赤ベコとウクライナ

さとうまき

ロシアのウクライナ侵攻が始まってから5か月がたった。ニュースは毎日ウクライナ情勢を伝えてはいるが、人々の、いや明らかに僕の関心は薄れている。それは悪い事ではない。僕はイエメンとかシリアのことをやんなきゃいけないので「黄色と青」に染まっているわけにはいかないのである。

そんなある日、松戸の古い友人がいきなり電話をかけてきた。
「ウクライナのチャリティイベントを知ったんだけど、あなた、興味あるでしょ」
松戸の美術家協会が、松戸在住の作家から作品を寄付してもらい販売することで、収益を松戸市に避難してきたウクライナ人に寄付するらしい。
「あなたも作品出しなさいよ。主催者に電話しといたから」
友人は人のいうことは聞かない。ほっとくと一人でしゃべり続けるが主語がよく抜けるので要領を得ないことが多い。
「はあ? 作品って? 僕は、ウクライナ行ったことがないし、松戸にも関係ないし」
「聞いたら、あなたのような国際協力やっている人に参加してほしいって。松戸市民でなくてもいいって!」
なんでも、近所のアパートにウクライナ人が越してきて、ごみの出し方をやさしく(厳しく)教えてあげているうちに国際協力に目覚めたらしい。
「ともかく主催者の版画家の宮山先生には話はついているので、ちゃんとHP見てから連絡して」
と言われて電話が切れた。

HPを調べてみる。宮山広明氏の作品は、6枚の銅板に色を混ぜて刷られており、一見日本画のような繊細な花が色鮮やかに描かれていた。「花は様々な役割を果たすモチーフである。だが多くの人は、誰に教わることもなく花に人の心を見る。歴史という直線は、人の心を得て広大な面として立ち上がる」という。こんなすごい人たちが作品を売るわけで、第一僕がなにか描いたところで、売れもしないから全然貢献できない。そもそも何を描くのか? 時間もない。

また友人から電話。
「先生に連絡した? あなたに会いたいって言ってたわよ」としつこい。
僕はたまに、はったりをかますことがあるから、先生が誤解していると困るので、ともかくお会いして断ろうと思った。というわけで好奇心もともない、アトリエを訪問することにした。先生はすい臓がんを患っていらして、病院から帰ってきたところだという。化学療法の影響か、顔色は土色に焼けていた。「肺に転移していることがわかり余命数年と言われてますが、あと数年生きれば、新しい薬ができるから、自分は死なないんですよ」と前向きだ。同時に今できる事をやらないと明日はわからないという覚悟も感じた。何とかこの先生に協力したいと思い始めた。

それで、赤ベコを作ることにした。赤ベコは、2011年福島原発事故の際には復興のシンボルとして注目された会津の郷土玩具である。当時はウクライナから専門家が来ていろいろ日本を助けてくれた。私たちもチェルノブイリの経験を学ぼうと必死だった。ガイガーカウンターがなかなか入荷せず、やっと手に入いれた日本製の物は、高い割には数値があてにならない。何台か買い換えて、ウクライナ製の物に落ち着いたのを思い出す。今度は、ウクライナが大変な時だから、赤ベコで恩返しだ。

使用済みのコーヒーフィルターでボディをつくる。これは、イエメンへの思いを表現している。実は、僕は1994年にイエメンの工業省で2年間働くはずだった。しかし、たったの一か月で戦争になり追い出された無念さがある。2015年にはまた内戦になり、今世紀最悪の人道危機とまで言われている。イエメンはウクライナ産の小麦を輸入していたので、戦争の影響をもろにうけ、食料危機に拍車がかかっているのだ。僕は、最近イエメンのモカ・コーヒーを買って何とかイエメンを豊かにしたいと思い、ひたすらイエメン・コーヒ―を飲んでいる。フィルターも捨てずにとっている。そこに、図書館から廃棄する英字新聞を貰ってきて、ウクライナ戦争のキーワードを切り出して、黄色と青のマスキングテープで貼り付けていくのだが、黄色と青はきれいなコントラストとは裏腹に僕には不安や恐怖を掻き立てる色になってしまった。そんな、わさわさした今を表現してみた。

宮山先生の展覧会は無事に終了した。そもそもこんなものは、あんまり売れるものでもなく、幸いなことに材料はリサイクルなのであまりかからないが、伝統的な張り子の技術を使うので手間暇がやたらとかかる。今回は値段を下げて買いやすくするというコンセプトだったので全部売れて何とか貢献することができたが、版画と違い複製がきかないから費用対効果がわるい。

それに比べて、NGOのウクライナ支援はすばらしい。日本政府は、2億ドルの人道支援と6億ドルの財政支援をウクライナに約束した。日本円で合計1000億円ほど。35億円がジャパンプラットフォーム(JPF)という援助業界を牛耳るNGOを通して8団体で分け合うそうだから一団体4億円が取り分だ。もっとも、計画中のNGOも含めると20団体になるそうで、そうなると一団体当たりの取り分は1.7億円くらいに減ってしまう。そこで、民間からも5億円集めようとHPで呼びかけている。援助ビジネスにのっかればお金も集まり、援助団体も儲かり、ウクライナの人たちもハッピーになる。それに比べたら、なんで僕はこんなに効率の悪いことやっているんだ?と時々反省する。「ま、いいか」と納得するしかないのだが、ジャーナリストは、どうなんだろう。

戦争取材はお金もかかるが、映像は高値で売れる。ドキュメンタリー写真家の森佑一さんは、協力隊でヨルダンに行き、その後写真家に転向した。数年前に内戦下のイエメンを取材したが、金がかかり、殆ど回収できてないと言ってた。ウクライナと違って、イエメンはもともと注目されていない。今回は、うまく回収できるだろうと見守っていたが、現地では取材そっちのけでボランティアをしていたというから、なんとも費用対効果の悪い取材になってしまい、またしてもほとんど回収はできていないそうだ。

そこで、僕たち2人で費用対効果の悪い展示をしようということになった。ま、そういうのもいいんじゃないか?
8月15日(月)~8月28日(火)下北沢のギャラリーカフェ&バー、ルーデンスにて詳細は以下
https://www.facebook.com/events/719106075825835/

しもた屋之噺(246)

杉山洋一

家人の演奏会を聴くため、ミラノから乗った特急でバルレッタまで、アドリア海に沿って南へ下っていて、列車は程なくフォッジャに着こうとしています。つい先ほどまで、燃え立つような夕日が一面を黄金色に染め上げていましたが、今は遠くの地平線あたりが、微かに紅を帯びて浮かびあがるばかりで、そのすぐ背後には、低く漆黒の帳が果てしなく広がっています。ミレーを思わせる薄暗い日暮れのなか、見渡す限り続く田園風景に風力発電の風車が静かに回っていて、その姿は幻想的ですらあります。

 ——

7月某日 フィレンツェ・ポンテ・ヴェッキオ近くの貸部屋
部屋を借りるのを忘れていて、直前になって慌てて劇場近くのホテルを探すが、万事休す。運よくここに無人の部屋貸しを見つけた。とにかく邪魔されずに仕事だけしたかったので、寧ろ都合がよい。昨日の夕食は近くのスーパーで見繕った鯖缶、サラダにチーズにパン。今日の朝食は、昨日買ったスモークサーモンに、湯沸かしで作った茹で卵二つとヨーグルト。怪しげなホテルを取るより安価で充実していて、すぐに食べられるので便利だ。街は観光客の人いきれで、特にこのポンテ・ヴェッキオ界隈は芋を洗うよう。
息子が未だ幼かったころ、二人でフィレンツェを訪ねて、この橋の辺りで写真を撮った。写真を見返すと、彼は小学生半ばのようだが、何故二人きりでフィレンツェに来たのか、全く思い出せない。
リハーサルの合間に、4年ぶりにダニエレと再会する。ボルツァーノで会って以来だ。かの地のオーケストラ芸術監督の任期が満了となり、今年からフィレンツェで手腕を揮っているという。ただこの齢だからね、芸術監督ではなく、あくまでもアドヴァイザー役でね、と謙遜していた。オーケストラの雰囲気はすこぶる良い。第二ヴァイオリンのトップは、まだミラノで学生だった頃からよく知るフランツィスカであった。3年前からここで家庭を築いていて、小さな娘もいる、と嬉しそうだ。昼食は劇場前のバールでモチ麦を食すが、大変美味である。少しくすんだ雰囲気のヴェルディ劇場は重厚なファシズム建築で、ロビーに並ぶどっしりした大理石の円柱が荘重。愉快なのは、昼食休憩中に劇場もシャッターを下ろして閉めきってしまうところだ。午後練習の開始時刻近くまで団員は入口で屯して待っていて、開始5分前に突然シャッターが開いて、皆慌てて雪崩れ込んでいったが、これが日常茶飯事なのだろうか。
 
7月某日 フィレンツェ・貸部屋
昨日のマーラーのリハーサルと違って、ノーノの練習には一貫して、この音を是が非でも引出す、揺ぎ無き信念が必要である。尤も、予想より演奏者の呑み込みがずっと早かったので、とても助かった。何しろオーケストラ団員に雑じって、キジアーナ音楽院の学生もいるから、それぞれ特殊奏法もていねいに説明しなければならないし、強音はどうしてもオーケストラ演奏の常識的範囲で演奏するので、先ずはその先入観を崩し去り、全く新しい演奏の空間を提示し、且つ共有しなければならない。書いてあるものを書いてある通りに演奏するだけでは、恐らく不十分なのである。書いてある記号の解釈をノーノの尺度にまで展開させなければ、演奏は成立しないし、その展開方法を互いに齟齬なく共有しなければ、唯一無二の巨大で強靭な表現とはならない。微分音程も、それぞれが正しい微分音を演奏しようとすると、ただ混沌とした響きしか生まれないが、中心音から各人が耳を使って協和させようと努めれば、互いに離れて配置された7つのグループ通しで4分音のきざはしを渡しあいながら、陽炎のような光度をもった響きが動いてゆくのが見える。一旦4分音の目盛を可視化さえできれば、微分音は思いの外美しく、明確に響く。2000年にエミリオと一緒にプロメテオを演奏した折々の記憶が、不揃いのモザイクのように、陽光を受けながら不規則に明滅する。
練習後、団員に旨い食堂を尋ねると、トスカーナ料理なら劇場裏のOsteria dei Pazziが一番と言う。リハーサルを訪ねてくれた浦部君を誘い、ごくシンプルなトマトのパスタSpaghetti alla Carrettieraを頼んだが、余りの美味に驚愕する。
トスカーナ地方、特に内陸部のフィレンツェ近辺で残念なのは、この一帯は、やはり肉料理が真骨頂であることだ。フィレンツェ風ビフテキは言に及ばず、内臓料理や猪肉のラグーなど、今となっては食べたいとすら思えないのが我乍ら恨めしい。
 
7月某日 シエナ・ホテル
最後にシエナを訪れてから20年以上経つ。どこまでも続くなだらかな丘の稜線が、初夏の光線に眩くけれど、同時にしっとり落ち着いた佇まいも見せていて、気品が香るようだ。10時にフィレンツェ劇場前から皆でマイクロバスに乗り、12時過ぎホテル着。今年の1月、ミラノ国立音楽院オーケストラで弾いていたコントラバスのファブリツィオと再会を喜ぶ。先日、スカラ座のオーディションに最後まで残りながら、最終試験直前にCovid-19陽性で失格となってしまった、と悔しそうに話した。
道中南部訛りの運転手と四方山話に花が咲く。何でも、長くストックホルムに暮らしていたが、当時の妻と離婚し、流れ着くままイタリアに戻ったと言う。子供も2人、スウェーデンの元妻のもとに残してきたそうだ。今は新しいイタリア人のガールフレンドと暮らしながら、シエナで観光タクシーの運転手をやっている。シエナは娯楽が一切なくてつまらない街だ、シエナ人は旧態依然とした、頭の固い連中ばかりだと繰返していたが、かなり変わった観光タクシーの運転手なのだろう。あれで仕事になるのか、気掛かりである。
昨日がパリオ祭だったので、カンポ広場には競馬用の土が残っている。キジアーナ音楽院入口にはノーノの看板が立っていた。最初にここを訪れたのは丁度30年前の1992年7月20日前後で、その時に初めてドナトーニとも知合った。30年後に演奏会のために戻って来るとは、想像もできなかった。当時は指揮など全く興味もなく、勉強すら未だ始めていなかった。つくづく、人生とは不思議なものだとおもう。
理由は何であれ、こうして再訪すると強烈な郷愁に襲われる。30年前、2か月暮らしたアパートは、今も同じ緑色の雨戸をつけていて、昨日のパリオ祭で優勝した「ドラゴン」チームが、細い路地の2階に誂えられた小さな鐘を、景気よく打ち鳴らす。その周りには若者が賑々しく集い、小太鼓とシンバルで行進の調子を整えていた。
街の風情は以前のままだが、目抜き通りに軒を連ねる店だけが入れ替わっている。一瞬、時間は止まったままに感じられたが、昔は点在していた、場末の鄙びた立ち飲み喫茶など、今や姿かたちもなく、隔世の感を強くした。
歴史的中心街を一回りしたが、食欲をそそるめぼしい食堂は見つからなかった。その代り、ホテルにほど近いOsteria Nonna Gina食堂は素朴な佇まいで、迷わず暖簾をくぐった。
グリーンソースのニョッキと、カボチャの花のフライ、それに玉葱のオーブン焼きを注文したが、どれも心から堪能した。
夕刻、街角に立つと、方々の教会の鐘が美しく鳴り響いていて、そのほのかな彩の端麗さに鳥肌が立つ。シエナが、これほど強烈な印象を搔き立てる街とは、露ほども想像していなかった。
当時、30年後の地球の世情など、誰が予見できただろうか。あの頃はエイズが社会問題になっていて、ヨーロッパを訪れるのすら、多少の恐怖を覚えた。
ふと気が付くと、ホテル横から伸びる、だんだら坂の眺望には覚えがあった。その昔級友たちと連立ち、この道を辿って先の教会へと夜の演奏会に出かけたのである。ウーギとカニーノの室内楽演奏会ではなかったか。今は、この真赤な夕日に染まるトスカーナの丘稜をなぞりながら、鳩やツグミの啼き声を耳にするだけで、思わず涙が零れそうになるのは何故だろう。あの頃、自分は本当に無知で無頓着であった。もしかしたら、当時は当時なりに沢山感動して、一所懸命その瞬間を生きていたのかもしれないが、今や何も覚えていない。
 
7月某日 シエナ・ホテル
ドロミーティのマルモラーダ山から氷河崩落。12人死亡。2004年から2015年の間に、この氷河の割合は30%から22%に減少。今後20年から25年の間に消滅すると予測されている。異常な熱波が原因というが、いよいよ世界規模で気候変動が顕著になってしまった。
 
7月某日 ミラノ自宅
今朝はイタリア全国でタクシーがストライキをやっていて、ホテルからシエナ駅まで、イギリス人の老夫婦と一緒にマイクロバスで送ってもらった。
厳格な審査を通過し、大枚はたいて漸く落掌したタクシー運転証を、今後はウーバーの運転手にも等しく供与、と政府が提案したのだから、タクシー協会が激昂するのは当然である。
シエナからフィレンツェに向かう二両編成のローカル線は、観光客と通勤客が相俟って、文字通りの鮨詰め状態になった。ドアが壊れているのか、10秒ごとに低いアラーム音が鳴りつづけて姦しい。
昨日の演奏会直前、短いドレスリハーサルが終わったところで、第一ヴァイオリンで弾いていた男に声をかけられる。
「最初のリハーサルで、あんたが微分音云々言っていたときは、何冗談言っているのかと笑っていたが、耳が慣れてくると、あんたの言う通り聴こえてくるものなんだねえ。こりゃ驚いた。目から鱗が落ちるとはこのことだ」。
ミラノのタクシーも当然ストライキ中なので、中央駅手前のミラノ・ロゴレード駅で下車し、のんびりバスを乗り継いで帰宅した。昼食を摂り昼寝して、陽に翳りがみえたところで庭の芝刈り。
 
7月某日 ミラノ自宅
昼過ぎ、浦部君と一緒に在チューリッヒでイタリアを旅していた増田君来訪。この処酷暑が続いていて、最初に西瓜とメロンを出して喉を潤してもらった。
今や庭に大きな叢をつくるセージを摘み、玉葱のパスタに加えた。彼ら若者にはサラダと一緒にソーセージなど焼いて出す。増田君はチーズとワインを、浦部君はジェラートを土産に持ってきた。二人とも、何某か方法を見つけて、このままヨーロッパに残りたいと希望している。不安と期待が入り雑じった彼らの話に耳を傾けつつ、その昔、この時期になるとエミリオがたびたび自宅に招いてくれたのを思い出していた。
奧さんや子供たちがヴァカンスで田舎に出かけ、演奏会シーズンも終わったちょうど今頃、適宜あり併せの食材で、シンプルながら美味な料理を、手際よく用意してくれたものである。
食事も終わり、彼らを送り出そうとする頃になって、外に駐車していた青い小さな自家用車のなかで、少年が喚いているのに気が付いた。周りには少年を執成そうとする母親が姿もみえるが、手に負えず困り果てている。喚く、というより泣き叫んでいるようでもある。事情は判らないが、兎も角悲嘆に暮れ、放っておいてくれよ、と怒鳴るばかりだ。
皿を洗い終わっても未だ叫び続けているので、流石に心配になって、水筒に氷水を入れ、母親のところへ届けに行った。
「大丈夫ですか」と尋ねると、母親は「大丈夫ではないどころか、彼は今絶望の淵にいるのよ」と深く溜息をつき、頭を抱えてしまった。聞けば、子供のように喚き続ける少年は実は既に18歳で、恋煩いに嘆き苦しんでいると言う。相手の少女は未だ15歳で、彼女の両親が交際には若すぎると反対していた。
「兎も角わたしが届けても取り付く島もないので、申し訳ないけれど、あなたがこの氷水を届けてやって貰えないかしら」。
相変わらず車中で泣き叫ぶ少年のところに赴き、「ほら、氷水だよ」と水筒を差し出した。すると、突如泣き止んだかと思うと、「ありがとう」と素直に受け取ったのには、寧ろこちらが驚いてしまった。余程喉が渇いていたのか、一心不乱に喉を鳴らして飲み始めたので、安心して家に戻った。
すると、すぐに浦部君から電話がかかってきた。何でも増田君が拙宅にパスポートを置き忘れていったらしい。彼はチューリッヒ行の長距離バス乗り場で気が付いたらしい。
確かに床に黒の書類入れが落ちていたので、慌ててそれを拾って、自転車でロット駅まで届けようと玄関を出たとき、前の中学校庭のあたりを、件の少年が静かに歩いていた。
彼はやさしく車椅子を押していて、凛とした風情の黒人の少女が坐しているのが見えた。
 
7月某日 ミラノ自宅
目を覚ますと、家人から「あべさんがうたれた」とメッセージが届いていた。夕方のレプーブリカ紙には「日本のSP、犯人に気づかず」とある。
町田の両親はワクチン4回目接種。引続きファイザーとのこと。母だけ青痣が浮き出てきたが、副反応はないらしい。
息子は東京から愉しくシエナの外国人大学のオンライン講座を受けているそうだ。ミラノ生まれだから伊語の発音ばかり良くて、しかし内容が伴なっていない、と本人は気にしているらしい。
 
7月某日 ミラノ自宅
昼前に歯科に行き、残っていた一方の親知らずを抜歯。その場で抗生物質を飲むよう指示され、錠剤を口に放り込む。しかし、麻酔が効いていて薬が口に入ったか、呑み込んだかも判然としない。話すこともままならないが、それでも何とか看護婦にその旨を伝え、口を覗き込んでもらって、薬を無事呑み込んだことを確認。ロシアからドイツへのガス供給停止。
 
7月某日 ミラノ自宅
余りに日中が酷暑なため、日暮れを待ってマリゼルラの家を訪ねる。先日のシエナの話を彼女が聞きたがったからだが、会ってみると、思いがけず戦争の話ばかりになった。
マリゼルラの父は調律師であった。パルチザンではなかったが反ファシストで、黒シャツ隊が通りかかっても敬礼もせず背中を向けていたと言う。ファシストたちに告発されると、彼らの家のピアノを無償で調律しては、見逃してもらっていた。
戦時中、彼らファシストは、ユダヤ人など強制収容所に連行された家族から、留守宅の鍵を預かっていたのだが、実際は留守宅から家財を盗んでは売飛ばしていたという。マリゼルラの父は殆ど戦時中の話をしなかったそうだが、彼らを警察に告発しなかったことを最後まで悔やんでいた。
自宅の入っていたアブルッツォ通りのアパートは爆撃で崩壊したが、マリゼルラや彼女の兄、母親は疎開していて、父親は防空壕に避難していて無事であった。崩落したウクライナのアパートの写真を見るたび、当時のミラノを思い出すと言う。大戦中、ミラノはイタリアのなかで最も爆撃を受けた都市の一つであった。
ロマーニャ地方出身のマリゼルラの母は、若い頃、むしろファシスト党の婦女子社会協力隊の活動を愉しみにしていた。それが友人と外出できる唯一の機会、という他愛もない理由からだが、友達と気兼ねなく話せる貴重なひとときが、実はファシスト活動と知ったのは、それからずっと後、マリゼルラの父と結婚して、ファシズムの事実を理解するようになってからだった。
女性に初めて選挙権が与えられた時は本当に興奮して、彼女は朝の7時から投票所入口の階段に座って開場するのを待っていた。そんな時代であった。
43年1月にマリゼルラが生まれたのは、当時ムッソリーニが創設したばかりのニグアルダ病院であった。その日は大雪で灯火管制がひかれていて、マリゼルラの父親はロレートから遠く離れたニグアルダ病院まで、生まれたばかりの娘見たさに、雪の中を必死に歩いてきた。
戦争が激化し、彼女の母親はマリゼルラや彼女の兄を連れ、故郷のロマーニャ地方に疎開していた。しかし或る時、このままどうせ死ぬのなら家族一緒で死にたいと心を決め、幼い子供たちを抱えて、夫の待つミラノに戻ったという。
 
ロレート広場に吊るされたムッソリーニの死体を、母親は子供たちに見せたがらなかった。それでも彼女の兄は、一度通りかかって目にしてしまい、その姿は目に焼付いたまま今も取れないという。昨今のウクライナ報道を目にするたび、マリゼルラは両親の話を思い出す。もし母が存命だったらどれだけ悲しんだか、と声を落とした。
戦時中、国立音楽院の教師はファシスト党に忠誠を誓わなければ教職を続けられなかったが、それを拒否して身を潜めるものも多かった。そんな中にあって、音楽学者フェデリコ・モンペ―リオ(Federico Mompellio)は、図書館に保存されていた貴重な自筆譜資料全てを、自らの手で運び出し戦禍から守った。彼は反ファシストであった。
53年にマリゼルラが国立音楽院に入学したとき、爆撃を受け大破したままだった大ホールは、ぽっかり口を開いた巨大な穴でしかなかった。ミラノ市民が真っ先に再建したのは、スカラ座劇場であった。
再建されたヴェルディ・大ホールの杮落しには、音楽院の全学生、全教師、全関係者が集って、演奏会を催した。弦楽器、管楽器などオーケストラに参加できる学生、教師は全員オーケストラに参加し、マリゼルラらピアノ科学生などは合唱に参加し、国歌やその他の作品を演奏したというから壮観だったに違いない。その中には恐らくドナトーニも教師として参加していた筈だが、当時は互いに顔すら知らなかった。
ドナトーニが住んでいたヴェローナは、ナチス傀儡政権のサロ共和国のすぐ隣にあったので、若者はSSに捕らわれないよう、1年間は防空壕や教会などに隠れて、息を潜めて暮らさなければならなかった。SSはドナトーニくらいの若者を捕まえると、すぐさまファシスト軍の兵隊として前線に送り込み同郷人との戦闘を強制した、今日のドネツク共和国の内情は、実際どうなのだろうかと、考え込まずにはいられない。
ドラギ首相、2回目の辞職願をマッタレルラ大統領に提出。ドラギ首相を見ていると、先般の菅総理の姿と重なる部分が多い気がする。就任から辞任まで、立場は随分違うけれども、どこか近しいものを感じる。
 
7月某日 ミラノ自宅
異常気象で水不足が続く。スペイン・ポルトガルでは熱波により既に1700人死亡の報道。ミラノの北部鉄道では車両の冷房故障などが相次ぎ、軒並み運休。空港職員のストライキと相俟って、イタリアでは空の便400便欠航。ミラノ地下鉄パッサンテは来週火曜まで運行停止。世界保健機関がサル痘緊急事態宣言発表。
国会で万雷の拍手に迎えられたドラギ首相は、感激のあまり、思わず「中央銀行員の心も、時として動かされることがあります」と述べた。余り感情を表に出さない、彼らしからぬ言葉であった。この一週間ほど前に、彼は自分のお気に入りの笑い話として、次のようにスピーチしていた。
心臓移植患者に向かって主治医が言う。「ここに二つ心臓があります。頗る壮健な18歳スポーツマンの心臓と、84歳中央銀行員の心臓。あなたはどちらをご希望ですか」。
「先生、そりゃもちろん84歳の中央銀行員の心臓です」。
「おや、それはまた何故です」。
「今まで一度として使われてないからですよ」。
心と心臓はヨーロッパ語では同意である。
世界銀行や、イタリア銀行総裁、欧州中央銀行総裁を歴任したドラギらしいスピーチであった。
 
7月某日 ミラノ自宅
家人が演奏会のためにミラノに帰宅したので、息子は東京に一人で滞在中である。こちらから連絡をしても、返事も寄越さぬ彼が、突然ヴィデオ通話をかけてきた。画面にはラーメン店の自動券売機が映っていて、どうやって買えばよいのか、どれを買えばよいのか判らないと言う。「ラーメン」を選ぶと麺だけ出てくるのではと心配している。
食べ始める段になって、どこから食べ始めたらよいかと改めてメッセージを送ってきた。蘊蓄を詰め込みすぎているのだろうか。順番など決まっていないと言っても、納得していない様子であった。
食べ終わったところで、改めてメッセージが届く。スープは全部飲まなければいけないのか、と至極心細い風情である。当然ながら、飲みたくなければ残してよし、と返事を認める。ところで、ラーメンは旨かったかと尋ねると、食べる時に麺を啜れないのが恥ずかしいし、味もしつこいので余り好きではないとのことであった。
 
7月某日 ミラノ自宅
「ウクライナのバラードUkrainian Ballade」自作自演。
ウクライナ・ナショナリストの行進曲”We are born in a great hour”とウクライナ国歌、ギリシャ正教葬送歌断片をもとに作曲。これを書かなければ次の作曲ができない、単にその衝動に駆られたものだ。書かずにはいられなくて作曲したため、誰に演奏を頼むわけにもいかず、結局自分で弾いて簡単に録音した。数音間違えてしまったが、さほど気にもならない。自己満足と言われればその通りだと思うし、音楽作品として成立しないと批判されても、特に返す言葉も見つからない。自作自演の録音など、大学時代の焼酎のコマーシャル曲以来である。
それでも、ヴァイオリンのアルテンはとても感激していたから、やはり書いてよかったと思う。彼が未だキーフに戻らずここに居るのを知って、少し安心した。弾いたものを聴き返しても、陰鬱なばかりだから、演奏会で聴きたいとも思えない。社会的な主題に則りつつ、作品から社会性が根本的に欠落している。そういう音楽の成立もまああるのだろう。
我々はどこに向かうのだろう。我々が長年培ってきた文化や文明に、未来はあるのだろうか。
(7月31日 レッチェ行特急車内にて)

影の輪郭

高橋悠治

指を伸ばして触れた感じ。指がすべって先へ行く。先は見えない。手は動いて、向きが変わっているかもしれない。手首から先のどこかへ伸びてゆく、指先の触れたところの冷えた手触りが、たちまち慣れた滑らかさに消されていくうちに、古い鏡が曇りながら描き出す地図は、鉛筆を持った手を、眼で追いながら紙の上を辿る物の輪郭とはちがう。眼を向けないで、頭の内側で膨れ上がっていく形のない動きの蝋の積もる滴り。

物音が一瞬途切れた時、耳の奥で張りつめる蝉の声。一度気がつくと、物音のざわめきの裏にその唸りが張り付いているばかりか、首から肩へ、左右の空気に滲み出し、細波を立てて囲みかかってくる。

物の縁を光らせる輝きの線ではなく、縁の外側にある見えない空気の側からぼんやり霞んでいる、何もない空間の縁取り。音が始まる前、また途絶えた後の、聞こえない窪みに薄く辿る北の木魂。

直接考え、書き表し描き出せない、言葉を連ね論理の鎖で示せない、一つのイメージ、ひとこと、響きの崩れで、それではないところに心を向けることが、できるのか、届かず落ちる弾みが、消える姿でそこにあるはずのない輪郭を顕すのか。そこには、「なぜ」もなく、「どのように」もありようのない、1音の次の1音、というより、一手の次の一手、どこへとも知れず彷徨う手の偶然の出会いを待つしかないように思われる。ただし、音もそれを運ぶ手、聞き取る耳も、静まり、細い小径を乱さないでいられるならば…

2022年7月1日(金)

水牛だより

こんなに暑い夏のはじまりはさすがに経験したことがありません。暑さや雨の少なさに加えてコロナ感染者数の増加も心配ですが、それでも日々は過ぎていきます。
タイの映像作家として有名なアピチャッポンは、あるインタビューのおしまいに「ただずっと何もしないでいるのがいいんだ。それがぼくのまわりの自然と、この現在とリンクしている」と言っています。考えるのではなく、何もしないで感じるのだ、と熱帯の人におしえられたような気がします。

「水牛のように」を2022年7月1日号に更新しました。
ここ一週間ほどの猛暑のせいか、今月はおやすみします、というメールが何通か届きました。しかたのないことです。杉山洋一さんやアサノタカオさんのように日記をつけている人はこういうときにはとりわけ強いと感じます。もっとも杉山さんはミラノにいるから、この暑さとは関係がなさそうですね。

さて、今月のビッグ・ニュース。7月21日にイリナ・グリゴレさんの本が出ます。『優しい地獄』というタイトルで亜紀書房から発売です。イリナさんと初めて会ったその日に、日本語による彼女の本を作ることが目標として立ち上がりました。数年という時間がかかってしまいましたが、ようやくその責を果たすことができて、うれしいです。一冊にまとまってみると、連載のときとはまた違って、イリナさんのこれまでの生きかたが鮮明になり、より興味深く読むことができます。日本語でなければ書けなかった本です。どうか楽しみに待っていてください。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

ジャワの物語(2)ラーマーヤナ

冨岡三智

ラーマーヤナは言うまでもなくインド起原の叙事詩で、4世紀頃までにヴァールミーキによりまとめられた。しかし、その冒頭の、主人公のラーマ王子がヒンドゥーの神ヴィシュヌの転生として誕生する場面と、最後にヴィシュヌ神に戻って昇天する場面は後世に別の作者によって付加されている。物語の主な内容は、森に追放されたラーマ王子が、魔王ラウォノにさらわれた妃シンタを取り戻すため、猿の援軍を得て魔王の国に乗り込み、魔王らと戦って王妃を奪還して国に戻るという話である。

ラーマーヤナは東南アジアに9世紀頃に広まった。ジャワ島中部にあるヒンドゥー寺院プランバナンの回廊にはラーマーヤナの物語のレリーフがある。が、ジャワはその後イスラム化するので、ラーマーヤナを題材とする舞踊作品が多く作られ始めるのは1961年にプランバナン寺院で観光舞踊劇『ラーマーヤナ・バレエ』が始まって以来だと思われる。『ラーマーヤナ・バレエ』については今までも何度も書いているので今回は省略して、今回はコンテンポラリ舞踊作品に描かれたラーマーヤナを紹介したい。

●サルドノ・クスモ『サムギタ』(1969)

振付家のサルドノは『ラーマーヤナ・バレエ』で初代のハヌマン(白猿)を務めたが、元々は宮廷舞踊家クスモケソウォ(『ラーマーヤナ・バレエ』の総合振付家でもある)の弟子である。『サムギタ』はインドネシアのコンテンポラリ舞踊の嚆矢とされる作品で、ラーマーヤナの中にあるスグリウォとスバリという2匹の猿が戦うエピソードをテーマとしている。1969年のジャカルタ初演時は伝統と現代の融合したものとして好評だったが、1970年にスラカルタで再演された時には舞台に腐った卵が投げ込まれ野次が飛ぶというセンセーショナルな反応で、一躍伝説的な舞台となった。舞台背景を女性が開脚した形にして、その股間部から踊り手が入退場するようにしたという点は、スラカルタの観客には抵抗が大きかったようである。修士論文調査をしていた時に当時の関係者にいろいろと話を聞いたのだが、ともかく師匠のクスモケソウォには全く受け入れられず、他の弟子たちも師の怒りを恐れて舞台に参加できなくなったり、見に行けなくなったりしたという。卵を投げた陣営の人も私の留学先の芸大教員の中にいたのだが、その話によると、やはりブーイングをしたのはサルドノらと競い合っていた芸術団体の人たちだとのこと。熱い時代だったのだな…と思うのだが、ここは何といってもサルドノの勝ちである。新しいものを目指した舞台が首都で好評だったというだけでは伝説的な舞台にはならなかっただろう。偉大な宮廷舞踊家の師匠と対立し、破廉恥な舞台装置に怒った保守的な都市スラカルタの観客に腐った卵を投げつけられる…というストーリーが成立したからこそ、サルドノはカリスマ的存在になった気がする。

●サルドノ・クスモ『キスクンド・コンド』(1989)

これもやはりサルドノのコンテンポラリ作品で、これもまたスグリウォとスバリのエピソードがテーマである。もしかしたら、サムギタとテーマは通底するのかも…と今になって気づいたが、まだ確認できていない。この作品は『<東西の地平>音楽祭III ガムランの宇宙』(1989年、東京)で上演され、私も見に行った。プログラムによれば、物語の内容は、母の所有するアスタギナという聖なる箱を取り合う男2人と女1人の武将階級のきょうだいが、その欲望ゆえに堕落するというもの。この2人の兄弟がスグリウォとスバリで、彼らはサルに変わってしまう。これはジャワの影絵で語られるバージョンである。この作品を演じたのはスラカルタの芸大教員の故スナルノ氏とパマルディ氏、そしてスラカルタ王家のムルティア王女の3人だった。男性2人は人間からサルへと変わっていく様子を動きで表現する。後に私は留学してパマルディ氏に男性優形舞踊を師事することになり、スラカルタ王家の定期練習に参加することになるのも不思議な縁だ。

『アフリカ』を続けて(13)

下窪俊哉

 人によっては、自分の書いた原稿を本にしたいとは思っても、他人の書いた原稿にこだわって本にしたいと考えることはないという。個人的な雑誌をつくるのにも似たようなことが言えそうで、わざわざ何人もに声をかけて、一緒につくろうと自分が考えるのはなぜだろう。

 エッセイとか小説とか(私はあまり書かないが、詩とか)、いわゆる文芸作品のようなものを書き始めてから、数えてみればもう24年たつ。自分の作品リストを眺めてみると、多くを自家製の本や雑誌として発表している。それも全て、他所に持ち込んで断られたから自分で出そうというのではなくて、いわば自給自足である。
 人知れず、書き続けてきた。なんて言えたらカッコいいのかもしれないけれど、身近な読者には常に恵まれていたし、恵まれている。24年間、ずっと並走してくれている1人の読者がいるというわけではなくて、その時々で、ふさわしい読者が現れて、道を示してくれる。
 はじめの頃は学生時代で、書いたら、持ってゆき読んでもらっている友人がいた。音楽サークルでの活動を共にしていた仲間だった。ある日、いつものように書き上げた短い原稿を持ってゆくと、すぐに読んでくれて、なぜか文楽の比喩で話をしてくれたのだが、数年後、ひとり暮らしをしていた私の部屋をふらっと訪ねてきて「文楽に応募してきた」と言った。彼はその後、文楽の太夫となり活躍している。片岡義男の本を読みあさるようになって影響を受けたのも、彼に薦められたからだった。
 好きになった女性に読んでもらう、というのはよくあることかもしれないが、もちろん読んでもらった。ある意味、若い頃の原稿は殆どが恋文のようなものだったかもしれない。フィクションになっていたり、街や川や海や山の風景が書かれていたりして、じつに変わったラヴ・レターですけれど。
 そういう読者は、目の前に来た原稿を評価しようとはしない。面白かったとか、よくわからないところがあったとか。それすら言わず、読んだよ、というだけの場合もある。
 自分にとって重要なのは、出来・不出来よりも、また未完成の原稿であっても、そこに何か力を感じてもらえるか、ということだった。大切に扱ってもらえるか、と言えばよいだろうか。そこに何かしらの力を感じられなければ、大切にしようもないだろうから。

 そんなふうに私の場合は、出版業界への憧れとか、作家になりたいとか、そういう動機はなくて、身近にいる大切な人に届けるものとして書き始めた。それが原点だった。そういった営みの先に、たまたま周囲にいた文学者たちからの評価とか、小川国夫さん(先生)との付き合いといったものにも拡がっていったのだった。
 そうなったのには幸運もあったが、それよりも、雑誌をつくる人たちの中に入ってゆき、発表したからだ。どんなに簡素なものでも、本をつくるというのはいいなあ、と思った。
 親しい友人や恋人には原稿を読んでもらえばよいが、本というかたちにすれば、読者との出合いは一気に拡がる。
 1990年代の終わり頃の話である。私はまだインターネットの世界に触れていなかったし、携帯電話すら持っていなかった(今は昔の話になるが、外で電話を受けるのに抵抗があった)。その後、まずは携帯電話を持たなければならなくなり、ノート・パソコンを買ってインターネットの海に漕ぎ出してから、書くことも、本をつくることも変化したようだった(この話はいつかじっくり書きたい)。
 だからその前の時代に、短い期間でも書いて、本をつくる人たちの中にいられたことも私にとって幸運の一部だったかもしれない。

 その頃から読者が、とても大切な存在になった。書く人にとって読者が大切、そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、まだ「これが自分の作品です」と言えるようなものを書く前の書き手にとって、読者の存在をありありと感じられたというのは当然のことではないような気がする。読者というのは自分にとって、身近に感じられる存在だった。読者は、客ではなかった。

 ところで数年前、神奈川近代文学館で花田清輝展を観た。
 そこで展示されていた原稿の中に「古沼抄」というエッセイがあって、その時に初めて読んだのだが、連歌について書かれたものだ。展示されていたのは一部だったので、すぐに図書館で探し出してきて、全文を読んでみた(1973年に「東京新聞」で2回にわたって書かれたものらしい)。
 その時、自分はこんなふうなことを書いている。

 永禄5年(1562年)の3月、三好長慶が連歌の会をひらいていて、誰かが「すすきにまじる芦の一むら」とよんで、一同がつけなやんでいたら長慶が「古沼の浅きかたより野となりて」とつけた、という話を受けて、「かれの生きていた転形期の様相を、はっきりと見きわめていたことを示した」「思うに、時代というものは、そんなふうに徐々に変わって行くものではあるまいか」と書いたあと、芭蕉の「古池や〜」よりこちらの方がスケールが大きいような気がする、それにはこれが連歌の一部であるというのが大きくて、と「共同制作」への考察へとうつってゆく。

 どうして現代の文学は、制作をひとりでやろうとするのか?

 ひとりでやることには限界がある。いや、ひとりでやる文学はちっちぇえ。と、言いたい様子でもあり、ああでもない、こうでもない、とことばを尽くしてくれている。(2019年2月18日のnote「古沼と共同制作」より)

 自分にとってある種の読者は共同制作者なのではないだろうか。雑誌をやると、そこにかかわる人は皆、読者=共同制作者になる。数人でも集まれば、1人の意思を超えた「場」がうまれる。そこで行われるコミュニケーションには共鳴もあれば、反発もあるだろう。しかし私が本当に面白いと思うのは、何か狙いからは微妙にズレたものが現れてくることだ。そうしたズレを、私はたいへんありがたく受け取り、より深く感じられるようになりたい。

 先日、ある方から「『アフリカ』は手に取って、ひらいて読んでみないと何が出てくるか本当に予想できない」と言われて、ははあ、そうなのか、と妙に感心してしまった。予期せぬものを、『アフリカ』は待っているのかもしれない。そんなふうに言うと、ミステリアスな雑誌なんですね? どうかなあ。

212 発見と状況

藤井貞和

一個の反省とは、発見とは、内心を無防備に、
道義で満たす? 古いよな、でも、
実存を既存から解放する。 「実在へ、だろ?」、
軍務のあいだ、ずっと背嚢に隠しおおせた、
『死者の書』(折口信夫)でした。 あなたの、
自死を救えなかった戦後に、悔いこそ残れ、
戯曲と詩との会話です、50年代。
真(まこと)らしさでなく、真そのもの、
荒地らしさでなく、荒地そのもの。
芸能史の、清らかな恋からの、
敗戦を超えられなかったのか、時代は、
60年代という状況へ向かいます。

(新井高子さんの『唐十郎のせりふ』(幻戯書房)という本のオンライン書評会に「参加」して、やや感想を書いたので、以下に貼り付けます。「発見」(発見の会)、「自由」(自由舞台?)、「状況」(唐さん)など、ぼんやり考えていると、私の枯渇からわりあいだいじなことがらが出てきたもようで、この際、あと出し感想を述べさせてください。民間も伝統も、日本芸能史はまっぷたつで、相容れないですね。一つはお能で、もう一つが歌舞伎です。前者は山からというか、神楽を含み、「うたい」で、楽器は鼓とか笛とか、権力者にくいこみ、宗教的にも上層部にくいいり、たいへん。後者は「かたり」で、琵琶や三味線、海からで、人形ぶり(文楽、浄瑠璃)、街道すじ、下級芸能者、差別され、これもたいへん。山本ひろ子さんが演劇を不得意だとするのも、摩多羅神が鼓を持つのも、全部、符合するからおもしろい。渡辺保さんは歌舞伎ですが、『唐十郎のせりふ』にびっくりした理由がわかる気がする。で、私はお能派? 歌舞伎派? どちらもです、はは。清濁あわせ呑む、です。私は奈良びとで、金春さんの文化。小学生の習い事のひとつに謡いがあり、同級生が何人も毎週、かよい、かれらは子方や仕舞をやってました。私はうらやましくて、母親に訊いたら、謡い本をひらいて、「経政」など、謡ってくれました。観世ではこう謡うんだと、金春さんとの違いを、小学生には高級なレクチュアでした。薪能など、かぶりつきで観るような子だったので、祖母が京都へ、能舞台(初めて)の能を観に連れて行った。演能のおわりごろに、紋付きの方がうしろに出てきて座るので、あれは何だとあとで訊いたら、「こうけん」という、偉いひとが出てくるんだと。あれはだれだったのかな、もしかしたら喜多六平太、年代が合わない、もしかして金剛巌、写真で見るとちょっとちがうかな。70年代には三信遠に神楽系の芸能を追っかけ、80年代になり、琵琶法師を九州に追いかけ、結果的に清濁合わせ呑むにいたった次第です。『唐十郎のせりふ』は、60年代の状況劇場(花園神社、新宿西口公園事件)から現代へ、橋が架けられました。状況と言えば、「恭しき娼婦」や「蝿」「悪魔と神」、サルトルの演劇から唐さんははいったかと思っていました。サルトルその人が声明に言う、「あの連中は、自分と無関係さ」。でも、あの連中とは『存在と無』の愛読者なのだから、と。『加藤道夫全集』より。)

素描

璃葉

用事を終えて帰宅した瞬間、少し目眩。どうやら軽い熱中症になってしまったようだった。ということで、今日はすべてを諦めて部屋でぐうたらしている。幸せである。水をがぶがぶ飲んで横になっているうちに眠ってしまったようで、目を覚ましたころには少し陽が傾いていた。

夢を見た。延々と石膏像の素描をする夢だ。
中学生のころ、受験のために絵画塾の夏期講習に数週間通っていたことがある。白い壁、白い床、青白い照明。何の色気もない事務テーブル、丸椅子、イーゼル、他の生徒の作品などが雑然と並べられている。そしてひたすら、その空間の中で石膏像の素描をしたのだ。画溶液の匂いだろうか、きっと絵画に関わっている/いた人ならあの独特な匂いがわかると思う。室内には、少し酸味の混じったような匂いが充満していた。
わたしにとってあの塾の夏期講習は正直なところ、非常に苦痛な時間であった。今まで自由気ままに絵を描いてきたのに、所謂受験のための課題をこなしていかなければならないからだ。学校がつまらないのと一緒で、カリキュラムに沿って、型にはめていくような作業が病的に苦手なのであった。それでも高校は行くべきだと思っていたし、美術と関わっていくには基礎を学ばなければならなかった(と当時は意外と真面目に考えていた)。
講習中は頻繁に鉛筆を削りながら、空が青い…外は陽射しが強くとても暑そうで、蝉の声が響いているな…漫画読みたいな…などとどうしようもない現実逃避をしていた。ヴィーナスの胸像を眺めながら、何のためにわたしは絵を描いているのか、と考えだす始末だった。とんでもなく辛抱できない奴なのであった。夏が苦手なはずなのに無性に外に出たくて、陽の光を浴びたかった。基礎を学ぶ重要な時間なのは事実だったし、自分で選んだ道なのにも関わらず。忍耐のないわたしには1日中その場所に縛られていることは地獄でしかなかった。無機質な部屋から家に帰ったときの安堵感といったら。なんかやたら空や森の美しさに感動していたような気がする。
とはいえ、嫌だ嫌だと思いながらも一応講習は乗り越え、先生方ともうまくやれたし、私のなかでは若きころの唯一頑張った小さな試練として記憶に残っている。

ちなみに、今となっては素描ほど楽しいものはないな…と思っている。対象物をじっくり観察して、無心で何種類もの尖った鉛筆で陰影をつけていく作業は、ちょっとした瞑想に近い。うるさい思考が静かになっていき、身体の芯が整う気がする。最近そういう作業と距離が遠くなっているからか、時々やりたくなることのひとつになっている。だから夢に出てきたのだろうか。このひどい暑さも作用して。

しもた屋之噺(245)

杉山洋一

ここ暫くミラノのある北イタリアの旱魃は深刻で、昨日はミラノの大司教が干乾びた畑に赴き雨乞いの儀式を行った、とニュースになっていました。感染症で社会は疲弊し、戦争により物流は滞り、物価はさらに上昇し続ける。この下半期に向かってアメリカと欧州、ロシアと中国にますます二極化が増しているようにも感じます。

 —
 
6月某日 ミラノ自宅 
相変わらず、すっかり溜まった補講のため、毎日日がな一日学校でレッスンし、困憊して夜帰ると草臥れて居間で眠り込み、夜半に全音解説文執筆。弁当を用意するため朝は6時過ぎには起床する。夕食は家人が用意してくれるので、弁当はこちらの当番である。さて、書きあがるのか。
「シチリアの晩鐘」で強調されている言葉「祖国Patria」「故郷の地Suolo, Terra」「復讐Vendetta」。この諍いの発端は、現地の妙齢への性的暴力だったが、13世紀の当時も今も侵略者との戦いの本質は変わらない。
愕くべきは、Covid以前は誰もが13世紀より文明や社会形態は進化し、世界をつなぐ距離感もますます縮まると信じて疑わなかった。様々な世界条約を採択する国際機関もつくった。
世界規模の感染症が起きれば、人々は以前の感染症と同じように慄き、代理戦争が始まれば、今まで12時間で往来していた航路も、飛行距離は伸びて、軽く6時間以上加算されてしまう。飛行機の切符も、燃料の高騰の煽りを受け、目を疑う値がつく。
我々が妄信していた文明の進化発展など、せいぜいこの程度のものなのだ。起きるはずのなかったヨーロッパへの戦争が始まり、このまま戦争と自然現象で「起きるはずのない」事象が続けば、まもなく世界の大部分から人間はいなくなるかもしれない。それでも何某か生き延びる人はいるだろうけれども、彼らが我々の文明をどう解釈し、理解するのか、興味深い気もする。
我々の未来は、案外、我々が生きるこの文明の先にはないかもしれない、そんなことを、この数年間で考えるようになった。誰が悪いわけではなく、我々全てが、地球の崩壊に何らかの形で加担している。
 
 6月某日 ミラノ自宅
木戸敏郎氏もとい文右衛門氏のミラノ・サローネ個展に出かける。数年前に「虚階」を拝見したときより比較を超えて世界が広がっていて、瞠目する。木戸さんの芸術に対する天命には、以前から国境など存在しなかったし、時空間も自在に絡めとられていた。だから、以前文右衛門氏の「虚階」を見ると、決まってパレルモで通った「古代地中海文明博物館」陳列品を無意識に想起した。
古代ギリシャ人に通じる、大らかな人間賛美や自然愛を見出したからかもしれないし、時間を超越して、案外木戸さんは古代ギリシャ人と同じものを見ているのかもしれない、とも思う。
数年ぶりに「虚階」を拝見すると、彼の世界は、我々の住む、この地球がぽっかり浮かぶ宇宙空間にまで拡張していた。以前の氏の姿勢そのままであって、ただそれが限りなく拡がり続ける。貪欲な欲望がそうさせているのではない。それはまるで、無重力で、最初に弾みをつければ無限に走り続ける、ひとつの台車のようでもある。
矍鑠とした文右衛門氏に感銘をうける。生まれた頃から知っている林太郎が、今や立派に通訳を務めていて、思わず胸が熱くなる。
 
6月某日 ミラノ自宅
市立音楽院のレッスンが終わって、ブラームスの交響曲第1番について家人の考察がふるっている。
「何がすごいって、30分以上演奏した挙句の果て、漸く最後の和音まで辿り着くと、目の前にまるで新しい世界が啓けていると知ることよ」。
最後の和音を弾き終わったとき、気が付くと新しい人生の章が捲られている。達成感よりむしろ、人生に対する肯定的畏怖に近いものか。
 
6月某日 ミラノ自宅
湯河原の法事から帰ってきた父と話す。親戚が集う祖父母の法事は、今回が最後だろうという。年齢的に当然でもあるし、責任の一端も感じているが、親戚が揃う機会を失うのは無念でもある。「仕方ない」、この言葉が跋扈して、自分に近しかった日々の温もりが少しずつ冷たくなってゆくのは、どうにも寂しい。
この夏、ミラノに戻る前に墓参だけはするつもりだが、その際、叔父や叔母の顔だけでも見ることができれば嬉しい。
思えば、子供の頃はずいぶん湯河原に通ったし、祖父母にも叔父叔母にも大層可愛がってもらったとおもう。
夏の間は祖父が海水浴客に「海の家」を出していて、自家製の叉焼をのせたラーメンが本当に美味であった。手羽や野菜を大鍋で煮だしたスープを注いで、ラーメンを作っていたが、今思い出しても、あの「海の家」調理場裏で、ビールケースに座って一人で食べるラーメンは至福の一時だった。
あの叉焼は家ではおかずになっていて、少しソースを垂らして食べると、幾らでもご飯がすすんだ。後年、東京のあちこちのラーメン屋で叉焼を頼んでは、あの祖父の味を探したが、二度と出会うことはなかった。
 
6月某日 ミラノ自宅
一年のレッスンが終わって、生徒たちとバールで歓談。南イタリア、カラブリアからやってきたガブリエレは、Castrum Soundという民謡バンドでアコーディンやオルガネット、チャラメッラやザンポーニャを弾いている。夏の間に60回ライブの予定。今までロンドンやパリのシャトレ座でもやってきたんです、と自慢げである。
現在でも、カラブリアでは、若者がダンスホールで、民謡に合わせて踊るのは盛んだそうで、まず夕食後は市内のダンスホールでタランテルラなど踊った後、大きな街のディスコテカなどへ繰り出して夜が更けるまで愉しむのだという。
チャラメッラは、日本のラーメン屋台で3音だけ使って客寄せに使う、日本のチャルメラという楽器の原型、と説明すると大笑いしていた。
家に帰って調べると、日本のチャルメラは中国から伝わった嗩吶を、江戸時代に訪れたポルトガル人がチャルメラと呼んだもので、正確にはチャラメッラとは別物であった。尤も、遥か昔は同じ楽器から生まれたものには違いない。
ガブリエレ曰く、カラブリアには今も昔ながらの愉快な風習が強く残っていると言う。
彼の故郷の村の中心に、30軒ほど固まって誰も住んでいない一角があって、モナキッド(U monachiddo)という僧侶の格好をした小人が原因だ。
南イタリアのあちこちにこのモナキッドの言伝えがあって、それぞれ少し内容が違うそうだが、ガブリエレの村のモナキッドは、一方の手は柔らかくもう一方の手は鉄で出来ていて、夜半寝静まったころにこのモナキッドが街を徘徊し、目ぼしい家々を訪ねては、主人の枕元にふっと立つ。家の主人の頬を柔らかい手で撫でれば幸運になり、鉄の手で撫でればその家には不幸が訪れる。
それが理由で界隈が無人化するのは不思議だが、現在そこは男女の密会に使われ、麻薬中毒者の巣窟となっている。
その呪いは解けないのか尋ねると、彼の母ができると言うではないか。ガブリエレの母親は代々呪術師の血筋で、何かにつけて村人に頼られている。
その呪いはクリスマスの夜、決まった教会の決まった場所でのみ口伝することが許されていて、そのあとの公現祭(エピファニー)の際、何某かの儀式をして免許皆伝となる。
キリスト教と土着の風習はあまり関係ないらしいが、村の鎮守神にイタリアと日本の違いはないのだろう。
 
6月某日 ミラノ自宅
ドナトーニの誕生日なので、マリゼルラにメッセージを送る。もうすぐシエナのキジアーナ音楽祭の演奏会がある。最初にドナトーニとマリゼルラに出会ったのは、まだ日本の大学に通っている頃、夏季講習会を受けに来たキジアーナ音楽院の広い教室だった。最後にドナトーニと遠出したのも、このキジアーナ音楽院だった。ドナトーニが引退して、当時はコルギが作曲講師を担当していた気がするが、或いは記憶違いかもしれない。
マリゼルラから、自分一人だけで旅中フランコの世話をするのは不安だ、と頼まれたような気がする。音楽院へむかう昇りの石畳を、必死に肩を貸して歩かせたことと、その時とても暑かった記憶だけが、鮮明に脳裏に残っている。
遥々ミラノからシエナまで、きっとマリゼルラの車で移動したはずだ。大層な距離で大儀だったはずなのに、どうして何も思い出せないのだろう。シエナを訪れるのはあの時以来だから、かれこれ20年以上の歳月が流れたことになる。
色々想い出もあって、むやみに触れたくない場所だったのかもしれないし、単に巡りあわせで時間が徒に過ぎただけかもしれない。
 
6月某日 ミラノ自宅
ルカ・ヴェジェッティから連絡を貰った。2013年にミラノ市立演劇学校で彼が演出した、パゾリーニのバレエ未完作Vivo e coscienzaの再演だという。
「Vivo e coscienza」は1960年代に作曲のマデルナと女優ラウラ・ベッティのために書き始められ、未完のまま残されたもの。今回使われたテキストは、パゾリーニの文章を当時養老院で過ごしていたフランチェスコ・レオネッティが朗読したもの。
レオネッティは生前パゾリーニとともに雑誌「オッフィチーナ」を刊行し、「奇蹟の丘」をはじめ、多くのパゾリーニの映画にも出演した前衛作家だが、レオネッティは当初、老衰ですっかり惚けてしまっていて、会話などできる状態ではなかった。ところが、ある時突然意識が戻って語り出すと、そのまま一語一句も直すことなく、完璧に朗読したというから驚きだ。そして、語り終わった途端に意識は再び混濁し、まるで別人になってしまった。
市立演劇学校も市立音楽院も同じ財団によって運営されているが、違う場所にあって、何しろ雰囲気もまるで違う。演劇学校は音楽院よりずっと開放的で、いつ訪ねても心地が良い。
音楽院は学校内は未だマスク着用が求められているが、演劇学校でマスクをしている人は数えるほどしかいない。性的少数者への理解も進んでいるようだが、音楽家に比べて気にする人も少ないのだろう。
とは言え、担当の音楽院の授業では、クラスにいた妙齢4人はそれぞれ二人ずつのカップルになっていた。先日、試験の折、初めて顔を合わせて知ったのだが、別に彼女たちも隠していなかったし、誰も気にも留めなかった。
市立演劇学校では、数カ月ぶりでロッコにも再会した。ブソッティが亡くなった直後、フィレンツェで会って以来である。近況を尋ねると、毎日一枚ずつ、シルヴァーノの絵や楽譜の表紙をスキャンしては、フェースブックに載せているという。
今日は「小鳥さんUccellino」の表紙を公表した、と嬉しそうであった。「小鳥さん」は、ブソッティが最後に東京を訪れた際、自ら歌って披露した、可愛らしい歌曲である。
 
6月某日 ミラノ自宅
サンタンブロージョ教会からほど近いダヴィンチ科学博物館の、ピエトロ・ジラルディのフレスコ画で知られる「会食堂」前室に、1917年製のエラールピアノが置かれていて、このピアノを使い、国立音楽院の学生たちのレクチャーコンサートが開かれた。息子が弾いた「雨の庭」は、ちょっと不思議な体験であった。
冒頭の雨粒は、このピアノで聴くと、小刻みにくぐもった倍音がゆれるような、細かく震えるような、空間を絵筆でかき回したような、まことに霊妙な響きが立ち昇るのだった。そこには、石畳を打つ雨音や、浮世絵状に可視化された驟雨に雑じって、まるで雨の向こうに立ち上る霞や、遠くに浮かび上がる虹まで見えてくるようで、圧巻であった。
「版画」の完成は1903年だから、このピアノより少し年代は前になるが、なるほど彼が思い描いていた雨の庭は、本来はこんなにも具体的に、まるでホログラムのように浮かび上がるものだったに違いない。
息子は、いかにもイタリアらしくドビュッシーを読み解き、演奏してみせた。先生からそう習っているからだろうが、イタリア的な読譜法については、この2年ほど音楽院で特訓してきた、ソルフェージュの影響は少なくないと思う。
傍から見ていると、ここ暫く息子はピアノより余程ソルフェージュにのめりこんでいる体であった。先生が好きだったのか、苦手なソルフェージュが解るようになり、すっかり面白くなったのか。ともかく、観念性を極端に排除した読譜法で、これは素晴らしい伝統だと、家人ともども感嘆していた。
最初に感情で音を読むと、音符そのものが歪んでしまうので、読譜を全く独立した別の生理機構に任せることで、感情のこもった音ではなく、感情を表現する音として、発音することができる。感情のこもった音は、幾ら内部に感情を包み込んでいても、外側は何も感情を顕さないので、感情表現として他者には認知されない。
我々が元来不得手な部分で、日本語は響きが比較的平板で、あまり感情を抑揚に反映させないのを良しとしてきた部分すらある。その分、中に秘められたものの深さや強さに、より心を動かされるのであろう。どちらが正しいというものではなく、結局、美徳は一つではないという、当然の事実と対峙することになる。

6月某日 ミラノ自宅
息子が一人で東京に発つのを見送る。フランクフルト乗継ぎの質問など、何度か電話やメッセージがきたけれど、無事に成田行きに搭乗できた。親切なご婦人が声を掛けて下さり、助けて下さったとのこと。今頃はまだ機中だろう。
急に家ががらんとして、夜半など家が語りかけてくるような、不思議な感じだ。
ロシア軍の精密誘導ミサイルが、ウクライナ・クレメンチュク商業施設を爆撃。
マドリッドの北大西洋条約機構首脳会議にて、ロシアを事実上の敵国と認定。
(6月30日ミラノにて)

侵略から年寄りをまもれ!

さとうまき

戦争で犠牲になるのは女性と子どもだ!と言われるが、TVを見ていると動けない老人を一生懸命車に乗せて避難している光景もよく見る。ウクライナも高齢化がすすんでいるのだろうか。

我が家も父は94になり、母は89になった。戦争が起きたら避難させるのも大変だなあと考えていた。長生きの秘訣は、昔から母が食べ物にうるさかったから。最近ではともかく健康に良いというサプリをたくさん買っている。ところが最近認知症が出てきて、振り込みも自分ではできなくなり、何度も請求書が届く。挙句弁護士からの手紙が入っていて、「法的手段に取ります」と書いてある。僕は、ともかくそういうお金を振り込んで、「今後、一切そういう(怪しげな)ものを送ってこないでください」と電話をする。

いろいろ問題はあるのだが、最近一番頭を悩ませているのは、実家が侵略され、占領されてしまったということだった。そう、まさに戦いが始まっていたのだ。

昔イエメンで買ってきたジャンビアナイフと、シリアで買ったダマス鋼のペーパーナイフを友人に見せびらかしたくなり実家に探しに行ったときのことである。2階に行くと、侵入者によって荒らされていて、まるでウクライナの民家がロシア兵に荒らされたのと同じ状況になっていたのだ。箱に入っていたサプリメントが散乱して食い散らかしてある。そしてクソまでしていったらしい。なんだ、これは! 僕は恐怖に震えた。死体が2体転がっていた。ネズミが住み着いていたのだ。

我々には武器がなく、粘着剤のついたネズミ捕りをしかけておいて捕まえたら処刑する。すでにこの一か月で、彼ら10人(匹)を捕獲して父が処刑していった。しかし、彼らを根絶するには至っていない。サプリメントのおかげで、パワーアップし、繁殖力が半端ないのだ。ケアマネさんからも電話があった。「ヘルパーさんが、彼らの遺体を見て、ショックを受けて倒れてしまったそうです。このままでは、ヘルパーを送ることはできません」彼らは、精神的にも揺さぶりをかけてくる。台所から、寝室やリビング、あらゆるところを自由に動き回り糞を落としていく。もう許せない。こちらとしても総攻撃をかけて彼らを根絶やしにしてやる。最終決戦はすでに始まっていた。

薬味とは

篠原恒木

おれは「違いのわかる男」である。
なにしろ「クワイ河マーチ」と「大脱走マーチ」と「史上最大の作戦マーチ」の三曲を、混同せず瞬時にハミングすることもできるのだ。これらの違いをすぐにわかる男はそうザラにはいない。
「クワイ河マーチ」は、タタ、タタタ、タッタッターだ。
「大脱走マーチ」は、タタ、タタータ、タタだ。
「史上最大の作戦マーチ」は、タタター、タタタ、ターターである。
こう書くと、違いがまるでわからないのがもどかしいが、とにかくおれは違いがわかる男なのだ。

おれの妻はときどき携帯電話にメールを送って来る。大概の場合、その骨子は、
「会社から帰って来る時に買い物をしてきてくれ」
というものだ。
だが、違いのわかるおれでも、彼女のメールはさっぱりわからないことがしばしばある。先日には次のようなメールが届いた。
「薬味を買ってきて」

おれは携帯電話のディスプレイを見て、途方に暮れた。
薬味とはなになのか。あまりにも具体性に欠けるではないか。
ネギなのか。三つ葉なのか。シソなのか。あるいは生姜なのか。ニンニクだって薬味と言えるだろう。ミョウガ、カイワレ大根もそうだ。角度を変えれば唐辛子やゴマ、山椒だって立派な薬味だ。

だいたい今夜、妻が作ろうとしている料理は何なのだ。それがわからなければ、薬味という、おれにとってはボンヤリとした「概念」を提示されても、どんな薬味を買って帰ればいいのかもわからないではないか。
「どんな薬味?」
と、返信メールを送ればいいじゃん、とのご意見もあるだろうが、連れ添って三十七年、妻の性格はおれがいちばんよく知っている。そんなメールを送ったら、
「薬味にどんなもあんなもこんなもないでしょっ! 少しはアタマを使いなさいよ!」
と、叱咤されるに決まっているのだ。叱咤激励という熟語があるが、この場合は叱咤のみだ。激励は一切ない。

だから、おれは考える。妻の欲している薬味について必死に推理を巡らす。電車の中でも考え続ける。結論が出ないまま、自宅の最寄り駅で降車し、スーパー・マーケットに入店するが、売り場が広すぎて、どこに何が置いてあるのかもわからず、すっかりヒルんでしまったおれは逃げるように店を出てしまう。脳内で「大脱走マーチ」が流れる。タタ、タタータ、タタ。タタ―タ、タータタタ、タタ。

おれは作戦を変更することにした。セブン・イレブンならば、販売している薬味の種類もかなり絞れるだろう。そのなかでエイヤッとばかりにひとつ選んでしまえばいい。これは我ながらいい作戦だと思った。脳内に「史上最大の作戦マーチ」が流れるなかで、おれはセブン・イレブンへと向かった。タタター、タタタ、ターター。タタター、タタタター。

店内を点検すると、今度はあまりにも選択肢の少なさに戸惑った。刻んだ白ネギと、刻んだ青ネギ、そして小さな缶に入った唐辛子と、生姜チューブくらいしか見当たらない。面倒だから全部買って帰ろうかと思ったが、そんなことをしたら、
「こんなに薬味ばかり買ってきて、どうするつもりなの!」
と、妻から罵詈雑言を浴びせられるに決まっている。この場合は罵詈だけではない。雑言もプラスされるのだ。

面倒になったおれは陳列棚から「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」をむんずと手に取り、レジへと向かった。隣に陳列されていた「洗わずそのまま使用できる きざみ青ねぎ・40グラム/要冷蔵」が気になったが、白ネギでいいではないか、いや、もうどうだっていいではないか、と思っていたのだ。
レジで108円を支払った。ポリ袋に入れてもらおうかと思ったが、左右11センチ・天地15センチほどの小袋に入った白ネギである。わざわざかねを払ってポリ袋に入れるまでもないだろうと判断したおれは、
「レジ袋は要りません」
と、店員に告げ、店のドアを出て、小さなビニール袋に入った「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」を、通勤用のバッグにヒョイと入れようとしたが、そのときに気付いた。

刻んだ白ネギが入っているビニール袋の表面は、ひんやりとした湿り気を帯びていたのだ。程よく冷蔵された棚に置いてあったからであろう。この袋を通勤用のバッグに入れると、あとでとても面倒なことになるかも知れない。さあ、どうする。
おれはバッグの中に「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」を入れるのを諦め、右手の親指と人差し指で濡れた小袋をつまむように持ち、通勤用のバッグは肩から下げて、そのまま歩行することにした。

しかしながら、この姿態は明らかに傍から見れば異様な印象を与えることをおれは自覚した。根がスタイリッシュなおれは、その日もトム・ブラウンのニットシャツにアンクル・パンツをコーディネートし、通勤用のバッグも同じくトム・ブラウンのカーフ・ショルダー・バッグで寸分の隙なくキメキメにキメていた。だが、右手が問題だ。透明なビニールの小袋に入った刻み白ネギは、往来する人々から丸見えで、袋の上部には大きく「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ」と印字されている。その小袋をおれは右手の親指と人差し指でつまみながら、歩行時の手の振りに合わせてブラブラと揺らしているのだ。

おれは有料のレジ袋をケチったことを後悔したが、根が吝嗇にできているので仕方がない。そして、根が自意識過剰にもできているおれは、すれ違う人々がことごとく我が右手を不審げな顔で見やっているような気がしてきた。根が見栄っ張りにできているおれは、持っているものがセブン・イレブンで購入した108円(税込み)の刻み白ネギなのが致命的なのだと思った。これがエディアールなどで購めた細長いバゲットで、紙袋に包まれながらもバゲット上部の約五分の一が剥き出しになっているようなものだったら、右手でそれをむんずと掴みながら歩くか、あるいは無造作にバッグに入れ、バゲット上部の約四分の一がバッグから外に出ていれば完璧なルッキングではないか。

結局、おれはすれ違う人々の視線を避け、俯きながら、しかし「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」は依然として右手でつまんだままブラブラさせて、歩を速めた。傍目からはかなり滑稽に映っていることに違いない。ふと、「クワイ河マーチ」の替え歌が俺の頭の中をよぎった。
サル、ゴリラ、チンパンジー。

帰宅したおれは台所にいた妻に右手の親指と人差し指でつまんだ「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」を、おそるおそる見せた。
「あのぉ、薬味って、こ、これのことだよね」
おれの声はかすかに震えていた。妻は俺の指先にあるものを一瞥すると言った。
「そこに置いといて」
妻は鍋で蕎麦を茹でていた。おれの脳内では歌劇「アイーダ」の凱旋行進曲が流れ始めた。
タッタター、タタタタタ、タッタター。

プールサイド

北村周一

ひたひたと
歩き回るは
なんぴとか
すでにプールの
みずは抜かれて

  からっぽの
 プールの底に
  身をしずめ
  動く右手は
 ペンキ塗る人

そらいろの
補色のいろに
昏れながら
プールの底の
塗り替えを急く

  塗りのこし
 見比べにつつ
  プールより
あたま上げおり 
 刷毛持つ右手 

プールへと
降りゆくきみ
塗装工にて
みずいろの
使者のごとしも

  塗り終えて
 ならび立つ影
  ひのくれを
プールサイドに
四、五本の刷毛

みずみちて
浮かび上がりし
みずいろの
水底はみゆ 
プール塗り終う

   瑞々しき
においこもれる
   夕まぐれ
 プール開きの
 予感にみちて

ゆびからめ
金網越しに
見入る子の
目にはさやけし 
プール満水

  かげりなき
  空の一部を
  みたしめて
プールサイドへ
 溢れ出すみず

掛け声は
プールサイドに
こだまして
初泳ぎまだ
水は冷たそう

    忽ちの
 雨降りそそぎ
  沸き上がる
  子らの叫喚
 プールを奔る

雨上がりの
プールサイドに
群れいたる
スズメにぎわし
溜まりの水に

  ひとの子の
 背丈のほどを
  洩れ出づる
  水の音あり
プールサイドに

なつやすみ 
水着のいろも
まちまちに
静かなるかな
開放プール

    裏窓ゆ
うすみずいろの
  かげりさし
すずしかりけり
  学校プール 

むもーままめ(20)恐怖のクララちゃんの巻

工藤あかね

SNSを見ていたら、数日間連続で、同じシチュエーションの夢をみたという人の話が流れてきた。下宿のような部屋で女性と暮らしている設定で、たしかにちょっと奇妙な話だった。しかも何日目かにはついに明晰夢になって、女性から「またここに来たのね」と言われたという。コメント欄には怪談だ、ホラーだ、という言葉が踊っている。「ああ、夏が来たのだな」と思った。

繰り返し見る夢。そういえば私にも何度かあった。今でも覚えている話は、どれもこれも怖いシチュエーションばかり。つい先ほど、夢判断サイトでためしに調べてみたら、キーワードに出てくるのは恐怖、不安、ストレスなど、不穏であることこの上ない。まあ、子供の頃から物の考え方がどうやら特殊なせいもあってか、生きづらい傾向があったからかなぁ。それで、どんな話だったか知りたい人なんている?人の夢の話なんて面白くないよね?とはいえ、子供の頃の私の恐怖や不安やストレスを成仏させるために、ここに書いて残しておこうと思う。

小学校に上がる前、自宅から駅へ向かう道の途中に、なんとなく人通りの少ないエリアがあった。何かの工場の跡地だったのだと思うけれど、さびた鉄の大きな門があって、子供心にちょっと気味が悪いと思っていた。そのあたりを通るときはたいてい家族の誰かと一緒だったから、本当は走ってさっさと通り抜けたいくらい嫌なのに、いつも、なんでもないふりをしてゆっくり通り過ぎていたのだ。けれどときどき、耐えられないほどの恐怖が急激に襲ってきて、気を紛らわすために大声で歌を歌い出し、家族にびっくりされることもあった。

何度も繰り返し見ていた悪夢の舞台は、まさにその場所だ。ある夕方、私が一人で通りかかると、長い金髪に青い目の大きなフランス人形が、鉄の門の前で足を放り出して座っている。お人形の名前は「クララちゃん」。私の背よりもずっと大きい、少女の格好をしたお人形である。お人形だと思っていたその子はムクっと立ち上がり、なんの説明もなく、いきなり私を襲おうとして全力で追いかけてくるのだ。私は命からがら家まで走って、階段も上って間一髪で部屋の扉を閉める。ここまでが何度も繰り返された夢の場面である。

起きたあともあと引く怖さが残り、クララちゃんの夢を見てしまった日は、ショックのあまり朝から泣いたりしていた。親に「クララちゃん」がどんなに恐ろしいかを訴えても、「クララちゃんなんていないから大丈夫」としか言われない。「ううん、クララちゃんはいる」といつも心の中で反論していた。親に恐怖を訴えたところで、何の心の慰めにも、解決にもならないと子供心に悟った私は、ある時をもって、クララちゃんの夢の話を親に話すことをあきらめた。

夢で味わった恐怖は、現実にまで侵食してきた。とうとう例の鉄の門のあたりは、私にとって完全に無理な場所になってしまった。誰といようが、けっして通らないですむように、泣き叫んで遠回りを要求した。お豆腐屋さんに行くのにも、文房具屋さんに行くのにも、クララちゃんがいるかもしれないから絶対そこは通りたくない。ましてや夕方以降なんてありえない。親はなるべく私の意見を尊重しようとはしたけれど、本当に遠回りをしてくれたのは数回で、たいていは道の反対側に渡って、鉄の門が目に入りにくい歩き方をする程度で手を打った。

小学生になり、その辺りがなんとなく整備されてしばらく経った頃、ありがたいことにクララちゃんのことを一時的に忘れていた。そんなある夜、習い事の帰りに一人で、うっかりその場所を自転車で通ってしまった。かつての恐怖はすっかり消えていた…と思ったのだが、数秒後に、全身粟立つような怖さが沸き起こってきてしまった。気が狂ったように大声で歌を歌い、自転車を死にそうになりながら立ち漕ぎしてその場を去り家に逃げ帰った。

それから何十年も経ったのに、まだクララちゃんのことを思い出す。あの連続した夢の正体は、いったいなんだったのだろう。

六月

笠井瑞丈

六月は一年の中で節目の月
一年の中で折り返しの最後の月と言う事と
自分の誕生日月だからだ

十代の時には二十代を夢みて
二十代の時に四十代を想像した

そして今その答え合わせをしてみる

自分が夢見て想像した
世界がはたして
ここにあるだろうか

やはりまだ夢見て想像した
世界だとは言えない

テレビや雑誌で
夢が叶いましたという事を聞く
そう言う意味で言えば僕は

まだ夢の中だ

だからといって今の状況に
不満があるというわけではない
今は今の状況を楽しんでいる

ただまだ覚めぬ夢の中

夢を見る四十代
あまりいないと思うけど
夢なんて一生見ていいものだ

誕生日6月16日

ふっと思い立って車で
一人で遠出をしようと思う

目的地は金沢

上村なおかさんが
北陸ダンスフェスティバルで
週末ソロを踊るのでそれを
見に行こうと思ったからだ

金沢はなおかさんの故郷
年に数回チャボと二人で車で帰る

しかし今回はチャボと一人だ
午前の仕事を済ませ夕方出発
東京から松本まで高速に乗り
松本から高山まで山道を走り
高山から金沢へと向かう

この車の時間が
僕はとても好きだ

全てから解放され
好きな音楽をかけ
好きな事を想像し
好きな歌を歌う

大きな景色だけが
包み込んでくれる

夢という車に
ガソリン補給
そんな時間だ

金沢21世紀美術館
北陸ダンスフェスティバル
AプロとBプロを見る
二つとも面白いプログラムだった

なおかさんのソロは特に良かった
自分には絶対できない踊りだ

まだまだ人生も踊りもこれからだ

まだ覚めぬ夢

言葉と本が行ったり来たり(11)『プーチン、自らを語る』

長谷部千彩

八巻美恵さま

今日は明るい曇り空、風も吹いていて気持ちのいい日曜日。梅雨入り間近、その後は灼熱の夏が続くので、こんな穏やかな天候もあと数日。ベランダ園芸家としては、作業のしやすい今のうちにやっておかねばならないことがたくさんあって、朝から忙しく過ごしています。

前回の手紙で紹介されていたアリ・スミスの小説、面白そうですね。興味を持ちました。八巻さんは小説を読まれることが多いのですね。いつも私の知らない作家、知らない小説の名が挙っていて、手紙を読むのが楽しみです。自分のことを、広大な書物の世界のほんの片隅を囓っているネズミのように感じます。アリ・スミス、ウェブマガジン≪memorandom≫で連載を始めるイラストレイター山本アマネさんが海外小説に詳しい方なので、今度会ったときに訊いてみようかな。彼女なら、その小説はもう読んだ、と答えるかもしれない。

私はといえば、相変わらずの乱読です。先週は『プーチン・自らを語る』という本を読みました。出版されたのは2000年3月(邦訳版は2000年8月)。三人のロシア人ジャーナリストによるプーチンへのインタビュー集。プーチンが自身の生い立ちから大統領代行になるまでを語っています。大統領選挙前の談話なので、知名度の低かった彼をPRするプロバガンダの意味合いの強い本ですが、最終章「政治家」では、チェチェン紛争についてジャーナリストもかなり粘って厳しく質問しています。他の章では淡々と答えるプーチンが、その章になると段違いに強硬な発言を繰り返していて、彼のパーソナリティや信条もあるだろうけど、当時のロシア国民が大統領に望んだものも透けて見えるような気がしました。

ウクライナへの軍事侵攻のニュースは、毎日、どうにかならないのか?とジリジリしながら見ています。“何故こんなことに?”とも思います。私が理解できないのは、成り行きではなく、“何故その方法を採らなければならないのか?”ということです。
ただ、ロシアの現代史に触れるたび、また、この本を読んでもそうですが、つくづく思うのです。私の想像力の及ばぬことがあまりに多い、と。

日本は「経済」大国と言われるけれど、総合的に見て大国とは言えない。第二次世界大戦の敗戦国で、よって安保理での発言力も小さい。共産主義も、連邦国での生活も、私は体験したことがない。自分の国が崩壊するのを目の当たりにするのは、どんな気持ちなのだろう。
ベルリンの壁が壊れたとき、歓喜する民衆の側でテレビを見ていたけれど、壁が壊れたことによって挫折を感じたひとがいるなんて―例えば当時KGBに所属していたプーチンのように―私は想像すらしなかった。信じていたものがまったく無価値のように扱われる経験をしたことのない私に、そういうひとの感じ方、考え方が理解できるのだろうか。試みたところで、やっぱり奥底までは理解できないのではないかと思います。ロシアに関して知れば知るほど、前提になるものが違いすぎると感じるのです。歴史というものが、別な地点から関われば、まるで違うものになってしまう。そのことに呆然としてしまいます。
『プーチン・自らを語る』でも、“国民のため”という言葉に託されたイメージが、私たちとはだいぶ違うと感じました。“ヨーロッパ”という概念が西側諸国と全然違うとも感じました。認識の乖離があちこちに見られ―そう、その言葉がぴったりなのです。対立ではなく、乖離。その乖離に渡す一本の綱を、国際社会は探し出せるのか、それとも新たに編み出すのか。私の心に疑問符だけがぽつんと残ります。

ロシアは一度、訪れたことがあります。休暇ではなく、仕事での招聘だったので、残念ながら案内された場所しか知りません。それでもロシア料理が美味しかったこと、その夏のひどく蒸し暑かったこと、道路も建物もとにかく巨大だったこと、パスポートに貼られた全く読めないキリル文字の並ぶビザ、そして迎えの車が黒いジャガーだったことを覚えています。
一日も早くウクライナのひとびとがこの惨状から救い出されますように。

久しぶりにお会いしてお喋りしたいです。
近々連絡しますね。それでは、また。

2022.06.05
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(10)『春』(八巻美恵)

大きな鉄塔の下の屋根裏部屋のこと。

植松眞人

 兵庫県伊丹市は大阪の中心部から阪急電車で一回の乗り換えを含めても三十分から四十分程度という場所にある。通勤にも便利なため、衛星都市として発展してきた。神戸の震災で阪急伊丹駅の駅舎が倒壊してしまい、再建されるまでの期間、ほとんどの人がJR伊丹駅を利用するようになった。そのため、市内を縦横に走っていた乗り合いバスの終点が「阪急伊丹駅」から「JR伊丹駅」に変更されることになり、以来、阪急伊丹駅周辺の商業環境の凋落が始まった。いまでも、きれいになった駅ビルのテナントには空きがある。逆にJR伊丹駅周辺の商業、住環境は大きく発展した。大型のショッピングモールが出来、引き寄せられるように大型のマンションが数多く建てられた。
 そんな中心部から私の実家は市バスに乗って約三十分ほどの場所にある。自転車で五分も北に走れば宝塚市。西に走れば西宮市。つまり、伊丹市の端っこのほうにある町で、人口密度も低い。また、大きな変電所を抱えていることで、実家の窓の外を見ると必ず空に向かってそびえるような鉄塔が目に入る。
 梅雨時の寝苦しい深夜に目が覚めてしまい、窓のカーテンを開けると、真っ暗ななかに陽の昇る気配だけがあり、その証拠を示すかのように鉄塔の影が青暗い夜と朝の間に強いコントラストでそこにはっきりと見えるのだった。
 そんな時、私はもう一度寝ることを諦めて、二階の仕事部屋の窓際の机に向かって座る。そして、窓の外を見ると寝室と同じように鉄塔が見える。しかし、二階の仕事部屋から見える鉄塔はその足元を生活道路を隔てた向かいの家のシルエットで隠されている。
 向かいの家には小池さんという家族が住んでいて、この家族の朝は早い。ご主人が洋装品の販売関係の仕事をしていると聞いているのだが、朝の五時には家の窓のほとんどに明かりがついている。
 目覚める前のまだぼんやりとした頭で、仕事部屋から窓の外を見ている私の眼には、そびえ立つ変電所の鉄塔と、その足元にある小池さんの家のシルエットと、そのシルエットのなかに少しずつともされる部屋の灯りが、とても不思議なものに思える。特に伊丹の外れの町の実家の二階にいる時の私は、十九歳でこの実家を飛び出したはずなのに、という想いを背中に背負ったまま窓からの風景を眺めているような気持ちになる。東京にもまだ住まいはあるが、年に何回か子どもたちの様子を見に戻る程度で、ほとんどこの実家で、妻とともに老いた母の様子を見ながら未曾有の疫病が収まるのを待っている。
 そんなここ数年の鬱々とした気持ちが、青みを増していく夜のなかの朝の気配に浮かびあがってくる鉄塔と小池家の輪郭を見入らせるのかもしれない。
 今日はまだ小池家の灯りはともってはいない、と思ったその時に一つ灯りが見えた。しかし、いつもよりもその灯りの位置が高い。二階の仕事部屋に使っている部屋から見ているのに、目の前の灯りは少し高い。小池家も二階建てのはずなのに、と思いながらまだ朝が来る前の暗さのなかに目をこらす。屋根裏部屋かもしれない。亡くなった父と、いま階下で眠っている母がこの家を建てて三十年近い。その間、何度もこの実家には足を運んでいるし、ここ数年は一年の半分以上をこの家で過ごしている。それなのに、私はいま気がついたのだ。向かいの小池家に屋根裏部屋があるらしいことに。
 屋根裏部屋があるんですか、と小池家の人たちに直接聞くことはないだろう。また、双眼鏡を持ってきて、小池家の屋根裏部屋らしき場所の小さな窓の奥を探るようなこともないだろう。もしかしたら、妻にも、老いた母にも話す機会はもうないかもしれない。
 それでも、私は開け始めた夜のなかで、兵庫県伊丹市の端っこの大きな変電所のある町で、ふいに向かいの小池さんの家に屋根裏部屋があるのかもしれないということに気付けたことが、とても嬉しかった。(了)

綿飴、いちご飴とお化け屋敷

イリナ・グリゴレ

デパートの最上階の温泉に週に何回も行くことになった。家から車で8分、町の真ん中にある。暗い駐車場に入って、最上階までグルグル回るのが好き。儀礼のように感じる。明るいところから暗いところに入ると、眼が一瞬、見えなくなる。この瞬間は違う世界に入ると感じる。東京に住んでいたころも世田谷区の温泉をよく使っていた。銭湯と温泉の解放感が癖になる。日本では、場の境界線は薄い。一つの状況から次の状況に移動するのに何秒もかからない。デパートの温泉もその一つ。

昼前に突然薄暗い風呂場の中で他の女性たちと裸になってゴシゴシ身体を洗う。ここに来ると街で見かける彼女らの顔が全然違って、外の世界ではなかなか見せない顔が皮膚の表面から眼の奥まで伝わってくる。この顔をどこかでみたことがあると思い出そうとして、露天風呂に入りながら風が吹いていたその日に水の表面に虹の輪が光って、お祭りの時の人の顔だと気づいた。

娘たちも温泉に入るのが好きみたい。一人で行ったことがバレたら「ママはずるい」と言われる。娘たちは20分ぐらい離れている西目屋の「しらかみの湯」と言う場所がお気に入りだ。夕方に弘前市から岩木川添を通り、6月の初めのアカシアの花の匂いが全開した車の後ろの窓から入って、娘たちはアカシアの蜜を飲んでいる蜂に変身した気分になる。アカシアの花の天ぷらもサクサクにあげて、食べる時には心の中でお祭り騒ぎだ。ルーマニアにも春になるとよくアカシアの花が咲いて、そのあと一年中アカシアの蜂蜜を食べていた。懐かしい味と匂いだが、天ぷらにすると油で揚げた花の甘みが大人の味になる。甘塩っぱい気持ちのように日本酒とよく合う。アカシアも元々日本の植物ではないからお互いの気持ちがわかる。人間も植物も動物も移動し、変化し更新し、生き続けてきたと実感する。

ある夜、寝る前に娘たちとの会話が盛り上がった。今回はアリについて。長女は「昨日は小学校の男の子がたくさんのアリを殺して、かわいそうだったよ」と、手の平にアリの山が乗っている仕草をした。次女は幼稚園で女王アリを見つけて怖かったと、身体で女王アリの真似をしながら虫が怖いアピールし始める。ここから私は女王アリのイメージをよくするため、真面目に女王アリの生態を説明し、卵を産むこと、ママであることを主張する。娘たちは「ママが女王アリだ」と歌い始め、ベッドで不思議な儀式が始まった。私が卵を産む代わりに次女は私の足の間から出る踊りを振り付けた。そういえば、この前も公園で散歩していた時、突然に次女は「ママ、〇〇ちゃんが(自分の名前)生まれたね!」と初めて気付いたように言った。

こうした気づきが最近ではよくある。例えば、ショッピングモールのフードコートで、可愛いピンク色のドーナツを選んで、満足した顔で食べ、ずっと上を見ていた。その時、「ママ、〇〇ちゃんは空を見ている」とニコニコしながら言った。上を向いて見たら初めて窓があるのがわかった。その何日後も蒸し暑い家の中にいて、窓から外を覗いていた次女は「小鳥さんは外に自由に飛んでいるのに、〇〇ちゃんはなぜ家にいるの?」と右と左とを逆に靴をはいて、返事を待たずに外に出た。ここ2ヶ月前から、たんぽぽの綿が出始めた。次女から見れば種が生きているとしか思わない。その綿が風や人の息で揺れているのではなく、動いているから生きていると思っている。そのタネを集めて、「かわい子ちゃん」という名前をつけて毎日のように家に連れてくる。「かわい子ちゃんは口がある?」と聞かれた時、答えが見つからず、食べものをあげようとしているとわかった。たんぽぽ綿に綿飴を食べさせようとした場面も。

次女の一番怖いものが弘前桜祭りのお化け屋敷だ。コロナが明けた後、屋台が大好きな二人にとって桜祭りの弘前公園は世界で一番ワクワクするところだった。獅子舞の練習に赤ちゃんから連れていったおかげなのか、二人ともお祭りという時空間が居心地いい。長女も街のあっちこっちを車で通るとお祭りに行った場所を1歳から覚えている。ここは美味しいイチゴのかき氷、ここは「やーやどー」(ねぷた祭り)と次女も言う。今年の弘前さくらまつりも満喫した二人にとって綿飴とイチゴ飴の記憶が鮮やかだ。

お祭りといえば、もう一つ思い出がある。私がお気に入りの昭和風な食堂でタコとつぶ貝のおでんを食べたあと、綿飴といちご飴の屋台にたどり着くためには、お化け屋敷の前を通らないと行かれない。人混みの中を歩くと、客寄せの声がスピーカーから聞こえてくるけれど、次女は怖すぎていつも屋台の裏に隠れてなかなか前に歩かない。たくさんのお化けの絵と人を呼び寄せるおばさんの声が独特で、本物のお化けがいるとしか思えない。本物と偽物とは、最近では自分の中のテーマであり、「ひょっとしたらお化け屋敷ではなく、本物のお化けは人間の腹黒さの中かもしれない」と思った。

授業でもよく口癖になっている言葉があって、それは「共感」だ。人間とは知らないことが怖いがその反対に「共感」というものがある。学生にさまざまな民族史映画を見せて、「原始社会」と「未開社会」と言う言葉をなぜ使ってはいけないと説明する。アフリカのアザンデ族についての映像を見せたあと、家に帰ったら学生からメッセージが届いて、授業の感想と共に、一言「アザンデ族が羨ましい」と正直な心の言葉が書いてあった。これからずっと私が人類学を真面目に若い人に届けたいと自分の道を信じた瞬間だった。中では、ジャン・ルーシュの「狂気の主人たち」を日本語の字幕なしで見せた日も心に残る。学生は「言葉からではなく」身体で全てのイメージを受け止めて、植民地される側の気持ちと共感ができたと言う。

今日も娘たちと西目屋の温泉に向かっていた。途中から岩木山川の近くに花火大会があると気付き遠回りになったが、夕暮れの空に朝顔とハート形の花火の合間に見えた雲、長女が思わず「綿飴みたい」と呟く。次女は田んぼの蛙の声を聞いて「お化け屋敷の音だ」と言う。この時期にいろんな種類の蛙が相手を探して、声でアピールする。ウシガエル、雨蛙、ヒキガエルが同時に聞こえ、祭り気分が永遠に続く。浴衣を着て、コンビニの前と道路沿い、各家の前でバーベキューしながら酒を飲んで花火を楽しんでいる人々がいた。

ベルヴィル日記(9)

福島亮

 パリのアパルトマンに数日前に戻ってきた。猛暑を想像していたが、実際にはそこまで暑くない。朝などは寒いくらいである。この時期のフランスはとにかく日が長い。夜10時頃まで明るいので、時間感覚が日本とずいぶん違う。着いた翌日、さっそく市場で買い出しした。季節の果物、この時期だとサクランボが安い。1キロで2ユーロくらいだった。

 ふりかえれば、約一ヶ月日本に滞在した。2年ぶりの日本だった。それまであまり強く感じたことがなかったのだが、今回2年ぶりに帰国して、その変化の乏しさ、といったら良いのか、「遅れ」といったら良いのかに愕然とした。まずもってそれを感じたのは、現金がいまだ大きなウエイトを占めていることである。日本に到着して早々、関西国際空港から難波に行った際にコインロッカーを探したのだが、100円硬貨が7枚だか8枚必要だというではないか。また、滞在先の近所の某ドーナツ店では、クレジットカードは使用できないと書かれていた。こんなことで良いのだろうか。

 いちいち挙げていけばきりがない。人がいない屋外でのマスク着用はさすがに不要だろう。節電といいながら電車のなかでも駅のなかでも至るところで煌々とコマーシャルを垂れ流している電子広告のモニター、あれはなんだ。鉄道関連でいえば、電車のなかで路線図が隅に追いやられ、せいぜい数駅分しかドアの上のモニターには表示されていないのも、利用者としては不便だ。今回の帰国は、まずは到着した国際空港の唾液採取ブースに掲げられた梅干しとレモンの写真の洗礼からスタートしたわけだが、細かいレベルでの感覚のずれというか、なんだこれは、というものの多さに困惑し続けた滞在だった。

 このような困惑、ないし不満は、今回の旅の最後までついてまわった。それは日本から出た後も続いた。フランスへ戻る便は、成田から発った。成田、ソウル、アムステルダム、パリという乗り継ぎをせねばならなかったのだが、アムステルダムでの乗り継ぎが今回最大の難関だった。というのも、荷物検査をおこなうカウンターが完全に麻痺しており、長蛇の列から抗議の怒声が飛び交い続けていたからである。おそらく最新のものと思われる検査装置が何台もあるというに、担当者が2人か3人しかおらず、一台しかその装置が機能していないのだ。人員削減をしたところに、観光客が押し寄せたのだろう。当然長蛇の列ができる。並んでいるうちに飛行機が飛び立ってしまった人もいた。そういう人に、空港職員は自身の腕時計を突きつけ、あなたの飛行機は飛び立ちました、と絶叫している。ほとんどパニック状態といってよい有様だった。

 ベルヴィルに戻り、アパルトマンでくつろいでいると、連れ合いから例の自民党議員連盟会合で配布されたという冊子についてのYahooニュースが送られてきた。ヨーロッパではYahooのニュースは見ることができないので、記事の部分をテクストにして送ってもらった。普段、あまりこういうネガティヴなニュースを連れ合いは送ってこない。このニュースを送ってくること自体に、まずは強い怒りがあるのを感じた。それはそうだ。同性婚に反対する合理的な理由というものを私は聞いたことがないのだが、今回合理的どころか、不合理な差別的思想が列挙された件の冊子が配布されたわけである。底が抜けた、と思った。いや、とっくに底など抜けていたのだ。件の冊子のもとになったと思われる某政治団体の機関紙が団体のホームページからダウンロードできるのだが、そこに並ぶ言葉のなんという既視感。使い古された紋切り型の数々が、この底の抜けた虚しい空間に渦巻いている。

水牛的読書日記 2022年5月と6月

アサノタカオ

5月某日 韓国の詩人・金芝河の訃報に接する。享年81。編集中の本の注釈に彼の名前が登場するので、責了直前に没年を赤字で書き込む。あすは外出するので、『金芝河詩集』(姜舜訳、青木書店)を鞄に入れて連れていこう。詩集の装画は画家・富山妙子さんの作品で、富山さんは昨年の夏に亡くなった。同時代の読者ではなかったが、1990年代、大学生の頃に古本屋でこのシブい本に出会ったのだった。もうこの世にいない詩人を思う。

 ここから
 あそこまでは
 だぁれもいない

 黒い
 下水に月光が没落する石橋の上に
 この不思議なほど美しい
 吐く息が白白とたちこめた家のなかには
 だぁれもいない
 ——金芝河「だぁれもいない」(姜舜訳)

5月某日 『金芝河詩集』と戸井田道三『能芸論』(勁草書房)をもってI先生と本作りの打ち合わせのためW大学へ。昼前、江ノ島駅から乗った小田急線のシートに腰を沈め、何度読んだかわからないぐらい読みつづけているこれらの本のページを交互にひらく。そして乗客もまばらな車内で、民衆の「知」が世代を超えて受け継がれていく長い時間のことを考えた。

帰宅後、若手の社会学者・ケイン樹里安さん急逝の知らせが届き、絶句する。享年33……と記すだけでつらい。共編著『ふれる社会学』(北樹出版)は話題になった学術入門書。「ハーフ」をめぐる言説を批判的に考察する論考の数々を興味深く読んでおり、カルチュラル・スタディーズ学会などでことばを交わしたこともあった。現代の人種主義に抗う。文章や会話の端々からみずみずしく情熱的な知性がほとばしるのを感じて、ケインさんの今後の活躍を大いに期待していたところだった。なんということだ……。

5月某日 『詩人キム・ソヨン 一文字の辞典』(クオン)が第8回日本翻訳大賞を受賞。翻訳した姜信子さん、一文字辞典翻訳委員会メンバーのみなさま、おめでとうございます! 韓国の詩人による「ことば」をテーマにした随想集で、企画の独創性という点で出色の1冊。本当によい本が選ばれたと思う。同時受賞のクラリッセ・リスペクトルの小説『星の時』(福嶋伸洋訳、河出書房新社)はこれから。韓国文学とブラジル文学の同時受賞というのがうれしい。海外文学をもっともっと読みたい。

5月某日 東京・下北沢の本屋B&Bでは、サウダージ・ブックスより刊行した『「知らない」からはじまる—10代の娘に聞く韓国文学のこと』のフェアがはじまった。タイトルにある通り韓国文学をテーマにしたこの本の共著者である自分と高校生の娘(ま)の親子で、おすすめの作品をPOP付きで紹介。「知らない」刊行後、2022年に読んだ韓国文学の本も10冊選書し、「私たちは読みつづけている」と題してふたりでコメントを書いた。

https://suigyu.com/2022/06#post-8276

JR横浜駅で学校帰りの(ま)と待ち合わせをし、電車を乗り継いで下北沢のB&Bへ。若い書店員のMさん、Nさん、そして(ま)、年代の近い人たちの会話が弾み、高校生になると中学時代より活動範囲が広がって、スマホもあるし、遊びや部活や受験に忙しくなるし読書の時間が少なくなるよね、と。たしかにそうかも。こうしておしゃべりしているあいだにもフェアコーナーで本を手に取る人がいて感激した。Mさんは韓国ドラマに詳しい。帰宅後、B&Bですすめられて購入した『韓ドラ語辞典』(著者/高山和佳、イラスト/新家史子、誠光堂新光社)を読む。すごくおもしろい。

5月某日 三重・津のブックハウスひびうたで主宰するオンライン自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第10回を開催。課題図書は詩人・山尾三省の講義録『アニミズムという希望』(野草社)。テーマは「ついの栖」。場所、人生、生涯の仕事との出会いについて。三省さんが言う「森は/ひとつの大きな闇であり」というメッセージの意味を、それぞれの人生に照らし合わせて考える時間に。

5月某日 熊本日日新聞に、韓国の小説家イ・グミの『そこに私が行ってもいいですか?』(神谷丹路訳、里山社)の書評を寄稿した。読み応えのある重厚な歴史小説で、韓国では「青少年文学」として出版されていると知り、驚いた。神谷さんの翻訳が大変読みやすく、多くの人におすすめしたい。日本植民地時代の朝鮮半島に生まれた2人の少女の成長、彼女らの壮絶な旅の物語を通じて、生きることの切実さを問いかける小説。自分はこの本の最後のページを閉じた後、物語の世界に束の間登場し、消えていったさまざまな女性たちの行く末を想像した。

5月某日 沖縄復帰50年。「反復帰論」を唱えた琉球弧の詩人思想家・川満信一さんから手紙が届く。献呈した宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』(サウダージ・ブックス)のお礼と激励が、詩的なことばで綴られている。川満さんは今年の4月で90歳になり、「自分の身体と精神を不思議なものを観るようにみています」とのこと。本を作ること、ことばを伝えること。仕事に対する気持ちを引き締める。

5月某日 大阪のNPOココペリ121で出版編集の勉強会をおこなうために関西出張。小田原駅から乗車した新幹線の車内では、韓国の作家ハン・ガンの『菜食主義者』(きむ ふな訳、クオン)を再読。すばらしい小説、すばらしい翻訳。

新大阪駅で地下鉄に乗り換えて緑地公園駅へ向かい、blackbird booksへ。新型コロナウイルス禍をあいだに挟んだ久しぶりの訪店で、喜びがこみ上げる。藤本徹さんの詩集『青葱を切る』を購入。新刊棚で手に取り、詩のことばも装幀もすばらしいと奥付をみたら、blackbird booksの発行。「しっかりしたことばを載せた本は売れます」と店主の吉川祥一郎さん。そういう本を自分も作ろうと思った。藤本さんの私家版の詩集『あまいへだたり』も購入した。

夜は勉強会の会場で、ココペリのスタッフのみなさんが心づくしの手料理をふるまってくれた。ロシア料理のボルシチとギリシヤ風サラダ。ごちそうまでした。

5月某日 夕方、大阪・豊中の服部天神駅へ。はじめて降りた駅、ホームには御神木の楠が生えていて屋根を突き抜けている。「足の神様」を祀るという服部天神宮でお参りをした後、 gallery 176でふたりの写真家、前川朋子さんと宮脇慎太郎の写真展「双眸 —四国より—」を。徳島在住の前川さんの写真をはじめて鑑賞する。身の回りの暮らしの風景の中に、流れ去る時間とは異なる《時そのもの》が降り積もる痕跡をじっと注視するような静かなまなざし。徳島について、ではなく徳島のかたわらで撮影するという姿勢に共感した。

一方、香川在住の宮脇慎太郎は四国・宇和海の風景と人びとを記録した写真集『UWAKAI』所収の作品を展示しており、こちらは対照的に「動」の印象。全体としてかなり大きなサイズになる海の組写真もあり、ダイナミック。展示を企画した写真家の木村孝さんの司会で前川さん、宮脇くんのギャラリートークもおこなわれた。会場には愛媛・南宇和出身の知人も京都から来てくれてうれしかった。

gallery 176は複数の写真家が共同で営む自主ギャラリー、木村さんらメンバー有志による写真冊子『服部天神』(176books)を購入。 また前川さんが写真作品を寄稿する「今、徳島で暮している女性たち」の文芸誌『巣』(あゆみ書房)も。これは、作家のなかむらあゆみさんが責任編集をつとめる本。旅の道中で読みはじめる。

5月某日 朝、大阪市内から阪急電鉄京都本線に乗り込み、東へ。途中下車して長谷川書店水無瀬駅前店に立ち寄り、ついで京都市内に入りKARAIMO BOOKS に。新刊の韓国文学コーナーを眺めていたら、「荷物のお届けで〜す」と郵便局の配達員が入ってきて、出版社クオンの新刊本が到着。ハン・ミファ『韓国の「街の本屋」の生存探究』(渡辺麻土香訳)がやってきた。お店を営む奥田直美さん、順平さんと本のこと、韓国文学のこと、これからの人生のことなどを話す。KARAIMO BOOKSが発行する冊子『唐芋通信』をもらった。

地下鉄やバスを乗り継いで古書・善行堂へ。お店では納品した宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』が売り切れとのこと。ありがとうございます。店主の山本善行さんから「いい写真集」と言ってもらい、うれしかった。サウダージ・ブックスで制作した『UWAKAI』のリーフレットを善行さんに手渡す。時間切れでゆっくり棚を見られず残念。あわててタクシーに乗って京都駅に向かい、東京方面の最終の新幹線に滑り込んだ。

5月某日 普段は自宅に引きこもる生活なのだが、めずらしく外出がつづく。東京・新宿の新大久保でおこなわれた「李良枝没後30年」の集いに参加し、編集を担当し、刷り上がったばかりの李良枝エッセイ集『ことばの杖』(新泉者)を関係者のみなさまに届けた。李良枝は1992年に亡くなった在日コリアンの芥川賞作家。刊行を作家の命日である今日という日に間に合わせてよかった、と心の底から思った。

5月某日 文学フリマ東京にサウダージ・ブックスとして初出展。東京流通センターの会場では写真家で作家の植本一子さんと再会したのだが、何年ぶりのことだろう。植本さんのブースで日記本と書簡本(植本一子『ウィークリーウエモト』vol.1、『食卓記』、植本一子&滝口悠生『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』)と手ぬぐい、そして「植本一子謹製おみくじ」を買い、みごと大吉を引き当てた。横浜・妙蓮寺の本屋・生活綴方のメンバーや作家の安達茉莉子さん、ほかにも懐かしい人たちに会うことができて楽しい。

「文フリ」で何よりも感動したのは、未知の若い表現者たちとの出会いだった。短歌、フェミニズム文芸、冷麺研究、東アフリカ百合小説……。いずれもすばらしい作品で、会場に行かなければ知らなかっただろう。商業出版の業界の外にも、書物の沃野が広がっていることを再確認。入手したのは以下の本たち。

おしまい、浅井、笹沼の短歌『ヴィータ』
to『A is OK.』
『夏のカノープス』(夏のカノープス編集部)
『冷麺の麺は黄色か? 灰色か? 2021年日本で「冷麺」を食べ歩いて謎に迫る』
鹿紙路『ねごとだよりⅡ 征服されざる千年 試し読み』

文芸サークル「夏のカノープス」のブースで購入した『A is OK.』vol.2がすばらしい内容だった。著者は toさん。本文8ページのZineの特集は「トムボーイの将来」、K-POPグループの f(X)の元メンバーで現在は米国でソロ・アーティストとして活動するアンバーのことがテーマになっている。韓国の女性アイドルの中で「トムボーイ」「ボーイッシュ」を代表する存在だった台湾系アメリカ人のアンバー・リュー。音楽業界のさまざまな抑圧の中でみずからのスタイルを貫くアンバーのあり方を通じて、根深い「ジェンダー規範」を批判的に問い直す。toさんの文章は、「わたし」を抜きにしない真摯な文化批評として読み応えのあるものだった。

YouTubeでMVを見ると、アンバーはソロになってさらにのびのびと表現しているように感じる。「自由」を求めてひとりで歌い、踊るアンバーの姿はやっぱりかっこいいと思ったし、ひるがえって彼女が自分であることを貫けない世界っていやだな、とも思った。同じブースで購入したフェミニズム文芸誌『夏のカノープス』もなかなかすごい。批評、エッセイ・コラム、短歌で構成。帰りの電車で、眞鍋せいらさんの短歌「明け方ひとりでワルツを踊る」から読みはじめる。

帰宅するとすぐにYouTube番組「第32回 不忍ブックストリームⅡ」の「韓国本、なにから読めばいいの?」に娘の(ま)とともに出演。『「知らない」からはじまる』の著者として、最近読んだ韓国文学の話などをした。ご視聴いただいた皆様、また番組の南陀楼綾繁さん、瀬戸雄史さん、鈴木喜文さん、ありがとうございます。

ところで「K-POPに触れたきっかけは?」というライター・編集者の南陀楼さんの質問に対して、(ま)は「中1のときYouTubeのおすすめ動画でたまたまBTS の『血、汗、涙』のパフォーマンスを見て」と話していた。「そこからすべてがはじまった感じです」と。これは初耳。聞いたことがあるようで、なかったのだ。親子関係では、よくあること。「血、汗、涙」との出会い以降、(ま)はネットで韓国文化の情報を集めるようになり、やがて母親とともにソウルへBTS聖地巡礼の旅をして、父親のすすめで韓国文学を読むようになった。『「知らない」からはじまる』という韓国文学をテーマにしたわが親子本が生まれたのもBTSのおかげだ。

5月某日 仕事の外出の途中で東京・三軒茶屋の書店twililight に立ち寄り、カフェで「麦生のビスケット、アイスクリーム添え」を注文。これは、前田エマさんの初小説『動物になる日』(ちいさいミシマ社)刊行記念フェアのコラボメニュー。冷たくて、おいしかった。お店の奥の窓辺には 画家nakaban さんの絵がひっそりと置かれている。『動物になる日』を1冊予約。お店を出ると、下り坂の先に紫色の夕空が広がっていた。夏を感じた。

6月某日 ここのところ毎朝、『W・S・マーウィン選詩集』(連東孝子訳、思潮社)を読んでいる。アメリカ文学史の中で、こんなすばらしい野の詩人がいたなんて知らなかった。翻訳もブックデザインもすてきな、宝物にしたい一冊。

6月某日 近年の韓国文学の翻訳は小説が中心だけど、エッセイもいい。例えば『日刊イ・スラ』(原田里美・宮里綾羽訳、朝日出版社)。近づいたり、少し離れたり。共に生きる人との距離を測りつつ、私が私であることの内実を描き出すしなやかな文体が魅力的。「手紙の主語」という1編に感動し、以来すっかりイ・スラさんのファンになった。

6月某日 晴天の土曜日のお昼から下北沢の本屋B&B に在店。デッキに本の屋台を出し、『「知らない」からはじまる』フェアに関連して19名の人におすすめの韓国文学の本を(ついでに台湾文学も日本文学も)紹介した。楽しかったなあ。売上とは別に、「あ、これ読みたい!」ともっとも多く声があがったのが、ミン・ジヒョンの話題作『僕の狂ったフェミ彼女』(加藤慧訳、イースト・プレス)だった。でも、当たり前のことだが、目の前の読者の関心はじつに多様で小説、詩、エッセイ、ノンフィクションなどいろいろなジャンルの韓国文学の本が満遍なく手に取られたという印象。私物として持っていった『金芝河詩集』に反応してくれる若い人もいて感激。

下北沢では、念願叶ってBOOKSHOP TRAVELLER を訪問。ビルの3階まで階段を上がって中へ入ると、想像以上に広い本の空間だった。以前大阪のAISA BOOK MARKETで会った店主の和氣正幸さんに挨拶し、『Neverland Diner 二度と行けない台湾のあの店で』『Neverland Diner 二度と行けない下北沢のあの店で』(ケンエレブックス)の2冊を購入。ついで対抗文化専門のカフェ・バー&古本屋の気流舎へ流れ、居合わせた運営メンバーのハーポ部長とおしゃべり。アナキズム紙編集委員会が発行する『アナキズム』第26号に、ハーポ部長のエッセイ「学び逸れつつ継承するもの」が掲載。店名の由来となった真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)のことが書かれている。

新代田駅に移動し、夜のバックパックブックスを訪問。駅の目と鼻の先にあるお店には「旅」を感じさせる本がぎっしり。街路に開かれた、風通しの良いすてきな本屋さん。そこで一目惚れして購入したのが、エリザベト怜美さんの詩・訳/モノ・ホーミーさんの絵『YOU MADE ME A POET, GIRL ユー・メイド・ミー・ア・ポエット、ガール』(海の襟袖)だった。エリザベト怜美さんの詩はどれもすばらしく、冒頭に置かれたとりわけ解放的な作品「金星の月」を何度も読み返している。モノ・ホーミーさんの描く女の人たちの絵はどこか神話的な世界を感じさせるもの。ちいさな本のすべてがかっこいい!

6月某日 好天の江ノ島の浜辺で読書をした。小山田浩子さんのエッセイ集『パイプの中のかえる』(twililight)。とても良い本。そして美しい本。生きていく上で大切にしなければならないことを思い出させてくれた。エッセイ集の発行所でもある書店twililightで以前購入した際、付録としてもらった刊行記念インタビューの冊子も読んだ。いつか、小山田さんの小説をまとめて読もう。

6月某日 矢作多聞さん、つたさんの共著『美しいってなんだろう?』(世界思想社)が届く。「はじめに」の文章に引き込まれる。これから時間をかけて、矢萩さん親子の対話に耳を傾けたい。そして高松で古本屋YOMSを営む齋藤祐平の『人生は複数』も届く。彼はアーティストでもあり詩人でもあり、この本はスケッチと写真とアフォリズム的な文章から構成される冊子。《自分が書いた文章が詩なのかなんなのかよくわからなくても、文章をまとめ、それを口実に誰かに連絡を取ることは詩そのものだ》。いやあ、最高だ。

6月某日 ブックハウスひびうたで主宰する自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第11回を開催。課題図書は詩人・山尾三省の講義録『アニミズムという希望』(野草社)。テーマは「「出来事」というカミ」。参加者はみなそれぞれにカミ的な何かから「呼ばれている」らしい。とはいえ大げさなものではない、小さな声で。おもしろいエピソードが次々と出て笑い声がたえない。

6月某日 東京・渋谷のユーロスペースで、ヤン・ヨンヒ監督『スープとイデオロギー』を観る。在日コリアンの家族を記録しつづける監督の年老いた母(オモニ)は1948年に起こった「済州島4・3事件」のただ中にいたという。鑑賞後に残された問いは、ずっしりと重い。でもすばらしい映画だった。

「4・3事件」について簡単に記すことはできないが、監督の家族ドキュメンタリー『ディア・ピョンヤン』『かぞくのくに』を含むすべての作品を観ているものとして、「観徳亭…」というつぶやきからはじまる証言は驚きの内容だった。前作でオモニがこの事件を匂わせる発言をしたことは一切なかったと思う。2018年、「4・3」で虐殺された島民を慰霊する70周年追悼式に参加するため、監督はパートナーの荒井カオルさんと共にオモニを連れて大阪から故郷の済州島へ。長年語らなかったことを語りはじめたその時、オモニの認知症が進行していた。自分は不思議な縁があって60周年の式に家族とともに出席し、大阪の路地の風景にもなじみがある。そういうこともあり、映像を前にして胸がいっぱいになった。

『スープとイデオロギー』での旅するオモニの姿を観て、人間の記憶には尊厳があり、忘れにも尊厳があることを知った。忘れることは必ずしも過去の痛みを失うことではなく、言葉ではなくからだで覚えていることでもあるのだろう。しゃべる(語る)舌の手前のところに、しゃぶる(味わう)舌があるのだ。語らずとも味わう舌で飲み込み、腹の底に沈めた思いもまた、いまここに実在するにちがいない。おし黙るその思いに、後からやってきた者はどんな顔で対面すればいいのだろう……。映画館を出て熱い鶏スープを食べたくなり、そして雨の坂道を下りながら、オモニの肩を揉み、オモニの子の背中をさする荒井さんの手を思い出した。

6月某日 頭の中に作りたい本の構想があったのだが、すでに編集者の久保覚が執筆し、没後に書籍化されていた。『古書発見 女たちの本を追って』(影書房)。《女性創造者・活動家の埋もれた仕事に光をあて、女性の書き手を発掘し…》(編者の「はしがき」より)。彼のこういう一面はあまり知らなかった。『古書発見』(影書房)の中で、著者である久保覚は在野の思想家・戸井田道三のあることばと表情を記している。

《戸井田さんは突然、窓の外を指さしながら、こう言いました。/「キミ。歩いて行くあの娘たちが、このきれいな風景をさらに美しくしていると思わないか。あの娘たちが自分のクニの服を着て、生きいきと歩いている姿を見ることができるのは、本当にうれしいことだね。あの娘たちがあの服を着ることができず、そして、もし暗い顔をして歩いていたら、疑いもなく日本が悪い社会になっている証拠だよ」と。/戸井田さんの指さす窓の向こうにみえたのは…チマ・チョゴリ姿の五・六人の女子高校生たちのグループでした。》

続けて著者が書いているように、日本は確実に——彼が本書を執筆した時代よりもはるかに——「悪い社会」に成り果てていると言わなければならない。戸井田さんが、「ヘイト」なる人種主義的暴力の横行するするいまの日本社会をみたらどう思うだろう。そして1960年代後半に女子高校生だった彼女らは、その後どうなったのだろう。

6月某日 きょうは打ち合わせのあと、地元で何軒か本屋さんと図書館をまわりたいと考えているが、ウクライナの作家ワシーリー・グロスマンの小説の翻訳本に出会えるかどうか。その前にここ数年続々と刊行されているJ・M・G・ル・クレジオの小説の翻訳も読んでおきたい。いまは、韓国を舞台にした『ビトナ』(中地義和訳、作品社)を読書中。

6月某日 詩人・作家の森崎和江さんの訃報。享年95。ああ…。

 生まれたところ そこがふるさと
 などとわたしにいえるはずもない
 そこはあなたのふるさと
 …
   ここは地の底
 旅ゆくところ
 いのちの根のくに 旅のそら
 ——森崎和江「旅ゆくところ」

6月某日 渋谷のユーロスペースで映画『スープとイデオロギー』を鑑賞。2回目、今度は高校生の娘の(ま)とともに。そのせいか、映画の中で描かれる親子関係についていろいろと新しい気づきがあった。上映後は109に入っている韓国・済州島発の自然派コスメの店、イニスフリーでの買い物につきあったあと、界隈を散策して韓国料理屋で参鶏湯定食を(この作品を観ると食べたくなる)。映画の感想を聞くと、(ま)は幼い頃に旅した島のことを思い出したようだった。

翌日、日暮里で済州島4・3抗争74周年追悼の集いに参加。会場では『スープとイデオロギー』にも登場する済州4・3研究所所長、ホ・ヨンソンさんの詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳、新泉社)を販売していた。多くの人に読んでもらいたい1冊。今年は、この詩集でも語られる済州海女抗日闘争90周年の年でもある。自分は出版社・新幹社のブースで代表の高二三さんからすすめられ、金蒼生の小説『風の声』を購入した。

6月某日 西への旅は大阪から。先月と同じく新大阪駅から緑地公園駅に直行し、blackbird books に駆け足で立ち寄る。店内で、藤本徹さん詩集『青葱を切る』刊行記念の詩と絵の展示を鑑賞。詩「青葱を切る」のテキストをプリントした青と白の大きな布が展示されていて、これがとてもよかった。西淑さんによる装画の原画も。新刊棚には、編集を担当したハン・ガン詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむ ふな・斎藤真理子訳、クオン)が面出しでPOPを添えて並べられていた。「すごくよかったです」と店主の吉川祥一郎さんがおっしゃっていてうれしい。花店を併設しているので、お店にはいつも美しい植物がたくさん並べられている。身も心もやすらぐ。

6月某日 NPOココペリ121で出版編集の勉強会を終え、手製のハンガリー料理をいただいて一泊し、翌朝は難波駅から高速バスに乗車。瀬戸内海を眺めながら四国へ向かうにつれて独特の懐かしさがこみあげてくる。徳島のうつわと暮らしのもののお店 nagaya.を訪ねるのは何年ぶりのことだろう。お店の近くにある地元の書店・平惣でほしかった『徳島文学』4&5号を購入してから、nagaya.を営む吉田絵美さんと再会。4年ぶりぐらいだろう。

nagaya.では、宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』刊行記念のトークイベント「地方で、地元で、表現すること」をおこなった。著者の宮脇慎太郎、徳島発の文芸誌『巣』を主宰するなかむらあゆみさん、そしてサウダージ・ブックス編集人である自分も出演。作家のなかむらさんの司会進行がしっかりしていて、質問に答えているうちに時間切れに。文芸誌『巣』のことをもっと聞きたかったのに……。でも、宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』となかむらさんの小説「巣」が《ステテコ》でつながる点を発見できたのはよかった。イベント終了後は宮脇くんの運転で夜の高松へドライブ。古本屋のYOMSと本屋ルヌガンガに立ち寄り、本好きの面々とお酒とご飯の店・時宅に集まり遅めの食事。

6月某日 朝目覚めると、蝉が鳴いている。高松の定宿近くの温泉で朝風呂に浸かり、瓦町の南珈琲でモーニング。コーヒーとトーストで税込300円代。午後はYさんと落ち合い、書き下ろしの新著の打ち合わせ。帰りはJR高松駅からマリンライナーで瀬戸大橋を渡って岡山へ、そこから東京方面の新幹線「ひかり」に乗り換え。

6月某日 文芸誌『巣』を読了。なかむらあゆみさんの小説「巣」が不思議な味わい。女性たちの集う少し現実から離れた世界で、少し斜めから見られた人間の生きづらさの独特の陰影が浮き彫りにされる。巣とはなんだろう。動物の巣、人間の巣。共同体と継承ということについて考えている。

久保訓子さん「砂の鳥」、髙田友季子さん「後を追う」もすばらしい小説だった。砂嵐、あるいは家族。抑圧の気配の中で決壊寸前の感情を抱えて生きる女性たちのリアリティをそれぞれのやり方で描き尽くしていて息をのんだ。不穏なもの、という読後の印象が「巣」を含めた3作に共通すると思う。短歌もエッセイも「三番叟まわし」のお話も興味深い作品で、文芸誌『巣』は最初から最後まで読み通したい本だった。

いつのまに梅雨が明けたのだろうか。雨を感じないまま、猛暑の日々がはじまった。

耳から手にわたす

高橋悠治

3ヶ月前に書いた『時間のキュビズム』の続きになるが、時間/空間というカテゴリーで考えることも、音楽の場合は「たとえ」にすぎない、創られ現われた音を測られる空間のなかの点や線として視覚化して扱うのは便利ではあっても、失われるのは、音を作り、保ち、消すか消えるにまかせる身体の動きとその感触・体感ではないだろうか。

考えるのではなく、感じつづける状態、ある一瞬に始まり、すぐにうつろい消える音を造る意志よりは、身体がゆるむにつれて、どこからか顕れ、誘いかける窪み、指圧や鍼灸でいうツボに向かって指が吸い寄せられるように、風や水が流れこみ、そこに溜まってまた流れ出すように、たゆたう線が途切れがちに、あてどなく過ぎてゆく。夢をイメ(寝目)と読んだむかしの、さまよう旅のひと。

息がかよう狭い小径、ゆったりした拍がさらにかぼそく、感じるともなく気配にまで鎮まって、身体の内側に感じるよりは、外の世界のどこかに遠ざかってゆく。その瞬きを追うともなく、追ってゆくとき。掠れてまばらに散るしるし、兆しなのか…

それが江戸の「邦楽」や能(申楽)で「間」と言われたものかもしれない。間は「あいだ」、余白、それだけでは立っていられない、応えを呼ぶ「欠けた」まま立ちすくんでいるところと言っていいだろうか。そこで断ち切れば、かえって余韻に想像のはたらくゆとりが残るのだろうか。

こうして書くだけではわからない、音楽は音楽学ではないから、実際に試してみないと、わからないことがある。自分でわかるだけではなく、それを文字にしても、書かれたこととはちがう想像を誘わなければ、書かない方がましになるかもしれない。「自分でわかっている」というのも、思い込みに過ぎないのは、あたりまえ。

次には、もうすこし続きを書けるだろうか…

2022年6月1日(水)

水牛だより

ただ生きていることが快適な気候のきょう、何もしないでいられれば最高でしたが、そうもいかず。きょうのような美しい日々がもっと続いてほしいものです。

「水牛のように」を2022年6月1日号に更新しました。
今月もひとことやふたことではまとめられない、豊か(=雑多)な内容です。しかも、たとえば、斎藤真理子さんの「編み狂う」は10ヶ月ぶりですし、杉山洋一さんの「しもた屋之噺」は一度も休みなく244回続いているのです。

5月14日に、タイの作家で編集者のワート・ラウィーが急逝したことを知りました。タイ文学研究者の福冨渉さんがワート・ラウィーの「詩とは反逆だ」を追悼のために翻訳・公開しています。そもそもワート・ラウィーは福冨さんの翻訳で知った作家です。ぜひ読んでください、すばらしいです。
https://www.craft.do/s/qcgtWyiyGZsdly

翻訳ともとのタイ語を並べて、じっと見ていると、タイ語のことも少しずつ思い出して、もう少しちゃんと読めるようになりないと思うのです、が。。。

それでは、また来月も更新できますように!(八巻美恵)

編み狂う(10)

斎藤真理子

 いちばんいい編み物は編みかけの編み物だ。そんなことわかっている。
 完成した編み物はつまらない。なぜなら、もう編むところがないからだ。それもわかっている。

 何度も書いた気がするが、縫い物は、生地を裁ったら後戻りできない。でも編み物は途中でどうにでもなるしどこにでも行ける。色も形も変えられる。セーターのつもりだったのをワンピースにしたっていい。いや、実際にはそんなことしない。その自由を使う可能性はほぼ、ゼロ。でも、行使しない自由であっても、保証されているのといないのでは大きく違う。

 昔、昼間は解体現場で働いて夜は彫塑をやっている知り合いがいた。お天道さんが出ている間は壊し、お天道さんが沈むと作る。結局プラスマイナスゼロで、さっぱりした顔して暮らしていた。人体彫刻を五〜六個、ずーっと手入れしつづけて、いつまでも出来上がらない、そういうのが理想ということだった。
 それはわかる。私もできればずっと編んでいたい。でも、彫塑なら半永久的に作っていられるのかもしれないが、編み物は編んでったらどんどん伸びてしまい、どこかできりをつけないといけない。
 だから一応、ウエアの形に落とし込んで、完成形を設定している。それは私が選んだことであり、編み上がるときが来てしまうこと、いつか仕上げなきゃならないことはわかっている。けれども、それによって失われるものが何て多いことか。いうまでもなく、自由を失うということだ。

 パーツの間はまだ、どっちにでも行ける。融通無碍、当意即妙、縦横無尽が揃っている。だがパーツが編み上がってしまうと、「とじ・はぎ」という別世界にワープしないといけない。そこには陶酔はない。
 まず、前身頃と後ろ身頃をとじなくてはいけない。ちなみに、ここでヘタを打つと、着ているときに脇腹のところがたるんだりシワがよったりしてみっともないから気を遣う。丁寧にピンを打って、確かめながらとじていく。
 とじ終わると胴体ができる。これで頭を突っ込むことができるようになるが、その代わり融通無碍が失われる。
 次は袖を丸めて端っこと端っこをとじる。腕を突っ込むことができるようになるが、その代わり当意即妙が失われる。
 そして袖つけ。胴体と袖をつなぐのだ。こうなるともう後戻りができません。これをやるとセーターとかカーディガンとか呼ばれる全体像ができてしまう。はた目には、目標達成にぐっと近づいたことになる。だが縦横無尽までが失われて、いつでもほどけるという自由がほぼゼロに近づく。がんじがらめである。
 とはいいながら、私はこの作業に全神経を集中させる。だって素人くさいセーターやカーディガンの8割は、袖のつき方がモコモコしてださいのだ。
 だからヘタを打たないように、また丁寧にピンを打ち、息を止めて一気に、かぎ針で引き抜き編みをしていく。この作業はなぜか、中腰の気持ちで、追われるかのような心境で一気にやってしまう方がいい。ゆったりした気持ちで、片づいた部屋で、満を持して作業したりするとたいてい失敗する。

 これが終わってもまだ、完成ではない。パーツどうしをくっつけただけでは着られないからだ。袖も胴体も一体化して大物になった編み物に襟を編みつけ、袖口を編みつけ、裾を編みつけ、必要なら前立てを編みつける。これがダメ押しの儀式、がんじがらめをさらに強化する儀式である。
 その果てに、ゴム編み止めという、「強化がんじがらめ」にさらに因果を含める儀式を施す。忌み嫌っている人も相当に存在する、面倒な儀式である。これをやるともう、ほどくことはほとんど不可能になる。とはいいながら私は、ゴム編み止めもかなりうまい。嫌いな仕事ほど、文句をつけられまいとして構えて臨むので上手になり、だんだん愛着すら芽生えてしまう。

 そして、因果を含められたがんじがらめの半永久化という作業がこの後に待っている。ここまで来た編み物には、いたるところから糸端が飛び出している。そのままでは着られないので(いや、着たっていいが)、飛び出した糸を片っ端から針に通してとじ目や編み目にくぐらせ、隠していく。がんじがらめにしたという証拠を隠滅するわけだが、すると水面下でいっそうがんじがらまり、もう未来永劫ほどけない感じになる。にっちもさっちも。いや、ほどこうとすればほどけるんですよ、ほどく必要があれば。だけど、ほどく必要なんて生じない。ほどかないと糸がないとか、そんな切迫した理由は発生しない。それを言ったらそもそも今の時代、どうしても手編みをしなくてはならない差し迫った理由はないのである。

 そもそもが矛盾してるのだった。ずっと編んでいたいのに完成形を設定することも、ほどける自由があるからこそ編んでるときが陶酔なのに、ほどけないことを完成と呼ぶことも。
 だけどそもそも、昨日と今日がすんなりつながってたりはしない。我々の記憶も生活も、端を引っ張ったってすーっとほどけてきたりしやしない。とじて、はいで、言い訳して、糸端を隠して、自分から進んでがんじがらめになって、自分で自由を切り刻むのが生きることなのだと、そうね、こんなふうに、何もかもが何かの比喩であるみたいなことを言ってるうちに人生は終わってしまうだろう。一期は夢よただ狂えと閑吟集に書いてあった。そして、いちばんいい編み物は、編みかけの編み物である。

アジアのごはん(112)たらま島食日記

森下ヒバリ

たらま島に行ってきた。たらま島は宮古島の南西約67km、石垣島の北東約35kmの場所にある小さな島だ。人口は1000人ちょっと。牛の数は5000頭。宮古島空港から琉球コミューターの飛行機で飛び立って15分、青い海に浮かぶ丸い緑の島が眼下に見えてきた。丘はあるが、山はない。サンゴで出来た平らな島である。

今回の旅は、埼玉の小手指でたらまガレージというライブもする飲み屋のおとうの里帰りに、ミュージシャン2名とそのファン、店のファンが一緒についてきた、という形である。まずは宮古島でライブをやって、翌日飛行機でたらま島へ飛ぶ。たらま島では今回の旅のプロデューサーの佐久間さんが車で見どころを案内してくれる。

まずはお昼ご飯だ。たらまのおとうの義理の弟さんからここに行けと指令されたのは、できたばかりの「たねび食堂」という店。席が空くのを待って、店に入るとメニューは「たらまそば」と「たらま牛丼」のふたつ。悩む間もなく、今日は牛丼はないとのことで、たらまそばを頼む。

沖縄地方の「そば」というのはご存じの方も多いと思うが、一昔前の鰹ダシで醤油味の中華そばに近いものだ。宮古島では太めの中華麺に豚バラの煮つけ、てんぷら(かまぼこ)、ねぎが標準装備である。

たねび食堂のたらまそばも、同じく3点セットなのだが、宮古島であまりおいしい宮古そばに当たらなかったので、期待せず割り箸を割った。小さな島なので、営業している店は少ない。食べられるときに食べておかないと・・あ~また豚バラ肉かあ・・箸で取って口に運ぶ。んんん、んんま~い!豚バラがふわっとほどけて肉の油がとろんと舌に溶ける。最高。

宮古島滞在中で食べていたそばの豚バラ肉はちょっと臭みがあって、けっこう気持ち的に「もう、豚バラは食べたくないです」となっていたし、どこも味の素がたっぷり仕込まれていたので、この味はうれしい。紅ショウガも載せて、ずずっといただきました。化学調味料や添加物の入っていないスープもあっさりとしているが滋味深い。大きな肉の固まり、ぺろっといけた。宮古島に三日間いて、おいしかったのは2日目の夕食、居酒屋「志堅原」のみだったので、かなりテンションが下がっていたのだが、急に元気になってきた。

食後に島を回り、たどり着いたのが「たらま民俗学習館」。いわゆる民俗資料館ですね。たらま島の歴史とか、祭りの写真、昔の農工具や漁の道具、食器などが展示されている。大きな巻貝をヤカン代わりに使っていたり、シャコ貝の小さいのを湯呑代わりに畑に置いておいたり、ココナツのひしゃくとか、南の島らしい道具が並ぶ。そして、紙に書いて張ってあるたらま島の「食の変遷」という資料に目がひきつけられた。少し長いが写真から書き写してみよう。

紀元前1500年頃 
一、イノシシやジュゴン、魚、貝類、野草や木の実を採取して食していたと推察される。煮炊きには下田原式土器と呼ばれる素焼きの粗末な土器を使用していた。
十世紀ごろ
一、七~八世紀ごろ八重山地方で確立した根菜農耕文化が伝来したと推察される。粟・麦・豆類・ヤムイモなどの栽培。ヤムイモを利用したイノシシや野ブタの飼育など。
十五世紀頃
朝鮮国・李王朝の歴史書、李朝実録に、次のような記述がある。(一四七九年)
一、キビ、粟、大麦、蒜(ノビル?)ヤムイモなどがあり、土をこねて鼎(かなえ)を造り、これで煮炊きをする。
一、飯はこぶし大に握り、ハスの葉に似た木の葉に盛って食べる。みそやしょうゆ油、塩などはなく、味付けは海水のみでする。
一、家にねずみがいる。牛、鶏、猫を飼う。牛は食べるが、鶏は食べない。
一、昆虫に蚊、蠅、蝸がおり、蝸を煮て食べる。
一、肴には乾魚を用いる。鮮魚を薄切りにしてなますをつくり蒜(ノビル?)を加えて食する。
十六世紀頃
十五世紀同様な食生活だったのではないかと推察される。
十七世紀頃
十六世紀後期(一五九七年)砂川旨屋により中国から宮古島に甘藷が移入され、十七世紀の初め頃、多良間島にも移入される。
一、一六三七年から宮古・八重山地方に人頭税が課せられ、厳しい穀税(粟納)に備えることが精いっぱいで甘藷作は賑わず食糧事情はますます困窮を極めるだけであった。
十八世紀頃
一、食糧難を乗り切るためにソテツを移入し、クツバルニーと水納島に植え付ける。(一七二七年)
一、水納島ではシャリンバイやユリ根も救荒食として利用した。
十九世紀頃
一、唐黍、小麦、下大豆などが移入され、一部の家庭でみそが使用されるようになり、油脂、酢、塩なども伝来しているが、海水のみの味付けも依然として続いていた。
一、一九〇三年(明治三十六年)、人頭税が撤廃され、甘藷作が盛んになる。
二十世紀
一、一九一八年(大正七年)大豆が移入される。大豆製品が多く出回るようになり、この頃から食糧事情は若干緩和される。大正末期にはしょう油も移入され、一部の家庭で使用されるようになる。
一、一九三五年(昭和十年)この頃から戦時体制に入り食糧難を来す。
一、一九四三年(昭和一八年)後半からソテツ食となる。干ばつやサツマイモの病害虫の大発生により大飢饉となってソテツ食が続き・・
一、一九五九年(昭和三十四年)‥が襲来し食糧危機に陥る。・・三食中一食は米食となる。
一、石油コンロはやる。
一、一九六三年(昭和三十八年)この頃から米食が増える。
一、一九六六年(同四十一年)・・台風襲来、最大瞬間風速八五メートル。農作物被害甚大。
・・の所は読み取り不可能な箇所でした。

この小さな島には3500年ほど前から人が住んでいた形跡があるとのこと。それから島に渡ってきた人々は、ほぼずっと食べ物に苦労してきたようである。十世紀ごろまでは狩猟採集生活、その後は農耕も始まるが、海も豊かなのでそれなりに暮らせていたとは思われるが、十七世紀からの過酷な人頭税が島民を苦しめる。税を納めるには粟を作ってそれで納めなければならないので、ほかの作物を作る余裕がないのだ。

十五世紀の李王朝の歴史書、李朝実録に記されている食の有様が興味深い。まだ島には大豆も米もなかったので、味噌がないのは分かるが、調味料が塩もなく海水のみとは。本当なのだろうか。役人とかに知られると税として徴収されるので、黙っていたのではないのか・・。

塩は海水を日に干しさえすれば出来るし、保存も効く。そして、アジアの国々ではその塩を使って小魚を漬けて塩辛にして調味料、保存食としていた。それがいわゆる魚醤である。現在のイメージの液体の魚醤(ナムプラーやニョクマム)はその塩辛から液体を絞った工業製品で、ここ百年ぐらいに普及したものである。

調味料として塩辛の存在も書かれていないので、本当になかったのかもしれないが、ちょっと不自然な気もする。縄文時代から本土では魚醤や肉醤があったとされており、八世紀の万葉集にも長忌寸意吉麻呂の歌に「醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛(たひ)願ふわれにな見えそ水葱(なぎ)の煑物(あつもの)」という歌がある。

醤酢とはもろみ状の醤に酢を合わせた調味料。醤は肉や魚と塩から作るものの方がかんたんで時代的に早く、穀類や大豆から作るには麹が必要となり手間も時間もかかるので、そちらは高級品である。この歌の醤がもろみだったのか、味噌だったのかは分からないが、刺身に和えるなら酢味噌の方が合うよね。

たらま島ではライブの次の日におとうの義弟の邦さんが潜ってタコを取って来てくれて、バーベキューでたらま牛や、豚バラ串焼きなどとともにごちそうになった。大きなタコは、まずは炭火コンロで表面をあぶり焼いてから、海に戻って海水で洗ってぬめりを取り皮をむいて、刻んで酢味噌だれで供された。あ、醤酢だ‥。タコはぶつ切りにしたそのままでおいしく、オリーブオイルでマリネにしたい・・などと不謹慎に思いつついただく。
豚バラの串焼きの肉は前日に邦さんの連れ合いのアネットがたれに漬けこんでおいたもので、また豚バラですかと一瞬思ったが、一口食べたらめちゃくちゃおいしい。いくらでも食べられる。こんなに一度にたくさん豚バラ肉を食べたのは初めてではないか。たれに地元のシークワーサー(酸っぱいかんきつ)の果汁を入れるのが秘伝らしい。まん丸に握られたこぶし大の豆ごはんのおにぎりもおいしかった。

宴会は続いていたが、食べ疲れたので、砂浜でひとり昼寝をした。サンゴの白い砂に、たくさんの白化したさんごのかけら。ああ、砂の上に寝っ転がるのは二年ぶりだ。海に入ると青や黄色の小さな魚が群れている。眺めていると大きなウツボがするするっと顔の横を通り抜けた。うわわっ。

豊かな海と濃い緑の島、奪うものさえいなければ人々は飢えることはなかっただろう。

フーガの技法

笠井瑞丈

私が上村なおかと主催している団体
笠井瑞丈×上村なおか
五月プロデュース公演を行う
出演者は多岐にわたり活躍をし
振付そして自身の公演を行っている
平山素子さんと父笠井叡さんのデュオ公演
タイトル J.S.バッハ作曲「フーガの技法」を踊る
構成・振付:笠井叡
出演: 平山素子、笠井叡
音源は高橋悠治さんの演奏を使用

バッハのフーガの技法を知ったのは
今から16年前の7月
叡さんと悠治さんが
毎週土曜日四夜にわたり
神楽坂セッションハウスで
公演をしました
悠治さんの演奏で
叡さんがフーガの技法を
踊ったのが初めてです
16曲約一時間ほどの公演

それがきっかけでフーガの技法を知りました
そして2008年1月に悠治さんの演奏で
世田谷シアタートラム
上村なおか アレッシオ・シルベストリン 横田佳奈子
叡さんの振付で四人でフーガの技法を踊りました

そこからいつかフーガの技法に
挑戦したいという想いを持ち去年の4月はじめて
私の振付で四人の若い女性ダンサーに
フーガの技法を踊ってもらいました
そして同年10月には鈴木ユキオさんと
即興でフーガの技法全曲を二人で踊りました

そして今回このような流れになったのは
去年平山素子さんから叡さんに振付依頼が来たのが始まりです
そして叡さんがテーマとして選んだのがフーガの技法でした
これは横浜KAAT主催のエリア50という企画の中で
平山素子さんが20分のソロを踊るという企画でした

エリア50とは6人の50代のダンサーがそれぞれ
違った振付家の踊りを踊る企画です

ダンサーは

近藤良平さん 小林十市さん
伊藤キムさん SAMさん
安藤洋子さん 平山素子さん

平山素子さんはこの時
全曲ではなく三曲踊りました

そして公演が終わりいつか
デュオで全曲やれたらと言う話から
今回この公演が実現しました

通し稽古には何度か立会いました
空から降ってくる音の雨に打たれて
びしょ濡れになりながら踊る平山素子さん
いつしか時間はなくなり
カラダと音楽は熱に変わる
深い闇の中からまた新しい光が生まれ

2008年1月トラムで踊った日は
とても寒く大雪が降った事を
昨日の事のように思い出す

私が初めてのソロリサイタルを行った
1997年2月も公演終演後大雪が降った

そしてトラム公演の次の週
なおかさんのお父さんが亡くなった

また私もいつかフーガの技法に挑戦したいと思う

ベルヴィル日記(8)

福島亮

 5月のベルヴィルは晴れの日が続いていて気持ちがよかった。ラマダンが終わったので、街路に溢れていたアラブ菓子は姿を消し、かわりにスイカが並び始める。日本のスイカよりも2回りほど大きくて、若干縦に長いスイカ。アフリカからやってくるらしく、太陽を存分に浴びているからとても甘い。またこの季節、市場で山積みになっているのはアーティチョークだ。外の固い部分をむしり、下から半分ほどの柔らかい部分を細く切り、パスタの具にしたり、煮物にしたりする。どことなく食感が筍に似ている。

 ともあれ、今回この日記を書いているのはベルヴィルではない。というのも、5月の末から6月末まで日本に滞在するからである。滞在、というのも変な言い方だが、2年ぶりの帰国を果たしてみると、帰ったという気持ちよりも、滞在しているという気持ちの方が強い。

 シャルル・ド・ゴール空港から12時間のフライトを経て関西国際空港へ、そこから難波に向かい、シャトルバスで伊丹空港まで行き、羽田行きの国内便に乗る、という少々ややこしい帰路だった。関西国際空港に到着すると、感染症対策が待っている。フランスから日本へ入る際の水際対策は緩和されており、3回のワクチンが接種済で、入国時の検査で陰性ならば隔離や自宅待機は必要ない。緩和される前にフランスから日本に帰った知り合いは、自宅待機に加え、自宅待機を短縮するためにPCR検査をせねばならず、さらにそのPCR検査が法外な値段だったため怒り狂っていた。そのことを知っているから、緩和されてよかったと思っている。緩和された、といっても、やはり入国の際には書類の提示や唾液を用いた検査は必要だった。面食らってしまったのは、唾液の採取である。採取容器と小さなロートを渡され、そこに唾液を溜めるのであるが、板で仕切られた採取ブースには、唾液の分泌を促すため、梅干しとレモンの写真が貼られていた。

 帰国して数日経ったのだが、まだ身体が慣れない。たとえばマスク。人が多くないところでは外しても良いのではないか、などと思いもするのだが、連れ合いに言わせるならば、そのような発想は良くないのだそうだ。久しぶりに帰国してみると、なんだか自分が場違いなところに来てしまったような感覚がする。はやくベルヴィルのアパルトマンに帰りたいと思う瞬間も時々ある。あと1年くらいで留学を切り上げたいのだが、その後この場違いなところに完全に戻ってくるのかと思うと、なんだか不思議だ。徐々に慣れるのだと思う。でも慣れなかったらどうしよう。そんなふらふらとした浮ついた不安が心の片隅にある。

あなたのいない二十三年間のこと。

植松眞人

まるで、ずっとそこにいたかのようにあなたは「今日は時間がないんです」と笑いながら言う。けれど、「今日は」とあなたはずっとここにいたように言うけれど、あなたがここにいたのは三年間だけだ。
三年前にふらりと舞い戻って来たあなたは、まるであなたがいなかった二十三年間のことなどなかったかのように、ずっとここにいたように、みんなと同じようにデスクを並べて仕事をした。チャイムが鳴ると教室に行き、淀みなく話して生徒たちの心を掴み、心を掴まれた生徒たちは職員室に来てもまずあなたを探した。
あなたがいなくなってからすぐに、当時の教育主任が決めた「質問は授業中にするように」というルールは、あなたが帰ってきてすぐに、なかったものになった。あなたは授業中も授業が終わってからも生徒に囲まれていた。学校帰りの道でも生徒たちがあなたと話したがった。
私はあなたが生徒たちと仲良くしすぎて問題でも起こせばいいのにと思っていた。ほら、あなたのクラスの背の小さな女の子は、早くにお父さんを亡くして完璧なファザコンなのよ。気づいてた? 彼女のあなたを見る目は恋人を見る目と同じ。
でも、あなたは問題など起こさない。生徒たちに缶ジュースをおごってあげたりすることはあっても、先生と生徒という関係は決して崩さない。そこがあなたのえらいところで、私が大嫌いなところ。
あなたが二十三年前に消えた時のことを私は良く覚えている。新しい校長が赴任してきて、運営方針が大きく変わった。校長はもっと上の指示にしたがっているだけで本当は決定権なんてなかった。だからこそ、先生たちは新しい運営方針に則って、渋々仕事をした。嫌々仕事をしていた。
そんな時、まだ教師になって3年目だったあなたはこう言ったの。
「生徒を第一に考えることが出来ないなら、僕は辞めます」
私は心の中で拍手をした。たぶん他の先生方も。だけど、あなたのように「辞める」と声に出せる先生はいなかった。嫌でも仕事をしなければならなかったから。背負っているものや抱えているものがたくさんあったから。
だから私はあなたが戻ってくる二十三年間、ずっとあなたに負い目を感じて生きて来た。あなたが顧問だった水泳部を引き継いだのも、校庭の花壇の水やりを引き受けたのも、志半ばで辞めていった、あなたへの罪滅ぼしのつもりだった。

でも、あなたは戻ってきた。二十三年間という、そう短くはない期間を経て。そして、私たちがあなたに負い目を感じながら過ごしてきた二十三年間で明るく前向きにいろんなものを吸収していた。
私にはそれが腹立たしかった。あなたの輝きよりも、あなたの輝きが二十三年前の正直なあの一言から始まっているのだとしたら、もう私たちにはあなたと同じ輝きを手に入れる術さえない。そのことが我慢できないくらいに腹立たしかった。
そして、私は思ったの。せめて今日、私はあなたにいまの腹立たしさだけでも伝えておいた方がいいのかしら、と。
「少しお時間いいですか」
私が話しかける。
「いえ、今日は生徒の対応で時間がないんです。申し訳ない」
あなたはそう答えた。
ねえ、二十三年間かかって、私はあなたに話しかけたのよ。あなたの背中に、私はそう呟いてみる。(了)

カエルのうた

北村周一

そのすじの
歌人たちより
おおどかに
ともを求めて
カエルはうたう

       上手下手
    それよりうたい
      継ぐべしと
     カエル来りて
     うら庭に鳴く

婚姻の
いろの音色を
ふるわせて
うたうカエルの
こえ梅雨ちかし

      しごと場に
    いくつかの闇を
        拵えて
    聞きいたるなり
     カエル鳴く声

丑三つどき 
肩いからせて
降る雨も
あるらんカエル
応答をせよ

      見るまえに
    跳べといわれて
      目をつむり
      挑む幅とび
     砂まみれなり

にわたずみ 
仰向けにみる
感じありて
大空たかく
回すパラソル

       口に口を
    つけてこころを
      満たすごと
    ペットボトルの
      水と繋がる

水星が
よべのゆうべの
西ぞらに
ひくくこぼれて
三日月の下

        食卓の
     木目のなかに
      棲むという
     雄ライオンの
     寝顔かわゆし

野良ネコの
ひたいのほどの
さにわべに
手子摺りにつつ
初夏をたのしむ

       空き缶が
     雨のしずくを
      受け止める
     ような仕草に
    クチビルが欲し

ものかげに
人の影ある
これの世の
せつなに肌理の
交わりを編む

      オニゴロシ
     のんで気配を
       消す努力 
   ハザードマップに
    ゲンパツは見ず

青に黄の
いろをはつかに
足すのみに
懶(ものう)きよ ターコイズ・
ブルーというは

     混ざり合うも
    溶け合わずなり 
      ターコイズ・
    ブルーに透けて
    映ゆるイエロー

なかんずく
身内がいちばん
厄介なんだと
イエズスも
言ってたような

        雨に傘 
     顔にマスクの
       常にして
     安くて便利な
    日々うたがわず

みつめ直す
ために花咲く
雨の中 
花びんに枯らす
花あることも

すでにご存知かと

篠原恒木

「すでにご存知かとは思いますが」
と、前置きしてから話す人がいる。おれはこの前置きが大の苦手だ。なぜならおれはほとんどのことを「ご存知」ではないからだ。
「すでにご存知かと思いますが」
と冒頭に述べてから、必ずそのヒトはいわゆる「ギョーカイばなし」を披露する。
「ヤマダ出版がタナカ出版に吸収されたんです。ご存知ですよね?」
「知りませんでした」
おれがそう言うと、そのヒトは鼻を大きく膨らませて、
「おや、そうでしたか。タナカ出版がヤマダ出版を事実上買収したかたちなので、ヤマダ出版の役員陣が相当数退職に追い込まれているようですよ」
などといった、ギョーカイばなしを得意気に喋り出す。おれは正直に、
「そうですか。あいにくヤマダ出版もタナカ出版も知らないもので」
と応える。そのヒトは少しがっかりしたような顔になるが、さらに話を続ける。
「まあ、これもすでにご存知かとは思いますが」
またかよ、とおれはげんなりしてくる。
「毎朝新聞の人事が大幅に変わりました。スズキさんが執行役員になったのは意外でしたが、これでタカハシ局長がラインに乗ったことになりますね」
「そうなんですか」
おれが気のない返事をすると、そのヒトは「そんな情報もインプットしていないのか」と小馬鹿にしたような顔でおれを見ながら、
「だってスズキさんがボードに上がったわけですからね、これは布石ですよ、布石」

この「すでにご存知かとは思いますが」おじさんは、一か月に一回の割合でおれのもとを訪ねて来ては、一方的に「ギョーカイばなし」を披露して帰って行く。
おれはこのテの話にまったく興味がない。ヒトサマの会社がヒトサマの会社に吸収されようが、ヒトサマの会社の人事がどう変わろうが、どうでもいいと思っている。知りたいとも思わない。だいたいボードってなんなのだ。ラインとはなんぞや。ボードは波乗りする前にきちんとワックスを塗るものであるし、ラインはときどきスマートフォンで「今晩会えますか? うふ」などと届くものなのだ。
ヒトサマの会社だけでなく、おれは自分の会社の人事も機構改変ですらも「公示」の日までまったく把握していないし、公示されたところで興味もないし、ピンとも来ない。なぜなら知らない名前に聞いたこともない部署の羅列を見せられるだけだからだ。
「ああ、あいつはあの部署に異動したんだな」
「おや、あいつはずいぶん出世したんだな」
といった感想もないし、興味が湧くはずもない。
「自分が勤めている会社の社員たちの名前くらいはわかるでしょう? そんなに大きい会社でもないんだから」
という声もあるだろうが、おれは社内に友だちがいないので、廊下ですれ違う社員らしきヒトビトの顔も名前もよくわからない奴らばかりなのだ。

「すでにご存知かとは思いますが」
と前置きするおじさんは、どうやらいろいろな会社に行ってはギョーカイの人事情報やよその会社情報をヒトビトに話し、ときどき仕事を得ているようだ。つまりは「ギョーカイばなし」には、それなりの「需要」があるのだろう。
今日も「すでにご存知かとは思いますが」おじさんがやって来て、
「すでにご存知かとは思いますが」と始まったので、おれはすぐさま、
「いえ、ご存知ありません」
と、おじさんの口を塞ごうとした。もうこれ以上、ヒトサマのどうでもいい人事情報などを延々と聞かされるのはたまったものではない。するとおじさんは、
「そうですか、ご存じありませんか。じつはこの四月で夕陽新聞のナカヤマ局長が役員に昇格しました。夕陽もずいぶん変わりましたね」
と、一方的に話を続けるではないか。そのおじさんの鈍感力にオノノキながらおれは言った。
「おれは役員さんと仕事するわけじゃないから、あんまり関係ないですねぇ」
「まあ、それはそうでしょうが、情報として」
やれやれと思いつつ、話を切り上げようとすると、「すでにご存知かとは思いますが」おじさんはおれに言った。
「何かあったらいつでもご連絡ください。なんでしたら夕陽新聞に御社の書籍のパブリシティ記事を書かせましょうか?」
おじさんは「ギョーカイにおける自分の人脈の広さ」を誇示しようとしているらしいが、動脈・静脈・山脈までは認めることができても、人脈という言葉には卑しさを感じてしまうおれは嫌な気分になった。なにより「書かせる」という言い方にカチンときた。
「すでにご存知かとは思いますが」
と、おれは言ったあとで席を立ちながら続けた。
「おれはヒトサマの会社の人事情報にこれっぽちの興味もないのです。したがってそれらの話を存じたくもないのです。あなたを介して夕陽新聞に記事を書かせよう、いや、書いていただこうなんてことも思ってもいません。ご足労ありがとうございました。これで失礼させていただきます」
ここまで言えば、もう「すでにご存知かとは思いますが」おじさんから来訪のアポイント電話も今後はないだろうと思っていたが、一か月後におじさんから電話があった。
「連休明けのどこかでお時間を頂戴したいのですが」
「すでにご存知かとは思いますが連休明けは時間がなかなか取れません」
「では次の週のどこかで」
おれは呆れながらも根負けして、
「じゅ、十六日なら空いている時間が……」
と言ってしまった。これが大きな間違いだった。
「十六日、結構です。何時でも大丈夫です。何時に伺えばよろしいですか?」
「ええと、十七時以降でしたら体が空きます」
「十七時、ですか……困ったな」
「えっ? 何時でも大丈夫とおっしゃったではないですか」
「十七時ですと……すでにご存知かとは思いますが、私の帰りが遅くなっちゃうもんで」

むもーままめ(19)失われた焼肉店を求めて、の巻

工藤あかね

今の家に引っ越す前、かなりのんびりした街に住んでいた。
駅からは遠く、少しアップダウンもあったので、
とくに疲れて帰る日や雨の日は、
駅から家に戻るまでに、かなり体力を消耗するのが常だった。

しかも、住んでいた家の近所にはスーパーマーケットがなかったので、
駅の反対側まで行って買い物をし、
重いレジ袋を腕に食い込ませながら歩いて帰ったものだ。

もう疲れて食事も作りたくない、駅から出たら、
一休みがてらに食事をして、帰りたいと何度も思った。

そんなある日、駅から家に向かう途中に、炭火焼肉屋さんが開店した。
お料理も良いし、雰囲気もくつろいでいたので、
夫もその店を大変気に入って、ついに常連になった。
我が家にとっては、ほとんど第二の台所だった。

店長は気さくな人で、付かず離れずの距離感が絶妙だった。
店員さんも、よく気がつく人たちで、感じがよかった。
ある時は就職で悩んでいる若い店員さんに、
職を紹介しようとしたこともあったっけ。

引っ越してからも、私たちは電車に乗ったり、
ちょっと遠目の散歩をしながらその店に足繁く通った。

ところがある時から、店長の姿を見かけないようになった。
別の街にも出店するために、その店を離れていると聞いた。
店長がいなくても私たちはボトルキープをし、
お店に何度も通っていたのだが、
ある時、はっきりと異変を認めざるを得なくなった。

お肉の質があきらかに落ちている。
炭火の扱いがいい加減になった。
お料理の盛り付けも、味付けも雑になった。
店員さんが店内をきちんと見なくなって、
呼んでも、気づいてもらえなくなった。

それでも、今度こそはと祈りながら通っていたが、
私たちが馴染んでいた店長の目が届かぬうちに、
どんどんお店がダメになっていくのを肌で感じた。

ある時、心に決めた。
もうこの店には来ない。

本当に長く気に入って通っていた店で、
友人知人も、たくさん連れて行った。

そんな店を一軒失うのだと思って、悲しかった。

その後、次なる推し焼肉店を求めて、放浪している。
ネットの評判が良くても、居心地が良くなかったり、
むやみに高かったり、フィットする店を探すのは難しい。

煙がほとんど出ないという炭火焼肉店にも行ってみた。
服に匂いがうつらないのはいいかもしれないけれど、
美味しさが半減する。
どうせ焼肉に行くのなら、
油を含んだ煙がもうもうとしているのを見たい。
食べている時はもちろん、上着を脱いだあとも
煙の残り香に包まれていたい。
そのほうが、汚してはいけない服装で
クリーンに食べるよりも、ずっといい。

最近ようやく、ここなら通うかもしれないな、
という店に出会った。
以前気に入っていた店のようにはいかないとしても、
はかない期待を込めて、
また食べに行ってみようと思う。

『アフリカ』を続けて(12)

下窪俊哉

 先月、井川拓『モグとユウヒの冒険』がようやく本になった。長い、長い道のりだった。本をつくるにあたって著者の不在がどういうことなのかを、嫌というほど思い知らされた。著者の家族にとっては、その本が、彼の分身のように感じられているかもしれない。
 本として完成させるにあたって大きな推進力となったのは、彼の姉である伊東佳苗さんだった。本が完成した後で今回の協働作業を「下窪さんとライブやってたよう」だと言っていたが、物語をあらためてくり返し読み、毎日のようにやりとりをしていた。『モグとユウヒの冒険』の主題は、子供時代、家族、そして自然ではないか。家族のこと、人生のことをあらためてじっくり考えてみる貴重な機会にもなった。

 物語の舞台となっているのは琵琶湖の湖北・マキノ。アサヒとユウヒという小学生の兄弟が、父母と共に暮らしてる。父ちゃんは稼ぐのが苦手な陶芸家、母ちゃんは保険のセールスをする職についていて毎日帰宅が遅い。小4のアサヒは学校から帰ってくるとすぐに遊びにゆき、小川で釣りをしたり野球をしたりして夕方に戻ってくる。小2のユウヒは学童保育所にゆき、父ちゃんの迎えを待っている。そんな日常。
 ユウヒはひとりで絵を描いて遊ぶのが好きで、落書き帖に猫と犬が決闘する絵を描いている。猫は家で飼っているハボコで、犬は昔、父ちゃんの実家で飼っていたモグという「牧羊犬を祖先にもつ雑種犬」だ。
 ユウヒにはモグの記憶がないので、父ちゃんの話を聞いて印象深く覚えている、いわば伝説の犬であるモグを絵に描くとしたら想像で描くしかない。ある日、そんな絵を描いているユウヒの耳に「ふわふわとした声」が聴こえてくる。その声の主はモグを名乗り、ユウヒの描いている絵に文句を、注文をつける。
 物語はそんなふうにして始まる。
 父ちゃんには弟がいて、家族から「ダイボーおじさん」と呼ばれている。ダイボーおじさんは15歳の時に事故に遭い、脳に障害を負っていて、何か話を聞いてもすぐに忘れてしまう。父ちゃんは弟の障害にかんして、まだ受け入れられないところがあるようだし、何か悔いているようでもある。
 そうやって『モグとユウヒの冒険』は、アサヒとユウヒ、父ちゃんとダイボーおじさんという世代の違う兄弟の物語が重層的に描かれていると言っていい。
 その家族にはモデルがあり、『モグとユウヒの冒険』は井川拓の家族史と言えそうだ。フィクションを多分に含んでいるので、家族史のようなものと言おうか(小川国夫が「自伝」に「的」をつけて「自伝的」小説と呼んでいたのを思い出す)。
 突出しているのはやはりモグの存在で、著者の実家で飼っていた犬・メグがモデルになったというが、それだけでは語れない。モグには、いろんな存在が混ざり合っているような感じがある。
 生きている人間は時間を自由に行き来することは出来ないが、主に声だけの存在であるモグは、彼ら家族の歴史を縦横無尽に駆け巡ることが出来るようだ。モグはその歴史を、ユウヒの耳を通して語る。ユウヒにのみ聞こえる声で、イチャモンをつけたり、わがままを言ったりする。人間にしっぽがないのはなぜかとか、遠心力とは何かとか面白い講釈を垂れたり、偉そうに人生訓を語ったりもする。
 私は物語の中に入ってモグの声を聴きながら、モグは人間の感じられる自然そのものではないか、という気がしてくる。

 映像制作集団・空族の仲間だった富田克也さんによると、井川さんが絵本、そして児童文学に向かったのには、ユーリー・ノルシュテインの影響が大きかったらしい。あんなふうに時間をかけて緻密な作品を編み上げてゆくような力は彼にはなかったという話は前回、書いたが、しかし憧れがあった。
 たとえば「霧の中のハリネズミ」(ノルシュテインのアニメーション作品)を思い出すと、あのような自然への驚異が、井川拓という人の中にはあったのではないか。
 富田さんは「井川くんは自然を理屈ではなく、感知し始めていたんじゃないか」と話していた。そこにはおそらく永遠とか、あるいは死というものを見ていた。そんな話をしていると、彼が死をどう感じて、どうやってそこへ入っていったのかということに少し近づけるかもしれないと思えてくる。

 物語の中で永遠とか死について論じているわけではもちろんなくて、子供たちと、かつて子供だった大人たちが、不器用そうに、でも思う存分泣いたり、笑ったり、怒ったり、楽しんで生きているエピソードが満載だ。その物語を読みながら、私も自分の中に生き続けている〈子供〉の存在を、感じ取ることが出来る。

 富田さんによると井川拓という人はいつも苦しそうで、大変な人だったようだ。私たちがいまいる、この社会を眺めてみると、彼が感知していたかもしれない〈自然〉とは真逆の世界ではないか。人間というのは、奇妙な生き物なんだなあと思う。彼ほど真っ正面から引き受けてはいないとしても、誰しもがその大変さを多少は抱えて生きている。
 自分が死んでも、いつ死にたくなってもおかしくないと思っていたのだ。11年前、井川さんが亡くなった時、ついに身近に犠牲者が出てしまった、と思った。彼は『アフリカ』最新号(当時)に書いている人でもあった。しかし彼の死の事情を知れば知るほど、私はわからないことの大海へぽーんと放り出されるような気がした。
 こうすれば生きられる、こうすれば死ぬ、ということが簡単にわかるほど、人間は単純じゃない。
 彼は私にとって大きな死者となった。
 私が考えたり、書いたりするうえでの新たな原点となった。
 井川拓が私に託してくれた問いは、永遠に答えの出ないものかもしれない。だとしたら、永遠に考え続けることができると思う。
 今回、『モグとユウヒの冒険』をつくるにあたり、これまで知らなかった彼の姿も見えてきた。でも私の「わからない」はそんなことで解決するわけはなく、ますます深い霧の中へ誘われている。

「ユウヒ、夢のなかで目を覚ますけん」
 モグが登場するときの定番のセリフだ。その声を聴くと、何だか妙に嬉しい。

 どんな人の中にも、きっとモグはいる。夢のなかで目を覚まして、話し合うことのできるような存在が。