新作公演

笠井瑞丈

12月新作公演
『未来の世界』
共演者は

伊藤キムさん
小暮香帆さん
上村なおかさん

三人です

九月からリハーサルを行ってきました

作品作りは

まず

ソロなのか
群舞なのか

それを決め

劇場探し

そこから始まります

今回は一年前に

ひょんなことから
ずっと憧れの存在であった
伊藤キムさんと飲む事になり
伊藤キムさんと踊りたい
次第に私の妄想が膨らみ
そんな事から恐れ多くも
出演オファーを出しました

そしたら出演をオッケーしてもらい実現する舞台です

劇場は中野テルプシコール

テルプシコールは数多くの
舞踊家達が床に汗を落とした劇場です

そして伊藤キムさんが
以前作っていたカンパニー
『輝く未来』の
旗揚げ公演を行なった場所でもあります

そしてもう一人のダンサー小暮香帆さん
彼女は僕が新進芸術家海外留学制度で
ニューヨークから帰国した年
私の作品に出てくれたダンサーです
当時彼女は大学三年生でした

そしてその後何度か私の作品に出てもらい
笠井叡の作品にも出演することにもなりました
そして現在はソロや群舞の振り付けなどをしています

そして共に主催をしている上村なおかさん
ずっと毎年ひとつ二人でプロジェクトをやっています
二人だからやっていけることがある
これからも続けていこう

続くけていればいいこともある

ダンスは人を繋げてくれるます
だから踊るのなだと思います

過去に今の自分を想像できるか
今から未来自分を想像できるか

どうぞお立ち会いください

外国人監督が描いた日本の物語

若松恵子

「MINAMATA」と「ONODA」。外国人監督が描いた日本の物語を2つ、11月にロードショーで見た。今、なぜ水俣なのか、小野田少尉なのか。歴史の教科書で知っているからと言って、本当に知っていることになるのか? そこに生きた人々の姿から、本当に学んだのか。そんなことを考えた。

気候変動や新型コロナウイルス、今もゼロにはならない戦争。今、「水俣」や「小野田少尉」を描くことに意味を見出した外国人監督によって、国を超えて、人間の問題として、50年経ってまだ解決されていない物語として編みなおされて、届けられたのがこの映画なのだと感じた。「知っている」と思い込んでいた日本人は取り上げないテーマだったのだろう。

「MINAMATA」では、ジョニー・デップがユージン・スミスを演じている。映画のパンフレットに川口敦子が書いている。「すでに土本典昭監督作はじめ水俣と向き合った渾身の記録映画が見事な成果を差し出した後に、「史実に基づいた物語」とのことわりを冒頭に掲げた劇映画に何が描けるのか」と。しかし、このような偏見、先入観、予断から不安を持って見始めたけれど、「映画「MINAMATA」が劇映画として、ドキュメンタリーとは別のルートで現実と向き合い、そこにある真実へと近づこうとしていること、つまりは客観的な記録映像こそが真実への唯一の扉といった先入観を覆してみせたこと、その果敢な選択がユージンとアイリーンが向き合ったミナマタの真実と可能な限り共振するための術―と、監督アンドリュー・レヴィタスも、主演デップも撮影ブノワ・ドゥロームも迷いなく覚悟を決めて、それが映画の妙味を浮上させていく。」と。

川口のこの見方に私も共感する。確かに、ユージンが水俣に到着した直後に出会う「アコーディオンの少年のいる淡い緑の雨の夕べ」の風景は、いつまでも心に残るシーンとなる。作り物の限界を感じつつも劇映画として分かりやすく、「MINAMATA」を現在に再び伝えることは必要なことだったのではないかと思った。水俣病が公式に確認されてから65年、いまだ救済を求めて裁判が続いているという事、水俣のように人間によって引き起こされた環境破壊と人への被害が世界中で起きていることがエンドロールで紹介されるのを見てそう感じた。

「ONODA」は1981年生まれのフランス人監督、アルチュール・アラリによる作品で、2021年度のカンヌ映画祭の「ある視点」のオープニングに上映された。15分間のスタンディングオベーションを受けたという事だ。日本人俳優による日本語での演技。そのまま日本映画のように見ることができる。日本人が見て違和感を覚えるような日本人の描き方になっていない所が良い。上映時間の2時間54分を、小野田少尉の横で過ごしたように感じる映画だった。「小野田さんの時間を生きて見せた」そんな俳優陣の演技が良かった。小野田さんの内面の葛藤がモノローグで語られる演出など一切なく、上官の命令を守って赴任地を離れようとしない小野田の姿と、彼の判断に従って同行する4人の男たち、事実通りなのだろうが、最後まで小野田のそばを離れず、忠誠をつくし、命を落とす、そんな人間の在り方の不思議さをしみじみ感じた。日本に帰るヘリコプターの中で、これまで自分の世界の全てだったルバング島を小野田は上から眺める。セリフも字幕もない、小野田の顔のクローズアップのラストシーンだ。俯瞰してみて、島のあまりの小ささに愕然としたのではないか。そんな思いを重ねて私は見ていた。シチュエーションを変えて、同じような悲劇が今でも起こっているのではないか、そう思わせる象徴的なシーンだった。

水俣については、その後こんなニュースが入ってきた。
原一男監督のドキュメンタリー「水俣曼荼羅」(3部構成で上映時間6時間12分)が完成し、11月27日からシアター・イメージフォーラム他で上映されるという事だ。見てみたいけれど、6時間に耐えられるだろうか。
「MINAMATA」の映画の写真を帯につけた『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』という石井妙子による評伝が出版されている。ユージン・スミスの写真により「水俣」と出会い直し、福島原発事故によりアイリーンと再会した石井妙子が、コロナ禍の2021年に取材に出かけ、ユージンとアイリーンについて書いている。読み始めたところだ。ほぼ同世代の石井妙子によって描かれるユージンとアイリーンの姿にも興味を惹かれる。

『幻視 IN 堺~能舞台に舞うジャワの夢~』こぼれ話 

冨岡三智

10月にやった公演についてまだ書くのか!と呆れられそうだが、備忘録としてもう少し書き留めておきたい。

 ●モチョパット

公演の一番最初に、モチョパットと呼ばれる詩の朗誦をナナンさんにお願いする。これは当初ちらしに書いていたプログラムにはない。実は今、関西のジャワ・ガムラン界ではモチョパットがブームになっている(勉強会まである!)という事情もあるが、ジャワでは詩の朗誦が盛んなこと、そしてそこに霊的な力があると考えられていることを示したいなと思って入れた。コロナ禍の収束を祈るような内容で…とナナンさんに詩の選択を一任したら、「シンガ・シンガ…」で始まるスラカルタ宮廷詩人・ロンゴストラスノのパンクル形式の詩(1929年)を選んでくれた。これは「災厄よ、去れ」という内容なのだが、実は私の舞踊作品用に委嘱した音楽『陰陽 ON-YO』(2002年)で使われている詩でもある。作曲者が私が好きそうな詩だといってこの詩を使ってくれたのだ。そんな経緯を全然知らないナナンさんが今回これを選んでくれたのが、個人的に嬉しい。

 ●スリンピの衣装

今回、能舞台で上演することもあって、スリンピ本来の衣装の組み合わせとは違う衣装にした。今回の演目『スリンピ・ロボン』はスラカルタ王家の演目である。同王家の女性舞踊では通常サイズよりも1.5倍長いバティックを裾を引きずるように腰に巻いて着付け、この裾を蹴りながら踊る。しかし、私は今まで2度能舞台で踊った経験から、足袋を履いてこの着付けをすると裾が足首に絡まって非常に踊りにくいと感じていた。ジャワ舞踊を踊る時は素足である。素足だと布は足に絡みつかないのだが、木綿の足袋を履くと摩擦が起きるのか、裾が足袋からうまく離れてくれないのだ。以前私が踊った時は、上演の1か月前くらいに下見で能舞台に上がらせてもらって感触をつかんでいたから、家で十分練習ができた。しかも1人で踊り、古典舞踊そのままでもないから、足さばきがうまくいくよう振付も改変できた。しかし、今回はコロナで移動が制限されていることもあって、他の踊り手は直前のリハまで能舞台に立つ機会がないし、4人で古典舞踊を踊るから振付は変えられない。というわけで、裾を引きずるのは断念したのだった。

しかし、ジャワの正装なら通常サイズのバティックをくるぶし丈に着て、引きずる裾もない。これなら足袋を穿いても着物と同様に足の捌きは良いはず…と思って試してみたところ、全然違和感がない。というわけでバティックは正装の巻き方にする。それに合わせて上半身も正装で着用するクバヤ(ブラウス)にした。私は4着お揃いのクバヤを持っていなかったが、関西のジャワ舞踊界にジャワのクバヤを仕立てられる人がいることがこの公演を決めた後に分かり、仕立ててもらったのである。宮廷舞踊の衣装がクバヤというのは普通はないけれど(ジャワで年配の人がクバヤを着る例は近年増えつつあるが)、能舞台に着物で立つというイメージからすれば、肌を覆った衣装は似つかわしい。しかも、白の布地でシンプルに仕立てたクバヤは私の持つ天女の衣のイメージに合致する。自画自賛だが、能の伝統的な空間にこのクバヤはしっくり収まったような気がする。衣装がバティック・クバヤの組み合わせになったので、頭部はバングン・トゥラッという髪型にした。これはスラカルタ宮廷に入る時の髪型である。

ちなみに、能舞台での上演ということで足袋を履く前提だったが、他の能舞台の中には舞台に敷物を敷いて素足での上演に対応している所もある。実は、私も当初は館主とそれを検討した。実際にそうしている能舞台に連絡したり、敷物の見本を取り寄せたりしたが、最終的には舞台には何も敷かずにそのままでいこうということになった。というわけで床でなく衣装の方を変えたのである。

 ●つるつる、揺れる、冷える能舞台

能舞台はつるつるに磨き上げられているのでよく滑る。ちなみに能舞台は年に何度か牛乳で磨き上げるのだと大澤館主が言っておられた。能舞台というのは維持するだけでも大変なのだなあとつくづく思う。そのつるつるの舞台でスリシック(爪先立ってやや小走りに移動する)やケンセル(横に滑る)をすると、ちょっと足が取られそうに感じる時がある。今回のスリンピ上演はスラカルタ王家の通常テンポよりゆっくり目なのだが――私の好みでもあるし、今回の演奏陣のバランスがちょうどよくなるテンポでもあった――、公演後、踊り手同士でテンポがゆっくりで踊りやすかった、滑らないようにと緊張していつもよりも足が疲れたという話になった。スリ足とゆったりしたテンポはつるつるの床で舞うには必然なのかもしれない…という気がする。

また、4人一緒に能舞台に載って気づいたのが、意外に舞台の床が振動することである。今まで1人でしか舞ったことがなかったから気づかなかった。宮廷女性舞踊では足を上げることはないが、それでも4人揃ってスリシックやケンセルで移動すると、床から足元へ腰へと揺れが伝わってくる。特に、床に直に座るシルップと呼ばれる場面ではなおさらである。揺れるのは、音響効果のため能舞台の床下が空いているからだろう。そういえば、以前、豪華客船でスリンピを踊った時も、シルップの時に波の揺れが伝わってきて酔いそうになったことを思い出した。

舞台で足元が冷えるのも、床下が空いているからだそうだ。特にリハの日は前日までより冷え込んだせいか、足袋を履いてしばらくするとすぐに足の指がつって、踊り手は皆苦労した。公演の日はわりと暖かかったようで、冷えあがってくることはなくほっとした。

 ●演奏席

ガムラン楽器だが、歌い手やルバーブ(胡弓)、グンデル、ガンバンなど、柔らかい音色で旋律を細かく装飾する楽器は舞台横の地謡座に、太鼓やサロン、ゴング類など重くて主旋律を主に担う楽器は舞台下に配した。もとより地謡座には楽器は全部収まりきらないし、上に書いたように舞台床下は空いているから、重い楽器はできるだけ上にあげたくない。舞台(舞踊スペース)は空けたいし、背後の松はきちんと見せたい…ということで館主に相談すると、観客席が外せるという。というわけで、地謡座に近い辺りの観客席を外して台を設置し、そこに楽器を配置した次第。演奏者が2か所に分かれるのは演奏しづらいのだが、仕方がない。

というわけで、試行錯誤の過程やら能舞台と取り組んだ記憶も少し書きとどめておきたいと思って今月も公演話になった。

水牛的読書日記 2021年11月

アサノタカオ

11月某日 ある読書会で出会った方がお亡くなりになった。病気であることは知っていた。かつてともに読んだ本を開いて、その人の声を思い出す。これからも。ありがとうございました。

11月某日 韓国文学翻訳院の主催、小説家のチョン・セランさん、津村記久子さんのオンライントークを高校生の娘と視聴した。司会者の発言を受けて「そうかな? チョン・セランの「リセット」は暗いだけの小説じゃないよ」と娘がとなりで。「最後には希望もある」と。ぼくは「リセット」をまだ読んでいないので、よくわからない。この作品は『声をあげます』(斎藤真理子訳、亜紀書房)に収録されている。

11月某日 『現代詩手帖』2021年11月号を購入。特集は「ミャンマー詩は抵抗する」。今年2月、ミャンマーで起こった軍事クーデター。2019年にミャンマーを旅した妻とともに、一連の報道を注視していた。SNSを通じて、軍事政権に抵抗する民主化運動の前線に詩人がいることも伝え聞いていた。いてもたってもいられない気持ちで詩誌のページをひらき、3月3日、デモに参加して治安部隊に射殺されたケイ・ザー・ウィンの詩「獄中からの手紙」を読む。詩人の四元康祐さんによる訳。

11月某日 在日の文学者・金石範先生の小説を読む。2010年代以降の比較的近年の作品、『死者は地上に』『過去からの行進』『海の底から』(以上、岩波書店)を集中して続けて。『金石範評論集Ⅰ 文学・言語論』(明石書店)も読みはじめたところだが、これはイ・ヨンスクさん監修、姜信子さん編集によるすばらしい企画。金石範先生が70年代に発表した『ことばの呪縛』『口あるものは語れ』『民族・ことば・文学』などの評論集は、日本語環境で「ポストコロニアル」という用語が広まるはるか前に、帝国主義的な国家と歴史のイデオロギーに抵抗する批判精神の上に立ってみずからの文学や言語の思想を語るきわめて先駆的な内容だった。評論のベストセレクションがこうして一冊のあたらしい本にまとめられ、ていねいな解説や解題とともに読めるようになったことはうれしい。

関連して雑誌『対抗言論』2号のふたつの座談会を読む。康潤伊さん、櫻井信栄さん、杉田俊介さんによる「在日コリアン文学15冊を読む」、温又柔さん、木村友祐さんらによる「共同討議 文学はいま何に「対抗」すべきか?」。前者では、金石範先生の小説「虚夢譚」が紹介されていた。

11月某日 最寄りの書店ポルベニールブックストアで、「TAIWAN BOOK FAIR 閲読台湾!」の冊子をもらう。それとは別に、台湾文化センターが発行する「TAIWAN BOOKSTAR 2021」という文庫サイズのおしゃれな冊子ももらった。作家・呉明益の小説をはじめ、台湾書籍がいろいろ紹介されていて眺めているだけで楽しい。

11月某日 アメリカの作家、カレン・テイ・ヤマシタさんが全米図書賞のthe Medal for Distinguished Contribution to American Lettersを受賞。おめでとうございます。同賞は過去にトニ・モリスン、レイ・ブラッドベリ、アーシュラ・K・ル=グウィンら錚々たる作家が受賞している。カレンさんは受賞後のオンライントークで、アジア系アメリカ人の作家としてはじめて同賞に選出されたマキシン・ホン・キングストンのことから語っていた。マキシン・ホン・キングストンの小説については、藤本和子訳で『チャイナ・メン』(新潮文庫)がある。

ぼくは20年来、カレンさんと親しく交流していて、彼女のエッセイ「旅する声」(『「私」の探求』[今福龍太編、岩波書店]所収)と小説「ぶらじる丸(抄)」(『すばる』2008年7月号)を今福龍太先生と共訳している。カレンさんの小説の日本語訳は、本としては『熱帯雨林の彼方へ』(風間賢二訳、新潮社)1冊のみ。『ぶらじる丸』と『オレンジ回帰線』(これはめちゃくちゃおもしろい小説!)は抄訳のみあるが、ほかの作品も翻訳出版されるとよいなと思う。

11月某日 妻が10日ほど旅したので、その間、Netflixで韓国ドラマを集中して鑑賞した。『秘密の森』『補佐官』『イカゲーム』『マイネーム』『地獄が呼んでいる』『調査官ク・ギョンイ』……。凝りだすととまらない。韓国映画も含めて昼夜のべつまくなしに映像を見まくって、これが「ネトフリ廃人」かと思った。
東京・新大久保のコリアタウンへ娘と繰り出し、『イカゲーム』に登場した「タルゴナゲーム」を実地調査。カルメラ焼きみたいなお菓子にさまざまな模様の型をおしあて、爪楊枝や針などできれいにくりぬいたら勝ち(?)、という韓国の遊びらしい。傘の模様にチャレンジしたが、途中でぱきんと割れてしまう。ドラマの中ではこの瞬間、射殺される。無念。

11月某日 明星大学の日本文化学科で「編集論」のゲスト講義をおこなった。この授業は、先輩の編集者・竹中龍太さんが担当。詩人・山尾三省の本の生誕80年出版企画を素材に、本をつくることと場所を知ること、編集とフィールドワークの関わりについて話した。リアクションペーパーを見ると、学生のみなさんに話の内容は伝わっているようでひと安心。多摩センター近くの大学キャンパス周辺の紅葉がきれいだった。

講義を終えた夜、「もしかしたら」と京王線分倍河原駅で途中下車。かねて訪ねたかったマルジナリア書店へ行くと、さいわいオープンしていた。拙随筆集『読むことの風』(サウダージ・ブックス)が棚に並んでいてうれしい。よはく舎刊行の『YOUTHQUAKE U30世代がつくる政治と社会の教科書』を購入。自分とU30世代の娘のために。

11月某日 突然の訃報がまたしても。長谷川浩さんがお亡くなりになった。ぼくは編集者の長谷川さんのお誘いで、『Spectator』などいくつかの雑誌で文章を書かせてもらった。むかし住んでいた神奈川県葉山町の一色海岸でともに遊ぶ人としても、お付き合いしていた。やさしい人で、いつも幼い娘と遊んでくれた。思い出の中で、夏の海、シーカヤックに乗って沖をゆく子どもと長谷川さんの姿がきらきら輝いている。

長谷川さんは下北沢の対抗文化専門カフェ・バー&古本屋である気流舎の運営メンバーでもあり、お店で偲ぶ会が開催されるとのことで訪問。祭壇に置かれた革ジャン姿のかっこいい遺影に手を合わせた後、久しぶりに会ったメンバーとおしゃべりし、棚の本を眺めた。長谷川さんは長年、集英社で仕事をし、90年代に文芸誌『すばる』の編集にもたずさわり、のち編集長に。ずらりと並ぶ長谷川さんが手がけたバックナンバーがなつかしい。学生時代に熱心に読みこんだ特集の数々、ある意味ぼくは「長谷川チルドレン」だったのだ。長谷川さんは書籍編集者としてもワールドワイドに活躍し、『神経政治学』のサイケデリック心理学者ティモシー・リアリーからミハイル・ゴルバチョフまで交流のふり幅の大きさにも驚いた。

不思議と本の話をしたことはない。まして出版社での仕事の話は一度も聞いたことがない。一色海岸で少し猫背の後ろ姿に声をかけると、長谷川さんはいつも「ああ、アサノさん」と片手を上げてはにかんだ笑顔でふりかえった。夏の夜、おたがいの旅の話をしながら、ビールを片手に浜辺のバーのとまり木に腰を下ろし、打ち上げ花火を眺めたこともあった。おーい、長谷川さん。そのうち彼岸のバーでまた会えますか。でも、本の話をするのは、やっぱりやめておきましょうね。生きているあいだに、ぼくらはもういやというほど読んで読んで読んだのだから。

11月某日 宮内勝典さんの待望の新作長編小説『二千億の果実』(河出書房新社)が届く。『文藝』での連載を毎回、興奮しながら読んできたが、いよいよ一冊の本に。年末年始に全身全霊を捧げて読書したい。2005年に刊行された宮内さんの小説『焼身』(集英社)はもともと『すばる』に連載され、当時編集長だった長谷川浩さんが編集を担当したのだった。

言葉と本が行ったり来たり(3)『ロボ・サピエンス前史』

長谷部千彩

八巻美恵さま

以前、お話ししたことがあるかもしれませんが、若い頃、私は自分で作ったパソコンを使っていました。身近にそういった趣味を持つ友人がいて、プラモデルみたいなものだよ、と言うので、それならば、と自作するようになったのです。
ケースを選び、CPUを選び、メモリを選び、グラフィックボードを選び、作業の半分以上はパーツ選び。そこから先は本当に簡単で、言葉通り、プラモデルを組み立てる要領です。不要なパーツが出ると、新たにパーツを加え、パソコンをまた別に組み立てて、頼まれもしないのにひとにあげたり。作ることがとても楽しかったのです。
ですから、八巻さんからいただいたお手紙の“パソコンはなくてはならない道具だけれど、単なる道具という閾をとっくに超えてしまっているのに、その芯の部分のようなところがわたしには理解不能です。”という一文を読み、私はパソコンを電動自転車のようなものと捉えているけれど、それは私にとってパソコンがブラックボックスではないからかもしれない、と思いました。

私に自作を勧めてくれた友人は分解マニアでもありました。ゲーム機など新機種が発売されると入手して、ケースを開けて構造を確認するのです。型番違いのものも調べたいと言うので、私のゲーム機を彼のゲーム機と交換したこともあります。中を見たくて仕方がないようでした。
東京を離れた彼とは疎遠になり、いまは連絡先もわかりません。でも、当時の彼は私にとって頼れる友達で、パーツを買いに秋葉原へ同行してもらったことなど懐かしい思い出です。
バイク便のライダーの彼とブランド物で身を固めた私は、傍目には奇妙なコンビだったかもしれません。けれど、私も洋服を買ったら、必ず裏返しにして仕立てを確かめるし、訪れた国の政治情勢がどうなっているのか調べたくなるし、いま思えば似たもの同士だったのです。
解体したり、裏返したり、構造を確かめると、それに対する認識がダイナミックに変わるというのは、ひとつの事実だと思います。あえて知らないままにしておくという選択もありますが。

今月読んだ中で面白かった本は、島田虎之介さんの『ロボ・サピエンス前史』。SFコミックです。ロボットの数が人間の数よりもはるかに増えた未来が舞台。ロマンティックで素敵なストーリーなのですが(そしてせつない)、私が「いいなあ」と思ったのは、メインキャラクターがロボットということもあり、台詞が少なく、表情が極端に抑制されているところです。
一般的に表情が豊かというのは良いことのように語られます。でも、その豊かな表情が必ずしも感情をそのまま表しているわけではない。例えば、人間の笑顔の半分ぐらいは、円滑に会話を進めるため、敵ではないことを示すために浮かべているものではないでしょうか。少なくとも私はそうです。
では、恣意的に選んで顔に載せる表情、他者へのメッセージとしての表情を排したら――?感情の表出だけに表情を浮かべるなら、案外人間も淡々としたものかもしれない。内面では多くのことを感じながらも、言葉にするのだって実際はほんの少しですし。そんなことを常々考えているので、笑い転げたり、泣き出したりしない、わずかな表情だけを使い分けて生きるロボットのほうに、私はむしろ裸の人間の姿を見たのでした。
作中、核廃棄物が無害化するまで、25万年もの間、ひとり静かにロボットは貯蔵施設の管理を勤めます。ひとは物語が好きだから、一生をドラマティックに綴りたがる。それはきっと欲望のひとつですよね。けれど、神の視点で見下ろせば、人間もそのロボットと同じように、80年なのか90年なのか、孤独の中を粛々と生きているのかもしれません。

今年も残すところあと一ヶ月。八巻さんに紹介していただいた『センス・オブ・ワンダー』は、年内中に読もうと思います。次の手紙には感想を書けるかしら。
東京もだいぶ冷えてきました。風邪など引かぬようお気をつけ下さい。
それでは、また。

長谷部千彩
2021.11.30

 
 
*編集部註:言葉と本が行ったり来たり(2)『センス・オブ・ワンダー』(八巻美恵)は長谷部千彩さん主宰のサイト、memoranndom.tokyoに掲載されています。まさに、行ったり来たり、です。

木立の日々(3)「コンセントを抜かれたテレビ」

植松眞人

 携帯電話が鳴ったのはちょうどバイト先のホームセンターの前だった。シフトが入っていなかったので、久しぶりに食料品を買いだめしておこうと隣町へ向かって車を走らせていたときだった。
 車をホームセンターに入れて、電話に出ると声の主は「今日、はいれる? ねえ、はいれる?」と聞いてきた。話の筋が飲み込めないのと、声が慌てふためいていて、誰だかわからなかったので、最初木立(こだち)は間違い電話だと思った。
「すみません。間違いだと思うのですが」
 木立がそういうと、電話の向こうの声は、
「木立でしょ?」
 と、いつもの林さんの声で聞いた。
「あ、そうです。どうしたんですか」
「とちったのよ。バイトのシフト表。それで、今日、誰もいないの」
「誰もいない?」
 何のことかわからずに木立が繰り返すと、明らかに少しいらついた様子で林さんは、
「だから、私がシフト表の記入をとちったのよ。で、今日来てみたら、誰もいないの」
「あ、そういうことですか」
「そういうことですかじゃないわよ」
 そこまで聞いて初めて、最初の声が慌てふためいていた意味がわかった。
「ねえ、今日、はいれる?」
「わかりました。はいれますよ」
 木立が答えると、林さんはとても長く行きを吐き出した。身体のなかのいろんなものを長く一息で吐き出してしまいたい、という感じがした。
「いま、どこにいるの?」
「店の前です」
 そういうと、木立は店の従業員入口のほうを見た。すっとドアが開いて、携帯電話を耳に当てた林さんが木立のほうを見ながら出てきた。

 新人用にストックされていた制服に着替えてフロアに入ると、なぜかクビになったはずの中村くんがいて、木立を見つけると手を振ってきた。その仕草があまりに自然だったのと、笑顔がとても爽やかだったので、思わず木立も手を振り返してしまったのだけれど、手を振りながら、あ、間違った、と顔が赤くなっていることに気づいた。すると中村くんは私が久しぶりに会って恥ずかしがっているのだと勘違いしたのか、まるで足元にセグウェイでも付けているかのように自然に近寄ってきた。
「お久しぶりです。元気でしたか」
「元気だよ。というか、なんでいるの?」
 木立が聞くと、中村くんは一瞬、ホームセンターの天井を見上げてから、口元に意味ありげな笑みを浮かべていた。
「だって、あんなに慌てふためいてたら放っておけないじゃないですか」
「林さんから電話がかかってきたの?」
 木立が聞くと中村くんは、小さく「あっ」と声をあげたのだけれど、それはちょっとわざとらしくて、何かをバラそうとしていることがわかった。
「電話じゃなくて、顔を見てたからね」
 そういうと、中村くんは木立の顔をのぞき込むようにじっと見つめた。
「顔を見ていた」
 木立は中村くんの言葉を繰り返した。林さんの慌てふためいた声を聞いてから、ずっと時間がふわふわとしている。そして、いま中村くんの口から出た、顔を見ていた、という言葉が急に質量をもって木立のお腹のなかに落ちてきて、息ができない感じになった。
「ここのバイトをクビになった日から、ずっと林さんのところにいるんだよね」
 中村くんはまるで、自分が盗もうとしたマキタの工具がまた入荷したんだよね、という感じで話すのだが、木立にはもう彼の声が自分を避けているかのようにとても小さくしか入って来ない。そこに、林さんがやってきた。林さんは私を見てほっとした表情を浮かべたのだけれど、すぐに中村くんがいるのを確認すると、また表情を引き締めた。そして、木立と中村くんの前にやってきて、話始めた。
「おはようございます。今日は急に申し訳ないです。ちょっと不手際があって、人が少なくてすみません。でも、平日なのと、後から応援も来てくれるのでなんとかなると思います。ただ、今日から始めるイベントがあって、どうしてもアルバイトを揃えなくてはいけなくて…」
 林さん曰く、今日は家電メーカーが新たに開発した家庭用の調理器具の発売イベントがあるのだという。大手の販売店ならメーカーからたくさんの人が派遣されてきて、店舗のスタッフはセッティングをするくらいなのだが、この店は中堅どころなのでそういうわけにもいかない。目標を設定され、しかも、メーカーからはほとんど人がこない。今日は木立と中村くんがいるだけだ。店舗入口を入ってすぐのところにあるスペースには昨日のうちに運び込まれた大型のテレビがあり、そこに新しい調理器具の広告動画を流すらしい。林さんに言われ、中村くんが油をほとんど使わない唐揚げをつくり、木立がそれをお客様に配るという段取りが決まった。
 説明だけをすると林さんはほとんど木立とも中村くんとも目を合わせないで、どこかへ消えてしまった。
「ああいうところ、かわいいよね」
 中村くんは木立に言う。木立は何も答えない。
 まだオープンまで少し時間はある。木立は中村くんに聞きたいことが山ほどあったけれど、まずは今日を乗り切ろうと、中村くんのいうことはすべて受け流すことに決めた。そして、まだ時間があるというのに、勝手に唐揚げをつくり、一人で味見を始めた中村くんを無視して、チラシやカタログ、商品の在庫チェックをし始めるのだった。いつも通りのことをしていないと、なにか失敗をしでかしてしまいそうだったからだ。
 木立は大型テレビの横に置いてあったDVDのディスクをプレイヤーに挿入してみた。うんともすんとも言わない。おかしい。木立はDVDを入れ直してみたり、ディスクに傷がついていないか見てみたりしたのだが、原因がわからない。散々、慌てたあと、急に思い立ってテレビの裏側に回ってみると、コンセントが抜かれていた。ほっとしてコンセントをいれようとする木立を隣で中村くんが笑ってみている。
「朝来たら、めちゃくちゃ大きな音でかかってて。あんまりうるさいもんだから、コンセント抜いちゃったんですよ」
「コンセント抜かなくてもスイッチを切るとか他に方法があるじゃないですか」
 木立が言うと、中村くんはさっきよりも大きく笑っている。
「なにか、おかしい?」
「ほら、ぼくたちの世代は、テレビ消えてたらコンセントが抜けてるのかあ、と思って裏側見たりするけど、木立さんとか林さんの世代って、テレビが消えたりするとまず叩きますよね。面白いなあ、と思って」
「叩かないよ」
「さっき叩いてましたって。もう忘れたんですか」
 そう言って笑う中村くんに、木立は一瞬、カッとしたのだが次の瞬間には身体の力がすっと抜けてしまい、中村くんには何を言っても無駄なのだと思った。そして、もうこいつとは話さないという気持ちを確かめるように強くテレビのコンセントを差し込んだのだった。(続く)

『アフリカ』を続けて(6)

下窪俊哉

 先日、1週間ほど、「活字の断食」をやっていた。その期間は一切本を読まず、新聞や雑誌も見ず、SNSからも離れ、インターネット・ニュースも見ない。初めてやった時には多少の怖さがあったが、いまは「やれば、スッキリする」ことを知っているので、やろう! と決めたら、少しワクワクする。
 普段からあまり読まない人がやっても意味ないだろうが、自分のように、いつだって何かしら読んでいるような人がやるから効果がある。「読む」以外のことはいつも通りなのだ。「聴く」はもちろん「書く」もじゃんじゃんやってよい。
 ただ例外として、メールのやりとりをして送られてきたものを読むのはよし、日々の仕事に支障が出るから。原稿を読むのもOK、原稿は「取り組む」ものだから(というのは屁理屈かもしれないが)。
 その「活字の断食」を始めて数日すると、いま世の中で何が起きているのか、さっぱりわからないという気分になる。こうなるのは、いとも簡単なことなのだ、と思った。SNSがないせいだろうか、ニュースを見ていないせいだろうか、とても静かだ。
 テレビは10年前に捨てた。ラジオはいつものように聴いているが、音楽番組が中心で、その合間にラジオ局が伝えてくるニュースの情報量はとても少ない、というより音でそれを取り入れる習慣をこちらがなくしてしまっているのかもしれない。と思いながら聴いていると、詳しい情報はホームページを見てくださいなどと言う。
 本はどうかというと、たとえば手元に長く置いてあるような本は、もうそのページを開かなくても、いつでも読んでいるような気がするから不思議だ。

 本や雑誌をつくる編集の仕事にもいろいろなことがあると思うが、『アフリカ』編集人の仕事は、まずは何をさておき「読む」ことである。
 どうやって読むか? まずは送られてきた原稿をただ読むのだが、いまはメールで、データで送られてくることばかりなので、それを手元にある適当なフォーマットに流し込んで、プリントして読む。パソコンやスマホの画面で読むことをしないのは、なぜだろう? つくるものが紙の、印刷物だからかもしれない。あるいは、紙にインクを染み込ませて読まなければ、何かしらの力が出ないと感じているところもあるかもしれない。
 とにかくそれをまず読む。最初は通しで読んでみて、唸ったり、笑ったりする。それからまた読む。今度は鉛筆を持ち、メモをとったり、線を引いたりしながら。そこには「考える」という行為が入り込んできている。満足するまでくり返し読む(長い原稿だとくり返しの回数は落ちるが、それでも部分的には何度も何度も読み返している)。それから、書き手に返信のメールを書く。
 自分の中の「読む」も一定してはいない。いまはよく読めると感じる時もあれば、まったく読めないと感じる時もある。常に揺れている。揺れが大きい時はしんどいが、頑張って読んでいると読めてくることがあるから諦めずに読む。読み終えて、しばらくたってから再び読むと、そこに以前とは違う風景が立ち上がっているというふうなことも、本を読む人にはよくあることだろう。『アフリカ』の編集人が最初に読むのは書きたてホヤホヤの原稿である場合が多いので尚更、その最初に読むという行為の中にしかないものが、ありありと感じられる。熟成されていない、生に近い状態で、整えられてすらいない。
「どう読んだか?」を書くことは、「読む」を深めているような気がする。書かなければ読めなかったような要素すら出てくる。しかし「書くために読む」ようにばかりなると、それはそれで奇妙なことになりそうだ。「読む」と「書く」はいつも、行きつ戻りつしている。

 今回、「活字の断食」をやっている期間中、ある人たちと行った座談会の原稿に取り組んでいた。たまたま「断食」初日の朝に、メールで送られてきたのだった。
 その人たちが言う「ZINE」という呼称に、いまだ自分は慣れないのだが、彼らは自然とそのことばを使う。いまは「ZINE」をつくる人たちがたくさん出てきていて、『アフリカ』や私のやってきたことは先駆的だというふうなことも言われている。そう言われて嬉しくないわけではないが、奇妙な感じも受ける。だって、自分にも先達はいて、ミニコミは今も昔も変わらずたくさんあるように見えるし、文学をやる人たちが自分たちで雑誌をつくる文化だって、ずっと前からあったのだから。
 考えてみれば、SNSの隆盛によって、以前からあったその文化が多くの人たちに知られるようになったという側面もあるだろう。知らなかっただけでしょう、と。しかし一方で、この数十年、作家とはコンテスト(新人賞)によって生まれるものだという認識がひろまりすぎたという側面もあるのではないか。
 この数年、文章教室や読書会などのワークショップをやっていて、いろんな人が来てくれるが、その中には「書くからには新人賞をとってデビューしなければ」といった話をする人も時折いらっしゃるのだ。書いているものがあって、応募するのは自由だからやればいいと思うが、「新人賞をとれなければ書き続けられない」というのはどういうこと? という話をしたこともある。

 25年くらい前、『ラジオ英会話』のテキストで、青山南さんの連載を毎月楽しみに読んでいた。それは後に『アメリカ短編小説興亡史〜とめどもなくあらわれるアメリカの短編小説をめぐる、めどもなくあられもない断片的詳説』という単行本になり、さらに後年、平凡社ライブラリー『短編小説のアメリカ52講』にもなった文章だが、その中に「プッシュカート賞」(小出版物からのみ選ばれる年間ベスト)をつくった人の話が出てくる。いま、久しぶりに本を出してきて確認したのだが、ビル・ヘンダースンという人で、彼は20代の大半を「一冊の小説を書くため」に費やし、出来上がった小説を出版社に送りまくるが、全て断られてしまう。そこで彼は、もっと良い作品を書いて再挑戦しようというふうにはならず、「太っ腹の伯父さんの協力」を得て、つまり資金援助を受けて自分で出版社をつくり本を出してしまう。初版は2000部で、500部が売れ、残りは「ベッドの下に積み上げた」らしい。
 その後の行動が面白い。さて次は、小説の二作目ではなく、「じぶんの本はじぶんで出せばいい」のだという自分の経験を書いて本にしようと考えた。図書館で調べたら、「エドガー・アラン・ポーもウォルト・ホイットマンもアプトン・シンクレアもジェームズ・ジョイスもアナイス・ニンも、みんな、じぶんの本はじぶんで出しているのがわかった。それはおおいに励みになった」。読んでいると、その姿が自分の若い頃に重なる。
 自分だけでなく「いろいろなひとの体験談も集めよう」「この本もじぶんで出そう」と決めると、彼はアナイス・ニンに手紙を書いた。まずもらえないだろうと考えていたニンの原稿が届いた日の、彼の感動が伝わってくる。「あなたの本は求められています」と書き添えてあったそうだ。いまから約半世紀前の話である。
 ニンが若い頃、「じぶんの本を、文字通り、手作業でつくっていた」話も、青山さんのその連載で初めて知ったのではなかったか。その時、私はまだ10代だった。
 そんなエピソードを読んだ経験に支えられて、やってきたのかもしれないと、いまふり返って思う。

コヨーテとオサムシ

管啓次郎

書かれたことのなかった話を知っていますか
書かれたことのなかった話を知らなければ
この世のことは何もわからない
だがその話はよく聞こえない

書かれたことのなかった話を
いま自分が初めて書くとすると
それはどんなに震えるような経験だろう
文字だってぶるぶる揺れる

その話は語られたことはあるのだ
語りはくりかえし続いてきたのだ
誰が最初に語ったのかはわからないし
そんなことは誰も気にしない

けれども文字にするとき?
書かれてしまえば話としてはいったんおしまい
線を刻んだり記したりした後で
文字が煮えるのを待たなくてはならない

文字が音をたてて騒ぎだし
弾けるようにそこから声が出てくるのを
息をひそめて待つ
ときには目を閉じて

話は声だが文字は沈黙
沈黙をまた熱して
ひゅーひゅーと叫ばせてみたい
そのための文字だ

そのために折角
鳥や亀に学んだのだから
蜜蜂のダンスや
ナマケモノの動きも習ったのだから

そこで早速はじめるなら—
たとえばコヨーテとオサムシの話です
ご先祖たちはやってきて
「まんなかの蟻塚」あたりに住みはじめた

この高原砂漠は太陽の土地
森なく日陰なく
ジリジリと地面が焼かれる
そこい蟻塚が立っている

話を聞かなければすぐにわからなくなる
いろいろなことがわからなくなったから
思いだす必要があった
よく聞くんだ、目を閉じて

いまの子供であるおまえたちだって
オサムシは見たことがあるだろう
今のオサムシだって
昔のオサムシとおなじものなのだ

それが不思議なところだ
不思議だと思わないおまえはバカだ
かれらは百万年前だってほとんどおなじだったのだ
それはどれほどえらいことか

かれらが人間よりえらいということが
わからない人間はバカだ
この世には変わることと
変わらないことがあるのだ

オサムシは乾いた地面をちょこちょこ走る
そうやって春と初夏をすごす
どんどん強くなる太陽のもとで
脚で空を蹴りつつ

地面に割れ目や穴があったら
どんどん潜っていく
知っているだろう、見ただろう
かれらは恐れを知らない

むかしの話をします
あの黒い塩の山にむかう道で
むかしのあるとき
オサムシが一匹

太陽を浴びながら走りまわっていた
日光を苦にしない強い生き物だ
何を求めているのやら
オサムシに必要なものを探しているんだね

そこにコヨーテがひょこひょこと
小走りにやってきた
それがやつらのやり方だ
身についた生き方だ

耳を立て鼻面を地面につけて
首をぐっと低くすると
オサムシにむかってちょちょいと前足を出した
そして「は!」というんだ

「おまえを齧ってやろうかな」
オサムシはただちに頭を地面につけて
とがめるように触角を一本ふりかざし
ありったけの大声でこういった

「待った、待った、ともだちよ!
ちょっと待ってくださいよ!
お慈悲ってことを知らないのかい!
あのね、この下からじつに妙な音が聞こえてくるよ!」

「へん!」というのがコヨーテの答え
「何が聞こえるんだ?」
「しっ! しーっ!」と頭を地面につけたまま
オサムシはいった。「聞いてごらんよ」

そこでコヨーテは一歩下がり
じつに熱心に耳をすました
やがてオサムシは長い安心のため息をついて
身を起こした

「オクウェ!」とコヨーテがいった
知らない言葉なので
意味もわからないので
その通りに書いておく(それが文字の強み)

「いったい何だった?」
「よき魂よ、われらをお守りください」
とオサムシが頭を振りながらいった
「かれらがいってたのが聞こえたよ

この土地で道を汚した者は全員
狩りだし徹底的にこらしめてやるってさ
どうやらそのための
準備に大わらわらしいね」

「わが祖先たちの魂よ!」とコヨーテが叫んだ
「まさに今朝方、道路をうろうろ歩いていてね
あちこち汚しちまった
まずかったかな

おれはずらかろう!」
そういってコヨーテは全速力で逃げていった
オサムシはすっかりうれしくなって
宙返りをしようとしたところ

頭を砂につっこんでしまった
それからやっとの思いで
体を立て直したんだっけ
コヨーテに齧られなくて一安心

こんなふうにしてむかしのオサムシは
食われちまう身をみずから救ったのさ
運命を変えたんだね
地面の下の方たちの力を借りて

また、こうしてオサムシはあの妙な
癖を身につけたというわけだ
頭を砂につっこみながら
両脚で宙を蹴るってやつだね

もがいているみたいだが
そうでもない
あれはやつらの生存ダンスなのさ
手短にいえばそういうこと

このコヨーテとオサムシの話は
ズニの村に伝わる話を
フランク・カッシングが
聞き取って文字にした*

ぼくはこの話を聞いたことがない
そもそもズニの言葉がわからない
英語に変換され文字に記された
何かをおぼろげに了解しただけ

理解は誤解
いろいろなものが紛れ込む
空耳、空目、空想、想像
話は変わる

文字にしたって変わるのだ
それが話の強みです
なぜなら話は捉えようとしているからだ
まるごとの時間と空間を

三十年前のある夕方、ぼくはズニの土地に立ち
斜めからさす夏のオレンジ色の陽光の中
川沿いに燃える緑を目で吸いながら
生き返っていた

そこにコヨーテがやってきた
あのひょうひょうとした足取りで
何かいいもの/ことはないかと
土地を探っていたんだね

コヨーテはぼくに気づき
そこにすわって大あくびをした
犬とまったく変わらないな
少しすると行ってしまった

でかすぎて齧るわけにもいかないし
何かくれそうにもないし
言葉も通じないと
あきらめたんだろう

それがズニの土地の思い出
話したことも書いたこともなかった
ただ文字という貝殻を
寄せ集めるようにして今これを記す

手短にいうと
そういうこと

*“The Coyote and the Beetle” in Frank Hamilton Cushing, Zuñi Folk Tales (1901).

優しい地獄(上)

イリナ・グリゴレ

5歳の娘は寝る前にダンテ・アリギエーリの地獄の話を聞いてこう言った、「でも、今は優しい地獄もある、好きなものを買えるし好きなもの食べられる」。彼女が資本主義の皮肉を5歳という歳で口にしたことにびっくりした。それは確かに「優しい地獄」と呼べるかもしれない。彼女の言葉が私の中に何日も響いた。この文書を書く時も、彼女は隣の席に座って、スーパーで買った蜜柑の皮を細かく剥いて美味しそうに食べている。

次女も皮を剥き始めて、細かい皮のかけらをテーブルの下に普通に捨てている。彼女の感覚が現代人から少し離れているからなのだ。いくらマナーを教えても3歳の子供は現代人と呼べないところがある。3ヶ月ほど前の休日に、娘たちを森に連れて行くというと、次女は大喜びして、車に乗った瞬間に2分ごと「森についた?」と聞く。森までは40分かかると言っても、まだ町の中で信号待ちをしていても、「ママ、ここは森?」と聞くのだ。私は娘に教えた。「ここはジャングルだよ。人間の作ったジャングルだよ、町ともいう」というと納得した。ジャングルという新しい言葉の音に納得しただけかもしれないが、しばらく森についたかどうか聞かなくなった。

車が森に近づいていくと、山の中で夏の激しい雨が降り始めた。東北の夏によくあるパターンだ。朝の晴れが夢のように感じる夏の雨、冬の吹雪が起きる不思議な天気に未だに慣れない。雨の中をしばらく進むが、この天気だと森の中のハイキングが非常に難しいと判断して、家に帰ることに。次女がちょうど15回目の「ママ、森はどこ?」と言ったあたりだったと思う。山から降りて、町の入り口のコンビニでトイレ休憩しようと駐車すると、次女は「森についた!」と大喜びだ。コンビニと森の違いを説明しても通じないと思いそのままにした。彼女は嬉しそうに森の実、グミとおにぎりを収穫した。ママはフライドチッキン狩りをして車に戻った。長女のいう「優しい地獄」ではなんでも食べられる、優しさに溢れた森なのだ。遺伝子組み換えのアメリカ産のとうもろこしでできている森だ。

私が子供だったとき、本物の森のキノコと野イチゴを食べていたが、誰も測ってないチェルノブイリの放射能がきっとたっぷり掛かっていたので、ここ最近、無農薬とオーガニックの食材を手に入れるのをやめ、地球の空気に触れること自体から考え直すことにした。それはそうだ。蜜柑の種を植えてもミカンにならないし、大事に育てても、大きな植木を植え替えても、実になったとしても、農家で大事に育った蜜柑の味にならない。だから農薬がかかっていても食べる。りんご農家の女性を一年以上調査した。40回以上りんごに薬がかかっても彼女の畑で取れたりんごはこの世のものと思われないぐらい美味しい。人間と自然の対立ではなく、彼女のりんごの木に対しての優しさをずっとカメラに収めて、人間も自然の一部だとよくわかった。木も人間社会もコンビニのおにぎりも近代の産物なのだ。なので、次女がコンビニは森だと思うことも間違ってないかもしれない。未来の森にはコンビニの中でしか出会わない可能性が高いから。綺麗な空気を吸うためコンビニの森に行こうというC Mが目に浮かぶ。空気が大手企業の資本になるから、渋谷の大きなスクリーンに先ほどの家族の休日の過ごし方がきっとC Mとして流れる。

でも、そんな未来があるとしたら、もう一つの「優しい地獄」からも解放されたい。それは私から見た女性の身体で生まれる「優しい地獄」である。もし性別を選ぶボタンがあったら、私は迷いなく「男」という「ブルー」のボタンを選ぶ。その時も女の子はピンク、男の子はブルーが色で区別がまだあるだろう。ここ一年前から、自分は「男になりたい」想いが強くなっている。ある日、女性の服より男の服が好きだと感じた。ジャージ姿、ラッパーのような格好が一番お気に入り。運転するときも、酒を飲む時も男の仕草を真似する。ある日、どうしてもトイレに行きたくなって、知らないレストランの駐車場に車をとめて急いでトイレに入った。壁は濃い緑、ほぼ青だったことと、トイレに入ってから私の後に入った人がした音が、身体の大きさなどと動きがどう考えても女性ではないことがわかった。一瞬だけ私の脳が味わったことのない混乱を感じた。もしかしたら、私は今、男性用のトイレに入っている。でも、混乱は男性用トイレに入っているせいではなく、一瞬、男性、女性と何か分からなくなったからだった。その時、粘菌の気持ちがわかった。植物でもない動物でもない性別もない生き物になった。そしてすごく開放感を覚えた。後に入った人が出るまで待って、(そっちの方がびっくりするだろうと思った)外に出たら、ドアに青い男性の姿が描いてあった。それでも私の勘がおかしくなったと信じることができなくて、赤い女性の姿が描いてあったドアを開けて、明るいピンク色の女性用トイレの眩しさに触れ、て事実を受け止めた。

なぜ、男性になりたいのか。それはこの人間社会では男性の方が楽だからと私の身体が感じ取ったからかもしれない。子供を産むこと以外、この身体で生まれたてよかったと思うことが一度もない。私の身体の個人史を繰り返しても、授業のためにここ最近様々な女性の個人史を聞く機会があったが、私も含めて明るい笑顔の裏に差別、たまに暴力、いじめの歴史が隠れている。もちろん、男性からの差別だけではなく、女性からの差別といじめもある。でも男性だったら、なんて楽と私のミラーニューロンが反射し、男の服を通販で買う。高級和食レストランのカウンターで働いていた友達が「女の作る刺身が美味しくない」とお客さんから言われた話を聞くと、女性の作る刺身と男性が作る刺身の違いがわかるあのお客さんの舌が社会の作った味にどうしてこんなに敏感になったのかと考えるとこの世の料理が不味く感じる。

考えてみると、子供の時に自分は男の子のように髪の毛を短く切られて、ジャージ姿の毎日だったと思う。自分の「女性性」を意識したのは、電車の線路に縛って子猫を殺すことで村の中で有名だった同じ歳のヤンキーな男の子が、混雑していたパンを買う行列で後ろから私のお尻を触って、人混みの中で変な動きをしたことにびっくりしすぎて気絶した時だった。その時に私の身体が彼と違うことが初めてわかった。14歳ごろにはもう女の子の姿をしていただろう。髪も伸びていたしスカートが履けるようになった。村の端っこに住んでいたジプシーの一人の若い男が刑務所から出たばっかりの時だったが、私をみた瞬間に気に入ったようで、私を誘拐しようとした。村で誘拐されていた女の子がすでに何人かいたから危ないところだった。さいわい他の村の若者に守られて無事に家に戻ったが、夜になるといつ襲われるのかわからないので、枕の下に家で一番大きな包丁を置いて寝た。次の日に街に戻ってから、何ヶ月も村に戻ることができなかった。あの日も私はただただ女性だから危ないということがわかった。つまり女性はいつでも誘拐されることが私の世界にはあるし、隣の村の従姉妹が複数の男性にレイプされたことも彼女が女性だったから。もちろん若い男性も危ない時はあるけど、「女の子だから危ない」という口癖がよく聞こえた気がする。だから、子供の時から女の子でいることが大嫌いだった。

それに、ルーマニアでは家庭内暴力が普通にあった。家族の二つに一つでD Vが行われていたという。私の家族もそうだったし、小中学校のクラスの半分の家族もきっとそうだった。中学校の化学の先生もたまに左目が真っ黒になっていて、サングラスをかけて授業していた。そのせいで授業の内容に全く集中できなかった。私は医師になる夢を諦めた。化学の勉強は無駄だと思ったから。女性として医師になっても何も変わらないかもしれない。今は諦めてないけど。私の家族の中では、女性として(男性でも)博士課程まで上がるのは先祖代々私だけなのだ。この遺伝子の組み合せで博士号を持つ可能性が私だけだと思うと、女性男性関係なくなににでもなれると少し希望が湧く。それでも、ここまできても「子育てしながら博論は書けない」と言われたり、ある大学の面接で「子育てしながら仕事できる?」と聞かれたりすると、私の今まで頑張った遺伝子が落ち込む。女性だから聞かれるのか。

中学生の時、美術の授業中に突然先生は私をクラスの前に出し、横顔が「女性性に溢れてボッティチェッリのヴィーナスにそっくり」だからと言って、座らせてデッサンのモデルにされたことが大嫌いだった。その時は私の「持っている」ピークだっただろうが、高校生になってから現在までできるだけその「女性性」を隠そうとした。

アッバス・キャロスタミ監督のTenをみて、驚いた。キャロスタミがここまで女性の気持ちが分かるなんて。主人公の7歳の息子以外、男性は一人も出ない。彼女はずっと車を運転し、息子を含めて10回分の会話を重ねた結果、彼女の世界観、女性として、母親として、妻としての立場が分かる。半分ドキュメンタリー、半分Mania Akbariというメインキャラクターの人生そのまま。彼女の息子もイラン社会の男性そのものの代表に育っていて、母親の自由を激しく批判しているのだ。元夫は道路の向こうの遠くに止まった車からほとんど見えないし声が聞こえない、距離感。彼女の人生とはテヘランという街の中のノイズと激しい交通の中の目眩するドライブだ。離婚、再婚、子育て、お祈りと愛のかけらが彼女の車から溢れて世界に飛び出すのだが、Mania Akbari自身のサングラスをかけて運転する姿が、女でもない男でもないニュートラルな平地にたどり着いた綺麗な生き物に見えた。彼女はそのあとは映画監督になって、30歳で癌になって自ら自分の身体にカメラを向けた。この感覚が私の今の感覚に近いと思った。彼女は息子に「私は誰ものものでもない」と一生懸命教えている言葉が耳に残った。

ある日突然、長女は「男に産まれたらサトルという名前にして」と言った。子供はまだこれから生まれる可能性を信じているのか。その日に鯵ヶ沢の「加藤鮮魚店」というお気にいりの魚屋さんから深浦産のマグロの真赤な刺身を買って、自分で漬けた庭のラズベリー酒を飲んで食べた。赤と赤のコンビネーションが合う。あの刺身が男か女に作られたかどうか全くわからなかったけど、相変わらず美味かった。友達が話す和食屋のカウンターで働いた時の経験。生理になってもトイレに行かれないので、足に流れる赤い線を見て、女性として生きることには本当に大変な時があると思った。こうした話を集めて残したい。もう一つの赤を思い出した。次女が生まれたとき、出血がすごくて意識を失った。血圧は下がりすぎてとても寒かった。死ぬ時はとても寒いのだと覚った。異常を知らせる機械のアラート音で耳が痛くなった、やっと落ち着いた時に目が覚めた。血だらけになっていた床を見た。男性の産科医は冷静に血を拭いていた。不思議な背景だと思った。命がここから始まるのだが、それでもこのお腹は私の「自由」を奪わない。

しもた屋之噺(238)

杉山洋一

見上げると、澄み切った青空に一本、太く純白の飛行機雲がどこまでも伸びています。深秋の午後の太陽が辺りをすっかり黄金色に染め上げていて、秋は日差しこそ短いけれども、輝きの荘厳さに思わず言葉を失います。庭の向こうの眩い光線のなかで、校庭に並ぶ常葉樹がちらちらそよぐ風に葉をくゆらして、反射する光でわれわれを存分に愉しませてくれるのです。

11月某日 ミラノ自宅
ふと、自分は現代音楽や前衛音楽を、さして好きではないのだろうと考える。至極、素朴な感想ながら的を得ている気がする。
確かに昔は好きだったが、それは当時の前衛音楽が好きだったのであって、取り立てて「現代音楽」に熱中したのではなかった。
尤も、興味を覚える現代作品を見出すと、かかる作品は既に存在していて、追随はいけないし必要もないと無意識に諦める癖がついていて、夢がない。
エマヌエラの室内楽レッスンのため、階下で息子がベートーヴェン4番のヴァイオリンソナタを譜読みしている。これが終わると、次はシューマンの1番ソナタが課題だという。
川口さんの助言で、「山への別れ」の5オクターブ・フォルテピアノ版をつくる。モーツァルトの頃使われていた楽器の標準で、所謂フォルテピアノらしい音がする。

11月某日 ミラノ自宅
息子のため、カヴァッリ「カリスト」の天井桟敷チケットを取ってあったのだが、アレルギーで咳こむのが心配と言うので、結局家人と連立って二人でスカラ観劇にでかけたが、これが音楽演出ともに出色の素晴らしさだった。これほど瑞々しい音楽で、上品で愉快な演出だとは想像もしていなかった。
観劇の妙が全て詰め込まれていて、カヴァッリには脱帽である。歌心と言い、物語の展開の塩梅と言い、あれだけ様々な要素を取り込みながら、再終幕で聴き手の心にすっと染み入るところにも、深く感銘を受けた。
仰々しい演出ではなく、社会的距離も鑑みて熟考された演目と演出のはずだが、全体を見通す統一感と言い気品と言い、数年前の「子供と魔法」に匹敵する。
終演後、マンカ夫妻と再会して、ランツァ駅まで徒歩で見送る。パオラに会ったのは久しぶりだが、全く印象が変わらない。随分昔、初めて彼女に会ったときは、まだ共産党新聞「ウニタ」紙の編集部に務めていた。今は国際紙「メトロ」編集局長だが、以前ほど忙しくない分、ジャーナリストとして世界各地の「Metoo」運動を追っていて、結局すごく忙しいのよと笑った。
中国で「Metoo」運動を活発に行う女性人権団体があるなんて、信じられないでしょう。わたしも、半信半疑だったのよ。報道規制とかあるから。でもね、彼女たちの運動は弾圧を受けずにしっかり活動出来ているの。不思議よね。どういう経緯かよく分からないのだけれど。日本の「Metoo」運動はあんまりぱっとしないわね。

11月某日 ミラノ自宅
正午前、居間のガラス窓に何かがぶつかった音がして、庭を見ると、小さな小鳥が死んでいた。美しい橙色で目は静かに閉じられていた。これで今年は三羽目なのだが、一体どうしたのだろう。今までは5年に一羽程度庭で鳥が行き倒れているのを見つけただけだが、今年は立て続けにに三羽、同じ時間帯に同じようにガラス窓に激突して死んでしまった。
決まって晴天の正午前だから、あの時刻だとガラス窓には庭の樹が反射して、或る角度から何某か錯覚を起こさせるのか、さもなければ、巷で騒がれているように、何某か化学薬品に神経が侵されてしまっていたのか。
余りに美しい小鳥で、そっと持ち上げると、三和土に髄液の染みが残っていた。窓ガラスの当たった箇所には少し跡が残っていて、何となくそれを拭う気にもまだならない。三羽並んで庭の奥の樹の下に穴を掘って埋めてやった。リスが掘起こしたりしないだろうが、カラスやトンビにつつかれるのは忍びなく、少し深めに穴を掘る。

11月某日 ミラノ自宅
長年、夢だとばかり思っていた光景がある。小学生の頃、父と連立って下北半島に出かけた折、ふと人気のない駅に途中下車した。広い一本道と、どことなく靄がかった不透明な街の印象は、恐山を訪ねた帰途だったからか。愕くべきことに、道すがら目に入って来る商店の屋号が、どれも自分と同じ名字ばかりで目を疑った。どこか異次元に迷い込んだのかしら、と妙な心地になった。あれは夢だったのかと調べてみたところ、静岡ばかりと思い込んでいた「杉山」姓は、下北半島の一部に、限定的に密集していると知った。あの非現実的な光景は、恐らく夢ではなかったのだろう。一体どうしてあの街にふらりと降立ったのか、殆ど人気がなかったのは何故なのか、わからない。父に尋ねてみても、恐山の印象こそ鮮明なのに、あの不思議な街について一切記憶がないのは何故なのか、ちょっと解せない。

11月某日 ミラノ自宅
トルストイ通り角の喫茶店で、メルセデスとカルロッタと再会を祝った。近所に住んでいながら、コロナ禍にあって実際に会うのは2年ぶりで、最初メルセデスはこちらに気が付かなかったほどだ。こちらはマスクで顔が半分隠れていたし、自分の眼鏡もマスクで曇っていたからだと笑った。
2年ぶりに見るメルセデスは、思いの外こざっぱりした印象で、足を骨折して随分痩せていた。ミラノ工科大で教授陣を纏めるカルロッタは、一昔前と違って、現在工科大に籍を置く中国人学生は、誰もが実に優秀だと褒めそやした。イタリア人学生の三倍は勉強も出来て、努力も惜しまず、研究授業は全て英語ながら、言葉もとても流暢だという。
中国からオンラインで参加している学生は、時差で講義は深夜に及ぶので、最後には疲れ果て、先生もう寝ます、と退室することもままあるそうだが、以前のような、卒業証書を得るためともかく学校に籍を置くだけ、という不遜な態度とまるで違って、とても教え甲斐もあるそうだ。カルロッタ曰く、現在では、国内で相当優秀な成績を修めなければ、ミラノ工科大の入学推薦も受けられないのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
家人は朝4時にタクシーに乗り込み、日本へ向かった。朝、一人で散歩に行き戻ってくると、息子の寝室の窓をリスが尾で叩いていて、バンバンという、あまりに大きな音に吃驚する。リスは啼き声もガラガラで烏のようだし、躰に似合わず派手に窓を叩くし、侮れない。
朝10時から夜8時半まで、ズームにてオンラインの3時間授業を三つ。息子は朝6時からオンラインで授業を受けていて、食事は別々に摂る。
こうした日に無難なのは、前日に野菜をくったりと煮込んでトマトソースのパスタを作り、夜寝る前にカレーのルーを足してカレーソースにし、朝起きたときに米を炊いて、各自空いた時間にカレーライスを食べる。こちらの昼休みと休憩時間を使って、息子はピアノを練習している。
この時期はポロ葱が旨いので、他の野菜と一緒にポロ葱をふんだんに入れて煮込む。肉の代わりにツナ缶でコクを出す。パスタとして出すときは、古く乾いたパルメザンチーズの端を割って、ソースと一緒にしばらく煮込む。乳児の歯固めに、イタリアではこのパルメザンチーズの端を使うのだけれど、とろけるまで煮込んで料理に使うのは、ささやかな冬の贅沢。

11月某日 ミラノ自宅
イタリアの感染状況は未だ安定しているが、ドイツとスロベニアを初め、近隣各国で状況はすっかり逼迫しており、ここも最早風前の灯だったが、今朝、新聞を開くと、遂に感染状況の悪化は確実となった、と書いてある。
またか、と腰から力が抜け、足が砂のように崩れてゆく。ワクチンの効果が本当にあるのか、これから真価がわかるのだろう。イタリアの感染拡大は岐路に立たされている。
東京の母が、息子にクリスマスカードを送ろうとしたところ、イタリア行の航空郵便は取り扱っていない、と郵便局で断られたそうだ。
アリタリア航空が破綻し、イータ航空も日本には飛んでいないからか、信じられない事態に驚く。仕事ならDHL便など使うところだろうが、現在、日本に端書きを投函しても、船便でしか届かないなど、俄かには信じ難い状況だ。
週末息子が国立音楽院に出かけると、決まって、帰宅時にワクチン反対派、グリーンパス反対派のデモに遭遇する。当初は単にワクチン接種に抗議していたのが、グリーンパス、牽いてはスーパーグリーンパス導入が話題に上るようになり、ワクチン接種者であっても、人権無視に反対して、デモに参加する人々も現れた。
国立音楽院は、デモが開始されるフォンターナ広場の裏手にあって、しばしば道路も封鎖され、路面電車も止まる。新聞を開けば、ワクチンとグリーンパスに対する抗議運動とワクチン3回目接種の話題は、決まって大きく取りあげられている。
毎朝、トルストイ通り角のキオスクで新聞を買うのだが、売り子のシモーナからも3回目接種の予約はしたかと尋ねられた。今週から、40代以上の3回目接種予約が始まったからだ。
少しずつ感染が広がっているのは感じていたし、2回目接種後半年で効果が落ちるとニュースで喧伝している。1月の半ばすぎると、仕事の合間に接種をうまく差し込めないと思い、結局1月初旬に予約を入れた。

11月某日 ミラノ自宅
市立音楽院にて日がな一日レッスン。指揮にあたって、エネルギーを収斂させる点を具体的に示すことで、案外うまくいくことがある。
学生の前に座って、こちらにエネルギーを投げるよう指揮しろと伝えて、常にこちらの目を凝視しながら振らせることで、自らの殻に閉じ籠るのを防ぐ。
面白いもので、自らの裡の安全地帯に意識が戻り、神経の扉が閉ざされると、目の前で演奏している音は魔法のように聴こえなくなり、どんなに頑張って振っても演奏者に何も伝わらなくなる。
その構造が可視化できるようになったので、正しく振るより寧ろ、自らを常に安全地帯の外に身を置かせ、そこに留まらせる勇気と自らに対する信頼を養う。
とどのつまり、幾ら技術を教えても、自分の外に出なければ指揮はできないが、技術などなくとも、自分の殻の外に自らを置き、感情の起伏や呼吸を演奏者と共有できていれば、技術不足などあまり問題にならないと思う。

そんなことをつらつら思いつつ夕方も終わり近くになった時、ピアノを弾いていたMが突然さめざめと泣きだしたので、我々一同すっかり驚いてしまった。
取敢えず休憩にしたところ、彼女はどこかへ出て行き30分しても戻ってくる様子がなかった。
仕方がないので、こちらも下手なピアノで演奏に参加しつつ次のレッスンを始め、隣の部屋で室内楽のレッスンしていたマリアにMを探しに行ってもらう。普段ローマに住んでいるマリアは、ミラノに来るとき、時々Mの家に厄介になっているのを知っていたからだ。
暫くして、泣きはらしたMを連れてマリアが教室に戻ってきた。恐る恐る残り3コマのレッスンを終えると、できるだけ急いでMを帰宅させた。
その後でマリアに詳細を尋ねると、彼女が泣き出したその時、国会でワクチン未接種者の行動制限法案が可決していたと知った。
彼女の家族に不幸があったか、個人的な事情で大問題が持ち上がったか心配していたので、肩透かしを喰らった気分だったが、それはあくまでもこちらの視点であって、彼女がワクチンとグリーンパスに熱心に反対しているとは知らなかった。
彼女がワクチン未接種で、48時間ごとにPCR検査の陰性証明を提出してグリーンパスを更新しているのは知っていたが、持病のためと聞いていたし、彼女の婚約者もワクチン接種済みだから、彼女が反対しているとは想像もしていなかった。
12月からはPCR検査陰性証明だけでは仕事も出来ず、教壇にも立てなくなる。基本的人権が守られない、と彼女は戦っていた。
フェースブックをやらないのでわからないが、SNS上で或いは彼女の意見も詳らかにしていたのかもしれない。いずれにせよ、正に青天の霹靂であった。胸襟を開いて長年色々と話してきたし、とても信頼しているけれど、ワクチンやグリーンパス導入について、深く掘下げて話したことはなかった。
このように、特定の状況下でなければ意見を交わせない、決定的な溝が社会を分断していることに唖然とした。
我々素人に正答はわからないし、専門家でもそれは同じではないか。ワクチン接種者であっても、すべて躰に良いことばかりと信じる人がどれだけいるのか。ワクチン未接種者であれ、ワクチンが全て悪とばかり妄信しているわけでもないだろう。
実際、身体的事情で打てない人もいるし、別の同僚のピアニストのYもアトピーが酷くアレルギー反応が危険視され、病院に一日入院して、治療を受けながら接種したそうだ。
ワクチンやグリーンパスの反対派は、イタリアでは確かに少数派に違いないが、国内全体で鑑みれば、その人数は無視できるような数字ではないはずだ。
ワクチンを推奨し始めたときから、そしてワクチンパスポートが話題に上りはじめたころから、人権が失われる危険は盛んに話し合われてきた。
一年も経たずにワクチンは義務化され、ワクチンパスポート、つまりグリーンパスも義務化されてしまった。友人同士であっても、宗教や政治のように、無神経に口にするのも憚られる風潮になってしまった。我々はどこへ向かおうとしているのか。何を信じればよいのか。

11月某日 ミラノ自宅
世界保健機関が、警戒すべき新変異種として、南アフリカで確認されたオミクロン株を指定。オミクロンは大規模な変異を含む。
作曲中の「揺籃歌」は、インドのデルタ株までで筆を置くつもりだったが、知ってしまった以上オミクロン株を含めるべきか考える。未だこれが脅威なのか判然としないが、それも含めて何某かは考えるべきだろう。しかし間に合うのだろうか。従来のワクチンの効力が疑問視される、とある。

11月某日 ミラノ自宅
モザンビーク、南アフリカと往来していた男性が、ミラノ空港にてイタリアで初のオミクロン株陽性者と確認。「ワクチンのお陰で、症状は至って軽い」と、本人の談話が湿っぽくないのが良い。ナポリ在住で同居中の家族も経過を確認中だという。現在のところ、オミクロン株の感染者の症状は軽快。日本は外国人入国を1カ月間中止と発表。
母より、自宅で、一風変わったブロッコリーが生ったと聞く。初めて食べてみたがこれがなかなか美味しいそうだ。形状を言葉で説明してくれたが、どうも要領を得ないので、写真を送ってもらって調べた。日本のサカタ社が作った「Bimi」という新種で、イタリアでもこの2年ほど栽培を始めており、味はアスパラガス似で美味、だという。
日本では「茎アスパラガス」として流通していて、スティックセニョールという名前でも呼ばれる。それにしても、Bimiなるイタリア名は、誰がつけたのか。アスパラガスよりも、日本の「菜の花」、イタリアの「Cima di rapa」アブラナの花に近いように見えるが、実際食べたらどうなのだろう。軽く塩ゆでして冷水で締め、オリーブ油とレモンを垂らして、軽くパルメザンチーズをまぶして食してみたい。

11月某日 ミラノ自宅
日本でもオミクロン株陽性者確認。家人曰く、日本に向かおうとしたヨーロッパ演奏家も空港で搭乗拒否に遭ったりして、日本は大騒動だ、とのこと。
イタリアから日本に帰国の場合、政府指定のホテルで6日滞在後、8日間自宅待機が義務付けられている。

(11月30日ミラノにて)

読む日々

高橋悠治

気がつくと ゆっくりになっている からだのかんじ からだのうごき あるくこと かんがえること 気がつくと 朝が昼になり 夕方になり 暗くなっている 時間がすぎるのだけが速くなっている これが年齢ということか

待っていると思いつく そこでうごくと 次にすることができる はずだった その次につながらないで うごきの途中で止まってしまうことさえあるのは どうしたことか

コロナについて言われているさまざまな意見や主張を毎日のように読んでいると 日本のメディアが伝えないニュースがたくさんあることに気づく 英語で読めるサイトでは 中国・カタール・イラン・キューバのメディアがある ロシアの英語サイトは アメリカに住んでいるアメリカ人のジャーナリストがアメリカでは書いても どこにも載せられない意見を個人のサイトから転載している記事がある ツイッターで書けば たちまち削除され口座が閉鎖されてしまう ロシアの英語報道に転載されるが おなじロシアの報道でも 日本語のものには載らない それを見ると アメリカ・イギリス・日本のメディアは いまの政府や経済のなかでは 検閲され資金源を押さえられていて 反政府の言論の自由はもうなく メールもおそらく検閲されていることが なんとなく伝わってくる 日本のことについては 韓国のメディアが現実的かもしれない これも政権が変わるとどうなるかわからない イランのニュースは一時アメリカが閉鎖していた ニューヨーク・タイムズやガーディアンやル・モンドといった欧米のジャーナリズムも いまや政権の代弁機関になっているようだ 日本のテレビや新聞も とっくに監視されているのだろう いくつかの個人のサイトだけが残っているが 知られていないし無力だから 「民主主義と自由」のために残されているのだろうか

コロナ・ワクチンは免疫系を操作して 感染させやすくするという報道がある もう1,300人も死んでいると言われるが 報道はされない PCR検査も倍率をあげて 偽陽性を増やしているという記事もある 政治だけでなく 科学も信頼できないものになっていく ペストとコロナ 細菌とウィルス 近代は中世とはちがう終わり方をするのだろう

2021年11月1日(月)

水牛だより

衆院選の翌日は曇りから次第に晴れて、午後はあたたかな陽ざしがいっぱいでした。原稿の到着を待つあいだに、徒歩数分の図書館に行き、予約していた『野生のアイリス』(ルイーズ・グリュック 野中美峰訳 KADOKAWA 2021年)を借りてきました。縦長の本のなかの本文は横書きで、もとの詩と訳詞とが向かい合わせになっています。読むのが楽しみです。

「水牛のように」を2021年11月1日号に更新しました。
アフリカキカクの『珈琲焙煎舎の本』は、とても個人的でありながら、閉じていない感じがします。たとえば、「書くことと珈琲は、いつも切り離せない関係にあった。」というふうに。
長谷部千彩さんと久しぶりに会い、しゃべっているうちに、往復書簡みたいなものをやってみようということが決まってしまったのでした。長谷部さんが書くものは「水牛」で、八巻が書くものは、長谷部さんたちのサイト「メモランダム」で、読めるようにすることもふたりで決めました。書くときに、具体的な読者がひとりいることはおもしろいかもしれないと思っています。来月には、長谷部さんへの返信を書いたよ、とお知らせできることを目指します。

ではそろそろワインを飲みながら『野生のアイリス』を開きます。

来月も無事に更新できますように!(八巻美恵)

204 海鳥のたたくキーボードのうた(富山さん)

藤井貞和

「カタカタ コトコト 光をください」
  カタカタ 「私はなんのために。
誰のために描くのか」
 花崎さん「わたしたちは、
その実例をここに見ることができるだろう」
 「解体←→再構成」
「スライド」
「テクノロジーの進歩に対して先回りし、
その進展を待ちわびていたとすら思える」(小林さん)
 「ほら、見てごらん。
過去と記憶の断片だけでも目を凝らして見てごらん」(レベッカ)
「蛭子、傀儡子、旅芸人の物語」(富山さん)

 父も母も淡路のひと。 富山さんの幼時に、お正月になると座興に人形浄瑠璃を演じる。 「ほんの田舎芝居だと言って、二人は照れていたが、幼いわたしは、浄瑠璃の言葉に籠められたなにか、怖いけれど否定できないなにかに魅せられて、聞き入ったものだ」(『アジアを抱く』、二〇〇九)
 「壺坂」や「阿波鳴門の巡礼」の段などを母は語ってくれたと。

ジェーンマリー・ローの引用(金子さんから)は、飯田市阿南町の早稻田神社の「虫送り」についてだろうが、
――観客たちは三番叟の観劇後、人形を神輿に乗せ、集落の通りを抜けて村境の所定の場所へと運ぶ。 集落を通り過ぎる間に、その人形に路上の疫神や他の例が取り憑き、運び去られると考えていた。 この儀礼の目的は、ことに稲の収穫を台無しにしてしまう害虫の霊の駆除にあるとされた(ロー)。
淡路島では才蔵虫。 義民というのかな、獄門にさらされた才蔵を、福神として祀るとともに、それを怠ると祟り神にもなるという。 金子さんの言わんとするところ、淡路の原点としての「解放」と、漂流し続ける人形とが、富山さんのなかで一つになる……

(淡路の人形芝居を観光施設で見たのは私〈藤井〉の場合、一九八〇年。物語研究会の帰途だった。ローの『神舞い人形――淡路人形伝統の生と死、そして再生』(二〇一二)は斎藤智之さんが訳者、そして発行者。金子毅さんの「淡路・富山妙子『解放』の原点――縄騒動、そして人形芝居」は『東洋文化』101から。斎藤さんの訳文とすこし相違があるけれど、そのままに。)

『アフリカ』を続けて(5)

下窪俊哉

 2011年11月11日、府中市美好町に珈琲焙煎舎という小さな店が誕生した。そこは当時、私が住んでいたところのすぐ隣にある長屋の一角だった。それまでも珈琲は好きだったが、何かこだわりがあるわけではないし、部屋で珈琲を淹れる時には安物のコーヒーメーカーを使っていた。珈琲焙煎舎は「手網焙煎珈琲」の専門店らしいが、そう言われても何のことやらサッパリわからない。でも隣に珈琲豆を売る店ができたので、オープン2日目に顔を出してみた。
 11月11日、関東地方は一日中雨だった。しかし私はその前日から泊まりがけの外出をしており、美好町に戻ったのは夜遅かったので初日のことは知らない。2日目の12日、土曜日だった。秋晴れの気持ちのいい日だったので、昼頃から散歩に出て大國魂神社までゆき、戻ってきて珈琲豆を買いに立ち寄った。
 男女ふたりの店員が迎えてくれて、どうしようかと思っていたら、「お時間あれば少し飲んでみませんか。試飲で出しますから」と言われて待つことにした。男性の方がハンド・ドリップで淹れて、デミタス用のコップに注がれた珈琲を受け取ってひと口飲んだ。
 その時の感動を、おそらく私は一生忘れないだろう。
 あれは本当に、現実の珈琲だったのだろうか、とすら思う。

 当時、私はひとり暮らしで、「生存確認のため」と言いながら毎日、短い文章をブログに書いて公開していた。「道草のススメ」という、よくあるようなタイトルのブログだったが、その翌11月13日には「珈琲焙煎舎」と題して、こんなふうに書いている。

「いまぼくが住んでいる建物の隣に、長屋のような小さな店舗(兼住居)群がある。その一角に「珈琲焙煎舎」という店が入って、11日にオープンしたばかり。昨日、行ってみると、若い夫婦(と思われる)ふたりが迎えてくれた。機械に頼らない「手網焙煎」で、少量ずつ焙煎して出している。できるだけ安く提供するために、珈琲豆以外の部分はごく質素なサービスにして、ということらしい。不器用そうな、ふたりの控えめな笑顔を見て、何だか励まされる気がした。どういう経緯を経てここへ来られたのか、何ひとつぼくは知らないけれど。応援したくなった。ぼくに出来ることは、定期的に顔を出して珈琲豆を買うことくらいしかないとは思うけれど。
 それにしても、待ち時間に出してもらった珈琲の、素晴らしさ!」

 書くことと珈琲は、いつも切り離せない関係にあった。
 大阪では、あべの橋筋にあった「田園」という喫茶店に通って書いていた。近くに住んでいた時期もあって、その頃は多い時で週3日か4日はそこにいた。いろんな人とそこで待ち合わせて、話もした。
 いつもその手元には珈琲があった。「田園」ではコーヒーとカタカナで書く方が似合っている。店の前の看板には「コーヒ」と書いてあったっけ。ホット・コーヒが320円で飲めて、長々と過ごせた。広い店で、店員とも顔馴染になっているので気楽だった。
 どこかに出かけると、よい喫茶店がないか、探したくなる。そして、ふらりと入ってみる。そうやって観察してみると、珈琲にも幾つかパターンがあって、けっして同じではないことはすぐにわかる。しかしそれ以上、深く考えてみたことはなかった。
 一方、自宅で飲む珈琲に満足したことは、なかった。まあこんなもんだろうとしか考えていなかった。

 珈琲焙煎舎で飲ませてもらった珈琲は、しかしそれまでに自分が飲んできたどの珈琲とも違った。衝撃的だった。それは、どこまでも入ってゆけるくらい深くて、濃厚で、澄み切った珈琲だった。しかし、豆を挽いてもらって買って、家のコーヒーメーカーで淹れても(美味しいとは思ったが)その味にはならないのだった。

 その後、珈琲焙煎舎の男性の方が「道草のススメ」を見つけて読んだらしくて、「きっとあの人だよ」という話になったらしい。たまに顔を出して立ち話をするようになり、ある夜には、SNSを通して「営業終わってこれから晩ご飯にするけど、食べに来ない? 茶碗と箸は持って来てね」と連絡があった。じつはすでに食べ始めていたのだが、面白そうだ、と思って(まだ食べてないことにして)出て行った。徒歩1分もかからない距離である。茶碗と箸だけを持って。
 話を聞いてみたら、ふたりは夫婦ではなくて、前の職場で一緒に働いていた同僚らしい。女性の方が「店主」で、男性の方は期間限定でお店のオープンを手伝っている「焙煎士」らしい。その夜、どんな話をしたのかは忘れた。何だか気が合いそうだ、ということはわかった。
 12月になって、『アフリカ』をまた出すことになって、珈琲焙煎舎でもその話をしたら、「うちで売りません?」という話になった。『アフリカ』はその時まで店頭で売られたことがなかったが、誘われたらとりあえず乗ろう、というのが当時の自分の方針だった。そうしたら焙煎士が言ったのだ。「『アフリカ』なら、アフリカ・ブレンドをつくるからセット販売しない?」

 なるほど、それで『アフリカ』という名前の雑誌にしたのかもしれない。何がどうなるかわからないものだ。私は翌2012年2月、珈琲焙煎舎のオープンと同時期に出会った女性と結婚することにして横浜に引っ越したが、それまでずっと私の住居に付いてきていたアフリカキカクの現住所は府中市美好町に残すことになった。つまり、珈琲焙煎舎に引き受けてもらったのだった。

 あれから10年がたち、今月、『珈琲焙煎舎の本』と題した小冊子をアフリカキカクから発売することになった。1年前から「つくりましょう!」と話していた本だが、いざつくろうとなったら、こうしてみたらどうか、ああしてみたらどうかと、よさそうな本のアイデアが幾つも浮かんだ。しかしそれらは全て「よさそう」なだけで、自分からボツにしてしまった。10年間、珈琲焙煎舎の珈琲を飲み続け、語り合いを続けてきて、その時々で『アフリカ』用に書いたインタビューも幾つかある。手元にある素材をそのまま出して、それに最新のインタビューや写真を加えるかたちで編集する方がずっと面白いと思った。忘れていたことが、次から次へと思い出されてきたりもして。
 その本の中で珈琲焙煎舎の店主は、何が正解か、不正解かではない、要は、どうすれば自分が美味しいと思うかなんだ、という話をしている。その話は、書いたり読んだり、本をつくったりすることにも通じると思った。

夜気にくるまれ

璃葉

日付が変わる直前のこと。アイリッシュウイスキーのボトルと、1オンスのショットグラスを持った仲間が公園に現れた。何かの話の流れで、外でウイスキーを飲もうという話になったのだ。

街中にしては、その公園は広々としていた。大きな桜の木が目に付く。異様に目立つそれは間違いなくこの公園のシンボルだ。ベンチに座り、一息つく。風は強くなく、秋のひやりとした空気の漂いを手や顔で感じる。

小さなショットグラスに注がれたウイスキーを口に含むと塩っぽさやバニラ、青リンゴの味が広がった。
ちびちび味わいながらたまに煙草を吸い、仕事のこと、これからのこと、ちょっとした噂話で盛り上がる。酒が進めば進むほど話題は絶えない。軽々としたことばは夜気にくるまれ、宙へと消えていく。
夜空には惑星がぎらぎら輝いていて、明るい1等星もぽつぽつ見える。北極星も静かに佇んでいた。
とてつもなく心地いい、宝の時間である。

数時間後、さすがに寒くなったので友人宅に引っ込んだが、それでも結局飲んでしまう。酔っ払いの私たちは、うら若き頃に聴いていた音楽で朝方まで踊り、歌い狂ったのだった。

しもた屋之噺(237)

杉山洋一

庭の土壁を這う蔓の葉もすっかり濃い朱に染まり、梢に垂れる葉からは愈々青みが抜けて、黄緑色、黄色がモザイクのように輝きます。ミラノも深秋らしくなってきましたから、直に乳白色の霧に包まれるに違いありません。

10月某日 ミラノ自宅
前から見たかった1967年イタリア国営放送制作、マンゾーニの「いいなづけ」を見つけた。
サルヴォ・ランドネ扮するインノミナート(名無し)がマリオ・フェリチァーニ扮するボッロメーオ枢機卿に対面して改心する場面など、彼らが劇場で盛んに演じていたシェークスピア劇を彷彿とさせ、恰もヴェルディのオテロを見ている気分で、思わず涙をこぼしてしまった。
「Berceuse」全体の構想は未だ糢糊。今日はブソッティ90歳の誕生日で、今年初めに東京で試演した「和泉式部」断片のヴィデオ公開。実際に音にすることで見えてくるものがある。そして、それを一定期間おいて、改めて見直すことから浮き上がって見える本質もある。
 
10月某日 ミラノ自宅
「Berceuse」のため、中国、イギリス、南アフリカ、ブラジル、インドの民謡を採譜。中国は東北地方の、南アフリカはズールー人の、インドは南インドはタミル語の揺籃歌。特にインドの寝かせ歌は国土が広いせいか無数にあり、どれもそれぞれに美しく、深く心を動かされる。世界はこれほど美しい旋律に溢れていて、我々は何故いがみ合っているのか。ふと、不思議な心地に囚われる。誰が誰に向かって書いているのか、自問自答を続けている。
 
10月某日 ミラノ自宅
東京で震度5の地震。息子が間一髪で自宅に着いていたと知り安堵。さもなければ、馴れない土地で電車も止まり、途方に暮れていたに違いない。
首から肩にかけての神経が攣れがどうにも我慢できなくなり、イタリアで初めて歯医者に出かけたところ、いきなり親知らずを抜かれた。歯の治療についてなど全く明るくないので、自転車くらい漕げるだろうと高を括っていたが、家はナポリ広場の先だと言うとかなり驚かれ、麻酔が切れないか心配された。
 
10月某日 ミラノ自宅
自分の掌や腕などが、何時の間にかすっかり皺だらけになっていて皮膚も萎びたさまに、重ねてきた馬齢を見る。それは仕方がないが、頭の中まで干乾びて草臥れているのかしら、と少し虚しくなったのは、歯医者と縁遠かった人間が抜歯で意気消沈しているからか、夜半に歯痛で目を覚ましたからか。
 
10月某日 ミラノ自宅
ルイス・デ・パブロの訃報。自分がミラノへ越して来た頃までは、毎年のように、市立音楽院でデ・パブロやファーニホウ、ドナトーニが作曲講習会を開いていた。正確に言えば、ファーニホウとドナトーニのセミナーは、ミラノに留学する前年に終了していたが、それまで長い期間ミラノで定期的に講習会を開いていたのは知っていた。だから当時、ミラノの若い作曲学生の間では、ドナトーニとファーニホウを併せたような作風が盛んに書かれていたけれど、そんな当時の雰囲気は、現在の学生らには想像もできないに違いない。
ミラノに関して言えば、あの後暫くして、フランスからグリゼイやデュフール、ドイツからラッヘンマン、イタリア国内からはシャリーノが盛んに演奏会や講習会をするようになり、若い作曲家たちの作風も大きく影響を受けた。それも一段落して、最近は彼らの薫陶を受けた世代、ジェルヴァゾーニやビッローネ、フィリデイ、ランツァと言ったより若い世代に引継がれている。
インターネットが流布する以前の方が、文化の差異がより明確だった分、国際交流も必要とされ、活発だったようだ。垣根がなくなり、「交流」という敢えてエネルギーを伴う運動ではなく、肯定的な意味において溶解や同化、つまりフュージョンへ進化してきた感覚を覚える。

デ・パブロとは随分長い間手紙のやりとりをしていた。
97年8月29日の日記。
「デ・パブロ先生から手紙を頂く。
先生はご自分の住所を灰色のインクで印刷した趣味の良い封筒に数枚の美しい絵端書を入れ、その裏に小さな字で色々と認めて下さる。
先生の丸みを帯び絡まった筆致はご自身の音符に良く似て、どことなく鄙びた風情を醸し出す。
先日お送りした拙作に関しての批評を丹念にお書き下さり、毎度乍ら恐縮する。
ルイス・デ・パブロと言えば、現代音楽を齧った人間には馴染み深い名前。カタラン人で今はマドリッドに住んでいて、武満さんなどの招待で何度か来日もしている。今世紀の最も偉大な作曲家の一人と言っても過言ではない。
初めて先生に御会いしたのは、去年の初春だったろうか。先生の出版社がミラノにある都合で当地に寄られた際に講習をされ、何度かゆっくりお話しするうち、手紙をやりとりする様になった。
自作に関する先生の分析はロジックに終始し、主観については何も仰らないのに、いざ音に耳を傾けてみると聴こえてくるのは先生の心の滾りばかりなのであって、圧倒された。とても言葉では言い表せない衝撃だった。
一つ一つの音に彼の感情が刻み込まれていて思わず胸が一杯になる。
音楽に携わる幸福に心から感謝する瞬間だ。

早朝、先生はいつも生徒より早く教室に入っては生徒の作品を眺めている。
昼食も独り早く済ませると、教室でやはり生徒の作品に目を通し、思ったことを備忘録に書き留めている。
夕方遅くに漸く授業が退けると、やはり生徒の作品を小脇に抱えホテルに向かう先生の丸い背中があった。
先生の音楽に対する、あくまでも真摯な態度に言葉を失い、自分を恥じた。
二人で色々な事を話した。
何度も訪れた日本の事。フランコ政権下での事。先生の情熱の事。亡くなったばかりだった武満さんのこと。
「先生について勉強したいです」と言うと「不器用だから教えるのにも体力が必要でね。一寸もう無理かなあ」
いつも限りなく温かい眼差しをしていらした。
先生がフランコ政権に国外追放され、長年米国のインディアナ大で教鞭を取られる前後にかかれた「我に語らせ給え」という弦楽合奏の総譜を頂き、暇を見つけては少しずつ譜読みをしている。」
98年1月25日の日記。
小さな教会の十字架の前で、デ・パブロを振る。
楽譜を開く前に脳裏に彼の顔が浮び、少し切ない気がした。
音でしか表現できない思いが、詰まっていて、薄くさざめく人の影。鮮烈な思いや迸る血潮。
言葉が見つからないので黙って録音を送ろうかと思っている。(ミラノ日記)

デ・パブロからの手紙だけをまとめてある封筒を久しぶりに開いた。
当時の文章を見ると、未だ音楽の実体が自分でも理解できずに、手を拱いているのがよくわかる。音に感情を籠める、音楽に自らの意思を反映させる術がわからず、途方に暮れていた。現在、それが分かったとは到底言えないが、自分なりの小さな指針は見つけたつもりでいる。
技術を学んでも、その先に音楽はない。もちろん、音楽を学んでも、技術を学ばなければ表現は成立しないが、あれから23年経ち、自らも教える身になってわかるのは、先に技術を学ぶのは間違っているということだけだ。併しながら、教え得る内容は、ただ技術だけだ。
日本は真鍋淑郎氏、イタリアはジョルジョ・パリ―ジのノーベル賞受賞のニュースで賑わっている。パリ―ジが、詰め掛けたサピエンツァ大の学生たちから大喝采を浴びる姿に心を打たれた。
 
10月某日 ミラノ自宅
昨年Covidで延期されたドナトーニ「最後の夜」再演のためのリハーサル。昨年の今頃、リハーサル時は都市封鎖が目の前に迫っていて、結局演奏会当日に封鎖が始まった。
そんな状況だったから、リハーサルは今よりずっと緊張感があった、とも言えるし、実際は気もそぞろだったかも知れない。今から思えば、ともかくリハーサルで気を紛らわそうとしていただけにも感じられるし、どう足掻いても演奏会は無理だ、と半ば腹を括るというのか、自棄になっていた気もする。
だからこそ昨年のリハーサルはとても意義があったし、何より演奏者が練習にかける集中度は並大抵のものではなかった。その意味を一年を経て痛感した。
明らかに今回の練習を通して、前回辿り着けなかった楽譜のその先にまで踏込むことができたからだ。歌手は音符を、楽器をなぞるのではなく、空間に漂う亡き赤子の姿を見出し、語りかけ、叫び、訴える。漂う粒子のまにまに見え隠れする、小さな身体を必死に探しながら。
 
10月某日 ミラノ自宅
ミラノ・ムジカ。ドレス・リハーサルをやってみて、エルフォ劇場が思いの外音響がよいことに愕く。この演奏会の前後、劇場はエリオ・ディ・カピターニとフェルディナンド・ブルーニが、シリル・ジェリーの戯曲「外交術」をやっていて、第二次世界大戦末期パリの外交官邸宅の書斎を模した舞台装置のなかで演奏した。「外交術」は「パリよ、永遠に」で映画化されているが、その中で即興的で大時代なホームコンサートを催す心地だ。
演奏会前半、会場でノーノの「夢をみながら歩まねばならぬ」を聴きながら、20年前に同じ音楽祭で演奏した「プロメテオ」を思い出す。同じ手触りの和音。同じ質感の持続。波長が変化しつづける光線のような音。旋律の襞を描かないから、そう見えるのか。
あの世代のイタリアの作曲家のなかで、ノーノだけが晩年、音の向こう側に広がる神秘を書き留めようとした。香炉から漂ってくるような、時にかそけく、時に空間に切込む音楽は、ノーノが以前書いていた人の生命そのものを訴える音楽と随分違ったので、プロメテオの譜読みを始めた当初、少し戸惑った記憶がある。
「プロメテオ」の演奏は、まるで儀式に参加するようだった。時間の経過とともに、次第に深くその世界に吸い込まれてゆく不思議な体験を、何度もした。特にパリで演奏した際には、何が起こったのか不明だが、演奏者も聴衆も途轍もない深い感動に包まれた。
所謂、音楽を聴いて感動する体験からはかけ離れていて、強いて言えば、多少宗教的な感動に近かったのかもしれないけれど、宗教曲の演奏に感動するのとも全く違う。信仰の対象が意識、認識できる類のものでもなかった。
 
ドナトーニ「最後の夜」は、実際の演奏会ではやはり特に熱を帯びていて、演奏中少し怖くなる瞬間さえあった。演奏会後に顔を合わせた知合いは、揃ってドナトーニの本質はやはりこのパトスだとしみじみ話していた。そうなのだ。昏い洞がこちらに向かってかっと大口を開けているような、吸い込まれそうな深い闇をいただく、どこか諧謔的ですらあるこのパトスこそが、ドナトーニの音楽だとおもう。
演奏会の最後に、アンコールの代わりにブソッティ「いつも練習(Studia sempre)」を演奏し、没後1カ月になるブソッティを偲ぶ。
 
10月某日 ミラノ自宅
一瀉千里に読み切った「クララとお日さま」。歯痛で作曲できないと読み始めて止まらなくなった。その最中、ぼんやりとラーゲルレーヴの「ポルトガリアの皇帝さん」の温もりを想い返していたのは、なぜだろう。内容も時代も文化背景も全く関係なく、敢えて二人の作家に共通する点は、ノーベル文学賞の受賞歴くらいかと思うが、一体何が、思いがけなく自分の裡で二人を結び付けたのか。
イシグロのきめ細やかで解像度の高い描写表現の鮮やかさに圧倒されながら、こんな風に音楽が書けたら、どんなにか素晴らしいだろうとも思う。平易な表現で、透徹な描写を無数に連ねてゆきながら、人の温かさを読者の裡に宿す。
「クララ」最後の回想場面は、自分が漠として想像する死後の世界に似ていた。死んで躰は朽ち果て骨になるまで、人はちょうどあのような感じで過ごしているのかもしれない。イシグロは、とても日本的な視点から時間の推移を見つめ、書き留めているとおもう。
もしかすると、この部分がラーゲルレーヴの「幻の馬車」の記憶と無意識に重なって、思いがけなく「ポルトガリア」が浮かび上がってきたのかもしれない。
 
10月某日 ミラノ自宅
ルカがフランチェスコ修道会が立てた小屋でリサイタルを開いた。ベートーヴェン、エロイカ変奏曲やリストのハンガリー狂詩曲と一緒に、ハンス・ビューローのリスト編作を聴く。
ハンガリー狂詩曲がなぞる「ヴェルブンコシュverbunkos」は、当時のハプスブルク支配下でのオーストリア軍の募兵キャンペーン音楽だから、と言って弾き始め、あたかも酒場で楽団が気分を盛り上げるように弾いて聴かせた。なるほど、ヴァイオリン弾きとツェンバロンを携え占領地にでかけて、無邪気な田舎の若者の士気を駆立てる音楽だったわけだ。
ルカ曰く「エロイカ変奏曲」は、本当は「プロメテウス変奏曲」と呼ばれるべきだと力説し、当初ヨーロッパの解放者だと信じられたボナパルトへの敬愛を早々に捨てた、現実主義者ベートーヴェンを讃えたところ、ナポレオンに征服されたミラノ市民の末裔たちは、揃って大喜びした。被征服者の記憶は、簡単には消えない。
ハンス・ビューロー「ダンテソネット」リスト編作は初めて聞いたが、すっかり気に入ってしまった。ブラームスとワーグナーとの間をうまく立ち回った彼らしい響きで、ドイツ人の憧れるイタリア観とその鄙びた感じもある。
息子と家人は、スカラにて「イタリアのトルコ人」観劇。夜半二人で自転車で帰宅中諍いになり、深夜、自転車で辺りを徘徊する息子をフラッティーニ広場あたりまで探しに出かける。
帰りしな、この夜更けに独りで歩く中年男性から「あなたがたの幸福を神にお祈り申し上げます」と声をかけられ、ドアの開け放たれた乗用車からは、酔いつぶれているのか、薬物で高揚しているのか、興奮した若者たちの哄笑が漏れ聞こえてきた。
 
10月某日 ミラノ自宅
家人と国立音楽院でエマヌエラが演奏する4手版「大フーガ」を聴く。演奏会後にソルビアティは、「大フーガ」を聴くと興奮が抑えられないと歓喜していたが、確かに音楽の愉悦と叡智、興奮すべてが包含されている。昨日聴いたルカの「エロイカ変奏曲」の手触り、ルカ曰く「ビッグバンド」のように敢えて太く、開放的に鳴り響かせるファンファーレを思い出す。
現在、感染状況は未だ落ち着いているが、イタリア全体の実効再生産数は0,96まで上昇し、来週中には1を超える見通し、とレプーブリカ紙に書いてある。
 
10月某日 ミラノ自宅
夕食に上がってきた息子が、ペトルーシュカを聴きたいと言う。幼ないころに彼は劇場でペトルーシュカのバレエの黙役をやったので、ここで熊が出てくる、とか、ここでメリーゴーランドが回っていて、など得意げに説明する。
ずっと彼の方が詳しいと感心しながら耳を傾けていると、突然、随分前に家族でボルツァーノを訪れた折の話を始めた。
「お父さんはあの時ペトルーシュカを歌っていて、一緒にボルツァーノの文房具屋に出かけてノートを買った。ページが一枚一枚切り取れるタイプの。だけど程なくしてそのノートを紛失したんだ。どうでもいいことは、良く覚えているんだよね」。
あれは息子がニグアルダ病院に担ぎ込まれる、ほんの直前のことだった。アルプスの麓のボルツァーノで、未だ少し雪の残る肌寒い春先、リハーサルの合間に一緒に川沿いを散歩し、ケーブルカーで山に昇り、野原で飛び跳ねていた。(10月31日ミラノにて)
 

仙台ネイティブのつぶやき(67)街角に生きる犬たち

西大立目祥子

 宮城県北の温泉町、鳴子で菓子店を営む宮本武さんが電話をくれた。「あの…ご報告です」。どこか沈んだ声がこう続けた。「バードが亡くなりました」。
 バードは宮本さんの愛犬で、菓子店兼カフェ「玉子屋」の看板犬。黒短毛のラブラドルレトリーバーだ。何歳だったの、と聞くと「17歳4ヶ月」というので、最近の年齢を重ね弱りかけたバードの姿を思い起こし、ほんとに頑張ったね、となぐさめるしかなかった。

 あらためて17年という年月を考えると、犬としては相当な長寿だし、人にとってもその時間は人生の何分の一かを占めるほどに長い。その長い時間、大きな温かい存在を常に感じながら、ともに山を歩き、店でお客さんを出迎え、夜は一つ布団の中で眠っていたのだから、「6代目の犬だけど、こんなに落ち込んだことはなかったよ」というひと言もすんなり胸に落ちる。

 私とバードの出会いは7、8年前のことだ。店でコーヒーを飲んでいると「犬、大丈夫?」と聞かれて、うなずいたら奥からやけに陽気な大きなワンコが現れた。犬というのは賢くて人がじぶんを歓迎しているか警戒しているかを、たちどころに感じ取る。この最初の出会いで認めてもらえたからか、以来、訪れると押し倒さんばかりの勢いで大歓迎を受けるようになった。店に置いてあるイベント案内のチラシをくわえて持ってきたり、リードをくわえてうろうろまわりを歩きまわり散歩に行こうと誘ったり…。

 一度、せがまれていっしょに散歩に出かけたことがある。少しは町中の道がわかるので、「バード、こっち行こ」と町でいちばん大きな神社の陰の道に入り込んだら、やがて勝手知ったるわが散歩道とでもいうように、バードが先頭を切りぐんぐん歩き出した。途中すれ違う人に「あら、玉子屋のバード?またお客さんと散歩だね、いいこと」と声をかけられたから、どうもしょっちゅういろんな人と散歩に出ているらしい。
 やがて、来たことのない山の中腹の広い道に出た。眼下には鳴子温泉の町が広がり、江合川の流れの向こうにはさらに青い山並みが重なっている。さらに引っ張るバードについていくと、峡谷に橋がかかり、そのほとりの一軒家の庭先につながれた一匹の柴犬がいた。微動だにせずじっとこちらを見ている。バードも立ち止まってしばらくの間、2匹は静かに見合っていた。そうか、バードはこの犬に会いにきたんだ。友だちなのか、ガールフレンドなのかはわからないけれど、人の及ばない嗅覚で仲間の存在を知り、じぶんたちの地図をつくり、ときにはこうやって近づいて互いに安否を確かめあっているのかもしれない。その姿を見て安心したのか、「帰ろ」というとバードは素直に従って来た道を戻り始めた。

 1時間ほど歩いて店に戻ると、宮本さんが「遅いなぁ、いったいどこまで行ったの?」と笑っている。バードは人気者で、ときおり「バードいますか?散歩させて」と訪ねてくるお客さんがいるのだそうだ。このときとばかり、そんな鳴子に不案内な人たちを引き連れて得意気に数時間も町を歩き回っているらしい。気持ちのいい時間を過ごして戻ると、バードは満足気に床に寝そべり、お客さんはそのつややかな黒毛をなでながらゆっくりとコーヒーをすする。犬と人という種をこえて、ひとつ空間の中で打ち解け、互いを満たすような静かな時間が流れる。

 鳴子温泉駅前、玉子屋のバード。店の前を車で通れば、いるかいないかを目の端で確かめ、散歩するバードを見つければ駆け寄って背中をなで、私にとってその存在は鳴子の風景の一部になっていた。
 よく犬は人につき猫は家につくというけれど、犬の方がはるかに強く場所につながっていると感じる。猫はふらふらと出歩いたりするけれど、犬はもっと場所に忠実に生き、「定点」としてそこにいる。そして、無機質な建物や道路のわきで、つややかな毛並みと濡れた瞳で存在感を放ち、その場所に光を宿す。

 もう1匹、忘れられないのは仙台市内、南材木町という江戸時代から続く町の材木屋の愛犬だったハナで、こちらもラブラドルレトリーバーだ。ふさふさした金色の巻毛を揺らしながら、年季の入った大きな木材倉庫のある敷地内を自由に歩きまわり、その堂々とした美しい姿はオーラさえ感じさせた。よく車の往来の激しい道路のわきで通りを眺めているのだけれど、一歩たりとも敷地から外には出ることはなく、でも撫でてくれる人がいればうれしそうに尻尾を振って応じる。通りかかって「ハナ!」と呼ぶと、お気に入りの木の切れ端をくわえて、ゆさゆさと巻毛を揺らしながら小走りに近づいてきた。おだやかだから子どもたちにも親しんで、下校する近くの小学生たちが敷地に入り込んで寝そべるハナを取り囲み楽しそうにしているのを、何度も見た。
 その後、材木屋の閉店が決まり、自由に歩き回っていた大きな敷地から、小さな庭の小屋で一日を過ごすことになったハナは、わずか数ヶ月であっけなく命を閉じてしまった。環境の激しい変化が、無垢な生きものを翻弄し痛めつけたのだろう。

 いまこの材木店の跡地は、がらんとした駐車場になっている。ここに明治初期から続いてきた材木店があり、そこに輝くような毛並みの犬が暮らしていたことを覚えている人はもうほとんどいないかもしれない。私自身、この駐車場とあの木造の材木倉庫は連続しているとわかっていても、あまりの風景の変わりように立ちすくむような思いにさせられる。
でも、小さく「ハナ」と、その名を口にすると、名前というものは存在の容れ物のようで、その姿が立ちあらわれるような気がする。そしてあらわれたハナは、決まって木の匂いのする使い込まれた材木倉庫の風景を背景に町にたたずんでいる。

 ときおり、なつかしく思い出す人がいるように、犬はまちの風景の一部となって私たちの胸に生きた痕跡を残している。気がつくと、鳴子を歩けばバード、南材木町を歩けばハナの姿を探そうとしている。

猫が部屋を走る。

植松眞人

 せまい借家の二階から階下へと素早い物音がする。何だろうと顔を向けるのだがなにもいない。物音と言いながら、その運びは生きている動物のようで、数ヵ月前までなら飼い猫の足音で間違いはなかったのだが、夏の暑い日に逝ってしまってからは、私ひとりの家の中で物音などしようはずもない。それでも、何度か確実にその音は響き、その度に耳をそばだてている。そのうち「ああそうか、やっぱりマロンか」と逝ってしまった猫の名前をつぶやく。別に格段、スピリチュアルな思いもなく、ごく普通に、猫のマロンがまだ家の中を走り回っているのだと納得する。
 そんな思いをまだ大学に通っている娘に投げてみると「そうだよ」と落ち着いた声が返ってくる。「いまごろ何言ってるの」とでも言わんばかりである。娘曰く、マロンはみんなのことを心配してまだこっちにいるのよ、ということだ。その口調はまるで、玄関の鍵はここに置いておくからね、と確実にある物をはっきり手渡すときのような明快さだ。
 しかし、猫が心配するこっちのこととはいったいなんだろう。マロンは十五年前に我が家へやってきた。その頃私はまだ四十代になったばかりで、娘は中学生、息子は小学生だった。初めてのペットであるマロンは家族に可愛がられ、愛想を振りまき、家の中をドタバタとまるで仔犬のように走り回って大きくなった。
 数年前から仕事の都合と高齢となった母の世話をするために、私と妻は生活の大半を関西で過ごすようになり、息子は就職してひとり暮らしを始めた。結局、マロンは東京の借家で娘と一緒の時間が多くなり、たまに私たちが顔を出すと多少不服そうに甘えてくるのだった。しかし、娘が一声かければ娘の側に行き、そこから動かなくなり、娘とマロンの仲の良い様を眺めているのが私は好きだった。
 そんなマロンだから、逝った後も心配になるのはやはり娘のことなのだろう。それが証拠に、亡くなったとはどこへでも顔を出せそうなものなのに、この荒川の家でしか、マロンの気配を感じたことがないのだ。
 娘が言う、「マロンがみんなのことを心配している」というのは、結局、娘のことなのだろう。娘は芸術大学で彫刻を作っているのだが、現在、博士課程の二年目である。本来なら留学などを計画していたのだが、昨年から世界的に猛威をふるっている新型感染症のおかげでいろんな計画が頓挫してしまった。ただ抑え付けられるような時間を消費しつつ作品制作を続ける日々を送りながら、娘は鬱々とした気持ちになっているのだろう。声に出してもなにも解決しないので、本人はなにも言わないけれど、そのストレスは相当なはずだ。そう考えると、逝ってしまったはずの猫の足音は、そんな娘を一人にしないための何かなのだと思えた。
 しかし、娘がいないときにも、家の中を走り回る音がするのはなぜなのか。娘だけではなく、私にも何かを伝えようとしているのか。もしそうだとしたら、マロンは私の何を心配しているというのだろう。私の人生は甘い見通しと我慢の効かない弱い性格が災いして、人生の要所要所であまり当てにならない味方を増やし、大切な仲間と袂をわかってきた。だから、これから稼げそうだ、というところで舞台が暗転する、ということが多くあった。そのあたりは、自分でも心配しているところだが、猫のマロンもそんな私を心配しているのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、マロンのことが急に思い出された。久しぶりに顔を確かめてみようとスマホを取り出そうとショルダーバッグを探る。バッグの中でスマホに手が当たり引き抜いてみると、スマホと一緒にマロンの毛が出てきた。茶色い栗色をした毛が数本、スマホのくたびれたシリコンカバーに引っ付いている。
 我が家へやってきたばかりの幼い頃のマロンの表情が不意に思い出され、写真など見なくてもいいくらいに、頭の中いっぱいに広がるのだった。そして、なぜかマロンは娘のことも私たちのことも一生懸命に心配してくれていたのだという確信が胸に押し寄せた。不思議なのだけれど、足音を思う気持ちと目の前の鞄の底から出てきた毛の感触が同時にあって、私ははっきりとマロンの気持ちを知ったのだ。間違いはない。マロンは私たちをそして私をものすごく心配していたのだ。そして、亡くなった今も心配してくれている。
 古い借家の床を足を擦らせながら走る音がした。音は二階へと上がっていく。いま座っているソファからは見えないのだが、階段を下に立ち、二階を見上げると、そこにはきっとマロンがいる。そして、マロンは二階から一階の私を遊んでほしそうに見つめているはずだ。(了)

『幻視 IN 堺~能舞台に舞うジャワの夢~』公演を終えて

冨岡三智

先月告知したジャワ舞踊&ガムラン音楽公演『幻視in堺 ― 能舞台に舞うジャワの夢 ―』(2021.10.23、堺能楽会館)が無事終わった。というわけで、今月はその公演内容に関することと先月号で書き忘れていたことについて書きたい。

 ●能舞台とジャワ舞踊

先月号で書こうと思って書き忘れていたのが、能舞台を会場に選んだ理由である。能舞台でスリンピ(女性4人の舞い)やブドヨ(女性9人の舞い)などの宮廷舞踊を上演することは、実は私が宮廷舞踊を習い始めた頃から抱いていた夢だった。女性の宮廷舞踊は神代に天界の音楽に合わせて天女が舞った舞踊が宮廷舞踊の起源だとされ、サンプールという腰に巻いた布もまるで羽衣のようだから。ジャワ宮廷舞踊は宮廷儀礼で上演されるものとして発展したので、江戸幕府の式楽である能と格では劣らない。ジャワ宮廷舞踊はプンドポと呼ばれる壁のない儀礼用建築の中央の、4本の柱で囲まれた方形の空間で上演されるのだが、その空間には特別な意味があり、1つのコスモロジーを表しているという意味で能舞台の空間と共通する。昔から能舞台の空間が好きだったので、鏡板に描かれた松の前に天女として降り立ってみたい…とずっと思っていた。

実は私は2007年にインドネシアで能の公演をプロデュースしている。その時は今回とは逆に、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校のプンドポに能の『羽衣』の天女が舞い降りた。このことは2007年2月号『水牛』に「ジャワに舞う能」という題で書いた。それから10年経って初めて私自身が能舞台を踏む機会が巡ってきて、本来複数の人で舞う宮廷舞踊曲の一部を単独舞として能舞台にかけた。このことは2017年12月号『水牛』に「能舞台に舞うジャワ舞踊」という題で書いた。そして、2019年には自分自身が振り付けた『陰陽 ON-YO』という宮廷舞踊風の曲を、今回の舞台となる堺能楽会館で上演した。この時はマルガサリというガムラン団体の公演の中での上演で、この時も単独舞であった。今回、やっと4人揃ったスリンピを能舞台で上演することが実現して感無量である。白砂青松の海岸に天女が降り立ったように見えていると良いのだが…。

 ●ガンビョン

ガンビョンは私自身の振付演出である。曲は途中まで楽曲『グンディン・ガンビルサウィッ』(スレンドロ音階)を使い、途中で無音の部分をはさんで『グンディン・ガンビルサウィッ・パンチョロノ』(ペロッグ音階)に切り替えた。実はこの2曲は音階が異なるだけで旋律は基本的に同じだが、後者の曲のサロン(鉄琴)パートにはにぎやかなバリエーションがある。今回の公演ではスレンドロ音階の楽器しか使っていないが(楽器を置くスペースが限られるため)、サロンはペロッグ音階のものも用意してそのバリエーションを弾き、無音部の前後で一気に雰囲気を変えた。実はこの無音部を挟んでの音階の転換はすでに2014年の『観月の夕べ』公演(岸和田市)でやっているが、曲の最初(メロン部)の歌やチブロン太鼓の手組はその時とは変えている。

ガンビョンは一般的には豊穣祈願の舞踊に由来すると説明されるが、今回はガンビョンの太鼓の手組に込められている意味:女性が生まれてから死ぬまでの様を描く…をテーマにしたかったので、その説明をあえてプログラムに書かなかった。セリフや物まねぶりといった演劇的要素はないものの、私の脳裏にある1人の女性のドラマを描いたつもりである。今回のように演奏が途中でブツッと切れる演出は元々伝統舞踊にはないが、それもドラマとしての表現として取り入れた。

 ●間狂言

今回の公演の前半では切戸口の前に屏風を立てていて、それを間狂言の時に舞台中央に持ち出した。これは南蛮屏風で、実は館主・大澤徳平氏のコレクションである。公演が近づいた頃、大澤氏から実はうちには南蛮屏風があって使っても良いよというお話をいただき、それならばとこのシーンで使わせてもらった。2人の風変わりな男たちが目にする堺の港風景ということにしたのだが、狂言の掛け合いにうまく取り込めていただろうか…。さらに、橋掛かりの奥の壁に掛かっていたオランダ船(VOC=オランダ東インド会社の旗が船上に描かれている)の掛け軸も大澤氏のコレクションである。この屏風と掛け軸によって堺とジャワが一気につながった。まるで今回の公演に合わせたかのような偶然だ。もし、同じ内容の公演を他のどこかで再演できたとしても、これらのコレクションは登場しない。この会場ならではの、一期一会の機会だったなあと感無量である。

 ●スリンピ

能舞台での上演のため私たち踊り手は足袋を履いたのだが(ジャワ舞踊では裸足で踊る)、通常のスリンピ上演と大きく変わったのが腰布の着付である。スラカルタ王家の舞踊では長い腰布の裾を引きずるように着付ける。過去に私が能舞台で上演したときは足袋を履いてその着付をしたが、裾が足元にからみついて非常に踊りにくくなるため(裸足だと足にからまない)、今回は通常の正装と同じようにくるぶし丈で腰に巻いた。スリンピは4人で踊り、しかも場所移動も多いから、滑りやすい能舞台で安全に踊ることを優先したのだった。裾を引かないと宮廷舞踊の魅力は半減するかもしれないと危惧したが、着物姿のような感じで能舞台にはなじんでいたようにも感じられた。

現存するスラカルタ王家のスリンピ作品は10作品あるが、今回上演したのは『スリンピ・ロボン』の完全版である。ちなみに私が完全版で上演したスリンピはこれで5曲目になるが、日本人による演奏で上演するのはこれが初めてになる。私が最初の留学をしてスラカルタ王家の定期練習に参加した1年目(1996年)はこの曲がしばしば練習されていて、個人レッスンで2番目に習った曲なので思い入れが深い。2000年に留学先の芸術大学音楽科でスリンピ3曲を自主録音したときにもこの曲を録音していて、今回その時の音源を参考にした。

『ロボン』では弓を持って踊り、弓で戦うシーンがある。基本的にどのスリンピにも戦いのシーンがあって葛藤や克己のメタファとなっているが、弓を持つスリンピ曲はこの曲を含め2曲しかない。またスレンドロ音階マニュロ調の曲を使うのはこれだけで、ロボン~パレアノム~コンドマニュロの3曲がつながったこの作品のメロディーは甘やかで、とても幸せな気分に包まれる。

今回は前奏の前にポチャパンをつけた。これは男声による一種のナレーションで、宮廷でスリンピ舞踊の前に付けるものである。これから美しい衣装に包まれた女性が舞踊を上演するというような内容で、サスミトと呼ばれる舞踊曲名を暗示する言葉が織り込まれている。

この作品の中でひときわ華やかな場面がリンチャッ・ガガッと呼ばれる振付である。実は10曲のスリンピ中7曲にあるという定番の振付で、しかもすべてオラ・アスト~スカル・スウン~リンチャッ・ガガッという流れになっている。オラ・アストはその場で手を動かす動き、次のスカル・スウンは横に滑る動きでどちらも静かな動きなのだが、リンチャッ・ガガッは体を前後に揺らしながらその場で回転する動きである。ここでそれまでよりもテンポが一段と落ち、しかも体が揺れるのに合わせて掛け声と手拍子が頻繁に入るので、踊り手はスポットライトを浴びて注目されているような感覚になる。このシーンできちんと掛け声と手拍子を入れて上演したいと思っていた。人数が限られる日本での公演ではそれは贅沢なことだが、これがあると一気に宮廷舞踊という雰囲気が出るのだ。

 ●

以上、書き留めておきたいことだけまとめてみた。先月の公演のお知らせ文と併せて読んでいただければ幸いである。他にも書きたい点はもっとあるのだが、そのうちにまた思い出して書くかもしれない。

ガラパゴス

北村周一

沈黙と
微笑それとも
在りし日の
ファースト・レディの
憂鬱さえも

*Sさんは、旧姓もアルファベットの頭文字がSなのでやや紛らわしいが、それはそれとして夫が先月辞任したのでもはやファースト・レディではなくなった・・・

人格の
遮られない
憂愁の
帰結 サヨウナラ
するしかないね

*『遮られない休息』というタイトルの語感に誘惑されて・・・

いつもの歯科
衛生士さんに
褒められて
紅く染まりし
口がよろこぶ

*歯科検診に使うあの紅い染料へのこだわりを込めて・・・

イタリー産
ワインにチーズに
オリーブ油
トマトにレモンに
長寿はるけし

*イタリアは長寿の国だそうだ、食べるもの飲むものにもう少し気を配ろう・・・

白湯の
ちからを借りて
飲み下す
眠剤のかなた
月満ちてあり

*10月20日は満月のはずだったがあいにく天気が悪かった・・・

非常ベル
夢の中より
洩れ出だし
そこへ近づく
サイレンの音

*長いこと非常ベルが鳴っていた、夢の中の出来事かと思っていたらほんとうに消防車が近所に来て止まった、何があったのかいまだに不明・・・

20度を
切っているのか
その数字
見つつ思わず
身震いをせり

*秋、急に寒くなる日があってからだが天候に追いつかない・・・

かかりつけ
とは毎月受診する方
のみと告げ
られて黙って
引き下がれるか

*話には聞いていたけれど、実際に遭遇するとえっなぜっと思ってしまう、インフルエンザの予防接種の予約時のこと・・・

総裁選
内輪揉めなれど
賑やかなり
そのさいちゅうも
国会開かず

*この間の報道のあり方に関しては甚だ疑問というより不快ですらある・・・

最高裁
判事にも〇
✕のありて
付けていいのは
✕のほうだけ

*衆院選と同時に行われる最高裁裁判官の国民審査、なぜだかあまり注目されない・・・

しらじらと
既得権益に
ぶら下がる
左派もあるらし
中道もまた

*利権に群がるのに右も左も中道もあらず・・・

コマーシャルが
すべての世界
日が落ちて
左右中道
いよいよ暗し

*衆院選の開票がはじまってすでに10時間くらい経過している、投票率が気になる・・・

これもまた
広告のひとつ
きみの名と
通夜の日取りが
紙面にならぶ

*地方新聞には訃報記事がわりと目立つところに掲載される、共通の友人がたまたま見つけて知らせてくれた・・・

まぼろしの
楽園にして
ガラパゴス
日本モデルと
なりにけるかも

*大いなる課題が山積しているはずなのに・・・

セイタカの
草々を闇に
しずめ置き
芒野原に
午後の日のどか

*最後には、国産のススキが帰化植物のセイタカアワダチソウに勝利するといわれている・・・

住むところ
絵を描くところ
置くところ
みぃんなまとめて
花一匁

*正確には、ふるさとまとめて花いちもんめなのですが・・・

未来の世界

笠井瑞丈

今新作の作品を作っています
出演者に私がダンスを始めた時から
憧れの存在である伊藤キムさんが出てくれます

私が初めてキムさんを見たのが
確か10代後半だったと思います

長男の爾示さんに
「おもしろダンサーがいるから見に行かない」
誘われ渋谷の劇場に見に行った覚えがあります
その時の舞台美術に兄貴の知り合いが
関わっていたという事もありましたが

この時が

父以外のダンスを見る
初めての体験でした

なので

私の初めての

『ダンス体験』

紛れもなく

『伊藤キム』

です

その作品を見てとても強い衝撃を受けたのですが
そこから
ダンスを始めるという所には至りませんでせした

ただただ

『伊藤キム』

という名前が私の頭にインプットされ
月日が数年経つことになります

そこからダンスを始めることなるのですが

まだダンスの右も左も分かず
どこでどうすればいいのだと

ダンスを始めるといっても
誰にどこで習うのだ!!!

その時にフッと
自分の頭の引き出しに

電話番号を調べよう!!

今のようにインタネット
携帯もない時代です
情報があまり出回っていない時でした
私がただ知らなかっただけかもしれませんが

父に番号を知っているだろうという

劇場関係者教えてもらい
電話番号を入手しました

そうしたらなんとうちの近所に
住んでいるという事まで知りました

そこから
長い時間電話の前に座り

カケル
カケナイ
カケル
カケナイ

母にいい加減にカケタらと言われました

一大決心

受話器を持ちしばらく続く呼びだし音

「はい」

あまりの緊張で自分の名前も言わずに開口一番

「ダンスを習いたいのですが」

「あっそうですか」

ガチャ

強い想いの枝を
ポッキと折られた感じでした

でも考えれば
当たり前の対応です
名前も名乗らずにいきなり
ダンスを習いたいのですが
となれば あっそうですか
としか言いようがないです

結局私は伊藤キムさんの所に通うことはなかったのですが
逆に通わなかったということから憧れだけはどんどん膨らみ
その後のキムさんの公演はほぼ欠かさずに見に行きました

初めて行った渋谷の劇場
あの時から自分のダンスは始まったのだ

公演が終わり
劇場を出た時
降っていた雨
寒かったよる

過去の思い出はよく想像できる

しかし

あの時はこんな未来は想像できなかった


来の世界


像の世界


想像の世界にダンスがあり
人と人は繋がっていく

むもーままめ(12)みなさま、ご機嫌いかが?の巻

工藤あかね

 メトロの駅構内で掃除をしている方を見るたびに思い出す、笑顔の記憶がある。

 何年も前のことだ。
 パッと乗ったメトロの車両の中に、お掃除コスチューム姿の方達が乗っていた。数人でいたその方達は、コロナ前だったけれども、周囲に気を遣ってか、小声で、けれども楽しげに話していて、なんだかとても感じが良かった。しっかり働いた後の、清々しさというか、そういうものが全員に見受けられた。
 その和気藹々とした輪の中に、やわらかな笑みをこぼしながら同僚の話を聞いている女性がいた。

 なんと形容して良いかわからないのだけれども、その方の、人の話を傾聴する態度というか、包み込むような穏やかさが、ひどく私の心を打ったのだった。
 おすまししておしゃれしてお出かけするような格好でもないし、たしか三角巾のようなものさえ、かぶっていたような気さえする。化粧っ気のないその女性の笑みが、あまりに無垢で美しくて、思わず見惚れてしまった。年齢とか、身につけているものとか、そんなことは人の品性には関係がないのだな、と強く思った。

 残念なことに、その反対のケースにも遭遇したことがある。都内でも家賃相場がきわめて高いあたりを走る電車に乗った時のはなしだ。向かい合わせで四人が座れるボックスが空いていたので、私は窓際に座った。数駅過ぎたところで、家族連れがやってきた。ビシッとしたスーツ姿の若い父親らしき人、非の打ちどころのない上品な服装だけれども無表情な母親らしき人、小学校低学年くらいの女の子の3人だった。そして問題はなんと、いかにもリトルレディ風のきちんとしたワンピースを着た、その小さなお嬢さんだった。

 父親らしき人と、この少女がボックス席の、私の向かい側に並んで座った。母親らしき人はなぜか席に近寄らず、離れて扉の前に立ったままだった。父親は昼食に何を食べたいか娘に尋ねている。「ステーキがいい?お寿司がいい?」と問いかけると、小さな女の子は「ステーキ!!」と言って父親の腕にしがみつき、可愛らしい目つきで父親を見上げていた。

 絵に書いたような甘えっ子だと微笑ましく思っていた。ところが次の瞬間、その小さな女の子は、向かい側に座る私に対し、明らかな敵意を剥き出しにして、睨みつけてきたのだった。

 はじめのうちは、子供のやることだからと意に介さなかったのだが、しばらくするとひどい悪態をついた顔つきで、口に出すのも憚られるような言葉を次々と、エアーで繰り出してくるのだから、笑ってしまった。私がボックスから出ていけば、ママも一緒に座れるから?そうだとしても、先に座っていたのは私だし、なんならもう一人座るスペースあるんだけどな。

 おやおや、と思い窓の外を見ていると、今度は明らかに私の足を蹴ってくるので、よけた。子供相手に腹を立てるのも馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、このような娘さんの行動に、ご両親はお気づきにならないのかしらね。よそ様の家の話ながら、正直言って将来が思いやられます。

 最後はやはり、気分良くしめたいなと思いつつ、名も知らぬ人で感じが良かったのはどんな人たちだったっけ、と思い返している。街中にも、電車の中にも、さまざまなところで袖擦りあった素敵な方達の記憶が、つぎつぎに蘇ってきた。

 某コンビニエンスストアのカードで決済しようと思って、「ナナコでお願いします」と言ったところ、「ナナちゃんね~!」と返してきた店員さん。
 天気の良い日、工事現場の昼休みらしく、地べたに座ってキラキラした目でコーヒーを飲んでいた作業員の方。
 スーパーで買い物した時に、黄色いバケツに入った真っ赤なリンゴをひと盛りレジに持っていったら、「これ、可愛いですよね、うふふ」と話しかけてきた店員さん。
 朝の通学路の見守りで子供たちに挨拶を無視されても無視されても、笑顔で呼びかけをし続けている町内会のおじさま、おばさま。
 盲導犬を連れて電車に乗ってきた方と犬を、周囲から庇うようにして立っていた人も見たことがある。
 電車の隣の席で大泣きしている赤ちゃんを、変顔であやしていたサラリーマン男性。

 思えば、いいなと感じる人たちはみな、自分の機嫌も人の機嫌も良くしようとしてくれていた。本当の大人ってこういうことか。善は急げ、自分の機嫌をとるぞ!!と、手始めに美味しそうなモンブランを買って帰るあたり、私はとうていあの人たちのようにはなれないなぁ、と思ったりして。

ベルヴィル日記(3)

福島亮

 ここ数日、雨が続いている。二週間ほど前になるが、洗面所のガラス窓のガラスが、もともとはいっていたヒビにそって外れてしまい、二日ほど窓に穴があいた状態で過ごすはめになった。どうにかテープで応急処置をしたから今は風が吹き込むことはないのだが、その二日間に風邪をひき、いまも鼻風邪が続いている。いまだにフランスの冬には慣れない。

 10月12日の夜、コンゴ共和国生まれの作家アラン・マバンク(1966- )と会うことができた。とある小さな書店で、マバンクとセネガル生まれの詩人スレイマン・ディアマンカ(1974- )が対談をおこなっており、立ち会うことができたのだ。

 2006年に発表した『ヤマアラシの回想』という小説でルノドー賞を受賞したマバンクは、現代フランス語文学を代表する小説家の一人だ。マバンクは現在、合衆国でカリフォルニア大学ロサンゼルス校教授をつとめつつ、フランスで刊行されている「ポワン・ポエジー」という叢書の責任者も担当している。この叢書の紹介をすることがイベントの目的だった。ベルヴィルとはあまり関係ないけれども、今回はこのイベントのことを備忘録風に書いておこうと思う。

 なんといっても、ディアマンカの朗読がすばらしかった。彼は、がっしりした身体をしているが、雰囲気は物静かで、すこしはにかんだような目をしている。どんな詩人なのだろう、と思っていたが、いざ彼が口を開くと、原稿も本もなにも見ていないのに、途切れることなく、とうとうと詩句が流れ出すので驚いた。彼のパフォーマンスは、「スラム」や「スポークン・ワード」と呼ばれるものなのだが、その詩にはなんともいえないリズムと言葉遊びがあった。朗読しているあいだ、ディアマンカの身体はかすかに前後に揺れており、その揺れに合わせて、言葉が身体から湧き出てくる。不思議な感覚なのだが、彼の身体から溢れ出す言葉を聴きながら、まるで、ディアマンカの身体のなかに書物があり、それが彼の舌を通じて音声に変換されているような心持ちがした。(ディアマンカの「紙の蝶々(パピヨン・アン・パピエ)」という作品がYouTubeにあがっていたので、リンクをはっておこう。この作品もあの日の夜、朗読された。https://youtu.be/mq_1QnemAWc

 朗読には、マバンクも舌を巻いていた。「なんでそんな風に朗読できるの?」と思わず質問をする。ディアマンカの答えはこうだった。彼の両親は文字の読み書きが自由にできず、ディアマンカは子どもの頃から記憶を駆使する生活を送っていたのだという。本を読んでは、それを記憶に刻みつけ、口にしていたらしい。だからなのだろうか、ディアマンカが話しているのを聴いていると、べつに詩作品を朗読しているわけではないのに、どこかリズムを感じる。ゆっくりと揺れるようなディアマンカのフランス語。この人のフランス語ならば、どうにか身につけてみたい——そんなふうに思っている自分に、驚きもした。あるテレビ番組では、ディアマンカのことを「現代のグリオ」と紹介していた。言い得て妙だと思う。

 会場は人で埋まっていた。その多くがアフリカ系の人たちだ。老若男女、さまざまである。みな、同郷の作家や詩人に会うためにやってきているようだった。もちろん、人気作家マバンクを目当てにやってきている私のような人もいただろうけれど。この有名作家に誰もが関心をよせている。

 マバンクとディアマンカの対談が終わって、会場に質疑応答がふられると、ある紳士がおもむろに手をあげて、こう質問する。「マバンクさん、私はあなたの本をまだ一冊も読んだことがないのですが、何を手始めに読んだらよいでしょうか?」会場からは笑い声。マバンクも笑いながら、「誰かおすすめを言ってやってくれ」となげかける。「『明日、僕は二十歳になる』なんかどうだろう」「『割れたグラス』がいいと思うよ」と会場から声があがった。

 会場のすみで控えめに手を上げている若い女性がいる。大学生だろうか。彼女はギニア出身だという。「マバンクさん、パリだとこんな風に本屋があって、誰でも本を手に取ることができます。あなたの本も自由に読むことができます。でも、私の国の若者はそうはいきません。そもそも本がないのです。あなたは有名人なのですから、政治家にかけあったりして、どうにか状況を変えてくれませんか。」「すでにしています、何度もやっています」とマバンクは答え、「文化事業の担当者、いや非=文化事業の担当者にも掛け合いました(会場からは笑いがおこる)。でも思い起こしてみてください。アフリカの国の大統領で、だれか演説中に文学作品を引用したことのある人はいたでしょうか。フランスの大統領を見てください。文学作品の引用をしています。でもアフリカはどうですか。誰もいません。誰もいないのです。」私の後ろに立っていた男性は、それがアフリカさ、とつぶやいた。マバンクはさらに続ける。「政治家が率先して文化に関心を持たなければならないのです。そうでなければ……」

 ふと日本の首相はどうだったか、なにか文学作品を引用したりしていただろうか……と自問し、答えに窮してしまった。

 イベント終了後、マバンクは彼と言葉をかわそうとする一人ひとりと談笑し、サインを求められれば、一人一冊などと言わず、目の前に積まれた本すべてにサインをしていた。ディアマンカの方は、音楽をやっているというやはり物静かなちょっと不思議な青年とゆっくりと語り合っていた。不思議な、というのは、質疑応答の際にこの青年も手を挙げて、(おそらく)詩と音楽の関係について質問をしていたのだが、それは聞き取れないほどか細く静かな声で、しかもゆっくりした口調だったからである。それは何かを伝えようというよりも、かろうじて聞こえる独白のようだった。ディアマンカもまた、朗読以外のタイミングでは、ゆっくりと静かな声で話す。二人の世界はどこかで響き合っているようだった。

 一足先に書店から出て、帰路につく。まだ店の中には大勢の人がいたから、あの後もずっと談笑が続いたに違いない。メトロに乗りながら、まだ、あの場にいた人々の語り合う声が耳元でこだましているような気がしていた。

水牛的読書日記 2021年10月

アサノタカオ

10月某日 京都への旅から帰ると、荘司和子さんがお亡くなりになったことを知った。荘司さんはタイ語の翻訳家で講師。著書に『ソムタムの歌』(筑摩書房)、訳書に『カラワン楽団の冒険』(晶文社)など。サウダージ・ブックスから刊行した『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』(八巻美恵編)の翻訳で大変お世話になった。一年に一度は電子メールでやりとりし、タイの詩について、歌について教えていただいた。荘司さん、本当にありがとうございます。

 彼は死んだ 森のはずれで
 ……
 彼は人知れず散った
 けれど今 その名は轟く
 人びとはその名を尋ねその人について知ろうとする
 その人の名は ジット・プミサク
 思想家にして著述家
 人びとの行く手 照らす灯火
 ――スラチャイ・ジャンティマトン「ジット・プミサク」(荘司和子訳)

荘司さんが訳したジット・プミサク詩集やスラチャイ・ジャンティマトン短編集はウェブページ「水牛の本棚」で読むことができます。
http://suigyu.com/hondana/index.html

10月某日 芥川賞や直木賞など日本の「文壇」賞にはまったく興味がないけれど、ノーベル文学賞の発表は毎回心待ちにしている。文学を通じて、世界の広さ、深さを知ることのできる喜び。昨年の受賞者、ルイーズ・グリュックの詩集『野生のアイリス』(野中美峰訳、KADOKAWA)を読みながら発表時間を待つ。と、第一報のニュースに「ザンジバル出身」の文字を発見し、驚いた。
2010年にサウダージ・ブックスから出版した飯沢耕太郎さんの『石都奇譚集』は東アフリカ、インド洋に浮かぶザンジバル島を舞台にしたトラヴェローグ。ぼくはこの本の編集のための取材をかねて飯沢さんとともにこの島を旅したことがあり、「ストーンタウン」と呼ばれる迷路のような石造りの旧市街を何日もさまよい歩いた。だから、気になったのだ。
2021年ノーベル文学賞は、タンザニア連合共和国に属するザンジバル出身の作家 Abdulrazak Gurnah が受賞した。現在は英国を拠点とし、英語で書くポストコロニアル文学の作家で、サルマン・ラシュディの文学の研究などもおこなっているようだが、邦訳された著作はまだない。日本の大学図書館でもその研究書以外の彼の小説(原著)の所蔵は少なそう。さまざまな書誌情報サイトを検索しても、日本語文献はあまり見つからない。
ノーベル文学賞発表後にいちはやく公開された『The Gurdian』の記事によると、Abdulrazak Gurnahは、1948年に当時英領だったザンジバル島のインド系の家庭に生まれ、1964年のザンジバル革命後に難民のようにして英国へ渡り、小説家になったという。アフリカ中心主義を掲げるアフロ・シラジ党による革命では、それまで支配階級だったアラブ系やインド系の多くの人々が迫害されたと聞く。むろんその大元には、ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地化の問題がある。こうした苛烈な歴史とディアスポラ(民族離散)の経験からどんな文学が生み出されたのか。近い将来、日本でこの作家の著作が翻訳、出版されることを期待したい。

10月某日 川内有緒さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)は、すばらしいノンフィクションだった。全盲の視覚障害者が美術を鑑賞するとは、どういうことか。最後のページを閉じてもはっきりした答えは見つからず、目の見える/見えないのあいだにある「わからないこと」がむしろ増えた。川内さんがつづるのは、「目の見ない白鳥さん」とともに全国各地の美術館や芸術祭、寺社をたずねる旅の物語。語り口は風通しが良く、文体はやわらかで軽妙。しかし読後にお土産として渡された問いはずっしりと重い。その重みを感じつづけることが大切だと今は思う。川内さんの紀行作品『バウルを探して〈完全版〉』(三輪舎)も読み返したくなった。

10月某日 前夜、千葉県を中心に関東一帯で最大震度5強の地震が発生した。東日本大震災を思い出すほどの大きな揺れを感じたが、神奈川の自宅で被害といえるものはなかった。棚から落ちた何冊かの本、崩れた書類の山を片付け、避難用の防災グッズと靴を玄関に準備しておいた。
この日は早朝から大阪に出張する予定だったのだが、JRの在来線は地震の影響で広範囲で運休し、交通機関の混乱がしばらくつづいていた。東海道新幹線は多少の遅延はあるもののうごいている様子なので、予定を午後の出発に変更して大阪へ。道中では、「シリーズ ケアをひらく」より村上靖彦さんの『在宅無限大』『摘便とお花見』(以上、医学書院)を読む。看護師の語りをめぐる現象学的研究の書。
大阪・桃谷で、認知症の人と家族の会大阪府支部のつどい「認知症移動支援ボランティア養成講座」の実習に、取材を兼ねて参加した。森ノ宮医療大学の先生で作業療法士の松下太さんから認知症ケアの技法として注目される「ユマニチュード」や、車椅子など福祉用具の使い方を学ぶ。折りたたみ式の車いすを開いたこともなかったので、実際に手足を動かしてみてなるほどの連続。実習の後は、大阪市認知症の人の社会活動推進センター「ゆっくりの部屋」のライブラリーに立ち寄り、川内有緒さん『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を寄贈した。
講座終了後の夜、桃谷から鶴橋までの界隈をゆっくり散策した。桃谷には子が生まれた病院があり、なつかしい。病院に立ち寄り、消灯したロビーを外からのぞくと、待合室のシートにひとり座り、暗がりの中でスマホの画面をのぞきこむ若い男の姿が見えた。不安な夜を過ごす人々のあしたに希望の道が開かれますように、と心の中で小さな祈りを捧げた。

10月某日 昨日に引き続き、大阪のコリアタウン「猪飼野」の周辺を歩きながら思い出の古書店をめぐることに。子が生まれた2004年前後は一時的に大阪に住んでいて、南巽の日之出書房、鶴橋のあじろ書林、楽人館にほんとうによく通った。こういう店で、ぼくは韓国文学や在日文学の世界に本格的に出会ったのだった。日之出書房は閉店して、いまは谷町線の喜連瓜破駅に移転。地下鉄のアナウンスで見慣れない漢字の駅名を「きれうりわり」と読むことを知った。
先々月に亡くなった画家の富山妙子と李應魯、朴仁景との対話『ソウル—パリ—東京』(記録社)を楽人館で購入し、帰路、新大阪からの新幹線車内でじっくり読みはじめる。1985年刊。アジア一帯で日本がおこなった戦争と植民地支配の暴力の記憶はいまよりも生々しいものとして存在し、同時代の韓国社会は光州事件以後、軍事政権に抵抗する民主化運動のうねりに大きく揺れ動いていた。日本と韓国のアーティストが、これほどの知的な緊張感をもって対話をすることが今あるだろうか。ひとつひとつのことばの背後にある、ポストコロニアルな世界を激しく生き抜いた三者の旅する人生の振れ幅が大きく、読んでいてひたすら圧倒される。

「1970年秋、私は思いきって韓国をたずね、釜山から列車に乗り戦前に通ったおなじ鉄道沿線の風景をたどってみた。……あのころ私は釜山で青葡萄を一籠買い、マスカットのような大粒の葡萄を食べながら、車窓の風景を眺めたものだ。戦後『朝鮮詩集』を読み、李陸史の「青葡萄」という詩を知った」(富山妙子)

10月某日 台湾の作家、蘇偉貞の長編小説『沈黙の島』(あるむ)を読了。主人公の晨勉(チェンミェン)の物語と、彼女が想像するもうひとりの晨勉の物語が交互に語られるという凝った仕掛け。重厚な小説で、倉本知明さんの翻訳がよかった。
先月、名古屋の本屋ON READINGの黒田杏子さんから聞いた「閲読台湾」という台湾文化をテーマにしたブックフェアが、全国各地の書店ではじまる。今年2021年に入り、台湾の作家・呉明益の小説の日本語版が続々と刊行され、故・天野健太郎さんの名訳による『歩道橋の魔術師』と『自転車泥棒』が河出文庫、文春文庫で文庫化された。この機会に台湾文学も、いろいろ読みたい。
ちなみにぼくの亡き父親は植民地時代の台湾・台中に生まれた、いわゆる「湾生」だ。戦後の引き揚げ時は12、3歳で記憶はあるはずだが、子供たちに台湾のことを語ることは一度もなかった。植民地主義の歴史は、暗い影のようなものとして自分の内に存在している。

10月某日 北海道大学出版会が主催、朝鮮語学・日韓対照言語学が専門の野間秀樹さんのオンライン講演会に参加。同出版会から刊行された新著『言語 この希望に満ちたもの』をめぐって。この本は事前に読んでおり、講演のお話も興味深い内容、美術作家としての顔も持つ野間さんがみずから手がけた本の装丁についてのエピソードもおもしろかった。野間さんの『新版 ハングルの誕生』(平凡社ライブラリー)も手元にあるが、大著ゆえにこちらはまだ読むことができていない。

10月某日 雨の休日、神奈川県立美術館葉山館で開催された「生誕110年 香月泰男展」を家族で見に行く。画家・香月泰男が抑留体験を描いた《シベリア・シリーズ》全57点は強烈圧巻だった。絵画の圧が強すぎてやや心身不調となり、館内のベンチに座り込んでしまった。うちの子は《シベリア》以前の少年のシリーズ、妻は晩年の青がよかったとのこと。ミュージアムショップで図録『日韓近代美術家のまなざし——『朝鮮』で描く』を購入。読み応えあり。

10月某日 東久留米市立図書館で開催される「図書館フェス2021」。今年のテーマは「言葉をとどける、世界はカラフル」。「本屋さんのトビラ」という企画に参加し、おすすめの1冊として、温又柔さんの小説『真ん中の子どもたち』(集英社)を紹介した。

「台湾人の母、日本人の父のもとに生まれ、東京で育った大学生の主人公・琴子(ミーミー)が、中国の上海に語学留学する。台湾、日本、中国。国や民族のはざまで生き、迷い、悩む若者たちの人生が異郷で交差する。どの「普通」にも収まらない琴子ら「真ん中の子ども」たち。自分だけの言葉、自分たちだけの言葉を探す主人公たちの旅を描いた青春小説です。」

ぼくは都会の本屋さんに通うようになる前の少年時代、地元の図書館でよく本を借りて読んでいた。そこで日本と海外の文学の世界に目覚めたのだった。だから図書館で、とくにいまの中学生や高校生に読んでほしいと願って推薦文を書いた。この本をきっかけに、温さんのほかの小説や、日本語についてのエッセイにも関心をもってもらえるとうれしい。
https://www.lib.city.higashikurume.lg.jp/soshiki/2/chuou-tobira20211020.html#tobira15

10月某日 思うところがあり、年内は在日文学の大家・金石範先生が近年発表した小説を集中して読むことにする。『火山島』全7巻(文藝春秋)に代表されるように、1948年におこった済州島4・3虐殺事件を中心に、朝鮮半島の歴史、そして在日というディアスポラの歴史のなかで語れられなかった声に身を捧げるように、90歳を超えていまなお日本語で小説を書き続けている。多くの作品のモチーフ、登場する人物たちやエピソードには反復と連続が多いのが金石範文学の特徴だが、それは大切なことは何度でも語り直さなければならない、と作家がつよく信じているからだろう。なぜ書き続けるのか。そこには、近代文学の概念や作家個人の思想を超えた、太古の時代から無名の人々の群れによって語り継がれてきた「神話」のようなはたらきもあるのではないだろうか。

色川さんの贈り物

若松恵子

作家の色川武大に、特別な親しみを感じている。彼はきっと、出会った人みんなに、そんな思いを抱かせてしまう人だったのだろう。『色川武大という生き方』(田畑書店編集部編/2021年3月)は、彼の全集の月報をまとめた本で、32人の心の中に居る色川武大と会える本である。

最初の1篇、大原富枝の「たぐい稀なやさしい人」は、みごとなラブレターだ。これからは、純文学(自分の書きたいもの)だけを書いていこうと決心した矢先の色川の死を「わたしの胸をしめつける哀しみ」と大原は書く。けれども、作品の完成はみなかったけれど、彼は「他の人間が生涯かかっても遺せなかったような、妖しいほど透明な文学の美を遺していった。」と大原は続ける。彼が遺した透明な文学とは「一人の男の生涯として、悔いることのない美しい思い出とやさしさを、友人すべての胸に遺してゆくという、なまなかな人間には決して出来ない見事な生涯」そのものの事であると。

奥野健男は、「色川武大の作品は、ぼくがなぜ文学をこんなに好きになったかの根源を改めて思い起させてくれた。」と書いていて心に残る。

色川が『妖しい来客簿』で泉鏡花賞を受賞した際に、同時受賞した津島佑子の回想も胸を打つ。受賞式後の懇親会の席で、太宰治の娘である津島に「おまえの作品は父親を踏みにじっている、思い上がりもはなはだしい」と酔ってからむ相手を色川が魔法のように黙らせてしまったエピソードをひいて、「酒に酔った人を相手に、そのように冷静に、しかも突き放すでもなく、話しかけることができる人を、私は他に知らなかった。そして、今でも知らない。」と津島は書く。その後の、子どもも含めた色川との交流の思い出を語りながら、津島は文章の最後をこうしめくくる。「個人的な、この程度の出会いに、特別な意味など、あろうはずはない。作家について何かを語るのなら、作品のことを語るべきなのだ。そうは思うのだが、同じ時間を偶然、共有し、さりげなくそのまま遠のいていく、ということに、その時間の延長線上に今でもまだ、生きている者として、やはり、特別な思いを持たずにはいられなくなる。」と。

色川が遺して行った思い出そのものが、何より色川の文学であったのだということに私も共感する。重ねて、色川自身の心に遺された、年月を経て蒸留されたもの、思い出が彼の文学であったのだとも思う。多くの人がやり過ごす小さなことに目を留め、多くの人が忘れ去ってしまうささやかなことを忘れずにいる彼のやさしさが、彼の文学であったのだと思う。

私自身は、作品でしか色川武大を知らない。出会いは、『花のさかりは地下道で』だった。この文庫本をふと抜いた、金町駅前の本屋の風景を今でもよく覚えている。大学を卒業して働き始めた年で、私は家から家を訪問する営業の仕事をしていた。題名に自分の境遇を重ねたのかもしれない。

はぐれてしまった者に向けられる温かなまなざし。作者の色川と思われる主人公もまた、何かを求めて街を行きかう人を眺めていた。家族でもなく、愛人でもなく、まして敵でもない、「味方」と呼べる存在。彼は、はぐれてしまった自分を分かってくれる人を街のなかに探していた。「稼いでいるかい?」主人公が路上の仲間である街娼の「アッケラ」にかけるセリフを想像して、心の中で色川さんの声を思い浮かべながら、私も街を歩いたのだった。

色川さんにいっしょに歩いてもらって何とかしのいだあの年からしばらく経った頃、私は旅行で一関に泊まることになった。「色川さんが亡くなった一関だ」と思いながら、夕食のあと、ふらりと入ったゲームセンターで、子ども用のパチンコをして遊んだ。とんでもない大当たりになった。パンドラの箱を開けたみたいにとめどなくジャラジャラと出てくる玉を見て、「色川さんだ」と思った。色川さんからの贈りものに違いないと思った。ガム1枚とも交換できない当たりだったけれど「このくらいの運なら、プレゼントしても運、不運の足し算が狂う事はないだろう?」と色川さんが笑っているような気がした。

子ども用のパチンコをどうしてやってみようと思ったのか、思い出せない。何だか不思議な気がした。そして、うれしかった。どこか遥かなところから送られてきた、温かな色川さんの挨拶だった。

言葉と本が行ったり来たり(1)『自由への手紙』

長谷部千彩

 八巻さん、こんにちは。
 今日は生憎の曇り。衆院選の投票日です。
 私は昨日のうちに投票を済ませました。午後、青山で探検家角幡唯介さんの講演を聴き、その足で散歩がてら投票所である区民センターまで歩いたのですが、いいお天気だし、赤坂御所の緑を横目に、とても気持ちが良かったです。土曜のためか、期日前投票だというのに会場の入り口には行列ができていました。

 選挙というと思い出すのは、幼い頃、両親の投票にお供させられたことです。
 小学校の廊下に、土足で入れるよう、緑色の養生シートが貼ってあって、その日だけは子供たちの姿は消え、ひっそりした校内に大人しかいない。それが普段と違う雰囲気を醸し出していて、学校の隠された顔を見るようでドキドキしたのをよく覚えています。

 いま考えると、両親は――というよりも母の判断に違いないのですが、幼いうちから子供達に、選挙に行く姿を見せておきたかったのだと思います。母親になった妹も、子供が幼稚園児のときから投票に連れて行ったりしていたけれど、たぶんそれも同じ理由でしょう。
 私の兄弟が「選挙は欠かさず行く派」なのは、きっとその経験が影響しているのでは、と思います。

 だからと言って、母がそういったことを、「教育」として私たちに施したわけではないのです。
 ただ、毎日じっくり新聞を読むひとで、家事の合間に、畳の上に拡げたそれに正座して目を通す姿(母にとってはそれが楽な姿勢だった)――うつむいた首の角度や背中の丸み、体を支えるためについた片腕、右側に寄った重心、時折ひそめる眉、気まぐれにやってきて、その体に甘えてもたれる小さな弟、そこに差す陽光までも、幼い頃、目にしていた記憶が私の中に焼き付いていて、いま私は新聞をタブレットで読むので、大抵ベッドに寝転んでのことですが、そして母ほど熱心にではないけれど、新聞を読むのは私にとってごく自然な日常の行為です。
 だから、選挙に行くのも面倒と感じないし、票を投じるひとを選ぶのも迷わない。それは、親の習慣を抵抗なく引き継いだだけ、といえるかもしれません。
 なぜ、そんなところまで話を拡げたかというと、「子供の教育」というものについて、最近モヤモヤと考えていることがあるからです。もう少しまとまったら、八巻さんへのお手紙にも書きますね。

 さて、面白かった本を教え合いましょうというお約束、私が選ぶのはオードリー・タンの『自由への手紙』です。「台湾の最年少デジタル大臣が日本の若き世代に贈る、あなたが新しい社会をつくるための17通の手紙」と帯にあって、いやらしいビジネス本みたいですけど、というか、章立てもビジネス本仕様なのですが、読み進めていくと台湾の政策の数々が紹介されている興味深い本でした(台湾の政策研究の講義があれば受けてみたいと思った)。
 例えば、台湾はアジアで初めて同性婚を認めましたが、どのように理論を組み立てて合法化させたかなんて、同じ家父長制の文化を持つ国として参考になる内容です。
他にもコロナ対策、ジェンダー問題、ハンコ問題(ハンコ問題はハンコではなく紙の問題という指摘もユニーク)、移民に対する姿勢、ソーシャルメディアとの付き合い方、デジタルをどのように社会に活かしていくかという話など、もちろん提案の中には、そんなにうまく行くのかな、と感じるものもありましたが、一本すっと補助線を引くと問題が解けるということを実演してくれるような楽しい本でした。一時間程で読み終わるという手軽さも良かったです。

 さらっと読める短い手紙をと考えていたのに、すっかり長くなってしまいました。
次回は、八巻さんを見習って、「きりりと短く」を心がけますね。
お返事いただけるのを楽しみにしています。
それでは、また。お元気で。

長谷部千彩
2021.10.31

製本かい摘みましては(168)

四釜裕子

絶賛老眼進行中で、紙の本や辞書を見ながらモニターで作業するのがいよいよつらくなってきた。めがねの上げ下ろしをするのにカチューシャみたいにしてしまうと下げるときに髪の毛がばっさばさになって邪魔だし、ならばとおでこにめがねを止めるが、ああこれ、所ジョージだ、と思う。長く参照するときはもう迷わずスマホで撮ってモニターに大写しにして見ているし、引用する場合はまずはGoogleレンズでテキストをコピペしてしまう。ということをするようになって、今度は片手で本をおさえながらスマホ操作するのが大変になってきた。本をぺたっと開くことに抵抗はないが、左右に重石をのせても本がじっとしていないこともある。それでふと思い出した。数年前にネットで見た、”アクリルの本”。

”アクリルの本”というのは商品名でもなんでもなくて、ただ自分の記憶にある”それ”の呼び名だ。こんなんで探せるかなと思ったら探せた。「BOOK on BOOK」という。TENTさんという会社が作っていて、2013年ころになるのだろうか。〈BOOK on BOOK は、好きな本の好きなページを開いたままにするために作られた、アクリル製の透明な本です。使い方はシンプル、お手元にある本のお気に入りのページを開き、その上に BOOK on BOOK をのせるだけ〉。

当時、おもしろいなとは思ったけれど、 想定されたシチュエーションが〈写真集やアートブックを開いてインテリアに飾ったり〉や〈お茶とお菓子を楽しみながら読書したり外に持ち出して景色を読んだり〉とあったりしてぴんとこなかった。今改めてサイトを見ると、開発のそもそもから、試作、完成にいたる経緯が簡単に記されている。ごはんを食べているときも本を読みたいと思ったTENTの青木さんという方が、ならば開いた本の上に透明の板をのせればいいんじゃないか、まん中はくぼばせたほうがいいだろう、それならいっそ本のかたちにすればいいんじゃないかということで、まずは3Dプリンター+紙やすり研磨で試作したこと。周囲の好評を得て、量産へと舵をきったこと。最初はシリコン型を作ってエボキシ樹脂で試みるも失敗、その後さまざまな試行錯誤をへて、そしてようやくたどり着いたのがアクリル製だったそうだ。おお……。

ということで、買ってみた。幅21センチ、横18.5センチ。文庫本を開いた上にのせると左右がぴったりという感じ。5ミリ厚くらいの1枚のアクリル板を、1枚1枚手作業で成形しているそうだ。本ののどのところは、アクリル板との湾曲具合がどうしてもずれるから文字がゆがむし、大きい本にのせればアクリルの端が重なったところの文字もゆがむ。でもそれ以外はとてもクリアで安定している。光の反射もない。モノとしても美しいし、かわいらしい。全体の重さは220グラムで、おおかたの本はそれをのせれば落ち着いて開いていてくれるんじゃないか。のせた状態でさっそくスマホで写真を撮ってみる。Googleレンズで読み込ませてみる。快適だ。ページを開くたびにこの板を置き換えることになるが、いろいろな不便を天秤にかけると、こういう目的があるのなら難儀ではない。

BOOK on BOOK には〈電子書籍にはない、紙と活字の本だけの楽しさを伝える、本を楽しむために〉という売り文句もあったようだ。まあこちらにそんなつもりはない。むしろ電子と紙をつなぐ透明の PAGE on BOOK とでも呼んでみたいなとか思っていたら、高橋昭八郎さんの「蝶」という作品を思い出した。詩集『ペ/ージ論』(構成:金澤一志 2009  思潮社)の「蝶」のページ(p18)を開いて、 BOOK on BOOK をのせてみる。おっと、最初の見開きの左右ページに一行ずつ配された文字にアクリルの端がちょうど重なる! 全3見開き6ページのこの作品、BOOK on BOOK をのせるたびに不本意にかもしだされたゆがみが、ページをめくる前のどこかを映す。固定された文字のゆらぎやためらいをのぞき見るみたいだ。昭八郎さんにそのことを言ってみたくなった。

よみがえった「お兄ちゃん死んじゃった」

さとうまき

イラク戦争当時、ブッシュ政権で国務長官を務めたコリン・パウエルがコロナで亡くなったというニュースが飛び込んできた。

2003年1月29日、僕はバグダッドにいた。
ブッシュ大統領は、一般教書演説でイラク攻撃を訴えた。
いつ開戦宣言するのか、バグダッドの人たちはかたずをのんで見守っていた。僕が泊まっていた町中のぼろホテルにはパソコンが置いてあって、インターネットがつながっていた。ホテルの従業員がのぞき込んできて、「なんて言っている?」と聞いてくる。
「『2月5日に安保理で、パウエル国務長官が、イラクの違法な兵器開発計画と査察からの隠蔽、テログループとの関係について情報を示す』そうだよ。一週間は大丈夫だ」

そして、2月5日になるとバグダッドの人たちは、もっと緊張してTVを見ていた。僕ももう、明日にでも戦争が始まるのだろうと思った。ただ、パウエルの持ってきた証拠があまりにも信憑性がなかった。そもそもイスラム原理主義のオサマ・ビンラディンと、世俗的な社会主義を掲げるサダム・フセインが手を組むはずがない。アルカーエダのザルカウィというテロリストがイラクにいる証拠を説明していたが、その場所はクルド自治区であり、サダムの勢力が及ばない地域だ。でも日本を始めとしてそんな細かいことはどっちでもよくて、アメリカがそういうんだからそうでしょ、みたいな雰囲気で、やっぱり戦争になるんだろうか。って、僕は、どうなるんだろうなあ!このまま戦争に巻き込まれてしまうのだろうか?

しかし、さすがにパウエルの証拠はインチキ臭く、国際社会も、ちょっと待てよ?ということになった。演説の中で、引用した英国の諜報機関による「大量破壊兵器開発にかかる機密文書」は、実は、すでに発表されていた大学院生の論文だったことがすぐにばれてしまう。

そして、パウエルは、「カーブ・ボール」と呼ばれるドイツに亡命したイラク人が「フセイン大統領はトラックで移動が可能な生物兵器を所有しており、兵器工場を建設している」と証言したことも紹介したが、のちになって、「カーブ・ボール」は食わせ物で、難民として永住権を取りたいがために、ドイツ政府に嘘をついたことが判明する。

そういうわけで、パウエルは、とんでもない嘘つきで、イラクをめちゃくちゃにした張本人の一人として歴史に名を連ねた。本人は、のちにそのことを「人生最大の汚点」として反省している。

日本政府の対応もひどかった。原口国連大使が2月18日の国連の会合で、「日本政府としては、国際協調を重視しており、イラクが非協力であり義務を十全に履行していないという事実を踏まえ、国際社会の断固とした姿勢を明確な形で示す新たな安保理決議の採択が望ましいと考えております」と述べて、アメリカがイラク攻撃を容認する決議案をだしたら、国連は一致団結して賛成するように訴えたのだ。原口大使は、のちにパウエルのように、「人生最大の汚点」とは思わなかったのだろうか?

反戦運動が世界的に盛り上がっていった。戦争をやめさせるチャンスは十分にあった。僕は、バグダッドの子ども達に絵を描いてもらって日本で紹介することで、戦争反対の機運を高めるミッションを実行していたのだ。

安保理は、フランス、ロシア、中国、ドイツが、イラク攻撃に反対したために、国連の支持がないまま、アメリカとイギリスは、大量破壊兵器が見つかることを信じて戦争を始めてしまった。大量破壊兵器=神なのか??

そんなある日、出版社が僕のところに来て、「谷川俊太郎さんの詩にイラクの子どもの絵を使いたいので、貸してほしい」というのだ。聞くところによると別に谷川さんがイラク戦争の詩を書いたのではなく、今までの詩を集めて絵本にするのだという。なんか違和感があった。「そんなんじゃだめです。戦争を見たイラクの子どもたちが谷川さんの詩を聞いてどう感じるのか。そういうシンクロしないと意味がないんじゃないですかね」

それで、少し落ち着きだした2003年の7月に一週間くらいイラクの子ども達とワークショップをしてたくさんの絵を描いてもらったのだった。編集の仕方が気に入らず、結構編集者とその後ももめて出来上がったのが「『おにいちゃん死んじゃった』イラクの子どもたちとせんそう」という絵本だ。

今回、ようやく子どもたちの絵が僕のもとに戻ってきた。当時は、あちこちから展示したいという依頼があったが、イラク戦争から18年も経って、すっかり忘れ去られてしまっていた。絵を手にとると、わくわくしてくる。原画は、まるで生き物のようなもの。子どもたちの「イラク」! 僕の「イラク」がそこにあった。

ワークショップは、夏休み中の音楽学校の教室を自由に使わせてもらって、住み込みで働いていた用務員のサエッドさん一家の子ども達が毎日来てくれた。当時8歳だったムハンマッド君の絵に書き込まれた文章が楽しい。


  大切なもの

ともだち
お父さんとおかあさん
勉強
学校
学校大好き。とっても楽しいんだもん。
僕は、学校で勉強し、本を読み、友達と遊ぶんだ。
学校って、なんて素晴らしいんだろう。学校大好き。とっても楽しいよ。僕は学校で本を読んでいるよ。

このムハンマッド君は、イラクがその後地獄のように内戦化しほとんど外に出られない時も学校に住んでいたから、音楽を続けることができた。今でも音楽を続けていて、先生として教えていたり、バンドも作って海外のフェスにも出ているというからうれしくなってくる。

イラクでは、10月に国政選挙があり、子どもたちも立派に成人して、親になっている。選挙に行くのか聞いてみたら、皆行かないと言っていた。理由は、「イラクはだれを選んでも汚職だらけ。投票する人がいないよ。この国には未来がない」という。

投票率は41%。サダムの時代は、サダムしか選択肢はなく、投票率100%の得票率100%という驚くべき数字だった。こういう独裁者を排除して、アメリカがイラクを民主化すると言って始めた戦争だ。支持した日本の責任は重い。日本は、いまだイラク戦争の攻撃の是非を検証せず、日米関係が良好になったという理由で、「アメリカのイラク攻撃を支持したことは正しかった」としている。日本でも昨日は衆議院選挙の日だった。投票率は、55.78%だった。外交や国際平和が争点になることはなかった。だから、僕はこの絵を皆さんにつたえていかねばならない。


11月23日-28日まで 東京江古田の古藤という画廊で「イラクの子どもの絵」の展示を行います。アラブ音楽の演奏などもあります。詳しくはこちら
http://chalchal.html.xdomain.jp/Chalchal/index.html

夢の中(晩年通信 その24)

室謙二

 よく夢をみるようになった。
 まず一晩に何度も起きるのである。
 昨日の夜なんて、一時間に一度ぐらい起きて、そのたびに夢を見ていたらしい。起きた瞬間は、その夢を覚えている。だけどすぐ忘れてしまう。数分たったら、もう忘れているぐらいだ。
 夢日誌と言うものを作ろうと思った。枕元にノートを置いて、夢を見て起きたら、すぐにそこにどんな夢だったかを書きなぐる。だけど、あくる日に起きてその字が読めなかったりする。読めてもどんな夢だったか思い出せなかったりする。
 夢を見たときには「これは重要な夢だ」と思ったりするが、次の日にノートを見てもちっとも重要ではない。毎日の普通の出来事のことが多い。
 でも死んだ友人とか両親とか姉さんには、よく夢で会った。学校時代の夢も見る。出たくないクラスとか。飛行機に乗り遅れそうになる夢もあった。まだ以前の結婚生活を続けていたりする。これはちょっと焦ります。
 夢を見ている夢も見るしね。でも夢から起きられなくなったら、どうするのだろう。夢が現実になってしまったら、どうするのかなあ。

 フロイトとかユングは、夢は人々の意識の下にあることを象徴するものだと考えた。そしてその分析を通して、精神分析という科学と方法が生まれたのである。その理論はわかるけど、私の夢が、昨晩の何回も見た夢が、何かの象徴なのかなあ?フロイトとかユングのところに行って、聞いてみたいよ。
 かつてはユングの文章をたくさん読んだが、歳をとってしまって、記憶が悪くなって思い出せない。でも本棚のユングの本を取り出すこともしません。

  釣りの風景

 十年以上前に、よくフライ釣りに行っていた時は、釣りの夢を見た。釣りの夢というより、釣りをする場所、空間の夢である。
 川の流れとか山に囲まれた湖もあった。そしてフライ釣りのロッドを持って、ウェーダーを着て水際に立っている。あるいは、あの当時はカヌーを持っていたので、それで小さな湖に漕ぎ出している。
 川だと水が足の間を流れている。もっと川の中に進むと、水はもも近くまでやってきて、これだと転ぶと危険だな。フライをラインの先につけて、ひゅっと川上に投げる。魚のいそうなところにね。この魚のいそうなところというのは、本を読んだり、経験でだんだんとわかってくる。簡単に説明することはできない。
 湖だと水面をねらうフライではなくて、水面の下とか底へ、ルアーを投げる。そんな夢をみるのである。

 夢で見る釣りをする場所は、ほとんど決まっていた。ああまた同じところに来たなあ、と思う。場所、空間、それに空とか風とか、周りの風景、木々とか岩とかが、ほとんどが同じである。音はない。
 釣りというのは、だいたい見えない魚を釣るのである。フライは、水面に浮かばせて、川の流れるままに、そのフライが流れるのがいい。だけどフライにはラインが付いていて、それが抵抗になって、空中の昆虫が水面に落ちて、川の流れのまま流れていくようにはいかない。色々と試すのだが、水面下の魚は変な動きをするフライを見限ってしまう。それだけではなくて、さっさともっと深いところに潜って、もうフライを見てもいない。賢いのである。
 というのは、みんな釣り人の想像である。魚は見えないのだから、それに魚と話しあったわけでもない。こちらは魚がこうしているだろう、ああしているだろうと想像して、手管を使って魚を釣ろうとする。釣りは、つまり想像のゲームなのだ。

 フライ釣りの場合はあまりしないが、ルアー釣りの場合は重しをつけて、あるいは重いルアーで底釣りをする。カヌーからポトンと重いルアーを湖の底に落とす。ピンと張られたラインが底に着く感じが手に伝わったら、そこからちょっと上にあげて、また落とす。そんなことを、いろなやり方で試しているうちに、運が良ければ魚が食いついてくる。
 いつ魚がフライとかルアーに食いついてくるかは、分からない。今書いたように、釣りは想像のゲームなんだ。何時間もそんなことをやっていて、一匹も釣れなくて、がっかりと疲れてしまう。でも楽しい。
 だけど突然に、ラインに抵抗があって、竿がちょっと曲がる。魚がフライとかルアーにちょっかいを出したか、軽く食いついたか。さてそこでどうするか?

  無意識から引き上げる

 パッと合わせて、ロッドを数インチ持ち上げる。いや、もう少し待ってしっかりと食いつくまで待つか?でも、軽く食いついて、これは餌ではない(食べ物ではない)、木のルアーとかフライだと吐き出すかもしれない。神経を集中して、大の大人が小さな水面の下にある魚のことを考える。そして合わせて、引っ掛けたぞ万歳。というわけではない。それからラインを引っ張って逃げ回る魚を、引き寄せないといけない。それがまた息を呑む時間ですよ。最後に網に入れて、それから魚を逃がす。私のやっている釣りは、キャッチ・アンド・リリースだから。
 と釣りから帰ってきて、魚はどこ?と聞く女房に説明する。だけど、一体なんのために釣りをやっているの?と呆れられる。魚と戯れる高級な遊びなんだけどなあ。分からない人には分からない。

 水面下というのは、フロイトとかユングの言う無意識なのです。何十年か前にユングを読んでいて、山に囲まれた湖の水面下を無意識の領域だと書いていて、それで釣りが無意識とコミュニケートするゲームだということがわかった。もっとも釣りをそんな風に書いている文章は読んだことがないが。
 夢の話を書こうと思ったら、釣りの話になった。
 夢というのは、私たちが現実と思っている世界とは、別の世界のことらしい。それはどこにあるのか?
 釣りというのは、釣り糸(ライン)と餌(ルアーとかフライの時もある)をかいして、釣り人と魚がつながる。しかし魚はだいたい釣り人には見えない、別世界(水の中)にいる。夢と同じように、それは私たちが生きている、呼吸をしているこの世界とは違う世界なのだ。
 だから私にとっては、夢と釣りは面白い形で重なっている。釣りは、無意識の世界、水面の下から生きているものを引き出すゲームなのである。

  母と父の夢

 母の最晩年、もう歩けなくて病院のベットに寝たきりの時に、夢の話を何度もした。もっともあれは、目をつぶって眠った時に見る夢ではなくて、昼間にほんの瞬間に見る夢のようなものだった。
 何十年前の、まだ東京の日本女子大にいく前の大阪の出来事とか、病室の棚にあるものを取ってくれとか。お母さん、棚にある何を取って欲しいの?と聞くと、母親には見えていて、私には見えないものがあるらしい。現実に対応した意識と、別の次元の意識が交差するのである。
 父親の最晩年の時にもそういうことがあった。ケンジ、さっき神楽坂の照国から出てきたら、雨が降っていたよ。と言うのだけど、当人は病院のベッドに寝ていて、神楽坂に照国という食べ物屋はなかった。そしてだんだん現実と夢が重なってきて、私と話をしながら、目をつぶって寝てしまったり起きたり、ちょっと横を向いて、ブッダさん久しぶりですね、なんて言っている。早稲田大学を引退した後、熱心な仏教徒になっていたのである。もっとも日本のお寺や僧侶を信用していなかったら、戦争責任について厳しかった、一度もお寺にもいかず僧侶とも話をしなかった。半分夢で半分現実の中で、数行の遺書を書き、私が死んでも絶対に僧侶を呼ぶなと言うことで、兄さん姉さんと相談してそうした。
 母親も父親も、最晩年は夢と現実が交差する意識の中で、それでも家族のことを考えて、立派に生きたと思う。

多様性・迷い・不安定

高橋悠治

バルトーク「5つの歌」Op. 16 (1916) と ピアノ曲「スケッチ」Op. 9 を演奏する機会に、傷つきやすい(傷ついた)、壊れやすい(儚い)印象について思いめぐらし・・・

一つの中心を持ち、組織され、構成された硬い表面が押し付けてくる主張・表現の重み、強さ、バランス、運動が隠している弱さ、不完全、未完成、不均等、不純が表側に出て、中心のない散らばり、かけら、言いさし、言いなおし、揺らぎ、ぶれ、ずれ、一つひとつがそっぽを向いた小さな線の集まり、その不安定な集まりが、まだそこにない変化を呼び出すように・・・

19世紀の民族主義、20世紀の民族国家の独立、束の間の自律と従属、短い平和と長い戦争、そのなかで「無用なあそび」、「精神」や「思想」に還元されない「よけいなもの」である音、その振動の「触り」と離れていく「響き」と、消えてしまっても残る痕跡(余韻)・・・

ある村で民謡を採集し、それに基づいて作品を創るというしごとは、村の人ではない「よそもの」のすることで、それをしながら村から離れていくと気づけば、風景はひろがり、歩みはさらに遠ざかる。ハプスブルグ帝国が解体した時代に、国境線を引き直してその内側に落ち着くのではなく、起源や影響を追って国境から外に眼を向ければ、バルトークのようにハンガリーからルーマニア民謡を採集しただけで双方から非難されたり、さらにブルガリア、トルコ、アラブまで足を向けていくほどに、どこからも「よそもの」になってゆく。民謡にピアノの和音を付けるだけでも、同じメロディーに毎回ちがう和音の彩りを添えて、それはことばの意味やニュアンスを描くのかもしれないが、象徴としての機能をどこか外れて、メロディーとことばの関係を不安定にしていくのではないだろうか? これは仮のもの、ここに置かれていても、いつかは、なくなっているだろう。

バルトークの音楽の影響ではなく、「異質」で「外側」にいるという位置の取りかた、心をひらくのではなく、謎のまま、扉の向こうの闇、理解を拒む澄んだ水を、別な位置から感じること・・・

「異邦人の眼差し」を向けることは、確実な成熟や発展とはちがって、正統性や権威をまとうことはないだろう。そのかわり見えていたものは見えなくなり、見えなかった染みや影が浮き出してくる。風景は暗い。道は見え隠れ、垣間見えるだけ。

それでも、この不安定が誘う、「まだない」変化には仄かな光がさしている。迷いが呼ぶ、ことばにならないうごめき、安定しないから変化をやめない、ひとつにまとまることなく、組合せを絶えず変えながら、そのたびにすこしだけ折り合いをつけ、でも違いを失うことなく、流れ・・・