『アフリカ』を続けて(20)

下窪俊哉

 前回は新しく始めたウェブの雑誌『道草の家のWSマガジン』の編集が楽しいという話で終わっていたが、その後、約1年ぶりに紙の雑誌である『アフリカ』の”セッション”も再開した。しかし年1冊というのは、重い。1冊のヴォリュームは落としてもいいので、年数冊を出すというくらいのペースに戻してゆきたいのだが、そのために理想を言えば、原稿が勝手に集まってくるというふうなシステムが要る。編集人(私のことだが)の重い腰が上がるのを待つというのでは、やはり年1冊のペースになるだろうし、そうするとやはり雑誌自体にも重さが出る。

 じつは前号(vol.33/2022年2月号)の感想で多かったのが、これまでになくシリアスな内容だった、というものだった。いつも『アフリカ』を読んでくださっている皆さんには、その重さも愉しんでもらえたかもしれない。そうなった理由はそれぞれの作品の中にもあるかもしれないが、編集によるものが大きかったかもしれない。前半に並べた「書く」ことについてのエッセイは、考えることを読者に誘うものだったし、深刻というより真面目。あるいは、このどこか暗い時代の影響を受けてそうなっているのだったりして。などと考えていると、よし、次はもう少し明るいもの、軽いものを目指そう、ということにもなる。
 とはいえ、書く人たちには、書きたいことを書きたいように書いて、というだけなので、明るい編集、軽い編集、ということになる。どうやって、どうなるのかは、やってみなきゃわからない。結局はいつものようなことになるだけかもしれないが、頭の隅には置いておこう。

 ところで、『WSマガジン』を読んだ方からは、「読みやすくて面白かった」という感想が多い。中には「『水牛のように』を毎月、隅々まで読むのは楽じゃないけど、『WSマガジン』は全体をさらっと読める」と話してくれた人もいる。褒められているのだろうことを承知の上で、しかし私はまた考えてしまう。まあそうやって比べる必要はないと思うけど、楽じゃない部分もあった方が面白いような気もする。もっと何というか、読んでいてひっかかったり、詰まったりするようなところがあってもいいのにな、と。
 書きっぱなしの粗削りのものをどんどん出してゆこう、と言ってはいても、実際に書いてみたら、読みやすくてちょっと面白いような文章になってしまう。読みやすい文章を書くなんていうことは楽なことなんだろう。
 ということは、読みにくい文章を書くのは難しい?
 何にひっかかるのか、どこで踏みとどまるのか、あるいは、どこで書けなくなるのか。
 そんなことがじつは大事なことなのかもしれない。
 書けないことをこそ、書きたいと思う気持ちが自分にはある、なんて言ってみたくもなったりして。
 もっとゴツゴツした、うまく言えないようなことを書こうとして失敗したような文章が並んでいてもいいと思う。

 その「ゴツゴツした」という言い方は、富士正晴さんからいただいた、好きなフレーズだ。太平洋戦争の前に『三人』、戦後に『VIKING』という同人雑誌をつくり、亡くなるまでかかわり続けた富士さんは、全国各地から送られてくる同人雑誌を読むのも好きだったらしい。ここで、そのことを少し書こうと思って『贋・海賊の歌』(未来社・1967年)を出してきて、「VIKING号航海記」を読むと、「同人雑誌の小説のたいていは文壇の風俗、流行のイミテーション」だが、稀に「今の文壇で通用しないかも知れないふしぎな純度をもっている作品」「硬質の結晶体のような作品」を見つけ出すことがある、それが「同人雑誌読みとしてのわたしのいささかの楽しみ」だと書いている。この話の裏を返せば昭和の一時期、文芸の同人雑誌が「文壇」の2軍と見られていたことを語ってもいるのだが、私がかつてから注目しているのは例えば次のような文章である。

 このごろうれしいことは同人雑誌が文壇への階段であることを目的とせず、自分自身の存在を第一目的とするような傾向がふえて来たことだ。あまり目がチラチラよそに走っていない。これは自信というものだろう。よそに認められなくても安定している。つまり、雑誌中の評価を相当信じ合っているということである。

 これはつまり『VIKING』のフォロワーが出てきて喜んでいるのである(その「傾向」はいつ頃まで続いたのだろうか)。『VIKING』は自らの存続そのものを目的とし(というふうな言い方をする)、いわば自動操縦の船を造り乗り込み、内側にはその時々でいろんな問題を秘めているとしても、富士さんの没後35年たついまもその航海を続けている。しかも月刊である。
 私はそこに「続ける」ということの花や果実を見るような気がする。
 どこか離れたところに湧く評価を動力としているようでは、「続ける」が燻り弱ってくる。燃料は、自ら与えればよいわけだ。
 そこには「原稿が勝手に集まってくるというふうなシステム」があるはずだ。
 自分がそういうシステムをどうやって構築できるか、という問いの先に、ワークショップというイメージがあったのだ、ということがここまで書いてきて何となく理解できる。自動操縦とまではゆかなくとも、いつでも(雑誌をつくっていない時でも)場が活発に動いて、生きている必要があるだろう。その役割を『WSマガジン』が担ってくれるのではないか、という予感がいまはある。

 どんな小さな石でも、投げれば何らかの波紋を呼ぶだろう。それがどんな波紋になるかはわからない。しかしそんなことはこの際、どうでもいいではないか。それより小さな石を集め、投げ続けることの方に歓びがある。いまのこの社会にはどうやら、失敗が許されない(過去の失敗を許さない)とか、傷つくことを徹底して回避しようとするような傾向があるらしいという話も聞く。そこで失敗こそ人を育てるとか、傷つくことのない人生が面白いかなどとお説教を始めるのもまた容易いか、しかし、ね、小さな石を集め、投げ続けることに失敗も成功もない。ただ集め、投げるだけだ。ただ続けたらよいだけだ、ということを私はいま少し言いたいような気がしている。

しもた屋之噺(252)

杉山洋一

この原稿を書いているコンピュータの脇に、野坂恵子さんのお葬式でいただいた、小さなカードがおいてあります。表には後光をいただく聖女が描かれていて、裏には「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5・8)」とあります。

新年は明けましたが、今年がよい一年として人々の記憶に残る可能性は、限りなく低いと思います。たとえそんな一年であろうとも、人々は等しく必死に生きて、沢山笑ってとめどなく泣いて、時には怒ったりもしながら、美味しいものをたらふく食べるのを夢見つつ、われわれも頑張ってよい音楽をやろうとしているはずです。そんなささやかな毎日を積み重ねて、何とかこの暗い一年を無事にやり過ごせたらいいな、そう思いながら暮らしています。
心なしか、日中の陽の光が少しだけ強くなってきた気もします。気のせいかもしれませんが、でもそう信じて、一歩ずつ足を踏み出したい、そんな思いに駆られてもいます。

1月某日 ミラノ自宅
日本滞在中の息子が町田の両親宅を訪問。スカイプで少し話し、両親と息子と一緒のスクリーンショットを撮った。手製の叉焼でラーメンを作ってもらい、簡単なお節と一緒に、大根だけのあっさりした雑煮も食べたという。夜、息子は老父に町田駅まで送ってもらったらしい。

美恵さんにメールしていて、小学生の頃、すっかり日焼けした立原の小さな詩集を持ち歩いては、立原の詩の内容よりも、ところどころの旧字体の漢字に痺れていたのを思い出した。とりわけ「八月の金と緑の微風のなかで眼に沁みる麦藁帽子」の「麥」の字を偏愛していて、半世紀過ぎてこう告白するだけでさえ、胸の高まりを抑えられない。

1月某日 ミラノ自宅
武満作曲賞で演奏したシンヤンから年賀状が届く。現在、中国は特に高齢者の死亡が多く、シンヤン自身も年配の親戚を失った。シンヤンはアメリカに滞在中だから、葬式すら出られない、ただただ辛い、と書かれている。

大晦日夜半、ロシア軍占領地域ドネツク州マキイウカのロシア軍臨時兵舎爆破。ウクライナ軍は400人殺害と発表、ロシア軍も89人の死亡を認めた。ただ、戦争とは狂気そのものだとおもう。

1月某日 ミラノ自宅
久しぶりにティート宅を訪問。昼食にヒヨコ豆のパスタをご馳走になる。妻のマリアはブルガリア人で、彼女は子供たちと常にブルガリア語で話している。マリアの両親は医者で、揃ってソヴィエトもロシアも嫌悪していたが、現在までブルガリアは親ロシア勢力が強い影響力を持ち、ウクライナへの協調を気軽に表明できる状況にはないそうだ。アルバニアのオペラ劇場が終身雇用で月給1000ユーロになったと話すと、ブルガリア国立オペラよりずっと待遇が良いと驚く。

昨日の日本Covid死亡者が456人で本日463人。過去最多とのこと。新規感染者数は23万8654人。イタリアの本日の発表は未だだが、12月26日から元日までの統計では、Rt値が0.84から0.94。死亡者数は、12月23日から29日の合計706人で、12月30日から1月5日の合計が775人とある。新規感染者数を見ると、1月第一週は一日平均17443人、二週目は一日平均19424人で、例え計算方法に相違が認められたとしても、日伊の差は顕著である。現在の日本の状況は、一体何が原因なのか見当がつかない。これからヨーロッパでも同じ現象に襲われるのかもしれないが、未だその兆しすらない。尤も、イタリアの公共交通機関では、自主的にマスクをしている年配者は多い。
旧暦のクリスマスを祝い、ロシア軍は一方的に休戦宣言。ロシア、ウクライナ共に散発的な戦闘は止まず。

1月某日 ミラノ自宅
家人曰く、作曲をしているときは機嫌が良いらしいが、こうも筆が進まないと、どう気分を変えてよいかもわからない。

当初、功子先生からは「自画像」のようなヴァイオリン協奏曲を書いて欲しいと言われていて、それ以来、2021年8月タリバンがアフガニスタンの公共の場での音楽演奏禁止を発表した直後に銃殺された、民謡歌手ファワド・アンダラビの弾くギチャクの旋律を使うべきか、まだ迷っている。ペルシャの民族楽器ギチャク(Ghaychak)は、ヴァイオリンに近しい弓絃楽器で音域もほぼ等しい。

功子先生のための作品を生々しいものにするのは気が引けるが、アフガニスタンから逃げ出した無数の音楽家たちや、息を凝らして必死に生きるアフガニスタンの女性の姿が頭から離れず、何らかの標を自作に書きつけておかなければと思ってきた。だから、もう少し悩んでから、きっと何某かの形でファワドの旋律がヴァイオリン協奏曲に埋め込まれることになるのだろう。

本日の日本Covid関連死亡者520人との発表。一体どうなっているのか。NHKラジオニュースを聞いていて耳を疑う。家人、息子ともにミラノ帰宅。

1月某日 ミラノ自宅
松平頼暁さんの訃報。心底Covidが恨めしい。松平さんから直接お願いされた、未初演のレクイエム上演を完遂できぬまま、松平さんが亡くなってしまった。ただ悔しく申し訳なく、限りなく無念だ。

「冬の劇場」の頃から、足繁く演奏会を聴きに来てくださり、その度に励ましていただいた。その松平さんご自身からレクイエムのお話しを伺い、とても光栄に思っていたし、当初はお元気なうちに上演可能と信じて疑わなかった。オペラ「挑発者たち」と「レクイエム」は、絶対に納得ゆく形で上演すると心に決めてきたが、結局コロナ禍に翻弄されてしまった。併しその逡巡は、自分の詰めの甘さや一寸した気の緩みや、微かな諦めが折り重なった所為ではなかったか。後から悔やむくらいなら、人生無理にでも突っ走った方がよいと頭では理解している積りだったが、浅はかであった。今はどうにも気持ちの整理がつかない。

フェニーチェ堺の福尾さんよりお便りを頂く。平井さんや当時関わった様々な方を思い出すと、涙が止まらない、とある。
「みんな、どこにいってしまわれたのでしょう。でもこうして杉山さんからのメールを拝読し、ああ、あの時間は本当にあったんだ。同じ時間と同じ至福の時を過ごした方がいらっしゃったんだ、そのことを思い出せただけでもありがたく、嬉しかったです」。

1月某日 ミラノ自宅
朝、11時。霙雑じりの雨に打たれながらパトリツィアに会いにでかけた。昨今の音楽界を席巻するのはSNSで人気を博す音楽家ばかりで、本当によい音楽家であるかどうかは二の次になっている。娘や孫の世代にどんな音楽や文化を遺してやれるのか甚だ不安だ、と畳み込むように話す。
彼女曰く、ブレンデルはマスターコースをするとき、完璧な演奏より寧ろ個性が生きる演奏を目指して指導していたそうだ。

岡村雅子さんの訃報が届く。岡村さんとは、大原れいこさんと三人で集っては、川上庵で蕎麦など啜りつつ、いつも他愛もない四方山話にばかり花を咲かせていたから、音楽関係者というより、ごく普通の友人として受け入れて下さっていたのだろう。
下北沢のレディジェーンで、娘さんがいれたボトルを二人で静かに味わったこともあった。そんな時ですら一切涙もこぼさず坦々と娘さんを偲んでいらしたから、流石に格好良すぎる、無理をしないでほしい、と内心心配していた。
「16歳!もう親の手綱からは離れているんでしょうね。でも不思議なことに、遺伝子はいろいろなところに見受けられて、もどかしいというか、親子の繋がりを、いろいろな場面で感じることができて。突然、私の娘のことを思い出してしまいました」。
「娘のことは大丈夫です。折につけ、いろいろ思っていますから。この間下北沢の小さな空間でハロルド・ピンターの2人芝居を演出した演出家は、ほぼ30年前私達家族がここに家ができて引っ越してきた時に、娘が一番初めに連れてきた人で、きっと、演劇の話をしたら止まらない、別に恋人じゃないけど、いつまででも話していたい、そんな間柄だったんだなあと今頃思ってますし。折につけ、そんな感じで娘が登場しています。色々な人との出会いも楽しんでます」。
漸く春彦さんとも娘さんとも、勿論れいこさんとも再会されて、岡村さんは相変わらず格好よく、素敵な時間を過ごしていらっしゃるに違いない。我々は少しの間寂しいけれど、でも岡村さんが倖せなら、それも我慢できる気がする。

1月某日 ミラノ自宅
早朝、中央駅6時過ぎの特急でフィレンツェへ向かい、佐渡さんのマーラー、リハーサルを見る。朝8時過ぎのフィレンツェは行き交う人も疎らで、ジョットの鐘楼はどこか凛とした佇まいを見せる。街角で道を尋ねると、みな実に親切に教えてくれる。朝の冷気もミラノより少し緩く、心なしか人々の表情も明るい。
佐渡さんの音楽は懐が深く自然に呼吸していて、尖ったり邪魔をするものがないから、演奏者の身体にそのまま溶け込むのだろう。オーケストラの奏する音はみるみる変化して、文字通り圧巻である。オーケストラも、のびのびとしていて、とても弾きやすそうだ。
夕方からミラノで授業があったので、ゆっくりと話し込む時間はなかったけれど、つかの間の再会を喜ぶ。ミラノに戻る直前、駅前の四川料理屋で海鮮麺と肉なし麻婆豆腐をかきこむ。周りの客は地元の中国人だったらしく、揃って中国ケーブルテレビの旧正月記念番組に見入っていた。

1月某日 ミラノ自宅
ケルン旧消防署にて、渡邉理恵さん指揮、アンサンブル・デヒオのリハーサル見学。特殊奏法の多いファラの作品に対して、まず奏者の疑問をていねいに溶きほぐしてから、それらを音楽の流れに浮かべてゆく。外から眺めていると、作曲者、指揮者、演奏者、それぞれの音楽が、次第に中心へ収斂され、一つになってゆくのが、つぶさに理解できた。やがて、作品を通して、演奏家、指揮者の音楽がより鮮明に浮かび上がるのも興味深い。

稲森くんや渡辺裕紀子ちゃんの作品を演奏しているとき、こうしたヨーロッパの日々が彼らの楽譜の向こうに見えていたつもりだったが、久しぶりに間近でその空気に触れると、より具体的に、直接的に、彼らの音楽の本質を深く肌で感じられて、なんだか嬉しかった。

作曲者が提起するアイデアの収斂点から、どんどん深く掘り下げて啓いてゆく姿勢は、瑞々しく新鮮であった。何より、指揮者と演奏家が揃って作曲者の意図を誠実に汲取ろうとする姿勢に大変感銘を受けた。リハーサルは濃密でありながらしつこくはなく、有意義であった。

ミラノ国立音楽院のアウシュヴィッツ解放記念の記念演奏会で、息子がロッシーニやショパンの断片を弾いた、と家人よりヴィデオが届く。

1月某日 ミラノ自宅
旧消防署庁舎近くの広場の朝市でドイツ風クロワッサン二種とワッフルを購い、スタンドでコーヒーを淹れてもらい朝食とする。美味。クロワッサンはどちらも濃厚な味わい。そのまま渡邉さんとすっかり話し込む。朝市の肉屋の店先はすっかり磨き上げられていて、高級感が漂っていた。聞けばこの朝市は富裕層がターゲットで、質も高く値も張るそうだ。

ケルンより帰宅。ケルン在住の作曲家、ファルツィアはイラン出身で、家族はみな本国に残っている。数年前に比べて、状況はすっかり厳しくなった、とこぼす。イランに戻れるけれど、自分は現政権にとって不都合な人間になる。家族とも連絡は取れるけれども、安全ではないし、インターネットは遮断されているから、VPNを使わなければならない。
海外からの情報は以前から制限されていて、市民は国外からの文化や情報を渇望していた。その証に、家人がテヘランを訪れたときは、熱狂的に歓迎された。現在はその交流すらすっかり影を潜めている。国が変わらなければいけないが、それはとても大変だともいう。君の音楽はご家族の希望だねと話すと、そうね、と少しだけ口元が緩んだ。
彼女はケルン・ボン空港の近所に住んでいて、発着する飛行機を見上げては、時に思いを馳せているという。

1月某日 ミラノ自宅
ナポリ広場の広告板には、黄色と青色のデザインで、ずいぶん長い間「NO WAR」と表示されていたが、このところ、「あなたのため、ミラノのため」特集に入れ換えられた。
路面電車の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、公共交通機関を使おう」、LED電球の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、LED電球を使おう」、階段の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、階段を使おう」と書いてあって、要は節電要請である。
ウクライナ侵攻から1年近く経ち、戦争反対の声は聴かれなくなった。NO WAR ではなく、STOP WARとスローガンは書き換えられ、英米国に続き、ドイツもレオパルド2のウクライナへの供与を決定し、ヨーロッパ全体として、ウクライナの侵攻を現実に受けとめているようだ。サンレモ音楽祭のなかでゼレンスキー大統領が声明を発表するとかで、サンレモでゼレンスキーが話して意味があるのかとイタリアでは冷笑が広がっている。

冷戦中ソビエトのミサイルは、北大西洋条約機構基地のあるトリエステではなく、ユネスコ世界遺産であるヴェニスに焦点を定めていて、ウクライナ市民やライフラインを狙うロシア軍を思わせる。1年後、我々の生活がどうなっているか、正直なところ、わからない。

1月某日 ミラノ自宅
どこか妙な一日であった。朝、家人と散歩して帰宅中、路面電車の停留所で、まさに乗込もうとしている格好そのまま、俯せに倒れ、微動だにしない男がいて、運転手が駆けつけていた。
夕刻、学校を終えて帰宅すると、家人が後ろから走ってきた電動スケートボードに跳ね飛ばされ、全身を強く打っていた。

自宅前のドン・ミラーニ橋から、シーツに黒スプレーで書きつけられた垂幕がかかっていて、現在収監中のFAI(非公式無政府主義者同盟)指導者アルフレッド・コスピトが、刑務所規則41条bis反対して行っているハンガーストライキが150日に突入し、健康状態の悪化を訴えている。イタリア各地で非政府主義者同盟の支持者らが、火炎瓶などを使った抗議活動を展開しており、国外でもベルリンとバルセロナのイタリア大使館関連施設での破壊暴力活動に及んだ。ミラノの日本領事館から、デモなどに近づかぬようメールが届く。

(1月31日ミラノにて)

どうよう(2023.02)

小沼純一

きかせてよ
うみのむこうにいるあなた
わたしおもって
いとしいこえを

あンあンあン

きいててね
うみのむこうにいるあなた
わたしいまって
こんなかも

あンあンあン

あのひとかな
こんなとこにいるんだから
こういうつながりなのかしら
それらしい あいさつだけで
にこにこしながらしておけば
いい
のかな
おひさしぶり
おかわりありません

か か か
さいきんはどういった
すこしでもおもいだせばしめたもの

みんなみんないいひとばかり
いつからこんないいひとばかり
むねやけちりちり

たえまなく
はきけぐぶぐぶ
あいだをおいて
とまらない

みんなみんないいことばかり
いつからこんないいことばかり
いいひといいことあっぷっぷ

ふるまえふるまいふるまでに
いいひといいことぶってぶって

わかれてはしまったが
わすれたのはよかったこと

いいことだって
たのしいことだって
いくらもあった
はずなのに
なかなかみえないトンネルの
でぐちのように
みえにくい

わかれてはしまったが
おぼえているのはいいことだけ

わるいことだって
いやなことだって
いくらもあった
はずなのに
はなをいちりんふってたり
さがっためじりは
すぐそこに

わかれてはしまったが
ひらいているのはかさばかり

あめにふられて
むかうむかいの
すれちがい
かみからくつうら
いいもいやなもあやめなく
へやのそとには
まっかなかさが
あめふらし

いちにさんし
うんだつぎにはなくなる

ことばちがえるひとに
おしえました
むかしそういってたかたが

いちにさんし
さんとしと
いっしょだとややこしい
って
あてつけだっていわれるから
いわなかったかな
しのあと 
しご
ってつづくんだよと

いちにさんし
そのあとはなんだろ

にさんしごろく
ごろくはやはりかきつけか
どこかに
きっとのこってる
だれかさがしに
ろくしちはちく

ポルトガルの海

植松眞人

 東京メトロを千駄木駅で降りて、団子坂を登り切ったところに森鴎外記念館がある。その前の通りを右に折れたあたりに文京区の図書館がある。
 鴎外が実際に暮らした観潮楼跡に建てられた森鴎外記念館はかなり気合いを入れて設計されている分、目と鼻の先のこの図書館の建物の地味さが際立つ。役所の一角なのかと見間違うほど、なんの特徴もない。それでも、自然と森鴎外の書籍を探し始める。「文学」と書かれたプレートが奥の方に掲げられていたので、そちらに向かうと「近代文学」「純文学」と棚がわかれていたので迷わずに「近代文学」を探す。「純文学」は「男性作家」と「女性作家」に別れているのだが「近代文学」は男女では別れておらず、シンプルに「あ」「い」「う」と五十音別に並べられている。
「も」のプレートを探そうと目を走らせた瞬間に背表紙が上下逆さまになっている青い本が飛び込んできた。自分の顔を少しひねって、なんとか逆さまになった文字を読むと、背表紙には『ポルトガルの海』とあった。『ポルトガルの海』と言えば、確かと思いながら、著者名を見ないようにする。『ポルトガルの海』と言えばと書棚に背を向けてる。自力で思い出したい。スマホに頼らずに思い出したい。しかし、還暦を迎えてすっかりこらえ性がなくなってしまい、そんなこだわりはすぐに知りたいという気持ちにあっさりと負けてしまう。振り返り、書棚に手を突っ込み、逆さまになった本を取りあげ、著者名を確認する。そうだった。フェルナンド・ペソアだった。
『うた』と題された詩編から始まるその本がなぜ日本の近代文学の書棚に突っ込まれるように置かれていたのかは知らない。けれど、それを見た瞬間から、森鴎外が若き日に留学した国がドイツではなくポルトガルだったらという思いから抜け出せなくなっていた。
 ペドロ・コスタの映画『溶岩の家』や『ヴィタリナ』に出てくるようなポルトガルの辺境の町を鴎外が歩いていたとしたら、エリスにも会わなかっただろうし、万一、エリスのかわりにポルトガル女性に会っていたとしたら、鴎外はその後日本に帰国しなかったかもしれない。ドイツは何かを学び何年か後に帰ってくる場所にはなり得ても、ポルトガルは違う気がする、などとドイツにもポルトガルにも行ったことがないのに、勝手に決めつけている。
 受付で聞くと、文京区に住んでいなくても身分証明書があれば本を借りることができるというので、手続きをして『ポルトガルの海』を借りる。そして、学生たちが自習をしているデスクがずらりと並んだ場所をすり抜け、老人たちがぼんやりと時間を潰しているソファの空いた席に座り、借りた本を開く。同時にスマホでウィキペディアにアクセスして、鴎外とペソアの生年月日を調べる。
 鴎外はペソアよりも三十年近くはやく生まれ、十年ほどはやく亡くなっている。鴎外がドイツ留学から帰ってしばらくしてからペアソが生まれたので、仮に留学先がポルトガルだったとしても、二人の人生が交錯することはない。ただ、ペソアの詩集の日本語訳が森鴎外記念図書館の「近代文学」の書棚になったことは記憶の中で決して忘れることのできない出来事になった。
 鴎外とペソアは生涯分かちがたく結びついてしまった。誰かがペアソの詩を乱雑に書棚にしまったがために。鴎外の名前はすでに、ペソアの『ポルトガルの海』の表紙の色だ。そして、それが本当にポルトガルの海の色をイメージしてデザインされたものかどうかは知らないけれど。(了)

字あまり、または1ダースの月’23

北村周一

シンゴジラやらシンウルトラマンも現れてシンハマオカに集う一月

二俣の売家に二股かけられてくんずほぐれつ逃げる二ん月 

字あまりに臆することなく憤るその溜息でくもる三月

夜さり夜さり酒酌み交わす友もなく一人ふたりと消えゆく四月

つまの吐くね息のなかにわが眠りしずめんとして縮こまる五月

耳の中の小さな石の不始末を眩暈と呼んで鬱ぐ六月

物を見てえがくすなわち手描きへの自負と偏見煽る七月

AIにたくすすなわち手描きへの自負と偏見くたす八月

さめぎわに消残る夢のあさくして自問自答に悶える九月

老いてなおここよりほかの場所数多夢に浮かべてさやぐ十月

絵日記は汚れやすくてぽちぽちと杳いメールを打つ十一月

子煩悩な親ほど怒りやすしとも ラク書き消して回る十二月

片岡義男作品のなかの珈琲3つ

若松恵子

片岡義男さんの新刊『僕は珈琲』が1月24日に発売された。片岡さんの本を読むと、おいしい珈琲が飲みたくなる。ヤクザ映画を見た人が、肩をいからせて歩くように、珈琲を片手に私も小説の中の人になる。片岡作品のなかの、心に残る珈琲の場面を3つ引用して紹介したいと思う。

***

 横断歩道を渡ってきた彼女は、ビルの前を右へ歩いた。右へすこしだけ歩くと、そこがビルの角になっていて、さっき彼女が渡ってきた往復八車線の道路からわきに入りこんでいく道路とのT字交差だった。
 ビルの角を、彼女は、わき道に沿って、まがった。このビルのこちら側だけは、アーケードのような通路になっている。ビルの壁面にその通路がくいこんだ造りになっていて、雨の日でも濡れずに歩ける。
 一画を大きく占拠しているそのビルの裏手へ、彼女は歩いた。彼女がいま歩いていく通路と、そのビルの裏にある道路との角にあたる部分は、カフェテリアになっていた。角を中心にして両側の壁は大きな透明のガラス窓だ。カフェテリアの内部が、いつも外から見えた。
 歩いてきた彼女は、カフェテリアのガラス・ドアを押し、店のなかに入った。ガラスのドアのまんなかに、クリスマスの花輪が飾ってあった。夕方の混みあう時間を過ぎた店内に、客はあまりいなかった。ハンバーガーとコーヒーの香りが、静かに店内をひたしていた。
 カギ型にあるステンレスのカウンターの手前に、テイク・アウトの窓口があった。その窓口の前に立った彼女は、ユニフォームを着た若いウエートレスに、「コーヒーをふたつでいいの」と注文を告げた。丈の高いカウンターの縁にトレンチ・コートを着た片腕をかけ、彼女は待った。
 カウンターで食事をとっている二人の外国人男性の話し声が、聞こえるともなく聞こえてきた。会社帰りの、ビジネスマンのようだった。ひとりはアメリカの英語を喋り、もうひとりの英語はフランスなまりだった。
 コーヒーが、できてきた。紙コップに入れて薄いプラスチックのふたをし、クリーマーと砂糖、それにままごとのようなスプーンをべつにそえ、紙袋におさめたものだ。
 彼女は、料金を払った。ウエートレスがくれた小さなレシートをトレンチ・コートのポケットに入れ、テイク・アウトのカウンターを離れた。
 店の外に出た彼女は、角にむかって歩いた。信号のない裏通りの横断歩道を渡るとき、ちらっと彼女は店をふりかえった。
 大きな透明の窓ごしに、店の内部が見えた。光っているステンレスのカウンターに、機能的に美しくととのえられた調理場、そして英語のメニューとカウンターで食事している二人の外国人。そんな光景が、彼女の目に入った。外国の街角で見る光景のようだった。
 横断歩道を渡りきって、彼女は右のほうに目をむけた。道路のむこうに、国電の高架駅があった。車体がブルーの電車が、その駅に入ってくるところだった。
 人通りのすくなくなった夜のオフィス街を歩きながら、彼女はコーヒーの紙袋を開いた。熱いコーヒーの入った紙コップをひとつとりだし、プラスチックのふたをとった。ふたを紙袋のなかに落とし、紙袋の口を閉じなおした。
 紙コップを、彼女は口にはこんだ。強い香りのする、熱いブラック・コーヒーを、彼女は唇のさきですこし飲んだ。

 『吹いていく風のバラッド』 18 (1981年2月 角川文庫)

トレンチ・コートの彼女は、コーヒーを飲みながらオフィス街を歩いて、最後は地下鉄に乗る。その姿が描写されているだけの物語だ。1981年当時、テイク・アウトのコーヒーを飲みながら歩くという事は、新鮮でただただかっこ良かった。

***

 コーヒーに蜂蜜を入れようとしたスティーヴンは、カップもスプーンも、これまで見たこともないほどに汚れているのに、はじめて気づいた。
 黒いカップだと思っていたのだが、じつは汚れの蓄積によって黒くなっているのであり、本来は白なのだった。取手の指の触れる部分と、唇のさわるとこ、そして底の二センチか三センチほどが、ほのかに白かった。指で触れてみると、汚れの厚みがはっきりとわかった。
 スプーンもおなじだった。ぜんたいにまっ黒で、こびりついた固い汚れで形はいびつに見えた。心のなかではひるみながら、スティーヴンはスプーンで蜂蜜をすくいとった。そして、コーヒーに入れた。あまりかきまわすと汚れがコーヒーのなかに溶けだすのではないかと思い、すぐにスプーンをひき出した。
 コンロイは蜂蜜を使わなかった。
 白い部分に狙いをつけて唇を寄せ、スティーヴンはコーヒーを飲んだ。そして、驚嘆した。コーヒーは、ものすごくおいしかった。熱い芳しい液体が口から喉へ落ちていくのを感じながら、これまでに飲んだ何千杯とも知れぬコーヒーのなかで、いま自分の手にあるこの一杯がいちばんおいしい、とスティーヴンは確信した。
 自分をとりまいている自然のなかのあらゆるものが、一杯の熱いコーヒーに凝縮されていた。そのコーヒーが、自分の体の内部へ流れこんでいく。深いスリルに鳥肌の立つような、魔法の瞬間だった。
 人里遠く離れた丘のつらなり。澄みきった冷たい夜の空気。夕もやの、しっとりした香気。夜の匂い。草のうえにいる数百頭の羊たちの鳴き声の合唱。犬の声。そういったおだやかな物音が吸いこまれていく、自然の空間の広さ。もうはじまっている、高原の長い夜の静寂。こういったものすべてが、一杯のコーヒーになって自分の体の内部に流れこんだ。と同時に、スティーヴンの感覚は、コーヒーが口のなかに入った一瞬、冷たい夕もやの立ちこめる夜の広さのなかへ、いっきに解き放たれた。

彼はいま羊飼い(『いい旅を、と誰もが言った』1981年2月角川文庫 )

一杯のコーヒーによって、彼はいま羊飼いだ。
自然そのものが凝縮されているコーヒー。つつましい日常の中で、そんなコーヒーを飲みたいと願いつつ・・・。最後は片岡さんの詩集から。

***

  秋のキチンで僕は

目を覚ました僕は寝室を出た
彼女は仕事にでかけたあとだった
僕はキチンに入った
食卓のいつもの椅子に、僕はすわった
キチンのなかには匂いがあった
パーコレーターでいれたコーヒー
シナモン・トースト
彼女のシャンプーおよびリンスの香り
そしてさらに、なにであるか不明の、なにかの匂い
服の匂いかな、と僕は思う
彼女の、秋の服
今日から彼女は、秋の服の人になったのではないだろうか
僕はいまでもまだ、Tシャツにトランクス一枚だ
涼しさをとおり越して、肌寒さをはっきりと感じる季節
僕は両腕を撫でてみる

日焼けが目に見えて淡くなりつつある
残念だ
どうしよう
というところからはじまる、今日という一日
キチンのなかで僕は
彼女が残していった香りを
ひとりで懐かしんでいる。

『yours』(1991年3月 角川文庫)

片岡さんの描く台所はキチンだ。珈琲を飲む場面は出てこないけれど、珈琲の香りを感じて静かに深呼吸する。

カタオカさんとおれ

篠原恒木

片岡義男さんについて書こう。

カタオカさんは物知りだ。
いろんなことを知っている。

雨の日におれはL.L.Beanのレインブーツを履いていたが、タイルが敷かれた地面を歩くとツルツル滑ることをカタオカさんに訴えたら、こう言った。
「それはそうだよ。そのブーツはハンティングをするのに沼地へ入るときのものだから」
「は?」
「音も立てずに沼地を進むためのブーツさ。獲物に気付かれないようにね。防水性には優れているけど、都会の道路には向いていない」
ううむ、知らなかった。じつにすべらない話ではないか。

「アメーラトマトってあるだろ」
「ありますね。アメーラってイタリア語ですか。トマトだけに」
「アメーラは静岡地方の言葉で『甘いだろ』という意味だよ」
「知らなかった。てっきり外国語だとばかり思っていました。オメーラ、タダじゃおかねぇ、とは日頃よく言いますが」
これは見事にすべった。

先日出版されたカタオカさん著の『僕は珈琲』のなかでも書かれているが、「アメリカン・コーヒー」の由来は、第二次世界大戦でアメリカでの珈琲豆が不足して、節約のため薄い珈琲を淹れたことが始まりらしい。カタオカさんは回想する。
「僕はアメリカン、とよく喫茶店でオーダーしていた人がいたよなぁ」
ううむ、これも薄味ではない、じつに濃い内容の話ではないか。

だが、カタオカさんは物を知らない。
「えっ、そんなことも知らないの?」というケースがよくある。

居酒屋の壁一面に貼られたメニューの短冊をじっと見つめながら、カタオカさんは呟いた。
「いぶりがっこ」
「食べますか、いぶりがっこ」
「いぶりがっこって何?」
「知らないんですか」
「知らない」
「大根を燻った漬物です」
「だからいぶりなのか。がっこって何?」
「学校のことです」
「本当かよ」
「嘘です。秋田地方で漬物のことをがっこと言うのではないか、と思います」
「旨いの?」
「クリーム・チーズをディップにして食べたりすると旨いです」
「ふーん」
カタオカさんはメモ帳とペンを取り出し、大きな文字でゆっくりと「いぶりがっこ」と書いた。それがおれの目にはとても可愛らしく見えた。
ほどなくして「いぶりがっこ」が登場する小説を発表したのだから、作家というヒトは恐ろしい。

「安保という漢字が読めなかったんだ」
「アンポ? あの日米安全保障条約のアンポですか」
「もちろん音としては認識していたよ。周りがみんなアンポ、アンポと言っていたからね。だけど、どう書くかについては知らなかった。立看板に『安保反対』などと書かれていたけれど、ヤスホとは何のことだろうと思っていた」
「そういうのをアンポンタンと言うのです」

『僕は珈琲』のなかでも、これと同じようなことが書かれている。「外為」という言葉についての話だ。クスリと笑うけれど、言われてみれば確かにそうだ、とおれは思ってしまった。安全保障条約を縮めてアンポと呼ぶのはいささか乱暴のような気がしてくる。ましてや「ガイタメ」なんて、考えてみればヒドい略語ではないか。

日本人はこういった略語が大好きだが、カタオカさんにとっては嫌な感じがするらしい。ちなみに「パソコン」「テレビ」「スマホ」「コンビニ」とはどうしても書けないと言う。「PC」「TV」「スマートフォン」と書く。「コンビニ」に至っては「人々がコンビニ、と呼んでいる店」と書いていた。これは略語に対する凄まじい嫌悪、いや、憎悪ではないか。
「ではラジオはどうなんです? レディオとは書かないでしょう」
「ラジオはラジオだね。日本語として」
確かにラジオは略語ではない。カタオカさんは重度の略語アレルギーなのだろう。

カタオカさんは怒らない。
怒ったことを見たことがない。
「なぜ怒らないのですか」
「怒ってもしょうがないだろう。疲れるだけだよ」
「でも怒ってヒトを怒鳴りつけたことも一度や二度はあるでしょう?」
カタオカさんはしばらく考えて、こう言った。
「昔、書いた原稿を編集者が失くしてしまったことがあったなあ。電話がかかってきたんだ」
「編集者はなんと言ったのですか?」
「市ヶ谷の大日本印刷に原稿を届けに向かう途中で、小脇に抱えていた原稿の束を一枚残らず外堀に落としてしまいました、と言ったんだよ」
「ええっ、あの市ヶ谷駅の脇にある川のようなところですよね。つまりはすべての原稿を水没させてしまったと」
「そうなんだよ。きっとバサバサッ、ヒラヒラと紙が舞って外堀に落下したんだろう。まだ原稿用紙に手書きの頃だったな」
「それはいくらなんでも激怒したでしょう。原稿のコピーは?」
「とってないよ」
「ひゃあ、おれだったら怒鳴り散らしますよ。当然怒りましたよね?」
「いやぁ……怒るもなにも、呆れたよね」
カタオカさんは笑いながらそう言った。そのあとの書き直し作業については訊くのが怖かったので、おれはそこで絶句してしまった。

怒らないからといって、ナメてはいけない。
カタオカさんは優しい顔を保ちながら穏やかな声で、本質的なひと言を口にする。そのひと言はかなり怖い。ひと言の内容はここでは書けない。何通りかのパターンがある。鋭い刃物のようなひと言だ。おれはよせばいいのに、
「もうちょっと嚙み砕いて言うと、こういうことですか?」
と尋ねてしまうのだが、ブラック・カタオカは、
「そうなんだよ」
と言って、微笑みを浮かべる。こういうときは怖い。怒らないのに怖いのだ。おれのように声を荒げて罵詈雑言をまくしたてる奴は、臆病なワンコと同じなのだ。弱い犬ほどよく吠える。悪い奴ほどよく眠るのだ。

カタオカさんは裏切る。
裏切り者なのだ。
おれがあらかじめイメージしていたような原稿を書いてくれない。いつも裏切られる。
「もっとこのあたりを詳しく書いてくださいよぉ」
「いやぁ……ここはこれ以上書けないよ」
いくら誘っても、こちらが思っているイメージに近づいてくれないのだ。だからおれはある時からこちら側に誘うのをやめた。カタオカさんのイメージにおれのほうから近づこうと、考え方を変えたのだ。
だから最新刊の『僕は珈琲』でも、事情の許す範囲の限度ギリギリまでカタオカさんの文章と寄り添う写真を入れた。書き下ろしのエッセイ集に写真を散りばめるのは邪道かもしれない。「描写のカタオカ」と呼ばれている作家が丹念に描写している人やモノの写真を文章のすぐそばに挿し込むのは失礼にあたるのかもしれない。だが、あれがおれなりの「近づき方」なのだ。

原稿を読み返すと、おれは思う。
カタオカさんは「何を書くか」ではなくて「何を書かないか」に心を砕いているのではないかと思うのだ。おれが書いてほしいとイメージしていたのは「書かないほうがいい」部分ばかりなのかもしれない。そうなのだ。それを書き足したら、冗長で散漫な文章になってしまうのだ。

冗長で散漫な文章はここで終わる。

日本のおばあちゃんとパレスチナの坊ちゃん

さとうまき

僕は、昨年から80歳を過ぎたおばあちゃんのお世話というアルバイトを始めた。「いろいろ相談に乗る」という仕事だ。おばあちゃんは、敬虔なカトリック信者である立場から、イスラエルとパレスチナ双方にも深い友人がいるそうだ。英語、フランス語、ヘブライ語が話せ、そしてアップルのコンピュータをバリバリ使いこなしているからすごいのである。といっても後期高齢者であることには変わりなく、ところどころ補わなくてはいけないのが僕の仕事である。

僕としては聖書の話とかユダヤ人が何を考えているのかいろいろ教えてもらいたい。イスラエルは近年右傾化が進み、昨年暮れに誕生したネタニヤフ政権は、パレスチナを挑発しまくり2国家共存などはあり得ないような勢いだ。

まず1月3日に極右のベングビール国家安全保障相が神殿の丘を訪問しパレスチナを挑発。神殿の丘の訪問は2000年も第2次インティファーダ―のトリガーとなっており、イスラエル側の戦線布告といっていいだろう。

さらに1月8日には、ひどい行動にでる。国連総会が昨年12月30日に、イスラエルによるパレスチナ占領を巡り国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)に法的見解を示すよう求める決議を採択したことの報復措置として、パレスチナ自治政府の代理で徴収している税金のうち、約1億3900万シェケル(約52億円)の送金を差し止め、パレスチナ人によるテロ攻撃の犠牲者家族への補償に充てることを決めたというのである。

報復って、国連決議案出しただけで報復? 国際社会はこういうイスラエルのわがままで傲慢なやり方にこそ制裁措置を課すべきではないかと思ってしまう。

そして1月9日にはベングビールは、「本日、私はイスラエル警察に対し、テロ組織との同一性を示すパレスチナ解放機構の旗を公共の場で掲げることを禁止し、イスラエル国家に対するあらゆる扇動を止めるよう指示した」と述べてパレスチナを刺激する。

極右政党「ユダヤの力」の党首、ベングビール(46歳)とはいったいなにものだろう。イスラエルからアラブ人を追い出すことを信条にカハ党で若者のリーダーとして活躍していたらしい。カハ党は、ユダヤ系テロリストとつながっており、たびたびテロを起こしていた。のちに、反社会的としてイスラエルに非合法化される。ベングビールは弁護士となり、極右やユダヤ人テロリストの弁護をすることになった。若いユダヤ人からの支持が強いことが厄介である。

パレスチナ人の憎悪をあおっておいて、イスラエル軍は西岸へ治安部隊を展開し、今年になってすでに約30人の死者が出ている。パレスチナ側もシナゴーグを襲撃するなどして暴力が激化しているのだ。

そんな中、老婆が可愛がっているイスラエル国籍を持つアラブ人のおぼっちゃんが急遽来日することになった。本当は昨年の秋に来日することになっていたが、コロナがらみで、せっかく降りたビザも来日のタイミングを逃し、「早く来なさい」と促したら、急遽数日後に来日ということになってしまい、僕もお手伝いに奔走する羽目になってしまったのである。

そもそも何をしに来るのかよくわからなかったのだが、どうせなら現場の生々しい話を語ってもらうという報告会をして、恵まれないパレスチナの子どもたちにカンパを集めようということになった。そんな中、カンパならぬ寒波が急襲し、我が家の水道管が破裂し、修理に痛い出費となってしまった。悲しんでいるまもなく仕事がふえる。

報告会は、まず人集めに苦労する。修道院を借りてオンラインでも配信することにした。直前に申し込み者も増えて、何とか人が集まったものの生配信のトラブルが発生。老人の前で、こういうトラブルでもサクサクと乗り切り、かっこのいいところを見せたかったのだが、うまくいかずに精神的にかなり落ち込んだ。お坊ちゃんは、時間配分を考えずに話すので、時間もかなり長引いてしまった。それでも現場の話は貴重だった。

さて、ぼっちゃんはベツレヘムからお土産をたくさん買ってきた。老人の命令で、日本で売って孤児院に寄付するというのである。お金の清算をしていたらなんと30万円ぶんの雑貨を購入してきたことが判明。中には、こんなのが売れるのかと思うようなものもある。収益を出すためには、これを1.5倍くらいの定価にしても15万円の利益。簡単に売れればいいけど、その準備の手間暇とか考えてまたまた凍り付く。

仙台ネイティブのつぶやき(79)雪の中で食べるもの

西大立目祥子

寒い。もちろん1月下旬から2月にかけての時期が、1年でいちばん寒いとはわかっているのだけれど、1月25日の気温には驚愕した。最高気温がマイナス4.2度で、最低気温がマイナス7.5度とは。たぶん仙台で経験した中で、最も寒い冬の日だ。

母の気配が消えた家に午後遅くに行くと、前の晩洗い残した土鍋に氷が張っていた。しかも、はかなげな薄氷ではなくて、土鍋の縁の部分は3、4ミリくらいもある。流しの上の台拭きもスポンジも、かちかち。さすが、築62年、北向きの台所だけのことはある。温泉地でよく聞かされるように、こういう日に外で濡れた手ぬぐいを振り回したら棒みたいに固まるのかも。体は寒さですっかり縮こまっていたのに、なんだか愉快な心持ちになってきた。

よし!とつくるのは、浅葱(アサツキ)の酢味噌和え。この時期に出回る東北の浅葱は、まだ育っていなくて手のひらに乗るほどの長さしかない。20本くらいが束になって、長く白いひげのような根の部分がギュッと輪ゴムでしばられ袋に入っている。仙台に入ってくるのは福島産が多く、スーパーや八百屋の店先で見つけると迷わず買う。特に売れ残っていたりしたら、福島の農産物を何とかしなくちゃという気持ちになり、2束カゴにいれてしまう。

いつも青菜は買ってくると、根本を数ミリ切り落としてからボールに水を張って入れておくのだけれど、浅葱はきゅうくつそうな輪ゴムをはずして水の中に白い根をのびのびおよがせてやる。ボールをのぞくと、おやここにも氷が張っている。鍋にお湯を沸かしている間に、じっくりと浅葱を観察した。真っ白な根元はふっくらとしていて、その中から濃い緑色の芽が数センチ伸び始めている。それがいかにも、雪の中に埋もれていても、大地の蠢きというのか芽吹きの力というのか、春に向かって地面の中が動き出す予兆のように感じられてくる。寒さはいよいよこれからさらにきびしくなり、雪も本格的に降り積もってくるのだけれど。東北に暮らす人たちは、冬が長いぶん、この辛くてしゃきしゃきした走りの味で春を呼び寄せようとしているのかもしれない。

歯ごたえがなくなるから長くは茹でない。お湯が沸く間にすり鉢に味噌とお酢と砂糖を少々、すりこぎでごりごり。なめらかに整えたところで、水にとった浅葱をきっちり絞って投入。あっという間にできあがり。私にとっては真冬どまん中の春待つ味だ。
ところで、「あさぎいろ」は「浅葱色」と書く。浅葱色といったら、渡りの蝶アサギマダラのようなターコイズブルーでしょう? どうして濃い緑のアサツキと同じ字なんだろう。

そして、この季節、魚屋で探すのは真鱈の卵の「鱈の子」。「食指が動く」とよくいうけれど、食べたいもの、これだ! というものを目にすると自然に手がのびてしまうのだよなあ。コロナ禍の3年の暮らしで、触るのはひかえるようになったけれど。魚屋のケースに鮮度のよさそうな卵を見つけると、手にとってしまう。真鱈の卵は大きくて、ひと房20センチ以上はある。秋の終わり頃から出始め、年が明けると房が大きくなり、中の卵のつぶつぶも心持ち大きくなってくる。いまが食べ頃だ。

合わせるのは糸こんにゃく。アク抜きした糸こんにゃくを炒め、そこに鱈の子を投入する。どろんと大きな房の薄皮をはぎ、中の卵だけを絞り出すように菜箸でしごきながら鍋に入れるのがちょっと難しい。薄皮は軽くあぶって細かく切り猫たちにやると、よろこんで食べる。糸こんにゃくといっしょに軽く炒めたら出汁を投入して煮込み、お酒と醤油で味付けして、焦げないように注意しながら炒って水分を飛ばしていく。できあがったら、大きめの器にごはんをよそい、上に分厚く盛り、海苔を手もみしてぱらぱらとふりかけ、テーブルへ。「鱈の子どんぶり」はひと冬の間に3回、いや4回はつくる定番食だ。

冬をとおして、落花生もよく食べる。あのかさかさした手ざわりと形と色と網目模様と。落花生はかわいさにあふれている、とひそかに思っているけど、女子で落花生が好物と公言する人にあまり会ったことがない。注意して食べないと殻と赤い薄皮の破片がセーターについたり、テーブルにちらばったりするので、きれい好きの人は嫌がるかもしれない。私も家人にぶつぶついわれながら食べ続けている。

落花生好きは父譲りだ。父には食べ方の流儀?があってフタ付きの空き缶に一袋をザーッと全部あけてしまい、食べた殻も薄皮も入れたまま。まだ入っている殻を探り当てながら食べるのが楽しみのようだった。一度、殻捨てればいいのに、といったことがある。すぐに反論された。これが楽しいんだ、と。ソファに寝転がり、テーブルの空き缶に右手を突っ込んで実の入った落花生をまさぐりつつミステリーを読むのが、彼の夜の至福の時間なのであった。

年齢を重ねていくと食べものもいろんな記憶に縁取られていくんだなぁ、というのが最近の実感。鱈の子どんぶりをつくるときは、いつも母にいいつけられ鍋底が焦げないようにしゃもじでかき回していた、分厚く小さめの使い込んで少しいびつになっていた片手鍋を思い出す。ストーブの上やガスコンロでやった冬の手伝い。ふりかける海苔はあのころは、必ずコンロであぶってから使っていた。いまみたいにジップロックなんてないから、湿気ってしまっていたのか。父のこだわりは手もみであること。高校生のころだったか、私は針のように切った海苔が美しいと思っていてハサミで切っていたら、海苔は手もみ、手でちぎる方がうまい、と却下されたことがある。

母に、お父さんは浅葱の酢味噌和えが好きだったと聞かされたのは、亡くなったあと。肉食、揚げ物好きだったから驚いた。独身時代、福島県の奥只見で仕事をしていたときにお世話になった農家のおばさんが、そのうまさを教えてくれたようだ。雪の中から浅葱を掘り出してつくってくれたのかもしれない。茅葺きの農家の囲炉裏端に持ち出された大きな擂り鉢に味噌を落とし、使い込んだすりこぎをごろごろまわすおばさん。にいちゃんもやってみっかい? そんな声がかかったかもしれない。

忘れぬ時間

笠井瑞丈

母が急に歩けなくなったのが去年の4月
そこからリハビリをつみ重ね
自力歩行ができるまで回復し

8月はここ最近恒例となった
僕が企画構成演出している
セッションハウスで行う
笠井家総出公演にも出演できた

9月は鎌鼬芸術祭参加のため
羽田空港から飛行機に乗って
秋田まで行くこともできた

11月は天使館主催
吉祥寺シアターで行われた
『DUOの會』『カルミナブラーナー』
二作品の作品上演のため
二週間毎日吉祥寺に
通うこともできた

12月は今まで滅多にしてなかった
年末に笠井家旅行を企画した
二泊三日の箱根の旅
ホテルではなく
貸別荘を借り
笠井家7人の旅ができた

僕の車とレンタカー1台借り
箱根に向かう
行きは山の方から行き
帰りは海の方から帰る
まず中央道で山中湖を目指す

着いた夜は酒盛りし
翌日芦ノ湖を通り温泉へ
夜は予約しておいてバーベキュー
こんな事するのは初めてだ
次の日は帰る日だ

たまたま見つけた
熱海の海の崖の上にあるレストラン

窓の向こうにあるホテルを眺め
叡さんが「久子来年もまた来よう」と


ただただ
そんな時間が過ぎ
とても貴重な時間だ

この旅は
今年の大きな
思い出になった


また行こう

ベルヴィル日記(15)

福島亮

 12月末から1月初めにかけて、なんだかやけに慌ただしい日々をすごした。その反動なのか、後半は無為にすごしてしまったように思う。1月の初め頃は寒いといっても空気にかすかな温もりがあり、風もひどくなく、今年の冬はやけに暖かいと甘くみていたのだが、後半から寒さが厳しくなり、外を歩いていると頬が切れるように痛む。居間の窓には一日中結露ができ、それがゆっくりと下までつたって、木製の窓枠をふやかすから、窓を開くのも一苦労だ。部屋の中で洗濯物を干していると、空気が湿り、さらに部屋の温度が下がるような気がする。そうこうしているうちに風邪を引き、楽しみにしていた旧正月も、閉め切った窓の外から聞こえてくる音楽を聞きながら、獅子舞を想像するだけだった。

 家から20メートルほどのところにディナポリというチュニジア料理屋がある。ムラウィ(Mlawi)という薄いパンで作ったサンドイッチが名物で、常に行列ができている。薄焼き卵、クリームチーズ、アリッサ(ニンニクとトウガラシのペースト)、玉ねぎ、オリーブを乗せ、くるくると巻いたものがこのサンドイッチだ。つい先日、なんだか疲れていたので夕食はムラウィを買って済ますことにした。注文して、出来上がるのを待っていると、なんだか良い匂いが漂ってくる。横を見ると、細かく砕いたパンが入ったどんぶりのようなものを持った若者たちがいて、そこに店員がスープのようなものを注ぎ、さまざまなトッピングをのせていた。見たことのない料理なので、どんぶりを持っている一人にそれが何かを尋ねると、チュニジアの大衆料理で、ラブラビ(Lablabiあるいはラブレビlablebi)というものだと教えてくれた。

 数日後、満を持して食堂に入り、ラブラビを、と店員に伝えてみた。ちょっと驚いた顔をして、「知っているのか」と言ってから、半分に切ったバゲットをどんぶりに入れて渡してくる。チュニジアのバゲットは、フランスのバゲットと違い、きめが細かく、スポンジのような感じで、いかにもスープをよく吸いそうである。見よう見まねで渡されたパンを細かく千切り、それをボールに入れて改めて店員に渡すと、ひよこ豆を煮たスープ、アリッサ、ツナ、半熟卵、オリーブなどをトッピングし、スプーンを二本添えて返してくれる。壁際の立ち食い席で、どんぶりをかき混ぜ、それを食べていると、何だかここがパリでないような気がしてきた。横では分厚いジャンパーを着た中年女性がやはりラブラビを黙って食べている。その様子をうかがいながら、なんとなく、日本の牛丼屋を思い出していた。はて、ここはどこだろうか。

製本かい摘みましては(180)

四釜裕子

年末に若き日のヤミの日記帳や手帳をまとめて捨てた。昨夏父を見送って、その父にお願いすれば、日記に書かれたヤミのことごとが私に捨てられても寂しくはなかろうと思えたからだ。「お父さん、ヨロシク」とか言い添えて、読み返すこともなくいろんなノートをあっさり捨てた。これはいけるぞと思って、それまで実家から持ち越していたわずかなものも捨ててみた。大丈夫だった。自分も寂しくならなかった。年が明け、現役の日記帳も新しくした。コロナ以降は手帳と日記帳を年1冊にまとめている。ところがなんと早々にひと月ずれたところに書いていた。1月4日は水曜日、なのになぜか青いのだ。青は土曜、土曜の4日は2月の4日、そこで初めて気がついた。間違いに気づくのに4日もかかった。おめでたく、2023年がスタートした。

1月末の夕刊に「消えゆく県民手帳」という記事。高崎のコンビニでレジ前に積まれたぐんまちゃんが表紙の手帳を見つけ、店員さんに群馬県民手帳ですよと教えてもらったばかりだった。県民手帳の多くは統計を担当する部署が編集・発行している。2023年版を刊行したのは39県、平均して670円だそうだ。部数でいうと、例えば滋賀ではピーク時の2万5千部が2021年に7600部となり、2023年版が最後の刊行となるそうだ。ピーク時の3分の1に減ったとか1万部を割ったとか、そのあたりが存続を判断するラインの1つになるのだろうか。手帳はISBNがついて書店にも並ぶ書籍の扱いということをあえて考えると、全体的に減っているとはいえ、1950年代あたりから毎年40前後の版元の1つ1つが少なくとも1万部以上売り続けているのはすごいなと思うし、何よりも県民手帳が消えゆく理由を、紙手帳離れとか材料費や印刷代の高騰だけに収束して記事にしているのは甘すぎる。

ちくま文庫の『文庫手帳』は2023年版も健在。いつからあったのかなと筑摩書房のサイトを見ると1988年版が最初のようだ。今ざっと検索しても過去のものを扱っている古書店が結構ある。そこで売っているのは書き込みのないものだろうけど、あえて使用済みの『文庫手帳』を集めている人はきっといるに違いない。背の「文庫手帳 ○○○○年」の下に自分の名前を書いて、年々増えるのを楽しみにしている人もいるだろう。いとうせいこうさんのパーソナライズ小説『親愛なる』(2014  いとう出版)の場合は、『親愛なる 四釜裕子様』というふうに本の背にも注文者の名前が印刷されて届いたものだ。小説自体にも注文者の名前がさまざまに登場して、さらに注文者の自宅界隈が舞台の一つとなっている。申し込んだ時の住所から最寄り駅などを判断して挿入するしくみだろうけれども、同姓同名の人物がたまたま小説に出てきても驚きこそすれ不思議というほどではないかもしれないが、加えて自宅の近所が出てくると俄然恐怖が増す。今、久しぶりに読んでもぞくっとした。

『本だったノート』(2022  バリューブックス・パブリッシング)という、読むところはないが文庫本サイズのりっぱな本がある。バリューブックスはオンラインでの古本買取販売をメインとして本にまつわるさまざまな試みをしているが、毎日届く2万冊の古本のうち半分は古紙に回さざるをえない現状に、古紙回収が悪いことではないけれど別のかたちで価値を生みたいとアイデアを重ね、ノベルティ用に作ったら好評だったので、翌2022年、クラウドファンディングで資金を募り製品化したそうだ。本文紙は牛乳パックの再生パルプを3割加えたザラ紙で、ところどころに文字のかけらが混じっている。手元のものには小さな「日」とか「は」とか「る」が見える。インクは捨てられる予定だった「廃インク」を利用、表紙カバーのデザインには自然なグラデーションを採用し、それは、濃度調整をすることで無駄になってしまう用紙が極力出ないようにするためらしい。私のは淡い黄色のきれいなグラデ。シルバーの帯が付き、表紙カバーの袖にはQRコード。ここから「本だったノート」のストーリーを読むこともできる。880円。本文紙には何も印刷されていないけれど、読後感が確実に得られる本だ。

古書をそのまま本文紙にした『100 BOOKS 1907-2006』(2006 ひつじ工房)という本もある。古書店ユトレヒトの代表だった江口宏志さんが、1907年から2006年までに出版された本の中から、1年1冊、1ページづつ切り取って、新しいものから順番に綴じて100部限定で刊行したものだ。その23番を、表参道のギャラリー同潤会で開かれたAAC展で購入したのだった。『100 BOOKS 1907-2006』の判型より元の本が大きければ裁ち落としだが、小さいサイズの本も結構あるから背固めはさぞや慎重になされたことだろう。選ばれた本たちは和書・洋書、ジャンルもいろいろ、紙質もいろいろ。中には書き込まれたページもある。1910年の『尋常小学読本』にはきれいな鉛筆文字で、「拝借」の「借」に「シャク」などルビが振ってある。1974年の『考えるヒント2』(小林秀雄 文藝春秋)には、「世の中には、時をかけて、みんなと一緒に、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちている」の横に太い緑色の線が引いてある。1987年の『夢をみた ジョナサン・ボロフスキーの夢日記』(イッシ・プレス)は図版の一部だが、説明が裁ち落とされているのでそれが何かわからない。気になってうちの棚の『夢をみた』で探したところ、「夢」と「カウンティング」によるインスタレーション(1979  ボロフスキー)の一部とわかった。でもこの本はノンブルがないので、ここにそのページを記すことができない。製本後の検品は結構大変だったんじゃないだろうか。

墓に入る。訃報はくる。

仲宗根浩

なんだろう、去年十一月から近所で不幸ばかりが一月も続いている。去年最後はうちの兄だったが。クリスマスも吹っ飛びお通夜、納棺とあわただしい。葬儀の後に納骨のため墓に入ることになった。墓の中の広さは二畳以上三畳未満くらい。葬儀屋さん、お坊さんの指示にしたがい今まで墓の門番をしていた父親の甕を一段上にあげるため祖父、曾祖父の甕をすこし移動し、空いた場所に父親の甕を置く。父親の甕があったところに、火葬された骨が入った甕を受け取り置く。収骨から数時間経った甕はまだ暖かかった。父親の納骨のときと違い葬儀屋さんの指示でだいぶ今時というか負担にならないようになっている。

おめでとうはない正月を迎え、集まってご馳走を仏壇に供えた後、皆で食べる。三が日を過ぎると訓練が始まり戦闘機の音が大きくなる。老朽化のためF15は引退し新しい戦闘機に置き換わり一段と音が大きくなり回数も増えている。

昔、一緒に仕事した人とわずかにLineでつながっている。平井さんの命日だ、と書き込むと当時部下だった近藤さんから平井さん宅にお花を送り、奥様から電話があり昔話をしたと返信。そんなやり取りをしていてしばらくすると田川律さんの訃報が届く。沢井先生のとこで内弟子をしていた丸ちゃんからFacebookにアップされて知ったと。去年平井さんが亡くなってメール、携帯電話のショートメールを送ったけど返信が一切無かった。もうかなりやり取りしてなかったから仕方ないか、とおもっていた。最後に会ったのは東京で悠治さんが音楽を担当した映画の上映会だったから十五、六年前、もっと前か。昨年、平井さんが亡くなった時と重複するが、コレクタという事務所に出入りするようになった。その前後かどうかはっきり記憶にないが舞台監督田川律という人がいた。田川律という名前は知っていた。兄が買って来い、という雑誌が「ヤング・ギター」と「新譜ジャーナル」だった。その当時のフォーク、ロックの楽譜や記事が載っていて、パシリとなった小学生はそんな雑誌も読んでるうちに田川律という名前も覚えた。名前を覚えていたがどのようなことを書いていたかは記憶にない。平井さんのおかげでいつの間にか舞台監督をやらされたため、田川さんの下でいっしょにコレクタが制作に関わる演奏会に携わるようになる。インターリンクフェスティバル、北九州の響ホールの杮落としから翌年の音楽祭、草月ホールでの師匠沢井一恵のリサイタル、悠治さんのコンサートシリーズ、クセナキス近作展等々。そうこうしていると、スケジュール他の都合で田川さんに頼めないものはこちらに依頼が来るようになる。そういう時も田川さんに舞台で必要なものがあると色々なとこに話をつけてくれて都合してくれた。ファッションデザイナーのイベントで時間がかなりあったので田川さんと演奏者が卓を囲みに行ってしまいヘアメイクの時間になっても戻って来ない、今配牌をして積もっている最中ですとも言えずなんとかごまかしたこともあり、と。色々な肩書はあるがわたしが知っているのは舞台監督田川律、それだけ。平井さんが出張の時にコレクタの事務所で仲間内集まりお好み焼き会をやった時もあったか。
あとは七日づつ数えて七七日までゆっくりと自分の中でお別れする。

むもーままめ(26)綿100%バンザイの巻

工藤あかね

すこし前に日本列島が寒波に襲われましたよね。連日これでもかってくらいに寒くて、参ってしまいました。あまりに寒いので、日本を離れると気温が下がるというジンクスがある松岡修造さんがどこにいるのか調べてしまいました。なんと日本が寒波の時に松岡さんはソチにいらしたそうで、ソチは春の陽気だったそう。さすが太陽神とあだ名されるだけあります。

冗談はさておき、この寒さを乗り越えようと、自宅にいるときはモコモコの服を重ね着して暮らしておりました。寝る時までヒートテックの上からフリースを着て、それはそれは温かく過ごしておりましたとさ。ところがっっっっ!!!! 連日、ヒートテック&全身フリースのコンボを決めていましたら寝汗がひどく背中に溜まり、よく眠れなくなりました。最初は眠れない理由がそれだとは気づかなかったのですが、しばらくしたら今度は全身に謎の湿疹が!!!

保湿クリームが合わなかったのだろうか、日帰り温泉の泉質が肌に合わなかったのだろうか、サウナ&塩がダメだったのだろうか、自宅の長風呂が原因だったのだろうか、最近野菜不足だったかな、などと、ぐるぐるぐるぐる考えていましたが、痒みは一向におさまらず。かといって皮膚科に行く時間も取れそうになく悩んでおりました。

ネットで画像検索し、私の症状に近い湿疹を探したら、あったんですよ、そっくりな症状の画像が。「ヒートテック湿疹」と書いてありました。初めて聞く言葉だなとは思ったのですが、どうやらヒートテックの化学繊維が汗を吸収せず肌表面の熱と湿度を奪って乾燥させてしまうために起こる湿疹のようなのです。

最初湿疹が出た日に、もしかして寝具にダニでもいるのかも?と思い、オットにどこか刺されたかを尋ねるも彼は無傷。ダニが私ばかりを狙うと言うのもおかしいなとは思ったけれど、ダニも退治できると言う布団乾燥機を即座に購入して使用。結果お布団がふかふかでいい気分にはなったけれど、どうもそれが湿疹の原因ではなさそう。

やはりこれは、「ヒートテック湿疹」を疑うべきかも、と思い立ったが吉日、すぐに対策を考えました。化繊を肌に触れさせないことが肝要とのことで、シルクのパジャマを買う口実ができた。まずネットで調べたがやたらお手頃価格のシルクのパジャマはどうも信用ならない。これは大丈夫そうと言うお店の商品を見たら、今度はとても気楽に日常使いできるような価格ではない。しかも毎日手洗いして陰干して、最低でも2着を揃えるなんて…私には…できない…うっうっうっ(涙)。

というわけで、綿100%のパジャマを購入。購入に際しては、複数の友人がとても有益な情報をくれたので、とても助かりました。で、寝てみたんですよ、綿100%のパジャマで。それが、ほんとうにすごいんですよ。もちろんフリースのようにモコモコほわほわではないのですが、布団に入ってしばらくするとその効果の凄さがわかりました。汗をちゃんと吸ってくれる。汗をかいてもひんやりしない。何より体が乾燥しにくく、かゆくならない。よく眠れる。翌朝、湿疹の様子をみたら明らかに改善しているではありませんか。調子に乗って、昼間出かける時も綿100%を着ることにしました。ヒートテックと違って重ね着すると太って見えるのが難点ですが、この際肌を治すのが先決ですわ。

そうしたらですね、なんと昼の綿100%着用1日でなぜか肩こりが消えました。わたしは冬になるとやたら帯電する体質で、ドアをさわると音が出ることもあるほどだったのですが、静電気もだいぶ弱くなったような気がしました。全身綿100%とはいかないけれど、少なくとも肌着を変えてみて劇的な効果を感じたので、これからしばらく試してみたいと思います。

堺公演でのスリンピ完全版上演によせて

冨岡三智

2021年度に引き続き2022年度(2023年3月)も堺市で公演をすることになり、いま追い込み中である。また、3月の公演にタイミングを合わせて2021年公演の公演映像をyoutubeで無料公開した。というわけで、今回はその両者の宣伝も兼ねての記事。

 ***

どちらの公演も、第2部の演目はスリンピの完全版1曲のみ。これで大体50分である。前回は「スリンピ・ロボン」、今回は「スリンピ・スカルセ」を上演する。私は実はスラカルタ宮廷舞踊全曲(ブドヨ2曲、スリンピ10曲)を完全版で上演したいという野望を密かに持っている。この3月の公演で、ブドヨ1曲、スリンピ5曲…やっと半分だ。もっとも、スカルセは2011年にジャカルタのGelar社が記録映像を製作した時に私が指導して踊っているし、2012年には豪華客船「ぱしふぃっく・びいなす」号の船上で上演したから、実は3月で3回目。しかし、前の2回は録音を使用したので、生演奏で上演するのは今度が初めてになる。

スラカルタでは1970年に宮廷舞踊が一般に解禁されて以来、短縮版が作られてきた。宮廷舞踊はだいたい約1時間かかるので、それを1/4(約15分)か1/2(約30分)に短縮する。けれど、短縮するとどうしても辻褄が合いにくいところが出てくる。また、他人の手になる短縮版だと、その手法に賛同できない場合がある。というわけで、振付として納得できる完全版をきちんと上演したいと思うのだ。また、1時間かけて踊ることによって得られる没入の感覚というか三昧の境地は15分や30分の上演からは得られるものではない。ほとんど完全版で上演する人がいないからこそ、私は完全版で上演し続けたいなと思っている。

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3月に上演する「スリンピ・スカルセ」は私がジョコ女史から初めて習った完全版の宮廷舞踊曲で、思い入れが深い。ペロッグ音階ヌム調の音楽は瞑想的で、これを聞くと一気に雨季の夕方にレッスンをしていた頃の自分を思い出す。この曲にはレイエという動きが多い。レイエは辞書によると「(建物が)崩壊する」という意味で、倒壊していくように上体を折り、再び反対側に揺れ戻るような動きだ。大きな波のような動きにも見える。この曲には多く、またレイエではないが似たような動きも多いから、集中していないと動きが分からなくなることがある。私がスリンピに使われる動きで一番好きなのがこのレイエで、こんな動きを昔の宮廷人はなぜ思いついたのだろうか…と不思議に感じる。

「スカルセ」特有の部分はシルップにある。シルップは2人ずつ組になって戦う場面の後、負けた方が座る場面のこと。火山が鎮火している状態をシルップと言うように、音楽の音量も静かになる。このシルップの場面で、勝った方が衛星のように回転しながら負けた方の周囲を巡るのが美しい。ジョコ女史は自身が振り付けた「クスモ・アジ」という舞踊の中で、コモジョヨとコモラティという男女の神が廻るシーンでこの動きを使っていたし、スリスティヨ・ティルトクスモ氏の作品「キロノ・ラティ」でも、シルップのシーンで使われている。また、スラカルタ王家のムルティア王女が、父王パク・ブウォノXII世の80歳の記念式典のために振り付け、9人の王女で上演したブドヨ作品にも取り入れられている。実は、古典曲の中で魅力的な動きほど新作で使われることが多く、「スカルセ」のシルップ場面はそれくらい魅力的なので、実際に見ていただけたらなあ…と思っている。というわけで、堺までどうぞご来場ください!

●2023年3月11日、フェニーチェ堺・小ホール
『幻視 in 堺ー南海からの贈り物ー』公演
第1幕:
 音楽「夜霧の私」(山崎晃男作曲): 静かな音がジャワへといざなう…
 音楽「ババル・ラヤル」: 青銅打楽器の音色が力強く響く宮廷儀礼の曲
 音楽「ガドゥン・ムラティ」: 柔らかい音色の楽器と歌から成る霊力のある曲
 ※ スラカルタ王家の儀礼映像(Dr.IGP Wiranegara,M.Sn)の上映と共に
第2幕:
 宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版

詳細➡ http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-1095.html 

 ***

●2021年10月23日、堺能楽会館 
『幻視 in 堺 ―能舞台に舞うジャワの夢―』公演

映像記録➡ https://www.youtube.com/watch?v=1Q4kTQbxwVE

図書館詩集4(三つの川が流れる土地に)

管啓次郎

三つの川が流れる土地に
天使が住む町がある
ペルナンブコ州でそう聞かされて育った
Anjoとはポルトガル語で天使
神と人をむすぶ御つかい
だが特にユダヤ=キリスト教を信じる者ではないので
どうもぴんとこなかった
空がまるごと神だと考えるなら
少しわかりやすくなる
空が大きな目としてきみを見ている
きみをすみずみまで見ている
地は人間世界
天と地をむすぶのは鳥だ
鳥は一羽でも百羽でも
どんな種類でも
そのまま天使なのだと考えればどうだろう
鳥の身振りを真似たわけでもないが
やがてぼく自身
空をくぐりぬけて
この土地にやってきた
三河安城
Chegou aquí na terra dos anjos!
快晴だ
青空にときどき閃光が見える
その名残がいつまでも心にとどまる
たくさんの羽が舞い
たくさんの目が刺す
あれが天使?
だがそれらをいざ目撃しても
光としてしか感知されないのだ
人間の感覚は一定のスケールにあるので
ある閾を超えるとすべては光
鳥たちはどう見ているのかな
この世の光をどう思っているのか
鳥と人には共通の信仰がありうるのか
少なくとも季節をわれわれは共有する
鳥たちの大きな秘密はかれらが
多にして一
一にして多であることだと
むかし鳥の言葉を研究していた
言語学者が話していた
鳥にはどうも群れであること
少なくとも複数であることに
本質的な意味があるように思える
ダンテの『神曲』で空(天国)にゆくと
多くの霊が集まってまるで
一羽の大きな鷲のように見えた
というところがあった
それはぼくには啓示だった
われわれは自分がそう感じたものを
ひとつのおなじものとして受けとめる
たとえばからすに出会いつづけるとき
それらからすのすべてをおなじからすとして
見ているのではないか
考えているのではないか
「おなじもの」との出会いが反復されるのだ
鳩だって
カルガモだって
翡翠だって
おなじことだ
見分けることのできない個体を超えて
その種をおなじ一羽の鳥として
受けとめている
このことに気づいたとき
どうにもさびしい気持ちになった
それは説明しても仕方がないことだ
種と個体はそのような関係にある
ある年のある季節の可憐な小鳥が
翌年また帰ってきたと思っても
その確証がもてなくなった
でもね、ジョウビタキのジョビちゃんが
その体長わずか15センチの体で
バイカル湖あたりから房総半島まで
冬ごとに飛んで来ては
彼が弾くチェロに留まるのを
みごとにフィルムにおさめた美術家がいる
それは心霊写真のように稀で
科学映画のように具体的だ
ジョビちゃんは島にやってきた
ぼくも島にやってきた
空をくぐり抜けて
わたった
われわれは誰もが
命という島にやってくるのかもしれない
こうして椅子にすわって
明るい窓に身をさらしていると
いやでもこの命への滞在時間を考えるようになる
ジョビちゃんがシベリアに帰ってゆくように
時がくれば
ぼくもまたどこかへ帰っていくのだろう
ただそのどこをどことも知らないだけ
そんなことを考えていると
頭がぼうっと痺れたようになる
ところでソクラテスのあの異様な病を知っていますか
あの話はおもしろかったな
「アリストデモスを連れて来たソクラテスは
たいへん遅れて到着します。途中で彼は、発作
とも呼べる状態に陥ったからです。ソクラテスの発作は、
街角でぴたりと立ち止まり、そのまま一本の足で
立ち尽くしているというものでした。この夜彼は、
何の用もない隣家で立ち止まってしまいました。
彼は玄関の傘立てとコート掛けの間に突っ立ってしまい、
もはや彼を目覚めさせる術はなかったのです」
(ジャック・ラカン『転移』小出・鈴木・菅原訳、岩波書店より)
誰にもFreeze!と声をかけられたわけでもないのに
凍てついたように動作を止め
思考の発作に潜ってゆく
自分の脳内へ
さすがにギリシャは鷹揚だ、それで
許されるのであれば
だがぼくにもそんな発作はしばしば起きるのだ
とりわけ図書館と牛小屋では
書物の森に迷いつつ
何かが呼びかけてくるともう動けない
片足を上げたまま歩けなくなる
そこでただ
考えているか読んでいる
そもそもずっと混迷している
心はもうそこにはない
猟犬なら片足をあげて
薮の中にいる雉子に注意を集中するところだが
ぼくの注意はむしろ拡散し
図書館の空間そのものまで拡がっている
発作だ
魂は鳥のように飛んでいる
錯視もはじまる
錯視とは客観的なもので
ひとりにそう見えて他の者にはそう見えないのでは意味がない
それは宮沢賢治が自問したことでもあった
ぼくがいう錯視はたとえばブルトンが『ナジャ』で
アラゴンから聞いた話として語っているようなもので
パリの街角にある
MAISON ROUGE (赤い家)という看板の文字が
ある角度から見るとMAISONが消え
POLICE(警察)に見えるというようなこと
このような錯視が共有されたとき
暴動が起きることがある
錯視のほうに
真実が宿ることもある
「きみにはわからないよ
彼女は心臓なき花の
心臓のようなんだ」とは
誰のせりふだったか
しかしもっとも悲痛なのはナジャ自身の
ひとりごとをめぐる言い訳だった
「だからね、私はひとりでいるときは
こうしてひとりごとをいうのよ
あらゆる物語を
自分にむかって語る
むなしい作り話ばかりじゃない
私は全面的にこんなふうにして
生きているともいえる」
そして至高のひとこと
「火と水がおなじものだということは本当」
そのように世界が見えたらどうしよう
そのように錯視が共有されたらどうしよう
そのように人々がふるまいだしたらどうしよう
いや、じつはそれが真実なのに
まだわれわれが気づいていないだけではないのか
地表にいてわれわれが
紫色の光の中を泳ぐいるかの群れだとしたら
都市の地下街は水のみちた川で
ヌートリアが巣をつくり
地上にはシギその他の鳥が住んでいるとしたら
陽気な話だ
そんな都会なら住んでみたい
と思ったとき足の縛りが解けて
また歩けるようになったので
歩いた
もっとも自然なtransition
目が覚めて心が覚めて
いろいろなことを考えられるようになった
目下の関心は山の暮らし
前世紀に奥三河の花祭りを見に行ったことがあったが
夜中にどうしても起きていられなくて
眠ったら最後めざめると
すべてが終わった朝だった
“Manhnã, tão bonita, manhã” という
カルナヴァルのあとのやさしい歌声が聞こえた
それもいい眠りは大切だ
起きているときだけこの世に参加して
眠りの国ではカワウソやカワセミと遊ぶ
そんな生活の自由を
取り戻してゆきたいと思う
強いられた眠りではなく
選んだ眠り
強いられた生活ではなく
選んだ生活
「図書館で本を選ぶこと」
がそのまま提喩になるように
ナジャ、そのためにぼくは戦って
きみのひとりごとを
誰にもじゃまさせない
錯視の革命

アンフォーレ安城市図書情報館、2022年12月28日、快晴

水牛的読書日記 2023年1月

アサノタカオ

1月某日 深夜、宮内勝典さんの『ぼくは始祖鳥になりたい』(上下、集英社)をひもとく。年末年始の静かな時間のなかで、この小説の一字一句を心身に刻みこむようにして読むことで、自分が自分であるための輪郭線のようなものが浮き彫りにされるのを確かめるのだ。今月、文化人類学者の今福龍太先生の解説を付して集英社文庫で再刊されるらしい。うれしいニュース。

1月某日 昨年から積み残した仕事やら何やらが膨大にあり、正月気分を味わうことはない。仕事関係の本の山に囲まれながら、粛々と原稿を読み、校正刷を読む。1月22日の旧正月まで「新年」を延期することにしようか。困ったことだ。

1月某日 終日、オープンしたばかりの神奈川県立図書館の新棟にこもり、仕事のための資料調査。

昨年から、編集者で在野の朝鮮民衆文化史研究者でもあった久保覚(1937-98年)の著作を探して読んでいる。『収集の弁証法』『未完の可能性』(久保覚遺稿集・追悼集刊行委員会)、共著の『仮面劇とマダン劇』(梁民基と、晶文社)や『旅芸人の世界』(朝日文庫)。昨年読んだ『古書発見 女たちの本を追って』(青木書店)の読書をきかっけに興味をもちはじめたのだが、久保が晩年、企画と編集に協力した本『こどもに贈る本』(第1・2集、みすず書房)や『女たちの言葉』(青木書店)もとてもよい本だった。同時代に交流のあった編集者の松本昌次、詩人の高良留美子、津野海太郎さんや四方田犬彦さんの著作にも目を通し、久保をめぐる証言を拾い読みする。

1月某日 関西からやって来たライターの枡郷春美さんと江ノ島を散策。すこし風があるけれど、晴れていて気持ちがいい。海の向こうに、冬の富士山。みんなで江島神社でお参りをしてお団子を食べておしゃべりをしたあと、『イルカと錨』5号をいただいた。枡郷さんが、アメリカへ移民した曾祖父について書いた「移民日記 時のこえ」が掲載されている。

1月某日 今月からホメロス『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読む会に参加。古代ギリシャの戦場で神々や人間が延々と争うのだが、かれらが争わなければならない根本的な理由は判然としない。正体不明ながらも圧倒的な力によって人間は次から次へと斃されていくのだが、死の描写が異常なまでに生々しい。この残酷なリアリズムが強烈な印象を残す。

1月某日 大学で学期最後の授業。学生たちがチームで制作したZineを受け取る。テーマはアニメ、スイーツ、小説、音楽、ごはん。5つのチームがそれぞれ企画や編集、エディトリアル・デザインの解説をする発表を聞いて講評し、授業は終了。かれらは座学の時間はだるそうにしていても、実習にはわりと熱心に取り組む。デザインやゲームに関心のあるという学生と少し話して、大学図書館で仕事用の資料調査をして帰宅。

1月某日 東京・西荻窪の忘日舎で店主の伊藤幸太さんとともに自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」の番外編を開催。テーマは「2022年の詩とことばを振り返って」。『現代詩手帖』2022年12月号「アンケート 今年度の収穫」で取り上げた5冊の本を紹介(5冊の本のタイトルは先月の日記に記した)。それに加えて、「アンケート」で取り上げることのできなかった文月悠光さんの詩集『パラレルワールドのようなもの』(思潮社)、あする恵子さん『月よわたしを唄わせて』(インパクト出版会)も。今回もまた、参加者のみなさんと本についてゆっくり語り合うよい時間だった。

1月某日 「旧正月」を迎える。ところが「新年快楽」とはいかず仕事やら何やらは依然として積み残されたまま。仕事のために読まなければならない本の山もどんどん高くなっていって途方に暮れる。読むことは、山上に岩を運んで転がり落ちる岩を山上にふたたび運ぶシジフォスの労働みたいなものだ。

1月某日 夜、韓国の作家ぺ・スアの小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)を読み始める。タイトルもすばらしいし、喪失の気配の中で書物が言葉以前の何かを喚起する様子を描く冒頭のシーンもすばらしい。「ああ、これは好きな小説だ」と出会いの感動をひとり嚙み締めながら、物語に引き込まれていく。

218 石の索引

藤井貞和

漂う
石のイコン 暗黒の
投石機
石で
狙うあなた 賢者の
石が川を遡る あなたの中に尽きることなく
石が生じるのを
ぼくは聞く ルーネ文字が刻まれた
石 その
石は 捕獲するものや捕獲されるものたちの
皮を赤くなるまで剥ぐ
舗石の 数知れない影の中
原石にあらがって
段石――レンブラント
岩石の
机の上で 見る力を持った
石 甲虫たちの背後への
落石 ぼくの苦痛の

(パウル・ツェラン『雪の区域(パート)』〈飯吉光夫訳〉を利用しています。というか、そのままです。ごめんなさい。)

二度と見つからない

高橋悠治

時は移る。忘れていくことも多い。ピアノを弾く職業から休みを取って、作曲でもしようと思っていたのに、何もできないうちに、休みの終わりが見えてきた。カフカの日記のどこかで見た二つの動詞、einfallen と nachziehen、思いがけず出会うことと引きなおすこと、と日本語にしてみるだけで、もう元とは違う色合いを帯びてくるので、元の箇所を見直そうと思ったが、見つからない。日本語で「あしらい」と「みはからい」という二つのことばも同じように、どこかから取り出して使ってみるが、これらも結局はピアノを弾く手の動きを言っていることに気づいてしまう。17世紀フランスの鍵盤楽器の前弾きと崩しのやり方を指した non mesuré (拍がない)と brisé (崩し)に似た手の動きを言っている、としても、これらのことばが前提にしている拍や和声という全体がない状態で、ことばだけ転用できるのだろうか?

ことばも使っていないと、だんだん忘れてゆく。すると、ことばの端の方から別な動きが始まって、意味を崩していく。それを「もどき」と呼べば、「もどき芸」の色がついてしまうから、そうはしないで、待っていると、ことばや意味の前に、外れた動きが生まれ、その次の動きを思いつくと、それが定着する、というような経過を辿って、ゆっくり進んでいくが、それでも全体が予定調和に収まっていくのに気づく時が来る。

踏み出した一歩が空を切ることが時々ないと、安定したリズムが主役になる。と書き進めて、ふたたび気づく。こうして書いていると、現実から離れていくばかり。

ことばに逸れることなく、手の動きの前に、身体、不安定な状態、細かく揺れ、震えたあげくに、一歩踏み出し、その一歩から、次の一歩に、転ばないようにするには、止まってはいられない、そんな状態が、ひとりでに続く設定をしておくのには、どうするのか、それが今の課題。

2023年1月1日(日)

水牛だより

あけましておめでとうございます。
2023年がどのような年になるのか、あまりよいきざしは見えません。それでもこうして日一日と過ぎていき、新しい年が明けることには少しの明るさがあると感じます。きのうと同じきょうですが、ほんの少し、どこかが明るい。東京は光に満ちた午後です。

「水牛のように」を2023年1月号に更新しました。
植松眞人さんとイリナ・グリゴレさんがゴダールに触れています。イリナさんが大学の教員試験に落ちたことは、確かに彼女にとっては試練だったことでしょう。しかし、ほんとうに試されたのは彼女なのか大学なのか、そこは考えるべきところだと思います。力を持っている側ほど試されているとわたしはいつも感じています。その大学はイリナさんを失ったのですからね。
大学生のころ両親が焼津と静岡にあわせて3年ほど住んでいたので、学校が休みになると実家に行き、静岡から路線バスに乗って御前崎までよく行きました。終点で降りて少し歩くと、海岸に出ます。見渡す限りの海は自分の小ささを単純に思い出させてくれて、その小ささは悪いものではありませんでした。砂漠のように広い砂浜が広がり、反対側には岩場が広がっていて、いつも人はひとりもいないのでした。そう、白い灯台もありました。ただこの光景を一時間くらい見て、またバスに乗って帰ってくる。一日の過ごしかたとしては抜群によかった。しかしあの御前崎にいまは浜岡原発があるのだということを北村周一さんの短歌でいやがうえにも知らされました。2023年もやはりろくな年になりそうもありませんね。

とはいえ、今年も更新できて安堵の元旦です。来月も更新できますように!(八巻美恵)

217 もう一度

藤井貞和

国の利益よりも大切な何かがあると教えることのできる人間の先生。
不利益になっても表現されなければならない無言の叫びがあると教える人間の教室。

国民感情が高まっている時、理性が示す本当の価値は国民感情にないと、
はっきり言うことができる、人間の芸術家、人間の思想家。

最後に、人間の兵士たちへ。もし思想が、あなたたち兵士の持つ、もっとも人間的な、
何かをなくそうとするならば、あなたたちはその思想にさえも銃を向けるの?

(富山妙子の火種工房に集まった夜、「最後」について、「理性」について、「人間」について、202「海の道の日」をもう一度。)

新年の抱負

さとうまき

あけましておめでとうございます。
昨年は、ロシアのウクライナ侵攻に始まり、明るい話題はなかなかなかった。僕自身11月の終わりにとうとうコロナに感染してしまった。熱もそれほど上がらなかったのだが、のどの痛さと咳が一か月も続く。痰も絡んで息苦しい。コロナ中はちょうどサッカーのワールドカップが始まった時期だったので、夜中まで試合を見ていた。

今までワールドカップの時期はちょうどパレスチナやらイラクやらヨルダンにいたので、カフェで現地の人たちと盛り上がって楽しかったものだ。いつのころからか、子どもたちがメッシ、メッシと騒ぎ出したので、気が付くと僕もメッシを追っかけるようになっていた。僕はイラクの癌の子どもたちの支援に長くかかわっていた。病院にはクルドのこどもやアラブのこども、シリアからも難民の患者がいたが、みな、メッシが活躍すると大喜びだった。だから、今回のワールドカップでメッシが大活躍だったのは、サッカーそのものが美しいだけでなく、がんの子どもたちが喜んでいるのだろうという姿を想像すると嬉しくてたまらないという感じだった。アルゼンチンの優勝は、一番うれしいニュースだった!

カタールというアラブで初めてのワールドカップにはいろいろとケチが着いた。まず、30兆円を超える費用がかかっているらしい。東京オリンピックでは1.9兆円程度らしいが、それでも最初の予算は7300臆円なので2倍は超えてしまった。それに比べてもカタール政府は桁外れのお金を使っている。誘致のためにばらまいたわいろもいろいろ問題になっている。

スタジアムの建設工事のために、外国人労働者が過酷な労働を強いられ6000人以上がなくなったらしい。そして問題なのは、性的マイノリティを認めないという人権侵害である。ドイツの選手たちは、日本との対戦前の写真撮影では、口で手をふさいで意思表示を封じられたとFIFAに抗議をした。これは欧州のイングランド、ウェールズ、ベルギー、オランダ、デンマーク、ドイツ、スイスのサッカー連盟が、カタールの性的マイノリティ差別に抗議する意味を込めて、one love と書いた腕章をつけてプレイする予定だったのを、FIFAがイエローカードの対象になるとして阻止したことへの抗議であった。

カタールという国は人口260万人ほどで、うち13%しかカタール人がおらず残りは外国人らしいから如何にうまく外国人を使いこなしているか。同じアラブでも僕が暮らしてきた国とはずいぶん趣が違うようだ。メッシやネイマール、エムバペや、モロッコのハキームといったワールドカップで活躍した選手たちは、パリ・サンジェルマンというフランスのクラブチームに所属しているのだが、そのクラブのオーナーはカタール政府なのだ。サッカービジネスではまさに頂上を抑えている。今回のワールドカップでいろいろ問題は指摘されたが、やり遂げたことによりカタールには新しい景色が見える。人権問題も少しずつ改善されていくのだろう。

ただ、アラブだから、イスラムだからという問題よりもむしろ、巨大化したスポーツビジネスの構造的な問題も大きいと思う。日本だってオリンピックは問題だらけ。汚職の問題は後を絶たない。マイノリティにやさしいくにかというと決してそうではないし。経済も衰退してますます世界に取り残されていきそうだ。

僕の個人的な課題は大掃除を年末にするはずであったが、気合を入れてみたもののすぐ飽きてしまった。結局、メッシ人形(正確にはメッシの顔をした赤ベコ)で遊んでしまった。

https://youtu.be/E3890zd-poA
メッシのせいで大掃除が小掃除になってしまったがまあいいだろう。 
希望にあふれた年になってほしいものだ。

ゴダールのひこうき雲

植松眞人

 暮れも押し迫った頃になると、家の中が殺気立ってくるので、いろいろと用事を作って外に出ることが多い。殺気立った家の中にいてもろくなことがない。もちろん、家人からすると、この忙しい時に逃げやがったな、ということになるのだけれど。
 いまやらないと間に合わない、という理由をでっち上げて今日も外に出た。実家の最寄り駅近く。都市部まで電車で三十分もあれば着くのに、この空の広さはなんだ、と見上げているとくっきりとしたひこうき雲が見えた。しかも、そのひこうき雲はいままさに空に描かれている最中で、目にはよく見えないのだけれど、先端には飛行機が飛んでいるのだろうと思う。
 ひこうき雲を見ると思い出す映画がある。正確には映画全体を思い出すというよりも、その映画の中にあったひこうき雲を追っているワンカットを思い出すのだ。
 「ゴダール、八十年代映画大陸への帰還」と少し大仰な惹句が付けられたそのポスターは、何度かの引っ越しを繰り返す内になくしてしまったのだけれど、たった一度だけ見た内容は割と細かく覚えている。
 映画を作ることを映画にした『パッション』という作品は、かなりの野心作で緊張感のカットが次から次へと繰り広げられるのだった。しかし、その中に唯一と言えるほど人間味溢れるカットがふいに差し込まれる。それはゴダール自身が撮ったとされるひこうき雲のカットだ。
 撮影中、偶然見かけたひこうき雲に向かってゴダールがカメラを向け、三脚のハンドルを回しながらひこうき雲が伸びる先に向かってレンズを向けたのだろう。そのカットはカクカクと不器用に動き、決してうまいとは言えない出来だ。しかし、ひこうき雲の行く先を見たいという気持ちがダイレクトに伝わってくるという意味では、この映画のなかで最も魅力的なカットと言える。
 監督がカメラの揺れよりも、そのカットが伝える魅力を重視するなら、そんな揺れるカットを使ってもいいのだということを私はゴダールに教えられた。
 関西の地方都市のローカルな駅前で空を見上げてひこうき雲を追いかけながら、私はゴダールを思い、ゴダールが撮ったひこうき雲を思っていた。
 ゴダールが亡くなって三ヵ月。結局、ゴダールはゴダール以降、映画はこう変わったというお手本とならずに、ずっと異端であり続けた。永遠とも言える瑞々しさを保ったまま、しかも誰も真似できない存在になったゴダール。私にとって、『パッション』のなかのひこうき雲はまさにその象徴なのである。
 不穏で、純粋で、目を見張るくらいに美しいひこうき雲をカットはおそらくほんの数秒しかない。

ゴダールが死んだ年に

イリナ・グリゴレ

ゴダールが死んだ年に、私は朝の4時に起き、鏡の前で化粧し、真っ暗闇の中、空港へ車で向かった。シンプルな服にしたがセーターも長いスカートも、どう見ても東ヨーロッパっぽい雰囲気だと自分でも思った。自分の中でこの服装が、昔よく見かけた女教師の服装だと気づく。でも、小さかった時に周りに女性で大学の先生が一人もいなかったので、よくわからない。喋り方も演技もわからない。誰もそう思ってないのに、勝手に東ヨーロッパのコンプレックスが出てしまっている。髪の毛を結ぶかどうか悩んだ。染めてもいないのに薄い色なので、実際の歳よりも若く見える。自分で弱い人間に見えてしまうと思っている。そうだ、私は山で家畜の世話をして、チーズを作る顔だと言われたことがある。それでも、勇気を出して日本に来てから「大学の先生」になる夢を諦めてない。だから今年、ゴダールが死んだこの年に、秋の冷える朝方に、二人の娘が眠る温かいベッドからそっと抜けて、夢へと向かう。私が東京に着くまで起きないだろうが、この二人の寝顔と温もりがずっと自分の身体に残る。ずっと一緒だったから離れるのが淋しい。

空港までの運転はスムーズだった。慣れないヒールの靴でペダルを押すと違和感があったが良い気分だ。夢へ向かうと必ず良い気分になる。長い間、光がない部屋にいて、ドアを開けると新しい空気が入って、光が入って、そしてなぜかカーラジオで流れていた曲は「グリーンスリーブス」だった。飛行機で隣に座った身体が大きいサラリーマンは何処か淋しそうな顔だった。C Aはコップに熱いスープをうまく入れられず、2回ぐらい普通に自分の服と床にこぼしていた。スローモーションで見えた。それを見ていた彼は言葉も出ず、ジェスチャーで止めようとしたがC Aが冷たい笑顔でなんともなかったように演技を続けたから彼はすぐ諦めた。都会へ久しぶりに出る私には周りの人の全ての仕草と表情がハリウッド並みの演技にしか見えなかった。

電車に乗ると仕事へ向かう人々の姿勢、服装、ブランド名の鞄がみな完璧で、ますます私の東ヨーロッパ・コンプレックスが高まった。でも羊を飼いたいと思わないし、私はチーズが好きだが、ミルクは嫌い。アンドレア・アーノルド監督の『Milk』というデビュー作で描かれた女性の悲しみ。出産した赤ちゃんが死んだ。葬儀に行かず道をぶらぶら歩いて、突然に出会う若い男性とドライブへ行く。出産した間もない女性の体がとても痛いにもかかわらず車の中でその男性と身体の関係を持つ。こんな悲しいシーンがあるのかと思うぐらい悲しい。お互いの悲しみに飲み込まれる二人だが、最後に女性の体から母乳が溢れてくる。死んだ赤ちゃんが飲むはずの母乳をその男性が呑むシーンがものすごく悲しい。それは救いのシーンでもある。お互いに救われた。見ている側まで救われた。女性の身体について考えるとこのシーンを思い出す。アンドレア・アーノルド監督について解説書を書きたいと思いながら関東の電車を何回も乗り越えて最初の面接に向かう。

目的の駅に着くと、そこは大学生で溢れていた。アニメと若者雑誌に出てきそうな格好で歩いているその若々しさが好きだと思った。「大学の先生」になりたい理由の一つは若い人たちと話できるからだと思う。私は、教えることが好き。映画について、学問について、本について。私が受けたかった授業を作りたいからだ。でもそれだけではない、私も彼らから学んでいることがたくさんあるから。この前も自分の研究に役立つようなアイデアを学生から聞いた。駅に早く着いた。周りをうろうろしてから昨日の昼から何も食べてないと思い出して駅のすぐそばの料理店に入る。狭い階段を登ることもこのキツイ服で苦労だ。学生みたいな格好でよかったのに。いつもパーカーしか着ない自分が悔しい。でも、この世の中の全ては見た目から始まるとわかっている。店には客は誰も居なかったけど美味しそうなワインのボトルが並んで良い雰囲気のビストロだった。マスターは私が普通の顔で洋食ではなく、鯖味噌煮定食を頼んだから驚く。でもご飯が少なめというから「足りるのか心配なので」サービスでサラダを出してくれた。この店はとてもいいし、いつか夜はここでお酒飲みたいと思う。またここに来られるといい。会計の時に「先生ですか?」と聞かれたから、私の見た目が先生っぽくなっていたことに安心した。

最初の面接は、模擬授業と質問だった。面接のトラウマが映画大学の受験のときにあるので、模擬授業から入るのは助かった。授業を教えるのが大好き。「人類学入門」として、民族誌映画とジャン・ルーシュの「狂った主人公たち」についての講義をした。とあるインタビューでジャン・ルーシュが「人類学者は私を映画監督と見なしている。映画監督と一緒にいる時、彼らは私を人類学者と見なす」と言ったことも紹介した。自分自身のイメージと重なるから。学生に早く教えたい、ジャン・ルーシュの素晴らしさ、学生に早く作らせたい、彼らにしかできない映像を。もっと面白い、もっと凄いと自分の中で興奮しはじめる。面接に集まった先生の目を見ると、それは伝わったみたい。

だが質問では「子どもと一緒に引っ越すのか」と聞かれた。それはそう、青森に置いてくるわけに行かないと、質問の意味が分からなくなる。昨年の面接でも子どものことを聞かれた。聞かれるたびに目眩がする。子どもがいる私には仕事はできないと思われている。どういう脈絡で聞かれるのか全然わからない。採用面接で女性に子どもの事を聞くことを法律で禁止にするべき。女性の身体は急に「お母さん」に切り替えると弱くなるから。帰りの空港までの5回目の電車を乗り換えた時にそう思った。その日は疲れた。青森に着いたのは夜の10時過ぎだった。山の中にある空港から家まで真っ暗で何も見えなかったので、運転したのではなく、ブラックホールに吸い込まれた感覚だった。

その日から2週間後、1次面接の合格通知がきた。嬉しかったけど次の最終面接のことで一日一日身体が鈍く重くなる。最終面接では大学という巨大組織の偉い人の前で喋るのだ。喋るのが大の苦手な自分にはまた試練のように感じる。授業と違う。それが同じしゃべりであっても。お喋りが得意な人と下手な人は生まれつきだと思う。そして人が人を選ぶ。この場合、私は人間より機械の方がいい。機械の方が冷静だから。人が客観的になるのはただの妄想だから。

ここからはカラーではなく、白黒で、早送りで想像してほしい。日帰りで行くのはさすがに疲れすぎるので前の夜に空港へ向かった。何百年に一回の月食だった。運転しながら月が飲み込まれるのを見ると、SF映画のような雰囲気で自分も飲み込まれるとしか思えない。『Melancholia』という映画を思い出す。地球に近づく大きな美しい青い惑星が人類を滅亡させるその映画は、監督であるラース・フォン・トリア自身の鬱病の症状と感覚を描いている。鬱の主人公は取り乱す健常者の姉とは真逆に世界の終わりを冷静に受け止める。「地球は邪悪です。私たちはそれを悲しむ必要はありません」と、あの青い美しい惑星が地球に衝突する前に彼女は言う。でも、この映画で最後に子どもと女性だけ衝突の光を浴びるとことは、ラース・フォン・トリア監督らしいところでもある。姉の夫はお金持ちで、権勢を振るっていた彼は、もういよいよ終わりとわかった瞬間に事実を受け止められず、家族より一足先に隠れて薬を飲み、厩舎の片隅で一人死んで行くのだった。

横浜の駅に夜中の11時半ごろ着いた。駅の外を出ると後ろから若い男性に「月食だよ」と話しかけられる。ナンパされている。こんな時に。もう一度私の顔を見て、「日本語大丈夫?」と聞かれる。顔もよく見ずナンパするのはどういう神経かと思う。寂しそうだったが断った。

次の日の面接では不思議な空気が流れた。キャンパスに着いた瞬間に前回と同じ、掃除をしている女性が私を見届けた。でも前回と違って、SF映画っぽい雰囲気が抜けなかった。控室で待たされ、事務の方は電話で丁寧に誰かと喋っていたし、面接官がいる部屋に案内された時もセリフのような日本語で案内された。

部屋にはいずれも私よりずっと年配の男性3人と女性1人がいた。誰が一番偉いのか、ネームタグを読む時間がなかったけど、こういう時には女性が一番厳しいと知っている。年配の男性は90年代からルーマニア女性が働く夜の店に行ったことがあるという顔で見られたような気がした。気のせいか。そして質問の山が来た。ニヤニヤしながら左手に座る男性が私に問いかける。答えはなかなか出ないというか、演劇的な質問の演劇的な答えが私の中にない。なんとなく「時代に合った教育を提供したい」という言葉が口から出たが誰にも響いていないと感じる。そうか、この答えではなかったのか。私、脚本を持ってない。なぜか女優のオーデションっぽく感じる。私が研究者っぽい顔じゃないからかもしれない。人と人の間のコミュニケーションとして感じない。目眩がする。バッハの『フーガの技法』が流れていると感じる。面接官の声が聞こえない。年配の女性に可愛いらしい声で本について聞かれたのも雲の上から聞こえた。「一人の女性の経験」としか答えられない。私はニヤニヤする人も、可愛い声で子どもに対するように話しかける人も苦手なのだ。ここは、この部屋は間が悪い、バッハのフーガが強く頭の中で再生される。また、ここで強く傷つけられることになるな、と冷静に思う自分がいた。慣れないスカートを履いていたせいか後で気づいたがストッキングが捩れていたし、「女子学生に寄り添って教育したい」という答え、「女性の身体」の研究、「カラダ?」と面接官の驚きと私の説明不足、どっちがダメだったのか分からない。

家に着いたのはその日の夜9時ごろ。娘たちが笑顔で出迎えた。虹色の熊のぬいぐるみを空港のお土産で買ったら大喜びだった。あとは虹色のクレヨンも。気づいたら前の昼から何も食べてなかった。不採用通知は2週間後にきた。

ゴダールが死んだ年に私が大学の不採用通知を受けた。少しだけ自分にとって世界の終わりに見えた。『アルファヴィル』と『Vivre sa vie』を見返した。世界の終わりと女性であること。ゴダールもポール・ヴァレリーの言葉「今は私たちが知っている、すべての文明は致命的であること」に敏感だった。その夜、次女は寝る前にこう言った「ここ(頭を指す)脳が古くなったから変えなきゃいけないと思う」。5歳児、自分の今日の考え方が古くなって新しく更新しなければならないとわかっているという知恵に驚いた。そうだ、人間とは更新を忘れているかもしれない。また、同じ夜に、「地球はどこいく?もしかして地球は人間だったんじゃない?地球が動いている」と言った。

負ける日があっても

若松恵子

2022年の私の映画ベスト3などの記事で見かけて気になっていた「ケイコ 目を澄ませて」(三宅唱監督)を年の瀬に見に行った。

「とても大切な映画ができました。
たくさんのことがスクリーンを通して伝わることを確信しています。
ケイコと多くの観客の皆様とが出会えますように。」
プログラムに三宅監督がそう書いているように、見終わったあと、様々な思いが胸に去来した。コロナの閉塞感のなかで、よくぞ作ってくれたと思った。いい映画だった。

耳を澄ますのではなく、目を澄まさなければならない、ケイコは生まれつき耳が聞こえない聾者のプロボクサーだ。2回目の試合に勝った後、記者がジムに取材に来る。彼女にボクサーとしての才能はあるのかと質問されて、ジムの会長は答える。
小柄だし、リーチは短いし、耳が聞こえないというのは非常に危険だし、むしろ才能は無い。しかし、彼女の人間性が良いのだと。「才能」より「人間性」だというセリフに心が立ち止まった。レフリーやセコンドの声が聞こえない彼女はリスクが高いので、多くのジムに断られる。古い、下町の小さなジムだけが、彼女の本気を理解して受け入れてくれたのだ。灯台のように、あたたかな灯がともる事務所に静かに座っている会長を三浦友和が好演している。「障害を持つ彼女の才能を見出した会長」という新聞記者が期待するような美談ではなく、日常を生きていくうえで本当の励ましとなるような姿を彼は見せてくれる。

コロナの影響もあり、練習生も減り、会長も年を取り、とうとうジムを閉めることになる。プロボクサーではあるけれど、ボクシング1本で生活は成り立たず、試合の翌日でも腫れた顔のままホテルの清掃の仕事に出かけなければならないケイコの心は揺れ動く。

「なぜ、ボクシングを始めたのか」という問いへの答は映画の中には描かれていない。弟が話す「昔、いじめられて荒れていた時期があったから、ケンカが強くなりたかったんじゃないかな」というセリフがあるだけだ。きっかけなんて、そんな程度の事だったのかもしれない。けれど、なんだかボクシングが好きだという気持ちが、会長やジムのトレーナー、会長の奥さんとの出会いをケイコにもたらせてくれる。確信なんてないけれど、ボクシングが好きだという気持ちに誠実に生きていることで、分かりあえる仲間との絆ができていく。そういう描き方がいい。

昔からあるジムの古い鏡を磨いて、会長とケイコが並んでシャドウボクシングをする場面、ケイコがふいに会長の方を向いて一瞬泣き笑いのような表情をあふれさせる場面が心に残った。映画は、言葉にならない言葉を人間の肉体をつかって見せてくれる芸術なのだ。

プログラムに掲載されているインタビューの中で三宅監督は、「映画館の大きなスクリーンで人をじっと見つめることは、それ自体が面白くてスリリングな経験です。日常では見逃してしまうかもしれないごく小さな心の波や、どんな言葉にもできない何かが、映画館では繊細に感じることができると思います。それを信じて作った映画です。ケイコの人生と、観客の皆さんそれぞれの人生が、出会うことを願っています。」と語っている。

16mmフィルムを使うことで、この映画に美しさと深さがもたらされている。かつてのボクシングジムが持っていた失いたくないものと、かつての映画界が持っていた失いたくないものが重なって見える。しかし、この映画はただ終焉を嘆いている物語ではない。ジムは閉じられても、映画館が閉じられても、試合に負ける日があっても、人生は続いていく。その日の翌日もまた日常は続いていくのだ。しかし、もし、まだボクシングが好きならば、映画が好きならば何とかなる。心から好きでさえあるならば、それで元気が出せる。離れ離れになっても、またいつか会える。そんなことをラストシーンに感じて、見終わったあとも心が揺れ続けている。

僕は珈琲

篠原恒木

この二か月は忙しかった。
片岡義男さんの書き下ろしエッセイ集を編集していたのだ。
『僕は珈琲』というタイトルで1月24日に刊行される。寿ぎだ。
とはいえ、おれは編集者ではない。
かつては若い女性向けの雑誌の編集長のようなものを長く務めていたこともあったが、ここ数年は出版社のなかの宣伝部という部署に所属し、一昨年の八月に定年を迎えた。人生を成り行きに任せているおれは雇用延長制度に従い、おめおめと、と言うべきか、ぬけぬけと、と言うべきか、ともあれカイシャに居残っている身になったわけである。

雇用延長者としての姿勢としては、目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことには無理をせず、妬まぬように、焦らぬように、と、まるで河島英五さんの歌のように日々を過ごすのが正解らしい。
だが、とにかく何かをこしらえていないと気が済まないおれは、
「編集部にも所属しておらず、おまけに雇用延長の身でもあるのだが、本を作らせてくれ」
と、しつこく訴えたら、その願いが叶った。おれがいいヒトだからなのか、あるいは、いいカイシャだからなのか、おそらくは後者であろう。

遠い昔、仕事を完全に干されていたとき、ひとりでムックを作っていたこともあったが、あれは重労働だった。仕事場としてあてがわれたのは、鰻の寝床のような部屋だった。広さとしては四畳半もなかったのではないだろうか。コピー機と机を置くと、それだけで部屋は隙間がなくなった。その部屋は、はるか昔に電話交換手さんが詰めていたところらしいということを後になって知らされた。まだカイシャの「大代表」という電話番号にみんなが電話をかけていたときのハナシである。ムキになったおれは、ひとりで企画書を書いて、分厚いムックの誌面見本を作ってカイシャに提出した。不思議なことに、その企画はすんなりと通ったのだが、ファッション・ムックをひとりで作るのはやはり無理があった。徹夜続きの日々が続き、数冊作ったところでカラダが悲鳴を上げてしまったのだ。だが、本当に楽しいシゴトは、ヒトの意見を一切聞かずに最初から最後までひとりで作ったものだよなぁ、とおれは思っている。

片岡義男さんから、
「珈琲のエッセイをもう一度書こうか」
と言われたのは、いまから二年前のことだった。激しく同意したが、連載媒体を持っていないおれは、書き下ろしをお願いし、催促なしの原稿はポツリ、ポツリと届いていた。一週間に一本のペースで届いていたかと思うと、数か月で一枚も来ないときもあったが、届いたエッセイの内容にぴったりの写真を探しては、パソコンのフォルダに入れておくことも怠らなかった。届いた原稿には、片岡さんのシビれるようなフレーズが溢れていた。

「遠く離れたところにぽつんとひとりでいるのが僕だ、と長いあいだ、僕は思ってきた。そのように自分を保ってきた、という自負は充分にあった」

凄い文章だ。おれはと言えば、遠く離れたところにぽつんとひとりでいる自覚はあるのだが、そのような状況に好き好んで自分を置いたわけではない。気がついたら、オノレの性格、言動、立ち振る舞いのせいでそうなってしまっただけの話である。片岡さんとは大違いだ。おれは深く溜息をついた。
そして二年の月日が流れ去り、街でベージュのコートを見かけると、指にルビーのリングを探すのさという、まるで寺尾聰さんの歌のように過ごしているうちに、フト気がつくと、季節は二〇二二年の夏を過ぎていた。そのあいだもコロナは猛威を振るっていたが、おれは片岡さんとソーシャルな打ち合わせをひっそりと重ねていた。打ち合わせと言えば聞こえはいいが、めしを食べてはマスクをして、よしなしごとを話していただけなのですが。

「珈琲のエッセイであれば、寒い時期に出版したいよな」
と思っていたおれは、四六判サイズの紙を作り、いままでに届いていた片岡さんの原稿をプリント・アウトして、それを鋏でジョキジョキと切って、糊で四六判サイズの紙にペタペタと貼っていった。おれはインデザインやイラストレーターなどのソフトをまったく使えない。したがって、いまおれの手元にある原稿を本にした場合、どのくらいのページ数になるのかを知るには、切り貼りでカンプを作るしかないのだ。もはや絶滅危惧種のアナログおじいさんである。

だが、片岡義男さんもおれに負けずとも劣らないアナログ人間だ。原稿は富士通ワード・プロセッサー「オアシス」で書き、それをフロッピー・ディスクに読み込ませ、さらにそれをパソコンの外付けフロッピー・ディスク・ドライヴへ移し、テキスト・メモで電子メールに添付して送られてくる。なんだか非常に面倒な工程ではないか。
「パソコンのワード原稿で書けばいいじゃないですか。親指シフトのパソコンをお持ちですよね?」
「持ってはいるけど、使っていないんだ」
「カタオカさんから原稿のメールが送られてくると不気味なんですよ。件名も本文も何も書いていなくて、テキスト・メモが貼られているだけですから」
「そうかな」
「そうですよ。件名は『原稿を送ります』と書いて、本文には『拝啓 時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。さてこの度、新しい原稿が出来上がりましたので添付させていただきます。まだまだ猛暑が続くようですが、どうかお体ご自愛くださいませ。敬具』とでも、たまには書いたらいいじゃないですか」
「いや、そういうことを書くとしたら、どうせなら冒頭分は『ひと言、私からご挨拶を申し述べます。顧みすれば、あの戦後の焼け跡から』から始めたいね」
「それはとてつもなく長くなりそうですね。やっぱりいまのままで結構です」

本の装幀案は全部で二十種類以上作った。例によってすべて鉛筆、サインペン、カラー・マーカー、色鉛筆、鋏、カッター、糊でダミー版を一枚一枚作っていった。敬愛してやまない平野甲賀さんの題字を使わせていただけることになったので、おれはひそかに興奮していたのだ。「これだ!」というデザインが二十三案めくらいで固まった。

その一方で、片岡さんの原稿をワード形式に直してプリント・アウトしたものと、本文内に挟み込む写真をジョキジョキ、ペタペタする作業を延々と続けていたら、あとエッセイおよそ四本ぶんで二百七十二ページの本が完成することが明らかになった。これはいよいよ大詰めではないか。そのことを片岡さんに話し、秋もしくは冬には本にしたいのですと伝えると、
「わかりました。残り四本、書きます」
という心強い返事だった。おれはエッセイの順番をあれこれと考え、本文中のどこに写真を入れるかを何度も何度もやり直した。切り貼り作業は難航を極めた。
「インデザインが使えれば、いちいち切り直しや貼り直しをしなくても済むのだろうなぁ」
そう思うおれの指は糊でベトベトになり、石鹸でいくら洗っても取れなくなっていた。ようやく何度目かの試作を作り直したときに、
「この順番でいいかもしれない。あとは残りの原稿を待つだけだ。原稿が届いたら、写真とワード・データと一緒に、ジョキジョキ、ペタペタした分厚い紙の束を組見本として印刷所に渡せばいい」
と、おれは思った。ところがなかなか片岡さんからの原稿は来なかった。ようやく残り四本のうち三本が届いた。入稿の締め切り日が迫っていた。三本の原稿を素早くワードに直し、文字組を整え、本文部分の組見本を手作りした。もうあまり猶予がない。エッセイあと一本を残して、おれは印刷所にすべてを入稿した。残りの一本は原稿が届いたら電光石火で後送すればいい。だが、その「最後の一本」が来ない。後送部分の入稿締め切り日に、電話が鳴った。
「こんちはー、片岡です」
「もう秋の気配ですよ。締め切りは今日。お電話しようと思っていたところでした。待ったなしです。あと一本、早く書いてください」
「それがマズイことになったんです」
「どうされたのですか」
「書いた原稿がフロッピー・ディスクに入っていないのです。確かに移せたと思ったのですが、フロッピーがカラなのです」
「ワープロに保存していないのですか」
「僕は原稿をフロッピーに移したら、すべてその場で消してしまうんです。だからワープロには残っていません」
「消えた原稿はどのくらいの文字数ですか」
「三千文字くらいかなぁ」
「マジすか」
「マジだよ。どうしよう」
「印刷所には今日中に後送すると言ってあるのですが」
「困ったなぁ」
そこでおれは咄嗟に言ってしまった。
「では、おれがあくまで仮に三千字を埋めておきます。それで印刷所にはいったん入稿して、初校ゲラが出たときに片岡さんがその部分を赤で書き直してください」
「申し訳ありません」

片岡さんの口から「申し訳ありません」という言葉を聞いたのはこれが初めてだった。考えてみれば、申し訳ないようなことをされた覚えがただの一回もないのだから当然のことなのだが、そのひと言がおれをかなり動揺させた。片岡さんに「申し訳ありません」と言わせてしまったことが、とてつもなく申し訳ないことのように感じたのだ。

そしておれは片岡義男になりきって、三千字の原稿を書き、締め切りギリギリに印刷所へ放り込んだ。三千字は一本のエッセイのなかでちょうど中間部分にあたる部分だった。
「おれはいま片岡義男なのだ。片岡さんならこういうことを書くに違いない。『全体』は『ぜんたい』とひらかなくてはいけない。『なんなのか』ではなく『なになのか』でなくてはいけない」
と、自分に言い聞かせながらパソコンのキーを叩いていった。
やがて初校ゲラがめでたく出てきた。さあ、片岡さんはゲラでその三千字の部分をどう処理したのか。跡形もなく差し替えたのか、大幅に赤を入れたのか、それとも……。スリルとサスペンスに満ちた入稿、校了作業であったことは間違いない。

いやいや、おれの駄文がそのまま片岡義男さんの本に反映されるわけがないので、どうかご安心を。大切なことなので、最後に二回言います。

片岡義男の書き下ろしエッセイ『僕は珈琲』は1月24日発売です。
珈琲にまつわる短編小説も特別収録されています。カラー写真も満載です。

あのベストセラー『珈琲が呼ぶ』から五年、
1月24日に、片岡義男の傑作書き下ろしエッセイ『僕は珈琲』が刊行されます。
珈琲にまつわる短編小説も特別収録。カラー写真も満載です。

そして、アンコールに応えて、片岡さんの名言を添えよう。
「一月一日は十二月三十一日の翌日に過ぎない。年が改まることには何の意味もないよ。だから忘年会などという行事もあり得ない。今年一年を忘れる、チャラにすることなんて出来っこないんだ。新年会も同じだよ。今年こそは、という言葉はいまでも通用しているのかな」
それに対するおれの言葉も添えておこう。
「じゃあ、片岡さんはお餅も食べないのですか?」
「餅は好きだよ。うまいよ、あれは」

どうよう(2023.01)

小沼純一

あ はい 
ど どちら どちらさま

あ はい 
ど どなた ど なった

あ はい
だ だれ だまってる

あ 
え 
あ あんた だれ

しらない しってる わすれてる
どちらでおめにかかりました
いつだった かしら 
いつから かしら
どうして

かお おぼえるの にがて
おぼえても わすれちゃう
な よく きこえない 
おとだけでは とおりすぎて
な おぼえるの にがて
じでみればすこしは

はい こえは きいたような
かみ ながさ いろ かたち
おかわりになるので さっぱり

かみでおぼえる
てくび あしくび くびまわり
おくび あくび はちがうかしら
かた かたかた 
おなか おなかまあわり
まいにち すこしかわってる
ひとつき はんとし いちねんすれば
なかもそともべつじんだから
そちらもあたしも

ぬいぐるみみたいに
って はきすてるよう いわれて
ぬいぐるみ
って いけないみたい
みんな じゃないけど
ぬいぐるみ
すきなひと いるとおもうけど
ちがうんだな

ぬいぐるみ
すきだよ
どうしていけないかな
はきすてるよう いったひとのとこは
ひとつもなかった
たしか

ぬいぐるみ
ならいいんだ
みたいに がいけないんだ
たぶん
ぬいぐるみ
ならよかったんだ

まだ
ぬいぐるみじゃないから
いつか
ぬいぐるみ
になるから
いつか
ぬいぐるみ
になれるまで

ただ まだ
ぬいぐるみ
なれそうにありません
おもいだしたくもないでしょうし
ぬいぐるみ
なんていったこともわすれてるでしょう
けど

つるんでたのにいささかそえん
きっかけなんかあったかな
おぼえてる おぼえてない

ねこさんだったらどうなのか
いっしょにいるとおもっていても
いつのまにやらべつべつで
おともだちそれともしんせきそれともおやこ
おぼえてる おぼえてない

つるんでるいつのまにやらつるんでる
つるばらつるばらつるくさつりいと
つったのそっちつられたこちら
ほんとかな
つったのこっちつられたそちら
どうだろね

おもいだすのはひまだから
おもいださずにあのよへと

図書館詩集3(相模野は月見野)

管啓次郎

相模野は月見野
この平坦な土地を歩いていると
「図書館城下町」にやってきた
この城は誰の城
迷いに迷っていつまでも
そこにたどりつかないのはいやだな
だが城とは支配者の居所
何か矛盾してはいないか
だって図書館は反支配の拠点なんだ
並べられた本にはどうも
そんな叛乱的性質がある
一律の支配をとことん嫌う
外れてゆく
おとなしい顔をして
逸脱と暴動を作り出す
図書館に主はいない
書物の城は壁を知らず
領土なく年貢なく
どんどん虹のようにひろがっていく
波紋のように内側からきみを拡げる
ともあれその場所に着くまえに
まずは腹ごしらえといくか
剣滝揚鶏が
世界のどこでもおなじ味の
油くさい鶏を供してくれる
塩味があまりに濃いが
それなりにうまい
ペプシでのどを洗いつつ食べる
するとケンタッキーの青い草原が
馬たちの思い出とともにひろがって
見る見る現在から取り残される
サンダースおじさんの第一号店に
ぼくは行かなかったが
葉子さんは橇作りのダグが連れていった
美しい馬たちがみずからを追求して
野を自由にかけたり
犬のように横になったりもしていた
あんな草原なら馬たちはしあわせだろう
相馬の勇壮な馬のようにも
下北のカンダチメのようにもしあわせだ
神の犬たちよ
さあまた歩いていくか
広い無人の野のむこうに
書物の城がかすんでいる
蜃気楼にむかうbliss
歩行のbreathless
でもなかなか直進ができない
透明な森にぶつかったかのように
森が行く手を阻むかのように
私たち獣たちはまっすぐには歩けない
冬の直前
残り少ない果実を拾うため
目を光の皿にして
やがて小高い丘の上に立てば
観天望気
すでに読書がはじまっている
空は無限で無方向
書物は現実的に無限
言語の雲の流れをよく見て
行方を決めなさい
ところで書物のタイトルには著作権がないのだ
だからぼくがぼくの本を
『城』と呼ぼうが
『城から城』と呼ぼうが
『戦争と平和』と呼ぼうが
『マングローヴ渡り』と呼ぼうが
誰にも断る必要はないわけだ
けれども先日
A Field Guide to Getting Lost
という子供むけの本が出版されて
さすがにレベッカも怒っていたようだ
ぼくは特に気にしない
的確な真実の含まれたタイトルは
誰にとっても使いやすい
「失われた時」や手に負えない「白鯨」
を求める気持ちは誰にとっても真実だし
「シンクロニシティ」という本なんて
いったい何冊あることか
「罪と罰」からは「罪と恩寵」とか
「罪と重力」とか「罪と日記」とか
「罪と逃走」とか「罪と闘争」とか
無限にヴァリエーションが作れる
書名より大切なのはその本自体の肉や血だろう
肉を読み血を飲むべし
みずからその変異型となるべし
思えば「換骨奪胎」ってすごい言葉だな
フランケンシュタイン博士どころではない
自由自在の生命工学か
そして言語ならそれができる
ぼくの体も少しはとりかえばや
いやいっそう必要なのは脳だけど
これは交換不可能
中枢を分散させることもできないので
自分を超えるためには外部記憶に
つながるしかない
関係にみずからを接続するしかない
それを果たすのが本、本、ごほん
(このところ咳が止まらないのは
何か偽の記憶を求めているせいかしら
けれども偽の記憶にも
良い記憶がたくさんあって
良い記憶が生きることを支えてくれるなら
それもいいんじゃない?)
このあまりにも限定された自分が
行方を見失って
広大な草原にひとり立ちつくすとき
道標/からすが落とす/柿の種
それをたどってやっと図書館へ着いたのだ
ぼくは公共の場が好きだ
本が作る世界ほど
公共性が高いところはない
それは言語がつねに
すでに全面的に
公共化されているからだが
言語使用の現場そのものは
それとはちがうかもしれない
だいたいこうして文字を記すことには
どこか不自然で孤独なところがある
リチャード・ブローティガンが書いていた
「見知らぬ人がたくさんいる場所でひとり
ぼくは天上の合唱隊の
まん中にいるみたいに歌う

—ぼくの舌は蜜の雲—

ときどき自分を気味がわるいなと思う」
(『ブローティガン東京日記』福間健二訳、平凡社、124)
No worries, Richard!
歌うことを恐れることはない
歌うことを恐れてはならない
歌を禁じるものたちに反撃せよ
私の歌は沈黙を造形し
無音を素材として蜜の雲を立ち上らせる
自分を気味がわるいと思うのは
他人の視線に同一化しているからにすぎない
水の中を泳ぐwaterbabyのように
きみがすなおに自分でいるかぎり
その見慣れない見知ったものの
Unheimlichな気味わるさは生じない
ほら二羽のからすが飛んできて
いま窓ガラスの外にとまった
かれらはきみの過去と未来だ
かれらはこの冬枯れた町だって
極彩色に翻訳して体験している
いつも光の雨が降っている
からすは高いところから
熟れすぎた柿や潰れた猫を
ついばむ機会をうかがっている
それも生きるための行動
生命の模索
ぼくは言語のはかない塔に上りつつ
ここに隠された鳩の卵につまづきそうだ
この平野が海だったころから
つぶやいている霜の声が聞こえる
ふうふうと立ち上がるささやきは
どんな文字の絶叫を隠すのか
見てごらん
相模野は月見野(大和市つきみ野)
目黒川の両岸に二万年の居住史
そんなことも忘れて生きているのが現代人
思い出せ、石斧を
思い出せ、石刃を
思い出せ、隆線文土器を
人がいたんだ、ここには
つきみのに星の輝く
シリウスが吠えている
かれらがきみと無縁の人々だと
考えてはいけない
歴史的な人口動態から考えて
かれらもまたきみの蓋然的ご先祖
いまここを歩くなら
またここから旅をはじめればいい
記憶を残せばいい
そもそもひとりの人間の深みを
知ることは大変にむずかしいのだ
Blue bayouに沈められたのは
彼の幼児期の記憶だった
水面の鏡に彼は
母に抱かれた自分の姿を見るのではなく
La lloronaとなった母が泣きながら
自分を溺れさせようとするのを
水面下から見上げていた
Waterbaby
覚えてもいない祖国への強制送還の代わりに
彼はするりと水に放たれて
世界のさまよいを生きることになった
魚のように
魚として
「よそものだ。Outsiders.
水の旅人だ。Water-wayfarers.
ただひとつの元素でできている。Things of one element.
まるで水のようなのに、 Aqueous,
それぞれが自立して。Each by itself.」
(D.H. Lawrence, “Fish.”)
水の中のそんな魚たちのように
本もそれぞれが自立しながら
すべて文字の水中にある
水=言語の連続体から
みずからを切り取って生きてゆく
この湖にぼくもみずからを沈め
言語体としての自分をそこからつかみとって
生存を試みることにしよう
言語の嵐を呼びながら
おーい、モンスーン!
おーい、モンスーン!
早くおいでよ
洪水せよ
慈雨!
慈雨!
氾濫は叛乱
文学とは言語的な謀反でなければなんだろう
いまある種子を手作りの
紙に漉きこんで
二百年先の人々に届けよう
かれらの時間が現在の植物でみたされるように
おーい、モンスーン!
おーい、モンスーン!
Soon the Moon appears
Out of nowhere
Over the field
その光に書物の背表紙が
いっせいに輝きだす

大和市文化拠点シリウス、2022年12月17日、薄曇り

製本かい摘みましては(179)

四釜裕子

縦長の本が机上に二つ、本棚の定位置が決まらずにこのまま年を越しそうだ。『百貨店の歴史 年表で見る夢と憧れの建築』(2022  PRINT&BUILD)と、金澤一志さんの詩集『雨の日のあたたかい音楽』(2022  七月堂)。まだしばらく眺めていたいのと、縦に長い判型によるところも大きい。

『百貨店の歴史 年表で見る夢と憧れの建築』は、高島屋資料館TOKYOの「百貨店展」で展示されていた巨大年表を、展示監修者の浅子佳英さんが、ご自身の事務所・PRINT&BUILDから〈大判のポスター型の書籍〉として刊行したものだ。「年表」といっても写真や図版、コメントが多く、会場ではどなたも壁面にはりつくようにして眺めていたし、私もひととおり追ったけれどもなにしろ情報満載なので、「図録はないのでしょうか」と尋ねたがなくてがっかりしたが、12月になって〈展覧会開催後、様々な人から売って欲しいと問い合わせの多かったあの巨大な年表がとうとう部数限定にて発売されます〉とのしらせを見つけ、そうか、「図録はないのですか」なんて甘い。「あれを売って欲しい」と言うのを思いつけなかったことを悔しく思いつつ、早速注文したのだった。

縮小した年表が3枚に分かれ、それぞれを蛇腹にたたんで重ねて、帙というか、たとう紙というか、そういう形状の厚紙にくるまれて届いた。PRINT&BUILDのサイトから仕様を引用するとこうなる。〈全体の横幅は2.7mに。約90センチ✕60センチの大判のポスターを3枚、蛇腹式に折込み、スリーブで閉じた〉。そのスリーブに入れた状態で、大きさはおよそ15センチ×29.5センチ。広げると、コンパクトになったとはいえ十分に大きい。会場では天地が背丈以上あったけれど、もともとこれくらいのサイズで作ったものを拡大して展示したのか。そんな単純なことではないように思うけれども、手元で全体を広げて見ると、年表そのものを13階建ての百貨店に見立ててデザインしてあったことなど初めて気づいた。

年表では大手13の百貨店のほか、全国各地の百貨店や商業施設にも触れている。故郷・山形については何か出てるかなと改めて見ると、2020年に閉店した大沼デパートについては、開業や閉店の時期、建物自体も特別目立つものではないのか記載はなかったが、1967年のところに「山形ハワイドリームランド」があった。県内ほぼ中央に位置する寒河江市の市役所庁舎(1967)や日東食品山形工場(1964)も手がけた、若き日の黒川紀章(1934-2007)が設計した(1966)からだろう。黒川さんの公式サイトによると、これは当時提唱していたメタボリズム建築の中の循環のプランで、〈商業施設にとって経営上重要な回遊性を強調しており、循環の原理を示している。また、日本文化の巡礼の伝統も受け継いでいる〉〈建築の内側に自然を取り込む方法は(当時自然の胎内化と呼んでいた)その後の作品(例えば東京の六本木プリンスホテル等)にしばしば用いている〉とコンセプトが記されている。黒川さんがなぜその時代に寒河江市と縁があったのかは、『黒川紀章ノート 思索と創造の軌跡』(1994 同文書院)にこんなふうに書いてある。

〈最初の仕事は、ある日突然、やってきた。その日のことは忘れることはできない。それは山形県の寒河江市に本社工場をもつ日東食品の小さな工場の設計であった。このまったく知らない施主からの依頼は、実は朝日新聞に掲載された私の紹介文がきっかけになったものだった。そのインタビューをしたのは、現在作家で評論家である森本哲郎である〉

〈日東食品の矢住清亮社長は、たいへん粋な方で、まだ大学院の学生であった私は、矢住社長に料亭に連れて行かれたことを覚えている。確か、新橋だったと思う。そこで「黒川さん、建築家になるためには、小唄をやるといいですよ」という言葉を、怪訝な気持ちで聴いた覚えがある〉

〈そうこうするうちに、あるとき寒河江市役所の助役から、深夜だったと思うが、電話がかかってきて、「今度、寒河江市は市役所を建て替えることになったが、その設計を依頼した場合に黒川さんのほうでは引き受けてもらえるか」ということであった。
飛び上がるように驚き、持っていた受話器が震えていたのを覚えている〉

〈後から調べてみると、当時議会は、保守派と革新派に分かれて、きびしい対立が続き、両方にそれぞれ推薦された建築家のどちらを選んでもしこりが残るということで、当時寒河江市の一角に日東食品の工場を設計していた私の名前が突然浮上して、依頼につながったと聞いた〉

〈寒河江市役所は、初めての公共建築の設計であり、(中略)それまで温めていたさまざまな構想を、この寒河江の市役所の設計のために全力を挙げて注ぎ込んだ。(中略)すぐに私は、その真ん中の吹き抜けに岡本太郎の大きな光る彫刻を依頼した。
ほとんど予算のない仕事であったが、喜んで引き受けてくださった岡本太郎に対して、貧乏であった私は感謝の意味を込めて、一日岡本邸のどぶ掃除を手伝った〉

3つの黒川建築のうち、現存するのは寒河江市役所庁舎のみ。私自身がなじみがあるのもここだけだ。子どものころ、市役所の向かいのスーパーヤマザワにあったサンリオショップによく行った。いちご新聞が楽しみだった。その駐車場が市役所の前だった。庁舎のシルエットや吹き抜けは好きだったが、コンクリートの質感や色が怖かった。岡本太郎の光の彫刻《生誕》はあまり目立っていなかった。なんなら一時期、電気を入れていなかったのではないか(未確認)。今見ると、建物自体が小さくて愛らしい。市役所という機能から解放されたら別の輝きが増しそうだ。2017年に登録有形文化財に指定され、岡本太郎のオブジェと併せて遠方から見にくる人が増えたと聞く。なにもかも、黒川青年が岡本邸のどぶ掃除をしたおかげでもある。

さてもう一冊の縦長本、金澤一志さんの『雨の日のあたたかい音楽』は、およそ10センチ×19センチというサイズ。表紙や本文紙がほどほど張りがあるので、表紙に折り線をつけまいとすると読むのにノドをのぞきこむあんばいになる。冬場の乾燥した指で持つと、ときおり手のひらから冊子ごとスルッと抜けて飛んでいく。(逃がさんぞ)とか思って思い切ってページを開く。ノドのあきが結構狭いし、裁ち落としの写真の全部も見たいのだ。おかげで表紙にしっかり折りじわがついてしまったが、意外にも、この冊子を傷つけた感じがして悲しくなったりしなかった。大事すぎる装丁というのが、読むのにすっかり重荷になっているこちらの事情もある。

『雨の日のあたたかい音楽』にはいろんなスタイルの作品が並ぶ。すべてが歌詞のようでもあるし、またその見せ方が、別々の楽器や演奏法に向けた楽譜のようでもある。中に、一ページに一行だけ配すような作品があって、船木仁さんの詩集『風景を撫でている男の後姿がみえる』(昭和50  装幀・構成・出版:高橋昭八郎) を思い出した。俳句なのか一行詩なのか判然としない、というか、どちらとも言われたくなさそうな作品が68編。あとがきには〈題名のない一行詩といったものを意図したつもり〉とあるが、したがって目次というのは成り立たないはずだが一応目次らしきページがあり(実際には「目次」ではなく「■」と印字されているけれど)、確か、すべての作品が一行ずつでつらつら並んで目次然としていたという、奇妙でかっこいい詩集であった。『雨の日のあたたかい音楽』も、詩なのか歌詞なのか判然としない、というか、どちらとも言われたくなさそうな14編が並ぶ。

『風景を撫でている男の後姿がみえる』を思い出したのは特徴的な縦長の判型にもよる。メモを探したら、みつかった。だいたい12センチ×23センチ。となると、『雨の日のあたたかい音楽』と『風景を撫でている男の後姿がみえる』の判型の比率はほぼ同じと言っていい。ちなみに『黒川紀章ノート 思索と創造の軌跡』は、12.8センチ×18.8センチの四六判で厚さが4.5センチある。つい「お弁当箱みたいな」と言いそうになったが、合っているだろうか。そもそもこんな比率の弁当箱の実感がないくせによく言うよという感じもする。

水牛的読書日記 2022年12月

アサノタカオ

12月某日 高校生の(ま)の誕生日を祝った翌日、午後の羽田空港から飛行機で飛び立ち、沖縄・那覇空港に到着。冬用の上着をぬいで「ゆいレール」に乗車し、街中へ。窓から差し込む西日がまぶしく、あつい。マラソン大会か何かがあったようで、途中の駅で半袖のスポーツウェア姿の乗客が大量にのりこんできた。

前回、沖縄に来たのは新型コロナウイルス禍以前、何年前のことだったか。リバーサイドの宿に荷物を置いてTシャツに着替え、夕方の国際通りを散策。週末ということを考えると、コロナの影響もあって観光客はまだ少ないのだろうか。少し歩いただけで、汗が噴き出す。

飲み物を買おうと立ち寄ったコンビニで「大東寿司」を販売しているのを見つけて驚いた。南大東島の郷土料理だ。あすのお昼は、大東そばと寿司でも食べようか、とむかし訪ねたお店の場所を思い浮かべる。今回、旅の友とした本は外間守善『沖縄の食文化』(ちくま文庫)。著者の食いしん坊ぶりを見習いたい。

本書の冒頭で、外間守善はフィジーで豚肉やイモ料理をおいしく食べたが「蛇肉らしきもの」は「確かめなかった」と語る。ならば沖縄の伝統料理、イラブー(エラブウミヘビ)の汁なんかはどうなんだろうと読み進めると、「あまり好きになれない」と。研究者的な中立の立場を取らない、食べ物の好き嫌いがはっきりしている視点がおもしろい。

12月某日 お昼、那覇・壺屋の新しい本屋さん「ブンコノブンコ」をはじめて訪問。眺めの良い古いビルの3階にあがり、開店直後のお店に入るやいなや、棚に面出しにされた黒島伝治『瀬戸内海のスケッチ』(サウダージ・ブックス)を見つけてうれしい気持ちに。韓国と日本のはざまで生きるスタッフのKさんからおいしいコーヒーをいただき、沖縄の地へ流れ着くまでの長い旅の話を聞いた。

お店を出ると、雲行きがあやしい。壺屋から国際通り商店街のアーケードに入り、市場の古本屋ウララへ。移りゆく街の時間、移りゆく街の風景の中で、本屋さんが変わらずそこにあることが心強い。店主の宇田智子さんと言葉を交わすのは何年ぶりだろう。店内のスペースは少し広くなった。でも向かいの公設市場の建て替えに伴い、頭上のアーケードが撤去されている。雨や風が強い日はお店を休まなければならないと聞いて、胸が痛い。話したいことも、買いたい本も山ほどあるけど、また訪ねよう。

外間守善・仲程昌徳・波照間永吉氏による琉球の「ウタ(歌)」のアンソロジー『沖縄 ことば咲い渡り』の「みどり」の巻の解説は宇田智子さん。美しい本。ブックガイド『復帰50年 沖縄を読む——沖縄世はどこへ』にも宇田さんはエッセイを寄稿している。ボーダーインク発行の2冊の本を購入した。

12月某日 那覇は朝から小雨。空港からふたたび空の旅、夜の石垣島へ。翌日、島で出会ったのは、風とミンサー織りと牛。

12月某日 沖縄への旅から戻り、今年最後の大学の授業。「私たちの好きなもの」をテーマにしたZineの制作をグループワークの演習課題にしていて、年明けの提出をたのしみに。授業のあとショートショートの小説を書いている学生の話を聞いて、東京・分倍河原のマルジナリア書店で文庫本を買って帰宅。

12月某日 『現代詩手帖』2022年12月号が届く。「アンケート 今年度の収穫」に寄稿し、以下5冊を紹介した。

エリザベト怜美詩・訳、モノ・ホーミー絵『YOU MADE ME A POET, GIRL』(海の襟袖)
藤本徹『青葱を切る』(blackbird books)
宮内喜美子『わたしたちのたいせつなあの島へ』(七月堂)
『W. S. マーウィン選詩集 1983-2014』(連東貴子訳、思潮社)
『まるで魔法のように ポーラ・ミーハン選詩集』(大野光子ほか訳、思潮社)

12月某日 訃報に絶句する。ともに本を読む仲間が突然、旅立った。ページをめくる手が、今日は重い。でもそれは、読む時間が自分一人だけのものではないということの証。きみのいる場所には、そのうち追いつくから。本でも読んで、待っててね。

12月某日 東京・西荻窪の忘日舎で、自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」を開催。山尾三省『新装 アニミズムという希望』(野草社)をともに読んで、思いつくままにゆっくり語り合うよい時間。

帰路、荻窪の本屋 Titleに立ち寄り、店主の辻山良雄さんに年末のご挨拶。2階のギャラリーで漫画家のカシワイさんの「風街のふたり」展を鑑賞、絵とことばにすっかり感動し、同題の漫画を購入。旅情とノスタルジーを感じるよい作品だった。

12月某日 3か月間、読書会に参加し、ダンテ『神曲』をついに読破! 三浦逸雄訳、角川ソフィア文庫で(この人の訳文には独特のくせがある)。地獄篇はおもしろいけど、天国篇はいまいちと思っていたのだが、他の参加者のみなさんの意見を聞いて、なるほど〜と思うことしばしば。まだわからないことも多いし、もう一度、読み返してみよう。ところで、『神曲』のボッティチェリの挿絵は、パラパラ漫画にしたらおもしろそう、と馬鹿げたことを思いつく。パラパラとページをめくってみたら、何かが動き出しそうな気がした。

12月 偶然のご縁がつながり、尊敬する沖縄の小説家の崎山多美さんからお便りとともに、批評誌『越境広場』11号が届いた。崎山さんはこの雑誌の編集委員をつとめている。今号の特集は「”if”で拓く『復帰』50年」。佐喜眞美術館学芸員の上間かな恵さん、ボーダーインク編集者の新城和博さん、社会運動史研究の上原こずえさんの座談会から読み始める。

12月某日 岸田文雄首相が防衛費増額のための増税の方針を発表。狂っている、と思ったのは自分一人ではないだろう。しかしこの間にも南西諸島では自衛隊のミサイル配備計画が着々と進められ、沖縄の島々はありもしない「戦争」への脅威を口実にすでに軍事要塞化されている。

日米の基地問題を報じる地元の新聞を読み、ニュース番組を見て、人びととことばを交わすことで、沖縄ではその危機感を肌身で感じることができた。現地に行かないと気づけない、というのも情けない話だが、「東京」発の情報圏にいると、しっかり目を見開かない限り見えてこない現実だ。

12月某日 何を読んでいる、といえないほど、山積みされた本やら原稿やらを見境なく読んで読んで読みまくる師走。いま目の前にあるのは『定本 見田宗介著作集』全10巻と『定本 真木悠介著作集』全4巻(以上、岩波書店)。さて、この山を登るべきかどうなのか。

来ませんか、と土地から呼ばれているような気がしたら旅をするし、読みませんか、と本から呼ばれているような気がしたら読んでみる。去年も今年もそうだったように、来年も再来年もきっと変わらない。歩けなくなって旅をすることができなくなるまで、目が見えなくなって読むことができなくなるまで、自分はそうやって生きていくのだろうと思う。