黄色と青の交響曲

さとうまき

この2か月は、ウクライナのニュースでも持ち切り。国会議員はいきなり青いシャツに黄色のネクタイつけているし、女性議員は黄色のスーツに青いシャツ来ているし、町中のパーキングや駅の案内板、ツタヤのカードまで、黄色と青になっていて、目に留まるものが全部黄色と青になっている。「何でもかんでもウクライナ病」に罹ってしまったみたいだ。気が付くと僕も黄色いシャツにブルーのジャージを着て町を歩いているではないか! そもそも黄色のシャツなど持ってないのであるが、私の愛するアルビル・SC(イラクのアルビルのサッカークラブ)のユニフォームが黄色で気が付くとそれを着ていた。

国際社会は、プーチンのウクライナ侵攻を国際法に違反したかつてない蛮行のように批判している。ゼレンスキー大統領は、国連の安保理がロシアの拒否権行使によって機能していないことを批判し改革を強く求めた。バイデンも、「プーチンは虐殺者で権力の座にとどまってはならない」と発言。ただ、国連が機能していないのは、ロシアだけではない。アメリカはイスラエルの入植地拡大に対する非難決議には拒否権を行使。イラク戦争では、安保理の決議を経ずに、アメリカがイラクを攻撃してとんでもない失敗をやらかしてしまった。「それでもサダム・フセイン政権を倒したことで世界は平和になった」とブッシュ大統領は開き直っているではないか。

ロシア兵が略奪やレイプをしているという情報もある。こりゃ本当に最悪だと思うが、アメリカがそのことを声高に批判するのを見ていると思い出すのが、イラクのアンバールで民家に入り、娘たちをレイプし、アブグレイブ刑務所では、男も女もレイプされた。あの時の報道を見たショックが思い出されて、ああまた、戦争がこういうことを引き起こしてしまったんだと落ち込む。

日本政府も今回人道支援に100億円を出すとし、35億円はNGOへと渡るらしい。僕は100億円すべてを国連に出して、その分他の貧しい国も含めてWFPが食糧配給もすればいいと思う。避難民の支援もすでにポーランドの地元のNGOが頑張っている。さらに安全に避難しているウクライナ人を20名日本に連れてくるというのも、これもすでに皆が言っているように仮放免のクルド人などを難民認定するとかビザを出すとかすればいい。収監されて死んじゃったスリランカ人や自殺者まで出している現状はどうなのか?

そういう話をすると、プーチンのやっていることを肯定するのか! けしからん! と厳しく非難されてしまう。それで、今日本の中で論争になっているのは、3つのグループに分かれているらしい。

① 「ロシア、プーチンが絶対悪」(日本政府や日本のメディア)この人たちがエスカレートするとロシア料理のお店にまで嫌がらせをすることも。
② 「どっちもどっち論」(こうなったのは、2014年から内戦状態が続いているウクライナと介入してきたロシア双方の問題)なので、話し合いましょう。
③ 「ロシア以上に欧米が悪い」陰謀論も含む、いわゆる反米左翼

そんな単純に3つに分けられると、自分がどこに入るのかは難しい。今回の侵攻に関しては①プーチンが間違っているが、一刻も早く解決するためには、②のウクライナの少数派の不満をどう解決するかも含めて話し合う。③欧米は全く話し合いのテーブルを作らずに武器ばかり供与しているので戦争を長引かせている。ということだと思う。ただ、僕はイラク惨状をこの目で見てきたから、もともとウクライナの東部の問題があり、②があって③で欧米がロシアともうまく話し合いを進めれば、①は避けられたのではないかと思う。

みんながSNS上で言い合っているのは、○○主義者はこうあるべき見たいな議論で、そんなことよりどう殺人を一日も早く終わらせるかが重要なのに。

モヤモヤしていたら、先輩に頼まれていた合奏集団不協和音のデザインが刷り上がったというので、渋谷で後輩がママをやっているバーで受け取ることになった。謝礼の代わりに2002年もののワインと極上のイタリアの生ハムをいただきながら、お互い知ったかぶって「ウクライナ問題」を無責任に語り合った。今回の演奏曲は、ベートーベンとライヒャ、どちらも1770年生まれでボン大学では仲良しだったらしい。生誕250年記念の2020年秋に、同じ年1808年に書いた交響曲を演奏するという企画で、ボン大学の前で採火した二人が「大友よ!」と喜び合うというイラストの依頼だった。しかしコロナで延期になり、さらに一年後にも延期になり、もうどうなるかわからないけど、とりあえず作ろうということで、Zoomの中でベートーベンとライヒャがリモートで乾杯するというデザインで作ったが、急遽マンボウは明けた。会場の使用許可も出たということで、青空の下の麦畑でおいしそうに乾杯するデザインに変更したのだった

あれ、ここでも無意識に黄色と青のデザインになっている! コンサートは5月8日。第二次世界大戦の終戦記念日の一日前。何とか和平合意して、皆が青空の下で乾杯できればいいなあと祈るばかりである。

帰り際に、先輩は、青いシャツに麦色のジャンバーを羽織った。
「もしかして?」「あ、いや、ユニクロで黄色っぽいの探したらこれ売ってたんで」
そういうと彼は、黄色と青の町に溶け込んで消えていったのだった。

合奏集団「不協和音」第82回演奏会 
ライヒャ 交響曲へ長調
ベートベン 交響曲第5番ハ短調
2022年5月8日(日)18:00開演(17:30開場)
入場無料:ルーテル市ヶ谷ホール 

「ものを見てかく手の仕事」

高橋悠治

このタイトルは平野甲賀の字(『平野甲賀と』p.14)を見て、同じ題の文章もあるが、それは「ものをみて描く手の仕事」(『僕の描き文字』p.80)になっている。

般若佳子に頼まれた無伴奏ヴィオラの曲『スミレ』を書き、山根孝司も加わったクラリネット・ヴィオラ・ピアノの『移動、Iōn』を書いて、金沢市民芸術村で演奏しに行ったのが4月のこと。

先月の「水牛のように」に書いた、デイヴィッド・ホックニーのジョイナーから思いついた作業、1枚の楽譜を見返して、その時眼に留まった音符から思いつく別な音の流れを書き留めながら作曲して、この2曲を作った。元にしたのは、般若佳子に昨年頼まれたが間に合わなかった『イオーン』というヴィオラ曲の下書き。その都度見えたフレーズをちがう楽器にあてがい、他の楽器をそこにあしらう。

今年亡くなった小松英雄(1929-2022)の『平安古筆を読み解く 散らし書きの再発見』(二玄社 、2011)で読んだ「散らし書き」の、分かち書きと続け書き(連綿)を単語の切れ目と一致させない技法、雅楽にもそれと似た方法で句や呼吸を越えて続く流れがある、それと音の長短や順序を変えながら限られた音から途切れがちの流れを作り出して、書き進める。

17世紀フランスで non-mesuré というリュートやクラヴサンの、自由リズムの前奏、style brisé(崩し)と言われた、不規則に和音を分散させるスタイルで、メロディと和音の対立を和らげながら、いくつかの線が、対位法ではなく、対話でもなく、壁の向こうから聞こえるようにして、あいまいに絡まり縺れた状態。音はお互いに避け、離れ、彷徨い、絡まり、揺らぎ、分散と支え合いのバランスが絶えず崩れて変化する。線の偶然の出会いと緩やかな見計らい。小さな変化と、弱い音の焦点を変えながら…

2022年4月1日(金)

水牛だより

きのう夕方に乗ったバスが、思いがけず、ちょうど満開になりたての桜の花のトンネルの下を通りました。ビックリするほど美しい。その道にある停留所で降りた人はみなスマホを掲げて桜の花を撮っています。見知ったところでも、この日この時のこの花はつい撮りたくなりますね、わかります。帰宅のときには雨が降り始めて、きょうは気温が低いままでしたから、花はだいぶ散ってしまったことでしょう。

「水牛のように」を2022年4月1日号に更新しました。
疫病に戦争に天変地異。いまおきていることは身の回りにせまってくる現象としてはわかっても、なぜこのようなことがおきるのか、そこにはとても複雑になってしまった世界の構造が関係しているせいか、とてもわかりにくいと思います。いったい正解はどこにあるのか? 正解がわかっても、解決はできないところまで来てしまったのかもしれません。でも、満開の桜は美しく、地面に近いところに咲くすみれは可憐で、朝のコーヒーはおいしい。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

コロナ

笠井瑞丈

朝起きると

カラダの異変を感じる
起上がる力が湧かない

明らかに
昨日の
カラダ
今日の
カラダ

夏服を着てるのと
冬服を着てるのと
くらい違う

熱を測る
36.4度
特に異常
無し

お風呂にお湯を入れる
しばらくカラダを温める
カラダの中に熱が入らない

皮膚を境に国境が

真夏の
熱い外と
涼しい
銀行の中

なにかカラダの中で起こっている

これはやはり……….



PCR検査

朝出
結果
夕方

登録した
メールアドレスに送られてくる
15時過ぎ思ったより早く結果が

検査結果の方お知らせします


です

体感的には初めての事ですが
コロナではと感じていたので

ビックリという
より
ヤッパリという

感じ

倦怠感

喉の痛み

そんな症状が4日間続く
熱が出なかったのが唯一の救い

出演する公演直前での感染
半年間稽古をしてきたのに
出演はできなくなりました
世界の終わりのような気分

公演の開演時間
一人ベットで共演者のことを考える
幕が上がってみんな踊ってるだろう

良い公演になるように
祈ることしか出来ない

このようなことが
世界中で起こっている
二年前のコロナが襲来した時も
KAATでの公演が途中で中止に
コロナの影響で二度目の災難だ

今は未来の世界は明かるく
ただただそれを願うばかり

仙台ネイティブのつぶやき(71)あやうい地盤の上で

西大立目祥子

また揺れた。3月16日、夜11時半過ぎの地震である。
いつもどおり緊急地震速報のアラーム音がけたたましく鳴り、リビングにいるときはいつもそうするように反射的に食器棚を押さえにかかると、ひと呼吸置かないうちに揺れが始まった。…でも、そう強くはない。壁の高いところにあるガラス戸の中のこけしがカタカタと揺れ、でも倒れずに持ちこたえているのを見ているうちに揺れはおさまった。ああ、よかった。すぐにテレビをつけ、速報を待つ。
と、またアラーム音が鳴り出した。一度揺らされているからなのか、最初のアラームより大きく聞こえる。間をおかずにすぐさま揺れ出して、今度は家がつぶれるのではないかと思うような大きく激しい横揺れ。しかも長い。こけしがばたばたを倒れ、吊り下がっているペンダントが2灯、天井にぶつかるように激しく動き、押さえている食器棚のガラス戸が開いてカップや皿がガチャンガチャンと床に叩き落ちてきた。うわぁ、テレビが斜めになって棚から落ちそう! 叫び声を上げるなんてことはほとんどしたことはないのだけれど、このときは一人だったからか「ギャー」と大声を出していた。静まったところで、3度目のアラーム音が鳴った。また!と構えたが揺れはこなかった。

速報が出た。震源地は福島沖。マグニチュード7.4。ヒヤリとする。福島でまたとんでもないことが起きているのではないか。
倒れかかったテレビを起こし、部屋の中を見渡す。冷蔵庫が30〜40センチほど西に動いている。マグニチュード7をこえると、食器が割れ、本棚から本が崩れ落ち、場合によっては本棚自体が倒れてくる。何しろ、この家の東半分は築63年なのだ。揺れるたび、倒壊の不安がよぎる。
あっ、金魚の水槽は大丈夫だろうか。隣の部屋にスリッパもはかずに飛んで行くと、足裏に冷たい水がじわっと染みた。冷ゃっこい。その瞬間、思い出した。去年の2月の地震とまるで同じことやってる、と。明かりをつけると水槽の水があふれて床は水浸し。去年は、照明器具のシェードが落下して水槽を直撃し、ガラスが割れ、水浸しの床の上に飛び出した金魚がひくひくと動いていたのだった。

東日本大震災以来、いったい何回、大きな揺れに見舞われたろうか。「東北地方太平洋沖」とよばれるあの地震はマグニチュード9。と、書いている先から、この世の終わりを告げるようなとてつもなく長かった激しい揺れがよみがえってくる。2日前には、マグニチュード7.3の地震があり、約一ヶ月後の4月7日の夜には、7.1の余震があった。
去年は、2月13日にマグニチュード7.3。3月20日に6.8。5月20日に6.9。本棚がくずれこけしが倒れ、起こしたこけしがひと月後にまた倒れたから、もう起こす気力がなくなって年末近くまでそのままにしていた。

1901年(明治34)生まれの祖父は、よく「長く生きていると、2度は大地震にあう」と口にしていた。祖父は20歳を過ぎたころ徴兵制の服役中に関東圏で関東大震災に遭遇して災害復旧に従事し、77歳で1978年(昭和53)の宮城県沖地震を体験し、その翌年に亡くなった。その間に、戦火で家を失うという経験をしているけれど、いま年に何度もこうして強烈な揺れにさらされている身からすると、あなたは地震の少ない時代を生きていたんだよ、と言い返したい思いにかられる。特に戦後の高度経済成長期は、そう大きな地震を想定することなく先を考えていた時代といえるのかもしれない。経験が少なければ、感覚は鈍り想像力は失われ、備えは甘いものになるだろう。

東日本大震災の直後は、あまりにも余震が多く、停電という事態にも追い込まれたので、夜も10日くらいは揺れたらすぐに飛び起きることができるように服を着たまま横になっていた。じぶんでも興味深かった変化は、わずかな揺れにもからだが反応するようになったことだった。アラーム音に頼らなくても、センサーが入っているかのようにかすかな揺れにからだが気づく。遠いところで起きる微動が、数秒後には実動となって近くに迫ってくるのをありありと感じるとることができるようになった。こういうのを危険の予知というのだろうか。「震源地が福島沖か、宮城沖か、三陸沖か、何となく違うのわかるよね?」という友人がいて、うん、そうだね、わかるよねと答えたことがあった。

この稿を書いている間にも、千葉県を震源地に地震があり、少し前に今度は京都が揺れた。
もう日常的に頻発する地震を前提に、家の中のしつらいや毎日の行動を決めていった方が賢明かもしれない。ついでに書いておくと、確かに上にストッパーをかませていた本棚は倒れなかった。観音開きの食器棚の扉は、ゴムか何かできっちり結びつけておいた方がいいし、カレーがいっぱいの鍋は流しの中に置いて寝るのがいい。
庭に来る鳥を見ていると、小さな鳥ほど餌をひとつつきするたびにまわりに注意し、警戒を怠らない。背後から迫ってくるクマや突進してくるイノシシに遭遇する恐れは、たぶん都会ではないだろうから、ヒトがまず恐れるべきは地震かもしれない。鳥のように飛び立つことも、四足で駆けることもできないぶん、生きものとしての感覚を何とか取り戻して。

黒糖とひまわり

くぼたのぞみ

波照間の黒糖のかたまりを
口に放ると
まぶたの裏に浮かんでくるのは
凍る黒土の平原に
ちから尽きて
毛なみも荒れた
まぼろしの山羊だ

青と黄色の
おだやかならぬ空に向かって
見開かれたふたつの眼球を 
横に切る
弓形の月が 青と黄色の
おだやかならぬ空を映しながら
命は
ふたたびの
理不尽な争いに やがて
怒り咲くひまわりとなり
一面を埋めつくし
無数の種となって
きみのポケットに還ってくる 

ウクライナとパレスチナ

さとうまき

毎日TVは、ウクライナの戦況を伝えている。世の中は、かなりヒステリックになっている。何か世界の秩序が大きく変わるかもしれない。核戦争が始まるかもしれない。メディアがあおっているだけかもしれないが、僕もヒステリックに染まって行く。ロシア料理のお店に行き、ボルシチを食ったりして気持ちを落ち着けている。

  パレスチナ人の歌手の夫がウクライナ人

そういえば、パレスチナの歌手、リム・バンナの夫のレオニード・アレクシェンコがウクライナ人だということを思い出した。レオニードとは、リムがモスクワの高等音楽院に留学していた時に出会い結婚し、バンドを組んでいた。

1999年のこと。僕は、JVCというNGOで働いていて、パレスチナ西岸のラマッラーという町に住んでいた。たまたま歩いていたら幼稚園らしき建物から素敵な歌声が聞こえてきたので覗いてみると、彼女が子どもたちのために歌っていたのだ。

ジャズピアニストの河野康弘がパレスチナに来てくれるので、エルサレムで何かコンサートができないか思案していた。これはちょうどいいと思い、連絡先を交換したのだ。町で売っていたカセット・テープを早速買ってみる。子ども向けの曲が大半だったが、JAZZバンドにも合わせられると思った。

さっそくナザレまで出かけて行って出演の交渉をした。ナザレは、イエスキリストが生まれた場所だ。教会を見学し終わるとリムが車で迎えに来てくれて、家まで連れて行ってくれた。当時は、1993年のオスロ合意を受けて和平プロセスが曲がりなりにも進んでいた。イスラエルとパレスチナが共存して平和へ向かうことのシンボルとして”ユダヤ人とパレスチナ人が一緒に何かをすること”がブームになっていた。

その一方で、妥協や譲歩を許さずイスラエルと闘い続けるべきだとするハマースを支持する人たちもいた。僕はどちらかというと前者で、平和イベントをもりあげたいという気持ちもあったが、難民の子どもたちが「僕たち難民は、和平合意の蚊帳の外におかれている。これが平和なの?パレスチナという国ができて、そこに帰れない限り平和なんてない」という話をよく耳にしていたから微妙だった。

思い切ってリムに「今まで、ユダヤ人と一緒にうたったことがありますか?」と聞いたら、「先日、スイスのダボスというところで経済フォーラムがあり、NOAというユダヤ人と一緒に歌ったわ。イマジンという曲で、私がアラビア語で一番、彼女がヘブライ語で2番、最後は二人で英語で歌ったわ」という話をしてくれた。
「イ、イマジン? ジョンレノンの?」僕は思わず口ずさんで、「これですか?」と尋ねた。
「歌い終えたとき、パレスチナの人達も駆けつけてくれて、私はパレスチナのために歌う意味を感じたの」
鳥肌が立った。
「でも、今は、そういう歌を歌う時期じゃないわ」と言う。

NOAというアーティストは、イエメンにルーツを持つユダヤ人で、左派と言われている。1995年、ラビン首相と一緒に平和集会のステージで歌っていた。僕は、その時の映像をなんとなく覚えている。ラビンがとてもへたくそな歌を歌詞カードを見ながら歌っていた。直後ラビンはイスラエルの過激派の青年に射殺されたのだ。平和の詩の歌詞カードが血に染まっていた。
「もし、ラビンの歌がもう少しまともだったら、青年は発砲するのをためらったのかもしれない…」
ずーっとそう思っていた。

ラビン暗殺のニュースを知った時、僕はシリアにいた。「ああ、和平はどうなるんだろう」と、同僚のパレスチナ難民に聞いたら、「テロリストが死んだだけさ」と言って笑っていたのが印象的だった。難民の帰還は和平が進もうが見通しはなく、置き去りにされるしかなかったのだ。

リムは言う。「私は、政治的な歌を歌います。マフムード・ダルウィーシやタウィーク・ズィヤードの詩や私の母も詩人で、彼女の詩に歌をつけたりして歌っています。そしてもう一つは、パレスチナのフォルクローレ。若い人たちは知らない。パレスチナ人としてそういった歌を歌うことにミッションを感じているんです」

  エルサレム・コンサート1999

エルサレム・コンサートでは、オーストラリア人でサックスをパレスチナ人に教えていたグラントがジャズのベースとドラマーを連れてきてくれて、1部では河野康弘のピアノでスタンダードを演奏した。2部では、リムがイスラエルの刑務所に入れられたパレスチナ人にささげた「ハイファの風」をうたい、パレスチナ民謡の「ハラララレイラ」という曲には河野らのバンドが加わった。

 ハイファの風

あの人にハイファの海の風をあげてください
独房にいるあの人に、ジャファの風をあげてください
なぜならば、独房の中はあまりにも、寒くて、暑い
彼を一人にしないで。独房の中はあまりにも寂しいから

アンコールには、河野のオリジナル、「わっはっはのブルース」。笑うと元気になるということで観客がわっはっはと337拍子で笑い続けなければならないというブルースで、子どもがステージに上がってきてピアノを弾いたりする即興だった。 リムとレオニードは、スキャットで参加してくれてとても盛り上がったのを思い出す。「わっはっはって平和が来ちゃうといいよね」と本気で思える瞬間だった。でもステージを降りると現実は厳しかった。

あれから、パレスチナは第二次インティファーダが始まり、気が付くと911。世界はテロとの戦いへと突き進んでいったのだ。イスラエルの国家安全保障会議の議長が行っていた対テロ戦争の方法を思い出す。
「蚊を退治することを考えてください。直接叩き落す。そしてとんでこないようにスキンガードをする。そして、ボウフラがわかないように徹底的に攻撃するのです」
僕はというと、イスラエルから追い出され、イラクへ行くことになり、戦争をいやというほど見せられたのだった。気が付くとエルサレム・コンサートから22年以上もたち、僕も老人になっている。

ウクライナで思い出し、リムはどうしているのかググってみた。ナザレで3人の子どもと暮らした、と過去形になっている。レオニードはどうしたんだろう。離婚したのか。で、あ? リムは2018年に亡くなっている。2009年から乳がんと闘っていたらしい。彼女が亡くなってからリリースされたアルバムが、Voice of Resistanceだ。

PVを見てびっくりした。リムが放射線治療を受けている。パレスチナを表現するような詩の間に、彼女が自分の治療の状況を語っているのである。

海の苦味のように、心臓には秘密があり、オリーブの木が岩の固い部分を割り、雨の水を飲み、私の血管にオリーブオイルを流してください。
「こんにちは、今、ベルリンです。呼吸困難になり、そして悪化したので、今病院に来ています。」

かつてのような美しい声はない。治療のせいで声帯もやられてしまっていたらしい。彼女が死と向き合っている。パ・レ・ス・チ・ナ! リムとノアの歌うイマジンを聞いてみたかったのに

ウクライナのことを調べていたのにパレスチナのことが悲しくなってきた。

尻切れトンボ

北村周一

  ぷーちんと
こいけゆりこと
    われとわが
    つまとはおない
 年なりずっと

イヌを飼う
    ゆめをみている
          少年の
            目許おさなし
                 名はウラジーミル

   飼い主が
        パニックになると
ペットにも
        それが伝わる
   災害の時

   鮭の身に
ふともまぎれし
   小骨ありて
  前歯欠けたり
        ゆうぐれの春

うすら寒き
     ニュースがつづく
             これの世の
        丹沢に春の
  雪積もりおり

   鵜野森の
 公園にひとの
  てがはいり
  深呼吸せり
クヌギばやしも

       ネコ避けの
ペットボトルに
       あゆみ寄り
       恍惚として
ネコ去りがたし

       放し飼いの
 隣家のチビと
       いうネコが
 庭に来ており
 ことり咥えて

       ひとよりも
       家に懐ける
       ノラどちの
       不要不急の
       おひるねは
       至福

 フェレットの
 祖先はイタチ
  ネコはネコ
イヌはオオカミ
       野性とはちから

       顔マスクに
    紅白帽の
こどもらが
    同時におなじ
         方向くあわれ

  ギリギリまで
   マスク外さぬ
    朝にして
     ビジネスホテルに
      励む黙食

       生きるとは
        気持ちのいいこと
         なかんずく
          分かち合うこと
           委細面談

      土にかえる
   までのいとなみ
    危うければ
    人は育む
  人の自由を

さがみはら
 上空に遊ぶ
  あれはなに?
   尻切れトンボの
    ヘリコプターさ

      なにごとも
       尻切れトンボ
        なんだよな
         早くなおさな
          日が暮れるだよ

松村雄策 追悼

若松恵子

3月13日に、松村雄策さんの訃報が届いた。雑誌『ロッキング・オン』創刊メンバーのひとり。私が10代の頃、ロックと出会った頃によく読んでいた作家だ。最近は本棚で眠っている状態だったけれど、松村雄策の本は大切にとっておく本だったから、訃報を聞いて思い出すというのも申し訳ないけれど、あちこちから探し出してきて読み返してみる3月だった。

松村の著作数は決して多くはない。長編小説が1冊だけあって、その『苺畑の午前五時』の執筆には4年かかったとエッセイに書いている。それは、彼の誠実な仕事ぶりを反映してのことだったと思う。自分の心を良くのぞき込んで、かっこつけずに嘘のない言葉で語る。それは、ビートルズを聴きもしないでビートルズを批判した大人たちへの違和感が彼の中に決定的にあって、そういう大人にはならないという強い意志のもとに彼が仕事をしてきたからだろうと思う。ロックが自分にもたらしたもの、サウンドやバンドマンたちの構えの「かっこよさ」によって一気に確信した大切なものについて、言葉にしていくというのが松村の仕事だった。ビートルズファンならば松村が書く文章に「そうなんだよ」と共感したはずだし、「そういうことだったんだな」と自分が受けたものを確かめ直すことになったのだと思う。わかりやすい文章でスラスラ読めるが、そこに至るまでの苦労というものも偲ばれる。彼の書くものには、彼自身の暮らしが垣間見えるような具体的な記述がしばしば挿入されて、そういう所も彼を身近に感じさせる魅力のひとつだった。

ビートルズのレコードデビュー50周年を機に刊行された著作『ウイズ・ザ・ビートルズ』(2012 小学館)は、本当に唯一無二の、心のこもったビートルズ案内書だと思う。「はじめに」で松村が書いているが、リアルタイムでビートルズを聴いてきた世代がどんどん年を取って、やがてこの世から退場していく前に、「書いておかなければなかったことになってしまうようなこと」を書いておこうと、全オリジナルアルバムについて執筆した本だ。

これから初めてビートルズを聴いていこうとする世代にも、ちょっと興味を持って色々知りたいと思った人にも親切な、押さえておきたい確かな情報が載っている。そして、この本でも、なか休みのように、時々松村自身の物語が挿入される。ビートルズと出会って決定的に人生が変わってしまった男の子、ビートルズを北極星にして人生を生き延びてきた男の子の物語だ。

ビートルズの案内書に、なぜ個人的な物語が出てくるのか。それは、ビートルズ(ロック)が松村にもたらした最も大事なことは、自分自身から出発する自由ということだったからではないかと思う。自分のことは脇に置いて正しいことを語るのではなく、逃れられない自分というもの(それは自分が選んだわけでもないのに決定的な影響を人生に与える親という存在を含めて)から目をそらさずに、そこから出発する自由というものについて、彼は語っていたのだと思う。「三百回見ている『ア・ハード・デイズ・ナイト』を最初に見たのは父といっしょだった。これは、忘れることは出来ない。」と彼は書く。この一文は単なる思い出話とは思えないから、胸に残る。

私のように、彼の物語を通して、ビートルズをより深く理解する人も多いのではないかと思う。松村が彼の生来の感性によってビートルズから受け取った「確信」から、ブレずに人生を全うしたということに励まされる思いがする。

訃報を伝えるブログのなかで盟友渋谷陽一が書いた文章を引用する。
「松村の部屋にはビートルズのポスターがたくさん貼ってあった。「まるで学生の部屋みたいでしょう」と家族が言っていたが、本当に学生の部屋みたいだった。部屋だけみたら、そこに70歳の老人が住んでいるとはだれも想像できないだろう。松村の精神世界そのままの部屋だった。ロッキング・オンの50年は、僕たちの長い青春の50年でもある。松村は青春のまま人生を全うした。ロッキング・オンを50年続けられたのは松村がいたからだ。本当にありがとう」(渋谷陽一「社長はつらいよ」2022年3月13日)

マンクヌゴロ家の『ブドヨ・アングリルムンドゥン』

冨岡三智

2022年3月12日にジャワのマンクヌロゴ王家でマンクヌゴロX世の即位式があり、インターネットでも中継された。というわけで、今回は即位式で上演された舞踊について。

●マンクヌゴロ家のブドヨ

マンクヌゴロ王家は16世紀後半にジャワ島中部に興ったマタラム王国の流れをくむ4王家の1つ。マタラム王国は1755年にスラカルタ王国とジョグジャカルタ王国に分裂し、その後、1757年にスラカルタ王家からマンクヌゴロ王家が、1813年にはジョグジャカルタ王家からパクアラム王家が分立した。これら4家のうち宗家にあたるスラカルタ王家には、王の即位式および毎年の即位記念日に上演する『ブドヨ・クタワン』という舞踊が伝承されているが、それ以外の王家には即位式や即位記念日に決まって上演される特定の演目があるわけではない。

私が留学していた間、マンクヌゴロ家での即位記念日で上演されたことのある演目は『ブドヨ・スルヨスミラット』と『ブドヨ・アングリルムンドゥン』である。同家のブドヨとしてよく知られたものには『ブドヨ・ブダマディウン』があるが、私が知る限り(1996年以降)では即位記念日には上演されていない。この曲は1939年に作られたものだが、先代上の2曲ほど特別な曲ではないということだと思う。『ブドヨ・スルヨスミラット』はマンクヌゴロIX世のためにスリスティヨ・ティルトクスモ氏が振り付けた作品で、1990年のIX世の結婚式で初演された。音楽は故スリ・ハスタント氏。王家で作られた芸術作品はその時代の王の作品と見なされる。したがって、この作品はマンクヌゴロIX世の作品とされ、IX世が亡くなった時にもしばしば名前が挙がった。独立以前とは状況が異なり、現在、王の名前で新に舞踊曲が制作されることはほとんどない。その意味でも非常に重要な曲である。このブドヨは9人で踊られる。もっともブドヨは本来9人の女性による舞踊なのだが、分家のマンクヌゴロ家では本家に遠慮して9人ではなく7人で上演されてきた。その意味でも同王家のブドヨとして異色である。『ブドヨ・アングリルムンドゥン』はマンクヌゴロ家で作られた7人のブドヨだが、即位式で上演された振付で最初に上演されたのは1983年である。

●スラカルタ王家の『スリンピ・アングリルムンドゥン』

スラカルタ王家の音楽家が著した音楽伝書『スラット・ウェドプラドンゴ』によると、1790年に『ブドヨ・アングリルムンドゥン』がマンクヌゴロ家のマンクヌゴロ1世(1757-1795)からスラカルタ王家のパク・ブウォノ4世(1788-1820)に献上された。パク・ブウォノ8世(1858-1861)が即位すると、これをブドヨからスリンピ(4人の女性による舞踊)に変更し、さらに歌詞の多くも変更した。しかし、前半と後半の楽曲、および振付はまだそのままだった。パク・ブウォノIX世(1861-1893)が即位すると、後半の曲が「ラングン・ギト」に、そのイントロにあたる女性独唱の歌詞も「スリナレンドロ~」に変更された。現在、スラカルタ王家で上演されているのがこの形である。『スリンピ・アングリルムンドゥン』はスラカルタ王家でも『ブドヨ・クタワン』に次いで古く、重い曲とされている。なお、この現在の形での完全版だが、2012年にインドネシア国立芸術大学スラカルタ校の舞踊団と私とで島根県(第20回庭火祭、熊野大社)で上演している。

●マンクヌゴロ家での復曲

このように『ブドヨ・アングリルムンドゥン』は本家に献上されたため、それ以降はマンクヌゴロ家では上演されていなかったのだが、近年、マンクヌゴロ家の方でも復曲されるようになった。1982年には3人の踊り手により上演された。そして、1987年に7人により上演されたのが現在のバージョンである。

実は、私の師匠のジョコ女史も3人版の構成に関わった。昔は3人のブドヨとして踊られていたので、それを再構成してほしいと依頼されたそうだ。3人のブドヨの踊り手がスラカルタ王家に献上され、そこで1人足して4人のスリンピとして上演されるようになった…とジョコ女史は聞いたので、スラカルタ王家の振付を3人で踊ってもおかしくないようにフォーメーションだけ調整したとのことだった。

しかし、後になって本来は7人のブドヨだったことが判明し、それでマンクヌゴロ王家はあらためて7人のブドヨとして再構成をすることにしたらしい。それはガリマン氏が手掛けた。このガリマン版も前半はスラカルタ王家の『スリンピ・アングリルムンドゥン』と音楽・振付は同じである。後半は新曲を使っているが、スリンピの場合の曲と雰囲気が似ている。また、動きの型や振付の流れも元のスリンピを生かしているので自然である。異なる要素としては、フォーメーションに旧来のブドヨにはなかったような新しい要素も入っているのと、スリンピに比べて時間が10分短くなっていること(入退場も入れて約40分)、そして弓を手にしていることである。元のスラカルタ王家のスリンピや3人版だった時のブドヨでは弓は手にしていない。とはいえ、実はこの元のスリンピにはパナハン(弓合戦)と呼ばれる振付がある。極めて抽象的な動きになっているが、その振付があるために、弓を持っていても不自然には感じない。

『アフリカ』を続けて(10)

下窪俊哉

 2010年の夏、『デルタ 小川国夫原作オムニバス』という映画をつくった人たちから声がかかって、少しお手伝いすることになった。その時、『アフリカ』別冊として『海のように、光のように満ち〜小川国夫の《デルタ》をめぐって』という冊子をつくり、映画館で販売して読んでもらったのだが、ある夜、その本を何冊も買い込んでいる人がいた。
 上映後に私はトーク・ゲストとして前に出たのだが、その人は私の話を聞きながら何度も、声をあげて笑っていた。それが井川拓さんだった。終わってから、オムニバス映画の1篇「他界」の監督・高野貴子さんに紹介されて、居酒屋に流れて行った。井川さんは私のつくった本を一通り褒めたあと、「じつは僕も書いているんです」と言った。どんなものを? と訊いたら、児童文学に深い関心があって、というような話をしていた。何冊も買ってくださったお礼に、と持っていた『アフリカ』最新号(vol.9)をプレゼントしたら、パラパラとめくって、「これに僕も書かせてくれませんか?」と言い出した。

 児童文学作品が送られてくるものだと思っていた。しかし送られてきたのは「映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』覚書〜『エリコへ下る道』から『デルタ』へ」だった。
 その前半には、彼が学生時代に高野さん、富田克也さんらと出会い映画をつくり始めた頃のこと、自分たちのことを「空族(くぞく)」という映像制作集団にしようと言い出した頃のことが書かれている。『エリコへ下る道』というのは、小川国夫の短篇小説を映画化しようとしたもので、空族の黎明期に撮影され、未完に終わった映画である。その後、空族が『雲の上』『国道20号線』を経て「夜通し莫迦話ばかりする集団」ではなくなり、着実にファンを増やしている中で、井川さんは映画製作から離れていたはずだが、彼が大好きな小川国夫の小説を映画化する絶好の機会を得て、舞い戻ってきていたのだった。
 その原稿は夏の終わりに書かれ、秋の初めにかけて何度も改稿されて、『アフリカ』vol.10(2010年11月号)に掲載されている。井川さんが亡くなった後、私は回想して次のように書いている。

 井川さんは自作につながる原石を発見するようなことには素晴らしい才能を発揮したが、それを磨く作業には疎かった。推敲は進まず、校正は粗かった。ほころびを直そうと提案する私に、井川さんは苛立った(私も苛立った)。(「井川拓さんとの八ヶ月間」、『井川拓君追悼文集』より)

 翌2011年1月まで井川さんは『デルタ』の上映活動に奔走していた。その後、2月に京都で珈琲をご一緒した時には、もう嵐が過ぎて、『デルタ』は過去のものになっていたような気がする。空族は新作『サウダーヂ』の完成間近で、私も、そして井川さんだってもちろんそれを楽しみにしていた。
 井川さん自身は再び、そして本当に映画製作から離れ、児童文学に力を入れて、文学賞にもどんどん挑戦してゆきたいというような話をしていた。「下窪さんもそういうのもやればいいよ」とも言われた。
 亡くなったのはその2ヶ月後だ。あっという間だった。その間に、3.11があった。亡くなる1週間前に、私は手紙を受け取っている。封を開けると、越前和紙の葉書の片面に楽しそうな自作の絵があり、もう片面に『デルタ』上映の動員結果とお礼が記されていて、「また会うのを楽しみにしています」と書かれていた。私はすぐに返事が出せなかった。そして、永遠に出せないままになった。

 いま、井川さんの遺稿「モグとユウヒの冒険」を本にして、アフリカキカクから出そうとしている。その原稿を初めて読ませてもらったのは2015年だったから、亡くなって4年たった頃だ。一読して、驚いた。井川さんは『デルタ』と並行してこんな作品を書いていたのか、と。琵琶湖の畔のマキノを舞台とした、小学生の兄弟とその家族を描いた作品で、事故による高次脳機能障害のある伯父と、子供が描いている落書き帖の中に現れる犬・モグが、読むたびにいろんなことを教えてくれる。いつかこれを本にしたい、と思っていたが、何年もかかってしまった。
 井川さんは無名の作家というより、まだまだこれからというところで亡くなってしまったので、幻の作家と言った方がよさそうだ。この本には少し解説が要るだろう、と考え、せっかくなら井川拓の伝記になるようなものを書いておこう、と書き始めたのはいいが、なかなか大変。
 頼りになるのは、『井川拓君追悼文集』と、井川さん自身が書き残した『アフリカ』vol.10の文章、井川さんの没後に家族が作成していた年譜、5年ほど前に富田さんと相澤(虎之助)さんを呼んでトーク・イベントをした際に自分がつくった資料「映像制作集団・空族の映画とその源流、支流」くらいで、はっきり言って少ない。子供時代のことや家族のことについては彼の姉に話を聞いて、初めて知ることも、あらためて考えることもたくさんあった。
 そういったネタを手元に集めて置いても、井川拓がどんな人で、どんな創作世界に向かっていたかを書くのは楽ではなくて、その解説の原稿に2ヶ月近くかかってしまった。
 本人が生きていたら、聞いてみたいことが山ほどある。しかし、それは夢の中で聞くか、想像で書くしかない。想像のついでに、もし彼があの後も生きていて、書き続けていたらどんなものを書いただろう、ということまで考えた。
 そうやって書き始めた直後に、高熱を出して数日、寝込んでしまった。
 体調が悪くなると、死者との対話は明るくなるようだ。井川さんは一度、夢に出てきてくれた。しかし何やら話をするような状況じゃなくて、原稿を書いている時の方が話せていると思った。久しぶりに小川国夫さんとも会えた。しかし夢の中では、何も話さない。いや、ことばがないだけで、たくさん話せているような気もする。目を覚まして、しばらく天井を見て過ごす。今日も書き進めよう。

木について

管啓次郎

 1
きみは何歳なの?
木は答えない
親指と小指をひろげて
幹の太さをはかってみた
ちょうど九回分
それを計算するといくつの朝?
きみに住んだのは何羽のきつつき?

 2
森で耳をすますと
枝と枝が風でこすれるのが聞こえる
姿の見えない鳥が呼びかわすのが聞こえる
何だろう動物がかけるのも聞こえる
見つからないよう息をひそめているのも聞こえる
ここまで登ってきた人たちは息を切らしている
太陽がゆっくりと旅するのが聞こえる

 3
人は木を求める
木は人を求めない
木が求めるのは土と水
太陽と(たぶん)月
にぎやかな小動物
おだやかな風、そして
垂直を教えてくれる重力

 4
裸子植物の時代が終わり
被子植物の世界になった
花と色彩が生まれ
動物は目が鍛えられた
種子も蜜も高エネルギー食
行動範囲がひろがって
地球はいよいよおもしろくなった

 5
水が木を昇ってゆく
ごうごうと音を立てて
空へと落ちてゆく
さかさの滝なんだ
銀の魚が飛びはねて
行方に迷っている
飛び散った鱗が流星になる

 6
木は伸びてゆく上に下に
空につきささる円錐の下に
にぎやかな根の国がある
枝は空の水をとらえ
根は土の水をとらえ
木とそっくりおなじかたちの
湖を彫刻する

 7
木はけっしてひとりではない
一本の木と仲間たちは
地中で手をとりあっている
そして旅をする、長い年月をかけて
種子を飛ばし
落ち葉をつもらせ
かれらの森がまた一歩すすむ

 8
木を見て森を見ない人がいる
木を見て木を見ない人もいる
大きな樹はひとつの島
そこに他の植物、苔、きのこが住む
昆虫、鳥、爬虫類、りすなんかも間借りする
生命の共和国
私に住むといいよと木がいう

 9
枯れていると思った
雷に打たれたらしい
幹の中がまっくろに焦げて
うつろになっていた
ところが春になってその木に会いにゆくと
幹から直接芽が出ているのだ
やわらかい緑の光を放ち

 10
嵐がやってきて
木々が踊り出す
大きな枝をしなわせ
風の呼びかけに答えて
今夜はかれらのパーティー
天然の音楽に乗って
私は怯えかつ魅惑される観客

 11
この土地では木は育たない
種子はいくつも飛んでくる
芽ぶいて、枯れて
芽ぶいて、倒れて
でも植物はあきらめない
この百年で一本だけ育ったんだ
それがこの痩せた木です

 12
冬枯れの木の枝に
七羽の鳥が止まって
空か未来を見ている
鳥たちはまるで果実
いまにも魂のように飛び立ち
別の土地をめざすのか
枯れ枝にかすかなたわみを残して

 13
森に行ったらひとりになって
目をつぶり
深呼吸をして
それからあたりを見わたしてごらん
どこかに輪郭がうっすらと
オレンジ蛍光色で光っている木がある
きみに呼びかけているんだ

製本かい摘みましては(172)

四釜裕子

厩橋で隅田川を渡る少し手前で浅草寺方面を見ると、2本の道がディバイダ―みたいに広がる。股には細いホテルが建っている。向かって右の国道6号(江戸通り)を行くと雷門、道の下は都営浅草線、左の都道462号を行くと浅草ビューホテル、この下をつくばエクスプレスが走っている。左の道は、通り沿いにある浅草ビューホテルが建つ場所に1982年まであった国際劇場にちなんで国際通りと呼ばれていて、その先の三ノ輪で昭和通り(国道4号)と明治通りが交差するすぐ手前で昭和通りに合流する。途中、そのディバイダ―の左の脚は吉原神社を囲うようにしてわずかに膨らむ。江戸から分かれた国際が昭和に合流して明治に交わる。

その国際通りにまた新しい店ができていた。雑貨屋かなとのぞいたら本屋だった。フローベルグさんといって、昨年横浜から移ってこられたそうだ。国内外の絵本をメインにした古書店で新刊本もあった。木島始さんのエッセイ集『ぼくの尺度』を買う。表紙の挿画も木島さんだ。「本の生まれかた広がりかた――手稿・私家本・市場本」の中に、木島さんの『空のとおりみち』(1978)のことが書いてあった。同書で1990年に第二回想原秋記念日本私家本図書館賞を受賞されたそうだが、これは最初から私家本を意図したわけではないという。さて、どんな事情が。

朔人社の高頭祥八さんが、青森・八戸の坂本小九郎先生の指導による子どもたちの版画を手にやってきて、絵本にしたいので文章と構成を担当してほしいと頼まれたのがそもそものきっかけだそうだ。〈見るなり、ある強い感動があって、引受けることにし、大きな写真版を狭い部屋の三方に貼りつけ、毎朝、毎晩、ながめていたのでした〉。それは〈ひたすら待つ、むりなくことばが流れでてくるまで待つ〉木島さんなりの制作方法で、どうやらそれは半年も続き、胃だかみぞおちだかが痛み出し、しかしなんとか完成させたが、〈坂本先生の師にあたるかたが、子どもたちの作品を売りものにしてはいけないと、出版に反対されたとかで〉頓挫してしまう。

しかし雑誌への紹介ならばということで、当時出ていた月刊「絵本」へ掲載することになった。そこで木島さんは100部か200部かの抜き刷りを申し出て、それを製本したのが『空のとおりみち』だという。つごう何冊かわからないけれど、製本してタイトルを書いた和紙を貼るところまで、そのすべは画家の梶山俊夫さんに教えてもらったとかで、どうも全部ご自分でやられたようだ。完成した『空のとおりみち』は、親しい人たちに渡すほかは渋谷の童話屋で販売したそうだ。

どんなふうに製本したのだろう。ネットで探したら、まんだらけにあった。注文してすぐに届いた。『絵本ぷろむなーど 空のとおりみち』詩・木島始 版画・八戸市立湊中学校養護学級共同作品(指導・坂本小九郎) 月刊絵本/1978年3月1日発行。値札はまんだらけの「Kioku×Daiyogen」。

本文は、最後の1枚(2ページ)をノドに貼り付けた18ページひと折りで、10穴糸綴じ。2ミリ厚の黄ボール紙をそのまま表紙にしてあって、「ドイツ装」と呼んでいいだろうか。ひと折りで薄いながら、2ミリ厚のボール紙をごく細く切って芯にしてオレンジ色の洋紙で巻き、それで角背に仕立ててある。見返しは同じオレンジ色で、木島さんのサインがある。切るのも折るのもかがるのも貼るのも、仕事はみなきれいだ。手でかがるには穴の数が多くて糸も細すぎるような気がして機械でかがったのかなとも思ったけれど、機械を使うほうが手間だろう。書肆田高さんのサイトをはじめいろいろ見ると、木島さんは同様の方法でいくつも詩集を作っておられるようだ。これはそうとう手慣れていると推察。やはりご自分でかがったに違いない。

『空のとおりみち』の大きさはB5判。版画はどれも横長で見開きいっぱいに配置されている。本文の数ページに、ノドのあき9ミリあたりに目打ちで開けた穴が4つずつあるのを見つけた。もしや平綴じでやってみようとした痕跡か。ノドのあきを詰めて版画をつなげて見せたくて、だいぶ迷ったのかもしれない。実際の作品は、2メートル×1メートルのシナベニア板に彫ってあったそうだ。坂本先生が八戸市内の中学校で昭和31年から50年代にかけて指導した、子どもたちの共同制作による大きな版画だ。1枚ずつに題名があって物語もあり、それら全部を「虹の上をとぶ船」というシリーズタイトルで呼んだらしい。木島さんはその中のいくつかの作品を再構成して、全体をひとつの流れにしてことばを添え、『空のとおりみち』とした。

版木はほとんど残っていないようだ。しかし作品の多くは刷りたてのように黒々として力強いと、別のところで坂本先生が話していたのを読んだ。実物を見てみたい。と思ったら、4月から始まる町田市立国際版画美術館の「彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動」展に同シリーズからの出品も予定されていることがわかった。副題に「工場で、田んぼで、教室で、みんなかつては版画家だった」とある。「みんな」というけど自分はどうだったかなと思うに、木造の美しい校舎で初めて習ったゴム版画も木版画も時間が足りなくて焦った記憶ばかりだ。図工や習字はいつも体育館に貼るとか展覧会に出すとかがゴールにあって、それが力になる子はいいが私はそれで大人をなめるようになってしまった。あなた、ただ楽しめばよかったのにネと、すねた昔の自分の頭をなでてやりたい。町田の展示はきっと見に行こう。

ごめんなさい

篠原恒木

粗忽者なので「ごめんなさい」と言う場面が多い。太宰治が「恥の多い生涯を送って来ました」なら、おれは「ごめんなさいの多い生涯を送って来ました」と、第一の手記に書くべきだろう。

その場合は、なるべく心を込めて「ごめんなさい」と言わなければならない。顎を突き上げて「ごめんなさい」と言ったら、その直後にとても面倒なことになったことがあった。できれば頭を四十五度に下げながら言ったほうが無難なのだろう。謝り方には「ごめんなさい」以外にもいろいろな言い回しがある。思いつくままに挙げていこう。
「すみません」
「さーせん」
「メンゴメンゴ」
「ワリーネワリーネ、ワリーネ・ディートリヒ」
「申し訳ございません」
「お詫びを申し述べます」
「陳謝いたします」
「ご容赦くださいませ」
「不徳の致すところです」
「遺憾に存じます」

「遺憾に存じます」はもはや永田町あたりでしか使われないフレーズだろう。子どもの頃、ハナ肇とクレージー・キャッツの『遺憾に存じます』という歌を聴いたとき、「誠にイカンに存じます」だと思い込んでいた。「イカンことをした」という意味なんだろうな、と思っていたが、のちに「遺憾」という漢字と正しい意味を知ったときも、
「当たらずとも遠からず」
ではないかと思った。ついでに余計なことを書くと「身の毛がよだつ」という言葉もおれはずっと「身の毛が育つ」と思い込んでいた。これも「よだつ」より「育つ」のほうが恐ろしい感じが出るではないかと思っている。関係ないですね。間違ってるし。ごめんなさい。

謝り方のなかでも「ごめんなさい」というフレーズは、近頃ではカジュアルな言い方なのだろう。ここで普通のエッセイストならば、
「広辞苑・第七版 一九五五年五月二五日・第一般 第一刷発行/二〇一八年一月一二日・第七版 第一刷発行によると『ごめんなさい』という意味は」
などと書くのだろうが、おれはそんなことはしない。そもそも広辞苑の第七版も持っていない。だから以下はオノレのイメージだけで書く。「ごめんなさい」は「免じてください」ということなのだろう。赦しを乞う、というわけだ。間違っていたらごめんなさい。

おれが人生のなかでいちばん「ごめんなさい」と言っている相手は、妻だ。これは間違いない。一日に三回は「ごめんなさい」と謝っているような気がする。結婚して三十七年間になるので、計算すると四万回以上「ごめんなさい」と妻に対して申し述べたことになる。それでわかった。どうして最近は「ごめんなさい」といくら謝っても赦してくれないのだろうと不思議に思っていたが、四万回も言っていれば効き目も薄れているのは当然のことだ。ごめんなさい。

仕事でもおれは「ごめんなさい」とよく言っているような気がする。「気がする」と書いたということは、ひとつひとつの「ごめんなさい」にあまり心がこもっていないという事実につながるような気がする。「気がする」で終わる文を二回続けて書いてしまったが、これは仕方ないような気がする。三回になってしまった。ごめんなさい。
メールでは「ごめんなさい」とはあまり書かない。もう少しフォーマルに「申し訳ございませんでした」と書くが、PCというやつは厄介なもので予測変換という機能がある。「申し訳ございませんでした」と打って送信したつもりだったが、あとでよく「送信済みメール」を見直したら「申し訳ございませんでしたか」となっていたことがある。質問してどうする。ごめんなさい。

逆に「申し訳ございませんでした」と謝罪されることもある。ところがテキは「申し訳ございませんでした」という言葉のすぐあとに「資料を紛失してしまいまして」「電車が遅れまして」「道が混んでおりまして」などの言い訳を述べることが多い。「申し訳ございませんでした」という言葉の意味は「言い訳も見当たらないことをしてしまいました」ではないのか。おれはここでもいちいち「広辞苑・第七版 一九五五年五月二五日・第一般 第一刷発行/二〇一八年一月一二日・第七版 第一刷発行」を引かない、いや、持っていないので引くこともできないが、「申し訳ございませんでした」という言葉はそういう意味だと思う。なのに、「言い訳もできない」と言っておきながらすぐ言い訳をするのはどういう了見なのだろう。軽々しく「申し訳ございませんでした」と言ってはいけないのだ。おそらくね。

粗忽者なので、会社に「始末書」を提出することも多い。先日も会社の備品であるノートPCにコーヒーを派手にぶちまけてしまい、起動不可能になってしまった。関連部署に相談すると、
「始末書を書いて提出してください」
とホザかれたので、
「かねで解決しよう。修理代はおれが出すから」
と経済的和平提案、いや、簡単に言えば揉み消しを持ちかけたのだが、この場合は始末書が「決まりごと・ルール」であり、始末書さえ出せばすぐ代わりのPCを用意すると言う。仕方がないのでおれは確認した。
「始末書は社長宛てだっけ?」
「そうです」
おれは始末書の作成にとりかかった。便利な世の中で、いまや始末書の書き方などはウェブで検索すれば、すぐにテンプレートが見つかる。「会社のPCにコーヒーをぶちまけて起動できなくなった場合の始末書」というアホの見本のようなテンプレートは見当たらなかったが、テイストが近いもので「倉庫の鍵を紛失してしまった場合」のテンプレートがあった。これをそっくりコピー&ペーストして、本文の一部をササッと変えればいいだけだ。粗忽者だが几帳面なおれは、正確な事実を記すため、
「本日午後一時十六分、私の不注意で、同日午前十時七分にスターバックス九段下店で購入した『本日のドリップ・コーヒー/パイクプレイスローストのトール・サイズ(350ml)』のうち約95mlを、会社の大切なPCであるHP ENVY×360 13‐ayのキーボード全面に滴下し、本日のドリップ・コーヒー/パイクプレイスロースト約95mlは、PC上のありとあらゆるキーの隙間からマザーボードへと漸次的に流入し、その結果としてHP ENVY×360 13‐ayを起動不能に陥れるという痛恨の事態へと発展させてしまいました」
と書き変えようと考えたが、かえって嫌味になると思い、簡略化して書き直した。
かくして立派な始末書はあっという間に完成した。読み返すと、コーヒーをこぼしただけなのに、テンプレートを活用すると土下座級のレトリックになってしまっているではないか。ここまで陳謝するのも大袈裟なのではとは思ったが、まあいいかとばかりに提出した。すると、すぐ提出先の部署から電話があり、
「シノハラさん、これは書き直してください」
と言われた。
「なんで? 完璧だろう」
「宛先が社長名になっていません。『山田工場長殿』になっています」
テンプレートの本文は書き変えたのだが、宛先はテンプレートにあった「山田工場長」のままだったのだ。ごめんなさい。

今日も世界のいたるところで「ごめんなさい」という言葉がヒトビトの口から発せられているのだろうが、おれはこの世でいちばん誠意のない「ごめんなさい」を知っている。しかも、あろうことか、そのひとかけらの誠意も見当たらない「ごめんなさい」を、おれは毎日聞かされているのだ。
朝のTV情報番組で「めざまし占い」というコーナーがある。おれは必ず観てしまう。女性のアナウンサーが毎日言う。
「そして、今日いちばんツイていないかたは、ごめんなさ~い、乙女座のあなたです」
この「ごめんなさ~い」ほど心のこもっていない謝罪をおれは知らない。そもそもなぜ謝るのか。ランキング形式で占いをすれば、最下位が存在するのは仕方のないことだ。そしてなにより、占いをしていない女性アナウンサーに謝られても困るではないか。
「あなたに『ごめんなさ~い』と軽く言われてもなぁ」
と、いつもおれは思う。もし乙女座のヒトビトに対して、
「誠に不本意ではありますが、最下位という結果になってしまい、わたくしどもも痛恨の極みでございます。ご不快に感じられた方々もいらっしゃるかと存じます。しかしながら順位をつけるというコーナーの性格上、どうかここはご海容いただきますようお願い申し上げます」
という思いがあるのなら、いや、ないとは思うが、もしあるのなら、しかるべき人間、たとえば占った先生が「ごめんなさい」と言うべきであろう。だが、女性アナウンサーは言う。
「今日いちばんツイていないかたは、ごめんなさ~い、乙女座のあなたです。うっかりミスで大切なものを故障させてしまうかも。でも大丈夫、そんなあなたのツキを回復してくれるラッキー・アイテムはドリップ・コーヒーでぇす。今日もいい一日を」
後半は大外れだが、前半部分はピタリと当たっているではないか。ごめんなさい。

首の皺

植松眞人

 先日、渋谷の古いバーのカウンターで、友人の真壁がふと洩らした一言が気になって仕方がない。
「女の首に皺ができるじゃない。歳を食ってくると。あれがいいんだよ」
 なにも皺ができるのは女だけじゃない。男だって出来るだろうと答えると、
「そういう歳を重ねるとね、という話しじゃなくて、首に皺が寄り始めた女が好きなんだって話しだよ」
「好きなのか」
「好きなんだよ」
 と言葉を交わした後、私は黙り込んでしまった。黙り込みながら真壁の首筋を見ると、彼の首にも喉仏の上を縦に走るように皺というかたるみがあった。それを見ながら、真壁の喉を指で触るかのように自分の喉元を顎の真下からゆっくりと鎖骨方向へ撫でた。まるで真壁とまったく同じ縦皺が自分にも走っているような感触が指にあった。そうか、自分にも二つ年上の友人、真壁と同じような年寄りじみた皺があるのか、と思うとなんだか真壁をからかってやろうという気力が失せてしまった。
「なぜ、好きなんだ」
 私が聞くと、真壁はちょっと顎を引いて、笑うなよ、という顔をして見せた。
「わからないんだよ。わからないんだが、女が動揺しているのを見るのが好きってわけじゃないんだ」
「意地悪じゃないと」
「俺は意地悪じゃないよ」
 真壁はそう答えると、はにかむように笑った。その恥ずかしそうな顔が私には面白く、しばらく自分の首の喉仏のあたりにある縦皺に触りながら真壁の視線を落とした顔を見ていた。そして、私の首にある縦皺を触りながら、さっきと同じように真壁の首の縦皺を触っているような感覚に陥り、彼は恥ずかしそうにしているのは、私がその首に触れているからだという気持ちになってしまう。いや、もしかしたら、本当に真壁は私が首に触れていることを想像しているのではないかと思い始めると、私は妙な気分になってしまった。
「なあ。お前、俺の首にある縦皺をじっと見ながら自分の縦皺に触ってみろよ」
 私がそう言うと、真壁は意外な顔をした。
「俺の首には縦皺なんてないだろう」
 そういうと、真壁は自分の首の喉仏あたりに触れる。
「お前、知らなかったのか。自分の首の縦皺」
「うん。知らなかった。これ、そうだよな」
 と言いながら真壁は自分の縦皺に右手の人差し指の腹を当てて、上下に探ってみている。
「で、これをどうするって」
「俺の首の縦皺をじっと見ながら、自分の縦皺をさすってみるんだよ」
 真壁は私に言われたとおりにした。すると、真壁は小さく、おおっ、と声をあげて笑う。
「こりゃ、妙な具合だな。俺がなんだかお前の首に触っているような気分だ」
「な、そうだろ」
 そう言いながら、私も改めて真壁の首をじっと見つめながら自分の首の縦皺を探る。
 私たちは渋谷の古いバーのカウンターに隣通しで座り、お義理程度のソーシャルディスタンスを意識しながら、互いの首に触れている気分で言葉少なにいつまでも水割りを飲んでいた。(了)

日本に何で来たのか

イリナ・グリゴレ

その日も、薄いピンクとボルドー色の靴下を片足ずつ履き、ジャージの上に長いコートを着て幼稚園のお迎えに急いだ。帰りに娘たちは仲の良い友達の家に誘われた。私は色の違う靴下を履いていたこと恥ずかしくて、一緒に車に乗った娘の友達にそう言った。「えー、大丈夫だよ、そのほうが面白いかも」と言ってくれたので安心した。「イリナのマスクが紫で可愛い」と言い続けてくれ、靴下の色違いを批判されないことが嬉しかった。この子は転校してきた娘たちをすぐ受け入れてくれた。いつも抱っこしたり、可愛がってもらって、娘たちはハーフとしての意識もなくスキンシップを取ったり、私を「〇〇のお母さん」ではなく、イリナと名前で読んだり、6歳になったばかりの地方の町の女の子とは思えないぐらいクリエイティブで広い世界を視線に入れている性格の持ち主だ。この女の子のお母さんともさまざまな話をした。娘たちがプリンセスのドレスに着替えてファッションショーを開くのを脇で見ながら、これからの日本と教育について語り合った。

「これからはダイバシティーの時代で、子供の個性が求められる時代だから」と娘のクリエイティブな部分を評価した私に、ダジャレの大好きなお母さんは「台場シティ?」と最近テレビでオリンピックをきっかけにきく言葉に戸惑うフリした。英語でdiversityと書いて渡し、多様性など今時の言葉についての議論を二人でし始める。こうしている間に、私の家に来るとき、喋りながら子育てと研究と仕事の両立に追いつかない私の洗い残したお皿を綺麗に洗ってくれて、「ものが多いから」片付け難いだろうと、いつか整理してくれるという。大晦日の前の日に泊まりにきた友達もガスコンロをピカピカに磨いてくれたし、仕事の日に預けるところのない娘たちを自分の家で見てくれた友達もいる。そして、原稿を書いていて、ごみ出しを忘れてしまった時は、ごみ収集車のお兄さんがすごく忙しいのに家にピンポンしてくれて、「大丈夫ですか?ゴミはありませんか」とわざわざ聞いてくれる。

考えてみれば、日本に来てから私の日常はこうして誰かの優しさによって救われている。移民、外国人留学生、肌の色、髪と目の色というバリアを越えて、優しくしてくれる誰かが私の周りに必ずいる。最初はもちろん単純な疑問として、「目が青いから世界が青く見えるの?」と聞かれたり、留学生同士で固まり、地元の方とどうやって接していいかわからない時もあったりした。日本語が怪しい、貧しいと言われたりした。様々な経験があるが、必ず聞かれるのは「日本に何できたの?」優しい声、緊張した声、キツい声、可愛い声で。その時、私は思い出す、そうか、私は見た目が違うのだ。もちろん、私に興味があるから聞かれるが、こんなに見た目ですぐバレる、ここの人ではないこと。

どこにいても同じだ。ルーマニアでも見た目、服、肌色(マイノリティもたくさんいるので)で人をカテゴライズする。大した悩みではないかもしれないが、私の場合、いつも年より若く弱そうの女の子のイメージがある。喋り方がいつも緊張しているから、笑いすぎたり、甘えているように見えるのだろう。もう気にしなくなったけど、いつも「人は見た目で人を判断する」と思う。どこにいても。本当の自分は「男っぽい」というか、いつも「男がよかったのに」と思う。だから、この顔で学生の前に立つときは最初に「こう見えても研究者です、人を見た目で判断してはいけない」と言ってから、「文化人類学とはなにか」の講義を始める。

「日本に何で来た」と聞かれ続ける。来てほしくなかったのか? これは私が日本を褒めなければならないという問題ではないと最近気づいたので、あまり長い答えをしなくなった。答えはシンプルに、「遠くへ行きたかったから」。誰にでもこの想いがあり、共感するのではないかと思うからだ。ルーマニアの村で、寂しく一夏をかけて本をたくさん読んでいた私は『雪国』という一冊と出会った。本の最初のイメージに惚れた。トンネルを抜けた列車の雰囲気。感覚で感じたものは、それまでの人生で一番確かだった。ルーマニア語に翻訳されていたにもかかわらず、なぜか私はそれを日本語で読んだ気がした。

そのころ言葉に悩んでいた。私の考えをうまく周りに話せない、感じていること、やりたいことも表現の壁にぶつかり、うまくいかないと思っていた。音楽のように、通じる電波のようなイメージで直接に身体同士にコミュニケーションできる方法がないかと考えた時、映画と出会った。映画というか、正確には「シネマ」だ。『雪国』を読んだとき「これだ」と思った。私が喋りたい言葉はこれだ。何か、何千年も探していたものを見つけた気がする。自分の身体に合う言葉を。その時、全てが繋がった。映画監督になりたかった「田舎から出た普通の女の子」として受験に失敗し、秘密の言葉である日本語を思い出した。「映画」で表現できないならきっと新しい言葉を覚えたら身体が強くなる。日本語は、私の免疫を高めるため言語なのだ。

バスの中で俳句の本を渡してくれた同じ年の明るい女の子と一緒に、日本語学科のある小さい大学に入って朝から晩まで日本語を浴びた。入学初日、私の恩師になるアンジェラ・ホンドゥル先生とエレベーターで出会った。初めて私を信じる人に出会い、救いの匂いを感じた。ヒッピーな格好をしている内気な女の子と、先生の周りにいる強そうな弟子と一緒に乗ったエレベーターの1分は半日のように感じられた。今にしてみればあれはエレベーターではなく宮沢賢治だったのではないかと思う。彼女は私の目を見て、「来週までに私の本を半分勉強して」と言い、私は「はい」と返事をした。全ての始まりだった。彼女の上級日本語クラスの一番後ろの席に座って、当時、先生がルーマニア語に翻訳していた村上春樹の小説と夏目漱石の小説の話を聞いて、日本語の楽しさと美しさを再確認できた気がした。その2年後のある日、ホンドゥル先生は、映画とパフォーマンスに興味を持っている私に「あなたは獅子になりなさい」と言って、奨学金の審査結果を渡された。そうして私は今、獅子舞を踊り、研究している。偶然といえば、偶然かもしれないが、彼女は私の才能を信じたすごい人なのだ。私にとって、彼女は初めての女性としての研究者との出会いであり、モデルである。

その一年後、もう一つのきっかけが与えられた。一年間の交換留学を終えて右も左もわからない中、生活費のために仕事し始めたころ、休暇を取ってボランティアとしてシビウというルーマニアで最も美しい町で、中村勘三郎の歌舞伎公演を手伝った。音響担当のルーマニア人スタッフと日本側のスタッフの通訳をしたのだ。古い工場の建物を使って日本からきたスタッフが舞台を作り、「夏祭り」の準備が整った。私は性格が熱いルーマニア音響スタッフと優しそうな雰囲気の日本のスタッフの男たちのコミュニケーションを何とか平和に終わらせた。私の日本語が完璧からほど遠いにもかかわらず、日本のスタッフは優しく対応し、私の友達と一緒に酒も飲んで、家族の写真を見せてくれた。音響の仕事が興味深かったので、たくさんお話した。一番好きな瞬間は、「夏祭り」という古典の歌舞伎の戦いの時に、救急車の音が聞こえる場面だった。中村勘三郎さんは新しいものが大好きなのだと音響の方が説明してくれた。そして3日間の公演で、音響の部屋から救急車の音が発生する瞬間を私も見守った。

遠くを歩く中村勘三郎の天使のような笑顔。最後の公演後に舞台に上がって花束を渡した私にとって貴重な瞬間だ。その瞬間に時間が止まった。目が合った瞬間に音も、周りの風景も消えた。すごい人の目を見る瞬間はきっとそういうものだ。彼の力をいただいた気がした。その瞬間に私は日本に戻って研究者になる夢を追いかけると決めた。

その夏、締め切りの最後の日の1時間前、奨学金の応募書類を日本大使館の近くのマクドナルドの外のテーブルでまとめて写真を貼ろうとしたら、急に嵐のような風が吹いて書類は全て庭に飛ばされた。冷たい汗をかきながら、他のお客さんにも手伝ってもらいながら、何とかまとめて大使館に向かった。閉館5分前だった。

冷や汗をかいた後、地下鉄に乗ったら、スーパーのビニール袋のように夢が膨らんだ。生活にも夢にも余裕がなかった日々、何ヶ月も返事を待った。面接に呼ばれた時、最初の手術の後だったので麻酔の影響がまだ残ったせいかもしれないが、とても落ち着いた声で「研究者になりたい、まだ誰も研究してないことを研究したい」と言った。その後もひたすら待った。仕事をやめて、彼氏の家を出て、一人で引っ越して、祖父が亡くなって、お金もなくなって、新しい仕事を探してルーマニアで有名な現代美術家のアシスタントの仕事が決まって働き始めようとした時だった。何か月ではなく、何年も経った気がした時、大使館から電話が来た。奨学金受かったという知らせだった。

この間、長女とお風呂に入って抱き合って、お互いの目を見つめた。彼女のキャラメルのような柔らかい茶色に湯風呂の湯気とともに魔法にかけられ、浮いている気分になる。「お人形みたいな目」と知らない間に声を出した私に、娘は「ママはフランス人形みたい」という。6歳になったばかりの彼女がどこでフランス人形を見たのかわからない。日本語が私より上手い。お風呂から出たら、壁に飾ってある彼女が書いた絵に茶色の髪の毛の私と黒い色の髪の毛の彼女が描かれているが、ドレスは二人とも虹色だ。私はいつも娘の言葉が面白いので忘れないようにノートする。お風呂で言われたことを書く。「ママ、フランス人形みたい。」それを見た娘は「違う、ひらがなの「た」が長すぎる」と、私の書いた字を赤ペンで直した。その下になぜかピクルスのようなぶつぶつのある太いきゅうりのような物体を描く。「これ何か知っている?」「きゅうり?」と祖母がピクルスにしていた大きなきゅうりの話を始めると、娘は笑いながら「違う、オタマジャクシの池でした」。

「ママは何になりたいだっけ、そうだ、博士だ、ママは必ず博士になる」と応援する娘が寝る支度をし、「おんどく」という子供向けの寝る前の1分に読む日本の名作を出して大きな声で読み始めた。「吾輩は猫である、名前はまだない」の次は「メロス」の話。次に「僕らはみんな生きている…ミミズだってアメンボだって…みんな友達」と、最後に「みんな違って、みんないい」。次の朝、ずっとパジャマで何かを描いている。私も忙しい時はずっとパジャマで論文を書いたりするし、一日中着替えない日もあるから真似し始めたのだろう。最近ではいろんな絵を真似したらと私が提案している。昨年、一緒に見たピカソの絵も入っている画集を本棚でさがす。「着替えてください」と何度も言うのに着替えない娘は大きな声で叫ぶ。「ピカソはパジャマでしか描けない」。日本になぜ来たのかの答えを見つけた気がする。それは同時に「違う角度から世界を見るため」だった。

むもーままめ(17)眠りにつくとき なに思う

工藤あかね

月が眠りにつくとき なに思う
目隠しして うさぎを抱いて
薄目を開けて 恋人を照らす

ねこが眠りにつくとき なに思う
喉を鳴らして ごはんをたべて
お水をのんで 毛づくろい

こどもが眠りにつくとき なに思う
あたらしい筆箱 交換日記
ピアノのお稽古 明日の席替え

あのこが眠りにつくとき なに思う
ふくれない腹 出せない宿題 
よごれた体操着 帰ってこない親の顔

少年が眠りにつくとき なに思う
好きな子のこと 明日の試合
お年玉の残り 欲しいゲーム

彼女が眠りにつくとき なに思う
友達とのLINE  新しいコスメ
おしゃれなカフェ 夜景スポット

陸陸陸陸陸陸陸空空空空空空空空空空海海海陸

月が眠りにつくとき なに思う
けむりに覆われ 夜は灰色
おぼろにみえる つかれ果てた人びと

猫が眠りにつくとき なに思う
しらない人たち しらない匂い
さむい ひもじい こわい音

こどもが眠りにつくとき なに思う
ほつれたぬいぐるみ お母さんのなみだ
片方なくした靴 逃げた鳥 かわいたのど

あのこが眠りにつくとき なに思う
建物のくずれる轟音 断末魔の叫び声
目に入ったままの瓦礫の粉 死んだおじさんの煤けた手

少年が眠りにつくとき なに思う
戦う父兄 避難できなかった友達の家族
眠れないほど冷える床 明日のパン

彼女が眠りにつくとき なに思う
汚れた下着 泣かなくなった赤ちゃん
陵辱を恐れる娘たち 明日のいのち

しもた屋之噺(242)

杉山洋一

朝、庭の樹の下に胡桃を持ってゆくと、1分も経たずにどこからかリスが降りてきて、白い腹を見せて食べ始めます。午後になってリスが枝の上で体を延ばして日向ぼっこをするさまは、「星の王子さま」の象を呑み込んだウワバミそっくりだと家人と笑い合い、思わず見入ってしまいます。
気が付けば、戦いに没したサン=テグジュペリや、平和を希求する「星の王子さま」に、思いを馳せていましたが、学校へ自転車を走らせながら、以前息子が通っていた小学校の窓に垂れる、大きな虹色の横断幕が目に入りました。そこには、よく見える大きな字で「Sì alla PACE (平和大好き)」と書かれていました。

3月某日 羽田行機中
フランクフルトからブダペスト、ブカレストと南下して、現在トルコ、アンカラ北部の海上を飛行中。シノップが一番近い街のようだ。黒海を超えたずっと先に、遠くキエフを臨む。
機内スクリーンの航路図を見ると、ここから北東に進路を取り、一直線に進んだ先に東京がある。ヌルスルタン、ウランバートルとロシアの南を縁取りながら、中国、韓国を超えてゆく。ここから東京までまだ10時間4分。

目が覚めるとルフトハンザ機はエレバンを超えトビリシに向かっている。アルメニアやジョージアの地名で無意識に心が躍るのは、幼少からの民族音楽への憧憬からか。
陸路でカザフスタンやモンゴルを訪ねられたら、どれほど素敵だろうと、ふと思う。
尤も、ロシアのウクライナ侵攻がなければ、この航路を使う機会もなかっただろうが。
ウクライナでは、市民への無差別殺戮が始まり、市民2000人犠牲との報道。

学校でピアノ伴奏を担当しているマルコの奥さんはポーランド人で、ロシアのウクライナ侵攻後とても神経質になっている。
ポーランドの家族をいつイタリアに呼ぶか話し合っている最中だそうだが、「妻と同じスラブ系の顔立ちの市民が、戦禍で路頭に迷う姿を見るのは忍びない。彼らは妻と同じ顔をしていて、未だ乳児の娘ともそっくりの顔立ちだ。筆舌に尽くし難い衝撃だよ」。

3月某日 三軒茶屋自宅
思い立って午後、町田へ両親を訪ねる。半世紀続く老舗「ロッセ」で、父はマンデリンを、母はブラジルを、自分にはコスタリカを頼んだ。イタリアでストレートコーヒーを愉しむ機会は殆どないので、日本に帰ると、勢い普段呑めないストレートばかり注文する。二人とも元気そうで安堵。

4年前、学校で聴覚訓練を教えたウクライナ出身のコントラバス奏者、ジノヴィが気になって連絡をとる。童顔のジノヴィ・シュクランは、当時、高校を卒業したばかりで、2週間前にウクライナからミラノに着いたばかりだった。当初はあまりイタリア語も出来なかったが、とても優秀ですらすらと答えていたし、半年教えている間に、イタリア語も他の学生と遜色なくなっていて驚嘆した。
未だ返事はないが、母国に戻って入隊していたらどうしようか、不安に駆られている。

3月某日 三軒茶屋自宅
「断絶のバラード」原曲部分採譜。
世界でロシアの芸術家が排除、罷免されていることについて、どう思うべきなのか分からず、自らに当惑している。
音楽家が排斥されるのは耐え難いが、運動選手の追放は当然で、音楽家は救済すべきという論法は成立するのか。音楽家はそれほど政治と無関係なのか。音楽家が許されるのなら、他の分野での追放運動も考え直してほしい。ともかく、何も政治に関わっていないロシア人芸術家が、否応なしに差別される姿は、到底見ていられない。

3月某日 三軒茶屋自宅
岩波新書、村上陽一郎著『ペスト大流行、ヨーロッパ中世の崩壊』を読む。「1910年代に終熄した最後の大流行に250年を加えると2160年、300年を加えれば2210年である。果たしてそのとき、人類は新たなペストの攻撃を受けるであろうか。それとも内なるペストによって地球はすでに廃墟と化しているであろうか。祈りを捧げるべき神は、何をそこに用意しているであろうか」。1983年早春、の日付。

3月某日 三軒茶屋自宅
ウクライナ南部マリウポリ、小児病院に爆撃。
プレトネフ指揮による東フィルで、スメタナ「我が祖国」を聴く。
決して発音を潰さず、のびやかでしなやかな音を引き出す指揮と、熱量の高いオーケストラは理想的な邂逅で、歴史的な瞬間に立ち会っているのを実感した。
柔らかい指揮ぶりでありながら、掌に音がしっかりと詰まっているので、強音も抜けるように心地良く演奏できる。
目の前にロシア大使館関係者3人が着席していたが、顔に明確な表情は顕れていなかったとおもう。
ロシアが日本を「非友好国」に指定した直後で緊張していたのかもしれないし、最後にバッハのエアーを弾いて、どことなく戦争反対に見えて、不機嫌だったかもしれないし、第一「非友好国」の外交官が、敵国で気軽に笑顔など見せてはいけないのかもしれない。

3月某日 三軒茶屋自宅
ウクライナ市長二人がロシア軍により誘拐との報道。無差別爆撃激化の様相。
今までロシア兵も被害者だと語っていたウクライナ市民も、これだけ戦闘が激化してずっと同じ心持ちでいられるのだろうか。
憎悪が憎悪を倍増させ、心は荒み、或いは自暴自棄にもなるかもしれない。結局戦争はどこでも似たような虚しさに覆われ尽くし、死体が堆く折り重なるばかりなのだ。現代の戦闘だからといって、市民が巻き込まれないわけでも、兵士の殺し合いがなくなるわけでもない。

ジノヴィから返事が届く。1月の国立音楽院オーケストラ演奏会でコントラバスのトップを弾いていたのは、想像通りジノヴィだった。お互いマスクをしていてよく分からなかった。「今こそ、こうしてウクライナ軍を励ます声は本当に掛け替えなく、感謝に堪えません」とある。メッセージの様子では家族をイタリアに呼び寄せたようだ。
Slava Ucraini!と送ると、Gheroiam slavaと返事が届く。
自分が教えた生徒が、若し兵隊になって戦っていたらと思うと、無性に悲しくなった。
何が正しいか自分には分からないが、どんな状況にあっても生延びて欲しいと痛切に願う。自分が教えた学生が戦争に行っていたらと懊悩する日々が、自らにこれほど早く訪れるとは想像もしなかった。続いてジノヴィは、ウクライナ陸軍のために祈ってほしい、と書き送ってきた。血気盛んな年齢でもあり、今後、祖国に戻り、命を捧げようと考えないとも限らない。
侵攻当初、ロシア軍の戦車や戦闘機が破壊される姿を映像で見て、ロシアの兵士がどうなっているのか案じていたが、次第に神経が麻痺してくると、燃え滓となった戦車を見て無意識に安堵する自分に空恐ろしくなる。戦争はただ惨く、人間を、そして人格を荒廃させてゆく。

3月某日 新幹線車内。
妙高高原は一面の雪景色で、地表から湧き立つ靄と相俟って幽玄な風景を織りなす。白妙とは言い得て妙と独言つ。重なり合う無限の白変化。
糸魚川で眼前に開ける日本海に感動し、黒部では、2年前家人と息子が過ごした日々に感慨を覚えつつ、朝靄にむせぶ田園風景に目を凝らす。
あの時は独りミラノで過ごしつつ、家族と再会する日をただ心待ちにしていた。
目の前の雲は、どこまでも低くたちこめている。

3月某日 金沢ホテル
アンサンブル金沢リハーサル。川瀬さんは和声的なアプローチと、映像的、劇的描写のバランスが素晴らしく、何時間とリハーサルを眺めていても飽きることがない。オーケストラも川瀬さんの心の襞に細やかに寄添い共感し、そして共振する。舞台から同心円状に肯定的エネルギーが波立ち、発散されてゆく。演奏家それぞれの矜持なのか、オーケストラの伝統か、飽くなき探求心、好奇心、深い情熱が相俟って、慈しむような時間が滔々と流れてゆく。
床坊さんや北村さんから、これこそ最初に岩城さんが築いた礎だと伺い、心を打たれた。
チェロの植木君との再会は大学卒業以来か。全く変わっていない。当時から背広を着こなす好青年だったが、何十年経ってみても、彼は背広を素敵に着こなす好青年なのだった。
ポーランド、チェコ、スロベニア、EU三カ国の首相、列車でキエフ訪問。スロベニア国境すぐ手前はトリエステやゴリツィアのあるイタリアだ。

3月某日 金沢ホテル
午前一杯続けていたメンデルスゾーンのリハーサルを終え、昼食休憩に入ったところで、ヤングさんの発案で第一ヴァイオリンがパート練習の支度を始めた。随分真面目だと感心していると、やおら拙作の練習が始まったので仰天した。彼らは掛け値なしに、自らの情熱のため音楽をやっている。

メンデルスゾーン、特に4楽章に至っては、川瀬さんは戦地に赴く兵士とその姿に心を痛める妻のシルエットを映し出した。毎日目にする戦禍を反映してか、オーケストラは彼の言葉に、深く、鋭く、そして直截に応えるように見える。それは、或いは無意識だったかもしれないし、各奏者がそれぞれの意識の奥底で何かを想いながら弾いていたのかもしれない。
夜、田中君と3年ぶりの再会を喜ぶ。駅前の割烹で焼「のどぐろ」の蕩ける舌触りを堪能。
目の前に「黙食にご協力下さい」と貼ってあり、殆ど会話せずに食事したところ思いの外早くに食べ終わったので、それはそれで案外便利だと知る。場所を変えて生麩に舌鼓を打ちつつ、聴覚訓練とメタ認知の話。
夜半、家人がほぼ半年ぶりに無事ミラノ帰宅との一報。一気に緊張が解け、力が抜けた。ウクライナ侵攻以来、日欧の航空便状況は益々不安定になり、何度もの変更の末、彼女はウィーン経由になる前の最後のANA便に乗ることができた。

3月某日 金沢ホテル
昨夜は般若さん一家にすっかりご馳走になった。初めて会う、年賀状の写真そのままのお子さんたちの姿に、思わず目を細める。天真爛漫は、そのままで倖せを形容する言葉になると知った。お父さんの真似の大好きな娘さんから、元気一杯走り回って笑顔を振り向く娘さんからは、ご両親を尊敬する姿が自然と伝わってくる。

今日はKさんと連立って、おでんと刺身で昼食。午後は揃って般若さんの工房を訪ねた。家具と音楽は、触覚、聴覚と人間の感覚に訴える部分だけでなく、歴史や時間を裡にしみ込ませるところも似ていて、思いがけぬ相似に膝を打つ。
会場で池辺先生に再会。お元気そうで嬉しい。同門の兄弟弟子を標榜するのは流石に気が引ける。

3月某日 三軒茶屋自宅
朝は自転車でトップに出かけて、コーヒー豆を購う。
息子が、室内楽クラスのため、カスティリオーニの11Danze per la Bella Verenaを譜読み中、と家人より連絡あり。ベートーヴェンの4番、シューマンの1番ソナタの次がカスティリオーニなのは面白いが、高校生の時分からカスティリオーニに親しめる環境は、羨ましい。

久木山さんと一緒に演奏家を集めてカスティリオーニの「マスク」を演奏したのは、高校生活の終わりだったか、大学入学後だったか。パート譜を切り貼りし、移調楽器は手書きして、友人の演奏家たちに些少の交通費と打上げの飲み代で手伝ってもらった記憶が甦ってきて、今更ながら申し訳ない。
息子が二重奏を組むヴァイオリンのサラは、お母さんがファゴット奏者で、学生時代カスティリオーニに作曲を習っていたと言う。家人曰く、息子はカスティリオーニ向きらしい。

3月某日 三軒茶屋自宅
チャップリンの名作は沢山あるが、「独裁者」がどうしても忘れられないのは、有名な演説の場面が心に焼付いて離れないからだ。彼の言葉にも表現にも、戦争を生きた人間だけが知る真実が籠っている。

同じように、言葉のもつ強度を、ゼレンスキーは多分よく理解している。チャップリンは、行方知れずの恋人を想いながらラジオに向かって言葉を紡いだが、ゼレンスキーは、国外の会議にインターネットで参加しながら、たとえ相手が集団であれ、相手の顔を見ながら話しかける。
内容は全く違うけれど、スピーチライターは、チャップリンが演説で訴えかけた、あの言葉の力を信じているのがわかるし、ゼレンスキーもその期待に応えていると思う。
音楽家が政治家になる例は、俳優に比べればずっと少ないが、共通する何かは見出せるのかもしれない。音の持つ強さや、場合によっては恐怖についてすら、我々は十二分に認識している。

3月某日 三軒茶屋自宅
町田の両親宅で使っていたプリンターが壊れたので、結局新調し、設定しなおす。特に、父のコンピュータ設定に時間がかかったので、終電を逃して三軒茶屋に戻れなくなった。仕方なく母の隣に布団を敷いてもらい町田に泊まる。コロナ禍が始まり、両親宅に泊まることも金輪際ないと思っていた。思いがけず母の寝息をぼんやり聴きながら、夜半、感慨に耽る。
ウクライナからイタリアへの難民は、今日の時点で63104人に上る。そのうち32361人が女性で5592人が男性、25151人が未成年だという。イタリアの厚生省初め政府各省庁のインターネットサイトには、ウクライナ難民や受入れ先の情報が多数掲載。

3月某日 ウィーン行機内。
昨晩は会場にて悠治さん美恵さんに再会。「今度また三軒茶屋で食事でもしましょう。もうすぐ月末ですよ、原稿よろしくね」。

離陸後25分程が経過していて、もうすぐ金沢小松空港上空に到達するところ。すばらしい演奏をして下さったアンサンブル金沢のメンバーはまだ東京にいるに違いない。
演奏会前、控室で垣ケ原さんとゼレンスキーの国会演説を聴いた。予想より冷静な印象を受けた。
ピアノの亀井さんの素晴らしさは、敢えて残しておいた最後のパズル一枚を、演奏会ですっと嵌めて披露してくれるところ。

現在飛行機は西安、ウルムチ上空を通過し、タシケント方面に向かっているようだ。
何時か、平和裡に陸路を伝い、新疆ウイグル自治区やキルギス、カザフスタンを再訪できたらどれほど倖せだろう。往路に等しく感慨に耽る。
地図で少し上に目をやれば、ノボシビルスクやチャリャビンスクの地名が目に入る。確かにロシア国境に沿ってぎりぎりまで北上しながら進んでいるのだ。その現実を理解すると、少し緊張する。機長初め乗務員も、我々には思いもかけないさまざまな緊張に晒されているのかもしれない。

ノボシビルスクのもう少し東にある、クラスノヤルスクを最後に訪れたのは4年前だった。人々は変わらず温かく食事も美味で、オーケストラはすばらしかった。いつも満員の聴衆にも驚いた。地元クラスノヤルスクとポーランドの合同オーケストラのために仕事ができたのも、今となっては夢のようだ。弦楽器奏者ばかりで、ロシアとヨーロッパの奏法も違って面白かった。
演奏者たちは最初こそ言葉が通じず多少当惑していたが、一緒に弾くうち直ぐに打ち解けたのにも感激した。彼らは今、どこで何を思いながら生きているのだろう。

一日も早くコロナ禍が落着き、以前の生活に戻れるよう願いつつ暮らしてきたものの、凄惨な報道写真を毎日目にするようになり、それは不可能だと誰もが実感するようになった。我々が日々懊悩する虚しさの根源は、何よりこの事実かもしれない。
現在進行中の世界の紛争はウクライナ侵攻に限らない。確かにウクライナの規模は桁違いだが、どんな戦争も等しく陰惨で、人の心を壊滅させる。

気が付くとトルコ上空を飛行している。黒海の対岸では、この瞬間も、醜い戦争に苛まれる無辜の人々が逃げ惑っている。やり切れない。

3月某日 ミラノ自宅
羽田を出てから25時間かかって、漸くミラノの自宅に着いたのは、深夜0時を回っていた。途中ウィーンで給油のため一度降機し、改めてフランクフルトを目指した。フランクフルト空港の荷物検査は、平時より些か厳しく感じたが、ウクライナの影響なのだろうか。
飛行機が遅れたので日付も変わって息子17歳の誕生日は少しだけ過ぎてしまったが、家族が揃うのを待っていた息子は、誕生日ケーキを食べずに起きて待っていた。コロナ禍に加えて戦争も勃発するなか、二カ月近く一人で暮らしていたので、半年ぶりに家族3人揃ったところで緊張の糸も切れたのか、息子は大人げなく愚図っている。

3月某日 ミラノ自宅
家の掃除を手伝ってくれているウクライナ人のマルタは、ウクライナに住む兄夫婦から15歳の甥と8歳の姪を預かっている。ちょうど彼らの授業のない週末だったので、マルタと一緒にやってきた。
先週だったか、義姉がウクライナから車を運転してイタリアまで彼らを連れてきて、彼女はそのまま直ぐにウクライナへ戻ったと言う。マルタの兄の具合が悪く看病しなければいけないらしい。甥っ子はヴィターリ、姪っ子はヴィクトリアという名で、兄は少しはにかんでいて、妹は闊達な印象を受ける。揃って利発そうな兄妹である。
毎日、彼らは午前中インターネットでウクライナの学校の遠隔授業を受けている。ヴィクトリアはここで算数の宿題をプリントして持って帰った。
マルタは家では彼らと戦争の話は一切しない。15歳のヴィターリはきっと事情も知っているだろうが、彼らも戦争については一言も発さないという。心中察するに余りある。

3月某日 ミラノ自宅
サンドロ宅で日がな一日レッスン後、久しぶりに暫く話し込む。4月半ばから、3年近く中断していたホームコンサートを、少しずつ再開するつもりだという。試しに1回開催してみて様子を見る、とのこと。
「何しろ、件のオミクロン2が最近流行りだしたからね。これからどうなるかわからない。実は昨年秋にウクライナのオデッサに旅行を計画していたのだけれど、ウクライナのワクチン接種率がとても低いと聞いて、取りやめたんだ。そうしたら、戦争が始まってしまった。もう以前の美しいオデッサの姿はなくなってしまった。もう訪れることもままならない。本当に悔しい」。
「その上、ヨーロッパ中に哀れなウクライナ難民が溢れかえっている。彼らの大部分はワクチン未接種に違いない。正直なところ、今後何が起きるか不安なんだ」。
東京から戻った翌々日学校に赴くと、帰伊を喜ぶ同僚に交じり、一人の同僚は「日本の新変異種を持って帰ってきてなければいいけどな」と冷笑を残してエレベーターに乗込んだ。

3月某日 ミラノ自宅
日本では一日の感染者数が微増傾向との報道。今日のイタリアの状況は、新感染者数が73195人、死亡者159人、重症患者数46人増とのこと。一週間平均で言うと、新感染者数は一週間前の1.6%減、陽性率は2.5%減だという。
突然の政府発表により、4月初日からワクチン未接種者の職場復帰が許可されたので、一時的にワクチン反対派の教員分を外部から補填していた音楽院も対応に追われている。
政府は当初、今年上半期のワクチン未接種者職場復帰はないと明言していたので、国全体がそれに併せて采配を下していたはずだ。恐らく国全体が混乱を来しているに違いない。
「自分はコロナ禍前のイタリアの姿が見られて、本当に良かったです」。
レッスン後、コーヒーに誘った浦部君が呟いた言葉がわすれられない。

エミリオからの便り。
「ここ数日、どうにも困憊している。過労には違いないが、何より莫迦げた人間の行ないへの絶望の心緒が原因さ。この世界ときたら、人々の欲望と希望に火を点けるためなら、以前にも増して、どんな痛ましい道具であれ際限なく用意してみせる。それに気が付いてしまったからね。歳を取ったと実感させられるよ。より良い明日など到底見出せぬ現在の哀哭のなかで、生きてゆくことはできない。年長者の愛国-帝国主義的狂気のために、若人が命を落とすなど到底看過できない。
唯一納得し得る「祖国」の概念すら、我々個人がそれぞれ理解し得るものの筈であり、この惑星に於ける「祖国」の意味を、各人がそれぞれに解釈し得るものの筈だ。
どうしてそれを忘れられよう。生命ある上に於いて、我々などせいぜい蝶の羽ばたき一回分相当の時間しか与えられていない、ちっぽけな被造物でしかないことを、どうして忘れられるというのか」。

(3月31日ミラノにて)

209 黒雲の二刷り

藤井貞和

散会のあとから消灯する世界、終わる古い歌、
古い歴史、黒煙は空気の陰画、黒雲の二度目、
人類が滅ぶときに書く、正当な理由はなくて、
人類史を終わらせる、正当な理由がなくては、
軽犯罪としての侵攻が、ゆえなくして建物の、
船舶のページを消す、軽犯罪に潜む悲しみで、
地上がすこし固くなり、泥の海の引きかげん、
戦車のざんがいは兵士の妹たちののちである、
拘留や科料におびえる犯罪が終わる、劇場も、
産院も、吐き出す黒雲によって、空爆される、
神話の二刷りが届けられる、鉄器に轢かれる。
 

(〈返信メール〉あなたの連載月評の力作にふれてうれしかった。第二の詩集もありがとう。こういうおしごとや詩集が実ってゆくのはほんとうにうれしいこと。詩人がいま、この時、どういう、何をするという問いかけですね。全土が、焦土や、原発被災と化す。詩が何をしなければならないか、まったくわからない。避難の母子の疲労しきった表情を見るたびに、あなたの言うとおりです、詩を直撃するかのようだ。それが詩人の負い目なのだろう。私はあるサイトに、わずかにウクライナの音楽の出てくる作品を書きました。友人のサイトから、ウクライナのうたと竪琴と。ちらと「うた」が出てくるだけで、心がいっぱいになります。〈追伸〉物語はどこかで戦争に加担するし、うたも謳歌するときがある。私は物語とか、うたとか、これまで関与してきて、息をのむ思いがする。詩の相対的役割があるわけでなし。映画も物語です。内田樹さんはウクライナの映画を6本観たら、対露戦争が3本、飢えそしてカニバリズムが2本だったと言う。既視感のある対露戦争だと。こんな戦争と物語との悪循環を、断ち切りたい。うたも、悪循環でしょう。一九九九年のベオグラード空爆で、十四階からくれた、「こわくないよ、こわくないよ」というメールを思い出しながら。)

時間のキュビズム

高橋悠治

デイヴィッド・ホックニーの1970年代の実験に、joiner という数十枚のポラロイド写真を貼り合わせた作品群がある。20世紀前半のピカソやブラックのキュビズムでは、一つの対象を少しずつ角度を変えて描いた画像の貼り合わせだった。ジョイナーは、対象を見る視線の移動を貼り合わせたフォトコラージュで、その後には写真家のロス・C・ケリーのフォトモンタージュ、縫い合わされた (stitched) イメージ、イメージ列の試みがある。

ティム・インゴルドは 離れた点を直線で結ぶ networkと 短い曲線の絡まる網 meshwork を区別する。動かない点のある場所の配置を見るのか、動いて停まらない関係の変化を感じるのか。

一枚の絵を見る眼は、絵の枠の中で、自由に動き回る。動かず見つめる眼は、見る力を失う。眼の中心ではなく、端の方でチラリと動くものに気づくと、眼が動き、それが見えるようになる。そのときは、見えていたものは、もうない。あったはずの手がかりを追って動いていくのか、戻ってやり直すのか、2度目の道は、もう同じではない。これが「なぞる」ということかもしれない。カフカの日記を読んでいて、どこかに、einfallen と nachziehen という二つの動詞を見た。enfallen は偶然に出会うこと、起こること、nachziehen はなぞること、世界に従うこと、後になって読み返しても、この二つのことばは見つからない。検索をかけても出てこなかった。読んだはずのことばを確認しようとしても、見つけられないのは、何が邪魔しているのか。確認しようと戻ること自体が妨げなのか。思いなおすと、同じはずの道も、ちがう道になっていて、ちがうことばにひっかかりながら、ちがう方向に逸れているのか。

墨を少なめに浸けた筆で曲線をすばやく辿る。飛白、掠れ。速さ、不安定、変化。そのように、一枚の楽譜を読み、何回も読みなおす。反復ではなく、毎回偶然にちがう表れが、どことなく似ている。ウィトゲンシュタインの「家族的類似」というような。

2022年3月1日(火)

水牛だより

春三月の訪れは戦争とともに。予想していなかった展開です。予想できなかったのは、のんきすぎるからでしょうか。のんきに生きられる世界であってほしいです。

「水牛のように」を2022年3月1日号に更新しました。
月末の締め切りの少し前にウクライナで戦争が始まってしまったので、今月の原稿にはその影響があると思います。ここであれこれ云々するよりは、直接読んでいただくべきですね。まだ届いていない原稿もありますので、順次追加していきます。数日後に再度のぞいていただくようお願いします。

来月はどんな世界になっているのかわかりませんが、どうか更新できますように!(八巻美恵)

シリアのロシア人、すべては忘却のかなたへ

さとうまき

朝、今日もロシア軍のウクライナを攻撃のニュースを伝えている。プーチンはアサド大統領にとって代わり一気に世界の悪者No.1になっていた。

2018年9月にシリアに行った時のことを思い出す。ロシア軍の援護を受けたシリア政府軍は、ちょうど2か月前に、反政府軍の拠点となっていた南部のダラアとダマスカス郊外の東グータ地区を完全に制圧したのだ。ダマスカスでは、国際見本市も開催され、みな戻ってきた日常を楽しんでいた。ホテルにはロシア国旗が掲げてあり、お土産屋さんではアサド大統領とロシアのプーチン大統領の顔を印刷したグッズが売られていた。ロシア兵が町中を移動するのも何度か見かけた。

ロシアは、歓迎されていた。そして、反体制派のダラアでも、住民たちはロシアを頼りにしているという。
「弟が、シリア政府に捕まっているんだ。ロシア軍に、釈放してもらうようにアサド政権に圧力をかけるようにお願いしに行くんだ」という若者の話を聞いた。ロシアが憎しみ合っているシリア人達の間に入って調整しているのだという。
「ロシアの方が、アサド政権よりも、反体制派武将勢力よりも信頼できるよ」という話は何人かから聞いた。

 シリアに課された経済制裁とは?

シリアは、治安が落ち着いてきたものの、ヨーロッパやアメリカが課す経済制裁で国民の生活は疲弊している。もともとは、アサド大統領やその家族、側近の資産を凍結して、政権交代させようという狙いだったが、今度は国民も苦しめて、集団懲罰するという厳しい制裁に代わっていき、2020年にはトランプ政権下でアメリカがシーザー法という経済制裁をシリアに課した。

シーザー法の目的はアサド政権にシリア国民に対する虐待を止めさせ、シリアが法の支配、人権と隣国との平和共存を尊重するよう図ることで、そのために包括的な制裁を課す、となっている。しかし、経済制裁は貧しい人々を直撃した。

シリアの通貨は急落し(戦争前は、1円=0.5シリアポンドが今では22シリアポンド)、医薬品などの生活必需品の輸入がさらに困難になるとともに、物価が急騰し、国民生活の困窮は一層強まった。また石油・ガスが制裁の対象とされたことも日常生活に一層支障をもたらすことになった。さらに建設業が制裁の対象とされたことで、戦闘が行われた地域の瓦礫の撤去が進まず、国民の生活の基礎である住の確保が進まない状態にあるという。

Amazon Pay は、シリア、キューバ、北朝鮮、クリミア地域の原産物の取引には、利用できない規制を実施している。例えば、証券会社の友人は、「シリアと取引のある人はうちの顧客リストから外さなきゃいけないのですよ。もし株で儲けたいんなら、絶対シリアへの送金とかはやらないほうがいいよ」と忠告してくれる有様である。まあ、そもそもシリアでビジネスをやろうなんてリスクを冒したがるもの好きはほとんどいないから、こんなん話は知らなかった、ですんでしまう。

 貧しい人達が一番くるしい

僕はアレッポにすむ10歳の2人のがん患者の男の子の治療にかかる薬品購入や病院までの通院費、栄養を取るための食費などを2020年より支援している。ウエスタン・ユニオンは、シリア人個人への生活費の仕送りは認めているからだ。

幸い(?)なことに600万人以上がシリア難民として国外に出ており、彼らの仕送りが国内にとどまった家族たちの財源になっているのだ。なので、親戚が海外にいないと大変なことになる。特に原油価格が世界的に高騰しておりエネルギー事情は危機的だ。

サラーハ君のお母さんは、内戦で夫が行方不明になり、ダマスカスの病院までサラーハ君を月に2、3回は連れていく必要がある。タクシーで往復10時間ほどかかってしまう。小さい子ども達がいるので、日帰りで治療に通っているのだ。

「私たちの家は、壊されてしまいました。住むところがないのですが、幸いなことに廃墟になった地域のアパートを家主さんがタダで使っていいと言ってくれました」電気が止まっているという。暖房はどうしているのかと聞くと、
「政府が、補助金を出してくれて1リットル25円で売ってくれますが、50リットルまでしか買えないので、もう使い切ってしまいました。町で買うと1リットル300円もします。とてもじゃないので買えないから、洋服など燃えるものは全部燃やしています。」

シリアのストーブはいまだに昔のだるまストーブで、確かになんでも燃やせるのだ。もう燃やす服もないという。近所の人が古着をくれたり、サラーハが外で燃えそうな木やプラスチックを拾ってくるそうだ。

今年に入り悲しいニュースが入ってきた。トルコ軍が展開している前線近くに住んでいるもう一人の患者イブラヒム君の様態が急変した。イブラヒム君の家はこれまでも何度か爆撃されている。一時は国内避難民キャンプで避難生活を送っていた。クルド人が多く住むので、トルコが度々攻撃のターゲットにしているようだ。朝起きると、イブラヒム君は鼻血をだし、全身の毛細血管が切れて内出血が始まった。病院に搬送して血小板の輸血をするが、様態は悪化して夜には亡くなったというのだ。

僕は、呆然としてしまった。今はシリアに行けないが、毎月送られてくる子どもたちの元気な写真を見るのが楽しみで、いつかシリアに会いに行こうと思っていたからだ。お父さんは、公務員として働いているが、墓を作るお金もないので、何とかならないかと言ってきた。1月分の送金を終わらせたばかりだったので、そこから墓を作ってもらい、残りは、サラーハ君の家族にも分けて、灯油を買ってもらうことにしたのである。

そして、ロシアがウクライナに侵攻し、今度はロシアに対する厳しい経済制裁が課されることになった。シリアの経済にどのような影響を及ぼすのかわからない。プーチンも気が狂ったのか? シリアではアメリカよりうまくやってきたのに、ロシアが失うものは大きい。

アメリカもロシアもシリアにはしばらくかかわってられないのを見越してか、今度はイスラエルが頻繁にシリアを空爆しだした。イランが配備している軍事拠点への攻撃である。もうシリアではとっくに民主主義を求めた革命を支援するなんていう文脈は忘れ去られ、それぞれが好き勝手に攻撃をしているのである。そして、忘れ去られたのは、貧しいシリアの人達である。

しもた屋之噺(241)

杉山洋一

春の訪れなのか、この処強い風に煽られる毎日が続いています。見渡すアパート群から電灯もすっかり消えた夜半の漆黒の中、低く息吐く風の音だけ、どこか虚ろに響き渡ってゆきます。

2月某日 羽田ホテル
ラヴェル「左手」和声備忘録。
一切無駄なく理知的且つ合理的に並べられるさまに驚嘆。3度集積された和音も基本的低音進行も先日のプーランクを思い出すが、実際浮かび上がる和声がまるで違うのは何故か。
プーランクは、シューベルトの影響か、伝統的カデンツを平行調性域を押し広げつつ並べてゆく。ラヴェルは集積和音それ自体を旋法として扱うので、巨視的には従来のカデンツであっても、一つの和音に対し一つのパネルを宛がう。
プーランクは3度集積和音を属和音の緊張や方向性を高めるために用い、ラヴェルは寧ろ和音を集積させることから、緊張を飽和させ解放する。
だから、従来カデンツが規定してきた音楽の尺に左右されず、同和音を帯状に拡げるのも容易で、その延長線上にスペクトル作法が誕生したのも自然な成り行きだったと理解される。「左手」の時代ラヴェルはジャズに影響を受けていたから、テンションコードを、3度集積と非和声音の同時発音の収斂点として分析的に扱うことで、自らの語法として咀嚼している。グリゼイ「時の渦」の出現は、必然だったのだろう。
ラヴェルより若い「六人組」の作家たちが、ジャズや複調、集積和音を使用しても、後のフランス現代音楽と袂を分かち、あくまでも近代フランス音楽の延長線上で作曲していたのは、彼らが従来の下部構造の尺、カデンツがアプリオリに規定する基本フレーズの長さを踏襲していたからかもしれない。その意味に於いて、ドビュッシーやサティは、寧ろ現代フランス音楽にずっと近しいのではないか。
ラヴェルと同世代で親交の深かったカセルラがイタリアで近しい立場なのは偶然だろうか。カセルラが存在によって、現代イタリア音楽は存在している。彼がいなければ、恐らく全く違った方向に進んでいたに違いない。
ラヴェルの無駄のないオーケストレーションに見惚れる。
Covidホテルの居心地は悪くない。肉が食べられないと伝えると、ヴィ―ガン弁当が用意されていて、美味。弁当は温かくないので、携帯した即席スープを添えて食べる。

2月某日 羽田ホテル
あの世がどんなものか知らないが、地球上から人間だけがいなくなったなら、地球上には、生きる動物たちのまにまに、透き通った我々の精神だけが犇めくのだろうか。それとも、宇宙まで空間は無限に広がっているから、それほど窮屈な思いもしないで、皆それぞれに居場所が見つかるのだろうか。いつでもどこでも会いたい人に会えて、安寧な世界なのだろうか。
ある人から、あちらの世界では、リストが音楽家たちの世話役になって、さまざまに面倒を見ているらしいと聞いたが、一度足を踏み込んだら永遠にそこに留まっているのだろうか。著作権のように、500年も経てば存在は次第に消えてゆくのだろうか。どうもリストがペロティヌスやマショーの面倒を見る姿は想像できないのだが。
恩師曰く、自分が死んだら杉山に玄関で見張りをさせ、自分の亡骸が家に入るのは絶対人目に触れさせないように、と夫人に伝えていらしたと聞いた。真面目に仰ったのかもしれないし、少年のような遊び心も多少交じっていたのかもしれない。今度あちらで改めて伺ってみたい。

2月某日 羽田ホテル
時差ボケを曳きずり朝4時前まで仕事していて寝ようすると、アルフォンソから電話がかかる。「山への別れ」演奏に関しての質問など。元気そうだがCovid陽性で自宅待機中だという。その後で漸く眠り始めると、朝5時過ぎ、今度は一人ミラノに残る息子から電話がかかってきて、ベッドが壊れたという。支板が外れたがどうしたらよいか、とのこと。
町田の両親、3回目接種完了。
一週間のCovidホテル暮らしは、少なくとも自分にとっては悪いものではない。一人で過ごす時間も、静かに頭を休ませる時間も必要だったと気づく。不自由なのは、身体が動かせず、温かいものが口に出来ない程度。
オミクロン株による東京感染拡大はほぼ頂点に達したとの報道。

2月某日 三軒茶屋自宅
自宅待機解除。カジキ鮪と菜の花、それに大根と茸とトマトでパスタを作り、刺身を軽く炙りレモンとオリーブ油を垂らして主菜とした。
昨日はシラスと菜の花、トマトでパスタを作った。日本でイタリア料理を作るのなら、作りたいもののイメージさえしっかりしていれば、日本の美味しい野菜を存分に使って作る方がよほど美味である。
ピーマンも茄子もズッキーニもイタリアと日本では味が違うし、触感こそ違えども、日本の大根はイタリアのズッキーニよろしく甘みがあり気軽に使えてよい。ズッキーニのとろみはないので、パスタの茹で汁を多めに使ってとろみをつける。

川口さんから「山への別れ」の録音が届く。自分が思い描いていた音楽の流れそのままだったので、愕いてしまった。自分の想像通りの演奏でなくて構わないのだが、ある程度緩い指定で書いて、自由に弾いてもらう程度で丁度よいのかも知れない。平井さんに深謝。
一週間のヴィ―ガン弁当生活で3,4キロ痩せた。体調頗る良し。

2月某日 三軒茶屋自宅
自宅待機が解けて、父に誕生日祝いを届ける。平井さんに2回お電話したが、呼び出し音だけでどなたも出られなかった。2回目にかけた時は、呼出し音が鳴り始めたかと思うと、すぐに無音になった。平井さんが受話器の向こうで「そりゃあ通じるわけがないでしょう」と何時もの口調で話しているようで、電話を切る。仕方がないので、メールを書いた。
「平井様 大変ぶしつけながら、ご家族のどなたかにご覧いただければと思い、お便りさしあげます」。こう書いていると、なんだか不思議な心地になった。
夜、奥様からお電話をいただき、暫くお話しする。
ヴィオラの般若さん曰く、河の向こうとこちら側は、思いの外近いはずだというが、案外そんなものかもしれない。
大学生のころ、とてもお世話になったヴァイオリンの高橋比佐子ちゃんが肺癌で永眠していたと聞き衝撃を受ける。彼女には弦楽合奏曲のトップを何度もお願いしたし、ピアノトリオも何度か弾いていただいた。何十年も会っていないが、彼女の音は忘れられない。
はにかみながら、「杉山氏はねえ」と少し首を傾げて話すさまが思い出される。上品でまるで現代作品など弾きそうにない風貌なのに、いつも見事な演奏を披露してくれた。素晴らしい演奏家だった。同い年だと言うのに、俄かには信じられない。

2月某日 三軒茶屋自宅
エミリオの義弟にあたるフェデリコ・アゴスティーニさんが名古屋に住んでいて、久しぶりに再会できると互いに楽しみにしていた。ヴァレンティ―ナのイタリア語に似て、親しみ深いが海外生活の長いイタリア人らしい丁寧な文章のやりとりが印象的だ。首都圏に少し遅れてこの処中京圏は感染が一気に拡大している。

2月某日 三軒茶屋自宅
昨日は悠治さんと美恵さんと三軒茶屋で再会。しもたや240回記念で、健啖家の悠治さんはロコモコ完食。素晴らしい!
「どうということもない時間をともに過ごせるのを、こんなにぜいたくだと感じるなんて。世界はやはりおかしいですね」と美恵さんよりメッセージ。
日本国内全体の死亡者数も一昨日は236人、昨日は230人、今日は270人と上昇していて、思わず先月のイタリアを思い出す。

2月某日 ミラノ自宅
殆どを自主隔離に費やした日本滞在よりミラノに戻ると、思いがけぬ開放感に感動する。タクシーの運転手曰く、目下の心配事はウクライナ情勢だそうだ。もしものことがあれば、今年急激に値上がりしたイタリア国内の経済がどうなってしまうのか、ガソリンなど到底払えなくなるのではないかと話す。
庭の樹に棲んでいた3匹のリスは留守中に引っ越ししたようで、別のリス2匹が代わる代わるクルミを食べに来る。クルミをもって庭に出るだけで小鳥たちが近くの梢に飛んでくるさまは以前と変わらない。春が近づき動物たちの食欲も増しているように見える。

阪田さんがV.ヴィターレ(Vincenzo Vitale)の孫弟子とは知らなかった。彼は小学生の頃から大学生途中まで西川先生に習っていらしたそうだから、筋金入りの孫弟子。ヴィターレはカニーノさんの師という印象が強いが、彼こそ、マルトゥッチと同じくB.チェージ(Beniamino Cesi 1845-1907)直伝のナポリ式ピアノ奏法をF.ロッサマンディ(Florestano Rossamandi1857-1933)から受け継ぎ、こうして後世我々にまでピアノ奏法を伝えてくれた。
日本国内の死亡者数発表が322人と聞き、おどろく。

2月某日 ミラノ自宅
久しぶりに学校にてレッスン。反ワクチン派のMがピアノを弾きにきてくれたが、顔からすっかり生気が抜け、表情がなく、心ここに在らずに見える。気まずい思いをしながら一日何とかレッスンをする。
夜、MAMUにて、チェッケリーニ親子の追悼演奏会。フランチェスコが「河のほとりで」を、アルフォンソが「山への別れ」を弾いた。アルフォンソは秋にバーリでリストと一緒に「山への」を再演するつもりらしい。
クローズドの演奏会だから、集う聴衆はみなチェッケリーニ家に近しい人ばかりだった。演奏前、ティートは我々が若かった20数年前の昔話をする。まるで兄弟のように毎日喧々諤々やりながら過ごしていたっけ、と笑った。
ダヴィデがリスト「アンジェルス」を弾くのを見ていると、イタリアに来たばかりのあの頃の友達が、昔のように一堂に会しみなが楽しそうに弾いたり話したりしている。
唯一違うのは、ティートのお父さんと妹がそこにいないことだけで、それがひどく不思議に感じられるのだった。
こんな風に友人やティートの家族と抱擁して旧交を温めたのも久しぶりだった。以前はこうして誰とでも気軽に触れ合えたのが、この数年ですっかり変わってしまった。

2月某日 ミラノ自宅
2年前から教えてきた学生たちに、試験で初めて会う。2年前からずっと遠隔授業が続いていて、去年は試験もズームだったから、彼らに会う機会は皆無だったのだが、実際に面と向かうと、全く違う印象を受けたりもする。
2年間ずっと南部の片田舎にある実家で遠隔授業を受けていた学生が、いきなり目の前に現れるのも現実感がなくて不思議だったし、いつも授業は自室でリラックスして受けている学生が、試験だからか、思いの外真面目で緊張した形相で部屋に入ってくるのも愉快であった。
対面で試験をすると、遠隔よりずっと手際よく進むのも意外だったが、何より衝撃を受けたのは、2年前から遠隔授業を始めてみて、明らかに対面授業よりも学生の進歩がずっと速いことであった。こんな虚しい事実は認めたくないので、今年だけは特別だと思いながら続けてきたが、接続状況が不安定だったり、音も聴き難いはずなのに、遠隔授業は明らかに学生に集中させる効果があるようだ。ただ、結果だけ良ければそれでよいのかと問われれば、答えに窮する。教室で学友と触れ合い発見する喜びも絶たれてしまうのだから。

2月某日 ミラノ自宅
ロシア軍ウクライナ侵攻。
2年前に書いた「自画像」を見返すと、ホルンセクションは、2008年南オセチア紛争のグルジア国歌から次第に変化し、2018年ウクライナ国歌で終わっている。
2014年のウクライナ騒乱から2018年のクリミア危機を併せて、少しずつウクライナ国歌へと変化してゆく。同じ部分、チェロセクションは現在は禁止されている香港「願榮光歸香港」を弾いている。
前回はここまでで筆を置いたが、やはりこの続きは書かなければいけない、と思う。社会に何ら役に立てないのなら、せめて後に何かを辿れる痕跡くらいは残す必要はあるだろう。
福田さんのギター新作も、構想から改めて考え直そうと思う。ただ音符を置くだけでは、自分を欺いている気がする。どうしても書かなければいけない何かに突き動かされたものでなければ、自分の裡の何かが、自らを許さない気がしている。

2月某日 ミラノ自宅
家の片付けを手伝ってくれるアナが手術して休養しているので、ウクライナ人のマルタが代わりに手伝ってくれている。
彼女の義兄は外科医で、現在、場所が知らされない前線の野戦病院にて傷痍軍人の手当てにあたっている。以前の紛争時も同じく前線で軍医を務めていて、毎日、手足を失った兵士などの看病にあたっていたそうだ。
何年かして家に帰ってくると別人のように精神を病んでいて、その後何年もかけて漸く元気になったと思ったのに、また今回の戦争で招集されてしまった、と落涙。
彼女はルビウ出身だが、ルビウの山岳地帯に住む有名な占師が何度占っても、この戦争はウクライナが勝利すると出るから、絶対に負けるはずがないと言う。
指揮を教えているキエフ生まれのアルテンにも連絡したが、アルテンも彼の奥さんも現在はイタリアにいるから安全だし、アルテンの両親はキエフから早々に安全な場所に疎開したので大丈夫です。ご心配有難うございます、と返事がくる。文末には「Forza Ucraina!ウクライナ頑張れ!」と書いてある。

2月某日 ミラノ自宅
昨日は一日サンドロ宅でレッスン。マッシモとY君には、指揮棒の中に音を入れる、棒で音を集めるスタンスで指揮してもらった。
表現する気持ちが先走ると、感情が空回りして棒で音を拾いきれなくなるので、順序を整理して、先ず音を拾い、拍と拍の隙間から、シャボン玉に息を吹き込む要領で、すっと感情を滑り込ませ、音の向こう側で膨らませて演奏家を包み込んでみよう、と試す。

秋からバチカンで司祭になるための神学校に入るアレッサンドロがモーツァルト40番を持ってきた。彼は、先日スカラでゲルギエフが振った「スペードの女王」を見に行ってきたそうだ。新聞で書かれているように、開演時、ゲルギエフが指揮台に立つと、劇場中からブーイングが沸き起こったという。言うまでもなく、ゲルギエフがプーチンに近しい関係だからで、この数日間で、カーネギーホールでもウィーンでも同じ理由からゲルギエフは演奏を降板している。
ミラノ市長ベッペ・サーラは、ゲルギエフがロシア軍のウクライナ侵攻を咎める発言をしなければ、残りの「スペード」公演の指揮を許可しないと宣言した。
兎も角、アレッサンドロ曰く、それは素晴らしい公演だったそうだ。言尽くせないほど信じられないような素晴らしい3時間を過ごした、と感無量の表情で語る。
「いくら政治的な理由があるにせよ、音楽家と政治家を同次元で扱うのは違うと思う」
と言ったのが、この通世を捨て聖職に就きたいと願っているアレッサンドロだったので、何とも不思議な心地がした。それだけ演奏が素晴らしかったのだろう。
自分には何が正しいのか判断できないが、これが音楽の力なのかもしれない。
そこに居合わせた他の学生たちは、「気持ちは分かるが、今回のような特別な状況において、音楽と政治を切り離すべきかは、慎重に考えなければいけない」と口を揃えた。
スカラの次の演目「アドリア―ナ・ルクヴルール」の、アンナ・ネトレプコ、ユシフ・エイヴァゾフ夫妻の処遇も不明だ。
ナポリの広場で、ウクライナとロシアの女性二人が口論しているヴィデオを見た。ウクライナの女性は、「ロシアがわたしたちの子供を殺戮している、人殺し」と叫び、ロシアの女性は、「それはわたしたちも同じよ、わたしたちの子供も殺されているのよ。悪いのはプーチンよ。ロシアじゃないわ」。二人とも涙を流しながら、言葉にならない叫びを続けていた。

2月某日 ミラノ自宅
今日からロンバルディア州はホワイトゾーンとなる。一寸信じられない。
レプーブリカ紙一面の写真。ウクライナ西部スロヴァキア国境の街ウジホロドの広場では、市民が集って、空き瓶に発泡スチロールをつめ火炎瓶を作っている。
アムステルダムから日本に向かっていたKLM機がロシア上空の飛行禁止に伴い出発地に引き返したそうだ。EUとカナダはロシア機領空飛行禁止。ロシアはEU航空機の領空飛行禁止。SWIFTよりロシア排除。中立国スイスはロシア資産凍結、同じく中立国スウェーデン、フィンランドもウクライナに武器供与。アメリカ、オーストラリアなどロシア滞在中の自国民退去を勧告。ウクライナEU加盟申請提出。

(2月28日ミラノにて)

むもーままめ(16)隣人を愛しなさいの巻

工藤あかね

              り 
                    ん
                          じ
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               つ
          か
                し
                       い                                                             か
                                    ぞ
                                く
                        で
                       さ
                      え

       お も い が

          つ 
           た
            わ
             ら   な い
                        と き  が あ る の だ も の

                 で
                 も

              ど     う      か
                   

                  あ い し て

                せんそうなんか しないで

『アフリカ』を続けて(9)

下窪俊哉

 先月(2月)、『アフリカ』vol.33を出した。表紙には黄色の紙を使い、その中には切り絵のカマキリがいて、例によって「2/2022」という発行年月のみが書かれている。初めて読む人には何の本なのか、表紙だけでは何ひとつ伝わらない。
 開いてみると、最初のページには写真がどーんと置かれていて、その中に文字が見える。装幀の守安くんが撮った写真を使わせてもらった(他にも数点あったので、雑誌の中ほどのページに置かせてもらっている)。この時代を表すような写真で、じっと見てしまう。
 続いて出てくるのは、犬飼愛生さんの新連載「相当なアソートassort」の第1回で、「応募癖」というタイトルの短いエッセイ。詩人の犬飼さんは昨年、アフリカキカクで『それでもやっぱりドロンゲーム』というエッセイ集をつくったが、その中に詩の話は殆ど出てこない。「応募」も詩の文学賞に限らず、「癖」のように出してしまう。
 その後に目次がくる。目次の隣にはいつも、かかわっている人たちのクレジット・ページがあるのだが、今回も途中から怪しい団体名が出てきたりして大いにふざけている。
 最初のページから紹介し始めてしまったが、どこから読んでもいい。編集後記(最後のページ)を最初に読むという人は多いようだし、最近は「校正後記?」というページもあるので、そこから読むという人も出始めたようである。

 例によって『アフリカ』は何も決めずに、つくり始める。まずは声をかける。声をかける人のラインナップは前号の続きという風だけれど、最近は書いていなかった人や、まだ書いたことのない人でも何かの連絡をするついでに声をかける場合がある。ようするに気まぐれで、適当だ。「お元気ですか?」に始まる、何ということもない連絡なのだが、「また『アフリカ』をやりますよ」と付け加えることは忘れない。

 今回、最初に原稿を送ってきてくれたのは宮村茉希さんで、未完成の短文をふたつ、読ませてもらった。「文章教室に持ってゆくようなつもりで」とのこと。私のやっている文章教室では、多くの人が書きかけの文章を持ち寄る。でもそれでは『アフリカ』には載せられないので、いま、書き上げられそうな方に取り組んでみて、ということになる。その結果、「マタアシタ!」が生まれた。タイトルを見た瞬間に、あ、今回の『アフリカ』のラストはこの文章になるのかな、と感じた。伊勢佐木町で三代続く実家の印刷会社を、幼い頃の自分の記憶を元に書いたエッセイで、彼女はきっとこれからこの続きを書くだろうという気がする。
 次に届いたのは、UNIさんの短編小説「さらわれていた朝」で、これは完成形に近い状態で届いた。こどもの頃に短時間「さらわれた」思い出があるらしくて、その恐怖を思い出して書かれたそうだ。奇妙な夫婦関係、本当に存在するのか不安になってくるような隣人との関係、インターネット空間で行われるふわふわとした交流が、「さらわれていた朝」の背景にひろがっている。
 同じ頃、犬飼さんから詩とエッセイが届いた。エッセイは冒頭で触れた「応募癖」。詩は、今回は掲載を見送ったコロナ禍を書いたもので、感想を返したら「見抜かれてるね」と返事がきて、「じつはもうひとつ書いている詩があるんだ」と送られてきたのが「美しいフォーク」。犬飼さんの最新詩集に入っている(もともとは『アフリカ』に載せた)「おいしいボロネーゼ」のアンサー・ソング的な作品で、マ・マーを茹でて、食べるという日常風景に家族の歴史を重ねている。最後の連が鮮やか、と思ったのは、おそらく母の声が聞こえてくるからではないか。

 ところで、最近の私は『アフリカ』の中でよく喋っている。その間に、必ずといっていいくらい別の本をつくっているので、その宣伝というか、記念というか、後日談というか、オマケというか、そういうページをつくりたいと考える。その本をめぐって誰かと話す、というのはアイデアとしては平凡だが、やってみると楽しいので、やってみましょうかということになる。今回は『それでもやっぱりドロンゲーム』の楽屋話と、『珈琲焙煎舎の本』に収録できなかったアウトテイクを載せた。本当はもうひとつ、ある人へのインタビューがあったのだが、お蔵入りさせてしまった。対話が満載の「対話号」にしようというアイデアもあったのだが、考え直して、止めたのだった。
 いまは、書くひとが自らの内にそっと降りてゆくような文章を、もっと読みたいし、自分も書いてみようと思った。「なぜ書くか/なにを書くか」という問いかけを置いて、まずは年末にオンラインの文章教室をひらいて、手応えがあったので、その過程で生まれたエッセイを今回の『アフリカ』の前半に並べた。
 年末の文章教室に出された文章は9つあったが、その文章だけ単体で(説明なしに)読むことが出来て、完成度の高いものを選んだら、UNIさんの「ほぐすこと、なだめること」、堀内ルミさんの「書くことについて」、私の「船は進む〜なにを、なぜ書くか」、田島凪さんの「むしろ言葉はあり過ぎる」の4篇になった。
 同じ問いかけを元に書かれた文章だけれど、それぞれの人生の「書く」現場が立ち上がってきていて、そこで起こっていることは、ぞれぞれ違う。
「どうしてわたしはこんな辛いことの多いものに希望をもってしまうのか」と書くUNIさん。「困難を多く与えるけれど世界が美しく見える目をあげようと、神様はきっとそうおっしゃったのだ」と書く堀内さん。「自分が書き残さなければ脆くも失われてしまう」と書いた自分。「病気になってよかったと思ったことは一度もない」と書き、「言葉が怖い」とこぼす田島さん。
 こうやってふり返ってみると、しかし共通する何事かも感じられてくるようだ。

 そうこうしていたら、いつもイラストの仕事をお願いしている髙城青さんからメールが届いた。今回の『アフリカ』にはまとまった原稿を書けず、漫画も描けなかったけれど、ちょっと書いたので読んでほしい、と。「ねこはいる」は、昨年亡くなった父親の不在と、数年前から飼っている猫との暮らしを書いた短文で、句点がなく改行が多いのはメールの文章だからだ(私は日本語の文章に、句読点が絶対に必要だとは思っていない)。その文章に寄り添うような、猫のイラストも描いてもらった。
 それから自分は、『珈琲焙煎舎の本』のアウトテイクを載せるついでに、10年前、お店がオープンした頃のことを書いておきたいと思った。やっているうちに、日記風にするのはどう? というアイデアが自分の中に浮かんできた。2011年11月12日、珈琲焙煎舎のオープン2日目に顔を出した時から始めて、12月後半のある日までを、当時に戻って日記をつけるようにして書いた。10年後に、どうしてそんなものが書けたのかというと当時、毎日書いていたブログがあったからだ。それを見ていたら、忘れていたいろんなことが蘇ってきた。
 あとひとつ、最後に潜り込ませたエッセイの小品は芦原陽子さんの「なくした手袋が教えてくれたこと」で、小さな違和感と向き合った、この冬のある時期の話。

 雑誌が完成すると、まずは書いてくれた人たちに送って、読んでもらうのが楽しみだ。ウイルス騒動が続き切羽詰まったような状況の中、「生きる」ことを感じさせる作品が並んでいる、と話してくれる人あり、そうか、そうかもしれないな、と思う。家族のことを書いた原稿が多いね、と指摘してくれる人もあり、そういえばそうだ、と思う。いつも楽しみに待ってくれている読者の皆さんからはご注文をいただいて、お送りする。初めての方からのご注文も、ぽつりぽつりといただく。
 SNSやメールで感想が送られてくることもある。ハガキや手紙もたまにいただく。
 読んで話し合いたくなるのだけれど、うまく言えない、という方あり、焦らずゆっくり読んで、書いてくださいね、と返事を出す。今回の『アフリカ』はひと味違う、という話をしてくださる方も数名あり、そうかな、と思う。でもそうなのかもしれない。自分としては毎回、少し違うつもりなのだ。一度読んで、えっ? となり、くり返し読んで気づくことがいろいろある、などと読書の経過を報告してくれる方もあり、面白い。

208 Ku・ro・ku・mo

藤井貞和

208というのは、休まずに続けて、
携帯で入稿したことも何度かあって、
この、何だか「黒雲」と書きたくて、
パソコンがまったく機能しなかった、
一週間は歌を携帯で耳に移していた。
ウクライナ語の歌を友人のサイトが、
教えてくれる、「あなたが必要なの」、
と。ええ、あなたとは歌のことです。
私の枯渇を、黒い森の木が包むよう。
幹にうつほがひらく、黒雲を吐いて、
私を包む、吟遊の証し、うれしいな。
あしたになれば忘れられる、こんな、
きょうを忘れましょうと言うやつら。
57絃という、あなたの竪琴が祈る、
黒雲は私の祈りを包む。私の祈りの、
作詞や苦しみの睡りをさらに包んで、
57絃のしたから私を促すよ、さあ、
行け、きょうを忘れるな、あしたの、
平和は、黒雲のなかから生まれ出る。
きっとだよ、私のKu・ro・ku・mo。

(散会のあとに、わたしの黒雲が、ぼんやりとけぶって消えないね。消灯のまえを、講堂は発言だけがまだ響いてる。夜空をまっ暗に二分する第一の箱には廃案がいっぱい捨てられてる。今月は作品になりませんでした。)

仙台ネイティブのつぶやき(70)金魚のとむらい

西大立目祥子

仕事場の机に置いてある水槽を見て、はっとした。もう8年以上も飼ってきた金魚が、白い腹を横にして沈んでいる。あぁ…。1週間ほど動きが鈍く餌も食べなくなっていたのに、冬場に食欲が落ちるのは毎年のことだ、とあまり気にもとめずにいたのだった。

死因として思い当たることが、はっきりとあった。この冬の寒さがことのほかきびしくて、この部屋をほとんど使わずにいて金魚のようすをよく見ていなかったこと、そして2週間ほど、水槽の前のカーテンを日中も開けずにいたことだ。ただでさえ、寒い部屋で陽の光もさえぎられ、水温が下がり、食欲もなくなって、ついに命が尽きたのだろう。いつも昼間は、カーテンを大きく開け放ち、さんさんと水槽に陽が当たるようにしてやっていたのだけれど…。

実は、2月初めのこと、この机の上でひやりとすることが起きた。日中留守にして戻り机を見ると、紙が燃えたあとのような白く細かい灰があたりに飛び散っているではないか。え、何事!? 見れば、紙類を重ね入れていたダンボールの箱に黒い焼け焦げができている。間違いなく火が付いて燃えた跡だった。どういうことだろう。金魚の水槽に空気を送り込むろ過器はいつものように静かに動き、電気の配線に異常はない。もちろん、誰かが部屋に入り込み火をつけた気配もない。写真を撮りメールで送って家人に見せたところ、「収斂火災ではないか」という結論になった。ダンボールの焼け焦げが、直線的に2筋くっきりとついていたのがヒントだった。

収斂火災とは、レンズや鏡などに太陽光が当たり、屈折して1点に光が集中し起きる火災をいう。小学生のとき、凸レンズで光を集め紙を燃やしたあの実験と同じ原理で起きる火災だ。
ネットには、水を入れたペットボトルであっても、光が当たると数秒で火がつき、近くの可燃物に燃え移る実験のようすまで上げられている。たぶん、水槽の上に、小さなプラケースに水を入れ野菜の切れ端を差していたのに光が当たって、ダンボールに火が付いたのだと推理した。
じわじわ燃え始めたところで、雲が流れてきて日が翳ったのが幸いしたのに違いない。たしかにこの日は、春めいた光が差したかと思うと、数分後には大きな雲に太陽が隠れてしまう、そんな天気の変わりやすい日だった。

夏場よりむしろ日差しが低い冬の方が、太陽光が部屋の奥まで入り、思わぬ火災になるという。留守の間に住まいが全焼したかもしれない、と思うと何とも恐ろしい。しかも、その要因になるものが、レンズはもちろんのこと、ガラス玉、金魚鉢、ステンレスボウル、ステンレスのフタ、メイク用ミラーなどあれこれあって、用心するのもなかなか大変だ。最近は、どの家にも備えられるようになったアルコールの消毒液のボトルに陽が当たり、あわやということがあるらしい。窓辺近くの疑わしいものを片付け、ともかく出かけるときはレースのカーテンを引いて置こうと決めた。みなさまも、お気をつけください。

さて、机にはもう一つ、少し大きめの水槽があって、2匹のさらにドでかい金魚が泳いでいる。カーテンの隙間からいくらか陽が入るようにしていたせいか、こちらは無事に冬越しできた。同じようにホームセンターで買ってきたというのに、死んでしまった金魚が、冬場はてきめんに動きが鈍くなり食欲がガクンと落ち込むのに比べると、この2匹は冬でも食欲が落ちず、水槽のそばを通っただけで口をぱくぱくと開けて餌を要求してくる。いったいこの違いはどこからくるのか、とずっと謎だった。

思い当たるのは、死んだ金魚は最初の数ヶ月、庭の池で飼っていたことだ。春から夏の間だったけれど、朝、明るくなると目覚め、夕方、日が沈むと眠る。片や2匹は買われてきてからずっと水槽暮らしで、人の出入りに加え夜でも人工の明かりにさらされ、いわば体内時計はたぶんかなりめちゃくちゃ。池で育った金魚が野性味を残しているとしたら、こちらはかなり家畜化している。昼夜を問わず食べ、冬は餌を控えめにするのが金魚飼育の基本なのに、冬も旺盛な食欲を見せ、2匹とも20センチを超えるようなグラマラスな魚体になってしまった。

この一件があってからというもの、机の上から光るものははずし、水槽をのぞき込み2匹に話しかけながら餌をやっている。生きものはその動きをつぶさに観察し、個体個体の違いを理解し、昨日と今日の違いにすぐ気づくような眼をじぶんの中につくらなければ飼えないんだなと反省したから。金魚のような人と意思の疎通ができない小さな生きものであっても、死ねば、無理やり固いものを飲み込むような気分にさせられる。うっすらと雪のかぶる庭をスコップで掘り、土に埋めた金色の魚体はどこも傷んでいなくて、きらきらと光ってきれいだった。

言葉と本が行ったり来たり(7)『昨日』

長谷部千彩

八巻美恵さま
三月に入り、このまま春へ向かうと思いきや、ここ数日、冬に逆戻りの寒さでしたね。
ショートムービーは無事完成・公開へと漕ぎ着けました。先に視聴サイトのURLをお知らせしましたが、ご覧いただけたでしょうか。感想をお聞かせいただけたら幸いです。( https://www.watashigasukina.com/ )
今回の作品は、撮影機材の条件だけで、内容的には制約がなく、本当に自由に、作りたいものを作ることができました。監督は林響太朗さん。私は脚本を書きました。本読み、撮影にも立ち会い、演出にもかかわっています。
もともと監督は、私の掌編小説集『私が好きなあなたの匂い』の映像化を希望していたのですが、制作期間が限られていたこともあり、今回はショートムービー用のシナリオを私が書き下ろし、あのような形にまとまりました。監督とは、シリーズ化して、この先も一緒に映像作品を作っていけたらと話してはいるのですが、文章と違い、ムービーは資金が必要ですし、どうなることか・・・。でも、夢がなければ夢は実現しないという歌もありますから、ここは、この先も作るつもりです!と宣言しておきましょう。

 この作品を作るにあたって考えていたことを少し書きますと、ずっと頭にあったのは、”豊かさ”についての疑問でした。いまの時代を支配しているひとつの観念――有るということ、持つということ、それが数量的に多ければ多いほど良いという観念を、私はどうしても肯定できずにいるのです。あらゆる空間や時間をパラノイア的に埋め尽くしていく行為にも。会話にしても、丁々発止のやりとり、ああいうものを、私は心のどこかで疑っている。だから、台詞の少ない脚本を書くのは、私にとってとても自然なことです。そしてそんな脚本を書きながら、削いでいくことがふくよかな表現を生む――そういったものに私の興味が向かう傾向にあると気づきました。例えば日本画。例えば生け花。詩、香り、口ごもったひとの作る沈黙。この作品の制作中は、(高橋)悠治さんのアルバム『フェデリコ・モンポウ / 沈黙の音楽』をよく聴いていました。小津安二郎の映画も観直していましたし、大好きなアゴタ・クリストフの小説、『昨日』を読み返したのも、きっと無関係ではありません。彼女の場合、後天的に習得したフランス語で書くため、という理由はありますが、文章を飾ることを拒絶しているかのような極端に短いセンテンスーー私には、その一文、一文の間に、深い哀しみが、まるで水を湛えた川のように流れていると感じられます。解説で川本三郎は、≪アゴタ・クリストフの文学の特異性は、この手応えのなさにある≫と書いていますが、彼女の小説を読むと、重さのない球を投げつけられたような、重さがないのにその球が自分の胸に深くめり込んでいくような錯覚に陥ります。
澱みなく喋るのに何も語っていないひとがいる一方で、言葉少なでありながら多くを語るひとがいる。その裏腹なところに台詞を書く面白さがあるのかもしれない。そんなことを考え続けた二ヶ月でした。
ともあれ、ひとつ仕事が一段落したので、当分は文章を書くことに専念しようと思っています。日に日に軽くなっていく陽射しの中、ゆっくり本を読みながら。

2022.03.09
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(6)『「知らない」からはじまる』(八巻美恵)

コスモス

植松眞人

 最寄り駅から自宅までゆっくりと歩く。十五分ほどの距離なので自転車に乗ることもあまりない。コロナ禍になって仕事の後に飲みに行くことも減り、場合によっては週の半分ほどは自宅でオンラインでの仕事になることもある。どうしたって運動不足になりがちなので、駅まで十五分程度は歩いたがいい。そう思い駅からの帰り道は時々普段と違う道を歩いて遠回りをする。出勤時にも違う道を歩こうとして、道に迷い遅刻しかけたことがあるので、この密かな遊びは帰宅時だけと決めている。
 最寄り駅から自宅まで、最短のルートは駅前から延びている国道を歩き、そのままY字路を県道へと折れるルートだ。しかし、県道へと折れずに、そのまま国道を歩くと市が管理している自然公園にたどり着く。この公園の中を通って帰るルートが最近のお気に入りだ。
 少し遠回りになるので二十分から二十五分ほどかかるのだけれど、自然公園の遊歩道は左右にきれいな花が咲いているので気持ちがほんの少し晴れるようで気に入っている。
 その日も、自然公園を通って帰宅していたのだが、少し気温が低く初秋だというのに冬の気配が濃かった。ショルダーバッグをかけ直して、ズボンのポケットに手を突っ込むと少し歩く速度をあげた。足元にはポプラやイチョウの黄色い落ち葉が風に踊っていて、それを踏むと心地よい渇いた音がした。
 背の高い木々がアーチのようになった遊歩道を抜けたところに、小さな池があるのだが、その脇にコスモスばかりが植えられている花壇の一画があった。薄紅のコスモスが一斉に風にゆらされている風景は、日々の仕事への愚痴を噛みしめている下っ腹のあたりの嫌な力こぶのようなものを霧散させてくれる。
 しかし、今日は妙な違和感があった。昨日とは明らかに風景が違うのだ。まるっきり違うのではなくなんとなく違う。目を凝らしていると、昨日との違いに気がついた。コスモスの花の数が少ないのだ。半分ほどの花が根元に落ちている。畳二枚ほどの花壇なので、半分とするとどのくらいの花がなくなったのだろう。自然に落ちたのかと思い、近寄ってみたのだが、落ちている花はどれも茎がついていて、明らかに誰かが花を落としたように見える。おそらく、傘かなにか棒状のものを振り故意に落としたのだろう。落ちている花はどれもまだ生き残っている花と同じようにきれいで、落とされてまだ時間が経っていないことを教えてくれる。
 ときどき、コスモスの花壇を振り返りながら、先に進むとベンチがあった。いつもは誰も座っていないのだが、初老の男性が座っている。まだ季節的には少し早い気がする冬物のコートの衿を立て、いかにも寒そうに座っている。まるで、その男性の周囲だけ一足先に真冬になったような印象だ。
 その前を過ぎようとした時、男性の脇にビニール傘が立てかけてあるのが見えた。なんとなく反射的に、男性の隣に腰を下ろす。男性はいぶかしげにこちらを見る。他にもベンチがたくさんあって、そこには誰も座っていないのだから、当然の反応だろう。しかし、ビニール傘を見た瞬間に自然に腰を下ろしてしまったのだ。
「寒いですね」
 男性のコートの衿を見ながら話しかけてしまう。
「寒いですね。歳を取ると余計に寒い」
 男性はそういうと手に持っていた物をいったん膝の上に置いて、右手の平で、左手の甲をさすった。その動きで、男性の膝に置かれていた物が落ちる。それは、はらはらと舞うコスモスの花びらだった。男性の膝の上と、足元にいくつかのコスモスの花びらが落ち、男性は拾うでもなくそれを見ている。
 風が吹く。足元の花びらがこちらに吹き寄せられる。男性がコートの衿を引き寄せ肩をすくめる。こちらにやってきた花びらを拾い上げる。薄紅色が少し褪せている。通り過ぎてきたコスモスの花壇を見て、それから視線を男性との間にあるビニール傘に移す。その表面にコスモスの花びらが何枚か貼りついているが、さっきの風でそこに移ったのかどうかはわからない。じっと、その花びらをみていると、男性の手が伸びてきて花びらを払う。払った花びらが宙を舞い、そのうちの一枚が男性の手の甲に乗る。男性はその花びらを指先でつまみ、目の前に持ってきて、誰にともなく少ししゃがれた声で呟く。
「誰がやったのか」
 そう言うと男性はつまんでいた花びらを地面に落とし、膝の上の花びらも払い落として立ち上がった。その弾みにビニール傘が倒れ、私の足に当たる。(了)

リンゴ・スターの2月

若松恵子

居間の壁にかけている今年のカレンダーはザ・ビートルズ。「水牛」の原稿を送って、月が変わって、カレンダーをめくるのが楽しみなのだけれど、1月のジョン・レノン、2月のリンゴ・スターだ。

レコード屋で手に入れたこのカレンダーには4人そろった写真はなくて、ひとりずつの肖像が毎月を飾る。内省的なジョン・レノンにじっと見つめられて「あけましておめでとう」だった。2月にリンゴ・スターというのはぴったりな気がする。(2月はジョージ・ハリスンのお誕生日がある月だけれど)スーツにタイをきちんとしめて、櫛でとかしたばかりのような前髪で、リンゴが晴れやかに笑っている。まだ翳りも、憂いも無い頃のポートレイトだ。

ビートルズについて、熱心に聴きこんだファンではないけれど、昨年11月にディズニープラスで放送された「ザ・ビートルズ:Get Back」は引き込まれて見てしまった。1969年の1月の1か月間のビートルズを記録したドキュメンタリー映画だ。アルバム『レット・イット・ビー』として発表される楽曲のレコーディングの模様と、久しぶりに観客の前で演奏しようとライブの計画をするが、それが暗礁に乗り上げ、アップルの屋上でのライブ演奏に至る、そこまでの紆余曲折の1か月間の物語だ。自分たちのオフィスの屋上で久しぶりのライブを突然行うなんて、何てカッコいいアイデアと思っていたけれど、そこに至るまでの日々を知ると、よくぞここにたどり着いたと別の感慨を抱く。

けれど、そんな舞台裏があろうと、4人そろってジャーンとギターを鳴らせば、誰にもまねのできないビートルズの世界が展開する。ジョンもジョージも舞台裏と違った顔になる。その魔法に目をみはってしまった。

今年の2月には、その屋上でのライブの部分のみを切り取って1時間にまとめた映画が期間限定で劇場公開された。「THE BEATLES GET BACK THE ROOFTOP CONCERT」だ。IMAXの大きなスクリーンで、できあがったばかりの「ゲット・バック」、「ディグ・ア・ポニー」、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」、「ドント・レット・ミー・ダウン」を聴くのは胸躍る体験だった。ステージ衣装ではなくて、レコーディングに通ってきていた日々と同じ、4人それぞれが好きな服を着て、そうでしかありえないくらい似合っているのがカッコよかった。

街に向けて音を放っているうちに、苦情が寄せられて警官がオフィスを訪ねてくる。スタッフが何とか時間を稼いで演奏を続ける様子がスリリングだ。ついに現場を確認しに屋上に上がってきた警官の姿を見た途端の4人の反応もおもしろい。ポールの反抗心が燃え上がるのを一瞬見たような気がした。警官の手前、スタッフが切ったアンプのスイッチをためらわずに入れなおすジョージの強気に拍手喝采だった。

近くのビルの屋上には、ビートルズの演奏を聴くために上がってきた人々の姿が増えていく。ビートルズの演奏を聴けるうれしさがその姿から伝わってくる。どこかから「ロックンロール!」という声が飛ぶ。すぐにジョンが「ユー・トゥー」と叫び返す。心に残る場面だ。50年以上たっても色あせない4人の音楽の魅力を、この場面が端的に語っている。