人生はパスワード

篠原恒木

いつからあのパスワードという存在が、おれの人生にのしかかってくるようになったのだろう。

PCやスマートフォンが普及し始めてからだ。あれ以来、おれの人生はパスワードまみれとなっている。じつに厄介である。
朝、出社してPCを起動させると、画面には
「パスワードを入力してください」
と出る。ふざけているではないか。ここはおれの席であり、したがっておれの机に置いてあるPCはおれのものに決まっている。
「おれだよ、おれ」
とPCに向かって言うが、彼女は融通が利かない。いまおれは「彼女」と書いたが、PCはおれの妻のような気がするからだ。すぐ機嫌が悪くなりフリーズするし、少しばかり重たいものを送ってもらおうとすると、
「そんな重たいものは持てません。したがって送れません」
と、にべもなく拒絶する。妻とそっくりだ。だからPCは「彼女」なのだ。

話が逸れた。「彼女」を起動させないと仕事にならないので、不本意ながらおれはパスワードを入力する。これは毎日のことなので、かろうじてパスワードを覚えている。面倒だが問題はない。
問題はPCやスマートフォンでいろいろなサイトにアクセスする場合、いちいちパスワードを入力しなければならないことだ。テキは最初に、
「パスワードは8文字以上で数字と英文字の組み合わせでお願いします」
などと指定してくるので、おれは覚えやすいアルファベットに覚えやすい数字の羅列を入力する。
「これで文句ないよな」
と思いながら、ログインしようとすると、テキは
「危険度大」
などとホザいて、撥ねつけてくる。
「生年月日などの数字はパスワード漏洩の恐れがあります。アルファベットは大文字、小文字の両方を用い、記号も入れて再入力してください」
とかなんとか通告してくるのだ。
「細かい奴だなぁ」
と思いながらも、おれは仕方なくもう少し複雑なパスワードを入れることになる。すると、
「パスワードを保存しますか?」
と表示されるが、これが保存したりしなかったりと、おれの行動には一貫性がない。保存してあれば、次にログインするときはメール・アドレスを入力すれば、●●●●●●●●という按配で自動的にパスワードが打ち込まれるので、たいそう気分がよろしい。

問題なのは、同じサイトへPCからではなくスマートフォンからログインしようとすると、また最初から同じパスワードを入力しなければならないことだ。ここでおれは躓く。パスワードを覚えていないのだ。
「あれかな?」
という心当たりはあったりするので、その英文字、記号、数字の羅列を入力するが、憎たらしいことにわざわざ赤字で、
「パスワードが違います。再入力をお願いします。誤ったパスワードを複数回入力すると、ログインできなくなります」
などと、脅しのような注意書きが画面に出る。おれは途端に緊張して、次のパスワード候補を入力するが、これも「違います」と出る。ひょっとしたら一回めに打ち込んだパスワードのキーを間違えて叩いたのかも、と思って再度入力するが、これも違うという。それからあとのことは書きたくもない。

「PCとスマートフォンを同期させればいいじゃないですか」
などと訳知り顔でホザく奴もいるのだが、そういう野暮なことは言ってほしくない。おれは普通の人々がたじろぐほどのアナログ野郎なのだ。動悸はときどき激しくなるが、同期のやり方などわかるはずがない。いや、わかろうともしないのだ。バカにしてもらっては困る。

「最初のパスワード入力時に、メモを取っておけばいいではないか」
と、つまらないことも言ってほしくない。おれはそういうきちんとしたニンゲンではない。ナメてもらっては困る。仮にメモしたとしても、どこにメモしたかわからないという事態が常なのだ。そんじょそこいらのお兄いさんとはちぃっとばかりお兄いさんの出来が違うのである。

おれはCDやDVD、書籍、ポテトチップス、餃子、衣服、チョコレート、ライヴのチケットなどいろいろなものをいろいろな物販サイトで購入するので、その都度、パスワードに悩まされることになる。
「世の中がひとつ便利になると、ひとつ不便が増える」と言うが、あれは真理だ。ライヴのチケットを求めに、始発電車に乗ってプレイガイドの前で行列しなくて済むようになったのはまことに便利で寿ぎだが、パスワード地獄のストレスが不便でならない。スマートフォンでは顔をかざせば、自動的にパスワードが入力されることもあったが、機種変更をしたときにすべてのパスワードが消えた。新任者への業務引き継ぎはちゃんとやってほしい。仕事の基本ではないか。

パスワードだけではない。クレディット・カードや銀行のカードの「暗証番号」という問題もある。
「あれは四桁の数字だから、間違えようがないだろう」
などと、くだらないことは言わないでもらいたい。おれはそういう理路整然としたニンゲンではないのだ。甘く見てもらっては困る。どっちの番号がクレディット・カードで、どっちの番号が銀行のカードか、わからなくなってしまうことがよくあるのだ。

ショップで服などをクレディット・カードで買うと、店員さんが手のひらサイズの端末にカードを挿し込み、
「金額をご確認のうえ、暗証番号をお願いします」
と言って、大袈裟に俺のほうから顔をそむける。
「私、見てませんよ。暗証番号、盗み見してませんよ」
というメッセージなのだろうが、おれはあのポーズをとられると、途端に緊張してアタマが混乱してしまう。
「おお、マズイ。早く店員さんをこの不自然なポーズから解放させてあげなくては」
と焦り、その結果、数字ボタンを打ち間違えたり、クレディット・カードの暗証番号ではなく、銀行のカードの番号を押したりしてしまうのだ。

おれはジムに通っている。ところがジムのロッカー番号も覚えられない。ロッカーは横四桁のダイヤル式になっているが、おれは下一桁だけダイヤルをひとつ下にずらしてロックするようにしている。これなら簡単に開けられるからだ。ところがたまにほかのジム会員が間違えておれのロッカーを触ったりすることがある。こうなると厄介だ。四桁の数字がバラバラになっているので、いちいち受付のヒトを呼んでしまうことになるのだ。

おれは狭い集合住宅に住んでいるが、郵便ボックスの開け方がわからない。円形のダイヤル式で0から9までの番号が円の外周に記されていて、右に回したり左に回したりして開けるという、例のアレである。妻に開け方を教わったが、すぐに忘れた。
「184だから、イヤヨと覚えればいいのよ」
と言われて、なるほどと思ったのだが、最初に目盛りを0に合わせて、そののちに右に1なのか、それとも左に1なのか、それを忘れた。したがって次の8、その次の4も右なのか左なのかも覚えているはずがない。右も左もわからないとはこのことだ。

こう考えていくと、このおれがパスワードのような複雑な「暗号」を管理できるはずがない、ということがよくおわかりになるだろう。四桁、いや三桁の数字ですらおぼつかないのだから、英数字と記号を含む八文字以上の順列組み合わせを記憶できるわけがないのだ。かくしておれは今日も「彼女」に連呼されている。
「パスワードに問題があります」
「パスワードに誤りがあります」
「パスワードに問題があります」
「パスワードに誤りがあります」
問題があるのはパスワードではなく、このおれだ。
あやまりがあるのなら、あやまるしかない。

むもーままめ(22)山で本性が見えた男、の巻

工藤あかね

 一緒に山を登ると、お互いの本性が見えてくるという。十年ひと昔というなら、もうふた昔も前の話になるだろうか、ヨーロッパのある街に行った時に、現地在住の男性と知り合いになった。私の帰国後は時々メールで連絡を取り合うくらいで、お互い恋愛感情もなにもなかったが、友達としては良い付き合いができそうだと私は勝手に思っていた。その人がある日、メールで提案をしてきたのだ。「この夏、日本に一時帰国するんだけど、富士山一緒に登りに行かない?」と。「富士山かあ、一度くらいは登ってみたいよね」と返事をすると、トントン拍子に話が進んだ。私が「富士山に登ってみたい人いる?」と知人に声をかけてみたところ、女性2人が手をあげたので、結局4人で登ることになった。

 新宿のバスターミナルで待ち合わせた。みんなきちんと時間通りに集まった。知人同士をその場で初めて引き合わせたので、軽い自己紹介をしてもらい、食糧や装備、スケジュールなどを確認した。夜に出発して、21時頃に五合目に到着。その時点で東京とはだいぶ気温が違って肌寒かったので、さっそく登山の格好に着替えて出発した。夜に登り始め、夜通し歩き、頂上でご来光を拝むという算段だった。ビギナーは普通、七合目とか八合目あたりの山小屋でしっかり仮眠を取ってから最後のアタックをするらしいのだが、私たちの誰一人としてそのような知識がなかった。というよりそもそも、自分たちの体力に自信があったから、たとえ事前に勧められても断っただろう。

 登りはじめはみんな余裕でおしゃべりをしたり、冗談を言い合っていたのだが、30分もたたないうちに全員が言葉少なになっていった。この調子であと7時間も登り続けるのかと思って、軽く後悔した。じつのところ私は装備も失敗していたのだ。防寒のためにユニクロのヒートテックとフリースを着込んでいたのだが、汗をかきはじめると湿気が逃げていかないので、冷たくなってくる。山を愛する人たちの間では、ユニクロは禁忌だということは後から知ることになったが。汗でびしょびしょに濡れたヒートテックはもはや凶器と化して、超ひんやりクールテックになってしまった。ただでさえ体感温度はマイナス1度と言われている富士登山で、必要以上に寒い思いをすることになってしまったのだ。八甲田山ー死の彷徨のような恐怖は味合わなかったけれど、かなり心身にこたえた。

 その頃、例の彼はどうしていたかというと、他のメンバーに歩調を合わせることはせず、一人でスタスタと前を登っていった。姿が見える範囲ではあったが、ずいぶん友達がいのない人だなとは思った。そうこうしているうちにヘッドライトの電池が切れてしまって、崖の手元が見えにくくなった。近くにいたメンバーが照らしてくれるヘッドライトの光のおこぼれで、なんとか登り続けた。彼はとうとう姿が見えないほどに先へ行ってしまった。登るスピードが遅い人に合わせるのはたしかにかったるいだろうし、気持ちはわかる。でもこういう時こそ、後を歩く人のためにみんなで励ましあったりするものじゃないの?と、思ったりもした。とはいえ山小屋では待っていてくれたので、再度合流はできた。私はたしか500円くらいする、ぬるいカップヌードルを食べてなんとか暖を取ったあと、びしょびしょに濡れたヒートテック改めクールテックを脱いで、いまいましい思いでリュックサックに入れた。

 なんとか頂上にたどり着いた時、ご来光まではまだまだ時間があった。彼は随分早く頂上に着いていたので、よほど暇を持て余していただろうと思う。女性陣は「雲の上だね」とか「ちゃんと晴れてくれるかな」とかワクワク話をしながらご来光を待ち、しっかり太陽を拝むことができた。素晴らしい体験だった。

 さて下山である。登りよりも降りのほうがきついとは言われるが、本当にそうで、特に膝にくる。それから靴がきちんとしていないと靴の中が砂だらけになる。とはいえ私たちは、わりとしっかり足元の装備をしていたので、時々靴をひっくり返して砂を出すくらいで、膝の軽い痛みは出たものの全員がほとんどストレスなく五合目まで辿り着いた。その後、帰りの高速バスまで休憩所で休もうということになったが、そこで大問題が発生したのだった。

 メンバーの女の子が急にうわごとを言い出したかと思うと、苦しがって胸の辺りをかきむしって、のたうち回り出したのである。声をかけてもほとんど意思の疎通ができない状態で、これはいけない、と思った。もう一人いた元気な女の子には、休憩所の人に救急車を手配してもらうように言いに行ってもらった。休憩所の床は平らだったので、苦しんでいる子のリュックサックを枕にして寝かせようとしたら、例の彼は全く無関心と言った様子でそっぽを向いて寝っ転がっている。こちらで苦しがって暴れている人がいるのに信じられない。「寝かせるの手伝って!」と強く言うと、のそのそと起き上がって面倒そうに介抱の手伝いをし、そのあとは、なにもせずにただぼうっとしているだけだった。はっきり言って使えない男だと思った。彼女は苦しがっているので服を緩めたり、寒いというので服を体にかけたり、方々に散らばっていた彼女の荷物をかき集めたり、帰りのバスの予約を解除して、参考までに何時までバスが出ているかを確認したり、やることはいくらでもあった。なんとかバス会社に電話し、事情を話してバスの予約を一旦解いてもらった。救急車は40分以上経ってから来た。一緒に病院まで行き、彼女が高山病になっていたことを知った。落ち着いた頃にご家族の電話番号を聞き出し連絡をした。入院になってしまうかもしれないと案じていたが、高度の低い場所に降りてしばらくなじめば、体調に問題はないという。私たちはなんとかバスに乗れることになり、それで帰京した。帰りのバスの間、彼と私は口をきかなかった。

 新宿に戻った時、一刻も早く家に戻って眠りたいと思った。それと同時に彼とは今後連絡を取り合わないだろうなと思った。向こうもそう思ったのだろう。仲間を思いやれない、緊急事態に対処できない彼を見て、やはりわたしは幻滅したのだろうか。それは自分でも気づかぬ心のどこかで、もしもこの人と付き合ったらどうなったかな、などと思っていたからなのだろうか。その彼がその後どうなったか、わからない。

アリババと40人の盗賊

さとうまき

最近、僕はChalChalというアラブ音楽のバンドに加えてもらって、紙芝居を作っている。昨年はアラビア星物語というのを作った。これは、オリオン座とさそり座にまつわる神話を紙芝居にしたのだが、今の時代に合うように、パワーポイントのアニメーション機能を使っている。今年は、「アリババと40人の盗賊」をやることになり、さてはてどのような展開にしようかと悩んでいるところだ。

アリババで思い出すのは、2003年のイラク戦争だ。アメリカの攻撃に、サダム政権はいとも簡単に陥落してしまった。イラクは、米軍に占領されるが、無政府状態になってしまった。恐ろしかったのは、市民が公共の施設や病院などに押し寄せ、片っ端から略奪をしたことだ。家具から電球に至るまで持ち去れるものは何から何まで持って行ってしまう。コンセントや電灯のスイッチまで根こそぎ持っていかれていたのは驚いた。モスクの聖職者が呼びかけ、さすがに反省した市民たちは、盗んだものを返しに来たらしい。僕がイラクに支援に駆け付けたのは、戦争の被害者の救済のためだったが、実のところ戦争で破壊されたのではなく、略奪で病院や学校から盗まれた機材や医薬品、家具の補填作業が中心だった。病院では、送電線を盗もうとして感電した患者などが運び込まれていた。

そういう状態から少し落ち着くと今度は、バグダッドーヨルダン間の街道で待ち伏せをして追いはぎを働く輩が出没した。僕も一度襲撃を受けたことがある。後ろから来た車が銃を撃ち始めたので、ドライバ―が機転を利かせて振り切ったが、友人の車に弾が当たり、停められて、お金をとられたことがあった。そういった窃盗団はアリババと呼ばれていた。

僕らがバグダッドのホテルで友人を待ち受けるときの挨拶は、「アリババに会わなかったですか」だった。あるジャーナリストはホテルに到着すると。「アリババに銃を首に突き付けられたよ」と真っ青な顔をしていた。しかし、ある日イラク人の医師をヨルダンに呼んで打ち合わせをしたときも、「アリババに合わなかったですか?」と安否を気遣ったのだが、「何を言う! アリババは盗賊をやっつけた、いい奴だ」と叱られた。我々の中では、「アリババと40人の盗賊」のイメージからアリババが盗賊の頭のように思えていた。

確かに、アリババは40人の盗賊と闘った英雄のはずだ。しかし、盗賊のことをアリババと言い出したのはイラク人達だ。追いはぎだけではなく、お金を横領する奴のことを、アリババと呼んでいた。結局、アリババは、盗賊が盗んだ財宝をさらに盗んで、おまけに盗賊を皆殺しにしてしまうから、よくよく考えたら盗賊の親玉よりもさらに罪な奴である。イラク人はそこを言いたかったのだろう。結局、アリババ=泥棒野郎 という使われ方がイラク戦争を機に我々日本人イラク関係者にも定着したようである。

そんなこともあり、中国資本の alibaba.com という通販サイトが有名になった時には、盗んだものを販売するサイトか?と思ってしまった。アリババを立ち上げたジャック・マーは、アリババの話は、世界中の誰もが知っているので、世界に羽ばたく会社にしようという思いでこの名前にしたらしい。

さあ、今回の紙芝居、アリババを英雄として描くか、それとも、盗賊の親玉よりもっと悪いやつにしちゃうかどうか悩むところだ。

10月2日(日曜日)
赤羽にある青猫書房で2:00~
デジタル紙芝居「アリババと40人の盗賊」初演の予定

テッド・ロビンソン

笠井瑞丈

今日突然友人から
連絡がきて
カナダの振付家
テッド・ロビンソン
亡くなった………….!

僕がテッドと初めて会ったのは

二十代の時に
初めて受けた

ダンスオーディション
そのオーディションは

今でも忘れない
八月の暑い日
新宿村で行われた

このオーディションは
カナダと日本で行われる
ダンス公演のオーディション

四人のカナダ人の振付家が
日本人ダンサーを振付ける

そのダンサーを探す為

四人の振付家が
日本に来ていた

その中の一人の振付家が
まだダンサーが決まらず
急遽オーディションが
行われる事になった

そしてテッドは
その他の三人にいました

テッドはもう出演ダンサーが決まっていて
オーディション当日たまたま見学に来ていました

オーディション翌日
事務所から電話をいただき

落ちたと連絡を貰いました

勿論多少なり落胆しました
受かる自信もなかったので
「はい分かりました」と
すぐ受け入れる事が出来た

しかし先方から

見学に来ていたテッドがあなたに興味を持ち
是非私の作品に出て欲しいと言っていますが

テッドは当初女性のソロ作品を考えていたけど
あなたが出てくれるならデュオ作品を作ると言っている

出る気持ちはありますかと聞かれ

僕は勿論迷う事なく
出演させてくださいと言いました

これが僕とテッドとの出会いです

そしては翌月カナダに
一ヶ月行く事になった

テッドの作品に出られた事で
色々な国を回る事ができた

そして僕のダンスにおける大きな道を作ってくれた
そして今日までずっと交流も続けてきました

テッドと過ごした時間は本当に貴重な時間だった
そして多くの事を学んだ
テッドとの思い出は書ききれない程にたくさんある

その中の一つ

『もしあなたがダンスで迷う事があればいつでもカナダに来なさい あなたの気が晴れるまで僕はあなたをサポートするよ』

その言葉がずっと忘れられない
いつも優しい笑顔でいたテッド

ありがとう

『アフリカ』を続けて(15)

下窪俊哉

『アフリカ』を始めて7年ほどたった頃、ちょうど18冊目を出した後に、初めてトーク・イベントを開催した。イベントというより、語り合いの会と呼んだ方がイメージが湧きやすいかもしれない。vol.18(2013年1月号)の編集後記によると、「どうしてこんなことをやってしまったんだろう、ということは自分でも気になるが、誰かと語り合いながら考えてみたい」と思った。

 それまで1年弱の間、『アフリカ』は隔月刊行という無謀な試みを行なっていた。生業にならないどころかお金の出てゆく方が多くなることすらある『アフリカ』なので、隔月で原稿を集めて、例の”セッション”をやり、編集・デザインして印刷・製本に出して売るというのはよほど暇がないとできない。いや、たとえ暇だったとしてもいちおう(暮らしのための)仕事はしていたわけだし、狂気の沙汰だ。
 どうしてそんなことをする気になったのかというと、中村広子さんの「ゴゥワの実る庭」という連載があったからだ。これはあまり間を空けずに、書き続けてもらう方がよいと私は思った。お互いに、それができるだけの余裕があったということかもしれない。
 中村さんとは2009年に、植島啓司さんの講演会の打ち上げの席で知り合った。その少し前に中村さんがインドのある町を歩いていたら、前から植島さんがやって来たのだそうだ。赤い表紙に暗い木が浮かんでいる表紙の『アフリカ』vol.5を植島さんから手渡された中村さんは、しばらく眺めて、「『アフリカ』にチベットの話を書いてもいいですか?」と言った。
「ゴゥワの実る庭」はインドを旅している「私」が、デリーからバラナシを経てガヤに向かい、デリーに戻るまでの濃縮された数日間の記録だ。ドタバタと進む旅の喧騒の裏で、偶然の連なりの中に人生は間違いなく続いてゆくと静かに感じられる、内省的なというより祈りの一種のような作品で、私は毎回、楽しみにその原稿を待っていた。
 その連載が終わったのが、vol.17(2012年11月号)だ。隔月で出す原動力は、そこでひとつ外れた。さあこれからどうする? という気持ちが自分の中にあったのかもしれない。その号の編集後記では「ゴゥワの実る庭」を振り返った後、こう書いている。

 この雑誌を言い表す言葉を思い描いていたら、先日、「日常を旅する雑誌」というキャッチフレーズが、ふっと浮かんできた。
 私たちの日常を捉え直したエッセイ、小説、漫画や写真だけでなく、インドを旅しつづけている日本人ですら、どこかで日常のなかに(意識して)とどまっていて、自分が日常の外にいることに対して残念そうな顔すら見せる。

 書き写しながら思った。もしかしたら「日常」を「旅」するというのは、「ゴゥワの実る庭」を編集しながら思いついた表現ではなかったか。
 とはいえ、それはきっかけのひとつだろう。小説を書く人たちが集まった、いわゆる同人雑誌(というより個人雑誌)として始まった『アフリカ』が自然と変化してきて、これは一体何なんだ? と思っていた編集人の観察が「日常を旅する雑誌」というイメージというか、方向性というか、雑誌を続けてゆく上での動力のようなものを生み出したということかもしれない。

 そんな話は、書くより、語り合ってみたいと思ったのだろう。その時、淘山竜子さんが思い浮かんだ(淘山さんはその後、何度か筆名を変えるが、ここでは当時の名前で書きます)。
 淘山さんとは、その少し前に『アフリカ』を買いたいというメールを貰ったのをきっかけに交流が始まり、『孤帆』という雑誌をやっているという話も聞いて、送ってもらって少し読んでいた。『アフリカ』を知ったのは、大阪の天神橋筋にあるbookshelf Bar「いんたあばる」だったという。そこは私が大阪在住の頃によく飲んでいた場所で、本棚に表紙を出して置かれている例の、赤い表紙の『アフリカ』が目についたのだそうだ。淘山さんをそこに案内したのは北村順子さんといって、『VIKING』に参加していたこともあったんじゃないかな。私は(たぶん)会ったことはないけれど、『ムーンドロップ』という雑誌に名前を連ねたことがあった。『アフリカ』を見た北村さんは「あ、下窪さんの雑誌だ」というようなことを言ったらしいので、不思議な縁だ。

 トーク・イベントのようなことをしたいと考え、淘山さんに連絡して、一度会って話した。その頃、『アフリカ』を置いてもらっていた横浜の中島古書店にも顔を出して、そこを会場として一度やってみませんか、という話になった。
 題して、「“いま、プライベート・プレスをつくる”ということ」。
 せっかくなので編集人だけでなく、そこに書いている人にも来てほしかったが、『アフリカ』も『孤帆』も書き手の多くが離れた場所に住んでいるので、難しそうだ。では、前もってコメントを貰おう、という話になった。
 せっかくお金を出して参加してくださる人たちには、ささやかなお土産を渡したい。事前に預かったコメントと、編集人がその日のために書いたエッセイをまとめて(『アフリカ』と『孤帆』それぞれ)小冊子にして、準備した。久しぶりに出してきて読んでみたのだけれど、忘れていることもたくさんあって、面白い。なのでこの先は、それを見ながら書こう。
 各コメントにはタイトルがついていて(私がつけたのかもしれない)、それを見てゆくだけで何というか、対照的だ。
『孤帆』の方は、「より濃密な、原液のような短編を」「同人雑誌〜文学とともに生きるということ」「淘山さんの孤独な帆船」「綱を引け、帆を張れ」。
『アフリカ』の方は、「二〇一二年七月号の宣伝文」「一度だけのゲストのつもりで」「発見を感じること」「等身大の生身の人間が」「自然な流れ」「下心」である。
 そこで語られている『孤帆』に、私はおそらく自分のルーツを見ていたはずだ。一方の『アフリカ』はどうか。しょうがないよね、という感じだろうか。
 淘山さんには「メディアの話はあまりできないかも」と言われた記憶があるのだが、その時に書いてもらったエッセイ「出版をしたいのか文学をしたいのか」を読むと、具体的にどうやってつくり始めたかという話と、その時代背景が書かれている。1990年代の後半に「パピレス」「青空文庫」が出てきたこと、『本とコンピュータ』のシンポジウムに行った話、当時のDTPソフトのことなども。
 印象深いのは、インターネット上に発表されている「アマチュア作家」の作品を読み漁っても、「文芸批評にたえうるような作品は見つからなかった」と書いているところだ。それに、ウェブでは「繋がれそうで繋がれない」のだと言っている。10年後の今、どんなふうに感じられるだろうか。

製本かい摘みましては(175)

四釜裕子

いよいよ裏紙がなくなってきた――。年に一度の製本講座の準備をするのに、今年いちばんびっくりしたこと。ノリやボンドを塗るときに、机だとか塗るべきではないところにベタベタつかぬように下にひく、いわゆる「ノリひき紙」のことだ。校内のリサイクルボックスをちょっとのぞけばいくらでも拾えたのに、去年はコピー用紙類のボックスから拾えなくて隣の雑誌・雑紙箱から拾ったし、今年はついに何も拾えず、わざわざいらない雑誌を探してもらってそれを破って用意することになってしまった。学校が夏休みに入っていたせいもあるだろう。でも印刷室とお掃除の人に聞いたら、今年は特にないという。ペーパーレス! SDGs! いいことじゃないですか。

津村記久子さんは、生活の一割くらいはメモにとっているそうだ。高いノートより安いノートの方がいろいろ書けるし、いちばんいいのは勤めていた会社の裏紙だったとエッセイに書いている(朝日新聞「となりの乗客」2022.8.17)。今はB6縦サイズのノートを使っているがリング式ではなくて無線綴じか糸綴じのものを見つけるのに難儀しているそうで、〈どうやら大量に持っているB5サイズのノートを「切り出す」のがいちばん良さげだが、罪悪感が強くて踏み切れない〉とあった。その罪悪感、わかるわかると笑いつつ、「切り出す」ことを思いつくほど、津村さんにはカッターに慣れているのだろうと思った。だって結構、難しいですよ。それなりに厚みがある紙束から直方体を切り出すのって。

製本講座でもう一つ、今年ならではのトピックがある。コラージュの素材にレシートが登場したことだ。数日かけて綴じ方をいくつも体験する講座なので、本文はほぼ白い紙を使う。それでときおり、自分がその冊子の作者・著者となって「本」を完成させてみようという時間を挿入している。ページを埋めるのに手段は問わない。文字でも絵でもコラージュでもいい、とする。実際コラージュする人は他に比べて少ないが、その素材は年々変わる。いわゆる雑誌のグラビアやポスターやカレンダーやチラシや包装紙のような美しい印刷物はみるみる減って、携帯で撮った写真のプリントが増え続けている。そして今年初めて感熱紙のレシートが仲間入りしたというわけだ。レシートを用いた三人のうちの一人は、「手元にあるもので使えそうな紙はこれしかなかった」と言った。とはいえ新聞の切り抜きもうまく使っていたし、新聞紙を束ねるようなビニール紐で四つ目綴じをアレンジしてあったりして、読んでも見てもユニークな「本」に仕上がっていた。

とにかくペーパーレス化はいいことだと思っている。不可逆性の着々は大歓迎。自分自身の無駄にも悩んでいた。例えばこうしてちょっと何かを書くにしても、いちいちプリントしないと通して読めないとか直しを入れられないとか、小見出しを立てられないとか要約できないとかいうのにうんざりしてきた。いちいちプリントする。いちいち直す。なんでだろう。どうしてできない? 単に習慣ということもあるだろうと思いつつ、改めるきっかけもないままできてしまった。やっぱり私、紙で読まないとダメなの。とか口から出そうになるのを必死でこらえた。でもこれはコロナのおかげと言っていい。おととしそうする必要にせまられて、これを機会にできるだけやめてみようと思った。始めはつらかった。無理だと思った。毎日夕方にはストレスにまみれた。だけどいつからかできるようになった。気づいたらストレスが消えていた。新しい何かに慣れる生きものとしての余力がまだあるんだと思ってうれしくなった。

紙っぺらや印刷物が周りから激減しているのは正直とても寂しい。だけどどう考えても、これまであふれすぎていた。コピー用紙なんてもう最初っからリサイクル要員な顔をさせられてきたものね。どの一枚ずつもまっさらに生まれてきたにもかかわらず、物理的にも時間的にもわれわれはその一枚ずつをあまりにも平気で一瞬でくたし続けてきた。無礼な話だ。見よう、紙を、まじまじと。さっきもらったレシートもね。

ダンゴムシに似ている

イリナ・グリゴレ

人類学者のグレゴリー・ベイトソンの本と私の出会いは、人類学を専攻した当初からあった。映像人類学に興味があった私は、ベイトソンとミードのTrance and Dance in BaliをYouTubeで飲み込むように見て、やはり「これだ」、私がやりたいのは「これだ」と再確認した。ミードのナレーションは「科学的」なナラティブを目指しているにも関わらず、トランスに入る人々の身体をスローモーションで映し出しているため、映像を見ている側までトランスに入る気分になる。

獅子舞のフィールドワークを始めていた私は、永遠に踊りとイメージの魅力から抜けなくなるという予感がした。今でもきっと私はずっとベイトソンとミードがバリ島で撮った映像を再現し続けようとしている気がする。バリの踊りはいつも夜に行なわれる。だが、ミードたちには1930年代の機材で撮るという制約があったので、地元の人々は特別に昼間に演舞することにした。いつもトランスに入る女性は年寄りの女性だったのに、白昼だからと村の偉い人は若い「美しい」女性を出演させた。それでも、真実に、永遠に、あの人類学者のレジェンドがバリの踊りとトランスを映像に収め、映像人類学という新分野が生まれた。このフィールドワークがきっかけで二人は結婚し、一人の娘、二万五千枚の写真、六千七百五メートルの十六ミリフィルムとして結実し、『バリ島人の性格―写真による分析』という名著が出版され、それまで文字中心であった学問に新たな展開が開けた。

この挿話は人類学者なら誰でも知っているが、私はフェミニズムにも影響を与えた同性のミードよりも、ベイトソンの方にむしろ興味を覚えた。研究者として、女性の私は女性を対象にフィールドワークしてきて、男性中心の学問の中で突出したミードに共感するのがあたりまえだが、なぜかベイトソンに興味が湧いたのだ。彼の映像と写真の撮り方に不思議なものを感じた。偶然だと思うが映像を見る前、彼が書いたNavenを読んで、ニューギニアのイアトムルという「首狩り族」の儀式の話を知った瞬間に私の身体の感覚を奪った。Navenの時だけ、普段は厳格に守られている常識とルールを破っても良くなり、女性は男性となり、男性は女性となり、この儀式によって、一時的にお互いの感覚を味わうことができる。一日でもいいから男になってみたいと思っていた私に、世界が広い視点から見えた。ベイトソンの本は彼にとって実験だったというが、アメリカ社会を含めて、世界に向けたイアトムル族の思想がどれだけ共感できたのか不明だ。『アナーキスト人類学のための断章』を書いたデヴィッド・グレーバーもいっているように、一般のアメリカ人にとっては、イアトムルのような人たちはアメリカの日常世界から隔離されており、本当は「原始人」とか単純社会など存在しないことが信じられないという。人類学は、「未開社会」や「原始社会」が現代世界では虚構に過ぎず、自分たちの社会は他の社会と比べて優れているとはいえないことを論証してきたにもかかわらず。

さて、ベイトソンの死後、未刊行論集『精神の生態学』(原題Steps to an Ecology of Mind)、が出版された。序文を書いた娘は、ベイトソンの講義は外国語のように聞こえ、「ベイトソンは何かを知っているが、わたしたちに通じない」という噂がベイトソンの耳に届く程だったという。この本だけでなく、ベイトソンの理解がどんどん学問の世界では薄くなって、逆に言えば学問はベイトソンの考えに追いつけなくなったのかもしれない。こうした思考は明らかにバリとニューギニアで得られた西洋的ではない視点から生まれたが、聞いている人々には「外国語」にしか聞こえなかった。

東京大学でEthnographic Filmという本の著者、学者のK. Heiderと面会した。かつてベイトソンと友人だったと聞いて、とても羨ましかった。ベイトソンを表す言葉は一言だった、それは「紳士」だそうだ。この言葉を聞いて、憧れていたベイトソンと実際に会った気がした。そうだ、私は女性だが、「紳士」になりたいと思った。アメリカ人のハイダーがいう「紳士」とは、貴族みたいな人を差しているのではなく、イギリス出身のベイトソンの開かれたマインドを表す言葉だと思う。今日の人類学では同じイギリス出身の「紳士」、ティム・インゴルドに受け継がれた。

ベイトソンの論集の第一部は「メタローグ」と名づけて、自分の娘との会話をそのまま載せている。子供の時から周りとのコミュニケーションがうまくいかず、言葉に疑問しか持ってなかった私にとっては、ベイトソンが自分のエッセイに子供とのこうした会話を入れることは救いだった。メタローグとは簡単にいうと、会話の構造と形式が議論されている問題に関連しているということだ。ベイトソンははじめにメタローグの定義を書いた後にこう書く。「進化論の歴史は人間と自然の間のメタローグであり、アイデアの創造と相互作用は必然的に進化のプロセスを例示する必要がある」。ギリシャ語の「メタ」とは「後、ポスト、向こう」という意味を持つと同時に英語では「自分のこと」であり、「ローグ」はギリシャ語の「ロゴス」、語り、言葉、意見、文章という意味である。このように見ると西洋的な哲学で意味づけられているロゴスとは違う解釈ができる。メタローグとはポスト言葉とも言える。

先日、幼稚園に迎えに行ったら、娘はグラウンドで捕まえたダンゴムシを手に取って言った。「ママは今日はダンゴムシに見える」。私は「えー? ダンゴムシに似てる? どこが」と言った。娘は、「うん、すこしダンゴムシを持ってて。ぐるぐるしたい」と私にダンゴムシを預け、グラウンドの築山の柔らかい草の上に身体を丸くして、ボールのように下まで転がる。預けられたダンゴムシは、早速私の手の平で細い足を出してのんびり歩き始めた。娘に「私の手から逃げるよ」と言うと、「ママ、ダンゴムシはこうして持つのよ」と、親指と人差し指の間に小さなダイヤをつまむように持つ仕草をして、また築山の下まで転がった。手の平にダンゴムシを丸めて、娘の指摘に従って親指と人差し指の間に持つことにした。こうしてみると丸い、小さな塊から命のバイブレーションを感じる。ものすごい生の力というか、心拍のようなもの、生まれる前のお腹の赤ちゃんのようなもの、命に溢れる流動的な動きを。この瞬間に私もダンゴムシになった。娘のいう通り、似ている。「だから地球が丸い」と叫びたくなった。

小さな牛たち

管啓次郎

動物という呼び方自体のことも考えておかなくてはならない
「動く物」とはあまりに即物的で
そこにはアニマをもつものがアニマルになる程度の
生気論すらないように思えた
すると誰かがこう思い出させてくれた
日本語の「もの」にはそもそも物質を超えた次元がある、と
また「物」という漢字を見るとおもしろい
つくりの「勿」(ぶつ)は刃が欠けて切れなくなった刃のことで
切り分けられない牛のことを「物」と呼んだのだ
また別の説では(「切り分けられない」ことがさらに進んだのか)
物とは「さまざまな種類の牛たち」を意味するのだという
(個物の切り分けではなく種の切り分けか)

これはおもしろい、たちまち希望が湧いてきた
その当否はともかく物がさまざまな存在であり
その影にさまざまな牛たちが潜んでいると考えることには
何か非常におもしろみを感じる
愉快なイメージだ
あらゆる動物は小さな牛に動かされ
あらゆる植物も小さな小さな牛に動かされ
それで生きているとしたら?

それを言い出せばフランス語のchose (もの)だって
ずいぶんひろがりがある
物質的な物ばかりではない
ラテン語のcausaに由来するとしてcausaは
理由、動機、動因、機会、条件、状況などの
すべてにまたがっている
ものに動かされ、ものに出会い
ものを見抜き、ものとともに生きる
そのすべての出来事と行動の陰に
さまざまな姿の小さな牛たちがいるとしたら?

過去に向かって

高橋悠治

いつか夏も過ぎている。2020年コロナが始まってから中止や延期されるコンサートが多いなかで、あまり影響を受けなかった方かもしれない。でも、いままで知らなかった音楽にはなかなか出会えないでいる。作ることもできないでいる。20世紀後半の音楽を演奏することから始めて、バッハなどピアノ以前の音楽をピアノで弾いてきたけれど、ここにまだ、これ以上の発見があるだろうか。

子どもの頃から、音楽を「基礎」から習うことはなかった。ピアノも練習がきらいだったし、作曲は柴田南雄からまず12音技法を習い、その後で16世紀のパレストリーナ対位法を教わったが、あとはなんでも好きに作曲していればよかった。別宮貞雄にフランスのアカデミックなハーモニー・対位法・フーガを習ったが、おもしろかったのはメシアンのモードやリズムのくふうだけ。それから同じ鎌倉にいた小倉朗に師事して、まず海岸に夜釣りに行くための自転車に乗ること、釣れないで帰って日本酒を飲むことを教わり、それからベートーヴェンのスコアを指揮者を見ながらピアノで弾く練習をさせられ、小倉朗のオペラの練習のピアノに雇われ、その後5年ほど二期会で働いた。

偶然現代音楽のピアニストになり、そこから電子音楽の作曲家になり、クセナキスやケージの紹介文から、似たようでまったく違う確率や偶然性の音楽を思いついて作っていた。それからドイツやスウェーデンに行き、ニューヨークやサンフランシスコに行き、どこにも落ち着かず、結局追い出されて、東京に戻ってきたが、それからもう50年も経っている。

11月からしばらくは、コンサートから離れて、音楽を考えるのではなく、平野甲賀が言っていた意味とはちがうかもしれないが、「ものを見て手を動かす」あそびにふける時間があるように、不安定に変化していく音の、かたちの崩れを追ってみたい。「練習」に目覚めるとしたら、不安定のまま、崩れかける気配が発見となるように。

2022年8月1日(月)

水牛だより

きょうも暑いねえ、と言うのに飽きてきたのに、まだ八月がはじまったばかりです。四季がめぐる(はずの)ところで生きていれば、いまだけのこととしてガマンできるとは思いますが、それにしても、ここだけではなく、世界のいろんなところで暑さが極まっています。山火事も多いですね。

「水牛のように」を2022年8月1日号に更新しました。
初登場は音楽評論家の小沼純一さんです。といっても、小沼さんは詩人でもあり、三冊の詩集は「水牛の本棚」に収録されています。『し あわせ』『アルベルティーヌ・コンプレックス』『いと、はじまりの』 これらもぜひ読んでみてください。入力など、楽しく作業したことを何年ぶりかで思い出しました。
イリナ・ゴリゴレさんのはじめての著書『優しい地獄』は予定通り、7月末に無事発売となりました。これからの土台となるように、イリナさんの可能性がいくつも読みとれる本になったと思います。イリナさんと亜紀書房と水牛とで、ときには(嫌いな)zoomを使って話し合いながら作ったこの本を、イリナさんは「わたしの本」とは言わず、「わたしたちの本」と呼んでいます。イリナさんの日本語を大切にしたかったので、できるだけ彼女の書いたそのままにしました。水牛の連載とほぼ同じです。それでも、開放的なデジタルテキストからアナログの本になると、一冊としてとじられたことで、イリナさんの日本語の世界がより明確になったのではないか、とあらためて感じます。来月はじめには東京でのトークも予定されていますので、亜紀書房のサイトをチェックしてくださるようお願いします。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

どうよう みっつ

小沼純一

きたことがある
しっている
どうしてかわからないけど
たぶんまえ
ずっとまえ

大きな広場
ひだりに彫像
みぎに噴水
むこうとこっち
あっちとそっち
みちがはしって
あいだはみせ
カフェ かべ みせ みせ

おぼえてるみちだった
いけばわかる わかるはず
いくとなんだかちがってた
おぼえがない みおぼえない
しらないここで
とほうにくれる

そうね
知ってる
あなたも きっと
わたしはきのうここにきた
あなたといっしょ
わたしたち

ゆめがたたかう
きみの わたしの
かちまけつかない
つくことあるか
わからない
さめれば
なくなる
ゆめ ゆめのたたかい

めざめて おぼえてない
おぼえてるのは
もらすひとこと
もらすふたこと
きこえておきたら
きこえてこたえたら
かち それとも まけ
きめてない
きめてないから
おわらない
ゆめ ゆめのたたかい

ふって
ふってくる
あめ ゆき ほこり
は はな かれは

ふって
ふってくる
しせん におい おと
はきけ めまい みみなり

ふって
ふってくる
ふけて くる
ひと はか はかり
はかい しに

バスを降りる。

植松眞人

 人間にはバスに乗る者と乗らない者がいる。そして、バスに乗る者は毎日のように乗り、乗らない者はめったに乗らない。そして、それは好き嫌いに関係なく住んでいる土地によって縛られることが多い。
 バスは不便だ。鉄道のように専用の通路があるわけではない。自動車の通行量が増えると図体のでかいバスは行く手を阻まれて運行時間がどんどん遅れていく。時には十分、二十分と予定時刻を過ぎてもバス停に待たされることがある。また、郊外になるとバスの本数そのものが少なく、一時間に一本あれば御の字ということだってある。
 だから、多くの人はバスに乗るくらいなら、とマイカーに乗ったり自転車に乗ったりする。しかし、マイカーは財力がないと乗れないし、自転車は体力がないと乗れない。結果、バスの中は年寄りが多くなる。
 さて、年寄りが多くなると、座席の重要性が問題になってくる。そう、すべての座席が優先座席となり、乗り込んでくる年寄りを見て見ぬ振りをすることが難しくなるのである。ただし、どんなに若くても揺れるバスの中で立っていたい、と思うものは稀だ。出来ることなら座りたい。しかも、見ず知らずの他人が隣に座るよりも、一人でゆったり座りたい、と願う。
 私はバスに乗る側の人間だが、私が普段乗っている市バスも例に漏れず年寄りが多く乗ってくる。しかし、都心に仕事で通う人も多い土地柄なので若い人がいないわけではない。時間帯によっては年寄り九割ということもある。私はそろそろ還暦を迎えるのだが、年寄りとくくられるほどには耄碌していない。この間も試しにつり革を持ったふりだけをして、つり革に手を触れないままで二つほどのバス停に到着するまで立ったままバスに乗車してみた。電車と違ってバスはよく揺れる。その中を立ったまま過ごすのはなかなかに難しい。しかし、私はそれをやってのけたのだ。つまり、私はそこそこ歳だが、そこそこバランス感覚もいいし足腰もしなやかで強い、ということになる。
 それでも、座りたいのだ。それなのに、明らかに私よりも若く、明らかに馬鹿そうに見える男が私の目の前にある二人がけの座席のど真ん中に一人で座っている。そして、スマホを横に持ちゲームに興じている。
 これが年寄りならゆるしてやる。社会の常識を知らなくても、間もなく逝ってしまうのだから、今さら私から言ってあげることはなにもない。しかし、目の前の男はまだ四十代とおぼしき生々しさと脂っこさが見てとれる。なんなら、実際に脂臭い体臭がする。こんな奴をのさばらしておいてはいけない、と私は考え、思い、ほぼ条件反射的に言葉を発してしまう。
「申し訳ないのですが、奥に詰めてもらえますか」
 私がそう言うと、男はちらりと私を見て無視をしたのであった。大の大人が、大の大人に声をかけているのに無視をされるという状況を上手く飲み込めずに、私はもう一度声を出す。
「奥に詰めてもらうことはできますか?」
 すると、男はやけにはっきりとした声で返事をする。
「いやです」
 その声はおそらくバスの真ん中あたりに座っていたすべての乗客に伝わるほどのはっきりとしたものだった。私はそう言ったまま再びスマホゲームに見入って顔も上げない男をしばらくの間眺めていたのだが、不意に男の姿が滲んだことに気付いた。私は泣いていたのだった。なぜ泣いているのか、私にはわからなかった。理由もわからないまま泣くとき、人は泣いていることになかなか気付けないものなのかもしれない。
 ちょうどバスがバス停に着いた。降りるバス停ではなかったし、誰も降車ボタンを押していなかったのだが、降車口に向かった私を察した運転手が降車口のドアを開けた。私は素早く降りた。降りたバス停は小さな小川のほとりにあった。(了)

製本かい摘みましては(174)

四釜裕子

コロナ禍で始めた「東京水際二万歩次」、最初は「一万歩」だった。自宅から何かしらの水際をたどってほうぼうへ歩く。途中お店で休憩することもできない日帰りの散歩なので、せいぜい一回一万歩だった。それから徐々に電車に乗るようになり、店で休むこともありになり、今も続いていて四万歩を超えることもある。歩いたところをGPSで記録したこともあったけど、あとで地図を見ながら道をたどるほうが断然楽しく、しかしこんなに長く続くとは思っていなかったので、あとさきを考えずその都度適当な倍率で地図をプリントして塗り塗りしてきたので、収集がつかなくてちょっと困っている。

2020年の初夏には旧江戸川沿いを歩いた。JR浦安駅からディズニーリーゾトラインに乗り換え、リゾートゲートウェイ・ステーションから東京ディズニーランド・ステーションまで、ひとステーション乗ってみた。閉館中で客のいないランドの周りを海岸線にそって一周し、旧江戸川へ。川沿いを上ると、ほどなくしていい感じの船だまりがあった。さらに歩くと小さな水門、猫実五丁目、橋の手前の船宿には、大きく「山本周五郎著『青べか物語』」の文字。ん、ここが青べかの舞台なの? 本で地図で見ていたあの場所に、行き着いてしまった。

……みたいなのが、この散歩の楽しみでもある。最近では利根川への合流地点から鬼怒川沿いを歩き継いでいたとき。携帯に電話が入り、長話になりそうなのでちょっと脇にそれたらば、なんとそこは「真景累ヶ淵」のお塁の墓がある法蔵寺だった! 手を合わせて、新吉が江戸の根津から連れ逃げてきたお久を殺めた土手ってこのあたりなのかなと、裏に回って土手に出てみる。木陰で青空文庫の「真景累ヶ淵」を開いてその場面を確かめる。

〈と下りようとすると、土手の上からツル/\と滑って、お久が膝を突くと、久「ア痛タヽヽ」 新「何うした」 久「新吉さん、今石の上か何かへ膝を突いて痛いから早く見ておくんなさいよ」 新「どう/″\、おゝ/\大層血が出る、何うしたんだ、何の上へ転んだ、石かえ」と手を遣ると草苅鎌。田舎では、草苅に小さい子や何かゞ秣を苅りに出て、帰り掛に草の中へ標に鎌を突込んで置いて帰り、翌日来て、其処から其の鎌を出して草を苅る事があるもので、大かた草苅が置いて行った鎌でございましょう。お久は其の上へ転んで、ズブリ膝の下へ鎌の先が這入ったから、夥しく血が流れる〉

ただ読むとなんてことないんだけど、この草刈鎌が登場するところがいいんだな。新吉がこの鎌でお久を殺めてしまうと、あたり一帯に雨が降り雷が鳴り響く。それを藪の中から見ていたのが地元の悪漢・甚藏で、そしてこの男が……と話は続く。われわれがこの土手にいる間は雨もなし雷もなし。そして藪ごしに見た鬼怒川には、小さな舟で気持ちよさそうに糸を垂らす男の人がいた。

とまあ、青空文庫にはこんなふうにもお世話になっているわけだが、先月、ブログの書籍化サービスをするMyBookから「青空文庫も本にできるようになりました」と案内が届いた。私はここで、自分のブログを何度かに分けてプリントしている。いずれブログサービスもなくなるだろうから、バックアップのつもりで自分用に一冊ずつ。〈Mybooks.jpにログインして、上部ナビの「+新しく作る」から「青空文庫を本にする」を選んでください。(中略)5作品までをまとめることが可能です。(表紙等含め480ページ以内)〉。本にできない作品があること、著作権が存続している作品があることなどなど、細かな注意書きもある。岩波文庫版『真景累ヶ淵』は解説抜きで464ページ。MyBookで文庫本サイズにするならば、マックスでだいたいこんな見当になるだろうか。

今見たら青空文庫には山本周五郎の『青べか物語』もあった。こちらは初出が「文藝春秋」の1960年1月号から。川島雄三が『青べか物語』を撮ったのは1962年だから結構早いような気がする。実際にこの場所を訪ねたあとに改めてこの映画を見たときは、冒頭で映し出された東京湾上空からの映像にまずぐっときてしまった。東京タワー、勝鬨橋、夢の島あたり、造成中の京葉工業地帯、べか舟がひしめきあう境川と周囲の家々、そしてなにより旧江戸川河口の広大な大三角。

浦安市の公式サイトの「市の歴史」から、そのころを読んでみる。1958年、本州製紙江戸川工場からの排水で界隈の魚介類が大量死滅。漁場汚染と海面埋め立てがそれぞれ進み、1962年には浦安の漁業者が漁業権の一部を放棄、その3年後には埋め立てが本格化、とある。子どもたちに向けた記述の中には、昭和23年・昭和47年・平成5年の空撮写真を矢印で進めて、「昔の浦安は小さかったのね」「そうだね 埋め立てによって 今の浦安の面積は明治42年(1909年)の約4倍にも広がったんだ!」と書いてある。埋めた土砂はどこから持ってきたんだろう。近くの海砂と聞くけれど、その場所は今どうなっているんだろう。

さっきまでうまいうまいと食べていたものを満腹だと言って捨てたとたんにゴミ扱いにする、われわれの思考のフラクタルにめまいがするし、水際というものの後戻りのできなさに呆然とする。水際を歩くときにはせめて下の下あたりまででも響いてくれと願いながら、せいぜいよく地面を踏みしめていたい。

ナメクジの世界

イリナ・グリゴレ

ある朝、玄関に行くと思わず身体の奥から大きな声が出てしまった。音が聞こえるかどうかわからないが「どうしたの? 何の騒ぎ?」という目で見られた。立派なナメクジが私の真っ先に立っていて動けない。虫だとすぐ逃げるのに、この出逢いでは私の方が逃げるべきかどうかとすこし迷った。なぜかというと、大きくて、太くて、顔立ちまで素晴らしいナメクジだったから。「この家の主はあなたか」と聞こうと思ったぐらい、空間の感覚を失った。態度はともかく、立派、男前というか「こんなデカイ私を見て欲しい」というか、じっとして動かないし、私の方が邪魔扱いされた気がした。感覚で言えば、アリスが芋虫と出会うシーンと言えば通じるかもしれない。自分の大きさを忘れてしまうほど、自分が小さくて、ナメクジが大きく見えた。

この家には最初から子どもと共にさまざまな生きものが住んでいる。ゲジゲジもペットとして娘が可愛がってきたし、家をジャングルにしたい自分がさまざまな植物を植えて、増やして、その土からさまざまな生き物が出てくる。その一人はナメクジ。家にいたい気持ちもわかる、家の外では石の下に天敵のコウガイビルが発見された。大きかったらしい。黄色かったらしい。あとはスズメバチも昨年はミントの花に寄ってきて危なかった。なので、ナメクジがカタツムリの殻を捨てて進化した理由は、家に住めるからだったかもしれない。自由に動けるからではない。そのぐらい、この家を気に入っていて、私の方はなぜここにいるという顔をされた。一瞬、ナメクジの目から見えた自分の存在が消えた。なぜ、ここにいる? ナメクジみたいに綺麗なキラキラした跡も残せないのに。

梅雨明けの東北。夕方になると同時に違う方向から毎日のようにネプタ練習の太鼓と笛が聞こえ、そしてその音に負けない蛙、蝉、鳥たちの声。蚊取り線香の匂いと公園のハスの香りで落ち着くけど、お祭りの前の雰囲気が家の植物までわかっているみたいで、新しい青葉がみえる。ネプタの時期は、昔は子供が作られる時期でもあった。鯵ヶ沢の海開き、メーロンロードのスイカとキャンプ、バーベキュー、ホームセンターから買った花火、短い夏の日々が忙しくて、ワクワクであっても線香花火のように最後にポンと落ちて消えてしまう。8月の中旬からお盆のお迎え火と送り火が町と周りの村に見えたらもう冬だ。ナメクジの跡が見えなくなり、この家ごと殻に戻ると想像しながらカーラジオから好きな番組、「音楽遊覧飛行」が流れて、アルジェリア出身のD Jがアルジェリアの音楽をアメリカで流行らせたという。

私は日本の音が好き。世界で流行らせたい。お祭りの時、交差点に立つと色なところから同時に聞こえるお囃子の音がばらばらと世界を再構築する。そんなインスタレーションを作りたい。日常からいろんな音をサンプラーで集めて、聞こえないナメクジのために(生き物の生態に詳しい長女によればナメクジには音が聞こえない)作品を作りたいと思う。電動でも伝わるかもしれないし、どういうふうに世界を見ているのかナメクジにならないとわからない。なめくじが文書を書けないのは一番残念だと思う。でも長女によれば書けるので、ナメクジの文書が以下に続く。長女はナメクジの心の中を明らかにするらしい。

「僕はナメクジです。昨日の夜、〇〇ちゃんという女の子に会いました。僕のお家を一所懸命に作ってくれました。そして帰ってしまいました。次の時に来てくれました。また僕を見つけてくれて、僕は岩の隙間に隠れていたら〇〇ちゃんが新しいお家を頑張って作ってくれました。また来て欲しいよ、でも僕は突然〇〇ちゃんたちが家づくりの途中で、逃げてしまいました。それで〇〇ちゃんたちが探しても僕の姿を見せませんでした。そして〇〇ちゃんたちが帰ってしまいました。」ナメクジより

ナメクジの文書を文学作品として評論したら、進化の中では殻を失ってしまったノスタルジーが残っているみたい。もっと言えば、性別がないナメクジにとって、家父長制のノスタルジーも見られるかもしれないが、最後に女の子から逃げていることは色んな解釈ができ、ミステリアスな雰囲気を残すため解釈をしない。確か、いろんなパースペクティブから世界を見ないと分からないことたくさんあると思う。生き物の気持ちと声をまだわかっている娘たちにもっと聞いて見たい。

人間と同じように、ナメクジによると思う。普遍的なナメクジがいない。S Fアニメのように受け止めたらもしかしたら、ナメクジは「これは俺の家だ(お前を含めて)」と言われたように思われるかもしれない。未来ではどうせ、この家を自分のものにする、核を生き延びて、この日のナメクジの先祖代々が誰も食べられない放射線たっぷりの庭のイチゴを吸って生き延びるのだ。未来のナメクジ社会を家父長制に戻さなくていいし、家(殻)はないままでいい、ノマドの方がいいと思う。漫画家並みに上手な絵を私の横で描いている娘のイノセントな目を見ると考えすぎたことに気付かされる。娘の絵では、虹色スカートの女の子は眼がキラキラで、誰かを抱っこしようとしている腕を広く広げて、素敵な笑顔にほっぺたがピンクで、髪の毛にピンク色の可愛い動物がいる。今日は公園で見た野うさぎの可愛いバージョンが描かれている。この明るいオーラの女の子が未来の女の子に受け継がれてほしい。ナメクジを含めた世界の多様性をもっと疑わずに見たい。

町の音の話に戻ると、私が子供の時のルーマニアの田舎の音は野良犬の声だった。野良犬は群れを作って、世界の終わりの背景に近い状態で街を支配していた。誰が誰を支配していたのか曖昧なところだが。学校の帰りに野良犬の群れに追いかけられたりしてすごく怖かった。どこの道を通っても団地の間から犬が出てきて、吠える。一番危ないのは母野良犬で、自分の子供を必死で守ろうと人が近づかないようになんでもする。確かに、田舎では子犬が産まれるとその日のうちに母親犬の元から離して大きな袋に入れ、袋を縛って川にそのまま流したり、村はずれの森の片隅に捨てたりしていた。

人間のやることにはもう驚かないけど、夕方、森や川のそばを通ると子犬の鳴き声が聞こえて心が折れそうになった。車に轢かれた小さな子犬と猫の死体が完全に乾燥してアスファルトにぺたんこになるまでどこの道にもあった。それでも生き残る子犬がいて野良犬の社会を作っていたので街の中は彼らの声で賑やかだった。人間とうまく付き合う者もいれば、人間に殺される犬も、群れから離れて一人で生きる犬もいた。子供からみれば、いつ襲われるのかわからない状態で、団地の前で遊ぶ時も、駅や学校まで行く時も、その辺をなわばりに暮らしていた犬に用心する。襲われたら、パンでもやれば逃げられると思ったけど彼らは大体ゴミの周りに集まっていたので腹がそんなには空いてない。ここは、蜂と同じように、刺激を与えず、必死で落ち着いたふりをして、そっと、そっと、通り過ぎる。野良犬の方こそ相当人間という生き物が怖かっただろう。何をされるか分からないし、いつも犬の死体があったのは、誰かに殺された後だったから。

それでも街は命に溢れ、家の中は蚊とゴキブリで溢れていた。一年に一度、私たちが住んでいた団地から遠くない空き地にサーカスも来ていた。とても痩せているライオンと象を見て、生ゴミを食べる野良犬の方が太っていると感じた。いつも野良犬の群れで賑わっていた空き地に急に大きなテントが現れ、動物と人間の汗の混ざった匂いがして、ショーの音が聞こえた。テントの前で美味しそうな林檎飴を売っていたが、母はこの林檎飴はおしっこしているバケツ(昔のルーマニアの家はトイレもお風呂もないため、夜は玄関にバケツか樽を置いてそこで用を足す人もいた)で作られるからと言って買ってくれなかった。サーカスのテントが何日後もう何もなかったように消えてしまうと、また空き地に野良犬の群れが現れ、残されたゴミを食べて、すべて日常に戻る。

野良犬といえば、Andrea Arnold の10分の映画、『Dog』を思い出した。私が育った地方の街と同じ雰囲気で暮らす女子高性は、母親に叱られながら短いスカートを履いて彼氏とデートへ出かける。彼女はストリートで見かけるカップルを羨ましそうに見ていた。こういうシーンを入れるのが、Arnold監督の上手いところ。ただ、恋の温かさを求めている若い女性の心の奥までにカメラが入る。デートといっても彼は彼女のお母さんから盗んだお金で大麻を買って町外れで一緒に吸うことしか考えてなかった。麻薬を買った時も、部屋に集まっていた若い男性が彼女の短いスカートをべとべとした視線で見ている。脳が薬でやられていた顔の男性がものすごく気持ち悪く写っている。

草むらはゴミだらけで、近所の子供が遊んでいたのを彼氏が追い出して、捨てられたソファの上で行為をし始めようとしたところ。どこからか現れた痩せた野良犬が下に置いてあった買ったばかりの麻薬を食べてしまった。そのシーンを見て彼女は夢中になっていた彼を無視して少し笑った。なんで笑うと聞かれると犬を指していたら、彼がしょんぼり。ナメクジに塩だ。怒って、彼女をソファにおいたまま、犬を強く足で叩き始める。犬は死ぬ。女の子の目の前で。行為の途中で犬が殺される、あまりにも不思議な展開に彼女はびっくりして逃げる。恋のようなものを求めた最初の経験はトラウマにしかなってない。犬を殺すことによって彼氏の本質が現れた。急いで、家に戻ると、先ほど怒っていた母親が待っていて、すぐに彼女を叩き始め、暴力を振るう。彼女は大きな叫び声を出して部屋に閉じこもる。家に帰っても本質的に暴力である。この映画は10分しかないにもかかわらず、さまざまな悪い条件に攻められた人間の方が野良犬よりよっぽど危ないとわかる。

スライムに入れるラメを発見した次女が家中に散らかして、床と階段、ベッドと人の身体までにキラキラしたラメが残っている。何百ものナメクジは家中歩いて跡を残したとしか思えない。

喜びの詩

笠井瑞丈

八月笠井家公演第三弾を行う

私が構成・演出・振付となっているが
基本みんなで作って私が編集をする

これまでに二作やってきた
2020年『世界の終わりに四つの矢を放つ』
2021年『霧の彼方』

そして今作三作目
2022年『喜びの詩』
三部作の最後の作品になる

2020年コロナという
未知のウィルスにより
世の中の状況が180度
ひっくり返ってしまった

人と人との距離が変わり
舞台芸術のあり方が変わり
様々なものが新しい形式に変わった

色々なものが失われれ
変化していく時代の中

不変的であるカラダ
そして
ダンスを提示したい

そんな僅かなことだけど
でも続けていればいつか

今作ではずっと挑戦しようと思っていた
バッハの平均律とベートーヴェン第九第四楽章

バッハの平均律は去年と同様
島岡多恵子さんにピアノを弾いてもらう

ベートーヴェン第九第四楽章
フルトヴェングラー指揮音源を使用

第一作はモーツァルトのレクイエム(前半部)
ベートーヴェンのテンペスト

第二作はモーツァルトのレクイエム(後半部)
モンポウとバッハのシャコンヌ

平均律の中で特に好きなプレリュード12番を
笠井叡さんに新作フォルムを書き下ろしてもらい

これを四人で踊る

霧は晴れ
光に向かって

言葉と本が行ったり来たり(13)『片づけたい』

長谷部千彩

八巻美恵さま

本日も猛暑。まだ七月だというのに、今年は夏の始まりが早かったので、既に残暑の気分です。前回のお手紙でご紹介いただいたイリナ・グリゴレさんの『優しい地獄』、先日亜紀書房の斉藤さんよりお送りいただけると知らせを受けました。拝読するのを楽しみに待とうと思います。

最近は時間を見つけては“真の”断捨離に精を出しています。断捨離ではなく、“真の”断捨離です。というのは、数カ月前、ふと、自分の所有している物を、ボールペンの果てまで、とことん見直してみたいと思ったのです。今の自分、これからの自分に必要なものは何か、また必要のないものは何か、この辺りで再考しておこうかと。ですから、目的は物を減らすことではなく、今の自分、今後の自分について考えること、となるでしょうか。

友人にその話をしたところ、こんなのが出ているよと一冊の本を勧めてくれました。『片づけたい』――古今の作家たちによる片づけにまつわるエッセイ集です。収められているのは三十二編。ジェーン・スー、谷崎潤一郎、柴田元幸、沢村貞子、内田百閒、向田邦子、出久根達郎、佐野洋子、澁澤龍彦・・・目次には錚々たる名が並びます。しかし、ページをめくっていくうちに、私は段々といたたまれない気持ちになっていきました。なぜかというと、いまいち、というか、全然面白くないものがいくつか混じっているのです。個別に読めばそれほどでもないのかもしれないけれど、アンソロジーとして集めると書き手の技量が露呈してしまう。うまい書き手に挟まれたまあまあの書き手は、読み手には救いがたいほど下手な書き手という印象を残す。どなたもエッセイの名手と言われている書き手なのに、アンソロジーって恐ろしい。私は勝手にまあまあの書き手の心情に思いを馳せ、針のむしろに座した気分で最後のページまで読み進めたのでした。

そしてもうひとつ、興味深いと思ったのは、退屈に感じたエッセイはどれも読後に同じ感想を――「この人は凡庸な人なのかも」という感想を抱くということです。日常生活では、突飛なことばかり考えるひとは困りものだけど、エッセイにおいては凡庸であることは致命的、凡庸と言われたらおしまいという気がします。なんだか怖い言葉です。と同時に、それもひとつの見方でしかなく、今の時代、誰もが経験し、誰もが感じる「あるある」「わかるわかる」を綴ったものが好まれ、人気を博してもいる。凡庸さって何なのかな、と考え込んでしまいます。

『片づけたい』の中には、もちろん面白いエッセイもありました。さすがだなと思ったのは幸田文。
“人は清潔が好きであると同時に、汚なくしておくのもまた楽しがる性質を、みんな持っている。清潔には慎みと静けさがあり、汚なさには寛(くつろ)ぎと笑いがある。”(「煤はき」より)――この一文なんて実に愉快じゃありませんか。
小学生の姪が、「本当にやりたいことは何なの?」と訊かれて、「少し散らかった自分の部屋でずっと本を読んでいたい」と答え、母親を唸らせていたけれど、確かに片づき過ぎていても落ち着かない、適度に雑然とした部屋に寛ぎを覚えることも事実です。

ちなみに、私の部屋でスペースを占拠しているのは大量の本。電子書籍での読書が増えつつあったのに、去年、オットマン付きのラウンジチェアを買って、また紙の本を読むようになりました。本ならば好きなだけ買って良いと言われて育ったため、その数は増えるばかり。つまり、もしも私が部屋を「片づけたい」と願うならば、本を手放すしかなく、本を手放すためには積読本を読み終えなければならない。 読書は私にとって部屋の片づけでもあるということです。そんなわけで今年の夏もダラダラと本を読み耽って過ごすでしょう。八巻さんはいかがですか。私の中では、八巻さんは荷物も本も増やさない人、というイメージがありますが。

2022/07/24
長谷部千彩

 

言葉と本が行ったり来たり(12)『優しい地獄』(八巻美恵)

紫の光の、

越川道夫

数日前、詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』が日本で出版されたばかりの韓国の作家ハン・ガンさんのオンラインイヴェントを視聴していた。その中で、翻訳された斎藤真理子さんときむ ふなさんが、この詩集のタイトルにもあり、本の中に何度も登場するおそらくハン・ガンさんの重要なモチーフの一つである韓国語の「저녁(チョニョク)」と言う言葉を、どう訳すかと言うことについて話されていた。本の巻末にある斎藤さんときむさんの対談によれば、「저녁(チョニョク)」とは「夕方と夜を両方さすような単語で、きれいな韓国語の言葉、漢字語ではない固有語」(斎藤さん)であり、「空にまだ青や赤、グレーなどの色彩が残っている時間」(きむさん)を指す言葉であり、「たそがれ」「夕暮れ」「夕べ」「夜」と逡巡した末に「夕方」と訳すことにしたと話されていた。「日本語の『夕方』は『저녁(チョニョク)』よりも時間の範囲が狭いような気がします」(きむさん)。
その話を聞きながら、私はある時間の光のことを考えていた。
ここにも書いたけれど、昨年、放っておけば1年で失明と宣告されて眼の手術を、私はした。その頃の私の目のレンズは赤茶色に濁って凝固しており、医師は「特に右目はもう色も形も見えていない」と言い、「でも、見えているのですが」と言う私に医師は「それは脳が補正しているのです」とキッパリと言い切った。幸い手術は成功して、術後も良く、私の眼のレンズは赤茶色に濁ったものから人工的なものではあるが透明なレンズになった。そうすると、もちろんだけれども色の見え方が全然違う。
ある日の夕方、家の外に出て、あっと立ちすくんだ。目の前の小さな道を、立ち並ぶ家家を包み込む夕方の光は、赤でも青でもなく、言ってみれば「青に近い紫」の光に包まれていたのだ。それは、赤茶色のレンズで世界を見ている時には、意識されなかった、見えていなかった「色」であった。そうか、夕方は紫なのか、と思った。自分の掌の中にも、その紫の光はあった。言ってしまえば、灼けた夕陽の赤い色がまだ空に残っていて、これからこの世界を包み込もうとする深い青色が混ざった光、だと言うことなのかもしれない。朝早くのある時間にも、この光が風景を浸しているのを見た。
この紫の光を見たくて、それから毎日ように夕方になると外に出て、この光が充満するのを待ち焦がれるようになった。もちろん、その紫の光は世界に満ちると刻々と夜になる青さの中に溶け込んでしまうのだったが。みんなは、この光の色を見ているのだろうか。そして、この紫色の時間を人はどんな言葉で呼ぶのだろう。私は知らない。
『引き出しに夕方をしまっておいた』の訳者の一人である斎藤さんの単著『韓国文学の中心にあるもの』を読み終えて、読後に私の胸の中を占めた感情を表す「言葉」を探した。しっくりくる「言葉」がどうしても見つからず逡巡するうちに、やっとふさわしく思える言葉に行き着いた。
「ちむぐりさ」。
もちろん、私はこの言葉を使う土地の水を飲んで育ったわけではないので、身についたものとしてこの言葉を使うことはできない。しかし、一言で本土の言葉には翻訳することができない微妙なニュアンスを含んだこの言葉が、『韓国文学の中心にあるもの』を読み終えた後の私の感情に最もしっくりと寄り添ってくれたと思う。そして、この本をお書きになった斎藤さんの核心にも、この「ちむぐりさ」と言う感情があったのではないかと思わずにはいられない。
 
最近、深夜にまた狸の姿を見ることが多くなった。あの震災の前、東京の住宅地でも頻繁に狸の姿を見ることがあった。ある時は、ゴミを漁っていたし、酔った人が残していった吐瀉物を食べている姿に出会ったこともあった。それはそれで辛い光景ではあったが、あの震災の日を境にぱったりと見かけることがなくなっていたのだ。私が見なかっただけかもしれないが、それにしても10年間もである。それが、また近頃になって狸たちと出くわすようになったのだ。子供の狸が二匹で駆け去るのを目にし、大きな道路を横切っていくのを見ることもある。彼らは、これまでどこでどうしていたのだろう。また戻ってきたのはあるまい。深夜、仕事場からの帰り道、よくそんなことを考える。

いやな感じ

篠原恒木

『いやな感じ』という高見順の小説があったが、日々の暮らしを慎ましく営むおれにも「いやな感じ」がするモノ、ヒト、コトがある。

住宅街の夜道を歩いていると、突然光るライトがある。あれはいやな感じだ。
「人感センサー・ライト」というらしい。あの灯りは無言のうちに、
「おまえは不審者か?」
と、問われているような気がする。昨今とみに物騒な世の中なのはわかるが、
「悪いことをしようとしても、そうはいかないぞ。ちゃんと見ているぞ」
と、あのライトは善良な市民であるおれを威嚇しているのだ。そうに違いない。いやな感じだ。

レストランなどで、最初にこう言われることがある。
「苦手なものはございませんか?」
あれもいやな感じだ。だからおれはこう答えることにしている。
「そういうことを訊いてくるヒト」
おれはなんでも食う奴なのだ。落ちているものまで拾って食うのだ。食いしん坊なのだ。顔つきを見れば、ひとめで「食い意地が張っている」ことくらいわかるだろう。いやな感じだ。

料理を出されて、
「よくかき混ぜてからお召し上がりください」
と言われることがある。いやな感じだ。かき混ぜてから持ってきてくれ、と思ってしまう。なぜおれがかき混ぜなければならないのだ。面倒くさいではないか。いや、気持ちは分かる。料理は目でも楽しむものだろう。たとえばグチャグチャにかき混ぜたあとの石焼ビビンバをいきなりドスンとテーブルに置かれれば「ゲッ」となるかもしれない。ならば、かき混ぜていない状態のもの、つまりは牛肉の細切れ、ほうれん草、キムチ、ゼンマイ、大豆もやし、卵、ニンジンなどが見目麗しく盛り付けられたどんぶりをいったんこちらに見せてから、
「では、かき混ぜて再びお持ちしますね」
と言って、プロの手で撹拌したものを再度供すれば完璧ではないか。石焼ビビンバはかき混ぜ方ひとつで味が違ってくる。おれのような横着者にとって、あの撹拌作業は向かない。ただし「イワシのなめろう出汁茶漬け」ぐらいだったら、あの言葉、
「かき混ぜてからお召し上がりください」
は許す。だって簡単だもん。サラサラッと混ぜるだけでいいからね。とにかくあの言葉はいやな感じだ。

懐石料理もいやな感じだ。おれはサケが一滴も飲めないので、ちんまりと盛られた小鉢が出てくるたびにペロッとひと口で食べ終わってしまう。秒殺だ。あとは次のちんまりが供されるまで何もすることがない。ほかの奴らはサケを喰らい、ガハガハ笑いながらチビチビと「鱧の湯引き・梅肉ソースを添えて」のようなものを愛おしそうに箸でつついている。いやな感じだ。
ようやくひと通り、先付やらお造りやら煮物やら焼物やら八寸やらのコースが終わると、こう訊いてくるではないか。
「このあとのお食事はいかがなされますか? 炊き込みご飯かお蕎麦をお選びいただけますが」
ガーン。するってぇと何かい? おれが今まで食っていたのはお食事とやらではなかったとでも言うつもりかい? と、おれは激しく混乱してしまう。あの訊き方もいやな感じだ。

懐石料理の話が出たので「箸休め」で書いておこう。うまい。いや、別にうまくないか。
おれがここで言う「いやな感じ」というのは、殺意を覚えたり、殴打したり、罵倒したりするほどの憎悪は存在しない。それほどあからさまな嫌悪感はないが、でも、明らかにいやな感じがするという事柄だ。箸休め、おしまい。

炎天下に犬の散歩をしているヒトを見かける。「オサレ」と言われている街に多い。いやな感じだ。可哀想に、犬は舌を出してハアハアと苦しそうではないか。アスファルトの温度に肉球が耐えられるわけがない。地面に近いお腹だって相当の照り返しを受けているはずだ。ヒトサマの犬だから厳しく注意もできないが、いつも内心では、
「おまえも毛皮のコートを着て、犬と同じポーズで裸足で歩いてみろ」
と、毒づいている。明らかな動物虐待である。あれは実にいやな感じだ。

電車内で短い脚をドーンと伸ばして座っているヒトがいる。いやな感じだ。
そのくせ、おれがそこを通り抜けようとすると、スッと脚を引っ込める。引っ込めるくらいなら最初からきちんと座っていればいいではないか。さもなければ初志貫徹、徹頭徹尾、鬼が来ようと蛇が来ようと、そのままドーンと伸ばしっぱなしにしておけばいいではないか。その中途半端な公共心は理解に苦しむ。非常にいやな感じだ。

知り合いの不倫現場に出くわすことがある。いや、おれがホテルの部屋に入ったら、ベッドで知り合いの男女がコトをいたしていたというわけではない。そんなシチュエーション、あるはずがない。
おれが今までもっともヒヤヒヤしたのは、予約していたレストランに入った瞬間に、不倫カップルが隅の席でイチャつきながら食事をしているのが視界に飛び込んで来たときだった。二人ともよぉ~く知っている。男が上司で女性が部下という関係だった。さあ、どうする。奴らは店に入って来たおれのことなど気づきもせず、ねっとりと見つめ合っている。いやな感じだ。
幸いにおれの席は、ねっとりテーブルから離れた席だったが、いつ奴らがこちらに目を向けるか気が気ではない。いやな感じだ。だいたい、なぜおれがこんなに気を遣わなければならないのだ。
「密会するのなら、こんなメジャーな繁盛店を選ぶな。もっと隠れ家的な店で個室を押さえろ」
と、おれは舌打ちをする。あっ、しまった。そういうおれも女性連れだ。どうしよう。おれは慌ててさしむかいで座っている女の顔を見る。妻だった。
「そうか、おれはいいのか。セーフだ」
ホッとしたが、モンダイは奴らだ。二人でテーブルに肘をつき、指と指をからませたりしているのが遠くに見える。大変な事態だ。気づかれたらどうしよう。そのときは、
「やあやあ、これはまたお盛んでどうも」
あるいはグッとくだけて、
「サンカミにはショナイでチャンネーとシーメですか」
とでも声をかければいいのか。いや、それは後日厄介なことになる。おれは帽子を被ったまま、ひたすら下を向き、止めど溢れる我がオーラを全力で消し去り、妻との会話もうわの空でメシを咀嚼し続けた。あれはとてもいやな感じだった。

「ペーパーレス化の促進化について」と書かれたペーパーが会社の机の上に置いてあった。とてつもなくいやな感じがした。

「おまえの悪いようにはしないから」
という言葉もいやな感じだ。おれは上司に何回か言われたことがある。そのたびに思ったのは、
「なぜ赤の他人のあんたが、おれにとっての悪いこと、いいことを知っているのだ?」
ということだった。だからおれはその台詞を言われるたびに、あとに続く話を断わっていた。するとそれからのおれはあまりよくない、いや、相当よくない、つまりは悪い立場へとことごとく追いやられる羽目になった。こうなるとなおさらいやな感じではないか。

ここまで書いて読み直すと、これを書いたおれがいちばんいやな感じのするニンゲンのような気がしてきた。まずい。こうなったら「自己肯定感を高める百の方法」「私らしく生きるヒント」「自分らしさを大切に」などといったジコケーハツ本を読もう。うーむ、読むわけがない。あれほどいやな感じのする本はない。

蕎麦

璃葉

今まで、蕎麦というものがあまり好きではなかった。好きではないというか、あまり興味がなかったと言うべきか。美味しい蕎麦屋で食べたことは何回かあるし、誘われれば行く。ただ自分から積極的に食べることは一切なく、あー今日は蕎麦食べたいなあー!という日は1日たりとてなかった。…そんな私が、近ごろ蕎麦ばかり茹でている。

それは先日、ブラジルの血が流れているKの家に遊びに行ったときのことだった。職場仲間でもある彼とは何回か飲んでいるし、家に遊びに行くのは2回目だ。友人Bも加わり、貧困(苦笑)のわたしたちのためにKが簡単なご飯を作ってくれるということになった。ちなみにKはシェフである。彼は先月1ヶ月ほどブラジルに帰省していたので、その話も聞きたかったということもあって、のんびり家で晩御飯を食べようとなったのだった。
K宅に着いて、べらべらしゃべっているうちに、彼は大量の蕎麦を茹で始めた。大皿に山盛りの冷やし蕎麦(氷の塊が2つ埋まっている)、その隣に大量のキュウリの輪切りが盛られ、テーブルにどんと置かれる。小口切りのネギもわさっと乗っかって。めんつゆとポン酢を合わせた蕎麦つゆは、寿司屋で出されるようなでかい湯呑みに入って出てきた。ええー、なんか非常にワイルドだけど、すごく美味しそうだ。これは日本では絶対に見ない盛り付けであるが、正直、蕎麦がこんなに美味しそうに見えたことなんてなかった。良い意味で雑な感じが食欲をそそるのだろうか。カルディで買った安い赤ワインと一緒に、ずるずる食べる。ここ最近夏バテ気味で食欲がなかったのが嘘のようだ。冷えたきゅうりも美味しいし、もう夢中である。Kのブラジル話を聞きながら、箸がとまらない。彼は気さくで自由奔放でかわゆく、男女問わずモテるので、恋愛の話はとくに面白い。素敵なエピソードを聞かせてもらいながら、Bと私の箸を持つ手はやはりとまらなかった。

食べ物の好き嫌いは、印象で好みが変わることがあるのだなと実感する。みんなでげらげら笑いながらつついて食べたことによって愉快で楽しいイメージがついたし、酸っぱいものが好きな私には、Kの合わせた蕎麦つゆがとてもマッチしたのだ。

さて、単純な私は次の日、自宅で蕎麦を茹でた。きゅうりの輪切りも添えて、蕎麦つゆも昨夜の通りにやってみた。やっぱりとても美味しくて、結局週に3回ほど食べるぐらいにハマってしまったのである。後日Kにそれを伝えると、かわゆくキャッと喜んでいたので、それもまた嬉しい。

むもーままめ(21)太陽のせいだ、の巻

工藤あかね

じゃがいもを放っておいたら芽が出たので土に埋めて毎日水をやったら立派に実がなって嬉しかったから今日買ってきたアボカドの種は土に埋めてお水をあげてみようと思う毎日話しかけていたら植物がいつか言葉を返してくれるのではないかと期待しているけれどかれらは身振りが言葉だから嬉しい時は葉っぱをぐっと両手いっぱいに広げているからそれでよしとしよう昔一緒に暮らしていて溺愛していた猫のむすめにわたしは千以上の名前をつけて毎日違うバリエーションで彼女を呼んだが悲しかったのは彼女が一度も私の名を呼んでくれなかったこといやそんなことはない猫の口がそうなっていないだけで彼女はあのかわいい声で精一杯わたしの名を呼び続けてくれたのかもしれないと思ったら急に申し訳なくなってかわいいかわいいあの子の小さな骨壷をさすったああわたし少し心が弱っているのかないやちがう心が弱っているのではなくてただ暑いだけだ彼女に申し訳ないと思うのはむしろたくさん呼び名をつけすぎてしまったから最後の瞬間に私が彼女の名前を呼んでいることを彼女がわかってくれていたかどうかやはり太陽のせいだ太陽が私の正常な判断力を殺菌してしまっている海のかわりにぬるいお風呂に浸かってクラゲのことでも考えたり日焼けを心配したりしてみようか山へ行くかわりにベランダに出て植物たちに雨を降らせて雨宿りしてみようかかき氷をひさしぶりに食べてみようかと思ったけれど氷は水じゃないかと思ったら急に執着がなくなったから冷静にかき氷を口に運ぶことができてちょうどよかった水を凍らせてもう一度削って味をつけてなんという手間をかけているのかこの手間がなければ石清水を飲むのが最高だったけれど軟弱な気分では蛇が浮いていたかもしれない水はちょっと昆虫に好かれるかもしれないから山に登るのもなかなか勇気がいるそんなわたしでも一人で奥多摩に迷い込んでタウンシューズのまま断崖絶壁を渡りきったし熊出没注意の看板を横目に日が暮れていつ増水するかもしれない川の勢いを目の当たりにしながらやっぱり私生きていると思ったのはなんでだろうときどき自然の脅威を感じて孤独を味わうのは生命力のテコ入れに必要なんだなと思ったこんなことを冷房の効いた部屋でつらつら思い出しているのはスケールが小さいからすくなくとも外に飛び出して地面に寝っ転がって目玉焼きみたいにじりじりと太陽に灼かれてみたい

冬薔薇(ふゆそうび)

若松恵子

阪本順治監督の最新作「冬薔薇」が6月3日にロードショウ公開された。予想通りマスコミは冷ややかな対応で、話題になることもなく、もう、地方の映画館での上演しかなくなってしまったけれど、この映画について書いておきたいと思う。時々、思い出しては考える、そんな映画だからだ。

伊藤健太郎の復帰作の依頼を受けた阪本監督が、彼を主人公にオリジナル脚本を書いた。「ファンの前に伊藤君を無事にお連れするのが、自分の役目だった」と完成した際のインタビューで阪本監督が話していて心に残った。「映画はスターのアップを見るものだ」という事も彼は度々言っていて、映画は伊藤健太郎のアップから始まり、印象的なアップで終わる。

不祥事があっても彼のファンをやめなかった人たち、彼のファンであり続けた人たちは、完成した映画を見て、きっと嬉しかっただろうなと思う。伊藤健太郎が出ていればうれしい、そう思うファンの存在がどんなに貴重なものか、阪本監督にはわかっているのだ。

伊藤健太郎は、若手俳優として人気が上り坂の時に、交通事故の現場から逃げてしまい、逮捕された。その事件をきっかけに、彼の素行の悪さや、周囲の人に失礼な態度を取っていたエピソードなどが報道され、芸能活動休止に追い込まれたのだった。事件当事者でもない「世間」が、彼を非難する。「掌を返す」ように冷たくなる。もともと、強力な営業力によってお勧めされて彼を好きになった「世間」だから、そんなことになっても仕方がないのだ。

「人気」も「不人気」も本人とは関係のないところでつくられた蜃気楼だ。なのに、その芸能界に君は再び戻ってくるのかい? そんな思いはきっと阪本監督自身にもあったのではないかと思う。

伊藤健太郎のために用意されたシナリオは、心機一転、彼が生まれ変わって再出発という内容ではなかった。映画の主人公と役者はイコールではないけれど、「映画によって生まれ変わらせる」というものではなかったのだ。この作品によって次回作のオファーが殺到するという事には、なりそうにもないと感じた。その点からすれば、伊藤の事務所や伊藤自身にとって、この作品は失敗作だったのかもしれない。しかし、私はそこにリアルなものを感じ、やはり阪本作品はいいなと思ったのだ。

事件を乗り超えたからと言って、急に演技力が増すわけではない。人間に厚みが増すわけでもない。伊藤の魅力は、事件前と同じ、生まれ持ったルックスの良さであり、そのことだけでまず勝負するしかないのが現実だ。阪本が用意した主人公、ルックスの良さだけで世渡りしているいいかげんな主人公を、そのまま演じることが、まず彼の役わりなのだ。あとは、演技力のある役者が物語を成立させてくれる。父親役の小林薫、母親役の余貴美子、叔父役の真木蔵人、チンピラ役の永山絢斗が存在感のある演技によって物語に現実感を与えてくれている。そのことを、伊藤自身は理解しただろうか、できない役を欲しがったりせずに、自分の姿を見るだけでいいと言ってくれるファンを大事にしながら映画の世界で粘り強く仕事していこうと思うようになっただろうか。チンピラ役を魅力的に演じた永山絢斗のように、もって生まれた肉体の魅力を活かしながら、自分とは全く違う人格を演技によって存在させる、そんな役者になっていってほしいと思う。

映画は、伊藤健太郎が実生活で経験したように、ちょっとした行き違いによって引き起こされる不幸とその取り返しのつかなさを描いてせつない。「そうであっても、なお」という思いが冬に咲く薔薇、冬薔薇(ふゆそうび)というタイトルに込められているのだろう。この作品によって芸能界に戻ってきた伊藤健太郎に贈られる励ましであり、寄せる希望でもあると思う。

『アフリカ』を続けて(14)

下窪俊哉

 先月は2年半ぶりに故郷・鹿児島に帰省してきた。前回帰った時、ちょうど横浜の港に新型ウイルスをつれたあの客船が着いて大騒ぎになっていたので、コロナ禍に突入する直前だった。いろんな形の鍵を並べた表紙の『アフリカ』vol.30(2020年2月号)を入稿した直後でもあった。そんなふうに『アフリカ』を思い出すこともある。

『アフリカ』の何年何月号というのは発行年月なので、多くはその少し前か、さらに前に書かれたものということになる。2020年2月号を見てみると、冒頭で柴田大輔さんが牛久の「農業ヘルパー」制度と、彼の通う畑のすぐ先にある「東日本入国管理センター」のことを書いている。
 田島凪さんの文章にも入管の話は出てきて、そこには実際に難民となった人たちとの交流がある。語り手は入院していて、病室で一緒になった人たちに(勝手に)名前をつけて呼びかけたり、見知らぬ人の日常に想いを馳せたりもする。
 犬飼愛生さんは「秋の日、突如として現代に現れる大正ロマン」と始まる二葉館をモデルにした詩を書いている。
 芦原陽子さんは2019年後半の日めくりエッセイのベストセレクションを寄せているし、中村茜さんの「フェスティバルと混乱」も秋の出来事を書いている。いまとなってはコロナ禍直前の、いわば嵐の前の静けさをそこに読んでしまう(「混乱」があってもその中に静を感じるというか)。
 静けさといえば、鍋倉僚介さんの小説「おとずれ」は「静か」な中に聴こえてくる音が印象的だった。
 髙城青さん恒例のエッセイ漫画では、猫と暮らし始めた話の続きを書いて(描いて)いるが、ストーブの前に猫が”落ちて”いるというシーンに始まるので、これは冬だ。
 犬飼さんが連載していたエッセイ「キレイなオバサン、普通のオバサン」はこの時、自身の「作家/宣材写真」を撮るのにカメラマンと共に森の中の”とっておきの場所”にゆき、オオスズメバチと遭遇してしまう(秋ですね)。
 ついでに自分も書いていて、それは「吃る街」という10年くらい前まで書いていた小説の続きだ。書かれている季節は冬だけれど、いちおう2005年頃を舞台に書いているつもりなので、直近の話ではない。コロナ禍になる前から、書く人としての自分の関心は過去に向かい出していた?
 そして編集後記を見ると、再開した文章教室に触れて「自分から外に出て、場をひらいていなければ、他者と出会うことはできない」なんて書いている。

 2019年は思うところあり、それまでやっていたワークショップを休んで「外に出て」ゆくのを少なくして、『アフリカ』のマイナーチェンジをはかり、あとはとにかく日々の仕事をこなしつつ毎日書いて、自分のリハビリに費やした(たまにそういう時期が必要になる)。それでいよいよ2020年は「外に出て」ゆく年にしようと思っていたのだが、ちょうどそのタイミングでコロナ騒動が始まったのだった。

 私はどちらかというと、ひとりでいるのが好きな人のようだ。あまり人と会いすぎていると、元気をもらうより吸い取られてしまう。たまに、本当に会いたいと思う人に会いにゆくというのは、いいものだけれど。そこでコロナ禍が始まったことにより私は、無理をして出てゆくなと言われた気がした。とはいえ、出て行ったり、引っ込んだり、両方必要で自分なりにバランスをとろうとしているんだろう。
 考えてみれば『アフリカ』も人前に出てゆくように始めた雑誌ではなく、むしろ人に背を向けて離れてゆくようにして始めた雑誌だった。でも、悪くないんじゃない? と、それに付き合ってくれる人たちがいたのだからありがたいことだ。つくっている自分にはふてくされたような気分もなかったとは言えないが、面白いふてくされ方もあるもんだ。人に背を向けて出て行った先にはまた人との出会いがある。そのまま続けていたらどちらが背でどちらが腹だったのか、背を向けているのはどちらなのかわからなくなってくる。

 さて、表紙にカマキリがいる最新号(vol.33/2022年2月号)を出してから、もう半年がたとうとしている。
 1冊仕上げると、そこにはある種の断絶が生まれる。仕上げないうちには持続している感じがあるけれど、仕上げるといったん終わったという感じが嫌でもするのである。
 次号には、何がどうつながる? そんなことはわからない。前回と今回、今回と次回は別のものだ。それを『アフリカ』という同じ名前で、同じ雑誌としてやっている。
 始めた頃には「1回、1回のセッションがあるだけで、続いているのではない」などと言っていた。しかし16年、33冊も続けていると、何か次をやらなければという気持ちも芽生えてくる。だからこそ再び「1回、1回のセッションがあるだけ」という自らのことばを思い出さなければ。続けなければならないということはない。いつ止めてもいい。
 そんなことをぶつぶつ言っていたら、「『アフリカ』は編集人がつくりたくなった時につくればいいよ」と話してくれる方あり、励ましと慰めが混ざったような声として受け止めたが、ちょっと待って、この編集人はつくりたくなった時に『アフリカ』をつくっているんだろうか?
 だとしたら、いつ、どんな時につくりたくなるかを研究すれば、続けられそうだ。
 しかし自分はいつでもつくりたいし、いつでもつくりたくない。つくりたくなる時を待っていても、そんなことが明解にわかる時は永遠に来ないかもしれない。いや、気づいたらつくり始めていたなんていうことも稀にあるのかもしれないが、それを待っていたら『アフリカ』という営みは続かないだろう。
『アフリカ』はつくっていない時でも毎日続いていて、どこにいても存在しているような気がしているのだった。そこに私は”場”というものを生々しく感じる。

アジアのごはん(113)バンコクの甘酒と新型コロナ

森下ヒバリ

久しぶりにタイに来ている。新型コロナが流行り始めた2020年のはじめに旅に出て以来の外国の地だ。京都駅で関空行きの特急はるかに乗るのもなんだかドキドキした。ふう、いいね、こういうの。新鮮な気持ち。

タイ政府は、新型コロナをインフルエンザなみの病気として扱うことに決めて、入国規制を緩和してきた。7月からは面倒なアプリの登録も、入国後隔離も一切なしになった。ワクチン証明か陰性証明を飛行機のチェックインの時に航空会社の係員に見せるだけである。証明書は入国審査でも一切見ない。

京都の駅前にあるトラベルクリニックでPCR検査を受け、陰性証明書を受け取った時には、おもわず「よしっ」と口に出た。これで、行ける。そして、愛用していたLCC航空のエアアジアは関空から撤退していたので、久しぶりにタイ航空に乗る。乗客は7~8割。思ったより多い。5時間半で無事バンコク着。空港からタクシーに乗ると、荷物3つ目から荷物代がかかるようになっていた。ふむふむ。高速道路の巨大な広告看板が白いままなのが多い。車がちょっと少ない。なんだか、空がきれいに見える。

いつもの月借りのアパートメントに着いて、いつもの部屋に入る。北側の窓から見える高校がホテルに変わっていた。校庭はプールになっている。おお。食事のためにロビーに降りると、マネジャーがちょうどいて、挨拶してくれる。そして、外していたマスクを指さして、「マスクをちゃんとしてね」と注意された。あれ、タイ政府はマスクの着用義務を廃止したのではなかったのか。近所の食堂へ歩く道すがら、すれ違う人はみんなマスクをしている。たまにしてない人が居ると思えば外国人だ。タイ人は全員している。完璧だ。う~ん。

2年4か月ぶりに会うバンコク在住の友人たち、おなじく規制緩和されたのを知ってさっそくタイにやって来た高知の友人たちと再会して一緒にタイ料理を食べる。そういえば、新型コロナがはやり出して、帰りの便がフライトキャンセルになりまくり、なんとか運行が止まる直前に日本に戻ったその最後の夜もここで食べたのではなかったか。いやはや。ちょうど、オミクロン新型株の感染が増えて来たので、今回はあまり友人たちには会わず、ライブもあまり行かずにおとなしく過ごすことになりそうだ。

宿のあるランナム地域は歩いているとシャッターの降りた店がけっこうある。近所のお気に入りの化学調味料を使わないクイティオ食堂(タイのラーメン屋さん)がなくなっていたのは悲しかった。よく行っていたラーン・カウ・ケーン(ごはんにおかずをかけてくれる総菜食堂)は健在だったが、いつも10種類ぐらいあった総菜が3種類ぐらいしかない。店主にこの間どうだったのと聞くと、「仕事がなくなって人が田舎に帰ってしまい、客がものすごく減ってね。リモートの人も増え、とにかく客が減って大変だったのよ。なんとかやってるけど‥最近は少し持ち直してきたかな」「政府から補償金とかはないの?」「5000バーツ(1万8000円くらい)もらったけどね」「月に?」「この2年で2回だけよ」残念ながら店のおかずは味の濃いものばかりになり、どうも素材の質がかなり落としてある。いつも昼時は満員だった店内が半分以下の入りだ。ふう。

ランナムではシャッターを下ろしている店がかなりある一方で、巨大なコンドミニアム(日本で言うなら高層高級マンション)の建設がいくつも始まっていた。古い店の連なる長屋式の家屋があったエリアもコロナ不況で商売を止めて土地を売ったのかもしれない。

少し離れたプラトゥーナムに行くと、慣れ親しんだ迷路のようなプラトゥーナム衣料品市場がごっそり更地になっていた。もともと王室の土地で立ち退きを要求されていたので、新型コロナが直接の原因ではないのだが、バンコクの猥雑で庶民的な巨大市場がひとつ、こうもあっさりなくなってしまうのは何とも言えない気持ちだ。そして、跡地にはその周辺にたくさんある同じようなブランドの入った同じようなショッピングモールか、高級ホテルが建てられることになるのだろう。この市場の表通りに面した古いショップハウスは観光客向けのお土産やTシャツを売り、歩道には屋台を出す小商いの人々が連なっていた。この不況の中、ショップハウスの2階に住んでいた家族、路上の商い人達はどこに行ったのだろうか。

おいしい麺を食べたくて、クイティオ屋を探して散歩して、そのままどんどん歩いてしまいあまり行ったことのない路地に迷い込んだ。そこは昔からの下町の雰囲気が残っていて、なぜかメニューが日本の学生食堂みたいな鉄板で肉を焼いている屋台もあった。なんちゃって日本食の店であるが、安い。学生や若いタイ人の客がエビフライやポークソテー、ハンバーグ定食を食べているのだった。面白いのでミックスグリル定食を食べてみたら、昔東京で働いていた時によく食べたキッチンジローの味そのまま・・いや、かなり近い。今度エビフライ食べてみようかな。

高架鉄道BTSに乗って繁華街プロムポンに買い物に行ってみると、以前とあまり変わらない賑やかさだ。もっとも以前はいつも満員だったBTSの車内がちょっと空いていて乗りやすい。このあたりに住んでいると、あまりタイは変わっていないと思うかもしれない。日本食品をたくさん売っているフジスーパーに行き、タイ産の有機の大根と納豆を探す。タイの大根は小さくてスカスカしているが、漬物を作りたいので、買う。

宿に戻る途中で、コンビニでカオマーク(甘酒)を買った。タイのコンビニにはどういう訳か、冷蔵品お菓子のコーナーにゼリーやケーキの横にさりげなくカオマークという甘酒を売っているのである。一袋20バーツ。甘酒ではあるが、コウジカビの麹から作るのでなく中国系のクモノスカビの麹から作る。液体というよりはご飯の塊に近い形態。そして、かなりアルコール発酵していてお酒っぽく、甘い。このまま食べてもいいのだが、さっき買った大根と合わせてべったら漬けを作ってみようと思ったのである。

大根は皮をむいて縦に四つ割りにして塩をまぶし、ジップロックに甘酒と塩昆布と一緒に入れて冷蔵庫に置いておくだけだ。常温にしばらく置いておいた方が発酵しやすそうだけど、常夏の国ではあっというまに過発酵してしまうので最初から冷蔵庫に入れてしまう。3~4日経つと、なんとか漬物っぽい味になっては来た。タイにはあまり薄味の漬物がないので、作ってみたのだが、いまいち。タイの大根はじつはあまりおいしくない。甘酒で漬けたらおいしくなってくれるかもと期待したのだが、食べられないことはない、程度の味にしかならなかった。そうだ、次はキュウリで作ってみよう。友達にもあまり会えないので、こんなことをして遊んでいます。

眠っていた楽器を起こす

仲宗根浩

音楽のサブスクをやめた。古い音源を検索すると録音年代、いつマスタリングされたものなのか詳細な情報が少ない。参加ミュージシャンの情報も無い。であればパッケージのほうがいい。クレジットを読むのが好きな者にとっては必要がない。レコードの時代、やっと買うことができた貴重な盤でクレジットを読み尽くし、何回も何回も聴きたおした者はサブスクリプションはむかないかもしれない。

三月頃からかずっとほったらかしの楽器を引きずりだした。一番小さいところからマンドリンを取り出し弦を替えチューニングするとネックは見事に順反り。12フレットから上は弦は次のフレットに触れて使えない。もともと安いマンドリンをネックやフレットの調整に出すまでもないかととおもい下のフレットを使えば問題なかろうと弾いていると微妙にフレット音痴な状態だがまあいいか。

次に取り出した楽器が箏。これがまた変ないわくつきのものでいただいたもの。糸は19が張ってる。柱を立てて調弦をする。どれくらいの張りで糸締めされているのか確認する。巾の裏、弾かないほうの音と実際に弾くほうの糸でどの音が合うか確かめるとDisになった。七本あたりか。箏の糸締の張りの強さは本で表す。一本がAでそれから半音づつ上がる。本は笛の穴を全部押さえた時、一番低い音に使われている。Dであれば六本調子などなど。で糸の太さの19は匁、重さの単位。なんともめんどうくさい邦楽器。最近糸の太さの、匁について教えてもらった。がここで睡魔が、、、(続く)

ジャワの物語(3)マハーバーラタ

冨岡三智

前回取り上げたラーマーヤナ同様、マハーバーラタも古代インドの叙事詩である。4世紀頃に現在の形になったと考えられ、東南アジアに伝播した。内容は、王位継承に絡んで、コラワ一族の100人兄弟が従兄弟のパンダワ一族の5人兄弟を陥れようと姦計を繰り返してバラタユダ(大戦争)に至るが、この大戦争は神が定めたものでパンダワの勝利に終わる…そののち静かな時代が訪れるもののパンダワ5王子は世を儚み次々と昇天していく、というもの。

現在、ジャワのワヤン芸能(影絵や劇)の題材はマハーバーラタのエピソードが多いが、インドネシアのアイコンや東南アジア紐帯のアイコンとしてコラボレーションの題材となっているのはラーマーヤナが多い。その一方で、マハーバーラタは西洋や日本において何度も取り上げられてきたという印象がある。

私が思い出すのは、ピーター・ブルックによる『マハーバーラタ』(1985年アビニョン演劇祭初演、1988年銀座セゾン劇場)、②横浜ボートシアターによる日イネ合作『マハーバーラタ 耳の王子』(1996年、水牛2022年3月号のエッセイを参照)、③宮城聰によるSPACの『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(2003年~、2012年ふじのくに⇄せかい演劇祭、2014年アビニョン演劇祭など)、④宮城聰による歌舞伎の『極付印度伝マハーバーラタ戦記』(2017年歌舞伎座)、⑤小池博史によるアジア6か国のコラボレーション『完全版マハーバーラタ』(2013~2020年10か国で上演、2021年東京)などだ。ただし実際に見たのは②のみである。

インドネシアのワヤンで描かれるマハーバーラタは叙事詩全体ではなく、その中の個別エピソードで、物語全体を知らなくても作品を楽しむことに差支えはない。というか、大戦争やパンダワ昇天といった重大なシーンはめったに描かれない。一方、①のブルック作品は全編舞台化を謳っていて、初演時の舞台は9時間、のちにそれを編集して映画にしている。⑤の小池作品もブルック以来の全編舞台化を謳っている。②と④はカルノを中心に組み立てているが、②はカルノにインドネシア独立戦争に参加した残留日本兵の葛藤と悲劇を重ねている。カルノはパンダワ側であるアルジュノと同母兄弟ながらコラワ側で養育され、後にアルジュノと一騎打ちすることになる点で、同族内の対立を象徴する人物だ。③は、コラワの姦計(さいころ賭博)によりパンダワが王国を失って流浪していた時に賢者が聞かせた恋愛物語「ナラ王の物語」を下敷きにしている。未見なので、マハーバーラタ全体のテーマや人間関係をどれほど反映しているのかは不明である。

マハーバーラタの方が登場人物が多くて話もややこしいのに、なぜブルックやら日本人やらはマハーバーラタの方を好んで取り上げるのだろう…と実は不思議に思っていた。もっとも、なぜラーマーヤナではなくマハーバーラタなのか?という問いはきわめてジャワ的だ。上の演劇作品を手掛けた人たちは、インドから伝わった2つの物語しか知らないわけではないのだから。

今年、NHKで放送している大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていて、ふとマハーバーラタは族滅の物語だとあらためて意識する。族滅という言い方が普遍的なものかどうかは知らないが、この大河ドラマを語るツイッターではこの語がよく使われている。大河ドラマの方では頼朝の死が7月初めに描かれた。頼朝が自身のきょうだいや他の源氏一党をつぶしていく様が今まで描かれ、今後は源氏の子孫、北条一族、それら縁続きの御家人同士の殺し合いが描かれていくはずだ。思えば、鎌倉時代の北条氏が主人公となる大河ドラマは1979年の『草燃える』以来で、戦国時代ものや幕末ものに比べてかなり人気がない。

マハーバーラタで敵味方になるコラワとパンダワは従兄弟同士で、争いになる発端には王位後継問題がある。ラーマーヤナの主人公のラーマの場合、継母がラーマを追放するとはいえラーマは異母兄弟の間で戦ってはいないし、むしろラーマに忠実な義弟のラクスマナは一緒に追放される。また、ラーマがランカー国の王・ラヴァナと戦うのは妻のシータ妃奪還のためで、ラーマ自身の王位継承のためでもないし、国同士の覇権争いでもない。

「A国とB国の戦い」や「諸国統一」の物語よりも、マハーバーラタのように「A国内における身内間の権力闘争」の物語の方が個人のむき出しの欲望とその結果の悲劇を極限の状態を描けて、現代の演劇向きなのかもしれない。

サンタとサタン

北村周一

一昔前の、テレビコマーシャルを想い出している。
映画監督の黒澤明が出演して話題となった、ウイスキーのCMである。
そのときのコメント、曰く、「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」。

調べてみたら、1970年代後半にオンエアされたものらしい。
このキャッチフレーズと同名のタイトル本が、自身の書籍として、1975年に出版されていることもあり、多くの人の記憶に残っているようだ。
ちなみに、テレビのコマーシャルに流れていたときのBGMは、ハイドンのシンフォニー94番ト長調「驚愕」の第2楽章だといわれている・・・。

いま、一枚の写真が目の前にある。といっても、パソコンの画面の中だけれど。
色艶のいい二人の男が、固い固い握手を交わしているそんな場面である。
黒い座卓を直角に挟んで、たがいに相好を崩しつつじっと見つめ合ってもいる。
卓の上の皿に盛られたミカンが、二人に負けないくらいつやつやしていて、ちょっと異様な雰囲気を醸し出している。
比較的恰幅のいい初老の男は、向こう正面にすわりながらやや中腰の姿勢。
座卓の右手にどっしりとすわっている強持ての男は、すでに老人である。
二人は、20歳以上年が離れているが、きわめて仲が良いことは、この古い写真を見ていてもわかりすぎるくらいわかる。

 たちまちに 意気投合の 証しにて サンタとサタン 握手の写真

向かって左側にすわる、比較的恰幅のいい初老の男に白いひげをつけて、赤い上下の洋服と帽子とを纏わせれば、サンタクロースに早変わりと相成ろう。
向かって右側にすわる強持ての老人は、昭和の妖怪という異名をとっているだけに、見るからに肝が据わっている。

 ニヤニヤと ニタニタのちがい 妖しきに 目尻を下げて 老いを楽しむ

ところでこの握手の写真は、いつごろ撮られたものなのか、ことのついでに調べてみたら、1973年の、11月23日という記載が見つかった。
場所は、教会の本部とも書かれている。
東京では、木枯らし1号が吹くころか。
それにしても、立派なミカンだ。

 追い詰めて みればすなわち 土俵際に 追い詰められても ゆく二人連れ

黒澤監督の、座右の銘でもある、天使と悪魔の譬えに話をもどすと、天使はいつだって神がうしろについているから大胆不敵になれるのであろうし、一方悪魔は、つねに神の目を盗むようにして悪事を働くわけだから、当然用意周到に事を運ばざるを得ないのであろう。

ベルヴィル日記(10)

福島亮

 第一次安倍内閣が2006年9月26日に発足し、一年たらずで終了したとき、私は中学生だった。2009年の民主党への政権交代のときは高校生、そして第二次安倍内閣が2012年12月26日に発足したときは大学生だった。時系列的にみると、私の人生の少なからぬ部分が安倍晋三と共にあったわけだ。だからなのか、彼が亡くなって、ぽかんと穴が空いたような気がした。悲しいというのではない。私の実人生において、彼と自民党の主張が具体的に大きな障壁であることは間違いないからである。むしろ、どこかで障壁が崩れるかもしれないという期待の甘さを思い知らされたような気がしてならないのが穴の原因だ。

 ぽかんと空いた穴の奥にあるのは、安倍晋三は「安倍晋三的なもの」に殺された、という思いであり、その思いを私は事件以降拭うことができずにいる。「安倍晋三的なもの」とはなにか、といえば、敵と味方の線引きを政治利用し、その線のうちで、本来問われるべき責任のありかを空虚化するという態度、そして傲慢さである。必然的に言葉もまた空虚化し、常に「立場」だとか、「〜としては」といった限定による保険つきの言葉でしかものを語れなくなる。私がときどき怖くなるのは、そのような「安倍晋三的なもの」を自分のなかに探りあててしまうときだ。たとえば、文章や話をするなかで「保険」をかけてしまうとき、私は内心それを「安倍晋三的な」書き方だとか、「自民党的な」語法だと思ってきた。それはある種の競争社会が構造的に要求するものであり、仕方ないものなのかもしれないが、そもそもこの仕方ないという心情が「安倍晋三的なもの」の養分なのではないか。養分がある以上、「安倍晋三的なもの」は生き残り続けるはずだ。安倍晋三本人を食い破ってしまった「安倍晋三的なもの」は何一つダメージを受けておらず、ますます強固に地上を徘徊しているような不気味さがある。

 空虚といえば、高校時代の世界史の教師がよく言っていたことのひとつに、政治家が形容詞を用いたら用心しろ、という言葉があった。形容詞というのは中身がないから、というのがその理由だった。「美しい」という形容詞がその教師の念頭にあったことは間違いない。実際その通りで、この「美しい」という形容詞には、誰にとって美しいのか、何をもって美しいといえるのか、といった具体性が一切ない。つまるところ、私が中学から大学まで過ごした時間の大部分は、そのような空虚に順応する時間の経過だったのかと思うと、ぽかんと空いた穴はますますその空虚さを増していく。

 この空虚さをおぞましいと感じる感性が、時に摩耗しそうになるのをどうにか堪えたいと思っている。そう思いながら、報道を横目で見ていると、「国葬儀」なるものをコストパフォーマンスという観点から擁護する意見があると知って愕然とした。それは二重の意味でおかしい。第一に、葬儀はあくまで弔いのためにあるべきで、そこにコストパフォーマンスなどという言葉をあてがうのはおかしいはずだ。私は安倍晋三の政治思想にはまったく共感できないが、一人の人間に対する弔いをコストという観点から見ることには吐き気がする。弔い、という行為は、そもそも政治的なものである。であればこそ、兄の亡骸に砂をかけたアンティゴネーは獄死することになるのだが、その政治性すらも引き裂いて、金勘定が顔を覗かせる、その味気なさがおぞましい。そして第二に、こちらの方が重要だが、コストという言葉にこれまでさんざん騙し/騙されてきた挙句、またもや白々しくコストなどと口にできる厚かましさがおかしいのである。東京五輪をみよ。なにが「コンパクト・オリンピック」だ。そもそも、いくらかかるのかまだよくわからない「国葬儀」について、コストを云々する時点で論理としては崩壊している。試算などというものがあっけなく無視され、湯水のごとく資金が投入された「平和の祭典」はそんなに昔の話ではない。

 つらつらとそんなことを思いつつ、窓の外に目を向けると、なんだか賑やかなベルヴィル通りの風景があり、この微かな喧騒は私の耳に快い。7月の中旬は熱波がひどく、いっときは40度近くになった。津島佑子の小説『あまりに野蛮な』(講談社、2008年)を走り読みしていると、その中に露店のスイカに主人公の一人であるミーチャがかぶりつく場面があった。私が住んでいる家にはクーラーがないから、暑くなると窓を開け放し、小説を真似て市場で買ったスイカにかぶりつく。ミーチャが憧れ、決して行くことのできなかったフランスにこうしているのがなんだか不思議だ。赤い果汁を介して、台湾とフランスが結ばれる。

 家の前にあるスーパーに台所洗剤を買いに行った時のことだ。こちらでは店員に対して挨拶をするのが普通のことだから、「こんにちは」とレジの女性に声をかけた。朝10時頃だったと思う。挨拶をしたのは常識だったからである。店員と客の立場がほぼ対等なフランスという国の流儀に倣って、客として当然の振る舞いとして「こんにちは」と言ったのだ。ところが彼女は、「こんばんはって言ってもらえるといいな。じつは昨日夜の仕事があって、頭の中で昼夜が逆転しているから」と言ってきた。日常の中に溶け込んでいた立場主義的な感性から何の気なしに挨拶をしていた私は少々面食らいながら、なんの仕事をしていたの、などと言葉を返し、二言三言会話をする。フランスのこういうところが、私は結構好きだ。あまり理想化するつもりはないが、頭の中が昼夜逆転しているから「こんばんは」の方が自分にはしっくりくる、という彼女は、きっと「安倍晋三的なもの」からもっとも遠い位置にいる。

ウェゲナー

管啓次郎

土地の物語にはどこでも始まりがあったはずだ
それはいつともわからない古来の言い伝えかもしれないし
歴史のあるときに生じた事件の報告だったかもしれない
物語には共有された物語と
まだ共有されない私的な物語がある
それらは循環し
姿を変えてゆく

でも始まりについて
こんな例を考えてごらん
アルフレート・ウェゲナーのことだ

1910年は彼が30歳になる年
この年のある日、大西洋を中心とする世界地図を見ていて
彼にはある途方もない考えがひらめいた
南米大陸の東の海岸線と
アフリカ大陸の西の海岸線は
なぜこんなに似ているんだ?
おいおい、ぴったり重なるじゃないか
これらの大陸はじつはもとひとつで
それに亀裂が入り、やがて分かれていったのではないか

いいかい、それまでに人類にどれだけの個体がいたか知らないが
そんなことを最初に考えたのは彼なんだ
彼ひとりがその歴史を見抜いたんだ
現在われわれが知るような大陸になるまえ
北アメリカとユーラシア大陸はひとつのローラシア大陸
南アメリカとアフリカはひとつのゴンドワナ大陸だった
しかも両者はそのまえには
ひとつの巨大大陸パンゲアだった
それが彼の著書『大陸と海洋の起源』(1915年)の主張
ただ、どうして大陸が漂流をはじめたのかは
彼にもわからなかった

それでもこの物語の比較を絶したすごさは変わらないだろう
パンゲアが土地だった
それが始原の場所だった
人の始まりどころではない
世界の始原のそのはるかにまえだ
そのことは誰ひとり知らなかった
そしてこの土地(パンゲア)の最初の物語を
ウェゲナーが語ったのだ

ぼくは彼の生涯について詳しいわけではない
でも彼の名を聞けばそれだけで
反射的にグリーンランドを思わずにはいられない
天文学者にして気象学者の彼は
気球に乗ってはるかな上空に滞在した
5回にわたってグリーンランドを探検したのち
50歳の誕生日にそこで雪嵐に遭い遭難した
物語はそこまでつづく

彼の理論には何か心を奪うものがある
ヒトという種の進化史には
いくつか恐ろしいまでの頭のよさがきらめいた個体がいただろう
どんな瞬間にその洞察を得たのだろう
たとえば月光が太陽光の反射だということを
最初に見抜いたのは誰?
それはひとりだったのか、それとも
世界の各地で何人もの明察が個別に生じたのか

しかしそんな天才たちだって
ウェゲナーにはシャッポを脱ぐだろう
だってわれわれが立つこのterra firma (不動の大地)が
じつは舟のように漂流をつづけてきたというのだから
なんという物語
足元がゆらいで当然だ
ほら船酔いしてきた
われわれは
不確かだ
水惑星に
ただ浮かんでいる

213 赤い計算機

藤井貞和

字をおしえてくれたのは、あんただから、「私ら、
うれしい」と、小母(おば)さんが言ったこと、
あんたに伝えるね。 貸してくれた、あんたの、あの、
手作りの本。 字が大きいね、『ともだちの本』。 

『ともだちの本』を小母さんは、
声にして読みました。 あんたもうれしいな。
代わりにあげるね、わたしの計算機、
これで会計の資格をとったことがある。

うれしいと思うと、みどりの煙が盆地のそらにたなびく。
みどりの煙が盆地のそらにたなびく。 小川に沿って、
隔離のかべがつづく。 小母さんの奈良をむかし、むかし、
岸辺のない川に喩えたひとがいたけれど。

会計の資格を、あんたもとるために、計算機をあいてに、
机に向かう。 青い細部が点滅する、
蛍光ランプのしたで。 その時、計算機が赤くなり、
どうしても読めない数字が一つ、点滅をくりかえし。

(暑中見舞い、安全でありますように。)

水牛的読書日記 2022年7月

アサノタカオ

7月某日 東京・下北沢の Bookshop Traveller へ。写真家の宮脇慎太郎と訪問。お店には彼の写真集『UWAKAI』ほか、サウダージ・ブックスの本が揃っていて、なんと面出しされている。そこに行けば感謝の念を込めて手を合わさずにはいられない、われらの「聖地」だ。

聖地としての本屋さんを巡礼する旅の道——。それは、オーストラリアの先住民、アボリジニの人びとが歩きながら天地創造の神話を学ぶという「ソングライン」みたいなものかもしれない。ぼくは、書店に限らず土地土地の「本のある場所」でさまざまな物語に出会い、知恵に出会い、それらをつなぎあわせるようにして歩いてきた。本の道、歌の道。自分の中にも、そんな魂のルートマップがあるのだと思う。

夜の下北沢では、古本カフェ・バーの気流舎に移って文化人類学者の今福龍太先生と宮脇くんの対談に参加。『UWAKAI』刊行記念のトークイベント。今福先生は、愛媛・宇和海と同じリアス式海岸の地、スペイン・ガリシアへの旅について語り、19世紀の女性詩人ロサリア・デ・カストロの「風」をテーマにしたガリシア語の詩を朗読。地図で見るとガリシアと宇和海の地形はほんとうにそっくりで、気候風土も似ているみたい。

7月某日 『徳島文學』4&5号をまとめて読む。久保訓子さんの小説は「枯野」も「夜の波」も大変読み応えがあった。ラテンアメリカ文学を彷彿とさせる幻想的な物語、文体のうねり。それらの力に激しく揺さぶられながら、最後の一行に辿り着く頃には途方もない世界へ心がさらわれていく。まさに徳島のマジックリアリズム! 作家の久保さんから直接お話を聞く機会があったのだが、メキシコの作家ファン・ルルフォや、アルゼンチンの作家フリオ・コルタサルを愛読されているとのこと。深く納得。

5号所収の髙田友季子さん「ゼリーのようなくらげ」も強烈な小説。「地方」における女性に対する有形無形の暴力が主題で読後に重苦しいものを受け取ったが、これは感じることが必要な重苦しさだと思う。文芸誌『巣』で髙田さんは「好きな作家」として韓国の作家チョン・イヒョンを挙げていたが、たしかに「ゼリーのようなくらげ」には『優しい暴力の時代』(斎藤真理子訳、河出書房新社)と通じるものがある。

7月某日 以前、新潟の砂丘館で入手した『記録集 阪田清子展——対岸 循環する風景』(小舟舎)を再読。在日の詩人・金時鐘の長編詩「新潟」が問うものに応える美術家の作品や関連するトークの記録を集成した一冊。いつか阪田さんの作品をこの目でみたいと思う。

7月某日 鄭敬謨『歴史の不寝番(ねずのばん)——「亡命」韓国人の回想録』(鄭剛憲訳、藤原書店)を読みはじめる。日本の植民地支配からの解放後、朝鮮半島の激動の現代史における数々の画期的な現場に立ち会い、亡命者として日本から韓国民主化と祖国統一を訴えた評論家の回想録。翻訳は著者の息子の鄭剛憲さん。

7月某日 参議院選挙の応援演説中に安倍晋三が銃撃されたとの一報に驚いた。日々更新される報道によれば、事件の背後には、日韓の戦後政治史に巣食う「カルト」と反共イデオロギーの存在が見え隠れし、それゆえに鄭敬謨『歴史の不寝番』を読む意味が一段と重みを増す。

7月某日 文芸誌『すばる』8月号で、今福龍太先生の連載「仮面考」4回(金芝河論)、くぼたのぞみさんと斎藤真理子さんとの往復書簡「曇る眼鏡を拭きながら」7回を読む。

7月某日 斎藤真理子さん『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)読了。すばらしい本だった。大文字の歴史が、小さな個人の心身を擦過して行くときに残す具体の痕跡を描き出すのが「韓国文学」の力であれば、研究や評論の高みから傍観するのではなく、あくまでこの時代を生きるひとりの「個」という立場で真正面からそれを受け止めようとする。そんな斎藤さんの読解の姿勢に打たれた。

『韓国文学の中心にあるもの』の随所に「水」の比喩があらわれる。水面下、水圧、水底、波形、沈んでいるもの……。第2章のテーマであるセウォル号以後文学との関連を考えれば、これは単なる修辞ではなくこの本に一段深い意味の襞を刻んでいるように感じられた。

その他、この本を読んで知ったこと。韓国現代美術館で開催された崔仁勲『広場』(1961)をテーマにした企画展。それに合わせて短編小説アンソロジーが編まれ、作家パク・ソルメが『広場』の主人公・李明俊と金時鐘、永山則夫を「密航者」として繋げる作品を寄せているらしい。これはいつか読みたい。また自分と同世代の韓国の文芸評論家シン・ヒョンチョルが、「人生の書ベスト5」で柴田翔『されど われらが日々——』を取り上げたエピソードにも興味を引かれた。1995年に読んだという。この年、自分はどう生きて何を読んでいたのだったか。

7月某日 東京・西荻窪の忘日舎で、韓国の児童&青少年文学の作家イ・グミの小説『そこに私が行ってもいいですか?』(里山社)の読書会に参加。韓国文学を愛読する人びととの出会いもうれしかったし、本書の翻訳者で日韓史研究者の神谷丹路さんによるレクチャーもすばらしかった。この小説については、水牛的読書日記番外編「私たちは読みつづけている」に、2022年5月15日の熊本日日新聞に寄稿したこの本の書評を転載している。

https://suigyu.com/2022/06#post-8276

行き帰りの電車で、韓国のグラフィックノベル作家パク・ゴヌンの『ウジョとソナ——独立運動家夫婦の子育て日記』を再読。こちらも神谷丹路さんの翻訳、里山社刊。イベントのあとに、里山社の清田麻衣子さんから移住した福岡での暮らしに関する話もいろいろと。

7月某日 旅仕度をしていると郵便がどっさり届く。エッセイを寄稿した掲載誌など。『CUON BOOK CATALOG』Vol.3には、「金石範『満月の下の赤い海』について」。こちらは、先月クオンから刊行され、編集を担当した小説集の紹介。そして『現代詩手帖』2022年8月号、特集「わたし/たちの声 詩、ジェンダー、フェミニズム」には、「『女性』と『詩』に関わる本の編集を通じて」。ペリーヌ・ル・ケレック『真っ赤な口紅をぬって』(相川千尋訳、新泉社)のことなど。特集は非常に充実した内容で、旅から戻ったらしっかり読みたい。

7月某日 早朝、自宅の最寄駅からバスで羽田空港へ行き、飛行機で山口宇部空港へ。JALの機内誌『スカイワード』をぱらぱらみていたら、リトルプレス『ライフ 本とわたし』の写真家・疋田千里さんのごはんの写真を見つけた。

山口・阿東の農場で取材をした後、湯田温泉の中原中也記念館へ。家族宛の中也の手紙を鑑賞。《さあこれから郵便局に行ってそれから本屋に行きます。ああ、本を買うことは嬉しい!》。本好きの人間がやることと考えることは、昔からたいして変わらないんだな、と思った。

暑いけど、吹く風が気持ちいい。湯田温泉の駅前をぶらぶらしていると、《本当の出会いのなかで人は何度も新しい自分を発見します》というメッセージとシュールな絵画を看板として掲げるポラーノ文庫を発見。扉をひらいて店内に入ると、雑多な書物と雑貨のラビリンス! ここはかなりすごい古本屋なのではないだろうか……。心の準備ができていなくてあまり本を買えなかったのが悔やまれる。購入した柴田翔『されど われらが日々——』(文春文庫)を旅先の宿で読みはじめる。

7月某日 柴田翔の小説「ロクタル管の話」(『されど われらが日々——』所収)、これがなかなか興味深い。のっけから臆面なく開陳されるラジオ工作少年《ぼく》のオタク語りにひるんだが、この難所(?)を越えると、物語の世界にひたひたと押し寄せる「不穏な歴史」の影の方へ引き込まれていく。

不穏な歴史というのは、朝鮮戦争のこと。1960年初出の柴田翔の小説「ロクタル管の話」への関心は、最近読み続けている斎藤真理子さん『韓国文学の中心にあるもの』より。朝鮮戦争と日本語文学の関係を語る文脈の中で、この小説のことが紹介されていた。

そして斎藤さんの『韓国文学の中心にあるもの』を介して、ロクタル管=真空管をめぐる想像は、時代と場所をこえて韓国の作家ファン・ジョンウンの小説「d」につながってゆく。セウォル号事故以後の現代、主人公のdがさまよう暗い路地「世運商街」にも真空管があった。こちらは、ファン・ジョンウンの作品集『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)に収録。

7月某日 湯田温泉から新山口まで、平日午前中のローカル線がのんびりしていていい感じ。地元の高校生や大学生がちらほらと。新幹線に乗り換えて新大阪へ。そのまま緑地公園の blackbird books を訪問し、画家のマメイケダさん『ふうけい3』(iTtohen Press)を購入。旅の風景画をまとめた冊子で、移動中の気持ちにしっくりきた。店主の吉川祥一郎さんのメッセージを印刷した紙片も挟んである。

7月某日 神戸・栄町の本屋 1003 へ。移転後のお店をようやく訪ねることができてうれしい。以前に増して、ゆったりとした気持ちのよい本の空間に。文芸誌『オフショア』を主宰する山本佳奈子さんのエッセイ『個人メディアを十年やってわかったこととわからなかったこと——オルタナティブ・ネット・音楽シーン』(オフショア)を購入。これはおもしろそう。

元町から阪急の王子公園駅へ移動し、古本屋ワールドエンズ・ガーデンへ。こちらもひさしぶりの訪問。『翻訳文学紀行Ⅲ』(ことばのたび社)と、編集者の故・安原顯の著書(古本)などを購入。「スーパーエディター」を自称したヤスケンのことが、あらためて気になりはじめている。店主の小沢悠介さんと一緒に近所のゲストハウス萬屋に挨拶。オーナーの朴徹雄さんらが、韓国文学の読書会を開催しているそう。

7月某日 大阪・松原にある阪南大学の総合教養講座でゲスト講義をおこなう。国際コミュニケーション学部の教授で、ノンフィクション『歌は分断を越えて』(新泉社)の著者である坪井兵輔さんのお誘い。テーマは「編集とフィールドワーク——「つたえる」の意義を考える」。夏休み前の最後の授業ということで、だらだらしゃべらないようにし1時間ほどでスパッと切り上げた。

それにしても、大都市の灼熱地獄のような暑さはひどい。影のない歩道を数分歩いているだけで、焼き殺されるような気持ちに。

7月某日 大阪・淀屋橋のCalo Booksop & Cafe で2冊本を買って店主の石川あき子さんとおしゃべり、おいしいスパイスチキンカレーをいただいたあと、歩いて北浜のFolk old book storeへ。昨年末、代表の吉村祥さんがお店のとなりに子どもの本屋「ぽてと」をオープン、こちらははじめての訪問。「ぽてと」でFolk が発行するブックガイド『肝腎』を入手。暑い。

7月某日 大阪から京都へ移動し、古書・善行堂へ。店主の山本善行さんと久しぶりにゆっくり話すことができた。これからの本作りのことなど。京都から新幹線に乗り、帰路につく。車内で、善行さんが編集した『文と本と旅と——上林曉精選随筆集』(中公文庫)を読む。「人」をテーマにした随筆がすばらしい。おみやげにもらったフリーペーパー『かげ日なた』もよかった。

7月某日 旅先で訃報に接した。尊敬する出版者・編集者・詩人でトランジスタ・プレスを主宰する佐藤由美子さん。旅から戻り、佐藤さんがオーナーをつとめた新宿のカフェ・ラバンデリアへお別れの挨拶をしにいった。本当はお別れでない挨拶をしたかったのに……。サウダージ・ブックスを最初期から応援してくれて、本作りについていろいろなことを教えてくれた恩人。佐藤さんと旅の話を、本の話をもっともっとしたかった。

1950年代のアメリカ発、ビートニクの精神を継承し表現するトランジスタ・プレスの本はどれも最高にかっこいい。京都・誠光社店主の堀部篤史さんが、ヤリタ・ミサコさん『ギンズバーグが教えてくれたこと——詩で政治を考える』を絶賛している。《著者翻訳による5編の詩とその細部に及ぶ解説を添えたポケットサイズの非常に美しい上製本》

https://www.bookbang.jp/review/article/528146

7月某日 昨晩につづいて、カフェ・ラバンデリアへ。今日という日で、佐藤由美子さんとほんとうのお別れ。美しい人は、美しい野の花に囲まれて、最後まで美しい人だった。棺には、彼女が心を込めて作ったビート文学の本たちも。佐藤さん、本当にありがとうございました。長い長い旅の道、どうか安らかに歩いていってください。涙がとまらなかった。