毎日、飽かず立ち枯れてゆく西洋鬼薊を見にいく。
立ち枯れていく植物の姿が好きだと言うことは前回書いた。花が咲いた後枯れたものは、それでも白い綿毛となる種子をいっぱいにつけ、蓬髪とでも言うように萼の部分を金色に開きながら枯れている。しかし、本来であるならば風に煽られ飛んでいくはずの綿毛は、ついに飛散することはない。雨が降り、ひどく寒い日があるかと思えば、奇妙に暑い日がある。そんな日日が過ぎる中で、太陽を思わせるような形を見せていたその薊の頭も、縮れ、捩れ、やがて、ゆっくりと地面に向かって倒れ始めた。尖った葉も、触れればその鋭さは相変わらず指先を刺すものの、もう乾き切ってバリバリと砕けてゆく。
そんな姿を見ながら、ふとある画家のひとが書いたエッセイの一節を思い出していた。確か、その画家は若い頃、太平洋戦争の最中学徒動員で軍隊に応召された。戦地で病を得て、帰国し終戦。そのうちに母親の縁つづきの女性が満州から戻ってくる。彼が幼い恋というような感情を抱いた女性である。彼女は結婚し、夫と赤ん坊とハルビンにいた。夫は終戦間近に兵隊にとられ、彼女は子供を背中にくくりつけて逃げた。逃げている途中赤ん坊の鳴き声がしなくなったことに気づき、背中から下ろすと赤ん坊はすでに死んでいた。背中から下ろす時に、子供の皮膚がひっついて剥がれたのだと言う。彼女は衰弱していた。ただじっと上を向いて目を開き、体を横たえていた。「この家に辿りついたことで、力はもう尽きていたのかもしれない」とその画家は書く。
「洗われたような美しい顔になっている。ああこんな顔になってはいけない。」(野見山暁治「一本の線」)
エッセイのこの部分を、私は「人はこのように美しい姿になってはいけない」と覚えていた。この文章の別の箇所で画家は、病で死んでいく同じ画家・今西の姿を「次第に声もかすれてきた。表情をもちえなくなった骨格だけの今西さんを美しいと思い、その気持ちを打ち消すことに懸命になった。」と書いている。
春になり、路肩の菫が咲くことになると、それまで溢れるように咲いていた椿が花を木の足元に落とし始める。椿の花は、花びらを散らすのではなく、花ごと落ちる。そして、堆く積もっていく。積もった花は、落ちた順に下から色を失い、茶色に朽ちていくのだ。やはり花ごと。その有様は凄惨だが、ひどく美しい。特に乙女椿と言うのだろうか淡いピンクの椿が、朽ちて茶色になっている。やがて花はバラバラとなり、花としての体をなさなくなる。その上にまた新たに花が丸ごと落ちるのだ。その花の一つ一つを撮った写真を見ながら、まるで九相図のようだ、と思う。そこには、さまざまな段階に朽ちた花が、それぞれの有り様で写っている。そのどれものがかけがえのないものであり、だからこそ美しい。
人間の屍がときの推移につれて朽ち果てていく様を九段階に分け、その様を描いたものを「九相図」と言う。これは、人の屍を凝視し観想することによって自他の肉体への執着を滅却する、九相観と言う仏教の修行に由来するといわれている。執着が滅却できるかはさておき、私がこの図に惹かれているのは確かである。『閑居友』などには、修行のために夜な夜な墓場に出かけ、爛れた屍を見つめて声を上げて泣きながら無情を悟ろうと修行をする僧の姿が書かれているが、読みながら考えが横滑りしてしまう。もちろん僧は修行のためにそうするのだろうが、なぜ「その屍」の前に座り、見つめ、声を上げて泣こうとしたろうか、と。そうしようとした「屍」が、なぜ「その屍」であり、「あの屍」ではなかったのだろうか、と。もしかすると、その僧は、「その屍」を美しいと思ったのではないか、と。「その屍」が愛しいものと思ったからではないか、と。
「美しい」と思うことは、「愛しい」と思うことなのかもしれない。
投稿者: yamaki
名前を変える
植松眞人 姓名判断が出来るという人に、ひとつ見てもらおうとわざわざ出かけていく。互いに頭を下げて「よろしく」などと挨拶をするのだが、なんとなく向こうのほうが、階段で言うと一段か二段ほど高いところにいるような顔をしている。
挨拶が終わると、話すこともないので、さっそくとこちらの名前を相手が聞いて、相手がそれを半紙にさらさらと墨で書く。書かれた文字はなかなかの達筆で、ほほう俺の名前はなかなか良い字面をしていると思って口元が緩む。それを相手が察知したのか、ふむふむなどと声にならない声を発して、ちらりとこちらを見たりする。
さあ、どうなんだ、とじっと相手を見るが、相手は朱色の筆に持ち替えて、ふむふむを続けている。やがて、本当に黙り込むとこちらも何事かと相手の朱色の筆先を見つめる。見つめながら、子どもの頃に怪我をしたのは名前が悪いからかとか、免許を取った頃に起こした事故はどうなんだとか、結婚して三十年を超えたけれど毎年のように家族に小さな波乱が起こるのももしかしたら、などと考え始め心が落ち着かない。
こちらがそんな気持ちなのは、いつものことと思っている癖に相手の筆はなかなか動かずイライラしてきて、もう占ってなどもららわなくても、と声に出かかった瞬間に相手の筆がさらさらと動き始める。姓と名にわけて朱の線を引き、そこに数字が書き入れられ、漢字ごとに何やら小さな数字や丸やらバツやらが入り、あっという間に半紙が朱に染まる。
そしてやにわに、全体的に運勢は悪くないと相手が言う。ほほう、そうですか、とこちらが答える。悪くないと言われるとまんざらでもない。ただ、相手が続けて、悪くはないがお金はたまりませんね、と笑われるのは困る。なぜたくさん入ってくるのに貯まらないのかと聞くと、入ってくる以上に出ていくから、とこれまた当たり前のことを言われてしまう。なんだか悔しい気持ちになって、その後言われたことはあまり覚えていない。そして、なぜ悔しい気持ちになったのかと言えば、相手が言った通りで、これまで大金を稼ぐことは多々あったのに、それ以上に病気だトラブルだ訴訟だと予期せぬことで稼いだ以上の大金が出ていってしまったからだ。
なんとなくそんな人生だとは思っていたが、姓名判断を商売にもしていない趣味人に朱色で言われると穏やかな気持ちではおられなかった。それでもご家族、特にお子さんたちは幸せな人生を送るはずと言われたことを救いに、なんだか還暦を超えた人生に烙印を押されたような気持ちになってしまう。さらにその趣味人がこちら参考までに、と別の半紙にさらさらと書き記したのは、こちらの生年月日も鑑みて考えてくれたと言う、運勢の良い名前らしい。これはサービスでご参考までにとは言うが、今度はその名前が気になって仕方がない。苗字は同じで下の名が少し違う。この名前なら金が貯まると言う。
相手にこちらの動揺を感じられないようにと、ではまたなどと、次などあるものかと思いつつ言い合って辞した翌日。三十数年寄り添った家人とたまに行くチェーンのレストランで遅い朝食を摂る機会があったのだが数組の待ちがあった。待合には待機リストの用紙があり、そこに新しい名前を書いてみると、隣で覗き込んでいた家人が、あらいい名前、と言った。
公演『幻視 in 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(1)
冨岡三智今回は3月11日にフェニーチェ堺・小ホールで行った公演の演出について書き残しておきたい。いつものごとく、自分の公演について主観と言い訳交じりで語るのだけれど、何十年か後にはきっと当事者が語る貴重な証言になっているに違いない…と思うことにする。まず、プログラムは以下の通り。
第1幕:ガムラン音楽とスラカルタ王家の儀礼映像
・「夜霧の私」(山崎晃男作曲)
・グンディン・ボナン「ババル・ラヤル」
・「ガドゥン・ムラティ」
第2幕:宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版
●ウィンギット(wingit)なるもの
ジャワの宮廷芸術で目指す境地を表す語は?と問われたら、私は「ウィンギット」だと答える。この語については『水牛』2009年8月号「ジャワ舞踊の美・境地を表す語」でも書いたけれど、「超自然的な存在(それは神でもあり災厄でもあるだろう)に対する恐れ、畏れ」のこと。その災厄から王国を護るため、畏怖心から行うものが宮廷儀礼であり、今回の公演では宮廷儀礼の奥にあるそのウィンギットなるものを表現したいと思っていた。
今回の公演会場は一般的な音楽向けのホール(300席)である。第1幕の背景は白のホリゾント幕とし、そこに宮廷儀礼の映像を投影したが、第2幕の背景は黒幕にした。演奏者の衣装も上半身は黒とし、女性はお揃いの生地・デザインでクバヤ(ジャワの伝統的なブラウス)を仕立て、男性も全員、黒のビスカップ(スラカルタ様式の男性上着)にした。前回の堺公演でも女性のクバヤは黒にしたが、各自手持ちの物を着てもらったので、デザインや質感には多少ばらつきがある。背景が黒一色になるとそのばらつきが気になると思えたので、新たに仕立てたのだった。男性の場合、前回はジョグジャ様式の正装(スルジャン)とスラカルタ様式の正装(ビスカップ)が混在していたが、柔らかい織り素材で色も真っ黒ではないスルジャンだと、やはり他の人や背景幕からも浮くように感じたので、黒のビスカップで統一した。演奏者からは、衣装の色が背景と同化して生首が並んでいるように見えないかな?という不安の声もあったのだけれど、実は敢えてそうしていた。通常のコンサートでは黒をバックに演奏家を際立たせるが、逆に黒のバックに溶け込ませたかったのである。
どの曲も前奏は暗い中で始まり、音が出てから舞台がだんだん明るくなるように、さらに映像は音楽のテンポが安定してから投影されるようにして、まずは音に集中してもらえるようにした。そして、歌声だけが際立たないように気をつけた。もともと、ガムランでは歌も楽器の1つとされているのだけれど、ジャワでも宮廷外では歌い手を目立たせすぎることが多い。この公演ではそれを避けた。人の声とも楽器の音とも区別のつかない響きが暗闇から聞こえてくる…、それは狼の鳴き声のようにも、風が空を切る音のようにも聞こえる…、遠くから大いなる存在が発現するような気配がする…。そんな風に、公演の音全体が聞こえてほしいと思っていた。舞台に載っている人の存在感を消すことで、そんな世界が存在することが見えてくるのではないか…と考えたのだった
●1曲目
通常、ジャワ・ガムランで開始の曲と言えば「ウィルジュン」だが、今回はそうしなかった。というのはグンディン・ボナンという種類の曲「ババル・ラヤル」を演奏すると先に決めていたからである。この種の曲は宮廷では即位記念日や結婚儀礼の前夜に演奏され、そのとき精霊たちが祝福を与えに降りてくると言われている。「ウィルジュン」は儀礼当日の最初に演奏される曲だから、それをグンディン・ボナンの前に演奏すると時系列が前後してしまう。さらに、その精霊が降りてくる曲の後には、供物を準備してお祈りしないといけない「ガドゥン・ムラティ」という曲が控えている。供物やお祈りを欠くと災いがもたらされるという。「ウィルジュン」(つつがなくの意味)は文字通り儀礼がつつがなく終わるようにと演奏するものだが、今回のプログラムのような重い曲の演奏が続くことは想定されていないと私には感じられる。というわけで、1曲目の役割は観客を未知の世界にいざなってくれるようなものが良い、むしろガムランの現代曲から選んだほうが良いと考え、ダルマブダヤ代表の山崎晃男氏が作曲した曲の中から選んだのが「夜霧の私」である。他の2曲が少々長いので、「夜霧の私」は1曲全部ではなく途中までしか使っていないが、なんだかジャワから懐かし気に呼ばれているような心持ちになる曲だ。それで、この曲には王宮にだんだん近づいていく映像をつけようと思いついたのだった。
●音楽と映像とα
第1幕ではガムラン音楽の演奏にあわせ、舞台奥のホリゾント幕に映像を映した。上映した映像はウィラネガラ氏が制作し、来日してオペレーションも行った。氏は2004年に亡くなったスラカルタ王家当主:パク・ブウォノXII世のドキュメンタリー映画を制作した人で、その作品によりインドネシア・フィルム・フェスティバルで最優秀映像賞を受賞している。私は2000年かそれ以前からスラカルタ王家の儀礼で知り合いになっていた。
映像を入れようと思ったのは、音楽だけではジャワ王家の儀礼の雰囲気はよくわからないだろうなと思ったからだった。楽曲そのものだけでなく、それを取り巻く環境も感じてほしかった。王宮の建物はどんなものか、人々はどんな衣装を着ているのか、王宮儀礼ってどんなものなのか…。人が真剣にやっている儀礼というのは、意味がわからなくとも何か伝わるものがある。それが美しい響きの音と一体となって観客の記憶の中にしみこんでいってくれたらいいなと思う。
それで、ウィラネガラ氏に、今まで王宮儀礼に入って撮りためていた映像から、王家の守護神である女神ラトゥ・キドゥルに関連する儀礼、女神の棲む南海岸、王宮での精霊に対する様々な祈りの場面などを取り出し、曲の進行に合わせて映像を編集してもらった。公演であって研究会ではないから、説明的な映像の見せ方ではない。王家の人々の間で信じられている女神の存在が映像から感じ取られ、そのイメージの断片が心の中に残って、今後ふと思い出してくれることがあったら嬉しい。
音楽と映像に加えて、1曲目は映像の情景にあわせて語りをかぶせ、3曲目はお祈りのパフォーマンスとワヤン(影絵)も上演した。1曲目で語りを入れたのは、王と女神が南海岸で出会ったとか、八角形の塔で王と女神が交信していたとか…少し手掛かりになる情報があると映像世界に入りやすいようにと思ったから。
3曲目のお祈りパフォーマンスは舞台用としてアレンジしたものだが、王家の儀礼で多くの人々が準備に関わっていて供物を運んでいく様子を描こうと思い、衣装をつけた踊り手4人と演奏していない演者がぞろぞろと蛇行しながら舞台を練り歩くように演出した。背後の映像では実際の儀礼における行列シーンは映し出されているが、第2幕の舞踊用に舞台手前は空けてあるから、その空間を埋めたかったのである。舞踊曲もある公演だと、演奏者はどうしても舞台奥でじっとしている感じになり、舞踊がないときは観客の前にぽっかり空いた空間ができる。普通、舞踊公演では踊り手は自分の出番がくるまでは観客の前に衣装を着て出てくることはないので、何か批判なり反応なりがあるかも…と思っていたが、全然なかった。こういうもんだと思ってくれたみたいだ。
このお祈りのシーンでは京都にあるバリバリインドネシアというレストランに供物を作ってもらい、ジャワでやっているように大きなザルに盛ってもらった。3種類のうち1つはクタンビル(スラカルタ王家で女神のために作られるお供え)を見様見真似で、1つはアプム(パンケーキ、一般的だが儀礼用に作られる)、1つはお任せである。クタンビルは当然レストランの人は食べたことがないので宮廷での味とは違うけれど、たぶんその努力に免じてラトゥ・キドゥルは赦してくれるだろう。やはりお供えがあると出演者のテンションが上がる。舞台では先頭にお香を持った私、お供えの菓子が続くのは元スラカルタ王家の踊り手だった2人の指南による。本当は踊り子がお香を持つのは変なのだが、私が持つということで消防に届けてしまった。全員が座ると、私は四方に向かって合掌し、最初の1回は他の人も一緒に合掌する。このように四方に向かってするお祈りは王家で行われていて、特に「ブドヨ・クタワン」で踊り子がやっているのがとても印象に残っている。
3曲目の「ガドゥン・ムラティ」は複数の曲がつながっていて、テンポが速くなったところで、最後のアヤアヤアンという部分に移行する。影絵人形操作をするナナンさんはこのアヤアヤアンの前奏部分を歌って出てきて、お祈りの人たちがはけていくのと入れ違いに影絵の世界が始まる。影絵の場面を作ったのは、ルワタンという魔除けの影絵は南海の女神から授けられたという伝承があるから。この「ガドゥン・ムラティ」の曲は南海の女神の許を訪れた王家のグンデル(この曲の前奏を弾いていた楽器)奏者の女性が女神から授けられたという伝承があり、どちらも女神ゆかりの―それゆえに霊力がある―ものとして共通点がある。影絵奏者が出てくるところから照明を落として影絵が始まるまでのしばらくの間、王家の影絵奏者の映像が少し挟まれる。そして、ナナンさんが観客に背を向けると、彼のビスカップの背中にある絵羽模様が目に入る。これはナナン氏が黒留め袖の着物をビスカップに仕立てたもので、前から見ると普通の黒いビスカップなのである。背中を見せると、それまでの演奏者がダランに変貌するのが面白いかなと思ったのだが、どうだろう。
…ということで、今回の話は時間切れになってしまった。舞踊演出については来月書きます。
めんどくさい
篠原恒木季節の変わり目になると、特に冬から春に移り変わる頃は、あらゆることがめんどくさくなる。いまおれは「めんどくさい」と書いたが、我がPCは「めんどくさい」という文字の下に赤い波線をつけてきた。
「あのぉ、『めんどくさい』ではなくて『面倒くさい』ではないですか」
と要らぬお節介をしてきたわけだ。これからして実にめんどくさい。ゆえに無視だ。
毎朝、髭を剃るのがめんどくさい。
おれは電動カミソリではなく、シェーヴイング・フォームを顔に付けたあと、T字型の替刃式カミソリで剃るのだが、あれは本当にめんどくさい。ならば髭を剃らずに伸ばしたままにすればいいではないかとも思うのだが、伸ばせば髭のかたちを整えなければならない。それはさらにめんどくさい状況に陥るではないか。仕方なくおれは今朝も髭を剃る。
風呂に入るのがめんどくさい。
特に湯船につかるのが大儀だ。だからおれは冬でも朝のシャワーだけで済ませてしまう。寒い寒い。風呂場を出ると体がブルブル震える。しかし、それでも「夜寝る前には、ゆっくり湯船でリラックス・タイム。うふふ」などとホザいている奴の気が知れない。めんどくさいではないか。長年にわたって深夜帰宅してきたおれは、風呂に入るより睡眠時間の確保が大切だった。その習慣がいまでも続いていて、夜の風呂はパスして、翌朝のシャワーで一丁上がりなのだが、そのシャワーですらめんどくさい。
服を着たり脱いだりするのがめんどくさい。
できればパジャマのままでカイシャへ行きたい。冬はことさらめんどくさい。重ね着をしなければならないからだ。おれは寒がりなのでたくさん着込まないとすぐ風邪をひいてしまう。したがって三枚も四枚も重ね着をすることになるのだが、根がスタイリストに出来ているので、いちいちインナーからアウターまで破綻のないようにコーディネートしながらレイヤーしていく。これが実にめんどくさい。そして長い一日が終わり、帰宅すればその服をいったん脱がなければならないのだが、この「脱ぐ」という作業もめんどくさい。コートを脱いでハンガーにかけ、次にセーターを脱ぎ、畳んで箪笥の引き出しに収納しなければならない。さらにヒート・テックを脱いで洗濯物の籠に入れる。これらの行為を「めんどくさくない」と言うヒトをおれは信じない。夏だとTシャツ一枚をあらよっとばかりに脱いでしまえばそれでおしまいなので、夏という季節は嫌いではない。脱ぐのがめんどくさくないという状況は、好きなあのコとお泊りするときだけだ。うふふ。
出掛けるのがめんどくさい。
カイシャに出勤するのがいちばんめんどくさいのは当たり前だが、好きなあのコとメシを食うのもめんどくさくなってきた。会う約束を取り付け、店を予約した時点では、ドキドキ、ウキウキ、スキスキと、全面的に「キ」が多い気分になるのだが、その日が近づくと「なんだかちょっとめんどくせぇな」という気分になってくる。当日になると、さらにその気分は濃厚になり、「ああ、約束なんてするんじゃなかった。めんどくさい」という気持ちに囚われてしまうのだ。これはあまりにも不遜ではないか。よくないと思う。相手は若いコだ。こんな汚らしい六十三歳になろうとしているジジイと会ってくれるだけでも有難いと思わなければいけないところを「めんどくさい」とは何事か。バチが当たってしかるべきだが、めんどくさいものはめんどくさいのだ。
苦労してチケットを手に入れたコンサートもそうだ。
この四月には、おれが十五のときからずっと大ファンでいるボブ・ディランの来日公演が予定されている。これには万難を排して駆け付けなければならない。来日の一報が入るや否や、おれは逆上してチケット最速抽選に申し込んだ。東京公演全五回のうち、四回にエントリーした。どうせ観るなら良席がいいと思い、すべて五万一千円のGOLDシートを指定した。
「相手はあのボブ・ディランだ。チケット争奪戦は必至だろう。当選する確率は限りなく低いに決まっている。それでも四公演も申し込めば、一公演くらいは当選するのではないか」
と考えたからだが、驚いたことに四公演すべてGOLDシートが当選してしまった。二十万円以上が吹っ飛ぶことになるが、ディラン様だけには逆らえない。おれはなけなしのへそくりをはたいて四公演すべてに足を運ぶことにした。これで素晴らしい席でボブ・ディランを四回も観ることができる。おれは多幸感に包まれた。かねは無くなったが、その四公演を楽しみに生きて行こうと思った。ところが、である。東京公演の日が近づくにつれて、ライヴへ出掛けるのがめんどくさくなってきた。会場は有明の東京ガーデンホールである。有明はアクセスが不便だ。行くのも時間がかかるし、帰るのも難儀だ。ああ、めんどくさくなってきた。おれが今いるこの場所へディランが出張してきて、目の前で十五曲くらい演奏してくれないかなと思うが、流しのおじさんではないので、それは無理というものだろう。おれが行くしかないのだ。しかも四回も。なんとまあ、めんどくさいことではないか。
ジムに通うのもめんどくさい。
できれば筋トレやらジョギングなどをしないで体型をキープしたい。なぜかねを払ってあんなツライことをしなければならないのだろうと思う。だが、運動をしないと腹が出てしまう。腹が出ているジジイにはなりたくない。かといって、やみくもに筋トレしていると、体が分厚くなってしまうのでトレーニング・メニューをきちんと立てなくてはならない。大胸筋が異常に発達するのも嫌だし、上腕二頭筋だって単に太くするのではなく、細かい筋肉を刺激して腕にきれいなカットを入れなくてはダメだ。めんどくさい。時間をかけてジョギングをしないと脂肪は燃焼しない。脂肪は人生の垢だ。だからおれは「ああ、やだやだ。めんどくせぇな」と思いつつも、重い腰を上げてジムへと向かう。
「これは仕事なのだ。仕事であればやらなければならない」
そう呪文のように唱えながらジムへ到着するが、めんどくさいあの着替えが待っているではないか。そうしてめんどくさい運動をした後はめんどくさいシャワーを浴びて、再びめんどくさい着替えをしなければならない。本当にめんどくさい。
そんなおれは仕事仲間のヒトビトにこう言われていると、あるヒトが教えてくれた。
「シノハラさんはいろいろとめんどくさいヒトだから、気を付けたほうがいい」
心外だと思ったが、ムキになって否定はしなかった。めんどくさいから。
マギさん
笠井瑞丈チャボのマギさんが他界した
四年前にうちに来てくれてからいつも
家の中を明るくしてくれた存在だった
本当に毛が真っ白の美人の白チャボさん
ちょっと不器用でもう一羽のゴマさんには
よくイジメられたりしていたけど
おっとりした性格で昼寝が大好きで
お気に入りの枕の上でいつも寝てて
飛ぶのもあまり上手ではなく
寝床の場所に上がる時壁に激突したり
夜寝ている時に寝床から落ちたりして
でもいつもゴマさんの後をついて歩き
寝るときはカラダを寄せ合った寝てて
よくゴマさんのカラダに潜り込んだり
思い出すとたくさんのことがあった
そしてそんなマギさんの
調子が変だと気づいたのは
三月の初めのことだ
もともとそんなに
活発的な子じゃないけど
明らかに様子がおかしい
三月に入ってからいつも
机の下だったり
椅子の下っだたり
何か天井のある所にいて
あまり動かなくなった
ご飯もあまり食べなくなり
自分の体の中に頭を潜らせ
ただただ寝ていることが多くなった
そして病院に連れて行った
体温が下がっていてあまり
良い状態ではないとの診断
とにかく温めてあげた
しかしその二日後
夜中バサバサと大きな音が
慌てて寝床を見に行ったら
大好きなゴマさんの横で
息を引き取った
きっと最後の力を振り絞って
羽ばたこうとしたんだろう
まだカラダは暖かく
今その瞬間までそこに
まだ生命が宿っていた
朝まで抱きしめて一緒に寝た
少しづつ体温が下がっていき
うつろうつろ現実と夢との境の中
カラダと魂が分離する瞬間を感じた
僕は浅い眠りの中であなたと初めて会話をした
「一緒に過ごした時間ありがとう
そして本当に大好きでした」と
これを伝えられてよかった
朝
目覚めた時には
腕の中にはマギさんのカラダはあったけど
もうそこにはマギさんはいないと思った
そこにあるのはもうカラダと言う受け皿なのだ
そう思ったら悲しみが込み上げてきた
久しぶりに大泣きした
またお尻をのしのしと左右に揺らし
不器用に歩くあなたの後ろ姿が恋しい
これかも大好きな小松葉を食べ
ゆっくりとお休みください
どうよう(2023.04)
小沼純一りぼんすき
はなたばやおかしのはこをむすんでる
りぼんはきっととっといて
そこらにあるもの
むすんでく
いろがあってるかあってないかより
むすべるものがあるのがだいじ
ぬいぐるみ ほそくちのかびん
たんすのとって とびらののっく
はこがすき
おおきすぎずたかさがあるのがいい
なにをいれるかあてはない
かたちをそのままとっときたい
なにかいれても わすれてしまい
いちいちあけるも
わるくない
ビールのおうかん ワインのコルク
いろんなカード まっちばこ
☆
あといちじかん
ゆうはんのしたく
あるものですますから
かえっててまがかかるかも
それまではいちじかん
のびたりちぢんだり
やりすごす
あといちじかん
そとにでなくちゃ
きがえはそこにだしてある
かばんのなかは
みなおさないと
それまではいちじかん
よゆうあるよで
しっかりぎっちりしばられて
☆
いき
いそがない
ゆっくりと
いきすって
いきはいて
いきいそぐ
まいにちを
ゆるゆると
ゆるやかに
いき
いき
すこしため
すこしはき
とめながら
からになった
からだへと
きれぎれと
ぎれをこめ
いき
いき
いきする
いきいきして
いきまいて
いき
る
☆
ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえで
てんめつが
きにならない
めがあたまがどうかしちゃった
ほしじゃない
まばたきじゃない
ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえ
てんめつ
っていわないか
よびかたがわからない
ほらこっち
って
せかしてないせかしてる
ひらいてとじて
とじてひらいて
ちかちか
めのまえ
なれちゃって
こなれちゃって
なんでもちかちかあたりまえ
そうねこれ
からだもおんなじ
わたしでんきでいきている
ううんげんきでいきている
☆
あのひとこのひと
おともだち
そのひとかのひと
おともだち
たくさんたくさん
おともだち
それぞれべつの
おともだち
たまたまあっても
うまくはいかない
ずれずれで
きくきくで
そんなものかな
おともだち
たくさんいるけど
おともだち
みんなべつべつ
おともだち
おとも たち
『アフリカ』を続けて(22)
下窪俊哉先月(3月)末に『アフリカ』vol.34を出した。まずは表紙に、見られる。そこには切り絵の羊が顔を出していて、「アフリカ」の文字は横に倒して置かれている。あとは例によって「3/2023」とだけ書いてあり、どんな本なのか表紙だけではサッパリわからない。表紙も『アフリカ』に寄せられた作品のひとつなのだから、なるだけシンプルなものにしたいと思っている。それは17年前の、続ける気のなかった創刊時から一貫してそうだ。
表紙を開くと1ページ目から、なつめさんのエッセイ「ペンネームが決まる」が始まっている。『道草の家のWSマガジン』vol.1(2022年12月号)に載っているものから推敲を経た、とりあえずの完成形で、昨年の秋、東京の下町から長野県の村に移住した経緯から、新しい名前が決まるまでを書いている。適当に、いい加減に、ということの難しさを感じつつ、ふとしたことからその名前はやってくる。
そのあとに目次がくるというのも、いつものパターン。虚実入り乱れたクレジット・ページも相変わらずで、そこを見るのを楽しみにしているという読者もいらっしゃるから止められない。そこではここぞとばかりにふざけたいのだが、長くやっているとネタ切れにもなる時もある。今回はちょっとそんな感じかもしれない。
今回の『アフリカ』には珍しく詩が3篇も載っている。神田由布子さんの「vehicle」は、『WSマガジン』vol.1に載っているものをそのまま載せた。しかしあれは横書きなので、これはぜひ縦書きで読みたい、と思った。新たな旅立ちの歌。重さの中にある軽さの発見が作品になったような詩。
竹内敏喜さんから私が原稿を受け取るのは、じつに18年ぶり。『アフリカ』を始める前にやっていた『寄港』に書いてもらって以来だった。一昨年の秋、久しぶりに手紙を出してやりとりが復活した時に、最近は殆ど発表の機会がないと知らされて驚いて、よかったら『アフリカ』に書きませんか? という流れになったのだった。「蛇足から」は今回、1〜3を掲載しているが(続きがあるとのこと)、いま書くことの怖れを感じつつ、「善」と「正義」への考察が繰り広げられる。いや、考察ではないのかもしれない。ことばを探っている。それは「詩をひらく鍵」だという。
もうひとつは、いつもの犬飼愛生さんによる「寿司喰う牛、ハイに煙、あのbarの窓から四句(よく)」という長いタイトルの詩。犬飼さんの作品は詩とエッセイで「同じ人が書いたの?」と言われるくらい落差がある、けれど、この詩にはエッセイの中にあった要素も流れ込んできているようで、ついには短歌が挿入されたりもして見開き2ページの中でごった煮になっている新境地。人と人が敵対するというのはわかりやすいが、そうではなく、テーブルの上に玉石混淆、雑多なものをズラリと並べて「おいしく食べあいましょう」と呼びかける。ややこしいし、厄介かもしれないけど、それが本当の平和というやつじゃないかなあ、などと思っているところだ。
編集を通して、この3篇には、詩を書くことにかんする詩である、という共通点も見えてきた。それらの詩でサンドイッチにしたように、今回は短篇小説を2つ、収録してある。まずは、UNIさんの「日々の球体」、交わったり、すれ違ったりしている男女三人の人間模様を描く快作と思う。UNIさんは妄想を豊かに働かせて書ける人で、たとえば登場人物の誰かが何かを見ると、そのものを見るのに留まらず別の何かが必ず思い出される。そんなイメージの広がりがある。しかしそんなふうにして長く書くというのは、なかなか困難なようだったが、今回は(400字詰め原稿用紙で計算して)30枚ほど。小説というのはやっぱり、長さがモノを言うところもある。最初に読ませてもらったバージョンからも加筆があり、そこまで書いてようやく現れてくるものがあった。
もうひとつは私(下窪俊哉)の「四章の季節/道草指南」で、「日々の球体」と同じくらいの長さの短篇小説。22年前に書いた「四章の季節」は二人称を試してみた習作だったが、その型を使って、全然違う話を書いてみた。1日という時間、1年という時間、人生という時間、そんなふうなことを重ねて思い巡らせているうちに、フィクションの街、人が出てきてくれた。私は10数年前から「道草さん」と呼ばれることが増えたが、ちょっとした道草論を書いてみたいという気持ちは前々からあった。この小説は、そんな自分の気持ちに少し応えた。
そうやって詩や小説が並ぶ中、雑記とかエッセイというような散文をどう生かすかというのが、『アフリカ』編集人の腕の見せ所だ。髙城青さんのエッセイ漫画「それだけで世界がまわるなら」は2020年秋以来の続編で、お父さんを亡くして2年たった家族の現在を、そのお父さんが大好きだった珈琲を介して描いている。それを読みながら私は、珈琲とは我々にとって何とさり気ない味方だろう! と感嘆する。
「自然を感知した人〜井川拓と空族の黎明期」は、富田克也さんが若き日の盟友・井川について語った貴重な記録(約8千字)。昨年の春、井川さんの遺作『モグとユウヒの冒険』を本にした、その制作時に連絡したら「話しましょう!」と返事が来て、3時間を超えるロング・インタビューが行われた。いや、インタビューと言えるかどうか、私が何も問わずとも富田さんは延々と話してくれた。井川拓の話をするということは、富田さん自身の若い頃、映画をつくり始めた頃の話をすることになる。話は徐々に、映像制作集団「空族」の誕生秘話にもなってゆく。『雲の上』の前に撮影され、未完に終わった『エリコへ下る道』がどんな映画だったのかも、ようやく聞くことができて嬉しかった。
RTさんの「ここにいること」は、「心がぴったりとついてこない」と感じるこどもが大人になり、さまざまな時間を経て「人の為に何かしたい」と思うまでになる経緯を書いたエッセイ。経済活動から少し離れたところで営まれている活動に、救われる人の話でもある。「鬱」ということへの言及と、空を眺めているところなど、「自然を感知した人」に通じる要素が幾つもあり、並べて載せることにした。
〆は犬飼愛生さんのエッセイ「相当なアソートassort」シリーズの今回はその2で、銀行で起きたある事件について書かれた「通帳持って」。元のバージョンはもう少し長かったのだが、最終的には前回と同じくらいの長さになった。話をしつこく延ばしてゆくことによって生まれる笑いと、文章を削って短く切ることによって生まれる笑いがあるよねえと話して、このシリーズでは削る方に向かった。犬飼さんのエッセイ集『それでもやっぱりドロンゲーム』を開いて、「キレイなオバサン、普通のオバサン」を読めば、その逆のパターンがわかるはず。
執筆者などを紹介するページや、五里霧中になっているページを経て、最終ページは編集後記だ。後記をエッセイにしたのは、’00年代の一時期、その頃『VIKING』の若き編集人だった日沖直也さんが書いていた編集後記を毎月読んで、いいなあと思っていたからで、『アフリカ』の編集後記はレイアウトも含めそれの真似だ。今回は『WSマガジン』のことを中心に書き、その流れで『水牛』のことにも少し触れた。
完成したばかりなので、まだ売るのもこれから、読まれるのもこれから。しかし『アフリカ』を仕上げた後はいつも、どこか不安で、つくっている最中ほど楽しくはない。けれど、読んでもらわないとね。と思っていたら、常連の読者の方々がさっそく入手して読んで、SNSで語っているのが目に入る。聞いていると、書き手よりも書き手のことがよくわかっているようで、心強い。文芸の創作ワークショップでは作家が育つのではない、まず読者が育つのだ、と考えた20数年前のことが思い出された。
むもーままめ(27)スパークリングワインの開け方、の巻
工藤あかね先月もおしゃべりしたいことが山盛りにあったのに、今年の2月は28日までしかなく、1日が24時間しかないせいで「むもーままめ」をおやすみしてしまいました。今月もよろしくお願いいたします。
さて、何を話しましょうかね…と。桜が早く咲いた今日この頃、都内のお花見の名所という名所は人でごった返しています。たしかにお酒のひとつも飲みたい季節ですよね。我が家は安くて美味しいワインを探すのが好きなのですが、今日もお安いスパークリングワインを開けながらふと思いました。
みなさん、スパークリングワインの簡単な開け方をご存知なのでしょうか?「スパークリングワインの栓を開けるのが怖い」とか、「なかなか開かなくて嫌だ」とか、さまざまな意見を聞くのですが、このライフハックを知ったらバンバン栓を開けたくなりますよ(飲み過ぎ注意♡)。
1:まず、スパークリングワインはちゃんと冷やしましょう。ぬるいスパークリングワインほどイケていないものはありません。できれば「呑むぞ!」と決めた日の2日くらい前から冷蔵庫に入れましょう。そう、祭りには気合いと心構えが必要なのです。
2:ワインセラーやお酒用の冷蔵庫を持っていない人は、スパークリングワインを冷蔵庫に入れたら、扉を乱暴に開け閉めするのをやめましょう。扉のポケットに入れたならなおさらです。おいしくお酒をのもうと思ったら、こうした心配りを惜しんではいけません。
3:おつまみを用意しましょう。赤ワインと比べて、合う食べ物の守備範囲が広いお酒です。お肉やお魚、野菜はもちろん、酒盗とクリームチーズを合わせたり、スモークサーモンで一杯やったりするのもいいですねぇ。お寿司にも合わせられます。あっそうだ、塩辛でスパークリングワインを合わせた時はちょっと生臭みがでちゃったかな。それが好きな方は止めませんので、どうぞトライしてください。
4:お酒を直前まで冷やすために、グラスは先に用意しましょう。ワインクーラーがあれば、氷を入れて準備しましょう。たとえワンコインで買ったスパークリングワインだったとしても、VIPをお招きするかのような心構えが大切です。
5:ここからが抜栓のしかたです。スパークリングワインの栓を開けるのを怖がっている人、もう大丈夫ですよ。怖い思いをせずに、簡単にスパークリングワインを開けられるようになりますからね。
スパークリングワインをそっと冷蔵庫から取り出します。「イエーイ!!ドンペリ、ドンペリ~~!!!」などと言って歌いながら仲間にコールをせがんだり、調子に乗って瓶を振ったりしないように。落ち着いて丁寧に取り扱ってください。お酒は神の雫ですからね。安定した台などに置いたら、ナフキンなどの布をボトルの頭からふわっとかぶせ、布の下から手を入れて留め金をゆっくりゆるめます。ゆるめるだけで外しませんよ。ここ、みんな意外に知らない大事なポイントです。コルクだけ引くのは、握力のない人には結構大変ですからね。留め金付きでひねれば、強い力をかけなくても開きます。
留め金の上にナフキンをかぶせたまま、コルクをねじります。右、左、右、左、と引きながら回せばラクに栓が抜けます。
はい、栓が抜けました。グラスにはゆっくり注ぐこと。泡が多いのでドバーツとそそぐと、大抵あふれて大惨事になります。
みなさま、節度を守っておいしいワインタイムをEnjoy!!!してくださいね。
仙台ネイティブのつぶやき(81)遠くにみる先生
西大立目祥子 母のコートの裏地の背中のところがほつれた。たぶん、動いてすれるうち生地が糸に引っ張られ、しまいに端から破れてしまうんだろう。安物は縫い代に余裕がないからなぁ、とぶつぶついいながら直す手立てを考えていて、首のところから裾まで幅広のリボンを縫い付けることを思いついた。ちょうど幅3センチくらいの赤いタータンチェックのリボンがあったので、当ててみるとなかなかかわいい。まずはリボンの端をきちっと折って、アイロン。と、反射的に考えたとたん、中学時代の家庭科の授業が思い浮かんだ。
ええと、五十嵐先生といったっけ。小太りで、目がくりくりしたどこかユーモラスな雰囲気をただよわせていた先生。ブラウスにスカート、ワンピースまで縫わされた授業で、先生はときおり、ミシンをかける生徒の間を歩きながら澄んだ声を張り上げた。「きれいに仕上げるにはこまめにアイロン!」ソーイングが趣味でもないじぶんの中に、50年以上もこのことばが生きているなんてなぁ。先生のひと言どおり、アイロンを当てて縫い始めたリボンは曲がることなく、ぴったりと裏地に縫い付けることができた。
10代でからだに入り込んだことばは、ずっと深いところに降りて定着するのだろうか。そして、何か気持ちが揺れるようなことがあったりすると、ふっと水面まで上がってくる。
ひとり、忘れがたい先生がいる。佐藤正志先生。私に宮澤賢治の「雨ニモマケズ」を教えてくれた人だ。担任だったのはたった1年なのだけれど、この先生が担任になったとたん、教室のすみっこに縮こまっていた男の子が、子犬がじゃれるように先生の腰に抱きついて相撲をとったりするのに目を見張った。じぶんに心を開いてくれるおとなを、子どもは瞬時に鋭く見極める。
ある朝登校すると、黒板の上にほぼその幅に合わせて模造紙でつくった大きな原稿用紙が張り出されて、マス目を埋めるように「雨ニモマケズ」の詩が黒マジックで書かれていた。教壇に立った先生がいった。「ひと月で、この詩を覚えるように。来月、ひとりひとりに暗唱してもらうよ」えーっ。むりー。長過ぎるー。教室に叫び声のような声の渦が沸き起こった。でも、ひと月後、50人をこえる10歳の子どもたちは残らずこの詩を覚えた。意味の理解はどうあれ。
詩のことばの咀嚼はずっとずっとあとになってからついてきた。平成5年の大冷害の年、私は仙台近郊で長いこと米づくりをやってきたおじいさんたちを手伝って、地域誌をつくっていた。連日、曇り空で肌寒く、ヤマセといわれる冷たい風が吹きわたる田んぼの稲は青く突っ立ったまま。そのとき記憶の底から、ことばが上がってきてふっと口について出た。「サムサノナツハオロオロアルキ」
気温が上がらないとき、田んぼでは深水管理をする。農家の人たちはくぐもった顔で空を見上げ田んぼをあっちこっちと歩きまわる。歩いては腰をかがめて水に手を入れ、稲はこの寒さを乗り切れるだろうかと案じるのだ。あの冷害の年、出穂はあったのだろうか。稲は花を咲かせることなく夏は終わったのかもしれない。宮城の米の作況指数は37。重たいコートを着て歩く宮澤賢治のよく知られた写真があるけれど、あれは夏だったのではないかと想像した。
「一日ニ玄米四合」は、私が食べる一日のごはんの4、5倍。1年に換算すると、米3俵半を超えている。そこに添えられた「味噌」は味噌汁なんだろうな。歩きまわる田んぼの近くには、命を支えるための大豆畑と野菜畑も整えられているのだ。宮澤賢治は収穫した大豆に麹を加えみずから味噌をつくることはあったのだろうか。土間の上の方には、藁でしばった味噌玉がぶら下げられていたんだろうか。
そして、「東ニ病気ノコドモ」「西ニツカレタ母」「南ニ死二ソウナ人」「北ニケンカヤソショウ」というところは、これを覚えようとする10歳の子どもたちを「えーと、東はなんだっけ?」と悩ませる箇所だった。でも、理屈としてはわからないけれどイメージとしてはつかまえられるような気がする。東には薬師如来がいるのだから、病気の子どもは治るだろう。夕日が沈む西には、薄暗くなってなお野良仕事をする母が見える。いま年老いて死なんとする人は少しでも日差しの入る暖かいところに横にしてあげたい。そして北風が吹きすさむところには、つまらない争い事が起こりそう。
覚えてもう半世紀は超えているのに、ぐずぐずと反芻する牛のように、私は湯船につかっているときなんかに、「小サナ萱ブキノ小屋」の屋根の葺き替えは誰に手伝ってもらったんだろう、と考えたりしている。
佐藤先生が音楽の時間に、小さなポータブルのプレーヤーを持ってきて突然レコードをかけたことがあった。「この曲を知っている人は?」みんなが首を横にふると、先生はいった。「グリーグという人がつくったペール・ギュント組曲の朝という曲です」たしか、音楽の教科書に載っていた覚えがある。1週間後、先生はまた同じ曲をかけた。「この曲知っている人は?」3、4人が手を上げた。次の週も次の週も、そのまた週も、先生はこの曲をかけ続けた。2ヶ月が経つ頃には、全員が「あーさー!」と答えるようになっていた。
町はずれの小学校のクラシックなんて縁のない子どもたちに、先生はみんなが入れる小さなドアを用意しようとしていたのだろうか。そうかもしれない。でもたぶん、先生はこの曲が好きだったに違いない、とも思う。4分弱のこの曲にいつもじっと聴き入っていたから。先生の家は、仙台南部の田園地帯にあった。もしかすると家は農家で、朝、草取りをしてから学校にきていたのかもしれない。草原に朝の光が満ちあふれていくようすを描いたこの曲に、すがすがしい朝の田んぼの風景を重ねみていたのだろう。「雨ニモマケズ」にしても、深い共感がまずあったのだと思う。
苦手だった跳び箱を跳べるようにしてくれたのも先生だ。体育の時間にひととおり全員が飛ぶようすを見た先生は、飛べない子だけを集めると、「勢いよく走り、踏み台を強く蹴って、跳び箱の上に乗っかれ」といった。走る勢いと蹴る力があれば、誰でも跳べることを知っていたのだろう。全員が乗れるようになると、次には手をついて飛ぶように話し、ひとりひとりが踏み台を踏み込んだ瞬間に先生がお尻を持ち上げてくれる。先生は本気だった。次々と声がかかる。「よし!」「ほら、行け!」足の力で空中に飛び出し、降りていくときに腕の力で跳び箱を押すようにして前へ。たった45分の間に全員が跳べるようになっていた。できなかったことが、できるようになるうれしさ。そして、体がふぁっと浮かぶ楽しさ。どこか夢のような授業だった。
もうひとつ、女子校時代の先生のことも書いておこう。2年生の自習の時間だったか。夏だった。監督にたしか森先生という体育の先生がやってきた。ハンドボール部の顧問だからかよく日焼けしていて、いま思えばユーモアのセンスがあったのかもしれない。教室に漂うやる気のなさに気を許したのか、やおら映画の話を始め、そこから急にマリリン・モンローに話題を移し、突然こういった。「あのな、男がみんなモンローみたいな女が好きだと思うなよ」17歳45人がどっと笑った。さらに先生はこう続けた。「俺はオードリー・ヘップバーン派なのよ。かわいいよねぇ。わかる?わかんねえかなぁ」また、みんながどっ。わかったのか、わからなかったのか、じぶんでもわからない。
あれは何だったんだろう。白いブラウスからぷくぷくした二の腕を出し、机の下にょっきりと足を投げ出すメス化しつつある女子の群れの圧を感じての本音だったのか。
先週だったか、赤信号でクルマを停めふと横を見たら、店のガラス戸にポスターが貼ってありモンローが肉感的な表情をこちらに向けていた。わぁ、先生。
大切なことを伝えてくれるからいい先生なのではなくて、本気と本音で向かい合ってくれるからいい先生なのだろうと思う。だからこそ、胸の奥底にその後姿とことばはとどまり続けているのです。
灰とダイヤモンド、明日はワルシャワ
さとうまき2023年、2月6日 大きな地震がトルコ、シリアを襲った。そのおかげで、わさわさと騒がしくなり、旅に出る計画がなかなかまとまらなかった。もちろん行き先はイラクである。今年はイラク戦争から20年なのだから。イラクの土地に初めて足を踏み入れた時の不思議な感覚。この土地には、悪魔が宿っている。足元からそう感じた。土地は生き血をたっぷりと吸い込んで肥沃になっていく。アメリカに復讐を誓う人々はテロに身を染め、「神は偉大なり」と叫び人質の首を切断する。生き血が渇いた大地を潤してきた。僕は、よく夢をみた。黒装束で黒い中折れ帽をかぶった男が現れ、僕を指さす。「お前は、これ以上かかわるな。さもなければ、ぐうの音も言えないようにしてやる」ここはイスラム国なのか?
気が付くと4年たっていた。コロナがどうのこうので、4年もイラクを離れていれば、あの男に言われなくても、かかわる理由などとっくになくなってしまい、ぐうの音も出なくなっていた。記憶が薄れるとともに、自分の存在すら信じられなくなってしまうものだ。本当に自分はイラクにいたのだろうか?「そろそろ、戻らないといけないなあ」というわけで、僕は旅に出ることにした。しかし、地震がトルコ・シリアを襲い、トルコとシリアに行くのが最優先じゃないか、と悩み始め、ああだのこうだの考えているうちに時間は過ぎ去り、もともと円高や燃料費の値上げで高騰した航空券はさらに高くなっていた。
旅行会社に工面してもらったチケットは、ワルシャワ経由?だった。トランジットで8時間くらい時間がある。これは、旅行のおまけとしては少しうれしかった。というわけでいきなりポーランドに行く羽目になったのだ。ポーランドと言えば、隣接するウクライナから多くの難民を受け入れているということで、最近はよくニュースにも登場する。しかし、僕はそれよりも、昔買った水牛楽団のテープ、「ポーランドの禁じられた歌」に入っているいくつかの曲や、映画「灰とダイヤモンド」(1957年)を思い出した。
1980年代、大学生だった僕は、早稲田に下宿していたので、高田馬場のACTミニ・シアターという畳で寝そべりながらのオールナイトを見に行ったり、池袋の文芸座ルピリエなんかもよく歩いて通った。映画の歴史に追いつこうと昔の白黒映画をむさぼっていた時期があった。あの昭和の名画座の雰囲気は楽しかった。今は便利に家でネットが見られる時代だがなかなか名画となると配信がないのは寂しい。その時に見たのが「灰とダイヤモンド」である。1945年5月8日、ポーランドを占領していたナチスドイツの降伏の一日を描いた映画である。主人公のマチェックは、パルチザンの兵士であるが、敵はもはやナチスドイツではなく、ナチス後に支配するだろう共産党だった。しかし、当時は複雑な歴史とは関係なしに、マチェックのカッコよさだけが印象にのこっていたのだ。
朝の6時に飛行場につき、乗り継ぎ時間が6時間くらいあったので、バスで町中まで出てみた。ワルシャワの旧市街は、ワルシャワ蜂起でナチスドイツに返り討ちにされ街は破壊しつくされたが、ポーランド人は丹念に昔の通りに町を再現した。その情熱に世界遺産にも登録されている。お土産屋さんには、ワルシャワ蜂起を描いた絵ハガキや女性兵士の置物が売っている。そのわきに金貨をたくさん持っているユダヤ人の人形もあった。
「これはなんです?」
「ユダヤ人はお金にがめついからね」と店員が説明してくれた。
「そんなユダヤ人を差別しても大丈夫なんですか」
「ただのジョークですよ。ポーランド人はジョークが好きなんですよ」と説明してくれる。
町中にはウクライナの国旗もちらほら飾ってあった。
「ウクライナ人? 彼らはお金をねだってくるが、実は結構お金持ちだったりしてもううんざりしている」と通りすがりの老夫婦が文句を言い出した。
実は、1996年にもポーランドを旅したことがあった。その時は、アウシュビッツを訪れるのが目的だった。中東を旅した最後の仕上げだった。2年間シリア政府の工業省で仕事をしていた時、シリア人の同僚たちは、「ホロコーストなんかなかった。あれはユダヤ人がでっちあげたものだ」。彼らはそう信じていた。その言葉は衝撃的だった。だから僕は、アウシュヴィツとビルケナウに行く必要があった。あの匂いを嗅ぐために。それは、人間の内部に誰しもが持ついやらしいかび臭い匂いだった。今でも覚えている。
僕がシリアを去って15年たったら内戦が始まった。10年間で40万人が殺された。難民は600万人をこえた。瓦礫と化した街並みはいつになったらワルシャワのように元に修復できるのか? シリアの禁じられた歌は私たちを魅了するのだろうか? 2013年には、ヨルダンで次から次に運び込まれる手足を失った子どもたちの支援を行っていたし、自由シリア軍の兵士たちの話を聞いて早くシリアに民主主義がもたらされればいいなと思う反面、彼らが殺されていくのがつらかった。ウクライナにしても、もちろん彼らが国を守るしかないのだが、人が死ぬことがただ単に悲しくてつらい。憎しみ合う人々を見るのがただ辛い。レジスタンスに高揚するよりもただつらいのだ、そんなことを考えながら飛行場に戻るバスの窓からチューリップの市場が見えたので思わずバスを降りてしまった。うっとりと美しい花に見とれているうちに時間が過ぎ僕は慌ててバスに飛び乗った。しばらくすると、警察官が2名乗り込んできた。これはやばい雰囲気だ。ゲシュタポが、バスに乗り込んできた。こういう時レジスタンスならどうする?窓から飛びおりて逃げるか?
いやいや、さりげなくパスポートを出した。
「切符を見せてください」
「あ、切符ですね。」
しまった! 僕は無賃乗車がばれて罰金を取られる羽目になった。正確には切符を買う時間がなくて飛び乗ったのだが、駄々をこねるとどこかに連れていかれそうな怖い警察官だったし、飛行機の時間が迫っていたのでおとなしく罰金を払った。まあ、旅の出だしとしてはあまりよくないが、気持ちを切り替えて旅を続けようと思う。
卵を食べる女(上)
イリナ・グリゴレ彼女は毎日生きることとはどういうことなのか考えていた。それは食べることに深くつながることであると幼い頃から気付いたがある日から食べ物の味が全く感じなくなった。この出来事は自分が生まれた村と違う場所に住むようになったからだったかもしれない、あるいは自分が生まれた国と違う国で暮らすようになったからかもしれない。その国に着いてから間も無く流産のような経験をした。1ヶ月以上出血は止まらなくなって、彼女の身体が透明に近い青い白い色になって、気絶も何回も繰り返した。隣の部屋に住んでいた聞いたことない国の陽気で、明るい、ゲイの女性友達に言ってみた。「もう、これ以上、このままこの身体から心臓も、肝臓も、全ての器官が出ると思う」。すでに、鮮やかな血というより、黒くて大きな血の塊が出ていて、押さえる布が1分でいっぱいになってトイレまで行く時間さえなかった。部屋で倒れてこのまま血塗れになって終わればいいと思ったこともある。
あの日、隣の部屋の友達にタクシーに乗せられて、救急で病院に連れて行かれたが手遅れではなかった。タクシーで吐いたことも仕方なかった。彼女の身体が勝手ながら彼女と全く関係ないところで反乱していたとしか思わないような状態だった。彼女の身体は彼女を食べていたような感覚を説明できなかった。以前見た、ある恐竜が違う恐竜の卵を美味しいそうに食べる再現ドキュメンタリーのイメージを思い出した。自分の身体は自分を食べているとはどういうことなのか。
病院で若手医師が遠慮しながら彼女のお腹を触って「妊娠の可能性は?」と聞かれた。可能性はないと答えたが検査をした。妄想の妊娠というものもあるとどこかで読んだことが思い出した。それなら、ありえる。彼女の身体が勝手にそうなることが多い。あの後、薬を飲んだら出血が治った。当時、原因は不明だったけど、違う現象が身体に起きた。それは食べ物の味が分からなくなったことだった。どんな美味しいものを食べても味がさっぱり分からなかった。お肉も、野菜も、お菓子も。紙を食べていると同じだ。最初は薬の副採用だと思ったが、薬を飲まなくなった後でも同じ。いろんなことを試した。食べ物以外のものも試した、土も、草も、お花も。全く味がしなかった。このことを周りの人にぜったいに言わないこと決めた。匂いを感じないということではなかった。逆に、高校生の時、読んでいたパトリック・ジュースキントの『香水』の主人公のように匂いにものすごく敏感になったと。しかし、匂いを感じても味を感じないということは、あり得ない。周りにこんなことを言ったらきっと誰も信じない。
あまり味が分からないと食欲もない。ただ、お腹が空く感覚がある。あるのに、食べたあと吐き気する、味が分からないと何を食べても同じ。ある日、唯一味がするものがあるとわかった。それは彼女も驚いたことだった。卵の味だった。卵か。思い出して見れば、子供の頃は卵アレルギーだった。彼女の祖母が鶏を育てていたから雛の世話は彼女の仕事だった。祖母は一所懸命、春になるとお母さん鶏の下にある卵を見守って、その母鶏のケアもしていた。水とトウモロコシの粉を与えて、復活祭の前に必ずあの卵から小さな雛が孵った。彼女のような小さな女の子が森へ出掛けて、その春の一番のスミレをたくさん持って帰ると雛がたくさん生まれると信じられていた。でも、雛にならなかった卵もあって、そのまま鶏の庭に捨てられて、割れた臭い卵から小さなまだ形がはっきりできていなかった雛の遺体が土の上にそのままになっていた。それを他の鶏が食べるのも見た。
鶏が小さな鶏を食べるイメージは、恐竜が他の恐竜の卵を食べるシーンと同じだと何年か後にわかった。そういえば、雛の世話を任された子供の彼女はもう一つの矛盾を発見した。産まれたての弱い雛の餌はトウモロコシの粉と水とゆで卵を混ぜたものだった。雛に卵を食べさせるなんて幼い彼女は驚いた。経済的ではないので、最初の二日だけ、その後はトウモロコシを水に混ぜて手で溶かしただけの餌になった。彼女は毎日それを作って、雛を日当たりのいい場所と草が綺麗な場所に連れていき、何時間も小さな雛の身体についていたシラミを一つ一つ取って殺した。シラミから血が出て、黄色いふわふわの雛にこんな赤い血が流れていたことが驚きだった。彼女と同じだ。血が流れている生き物だ。
毎日のように食卓に出ていた茹で卵と祖父がとても得意だった自家製ベーコンとラードのスクランブルエッグを食べると、彼女の身体は酷い蕁麻疹で苦しんだ。腕と足に赤い点々たくさん出て、痒みに耐えられないまま血が出るまで擦る。
彼女が特に好きだったのは、まだ産まれてない卵。週に一回ほど、来客がある時など祖母は鶏を殺して家族で丸ごと食べる。祖母は皮がついた足しか食べなかった。子供に美味しいところを残すため。鶏の臓物を捨て、雌鶏の中に生きていたらこれから産むはずだったさまざまなサイズの丸い黄色い鉱石のような卵をスープのため他の肉と煮てある。祖母はそれをレバーと一緒に彼女にあげていた。毎回。塩もつけないで。10分前に生きていた鶏のまだ産まれてない卵とレバーはとても美味しかったが、卵アレルギーの彼女の身体にはその夜にブツブツの森ができてかゆみと何日も闘っていた。すると祖父は森で拾ったハーブとラードの手づくり軟膏を塗ってくれた。次の卵を食べるまでなんとか頑張っていた。それでも卵を食べ続け、知らない間にアレルギーが治ってしまった。
いーすたー
北村周一しずみそうな しみずのまちの
かわぞいの うみのにおいが
みちみちに のこるいっかく
このあたり かこうにちかい
はずなのに うみがみえない
そのかわり むこうぎしへと
いくつかの はしがたがいに
ひとのめを いざなうように
のびていて そのこうけいは
それなりに ふぜいがあって
たちどまる ひともちらほら
いるようで さすがにみなと
まちらしい どこへゆくのか
しずみそうな しみずのまちの
かわぞいの ふるいいえいえ
たちならぶ とおりをすぎて
かわのきし はしのたもとに
たちどまり とおくみている
かわむこう ながめながめて
いるうちに はらりはらりと
めのまえに まいおりてくる
ものがある むかしえがいた
えにっきの かたいぺーじを
むりやりに めくりはじめる
ようなおと わすれたはずの
できごとが はらりはらりと
めのまえの はしのたもとに
ときをこえ よみがえりくる
しずみそうな しみずのまちの
かわぞいの ふるいいえいえ
たちならぶ とおりをすぎて
かわのきし はしのたもとに
たちどまり ふりかえりみる
みちのさき おもてどおりは
そのむかし ろめんでんしゃが
ちんちんと おとたてながら
げんきよく はしっていたし
あのころの でんしゃどおりは
ひとのでも おおいにあって
だいしょうの みせもそれぞれ
にぎやかで まちはかっきに
みちていた おもいかえせば
あのころの ざわめきのなか
おずおずと いちりょうきりの
しでんから ごえんはらって
おりてくる こどもがひとり
いたことも まんせいちょうと
いうえきで しでんをおりて
まっすぐに ひろいとおりを
いっぽんの はしにむかって
とぼとぼと あるきはじめる
しょうねんの そのあしどりは
みるからに おもおもしくて
しずみそうな しみずのまちの
かわしもの ふるいいえいえ
たちならぶ とおりをすぎて
かわのきし はしのたもとに
ひとしきり あゆみをとめて
かわむこう ながめながめて
ひとりきり わたりはじめる
いしばしは おもったよりも
つめたくて ゆびのつめたて
らんかんに こすりながらに
だらだらと あゆみすすめる
そのとちゅう いつものように
ここへきて おもいとどまる
はしのうえ くろくにごった
どぶがわの みずのながれは
どんよりと くらくよどんで
それよりも さらにおぐらき
うつしみが ゆらりゆらりと
みずのもに かげをおとして
たよりなく ゆれていたっけ
しろじろと かかるいしばし
さむざむと むこうぎしへと
のびていて わたりきるまで
くらぐらと はしのしたから
もうひとり のぞくじぶんが
いるようで わたりおえても
きがおもい さかのうえには
せんとうが ふたつながらに
じゅうじかを あたまにのせて
さっきから こっちをむいて
こわそうに つったっている
しかたなく てんをあおいで
にちようの あさのくうきを
おもいきり すってははいて
かねのねが いそげいそげと
よぶように なりだすまえに
きょうかいへ あゆみすすめる
さかのみち あんそくにちの
おつとめも まもるほかなく
せつせつと あさはしょくじも
とらないで いわれるままに
いえをでて ひとりきている
このさかの みちのとちゅうに
いりぐちの いしのかいだん
ひだりてに みえてきたとき
なぜかしら ほっとしたっけ
そろそろと いしのかいだん
のぼったら みどうのまえの
なかにわに すでにおおくの
ひとたちが あつまっていて
とくべつな みさのはじまり
まちながら はなしをしたり
わらったり だれもがみんな
にこやかな かおをしていた
とつぜんに からんころんと
きょうかいの かねがおおきく
ならされて しんじゃのひとも
そのこらも みどうのなかに
しずしずと あつまりだして
おもむろに しさいはみさの
はじまりを つげたのだった
とくべつな みさがはじまり
ろうろうと しさいのこえも
とくべつな ふっかつさいの
にちようび みどうのなかは
とくべつな いのりとうたに
みたされて いつしかみさは
おわりへと みちびかれつつ
しずけさに つつまれていた
きょうかいの かねがふたたび
ならされて しさいにつづき
つきびとが みどうのそとへ
あしばやに さってゆくのを
かわきりに とびらがひらき
いっせいに しんじゃのひとも
そのこらも みどうのそとへ
ぞろぞろと ながれるように
でていった だれもかれもが
なかにわの あかるいほうへ
つどいだし ふくらみかけた
ふじだなの はなのきのした
からふるな たまごのやまに
でくわした ぱすてるからーに
そめられた たまごのやまを
まんなかに おやもこどもも
みんなして よろこびのこえ
つつましく あげたのだった
やまもりに ざるにもられた
ゆでたまご ぱすてるからーに
そめられて おしえのにわに
はながさく ざるのなかから
ひとつずつ わけてもらって
からふるな そのゆでたまご
むきながら くちにはこべば
たのしくも きはずかしくも
あったっけ たまごのからは
ぽろぽろと むかれておちて
なかにわの じめんのうえに
あでやかな はなをさかせて
あたたかな はるのおとずれ
ほのぼのと ちりばめていた
ちちがまず かみをしんじて
ははがその あとをおいつつ
さんにんの こらをなかまに
ひきいれた くるしいことが
あったのか くやしいことが
あったのか それともほかに
なにごとか ゆるせぬことが
あったのか そのいきさつは
なぜかしら おさないこらに
しらされる ことはなかった
それなのに とおいいこくの
かみさまは どこにいたって
わたしらを いつもまもって
くださると ときふせられて
そのながい ながいおはなし
とうとうと きかされながら
ときどきは かみしばいまで
みせられて はなしのたねは
いつまでも つきることなく
つづくとも けれどいつでも
けつまつは おなじところに
なんどでも おちてゆくのに
しずみそうな しみずのまちの
かわぞいの ふるいいえいえ
たちならぶ とおりをすぎて
かわのきし はしのたもとに
たちどまり とおくみている
かわむこう おもいおこせば
きりすとの だいじなしとの
そのひとり せいよはねとは
もともとは がりらやという
みずうみの りょうしであった
あにはなを やこぶといって
おとうとの よはねとともに
がりらやで りょうをしていた
ひるがえり みればそもそも
わかいころ しみずのりょうし
でもあった ちちがよはねと
いうひとを しらないでいる
はずもなく おりにつけては
ふりかえる こともしばしば
あったかと おもうこのごろ
しずみそうな しみずのまちの
かわしもの うみのにおいが
みちみちに いろこくのこる
このあたり かこうにちかい
はずなのに うみがみえない
そのかわり むこうぎしへと
いくつかの はしがたがいに
ひとのめを いざなうように
のびていて そのこうけいは
それなりに ふぜいがあって
きしべには あゆみをとめて
このかわの けしきにみいる
ひとかげも あちらこちらに
みえはじめ おもいおもいに
りょうしまち らしいゆうべの
おとずれを まつかのように
おりてきている
言葉と本が行ったり来たり(15)『香港少年燃ゆ』
長谷部千彩八巻美恵さま
桜も満開、春ですね。重いコートも不要になって身も軽い。私のベランダではフリージアが咲き始めました。
返信に半年もかかってしまい、すみません。身内に入院する者が出たり、住環境の変化があったり、自分自身についても考えねばならないことが多く、落ち着いて机に向かう時間が取れずにいました。八巻さんはお変わりありませんか。お元気ですか。
先週になりますが、入国条件が緩和されたと聞き、香港に行ってきました。観光客が本格的に増える前に、ささっとチケットを取って、ささっと支度をして、ささっと飛行機に乗る、もちろんひとり旅です。
国際線の飛行機に乗ったのは、2019年の秋、ブエノスアイレスへの旅以来。最後に香港に行ったのはその前だから、3年9ヶ月ぶりです。コロナウィルスが流行る前は毎月訪港していた時期もあるほど頻繁に足を運んでいた街なのに、だから空港から市街に入って行く時には、タクシーの中で柄にもなく緊張してしまいました。疎遠になっていた友達と再会するみたいで。
あいにく滞在中はずっと曇天、時々雨、時々豪雨。一度も空が明るくなることはなかった。そのため、すぐには気づかなかったのです。あれ?香港って、こんなにどんよりした街だったかな?と首をかしげ、だけど、きっと陽の光さえ差せば、埃を払ったように色鮮やかな街が浮かび上がってくるはず―私はそう確信していました。でも、その夜にはわかった。3年9ヶ月の間に、香港名物、路上に所狭しとせり出していたネオンサインはすっかり撤去され、目抜き通りの彌敦道(ネイザンロード)までもが薄暗い。エネルギッシュで、グラマラスで、混沌としていて、キラキラと眩しい、そんな香港は跡形もなく消えていた。そうか、ネオンという美しい羽根をむしり取ると、煤(すす)けたビルが延々と建ち並んでいる、それがこの街の素顔だったのか。まるでジャ・ジャンクーの映画に出てくる中国の地方都市みたい・・・。そう心の中でつぶやいてからすぐに、いや、香港も中国の地方都市ではあるんだけどね・・・とつけ加えたのですが。
夕食の後、散歩していると、灯りのつかないビルの多さが目につきます。立ち退きが済み、どのフロアも無人となったビルがあそこにもここにも。入居者のいる暗い窓と退去後の暗い窓は、暗さが違うからわかるのです。ここと隣とそのまた隣のビルを解体して、大きな区画にしたら新しいビルを建てるのね。そしてそれはいままで建っていたのとは全く趣の違うものになる、たぶん。
10年程前、九州大学の先生が書いた『香港の都市再開発と保全―市民によるアイデンティティとホームの再構築』という本を読み、香港の再開発については既に多くのことが決まっていると知りました。だけど、頻繁に足を運んでいたために、私は街の変化を“少しずつ”としか感じ取れなかった。けれど、今回の滞在で実感させられました。実際はそれが激流のごとく進んでいることを。
私の憧れは次々と新しい何かに置き換わっていく。それでも私は香港に通い続けるのか。ネオンの代わりに設置されたデジタルサイネージを見上げ、自分に問うてみるけれど、正直なところまだよくわかりません。
そんな香港滞在中に読んでいたのが、『香港少年燃ゆ』という本。2019年に起きた香港での大規模デモで出会った少年との3年に亘る交流を、フリーライターの著者が綴ったルポルタージュです。
15歳の少年ハオロンは、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や周庭(アグネス・チョウ)のような高等教育を受けた青年たちとは違い、教養もなく、やることなすこといい加減、勇武派として民主主義のために闘っていると自負しているけれど、その根拠もあやふやです。でも、その浅はかさも含め、彼は実に少年らしい少年でもある。確かに行き過ぎた暴力行為に及んだのは、こういった少年たちだったのでしょう。けれど、ともすれば一方的な非難に晒されそうな彼の危うさに、著者は、《 賢く理性的で、十分な知識と教養のある者しか政治的な発言ができないのだとしたら、その社会は民主的な社会とは言えないだろう。無知で短絡的で粗暴で直情的な思いもまた、民主的な社会を形づくる一つの意見に違いない。》(第7章別離 306p)と正面から向き合う。このルポルタージュの秀逸な点は、国安法が施行された後の、つまりは実質上運動が敗北した後も少年を追い、描いているところにあると思うのですが、夢破れ絶望しても、ひとは生きていかなければいけないという現実、そしてその現実をその若さで受け止めなければならないという切なさが、読後の胸に痛みとして残ります。
それからもうひとつ、著者の慧眼にはっとさせられた箇所がありました。
《香港という非常にコンパクトな街は、換言すると、“国外”に出る術を持たない凡庸な人間は、一生このミニチュアのような空間で過ごさねばなないことを意味する。(中略)「とりあえず東京に出たい」、「大阪に出たい」。人生のどこかで、自分の出生地や現在地から離れ、遠くの町で人生を仕切り直したいと思うことは、誰しもあるのではないだろうか。あるいは、進学や就職で、予期せずに仕切り直すことも多い。(中略)日本人を含む多くの国の人々が当然のようにしていることが、香港人にとっては、かなりハードルが高いことなのかもしれない。グローバルに通用する高度なスキルがない人間は、“遠くの町”へ行くことができないのだ。ハオロンのような八方塞がりの若者だったら、今いる場所と違う遠いどこかへ行き、人生を仕切り直すのは決して悪くない選択肢のはず。それが容易ならざることは、香港人の抱く閉塞感や不満の一因になっているに違いない。香港には“上京物語”が存在しないのだ。》(第4章母親 122p)
私にとって、知り合いがひとりもいない香港は、東京での暖かくも煩わしいつながりを一時(いっとき)断ち切ることのできる場所です。だから、香港にいる私の心の中には風が吹き抜ける。その解放感を、羽田からたった4時間の移動で味わうことができる。だけど、香港のどこかにいる少年ハオロンがそういった場所を手に入れるのは難しい。彼と私は非対称の関係にある。だからどうということでもないのです。けれど、そのことを考えると、香港の夜の街がほんの少しだけ、私には違って見えたのでした。
久しぶりということもあり、長い手紙になりました。
次回はもっと短くしますね。それでは、また。来月に。
2023/03/31
長谷部千彩
しもた屋之噺(254)
杉山洋一この一カ月余り人にも会わず、ただ粛々と仕事に明け暮れていて、母は米寿を迎え、息子は18歳になりました。Covidが話題に上らない代わりに、ウクライナ侵攻や度重なるシチリア沖の移民船海難事故など辛い記事が続き、あまり熱心にニュースを読むこともしませんでした。
コロナ禍で我々が気が付かなかった、もし気が付かない振りをしてきた歴史の次頁を、そろそろ目をあげて読みださなければいけない時がきているのかも知れません。急に春めいてきて、庭には小さな花が沢山咲いていますが、朝晩はまだぐっと冷えこみます。
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3月某日 ミラノ自宅
町田の母が米寿を迎えた。彼女が使っているコンピュータは旧いWindows8で、メーカーサポートも中止されたので、次回帰国したら新しいコンピュータを贈ろうとおもう。暫定的にカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」と「日の名残り」とラベンダーオイルなどを届けた。
彼女が今もこうして元気に暮らしているのは、長い間熱心に水泳に打ち込んでいたからだろうか。離れて暮らしているので、両親ともに健康であるのは何にも替え難く、心から感謝している。元来母は童顔で小柄なので、歳とともに、何だか可愛らしいお地蔵さんのように見えたりする。なるほど地蔵の顔は中性的で、童子のようでもあり、達観した老人にも見える。
母が大事に育てている蘭が幾つかあるのだが、今年はどれも驚くほど見事な大輪を咲かせていて、彼女は鼻高々。
3月某日 ミラノ自宅
音楽が痩せて聞こえるのは、発音と発音の間の空間に音楽が満ちていないからではないか。沈黙が物質的な無音状態に陥ると、聴き手の脳は自動的に音の表面をなぞり始める。沈黙は無味乾燥とした箱になり、演奏されている空間から有機性が失われてゆく。
サラと息子がシュトックハウゼンの「ソナチネ」とダニエレの新作を弾くので、国立音楽院にでかける。ピアノパートは、ケルン音大卒業時に書いたもので、それに後からヴァイオリンパートを付加したものだそうだ。シュトックハウゼンの遊び心がしばしば顔を覗かせるのも愉快だし、彼が既に当時の技法の先を見つめているのを感じる。実験的であったり挑戦的であったりするためには、常に真面目腐っている必要はなかった。こうして何の先入観も持たない若者がこの作品を弾くのは、見ていて気持ちがよい。
ダニエレの「パッサカリア」。音は極端に少ないが、ヴァイオリンは単音を最弱音でとても長く弾き続けるので演奏は難しかったはずだが、見事で有機的な演奏であった。
シュトックハウゼンがミラノの国立音楽院を訪れた際の逸話が披露され、それによると舞台照明を最大限明るくするよう執拗に注文を付けたことと、演奏会後の会食では、家族が演奏した自作のテンポが指定と違うことに神経質になっていたとのこと。
3月某日 ミラノ自宅
労働者会館に、アルフォンソが弾く間奏曲6番を聴きにゆく。決して狭い会場ではないのに、超満員の人いきれで、愕く。自分で書いておきながらこの曲を聴くのは2回目。
3.11の直後で、全く作曲ができなくなり、音楽表現そのものがわからなくなった時期に書いたのは覚えていたが、どんな曲だったか、殆ど記憶にも残っていなかったし、思い出したくもなかった。単調で、殆ど音らしい音も存在しない。まるで魂を抜き取られた心地で毎日を暮らしていたし、音楽によって自らをせめても亢進させ奮い立たせようと、何かを模索していたような記憶がある。
我乍ら聴いていて違和感を覚えたのは、曲の殆どを、思いの外明るい和音で書いていることだった。文字通り自分の躰と音が完全に分離してしまっていて、文字通りまるで自分が生きていないような、さもなければ、正気を失って薄ら笑いだけが独りでに続いているような、居心地の悪さであった。最後にかすかに現われるコラールだけが、自分の裡に残っていた音楽なのだろう。
アルフォンソの演奏は実に濃密で、ひたむきな姿に心を打たれる。ダヴィデのクラスでは、この曲を学生に弾かせているそうだ。
大江健三郎逝去。レプーブリカ紙は真ん中に大きな肖像写真を掲げ、両面を割いて追悼記事を掲載している。
3月某日 ミラノ自宅
息子18歳の誕生日。日本でもイタリアでも成人として扱われるようになる。夜、知合いの高級日本料理屋にでかけ、二人ならんでカウンターで寿司を握ってもらう。揃って酒を嘗めるのも初めてだが、何とも不思議な心地だ。18歳で成人は時期尚早という気もするが、ともかく息子が未成年を終わるまでを見届けたので安堵したともいえる。
自分が18歳の頃は、決してこんな否定的な空気が世界に充満していたわけではなかった。当時自分が住んでいた東京は、皆が浮足立っていてどこか熱に魘されているようでもあって、こんな時代が永遠に続くはずがないと皆感じてはいたけれど、時代を先に進めたい、歴史の次章を読みたいという、皆の強い希望に満ちていた。
ベルリンの壁が壊されソ連が崩壊した時、チャウセスクが逮捕された時、これからは世界が一つになり、平和で幸福な時代が訪れると信じていた。ポジティブなエネルギーが世界に充満していて、我々若者もそれを肌で感じていた。
近い将来ヨーロッパは通貨が統合され、パスポートなしで往来できるようになるらしいが、どうしてそんなことが実現できるのか、絵空事で信じられなかった。
あれから世界は一巡したのだろうか。こんな時代に息子が成人を迎えたことを、親として彼に何と言うべきか。彼が成人して法的責任はなくなるけれど、彼が今、そしてこれから立ち向かう現実は、我々が作り出してきたものだ。彼が倖せになるのも、不幸になるのも、何某かの要因は親である我々にある。
強く、したたかに生きて行ってほしいと思う。我々が甘えて全て壊してきた半世紀を、彼らが建直してほしいと切望する。その為には我々よりずっと強靭でなければならないだろう。18歳の息子は、それには随分頼りないようにみえるけれど、人間はその環境に適応してどうにでも強くも弱くもなれる。余りに自分が頼りないと思ったからイタリアに移住して、少しずつ逆境に耐えて今まで生き延びてきた。恐らく今の息子の方が、当時の自分より確り物事を判断できる気もする。
3月某日 ミラノ自宅
朝起きて、布団の中でただ黙って作曲中の曲を考える。自分の裡には何も音楽がない。目の前のスクリーンに音が映り何をすべきか考えるが、そのとき音には感情は入らない。
逆に、時にはピアノで音を鳴らしてみることもある。そのとき、ピアノから聴こえてくる音には、明確に、何某かの表情が現れていて、はっとする。
自分の裡に、演奏するときに似たマグマのような触感を感じ、それを楽譜に写し取りたいと思うときもある。そんな時は、その触感だけを体の隅に記憶させておき、また目の前のスクリーンに音符を投影する。
作曲中のヴァイオリン協奏曲は、その触感が割と強く作品に働きかけているようにおもう。まるで洗練されていないと自覚しているが、ごつごつ、がさがさした手触り、何とも形容しがたいこの数年自分の中で常に脈々としている一種のフラストレーションのようなものは、強く反映されている。
ゴッホみたいな筆致で書けたらどんなにか良いだろうと思う。彼は本当に洗練されているし、色調もあまり暗くない。自分の色調は、どんどん暗くなってきているから、どう足掻いても近づくことはむつかしい。せめて、あの筆致だけでも真似したいと思う。
岸田首相キーウ訪問。
3月某日 ミラノ自宅
チュニジア沖で移民船が難破。チュニジアのスファクスから出港しイタリアを目指していた移民船が沈没し、現在のところ収容された死亡者は29名。
この週末だけでシチリア沖では3000人のアフリカ系移民が救助されたという。今年に入ってから既にアフリカ人2万人が海路で入国している。カラブリアクトゥロ沖では、2月26日にトルコから出港した移民船が沈没し、91人が亡くなる事故が起きたばかり。
3月某日 ミラノ自宅
和音で空間を支配するのは、自分で作曲するときはどうもしっくりと来ない。方向性をつくるのが下手だからだ。トータルセリエール的なものも、機能和声の方向性の否定から端を発しているので、自分が使うとやはり飽和状態になるので苦手だ。
クセナキスのように、それをずっと巨視的にみて、古典的な音のエネルギーを素直に表現する方が自分には近しい気がする。クセナキスも、音の選択で篩にかけた旋法を使うこともあった。旋法そのものには音楽の方向性は発生しない。
非和声音という言葉がある。和声構成音に属さずにいるから、ちょうど磁石のように、非和声音が和声構成音にひっぱられるようなエネルギーが生まれ、緊張がうまれたり、解決するときに開放感と安心感を覚える。一つの事象が別の事象へ変態してゆくとする。コンピュータを使って極めて高い精度でそれをすると自然すぎて方向性やエネルギーや張力すら感じないかもしれないが、敢えてアナログでやれば、網目が粗すぎて事象を受け取る側が補填、補正しながらついてゆかなければならない。そこには能動的なエネルギーが発生するのではないか。
人工知能ではできないこと、情報の蓄積では処理できないこと、その網目の粗さから手触りが浮き上がってくること、それは一体何であるのか、模索している。
3月31日ミラノにて
220 良心
藤井貞和国の利益よりも大切な何かがあると教えることのできる人間の先生。
不利益になっても表現されなければならない無言の叫びがあると教える人間の教室。
国民感情が高まっている時、理性が示す本当の価値は国民感情にないと、
はっきり言うことができる、人間の芸術家、人間の思想家。
最後に、人間の兵士たちへ。もし思想が、あなたたち兵士の持つ、もっとも人間的な、
何かをなくそうとするならば、あなたたちはその思想にさえも銃を向けるの?
(言おうとしても、消されるね、人間の良心。むらさきいろのつくえのうえに、人かげはもうない、消されたから。世界は当て字にただ一つの意味、そんな書き方を消す。空色のペンがひらかれた窓を消す、なくす手で。帰らないよ、消されるから。)
誤用・誤解、わざと…
高橋悠治1960年代までは、数式や計算で、想像できなかった音の風景を造り出せるつもりでいた。でも、確率分布のそれぞれに「顔」があると言われてみると、それぞれの「型」のなかでうごいていただけだったのか。
点の組み合わせではなく、短い線の配置で音を思い描き、描いてみる。これではバロックとちがわないかもしれない。ちがう点があるなら、音よりも、前後の間がだいじで、「はしり、なごり」がおもく、「さかり」はかるくすぎるだけ、という点、というか、それだって、まだ「つもり」にすぎないが。
これも通過点にすぎない、とする。思い描くのは、じっさいにまだやっていないこと、その思いがつきまとっているあいだ、じっさいの道(未知)は、さらにずれていく。でも、それについて考え、ことばにして描いてみないことには、ずれは起こらないだろう。引用もまちがった使い方のきっかけ。
2023年3月1日(水)
水牛だより東京はあたたかく穏やかな3月のはじまりです。原稿が届くのを待つあいだ、少し外を歩いてきました。いろんな種類のすみれやチューリップやラナンキュラスなど、短いあいだに、カラフルな春の花がそこここにあふれていて、ああ春だ、と思い知らされました。植物は複雑だけど、花はなぜかわかりやすく季節をおしえてくれますね。
「水牛のように」を2023年3月号に更新しました。
下窪俊哉さんが書いているように、発売中の岩波書店「思想」3月号に、福島亮さんの「水牛、小さなメディアの冒険者たち」という論文が掲載されています。水牛についてのこのような論考は、おそらくはじめてのことだと思います。1970年代から80年代の水牛を知る人も知らない人も、ぜひ読んでください。福島さんは当時はまだ存在以前(?)でしたが、存在してから、どこにどうひっかかったのか、水牛に興味を持ち、いまでは「水牛通信」を読む、というコーナーまで担当するようになりました。幸か不幸かはともかく、こういうことが「生きている世界」なのだと思います。福島さんはもうすぐパリから帰ってきますので、そのうち投稿が再開されるでしょう。楽しみに待っています。
それでは、来月もまた!(八巻美恵)
219 卒業す
藤井貞和震災の年乗り越えて 卒業す
歌がるた 二十一枚微笑みて
めぐる春 紫 明石 末摘と
春の「うた」 古代・現代つらぬいて
行く春や 「とき」の証しの物語
きんの琴 明石の春に聴く調べ
つわぶきの芽ぶき豊かに 卒業す
(二〇一二年二月六日、卒業生に贈った句。東日本大震災から一年近くが経つ。富士山に水蒸気2筋、冨士五湖では5弱の地震で、余震が続き、宝永山の雲、動かず。採点、査読、成績記入、入試待機、判定会議と、激務のなか不調で〈翌年、倒れる〉、つらい時節だった。「歌がるた 二十一枚微笑みて」は、百人一首が季語のつもりだろうか。二十一枚は女性歌人のうたのかずを言うか。「紫 明石 末摘」は『源氏物語』の女主人公たち、紫上、明石の君、末摘花をさす。)
トルコとシリアの大地震
さとうまき僕は2020年からアレッポの小児がんの子どもに仕送りを続けている。最初は、シリアに関心のある大学生たちが主体となっていたが、一体自分は何をしたいのかを探すための大事な時期でもあるから、「自分」が見つかれば、もう、それ以外には関心がなくなるのは当然だ。関心が薄れた若者にしつこく言い寄るジジイにはなりたくないし、ジジイと言われてもめんどくさいのである。そんなこんなで、最近はほとんど一人になってしまい、まあ、気楽ではあるが限界でもある。
残念なことに2人支援していた子は、昨年亡くなってしまった。今は、サラーハ君という少年だけだ。つい数日前に、ストーブにくべる灯油もなくゴミを拾ってきて燃やしていた。こないだは、タイヤを拾ってきて燃やしたらしいが、そうそうタイヤも落ちてなくて燃やすものもなくなり、一週間毛布の中で凍えているという。
これは、欧米が科す経済制裁の影響である。国民を苦しめる残虐なアサド政権が退陣に至るまで、シリア人をさんざん苦しめるという目的である。尤も苦しむのは、最下層の人々である。「ほら、お前たちの国民がこんなに苦しんでいるぞ、どうだ? こんなに苦しんでいるぞ。ひひひ。いい加減にまいったしないと、もっといたぶるぞ」というような本当に悪趣味な経済制裁である。そもそも「自国民を虐待するとんでもない独裁者」に制裁を加えるべきなのに、これでは、無実の人々が拷問にかけられ虐待されているのと同じなのだ。
そのような矢先だ。
2月6日「トルコで地震があった」というニュースが入る。トルコの南西というとシリアにも影響があるのだろうかなあと考えていた。携帯にシリアから小児がんのサラーハ君のお母さんからメッセージが入る。「アレッポは地震で揺れています。そちらは大丈夫ですか?」え? 大丈夫って。シリアでは地震など今まで体験したことがないから、お母さんは、地球が揺れているとでも思ったのだろうか。意外と日本は、シリアのすぐそばだと思っているのかもしれない。
SNSのメッセージは、すべてアラビア語だが、Googleの翻訳のおかげで、何とか通じる。僕が送るときは、日本語をアラビア語に変換し、もう一度日本語に変換しておかしくないかチェックして送るのだが、慌てていて、日本語のほうを送信してしまった。お母さんは、「私は小学校しか出ていないので、わかりません!」と返してくる。いやいや、中学、高校出たぐらいじゃ日本語はわからないだろうと思わずほっこりしてしまった。
しかし、ほっこりしている場合ではない。一家は家が揺れだしたので外に飛び出したが、近くのビルにいたお母さんの妹と17になる娘とその歳の夫25歳と2か月の赤ちゃんが生き埋めになっていたのだ。すぐさま動画が送られてきた。「救急隊が駆けつけて作業をしていますが一向にはかどりません」。雨が降り寒そうな中、男たちがスコップで瓦礫をかき分けている。欧米が課す経済制裁で重機がないのだろう。「また、大きな地震が来たという噂も広がって、私たちは怯えています」
その夜結局、サラーハはご飯を食べることもなく眠りについた。結局翌日になって、妹の家族は全員が遺体となって病院に収容されていたという。トルコでは、4万人以上が亡くなり、シリアでも6000人の死者が確認され双方で5万人が亡くなっている。余震が続き、ひびの入ったビルはいつ倒壊するかもわからない。これから犠牲者がさらに増えるだろう。
トルコには、海外からの支援が駆けつけた。背中にロゴマークの付いた人たちが頑張って働いている。また、反体制派が支配するイドリブやアレッポ北部にもロゴマークを付けた人たちが海外から駆けつけているようである。しかし、サラーハのお母さんから送られてくる写真は、倒壊した家から追い出された人たちが粗末なテントで寝泊まりをしていて、背中にロゴマークの付いた人達は見えない。3週間たってもだ。アサド政権が支配するところに住んでいるというだけで、制裁の対象になってしまうのか? お母さんは、「私たちのところにはだれも来ません。配給があるという話も来ません」
建物にはひびが入っており、シリア政府の専門家がやってきてチェックして、倒壊する恐れがある建物は強制的に壊していっているらしいが、彼らの家にはやってこない。恐る恐る昼間は家にいて、夜は外で寝ている。「車のある人は、車の中で寝ています。私たちは、市場のほうに移動しました。今日はここで寝ます」というメッセージが届く。
誰も来ないんだったら、俺が行く! 若かったら背中にロゴマークをつけて駆けつけただろう。内戦により、分断された国家は誰が援助をするかということで政治的な思惑がうごめいている。背中のロゴマークもどちらにつくかによっては新たな内戦の火種にもなってしまいかねない。日本政府は治安の理由で退避勧告を出しているし、そんなところに入って行ったらパスポートを取り上げられてしまう。円安で飛行機代が高い! たとえ駆けつけても役立たずの老人でしかない。僕にはお金を集める能力もなくなってしまっていたので、悔しいが、わさわさする気持ちを抑えて、わずかなお金でもウエスタン・ユニオンを使って送ることぐらいしかできない。ウエスタン・ユニオンは、個人から個人にお金を送るという優れた送金システムなのだが、アメリカの会社故、シリアにお金を送ることは厳しく禁止していた。それが、今回の地震を受けて180日間の制裁を解除することになったのだ。しかも3月の頭までは、手数料をとらないというから、今のうちに送ってしまおう。
チャリティ講演会のお知らせ
【3/2開催】トルコ・シリア大地震 緊急チャリティ講演会、アレッポで被災した「小児がんの少年」の一家を追う
20:00よりオンラインで開催。参加費1500円が全額支援になります
冬枯抄
越川道夫引っ越したばかりの仕事場のすぐ裏に、土埃が舞わないように黒いシートで覆われた空き地がある。シートで覆われているというのに、その隙間から、シートを押さえるために置かれた土嚢の布を食い破るようにして様々な草が顔を出している。
今は冬。あらかた枯れてしまった草の中から、どういうわけか西洋鬼薊がひと群、大きく育って青々とした葉を茂らせている。狂い咲きとでもいうのだろうか、少し暖かな日が続いた頃、次々に十幾つもの紫の花を咲かせていった。
ただでさえ寒いと言われたこの冬である。暖かな日はそうは続かず、気温は急降下して、冷たい雨が降り、雨は雹まじりに、夜更けから降り始めた雪は朝方まで続いて、薊の上にも白い帽子を被せていったのである。両腕で一抱えもある大きな株ではあったが、花をつけたまま立ち枯れていくことになった。
花が終わって、種子を飛ばし始めたものはまだいい。それに満たないものたちは、紫の色を花に残したまま枯れていった。やがてあれほど青々していた葉も、太い茎も、緑の色をわずかにして褐色に変わっていき、今では手で触れるとポキポキと折れるほどにまで枯れた。
その大きな西洋薊が立ち枯れていく様を、私は、毎日飽きることなく眺めにいく。
座り込めば、私ほども大きな薊が枯れていく。
その姿が、あまりに美しい。
枯れた茎は、茎自身の重さに耐えられなくなり、花をつけたままのものも、まだ蕾のまま枯れたものも、やがて地面に向かって日に日に首をたれ、一本また一本と黒いシートに横たわっていく。花の周りの萼とでもいうのだろうか、枯れた額は、どこか金属を思わせるようなメタリックな金色となり、夕陽を浴びた時などは、日を照り返して光り、この上なく美しい。
冬枯れが好きである。
寒いのに、外套に身を包んで、冬枯れの河原や草叢にいそいそと出かけていく。植物の種を体と言わず足と言わずいっぱいにひっつけながら枯れ草を掻き分ける。そして、立ち枯れた植物の姿をいつまでも眺めるのだ。背高泡立草が枯れているのもいい。花が落ちた後に萼だけを残して枯れているのもいい。もちろん、今を盛りと繁茂し、花を咲き乱れさせている植物の姿も好きだが、立ち枯れた姿がそれよりも美しく見飽きない。枯れてしまえば、草は、その草の意志を離れる。草の意志と書いたが、茂っている草は、その草の望む形に自らを成長させ、その生のデザインに向かって自己を実現しようとする。それは、草の意志だ。気温や、雨や、風や、諸事象の影響を受けたとしても、草は自らのデザインを完結しようとする。しかし、枯れた草は、その意志から離れ、様々な事象の影響を受け、なすすべもなく歪み、捩れ、朽ちて、それぞれにその姿を晒す。その意志から離れた様が、意志から離れているがゆえに美しい。盛っている草よりも、意志を実現し、コントロールの中にいるものよりも、もはやなすすべがなくなったものに私はいっそう美しさを感じるのである。屁糞葛の小さな実は、黒ずんでいるのがあるかと思えば、白骨のように白く朽ちていくのがある。黄烏瓜の実は、皺皺に折り畳まれるように縮んでいくのがあるかと思えば、まるで古い陶器のような風合いで朽ちていくのがある。
私は、明日もまた立ち枯れていく大きな西洋薊の姿を眺めにいくだろう。
彼女が、すっかり朽ちて倒れきってしまうのを、「どこにも行かないよ」と呟きながら見届けたいと思うのだ。
何も意味しないとき、静かに朝を待つ(下)
イリナ・グリゴレ気付いたら彼女は電車に乗っていた。座っていた。東京のラッシュアワーの電車に乗る状態ではなかったが、彼女は昔から身体だけを動かすのは得意だった。どんな大変なことが起きても、何日間熱で苦しんでも、身体を動かしてゴミを捨て、パンを焼いて、洗濯物を干して、またベッドで倒れる。彼女の身体には彼女以外の生き物たちが宿っていたこともあると言える。菌類、虫から、目に見えない、想像しかできない生き物まで毎日のように彼女の身体を借りていた。だから、酒を飲むと自分の父親になりきって暴れ、父親と同じ喋り方する。電車に乗ると、ぎっしり混んでいたのにちゃんと彼女の座る場所があったことも不思議だった。人の汗とフローラルな柔軟剤の匂いでホテルにいる間に感じた吐き気が強くなった。寒気で内心が震えていた。
彼女の前に立っていたサラリーマンは自分のスーツケースで彼女の足を触らないように気を遣った。彼女はこういう人が優しいと思った。本当に優しいかどうかはわからなかった。彼女がすごい顔をしているので、怖かっただけかもしれない。頭の中で、あの人に質問をかけ始めた。
「もし、ホテルの部屋に死に近づく人がいたら、助けてあげるの? 逃げるの? どっち?」
「もし、雨水でいっぱいになったバケツに蜂が落ちて溺れそうになった瞬間に手にとって自ら出してあげる?」
「もし、羽を無くしたトンボを道端に見かけたら、踏まれないようにそっと草の中に置く?」
「もし、車に撥ねられた子猫にあったら動物病院に連れて行く? 高いシャツと鞄がその子猫の血で汚れても?」
電車が渋谷に着いたから、彼女は膝を震えさせながら降りた。山手線からバス停にどうやって出るのかわからないまま人波に吹かれて、その時に足で歩いているのではなく、昔に見た妖怪の絵のように浮いていると思った。携帯を出してナビで行き先を探し始めようと思ったが、行き先がわからなくなる。自分の身体に導かれるしかないと思いながら、ほぼ1ヶ月前に行ったコンビニの前に立った。あの時、コンビニの前には誰かの吐瀉物があった。彼女は赤いワインを選んだ。店員さんはニヤニヤしていた。コンビニで水を買って、エレベーターに向かって、5階のロビーから空港へのリムジンバス停に出る。時間がまだ早かったからずっとベンチに座って待つ。なぜか1ヶ月前と同じ場所に同じ状態でいる。もしかしたら、身体は同じことを繰り返すのが好きかもしれない。同じトラウマ、同じ踊り。
待合室に大きなスーツケースを持って、ダンサーのような髪の毛が黒くて脚が長い、ミニスカート姿の女性が入った瞬間に空気が変わった。彼女はバス停のスタッフに英語で話しかけて、バスの予約をしようとしたが通じなかったみたいで、携帯の通訳アプリを使ってコミュニケーション取り始めた。待合室で同じ空気を吸っていた二人の女性は見た目は違っていたが、まるで同じような生き物だった。二人とも空港ではなく違う惑星に脱走しようとしていた、と彼女は思った。その次の瞬間、彼女のスマホから突然にレディオヘッドの曲 『Exit music (For a film)』が流れ始めた。「We hope that you choke, that you choke」
何ヶ月か前に、岩盤浴に行った時を思い出した。温泉で綺麗に身体を洗ったあと、少し離れていた岩盤浴の部屋まで裸で歩いて、横になった。そしたらその時に天井に自分の姿が映されたがタコのように脚がいっぱいあったと思った。また、彼女は二人の娘といつもいっしょに寝ているが、娘の小さな身体が彼女にくっついて、どこまで自分の身体なのか、娘たちの身体なのかわからなくなる。6本脚と6本腕、60指、3頭、6眼、3口の生き物になると感じる。でもこの状態は嫌いではない。人間の普通の姿とはただの幻想なのだ。きっと、もっと複雑でもっとデフォルメな形だと知っている。みんなはただの嘘つき。
あの日から彼女は人と目を合わせないことにした。そして髪の毛をもう切らないと決めた。特に男から距離を取ることにした。じつをいえば、彼女は生きている間、一度でいいから男の子の赤ちゃんを産みたかった。どこかで聞いたけど、日本の平安時代では男の子を産むと地獄に行かないと思われていた。いつ頃からか彼女もなぜかそれを信じ始めたのかもしれない。そうではないかもしれないが、なぜか、自分の身体で男を生み出したかった。そうすることによって救われると思っていた。深い闇から。
昔、祖母の家でたくさんの蜂とアリ、子猫と犬を溺れから救ったことを思い出した。雨が降っていると虫はどこで隠れるのか? バケツに溜まる雨水の音を思い出した。あの雨水で髪の毛を洗うと光っているように見えた。夜光茸のように。
夢の中では、祖父母がいつも寝ている部屋に二人の男の遺体があった。近づくとまだ生きているようだった。でも皮膚も肉も骨が見えるまで焼けていて、焼けた人間の肉の匂いがする。酷い匂いだ。
夢の中で彼女は森を歩いた。この森は何度も訪ねた村の森だった。でも下を見ると地面の落ち葉に青い火が燃えていた。彼女は怖がらずその火の中を歩いた。彼女はこう思った。何も意味しないとき、燃えている森の中を裸足で歩いて、静かに朝を待つ。彼女は毎日のように自分を壊して創り、また壊して、創り、虫になって、森になって、キノコになっていた。彼女の姿は誰も知らない。
どうしてキスしたの?
植松眞人 谷中を抜けて千駄木へ向かう辺りには猫がたくさんいると聞いて、アルバイトを探しに出かけた。上京してから大学とバイトに明け暮れて気がつけばもう二年が過ぎようとしている。実家の徳島にも一度も帰らずにいることで、時折かかる母親からの電話は結局最後に口論となってしまう。なぜ帰らない。忙しいから。なんとかなるはずでしょ? なんともならないよ。お正月くらい帰れるでしょう。正月だから忙しいっていうバイトもあるんだよ。と交互に言い合って、最後は母が話をしている最中に僕がそっと電話を切るという流れがいつもの定番になった。
バイト先はラーメン屋なのだが、オーナーが近所でカフェも経営していて、その両方を手伝ってきたことで、本当に空き時間など全くないほどに働いてきた。当然、お金を使う暇もなく、僕はこの二年でそこそこのお金を貯めて、やっと人心地付いた気分なのだった。帰って来いと声を荒げる母親だが、仕送りなどはほとんどなく、僕が自分で家賃と生活費を稼がないと始まらない。奨学金も借りているので、ちゃんと卒業して、ちゃんと稼ぐことが最初から定められているといってもいいだろう。そして、そんな日々を僕は特に恨みもせず、そこそこ楽しく過ごしている。
楽しんではいるけれど、まさに東京での暮らしが二年目を迎えるという今現在よりも半年ほど前はもっと楽しかった。何があったのかというと、一瞬彼女が出来たのだ。それまで女の子と付き合ったことがなかった僕は、僕と付き合う女の子がいるとは思わず、彼女が出来たということそのものが嬉しくて仕方がなかった。いや、嬉しいと言うよりも驚き感動していたのかもしれない。
しかし、そこまで喜んでいたのにどうして彼女がいる時期が一瞬だったのか。そこに謎が集約されてしまうことだろう。僕は四国の徳島の高校から東京の大学に入り、バイトをしなが真面目に暮らしていた二年目の夏に彼女と付き合い約二週間で別れたのだった。
彼女はバイト先に僕より半年遅れで入ってきた。最初に見た時から綺麗な顔立ちだなと思った。店長やオーナーと彼女のやり取りを見ていると首をかしげることが多かった。少しコミュニケーションが弱いのかも知れないと僕は思っていた。いや、なにか変なことをするわけではない。ただ、受け答えが少し変わっていた。例えば、店長から接客についての説明を受けているときに、急に手をあげて質問したことがあった。目の前の大人とマンツーマンで指導を受けているときに、いくら質問があったとしても思いっきり右手を天井に向けて素早く差し上げた人を僕は見たことがなかった。まるで自衛隊員のように素早い挙手だった。思わず、店長が驚いて絶句していたけれど、そばにいた僕も驚いていた。
また、ある時にはお客様から彼女が質問されるという場面があった。
「あ、半チャーハンがあったのか。だったら、さっき注文したチャーハンを半チャーハンに変えてもらってもいいですか」
客はそう聞いたのだった。それに対して、彼女はこう答えたのだ。
「どうしてですか?」
僕はよくわからなかった。そして、お客さんも同じようにわからなかったようだ。それはそうだ。もう作り始めているので、いまから半チャーハンに変えることはできません、という答えならわかる。いや、作り始めていなくても、お客様が神様なら嫌な顔一つせずに、わかりました、の一言でいいはずなのだ。それなのに、彼女は「どうしてですか?」と客に質問したのだ。そして、質問などしなくても答えは明確だ。チャーハンは多すぎて食べきれないかもしれない、と客が思っただけの話だ。普通、食べきれなければ、勝手に残せばいいのにと思うのだがわざわざ自分の危惧を彼女に伝えてくれたのだ。そんな、善良な客に彼女は「どうしてですか?」と質問返しをしたのである。
僕はその時に、この子はちょっと危ないかもしれないと感じたのだ。そして、同時に彼女のことを好きになった。好きになったというよりも惹かれてしまったのだ。彼女がアルバイトに来る日は彼女の一挙手一投足から目が離せなくなった。そして、僕のそんな様子は店の中でも評判になり、店長やオーナー、先輩のアルバイトたちから冷やかされるようになってしまった。冷やかされても僕は彼女を見つめ続けた。もちろん、仕事はちゃんとしていたが、客の水の量を確かめるよりも、彼女の顔かたちや振る舞いを見つめ続けた。
そんなある日、彼女は店長からお使いを頼まれた。予定よりも客の来店が多く、ネギが足りなくなりそうだったのだ。店長は彼女に近所のスーパーから青ネギを買ってくるように命じたのだ。近所のスーパーまでは歩いて十分ほど。僕は彼女がスーパーで青ネギをカゴに入れ、精算を済ませて帰って来る時間を見計らって、店長に休憩します、と声をかけた。店長の赦しが出ると、僕は店の表に飛び出し、彼女を出迎え、そっと店の厨房に続く入口の方へと誘導した。
彼女は頼まれた青ネギを袋にも入れずに手づかみで思いっきり握っていた。僕は彼女が力任せに掴んでいるネギを救おうと、彼女の腕を掴んで前に出させ、その手の指を一本ずつ外した。僕も力を入れて一本ずつ外していく。まず、人差し指を外す、彼女が苦痛に顔を歪める。僕は中指を外す。さっきよりも力が入っていて、外すとき、彼女は少し声を出した。次に薬指を外しにかかった。まだまだ力は入っていたが、中指よりはましだった。それでも、彼女はまた苦痛に顔を歪めて、さっきよりも大きな声で、やめて、とつぶやいた。僕はその声に興奮してしまい、最後の小指を外そうとした。すると、彼女は今度は思いっきり抵抗して、小指をくねくねとくねらして、僕に外させまいとするのだった。僕はそのくねくねする指を動かないように、僕の両手全体で包むようにした。彼女は目を閉じてじっと動かなくなった。そして、僕の掌の中で、彼女の手の体温が数度、驚くほどあがったのを感じたのだった。
僕の掌の中で彼女の熱くなった指はまるで彼女とは別の生き物のように動いた。その動きに合わせて、僕は高まり、彼女を抱き寄せてキスをした。キスをする瞬間、彼女は目を開き、僕の顔をじっと見つめて、もう一度目を閉じた。僕はもう迷うことなく唇を付けた。彼女の口の中へ舌を入れ、動かすと彼女も舌も僕の舌に絡みついてきた。
互いに高まり、互いに認め合い、そして、互いに受け入れ合った感覚に僕は震えた。震えながら、急に割れに返って、店長やオーナーにみつからないかとおたおたし始めた。しかし、相手も喜んでいるんだからと僕はもう一度キスをしようとしたのだ。その瞬間だった。さっきまで一緒に目を閉じて、舌を絡め合っていた彼女がふいに僕の目を真っ直ぐに見ながらこう言ったのだ。
「どうしてキスしたんですか?」
その言葉は僕の身体から熱を奪い、背中に冷水をかけた。キスに理由なんかない。お前も舌を絡めてきたじゃないか。そう思いながら、動揺が激しすぎた僕は、彼女の肩を乱暴に押した。彼女は少しふらついたのだが、その瞬間うっすらと笑っていた。その笑いがふらついたことの照れ隠しなのか、僕への冷笑なのか理解できなかった。
僕はその瞬間にそのラーメン屋から逃げ出した。それから何日経っても、店長もオーナーも連絡してこなかった。
この間、見たテレビで谷中から千駄木辺りの町が紹介されていた。この辺りには猫が多いらしい。猫が多いと聞くと、僕は「どうして猫が多いのですか?」と問い返しそうになっていた。そう、あの日以来、僕は「どうして?」と問いかけてしまうのだ。もちろん、なんとなくあの日の彼女から受けた衝撃を自分自身で和らげるための自己防衛作なのだが…。しかし、あれから数ヵ月経って、僕はあることに気がついていた。「どうして?」と問いかけ続けると、そこに理由などなくても、なにか理由があるような気がしてしまうのだ。いや、きっとそこに理由があるのだろう。そんな理由などに、僕は微塵も興味なんてないけれど。
深い
篠原恒木おれは定期入れを失くしたことに気付いた。出社後二時間が経過していた。どこで失くしたのだろう、とおれは明晰な頭脳で推理を始めた。会社の最寄り駅の改札口を通過したときは確かに定期入れをかざしたのであろう。覚えていないのが悲しいが、そうでなければおれはいまここにいない。
そして会社の入口を通るときにも定期入れをかざしたはずだ。これも覚えていないのがじつに悲しいが、カード状の社員証も定期入れの中に入れていて、それをピッとタッチすればタイム・カードの代わりになり、出社時刻が記録される。その様子は受付にいる警備員さんに監視されている。出社時には必ず定期入れをパネルにピッとかざさなければならないのだ。したがっていまおれがここにいるということは確かに会社の入口でピッとタッチしたはずだ。
定期入れの中に入っている社員証を会社の入口付近にあるパネルにタッチすると、その小さいパネルからは「オハヨウゴザイマス」と、機械的な女性の声がいつも聞こえてくる。その声はいつも同じだ。定期入れをバチーンと乱暴に叩きつけようが、ピッとやさしくタッチしようが、いつも同じ口調で「オハヨウゴザイマス」と言われる。もう少し感情を露わにすればいいのに、とおれは思う。乱暴な扱いを受けたときには「チッ、おはざーす」と、投げやりな口調で応えるべきだし、そっと愛でるようにタッチしたときには「うふん、おはよ」とでもささやいてくれたりしたら、もう少し印象に残るのだが、なにせ相手は機械だから、今日もあの抑揚のない「オハヨウゴザイマス」だったに違いない。したがって、タッチした記憶がまったくないのだが、無事に会社の中にいるということは定期入れをかざしたのだ。
おれは考えた。落ち着け。おれが会社の中にいるということは、すなわち捜索範囲が限定されるわけだ。おれはそのことにやや安堵を覚えつつ、捜索を開始した。会社の入口でかざしたあと、その定期入れの行方は次の三つしかない。
1. すぐさまコートのポケットに入れた
2. すぐさまバッグの中に入れた
3. 手で持って自分の席まで行き、机の上に放り投げた
まずは1のコートだ。おれはハンガーに吊るしたコートの左右ポケットを上からまさぐった。何かが入っている感触はない。念のためハンガーに吊るしたままポケットの中に手を入れてみた。やはり無い。
すると、2のバッグの中だ。ピッとかざしたあとでヒョイと入れるケースはよくある。おれはバッグの中をまずざっくりと探した。見当たらない。おれのバッグの中は樹海のようになっているので、より丁寧な捜索が必要だと思い、バッグの中身をすべて取り出し、クリア・ファイルの中に紛れ込んでいないか、本の間に挟まっていないか、すべてを丹念に調べたが、発見には至らなかった。
おれは焦り出した。あの定期入れの中には六か月定期券を兼ねているPASMOが入っている。運転免許証(ゴールドだかんな)も入っている。そして社員証カードも入っているのだ。失くすと面倒なことになる。そこでおれは思い出した。そもそもなぜ定期入れがないことに気付いたのか。それは社員証カードが今すぐ必要だったからだ。おれは片岡義男さんの最新刊『僕は珈琲』の新聞広告原稿を作っていて、その完成したラフ原稿をコピー複合機ですぐスキャニングして広告会社にメールしようとしていたのだ。ところがコピー複合機を使用するときには、いちいち社員証カードを複合機のパネルにタッチしないと作動できない仕組みになっている。一刻を争う作業だった。それが定期入れを紛失したことでスキャン、pdf化、そしてそれをメール送信、という一連の単純作業が大幅な遅延を生じている。早く見つけなければ、とおれはアタマに血がのぼり始めていた。
喫緊の問題もさることながら、PASMOと運転免許証の不在という近未来的な課題も、おれの心をかき乱した。どう考えても厄介なことになる。おれは最後の3に取り掛かった。机の上にヒョイと放り投げたのかもしれない。だが、おれの机はバッグの中と同じように樹海と化している。関東ローム層のように成因不明のまま、絶えず紙、雑誌、ファイル、新聞、筆記具、クリップ、本などが堆積し続けているのだ。おれはその山々と格闘した。捜索は山の頂上から麓へと移動した。しかし定期入れを置くとしたら机の山のいちばん上だろう。
「こんな深いところに潜っているはずはない。この層は平成時代のものだ」
おれは三十分で机まわりの捜索を打ち切った。もはや事態は混迷を極めていると言っていいだろう。スキャニングは一刻を争う。日延べ猶予はまかりならぬ。いますぐスキャンしてメール送信だ。そしてPASMOや運転免許はどうする。あと定期入れには何が入っていただろう。そうだ、愛する妻の若き日の写真と、我が愛犬サブ(トイ・プードル/十四歳)の若き日の写真が入っていた。どちらも大切な写真だ。
おれは捜索範囲を広げることにした。出社して二時間、おれは何をしていたか。この自分の机にずっと座っていたわけではない。思い出した。立ち寄った場所が二か所ある。ひとつは違うフロアの編集部に資料を届けに行った。もうひとつは片岡義男さんに小包を送るため、会社を出て徒歩三十秒の郵便局へ行ったではないか。だが、編集部に資料を届けるのも、郵便局に荷物を託すのにも定期入れなど不要ではないか。郵便局は会社の外だが、定期入れの中に入っている社員証カードは出社時にタッチすれば、その後の会社への出はいりは自由だ。おれが務めているカイシャはチューショー企業なので、大企業にありがちな駅の改札口のようなシステムではない。出社さえすれば、あとは顔パスで問題ない。なので普通に考えれば、郵便局に定期入れなどいちいち持参するはずがないのだ。いや、最近のおれは自分の行動に責任が取れなくなっている。ひょっとしたら無意識のうちに片手に定期入れを持って、編集部や郵便局へと徘徊したかもしれない。その可能性は捨てきれない。捜索はあらゆる可能性を否定してはいけないのだ。
まずは編集部を再訪した。おれはそこにいた人々に、おずおずと訊いた。
「このへんに定期入れがなかったかなぁ。ボッテガ・ヴェネタの茶色の定期入れ」
明らかにおずおずとはしていたが、根が見栄坊に出来ているおれは「ボッテガ・ヴェネタ」の箇所を強調して質問したのは言うまでもない。答えはノーだった。
ならば郵便局だ。財布を持って行ったのは間違いない。なぜなら窓口でさしたるトラブルもなく無事に料金を支払ったからこそ、いまここにおれがこうして存在しているわけなのだから。ただ郵便局の窓口の人の動作が緩慢だったのを覚えている。小包の縦・横・幅をメジャーで測るのがひどくのんびりしていて、なかなか料金を教えてくれなかったのが印象に残っていた。せっかちなおれはややイライラして、冷たい目をして料金を支払ったのであった。あのスローモーな窓口の人にもう一度会って、
「すみません、先程荷物をお願いした者ですが、このへんに定期入れを置きっぱなしにしていなかったでしょうか」
と訊くのも業腹だが、仕方ない。捜査に手抜かりは許されないからだ。しかしだ。財布だけではなく定期入れまで郵便局に持っていき、財布のかねで支払いを済ませ、無意味に持参した定期入れを窓口に置き忘れた。そんな馬鹿なことがあるだろうか。いや、ない。あるはずがない。だが、可能性をひとつひとつ潰していくのが捜査の基本だ。おれは郵便局まで走った。
「あいにく定期入れの遺失物届けはございませんが」
可能性の細い糸はあっけなく切れた。どうしよう。早くスキャニングをしなければ。焦りの頂点に達すると、ニンゲンとは不思議な行動をとるもので、おれは喫煙室へ出掛け、煙草に火をつけた。あえてこの不可解な行動の理由を述べれば、煙草を一本吸い終えるまでの時間、気分を鎮めて、オノレの行動をもう一度よく考えるためである。出社して二時間、おれは何をした。どこへ行った。だが、机のまわりと編集部、そして郵便局以外にはどこにも行っていないとの結論に達した。残るはただひとつ、捜査の鉄則「現場百遍」だ。すべての場所をもう一度探すしかない。
コートのポケット、パンツの左右および尻ポケット、バッグの中、机まわりを再度調べた。もう捜索から一時間以上経過していた。もうPASMOと運転免許証はあきらめた。社員証カードさえあれば、とりあえずスキャニングはできる。せめて社員証カードだけでも出てこい、とおれは願ったが、定期入れが無いのに、社員証カードだけ出てくるわけがない。
そのとき突然、おれはすべてが嫌になった。スキャニングもPASMOも運転免許証も妻の写真も愛犬のポートレートも、すべて捨て去り、このまま冬の海へ行きたくなった。冬の海なら日本海だろう。東映の映画のオープニングに出てくるような、あの岩に波打つような海を見つめるのだ。そうだ、そうしてしまおう。すべてを捨てて冬の海を見に行くのだ。スキャニングや定期券や運転免許証、妻の写真などが、我が人生においてどれほどの意味を持つというのだ。だが、おれはそこで我に返ってしまった。PASMOが無ければ冬の海にも行けないではないか。
「探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で」
などという歌があったが、ここで捜索を打ち切るわけにはいかない。現実は井上陽水のようにはいかない。定期入れが無ければスキャニングも冬の日本海行きも叶わないのだ。
「もう何度も探したけど、もう一回だけ。現場百遍」
世にも虚しい一時間三十分だったが、おれは三回めの捜索活動に突入した。まずはすでに二回も手を突っ込んだコートのポケットを探した。今度はハンガーから外して、コートを抱えてポケットの中をまさぐった。「おや?」と感じた。コートのポケットの内部が一回め、二回めの捜索時より深いように感じたのである。二回とも手首まで入れていたのだが、今度は手首より深く、腕の一部までポケットの中まで入るではないか。そのとき、平べったい革の感触が指に伝わった。
おれはすぐさまコピー複合機へ駆け寄り、定期入れをパネルにバチンと叩きつけて、無事に送稿を終えた。徒労感と達成感と安堵感が同時に押し寄せるなかで、おれは席に戻り、定期入れの中身を検分した。社員証カード、PASMO、運転免許証を確認し、愛犬サブの写真も入っていることに安堵した。入っているはずの愛する妻の若かりし頃の写真が見当たらなかったが、それはもはやどうでもよかった。
七十一
北村周一祖父も伯父も父までもよわい七十一にして逝きぬふともあのいくさ思えり
祖父は胃に、伯父は前立腺に、そして父は肝臓に、悪性の腫瘍いわゆるガンができて他界した。偶然かもしれないが、享年は三人とも71歳だった。むろん亡くなった年の年次はそれぞれ違うのだけれど、こうもつづくと妙な気分になって来るから不思議だ。
葬儀等でごくごくたまに顔を合わす従兄弟たちともこの話題になったことがある。しかしだんだんその年齢に近づくにつれて、だれも没年については口にしなくなった。かんがえてみれば、もうとっくにこの歳を越えている者も何人かいるのだ。
祖父も伯父も、死ぬまで清水のしらす漁師だった。父も戦争にとられるまでは同じ舟に乗っていた。とうぜん朝昼晩、新鮮な魚料理を食していたわけだし、体力には相当自信があったはずだ。清水でのしらす漁の風景はかつて、水牛のように、2020年2月号茹でじらすでも取り上げたことがあるので、お読みいただければと思います。
やさしかりし祖父の名を持つシラス舟熊吉丸は清水のみなと
祖父の名は熊吉。名前は怖そうだけれど、寡黙で怒ったことのないやさしい笑顔の持ち主。どちらかというと小柄な体形ではあったが、骨格はしっかりしていた。子どもは、上から順に、男、男、男、女、男の五人。跡継ぎの長男は、体格に恵まれていたために、二度戦地に送られて、南方にて戦死。生まれたばかりの赤ん坊にはちゃんと会うこともなかったらしい。結局次男が跡目を継いだ。伯父さんである。中国戦線でたたかってきて無事帰還した。伯父さんは豪放磊落な性格で、からだもがっちりしていたし、漁師にぴったりの人だった。そして三男がぼくの父親で、中国に送られて南京で敗戦を迎え、命からがらに帰国。からだ頑健な父は健康そのものであったが、漁師を断念して会社員になった。四男は、からだが弱くて物のない時代だったから、戦時中に若くして病死。唯一のむすめである叔母さんは、当時としては大柄なからだつきで、懸命に漁師の家を盛り上げていた。とはいえ、こんなこともあんなこともみんな生前の父から聞いていた話なのだけれど。戦争に行っても行かなくても、重苦しく嫌な時代であったことは十分に推察される。
戦争の最中も、その前も、そしてその後も、つぎつぎに訪れたであろう厳しい時代の制約は、人々の日々の暮らし方だけではなく、それぞれの遺伝子さえも傷つけずには置かなかったと思われる。このような副次的作用は、さらに次の世代へもすがた形を変えて、なんらかの変異をもたらしているのかもしれない。戦争は、最大の環境破壊といわれる所以でもある。
遺伝子は傷みやすくて夜になると寝床のゆかを軋ませては泣く
コロナから三年
笠井瑞丈コロナ元年の2020年、世界では未知のウィルスとの戦いが始まった。その年8月にセッションハウスで笠井家の公演を上演させてもらいました。元々はコロナ以前に伊藤直子さんとオリンピックの頃に何か面白い事をやろうという話から始まったのですが、同年2月ごろからコロナ問題が勃発してしまい、人と人との距離が変わり、多くの公演が中止を余儀なくされました。そんなまだ経験した事のない危機に、近くにいる家族という共演者と共に、何か出来ないかという思いで作品作りを始めました。その時はまだ三作つくるとは考えていなかったのですが、結果翌年にも新作を作り、そして翌々年にも新作を作ることになりました。二作目を作った時には三部作にしたいという考えはありました。カラダというのは不思議なもので、何か困難にぶち当たった時、それを跳ね除ける力を持っています。もの作りは、そのような力を創造の力に変えていく事だと思っています。それが創造活動の根底なのではと私は考えています。困難とはある意味、新しい世界の始まりを意味しているのではと思います。2020年1作目『世界の終わりに四つの矢を放つ』。未知の世界の始まりに、身体をどのように提示して行けば良いのか、というのがテーマでした。2021年『霧の彼方』。世の中はまだ前が見えない霧に包まれていた、しかし遠くの彼方には小さな光が、目まぐるしく変わってしまった新しいシステムに、少しづつ適応できるようにり、またそこから新しいものを生み出そうという年になった。2022年『喜びの詩』。三部作の最後の作品。舞台に立つ喜び、そしてお客さんに立ち会ってもらえる喜び、初めて見る景色の喜び、そんな色々な思いを込めて作った作品でした。三作ともやはり共通しているのは、コロナという問題で起こってしまった世の中の変化に、どのようにダンスを提示していけるかという事でした。特に2020年は公共施設やスタジオもクローズしてしまい、人が集まるという事も難しい時期でした、常に中止というリスクのある中で、どのように作品を作り、どのように公演まで持っていけるか、そして今公演すことの意義なども考えました。そんな中、三年間で三作、セッションハウスで出演者全員笠井という、少し珍しい公演できた事は、私にとってはとても大きな出来事でした。コロナという問題が生じなければ、きっとこのような公演を立ち上げようと思わなかったと思います。
仙台ネイティブのつぶやき(80)模型をつくった小西さんのように
西大立目祥子昨年夏、地元紙、河北新報にのった記事を見て、思わず声を上げそうになった。「区画整理で一変した仙台・二十人町1935年ごろの町並み再現した模型お色直し」。見覚えのある模型の写真ものっていた。
あの紙製の手づくり模型が、30年以上も捨てられることなく残っていたなんて! それは、1989(平成元)年夏に、仙台市宮城野区二十人町の糸屋の主人、小西芳雄さんが中心になり、地区の商店で結成していた「仙台東口繁栄会」の仲間たちとつくった街並み模型だ。当時、小西さんは50代後半。町内に暮らす親世代の年寄から話を聞き出して、昭和10年ごろの街に思いをはせ一棟一棟、組み立てていった。ミシン糸が入っていた空き箱を材料に、屋根には黒い紙を貼り、大人の工作で50軒ほどの店をつくったのだった。
記事によれば、発見したのは、宮城野区で平成の初めごろ活発に行われていた「地元学」という活動を振り返りつつ、地域の記録収集の活動をしている市民グループ「みやぎの・アーカイ部」。二十人町近くの榴岡小学校に模型が残っているはず、といううわさを聞きつけ、小学校を訪ね発見に至ったらしい。ずいぶんと傷んでいた模型をメンバーが救出し、のりとハサミで修復して公開の運びという。
たしか、小西さんが残した手記のようなものがあったっけ…と本棚を探したら、30年眠っていたホッチキス止めの冊子『私たちの小さな町の小さな歩みの記録』が出てきた。発行は、「平成元年9月15日」。最後のページには、モノクロコピーで細やかな表情は読み取れないものの、できあがった街並み模型をテントの下に広げ、街の古老や子どもたちと談笑する小西さんが写っている。そうだ、七夕のとき、二十人町のどこか空地にテントを張り模型をみんなで眺める催しに私も行って、この冊子をいただいたのではなかったか。小西さんの商人らしいいつもにこやかで快活な表情が思い浮かんだ。
二十人町といっても仙台市民でなければわからないだろうから、ざっくりと説明すると、仙台駅東口にほど近く、江戸時代は細い道の両側に足軽屋敷がびっしりと並ぶ町だった。1887(明治20)年に東北線が開通すると「駅裏」とよばれるようになり、さらに戦時中、駅の西側が爆撃を受けて焼け野原となり戦後は戦災復興事業で新しい街並みがつぎつぎと整備されていったのにくらべると、戦災をまぬがれた駅の東側は瓦を載せた黒々とした木造の住宅が密集していて、小さな商店が連なる二十人町の通りは取り残されたような雰囲気が色濃かった。もちろん、そこには下町の人情豊かな暮らしがあり、小さな商いはそれなりに活況を呈していたのけれど。
行政は東口を西口のような街並みに、と考えたに違いない。そこに400年の歴史があることも、2代、3代と必死に守り抜いてきた商売があることも、何よりそこに人が生活を立てていることなど、さほど考慮せずに。小西さんの話では、道路計画の話は昭和30年代、父親の代に出始め、自分たちの世代が大学進学などを終えて帰ってきたころにはだんだん具体的になってきて、勉強会や先進地視察をしては話し合いを重ねていたという。自分たちの人生がかかっているのだから、時間を見つけては将来の町を話し合う日々だったようだ。でも答えはなかなか出ない。いま手元に残る小西さんの回想録を見ると「先進地はどこへ行っても同じ街並み」「再開発ってのはいかにして土地を諦めるか、というところに落ち着く」ということばが胸にささってくる。
町とは何か、将来の町をどう描いたらいいのか。自問自答する中で、小西さんたちは手がかかりは過去にあるという考えに行き着く。そして一世代上の住人から話を聞き、自分たちの記憶を重ねて、昭和10年ごろの街並み模型づくりという試みに着手したのだった。つくり上げ、ようやく答えをつかみかけたころ、小西さんが口にしたことばが忘れられない。「模型をつくってみてわかったんだ。この町の風景のよさは、“軒の深さ”にあるって。だから区画整理事業で立てられる建物はビルになるとしても、軒をつけたいんだよ」
しかし、区画整理事業が完了しできあがった町は、小西さんが思い描いた町とはまるで違うものになった。幅40メートルの道路がどーんと抜け、両側には高層のマンションが立ち並ぶ。4、50軒あった商店のうち、戻れたのは数軒。がらんとして殺風景な町は歩く気にはなれない。建物が取り壊され事業が進む最中、仮店舗で営業していた小西さんを訪ねたことがあった。「いやもう大変なことだよ、区画整理事業って。もう近隣商業の町じゃなくなるね」そう話していた小西さんはそのあと病に倒れ、新しい町での糸屋の再開は果たせず亡くなられた。
2月最後の週末、この街並み模型が展示されることになり、30年ぶりの再会を果たすべく出かけた。「みやぎの・アーカイ部」のメンバーが手入れした長さ3メートルほどの模型は色あせてはいるものの、できた当時の印象を保っていた。いまは道路の下に消えてしまった一軒一軒の店が肩を寄せ合うように並び、通りの中央にはランドマークだった二十人町教会の塔がそびえ立つ。ちなみにこの教会は、W.M.ヴォーリズの設計である。種屋のおじさんも小西さんも「ここは下町だけど、俺たち日曜学校に行ってたんだよ。お菓子もらえたからさ」といっていたっけ。敷地内の井戸の場所まで緻密に再現していることにあらためて気づかされた。模型はパーツに分解されしまわれていたので、組み立てには私が本棚から抜き出し提供した資料も役に立ったと聞かされた。みんなが模型を前に話し込む。同じだ、30年前と。あのときも、できたての模型をぐるりと取り囲み、いつまでもなつかしそうに話し込む人たちがいた。
模型が保存されていた榴岡小学校と町のかかわりは深く、子どもたちは二十人町の店に弟子入り留学なるものをしていたという。店を訪ね、そこで商いの手伝いをする一日体験だ。会場にはその記録を伝えるコーナーもつくられていて、23年前、4年生の子どもたちが記した体験の感想が本に仕立てられ並んでいた。担任だった白井先生という方が、ずっと手元に大切に残されてきたのだという。『二十人町のだがし』『二十人町のかまぼこ』『二十人町の井戸』『二十人町の歴史』『二十人町の人の話』というしっかりと厚みのある本が5冊。色鉛筆で子どもたちが一生懸命描いたタイトルと絵が何ともかわいい。いまは33歳となった男の子が一人、訪ねてきていた。
小西さんが小学校を訪ね、授業をしていたことも初めて知った。区画整理事業を前に町づくりをどう進めて行くのか、話をしたらしい。この日は背広を着込みネクタイを締めて子どもたちの前に立ち、子どもたちもいつもの冗談をいうおじさんとは違う面持ちに少し緊張して話を聞いたようだ。45分の授業で話は納まりきれず、あとで小西さんは説明を補足する手紙を子どもたちにしたためた。その手紙も展示してあった。「人は将来の事を考えるのに、今までたどってきた過去と、今置かれている現在の事を充分に理解しないと、将来のことが予測できないのです」「街もだんだん少しずつ変わっているのです。誕生、成長、老化と人と同じように変化していくのです。ただ人はせいぜい生きているのが100年くらいですが、二十人町は400年ほど生きてきました」「街づくりは、形と心の両方が必要です。両方とも急いではいけません。じっくりとやるべきです」B5に5枚ほど綴られた手紙は、40年に渡って、激変する区画整理事業をどう超えていくのを考えに考え抜いた人の珠玉のことばに満ちている。そして、この手紙をしっかりと受け止め記した子どもたちの返事もまた、胸を打つものだった。
現在の二十人町は、わずかに神社にかつての暮らしの痕跡をとどめているだけで高層ビル街と化し下町商店街の片鱗は探しようもないのだけれど、この紙の模型と、子どもたちがつくった手づくりの本と、私の手元に残るホッチキス止めの冊子が残されていたことで、小西さんの存在がリアルによみがえってきた。すぐそばに街づくりに悩み続けた小西さんがいる。本気でたずねればまっすぐ答えてくれそうだ。
どんなにささやかでもいいから文字にして、形にして、残すことの力、そして、それを街に暮らす人たちが10年先、20年先へとリレーすることの意味。小西さんが模型をつくって一世代前の暮らしをたずねたように、みやぎの・アーカイ部のメンバーや会場に集まった人たちは、ビル街の下に眠る二十人町に潜り何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。思えば、みんな、小西さんが模型をつくり子どもたちに授業をした年代に見える。ある年齢に達すると過去に問いかけるようになるのか。「軒の深さだ」と小西さんがいったような明快な何かが見つかるんだろうか。
鮎川誠 追悼
若松恵子1月29日に、鮎川誠が亡くなった。昨年の暮れに体調を崩して、予定していたライブの出演がキャンセルになったというお知らせを見ていたのだけれど、突然の訃報だった。人生の本当に最後の最後まで、ステージに立ち続けていたのだなと思った。みごとだな、というのが訃報に触れて最初に感じたことだった。
鮎川誠は、日本のロックの長男だと思う。茨木のり子が、日本の現代詩の長女と呼ばれていたように、そんなイメージで、尊敬の思いを込めて、鮎川誠は日本のロックの長男だったと私は思う。ロックがどんなにかっこよくて、良いものなのか、彼はそれを教えてくれた。博多で活躍していたサンハウス、シーナ&ロケッツ、三宅伸治、友部正人といっしょに結成した3KINGS(スリー・キングス)。ギターを弾く構えで、その音で、少し遅れ気味に歌う自由な歌い方で、好きな曲について生き生きと語る姿で、彼はロックがどんなものなのかについて教えてくれた。「探偵ナイトスクープ」というテレビ番組で、亡き父にそっくりなんです、会いたい、と手紙を送ってきた視聴者の願いを叶えていた姿にもロックを感じた。ロックは実はとても誠実で、やさしいものなのだと、彼の姿を通して、私はロックへの信頼を深めることができたのだった。
訃報をきっかけに、インタビュー映像を久しぶりに見返したりした。2015年に妻のシーナを病気で亡くした後も、悲しみに閉じこもらずに、彼はライブをし続けていた。父のギターを聞き続けたいと、娘のルーシーがシーナに代わってボーカルを務めて、シーナ&ロケッツは続いていた。身内は引っ込んでろとか、つべこべ言わずに自然にロックし続けている鮎川は良いなと思った。がんが分かった2022年のライブ本数がここ近年で一番多かったという。
インタビューのなかで「シーナは、ロックは愛と正義と勇気だと言っていた」と語る鮎川の言葉が胸に響いた。シーナの言葉に全く同感だとしながら「勇気は、新しい扉を開けて、そこに飛び込んでいくこと」だと彼は言っていた。シーナが鮎川と初めて会った時、青いパンツスーツを着たシーナがライブハウスに入ってくるのを見たというエピソードを思い出す。そして正義。ロックはずっと不正義と戦ってきたんだということ。
もちろんまじめなだけではなくて、ぶっ飛んでふざけているということもロックにとっては重要なことだ。それは、為政者たちとは違う感性を持とうとする意志。管理してこようとするやつらには到底手が届かない感性を持って対抗しようとすることだ。最近の3KINGSでもギターを炸裂させながら歌っていた「ホラフキイナズマ」がきこえる。サンハウス時代からの盟友、柴山俊之の詞だ。
風の中で生まれ
風の中を生きる
寝たい時に寝て
やりたい時にやるだけさ
気にするなよ
ほんの冗談
何もかも噓っぱち
俺はほら吹きイナズマ
パッと光って消えちまう
パッと光って消えちまう
パッと光って消えちまう
スリンピの動きと時間
冨岡三智3月11日に堺での公演を控えて…先月もスリンピについて書いたけれど、4人の女性で舞うスリンピというジャンル、また広げてジャワ宮廷舞踊が持つ特質について私が考えていることを書いてみる。といっても時間不足なので、以前書いた記事や論文から引用してまとめたものに少し足しているだけなのだけれど…。
●2004年4月号『水牛』、「私のスリンピ・ブドヨ観」より
スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。
そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。…(中略)…曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。
●2010年7月号『水牛』、「クロスオーバーラップ」より
他のジャンルの人には、ジャワ舞踊は楽曲構成に当てはめて作られている、という風に思われているようです。ガムラン音楽はさまざまな節目楽器が音楽の周期を刻む楽器なので、そう思われがちなのですが、私に言わせると、ジャワ舞踊のうち宮廷舞踊の系統は、歌が作りだすメロディー、それはひいては歌い手や踊り手の身体の内側から生まれてくるメロディーにのって踊るものです。クタワン形式などのガムラン曲も、朗誦される詩の韻律が元になって歌の旋律が作られています。その証拠に、私の宮廷舞踊の老師匠は、しばしば歌いながら踊っていました。停電でカセットが途切れても、かまわず歌いながら踊ってしまうのです。つまり、流れるメロディー先にありきであって、その後で、それに合わせて棚枠の楽曲構成が作られた感じがします。だから枠の組み立ては少しゆるゆるとしていて、時間を少し前後にひしゃげることができます。
●論文:冨岡三智 2010「伝統批判による伝統の成立―ジャワ舞踊スラカルタ様式の場合―」『都市文化研究』vol.12,pp.50-64 より
ジャワの音楽や舞踊において重視される概念にウィレタンwiletanがある。基本となる旋律や振付は決まっているが, それをどのように解釈し細部に装飾を加えてゆくかは演者個人に任されている。個人ごとに微妙に異なる差異,個人様式とでも呼ぶべきものをウィレタンという。
ジャワのガムラン音楽のメインとなる, ゆったりしたテンポで演奏される部分では,楽曲の節目を示すゴング類はイン・テンポではなく,やや遅らせ気味に叩く。舞踊でサンプールを払うのは決まって曲の節目だが,これもゴング類と同様にやや遅らせ気味に払う。つまり,音楽の節目というのはデジタルで点状のものではなく,わずかに時間的な広がりを持っている。その時間的な広がりの中でいつサンプールを払うのかというタイミングは,本来は複数の踊り手同士の間で微妙に異なるものであり,そこに踊り手のウィレタンが反映される。このようなコンセプトは,1つ,また1つと散る花に例えて「クンバン・ティボ kembang tiba(花が地に落ちる)」と呼ばれることもある。全員が一糸乱れずに揃ってサンプールを払うのは,1本の樹木に咲く花が一時にドサッと落ちるようなものであり,かえって不自然なのである。
●
私はジャワ宮廷舞踊で過剰にタイミングを揃えることに反対なのだが、それは時間の広がりがないからなのだ。皆で1つの場を作り上げているとはいえ、4人はそれぞれに存在していて、それぞれの内なるメロディに従って舞っている。状態音楽を奏でる人もそれぞれの内なるメロディを奏でている。それぞれのメロディが糸のようにより合されて1本の太い音楽の糸になり、その糸が曼荼羅を織り上げてゆく…。一昨年の「スリンピ・ロボン」の映像を見ていても、私たち4人の踊り手はどんぴしゃりで揃ってはいない。けれど、各自の少しずつのタイミングがさざ波のように揺れながら、ある時には誰かの引く力に引き寄せられるように、ある時は誰かから伝わってきた気に押されるように動きが流れていく。そうすると、時間にふくらみがあるように見える。払った布が滞空する時間も長くなっている気がする。
図書館詩集5(海老をしきつめたような湖面が )
管啓次郎海老をしきつめたような湖面がひろがる
海老をしきつめたような道がつづく
巨大な一枚岩の川床に
ごく浅く水が流れて
その水の全体にぴちぴちと跳ねる
川海老が泳いでいる
恐ろしいほどの大漁が約束されている
だが同時に「海老」という表記に対する疑問が生まれる
ここに海はないよ
それともかつてはあったのか
いまは平原
人間たちの身勝手な居住の上に
古代の風が吹いている
先週はまだ寒かった
早春の奇妙に音のない朝
冷たい雨の名残に土がくろぐろと濡れて
舗装道路や線路の敷石も濡れて
目をそむけたくなるほどだった
しかし逸らした視線をどこにむけろというのか
たとえ鎖につながれた犬や
窓際のガラス越しに見える無言の猫でも
いつもそんな存在を求めている人がいる気持ちは
よくわかる
まなざしを必死で求めているのだ
人間からは得られない無償の関心を
人間が与えてくれない無私のなぐさめを
哺乳動物だけがもたらしてくれる
あの目に浮かぶ
はばたきのような感情を
犬猫うさぎモルモットねずみジャービル
こうした動物をかわいがる人間には
どこか心にあやういところがある?
あたりまえさ
人間世界から逃れるために
かれら小動物に救いを求めているのだ
ぼくにはよくわかる心の傾向だ
人間世界が恐ろしいのは企業に支配されているからだ
企業といっても会社といってもいいが
やつらには勝てない
利益追求を第一とし
その目的のためには何をやってもいいと考えている
壊すとか殺すとか何とも思わない
そんなやつらの考えにいつも怯えている
やつらは「法人」
ひとりひとりの生身の人間が死んでも
生き続ける
利益をスーツとして着込むかぎり
不死身だ
戦っても勝ち目はない
感情も生命もないのだから
こっちには絶対にできないような
卑怯なまねを平気でする
利益のためにやつらがやることには
諸段階の破壊があらかじめ含まれている
ワグナーを大音量で鳴らしながら
民間人を射殺する
犯罪そのものを免罪符として
喜々として太陽の下を闊歩する
国家と国家の敵対を作り出すことが
そのまま利潤につながるその仕組みの末端で
獣の道すら見失った人間たちが
引き金をひき計算機を叩いている
その姿は異様なまでに
残忍だ
思い浮かべるだけで心が
べったりと打ちのめされる
法人たちの恒常化・一般化した戦争か
二十世紀からの出口を
求めてきたのに見つからないとは
問題はわかっている
この人の世は十分に
生命に住んでいないのだ
生命の場所としての土地に住んでいないのだ
その事実に怯えながら
この状況からの出口を探している
踏んではいけない海老たちを避けて
このあてどない道を歩きながら
そうだった、今年はイェイツが
ノーベル文学賞を受賞してから百年だっけ
この世から剝落することは
誰にとっても大きな願いだった
いわんや人新世においてをや
彼の願望を
百年後に共有することになるなんて
湖の小島イニスフリー (W.B.イェイツ)
さあ、そろそろ行くよ、行くのはイニスフリーだ、
そこに小さな小屋を建てるのだ、粘土と編み枝で。
豆畑を九畝作り、蜜蜂を飼い、
ぶんぶん唸る音にみたされた空き地で、ひとり暮らす。
いずれ平穏に暮らせるだろう、平穏はゆっくり滴るようにやってくる、
朝霧のヴェールから、蟋蟀が鳴く草むらに滴るのだ。
そこでは深夜はきらめき、正午は紫に発光する、
夕暮れ時は胸赤ヒワが騒ぐ音にみたされて。
さあ、そろそろ行くよ、なぜならいつも、夜も昼も
湖水が岸辺でちゃぷちゃぷいうのが聞こえているからだ。
土の道に立ちつくしていても、灰色の舗道の上でも、
私はその音を深い心の芯で聞いている。
ほら、また耳をすましてごらん
あのちゃぷちゃぷいう水音に誘われて
逃避だ、亡命だ
革命だ、隠棲だ
生活だ、回心だ
この世に加担しないことが最大の貢献だ
蜂飼という非常に古代的な営みに
みずから救われることを誓おうか
ぼくがいいたいのは、われわれは
あるところから先はこの世のルールに
したがわなくていいということだ
それどころかはっきり反逆すればいい
与えられた身分証を捨てて
遠いところへと出てゆくのだ
いまこの河岸段丘に立ち
三川の岸辺を見晴らしながら
きみは逃亡の戦略を練る
傭兵たちを豆畑に迷わせること
すべての銃口にひまわりの種を詰めること
だがこれはファンタジーにすぎない
残忍で陰惨な現実が断崖のようにつづいている
未完の学位が地面に捨てられて
学びたかったかれらの明日が断ち切られて
理不尽な命令にしたがわされて
命を奪われて
よみがえれ学生たち!
「学生」という名称を真剣に生かすなら
あらゆる戦争に反対する以外の道はない
学ぶことが生なので
学びつつ生きることを望んでいた
いちど学生になったら生涯が学ぶ生だ
学生であることがつねに第一義なので
法人に心を委ねることもない
そんなことは絶対にしない
誰の命令も聞かない
戦うくらいなら逃亡をつづける
働くくらいなら放浪を選ぶ
ニンゲン化されるくらいなら島に行き
海老をとって暮らすだろう
海老をしきつめたような原っぱがひろがる
海老をしきつめたような図書館がひろがる
足を切らないように注意して歩けよ
マカテア(化石化した珊瑚の環礁)に守られた島に
何度でも上陸するのだ
ガラスの上を歩くようだ
ところどころに深い穴があり
いつ落ちてもわからない
ここを歩みつつ知識を求めるなら
人の音声言語だけではうまく進めない
音声のパターンを習得する動物は
ヒト以外の哺乳類ではくじらやいるか、こうもり
鳥ではおうむ、蜂鳥、鳴禽類(ひばり、すずめ、つばめ……)
かれらが互いに情報を伝えあうとき
地球はどれほどよりよく理解されることか
海の老人よ
私を操縦することはできないよ
人間が考えたことをたどりつつ
人間が思いもしない地表のできごとを
想像するんだ
たくさんの並んだ線路が錆色の川のように流れ
平野はほぼ忘れられた歴史のようにつづく
きみは誰だ、名乗れ
海老が名乗り
烏賊は沈黙し
たこぶねが真っ青な空を
しずかに進んでゆく
ぼくはせめて中世を探すつもりでここに来たんだが
ここも商都の廃墟
人々はおとなしく物品を手にして
セルフレジに向かう
なんという世の中
自己登記せよ
支払うために自分を投棄せよ
代価をもって物品を持ち帰れ
驚くべきことに
すべての産物は加工品だ
プラスティックな食品を食べているうちに
きみの脳も体細胞もどんどん石油に置き換わるだろう
だが石油が生物の遺体由来なら
それもただ時間を極端な長さで体験するための
一方法なのかもしれないな
「えび」と「ゆび」は元来おなじ語で
節があり曲がったものをそう呼んだという
このあたりの地形は節くれだった河岸段丘で
むかしの人々はこの土地に横たわる
大きな海老を見ていたのかもしれない
「〜のようだ」にすべての秘密があるのだ
隠喩ではなく直喩に大きな衝撃がある
あまりに遠くかけ離れて
とても連想が及ばないものでも
「たとえていうなら」という了解のもとに
連結できるからだ
それ以外にこの世をじゅうぶん体験する途はない
いま踏んだその土に永遠あり
きみの足跡に生命の響きあり
むせるほどの生命の洪水に立ちつくし
もう一歩も進めない
それが正しい道なのだ、学びの道の
たどりついた図書館は湖の中
私たちそれぞれ
ひとりで逃げてゆく小島
海老名市立中央図書館、2023年2月26日、快晴
ベルヴィル日記(16)
福島亮2月はカーニヴァルの時季だ。マルティニックでは「赤い悪魔(ディアブル・ルージュ)」と呼ばれる真っ赤な角を生やした怪物の仮面を被り、練り歩く。真っ赤な衣装には小さな鏡が鏤められているのだが、それが何か魔術的な意味を持っているのか、それとも装飾のために過ぎないのかはよくわからない。
私の家の真下にはベルヴィル通りという大通りがあるのだが、先日部屋でパソコンに向かっていると、何やら賑やかな音楽が聞こえてきた。デモ行進で音楽をかけるのはよくあることだから、きっとそれだろうと思って気にせずにいたのだが、いつまでたっても音楽が終わらない。不思議に思って外に出ると、通りに人が溢れかえり、よく見ると目の覚めるような色のドレスを着た人たちが行列をなしている。カーニヴァルだ。どうやらラテンアメリカ出身の人々がそれぞれの国の衣装をまとい、それぞれの国の音楽に合わせて列をなし、踊っているようである。踊り手たちの先頭をスピーカーを鳴らしながら進む自動車には、「ボリビア」というように、国名が書かれている。この自動車に先導される形で、民族衣装に身を包んだ女性たちや、着ぐるみを身につけた人が踊っている。1週間ほど前になるが、ケブランリー美術館で「サンゴールと芸術」と題された企画展示があったので出かけた。ついでに、と思って常設展示も一通り見ることにしたのだが、そのなかに南米のカーニヴァルの衣装が展示されていた——というのを、実際のカーニヴァルの様子を見ながら思い出した。それにしても、カーニヴァルの音楽は、太鼓や笛が賑やかなのに、どこか物悲しい感じが漂っているのはなぜだろう。
この街での滞在も残すところあと2週間ほどである。寂しいか、と訊かれたことがあるのだが、じつはあまり寂しくはない。そう遠くない時期に(長期とは行かぬまでも)この街に戻ってくるだろうと、楽観的に思っているからである。ただ、それはやはり、あくまで滞在者としてのアイデンティティが抜けきらないからでもあって、どうやら4年半ほどフランスで生活しても、住人になれたわけではなく、だらだらと滞在を続けている、という意識の方が強いのだと思う。ケニヤ生まれの友人と話していて、そのことを再認識した。彼はパリで修士課程を修了したのち、しばらくベルギーで研修を受けていたのだが、今はフランスの金融関係の会社で働いていて、密かに推理小説をフランス語で書いているという。まだ最初の数章しか書けていないというが、自己表現を大人になってから学び覚えた言語でするとはどういうことなのか、と思った。いや、そのような例はいくらでもあるのだろう。また、彼によると、ケニヤで子どもの頃使っていた言語は、話し言葉であって、執筆には使えないのだという。だから、フランス語で書くことにはあまり障壁はないのかもしれない。
はっきりしているのは、私には同じような関係をフランス語と結ぶ覚悟がまだない、ということである。というよりも、誰が読むかわからないテクストをフランス語で密かに、時間をかけて綴ろうという気持ちが生まれないのである。内面との孤独な対話は、いつも日本語でおこなっていたような気がする。それを自分ではっきりと知ることができたことがこの4年半の成果である、と言ったら皮肉だろうか。
自分がかりそめの滞在者にすぎなかったと知った後で、どうこの街と付き合っていこうかと今考えている。だが、たとえ日本に帰ったとして、それは滞在者であることを止めるという意味なのだろうか。自分は永遠の滞在者である、などと言う覚悟はないのだが、生えたと思った根っこが錯覚に過ぎなかったという瞬間はきっとこれからもあるだろう。