日本の水際対策と、今後の更なる欧州感染拡大を鑑みて、年末の日本帰国は諦める。

12月某日 ミラノ自宅
作曲にあたり、以前は用意したスケッチを、強迫的に使い尽くそうとしていたが、何故だったのだろう。経済的に作曲しなければならない強迫観念に駆られていたように思う。
何時からかスケッチの半分は捨てるようになり、最近は予め用意した音符の凡そ8分の7は切捨てているから、甚だ効率が悪いと自らを恨みつつ、書き進めると断捨離の清々しさを覚える。
旋律への偏愛がより詳らかになったのは、生来のカスティリオーニの影響か、さもなくば単なる懐古趣味か。幼少からの民族音楽へ興味が素材作りの基本にあって、ドナトーニの作曲姿勢と質感を無意識に追いかけつつ、何十年も変わることなく三善先生や悠治さんの音が縫い込まれたカンバスに対峙している。

12月某日 ミラノ自宅
東京で般若さんが「河のほとりで」を再演して下さっている。暫く前に、「河のほとりで、を読んでいると、必ず泣けてくる箇所があります、不思議です」とお便りを頂いたが、彼女の方が、余程楽譜を通して音楽と交信していると思う。作曲中は確かに音と繋がっていても、脱稿すれば、意識的か否か、殆ど楽譜を顧みることはない。
その程度の付合いだからいけないのか、普段から食卓で仕事していて、息子は手持ち無沙汰になると、何かと話しかけて来て邪魔をする。
放っておいてくれと言うと、「別に何も考えないで、ただ音符を書き写しているだけじゃないか」と、強弁して不貞腐れた。
今日は4時前起床。昨晩仕上げる筈だった部分を漸く終わらせ、6時前に息子を起して、パルメザンチーズのオムレツで朝食を食べさせ、散歩しつつ作曲の続きを考える。

川口さんより練習時の録音が届いた。口を挟むべきことは何もない。一面セピア色のフィルターがかかっていて、一見旧い装いかと思いきや、実際はとても鮮烈で峻烈な映像を目の当たりにした気分になる。彼の表現の幅が広く、深いからに違いない。
リストは好きな作家ではなかったが、最近随分印象が変わったのは、否応なしに毎日息子の練習を耳にしているからだろうか。

12月某日 ミラノ自宅
家人は今月のミラノへの旅程を断念。演奏会があって1月に改めて日本に戻る予定にしていたが、その際、6日間は隔離施設で待機となり、機内に陽性者が見つかれば、そのまま2週間、隔離施設の部屋から出られない。2週間ピアノに触れられないのは、演奏会直前のピアニストには流石に考えられないだろう。
よって、家人の結論は当然で異論はないが、全く家事に貢献しない愚息はどうにかならないものか。幾ら言い聞かせても埒が空かないのは親の責任であって、甘受せざるを得ないが、ただ、目の前の堆い仕事の山に眩暈がするだけだ。
そんな毎日にあって、せめてもの心の慰めは、毎朝胡桃3個と決めている庭のリスの餌やりで、庭に棲みついている3匹のリスが、愉快に鬼ごっこをしている様は、幾ら見ていても飽きない。
リスの食べ滓を狙って、洒落た小鳥が入れ替わり立ち替わり訪れるさまも目を愉しませる。時には腹が純白の番のきれいな鴉もやってくるけれど、リスが尾をけたたましく振って威嚇するので、しばらくすると諦めてどこかへ飛び去ってしまう。

12月某日 ミラノ自宅
2年ぶりのスカラ座オープニング・オペラ中継「マクベス」を息子と見る。ネトレプコの第一声には脳髄に電流が走った。ぎっしり籠められた万感の思いに、思わず鳥肌が立つ。
昨年は感染拡大でミラノがレッドゾーンとなり、閉鎖された劇場から、無観客の寂しいガラ・コンサートが中継されただけだった。2年ぶりにオープニングに観客を入れ、オペラを開催できる意味に、誰もが深く感じ入った。
「マクベス」開演前、国歌斉唱の直前、貴賓席のマッタレルラ大統領に向けて、劇場中から惜しみない拍手が送られ、それは本当に長い時間続き、翌日の新聞でも話題になるほどだった。
コロナ禍前の2019年に比較して、イタリア国民の政府への信頼度は22%から37%に、大統領への信頼度は55%から63%に、大幅に上昇した。
マッタレルラ大統領の就任期間は来年2月で満期となり、既に退任は決まっているが、未だに続投を望む声は絶えない。ただ、本人が固辞している。
実兄をマフィアで失った彼が、シチリア人らしい厳しさと矜持で、この困難な2年間を国民に寄添い、語りかけた言葉によって、我々がどれだけ励まされただろうか。

「マクベス」中盤の大休憩の折、息子が陸橋前のピザ屋で「マルゲリータの焼玉葱のせ」とフライドポテトを買ってきて、後半はそれを齧ってキノットを呷りつつ観劇。話が展開するほどに緊張の高まる、久々のヴェルディに感無量。

12月某日 ミラノ自宅
耳で音を選ぶと端が柔らかくなる。敢えて固い音を選択すると、表面こそ固くても内側は溶けてしまって作曲者を懐柔するから質が悪い。
昔から音を自分から切離したかったが、それは悪だと信じ込んでいたから、突き放しつつ自分の裡に音を見出そうと躍起になった。
長い間試してみたけれど裡に音などないのが分かっただけで、寧ろそれを積極的に認めて自分が常に空洞であるよう意識することによって、音楽と関わるのが楽になった。

作曲にせよ演奏にせよ、自分が無理に音楽を紡ぐ必要がなくなったからだろう。シャーマンは、案外こんなものかしらとも思う。
ドナトーニが生前よく話していた、「少しばかり立止まってどうするか暫く考えてから、2、3日は間違えずに書くことに集中する」心地に、ほんの少し近いのかも知れない。

今日は、良く鳴るオーケストレーションと明快な和音を目指して、一日かけてあれこれと手直ししたが、結局最初の生硬な楽譜に戻した。オーケストレーションなどに色目を使ったのが間違いだった。
演奏者の立場から言えば、余程意地悪く書かれていない限り、工夫と意志さえあればオーケストラは凡そどのような音でも聴かせられるし、それなりの音が生まれる。

オーケストラを書く上で、音響効果や演奏効果を鑑みて音符を定着する作曲家はフランスに多く、譜面の都合を優先し、オーケストラを作品に適合させるべく作曲する作家はイタリアに多く、合理性から遠すぎて理不尽にすら見えたりもするが、それがイタリアの合理性とも言える。
ヴェルディやシャリーノも、旋律や音符がまずあって、それを定着させようと作曲に臨んだし、ドナトーニに至っては音符が全てだった。シャリーノに関しては、初期から現在までの変遷を忘れてはいけない。彼はその昔写譜仕事を通して、思いがけない音楽の発見に至ったのだから。
ロシア・ロマン派のオーケストラの妙技は、フランスから齎されたものだし、ドイツは基本的に質実剛健の道を外れなかった。

12月某日 ミラノ自宅
夜明け前、布団の中から漆黒の庭を眺める。最後の部分、音の雲が細部まで浮き上がってくるまで、ひたすら、葉を落した冬枯れの樹を見つめる。

母が平塚に住む従兄の操さんに電話をしたそうだ。操さんは4月生まれだが、手違いで出生届が3月に出されてさ、と相変わらず陽気に話していたそうだが、昭和の初めだと、手違いで生まれる前に出生届が出されてしまうのか。冗談のようで愉快だ。
操さんは底抜けに明るくて、信じられないほど記憶力がよく、でも楽天的な性格に見える。太陽みたいな印象で、周りにいるだけで楽しくなってしまう。

母が生まれた数日後に結核で亡くなった母の実父竹蔵は、家業の宮大工をしていた。操さんはその実父の兄の息子にあたる。
竹蔵が早稲田を出ていたとは、今日初めて聞いた。昭和の初めに、家業の宮大工を継ぎながら、東京の大学に通っていたとは想像もしなかった。
24歳で早逝し、娘の成長も見届けられず気の毒だったが、どの戦争にも出征せずに済んだのは、せめても幸運だったかもしれない。

竹蔵も建立に参加した住吉神社は、今も茅ヶ崎南湖に残っていて、随分前に訪ねたことがある。昭和3年に改築されているから、当時竹蔵はちょうど今の息子くらいの齢だった。現在も社殿に立派な龍をいただく住吉神社を、きっと家族総出で作ったに違いない。
母曰く、どこかに15、6人揃って立派な上棟式をしている写真が残っているそうだが、見たことがあるのは、それを引き延ばした自分に瓜二つの竹蔵の写真で、「住吉神社」と書かれた法被を着ている。
墓を作り直した際に、「先祖代々」にひっくるめられ竹蔵の名は消されてしまったが、94年後の現在も住吉神社がその地に息づいているのは、孫からすると素直に嬉しい。
竹蔵さんの写真に、息子は「これが曾お祖父さんかあ。自分の歴史の一部だな」と、ませた顔でのたまう。

12月某日 ミラノ自宅
台所の壁の向こう側で何か不規則な音がする。コトリと言ったまま暫く沈黙が続いたかと思いきや、やにわに壁を削るような音もする。隣かしらとも思ったがどうにも訝しくなって外に出ると、案の定若い男がどうやら壁をよじ登り天井に這い上がろうとしていた。
屋根伝いに隣のマンションを狙っていたのか分からないが、拙宅が目的ではないのは確かだ。そんな所で何をやっているのかと何度か尋ねると、終いには、煩いなという風情で、渋々線路の向こう側へ歩き去った。
ここ数年かかる怪しげな輩の訪問はなかったが、コロナ禍で生活が厳しくなっているのだろうか。

12月某日 ミラノ自宅
プレトネフのリサイタルに出かける。ショパンばかりのプログラムで、軍隊ポロネーズや舟歌など、知られた作品が並ぶ。思えば、前回彼の演奏を聴いたのは、コロナ禍の始まる直前の昨年の2月だった。その時のシューベルトも素晴らしかったが、今回のように誰でも知っているはずの旋律が、ここまで新鮮な未聴感に満たされるのは、最高の贅沢を味わった気分だ。
プレトネフを聴きにくる聴衆は、ショパンがどうというより、彼のピアノが聴きたくて来るのだから、最上の愉悦の一時を過ごしたに違いない。奔放でありつつ気品とユーモアに溢れていて、磨き上げられた珠玉の超弱音は、光を放ちつつ空間を縦横無尽に遊び、突如として訪れる強音の深さに息を呑む。
音の響きの幅を広げるためには、強音のレンジを幾ら広げても際限はあるが、弱音の領域を広げてゆければ、音空間は無限にも見えてくる。

解釈はまるで違うが、ブルーノ・メッツェーナのピアノも、鍵盤を絶対に叩かず、常に豊かな倍音を伴っていた。メッツェーナ先生にとっては楽譜の指定が絶対であって、テンポも厳守させた。
単一的な音色はメッツェーナ先生も嫌いだったから、不規則に音に凹凸を付けて演奏させた。先生がそれをやると自然と微妙な遠近感が生まれ、三次元的な音像が立ち昇る。別のアプローチでありながら、やはりそこにもプレトネフ同様、緻密な空間性が紡ぎだされるのだった。
どちらが好きと言うのではなく、どちらもいいと思う。
他人の楽譜を読むにあたっては、書いてある通りやるだろうが、自分が作者の場合、一度譜面を咀嚼してくれたなら、後は作曲者など忘れて好きに弾いてもらって構わないとも思う。フォルテと書いてあるからフォルテで弾くくらいなら、演奏者がその音を弾きたい音量と音色で、弾きたいフレージングで演奏してくれた方が本来の自分の意図に近い。楽譜に書ける情報など限られているし、作曲家だって人間だから、余りあてにしてはいけないと思う。

12月某日 ミラノ自宅
町田の両親が太田さんたちの「海へ」初演を聴きに行き、思いの外喜んでいる。
単調な曲だから飽きて寝てしまうと高を括っていたが、聴いているうち様々な風景が走馬灯のように見えてきてね、などと珍しく父まで興奮気味で、大丈夫かと寧ろこちらが当惑した。
「海へ」は、フォーレ「幻想の水平線」の「海は果てしなく」を、そのまま引き延ばしたものだ。
太田さんから平山さんを偲ぶ曲を頼まれたその瞬間にこの曲が頭に浮かんだから、きっと平山さんがこの曲を選んだに違いないと、そのまま書いた。
壮大な勘違いをしているかも知れないが、平山さんは明るい方だったから、笑って許して下さるのではないか。
詩を書いたドラヴィル・ド・ミルモンは、第一次世界大戦に志願し、何度も身体検査で落とされながら、漸く参戦が許されると地雷爆発で生埋めになり、間もなく1914年、27歳の若さで亡くなっている。
その1914年から17年の大戦中に、ラヴェルは「クープランの墓」を、ドビュッシーは1915年に「白と黒で」を書き、カセルラも15年には「生への別れ L’Adieu à la vie」を作曲している。彼らに限らず、大戦への悼みを綴った作曲家、芸術家は、世界中無数にいるはずだ。
戦争でこそないが、100年後、パンデミックに斃れたこの世界に生きる芸術家の多くも、何らかの記憶をそれぞれの言葉で、直接的であれ間接的であれ、書き残そうと思っているに違いない。

Verba volant scripta manet
言葉は空を駆け、書かれたものは残る。
紀元前80年にカイオ・ティートがローマ議会でこの言葉を発した際、口伝こそ最も効果的な伝播方法、と現在とは反対の意図で熱弁を揮った。
音楽も粗方等しい道筋を辿ったのではないか。口伝でしか説明しようのない微妙な音の襞を、楽譜として記号化、画一化、統一化し、微細なニュアンスこそ捨て置きつつも一般化させて、より緩いスタンダード、許容範疇の音楽を、幅広く流布させた。その気の遠くなるような均一化傾向は、現在もなお続いている。
楽譜として基礎的情報を社会に知らしめた後、それぞれ個人が各々の流派に則り稽古を重ねて仕上げて、未来へと受け継いでゆく。邦楽など、むしろ稽古で直接学ぶ時間が重要視されていて、より古典的な音楽の在り方を守る。

12月某日 ミラノ自宅
中学時代からの友人が人知れず自宅で亡くなっていて、信じ難い。数日前から連絡がとれなくなり、妹さんが自宅の窓ガラスを割って入ると、既に布団で冷たくなっていたそうだ。人の一生など本当に見当もつかない。

大石さんと辻さんによるJeux再演ヴィデオ拝見。お二人の演奏する世界観が途方もなく大きく、惹きこまれ、そして圧倒された。巨大な波が我々を吞み込んでゆき、さらってゆくような錯覚すら覚え、ただならぬものを見た感覚だけが残った。僥倖という言葉はこのような時のためにあるのだろう。

対立概念のない作品を書くことは、当初、単細胞生物の生殖概念に近いかと想像していたのだが、実際は、分裂せずにただ変態を繰り返す。
変態や変形は、方向性を内包する一種の発展形態かとも考えていたが、分裂しない上に於いては、発展とは呼べないかもしれない。ただ変化してゆき何時しか別の個体となるだけ。
尤も、Jeuxでは対立概念こそ皆無であれ、サクソフォンと和太鼓は明らかに互いに緊張を高め合い溶解し、燃盛る一つの火の玉にも見える。なるほど、巨大な波の裡は、めくるめく灼熱に満たされていたのだ。
演奏会から帰ってきた父が、電話口で出し抜けに、「最近はクラシックより現代曲の方に、何というか、心が奪われる感じがするなあ」と言うので、吃驚する。

12月某日 ミラノ自宅
今はなきSIRINのフランコが亡くなり、形見分けで貰った黒の照明スタンドだが、2か月ぶりに漸く修理から戻って来た。政府がコロナ禍の景気対策で改築費用非課税などのボーナスを打ち出していて、イタリア中が日曜大工ブーム、建築ラッシュに見舞われている。
「いやあ、そのお陰で家の電気修理とか、とんでもない量発注されてねえ」と、遅延にも悪びれる様子すらない。当初の約束では3日後だった。
学校の給料請求書をジェノヴァ門裏の運河沿いの事務所に届けると、クリスマスの電飾が水面に無数に輝いていて、思わず見惚れる。学校からは、感染拡大につき、クリスマスから年始にかけて会食は極力控えるようメールが届いた。
ヨーロッパ感染拡大で、デンマークは映画館、劇場、ホール、公園、博物館を閉鎖。スイスは、ワクチン接種者のみが文化施設、レストラン、スポーツ施設への入場を許可する。
イタリアでもクリスマスには国民の5人に1人はイエローゾーンに入ることになり、行動制限がかかるだろう、とある。スカラ座バレエ団80人中12人陽性。そのうち9人はワクチン反対派、と大きく新聞に書かれている。最初の演目「ラ・バヤデール」の公演開催は現在のところ未定。

12月某日 ミラノ自宅
「揺籃歌」解説文を送り、新聞を広げると、子供たちへの大規模接種開始のニュース。子供の緊張を解すため、病院にはピエロが慰安に訪れたり、医療関係者がヒーローの着ぐるみで接種を実施したり、南部では小中学校の校舎で接種を実施、ともある。子供たちは怖がりもせず極めて順応、と褒め称えられている。
月末からはロンバルディアもイエローゾーンになる可能性あり、とのこと。
アルプスの麓のトレントでは、今日より喫茶店で着席のサーヴィスは禁止。

12月某日 ミラノ自宅
数学の才能は全くないが、この齢にして朧げに思うのは、音楽は関数のようなもので、それを微分したり積分したりして何かを描きたかったのではないだろうか、という極めて漠とした感覚だ。
ただ、それをコンピュータを使って計算すれば、自分が望むものとは全く相反するものになるのは明白だし、クセナキスの発想とも根本的にまるで違うから、結局は数学に置換えられる類ではないのだろう。
とは言え、最近、頓に自分から音楽を離して書くほどに音の確信を感じるのは、よほど音楽の才が欠落しているのか。

12月某日 ミラノ自宅
昼前、珍しくミラノに地震があった。何でも、アルプスの地殻変動が原因だそうだ。とても低く静かな地鳴りが10秒ほど続いただけだったから、てっきり近所の工事現場の騒音がここまで響いているのだとばかり思っていて、妙なものだと思っていた。地震のお陰で地下鉄や鉄道各社など確認作業のために軒並み運行停止となり、街中大混乱となったが、実質的な被害はなかった。
この所朝は決まって深い霧が立ち籠めて、午後は快晴になる。母に電話すると、その昔ノーノ観劇にミラノを訪れたときも、10月にも関わらず濃霧が酷く、気温は4度と寒かったのをよく覚えている、と言われる。

仕事をしていると、時々息子が上がってきて、ソルフェージュ視唱を見て欲しいと頼まれる。最近の課題はトリル、モルデントとターン各種を、予め決められた通りにリズムも音も正確に入れる練習で、やってみせてと言われても、こちらも間違えてしまう。
カスタルディ(Paolo Castaldi)の名曲「Solfeggio parlante 」や、シャリーノの「2台のピアノためのソナタ」のような初期作などにモルデントとターンが犇めいているのは偶然ではないし、たとえば、シャリーノで言えば、そのモルデントの音型を拡大していきながら、演奏会用練習曲や「夜の」のような、彼独特のピアニズムの探求へ繋がっていった。

閑話休題。ともかく、この凡そ感覚的ではない教材が、イタリアらしいソルフェージュのアプローチに繋がっているのを実感する。こう書くと、批判的に聴こえるかもしれないが、そうではない。皮膚感覚的でも観念論的でもなく、四角四面に生真面目に楽譜を読むことこそイタリアの伝統の礎なのだ。

12月某日 ミラノ自宅
誕生日でかつ普段からケーキを購う日曜日なので、息子にせがまれ、早朝、散歩がてらジョルジアに小さなホールショートケーキを頼んだ。オランダも今日から都市が封鎖され、明日からは、イタリアでもイエローゾーンにリグーリア州、マルケ州、ヴェネト州、トレント県の他、ボルツァーノ県が加わる。ロンバルディア州も風前の灯火。誕生日祝に息子から臙脂色の魔法瓶をもらう。

12月某日 ミラノ自宅
早朝、散歩に出かけると、トルストイ通り角の薬局には長い行列が伸びていた。クリスマスの家族の食事会前にPCR検査をする人たちと、引締めが厳しくなり生活に支障がでてきているワクチン反対派の人たちが、交ざり合っているらしい。

イタリアでは一日の観戦者数が4万4千人と過去最多となり、緊急事態宣言は3月末日まで延長となった。2月1日以降、これまで9カ月だったグリーンパス、つまりワクチンパスポートの有効期限は6カ月に短縮され、公共交通機関を利用するためにはFFP2マスクでなければならない。
NoVaxと呼ばれるワクチン反対派は、こうして愈々社会から疎外されてゆくのだが、強権をもって社会の締付けをこれだけ厳しくしてゆくと、なるほど世界大戦前後の社会格差とか人種差別は、こんな感じだったのかしら、と近現代史を追体験している心地にもなる。仕方がないので、貴重な機会だから、この状況は記憶にとどめておきたいと思う。

日本のポータルサイトのコメント欄など誤って目にしてしまうと、海外からの帰国者に対する暴言に暗澹たる思いに駆られる。幕府が鎖国したのは宗教上の理由のみならず、それを望む不可視の国民性も、それ以前に澱のように溜まっていたのかもしれない。
尤も、それは日本に限らず、「あの人はNoVaxだから」とか、「NoVaxは最悪よね、社会悪よね」と普通に会話するようになってしまったイタリアも、同じ穴の狢だと思う。
イタリアのオミクロン株は、二週間前は全体の0.02%だったが、14日間で2%と100倍に増大。

12月某日 ミラノ自宅
フォルテピアノの川口さんから、無事に初演を終えたとのご報告をいただく。
シューベルト4つの即興曲を弾く、壮大で儀式めいた感覚に近いものを覚えた、と書いてあって、思いがけず古典で一番好きな作曲家の名前を挙げていただき、身に余る光栄。

川口さんからいただいたお便りには、「この世の中は苦しみで溢れているけれど、音楽が人の救ってほしいと心から願いながら舞台に立てるようになりました」と認められていた。
「この世の苦難は永遠の安らぎに意味を見出すためにあって、その安息のために我々はこの苦しみの世界を生きているのだと思います」。
「アンジェレスの鐘に向かう旅路は、あらゆることを乗越え安らぎを得るまでの時間であり、終わった後の余韻はなんとも言い難い特別なものがありました」。

作曲者として冥利に尽きる思いなのは謂うまでもない。昨年ずっと胸に痞えていた棘のようなものを、吐き下す思いで総て書きだした後、文字通り空洞になった裡を抱えて、今年何曲か書き、それらはどれも似たようなものになった。
今年初めには般若さんのヴィオラ曲を、秋には川口さんにフォルテピアノ曲を、冬にはオーケストラ曲を書いたが、実は、作曲中いつも少し似た時間を過ごしていた。
殆ど特にこれといった感情もなく、何かに書かされるままに作曲し、気が付くと書き終わっていた。そうして、作品が自分をどこかに連れてゆくような感覚だけが、自分の裡に残滓していて、お前はまだ書き残しているだろう、と誰かが低く囁く声が聞こえる。
「揺籃歌」を書き送った翌朝の夜明け前も、空洞の自分に向かって、お前はまだ書き残しているだろう、と静かに、諭すように呟く声で目が覚めた。

何かに仕えているわけではないが、それに近い感覚も否定できない。出がらしになって役目を終えたら、頃合いをみて已めるよう達しが来るだろう。それまでは、黙って言われる通りに記しておこうと思う。
こう書いている文章すら、自分の裡の言葉ではなく、誰かに書かされている気もするし、前にも同じように書いた気もするが、単なるデジャヴかもしれない。

暫く前まで作曲が苦行だったのは、自らのレゾンデートルを探すために作曲していたからではないだろうか。自分である必要も、レゾンデートルをも放棄した時点で、身に纏うものがなくなって、すっかり軽くなってしまった。
尤も、自らを認めてもらうべく作曲したところで、裡が空洞ではどうしようもないだろう。

12月某日 ミラノ某日
昨日のイタリア新感染者数は7万9千人だった。今日は9万8千人で9.5%の陽性率。死者は136人。フランスは20万人、イギリスでは18万3千人。ミラノの若者の4人に1人が陽性と発表され、鉄道は機関士が軒並み感染して、交通機関全体の5%が運休となり、郊外の通勤客に深刻な影響がでている。ミラノ発の長距離特急も5%が運休。ミラノの北部鉄道では、運転手、車掌の12%が勤務出来ない状況にあって、100本の列車が運休を余儀なくされ、利用客に対して運行状況をインターネットで確認するように呼び掛けている。新しくバレエ団から4人の感染者が出て、スカラの「ラ・バヤデール」6公演キャンセル。「マクベス」最終公演で合唱団はマスク付きで歌うそうだ。

12月某日
新感染者数は12万6888人で156人死亡。生徒からも陽性になったと連絡が入る。
ロンバルディアの感染拡大のピークは2週間後くらいだと予想されているがどうなるのだろうか。1月4日に3回目接種の予定だが、息子の分も予約すべきか懊悩しているが、接種しなければ、何より日常生活に困難が強いられるかもしれない。
砂の城が、波にさらわれて少しずつ崩れていく。これでは経済活動など到底再建できない。

目の前の乳白色の風景のように、全てが雲を掴むようで、実体があるのかすら判然としない、意味があるのかすら分からない心地で一年を終えるのは、気持ちの良いものではない。そんな中で、茫と頭に浮かんでくるのは、せめても、生きられる分だけ精一杯生きなければいけない、という戒めにも似た心地か。
苦しみつつ毎日を生き抜かなければならない世界から、静かに見守り続ける平行世界に旅立った人たち、それはほんの親しい人であったり、世界中の見ず知らずの人々であったりするのだが、彼らを想い浮かべながら、自分の生きる意味は、彼らが生きた証を何らかの形で記しておきたいからであって、それ以上でもそれ以下でもない。

(12月31日ミラノにて)

柘榴、またはぶら下がる心臓

越川道夫

失うことの多い一年だった。
コロナでというわけではないにしても身辺の幾人かが立て続けに亡くなり、去らざるをえなかった人は去った。
とりわけ17歳で出会い、40年近く私の〝師匠〟であってくれた澤井信一郎監督の死は、いまだ受け入れ難いものとしてある。この数年、お電話をするたびに弱々しく、老いた病者の声になっていく〝師匠〟の声に、わたしはどこかでひどく怯えていた。「お前が撮っていいからな」とかつて彼が書いた脚本を預かってはいたが、その映画化は遅々として進んではいなかった。また間に合わない。これまで何人もの人たちと一緒に仕事をする約束をし、約束は結局果たされることなく、その人たちは逝ってしまった。彼らがわたしを責めることはなかったし、もはや責めようもないのだが、責めを負わなければならないのはわたし自身の怠慢である。わたしの胸の内に間に合わなかったという後悔だけが降り積もっていく。死者の数だけ。
9月になって、〝師匠〟は亡くなった。もう3ヶ月も前から意識が無かったと言う。疫病が蔓延する最中、見送ることすら叶わなかった。
 
それでも12月には小さな映画を撮っていた。人が不意に何の前触れもなくいなくなってしまったり、遠く離れざるをえなかった人に思いを馳せたりするそんな映画だった。それは、この失うものの多かった1年を過ごした実感だったかもしれない。この間、わたしはチェーホフを読み、ひどく惹かれて徳田秋聲の「死に親しむ」を繰り返し読んでいた。
その日は撮影の最終日、千葉の砂丘の近くですぐに暮れてしまう太陽と追っかけっこでもするように慌ただしく撮影をしていた。遅い昼食をとろうしていた時、その電話あった。ほんの1ヶ月前に電話で話し、ではまた、と切ったその人が亡くなったと言う報せだった。しかも、火事で。電話の向こうもこちらも混乱していた。その人も長く一緒に暮らしていた方を亡くされたばかりだった。
 
それは映画とは何の関係ないことだ。仮に映画を撮っていなくても起きてしまったことなのかもしれないが、お互いに無関係であったはずのものが、引き寄せ合うように、わたしの眼の前にある。わたしはこんなことを望んではいない。こんなことのために映画を作ってはいない。望むはずもない。しかし、もし「偶然」ということがこの世にあるのであれば、このようなものを呼ぶのかもしれない。悲しい。悲しいし、痛まし過ぎる。
 
撮影を終え、体調の崩れを感じながらそれでも毎日仕事場までいつもの川沿いの道を歩いていく。昨夜は、またいちから始めなければならないと思いながら、若い頃に度稽古場の助手をつとめた演出家が遺した本を読んでいた。彼は「劇」というものを仔細に疑いながら、その半ばで性急に「劇の希望」を書きつけていた。
 
「しかし、表現者が表現の現場にいるということは、希望を見ているということだ。そして、そういう表現に触れようとすることは、そこに希望を見ようとしているということだ。それは希望でなければならない。希望を見ているから表現があるりうるのだし、それなしにはありえないのである。」(太田省吾『劇の希望』)
 
見上げると道端の柘榴を数羽のメジロが食べている。鳥たちに啄まれ尽くしてぶら下がっている柘榴の実の残骸。それは腑分けされ、吊るされた心臓の形をしていた。あれはわたしの心臓だ。そう思った。
こんなことを書くと〝師匠〟はまた「なんで風景に逃げるんだ」と怒るだろうか。

206 メリー・クリスマス

藤井貞和

私の貧しい友だちの狸。
タクシーが置き去りにする、
眠る狸の死体。 自分の毛皮を、
買いもどそうとした友だち。

身を包む暖かさを取り返そうとして、
タクシーから投げ出された、
冷たい路上の狸。 だれに看取られることもなく
死体のような私の友だち。

と、子狸が私に書いてよこしたので、あるいて探した挙げ句、
とある剥製店で見つけたので、買いもどして、プレゼント、
子狸に送りました。 生きて帰りはしないであろう。
私の悲しみの聖夜が暮れようとしておりました。
   
あれ! 大狸、子狸がそとを歩いておりましたので、
呼び止めますと、狸ども、からから笑うて帰ってゆく。
毛皮を売って、かれらは暖かい冬を迎えることでしょう。
たぶん、私はよいことをしたのだと思います。

(狸の勝ち、化かされたのは私。昔、校舎の隅を、尾のふさふさした敏捷な生きものが駆け抜けたのを、居合わせた学生たちが、「たぬきかしら!」「いたちかも!」「いぬみたい!」と評定して、イタヌチキと名を付けていました。アナグマだったと思います。謹賀新年。)

『アフリカ』を続けて(7)

下窪俊哉

 自分のつくった最初の本は何だろう? と考えたら、中学生の頃に書きつけていた詩(のようなもの)のノートを思い出す。文庫本くらいのサイズの小さなノートだったが、いま思えば、そこに直接本を書いているようなつもりだった。その頃は小説の文庫本をすごい勢いで読んでいたが、その後の数年はほとんど何も書かず、本も数えるほどしか読まなかった。自分を観察していると、熱くなると数年は続くが、その後には嘘のように醒めて止めてしまう、という性質がありそうだ。

 詩(のようなもの)を書いたノートの次につくった本は、20代のはじめ頃、大学を卒業するに際して、それまでの4年間に書き溜めた自作を集めて、編んだ2冊の本だ。本文はワープロでレイアウトして、表紙は見開きにした本文用紙より大きい紙に絵と文字を切り貼りして、ちょうどよいサイズに折り、本文の束の背に糊をして包むようにした。ザラ紙を見返しに使って、少し気取ったりもして。10部か、15部くらいつくった。
 大学では文芸創作を学んでいた。と、いちおうは言えるが、創作を学んだ場は大学の中にあったワークショップであり、「こうやって書けばいい」ということを教わったわけではない。そんなことを教えられる人はいない、と前もって知っていたような気もする。どうやって書けばいいかは、自分自身で探らなければならない。同じように、本のつくり方も、前もって誰かに教わったのではなかった。
 どうやって書いてゆくかを探る場を自分でつくろう、と考えたのではなかったか。どうせなら他人を巻き込んでやりたい、となったのは、私の性格によるものだったかもしれない。雑誌をやることになった経緯はきっとそのようなことだろう。
 人を集めたら、けっこうな人数になった。さあどうやってつくろう? 印刷も手掛ける町の製本屋さんを紹介してもらって、訪ねて行った(それ以来、現在まで20年近い付き合いになっている)。
 その頃、パソコンというものを初めて所持し、Adobeという会社がつくっているDTP(パソコンにおける組版)ソフトの存在を知った。仲間に協力してもらって、試しに使ってみようということになる。チームで作業するなら「ページメーカー」というソフトが初心者にも使いやすそうだと言った人がいて、少し使ってはみたものの、初心者用とは使いづらいものであるという結論に至ったので、それ以降「インデザイン」一辺倒になった。2003年のことだ。当時はプリントで入稿する紙版印刷だったので細かいことは言いっこなしだが、しっかりつくり込もうとしていた(ただし表紙は最初からイラストレーターのデータで入稿していたような気がする)。
 チームでつくるというやり方は、しかし、日々の暮らしや忙しい仕事の傍らで、片手間にやるには向いていなかった。若き編集長になった私はいつも疲れていて、つねに何か不安を抱えていた。その雑誌は3冊つくって、そのあと手元に残っていた原稿をかき集めるようにしてもう1冊、4号を出した。『アフリカ』を始める前年のことだった。
 その頃には早くも、(雑誌に限らず)本をつくるのが苦痛になっており、怖くなっていた。何かつくると、必ずどこからか文句を言われそうだった。実際には誰からも責められていないとしても、そんな感触が本や雑誌をつくるという行為の中に感じられて苦しいのだった。
『アフリカ』を最初に、1冊だけというつもりでつくったのには、そんな個人的な背景があった。つまり『アフリカ』には、この編集人にリハビリをさせようという狙いがあった。
 そこで今度は、チームでやるのではなく、できるだけ自分ひとりでやろうということにした。続ける気はない。続けるのは苦手なはずだし、続けなければならないものだとも思っていない(そんな話はこの連載の最初の回でも書いた)。とにかく、少しも大げさなことにはしたくない。できることなら、誰にも知られずひっそりとやっていたいとすら思っていた。
 そうやって始めてみたところ、自分の中から湧いてくるのは冗談というか、怖がっている自分ではなく、必死でふざけよう、ふざけようとしているもうひとりの自分で、ページの隅にいたずら書きをし出したのは我ながら可笑しかった。「この雑誌はだいたい信用できます」に始まり、「もし落丁本を見つけたら、貴重です。大切に!」「終わるまで、続きます」とまあそんな調子だ。「ぼんやり口をあけてご覧ください」などと読者に指示(?)を出すこともあった。雑誌をめくっていると、たまに、小さな字でそんなつぶやきが記してある。

 6冊つくったあたりで、それまで書いていた人たちが1人、2人と続けざまに抜けてゆくということがあった。数人で始めた雑誌なのだから、一気に2人いなくなるだけで大きい。いわゆる同人雑誌なら、そこで終わってもいいはずだったが、1人去れば、新たな1人との出会いあり、また1人去れば、呼ばれたようにもう1人やって来てくれた。良い書き手がやって来ると、つられて良い読者もやって来るということになっている。それで、この『アフリカ』という雑誌には何かあるなあ、と感じ始めたのだろう。7冊目から、目次の隣に関係各位のクレジットを入れることにした。
 装幀、切り絵、写真、イラスト、校正、印刷、製本あたりまではいいとして、制作協力、広報ときたらそんなことをする人や団体が実際に存在するわけじゃないので「つくる」ことにした。書いているとノッてきて、演出、台本、音読、本棚、録音、声援、財布、配達、出前、エトセトラ、つまりフィクションなのだが、嘘であることを隠そうとしていないので、逆に実在するような気がしてくる。たとえば、いつも「差入」をしてくれている「粋に泡盛を飲む会」も本当にあるような気が、しません? その中に、特別賛辞(スペシャル・サンクス)として実際にお世話になっている人や団体の名前も潜り込ませた。

 その「ふざける」ということの中にも、何かありそうだ。
 いまでも苦しいときには、さて、どんなふざけ方をしようか、と考えると妙なやる気が出てくる。
 なぜ、ふざけようと思うんだろう? 誰か(何か)を牽制するためだろうか。牽制すれば、どうなるか。その間合いにハッとした気づきがあるのではないか。ハッとしながら見ると、何やら必死でふざけているのである。そこに、笑みがこぼれる。
 そうやって思わず笑うことには、人を楽にさせる効果があるようだ。
 楽にやろうよ、どうにでもなるさ、やりたいようにやろう。自分の中のベースを、そこに置いておく。そして困難にぶち当たるたびに、そのことを思い出す。

仙台ネイティブのつぶやかき(68)ミヨコのギフト

西大立目祥子

大晦日、午前11時。ちらちらと雪が舞ってきた。日本海側が大雪の予想のときは太平洋側にも山を越えて雲が流れてきて、仙台でも雪が積もることがある。寒さきびしい年越しだ。
母は、9時前にデイサービスのお迎えの車がきて出かけていった。認知症という診断を受けて、そろそろ20年だけれど、大晦日と元日に家にいない、というのは初めてだ。昨年(2021年)は新年明けてすぐ転倒して救急車を呼ぶ事態になったこともあって、このお正月は預けることに決めた。少し楽な気持ちになって、おせちの仕上げにかかる。

 このところ、母の認知症の進行が著しい。ことばの理解が難しくなってきていて、ジェスチャーを交えないと、私が何をいおうとしているかがわからない。トイレも着替えも洗面も、脇にぴったりと張り付いて手助けしないとひとりでは無理。夕暮れで暗くなったガラス窓に映る自分を誰か親しい人のように思うのか、話かけたりするのだから、歯磨きのときに鏡に映る姿も自分ではない誰かと認識しているのかもしれない。もうとうに、そばで介助する私のことを娘とは思っていない。

 でも、認知症が進行してうつうつぼんやりとしているのかというと、決してそうではない。そわそわと動きまわることが多いし、絶え間なくわけのわからないことをしゃべりまくる。デイサービスから戻った直後などは、裏返ったような甲高い声で自問自答するように話し続け、大きな声で歌ったりする。いったい何の曲かと注意深く聴いていると、「勝ってくるぞと勇ましく〜」という歌詞ではないか。めちゃめちゃになった記憶の奥底に、軍国少女にならざるを得なかった母の人生が塊のように眠っているようで、不意をつかれる。

 会話は成り立たない。話には何の文脈もなく理解不可能。生活のすべてに介助不可欠。いってみれば、生活のすべてにケアが欠かせない母。最も身近にいる私は、いろんな人たちの力を借りて何とか乗り切っているものの、ときにくたびれ果ててもうこれ以上は無理、と匙を投げたくことがひんぱんだ。

 それなのに。あらゆる場面で人の手を必要とし、娘の私にとってすら重たいやっかいな存在になりかかっているというのに。母はケアマネージャーさんにも、ヘルパーさんにも人気なのである。
 ケアマネさんはいうのだ。「ミヨコさんと話してると明るくなるの、だから会いたくなるんですよ」。ヘルパーさんも「ミヨコさんみたいな人いないもの。気持ちがいい。いっしょにいて楽しいもの」と、来るたびそう話す。

 話しているって、会話になっていないでしょ? 母が口にするのは、ちぐはぐな脈絡もなにもないことばの連発だ。そこに意味を見出だせない私は、聞いているうちに耐えきれなくなっていらいらする。でも、彼女たちは違うのだ。意味なんかなくても、感情を受け止める。
何かをいいたい、何か伝えたい思いがある。その気持ちをすくいとって、うなずきながら母の一方的なしゃべりを聞いている。「あら、そうなの」「そうなんだ」「よかったねぇ」…。そこに否定のことばは一切ない。まるごと受け止められるうち、母の表情はおだやかになって、相手を思いやるようなひと言がもれる。「がんばるんだよ」「人生、ちゃんと生きないとね」…。へぇ、この人が認知症?と思わせるようなひと言。こういう思いがけないことばにみんなが救われ、なぐさめられている。

 「そもそもミヨコさんは明るい人、楽しい人」とヘルパーさんがいう。ほかの利用者さんはどんな話をするの、とたずねたことがある。「お迎えがきてほしいっていう人もいるしね、いままで自分がされてきた嫌なことばかりをずーっと話す人もいるのよ。自慢話ばかりの人もいるわねぇ。まぁ、人が自分がよかったときのことは、ずっと長く残っているんだと思うの。でも、ミヨコさんってそうじゃないでしょう。何ていうかなぁ、いつも前向きなの」
 嫌なことをされると怒鳴ったりすることもあるけれど(例えば、病院での注射とか)、確かに母は後ろ向きではない。肯定的な人だ。

 数ヶ月前から、従姉妹が母の相手をしにひんぱんにきてくれるようになった。母の姉の娘である彼女は、母の手や一瞬一瞬の表情に自分の亡き母の面影を重ね見て、なつかしい思いにかられるようだ。実は、昨年、大病して手術をし加療のために入退院を繰り返していたのだけれど、治療が終了したいま、母のケアに通うことが闘病中に感じていた不安感を払拭するものになっているらしい。ありがとう、とお礼をいうと、彼女はいうのだ。「違うの。お礼をいいたいのはこっちなの。話していると、楽しいし、ほっとするの。だってちゃんと反応あるじゃない」
 従姉妹もまるごとの母を受け止める。うなずきながら、話を聞いている。ことばを介さなくても、感情の交歓の中で対話は成り立ち、なぐさめあう関係が生まれるのか。そこでは母は、もらうだけでなく、与える存在になっている。

 自分のことすら満足にできないことになっても、人は誰かに何か大切なものを与えられる。そして、ケアすることはケアされることでもある。少しずつ衰えていく自分のこれからの時間の向こうに、このことを忘れずにおきたいと思う。

アジアのごはん(110)うっぷるい海苔のお雑煮

森下ヒバリ

昨年の正月から、わが家の雑煮は澄まし汁に茹で丸餅と三つ葉、そして具のメインは十六島海苔(うっぷるいのり)、ということになった。その理由は以下の通り。

1 乾物を入れるだけなのでめちゃめちゃ簡単である
2 うっぷるい海苔、という魔訶ふしぎな名前のものを使いたい
3 すっきりとしておいしい

これは出雲あたりで作る雑煮で、澄まし汁を作りさえすれば、うっぷるい海苔は出来上がりにちぎって入れるだけなので、とにかく簡単である。おそらくうっぷるい海苔を入手することが一番むずかしい工程だろうが、うちでは出雲の友人のヨネヤマさんが送ってくれるので、何の問題も準備もいらない。ありがとうございます、ヨネヤマさん。

「うっぷるい海苔」この不思議な語感の海苔は、出雲市の十六島町でとれる岩ノリのことである。アサクサノリの一種で、本州日本海沿岸から北海道小樽付近の岩場に生育する。韓国の日本海側にも生育するらしい。やや紫がかった色をして、うすい板状に伸ばして乾かす。出雲の十六島町の岩場でとれる海苔を十六島海苔と呼び、出雲地方では古くから珍重されてきた。出雲國風土記(733年)にもこの海苔のことが記載されているほどだ。

初めはこのふしぎな名前にひかれて入手したのだが、お雑煮にとてもお手軽な上に香りもなかなかいいので、すっかり気に入ってしまった。ヒバリは岡山・備中地方の生まれで、生家の雑煮は、澄まし汁に(あまり澄んではいなかったが)人参・大根・里芋などの煮た野菜、そして塩ぶりの煮たのをのせたものであった。親戚などの雑煮もほぼ同じであったし、年末になると近所の魚屋では塩ぶりの予約販売があったので、ご近所も同じ塩ぶり雑煮であったと思われる。

塩ぶり雑煮は中国地方の山地のもので、戦前は日本海から運ばれてくる塩ぶり市が年末には各地で立っていたという。山地といっても、生家は車で40分ぐらいで瀬戸内海に出るので、雪深い中国山地のただ中ではないのだが、冷凍技術や道路事情のよくなかった戦前では、海から新鮮な魚介が届くにはちょっと距離があったのだ。

大人になって、雑煮を作ろうとなっても、塩ぶりを乗せようとはあまり思わなかった。こどものころ、塩ぶり雑煮は嫌いではなかったが、そんなに好きでもなかった・・のね、やはり。脂分が多くてちょっと魚臭く、ゴテっとした味なので。しかし、うちのいなかでは塩ぶりは大人のごちそうであった。一匹とか半身とかで買った塩ぶりを母親は大切に使っていたものだ。

塩ぶりの文化はともかく、「うっぷるい」という地名はどこから来たのだろう。アイヌ語にありそうな音だが、アイヌ語に「うっぷるい」という言葉はないようである。また出雲周辺にアイヌ語の地名もほかにない。出雲は古来、朝鮮半島との交易の場であり、人の行き来も多かった。古代朝鮮語の断崖絶壁という意味であるという説や、出雲國風土記に出てくる海苔の採れる岬の地名「於豆振埼(オツフリのさき)」がなまった説などいろいろあるものの、決め手はない。

日本藻類学会の学会誌「藻類」(121-122,July 10,2007)に「藻類民俗学の旅」というコラムがあった。「濱田仁:十六島(うっぷるい)とウップルイノリ」濱田仁先生によるその記事によると、十六島の岬の岩場に十六島海苔は生えるのだが、その海苔の採れる平らな岩場を当地では「しま」と呼んでおり、かつてはそういう「しま」が十六島湾の内外に十六あり、それを十六の家がそれぞれ所有していたという。

うっぷるい海苔の採取の様子の写真を見ると、かなりけわしい岩場で、激しい波が打ち寄せる。そこに至るのも大変で、そこで作業するのも大変そうだ。険しいだけでなくけっこう広い平らな岩場もあり、なるほどこれが「しま」なのだな、と分かる。おそらく、「うっぷるい」という音がはじめにあり、十六島という漢字表記は音と関係なくあとからつけたものだと思われる。

藻類民俗学という言葉を初めて知ったが、これはなかなか面白そうだ。日本人は古代から海藻を食べて来た。塩を得るためにも使えたし、ミネラル豊富で食物繊維も豊富、ダシも出る海藻は日本人の食生活になくてはならないものだった。海藻はただ食べるだけでなく、海に近いところでは旧正月の元旦明け方にワカメを刈る神事もあるし、海辺でなくとも正月飾りに昆布やワカメなどの海藻を使うことも多い。

うちは同居人が大の海藻好きなので、かなり海藻を食べるほうだとは思う。ダシは羅臼昆布をたくさん使うし、みそ汁や酢の物にするワカメは鳴門ワカメを徳島から送ってもらう。ワカメの根元の固い部分であるメカブを刻んだものも一緒に買い、つくだ煮にしているが、これがまたウマイ。さらにヒバリの最近のお気に入りはアカモクというホンダワラ科の海藻である。自分で刻むのは大変なので、刻んである冷凍ものを買うが、これは解凍してかき混ぜるととろとろになって、酢醤油を入れてご飯にかけても納豆に混ぜてもみそ汁に入れてもおいしい。おいしいうえに、ねばトロは摂取しにくい水溶性食物繊維の宝庫なので、お腹の腸内細菌ちゃんたちも大好きな食事がもらえて大喜び。

自分の好きな海藻たちの産地を訪ねる旅っていうのもいいなあ。出雲、鳴門、佐渡、羅臼・・。さて、お椀に茹で上がった丸餅を入れて、澄まし汁を注ぎ、三つ葉を添えて、と。紫色の十六島海苔を7~8センチ角ぐらいちぎってお椀にほわりと入れる。湯気と一緒にふわっと磯の香りが立ち上がり、ほおが緩む。フフッ。ではいただきます!

しんしんと

北村周一

ダイヤモンド・
プリンセス号という
大いなる
船のみずぎわ
おもう一月

村々の
春や錆びたる
長どちの
思考回路を
うれうる二月

Dappiの
かげにおびえて
もの言えぬ
報道なんて
さらば三月

税金で
花見している
ろくでなしに
愛想わらいを
振りまく四月

あのナチスと
緊急事態
条項との
熱き交わり
はぐくむ五月

安倍逮捕の
声が天から
降りてくる
ような気がして
仰ぐ六月

油えの具
投げつけてみたり
踏んでみたり
もはやアクション
あるのみ七月

夏五輪
その後の自宅
放置へと
すすむ暗黒史と
しての八月

こわれかけの
ホーム・パン計器
わたされて
一家心中
余儀なし九月

国会は
いまだ開かずや
挿げかえし
おとこの首の
かろき十月

六度目の
なみの始まり
音もなく
検疫ぬけて
くる十一月

カレンダー・
ガール並べて
しんしんと
神のおしえを
説く十二月

*副題は、一ダースの月2021。意に反して社会的傾向がつよく出てしまいました。

2021

笠井瑞丈

あてもない旅
何も考えず車を走らせ
iPadから音楽をを流す
気付けば今日は大晦日

今年もコロナの影響もありながら
色々とやれることをやった

一月ダンス現在 vol.19
水越朋さんのソロ公演をプロデュース
『グラスグニー』

二月 ダンス現在 vol.20
笠井叡ポスト独舞踏
『聖堂騎士団員のひとりが、
今、この日本に生きているなら!』

三月 ダンス現在vol.21
上村なおかソロダンス
『Life3』

四月 ダンス現在 vol.22
若い女性ダンサー四人の振付作品を発表
高橋悠治さんの音源フーガの技法全曲振付
「展示するカラダ』

五月 ダンス現在 vol.23
小暮香帆さんのソロ公演をプロデュース
『Dear』

六月 ダンス現在 vol.25日
笠井叡ソロ ポスト舞踏公演
[櫻の樹の下には]を踊る  

七月 横浜ダンスダンスダンス参加

八月 ダンス現在 vol.26
宮脇有紀さんのソロ公演プロデュース
『ゆるし色の緒の』

八月 ダンス現在 vol.27
笠井叡ソロ ポスト舞踏公演
『使徒ヨハネを踊る』

九月 セッションハウスダンスブリッジ
笠井瑞丈振付作品
『霧の彼方』
笠井家出演

十月 ナイトセッション
『秋の虫達』
笠井瑞丈×鈴木ユキオ

十一月 笠井爾示写真展でパフォーマンス
笠井瑞丈×上村なおか

十二月 笠井瑞丈×上村なおか主催公演
『未来の世界』
伊藤キム 小暮香帆 上村なおか 笠井瑞丈

十二月 ナイトセッション
『白い恋人』
笠井瑞丈×中村要チェック

十二月 ダンス現在 vol.28
笠井叡×高橋悠治
『フレデリック モンポーを踊る』

来年もよろしくお願いします

ラントヨ

冨岡三智

この「水牛」には2002年11月号から寄稿させていただき、この1月号で19年と2か月目になる。その記念すべき第1回目に書いたのが「ラントヨ」だった。ラントヨはスラカルタ様式ジャワ舞踊の基礎練習法のことだが、このエッセイの出発点でもある。そのラントヨを制定したクスモケソウォ(1909-1972)は、2021年8月12日、国の芸術に多大な貢献をした人物に贈られる勲章としては最高位のパラマ・ダルマ文化勲章を授与された。というわけで、あらためてラントヨについて書き残しておきたい。

クスモケソウォはスラカルタ王家の舞踊家で、1950年にインドネシアで初めてのコンセルバトリ(現・国立芸術高校スラカルタ校)が設置されると、初のスラカルタ様式の舞踊の教師となった。ラントヨはそのコンセルバトリで舞踊を教えるために作られたもので、舞踊の動きの基本を練習するためのものである。私の師匠であるジョコ・スハルジョ女史(1933~2006)はクスモケソウォの長男の妻に当たる。コンセルバトリ開校時からコンセルバトリに勤め、1956年からはクスモケソウォの助手に採用され、その後定年までコンセルバトリでスラカルタ舞踊の基礎を教えた。クスモケソウォの教えを一番受け継いでいる人である。ここでは私がジョコ女史から学んだクスモケソウォのラントヨについて記す。

●ラントヨI

ジャワ舞踊には女性舞踊(タリ・プトリ)、男性優形(タリ・プトラ・アルス)、男性荒型(タリ・プトラ・ガガー)の3つの型があり、それぞれにラントヨIとラントヨIIがある。ここでは女性舞踊のラントヨに沿って紹介する。

ラントヨIは基本的に足運び(ルマクソノ)を練習するものである。クタワン形式の曲に合わせて足が出て、それにつれて手が出て、その手についていくように首(視線)が動く…これが滑らかに連動するように練習する。

ラントヨをする時はサンバランといって腰に巻いたジャワ更紗を引きずるように着付ける。これは宮廷舞踊の着付である。ルマクソノの歩き方は独特で、1=ドゥブッ(足の平で床を打つ)、2=グジュッ(つま先をもう一方の足の踵の後ろに下ろす)、3~4=体重移動して1歩前進、のように歩く。このドゥブッ、グジュッという足の動きも宮廷舞踊独特のもので、グジュッの前にサンバランの裾を蹴る。というわけで、ラントヨはジャワ舞踊と言っても宮廷舞踊あるいは宮廷舞踊を基にした舞踊の基礎を学ぶために作られたものであることが分かる。

また、ラントヨはジャワ舞踊の振付の基本を身につけるためのものでもある。ジャワ舞踊では、主となる動きを変える時にはつなぎの動きをはさみ、しかもそれは曲の周期の終わりにくると決まっている。音楽にのって歩けるようになるだけでなく、つなぎの動きを曲の正しい箇所にはめ込めるようになるのが大事なのだ。ラントヨでクタワン形式の曲を使うのは、形式が小さくて(16拍で1周)つなぎの動きをはめ込めるチャンスが多いためである。

ルマクソノは手の動きにより6種類ある。また、ラントヨIで使うつなぎの動きは5種類(①二グル、②サブタン、③スリシッ、④オンバッバニュ~スリシッ~シンデッ、⑤シンデッ)あって、その長さは8拍、12拍、4拍とバラバラである。指導者が学習者に「次は二グル…」と指示すると、学習者は正しい箇所で二グルの動きを始め、次に指示される動きへとつなげる。

そして、ラントヨIでもIIでも、最初と最後には床に座って合掌する。ラントヨIの合掌の方が簡略化されており、ジョコ女史は「スンバハン・ワヤン(ワヤン・オラン舞踊劇の合掌)」とも呼んでいた。ラントヨIができれば、まだ踊ることはできなくてもワヤン・オランに端役で出演することもできると言っていた。そう言われれば、つなぎの②や④も舞踊劇の入退場で使われるものである。

●ラントヨII

元々のラントヨIIは次のような構成になっている。①~⑨はスカラン(ひとまとまりの動きの型)の名称で、ここではつなぎの動きは書いていないが、つなぎはシンデッかスリシッである。ラントヨIの段階では歩いて手を動かすだけだったのだが、ラントヨIIでは体の各部の動きが組み合わさってある程度の長さとまとまりをもったスカランを修得することが目的となる。また④や⑦ではホヨッと呼ばれる胴の動きが加わっている。このように、ラントヨには素朴ながら動きを分解して段階的に学習するという意識が見られる。

①合掌
②ララス・サウィッA~ララス・サウィッB~ララス・サウィッA
③ゴレッ・イワッ
④リドン・サンプール 
⑤ウクルカルノ
⑥エンジェル・リドン・サンプール
⑦ガラップサリ
⑧エンギエッ
⑨合掌

これらのスカランはいずれも宮廷舞踊のスリンピやブドヨで使われるもので、しかも①~③は『ガンビルサウィッ』、『スカルセ』、『ゴンドクスモ』などのスリンピの展開パターンに同じである。ララス・サウィッとは『ガンビルサウィッ』で使うララスという意味での命名だが、スリンピでは合掌の後に必ずララスと呼ばれるスカランがある。また、⑧はスリンピの曲の終わりで座って合掌する前に必ず使われるスカランで、ラントヨを通してスリンピの振付の始めと終わりの定型が身につくようになっている。
 
ジョコ女史は幼少からジャワ舞踊に親しんでいた人だが、これら宮廷舞踊のスカランはコンセルバトリでラントヨを習うまでは全く知らなかったと言う。それだけ宮廷舞踊と一般の舞踊には隔たりがあり、宮廷舞踊は非常に難しいものだったようだ。しかし、これらのスカランは、ラントヨの普及とその後作られてゆくいろんな舞踊作品に取り入れられることで、ジャワ舞踊の基本としてすっかり一般化した。

犬、少年、公園

植松眞人

犬が歩いている。その後を少年が歩いている。付いて行くでもなく、従えているでもなく、なんとなく一緒に歩いている。たがいに僅かに距離をとりながら日比谷公園に向かう街路を歩いている。イチョウ並木はすっかり葉を落とし、それを犬がカサカサと音を立てて踏む。少年は、おそらく中学生くらいだろう。犬が歩く周辺をザサーザサーと枯れ葉を蹴り上げながら行く。どちらも散歩を楽しんでいる、というよりも、決められたことを決められたとおりにやっている、というように規則正しくカサカサと音を立て、ザサーザサーと蹴り上げる。

少年の母親は近くの駐車場にドイツ車のSUVに乗ったまま、少年が帰ってくるのを待っている。「一緒に行こうよ」と少年は毎回誘うのだが、「飼いたいと言ったのはあなたでしょ」と母親は車を降りようともしない。犬はビーグルと呼ばれる犬種で、とぼけた顔をしながらなかなかに精悍な体つきで、人間でいうなら成人したばかりの男子のような生命力を見せつけている。

都心の小学校なら三つくらいは入りそうな広大な敷地をその公園は持っている。しかし、子どもだけを楽しませるような遊具は敷地の片隅に追いやられていて、そのことが公園を真摯で健全なものにしていた。誰かから叱られそうな凜とした雰囲気が公園のそこかしこから感じられ、犬の散歩にきた人たちも決して糞を放置したりはしない。

だが、少年はそんな公園の雰囲気に違和感を持っていた。なんと説明していいのか少年にはわからなかった。ときどき目を見開くように振り返り、少年を見つめるビーグルも少年と同じように感じているらしかったが、彼が何に違和感を持っているのかは少年にはわからなかった。

「ちゃんと説明しなさい」が母親の口癖だったが、それはつまり「説明できないなら黙っていろ」ということだと少年は思い、知らず知らず無口になってしまった。「あんなによく笑う子だったのに」と母親に悲しそうな顔をされるとどうしていいのかわからなかった。

イチョウの葉っぱをザサーザサーと蹴り上げながら歩いていると自分が子どもじみて思え、カサカサ音を立てながら歩くビーグルが大人に見えた。そう思った瞬間、ビーグルはカサカサという足を止め、少年を振り返った。目を見開くように少年を見ると、NHKの日本語教室のように「あの公園が嫌いだ」と明瞭に声に出した。そして、再び前を見るとカサカサと音を立てて歩き始めた。少年はビーグルの波打つ背中を見ながら、「あの公園が嫌いだ」と復唱した。

製本かい摘みましては(169)

四釜裕子

本屋で立ち読みしていて、これは買わねばとなったときにそれではなくて別のを出してもらうしかない本がある。小林坩堝さんの『小松川叙景』(2021 共和国 ブックデザイン:宗利淳一)も私にとってはそれだ。三方小口が見返しと同じ朱で染めてあって、初めてページをめくるときにかすかにメリッと音がするくらい、わずかにくっついている。アンカット本をペーパーナイフで開くのにちょっと似た快感がある。本文には三方から小口の朱がわずかにニジニジしみている。

実際は刊行を待ってネットで買ったので冒頭のできごとは起きていない。でももし本屋で見かけて立ち読みしてたら、きっとそうしていただろう。そもそもこの詩集、書店側では立ち読みできるようにしているだろうか。シュリンク包装でもされてたらあの快感も味わえない、というか、そもそも一冊について一回きりだからなかなか罪な装丁だよね。子どものころ、日焼けした肌をむくのに夢中になったはこの快感にちょっと似ている。それから古い本を解体して修理するとき、背に残ったのりを執拗にとる感じにも似ている。見返しを貼るのにのりがはみ出たのに気づかずプレスしてしまって、本文紙にくっついたのをそーっとはがしてうまくいったときの感じとかも。

かつて製本を習った栃折久美子ルリユール工房では、のりのはみ出しを防ぐための3点セットの使用を習慣づけられたものだ。「3点」とは、ケント紙、ワックスペーパー、のりひき紙。例えば見返しと本文用紙を貼り合わせるとき、のりを入れる紙の下に、下から順にケント紙、ワックスペーパー、のりひき紙を重ねてノドまでさし込み、のりを入れたらのりひき紙をただちに抜いてプレスする。抜いたのりひき紙は2つに折って、机の上に放置しない。汚れ拡散防止の大原則だ。こういうことを早々に体で覚えさせてもらってよかったと、あとになってつくづく思う。

2021年8月6日、広島での平和記念式典で菅前首相が挨拶文を読み飛ばしてしまった。ありえないよなと思うけどそういうことがないとは言い切れないし、さすがにご本人が記者会見の冒頭でおわびをしていたのでよほど体調が悪かったのかもと思っていたら、驚いたのはその日のうちに報道された「政府関係者」の発言だった。蛇腹状の挨拶文の一部の「のりが付着してめくれない状態だった」「完全に事務方のミス」だという。確かに誰かがのりで貼って、もしかしたらちょっとはみ出たりしたかもしれない。だけど気づいたら直すだろうし、なんといってもその実物でリハーサルもしたでしょう。それをどうしてそんなことをわざわざ言って、それで何をやりすごそうとしているのか、それで何を守ったつもりというのだろうか。でも今のこの国の「政府関係者」ならいかにもやりそう。「どうせすぐ忘れるから言わせておけよ」、そういう声すら聞こえてくる。

実際はどうだったのだろう。広島在住のジャーナリスト、宮崎園子さんが追っていた。12月8日、「Radio Dialogue 」で聞いた。あれが政府の公式見解だとしたら実名を出さないのはおかしいと、聞いたことをそのまま報道するメディアに対する疑問をまず言っていた。第一報を聞いたとき、宮崎さんも〈まさかそんな粗相、あるのかしら〉(「InFact」2021.10.1 【総理の挨拶文】のり付着の痕跡は無かった 文・写真/宮崎園子 以下同)〉と感じたという。そして挨拶文の実物が公文書として広島市に保管されていることを知り、それを見れば、めくれない状態になるほどのりがはみ出していたかどうかは確認できると思ったそうだ。さっそく広島市に開示請求をして、9月の下旬には手にとって見ている。どのような状態だったのか、「InFact」にこう書いてある。

〈挨拶文は、A4サイズの和紙のような薄紙を、横に7枚並べたものだった。会議室の横長の会議机からはみ出る長さ。2メートルほどあった。紙と紙の継ぎ目部分は、幅約2センチの同材質の紙を裏側からのりのようなものでくっつけた形状だった〉

記事には写真もある。A4紙1枚が4つに蛇腹折りされ、縦書きで1行20文字、ひと折りに3行、ゆったり組んである。のりがはみ出た痕跡があるか、宮崎さんは〈入念に挨拶文を観察〉する。

〈紙と紙の間を接続する細い紙は、表面ではなくて裏面に貼り付けてある。万が一のりがはみ出したとしても、裏面同士がくっついてしまう構造であるため、蛇腹をめくれない状態になどならない。接続部分をよく見てみると、たるみやシワ、うねり、ズレが何一つなく、ピシッとのり付けがされている。貼り付け部分からのりがはみ出した形跡もまったくない。ましてや、くっついてしまった部分を無理にはがした跡もなかった〉

裏側から撮った写真もある。既製品のテープのようにも見えるが、そうではないようだ。

〈あまりに美しかったので、テープ状ののりか何かを使っているのかと思ったぐらいだ。ひとつひとつ、ハサミを入れた跡があったため手仕事とわかる。蛇腹の幅もピチッと揃っていて、これを準備した現場の役人の仕事ぶりにはただただ感銘を受けた。にもかかわらず、「完全に事務方のミス」(共同通信)と罪をなすりつけられたのならば、現場の役人が気の毒でならない〉

この実物を広島市が保管していることは、元愛媛大法文学部教授の本田博利さんに教えてもらったそうだ。本田さんも〈「そんな訳がない」と確信し〉、先に同じ手順で確かめていた。本田さんは広島市役所に30年近く務めた元職員でもあり、挨拶を終えた首相は挨拶文を壇上に置いて去ることも知っていた。〈「挨拶が済んだら、挨拶文は広島市の取得(入手)文書になる。読み飛ばしが発覚した時点で、『政府関係者』はその状態を見られるはずがない。どうして『のりが付着していた』などという説明ができるのか」〉。

蛇腹であること、のりで貼ること。「政府関係者」の頭にはとりあえずこれがあって、そしていつか昔、何かをのりで貼ってはみ出したときの記憶が重なったのかもしれない。自分自身ではなく、それは友達だったのかもしれない。かわいかったね、そのころの君。長じてあっさりうそがつけるようになった。誰かのせいにできるようになった。やりすごせば済むと思えるようになった。おめでとう、成長。

Radio Dialogue で宮崎さんは、広島市の担当者の戸惑いも話していた。平和記念式典のようすはテレビでもラジオでもネットでも生中継されたし、読み飛ばし部分を補った全文は首相官邸ホームページなどで公開されている。通常、情報公開請求というのはその中身を知りたいからであって、「実物を見たい」という理由での請求は本件が初めてだと苦笑いされたそうだ。そして、この式典における広島市長の「平和宣言」はその原本を広島平和記念資料館に保存しているが、首相の「挨拶文」の原本の扱いについては市に規定がないそうである。「挨拶文」自体の形態や所作についてはどうなんだろう。紙に書いて(プリントして)蛇腹にたたむこと、胸のポケットから出して読んで終わったら壇上に置き去ることが慣習として残っているだけならば、早晩どちらもやめたらいい。ちなみに宮崎さんは一連の取材の中で、〈「内閣広報室として、挨拶文作成などのロジには関わっていないので質問の回答はできない」〉という回答を得ている。

小林坩堝さん『小松川叙景』を改めて開く。この詩集の舞台は東京のある土地だ。人工度は極めて高く、地中深い。小口の朱色の本文への侵食はその人工的な地中から人工的な地表にしみるものたちを思わせる。〈密室〉たる本文にこうして〈風〉を送りつけながら読む私の指のはらにはページが刀みたいになってひと筋ずつ朱を残す。8月、緊張と暑さで決して乾燥はしていなかったであろう人の指のはらをなでた蛇腹の折り山たちを思い、詩集にある「おれを歴史にしてくれるなよ」(「HOMEBODY」)「戦後でも戦前でもなくひたすらの事後である肉体/を瞬間の自由に放り出す」(「三月」)がなぜだか響き、「おれを歴史にしてくれるなよ」、そう言って折り山を確実に開いて飛びゆく蛇腹を見送る年の瀬である。

片岡義男と編集者の物語

若松恵子

新刊を待ち望んで、ただひたすら飽きずに読んできた唯一の作家が片岡義男だ。
『アップルサイダーと彼女』で出会った頃は、ちょうど赤い背表紙の角川文庫が次々発売されていて、雑誌のように気軽に片岡の新刊をどんどん読めたのは、その同時代を体験できたことはラッキーだったと思う。

「片岡作品でお勧めはどれですか?」と時々聞かれるけれど、今となっては膨大になってしまった作品群からどれかを選べと言われると難しい。次々にパッケージをあけて、新鮮なうちに読んでしまうという(食べてしまう)のが、いちばんふさわしい読み方で、どれも片岡作品なのです、気に入るものが見つかると良いね、という感じだ。

書店から赤い背表紙の文庫本は姿を消したけれど、今は片岡作品を電子化しているサイトがあるから、気になったものを手に取って次々読んでみるのが一番良いのではないかと思う。

これだけ長い間書き続けていて、作品数も膨大になる片岡義男だが、作家論のようなものは書かれていないようだ。彼を研究したり、批評したりする人はまだ登場していないのだろうか?彼の作品は、最初から今に至るまで片岡義男そのものだから、何か、深化の道筋を研究するような対象ではないのかもしれない。けれど、これだけ長い間読み続けていると、何か変わったな、と感じた時が何回かあって、作品を読み直して、潮の変わり目となった作品をもういちど見つけ出してみたいと思っていた。

○○紀のように、片岡作品に流れるいくつかの時代を名付けてみたいなと漠然と考えていた。そんな空想をしていたある日、片岡作品の変化は、片岡に作品を依頼した編集者によってもたらされたのではないかと思いあたった。「作品が書かれるきっかけは、編集者からの依頼です」と、かつて彼は語っていたではないか。

「あとがき」やエッセイに登場した編集者を思い浮かべてみる。
まずは、片岡に「あなたは作品を書く側の人になりなさい」と言った『マンハント』の編集長だった中田雅久。『ワンダーランド』を一緒に作った晶文社の津野海太郎、『野生時代』の創刊号に小説を依頼した角川春樹、毎月のように同紙に小説を掲載することになった時代の担当編集者(たぶん加藤芳則)、『小説新潮』に小説を掲載し、80年代末から90年代初めに新潮社からの出版が続く時代に担当していた編集者(たぶん森田裕美子)、雑誌『スイッチ』の新井敏記、『日本語の外へ』執筆のきっかけをつくった吉田保、これまでの片岡作品とは、がらっと違う表紙をつくった『白い指先の小説』からの八巻美恵、文芸誌『群像』に片岡作品を登場させた(たぶん須田美音)、『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ』以降の作品で再び片岡義男ブームを起こした篠原恒木。それぞれの編集者から見た片岡義男を聞いてみたいなと思う。彼ら、彼女らが片岡のどこに魅かれ、どういうことを考えて作品を依頼することになったのか。実際に出来上がった作品を見てどう思ったのか。

編集者の数だけ片岡義男像があるのだろうと思う。それを束ねることで、片岡義男論になるかもしれない。もう亡くなってしまった人については、片岡さんから話を聞くしかないのだろうけれど、また、写真集をつくるきっかけとなった編集者の存在はわからいのだけれど、こんなことを考えて遊んでいる。

水牛的読書日記2021年12月

アサノタカオ

12月某日 『現代詩手帖』12月号に「アンケート 今年度の収穫」を寄稿。世界の土地土地から消してはならないことばを「いま」につなぎとめる詩人たちの静かな、しかし揺るぎない意志に敬意を表して以下の本と作品を紹介した。

ウチダゴウ『鬼は逃げる』(三輪舎)
川瀬慈『叡智の鳥』(Tombac)
ミシマショウジ『パンの心臓』(トランジスタ・プレス)
ぱくきょんみ『ひとりで行け』(栗売社)
清水あすか『雨だぶり。』(イニュニック)
和合亮一・吉増剛造「石巻から/浪江から」(『現代詩手帖』連載)
文月悠光の詩「パラレルワールドのようなもの」(『現代詩手帖』9月号)

『現代詩手帖』12月号の「2021年代表詩選」には、ミシマショウジさんの詩集『パンの心臓』より「ヴォイスビートの少年」が掲載されている。

『現代詩手帖』と言えば先月も紹介したが、同誌11月号の「特集=ミャンマー詩は抵抗する」はクーデターによって権力を奪った軍に抵抗する市民たちの声に応答するミャンマーの詩人と日本の詩人たちが、鼎談とエッセイで詩という表現の本質をあらためて問い直す充実の内容でなんども読み返している。月刊誌だから月が変わると多くの書店からフェードアウトしてしまうのがあまりにも惜しい。特集を再編集したブックレット的な本になるといいのに。

12月某日 『神歌とさえずり』(七月堂)の著者で詩人の宮内喜美子さんより、琉球弧の詩人・高良勉さんの主宰する詩と批評の同人誌『KANA』をご恵送いただいた。特集は「沖縄の日本復帰50周年と私」。勉さんのほかに、詩人のおおしろ建さん、今福龍太先生らの寄稿。安冨祖ゆうさ氏の掌編小説も。2021後半の最高の文学のおくりものだ。大切にしたい。

《72年沖縄返還という、沖縄社会の大きな世替りと、日本国家・国境の変更、拡大からの歴史的変化を、同人一人一人がどのように受け止め、考え、生活してきたか。その過程における個人史を大切にしたかった。》
——高良勉「半世紀を」

『KANA』のページをめくっていたら電話があり、それはなつかしい奄美からの呼び声だった。沖縄、奄美、琉球弧へ。サウダージ・ブックスで「群島詩人の十字路」という沖縄の詩をひとつのテーマにした詩集を作ったのが、いまから10年ぐらい前のこと。高良勉、川満信一、中屋幸吉……。琉球弧へ群島詩人の声を訪ねる旅をまたしたい。

12月某日 日本写真家協会・第4回笹本恒子写真賞を渋谷敦志さんが受賞。サウダージ・ブックスから刊行した写真集『今日という日を摘み取れ』の編集を担当したご縁で、東京で開催された授賞式に出席した。フォトジャーナリズムの仕事を続けることの難しさ、そして新型コロナウイルス禍。渋谷さんは受賞のスピーチで「それでも撮れない時間が、自分の写真を深めてくれるとつねに信じている」と語っていた。

同協会会長で写真家の野町和嘉さんからの賞状授与の後、選考委員を代表して雑誌『風の旅人』編集長の佐伯剛さんからの講評があった。渋谷さんの写真には「まなざしのやさしさ」があり、その作品には一人ひとりと関係性をむすび、信頼を醸成する長い時間が込められている、と。すばらしい内容のお話で、編集の仕事をするぼくにとっても感無量だった。

2000年代、ぼくが20代後半のころ、『風の旅人』に掲載された野町さん、セバスチャン・サルガドら世界的な写真家の作品、そして思想家や作家の文章によって、上澄みだけをすくうような皮相な情報からは知りえない世界や時代の深層を見つめるまなざしを鍛えられたのだった。

「生命系と人類」をテーマとする15号は、なかでも忘れられない1冊。毎号隅から隅まで貪るように読み込み、企画・構成・印刷の緊張感あるクオリティに圧倒された。そして編集長の佐伯さんの後記には、つねに妥協や追従や忖度のない読者への厳しい問いかけがあった。写真とことばに向き合う佐伯さんの厳しさには遠く及ばないが、せめてその後ろ姿を見失わないよう本作りの道を歩いていきたい。

12月某日 大阪の南田辺で臨床哲学者の西川勝さんと編集中の「認知症移動支援ボランティア養成講座」に関する本のことなどに関する打ち合わせ。その後、西川さんに誘われて、近鉄を乗り継いで奈良まで行き、奈良女子大学名誉教授で心理学者の麻生武さんが主宰する読書会に参加。麻生さんはご自身の子どもの成長を長期間にわたってつぶさに観察した記録をもとにしたおおきな研究をまとめていて、その成果を近年『〈私〉の誕生』(東京大学出版会)や『兄と弟の3歳仲間の世界へ』(ミネルヴァ書房)として発表している。

読書会のテキストはジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリの哲学書『アンチ・オイディプス』(宇野邦一訳、河出書房新社)。難しい……。2022年は1年をかけて道元の『正法眼蔵』を読むそうだ。夜の奈良駅前は雪でも降りそうなくらい寒く、つめたい風がびゅうびゅう吹いていた。

12月某日 大阪・北加賀屋の名村造船所跡地で開催されたイベント、KITAKAGAYA FLEA 2021 AUTUMN & ASIA BOOK MARKE(LLCインセクツ主催)にサウダージ・ブックスとして出店。ぼくらのブースではサウダージ・ブックスと先輩の出版社トランジスタ・プレスの出版物を販売。詩、エッセイ、写真の本。また2022年春、サウダージ・ブックスより刊行予定の見本や校正刷、チラシも持っていった。

2日間、リバーサイドのきもちのよい空間でたくさんの人、たくさんの本、たくさんのことばに出会うことができた。祝祭的な市(いち)のにぎわい。コロナのパンデミック発生以降ひさしぶりの「対面」と「接触」、やっぱり人間どうしのリアルなコミュニケーションはいいものだなと実感。

拙随筆集『読むことの風』(サウダージ・ブックス)のほかに、トランジスタ・プレス発行のミシマショウジさんの詩集『パンの心臓』とヤリタミサコ氏のエッセイ集『ギンズバーグが教えてくれたこと』、サウダージ・ブックスの2冊の写真集、『今日という日を摘み取れ』と『霧の子供たち』が売れた。ちなみに『パンの心臓』は初日でスピード完売。

イベントには、ミシマショウジさんとも親交のある自家製天然酵母パン・Pirate Utopia も出店していた。昼過ぎに訪ねると、パンはすでにほぼ売り切れ。残っていた野菜と花の美しくおいしいパンをいただいた。

12月某日 KITAKAGAYA FLEAの2日目。本の販売が落ち着いたところで、ほかのブースを駆け足で見てまわる。『71歳パク・マンネの人生大逆転』(パク・マンネ+キム・ユラ著)を訳した韓国語の翻訳者で編集者の古谷未来さんが出店していた。彼女の紹介する韓国のSSE Projectのアート系Zineがかっこよくて一目惚。ソウルの詩集専門書店wit n cynicalから送られてきた詩の本や6699pressの写真集も購入する。

別のブースでインドネシアの作家ソチャさんの本、台湾旅行記、淡路島をテーマにした本なども。2日間、ほぼひとりで店番をしたのでどっとつかれたが、読みたい本がぎっしり詰まった帰り道の鞄の重みがうれしい。

新大阪駅発、最終の新幹線の車内でキム・ヤンヒ監督「詩人の恋」の上映パンフレットをひもとく。ヤン・ヨンヒ監督「かぞくのくに」で見て以来、すっかりファンになった韓国の渋い俳優、ヤン・イクチェンが主演する映画だ。上映中に映画館に行けなかったので、パンフレットをずっとほしいと思っていたのだが、イベントに出店していたLONELINESS BOOKSのブースで購入することができた。

「詩人の恋」は、韓国・済州島を舞台にした映画。その後Netflixで鑑賞したのだが、なかなかよかった。上映パンフレットに収録された文月悠光さんのエッセイ「悲しみの在り方を問う」の中で、済州の詩人ホ・ヨンソンの詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳)が紹介されているのを見つける。このパンフレットには文月さんの詩「遠い世界へ」も掲載。

12月某日 KITAKAGAYA FLEAで購入した本やZineで我が家でもっとも評判がよかったのは、寺田くれはさんの『100均商品だけで食品サンプルを作ってみた』(クレハフーズ)だった。大学に通いながら食品サンプル職人養成スクールに通った著者による本。

きつねうどん、サンドイッチ、エビフライ、たこ焼き。これらの食品サンプル作りのプロセスを綴る文章がおもしろく、興味深いルポルタージュとして読んだ。100均の「皮むき手袋」って、たしかにエビフライそのものだ。会場でお会いした寺田さんとはK-POPのことを少し話したのだが、いつかトッポギとか韓国の屋台料理の食品サンプルを作ってほしいと思う。

12月某日 東京・新宿のアイデムフォトギャラリー「シリウス」で、日本写真家協会・第4回笹本恒子写真賞の受賞記念、渋谷敦志写真展「今日という日を摘み取れ」が開催され、最終日に見に行った。在廊していた渋谷さんから2022年の作品や展示のプロジェクトについて聞く。会場では写真集『今日という日を摘み取れ』に収録した作品に加えて、コロナ禍をテーマにしたカラーの新作も展示。年の瀬、熱心に鑑賞するお客さんが途切れることなく訪れていた。

雑誌『世界』12月号に、渋谷さんが寄稿している。タイトルは「「いつ割れるかわからないガラスの上を歩いている」——コロナ病棟の看護師たち」。渋谷さんはパンデミック発生以後、医療者たちのコロナとの闘いをいちはやく最前線で取材したひとりだ。現場から問いかける写真家のことばが胸に重く響く。

《私たちの生活は、もっといえば人生は、彼女(看護師)のようなケースワーカーに支えられている。一方で思う。そんな彼女たちに私たちの社会がちゃんと報いたことがあっただろうか》

12月某日 大阪から神奈川にもどり、横浜・妙蓮寺へ。KITAKAGAYA FLEAで隣のブースで出店していた本屋・生活綴方を訪ね、安達茉莉子さんの絵と文章の展示を鑑賞。タイトルは「穴のあいたひとたち」。いま、自分のこころのどこに穴があいているのだろうか、と内省するしずかなひととき。安達さんのエッセイ『私の生活改善運動』vol.1〜4(本屋・生活綴方)を購入。個に根ざした運動のことばは信頼できる。電車の車内でちいさな本を読みはじめ、心が熱くなった。

12月某日 東から西へ、西から東への旅の道中で、韓国の日本文学翻訳家、チョン・スユンのエッセイ集『言の葉の森』(吉川凪訳、亜紀書房)を読み終えた。万葉集などで詠われた恋の歌、その韓国語訳を灯にして、著者自身の胸の奥にしまわれた思い出にひとつひとつ光をあてるようなすばらしいエッセイだった。

《事物はそれぞれ違うように見えるけれど、私たちは巨大な一つだ。私たちはすべて完全に融合していて、引き離すことができない。自然も人間も国家も人種も政治も、互いに別のかけらのように見えているけれど、私たちは一続きのジグソーパズルの中に生きている。みんなそれを知っているのに、気づかないふりをしているみたいだ。》

本の最後のほうに記された、翻訳者ならではの著者のヴィジョンに深くうなずき、鉛筆でしっかりとアンダラインを引いた。

翻訳という仕事の本質は、単にひとつの言語を別の言語に移し替えることだけではない、とも思う。例えば著者は、あるエッセイの中で「木漏れ日」という古き日本語から連想して、ソウルの夏の夜に「木漏れ月」とつぶやく。存在しない、でもすてきなことばだ。読書の最中、ことばのはざまを生きる経験から開かれるこんな思いがけない創造の風景に遭遇するたび、豊かな気持ちになった。異語でもない原語でもない、人間の声が遠く離れながら呼び交わす未知の「言の葉の森」が目の前に広がる。また読み返したい本。

それからチョン・スユンさんのおかげで、自分は山部赤人の歌がけっこう好きなんだなと気づかされた。「春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける」。赤人って元祖バックパッカーじゃないか、いいね。

12月某日 あいかわらず韓国文学を読んでいる。チョン・セランのSF小説集『声をあげます』(斎藤真理子訳、亜紀書房)を一気に読んでしまった。とりわけ巨大ミミズ譚「リセット」に感銘を受けた。人新世的な視点からの文明批評や環境批評のヴィジョンを物語によって創造するという著者の明確な意志がはっきり伝わってきて、しかもめちゃくちゃおもしろい。

所収の短編「リセット」「声をあげます」「メダリストのゾンビ時代」。いずれもコロナ禍を彷彿させる地球規模の人間社会の苦境が描かれるものの、読後にはそこに参加したいと思わせる希望の場が心の中で開かれる感じ。この勢いを借りて、チョン・セランの長編小説『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)も読みはじめる。

12月某日 目が割れる、ということばが思い浮かんだ。ぱっかーん、と「見る」という経験が真っ二つに割れて、目の前にまあたらしい道が開かれるような。特別な機会をいただき、在ブラジルの記録映像作家・岡村淳監督の短編『富山妙子 炭坑に祈る』(2020)の映像データを深夜に自宅で視聴し、あまりのすばらしさにモニターの前で打ち震えた。

『富山妙子 炭坑に祈る』は、岡村監督自身がつねに意識しているであろう写真家セバスチャン・サルガドの大著『WORKERS』の対蹠地をなす映像作品と直感した。サルガドの写真群が人間の労働の風景から荘厳なる祈りのマクロコスモスを押し開くとしたら、本作はミクロコスモスへと収斂していくベクトルを持つ。荘厳なるものの対極にある簡素なイメージに、しかしサルガド作品に感じるのと同じ深い祈りが込められているのだ。

炭坑労働をテーマとする画家・富山妙子の素描の細部、スケッチ帳に記された文字を含む線の動きや震えにまで官能的に肉迫する岡村さんの「まなざし」を借りて、特定の時代と場所に生きたはずの坑夫たちの残像が、自分の中で何か普遍的な聖なるもののイメージへ次々に変容していくのを感じて興奮した。

杭のようなものを担ぐある坑夫の素描が「十字架の道行き」に見えたのだ。興味本位の連想ではない。岡村さんは長年ブラジルで社会的弱者のために奉仕するキリスト者を記録しており、岡村さん本人から教えてもらったのだが、当地のカトリック教会堂内に飾られた「十字架の道行き」図も作品の霊感源になっているという。

類例のない作品。これまで岡村さんの数々の作品を「ドキュメンタリー」の範疇で理解してきたが、本作はそれを越える「記録映像詩」という新ジャンルの試みだと言える。最後のクレジットで「構成・撮影・編集 岡村淳」のキャプションが添えられた富山妙子の人物スケッチにも驚愕。音楽は高橋悠治さん演奏のピアノ曲、サティ「ジムノペディ」。すごい作品だ。

12月某日 『声をください』に引き続き、刊行されたばかりのチョン・セランの『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)を読んでいる。韓国、ハワイ、ドイツ、フランス、そして韓国。戦争と移動の時代である20世紀を生き抜いて4人の子を育てたひとりの女性、美術家で作家のシム・シソンからはじまる女の人たちを中心にした家族三代記。

これも、おもしろい。読書はまだ途中だけど、すばらしい小説でぐいぐい引き込まれている。さまざまな旅の物語を内に抱える女の人たちが一堂に会する小説のおもな舞台が、「ハワイ」というところもしっくりくる。海山のあいだで歴史、文化、人間が混じり合うやわらかなクレオール主義世界。抑圧的で排他的な純血主義社会と対極にあるような。

作中の「シム・シソン」はきっといろいろなモデルを参考にして人物造形がされているのだろう。ちょうど韓国と関わりの深い富山妙子の著作をいろいろ読んでいるところで、彼女が対話した画家・朴仁景のことを思い浮かべた。植民地時代と朝鮮戦争の経験、ヨーロッパへの移住、「シム・シソン」と同じような時代を生きている。

《解放前の朝鮮で、女が画家になるというのはよほど特別のばあいです。……今から六十年以上前に、羅蕙錫は女性解放の思想をもっていたのですから、ほんとうに先駆的な女性だったのです》。朴仁景の発言、富山妙子らとの共著『ソウル-パリ-東京』(記録社)より。これを、シム・シソンの声に重ねてみる。小説の続きを読もう。

12月某日 2009年にサウダージ・ブックスの出版活動をはじめたとき、「先達」と仰ぐ出版社がふたつあった。社会批評的なラディカリズムを内に秘め、文学やアート、知への愛をベースにした個人運動として本作りをおこなう版元。ひとつが佐藤由美子さんの営むトランジスタ・プレス。ビート文学関連書を出している。

もうひとつが小川恭平さんがはじめたキョートット出版。先日、大阪のKITA KAGAYA FLEAで小川さんに会うことができて感激した。キョートット出版のトム・ギル『毎日あほうだんす』は聞き書きの名著、2020年に完全版が刊行された。もんでん奈津代さんの『ツバル語会話入門』もある。

12月某日 高校生の娘が「ほら」とスマホを差し出してきて、同級生が公開のSNSアカウントにアップした今年読んだ本の写真を見せてくれた。その同級生はチョン・セラン『屋上で会いましょう』(すんみ訳、亜紀書房)を読んでいる、と以前娘から聞いていて、もちろんその本も写っていた。

ずらりと並ぶそのほかのタイトルも知れば、ぼくの周囲にいる出版関係者はきっと感涙にむせぶと思うが、詳細を明かすのは控えておきたい。本の森を旅する若い人たちを、そっと見守りたいと思うから。どうか、かれらの先に希望ある道が開かれますように。

小説家、詩人、エッセイスト、翻訳家。世界各地のお姉さんから日本の女子高生たちへ。本作りに取り組む人びとの日々の努力によって、ことばは国境すらこえて次世代にしっかり届いている。それは部数だの何だの数の論理では測ることができない書物の真価だ。

12月某日 ぼくも今年(この文章が発表される時点では去年だが)読んだ本をあげてみよう。2021年に、インデペンデント系のスモールプレスや個人が出版した本から、10タイトル。

安達茉莉子『BECAUSE LOVE IS LOVE IS LOVE!』(mariobooks)
小鳥美茂『Sunny Side』(BEACH BOOK STORE)
丸川愛ほか『聞かせてください、あなたの仕事』(horo books)
植本一子『個人的な三ヶ月』
しいねはるか『未知を放つ』(地下BOOKS)
Sakumag Collective『We Act! #2』
壇上遼、篠原幸宏『声はどこから(文庫版)』
橋本亮二『たどり着いた夏』(十七時退勤社)
大阿久佳乃『パンの耳』5〜10号
安達茉莉子『私の生活改善運動』vol.1〜4(本屋・生活綴方)

優しい地獄(下)

イリナ・グリゴレ

大雪注意報中、クリスマスイブにプレゼントを急いで買った帰り道に、車のラジオから昼という時間帯には珍しくレッド・ツェッペリンのStairway to Heavenが聞こえた。車の窓に大きなスノーフレークがぶつかった瞬間がスローモーションで見えた。溶ける直前の雪の結晶の形ははっきりしていて、窓にぶつかった時に音が聞こえた気がした。信号待ちの車の中で青森県でしか見たことがない大きなスノーフレークが窓にぶつかる瞬間をずっと見届ける自分が虚しくなった。「命」も「自由」もなんて、こんなもんだ。「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす」。平家物語とレッド・ツェッペリン、仏教徒とキリスト教、人類の歴史と未来、全てはこの溶ける雪結晶の美しさにあると思った。

今年のイブとクリスマスは大館の正教会で過ごす予定だったが、体調がすぐれず叶わなかった。100年以上前の小さな木造の教会に、日本で初めて女性としてイコンを描いた山下イリナのイコンがある。私と同じ名前、イリナ。彼女が描く光の優しさに出会ってから私の心はますます素直になった。タルコフスキーの映画、『アンドレイ・ルブリョフ』を思いだした。人間とはイコンのようなイメージを追いかけないと。大館の北鹿ハリストス正教会の中に入ると、いつも祖父母の家に戻る気がする。中から見える円屋根の青の色合いと山下イリナのイコン、日本まできて全てが繋がった。

クリスマスの時期の思い出があまりにも重くて身体が真っ直ぐ立てない。ライダ・レルチュンディ監督の映画「Autofiction」の中で、ずっと横になって、動く時に這う女性たちの身体を思い出した。これでもどこから来るのかわからない優しさを感じた。突然ルーマニアから電話した弟の声が、昔と同じように私を癒す効果があった。そういえば、昔から弟の優しさに救われる自分がいた。

当時、高校生になった私が「家を出る計画」を考え始めた。それは、団地のアパートから、父の暴力から、家族のドラマから逃げたかったのだ。「私がいなくなったら」みんな反省すると思った。みんな、もっと幸せになると思った。私を探す両親を想像しただけで嬉しくて、そしてきっとこれをきっかけに仲良くなれると思った。なので、何日も何回も逃げる作戦を想像した。この団地も、いつも追いかける野良犬も、高校のクラスメイトも私を探し始めるが、私はこの街から消えた不在な存在になるというイメージがしばらく頭から離れなかった。問題は優しくしてくれた弟と祖父母に会えなくなることだった。これに悩んだ。

しかし、弟はある日私の想いが伝わったように、彼のクラスメイトが逃げた話をし始める。彼女も父親の暴力が嫌だったので家を出るが、結局のところ西ヨーロッパのどこかで売春ネットワークに捕まって身売りされ、そこからやっと逃げて恥を忍んで家に戻ったという。この話を聞いて家出は諦めた。それは、1990年年代のルーマニアを生きていた私が、状況の全てを把握しきれない状態だとわかった瞬間だった。当時の人身売買組織、臓器売買の社会問題と自分の身体の危機に気づいた。このタイミングで家から逃げたら違う地獄が待っているのだ。弟の目の青い色合いが、イコンで描かれている青に似ていると今気づいた。彼は子供の時から特別な力を持っていた。彼が女の子、私が男の子で生まれてくればよかったのに。

こうして、私の家出計画は終わりを迎え、高校2年生の夏休みに、ルーマニア北部にある古い修道院を訪ねる旅行に参加した。バスに長い時間乗って、団地の暗い雰囲気から解放された旅になった。ルーマニアの自然に溶け始めたころ突然バスが止まった。二人のヒッチハイカーが乗ってきた。それは若いフランス人男女だった。話を聞くとカップルではなく友達同士で、当時のフランスで人気の旅行先だったルーマニアにやってきた。彼らは私にとって初めて会う外国人だった。男性が私を見つめ始めた。やつれた私の顔はどこが魅力的だったのかわからないが、目が会うたびに何か不思議な優しさを感じた。でも、彼はもう少しでバスから降りてまた旅をする。二度と会わない一瞬の悲しさを感じた。彼の名前は覚えてないが、リヨンという街の出身なのは覚えている。しばらく目で話した気がする。「あなたを助けてあげるよ」というふうに聞こえた。バスがまた止まった。彼は急いで紙にリヨンの住所と電話番号を書いて私に渡した。一緒に旅行していた先生と学生が笑いはじめた。ナンパされたと私をいじるけど、彼が降りた後、小さな包みを開いて鉛筆で薄く書いてあった知らないリヨンという街の住所が恋しくなった。彼に手紙を書くことはしなかったが、世界が広いと初めて分かった瞬間だった。

私にとって、ルーマニア北部の修道院を訪ねる旅がしばらく続いた。印象的だったのはボロネツ修道院だった。この教会の壁は特別な青で描かれていて、世界中から芸術家がこの色を生で見るため集まってくる。私もしばらく言葉を失った。西の外壁のフレスコ画の「最後の審判」のイメージをみた瞬間に自分の中で何か変わった。南にある地獄、北にある天国、天使と悪魔の戦い、人々の魂はどこへ行くのか。でも描かれているシーンの激しさよりも、人と神、聖人と天使、悪魔と大きな魚に乗っているモーゼ、悪魔と人の魂の間に広がる青の色合いが目に染みる。人が文字を読めない時代にイメージでイコンと教会のフレスコ画によって、聖書の言葉の全ては伝わっていた。空よりも、周りの木の緑よりも、神秘的な色を生み出す心が人間に救いを与えると感じた。「ボロネツの青」はどうやって作られたのか未だに知られていないが、直に見るこの色合いが、遠い未来に人間がいなくなった時でも、人間がどんな生き物だったのかわかる気がした。魂の色合いがこの青だ。

ボロネツを離れたバスは、モルドバ地方からマラムレシュ地方に向かった。サプンツァ村にある墓地を訪ねた。それは陽気な墓(Cimitirul Vesel)という名所だ。この墓の十字架に、故人の絵と彼らの人生をコミカルに表現した詩が書いてある。例えば、「私の義母がこの重い十字架の下に休む。もう三日生きていれば、この下に眠るのは彼女ではなく私で、この詩は彼女が詠んだだろう。あなたたち通行人は彼女を起こさないように。また何かやかましく言われても、私にはどうしようもない。この詩を読んでいるあなたが私みたいになりませんように。良い義母を見つけて一緒に平和に暮らせますように。享年82。」

あの時、このような詩を沢山読んで、泣き笑いという複雑な現象が自分の身体に起きた。その時まで感じた生き辛さが消えて、どんな状況でも生き続けることを決心した。そしてたくさん笑うと決めた、最後の最後まで笑うと決めた。死が笑いに変わる瞬間が必ずあると分かった。ブランショがいう「jouissance」が私の中に目覚めた瞬間だ。この間、青森での調査の中で辛い半生を生きた私に、キーインフォマントの女性が言った同じような言葉が浮かんだ。彼女にはどんな恐ろしいことが起きてもいつも踊ったり、笑ったりする力が浮いているという。「私たちは似ている、同じ自由人だ」と彼女に言われた瞬間、救われた。

そう、笑うこと、「腹を抱えながら笑う」という瞬間が必ず訪ねてくる。それは東京に住んでいた時、私が世界で一番尊敬しているダンサー、田中泯さんの舞踊団に入っていたころの、人生で一番刺激を受けた時期だった。ある日、4人一組で踊りを作り、私は元社会主義国からきた一員として、フレームに入らない人々、はぐれるという踊りを考えて、他の人々から暴力を受け、最後に舞台から投げられるというシーンを作った。そしたら、泯さんが私たちのパフォーマンスを見て「最後に立って笑うのよ」と言われた。そうだ、人生で最高のアドバイスを受けた。

さて、高校生の時のルーマニア北部の旅行から団地と工場の街に戻ったあとは、もう家から逃げることを考えることはなくなった。図書館から何十冊もの本を借りて、田舎に戻って、祖父母の家で本を読み続けた。あの時に庭のクルミの木の下で読んでいたカミュの『ペスト』は、今を生きる世界とあまり変わらないが、あの時期に自分の中で目覚めたjouissanceのおかげで泣きながら娘たちと笑う自分がいる。そしてすっかり娘たちにもこのjouissanceが受け継がれた。いつか、娘たちにボロネツの青を生で見せたい。色の感覚が鋭い長女のリアクションが目に浮かぶ。

大学に通うためブカレストに引っ越したときある展示を見に行った。それは人身売買された若いルーマニア女性の写真展だった。金髪で、青い眼、東ヨーロッパの娘たちのライフヒストリーと共に、彼女らのイメージはどこかイコンのようだった。彼女らも14歳の私みたいにただ逃げたかった。暴力から、貧困から、全てから。そして逃げた先には違う地獄が待っていた。でも、写真に残っていた彼女らの美しさが、私に何かを訴えるようだった。私の方が確かに恵まれていた。大学に行けるなんて、勉強し続けるなんて、恵まれている方だと分かった。だからあの時に私は博士課程まで上がりたいと決心した。そして世の中の何かを変える、どんなに大変でも、どんなに苦しくなっても、単純なことだけどみんなやればいいだけの話、自分のできる範囲で。

先日の女性の調査の中で友人の個人史を聞く機会があって、思いもつかない事実に出会った。子供の時から才能に溢れ、絵がとても上手い天才のような彼女が、高校の時にいじめにあい、傷ついたまま社会に出て職場でのいじめにも耐えられなくなって、ある日自殺を図った。手首を切ると痛みがあって、薬を飲む。幸い母親が帰宅し、病院に連れて行く。1ヶ月間の入院で彼女は人間の地獄を見る。さまざまな出会い。統合失調症で入院している、毎日ばっちりと化粧するお河童頭の女性には「愛している」という声が聞こえるそうで幸せそう。ずっと忙しくしていたサラリーマンは、退院したらまた編集者として頑張るというし、自分のところで雇うと言い出す。同じ病室に入院している叔母さんたちは、血圧が400と笑いながらいうような毎日。

そんなある日、同じ20代の女の子といつも通り話をする。その子はそろそろ自分の病室に戻るといい、外を出た途端に何か大きな音が聞こえる。誰かの叫ぶ声。病室から出ると、さっき部屋を出て行った女の子が窓から飛び降りたという。次の日、何も変わらない。看護師さんは相変わらず忙しく動き回り、統合失調症のお河童頭さんには相変わらず愛されているという声が聞こえ、サラリーマンの男性が早く退院して仕事がしたいといい、同じ病室のおばさんたちは血圧を測って「また400だと、ハハ」笑う。その時、友人は悟った。こんなに身近に人が死んでも何も変わらない。「私が死んでも何も変わらない」。死んでも何も変わらないのであれば、生きて世界を変えよう。

里芋、大根、大豆(2022年のために)

管啓次郎

これはみんな伝え聞いた話です。

あるときあるところに
大変な知者という評判の僧侶がいて
彼の大好物は里芋の芋頭(いもがしら)だった
芋頭というのはね
種芋から最初に発芽して
そこに生じるいちばん大きな芋のことさ
彼はとにかくこれが大好き
大きな鉢にうづ高く盛り
膝下に置いてこれを食いながら
読書したんだって
(タロイモ読書?)
病気になったらきっぱりとこもり
一週間、二週間と静養する
治療としてはよい芋頭を選んで
それをたっぷり食う
それで万病を治した
彼は他人には芋頭をあげないんだ
ぜんぶ自分で食べるんだ
すこぶる貧乏な人だったので
師匠が心配して遺産をのこしてくれた
「銭二百貫と坊ひとつ」
坊というのは僧侶がひとりで暮らせる
質素なストゥディオ
ところが彼は、じょうしんは、
この坊を百貫で売ってしまった
これで手持ちのお金はかれこれ三万疋(一貫=百疋)
このすべてを芋頭につぎこんだ
これだけのお金をすべて都に住む知人に預け
芋頭を十貫分ずつ取り寄せて
ふんだんに食べ
やがてさっぱり遣い果したそうだ
まあ、思い切りのいい坊さまだね
(タロイモをたっぷり食べて
ポリネシア人のような体格になったんだろうか
ポイはそのころの日本にはなかっただろう
いや日ごろ飽食してなければ
そんな体型にはならないか)
お金に頓着ない
ただ芋頭を食いつくす
ことほどさように単刀直入
人々は感心した
この僧侶は「みめよく、力強く、大食にて
能書・学匠・辯舌、人にすぐれて」
この宗派の「法のともしび」とも思われていた
でも曲者でね
癖者といってもいいが
万事につけ「自由」な人なんだ
すなわち他人にはしたがわない
饗宴でも膳が全員のまえに揃うのを待たず
さっさとひとりで食って帰ってしまう
食事時も何もかまわず
腹が減れば夜中でも暁でも食う
眠いと思ったら昼間からごろり
どんな事件が勃発しても
他人のさしずには従わない
慌てない
目が覚めれば幾晩でも寝ない
何をしてることやら
(タロイモ食って、本読んで)
そういう人間だったけど
みんなに嫌われることもなく
なんでも許されたという
自由が認められていた
いい話だね
みんなこれからは里芋を食おう
小さなきぬかつぎではないよ
大きな芋頭をガンガンとね
それも修行か
少なくとも道だ。

またどこかにこんな人がいた
大根こそあらゆる病気に効く
薬だと信じてるんだって
それで毎朝二本ずつ焼いて食う
来る日も来る日も
何年も何年も
ただ大根を食う
体が大根で置き換わるくらいのものさ
彼が住んでいたのは「館」(たち)といって
まあ家というより小規模な砦
どんな役割を果たしていたのか
一種の前線基地か行政機関か
ある日、館から人が出払っているときに
敵の急襲を受けた
むかしは野蛮だねえ
いつ戦闘があるかわかったものではなかった
男はたぶん「敵だぞ、迎え打て」
くらいのことはいったんだろうが
誰もいない
誰にも聞こえない
万事休す
館は包囲されてしまった
するとね、館の中から
突然見たこともない兵が二人出てきて
これが強いのなんの
何の恐れも見せずに勇猛に戦い
ついには敵をそっくり追い払った
むかしは野蛮だねえ
でも話に聞いている分には
痛くも痒くもない
痛快といえば痛快
戦いが収まって
主人はいったわけさ
「きみたち日ごろここにいる顔ではないな
よく戦ってくれて助かった、ありがとう
ところできみたちは誰なんだ?」
「むかしからおなじみの
毎朝毎朝だんなが召し上がっている
土大根でございますよ」
そういってふと姿を消してしまった
どうだいこの話?
大根はいつも男に食われてるんだよ
ところがあまりに食われたために
男が大根の仲間になったとでも思ったのか
あるいはそこまで「大根は万病に効く」と信じた
男のその信にほだされたのか
男の危機にあたって大根が助っ人に来たんだ
けなげな話じゃないか
まるで忠犬物語だね
忠根だ
大根を食べるには1センチ5ミリほどの
厚みで輪切りにして
フライパンで弱火で両面を焼いて
火が通ったころに醤油をたらして
焦げ目をつけるといい
よい香りが立ち上る
焼くと甘味が凝縮されて
うまいしいかにも清浄な感じがする
そんな大根を一日も欠かさず
十年くらい食べてごらんよ
身も心もきれいになって
何かが起きるかもしれないな
きみにも
助けに来てくれるかもしれないよ
きみを
きみが敵に囲まれ
命が進退きわまった
そのときに。

もうひとりは法華経をひたすら
読誦した上人さま
その功徳により「六根浄」をはたした
眼・耳・鼻・舌・身・意がきよらかになり
最大限の働きをするようになったのさ
見える見えるよ、見えないものが
聞こえる聞こえるよ、聞こえないものが
体は元気はつらつ
意欲はみなぎって
上人さまは旅に出た
ずいぶん歩いてから
閑散とした村の粗末な家に
宿ろうと入ってみると
ちょうど豆殻を燃料として
豆を煮るところだったらしい
豆というのは大豆のことだよ
するとね、上人さまの耳には
煮える大豆のこんな言葉が聞こえたんだ
「よく知っているおまえたちなのに
恨めしいよ
おれのことを煮て
辛い目に合わせるんだなあ」
これに対して、焚かれる豆殻の
パチパチと鳴る音はこんな言葉だったって
「そんなつもりじゃないんだよ
焼かれるのも耐え難いことだが
どうしようもないのさ
恨まないでおくれよ」
もとはといえば兄弟だ
そんな豆殻と豆の会話は切ないが
悪気はない
上人さまはその会話を聞いてしまったが
いかんともしがたい
彼が何を思ったかは知らない
あくまでも澄みきった心で
にこにこ笑っていたのかも
その日の食事は煮豆に塩をひとふり
おいしくいただいて
むしろに体を休めたあとは
また明日も旅をつづけるだけ。

いかがですか、みなさん
里芋と大根と大豆
われわれがずっと食べてきた
そんな植物のみなさんのことを
今年は考えましょう
考えつつ、思いつつ
いただきましょう
あなたの体は
心は
結局はそんな植物によって作られ
かれらの体にも心にも
かたくむすびついているのですから
まずはいつものやり方を変えて
この新春には餅を食さず
里芋ばかりたっぷりいただきますか
里芋を食って本を読み
里芋を食って人新世を論じ
里芋を食って病気を治す
心身を整える
そんな年もなかなか
いい年になるかもしれませんよ

(物語の出典は吉田兼好『徒然草』60段、68段、69段)

メキシコ通信その1(晩年通信 その25)

室謙二

数日前にメキシコから帰ってきたところ。
20代の終わりに、カリフォルニアから友人とメキシコ旅行をした時は、ときには2人でときには1人で、汽車とバスを使って、埃にまみれて旅行した。あれとは違う。
今回は大名旅行です。 妻の息子二人とその家族。妻の姉夫婦とその息子夫婦とか、そのまた息子と友人。全部で十七人。上は84歳から下は9ヶ月の子供まで。
私の妻(78歳)は2回手術をしていて、再手術はメキシコ出発の二週間前でした。感染症もないから、医者は行ってよろしいと。だけど1月からは、また化学療法を始めないいけない。それと姉夫婦の夫(84歳)は、この何年間に数回の腰の手術で、杖を使ってやっと歩ける。二人は共に長期間は歩けない。空港では二人とも車椅子で移動。妻は、ホテルでの階段は、私が手を繋いで上がり下がりします。
もっとも妻の息子の一人は、緊急治療室とペインクリニック(痛み管理治療室)の医者だし、家族の一人(甥)は外科医だから、二人の医者がグループ内にいてクスリなども準備していた。
症状が悪くなってもなんとかなるだろう。

最初は私たちと息子たち家族との旅行だったのだけど、それに拡大家族が参加した。そのまた友人も参加していたので、それも含めれば全部で二十二人。病人と赤ん坊を含む、大グループなのです。
飛行機でカリフォルニアからメキシコのIxtapaに飛んで、そこに地中海クラブのスタッフが迎えに来た。30分「メキシコ」を走って、地中海クラブの中に入って、そこからほとんど外に出なかった。楽しかったけど、地中海クラブは絶対にメキシコではないね。
7日間の滞在中、ニュージーランドにいる息子とか、日本の友人にメールを書いた。それを以下に引用します。もう一度書くのがめんどくさいから。

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「日本の友人へのメール1」

Ixtapaの地中海クラブ(Club Med)にいます。
ここはメキシコといっても、メキシコではないね。
もっとアメリカ人がいるかと思ったら、ほとんどメキシコ人の中産階級。中産階級の植民地です。「現地メキシコ人」は働いている。
空港からここに来るまで、道路の両端に「メキシコ」が見えました。

従業員にも英語が通じない。もっとも我らの大グループの一人の女性は両親がメキシコ人で、英語・スペイン語の完全なバイリンガルで、テッドもモーゼスもスペイン語が堪能だから、それらに頼っています。Nancyだってスペイン語は少ししゃべる。
Club Medの食事はいい。ビュフェでいろんなものあり。ちゃんとしたレストランもいくつかある。プールは子供用と大人用で全部で四つあり。ビーチは目の前だし。

アジア人は、私と、妻の息子の奥さんの香港系アメリカ中国人、それともう一人の息子の奥さんの日系カナダ人の三人だけ。白人も私たちグループ以外に、ほとんどいない。
あとは何百人のメキシコ人。仲間の一人の女性は過去の経験からメキシコが大嫌い。それでメキシコ(地中海クラブ)は嫌いだと公言しているけど、ここはメキシコではないのだけどなあ。メキシコ中産階級の植民地です。生活様式も食事もメキシコ様式というよりアメリカ式、というよりカリフォルニア式だね。

私は1973年1月に、カリフォルニアから汽車とバスを乗り継いで、数日かかってメキシコ・シティにいた鶴見俊輔に会いに行った。あのときはちゃんとメキシコを経験した。ちゃんと下痢もしたし。今回はグループの誰も下痢をしない。安全な食事だった。
汽車とバスのメキシコ旅行は、埃まみれになって、安宿にメキシコ人と一緒の飯屋は二十代の後半だった。
帰ってきてその話を友人にしたら、彼もメキシコに行った。別の女性の友人に話したら、彼女もメキシコに行って子供まで作って、その父親まで連れて日本に戻ってきた。

「ニュージーランドにいる息子へのメール1」

明日カリフォルニアに戻ります。
今日は最後の日で、いろいろ催し物に参加します。
カリフォルニアに戻るので、またコロナの検査をしました。
妻も私も元気です。ご心配なきよう。

「息子へのメール2」

IxtapaからLA行きのUnited Airに乗っています。
UAの食事がまずいのは、カリフォルニアと東京の往復をUA Airで繰り返ししていたから知っている。
だけどこれほどまずい食事は、これまで経験したことがない。
後ろの席に座っているNancyがわざわざ、これはひどいわねえと言ってきた。
UAがビジネスクラスにアップグレードしてくれたので、ビジネスの食事ですよ。
IxtapaのClub Med(地中海クラブ)の食事は、カフェテリア形式で勝手に好きなものを取れる。それがおいしかったから、飛行機の食事のひどさが目立つのだ。

Club Medは、申し込んで全額支払った段階で、部屋代から食事代、ワインでもなんでも、食後のケーキも、ガイドも、空飛ぶ凧に乗るのも全部ただ。タダというわけではない。最初に払ったものに、全部が入っているわけだね。
今回行けなかった息子よ、今度どこかに一緒に行こう。

「日本の友人へのメール2」
昨日の夜、メキシコのIxtapaから戻りました。

最後の日に、夕方、もう日暮れにビーチで寝ていたら、海に黒い塊が見えた。海岸に大きな黒いカメがゆっくりと上がってきた。そして砂浜に深い穴を掘って、タマゴを産んだ。それから砂をかけて、海に戻っていきました。見ることができて、幸運だった。
ビーチの監視員が、上がってきたカメを保護するために、縄を張って、我ら見物人は離れて見ます。その卵が自然に孵化して、カメの子供がよちよち海に向かって歩くはずだが、今は監視員がタマゴを孵化するところに、安全のために持っていく。

親ガメが海から上がってきて、タマゴを産んだ砂浜に監視員が黄色のテープをはって、入れないようにしている。真ん中の円の下にタマゴが埋まっている。後で掘って安全なところで孵化する。

孵化した後のカメの子供も見たけど、真っ直ぐに砂浜を海に向かって進む。反対の方向に向かう赤ん坊のカメはいません。どうして海の方向がわかるのかなあ。なかなか感動的でした。そしてその子供のカメが母親になってタマゴを産むときには、またこの同じ海岸に戻ってくる。
どうやってそのことを記憶しているのか?

最初はメキシコは嫌いだ、と言っていたモーゼスの奥さんも、最後にはメキシコが好きになっていた。

カメの赤ん坊。これから放す。プラスティックの洗面器のなかでも、海の方を向いている。放せば海に向かって、よちよち歩きます。

地中海クラブは、事前に一度に払うお金に、部屋代から食事代、その他の全てが入っています。滞在中は何も払う必要なし。財布を持ち歩く必要はない。広いビュッフェで、ピックアップする料理はおいしかった。
朝起きてレストランに行って朝食を食べる。それから急がずにプールに行って、パラソルの下でのんびり。持って行った本を読んだり、道元の本はあまり似つかわしくなかった。バッハの平均律の第二集は、青空の下でピッタリだった。
ランチは、いつ何を食べるかなあ、なんて考えている。プールに入って少しバチャバチャと。
ランチの後は昼寝をする。昼寝の後はビーチに行ってパラソルの下でまたのんびり。一緒に行った青年たちが泳ぐのを見ている。
そうするとディナーの時間だね。その後は、野外のステージで音楽があったり、室内のステージで子供たち向けの催し物があったり。それを一緒に行った子供たちと見ている。
つまりボケーと、移動日を除くと完全に一週間を、そうやって過ごしたのです。
頭痛とも解放されて。

「ニュージーランドの息子への簡単なメーセージ」
海太郎へ。自宅に戻った。
疲れているけど、冷蔵庫はからっぽ。明日、食品の買い出しに行かないと。

闇のなかで聞く

くぼたのぞみ

若い医師の声を聞いて
窓から
夕闇にぽつりぽつり
灯る あかりを見ながら
バッハのピアノ曲をかける

涙ぐむまいと思っても
音楽を聴く心をなくしていた
数週間は
迷路とも 砂漠ともちがう
きっとちがう
烈風が吹いていたのが
いまはわかる それが
凪いだのが
いまはわかる

音が耳に心地よく入ってくる
やわらかく
含んだ
音のつらなりに
この世にまだあるという

運命のやさしさをまさぐるように
ぽつりぽつり灯る火に
たちまち濃くなる闇に
全身で感じる
ある と知るぬくもり
いる と感じるぬくもり

行間

高橋悠治

ちがうところ、形のない、土台のない、家のない、見る人もいない扉や窓、本も末もない、川を作らない流れ、クラリセ・リスペクトルの本のどこかで読んだ、ことばにもイメージにもならず、印象がそのまま表現でもある馬の場合。

ピアノを弾いているときは、一音ごとの入りと止めの間を図っている。楽譜という地図を、初めて見るかのように見ているからできること。暗記したものを心の眼で辿ったり、習い覚えた手の動きにまかせると、なめらかな流れのままに通りすぎてしまう道筋の、その時の気がかりに楔を打って、そそこに生まれるわずかな隙間から抑揚を創り出す。この歪みは繰り返せない。

作曲は、全体を想定しながら細部を定着していく作業とすれば、書くことのできない隙間、線のゆるみ、曖昧さを含んだ痕跡をどこまで紙の上に定着するか。書かれた音が毎回ちがう響きを立て、よけいな音がないのに、音は手の意志が消えた後の響きの余韻が「表現であり印象となる」。それにもまして、「線の行間」、それはただの「沈黙」ではない。「行間」は流れていく。変化して止まらない。形がなく、聞くたびにちがう時間、ちがう空間のひろがりがある、と言ってみる。

演奏も作曲も、毎回の実験から生まれる。その場に、楽器があり、人がいて、その場の人たち、手の動き、気象。