デジタル紙芝居「アリババと40人の盗賊」ついに完成!か?

さとうまき

先月から取り掛かったデジタル紙芝居(*)、「アリババと40人の盗賊」が遂に先ほど完成した。サクサク仕上げようと思ったが結構な大作になってしまった。機転の利くモルジアナは、奴隷から解放されて自由になるためには殺人をもいとわない。盗賊の手下を38人殺し、最後には頭も殺してしまう。このモルジアナの成功物語に焦点を当ててみた。

奴隷と言えば、2014年にモスルを占領、支配したイスラム国のことをどうしても思い出す。彼らは奴隷制を復活させた。イラクからはヤジディ教徒の女性が性奴隷として連れ去られ売買された。キリスト教徒を迫害するために家の扉にはアラビア語の文字、ヌーンを描いた。当時、イスラム国から脱出できた女性たちの支援をやっていたので彼女たちの体験談を聞いていて、「ああ、なんとアリババの時代の話のようだ」と思っていたのだ。

人相の悪い盗賊たちの持つ旗は、アラビア語で「40人の盗賊」とか書いてイスラム国の旗のようにデザインした。イラクの子どもたちが描いた絵も背景に使わせてもらった。

このお話し、最後はモルジアナの手柄を、アリババが認めて、「奴隷解放宣言」をする。モルジアナは自由を求めて戦った英雄として子どもたちからも賞賛されるという結末になった。子どもたちがプラカードを持っている絵は、2002年、サダムフセインが100%の信任されて大統領に再選した時に子どもが描いた絵を使っている。
プラカードには、「シオニストにNO」「勝利をわれらに」「アメリカにNO」「Yes! 我らが偉大なリーダー」みたいなことが書いてあった。今回、アラビア語で「Yes. We can !」と書きかえた。

ちょっと終わり方が唐突なのだが、今の時代だからこそあえて自由を叫ばなければいけないし、アリババが盗んだ財宝を平和のために使ったことにして、この絶望的な物語をポジティブな未来に向けていわゆるSDGs的な方向性で終えてみた。

ともかく、この一か月ひたすら作画をした。費用対効果を考えて、うまくかけたらコピーして何度も使いまわしている。描くのがめんどくさいところはネットから写真をこっそり盗んだ。(ただし、あとで本人の了承を得ている)本来自分で描くより子どもたちの絵を使った方がおもしろいのだけども。ともかく、今晩Zoomで声優さん兼、楽団員とのリハ。団長からダメ出しのないように祈るのみだ。

*)デジタル紙芝居は、パワーポイントのアニメーション機能だけを使って台詞とアラブ音楽を背景にキャラクターを動かす。

というわけでいよいよ明日初演を迎えます。
皆さん是非来てください。

10月2日 14:00―
青猫書房にて(赤羽)
詳しくはこちら
https://www.facebook.com/events/2340757769405481

クール・ビズが終わる

篠原恒木

ようやく涼しくなってきた。
朝夕は随分と涼しくなり、秋の訪れを感じる毎日でございます。
暦の上では秋分も過ぎましたが、あなた変わりはないですか。日ごと寒さがつのります。
いや、まだつのってはいないな。いけない、手紙の書き出しから演歌の歌詞になってしまった。

おれはアヂアヂの日々が終わって涼しくなると、ホッとすることがある。
サラリーマンたちの「クール・ビズ」という格好を目にしなくなるのが、おれにとっては何よりの寿ぎなのだ。
あの「クール・ビズ」だけは許せない。真綿色したシクラメンほど清しいものはないが、間抜け面したクール・ビズほどダサいものはない。

クール・ビズはなぜあんなにダサいのか。その大きな理由はふたつある。

ひとつは、「普段着ているダサいビジネス・スーツのジャケットだけを脱いで、普段着ているビジネス用のシャツに締めていたタイを外しただけ」という格好の奴らが多いからだ。それでサマになる奴などほとんどいない。ジョージ・クルーニーでも難しいだろう。
だいたい奴らが普段着ているビジネス・スーツは体形に合っていない。ワン・サイズ大きいのだ。ワイシャツもそうだ。ブカブカではないか。ヨレヨレのスーツのジャケットだけを脱いで、ブカブカのワイシャツを露わにしてタイを外したら、見るも無残になるに決まっている。あんな格好が似合う場など皆無だ。いや、あった。勤めを終えて焼鳥屋でビールの大ジョッキをんぐんぐと飲み、ベロベロに酔っぱらいながらナンコツなどをコリコリと齧っている姿は、なんとなくあのスタイルに似合っているような気がする。コーディネートの仕上げとして、タイを鉢巻代わりに頭に結べば完璧だ。
ただでさえ貧相なブカブカのパンツとワイシャツだけで、クールになるはずがないではないか。おれは猛省を促したい。

もうひとつは余計なことをする奴らも多いからだ。
「普通のワイシャツだと、タイがないからアクセントに欠けるなあ」
とでも思っているのか、世にも奇妙なワイシャツを着ているヒトビトがいるのだ。次に挙げておこう。

・襟元などに黒い糸で謎のステッチが入っているような白地のワイシャツ。
これはダサい。どうか勘弁してほしい。まだある。

・白地のワイシャツなのにボタンが黒い。おまけにボタン・ホールまで黒い縁取りが施されている。
これも壊滅的にダサい。あのシケたお飾りには何の意味があるのだろう。タイの代わりのアクセントのつもりだろうか。だとしたらひどいアクセントだ。まだあるぞ。

・白地のワイシャツでボタンも白いが、そのボタンを縫い付けてある糸が黒い。したがって白いボタンには黒い糸で小さくバッテンが施されたようなデザインになっている。ここでも当然のようにそのボタン・ホールも黒い糸で縁取りがされている。
これも徹底的にいただけない。まだまだあるのだ。

・白地のワイシャツで首回りの裏側にだけチェックなどの生地が縫い付けてあるもの。
こうなるともうおれにはワケがわからない。ああいうシャツを作るほうも作るほうだが、着てしまうほうも罪が深いと思う。
このようなワイシャツを許してはいけない。
「タイがないと寂しいから」
と言うのなら、タイを締めなさい、タイを。キリがないくらいまだあるぞ。

・半袖のペラペラなワイシャツ。色は白、もしくはごく薄い水色。
ワイシャツが半袖というのはどうにもこうにも間抜けでいけない。ワイシャツは長袖と相場が決まっているのだ。強く抗議する。

ところが、せっかく長袖のワイシャツを着ていても、悲しいことに九十八パーセントのヒトビトが腕まくりをしている。この九十八パーセントは総務省統計局の調査によるものではない。シノハラ調べだ。問題はこの腕まくりだ。せっかくの長袖を腕まくりしたら、何のことはない、半袖になってしまうではないか。さらに問題なのは、腕まくりしているヒトのうち、七十九パーセントが肘のあたりまで派手にまくっているのだ。三回ほどロールしないとあんな位置までには達しない。おれは寛容なので、袖のボタンを外してワン・ロールまでは許すことにしているが、スリー・ロールして肘まで見せていると、何のための長袖シャツなのだと呆れてしまう。

とどめはリュック・サックだ。あの格好にリュックですよ、あーた。どういう神経をしているのだ。ジャン=リュック・ゴダールも草葉の陰で泣いているぞ。

「だって暑いんだもん。仕方ないでしょう」
とヒトは言うのだろうが、ファッションとはそもそもやせ我慢なのだ。「エフォートレス」などファッションではない。ミニ・スカートは座るとき緊張感を強いられるものだし、ハイ・ヒールは歩くのに骨が折れる。本当に転んで骨折するときだってある。シャツにタイをきちんと締めれば首が苦しいし、ジャケットのボタンを留めれば胸が窮屈で肩も凝る。でも、その「エフォート」こそがファッションなのだ。暑さくらい我慢しなさい。努力しなさい。水分補給しなさい。「エフォートレスで抜け感カジュアル」などという雑誌の見出しを見かけるが、あれは抜け感ではない。間抜け感だ。

「ノー・タイでワイシャツにパンツ」という「クール・ビズ」スタイルは、よほどカネをかけないと無理なのだ。服の話だけではない。体もシェイプして、ジャスト・サイズのシャツとパンツを身に着けるべきなのだ。それに対して異を唱えるなら、シャツにタイをして、暑くてもジャケットを我慢して着ていなさい。そのほうがまだ無難だから。

「じゃあおまえのクール・ビズはどんな塩梅なのだ。さぞやイケてるスタイルなんだろうな」
と問われれば、うなだれるしかない。そもそもおれはワイシャツなるものを二枚しか持っていない。しかし、開き直ることは可能だ。おれの格好は「ビズ」から大きく逸脱しているので何の問題もないのだ。会社勤めだが、夏はTシャツにデニム、もしくはイージー・パンツだ。どう考えても「ビズ」するような恰好ではない。カブトムシでも採りに行くようないでたちだ。ワイシャツにビジネス向きのパンツなど暑くてダサくて、とてもじゃないけど無理、無理。周りのニンゲンはこのおれのスタイルに眉をひそめているのだろうが、それはおれの知ったことではない。

だが、こんなおれでもスーツを着なければならないときが一年に二、三回ほどある。そのときのおれは一日中絶対にタイを緩めないし、ジャケットも着たままで決して脱がない。繰り返すがファッションはやせ我慢なのだ。したがってスーツを着た日はきまって肩が凝り、アタマまで痛くなる。帰宅するとすぐさまスーツを脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを外すのももどかしく、タイを放り投げ、ありえないほどの解放感に浸る。やせ我慢はつらいのだ。こんなものを毎日着ている人をおれは心から尊敬してやまない。

いまよりさらに涼しくなってきたら、みんなあの醜悪なクール・ビズをやめて、ひんやりする首元にタイを締め、スーツを着て通勤するのだろう。それはたいへん喜ばしいことだが、「スーツ姿でリュック」の問題は解決の兆しが見えないままだ。勝手にしやがれ。

スティーヴン・クレイン小詩集

管啓次郎

81
説明します、船が銀色の跡を残して通過するのを
失われたさびしい波がひとつひとつひろがり
鉄の船体が必死で進むブーンという音がしだいに小さくなり
男が別の男にむかって小さく叫び
いっそう灰色になった夜をひとつの影が落ちてゆき
小さな星が沈む。

それから荒れはてた、遠い水の荒野
黒い波のやわらかい笞打ちが
長く、さびしくつづく。

覚えておきなさい、おまえ、愛の船よ
おまえは遠い水の荒野を残してゆくのだ
そして黒い波のやわらかい笞打ちが
長く、さびしくつづく。

82
「私は白樺の日没の歌を聞いたよ
しずけさの中の白いメロディだ
私は松たちが言い争うのを見た。
夜になると
小さな草たちが私のそばを急いで過ぎた
風の男たちとともに。
私はそうやって生きてきた」と狂った男がいった、
「ただ両目と両耳しかもたずにね。
だが、きみは—
きみは薔薇を見るとき、まず緑色の眼鏡をかけるんだな」

83
騎士は馬を飛ばした—
拍車をかけ、熱く、汗まみれで
はやりたつ剣をふりかざしながら。
  「わが姫を救うために!」
騎士は馬を飛ばし
鞍から戦へと跳んだ。
鋼の男たちはちらちら動き、光を放ち
銀色の光の集団のようで
騎士の良き旗の金色は
いまも城壁の上ではためいて。

**********
一頭の馬が
あえぎ、よろめく、血まみれになって
城壁の下に忘れられ。
一頭の馬
城壁の下で死んでいる。

84
正直な男が歩いていった
そして風に自在に語りかけた—
あたりを見回すと遠い見知らぬ国だった。

正直な男が歩いていった
そして星に自在に語りかけた—
黄色い光が彼の目から視力を奪った。

「わが道化くんよ」と学識ある見物人がいった、
「きみのやることは狂っている」

「あんたはあまりに正直だ」と正直な男が大声でいった
そして彼の杖が学識ある見物人の頭を離れたとき
杖は二本に折れていた。

85
これが神だときみはいうのか?
いいかい、これは印刷された一覧表と、
燃えるろうそくと一頭のろばだよ。

86
砂漠で
月のもっとも深い谷からの沈黙。
火の明かりがフードをかぶった男たちの衣服に
斜めに降る、かれらはうずくまり黙っている。
かれらの前で、ひとりの女が
鋭い口笛に合わせて踊る
それと遠雷のような太鼓にも
一方、ゆっくりしたものたちが、くねくねと、のろまに
恐ろしい色彩をして
ねむたげに彼女の体を撫でたり
彼女の意志によって動いたりする、
シュッと音を立てながら、こそこそと、砂の上を。
蛇たちはそっとささやく。
そのささやき、ささやく蛇たち
夢見つつ体をゆらしじっと見ているのだが
いつもささやいている、そっとささやいている。
風は夜とともに厳粛になって、アラビアの
さびしい土地から流れてくる、
野火が血のようにちらちらする
フードをかぶったままうずくまり黙っている
男たちの衣服の上で。
動く青銅の一団、エメラルドの色、黄色、
彼女の咽喉と両腕をくるりと取り巻き
砂の上では蛇たちが用心深くゆっくりと
動く、脅かしつつも従順に
口笛と太鼓に合わせて体をゆらし、
ささやく、ささやく蛇たちは、
夢見て、体をゆらし、見つめ
しかしつねにささやいている、そっとささやいている。
呪われた者の威厳。
奴隷であることの栄誉、絶望、死は
ささやく蛇の踊りの中にある。

ベルヴィル日記(12)

福島亮

 ぐっと冷え込みはじめた。夜間は気温が10度を下回る。薄い掛け布団ではちょっと寒い。先月はトラヴァサックの暑さについて書いたのに、今度はパリの寒さについて書いている。秋だ。どんどん空が遠くなる。飛行機雲がその空を切り裂いてゆく。鋭角や直角、平行線を描く飛行機雲を見ていると、緯度と経度の見えない線が、この空に張り巡らされているのだと実感する。

 今年はプラムをあまり食べていない。ミラベルも、試してはみたが、手に入れたものはあまり良い出来ではなかった。かわりに1週間に1回くらいの割合で食べているのはサボテンの実だ。ウチワサボテンの実で、フランス語ではフィグ・ドゥ・バルバリー、つまり「野蛮人のイチジク」という。イタリア語では「インディアンのイチジク」というらしい。どちらもなんだか口にしにくい呼び名だ。イチジクに似た卵型の実の上と下を切り取り、かつらむきのように皮を剥がす。コツはケチらないことで、皮と実のあいだの剥がれやすい層を利用して皮を剝く。この層はほとんど味がなく、舌触りもヌルヌルしているから、棘の生えた表皮ごと剥ぎ取ってしまった方が美味しい。中には水っぽい果肉とケシの実のような種がたくさん入っているが、私は気にせず、噛まずに舌で果肉を味わってから飲んでしまう。実には緑や黄や赤のものがある。意外なことにもっとも香りがよくて美味しいのは緑の実だ。赤は大味であまり良くない。

 この「ベルヴィル日記」は、「日記」と題しているものの、実際には、たいてい月末に急いで書く。だが、いまこの文章を書いているのは月末ではなく、月の真ん中である。途中でやめて、しばらくしてからまた書き足したり、削ったりする。

 なぜ月の真ん中に書き始めたかというと、『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』を手元にあるだけすべて読むという作業に没頭しており、触発されたからである。両方とも、PDFにする際に一度通読している。だが、それは4年も前のことだ。通読してみて、随分と記憶が曖昧になっていたことに驚いた。

 過去の記事を読んでいると、ハッと胸を突かれることがある。たとえば、本橋成一さんの写真とコメントからなる「上野駅・サーカス・筑豊で会った人たち」(『水牛通信』Vol. 4 No. 5、2−23頁)。印象的だったのは、見開きで印刷された兄妹の写真だ。学生服の兄は、目を糸のように細くし、妹のほうは髪を風になびかせながら片目を閉じている。背景には田舎の風景。筑豊だという。頁をめくると、家の戸口に立つ四人家族。1965年頃撮られた写真だそうだ。あの兄妹と二人の両親だろう。父親のほうはまっすぐカメラを見つめ、少し緊張した面持ちだ。母親のほうはそんな夫を見て笑っている。悟平さん一家の写真である。写真を撮った本橋さんのコメントが付されている。

お父ちゃんはいつも〔息子の〕静夫をぶん殴る。でも静夫はお父ちゃんが大すきなんです。お父ちゃんは金がはいると焼酎をのんで、炭住の売店なんかで寝こんじゃうんですよ。それをこの兄弟が一所懸命につれもどすんだけど、なかなか家にはいらないでしょう。そのうちに長屋の人たちがあつまってくる。そうするとね、静夫は洗面器に水をいれてきて、「行けーッ、見るなッ!」と、それをぶっかけるわけです。(18頁)

 この写真が撮られた1965年頃は、筑豊炭田が次々と閉山する時期である。実際、悟平さんが働いていた山も閉山し、一家は生活保護で暮らしていた。引用したのは、少しずつ寂しくなってゆく筑豊の、温かいような、でも辛いような一場面だ。頁をめくる。お父ちゃんが大すきだった静夫は、もういない、と知る。中学卒業後、些細な事件を起こしたことをきっかけに収監され、その後、川崎で覚醒剤の売人になった静夫は、1980年の夏のある日、川崎の路上で首と腹を切って自殺したのだという。もしも静夫が生きていたら、いま還暦くらいだろうか。

 文章を読む。そして、何かを書く。時間などどうでも良くなる。だが、どこかで焦っている自分もいる。というか、ここ1、2年はずっとそうだった。畝を切るように文字を読み、地面を引っ掻くように文字を書きたい。そんなことを思いながら、デイヴィッド・グッドマンさんの「走る・その18」(『水牛通信』Vol. 9 No. 9)を読む。彼にとって「他人の言語」であるはずの日本語で執筆することについて、グッドマンさんはこう書いている。

他人の言語で文章を書くことは、試験を受けることではない。人を人から隔てている、深い傷口を癒すことである。自分と相手の間の距離を確認しつつ、それでもなお、あえて関係を作り、維持していく作業である。(『水牛通信』Vol. 9 No. 9、3頁)

 外国語で書くことは、「深い傷口を癒すこと」。私としては、「他人の言語」という部分を、もっとも親しんだつもりの言語、「私の言語」に置き換えてみたくなる。自分が話しているこの言語、時におざなりな気持ちで「母語」と呼んでしまうこの言語。そこに歪みや異物があることに、目を背けてきたことば。そのことばで書くことは、はたして深い傷口を癒しうるだろうか。

 9月25日、フランス在住の日本人画家H氏が逝去した。ある画廊で知り合ってから、ずっと連絡をとっていた。私の祖父くらいの年齢の友人、といったところだ。凱旋門からそう遠くないところにある小さな画廊でよく展覧会を開催していて、ヴェルニサージュに呼んでいただいたことも何度かある。また、一度は家に泊めていただいて、ワインを飲みながら夜遅くまでおしゃべりしたものだ。話好きの好々爺だった。私が群馬出身であることを伝えると、懐かしそうな顔をなさって(氏は半世紀以上フランスに住んでおり、こちらの生活の方が長いのだ)、若い頃、よく絵の具を買いに群馬の高崎に行ったという話をしてくれた。ここしばらくは身体の調子が悪いといってお会いすることもできなかった。頻繁にご入院なさっていたようだけれども、面会も叶わず、電話をしてもずっと留守だった。いつの間にか、H氏と私とのあいだに淵ができていて、もうこちらからは声が届かないような気がして怖かった。それは傷口というよりも、何かもっと深い穴だ。いつでも会えると思っていたのに、ふと、その穴が顔をのぞかせ、相手とのあいだにこえられない淵を作る。そんなことを思っている矢先の訃報だった。日本に帰る前に、小さな絵を一枚買おうと思っていた。でも、もうそれも叶わない。今は使っていない古い携帯電話の留守番メッセージには、まだH氏の声が残っているかもしれない。電話が起動するかわからないけれども、充電器に繋いでみようか。それとも、やめておこうか。

仙台ネイティブのつぶやき(75)大正7年、米騒動

西大立目祥子

 ある友人のことを考えているとその人から電話が入るとか、一つの事柄について考えていると関連することがつぎつぎ起こるというような…シンクロ現象があらわれることがたまにある。8月中旬過ぎから、私に迫ってきたのは大正7年の米騒動だった。

 8月17日、重いバッグを下げて外出から戻り、椅子の上にドサリと荷物を置いたところで携帯が鳴った。わぁ、めずらしい、中川先生からだ。先生は仙台で長く高校教諭をなさりながら郷土史研究に打ち込まれてきた方である。ご無沙汰をわびるあいさつがすむと、「ところで西大立目さん、確かおじいさんが手記を残されていましたよね」と切り出したので驚いた。重たいバッグの中身は、まさしくその祖父のノートからだったから。ある大学のゼミ生にたのまれて話をする必要があり、数年ぶりに本棚から取り出したところだった。

 祖父、嘉一が手記を残したことは、この原稿の39回目でも少し書いた。明治34年に旧仙台藩士の家に生まれた祖父は、還暦を過ぎたころ、思い立つところがあったのか、その半生をノートに書き始めた。そのころ私は小学3年か4年くらいで、夏休みや冬休みに訪ねるたび、本棚の下段に背の黒い分厚い大学ノートが1冊、また1冊と増えていくのを見ていた記憶がある。最終的にそれが何冊になったのかはわからないのだけれど、私が仙台のまちの歴史に興味を持つようになり聞き書きをやり始めた30代初めのころ、叔母が、あんたが読んだらおもしろいかも、と4冊だけ貸してくれた。

 まず前書きのような部分があり、海軍にいた父の勤務地の横須賀で生まれ、5歳のころに仙台に戻り、そこから幼年期の記憶が綴られていくのけれど、私は読み始めてすぐに没入してしまった。なじみのある町名や街角の、明治から大正にかけてのようすが記されていて風景までが見えるよう。ちょうど仙台が「森の都」(かつてはこう記したようだ)とよばれるようになった時代の、まだ街全体がほの暗く、生活に濃密な匂いや手触りがあったころの空気がこちらに流れ出してくるようだった。相当にクセがあって読みにくい祖父の筆跡に苦労したが、ノート1冊分だけはワープロで原稿を起こしたのだった。

 中川先生はこう続けた。「その中で、米騒動のことをお書きにはなっていませんか?大正7年です」そう、中川先生は仙台における米騒動研究の第一人者なのである。「米騒動…書いていますよ」と答えたとたん、先生の声が明るく大きくなった気がした。「おお、ありますか!」
 これまでも、全国の研究者が連携して会をつくり、先生も研究のために古道具屋をまわって米騒動の体験者の手記を探したり、体験者の家族の聞き取りをしてこられたそうだが、すでに100年が経過し、体験者の子ども世代も物故者となり、新たな資料もなかなか見つからないという。資料として役に立ててもらえるのなら、それはうれしいことだ。まずは、ノートとワープロ起こしの原稿のコピーをお送りして見ていただくことにした。

 中川先生は毎日ポストをのぞいては、届くのをいまかいまかと待たれていたようだ。意欲と気力にあふれる84歳研究者である。このところ郵便物の配達に軒並み日数がかかるようになってきたから、相当じりじりされていたに違いない。到着するとすぐにお電話をくださった。「これは貴重な資料で、これまでわからなかった部分も解明できそうですよ。どう使うか、全体になるかもしれないし、まずはありがとう」というお声はますます生き生きとしている。

 直後に、先生からお礼のご本が届いた。先生が入られている研究会の論文集で『米騒動 大戦後デモクラシー百周年論集ⅠⅡ』。山口、広島、神戸、静岡、秋田、仙台、北九州…全国で起きた米騒動を各地の研究者が論じていて、編者は米騒動・大戦後デモクラシー研究会をとりまとめている井本三夫氏。大正時代の米騒動は、米価高騰に怒りを募らせた富山の女たちが行動を起こしたのが始まりといわれてきたが、それ以前に北九州から広島にかけての都市部で消費者たちが運動を起こし全国へと広まっていったことを明らかにした方らしい。

 中川先生が書かれた仙台における米騒動のページを開き読み始め、何気なくテレビをつけたら、NHKの番組「歴史探偵」のテーマはなんと「米騒動」。見ていたら二度びっくり、画面にこの井本先生が現れたではないか。シンクロの連続。米騒動に導かれていくようだ。テレビまでもが米騒動をテーマに掲げるのは、100年前のこの時代と現在が相似形であるからだろう。戦争が起こり、物価が上がり、社会が富める者と貧困者に分断されていく…。それにしても驚かされるのは、当時の人々が結集し、行動していくありさまだ。

 仙台の米騒動は、大正7年(1918)8月15・16・17日の3日間続いた。盆の休みで、賃労働者が動きやすいときをねらってデモは起こされたのかもしれない。祖父は最終日の夜8時頃に家を出て、米騒動の群衆に合流し、その行動の一部始終を見ていたようだ。ノートには、どこへ行ったらわからないが街の方へ行けばいいだろうと仙台駅へ向かうと、いつのまにか一帯を埋め尽くす大群衆ができていたと記されている。そして、大群衆を取り囲む野次馬の一人となって行動をともにしながら、群衆のリーダーは誰なのかを先頭まで駆け抜けて確かめ、その名前まで書き残している。群衆はまるで訓練されたように動き、米屋に押し寄せると主人を呼び出し、何俵の米をいつ、いくらで放出するかを紙に書かせ、店に張り出しては歓喜の声を上げた。また火を放った悪徳高利貸しの家が炎に包まれていくようすを、周りの家や塀に登り高いところから眺めていた。消防もこなければ半鐘も鳴らない、これほど静かな火事を見たことはないと回想している。

 結局、軍隊が出て騒動は鎮圧され、首謀者たちは裁判にかけられたらしいが、誰もが悪びれることなくこれは生活を守るための当然の行為だったと主張していたというところに、大正時代の人々の自由で開放的な感覚や権利意識が現れているようで、どこか清々しい気分にさせられる。祖父は、相当な貧苦の中で少年時代を過ごした人なのだけれど、洒脱でじぶんをどこか突き放すように見る人だった。それはこうした時代がつくったところもあるのだろう。

 というわけで、自発力が弱い私は、まわりから押し寄せてくるものに反応し触発されて、あらたな取り付く先を見出してきたので、目下のところ、米騒動、大正時代に引っ張られている。そして、30年かかえてきたこの祖父が残したノートを、仙台の明治、大正の暮らしの記録として何とか日の目を見させなければとあらためて思う。

鎌鼬の里芸術祭

笠井瑞丈

鎌鼬の里芸術祭
今年笠井叡が出演する事になり
よかったら一緒に行かないかと

こんな機会でもないと
行く事もないと思い
同行する事にした

場所は秋田
羽後町にある鎌鼬美術館

そして出発直前主催者から
せっかく来るなら踊ってくださいという事で
急遽踊らせていただける事にもなりました
とてもありがたいお言葉だ

秋田は土方巽 石井漠の出身地であり
日本の舞踊の源流が流れている場所
細江英公が土方巽の写真を撮った場所
後にあの有名な写真集『鎌鼬』が出される

そして今回この旅に母と長男爾示
なおかさんも同行する事になった

母は今年四月に急にカラダが悪くなり
歩くのも困難な状況になってしまいましたが
そこから日々リハビリに励み
自力歩行が出来るまでに回復しました
なのでこの旅を一番楽しみにしていました
この旅のため日々体調管理に注意していました

今回は飛行機で行く事になり
なるべく母に負担のかからないよう
羽田空港の駐車場を三日間借り
車で羽田空港まで向かいました

空港で長男爾示と合流し
車椅子を用意をしてもらい
五人で秋田までフライト

空港に現地スタッフが迎えにきてくれ
まず鎌鼬美術館に下見に行きました

スタッフからここが土方が踊った畑
ここがあの有名な写真を撮られた所

翌日11時笠井叡が土方巽が踊った同じ畑で踊る
これは『鎌鼬の里芸術祭』とは関係なく踊った

きっと

本人には抑えきれない
動機があったのだろう

土砂降りの雨の中
この噂を聞きつけた
多くの関係者が観に来た

そして踊りが始まった
そして爾示がシャッターを切る

土から湧き上がる力
土にカラダを打ちつけ
土のようにカラダを捏ね

土の方へ

大地に捧げる踊り

改めてここに舞踏の源流が流れているんだと感じた

土方巽の踊を私は見た事はない
文献で読んだり聞いただけだ
だから土方巽は自分にとっては
正直あまりリアルではなかった

でも今回

この土地に触れ
この空気を吸い
この匂いを嗅ぎ

新しいカラダの景色を発見した

夕方私の出番となりました
美術館の前にある仮設舞台
花粉革命の抜粋を踊った

10月韓国で久しぶりに花粉革命を踊る
その前にここで踊れてとてもよかった

ずっと欲しかった写真集『鎌鼬』を手に入れた

大満足の旅だった

『アフリカ』を続けて(16)

下窪俊哉

 2013年1月26日の夜、横浜の古書店で初めてトーク・イベント(というより語り合いの会)を開いた。ゲストの淘山竜子さん(『孤帆』編集人)と一緒に、その日のために小冊子をつくった話まで前回、書いた。
 その小冊子、自分は何を書いたのかというと、「突然、出てきたものだった〜『アフリカ』前史」と題された文章で、『アフリカ』を始めるまでにどんな場、どんな本や雑誌にかかわって、どんなものをつくっていたかという話だった。
 読み返してみると、自分の原稿を発表する場ということなら、このような雑誌をつくることはなかっただろうというふうなことを言っている。

 ぼく自身は良い書き手である前に良い読み手であろう、と思った。自分が読みたいものをつくればよいのだ。
 けれど、自分の読みたいものって、何だろう?

 その気持ちというか、試行錯誤は一貫して今に至るまで続いている。つまり「この人に書いてもらおう」と思える人がいつもいるということ? そうだね、と即答できる。

 その時の語り合いの記録が、『アフリカ』vol.20(2013年7月号)に載っている。当日、会場に集まったのは7、8人で、自分たちも入れると10人くらいだったかな。古い木製のテーブルを囲んで、2、3時間。そのテーブルには、『孤帆』と『アフリカ』だけでなく、様々な個人誌、同人雑誌、リトルプレス、etc.がところ狭しと並べられていた。淘山さんにも頼んで、手元にあるものを持てるだけ持ってきてもらっていた。
 淘山さんによると(少なくともその頃までの)『孤帆』は「仲間内で合評会をやるための紙媒体」なのだということだった。合評会、つまりお互いの書いたものを読んで、批評し合うためのもの。しかも顔を突き合わせてやるのではなくてメールで、長い時には1ヶ月くらいかけてやるのだという話が面白かった。
 私も以前、そのような場や雑誌に参加していたことがあるのでよくわかった。しかし『アフリカ』では一切やらなくなってしまったのだ。なぜ止めたのか忘れたが、意識して止めたのは確かだ。批評したければ、したくなった人が自分で場を設けてやればよいと考えたのだろうか。そこまでは考えていなかったような気がする。
 そうすると、どうなるかというと、『アフリカ』に書くだけでは何の反応も得られないということが自然と起こる(編集者とは長いメールのやりとりがあるとしても)。
 それは、それでよいのだ、と思った。それでも書く人は書き続けるだろう。厳しいような話だけど。それに自らが反応している人には、何かしらの反応が返ってくるだろうし、感じられるだろう。何も作品を褒められるだけが「読み」ではないのだし。
 とはいえ「合評会をやるための紙媒体」への懐かしさもないわけではなかったが、淘山さんはその時、そういうのは「もう古いのかもしれません」と言っている。

 そもそも編集を担う人がいない。いま、自分のお金と時間をかけて文芸雑誌をつくろうなんて人はそういないし、若い人は賞レースだし。

 そんなことを言うと、我々がすごく年配の人みたいに感じられてくるかもしれないが、ふたりとも当時、30代前半。「若い人」というのには、自分たちの年代も入っていたんだろう。賞レース、新人賞ですね、と応えると、こう返ってきた。

 そうです。その一方で、紙媒体で個人的な発信をする人たちが注目されてもいて。文芸雑誌であれをやりたいという気持ちがあるんです。

 その流れで、目の前のテーブルに並べられたものたちが話に入ってきてくれる。
 ミニコミと呼ばれる媒体は以前からたくさん見ていたので、自分には特に新しいという気はしなかったが、その時「ZINE」ということばが出てきた。
 私はいちおう蘊蓄を仕入れてきており、アメリカの西海岸でスケーターが言い出したとか、自宅のプリンタで刷ってホッチキスでとめたような簡素なものが多くて、本当に個人的な媒体が多いんじゃないか、などという話を参加者も交えてしている。「ZINE」という呼称を言い出した人たちが実際にどんなものをつくっていたのかは知らないので、まあいい加減な話ではあったけれど(ZINEというのは、MAGAZINEのZINEだろうから、日本で言うところの雑誌? と思うけれど、調べてみたら語源はアラビア語のMAKHAZINで、倉庫という意味らしい。面白いような気がするけれど、不勉強でこれ以上は書けない)。
 そういった私の想像上の「ZINE」から思い出されたのは、『VIKING』創刊号を実際に見た時の話で、それはこの「『アフリカ』を続けて」の初回に書いた。
 ミニコミやリトルプレスということばは、意味がはっきりしすぎていて、あからさまなような気もする。それに比べZINEは、ちょっと謎めいたところがあって、今の時代には合っているのかもしれない。
 しかし私は『アフリカ』をZINEとは呼ばない。
 私が話に聞いて想像した「ZINE」の姿と、いまそう呼ばれている媒体との間には多少の落差があるし、『アフリカ』がその想像に近いかというとそうでもないような気がする。
 ところで、その時のイベントを私は「“いま、プライベート・プレスをつくる”ということ」と題していた。

 片岡義男に『個人的な雑誌』という文庫本があって、ずっと手元に置いている。『個人的な雑誌1』と『個人的な雑誌2』があるのだけれど、「1」のあとがきで片岡さんはこう書いている。

 これまでどおり、活字だけによる本を作ってもよかったのだが、なにか新しい工夫をしてみたい、という思いがあり、その思いを具体的にしていく途上で、『個人的な雑誌』というタイトルによる、雑誌のようなエッセイ集を作ったら面白いのではないかと、ぼくは思うにいたった。ぼくは、角川文庫のなかに、ぼくひとりだけの雑誌を持ってしまうのだ。これがその第一号だ。今回はぼくひとりで作ったけれど、これからは多くの素晴らしい人たちに参加してもらう予定でいる。さまざまな興味深い試みのショーケースのようにしてみたい、という気持ちがいまのぼくには強くある。

 その「さまざまな興味深い試みのショーケース」ということばに若い私はやられた。よーし、自分もやってみよう、と思ったわけだ。なので、それを思い出せば、「“いま、個人的な雑誌をつくる”ということ」でよかった。その方がわかりやすかったのかもしれないが、「雑誌」に限定したくなかったのかもしれない。
「プライベート・プレス」ということばは、おそらく小野二郎さんの本に出てきて知った。ウィリアム・モリスが彼の工房でつくり、売る本のことをそう呼んだのではなかったか。そうなると「ZINE」のイメージからはかけ離れてしまうような気もするが、でも、いいんだ。今回はどうしてもその本が見つからなかったので、この話の続きは、また。

アジアのごはん(114)ラオス・ルアンパバーンのごはんと新型コロナ

森下ヒバリ

2年半ぶりにタイでひと月過ごし、8月中旬にバンコクからラオスの古都ルアンパバーンに飛んだ。ラオスも7月から入国規制を緩和し、行きやすくなった。ワクチン接種証明か陰性証明で入国でき、隔離・アプリ登録などは一切なし。しかも陰性証明はATK抗原検査でよいので、費用も安い。

バンコクで散歩をしているときに、近所のキングモックット病院の敷地内にPCR検査・ATK検査のブースを見つけた。陸軍病院感染症研究所の出張所らしい。抗原検査は300バーツ、1200円ぐらい。ちなみに日本を出るときのPCR検査は1万5000円だった。20分ぐらいで結果が出る。証明書が出るかと尋ねると、ちゃんと見本(誰かの検査証明の要らないもの)を見せてくれた。「これ持っていってもいい?」と聞くと、「いいよ~」と名前とID番号をマジックでちゃちゃっと消して(透けて読めますけど)渡してくれた。

証明書はちゃんと必要事項がそろっていて、ラオス入国は病院や検査書の証明書であればいいので、まったく問題ない。フライトの前日に検査を受けて陰性証明をもらった。

1週間前まで席がガラガラだったので、フライトキャンセルになったらどうしようと心配していたのに、乗ってみると満席に近い。ルアンパバーンに近づくと飛行機は緑の山々とメコン河の上をすれすれに飛び、とても美しい眺めを楽しめる。ちょっとコワイけど。あまり平地がないのでこうなるのだが、問題なく着陸。雨期のルアンパバーンは緑に包まれ、なんとも美しい。タラップから降りただけで、景色に癒されふーっと深呼吸してしまった。

荷物を受け取って小さなロビーに出ると、誰もマスクをしていない。日本人よりマスクに厳しいと思うほどのバンコクから来たので、ちょっと驚いた。町に着いて宿に入っても店に入っても通りを歩いてもやはり誰もマスクはしていない。あ、している人がいたと思うとタイからの観光客だった。隣の国なのに、ものすごいギャップである。ルアンパバーンは人口が少なく人が密集する場所がほとんどないのだから、まあマスクは要らないよね。

ルアンパバーンのメインストリートはあまり観光客もおらず、閑散としていた。すぐにRENTやSALEの看板が目に付く。この2年半コロナ禍で観光客は途絶え、土産物屋やレストラン、ゲストハウスがいくつも廃業し売りに出されているのだった。お気に入りだったレストランのココナツガーデンも廃墟のようになっていた。バンコクでも店が閉まったり、休業したりはしていたが、ルアンパバーンの観光客エリアはその比ではなかった。

町を散歩しているうちに、行きつけにしていた店はほとんど営業していることが分かったので少し安心する。フランスパンの美味しいカフェ・バントン、ラオスの米麺カオソーイの名店、ナンおばちゃん食堂、川べりのレストラン・・。

よし、今日はナンおばちゃんの食堂であんかけ麺を食べるぞ。ここのメニューにはフー・クア(炒め麺)としか書いていないが、出てくる料理は炒めた麺の上に野菜と肉の入ったとろっとしたあんがかかったもの。タイではラートナーと呼ぶ。ルアンパバーンのラートナーはタイや中国のあんかけ麺とはちょっと違う。麺は幅広米麺のセンヤイを使い、麺を炒めるのでなく多めの油で半分揚げ焼きにしてあるのだ。

「あれ、なんか麺がカリカリしてる・・こっちはもちもち!おいしいい!」初めてナンおばちゃんの店でラートナーを食べたときは、炒めすぎてうっかりカリカリにしてしまったのかと一瞬思ったが、意図的にカリカリもちもちに仕上げているのだった。ナンおばちゃんが作るところを見ていたら、スキレットみたいな鉄鍋に油が入っていて、そこに茹で麺をじゅんっと入れて揚げ焼きしていた。センヤイは麺が平べったいので、カリもちに出来るのだろう。ちなみに幅広麺のセンヤイを使った汁麺はラオスで見たことがない。

ラートナーを味わいながら、店の外を眺めていると、バイクで持ち帰りの注文がしょっちゅう来ている。フードパンダのロゴをつけたバイクもある。デリバリーサービスがすっかり根付いているようであった。「この2年間大変だったけど、最近はお客も増えてきたから何とかね」ナンおばちゃんはニコッと笑ってそう言う。この店は地元客が多いし、安くておいしいから何とかなったのだろうな。お店が健在でまたおいしいラートナーが食べられてうれしかった。

中国の援助で去年の12月にラオス高速鉄道が開業した。中国の雲南省からラオス北部の国境ボーテンを経てルアンパバーンを通り、首都ビエンチャンまでつながっている。しかし中国の新型コロナ対策の厳しい出入国制限のため、まだ中国との国際列車は貨物以外走っていない。タイ側ともまだつながっていないが、将来的にはメコン川の対岸タイのノンカイとつなげて、中国からタイのバンコクまで鉄道をつなげる計画である。

これは中国の野望なのだが、まさか本当にラオスに新幹線を通すとは思ってもみなかった。4~5年前にラオス北部を移動しているときに巨大な新幹線の絵の看板をあちらこちらで見て、実際に山の中をトンネル工事しているとは知っていたが、まさか日本の本州とほぼ同じ面積に人口733万人のほとんど森林山岳地帯のこの国に? 狙いはラオスでなく、タイのバンコクまで鉄道を走らせることだ。タイの鉄道建設が中国の野望通りにはなかなか進まないので、中国政府もさぞやイラついていることだろう。

費用は中国が3分の2を負担し、残りはラオスが負担しているがそれも中国からの借款である。お金が返せない場合は営業権を中国が持つ、というのが約束らしい。しかし、どう考えてもラオス国内の需要はあまりないし、採算がとれるとも思えない。・・と、思われていたのだがラオス高速鉄道はまだ中国とつながっておらず、中国からの観光客もほぼ来ていないのに、毎日満員だという。とくに週末やタイの連休は増便しても需要に追い付かない。タイの連休・・そう、乗っているのはほとんどタイ人観光客なのだった。

タイにいるときには「ラオス新幹線かあ、ルアンパバーンからビエンチャンまで乗ってみようかな」と考えていた。しかし、このタイ人観光客の熱狂ぶりを見ているとチケットも取るのが大変そうだ。しかも駅は市街地から30キロも離れたところにあるという。何か面倒くさくなり、ルアンパバーンとバンコクの飛行機往復にしてしまった。鉄道は好きだが、正直言って新幹線はとくに乗りたいわけでもないしね。

とりあえず、ルアンパバーンの観光業は週末のタイ人観光客でなんとか持ちこたえているようであった。2週間の滞在期間中に、少しずつタイ人以外の観光客も増えてきた。で、ラオスの新型コロナ感染状況はどうなのかというと、感触だが日本やタイと同じくけっこう流行っている模様。タイもラオスも届け出義務とかはないし、病院でPCR検査を受けて判明した人数だけを発表するシステムなので、タイでは1日2000人程度と発表されているが、まあざっと1日2~5万人はいるだろう。

タイではATK抗原検査キットを薬局やスーパーなどで手軽に買えるので、熱が出るとその辺のお店でキットを買ってきて自分でチェックする。それが陽性でも、よほどのことがない限り病院には行かずに家で寝ている人がほとんどのようだ。ラオスでは、タイほど抗原検査キットを売っていないので、熱が出ても検査はせずに寝ているだけと思われる。病院もとても少ないし。軽症で済むオミクロン株は、タイやラオスでは現実的にもうインフルエンザなみに扱われているのだった。

製本かい摘みましては(176)

四釜裕子

「詩繍(ししゅう)」とか「切詩(きりし)」とか名付けたシリーズの詩を数年前から作っている。表裏、表裏、冊子の中の4ページを舞台に、ページに針を刺したり、なんらかの切れ込みを入れて組んだり編んだり折りたたんだりして完成させる。文字や記号でそれらの動作を予想させるところまで印刷し、あとは読み手が仕上げるという塩梅だが、なかなかうまくいかない。

きっかけは、これまで雑誌の広告ページをあまりにも無残に破り捨ててきた自分への贖罪だ。例えば中身が半分以下になった古い古いアンアン。好きなページを切ってとってあるのではなくて、嫌いなページを破り取って残してあるのがわかるのは、表紙がそのままで中綴じのホチキスが残っているから。学校帰りに駅ビルの本屋で買って、全車両がボックスシートの汽車(本当はディーゼル車だけど)に座って30分、まずは後ろ半分にたっぷりある広告ページを破ってから読んだものだ。無線綴じのマリ・クレールなんかもまずは乱暴に広告ページを破き、ノドに残った端っこをちまちま外してから読んでいた。ろくに見もせず、なぜあんなに広告ページを嫌ったのか。それにしても破り方が乱暴すぎる。

古い雑誌をまとめて処分するときにこれらを見つけ、深く反省し、「詩繍」とか「切詩」なるフォーマットを考え自分に課した。こちらの目論見どおりにおもしろがってページを切ったり縫ったりして読んでくれる人がいたらいいなと思うけど、そんなことにつきあってまで読んでくれる人はほぼいない。よもやそんなことをしたら古本屋も買ってくれないし、そもそも冊子のページを切るとか破るとかいうのが憚られる人が多いだろうし、なによりこれはまだ自分でもふっきれていないところなんだけど、他のページの作者や発行者への後ろめたさがある。虚しさ、寂しさ、後ろめたさ……これらに、耐えねばならぬ。あまりにも傲慢に破り捨ててきた大量の紙片のいたみを、いまこそ我が身に受けるのだ。

アトリエ空中線の間奈美子さんがウェブマガジン「The Graphic Design Review」に寄せた『出来事としての「詩」と「デザイン」』(https://gdr.jagda.or.jp/articles/57/)を読んだ。間さんは自身のSNSにこう書いている。〈出来事としての/出来事を生み出す書物設計について書きました。(中略)主体やセオリーによる統御より時どきの「出来事」からできる本の魅力があるのではないかと考えています。それは、多く制作した詩書とともに、「詩」といわれるものについても同様に思われてきたことですが、あらためて本とひとつの机上に並べて考える機会となりました〉。

私にしてみれば、かつて池袋西武のぽえむ・ぱろうるで、間さんが未生響/空中線書局名義で出していた作品集に出会ったことが一つの大きな出来事だった。西武のコミカレで栃折久美子ルリユール工房に通っていたころで、自分のホームページ作りに夢中だった時期でもある。〈空中線書局の本を手にすると(わたしもこんな本を作ってみたい)と思ってしまう。そんな気持ちが一体どこにあったというのか、本人も知らない「どこか」で響く光を与えてしまうこのアトリエの仕事をご覧いただきたい〉などと、嬉々として書き込んでいた。

そのころ間さんから、八百屋だったかでもらった紙にピンときてそのルーツを延々たどり、資材として確保して、印刷に苦心し、作品集を実現させた話など聞いた。「The Graphic Design Review」の記事ではいくつか自身の作品の成り立ちにも触れていて、当時のあの心意気が一向に変わらぬまま、間さんはたくさんの出来事を重ねてこられたんだなと感じ入る。記事のリードをいま一度読む。〈コンテンツはなにがしかのフォームとともにひとつの出来事として同時に現れ出るものではないだろうか〉。このフレーズに、「切詩」の新作にこれまた反応のない虚しさに耐える気力を、まこと勝手ながらもらう。

215 真珠貝の浦

藤井貞和

「われ、若くして東西を知らず、
芸能を見る目、またくなかりき。
詩とドキュメンタリー、思潮社の一冊、
不意に手にして、乾武俊を知れり、昔日。

黒い翁、歳月をへだてて、
ふたたび、わがまえに、天の雫か、
地湧(じゆう)の声か、
詩の人、思いを伝えて今日に到る。

山本ひろ子、何びとぞ、くどきの系譜を、
コピーに作りて、われに呉れたり。
山本ひろ子、真珠貝の湾に、
三月二日より、フォーラムをひらくと。

木村屋の座に集う、若きら、若からぬらに、
伝えん意志の仮面よ、舞え、新作、
カイナゾ申しに参りたり。 黒い媼の、
花開きうらうら、和歌の浦々。」

(二〇一三年三月の、しかも文語詩は私のおそらく唯一だろう。再度の入院先から、和歌の浦でのイベント〈仮面フォーラム〉の開催を言祝(ことほ)いで、参加の代わりにメールで寄せた、「真珠貝の浦に成功を祈ってる」と。翁劇「カイナゾ申しに参りたり」は、九十二歳の乾武俊の新作。企画の山本ひろ子の提題は「芸能と仮面の向こうがわへ」と言う。『詩とドキュメンタリー』〈思潮社、一九六二〉は半世紀まえの乾さんの詩論書で、なぜか私は持っている。「くどきの系譜」は大阪文学学校の文芸誌に乾さんが連載していた評論。『黒い翁』(解放出版社、一九九九)は立ち読みして手放せず、五千円という高価ながら買い求めて、こんな本が出てるよ、と私は山本さんに告げた。これがすべての始まりとなる。白い翁の古層に三番叟〈黒い翁〉を見るというのは、芸能史の起点となるだろう。今回は忘れていた旧作。)

水牛的読書日記 2022年9月

アサノタカオ

9月某日 まったくうんざりさせられるニュースだ。東京五輪をめぐる汚職事件で、大会組織委員会理事だった高橋治之容疑者が、出版社のKADOKAWAが大会スポンサーに選定されるよう組織委に口利きした疑いが発覚。その後、高橋容疑者はKADOKAWAから賄賂を受け取った容疑で再逮捕、KADOKAWAの角川歴彦会長や関係者も逮捕された。

出版業界の末席にいるものとして、知らぬふりをすることはできない。出版や言論やアートの世界で、「五輪」に尻尾をふったものたちは誰か。厳しく注視していきたい。

9月某日 亡くなった詩人でトランジスター・プレス主宰の佐藤由美子さんの部屋を訪問。病床で読み続けたという『敷石のパリ』(トランジスター・プレス)。佐藤さんの詩も収められていて、元気な頃は各地への旅に持ち歩き、朗読することもあったという。ペーパーバックの表紙には無数のスレ、シミがあり、角は折れている。ぼろぼろになったちいさな詩集と対面して、「本を読むって、こういうことだ」と心の底から思った。

《私のような一人出版が、これからしていかなければいけないのは……そのイメージを地図にして、見えない共和国を探っていくこと》。そんな言葉を残して旅立った佐藤さんは生前、自分が編集した大原治雄写真集『ブラジルの光、家族の風景』(サウダージ・ブックス)を大切に読んでくれたらしい。偏愛するロバート・フランクの写真集とともに。

ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグら、アメリカ発のビート・ジェネレーションの作家や詩人の精神を継承する佐藤さんの部屋には、ニューヨークで撮影した晩年のハーバート・ハンキーの写真が飾ってあった。

9月某日 沖縄の詩人・高良勉さんから、メールで沖縄県知事選挙の結果報告。米軍普天間基地の辺野古移設反対を訴える現職の玉城デニー氏の再選。胸をなでおろして、久しぶりに勉さんの詩集『群島へ』(思潮社)を棚から取り出す。

9月某日 東京・渋谷のギャラリー zakura で、宮脇慎太郎写真展「RIASLAND」を鑑賞。四国・宇和海の風景と人間をテーマにした写真集『UWAKAI』(サウダージ・ブックス)刊行記念の展示。徳島の和紙製造メーカー・アワガミファクトリーの用紙に印刷されたオリジナルプリント。写真作品が表現するおぼろげな光に感心した。

9月某日 個展のために香川から東京にやってきた宮脇慎太郎とともに、神奈川県立近代美術館葉山へ。アメリカの写真家アレック・ソスの展示「Gathered Leaves」がすばらしい。ミネアポリスからミシシッピ河を南下するロードムービー的な連作「Sleeping by Mississippi」がとくに。ある写真には、ノートの切れ端に書き付けられたアレン・ギンズバーグの詩の一節が写り込んでいた。図録を買いそびれたし、もう一度観に行こう。

美術館訪問のあとは、葉山・一色海岸の浜辺で寝転がって夕日を眺めた。なんだか、すべてが気持ちいい。

9月某日 大学での授業の後、東京・分倍河原駅前のマルジナリア書店へ。フォトグラファー疋田千里さんの作品のポストカードを購入。疋田さんの旅の写真はどれも暮らしの時間の厚みを感じさせるもの。ポストカードの古紙再生紙の感触もよい。

お店では夜の街灯りを眺めながらおいしいコーヒーをいただき、フリーの冊子「マルジナリア通信」を読む。「毛玉から南極へ」というショートショートの小説が心に残った。作者は、お店のオーナーの小林えみさん。

9月某日 雨。昼過ぎの羽田空港、JALのカウンター前に大勢の旅客が長蛇の列をなしている。前日関東に上陸した超大型台風のせいで羽田発の多くの便が欠航し、足止めを食らった人たちだ。自分が予約していた飛行機は無事に飛び立ち、とかち帯広空港へ。何年ぶりだろうか。北海道に降り立つと秋めいた曇り空、やはり東京よりもずっと寒い。空港から車に乗り込み、広大な農村地帯や森林地帯をぬけて取材地へ向かう。人気のない十勝・豊頃の海沿いの丘を歩いていると、夕方、雲の間から光が出てきた。

9月某日 北海道への旅の2日目のお昼、帯広の有名店「インディアンカレー」へ案内される。「これ、十勝のソウルフードなんですよ」と。前夜は「鳥せい」で山盛りのから揚げと炭火焼きをご馳走していただいたのだが、やはり「ソウルフードなんですよ」と。豚丼の有名店の前を通りがかり、「ソウルフードなんですよ」と。つまり農と食の王国・十勝ではすべてがソウルフードということか。

ちなみにこの食べ歩きルートは、当地在住の小説家・河﨑秋子さんが文芸誌『すばる』2022年4月号で紹介していたいわば鉄板ルート。今回の旅をきっかけにして河﨑さんの小説を読んでみたいし、途中で挫折した上西晴治の長編『十勝平野』(筑摩書房)にも再度チャレンジしたい。

9月某日 旅から戻り、河﨑秋子さん『颶風の王』(KADOKAWA)を読む。北海道開拓民の家族史、過酷な自然を生き抜きながらも歴史の波に翻弄される人間と馬たち。荒ぶる北方の野の世界の描写に圧倒されたが、河﨑さんは元羊飼いとのことで納得。読み応えのある小説だった。今後、農と食と地域をテーマにした文学を探して読んでいきたいと考えている。

9月某日 精神科の医師でトラウマ研究の第一人者・宮地尚子さんの『傷を愛せるか』(ちくま文庫)が届く。大月書店の旧版単行本を愛読してきたので、増補新版での文庫化というのがうれしい。

9月某日 連休の3日間でK-POPのMVを150本ほど鑑賞。正しく「沼落ち」したということだろう。おおむね東方神起以降、(基本的にNCT127など男性グループのファンであるため)普段は嗜まない女性グループのTWICEや宇宙少女のMVなどもまとめてみると、逆に自分の「Kぽ愛」の傾向がクリアになってきた。そして、「案外こういうのが好きなのか……」と自分で気付かなかった自分の一面を発見して驚いている。

2020年デビューの韓国のガールズ・バンド、Rolling Quartzの MVを見て、「うわあ、ほんとに歌ってる!」と思わず声を上げてしまった。金素月(1902〜1934)の詩「つつじの花」をハードロックで絶唱するとは……、なんともシブい。YouTubeの動画に日本語字幕をつけ、『キム・ソウォル(金素月)詩集』(林陽子訳、書肆青樹社)を手元に視聴。Rolling Quartzについては、言語学者・野間秀樹先生のご教示による。

9月某日 宮内喜美子さんの詩文集『わたしたちのたいせつなあの島へ――菅原克己からの宿題』(七月堂)が、小野十三郎賞詩評論書部門特別奨励賞を受賞とのこと、おめでとうございます。

9月某日 大学の授業でメディア論の話もしているので、マーシャル・マクルーハンの主著を再読。『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳、みすず書房)や『メディア論』(栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房)など。「メディアはメッセージ/マッサージである」という名言の意味するところぐらいは知っておいてほしいと考えて。ところで30名ほどの学生には、宿題で好きな本の書評を書いてもらった。いまどきの文系大学生の読書傾向が見えてきておもしろかったし、読んだことのないたくさんの本を知ることができてよかった。

授業の後は、恒例となりつつあるマルジナリア書店へ寄り道。温又柔編・解説『李良枝セレクション』(白水社)を購入。作家の温さんが厳選した李良枝の小説とエッセイの並びが完璧すぎる。美しい装丁の本。

お店ではフランスとウクライナへの旅から帰国した写真家・渋谷敦志さんと待ち合わせ、久しぶりに語り合った。ロシアによる侵攻後のウクライナ社会の空気感について、キーウ、ハリコフ、ブチャなどの町々で出会った人たちの声について、そして今後の写真活動について。渋谷さんのことばのひとつひとつが、重い。その重みをしっかり受け止めたい。

9月某日 渋谷敦志さんの新著『僕らが学校に行く理由』(ポプラ社)を読む。世界各地の紛争や貧困の渦中にいながら学びを求める子どもたちの姿を記録した児童向けのノンフィクション。カラー写真も満載で、とてもよい内容。大人が読んだっていい。この本と『李良枝セレクション』の2冊を来週、大学の授業で学生たちに紹介しよう。

ダイヤモンドの指輪

平野公子

 あのさぁ、ミエさんてどこから来たの。
たしか平野甲賀が亡くなる半年前頃のことだろうか、この頃は変な質問が時々飛んできていた。もともと天然気質の上にリクツのない人だから、返事もそんなに筋道正しく立派なのを待っているわけではない。
 水道の蛇口ひねるとミエさん出てきたのかも、と軽口叩きながら、そうだよねぇ、ミエさんにはみーーーんな知らんうちにお世話になっているよね。
 そうなんだよ、俺たち馬鹿だからさぁ、すぐ飲んだり騒いだろ大騒ぎしたり飽きちゃったりさ、でもミエがずっとニヤニヤしながらやっててくれたんだよね。
 そうだよ、義務じゃなくてね、あんたらの馬鹿さ加減も面白かったんじゃない。
 なんかさ、お礼しなくちゃいけないんじゃない。
 え、そうなの。なにをあげたいの?
 指輪とかさぁ。
 そうだね、どうせだったらダイヤモンドかね。
甲賀さんにしては珍しい思いやりだった。言葉にするのが珍しいという意味ね。
なのでこの日のやりとりがおかしいこともあったけど、忘れられない。

ダイヤモンドの指輪代わりにようやく八巻美恵の本ができた。
八巻美恵さんの本を作ろう、という声は数十年前からあちこちから聞かされてきた。
だが一向に出ないではないか、それではhorobooksで、と取り組み始めて数ヶ月、
ようやく不思議な本となりました。
美恵さんに似合った優しく可愛い本に仕上げてくれたのは、デザイナーの吉良幸子と絵の木村さくらの若者たちです。
二人とも早くから美恵さんの文章を読んでくれていた。大好きになってくれていた。
ありがとう。
編集の賀内さん、感想文を書いていただいた斎藤真理子さんに深く感謝もうしあげます。

http://horobooks.net/ 
horo booksストア(https://horobooks.stores.jp)でお求めいただけます。

紙のない臨書

高橋悠治

知らない曲を見つけてピアノを弾くのも、数ヶ月前のジョナス・バエスのバガテルで停まった。

10月で予定は途切れる。生活のためにピアノを弾いていたはずが、いつかピアノを弾くための生活になっている。演奏は、習い覚えた手順を繰り返すのではなく、ちがうやり方を見つけようとしてやっていたはずが、いつか時代のスタイルに従っている。こんなはずではなかった。となると、一つの音と次の音のちがいを見ることで、揺らぎを感じ、安定を崩して、その波に乗って意識の重みを外す瞬間ができる。それを隙間と言えばいいのか。

全体から部分に降りるのではなく、手の触れたところから少しずつ動かして、その跡を辿る、短い線の途中でやめて、間を置いて、途切れたところからまた始める、拍のような規則的な単位で計らない、その時の気分で、離れる時には突いて、線の終わりとその後の間を際立たせ、そっと返す、それは始まりを突いて、なだらかに運び、余韻を残して消える筆の運びとは反対になる。紙のない臨書。

空気に指を当てて無音を聞く、紙に動きを写して、どこか一つの音を変えるだけで、その先の方向も響きも変わってしまう。そうして残した短い線の集まりから、目についたどこかを採って、書き換える。

散らし書きのさまざまなくふう、連綿、分かち書き、返し書き、重ね書き、見せ消ち、また雁行。筆もなく、指も動かさず、思ってもやらない。こうして、数ヶ月の休暇が始まる。

2022年9月1日(木)

水牛だより

99年前の関東大震災を思い起こせというように、雷鳴が轟いている夕方、雨が降って、昼間の暑さから急激に涼しくなりました。9月と聞くと、秋だなと思ってしまいますが、今年の9月はどうなるのでしょうか。台風11号は見たことのない動きをしています。

「水牛のように」を2022年9月1日号に更新しました。
コロナウィルスもコロナワクチンと呼ばれているものも、依然としてわからないことだらけです。しかし感染するひとは増えて、しばらく前には知り合いの知り合いだったのが、知り合いにまでせまってきています。西大立目祥子さんの感染と看護と介護の報告を読んで、母と娘のお二人の回復に安堵したと同時に、人は見捨てられて生きているのだという実感を強く持ちました。酷暑の夏でも、これは冬の旅といえるのではないでしょうか。
イリナ・グリゴレさんのはじめての著書『優しい地獄』が出てひと月あまり。刊行を記念して、人類学者の奥野克巳さんとイリナさんとのトークイベントがあります。題して「オートエスノグラフィーの可能性」。明日、9月2日19時からです。楽しみですね。アーカイヴ配信もあるようです。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

214 も・ろ・は・の・ヤ・バ・イ 

藤井貞和

生徒さんのひとりが、諸刃のやいばを言い間違えて、
もろはのヤバイと言ったので、その日からせんせいの教室は、
やばいことになりましたよ。

黒マスクのジョオが、「おれは危(やば)い身だ」などと言いながら、
追われてやってくる。 『死者の書』を戦場から、持ち帰った、
加藤道夫(劇作家、1918―1953)の「思い出を売る男」です。

悪魔と神とが、パリの屋根のしたで、
大げんかして、(ヤバイです。)
実存主義の夕暮れよ、50年代。

夕暮れ村を、倒木が跨ぎ越えます。
河原の沙の幼い木でした。 仔リスが恋しいね、
さよならを愛した心、森のおくがヤバイっす。

神と悪魔と、倒れた会話と、巫女の一人でした、わたし。
あなたが哲学を追いかけるならば、
空(そら)になりますよ、わたしゃヤバイから。

 
(俗語や卑語は苦手です。『なよたけ』〈1944〉などの劇作あり、折口信夫の『死者の書』を背嚢に隠しおおせて軍務から生還するも、酷評に耐えかねてか、傷心の遺書(ありえない)。私の半世紀前の中学時代には友人たちが「思い出を売る男」〈1951〉を上演、そういう時代でした。危(やば)いは、そこに出てくる台詞、「悪魔と神」=サルトル演劇。)

夏休みの読書

若松恵子

台風8号の接近から始まったお盆休み。雨が降りそうな涼しい日が続いた。夏らしい天気が去ってしまったような日々に、ファン・ジョンウンの『年年歳歳』と『ディディの傘』の2冊を読みながら過ごした。作品のなかにも雨が降っていて、その風景と重なっている私の夏休みだった。

ファン・ジョンウンの小説世界に身を沈めていると、なつかしさも含めて心がしんとする。『ディディの傘』には2つの中編が収められていて、2つめの「何も言う必要がない」には、「生きることは、話すことです。…生きることは…私たちより前に存在していた文章から生の形を受け取ることです」というロラン・バルトの引用が通奏低音のように流れている。この小説もまた、読む者に様々な「生の形」を手渡してくれる。ファン・ジョンウンが掬い上げなければ、見過ごされてしまうようなこと、忘れられてしまうようなささやかなことだ。

巻末で訳者の斎藤真理子さんが解説しているが、「親世代の経験も含めて二世代、六、七十年ほどのできごとが縦横無尽に語られるが、小説の中を実際に流れる時間は、朴槿恵前大統領への弾劾が成立した2017年3月10日の正午過ぎから午後1時39分までの1時間ほどに過ぎない」。しかし、主人公に流れ込んでいる時間は重層的で、読む者は長い旅をしたような気持になる。

「今日はどのように記憶されるか」この印象的な文章も繰り返し登場する。生きた今日1日をどう記憶するかということは、ファン・ジョンウンにとっては、今日1日をどんな物語として残すかということだ。日本の読者向けの「あとがき」で、彼女は書いている。

「光化門広場で行われたキャンドル集会は毎回、1人の人間が生きている間に2度と経験できないほどの事件でした。私は毎回、驚異とともにこの広場にいましたが、その広場でときどき、女性や少数者を嫌悪し排除する言葉を見聞きしました。キャンドル集会を「革命」だという人たちは多く、各種の不正に関わった大統領が罷免されれば革命が成功するだろうと語る人も大勢いました。私もキャンドル集会の成功を願い、当時の大統領の罷免を願い、国民の保護義務を擲っていた彼の1日も早い拘束を望みましたが、それが「革命」だという考え方にはたやすく同意できませんでした。広場にあれほど多くの人たちが集まり、大統領が罷免されても、韓国社会で少数者として生きる人々の日常が変わることはなかったからです。2017年3月10日、大統領弾劾裁判の宣告の日に私は家におり、さまざまな少数者性を備えた人たちが私の家に集まっていました。みんな一緒に裁判結果を見て歓呼しましたが、その瞬間が過ぎると、私には物語が必要でした。革命が完成されたとみんなが歓呼している瞬間に、ここにも広場があり、いまだ到来しない未来を待つ人々がここにいるという物語を書きたかったのです。」

ファン・ジョンウンは鋭い目で社会を見ているが、告発するのではなく、物語をつくって差し出すひとなのだ。なぜ彼女の物語に惹かれるのか、その理由はこのあたりから来ているのかもしれないと思った。

解説のなかで斎藤氏は2018年に来日した際にファン・ジョンウンが語ったこととして、「私にとっての革命基本は、雨が降ってきて傘をさしたときに、隣の人は傘を持っているだろうかと気にかけること」という言葉を紹介している。この彼女の「やさしさ」は、彼女の感受性のやわらかさから来ているものなのではないかと思う。平気で人を踏みにじるような鈍感な人にはならなかったということ。なれなかったとも言えるのだが。そのやさしさ(感受性のやわらかさ)によって、無名の人の人生が見つめられる。身近にありながら、ほとんどの人が立ち止まらなかった普通の人生が物語としてファン・ジョンウンによって掬い上げられる。あたたかな眼差しとともに。心に残る場面とともに描かれるその物語を読んで、実際に会うことのないその人生を受け取りたいと私は思う。

本屋に出かけるたびに、ファン・ジョンウンの作品があるか書棚を眺めている。『年年歳歳』以外はおいていない本屋がほとんどだが、今日、珍しく『続けてみます』(晶文社/2020年12月)を発見して買って帰ってきた。

父母の恋愛時代の話を聞く娘。百年に1度あるかないかの大きな台風がやってきた日に、風の中を話しながら歩いたという思い出を語る母。2人は裾ひとつ乱さず、目の前で倒れた街路樹をまたいで、傘をさして歩き続けた(この思い出話サイコーだな)のだが、その時どんな話をしたの?という娘の質問に母はどんなことを話していたかひとつも想い出せないと答える。そんなにたくさん話をしておきながら、何も思い出せないのかと尋ねると、「あんまり大切に、あんまり真剣に聞いたせいで記憶に残らずに身になったんだよ。身?聞いたというより食べたんだね。記憶にも残らないほど、きれいに残さず食べて飲んで一体になったんだ。」と母は答える。物語は始まったところだけれど、ファン・ジョンウン最高だ。

水牛的読書日記 2022年8月

アサノタカオ

8月某日 イーディ・ケルアック=パーカー『そのままでいいよ——ジャック・ケルアックと過ごした日々』(前田美紀・ヤリタミサコ訳、トランジスタ・プレス)を再読。ビートニクの作家で『オン・ザ・ロード』の著者、ケルアックの最初の妻によるメモワール。原著の編者のひとり、ティモシー・モランにはむかし神奈川・葉山で会ったことがある。日本語版の編集は、故・佐藤由美子さん。ところで、酷暑のため人間の頭の調子も、PCなど仕事道具の調子もいまひとつ。今月はあまり本も原稿も読めなさそうだ。

8月某日 韓国小説の翻訳などを手がける出版社クオンが発行する『CUON BOOK CATALOG』Vol. 3に、エッセイ「金石範『満月の下の赤い海』について」を寄稿した。先月刊行され、編集を担当した在日朝鮮人の作家・金石範先生の小説集を紹介。本書には、済州島四・三事件をテーマに書き続ける在日の老作家Kを主人公にした3編の小説と対談が収録されている。カタログの巻末では、キム・ウォニョンの自伝的エッセイ『希望ではなく欲望』が秋に刊行されるとの情報が。著者は作家、パフォーマー、弁護士、骨形成不全症という難病を抱えて生まれた車椅子ユーザーだという。韓国文学については小説や詩だけでなく、骨太なノンフィクションや評論をもっと読んでみたい。

8月某日 早田リツ子さんの『野の花のように——覚書 近江おんなたち』(かもがわ出版)が届く。滋賀の女性史をテーマにした本。《身近な過去、あたりまえの女たちの暮らしの跡》を記録するこまやかな文章の行間から、出会いを求めて村々を旅する著者の息遣いまで聴こえてくるようだ。昨年刊行されたノンフィクションの名作『第一藝文社をさがして』(夏葉社)を読んで感想を伝えたことがきっかけになり文通をするようになったのだが、尊敬する著者である早田さんが、サウダージ・ブックスから刊行した韓国文学やローカルをテーマにした本を手にとり、「半ばあきらめていた〈次世代へ希望を託す〉ことは可能だと感じ入りました」という最高にうれしいメッセージを送ってくださった。未来にバトンを渡すためには、渡すべきバトンを先達から受け取らなければならない。本作りに関わる自分の原点はそこにある。新しさ、ではなく、流れを見つけること。この姿勢を、これからも大切にしていきたい。

8月某日 写真家の畏友、渋谷敦志さんのノンフィクション『僕等が学校に行く理由』(ポプラ社)が届いた。その他に、『モダニスト ミナ・ロイの月世界案内——詩と芸術』(フウの会編 、水声社)、アジアを読む文芸誌『オフショア』第1号も届く。

フランス・アルルのフォトフェスティバルで開催中の写真展「(SE) RENCONTRER, PARTIE 1」のために現地滞在中の渋谷さんより、これからポーランドに飛び、ウクライナのキーウへ向かってしばらく取材活動をすると連絡が入った。ロシアによるウクライナ侵攻は長期化し、約半年が経過した。

8月某日 『現代詩手帖』2022年8月号に、エッセイ「『女性』と『詩』に関わる本の編集を通じて」を寄稿した。編集を担当したペリーヌ・ル・ケレック詩集『真っ赤な口紅をぬって』(相川千尋訳、新泉社)のことなど。特集「わたし/たちの声 詩、ジェンダー、フェミニズム」に目を通すと、非常に充実した内容。特集以外では、高良勉さんの評論の新連載「五十年とアンソロジー 琉球弧から」、ヤリタミサコさんの視覚詩の作品「豆の平和」、文月悠光さんの連載詩「痛みという踊り場で」の8月号の作品「消された言葉」を読む。

8月某日 記憶の蓋がひらかれる夏の夜に。原民喜が原爆投下以前の広島の幼年時代を追憶する小説集『幼年画』(サウダージ・ブックス)を読み返す。

8月某日 伊藤芳保写真集『「阿賀に生きる」30年』(冥土連)が届く。新潟水俣病の患者たちの日常を記録したドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(佐藤真監督)にかかわる人々を撮影したスナップショットの集大成。関連して、阿賀野で旗野秀人さんが主宰する冥土のみやげ企画(冥土連はその全国連合)から出版された本、里村洋子さんの『丹藤商店ものがたり』を再読した。阿賀町鹿瀬の地域史・家族史をテーマにした味わい深いノンフィクション。どちらの本からも、日々の積み重ねとしての歴史のずっしりとした重みを感じる。この夏、新潟をはじめ東北の各地で大雨が続き、各地で被害も出た。以前新潟のBooks f3で出会った旗野さん、里村さんの消息が気になった。

8月某日 高校生の娘(ま)と東京・下北沢の本屋B&Bを訪ねた。前田エマさんの初小説集『動物になる日』(ちいさいミシマ社)刊行記念フェアがよかった。窓ガラスに描かれた大杉祥子さんの絵がすごい。前田エマさんの写真日記も楽しく、見入ってしまった。帰宅して「動物になる日」を読み返す。最近、(ま)は韓国の小説家チョン・セランの長編『地球でハナだけ』(すんみ訳、亜紀書房)を読んでいて、「けっこうおもしろいよ」と言っていた。

8月某日 東京駅から東北新幹線「はやぶさ」に乗車、盛岡駅からJR田沢湖線に乗り換えて岩手・雫石の牧場へ。岩手山を見たかったが、この日は残念ながら雲に隠れていた。「雫」の文字通り、雫石は雨の多い土地らしく、水と緑が豊かだった。

取材行の道中で、イリナ・グリゴレさんの『優しい地獄』(亜紀書房)を読む。これは理屈抜きに好きな本。ルーマニア生まれ、青森・弘前在住の人類学者が日本語で書いたエッセイ集。離れることでからだに残してきた思い出を注視する、独特のまなざしに心が震えた。ルーマニアでの出来事など見聞きも体験もしたことがないのに、この本に綴られていることばの風景にはどこか身に覚えがあるような。通常の理解や共感とは違うチャンネルを通じて、「人間とは何か」という問いを分かち合う不思議な感覚。人類学とアートが交差する知の十字路から生まれた本当にすばらしい作品。「生き物としての本」や「山菜の苦味」など、木や植物の話がいいなと思った。

「自伝」と言ってもいいかもしれないが、やはり著者がそう呼ぶように「オートエスノグラフィー」と言うのが正しいのだろう。私が私の物語を語るのが通常の自伝だとしたら、私が他者としての私を観察して記述するのがオートエスノグラフィーで『優しい地獄』にぴったりだと感じる。個人史という記憶の場所をフィールドにしながら、自己同一化ではなく自己疎遠化をうながすさまざまな出会いについて、移住や病気の経験も含めて、私が私ならざるものへ移行し、変身することについて省察している。オートエスノグラフィーの「オート」は「自己の」「自動的」だけでなく自動車のオートとも意味的な関連性があり、定住ではなく移動の経験を記述するモードとも言える。そういう予感もあったから、この本はぜひとも旅をしながら読みたいと思ったのだった。イリナ・グリゴレさんというエスノグラフィー=民族誌の新しい地平を切り開く同時代の作家と出会えた幸福をかみしめながら帰路に着いた。

8月某日 屋久島で暮らした詩人・山尾三省の命日。コロナ禍の中で行くことができない島を思いながら、山下大明さんの写真集『月の森 屋久島の光について』(野草社)を1日かけてじっくり読み込んだ。暗く暖かい島の照葉樹林のなかで、かすかに輝くものたちを追いかける写真家の視線に自分自身のまなざしを重ねる。ある意味で現実の旅を凌駕する体験だった。

8月某日 東京ドームにて、韓国のSMエンターテインメントが主宰する「SMTOWN LIVE」にはじめて参加。新型コロナウイルス禍があり、3年ぶりの開催。錚々たるK-POPアーティスト、若手からレジェンドまで16組54人が勢ぞろいするのを目の当たりにして興奮したが、なかでもデビューから17年、兄貴分的なSUPER JUNIOR のパフォーマンスは驚異的で、もはや《人類の祭り》と呼びたいレベル。たったの3曲ほどで、5万人もの群衆の心を異次元へさらっていった……。ライブのセットリストを振り返りながら、感想を書こうとしたけどキリがない。熱狂と陶酔の記憶は大切に胸にしまっておこう。4時間立ちっぱなしで腕を振り続けて、中年のからだは悲鳴を上げている。

仙台ネイティブのつぶやき(74 )ついに上陸、そして…

西大立目祥子

7月最後の月曜日、母がいつものように3泊のお泊まり付きデイサービスから帰ってきた。車から降りると、スタッフが「すみません、ちょっと手にケガしちゃって…でも、どこで切ったのかわからないんです。絆創膏貼ってもはがしてしまうし…」という。母はもうじぶんのいる場所がわからないほどの重い認知症で本人にもケガの記憶はないし、スタッフも何人もの年寄りを看ているのだからケガの現場を見逃すことはあるだろう。あ、はいはい、とそう気にも留めずに送迎バスを見送った。

甲側の親指の付け根に5ミリ強ほどの切り傷ができていて、きちんと消毒ができていないのか、まわりがうっすら赤くなっているのがちょっと気になった。帰ってきたら、まずトイレ、手洗い、うがい、そしてお茶とお菓子なのだけれど、この日は手洗いのあと傷を消毒し絆創膏を貼った。傷を痛がるふうはない。お茶を飲む間にテレビをつけニュースを聞きながら、前日までにつくっておいたおかずをタッパーから取り分け温め小皿に盛って、1品か2品ずつ出して夕飯にする。94歳は、食事を出す私がもうだれかもわからないというのに、巧みに箸を使ってつぎつぎと小皿を空にする。その食欲にあっぱれと半ばあきれながら、老親の介護を経験した友人たちが口々に食が細って食べてくれなくて困ったというのを反芻して、たいらげてくれるんだからありがたいとも思う。まだ大丈夫、この人の中には生きる意欲ってものがある。意欲はからだから沸き起こるものなのだ。今日食べれば、明日は生きられる。食事のあとはお煎茶を入れ直して食休み。8時をまわったところで、薬を2粒飲ませて歯磨き、洗面、トイレ、着替え、軽い体操。さ、お休み。食器を洗い、デイから持ち帰った汚れ物を洗濯機に放り込むと9時。ようやく私の時間がやってくる。

翌日もいつもどおりだった。月末なので、ケアマネさんが8月の予定表を持ってきた。母のお昼のお弁当が届き、昼食の面倒をみて散歩をしてくれるヘルパーさんがやってきて、私はその間に昼食をすませる。そのあと、入れ替わるように従姉妹が遊びにきた。母の姉の娘である私より4歳年上の従姉妹は、亡くなった母親の面影を母の中に見つけるからなのか、相手をするのが楽しいとここ数ヶ月、毎週楽しそうに訪ねてくれるようになった。2時間ぐらい話をしながらお茶を飲んでいく。

日差しがきつくなってきた2時半ごろだったろうか。母の腕に触った従姉妹が「ちょっと熱くない?」といぶかしそうにいう。え? ぎくりとしながら熱を測ると37度6分だった。いやいやいや。コロナではないと思う。母は昨年、2回発熱騒ぎをやった。幸い軽症の風邪だったものの、病院に連れていくことの大変さが身にしみた。車に乗せるのも、下ろすのも、靴からスリッパに履き替えさせるのも一苦労。ましてや唾液を集めるPCR検査なんて不可能。認知症の年寄りにとっては、このウィルスに立ち向かうためのひとつひとつが立ちはだかる壁になる。熱はこの傷のせいに違いない。そうとしか思えない。
この日はもう一人ヘルパーさんがきた。なんか熱があるんだ…。ケガのせいだと思う。傷を見たヘルパーさんは、「これは外科にいって消毒した方がいい」ときっぱりという。わかった。私はその人を拝み倒して、病院に同行してもらった。

「発熱」といっただけで別室に通され抗原検査になった。いやがる母の頭をぐいと抑えて綿棒が鼻に差し込まれる検査をしのぎ、キットの反応を待った。1分かそこらで結果は出た。「陽性です」。え? 驚きよりとまどいの方が先にきた。あっけない。ウィルスはこんなふうに静かに、たやすく、気づかないうちに上陸してくるのか。もし感染がありえるとしたら、私から母へだと思っていたのに逆ルートでやってくるとは。明日からどうすればいいんだろ?

デイサービスに電話して感染ルートが判明した。3日前に母と接触していた職員の陽性が今日になってわかったという。結論からいうと、この日、母に接触した5人のうち、私と従姉妹とお昼のヘルパーさんが感染した。座っていた距離は1メートルくらい。マスクを2重にして、トイレの介助では手袋を付け、帰宅時には靴下まで履き替えていた介護のプロもだめだった。3人とも発熱は接触してきっちり3日目だった。

外界と遮断された母と私の時間が始まった。すぐ近くにいる弟の家族が食料品は届けてくれることになったから、都会の一人暮らしにくらべたら格段に遮断度は低いのかもしれない。それでも、光の差し込まない洞窟の中に2人で立てこもっているようで、感染者でありながら看護と介護を引受けざるを得ない私は、洞窟の奥へ奥へと日増しに追い詰められていくようだった。

幸い私自身は高熱も出ず、ときどきひどい咳が出る程度だったけれど、母の容体は安定しなかった。36度台になると気分がいいのかベッドからふらふら起きてきて庭を眺めていたりするので、これはこのまま回復かと思いきや、夜中に39度まで上がり汗をかいて眠り続けている。このまま寝かせていていいのか、年齢を考えたら救急車をよぶべきではないのかと迷いに迷い、その迷いで不安がさらに募る。もう十分に生きたんだからいつ死んだっていいのだ、と覚悟は決めていても、目の前で苦しそうにしているのをみればうろたえる。母の寝室をのぞくのが恐かった。でも1時間に一回ぐらいはようすをみなければならない。まるで暗くてよく見えない洞窟の奥に、一人小さなろうそくを灯して入り込んで行くよう。

母の療養の大きなつまづきは、最初に抗原検査をした外科が母の陽性を保健所に届けてくれなかったことだ。思うに煩雑な事務をまぬがれたいというのが病院の理由なのだろう。結局、陽性者にカウントされず、保健所のフォローアップも受けられず、3日遅れで私が陽性になったことで保健所につながり、ようやく事態が動き出したときは発熱から1週間以上がたっていた。検査結果をもとに医師が確定診断を行い、保健所に届けてようやく保健所がフォローを開始できるというのを、当事者になって初めて知った。

療養期間が終わるのは発症から11日目。その前3日間に無症状であることを確認のうえで。保健所の連絡を頼りに、早く早く日が過ぎてその日がきて欲しいと思いながらも、気管支の奥をざらざら鳴らすような母の咳を聞いていると、これは無理だろうと感じる。そのうえ、認知症の症状が一気に進んだのではないかと不安にかられる。箸を使って食事ができない。スプーンを使うのもやっとやっと。食事に介助が必要になった。うがいもできなくなり、うがいをさせると飲み込んでしまう。私自身も食欲ががくんと落ち、ときどきからだを折り曲げなければならないような激しい咳が出た。

だるくなかったの?といまになって友だちに聞かれるのだけれど、不思議なことに人は動きまわっているときはだるさを感じる余裕はないのだ。静かにじぶんを取り戻せるひとときを得たときに、ああだるいと実感がくる。重たいからだで介護をする私が洞窟の中で何とか平常心を保てたのは、猫のちびすけがいたからだ。「にゃーお!(おはよう、窓開けろ)」と鳴き、「みゃーお!(ごはんくれ)と叫び、「ふにぁ(なでろ)」とすり寄ってくる。不思議なことに、夏バテで食欲が失せていたちびすけは私の発熱の日から元気を盛り返した。静かに規則正しい呼吸を繰り返す生きものの何という安定感。背中をなでながら、いっしょに夏の光に燃え盛る庭の緑を眺めていると、勢いを増す草の生命力に満たされていくような気がする。大丈夫、きっとここから出られるよ。

保健所から借りたパルスオキシメーターの数値が91まで下がり、再び熱が38度近くまで上がって、私は救急車をよんだ。数値は人を迷わせないのだ。「火事ですか、病気ですか?」
「コロナです」そんなやりとりをして5分もしないうちに救急車は到着したのだが、なんと母はベッドに座って救急隊を待ち、よろよろしながらも歩いて救急車に乗り込んだ。しかし、なかなか搬送先が決まらず、救急車が動き出すまで1時間を要した。結局、症状が軽いので日帰りといわれ、4時間後に私が迎えにいったのだが。そして、日帰りの翌日、年齢を考えるとハイリスクと、保健所が入院の勧告の要請を出してくれて、母は宮城県南、仙台から70キロも南の病院に搬送されていった。力が抜けた。緊張がとけて、陽性の診断が出てからようやく7日目に初めてぐっすりと眠った。

暑い中、防護服を着込みマスクとゴムの手袋に身を固め酸素ボンベを担いできてくれた救急隊も、車椅子に母を乗せて高速を飛ばしてくれたおにいさんも、何度も電話をくれた保健所の職員も、入院先の看護師さんも、みんな静かで明るく落ち着いていた。この修羅場のような数日を経験して以来、私の耳は救急車の音をよく拾うようになった。この稿を書いている間にも、サイレンが聞こえる。ほら、また聞こえる。別の救急車だ。台所に立っていても、耳は遠くからかすかに聞こえる音を捉えている。空耳じゃない。車で出れば、必ず一回は救急車の出動と行き交い、車を路肩に寄せることが何度も続いた。

結局私は母の住まいに18日間とどまることになった。誰かと話したかった。電話じゃだめ。家族だけでもだめ。目を見て、繰り出される話に話を返して、どうでもいい話をしたかった。
咳を残しながらも母がデイサービスに復帰したのはお盆の入りのころ。私も先週まで咳をすると胸骨のまわりが骨折でもしているのかと感じるほど激しく痛んだ。

なんという夏だったんだろう。一部始終を振り返りながら書いているけれど、いまだにうまくコロナの日々をとらえられない。もう少したてば、誰にも会えなかった空白の時間が説明できるようになるだろうか。

雨が降っては高温という天気が続いたこの夏、久しぶりに庭に出ると家の裏のミョウガがかつてないほどに丸々と大きく育っていた。

ベルヴィル日記(11)

福島亮

 8月9日から11日まで、ヌーヴェル・アキテーヌにあるトラヴァサックという村を訪れていた。村を訪れるのは、これで3度目である。2017年に東京で行われたシンポジウムで知り合ったフランス人の友人がこの村には住んでおり、毎年夏はその友人の家を訪れることにしているのである。トラヴァサックに行くには、パリから鉄道に乗ってブリーヴ=ラ=ガイヤルドという駅までゆき、そこからは友人が運転する自動車で村まで向かう。3年前はパリからブリーヴ=ラ=ガイヤルドまで4時間ほどでついたような気がするのだが、今回は乗り換えも含めて5時間かかった。小耳に挟んだ話だから確証はないのだが、どうやら地方の鉄道に対する予算配分が変わったとかで、鉄道の本数が減っているそうなのだ。

 ブリーヴ=ラ=ガイヤルドに到着して一番驚いたのは、その暑さである。6月から雨が降っていなかったそうで、空気は乾燥し、強い日差しがジリジリと照りつける、過酷な暑さだった。日陰でも40度を超えることもあった。街を流れる川は水が減り、川底の砂が露出していた。街路樹は葉が茶色に変わり、花壇の草花は枯れていた。そこに飛び込んできたのが、ボルドーの山火事の知らせである。乾燥した松林に火がついたとのことで、鎮火は容易ではなさそうだった。高速道路も一部使用中止となった。

 予定では、友人がボルドーの近くにあるジョセフィン・ベイカーの住まいだった城に連れて行ってくれることになっていた。だが、暑さもあったし、交通渋滞も見込まれたので急遽取りやめ、家の近くの人造湖に行ってみることにした。湖には水浴びをする家族連れが多くやってきており、賑やかだった。

 暑さのせいだろうか、今年はトラヴァサックでスズメバチを多く見かけた。夜、窓を開けていると、甲虫のような羽音をたてて親指大のスズメバチが飛び込んでくる。フランスはどういうわけか網戸が普及していないので、虫は入り放題なのだが、スズメバチはさすがに困る。ちなみに、スズメバチはフランスではまず見かけない昆虫だ。オオスズメバチのことを「ゲップ・アジアティック(アジアスズメバチ)」と呼ぶのも、この昆虫が外来のものであることを物語っている。スズメバチの来訪は、気候変動という言葉を身近に迫る脅威として感じる瞬間だった。

 ベルヴィルに戻ると、今度は大雨だった。しばらく乾燥した日が続いていたから雨は嬉しい。だが、雷が凄まじく、家が揺れるほどだった。フランスの雨はすぐやむものが多いのだが、この時はどこか日本の夕立を思わせる雨だった。フランスは熱帯、ないし亜熱帯の国になりつつあるのかもしれないと本気で思ったほどである。話は別なのかもしれないが、街中にカラスが増えた気もする。フランスは鳩は多いがカラスは少ない。いたとしても小柄なカラスが多かったのである。だが、どうしてだろうか、丸々と太った立派なカラスが群れをなしている。これではまるで東京だ。

 雨が止むと、秋の気配が訪れていた。空が遠く感じられ、日が沈む時間も少しずつ早くなってきている。週2回開かれる市場では、まだスイカやメロンも普通に売っているが、リンゴ、ナシ、プラム、モモが棚を占める割合を増やしつつあるし、何よりも、秋の果物であるミラベルが出回り始めている。まだどことなく初物の印象があるミラベルだが、もう少しすると、あの蜜のような濃厚な味わいを心ゆくまで楽しむことができるだろう。

 ベルヴィルに住みはじめて1年がすぎた。ここで暮らすのもあと半年である。短いような、長いような。嬉しいような、寂しいような。

インドネシアの新札に見る伝統舞踊の図柄

冨岡三智

この8月に2022年に発行される新札の図柄が発表され、各裏面には各地の舞踊、風景、インドネシア固有の植物や動物などの図柄が組み合わされて描かれている。というわけで、今回はその舞踊の図柄の紹介。紙幣は7種類で、舞踊の図柄は以下の通り。

(1)10万ルピア札…トペン・ブタウィ(ジャワ島・ジャカルタ)
(2) 5万ルピア札…レゴン(バリ島)
(3) 2万ルピア札…タリ・ゴン(カリマンタン島・ダヤク族)
(4) 1万ルピア札…パカレナ(スラウェシ島・マカッサル族)
(5) 5千ルピア札…ガンビョン(ジャワ島・スラカルタ)
(6) 2千ルピア札…タリ・ピリン(スマトラ島・ミナンカバウ族)
(7) 1千ルピア札…タリ・ティファ(パプア)

インドネシアは「多様性の中の統一」を国是とするので、舞踊もスマトラ、ジャワ、カリマンタン、スラウェシ、パプア(ニューギニア島)というインドネシアを代表する大きな島から万遍なく選ばれている。バリ島は小さいが、インドネシア文化を語る上では外せない。

(1)はジャカルタの舞踊。ブタウィはオランダ植民地時代以来、港市バタビア(=ジャカルタ)に集住してきた人々のこと。ブタウィの舞踊や衣装は中華などの影響を受け国際色豊かな雰囲気が特徴。トペンはインドネシア語では仮面という意味だが、ブタウィでは芸能や芝居の意味で、仮面とは関係がない。

(2)バリ舞踊のレゴンはこの中で最も有名な舞踊だろう。バリ・ヒンドゥー寺院で発展した舞踊。

(3)タリ・ゴンは東カリマンタンのダヤク族の舞踊。カリマンタン島はインドネシアにおける呼称で、ボルネオ島に同じ。ダヤク族はカリマンタン島の先住民のうちイスラム化されていない人々のことで、「森の民」とも呼ばれる。タリ・ゴンでは女性が両手に鳥の羽を扇のような形に持って、鳥の動きを模して優美に踊る。地面に伏せたゴン(銅鑼)の上にのって踊るのでこの名がある。サンペというギターに似た楽器で伴奏するのだが、どこか懐かしいような、のんびりした音がする。

(4)パカレナは南スラウェシのマカッサル族の舞踊。マカッサルといえば海洋交易で栄えた地域。女性が扇を持って、抑制的でゆっっくりとした動きで踊るのだが、音楽の方はそれとは対照的に激しく、2台の太鼓の音と甲高いチャルメラ笛の音が鳴り響く。私には神楽の音楽のような雰囲気にも感じられる。

(5)ガンビョンはジャワ島中部の、スラカルタ様式の民間舞踊。

(6)タリ・ピリンは母系社会で有名なミナンカバウ族の舞踊。磁器の皿(ピリン)を両掌にのせて踊るのだが、踊れる人に聞いたところ、子供の頃から踊っていても一度も落としたことがないと言う。ちょうどよい重さの皿を使うのがコツらしい。最後に皿を割って床にまき、その上で素足で踊るのも見たことがある。

(7)パプアはニューギニア島の西半分を占め、他のインドネシア地域とは異なりメラネシアの方に含まれる。腰蓑をつけ、ボディペインティングをした格好を見るとそのことを強く感じる。ティファは脚付きグラスのような形をした片面太鼓のことで、踊り手はこの太鼓を手に持ち、リズムに乗って延々踊る。

雨宿り

北村周一

はじまりは点描にしてまたひとつ見るよりはやく落ちてくる雨

点描はことのはじまり淡くして絵ふでのさきにともすまなざし

ぽつりまたぽつりとひらくつかの間を雨と呼びあう窓べの時間

ひぐれのち雨の気配はカンヴァスにありていろ濃くたわむ空間

くうかんに点と線とを散らしめて消えゆくまでのひとすじの雨

現れて消えるつかのま白くして、ほつりほつりとふる雨もまた

重さから解かれてひとつまたひとつ雨は遠のくヒカリのうつつ

ひとりごとうつし出すごと人かげは窓べにありて雨待つごとし

降るかなとむねに問いつつわが視線まどに向ければ雨という声

雨宿り それからのちのなれ初めも母からのみに今は知るのみ

しもた屋之噺(247)

杉山洋一

何故か慌ただしかった一ヶ月が、驚くほどの速さで過ぎてゆきます。
眼前の空は一面厚い雲に覆われていて、どんよりとした世界が浮かび上がり、朝方からゴルバチョフ元書記長の訃報が大きく報じられています。これから成田に向かい、ミラノに戻るところです。

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8月某日 ミラノ自宅
バルレッタ発8時5分の特急でミラノへ戻る。車中、三善先生の合唱曲集の譜面を広げつつ思案に暮れる。
昨日は朝早く、バルレッタの海岸沿いを家人と散歩した。海からの風が心地よく、ミラノよりずっと過ごしやすい。どことなくペスカーラを思い出させる風景だが、遠くに並ぶ小さなコンビナートが不釣り合いにも見える。
晩の演奏会で家人がエルサルバドルの母の歌を弾いたとき、数人の高齢の女性が肩を震わせて泣いていたが、何か思うところがあったのだろうか。
ホテル前の海岸に誂えられたテーブルで、昼は鱸のリゾット、夜は新鮮な魚介盛りに舌鼓を打つ。ダンテの研究家だと紹介された夜食で同席した初老の紳士と、カルヴィーノの「アメリカの授業」について話し込む。「アメリカの授業」はわれわれ音楽家、芸術家の規範だとおもう。ウンガレッティがイタリアに紹介した日本の俳句における、元来、韻の美しさが際立つイタリア詩学との親和性についても話す。

8月某日 成田行機内
今朝は夜の2時まで仕事をして、朝5時に起きて改めて仕事を続け、6時から慌てて身支度して家を出る。ミラノのマルペンサ空港のこの混みようを目にするのは、何年ぶりだろう。
現在ヘルシンキから成田へ向かっていて、北極海上空を飛行中。機内は比較的空いていたので、横になって足をのばした。ミラノからヘルシンキまで、周りはロシア人の乗客が多かった。隣の若い女性は、小さな男の子をあやしつつ、タブレットで熱心にスプートニク・インターナショナルを読んでいた。
ヴァイオリン協奏曲は「ラ・フォリア(狂気)」とバッハのコラールを素材にし、独奏とオーケストラがそれぞれ別の出発点を持つ、収斂と発散のプロセス。
ペロシ下院議長の台湾訪問で、中国は態度を硬化。今回は北航路だから、台湾を気にせず乗っていられるので、少し気が楽だ。ペロシはイタリア系アメリカ人なので、イタリアではペロージと呼ばれる。ウクライナ侵攻が進行中で、アルカイダ指導者を殺害した直後に台湾を訪れたのは、どういう意図なのだろう。

8月某日 成田行機内
飛行機は北極海を進んで、ベーリング海峡で最も狭いアラスカ・ウェールズあたりは陸上を掠めて飛行したが、海峡を抜けた直後に大きく右に舵を切り、以降ベーリング海を南下を続けて、現在カムチャッカ半島の南、千島列島南東を、舐めるように進んでいる。眼下の雲海下方には、本来ウルップ島や、択捉島、国後島、歯舞島を臨めるはずだが、現在の世情を鑑みると、少し皮肉でもあり、ロシアと日本の距離を否が応でも実感する。
北方領土問題を含め、世界の国家間の領土問題は、いつでも先住民や現住民の意志などとは別次元で扱われるけれども、例えば小笠原などは、大きな諍いもなく現在まで睦まじく過ごしてきた印象を受けるが、それも自分の無知故だろうかなどと独り言つ。
この飛行機が成層圏の端くらいまで高度を上げ、宇宙との境まで辿り着いても、人間はやはり地上の国境に拘泥したくなるのだろうか。
それとも、丸い地球の姿を客観的に目にした瞬間、我々の裡には地球人としての連帯が芽生えるのだろうか。

8月某日 三軒茶屋自宅
深夜、仕事をしながらラジオをつけていると、富安陽子さんが彼女の絵本「盆まねき」について話している。光の中に浮かび上がる人々の描写に思わず涙がこぼれたのは、そこに、「揺籃歌」で書きたかった世界を見出したからだ。
この世を通り過ぎた人びとは、美しく眩い光線に浮かび上がる人影となり、その顔は少しずつ溶けて、やがて光に収斂されてゆく。いやそうではなくて、かかる眩い光線は、無数の発光体が、優しく寄り添って出来ているのかもしれない。
そう思うと、いよいよさめざめと涙が頬を伝った。悲しみよりもっと深い、感動のようなもの。それこそ悲しみと呼ばれるべきものかもしれないが、正直よくわからない。
バルレッタでの家人の録音を、在スペイン人権団体を通じて、エルサルバドルに伝えてもらうよう頼む。息子は「水の戯れ」を読み始めた。

8月某日 三軒茶屋自宅
Kさんよりメールを頂き、エミリオとヴァレンティ―ナが無事に東京のホテルにチェックインしたと知る。早速メッセージを送り、夕刻、ホテルのラウンジで旧交を温めた。蝉の声がまるで電子音響だと繰返していて、エミリオは最近Covidを患い5キロも痩せたこと、来年にはまたパリに転居するつもりだということ、最近演奏したノーノの作品の話や、ドナトーニのIn Cauda IとIn Cauda II以降の作品の関係とか、もうすぐ8月17日はドナトーニの命日で、22年前のドナトーニの葬式と同時刻に、エミリオと二人でミラノからツアーに出かけた思い出話とか、四方山話は尽きることがない。

8月某日 三軒茶屋自宅
エストニアとフィンランドがロシア人渡航者の入国制限実施。日本では与党と宗教団体の癒着が問題化。
ついこの間まで現政権は国民からの高い支持を誇っていて、特に国民に不満もなかったのだから、与党の組織票について何某か分かったからと言って、特に問題はないように思うが、或いはそれは間違っているのかもしれない。
組織票がなければ選挙に勝てないのは自明の理だし、我々国民自身が与党の采配に危機感を覚えなかったのなら、義務であるはずの投票を放棄した国民の責任か、国民の大多数と特定の宗教団体との政治思想の共有を認めれば充分ではないか、とも思うが、憤懣やるかたない国民はどう捉えているのだろう。
西さんより、10月にアルバニアで演奏する伊福部昭「日本組曲」弦楽版の楽譜が届く。

8月某日 三軒茶屋自宅
感動と感慨が入り雑じりつつ、本当に久しぶりにエミリオの実演にふれる。
音の芯はとても太く、音と音とが互いに非常にしっかり有機的に繋がっていて、このような音は自分には到底出せない。彼は音一つ一つを積みあげ、音次空間を形成、醸成してゆくが、それこそ弩級の信念と揺るぎない探求心の賜物であって、常に先に空間を構築して、その中に音を開放させる自分のやり方が、とても浅はかに感じられた。
音楽の方向性、指向性を形成するにあたり、彼は出発点に於いて、収斂点を敢えて視覚化せず、宙吊りの緊張を保ちつつ、長いフレーズを完結させる。
それは到底真似できないので、収斂点まで、放物線状にフレーズを視覚化して演奏するようになったが、その昔、悩んだ末にこの解決策に至った当時の触感が、ふと甦る。演奏会に参加していた打楽器の安江さんより、エミリオへの惜しみない賛辞が綴られたメールが届く。

8月某日 三軒茶屋自宅
舞台上のイサオさんと神田さんの躍動感に心が奪われる。二人の存在はそのまま音楽を体現している。イサオさんの音からは人間愛が溢れていて、それが会場を満たしてゆく。
エミリオのクラーネルグは、自分がボローニャで演奏したものとはまるで違ったから、すっかり愉しんだ。バレエを主眼に演奏するかどうかで随分違うだろうし、実演音響を増幅してテープと混ぜるか、或いは増幅しないかによっても、音楽は全く違った側面を表出する。
今回は敢えて実演を増幅しなかったことで、テープ音響と実演の間によい意味で距離が生まれ、現在と過去が語り合うような時間が浮かび上がった。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝10時、エミリオとヴァレンティ―ナに挨拶しようとホテルに寄ると、残念ながら既に出発した直後であった。昨夜エミリオが演奏した舞台で、今日は自分が演奏し、彼が使っていた楽屋でのんびり昼寝をしているのは、改めて考えるとどことなく不思議でもあり、愉快でもある。
新日本フィルの音は毎年深くなる印象を受けるのだが、今年は特に驚くべき集中力で、存分に掘り下げられ、且つしっかり底まで詰まった音で奏して下さった。オーケストラは実に不思議で有機的な生き物である。西江さん初め皆さんに深謝。作曲者の皆さんには心からの拍手を送りたい。

8月某日 三軒茶屋自宅
町田駅朝7時半、仏花の花束を6つ抱えた母が姿を現したが、思いの外元気そうで安堵する。彼女が育てられた酒匂川沿いの旧家は、こちらが記憶していた場所とは全く違う場所にあったようだ。子供の頃にハヤ釣りに通った酒匂川の瀬と、勘違いしていたらしい。
母は、御殿場方面に靉靆く雲で富士山が見えないのを残念がったが、小田原から久能霊園に行く途中は、この旧道は箱根へ抜けていて、休日はアスレチックにくる車ですっかり混雑する、などとすっかり饒舌であった。
茅ケ崎の西運寺にも堀ノ内の信誠寺にも、思いがけず早く到着したので、何だかあちこちの仏さんから、母が歓待されているようであった。
死んだからといって、この墓石の中に長年じっとしているわけもあるまいが、母が墓参すると、華やいだ面持ちの墓石からどことなく微笑みが感じられるのが愉快で、薄く漂う相模湾の潮の香りには、強烈な郷愁をそそられる。

(8月31日三軒茶屋にて)

眠っていた楽器を起こす 弐

仲宗根浩

箏の説明としていきなり「巾」という言葉が出てきたらまあ不親切。箏は十三本の糸が張られている。弾くほうから遠い糸が一で十まできて十一から十三は斗(と)、為(ゐ)、巾(きん)となって箏の縦譜では表記されている。で糸の太さを表す匁は重さの単位。重さの単位が太さを表すのは糸の長さが三メートル六十センチ。この長さから自分なりに推察すると山田箏、現在使われている箏は生田流、山田流ともに六尺の山田箏なのでこの倍の十二尺からかなと。絹糸は元の糸一本から十本の箏の糸が取れてこの十本の重さが十七半、十八、十九匁と分かれ十七絃になるとメーカーによって違いはあるが八十から三十まで。それから七十年代に入ると絹糸はすぐ切れるため化学繊維を原料とした糸が開発され現在にいたるがそれを作っていたメーカーが今年いっぱいで廃業とのことでまあ困ったこと。演奏者がいても糸やその糸を締める職人さん、楽器を作る職人さん、その他様々な備品を作る職人さんがいないと伝統楽器はたちいかない時代にいよいよ入った。三本撚りの十九の糸が張られた箏はしばらくは気が向いた時にでもふれてみよう。昔レッスン待ちに切れた時、本番前に先生がこれ切れそうと言われて時に締めていた。

で、しばらく経ったある夜に黒いギターケースが目に入る。中にあるのは鉄のボディで木のネックのリゾネーターギター。ケースから出すと錆も無い。近所の楽器屋にずっとあったものが誰も買う人がいないためか通う事にどんどん値が下がって当時住んでいたアパートの家賃に一万円くらい足せば買える値段まで下がったところで購入したもの。Dのオープンチューニングで七味唐辛子の空き瓶を小指にはめてぐいんぐいんとスライドギターもどきで遊んでいた。これは弦があったので交換してしばらく遊ぶが重い。ケースにもどす。

次にあるのは一番長い楽器、七尺三寸の十七絃。身長でいえば歩く人間山脈と言われたアンドレ・ザ・ジャイアントよりちょいと低い。十何年かぶりに柱をかけて調弦をし爪をつけて弾いてみると鳴る。予想以上に鳴る。歳とるとこの長さが扱い辛い。この楽器を作った職人さんはもう亡くなってしまったが旧知のお筝屋さんが後を継いだ方とつながっている事がわかる。すると十七絃は糸巻のピンがついていてそのピンの形状が特殊なので一般に普及している形状に変更可能か、できれば楽器の寸法もジャイアント馬場の身長よりちょいと高めの七尺にできるか確認して貰うと出来る、との返答。それにいくらの費用がかかるかわかると銀行に向かい定期預金を解約し楽器を職人さんへ送る別の自分。送る前に運送中に破損しやすいものはなるべく外す。ここら辺は若いころお筝屋さんでバイトした経験が役に立つ。七尺にするためどこをどうするかわかると変な欲が出てきて十八絃にできるんじゃないか?可能かどうか聞いてもらうとお値段そのままでいたします、との返事がなのでそれでお願いする。何を血迷ったか十八絃が来てどうする?
ちょっとした修理、改良ほとんど完了の連絡。ほんとうにどうする?次は黒いケースに入ったギターが俺を出せと、、、。

どうよう(2022.09)

小沼純一

またおおきくなった
かくれて そっと たべている

またおおきくなった
かくれて そっと やっている

たべてるの やってるの
なっているのは かはんしん
それともなかで そだつもの

またおおきくなった
かくれて たいそう やっている

またおおきくなった
かくれて じんわり きいている

やってるの きいてるの
なっているのは ぶんぴえき
それともなかの くるまいす

またおおきくなった
かくれて そっと ないている

またおおきくなった
かくれて みごとに かっている 

ないてるの かってるの
そだててるのは こねこのこ
それともなかの ねこのこえ

おお きく おお きく
つ まってる
つまってる
し あわせ が つまってる

ゆうべどこいってたの
しらないとおもってた
おもってた でしょ
しってるよ

ゆうべなにたべてきた
しらないとおもってた
おもってた でしょ
しってるよ

ゆうべなにやってきた
しらないとおもってた
おもってた でしょ
しってるよ

ゆうべだれやってきた
しらないとおもってた
おもってた でしょ
しってるよ

わかってる
そうかい そうかい
おなかまたちとあつまって
くわしいはなしはいらないよ
おなかまたちとあつまって
しゅうかい しゅうかい
むかいのはなし むこうのうわさ 
こっそりと
しゅうかい しゅうかい

わかってる
しゅうかい しゅうかい
また もらっちゃったの
おなか おなかま いっぱいで
かい かい
いらなくたって いれなくなって
くれちゃって にげだして
しってるよ
くれちゃうんだし やってきちゃうし
かい かい
しゅうかい しゅうかい
しょうかいされて 
そうかい そうかい
いらぬおみやげ
のみ ばかり

わいわい おいわい なにいわう
たいようまわってなんかいめ
てゆび あしゆび たりるかな
きょうはおいわい たんじょうび
うんだおかたにおれいいう
てれくさいからあくたいついて

わいわい おいわい なにいわう
つきがまわってなんかいめ
てゆび あしゆび たりるかな
きょうはおいわい たんじょうび
うんだおかたにおれいいう
はずかしいからこっそりと

わいわい おいわい なにいわう
すいせいはしってなんかいめ
てゆび あしゆび たりるかな
おくりものおくられて 
おてがみとどいて 
わきよせて
きょうはおいわい たんじょうび
うんだおかたにおれいいう
もういないからそらむいて

ずっと
ずっと
あってないけど
おともだち

いつあったんだっけ
どこしったんだっけ 
わすれちゃった

ずっと
ずっと
あってないけど
おしりあい

どんなかおしてたっけ
せたかかったっけ
ふとってたっけ
わすれちゃった

ずっと
ずっと
あってないけど
おなじみさん

どうやってしったっけ
なじんだっけ
めあわせたっけ
あわなかったっけ

こえだけ
もじだけ
ほんとはいない

ない ない いない

こえだけ
もじだけ
しないといない

たよりのないのは
って いうじゃない
あってなくたって
こえきけなくたって
やりとりなくても
おもわなくても

たよりないのは
きがつくから
きになるから
きづかうから

たよりのないのは
って いうじゃない
はたらいてても
あそんでても
やすんでても
ねむってても

たよりないのは
きづくから
いないって
いなくなってるって

たよりくる
もうないよ 
こないよ 

たよってくる
もうないよ
もういないよ

たより
よこしたの
だあれ

夏のふたりの公園

植松眞人

 家人が出払った夏の日の午後。普段ならエアコンを効かした部屋から一歩も出ないのだが、どうした気の持ちようかふらりと外へ出た。どこかで冷たいコーヒーでも飲むかもしれないとポケットに千円札一枚と小銭をじゃらじゃらと放り込んで息子のサンダルを履く。
 日は照っているけれど思ったよりも風が乾いていて気持ちが良い。目的などなにもない散歩のようなものだから二軒隣の婆様に挨拶されて「どちらへ」と聞かれると逆に落ち着かなくて「ちょっと仕事で」と咄嗟に答えてしまったのだが、こんな格好で仕事もなにもないもんだ。
 近所の顔見知りに会わないように、知らず知らず足は表通りから裏通りへ。商店街からたんぼ道へと向かって行く。真っ青な鋭敏な葉先を持った草が、軽自動車がぎりぎり通れるほどの道を両側から覆おうとしていて、真ん中を歩いていても時折七分丈のズボンから出た素足に触れる。こんな田んぼや畑の間の生活道路もきちんとアスファルトで整備されているんだなあ、と思った途端に自分が子どもだった頃の田畑の風景を思い出す。あの頃のたんぼ道はもっと狭くてもっとむき出しの土で砂利が敷かれているくらいだったな、と思うと急に自分がさっき挨拶した婆様と同年代のような気分になる。
 子どもの声がする。男の子の笑い声だ。いくつくらいだろう。二人の男の子が話し、笑い、また話している声がする。ふいに、たんぼ道の脇から、声の主である二人の男の子が目の前に入り込んでくる。小学校の真ん中くらいだろうか。一人はTシャツ、もう一人はランニングシャツを着ていて、自分の子どもの頃と変わらないじゃないかと思うのだが、目の前の二人は子どもの頃の自分のように半ズボンははいていない。どちらもちゃんと長いズボンだ。
 この二人が目の前に現れた途端に気温が少し上がったような気がした。こいつら、暑いなあ。と思っていると、二人が大笑いをする。大笑いしながらTシャツがランニングの片腕にしがみつくようにする。素肌と素肌が重なって少し離れて見ているのに、汗が飛んだのがわかった。二人はゲラゲラと大笑いしながら、お互いのまわりをクルクルと回り出す。回っているものだから、こちらとの距離が詰まる。距離が詰まって初めて二人はこちらに気付く。そして、なにげなく会釈をすると、しばらくの間、口を閉じてまっすぐに並んで歩き始める。でも、やがて我慢ができなくなったように、またTシャツがランニングになにかを耳打ちする。すると、ランニングがゲラゲラと笑う。身体を折るようにして笑うので、笑うだけで汗が大量に出る。暑いだろうに、二人は気にしない。
 このクソ暑い日にどこへ行くのだろう。家でゲームでもしていればいいのに、と声に出しそうになって、自分も彼らと同じだと気付く。そして、なにがそんなに楽しいのだろうと想像するだけで、こちらの顔も緩んでくる。なんだか楽しくなって二人のあとを歩いていく。こそこそなんてしない。堂々とあとを付いて行く。二人はこちらのことなんて気にしない。仔犬がじゃれ合うようにしながら、彼らの目的地に向かっている。
 けっこう歩く。真っ直ぐに続く田んぼと田んぼをつなぐような道をもう十五分ほど歩いている。脇道にも逸れず、歩いたり走ったり笑ったりこそこそしたりしながら、けっこう歩いている。
 バス停で二ほど歩いただろうか。向こうのほうにこんもりとした木々が見えた。小さな神社かお寺があるようだ。それが見えると、二人は歓声をあげて走り出す。子どものクセに、Tシャツとランニングのくせに敬虔な参拝者なのかと心配したが、彼らの目的はその敷地に併設された小さな公園だった。ブランコがひとつ、小さなすべり台がひとつ設置されただけの小さな公園だった。ここではキャッチボールもできないし、幼稚園児が遊び始めると、小学生は遠慮しなければいけないような小さな公園だった。
 二人の男の子はその公園に走り込むと、二人してすべり台を二度滑り、そのままブランコに座る。お互い前を向いて並んでブランコをこぎ始める。他に誰もいない公園で、二人が漕ぐブランコが軋む音が響く。その音に呼応するかのように、隣の神社かお寺の木々の間で蝉が急に鳴き始める。
 こちらは、公園の入口近くにあったベンチに座って煙草をくゆらせる。そして、考える。このくらいのサイズの公園なら、ここまで歩かなくてもいくらでもあっただろう、と。このブランコがいいのだろうか。他の公園のブランコよりも乗り心地がいいのだろうか。それとも、家の近所の公園にはいじめっ子でもいるのだろうか。いや、もしかしたらこの二人はこう見えて家出中なのかもしれない。小学生の浅はかな知恵で家出したものの行く当てもなくここにいるのかもしれない。そんなことを考えていると、ランニングシャツがブランコを降りる。降りた瞬間に「あついよ」と叫ぶ。すると、もう一人もブランコを降りて「あついよ」と叫ぶ。二人はブランコのまわりをグルグル走り始める。そして、「あついね」「あついよ」「あついね」「あついよ」と掛け声をかけながらグルグル走り続ける。
 二人のシャツは汗で身体に貼りついている。時折、二人に触れられるブランコはあちらこちらに向かって揺れる。なにか、そこだけ汗をかけばかくだけ楽しいことが起こる魔法がかかっているように見えた。(了)

人生はパスワード

篠原恒木

いつからあのパスワードという存在が、おれの人生にのしかかってくるようになったのだろう。

PCやスマートフォンが普及し始めてからだ。あれ以来、おれの人生はパスワードまみれとなっている。じつに厄介である。
朝、出社してPCを起動させると、画面には
「パスワードを入力してください」
と出る。ふざけているではないか。ここはおれの席であり、したがっておれの机に置いてあるPCはおれのものに決まっている。
「おれだよ、おれ」
とPCに向かって言うが、彼女は融通が利かない。いまおれは「彼女」と書いたが、PCはおれの妻のような気がするからだ。すぐ機嫌が悪くなりフリーズするし、少しばかり重たいものを送ってもらおうとすると、
「そんな重たいものは持てません。したがって送れません」
と、にべもなく拒絶する。妻とそっくりだ。だからPCは「彼女」なのだ。

話が逸れた。「彼女」を起動させないと仕事にならないので、不本意ながらおれはパスワードを入力する。これは毎日のことなので、かろうじてパスワードを覚えている。面倒だが問題はない。
問題はPCやスマートフォンでいろいろなサイトにアクセスする場合、いちいちパスワードを入力しなければならないことだ。テキは最初に、
「パスワードは8文字以上で数字と英文字の組み合わせでお願いします」
などと指定してくるので、おれは覚えやすいアルファベットに覚えやすい数字の羅列を入力する。
「これで文句ないよな」
と思いながら、ログインしようとすると、テキは
「危険度大」
などとホザいて、撥ねつけてくる。
「生年月日などの数字はパスワード漏洩の恐れがあります。アルファベットは大文字、小文字の両方を用い、記号も入れて再入力してください」
とかなんとか通告してくるのだ。
「細かい奴だなぁ」
と思いながらも、おれは仕方なくもう少し複雑なパスワードを入れることになる。すると、
「パスワードを保存しますか?」
と表示されるが、これが保存したりしなかったりと、おれの行動には一貫性がない。保存してあれば、次にログインするときはメール・アドレスを入力すれば、●●●●●●●●という按配で自動的にパスワードが打ち込まれるので、たいそう気分がよろしい。

問題なのは、同じサイトへPCからではなくスマートフォンからログインしようとすると、また最初から同じパスワードを入力しなければならないことだ。ここでおれは躓く。パスワードを覚えていないのだ。
「あれかな?」
という心当たりはあったりするので、その英文字、記号、数字の羅列を入力するが、憎たらしいことにわざわざ赤字で、
「パスワードが違います。再入力をお願いします。誤ったパスワードを複数回入力すると、ログインできなくなります」
などと、脅しのような注意書きが画面に出る。おれは途端に緊張して、次のパスワード候補を入力するが、これも「違います」と出る。ひょっとしたら一回めに打ち込んだパスワードのキーを間違えて叩いたのかも、と思って再度入力するが、これも違うという。それからあとのことは書きたくもない。

「PCとスマートフォンを同期させればいいじゃないですか」
などと訳知り顔でホザく奴もいるのだが、そういう野暮なことは言ってほしくない。おれは普通の人々がたじろぐほどのアナログ野郎なのだ。動悸はときどき激しくなるが、同期のやり方などわかるはずがない。いや、わかろうともしないのだ。バカにしてもらっては困る。

「最初のパスワード入力時に、メモを取っておけばいいではないか」
と、つまらないことも言ってほしくない。おれはそういうきちんとしたニンゲンではない。ナメてもらっては困る。仮にメモしたとしても、どこにメモしたかわからないという事態が常なのだ。そんじょそこいらのお兄いさんとはちぃっとばかりお兄いさんの出来が違うのである。

おれはCDやDVD、書籍、ポテトチップス、餃子、衣服、チョコレート、ライヴのチケットなどいろいろなものをいろいろな物販サイトで購入するので、その都度、パスワードに悩まされることになる。
「世の中がひとつ便利になると、ひとつ不便が増える」と言うが、あれは真理だ。ライヴのチケットを求めに、始発電車に乗ってプレイガイドの前で行列しなくて済むようになったのはまことに便利で寿ぎだが、パスワード地獄のストレスが不便でならない。スマートフォンでは顔をかざせば、自動的にパスワードが入力されることもあったが、機種変更をしたときにすべてのパスワードが消えた。新任者への業務引き継ぎはちゃんとやってほしい。仕事の基本ではないか。

パスワードだけではない。クレディット・カードや銀行のカードの「暗証番号」という問題もある。
「あれは四桁の数字だから、間違えようがないだろう」
などと、くだらないことは言わないでもらいたい。おれはそういう理路整然としたニンゲンではないのだ。甘く見てもらっては困る。どっちの番号がクレディット・カードで、どっちの番号が銀行のカードか、わからなくなってしまうことがよくあるのだ。

ショップで服などをクレディット・カードで買うと、店員さんが手のひらサイズの端末にカードを挿し込み、
「金額をご確認のうえ、暗証番号をお願いします」
と言って、大袈裟に俺のほうから顔をそむける。
「私、見てませんよ。暗証番号、盗み見してませんよ」
というメッセージなのだろうが、おれはあのポーズをとられると、途端に緊張してアタマが混乱してしまう。
「おお、マズイ。早く店員さんをこの不自然なポーズから解放させてあげなくては」
と焦り、その結果、数字ボタンを打ち間違えたり、クレディット・カードの暗証番号ではなく、銀行のカードの番号を押したりしてしまうのだ。

おれはジムに通っている。ところがジムのロッカー番号も覚えられない。ロッカーは横四桁のダイヤル式になっているが、おれは下一桁だけダイヤルをひとつ下にずらしてロックするようにしている。これなら簡単に開けられるからだ。ところがたまにほかのジム会員が間違えておれのロッカーを触ったりすることがある。こうなると厄介だ。四桁の数字がバラバラになっているので、いちいち受付のヒトを呼んでしまうことになるのだ。

おれは狭い集合住宅に住んでいるが、郵便ボックスの開け方がわからない。円形のダイヤル式で0から9までの番号が円の外周に記されていて、右に回したり左に回したりして開けるという、例のアレである。妻に開け方を教わったが、すぐに忘れた。
「184だから、イヤヨと覚えればいいのよ」
と言われて、なるほどと思ったのだが、最初に目盛りを0に合わせて、そののちに右に1なのか、それとも左に1なのか、それを忘れた。したがって次の8、その次の4も右なのか左なのかも覚えているはずがない。右も左もわからないとはこのことだ。

こう考えていくと、このおれがパスワードのような複雑な「暗号」を管理できるはずがない、ということがよくおわかりになるだろう。四桁、いや三桁の数字ですらおぼつかないのだから、英数字と記号を含む八文字以上の順列組み合わせを記憶できるわけがないのだ。かくしておれは今日も「彼女」に連呼されている。
「パスワードに問題があります」
「パスワードに誤りがあります」
「パスワードに問題があります」
「パスワードに誤りがあります」
問題があるのはパスワードではなく、このおれだ。
あやまりがあるのなら、あやまるしかない。

むもーままめ(22)山で本性が見えた男、の巻

工藤あかね

 一緒に山を登ると、お互いの本性が見えてくるという。十年ひと昔というなら、もうふた昔も前の話になるだろうか、ヨーロッパのある街に行った時に、現地在住の男性と知り合いになった。私の帰国後は時々メールで連絡を取り合うくらいで、お互い恋愛感情もなにもなかったが、友達としては良い付き合いができそうだと私は勝手に思っていた。その人がある日、メールで提案をしてきたのだ。「この夏、日本に一時帰国するんだけど、富士山一緒に登りに行かない?」と。「富士山かあ、一度くらいは登ってみたいよね」と返事をすると、トントン拍子に話が進んだ。私が「富士山に登ってみたい人いる?」と知人に声をかけてみたところ、女性2人が手をあげたので、結局4人で登ることになった。

 新宿のバスターミナルで待ち合わせた。みんなきちんと時間通りに集まった。知人同士をその場で初めて引き合わせたので、軽い自己紹介をしてもらい、食糧や装備、スケジュールなどを確認した。夜に出発して、21時頃に五合目に到着。その時点で東京とはだいぶ気温が違って肌寒かったので、さっそく登山の格好に着替えて出発した。夜に登り始め、夜通し歩き、頂上でご来光を拝むという算段だった。ビギナーは普通、七合目とか八合目あたりの山小屋でしっかり仮眠を取ってから最後のアタックをするらしいのだが、私たちの誰一人としてそのような知識がなかった。というよりそもそも、自分たちの体力に自信があったから、たとえ事前に勧められても断っただろう。

 登りはじめはみんな余裕でおしゃべりをしたり、冗談を言い合っていたのだが、30分もたたないうちに全員が言葉少なになっていった。この調子であと7時間も登り続けるのかと思って、軽く後悔した。じつのところ私は装備も失敗していたのだ。防寒のためにユニクロのヒートテックとフリースを着込んでいたのだが、汗をかきはじめると湿気が逃げていかないので、冷たくなってくる。山を愛する人たちの間では、ユニクロは禁忌だということは後から知ることになったが。汗でびしょびしょに濡れたヒートテックはもはや凶器と化して、超ひんやりクールテックになってしまった。ただでさえ体感温度はマイナス1度と言われている富士登山で、必要以上に寒い思いをすることになってしまったのだ。八甲田山ー死の彷徨のような恐怖は味合わなかったけれど、かなり心身にこたえた。

 その頃、例の彼はどうしていたかというと、他のメンバーに歩調を合わせることはせず、一人でスタスタと前を登っていった。姿が見える範囲ではあったが、ずいぶん友達がいのない人だなとは思った。そうこうしているうちにヘッドライトの電池が切れてしまって、崖の手元が見えにくくなった。近くにいたメンバーが照らしてくれるヘッドライトの光のおこぼれで、なんとか登り続けた。彼はとうとう姿が見えないほどに先へ行ってしまった。登るスピードが遅い人に合わせるのはたしかにかったるいだろうし、気持ちはわかる。でもこういう時こそ、後を歩く人のためにみんなで励ましあったりするものじゃないの?と、思ったりもした。とはいえ山小屋では待っていてくれたので、再度合流はできた。私はたしか500円くらいする、ぬるいカップヌードルを食べてなんとか暖を取ったあと、びしょびしょに濡れたヒートテック改めクールテックを脱いで、いまいましい思いでリュックサックに入れた。

 なんとか頂上にたどり着いた時、ご来光まではまだまだ時間があった。彼は随分早く頂上に着いていたので、よほど暇を持て余していただろうと思う。女性陣は「雲の上だね」とか「ちゃんと晴れてくれるかな」とかワクワク話をしながらご来光を待ち、しっかり太陽を拝むことができた。素晴らしい体験だった。

 さて下山である。登りよりも降りのほうがきついとは言われるが、本当にそうで、特に膝にくる。それから靴がきちんとしていないと靴の中が砂だらけになる。とはいえ私たちは、わりとしっかり足元の装備をしていたので、時々靴をひっくり返して砂を出すくらいで、膝の軽い痛みは出たものの全員がほとんどストレスなく五合目まで辿り着いた。その後、帰りの高速バスまで休憩所で休もうということになったが、そこで大問題が発生したのだった。

 メンバーの女の子が急にうわごとを言い出したかと思うと、苦しがって胸の辺りをかきむしって、のたうち回り出したのである。声をかけてもほとんど意思の疎通ができない状態で、これはいけない、と思った。もう一人いた元気な女の子には、休憩所の人に救急車を手配してもらうように言いに行ってもらった。休憩所の床は平らだったので、苦しんでいる子のリュックサックを枕にして寝かせようとしたら、例の彼は全く無関心と言った様子でそっぽを向いて寝っ転がっている。こちらで苦しがって暴れている人がいるのに信じられない。「寝かせるの手伝って!」と強く言うと、のそのそと起き上がって面倒そうに介抱の手伝いをし、そのあとは、なにもせずにただぼうっとしているだけだった。はっきり言って使えない男だと思った。彼女は苦しがっているので服を緩めたり、寒いというので服を体にかけたり、方々に散らばっていた彼女の荷物をかき集めたり、帰りのバスの予約を解除して、参考までに何時までバスが出ているかを確認したり、やることはいくらでもあった。なんとかバス会社に電話し、事情を話してバスの予約を一旦解いてもらった。救急車は40分以上経ってから来た。一緒に病院まで行き、彼女が高山病になっていたことを知った。落ち着いた頃にご家族の電話番号を聞き出し連絡をした。入院になってしまうかもしれないと案じていたが、高度の低い場所に降りてしばらくなじめば、体調に問題はないという。私たちはなんとかバスに乗れることになり、それで帰京した。帰りのバスの間、彼と私は口をきかなかった。

 新宿に戻った時、一刻も早く家に戻って眠りたいと思った。それと同時に彼とは今後連絡を取り合わないだろうなと思った。向こうもそう思ったのだろう。仲間を思いやれない、緊急事態に対処できない彼を見て、やはりわたしは幻滅したのだろうか。それは自分でも気づかぬ心のどこかで、もしもこの人と付き合ったらどうなったかな、などと思っていたからなのだろうか。その彼がその後どうなったか、わからない。

アリババと40人の盗賊

さとうまき

最近、僕はChalChalというアラブ音楽のバンドに加えてもらって、紙芝居を作っている。昨年はアラビア星物語というのを作った。これは、オリオン座とさそり座にまつわる神話を紙芝居にしたのだが、今の時代に合うように、パワーポイントのアニメーション機能を使っている。今年は、「アリババと40人の盗賊」をやることになり、さてはてどのような展開にしようかと悩んでいるところだ。

アリババで思い出すのは、2003年のイラク戦争だ。アメリカの攻撃に、サダム政権はいとも簡単に陥落してしまった。イラクは、米軍に占領されるが、無政府状態になってしまった。恐ろしかったのは、市民が公共の施設や病院などに押し寄せ、片っ端から略奪をしたことだ。家具から電球に至るまで持ち去れるものは何から何まで持って行ってしまう。コンセントや電灯のスイッチまで根こそぎ持っていかれていたのは驚いた。モスクの聖職者が呼びかけ、さすがに反省した市民たちは、盗んだものを返しに来たらしい。僕がイラクに支援に駆け付けたのは、戦争の被害者の救済のためだったが、実のところ戦争で破壊されたのではなく、略奪で病院や学校から盗まれた機材や医薬品、家具の補填作業が中心だった。病院では、送電線を盗もうとして感電した患者などが運び込まれていた。

そういう状態から少し落ち着くと今度は、バグダッドーヨルダン間の街道で待ち伏せをして追いはぎを働く輩が出没した。僕も一度襲撃を受けたことがある。後ろから来た車が銃を撃ち始めたので、ドライバ―が機転を利かせて振り切ったが、友人の車に弾が当たり、停められて、お金をとられたことがあった。そういった窃盗団はアリババと呼ばれていた。

僕らがバグダッドのホテルで友人を待ち受けるときの挨拶は、「アリババに会わなかったですか」だった。あるジャーナリストはホテルに到着すると。「アリババに銃を首に突き付けられたよ」と真っ青な顔をしていた。しかし、ある日イラク人の医師をヨルダンに呼んで打ち合わせをしたときも、「アリババに合わなかったですか?」と安否を気遣ったのだが、「何を言う! アリババは盗賊をやっつけた、いい奴だ」と叱られた。我々の中では、「アリババと40人の盗賊」のイメージからアリババが盗賊の頭のように思えていた。

確かに、アリババは40人の盗賊と闘った英雄のはずだ。しかし、盗賊のことをアリババと言い出したのはイラク人達だ。追いはぎだけではなく、お金を横領する奴のことを、アリババと呼んでいた。結局、アリババは、盗賊が盗んだ財宝をさらに盗んで、おまけに盗賊を皆殺しにしてしまうから、よくよく考えたら盗賊の親玉よりもさらに罪な奴である。イラク人はそこを言いたかったのだろう。結局、アリババ=泥棒野郎 という使われ方がイラク戦争を機に我々日本人イラク関係者にも定着したようである。

そんなこともあり、中国資本の alibaba.com という通販サイトが有名になった時には、盗んだものを販売するサイトか?と思ってしまった。アリババを立ち上げたジャック・マーは、アリババの話は、世界中の誰もが知っているので、世界に羽ばたく会社にしようという思いでこの名前にしたらしい。

さあ、今回の紙芝居、アリババを英雄として描くか、それとも、盗賊の親玉よりもっと悪いやつにしちゃうかどうか悩むところだ。

10月2日(日曜日)
赤羽にある青猫書房で2:00~
デジタル紙芝居「アリババと40人の盗賊」初演の予定

テッド・ロビンソン

笠井瑞丈

今日突然友人から
連絡がきて
カナダの振付家
テッド・ロビンソン
亡くなった………….!

僕がテッドと初めて会ったのは

二十代の時に
初めて受けた

ダンスオーディション
そのオーディションは

今でも忘れない
八月の暑い日
新宿村で行われた

このオーディションは
カナダと日本で行われる
ダンス公演のオーディション

四人のカナダ人の振付家が
日本人ダンサーを振付ける

そのダンサーを探す為

四人の振付家が
日本に来ていた

その中の一人の振付家が
まだダンサーが決まらず
急遽オーディションが
行われる事になった

そしてテッドは
その他の三人にいました

テッドはもう出演ダンサーが決まっていて
オーディション当日たまたま見学に来ていました

オーディション翌日
事務所から電話をいただき

落ちたと連絡を貰いました

勿論多少なり落胆しました
受かる自信もなかったので
「はい分かりました」と
すぐ受け入れる事が出来た

しかし先方から

見学に来ていたテッドがあなたに興味を持ち
是非私の作品に出て欲しいと言っていますが

テッドは当初女性のソロ作品を考えていたけど
あなたが出てくれるならデュオ作品を作ると言っている

出る気持ちはありますかと聞かれ

僕は勿論迷う事なく
出演させてくださいと言いました

これが僕とテッドとの出会いです

そしては翌月カナダに
一ヶ月行く事になった

テッドの作品に出られた事で
色々な国を回る事ができた

そして僕のダンスにおける大きな道を作ってくれた
そして今日までずっと交流も続けてきました

テッドと過ごした時間は本当に貴重な時間だった
そして多くの事を学んだ
テッドとの思い出は書ききれない程にたくさんある

その中の一つ

『もしあなたがダンスで迷う事があればいつでもカナダに来なさい あなたの気が晴れるまで僕はあなたをサポートするよ』

その言葉がずっと忘れられない
いつも優しい笑顔でいたテッド

ありがとう

『アフリカ』を続けて(15)

下窪俊哉

『アフリカ』を始めて7年ほどたった頃、ちょうど18冊目を出した後に、初めてトーク・イベントを開催した。イベントというより、語り合いの会と呼んだ方がイメージが湧きやすいかもしれない。vol.18(2013年1月号)の編集後記によると、「どうしてこんなことをやってしまったんだろう、ということは自分でも気になるが、誰かと語り合いながら考えてみたい」と思った。

 それまで1年弱の間、『アフリカ』は隔月刊行という無謀な試みを行なっていた。生業にならないどころかお金の出てゆく方が多くなることすらある『アフリカ』なので、隔月で原稿を集めて、例の”セッション”をやり、編集・デザインして印刷・製本に出して売るというのはよほど暇がないとできない。いや、たとえ暇だったとしてもいちおう(暮らしのための)仕事はしていたわけだし、狂気の沙汰だ。
 どうしてそんなことをする気になったのかというと、中村広子さんの「ゴゥワの実る庭」という連載があったからだ。これはあまり間を空けずに、書き続けてもらう方がよいと私は思った。お互いに、それができるだけの余裕があったということかもしれない。
 中村さんとは2009年に、植島啓司さんの講演会の打ち上げの席で知り合った。その少し前に中村さんがインドのある町を歩いていたら、前から植島さんがやって来たのだそうだ。赤い表紙に暗い木が浮かんでいる表紙の『アフリカ』vol.5を植島さんから手渡された中村さんは、しばらく眺めて、「『アフリカ』にチベットの話を書いてもいいですか?」と言った。
「ゴゥワの実る庭」はインドを旅している「私」が、デリーからバラナシを経てガヤに向かい、デリーに戻るまでの濃縮された数日間の記録だ。ドタバタと進む旅の喧騒の裏で、偶然の連なりの中に人生は間違いなく続いてゆくと静かに感じられる、内省的なというより祈りの一種のような作品で、私は毎回、楽しみにその原稿を待っていた。
 その連載が終わったのが、vol.17(2012年11月号)だ。隔月で出す原動力は、そこでひとつ外れた。さあこれからどうする? という気持ちが自分の中にあったのかもしれない。その号の編集後記では「ゴゥワの実る庭」を振り返った後、こう書いている。

 この雑誌を言い表す言葉を思い描いていたら、先日、「日常を旅する雑誌」というキャッチフレーズが、ふっと浮かんできた。
 私たちの日常を捉え直したエッセイ、小説、漫画や写真だけでなく、インドを旅しつづけている日本人ですら、どこかで日常のなかに(意識して)とどまっていて、自分が日常の外にいることに対して残念そうな顔すら見せる。

 書き写しながら思った。もしかしたら「日常」を「旅」するというのは、「ゴゥワの実る庭」を編集しながら思いついた表現ではなかったか。
 とはいえ、それはきっかけのひとつだろう。小説を書く人たちが集まった、いわゆる同人雑誌(というより個人雑誌)として始まった『アフリカ』が自然と変化してきて、これは一体何なんだ? と思っていた編集人の観察が「日常を旅する雑誌」というイメージというか、方向性というか、雑誌を続けてゆく上での動力のようなものを生み出したということかもしれない。

 そんな話は、書くより、語り合ってみたいと思ったのだろう。その時、淘山竜子さんが思い浮かんだ(淘山さんはその後、何度か筆名を変えるが、ここでは当時の名前で書きます)。
 淘山さんとは、その少し前に『アフリカ』を買いたいというメールを貰ったのをきっかけに交流が始まり、『孤帆』という雑誌をやっているという話も聞いて、送ってもらって少し読んでいた。『アフリカ』を知ったのは、大阪の天神橋筋にあるbookshelf Bar「いんたあばる」だったという。そこは私が大阪在住の頃によく飲んでいた場所で、本棚に表紙を出して置かれている例の、赤い表紙の『アフリカ』が目についたのだそうだ。淘山さんをそこに案内したのは北村順子さんといって、『VIKING』に参加していたこともあったんじゃないかな。私は(たぶん)会ったことはないけれど、『ムーンドロップ』という雑誌に名前を連ねたことがあった。『アフリカ』を見た北村さんは「あ、下窪さんの雑誌だ」というようなことを言ったらしいので、不思議な縁だ。

 トーク・イベントのようなことをしたいと考え、淘山さんに連絡して、一度会って話した。その頃、『アフリカ』を置いてもらっていた横浜の中島古書店にも顔を出して、そこを会場として一度やってみませんか、という話になった。
 題して、「“いま、プライベート・プレスをつくる”ということ」。
 せっかくなので編集人だけでなく、そこに書いている人にも来てほしかったが、『アフリカ』も『孤帆』も書き手の多くが離れた場所に住んでいるので、難しそうだ。では、前もってコメントを貰おう、という話になった。
 せっかくお金を出して参加してくださる人たちには、ささやかなお土産を渡したい。事前に預かったコメントと、編集人がその日のために書いたエッセイをまとめて(『アフリカ』と『孤帆』それぞれ)小冊子にして、準備した。久しぶりに出してきて読んでみたのだけれど、忘れていることもたくさんあって、面白い。なのでこの先は、それを見ながら書こう。
 各コメントにはタイトルがついていて(私がつけたのかもしれない)、それを見てゆくだけで何というか、対照的だ。
『孤帆』の方は、「より濃密な、原液のような短編を」「同人雑誌〜文学とともに生きるということ」「淘山さんの孤独な帆船」「綱を引け、帆を張れ」。
『アフリカ』の方は、「二〇一二年七月号の宣伝文」「一度だけのゲストのつもりで」「発見を感じること」「等身大の生身の人間が」「自然な流れ」「下心」である。
 そこで語られている『孤帆』に、私はおそらく自分のルーツを見ていたはずだ。一方の『アフリカ』はどうか。しょうがないよね、という感じだろうか。
 淘山さんには「メディアの話はあまりできないかも」と言われた記憶があるのだが、その時に書いてもらったエッセイ「出版をしたいのか文学をしたいのか」を読むと、具体的にどうやってつくり始めたかという話と、その時代背景が書かれている。1990年代の後半に「パピレス」「青空文庫」が出てきたこと、『本とコンピュータ』のシンポジウムに行った話、当時のDTPソフトのことなども。
 印象深いのは、インターネット上に発表されている「アマチュア作家」の作品を読み漁っても、「文芸批評にたえうるような作品は見つからなかった」と書いているところだ。それに、ウェブでは「繋がれそうで繋がれない」のだと言っている。10年後の今、どんなふうに感じられるだろうか。