仙台ネイティブのつぶやき(80)模型をつくった小西さんのように

西大立目祥子

昨年夏、地元紙、河北新報にのった記事を見て、思わず声を上げそうになった。「区画整理で一変した仙台・二十人町1935年ごろの町並み再現した模型お色直し」。見覚えのある模型の写真ものっていた。
あの紙製の手づくり模型が、30年以上も捨てられることなく残っていたなんて! それは、1989(平成元)年夏に、仙台市宮城野区二十人町の糸屋の主人、小西芳雄さんが中心になり、地区の商店で結成していた「仙台東口繁栄会」の仲間たちとつくった街並み模型だ。当時、小西さんは50代後半。町内に暮らす親世代の年寄から話を聞き出して、昭和10年ごろの街に思いをはせ一棟一棟、組み立てていった。ミシン糸が入っていた空き箱を材料に、屋根には黒い紙を貼り、大人の工作で50軒ほどの店をつくったのだった。

記事によれば、発見したのは、宮城野区で平成の初めごろ活発に行われていた「地元学」という活動を振り返りつつ、地域の記録収集の活動をしている市民グループ「みやぎの・アーカイ部」。二十人町近くの榴岡小学校に模型が残っているはず、といううわさを聞きつけ、小学校を訪ね発見に至ったらしい。ずいぶんと傷んでいた模型をメンバーが救出し、のりとハサミで修復して公開の運びという。

たしか、小西さんが残した手記のようなものがあったっけ…と本棚を探したら、30年眠っていたホッチキス止めの冊子『私たちの小さな町の小さな歩みの記録』が出てきた。発行は、「平成元年9月15日」。最後のページには、モノクロコピーで細やかな表情は読み取れないものの、できあがった街並み模型をテントの下に広げ、街の古老や子どもたちと談笑する小西さんが写っている。そうだ、七夕のとき、二十人町のどこか空地にテントを張り模型をみんなで眺める催しに私も行って、この冊子をいただいたのではなかったか。小西さんの商人らしいいつもにこやかで快活な表情が思い浮かんだ。

二十人町といっても仙台市民でなければわからないだろうから、ざっくりと説明すると、仙台駅東口にほど近く、江戸時代は細い道の両側に足軽屋敷がびっしりと並ぶ町だった。1887(明治20)年に東北線が開通すると「駅裏」とよばれるようになり、さらに戦時中、駅の西側が爆撃を受けて焼け野原となり戦後は戦災復興事業で新しい街並みがつぎつぎと整備されていったのにくらべると、戦災をまぬがれた駅の東側は瓦を載せた黒々とした木造の住宅が密集していて、小さな商店が連なる二十人町の通りは取り残されたような雰囲気が色濃かった。もちろん、そこには下町の人情豊かな暮らしがあり、小さな商いはそれなりに活況を呈していたのけれど。

行政は東口を西口のような街並みに、と考えたに違いない。そこに400年の歴史があることも、2代、3代と必死に守り抜いてきた商売があることも、何よりそこに人が生活を立てていることなど、さほど考慮せずに。小西さんの話では、道路計画の話は昭和30年代、父親の代に出始め、自分たちの世代が大学進学などを終えて帰ってきたころにはだんだん具体的になってきて、勉強会や先進地視察をしては話し合いを重ねていたという。自分たちの人生がかかっているのだから、時間を見つけては将来の町を話し合う日々だったようだ。でも答えはなかなか出ない。いま手元に残る小西さんの回想録を見ると「先進地はどこへ行っても同じ街並み」「再開発ってのはいかにして土地を諦めるか、というところに落ち着く」ということばが胸にささってくる。

町とは何か、将来の町をどう描いたらいいのか。自問自答する中で、小西さんたちは手がかかりは過去にあるという考えに行き着く。そして一世代上の住人から話を聞き、自分たちの記憶を重ねて、昭和10年ごろの街並み模型づくりという試みに着手したのだった。つくり上げ、ようやく答えをつかみかけたころ、小西さんが口にしたことばが忘れられない。「模型をつくってみてわかったんだ。この町の風景のよさは、“軒の深さ”にあるって。だから区画整理事業で立てられる建物はビルになるとしても、軒をつけたいんだよ」

しかし、区画整理事業が完了しできあがった町は、小西さんが思い描いた町とはまるで違うものになった。幅40メートルの道路がどーんと抜け、両側には高層のマンションが立ち並ぶ。4、50軒あった商店のうち、戻れたのは数軒。がらんとして殺風景な町は歩く気にはなれない。建物が取り壊され事業が進む最中、仮店舗で営業していた小西さんを訪ねたことがあった。「いやもう大変なことだよ、区画整理事業って。もう近隣商業の町じゃなくなるね」そう話していた小西さんはそのあと病に倒れ、新しい町での糸屋の再開は果たせず亡くなられた。
 
2月最後の週末、この街並み模型が展示されることになり、30年ぶりの再会を果たすべく出かけた。「みやぎの・アーカイ部」のメンバーが手入れした長さ3メートルほどの模型は色あせてはいるものの、できた当時の印象を保っていた。いまは道路の下に消えてしまった一軒一軒の店が肩を寄せ合うように並び、通りの中央にはランドマークだった二十人町教会の塔がそびえ立つ。ちなみにこの教会は、W.M.ヴォーリズの設計である。種屋のおじさんも小西さんも「ここは下町だけど、俺たち日曜学校に行ってたんだよ。お菓子もらえたからさ」といっていたっけ。敷地内の井戸の場所まで緻密に再現していることにあらためて気づかされた。模型はパーツに分解されしまわれていたので、組み立てには私が本棚から抜き出し提供した資料も役に立ったと聞かされた。みんなが模型を前に話し込む。同じだ、30年前と。あのときも、できたての模型をぐるりと取り囲み、いつまでもなつかしそうに話し込む人たちがいた。

模型が保存されていた榴岡小学校と町のかかわりは深く、子どもたちは二十人町の店に弟子入り留学なるものをしていたという。店を訪ね、そこで商いの手伝いをする一日体験だ。会場にはその記録を伝えるコーナーもつくられていて、23年前、4年生の子どもたちが記した体験の感想が本に仕立てられ並んでいた。担任だった白井先生という方が、ずっと手元に大切に残されてきたのだという。『二十人町のだがし』『二十人町のかまぼこ』『二十人町の井戸』『二十人町の歴史』『二十人町の人の話』というしっかりと厚みのある本が5冊。色鉛筆で子どもたちが一生懸命描いたタイトルと絵が何ともかわいい。いまは33歳となった男の子が一人、訪ねてきていた。

小西さんが小学校を訪ね、授業をしていたことも初めて知った。区画整理事業を前に町づくりをどう進めて行くのか、話をしたらしい。この日は背広を着込みネクタイを締めて子どもたちの前に立ち、子どもたちもいつもの冗談をいうおじさんとは違う面持ちに少し緊張して話を聞いたようだ。45分の授業で話は納まりきれず、あとで小西さんは説明を補足する手紙を子どもたちにしたためた。その手紙も展示してあった。「人は将来の事を考えるのに、今までたどってきた過去と、今置かれている現在の事を充分に理解しないと、将来のことが予測できないのです」「街もだんだん少しずつ変わっているのです。誕生、成長、老化と人と同じように変化していくのです。ただ人はせいぜい生きているのが100年くらいですが、二十人町は400年ほど生きてきました」「街づくりは、形と心の両方が必要です。両方とも急いではいけません。じっくりとやるべきです」B5に5枚ほど綴られた手紙は、40年に渡って、激変する区画整理事業をどう超えていくのを考えに考え抜いた人の珠玉のことばに満ちている。そして、この手紙をしっかりと受け止め記した子どもたちの返事もまた、胸を打つものだった。

現在の二十人町は、わずかに神社にかつての暮らしの痕跡をとどめているだけで高層ビル街と化し下町商店街の片鱗は探しようもないのだけれど、この紙の模型と、子どもたちがつくった手づくりの本と、私の手元に残るホッチキス止めの冊子が残されていたことで、小西さんの存在がリアルによみがえってきた。すぐそばに街づくりに悩み続けた小西さんがいる。本気でたずねればまっすぐ答えてくれそうだ。
どんなにささやかでもいいから文字にして、形にして、残すことの力、そして、それを街に暮らす人たちが10年先、20年先へとリレーすることの意味。小西さんが模型をつくって一世代前の暮らしをたずねたように、みやぎの・アーカイ部のメンバーや会場に集まった人たちは、ビル街の下に眠る二十人町に潜り何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。思えば、みんな、小西さんが模型をつくり子どもたちに授業をした年代に見える。ある年齢に達すると過去に問いかけるようになるのか。「軒の深さだ」と小西さんがいったような明快な何かが見つかるんだろうか。 

鮎川誠 追悼

若松恵子

1月29日に、鮎川誠が亡くなった。昨年の暮れに体調を崩して、予定していたライブの出演がキャンセルになったというお知らせを見ていたのだけれど、突然の訃報だった。人生の本当に最後の最後まで、ステージに立ち続けていたのだなと思った。みごとだな、というのが訃報に触れて最初に感じたことだった。

鮎川誠は、日本のロックの長男だと思う。茨木のり子が、日本の現代詩の長女と呼ばれていたように、そんなイメージで、尊敬の思いを込めて、鮎川誠は日本のロックの長男だったと私は思う。ロックがどんなにかっこよくて、良いものなのか、彼はそれを教えてくれた。博多で活躍していたサンハウス、シーナ&ロケッツ、三宅伸治、友部正人といっしょに結成した3KINGS(スリー・キングス)。ギターを弾く構えで、その音で、少し遅れ気味に歌う自由な歌い方で、好きな曲について生き生きと語る姿で、彼はロックがどんなものなのかについて教えてくれた。「探偵ナイトスクープ」というテレビ番組で、亡き父にそっくりなんです、会いたい、と手紙を送ってきた視聴者の願いを叶えていた姿にもロックを感じた。ロックは実はとても誠実で、やさしいものなのだと、彼の姿を通して、私はロックへの信頼を深めることができたのだった。

訃報をきっかけに、インタビュー映像を久しぶりに見返したりした。2015年に妻のシーナを病気で亡くした後も、悲しみに閉じこもらずに、彼はライブをし続けていた。父のギターを聞き続けたいと、娘のルーシーがシーナに代わってボーカルを務めて、シーナ&ロケッツは続いていた。身内は引っ込んでろとか、つべこべ言わずに自然にロックし続けている鮎川は良いなと思った。がんが分かった2022年のライブ本数がここ近年で一番多かったという。

インタビューのなかで「シーナは、ロックは愛と正義と勇気だと言っていた」と語る鮎川の言葉が胸に響いた。シーナの言葉に全く同感だとしながら「勇気は、新しい扉を開けて、そこに飛び込んでいくこと」だと彼は言っていた。シーナが鮎川と初めて会った時、青いパンツスーツを着たシーナがライブハウスに入ってくるのを見たというエピソードを思い出す。そして正義。ロックはずっと不正義と戦ってきたんだということ。

もちろんまじめなだけではなくて、ぶっ飛んでふざけているということもロックにとっては重要なことだ。それは、為政者たちとは違う感性を持とうとする意志。管理してこようとするやつらには到底手が届かない感性を持って対抗しようとすることだ。最近の3KINGSでもギターを炸裂させながら歌っていた「ホラフキイナズマ」がきこえる。サンハウス時代からの盟友、柴山俊之の詞だ。

 風の中で生まれ
 風の中を生きる
 寝たい時に寝て
 やりたい時にやるだけさ

 気にするなよ
 ほんの冗談
 何もかも噓っぱち
 俺はほら吹きイナズマ
 パッと光って消えちまう

 パッと光って消えちまう
 パッと光って消えちまう

スリンピの動きと時間

冨岡三智

3月11日に堺での公演を控えて…先月もスリンピについて書いたけれど、4人の女性で舞うスリンピというジャンル、また広げてジャワ宮廷舞踊が持つ特質について私が考えていることを書いてみる。といっても時間不足なので、以前書いた記事や論文から引用してまとめたものに少し足しているだけなのだけれど…。

●2004年4月号『水牛』、「私のスリンピ・ブドヨ観」より

スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。

そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。…(中略)…曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。

●2010年7月号『水牛』、「クロスオーバーラップ」より

他のジャンルの人には、ジャワ舞踊は楽曲構成に当てはめて作られている、という風に思われているようです。ガムラン音楽はさまざまな節目楽器が音楽の周期を刻む楽器なので、そう思われがちなのですが、私に言わせると、ジャワ舞踊のうち宮廷舞踊の系統は、歌が作りだすメロディー、それはひいては歌い手や踊り手の身体の内側から生まれてくるメロディーにのって踊るものです。クタワン形式などのガムラン曲も、朗誦される詩の韻律が元になって歌の旋律が作られています。その証拠に、私の宮廷舞踊の老師匠は、しばしば歌いながら踊っていました。停電でカセットが途切れても、かまわず歌いながら踊ってしまうのです。つまり、流れるメロディー先にありきであって、その後で、それに合わせて棚枠の楽曲構成が作られた感じがします。だから枠の組み立ては少しゆるゆるとしていて、時間を少し前後にひしゃげることができます。

●論文:冨岡三智 2010「伝統批判による伝統の成立―ジャワ舞踊スラカルタ様式の場合―」『都市文化研究』vol.12,pp.50-64 より

ジャワの音楽や舞踊において重視される概念にウィレタンwiletanがある。基本となる旋律や振付は決まっているが, それをどのように解釈し細部に装飾を加えてゆくかは演者個人に任されている。個人ごとに微妙に異なる差異,個人様式とでも呼ぶべきものをウィレタンという。

 ジャワのガムラン音楽のメインとなる, ゆったりしたテンポで演奏される部分では,楽曲の節目を示すゴング類はイン・テンポではなく,やや遅らせ気味に叩く。舞踊でサンプールを払うのは決まって曲の節目だが,これもゴング類と同様にやや遅らせ気味に払う。つまり,音楽の節目というのはデジタルで点状のものではなく,わずかに時間的な広がりを持っている。その時間的な広がりの中でいつサンプールを払うのかというタイミングは,本来は複数の踊り手同士の間で微妙に異なるものであり,そこに踊り手のウィレタンが反映される。このようなコンセプトは,1つ,また1つと散る花に例えて「クンバン・ティボ kembang tiba(花が地に落ちる)」と呼ばれることもある。全員が一糸乱れずに揃ってサンプールを払うのは,1本の樹木に咲く花が一時にドサッと落ちるようなものであり,かえって不自然なのである。

私はジャワ宮廷舞踊で過剰にタイミングを揃えることに反対なのだが、それは時間の広がりがないからなのだ。皆で1つの場を作り上げているとはいえ、4人はそれぞれに存在していて、それぞれの内なるメロディに従って舞っている。状態音楽を奏でる人もそれぞれの内なるメロディを奏でている。それぞれのメロディが糸のようにより合されて1本の太い音楽の糸になり、その糸が曼荼羅を織り上げてゆく…。一昨年の「スリンピ・ロボン」の映像を見ていても、私たち4人の踊り手はどんぴしゃりで揃ってはいない。けれど、各自の少しずつのタイミングがさざ波のように揺れながら、ある時には誰かの引く力に引き寄せられるように、ある時は誰かから伝わってきた気に押されるように動きが流れていく。そうすると、時間にふくらみがあるように見える。払った布が滞空する時間も長くなっている気がする。

図書館詩集5(海老をしきつめたような湖面が )

管啓次郎

海老をしきつめたような湖面がひろがる
海老をしきつめたような道がつづく
巨大な一枚岩の川床に
ごく浅く水が流れて
その水の全体にぴちぴちと跳ねる
川海老が泳いでいる
恐ろしいほどの大漁が約束されている
だが同時に「海老」という表記に対する疑問が生まれる
ここに海はないよ
それともかつてはあったのか
いまは平原
人間たちの身勝手な居住の上に
古代の風が吹いている
先週はまだ寒かった
早春の奇妙に音のない朝
冷たい雨の名残に土がくろぐろと濡れて
舗装道路や線路の敷石も濡れて
目をそむけたくなるほどだった
しかし逸らした視線をどこにむけろというのか
たとえ鎖につながれた犬や
窓際のガラス越しに見える無言の猫でも
いつもそんな存在を求めている人がいる気持ちは
よくわかる
まなざしを必死で求めているのだ
人間からは得られない無償の関心を
人間が与えてくれない無私のなぐさめを
哺乳動物だけがもたらしてくれる
あの目に浮かぶ
はばたきのような感情を
犬猫うさぎモルモットねずみジャービル
こうした動物をかわいがる人間には
どこか心にあやういところがある?
あたりまえさ
人間世界から逃れるために
かれら小動物に救いを求めているのだ
ぼくにはよくわかる心の傾向だ
人間世界が恐ろしいのは企業に支配されているからだ
企業といっても会社といってもいいが
やつらには勝てない
利益追求を第一とし
その目的のためには何をやってもいいと考えている
壊すとか殺すとか何とも思わない
そんなやつらの考えにいつも怯えている
やつらは「法人」
ひとりひとりの生身の人間が死んでも
生き続ける
利益をスーツとして着込むかぎり
不死身だ
戦っても勝ち目はない
感情も生命もないのだから
こっちには絶対にできないような
卑怯なまねを平気でする
利益のためにやつらがやることには
諸段階の破壊があらかじめ含まれている
ワグナーを大音量で鳴らしながら
民間人を射殺する
犯罪そのものを免罪符として
喜々として太陽の下を闊歩する
国家と国家の敵対を作り出すことが
そのまま利潤につながるその仕組みの末端で
獣の道すら見失った人間たちが
引き金をひき計算機を叩いている
その姿は異様なまでに
残忍だ
思い浮かべるだけで心が
べったりと打ちのめされる
法人たちの恒常化・一般化した戦争か
二十世紀からの出口を
求めてきたのに見つからないとは
問題はわかっている
この人の世は十分に
生命に住んでいないのだ
生命の場所としての土地に住んでいないのだ
その事実に怯えながら
この状況からの出口を探している
踏んではいけない海老たちを避けて
このあてどない道を歩きながら
そうだった、今年はイェイツが
ノーベル文学賞を受賞してから百年だっけ
この世から剝落することは
誰にとっても大きな願いだった
いわんや人新世においてをや
彼の願望を
百年後に共有することになるなんて

湖の小島イニスフリー (W.B.イェイツ)
さあ、そろそろ行くよ、行くのはイニスフリーだ、
そこに小さな小屋を建てるのだ、粘土と編み枝で。
豆畑を九畝作り、蜜蜂を飼い、
ぶんぶん唸る音にみたされた空き地で、ひとり暮らす。

いずれ平穏に暮らせるだろう、平穏はゆっくり滴るようにやってくる、
朝霧のヴェールから、蟋蟀が鳴く草むらに滴るのだ。
そこでは深夜はきらめき、正午は紫に発光する、
夕暮れ時は胸赤ヒワが騒ぐ音にみたされて。

さあ、そろそろ行くよ、なぜならいつも、夜も昼も
湖水が岸辺でちゃぷちゃぷいうのが聞こえているからだ。
土の道に立ちつくしていても、灰色の舗道の上でも、
私はその音を深い心の芯で聞いている。

ほら、また耳をすましてごらん
あのちゃぷちゃぷいう水音に誘われて
逃避だ、亡命だ
革命だ、隠棲だ
生活だ、回心だ
この世に加担しないことが最大の貢献だ
蜂飼という非常に古代的な営みに
みずから救われることを誓おうか
ぼくがいいたいのは、われわれは
あるところから先はこの世のルールに
したがわなくていいということだ
それどころかはっきり反逆すればいい
与えられた身分証を捨てて
遠いところへと出てゆくのだ
いまこの河岸段丘に立ち
三川の岸辺を見晴らしながら
きみは逃亡の戦略を練る
傭兵たちを豆畑に迷わせること
すべての銃口にひまわりの種を詰めること
だがこれはファンタジーにすぎない
残忍で陰惨な現実が断崖のようにつづいている
未完の学位が地面に捨てられて
学びたかったかれらの明日が断ち切られて
理不尽な命令にしたがわされて
命を奪われて
よみがえれ学生たち!
「学生」という名称を真剣に生かすなら
あらゆる戦争に反対する以外の道はない
学ぶことが生なので
学びつつ生きることを望んでいた
いちど学生になったら生涯が学ぶ生だ
学生であることがつねに第一義なので
法人に心を委ねることもない
そんなことは絶対にしない
誰の命令も聞かない
戦うくらいなら逃亡をつづける
働くくらいなら放浪を選ぶ
ニンゲン化されるくらいなら島に行き
海老をとって暮らすだろう
海老をしきつめたような原っぱがひろがる
海老をしきつめたような図書館がひろがる
足を切らないように注意して歩けよ
マカテア(化石化した珊瑚の環礁)に守られた島に
何度でも上陸するのだ
ガラスの上を歩くようだ
ところどころに深い穴があり
いつ落ちてもわからない
ここを歩みつつ知識を求めるなら
人の音声言語だけではうまく進めない
音声のパターンを習得する動物は
ヒト以外の哺乳類ではくじらやいるか、こうもり
鳥ではおうむ、蜂鳥、鳴禽類(ひばり、すずめ、つばめ……)
かれらが互いに情報を伝えあうとき
地球はどれほどよりよく理解されることか
海の老人よ
私を操縦することはできないよ
人間が考えたことをたどりつつ
人間が思いもしない地表のできごとを
想像するんだ
たくさんの並んだ線路が錆色の川のように流れ
平野はほぼ忘れられた歴史のようにつづく
きみは誰だ、名乗れ
海老が名乗り
烏賊は沈黙し
たこぶねが真っ青な空を
しずかに進んでゆく
ぼくはせめて中世を探すつもりでここに来たんだが
ここも商都の廃墟
人々はおとなしく物品を手にして
セルフレジに向かう
なんという世の中
自己登記せよ
支払うために自分を投棄せよ
代価をもって物品を持ち帰れ
驚くべきことに
すべての産物は加工品だ
プラスティックな食品を食べているうちに
きみの脳も体細胞もどんどん石油に置き換わるだろう
だが石油が生物の遺体由来なら
それもただ時間を極端な長さで体験するための
一方法なのかもしれないな
「えび」と「ゆび」は元来おなじ語で
節があり曲がったものをそう呼んだという
このあたりの地形は節くれだった河岸段丘で
むかしの人々はこの土地に横たわる
大きな海老を見ていたのかもしれない
「〜のようだ」にすべての秘密があるのだ
隠喩ではなく直喩に大きな衝撃がある
あまりに遠くかけ離れて
とても連想が及ばないものでも
「たとえていうなら」という了解のもとに
連結できるからだ
それ以外にこの世をじゅうぶん体験する途はない
いま踏んだその土に永遠あり
きみの足跡に生命の響きあり
むせるほどの生命の洪水に立ちつくし
もう一歩も進めない
それが正しい道なのだ、学びの道の
たどりついた図書館は湖の中
私たちそれぞれ
ひとりで逃げてゆく小島

海老名市立中央図書館、2023年2月26日、快晴

ベルヴィル日記(16)

福島亮

 2月はカーニヴァルの時季だ。マルティニックでは「赤い悪魔(ディアブル・ルージュ)」と呼ばれる真っ赤な角を生やした怪物の仮面を被り、練り歩く。真っ赤な衣装には小さな鏡が鏤められているのだが、それが何か魔術的な意味を持っているのか、それとも装飾のために過ぎないのかはよくわからない。

 私の家の真下にはベルヴィル通りという大通りがあるのだが、先日部屋でパソコンに向かっていると、何やら賑やかな音楽が聞こえてきた。デモ行進で音楽をかけるのはよくあることだから、きっとそれだろうと思って気にせずにいたのだが、いつまでたっても音楽が終わらない。不思議に思って外に出ると、通りに人が溢れかえり、よく見ると目の覚めるような色のドレスを着た人たちが行列をなしている。カーニヴァルだ。どうやらラテンアメリカ出身の人々がそれぞれの国の衣装をまとい、それぞれの国の音楽に合わせて列をなし、踊っているようである。踊り手たちの先頭をスピーカーを鳴らしながら進む自動車には、「ボリビア」というように、国名が書かれている。この自動車に先導される形で、民族衣装に身を包んだ女性たちや、着ぐるみを身につけた人が踊っている。1週間ほど前になるが、ケブランリー美術館で「サンゴールと芸術」と題された企画展示があったので出かけた。ついでに、と思って常設展示も一通り見ることにしたのだが、そのなかに南米のカーニヴァルの衣装が展示されていた——というのを、実際のカーニヴァルの様子を見ながら思い出した。それにしても、カーニヴァルの音楽は、太鼓や笛が賑やかなのに、どこか物悲しい感じが漂っているのはなぜだろう。

 この街での滞在も残すところあと2週間ほどである。寂しいか、と訊かれたことがあるのだが、じつはあまり寂しくはない。そう遠くない時期に(長期とは行かぬまでも)この街に戻ってくるだろうと、楽観的に思っているからである。ただ、それはやはり、あくまで滞在者としてのアイデンティティが抜けきらないからでもあって、どうやら4年半ほどフランスで生活しても、住人になれたわけではなく、だらだらと滞在を続けている、という意識の方が強いのだと思う。ケニヤ生まれの友人と話していて、そのことを再認識した。彼はパリで修士課程を修了したのち、しばらくベルギーで研修を受けていたのだが、今はフランスの金融関係の会社で働いていて、密かに推理小説をフランス語で書いているという。まだ最初の数章しか書けていないというが、自己表現を大人になってから学び覚えた言語でするとはどういうことなのか、と思った。いや、そのような例はいくらでもあるのだろう。また、彼によると、ケニヤで子どもの頃使っていた言語は、話し言葉であって、執筆には使えないのだという。だから、フランス語で書くことにはあまり障壁はないのかもしれない。

 はっきりしているのは、私には同じような関係をフランス語と結ぶ覚悟がまだない、ということである。というよりも、誰が読むかわからないテクストをフランス語で密かに、時間をかけて綴ろうという気持ちが生まれないのである。内面との孤独な対話は、いつも日本語でおこなっていたような気がする。それを自分ではっきりと知ることができたことがこの4年半の成果である、と言ったら皮肉だろうか。

 自分がかりそめの滞在者にすぎなかったと知った後で、どうこの街と付き合っていこうかと今考えている。だが、たとえ日本に帰ったとして、それは滞在者であることを止めるという意味なのだろうか。自分は永遠の滞在者である、などと言う覚悟はないのだが、生えたと思った根っこが錯覚に過ぎなかったという瞬間はきっとこれからもあるだろう。

どうよう(2023.03)

小沼純一

そこにいたの
どこいるのか 
どこにいないか
二次元で
いるわけじゃない
ピアノやレンジのうえから
冷蔵庫と壁のあいだ
ダンボールのなか
部屋のすみっこ
あんたはいつでも三次元

よくおぼえてる
かつてすんでた
地元の商店街
商店街の

おもちゃやさん
そのままのこってた
シャッターはおろしてて

さびれたのはいつ
いつごろ
から

みおぼえのある店
ひとつふたつ
みちはかわらない
すこしまがって
路地にはいってむこうにぬける

そうそう
ゆうがたはけむりがいっぱい
店先でとりをやいていた

ひっこすと
地図がかけてくる
もっとかけてくるのかな
そのまますんでたらどうなんだろ

なんねんかまえ
ぼたんの店はやっていた
ようたしにいき
みせのひととはなしをした
はんこやはまだやっていたけど
きょうは定休日

もなかとケーキのみせは
いつなくなったんだろう
そこのバゲットはおいしかったよ

立ち読みしてるとはたきをかける
おばさんがいた
あの本屋
となりは化粧品のみせ、
もひとつむこうがやきとりや
つぎのみちに面しているのがおせんべや

すんでてもかわるんだ
ちょっといかないと
かわってしまう
おぼえているのはふるいこと

このおみせ おいしいかな
どうなんだろ

わたし わたしたち
いつのまちをあるいてる
このまちはいつのちず
ちずのひづけはおなじかなちがうかな
おなじちずでもむしくいかな

まいにちあるいた
まいにちじゃない
まいにちじゃなかったけど
すんでいるまちだから
しってた
しってたとおもってる

あそこになにがあったんだろ
さらちになると
おもいだせない
はがかけたように
たてものがまちからかける
かぜがふく

とりたちがあつまってくるやしきは
かじになった
とりたちはいなくなった
ふるびたきっさてんは
くずれたまま
いつのまにかなくなった
クリーニングのおじさんは
からだをこわして
みせをたたんだ
ふるほんやはまだまだある
あるけどあるじもないようも
ちがってて

まちからいなくなった
のはこちらもで
いまはよそ
よそはよそでも
かつてはすんだ
なにかがこっちにのこってる

だれもいらないことしてるんだって
むだをつくってるんだって
いきてるのはみじかくないのに
いまはながいから
ひとにめいわくかけるじゃなし
いらないことをやっている
むしがはっぱをたべるみたいに
かしかしかし

水牛的読書日記 2023年2月

アサノタカオ

2月某日 先月から心を奪われている韓国の作家ペ・スアの小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)を朝と夜に少しずつ読みつづけている。本当に少しずつ、ゆっくりと。1ページの、1行1句のイメージの世界にしばし立ち止まりながら。過剰に甘いコーヒー、ポルトガル語の盗難届……。物語の中にブラジル的記号がさりげなく散りばめられているので、「もしや」と思っていたらやはり中盤で〈サンパウロ〉という地名が登場した。小説の中のウルの現在地はよくわからない。でもかつてウルが旅したらしい土地としてこの都市の名があげられている。

そして読書は2周目に入った。冒頭からふたたび読み始めたところで、「あ、黒いツバメ」と1周目では素通りしてしまったちいさなものたちに再会し、心が揺れる。「言葉以前」の世界をあまねく流動する何かの消息を追いかけるエクリチュールの道をたどるうちにある迷宮に入り込んでしまうような、いつまでも読み終わらない不思議な小説。円環の本。

『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』のもう一人(?)の主人公は「時間」ではないか。「ここ」と「あそこ」、遠さを隔ててひとしく実在する「いま」というやつが目撃した光景を、ぼくらはみているのではないか。読んでいると、ふとそんな気がしてきた。

訳者の斎藤真理子さんが解説で「時間」のことを書かれていて、深くうなずいた。ちなみに、この解説で紹介されているぺ・スアの小説はぜんぶ読んでみたい。『日曜日、スキヤキ食堂』(タイトルにもある日本食専門店「スキヤキ食堂」は実際には登場しないという)、『フクロウの「居らなさ」』(「現実と記憶、幻想が交錯し、テキスト自身が主人公」とのこと、どういうことだろう?)、『知られざる夜と一日』(「シャーマニスティックな深み」に引き込まれる……)。すべてのあらすじが謎めいていて興味を惹かれる。

近年、斎藤真理子さんらが精力的に紹介している韓国文学は、朝鮮半島の歴史を背景に国家や権力、勝者の歴史に抗うものたちの苦闘を描く「物語」の力によって、ぼくら日本語読者をふるいたたせてきた。けれども時として「物語」の力というものは、特定の立場から出来事を一方的に解釈し、意味付け、そこに紋切り型の叙情的感傷をまぜこむことで、対話を拒絶する共感の共同体という「閉域」をかたちづくる暴力にも変わる。ペ・スアはきっとそのことに敏感だ。解釈と意味と感傷から逃れるものたちの叙事にこそ、文学の真実をみいだしているのではないか。この点は、同じく韓国の作家ハン・ガンのすばらしい小説『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳)にも感じる。こちらは今月、河出文庫の一冊として刊行された。

2月某日 大学院時代の同級生で台湾の文学研究者、朱恵足さんが日本にやってきて数年ぶりに再会した。彼女のお姉さん、学生のMくんとともに鎌倉の街をゆっくり散策する。おもだった寺社仏閣を見学したあと、神奈川県立美術館鎌倉別館で開催された「美しい本 湯川書房の書物と版画」展を鑑賞。お蕎麦を食べておしゃべりをしているときに、游珮芸・周見信の歴史グラフィック・ノベル『台湾の少年』(倉本知明訳、岩波書店)がいいよ、と朱さんからすすめられた。全4巻、読んでみよう。

2月某日 資料調査のため神奈川・藤沢に滞在する朱恵足さんとは別の日にも会い、ファミリーレストランでお互いの子育ての話から、歴史と虚構の問題まで語り合った。朱さんが最近、リサーチしているという「霧社事件」(日本統治時代の台湾で起こったセデック族による抗日叛乱事件)について大変興味深い話を聞く。詳しくは書けないが、朱さんが熱弁をふるっていたのは、台湾への旅を舞台にして「霧社事件」にも言及する津島佑子の長編小説『あまりに野蛮な』(講談社文芸文庫)がいかにすごいか、ということ。この作家が文学的想像力によって耳をすませる歴史の真実の声に、彼女もまた引き寄せられている。多くの研究者やジャーナリストは、この声を聞き逃しているという。

朱さんは沖縄発の批評誌『越境広場』などで、津島佑子や目取真俊の文学をテーマにした評論を日本語で発表している。そろそろ彼女と本づくりなどいっしょに仕事をできるといいな。台湾のお土産のからすみをもらい、ぼくからは金石範小説集『新編 鴉の死』(クオン)をプレゼントした。

2月某日 唐作桂子さんの詩集『出会う日』(左右社)を読む。巻頭に置かれた「ななつの海」という作品がいい。階段の踊り場で方向転換するように、言葉の向きがくるりと変わって一段上がるような瞬間が魅力的。

2月某日 各地からスモールプレスの本が続々と届いてうれしい。鹿児島・屋久島からは『2001-2021——山尾三省没後20年記念誌』『星座——第17回オリオン三星賞』。どちらも、屋久島に暮らした詩人・山尾三省の業績を顕彰する「山尾三省記念会」の発行で、編集は一湊珈琲編集室の高田みかこさん。高田さんからのお誘いで、「記念誌」のほうに「『希望』の種子に風を送る」というエッセイを自分も寄稿した。

東京・下北沢からは編集者・長谷川浩さんの追悼Zine『BON VOYAGE——Bohemian Punks』。沖縄の詩人・高良勉さんからは詩と批評の雑誌『KANA』第29号、特集は「ウクライナ・戦争と平和」。同人の詩人・宮内喜美子さんの詩「ウクライナ人の街」から読み始める。

そして小倉快子さんの『私の愛おしい場所——BOOKS f3の日々』。新潟で小倉さんが営み、2021年に閉店した本屋BOOKS f3。ひとつのお店の歩みを記録する言葉と写真が、一冊の書物として束ねられることで、厚みのある場所の記憶になってゆく(すばらしい編集は佐藤友理さん)。BOOKS f3では、サウダージ・ブックスから刊行した宮脇慎太郎写真集『霧の子供たち』の展示をおこない、ぼくも編集人としてトークイベントに出演した。この場で出会った人たちとのあたたかな縁が、いまもつながっている。自分にとっても愛おしい場所。

2月某日 見田宗介『白いお城と花咲く野原——現代日本の思想の全景』(河出書房新社)が届く。昨年亡くなった社会学者の大家が、80年代に朝日新聞で執筆した論壇時評の集成の復刊。大澤真幸さんが解説。見田宗介、そして彼の〈異名〉である真木悠介の思想のバトンを次の時代の読者に渡していくこと。

2月某日 北海道・小樽の詩人である長屋のり子さん(山尾三省の妹でもある)からのご案内で、鎌倉生涯学習センターで開催された「ウクライナ 子供の絵画展」を鑑賞。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年。戦禍の地の子どもたち、若者たちの見つめる心象風景を自分自身の目に焼き付ける。今月はトルコ南部で大地震が発生し、トルコとシリアでは凄まじい数の人命が犠牲になっている。世界の窮状を前にして非力な自分に何ができるのか、答えのない問いを考え続けている。

2月某日 南浦和のさいたま市文化センターへ。「認知症者・高齢者と介護者とつくる「アートのような、ケアのような 《とつとつダンス》」 2022年度活動報告展示会」に参加した。ダンサーで振付家の砂連尾理さんが、2009年から京都の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」を舞台に、高齢者や介護者とおこなうダンスワークショップ《とつとつダンス》。この《とつとつ》のパンフレットや書籍(晶文社から刊行)を編集した縁で、声をかけてもらったのだった。すでに10年以上におよぶ砂連尾さんたちの息の長い活動はユニークな進化というか変容をつづけていて、近年はオンラインのダンスワークショップをおこなったり、マレーシアの認知症高齢者と交流したりしている。マレーシアでは認知症高齢者をケアする施設がかなり少なく、認知症はもっぱら薬で治療する病気と認識されているなど、日本とは異なる状況があるらしい。報告展示会には元看護師の臨床哲学者・西川勝さんも大阪から駆けつけ、なつかしい《とつとつ》のメンバーとの再会になった。

2月某日 待望の本たちが届く。一冊は奥田直美さん、奥田順平さん『さみしさは彼方——カライモブックス』(岩波書店)。ぼくも大好きな京都の古本屋カライモブックスを営み、これから水俣へ、石牟礼道子さんの地へ移転するというふたりの随想集。落ち着いて読んで、感想を書きたい。

もう一冊は韓国の作家、ハン・ジョンウォンのエッセイ『詩と散策』(橋本智保訳、書肆侃侃房)。ページをひらくと、エピグラフとしてオクタビオ・パスの詩「ぼくに見えるものと言うことの間に」が置かれていた。ちょうど編集の仕事のためにパスの詩集『東斜面』について調べていたタイミングだったので、この偶然の一致に驚いた。ひとりで詩を読み、ひとりで散策をする著者が本書で紹介するのは、たとえばフェルナンド・ペソア、たとえばウォレス・スティーヴンズ、たとえばライナー・マリア・リルケ……。こうした詩人たちの名が織りなす星座は、自分の心の中の夜空に輝くものでもあり、他人事とは思えない。美しい装丁、ペーペーバックの造本がすばらしい。タイトルにふさわしく、春の上着のポケットに入れてともに散策したい、かろやかな詩の本だ。

しもた屋之噺(253)

杉山洋一

俄かに春めいてきたと思いきや、今日は出し抜けに平野部でも雪の予想がでて、ミラノもみぞれ混じりの雨模様です。今日は町田の母より、ヴェニスの運河は水涸れで大変なんでしょう、と言われておどろきました。ヨーロッパの渇水は深刻で、ロンバルディアでも農業に影響が出ているのは知っていましたが、水の都の話はまったく知りませんでしたから。

2月某日 ミラノ自宅
良い天気が続いているからか、ミラノの空気は酷く汚れているようだ。イタリアで最も大気汚染の進んでいるのがトリノで、ミラノは二番手だと新聞に書かれているが、そのせいか、洟は止まらず目も痒い。花粉症には未だ寒すぎるから、粉塵、ばい塵の類に違いない。
もうすぐ成人する息子宛てに、ミラノ市からイタリア共和国憲法の小冊子が届いた。ここ数日、彼はヤナーチェクのヴァイオリンソナタとシュトックハウゼンのソナチネを譜読みしているが、どんな将来が待っているのだろう。

マッシモ・ヴィヴァルディより、彼の指揮するアルド・フィンツィ作品のヴィデオが送られてくる。フィンツィはイタリア系イギリス人作家、ジェラルド・フィンジの同時代人で同姓、名前も酷似している上に、等しくユダヤ人迫害に巻き込まれているから、すこし紛らわしい。
アルド・フィンツィは1897年ミラノに生まれ1945年トリノに没したイタリア人作曲家で、ムッソリーニ政権下の反ユダヤ人法により演奏が禁止になり、近年まで顧みられることすらなかった。ローマのサンタ・チェチリアで作曲のディプロマを取得し、作曲家として成功をおさめ、1931年、僅か24歳でリコルディ社から出版されるようになった。1937年にスカラ座の新作オペラコンクールに応募し、審査員だったピック=マンジャガルリから優勝を内々に知らされたが、ファシスト政権によって発表は反故にされ、数か月後に施行された反ユダヤ法によって、一切のフィンツィ作品の演奏の権利が剥奪された。しかしフィンツィは匿名、もしくは偽名を使って作曲を続け、1942年にはユダヤ人迫害に立ち向かう主人公を描いたアルトゥーロ・ㇿッサート台本によるオペラ「シャイロック」第1幕を完成させている。1943年、ナチス占領下のトリノで隠れ棲みながらオルガンのための「前奏曲とフーガ」を書くが、ファシストによりフィンツィの息子の居場所がナチス親衛隊に密告され発見されたため、息子の身代わりとなってフィンツィが出頭し、拘束されたが、のちに奇跡的に解放された。自らと家族を救った神への感謝をこめて、1944年から45年初めにフィンツィは合唱とオーケストラのための「詩編Salmo」を作曲し、その直後45年2月7日トリノで死去している。当初、偽名を使い埋葬されたが、戦後ミラノの記念墓地に改葬された。

夥しいイタリア近代音楽の趨向が、みっしりと折重なり、波に打たれるままの人知れぬ入り江。終戦とともにイタリアの近代芸術は、その汀で永遠に封印されてしまった。印象派やフランクの残り香が、厳めしい雰囲気のまにまに漂っていて、その上をネプチューンの如く顕れるイタリアらしい歌謡性が時代を感じさせる。もはや醗酵し尽くし、噎せる薫りに包まれる、無数の不思議な作品たち。例えば、ピッツェッティの後任で長年ミラノ音楽院長を務めたピック=マンジャガッリは、チェコ生まれでミラノに育ち、リヒャルト・シュトラウスの下で研鑽を積んだ。反ユダヤ法の何十年も前にユダヤ教からカトリックに改宗し、音楽院長まで務めて大戦末期にダンヌンツィオに曲をつける程、ファシスト政権とは良好な関係を築きつつ、実はフィンツィを支持していた。妻がユダヤ人なのを隠すために、カセルラは敢えて政権の旗振り役を買って出ていた。どちらも実にイタリアらしい逸話だと思う。フィンツィが作曲したヴァイオリンソナタ3楽章、カセルラを思わせる疾走がふと途切れ、蕩けるような第2主題が現れるとき、切なさや儚さと隣り合わせの、当時の暮らしの風景の一端が見える気がする。

学校で授業の合間にレプブリカ紙を広げると、Covid19がイタリアの若者に与えた精神的トラウマについて書いてある。こんな風に書いてあるが、君たちどう思うかいと学生たちに尋ねると、「その通りだ、兄弟は鬱病を発症して廃人になった、優等生だった以前の姿は消え失せ学校も落第した」とか、「自分自身未だに躁鬱に悩んでいる」など、皆がまるで吐き出すように一斉に話し始めて、おどろく。

2月某日 ミラノ自宅
EUヨーロッパ連合の規約に則り、イタリアの無期限滞在許可証が廃止された。今後は10年毎に更新しなければならず、憂鬱極まりない。

町田の母よりショートケーキの写真が届く。長さ15センチ幅5センチほどの蒲鉾型。全体に純白のホイップクリームで覆われていて、屋根には真赤な苺が3個並ぶ。ケーキの周囲には薄切りの苺が飾られている。「頑張ってつくりました。手首が痛くて途中で撹拌をやめたら、クリームがだらけた。味はいいですよ」。言われてみれば、まるでホイップクリームが滴るように見えなくもない。以前から母は手の腱を痛めている。ケーキの傍らには、小学生の時分から使っている2客の小さなコーヒー茶碗も並んでいて、思わず当時に立ち戻った錯覚を覚えた。写真の周りに自分だけいないのが、不思議である。父のための誕生日ケーキに、落涙。

2月某日 ミラノ自宅
馬齢を重ねつつ作曲作業がより非効率的になっているのを実感し、気が遠くなる。
指揮の譜読みも人より遅く、作曲も埒が明かないようでは、徒に生産性が欠落した人生を送っているに他ならない。

学校の前期ゼメスター試験を前にして、緊張すると持病の多動症が酷くなるから、医師の診断書を提出して試験に臨みたいと弱音を吐いていたAが、立派に落ち着いて試験をやり過ごしたことに感銘を受けた。多動症でも、自分の意志で自らの衝動をここまで律することができるとは知らなかった。
家人が一カ月ほど日本に戻るにあたり、一度、家族で外食したいという。用水路対岸の「夢想家」食堂で昼食に出かけ、魚介ソースをリグリア特産の生パスタ、トロフィエで食べる。

2月某日 ミラノ自宅
垣ケ原さんと電話で話す。武満さんと岩城さんの存在が、垣ケ原さんの音楽の指針だったという。素晴らしいなあと独り言ちてから、自分の指針とはなんだろうと考える。尊敬する音楽家のようでもあるが、音楽の存在そのものかもしれないし、その両方であるかもしれない。

「お話したことがありましたか。ミラノの家の話なのですが、コロナ禍が始まった年の暮れから、リスの家族が庭の樹に巣を作って家族で住んでいます。この樹は高さが10メートルくらいあって、中腹に大きな洞が開いています。そこを寝床にして棲み付いていて、毎朝胡桃を5個ずつ割ってやります。彼らはそれを大層楽しみにしていて、僕が届けに行くと、決まって洞から出てきて餌場まで降りてきて挨拶をします。こちらが遅くなると、尻尾で窓を叩いて起こしに来たりするんですね。そのリスの家のすぐ隣には、もう5,6年前から黒ツグミのねぐらがあって、リスとも仲が良いらしく、子供どうしで遊んでいます。胡桃は他の鳥にも人気で、実に小さな鳥から、そこそこ立派なカラスまで、毎日さまざまな鳥が啄みにきます。コロナ禍でロックダウン真っ最中には、ずっと独りで暮らしていたので、彼ら庭の小動物たちにどれだけ慰められたかわかりません。
毎日リスを眺めて暮す日々が訪れるとは、夢にも想像していませんでしたが、こうして庭の小動物を眺めていると、自分も彼らに生かされていると思います。昔、家人が野良猫を飼っていました。猫の口蓋には鼻まで繋がる大きな穿が開き、鼻腔は腐っていて、とても可哀想でしたが、それは大層可愛がっていました。或る時、その猫がふらりと外に出たきり行方不明になり、総出で何日も探したものの、結局見つかりませんでした。最後に見かけた時、家の塀の上からこちらを暫くじっと見つめていて、それから暗闇に消えてしまいました。何か言いたそうにしていたあの顔は忘れられません。それから暫くして息子が生まれたので、時として、息子がチビという名の、あの猫の生れ変わりに感じる瞬間があります」。

2月某日 ミラノ自宅
とても耳はよいが不器用なトンマーゾには、音楽の稜線を底から支えるようにして、同時に、風船を膨らませる塩梅で拍間に空間を広げるよう伝える。拍が音楽を作るのではなく、拍と拍の隙間から音楽の内部に身体を滑り込ませ、裡からその隙間にむけて風船を膨らませるようにしながら、そこに音楽の霊感を吹き込むよう伝える。

スカラのアカデミーでバレエの稽古ピアノを弾いているイザベラには、パーソナル・ゾーンに演奏家の音楽が踏み込むのを甘受すべきと提案する。彼女は演奏者と距離を取りがちだったが、演奏者に発音を促してから、その音を自らのパーソナル・ゾーンに持ち帰る意識を理解してほしいと思う。音を連れて帰ってくる際、一緒に演奏者たちも音と一緒にやって来るけれど、それを怖がらず、むしろ温かく、時には面白がりながら受け容れるということ。

しばしばテンポが遅くなるフェデリコには、先ず演奏するフレーズを軽く口ずさんでもらい、直後にピアニスト相手に振って誤差や齟齬を自覚してもらう。
彼が自分で歌えば視覚で楽譜を捉えてそのまま発音出来るのに、ピアニスト相手に指揮する時は、視覚が楽譜を捉えると、その情報を脳に流して裡に鳴る音へ変換してから、指揮棒に意識を流して演奏者に発音させている。その結果、脳のバイパスやフィルターを通過する間に、視覚の知覚した情報と演奏者の発音の間に僅かな誤差が生じる。指揮する場合、視覚で楽譜を読んだら、脳を通さずにそのまま指揮棒を通し、時間のずれなしに情報を正しく演奏者に伝える、と理解させられれば、少しずつ齟齬が減ってゆく。

まだ14歳たらずのフランチェスコには、一度振りながら楽曲構造や和音構造を敢えて言葉で説明させた後、暗譜で振らせてみた。すると鳴っている音が明確に聴こえ、音楽を客体化できるようになる。結果として、そこに彼の音楽性を載せる余裕が生まれる。
指揮に関しては、テクニックを使えば使うほど、より作為的になって音楽が離れてゆく気がする。技術をもって音楽を表現しようとするのは、指揮に於いては余り意味を成さないかもしれない。せいぜい技術程度しか教えられないのに、技術が音楽を邪魔するのであれば、完全な自己矛盾状態にある。

夜、息子と食事をしていると、「お父さんは戦後すぐの生れでしょう」と言われる。何を勘違いしているかと思いかけたが、昭和44年は終戦後24年にあたる。
息子曰く、終戦からお父さんの生まれ年までと、2000年から今年までの時間、1999年EU通貨統合から現在までの時間はほぼ等しい。
「だから、2000年くらいに世界大戦が終わった感覚なのでしょう」。
なるほど確かにそうなのだ。自分が生まれる以前の時間については、主観的に意識したことがなかった。昭和20年から44年までの時間は、単に歴史上の事象を時間軸上に並べ、知識として理解しているに過ぎなかった。
「お父さんは、子供の頃と今とどちらが幸せなの」と聞かれ、「今にして思えば、昔の方が幸せだった気がする」と答える。
周りには自然がたくさん残っていたし、食事ももっと美味しかった気がする。インターネットも携帯電話もなかったが、それなりに暮らすことは出来ていたし、社会も今より余裕があった気がする。
現在より不完全な社会だったかもしれないが、皆が前を向いていて、顔は下を向いていなかった印象がある。当時は冷戦真っ最中で、世界のあちこちで戦争は続いていたし、公害もたくさん起きて、肯定的な面ばかりではなかった。全世界的に見ても、人種差別や男女差別は、今とは比較できぬ程酷かったはずだ。技術が発展する程に、我々の裡の感覚がどこか鈍くなり、鈍くなった箇所は何時しか消失してゆく。

尤も、インターネットの発展がなければ、日本や外国の家族や友人と気軽にやりとりする日常など、実現不可能だった。
子供の頃、近い未来テレビ電話なる文明の利器が発明されて、顔を見て話すのが当たり前になる、なんて話に胸を躍らせつつ想像していた社会と比較すると、既に当時の夢の技術革新を成し遂げた現在の社会は、どこかもっと無機質で、時として味気なくすら感じられることもある。我々が子供の頃、訳も分からず想像していた未来の世界は、より明るくて愉快な世界だった。単に子供心でそう思ったのかも知れないし、実際、予定ではもっと明るく愉快な世界を包み込むはずだったのかもしれない。
当時も夏は暑く冬は寒かった。子供の頃は通勤列車の天井には所在なさげに扇風機が回っていて、思えば、冷房など随分経ってから登場したから、最初は何だか大仰に感じられた。しかし、今や冷房がなければ我慢できない暑さに見舞われるようになった。

そう考えれば、昔と今とどちらが良いかという息子の質問に対しては、本来こう答えるべきだったのかもしれない。即ち「我々が子供の時に想像していた未来に比べ、実際に訪れた未来はずっと暗澹としていて、閉塞的であること」。「昔、家の近所のどぶ川は、悪臭を立てていたけれど、毎週末はややウグイを釣りに行っていた酒匂川の湧き水あたりには、びっしりと野生の山葵が自生していたこと」。「あのどぶ川は、今はきれいに濾過された下水を流しているので、水はきれいで、臭いもなくなったこと。酒匂川は護岸工事されて、あの湧き水も山葵もどこかへ消えてしまったこと」。

2月某日 ミラノ自宅
昨日の朝、庭に降りる三和土の手すりに、体長20センチほどの黒ツグミと、3,4センチ足らずの小鳥が並んで留まっていた。少し頸を傾げるようにして、こちらをじっと眺めているので、まさかと思いながら胡桃を割り始めると、二羽とも瞬く間に餌台の朽ちた木椅子へ飛んでいったのには吃驚した。彼らもリスのように餌が届くのを首を長くして待っていたのだ。
時として、人間より鳥類の方がずっと能力も優れていて、豊かな世界を生きているのではないか、と思ったりもする。彼らなりに大変な暮らしを強いられているに違いないし、その要因の多くは恐らく我々の仕業だ。
トルコ地震の被害者5万人と聞き言葉を失っているが、いつか、全世界的の文明を崩壊させるほどの天災が地球を襲い、人間がほぼ死に絶えてしまったとしても、鳥たちはより鮮やかな世界を翔けているような気もする。

ウクライナ侵攻から一年が過ぎた。息子がサラと録音したダニエレ・ボナチーナの二重奏曲を聴かせてくれる。研ぎ澄まされ、一切無駄のない音、楔のように穿たれる音、一見単純でありつつ、見事に表現として昇華されたヴァイオリンの長音。ダニエレは、パリの高等音楽院の入学試験にこの録音を送るそうだ。

2月某日 ミラノ自宅
眼を閉じたまま、その眼の内側にある別の眼を開く。
例を挙げると、眼を閉じて目の前に数字の投影を試みるとわかりやすい。眼の内側の眼を開いていれば数字は明確に見えるが、内側の眼が閉じていると、全く見えなかったり見辛かったり、或いは気が散って数字を凝視できなかったりする。内側の眼は、視点を水平か心持ち上の方へ向けると開きやすい。
こう書くと怪しげで公言も憚られるが、興味深いのは、その内側の眼が開いていると、脳裏にすっきりとした清涼感があって、整頓された空間すら感じられるのが、眼を閉じていると、脳そのものが閉じている感覚とともに、辺りも昏く感じられ、空間も不明瞭になることだ。

左手指のため、朝目が覚めると布団の中で指回しの体操をしている。外向きに100回ずつ、それからで内向きに100回ずつ各指を回すのだが、その間、眼を閉じて目の前に数字を投影し、頭の中では声を発さぬよう気を付ける。そうして内側の眼だけを開いて、その数字を追ってゆく。誰に教わったわけでもないが何時からか気が付けばもう10年以上続けていて、これが終わる頃には、指も頭も身体も解れて快適である。

階下では、息子がヴィンチェンツォ・バリージのピアノ曲を黙々と練習している。ヴィンチェンツォの故郷、シチリアの民謡を思わせる旋律が、ジャズ・ピアニストでもあるヴィンチェンツォらしい、不思議な旋法で紡がれ、編み上げられてゆく。

庭の樹に巣を作りかけ姿を消していたキツツキが1年ぶりに戻ってきて、また樹を穿く。鳥であっても、自分の作りかけの巣が世界のどこにあるか、しっかり覚えている。

(2月28日ミラノにて)

 

 

『アフリカ』を続けて(21)

下窪俊哉

 岩波書店の雑誌『思想』3月号に福島亮さんの書かれた「水牛,小さなメディアの冒険者たち」が載っているというので買って、読んでいる。「水牛」前夜から、初期のタブロイド判新聞『水牛』、水牛楽団の活動の充実と共にあった時代の『水牛通信』、水牛楽団の活動休止後の『水牛通信』まで、1970年代から80年代にかけての「水牛」のあゆみを見通せるように整理してあり、私のような者にとってはたいへんありがたい。
 その『思想』3月号、20世紀のアジア、アフリカ、中米など「第三世界」で起こった様々な雑誌活動を取り上げてあり、どれも興味深いのだけれど、私はまず、巻頭に置かれている冨山一郎さんのエッセイ「雑誌の「雑性」」を読んで唸ってしまった。
 パンデミックによって大学に集って議論できなくなったことを契機に「通信ということ」を始めた、というエピソードに始まる。その場をオンラインで代替えしようとするのではなく、各々が書いたものを「通信」として編集し、読むということを始めたらしい。それをくり返すことによって、ひとつひとつの文章が「連鎖していった」という。そこには中心となる統括者が存在しなくて、順序づけができるようなものでもない「つながり」が生まれた、という冨山さんの気づきがあった。少し引用してみよう。

 あえていえばそれは、それぞれが軸となりお互いが契機となりながら拡張されていく思考のあり様だ。この契機になるということは、他者の文章との偶然的な出会いを前提にしており、雑多な文章を通信として一つに編集したことが重要になる。

 そのことを少し後の文章では、「読み手が書き手にもなり、それが繰り返されながら広がっていく」とも書いている。これは何か大きなヒントになりそうだぞ、とつぶやきながらくり返し読む。

 たぶん月刊になるだろうウェブマガジン『道草の家のWSマガジン』を始めて3ヶ月たつところだが、不定期刊の紙の雑誌『アフリカ』vol.34も同時並行でつくっていて今月、仕上げる予定だ。今回は詩が3篇、短編小説も2篇あるので、「なんだか文芸雑誌みたいだね?」なんて冗談を言って、「これまでは何だったの?」と周囲に呆れられているのだが、私の気分の問題だろうか? それだけではないだろうという気がしている。
 これまでに書いたことのくり返しになるけれど、『アフリカ』は散文の雑誌であって詩の雑誌ではないということにして始めた(詩の雑誌は身近にたくさんあったから)。そして2011年頃からは、小説を書きたい人の雑誌でもなくなった。装幀の守安涼くんのことばを借りれば「小説然とした作品をめざすのではなく、書き手の書きたいものがストレートに出た散文が多く並ぶようになった」のである。
 それにしても、なぜそうなったのだろう? ということは、あまり深く考えずにここまで来てしまった。

 きっかけは、当然かもしれないけれど「小説を書きたい人」が『アフリカ』を出ていったからだろう。そこからが『アフリカ』の面白いところで(と私は当時も思いながらつくっていたのだが)、書き手がいなくなると、必ず別のどこからか現れるのである。なんてとぼけたようなことを言っているが、思えばシンプルなことで、読み手が書き手にもなったのだ。

『アフリカ』はスタートした時、文学研究者や愛好家たちとの付き合いを離れ、まずは編集人(私だ)の通っていた立ち飲み屋で読まれた。その話は、この連載の2回目で書いている。
 街中にいると、もちろん多様な人がいるわけで、文芸活動をしている人は少数だろうし、本を読むことに興味がないという人もたくさんいる。識字率の低い国ではそこに、文字を持たない人びとも加わる。いま私は知的障害のある人たちと街中で一緒に過ごす仕事をしているが、中にはことば自体を持っていない(かもしれない)人もいる。
 私はそんな人たちの中で、読んだり、書いたりすることを自分の仕事と考えているようだ。
 そういう姿勢で書いたり、つくったりしていると、書くつもりのなかった人が、『アフリカ』と出会うことによって、書くようになる、ということが起きたのである。その人たちから、小説やエッセイを書こうとか、詩を書こうといった気負いは感じられない。私はそこに何かしらの手応えを感じていた。
 小説とは何だろう? エッセイとは? 詩とは何だろう? といったことをいつも考えているわけではないが、書き続けている限りその種の問いから完全に離れてしまうことも不可能で、それらの原稿は私にある種の共鳴を呼び起こしてくれた。

 私自身も、フィクションを書くより、その時々のワークショップを通じて得られたことを『アフリカ』で報告するということが増えていた。小説を書くことから離れていた、と言えば、言えなくもない。全く書いていなかったわけでもないけれど、関心は確かに他へ向いていた。
 ところがまた最近、変わってきたのである。昨年、ワークショップを休んで、うだうだしている間に。
 決定打となったのは2冊の本だった。ひとつは、この「水牛のように」で杉山洋一さんの「しもた屋之噺(247)」を読んだのがきっかけで、カルヴィーノ『アメリカ講義』が妙に読みたくなって、再会したこと。以前読んだ時には何も感じることができなかった、と思った。数十年の時を超えて、カルヴィーノが自分に語りかけてくれているようだった。どうしてカルヴィーノは2022年に私の考えていることがわかったんだろう? といったふうだ。もう1冊は、仲間に誘われて、ヴァージニア・ウルフ『波』を初めて読んでみたこと。それから、20代の自分が書いていた文章も再び引っ張り出してきて読んでいたら、当時の自分とヴァージニア・ウルフが手紙のやりとりをしているようになり、ああ、こんなふうに書けばいいんだ、ということを久しぶりに体感できた。
 そうなると、ウェブマガジンに化けたワークショップでも話したり書いたりすることに変化が起きる。よし、自分はいま、小説を書くことに向かおう、ということになった。そうすると、現実の中にフィクションが見出されるのではなくて、フィクションの中に現実が立ち現れるようだった。

音楽というあそび

高橋悠治

来月には、演奏がまた始まる。以前のように、練習しないでその場で弾ける、というわけにいかない。眼のせいだろうか。
手が弾いている音より少し先を見ているから、動きの方向が決まるのに、今はそうなっていない。すると、そこを繰り返して手に憶えさせているのか。それでどうやって、初めて知らない道を歩くような驚きや興味が起こるのだろう。意識した動きは、おもしろくないし、見え透いている。

練習すれば、ためらわず、そこを通り過ぎていくことになる。それではやはり、おもしろいとは言えない。穴だらけの道を気をつけて歩くような、思いがけない引っかかりと、そこを抜け出す時の思わぬ弾みの勢いで、棘のある時間の流れ。

毎日の生活とそこで起こること、それを書きつけ書き残すこと。音楽はそんな生活の記録とは離れたところに置かれた作り物なのか。日記や随筆集に限らず、物語さえ、毎日の間に沈んでいる言葉の連なりを掘り起こした一部分と言えるかもしれないのに、音楽はそこにはない、対立面にあり、別な時間・空間に飾られた鏡、手探りするたびに、違う響きを立てる迷路だとしよう。

では、そこに触れて、その都度少しでも違う経験ができるとすれば、それは、あらかじめ考えられ、仕組まれたスタイルではなく、その時その場で感じた音の流れ、同じ楽譜を辿りながらでも、毎回開ける風景の、異なる片隅にあたる光。すべてが、その時だけの即興のように、音の発見の「あそび」であるかのように、でも、「演奏」といい、「作曲」と言っても、その手続のきっかけの、さまざまな形のひとつであるように、それを仕事とし、さらに職業として、過ごして来たことには、たいした意味があるわけでもないだろう。

意味がなくてもいい。この音が他の音のなかで、どんな響きを立てるか。ある音が音になるまでの「ためらい」、決められたリズムを毎回わずかに外すこと、そこがおもしろく、演奏でそれができなければ、できるような何かを作ってみる。こうして、演奏したり、作曲したり、調子がよい時には、即興もできた時があった。即興は一人でよりも、相手のある時に。そう言えば、演奏も楽譜とだけより、他人との合奏の方がよく、そうでなければ、ピアノの場合、両手の間で、対話できればよいし、作曲も「うた」のように、詩と対話するのが、おもしろかった。自分の主張や表現より、まったくちがう観察を知ると、そこで感じる何か、必ずしもそれと関連がなくとも、そこから想像する状況や動きに、興味が湧く。

2023年2月1日(水)

水牛だより

きょうの東京は3月の気温だったようですが、午後になって外を歩くと北風が強く、とても3月とは思えない寒さでした。気温は温度計で測っただけの数値にすぎず、人間の体が感じるのは数値ではないことを思い知らされます。

「水牛のように」を2023年2月号に更新しました。
半年ぶりに斎藤真理子さんの「編み狂う」が帰ってきました。待っていてくださった人は多いと思います。お待たせしました。これからも続きますからね。商店街のカフェで編んでいる人には声をかけたくなるのかもしれません、ある種のちいさな解放区(斎藤さんによれば「劇場」)がそこにあるから。編み物は糸と針があればできるせいなのか、男性にも好まれていると思います。緻密に編む橋本治、おおざっぱに編む田川律、そして独身時代の津野海太郎も。最近読んだ『キャスリーンとフランク』(クリストファー・イシャウッド 横山貞子訳 新潮社 2022)では、フランクが戦場でだったかな、編み物をするところがあって、感銘を受けました。
この水牛は、だらだらと続けているにすぎないのですが、下窪俊哉さんの編集する『WSマガジン』はあきらかに水牛のなにかを継ぐもののようです。「小さな石を集め、投げ続けることに失敗も成功もない。ただ集め、投げるだけだ。」に共感します。続けてくださいね。
藤井貞和さんの詩集『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』が読売文学賞(詩歌俳句賞)を受賞しました。不思議な藤井さんの詩を毎月読めるのは水牛のしあわせのひとつです。
篠原恒木さんが編集した片岡義男『僕は珈琲』には、めずらしく実名入りで私も登場しています。片岡さんとの楽しい時間はこれからも。

編み物好きだった田川律さんの訃報が届いて、田川さんとともに過ごしたあれこれをブログに書こうと思いましたが間に合わず。スミマセン、書きますので、しばしお待ちください。

それではまた!(八巻美恵)

編み狂う(11)

斎藤真理子

 商店街のカフェでよく編んでいた。歩道を行く人が見える席で、コーヒーが冷めてもまだ編んでいた。

 編みものをしているとときどき話しかけられる。多くは編み物の好きな人、年配の人だ。

「ね、何編んでらっしゃるの」(カーディガンです)
「今着てらっしゃるのも、編んだものなの」(そうです)
「すてきねえ、似合っているわねえ」(これは儀礼的な言葉だ、でも、よい儀礼である)
「でも難しそうな編み方ねえ」(複雑な編み方で糸がいっぱいかかりますと答えて、同情してもらう)
「私も前はいっぱい編んだんですけど今はさっぱりやらなくなってしまったわね。やっぱり手編みはいいわねえ」(上手に編める方はみんなそうおっしゃるのですよね)

 感想は、この範囲を大きくは越えない。よく知っているお庭を巡回する感じで、この中ならどれを聞かれても困らない。
 お連れがいて、その人が編み物に興味がなさそうな場合「もうやめなさいよ、一生けんめい編んでらっしゃるのに」とたしなめられたりしている。年配の人が多いと書いたが、この商店街で三十年編み物しているうちに、自分も年配になった。

 編み物をしていると、親切な人と間違われるのか、こんなこともあった。
「お姉さん、編み物お上手ですね」とチェーンのカフェで話しかけられ、顔を上げると、大きく、生き生きした四つの目がこっちを見ている。「私も高校時代には編んでたけど」などと言われる。同年代かもうちょっと上ぐらい。たぶん二人姉妹で、横にお父さんとおぼしき方が座っている。
 そのうちだんだん様子がわかってきた。二人はお父さんの受診につきそって、近くにある大きな病院まで行ってきたのだ。疲れたのでここで休憩しているのだが、これから商店街で少し買い物をしたい。なので、差し支えなければその間、父の話し相手をしていてくれませんかと。
 それなら私も経験がある。全然かまわない、どうぞ行ってらしてくださいと送り出し、失礼して編み棒は動かしながら、お父さんと何十分か、ぽつぽつお話をした。大きな袋をいっぱい下げ、息を弾ませるようにして姉妹は戻ってきた。お父さんは貿易の仕事をしていらしたようだった。

 私は本を読みながら編み物をするが、ときどき韓国語の原書を広げていることもある。
 あるとき、いちばんリーズナブルなチェーンのカフェでそうしていると、横の席から「何の本ですか」と聞かれた。「韓国の小説です」と答えると「そう、そう」と返事が。
「そう、朝鮮語」
「はい、朝鮮語」
 洗濯を重ねた感じのワイシャツの袖口、背広の中の古びた毛糸のチョッキ。かなりの年配と思える紳士、椅子に杖が立てかけてある。
 ハングルの本を指して、「これは……」とおっしゃるので、韓国の女性の作家のもので、日本でも人気がありますと説明してみるが、あまり聞いてはいらっしゃらない。
「あ……」と言って、紅茶を一口。それから、
「朝鮮と韓国は、同じ民族なんですよ。ただ、思想が違うからね」。
 また紅茶をゆっくり飲んで、
「韓国と朝鮮はね、同じ民族ですよ。思想が違うだけでね」。
 何十年も、何度となくこんなふうに日本の人たちの前に立って説明してきたのであろう、そういう話し方で。
 このあたりには民族学校があって、子供たちが区民センターで伝統音楽や踊りを披露するときには、おじいちゃん、おばあちゃんたちもやってきて、じっと見ていたのを私も見た。 
 商店街のカフェではそんな人に会うこともあった。今はもうお目にかからない。
 
 商店街は劇場だと思う。お店をやっている人、買いに来る人、ときどき来る人、たまたま寄った人。みな一つの舞台にいる。
 元気にお店を守っていた人が、店を閉めてお客になって、シルバーカーをゆっくり押して歩いている。編みながら、カフェの窓からそれを見ている。道で会ったらあいさつをする。やがて家族に腕を取られて歩いている姿を見かける。そしてある日を境に、会わなくなる。
 
 劇場にはカーテンコールというものがある。みんなこの商店街での最後の日、カーテンコールをしてくれたらいいのに。もちろん誰にとっても、その日がいつなのかわかりはしないけれども。

 アーケードのある商店街を「銀天街」と言ったりする。銀天のさらに上空で、その人のいちばん優雅な身ごなしで、下で継続している人生たちに向けて、カーテンコールをしてくれたらいいのにと思う。
 その気配をとらえることができたなら、私は編み棒をしばらく上に向け、小さいあいさつをするだろう。

何も意味しないとき、静かに朝を待つ(上)

イリナ・グリゴレ

こぼれ落ちてもう二度と帰ってこない日常を必死に思い出そうとして、スマホの写真アプリを開く。写真は薪ストーブで温まったように暑い記憶と違って、冷えている。窓まで積もった雪の上に屋根から落ちた氷柱の痕と同じ、写真の跡が私の身体に深い跡を残す。何年か前の娘たちは髪の長い妖精にしか見えない。海、植物、虫、鮮やかな服、階段に散らかっているぬいぐるみ、バレエからの帰りの練習着で食べる唐揚げ、ラズベリーで汚れた手、川の近くで交尾する蝶々、りんご畑、タンポポ、カエル、フキの葉っぱが天井からぶら下がる写真。獅子舞の映像と写真、インタビューの録音と録画、インフォーマントの若い時の写真。お寺、桜祭り、おでん、焼いたお菓子、パン、庭の赤い実、杏、山菜、キノコ、雪の上の鹿の足跡、信号待ちの映像、また虫、動物の写真、妊娠中のお腹の写真、出産の映像。祖父母の若い時の写真、何年前かルーマニアに帰った時の弟と私。弟はハリウッド俳優のような顔つき。何年も会ってない。会いたい。2月に家族と行くと言ったのに、戦争で飛行機代が一人30万円もするので諦めた。

ここ数年、私は意識して必死に自分の日常を撮り、いつかインスタレーション映像と展示を作ろうとしている。誰にも興味のない個人の日常が消え去る一瞬前に撮られたイメージだ。だが普通の写真と違う。それは事件が起きた後の証拠写真に近い。大きな穴を掘っている時に土から出てきた面白いゴミのようだ。誰も価値があると思わないようなものが土を洗うと鉱石の美しさが明らかになる。透明な木の根っこが、あの写真に写っている全ての生き物を子宮の中にいる赤ん坊と臍の緒のように囲んで繋いでいる。しかし、いくら探しても私がそこにいない。写っている20代後半から30代の女性が自分だと認識できない、私の脳が、壊れたA Iのようだ、エラーが出る。この絡み合いの中で私は確かに存在していたが、絡み合う命に溢れている生き物の一部でしかない。娘の発表会のピアノの中にもいたし、森の木の中にも、海の泡にも。確かにいた。こうして写真を見ると音楽に近い状態で存在していたと思うようになった。自分の身体がこれらのイメージと音が響く平地のような物体だった。広がった、開かれた。外か中にいるのかわからないまま。冷たい川の流れの一部になる日々だった。川の水に雪が降って、また水の一部、流れの一部になる。私もこの写真の川に溶ける雪結晶だ。

バッハの『音楽の捧げ物』の「6声のリチェルカーレ」が車内に溢れる。歯医者から帰るところだった。顔の半分が麻酔で動かせない。狭い雪道を運転するのは難しい。ブレーキは効かないし対向車があれば譲り合うしかない。自分の車の前に学校から帰る女の子がいて、反対からは車がずっと走ってきてなかなか進めないから、後ろの車がクラクションを鳴らした。女の子は私が鳴らしたと勘違いして、とても寂しげな目つきで私の目を見た。「私じゃない」、「私じゃない」と泣き始めた。この世を傷つけているものは私ではない。麻酔で動かせない顔の半分で泣く。だから戦争がまだあると思った。イライラしてクラクションを鳴らしたのは後続車の男だ。でも私が泣いたのは誤解を受けたからではない。女の子の眼を見て泣いたのだ。私たちはあの人と同じ世界を共存しないといけない。お互いのことを何も知らないまま。彼は知ろうとしない。雪の中を歩く白い犬が綺麗。あの犬になりたい。

スマホの写真の中で探していた写真を見つけた。4年前のシャガールの展示を見に行った時、初めて来日した父が笑顔満々の赤ちゃんの次女を抱いている。この写真を見ると次女をではなく、父が私を抱いていると感じる。あの頃も孫に会いにきた父と毎日のように喧嘩していたが、昨年の夏にもう一度父が来日したとき初めて共存できた。父は私の周りの知り合いの女性にかっこいいと言われて人気者になった。父はこんな人だったのかと思うようになった。女性に好かれて、かっこいい男の父。冗談を言う父、孫と一緒に散歩に出かける父を見て、自分の父もこの絡み合いの一部であることがわかった。私たち、いわゆる娘と父の作られた関係ではなく、何かの条件で塊として交差している命だ。父を初めて生命としてみた。人間ではなくてもいい、お互いに、偶然に風に飛ばされた土に触れた葉っぱのような関係でいい。

父のアル中をずっと理解できなかった気がする。この前、東京に行って、潰れるまで酒を飲んだ。自分は酒を飲むとき父になりきっている。今回は自分の限界を超えるまで飲んだ。目眩しながらホテルの部屋で倒れた。いつも少しだけいいホテルの部屋を選ぶにはまだ誰も言ったことがない秘密があるからだ。次の朝に大事な約束があったから起きようとしたが動けなかった。酒が全然抜けてなかった。味わったことのない吐き気に追われて壁を押しながらなんとか洗面所にたどり着いて痙攣しながら吐いた。東京のホテルの部屋で身体が動けないままベッドに倒れた夜。飛ぶはずがない白鳥の声が聞こえた。白鳥の声が苦手と思いながら。辛かった。この状態が自分の外からくる湯気のようで火傷するほど暑くって苦しい。誰かを呼びたかった。誰かを呼ぶとしたら誰を呼べばいいと身近な人の顔が浮かんだけど、小さな声で「お父さん」と言った。その朝に自分の父が来て、助けて欲しかった。自分の父の苦しみを初めてわかった。二人で初めて生きる苦しみを分かち合った。今までの喧嘩と苦しみには何の意味もなかった。お互い理解し難い存在だった。何も意味しない時、静かに朝を待つ。次女が言うには、その時、魂が剥ける。蝉のように、蛇のように皮が剥けるまで待つ。こぼれ落ちる日常が去るまで待つ。なんとなく身体を動かして、イヤホンでKendrick Lamarの『DNA』を聴きながら朝の混んでいる山手線の電車に乗って渋谷へ向かった。

『アフリカ』を続けて(20)

下窪俊哉

 前回は新しく始めたウェブの雑誌『道草の家のWSマガジン』の編集が楽しいという話で終わっていたが、その後、約1年ぶりに紙の雑誌である『アフリカ』の”セッション”も再開した。しかし年1冊というのは、重い。1冊のヴォリュームは落としてもいいので、年数冊を出すというくらいのペースに戻してゆきたいのだが、そのために理想を言えば、原稿が勝手に集まってくるというふうなシステムが要る。編集人(私のことだが)の重い腰が上がるのを待つというのでは、やはり年1冊のペースになるだろうし、そうするとやはり雑誌自体にも重さが出る。

 じつは前号(vol.33/2022年2月号)の感想で多かったのが、これまでになくシリアスな内容だった、というものだった。いつも『アフリカ』を読んでくださっている皆さんには、その重さも愉しんでもらえたかもしれない。そうなった理由はそれぞれの作品の中にもあるかもしれないが、編集によるものが大きかったかもしれない。前半に並べた「書く」ことについてのエッセイは、考えることを読者に誘うものだったし、深刻というより真面目。あるいは、このどこか暗い時代の影響を受けてそうなっているのだったりして。などと考えていると、よし、次はもう少し明るいもの、軽いものを目指そう、ということにもなる。
 とはいえ、書く人たちには、書きたいことを書きたいように書いて、というだけなので、明るい編集、軽い編集、ということになる。どうやって、どうなるのかは、やってみなきゃわからない。結局はいつものようなことになるだけかもしれないが、頭の隅には置いておこう。

 ところで、『WSマガジン』を読んだ方からは、「読みやすくて面白かった」という感想が多い。中には「『水牛のように』を毎月、隅々まで読むのは楽じゃないけど、『WSマガジン』は全体をさらっと読める」と話してくれた人もいる。褒められているのだろうことを承知の上で、しかし私はまた考えてしまう。まあそうやって比べる必要はないと思うけど、楽じゃない部分もあった方が面白いような気もする。もっと何というか、読んでいてひっかかったり、詰まったりするようなところがあってもいいのにな、と。
 書きっぱなしの粗削りのものをどんどん出してゆこう、と言ってはいても、実際に書いてみたら、読みやすくてちょっと面白いような文章になってしまう。読みやすい文章を書くなんていうことは楽なことなんだろう。
 ということは、読みにくい文章を書くのは難しい?
 何にひっかかるのか、どこで踏みとどまるのか、あるいは、どこで書けなくなるのか。
 そんなことがじつは大事なことなのかもしれない。
 書けないことをこそ、書きたいと思う気持ちが自分にはある、なんて言ってみたくもなったりして。
 もっとゴツゴツした、うまく言えないようなことを書こうとして失敗したような文章が並んでいてもいいと思う。

 その「ゴツゴツした」という言い方は、富士正晴さんからいただいた、好きなフレーズだ。太平洋戦争の前に『三人』、戦後に『VIKING』という同人雑誌をつくり、亡くなるまでかかわり続けた富士さんは、全国各地から送られてくる同人雑誌を読むのも好きだったらしい。ここで、そのことを少し書こうと思って『贋・海賊の歌』(未来社・1967年)を出してきて、「VIKING号航海記」を読むと、「同人雑誌の小説のたいていは文壇の風俗、流行のイミテーション」だが、稀に「今の文壇で通用しないかも知れないふしぎな純度をもっている作品」「硬質の結晶体のような作品」を見つけ出すことがある、それが「同人雑誌読みとしてのわたしのいささかの楽しみ」だと書いている。この話の裏を返せば昭和の一時期、文芸の同人雑誌が「文壇」の2軍と見られていたことを語ってもいるのだが、私がかつてから注目しているのは例えば次のような文章である。

 このごろうれしいことは同人雑誌が文壇への階段であることを目的とせず、自分自身の存在を第一目的とするような傾向がふえて来たことだ。あまり目がチラチラよそに走っていない。これは自信というものだろう。よそに認められなくても安定している。つまり、雑誌中の評価を相当信じ合っているということである。

 これはつまり『VIKING』のフォロワーが出てきて喜んでいるのである(その「傾向」はいつ頃まで続いたのだろうか)。『VIKING』は自らの存続そのものを目的とし(というふうな言い方をする)、いわば自動操縦の船を造り乗り込み、内側にはその時々でいろんな問題を秘めているとしても、富士さんの没後35年たついまもその航海を続けている。しかも月刊である。
 私はそこに「続ける」ということの花や果実を見るような気がする。
 どこか離れたところに湧く評価を動力としているようでは、「続ける」が燻り弱ってくる。燃料は、自ら与えればよいわけだ。
 そこには「原稿が勝手に集まってくるというふうなシステム」があるはずだ。
 自分がそういうシステムをどうやって構築できるか、という問いの先に、ワークショップというイメージがあったのだ、ということがここまで書いてきて何となく理解できる。自動操縦とまではゆかなくとも、いつでも(雑誌をつくっていない時でも)場が活発に動いて、生きている必要があるだろう。その役割を『WSマガジン』が担ってくれるのではないか、という予感がいまはある。

 どんな小さな石でも、投げれば何らかの波紋を呼ぶだろう。それがどんな波紋になるかはわからない。しかしそんなことはこの際、どうでもいいではないか。それより小さな石を集め、投げ続けることの方に歓びがある。いまのこの社会にはどうやら、失敗が許されない(過去の失敗を許さない)とか、傷つくことを徹底して回避しようとするような傾向があるらしいという話も聞く。そこで失敗こそ人を育てるとか、傷つくことのない人生が面白いかなどとお説教を始めるのもまた容易いか、しかし、ね、小さな石を集め、投げ続けることに失敗も成功もない。ただ集め、投げるだけだ。ただ続けたらよいだけだ、ということを私はいま少し言いたいような気がしている。

しもた屋之噺(252)

杉山洋一

この原稿を書いているコンピュータの脇に、野坂恵子さんのお葬式でいただいた、小さなカードがおいてあります。表には後光をいただく聖女が描かれていて、裏には「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5・8)」とあります。

新年は明けましたが、今年がよい一年として人々の記憶に残る可能性は、限りなく低いと思います。たとえそんな一年であろうとも、人々は等しく必死に生きて、沢山笑ってとめどなく泣いて、時には怒ったりもしながら、美味しいものをたらふく食べるのを夢見つつ、われわれも頑張ってよい音楽をやろうとしているはずです。そんなささやかな毎日を積み重ねて、何とかこの暗い一年を無事にやり過ごせたらいいな、そう思いながら暮らしています。
心なしか、日中の陽の光が少しだけ強くなってきた気もします。気のせいかもしれませんが、でもそう信じて、一歩ずつ足を踏み出したい、そんな思いに駆られてもいます。

1月某日 ミラノ自宅
日本滞在中の息子が町田の両親宅を訪問。スカイプで少し話し、両親と息子と一緒のスクリーンショットを撮った。手製の叉焼でラーメンを作ってもらい、簡単なお節と一緒に、大根だけのあっさりした雑煮も食べたという。夜、息子は老父に町田駅まで送ってもらったらしい。

美恵さんにメールしていて、小学生の頃、すっかり日焼けした立原の小さな詩集を持ち歩いては、立原の詩の内容よりも、ところどころの旧字体の漢字に痺れていたのを思い出した。とりわけ「八月の金と緑の微風のなかで眼に沁みる麦藁帽子」の「麥」の字を偏愛していて、半世紀過ぎてこう告白するだけでさえ、胸の高まりを抑えられない。

1月某日 ミラノ自宅
武満作曲賞で演奏したシンヤンから年賀状が届く。現在、中国は特に高齢者の死亡が多く、シンヤン自身も年配の親戚を失った。シンヤンはアメリカに滞在中だから、葬式すら出られない、ただただ辛い、と書かれている。

大晦日夜半、ロシア軍占領地域ドネツク州マキイウカのロシア軍臨時兵舎爆破。ウクライナ軍は400人殺害と発表、ロシア軍も89人の死亡を認めた。ただ、戦争とは狂気そのものだとおもう。

1月某日 ミラノ自宅
久しぶりにティート宅を訪問。昼食にヒヨコ豆のパスタをご馳走になる。妻のマリアはブルガリア人で、彼女は子供たちと常にブルガリア語で話している。マリアの両親は医者で、揃ってソヴィエトもロシアも嫌悪していたが、現在までブルガリアは親ロシア勢力が強い影響力を持ち、ウクライナへの協調を気軽に表明できる状況にはないそうだ。アルバニアのオペラ劇場が終身雇用で月給1000ユーロになったと話すと、ブルガリア国立オペラよりずっと待遇が良いと驚く。

昨日の日本Covid死亡者が456人で本日463人。過去最多とのこと。新規感染者数は23万8654人。イタリアの本日の発表は未だだが、12月26日から元日までの統計では、Rt値が0.84から0.94。死亡者数は、12月23日から29日の合計706人で、12月30日から1月5日の合計が775人とある。新規感染者数を見ると、1月第一週は一日平均17443人、二週目は一日平均19424人で、例え計算方法に相違が認められたとしても、日伊の差は顕著である。現在の日本の状況は、一体何が原因なのか見当がつかない。これからヨーロッパでも同じ現象に襲われるのかもしれないが、未だその兆しすらない。尤も、イタリアの公共交通機関では、自主的にマスクをしている年配者は多い。
旧暦のクリスマスを祝い、ロシア軍は一方的に休戦宣言。ロシア、ウクライナ共に散発的な戦闘は止まず。

1月某日 ミラノ自宅
家人曰く、作曲をしているときは機嫌が良いらしいが、こうも筆が進まないと、どう気分を変えてよいかもわからない。

当初、功子先生からは「自画像」のようなヴァイオリン協奏曲を書いて欲しいと言われていて、それ以来、2021年8月タリバンがアフガニスタンの公共の場での音楽演奏禁止を発表した直後に銃殺された、民謡歌手ファワド・アンダラビの弾くギチャクの旋律を使うべきか、まだ迷っている。ペルシャの民族楽器ギチャク(Ghaychak)は、ヴァイオリンに近しい弓絃楽器で音域もほぼ等しい。

功子先生のための作品を生々しいものにするのは気が引けるが、アフガニスタンから逃げ出した無数の音楽家たちや、息を凝らして必死に生きるアフガニスタンの女性の姿が頭から離れず、何らかの標を自作に書きつけておかなければと思ってきた。だから、もう少し悩んでから、きっと何某かの形でファワドの旋律がヴァイオリン協奏曲に埋め込まれることになるのだろう。

本日の日本Covid関連死亡者520人との発表。一体どうなっているのか。NHKラジオニュースを聞いていて耳を疑う。家人、息子ともにミラノ帰宅。

1月某日 ミラノ自宅
松平頼暁さんの訃報。心底Covidが恨めしい。松平さんから直接お願いされた、未初演のレクイエム上演を完遂できぬまま、松平さんが亡くなってしまった。ただ悔しく申し訳なく、限りなく無念だ。

「冬の劇場」の頃から、足繁く演奏会を聴きに来てくださり、その度に励ましていただいた。その松平さんご自身からレクイエムのお話しを伺い、とても光栄に思っていたし、当初はお元気なうちに上演可能と信じて疑わなかった。オペラ「挑発者たち」と「レクイエム」は、絶対に納得ゆく形で上演すると心に決めてきたが、結局コロナ禍に翻弄されてしまった。併しその逡巡は、自分の詰めの甘さや一寸した気の緩みや、微かな諦めが折り重なった所為ではなかったか。後から悔やむくらいなら、人生無理にでも突っ走った方がよいと頭では理解している積りだったが、浅はかであった。今はどうにも気持ちの整理がつかない。

フェニーチェ堺の福尾さんよりお便りを頂く。平井さんや当時関わった様々な方を思い出すと、涙が止まらない、とある。
「みんな、どこにいってしまわれたのでしょう。でもこうして杉山さんからのメールを拝読し、ああ、あの時間は本当にあったんだ。同じ時間と同じ至福の時を過ごした方がいらっしゃったんだ、そのことを思い出せただけでもありがたく、嬉しかったです」。

1月某日 ミラノ自宅
朝、11時。霙雑じりの雨に打たれながらパトリツィアに会いにでかけた。昨今の音楽界を席巻するのはSNSで人気を博す音楽家ばかりで、本当によい音楽家であるかどうかは二の次になっている。娘や孫の世代にどんな音楽や文化を遺してやれるのか甚だ不安だ、と畳み込むように話す。
彼女曰く、ブレンデルはマスターコースをするとき、完璧な演奏より寧ろ個性が生きる演奏を目指して指導していたそうだ。

岡村雅子さんの訃報が届く。岡村さんとは、大原れいこさんと三人で集っては、川上庵で蕎麦など啜りつつ、いつも他愛もない四方山話にばかり花を咲かせていたから、音楽関係者というより、ごく普通の友人として受け入れて下さっていたのだろう。
下北沢のレディジェーンで、娘さんがいれたボトルを二人で静かに味わったこともあった。そんな時ですら一切涙もこぼさず坦々と娘さんを偲んでいらしたから、流石に格好良すぎる、無理をしないでほしい、と内心心配していた。
「16歳!もう親の手綱からは離れているんでしょうね。でも不思議なことに、遺伝子はいろいろなところに見受けられて、もどかしいというか、親子の繋がりを、いろいろな場面で感じることができて。突然、私の娘のことを思い出してしまいました」。
「娘のことは大丈夫です。折につけ、いろいろ思っていますから。この間下北沢の小さな空間でハロルド・ピンターの2人芝居を演出した演出家は、ほぼ30年前私達家族がここに家ができて引っ越してきた時に、娘が一番初めに連れてきた人で、きっと、演劇の話をしたら止まらない、別に恋人じゃないけど、いつまででも話していたい、そんな間柄だったんだなあと今頃思ってますし。折につけ、そんな感じで娘が登場しています。色々な人との出会いも楽しんでます」。
漸く春彦さんとも娘さんとも、勿論れいこさんとも再会されて、岡村さんは相変わらず格好よく、素敵な時間を過ごしていらっしゃるに違いない。我々は少しの間寂しいけれど、でも岡村さんが倖せなら、それも我慢できる気がする。

1月某日 ミラノ自宅
早朝、中央駅6時過ぎの特急でフィレンツェへ向かい、佐渡さんのマーラー、リハーサルを見る。朝8時過ぎのフィレンツェは行き交う人も疎らで、ジョットの鐘楼はどこか凛とした佇まいを見せる。街角で道を尋ねると、みな実に親切に教えてくれる。朝の冷気もミラノより少し緩く、心なしか人々の表情も明るい。
佐渡さんの音楽は懐が深く自然に呼吸していて、尖ったり邪魔をするものがないから、演奏者の身体にそのまま溶け込むのだろう。オーケストラの奏する音はみるみる変化して、文字通り圧巻である。オーケストラも、のびのびとしていて、とても弾きやすそうだ。
夕方からミラノで授業があったので、ゆっくりと話し込む時間はなかったけれど、つかの間の再会を喜ぶ。ミラノに戻る直前、駅前の四川料理屋で海鮮麺と肉なし麻婆豆腐をかきこむ。周りの客は地元の中国人だったらしく、揃って中国ケーブルテレビの旧正月記念番組に見入っていた。

1月某日 ミラノ自宅
ケルン旧消防署にて、渡邉理恵さん指揮、アンサンブル・デヒオのリハーサル見学。特殊奏法の多いファラの作品に対して、まず奏者の疑問をていねいに溶きほぐしてから、それらを音楽の流れに浮かべてゆく。外から眺めていると、作曲者、指揮者、演奏者、それぞれの音楽が、次第に中心へ収斂され、一つになってゆくのが、つぶさに理解できた。やがて、作品を通して、演奏家、指揮者の音楽がより鮮明に浮かび上がるのも興味深い。

稲森くんや渡辺裕紀子ちゃんの作品を演奏しているとき、こうしたヨーロッパの日々が彼らの楽譜の向こうに見えていたつもりだったが、久しぶりに間近でその空気に触れると、より具体的に、直接的に、彼らの音楽の本質を深く肌で感じられて、なんだか嬉しかった。

作曲者が提起するアイデアの収斂点から、どんどん深く掘り下げて啓いてゆく姿勢は、瑞々しく新鮮であった。何より、指揮者と演奏家が揃って作曲者の意図を誠実に汲取ろうとする姿勢に大変感銘を受けた。リハーサルは濃密でありながらしつこくはなく、有意義であった。

ミラノ国立音楽院のアウシュヴィッツ解放記念の記念演奏会で、息子がロッシーニやショパンの断片を弾いた、と家人よりヴィデオが届く。

1月某日 ミラノ自宅
旧消防署庁舎近くの広場の朝市でドイツ風クロワッサン二種とワッフルを購い、スタンドでコーヒーを淹れてもらい朝食とする。美味。クロワッサンはどちらも濃厚な味わい。そのまま渡邉さんとすっかり話し込む。朝市の肉屋の店先はすっかり磨き上げられていて、高級感が漂っていた。聞けばこの朝市は富裕層がターゲットで、質も高く値も張るそうだ。

ケルンより帰宅。ケルン在住の作曲家、ファルツィアはイラン出身で、家族はみな本国に残っている。数年前に比べて、状況はすっかり厳しくなった、とこぼす。イランに戻れるけれど、自分は現政権にとって不都合な人間になる。家族とも連絡は取れるけれども、安全ではないし、インターネットは遮断されているから、VPNを使わなければならない。
海外からの情報は以前から制限されていて、市民は国外からの文化や情報を渇望していた。その証に、家人がテヘランを訪れたときは、熱狂的に歓迎された。現在はその交流すらすっかり影を潜めている。国が変わらなければいけないが、それはとても大変だともいう。君の音楽はご家族の希望だねと話すと、そうね、と少しだけ口元が緩んだ。
彼女はケルン・ボン空港の近所に住んでいて、発着する飛行機を見上げては、時に思いを馳せているという。

1月某日 ミラノ自宅
ナポリ広場の広告板には、黄色と青色のデザインで、ずいぶん長い間「NO WAR」と表示されていたが、このところ、「あなたのため、ミラノのため」特集に入れ換えられた。
路面電車の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、公共交通機関を使おう」、LED電球の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、LED電球を使おう」、階段の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、階段を使おう」と書いてあって、要は節電要請である。
ウクライナ侵攻から1年近く経ち、戦争反対の声は聴かれなくなった。NO WAR ではなく、STOP WARとスローガンは書き換えられ、英米国に続き、ドイツもレオパルド2のウクライナへの供与を決定し、ヨーロッパ全体として、ウクライナの侵攻を現実に受けとめているようだ。サンレモ音楽祭のなかでゼレンスキー大統領が声明を発表するとかで、サンレモでゼレンスキーが話して意味があるのかとイタリアでは冷笑が広がっている。

冷戦中ソビエトのミサイルは、北大西洋条約機構基地のあるトリエステではなく、ユネスコ世界遺産であるヴェニスに焦点を定めていて、ウクライナ市民やライフラインを狙うロシア軍を思わせる。1年後、我々の生活がどうなっているか、正直なところ、わからない。

1月某日 ミラノ自宅
どこか妙な一日であった。朝、家人と散歩して帰宅中、路面電車の停留所で、まさに乗込もうとしている格好そのまま、俯せに倒れ、微動だにしない男がいて、運転手が駆けつけていた。
夕刻、学校を終えて帰宅すると、家人が後ろから走ってきた電動スケートボードに跳ね飛ばされ、全身を強く打っていた。

自宅前のドン・ミラーニ橋から、シーツに黒スプレーで書きつけられた垂幕がかかっていて、現在収監中のFAI(非公式無政府主義者同盟)指導者アルフレッド・コスピトが、刑務所規則41条bis反対して行っているハンガーストライキが150日に突入し、健康状態の悪化を訴えている。イタリア各地で非政府主義者同盟の支持者らが、火炎瓶などを使った抗議活動を展開しており、国外でもベルリンとバルセロナのイタリア大使館関連施設での破壊暴力活動に及んだ。ミラノの日本領事館から、デモなどに近づかぬようメールが届く。

(1月31日ミラノにて)

どうよう(2023.02)

小沼純一

きかせてよ
うみのむこうにいるあなた
わたしおもって
いとしいこえを

あンあンあン

きいててね
うみのむこうにいるあなた
わたしいまって
こんなかも

あンあンあン

あのひとかな
こんなとこにいるんだから
こういうつながりなのかしら
それらしい あいさつだけで
にこにこしながらしておけば
いい
のかな
おひさしぶり
おかわりありません

か か か
さいきんはどういった
すこしでもおもいだせばしめたもの

みんなみんないいひとばかり
いつからこんないいひとばかり
むねやけちりちり

たえまなく
はきけぐぶぐぶ
あいだをおいて
とまらない

みんなみんないいことばかり
いつからこんないいことばかり
いいひといいことあっぷっぷ

ふるまえふるまいふるまでに
いいひといいことぶってぶって

わかれてはしまったが
わすれたのはよかったこと

いいことだって
たのしいことだって
いくらもあった
はずなのに
なかなかみえないトンネルの
でぐちのように
みえにくい

わかれてはしまったが
おぼえているのはいいことだけ

わるいことだって
いやなことだって
いくらもあった
はずなのに
はなをいちりんふってたり
さがっためじりは
すぐそこに

わかれてはしまったが
ひらいているのはかさばかり

あめにふられて
むかうむかいの
すれちがい
かみからくつうら
いいもいやなもあやめなく
へやのそとには
まっかなかさが
あめふらし

いちにさんし
うんだつぎにはなくなる

ことばちがえるひとに
おしえました
むかしそういってたかたが

いちにさんし
さんとしと
いっしょだとややこしい
って
あてつけだっていわれるから
いわなかったかな
しのあと 
しご
ってつづくんだよと

いちにさんし
そのあとはなんだろ

にさんしごろく
ごろくはやはりかきつけか
どこかに
きっとのこってる
だれかさがしに
ろくしちはちく

ポルトガルの海

植松眞人

 東京メトロを千駄木駅で降りて、団子坂を登り切ったところに森鴎外記念館がある。その前の通りを右に折れたあたりに文京区の図書館がある。
 鴎外が実際に暮らした観潮楼跡に建てられた森鴎外記念館はかなり気合いを入れて設計されている分、目と鼻の先のこの図書館の建物の地味さが際立つ。役所の一角なのかと見間違うほど、なんの特徴もない。それでも、自然と森鴎外の書籍を探し始める。「文学」と書かれたプレートが奥の方に掲げられていたので、そちらに向かうと「近代文学」「純文学」と棚がわかれていたので迷わずに「近代文学」を探す。「純文学」は「男性作家」と「女性作家」に別れているのだが「近代文学」は男女では別れておらず、シンプルに「あ」「い」「う」と五十音別に並べられている。
「も」のプレートを探そうと目を走らせた瞬間に背表紙が上下逆さまになっている青い本が飛び込んできた。自分の顔を少しひねって、なんとか逆さまになった文字を読むと、背表紙には『ポルトガルの海』とあった。『ポルトガルの海』と言えば、確かと思いながら、著者名を見ないようにする。『ポルトガルの海』と言えばと書棚に背を向けてる。自力で思い出したい。スマホに頼らずに思い出したい。しかし、還暦を迎えてすっかりこらえ性がなくなってしまい、そんなこだわりはすぐに知りたいという気持ちにあっさりと負けてしまう。振り返り、書棚に手を突っ込み、逆さまになった本を取りあげ、著者名を確認する。そうだった。フェルナンド・ペソアだった。
『うた』と題された詩編から始まるその本がなぜ日本の近代文学の書棚に突っ込まれるように置かれていたのかは知らない。けれど、それを見た瞬間から、森鴎外が若き日に留学した国がドイツではなくポルトガルだったらという思いから抜け出せなくなっていた。
 ペドロ・コスタの映画『溶岩の家』や『ヴィタリナ』に出てくるようなポルトガルの辺境の町を鴎外が歩いていたとしたら、エリスにも会わなかっただろうし、万一、エリスのかわりにポルトガル女性に会っていたとしたら、鴎外はその後日本に帰国しなかったかもしれない。ドイツは何かを学び何年か後に帰ってくる場所にはなり得ても、ポルトガルは違う気がする、などとドイツにもポルトガルにも行ったことがないのに、勝手に決めつけている。
 受付で聞くと、文京区に住んでいなくても身分証明書があれば本を借りることができるというので、手続きをして『ポルトガルの海』を借りる。そして、学生たちが自習をしているデスクがずらりと並んだ場所をすり抜け、老人たちがぼんやりと時間を潰しているソファの空いた席に座り、借りた本を開く。同時にスマホでウィキペディアにアクセスして、鴎外とペソアの生年月日を調べる。
 鴎外はペソアよりも三十年近くはやく生まれ、十年ほどはやく亡くなっている。鴎外がドイツ留学から帰ってしばらくしてからペアソが生まれたので、仮に留学先がポルトガルだったとしても、二人の人生が交錯することはない。ただ、ペソアの詩集の日本語訳が森鴎外記念図書館の「近代文学」の書棚になったことは記憶の中で決して忘れることのできない出来事になった。
 鴎外とペソアは生涯分かちがたく結びついてしまった。誰かがペアソの詩を乱雑に書棚にしまったがために。鴎外の名前はすでに、ペソアの『ポルトガルの海』の表紙の色だ。そして、それが本当にポルトガルの海の色をイメージしてデザインされたものかどうかは知らないけれど。(了)

字あまり、または1ダースの月’23

北村周一

シンゴジラやらシンウルトラマンも現れてシンハマオカに集う一月

二俣の売家に二股かけられてくんずほぐれつ逃げる二ん月 

字あまりに臆することなく憤るその溜息でくもる三月

夜さり夜さり酒酌み交わす友もなく一人ふたりと消えゆく四月

つまの吐くね息のなかにわが眠りしずめんとして縮こまる五月

耳の中の小さな石の不始末を眩暈と呼んで鬱ぐ六月

物を見てえがくすなわち手描きへの自負と偏見煽る七月

AIにたくすすなわち手描きへの自負と偏見くたす八月

さめぎわに消残る夢のあさくして自問自答に悶える九月

老いてなおここよりほかの場所数多夢に浮かべてさやぐ十月

絵日記は汚れやすくてぽちぽちと杳いメールを打つ十一月

子煩悩な親ほど怒りやすしとも ラク書き消して回る十二月

片岡義男作品のなかの珈琲3つ

若松恵子

片岡義男さんの新刊『僕は珈琲』が1月24日に発売された。片岡さんの本を読むと、おいしい珈琲が飲みたくなる。ヤクザ映画を見た人が、肩をいからせて歩くように、珈琲を片手に私も小説の中の人になる。片岡作品のなかの、心に残る珈琲の場面を3つ引用して紹介したいと思う。

***

 横断歩道を渡ってきた彼女は、ビルの前を右へ歩いた。右へすこしだけ歩くと、そこがビルの角になっていて、さっき彼女が渡ってきた往復八車線の道路からわきに入りこんでいく道路とのT字交差だった。
 ビルの角を、彼女は、わき道に沿って、まがった。このビルのこちら側だけは、アーケードのような通路になっている。ビルの壁面にその通路がくいこんだ造りになっていて、雨の日でも濡れずに歩ける。
 一画を大きく占拠しているそのビルの裏手へ、彼女は歩いた。彼女がいま歩いていく通路と、そのビルの裏にある道路との角にあたる部分は、カフェテリアになっていた。角を中心にして両側の壁は大きな透明のガラス窓だ。カフェテリアの内部が、いつも外から見えた。
 歩いてきた彼女は、カフェテリアのガラス・ドアを押し、店のなかに入った。ガラスのドアのまんなかに、クリスマスの花輪が飾ってあった。夕方の混みあう時間を過ぎた店内に、客はあまりいなかった。ハンバーガーとコーヒーの香りが、静かに店内をひたしていた。
 カギ型にあるステンレスのカウンターの手前に、テイク・アウトの窓口があった。その窓口の前に立った彼女は、ユニフォームを着た若いウエートレスに、「コーヒーをふたつでいいの」と注文を告げた。丈の高いカウンターの縁にトレンチ・コートを着た片腕をかけ、彼女は待った。
 カウンターで食事をとっている二人の外国人男性の話し声が、聞こえるともなく聞こえてきた。会社帰りの、ビジネスマンのようだった。ひとりはアメリカの英語を喋り、もうひとりの英語はフランスなまりだった。
 コーヒーが、できてきた。紙コップに入れて薄いプラスチックのふたをし、クリーマーと砂糖、それにままごとのようなスプーンをべつにそえ、紙袋におさめたものだ。
 彼女は、料金を払った。ウエートレスがくれた小さなレシートをトレンチ・コートのポケットに入れ、テイク・アウトのカウンターを離れた。
 店の外に出た彼女は、角にむかって歩いた。信号のない裏通りの横断歩道を渡るとき、ちらっと彼女は店をふりかえった。
 大きな透明の窓ごしに、店の内部が見えた。光っているステンレスのカウンターに、機能的に美しくととのえられた調理場、そして英語のメニューとカウンターで食事している二人の外国人。そんな光景が、彼女の目に入った。外国の街角で見る光景のようだった。
 横断歩道を渡りきって、彼女は右のほうに目をむけた。道路のむこうに、国電の高架駅があった。車体がブルーの電車が、その駅に入ってくるところだった。
 人通りのすくなくなった夜のオフィス街を歩きながら、彼女はコーヒーの紙袋を開いた。熱いコーヒーの入った紙コップをひとつとりだし、プラスチックのふたをとった。ふたを紙袋のなかに落とし、紙袋の口を閉じなおした。
 紙コップを、彼女は口にはこんだ。強い香りのする、熱いブラック・コーヒーを、彼女は唇のさきですこし飲んだ。

 『吹いていく風のバラッド』 18 (1981年2月 角川文庫)

トレンチ・コートの彼女は、コーヒーを飲みながらオフィス街を歩いて、最後は地下鉄に乗る。その姿が描写されているだけの物語だ。1981年当時、テイク・アウトのコーヒーを飲みながら歩くという事は、新鮮でただただかっこ良かった。

***

 コーヒーに蜂蜜を入れようとしたスティーヴンは、カップもスプーンも、これまで見たこともないほどに汚れているのに、はじめて気づいた。
 黒いカップだと思っていたのだが、じつは汚れの蓄積によって黒くなっているのであり、本来は白なのだった。取手の指の触れる部分と、唇のさわるとこ、そして底の二センチか三センチほどが、ほのかに白かった。指で触れてみると、汚れの厚みがはっきりとわかった。
 スプーンもおなじだった。ぜんたいにまっ黒で、こびりついた固い汚れで形はいびつに見えた。心のなかではひるみながら、スティーヴンはスプーンで蜂蜜をすくいとった。そして、コーヒーに入れた。あまりかきまわすと汚れがコーヒーのなかに溶けだすのではないかと思い、すぐにスプーンをひき出した。
 コンロイは蜂蜜を使わなかった。
 白い部分に狙いをつけて唇を寄せ、スティーヴンはコーヒーを飲んだ。そして、驚嘆した。コーヒーは、ものすごくおいしかった。熱い芳しい液体が口から喉へ落ちていくのを感じながら、これまでに飲んだ何千杯とも知れぬコーヒーのなかで、いま自分の手にあるこの一杯がいちばんおいしい、とスティーヴンは確信した。
 自分をとりまいている自然のなかのあらゆるものが、一杯の熱いコーヒーに凝縮されていた。そのコーヒーが、自分の体の内部へ流れこんでいく。深いスリルに鳥肌の立つような、魔法の瞬間だった。
 人里遠く離れた丘のつらなり。澄みきった冷たい夜の空気。夕もやの、しっとりした香気。夜の匂い。草のうえにいる数百頭の羊たちの鳴き声の合唱。犬の声。そういったおだやかな物音が吸いこまれていく、自然の空間の広さ。もうはじまっている、高原の長い夜の静寂。こういったものすべてが、一杯のコーヒーになって自分の体の内部に流れこんだ。と同時に、スティーヴンの感覚は、コーヒーが口のなかに入った一瞬、冷たい夕もやの立ちこめる夜の広さのなかへ、いっきに解き放たれた。

彼はいま羊飼い(『いい旅を、と誰もが言った』1981年2月角川文庫 )

一杯のコーヒーによって、彼はいま羊飼いだ。
自然そのものが凝縮されているコーヒー。つつましい日常の中で、そんなコーヒーを飲みたいと願いつつ・・・。最後は片岡さんの詩集から。

***

  秋のキチンで僕は

目を覚ました僕は寝室を出た
彼女は仕事にでかけたあとだった
僕はキチンに入った
食卓のいつもの椅子に、僕はすわった
キチンのなかには匂いがあった
パーコレーターでいれたコーヒー
シナモン・トースト
彼女のシャンプーおよびリンスの香り
そしてさらに、なにであるか不明の、なにかの匂い
服の匂いかな、と僕は思う
彼女の、秋の服
今日から彼女は、秋の服の人になったのではないだろうか
僕はいまでもまだ、Tシャツにトランクス一枚だ
涼しさをとおり越して、肌寒さをはっきりと感じる季節
僕は両腕を撫でてみる

日焼けが目に見えて淡くなりつつある
残念だ
どうしよう
というところからはじまる、今日という一日
キチンのなかで僕は
彼女が残していった香りを
ひとりで懐かしんでいる。

『yours』(1991年3月 角川文庫)

片岡さんの描く台所はキチンだ。珈琲を飲む場面は出てこないけれど、珈琲の香りを感じて静かに深呼吸する。

カタオカさんとおれ

篠原恒木

片岡義男さんについて書こう。

カタオカさんは物知りだ。
いろんなことを知っている。

雨の日におれはL.L.Beanのレインブーツを履いていたが、タイルが敷かれた地面を歩くとツルツル滑ることをカタオカさんに訴えたら、こう言った。
「それはそうだよ。そのブーツはハンティングをするのに沼地へ入るときのものだから」
「は?」
「音も立てずに沼地を進むためのブーツさ。獲物に気付かれないようにね。防水性には優れているけど、都会の道路には向いていない」
ううむ、知らなかった。じつにすべらない話ではないか。

「アメーラトマトってあるだろ」
「ありますね。アメーラってイタリア語ですか。トマトだけに」
「アメーラは静岡地方の言葉で『甘いだろ』という意味だよ」
「知らなかった。てっきり外国語だとばかり思っていました。オメーラ、タダじゃおかねぇ、とは日頃よく言いますが」
これは見事にすべった。

先日出版されたカタオカさん著の『僕は珈琲』のなかでも書かれているが、「アメリカン・コーヒー」の由来は、第二次世界大戦でアメリカでの珈琲豆が不足して、節約のため薄い珈琲を淹れたことが始まりらしい。カタオカさんは回想する。
「僕はアメリカン、とよく喫茶店でオーダーしていた人がいたよなぁ」
ううむ、これも薄味ではない、じつに濃い内容の話ではないか。

だが、カタオカさんは物を知らない。
「えっ、そんなことも知らないの?」というケースがよくある。

居酒屋の壁一面に貼られたメニューの短冊をじっと見つめながら、カタオカさんは呟いた。
「いぶりがっこ」
「食べますか、いぶりがっこ」
「いぶりがっこって何?」
「知らないんですか」
「知らない」
「大根を燻った漬物です」
「だからいぶりなのか。がっこって何?」
「学校のことです」
「本当かよ」
「嘘です。秋田地方で漬物のことをがっこと言うのではないか、と思います」
「旨いの?」
「クリーム・チーズをディップにして食べたりすると旨いです」
「ふーん」
カタオカさんはメモ帳とペンを取り出し、大きな文字でゆっくりと「いぶりがっこ」と書いた。それがおれの目にはとても可愛らしく見えた。
ほどなくして「いぶりがっこ」が登場する小説を発表したのだから、作家というヒトは恐ろしい。

「安保という漢字が読めなかったんだ」
「アンポ? あの日米安全保障条約のアンポですか」
「もちろん音としては認識していたよ。周りがみんなアンポ、アンポと言っていたからね。だけど、どう書くかについては知らなかった。立看板に『安保反対』などと書かれていたけれど、ヤスホとは何のことだろうと思っていた」
「そういうのをアンポンタンと言うのです」

『僕は珈琲』のなかでも、これと同じようなことが書かれている。「外為」という言葉についての話だ。クスリと笑うけれど、言われてみれば確かにそうだ、とおれは思ってしまった。安全保障条約を縮めてアンポと呼ぶのはいささか乱暴のような気がしてくる。ましてや「ガイタメ」なんて、考えてみればヒドい略語ではないか。

日本人はこういった略語が大好きだが、カタオカさんにとっては嫌な感じがするらしい。ちなみに「パソコン」「テレビ」「スマホ」「コンビニ」とはどうしても書けないと言う。「PC」「TV」「スマートフォン」と書く。「コンビニ」に至っては「人々がコンビニ、と呼んでいる店」と書いていた。これは略語に対する凄まじい嫌悪、いや、憎悪ではないか。
「ではラジオはどうなんです? レディオとは書かないでしょう」
「ラジオはラジオだね。日本語として」
確かにラジオは略語ではない。カタオカさんは重度の略語アレルギーなのだろう。

カタオカさんは怒らない。
怒ったことを見たことがない。
「なぜ怒らないのですか」
「怒ってもしょうがないだろう。疲れるだけだよ」
「でも怒ってヒトを怒鳴りつけたことも一度や二度はあるでしょう?」
カタオカさんはしばらく考えて、こう言った。
「昔、書いた原稿を編集者が失くしてしまったことがあったなあ。電話がかかってきたんだ」
「編集者はなんと言ったのですか?」
「市ヶ谷の大日本印刷に原稿を届けに向かう途中で、小脇に抱えていた原稿の束を一枚残らず外堀に落としてしまいました、と言ったんだよ」
「ええっ、あの市ヶ谷駅の脇にある川のようなところですよね。つまりはすべての原稿を水没させてしまったと」
「そうなんだよ。きっとバサバサッ、ヒラヒラと紙が舞って外堀に落下したんだろう。まだ原稿用紙に手書きの頃だったな」
「それはいくらなんでも激怒したでしょう。原稿のコピーは?」
「とってないよ」
「ひゃあ、おれだったら怒鳴り散らしますよ。当然怒りましたよね?」
「いやぁ……怒るもなにも、呆れたよね」
カタオカさんは笑いながらそう言った。そのあとの書き直し作業については訊くのが怖かったので、おれはそこで絶句してしまった。

怒らないからといって、ナメてはいけない。
カタオカさんは優しい顔を保ちながら穏やかな声で、本質的なひと言を口にする。そのひと言はかなり怖い。ひと言の内容はここでは書けない。何通りかのパターンがある。鋭い刃物のようなひと言だ。おれはよせばいいのに、
「もうちょっと嚙み砕いて言うと、こういうことですか?」
と尋ねてしまうのだが、ブラック・カタオカは、
「そうなんだよ」
と言って、微笑みを浮かべる。こういうときは怖い。怒らないのに怖いのだ。おれのように声を荒げて罵詈雑言をまくしたてる奴は、臆病なワンコと同じなのだ。弱い犬ほどよく吠える。悪い奴ほどよく眠るのだ。

カタオカさんは裏切る。
裏切り者なのだ。
おれがあらかじめイメージしていたような原稿を書いてくれない。いつも裏切られる。
「もっとこのあたりを詳しく書いてくださいよぉ」
「いやぁ……ここはこれ以上書けないよ」
いくら誘っても、こちらが思っているイメージに近づいてくれないのだ。だからおれはある時からこちら側に誘うのをやめた。カタオカさんのイメージにおれのほうから近づこうと、考え方を変えたのだ。
だから最新刊の『僕は珈琲』でも、事情の許す範囲の限度ギリギリまでカタオカさんの文章と寄り添う写真を入れた。書き下ろしのエッセイ集に写真を散りばめるのは邪道かもしれない。「描写のカタオカ」と呼ばれている作家が丹念に描写している人やモノの写真を文章のすぐそばに挿し込むのは失礼にあたるのかもしれない。だが、あれがおれなりの「近づき方」なのだ。

原稿を読み返すと、おれは思う。
カタオカさんは「何を書くか」ではなくて「何を書かないか」に心を砕いているのではないかと思うのだ。おれが書いてほしいとイメージしていたのは「書かないほうがいい」部分ばかりなのかもしれない。そうなのだ。それを書き足したら、冗長で散漫な文章になってしまうのだ。

冗長で散漫な文章はここで終わる。

日本のおばあちゃんとパレスチナの坊ちゃん

さとうまき

僕は、昨年から80歳を過ぎたおばあちゃんのお世話というアルバイトを始めた。「いろいろ相談に乗る」という仕事だ。おばあちゃんは、敬虔なカトリック信者である立場から、イスラエルとパレスチナ双方にも深い友人がいるそうだ。英語、フランス語、ヘブライ語が話せ、そしてアップルのコンピュータをバリバリ使いこなしているからすごいのである。といっても後期高齢者であることには変わりなく、ところどころ補わなくてはいけないのが僕の仕事である。

僕としては聖書の話とかユダヤ人が何を考えているのかいろいろ教えてもらいたい。イスラエルは近年右傾化が進み、昨年暮れに誕生したネタニヤフ政権は、パレスチナを挑発しまくり2国家共存などはあり得ないような勢いだ。

まず1月3日に極右のベングビール国家安全保障相が神殿の丘を訪問しパレスチナを挑発。神殿の丘の訪問は2000年も第2次インティファーダ―のトリガーとなっており、イスラエル側の戦線布告といっていいだろう。

さらに1月8日には、ひどい行動にでる。国連総会が昨年12月30日に、イスラエルによるパレスチナ占領を巡り国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)に法的見解を示すよう求める決議を採択したことの報復措置として、パレスチナ自治政府の代理で徴収している税金のうち、約1億3900万シェケル(約52億円)の送金を差し止め、パレスチナ人によるテロ攻撃の犠牲者家族への補償に充てることを決めたというのである。

報復って、国連決議案出しただけで報復? 国際社会はこういうイスラエルのわがままで傲慢なやり方にこそ制裁措置を課すべきではないかと思ってしまう。

そして1月9日にはベングビールは、「本日、私はイスラエル警察に対し、テロ組織との同一性を示すパレスチナ解放機構の旗を公共の場で掲げることを禁止し、イスラエル国家に対するあらゆる扇動を止めるよう指示した」と述べてパレスチナを刺激する。

極右政党「ユダヤの力」の党首、ベングビール(46歳)とはいったいなにものだろう。イスラエルからアラブ人を追い出すことを信条にカハ党で若者のリーダーとして活躍していたらしい。カハ党は、ユダヤ系テロリストとつながっており、たびたびテロを起こしていた。のちに、反社会的としてイスラエルに非合法化される。ベングビールは弁護士となり、極右やユダヤ人テロリストの弁護をすることになった。若いユダヤ人からの支持が強いことが厄介である。

パレスチナ人の憎悪をあおっておいて、イスラエル軍は西岸へ治安部隊を展開し、今年になってすでに約30人の死者が出ている。パレスチナ側もシナゴーグを襲撃するなどして暴力が激化しているのだ。

そんな中、老婆が可愛がっているイスラエル国籍を持つアラブ人のおぼっちゃんが急遽来日することになった。本当は昨年の秋に来日することになっていたが、コロナがらみで、せっかく降りたビザも来日のタイミングを逃し、「早く来なさい」と促したら、急遽数日後に来日ということになってしまい、僕もお手伝いに奔走する羽目になってしまったのである。

そもそも何をしに来るのかよくわからなかったのだが、どうせなら現場の生々しい話を語ってもらうという報告会をして、恵まれないパレスチナの子どもたちにカンパを集めようということになった。そんな中、カンパならぬ寒波が急襲し、我が家の水道管が破裂し、修理に痛い出費となってしまった。悲しんでいるまもなく仕事がふえる。

報告会は、まず人集めに苦労する。修道院を借りてオンラインでも配信することにした。直前に申し込み者も増えて、何とか人が集まったものの生配信のトラブルが発生。老人の前で、こういうトラブルでもサクサクと乗り切り、かっこのいいところを見せたかったのだが、うまくいかずに精神的にかなり落ち込んだ。お坊ちゃんは、時間配分を考えずに話すので、時間もかなり長引いてしまった。それでも現場の話は貴重だった。

さて、ぼっちゃんはベツレヘムからお土産をたくさん買ってきた。老人の命令で、日本で売って孤児院に寄付するというのである。お金の清算をしていたらなんと30万円ぶんの雑貨を購入してきたことが判明。中には、こんなのが売れるのかと思うようなものもある。収益を出すためには、これを1.5倍くらいの定価にしても15万円の利益。簡単に売れればいいけど、その準備の手間暇とか考えてまたまた凍り付く。

仙台ネイティブのつぶやき(79)雪の中で食べるもの

西大立目祥子

寒い。もちろん1月下旬から2月にかけての時期が、1年でいちばん寒いとはわかっているのだけれど、1月25日の気温には驚愕した。最高気温がマイナス4.2度で、最低気温がマイナス7.5度とは。たぶん仙台で経験した中で、最も寒い冬の日だ。

母の気配が消えた家に午後遅くに行くと、前の晩洗い残した土鍋に氷が張っていた。しかも、はかなげな薄氷ではなくて、土鍋の縁の部分は3、4ミリくらいもある。流しの上の台拭きもスポンジも、かちかち。さすが、築62年、北向きの台所だけのことはある。温泉地でよく聞かされるように、こういう日に外で濡れた手ぬぐいを振り回したら棒みたいに固まるのかも。体は寒さですっかり縮こまっていたのに、なんだか愉快な心持ちになってきた。

よし!とつくるのは、浅葱(アサツキ)の酢味噌和え。この時期に出回る東北の浅葱は、まだ育っていなくて手のひらに乗るほどの長さしかない。20本くらいが束になって、長く白いひげのような根の部分がギュッと輪ゴムでしばられ袋に入っている。仙台に入ってくるのは福島産が多く、スーパーや八百屋の店先で見つけると迷わず買う。特に売れ残っていたりしたら、福島の農産物を何とかしなくちゃという気持ちになり、2束カゴにいれてしまう。

いつも青菜は買ってくると、根本を数ミリ切り落としてからボールに水を張って入れておくのだけれど、浅葱はきゅうくつそうな輪ゴムをはずして水の中に白い根をのびのびおよがせてやる。ボールをのぞくと、おやここにも氷が張っている。鍋にお湯を沸かしている間に、じっくりと浅葱を観察した。真っ白な根元はふっくらとしていて、その中から濃い緑色の芽が数センチ伸び始めている。それがいかにも、雪の中に埋もれていても、大地の蠢きというのか芽吹きの力というのか、春に向かって地面の中が動き出す予兆のように感じられてくる。寒さはいよいよこれからさらにきびしくなり、雪も本格的に降り積もってくるのだけれど。東北に暮らす人たちは、冬が長いぶん、この辛くてしゃきしゃきした走りの味で春を呼び寄せようとしているのかもしれない。

歯ごたえがなくなるから長くは茹でない。お湯が沸く間にすり鉢に味噌とお酢と砂糖を少々、すりこぎでごりごり。なめらかに整えたところで、水にとった浅葱をきっちり絞って投入。あっという間にできあがり。私にとっては真冬どまん中の春待つ味だ。
ところで、「あさぎいろ」は「浅葱色」と書く。浅葱色といったら、渡りの蝶アサギマダラのようなターコイズブルーでしょう? どうして濃い緑のアサツキと同じ字なんだろう。

そして、この季節、魚屋で探すのは真鱈の卵の「鱈の子」。「食指が動く」とよくいうけれど、食べたいもの、これだ! というものを目にすると自然に手がのびてしまうのだよなあ。コロナ禍の3年の暮らしで、触るのはひかえるようになったけれど。魚屋のケースに鮮度のよさそうな卵を見つけると、手にとってしまう。真鱈の卵は大きくて、ひと房20センチ以上はある。秋の終わり頃から出始め、年が明けると房が大きくなり、中の卵のつぶつぶも心持ち大きくなってくる。いまが食べ頃だ。

合わせるのは糸こんにゃく。アク抜きした糸こんにゃくを炒め、そこに鱈の子を投入する。どろんと大きな房の薄皮をはぎ、中の卵だけを絞り出すように菜箸でしごきながら鍋に入れるのがちょっと難しい。薄皮は軽くあぶって細かく切り猫たちにやると、よろこんで食べる。糸こんにゃくといっしょに軽く炒めたら出汁を投入して煮込み、お酒と醤油で味付けして、焦げないように注意しながら炒って水分を飛ばしていく。できあがったら、大きめの器にごはんをよそい、上に分厚く盛り、海苔を手もみしてぱらぱらとふりかけ、テーブルへ。「鱈の子どんぶり」はひと冬の間に3回、いや4回はつくる定番食だ。

冬をとおして、落花生もよく食べる。あのかさかさした手ざわりと形と色と網目模様と。落花生はかわいさにあふれている、とひそかに思っているけど、女子で落花生が好物と公言する人にあまり会ったことがない。注意して食べないと殻と赤い薄皮の破片がセーターについたり、テーブルにちらばったりするので、きれい好きの人は嫌がるかもしれない。私も家人にぶつぶついわれながら食べ続けている。

落花生好きは父譲りだ。父には食べ方の流儀?があってフタ付きの空き缶に一袋をザーッと全部あけてしまい、食べた殻も薄皮も入れたまま。まだ入っている殻を探り当てながら食べるのが楽しみのようだった。一度、殻捨てればいいのに、といったことがある。すぐに反論された。これが楽しいんだ、と。ソファに寝転がり、テーブルの空き缶に右手を突っ込んで実の入った落花生をまさぐりつつミステリーを読むのが、彼の夜の至福の時間なのであった。

年齢を重ねていくと食べものもいろんな記憶に縁取られていくんだなぁ、というのが最近の実感。鱈の子どんぶりをつくるときは、いつも母にいいつけられ鍋底が焦げないようにしゃもじでかき回していた、分厚く小さめの使い込んで少しいびつになっていた片手鍋を思い出す。ストーブの上やガスコンロでやった冬の手伝い。ふりかける海苔はあのころは、必ずコンロであぶってから使っていた。いまみたいにジップロックなんてないから、湿気ってしまっていたのか。父のこだわりは手もみであること。高校生のころだったか、私は針のように切った海苔が美しいと思っていてハサミで切っていたら、海苔は手もみ、手でちぎる方がうまい、と却下されたことがある。

母に、お父さんは浅葱の酢味噌和えが好きだったと聞かされたのは、亡くなったあと。肉食、揚げ物好きだったから驚いた。独身時代、福島県の奥只見で仕事をしていたときにお世話になった農家のおばさんが、そのうまさを教えてくれたようだ。雪の中から浅葱を掘り出してつくってくれたのかもしれない。茅葺きの農家の囲炉裏端に持ち出された大きな擂り鉢に味噌を落とし、使い込んだすりこぎをごろごろまわすおばさん。にいちゃんもやってみっかい? そんな声がかかったかもしれない。

忘れぬ時間

笠井瑞丈

母が急に歩けなくなったのが去年の4月
そこからリハビリをつみ重ね
自力歩行ができるまで回復し

8月はここ最近恒例となった
僕が企画構成演出している
セッションハウスで行う
笠井家総出公演にも出演できた

9月は鎌鼬芸術祭参加のため
羽田空港から飛行機に乗って
秋田まで行くこともできた

11月は天使館主催
吉祥寺シアターで行われた
『DUOの會』『カルミナブラーナー』
二作品の作品上演のため
二週間毎日吉祥寺に
通うこともできた

12月は今まで滅多にしてなかった
年末に笠井家旅行を企画した
二泊三日の箱根の旅
ホテルではなく
貸別荘を借り
笠井家7人の旅ができた

僕の車とレンタカー1台借り
箱根に向かう
行きは山の方から行き
帰りは海の方から帰る
まず中央道で山中湖を目指す

着いた夜は酒盛りし
翌日芦ノ湖を通り温泉へ
夜は予約しておいてバーベキュー
こんな事するのは初めてだ
次の日は帰る日だ

たまたま見つけた
熱海の海の崖の上にあるレストラン

窓の向こうにあるホテルを眺め
叡さんが「久子来年もまた来よう」と


ただただ
そんな時間が過ぎ
とても貴重な時間だ

この旅は
今年の大きな
思い出になった


また行こう

ベルヴィル日記(15)

福島亮

 12月末から1月初めにかけて、なんだかやけに慌ただしい日々をすごした。その反動なのか、後半は無為にすごしてしまったように思う。1月の初め頃は寒いといっても空気にかすかな温もりがあり、風もひどくなく、今年の冬はやけに暖かいと甘くみていたのだが、後半から寒さが厳しくなり、外を歩いていると頬が切れるように痛む。居間の窓には一日中結露ができ、それがゆっくりと下までつたって、木製の窓枠をふやかすから、窓を開くのも一苦労だ。部屋の中で洗濯物を干していると、空気が湿り、さらに部屋の温度が下がるような気がする。そうこうしているうちに風邪を引き、楽しみにしていた旧正月も、閉め切った窓の外から聞こえてくる音楽を聞きながら、獅子舞を想像するだけだった。

 家から20メートルほどのところにディナポリというチュニジア料理屋がある。ムラウィ(Mlawi)という薄いパンで作ったサンドイッチが名物で、常に行列ができている。薄焼き卵、クリームチーズ、アリッサ(ニンニクとトウガラシのペースト)、玉ねぎ、オリーブを乗せ、くるくると巻いたものがこのサンドイッチだ。つい先日、なんだか疲れていたので夕食はムラウィを買って済ますことにした。注文して、出来上がるのを待っていると、なんだか良い匂いが漂ってくる。横を見ると、細かく砕いたパンが入ったどんぶりのようなものを持った若者たちがいて、そこに店員がスープのようなものを注ぎ、さまざまなトッピングをのせていた。見たことのない料理なので、どんぶりを持っている一人にそれが何かを尋ねると、チュニジアの大衆料理で、ラブラビ(Lablabiあるいはラブレビlablebi)というものだと教えてくれた。

 数日後、満を持して食堂に入り、ラブラビを、と店員に伝えてみた。ちょっと驚いた顔をして、「知っているのか」と言ってから、半分に切ったバゲットをどんぶりに入れて渡してくる。チュニジアのバゲットは、フランスのバゲットと違い、きめが細かく、スポンジのような感じで、いかにもスープをよく吸いそうである。見よう見まねで渡されたパンを細かく千切り、それをボールに入れて改めて店員に渡すと、ひよこ豆を煮たスープ、アリッサ、ツナ、半熟卵、オリーブなどをトッピングし、スプーンを二本添えて返してくれる。壁際の立ち食い席で、どんぶりをかき混ぜ、それを食べていると、何だかここがパリでないような気がしてきた。横では分厚いジャンパーを着た中年女性がやはりラブラビを黙って食べている。その様子をうかがいながら、なんとなく、日本の牛丼屋を思い出していた。はて、ここはどこだろうか。

製本かい摘みましては(180)

四釜裕子

年末に若き日のヤミの日記帳や手帳をまとめて捨てた。昨夏父を見送って、その父にお願いすれば、日記に書かれたヤミのことごとが私に捨てられても寂しくはなかろうと思えたからだ。「お父さん、ヨロシク」とか言い添えて、読み返すこともなくいろんなノートをあっさり捨てた。これはいけるぞと思って、それまで実家から持ち越していたわずかなものも捨ててみた。大丈夫だった。自分も寂しくならなかった。年が明け、現役の日記帳も新しくした。コロナ以降は手帳と日記帳を年1冊にまとめている。ところがなんと早々にひと月ずれたところに書いていた。1月4日は水曜日、なのになぜか青いのだ。青は土曜、土曜の4日は2月の4日、そこで初めて気がついた。間違いに気づくのに4日もかかった。おめでたく、2023年がスタートした。

1月末の夕刊に「消えゆく県民手帳」という記事。高崎のコンビニでレジ前に積まれたぐんまちゃんが表紙の手帳を見つけ、店員さんに群馬県民手帳ですよと教えてもらったばかりだった。県民手帳の多くは統計を担当する部署が編集・発行している。2023年版を刊行したのは39県、平均して670円だそうだ。部数でいうと、例えば滋賀ではピーク時の2万5千部が2021年に7600部となり、2023年版が最後の刊行となるそうだ。ピーク時の3分の1に減ったとか1万部を割ったとか、そのあたりが存続を判断するラインの1つになるのだろうか。手帳はISBNがついて書店にも並ぶ書籍の扱いということをあえて考えると、全体的に減っているとはいえ、1950年代あたりから毎年40前後の版元の1つ1つが少なくとも1万部以上売り続けているのはすごいなと思うし、何よりも県民手帳が消えゆく理由を、紙手帳離れとか材料費や印刷代の高騰だけに収束して記事にしているのは甘すぎる。

ちくま文庫の『文庫手帳』は2023年版も健在。いつからあったのかなと筑摩書房のサイトを見ると1988年版が最初のようだ。今ざっと検索しても過去のものを扱っている古書店が結構ある。そこで売っているのは書き込みのないものだろうけど、あえて使用済みの『文庫手帳』を集めている人はきっといるに違いない。背の「文庫手帳 ○○○○年」の下に自分の名前を書いて、年々増えるのを楽しみにしている人もいるだろう。いとうせいこうさんのパーソナライズ小説『親愛なる』(2014  いとう出版)の場合は、『親愛なる 四釜裕子様』というふうに本の背にも注文者の名前が印刷されて届いたものだ。小説自体にも注文者の名前がさまざまに登場して、さらに注文者の自宅界隈が舞台の一つとなっている。申し込んだ時の住所から最寄り駅などを判断して挿入するしくみだろうけれども、同姓同名の人物がたまたま小説に出てきても驚きこそすれ不思議というほどではないかもしれないが、加えて自宅の近所が出てくると俄然恐怖が増す。今、久しぶりに読んでもぞくっとした。

『本だったノート』(2022  バリューブックス・パブリッシング)という、読むところはないが文庫本サイズのりっぱな本がある。バリューブックスはオンラインでの古本買取販売をメインとして本にまつわるさまざまな試みをしているが、毎日届く2万冊の古本のうち半分は古紙に回さざるをえない現状に、古紙回収が悪いことではないけれど別のかたちで価値を生みたいとアイデアを重ね、ノベルティ用に作ったら好評だったので、翌2022年、クラウドファンディングで資金を募り製品化したそうだ。本文紙は牛乳パックの再生パルプを3割加えたザラ紙で、ところどころに文字のかけらが混じっている。手元のものには小さな「日」とか「は」とか「る」が見える。インクは捨てられる予定だった「廃インク」を利用、表紙カバーのデザインには自然なグラデーションを採用し、それは、濃度調整をすることで無駄になってしまう用紙が極力出ないようにするためらしい。私のは淡い黄色のきれいなグラデ。シルバーの帯が付き、表紙カバーの袖にはQRコード。ここから「本だったノート」のストーリーを読むこともできる。880円。本文紙には何も印刷されていないけれど、読後感が確実に得られる本だ。

古書をそのまま本文紙にした『100 BOOKS 1907-2006』(2006 ひつじ工房)という本もある。古書店ユトレヒトの代表だった江口宏志さんが、1907年から2006年までに出版された本の中から、1年1冊、1ページづつ切り取って、新しいものから順番に綴じて100部限定で刊行したものだ。その23番を、表参道のギャラリー同潤会で開かれたAAC展で購入したのだった。『100 BOOKS 1907-2006』の判型より元の本が大きければ裁ち落としだが、小さいサイズの本も結構あるから背固めはさぞや慎重になされたことだろう。選ばれた本たちは和書・洋書、ジャンルもいろいろ、紙質もいろいろ。中には書き込まれたページもある。1910年の『尋常小学読本』にはきれいな鉛筆文字で、「拝借」の「借」に「シャク」などルビが振ってある。1974年の『考えるヒント2』(小林秀雄 文藝春秋)には、「世の中には、時をかけて、みんなと一緒に、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちている」の横に太い緑色の線が引いてある。1987年の『夢をみた ジョナサン・ボロフスキーの夢日記』(イッシ・プレス)は図版の一部だが、説明が裁ち落とされているのでそれが何かわからない。気になってうちの棚の『夢をみた』で探したところ、「夢」と「カウンティング」によるインスタレーション(1979  ボロフスキー)の一部とわかった。でもこの本はノンブルがないので、ここにそのページを記すことができない。製本後の検品は結構大変だったんじゃないだろうか。

墓に入る。訃報はくる。

仲宗根浩

なんだろう、去年十一月から近所で不幸ばかりが一月も続いている。去年最後はうちの兄だったが。クリスマスも吹っ飛びお通夜、納棺とあわただしい。葬儀の後に納骨のため墓に入ることになった。墓の中の広さは二畳以上三畳未満くらい。葬儀屋さん、お坊さんの指示にしたがい今まで墓の門番をしていた父親の甕を一段上にあげるため祖父、曾祖父の甕をすこし移動し、空いた場所に父親の甕を置く。父親の甕があったところに、火葬された骨が入った甕を受け取り置く。収骨から数時間経った甕はまだ暖かかった。父親の納骨のときと違い葬儀屋さんの指示でだいぶ今時というか負担にならないようになっている。

おめでとうはない正月を迎え、集まってご馳走を仏壇に供えた後、皆で食べる。三が日を過ぎると訓練が始まり戦闘機の音が大きくなる。老朽化のためF15は引退し新しい戦闘機に置き換わり一段と音が大きくなり回数も増えている。

昔、一緒に仕事した人とわずかにLineでつながっている。平井さんの命日だ、と書き込むと当時部下だった近藤さんから平井さん宅にお花を送り、奥様から電話があり昔話をしたと返信。そんなやり取りをしていてしばらくすると田川律さんの訃報が届く。沢井先生のとこで内弟子をしていた丸ちゃんからFacebookにアップされて知ったと。去年平井さんが亡くなってメール、携帯電話のショートメールを送ったけど返信が一切無かった。もうかなりやり取りしてなかったから仕方ないか、とおもっていた。最後に会ったのは東京で悠治さんが音楽を担当した映画の上映会だったから十五、六年前、もっと前か。昨年、平井さんが亡くなった時と重複するが、コレクタという事務所に出入りするようになった。その前後かどうかはっきり記憶にないが舞台監督田川律という人がいた。田川律という名前は知っていた。兄が買って来い、という雑誌が「ヤング・ギター」と「新譜ジャーナル」だった。その当時のフォーク、ロックの楽譜や記事が載っていて、パシリとなった小学生はそんな雑誌も読んでるうちに田川律という名前も覚えた。名前を覚えていたがどのようなことを書いていたかは記憶にない。平井さんのおかげでいつの間にか舞台監督をやらされたため、田川さんの下でいっしょにコレクタが制作に関わる演奏会に携わるようになる。インターリンクフェスティバル、北九州の響ホールの杮落としから翌年の音楽祭、草月ホールでの師匠沢井一恵のリサイタル、悠治さんのコンサートシリーズ、クセナキス近作展等々。そうこうしていると、スケジュール他の都合で田川さんに頼めないものはこちらに依頼が来るようになる。そういう時も田川さんに舞台で必要なものがあると色々なとこに話をつけてくれて都合してくれた。ファッションデザイナーのイベントで時間がかなりあったので田川さんと演奏者が卓を囲みに行ってしまいヘアメイクの時間になっても戻って来ない、今配牌をして積もっている最中ですとも言えずなんとかごまかしたこともあり、と。色々な肩書はあるがわたしが知っているのは舞台監督田川律、それだけ。平井さんが出張の時にコレクタの事務所で仲間内集まりお好み焼き会をやった時もあったか。
あとは七日づつ数えて七七日までゆっくりと自分の中でお別れする。

むもーままめ(26)綿100%バンザイの巻

工藤あかね

すこし前に日本列島が寒波に襲われましたよね。連日これでもかってくらいに寒くて、参ってしまいました。あまりに寒いので、日本を離れると気温が下がるというジンクスがある松岡修造さんがどこにいるのか調べてしまいました。なんと日本が寒波の時に松岡さんはソチにいらしたそうで、ソチは春の陽気だったそう。さすが太陽神とあだ名されるだけあります。

冗談はさておき、この寒さを乗り越えようと、自宅にいるときはモコモコの服を重ね着して暮らしておりました。寝る時までヒートテックの上からフリースを着て、それはそれは温かく過ごしておりましたとさ。ところがっっっっ!!!! 連日、ヒートテック&全身フリースのコンボを決めていましたら寝汗がひどく背中に溜まり、よく眠れなくなりました。最初は眠れない理由がそれだとは気づかなかったのですが、しばらくしたら今度は全身に謎の湿疹が!!!

保湿クリームが合わなかったのだろうか、日帰り温泉の泉質が肌に合わなかったのだろうか、サウナ&塩がダメだったのだろうか、自宅の長風呂が原因だったのだろうか、最近野菜不足だったかな、などと、ぐるぐるぐるぐる考えていましたが、痒みは一向におさまらず。かといって皮膚科に行く時間も取れそうになく悩んでおりました。

ネットで画像検索し、私の症状に近い湿疹を探したら、あったんですよ、そっくりな症状の画像が。「ヒートテック湿疹」と書いてありました。初めて聞く言葉だなとは思ったのですが、どうやらヒートテックの化学繊維が汗を吸収せず肌表面の熱と湿度を奪って乾燥させてしまうために起こる湿疹のようなのです。

最初湿疹が出た日に、もしかして寝具にダニでもいるのかも?と思い、オットにどこか刺されたかを尋ねるも彼は無傷。ダニが私ばかりを狙うと言うのもおかしいなとは思ったけれど、ダニも退治できると言う布団乾燥機を即座に購入して使用。結果お布団がふかふかでいい気分にはなったけれど、どうもそれが湿疹の原因ではなさそう。

やはりこれは、「ヒートテック湿疹」を疑うべきかも、と思い立ったが吉日、すぐに対策を考えました。化繊を肌に触れさせないことが肝要とのことで、シルクのパジャマを買う口実ができた。まずネットで調べたがやたらお手頃価格のシルクのパジャマはどうも信用ならない。これは大丈夫そうと言うお店の商品を見たら、今度はとても気楽に日常使いできるような価格ではない。しかも毎日手洗いして陰干して、最低でも2着を揃えるなんて…私には…できない…うっうっうっ(涙)。

というわけで、綿100%のパジャマを購入。購入に際しては、複数の友人がとても有益な情報をくれたので、とても助かりました。で、寝てみたんですよ、綿100%のパジャマで。それが、ほんとうにすごいんですよ。もちろんフリースのようにモコモコほわほわではないのですが、布団に入ってしばらくするとその効果の凄さがわかりました。汗をちゃんと吸ってくれる。汗をかいてもひんやりしない。何より体が乾燥しにくく、かゆくならない。よく眠れる。翌朝、湿疹の様子をみたら明らかに改善しているではありませんか。調子に乗って、昼間出かける時も綿100%を着ることにしました。ヒートテックと違って重ね着すると太って見えるのが難点ですが、この際肌を治すのが先決ですわ。

そうしたらですね、なんと昼の綿100%着用1日でなぜか肩こりが消えました。わたしは冬になるとやたら帯電する体質で、ドアをさわると音が出ることもあるほどだったのですが、静電気もだいぶ弱くなったような気がしました。全身綿100%とはいかないけれど、少なくとも肌着を変えてみて劇的な効果を感じたので、これからしばらく試してみたいと思います。

堺公演でのスリンピ完全版上演によせて

冨岡三智

2021年度に引き続き2022年度(2023年3月)も堺市で公演をすることになり、いま追い込み中である。また、3月の公演にタイミングを合わせて2021年公演の公演映像をyoutubeで無料公開した。というわけで、今回はその両者の宣伝も兼ねての記事。

 ***

どちらの公演も、第2部の演目はスリンピの完全版1曲のみ。これで大体50分である。前回は「スリンピ・ロボン」、今回は「スリンピ・スカルセ」を上演する。私は実はスラカルタ宮廷舞踊全曲(ブドヨ2曲、スリンピ10曲)を完全版で上演したいという野望を密かに持っている。この3月の公演で、ブドヨ1曲、スリンピ5曲…やっと半分だ。もっとも、スカルセは2011年にジャカルタのGelar社が記録映像を製作した時に私が指導して踊っているし、2012年には豪華客船「ぱしふぃっく・びいなす」号の船上で上演したから、実は3月で3回目。しかし、前の2回は録音を使用したので、生演奏で上演するのは今度が初めてになる。

スラカルタでは1970年に宮廷舞踊が一般に解禁されて以来、短縮版が作られてきた。宮廷舞踊はだいたい約1時間かかるので、それを1/4(約15分)か1/2(約30分)に短縮する。けれど、短縮するとどうしても辻褄が合いにくいところが出てくる。また、他人の手になる短縮版だと、その手法に賛同できない場合がある。というわけで、振付として納得できる完全版をきちんと上演したいと思うのだ。また、1時間かけて踊ることによって得られる没入の感覚というか三昧の境地は15分や30分の上演からは得られるものではない。ほとんど完全版で上演する人がいないからこそ、私は完全版で上演し続けたいなと思っている。

 ***

3月に上演する「スリンピ・スカルセ」は私がジョコ女史から初めて習った完全版の宮廷舞踊曲で、思い入れが深い。ペロッグ音階ヌム調の音楽は瞑想的で、これを聞くと一気に雨季の夕方にレッスンをしていた頃の自分を思い出す。この曲にはレイエという動きが多い。レイエは辞書によると「(建物が)崩壊する」という意味で、倒壊していくように上体を折り、再び反対側に揺れ戻るような動きだ。大きな波のような動きにも見える。この曲には多く、またレイエではないが似たような動きも多いから、集中していないと動きが分からなくなることがある。私がスリンピに使われる動きで一番好きなのがこのレイエで、こんな動きを昔の宮廷人はなぜ思いついたのだろうか…と不思議に感じる。

「スカルセ」特有の部分はシルップにある。シルップは2人ずつ組になって戦う場面の後、負けた方が座る場面のこと。火山が鎮火している状態をシルップと言うように、音楽の音量も静かになる。このシルップの場面で、勝った方が衛星のように回転しながら負けた方の周囲を巡るのが美しい。ジョコ女史は自身が振り付けた「クスモ・アジ」という舞踊の中で、コモジョヨとコモラティという男女の神が廻るシーンでこの動きを使っていたし、スリスティヨ・ティルトクスモ氏の作品「キロノ・ラティ」でも、シルップのシーンで使われている。また、スラカルタ王家のムルティア王女が、父王パク・ブウォノXII世の80歳の記念式典のために振り付け、9人の王女で上演したブドヨ作品にも取り入れられている。実は、古典曲の中で魅力的な動きほど新作で使われることが多く、「スカルセ」のシルップ場面はそれくらい魅力的なので、実際に見ていただけたらなあ…と思っている。というわけで、堺までどうぞご来場ください!

●2023年3月11日、フェニーチェ堺・小ホール
『幻視 in 堺ー南海からの贈り物ー』公演
第1幕:
 音楽「夜霧の私」(山崎晃男作曲): 静かな音がジャワへといざなう…
 音楽「ババル・ラヤル」: 青銅打楽器の音色が力強く響く宮廷儀礼の曲
 音楽「ガドゥン・ムラティ」: 柔らかい音色の楽器と歌から成る霊力のある曲
 ※ スラカルタ王家の儀礼映像(Dr.IGP Wiranegara,M.Sn)の上映と共に
第2幕:
 宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版

詳細➡ http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-1095.html 

 ***

●2021年10月23日、堺能楽会館 
『幻視 in 堺 ―能舞台に舞うジャワの夢―』公演

映像記録➡ https://www.youtube.com/watch?v=1Q4kTQbxwVE

図書館詩集4(三つの川が流れる土地に)

管啓次郎

三つの川が流れる土地に
天使が住む町がある
ペルナンブコ州でそう聞かされて育った
Anjoとはポルトガル語で天使
神と人をむすぶ御つかい
だが特にユダヤ=キリスト教を信じる者ではないので
どうもぴんとこなかった
空がまるごと神だと考えるなら
少しわかりやすくなる
空が大きな目としてきみを見ている
きみをすみずみまで見ている
地は人間世界
天と地をむすぶのは鳥だ
鳥は一羽でも百羽でも
どんな種類でも
そのまま天使なのだと考えればどうだろう
鳥の身振りを真似たわけでもないが
やがてぼく自身
空をくぐりぬけて
この土地にやってきた
三河安城
Chegou aquí na terra dos anjos!
快晴だ
青空にときどき閃光が見える
その名残がいつまでも心にとどまる
たくさんの羽が舞い
たくさんの目が刺す
あれが天使?
だがそれらをいざ目撃しても
光としてしか感知されないのだ
人間の感覚は一定のスケールにあるので
ある閾を超えるとすべては光
鳥たちはどう見ているのかな
この世の光をどう思っているのか
鳥と人には共通の信仰がありうるのか
少なくとも季節をわれわれは共有する
鳥たちの大きな秘密はかれらが
多にして一
一にして多であることだと
むかし鳥の言葉を研究していた
言語学者が話していた
鳥にはどうも群れであること
少なくとも複数であることに
本質的な意味があるように思える
ダンテの『神曲』で空(天国)にゆくと
多くの霊が集まってまるで
一羽の大きな鷲のように見えた
というところがあった
それはぼくには啓示だった
われわれは自分がそう感じたものを
ひとつのおなじものとして受けとめる
たとえばからすに出会いつづけるとき
それらからすのすべてをおなじからすとして
見ているのではないか
考えているのではないか
「おなじもの」との出会いが反復されるのだ
鳩だって
カルガモだって
翡翠だって
おなじことだ
見分けることのできない個体を超えて
その種をおなじ一羽の鳥として
受けとめている
このことに気づいたとき
どうにもさびしい気持ちになった
それは説明しても仕方がないことだ
種と個体はそのような関係にある
ある年のある季節の可憐な小鳥が
翌年また帰ってきたと思っても
その確証がもてなくなった
でもね、ジョウビタキのジョビちゃんが
その体長わずか15センチの体で
バイカル湖あたりから房総半島まで
冬ごとに飛んで来ては
彼が弾くチェロに留まるのを
みごとにフィルムにおさめた美術家がいる
それは心霊写真のように稀で
科学映画のように具体的だ
ジョビちゃんは島にやってきた
ぼくも島にやってきた
空をくぐり抜けて
わたった
われわれは誰もが
命という島にやってくるのかもしれない
こうして椅子にすわって
明るい窓に身をさらしていると
いやでもこの命への滞在時間を考えるようになる
ジョビちゃんがシベリアに帰ってゆくように
時がくれば
ぼくもまたどこかへ帰っていくのだろう
ただそのどこをどことも知らないだけ
そんなことを考えていると
頭がぼうっと痺れたようになる
ところでソクラテスのあの異様な病を知っていますか
あの話はおもしろかったな
「アリストデモスを連れて来たソクラテスは
たいへん遅れて到着します。途中で彼は、発作
とも呼べる状態に陥ったからです。ソクラテスの発作は、
街角でぴたりと立ち止まり、そのまま一本の足で
立ち尽くしているというものでした。この夜彼は、
何の用もない隣家で立ち止まってしまいました。
彼は玄関の傘立てとコート掛けの間に突っ立ってしまい、
もはや彼を目覚めさせる術はなかったのです」
(ジャック・ラカン『転移』小出・鈴木・菅原訳、岩波書店より)
誰にもFreeze!と声をかけられたわけでもないのに
凍てついたように動作を止め
思考の発作に潜ってゆく
自分の脳内へ
さすがにギリシャは鷹揚だ、それで
許されるのであれば
だがぼくにもそんな発作はしばしば起きるのだ
とりわけ図書館と牛小屋では
書物の森に迷いつつ
何かが呼びかけてくるともう動けない
片足を上げたまま歩けなくなる
そこでただ
考えているか読んでいる
そもそもずっと混迷している
心はもうそこにはない
猟犬なら片足をあげて
薮の中にいる雉子に注意を集中するところだが
ぼくの注意はむしろ拡散し
図書館の空間そのものまで拡がっている
発作だ
魂は鳥のように飛んでいる
錯視もはじまる
錯視とは客観的なもので
ひとりにそう見えて他の者にはそう見えないのでは意味がない
それは宮沢賢治が自問したことでもあった
ぼくがいう錯視はたとえばブルトンが『ナジャ』で
アラゴンから聞いた話として語っているようなもので
パリの街角にある
MAISON ROUGE (赤い家)という看板の文字が
ある角度から見るとMAISONが消え
POLICE(警察)に見えるというようなこと
このような錯視が共有されたとき
暴動が起きることがある
錯視のほうに
真実が宿ることもある
「きみにはわからないよ
彼女は心臓なき花の
心臓のようなんだ」とは
誰のせりふだったか
しかしもっとも悲痛なのはナジャ自身の
ひとりごとをめぐる言い訳だった
「だからね、私はひとりでいるときは
こうしてひとりごとをいうのよ
あらゆる物語を
自分にむかって語る
むなしい作り話ばかりじゃない
私は全面的にこんなふうにして
生きているともいえる」
そして至高のひとこと
「火と水がおなじものだということは本当」
そのように世界が見えたらどうしよう
そのように錯視が共有されたらどうしよう
そのように人々がふるまいだしたらどうしよう
いや、じつはそれが真実なのに
まだわれわれが気づいていないだけではないのか
地表にいてわれわれが
紫色の光の中を泳ぐいるかの群れだとしたら
都市の地下街は水のみちた川で
ヌートリアが巣をつくり
地上にはシギその他の鳥が住んでいるとしたら
陽気な話だ
そんな都会なら住んでみたい
と思ったとき足の縛りが解けて
また歩けるようになったので
歩いた
もっとも自然なtransition
目が覚めて心が覚めて
いろいろなことを考えられるようになった
目下の関心は山の暮らし
前世紀に奥三河の花祭りを見に行ったことがあったが
夜中にどうしても起きていられなくて
眠ったら最後めざめると
すべてが終わった朝だった
“Manhnã, tão bonita, manhã” という
カルナヴァルのあとのやさしい歌声が聞こえた
それもいい眠りは大切だ
起きているときだけこの世に参加して
眠りの国ではカワウソやカワセミと遊ぶ
そんな生活の自由を
取り戻してゆきたいと思う
強いられた眠りではなく
選んだ眠り
強いられた生活ではなく
選んだ生活
「図書館で本を選ぶこと」
がそのまま提喩になるように
ナジャ、そのためにぼくは戦って
きみのひとりごとを
誰にもじゃまさせない
錯視の革命

アンフォーレ安城市図書情報館、2022年12月28日、快晴

水牛的読書日記 2023年1月

アサノタカオ

1月某日 深夜、宮内勝典さんの『ぼくは始祖鳥になりたい』(上下、集英社)をひもとく。年末年始の静かな時間のなかで、この小説の一字一句を心身に刻みこむようにして読むことで、自分が自分であるための輪郭線のようなものが浮き彫りにされるのを確かめるのだ。今月、文化人類学者の今福龍太先生の解説を付して集英社文庫で再刊されるらしい。うれしいニュース。

1月某日 昨年から積み残した仕事やら何やらが膨大にあり、正月気分を味わうことはない。仕事関係の本の山に囲まれながら、粛々と原稿を読み、校正刷を読む。1月22日の旧正月まで「新年」を延期することにしようか。困ったことだ。

1月某日 終日、オープンしたばかりの神奈川県立図書館の新棟にこもり、仕事のための資料調査。

昨年から、編集者で在野の朝鮮民衆文化史研究者でもあった久保覚(1937-98年)の著作を探して読んでいる。『収集の弁証法』『未完の可能性』(久保覚遺稿集・追悼集刊行委員会)、共著の『仮面劇とマダン劇』(梁民基と、晶文社)や『旅芸人の世界』(朝日文庫)。昨年読んだ『古書発見 女たちの本を追って』(青木書店)の読書をきかっけに興味をもちはじめたのだが、久保が晩年、企画と編集に協力した本『こどもに贈る本』(第1・2集、みすず書房)や『女たちの言葉』(青木書店)もとてもよい本だった。同時代に交流のあった編集者の松本昌次、詩人の高良留美子、津野海太郎さんや四方田犬彦さんの著作にも目を通し、久保をめぐる証言を拾い読みする。

1月某日 関西からやって来たライターの枡郷春美さんと江ノ島を散策。すこし風があるけれど、晴れていて気持ちがいい。海の向こうに、冬の富士山。みんなで江島神社でお参りをしてお団子を食べておしゃべりをしたあと、『イルカと錨』5号をいただいた。枡郷さんが、アメリカへ移民した曾祖父について書いた「移民日記 時のこえ」が掲載されている。

1月某日 今月からホメロス『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読む会に参加。古代ギリシャの戦場で神々や人間が延々と争うのだが、かれらが争わなければならない根本的な理由は判然としない。正体不明ながらも圧倒的な力によって人間は次から次へと斃されていくのだが、死の描写が異常なまでに生々しい。この残酷なリアリズムが強烈な印象を残す。

1月某日 大学で学期最後の授業。学生たちがチームで制作したZineを受け取る。テーマはアニメ、スイーツ、小説、音楽、ごはん。5つのチームがそれぞれ企画や編集、エディトリアル・デザインの解説をする発表を聞いて講評し、授業は終了。かれらは座学の時間はだるそうにしていても、実習にはわりと熱心に取り組む。デザインやゲームに関心のあるという学生と少し話して、大学図書館で仕事用の資料調査をして帰宅。

1月某日 東京・西荻窪の忘日舎で店主の伊藤幸太さんとともに自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」の番外編を開催。テーマは「2022年の詩とことばを振り返って」。『現代詩手帖』2022年12月号「アンケート 今年度の収穫」で取り上げた5冊の本を紹介(5冊の本のタイトルは先月の日記に記した)。それに加えて、「アンケート」で取り上げることのできなかった文月悠光さんの詩集『パラレルワールドのようなもの』(思潮社)、あする恵子さん『月よわたしを唄わせて』(インパクト出版会)も。今回もまた、参加者のみなさんと本についてゆっくり語り合うよい時間だった。

1月某日 「旧正月」を迎える。ところが「新年快楽」とはいかず仕事やら何やらは依然として積み残されたまま。仕事のために読まなければならない本の山もどんどん高くなっていって途方に暮れる。読むことは、山上に岩を運んで転がり落ちる岩を山上にふたたび運ぶシジフォスの労働みたいなものだ。

1月某日 夜、韓国の作家ぺ・スアの小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)を読み始める。タイトルもすばらしいし、喪失の気配の中で書物が言葉以前の何かを喚起する様子を描く冒頭のシーンもすばらしい。「ああ、これは好きな小説だ」と出会いの感動をひとり嚙み締めながら、物語に引き込まれていく。