アリババはネコババの始まり

さとうまき

デジタル紙芝居の初演を終えて、いろいろ反省点も出し合いながら、次回公演に向けて稽古が続く。僕は20年前のバグダッドを思い出していた。

ちょうど20年前の10月。サダム・フセイン大統領の信任投票が行われ町中が沸き立っていた。サダム・フセインは100%の得票で信任されたのである。車の中ではラジオから、「サダムが2500ドル相当のお祝い金を全国民に配るという噂が街に流れている」というニュースが聞こえてきた。同乗していた文化省のネダさんの大きな目がさらにぎょろりと輝き、嬉しそうに通訳してくれた。しかし、ネダさんが行く先々で真意をただすと、単なる噂に過ぎず、サダムからのプレゼントは「恩赦」だそうで囚人が釈放されるだけらしい。ネダさんは結構本気で大金が転がり込んでくることを期待していたようだったので、かなりがっかりしたようだ。

独裁者は、脅して言うことを聞かせるだけでなく、実際に人気があった。特に当時のアメリカのブッシュ大統領はとんでもなかったから、イラク国民はサダムを支持していた。世界中で多くの人がサダムを支持したわけではないが、ブッシュを批判していたから、サダムがかなり輝いて見えた。

バグダッドの印象は古い都というよりは、1991年の湾岸戦争から続く経済制裁で、疲弊しており、10年も20年もタイムスリップした感じだったが、それにもまして、サダム・フセインは自らをネブカドネザル2世の再来と位置づけるものだから、紀元前の世界にやってきたような感じがしたのだ。

町のあちこちには、サダム・フセインの銅像が立っていたが、優れた彫刻もいくつかあった。千夜一夜物語をモチーフにしたもので「アリババと40人の盗賊」の女奴隷、モルジアーナがカメに入った盗賊たちを煮えたぎった油で殺していくシーンだ。ところが、イラク人達はその女性像のことをカハラマーナと呼んでいた。この像は、モハメッド・ガニー・ヒクマット(1929-2011)が作った。

「古いバグダッドで小さな宿を経営している父親を手伝っていたカハラマーナと呼ばれる若くて賢い女の子がいました。父親は台車に空の瓶をいっぱいに積んで持ってきて、翌朝、それぞれの瓶に油を入れて市場で売りました。
寒い冬の夜、カハラマーナは物音を聞いて、瓶に泥棒が隠れていることを発見しました。彼らの頭が少し瓶から見えていたのです。カハラマーナは父親の部屋に行き、彼を起こし、彼そのことをはなしました。彼らは、騒音をたてて、泥棒が瓶の中から出られないようにしておき、彼女は泥棒が隠れているすべての瓶に沸騰した油を注ぎ始めました。泥棒は叫び始め、次々と瓶から飛び出し、警察が来て彼らを逮捕しました」
という話がもともとバグダッドに伝承されていたらしい。この話がベースにアリババと40人の盗賊が作られたらしいが、千夜一夜物語の原本にはなくて、どうもシリアのアレッポあたりで作られたという説もある。だからバグダッドでは、モルジアーナではなくてカハラマーナなのだ。

イラク戦争がはじまり、サダム・フセインがいなくなると、町中の人々がみんな盗賊になってしまった。慌てて病院に薬を持っていくことになった。なぜなら、病院に在った薬がすべて略奪されてしまっていたからだ。蛍光灯やらコンセント、スイッチから何から何までごっそり持っていかれている。電線を盗もうとして感電して病院に運ばれる患者もいた。勿論米軍の攻撃で怪我をした人たちもいたが。そしてなんと米兵たちもいろんなものを盗んでいった。骨董品や美術品の類は特に彼らが好んでネコババしていった。腎臓とか、角膜を盗んでいったという噂もあったのだ。

ガニーさんは、戦後盗まれた美術品を回収するのに尽力したという。芸術を愛する庶民が闇市場で買い戻し、ガニーさんのところに届けに来たという話もあるそうだ。彼の最後の作品は、「イラクを救え」だった。楔形文字の書かれたシュメール時代の円筒印章がおられているのを5本の腕を持つ超人が支えている。なんだか勇気を貰える作品である。デジタル紙芝居の最後の決め台詞。「アリババはネコババの始まり」
 
11月13日 神保町ブックハウスカフェにて
https://www.facebook.com/events/690240895573822/

ベルヴィル日記(13)

福島亮

 B線に乗ったのは久しぶりだった。この線はシャルル・ド・ゴール空港とパリ市内を結ぶ郊外線なのだが、学生寮がある国際大学都市と中心街に位置するシャトレ駅が線上にあるため、今の家に引っ越す前はよく利用していた。ただ、私がかつて暮らしていた寮は、国際大学都市の外れにあり、メトロ14番線のポルト・ドルレアン駅の方が近かったから、どちらかというと地下鉄を利用することの方が多かった。引っ越してからは、中心街には徒歩で行くようにしている。オーベルカンフ通りを下り、ピカピカした洋服店が並ぶヴィエイユ・デュ・タンプル通りをピカソ美術館を横目に通り抜ければ、もう中心街のマレ地区だ。そこからセーヌ川を渡って大学がある左岸まで行くのはちょっとした遠足だけれども、できないことはないし、別に骨の折れることでもない。先日友人と話していて、パリの街を歩いていてもそれほど疲れないのはなぜか、という話になった。私たちの出した結論はこうである。この街では通りの名前や広場の名前が、歴史や事件といったものを想起させる装置になっていて、歩くだけで幾重にも重なった時間を横切ることになり、その結果、気持ちが常に新鮮だからあまり疲労を感じないのだろう。都市を歩くということは、時間旅行なのだ。そして、フランスは、さまざまな装置を用いて時間旅行を発動させることに極めて意識的な国だと思う。

 話が逸れたが、B線に乗ったのは、先月亡くなった日本人画家H氏の葬儀に参列するためだった。パリから電車で一時間ほど行ったところにあるオルセー・ヴィルという駅で降り、そこからH氏の妻の親族に自動車を出していただき、公営葬儀場にたどりついた。じつは、フランスで葬儀に参列するのはこれが初めてだった。参列する旨を事前に遺族に伝えたとき、心のなかで真っ先に心配したのは服装である。どんな服で行ったら良いのか。喪服は持ってきていないし、作法もよくわからない。時々家に遊びにくるフランス人の友達に尋ねると、黒ければなんでも良いのだという。街中の花屋で白菊と白薔薇の小さな花束を作ってもらい、白いワイシャツに黒めのジャケット、そして前に一度だけ履いたことのある黒靴を履いて会場に行くと、なるほどたしかに暗めの服装が多いとはいえ、各々自由な服装をしている。これはH氏の葬儀が無宗教だったことともある程度関係しているのかもしれない。

 祭壇(といっても、小さなステージのようなものなのだが)の壁には竹林の映像が投影されており、中央にH氏の棺が置かれ、手前にはタブローが一枚置かれていた。祭壇の奥、壁際には古い日の丸の旗が掲げられている。これはH氏が日本を去る際に持ってきたものだというから、半世紀以上前の国旗だ。異国で生きていこうと決意した20代の青年は、どんな思いでこの国旗を旅の荷物に忍ばせたのだろうか。氏の妻が読み上げた追悼の辞によると、H氏は夏のヴァカンスでノルマンディーに行くと、食前酒を飲む前に「日本の漁民の歌」をよくうたっていたという。司会者が何やら操作をすると、会場に「漁民の歌」が流れる。「斎太郎節」だった。もう10年ほど前になるが、私は男声合唱を少しだけやっていたことがあり、その時はじめて知ったのがこの宮城民謡だった。だから、懐かしくもあり、また、それをフランスの斎場で聴いているというのが奇妙でもあった。

 斎場からパリまでは、知り合いの画廊の人が自動車で送ってくれた。普段、もっぱら電車を使っているので、自動車でパリに入るのは新鮮だ。ヨーロッパの古い街の多くがそうであるように、パリもまた城壁に囲まれていた名残で、街をぐるりと環状道路が囲んでいる。自動車はパリに入るとセーヌ川沿いを走り、アルマ橋の付近で止まった。橋の斜め向こう側に、シャイヨー宮の立派な建物が見えた。トロカデロから大通りを通ってメキシコ広場に行くことができるな、と思ったが、日も落ちていたので散歩は諦め、メトロに乗って帰宅した。

 数日してから、思い立ち、葬儀用の花束を作ってもらった花屋で薄い紅色の薔薇の花を数本買い求め、埃をかぶっていたガラスの花瓶にさして机の隅においた。H氏への追悼のためでもあったが、同時に、H氏と知り合いだった保苅瑞穂氏の遺著『ポール・ヴァレリーの遺言』のなかに、水仙の切花を飾るエピソードがあったからでもある。じつは、この本の最初の章にメキシコ広場へと続く大通りが登場する。自動車から降りた時、そのことを思い出したのだ。心細げな薔薇だったが、花瓶を置いてみると、保苅氏も述べているように、花の周りの空気がそこだけ一変するように思われた。その気配を感じながら、改めて、氏の本の件の箇所を読み返してみた。時々H氏の口から保苅氏の名前が出ることはあったが、私は氏に直接会ったことはなく、もっぱらプルーストのエッセイの翻訳家として、また、モンテーニュについての味わい深い書物の書き手として名前を知っているにすぎない。肩肘張った衒いがなく、しっとりとした優しさと芯のある明晰さを持ち、しかものびやかなその文章を繰り返し読む時間は、私にとって心の落ち着く瞬間だ。

『ポール・ヴァレリーの遺言』は、文字通り、ヴァレリーをめぐる思索なのだが、その心は「わたしたちはどんな時代を生きているのか?」という副題にはっきりとあらわれている。読んでいると、「海辺の墓地」の詩人が、熱く語りかけてくるように思われる。例えば、引用されているヴァレリーの文章のなかに、次のような一節がある。「後世の人びとにおのれを思い起こさせる作品は、人を挑発したにすぎない作品よりも力強いものである。このことはすべてについて真実である。私の場合、本が与えてくれた願望、もう一度読んでみたいという願望の強弱によって本を分類している。」なんて素敵な本の分類法だろうか。ともあれ、私の家の場合、本棚に置かれた本は、砂浜の砂のように気づかないうちにあっちへ行ったりこっちへ行ったりするから、繰り返し読みたい本は、無意識のうちに目につきやすいところや、ベッドの付近などに積み上がる。

 もう数ヶ月したら、これらの本たちも箱に詰めて、日本へ送らなくてはならない。好き勝手に移動する本たちを眺めながら、いずれやってくる日のことをぼんやりと考えている。

図書館詩集 1(自分の運命に出会ったのは)

管啓次郎

自分の運命に出会ったのは一六〇九年
ハドソン川沿いのコーンウォールでのことだった
それからしばらく逡巡がつづいた
やっと生まれたのは一九五八年で
肱川沿いの野村町でのことだった
このように私たちの人生は川に左右される
川に運ばれる
考えてみれば不思議なことだ
たしかに私を構成する遺伝子は
地球上に生命が誕生してから一度として
途切れたことなくつづいているのだ
流れだ
今回の生涯がどれほど遅れたことのようでも
人生としてはいつでも再開できる
ひとりの生としては
別に嘆くほどのことはない
流れなのだから
精神をとりあえず捨てるといい
精神の代わりに
魂に語らせるのがいいよ
今回はすっかり出遅れて
ギリシャ語の勉強をするには遅いが
ふたつの単語がずっと心を泡立たせている
Ἀράχνη(アラクネ)完璧な織り手
Ἀνάγκη (アナンケ)必然の力
実際、運命といえる糸があるとして
それはすべて蜘蛛が握っているのだから
自分の心とか意志とか
意地とか試行とか
決められることはあまりないだろう
けさ蜘蛛の足音で目が覚めた
もう仕事に出かけなくてはと思った
その仕事は開墾
人が住まない原野の開拓
乳牛が美しい尻を見せている
彼女は美しい乳房を見せている
その乳の流れる野原に
どれだけの生命を預けられるだろうか
彼女の血をおびただしく溶かしても
なおも青く流れる谷川の
磨かれた川床にむかって
山をめざすか
求めていたわけでもないのに
渓谷の音響が押し寄せてくる
非常に運命的で
清涼な流れだ
岩魚よりも寡黙な何かが
どんな物語をかたるのか
季節が季節なら
この流れはやがて紅葉に溶岩のように染まる
おびただしい赤だ
用心しなさい
きみの血を奪われないように
ただ獣たちに頼って生きていくことだ
(いたちを背負ってお湯に行け)
(たぬきを背負ってお湯に行け)
高原の先は山また山
そこにいくつものお湯が湧いているのは
おもしろい現象だ
(むじなを背負ってお湯に行け)
(きつねを背負ってお湯に行け)
それが元来の在り方なのだ
動物たちはさんざん傷ついた
山の湯に癒しにおいで
りすよ、しかよ、くまよ
猪よ、大きな森へと逃げてゆけ
(たたちを背負ってお湯に行け)
(いぬきを背負ってお湯に行け)
秋の空を文字にすると
季節も消え色も消える
残るものは何か
文字に託されたふるえだけ
(きじなを背負ってお湯に行け)
(むつねを背負ってお湯に行け)
そうではなく土地のひろがりを
そのままに体験したい
記憶し
地形図よりも楽譜よりも精密に
記録したい
そのために歩きたい
天然の測量士のように
百体の観音が山道を歩いてゆく
石の体をして山を登ってゆく
その先の山頂までついていって
鐘を鳴らしてごらん
その音は鳥が運ぶ
その振動が子供をねむらす
これ自体非常に不思議な現象だ
夜の山には流星が雨のようにふり
美しい糸のような軌跡を心に残す
(Compostella とは星野くん/星埜さん)
光を留めておけないなら
記憶し語るしかないだろう
知ることについての学がepistemologyだったら
知らないこと(知らずにいること)についての学は
Counter-epistemology
山寺の先のこの見晴しで
ひとり一晩をすごすことの
恐ろしさとすがすがしさ
冬がやってきたら
さぞ冷たかろう
雪というあの粛然とした絹の
すべてを平等にする白さ、美しさ
雪の中で体を地面にこすりつけている
あの犬はいったい何をしようとしているのかな
たぬきやむじなの体臭に
自分も同化しようというのか
友好的な犬だ
カメラをわざと斜めにして
風景を拒絶するかのように
体を斜めにしたまま歩いてゆくのが
彼女のやり方だった
光が明るい青や緑をいっそう明るくするその
美しい光が水のように私たちをひたす
そうやっていつも心が軽くなる
かなり速い流れに落ちたRoxyは
泳いでも泳いでも岸辺にたどりつかない
考え方を変えよう
流れていけばいいよ
犬はどうしようという目でこちらを見るが
心配することはないよ
下流にむかおう
川が果すのは恐ろしいほどの浄化
山がつきるあたりから
広大な原野を作ったのも川
一本松や千本松
松果が降り積もる水平の土地に
居住がひろがった
人の居住の陰で
破壊された生命に詫びなくては
そのために百体の観音が荒野を歩いてゆく
どこをめざすのか
「東にむかうのは強制されなければ行かないが
西には自由にむかう」といったソローの言葉は
そのままには使えない
だがいまのわれわれは開墾とは反対のベクトルをもって
すなわち悔恨もなく
良い希望をもって
しっかりと
海にむかって歩んでいる
濃い牛乳を飲みながら
このあたりはきっと溶岩性の海岸で
ごつごつした磯は真黒い色をしている
浸食が進めばハワイ島カラパナ海岸のような
黒砂海岸になるのかもしれない
そう思っていたがここは海からは遠い
何かの誤解が生んだ地名だ
鉄道があり町があり
石造りの小さな銀行は
いまではGrand Bois(大きな森)と呼ばれ
実際にそうなっている
Hier ist kein Warum! (ここでは「なぜ」は禁止)
この言葉に込められた残酷な権力が
次々に葬列を作り出してきた
このあたりの葬式では
女性は白装束で白い角隠しをかぶります
鬼も人になろう
秋の晴れた青空の一日にも
人は死に世界は死ぬ
青空が白装束を着て白い角隠しをかぶると
その色彩というか光の美しさに陶然とする
鬼も牛になろう
実際、鬼に非の打ちどころはないのだ
鬼はただおびやかされた
動物たちの魂なのだ
それを牛が代表するのだ
牛は言い訳をしない
詩も冗舌をきらうので
詩には詩を否定するところがある
詩は光を少し曲げるのでbending machineともいえる
さあ街路を抜けて
人が海に潜りにゆくように私は図書館に行こう
Perspective Kidを主人公にしてできるかぎりのことをする
野の小動物たちが集結する
かれらが知ることの総体がこの土地の百科全書
まだ書かれてはいない
だがそっくり土地に埋もれている
松露のように
探し出せ
掘り出せ
見つけ出せ

那須塩原市図書館みるる、二〇二二年一〇月二日、快晴

死んでも生きる

イリナ・グリゴレ

眠れない夜にお腹が空いている時がある。血糖値を上げて眠くなるようにしている。ハチミツが一番効くけど、ここ最近ではイチジクをいろんなところから頂いたので、イチジクを食べて眠くなる。熱い、娘が喜ぶピンクか、赤、オレンジ、紫の色が付いたバスソルトのお風呂にたっぷり浸かった後、イチジクを食べて寝ると不思議な贅沢感がある。少し腐ったイチジクがいつも一個は入っているので、汁が出て、コバエが寄ってくる。子供が拾った栗からも虫が出ている。夜中にそれらに気づくけれどなんとも思わない。フライドチキンのポテトが入った袋に娘はたっぷりドングリを詰める。横に倒れている袋からドングリが転がるイメージが脳に残る。

それでも眠れない時、携帯の電池が切れるまでレオ・ウェルチのライブを聴く。彼のピンク色のギターと靴の夢を見るといいと思いながら。何年も前に彼のギターと同じピンクのレトロなキャデラックを運転している夢を見たと思い出した。ピンク色のキャデラックを運転すると幸せな気分になる、夢であっても。

娘たちも私の寝つきの悪さを受け継いだようで、3人でどうやって寝ればいいと毎日の悩みになっているが、そんな時間は面白い会話が生まれるきっかけでもある。長女が「いつ寝る?」と聞いたら、次女は「ずっと起きたら寝る」と答えて、笑いたくなる自分がますます眠れなくなる。また、ある夜に長女は「人は死んでも生きるよね」、「自分は何年まで死んでも生きる?」と聞き、どうしても返事が欲しくて泣き始めた。この質問にどうやって答えたらいいのかわからなくて、その夜に娘は先に寝たが、私は完全に眠れなくなってしまった。

眠れない理由は疲れていないからではない。秋は休みの日でも忙しい。獅子舞の練習、門付け、演舞、畑遊び、川遊び、パーティー、観劇、さまざまなイベントでスケジュールが一杯だ。ただ、寝るのは勿体無いという違和感との戦いなのだ。食べることも、寝ることも身体に必要だが、生きることがあまりにも嬉しい時、眠れなくなる、食べられなくなるという逆転現象になると最近気づいた。生きる時間が短すぎるという意識が強いかもしれないが、焦っているのではない。

温泉が大好きな私たちは水曜の午後に気に入った温泉へ向かう。山と川、紅葉していて、春のアカシアの花が咲いていたときに同じ道を通ったイメージが一瞬前だった気がした。こんな早く、青と白から赤と茶色に変わると。娘は秋の空に広がる雲を見て「猪だ、馬だ、犬だ、亀だ」と小さな脳でもうすでに世界を作っている。「ママ、山がついてくる、〇〇ちゃんのところに」と次女が叫ぶ。そう、車が動いているのではなく、山が動いているとパースペクティブを変えないと、この世界の理解は難しい、と運転しながら考えるだけで目眩がする。瞼を一回閉じたら、世界が消える。温泉のサウナに入りながら、2分の約束だったから娘がサウナの窓ガラスに小さな手と身体を置いているのを、幻のように感じる。もう、2分がたったのか、もうここにいる。そしてまた夜になって寝ないとだめ。眠れない。

ある日、友達の畑で白いTシャツを藍染めした。秋の日差しの中で、なぜか何百匹もの天道虫が飛んでいて、服、顔、腕、髪に止まった。天道虫だらけの人間になって、私が好きな青臭い、生の藍の葉っぱをミクサーで潰した。真白い服をその液体に入れると鮮やかな緑色になるとわかった。天道虫の赤と葉っぱの緑で世界が赤と緑となった。畑で干している緑色の服を見ると、周りの森と同じ色だ。その夜に見た夢でもその服が出てきた。夢ではもっと濃い、キラキラしているエメラルド色だった。娘が雲を動物に見えるのと同じ、私の脳の中では色がもっと素敵になっていた。娘の質問の答えを見つけた気がした。人間は死んでも生きることはできないが。人間がこの世界から刺激されて、魂をエメラルドグリーンに染めて、作る本、作品、映画、音楽などがその人が死んでから何年も生きるのだ。毎日、創作をする娘たちを見て、私ももっといろんなことを作りたくなる。人間とはクリエティブな生き物だった、最初から。

しもた屋之噺(249)

杉山洋一

冬時間に変わり、俄かに深秋の趣きが増した気がします。庭を彩る深紅の落葉が美しく、それをリスがさかさかと掻きあげては、隠しておいた木の実を食む姿も可愛らしいものです。喫緊の節電のせいか、目の前に広がる夜の帳は、例年よりずっと深みを帯びていて、何もかもを呑み込んでしまいそうで、少し畏怖すら覚えるほどです。

………

10月某日 ミラノ自宅
息子はフィエーゾレのアカデミー室内楽セミナー合格。ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの人権団体にノーベル平和賞授賞。一柳慧さん逝去。北朝鮮のミサイルが日本を超えてゆき、弾道ミサイル警報、東京にも発令。クリミア大橋爆破。

10月某日 ミラノ自宅
久しぶりの雨降り。一柳先生の訃報が、時間と共に増々辛く感じられる。「自画像」初演の際、笑顔で「もうこれでお仕舞なの?」と肩をぽんぽん叩いて下さったのを、一生忘れない。色々とお世話になったけれど、本当にあの一言のおかげで、作曲を続けていられる。いつか、自分もあんな風に若い人と接することができたらよいと思う。
普段から日本に住んでいないと、大切な人の訃報に現実感が伴わなくていけない。そうして、人よりずっと遅く、本当に少しずつひたひたと現実が身体に沁み通ってくる。
浸透してくる実感だけはあるから、脳のどこかが当惑している。余りに時間差がありすぎて、手を拱いているのだろうか。一柳先生のいない喪失感は、未だあまりに現実感に乏しい。

10月某日 ミラノ自宅
日がな一日、大君の三味線協奏曲の譜割りをしていた。譜割りをすると、楽譜に目を通す時に、音符ではなく休符を読むようになるので、そこに空間が生まれる。目が音符ばかりを拾ってゆくと、音を包含している周りの空間を実感できない。
ミラノに自作の録音にきたサーニに会う。シエナで会うと、どうしてもキジアーナのディレクターと指揮者の関係になってしまうが、気の置けないミラノの音楽スタジオでは、昔と変わらず、気軽な作曲家仲間に戻れて互いに心地よい。クリミア大橋爆撃への報復で、ウクライナ全土に大規模爆撃。

10月某日 アルバニア・ティラナホテル
マルペンサ空港ティラナ行窓口に並ぶ人々は、皆揃って同じ雰囲気に見える。皆誰もがアルバニア人だと思うのは酷い思い込みに違いないが、観光客らしい搭乗客が皆無なのは平日だからか。息子をミラノに置いてきたので、機中、家人は結婚以来初めての海外旅行だ、新婚旅行だ、とはしゃいでいる。
日本・アルバニア友好100周年にあたり、アルバニア日本大使館の開催する日本文化週間のための渡ア。ティラナで水谷川優子さんと落ち合う。
アドリア海を超えティラナに着くと、どんより黒い雲が低く垂れていて小雨模様。寂しい雰囲気に戸惑っていると、若い男二人組にレンタカーはいらないかと声を掛けられる。
迎えてくれた初老の運転手曰く、本来、アルバニアは年間300日は快晴に恵まれるので、こんな天気は珍しいそうだ。彼とはその後もずっとイタリア語でやりとりをした。
ここから北に140キロ、二時間ほど走らせればモンテネグロとの国境、北東に160キロ走ればコソボに入る。モンテネグロの向こうはクロアチアで、そこを通り越せばイタリアのトリエステになる。
ここから900キロほどと言われ、案外近いと早合点したが、ミラノから南下すればイタリア半島の端にあるターラントまで950キロ。北上すれば920キロでハノーファーまで行ける。パリまでは800キロしかない。900キロはそれなりの距離である。
彼の副業はインターネット経由の中古車売買で、つい30分ほど前にも、一台ドイツで中古のベンツが売れたので、早晩バーデンバーデンまで自ら運転して車を届けにゆくという。時々休んで寝たりして、1日で着くさ、と誇らしげに話す。イタリアのアルバニア人は、皆働き者で逞しいが、実際アルバニアに降り立ってみても、その印象は全く変わらない。
ティラナ市外に入り中心街に近づくと街並みはぐっと垢抜けて、マックス・マラのようなファッション・ブランド店が立ち並ぶ。ティラナならユーロで買い物は出来るそうだ。
大層立派なホテルでは、大使館の森川さんや山田さん、ヨニダさんが出迎えて下さる。何でも、先日までアルバニア在留日本人は30名弱だったが、少し人数が増えたそうだ。アルバニア日本大使館の開館もつい2017年元旦で、ほんの最近である。以前はローマ日本大使館がアルバニアも管轄していた。日本に住むアルバニア人は200人ほどだという。アルバニアの治安はすこぶる良いと聞き、実際に訪れてみなければ分からないことは多いと実感する。

10月某日 ティラナ・ホテル
朝10時より国立音大でワークショップ。国立音大は、ホテルから工科大学を挟んだすぐ先にある。イタリア統治時代の建物で、外観は一見こじんまりとしているが、中は広々としていて、イタリアのファシズム建築らしさも随所にみられた。アルバニア唯一の音楽大学である。
音大の指揮科学生4人と、メトロノームを使った基礎練習から始める。年の頃22、3歳くらいの素朴な若者たちで、当初少しはにかんでいるようにも見えた。男子学生3人に女学生1人。どことなく南イタリアの若者の風情に通じるところもあって、ミラノで教えている時とあまり変わらない。イタリア語と英語どちらが良いか尋ねると、彼らはイタリア語はあまり解さないと言う。
その後にピアニスト2人を迎え、「兵士の物語」と「未完成」を少しずつ聴かせてもらう。振ることに夢中の生徒にはピアニストの目を見て振るように伝え、強音を出すのをためらう女学生には、自信をもって強い音を出させてみた。各人見違えるように姿勢が能動的になってゆく。外人によるワークショップは初めての試みだそうで、学生もピアニストも最初は少し緊張していたようだ。
ワークショップ後、学生たちから助言を求められる。今度ショスタコーヴィチを演奏会で振るのだが、クラシックのように音楽的に振って構わないか、など。確かに音楽大学は一校しかないが、特に音楽教育が遅れている印象は受けなかった。

10月某日 ティラナ・ホテル
国立オペラ・バレエ劇場にてリハーサル。立派で重厚な石造りの劇場は、内装をリフォームしたばかりで美しい。舞台監督の若者曰く、この劇場を、一日も早く他のヨーロッパの劇場と肩を並べられる存在にしたいと頑張っているのだそうだ。何でも言って下さい、それを実現するのが我々の務めです、と慇懃で実に親切である。
練習室はしっかりした防音室で、数本の白鍵が剥がれ、木が剥き出しになっている、部屋に設えたヤマハのピアノとは少し不釣り合いに見えた。部屋に置いてあったヴェルディのレクイエムの楽譜は、戦前のリコルディ版のコピーであった。
このように、新旧の混在する、少しアンバランスな印象は、欧州最貧国であるアルバニアの社会全体にも通じるものがあるかもしれない。61年のソ連との国交断絶から、90年代の開放政策までの鎖国時代、音楽文化も音楽教育も、国外からはすっかり隔離されていたようだ。
61年以前、アルバニアにはソ連の音楽家が多数滞在し、音楽教育もとても盛んであったが、国交断絶とともに彼らは引揚げてしまった。しかしその後鎖国期間中もアルバニアはソ連式音楽教育をそのまま続けたため、音楽家の基礎能力は押しなべて高く、特に弦楽器は優秀な演奏家を現在も多数輩出している。新しいスカラ座のコンサートミストレスも若いアルバニア人だし、ロンバルディア州立オーケストラのコンサートミストレスは、もう大分昔からアルバニア人のリンダだ。
夜は、内陸部エルバサンにあるアルバニア最大の水産加工会社ロザファ社の本社のある「フィッシュ・シティー」に向かう。アルバニアはアドリア海に面していながら、最近まで魚を食べる習慣がなかった。ここ数十年足らずの間に、イタリア人の料理人からアルバニアに魚料理が伝えられ、盛んに食べられるようになったという。御多分に漏れず、寿司はアルバニアでも人気があった。以前は、立派な伊勢海老が、家畜の豚の飼料に使われていた。
「フィッシュ・シティー」は巨大総合レジャー施設で観光スポットでもある。その中に水産加工場があって、ここで処理された水産加工品がヨーロッパ各国に輸出されている。ロザファ社が昨年より開始した畜養マグロは、全量日本に輸出されたそうだ。今日はここで、大使館主催の大規模イヴェントがあって、マグロと鰻のかば焼きが振舞われる。鰻はこのあたりではよく獲れるそうだが、獲った鰻が夜のうちに逃げ出してしまうとかで、数が足りなくなって、慌ててまた獲りにゆくと聞き大変愉快になった。
なるほど、このバルカン半島を北上した先、イタリア・ヴェネト地方などでは、鰻が伝統的に食べられていたのを思い出す。しかし、元来魚を食べないアルバニアの人々が鰻を食していたとは思えないので、食べたとしてもここ最近の話なのだろう。
道中へティエナから色々話を聞く。ティラナにいると分からないが、地方の貧困問題は深刻で、特に北部は状況が厳しく、海外への不正な渡航が後を絶たないそうだ。
併し、寧ろ高学歴のアルバニア人の人材流失が最も深刻で、大卒もしくはそれ以上の高いスキルを持ったアルバニア人は、海外に出たきりアルバニアに戻らないのだという。海外に拠点を作り、そこにアルバニアから家族を呼び寄せるのが一般的です、わたしはアルバニアに帰ってきましたが、と流暢な日本語でヨニダが説明してくれた。
医者や芸術家など、優秀なアルバニア人はみなアルバニアからいなくなった、とへティエナは嘆いていたが、イタリアで出会うアルバニア人演奏家が揃って優秀なのはそういう理由だった。優秀でそれなりに金銭的余裕もなければ、海外に留学すら出来ないに違いない。以前は、渡航先としてイタリアが一番人気だったが、近年はイギリス、ロンドンが特に高い人気を誇っている。
へティエナもヨニダも伊語が上手で、文法も発音も見事だから、当然どこかで習ったと思いきや、彼女ら曰く幼少からイタリアのテレビで育っただけだという。それにどの家族も一人くらいはイタリア在住の近しい親戚がいるから、習わなくても話せるようになるらしい。アルバニア人の言語習得能力が特に優れているのか知らないが、伊語は文法的には容易な言葉ではない。イタリア人ですら子供の頃から苦労して伊語を学ぶものを、テレビを見るだけで、簡単に話せるようになるのだろうか。
伊語の話せるアルバニア人が、揃って凡そ30歳以上なのは、より若い世代がインターネットで育っていて、イタリアのテレビに親しんでいないからだという。彼らは伊語の替わりに英語を話す。
占領地の国民に占領国の言語を強制する話はよく聞くけれど、その言葉と文化に興味さえ覚えられれば、本来それを強いる必要などないのである。一時的にせよ、アルバニアはイタリアに占領されていた側のはずだ。エチオピアやエリトリアなどアフリカ諸国にしてもそうだが、イタリアと当時の占領国との関係は、どうもよく分からない。
鰻は確かに美味であったが、マグロ寿司はそれを遥かに上回る美味しさで、忘れられない。

10月某日 ティラナ・ホテル
初めての快晴。全てが瑞々しく、南国らしい様相を呈していて、昨日までとは別世界である。
今日は朝10時から劇場のオーケストラと伊福部作品のリハーサル。生まれて初めてアルバニアのオーケストラの音を聴く。アルバニアのオーケストラは、録音すら聴く機会がなかったので、深い感慨を覚える。アルバニアに幾つオーケストラがあるのか知らないし、他のオーケストラのレヴェルは分からないが、劇場オーケストラの弦楽器セクションはとても良い音がして、何しろ心地よかった。特に上手な弾き手を集めて下さったのかもしれないが、それぞれがしっかり自分の音を表現しつつ、同時にオーケストラの音にも馴染んていて、大変魅力的であった。
現在も堅固なソ連式メソッドが残っているのか、技術的安定度もあり、歌謡性、つまり歌い回しは、スラブ的というより寧ろずっとイタリア的に感じられた。最初に一度通してから、丁寧に各曲を返したが、思いの外効率よく進んだのは、彼らに任せられる部分が多分にあったからだ。
興味深いのは、ギリシャ・ラテン系の歌謡性や楽観性と、独自の言語体系と文化体系を持ち、他の東欧社会主義国家と一線を画しつつ独自の近代史を歩んだ、彼らの真面目さ、気高さ、誇り高さ、几帳面さなどが同居しているところではないか。なるほどヨーロッパの秘境であった。良い意味で、文化的に鄙びたところも残っていて、伊福部作品の旋律も、あたかも彼らの伝統音楽に等しく絡め取ってくれたのではないか。
続いて家人のバッハのリハーサルにも立ち会う。劇場の指揮者ドコ氏は、確かにロシアメソッドであった。品が良く思いの外繊細で、ドコ氏の人柄に似て、優しい音楽である。昔から憧れている指揮者にフリッチャイとマタチッチがいて、それぞれ全く個性が違うのだが、アルバニアのオーケストラや指揮者を知らなかったので、どことなくクロアチアのマタチッチのような指揮者を想像していた。しかしドコ氏は意外なくらい繊細で、技術面ではずっとロシア的に感じられたし、歌い回しにイタリア的なものも感じられたのは、普段からオペラを振り慣れているからかもしれない。
アルバニアの劇場を出ると、脇にあるモスクのスピーカーから大音量のコーランが聴こえてくる。歌うような美しい抑揚なので耳に心地よく、街を満たすアラビア系の香木の匂いと相俟って、イスラムの国に来た錯覚を覚えるが、実際は他宗教と等しく共存している。
昨日は水谷川さんと家人が「天の火」を演奏してくれた。終盤、水谷川さんが舞台後方にしつらえられたガラス張りの螺旋階段を昇り、中ほどの踊り場で演奏したが、下から見上げるとチェロと足だけが見えて、譜面台のスタンドライトだけが輝き、なかなかに神々しい。演奏終了後、聴衆はみな立ったまま盛んに拍手を贈っていた。
夜、高田大使公邸に伺い、劇場の支配人をしているアビゲイラと話し込む。彼女はよく知られる優秀なヴァイオリニストでもあり、ミラノに長く住み、スカラのオーケストラでも働いていた。スカラやピッコロ・テアトロと一緒に日本を訪れた際の日本の印象を尋ねると、「日本は男女格差が酷い」とのことであった。
アルバニアの女性の印象は、割と竹を割ったようなさばさばした性格が多く、なよなよした印象がないのは、共産主義社会の名残りか。「わたしはフェミストだから、どうしても気になっちゃうの、そういうところ」と笑った。
彼女は他のアルバニア音楽家と同じく、6歳になるとき、自分で音楽がやりたいと両親に話して、音楽科つき小学校に入学を希望し、自分の意志でヴァイオリンを始めた。家族に音楽家はいなかったそうだ。そのまま学校でヴァイオリンを学び続け、最終的に先日教えに行ったアルバニア唯一の音楽大学で研鑽を積んだ後、ミラノの国立音楽院に留学したのだが、彼女曰く、ミラノの音楽院の方がレヴェルは低くて落胆したという。尤も、音楽院以外の環境においては、ミラノはとても魅力的で、音楽会も誘われる仕事もいつもとても刺激的だった、と目を輝かせた。
国立オペラ・バレエ劇場の歌手、バレエダンサー、演奏家、合唱団員は全て終身雇用契約となっており、現在劇場は14人のオペラ歌手、48人のオーケストラ団員を抱え、足りない配役やオーケストラ団員はエキストラで賄う。イタリアからも若い演奏家たちが多数エキストラに呼ばれているのは以前から知っていた。終身雇用と聞いて驚いたが、彼女曰く、音楽家の生活の保障としては最良だが、特に歌手など、とうが立ってきても等しく役を見つけ出演の機会を作らなければならないのは結構難しいという。
現在、アルバニア政府はティラナに二つ目のオペラ劇場を作る計画を立てるなど、音楽活動への投資に積極的だそうだ。今年の七月から劇場のすべてのアーチストの給与を一律5割引き上げ、月給1000ユーロとなったと言う。国民の平均賃金が月給300ユーロから600ユーロのアルバニアに於いて、1000ユーロの月給は破格の待遇だという。
彼女曰く、得てしてアルバニア人の語学習得能力が高いのは、この世界で生き抜くための逞しい生存本能とのこと。

10月某日 ティラナ・ホテル
等しく快晴。気分良し。軽く汗ばむほどだの陽気だが、ティラナから見たアドリア海の対岸は南イタリアのバーリだから、文字通り南国なのだ。劇場前の巨大なスカンデルベグ広場に立つと、目の前のそこかしこに、建設中の立派な高層ビルが目に入ってくる。目の前に広がる風景は近代的どころか、現代的ですらある街並みで、この国がヨーロッパ最貧国であることを忘れてしまいそうになる。
尤も、一本路地を入れば、昔ながらの鄙びた感じも残る。束ねられた2,30本の電線がだらしなく垂れる通りもあって、個人的にはその寂れた風情も大好きなのだが、ティラナ中心にあるスカンデルベグ広場から見える景色は、世界各国からの投資を得て急激に成長しつつある、頼もしい国家の姿そのものであった。
現在のアルバニアは、ヨーロッパ、特にドイツから北のヨーロッパ人が、燦燦と輝く太陽光を求めて訪れる観光立国で、しばしば、ドイツ人の団体観光客などが楽しそうに固まって歩く姿に出会った。タクシーの運転手曰く、コロナ禍でもアルバニアには殆ど感染が広がらなったため、ロックダウンも入国制限も行われないまま、ヨーロッパ各地からの観光客をずっと受け入れていたという。日本政府はつい先日までアルバニアを感染地域としてレッドゾーンに指定していたはずだが、一体どちらが正しいのだろう。
アメリカとの繋がりも強く、アメリカから観光客ももちろん訪れるが、2009年にNATOに加盟し、アルバニアに米軍基地が建設されて、関係はより深まったようだ。ちなみに、日本などアジア方面からアルバニアを訪れる観光客は未だ非常に少ない。但し、中国とアルバニアは以前から政治的に繋がりが強く、小規模ながら中国人コミュニティは存在していた。
昨日の昼食は、劇場から少し歩いて、瀟洒なイタリア料理屋に連れていってもらった。殆どのメニューにトリュフがかかっているトリュフ専門店で、トリュフがけのパッケリというパスタを頼んだが、大変美味であった。トリュフは好きでも嫌いでもないが、パッケリの茹で加減も味付けもイタリアで食べるものと違わないのに驚く。フランスやドイツで食べるイタリア料理とは別格で、イタリア人がどれだけ頻繁に訪れているのか分かる。隣の席の若い男女もイタリア人だった。
ミラノでこのトリュフがけパッケリを頼めば、15ユーロから20ユーロはするだろうが、ティラナでは7ユーロである。全体の物価の印象はミラノの3分の1から4分の1ほどだろうか。イタリアですらそうなのだから、ドイツや北欧から訪れる観光客にとっては、どれだけ安価に感じられるだろうか。
これは未だ通貨がリラだった95年、日本からイタリアに移住した当時の感覚に近い。あの頃は酷い田舎に引っ越してきたと思ったし、全て安価なのに驚いた。これほど安ければ何とか生き延びられるかもしれない、と一縷の望みを抱いた記憶もある。
その頃イタリアには日本人観光客が大挙して押し寄せていた。年始のスカラ座前広場には、幾つもの日本人の団体客がそれぞれ大型観光バスで乗り付け、芋を洗う騒ぎになっていて、ガレリアのプラダでは、日本の観光客は商品を棚ごと買い占めていた。あれから30年ほどの間に世界は随分変わったと思う。
午前中、劇場でドレスリハーサルをしてから、昼食前に一人でホテルの裏山を超え、湖を訪れた。ホテル脇の登坂を少し行くと、道端に座り込んでいる老人がいたので、湖はどこかと尋ねるが通じない。それでも身振り手振りでああだこうだ言っていると、ああそれならここを昇りなさい、と泥濘んだ小道を指示されて、いささか当惑しつつも鬱蒼とした丘を越えると、そこには確かに美しい湖があった。東洋人があまりいないからか、珍しそうに見られるが、湖畔は思い思いに散策する人々で大層な賑わいであった。誰も慌てていない。安穏としていて、不幸な風情は微塵もなかった。湖畔のどこかで、イタリアのパルチザン歌「Bella Ciao!」を歌っているのが聴こえた。
夜の演奏会では、家人のバッハは独奏、オーケストラともに互いにとても聴き合っていて、なかなかの名演であった。「日本組曲」も等しくオーケストラはとても良く弾いてくれて、演奏会終了後、日本大使のご夫妻から、聴いているうち、ふと100年前の日本の農村の風景が目の前に浮かんできて、強烈な郷愁を覚えた。こんなことは初めてです、有難うございます、と言われる。伊福部さんが作曲したのが1933年だから、100年前の農村の姿、というのは、ほぼそのまま当てはまる。作曲の経緯や作曲年代も一切伝えていなかったから、彼らは、純粋に作品と演奏からそう想起したのである。この感想を聞いて、改めて伊福部昭の音楽には畏れ入るばかりであった。音楽とはやはり何かを伝えるツールなのだろうか。その感想をわざわざ伝えに来てくださった時には、鳥肌が立った。演奏前、「日本組曲」を筝で演奏しておられた、野坂恵子さんを思う。
森川さんは、息子さんがゴジラファンなので、違った伊福部音楽を知って喜んでいらしたし、山田さんは、リハーサルで初めて「日本組曲」が鳴り出したときは、思わず胸が一杯になりましたと言ってらした。人それぞれの心に何かを呼び覚ますことができるのは、やはり音楽の醍醐味以外の何物でもない。

10月某日 ミラノ自宅
朝3時50分にホテルラウンジに降りると、ちゃんとタクシー運転手が待っていてくれて安心する。4時20分にはティラナの空港に着いたが、既に驚く程の人いきれでごった返している。どの喫茶店も開店しているどころか、既に満席に近い。皆週末を気候の良いティラナで過ごし、こうして週明け早朝に自宅に戻ってそのまま仕事を始めるのだろう。観光立国らしく、荷物検査もパスポートコントロールも、係員が物凄い勢いで捌いていて、人の流れは案外スムーズであった。午後から学校に出かけて、今年度の仕事始め。へろへろで帰宅。

10月某日 ミラノ自宅
大分三半規管の不調も収まってきて、安心する。朝、運河沿いを散歩していると、タナゴと思しき魚の群れが、一斉に川底に尾びれを翻して産卵していた。朝日に銀色の鱗がきらきら輝いて圧巻の光景。
ティラナでお世話になった高田大使は、まるで偉ぶらず、隅々に気配りを忘れないスマートな方で、同時にエネルギッシュな情熱に溢れていた。フィッシュセンターでの盛大な鰻の蒲焼大会も、アルバニアのマグロを日本に届けるのも、国立オペラ劇場での日本音楽の紹介も、柔道や空手大会の大使杯の開催も、本当にどれも自分事として情熱を傾けていらして、その思いはこちらにもひしひしと伝わってくるのだった。
大使のような立場であれば、持ちこまれた企画を採択して、実現をサポートする役回りかと思いこんでいたが、高田さんはその先入観を見事に覆して下さって、大変感銘を受けた。
庶民的と言うと失礼かも知れないが、遠くから眺めて満足されるような他人行儀な印象は皆無であった。実際に足を運び、食べて、見て、聴いて、話すことが大好きでたまらない、とお見受けした。国立音大でのワークショップのレッスン風景も、嬉々として眺めていらしたので、最初は少々驚いた程だった。
アルバニアのように、現在様々なインセンティブを貪欲に欲している国にとって、高田さんのような情熱溢れる存在の意味は、途轍もなく大きいはずだ。概して、大使館の誰もが、アルバニアと日本の関係発展に対し、純粋に心を砕いている非常に温かい公館という印象を受けた。
ところで、息子曰く、伊福部「日本組曲」は「春の祭典」を想起させるそうだ。なかなか良いセンスをしていると感心する。曲名も言わずに「日本組曲」を聞かせたミーノは、「これがアルバニアの音楽なのかい、なかなかいいねえ」と感想を寄せた。伊福部作品が日本人の心を代弁しているというのは、案外我々の先入観そのものかもしれない。なるほどディアギレフとニジンスキーの「春の祭典」など、そのまま「日本組曲」の振り付けに使えそうである。

10月某日 ミラノ自宅
新年度初めての指揮レッスン日。3年来教えて来たマルティーナもダヴィデもマスクなしで話すのは初めてで、感慨を覚える。こんな顔をしていたのかと意外に思ったり、マスクがなければ、これほど表情が豊かな若者だったのかと感心したり、笑顔がこれほど顔いっぱいに広がっていたのかと驚いた。
ガブリエレに、音楽を生き物のように、動物のように扱ってみたらどうかな、と言うと、先生うちは代々猟師ですから動物との関わりはちょっと特殊なんです。試しに先生の言う通り、今も「運命」を動物のように考えて振ってみたのですが、目の前に浮かんでくるのは、今年夏に刎ねた最後の鶏の顔ばかりで、これではどうにもうまく行きません、と言われる。

10月某日 ミラノ自宅
家の手伝いをしてくれているアナがコロナ陽性になり休みを取った。家からほど近い薬局にて、ワクチン4回目接種。オミクロン株仕様に強化されたファイザー。特にワクチン推進派でもないが、家族のため、ともかくどんなものか試しておきたいと思ったのと、今秋から授業は全て対面になったので、念のため。壮大な治験に参加している感覚で、それ以上でもそれ以下でもない。外国為替対ドル150円突破。

10月某日 ミラノ自宅
昨日打ったワクチンのことを考え、朝8時まで布団に入って休む。尤も、腕の注射跡に朝方多少の違和感が残っていただけで、発熱もなし。全く普通と変わらない。
塚原さんのファゴットのための新作、仮でも構わないので題名を決めてほしいということで、今朝の新聞記事をそのまま使い、「ドニエプル河をわたって」とする。現在、ロシアがダム破壊を準備している、と盛んに報道されているが、実際はどうかわからない。この曲が演奏されるころ、世界はどうなっているのだろう。世界が今と同じように続いているのかすら、正直心許ない限りである。対ドル151円となり日銀介入。146円まで上がる。

10月某日 ミラノ自宅
メローニ政権発足。息子は明け方酷く咳をしていたので、昼前まで寝かせておく。彼は以前、こうして喘息症状のあとで身体が麻痺した経験があるので、気が気ではない。薬は極力飲みたくないようだから、本人も気にしているのかもしれない。

10月某日 ミラノ自宅
入野禮子先生がお亡くなりになった、と家人からのメール。
その昔、日本にいた頃は、禮子先生のところで何度となくレクチャーやレッスンなどを開かせて頂いた。誰にも分け隔てなく門戸を開いてくださり、我々皆のパトロンであった。イタリアから作曲家が来るたびにお世話になり、彼らを先生のお宅に泊めて頂いたこともある。そうした経緯から、マンカやピサーティも、入野先生とはずいぶん親しくお付き合いしていた。世界で最初にカザーレを見出したのも、入野先生のところのコンクールが切っ掛けではなかったか。ウラジオストクとの交流の印象が強い禮子先生でいらしたが、こうしてイタリアはじめ、世界各地の音楽家たちと交流が深かったに違いない。今にして思えば、家人と最初に出会ったのも、禮子先生宅の交流会であった。若い頃は、そうした掛替えのない時間の一つ一つを、殆ど気にも留めずに過ごしてゆく。若さとは本来そうであるべきなのかもしれない。入野禮子先生はいつも明るく闊達で、どことなくマーガレットの花に似ている。
夕刻息子が受けた国立音楽院のコンクール表彰式にでかけると、卒業生代表としてシャイーが特別ゲストとして招かれていて、彼が舞台にあがると万雷の拍手。
町田の母と電話をする。従兄の操さんから電話があったとこのこと。操さんは3月19日生まれと出生届が出ているが、実際は1月生まれで、家族が忙しくて役所に届けを出さなかった。昔は大らかだったし、子供が生まれても大騒ぎもしなかったと笑った。母の父親は謹吾さんと言ったが、本当はケン吾さんになるはずだった。
町田で育てている月下美人が三輪同時に開花している。父曰く、生きているかのようにブルブルと震わせながら頭を擡げてきて、花が開いた途端、本当に良い香りに包まれるという。

(10月31日ミラノにて)

線と文字と音

高橋悠治

11月で休暇を取って、ピアノを弾いているとできなかったことをしたい。知らなかった音楽を見つけて演奏するのにも限界がある。20世紀後半の「現代音楽」と言われていたものも、今は「現代」とは言えない。世界は変わりつつある。ヨーロッパは分裂し、アメリカに従って戦争で壊れていくばかり。

音楽しかできることがなくても、社会の変化に影響されて、できないことが増えていく。コロナが2020年に流行し始めて、コンサートには人が来なくなった。CDも本も売れなくなっている。日本から出ないと他の土地の様子はわからない。でも、「行かれない」だけでなく、行きたくないのは、年齢のせいか、You Tube や Vimeo で見聞きする、わずかな情報のせいか。

今年2020年にバガテルを集めたコンサートをした時、出会ったフィリピンのジョナス・バエスの曲、その元になったミャンマーのサンダヤというピアノ・スタイルは、ガムランはじめ東南アジアの合奏スタイルを、西洋楽器に取り入れたものだった。西洋楽器で西洋音楽を弾く、そしてそれをモデルとして自分たちの音楽を作る、という日本とはちがう考え方がある。

そういえば日本でも、中国や朝鮮から取り入れた漢字や学問は、好みのままに見方・使い方を変え、実験を重ねて、平安朝の女文字や日記を作った時もあった。明治時代の西洋崇拝や、第2次大戦後のアメリカ風とはちがっていた気がする。

今は西洋モデルでできることはあまり見えない。和声や対位法、旋法も、20世紀に分解されて点の音楽になり、コンピュータ化された。その道具の方からディジタルの限界が感じられる。対位法 (contra-punct) は点対点、旋法の終止法や調性の機能のない響きだけの和音は点の堆積。音色は、標準化されたオーケストラ楽器の限られた組み合わせ。

声だけが、ディジタル化されていない。声の分析と再合成は複雑で、再生機器を通すと、短いサンプルだけが不自然に聞こえなかった。20年前にコンピュータ音楽をやめたのは、その音に飽きたから。

声や楽器で音の線を作る。線の時間・空間の配置・配分を試してみる。線の即興的変化で、中心のない、不安定な動きに、演奏の即興性が加われば、そこに平安朝の女手の散らし書きのような、揺れる水鏡やそよ風の木魂が起こるかもしれない。

2022年10月1日(土)

水牛だより

10月だというのに、昼間の東京は夏のような温度と湿度でした。盛りの金木犀の香りが似合わなかったけれど、夜になるとさすがに秋の気配がただよいます。来週後半からは寒くなると天気予報は告げています。

「水牛のように」を2022年10月1日号に更新しました。
コロナがいったいどうなっているのか、真相はわかりませんが、人々は移動するようになってきました。それぞれが自分の感覚を大事にして行動するよりなさそうですね。
今月15日に、八巻美恵『水牛のように』がhorobooksから発売になります。詳しい情報は平野公子さんの「ダイヤモンドの指輪」をごらんください。同じタイトルで、わたしも久しぶりにブログを書きました。horobooksは小さな出版社なので、この本はふつうの販売ルートには乗りません。ささやかな本ですが、ご興味があれば、horobooksのサイトからお求めくださるようお願いします。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

きのこ雲

イリナ・グリゴレ

車の助手席に子供が食べ捨てたお菓子の袋、幼稚園から持って帰って作ったことも忘れている工作などとともに寺山修司の『家出のすすめ』とヴァージニア・ウルフの英語版『A Room of One’s Own and Three Guineas』というエッセイ集を私が置いた。長女と次女の送り迎えの時間がバラバラで、ズレがあって、駐車場のための競争もあって、自分が車で時間をたくさん過ごしている日々が続いているなか、車の中でも本を持ち出すしかないという決断に至った。同時に本を5冊以上読んでいる癖がある私が、なぜ車の中で読むにはこの2冊にしたのか自分でもわからないが、寺山の1ページ目の「他人の母親を盗みなさい」と、ウルフの5ページ目の「有名な図書館が女性に呪われているなんて、有名な図書館には全く無関心」という文章を読むと、1日分の燃料をもらった気がする。何が嘘で何が本物か分からない世の中であるが、いつもこうして本で確認できることがある。ウルフの時代では女性は図書館に入るために特別な招待が必要だったという。

秋の朝の光に飛んでいる賑やかな「結婚トンボ」の方に目線がとられる。結婚トンボというのだ。今年は初めて知った。トンボまで結婚させられるなんて少し悲しい。トンボもわかってないのに。やっぱり、人間とは勝手だ。何日か前に稲刈りのお手伝いに行った。娘と泥んこまみれになってお米はどうやって作られるのか身体で感じた。自然乾燥のお米が一番美味しいとよくわかった。私も棒に束をかけて、できる限りお手伝いした。足が土に入って、手が稲を触って、頭に太陽が当たっただけで身体の奥から大きな喜びを感じた。田んぼの中で、娘が頭のテッペンから足の指先まで泥だけになって大騒ぎして笑う。そして人間だけではない。何千ものトンボ、バッタ、カエル、蝶々、鳥などがいる。トンボもバッタも2匹でくっついていることが多い。でも結婚なんてしていない、光の中でただ一緒になって命の踊りを続けている。地球というところはこんなところだ。

稲の束を運んでいる間に、泥の中から体の半分がない蛙が飛んできた。黒い泥に赤い血が混ざる。体の半分がないにもかかわらず普通に動いている。慣れているように。多分、稲刈りの機械が当たった。でも蛙も自分も悲しくない。頭の中で「新しい足がきっと生える」と思う自分がいるが、血と泥が混ざっているイメージが脳に残る。稲刈り機械は男が操作している。田植えの時もそうだったが、自分も体験してみたくなる。機械は大きくないのに、エンジンがついているせいですごい力で引っ張られる。田んぼの泥の中で真っ直ぐ歩けないぐらい引っ張られる。自分の身体の限界を感じる。機械に勝てない。重いし強い。2回往復して男の人に任せる。

農作業の大変さは子供の時から知っている。身体が疲れすぎて、何も考えられなくなることが起きる。よく眠れるけど。でもいくら働いても足りない。草はまた伸びるし、虫が実を食べるし、水をかけないと日差しの下で全部枯れる。だから農薬と機械などを人が作りたくなる。蛙は何匹でも犠牲にしても。でも本当に蛙の命まで犠牲して食べていいのかと思う時がある。人間とはきっと必要以上に食べている。育った村には田舎に憧れて都会から移住してきた家族たちが何軒もいたけど、何年か経ってから都会に戻る。大変だから。森のきのこを食べた家族が毒キノコだと知らないまま、大変な目にあったこともあるし、村で馴染めない。昔からいる人たちがその地の精霊に慣れているからなかなか他所からの身を受け入れるのは難しい。

その土地を守るために村の人同士で結婚して、一生その地で過ごす人たちがいるけれど、村の中では近親相姦、レイプがよく起きる。育った村ではこのような話が子供の自分の耳にもよく届いていた。特に村の噂で印象に残るのは、一人ぐらしのお婆ちゃんたちをレイプする男だった。子供同士の包丁刺しなど、親と義理の息子の関係、若者と動物との関係、など様々である。この側面を考えると田舎を早く出たくなるし、憧れもなくなる。何が正しいか、何が間違っているのかを見分けることが同じ場所にいると分からなくなる。だから人類は最初からノマドだった。視線を変えて、環境を変えてそして違う価値観と考え方に触れることによって更新される。

最近では自分の中で「移動」というテーマに敏感になった。息詰まった時、旅に出る。この前、3年ぶりに電車に乗ってわかった。昨日までの世界から離れて遠くへ行く。距離をとる。電車に乗るとわかる。私はいつも間という状態で生きている。機械で足を切られたあの蛙と同じ、新しい足が生えるまで、更新されるまでゆっくり、また早いスピードでいろんな人や場所から離れる。そして結局のところまた農作業に戻る自分もいる。りんご畑の手伝いでは今の作業とは葉とりである。りんごに平等に光が届くため周りの葉っぱをとるという作業。これは機械ではできない。春のみすぐりと同じ、一瞬、一瞬の判断でやる。りんごの位置など、様々な条件を参考にして周りの葉っぱを取ってあげて、種類によっては少し回して光を浴びるようにする。また、木の下にシルバーシートを敷く。下から光が反射し、りんごが赤くなる。シルバーシートを敷いた経験があまりにも鮮やかで魂に削られている。現代アートのような体験だった。太陽の光の下でりんごの気持ちになって自分も赤に染まった感覚だった。シルバーシートを敷くたびに眩しい光で目が見えなくなる。写真のフラッシュのように世界が何回も、何回も生まれ変わる感じがした。

家の植木に突然キノコが生えたと発見した朝は大喜び。その名はコガネキヌカラカサタケだとキノコ図鑑でわかった。人間はなんでもカテゴライズするし、知らないことを否定するし、怖いものを殺そうとしているが、キノコはただいる。。そして死んだ後に雲になる。最近の発見では山の中にできる低い雲はキノコの胞子を核にしてできているらしい。娘たちが秋田からの帰り道で雲をずっと眺めて「ママ、雲に乗りたい」と言った。無人販売で買った朝どりのきゅうりを齧りながら「ママ、私たちは河童になった?」。きのこ雲を見てから後ろを振り返ると、きゅうりを笑顔で齧る娘はカッパにそっくりだった。移動している車から見える外の田んぼと雲が遠くにいるのではなくものすごく近くに見える。

ヴァジニア・ウルフの時代には女性は図書館にさえ入ることができなかったけど、硬い考え方を破って娘の時代になると、彼女らはなんにでもなれる気がした。彼女らは光の速度でこの世界を見る/知る自由があるのだ。駐車場が車でギッシリ詰まった頃に、13ページの「すぐに滅びようとしている世界の美しさには、笑いの刃と苦悩の刃があり、心をバラバラにする」という文書を読んで、車から遠くにある山の上に浮いているきのこ雲を眺めた。

清水断水

北村周一

9月30日現在、未だ9000戸以上の断水状況が報告されてはいるものの、発災3日目の26日には、およそ63000世帯(清水区の約8割に当たる)に及ぶ大規模な断水被害となっていることを、SNS等で知らされていたことをかんがえると、すこしはほっとした気分になる。

23日の夕方から降り続いた雨は、夜になってさらに激しくなり、いわゆる線状降水帯が発生し、気象庁は翌24日午前6時までに、静岡市をはじめとして県内11の市町に16回の「記録的短時間大雨情報」を発表することとなった。

台風15号の接近による歴史的な大雨が、連休の3日間を襲ったのである。
12時間の雨量は、県内各地で400ミリを超えた。
23日の深夜から24日未明にかけて、1時間に100ミリ以上の雨が降り続いたことになる。

多くの人が、1974年7月7日の台風による被害、七夕豪雨を思い出したことだろう。
ちなみに、七夕豪雨における静岡市(当時の清水市を含む)の24時間連続雨量は508ミリに達した。この数値は静岡地方気象台観測史上最高記録となっている。

洪水に関する被害といえば、ハザードマップがたいへん役に立つのではあるが、じつは2015年をさかいにして設定の手法が異なっているのである。
2015年以前の設定を計画規模として、それ以後の設定を想定最大規模と呼んでいる。
計画規模は、だいたい50年から150年くらいに一度の雨を想定しているようだ。
それに対して想定最大規模は、1000年に一度の雨の被害を想定している。
想定最大規模の場合、48時間の連続雨量が、400ミリを超えるような大雨による水害の発生を予測している。

では半日で、平年の9月ひと月分の、1.5倍もの雨が降ったらどうなってしまうのであろうか。
清水区を中心に、9月24日土曜日の朝からきょうまでの1週間、おもにツイッターやライン、メール、電話等でかかわりのあった内容のそれぞれのメッセージを、以下にまとめてみることにした。

24日の午前中は、まだ水が出ているところはあったようで、清水のマンション住まいの友人は心配ご無用という感じだった。
これは、水槽タンクにまだ水が残っていただけのことで、あっという間にその日の夕方には尽きてしまったのであるが。
同様のことがほかの知人たちにも起きていたらしく、断水のはじまりは、やはりまちまちでありなおかつ唐突なのであった。

#清水区の断水の件、市に問い合わせた。今水が出ている地域も今後出なくなる可能性はあるとのこと。今残ってる水を水圧の関係で出せるとこには送れてるだけらしくて、復旧したわけではありませんだと。ヒェー!(Twitterから引用)

清水は長いこと、東海地震の発生が予測されていて、その被害が甚大であることはもちろん、それに対応したハザードマップも入念に準備されていたし、津波も含めた震災被害という視点からはそれなりの防災準備もできていたはずであった。

水や、食料や、雑貨等、個々の家々に相応の備蓄はあったようで、2、3日は持ちこたえることができるだろうとの発言も散見した。
床下、床上浸水や、家の倒壊を免れた場合にかぎられるのかもしれないけれど。

25日を過ぎると、深刻な内容のメッセージが増えてきた。
先の見通しがつかないからだ。
加えて、全国ネットでの今回の台風被害の報道があまりに少ないこと。
それらに苛立つツイートも目立つようになった。

26日、遅ればせながら、静岡県が自衛隊に災害派遣要請を出す。
静岡市長は、連休が明けてから、県に要請するつもりだったと会見で述べる。
県知事は、その要請をじりじり待っていたと、強調。

清水区の大規模断水の原因となった、興津(おきつ)川取水口施設の障害物の撤去作業が、28日未明に完了。
陸自の撤去作業は27日午後6時半ごろ始まり、28日午前0時半ごろ完了した由。

その28日の夜、友人からのラインメールで、飲用可能な水道水の供給再開の報がとどく。
翌日には、別の友人からも。

(しかしながら、未だ興津川上流地域の断水被害は続いたままである。何より、橋が流され道路が崩れて孤立しているとのこと。飲み水を提供している地域の被害がもっともひどく、さらに報道されないという矛盾。)

それでも清水には井戸を使っているところも多々あって、生活用水としての提供を申し出る家々や、会社等があったことも記しておきたい。
ただ、高齢者にはポリタンクに入った水の運搬は無理で、友人は、2リットルのペットボトルに詰め替えて、それぞれのお宅に配って歩いたとも言っていた。

飲料水等の取水に関しては、興津川だけではなく、ほかにも3つのルートがあることも今回判明した。けれど、国や県の認可がいるらしいのだが、じつは、富士川からの取水も可能なことが明らかになった。
今回も、富士川からの水で足りない分を補っているようなのだ。

大いなる国のイベントの影に隠れて、スムーズに事が進行しない有り様を見るにつけ、腹立たしく思うのは、自分だけではないだろう。

しもた屋之噺(248)

杉山洋一

英国女王の崩御からウクライナ4州併合宣言、イタリアでは総選挙があり、日本では国葬が執り行われれ、今月は畳みかけるように国際社会に激動が続きました。
毎朝小一時間、魚を眺めながら運河沿いを散歩するのが愉しみで、最後に運河に架かるミラーニ橋の袂で朝食のパンを購い、橋をわたって家に戻ります。
このミラーニ橋は、運河のみならず、並走する国鉄の複々線路まで架けられた、それなりの規模の橋なものですから、そこからの眺望は素晴らしく、橋上では眼前に抜けるような空が広がります。今朝は、輝かしい朝日が街全体を金色に染め上げていて、その超現実的な様に、すっかり見惚れてしまいました。そこには、どんな素晴らしい風景画さえ凌駕する魅力があって、我々は自然には抗えないと実感させられます。
風が鳴らす樹々のざわめきや清流のせせらぎ、谺する鳥のさえずり、岸壁を静かに打ち続ける波の音、身体を突き抜けてゆく雷鳴。自然が生みだす音響に勝るものはないでしょう。
自然音の模倣や再現に始まった我々の言語体系や音楽は、何時しか次第に感情を伝えるようになりました。祈りや呪い、悲しみや喜びが音に籠められるとき、それは旋律となり、リズムが変化をつけるようになりました。顔の表情が豊かになると、足で地を踏み鳴らし、手を、そして樹を叩くようになりました。このようにして、本当に少しずつ、雫が岩を穿つような気の遠くなる時間をかけて、我々の社会、文明が形成されてきました。源である自然には抗えないはずでした。ですから、現在の我々自身が、何か途轍もない謬りを犯しているのではないかと、時に恐怖に駆られたりもするのです。

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9月某日 ミラノ自宅
朝3時50分ヘルシンキ着。機内で横になったのが悪かったか、軽いメヌエルらしく眩暈でふらついていて、朝7時半のミラノ行に乗機直前全て吐いてしまった。帰宅後もずっと目が廻っていたので、泥のように昏々と眠る。こういう時、身体と精神は完全に別物で、精神は完全に身体に支配されていると実感する。
ヘルシンキ空港に着くと、係員をはじめ、行き交う誰もマスクを着けていない。笑顔が眩しく、誰もが当たり前に握手し抱擁し、会話に夢中になっている。当たり前だった光景が、自分の裡でそうでなくなっていたと気づく。「マスクをしない人もいる」ではなく、誰もマスクをしていないのだ。文字通り忘れていた感覚だった。当然、ミラノ行機中でもCAはじめ誰もマスクをしていなかった。
実はこれはフィンランド政府の経済戦略かしら、と訝しく思うほど、いつの間にか自分もマスクのある生活に馴染み切っていた。
 
9月某日 ミラノ自宅
間違ったのか、冷やかしなのか、天窓から黒ツグミの幼鳥が家に入ってきて、居間の天井に渡された補強用の鉄棒に留まって、暫くこちらを見ていた。15分ほどしてまた天窓から出て行ったので、床を拭き掃除する。随分汚していたから、怯えきっていたのかも知れない。
 
9月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めてかれこれ30年近く経つ。因って当然ではあるが、日本に戻ると言葉で戸惑う機会が多くなった。先日もリハーサル中、若い作曲家の「大丈夫です」との返事を我慢できる程度だという意味に理解したので、問題点を指摘してほしいと頼んだところ、改めて「いえ、大丈夫です」と言われてしまった。やはり納得していないのかと気を揉んでいると、他の作曲家も揃って「大丈夫です」と微笑むので、そこで漸く、現在は「良いです」の代わりに「大丈夫」を使うと知った。「構いません、大変結構です」に準ずるのだろう。「大変、大丈夫です」と言ってもらえると、多少分かり易いが、流石にそれは言わないようだ。
最近は我々の世代でも女性を「女子」と呼ぶようだし、「美人さん」という言葉にも慣れつつある、と吐露する時点で、時代錯誤を自認するに等しい。この30年間、日本語を使わなかったわけではないが、元来特に日本語に長けていたのでもないのだから、進歩についてゆけず、浦島太郎になるのも仕方あるまい。
「美しすぎる」という表現を聴くにつけ「過ぎたるは最上級表現に等し」と独り言ち、「美しすぎかよ」とあれば、他者へ同意を希求しつつ、自らの意志を円やかに滑り込ませる日本的奥ゆかしさと納得する。
心から感謝している、感謝するばかりだ、深謝の意味で使われる「感謝しかない」という否定表現も、日本に住んでいた頃は殆ど使われていなかったので、未だ違和感が纏わりつく。
後5年もしたら、日本でリハーサルする時は、「そこのオーボエソロ、神ですか」などと話すべく、腐心しているかもしれない。尤も、自分でも何を言わんとしているか不明瞭で、作為的に過ぎるから、却って怪訝な顔をされるだろうか。この齢にもなると、使い方が間違っていても、「痛い」と憐憫の眼差しを向けられなるだけで、誰一人指摘してくれない危険も潜んでいる。
 
9月某日 ミラノ自宅
今日は一日、大くんの粗読み。朝の散歩の途中で、初めて寄るパヴィアの農業組合が立てている朝市で、産み立ての卵とpolpette di verdure、野菜の団子揚げ、野菜コロッケ4ケ購入。エミリア・ロマーニャのエルバッツォーネの風味に似て、大変美味であった。眩暈は未だに薄く残っている。起床時、多少頭の据わりが悪くて、グラグラする。酒類が苦手なのは、元来三半規管が弱いからに違いない。この浮遊感を自ら再現したいとは到底思えない。
 
エリザベス女王が崩御し、チャールズ皇太子が英国王即位。イタリアでは、彼らの名前をエリザベッタ、カルロとイタリア名に変化させて呼ぶ。
バッハもワーグナーも、100年前にはジョヴァンニ・セバスティアーノ・バック、リッカルド・ヴァグネルなと呼んでいたが、何時頃からか、ヨハン・セバスチャン・バッハ、とか、リヒャルト・ワーグナーと正されるようになった。第二次大戦後間もなくではなかろうか。
ドイツ人名はさておき、マウリツィオ・ラヴェルとか、クラウディオ・ドビュッシーなど、フランス人名をイタリア語化して呼ぶと、どうも雰囲気が出ない。
パドヴァには、現在もマウリツィオ・ラヴェル通りがあるくらいだから、ラヴェルのイタリア名は、戦前のイタリア文献にはちらほら散見される。しかし、クラウディオ・ドビュッシーの名前は、インターネットで幾ら検索しても出てこない。もしかすると、マウリツィオ・ラヴェル通りの名前は、作曲家ではなく、そういうイタリア人が過去に居たのかしら、と思って、パドヴァの地図を眺めると、マウリツィオ・ラヴェル通りは、フェデリコ・ショパン通りに並走していて、ジョヴァンニ・ブラームス通りにぶつかっていた。フェデリコ・ショパン通りは、正式にはフェデリコ・チョピン通りと発音するのかも知れないがよく分からない。確かに、マウリツィオ・ラヴェル作曲「水の遊戯」、フェデリコ・チョピン作曲「バッラータ第一番」と言われると、演奏解釈までイタリア風になりそうである。
マウリツィオ・ラヴェルのピアノ協奏曲の初演者は、当時イタリアではマルゲリータ・ルンガ(マルグリット・ロン)夫人と呼ばれていた。イタリア語化できるものは名字ですらイタリア語化し、且つ女性名詞化までさせた興味深い例である。理由不明。
ルンガ夫人の同世代に、イタリアにはスカルラッティを再発見したアレッサンドロ・ロンゴというピアニストで作曲家がいた。ロンゴとルンガの意味は同じだが、ロンゴという名字はラテン語とも違って古伊語のまま、もしくは地方語のまま残されている。
ともかく、クラウディオ・ドビュッシーが見つからないのはやはり解せない。イタリアがフランス領であったとか、オーストリア領であったとか、フランス南部がイタリアであったとか、家族の誰かがイタリア人だったとか、何某かの理由でイタリア化させるのかと勘ぐるが、これといった規則性もなく、恐らく慣習なのだろう。日本で扱われる中国人名や韓国人名のようでもある。と、ここまで書いて、地図上でクラウディオ・ドビュッシー通りを検索してみると、どうだろう。クラウディオ・ドビュッシー通りは確かに存在するではないか。それもミラノ、拙宅のすぐ近所であった。燈台下暗しとはこのことである。こちらも、正しくはクラウディオ・デブッシー通りと呼ぶのではないか。今度タクシーに乗ったら運転手に尋ねてみたい。
円安が進み、対ドル144円にまで下落。現在は142円前後で推移中。
 
9月某日 ミラノ自宅
日本では、円安に続きオリンピック買収問題とか国葬だとか、与党と宗教団体の癒着などが話題に上っている。昨日は、NHKのラジオニュースでコロナ禍により結婚式が5パーセント低下と話していたし、諸外国と同程度のPCR検査を行うこともないまま、患者の全数把握の停止も決定されたそうだ。全数把握に特に興味があるわけではないが、技術大国だった日本が、諸外国と同じ検査能力すら発揮できぬまま尻すぼみで諦めてしまうのはちょっと悔しい。何かがうまく機能していないのだろう。イタリアの新聞では、今冬のエネルギー不足と若者の平均賃金の異常な低さ、それに25日の選挙で予想されているメローニ党首について、など。
 
9月某日 ミラノ自宅
家人は朝5時にタクシーを呼び、ベルリンに出かけていった。
来月アルバニアで演奏する伊福部昭「日本組曲」題材調べ。「日本組曲」は昭和9年1934年に作曲された「ピアノ組曲」が原曲で、冒頭の「盆踊り」の速度表示が四分音符100とあり、随分速いので不思議に思って調べたところ、戦前の盆踊りは押しなべて現在よりも速く、盆踊りの原型、中世の念仏踊りの雰囲気をより強く残していた。
「演怜(ながし)」は、遊郭閉鎖後に生まれた我々の世代は、新内節など聴いて当時を想像するしかないが、豊かな風情に溢れ、当時の街の雑踏まで聴こえる気がする。
「佞武多」は、佞武多を練り歩く際演奏される「進行」囃子から霊感を得ているが、これはちょうど、本質のみを抽出し画家独自の技法で仕上げた、質の高い絵画のようでもある。世俗性を否定こそしていないが、的確に特徴だけを掴んでいるので、極めて格調高く動的な音楽が生まれる。
1938年9月7日、ヴェネチア・ジュスティアン館で開催された第6回ヴェネチア・ビエンナーレ室内楽演奏会のプログラムを見ると、江文也の「素描五曲 Op.4」第3曲「焚火を囲んで」、「三舞曲 Op.7」第1曲、「16のバガテル 16 Bagatelles」より「canto dormiente おねむり」「Green Leaves Young Leaves」と並んで、伊福部昭「ピアノ組曲」第1曲「盆踊り」が演奏されたのがわかる。
同夕はその他、プーランク「あの日、あの夜」(1936-37)、フォルトナー「弦楽四重奏第2番」、ヴィンチェンツォ・トンマジーニ「ハープソナタ」が演奏されている。同年ビエンナーレ初日のプログラムには、ミトロープロス指揮フェニーチェ劇場オーケストラによる、マリオ・ピラーティ「オーケストラのための協奏曲」やヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ」など意欲的な作品が並んでいた。インターネットの普及した現在ですら、国外再演まで数年かかるのは普通だから、当時から状況はあまり変わっていないことがわかる。
 
9月某日 ミラノ自宅
快晴。午後、家で息子とサラがリハーサルの間、3時間ほどアッビアーテグラッソまで運河沿いに自転車を走らせた。5、6年ぶりではないか。当時は病後の息子の体力回復のため、アッビアーテグラッソまで列車で出かけ、そこから自転車に乗ってベレグアルド運河を訪れていた。
ベレグアルド運河は、パヴィアまで続く見渡す限りの田園風景を突き抜ける細い灌漑用水路で、途中何軒か牧場もあり牛が遊んでいた。自転車を走らせると、様々な小動物が道を横切っていった。
家からサンドウィッチを用意して出かけたり、アッビアーテグラッソの喫茶店で何某か買いこんで昼食にしたこともあった。運河の途中には船のため幾つもの閘門があって、その直ぐ下方には水が溜まって小さな池ができていた。そのあたりで息子と二人で腰を下ろし、のんびり昼食を摂って少し昼寝して、また先へと進んだ。今にして思えば、自分が小学校時代、毎週父に連れられ川や海へと釣りに出かけていたから、その真似事を息子にしてやりたかったのだろう。
息子は左半身不随が治ったばかりで、体力もなかったから、最初はしばしば休憩を取らせては、とてもゆっくり走った。当時彼が将来どんな風に暮らせるか、想像もつかなかった。父も隣で釣り糸を垂れながら、交通事故後の自分に対し、似たような感情を抱いていたかもしれない。
何時の日か、息子がこのベレグアルドの田園風景や、水路のせせらぎや、牛舎の臭いや、一緒に食べたピザやらサンドウィッチを思い出すことがあれば嬉しいと思いつつ、無心で自転車を漕ぐ。
今日は大石君と辻さんが新潟でJeux IIIを再演。辻さん曰く、作品後半で飽和状態にならぬよう、100パーセントか102パーセントで打ち切れる演奏を目指すという。玄人技とはそういうものかと舌を巻く。未だ実演に立会っていないとは信じ難く、既に何度も目の前で演奏して頂いた錯覚を覚えている。
 
9月某日 ミラノ自宅
家人と二人、隠れるようにしてサラと息子の二重奏を聴きに国立音楽院に出かけ、席の裏に身を潜めて聴く。いつの間にか随分よく練られた演奏になっていて、夫婦ともに感銘を受ける。此れ正に親莫迦也。ベートーヴェン4番の休符処理や深く歌うシューマン1番2楽章が特に忘れ難い印象を残した。
母より連絡あり。富安陽子の「盆まねき」が町田に届いたこと、それから、天塩にかけて育てている月下美人が今年3回目の開花、とのこと。
母は子供のころ、横浜の本牧に住んでいた。家から海岸はすぐ近くだったので、しばしば祖父に連れられて潮干狩りに出かけた。近所には駄菓子屋と、蛇とすっぽんの瓶詰を売る、母曰く蛇屋、恐らく漢方薬局があって、今も残る間門小学校に市電で通った。
当時競泳選手だった母の姉の菊枝さんは、母を連れて、李香蘭やポパイの映画を見に行った。李香蘭はともかく敵国映画のポパイが、本当に当時映画館にかかっていたのか定かではない。幼かった母は、前回劇中で死んだはずの李香蘭が幾度となく生き返るのか不思議で仕方なかった。
母は「盆まねき」を読んで、特攻隊に召集された菊枝さんの競泳仲間5,6人が、戦地へ発つ前日に本牧の家を訪ねてきた時のことを思い出した。
彼らはそれぞれの実家に戻る時間すら与えられず、旧知の菊枝さんを頼って本牧の家に集った。彼らは揃って白マフラーをしていて恰好よく、幼かった母の相手をしてくれる優しいお兄さんたちだった。
菊枝さんや祖母のハツさんは、どこからか砂糖を集めてきて、せめても餞別にと汁粉を作って持てなしたという。当時、弾除けにと経文を渡すのもしばしばであった。気弱な言葉を呟くだけで非国民と叱られるので、子供ながら言葉に気を付けていたが、それでも周りの大人で誰も万歳など叫ぶ者はいなかった。その後彼らの戦死の報を受け、菊枝さんは隠れて泣いた。
ロシアが予備役対象の部分的動員令発令。それに続いてロシア各地で戦争反対のデモとロシアより近隣諸国への出国ラッシュ。ドイツはロシア人受入れ表明。
 
9月某日 ミラノ自宅
毎朝起きると先ず、庭の古椅子にのせた餌いれに、胡桃やら落花生を割っていれてやる。庭に集う様々な小鳥やツグミ、烏、そして庭の樹に棲むリスの餌である。今朝はその胡桃の殻が二個、ドアを開けて目立つところにきれいに並べてあって、どうやらリスの仕業のようだ。
黙ってみていると、リスは目の前までやってきて、その殻の片方を口に加えて、いつもの餌場にもってゆき、そこでぽとんと落とすではないか。それからまたこちらに戻ってきて、もう一つの殻を加えて、また餌場まで運んでそこに落としてから、今度はこちらをじっと眺めている。要は餌が足りないと訴えているのである。尻尾はすっかり立派な冬毛に生え変わり、乳も張っているようだ。随分機転の利くリスだといたく感心したので、落花生を幾つか剥いて運んでやると、よほど嬉しかったのか、今度は足元からついてきた。
メローニはマスクメロンを二つ抱えた短いメッセージをSNS投稿。「もう言尽くしました。9月25日よろしく」。メロン二つでメローニ。
 
9月某日 ミラノ自宅
昨日からケルンの打楽器の渡邉さんが指揮の集中レッスンを受けに来ている。研究費を手に入れたので、指揮の基礎を学びたいのだそうだ。相当量の課題を出しておいたのだが、全てていねいに準備してあったので、感心してしまった。仕事もあって二歳のお子さんもいらして、一体どうやってこなせるのか。
自分の為にこんなに勉強したのは久しぶりで、大変だったけれどすごく楽しい、と清々しい笑顔で話していて、とても羨ましいと思った。彼女は屡エミリオと一緒に仕事しているので、好い加減に教えている様子が暴露されるのは都合悪いが、まあ致し方ない。浦部君とは禅問答のようなレッスンに終始したが、それを見ていた渡邉さんは一体どう思っただろう。
イタリア総選挙投票日。レッスン会場を貸してくれたサンドロも、途中投票に出かけてゆき、帰宅後、今回ばかりは実に憂慮すべき状況だと、いつになく真面目な顔で話した。
夜、当確の報を受けたメローニは「イタリアは我々を選んだ」と早々に勝利宣言。先の選挙でもメローニは善戦していたから、客観的にこの結果は自明の理だと思うのだが、ドラギに不信任を突きつけておいて、何故こうなったのかと悲嘆に暮れるのは、傍から眺めていると少し不思議でもある。
 
9月某日 ミラノ自宅
夕刻、自転車で大聖堂脇に再建された映画館「道化師(アルレッキーノ)」に向かい、ジャコモ・マンゾーニ90歳記念のドキュメンタリー映画鑑賞。今日はジャコモの90歳の誕生日で、本人も臨席。90歳だと言うのに矍鑠としていて、冗談すら飛び出す。
サンタゴスティーノにあるジャコモの自宅インタヴューの合間に、ポリーニやグァルニエリ、ヴァッキやヴェッランドのインタヴューが挟み込まれてゆく。
グァルニエリは、ジャコモに出会わなければ、自分はマントヴァ平野で音楽と無縁の人生を送っていた筈と語り、ヴァッキは、自分のクローンを作るのではなく、ジャコモのように、それぞれの学生の特質を見抜き、それを展ばして、自らの足で歩けるように出来る教師は素晴らしいと賞讃した。
ヴェッランドはジャコモの教養の幅広さと深さを指摘した上で、成長とは父性、父親を踏み越え進みゆくべきものと語った。ジャコモはそれを理解してくれたし、自分自身も生徒たちにとって、踏み越えてゆける父でありたいと思うと話した。
前衛作曲家の姿勢を貫いてきたジャコモは、90歳になった今でも、若い作家たちの楽譜に触れていたいという。と同時に、彼がイタリアに改めて紹介したい作曲家は、クセナキスなのだそうだ。ヴァッキが紹介したいのはディティーユで、ヴェッランドはシェルシの名を挙げた。こうした一言からも、弟子たちの個性がそれぞれ際立ち、興味深い。
ヴェッランドは、現代音楽は世界的に方向性を失い、飽和状態で拡大し続けているが、その中にあって、イタリア現代音楽界は中心からやや距離があり孤立している、と率直に語っていて、世界のどこにいても、案外皆近しいことを感じているのかもしれない、と思う。
夜、家族で夕食を食べていると、息子が選挙結果について話し始めた。彼と同世代のイタリアの友人たちは、今回の選挙結果を受け「この世の終り」と悲嘆に暮れていると言う。ロシアによるウクライナ占領地域の住民投票開始。
 
9月某日 ミラノ自宅
毎朝、夜の明けるのが目に見えて遅くなってきた。夕刻、坂寄さんと二人、コモの劇場にドン・ジョヴァンニのドレスリハーサル見学に出かける。彼が初めて見るコモの湖に水面や紅葉しかけた山々に感激し、大聖堂の荘厳さに言葉を失うさまに、30年前の自分を思い出していた。
ドン・ジョヴァンニを指揮したリッカルド・ビサッティは若干22歳の俊英。力強く推進力があって、気持ちが洗われる瞬間が何度もあった。こうした瑞々しさは、やはり若い時でなければ絶対に表現できないと思う。思わず最後まで見入ったお陰で終電を逃した。エリザベッタに連絡して、ミラノに戻る合唱団のバスに同乗させてもらって帰宅。家人に呆れられる。スカラとはまた全く違った、地方の中劇場らしい魅力を再発見。
 
9月某日 ミラノ自宅
二十五絃のSさんに書いたメール。
「今自分に必要なのは、無になれる、空になれる時間です。裡にある音を掬い上げるため、そしてその音と向き合うために、どこか全く違う場所から、音を客観的に見つめたいのです。この数年で自分の身体にはすっかり澱が溜まり、臭気すら立ち昇る気がします。
自分の書く音の質感、以前に比べまるで変ってしまったのはやるせなく、併し諦めて受け容れています。以前書いた音には光や輝きがあって、当時の自分が羨ましいほどです。もう戻ることはできないのが分かっているからでしょう」。
今後、我々の社会がどう変化してゆくか分からない。暫くは厳しさを増してゆくに違いない。我々の子供の世代、若い人々に対し、心から申し訳なく、詫びる思いばかりが募る。作曲家の書く音に、彼の日々の生活、精神状態が反映されるのか、以前はよく分からなかった。そうであるようにも思えたし、そうでないようにも思えたのである。
併し今更ながら実感するのは、作曲家の書く音には、とどのつまり、作家の生活、精神状態全てが反映されるという事実である。音そのものだけで、強靭にレゾンデートルの独立性を維持することは、やはり不可能であった。半世紀ほど生き、厄介な時勢を反映し、漸くそう納得するに至った。
歴史は繰り返すとも言うが、知識でしかなかった歴史上の様々な事象を、追体験している気がしている。なるほど、こういうことだったのか、と納得させられる事も多い。ただ、それら殆どが否定的な内容なので、追体験できるのは有難いけれども、現実と受容れるのは辛い。
音楽に関して言えば、我々は今後、前世界大戦後の構造主義成立に近い状況までもを追随し、我々自身悩みながら別次元の音楽探求へ駆り立てられるのかもしれない。ただ、世界的に同じ状況に追い込まれるとすれば、次回、世界は終わっているかも知れない。
 
9月某日 ミラノ自宅
ロシア大統領、ウクライナ占領地域4州併合宣言及び調印。一連のウクライナ、ロシアの動向で、我々が空恐ろしく感じるのは、今まで見ぬふりをしてパラレルワールドの日常に甘んじてきた、若しくは甘んじざるを得なかったロシア市民までもが、突如現実に投込まれパニックになっている姿を目にしているからではないか。
昨日まで普通に暮らしてきた世界が、突然消失する恐怖。今まで遠い出来事だった戦争が、少しずつ我々一人一人の人生を絡み取り、まるで何事もなかったかのように、口を大きく開けた地獄の窯に投込んでゆく。
自分を含め、既に無数の人々の暮らしにこの戦争が影を落としていて、影響を無意識に受容しつつ生きている。破滅的な方向へ我々自身が足を取られつつあるのを、無意識に気にしないよう努めながら。そうして或る瞬間、この数日のロシア国民のように、逃惑うことになるかもしれない。
2014年、先ずクリミア市民が巻き込まれ、今年はじめに先ずウクライナの市民が、そしてロシアの僻地やベラルーシの兵士が、そしてロシア予備役兵が引きずり込まれ、いつしかロシアの国民全体も飲み込まれるのだとすれば、その頃にはほぼ間違いなく、より明確な形で我々自身も取り返しのつかない場所にいるはずだ。我々全員が乗るブレーキの壊れた汽車が、長い長い下り坂に差し掛かろうとしている。とにかく止めなければならない。どうか止めてほしいと心から願う。アメリカ、ブルガリア、リトアニア、ルーマニア、ラトビア、ポーランド、エストニア各国と共に、イタリアも、ロシア国内の自国民に退避指示。フィンランドはロシア人観光ビザ入国停止。ウクライナ、北大西洋条約機構に加盟申請。
(9月30日 ミラノにて)

むもーままめ(22)愛♡足つぼマッサージの巻

工藤あかね

 健康オタクというわけではないが、心身のバランスを整えるために愛しているものがいくつかある。食事や睡眠、運動に気を配るのは当然のことだが、私がなにより好きなのは、ちょっとしたエンターテインメント感覚で体を活性化できるアクティビティなのである。一つはサウナ。もう一つは足つぼマッサージである。サウナについてはまた別の機会にと思うが、今日は足つぼマッサージについて書こうと思う。

 私が足つぼに出会ったのは、中学生のころだ。修学旅行で京都に行った折、お土産屋さんをのぞいていたら和紙の小冊子が置かれているのに気づいた。正式なタイトルは失念したが、「押して健康、足のツボ」みたいな墨文字が踊っていたと思う、パラパラとめくると、足の裏には全身の各部所に対応して繋がる神経がある、というようなことが書かれている。足の親指は目や頭の疲れに効く、土踏まずのあたりは腎臓など、内臓関係を刺激することができる、足の小指の下は肩こりに効く、といったようなことが書いてあった。足の裏をよく揉み解すだけで全身活性化できるなんて面白いなと思った。当然その小冊子は買って帰った。友達は匂い袋や、西陣織の小銭入れなど、可愛らしいものをお土産にしているのに、私は足つぼの本を求めたことで、随分話のネタにされた。怪しいとか、なんとか、やいのやいの言われたが、とにかく私は足の裏を押して、体にどんな効果があるかを試してみたかったのだ。

 当時はまだ子供だったから、体もそんなに疲れたりしなかった。だから足裏を押してもどのくらい効いているのかあまり実感がわかなかった。だが、足ツボはいいぞ、という情報だけが脳裏にインプットされて幾星霜。立派に疲れを感じる大人になってから、ふと足裏のことを思い出した。そうだ、足つぼ行こう!!土日に聖歌隊のアルバイトをしていた時、あまりに長い待ち時間を持て余して有楽町のあたりを彷徨っていたら、オープンしたばかりの台湾式足つぼのお店を見つけた。とても居心地の良い店だった。照明は薄暗く、お香が焚いてある。家具はオリエンタルムード満載、おまけに施術してくださる方は台湾で修行したようなことを言っていたはずで、風貌も話し方もどこか外国人風だと思った。そんなシチュエーションの全てが、海外旅行に行ったような気分を盛り上げてくれる。良い香りのする足湯で丁寧に足をあたため、洗ってもらい、ふとももの付け根まで空気圧をかけるマッサージャーで足をほぐしたのち、ついに足裏を人の手で揉み解してもらう。施術担当者が言った。「台湾式足つぼ、やったことないデスネ?痛くて泣いてもシラナイデスヨ」

 足裏って押されると泣くほど痛いの?…と思っていたが、いざ始まると本当に痛い。「ココは腎臓です」「ココは首です」「ココは肩です」と、痛さに悶絶するたびに、それがどの場所と対応しているか教えてくれる。ところが、痛さの向こう側に気持ちよさ、体があたたまってほぐれていくような感覚があらわれるのだ。泣くほどは痛くないと思ったが、「痛さに強いデスネ」と言われて、少し調子に乗りかけた。自分は足ツボ指圧で、痛さの向こう側の気持ちよさを味わえる適性がある、と思い込まされたわけだ。今思えばそれこそが、足つぼ業界的にはセールストークだったのではないかと思う。

 それから、体の疲れを感じると足繁く足つぼに通うようになってしまった。色々なお店を試した。痛くない足マッサージの英国式リフレクソロジーから、日本一痛いと言われているお店にも通った。しかも、各お店で足裏をやっていただく際に、そのあたりをもう少し丁寧にやってほしい!という箇所があらわれると、「あ、そこ痛いですね~。どこの部位ですか?」とか、反射区を知らないふりをして、とぼけて聞く悪い知恵までつけてしまった。ある時は、鼻詰まりや頭痛があって、足先を丁寧にやってほしいと思っていた。足指に差しかかった時に「あ~そのあたり痛いです~。悪いのはどこですか?」とわざとらしく尋ねたら「頭です」と返答された。わざと聞いたのが、バレていたのかもしれない。

 とはいえ、足つぼは行けばお金がかかる。一時期は自分で足つぼ専用の棒を使って押しまくったりもしていたが、今度は手が疲れる。というわけで、今は的場電機製作所が出している足裏マッサージ機「プチローラー」を愛用している。そこそこのお値段はしたが、買ってよかった。強力なモーターでモミ玉がゆっくり回転する。そこに足裏を乗せて、自分の加減で好きなところを揉みほぐす。まず原稿仕事のお供に最高。リラックスできるし、一回15分の設定なので、足をほぐしながら自分がどのくらいの時間PCに向かっているか、目安ができる。ヒールを履いて歩いた一日の締めくくりにもGood。体の不調を感じた時には、反射区をほぐすと楽になる気がする。コロナ禍で対面のマッサージに行けなくなった時期にも、大活躍した。
 
 こんなことを書きながら、私の机の下には「プチローラー」が回転している。今日も私の足裏をほぐしてくれてありがとう。

『日没の印象』の印象。

植松眞人

 詩人で映像作家の鈴木志郎康さんが亡くなられた。
 三年前に『リトアニアへの旅の追憶』で知られるジョナス・メカスが亡くなり、その影響を強く受けた『日没の印象』を撮った鈴木さんが亡くなったことで、いわゆる日記映画をアメリカと日本で生み出した作家がいなくなってしまったことになる。
 ナチスの手から逃れ、アメリカに亡命したリトアニア人のメカスと、日本で生まれ育った鈴木さんの映画作品は同じ並びで語られることは少ないのかもしれない。けれど、私には何気ない日常の中で映画作品を撮ることのヒントを与えてくれた重要な作品群を鈴木さんは見せてくれた。
『日没の印象』はただコダックの十六ミリカメラを手に入れたという喜びからスタートする。生まれたばかりの赤ん坊を写し、乳をやる妻を写す。講師をしている学校へ行き、カメラを見せびらかして、列車の車内の様子を映し出していく。何もない。何も起こらない。それなのに、私たちの日常がこれほど美しいものなのか、ということを鈴木さんはため息交じりに教えてくれる。
 十六ミリのモノクロのフィルムで写された神々しいまでの妻とその乳首を含む赤ん坊の姿はまだ十代だった私の記憶のなかの風景のひとつになった。
 今年還暦を迎える私はいまだに、この作品を年に一度は見直しているのだが、見ている私も作者である鈴木さんも現実の世界でどんどん老けているのに、フィルムに映っている鈴木さんや鈴木さんの家族は1975年当時から当たり前のことだがまったく老けない。それどころか、印象としては見る度に若くなっていく気がするのは、それもこちらが老けたから、というほかないのだろうけれど。ただ、不思議なことは『日没の印象』という映画を見つめている私自身の気持ちは初めてこの作品を見たときの十代の頃と何も変わらないのだ。鈴木さんの眼差しに触れ、その先にある様々なものを愛おしく思う気持ちは、見るごとに新しく沸き上がってくる感情で、決して以前の気持ちを思い出しているというものではない。
 そんなことを思いながら、今日、あの時の私と同じ十九歳の若い学生たちに『日没の印象』を見せると、彼ら彼女らの間から、「おもしろい」という声があがる。私はなんとなく、彼ら彼女らの中に、あの頃の自分がいるのではないか、という錯覚に陥る。

どうよう(2022.10.)

小沼純一

たよりのないのは
って いうじゃない
あってなくたって
こえきけなくたって
やりとりなくても
おもわなくても

たよりないのは
きがつくから
きになるから
きづかうから

たよりのないのは
って いうじゃない
はたらいてても
あそんでても
やすんでても
ねむってても

たよりないのは
きづくから
いないって
いなくなってるって

たよりくる
もうないよ 
こないよ 

たよってくる
もうないよ
もういないよ

たより
よこしたの
だあれ

あるいて あ
いきして い
うたって う
えみかえして え
おんぶして お
てんで てんで

あさって あ
いきんで い
うわごとで う
えずいて え
おえつして お
てんで てんで

あきらめて あ
いぶかしんで い
うみかえて う
えらびかねて え
おわらせたくて お
てんで てんで
てん

にてるかな
あのことこのこ
なにがどうしてにてるかな

にてるかな
めはなくちびる
どうてあし
みえはしないが
ぞうきもか

にてるかな
いしがおちたらとびのいて
ねこにてをふり
とかげにやなかお

にてるかな
たくさんたべて
みずすこし
すぐにねむって
かみのけくるくる

にてるかな
にてるかな
にてたからって
なんだろな

あれはひととききのまよい
ひとつのきせつついやして
みどりのかおりぜんしんに
みきつるえだにまみれつつ
ぼろぼろとかわをおとして

あれはひとときのまよい
しばらくつづいたもりのこい
あちらこちらにちょうまうように
うごかないきうごかないきぎ
たわむれて

あれはひととさまように
あこがれてはたされず
あしふみいれたたびさきの
まよいまぎれたひのことか

あれはひとときさまよった
わかかりしひのはくちゅうむ
にのうでにはえたわかめは
いちどだけ
なぜはちにうえかえなくて

やみやみなやみ
やみあがり

やみやみくやみ
ふだめくり

やみやみこやみ
あめあがり

やみやみはやみ
てりむくり

やみやみむやみ
まちめぐり

やみやみいやみ
さかあがり

うやむやごのみ
いちぬけた

デジタル紙芝居「アリババと40人の盗賊」ついに完成!か?

さとうまき

先月から取り掛かったデジタル紙芝居(*)、「アリババと40人の盗賊」が遂に先ほど完成した。サクサク仕上げようと思ったが結構な大作になってしまった。機転の利くモルジアナは、奴隷から解放されて自由になるためには殺人をもいとわない。盗賊の手下を38人殺し、最後には頭も殺してしまう。このモルジアナの成功物語に焦点を当ててみた。

奴隷と言えば、2014年にモスルを占領、支配したイスラム国のことをどうしても思い出す。彼らは奴隷制を復活させた。イラクからはヤジディ教徒の女性が性奴隷として連れ去られ売買された。キリスト教徒を迫害するために家の扉にはアラビア語の文字、ヌーンを描いた。当時、イスラム国から脱出できた女性たちの支援をやっていたので彼女たちの体験談を聞いていて、「ああ、なんとアリババの時代の話のようだ」と思っていたのだ。

人相の悪い盗賊たちの持つ旗は、アラビア語で「40人の盗賊」とか書いてイスラム国の旗のようにデザインした。イラクの子どもたちが描いた絵も背景に使わせてもらった。

このお話し、最後はモルジアナの手柄を、アリババが認めて、「奴隷解放宣言」をする。モルジアナは自由を求めて戦った英雄として子どもたちからも賞賛されるという結末になった。子どもたちがプラカードを持っている絵は、2002年、サダムフセインが100%の信任されて大統領に再選した時に子どもが描いた絵を使っている。
プラカードには、「シオニストにNO」「勝利をわれらに」「アメリカにNO」「Yes! 我らが偉大なリーダー」みたいなことが書いてあった。今回、アラビア語で「Yes. We can !」と書きかえた。

ちょっと終わり方が唐突なのだが、今の時代だからこそあえて自由を叫ばなければいけないし、アリババが盗んだ財宝を平和のために使ったことにして、この絶望的な物語をポジティブな未来に向けていわゆるSDGs的な方向性で終えてみた。

ともかく、この一か月ひたすら作画をした。費用対効果を考えて、うまくかけたらコピーして何度も使いまわしている。描くのがめんどくさいところはネットから写真をこっそり盗んだ。(ただし、あとで本人の了承を得ている)本来自分で描くより子どもたちの絵を使った方がおもしろいのだけども。ともかく、今晩Zoomで声優さん兼、楽団員とのリハ。団長からダメ出しのないように祈るのみだ。

*)デジタル紙芝居は、パワーポイントのアニメーション機能だけを使って台詞とアラブ音楽を背景にキャラクターを動かす。

というわけでいよいよ明日初演を迎えます。
皆さん是非来てください。

10月2日 14:00―
青猫書房にて(赤羽)
詳しくはこちら
https://www.facebook.com/events/2340757769405481

クール・ビズが終わる

篠原恒木

ようやく涼しくなってきた。
朝夕は随分と涼しくなり、秋の訪れを感じる毎日でございます。
暦の上では秋分も過ぎましたが、あなた変わりはないですか。日ごと寒さがつのります。
いや、まだつのってはいないな。いけない、手紙の書き出しから演歌の歌詞になってしまった。

おれはアヂアヂの日々が終わって涼しくなると、ホッとすることがある。
サラリーマンたちの「クール・ビズ」という格好を目にしなくなるのが、おれにとっては何よりの寿ぎなのだ。
あの「クール・ビズ」だけは許せない。真綿色したシクラメンほど清しいものはないが、間抜け面したクール・ビズほどダサいものはない。

クール・ビズはなぜあんなにダサいのか。その大きな理由はふたつある。

ひとつは、「普段着ているダサいビジネス・スーツのジャケットだけを脱いで、普段着ているビジネス用のシャツに締めていたタイを外しただけ」という格好の奴らが多いからだ。それでサマになる奴などほとんどいない。ジョージ・クルーニーでも難しいだろう。
だいたい奴らが普段着ているビジネス・スーツは体形に合っていない。ワン・サイズ大きいのだ。ワイシャツもそうだ。ブカブカではないか。ヨレヨレのスーツのジャケットだけを脱いで、ブカブカのワイシャツを露わにしてタイを外したら、見るも無残になるに決まっている。あんな格好が似合う場など皆無だ。いや、あった。勤めを終えて焼鳥屋でビールの大ジョッキをんぐんぐと飲み、ベロベロに酔っぱらいながらナンコツなどをコリコリと齧っている姿は、なんとなくあのスタイルに似合っているような気がする。コーディネートの仕上げとして、タイを鉢巻代わりに頭に結べば完璧だ。
ただでさえ貧相なブカブカのパンツとワイシャツだけで、クールになるはずがないではないか。おれは猛省を促したい。

もうひとつは余計なことをする奴らも多いからだ。
「普通のワイシャツだと、タイがないからアクセントに欠けるなあ」
とでも思っているのか、世にも奇妙なワイシャツを着ているヒトビトがいるのだ。次に挙げておこう。

・襟元などに黒い糸で謎のステッチが入っているような白地のワイシャツ。
これはダサい。どうか勘弁してほしい。まだある。

・白地のワイシャツなのにボタンが黒い。おまけにボタン・ホールまで黒い縁取りが施されている。
これも壊滅的にダサい。あのシケたお飾りには何の意味があるのだろう。タイの代わりのアクセントのつもりだろうか。だとしたらひどいアクセントだ。まだあるぞ。

・白地のワイシャツでボタンも白いが、そのボタンを縫い付けてある糸が黒い。したがって白いボタンには黒い糸で小さくバッテンが施されたようなデザインになっている。ここでも当然のようにそのボタン・ホールも黒い糸で縁取りがされている。
これも徹底的にいただけない。まだまだあるのだ。

・白地のワイシャツで首回りの裏側にだけチェックなどの生地が縫い付けてあるもの。
こうなるともうおれにはワケがわからない。ああいうシャツを作るほうも作るほうだが、着てしまうほうも罪が深いと思う。
このようなワイシャツを許してはいけない。
「タイがないと寂しいから」
と言うのなら、タイを締めなさい、タイを。キリがないくらいまだあるぞ。

・半袖のペラペラなワイシャツ。色は白、もしくはごく薄い水色。
ワイシャツが半袖というのはどうにもこうにも間抜けでいけない。ワイシャツは長袖と相場が決まっているのだ。強く抗議する。

ところが、せっかく長袖のワイシャツを着ていても、悲しいことに九十八パーセントのヒトビトが腕まくりをしている。この九十八パーセントは総務省統計局の調査によるものではない。シノハラ調べだ。問題はこの腕まくりだ。せっかくの長袖を腕まくりしたら、何のことはない、半袖になってしまうではないか。さらに問題なのは、腕まくりしているヒトのうち、七十九パーセントが肘のあたりまで派手にまくっているのだ。三回ほどロールしないとあんな位置までには達しない。おれは寛容なので、袖のボタンを外してワン・ロールまでは許すことにしているが、スリー・ロールして肘まで見せていると、何のための長袖シャツなのだと呆れてしまう。

とどめはリュック・サックだ。あの格好にリュックですよ、あーた。どういう神経をしているのだ。ジャン=リュック・ゴダールも草葉の陰で泣いているぞ。

「だって暑いんだもん。仕方ないでしょう」
とヒトは言うのだろうが、ファッションとはそもそもやせ我慢なのだ。「エフォートレス」などファッションではない。ミニ・スカートは座るとき緊張感を強いられるものだし、ハイ・ヒールは歩くのに骨が折れる。本当に転んで骨折するときだってある。シャツにタイをきちんと締めれば首が苦しいし、ジャケットのボタンを留めれば胸が窮屈で肩も凝る。でも、その「エフォート」こそがファッションなのだ。暑さくらい我慢しなさい。努力しなさい。水分補給しなさい。「エフォートレスで抜け感カジュアル」などという雑誌の見出しを見かけるが、あれは抜け感ではない。間抜け感だ。

「ノー・タイでワイシャツにパンツ」という「クール・ビズ」スタイルは、よほどカネをかけないと無理なのだ。服の話だけではない。体もシェイプして、ジャスト・サイズのシャツとパンツを身に着けるべきなのだ。それに対して異を唱えるなら、シャツにタイをして、暑くてもジャケットを我慢して着ていなさい。そのほうがまだ無難だから。

「じゃあおまえのクール・ビズはどんな塩梅なのだ。さぞやイケてるスタイルなんだろうな」
と問われれば、うなだれるしかない。そもそもおれはワイシャツなるものを二枚しか持っていない。しかし、開き直ることは可能だ。おれの格好は「ビズ」から大きく逸脱しているので何の問題もないのだ。会社勤めだが、夏はTシャツにデニム、もしくはイージー・パンツだ。どう考えても「ビズ」するような恰好ではない。カブトムシでも採りに行くようないでたちだ。ワイシャツにビジネス向きのパンツなど暑くてダサくて、とてもじゃないけど無理、無理。周りのニンゲンはこのおれのスタイルに眉をひそめているのだろうが、それはおれの知ったことではない。

だが、こんなおれでもスーツを着なければならないときが一年に二、三回ほどある。そのときのおれは一日中絶対にタイを緩めないし、ジャケットも着たままで決して脱がない。繰り返すがファッションはやせ我慢なのだ。したがってスーツを着た日はきまって肩が凝り、アタマまで痛くなる。帰宅するとすぐさまスーツを脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを外すのももどかしく、タイを放り投げ、ありえないほどの解放感に浸る。やせ我慢はつらいのだ。こんなものを毎日着ている人をおれは心から尊敬してやまない。

いまよりさらに涼しくなってきたら、みんなあの醜悪なクール・ビズをやめて、ひんやりする首元にタイを締め、スーツを着て通勤するのだろう。それはたいへん喜ばしいことだが、「スーツ姿でリュック」の問題は解決の兆しが見えないままだ。勝手にしやがれ。

スティーヴン・クレイン小詩集

管啓次郎

81
説明します、船が銀色の跡を残して通過するのを
失われたさびしい波がひとつひとつひろがり
鉄の船体が必死で進むブーンという音がしだいに小さくなり
男が別の男にむかって小さく叫び
いっそう灰色になった夜をひとつの影が落ちてゆき
小さな星が沈む。

それから荒れはてた、遠い水の荒野
黒い波のやわらかい笞打ちが
長く、さびしくつづく。

覚えておきなさい、おまえ、愛の船よ
おまえは遠い水の荒野を残してゆくのだ
そして黒い波のやわらかい笞打ちが
長く、さびしくつづく。

82
「私は白樺の日没の歌を聞いたよ
しずけさの中の白いメロディだ
私は松たちが言い争うのを見た。
夜になると
小さな草たちが私のそばを急いで過ぎた
風の男たちとともに。
私はそうやって生きてきた」と狂った男がいった、
「ただ両目と両耳しかもたずにね。
だが、きみは—
きみは薔薇を見るとき、まず緑色の眼鏡をかけるんだな」

83
騎士は馬を飛ばした—
拍車をかけ、熱く、汗まみれで
はやりたつ剣をふりかざしながら。
  「わが姫を救うために!」
騎士は馬を飛ばし
鞍から戦へと跳んだ。
鋼の男たちはちらちら動き、光を放ち
銀色の光の集団のようで
騎士の良き旗の金色は
いまも城壁の上ではためいて。

**********
一頭の馬が
あえぎ、よろめく、血まみれになって
城壁の下に忘れられ。
一頭の馬
城壁の下で死んでいる。

84
正直な男が歩いていった
そして風に自在に語りかけた—
あたりを見回すと遠い見知らぬ国だった。

正直な男が歩いていった
そして星に自在に語りかけた—
黄色い光が彼の目から視力を奪った。

「わが道化くんよ」と学識ある見物人がいった、
「きみのやることは狂っている」

「あんたはあまりに正直だ」と正直な男が大声でいった
そして彼の杖が学識ある見物人の頭を離れたとき
杖は二本に折れていた。

85
これが神だときみはいうのか?
いいかい、これは印刷された一覧表と、
燃えるろうそくと一頭のろばだよ。

86
砂漠で
月のもっとも深い谷からの沈黙。
火の明かりがフードをかぶった男たちの衣服に
斜めに降る、かれらはうずくまり黙っている。
かれらの前で、ひとりの女が
鋭い口笛に合わせて踊る
それと遠雷のような太鼓にも
一方、ゆっくりしたものたちが、くねくねと、のろまに
恐ろしい色彩をして
ねむたげに彼女の体を撫でたり
彼女の意志によって動いたりする、
シュッと音を立てながら、こそこそと、砂の上を。
蛇たちはそっとささやく。
そのささやき、ささやく蛇たち
夢見つつ体をゆらしじっと見ているのだが
いつもささやいている、そっとささやいている。
風は夜とともに厳粛になって、アラビアの
さびしい土地から流れてくる、
野火が血のようにちらちらする
フードをかぶったままうずくまり黙っている
男たちの衣服の上で。
動く青銅の一団、エメラルドの色、黄色、
彼女の咽喉と両腕をくるりと取り巻き
砂の上では蛇たちが用心深くゆっくりと
動く、脅かしつつも従順に
口笛と太鼓に合わせて体をゆらし、
ささやく、ささやく蛇たちは、
夢見て、体をゆらし、見つめ
しかしつねにささやいている、そっとささやいている。
呪われた者の威厳。
奴隷であることの栄誉、絶望、死は
ささやく蛇の踊りの中にある。

ベルヴィル日記(12)

福島亮

 ぐっと冷え込みはじめた。夜間は気温が10度を下回る。薄い掛け布団ではちょっと寒い。先月はトラヴァサックの暑さについて書いたのに、今度はパリの寒さについて書いている。秋だ。どんどん空が遠くなる。飛行機雲がその空を切り裂いてゆく。鋭角や直角、平行線を描く飛行機雲を見ていると、緯度と経度の見えない線が、この空に張り巡らされているのだと実感する。

 今年はプラムをあまり食べていない。ミラベルも、試してはみたが、手に入れたものはあまり良い出来ではなかった。かわりに1週間に1回くらいの割合で食べているのはサボテンの実だ。ウチワサボテンの実で、フランス語ではフィグ・ドゥ・バルバリー、つまり「野蛮人のイチジク」という。イタリア語では「インディアンのイチジク」というらしい。どちらもなんだか口にしにくい呼び名だ。イチジクに似た卵型の実の上と下を切り取り、かつらむきのように皮を剥がす。コツはケチらないことで、皮と実のあいだの剥がれやすい層を利用して皮を剝く。この層はほとんど味がなく、舌触りもヌルヌルしているから、棘の生えた表皮ごと剥ぎ取ってしまった方が美味しい。中には水っぽい果肉とケシの実のような種がたくさん入っているが、私は気にせず、噛まずに舌で果肉を味わってから飲んでしまう。実には緑や黄や赤のものがある。意外なことにもっとも香りがよくて美味しいのは緑の実だ。赤は大味であまり良くない。

 この「ベルヴィル日記」は、「日記」と題しているものの、実際には、たいてい月末に急いで書く。だが、いまこの文章を書いているのは月末ではなく、月の真ん中である。途中でやめて、しばらくしてからまた書き足したり、削ったりする。

 なぜ月の真ん中に書き始めたかというと、『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』を手元にあるだけすべて読むという作業に没頭しており、触発されたからである。両方とも、PDFにする際に一度通読している。だが、それは4年も前のことだ。通読してみて、随分と記憶が曖昧になっていたことに驚いた。

 過去の記事を読んでいると、ハッと胸を突かれることがある。たとえば、本橋成一さんの写真とコメントからなる「上野駅・サーカス・筑豊で会った人たち」(『水牛通信』Vol. 4 No. 5、2−23頁)。印象的だったのは、見開きで印刷された兄妹の写真だ。学生服の兄は、目を糸のように細くし、妹のほうは髪を風になびかせながら片目を閉じている。背景には田舎の風景。筑豊だという。頁をめくると、家の戸口に立つ四人家族。1965年頃撮られた写真だそうだ。あの兄妹と二人の両親だろう。父親のほうはまっすぐカメラを見つめ、少し緊張した面持ちだ。母親のほうはそんな夫を見て笑っている。悟平さん一家の写真である。写真を撮った本橋さんのコメントが付されている。

お父ちゃんはいつも〔息子の〕静夫をぶん殴る。でも静夫はお父ちゃんが大すきなんです。お父ちゃんは金がはいると焼酎をのんで、炭住の売店なんかで寝こんじゃうんですよ。それをこの兄弟が一所懸命につれもどすんだけど、なかなか家にはいらないでしょう。そのうちに長屋の人たちがあつまってくる。そうするとね、静夫は洗面器に水をいれてきて、「行けーッ、見るなッ!」と、それをぶっかけるわけです。(18頁)

 この写真が撮られた1965年頃は、筑豊炭田が次々と閉山する時期である。実際、悟平さんが働いていた山も閉山し、一家は生活保護で暮らしていた。引用したのは、少しずつ寂しくなってゆく筑豊の、温かいような、でも辛いような一場面だ。頁をめくる。お父ちゃんが大すきだった静夫は、もういない、と知る。中学卒業後、些細な事件を起こしたことをきっかけに収監され、その後、川崎で覚醒剤の売人になった静夫は、1980年の夏のある日、川崎の路上で首と腹を切って自殺したのだという。もしも静夫が生きていたら、いま還暦くらいだろうか。

 文章を読む。そして、何かを書く。時間などどうでも良くなる。だが、どこかで焦っている自分もいる。というか、ここ1、2年はずっとそうだった。畝を切るように文字を読み、地面を引っ掻くように文字を書きたい。そんなことを思いながら、デイヴィッド・グッドマンさんの「走る・その18」(『水牛通信』Vol. 9 No. 9)を読む。彼にとって「他人の言語」であるはずの日本語で執筆することについて、グッドマンさんはこう書いている。

他人の言語で文章を書くことは、試験を受けることではない。人を人から隔てている、深い傷口を癒すことである。自分と相手の間の距離を確認しつつ、それでもなお、あえて関係を作り、維持していく作業である。(『水牛通信』Vol. 9 No. 9、3頁)

 外国語で書くことは、「深い傷口を癒すこと」。私としては、「他人の言語」という部分を、もっとも親しんだつもりの言語、「私の言語」に置き換えてみたくなる。自分が話しているこの言語、時におざなりな気持ちで「母語」と呼んでしまうこの言語。そこに歪みや異物があることに、目を背けてきたことば。そのことばで書くことは、はたして深い傷口を癒しうるだろうか。

 9月25日、フランス在住の日本人画家H氏が逝去した。ある画廊で知り合ってから、ずっと連絡をとっていた。私の祖父くらいの年齢の友人、といったところだ。凱旋門からそう遠くないところにある小さな画廊でよく展覧会を開催していて、ヴェルニサージュに呼んでいただいたことも何度かある。また、一度は家に泊めていただいて、ワインを飲みながら夜遅くまでおしゃべりしたものだ。話好きの好々爺だった。私が群馬出身であることを伝えると、懐かしそうな顔をなさって(氏は半世紀以上フランスに住んでおり、こちらの生活の方が長いのだ)、若い頃、よく絵の具を買いに群馬の高崎に行ったという話をしてくれた。ここしばらくは身体の調子が悪いといってお会いすることもできなかった。頻繁にご入院なさっていたようだけれども、面会も叶わず、電話をしてもずっと留守だった。いつの間にか、H氏と私とのあいだに淵ができていて、もうこちらからは声が届かないような気がして怖かった。それは傷口というよりも、何かもっと深い穴だ。いつでも会えると思っていたのに、ふと、その穴が顔をのぞかせ、相手とのあいだにこえられない淵を作る。そんなことを思っている矢先の訃報だった。日本に帰る前に、小さな絵を一枚買おうと思っていた。でも、もうそれも叶わない。今は使っていない古い携帯電話の留守番メッセージには、まだH氏の声が残っているかもしれない。電話が起動するかわからないけれども、充電器に繋いでみようか。それとも、やめておこうか。

仙台ネイティブのつぶやき(75)大正7年、米騒動

西大立目祥子

 ある友人のことを考えているとその人から電話が入るとか、一つの事柄について考えていると関連することがつぎつぎ起こるというような…シンクロ現象があらわれることがたまにある。8月中旬過ぎから、私に迫ってきたのは大正7年の米騒動だった。

 8月17日、重いバッグを下げて外出から戻り、椅子の上にドサリと荷物を置いたところで携帯が鳴った。わぁ、めずらしい、中川先生からだ。先生は仙台で長く高校教諭をなさりながら郷土史研究に打ち込まれてきた方である。ご無沙汰をわびるあいさつがすむと、「ところで西大立目さん、確かおじいさんが手記を残されていましたよね」と切り出したので驚いた。重たいバッグの中身は、まさしくその祖父のノートからだったから。ある大学のゼミ生にたのまれて話をする必要があり、数年ぶりに本棚から取り出したところだった。

 祖父、嘉一が手記を残したことは、この原稿の39回目でも少し書いた。明治34年に旧仙台藩士の家に生まれた祖父は、還暦を過ぎたころ、思い立つところがあったのか、その半生をノートに書き始めた。そのころ私は小学3年か4年くらいで、夏休みや冬休みに訪ねるたび、本棚の下段に背の黒い分厚い大学ノートが1冊、また1冊と増えていくのを見ていた記憶がある。最終的にそれが何冊になったのかはわからないのだけれど、私が仙台のまちの歴史に興味を持つようになり聞き書きをやり始めた30代初めのころ、叔母が、あんたが読んだらおもしろいかも、と4冊だけ貸してくれた。

 まず前書きのような部分があり、海軍にいた父の勤務地の横須賀で生まれ、5歳のころに仙台に戻り、そこから幼年期の記憶が綴られていくのけれど、私は読み始めてすぐに没入してしまった。なじみのある町名や街角の、明治から大正にかけてのようすが記されていて風景までが見えるよう。ちょうど仙台が「森の都」(かつてはこう記したようだ)とよばれるようになった時代の、まだ街全体がほの暗く、生活に濃密な匂いや手触りがあったころの空気がこちらに流れ出してくるようだった。相当にクセがあって読みにくい祖父の筆跡に苦労したが、ノート1冊分だけはワープロで原稿を起こしたのだった。

 中川先生はこう続けた。「その中で、米騒動のことをお書きにはなっていませんか?大正7年です」そう、中川先生は仙台における米騒動研究の第一人者なのである。「米騒動…書いていますよ」と答えたとたん、先生の声が明るく大きくなった気がした。「おお、ありますか!」
 これまでも、全国の研究者が連携して会をつくり、先生も研究のために古道具屋をまわって米騒動の体験者の手記を探したり、体験者の家族の聞き取りをしてこられたそうだが、すでに100年が経過し、体験者の子ども世代も物故者となり、新たな資料もなかなか見つからないという。資料として役に立ててもらえるのなら、それはうれしいことだ。まずは、ノートとワープロ起こしの原稿のコピーをお送りして見ていただくことにした。

 中川先生は毎日ポストをのぞいては、届くのをいまかいまかと待たれていたようだ。意欲と気力にあふれる84歳研究者である。このところ郵便物の配達に軒並み日数がかかるようになってきたから、相当じりじりされていたに違いない。到着するとすぐにお電話をくださった。「これは貴重な資料で、これまでわからなかった部分も解明できそうですよ。どう使うか、全体になるかもしれないし、まずはありがとう」というお声はますます生き生きとしている。

 直後に、先生からお礼のご本が届いた。先生が入られている研究会の論文集で『米騒動 大戦後デモクラシー百周年論集ⅠⅡ』。山口、広島、神戸、静岡、秋田、仙台、北九州…全国で起きた米騒動を各地の研究者が論じていて、編者は米騒動・大戦後デモクラシー研究会をとりまとめている井本三夫氏。大正時代の米騒動は、米価高騰に怒りを募らせた富山の女たちが行動を起こしたのが始まりといわれてきたが、それ以前に北九州から広島にかけての都市部で消費者たちが運動を起こし全国へと広まっていったことを明らかにした方らしい。

 中川先生が書かれた仙台における米騒動のページを開き読み始め、何気なくテレビをつけたら、NHKの番組「歴史探偵」のテーマはなんと「米騒動」。見ていたら二度びっくり、画面にこの井本先生が現れたではないか。シンクロの連続。米騒動に導かれていくようだ。テレビまでもが米騒動をテーマに掲げるのは、100年前のこの時代と現在が相似形であるからだろう。戦争が起こり、物価が上がり、社会が富める者と貧困者に分断されていく…。それにしても驚かされるのは、当時の人々が結集し、行動していくありさまだ。

 仙台の米騒動は、大正7年(1918)8月15・16・17日の3日間続いた。盆の休みで、賃労働者が動きやすいときをねらってデモは起こされたのかもしれない。祖父は最終日の夜8時頃に家を出て、米騒動の群衆に合流し、その行動の一部始終を見ていたようだ。ノートには、どこへ行ったらわからないが街の方へ行けばいいだろうと仙台駅へ向かうと、いつのまにか一帯を埋め尽くす大群衆ができていたと記されている。そして、大群衆を取り囲む野次馬の一人となって行動をともにしながら、群衆のリーダーは誰なのかを先頭まで駆け抜けて確かめ、その名前まで書き残している。群衆はまるで訓練されたように動き、米屋に押し寄せると主人を呼び出し、何俵の米をいつ、いくらで放出するかを紙に書かせ、店に張り出しては歓喜の声を上げた。また火を放った悪徳高利貸しの家が炎に包まれていくようすを、周りの家や塀に登り高いところから眺めていた。消防もこなければ半鐘も鳴らない、これほど静かな火事を見たことはないと回想している。

 結局、軍隊が出て騒動は鎮圧され、首謀者たちは裁判にかけられたらしいが、誰もが悪びれることなくこれは生活を守るための当然の行為だったと主張していたというところに、大正時代の人々の自由で開放的な感覚や権利意識が現れているようで、どこか清々しい気分にさせられる。祖父は、相当な貧苦の中で少年時代を過ごした人なのだけれど、洒脱でじぶんをどこか突き放すように見る人だった。それはこうした時代がつくったところもあるのだろう。

 というわけで、自発力が弱い私は、まわりから押し寄せてくるものに反応し触発されて、あらたな取り付く先を見出してきたので、目下のところ、米騒動、大正時代に引っ張られている。そして、30年かかえてきたこの祖父が残したノートを、仙台の明治、大正の暮らしの記録として何とか日の目を見させなければとあらためて思う。

鎌鼬の里芸術祭

笠井瑞丈

鎌鼬の里芸術祭
今年笠井叡が出演する事になり
よかったら一緒に行かないかと

こんな機会でもないと
行く事もないと思い
同行する事にした

場所は秋田
羽後町にある鎌鼬美術館

そして出発直前主催者から
せっかく来るなら踊ってくださいという事で
急遽踊らせていただける事にもなりました
とてもありがたいお言葉だ

秋田は土方巽 石井漠の出身地であり
日本の舞踊の源流が流れている場所
細江英公が土方巽の写真を撮った場所
後にあの有名な写真集『鎌鼬』が出される

そして今回この旅に母と長男爾示
なおかさんも同行する事になった

母は今年四月に急にカラダが悪くなり
歩くのも困難な状況になってしまいましたが
そこから日々リハビリに励み
自力歩行が出来るまでに回復しました
なのでこの旅を一番楽しみにしていました
この旅のため日々体調管理に注意していました

今回は飛行機で行く事になり
なるべく母に負担のかからないよう
羽田空港の駐車場を三日間借り
車で羽田空港まで向かいました

空港で長男爾示と合流し
車椅子を用意をしてもらい
五人で秋田までフライト

空港に現地スタッフが迎えにきてくれ
まず鎌鼬美術館に下見に行きました

スタッフからここが土方が踊った畑
ここがあの有名な写真を撮られた所

翌日11時笠井叡が土方巽が踊った同じ畑で踊る
これは『鎌鼬の里芸術祭』とは関係なく踊った

きっと

本人には抑えきれない
動機があったのだろう

土砂降りの雨の中
この噂を聞きつけた
多くの関係者が観に来た

そして踊りが始まった
そして爾示がシャッターを切る

土から湧き上がる力
土にカラダを打ちつけ
土のようにカラダを捏ね

土の方へ

大地に捧げる踊り

改めてここに舞踏の源流が流れているんだと感じた

土方巽の踊を私は見た事はない
文献で読んだり聞いただけだ
だから土方巽は自分にとっては
正直あまりリアルではなかった

でも今回

この土地に触れ
この空気を吸い
この匂いを嗅ぎ

新しいカラダの景色を発見した

夕方私の出番となりました
美術館の前にある仮設舞台
花粉革命の抜粋を踊った

10月韓国で久しぶりに花粉革命を踊る
その前にここで踊れてとてもよかった

ずっと欲しかった写真集『鎌鼬』を手に入れた

大満足の旅だった

『アフリカ』を続けて(16)

下窪俊哉

 2013年1月26日の夜、横浜の古書店で初めてトーク・イベント(というより語り合いの会)を開いた。ゲストの淘山竜子さん(『孤帆』編集人)と一緒に、その日のために小冊子をつくった話まで前回、書いた。
 その小冊子、自分は何を書いたのかというと、「突然、出てきたものだった〜『アフリカ』前史」と題された文章で、『アフリカ』を始めるまでにどんな場、どんな本や雑誌にかかわって、どんなものをつくっていたかという話だった。
 読み返してみると、自分の原稿を発表する場ということなら、このような雑誌をつくることはなかっただろうというふうなことを言っている。

 ぼく自身は良い書き手である前に良い読み手であろう、と思った。自分が読みたいものをつくればよいのだ。
 けれど、自分の読みたいものって、何だろう?

 その気持ちというか、試行錯誤は一貫して今に至るまで続いている。つまり「この人に書いてもらおう」と思える人がいつもいるということ? そうだね、と即答できる。

 その時の語り合いの記録が、『アフリカ』vol.20(2013年7月号)に載っている。当日、会場に集まったのは7、8人で、自分たちも入れると10人くらいだったかな。古い木製のテーブルを囲んで、2、3時間。そのテーブルには、『孤帆』と『アフリカ』だけでなく、様々な個人誌、同人雑誌、リトルプレス、etc.がところ狭しと並べられていた。淘山さんにも頼んで、手元にあるものを持てるだけ持ってきてもらっていた。
 淘山さんによると(少なくともその頃までの)『孤帆』は「仲間内で合評会をやるための紙媒体」なのだということだった。合評会、つまりお互いの書いたものを読んで、批評し合うためのもの。しかも顔を突き合わせてやるのではなくてメールで、長い時には1ヶ月くらいかけてやるのだという話が面白かった。
 私も以前、そのような場や雑誌に参加していたことがあるのでよくわかった。しかし『アフリカ』では一切やらなくなってしまったのだ。なぜ止めたのか忘れたが、意識して止めたのは確かだ。批評したければ、したくなった人が自分で場を設けてやればよいと考えたのだろうか。そこまでは考えていなかったような気がする。
 そうすると、どうなるかというと、『アフリカ』に書くだけでは何の反応も得られないということが自然と起こる(編集者とは長いメールのやりとりがあるとしても)。
 それは、それでよいのだ、と思った。それでも書く人は書き続けるだろう。厳しいような話だけど。それに自らが反応している人には、何かしらの反応が返ってくるだろうし、感じられるだろう。何も作品を褒められるだけが「読み」ではないのだし。
 とはいえ「合評会をやるための紙媒体」への懐かしさもないわけではなかったが、淘山さんはその時、そういうのは「もう古いのかもしれません」と言っている。

 そもそも編集を担う人がいない。いま、自分のお金と時間をかけて文芸雑誌をつくろうなんて人はそういないし、若い人は賞レースだし。

 そんなことを言うと、我々がすごく年配の人みたいに感じられてくるかもしれないが、ふたりとも当時、30代前半。「若い人」というのには、自分たちの年代も入っていたんだろう。賞レース、新人賞ですね、と応えると、こう返ってきた。

 そうです。その一方で、紙媒体で個人的な発信をする人たちが注目されてもいて。文芸雑誌であれをやりたいという気持ちがあるんです。

 その流れで、目の前のテーブルに並べられたものたちが話に入ってきてくれる。
 ミニコミと呼ばれる媒体は以前からたくさん見ていたので、自分には特に新しいという気はしなかったが、その時「ZINE」ということばが出てきた。
 私はいちおう蘊蓄を仕入れてきており、アメリカの西海岸でスケーターが言い出したとか、自宅のプリンタで刷ってホッチキスでとめたような簡素なものが多くて、本当に個人的な媒体が多いんじゃないか、などという話を参加者も交えてしている。「ZINE」という呼称を言い出した人たちが実際にどんなものをつくっていたのかは知らないので、まあいい加減な話ではあったけれど(ZINEというのは、MAGAZINEのZINEだろうから、日本で言うところの雑誌? と思うけれど、調べてみたら語源はアラビア語のMAKHAZINで、倉庫という意味らしい。面白いような気がするけれど、不勉強でこれ以上は書けない)。
 そういった私の想像上の「ZINE」から思い出されたのは、『VIKING』創刊号を実際に見た時の話で、それはこの「『アフリカ』を続けて」の初回に書いた。
 ミニコミやリトルプレスということばは、意味がはっきりしすぎていて、あからさまなような気もする。それに比べZINEは、ちょっと謎めいたところがあって、今の時代には合っているのかもしれない。
 しかし私は『アフリカ』をZINEとは呼ばない。
 私が話に聞いて想像した「ZINE」の姿と、いまそう呼ばれている媒体との間には多少の落差があるし、『アフリカ』がその想像に近いかというとそうでもないような気がする。
 ところで、その時のイベントを私は「“いま、プライベート・プレスをつくる”ということ」と題していた。

 片岡義男に『個人的な雑誌』という文庫本があって、ずっと手元に置いている。『個人的な雑誌1』と『個人的な雑誌2』があるのだけれど、「1」のあとがきで片岡さんはこう書いている。

 これまでどおり、活字だけによる本を作ってもよかったのだが、なにか新しい工夫をしてみたい、という思いがあり、その思いを具体的にしていく途上で、『個人的な雑誌』というタイトルによる、雑誌のようなエッセイ集を作ったら面白いのではないかと、ぼくは思うにいたった。ぼくは、角川文庫のなかに、ぼくひとりだけの雑誌を持ってしまうのだ。これがその第一号だ。今回はぼくひとりで作ったけれど、これからは多くの素晴らしい人たちに参加してもらう予定でいる。さまざまな興味深い試みのショーケースのようにしてみたい、という気持ちがいまのぼくには強くある。

 その「さまざまな興味深い試みのショーケース」ということばに若い私はやられた。よーし、自分もやってみよう、と思ったわけだ。なので、それを思い出せば、「“いま、個人的な雑誌をつくる”ということ」でよかった。その方がわかりやすかったのかもしれないが、「雑誌」に限定したくなかったのかもしれない。
「プライベート・プレス」ということばは、おそらく小野二郎さんの本に出てきて知った。ウィリアム・モリスが彼の工房でつくり、売る本のことをそう呼んだのではなかったか。そうなると「ZINE」のイメージからはかけ離れてしまうような気もするが、でも、いいんだ。今回はどうしてもその本が見つからなかったので、この話の続きは、また。

アジアのごはん(114)ラオス・ルアンパバーンのごはんと新型コロナ

森下ヒバリ

2年半ぶりにタイでひと月過ごし、8月中旬にバンコクからラオスの古都ルアンパバーンに飛んだ。ラオスも7月から入国規制を緩和し、行きやすくなった。ワクチン接種証明か陰性証明で入国でき、隔離・アプリ登録などは一切なし。しかも陰性証明はATK抗原検査でよいので、費用も安い。

バンコクで散歩をしているときに、近所のキングモックット病院の敷地内にPCR検査・ATK検査のブースを見つけた。陸軍病院感染症研究所の出張所らしい。抗原検査は300バーツ、1200円ぐらい。ちなみに日本を出るときのPCR検査は1万5000円だった。20分ぐらいで結果が出る。証明書が出るかと尋ねると、ちゃんと見本(誰かの検査証明の要らないもの)を見せてくれた。「これ持っていってもいい?」と聞くと、「いいよ~」と名前とID番号をマジックでちゃちゃっと消して(透けて読めますけど)渡してくれた。

証明書はちゃんと必要事項がそろっていて、ラオス入国は病院や検査書の証明書であればいいので、まったく問題ない。フライトの前日に検査を受けて陰性証明をもらった。

1週間前まで席がガラガラだったので、フライトキャンセルになったらどうしようと心配していたのに、乗ってみると満席に近い。ルアンパバーンに近づくと飛行機は緑の山々とメコン河の上をすれすれに飛び、とても美しい眺めを楽しめる。ちょっとコワイけど。あまり平地がないのでこうなるのだが、問題なく着陸。雨期のルアンパバーンは緑に包まれ、なんとも美しい。タラップから降りただけで、景色に癒されふーっと深呼吸してしまった。

荷物を受け取って小さなロビーに出ると、誰もマスクをしていない。日本人よりマスクに厳しいと思うほどのバンコクから来たので、ちょっと驚いた。町に着いて宿に入っても店に入っても通りを歩いてもやはり誰もマスクはしていない。あ、している人がいたと思うとタイからの観光客だった。隣の国なのに、ものすごいギャップである。ルアンパバーンは人口が少なく人が密集する場所がほとんどないのだから、まあマスクは要らないよね。

ルアンパバーンのメインストリートはあまり観光客もおらず、閑散としていた。すぐにRENTやSALEの看板が目に付く。この2年半コロナ禍で観光客は途絶え、土産物屋やレストラン、ゲストハウスがいくつも廃業し売りに出されているのだった。お気に入りだったレストランのココナツガーデンも廃墟のようになっていた。バンコクでも店が閉まったり、休業したりはしていたが、ルアンパバーンの観光客エリアはその比ではなかった。

町を散歩しているうちに、行きつけにしていた店はほとんど営業していることが分かったので少し安心する。フランスパンの美味しいカフェ・バントン、ラオスの米麺カオソーイの名店、ナンおばちゃん食堂、川べりのレストラン・・。

よし、今日はナンおばちゃんの食堂であんかけ麺を食べるぞ。ここのメニューにはフー・クア(炒め麺)としか書いていないが、出てくる料理は炒めた麺の上に野菜と肉の入ったとろっとしたあんがかかったもの。タイではラートナーと呼ぶ。ルアンパバーンのラートナーはタイや中国のあんかけ麺とはちょっと違う。麺は幅広米麺のセンヤイを使い、麺を炒めるのでなく多めの油で半分揚げ焼きにしてあるのだ。

「あれ、なんか麺がカリカリしてる・・こっちはもちもち!おいしいい!」初めてナンおばちゃんの店でラートナーを食べたときは、炒めすぎてうっかりカリカリにしてしまったのかと一瞬思ったが、意図的にカリカリもちもちに仕上げているのだった。ナンおばちゃんが作るところを見ていたら、スキレットみたいな鉄鍋に油が入っていて、そこに茹で麺をじゅんっと入れて揚げ焼きしていた。センヤイは麺が平べったいので、カリもちに出来るのだろう。ちなみに幅広麺のセンヤイを使った汁麺はラオスで見たことがない。

ラートナーを味わいながら、店の外を眺めていると、バイクで持ち帰りの注文がしょっちゅう来ている。フードパンダのロゴをつけたバイクもある。デリバリーサービスがすっかり根付いているようであった。「この2年間大変だったけど、最近はお客も増えてきたから何とかね」ナンおばちゃんはニコッと笑ってそう言う。この店は地元客が多いし、安くておいしいから何とかなったのだろうな。お店が健在でまたおいしいラートナーが食べられてうれしかった。

中国の援助で去年の12月にラオス高速鉄道が開業した。中国の雲南省からラオス北部の国境ボーテンを経てルアンパバーンを通り、首都ビエンチャンまでつながっている。しかし中国の新型コロナ対策の厳しい出入国制限のため、まだ中国との国際列車は貨物以外走っていない。タイ側ともまだつながっていないが、将来的にはメコン川の対岸タイのノンカイとつなげて、中国からタイのバンコクまで鉄道をつなげる計画である。

これは中国の野望なのだが、まさか本当にラオスに新幹線を通すとは思ってもみなかった。4~5年前にラオス北部を移動しているときに巨大な新幹線の絵の看板をあちらこちらで見て、実際に山の中をトンネル工事しているとは知っていたが、まさか日本の本州とほぼ同じ面積に人口733万人のほとんど森林山岳地帯のこの国に? 狙いはラオスでなく、タイのバンコクまで鉄道を走らせることだ。タイの鉄道建設が中国の野望通りにはなかなか進まないので、中国政府もさぞやイラついていることだろう。

費用は中国が3分の2を負担し、残りはラオスが負担しているがそれも中国からの借款である。お金が返せない場合は営業権を中国が持つ、というのが約束らしい。しかし、どう考えてもラオス国内の需要はあまりないし、採算がとれるとも思えない。・・と、思われていたのだがラオス高速鉄道はまだ中国とつながっておらず、中国からの観光客もほぼ来ていないのに、毎日満員だという。とくに週末やタイの連休は増便しても需要に追い付かない。タイの連休・・そう、乗っているのはほとんどタイ人観光客なのだった。

タイにいるときには「ラオス新幹線かあ、ルアンパバーンからビエンチャンまで乗ってみようかな」と考えていた。しかし、このタイ人観光客の熱狂ぶりを見ているとチケットも取るのが大変そうだ。しかも駅は市街地から30キロも離れたところにあるという。何か面倒くさくなり、ルアンパバーンとバンコクの飛行機往復にしてしまった。鉄道は好きだが、正直言って新幹線はとくに乗りたいわけでもないしね。

とりあえず、ルアンパバーンの観光業は週末のタイ人観光客でなんとか持ちこたえているようであった。2週間の滞在期間中に、少しずつタイ人以外の観光客も増えてきた。で、ラオスの新型コロナ感染状況はどうなのかというと、感触だが日本やタイと同じくけっこう流行っている模様。タイもラオスも届け出義務とかはないし、病院でPCR検査を受けて判明した人数だけを発表するシステムなので、タイでは1日2000人程度と発表されているが、まあざっと1日2~5万人はいるだろう。

タイではATK抗原検査キットを薬局やスーパーなどで手軽に買えるので、熱が出るとその辺のお店でキットを買ってきて自分でチェックする。それが陽性でも、よほどのことがない限り病院には行かずに家で寝ている人がほとんどのようだ。ラオスでは、タイほど抗原検査キットを売っていないので、熱が出ても検査はせずに寝ているだけと思われる。病院もとても少ないし。軽症で済むオミクロン株は、タイやラオスでは現実的にもうインフルエンザなみに扱われているのだった。

製本かい摘みましては(176)

四釜裕子

「詩繍(ししゅう)」とか「切詩(きりし)」とか名付けたシリーズの詩を数年前から作っている。表裏、表裏、冊子の中の4ページを舞台に、ページに針を刺したり、なんらかの切れ込みを入れて組んだり編んだり折りたたんだりして完成させる。文字や記号でそれらの動作を予想させるところまで印刷し、あとは読み手が仕上げるという塩梅だが、なかなかうまくいかない。

きっかけは、これまで雑誌の広告ページをあまりにも無残に破り捨ててきた自分への贖罪だ。例えば中身が半分以下になった古い古いアンアン。好きなページを切ってとってあるのではなくて、嫌いなページを破り取って残してあるのがわかるのは、表紙がそのままで中綴じのホチキスが残っているから。学校帰りに駅ビルの本屋で買って、全車両がボックスシートの汽車(本当はディーゼル車だけど)に座って30分、まずは後ろ半分にたっぷりある広告ページを破ってから読んだものだ。無線綴じのマリ・クレールなんかもまずは乱暴に広告ページを破き、ノドに残った端っこをちまちま外してから読んでいた。ろくに見もせず、なぜあんなに広告ページを嫌ったのか。それにしても破り方が乱暴すぎる。

古い雑誌をまとめて処分するときにこれらを見つけ、深く反省し、「詩繍」とか「切詩」なるフォーマットを考え自分に課した。こちらの目論見どおりにおもしろがってページを切ったり縫ったりして読んでくれる人がいたらいいなと思うけど、そんなことにつきあってまで読んでくれる人はほぼいない。よもやそんなことをしたら古本屋も買ってくれないし、そもそも冊子のページを切るとか破るとかいうのが憚られる人が多いだろうし、なによりこれはまだ自分でもふっきれていないところなんだけど、他のページの作者や発行者への後ろめたさがある。虚しさ、寂しさ、後ろめたさ……これらに、耐えねばならぬ。あまりにも傲慢に破り捨ててきた大量の紙片のいたみを、いまこそ我が身に受けるのだ。

アトリエ空中線の間奈美子さんがウェブマガジン「The Graphic Design Review」に寄せた『出来事としての「詩」と「デザイン」』(https://gdr.jagda.or.jp/articles/57/)を読んだ。間さんは自身のSNSにこう書いている。〈出来事としての/出来事を生み出す書物設計について書きました。(中略)主体やセオリーによる統御より時どきの「出来事」からできる本の魅力があるのではないかと考えています。それは、多く制作した詩書とともに、「詩」といわれるものについても同様に思われてきたことですが、あらためて本とひとつの机上に並べて考える機会となりました〉。

私にしてみれば、かつて池袋西武のぽえむ・ぱろうるで、間さんが未生響/空中線書局名義で出していた作品集に出会ったことが一つの大きな出来事だった。西武のコミカレで栃折久美子ルリユール工房に通っていたころで、自分のホームページ作りに夢中だった時期でもある。〈空中線書局の本を手にすると(わたしもこんな本を作ってみたい)と思ってしまう。そんな気持ちが一体どこにあったというのか、本人も知らない「どこか」で響く光を与えてしまうこのアトリエの仕事をご覧いただきたい〉などと、嬉々として書き込んでいた。

そのころ間さんから、八百屋だったかでもらった紙にピンときてそのルーツを延々たどり、資材として確保して、印刷に苦心し、作品集を実現させた話など聞いた。「The Graphic Design Review」の記事ではいくつか自身の作品の成り立ちにも触れていて、当時のあの心意気が一向に変わらぬまま、間さんはたくさんの出来事を重ねてこられたんだなと感じ入る。記事のリードをいま一度読む。〈コンテンツはなにがしかのフォームとともにひとつの出来事として同時に現れ出るものではないだろうか〉。このフレーズに、「切詩」の新作にこれまた反応のない虚しさに耐える気力を、まこと勝手ながらもらう。

215 真珠貝の浦

藤井貞和

「われ、若くして東西を知らず、
芸能を見る目、またくなかりき。
詩とドキュメンタリー、思潮社の一冊、
不意に手にして、乾武俊を知れり、昔日。

黒い翁、歳月をへだてて、
ふたたび、わがまえに、天の雫か、
地湧(じゆう)の声か、
詩の人、思いを伝えて今日に到る。

山本ひろ子、何びとぞ、くどきの系譜を、
コピーに作りて、われに呉れたり。
山本ひろ子、真珠貝の湾に、
三月二日より、フォーラムをひらくと。

木村屋の座に集う、若きら、若からぬらに、
伝えん意志の仮面よ、舞え、新作、
カイナゾ申しに参りたり。 黒い媼の、
花開きうらうら、和歌の浦々。」

(二〇一三年三月の、しかも文語詩は私のおそらく唯一だろう。再度の入院先から、和歌の浦でのイベント〈仮面フォーラム〉の開催を言祝(ことほ)いで、参加の代わりにメールで寄せた、「真珠貝の浦に成功を祈ってる」と。翁劇「カイナゾ申しに参りたり」は、九十二歳の乾武俊の新作。企画の山本ひろ子の提題は「芸能と仮面の向こうがわへ」と言う。『詩とドキュメンタリー』〈思潮社、一九六二〉は半世紀まえの乾さんの詩論書で、なぜか私は持っている。「くどきの系譜」は大阪文学学校の文芸誌に乾さんが連載していた評論。『黒い翁』(解放出版社、一九九九)は立ち読みして手放せず、五千円という高価ながら買い求めて、こんな本が出てるよ、と私は山本さんに告げた。これがすべての始まりとなる。白い翁の古層に三番叟〈黒い翁〉を見るというのは、芸能史の起点となるだろう。今回は忘れていた旧作。)

水牛的読書日記 2022年9月

アサノタカオ

9月某日 まったくうんざりさせられるニュースだ。東京五輪をめぐる汚職事件で、大会組織委員会理事だった高橋治之容疑者が、出版社のKADOKAWAが大会スポンサーに選定されるよう組織委に口利きした疑いが発覚。その後、高橋容疑者はKADOKAWAから賄賂を受け取った容疑で再逮捕、KADOKAWAの角川歴彦会長や関係者も逮捕された。

出版業界の末席にいるものとして、知らぬふりをすることはできない。出版や言論やアートの世界で、「五輪」に尻尾をふったものたちは誰か。厳しく注視していきたい。

9月某日 亡くなった詩人でトランジスター・プレス主宰の佐藤由美子さんの部屋を訪問。病床で読み続けたという『敷石のパリ』(トランジスター・プレス)。佐藤さんの詩も収められていて、元気な頃は各地への旅に持ち歩き、朗読することもあったという。ペーパーバックの表紙には無数のスレ、シミがあり、角は折れている。ぼろぼろになったちいさな詩集と対面して、「本を読むって、こういうことだ」と心の底から思った。

《私のような一人出版が、これからしていかなければいけないのは……そのイメージを地図にして、見えない共和国を探っていくこと》。そんな言葉を残して旅立った佐藤さんは生前、自分が編集した大原治雄写真集『ブラジルの光、家族の風景』(サウダージ・ブックス)を大切に読んでくれたらしい。偏愛するロバート・フランクの写真集とともに。

ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグら、アメリカ発のビート・ジェネレーションの作家や詩人の精神を継承する佐藤さんの部屋には、ニューヨークで撮影した晩年のハーバート・ハンキーの写真が飾ってあった。

9月某日 沖縄の詩人・高良勉さんから、メールで沖縄県知事選挙の結果報告。米軍普天間基地の辺野古移設反対を訴える現職の玉城デニー氏の再選。胸をなでおろして、久しぶりに勉さんの詩集『群島へ』(思潮社)を棚から取り出す。

9月某日 東京・渋谷のギャラリー zakura で、宮脇慎太郎写真展「RIASLAND」を鑑賞。四国・宇和海の風景と人間をテーマにした写真集『UWAKAI』(サウダージ・ブックス)刊行記念の展示。徳島の和紙製造メーカー・アワガミファクトリーの用紙に印刷されたオリジナルプリント。写真作品が表現するおぼろげな光に感心した。

9月某日 個展のために香川から東京にやってきた宮脇慎太郎とともに、神奈川県立近代美術館葉山へ。アメリカの写真家アレック・ソスの展示「Gathered Leaves」がすばらしい。ミネアポリスからミシシッピ河を南下するロードムービー的な連作「Sleeping by Mississippi」がとくに。ある写真には、ノートの切れ端に書き付けられたアレン・ギンズバーグの詩の一節が写り込んでいた。図録を買いそびれたし、もう一度観に行こう。

美術館訪問のあとは、葉山・一色海岸の浜辺で寝転がって夕日を眺めた。なんだか、すべてが気持ちいい。

9月某日 大学での授業の後、東京・分倍河原駅前のマルジナリア書店へ。フォトグラファー疋田千里さんの作品のポストカードを購入。疋田さんの旅の写真はどれも暮らしの時間の厚みを感じさせるもの。ポストカードの古紙再生紙の感触もよい。

お店では夜の街灯りを眺めながらおいしいコーヒーをいただき、フリーの冊子「マルジナリア通信」を読む。「毛玉から南極へ」というショートショートの小説が心に残った。作者は、お店のオーナーの小林えみさん。

9月某日 雨。昼過ぎの羽田空港、JALのカウンター前に大勢の旅客が長蛇の列をなしている。前日関東に上陸した超大型台風のせいで羽田発の多くの便が欠航し、足止めを食らった人たちだ。自分が予約していた飛行機は無事に飛び立ち、とかち帯広空港へ。何年ぶりだろうか。北海道に降り立つと秋めいた曇り空、やはり東京よりもずっと寒い。空港から車に乗り込み、広大な農村地帯や森林地帯をぬけて取材地へ向かう。人気のない十勝・豊頃の海沿いの丘を歩いていると、夕方、雲の間から光が出てきた。

9月某日 北海道への旅の2日目のお昼、帯広の有名店「インディアンカレー」へ案内される。「これ、十勝のソウルフードなんですよ」と。前夜は「鳥せい」で山盛りのから揚げと炭火焼きをご馳走していただいたのだが、やはり「ソウルフードなんですよ」と。豚丼の有名店の前を通りがかり、「ソウルフードなんですよ」と。つまり農と食の王国・十勝ではすべてがソウルフードということか。

ちなみにこの食べ歩きルートは、当地在住の小説家・河﨑秋子さんが文芸誌『すばる』2022年4月号で紹介していたいわば鉄板ルート。今回の旅をきっかけにして河﨑さんの小説を読んでみたいし、途中で挫折した上西晴治の長編『十勝平野』(筑摩書房)にも再度チャレンジしたい。

9月某日 旅から戻り、河﨑秋子さん『颶風の王』(KADOKAWA)を読む。北海道開拓民の家族史、過酷な自然を生き抜きながらも歴史の波に翻弄される人間と馬たち。荒ぶる北方の野の世界の描写に圧倒されたが、河﨑さんは元羊飼いとのことで納得。読み応えのある小説だった。今後、農と食と地域をテーマにした文学を探して読んでいきたいと考えている。

9月某日 精神科の医師でトラウマ研究の第一人者・宮地尚子さんの『傷を愛せるか』(ちくま文庫)が届く。大月書店の旧版単行本を愛読してきたので、増補新版での文庫化というのがうれしい。

9月某日 連休の3日間でK-POPのMVを150本ほど鑑賞。正しく「沼落ち」したということだろう。おおむね東方神起以降、(基本的にNCT127など男性グループのファンであるため)普段は嗜まない女性グループのTWICEや宇宙少女のMVなどもまとめてみると、逆に自分の「Kぽ愛」の傾向がクリアになってきた。そして、「案外こういうのが好きなのか……」と自分で気付かなかった自分の一面を発見して驚いている。

2020年デビューの韓国のガールズ・バンド、Rolling Quartzの MVを見て、「うわあ、ほんとに歌ってる!」と思わず声を上げてしまった。金素月(1902〜1934)の詩「つつじの花」をハードロックで絶唱するとは……、なんともシブい。YouTubeの動画に日本語字幕をつけ、『キム・ソウォル(金素月)詩集』(林陽子訳、書肆青樹社)を手元に視聴。Rolling Quartzについては、言語学者・野間秀樹先生のご教示による。

9月某日 宮内喜美子さんの詩文集『わたしたちのたいせつなあの島へ――菅原克己からの宿題』(七月堂)が、小野十三郎賞詩評論書部門特別奨励賞を受賞とのこと、おめでとうございます。

9月某日 大学の授業でメディア論の話もしているので、マーシャル・マクルーハンの主著を再読。『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳、みすず書房)や『メディア論』(栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房)など。「メディアはメッセージ/マッサージである」という名言の意味するところぐらいは知っておいてほしいと考えて。ところで30名ほどの学生には、宿題で好きな本の書評を書いてもらった。いまどきの文系大学生の読書傾向が見えてきておもしろかったし、読んだことのないたくさんの本を知ることができてよかった。

授業の後は、恒例となりつつあるマルジナリア書店へ寄り道。温又柔編・解説『李良枝セレクション』(白水社)を購入。作家の温さんが厳選した李良枝の小説とエッセイの並びが完璧すぎる。美しい装丁の本。

お店ではフランスとウクライナへの旅から帰国した写真家・渋谷敦志さんと待ち合わせ、久しぶりに語り合った。ロシアによる侵攻後のウクライナ社会の空気感について、キーウ、ハリコフ、ブチャなどの町々で出会った人たちの声について、そして今後の写真活動について。渋谷さんのことばのひとつひとつが、重い。その重みをしっかり受け止めたい。

9月某日 渋谷敦志さんの新著『僕らが学校に行く理由』(ポプラ社)を読む。世界各地の紛争や貧困の渦中にいながら学びを求める子どもたちの姿を記録した児童向けのノンフィクション。カラー写真も満載で、とてもよい内容。大人が読んだっていい。この本と『李良枝セレクション』の2冊を来週、大学の授業で学生たちに紹介しよう。

ダイヤモンドの指輪

平野公子

 あのさぁ、ミエさんてどこから来たの。
たしか平野甲賀が亡くなる半年前頃のことだろうか、この頃は変な質問が時々飛んできていた。もともと天然気質の上にリクツのない人だから、返事もそんなに筋道正しく立派なのを待っているわけではない。
 水道の蛇口ひねるとミエさん出てきたのかも、と軽口叩きながら、そうだよねぇ、ミエさんにはみーーーんな知らんうちにお世話になっているよね。
 そうなんだよ、俺たち馬鹿だからさぁ、すぐ飲んだり騒いだろ大騒ぎしたり飽きちゃったりさ、でもミエがずっとニヤニヤしながらやっててくれたんだよね。
 そうだよ、義務じゃなくてね、あんたらの馬鹿さ加減も面白かったんじゃない。
 なんかさ、お礼しなくちゃいけないんじゃない。
 え、そうなの。なにをあげたいの?
 指輪とかさぁ。
 そうだね、どうせだったらダイヤモンドかね。
甲賀さんにしては珍しい思いやりだった。言葉にするのが珍しいという意味ね。
なのでこの日のやりとりがおかしいこともあったけど、忘れられない。

ダイヤモンドの指輪代わりにようやく八巻美恵の本ができた。
八巻美恵さんの本を作ろう、という声は数十年前からあちこちから聞かされてきた。
だが一向に出ないではないか、それではhorobooksで、と取り組み始めて数ヶ月、
ようやく不思議な本となりました。
美恵さんに似合った優しく可愛い本に仕上げてくれたのは、デザイナーの吉良幸子と絵の木村さくらの若者たちです。
二人とも早くから美恵さんの文章を読んでくれていた。大好きになってくれていた。
ありがとう。
編集の賀内さん、感想文を書いていただいた斎藤真理子さんに深く感謝もうしあげます。

http://horobooks.net/ 
horo booksストア(https://horobooks.stores.jp)でお求めいただけます。

紙のない臨書

高橋悠治

知らない曲を見つけてピアノを弾くのも、数ヶ月前のジョナス・バエスのバガテルで停まった。

10月で予定は途切れる。生活のためにピアノを弾いていたはずが、いつかピアノを弾くための生活になっている。演奏は、習い覚えた手順を繰り返すのではなく、ちがうやり方を見つけようとしてやっていたはずが、いつか時代のスタイルに従っている。こんなはずではなかった。となると、一つの音と次の音のちがいを見ることで、揺らぎを感じ、安定を崩して、その波に乗って意識の重みを外す瞬間ができる。それを隙間と言えばいいのか。

全体から部分に降りるのではなく、手の触れたところから少しずつ動かして、その跡を辿る、短い線の途中でやめて、間を置いて、途切れたところからまた始める、拍のような規則的な単位で計らない、その時の気分で、離れる時には突いて、線の終わりとその後の間を際立たせ、そっと返す、それは始まりを突いて、なだらかに運び、余韻を残して消える筆の運びとは反対になる。紙のない臨書。

空気に指を当てて無音を聞く、紙に動きを写して、どこか一つの音を変えるだけで、その先の方向も響きも変わってしまう。そうして残した短い線の集まりから、目についたどこかを採って、書き換える。

散らし書きのさまざまなくふう、連綿、分かち書き、返し書き、重ね書き、見せ消ち、また雁行。筆もなく、指も動かさず、思ってもやらない。こうして、数ヶ月の休暇が始まる。

2022年9月1日(木)

水牛だより

99年前の関東大震災を思い起こせというように、雷鳴が轟いている夕方、雨が降って、昼間の暑さから急激に涼しくなりました。9月と聞くと、秋だなと思ってしまいますが、今年の9月はどうなるのでしょうか。台風11号は見たことのない動きをしています。

「水牛のように」を2022年9月1日号に更新しました。
コロナウィルスもコロナワクチンと呼ばれているものも、依然としてわからないことだらけです。しかし感染するひとは増えて、しばらく前には知り合いの知り合いだったのが、知り合いにまでせまってきています。西大立目祥子さんの感染と看護と介護の報告を読んで、母と娘のお二人の回復に安堵したと同時に、人は見捨てられて生きているのだという実感を強く持ちました。酷暑の夏でも、これは冬の旅といえるのではないでしょうか。
イリナ・グリゴレさんのはじめての著書『優しい地獄』が出てひと月あまり。刊行を記念して、人類学者の奥野克巳さんとイリナさんとのトークイベントがあります。題して「オートエスノグラフィーの可能性」。明日、9月2日19時からです。楽しみですね。アーカイヴ配信もあるようです。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

214 も・ろ・は・の・ヤ・バ・イ 

藤井貞和

生徒さんのひとりが、諸刃のやいばを言い間違えて、
もろはのヤバイと言ったので、その日からせんせいの教室は、
やばいことになりましたよ。

黒マスクのジョオが、「おれは危(やば)い身だ」などと言いながら、
追われてやってくる。 『死者の書』を戦場から、持ち帰った、
加藤道夫(劇作家、1918―1953)の「思い出を売る男」です。

悪魔と神とが、パリの屋根のしたで、
大げんかして、(ヤバイです。)
実存主義の夕暮れよ、50年代。

夕暮れ村を、倒木が跨ぎ越えます。
河原の沙の幼い木でした。 仔リスが恋しいね、
さよならを愛した心、森のおくがヤバイっす。

神と悪魔と、倒れた会話と、巫女の一人でした、わたし。
あなたが哲学を追いかけるならば、
空(そら)になりますよ、わたしゃヤバイから。

 
(俗語や卑語は苦手です。『なよたけ』〈1944〉などの劇作あり、折口信夫の『死者の書』を背嚢に隠しおおせて軍務から生還するも、酷評に耐えかねてか、傷心の遺書(ありえない)。私の半世紀前の中学時代には友人たちが「思い出を売る男」〈1951〉を上演、そういう時代でした。危(やば)いは、そこに出てくる台詞、「悪魔と神」=サルトル演劇。)

夏休みの読書

若松恵子

台風8号の接近から始まったお盆休み。雨が降りそうな涼しい日が続いた。夏らしい天気が去ってしまったような日々に、ファン・ジョンウンの『年年歳歳』と『ディディの傘』の2冊を読みながら過ごした。作品のなかにも雨が降っていて、その風景と重なっている私の夏休みだった。

ファン・ジョンウンの小説世界に身を沈めていると、なつかしさも含めて心がしんとする。『ディディの傘』には2つの中編が収められていて、2つめの「何も言う必要がない」には、「生きることは、話すことです。…生きることは…私たちより前に存在していた文章から生の形を受け取ることです」というロラン・バルトの引用が通奏低音のように流れている。この小説もまた、読む者に様々な「生の形」を手渡してくれる。ファン・ジョンウンが掬い上げなければ、見過ごされてしまうようなこと、忘れられてしまうようなささやかなことだ。

巻末で訳者の斎藤真理子さんが解説しているが、「親世代の経験も含めて二世代、六、七十年ほどのできごとが縦横無尽に語られるが、小説の中を実際に流れる時間は、朴槿恵前大統領への弾劾が成立した2017年3月10日の正午過ぎから午後1時39分までの1時間ほどに過ぎない」。しかし、主人公に流れ込んでいる時間は重層的で、読む者は長い旅をしたような気持になる。

「今日はどのように記憶されるか」この印象的な文章も繰り返し登場する。生きた今日1日をどう記憶するかということは、ファン・ジョンウンにとっては、今日1日をどんな物語として残すかということだ。日本の読者向けの「あとがき」で、彼女は書いている。

「光化門広場で行われたキャンドル集会は毎回、1人の人間が生きている間に2度と経験できないほどの事件でした。私は毎回、驚異とともにこの広場にいましたが、その広場でときどき、女性や少数者を嫌悪し排除する言葉を見聞きしました。キャンドル集会を「革命」だという人たちは多く、各種の不正に関わった大統領が罷免されれば革命が成功するだろうと語る人も大勢いました。私もキャンドル集会の成功を願い、当時の大統領の罷免を願い、国民の保護義務を擲っていた彼の1日も早い拘束を望みましたが、それが「革命」だという考え方にはたやすく同意できませんでした。広場にあれほど多くの人たちが集まり、大統領が罷免されても、韓国社会で少数者として生きる人々の日常が変わることはなかったからです。2017年3月10日、大統領弾劾裁判の宣告の日に私は家におり、さまざまな少数者性を備えた人たちが私の家に集まっていました。みんな一緒に裁判結果を見て歓呼しましたが、その瞬間が過ぎると、私には物語が必要でした。革命が完成されたとみんなが歓呼している瞬間に、ここにも広場があり、いまだ到来しない未来を待つ人々がここにいるという物語を書きたかったのです。」

ファン・ジョンウンは鋭い目で社会を見ているが、告発するのではなく、物語をつくって差し出すひとなのだ。なぜ彼女の物語に惹かれるのか、その理由はこのあたりから来ているのかもしれないと思った。

解説のなかで斎藤氏は2018年に来日した際にファン・ジョンウンが語ったこととして、「私にとっての革命基本は、雨が降ってきて傘をさしたときに、隣の人は傘を持っているだろうかと気にかけること」という言葉を紹介している。この彼女の「やさしさ」は、彼女の感受性のやわらかさから来ているものなのではないかと思う。平気で人を踏みにじるような鈍感な人にはならなかったということ。なれなかったとも言えるのだが。そのやさしさ(感受性のやわらかさ)によって、無名の人の人生が見つめられる。身近にありながら、ほとんどの人が立ち止まらなかった普通の人生が物語としてファン・ジョンウンによって掬い上げられる。あたたかな眼差しとともに。心に残る場面とともに描かれるその物語を読んで、実際に会うことのないその人生を受け取りたいと私は思う。

本屋に出かけるたびに、ファン・ジョンウンの作品があるか書棚を眺めている。『年年歳歳』以外はおいていない本屋がほとんどだが、今日、珍しく『続けてみます』(晶文社/2020年12月)を発見して買って帰ってきた。

父母の恋愛時代の話を聞く娘。百年に1度あるかないかの大きな台風がやってきた日に、風の中を話しながら歩いたという思い出を語る母。2人は裾ひとつ乱さず、目の前で倒れた街路樹をまたいで、傘をさして歩き続けた(この思い出話サイコーだな)のだが、その時どんな話をしたの?という娘の質問に母はどんなことを話していたかひとつも想い出せないと答える。そんなにたくさん話をしておきながら、何も思い出せないのかと尋ねると、「あんまり大切に、あんまり真剣に聞いたせいで記憶に残らずに身になったんだよ。身?聞いたというより食べたんだね。記憶にも残らないほど、きれいに残さず食べて飲んで一体になったんだ。」と母は答える。物語は始まったところだけれど、ファン・ジョンウン最高だ。

水牛的読書日記 2022年8月

アサノタカオ

8月某日 イーディ・ケルアック=パーカー『そのままでいいよ——ジャック・ケルアックと過ごした日々』(前田美紀・ヤリタミサコ訳、トランジスタ・プレス)を再読。ビートニクの作家で『オン・ザ・ロード』の著者、ケルアックの最初の妻によるメモワール。原著の編者のひとり、ティモシー・モランにはむかし神奈川・葉山で会ったことがある。日本語版の編集は、故・佐藤由美子さん。ところで、酷暑のため人間の頭の調子も、PCなど仕事道具の調子もいまひとつ。今月はあまり本も原稿も読めなさそうだ。

8月某日 韓国小説の翻訳などを手がける出版社クオンが発行する『CUON BOOK CATALOG』Vol. 3に、エッセイ「金石範『満月の下の赤い海』について」を寄稿した。先月刊行され、編集を担当した在日朝鮮人の作家・金石範先生の小説集を紹介。本書には、済州島四・三事件をテーマに書き続ける在日の老作家Kを主人公にした3編の小説と対談が収録されている。カタログの巻末では、キム・ウォニョンの自伝的エッセイ『希望ではなく欲望』が秋に刊行されるとの情報が。著者は作家、パフォーマー、弁護士、骨形成不全症という難病を抱えて生まれた車椅子ユーザーだという。韓国文学については小説や詩だけでなく、骨太なノンフィクションや評論をもっと読んでみたい。

8月某日 早田リツ子さんの『野の花のように——覚書 近江おんなたち』(かもがわ出版)が届く。滋賀の女性史をテーマにした本。《身近な過去、あたりまえの女たちの暮らしの跡》を記録するこまやかな文章の行間から、出会いを求めて村々を旅する著者の息遣いまで聴こえてくるようだ。昨年刊行されたノンフィクションの名作『第一藝文社をさがして』(夏葉社)を読んで感想を伝えたことがきっかけになり文通をするようになったのだが、尊敬する著者である早田さんが、サウダージ・ブックスから刊行した韓国文学やローカルをテーマにした本を手にとり、「半ばあきらめていた〈次世代へ希望を託す〉ことは可能だと感じ入りました」という最高にうれしいメッセージを送ってくださった。未来にバトンを渡すためには、渡すべきバトンを先達から受け取らなければならない。本作りに関わる自分の原点はそこにある。新しさ、ではなく、流れを見つけること。この姿勢を、これからも大切にしていきたい。

8月某日 写真家の畏友、渋谷敦志さんのノンフィクション『僕等が学校に行く理由』(ポプラ社)が届いた。その他に、『モダニスト ミナ・ロイの月世界案内——詩と芸術』(フウの会編 、水声社)、アジアを読む文芸誌『オフショア』第1号も届く。

フランス・アルルのフォトフェスティバルで開催中の写真展「(SE) RENCONTRER, PARTIE 1」のために現地滞在中の渋谷さんより、これからポーランドに飛び、ウクライナのキーウへ向かってしばらく取材活動をすると連絡が入った。ロシアによるウクライナ侵攻は長期化し、約半年が経過した。

8月某日 『現代詩手帖』2022年8月号に、エッセイ「『女性』と『詩』に関わる本の編集を通じて」を寄稿した。編集を担当したペリーヌ・ル・ケレック詩集『真っ赤な口紅をぬって』(相川千尋訳、新泉社)のことなど。特集「わたし/たちの声 詩、ジェンダー、フェミニズム」に目を通すと、非常に充実した内容。特集以外では、高良勉さんの評論の新連載「五十年とアンソロジー 琉球弧から」、ヤリタミサコさんの視覚詩の作品「豆の平和」、文月悠光さんの連載詩「痛みという踊り場で」の8月号の作品「消された言葉」を読む。

8月某日 記憶の蓋がひらかれる夏の夜に。原民喜が原爆投下以前の広島の幼年時代を追憶する小説集『幼年画』(サウダージ・ブックス)を読み返す。

8月某日 伊藤芳保写真集『「阿賀に生きる」30年』(冥土連)が届く。新潟水俣病の患者たちの日常を記録したドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(佐藤真監督)にかかわる人々を撮影したスナップショットの集大成。関連して、阿賀野で旗野秀人さんが主宰する冥土のみやげ企画(冥土連はその全国連合)から出版された本、里村洋子さんの『丹藤商店ものがたり』を再読した。阿賀町鹿瀬の地域史・家族史をテーマにした味わい深いノンフィクション。どちらの本からも、日々の積み重ねとしての歴史のずっしりとした重みを感じる。この夏、新潟をはじめ東北の各地で大雨が続き、各地で被害も出た。以前新潟のBooks f3で出会った旗野さん、里村さんの消息が気になった。

8月某日 高校生の娘(ま)と東京・下北沢の本屋B&Bを訪ねた。前田エマさんの初小説集『動物になる日』(ちいさいミシマ社)刊行記念フェアがよかった。窓ガラスに描かれた大杉祥子さんの絵がすごい。前田エマさんの写真日記も楽しく、見入ってしまった。帰宅して「動物になる日」を読み返す。最近、(ま)は韓国の小説家チョン・セランの長編『地球でハナだけ』(すんみ訳、亜紀書房)を読んでいて、「けっこうおもしろいよ」と言っていた。

8月某日 東京駅から東北新幹線「はやぶさ」に乗車、盛岡駅からJR田沢湖線に乗り換えて岩手・雫石の牧場へ。岩手山を見たかったが、この日は残念ながら雲に隠れていた。「雫」の文字通り、雫石は雨の多い土地らしく、水と緑が豊かだった。

取材行の道中で、イリナ・グリゴレさんの『優しい地獄』(亜紀書房)を読む。これは理屈抜きに好きな本。ルーマニア生まれ、青森・弘前在住の人類学者が日本語で書いたエッセイ集。離れることでからだに残してきた思い出を注視する、独特のまなざしに心が震えた。ルーマニアでの出来事など見聞きも体験もしたことがないのに、この本に綴られていることばの風景にはどこか身に覚えがあるような。通常の理解や共感とは違うチャンネルを通じて、「人間とは何か」という問いを分かち合う不思議な感覚。人類学とアートが交差する知の十字路から生まれた本当にすばらしい作品。「生き物としての本」や「山菜の苦味」など、木や植物の話がいいなと思った。

「自伝」と言ってもいいかもしれないが、やはり著者がそう呼ぶように「オートエスノグラフィー」と言うのが正しいのだろう。私が私の物語を語るのが通常の自伝だとしたら、私が他者としての私を観察して記述するのがオートエスノグラフィーで『優しい地獄』にぴったりだと感じる。個人史という記憶の場所をフィールドにしながら、自己同一化ではなく自己疎遠化をうながすさまざまな出会いについて、移住や病気の経験も含めて、私が私ならざるものへ移行し、変身することについて省察している。オートエスノグラフィーの「オート」は「自己の」「自動的」だけでなく自動車のオートとも意味的な関連性があり、定住ではなく移動の経験を記述するモードとも言える。そういう予感もあったから、この本はぜひとも旅をしながら読みたいと思ったのだった。イリナ・グリゴレさんというエスノグラフィー=民族誌の新しい地平を切り開く同時代の作家と出会えた幸福をかみしめながら帰路に着いた。

8月某日 屋久島で暮らした詩人・山尾三省の命日。コロナ禍の中で行くことができない島を思いながら、山下大明さんの写真集『月の森 屋久島の光について』(野草社)を1日かけてじっくり読み込んだ。暗く暖かい島の照葉樹林のなかで、かすかに輝くものたちを追いかける写真家の視線に自分自身のまなざしを重ねる。ある意味で現実の旅を凌駕する体験だった。

8月某日 東京ドームにて、韓国のSMエンターテインメントが主宰する「SMTOWN LIVE」にはじめて参加。新型コロナウイルス禍があり、3年ぶりの開催。錚々たるK-POPアーティスト、若手からレジェンドまで16組54人が勢ぞろいするのを目の当たりにして興奮したが、なかでもデビューから17年、兄貴分的なSUPER JUNIOR のパフォーマンスは驚異的で、もはや《人類の祭り》と呼びたいレベル。たったの3曲ほどで、5万人もの群衆の心を異次元へさらっていった……。ライブのセットリストを振り返りながら、感想を書こうとしたけどキリがない。熱狂と陶酔の記憶は大切に胸にしまっておこう。4時間立ちっぱなしで腕を振り続けて、中年のからだは悲鳴を上げている。