『アフリカ』を続けて(19)

下窪俊哉

 毎月、『アフリカ』をめぐる回想録をつけているようでいて、これからのことを考えている。回想録といえば私は、どうやら最近のことより昔のことの方が書きやすいようである。前回はこれまでの『アフリカ』を5つの時期にわけて、「黎明期」「展開期」「隔月期」「マッタリ期」と順番にざっとふり返って、「転換期」に入るところで終わっていた。「マッタリ期」のことはこれまであまり話したこともなくて、ようやく自分の中で整理がついてきたような気がした。そのためにワークショップのことを書く必要があった。

『アフリカ』を5つの期間にわけられるということは、そこには5つの雑誌があるということかもしれない。でもそれを『アフリカ』というひとつの名前で呼べるのは、つくっている私には、つながって感じられているからだ。と書いて、いや、待てよ、と考える。それは元々つながっているのではなく、私がそれをつなげてきた、つなげようとしてきたということではないか?

 転換期(2019年〜2022年)、つまりそれまでとは違う、別の方向に『アフリカ』が動き出した。

 思い返してみると、「マッタリ期」の終わり頃には、ふわふわ旅をしているようだった『アフリカ』を地面に下ろして、確固たる活動拠点を持ち、やってゆこうとする試行錯誤があった。ワークショップをイベントにして集客したのには、そういう狙いが(後から考えたら)あったかもしれない。
 しかしそこに私は妙な不自由を感じていたようである。不自由の生み出す自由もあるので、必ずしもそれが悪いことだとは思わなかったが、やがて立ち止まる理由になった。そこでこの連載の初回に置いておいた問いが戻ってくる。

 それにしてもどうしてこんなことをしているんだろう?

 あらためて、それまでのことをつなげて考えてみる必要が出てきた。原点に立ち返って、再び自分(という編集人)のリハビリを始めたという側面もあるかもしれない。ただ以前と違い、これまでやってきた雑誌を止めずに、続けながら再スタートしたので十数年の蓄積がある。そのアーカイブを生かした本を何冊か、つくってみることにした。
「下窪さんの作品はどうでもいいんだ」と言われたときの声は、耳にまだ生々しく残っていた。「マッタリ期」を通じて、自分の作品はどうでもいいんだ、と私自身が感じ始めていた可能性はある。彼は私であり、私は彼だったかもしれない。そこで、まずは自分の作品集をつくることから始めた。それは『音を聴くひと』という本になったのだが、その本は私にとって、はじまりという感じもあり、おわりという感じもある。

『アフリカ』は再び、ふわふわと旅を始めた。確固たる活動拠点はなく、どこにいるのか、奥付によると現在は横浜市道草区道草本町に発行所があるらしいが、もちろんそこに手紙を出すことはできない。いや、それは半分嘘で、メールは届く。ようするに、こういうことかもしれない。2019年、『アフリカ』はいよいよ覚悟を決めて、ウェブの大海原に漕ぎ出して行ったのだ、と。
 とはいえ『アフリカ』は紙の雑誌なので、それ自体がウェブに漂っているわけではない。ウェブで盛大に宣伝をしているのかと言えば、そんな様子もない。
 いつも、さて、どうしようかな? と思っているのだった。すごく困っているわけではないが、ボンヤリ困っている。それができるのは私自身が、誰に頼まれたわけでもない原稿をずっと書き続けているからなんだろう。書くことだけは、休んでいる時にも続けている。水上を走る舟の上で横になって休んでいるというようなことが、私の執筆にはよくあるような気がする。

 さて、2022年は『アフリカ』の発行ペースを再び落として、数年続けてきた文章教室も休み、これからのワークショップをどうしてゆこう? とボンヤリ考えていた。秋には、休んでいる文章教室に声をかけてくれていた人たちと”作戦会議”の時間も持った。
 書く人にとって重要なことは何だろう? いや、私自身が書き続けるのに何を大切にしてきたか、と考えてみた。それは仲間の存在だ、としみじみ感じられた。”教室”はもう止めて、”サークル活動”ができないか? と”作戦会議”で話してみた。
 その人たちがどうやって集ったのかというと、いまはもう大半がウェブを通じて、なのだった。みんな近くに住んでいるわけではないし、実際には会ったことのない人たちもいる。となると、ウェブ上のサークル活動、ということになる。どんなやり方があるだろう? と話し合う中に、ウェブ・マガジンを始めるっていうのは? というアイデアがぽっと浮かんだ。ウェブ・マガジンの姿をしたワークショップ? その時、ある人が言ったのだ。「それって、『水牛』をこっちでもやろうってことですね?」
 なるほど、その発想は自分にはなかった。でも、すぐに始められそうだ。『アフリカ』のやり方とは真逆で、送られてきた原稿は(何も言わず)スパッと載せる、という方針を立てた。書きっぱなしの、粗削りなものをどんどん載せて、みんなで読みたい。ガラクタの山をつくるつもりで! などと言っていたら、そこに書きたいという人のワクワクする様子が伝わってきた。
 新しくつくったウェブ・マガジンを「ウェブ版のアフリカ」と呼ぶ人もいる。そう感じられているならそれでもいいのだが、私は『アフリカ』とそれを区別して、『道草の家のWSマガジン』と名づけた(道草の家というのが何なのかということは「巻末の独り言」で触れられている)。
 ウェブ・マガジンをつくるのは初めてだったのだが、つくってみて、わかった。上から下へ流れるように並べて、読むことができる! この「水牛のように」と同じことなので毎月読んでわかっているつもりだったが、自分で編集してみて初めて、ああ、こういうことか、と感じられることもある。
 当然といえば当然のことだけれど、ページの制約を受けない。つまりページが変わることによる断絶がない。そのかわり(?)見開きというものもない。スペースの制限がないから字数を気にする必要もない。目次をつくったのでお目当ての場所に飛ぶことはできるとしても、その前後には雑誌の流れがしっかりと感じられる。
 何だか、オムニバス映画のようだな、とも思った。映画なら、エンドロールがあるといいかも、となり『アフリカ』ではお馴染みのお遊びも入れることができた。
 いまはその感触がとても新鮮で、楽しい。紙の雑誌だとこんなふうにはゆかないよねえ、と話していて、また思いついたことがある。これって、巻物だよね? いつか巻物になった雑誌をつくってみたい。そんなことを考えている時間は楽しい。

むもーままめ(25)髪を切りたくなった話の巻

工藤あかね

あけましておめでとうございます。年末みなさんは何をして過ごしましたか?年越しそば?紅白?はたまた仕事の積み残しに追われていた方もおいでのことと思います。私は、ばさぁっっっっと髪を切りに行きました。いつのまにか肩甲骨の下あたりまで伸びていたのを、顎の線くらいまで切ることにしました。衝動的に。べつに何かあったわけではないけれど、なんとなく気分を変えたいな、と思って。

美容室はここのところ連続して通っているお店です。担当美容師さんが、まあ職業柄当たり前なのかもしれないのですが、どうも髪マニアのようなのです。「あの、ビフォーアフターの写真撮ってもいいですか?」と言って、切る前の後ろ姿をなめるように動画を撮り、写真も撮ったりしてゆきます。終わった後もぐるっと頭回り動画を撮って、髪の毛をひとすじ手にすくい、はらはらと落とすところを動画に撮っておられました。一通り撮ったかなと思ったら、「立ったところも撮らせてください」と。思わず加藤茶のモノマネで「あんたも好きねえ」って言いたくなりましたが、喉まで出かけたところで言葉をぐっと飲み込みました。

そういえばだいぶ前、別の美容室に通っていた時代にも年末に髪をばっさり切ったことがあり、「寒い時期に頭がもっと寒くなりますが大丈夫ですか?」と念押されたことがあったっけ。よくよく考えると、季節と逆行したことをときどきしたくなる性格なのかも。思い返せば学生の頃は、真夏にロングスカートを愛用し、真冬にミニスカート&ブーツ姿で出かけるのが定番でした。そのほかには真夏に鍋焼きうどんを作ってみたり、真冬に韓国冷麺を急に食べたくなって焼肉屋さんに駆け込んだり。今は冷凍みかんを作っておいて、時々お風呂あがりに食べるのが楽しみ。この感じ、わかるかなぁ。共感してくださる方がいたら小一時間一緒に話し合いたいです。

というわけで、今年もどうぞよろしくお願いいたします。結局コロナ禍も戦争も終わらなかったけれど…今年こそ光が見えてきますように。

しもた屋之噺(251)

杉山洋一

2022年が去ってゆきます。信じられない速さで365日が終わり、このまま続く365日も過ぎるのかと思うと、恐ろしくなります。今年は全く良い一年ではなかったけれど、来年はより良い年にしましょう、と気軽に言えるのかどうか。現在まで、戦前とは第2次世界大戦か太平洋戦争以前を指し、戦中はその戦争中で、戦後と言えば昭和20年8月15日以降でした。その慣用句のニュアンスもこの1年で変容しつつあります。80年前、戦前から戦中へ差し掛かるあたり、世界はやはりかかる不安を抱いていたのでしょうか。あの時と同じ次章が開かれぬよう、心から願うばかりです。



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12月某日 三軒茶屋自宅
武満、藤倉作品演奏会終了。二人ともメジャーコードの趣味が似ているのは分かっていたが、思いがけずフレーズ構造にも少し似た癖を感じる。フレーズの終わりの拍を落ち着かせずに宙吊りにするか、緩やかな弱起(アウフタクト)として次のフレーズを引き出してゆく。そうして音楽は流れを生み、時に揺蕩う。和音も聴きやすいし、方向性さえ掴めば音楽の質感を演奏者が理解しやすく出来ていて、リハーサルも寧ろその部分を中心にすすめる。ここでどんな和音を聴きたくて、音楽はどこに行きたがっているか。皆が揃って耳を澄ますだけで音に色彩が広がり、深みが生まれる。こんな時は、縦を揃えようとしない方が却ってうまくゆく。
 
12月某日 三軒茶屋自宅
午後、渋谷東急本店4階のカフェ・シェ・ダイゴで、山本和智くんと三橋貴風先生にお目にかかる。生前、一柳さんがこの喫茶店を愛用していて、彼との打合せは決まって「カフェ・シェ・ダイゴ」だった。和智作品の一柳さんとの打合せは何時もここだったし、悠治さんの「オルフィカ」やってほしいんだよ、と悪戯っぽく少年のようにお話し下さったのもここだった。和智君が用意しておいてくれたテーブルは、偶然にも、昨年暮れに三橋先生が最後に一柳さんと直接会って話した席だったから、我々は一柳さんがすぐ傍でニコニコ佇んでいるのを感じながら、すっかり話しこんだ。三橋先生曰く、古典と現代邦楽を一つの線で繋ぎたいと熱望していらして、その情熱に大いに感じ入る。店長も覚えて下さっていて感激したが、最近一柳さんを偲んでここを訪れる方は多いという。斎場に向かう折、一柳さんはここに寄って最後のお別れをされたそうだ。
 
12月某日 三軒茶屋自宅
羽田からヘルシンキへ向かっている。羽田を発つ直前、音楽院で息子の初見のクラスを持っているヴィットリオより、自分の授業について息子は何か言っていたかメッセージが届く。ミラノに残っている息子に転送したところ、「もっと厳しく接してもらって構わない」と伝えてほしい旨返事を寄越した。
今朝は7時起床。家人が昨夜遅くに仕込んだ鯛のアクアパッツァを携え、高野耀子さん宅を訪ねる。朝食を摂りに誰かのお宅に伺うのも初めてだが、早朝から揃って鯛の煮込みを食べるのも一興であった。冬の澄んだ青空が広がっていて、朝の陽光をたっぷり吸いこんだ食卓も心地良い。温かいバゲットにチーズを併せたり、完熟したオレンジをこちらに勧めながら、高野さんは「楽しいな、何だか楽しいな。こりゃ楽しいぞ」と繰り返し、ぺろりと鯛汁を3杯も平らげた。なかなかの健啖家だと感心する。
高野さんは、WやOを少し口を窄めて口蓋の前方で絹糸を丸めるようにして発音し、Rが単語にかかると微かに喉の奥が震える。彼女の母語が仏語だからだろう。言葉を発する度に顔全体の筋肉が精力的に運動していて、あまり唇も開かずに、のっぺりぼそぼそ話す日本人とは全く違う印象を与える。闊達で、懐かしい「おきゃん」という単語さえ頭に浮かぶ。
子音の発音は丁寧で、常にとても表情豊かである。微笑みを絶やさず陽気で気の置けない方だが、ふと考え込む瞬間にじっと厳しい表情をなさったりする。相手に向けられた厳しさではなく、思考の惰性に陥らぬよう自らを無意識に律していらっしゃるようだ。でもそれはほんの一瞬であって、直ぐ何時もの柔和な表情に戻られる。
細い路地に面して、こざっぱり手入れされた植物の豊かな庭が広がっていて、その奧に広々した古い平屋が建つ。行き届いているが、どこか開放的な印象を受ける庭である。向かって右手奥には緑色の井戸をいただく昔ながらの勝手口があって、ここで高野さんは鯛の残滓を野良猫にやっていた。
向かって左手奥には玄関があり、そこを上がると大きなピアノが二台並ぶ。日本的な佇まいだが天井は高く、一面白い壁高くにわたされたなげしの濃い色目が美しい。壁には父上高野三三男の大判の女性像が並んでいて、壮観である。戦前15年間フランスに暮らした日本人画家の描く世界は、洋画でありつつ、連綿と培われた日本文化も凝縮されているようだ。
何が日本的で西洋的か、当時は明瞭ではなかったかも知れないし、意識も現在とは全く違っただろう。自分の素朴な印象も、可視化される表層には余り影響を与えていない気がする。当時から一世紀を経て、差異がより明確に理解されているのかすら、思えば実に怪しい。
西欧人が描くとき、人体は無意識に西洋音楽の音符に等しく、客体化記号化され、生命や魂の存在は、その人体を取り巻く周辺世界を通して、意識化され浮かび上がる。一音入魂の伝統を持つ日本文化に置換えれば、例え西欧人をモデルに文楽人形を造っても、やはり人形の裡に自然と生命が宿る気がするのだ。        
その大広間の奧に一段高い木造で時代がかった部屋があって、立派な梁が左右に亙してある。不均等な梁が、空間に心地良いアクセントを放つ。聞けばこの邸宅は元来父上が建てられたもので、それを高野さんがご自身で図面を引きつつ、ご自分の住みやすいよう増改築を繰り返してきたという。高野さんが設計図を読めるというので、ミケランジェリも、自宅を改築する際、高野さんに設計図の確認を一任していたそうだ。
その旧めかしい木張りの部屋には小判の画が並んでいて、「これが赤ん坊のときのあたし」と紹介して下さった、赤子の肖像画が印象に残る。これは母上岡上りうの作品で、余りに赤子が現在の高野さんに瓜二つなのに感嘆した。筆力のみならず、娘への観察眼と、それを客体化させ染み出る愛情に、女性らしい現実感すら感じられる。画風は端正であって細やかで、特に高野さんを描いた作品には慈愛があふれる。確かに、りう氏の描いた薩摩千代像も、写真で見る薩摩千代そのままで愕かされる。
若しかすると、三三男氏より寧ろ抽象を多く手掛けられたのかもしれないが、作品の印象はより具体的且つ現実的で、三三男氏の作品からは、芸術の理想像や女性への畏敬を感じられる。
実は、何処かでこの赤子に似た絵を見た気がしていて、ずっと思案していた。息子が小学生だった頃、絵が好きで絵画教室に通っていた。あの頃に、同じような構図で赤ん坊をデッサンして帰ってきたのである。小学坊主と稀代の一流女流画家を並べて論じるなど言語道断だが、慎ましい日記の範疇で、珍しく二人とも同じ名前だから失敬する。無意識にシナプスのどこかで繋がっていたに違いない。りう氏の没年が昭和44年なのも、同年生れとして親近感を覚える。不謹慎極まりない話だ。さんざんお話を伺ってから暇乞いをすると、高野さんは態々路地まで見送りに出てきてくださった。眩しくよく晴れた温かい日で、もうすぐ正午を迎えるところであった。
 
12月某日 ヘルシンキ行機内
ロシア上空迂回につき飛行時間も長くなり、すっかり時間を持て余していて、備忘録は書き出すと止まらない。
高野さん聞き書き。
パリで生まれ育った高野さんは、昭和15年、9歳のときに戦争が勃発して日本に帰国する。それまでピアノを習っていたマグナ・タリアフェロは、50キロの錘を想像しながら両腕を持ち上げて、重力に任せて脱力した腕を落とす訓練をやらせていた。時には、ぐにゃぐにゃと腕や肘を解きほぐしたりもした。そのタリアフェロのお陰か、高野さんが後年ミケランジェリに師事した際、姿勢やタッチは一切直されなかった。ミケランジェリは各生徒に見合った助言を与えるので、タッチを直される生徒もいたけれど、高野さんには、特にフレーズ処理を指導した。
後にドイツのコンクールで再会したタリアフェロからも、昔自分が教えた基礎を守っていると褒められたと嬉しそうに話して下さった。タリアフェロは腕の脱力や自然落下に力点を置き、躰を自由に使えるよう指導していたと読んだこともあるが、実際タリアフェロのヴィデオを見ると、いかに彼女が重力を利用して、無尽に演奏していたかわかる。
戦時中は、靖国神社脇の白百合学園で薙刀の鍛錬などやっていて、九段下まで線路を歩いて登校した。時に何かに躓き転んだりして、ふと足下を見るとそれは死体だった、そんな逸話すら、当時女学生たちは学校で明るく笑い飛ばしていた。どんな状況であれ、学生生活は楽しかった。
戦時中ドイツ音楽は普通に演奏されていたから、高野さんもピアノを続けられたのだろう。終戦後間もなく、15歳で芸大に入学し安川先生に師事すると、同期生には黛さんや千葉馨さんがいらした。高野さんと同じフランス育ちの安川先生の音楽は、高野さんが幼少フランスで親しんだ音楽そのままだったから、まるで自然だった。昭和23年、大学3年でパリに戻るにあたり、高野さんは故郷に帰る思いを抱いていた。
貨物船でジェノアかマルセイユ経由で渡欧したかと思いきや、BA運行の飛行機に乗り、香港経由南回りでロンドンまで8日間の旅だったそうだ。旅の途中で隣の座席の英国紳士と親しくなり、馴れない英語と仏語で会話していたが、その紳士は4年もの間、日本軍の捕虜であった。
まだ日仏間の国交は回復しておらず、幼少の高野さんを教えたヴァイオリン教師が身元引受人となり、高野さんのフランス滞在中の一切の責任を負う旨念書を提出して、ヴィザが下りた。
8月のパリに着いた高野さんは、ヴァイオリン教師宅に寓居して夏を過ごす。当時日仏間の送金は不可能で、保証人に厄介になる以外、方法はなかった。9月の声を聞いて10月の音楽院入学試験課題曲が発表になった。シューマンのトッカータとショパンのバラード1番であった。
3ラウンド選抜試験方式で、課題にはソルフェージュや初見の試験も入っていた。全く不馴れだった初見は酷い出来ながら、ピアノが成績優秀で入学を許可された。
パリ音楽院のピアノ科は10クラスほどで、1クラス15人程度生徒が在籍していた。教師や学校の情報すらままならない中、うら若き少女一人で入試を目指し果敢に渡欧とは、何とも勇気ある話だ。かくして高野さんは戦後初の日本人学生となる。三善先生が仏政府給費留学で同音楽院に留学する7年前のことである。
高野さんは昭和26年にパリ音楽院ピアノ科を最優秀で修了、翌27年には室内楽科を同じく最優秀で修了した。その後ベンヴェヌーティの下を離れ、デトモルト音大でハーザーに学ぶことになるが、当初は言葉が通じずハーザーの愛娘がレッスンを通訳した。フランス滞在後のドイツに違和感を覚えることなく、すべて自然に受け容れられた。高野さん曰く、誰もがフランス風、ドイツ風と勝手に形に嵌めすぎるきらいがあるが、彼女はそこに拘泥したことも、苦労した覚えも皆目ないそうだ。
昭和29年イタリア、ヴィオッティ国際コンクールに優勝して、フェニーチェ劇場やスカラ劇場オーケストラとの共演の運びとなり、イタリア各地で優勝者記念演奏会を開く日々が続く。高野さんはアジア人初の国際コンクール優勝者でもあった
ミケランジェリと知己となるのは昭和40年東京でのこと。同年と翌年ミケランジェリよりシエナのキジアーナ夏期講習会に招待され参加した。それから昭和45年の日本帰国まで、高野さんはミケランジェリの下で研鑽を積み、アシスタントを務めた。
キジアーナ音楽院のミケランジェリの教室は2階一番奥のサロン。7人程の生徒を相手に2週間続く集団レッスン形式で公開されていた。この教室は先日サラのソリスト合わせをした部屋ではないか。そうであれば30畳ほどの教室で、壁に犇めく絵画のためか、少し薄暗くカーテンが引いてあった。
高野さんが参加した最初の年はラヴェルとドビュッシーがテーマで、生徒はそれぞれのレパートリーから二人の作曲家の作品を選び準備した。集団レッスンなので一人がレッスンを受ける間他の生徒もそれを見学する。一人レッスンが終わるとミケランジェリが出し抜けに「はい、次あなた」と指定するので、なかなか気が抜けなかった。
高野さんがラヴェルのソナチネを持ってゆくと、レッスンではしばしば、「待って!」と言われた。一つのフレーズを終わらせるにあたり、次のフレーズまで時間をかけ、慌ててはいけなかった。長い間低音をペダルで残す技術も、ミケランジェリから教わった。低音が残っていても高音は早く音が消えるから音は濁らない。あんなにペダルを踏み続けるのを初めて見た、と高野さんは笑っていらしたが、同じミケランジェリ門下のメッツェーナ先生が、家人に教えたペダルと同じである。
キジアーナ音楽院のもう一人のピアノ科教授はグイード・アゴスティで、エリザベート・コンクールで知られるエリザベート王妃もアゴスティの教室を訪問し、背筋を伸ばしてレッスンに聴き入った。錚々たる教授陣である。ミケランジェリは予定表など一切作らず、その場で気の向くまま生徒をあててレッスンしたが、アゴスティは予め各人の時間割を作り、公平にレッスンしていた。
ミケランジェリは、山向こうのアレッツォから自ら車を運転してシエナまで通っていた。その年12月、トレント近郊のミケランジェリ宅に招かれるまで、高野さんは半年間シエナで過ごした。その間彼女のイタリア語はすっかりシエナ訛りになっていたので、再会したミケランジェリには大いに揶揄われた。当時ミケランジェリの生徒たちは揃って彼の家に寄宿していて、しばしば演奏会にも同行が許された。完璧主義者のミケランジェリは高野さんにイタリア語しか話さなかったが、高野さんは仏語と聞き覚えの伊語を交ぜて会話した。
 
12月某日 ミラノ自宅
ヘルシンキは酷い雪で離陸前の溶雪作業に時間がかかった。尤も、翼に積もった雪を融雪剤が勢いよく吹き飛ばしてゆくのは爽快痛快だ。迫力も抜群で溜飲が下がる。
昼前自宅に着いて、取急ぎあり併せで出がけの息子にパスタを用意する。ふと庭を目をやると、餌場の椅子からリスがじっとこちらを眺めているので、胡桃をやる。「やれやれ漸く帰ってきた」という表情をする辺り、息子より愚直である。息子は二週間の一人暮らしで2キロほど痩せた。
 
12月某日 ミラノ自宅
早朝リスに胡桃をやった途端に、いつもの鴉や小鳥たちが続々集い、庭はすっかり賑やかである。それから暫くして外を見ると、今度はリスと黒ツグミが目の前のベランダの手すりに並んでいて、相変わらずこちらをじっと眺めている。餌の催促にあたり、種を超えた紳士協定を締結したらしい。確かにそれぞれ一匹ずつに見つめられるより、異種二匹並んで良心に訴えるほうが効果は高そうだ。
久しぶりに会う息子が朝から集中して練習していて驚く。尤も、午後にダヴィンチ博物館で数曲弾くらしいから、当然ではある。
「優しい地獄」読了。既に水牛で知っていた文章は文字が二重写しに見え、そうでないところは、文字そのままが映像化され脳裏に投影される。映像を作る人の文章は、ドキュメンタリー映画のように、時に生々しいほどの光景を映像化して立ち昇る。そこには温度も臭いも触感もある三次元空間となって辺り一面に広がってゆく。基本的に音楽を抽象芸術だと定義すれば、映像は本来具象を扱う芸術の扱いになるのだろう。具象で音楽を試したい者にとって羨ましくもある。
ルーマニアは知らないけれど、シベリアの田舎の風景やアルバニアやブルガリアの友人の話が、断片的に頭を過り、読み進めるうち、それらを改めて反芻する手触りを覚える。尤も、詰まるところ音楽はどう足掻いても表現手段としては穏やかで間接的なもので、だからこそ生き延びられる場合もあるかも知れない。
 
12月某日 ミラノ自宅
夜明け前運河沿いを散歩していると、大きな塊が目の前を飛び跳ねている。目を疑ったが、確かに6匹の野兎の群れが道路を渡って移動していて、どうやら家族のようである。来年は干支だからと勢い余って出てきたのか知らないが、毎日この道を歩いていて初めての体験だ。今朝は妙なものばかりに出会う。運河に見たこともない大きな黒鳥が一羽、優雅に浮かんでいた。
文章を書いたり作曲するのは、愉快な作業のはずだ。音を聴いたり文字を読む行為は、本来喜びを宿しているはずだが、時として、作曲も日記も体内に溜まった澱を外に掻きだす作業に感じられる。普段からアウトプットが足りないのかもしれない。記憶の塵芥を放置しておくと、何時しか体内に臭気が立ち籠めてくる。
返事が来るとは思えないし、届くかどうかすら怪しいが、シベリア、クラスノヤルスクのラリッサにクリスマス・メッセージを送る。クラスノヤルスク県からの動員が多かったと聞き、一緒に演奏した仲間たちの身を案じている。彼らは実に心の優しい、素朴で良い人たちだった。美しい土地に素晴らしい音楽家が暮らしていて、料理は愕くほど美味しかった。あの時自分が感じたことを、素直に信じていたい自分がいる。一刻も早く戦争が終わってほしい。
 
12月某日 ミラノ自宅
美恵さんの本を読もうとすると、美恵さんの声が聴こえてくる。美恵さんの話し方とそのスピードで目の前の文章が再生されるので、時間がかかって困る。時々文章の合間にけらけらと著者の笑い声まで入る。美恵さんのお宅から拙宅は近いので、わーはっはと啼く烏も知っていて、烏の声まで読むものを邪魔する。
寄せ書きの「Homo ludens遊ぶ・ひと」という言葉を読みながら、バッハの平均律が頭に浮かぶ。「Pre-ludio 遊びの・前」の小手調べからいざ「Fuga遁走」。当初どのニュアンスで使い始めたのか知らないが、我々ホモ・ルーデンスはその昔からなかなか趣味の良い言葉遊びをしてきた気がする。美恵さんの文章は、柔らかい響きながら表現は曖昧にせず明確に言い切っていて、安心して読める。
 
12月某日 ミラノ自宅
時差呆けにて03時30分起床。
美恵さんもイリナさんも、事象を素直に、しかし現実的に捉えていて、そこから言葉がすらすらと生まれてくる。それは自然な表現なのかもしれないが、現実を冷静に観察しそのまま直截に表現できる能力は、自分にはない。
望月みさとちゃんや山根さんや渡辺裕紀子ちゃんの作品を演奏して、どこか共通するものを感じた事にも微かに通じる。音楽はそれぞれ全く違うが、自分にはない視点で音楽の地平を捉えているところが似ているのだ。何かを観察するにあたって、その行為がそのまま一つの事象として成立していたり事象へ発展していたり、或いは収斂、帰結をみたりもする。
性別と関係あるかは知らないが、自分に関して言うならば、観察結果を構造という函に一旦投げ込まないと不安になるきらいがある。それは強迫観念のようなもので、場合によって構造は或いは箱の形状もとらず、形而上学的に観念化されているかもしれない。
大戦後のケージショックの偶然性も脱構築性も、そこに純然たる構造が浮き彫りになっているから面白い。構造を壊そうとすればするほど構造がより顕著になるのは、複雑な音を書けば書くほど構造が単純化するのに似ている。構造は否定すれば否定するほど明確になるから、本当に構造を否定したければ、無条件に構造など考えなければよい筈だが、構造を考えずに思考すれば、否定された構造ばかりが炙り出される。
敢えてジェンダーの二極を受容れても、その二極間には無数のグラデーションが存在するだろうし、二極を繋ぐ線も直線ばかりではないだろう。それは個性の一つの指針にはなるかもしれない。馬齢を重ねるほどに、自分が知っているつもりでいたことについて、実は何も知らなかったと気づく。
 
12月某日 ミラノ自宅
朝4時半起床。弁当用に白米を炊き、鮭に塩を振り水分を飛ばして焼いてから、大きな橋を渡って運河の向こうに朝食用パンを買いにゆく。最近息子が気に入っている蜂蜜入り全粒粉パンを購い、朝食用の目玉焼きと弁当用の和風卵焼きを作り、温かい紅茶をポット2本に詰めて、海苔弁当とおかずも詰めて、さあ朝食を食べようと思いきや、ベランダで番のリス二匹がこちらを恨めしそうに眺めているから胡桃をやり、慌てて朝食を食事をかけこみ自転車を走らせ、何とか8時50分レッスン開始に間に合わせる。パスタの方がよほど手軽だが、昼食にパスタを食べると眠くなる。
夜19時半困憊して帰宅すると、息子は昼食を食べ散らかした上、食器未洗により激怒。言葉を交わす間もなく、息子はそそくさと友人たちとハンバーガーを食べに出かける。衝突回避の術を彼なりに会得していて、処世術ともいう。
秋も深まり気温が下がってきた頃から、冷蔵庫に貯めておいたパルメザンチーズの外皮を料理に使うようになった。これをかち割り、ソースに放り込んで煮込むだけだが、特徴ある深いコクが絶品の冬の味わい。
 
12月某日 ミラノ自宅
美恵さんの本に登場する「わっはっは」と啼く烏。美恵さんは近所だからほぼあの烏に間違いないが、或いは烏間違いをしているかもしれない。「ばーか」氏にもどこかで会った気がするが、こちらも烏違いかもしれない。
朝、胡桃をやるとき、同じ小鳥が同じフレーズを囀っているのに気が付いた。仲間に「メシだメシだ」と伝えているのか、どこからともなくすぐに仲間が集まってくる。
うちの庭には以前からリスと黒ツグミが、並んで巣を作っていて、割と仲も良さそうで、時として雛鳥と幼リスが追いかけっこをしているようにも見える。産まれた時から隣に住んでいて、体長も凡そ似ていて親近感を覚えるのだろうか。
胡桃をやると、向かいの中学校庭に巣を作っている番の烏も、すぐに二羽で連立って飛んでくる。ところが、こちらの烏は日本の烏よりずっと穏やかで、リスに何時も嫌がらせをされては、暫く遠巻きに眺めている。その間も、雀よりもずっと躰の小さな鳥たちが、入れ替わり立ち替わりやってきて胡桃を啄むが、何故かリスは烏以外には寛容なのである。
母から誕生日祝いが届き、「洋一は自分が生まれてきて良かったと思っているか、考えることがあります」とある。そんな自問をした記憶はないが、同じ疑問を息子に対して考えていたところだったので、まあ親は誰も同じことを思うのだろう。生まれてくる方は、生まれて以後の現実に振り回されて頭が回らないが、生んだ方はそこに至る過程を遡求する。
生まれて良かったかどうか考えたことはないが、53歳の自分が毎日庭に集う小動物を眺めて暮らす姿を想像したこともなかった。
 
12月某日 ミラノ自宅
「待春賦」脱稿。小品なのでさっさと手書きで浄書し、夜半沢井さんと佐藤さんに送附。
11月日本に戻る機内で沢井さんの名前を使って17絃と25絃の調絃をあれこれ思案していて、突然降って湧いたように興味深い旋法が浮び上がった。「待春賦」の題にはいくつか意味を掛けているが、平和への希求もそこには当然含まれている。
先日のメールに対して、シベリアから返事が届く。
「わたしは目を閉じ、神に祈っています。神がわたしたちに眼を向け、微笑んでくれるように。来る将来、今までのように互いに心を通わせ、愛する人々とまた垣根なしに会えるように祈っています。この苦しみが、過ぎゆく今年とともに消えてなくなるよう、祈っています。誰ひとりとして、わたしたちの心を繋ぐ見えない糸を、断ち切ることはできません」。
 
12月某日 ミラノ自宅
長谷川将山さんのための尺八曲を、1月に亡くなった平井さんを偲びながら書く。名前で作った音列を展開させる途中、何度か、平井さんがその辺で眺めている錯覚を覚える。子供の頃にやったコックリさんに似て、音符と数字が妙に隙間なく合致する瞬間があって、そんな時「ほらこの数字間違っていませんよ」とあの飄々とした口調で話しかけられている気がする。「何しろ、わたしは理系ですから」と、継ぐ言葉すら聞こえるようだ。ところで今回は甲賀さんの本から沢山の尺八曲のヒントを頂いた。空間の広さや深さ、個性を纏う面白さ。2次元の事象を4次元くらいに変換させて空間に遊ばせること。甲賀さん有難うございます。
中国でCovid感染爆発のニュース。3年前の今頃を思い出して暗澹たる思い。厄介な変異種の出現でないことを切に祈る。
 
12月某日 ミラノ自宅
平井洋さんを偲ぶ尺八曲を「望潮(もちしほ)」と名付けた。能の「融」で地謡が「汲めば月をも、袖にもち汐の、汀に帰る波の夜の」と唄う場面。田子を担ぎ汐を汲む老人の袖にも月がうつりこみ、汀に戻る汐汲みの老人、もとい源融の幽霊は、いつしか汐曇りに消えてゆく。
平井さんとお仕事をご一緒した多賀城と堺は、「融」の舞台である塩釜と京都とは近からずとも遠からず。「月」が隠れた主題となっている「融」だが、白河の小峰城で平井さんとご一緒した、沢井さんと有馬さんに書いた「盃」も、李白の詠んだ「月」が主題だった。
「秋の南湖の水面は夜になっても靄なく澄んでいて、この流れに乗って天にすら昇りたいところだが、まあひとまずはこの洞庭湖で月の光を頼りに、船をすすめて酒でも買いにゆこうじゃないか、あの白雲のあたりまで」(李白「洞庭湖に遊ぶ」)。
 
12月某日 ミラノ自宅
「望潮」脱稿。早速長谷川さんに送附。夜メルセデス宅にてカルロッタを交え3人で夕食。二人とも10月に罹ったCovidが尾を引いている。11月中旬に漸く陰性になったそうだが、メルセデスは未だに困憊していて、椅子に座らないと料理すら出来ないとこぼす。体調がすぐれず一度だけ挨拶に顔を見せただけのリッカルドは、同じ時期に罹ったCovidですっかり顔がこけてしまっていた。
カルロッタは11月から年金受給者となり、現在、工科大の教授職は無給で続けている。工科大にはロシアやウクライナからの留学生も何人か在籍しているが、ロシア人学生たちは祭日期間など普通にロシアに帰郷し、その後普通にミラノに戻ってきているそうだ。どういう経路でモスクワ、シベリアまで戻るのか分からないが、陸路なり何某か手段が残っているらしい。
メルセデスの家事手伝いをしているモルドヴァ出身のマルティーナによると、モルドヴァに残る彼女の実母は、トランスニストリア出身でもないのに熱狂的なプーチン崇拝者だという。旧ソ連時代を希求するこうした市民はロシア国内にも国外にも一定数いて、現在のロシアの軍事作戦を支えている。
カルロッタ曰く、BREXITで外国人を排除した結果、イギリスで看護師や医師が酷く不足し医療が破綻を来しているらしいが、実際どうなのだろう。右派政権のイタリアも全く他人事ではない。
マルペンサ空港では、一昨日より中国からの到着便の乗客に任意でPCR検査を実施していたが、陽性率が1便目で35%、2便目で53%に達したため、今日からPCR検査は義務化された。
 
12月某日 ミラノ自宅
般若さんより、悠治さんのヴィオラ新曲のヴィデオが送られてくる。聴いていると、つい無意識に4度、5度、3度、6度と音程を耳で追ってしまう。そんな時、目に見えない輪が目の前でふわふわ浮いているのを感じる。
一方、山根さんを交えた三重奏曲は、さまざまな大きさの二等辺三角形が、ちょうど知恵の輪のパズルの塩梅で、どこともなく絡んでいるように見える。ピアノパートが与える印象だろう。2和音とそれをつなぐ別の1音が描き出す三角錐の空間。
ベネディクト16世逝去。イギリス、フランスも中国から到着する旅客に陰性証明や抗原検査義務化。明日からクロアチア通貨はユーロとなるが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを超えた先、コソボ・セルビアでは衝突が尖鋭化しつつある。こうしてウクライナ侵攻の足音は、西ヨーロッパ手前まで波及しつつある。(12月31日ミラノにて)

ベルヴィル日記(14)

福島亮

 もう1月! 11月末から12月はじめにかけて、連日徹夜が続いていたからだろうか。気がついたら12月1日の夜になっており、ああ、しまった、ベルヴィル日記を送り損ねた、と思ったのだが、後の祭りだった。

 ベルヴィルでの生活も残すところあと2ヶ月弱となった。フランスの新年は比較的静かである。というのも、お祝いといえばノエルだからである。少し前に国立視聴覚研究所(INA)の映像アーカイヴを見ていたら、ビュッシュ・ド・ノエルについての短いドキュメンタリーがあった(https://youtu.be/tbhAOpvvqDU)。1980年頃の映像らしいが、ノエルになると暖炉に大きめの丸太を焚べ、その上に人参などを並べて燃やすという風習が当時の田舎にはまだ残っていたらしい。ビュッシュ・ド・ノエルというと、私は単なるロールケーキくらいにしか思っていなかったのだが、古い起源があるようだ。もっとも、もはや暖炉を使う家自体がそんなにも多くないだろうから、この行事がどれだけ残っているかは謎である。

 私は2018年までビュッシュ・ド・ノエルなるものを食べたことがなかった。その年、マルティニックでノエルを過ごしたのだが、滞在していた家の人がパーティーで切り分けてくれたのが最初だった。それは熱帯にふさわしく、パッションフルーツ味のクリームで作ったアイスケーキだった。でもそれ以降、ビュッシュ・ド・ノエルを食べる機会にはめぐまれなかった。というのも、このケーキはみんなで切り分けて食べるものであり、私のような一人暮らしの外国人にとっては少し敷居の高い食べ物なのである。もう去年になってしまったが、12月23日、ある日本人の知り合いの家に呼ばれて夕食をともにした。そうだ、と思い、ビュッシュ・ド・ノエルを購入して持って行った。フランボワーズで色付けしたクリームに覆われた可愛らしい丸太を切り分けて食べてみると、そのピンクのクリームは、バタークリームだった。ビュッシュ・ド・ノエルは数日間店頭に陳列されるため、生クリームというわけにはいかないのだろう。これがバタークリームケーキか——と、感慨に浸った。

 というのも、まだ私が幼かった頃、母がバタークリームケーキの話をしてくれたのを思い出したからである。後に私の母となる群馬の田舎の少女は、地域の行事でもらったバタークリームケーキを喜び勇んで食べたところ、ひどい吐き気に襲われ、以降、バタークリームはその名を見るのも聞くのも嫌になったらしい。どうも母が子どもだった時分はバターの代わりにショートニングを使用した偽造バタークリームも多かったようで、少女時代の母がそれを食べてしまった可能性は高い。ケーキといえば生クリームのものしか見たことがなかった私にとって、バタークリームケーキはずっと謎の食べ物だった。ようやくその謎のケーキに巡り合うことができたのである。

 ちょうどその日だったのだが、隣の区でクルド人を狙った発砲事件があった。犯人は69歳の男性で、刑務所から釈放されたばかりだったという。事件の直後、警察によるクルド人の保護が足りなかったとして、クルド系住民と警察の衝突があった。日本にいる知人から私のもとに心配のメッセージが届いたのはその衝突も終わりかけた頃だった。その日は朝の市場に行ってから部屋にこもっていたので、そもそも事件に気づいていなかった。「黄色いベスト運動」が火を吹いていた頃は、デモ隊に混ざって催涙ガスを浴びたりもしていたのだが、今は滞在許可書の更新中ということもあって(12月が今持っている許可書の期限なので、残りの約3ヶ月間のためだけに更新手続きをしているのだ)、今回の事件の抗議集会には足を運ぶこともなかった。

 でも、たとえば攻撃がアジア系住民に対するものだったら、自分はどうしただろうか。警察の不備を訴えて、街路に飛び出しただろうか。思い出すのは、コロナが蔓延し始めた頃のことである。私自身は経験したことがないのだが、その頃アジア系住民に対するヘイトが多くあり、実際、私の知り合いは道を歩いていて唾を吐きかけられ、ウィルスと罵られたという。このような事件がある場合、とくに中華系の住民は激しい抗議を行う。それだけでなく、あの頃は、食堂でも商店でも、彼らはマスクを二重にし、ことあるごとに手指を消毒していた。私がヘイトに遭遇せずにすんだのは、運が良かったからではなく、彼らの抗議行動と努力によって守られていたからである。そもそも、「中華系の住民」とは一体誰のことか。ベルヴィルで出会うあの人やこの人がどこから来たのかはよくわからないし、市場に行けば、私も「ジャッキー・チェン」と呼ばれることがある。どこから来たのかとか、何系なのかということを本当はそんなにも気にしなくて良いのかもしれない。だからこそ、特定の住民を狙った事件は気分を重くさせる。

 それにしても、静かだ。じつは、ベルヴィルの新年は、春節の方が何倍もにぎやかなのだ。もう数週間からひと月ほどすると、通りを獅子舞が練り歩き、商店に入れば、お祝いとして大きなミカンをくれるだろう。だがそれはまだ先の話である。ひたすら静かな大晦日だ。と思っていたら、何だか外がにぎやかになってきた。出てみると、目の前のベルヴィル通りに辻楽師がやってきていて、中型のドラムと小さなバグパイプを演奏している。太鼓の方はダルブウカ、バグパイプの方はメズウェドといい、どちらもチュニジアの伝統楽器だそうだ。通りには人だかりができていて、なかには踊っている人もいる。ああ、楽しいな、こういう時間がずっと続けばいいな、と思っているうちに、音楽は終わり、楽師たちの姿は消え、人だかりも散ってしまった。

仙台ネイティブのつぶやき(78)ミヨコの出立

西大立目祥子

ついに、母をグループホームに送り出した。どこにいても母のことを気にしなければならないような生活を送るようになって15年くらい経っただろうか。2020年の新年に転倒して救急車を呼んで以来、夜に一人で寝せるのが心配になって週3日泊まる生活が続いていた。このままあと何年かは続けられそうな気もしていたのだけれど、8月の二人そろってのコロナ感染という経験をしたら、何だかどっと疲れが出た。いや、疲れていたことに気がついたというべきか…。もうそんなに頑張らなくていいよ、と弟にも連れ合いにもいわれるたび、いやいやまだ大丈夫と胸の内でつぶやいていたのだったが、秋風が吹くころになったら無理な決心でもなく、もう私がずっと抱えていくのは難しいかなと、思えるようになっていた。

躊躇していたのは、一度出たらたぶんこの家に生きて帰ってくることはないだろう、と考えていたからだ。外出とか外泊とか、もとは気軽にできたことが、コロナ以後はかなわなくなった。会うことすら難しくなるだろう。60年以上も暮らし続けた家を離れる。判断できない本人に代わって、それをこの私が決心するということの重さにたじろいだ。
それに「入所」ということばもいやだった。生活の匂いのない、無味乾燥ながらんとした施設に行くみたい。刑務所じゃあるまいし。

幸い、これまでお世話になったケアマネージャーさんともつながりが保てそうないいグループホームが見つかった。私の家から歩いて10分。何となく近くに母が引っ越してくるような感覚が持てなくもない。
ヘルパーさんを統括していたエミコさんには、「すっかり元気になっての入所なんだから、うまくやっていけると思いますよ。弱って入るわけじゃないんだから、本人のためにはいまがいいときですよ」と励まされた。この人と話しているといつも頭のモヤモヤが整理整頓されていく。そうだ、何といっても転倒からもコロナからも復活をとげた94歳なのだ。「きっとうまくやっていける」というひとことに、私の中のうしろめたいようなたじろぐような気持ちが薄れ、母の前途を祝し送り出そうと思い立った。

10年以上もお世話になったケアマネージャーさん、ヘルパーさん、いつも気づかって訪問してくれた民生委員さん、従姉妹や叔母たちに、これまでのお礼をこめて紅白のお餅を引くことにした。この餅、近所の藩政時代創業のお菓子さんのもので日露戦争に勝利した記念につくったとかで、「全勝餅」というめでたい名前がついている。いわくはどうあれ、出立にはふさわしい。そのほか、母が5、6年前まで熱心につくっていた刺し子のふきん2枚、友だちにたのんで焼いてもらったシュトーレンを用意して、母の入居前日にはケアマネさんやヘルパーさんに集まってもらって壮行会を開くことにした。壮行会といったって、いまはお茶もお菓子もご法度なので、母がお茶をすすりお菓子をおいしそうにたいらげるのをみんなで笑いながら見ていただけなのだが…。

母の入居前日、この日はいろいろなサービスの最終利用日だったのだが、週一回、お昼のお弁当を届けにきてくれていたタマミさんが、「今日で最後ですね」と玄関に入ってきて母の顔を見るなり泣き出した。「私、ミヨコさんの笑顔にすごくなぐさめられてました」とお弁当を手渡してくれる。この人とは毎回わずか30秒くらいの会話なのに気持ちが通じている感じがあって、庭の花をあげて花の話をしたり、母と私がコロナに感染したあとは、遠くで暮らしている息子さんがコロナに感染後に体調を崩していて心配、と打ち明けられたりした。黄色いジャンパーを着込んで、庭に入り込んでくると気持ちがぱっと明るくなるのだった。

わずか1時間のサービス時間内に、昼食を食べさせ、トイレ介助をし、散歩にまで連れ出してくれたマチコさんには感謝しかない。いつも日報を書いているのを邪魔して、庭の木や鳥や本の話をするのが私の楽しみだった。きめ細かい対応をしてくれる人で、たとえば届けられたお弁当をそのまま母の前に出すことをせず、小さな小皿に移し替えて少しずつ食べさせてくれる。食べるのが人一倍早いことを配慮してのことだった。体温はもちろん、歩き方、食べ方の小さな変化から心情や体の変化を読み取ることに長けていて、それは母だけでなく私にまで及んだ。1年ほど前のことだったか、母に決していってはいけないようなひどいことばをぶつけたことがあって、そのことを打ち明けたら、マチコさんはこんな返し方で私の胸の中に残った黒い固い石のような異物を溶かしてくれた。「大丈夫、ショウコさんは絶対に後悔しないから。答えは全部ミヨコさんが出してくれるから」

介護保険制度がスタートしてからずっとヘルパーをやってきたというから20年のベテランなのだが、亡くなったり施設に入る人が多く、母のように10年も長く通った利用者はいないのだそうだ。「いろいろな人がいてね、怒鳴る人も多いし、愚痴ばかりこぼす人もいるの。ミヨコさんみたいに明るくて、いつもありがとうっていってくれる人なんてめったにいない。だからここに来るのは楽しみだったの」。帰るとき、母といっしょに門のところまで出ると、「ミヨコさん、元気でね」と母の手を握ったとたん、ああ泣かないつもりだったのにといいながら、目がみるみる涙であふれた。軽やかに自転車にひらりと乗って右腕を高くふる後ろ姿を、二人で見えなくなるまで見ていた。

ほどなくして、従姉妹がケーキの包みをかかえやってきて、玄関先で母を励ましてくれた。夕方訪問のヘルパーのミチコさんは、大きなカステラを焼いて持ってきてくれた。A4判くらいのビッグサイズ。いつものように散歩やお掃除をそつなくこなすと、「ほんとによく頑張ったよ」と私をねぎらってくれ、最後の最後、玄関で顔を見合わせたとたん、マチコさんと同じように泣かないつもりだったのにといいながらぼろぼろと涙をこぼした。東日本大震災の直後からだから、もう10年以上のつきあいだ。本当にありがとう。元気でね。

毎週火曜日、母は一日家にいたので、私は前の晩から泊まり、つぎつぎとやってくるヘルパーさんやお弁当配達に対応し、顔を合わせしゃべり、デイサービスの電話を受け、ばたばたと落ち着きなく過ごしていた。
それが、いまでは…だれもこない。部屋の空気も物も動かない。母の使っていた湯呑は戸棚の中に納まり、箸は使われず箸立てに立ったまま。窓辺にあった母愛用のテーブルはグループホームに運び込んだので、部屋が少し広くなった感じがする。
ああ、そうかと、いまごろになって私は気づかされている。私があらゆる介護の手続きをし、ヘルパーさんを手配し、母の面倒をみていると思っていた。ちがう。これは母のつくったコミュニティなのだった。そこに私が招かれ、そこに集う人たちと交流し楽しませてもらっていたのだ。主役は母。だから、みんな母の顔をのぞき手を握り、別れを惜しんで涙ぐんでいたのだ。
認知症であっても高齢であっても、人はその存在感でまわりに人を寄せるんだなあ。

グループホームに入居して半月。最初の一週間は眠れなかったり、夜起きてきたりが繰り返されたみたいだ。でも一昨日、電話でスタッフと話したときは、散歩をしたり車に乗せてもらって近くをドライブしたり楽しめるようになってきたようで少しほっとする。「前途を祝し」送り出した私のためにも、そこでも持ち前のパワーで暮らしを広げていってほしい。
ミヨコさん、どうぞよいお年を!

フリカエリ

笠井瑞丈

今年も気づけば
あっという間に過ぎていった
今年何をしただろう
そんな事を振り返る

2022年

1月 リンゴ企画近藤良平
「百年大作戦」
『正直者は笑い死に』
 近藤良平×笠井瑞丈

2月 人生初のコロナになる

3月 天使館ポスト舞踏公演
「牢獄天使城でカリオストロが見た夢」

4月 コロナ副作用に苦しむ日々

5月 笠井瑞丈×上村なおかプロデュース公演
笠井叡×平山素子
J.S.バッハ作曲『フーガの技法』を踊る

6月 初めての一人車旅に出る

7月 埼玉舞踊コンクール審査員

8月 笠井家公演『喜びの詩』
構成・演出・振付:笠井瑞丈

9月 night session vol.06
笠井瑞丈×伊藤キム

鎌鼬芸術祭に参加

10月 HOT POT韓国ソウル
花粉革命

11月 『DUOの會』再演

12月 『ダンスブリッジ』
笠井瑞丈×上村なおか
新作上演

来年もまた踊っていこう

ジャワ王家の世代交代 その後

冨岡三智

●マンクヌゴロ家

2021年9月号「ジャワ王家の世代交代」でも書いたように、2021年8月13日にマンクヌゴロIX世が亡くなった。IX世には現王妃との間の息子以外に離婚した妻との間にも息子がいて、一時不穏な動きも見せていた。結局、2022年3月12日に現王妃の息子が無事にマンクヌゴロX世として即位した。

X世は昨年中にお披露目記念として舞踊団をマレーシア、オーストラリア、タイに派遣、12月にはジョコ大統領の末の息子の結婚披露宴に王宮の使用を許可し、王宮の北西の元テニスコートの敷地にPracima Tuin庭園を整備(1月から正式公開)…と精力的に行動している。各方面と連携しなければこれだけのことは実現できないだろう。若いながら王家の責任を背負った立派な当主だなあと感じている。

●スラカルタ王家

一方、病気のスラカルタ王家の当主・パクブウォノXIII世(74歳)も、2022年2月27日の即位記念日の式典において、現王妃との間に生まれた息子プルボヨを正式に皇太子とした。21歳とまだ若いが、同世代のマンクヌゴロX世と競い合いつつ頑張ってほしいなあと願っている。

XIII世は3月のマンクヌゴロX世の即位式には出席していたが、現在、健康具合はかなり深刻な状態だという。XIII世は3度結婚しており、実は離婚した2番目の妻との間にもう1人息子:マンクブミがいて、皇太子より年上である。だが、2022年12月24日、王家の慣習評議会の長であるムルティア王女の意見により、彼はハンガベイと改名された。ムルティア王女はXIII世とは同母きょうだいだが、もう何年もXIII世に遠ざけられ、王宮内に入れない状態が続いている(た)。このハンガベイという名は庶子の中で最初の男子に付けられる名前である。父親のXIII世も即位前の名前はハンガベイだった(XII世は側室はいたが王妃を立てなかった)ように、王になれる可能性のある名前だ。というわけで、まだまだ内紛は終わりそうにない。

シンハマオカ

北村周一

世界一キケンなこともその訳も知らされずしてハマオカはあり
秋の日のドライヴにしてハマオカへクルマ走らす明日はどっちだ
雨の中あすのゲンパツはまおかに見てのかえりに思うことごと

ことあらば避難場所にもなるらしき展望台よりハマオカを望む
地上約60メートルのたかみへと昇るうつしみゲンパツを見に
ふかぶかと展望台より見入りたる明日のゲンパツ原発のあした

中空にうかぶ方舟さながらに展望台ありハマオカの地に
見下ろせば海と砂丘とゲンパツが視野にひろがるわたしは小舟
海のべに暗くひろがるゲンデンの建屋いずれも箱庭のごとし

ハマオカは中部電力唯一の原電にして砂丘のうえに
はまおかの海と砂丘に囲まれて長閑なりけり明日のゲンパツ
大鳥居と送電塔とに守られてならぶ原子炉ハマオカともいう

活断層砂丘の下に隠れいて原子炉五つそのうえにあり
世界一危険なることいましばしわすれむごともハマオカに遊ぶ
遠洋のマグロ獲っては棄てしことも核とゲンパツ根っこはおなじ

死の灰にまみれし黒き雨ガサを振りまわしつつATOMの子らは
地図ひらきはかる半径モノ差しの起点すなわちハマオカちかし
定規手にハマオカまでの隔たりを探らんとして逃げ場所いずこ

ハマオカの外へ外へとながれゆく雲に切れ目はあらずやカモメ
地図ひろげ距離と風向きいま一度ハマオカまでのドライヴおもう
近いのにとおい存在ハマオカを地図に拾えば塵のごとしも

地図上の同心円の中ほどに消え入るごともハマオカはあり
同心円状にひろがる雲の群 にげ場なき闇しるす地図帳
色のない雲のゆくえを地図上に追いつつ起点ハマオカに至る

いいこともあるのだろうが廃炉へのみちのり淡きハマオカの町
いいこともあったのだろう再稼働の声もちらほらゆれるハマオカ
隠しごともトラブルもまた多くしてどこへ行くのか中電の町

地震にも津波にも耐えていきのこる夢のゲンパツおもいみ難し
遠州はいいところだよとカラっかぜ身に受けながら給油所のひと
遠州のかぜよりつよく吹きわたる声を恃みにゲンパツにノー

北にリニアみなみに原子力ありて不穏なりけり中部電力
再稼働をうながす声はあきらけく西にひがしにハマオカにても
そのたびに嵩上げされたるハマオカのなみ打ち際の防波壁異様

下請けの下請けもありてハマオカのあちらこちらに中電のひと
浜岡は雨に濡れつつみどりなす丘の茶ばたけ育むところ
茶畑の丘に連なるハマオカの緑の木々のゆたかなことも

ふる雨のにおい懐かし茶ばたけの緑のはてに海あることも
やわらかにみどり列なる茶畑の大地の向こうハマオカはあり
エントツが煙吐くときうきうきとこころ踊るを懐かしみつつ

憂いつつ深けゆく秋の一夜ありて明日のゲンパツ見て来たりけり
秋の日はしずみやすくてハマオカに夢のゲンパツ見て来たるなり
海沿いの街のはずれに忽然とすがたあらわすゲンパツのリアル

街はずれの海岸線にみえかくれ ゲンパツまとめて花いちもんめ
原電がここにあること世界一キケンなこともハマオカは雨
ミライへの利用をうたう中電の原子力館あかるかりけり

安全を守る基本は止める冷やす閉じ込めることだと語る〈ユウユウ〉
見てふれて遊んで学べる中電の原子力館たのしくあらな
こわしつつつくりつづける力学の外部にありや原子力とは

捨て去るもつくり直すも能わざれば閉ざすほかなし夢のゲンパツ
いわれなき電力不足に踊らされあすのゲンパツゆめ見るごとし
この冬の電力不足を説くキミの発言にわかに熱を帯びたり

電力の逼迫を煽る英知あるひとの言動テレビが流す
御前崎大地のみなみハマオカに向けて真っ直ぐ走る断層
オマエザキ大地は古来大地震の巣窟にして揺れ止まぬなり

オマエザキとハマオカ砂丘はひとつにて活断層はねむらずにいる
巨大地震のツメ痕のこる御前崎大地にまなぶ履歴そのほか
自然には時間感覚あらずして大地は絶えず揺れつづけおり

さわれそのゴミの数数どうするのもしものときは海へ捨てるの
それぞれの庭の片隅ふきだまり目には見えねば掃くひともなし
燃料は極小にして極大の熱量を得るもその後の処理は

中性子をウランに当てて熱量を得んとするにも水が必要
いずこにも貧しき町はあるらしくさがす候補地札束散らし
いずこにも寂しき町は横たわり誘致にはげむ電力会社

延長を重ねかさねてつつがなく働かされる原電とその他
中電が人工的にこしらえし砂丘の蔭にもゲンデンはあり
エネルギー危機に乗じていきなりに原子力へと舵切るやから

思いのほかコストが嵩む原子力利用 そのかげに潤う人も
つくるにもこわすにもまた莫大な費用がかかる原子力とは
旧小笠郡浜岡町に落としたる協力金約三十億のゆくえ

ゲンデンのかげにときめく人らあれば愁うる人も秋の夕暮
世界一アブナイなんてハマオカはハザード・マップに記載はなきに
シンゴジラやらシンウルトラマンもあらわれてゆく年くる年新年だもの

*ユウユウとは、中部電力が運営する展示館「浜岡原子力館」のイメージキャラクターのこと。

休みの間に

高橋悠治

静かな新年。4月まで休みにしたが、何もまとまったことはしていない。音を書く、作曲というより、音の空間に線とその変化をスケッチして、手が動く変化の跡を追ってみようか、と思っているうちに2ヶ月が経った。音の群れが飛び立つ様子を、即興というよりは、引用と歪み、それらの断片を継ぎ合わせる。だが、これはまだやっていないことだから、しばらくはピアノを練習して、手が動くようにしておこう。

シューマンの「詩人の恋」のピアノを練習する。ヒンデミットの「マリアの生涯」の旧版と新版とを照らし合わせてみる。そんなことをしているうちに、何か思いがけない変化が起こる、という期待はない。

一柳慧が亡くなった。磯崎新が亡くなった。コロナが流行しているうちは、人に会うこともなく、新聞も TVも見ないうちに、時が経っていく。

点ではなく、短い線の集まり。 ストラヴィンスキーが毎日30分ずつ書いていたように、何のため、というより、毎日の仕事としてページを音で埋める。そのほかに、ピアノを1時間ほど弾く、とする。

2022年12月1日(木)

水牛だより

体は寒くなりたてが一番冷えますから朝夕冷える時や急に寒くなった時は手加減をせずにしっかり着込むのが吉です。と、漢方の人におしえてもらいました。寒くなりたての冬に、しっかり着込んであたたかく過ごすことができれば、とりあえず、明日は無事。

「水牛のように」を2022年12月1日号に更新しました。
12月10日(土)15時から、イリナ・グリゴレさんのトークがあります。お相手は寄藤文平さん。『優しい地獄』の装丁者です。
https://akishobo-event-221210.peatix.com/
イリナさんの書く日本語は連載の回をかさねるごとに流暢(?)になってきました。しかし彼女が書く日本語はそこなわれることなく、むしろ魅力を増していると思います。どんな言語であれ、ことばにスピリッツが宿っていれば、それは人々に伝わり広がっていくのだなと感じる2022年でした。

それでは、来年もまた更新できますように! 良い年をお迎えください、とのんきに言うのがためらわれる年末ですが。。。(八巻美恵)

葡萄の味

イリナ・グリゴレ

土曜日の夜、アゼルバイジャンの作曲家が作ったバレエ音楽をラジオで聴きながら、娘たちと3人で獅子舞の練習から帰る。ドラッグストアでドリトスを買って、久々に食べたくなったから片手で運転してムシャムシャに食べている自分が車の窓から見える気がする。自分が夜行性の野生動物にしか見えない。スナック菓子ではなく、猪を齧っている顔だ。今は車の中なのか、外なのかわからないぐらい浮いている気分だ。それはそう、何年か振りに獅子舞を舞ったから。下手だったが、その時空間では私の身体がものすごく軽かった。何百年も前の踊りを身体に与えるチャンスが生きている間に誰も一度でもいいから体験してほしい。その踊りには全てのこの世の秘密が隠されているから。

言葉はいらない、歴史も地理も、音楽も、国語も、社会も、科学も、全ての科目を一瞬でわかる。その上、身体は透明になってあらゆる生物と繋がるという感覚になっていく。腰を低くしていたせいか、手術の傷あたりに気持ちのいい痛みを感じた。山伏由来の踊りだ。治療された気がした。その夜はお囃子がなかったが、音が身体の奥から響いた。誰か歌っていたかもしれない。こんな美しい世界だったのかと練習を終えた娘に言いたくなる。皆はつながっている。皆は同じ生き物だと周りのメンバーと遊び出す子供を見て、自分の足と頭、腕などバラバラに集会場に広がる感覚となる。帰りのラジオでアゼルバイジャンのバレエを聞いてピッタリだと思った。このバレエで獅子舞をやりたい。

真っ暗の帰り道で育っていた村をよく思い出す。村とは世界のどこにいてもあまり変わらないかもしれない。同じ星が光っていることは確かだが、暗やみも同じ。薪ストーブの匂いも同じ、空気も同じ味がする。私の村にはりんごではなく、葡萄畑が広がっていたのはただのディテールなのか。葡萄の味といえば初恋の味だ。ドリトスを食べながらこのことを思い出すのかと自分に怒っているが、あの頃のイメージが頭の中で苦しいと思うぐらい再生されている。外に出て遊びたい子供のように。きっとどこの村でも、初恋が同じのような同じではないような経験だ。赤松啓介の『夜這いの民俗学』を読むと男女の性は時代、文化、村などによると思う。普遍的な初恋の経験がない。ここ最近の私の疑問—生物の身体、物体の経験は普遍的ではないことが確かなのに、なぜ社会は普遍的にしようとしているのか。社会とは何?誰?

娘がなぜか隣で「パチンコをやりたい」と言い出すから自分の考えが切れた。「やったことがある?」と聞くと、「ない」と答えるけど、キラキラした光に魅力されて入ってみたくなるそうだ。パチンコには入ったことがないけど、初めて日本に来た時に、コンビニ、ドラッグストア、ゲームセンターに入った時の驚きを覚えている。それは私にとっていまだに現代アートの体験のような体験だ。

ドリトスを買った時も、新しくできたドラッグストアで娘とピカピカの床を踏んで足音に敏感になって、棚とたくさんの色鮮やかな商品の間を歩いて目眩がした。毎回そうだ。おやつを選ぶのに10分はかかる。多すぎて、次女がどれにするか「迷っちゃう」と、パッケージの写真を見比べ、一番色鮮やかで、一番綺麗な写真がついているおやつを選ぶ。こんな綺麗なプリンなどリアルの世界では存在しないのにね。パッケージの下に小さく「イメージです」と書いてある。文字が読めない次女は幸せ者だ。ある意味で、色のセンスと想像力が育つかもしれないので楽しむしかない。

お陰で、次女はスイカペペという観葉植物から来年までに大きなスイカができると信じているし、ペットにはキリンがふさわしいと思っている。いつキリンを飼うと思い出すたびに聞かれる。母親として本当の世界を見せる責任があると言われても、当の母親も本当の普遍的な世界が分からないので難しい。でも、スイカペペからスイカができたら楽しいと思う自分がいるので、その想像を壊したくない。世界がつまらなくなる。結局のところ、全ては、人間を含めて種から出るので、その種を植えて何が出てくるか想像することは大事だと思う。想像と体験は同じだ。

初恋の味に戻る。13歳の遅い秋に私は隣の村の従姉妹の家に泊まった。彼女の家の向かいの家に4歳年上で若い頃のジョニーデップそっくりの、村一番のイケメンが住んでいた。彼は私をみて「かわいい、ほっぺは桃みたい」と寒い日に顔が赤くになる私に言った。喋ることはそれだけ。彼の母も私をみて「美人、本当にほっぺが桃みたい」と言った。その夜に従姉妹が私を村のディスコに連れていった。村の若者は酒を飲みながら大きなスピーカーで音楽を鳴らして踊っていた。私は初めてこんな所に入ったから音と光、タバコの煙で目眩したが思い切り踊った。テンポがゆっくりのラブソングが始まったとき、カップルでくっついて踊っている者が多い。彼が私を誘って、初めて暗みの中で彼の黒い目が猫の目のように光ると気づいた。それ以降、このような経験はもうないと思うほど身体が溶けるような感覚で彼と繋がった感じがした。帰りに何も喋れないまま畑の間の道を歩いて、従姉妹の家の前のベンチに二人で座った。ベンチの上に葡萄の木があって、黒いスチューベンの葡萄が見事に実っていた。彼の目も、スチューベンも黒かった。星もお月様もない夜に葡萄を食べた後、人生で初めて男にキッスされた。その後は口の中に広がった葡萄の味が身体に染みて、いまだに感じている。初恋は永遠に私にとって葡萄の味がする。桃ではなかった。次の朝に街に戻って、毎日、彼に会いたくて泣きながら高校の受験勉強をしていた。彼にもう会うことがなかった。たまに本当にこんなことがあったかどうかわからない時もあるが、口の中で広がるスチューベンの味を身体が覚えている。

娘たちと獅子舞の練習から帰って車でアゼルバイジャンの音楽を聴きながら、隣の村の彼と結婚してずっとあの村で暮らす人生を想像した。しあわせだったのか。でも、貧困、低教育、DV、喧嘩の可能性が浮かんできて、想像するのをやめた。しかし、なぜか、車の中でチーズドリトスを食べているにもかかわらず葡萄の味しかしない。

大阪梅田駅

植松眞人

 JRは大阪駅で、阪神電車と阪急電車は梅田駅だった。もともと大阪市には北区梅田という地名がある。鉄道の駅がどこにあるのかをわかりやすくするという意図で考えれば、梅田駅という名称は間違っていない。しかし、JRが北区にあるターミナル駅を大阪駅だと言い、その近くに新大阪駅を作ってしまうと、どうしても梅田駅はローカル色を帯びる。観光客、特に海外からの観光客には梅田駅とは大阪のどこにあるのだと迷ってしまう人が多くなっていたという。そして、東京オリンピックが開催されるという前年の2019年に「大阪梅田」という駅名に改称された。ついでに阪急京都線の「河原町駅」は「京都河原町駅」となった。
 そんな住所を省略して作ったようなわかりやすい新しい名前を見ていると、小馬鹿にされたような気になってしまう。それでも、こちらも還暦を迎えたシニア層の大人なのでとやかくは言わない。言わないけれど改称から二年以上経っているのに、駅で配布された冊子にまれに「梅田駅」と書いてあるのを見ると逐一、駅員に見せてやろうかと思ったりもする。もちろん、思うだけで実行はしない。
 思うだけで、ということが増えた。思うだけで言わない。思うだけでやらない。そんな思うだけが少しずつ体の中に貯まっている気がする。そんな時に、「大阪梅田」という文字を見ると、二行に改行して、

大阪
梅田

と真四角にしてしまいたくなる。
 真四角になった大阪梅田は大阪と梅田のはずなのに、今度は梅大と田阪にも見えてきて、もう世の中の名前など単なる記号なんだ、わかりやすければいいんだ、と言われているようでむかっ腹が立ってきたりもする。もちろん、そう思っているだけで誰かにそれを言うことはないけれど。
 もうすぐ十二月だというのに、コートを着ると汗ばむような陽気の日に阪急電車に乗って大阪梅田に向かっていた時のこと。乗客がガラガラだったからだろうか。車掌さんはアナウンスをした。
「まもなく、梅田、梅田、大阪梅田でございます」
 なんだよ。梅田なのかよ、と嬉しくなった。
(了)

製本かい摘みましては(178)

四釜裕子

松本工房さんのサイトの新刊案内に、花びらが開くような造作のある本の写真を見つけて注文した。大きな紙が四方からトルネード式に折りたたまれて冊子に収まっているようだ。届いたのは『Arts and Media/Volume 12』(2022  編集:大阪大学大学院文学研究科文化動態論専攻アート・メディア論研究室、AD+D+DTP:松本久木) 。さっそく花びらのページを探すと、前後見返しの次の見開きが左右幅をやや控えた観音開きになっていて、それを開くと、折りたたまれた紙端が中央に十字を描いていた。ここから四方に角をめくって、その紙端を動きのままに軽く素直にひっぱると、くるりと開いて大きな1枚の正方形が現れた。おおー。

用紙は40センチ四方くらいか。中央に円形の図版、周りに放射状に配されたテキスト群が、濃茶の紙に金(金風?)1色で細かに刷られている。裏面もしかり。全面に、4×4=16の升目を軸にした縦横斜めの折り線。これ、あれだ。山口信博さんの折形デザイン研究所の「Fold IN Fold OUT」と構造は同じ。こつをつかめば、すうっと折れるやつ。「Fold IN Fold OUT」は2002年の「北園克衛生誕100年記念イベント」のチラシにも使われていて、DMとして用意するのに難儀したのだった。このとき私はこれを勝手に「〈の〉折り」とか「のの字折り」と呼んで、中央の正方形を囲んで「のの字」を描くように紙をたたんでいくのだよと、体に叩き込んだのだった。

『Arts and Media/Volume 12』の花びらのような折りは、「Fold IN Fold OUT」の外側をもう一巡折るという感じで、「トルネード折り」とここでは勝手に呼ばせていただく。のの字折りの感覚が戻ったところで、トルネード折りの折り戻しを試みる。折れ線以外のよけいなシワを作らぬよう注意して、さっき開いたのと逆の動きで折っていく。並製の硬めの表紙が途中でバタンと戻って手元がくるう。背の近くに折れ線が入れてあるので、ここはもう思い切って開ききってしまう。トルネード折りする紙自体はとても折りやすい。折り山の向きと折りぐせに素直に従っていきさえすればうまくいくのに、やっぱり余計な力が入る。それでも不意に、すうっと収まる。このしらっとした何気なさ。気持ちいい。折りの途中で現れる幾種類ものヒラ面も、そのつど左右前後の図柄のコンビネーションが美しい。

別の紙で同じように折ってみる。まずは4×4の升目をつけて、山、谷の折り目をくっきりつける。中央の小さい四角(用紙に対して大きさ1/8、傾き45度)を底辺にして、四方から中央へ、トルネード、トルネード……と紙を寄せるとたちまちすうっと収まった。気持ちいい。この折りの構造は三谷純さんのウェブサイト「折り紙研究ノート」でも「ねじり折り」として紹介されてきた。改めて見ると、〈「ねじり折り」 紙をひねって折り畳む構造をしていて、完全に折りたたむと平坦になります。紙が互いに重なり合ってループします(重なりにサイクルがあります)。中央部分は正方形である必要はありません。(中略)畳紙(タトウ)や「花紋折り」などに見られ、またTessellationと呼ばれる分野の折りにもよく登場します〉とある。確かに包み袋などでも見てきたが、印刷物の舞台として、しかも冊子のページになって機能している実物を、私は『Arts and Media/Volume 12』で初めて見た。

トルネード折りはわかった。しかしこれを冊子の中でページとして成り立たせるために、どんな造作がなされているのだろう。観音開きのページにトルネード折りした紙が貼り付けてあるわけだが、すきまにそっと指を入れてさぐると、接着はごく一部、中央の横ひと筋に入れてある。そのひと筋も、微妙な長さ。快適に開くために、なにかこう、計算すれば数値的にカンタンに出せたりするのだろうか。こちらはその絶妙に関心するばかり。そしてこの折りと貼り、まさか機械ではできないだろう。奥付には、「デザイン・組版:松本久木、印刷・製本:株式会社ケーエスアイ、印刷加工・太成二葉産業株式会社、アセンブリ・ツモロウ」とある。どんなふうに試作が繰り返されて、そして完成したのだろう。この間、そっと扱ってきたつもりだが、気づくとトルネード折りのページは結構よれてしまった。でもきっと大丈夫。折り戻した本を棚にさしておけば自然とシワは抜けていく。いいなあ、シワが抜けるって。

本の機械折りといえば、国産の「オリスター」という印象的な名前の機械があった。今もあるのだろうか。説明書を取り寄せたことがあるのだが、しくみや構造を手書きのイラストも添えて詳しく解説してあり、とてもわかりやすかった。中に折り方のバリエーションを示したページがあって、ここだけコピーしてまだ手元にとってある。大きな用紙を機械に入れて、バタンバタンと縦横からハネを倒して折っていくのだが、いかに多様に折れるかが図示してある。「二つ折」「巻三つ折」から始まって「二つ折平行外々四つ直角二つ折」とか「8頁直角巻四つ折」とか全67種。実際どれほど必要とされたのかはわからないけれど、バリエーションの多さというか多すぎさは、今見ても感嘆を超えた笑いを誘う。たくさんの図を見ながら、ここをノドに、ここを断裁してと、考えるだけで楽しい。

『アフリカ』を続けて(18)

下窪俊哉

 続けていると言っても、随分変わってきてますよね。先月、久しぶりに大阪へゆき懐かしい街で呑んで語っていたら、そんなことを言われた。
 まあね、最初の頃の『アフリカ』と、いまの『アフリカ』では全然違う。似て非なるものというか。
 例えば、こんなふうに捉えてみるのはどうだろう。

  黎明期 2006年〜2008年(5冊)
  展開期 2009年〜2011年(8冊)
  隔月期 2012年〜2013年(8冊)
  マッタリ期 2014年〜2018年(7冊)
  転換期 2019年〜2022年(5冊)

 その時の会話では『アフリカ』誌上で活躍した書き手の名前を冠して「誰 & 誰期」のような言い方をしていたのだが、それでは内輪話にすぎないような気がするので、上記のような見方をしてみた。
「黎明期」には、くり返し書くようだけれど、続ける気がなかった。というより、続ける気はないよと言いながらやっていた。それに、思い返せば最初の編集後記で自分は、『アフリカ』を小説の雑誌だと書いていた(いまの『アフリカ』を小説の雑誌だと思う人は少ないはずだ)。見返してみると、

『アフリカ』は、いちおう「小説」の雑誌だ。「小説」の基準は適当だが、詩を捨てて散文を志す。

 とある。
 詩を捨てるとはどういうことか。詩を読むのは昔から好きだが、そういう話ではない。『アフリカ』は当初、同人雑誌になると思っていたので、詩の同人雑誌はたくさんあるのに、小説の同人雑誌は少なくなっているようだから、小説の雑誌ですよ! とわざわざ宣言したかったのかもしれない。
 それはさておき、「いちおう「小説」の雑誌だ」というふうに「いちおう」をつけたり、括弧つきの「小説」にしたりと芸が細かい。しかも、その「小説」とはどんなものかというと「適当」だと言う。何か言いたげではないか。
 そこには何か、自分の感じ取っている「小説」があるわけだ。商業の上にというよりも、歴史の上に置かれるようなものが。
 身近なところから、その「小説」が生まれる瞬間を見たいし、それが出来る場を感じてみたかった。小説を書きたいという人が、小説らしきものを発表するための雑誌というのではない。小説を書く気のない人も『アフリカ』と出合い、書くことによって、小説を見出してゆく。そんなことが実際に起こり始めたのが「展開期」だった。
 最近になってある作者に話を聞いてみると、自分の体験を書き綴っているだけだと言っていたわりには、ある日の出来事に、数年後に見た風景を加えていたとか、かなりつくる意識があったことがわかって、面白い。
 その人によると、編集人(私)からは、よく「そんなに説明しなくていい」と言われていたという。あまりに言われるので、どうすれば見えるように、聴こえるように、感じられるように書けるか苦心していた、と。
 しかし、逆のことを言われていたと話す人もいて、つまり「もっと説明した方がいい」ということなのだが、作品によるというより書き手によるのだろう。
 そんな時期を過ぎて、続けようという意識が出てきたかもしれない。連載で書きたいという人に付き合って、隔月で『アフリカ』を出していた量産の1〜2年があった。その頃を「隔月期」としよう。

 さて問題は、「マッタリ期」だ。
 こどもが生まれて自分の生活が変わったということもあるだろうし、新しく始めたワークショップの仕事で忙しくて、なかなか『アフリカ』に向かえないということもあった。それでも年に1冊、薄い雑誌をつくるくらいは出来た。
 この編集人がやる気にならないと、『アフリカ』は出ない。でも起き上がれば、仕事は早い(いい加減なところはあるかもしれないが)。呑気といえば、呑気だ。そんなふうに、マッタリ続けていた5年間がその頃にあった。
 雑誌づくりには熱心でなかったかもしれないが、ワークショップのイベントにはよく働かされていた。その頃、『アフリカ』を続けるのに自信が持てなくなっていたかもしれない。ある所では、お互いに協力して一緒にやってゆきませんか、という話を持ち掛けたこともあって、一時はそんな気にもなっていた。
 その流れで2008年6月に、『アフリカ』を主題にしたワークショップも一度やってみようという話になり、「『アフリカ』をよむ会」をやった。その打ち上げの席で、酔っ払って、『アフリカ』以外の本もいろいろとつくってみたいんだよね、という話をしたところ、「まずは下窪さんの本をつくればいいよ」と言った人がいて、それを受けて「いや、下窪さんの作品はどうでもいいんだ」と言った人がいた。
 それで何か、目が覚めたようになった。
 その時の、その声は、いつまでも自分の耳に残った。
『アフリカ』のような場をやってゆくのに、自分の作品はどうでもいいのだろうか。確かに『アフリカ』を支えている自分は裏方のようなものかもしれない。いや、どうだろう。

 前回、「『アフリカ』もワークショップであると言い切ってしまいたい気持ちがある」と書いた。
「小説」と同様に、「ワークショップ」にも、自分の見ているワークショップ像がある。本当にワークショップなら、私自身が参加していないというのはおかしい。それにワークショップはワークショップであって、イベントではない。一時のものではない。でも多くの人には一時のものしか見えていないのかもしれない。気弱になるとそんなことも考えてしまう。
 正直なところ、続けたい? と自分に聞いて、小さく、うん、と言う。
 それなら、やりたいんだから、誰もついてこないということになってもいいから、またやろう、と決めた。

 いつも困った時に助けてくれるのが『アフリカ』じゃないか。よし! 『アフリカ』をプチ・リニューアルしよう。まずは、カタチから? というので装幀の守安くんにメールして、『アフリカ』の背表紙には字を置かず、並べた時に色が並んでいるだけにしようという当初の狙いを崩してしまうんだけど、背表紙をデザインしてみない? と伝えた。そうしたら彼は、そんな話、あったっけ? と言う。あれれ、記憶が変わってしまってる? それから、こうも言われた。でもさ、切り絵(の画像)の一部が背表紙に入ってしまった号があったから、もうその狙いは崩れてしまっているよ。

しもた屋之噺(250)

杉山洋一

先日、偶然知り合った杉山さんという方から、「川崎の杉山神社にお参りしてから、立て続けに縁起の良い事が続きましてね。ずっと誰かに言いたかったのですが、こんな話は杉山さんにしか出来ないでしょう。是非一度足を運んでみてくださいよ」とお話を伺いました。
とはいうものの、調べてみると杉山神社は、町田、横浜、川崎などに集中する神社で、以前は70社以上もあったといい、合祀などで減った現在ですら40社前後が残っているそうです。それほど数も多ければ、確かにどこかで有難いご利益にも預かれそうな気がしますが、川崎の杉山神社と言ってもどれか分からなければ訪れることもままならないので残念です。
信じ難い思いですが、今年ももうすぐ終わろうとしています。この数年で、世界は明らかに新しい時代へ足を踏みこんでいるのは解りつつも、それが何を意味しているのか、まだ誰にも詳らかになっていないように見えます。

11月某日 ミラノ自宅
朝一番でミラノ大学前の理髪店に出向くと、思いがけず学校の同僚のYに会ったので、そのまま暫く隣の喫茶店で話し込む。同世代の彼女も、同じEU圏外出身である。彼女は以前、イタリア人と結婚していたが、ご主人は病気で亡くなってしまった。イタリア人と結婚していたのだから、学校の契約条件も我々とは違って優遇されると思いきや、案外そうでもないらしい。昨年度、彼女は国立音楽院から臨時教員の声がかかり、暫くうちの市立音楽院を休職していた。何故か分からないが、国立音楽院で一定期間長期で働く場合、市立音楽院とは契約出来ないシステムになっている。
その所為か、長年とても慇懃だった市立音楽院の事務局から、途端に冷淡な言葉を掛けられるようになった、と思いつめた顔で呟く。「他を全てを失っても、市立音楽院の職を続けられるよう、身辺を少しずつ整えてきたのに」。
今後、我々のような外国人は、イタリアの右派政権にどうあしらわれることになるのか、彼女は不安で仕方がない。他EU諸国に比べてイタリアは突出して外国籍の教員が少ない。そこには自国民の優先も当然あるのだろうが、押しなべて賃金も低いから、外国人にとって魅力に乏しかったのかも知れない。
直近で何かが起こるとは思えないが、我々のように無期限滞在許可証とフリーランスビザを所得していても、政府の方針転換次第でいかようにでも扱われる可能性は否定できない。
長年懇意にしているタクシーの運転手からも、今回のメローニ政権には期待しているんだ、彼女はよく頑張っているよ、と言われたのを思い出した。ごく当たり前のイタリア国民の民意はこういうものなのだから、我々がそれに対し意見するのも見当違いなのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
目下父子生活中だが、息子曰く虫歯の治療痕が痛むらしく、電話をして歯医者の予約を取る。未成年の診察には基本的に親が同伴する義務があるのだけれど、音楽院の授業が夜9時まで入っていて身動きが取れない。身分証明書の写しを添えた誓約書をメールで提出して、一人で診察に向かわせる。夕方、映画音楽作曲科の学生をピアノの周りに集まらせて授業をしていると、歯医者から電話がかかってきた。「いやお父さん、ちょっと厄介ですよ。先日治療した虫歯ですがね、あれから静かに進行しておりましてね、あと一歩で神経を抜くところで」云々。歯医者の声が大きく、電話の会話は学生皆にすっかり聴こえているので、みなクスクスと笑っている。

11月某日 ミラノ自宅
ミラノでは、毎年10月15日にアパートの共同暖房が開始されるのだが、今年は燃料高騰を受けて11月3日に延期され、それも改めて11月10日まで再延期されたものの、やはり気温の急激な低下を受けて、11月3日開始に訂正され、漸く学校にも拙宅にも暖房が入った。次回の電気代請求が少々恐ろしい。先週は、学校のレッスン中に節約のために暖房が切られたので、教師たちが揃って学校に抗議の声を上げた。
息子とサラの二重奏は、フィエーゾレでチェロのディヴィッド・ウォーターマンに、ビエッラでヴァイオリンのマルコ・リッツィとピアノのアンドレア・ルッケジーニのレッスンを受けてきた。息子は特にルッケジーニのレッスンに感激していた。帰宅後、レッスン風景の録音を聴かせてくれたが、実に見通しのよい、的確で実践的なレッスンで、家人と二人、深く感銘を受ける。最早我々は息子のレッスンを聴いて学ぶような立場になってしまった。ルッケジーニは、晩年のルチアーノ・べリオの協力者でもある。
エマヌエラが国立音楽院の室内楽クラスで彼らに出した課題は、今年はシュトックハウゼンのソナチネと、レスピーギのソナタ、ベートーヴェンの9番ソナタで、室内楽を始めて2年目で随分と踏み込んだ選曲をするものだと驚いたが、寧ろ妙に作品を神格化せず、ともかく気軽にどんどん触れさせるのはとても良いことだろう。息子とサラが、メトロノームをかけながら、楽しそうにシュトックハウゼンを譜読みしている姿は微笑ましい。

11月某日 ミラノ自宅
来月初めの演奏会のため、武満さんの楽譜を日本から送ってもらったのだが、これがなかなか届かない。現在、日欧間の運送は、以前と比較にならぬほど時間を喰うのである。
簡単にネット上で状況は確認できるので、イタリアの税関を通過したところまでは判っていたが、その後いくら待っても届かないので、改めて配送状況を確認すると、今度は「配達済み」と書いてある。こちらは不在票もなにも受取っていない。慌てて運送会社のコールセンターに電話して、辛抱強く調べてもらうと、ジャンベッリーノ通りのコインランドリーで預かってもらっているという。事情も分からず、半信半疑で言われた住所に向かうと、確かに青いペンキで縁どられたコインランドリーの入口には、運送会社のステッカーが貼ってある。中ではアフリカかカリブの出身と思しき、派手なプリント地に身を包んだ、陽気で大柄の黒人妙齢が、足下の大きな盥に洗濯物を入れ、足で踏みながら洗濯していた。
頭が混乱したけれど、ともかく彼女に事情を話すと、馴れた様子で奥から配達物を出してきてくれて、受取りのサインをする。店内にはレゲエが流れていて、武満さんらしいカジュアルな雰囲気に、すっかり愉快な気分になった。

11月某日 ミラノ自宅
国立音楽院の選択授業で、息子はダヴィデの「現代作品演奏講座」の受講を決めた。初めての顔合わせで、ダヴィデから、今年は4人の作曲家の作品を皆で手分けして練習して、後日彼らを実際にクラスに招いて色々話してもらうが、その一人に君のお父さんを頼むつもりだ、と言われたらしい。
翌日ダヴィデから早速連絡がきて、お前のピアノ曲全部の楽譜を見せて欲しいと言われる。結局彼は、エルナンデスの詩につけた「vuelo」、教本をつくるためペソンから頼まれた「biondinetta」、メッツェーナ先生を偲ぶ小品「calling」、東日本大震災のあと、フェデーレに声をかけてもらって書いた「間奏曲VI」などを選び、それぞれの学生に振り分けた。
「間奏曲VI」は、自分でも長い間存在すら忘れていた。震災のショックで作曲できなかったころの作品で、音らしい音もなく薄気味悪い。「自画像」でもそうだが、意識しなくても、自分が身を置く環境の影響が、作品に如実に投影されるのは何故だろう。
うっすら覚えているのは、あのとき実際耳にしたか、或いは夢だったのか、果てしなく続く、何かが少しずつ滴る音である。一番作曲が辛かった頃で、書く喜びも失い、書く意味も分からなくなっていた。

11月某日 ミラノ自宅
聖カリメーロ聖堂でアルフォンソの「20の眼差し」を聴く。
演奏を始める直前、アルフォンソは聴衆に向かって、これから2時間強の旅をご一緒するけれど、皆さん長さを畏れる必要はありません、と語りかけた。全曲暗譜で弾いたからか、実に見晴らしよく、それぞれの作品がどう配置され、それぞれの意味がどうなっているのか、まるで手に取るように解ったし、それら全ては可視化されていたように思う。情熱が滾りひたむきで高邁な演奏は、聴き手の胸を直截に穿つ。
数客の燭台のほむらが、薄暗い教会の剥き出しのざらついた白い石壁と、天井一面に金箔が貼られたクーポラに、アルフォンソの影法師をめらめらと怪しげに映しだし、目の前の風景全てが鈍い金色に耀いている。次第に聴衆は惹きこまれてゆき、静けさのなかで、辺り一面が興奮の坩堝となった。宗教的、官能的な儀式そのものであるが、アルフォンソはとても丁寧に音を紡いでいて、イタリア人らしいメシアンとの付き合い方だと感心する。音楽による官能性の表現は、他の何よりも深く五感に染み透るものかもしれない。

11月某日 ミラノ自宅
メシアンは大学時分よく聴いたし、三善先生は作曲科生のために「移調の限られた旋法」についてていねいな講座を開いていらしたが、極端に理解力が欠落していたのか、結局当時は何も分かっていなかったと思う。本来は、当時の学生にとって「移調の限られた旋法」は不可欠の常識であり、図書館のトゥーランガリラのスコアは人気でいつも借り出されていた。皆と同じことをしても仕方がないと、ヴァッキの規則的な旋法作法を分析して、自分なりの旋法作法を見様見真似で作ったりしていた。あれから暫くすると、学生の興味と常識は「音響解析によるスペクトル技法」へ移行したが、その頃はクラシックのオーケストラ譜を読む方が楽しくて仕方がなかった。ウクライナ軍、ヘルソン奪還。

11月某日 ミラノ自宅
イタリア各紙、外務省付発表として、東京入国管理局にて56歳ペルージャ出身のジャンルーカ・スタフィッソ自殺との報道。直前にイタリア大使館員が品川の入管を訪問、イタリア外務省からの法的および本国送還までの援助の意志を伝えていた。報道によれば、日本の不法滞在の場合、直ぐに送還は不可能で、日本の入国管理局に一定期間留置され、それはしばしば延長されるとある。2007年以降入管に於ける18人目の死亡者で6人目の自殺者。
ポーランドにミサイル着弾、2名死亡と聞き、背筋が寒くなる。当初はロシアから発射と報道されていたから、今後の更なる急激な状況悪化の覚悟を決めていた。

11月某日 羽田行機内
朝8時過ぎ、家人と散歩を兼ねて「ルカ」に出かけパネットーネを購い、町田への土産とする。
リナーテ空港を発つとそのまま北上し、コモ湖東端を掠めてアルプスに入った。山々の雪が太陽光を反射し、澄み切った青空との対比が美しい。
羽田便乗換えのためヒースロー空港に着き、化粧室を探して歩き回っているうち、誤って出口から外に出てしまい、係員に呆れられる。最早戻ることもできず、結局第5ターミナルから第3ターミナルまで地下鉄で移動した。急がないと乗継便に乗り遅れると皆から脅されて冷や汗をかいた。飛行機はドイツを南下中、アイゼンシュタットを通過したところ。このまま南下を続け、中央アジア経由で日本に向かうのだろう。機内は思いの外空いていて、邦楽器新作のスケッチを取る。

11月某日 三軒茶屋自宅
イタリア極右勢力「FN(新しき力)」党幹部を務めた不動産実業家の娘が、現政権の文化省音楽部門顧問就任し話題になっている。女性指揮者ベアトリーチェ・ベネーツィのこと。ムッソリーニ時代、音楽家は望む望まないに関わらず、ファシスト入党を強要され、音楽活動の条件とされていた。これからどういう時代になるのだろう。
アツィオ・コルギ死去。Mazupegul が大好きで昔本当によく聴いた。「嬉遊曲」を出版したとき、コルギが特に強く推してくれていたと人づてに聞き、何時かお礼を言おうと思っているうち時間が経ってしまった。ドナトーニを継いで、サンタ・チェチリアやシエナ・キジアーナなど、イタリア各地の高等課程で教鞭を取っていたが、当時の自分には受講料を払える金銭的余裕も全くなかった。そうして、いつしか知り合う切っ掛けすら逸してしまった。悔やみきれない。
欧州議会、ロシアをテロ支援国家に指定。これからどうなってゆくのだろうか。

11月某日 三軒茶屋自宅
以下、自分が功子先生にヴァイオリンを習うようになった経緯を、町田の母から聞き取った際の備忘録。
母が小学校の頃、横浜の自宅には縦型ピアノが置いてあって、母の姉が弾いていた。戦争で山北に疎開すると、疎開先の川村小学校にもピアノが一台あって、それを母は自由に弾かせてもらえた。弾くと言っても誰にも習っていなかったので完全な自己流だったが、そのピアノを同じように鎌倉の師範学校に通う男性が借りにきていて、彼からバイエルなど、ピアノのイロハを習ったという。
当時山北には、ひばり児童合唱団の指揮者も疎開していて、ひばり合唱団そのものも山北にあった。音楽好きな母はそこで歌うようになり、終戦後も、合唱団でNHKの収録などがあるたびに、山北を夜明けに出て上京したそうだ。物資が不足していたから、本番衣装は浴衣をワンピースに仕立て直して着ていた。
成人後、母は四谷のカワイピアノでアルバイトをしていたが、ピアノを学びたい意志は止まず、ピアノ販売員から芸大の良いピアノの先生がいると菅野緑先生を紹介してもらって、9年から10年、熱心に通った。菅野博文さんのお母様である。通い始めた当初は、反物を解いて仕立て直すのは難儀なのよと言われる程、自己流の灰汁が強い弾き方をしていたらしい。
レッスンの度に、2階の博文さんの部屋でさまざまなピアニストのレコードを聴かせて頂いたそうだが、この頃になると、自分も母に連れられて信濃町の菅野先生のお宅にお邪魔した薄い記憶が残っている。子供心に玄関先のモダンな摺りガラスが素敵だった覚えがあるが、案外全くの記憶違いかもしれない。
かくして母は息子にピアノをやらせようと説得したが、何が何でもピアノは弾かない、ピアノだけは絶対嫌だと拒んで聞かなかったらしい。その時何を思ったか、ヴァイオリンならやってもいいと言ったらしく、銀座のヤマハでヴァイオリンを買ったのだそうだ。
確かに、どこかの電車のガード下で、ヴァイオリンなら弾いてもいい、と言ったような気もする。我乍ら子供というのは本当にいい加減で無責任なものだとあきれる。
そうして菅野先生に紹介されたのが、功子先生のお母様にあたる篠崎菅子先生だった。全く家で練習しなかったので、レッスンで怒られてばかりいたという。ピアノの前のソファーで跳ねまわり、二階から降りてきた史子先生に凄い剣幕で怒られた覚えもある。大らかな時代だった。
母の話を聞くにつけ、子供の頃に合唱を歌い、ピアノだけは絶対弾かないと強情を張り、練習しないところまで、そのまま息子が受継いでいて、妙に感心する。

11月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに本條君とリハーサル。数年前にシベリアに一緒に旅行したのが、今となっては幻のようだと話しこむ。シベリアで出会った彼らはみな元気だろうか、ご飯は本当に美味しかった、などと想い出話はつきない。
オーケストラとのリハーサルでは渡部基一さんに再会。何十年ぶりだろう。大学のイタリア語クラスで基一さんを手伝ったことがあるそうだが、何も覚えていない。あなたのお陰で単位が一つとれたんだよ、と言われて頭を掻く。流石の記憶力だと内心舌を巻いた。
ナポリ湾に浮かぶイスキア島で、大規模な土砂崩れが発生。慌てて、イスキア出身のアンドレアの家族の無事を確認する。現在8人の死亡と4人の行方不明者が発表されている。

11月某日 三軒茶屋自宅
今回はどういうわけか時差ボケが全く抜けない。12時くらいに寝ようと布団に入っても、3時には目が覚めてしまい、今度はそのまま全く眠れない。仕方がないので朝の3時くらいまで起きて、それから9時くらいまで寝ようとしても、今度はそのまま朝の5時くらいまでどう足掻いても眠れなかったりする。睡眠導入剤は、起きた時にふらつくというので、メヌエルを漸く収めている身には到底恐ろしくて手が出せない。もっと不思議なのは、そんな睡眠不足でリハーサルなどやればすっかり困憊しそうなものなのに、終わってもその疲れすら感じないのである。一体どうなっているのだろう。
武満さんの「波の盆」は、当時学生だった我々にとって大きな衝撃だった。武満さんがドラマでとんでもない傑作を書いたと仲間内で話題に上っていた。未だ武満さんの映画音楽全集など出される以前の話だったと思う。テレビドラマの「波の盆」は、笠智衆の号泣が強く印象に残った。大君に練習風景を送るために今日のリハーサル録音を整理していて、ふとリハーサルで通した「波の盆」を聴いたとき、明日が平井洋さんの誕生日なのを思い出した。昨年はお誕生日祝いの便りに、却って年末堺での本番に立会えないことを詫びるお返事をいただき、大いに恐縮したものだった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              江沢民死去。中国国内でゼロコロナ政策に対する抗議激化。

(11月30日三軒茶屋にて)

仙台ネイティブのつぶやき(77) はじまりの、転倒

西大立目祥子

夜9時半過ぎ。2時間半超えのミーティングを終え会館の会議室を出て、お疲れさんと声を掛け合い、蹴るように歩道を歩き出したときだった。ショーケースに貼られていた布施明のポスターに目をやった次の瞬間、何か大きなものにつまずいて前に投げ出されるように倒れ、したたかに膝を打った。痛! 別れたばかりの友人が大丈夫? と駆け寄ってきた。いったい何につまずいた? 頭の中では何か漬物石みたいなでかいものに足をとられたとしか思えなかったのに、見れば歩道が陥没してできたわずか2センチほどの段差ではないか。だいじょぶ、だいじょぶ。こういうときは、誰だって取り繕って立ち上がるものだと思う。公園わきの暗い道を地下鉄駅までそろそろ歩きながら膝を見ると、白いチノパンが大きく破れ血がにじんでいた。座席に座り、向かい側の人が驚かないように持っていた紙袋で膝を隠すようにして家に帰った。

ぼこぼこした敷石の目地の部分にガツンと膝が当たったようで、ぺろりと表皮がむけ二筋凹みができていた。大きめの絆創膏を貼ってもなかなか血が止まらない。やれやれ。それにしても転んで血を流すなんていつ以来だろう。言い訳はあれこれできた。何といっても薄暗い夜道だったのだ。それにいつもの履きなれた先が少し上がったのとは違うスニーカーだった。それにそれに、ポスターに気をとられていたしねぇ。同時に、数日前に会った元の上司が、喜寿を迎え「よくつまずくようになった」といっていたのが耳元に蘇ってくる。70歳を迎えた友人も、「この間、家の前の路地で転んじゃったんだよ」といっていた矢先、そう日が経たないうちに家の階段を踏み外したらしい。

そういえば、今年1月、小正月の行事の取材で小さな神社に出向いた際、帰りに参道の石段で足をすべらせて、反射的に右手をついてしまい手首が腫れ上がったことがあったっけ。翌日から友人たちと新潟に旅行に出ることになっていて、ひどく痛む手首に一晩湿布を巻いたら何とか腫れが引いて新幹線に乗り込んだのだった。あのときも、石段に雪が残っていたとかすべりやすい靴だったとかじぶんに言い訳していた。つまりは今年2度めの転倒なのだ。考えてみればあのときも夜だった。評論家の樋口恵子さんが新聞か何かでしゃべっていた。「70代はつまずいて転ぶんです。90歳になると立っているだけでふわりと倒れるんですよ」 つまずき始める70代。暗がりでは70代と思え、ということなのか。老年のはじまりのお知らせなのかもしれないなぁ、これは。

血がにじむ膝小僧を見ていて子どもの頃を思い出した。どうしてあんなに転んで膝をすりむいてばかりいたんだろうか。でも、すぐにかさぶたが盛り上がってきてむず痒くなり、気になってはがしたくなる。少し無理してはがすと、生まれ出た表皮が破れまた血がにじんできて、しまったと思うのだった。子どもは頭が大きいから転びやすいというのは本当だろうか。2、3歳ならともかく、小学校の低学年から10歳前後の子どもたちなんていちばん敏捷で活発に見える。思えば、ぐんぐん背丈が伸びる時期。1年に何センチも成長するのだからからだを動かすときのバランス感覚は微妙に違ってくるだろう。そのバランス感覚をつかさどる心臓部、パソコンでいったらCPUがその成長の早さになかなか追いついていかないからじゃないのだろうか。老年は逆で、運動をつかさどる心臓部はしっかりと変わらずに動いていても、かんじんのからだの機能が低下しているから、その働きを受け止めきれずにオーバーフロー、次の瞬間ばったり転倒…。そんなふうに思える。

あらためて歩くという行為を考えてみると、二本足歩行のヒトが前に進むためには、一本足立ちになる瞬間がある。一本足でこけそうになるから、支えようとして次の一歩が踏み出せるというわけか。前進するために不安定さを必要とするって、そもそもその存在からして無理があるような。では、ネコは? 四つ足のネコは転ばない。高いところから飛び降りたりするとき以外はね。でも歳をとればネコの足も衰える。来年20歳になるうちの最高齢ネコは、いつも後ろの右足をひきずるようにして階段を上がっていく。これまで看取ったネコたちは、いよいよ死が近づくと四本足でも歩けなくなってへたりこむのだった。

歳をとっても敏捷なのは、私のまわりでは山登りをしてきた人たちだ。H先生は85歳。いつだったか集まりの帰り道にいっしょに歩いていたら、あ、タクシーだ、俺あれで帰る、とダッシュして車を止め乗り込んでいった。意思とからだの動きに何の誤差もタイムラグも生じていない。先月まち歩きでお世話になったS先生は80歳。百名山はもちろん、外国の山々も登攀してきた人だ。何か鍛錬を?とたずねたら、「登山が鍛錬になっているんでしょうね」と明快。お二人とも誰に対しても気持ちを開いていて朗らかで、これは重いリュックを背負いつつ空や木々を仰ぎ見る山登りがつくりあげたものなのかな、と感じさせられる。接していると、何千メートルの山々は無理にしても、数百メートルの山をハイキングしたいものだな、と思わずにいられない。

その前にまずは、転ばないことか。夜道を歩くときは気をつけよう。そして、いい歳をしてかさぶたを無理にはがしたりしないようにするよ。

どうよう(2022.12)

小沼純一

おげんきですか
こちらまいにちせいてんです
あおいそらあおいうみ
しろいいえしろいかべしろいみち
えはがきみたいにそればかり

つれあいまいにちせんたくです
するものなくてもせんたくです
こんなにはれちゃもったいないと
くたびれててもせんたくです
くたびれてるのは つれ わたし
くたびれてるのはあらいもの
すりきれてあながいくつもあいている
いらない まだ いる
いつかせんたくされるかも
つれ わたし
いる それとも もう いらない 

あおいそらあおいうみ
しろいいえしろいかべしろいみち
えはがきみたいにそればかり
せんたくかご
いや
せんたくかくごはてみじかに

ごじあいください

しょうじのむこう
ざいすがきしむ
からだのむきを
ひだりにみぎに
きにしてないのに
きこえてる

ひきどのむこう
テーブルきしむ
ねじがいくつも
ゆるんでる
きにしてないのに
きこえてる

ふすまのむこう
ベッドがきしむ
あぶらのきれた
スプリング
きにしてないのに
きこえてる

せまいうち
それでもどこかに
いなくちゃならぬ
いなくなるのは
むりかもしれない
みえないように
こもっても
みみにはふるえが
おいついて

あたま いた
あたま いた

あたま いない
いない いない

あたま いる
あたま いらない

あたま いたい
あ たま いたい
いた いた いたい
いなかった

かなぶんかなぶん
からだはくすんだ
めたりっく
ちょっとひくめの
おとたてて

かなぶんかなぶん
とびまわる
まるめのからだ
むかしのくるま
あるきはすこし
のたってて

かなぶんかなぶん
だれがよんだか
なづけたか

かなぶんかなぶん
なはたいを
ってほんとかも

かなぶんかなぶん
ぶんぶんぶんぶん
ぶっちぎり

つきあった つっつきあった 
つき あった つぎ あった
なにしたっけ
のんだっけ たべたっけ
あるいたっけ わらったっけ
さわったっけ

しって しりあって
もっとしりあって しろうとして
さぐりあい
あんたしろうと こちらしろうと

はなれそう
かな
はなれはじめる
かなかな 
よかったころはおもいださない
このごろのよくないことばっかり
かな
わかれると
つよくのこるの
わるいことばっか
かな
いいかんじ
とおくの おほしさまみたい
みたことあった か
なかった か
とどかない てがとどかない
かなかな

文体練習

篠原恒木

【客観的に】
三日前から喉に痛みを感じていた。妻は耳鼻科に行くことを勧めた。
二時間後、肌寒いなかを病院へと向かった。
老医師が熱を測ると36.6度だった。
喉に薬を塗られたときに、こみあげてくるものを感じたが、我慢した。

【メモ的に】
三日前。喉痛い。妻「耳鼻科へ行け」。
寒かった。二時間後、病院へ。
先生おじいさん。熱36.6度。
薬を喉に塗布。ゲーッ。

【遡行的に】
吐きそうになった。喉に薬を塗られたからだ。
熱を測ると36.6度。耳鼻科での出来事だったが、医師は老人だった。
それより二時間前に、妻は私に「耳鼻科へ行きなさい」と勧めていた。
私が三日前から喉が痛いと訴えていたのだ。

【びっくり的に】
喉が痛いのなんのって! 三日前からだぜ! カカァは「耳鼻科へ行け!」とホザく!
まったく寒いときたら! 病院へ行ったさ! 
ところが医者はジイさんだ! 熱を測ると36.6度! 微妙じゃねぇか!
喉に薬を塗りやがった! 反吐が出そうだったぜ!

【万葉集的に】
ちはやふる 君は吾病院に行かざれば 思い病になりにけるかも
ひさかたの 雨も降らぬしこの空に 吾病院にひとりさぶしも
しろたえの 衣纏いし老いびとは 熱にしあれば診れば悲しき
あかねさす 薬を塗りて我が喉は 良きにしなれば なりにけるかも

【広告会社のプレゼン的に】
私事で恐縮ですが、三日前から喉が痛くてですね、日頃からイニシアティブを
グリップしている妻が「アサップで耳鼻科へ行くように」と、トップダウンの
案件をオーダーしてきたものですから、このスキームはもうリスケも
ペンディングも無しで、KPIを求められるコミットメントだったわけです。
これはプライオリティの高い自分マターでしたので、タスクをオンスケで
エンゲージメントさせるべく、即アグリーして、アポなしで耳鼻科へ、という
フェーズに移行したわけです。内科でなく耳鼻科というのも、ずいぶんと
セグメントしたシナジーだとは思ったのですが、妻のジャストアイデアは
すでにコンセンサス済みでしたので、リスクヘッジするため、そして
ハレーションを避けるためにケアしました。喉のほうはおかげさまで、
コンプライアンス的にも問題はございません。

【複式記述的に】
三日前の七十二時間前から私の首元の喉が激痛の痛みを起こした。
配偶者の妻にその様子の症状を伝えて述べると彼女は「耳鼻科へ行け」と
助言して告げた。二時間後の百二十分後、極寒の寒さのなか、医院の病院へと
歩行しながら歩を進めた。病院の医師である医者は老人のお年寄りだった。
首元の喉に薬を塗布して塗られた。嘔吐の吐き気を催した。

【現代口語的に】
三日前からぁ、喉がチョー痛かったのぉ。てか、マジ痛いわけ。
ドン引きして耳鼻科っつーの? 知らんけど。耳鼻科しか勝てん。
そこ行ったら、センセーがジジイなのぉ。それってムカつくじゃん。
したらぁ、喉に薬塗るわけ。ヤババじゃない? 笑えるー。ウケるー。
ガチしょんぼり沈殿丸っつーか、おこでしょ、おこ。激おこっしょ。

【色彩的に】
暗黒の三日前から喉に真っ赤な痛みが起こった。青ざめた私は妻に告げると
彼女は「耳鼻科に行きなさい」と黄色い声を張り上げた。
紺碧の空に橙色の日差しのもと、灰色の耳鼻科へと向かった。
白衣を着た老医師は、臙脂色の薬を深紅の喉に塗り、吐きそうになった
私の顔は緑色へと変わった。

【長嶋茂雄さん的に】
スリーデイズアゴーですか、そのへんからですね、マイスロートがアウチでして、
ワイフにセイしたら「ホスピタルがドミナントよ」とのアンサーでしたから、
コールドなウェザーでしたが、ツーアワーズレイターにゴーしたわけですね。
ドクターはオールドでしたが、いわゆるひとつのレッドなメディスンつけて、
ジ・エンドでした。ええ、ええ。

【ニュース的に】
今日の午後、三日前から喉の不調を訴えていた会社員の篠原恒木さん(62)が、
近所の耳鼻科へ治療のため通院しました。診察した医師の話によりますと、
「体温は平熱だが、喉に若干の腫れが認められたため、念のため炎症を抑える
薬を塗布した」とのことです。篠原さんに対しては、野党をはじめとして、
与党の一部からも、「自分の言葉で丁寧に責任説明を果たすべきだ」と、
批判の声が上がっています。

【ギョーカイ的に】
ドーノがタイイーなのでチャンカーに言ったら「ビカジーにクーイーせよ」
と怒られたから、ションテン・ガリサーでインビョーに行ったのよ。
ツーネーはなかったんだけど、スリクをリーヌーされて、
クリビツテンギョー、こちとらローゲー寸前でジラレナイシン。

うーむ、やはりレーモン・クノーには遠く及ばないなぁ。
楽しかったけど。

JOY-POPS

若松恵子

JOY-POPS(ジョイ・ポップス)は、解散してしまったロックバンド、ザ・ストリート・スライダーズの村越弘明と土屋公平のユニットだ。昔、ドラマーがケガをしてバンドが止まった時に、2人でギターを持ってイベントに出かけて行った際に付けられた名前だ。ポップスなんて歌っていなかった彼らの冗談なんだろうと思っていたけれど、とりあえず付けたようなユニット名を今も使い続けているのを見ると、「これがポップスなんだぜ。ギター1本あればワクワクするような、踊っちゃう音楽を奏でて見せるよ」という気概が込められていたのかもしれないと今は思ったりする。

2000年にバンドが解散してから、それぞれの長い月日が経って、2018年に本当に久しぶりにJOY-POPSとしてのライブが行われて、コロナを挟んで再び、久しぶりにツアーが行われた。東京公演の最終日、11月29日にブルーノート東京で行われたライブに出かけて行った。病気療養のニュースが伝わっていたので、エレキギターを抱えて2人が登場した時は、本当に嬉しかった。

新しいアルバムからの曲でライブはスタートした。ただいま現在の歌を歌うのだという彼らの気持ちを感じた。中盤、ストリート・スライダーズ時代の曲「帰り道のブルー」が演奏された。昔の曲を懐かしむために行ったわけではなかったけれど、彼らが若かった頃に作ったその曲が演奏された時、今のアレンジで演奏されているにも関わらず、その曲に閉じ込められている「彼らの若さ」が、今でも燦然と輝いているのを感じて、それは不意打ちの感動だった。ライブが終わって会場を出ると、夕方激しく降った雨のせいで、洗い立てのような夜の街だった。時おり吹く強い南風を受けながら地下鉄の駅まで歩いた。

昔、ストリート・スライダーズのファンになりたての頃、彼らのことが知りたくて、音楽ライター宇都宮美穂が書いた本をワクワクしながら読んだ。『夢の跡』は、1985年の夏のツアーに同行した記録だ。3か月にわたる、30都市でのコンサート。音楽ライターとしての駆け出しの彼女と売り出し中のロックバンド。ストリート・スライダーズに魅せられた女の子の冒険譚に自分を重ねて読んだのだった。彼女も見ただろうか、2022年のJOY-POPSを。

今も大切に取ってあるその本を、久しぶりに本棚から出してきた。すっかり忘れていた新聞の切り抜きが、最初のページに挟まっていた。解散ライブについての天辰保文氏の文章だった。ストリート・スライダーズのことを、本当にわかってくれていた音楽評論家のライブレビューを、一部引用したいと思う。

「最後だからと言って、感傷におぼれることもなければ、饒舌に語り掛けることもない。
もともと、ロックンロールと言えば、こぶしをふりあげながら、客席をあおりたてる、という、類型的なイメージとはほど遠いバンドだった。
世間から弾きだされたところで華と毒を抱え、ひそかに、しかししたたかに生き続けることにこそ、ロックンロールの美しさや誇りをみる、そういうバンドだった。
聴衆にこびへつらうところは一切なかった。深い光沢をたたえたナイフのような、不敵な存在感こそが、彼らの魅力だった。この日は、かつてレコードやCDで親しんだものが、次第にファンキーなリズムを吸収し、表情に豊かさと彩りと強さを身に着けてきたことが、彼らの歴史と重なってくるような演奏だった。」

2022年のJOY-POPSも、この文章そのままの魅力を変わらずに持っていた。

図書館詩集2(犬よ吠えろ)

管啓次郎

犬よ吠えろ
黒犬よ吠えろ
小さな黒犬よ吠えろ
魔を払え
でもこの犬はおとなしく穏やかだ
何もいわずに半島からここまでついてきた
カフーナの橋を虹のようにわたって。
本部半島は山を崩していた
緑が炎のように燃えて
悲鳴をあげていた
山は岩
海には珊瑚の岩
石垣にはぶどうさんご
潮溜まりには非常に細い触手をもった
小さな蜘蛛のようなヒトデがたくさんいる
海の星よ
やわらかい小さな星よ
五本の触手という体制を選んだとき
きみたちはどんな飛躍をなしとげたのか
空を離れることを選んだとき
どんな堕落をなしとげたのか
ひとでだけが知ることがある
かれらだけが摑んだ
世界の把握がある
北風に吹かれた海面が
正午なのにきつね火のようにちらちらする
その水面下であざやかな青の小さな魚たちが
かげろうのように踊っている
かたちを見定めることができないので
まるでそれは色彩のたわむれ
色とりどりの魚は浅い礁湖のかけら
岩礁には外海からの大きな波が打ち寄せ
さわやかに砕け散る
そばの集落はフクギ並木に守られて
タイフーンの名残にいる。
心細さ。
小道を泳ぐように蝶がわたってゆく
長い棘のある貝殻を
魔除けとして並べた家には
黒いマーヤーが住んでこっちを見透かしている
木の枝にはいくつも
マーヤーが吊るされている
私が忘れた前世を
この猫は覚えているかのようだ。
おや、この木はモクマオウ
大木だが土地の樹木ではない
カリブ海の島々でもおなじみの木を
アメリカ人たちがもってきて植えたらしい
その細い葉はいくつもの節に分かれ
節で折り、切り離したあと
またその節でくっつけることができる
どこで折れたか当ててごらん
そうして遊んだのは子供の日の思い出。
海岸の子供はどこでもおなじ遊びをする
海も島も太陽も大洋も
それ自体悠久
ただ人間の経済によりその姿を
大きく変えられるだけ
見方が変わるだけ
人の世が七十年ならそれは
モクマオウにとって一瞬
木、木、木魔王
金星の回転にとっても一瞬
きみがどれほど嘆いても
人間たちの破壊を止められない
水をかけてもらうために
おとなしく列を作って待つダンプトラックは
ただ破壊を目に見えるようにする
黒い陰険なケルベルスのようなものだ
車輪自体には魂も意志もないが
土地の子供たちが何人もここで轢かれたという
「轢」という字のこの悪魔的なアイロニー
(だって「車」の「楽」?
なんという思想だ、それは)
trigger happyという非常にイヤな熟語を思い出す
世界がおびやかされて
舗装道路と走行の快楽が
島の野をずたずたに分断する
止めたほうがいい、こんな生き方は
止めたほうがいい、地表のこんな地図化は
それから本部町営市場のそばで
氷ぜんざいを食べて体を冷やし
ぶらぶら市場を歩いてみると不意に
その黒い犬がいた。
ひんやりとしたコンクリートの床に寝そべって
人の世間に関しては
猫のように無関心に
知らない名で呼ぶと視線をあげて
こちらをうかがうのだ
こんな視線の作り方こそ人と共生してきた
犬の特徴
このかわいいケルベロスは黒のブリンドル
胸は白
去年の夏死んだぼくの犬に
うりふたつなので驚いた
psychopompus
魂の転生か魂の見方の複製?
その子を呼ぶと、やってきて
どこまでも後をついてくる
いったいどういうことだろう
なぜこんなことが起きるのか
神話は反復
神話はおなじ神話が反復して語られ
神話のその内容は反復して起こる
時を超え
土地を超えて
何か人間の世界把握の
非常な根源にふれている
何かがついてくるなら
ついてくるそれが犬だ
どんな姿をしていても
ついてくるものが犬なのだ
私が未知に迷い立ち止まるたび
何か光がさしてくるような
小さくて意味があるとも思われない
出来事が生じるのだ
するとどちらの方角にゆけばよいかもわかる。
そのときにも犬はまだ吠えている
思考の糸はことごとくもつれ
安易に断ち切られる
(犬よ吠えろ
黒犬よ吠えろ
小さな黒犬よ吠えろ
魔を払え)
帰ってきた
カフーナが帰ってきました
カチーナとして帰ってきました
那覇のここはかつての海岸
「仲島の大石」という岩が植物におおわれ
緑におおわれ
それ自体が一種の複合的な存在となっている
ここにかつて吉屋チルーありき
世に隠れなき才あふれる遊女
これは伝言だが疑う理由もない
かつてたしかにそんな若い女がいたのだろう
花のように美しく
鳥のようにかしこく
そして
かつていたものが今いないという保証はない
夢のように脈絡なく
現れたり消えたりする
夢のようにくっきりした
鮮明この上ないvisionだ
visionが分割されてdi-visionになる
joyが分割されてjoy di-visionになる
あらゆる思想や思考が二重化される夕方
橋をわたると闇が迫る中を
大蝙蝠が飛んでいるのだ
果物を食べて闇へと
そのゆたかな糞を落としていく
地面が染まっている
エレクトリック・ギターの空のハードケースが
墓標のように立っている
蝙蝠が聞く音は
私を構成する音とはどれほど異なっているだろう
この亜熱帯の夕暮れを飛びながら
かれらはどこへ行き
どこから帰ってくるのか
行って帰ってくることができるところなら
それは地獄ではない
あるいはただ特別な加護がある者だけが
この往還を達成するのか
誰に守られて?
この緑の島には
場違いなオレンジ色の牝熊(ウルサ)がいる
“I didn’t steal your bicycle!”
と英語で怒鳴りながら傍目もふらずに歩いている
ぼさぼさ髪の垢じみた老人がいる
徒歩旅行の道連れとして
きみはいずれかを選ばなくてはならない
選んだら出発だ、もう猶予はあまりない
「砂原の上にはいちめんに、ふくらんで
火のかたまりが降っていたが、ゆったり落ちてくるさまは、
風のない日に降るアルプスの雪のようだった」(ダンテ『神曲』三浦逸雄訳)
ここでは赤い小さな花が
熱い雪のように降っている
それにハイビスカスが
紅と黄と白のあでやかな色で
太陽に礼拝している
ぼくと老人のうしろを
オレンジ色の牝熊がついてくる
一緒に歩こう
A&Wとはagriculture and worship
もっと農耕暦を守って生きることだ
そこに鉄をもちこまないことだ
鉄は不平等のはじまりだ
火薬や船に翻弄されないことだ
そう誓いつつ
ぼくらは歩いていこう
すると花が降り
不在の雪がうっすらと降りつむ
希望のように
悲嘆のように

沖縄県立図書館(カフーナ旭橋)、2022年10月13日、晴れと薄曇り

むもーままめ(24)口唇ヘルペスとの闘いの巻

工藤あかね

 今、わたしは、口唇ヘルペス発症中である。このひと月ほど、目が回るようなスケジュールで飛び回っているせいか、ストレスもあったのか免疫が下がっているようだ。数日前、唇の端に小さな水脹れがたくさんできているのを発見した。インターネットで調べたところ、にんにくをすりつぶしたものを塗ると良いとか、牛乳を塗っても効くなどと書いてあった。牛乳は切らしていたので、冷凍していた薄切りニンニクを唇に貼ってみた。眠りに落ちる直前まで鼻を刺激するニンニクのかほり。貼った箇所がじんじんと口唇ヘルペスに染みていたので「こりゃあ効きそうだ!」と期待して寝た。

 翌朝見ると、ニンニクの刺激はゼロになっていたが、ヘルペスは生き残っている。ニンニクがヘルペスとの闘いで力尽きたのだ。新しいニンニクスライスを貼ろうかとも思ったが、出かける用事があったので断念した。その夜は、発症箇所にメンソレータムをぎとぎとと塗り重ねてみた。そして今朝、メンソレータムとの闘いの結果なのか、前日のニンニクが頑張ったせいなのかわからないが、該当箇所がべっこう飴のような色になっている。治りかけているに違いないと確信した。

 ここで放っておけば良いのかも知れないのだが、どうも何かを試してみたくなってしまう。子供の頃だったら、かさぶたを早々に剥がして後悔することは何度もあったが、その頃の悪い癖が何十年も経って蘇ってきたのだ。まずはべっこう飴状になった患部にティッシュを押し当てて、悪い水が溜まっているのなら、とっとと出て行ってもらおうと思った。剥がしたティッシュを見るとわずかにべっこう飴が付着している。「そうだ、取り除いちゃえ!」と思い、ゆっくりと患部を拭った。するとべっこう飴の下からは真紅のエリアが出てきた。しまった、まだ早かったか。またやってしまった。表に晒された患部はじんじんと痛む。それでも、この痛みは早く治るために体が闘ってくれているのだと思えば、なんだかありがたい。

 真っ赤に腫れ上がっている自分の下唇を見ていたら、今でも時々テレビや映画のドラマの題材になる素晴らしい小説を残した、某有名作家のことを急に思い出した。画像検索してみたら、この方の若い頃は下唇がそんなに大きくなかった。後年の下唇のイメージがはっきりしていたので、意外だった。となると、いつから下唇が育ったのだろう。どうでもいいか。さて今夜は、牛乳を塗って眠ってみようかな。

『DUOの會』

笠井瑞丈

構成 演出 振付 笠井叡

初演は大野慶人さんが
亡くなった二ヶ月後でした
初演は大野慶人さんに
捧ぐという言葉で始まった

 DUOの會は
笠井叡と大野一雄が踊ったデュオ

3作品 

「犠儀」 
「丘の麓」 
「病める舞姫」 

そして新作1作品

「笠井叡の大野一雄」

この4作品を

笠井瑞丈と川口隆夫が踊る

僕は小さい時から
大野一雄さんを知っていた
なんか不思議な
おじいさんだと
いつも思っていた

ドイツに住んでいる頃
フランスで
『世界の大野』
になった舞台を見た
初大野体験 
確か僕が6歳か7歳の頃だったと思う
カーテンコール
舞台に上がりお花を渡した

今回は自分が舞台上にいる
ふっとあの時の時間が蘇る

カーテンコール
最前列の真ん中に
笠井叡が座っている

薄暗い中
少し笑っているように見えた

今日は舞台ができたのだと確信した

音に押される

冨岡三智

去る11/19に大阪の玉水記念館ホールで開催された『エスニック・ナイト2022 ジャワ舞踊編』公演で「ガンビョン・パンクル」を踊った。その時に覚えた不思議な感覚の話。

それは背中に音がぶつかってくるような感覚だった。音楽にはまな板のように厚みがあって弾力もある。まるで、背中に巨大なコンニャクが飛んでくるような感じである。さらに、チブロン太鼓の音や掛け声が手裏剣のように背中に刺さって、背中や腕がぴくぴくっと動く。今まで踊ってきた中で、音がこんな風に聞こえた…というか身体に響いてきたことは初めてである。

ここで押されるとか刺さるとか言ったけれど、決して否定的な意味ではない。こんなに音に支えられた経験もない気がする。踊ったというより、半ば踊らせてもらった感じだ。大音量のロックコンサートでも、ジャワよりもずっと激しいバリのガムラン音楽でも、音は空間全体を満たしても刺さるまでには至らなかった。この公演ではそこまでの音量はないのに、なぜ筋肉が動いてしまうのだろう。この公演では舞踊スペースと観客席が同じ平面で、舞踊スペースの背後に高さ45cmの演奏者用ステージ台がしつらえられ、その上にガムラン楽器が配置された。ちょうど楽器の高さが私の背中辺りになるが、この高さが絶妙だったのだろうか。PAのやり方も関係あるのだろうか…。

ガムラン奏者は床に腰を下ろして楽器を演奏する。通常の公演では楽器は踊り手と同じ平面に置かれるから、音は踊り手の腰よりも低い位置から聞こえてくる。つまり、音は下から立ち上りながら渾然一体となり、踊り手の耳に届く。あるいは、音は天井までいったん上がり、上から降ってくるように聞こえてくる。ジャワのガムラン音楽はそんな風に聞こえるのが当たり前だと思っていたのだが、音が3次元空間のどこからどんな質感でやってくると動きが生きるのか、もっと探求してみよう…と思ったことだった。

水牛的読書日記 2022年11月

アサノタカオ

11月某日 待望の八巻美恵さんのエッセイ集『水牛のように』(horobooks)を読む。エッセイのことばはもちろん、装丁と造本もまたすばらしい。世界中の日本語読者に自慢したい一冊だ。カバーの白地にちいさく輝く、木村さくらさんの画。あこがれの気持ちをかきたてられ正方形に近いA5判変形のやわらかな本を開くと、パノラマの風景が広がるように気持ちのいいことばの風景が広がる。見開きページの余白は指をかけるのにちょうどよい具合で、ページの区切りで文の流れが止まらないよう、本文の版面をノド側にすこし寄せているのも自分好み。

本を読み、ごはんを食べ、友人と会い、土地を歩き、何かを思い出す。大きな歴史の力と大きな自然の力に、ここのところ人間社会は翻弄されっぱなしだが、八巻さんの本に記された日々の「愉快」は動じない。「愉快」はいついかなるときもそこにある、まるで嵐の後の野原に立つ水牛のように。この本について書きたいことは、まだまだたくさんある。

11月某日 蔦哲一朗監督の映画『雨の詩』を試写で鑑賞。地方の自然生活をテーマにしたスローシネマ。屋久島に暮らした詩人・山尾三省の詩「火を焚きなさい」がモチーフのひとつになっていて、三省さんのアニミズム的世界観とも響きあう作品。印象的な読書のシーンもある。自分が三省さんの詩集やエッセイ集の編集を担当したことからご縁が繋がり、僭越ながらコメントを寄せた。

《陽が昇り、陽が沈む。雨が降り、雨がやむ。人と人、人と自然がただともにあることがむき出しにされる森の静けさの中で、言葉や書物はどんな意味をもつのだろう。読むことではじまり、読むことで終わるこの美しい寡黙に満たされた映画を観ながら、遠い未来に人類が消滅して家々が崩れ、野ざらしにされた詩集のページを、風が翻していく光景を想像した。アサノタカオ(編集者)》

ロードショーがはじまり、東京のポレポレ東中野であらためてこの映画を観た。冒頭、山の家に降りしきる雨の音。室内で窓ガラスを見つめ、流れる水を通過する光のゆらめきを無言で受け止める主人公の顔。劇場でこの音と光を体感しただけで、もう感無量だ。物語の世界をふと離れ、映画自体が川そのものになり、夜そのものになる瞬間がたまらない。野に帰ろうと志向しているシネマ。上映後、蔦監督やスタッフの方とことばを交わした。

11月某日 山尾三省の妹で北海道・小樽在住の詩人・長屋のり子さんからお便りと本が届く。土橋芳美さんの詩集『ウクライナ青年兵士との対話』(サッポロ堂書店)、長屋恵一さんのエッセイ『風呂場で読むドストエフスキー』(響文社)。

11月某日 詩人のヤリタミサコさんからお便りが届く。貴重な詩集をお譲りいただいた。高橋昭八郎『ペ/ージ論』(思潮社)。

11月某日 ダンテ『神曲』(三浦逸雄訳、角川ソフィア文庫)を「地獄篇」から少しずつ読んでいる。長編叙事詩の古典に身構えていたが、読み始めるとなんのことはない、これはイタリア版「地獄八景亡者戯」ではないか。意外と落語みたいでおもしろい。

11月某日 大学の授業で、「私の好きなもの」をテーマに個人メディアをつくる課題を出した。編集者としてうれしい気持ちになるのは、お願いしていた原稿が届いたとき。昨晩から学生からの課題が続々と届き、大変だなと思うけど、やっぱりうれしい。

11月某日 作家・孤伏澤つたゐさんの『浜辺の村でだれかと暮らせば』(ヨモツヘグイニナ)を読む。地方の漁村を舞台に、村で生きる漁師の男「おれ」と都会からの移住者との関わりをテーマにした小説。かれらの同居生活を淡々と描写する語りから、ともにあることの希望がじんわりと感じられる。読み応えのある作品だった。

『浜辺の村でだれかと暮らせば』は、自然に囲まれた土地を舞台に地元民と移住者の同居生活をモチーフにしている点で、蔦哲一朗監督『雨の詩』と通じるものがある。

11月某日 文学フリマ東京35にサウダージ・ブックスとして出店。お隣りは文学ユニット「フラクタル山羊座ロンド」、石川ナヲさんの『Taiwan 行きたい日記』『東京・千葉・台湾日記』を購入。今回は新刊案内を兼ねたフリーペーパー、文筆家の大阿久佳乃さん『「じたばたするもの」のはじめに』を配布した。「大阿久さんのファンです」「かっこいい冊子ですね」という声を複数の人からいただいた。

本の販売のほうはさっぱりだったけど、会いたかった人、読みたかった本とのよい出会いがたくさんあってうれしかった。植本一子さん、小倉快子さん、佐藤友理さん、高田怜央さん。作家・鹿紙路さんの新作、東アフリカの歴史と現在が交差する長編百合小説『征服されざる千年』、これは驚異的な作品だ。

帰路、会場で入手した『私たちの”解放日誌”』(gasi editorial)を読み、ハートに火がついた。安達茉莉子さん、いよりふみこさん、小山内園子さん、渡辺愛知さんの熱き韓国ドラマ本。パク・へヨンの脚本(そして名優たちの演技)に心がさらわれたドラマ「私の解放日誌」、もう一度観なければ。自宅でSNSをチェックして、「あの方もあの方も出店していたのか!」と気づくことも多く、早めに店じまいしてブースを見て回ればよかったと反省。次回はお客さんとして参加しようかな。

11月某日 文学フリマ東京35で出会った一冊。出版社で営業を担当する橋本亮二さんの『手紙を書くよ』(十七時退勤社)を読む。赤阪泰志さん、鎌田裕樹さん、佐藤裕美さん、佐藤友理さん、中田幸乃さんとの共著。「あの人のことを思うとき、光がゆっくりと明滅する」と冒頭に記す橋本さんのエッセイ「光あれ」、そして元書店員の佐藤裕美さんとの往復書簡を読んだだけで胸がいっぱいに。

11月某日 昼前に自宅を出発、新横浜経由の新幹線のぞみで新山口へ。温泉などに寄り道せずに駅前のホテルに投宿し、デスクに校正刷を広げて粛々と編集の仕事をする。旅の道中では、哲学者・三木那由他さんの『会話を哲学する』(光文社新書)を読む。文学フリマ東京で入手した黒田編集&皆本夏樹さんのZine『三人が苦手』VOL.1には、この本の読書会の記録が掲載されていた。三木さんが分析する会話の世界は、まるで奥深く複雑な森のよう。

『会話を哲学する』のなかでは、高橋留美子の漫画『めぞん一刻』を題材に「もういないひとに向けて」というコミュニケーションを分析する箇所に特に胸を打たれた。そして「コミュニケーション的暴力」としての「意味の占有」を学ぶ我が身が痛い。ことばで人を傷つけた無数の思い出が身に残っているからだ。

うちの高校生に借りた『会話を哲学する』を読んでいろいろと痛い思いを味わいつつ、それでも人間が交わすことばの豊かさに開眼した。小説や漫画の会話をこれほど注意深く読み解いたことはなかったので、あたらしい発見の連続。読後には、ヤマシタトモコ『違国日記』(祥伝社)など、漫画をもっと読みたくなった。よい本だった。

11月某日 新山口から取材チームでレンタカーに同乗し阿東へ。島根・津和野に近い山間の地の牧場を訪問。牧場の入り口、真っ赤に紅葉したジャイアントセコイアの並木道が美しい。牛舎や加工場を見学しながら、牧場主からお話をうかがう。できるだけ輸入飼料にたよらない放牧に移行し、土地の恵みで牛たちを育てようとしている。「生き物とともに喜びと苦しみを共有する」ということばが心に残った。うっすらと霧がかかる周囲の山を眺めながら、牧場産のチーズケーキをいただく。絶品。

11月某日 Zine『三人が苦手』VOL.1は、『会話を哲学する』の読書会の記録のほか、インタビューやレビューなどすべての記事が読み応えがあった。なかでも夜燈さんのエッセイ「”ひとり”を”自分”と生きる」がとてもよかった。書かれている内容にも共感したし、文章そのものに惹かれるものがあった。

11月某日 新山口駅の構内には壁面を緑化した「垂直の庭」があり、壮観。新幹線に乗りこみ広島で乗り換えて新大阪へ移動し、夕方、地下鉄を使って大阪の書店を駆け足でまわる。まずは緑地公園駅の blackbird books へ、ついで画家の nakaban さん作の看板が目印、淀屋橋のCalo Bookshop and Cafe へ。フリーペーパー『「じたばたするもの」のはじめに』を届ける。

そして最後に本町、はじめての toi books へ。茨木のり子訳編『新版 韓国現代詩選』(亜紀書房、若松英輔・斎藤真理子解説)など、韓国文学の翻訳書が勢ぞろい。大前粟生さん、町屋良平さん、そして店主の磯上竜也さんの共著『全身が青春』(toi books)を購入。磯上さんのエッセイのことばがとてもいい。

電車を乗り継いで京都・蹴上の隠れ家的な定宿へ直行し、熱いお風呂に浸かり、本を読む。blackbird booksでみつけた、文筆家の佐久間裕美子さん『2020-2021』(wAiwAi)。新型コロナウイルス禍の中、アメリカで暮らす個の視点から書かれた社会批評エッセイ集。「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」をめぐる読み応えのある文章もいくつか収録されている。差別という暴力に抗い、つよくやさしく生きるマイノリティの人々から託された声に変革への希望の兆しを見出す佐久間さん。「楽観的すぎたかもしれない」と本書の「はじめに」で自省しているが、状況に悲観しながら、なお「意志による楽観主義」(エドワード・サイード)を持ち続けることの大切さを僕はこの本から学んだ。

佐久間さんはニューヨーク州北部、森の中の「山の家」で1年半をすごしたそうだ。まるで『森の生活』のソローみたい、そして『市民的不服従』のソローと『Weの市民革命』の佐久間さんの思想の間には通じるものがあるのではないか、なんてことを、窓越しに紅葉の景色を眺めつつ京都の「山の家」で思う。

11月某日 お昼に大阪・高槻で大阿久佳乃さん、デザイナーの納谷衣美さんと駅前の喫茶店で打ち合わせ。大阿久さんのアメリカ文学・海外文学エッセイ集『じたばたするもの』は来年1月サウダージ・ブックスから刊行予定、よい本に仕上げよう。フリーペーパー『「じたばたするもの」のはじめに』を渡し、記念撮影。二人のいい笑顔が、最高のお土産。

11月某日 旅から戻ると、詩人あする恵子さんのノンフィクション『月よわたしを唄わせて』(インパクト出版会)が届いていた。ていねいなお便りもいただいた。本書のサブタイトルには、「“かくれ発達障害”と共に37年を駈けぬけた「うたうたい のえ」の生と死」とある。急逝した「のえ」さんは、ほかならぬあする恵子さんの子どもだった。本のずっしりとした重みにためらいつつ、後回しにできないような気がして、覚悟を決めて読み始める。軽々しくわかったような顔をすることが許されない悲痛な体験がつづられているが、著者のことばに正面から向き合いたい。

11月某日 金石範小説集『新編 鴉の死』(クオン)の見本が届いた。編集を担当。デザイナー松岡里美さん(gocoro)の緊張感ある装丁がすごい! 済州島四・三事件を通じて歴史と人間の真実に迫る。日本語文学史に孤高の足跡を残す一冊、書物に手をふれて尊い重みを確かめた。

11月某日 今年2022年に編集を担当した3冊の文学の本。

 李良枝『ことばの杖』(新泉社)
 金石範『満月の下の赤い海』(クオン)
 金石範『新編 鴉の死』(クオン)

仲間とともに、こうした本作りの仕事に関わったことを心の底から「誇り」に思う。

ちょうど30年前、大学に入る直前に偶然の導きで「在日朝鮮人文学」に出会った。作家の李良枝が亡くなった年だった。のちに挑戦した金石範の大長編小説『火山島』には歯が立たなかった。でも無性に惹かれるものがあった。地方都市で語り合う友も教えを乞う師も見つけられない中で、ひとりで読み続けた。

読み続ける中で少しずつ学びを深め、多くの出会いを経験し、やがて読書は必然に変わった。はじめは孤独だったけれど、ふりかえれば読むことの旅の途上で本当に多くの先達、仲間が道を示してくれた。こうした人たちの同行がなければ、こうした「誇り」を抱ける人生の現在地にたどり着くことはなかっただろう。

李良枝や金石範の文学のことばは、これからも自分自身の「生きる」をつよく支えるものになると思う。だから自信をもって堂々とおすすめしたい。いまこのときにも、30年前の自分と同じように文学の扉の前に立つ人がきっといるはず。限りある時間の中で、次の読者のために扉を開ける仕事をしたい。

11月某日 早朝、コーヒーでも飲みながらちょっとページでもめくってみようか、ぐらいの軽い気持ちで読み始めたある本の解説で知った「事実」に、大変な衝撃を受けた。ある本というのは今年2022年に復刊された、詩人・茨木のり子が翻訳・編集をしたアンソロジー『新版 韓国現代詩選』、解説は韓国文学翻訳家の斎藤真理子さん。

1990年に刊行されたこのアンソロジーの旧版は何度も読んだことがあるのだが、新版に収録された斎藤さんの解説エッセイ「時代を越える翻訳の生命」を読み、自分の文学観が大きな地殻変動をおこす音を聞いたような気がする。「翻訳は、揺れている地面どうしの間に橋を架けわたすもの」。斎藤さんが記す「事実」をめぐる慎重な省察のことばに終日、心が立ち止まっていた(詳細については『新版 韓国現代詩選』をお読みください)。

読むこと、読み続けること。ことばを受け取るという営みもまた、安住の地ではなされない終わりのない検証の過程、旅なのだな、と思い知る。朝は動揺しておろおろしながら『詩選』を読んだので、もう一度、解説のことばにゆっくり目を通し、背筋を伸ばした。文学を読むものとして、日本語を生きるものとして、ここには素通りせずに考えなければならないことがたしかにある。途方もなく大きな宿題をもらった。

217 死者の民主主義

藤井貞和

言葉によってきみは狼になれるか。 叙事詩にいわく、
「それ、いまだ、あめつち分かれず、
陰陽の区別、なかりし時、
炎のごとく、ほのかなるあかるみありて、……(中略)
かすかにきざしあり。 灰白の狼を名のる者、
とじられない日に志を継ぐ。 きみの名は、などと問うなかれ。
アジアで滅ぶすべての死者に対して、
生者よ、慎みあれ」。

(ノートに書かれていた題名。)

襞のある時間

高橋悠治

記憶に残る自分の姿、高島屋南館の入口に坐って待っていると、そこにもう一人の自分が通りかかる。それを見ている自分の眼はどこにあるのか。その瞬間が繰り返されるのは、なぜか。そこに置き去りにされて坐っている。なにを待っているのか。

その場所を通って地下道に出る。それを登っていくと二子玉川の駅がある。何度も透ったあの道の角、そこに座り込むと、自分の姿が眼の前を通って行く。そこに折り畳まれた時間の襞があり、その襞がひらいて、内側に隠れているもう一人の自分が後から通り過ぎるのが見える時がある。

こんな時間の襞、襞のある時間でできている音楽、毎日の何事もなく過ぎてゆく時間のそこ・ここに巻きスカートのように拡がる時間の襞があるような。

4月に金沢へ行ったとき、1ページのスケッチを何回も見て、見えたところから思いつく音のかたちを書き留めるという方法で2曲同時に作ってみたが、同じ部屋にいる人の顔を見たとき、同じ顔が何度も違う角度から見えるのと同じように、同じ音楽が何回も違う順序で聞こえてくるとき、これはデイヴィッド・ホックニーがピカソのキュビズム時代の絵を解釈するのと似たやり方で、あるいは、プルーストがプティット・マドレーヌから過去の生活全体を引き出してくるように、記憶と現実の入り混じった結晶体で、根が絡まった木の茂み。

2022年11月1日(火)

水牛だより

なぜか東京は曖昧な天候で過ごしやすい日々が続いています。しかし、明日がどうなるのかは誰にもわかりません。今夜は雨の予報です。

「水牛のように」を2022年11月1日号に更新しました。
編集作業のあいまに執筆者のみなさんの原稿から、ランダムに一節を書き抜いてみました。全員ではありません、これもランダム。短い断片を並べてみると、また別のおもしろさが出てきます。どれがだれが、と想像してみるのも楽しいかもしれませんよ。

「都市を歩くということは、時間旅行なのだ。」
「ちょうど20年前の10月。サダム・フセイン大統領の信任投票が行われ町中が沸き立っていた。サダム・フセインは100%の得票で信任されたのである。」
「本という形の彼を手元に置いて、折々に繰り返し読む(尋ねる)ことができる。」
「木の実。何といっても私にとっての王様はトチの実だ。クリよりも大きいようなつやつやした実が山道や公園や駐車場のわきに落ちているのを見ると、拾わずにはいられない。」
「じっと見ていると、男の子が同じように書棚の間から、こちらを見ていて、『薔薇販売人』と書かれた背表紙越しにこちらをのぞき込んでいるという風情だ。」
「やみやみなやみ/やみあがり」
「11月で休暇を取って、ピアノを弾いているとできなかったことをしたい。知らなかった音楽を見つけて演奏するのにも限界がある。」

コロナによる規制が緩和されたこともあって、遠くから訪ねてくれる友あり、ずっと延期していた会合あり、です。感染者の数というもの、どういう集計をしているのか不明ながら、増えている傾向です。自分でできる対策はしながら過ごしていくよりなさそうですね。生きものは動くからこそ生きているのですから。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

216 姿見ず橋、2

藤井貞和

豊多摩の、
姿見ず橋。 橋占(はしうら)は、
あなたを探す。
のこした思いよ、
姿になって、
もう一度、ことばをかわそうよ、
われら。

十月の追悼は、
十一月にさしかかる。
橋よ、
かなわぬのか、
姿にめぐりあうことは。

ひびわれてゆく時間のこちらがわへ、
もう一度、わたりたい。
あなたに遇うかもしれないから。

上人をひとり、
橋柱に立たせる追悼の式。
いいえ、
腐敗しきったわたしのあたまでも、
もういちど、もう一回、
俗物の擬宝珠(ぎぼし)を建て直したい。

袖モギさんがやってくる、
橋のうえ。
とおしてやれ、転ばぬように。
袖をモイで、見えない鬼神のために、
そっと置く、橋のうえ。

姿ほのかに、
遇おうと思うのかい。
あなたはやってくる、橋の、
あっちから。 仮面よ、
霧のおもては過去へ消える。
それが願いでしたね、われら。

(架空の橋です。「姿見ず橋、1」は『人間のシンポジウム』思潮社、2006。)

水牛的読書日記2022年10月

アサノタカオ

10月某日 詩人のぱくきょんみさんとアーティストの野原かおりさんによる詩画集『あの夏の砂つぶが』(shibira)が届く。表紙を含めて16ページの冊子だが、ちいさな本のなかに深淵がぽっかり口を開けている。ぱくきょんみさんからの、新しい活動に向けたうれしいお知らせも添えられていた。

10月某日 大学の授業で知的書評合戦「ビブリオバトル」を開催してみた。学生たちが選んだ「一番読みたくなった本=チャンプ本」は同点で以下の2作。

小川糸『ライオンのおやつ 』(ポプラ文庫)
辰濃和男『文章のみがき方』 (岩波新書)

小説と実用書。若い人たちの読書傾向に、なるほどと思う。ビブリオバトルの後に僕から紹介したのは、9月に刊行された温又柔編・解説『李良枝セレクション』(白水社)。自分が『李良枝全集』(講談社)に出会ったのが、30年近く前の大学生の頃だった。李良枝の小説を読むことで、世界をみる目が一変した。読む前の自分には戻れないほどの衝撃を受けた。今すぐにでなくとも、いつか読んでもらえるといいな。

10月某日 雨の神奈川・大船。ポルベニールブックストアで韓国の作家キム・エランの小説集『ひこうき雲』(古川綾子訳、亜紀書房)を購入。棚の前で本を手にとってみると、雨の日に買って読むのがふさわしいような気がした。亜紀書房からは「キム・エランの本」というシリーズが刊行されるようでファンとしてはうれしい。

10月某日 東京駅から特急ひたちに乗車。はじめて訪れる茨城・ひたちなかのJR勝田駅で降り、見渡す限り広がるさつま芋畑へ。ひたちなかは干し芋の一大生産地として知られ、あたりには太平洋から流れ込む湿気がうっすらと漂っている。この畑では「玉豊」という品種を栽培。生産者にお話をうかがい、良質な干し芋の加工製造は、想像以上に手仕事によるものということをはじめて知った。

直売所では「冷やし焼き芋」なるものを販売している。スタッフの方から焼き芋は冷やした方が甘く感じますよ〜とすすめられて、「あつあつ」と「ひやひや」を食べ比べてみると、うん、たしかに。家族へのお土産で買った干し芋はあっというまになくなった。

10月某日 まだほの暗い早朝、自宅を出発。東京駅からこんどは新幹線あさまに乗車し、長野の白馬へ。何年ぶりだろうか。ひさしぶりのJR長野駅で降りると、ひんやりとした空気が気持ちいい。そこからレンタカーでドライブ。山間の限られた土地で、それゆえに創意工夫を凝らして農と食の仕事に取り組む人びとに出会った。農家カフェで、おいしい秋のおこわとけんちん汁定食をいただいた。お腹も心もあたたまる。

食後は、枝豆ミルクのジェラートも。ほんとうは1日3食豆だけを食べたい豆好きの自分には、粗めに砕いた枝豆の食感と風味がたまらない。駐車場からうっすらと雲のかかる白馬岳をながめながる。

10月某日 取材行の道中で、「積ん読」のままだった韓国文学の翻訳3冊を一気に読了。歴史をテーマにした小説やSFなど、描かれる世界は一見「現実」離れしているようにも思えるが、物語の芯には自分たちが生きる「いま」と強く響きあうものがあった。韓国文学の底力、文学の底力にあらためて感じ入った。

キム・スム『さすらう地』(岡裕美訳、姜信子解説、新泉社)
チョン・セラン『地球でハナだけ』(すんみ訳、亜紀書房)
ぺ・ミョンフン『タワー』(斎藤真理子訳、河出書房新社)

ぺ・ミョンフンのSF『タワー』所収の「広場の阿弥陀仏」が忘れがたい印象を心に残す。物語の説明は省略するが、舞台となる「タワー」の321階の窓を突き破った象のアミタブに心のなかで合掌しつつ、チョン・ミョングァン『鯨』(斎藤真理子訳、晶文社)の最後のシーンをぼんやりと思い出した。ある種の韓国文学において、「オツベルと象」を彷彿させる象たちが空を飛ぶのはなぜだろう。

10月某日 サウダージ・ブックスは、代表(妻)と自分の2名で有限責任事業組合を設立してから10年目。その前の個人活動としての出発点は、ある写真展でのパンフレットの編集制作だったことを思い出した。いろいろなことがあった。そしていま、10年目にふさわしい転機が訪れている。

出版点数も少ないし、活動規模も小さいが、振り返ればほんとうに多くの方々に支えられてきた。《小さな声を伝えること》を大切にして、これからも仲間とともに愉快な本作りをしていこう。

10月某日 朝、慌ただしく自宅を飛び出して小田原駅から新幹線に乗車し、大阪へ。道中では哲学者・三木那由他さんのエッセイ集『言葉の展望台』(講談社)の読書。うちの高校生が三木さんの『会話を哲学する』(光文社新書)を読んでいるらしく、その影響で。コミュニケーションをめぐる哲学的考察を綴るエッセイはどれも興味深く、「私」を抜きにしない語りの切実さに打たれる。よい本だった。

秋晴れの週末、KITAKAGAYA FLEA 2022 AUTUMN & ASIA BOOK MARKET にサウダージ・ブックスとして出店。今回は京都発の新しい出版社ハザ(Haza)のスタッフに販売を手伝ってもらい、ハザのチラシも配った。新型コロナウイルス禍以降、ようやく全国的に集会や移動の行動制限がなくなり、大勢の来場者でにぎわう会場ではうれしい出会い、なつかしい再会がいろいろ。

フードエリアで自家製の天然酵母パンのパイレーツ・ユートピアの野菜フォカッチャ、台湾料理・故郷(クーシャン)の麺線をいただき、高橋和也さん『沖縄の小さな島で本屋をやる』(本と商い ある日、)や、こどもの詩の雑誌『くじら』0号を入手。沖縄の浜比嘉島に移住し、本と商い「ある日、」を開業した高橋さんと挨拶することができてよかった。「自分がやりたかったことが、ひとつひとつできているような気がします」と話す高橋さんの表情がまぶしい。

サウダージ・ブックスのブースでは、先輩の出版社トランジスター・プレスの本も販売したのだが、清岡智比古さん、ミシマショウジさん、佐藤由美子さん、管啓次郎さんの共著の詩集『敷石のパリ』がなかなか好評で、「装丁がいいですね!」と複数のお客さんに言われた。

10月某日 KITAKAGAYA FLEAの初日は午後いったん会場から抜け出し、大阪難波駅から近鉄で三重・津の久居駅へ。ブックハウスひびうたでの自主読書ゼミ「やわらかくひろげる 山尾三省『アニミズムという希望』」全16回の最終回に向かう。

自分が20代の頃から愛読し、偶然の巡り合わせで新装版の編集にかかわった山尾三省の講義録『アニミズムという希望』(野草社)。1年4か月、ブックハウスひびうたに集う仲間とともに、ゆっくり時間をかけて読みつづけ、毎回熱心にことばを交わしてきた。1990年代終わりの沖縄から飛び立った1冊の本の種が、別の時代、別の場所に流れ着き、読者ひとりひとりの心の内で新たな物語が芽生える過程に立ち会った。こういうことは編集者としてはじめての経験で、感無量だ。

三省さんの詩やエッセイにしばしば登場する「三光鳥」、やっぱり気になりますよね〜、と。尾の長いちょっと不思議な姿の鳥。「月(ツキ)日(ヒー)星(ホシ)、ポイポイポイ」と鳴く(ように聞こえるとか聞こえないとか)。三重県の山中で観察したという参加者、「三光鳥」がデザインされた傘を持っているという参加者まで現れて、大いに盛り上がった。これからもさまざまな場所で、「いま」の視点から詩人のことばを読み直す試みが広がっていくことを期待したい。異論・反論も含め、人間と人間、人間と自然の関係について考えるヒントが『アニミズムという希望』という本にはあると思う。

夜ごはんは、みんな大好き久居の《和風れすとれらん》伊勢屋さんのお弁当をいただき、ごちそうさまでした。駅前の旅館に泊まり、翌朝ふたたび大阪へ。道中で、孤伏澤つたゐさんの『浜辺の村でだれかと暮らせば』(ヨモツヘグイニナ)を読む。地方の漁村を舞台に、ある漁師の男と都会からやってきた移住者の交流を描いた小説、おもしろかった。

10月某日 大阪からもどり、休む間もなくふたたび小田原駅経由で新幹線に乗車、静岡・浜松のNPO法人クリエイティブサポートレッツへ。浜松駅前の更地になった松菱百貨店跡地、青空の下の小屋で開催された西川勝さん進行の哲学カフェ「かたりノヴァ」に参加した。テーマは「語り」。「しゃべる」や「話す」に比べると「語る」はどこかかしこまっているのは、なぜだろう。その後、レッツが営む《たけし文化センター連尺町》や《ちまた公民館》を見学。はじめての訪問だったが知人との再会もあり、いろいろな話を聞くことができた。

《NPO法人クリエイティブサポートレッツは、障害や国籍、性差、年齢などあらゆる「ちがい」を乗り越えて人間が本来もっている「生きる力」「自分を表現する力」を見つめていく場を提供し、様々な表現活動を実現するための事業を行い、全ての人々が互いに理解し、分かち合い、共生することのできる社会づくりを行う。特に、知的に障がいのある人が「自分を表現する力」を身につけ、文化的で豊かな人生を送ることの出来る、社会的自立と、その一員として参加できる社会の実現を目指す。そして、知的に障がいのある人も、いきいきと生きていけるまちづくりを行っていく》

——クリエイティブサポートレッツのウェブサイトより
http://cslets.net/

レッツが発行する雑誌や報告書など、カラフルな資料もどっさりもらった。帰路、代表の久保田翠さんの静岡新聞コラム「窓辺」の連載をまとめた冊子『あなたの、ありのままがいい』を読む。すばらしい。

10月某日 金石範先生の最新作「夢の沈んだ『火山島』」『世界』2022年11月号を読む。小説でもありエッセイでもあるような不思議な掌編。が、歴史のなかで語られなかった声を聞き遂げ、書き尽くそうとする金石範文学の意志の力にがつんと打ちのめされる。

10月某日 茨城のり子訳編『新版 韓国現代詩選』(亜紀書房)、ポーラ・ミーハン選詩集『まるで魔法のように』(大野光子ほか訳、思潮社)が届く。どちらも、この冬に大切によみたい青い詩の本。

10月某日 東京都現代美術館で開催されたTOKYO ART BOOK FAIR 2022へ。印刷会社イニュニックのブースで、サウダージ・ブックスの写真集などの本を販売した。3年前に刊行した宮脇慎太郎写真集『霧の子供たち』が好評であっという間に完売、開催3日目に追加納品。ブースでおしゃべりしたイニュニックのスタッフ2人が拙随筆集『読むことの風』を読んでくれて、心のこもった感想を伝えてくれた。そういえば、印刷会社の方から編集や執筆をした本の感想を聞いた経験はあまりなく、なおさらうれしい。

TOKYO ART BOOK FAIR 2022 では、美術館地下のZINE’S MATE のコーナーへ。loneliness books のブースで『百鬼走行 女性怪物行進』日本語訳zine(韓国語原著の絵本がすごい!)、とれたてクラブ『なかよしビッチ生活』(おもしろかった!)を購入。loneliness books 店主の潟見陽さんによると、toさんの『A is OK. vol.1-2』が人気みたい。「トムボーイ」をテーマにした読み応えのある批評系のエッセイzineで僕からもおすすめ。

そのほかに、Sakumag のブースでは、Sakumag Collective『We Act! # 3男性特権について話そう』を購入。市川瑛子さん『これは言葉、そしてあまりにも個人的なヨガのこと』も。イラストなしで言葉だけで綴るヨガのzine、アイデアがおもしろい。

そして写真家の東野翠れんさんが主宰するshushulina publishingのブースでは、町田泰彦さんの『土と土が出会うところ』を。はじめてお名前を聞いた作家、栃木・益子に居を移し「文筆、映像、建築土木作業などを通して、生活のための表現を実践している」という。東野さんから渡されたチラシのテキストを読み、美しい装丁とタイトルに直感的にひかれてページを開くと、そこには風景と記憶とからだが相互浸透するところから生まれるまさに自分好みのことばがあった。「これは!」と思える一冊との出会いはうれしい。そして町田さんのこの本にも「三光鳥」が登場してびっくりした。

10月某日 東京・馬喰町の Kanzan gallery で、前川朋子・宮脇慎太郎写真展「双眸 —四国より—」を鑑賞。以前、大阪の gallery 176 でおこなわれた写真家・木村孝さんによる企画の巡回展。gallery 176 での展示も観たのだが、空間が変わると作品の印象もずいぶん変わる。2日連続で観に行き、在廊していた前川さんからじっくりお話を聞いた。

10月某日 東京・八重洲のK2+Gallery で、渋谷敦志さんのウクライナ写真展「Mind of Winter 2022」を鑑賞。ロシアによるウクライナ侵攻後、8月にキーウを拠点に取材した渋谷さん。正面から横から、近くから少し遠くから撮影した現地の人々の肖像。戦火の風景に象られた一人ひとりの顔に心が釘付けにされる。そこに映し出されているのは「いまここ」という速報的な現実だけではない。かれらの顔を裏打ちする厚みのある人生の時間、人間の時間が写真を通して静かに重く迫ってくる。作品に添えられたキャプションに記された人々の語りを読み、何か応答したいと思うのだが、なかなかことばにならない。いまは心のざわめきにじっと耳をすませる時——。

弾道ミサイル、警報システム、核。これらの軍事用語は、対岸のことばと言えるだろうか。今月は「汚い爆弾」という知りたくもないことばまで覚えさせられた。ここ東アジアでも、戦争の足音は日に日に大きくなっているような気がする。

どうよう(2022.11)

小沼純一

やみやみなやみ
やみあがり

やみやみくやみ
ふだめくり

やみやみこやみ
あめあがり

やみやみはやみ
てりむくり

やみやみむやみ
まちめぐり

やみやみいやみ
さかあがり

うやむやごのみ
いちぬけた

てるてるぼうず くびっつり
はれてほしくはないからに
かおはかかずに
ずきんはきって
つったあとにはひももきる
てるてるぼうず さかさづり

あめあめ てんきあめ
ふってほしくはないからに
あめあめふらし
つっといで
つってそこらにさかさづり

くちぶえふけずにおとなになった
うたとむえんにとしとった
はなうたたまにくちずさむ
しらないふしをはなにとおして

めったにくちぶえきかなくなった
はなうたたちはどこにいる
くちあけてこえあげる
ひとのみみにはみみせんが

うたはでんぱにさそわれて

せきでてる はなでてる ねつでてる
かぜひいた アレルギィ もっとべつ 
ほったらかし

くちだして しただして てだして
なかたがい きがあわない けんかっぱやい 
ほったらかし

あしだして はらだして むねだして
しんりょうじょ それとも いかがわしいところ
ほったらかし

つのだして やりだして あたまだして
かたつむり かぶとむし じだいさくご
ほったらかし

ふくろおとした
ちゃいろいかみから
オレンジ リンゴ
ごろごろさかみちころがって
ふるい映画とおもってた
おいかける おいつかない
バナナひろうとおくれちゃう
つまさきにブレーキかるくかけながら

ふくろおとした
ちゃいろいかみから
ジャガイモ トマト
ごろごろさかみちころがって
よその映画のはずだった
おいかける おいつかない
キュウリ ニンジンほったらかし

ゆびすべらせた
あみぶくろごところがった
まんまるスイカ 
ちょろっときずつき
ごろごろさかみちころがって
こんな光景あこがれていた
あこがれてから半世紀
あこがれだからはしりつづける
うすあかいすじおって
さかみちを
おわりなく