219 卒業す

藤井貞和

震災の年乗り越えて 卒業す
歌がるた 二十一枚微笑みて
めぐる春 紫 明石 末摘と
春の「うた」 古代・現代つらぬいて
行く春や 「とき」の証しの物語
きんの琴 明石の春に聴く調べ
つわぶきの芽ぶき豊かに 卒業す

(二〇一二年二月六日、卒業生に贈った句。東日本大震災から一年近くが経つ。富士山に水蒸気2筋、冨士五湖では5弱の地震で、余震が続き、宝永山の雲、動かず。採点、査読、成績記入、入試待機、判定会議と、激務のなか不調で〈翌年、倒れる〉、つらい時節だった。「歌がるた 二十一枚微笑みて」は、百人一首が季語のつもりだろうか。二十一枚は女性歌人のうたのかずを言うか。「紫 明石 末摘」は『源氏物語』の女主人公たち、紫上、明石の君、末摘花をさす。)

トルコとシリアの大地震

さとうまき

僕は2020年からアレッポの小児がんの子どもに仕送りを続けている。最初は、シリアに関心のある大学生たちが主体となっていたが、一体自分は何をしたいのかを探すための大事な時期でもあるから、「自分」が見つかれば、もう、それ以外には関心がなくなるのは当然だ。関心が薄れた若者にしつこく言い寄るジジイにはなりたくないし、ジジイと言われてもめんどくさいのである。そんなこんなで、最近はほとんど一人になってしまい、まあ、気楽ではあるが限界でもある。

残念なことに2人支援していた子は、昨年亡くなってしまった。今は、サラーハ君という少年だけだ。つい数日前に、ストーブにくべる灯油もなくゴミを拾ってきて燃やしていた。こないだは、タイヤを拾ってきて燃やしたらしいが、そうそうタイヤも落ちてなくて燃やすものもなくなり、一週間毛布の中で凍えているという。

これは、欧米が科す経済制裁の影響である。国民を苦しめる残虐なアサド政権が退陣に至るまで、シリア人をさんざん苦しめるという目的である。尤も苦しむのは、最下層の人々である。「ほら、お前たちの国民がこんなに苦しんでいるぞ、どうだ? こんなに苦しんでいるぞ。ひひひ。いい加減にまいったしないと、もっといたぶるぞ」というような本当に悪趣味な経済制裁である。そもそも「自国民を虐待するとんでもない独裁者」に制裁を加えるべきなのに、これでは、無実の人々が拷問にかけられ虐待されているのと同じなのだ。

そのような矢先だ。
2月6日「トルコで地震があった」というニュースが入る。トルコの南西というとシリアにも影響があるのだろうかなあと考えていた。携帯にシリアから小児がんのサラーハ君のお母さんからメッセージが入る。「アレッポは地震で揺れています。そちらは大丈夫ですか?」え? 大丈夫って。シリアでは地震など今まで体験したことがないから、お母さんは、地球が揺れているとでも思ったのだろうか。意外と日本は、シリアのすぐそばだと思っているのかもしれない。

SNSのメッセージは、すべてアラビア語だが、Googleの翻訳のおかげで、何とか通じる。僕が送るときは、日本語をアラビア語に変換し、もう一度日本語に変換しておかしくないかチェックして送るのだが、慌てていて、日本語のほうを送信してしまった。お母さんは、「私は小学校しか出ていないので、わかりません!」と返してくる。いやいや、中学、高校出たぐらいじゃ日本語はわからないだろうと思わずほっこりしてしまった。

しかし、ほっこりしている場合ではない。一家は家が揺れだしたので外に飛び出したが、近くのビルにいたお母さんの妹と17になる娘とその歳の夫25歳と2か月の赤ちゃんが生き埋めになっていたのだ。すぐさま動画が送られてきた。「救急隊が駆けつけて作業をしていますが一向にはかどりません」。雨が降り寒そうな中、男たちがスコップで瓦礫をかき分けている。欧米が課す経済制裁で重機がないのだろう。「また、大きな地震が来たという噂も広がって、私たちは怯えています」

その夜結局、サラーハはご飯を食べることもなく眠りについた。結局翌日になって、妹の家族は全員が遺体となって病院に収容されていたという。トルコでは、4万人以上が亡くなり、シリアでも6000人の死者が確認され双方で5万人が亡くなっている。余震が続き、ひびの入ったビルはいつ倒壊するかもわからない。これから犠牲者がさらに増えるだろう。

トルコには、海外からの支援が駆けつけた。背中にロゴマークの付いた人たちが頑張って働いている。また、反体制派が支配するイドリブやアレッポ北部にもロゴマークを付けた人たちが海外から駆けつけているようである。しかし、サラーハのお母さんから送られてくる写真は、倒壊した家から追い出された人たちが粗末なテントで寝泊まりをしていて、背中にロゴマークの付いた人達は見えない。3週間たってもだ。アサド政権が支配するところに住んでいるというだけで、制裁の対象になってしまうのか? お母さんは、「私たちのところにはだれも来ません。配給があるという話も来ません」

建物にはひびが入っており、シリア政府の専門家がやってきてチェックして、倒壊する恐れがある建物は強制的に壊していっているらしいが、彼らの家にはやってこない。恐る恐る昼間は家にいて、夜は外で寝ている。「車のある人は、車の中で寝ています。私たちは、市場のほうに移動しました。今日はここで寝ます」というメッセージが届く。

誰も来ないんだったら、俺が行く! 若かったら背中にロゴマークをつけて駆けつけただろう。内戦により、分断された国家は誰が援助をするかということで政治的な思惑がうごめいている。背中のロゴマークもどちらにつくかによっては新たな内戦の火種にもなってしまいかねない。日本政府は治安の理由で退避勧告を出しているし、そんなところに入って行ったらパスポートを取り上げられてしまう。円安で飛行機代が高い! たとえ駆けつけても役立たずの老人でしかない。僕にはお金を集める能力もなくなってしまっていたので、悔しいが、わさわさする気持ちを抑えて、わずかなお金でもウエスタン・ユニオンを使って送ることぐらいしかできない。ウエスタン・ユニオンは、個人から個人にお金を送るという優れた送金システムなのだが、アメリカの会社故、シリアにお金を送ることは厳しく禁止していた。それが、今回の地震を受けて180日間の制裁を解除することになったのだ。しかも3月の頭までは、手数料をとらないというから、今のうちに送ってしまおう。

チャリティ講演会のお知らせ
【3/2開催】トルコ・シリア大地震 緊急チャリティ講演会、アレッポで被災した「小児がんの少年」の一家を追う
20:00よりオンラインで開催。参加費1500円が全額支援になります

申し込みはこちら
https://www.ganas.or.jp/news/20230221syria/ 

冬枯抄

越川道夫

引っ越したばかりの仕事場のすぐ裏に、土埃が舞わないように黒いシートで覆われた空き地がある。シートで覆われているというのに、その隙間から、シートを押さえるために置かれた土嚢の布を食い破るようにして様々な草が顔を出している。
今は冬。あらかた枯れてしまった草の中から、どういうわけか西洋鬼薊がひと群、大きく育って青々とした葉を茂らせている。狂い咲きとでもいうのだろうか、少し暖かな日が続いた頃、次々に十幾つもの紫の花を咲かせていった。
ただでさえ寒いと言われたこの冬である。暖かな日はそうは続かず、気温は急降下して、冷たい雨が降り、雨は雹まじりに、夜更けから降り始めた雪は朝方まで続いて、薊の上にも白い帽子を被せていったのである。両腕で一抱えもある大きな株ではあったが、花をつけたまま立ち枯れていくことになった。
花が終わって、種子を飛ばし始めたものはまだいい。それに満たないものたちは、紫の色を花に残したまま枯れていった。やがてあれほど青々していた葉も、太い茎も、緑の色をわずかにして褐色に変わっていき、今では手で触れるとポキポキと折れるほどにまで枯れた。
 
その大きな西洋薊が立ち枯れていく様を、私は、毎日飽きることなく眺めにいく。
座り込めば、私ほども大きな薊が枯れていく。
その姿が、あまりに美しい。
枯れた茎は、茎自身の重さに耐えられなくなり、花をつけたままのものも、まだ蕾のまま枯れたものも、やがて地面に向かって日に日に首をたれ、一本また一本と黒いシートに横たわっていく。花の周りの萼とでもいうのだろうか、枯れた額は、どこか金属を思わせるようなメタリックな金色となり、夕陽を浴びた時などは、日を照り返して光り、この上なく美しい。
 
冬枯れが好きである。
寒いのに、外套に身を包んで、冬枯れの河原や草叢にいそいそと出かけていく。植物の種を体と言わず足と言わずいっぱいにひっつけながら枯れ草を掻き分ける。そして、立ち枯れた植物の姿をいつまでも眺めるのだ。背高泡立草が枯れているのもいい。花が落ちた後に萼だけを残して枯れているのもいい。もちろん、今を盛りと繁茂し、花を咲き乱れさせている植物の姿も好きだが、立ち枯れた姿がそれよりも美しく見飽きない。枯れてしまえば、草は、その草の意志を離れる。草の意志と書いたが、茂っている草は、その草の望む形に自らを成長させ、その生のデザインに向かって自己を実現しようとする。それは、草の意志だ。気温や、雨や、風や、諸事象の影響を受けたとしても、草は自らのデザインを完結しようとする。しかし、枯れた草は、その意志から離れ、様々な事象の影響を受け、なすすべもなく歪み、捩れ、朽ちて、それぞれにその姿を晒す。その意志から離れた様が、意志から離れているがゆえに美しい。盛っている草よりも、意志を実現し、コントロールの中にいるものよりも、もはやなすすべがなくなったものに私はいっそう美しさを感じるのである。屁糞葛の小さな実は、黒ずんでいるのがあるかと思えば、白骨のように白く朽ちていくのがある。黄烏瓜の実は、皺皺に折り畳まれるように縮んでいくのがあるかと思えば、まるで古い陶器のような風合いで朽ちていくのがある。
 
私は、明日もまた立ち枯れていく大きな西洋薊の姿を眺めにいくだろう。
彼女が、すっかり朽ちて倒れきってしまうのを、「どこにも行かないよ」と呟きながら見届けたいと思うのだ。

何も意味しないとき、静かに朝を待つ(下)

イリナ・グリゴレ

気付いたら彼女は電車に乗っていた。座っていた。東京のラッシュアワーの電車に乗る状態ではなかったが、彼女は昔から身体だけを動かすのは得意だった。どんな大変なことが起きても、何日間熱で苦しんでも、身体を動かしてゴミを捨て、パンを焼いて、洗濯物を干して、またベッドで倒れる。彼女の身体には彼女以外の生き物たちが宿っていたこともあると言える。菌類、虫から、目に見えない、想像しかできない生き物まで毎日のように彼女の身体を借りていた。だから、酒を飲むと自分の父親になりきって暴れ、父親と同じ喋り方する。電車に乗ると、ぎっしり混んでいたのにちゃんと彼女の座る場所があったことも不思議だった。人の汗とフローラルな柔軟剤の匂いでホテルにいる間に感じた吐き気が強くなった。寒気で内心が震えていた。

彼女の前に立っていたサラリーマンは自分のスーツケースで彼女の足を触らないように気を遣った。彼女はこういう人が優しいと思った。本当に優しいかどうかはわからなかった。彼女がすごい顔をしているので、怖かっただけかもしれない。頭の中で、あの人に質問をかけ始めた。
「もし、ホテルの部屋に死に近づく人がいたら、助けてあげるの? 逃げるの? どっち?」
「もし、雨水でいっぱいになったバケツに蜂が落ちて溺れそうになった瞬間に手にとって自ら出してあげる?」
「もし、羽を無くしたトンボを道端に見かけたら、踏まれないようにそっと草の中に置く?」
「もし、車に撥ねられた子猫にあったら動物病院に連れて行く? 高いシャツと鞄がその子猫の血で汚れても?」

電車が渋谷に着いたから、彼女は膝を震えさせながら降りた。山手線からバス停にどうやって出るのかわからないまま人波に吹かれて、その時に足で歩いているのではなく、昔に見た妖怪の絵のように浮いていると思った。携帯を出してナビで行き先を探し始めようと思ったが、行き先がわからなくなる。自分の身体に導かれるしかないと思いながら、ほぼ1ヶ月前に行ったコンビニの前に立った。あの時、コンビニの前には誰かの吐瀉物があった。彼女は赤いワインを選んだ。店員さんはニヤニヤしていた。コンビニで水を買って、エレベーターに向かって、5階のロビーから空港へのリムジンバス停に出る。時間がまだ早かったからずっとベンチに座って待つ。なぜか1ヶ月前と同じ場所に同じ状態でいる。もしかしたら、身体は同じことを繰り返すのが好きかもしれない。同じトラウマ、同じ踊り。

待合室に大きなスーツケースを持って、ダンサーのような髪の毛が黒くて脚が長い、ミニスカート姿の女性が入った瞬間に空気が変わった。彼女はバス停のスタッフに英語で話しかけて、バスの予約をしようとしたが通じなかったみたいで、携帯の通訳アプリを使ってコミュニケーション取り始めた。待合室で同じ空気を吸っていた二人の女性は見た目は違っていたが、まるで同じような生き物だった。二人とも空港ではなく違う惑星に脱走しようとしていた、と彼女は思った。その次の瞬間、彼女のスマホから突然にレディオヘッドの曲 『Exit music (For a film)』が流れ始めた。「We hope that you choke, that you choke」

何ヶ月か前に、岩盤浴に行った時を思い出した。温泉で綺麗に身体を洗ったあと、少し離れていた岩盤浴の部屋まで裸で歩いて、横になった。そしたらその時に天井に自分の姿が映されたがタコのように脚がいっぱいあったと思った。また、彼女は二人の娘といつもいっしょに寝ているが、娘の小さな身体が彼女にくっついて、どこまで自分の身体なのか、娘たちの身体なのかわからなくなる。6本脚と6本腕、60指、3頭、6眼、3口の生き物になると感じる。でもこの状態は嫌いではない。人間の普通の姿とはただの幻想なのだ。きっと、もっと複雑でもっとデフォルメな形だと知っている。みんなはただの嘘つき。

あの日から彼女は人と目を合わせないことにした。そして髪の毛をもう切らないと決めた。特に男から距離を取ることにした。じつをいえば、彼女は生きている間、一度でいいから男の子の赤ちゃんを産みたかった。どこかで聞いたけど、日本の平安時代では男の子を産むと地獄に行かないと思われていた。いつ頃からか彼女もなぜかそれを信じ始めたのかもしれない。そうではないかもしれないが、なぜか、自分の身体で男を生み出したかった。そうすることによって救われると思っていた。深い闇から。

昔、祖母の家でたくさんの蜂とアリ、子猫と犬を溺れから救ったことを思い出した。雨が降っていると虫はどこで隠れるのか? バケツに溜まる雨水の音を思い出した。あの雨水で髪の毛を洗うと光っているように見えた。夜光茸のように。

夢の中では、祖父母がいつも寝ている部屋に二人の男の遺体があった。近づくとまだ生きているようだった。でも皮膚も肉も骨が見えるまで焼けていて、焼けた人間の肉の匂いがする。酷い匂いだ。

夢の中で彼女は森を歩いた。この森は何度も訪ねた村の森だった。でも下を見ると地面の落ち葉に青い火が燃えていた。彼女は怖がらずその火の中を歩いた。彼女はこう思った。何も意味しないとき、燃えている森の中を裸足で歩いて、静かに朝を待つ。彼女は毎日のように自分を壊して創り、また壊して、創り、虫になって、森になって、キノコになっていた。彼女の姿は誰も知らない。

どうしてキスしたの?

植松眞人

 谷中を抜けて千駄木へ向かう辺りには猫がたくさんいると聞いて、アルバイトを探しに出かけた。上京してから大学とバイトに明け暮れて気がつけばもう二年が過ぎようとしている。実家の徳島にも一度も帰らずにいることで、時折かかる母親からの電話は結局最後に口論となってしまう。なぜ帰らない。忙しいから。なんとかなるはずでしょ? なんともならないよ。お正月くらい帰れるでしょう。正月だから忙しいっていうバイトもあるんだよ。と交互に言い合って、最後は母が話をしている最中に僕がそっと電話を切るという流れがいつもの定番になった。
 バイト先はラーメン屋なのだが、オーナーが近所でカフェも経営していて、その両方を手伝ってきたことで、本当に空き時間など全くないほどに働いてきた。当然、お金を使う暇もなく、僕はこの二年でそこそこのお金を貯めて、やっと人心地付いた気分なのだった。帰って来いと声を荒げる母親だが、仕送りなどはほとんどなく、僕が自分で家賃と生活費を稼がないと始まらない。奨学金も借りているので、ちゃんと卒業して、ちゃんと稼ぐことが最初から定められているといってもいいだろう。そして、そんな日々を僕は特に恨みもせず、そこそこ楽しく過ごしている。
 楽しんではいるけれど、まさに東京での暮らしが二年目を迎えるという今現在よりも半年ほど前はもっと楽しかった。何があったのかというと、一瞬彼女が出来たのだ。それまで女の子と付き合ったことがなかった僕は、僕と付き合う女の子がいるとは思わず、彼女が出来たということそのものが嬉しくて仕方がなかった。いや、嬉しいと言うよりも驚き感動していたのかもしれない。
 しかし、そこまで喜んでいたのにどうして彼女がいる時期が一瞬だったのか。そこに謎が集約されてしまうことだろう。僕は四国の徳島の高校から東京の大学に入り、バイトをしなが真面目に暮らしていた二年目の夏に彼女と付き合い約二週間で別れたのだった。
 彼女はバイト先に僕より半年遅れで入ってきた。最初に見た時から綺麗な顔立ちだなと思った。店長やオーナーと彼女のやり取りを見ていると首をかしげることが多かった。少しコミュニケーションが弱いのかも知れないと僕は思っていた。いや、なにか変なことをするわけではない。ただ、受け答えが少し変わっていた。例えば、店長から接客についての説明を受けているときに、急に手をあげて質問したことがあった。目の前の大人とマンツーマンで指導を受けているときに、いくら質問があったとしても思いっきり右手を天井に向けて素早く差し上げた人を僕は見たことがなかった。まるで自衛隊員のように素早い挙手だった。思わず、店長が驚いて絶句していたけれど、そばにいた僕も驚いていた。
 また、ある時にはお客様から彼女が質問されるという場面があった。
「あ、半チャーハンがあったのか。だったら、さっき注文したチャーハンを半チャーハンに変えてもらってもいいですか」
 客はそう聞いたのだった。それに対して、彼女はこう答えたのだ。
「どうしてですか?」
 僕はよくわからなかった。そして、お客さんも同じようにわからなかったようだ。それはそうだ。もう作り始めているので、いまから半チャーハンに変えることはできません、という答えならわかる。いや、作り始めていなくても、お客様が神様なら嫌な顔一つせずに、わかりました、の一言でいいはずなのだ。それなのに、彼女は「どうしてですか?」と客に質問したのだ。そして、質問などしなくても答えは明確だ。チャーハンは多すぎて食べきれないかもしれない、と客が思っただけの話だ。普通、食べきれなければ、勝手に残せばいいのにと思うのだがわざわざ自分の危惧を彼女に伝えてくれたのだ。そんな、善良な客に彼女は「どうしてですか?」と質問返しをしたのである。
 僕はその時に、この子はちょっと危ないかもしれないと感じたのだ。そして、同時に彼女のことを好きになった。好きになったというよりも惹かれてしまったのだ。彼女がアルバイトに来る日は彼女の一挙手一投足から目が離せなくなった。そして、僕のそんな様子は店の中でも評判になり、店長やオーナー、先輩のアルバイトたちから冷やかされるようになってしまった。冷やかされても僕は彼女を見つめ続けた。もちろん、仕事はちゃんとしていたが、客の水の量を確かめるよりも、彼女の顔かたちや振る舞いを見つめ続けた。
 そんなある日、彼女は店長からお使いを頼まれた。予定よりも客の来店が多く、ネギが足りなくなりそうだったのだ。店長は彼女に近所のスーパーから青ネギを買ってくるように命じたのだ。近所のスーパーまでは歩いて十分ほど。僕は彼女がスーパーで青ネギをカゴに入れ、精算を済ませて帰って来る時間を見計らって、店長に休憩します、と声をかけた。店長の赦しが出ると、僕は店の表に飛び出し、彼女を出迎え、そっと店の厨房に続く入口の方へと誘導した。
 彼女は頼まれた青ネギを袋にも入れずに手づかみで思いっきり握っていた。僕は彼女が力任せに掴んでいるネギを救おうと、彼女の腕を掴んで前に出させ、その手の指を一本ずつ外した。僕も力を入れて一本ずつ外していく。まず、人差し指を外す、彼女が苦痛に顔を歪める。僕は中指を外す。さっきよりも力が入っていて、外すとき、彼女は少し声を出した。次に薬指を外しにかかった。まだまだ力は入っていたが、中指よりはましだった。それでも、彼女はまた苦痛に顔を歪めて、さっきよりも大きな声で、やめて、とつぶやいた。僕はその声に興奮してしまい、最後の小指を外そうとした。すると、彼女は今度は思いっきり抵抗して、小指をくねくねとくねらして、僕に外させまいとするのだった。僕はそのくねくねする指を動かないように、僕の両手全体で包むようにした。彼女は目を閉じてじっと動かなくなった。そして、僕の掌の中で、彼女の手の体温が数度、驚くほどあがったのを感じたのだった。
 僕の掌の中で彼女の熱くなった指はまるで彼女とは別の生き物のように動いた。その動きに合わせて、僕は高まり、彼女を抱き寄せてキスをした。キスをする瞬間、彼女は目を開き、僕の顔をじっと見つめて、もう一度目を閉じた。僕はもう迷うことなく唇を付けた。彼女の口の中へ舌を入れ、動かすと彼女も舌も僕の舌に絡みついてきた。
 互いに高まり、互いに認め合い、そして、互いに受け入れ合った感覚に僕は震えた。震えながら、急に割れに返って、店長やオーナーにみつからないかとおたおたし始めた。しかし、相手も喜んでいるんだからと僕はもう一度キスをしようとしたのだ。その瞬間だった。さっきまで一緒に目を閉じて、舌を絡め合っていた彼女がふいに僕の目を真っ直ぐに見ながらこう言ったのだ。
「どうしてキスしたんですか?」
 その言葉は僕の身体から熱を奪い、背中に冷水をかけた。キスに理由なんかない。お前も舌を絡めてきたじゃないか。そう思いながら、動揺が激しすぎた僕は、彼女の肩を乱暴に押した。彼女は少しふらついたのだが、その瞬間うっすらと笑っていた。その笑いがふらついたことの照れ隠しなのか、僕への冷笑なのか理解できなかった。
 僕はその瞬間にそのラーメン屋から逃げ出した。それから何日経っても、店長もオーナーも連絡してこなかった。
 この間、見たテレビで谷中から千駄木辺りの町が紹介されていた。この辺りには猫が多いらしい。猫が多いと聞くと、僕は「どうして猫が多いのですか?」と問い返しそうになっていた。そう、あの日以来、僕は「どうして?」と問いかけてしまうのだ。もちろん、なんとなくあの日の彼女から受けた衝撃を自分自身で和らげるための自己防衛作なのだが…。しかし、あれから数ヵ月経って、僕はあることに気がついていた。「どうして?」と問いかけ続けると、そこに理由などなくても、なにか理由があるような気がしてしまうのだ。いや、きっとそこに理由があるのだろう。そんな理由などに、僕は微塵も興味なんてないけれど。

深い

篠原恒木

おれは定期入れを失くしたことに気付いた。出社後二時間が経過していた。どこで失くしたのだろう、とおれは明晰な頭脳で推理を始めた。会社の最寄り駅の改札口を通過したときは確かに定期入れをかざしたのであろう。覚えていないのが悲しいが、そうでなければおれはいまここにいない。
そして会社の入口を通るときにも定期入れをかざしたはずだ。これも覚えていないのがじつに悲しいが、カード状の社員証も定期入れの中に入れていて、それをピッとタッチすればタイム・カードの代わりになり、出社時刻が記録される。その様子は受付にいる警備員さんに監視されている。出社時には必ず定期入れをパネルにピッとかざさなければならないのだ。したがっていまおれがここにいるということは確かに会社の入口でピッとタッチしたはずだ。

定期入れの中に入っている社員証を会社の入口付近にあるパネルにタッチすると、その小さいパネルからは「オハヨウゴザイマス」と、機械的な女性の声がいつも聞こえてくる。その声はいつも同じだ。定期入れをバチーンと乱暴に叩きつけようが、ピッとやさしくタッチしようが、いつも同じ口調で「オハヨウゴザイマス」と言われる。もう少し感情を露わにすればいいのに、とおれは思う。乱暴な扱いを受けたときには「チッ、おはざーす」と、投げやりな口調で応えるべきだし、そっと愛でるようにタッチしたときには「うふん、おはよ」とでもささやいてくれたりしたら、もう少し印象に残るのだが、なにせ相手は機械だから、今日もあの抑揚のない「オハヨウゴザイマス」だったに違いない。したがって、タッチした記憶がまったくないのだが、無事に会社の中にいるということは定期入れをかざしたのだ。

おれは考えた。落ち着け。おれが会社の中にいるということは、すなわち捜索範囲が限定されるわけだ。おれはそのことにやや安堵を覚えつつ、捜索を開始した。会社の入口でかざしたあと、その定期入れの行方は次の三つしかない。
1. すぐさまコートのポケットに入れた
2. すぐさまバッグの中に入れた
3. 手で持って自分の席まで行き、机の上に放り投げた

まずは1のコートだ。おれはハンガーに吊るしたコートの左右ポケットを上からまさぐった。何かが入っている感触はない。念のためハンガーに吊るしたままポケットの中に手を入れてみた。やはり無い。

すると、2のバッグの中だ。ピッとかざしたあとでヒョイと入れるケースはよくある。おれはバッグの中をまずざっくりと探した。見当たらない。おれのバッグの中は樹海のようになっているので、より丁寧な捜索が必要だと思い、バッグの中身をすべて取り出し、クリア・ファイルの中に紛れ込んでいないか、本の間に挟まっていないか、すべてを丹念に調べたが、発見には至らなかった。

おれは焦り出した。あの定期入れの中には六か月定期券を兼ねているPASMOが入っている。運転免許証(ゴールドだかんな)も入っている。そして社員証カードも入っているのだ。失くすと面倒なことになる。そこでおれは思い出した。そもそもなぜ定期入れがないことに気付いたのか。それは社員証カードが今すぐ必要だったからだ。おれは片岡義男さんの最新刊『僕は珈琲』の新聞広告原稿を作っていて、その完成したラフ原稿をコピー複合機ですぐスキャニングして広告会社にメールしようとしていたのだ。ところがコピー複合機を使用するときには、いちいち社員証カードを複合機のパネルにタッチしないと作動できない仕組みになっている。一刻を争う作業だった。それが定期入れを紛失したことでスキャン、pdf化、そしてそれをメール送信、という一連の単純作業が大幅な遅延を生じている。早く見つけなければ、とおれはアタマに血がのぼり始めていた。

喫緊の問題もさることながら、PASMOと運転免許証の不在という近未来的な課題も、おれの心をかき乱した。どう考えても厄介なことになる。おれは最後の3に取り掛かった。机の上にヒョイと放り投げたのかもしれない。だが、おれの机はバッグの中と同じように樹海と化している。関東ローム層のように成因不明のまま、絶えず紙、雑誌、ファイル、新聞、筆記具、クリップ、本などが堆積し続けているのだ。おれはその山々と格闘した。捜索は山の頂上から麓へと移動した。しかし定期入れを置くとしたら机の山のいちばん上だろう。
「こんな深いところに潜っているはずはない。この層は平成時代のものだ」
 
おれは三十分で机まわりの捜索を打ち切った。もはや事態は混迷を極めていると言っていいだろう。スキャニングは一刻を争う。日延べ猶予はまかりならぬ。いますぐスキャンしてメール送信だ。そしてPASMOや運転免許はどうする。あと定期入れには何が入っていただろう。そうだ、愛する妻の若き日の写真と、我が愛犬サブ(トイ・プードル/十四歳)の若き日の写真が入っていた。どちらも大切な写真だ。

おれは捜索範囲を広げることにした。出社して二時間、おれは何をしていたか。この自分の机にずっと座っていたわけではない。思い出した。立ち寄った場所が二か所ある。ひとつは違うフロアの編集部に資料を届けに行った。もうひとつは片岡義男さんに小包を送るため、会社を出て徒歩三十秒の郵便局へ行ったではないか。だが、編集部に資料を届けるのも、郵便局に荷物を託すのにも定期入れなど不要ではないか。郵便局は会社の外だが、定期入れの中に入っている社員証カードは出社時にタッチすれば、その後の会社への出はいりは自由だ。おれが務めているカイシャはチューショー企業なので、大企業にありがちな駅の改札口のようなシステムではない。出社さえすれば、あとは顔パスで問題ない。なので普通に考えれば、郵便局に定期入れなどいちいち持参するはずがないのだ。いや、最近のおれは自分の行動に責任が取れなくなっている。ひょっとしたら無意識のうちに片手に定期入れを持って、編集部や郵便局へと徘徊したかもしれない。その可能性は捨てきれない。捜索はあらゆる可能性を否定してはいけないのだ。

まずは編集部を再訪した。おれはそこにいた人々に、おずおずと訊いた。
「このへんに定期入れがなかったかなぁ。ボッテガ・ヴェネタの茶色の定期入れ」
明らかにおずおずとはしていたが、根が見栄坊に出来ているおれは「ボッテガ・ヴェネタ」の箇所を強調して質問したのは言うまでもない。答えはノーだった。

ならば郵便局だ。財布を持って行ったのは間違いない。なぜなら窓口でさしたるトラブルもなく無事に料金を支払ったからこそ、いまここにおれがこうして存在しているわけなのだから。ただ郵便局の窓口の人の動作が緩慢だったのを覚えている。小包の縦・横・幅をメジャーで測るのがひどくのんびりしていて、なかなか料金を教えてくれなかったのが印象に残っていた。せっかちなおれはややイライラして、冷たい目をして料金を支払ったのであった。あのスローモーな窓口の人にもう一度会って、
「すみません、先程荷物をお願いした者ですが、このへんに定期入れを置きっぱなしにしていなかったでしょうか」
と訊くのも業腹だが、仕方ない。捜査に手抜かりは許されないからだ。しかしだ。財布だけではなく定期入れまで郵便局に持っていき、財布のかねで支払いを済ませ、無意味に持参した定期入れを窓口に置き忘れた。そんな馬鹿なことがあるだろうか。いや、ない。あるはずがない。だが、可能性をひとつひとつ潰していくのが捜査の基本だ。おれは郵便局まで走った。

「あいにく定期入れの遺失物届けはございませんが」
可能性の細い糸はあっけなく切れた。どうしよう。早くスキャニングをしなければ。焦りの頂点に達すると、ニンゲンとは不思議な行動をとるもので、おれは喫煙室へ出掛け、煙草に火をつけた。あえてこの不可解な行動の理由を述べれば、煙草を一本吸い終えるまでの時間、気分を鎮めて、オノレの行動をもう一度よく考えるためである。出社して二時間、おれは何をした。どこへ行った。だが、机のまわりと編集部、そして郵便局以外にはどこにも行っていないとの結論に達した。残るはただひとつ、捜査の鉄則「現場百遍」だ。すべての場所をもう一度探すしかない。

コートのポケット、パンツの左右および尻ポケット、バッグの中、机まわりを再度調べた。もう捜索から一時間以上経過していた。もうPASMOと運転免許証はあきらめた。社員証カードさえあれば、とりあえずスキャニングはできる。せめて社員証カードだけでも出てこい、とおれは願ったが、定期入れが無いのに、社員証カードだけ出てくるわけがない。

そのとき突然、おれはすべてが嫌になった。スキャニングもPASMOも運転免許証も妻の写真も愛犬のポートレートも、すべて捨て去り、このまま冬の海へ行きたくなった。冬の海なら日本海だろう。東映の映画のオープニングに出てくるような、あの岩に波打つような海を見つめるのだ。そうだ、そうしてしまおう。すべてを捨てて冬の海を見に行くのだ。スキャニングや定期券や運転免許証、妻の写真などが、我が人生においてどれほどの意味を持つというのだ。だが、おれはそこで我に返ってしまった。PASMOが無ければ冬の海にも行けないではないか。
「探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で」
などという歌があったが、ここで捜索を打ち切るわけにはいかない。現実は井上陽水のようにはいかない。定期入れが無ければスキャニングも冬の日本海行きも叶わないのだ。
「もう何度も探したけど、もう一回だけ。現場百遍」

世にも虚しい一時間三十分だったが、おれは三回めの捜索活動に突入した。まずはすでに二回も手を突っ込んだコートのポケットを探した。今度はハンガーから外して、コートを抱えてポケットの中をまさぐった。「おや?」と感じた。コートのポケットの内部が一回め、二回めの捜索時より深いように感じたのである。二回とも手首まで入れていたのだが、今度は手首より深く、腕の一部までポケットの中まで入るではないか。そのとき、平べったい革の感触が指に伝わった。

おれはすぐさまコピー複合機へ駆け寄り、定期入れをパネルにバチンと叩きつけて、無事に送稿を終えた。徒労感と達成感と安堵感が同時に押し寄せるなかで、おれは席に戻り、定期入れの中身を検分した。社員証カード、PASMO、運転免許証を確認し、愛犬サブの写真も入っていることに安堵した。入っているはずの愛する妻の若かりし頃の写真が見当たらなかったが、それはもはやどうでもよかった。

七十一

北村周一

 祖父も伯父も父までもよわい七十一にして逝きぬふともあのいくさ思えり

祖父は胃に、伯父は前立腺に、そして父は肝臓に、悪性の腫瘍いわゆるガンができて他界した。偶然かもしれないが、享年は三人とも71歳だった。むろん亡くなった年の年次はそれぞれ違うのだけれど、こうもつづくと妙な気分になって来るから不思議だ。

葬儀等でごくごくたまに顔を合わす従兄弟たちともこの話題になったことがある。しかしだんだんその年齢に近づくにつれて、だれも没年については口にしなくなった。かんがえてみれば、もうとっくにこの歳を越えている者も何人かいるのだ。

祖父も伯父も、死ぬまで清水のしらす漁師だった。父も戦争にとられるまでは同じ舟に乗っていた。とうぜん朝昼晩、新鮮な魚料理を食していたわけだし、体力には相当自信があったはずだ。清水でのしらす漁の風景はかつて、水牛のように、2020年2月号茹でじらすでも取り上げたことがあるので、お読みいただければと思います。

 やさしかりし祖父の名を持つシラス舟熊吉丸は清水のみなと

祖父の名は熊吉。名前は怖そうだけれど、寡黙で怒ったことのないやさしい笑顔の持ち主。どちらかというと小柄な体形ではあったが、骨格はしっかりしていた。子どもは、上から順に、男、男、男、女、男の五人。跡継ぎの長男は、体格に恵まれていたために、二度戦地に送られて、南方にて戦死。生まれたばかりの赤ん坊にはちゃんと会うこともなかったらしい。結局次男が跡目を継いだ。伯父さんである。中国戦線でたたかってきて無事帰還した。伯父さんは豪放磊落な性格で、からだもがっちりしていたし、漁師にぴったりの人だった。そして三男がぼくの父親で、中国に送られて南京で敗戦を迎え、命からがらに帰国。からだ頑健な父は健康そのものであったが、漁師を断念して会社員になった。四男は、からだが弱くて物のない時代だったから、戦時中に若くして病死。唯一のむすめである叔母さんは、当時としては大柄なからだつきで、懸命に漁師の家を盛り上げていた。とはいえ、こんなこともあんなこともみんな生前の父から聞いていた話なのだけれど。戦争に行っても行かなくても、重苦しく嫌な時代であったことは十分に推察される。

戦争の最中も、その前も、そしてその後も、つぎつぎに訪れたであろう厳しい時代の制約は、人々の日々の暮らし方だけではなく、それぞれの遺伝子さえも傷つけずには置かなかったと思われる。このような副次的作用は、さらに次の世代へもすがた形を変えて、なんらかの変異をもたらしているのかもしれない。戦争は、最大の環境破壊といわれる所以でもある。

 遺伝子は傷みやすくて夜になると寝床のゆかを軋ませては泣く

コロナから三年

笠井瑞丈

コロナ元年の2020年、世界では未知のウィルスとの戦いが始まった。その年8月にセッションハウスで笠井家の公演を上演させてもらいました。元々はコロナ以前に伊藤直子さんとオリンピックの頃に何か面白い事をやろうという話から始まったのですが、同年2月ごろからコロナ問題が勃発してしまい、人と人との距離が変わり、多くの公演が中止を余儀なくされました。そんなまだ経験した事のない危機に、近くにいる家族という共演者と共に、何か出来ないかという思いで作品作りを始めました。その時はまだ三作つくるとは考えていなかったのですが、結果翌年にも新作を作り、そして翌々年にも新作を作ることになりました。二作目を作った時には三部作にしたいという考えはありました。カラダというのは不思議なもので、何か困難にぶち当たった時、それを跳ね除ける力を持っています。もの作りは、そのような力を創造の力に変えていく事だと思っています。それが創造活動の根底なのではと私は考えています。困難とはある意味、新しい世界の始まりを意味しているのではと思います。2020年1作目『世界の終わりに四つの矢を放つ』。未知の世界の始まりに、身体をどのように提示して行けば良いのか、というのがテーマでした。2021年『霧の彼方』。世の中はまだ前が見えない霧に包まれていた、しかし遠くの彼方には小さな光が、目まぐるしく変わってしまった新しいシステムに、少しづつ適応できるようにり、またそこから新しいものを生み出そうという年になった。2022年『喜びの詩』。三部作の最後の作品。舞台に立つ喜び、そしてお客さんに立ち会ってもらえる喜び、初めて見る景色の喜び、そんな色々な思いを込めて作った作品でした。三作ともやはり共通しているのは、コロナという問題で起こってしまった世の中の変化に、どのようにダンスを提示していけるかという事でした。特に2020年は公共施設やスタジオもクローズしてしまい、人が集まるという事も難しい時期でした、常に中止というリスクのある中で、どのように作品を作り、どのように公演まで持っていけるか、そして今公演すことの意義なども考えました。そんな中、三年間で三作、セッションハウスで出演者全員笠井という、少し珍しい公演できた事は、私にとってはとても大きな出来事でした。コロナという問題が生じなければ、きっとこのような公演を立ち上げようと思わなかったと思います。

仙台ネイティブのつぶやき(80)模型をつくった小西さんのように

西大立目祥子

昨年夏、地元紙、河北新報にのった記事を見て、思わず声を上げそうになった。「区画整理で一変した仙台・二十人町1935年ごろの町並み再現した模型お色直し」。見覚えのある模型の写真ものっていた。
あの紙製の手づくり模型が、30年以上も捨てられることなく残っていたなんて! それは、1989(平成元)年夏に、仙台市宮城野区二十人町の糸屋の主人、小西芳雄さんが中心になり、地区の商店で結成していた「仙台東口繁栄会」の仲間たちとつくった街並み模型だ。当時、小西さんは50代後半。町内に暮らす親世代の年寄から話を聞き出して、昭和10年ごろの街に思いをはせ一棟一棟、組み立てていった。ミシン糸が入っていた空き箱を材料に、屋根には黒い紙を貼り、大人の工作で50軒ほどの店をつくったのだった。

記事によれば、発見したのは、宮城野区で平成の初めごろ活発に行われていた「地元学」という活動を振り返りつつ、地域の記録収集の活動をしている市民グループ「みやぎの・アーカイ部」。二十人町近くの榴岡小学校に模型が残っているはず、といううわさを聞きつけ、小学校を訪ね発見に至ったらしい。ずいぶんと傷んでいた模型をメンバーが救出し、のりとハサミで修復して公開の運びという。

たしか、小西さんが残した手記のようなものがあったっけ…と本棚を探したら、30年眠っていたホッチキス止めの冊子『私たちの小さな町の小さな歩みの記録』が出てきた。発行は、「平成元年9月15日」。最後のページには、モノクロコピーで細やかな表情は読み取れないものの、できあがった街並み模型をテントの下に広げ、街の古老や子どもたちと談笑する小西さんが写っている。そうだ、七夕のとき、二十人町のどこか空地にテントを張り模型をみんなで眺める催しに私も行って、この冊子をいただいたのではなかったか。小西さんの商人らしいいつもにこやかで快活な表情が思い浮かんだ。

二十人町といっても仙台市民でなければわからないだろうから、ざっくりと説明すると、仙台駅東口にほど近く、江戸時代は細い道の両側に足軽屋敷がびっしりと並ぶ町だった。1887(明治20)年に東北線が開通すると「駅裏」とよばれるようになり、さらに戦時中、駅の西側が爆撃を受けて焼け野原となり戦後は戦災復興事業で新しい街並みがつぎつぎと整備されていったのにくらべると、戦災をまぬがれた駅の東側は瓦を載せた黒々とした木造の住宅が密集していて、小さな商店が連なる二十人町の通りは取り残されたような雰囲気が色濃かった。もちろん、そこには下町の人情豊かな暮らしがあり、小さな商いはそれなりに活況を呈していたのけれど。

行政は東口を西口のような街並みに、と考えたに違いない。そこに400年の歴史があることも、2代、3代と必死に守り抜いてきた商売があることも、何よりそこに人が生活を立てていることなど、さほど考慮せずに。小西さんの話では、道路計画の話は昭和30年代、父親の代に出始め、自分たちの世代が大学進学などを終えて帰ってきたころにはだんだん具体的になってきて、勉強会や先進地視察をしては話し合いを重ねていたという。自分たちの人生がかかっているのだから、時間を見つけては将来の町を話し合う日々だったようだ。でも答えはなかなか出ない。いま手元に残る小西さんの回想録を見ると「先進地はどこへ行っても同じ街並み」「再開発ってのはいかにして土地を諦めるか、というところに落ち着く」ということばが胸にささってくる。

町とは何か、将来の町をどう描いたらいいのか。自問自答する中で、小西さんたちは手がかかりは過去にあるという考えに行き着く。そして一世代上の住人から話を聞き、自分たちの記憶を重ねて、昭和10年ごろの街並み模型づくりという試みに着手したのだった。つくり上げ、ようやく答えをつかみかけたころ、小西さんが口にしたことばが忘れられない。「模型をつくってみてわかったんだ。この町の風景のよさは、“軒の深さ”にあるって。だから区画整理事業で立てられる建物はビルになるとしても、軒をつけたいんだよ」

しかし、区画整理事業が完了しできあがった町は、小西さんが思い描いた町とはまるで違うものになった。幅40メートルの道路がどーんと抜け、両側には高層のマンションが立ち並ぶ。4、50軒あった商店のうち、戻れたのは数軒。がらんとして殺風景な町は歩く気にはなれない。建物が取り壊され事業が進む最中、仮店舗で営業していた小西さんを訪ねたことがあった。「いやもう大変なことだよ、区画整理事業って。もう近隣商業の町じゃなくなるね」そう話していた小西さんはそのあと病に倒れ、新しい町での糸屋の再開は果たせず亡くなられた。
 
2月最後の週末、この街並み模型が展示されることになり、30年ぶりの再会を果たすべく出かけた。「みやぎの・アーカイ部」のメンバーが手入れした長さ3メートルほどの模型は色あせてはいるものの、できた当時の印象を保っていた。いまは道路の下に消えてしまった一軒一軒の店が肩を寄せ合うように並び、通りの中央にはランドマークだった二十人町教会の塔がそびえ立つ。ちなみにこの教会は、W.M.ヴォーリズの設計である。種屋のおじさんも小西さんも「ここは下町だけど、俺たち日曜学校に行ってたんだよ。お菓子もらえたからさ」といっていたっけ。敷地内の井戸の場所まで緻密に再現していることにあらためて気づかされた。模型はパーツに分解されしまわれていたので、組み立てには私が本棚から抜き出し提供した資料も役に立ったと聞かされた。みんなが模型を前に話し込む。同じだ、30年前と。あのときも、できたての模型をぐるりと取り囲み、いつまでもなつかしそうに話し込む人たちがいた。

模型が保存されていた榴岡小学校と町のかかわりは深く、子どもたちは二十人町の店に弟子入り留学なるものをしていたという。店を訪ね、そこで商いの手伝いをする一日体験だ。会場にはその記録を伝えるコーナーもつくられていて、23年前、4年生の子どもたちが記した体験の感想が本に仕立てられ並んでいた。担任だった白井先生という方が、ずっと手元に大切に残されてきたのだという。『二十人町のだがし』『二十人町のかまぼこ』『二十人町の井戸』『二十人町の歴史』『二十人町の人の話』というしっかりと厚みのある本が5冊。色鉛筆で子どもたちが一生懸命描いたタイトルと絵が何ともかわいい。いまは33歳となった男の子が一人、訪ねてきていた。

小西さんが小学校を訪ね、授業をしていたことも初めて知った。区画整理事業を前に町づくりをどう進めて行くのか、話をしたらしい。この日は背広を着込みネクタイを締めて子どもたちの前に立ち、子どもたちもいつもの冗談をいうおじさんとは違う面持ちに少し緊張して話を聞いたようだ。45分の授業で話は納まりきれず、あとで小西さんは説明を補足する手紙を子どもたちにしたためた。その手紙も展示してあった。「人は将来の事を考えるのに、今までたどってきた過去と、今置かれている現在の事を充分に理解しないと、将来のことが予測できないのです」「街もだんだん少しずつ変わっているのです。誕生、成長、老化と人と同じように変化していくのです。ただ人はせいぜい生きているのが100年くらいですが、二十人町は400年ほど生きてきました」「街づくりは、形と心の両方が必要です。両方とも急いではいけません。じっくりとやるべきです」B5に5枚ほど綴られた手紙は、40年に渡って、激変する区画整理事業をどう超えていくのを考えに考え抜いた人の珠玉のことばに満ちている。そして、この手紙をしっかりと受け止め記した子どもたちの返事もまた、胸を打つものだった。

現在の二十人町は、わずかに神社にかつての暮らしの痕跡をとどめているだけで高層ビル街と化し下町商店街の片鱗は探しようもないのだけれど、この紙の模型と、子どもたちがつくった手づくりの本と、私の手元に残るホッチキス止めの冊子が残されていたことで、小西さんの存在がリアルによみがえってきた。すぐそばに街づくりに悩み続けた小西さんがいる。本気でたずねればまっすぐ答えてくれそうだ。
どんなにささやかでもいいから文字にして、形にして、残すことの力、そして、それを街に暮らす人たちが10年先、20年先へとリレーすることの意味。小西さんが模型をつくって一世代前の暮らしをたずねたように、みやぎの・アーカイ部のメンバーや会場に集まった人たちは、ビル街の下に眠る二十人町に潜り何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。思えば、みんな、小西さんが模型をつくり子どもたちに授業をした年代に見える。ある年齢に達すると過去に問いかけるようになるのか。「軒の深さだ」と小西さんがいったような明快な何かが見つかるんだろうか。 

鮎川誠 追悼

若松恵子

1月29日に、鮎川誠が亡くなった。昨年の暮れに体調を崩して、予定していたライブの出演がキャンセルになったというお知らせを見ていたのだけれど、突然の訃報だった。人生の本当に最後の最後まで、ステージに立ち続けていたのだなと思った。みごとだな、というのが訃報に触れて最初に感じたことだった。

鮎川誠は、日本のロックの長男だと思う。茨木のり子が、日本の現代詩の長女と呼ばれていたように、そんなイメージで、尊敬の思いを込めて、鮎川誠は日本のロックの長男だったと私は思う。ロックがどんなにかっこよくて、良いものなのか、彼はそれを教えてくれた。博多で活躍していたサンハウス、シーナ&ロケッツ、三宅伸治、友部正人といっしょに結成した3KINGS(スリー・キングス)。ギターを弾く構えで、その音で、少し遅れ気味に歌う自由な歌い方で、好きな曲について生き生きと語る姿で、彼はロックがどんなものなのかについて教えてくれた。「探偵ナイトスクープ」というテレビ番組で、亡き父にそっくりなんです、会いたい、と手紙を送ってきた視聴者の願いを叶えていた姿にもロックを感じた。ロックは実はとても誠実で、やさしいものなのだと、彼の姿を通して、私はロックへの信頼を深めることができたのだった。

訃報をきっかけに、インタビュー映像を久しぶりに見返したりした。2015年に妻のシーナを病気で亡くした後も、悲しみに閉じこもらずに、彼はライブをし続けていた。父のギターを聞き続けたいと、娘のルーシーがシーナに代わってボーカルを務めて、シーナ&ロケッツは続いていた。身内は引っ込んでろとか、つべこべ言わずに自然にロックし続けている鮎川は良いなと思った。がんが分かった2022年のライブ本数がここ近年で一番多かったという。

インタビューのなかで「シーナは、ロックは愛と正義と勇気だと言っていた」と語る鮎川の言葉が胸に響いた。シーナの言葉に全く同感だとしながら「勇気は、新しい扉を開けて、そこに飛び込んでいくこと」だと彼は言っていた。シーナが鮎川と初めて会った時、青いパンツスーツを着たシーナがライブハウスに入ってくるのを見たというエピソードを思い出す。そして正義。ロックはずっと不正義と戦ってきたんだということ。

もちろんまじめなだけではなくて、ぶっ飛んでふざけているということもロックにとっては重要なことだ。それは、為政者たちとは違う感性を持とうとする意志。管理してこようとするやつらには到底手が届かない感性を持って対抗しようとすることだ。最近の3KINGSでもギターを炸裂させながら歌っていた「ホラフキイナズマ」がきこえる。サンハウス時代からの盟友、柴山俊之の詞だ。

 風の中で生まれ
 風の中を生きる
 寝たい時に寝て
 やりたい時にやるだけさ

 気にするなよ
 ほんの冗談
 何もかも噓っぱち
 俺はほら吹きイナズマ
 パッと光って消えちまう

 パッと光って消えちまう
 パッと光って消えちまう

スリンピの動きと時間

冨岡三智

3月11日に堺での公演を控えて…先月もスリンピについて書いたけれど、4人の女性で舞うスリンピというジャンル、また広げてジャワ宮廷舞踊が持つ特質について私が考えていることを書いてみる。といっても時間不足なので、以前書いた記事や論文から引用してまとめたものに少し足しているだけなのだけれど…。

●2004年4月号『水牛』、「私のスリンピ・ブドヨ観」より

スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。

そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。…(中略)…曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。

●2010年7月号『水牛』、「クロスオーバーラップ」より

他のジャンルの人には、ジャワ舞踊は楽曲構成に当てはめて作られている、という風に思われているようです。ガムラン音楽はさまざまな節目楽器が音楽の周期を刻む楽器なので、そう思われがちなのですが、私に言わせると、ジャワ舞踊のうち宮廷舞踊の系統は、歌が作りだすメロディー、それはひいては歌い手や踊り手の身体の内側から生まれてくるメロディーにのって踊るものです。クタワン形式などのガムラン曲も、朗誦される詩の韻律が元になって歌の旋律が作られています。その証拠に、私の宮廷舞踊の老師匠は、しばしば歌いながら踊っていました。停電でカセットが途切れても、かまわず歌いながら踊ってしまうのです。つまり、流れるメロディー先にありきであって、その後で、それに合わせて棚枠の楽曲構成が作られた感じがします。だから枠の組み立ては少しゆるゆるとしていて、時間を少し前後にひしゃげることができます。

●論文:冨岡三智 2010「伝統批判による伝統の成立―ジャワ舞踊スラカルタ様式の場合―」『都市文化研究』vol.12,pp.50-64 より

ジャワの音楽や舞踊において重視される概念にウィレタンwiletanがある。基本となる旋律や振付は決まっているが, それをどのように解釈し細部に装飾を加えてゆくかは演者個人に任されている。個人ごとに微妙に異なる差異,個人様式とでも呼ぶべきものをウィレタンという。

 ジャワのガムラン音楽のメインとなる, ゆったりしたテンポで演奏される部分では,楽曲の節目を示すゴング類はイン・テンポではなく,やや遅らせ気味に叩く。舞踊でサンプールを払うのは決まって曲の節目だが,これもゴング類と同様にやや遅らせ気味に払う。つまり,音楽の節目というのはデジタルで点状のものではなく,わずかに時間的な広がりを持っている。その時間的な広がりの中でいつサンプールを払うのかというタイミングは,本来は複数の踊り手同士の間で微妙に異なるものであり,そこに踊り手のウィレタンが反映される。このようなコンセプトは,1つ,また1つと散る花に例えて「クンバン・ティボ kembang tiba(花が地に落ちる)」と呼ばれることもある。全員が一糸乱れずに揃ってサンプールを払うのは,1本の樹木に咲く花が一時にドサッと落ちるようなものであり,かえって不自然なのである。

私はジャワ宮廷舞踊で過剰にタイミングを揃えることに反対なのだが、それは時間の広がりがないからなのだ。皆で1つの場を作り上げているとはいえ、4人はそれぞれに存在していて、それぞれの内なるメロディに従って舞っている。状態音楽を奏でる人もそれぞれの内なるメロディを奏でている。それぞれのメロディが糸のようにより合されて1本の太い音楽の糸になり、その糸が曼荼羅を織り上げてゆく…。一昨年の「スリンピ・ロボン」の映像を見ていても、私たち4人の踊り手はどんぴしゃりで揃ってはいない。けれど、各自の少しずつのタイミングがさざ波のように揺れながら、ある時には誰かの引く力に引き寄せられるように、ある時は誰かから伝わってきた気に押されるように動きが流れていく。そうすると、時間にふくらみがあるように見える。払った布が滞空する時間も長くなっている気がする。

図書館詩集5(海老をしきつめたような湖面が )

管啓次郎

海老をしきつめたような湖面がひろがる
海老をしきつめたような道がつづく
巨大な一枚岩の川床に
ごく浅く水が流れて
その水の全体にぴちぴちと跳ねる
川海老が泳いでいる
恐ろしいほどの大漁が約束されている
だが同時に「海老」という表記に対する疑問が生まれる
ここに海はないよ
それともかつてはあったのか
いまは平原
人間たちの身勝手な居住の上に
古代の風が吹いている
先週はまだ寒かった
早春の奇妙に音のない朝
冷たい雨の名残に土がくろぐろと濡れて
舗装道路や線路の敷石も濡れて
目をそむけたくなるほどだった
しかし逸らした視線をどこにむけろというのか
たとえ鎖につながれた犬や
窓際のガラス越しに見える無言の猫でも
いつもそんな存在を求めている人がいる気持ちは
よくわかる
まなざしを必死で求めているのだ
人間からは得られない無償の関心を
人間が与えてくれない無私のなぐさめを
哺乳動物だけがもたらしてくれる
あの目に浮かぶ
はばたきのような感情を
犬猫うさぎモルモットねずみジャービル
こうした動物をかわいがる人間には
どこか心にあやういところがある?
あたりまえさ
人間世界から逃れるために
かれら小動物に救いを求めているのだ
ぼくにはよくわかる心の傾向だ
人間世界が恐ろしいのは企業に支配されているからだ
企業といっても会社といってもいいが
やつらには勝てない
利益追求を第一とし
その目的のためには何をやってもいいと考えている
壊すとか殺すとか何とも思わない
そんなやつらの考えにいつも怯えている
やつらは「法人」
ひとりひとりの生身の人間が死んでも
生き続ける
利益をスーツとして着込むかぎり
不死身だ
戦っても勝ち目はない
感情も生命もないのだから
こっちには絶対にできないような
卑怯なまねを平気でする
利益のためにやつらがやることには
諸段階の破壊があらかじめ含まれている
ワグナーを大音量で鳴らしながら
民間人を射殺する
犯罪そのものを免罪符として
喜々として太陽の下を闊歩する
国家と国家の敵対を作り出すことが
そのまま利潤につながるその仕組みの末端で
獣の道すら見失った人間たちが
引き金をひき計算機を叩いている
その姿は異様なまでに
残忍だ
思い浮かべるだけで心が
べったりと打ちのめされる
法人たちの恒常化・一般化した戦争か
二十世紀からの出口を
求めてきたのに見つからないとは
問題はわかっている
この人の世は十分に
生命に住んでいないのだ
生命の場所としての土地に住んでいないのだ
その事実に怯えながら
この状況からの出口を探している
踏んではいけない海老たちを避けて
このあてどない道を歩きながら
そうだった、今年はイェイツが
ノーベル文学賞を受賞してから百年だっけ
この世から剝落することは
誰にとっても大きな願いだった
いわんや人新世においてをや
彼の願望を
百年後に共有することになるなんて

湖の小島イニスフリー (W.B.イェイツ)
さあ、そろそろ行くよ、行くのはイニスフリーだ、
そこに小さな小屋を建てるのだ、粘土と編み枝で。
豆畑を九畝作り、蜜蜂を飼い、
ぶんぶん唸る音にみたされた空き地で、ひとり暮らす。

いずれ平穏に暮らせるだろう、平穏はゆっくり滴るようにやってくる、
朝霧のヴェールから、蟋蟀が鳴く草むらに滴るのだ。
そこでは深夜はきらめき、正午は紫に発光する、
夕暮れ時は胸赤ヒワが騒ぐ音にみたされて。

さあ、そろそろ行くよ、なぜならいつも、夜も昼も
湖水が岸辺でちゃぷちゃぷいうのが聞こえているからだ。
土の道に立ちつくしていても、灰色の舗道の上でも、
私はその音を深い心の芯で聞いている。

ほら、また耳をすましてごらん
あのちゃぷちゃぷいう水音に誘われて
逃避だ、亡命だ
革命だ、隠棲だ
生活だ、回心だ
この世に加担しないことが最大の貢献だ
蜂飼という非常に古代的な営みに
みずから救われることを誓おうか
ぼくがいいたいのは、われわれは
あるところから先はこの世のルールに
したがわなくていいということだ
それどころかはっきり反逆すればいい
与えられた身分証を捨てて
遠いところへと出てゆくのだ
いまこの河岸段丘に立ち
三川の岸辺を見晴らしながら
きみは逃亡の戦略を練る
傭兵たちを豆畑に迷わせること
すべての銃口にひまわりの種を詰めること
だがこれはファンタジーにすぎない
残忍で陰惨な現実が断崖のようにつづいている
未完の学位が地面に捨てられて
学びたかったかれらの明日が断ち切られて
理不尽な命令にしたがわされて
命を奪われて
よみがえれ学生たち!
「学生」という名称を真剣に生かすなら
あらゆる戦争に反対する以外の道はない
学ぶことが生なので
学びつつ生きることを望んでいた
いちど学生になったら生涯が学ぶ生だ
学生であることがつねに第一義なので
法人に心を委ねることもない
そんなことは絶対にしない
誰の命令も聞かない
戦うくらいなら逃亡をつづける
働くくらいなら放浪を選ぶ
ニンゲン化されるくらいなら島に行き
海老をとって暮らすだろう
海老をしきつめたような原っぱがひろがる
海老をしきつめたような図書館がひろがる
足を切らないように注意して歩けよ
マカテア(化石化した珊瑚の環礁)に守られた島に
何度でも上陸するのだ
ガラスの上を歩くようだ
ところどころに深い穴があり
いつ落ちてもわからない
ここを歩みつつ知識を求めるなら
人の音声言語だけではうまく進めない
音声のパターンを習得する動物は
ヒト以外の哺乳類ではくじらやいるか、こうもり
鳥ではおうむ、蜂鳥、鳴禽類(ひばり、すずめ、つばめ……)
かれらが互いに情報を伝えあうとき
地球はどれほどよりよく理解されることか
海の老人よ
私を操縦することはできないよ
人間が考えたことをたどりつつ
人間が思いもしない地表のできごとを
想像するんだ
たくさんの並んだ線路が錆色の川のように流れ
平野はほぼ忘れられた歴史のようにつづく
きみは誰だ、名乗れ
海老が名乗り
烏賊は沈黙し
たこぶねが真っ青な空を
しずかに進んでゆく
ぼくはせめて中世を探すつもりでここに来たんだが
ここも商都の廃墟
人々はおとなしく物品を手にして
セルフレジに向かう
なんという世の中
自己登記せよ
支払うために自分を投棄せよ
代価をもって物品を持ち帰れ
驚くべきことに
すべての産物は加工品だ
プラスティックな食品を食べているうちに
きみの脳も体細胞もどんどん石油に置き換わるだろう
だが石油が生物の遺体由来なら
それもただ時間を極端な長さで体験するための
一方法なのかもしれないな
「えび」と「ゆび」は元来おなじ語で
節があり曲がったものをそう呼んだという
このあたりの地形は節くれだった河岸段丘で
むかしの人々はこの土地に横たわる
大きな海老を見ていたのかもしれない
「〜のようだ」にすべての秘密があるのだ
隠喩ではなく直喩に大きな衝撃がある
あまりに遠くかけ離れて
とても連想が及ばないものでも
「たとえていうなら」という了解のもとに
連結できるからだ
それ以外にこの世をじゅうぶん体験する途はない
いま踏んだその土に永遠あり
きみの足跡に生命の響きあり
むせるほどの生命の洪水に立ちつくし
もう一歩も進めない
それが正しい道なのだ、学びの道の
たどりついた図書館は湖の中
私たちそれぞれ
ひとりで逃げてゆく小島

海老名市立中央図書館、2023年2月26日、快晴

ベルヴィル日記(16)

福島亮

 2月はカーニヴァルの時季だ。マルティニックでは「赤い悪魔(ディアブル・ルージュ)」と呼ばれる真っ赤な角を生やした怪物の仮面を被り、練り歩く。真っ赤な衣装には小さな鏡が鏤められているのだが、それが何か魔術的な意味を持っているのか、それとも装飾のために過ぎないのかはよくわからない。

 私の家の真下にはベルヴィル通りという大通りがあるのだが、先日部屋でパソコンに向かっていると、何やら賑やかな音楽が聞こえてきた。デモ行進で音楽をかけるのはよくあることだから、きっとそれだろうと思って気にせずにいたのだが、いつまでたっても音楽が終わらない。不思議に思って外に出ると、通りに人が溢れかえり、よく見ると目の覚めるような色のドレスを着た人たちが行列をなしている。カーニヴァルだ。どうやらラテンアメリカ出身の人々がそれぞれの国の衣装をまとい、それぞれの国の音楽に合わせて列をなし、踊っているようである。踊り手たちの先頭をスピーカーを鳴らしながら進む自動車には、「ボリビア」というように、国名が書かれている。この自動車に先導される形で、民族衣装に身を包んだ女性たちや、着ぐるみを身につけた人が踊っている。1週間ほど前になるが、ケブランリー美術館で「サンゴールと芸術」と題された企画展示があったので出かけた。ついでに、と思って常設展示も一通り見ることにしたのだが、そのなかに南米のカーニヴァルの衣装が展示されていた——というのを、実際のカーニヴァルの様子を見ながら思い出した。それにしても、カーニヴァルの音楽は、太鼓や笛が賑やかなのに、どこか物悲しい感じが漂っているのはなぜだろう。

 この街での滞在も残すところあと2週間ほどである。寂しいか、と訊かれたことがあるのだが、じつはあまり寂しくはない。そう遠くない時期に(長期とは行かぬまでも)この街に戻ってくるだろうと、楽観的に思っているからである。ただ、それはやはり、あくまで滞在者としてのアイデンティティが抜けきらないからでもあって、どうやら4年半ほどフランスで生活しても、住人になれたわけではなく、だらだらと滞在を続けている、という意識の方が強いのだと思う。ケニヤ生まれの友人と話していて、そのことを再認識した。彼はパリで修士課程を修了したのち、しばらくベルギーで研修を受けていたのだが、今はフランスの金融関係の会社で働いていて、密かに推理小説をフランス語で書いているという。まだ最初の数章しか書けていないというが、自己表現を大人になってから学び覚えた言語でするとはどういうことなのか、と思った。いや、そのような例はいくらでもあるのだろう。また、彼によると、ケニヤで子どもの頃使っていた言語は、話し言葉であって、執筆には使えないのだという。だから、フランス語で書くことにはあまり障壁はないのかもしれない。

 はっきりしているのは、私には同じような関係をフランス語と結ぶ覚悟がまだない、ということである。というよりも、誰が読むかわからないテクストをフランス語で密かに、時間をかけて綴ろうという気持ちが生まれないのである。内面との孤独な対話は、いつも日本語でおこなっていたような気がする。それを自分ではっきりと知ることができたことがこの4年半の成果である、と言ったら皮肉だろうか。

 自分がかりそめの滞在者にすぎなかったと知った後で、どうこの街と付き合っていこうかと今考えている。だが、たとえ日本に帰ったとして、それは滞在者であることを止めるという意味なのだろうか。自分は永遠の滞在者である、などと言う覚悟はないのだが、生えたと思った根っこが錯覚に過ぎなかったという瞬間はきっとこれからもあるだろう。

どうよう(2023.03)

小沼純一

そこにいたの
どこいるのか 
どこにいないか
二次元で
いるわけじゃない
ピアノやレンジのうえから
冷蔵庫と壁のあいだ
ダンボールのなか
部屋のすみっこ
あんたはいつでも三次元

よくおぼえてる
かつてすんでた
地元の商店街
商店街の

おもちゃやさん
そのままのこってた
シャッターはおろしてて

さびれたのはいつ
いつごろ
から

みおぼえのある店
ひとつふたつ
みちはかわらない
すこしまがって
路地にはいってむこうにぬける

そうそう
ゆうがたはけむりがいっぱい
店先でとりをやいていた

ひっこすと
地図がかけてくる
もっとかけてくるのかな
そのまますんでたらどうなんだろ

なんねんかまえ
ぼたんの店はやっていた
ようたしにいき
みせのひととはなしをした
はんこやはまだやっていたけど
きょうは定休日

もなかとケーキのみせは
いつなくなったんだろう
そこのバゲットはおいしかったよ

立ち読みしてるとはたきをかける
おばさんがいた
あの本屋
となりは化粧品のみせ、
もひとつむこうがやきとりや
つぎのみちに面しているのがおせんべや

すんでてもかわるんだ
ちょっといかないと
かわってしまう
おぼえているのはふるいこと

このおみせ おいしいかな
どうなんだろ

わたし わたしたち
いつのまちをあるいてる
このまちはいつのちず
ちずのひづけはおなじかなちがうかな
おなじちずでもむしくいかな

まいにちあるいた
まいにちじゃない
まいにちじゃなかったけど
すんでいるまちだから
しってた
しってたとおもってる

あそこになにがあったんだろ
さらちになると
おもいだせない
はがかけたように
たてものがまちからかける
かぜがふく

とりたちがあつまってくるやしきは
かじになった
とりたちはいなくなった
ふるびたきっさてんは
くずれたまま
いつのまにかなくなった
クリーニングのおじさんは
からだをこわして
みせをたたんだ
ふるほんやはまだまだある
あるけどあるじもないようも
ちがってて

まちからいなくなった
のはこちらもで
いまはよそ
よそはよそでも
かつてはすんだ
なにかがこっちにのこってる

だれもいらないことしてるんだって
むだをつくってるんだって
いきてるのはみじかくないのに
いまはながいから
ひとにめいわくかけるじゃなし
いらないことをやっている
むしがはっぱをたべるみたいに
かしかしかし

水牛的読書日記 2023年2月

アサノタカオ

2月某日 先月から心を奪われている韓国の作家ペ・スアの小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)を朝と夜に少しずつ読みつづけている。本当に少しずつ、ゆっくりと。1ページの、1行1句のイメージの世界にしばし立ち止まりながら。過剰に甘いコーヒー、ポルトガル語の盗難届……。物語の中にブラジル的記号がさりげなく散りばめられているので、「もしや」と思っていたらやはり中盤で〈サンパウロ〉という地名が登場した。小説の中のウルの現在地はよくわからない。でもかつてウルが旅したらしい土地としてこの都市の名があげられている。

そして読書は2周目に入った。冒頭からふたたび読み始めたところで、「あ、黒いツバメ」と1周目では素通りしてしまったちいさなものたちに再会し、心が揺れる。「言葉以前」の世界をあまねく流動する何かの消息を追いかけるエクリチュールの道をたどるうちにある迷宮に入り込んでしまうような、いつまでも読み終わらない不思議な小説。円環の本。

『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』のもう一人(?)の主人公は「時間」ではないか。「ここ」と「あそこ」、遠さを隔ててひとしく実在する「いま」というやつが目撃した光景を、ぼくらはみているのではないか。読んでいると、ふとそんな気がしてきた。

訳者の斎藤真理子さんが解説で「時間」のことを書かれていて、深くうなずいた。ちなみに、この解説で紹介されているぺ・スアの小説はぜんぶ読んでみたい。『日曜日、スキヤキ食堂』(タイトルにもある日本食専門店「スキヤキ食堂」は実際には登場しないという)、『フクロウの「居らなさ」』(「現実と記憶、幻想が交錯し、テキスト自身が主人公」とのこと、どういうことだろう?)、『知られざる夜と一日』(「シャーマニスティックな深み」に引き込まれる……)。すべてのあらすじが謎めいていて興味を惹かれる。

近年、斎藤真理子さんらが精力的に紹介している韓国文学は、朝鮮半島の歴史を背景に国家や権力、勝者の歴史に抗うものたちの苦闘を描く「物語」の力によって、ぼくら日本語読者をふるいたたせてきた。けれども時として「物語」の力というものは、特定の立場から出来事を一方的に解釈し、意味付け、そこに紋切り型の叙情的感傷をまぜこむことで、対話を拒絶する共感の共同体という「閉域」をかたちづくる暴力にも変わる。ペ・スアはきっとそのことに敏感だ。解釈と意味と感傷から逃れるものたちの叙事にこそ、文学の真実をみいだしているのではないか。この点は、同じく韓国の作家ハン・ガンのすばらしい小説『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳)にも感じる。こちらは今月、河出文庫の一冊として刊行された。

2月某日 大学院時代の同級生で台湾の文学研究者、朱恵足さんが日本にやってきて数年ぶりに再会した。彼女のお姉さん、学生のMくんとともに鎌倉の街をゆっくり散策する。おもだった寺社仏閣を見学したあと、神奈川県立美術館鎌倉別館で開催された「美しい本 湯川書房の書物と版画」展を鑑賞。お蕎麦を食べておしゃべりをしているときに、游珮芸・周見信の歴史グラフィック・ノベル『台湾の少年』(倉本知明訳、岩波書店)がいいよ、と朱さんからすすめられた。全4巻、読んでみよう。

2月某日 資料調査のため神奈川・藤沢に滞在する朱恵足さんとは別の日にも会い、ファミリーレストランでお互いの子育ての話から、歴史と虚構の問題まで語り合った。朱さんが最近、リサーチしているという「霧社事件」(日本統治時代の台湾で起こったセデック族による抗日叛乱事件)について大変興味深い話を聞く。詳しくは書けないが、朱さんが熱弁をふるっていたのは、台湾への旅を舞台にして「霧社事件」にも言及する津島佑子の長編小説『あまりに野蛮な』(講談社文芸文庫)がいかにすごいか、ということ。この作家が文学的想像力によって耳をすませる歴史の真実の声に、彼女もまた引き寄せられている。多くの研究者やジャーナリストは、この声を聞き逃しているという。

朱さんは沖縄発の批評誌『越境広場』などで、津島佑子や目取真俊の文学をテーマにした評論を日本語で発表している。そろそろ彼女と本づくりなどいっしょに仕事をできるといいな。台湾のお土産のからすみをもらい、ぼくからは金石範小説集『新編 鴉の死』(クオン)をプレゼントした。

2月某日 唐作桂子さんの詩集『出会う日』(左右社)を読む。巻頭に置かれた「ななつの海」という作品がいい。階段の踊り場で方向転換するように、言葉の向きがくるりと変わって一段上がるような瞬間が魅力的。

2月某日 各地からスモールプレスの本が続々と届いてうれしい。鹿児島・屋久島からは『2001-2021——山尾三省没後20年記念誌』『星座——第17回オリオン三星賞』。どちらも、屋久島に暮らした詩人・山尾三省の業績を顕彰する「山尾三省記念会」の発行で、編集は一湊珈琲編集室の高田みかこさん。高田さんからのお誘いで、「記念誌」のほうに「『希望』の種子に風を送る」というエッセイを自分も寄稿した。

東京・下北沢からは編集者・長谷川浩さんの追悼Zine『BON VOYAGE——Bohemian Punks』。沖縄の詩人・高良勉さんからは詩と批評の雑誌『KANA』第29号、特集は「ウクライナ・戦争と平和」。同人の詩人・宮内喜美子さんの詩「ウクライナ人の街」から読み始める。

そして小倉快子さんの『私の愛おしい場所——BOOKS f3の日々』。新潟で小倉さんが営み、2021年に閉店した本屋BOOKS f3。ひとつのお店の歩みを記録する言葉と写真が、一冊の書物として束ねられることで、厚みのある場所の記憶になってゆく(すばらしい編集は佐藤友理さん)。BOOKS f3では、サウダージ・ブックスから刊行した宮脇慎太郎写真集『霧の子供たち』の展示をおこない、ぼくも編集人としてトークイベントに出演した。この場で出会った人たちとのあたたかな縁が、いまもつながっている。自分にとっても愛おしい場所。

2月某日 見田宗介『白いお城と花咲く野原——現代日本の思想の全景』(河出書房新社)が届く。昨年亡くなった社会学者の大家が、80年代に朝日新聞で執筆した論壇時評の集成の復刊。大澤真幸さんが解説。見田宗介、そして彼の〈異名〉である真木悠介の思想のバトンを次の時代の読者に渡していくこと。

2月某日 北海道・小樽の詩人である長屋のり子さん(山尾三省の妹でもある)からのご案内で、鎌倉生涯学習センターで開催された「ウクライナ 子供の絵画展」を鑑賞。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年。戦禍の地の子どもたち、若者たちの見つめる心象風景を自分自身の目に焼き付ける。今月はトルコ南部で大地震が発生し、トルコとシリアでは凄まじい数の人命が犠牲になっている。世界の窮状を前にして非力な自分に何ができるのか、答えのない問いを考え続けている。

2月某日 南浦和のさいたま市文化センターへ。「認知症者・高齢者と介護者とつくる「アートのような、ケアのような 《とつとつダンス》」 2022年度活動報告展示会」に参加した。ダンサーで振付家の砂連尾理さんが、2009年から京都の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」を舞台に、高齢者や介護者とおこなうダンスワークショップ《とつとつダンス》。この《とつとつ》のパンフレットや書籍(晶文社から刊行)を編集した縁で、声をかけてもらったのだった。すでに10年以上におよぶ砂連尾さんたちの息の長い活動はユニークな進化というか変容をつづけていて、近年はオンラインのダンスワークショップをおこなったり、マレーシアの認知症高齢者と交流したりしている。マレーシアでは認知症高齢者をケアする施設がかなり少なく、認知症はもっぱら薬で治療する病気と認識されているなど、日本とは異なる状況があるらしい。報告展示会には元看護師の臨床哲学者・西川勝さんも大阪から駆けつけ、なつかしい《とつとつ》のメンバーとの再会になった。

2月某日 待望の本たちが届く。一冊は奥田直美さん、奥田順平さん『さみしさは彼方——カライモブックス』(岩波書店)。ぼくも大好きな京都の古本屋カライモブックスを営み、これから水俣へ、石牟礼道子さんの地へ移転するというふたりの随想集。落ち着いて読んで、感想を書きたい。

もう一冊は韓国の作家、ハン・ジョンウォンのエッセイ『詩と散策』(橋本智保訳、書肆侃侃房)。ページをひらくと、エピグラフとしてオクタビオ・パスの詩「ぼくに見えるものと言うことの間に」が置かれていた。ちょうど編集の仕事のためにパスの詩集『東斜面』について調べていたタイミングだったので、この偶然の一致に驚いた。ひとりで詩を読み、ひとりで散策をする著者が本書で紹介するのは、たとえばフェルナンド・ペソア、たとえばウォレス・スティーヴンズ、たとえばライナー・マリア・リルケ……。こうした詩人たちの名が織りなす星座は、自分の心の中の夜空に輝くものでもあり、他人事とは思えない。美しい装丁、ペーペーバックの造本がすばらしい。タイトルにふさわしく、春の上着のポケットに入れてともに散策したい、かろやかな詩の本だ。

しもた屋之噺(253)

杉山洋一

俄かに春めいてきたと思いきや、今日は出し抜けに平野部でも雪の予想がでて、ミラノもみぞれ混じりの雨模様です。今日は町田の母より、ヴェニスの運河は水涸れで大変なんでしょう、と言われておどろきました。ヨーロッパの渇水は深刻で、ロンバルディアでも農業に影響が出ているのは知っていましたが、水の都の話はまったく知りませんでしたから。

2月某日 ミラノ自宅
良い天気が続いているからか、ミラノの空気は酷く汚れているようだ。イタリアで最も大気汚染の進んでいるのがトリノで、ミラノは二番手だと新聞に書かれているが、そのせいか、洟は止まらず目も痒い。花粉症には未だ寒すぎるから、粉塵、ばい塵の類に違いない。
もうすぐ成人する息子宛てに、ミラノ市からイタリア共和国憲法の小冊子が届いた。ここ数日、彼はヤナーチェクのヴァイオリンソナタとシュトックハウゼンのソナチネを譜読みしているが、どんな将来が待っているのだろう。

マッシモ・ヴィヴァルディより、彼の指揮するアルド・フィンツィ作品のヴィデオが送られてくる。フィンツィはイタリア系イギリス人作家、ジェラルド・フィンジの同時代人で同姓、名前も酷似している上に、等しくユダヤ人迫害に巻き込まれているから、すこし紛らわしい。
アルド・フィンツィは1897年ミラノに生まれ1945年トリノに没したイタリア人作曲家で、ムッソリーニ政権下の反ユダヤ人法により演奏が禁止になり、近年まで顧みられることすらなかった。ローマのサンタ・チェチリアで作曲のディプロマを取得し、作曲家として成功をおさめ、1931年、僅か24歳でリコルディ社から出版されるようになった。1937年にスカラ座の新作オペラコンクールに応募し、審査員だったピック=マンジャガルリから優勝を内々に知らされたが、ファシスト政権によって発表は反故にされ、数か月後に施行された反ユダヤ法によって、一切のフィンツィ作品の演奏の権利が剥奪された。しかしフィンツィは匿名、もしくは偽名を使って作曲を続け、1942年にはユダヤ人迫害に立ち向かう主人公を描いたアルトゥーロ・ㇿッサート台本によるオペラ「シャイロック」第1幕を完成させている。1943年、ナチス占領下のトリノで隠れ棲みながらオルガンのための「前奏曲とフーガ」を書くが、ファシストによりフィンツィの息子の居場所がナチス親衛隊に密告され発見されたため、息子の身代わりとなってフィンツィが出頭し、拘束されたが、のちに奇跡的に解放された。自らと家族を救った神への感謝をこめて、1944年から45年初めにフィンツィは合唱とオーケストラのための「詩編Salmo」を作曲し、その直後45年2月7日トリノで死去している。当初、偽名を使い埋葬されたが、戦後ミラノの記念墓地に改葬された。

夥しいイタリア近代音楽の趨向が、みっしりと折重なり、波に打たれるままの人知れぬ入り江。終戦とともにイタリアの近代芸術は、その汀で永遠に封印されてしまった。印象派やフランクの残り香が、厳めしい雰囲気のまにまに漂っていて、その上をネプチューンの如く顕れるイタリアらしい歌謡性が時代を感じさせる。もはや醗酵し尽くし、噎せる薫りに包まれる、無数の不思議な作品たち。例えば、ピッツェッティの後任で長年ミラノ音楽院長を務めたピック=マンジャガッリは、チェコ生まれでミラノに育ち、リヒャルト・シュトラウスの下で研鑽を積んだ。反ユダヤ法の何十年も前にユダヤ教からカトリックに改宗し、音楽院長まで務めて大戦末期にダンヌンツィオに曲をつける程、ファシスト政権とは良好な関係を築きつつ、実はフィンツィを支持していた。妻がユダヤ人なのを隠すために、カセルラは敢えて政権の旗振り役を買って出ていた。どちらも実にイタリアらしい逸話だと思う。フィンツィが作曲したヴァイオリンソナタ3楽章、カセルラを思わせる疾走がふと途切れ、蕩けるような第2主題が現れるとき、切なさや儚さと隣り合わせの、当時の暮らしの風景の一端が見える気がする。

学校で授業の合間にレプブリカ紙を広げると、Covid19がイタリアの若者に与えた精神的トラウマについて書いてある。こんな風に書いてあるが、君たちどう思うかいと学生たちに尋ねると、「その通りだ、兄弟は鬱病を発症して廃人になった、優等生だった以前の姿は消え失せ学校も落第した」とか、「自分自身未だに躁鬱に悩んでいる」など、皆がまるで吐き出すように一斉に話し始めて、おどろく。

2月某日 ミラノ自宅
EUヨーロッパ連合の規約に則り、イタリアの無期限滞在許可証が廃止された。今後は10年毎に更新しなければならず、憂鬱極まりない。

町田の母よりショートケーキの写真が届く。長さ15センチ幅5センチほどの蒲鉾型。全体に純白のホイップクリームで覆われていて、屋根には真赤な苺が3個並ぶ。ケーキの周囲には薄切りの苺が飾られている。「頑張ってつくりました。手首が痛くて途中で撹拌をやめたら、クリームがだらけた。味はいいですよ」。言われてみれば、まるでホイップクリームが滴るように見えなくもない。以前から母は手の腱を痛めている。ケーキの傍らには、小学生の時分から使っている2客の小さなコーヒー茶碗も並んでいて、思わず当時に立ち戻った錯覚を覚えた。写真の周りに自分だけいないのが、不思議である。父のための誕生日ケーキに、落涙。

2月某日 ミラノ自宅
馬齢を重ねつつ作曲作業がより非効率的になっているのを実感し、気が遠くなる。
指揮の譜読みも人より遅く、作曲も埒が明かないようでは、徒に生産性が欠落した人生を送っているに他ならない。

学校の前期ゼメスター試験を前にして、緊張すると持病の多動症が酷くなるから、医師の診断書を提出して試験に臨みたいと弱音を吐いていたAが、立派に落ち着いて試験をやり過ごしたことに感銘を受けた。多動症でも、自分の意志で自らの衝動をここまで律することができるとは知らなかった。
家人が一カ月ほど日本に戻るにあたり、一度、家族で外食したいという。用水路対岸の「夢想家」食堂で昼食に出かけ、魚介ソースをリグリア特産の生パスタ、トロフィエで食べる。

2月某日 ミラノ自宅
垣ケ原さんと電話で話す。武満さんと岩城さんの存在が、垣ケ原さんの音楽の指針だったという。素晴らしいなあと独り言ちてから、自分の指針とはなんだろうと考える。尊敬する音楽家のようでもあるが、音楽の存在そのものかもしれないし、その両方であるかもしれない。

「お話したことがありましたか。ミラノの家の話なのですが、コロナ禍が始まった年の暮れから、リスの家族が庭の樹に巣を作って家族で住んでいます。この樹は高さが10メートルくらいあって、中腹に大きな洞が開いています。そこを寝床にして棲み付いていて、毎朝胡桃を5個ずつ割ってやります。彼らはそれを大層楽しみにしていて、僕が届けに行くと、決まって洞から出てきて餌場まで降りてきて挨拶をします。こちらが遅くなると、尻尾で窓を叩いて起こしに来たりするんですね。そのリスの家のすぐ隣には、もう5,6年前から黒ツグミのねぐらがあって、リスとも仲が良いらしく、子供どうしで遊んでいます。胡桃は他の鳥にも人気で、実に小さな鳥から、そこそこ立派なカラスまで、毎日さまざまな鳥が啄みにきます。コロナ禍でロックダウン真っ最中には、ずっと独りで暮らしていたので、彼ら庭の小動物たちにどれだけ慰められたかわかりません。
毎日リスを眺めて暮す日々が訪れるとは、夢にも想像していませんでしたが、こうして庭の小動物を眺めていると、自分も彼らに生かされていると思います。昔、家人が野良猫を飼っていました。猫の口蓋には鼻まで繋がる大きな穿が開き、鼻腔は腐っていて、とても可哀想でしたが、それは大層可愛がっていました。或る時、その猫がふらりと外に出たきり行方不明になり、総出で何日も探したものの、結局見つかりませんでした。最後に見かけた時、家の塀の上からこちらを暫くじっと見つめていて、それから暗闇に消えてしまいました。何か言いたそうにしていたあの顔は忘れられません。それから暫くして息子が生まれたので、時として、息子がチビという名の、あの猫の生れ変わりに感じる瞬間があります」。

2月某日 ミラノ自宅
とても耳はよいが不器用なトンマーゾには、音楽の稜線を底から支えるようにして、同時に、風船を膨らませる塩梅で拍間に空間を広げるよう伝える。拍が音楽を作るのではなく、拍と拍の隙間から音楽の内部に身体を滑り込ませ、裡からその隙間にむけて風船を膨らませるようにしながら、そこに音楽の霊感を吹き込むよう伝える。

スカラのアカデミーでバレエの稽古ピアノを弾いているイザベラには、パーソナル・ゾーンに演奏家の音楽が踏み込むのを甘受すべきと提案する。彼女は演奏者と距離を取りがちだったが、演奏者に発音を促してから、その音を自らのパーソナル・ゾーンに持ち帰る意識を理解してほしいと思う。音を連れて帰ってくる際、一緒に演奏者たちも音と一緒にやって来るけれど、それを怖がらず、むしろ温かく、時には面白がりながら受け容れるということ。

しばしばテンポが遅くなるフェデリコには、先ず演奏するフレーズを軽く口ずさんでもらい、直後にピアニスト相手に振って誤差や齟齬を自覚してもらう。
彼が自分で歌えば視覚で楽譜を捉えてそのまま発音出来るのに、ピアニスト相手に指揮する時は、視覚が楽譜を捉えると、その情報を脳に流して裡に鳴る音へ変換してから、指揮棒に意識を流して演奏者に発音させている。その結果、脳のバイパスやフィルターを通過する間に、視覚の知覚した情報と演奏者の発音の間に僅かな誤差が生じる。指揮する場合、視覚で楽譜を読んだら、脳を通さずにそのまま指揮棒を通し、時間のずれなしに情報を正しく演奏者に伝える、と理解させられれば、少しずつ齟齬が減ってゆく。

まだ14歳たらずのフランチェスコには、一度振りながら楽曲構造や和音構造を敢えて言葉で説明させた後、暗譜で振らせてみた。すると鳴っている音が明確に聴こえ、音楽を客体化できるようになる。結果として、そこに彼の音楽性を載せる余裕が生まれる。
指揮に関しては、テクニックを使えば使うほど、より作為的になって音楽が離れてゆく気がする。技術をもって音楽を表現しようとするのは、指揮に於いては余り意味を成さないかもしれない。せいぜい技術程度しか教えられないのに、技術が音楽を邪魔するのであれば、完全な自己矛盾状態にある。

夜、息子と食事をしていると、「お父さんは戦後すぐの生れでしょう」と言われる。何を勘違いしているかと思いかけたが、昭和44年は終戦後24年にあたる。
息子曰く、終戦からお父さんの生まれ年までと、2000年から今年までの時間、1999年EU通貨統合から現在までの時間はほぼ等しい。
「だから、2000年くらいに世界大戦が終わった感覚なのでしょう」。
なるほど確かにそうなのだ。自分が生まれる以前の時間については、主観的に意識したことがなかった。昭和20年から44年までの時間は、単に歴史上の事象を時間軸上に並べ、知識として理解しているに過ぎなかった。
「お父さんは、子供の頃と今とどちらが幸せなの」と聞かれ、「今にして思えば、昔の方が幸せだった気がする」と答える。
周りには自然がたくさん残っていたし、食事ももっと美味しかった気がする。インターネットも携帯電話もなかったが、それなりに暮らすことは出来ていたし、社会も今より余裕があった気がする。
現在より不完全な社会だったかもしれないが、皆が前を向いていて、顔は下を向いていなかった印象がある。当時は冷戦真っ最中で、世界のあちこちで戦争は続いていたし、公害もたくさん起きて、肯定的な面ばかりではなかった。全世界的に見ても、人種差別や男女差別は、今とは比較できぬ程酷かったはずだ。技術が発展する程に、我々の裡の感覚がどこか鈍くなり、鈍くなった箇所は何時しか消失してゆく。

尤も、インターネットの発展がなければ、日本や外国の家族や友人と気軽にやりとりする日常など、実現不可能だった。
子供の頃、近い未来テレビ電話なる文明の利器が発明されて、顔を見て話すのが当たり前になる、なんて話に胸を躍らせつつ想像していた社会と比較すると、既に当時の夢の技術革新を成し遂げた現在の社会は、どこかもっと無機質で、時として味気なくすら感じられることもある。我々が子供の頃、訳も分からず想像していた未来の世界は、より明るくて愉快な世界だった。単に子供心でそう思ったのかも知れないし、実際、予定ではもっと明るく愉快な世界を包み込むはずだったのかもしれない。
当時も夏は暑く冬は寒かった。子供の頃は通勤列車の天井には所在なさげに扇風機が回っていて、思えば、冷房など随分経ってから登場したから、最初は何だか大仰に感じられた。しかし、今や冷房がなければ我慢できない暑さに見舞われるようになった。

そう考えれば、昔と今とどちらが良いかという息子の質問に対しては、本来こう答えるべきだったのかもしれない。即ち「我々が子供の時に想像していた未来に比べ、実際に訪れた未来はずっと暗澹としていて、閉塞的であること」。「昔、家の近所のどぶ川は、悪臭を立てていたけれど、毎週末はややウグイを釣りに行っていた酒匂川の湧き水あたりには、びっしりと野生の山葵が自生していたこと」。「あのどぶ川は、今はきれいに濾過された下水を流しているので、水はきれいで、臭いもなくなったこと。酒匂川は護岸工事されて、あの湧き水も山葵もどこかへ消えてしまったこと」。

2月某日 ミラノ自宅
昨日の朝、庭に降りる三和土の手すりに、体長20センチほどの黒ツグミと、3,4センチ足らずの小鳥が並んで留まっていた。少し頸を傾げるようにして、こちらをじっと眺めているので、まさかと思いながら胡桃を割り始めると、二羽とも瞬く間に餌台の朽ちた木椅子へ飛んでいったのには吃驚した。彼らもリスのように餌が届くのを首を長くして待っていたのだ。
時として、人間より鳥類の方がずっと能力も優れていて、豊かな世界を生きているのではないか、と思ったりもする。彼らなりに大変な暮らしを強いられているに違いないし、その要因の多くは恐らく我々の仕業だ。
トルコ地震の被害者5万人と聞き言葉を失っているが、いつか、全世界的の文明を崩壊させるほどの天災が地球を襲い、人間がほぼ死に絶えてしまったとしても、鳥たちはより鮮やかな世界を翔けているような気もする。

ウクライナ侵攻から一年が過ぎた。息子がサラと録音したダニエレ・ボナチーナの二重奏曲を聴かせてくれる。研ぎ澄まされ、一切無駄のない音、楔のように穿たれる音、一見単純でありつつ、見事に表現として昇華されたヴァイオリンの長音。ダニエレは、パリの高等音楽院の入学試験にこの録音を送るそうだ。

2月某日 ミラノ自宅
眼を閉じたまま、その眼の内側にある別の眼を開く。
例を挙げると、眼を閉じて目の前に数字の投影を試みるとわかりやすい。眼の内側の眼を開いていれば数字は明確に見えるが、内側の眼が閉じていると、全く見えなかったり見辛かったり、或いは気が散って数字を凝視できなかったりする。内側の眼は、視点を水平か心持ち上の方へ向けると開きやすい。
こう書くと怪しげで公言も憚られるが、興味深いのは、その内側の眼が開いていると、脳裏にすっきりとした清涼感があって、整頓された空間すら感じられるのが、眼を閉じていると、脳そのものが閉じている感覚とともに、辺りも昏く感じられ、空間も不明瞭になることだ。

左手指のため、朝目が覚めると布団の中で指回しの体操をしている。外向きに100回ずつ、それからで内向きに100回ずつ各指を回すのだが、その間、眼を閉じて目の前に数字を投影し、頭の中では声を発さぬよう気を付ける。そうして内側の眼だけを開いて、その数字を追ってゆく。誰に教わったわけでもないが何時からか気が付けばもう10年以上続けていて、これが終わる頃には、指も頭も身体も解れて快適である。

階下では、息子がヴィンチェンツォ・バリージのピアノ曲を黙々と練習している。ヴィンチェンツォの故郷、シチリアの民謡を思わせる旋律が、ジャズ・ピアニストでもあるヴィンチェンツォらしい、不思議な旋法で紡がれ、編み上げられてゆく。

庭の樹に巣を作りかけ姿を消していたキツツキが1年ぶりに戻ってきて、また樹を穿く。鳥であっても、自分の作りかけの巣が世界のどこにあるか、しっかり覚えている。

(2月28日ミラノにて)

 

 

『アフリカ』を続けて(21)

下窪俊哉

 岩波書店の雑誌『思想』3月号に福島亮さんの書かれた「水牛,小さなメディアの冒険者たち」が載っているというので買って、読んでいる。「水牛」前夜から、初期のタブロイド判新聞『水牛』、水牛楽団の活動の充実と共にあった時代の『水牛通信』、水牛楽団の活動休止後の『水牛通信』まで、1970年代から80年代にかけての「水牛」のあゆみを見通せるように整理してあり、私のような者にとってはたいへんありがたい。
 その『思想』3月号、20世紀のアジア、アフリカ、中米など「第三世界」で起こった様々な雑誌活動を取り上げてあり、どれも興味深いのだけれど、私はまず、巻頭に置かれている冨山一郎さんのエッセイ「雑誌の「雑性」」を読んで唸ってしまった。
 パンデミックによって大学に集って議論できなくなったことを契機に「通信ということ」を始めた、というエピソードに始まる。その場をオンラインで代替えしようとするのではなく、各々が書いたものを「通信」として編集し、読むということを始めたらしい。それをくり返すことによって、ひとつひとつの文章が「連鎖していった」という。そこには中心となる統括者が存在しなくて、順序づけができるようなものでもない「つながり」が生まれた、という冨山さんの気づきがあった。少し引用してみよう。

 あえていえばそれは、それぞれが軸となりお互いが契機となりながら拡張されていく思考のあり様だ。この契機になるということは、他者の文章との偶然的な出会いを前提にしており、雑多な文章を通信として一つに編集したことが重要になる。

 そのことを少し後の文章では、「読み手が書き手にもなり、それが繰り返されながら広がっていく」とも書いている。これは何か大きなヒントになりそうだぞ、とつぶやきながらくり返し読む。

 たぶん月刊になるだろうウェブマガジン『道草の家のWSマガジン』を始めて3ヶ月たつところだが、不定期刊の紙の雑誌『アフリカ』vol.34も同時並行でつくっていて今月、仕上げる予定だ。今回は詩が3篇、短編小説も2篇あるので、「なんだか文芸雑誌みたいだね?」なんて冗談を言って、「これまでは何だったの?」と周囲に呆れられているのだが、私の気分の問題だろうか? それだけではないだろうという気がしている。
 これまでに書いたことのくり返しになるけれど、『アフリカ』は散文の雑誌であって詩の雑誌ではないということにして始めた(詩の雑誌は身近にたくさんあったから)。そして2011年頃からは、小説を書きたい人の雑誌でもなくなった。装幀の守安涼くんのことばを借りれば「小説然とした作品をめざすのではなく、書き手の書きたいものがストレートに出た散文が多く並ぶようになった」のである。
 それにしても、なぜそうなったのだろう? ということは、あまり深く考えずにここまで来てしまった。

 きっかけは、当然かもしれないけれど「小説を書きたい人」が『アフリカ』を出ていったからだろう。そこからが『アフリカ』の面白いところで(と私は当時も思いながらつくっていたのだが)、書き手がいなくなると、必ず別のどこからか現れるのである。なんてとぼけたようなことを言っているが、思えばシンプルなことで、読み手が書き手にもなったのだ。

『アフリカ』はスタートした時、文学研究者や愛好家たちとの付き合いを離れ、まずは編集人(私だ)の通っていた立ち飲み屋で読まれた。その話は、この連載の2回目で書いている。
 街中にいると、もちろん多様な人がいるわけで、文芸活動をしている人は少数だろうし、本を読むことに興味がないという人もたくさんいる。識字率の低い国ではそこに、文字を持たない人びとも加わる。いま私は知的障害のある人たちと街中で一緒に過ごす仕事をしているが、中にはことば自体を持っていない(かもしれない)人もいる。
 私はそんな人たちの中で、読んだり、書いたりすることを自分の仕事と考えているようだ。
 そういう姿勢で書いたり、つくったりしていると、書くつもりのなかった人が、『アフリカ』と出会うことによって、書くようになる、ということが起きたのである。その人たちから、小説やエッセイを書こうとか、詩を書こうといった気負いは感じられない。私はそこに何かしらの手応えを感じていた。
 小説とは何だろう? エッセイとは? 詩とは何だろう? といったことをいつも考えているわけではないが、書き続けている限りその種の問いから完全に離れてしまうことも不可能で、それらの原稿は私にある種の共鳴を呼び起こしてくれた。

 私自身も、フィクションを書くより、その時々のワークショップを通じて得られたことを『アフリカ』で報告するということが増えていた。小説を書くことから離れていた、と言えば、言えなくもない。全く書いていなかったわけでもないけれど、関心は確かに他へ向いていた。
 ところがまた最近、変わってきたのである。昨年、ワークショップを休んで、うだうだしている間に。
 決定打となったのは2冊の本だった。ひとつは、この「水牛のように」で杉山洋一さんの「しもた屋之噺(247)」を読んだのがきっかけで、カルヴィーノ『アメリカ講義』が妙に読みたくなって、再会したこと。以前読んだ時には何も感じることができなかった、と思った。数十年の時を超えて、カルヴィーノが自分に語りかけてくれているようだった。どうしてカルヴィーノは2022年に私の考えていることがわかったんだろう? といったふうだ。もう1冊は、仲間に誘われて、ヴァージニア・ウルフ『波』を初めて読んでみたこと。それから、20代の自分が書いていた文章も再び引っ張り出してきて読んでいたら、当時の自分とヴァージニア・ウルフが手紙のやりとりをしているようになり、ああ、こんなふうに書けばいいんだ、ということを久しぶりに体感できた。
 そうなると、ウェブマガジンに化けたワークショップでも話したり書いたりすることに変化が起きる。よし、自分はいま、小説を書くことに向かおう、ということになった。そうすると、現実の中にフィクションが見出されるのではなくて、フィクションの中に現実が立ち現れるようだった。

音楽というあそび

高橋悠治

来月には、演奏がまた始まる。以前のように、練習しないでその場で弾ける、というわけにいかない。眼のせいだろうか。
手が弾いている音より少し先を見ているから、動きの方向が決まるのに、今はそうなっていない。すると、そこを繰り返して手に憶えさせているのか。それでどうやって、初めて知らない道を歩くような驚きや興味が起こるのだろう。意識した動きは、おもしろくないし、見え透いている。

練習すれば、ためらわず、そこを通り過ぎていくことになる。それではやはり、おもしろいとは言えない。穴だらけの道を気をつけて歩くような、思いがけない引っかかりと、そこを抜け出す時の思わぬ弾みの勢いで、棘のある時間の流れ。

毎日の生活とそこで起こること、それを書きつけ書き残すこと。音楽はそんな生活の記録とは離れたところに置かれた作り物なのか。日記や随筆集に限らず、物語さえ、毎日の間に沈んでいる言葉の連なりを掘り起こした一部分と言えるかもしれないのに、音楽はそこにはない、対立面にあり、別な時間・空間に飾られた鏡、手探りするたびに、違う響きを立てる迷路だとしよう。

では、そこに触れて、その都度少しでも違う経験ができるとすれば、それは、あらかじめ考えられ、仕組まれたスタイルではなく、その時その場で感じた音の流れ、同じ楽譜を辿りながらでも、毎回開ける風景の、異なる片隅にあたる光。すべてが、その時だけの即興のように、音の発見の「あそび」であるかのように、でも、「演奏」といい、「作曲」と言っても、その手続のきっかけの、さまざまな形のひとつであるように、それを仕事とし、さらに職業として、過ごして来たことには、たいした意味があるわけでもないだろう。

意味がなくてもいい。この音が他の音のなかで、どんな響きを立てるか。ある音が音になるまでの「ためらい」、決められたリズムを毎回わずかに外すこと、そこがおもしろく、演奏でそれができなければ、できるような何かを作ってみる。こうして、演奏したり、作曲したり、調子がよい時には、即興もできた時があった。即興は一人でよりも、相手のある時に。そう言えば、演奏も楽譜とだけより、他人との合奏の方がよく、そうでなければ、ピアノの場合、両手の間で、対話できればよいし、作曲も「うた」のように、詩と対話するのが、おもしろかった。自分の主張や表現より、まったくちがう観察を知ると、そこで感じる何か、必ずしもそれと関連がなくとも、そこから想像する状況や動きに、興味が湧く。

2023年2月1日(水)

水牛だより

きょうの東京は3月の気温だったようですが、午後になって外を歩くと北風が強く、とても3月とは思えない寒さでした。気温は温度計で測っただけの数値にすぎず、人間の体が感じるのは数値ではないことを思い知らされます。

「水牛のように」を2023年2月号に更新しました。
半年ぶりに斎藤真理子さんの「編み狂う」が帰ってきました。待っていてくださった人は多いと思います。お待たせしました。これからも続きますからね。商店街のカフェで編んでいる人には声をかけたくなるのかもしれません、ある種のちいさな解放区(斎藤さんによれば「劇場」)がそこにあるから。編み物は糸と針があればできるせいなのか、男性にも好まれていると思います。緻密に編む橋本治、おおざっぱに編む田川律、そして独身時代の津野海太郎も。最近読んだ『キャスリーンとフランク』(クリストファー・イシャウッド 横山貞子訳 新潮社 2022)では、フランクが戦場でだったかな、編み物をするところがあって、感銘を受けました。
この水牛は、だらだらと続けているにすぎないのですが、下窪俊哉さんの編集する『WSマガジン』はあきらかに水牛のなにかを継ぐもののようです。「小さな石を集め、投げ続けることに失敗も成功もない。ただ集め、投げるだけだ。」に共感します。続けてくださいね。
藤井貞和さんの詩集『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』が読売文学賞(詩歌俳句賞)を受賞しました。不思議な藤井さんの詩を毎月読めるのは水牛のしあわせのひとつです。
篠原恒木さんが編集した片岡義男『僕は珈琲』には、めずらしく実名入りで私も登場しています。片岡さんとの楽しい時間はこれからも。

編み物好きだった田川律さんの訃報が届いて、田川さんとともに過ごしたあれこれをブログに書こうと思いましたが間に合わず。スミマセン、書きますので、しばしお待ちください。

それではまた!(八巻美恵)

編み狂う(11)

斎藤真理子

 商店街のカフェでよく編んでいた。歩道を行く人が見える席で、コーヒーが冷めてもまだ編んでいた。

 編みものをしているとときどき話しかけられる。多くは編み物の好きな人、年配の人だ。

「ね、何編んでらっしゃるの」(カーディガンです)
「今着てらっしゃるのも、編んだものなの」(そうです)
「すてきねえ、似合っているわねえ」(これは儀礼的な言葉だ、でも、よい儀礼である)
「でも難しそうな編み方ねえ」(複雑な編み方で糸がいっぱいかかりますと答えて、同情してもらう)
「私も前はいっぱい編んだんですけど今はさっぱりやらなくなってしまったわね。やっぱり手編みはいいわねえ」(上手に編める方はみんなそうおっしゃるのですよね)

 感想は、この範囲を大きくは越えない。よく知っているお庭を巡回する感じで、この中ならどれを聞かれても困らない。
 お連れがいて、その人が編み物に興味がなさそうな場合「もうやめなさいよ、一生けんめい編んでらっしゃるのに」とたしなめられたりしている。年配の人が多いと書いたが、この商店街で三十年編み物しているうちに、自分も年配になった。

 編み物をしていると、親切な人と間違われるのか、こんなこともあった。
「お姉さん、編み物お上手ですね」とチェーンのカフェで話しかけられ、顔を上げると、大きく、生き生きした四つの目がこっちを見ている。「私も高校時代には編んでたけど」などと言われる。同年代かもうちょっと上ぐらい。たぶん二人姉妹で、横にお父さんとおぼしき方が座っている。
 そのうちだんだん様子がわかってきた。二人はお父さんの受診につきそって、近くにある大きな病院まで行ってきたのだ。疲れたのでここで休憩しているのだが、これから商店街で少し買い物をしたい。なので、差し支えなければその間、父の話し相手をしていてくれませんかと。
 それなら私も経験がある。全然かまわない、どうぞ行ってらしてくださいと送り出し、失礼して編み棒は動かしながら、お父さんと何十分か、ぽつぽつお話をした。大きな袋をいっぱい下げ、息を弾ませるようにして姉妹は戻ってきた。お父さんは貿易の仕事をしていらしたようだった。

 私は本を読みながら編み物をするが、ときどき韓国語の原書を広げていることもある。
 あるとき、いちばんリーズナブルなチェーンのカフェでそうしていると、横の席から「何の本ですか」と聞かれた。「韓国の小説です」と答えると「そう、そう」と返事が。
「そう、朝鮮語」
「はい、朝鮮語」
 洗濯を重ねた感じのワイシャツの袖口、背広の中の古びた毛糸のチョッキ。かなりの年配と思える紳士、椅子に杖が立てかけてある。
 ハングルの本を指して、「これは……」とおっしゃるので、韓国の女性の作家のもので、日本でも人気がありますと説明してみるが、あまり聞いてはいらっしゃらない。
「あ……」と言って、紅茶を一口。それから、
「朝鮮と韓国は、同じ民族なんですよ。ただ、思想が違うからね」。
 また紅茶をゆっくり飲んで、
「韓国と朝鮮はね、同じ民族ですよ。思想が違うだけでね」。
 何十年も、何度となくこんなふうに日本の人たちの前に立って説明してきたのであろう、そういう話し方で。
 このあたりには民族学校があって、子供たちが区民センターで伝統音楽や踊りを披露するときには、おじいちゃん、おばあちゃんたちもやってきて、じっと見ていたのを私も見た。 
 商店街のカフェではそんな人に会うこともあった。今はもうお目にかからない。
 
 商店街は劇場だと思う。お店をやっている人、買いに来る人、ときどき来る人、たまたま寄った人。みな一つの舞台にいる。
 元気にお店を守っていた人が、店を閉めてお客になって、シルバーカーをゆっくり押して歩いている。編みながら、カフェの窓からそれを見ている。道で会ったらあいさつをする。やがて家族に腕を取られて歩いている姿を見かける。そしてある日を境に、会わなくなる。
 
 劇場にはカーテンコールというものがある。みんなこの商店街での最後の日、カーテンコールをしてくれたらいいのに。もちろん誰にとっても、その日がいつなのかわかりはしないけれども。

 アーケードのある商店街を「銀天街」と言ったりする。銀天のさらに上空で、その人のいちばん優雅な身ごなしで、下で継続している人生たちに向けて、カーテンコールをしてくれたらいいのにと思う。
 その気配をとらえることができたなら、私は編み棒をしばらく上に向け、小さいあいさつをするだろう。

何も意味しないとき、静かに朝を待つ(上)

イリナ・グリゴレ

こぼれ落ちてもう二度と帰ってこない日常を必死に思い出そうとして、スマホの写真アプリを開く。写真は薪ストーブで温まったように暑い記憶と違って、冷えている。窓まで積もった雪の上に屋根から落ちた氷柱の痕と同じ、写真の跡が私の身体に深い跡を残す。何年か前の娘たちは髪の長い妖精にしか見えない。海、植物、虫、鮮やかな服、階段に散らかっているぬいぐるみ、バレエからの帰りの練習着で食べる唐揚げ、ラズベリーで汚れた手、川の近くで交尾する蝶々、りんご畑、タンポポ、カエル、フキの葉っぱが天井からぶら下がる写真。獅子舞の映像と写真、インタビューの録音と録画、インフォーマントの若い時の写真。お寺、桜祭り、おでん、焼いたお菓子、パン、庭の赤い実、杏、山菜、キノコ、雪の上の鹿の足跡、信号待ちの映像、また虫、動物の写真、妊娠中のお腹の写真、出産の映像。祖父母の若い時の写真、何年前かルーマニアに帰った時の弟と私。弟はハリウッド俳優のような顔つき。何年も会ってない。会いたい。2月に家族と行くと言ったのに、戦争で飛行機代が一人30万円もするので諦めた。

ここ数年、私は意識して必死に自分の日常を撮り、いつかインスタレーション映像と展示を作ろうとしている。誰にも興味のない個人の日常が消え去る一瞬前に撮られたイメージだ。だが普通の写真と違う。それは事件が起きた後の証拠写真に近い。大きな穴を掘っている時に土から出てきた面白いゴミのようだ。誰も価値があると思わないようなものが土を洗うと鉱石の美しさが明らかになる。透明な木の根っこが、あの写真に写っている全ての生き物を子宮の中にいる赤ん坊と臍の緒のように囲んで繋いでいる。しかし、いくら探しても私がそこにいない。写っている20代後半から30代の女性が自分だと認識できない、私の脳が、壊れたA Iのようだ、エラーが出る。この絡み合いの中で私は確かに存在していたが、絡み合う命に溢れている生き物の一部でしかない。娘の発表会のピアノの中にもいたし、森の木の中にも、海の泡にも。確かにいた。こうして写真を見ると音楽に近い状態で存在していたと思うようになった。自分の身体がこれらのイメージと音が響く平地のような物体だった。広がった、開かれた。外か中にいるのかわからないまま。冷たい川の流れの一部になる日々だった。川の水に雪が降って、また水の一部、流れの一部になる。私もこの写真の川に溶ける雪結晶だ。

バッハの『音楽の捧げ物』の「6声のリチェルカーレ」が車内に溢れる。歯医者から帰るところだった。顔の半分が麻酔で動かせない。狭い雪道を運転するのは難しい。ブレーキは効かないし対向車があれば譲り合うしかない。自分の車の前に学校から帰る女の子がいて、反対からは車がずっと走ってきてなかなか進めないから、後ろの車がクラクションを鳴らした。女の子は私が鳴らしたと勘違いして、とても寂しげな目つきで私の目を見た。「私じゃない」、「私じゃない」と泣き始めた。この世を傷つけているものは私ではない。麻酔で動かせない顔の半分で泣く。だから戦争がまだあると思った。イライラしてクラクションを鳴らしたのは後続車の男だ。でも私が泣いたのは誤解を受けたからではない。女の子の眼を見て泣いたのだ。私たちはあの人と同じ世界を共存しないといけない。お互いのことを何も知らないまま。彼は知ろうとしない。雪の中を歩く白い犬が綺麗。あの犬になりたい。

スマホの写真の中で探していた写真を見つけた。4年前のシャガールの展示を見に行った時、初めて来日した父が笑顔満々の赤ちゃんの次女を抱いている。この写真を見ると次女をではなく、父が私を抱いていると感じる。あの頃も孫に会いにきた父と毎日のように喧嘩していたが、昨年の夏にもう一度父が来日したとき初めて共存できた。父は私の周りの知り合いの女性にかっこいいと言われて人気者になった。父はこんな人だったのかと思うようになった。女性に好かれて、かっこいい男の父。冗談を言う父、孫と一緒に散歩に出かける父を見て、自分の父もこの絡み合いの一部であることがわかった。私たち、いわゆる娘と父の作られた関係ではなく、何かの条件で塊として交差している命だ。父を初めて生命としてみた。人間ではなくてもいい、お互いに、偶然に風に飛ばされた土に触れた葉っぱのような関係でいい。

父のアル中をずっと理解できなかった気がする。この前、東京に行って、潰れるまで酒を飲んだ。自分は酒を飲むとき父になりきっている。今回は自分の限界を超えるまで飲んだ。目眩しながらホテルの部屋で倒れた。いつも少しだけいいホテルの部屋を選ぶにはまだ誰も言ったことがない秘密があるからだ。次の朝に大事な約束があったから起きようとしたが動けなかった。酒が全然抜けてなかった。味わったことのない吐き気に追われて壁を押しながらなんとか洗面所にたどり着いて痙攣しながら吐いた。東京のホテルの部屋で身体が動けないままベッドに倒れた夜。飛ぶはずがない白鳥の声が聞こえた。白鳥の声が苦手と思いながら。辛かった。この状態が自分の外からくる湯気のようで火傷するほど暑くって苦しい。誰かを呼びたかった。誰かを呼ぶとしたら誰を呼べばいいと身近な人の顔が浮かんだけど、小さな声で「お父さん」と言った。その朝に自分の父が来て、助けて欲しかった。自分の父の苦しみを初めてわかった。二人で初めて生きる苦しみを分かち合った。今までの喧嘩と苦しみには何の意味もなかった。お互い理解し難い存在だった。何も意味しない時、静かに朝を待つ。次女が言うには、その時、魂が剥ける。蝉のように、蛇のように皮が剥けるまで待つ。こぼれ落ちる日常が去るまで待つ。なんとなく身体を動かして、イヤホンでKendrick Lamarの『DNA』を聴きながら朝の混んでいる山手線の電車に乗って渋谷へ向かった。

『アフリカ』を続けて(20)

下窪俊哉

 前回は新しく始めたウェブの雑誌『道草の家のWSマガジン』の編集が楽しいという話で終わっていたが、その後、約1年ぶりに紙の雑誌である『アフリカ』の”セッション”も再開した。しかし年1冊というのは、重い。1冊のヴォリュームは落としてもいいので、年数冊を出すというくらいのペースに戻してゆきたいのだが、そのために理想を言えば、原稿が勝手に集まってくるというふうなシステムが要る。編集人(私のことだが)の重い腰が上がるのを待つというのでは、やはり年1冊のペースになるだろうし、そうするとやはり雑誌自体にも重さが出る。

 じつは前号(vol.33/2022年2月号)の感想で多かったのが、これまでになくシリアスな内容だった、というものだった。いつも『アフリカ』を読んでくださっている皆さんには、その重さも愉しんでもらえたかもしれない。そうなった理由はそれぞれの作品の中にもあるかもしれないが、編集によるものが大きかったかもしれない。前半に並べた「書く」ことについてのエッセイは、考えることを読者に誘うものだったし、深刻というより真面目。あるいは、このどこか暗い時代の影響を受けてそうなっているのだったりして。などと考えていると、よし、次はもう少し明るいもの、軽いものを目指そう、ということにもなる。
 とはいえ、書く人たちには、書きたいことを書きたいように書いて、というだけなので、明るい編集、軽い編集、ということになる。どうやって、どうなるのかは、やってみなきゃわからない。結局はいつものようなことになるだけかもしれないが、頭の隅には置いておこう。

 ところで、『WSマガジン』を読んだ方からは、「読みやすくて面白かった」という感想が多い。中には「『水牛のように』を毎月、隅々まで読むのは楽じゃないけど、『WSマガジン』は全体をさらっと読める」と話してくれた人もいる。褒められているのだろうことを承知の上で、しかし私はまた考えてしまう。まあそうやって比べる必要はないと思うけど、楽じゃない部分もあった方が面白いような気もする。もっと何というか、読んでいてひっかかったり、詰まったりするようなところがあってもいいのにな、と。
 書きっぱなしの粗削りのものをどんどん出してゆこう、と言ってはいても、実際に書いてみたら、読みやすくてちょっと面白いような文章になってしまう。読みやすい文章を書くなんていうことは楽なことなんだろう。
 ということは、読みにくい文章を書くのは難しい?
 何にひっかかるのか、どこで踏みとどまるのか、あるいは、どこで書けなくなるのか。
 そんなことがじつは大事なことなのかもしれない。
 書けないことをこそ、書きたいと思う気持ちが自分にはある、なんて言ってみたくもなったりして。
 もっとゴツゴツした、うまく言えないようなことを書こうとして失敗したような文章が並んでいてもいいと思う。

 その「ゴツゴツした」という言い方は、富士正晴さんからいただいた、好きなフレーズだ。太平洋戦争の前に『三人』、戦後に『VIKING』という同人雑誌をつくり、亡くなるまでかかわり続けた富士さんは、全国各地から送られてくる同人雑誌を読むのも好きだったらしい。ここで、そのことを少し書こうと思って『贋・海賊の歌』(未来社・1967年)を出してきて、「VIKING号航海記」を読むと、「同人雑誌の小説のたいていは文壇の風俗、流行のイミテーション」だが、稀に「今の文壇で通用しないかも知れないふしぎな純度をもっている作品」「硬質の結晶体のような作品」を見つけ出すことがある、それが「同人雑誌読みとしてのわたしのいささかの楽しみ」だと書いている。この話の裏を返せば昭和の一時期、文芸の同人雑誌が「文壇」の2軍と見られていたことを語ってもいるのだが、私がかつてから注目しているのは例えば次のような文章である。

 このごろうれしいことは同人雑誌が文壇への階段であることを目的とせず、自分自身の存在を第一目的とするような傾向がふえて来たことだ。あまり目がチラチラよそに走っていない。これは自信というものだろう。よそに認められなくても安定している。つまり、雑誌中の評価を相当信じ合っているということである。

 これはつまり『VIKING』のフォロワーが出てきて喜んでいるのである(その「傾向」はいつ頃まで続いたのだろうか)。『VIKING』は自らの存続そのものを目的とし(というふうな言い方をする)、いわば自動操縦の船を造り乗り込み、内側にはその時々でいろんな問題を秘めているとしても、富士さんの没後35年たついまもその航海を続けている。しかも月刊である。
 私はそこに「続ける」ということの花や果実を見るような気がする。
 どこか離れたところに湧く評価を動力としているようでは、「続ける」が燻り弱ってくる。燃料は、自ら与えればよいわけだ。
 そこには「原稿が勝手に集まってくるというふうなシステム」があるはずだ。
 自分がそういうシステムをどうやって構築できるか、という問いの先に、ワークショップというイメージがあったのだ、ということがここまで書いてきて何となく理解できる。自動操縦とまではゆかなくとも、いつでも(雑誌をつくっていない時でも)場が活発に動いて、生きている必要があるだろう。その役割を『WSマガジン』が担ってくれるのではないか、という予感がいまはある。

 どんな小さな石でも、投げれば何らかの波紋を呼ぶだろう。それがどんな波紋になるかはわからない。しかしそんなことはこの際、どうでもいいではないか。それより小さな石を集め、投げ続けることの方に歓びがある。いまのこの社会にはどうやら、失敗が許されない(過去の失敗を許さない)とか、傷つくことを徹底して回避しようとするような傾向があるらしいという話も聞く。そこで失敗こそ人を育てるとか、傷つくことのない人生が面白いかなどとお説教を始めるのもまた容易いか、しかし、ね、小さな石を集め、投げ続けることに失敗も成功もない。ただ集め、投げるだけだ。ただ続けたらよいだけだ、ということを私はいま少し言いたいような気がしている。

しもた屋之噺(252)

杉山洋一

この原稿を書いているコンピュータの脇に、野坂恵子さんのお葬式でいただいた、小さなカードがおいてあります。表には後光をいただく聖女が描かれていて、裏には「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5・8)」とあります。

新年は明けましたが、今年がよい一年として人々の記憶に残る可能性は、限りなく低いと思います。たとえそんな一年であろうとも、人々は等しく必死に生きて、沢山笑ってとめどなく泣いて、時には怒ったりもしながら、美味しいものをたらふく食べるのを夢見つつ、われわれも頑張ってよい音楽をやろうとしているはずです。そんなささやかな毎日を積み重ねて、何とかこの暗い一年を無事にやり過ごせたらいいな、そう思いながら暮らしています。
心なしか、日中の陽の光が少しだけ強くなってきた気もします。気のせいかもしれませんが、でもそう信じて、一歩ずつ足を踏み出したい、そんな思いに駆られてもいます。

1月某日 ミラノ自宅
日本滞在中の息子が町田の両親宅を訪問。スカイプで少し話し、両親と息子と一緒のスクリーンショットを撮った。手製の叉焼でラーメンを作ってもらい、簡単なお節と一緒に、大根だけのあっさりした雑煮も食べたという。夜、息子は老父に町田駅まで送ってもらったらしい。

美恵さんにメールしていて、小学生の頃、すっかり日焼けした立原の小さな詩集を持ち歩いては、立原の詩の内容よりも、ところどころの旧字体の漢字に痺れていたのを思い出した。とりわけ「八月の金と緑の微風のなかで眼に沁みる麦藁帽子」の「麥」の字を偏愛していて、半世紀過ぎてこう告白するだけでさえ、胸の高まりを抑えられない。

1月某日 ミラノ自宅
武満作曲賞で演奏したシンヤンから年賀状が届く。現在、中国は特に高齢者の死亡が多く、シンヤン自身も年配の親戚を失った。シンヤンはアメリカに滞在中だから、葬式すら出られない、ただただ辛い、と書かれている。

大晦日夜半、ロシア軍占領地域ドネツク州マキイウカのロシア軍臨時兵舎爆破。ウクライナ軍は400人殺害と発表、ロシア軍も89人の死亡を認めた。ただ、戦争とは狂気そのものだとおもう。

1月某日 ミラノ自宅
久しぶりにティート宅を訪問。昼食にヒヨコ豆のパスタをご馳走になる。妻のマリアはブルガリア人で、彼女は子供たちと常にブルガリア語で話している。マリアの両親は医者で、揃ってソヴィエトもロシアも嫌悪していたが、現在までブルガリアは親ロシア勢力が強い影響力を持ち、ウクライナへの協調を気軽に表明できる状況にはないそうだ。アルバニアのオペラ劇場が終身雇用で月給1000ユーロになったと話すと、ブルガリア国立オペラよりずっと待遇が良いと驚く。

昨日の日本Covid死亡者が456人で本日463人。過去最多とのこと。新規感染者数は23万8654人。イタリアの本日の発表は未だだが、12月26日から元日までの統計では、Rt値が0.84から0.94。死亡者数は、12月23日から29日の合計706人で、12月30日から1月5日の合計が775人とある。新規感染者数を見ると、1月第一週は一日平均17443人、二週目は一日平均19424人で、例え計算方法に相違が認められたとしても、日伊の差は顕著である。現在の日本の状況は、一体何が原因なのか見当がつかない。これからヨーロッパでも同じ現象に襲われるのかもしれないが、未だその兆しすらない。尤も、イタリアの公共交通機関では、自主的にマスクをしている年配者は多い。
旧暦のクリスマスを祝い、ロシア軍は一方的に休戦宣言。ロシア、ウクライナ共に散発的な戦闘は止まず。

1月某日 ミラノ自宅
家人曰く、作曲をしているときは機嫌が良いらしいが、こうも筆が進まないと、どう気分を変えてよいかもわからない。

当初、功子先生からは「自画像」のようなヴァイオリン協奏曲を書いて欲しいと言われていて、それ以来、2021年8月タリバンがアフガニスタンの公共の場での音楽演奏禁止を発表した直後に銃殺された、民謡歌手ファワド・アンダラビの弾くギチャクの旋律を使うべきか、まだ迷っている。ペルシャの民族楽器ギチャク(Ghaychak)は、ヴァイオリンに近しい弓絃楽器で音域もほぼ等しい。

功子先生のための作品を生々しいものにするのは気が引けるが、アフガニスタンから逃げ出した無数の音楽家たちや、息を凝らして必死に生きるアフガニスタンの女性の姿が頭から離れず、何らかの標を自作に書きつけておかなければと思ってきた。だから、もう少し悩んでから、きっと何某かの形でファワドの旋律がヴァイオリン協奏曲に埋め込まれることになるのだろう。

本日の日本Covid関連死亡者520人との発表。一体どうなっているのか。NHKラジオニュースを聞いていて耳を疑う。家人、息子ともにミラノ帰宅。

1月某日 ミラノ自宅
松平頼暁さんの訃報。心底Covidが恨めしい。松平さんから直接お願いされた、未初演のレクイエム上演を完遂できぬまま、松平さんが亡くなってしまった。ただ悔しく申し訳なく、限りなく無念だ。

「冬の劇場」の頃から、足繁く演奏会を聴きに来てくださり、その度に励ましていただいた。その松平さんご自身からレクイエムのお話しを伺い、とても光栄に思っていたし、当初はお元気なうちに上演可能と信じて疑わなかった。オペラ「挑発者たち」と「レクイエム」は、絶対に納得ゆく形で上演すると心に決めてきたが、結局コロナ禍に翻弄されてしまった。併しその逡巡は、自分の詰めの甘さや一寸した気の緩みや、微かな諦めが折り重なった所為ではなかったか。後から悔やむくらいなら、人生無理にでも突っ走った方がよいと頭では理解している積りだったが、浅はかであった。今はどうにも気持ちの整理がつかない。

フェニーチェ堺の福尾さんよりお便りを頂く。平井さんや当時関わった様々な方を思い出すと、涙が止まらない、とある。
「みんな、どこにいってしまわれたのでしょう。でもこうして杉山さんからのメールを拝読し、ああ、あの時間は本当にあったんだ。同じ時間と同じ至福の時を過ごした方がいらっしゃったんだ、そのことを思い出せただけでもありがたく、嬉しかったです」。

1月某日 ミラノ自宅
朝、11時。霙雑じりの雨に打たれながらパトリツィアに会いにでかけた。昨今の音楽界を席巻するのはSNSで人気を博す音楽家ばかりで、本当によい音楽家であるかどうかは二の次になっている。娘や孫の世代にどんな音楽や文化を遺してやれるのか甚だ不安だ、と畳み込むように話す。
彼女曰く、ブレンデルはマスターコースをするとき、完璧な演奏より寧ろ個性が生きる演奏を目指して指導していたそうだ。

岡村雅子さんの訃報が届く。岡村さんとは、大原れいこさんと三人で集っては、川上庵で蕎麦など啜りつつ、いつも他愛もない四方山話にばかり花を咲かせていたから、音楽関係者というより、ごく普通の友人として受け入れて下さっていたのだろう。
下北沢のレディジェーンで、娘さんがいれたボトルを二人で静かに味わったこともあった。そんな時ですら一切涙もこぼさず坦々と娘さんを偲んでいらしたから、流石に格好良すぎる、無理をしないでほしい、と内心心配していた。
「16歳!もう親の手綱からは離れているんでしょうね。でも不思議なことに、遺伝子はいろいろなところに見受けられて、もどかしいというか、親子の繋がりを、いろいろな場面で感じることができて。突然、私の娘のことを思い出してしまいました」。
「娘のことは大丈夫です。折につけ、いろいろ思っていますから。この間下北沢の小さな空間でハロルド・ピンターの2人芝居を演出した演出家は、ほぼ30年前私達家族がここに家ができて引っ越してきた時に、娘が一番初めに連れてきた人で、きっと、演劇の話をしたら止まらない、別に恋人じゃないけど、いつまででも話していたい、そんな間柄だったんだなあと今頃思ってますし。折につけ、そんな感じで娘が登場しています。色々な人との出会いも楽しんでます」。
漸く春彦さんとも娘さんとも、勿論れいこさんとも再会されて、岡村さんは相変わらず格好よく、素敵な時間を過ごしていらっしゃるに違いない。我々は少しの間寂しいけれど、でも岡村さんが倖せなら、それも我慢できる気がする。

1月某日 ミラノ自宅
早朝、中央駅6時過ぎの特急でフィレンツェへ向かい、佐渡さんのマーラー、リハーサルを見る。朝8時過ぎのフィレンツェは行き交う人も疎らで、ジョットの鐘楼はどこか凛とした佇まいを見せる。街角で道を尋ねると、みな実に親切に教えてくれる。朝の冷気もミラノより少し緩く、心なしか人々の表情も明るい。
佐渡さんの音楽は懐が深く自然に呼吸していて、尖ったり邪魔をするものがないから、演奏者の身体にそのまま溶け込むのだろう。オーケストラの奏する音はみるみる変化して、文字通り圧巻である。オーケストラも、のびのびとしていて、とても弾きやすそうだ。
夕方からミラノで授業があったので、ゆっくりと話し込む時間はなかったけれど、つかの間の再会を喜ぶ。ミラノに戻る直前、駅前の四川料理屋で海鮮麺と肉なし麻婆豆腐をかきこむ。周りの客は地元の中国人だったらしく、揃って中国ケーブルテレビの旧正月記念番組に見入っていた。

1月某日 ミラノ自宅
ケルン旧消防署にて、渡邉理恵さん指揮、アンサンブル・デヒオのリハーサル見学。特殊奏法の多いファラの作品に対して、まず奏者の疑問をていねいに溶きほぐしてから、それらを音楽の流れに浮かべてゆく。外から眺めていると、作曲者、指揮者、演奏者、それぞれの音楽が、次第に中心へ収斂され、一つになってゆくのが、つぶさに理解できた。やがて、作品を通して、演奏家、指揮者の音楽がより鮮明に浮かび上がるのも興味深い。

稲森くんや渡辺裕紀子ちゃんの作品を演奏しているとき、こうしたヨーロッパの日々が彼らの楽譜の向こうに見えていたつもりだったが、久しぶりに間近でその空気に触れると、より具体的に、直接的に、彼らの音楽の本質を深く肌で感じられて、なんだか嬉しかった。

作曲者が提起するアイデアの収斂点から、どんどん深く掘り下げて啓いてゆく姿勢は、瑞々しく新鮮であった。何より、指揮者と演奏家が揃って作曲者の意図を誠実に汲取ろうとする姿勢に大変感銘を受けた。リハーサルは濃密でありながらしつこくはなく、有意義であった。

ミラノ国立音楽院のアウシュヴィッツ解放記念の記念演奏会で、息子がロッシーニやショパンの断片を弾いた、と家人よりヴィデオが届く。

1月某日 ミラノ自宅
旧消防署庁舎近くの広場の朝市でドイツ風クロワッサン二種とワッフルを購い、スタンドでコーヒーを淹れてもらい朝食とする。美味。クロワッサンはどちらも濃厚な味わい。そのまま渡邉さんとすっかり話し込む。朝市の肉屋の店先はすっかり磨き上げられていて、高級感が漂っていた。聞けばこの朝市は富裕層がターゲットで、質も高く値も張るそうだ。

ケルンより帰宅。ケルン在住の作曲家、ファルツィアはイラン出身で、家族はみな本国に残っている。数年前に比べて、状況はすっかり厳しくなった、とこぼす。イランに戻れるけれど、自分は現政権にとって不都合な人間になる。家族とも連絡は取れるけれども、安全ではないし、インターネットは遮断されているから、VPNを使わなければならない。
海外からの情報は以前から制限されていて、市民は国外からの文化や情報を渇望していた。その証に、家人がテヘランを訪れたときは、熱狂的に歓迎された。現在はその交流すらすっかり影を潜めている。国が変わらなければいけないが、それはとても大変だともいう。君の音楽はご家族の希望だねと話すと、そうね、と少しだけ口元が緩んだ。
彼女はケルン・ボン空港の近所に住んでいて、発着する飛行機を見上げては、時に思いを馳せているという。

1月某日 ミラノ自宅
ナポリ広場の広告板には、黄色と青色のデザインで、ずいぶん長い間「NO WAR」と表示されていたが、このところ、「あなたのため、ミラノのため」特集に入れ換えられた。
路面電車の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、公共交通機関を使おう」、LED電球の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、LED電球を使おう」、階段の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、階段を使おう」と書いてあって、要は節電要請である。
ウクライナ侵攻から1年近く経ち、戦争反対の声は聴かれなくなった。NO WAR ではなく、STOP WARとスローガンは書き換えられ、英米国に続き、ドイツもレオパルド2のウクライナへの供与を決定し、ヨーロッパ全体として、ウクライナの侵攻を現実に受けとめているようだ。サンレモ音楽祭のなかでゼレンスキー大統領が声明を発表するとかで、サンレモでゼレンスキーが話して意味があるのかとイタリアでは冷笑が広がっている。

冷戦中ソビエトのミサイルは、北大西洋条約機構基地のあるトリエステではなく、ユネスコ世界遺産であるヴェニスに焦点を定めていて、ウクライナ市民やライフラインを狙うロシア軍を思わせる。1年後、我々の生活がどうなっているか、正直なところ、わからない。

1月某日 ミラノ自宅
どこか妙な一日であった。朝、家人と散歩して帰宅中、路面電車の停留所で、まさに乗込もうとしている格好そのまま、俯せに倒れ、微動だにしない男がいて、運転手が駆けつけていた。
夕刻、学校を終えて帰宅すると、家人が後ろから走ってきた電動スケートボードに跳ね飛ばされ、全身を強く打っていた。

自宅前のドン・ミラーニ橋から、シーツに黒スプレーで書きつけられた垂幕がかかっていて、現在収監中のFAI(非公式無政府主義者同盟)指導者アルフレッド・コスピトが、刑務所規則41条bis反対して行っているハンガーストライキが150日に突入し、健康状態の悪化を訴えている。イタリア各地で非政府主義者同盟の支持者らが、火炎瓶などを使った抗議活動を展開しており、国外でもベルリンとバルセロナのイタリア大使館関連施設での破壊暴力活動に及んだ。ミラノの日本領事館から、デモなどに近づかぬようメールが届く。

(1月31日ミラノにて)

どうよう(2023.02)

小沼純一

きかせてよ
うみのむこうにいるあなた
わたしおもって
いとしいこえを

あンあンあン

きいててね
うみのむこうにいるあなた
わたしいまって
こんなかも

あンあンあン

あのひとかな
こんなとこにいるんだから
こういうつながりなのかしら
それらしい あいさつだけで
にこにこしながらしておけば
いい
のかな
おひさしぶり
おかわりありません

か か か
さいきんはどういった
すこしでもおもいだせばしめたもの

みんなみんないいひとばかり
いつからこんないいひとばかり
むねやけちりちり

たえまなく
はきけぐぶぐぶ
あいだをおいて
とまらない

みんなみんないいことばかり
いつからこんないいことばかり
いいひといいことあっぷっぷ

ふるまえふるまいふるまでに
いいひといいことぶってぶって

わかれてはしまったが
わすれたのはよかったこと

いいことだって
たのしいことだって
いくらもあった
はずなのに
なかなかみえないトンネルの
でぐちのように
みえにくい

わかれてはしまったが
おぼえているのはいいことだけ

わるいことだって
いやなことだって
いくらもあった
はずなのに
はなをいちりんふってたり
さがっためじりは
すぐそこに

わかれてはしまったが
ひらいているのはかさばかり

あめにふられて
むかうむかいの
すれちがい
かみからくつうら
いいもいやなもあやめなく
へやのそとには
まっかなかさが
あめふらし

いちにさんし
うんだつぎにはなくなる

ことばちがえるひとに
おしえました
むかしそういってたかたが

いちにさんし
さんとしと
いっしょだとややこしい
って
あてつけだっていわれるから
いわなかったかな
しのあと 
しご
ってつづくんだよと

いちにさんし
そのあとはなんだろ

にさんしごろく
ごろくはやはりかきつけか
どこかに
きっとのこってる
だれかさがしに
ろくしちはちく

ポルトガルの海

植松眞人

 東京メトロを千駄木駅で降りて、団子坂を登り切ったところに森鴎外記念館がある。その前の通りを右に折れたあたりに文京区の図書館がある。
 鴎外が実際に暮らした観潮楼跡に建てられた森鴎外記念館はかなり気合いを入れて設計されている分、目と鼻の先のこの図書館の建物の地味さが際立つ。役所の一角なのかと見間違うほど、なんの特徴もない。それでも、自然と森鴎外の書籍を探し始める。「文学」と書かれたプレートが奥の方に掲げられていたので、そちらに向かうと「近代文学」「純文学」と棚がわかれていたので迷わずに「近代文学」を探す。「純文学」は「男性作家」と「女性作家」に別れているのだが「近代文学」は男女では別れておらず、シンプルに「あ」「い」「う」と五十音別に並べられている。
「も」のプレートを探そうと目を走らせた瞬間に背表紙が上下逆さまになっている青い本が飛び込んできた。自分の顔を少しひねって、なんとか逆さまになった文字を読むと、背表紙には『ポルトガルの海』とあった。『ポルトガルの海』と言えば、確かと思いながら、著者名を見ないようにする。『ポルトガルの海』と言えばと書棚に背を向けてる。自力で思い出したい。スマホに頼らずに思い出したい。しかし、還暦を迎えてすっかりこらえ性がなくなってしまい、そんなこだわりはすぐに知りたいという気持ちにあっさりと負けてしまう。振り返り、書棚に手を突っ込み、逆さまになった本を取りあげ、著者名を確認する。そうだった。フェルナンド・ペソアだった。
『うた』と題された詩編から始まるその本がなぜ日本の近代文学の書棚に突っ込まれるように置かれていたのかは知らない。けれど、それを見た瞬間から、森鴎外が若き日に留学した国がドイツではなくポルトガルだったらという思いから抜け出せなくなっていた。
 ペドロ・コスタの映画『溶岩の家』や『ヴィタリナ』に出てくるようなポルトガルの辺境の町を鴎外が歩いていたとしたら、エリスにも会わなかっただろうし、万一、エリスのかわりにポルトガル女性に会っていたとしたら、鴎外はその後日本に帰国しなかったかもしれない。ドイツは何かを学び何年か後に帰ってくる場所にはなり得ても、ポルトガルは違う気がする、などとドイツにもポルトガルにも行ったことがないのに、勝手に決めつけている。
 受付で聞くと、文京区に住んでいなくても身分証明書があれば本を借りることができるというので、手続きをして『ポルトガルの海』を借りる。そして、学生たちが自習をしているデスクがずらりと並んだ場所をすり抜け、老人たちがぼんやりと時間を潰しているソファの空いた席に座り、借りた本を開く。同時にスマホでウィキペディアにアクセスして、鴎外とペソアの生年月日を調べる。
 鴎外はペソアよりも三十年近くはやく生まれ、十年ほどはやく亡くなっている。鴎外がドイツ留学から帰ってしばらくしてからペアソが生まれたので、仮に留学先がポルトガルだったとしても、二人の人生が交錯することはない。ただ、ペソアの詩集の日本語訳が森鴎外記念図書館の「近代文学」の書棚になったことは記憶の中で決して忘れることのできない出来事になった。
 鴎外とペソアは生涯分かちがたく結びついてしまった。誰かがペアソの詩を乱雑に書棚にしまったがために。鴎外の名前はすでに、ペソアの『ポルトガルの海』の表紙の色だ。そして、それが本当にポルトガルの海の色をイメージしてデザインされたものかどうかは知らないけれど。(了)

字あまり、または1ダースの月’23

北村周一

シンゴジラやらシンウルトラマンも現れてシンハマオカに集う一月

二俣の売家に二股かけられてくんずほぐれつ逃げる二ん月 

字あまりに臆することなく憤るその溜息でくもる三月

夜さり夜さり酒酌み交わす友もなく一人ふたりと消えゆく四月

つまの吐くね息のなかにわが眠りしずめんとして縮こまる五月

耳の中の小さな石の不始末を眩暈と呼んで鬱ぐ六月

物を見てえがくすなわち手描きへの自負と偏見煽る七月

AIにたくすすなわち手描きへの自負と偏見くたす八月

さめぎわに消残る夢のあさくして自問自答に悶える九月

老いてなおここよりほかの場所数多夢に浮かべてさやぐ十月

絵日記は汚れやすくてぽちぽちと杳いメールを打つ十一月

子煩悩な親ほど怒りやすしとも ラク書き消して回る十二月

片岡義男作品のなかの珈琲3つ

若松恵子

片岡義男さんの新刊『僕は珈琲』が1月24日に発売された。片岡さんの本を読むと、おいしい珈琲が飲みたくなる。ヤクザ映画を見た人が、肩をいからせて歩くように、珈琲を片手に私も小説の中の人になる。片岡作品のなかの、心に残る珈琲の場面を3つ引用して紹介したいと思う。

***

 横断歩道を渡ってきた彼女は、ビルの前を右へ歩いた。右へすこしだけ歩くと、そこがビルの角になっていて、さっき彼女が渡ってきた往復八車線の道路からわきに入りこんでいく道路とのT字交差だった。
 ビルの角を、彼女は、わき道に沿って、まがった。このビルのこちら側だけは、アーケードのような通路になっている。ビルの壁面にその通路がくいこんだ造りになっていて、雨の日でも濡れずに歩ける。
 一画を大きく占拠しているそのビルの裏手へ、彼女は歩いた。彼女がいま歩いていく通路と、そのビルの裏にある道路との角にあたる部分は、カフェテリアになっていた。角を中心にして両側の壁は大きな透明のガラス窓だ。カフェテリアの内部が、いつも外から見えた。
 歩いてきた彼女は、カフェテリアのガラス・ドアを押し、店のなかに入った。ガラスのドアのまんなかに、クリスマスの花輪が飾ってあった。夕方の混みあう時間を過ぎた店内に、客はあまりいなかった。ハンバーガーとコーヒーの香りが、静かに店内をひたしていた。
 カギ型にあるステンレスのカウンターの手前に、テイク・アウトの窓口があった。その窓口の前に立った彼女は、ユニフォームを着た若いウエートレスに、「コーヒーをふたつでいいの」と注文を告げた。丈の高いカウンターの縁にトレンチ・コートを着た片腕をかけ、彼女は待った。
 カウンターで食事をとっている二人の外国人男性の話し声が、聞こえるともなく聞こえてきた。会社帰りの、ビジネスマンのようだった。ひとりはアメリカの英語を喋り、もうひとりの英語はフランスなまりだった。
 コーヒーが、できてきた。紙コップに入れて薄いプラスチックのふたをし、クリーマーと砂糖、それにままごとのようなスプーンをべつにそえ、紙袋におさめたものだ。
 彼女は、料金を払った。ウエートレスがくれた小さなレシートをトレンチ・コートのポケットに入れ、テイク・アウトのカウンターを離れた。
 店の外に出た彼女は、角にむかって歩いた。信号のない裏通りの横断歩道を渡るとき、ちらっと彼女は店をふりかえった。
 大きな透明の窓ごしに、店の内部が見えた。光っているステンレスのカウンターに、機能的に美しくととのえられた調理場、そして英語のメニューとカウンターで食事している二人の外国人。そんな光景が、彼女の目に入った。外国の街角で見る光景のようだった。
 横断歩道を渡りきって、彼女は右のほうに目をむけた。道路のむこうに、国電の高架駅があった。車体がブルーの電車が、その駅に入ってくるところだった。
 人通りのすくなくなった夜のオフィス街を歩きながら、彼女はコーヒーの紙袋を開いた。熱いコーヒーの入った紙コップをひとつとりだし、プラスチックのふたをとった。ふたを紙袋のなかに落とし、紙袋の口を閉じなおした。
 紙コップを、彼女は口にはこんだ。強い香りのする、熱いブラック・コーヒーを、彼女は唇のさきですこし飲んだ。

 『吹いていく風のバラッド』 18 (1981年2月 角川文庫)

トレンチ・コートの彼女は、コーヒーを飲みながらオフィス街を歩いて、最後は地下鉄に乗る。その姿が描写されているだけの物語だ。1981年当時、テイク・アウトのコーヒーを飲みながら歩くという事は、新鮮でただただかっこ良かった。

***

 コーヒーに蜂蜜を入れようとしたスティーヴンは、カップもスプーンも、これまで見たこともないほどに汚れているのに、はじめて気づいた。
 黒いカップだと思っていたのだが、じつは汚れの蓄積によって黒くなっているのであり、本来は白なのだった。取手の指の触れる部分と、唇のさわるとこ、そして底の二センチか三センチほどが、ほのかに白かった。指で触れてみると、汚れの厚みがはっきりとわかった。
 スプーンもおなじだった。ぜんたいにまっ黒で、こびりついた固い汚れで形はいびつに見えた。心のなかではひるみながら、スティーヴンはスプーンで蜂蜜をすくいとった。そして、コーヒーに入れた。あまりかきまわすと汚れがコーヒーのなかに溶けだすのではないかと思い、すぐにスプーンをひき出した。
 コンロイは蜂蜜を使わなかった。
 白い部分に狙いをつけて唇を寄せ、スティーヴンはコーヒーを飲んだ。そして、驚嘆した。コーヒーは、ものすごくおいしかった。熱い芳しい液体が口から喉へ落ちていくのを感じながら、これまでに飲んだ何千杯とも知れぬコーヒーのなかで、いま自分の手にあるこの一杯がいちばんおいしい、とスティーヴンは確信した。
 自分をとりまいている自然のなかのあらゆるものが、一杯の熱いコーヒーに凝縮されていた。そのコーヒーが、自分の体の内部へ流れこんでいく。深いスリルに鳥肌の立つような、魔法の瞬間だった。
 人里遠く離れた丘のつらなり。澄みきった冷たい夜の空気。夕もやの、しっとりした香気。夜の匂い。草のうえにいる数百頭の羊たちの鳴き声の合唱。犬の声。そういったおだやかな物音が吸いこまれていく、自然の空間の広さ。もうはじまっている、高原の長い夜の静寂。こういったものすべてが、一杯のコーヒーになって自分の体の内部に流れこんだ。と同時に、スティーヴンの感覚は、コーヒーが口のなかに入った一瞬、冷たい夕もやの立ちこめる夜の広さのなかへ、いっきに解き放たれた。

彼はいま羊飼い(『いい旅を、と誰もが言った』1981年2月角川文庫 )

一杯のコーヒーによって、彼はいま羊飼いだ。
自然そのものが凝縮されているコーヒー。つつましい日常の中で、そんなコーヒーを飲みたいと願いつつ・・・。最後は片岡さんの詩集から。

***

  秋のキチンで僕は

目を覚ました僕は寝室を出た
彼女は仕事にでかけたあとだった
僕はキチンに入った
食卓のいつもの椅子に、僕はすわった
キチンのなかには匂いがあった
パーコレーターでいれたコーヒー
シナモン・トースト
彼女のシャンプーおよびリンスの香り
そしてさらに、なにであるか不明の、なにかの匂い
服の匂いかな、と僕は思う
彼女の、秋の服
今日から彼女は、秋の服の人になったのではないだろうか
僕はいまでもまだ、Tシャツにトランクス一枚だ
涼しさをとおり越して、肌寒さをはっきりと感じる季節
僕は両腕を撫でてみる

日焼けが目に見えて淡くなりつつある
残念だ
どうしよう
というところからはじまる、今日という一日
キチンのなかで僕は
彼女が残していった香りを
ひとりで懐かしんでいる。

『yours』(1991年3月 角川文庫)

片岡さんの描く台所はキチンだ。珈琲を飲む場面は出てこないけれど、珈琲の香りを感じて静かに深呼吸する。

カタオカさんとおれ

篠原恒木

片岡義男さんについて書こう。

カタオカさんは物知りだ。
いろんなことを知っている。

雨の日におれはL.L.Beanのレインブーツを履いていたが、タイルが敷かれた地面を歩くとツルツル滑ることをカタオカさんに訴えたら、こう言った。
「それはそうだよ。そのブーツはハンティングをするのに沼地へ入るときのものだから」
「は?」
「音も立てずに沼地を進むためのブーツさ。獲物に気付かれないようにね。防水性には優れているけど、都会の道路には向いていない」
ううむ、知らなかった。じつにすべらない話ではないか。

「アメーラトマトってあるだろ」
「ありますね。アメーラってイタリア語ですか。トマトだけに」
「アメーラは静岡地方の言葉で『甘いだろ』という意味だよ」
「知らなかった。てっきり外国語だとばかり思っていました。オメーラ、タダじゃおかねぇ、とは日頃よく言いますが」
これは見事にすべった。

先日出版されたカタオカさん著の『僕は珈琲』のなかでも書かれているが、「アメリカン・コーヒー」の由来は、第二次世界大戦でアメリカでの珈琲豆が不足して、節約のため薄い珈琲を淹れたことが始まりらしい。カタオカさんは回想する。
「僕はアメリカン、とよく喫茶店でオーダーしていた人がいたよなぁ」
ううむ、これも薄味ではない、じつに濃い内容の話ではないか。

だが、カタオカさんは物を知らない。
「えっ、そんなことも知らないの?」というケースがよくある。

居酒屋の壁一面に貼られたメニューの短冊をじっと見つめながら、カタオカさんは呟いた。
「いぶりがっこ」
「食べますか、いぶりがっこ」
「いぶりがっこって何?」
「知らないんですか」
「知らない」
「大根を燻った漬物です」
「だからいぶりなのか。がっこって何?」
「学校のことです」
「本当かよ」
「嘘です。秋田地方で漬物のことをがっこと言うのではないか、と思います」
「旨いの?」
「クリーム・チーズをディップにして食べたりすると旨いです」
「ふーん」
カタオカさんはメモ帳とペンを取り出し、大きな文字でゆっくりと「いぶりがっこ」と書いた。それがおれの目にはとても可愛らしく見えた。
ほどなくして「いぶりがっこ」が登場する小説を発表したのだから、作家というヒトは恐ろしい。

「安保という漢字が読めなかったんだ」
「アンポ? あの日米安全保障条約のアンポですか」
「もちろん音としては認識していたよ。周りがみんなアンポ、アンポと言っていたからね。だけど、どう書くかについては知らなかった。立看板に『安保反対』などと書かれていたけれど、ヤスホとは何のことだろうと思っていた」
「そういうのをアンポンタンと言うのです」

『僕は珈琲』のなかでも、これと同じようなことが書かれている。「外為」という言葉についての話だ。クスリと笑うけれど、言われてみれば確かにそうだ、とおれは思ってしまった。安全保障条約を縮めてアンポと呼ぶのはいささか乱暴のような気がしてくる。ましてや「ガイタメ」なんて、考えてみればヒドい略語ではないか。

日本人はこういった略語が大好きだが、カタオカさんにとっては嫌な感じがするらしい。ちなみに「パソコン」「テレビ」「スマホ」「コンビニ」とはどうしても書けないと言う。「PC」「TV」「スマートフォン」と書く。「コンビニ」に至っては「人々がコンビニ、と呼んでいる店」と書いていた。これは略語に対する凄まじい嫌悪、いや、憎悪ではないか。
「ではラジオはどうなんです? レディオとは書かないでしょう」
「ラジオはラジオだね。日本語として」
確かにラジオは略語ではない。カタオカさんは重度の略語アレルギーなのだろう。

カタオカさんは怒らない。
怒ったことを見たことがない。
「なぜ怒らないのですか」
「怒ってもしょうがないだろう。疲れるだけだよ」
「でも怒ってヒトを怒鳴りつけたことも一度や二度はあるでしょう?」
カタオカさんはしばらく考えて、こう言った。
「昔、書いた原稿を編集者が失くしてしまったことがあったなあ。電話がかかってきたんだ」
「編集者はなんと言ったのですか?」
「市ヶ谷の大日本印刷に原稿を届けに向かう途中で、小脇に抱えていた原稿の束を一枚残らず外堀に落としてしまいました、と言ったんだよ」
「ええっ、あの市ヶ谷駅の脇にある川のようなところですよね。つまりはすべての原稿を水没させてしまったと」
「そうなんだよ。きっとバサバサッ、ヒラヒラと紙が舞って外堀に落下したんだろう。まだ原稿用紙に手書きの頃だったな」
「それはいくらなんでも激怒したでしょう。原稿のコピーは?」
「とってないよ」
「ひゃあ、おれだったら怒鳴り散らしますよ。当然怒りましたよね?」
「いやぁ……怒るもなにも、呆れたよね」
カタオカさんは笑いながらそう言った。そのあとの書き直し作業については訊くのが怖かったので、おれはそこで絶句してしまった。

怒らないからといって、ナメてはいけない。
カタオカさんは優しい顔を保ちながら穏やかな声で、本質的なひと言を口にする。そのひと言はかなり怖い。ひと言の内容はここでは書けない。何通りかのパターンがある。鋭い刃物のようなひと言だ。おれはよせばいいのに、
「もうちょっと嚙み砕いて言うと、こういうことですか?」
と尋ねてしまうのだが、ブラック・カタオカは、
「そうなんだよ」
と言って、微笑みを浮かべる。こういうときは怖い。怒らないのに怖いのだ。おれのように声を荒げて罵詈雑言をまくしたてる奴は、臆病なワンコと同じなのだ。弱い犬ほどよく吠える。悪い奴ほどよく眠るのだ。

カタオカさんは裏切る。
裏切り者なのだ。
おれがあらかじめイメージしていたような原稿を書いてくれない。いつも裏切られる。
「もっとこのあたりを詳しく書いてくださいよぉ」
「いやぁ……ここはこれ以上書けないよ」
いくら誘っても、こちらが思っているイメージに近づいてくれないのだ。だからおれはある時からこちら側に誘うのをやめた。カタオカさんのイメージにおれのほうから近づこうと、考え方を変えたのだ。
だから最新刊の『僕は珈琲』でも、事情の許す範囲の限度ギリギリまでカタオカさんの文章と寄り添う写真を入れた。書き下ろしのエッセイ集に写真を散りばめるのは邪道かもしれない。「描写のカタオカ」と呼ばれている作家が丹念に描写している人やモノの写真を文章のすぐそばに挿し込むのは失礼にあたるのかもしれない。だが、あれがおれなりの「近づき方」なのだ。

原稿を読み返すと、おれは思う。
カタオカさんは「何を書くか」ではなくて「何を書かないか」に心を砕いているのではないかと思うのだ。おれが書いてほしいとイメージしていたのは「書かないほうがいい」部分ばかりなのかもしれない。そうなのだ。それを書き足したら、冗長で散漫な文章になってしまうのだ。

冗長で散漫な文章はここで終わる。

日本のおばあちゃんとパレスチナの坊ちゃん

さとうまき

僕は、昨年から80歳を過ぎたおばあちゃんのお世話というアルバイトを始めた。「いろいろ相談に乗る」という仕事だ。おばあちゃんは、敬虔なカトリック信者である立場から、イスラエルとパレスチナ双方にも深い友人がいるそうだ。英語、フランス語、ヘブライ語が話せ、そしてアップルのコンピュータをバリバリ使いこなしているからすごいのである。といっても後期高齢者であることには変わりなく、ところどころ補わなくてはいけないのが僕の仕事である。

僕としては聖書の話とかユダヤ人が何を考えているのかいろいろ教えてもらいたい。イスラエルは近年右傾化が進み、昨年暮れに誕生したネタニヤフ政権は、パレスチナを挑発しまくり2国家共存などはあり得ないような勢いだ。

まず1月3日に極右のベングビール国家安全保障相が神殿の丘を訪問しパレスチナを挑発。神殿の丘の訪問は2000年も第2次インティファーダ―のトリガーとなっており、イスラエル側の戦線布告といっていいだろう。

さらに1月8日には、ひどい行動にでる。国連総会が昨年12月30日に、イスラエルによるパレスチナ占領を巡り国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)に法的見解を示すよう求める決議を採択したことの報復措置として、パレスチナ自治政府の代理で徴収している税金のうち、約1億3900万シェケル(約52億円)の送金を差し止め、パレスチナ人によるテロ攻撃の犠牲者家族への補償に充てることを決めたというのである。

報復って、国連決議案出しただけで報復? 国際社会はこういうイスラエルのわがままで傲慢なやり方にこそ制裁措置を課すべきではないかと思ってしまう。

そして1月9日にはベングビールは、「本日、私はイスラエル警察に対し、テロ組織との同一性を示すパレスチナ解放機構の旗を公共の場で掲げることを禁止し、イスラエル国家に対するあらゆる扇動を止めるよう指示した」と述べてパレスチナを刺激する。

極右政党「ユダヤの力」の党首、ベングビール(46歳)とはいったいなにものだろう。イスラエルからアラブ人を追い出すことを信条にカハ党で若者のリーダーとして活躍していたらしい。カハ党は、ユダヤ系テロリストとつながっており、たびたびテロを起こしていた。のちに、反社会的としてイスラエルに非合法化される。ベングビールは弁護士となり、極右やユダヤ人テロリストの弁護をすることになった。若いユダヤ人からの支持が強いことが厄介である。

パレスチナ人の憎悪をあおっておいて、イスラエル軍は西岸へ治安部隊を展開し、今年になってすでに約30人の死者が出ている。パレスチナ側もシナゴーグを襲撃するなどして暴力が激化しているのだ。

そんな中、老婆が可愛がっているイスラエル国籍を持つアラブ人のおぼっちゃんが急遽来日することになった。本当は昨年の秋に来日することになっていたが、コロナがらみで、せっかく降りたビザも来日のタイミングを逃し、「早く来なさい」と促したら、急遽数日後に来日ということになってしまい、僕もお手伝いに奔走する羽目になってしまったのである。

そもそも何をしに来るのかよくわからなかったのだが、どうせなら現場の生々しい話を語ってもらうという報告会をして、恵まれないパレスチナの子どもたちにカンパを集めようということになった。そんな中、カンパならぬ寒波が急襲し、我が家の水道管が破裂し、修理に痛い出費となってしまった。悲しんでいるまもなく仕事がふえる。

報告会は、まず人集めに苦労する。修道院を借りてオンラインでも配信することにした。直前に申し込み者も増えて、何とか人が集まったものの生配信のトラブルが発生。老人の前で、こういうトラブルでもサクサクと乗り切り、かっこのいいところを見せたかったのだが、うまくいかずに精神的にかなり落ち込んだ。お坊ちゃんは、時間配分を考えずに話すので、時間もかなり長引いてしまった。それでも現場の話は貴重だった。

さて、ぼっちゃんはベツレヘムからお土産をたくさん買ってきた。老人の命令で、日本で売って孤児院に寄付するというのである。お金の清算をしていたらなんと30万円ぶんの雑貨を購入してきたことが判明。中には、こんなのが売れるのかと思うようなものもある。収益を出すためには、これを1.5倍くらいの定価にしても15万円の利益。簡単に売れればいいけど、その準備の手間暇とか考えてまたまた凍り付く。

仙台ネイティブのつぶやき(79)雪の中で食べるもの

西大立目祥子

寒い。もちろん1月下旬から2月にかけての時期が、1年でいちばん寒いとはわかっているのだけれど、1月25日の気温には驚愕した。最高気温がマイナス4.2度で、最低気温がマイナス7.5度とは。たぶん仙台で経験した中で、最も寒い冬の日だ。

母の気配が消えた家に午後遅くに行くと、前の晩洗い残した土鍋に氷が張っていた。しかも、はかなげな薄氷ではなくて、土鍋の縁の部分は3、4ミリくらいもある。流しの上の台拭きもスポンジも、かちかち。さすが、築62年、北向きの台所だけのことはある。温泉地でよく聞かされるように、こういう日に外で濡れた手ぬぐいを振り回したら棒みたいに固まるのかも。体は寒さですっかり縮こまっていたのに、なんだか愉快な心持ちになってきた。

よし!とつくるのは、浅葱(アサツキ)の酢味噌和え。この時期に出回る東北の浅葱は、まだ育っていなくて手のひらに乗るほどの長さしかない。20本くらいが束になって、長く白いひげのような根の部分がギュッと輪ゴムでしばられ袋に入っている。仙台に入ってくるのは福島産が多く、スーパーや八百屋の店先で見つけると迷わず買う。特に売れ残っていたりしたら、福島の農産物を何とかしなくちゃという気持ちになり、2束カゴにいれてしまう。

いつも青菜は買ってくると、根本を数ミリ切り落としてからボールに水を張って入れておくのだけれど、浅葱はきゅうくつそうな輪ゴムをはずして水の中に白い根をのびのびおよがせてやる。ボールをのぞくと、おやここにも氷が張っている。鍋にお湯を沸かしている間に、じっくりと浅葱を観察した。真っ白な根元はふっくらとしていて、その中から濃い緑色の芽が数センチ伸び始めている。それがいかにも、雪の中に埋もれていても、大地の蠢きというのか芽吹きの力というのか、春に向かって地面の中が動き出す予兆のように感じられてくる。寒さはいよいよこれからさらにきびしくなり、雪も本格的に降り積もってくるのだけれど。東北に暮らす人たちは、冬が長いぶん、この辛くてしゃきしゃきした走りの味で春を呼び寄せようとしているのかもしれない。

歯ごたえがなくなるから長くは茹でない。お湯が沸く間にすり鉢に味噌とお酢と砂糖を少々、すりこぎでごりごり。なめらかに整えたところで、水にとった浅葱をきっちり絞って投入。あっという間にできあがり。私にとっては真冬どまん中の春待つ味だ。
ところで、「あさぎいろ」は「浅葱色」と書く。浅葱色といったら、渡りの蝶アサギマダラのようなターコイズブルーでしょう? どうして濃い緑のアサツキと同じ字なんだろう。

そして、この季節、魚屋で探すのは真鱈の卵の「鱈の子」。「食指が動く」とよくいうけれど、食べたいもの、これだ! というものを目にすると自然に手がのびてしまうのだよなあ。コロナ禍の3年の暮らしで、触るのはひかえるようになったけれど。魚屋のケースに鮮度のよさそうな卵を見つけると、手にとってしまう。真鱈の卵は大きくて、ひと房20センチ以上はある。秋の終わり頃から出始め、年が明けると房が大きくなり、中の卵のつぶつぶも心持ち大きくなってくる。いまが食べ頃だ。

合わせるのは糸こんにゃく。アク抜きした糸こんにゃくを炒め、そこに鱈の子を投入する。どろんと大きな房の薄皮をはぎ、中の卵だけを絞り出すように菜箸でしごきながら鍋に入れるのがちょっと難しい。薄皮は軽くあぶって細かく切り猫たちにやると、よろこんで食べる。糸こんにゃくといっしょに軽く炒めたら出汁を投入して煮込み、お酒と醤油で味付けして、焦げないように注意しながら炒って水分を飛ばしていく。できあがったら、大きめの器にごはんをよそい、上に分厚く盛り、海苔を手もみしてぱらぱらとふりかけ、テーブルへ。「鱈の子どんぶり」はひと冬の間に3回、いや4回はつくる定番食だ。

冬をとおして、落花生もよく食べる。あのかさかさした手ざわりと形と色と網目模様と。落花生はかわいさにあふれている、とひそかに思っているけど、女子で落花生が好物と公言する人にあまり会ったことがない。注意して食べないと殻と赤い薄皮の破片がセーターについたり、テーブルにちらばったりするので、きれい好きの人は嫌がるかもしれない。私も家人にぶつぶついわれながら食べ続けている。

落花生好きは父譲りだ。父には食べ方の流儀?があってフタ付きの空き缶に一袋をザーッと全部あけてしまい、食べた殻も薄皮も入れたまま。まだ入っている殻を探り当てながら食べるのが楽しみのようだった。一度、殻捨てればいいのに、といったことがある。すぐに反論された。これが楽しいんだ、と。ソファに寝転がり、テーブルの空き缶に右手を突っ込んで実の入った落花生をまさぐりつつミステリーを読むのが、彼の夜の至福の時間なのであった。

年齢を重ねていくと食べものもいろんな記憶に縁取られていくんだなぁ、というのが最近の実感。鱈の子どんぶりをつくるときは、いつも母にいいつけられ鍋底が焦げないようにしゃもじでかき回していた、分厚く小さめの使い込んで少しいびつになっていた片手鍋を思い出す。ストーブの上やガスコンロでやった冬の手伝い。ふりかける海苔はあのころは、必ずコンロであぶってから使っていた。いまみたいにジップロックなんてないから、湿気ってしまっていたのか。父のこだわりは手もみであること。高校生のころだったか、私は針のように切った海苔が美しいと思っていてハサミで切っていたら、海苔は手もみ、手でちぎる方がうまい、と却下されたことがある。

母に、お父さんは浅葱の酢味噌和えが好きだったと聞かされたのは、亡くなったあと。肉食、揚げ物好きだったから驚いた。独身時代、福島県の奥只見で仕事をしていたときにお世話になった農家のおばさんが、そのうまさを教えてくれたようだ。雪の中から浅葱を掘り出してつくってくれたのかもしれない。茅葺きの農家の囲炉裏端に持ち出された大きな擂り鉢に味噌を落とし、使い込んだすりこぎをごろごろまわすおばさん。にいちゃんもやってみっかい? そんな声がかかったかもしれない。