アジアのごはん(112)たらま島食日記

森下ヒバリ

たらま島に行ってきた。たらま島は宮古島の南西約67km、石垣島の北東約35kmの場所にある小さな島だ。人口は1000人ちょっと。牛の数は5000頭。宮古島空港から琉球コミューターの飛行機で飛び立って15分、青い海に浮かぶ丸い緑の島が眼下に見えてきた。丘はあるが、山はない。サンゴで出来た平らな島である。

今回の旅は、埼玉の小手指でたらまガレージというライブもする飲み屋のおとうの里帰りに、ミュージシャン2名とそのファン、店のファンが一緒についてきた、という形である。まずは宮古島でライブをやって、翌日飛行機でたらま島へ飛ぶ。たらま島では今回の旅のプロデューサーの佐久間さんが車で見どころを案内してくれる。

まずはお昼ご飯だ。たらまのおとうの義理の弟さんからここに行けと指令されたのは、できたばかりの「たねび食堂」という店。席が空くのを待って、店に入るとメニューは「たらまそば」と「たらま牛丼」のふたつ。悩む間もなく、今日は牛丼はないとのことで、たらまそばを頼む。

沖縄地方の「そば」というのはご存じの方も多いと思うが、一昔前の鰹ダシで醤油味の中華そばに近いものだ。宮古島では太めの中華麺に豚バラの煮つけ、てんぷら(かまぼこ)、ねぎが標準装備である。

たねび食堂のたらまそばも、同じく3点セットなのだが、宮古島であまりおいしい宮古そばに当たらなかったので、期待せず割り箸を割った。小さな島なので、営業している店は少ない。食べられるときに食べておかないと・・あ~また豚バラ肉かあ・・箸で取って口に運ぶ。んんん、んんま~い!豚バラがふわっとほどけて肉の油がとろんと舌に溶ける。最高。

宮古島滞在中で食べていたそばの豚バラ肉はちょっと臭みがあって、けっこう気持ち的に「もう、豚バラは食べたくないです」となっていたし、どこも味の素がたっぷり仕込まれていたので、この味はうれしい。紅ショウガも載せて、ずずっといただきました。化学調味料や添加物の入っていないスープもあっさりとしているが滋味深い。大きな肉の固まり、ぺろっといけた。宮古島に三日間いて、おいしかったのは2日目の夕食、居酒屋「志堅原」のみだったので、かなりテンションが下がっていたのだが、急に元気になってきた。

食後に島を回り、たどり着いたのが「たらま民俗学習館」。いわゆる民俗資料館ですね。たらま島の歴史とか、祭りの写真、昔の農工具や漁の道具、食器などが展示されている。大きな巻貝をヤカン代わりに使っていたり、シャコ貝の小さいのを湯呑代わりに畑に置いておいたり、ココナツのひしゃくとか、南の島らしい道具が並ぶ。そして、紙に書いて張ってあるたらま島の「食の変遷」という資料に目がひきつけられた。少し長いが写真から書き写してみよう。

紀元前1500年頃 
一、イノシシやジュゴン、魚、貝類、野草や木の実を採取して食していたと推察される。煮炊きには下田原式土器と呼ばれる素焼きの粗末な土器を使用していた。
十世紀ごろ
一、七~八世紀ごろ八重山地方で確立した根菜農耕文化が伝来したと推察される。粟・麦・豆類・ヤムイモなどの栽培。ヤムイモを利用したイノシシや野ブタの飼育など。
十五世紀頃
朝鮮国・李王朝の歴史書、李朝実録に、次のような記述がある。(一四七九年)
一、キビ、粟、大麦、蒜(ノビル?)ヤムイモなどがあり、土をこねて鼎(かなえ)を造り、これで煮炊きをする。
一、飯はこぶし大に握り、ハスの葉に似た木の葉に盛って食べる。みそやしょうゆ油、塩などはなく、味付けは海水のみでする。
一、家にねずみがいる。牛、鶏、猫を飼う。牛は食べるが、鶏は食べない。
一、昆虫に蚊、蠅、蝸がおり、蝸を煮て食べる。
一、肴には乾魚を用いる。鮮魚を薄切りにしてなますをつくり蒜(ノビル?)を加えて食する。
十六世紀頃
十五世紀同様な食生活だったのではないかと推察される。
十七世紀頃
十六世紀後期(一五九七年)砂川旨屋により中国から宮古島に甘藷が移入され、十七世紀の初め頃、多良間島にも移入される。
一、一六三七年から宮古・八重山地方に人頭税が課せられ、厳しい穀税(粟納)に備えることが精いっぱいで甘藷作は賑わず食糧事情はますます困窮を極めるだけであった。
十八世紀頃
一、食糧難を乗り切るためにソテツを移入し、クツバルニーと水納島に植え付ける。(一七二七年)
一、水納島ではシャリンバイやユリ根も救荒食として利用した。
十九世紀頃
一、唐黍、小麦、下大豆などが移入され、一部の家庭でみそが使用されるようになり、油脂、酢、塩なども伝来しているが、海水のみの味付けも依然として続いていた。
一、一九〇三年(明治三十六年)、人頭税が撤廃され、甘藷作が盛んになる。
二十世紀
一、一九一八年(大正七年)大豆が移入される。大豆製品が多く出回るようになり、この頃から食糧事情は若干緩和される。大正末期にはしょう油も移入され、一部の家庭で使用されるようになる。
一、一九三五年(昭和十年)この頃から戦時体制に入り食糧難を来す。
一、一九四三年(昭和一八年)後半からソテツ食となる。干ばつやサツマイモの病害虫の大発生により大飢饉となってソテツ食が続き・・
一、一九五九年(昭和三十四年)‥が襲来し食糧危機に陥る。・・三食中一食は米食となる。
一、石油コンロはやる。
一、一九六三年(昭和三十八年)この頃から米食が増える。
一、一九六六年(同四十一年)・・台風襲来、最大瞬間風速八五メートル。農作物被害甚大。
・・の所は読み取り不可能な箇所でした。

この小さな島には3500年ほど前から人が住んでいた形跡があるとのこと。それから島に渡ってきた人々は、ほぼずっと食べ物に苦労してきたようである。十世紀ごろまでは狩猟採集生活、その後は農耕も始まるが、海も豊かなのでそれなりに暮らせていたとは思われるが、十七世紀からの過酷な人頭税が島民を苦しめる。税を納めるには粟を作ってそれで納めなければならないので、ほかの作物を作る余裕がないのだ。

十五世紀の李王朝の歴史書、李朝実録に記されている食の有様が興味深い。まだ島には大豆も米もなかったので、味噌がないのは分かるが、調味料が塩もなく海水のみとは。本当なのだろうか。役人とかに知られると税として徴収されるので、黙っていたのではないのか・・。

塩は海水を日に干しさえすれば出来るし、保存も効く。そして、アジアの国々ではその塩を使って小魚を漬けて塩辛にして調味料、保存食としていた。それがいわゆる魚醤である。現在のイメージの液体の魚醤(ナムプラーやニョクマム)はその塩辛から液体を絞った工業製品で、ここ百年ぐらいに普及したものである。

調味料として塩辛の存在も書かれていないので、本当になかったのかもしれないが、ちょっと不自然な気もする。縄文時代から本土では魚醤や肉醤があったとされており、八世紀の万葉集にも長忌寸意吉麻呂の歌に「醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛(たひ)願ふわれにな見えそ水葱(なぎ)の煑物(あつもの)」という歌がある。

醤酢とはもろみ状の醤に酢を合わせた調味料。醤は肉や魚と塩から作るものの方がかんたんで時代的に早く、穀類や大豆から作るには麹が必要となり手間も時間もかかるので、そちらは高級品である。この歌の醤がもろみだったのか、味噌だったのかは分からないが、刺身に和えるなら酢味噌の方が合うよね。

たらま島ではライブの次の日におとうの義弟の邦さんが潜ってタコを取って来てくれて、バーベキューでたらま牛や、豚バラ串焼きなどとともにごちそうになった。大きなタコは、まずは炭火コンロで表面をあぶり焼いてから、海に戻って海水で洗ってぬめりを取り皮をむいて、刻んで酢味噌だれで供された。あ、醤酢だ‥。タコはぶつ切りにしたそのままでおいしく、オリーブオイルでマリネにしたい・・などと不謹慎に思いつついただく。
豚バラの串焼きの肉は前日に邦さんの連れ合いのアネットがたれに漬けこんでおいたもので、また豚バラですかと一瞬思ったが、一口食べたらめちゃくちゃおいしい。いくらでも食べられる。こんなに一度にたくさん豚バラ肉を食べたのは初めてではないか。たれに地元のシークワーサー(酸っぱいかんきつ)の果汁を入れるのが秘伝らしい。まん丸に握られたこぶし大の豆ごはんのおにぎりもおいしかった。

宴会は続いていたが、食べ疲れたので、砂浜でひとり昼寝をした。サンゴの白い砂に、たくさんの白化したさんごのかけら。ああ、砂の上に寝っ転がるのは二年ぶりだ。海に入ると青や黄色の小さな魚が群れている。眺めていると大きなウツボがするするっと顔の横を通り抜けた。うわわっ。

豊かな海と濃い緑の島、奪うものさえいなければ人々は飢えることはなかっただろう。

フーガの技法

笠井瑞丈

私が上村なおかと主催している団体
笠井瑞丈×上村なおか
五月プロデュース公演を行う
出演者は多岐にわたり活躍をし
振付そして自身の公演を行っている
平山素子さんと父笠井叡さんのデュオ公演
タイトル J.S.バッハ作曲「フーガの技法」を踊る
構成・振付:笠井叡
出演: 平山素子、笠井叡
音源は高橋悠治さんの演奏を使用

バッハのフーガの技法を知ったのは
今から16年前の7月
叡さんと悠治さんが
毎週土曜日四夜にわたり
神楽坂セッションハウスで
公演をしました
悠治さんの演奏で
叡さんがフーガの技法を
踊ったのが初めてです
16曲約一時間ほどの公演

それがきっかけでフーガの技法を知りました
そして2008年1月に悠治さんの演奏で
世田谷シアタートラム
上村なおか アレッシオ・シルベストリン 横田佳奈子
叡さんの振付で四人でフーガの技法を踊りました

そこからいつかフーガの技法に
挑戦したいという想いを持ち去年の4月はじめて
私の振付で四人の若い女性ダンサーに
フーガの技法を踊ってもらいました
そして同年10月には鈴木ユキオさんと
即興でフーガの技法全曲を二人で踊りました

そして今回このような流れになったのは
去年平山素子さんから叡さんに振付依頼が来たのが始まりです
そして叡さんがテーマとして選んだのがフーガの技法でした
これは横浜KAAT主催のエリア50という企画の中で
平山素子さんが20分のソロを踊るという企画でした

エリア50とは6人の50代のダンサーがそれぞれ
違った振付家の踊りを踊る企画です

ダンサーは

近藤良平さん 小林十市さん
伊藤キムさん SAMさん
安藤洋子さん 平山素子さん

平山素子さんはこの時
全曲ではなく三曲踊りました

そして公演が終わりいつか
デュオで全曲やれたらと言う話から
今回この公演が実現しました

通し稽古には何度か立会いました
空から降ってくる音の雨に打たれて
びしょ濡れになりながら踊る平山素子さん
いつしか時間はなくなり
カラダと音楽は熱に変わる
深い闇の中からまた新しい光が生まれ

2008年1月トラムで踊った日は
とても寒く大雪が降った事を
昨日の事のように思い出す

私が初めてのソロリサイタルを行った
1997年2月も公演終演後大雪が降った

そしてトラム公演の次の週
なおかさんのお父さんが亡くなった

また私もいつかフーガの技法に挑戦したいと思う

ベルヴィル日記(8)

福島亮

 5月のベルヴィルは晴れの日が続いていて気持ちがよかった。ラマダンが終わったので、街路に溢れていたアラブ菓子は姿を消し、かわりにスイカが並び始める。日本のスイカよりも2回りほど大きくて、若干縦に長いスイカ。アフリカからやってくるらしく、太陽を存分に浴びているからとても甘い。またこの季節、市場で山積みになっているのはアーティチョークだ。外の固い部分をむしり、下から半分ほどの柔らかい部分を細く切り、パスタの具にしたり、煮物にしたりする。どことなく食感が筍に似ている。

 ともあれ、今回この日記を書いているのはベルヴィルではない。というのも、5月の末から6月末まで日本に滞在するからである。滞在、というのも変な言い方だが、2年ぶりの帰国を果たしてみると、帰ったという気持ちよりも、滞在しているという気持ちの方が強い。

 シャルル・ド・ゴール空港から12時間のフライトを経て関西国際空港へ、そこから難波に向かい、シャトルバスで伊丹空港まで行き、羽田行きの国内便に乗る、という少々ややこしい帰路だった。関西国際空港に到着すると、感染症対策が待っている。フランスから日本へ入る際の水際対策は緩和されており、3回のワクチンが接種済で、入国時の検査で陰性ならば隔離や自宅待機は必要ない。緩和される前にフランスから日本に帰った知り合いは、自宅待機に加え、自宅待機を短縮するためにPCR検査をせねばならず、さらにそのPCR検査が法外な値段だったため怒り狂っていた。そのことを知っているから、緩和されてよかったと思っている。緩和された、といっても、やはり入国の際には書類の提示や唾液を用いた検査は必要だった。面食らってしまったのは、唾液の採取である。採取容器と小さなロートを渡され、そこに唾液を溜めるのであるが、板で仕切られた採取ブースには、唾液の分泌を促すため、梅干しとレモンの写真が貼られていた。

 帰国して数日経ったのだが、まだ身体が慣れない。たとえばマスク。人が多くないところでは外しても良いのではないか、などと思いもするのだが、連れ合いに言わせるならば、そのような発想は良くないのだそうだ。久しぶりに帰国してみると、なんだか自分が場違いなところに来てしまったような感覚がする。はやくベルヴィルのアパルトマンに帰りたいと思う瞬間も時々ある。あと1年くらいで留学を切り上げたいのだが、その後この場違いなところに完全に戻ってくるのかと思うと、なんだか不思議だ。徐々に慣れるのだと思う。でも慣れなかったらどうしよう。そんなふらふらとした浮ついた不安が心の片隅にある。

あなたのいない二十三年間のこと。

植松眞人

まるで、ずっとそこにいたかのようにあなたは「今日は時間がないんです」と笑いながら言う。けれど、「今日は」とあなたはずっとここにいたように言うけれど、あなたがここにいたのは三年間だけだ。
三年前にふらりと舞い戻って来たあなたは、まるであなたがいなかった二十三年間のことなどなかったかのように、ずっとここにいたように、みんなと同じようにデスクを並べて仕事をした。チャイムが鳴ると教室に行き、淀みなく話して生徒たちの心を掴み、心を掴まれた生徒たちは職員室に来てもまずあなたを探した。
あなたがいなくなってからすぐに、当時の教育主任が決めた「質問は授業中にするように」というルールは、あなたが帰ってきてすぐに、なかったものになった。あなたは授業中も授業が終わってからも生徒に囲まれていた。学校帰りの道でも生徒たちがあなたと話したがった。
私はあなたが生徒たちと仲良くしすぎて問題でも起こせばいいのにと思っていた。ほら、あなたのクラスの背の小さな女の子は、早くにお父さんを亡くして完璧なファザコンなのよ。気づいてた? 彼女のあなたを見る目は恋人を見る目と同じ。
でも、あなたは問題など起こさない。生徒たちに缶ジュースをおごってあげたりすることはあっても、先生と生徒という関係は決して崩さない。そこがあなたのえらいところで、私が大嫌いなところ。
あなたが二十三年前に消えた時のことを私は良く覚えている。新しい校長が赴任してきて、運営方針が大きく変わった。校長はもっと上の指示にしたがっているだけで本当は決定権なんてなかった。だからこそ、先生たちは新しい運営方針に則って、渋々仕事をした。嫌々仕事をしていた。
そんな時、まだ教師になって3年目だったあなたはこう言ったの。
「生徒を第一に考えることが出来ないなら、僕は辞めます」
私は心の中で拍手をした。たぶん他の先生方も。だけど、あなたのように「辞める」と声に出せる先生はいなかった。嫌でも仕事をしなければならなかったから。背負っているものや抱えているものがたくさんあったから。
だから私はあなたが戻ってくる二十三年間、ずっとあなたに負い目を感じて生きて来た。あなたが顧問だった水泳部を引き継いだのも、校庭の花壇の水やりを引き受けたのも、志半ばで辞めていった、あなたへの罪滅ぼしのつもりだった。

でも、あなたは戻ってきた。二十三年間という、そう短くはない期間を経て。そして、私たちがあなたに負い目を感じながら過ごしてきた二十三年間で明るく前向きにいろんなものを吸収していた。
私にはそれが腹立たしかった。あなたの輝きよりも、あなたの輝きが二十三年前の正直なあの一言から始まっているのだとしたら、もう私たちにはあなたと同じ輝きを手に入れる術さえない。そのことが我慢できないくらいに腹立たしかった。
そして、私は思ったの。せめて今日、私はあなたにいまの腹立たしさだけでも伝えておいた方がいいのかしら、と。
「少しお時間いいですか」
私が話しかける。
「いえ、今日は生徒の対応で時間がないんです。申し訳ない」
あなたはそう答えた。
ねえ、二十三年間かかって、私はあなたに話しかけたのよ。あなたの背中に、私はそう呟いてみる。(了)

カエルのうた

北村周一

そのすじの
歌人たちより
おおどかに
ともを求めて
カエルはうたう

       上手下手
    それよりうたい
      継ぐべしと
     カエル来りて
     うら庭に鳴く

婚姻の
いろの音色を
ふるわせて
うたうカエルの
こえ梅雨ちかし

      しごと場に
    いくつかの闇を
        拵えて
    聞きいたるなり
     カエル鳴く声

丑三つどき 
肩いからせて
降る雨も
あるらんカエル
応答をせよ

      見るまえに
    跳べといわれて
      目をつむり
      挑む幅とび
     砂まみれなり

にわたずみ 
仰向けにみる
感じありて
大空たかく
回すパラソル

       口に口を
    つけてこころを
      満たすごと
    ペットボトルの
      水と繋がる

水星が
よべのゆうべの
西ぞらに
ひくくこぼれて
三日月の下

        食卓の
     木目のなかに
      棲むという
     雄ライオンの
     寝顔かわゆし

野良ネコの
ひたいのほどの
さにわべに
手子摺りにつつ
初夏をたのしむ

       空き缶が
     雨のしずくを
      受け止める
     ような仕草に
    クチビルが欲し

ものかげに
人の影ある
これの世の
せつなに肌理の
交わりを編む

      オニゴロシ
     のんで気配を
       消す努力 
   ハザードマップに
    ゲンパツは見ず

青に黄の
いろをはつかに
足すのみに
懶(ものう)きよ ターコイズ・
ブルーというは

     混ざり合うも
    溶け合わずなり 
      ターコイズ・
    ブルーに透けて
    映ゆるイエロー

なかんずく
身内がいちばん
厄介なんだと
イエズスも
言ってたような

        雨に傘 
     顔にマスクの
       常にして
     安くて便利な
    日々うたがわず

みつめ直す
ために花咲く
雨の中 
花びんに枯らす
花あることも

すでにご存知かと

篠原恒木

「すでにご存知かとは思いますが」
と、前置きしてから話す人がいる。おれはこの前置きが大の苦手だ。なぜならおれはほとんどのことを「ご存知」ではないからだ。
「すでにご存知かと思いますが」
と冒頭に述べてから、必ずそのヒトはいわゆる「ギョーカイばなし」を披露する。
「ヤマダ出版がタナカ出版に吸収されたんです。ご存知ですよね?」
「知りませんでした」
おれがそう言うと、そのヒトは鼻を大きく膨らませて、
「おや、そうでしたか。タナカ出版がヤマダ出版を事実上買収したかたちなので、ヤマダ出版の役員陣が相当数退職に追い込まれているようですよ」
などといった、ギョーカイばなしを得意気に喋り出す。おれは正直に、
「そうですか。あいにくヤマダ出版もタナカ出版も知らないもので」
と応える。そのヒトは少しがっかりしたような顔になるが、さらに話を続ける。
「まあ、これもすでにご存知かとは思いますが」
またかよ、とおれはげんなりしてくる。
「毎朝新聞の人事が大幅に変わりました。スズキさんが執行役員になったのは意外でしたが、これでタカハシ局長がラインに乗ったことになりますね」
「そうなんですか」
おれが気のない返事をすると、そのヒトは「そんな情報もインプットしていないのか」と小馬鹿にしたような顔でおれを見ながら、
「だってスズキさんがボードに上がったわけですからね、これは布石ですよ、布石」

この「すでにご存知かとは思いますが」おじさんは、一か月に一回の割合でおれのもとを訪ねて来ては、一方的に「ギョーカイばなし」を披露して帰って行く。
おれはこのテの話にまったく興味がない。ヒトサマの会社がヒトサマの会社に吸収されようが、ヒトサマの会社の人事がどう変わろうが、どうでもいいと思っている。知りたいとも思わない。だいたいボードってなんなのだ。ラインとはなんぞや。ボードは波乗りする前にきちんとワックスを塗るものであるし、ラインはときどきスマートフォンで「今晩会えますか? うふ」などと届くものなのだ。
ヒトサマの会社だけでなく、おれは自分の会社の人事も機構改変ですらも「公示」の日までまったく把握していないし、公示されたところで興味もないし、ピンとも来ない。なぜなら知らない名前に聞いたこともない部署の羅列を見せられるだけだからだ。
「ああ、あいつはあの部署に異動したんだな」
「おや、あいつはずいぶん出世したんだな」
といった感想もないし、興味が湧くはずもない。
「自分が勤めている会社の社員たちの名前くらいはわかるでしょう? そんなに大きい会社でもないんだから」
という声もあるだろうが、おれは社内に友だちがいないので、廊下ですれ違う社員らしきヒトビトの顔も名前もよくわからない奴らばかりなのだ。

「すでにご存知かとは思いますが」
と前置きするおじさんは、どうやらいろいろな会社に行ってはギョーカイの人事情報やよその会社情報をヒトビトに話し、ときどき仕事を得ているようだ。つまりは「ギョーカイばなし」には、それなりの「需要」があるのだろう。
今日も「すでにご存知かとは思いますが」おじさんがやって来て、
「すでにご存知かとは思いますが」と始まったので、おれはすぐさま、
「いえ、ご存知ありません」
と、おじさんの口を塞ごうとした。もうこれ以上、ヒトサマのどうでもいい人事情報などを延々と聞かされるのはたまったものではない。するとおじさんは、
「そうですか、ご存じありませんか。じつはこの四月で夕陽新聞のナカヤマ局長が役員に昇格しました。夕陽もずいぶん変わりましたね」
と、一方的に話を続けるではないか。そのおじさんの鈍感力にオノノキながらおれは言った。
「おれは役員さんと仕事するわけじゃないから、あんまり関係ないですねぇ」
「まあ、それはそうでしょうが、情報として」
やれやれと思いつつ、話を切り上げようとすると、「すでにご存知かとは思いますが」おじさんはおれに言った。
「何かあったらいつでもご連絡ください。なんでしたら夕陽新聞に御社の書籍のパブリシティ記事を書かせましょうか?」
おじさんは「ギョーカイにおける自分の人脈の広さ」を誇示しようとしているらしいが、動脈・静脈・山脈までは認めることができても、人脈という言葉には卑しさを感じてしまうおれは嫌な気分になった。なにより「書かせる」という言い方にカチンときた。
「すでにご存知かとは思いますが」
と、おれは言ったあとで席を立ちながら続けた。
「おれはヒトサマの会社の人事情報にこれっぽちの興味もないのです。したがってそれらの話を存じたくもないのです。あなたを介して夕陽新聞に記事を書かせよう、いや、書いていただこうなんてことも思ってもいません。ご足労ありがとうございました。これで失礼させていただきます」
ここまで言えば、もう「すでにご存知かとは思いますが」おじさんから来訪のアポイント電話も今後はないだろうと思っていたが、一か月後におじさんから電話があった。
「連休明けのどこかでお時間を頂戴したいのですが」
「すでにご存知かとは思いますが連休明けは時間がなかなか取れません」
「では次の週のどこかで」
おれは呆れながらも根負けして、
「じゅ、十六日なら空いている時間が……」
と言ってしまった。これが大きな間違いだった。
「十六日、結構です。何時でも大丈夫です。何時に伺えばよろしいですか?」
「ええと、十七時以降でしたら体が空きます」
「十七時、ですか……困ったな」
「えっ? 何時でも大丈夫とおっしゃったではないですか」
「十七時ですと……すでにご存知かとは思いますが、私の帰りが遅くなっちゃうもんで」

むもーままめ(19)失われた焼肉店を求めて、の巻

工藤あかね

今の家に引っ越す前、かなりのんびりした街に住んでいた。
駅からは遠く、少しアップダウンもあったので、
とくに疲れて帰る日や雨の日は、
駅から家に戻るまでに、かなり体力を消耗するのが常だった。

しかも、住んでいた家の近所にはスーパーマーケットがなかったので、
駅の反対側まで行って買い物をし、
重いレジ袋を腕に食い込ませながら歩いて帰ったものだ。

もう疲れて食事も作りたくない、駅から出たら、
一休みがてらに食事をして、帰りたいと何度も思った。

そんなある日、駅から家に向かう途中に、炭火焼肉屋さんが開店した。
お料理も良いし、雰囲気もくつろいでいたので、
夫もその店を大変気に入って、ついに常連になった。
我が家にとっては、ほとんど第二の台所だった。

店長は気さくな人で、付かず離れずの距離感が絶妙だった。
店員さんも、よく気がつく人たちで、感じがよかった。
ある時は就職で悩んでいる若い店員さんに、
職を紹介しようとしたこともあったっけ。

引っ越してからも、私たちは電車に乗ったり、
ちょっと遠目の散歩をしながらその店に足繁く通った。

ところがある時から、店長の姿を見かけないようになった。
別の街にも出店するために、その店を離れていると聞いた。
店長がいなくても私たちはボトルキープをし、
お店に何度も通っていたのだが、
ある時、はっきりと異変を認めざるを得なくなった。

お肉の質があきらかに落ちている。
炭火の扱いがいい加減になった。
お料理の盛り付けも、味付けも雑になった。
店員さんが店内をきちんと見なくなって、
呼んでも、気づいてもらえなくなった。

それでも、今度こそはと祈りながら通っていたが、
私たちが馴染んでいた店長の目が届かぬうちに、
どんどんお店がダメになっていくのを肌で感じた。

ある時、心に決めた。
もうこの店には来ない。

本当に長く気に入って通っていた店で、
友人知人も、たくさん連れて行った。

そんな店を一軒失うのだと思って、悲しかった。

その後、次なる推し焼肉店を求めて、放浪している。
ネットの評判が良くても、居心地が良くなかったり、
むやみに高かったり、フィットする店を探すのは難しい。

煙がほとんど出ないという炭火焼肉店にも行ってみた。
服に匂いがうつらないのはいいかもしれないけれど、
美味しさが半減する。
どうせ焼肉に行くのなら、
油を含んだ煙がもうもうとしているのを見たい。
食べている時はもちろん、上着を脱いだあとも
煙の残り香に包まれていたい。
そのほうが、汚してはいけない服装で
クリーンに食べるよりも、ずっといい。

最近ようやく、ここなら通うかもしれないな、
という店に出会った。
以前気に入っていた店のようにはいかないとしても、
はかない期待を込めて、
また食べに行ってみようと思う。

『アフリカ』を続けて(12)

下窪俊哉

 先月、井川拓『モグとユウヒの冒険』がようやく本になった。長い、長い道のりだった。本をつくるにあたって著者の不在がどういうことなのかを、嫌というほど思い知らされた。著者の家族にとっては、その本が、彼の分身のように感じられているかもしれない。
 本として完成させるにあたって大きな推進力となったのは、彼の姉である伊東佳苗さんだった。本が完成した後で今回の協働作業を「下窪さんとライブやってたよう」だと言っていたが、物語をあらためてくり返し読み、毎日のようにやりとりをしていた。『モグとユウヒの冒険』の主題は、子供時代、家族、そして自然ではないか。家族のこと、人生のことをあらためてじっくり考えてみる貴重な機会にもなった。

 物語の舞台となっているのは琵琶湖の湖北・マキノ。アサヒとユウヒという小学生の兄弟が、父母と共に暮らしてる。父ちゃんは稼ぐのが苦手な陶芸家、母ちゃんは保険のセールスをする職についていて毎日帰宅が遅い。小4のアサヒは学校から帰ってくるとすぐに遊びにゆき、小川で釣りをしたり野球をしたりして夕方に戻ってくる。小2のユウヒは学童保育所にゆき、父ちゃんの迎えを待っている。そんな日常。
 ユウヒはひとりで絵を描いて遊ぶのが好きで、落書き帖に猫と犬が決闘する絵を描いている。猫は家で飼っているハボコで、犬は昔、父ちゃんの実家で飼っていたモグという「牧羊犬を祖先にもつ雑種犬」だ。
 ユウヒにはモグの記憶がないので、父ちゃんの話を聞いて印象深く覚えている、いわば伝説の犬であるモグを絵に描くとしたら想像で描くしかない。ある日、そんな絵を描いているユウヒの耳に「ふわふわとした声」が聴こえてくる。その声の主はモグを名乗り、ユウヒの描いている絵に文句を、注文をつける。
 物語はそんなふうにして始まる。
 父ちゃんには弟がいて、家族から「ダイボーおじさん」と呼ばれている。ダイボーおじさんは15歳の時に事故に遭い、脳に障害を負っていて、何か話を聞いてもすぐに忘れてしまう。父ちゃんは弟の障害にかんして、まだ受け入れられないところがあるようだし、何か悔いているようでもある。
 そうやって『モグとユウヒの冒険』は、アサヒとユウヒ、父ちゃんとダイボーおじさんという世代の違う兄弟の物語が重層的に描かれていると言っていい。
 その家族にはモデルがあり、『モグとユウヒの冒険』は井川拓の家族史と言えそうだ。フィクションを多分に含んでいるので、家族史のようなものと言おうか(小川国夫が「自伝」に「的」をつけて「自伝的」小説と呼んでいたのを思い出す)。
 突出しているのはやはりモグの存在で、著者の実家で飼っていた犬・メグがモデルになったというが、それだけでは語れない。モグには、いろんな存在が混ざり合っているような感じがある。
 生きている人間は時間を自由に行き来することは出来ないが、主に声だけの存在であるモグは、彼ら家族の歴史を縦横無尽に駆け巡ることが出来るようだ。モグはその歴史を、ユウヒの耳を通して語る。ユウヒにのみ聞こえる声で、イチャモンをつけたり、わがままを言ったりする。人間にしっぽがないのはなぜかとか、遠心力とは何かとか面白い講釈を垂れたり、偉そうに人生訓を語ったりもする。
 私は物語の中に入ってモグの声を聴きながら、モグは人間の感じられる自然そのものではないか、という気がしてくる。

 映像制作集団・空族の仲間だった富田克也さんによると、井川さんが絵本、そして児童文学に向かったのには、ユーリー・ノルシュテインの影響が大きかったらしい。あんなふうに時間をかけて緻密な作品を編み上げてゆくような力は彼にはなかったという話は前回、書いたが、しかし憧れがあった。
 たとえば「霧の中のハリネズミ」(ノルシュテインのアニメーション作品)を思い出すと、あのような自然への驚異が、井川拓という人の中にはあったのではないか。
 富田さんは「井川くんは自然を理屈ではなく、感知し始めていたんじゃないか」と話していた。そこにはおそらく永遠とか、あるいは死というものを見ていた。そんな話をしていると、彼が死をどう感じて、どうやってそこへ入っていったのかということに少し近づけるかもしれないと思えてくる。

 物語の中で永遠とか死について論じているわけではもちろんなくて、子供たちと、かつて子供だった大人たちが、不器用そうに、でも思う存分泣いたり、笑ったり、怒ったり、楽しんで生きているエピソードが満載だ。その物語を読みながら、私も自分の中に生き続けている〈子供〉の存在を、感じ取ることが出来る。

 富田さんによると井川拓という人はいつも苦しそうで、大変な人だったようだ。私たちがいまいる、この社会を眺めてみると、彼が感知していたかもしれない〈自然〉とは真逆の世界ではないか。人間というのは、奇妙な生き物なんだなあと思う。彼ほど真っ正面から引き受けてはいないとしても、誰しもがその大変さを多少は抱えて生きている。
 自分が死んでも、いつ死にたくなってもおかしくないと思っていたのだ。11年前、井川さんが亡くなった時、ついに身近に犠牲者が出てしまった、と思った。彼は『アフリカ』最新号(当時)に書いている人でもあった。しかし彼の死の事情を知れば知るほど、私はわからないことの大海へぽーんと放り出されるような気がした。
 こうすれば生きられる、こうすれば死ぬ、ということが簡単にわかるほど、人間は単純じゃない。
 彼は私にとって大きな死者となった。
 私が考えたり、書いたりするうえでの新たな原点となった。
 井川拓が私に託してくれた問いは、永遠に答えの出ないものかもしれない。だとしたら、永遠に考え続けることができると思う。
 今回、『モグとユウヒの冒険』をつくるにあたり、これまで知らなかった彼の姿も見えてきた。でも私の「わからない」はそんなことで解決するわけはなく、ますます深い霧の中へ誘われている。

「ユウヒ、夢のなかで目を覚ますけん」
 モグが登場するときの定番のセリフだ。その声を聴くと、何だか妙に嬉しい。

 どんな人の中にも、きっとモグはいる。夢のなかで目を覚まして、話し合うことのできるような存在が。

ジャワの物語(1)パンジ物語

冨岡三智

このエッセイを書き続けてほぼ20年、今まで物語に焦点を当てて紹介したことはなかったので、今回は物語に注目して紹介してみよう。

パンジ物語は13世紀頃にまで遡るジャワ発祥の英雄物語で、14〜15世紀のマジャパヒト王国時代に大流行し、17~18世紀頃には船乗りによってジャワからバリへ、さらに東南アジア各地に広まった。タイなどでは、王子はパンジではなくイナオInaoと呼ばれている。2017年にはインドネシア、カンボジア、マレーシア、オランダ、イギリスが協同申請し、パンジ物語はユネスコの世界無形文化遺産「世界の記録の一覧」に登録された。物語は東ジャワの宮廷が舞台で、パンジ王子が失踪した許嫁のチョンドロ・キロノ(別名スカルタジ)王女を探して放浪の旅に出、ついには王女と出会って結婚するという内容だが、様々な派生演目があるようである。この物語を題材にする芸能形態には、ワヤン・ベベル(絵巻を繰り延べながら語る芸能)、ワヤン・トペン(仮面舞踊劇)、ワヤン(=ワヤン・クリッ、影絵)などがある。

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ワヤン・ベベルとワヤン・トペンはワヤン・クリッより以前からあったとされる。ワヤン・ベベルは、今では辺境の地であるジョグジャカルタ州ウォノサリ県と東ジャワ州パチタン県でしか伝承されていない。特定の家系のダラン(語り手)によって魔除け、病気平癒祈願などのためだけに上演され、演目はそれぞれ1種類しかない。娯楽用ではないので、上演時間も短い。絵はダルワンと呼ばれる樹皮紙(カジノキの樹皮を薄く叩きのばして作る)に描かれている。樹皮紙の研究をされている坂本勇先生に記録映像を見せていただいたことがある。

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ワヤン・トペンはスラカルタでは見られないと言ってよい。パンジ物と言えば「クロノ・トペン」や「グヌンサリ」のように単独で舞う仮面舞踊だろう。クロノはスカルタジに横恋慕する異国の王で、男性荒型のキャラクターである。グヌンサリはスカルタジの兄弟で、男性優形のキャラクターだが、実はどんな場面で活躍する人物なんだか私もよく知らない。グヌンサリの場合、仮面なしで上演されることも多い。これらの単独舞踊は物語の特定の場面を描いているのではなく、恋に落ちた武将の様を描写しており、そのキャラクターを表現することが重要である。他に、芸大で作られた『トペン・スカルタジ』というパンジ王子とスカルタジ姫とクロノの3人が登場する演目があるが、これも劇というより三者三様のキャラクター表現を見る舞踊だと言える。

スラカルタで見られないと言ったが、一度だけマンクヌゴロ王家によるワヤン・トペンを中部ジャワ州立芸術センターで見たことがある。同王家には古い仮面のコレクションが多くあるのでワヤン・トペンを復興したという話だった。スラカルタよりはジョグジャカルタの方がワヤン・トペンが盛んなようである。2011年にクロンプロゴ県(パクアラム王家の領地だった地域)で見たことがあるし、最近のyoutube配信でジョグジャカルタ王家のワヤン・トペンも見た。他にもジョグジャカルタのワヤン・トペンの映像はyoutubeに上がっている。スラカルタとジョグジャカルタの間にあるクラテン県にもワヤン・トペンがあり、私は現地で2回見た。それについては先月号の「ジャワの仮面舞踊」で触れたので割愛。しかし、ワヤン・トペンという名で一番有名なのは、たぶん東ジャワ州マラン県のもののように思う。私は2001年に芸大で見た。「ワヤン・トペン・マラン」や「トペン・マラン」と地名をつけて呼ばれることが多く、youtubeでも多くの映像が上がっている。パンジ物語は東ジャワが舞台だから、中部ジャワより人気があるのかもしれない。

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ワヤン・クリッといえば、現在のジャワではほとんどがマハーバーラタを題材としている。ワヤンはマハーバーラタやラーマーヤナなどインド伝来の物語を題材にした演目群(ワヤン・プルウォ)と、パンジ物語などをジャワ発祥の物語を題材にした演目群(ワヤン・グドッグ)に大別されるのだが、ワヤン・グドッグを上演できるのは現在ではバンバン・スワルノ氏のみらしい。私は2000年10月28日、マンクヌゴロ王家で、氏による『Jaka Bluwo』という演目を見たことがある。通常のワヤン・プルウォのように一晩ではなく、4時間余りの上演だったが(予定は2時間…)、ちょうど見つけたこの演目についての論文によると、これはバンバン氏が短縮上演用に作った演目らしい。この論文によると、ワヤン・グドッグの影絵はパク・ブウォノX世の時代(1893-1939)が最盛期だったが、上演はほぼ宮廷内に限られ、学ぶにも許可がいるといったことが衰退の原因のようだ。

ワヤンはラジオ(インドネシア国営放送)でも放送されてきたので、1980年代前半(私が初めて留学したのが1996年だったので、その一昔前)頃だと状況はどうだったのだろう…とふと思って、事情を知る人に聞いてみた。すると、当時のラジオ局の放送担当者にも確認を取ってくれて、次のような回答が届いた。ワヤン・プルウォの方は毎月、観客を入れて朝まで放送、ダランは毎回変わる。一方、ワヤン・グドッグの方は2か月に1度、ラジオ・トニル(生放送だが観客なし)で、夜9時のニュースの後(9時半頃)から24時まで放送(たまに一晩の放送)、ダランはスラカルタ王家のワヤン・グドッグの師匠であるMadyopradonggo氏が1人で担当(たまにもう1人の人も上演)していたとのこと。その師匠が亡くなった後はこの定期放送もなくなったとのことで、ワヤン・グドッグの伝統を絶やさないために続けていたようだ。

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というわけで、パンジ物語の演目はワヤン・ベベルにしろワヤン・トペンにしろ、どうも田舎の方に残っていたものの、都の真ん中(スラカルタ王家)に残ったワヤン・クリッ(グドッグ)では逆に廃れていったという感じのようだ。ジョグジャカルタ王家の場合はよくわからないけれど。

仙台ネイティブのつぶやき(73)浜の暮らしを照らす人

西大立目祥子

 東日本大震災のあと2年が過ぎたころだったろうか、津波で家を失い避難している人たちのもとに、ライター3人くらいがチームをつくり話を聞きに出かける活動に参加していたことがある。避難所にしつらえてある集会所に参加者14、5人が集まってきたところで、主催者が地域のなつかしい写真をスクリーンに映したりたりして、場が和んでくると3〜4人を相手にメモをとりながら話に耳を傾けた。

 そのころは被災した集落ごとに避難所が営まれていることが多く、同じようにプログラムを進行しても、やけに反応がいいところがあれば静かなところもあるという具合で、その雰囲気の違いが被災前の集落の暮らしぶりを教えてくれているようだった。

 いつも打てば響くように反応し、誰もが大きな声でしゃべりたがり、がやがやとあっちこっちで声が上がりちょっとうるさいくらい。それが、荒浜の人たちが集まる集会所だった。「荒浜」というのは江戸時代から漁業を生業としてきた集落で、数が少なくなったとはいえ、いまも日焼けした漁師たちが毎日沖に船を出し漁を続けている。遠慮のない荒っぽいしゃべりっぷりの中に浜っ子の気風が見え、農業で暮らしを立ててきた他の集落とは違う生活の営みがあると気づかされた。

 ちなみにここは仙台唯一の海水浴場でもあり、多くの仙台市民が夏には海で泳いだ記憶を持つ浜だ。私も小さいころから幾度となく遊んだ。だから、あの大地震と大津波に襲われた3月11日の夜、恐ろしい被害がつぎつぎと流れてくるラジオから「荒浜に200から300の遺体」と聞こえてきたときには、あの浜にいったい何が起こったのか、浜一つがつぶれてしまったのかと、誰もが震え上がった。後日、それは誤報だったと知らされたのだけれど、180人を超える人たちが命を落とした。そして、800世帯2600人が暮らした浜は、災害危険区域に指定され、もう誰も住めないエリアになった。

 がやがやと騒がしい集まりの中に、ひときわよく通る太い声で話をするおばあさんがいて目を引いた。よくしゃべり、よく笑い、まわりをリードするような豪快な話しぶりで存在感を放っている。佐藤はついさん。昭和2年、荒浜の漁師の家に生まれ、荒浜で所帯を持ち息子を育て、この大津波で家はまるごと流されたという。この地域では、船を持って漁をすることを「船を掛ける」というのだけれど、はついさんの生家も辰丸という船を掛け、荒浜の前浜で定置網漁を行っていたのだそうだ。仙台なまりでポンポン繰り出される浜の話にすっかり引き込まれて、私はそのあと一人ではついさんのもとを訪ね話を聞くことにした。

 荒浜の海岸は仙台湾を縁取るような砂浜の一部で、船を停泊しておける港があるわけではない。だから船を出すときも引き上げるときも大変で、浜の人たちの手助けが欠かせなかった。荒波を割るようにして沖に向かっていく船は舳先がとがった独特のかたちをしていて、「カッコ船」とよばれた。このカッコ船を、たっぷりと魚の油を塗ったバンギという丸太の上に乗せ、いわばコロの上をすべらせるようにして海へと押し出す。戻ってくるときは、波打ち際で船を回転させ、バックで車庫入れするように船を浜へと引き上げた。

 ここで多くは紹介できないけれど、その話の一部と書くと…
「カッコ船は、先とがってて、漕いで海に出ていかないといけないから、10人くらい乗ってんだね。櫂(かい)は片側に3人。櫂はいまの川舟と同じさ、ボート漕ぐみてえなの。艫(とも・船尾)のところにいる櫓漕ぎっていうのは立って。櫓漕ぎは普通の人ではねえんだ。ベテランの人。普段は父親か父親のおんつぁん(おじさん)だのだった。舳先にタカノリといって、運転する人あんのよ。船をこっち向けたりあっち向けたり。辰丸のタカノリは決まってたな、リキノスケじんつぁん。うんとしっかりした人だった。私うんと可愛がらったんだ」
 …と、こんな具合に漁の細部がいきいきと描き出されていった。

 そして、「おまかない」。荒浜の人たちが漁の話をしてくれるたび口にするおまかないとは、手伝いのお礼に手渡す分け魚のことだ。
「大漁のときは、旗上げて戻ってくるから浜にいてわかんのよ。捕れねときは上げないよ。
 船引き上げるときはね、船は動力じゃねえから、みんなに上げんの手伝ってもらったの。出ないと砂浜だから上げられんねえんだもの。魚もらえっからみな来るさ。フゴ(竹のカゴ)持って手伝いにくるんだもの。傷のついた魚はみな、「おまかない」さ。こっちに上げたり、そっちに上げたり。おまかないっていうのは、毎日食べてること。魚だの売らんねものは「おまかねだわ」って。野菜も傷ついたら「おまかないにすっぺわ」って。うちで食べることをいったのよ。だから、不漁だと気の毒だから飴こ買っておいたって。ありがとうっていうのに」
 沖から旗を上げて戻ってくる船が見えれば、誰もが手伝いに行った。誰もが手伝いに行けたのだ。それは生活に困窮する人たちを脱落させない共同体の仕組みとしても機能していた。

 漁の細部といっしょに、はついさんの心情も語られた。
「私、長女だったから、なんだか責任感じてたの。魚捕れねと、親父がうんとかわいそうなんだよね。海さ入ってね、捕ってきてあげてえくらいだったの」
 はついさんは父親思いの娘だった。というより父の生き方にじぶんを投影する「父の娘」だったのだと思う。
「女は船さ乗せられねっちゃ。網にはさわれっけど、上げられなかったの、女は」というのに。
 話が戦争に及ぶと、はついさんは「私は戦争に行きたかったの」と口にすることが何度もあった。従軍看護婦をめざした一時期もあったともいっていた。ひとことでいえば、肝が座っていて男まさり。男と肩を並べて生き、父親の力になろうと奮闘する娘にとって、時代はどれほど生きにくかったのだろうか。小さな浜に、こういう気概で生きようとする女性がいたことに眼を見張るような思いにさせられるし、私がはついさんの話を聞こうと思ったのも、その抗うような心持ちに心惹かれたからなのかもしれない。

 この日曜日、はついさんと4、5年ぶりに会う機会があった。仙台市が東日本大震災の経験を伝えようとつくった「3・11仙台メモリアル交流館」という施設での催しでのことで、テーマは「荒浜の暮らし」。会場に集まった荒浜の人たちは、やっぱり声が大きく、遠慮が少なく、がやがやとにぎやかで愉快だった。その中にはついさんもいて、映された昭和30年代の小学校の給食風景を見て、「なんだい、あれ、おらいの息子だっちゃ」と話し笑いをとっていた。95歳。どんな時代でもどんな環境でも、じぶんの意思を持って生きる女の人はいた。仙台の小さな浜の暮らしを想像するとき、はついさんは私にとって暗闇を照らしてくれる明かりのような存在になっている。

禁じられたお金

さとうまき

以前、僕がコツコツとシリアのがんの子どものためにお金を送っている話を書いた。しかし、とうとうアメリカに目をつけられてしまった。ロシアがウクライナに侵攻して間もない頃、つまり2月の終わりのことだ。

近所にフィリピンの輸入食材などを扱っている雑貨屋があり、ウエスタン・ユニオンの代理店もやっている。フィリピンバナナなどはここでしか買えないから値段が高いのはわかるが、石鹸とかシャンプーは日本のそれよりも結構高くて、そんなもんをわざわざ買っていく近所のフィリピン人は、結構裕福なのかもしれない。いや少なくとも、僕よりは稼いでいるに違いない。

いつものようにフィリピン人のおやじに送金をお願いする。しかし、おやじは、パソコンとにらみながら「エラーが出て送れないです」という。ウエスタン・ユニオンのサービスセンターに電話すると、どうも審査を受けなければいけないということらしい。電話でいろいろ聞かれたので、正直にシリアのがん患者のこどもに送金していることを説明した。結果、金輪際送金できませんということになった。「なんで?」と聞いても、理由は言えないという。ダメなものはダメですと押し切られた。

理由は簡単だ。アメリカの経済制裁である。いかなる理由であろうが、シリア国内への送金は許さないというわけだ。シリアに送り続ける僕は、アサド政権を存続させる悪いやつということで、二度とシリアにお金を送れないようにしてやれ!という魂胆だ。ただ僕が送金しようがしまいがアサド政権はびくりともしない。

ロシアへの経済制裁も重なり、おそらく米国の当局がウエスタン・ユニオンに圧力をかけて海外送金を厳しく精査するように指示したのであろう。

僕自身、ウクライナ病にうなされ、頭の中がすっかり青と黄色になってしまっていた。結果アレッポのお母さんからの連絡をチェックするのを怠っていたのである。以前はアラビア語のできる学生たちがいろいろ手伝ってくれていたが、彼らも青と黄色に染まってしまったのか、シリアどころではないようだ。それで、グーグル翻訳を使ったりして何とかやり取りしているのだが結構めんどくさい。

気が付くと次のようなメッセージが来ていた。「どうもいつもありがとうございます。忙しいところすみません。お邪魔して申し訳ないのですが、実は病院に行く車の運転手にお金を払えないです。うちの家族は女の子と16歳の長男だけ働いています。その長男はプラスチックホースを製造する工場で働いて、週に55,000のシリアポンドをもらっている。だからパンを買って食べるくらいのお金しかありません。それが私たちの生きるすべです。この間アサド大統領は恩赦を与える大統領令を出したが、その中に夫を見つけることができませんでした。とても惨めです。心配かけて申し訳ございません。サラーハの病気の治療を手伝ってくれる人は他に誰もいませんのでお願いしたいです」

サラーハのお父さんは2015年に行方不明になっているのだ。イスラム国に捕まったかもしれないし、殺されたのかもしれない。お母さんは、シリア政府に拘束されているのではないかというかすかな希望を抱いているのだろう。このご時世で、女手一つで子どもたちを養うのは至難の業だ。

慌てて帳簿を調べてみたら、アレッポからダマスカスの病院に通う交通費がロシアのウクライナ侵攻が始まってから1.5倍にまで高騰して300,000シリアポンドになっている。長男が半年働いても一度も病院に連れていくことはできない金額だ。僕が送ったお金はあっという間に底をつき、お母さんは借金をしまくっている。サラーハの一家は戦争で破壊された廃墟をただで借りている。近所の発電機も燃料が手に入らずにもう電気も来ないらしい。冬場は乗り切ったので凍え死ぬことはないのだが。

どうしてアメリカは、シリアの最底辺の人日を苦しめるのか。アサド政権が崩壊するまでは制裁を続けるようである。しかし、成果を得る兆しはない。そればかりか、米軍はシリアの油田を占拠して、原油を盗んでいるらしい。ひどい話である。

今、シリア人たちは、何とか生きていくために、麻薬の密売や、臓器の売買、子どもを誘拐して身代金をとったりする犯罪も出てきているらしい。ひどい話である。

ともかく、僕はというと何とかしてお母さんを応援して、サラーハ君を無事に病院に通わすことだ。頭が痛い。。。

ふれる

越川道夫

まだ八重桜が散って、その花びらが道を埋め尽くすような頃だった。
一回りも年長の友人と公園で待ち合わせをした。その人は詩人で、詩人と書けば何やら胡散臭さが先に立つが、長年聾学校の教師をしながら詩を描き続けた人である。初めてその人にあった頃、彼は「僕はずっと一人で書いてきました」とポツリと言った。詩人の仲間と連むこともなく、詩誌の同人になることもなく、「聖書」を詩と考え、その言葉とだけ向き合うようにして書いてきた人だと私には思えていた。電話ではやりとりがあったものの、コロナ禍ということもあり会うのは久しぶりで、散歩でもしながらつらつらと話ができればと思っていたのだった。
待ち合わせの駅の改札を出ると、もうその人は先に着いていて路肩のガードレールにもたれかかるようにしていた。聞けば、眩暈がするという。以前にもあったが原因は不明。病院でも何も見つからない。ただ眩暈だけがひどい。二、三日前から予兆はあったのだが、と辛そうである。公園はすぐそこにあり、そのまま帰すにしても少し休んだほうがよさそうなので、小柄な彼を支えるようにしてベンチに向かって歩いた。ここではタクシーも拾えない。
その短い距離の間に、その人は2度吐いた。
マスクから出ている彼の横顔は浮腫んでいるように見え、厚く大きな掌はひどく冷たかった。いけない、いけない。この冷たさはいけない。二人でベンチに座り、それでいいのかどうかもわからず手を摩り続けた。こうしていれば、手に温かさが戻ると信じていたし、どうしてもこの掌に温かさが戻らなくてはならないと思ったのだ。もしくは、それでもまだ温かい自分の手が冷たさを吸い取り、混じり合って、少しでも彼の手に温かさが戻るのではないか、と。
やがて、少し落ち着いたその人は、先頃雑誌に発表した詩について言葉少なに話してくれた。この半年ぐらいの間に、私の周りからは何人もの人がこの世を去っていった。そのことを考えたときに、去っていくひとりの男の姿を思い、その傍らに「きみ」の姿が見えた。そしてそのような詩を書いたのだ、と。私はひどく驚いた。もちろん、彼が私の周りから去っていった人たちを誰ひとりとして実際に知るはずもない。
 
その人が話してくれた詩を読んだのは、それから随分後のことになる。ある雑誌に掲載された「のこりのこと葉」という連作のはじめにその詩はあった。
「岸の上」と題されたその詩を読んで、私は驚き、そして、「一つの詩が生まれる場所」とは、どのような場所なのかということについて考えることになった。おそらく、彼は、私の悲しみに「遠く離れた場所」から「ふれ」たのだ。「ふれる」ことは単に「さわる」ことではない。「ふれる」とは「ふれる」ものと「ふれられるもの」の相互嵌入であり、自他の境目は混じり合い、転位することでもあるだろう。 
 
彼は、他人である私の悲しみに「ふれた」。「ふれる」うちに、その人の目には、会ったこともない「一人の先生」の姿が見えてくる。
「先生」は「草の林にかくれ/そこからまたゆっくり離れて」行こうとしている。
その傍らに「私」はいた。
「先生」に引き連れられた幼い「一人の坊や」として。
 
そして、
 
「私にも大切な/かけ替えのない方だということが改めてわかってくる」(江代充「岸の上」)
 

しもた屋之噺(244)

杉山洋一

涼しい陽気が戻ってきたのは、乳白色の厚い雲が太陽光をすっかり吸い込んでいるからでしょう。コロナ禍での待機期間つき日伊往復で溜めこんだ補講授業を、この2か月足らずで何とか完遂しようと躍起になっているものの、思うように躰は動いてくれません。このところ、庭に植えた紫陽花が純白のうつくしい花を咲かせていて、気が付くと日本の梅雨に思いを馳せていたりするのです。

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5月某日 ミラノ自宅
電話をとると、コンクールを受けに来たYさんの、生気のない掠れた声が聴こえてきた。聴けばここ数日食欲がなく、何も食べられないと言う。家にはまともな食材もないらしく、家人が和食の弁当を作り、夜半、それを自転車でリパモンティ通りまで届けにゆく。家に帰ると、「この御恩は一生忘れません」とのお礼が届いていた。コンクール参加で想像以上のストレスに苛まれていたに違いない。
5月1日以降、イタリア入国に際しEU digital Passenger Locator Form の提示は不要になった。今までは感染症対策のため、ヨーロッパ入国の際、旅程、滞在先の詳細を登録する必要があった。6月15日まで、公共交通機関、演奏会など室内施設やイヴェント、医療施設などに於いて、FFP2マスク着用義務は延長。アゾフスタン製鉄所から民間人避難開始とのニュース。

5月某日 ミラノ自宅
ノーノ「進むべき道はない」譜割り。彼の「プロメテオ」の焦点がより収斂された印象。纏わりついていたものを全て剥ぎ取り、本質のみになるまで徹底的に削ぎ落したようにもみえる。自筆譜より遥かに読みやすいので助かるのだけれど、ノーノに関してはコンピュータ浄書されているとすっきりし過ぎて少し有難みが薄れる気もする。人間とは我儘な生き物だとおもう。

5月某日 ミラノ自宅
遥々日本からコンクールを受けに来たTさんについて、審査をしていた友人が家人にメッセージを送ってきた。審査員全員が「頼むからたまには間違えて弾いてくれ、一音も間違えずに正しく弾く演奏はやめて、人間らしく魂のこもった音楽をやってほしい」と願っていた、という。その上で、「一刻も早く日本をでるよう」助言したそうだ。あまりに身も蓋もない言い方だとも思うが、彼なりに思うところがあったのかもしれない。
確かに日本は曲がった野菜は店頭に並べない。こちらは量り売りなので、曲がっていようとまっすぐであろうと、野菜そのものの味以外は問題にはならない。
日本人なりの言い分もあって、我々は真っ直ぐになるよう丹精込めて作った生産者への賞賛をこめて価値判断をしているのに違いない。そこで彼らが、「見かけがいくらよくとも、味が悪ければ仕方がないのではないか」と反論したとき何と答えるべきか、我々は考えておく必要があるだろう。
先日も、こちらが内心はらわたが煮えくり返っているのを知っている同僚が、それでも平静にレッスンをしているのをみて、「流石日本人だな、俺ならとっくに怒鳴りつけているところだ。やはり侍の文化だな」と言っていた。東京に戻れば現実から遥かに乖離した日本人であっても、イタリア人から見ればやはり同じ日本人なのだった。

5月某日 ミラノ自宅
G がスカラアカデミーを受験したいという。将来的にとても見込みのある生徒なので、是非スカラのアカデミーでコレぺティトゥアの研鑽を積んでほしい。先日レッスンのとき、彼の右手首にざっくりと古い傷跡があるのに気が付いて、それ以来少し心配している。杞憂であればいいと思う。
彼は南部カラブリアの出身で、1月にU君が彼と話したときは、ミラノのイタリア語がカラブリアとまるで違うのでとても苦労している、今はイタリア語を必死に勉強している、と真面目に話していたそうだ。
その話をピアノのMにすると、彼女もフリウリ地方ポルデノーネ出身で、同じ田舎者という意味で彼の気持ちはよくわかると言う。ミラノは雑多な人種の集まりだから、誰も地方出身者など気にしないかに見えるが、ミラノ人や長くミラノに暮らす人間からは、地方出身者に対する言葉の端々に薄い侮蔑を感じる、と力説する。
当初は気後れして誰とも話せなかったし、いつも誰かに見られているような被害妄想に駆られたこともあったそうだが、何時からか、揶揄した本人が無意識に使った単語を相手にそのまま返して、自らを差別主義者と気づかせて諫めたり辱めてきたというから、随分気が強いと感心する。
結局、自分で腹を括って差別的な言葉の雨に耐えつつ、敢えてそこに身を晒すことで、覚悟も決まり自信もつく。その後漸く、ミラノでも本当の意味で友人を作れるようになった、という。
地方出身者を、我々のような外国人と言い換えても、近い部分はあるかもしれない。

5月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科の必修授業の一環で指揮副科を担当しているが、学生の一人、パゾリーニより、Covid19で陽性になり授業に参加できない旨連絡がある。Covid陽性で欠席を余儀なくされた場合、出席扱いになるのだが、実地授業の場合、試験の際困るのは本人なので、何とも厄介な問題だ。
ところで、自分の教えた生徒にはパゾリーニやらヴィヴァルディがいて、今住んでいる家を建てた棟梁はベルガモのロッシーニだったが、ロッシーニは手抜き工事をしていたのか、その後色々と問題が発覚して難儀をした。棟梁からすればいい迷惑だが、こちらからするとどうにも名前負けのそしりは免れない。

5月某日 ミラノ自宅
「ラス・マドレス、自分の人生を聞いているかのように思ってしまいました。穏やかだった日常に嵐が吹き始め、今は一人でぶつぶつ呟いている、そんな風に聞いてしまいました。こんな体験ははじめてです」とのお便りをいただく。
スウェーデン・フィンランドNATO加盟申請正式表明。世界は確実に、そして非可逆的に変わりつつある。毎日歴史は新しいページを開いてゆくのだけれど、前のページに戻ることも読返すことすらできない。戦争が始まる前まで、誰もがパンデミック以前の世界に戻りたいと願い、戻れると信じてきたが、2月24日以降それは共通の幻想となってしまった。ロシア国営放送でホダリョノク退役大佐が「現実を見るべきだ」「我々は全世界と敵対している」と厳しい口調で軍事侵攻批判。その2日後には発言撤回。

5月某日 ミラノ自宅
息子は、親が在宅だと一切ピアノを弾きたがらないので、我々はもう長らく彼のピアノを聴いたことがない。家人は痺れを切らして、国立音楽院に息子のオーディションを盗み聞きに出かけた。蒸し暑い中大ホールの布カーテン裏に隠れて出番を待ち、物陰から演奏を録画して帰ってきた。間違えば不審者と思しき状況であるが、母は真剣である。
兎も角ストーカー紛いの家人の努力で、初めて息子がやっている室内楽を聴いて感無量。親馬鹿なのは充分承知だが、暫くの間、イタリア人に心を閉ざしていた彼が、こうして楽しそうに演奏する姿にただ感激する。アザフスタン製鉄所より、ウクライナ「アゾフ大隊」投降開始。マリウポリ陥落か。

5月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科の自作指揮クラスで、Nは自身が作曲したと偽りピアソラの「ワルツ」をもってきた。剽窃に対する対応を学校に確認すると、30点満点の最終試験の際、10点減点で処理するよう指示される。10点減点が厳しいのか甘いのかよくわからないが、18点が及第点なので、余程よい試験内容でなければ17点以下で落第となる。Nは大学最終学年なので、この単位を落とすと秋の試験期間まで卒業は延期となるが、どうしてそんなことをしたのかと暗澹たる思い。
孤立しているのか、他の学生と言葉も交わさず、授業中もずっと手元の携帯電話を弄っている。何を考えているのか。音楽も彼を救えないのか。そんな学生は彼一人きりだ。

5月某日 ミラノ自宅
朝からサンドロ宅で個人レッスン。U君は「ジプシー侯爵」を持ってきた。自分でもうまく出来ない技術を他人に教えるのは至難の業だ。彼には申し訳ない。
夕方レッスンが終わってから、家人と二人、自転車でスカラ座博物館にでかける。20時から半時間ほど、リストが愛奏したという骨董品ピアノで息子がバッハ、ベートーヴェンの変奏曲、ショパンの練習曲と半時間ほどのハーフプログラムを弾いた。
今日は久しぶりにACミランが優勝したとかで、紅白柄のユニフォームを着たサッカーファンが街中に繰り出しては大騒ぎをしていて、息子の演奏は、ルイジ・ルッソロの「都市の目覚め」のようであった。絶えまないクラクションの音の渦はちょうど無数のイントナルモーリのようで、息子はそれに抗いながら弾いていた。尤も、演奏に集中している彼の耳にはあまり聴こえていなかったに違いないが。スカラ座の絢爛な広間で、年季の入ったピアノを弾く息子を見ながら、背中からは無数のクラクションが盛んに鳴り響いていて、超現実的な光景ではあった。
演奏会には、スカラの児童合唱団時代の友人サラとアンジェリカも聴きにきていて、息子は彼女たちと徒歩で帰宅したが、街中が混乱状態で危険だったので、聴きにいらした長野先生を自転車の後ろに乗せて、ご自宅までお連れする。タクシーなどどこにもいないし、スカラの周りは、叫び声とクラクションで気勢を上げるサッカーファンで埋め尽くされていて、時には身の危険すら感じるほどだった。

5月某日 ミラノ自宅
スカラ・アカデミーのコレぺティトゥア科の入試に落ちてしまった、とGがすっかり打ちのめされた姿で教室に入ってきた。彼のこんな姿をみるのは初めてだった。
経済的に苦しく、授業料が多少の免除される今回の第一次入試でないと授業料が支払えない、と親から言い渡されていたそうだ。彼は生活のため、ミラノに住む親戚の左官業を手伝いながら日銭を稼いでいる。ミラノでは、親戚宅に居候しているので、自分の思うように時間も使えないらしい。普段から明るく振舞ってはいるが、かなり精神的にも厳しかったに違いない。取敢えず今回は、様子を見るため受けてみます、と言っていたので聞き流していたのだが、それほど切羽詰まった状況だったなら、もっと念入りに準備させるべきだったと反省。ウクライナの民間人殺害の疑いで、21歳ロシア兵への初の戦争犯罪裁判で終身刑宣告。

5月某日 ミラノ自宅
息子が大学課程入試のソルフェージュ過去問題を解いている。以下のオーボエ・ダモーレ譜表を実音に書き直す問題で、譜例はマデルナの「ロタールのためのアウロディア(1965)」であった。
実音表記に直す場合、普段は調号を付きで書いているらしいが、この場合どうするのか。息子に、この曲は記譜のハ長調で書いてあるから、実音表記ならイ長調の調号で書くのかと尋ねられたがよく分からない。この間まで、クラリネットB管の読み方をやっていたはずだが、いつのまにオーボエダモーレ譜表まで読めるようになったのか不思議である。
自分が大学1年生の頃、最初に大きな編成を書いたのが、オーボエ・ダモーレと室内オーケストラのための作品だった。なぜわざわざオーボエ・ダモーレにしたのか、どこから楽器を探してきたのか、全く記憶にない。普通ならまずオーボエ曲を書き、より個性的な音のためにオーボエダモーレを使って優美な音色に感動するところが、オーボエなどよく知らない若造がいきなりオーボエダモーレの曲を書いたので、有難みは半減したに違いない。本当に勿体ないことをした。

5月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科クラスのラファエルロが、自作指揮の授業に「百味組曲」を書いてきた。今度の曲はそれほど長くないです、と照れながら楽譜を渡してくれたが、演奏時間は12分ほどもあった。
ジェラートが主人公のアニメーションのための音楽で、「野苺の勝利」「官能的」などと幾つもの部分に分かれている。数十年前の場末のダンスホールで流れていたと思しきチャチャチャなのだが、作曲者本人は腰を振りつつ、嬉しそうに踊りながら指揮していて、その光景も作品も超現実的な中毒性に溢れている。なんとも不器用な踊りながら、時に長髪をかきあげ、髭をたくわえた前時代的な芸術家が、嬉々として無心でチャチャチャを振る光景は圧巻である。同じことを繰り返しているのに単調でもないし、何故か飽きない。求心力、推進力まで包含していて、不思議な音楽の力を思う。
昨年、彼に「子供の情景」と「ミクロコスモス」で指揮の振り方を教えたときは、どうにも出来が悪く頭を抱えてしまったが、全く思いがけない所からだしぬけに飛び出してきた印象だ。
自分の曲を演奏したくて指揮しているのだから、その喜びが身体から迸っているのが何よりも演奏者を刺激する。自分が指揮できる程度の作品を書けばよいのだから、小手先の指揮の技術など、余り問題にならない。クラシックの大作曲家も、案外こんな感じだったのかも知れない。メンデルゾーンであれリストであれ、誰であろうが、自作を指揮するときは、先ずは自分が指揮して自作を演奏できる喜びが何にも勝っていたに違いない。作曲家の本来あるべき姿なのだろう。
6月1日よりイタリア出国72時間以内の陰性証明書のみで、日本入国時のPCR検査、待機など解除と発表。ルハンスク州最後の砦セベロドネツク包囲とのニュース。新聞では毎日のように小麦など、下半期の食料危機を訴える記事が並ぶ。ロシア、ベラルーシは同盟国アルメニア、カザフスタン、キルギス、タジキスタンとの首脳会談で不調。
ブチャの虐殺に関わった可能性のある兵士として極東マガダン出身のチンギス・アタンタエフを特定と発表。アタンタエフにしても、虐殺に関わったとされるハバロフスクの第64自動車化狙撃旅団にしても、多くの兵士の顔は我々日本人によく似ていて、狙撃旅団長のアサンベコヴィッチ中佐は日本人のルーツともよばれるブリヤート人だ。子供のころから、ロシアやソビエト連邦の極東少数民族の音楽に限らず、文化や風習にはずっと興味をもってきたから、彼らが遥々シベリアを超えてウクライナで戦闘に参加している現実には、少なからず心を痛めている。
学校で指揮の伴奏を手伝ってくれているマルコは、ポーランド人の妻がいるが、最初にロシア軍がウクライナに侵攻したときから、妻や娘と同じスラブ系の顔立ちの市民が苦しむ姿を見るのは耐え難いと話していた。これが率直なヨーロッパ人の心情に違いない。
地中海をゴムボートで渡ってくるアフリカ人や、逃げ惑うシリア人や強制隔離施設のウイグル人もチベット人もアメリカのBLMも、頭では分け隔てなく考えていても、出発点としてDNAに疼く何かが違うのは仕方がない。それを人種差別と呼べばそれまでだが、大方意識すらしていないかもしれない。
同じように、狙撃旅団長がブリヤート人と知ったときの衝撃も、うまく言語化出来るものではなかった。記事が間違っていたらいいと願っているし、一刻も早く諍いが終わってほしい。ただそれだけを願っている。

5月某日 ミラノ自宅
昨日の夕方から酷い風が吹き荒れて、夜半には雨も降りだし嵐になった。それがわかっていたのか、それとも嵐で何かあったのか、庭に巣を作っていたリスの家族が忽然と姿を消した。クルミをやると、前の中学校の校庭の樹から遥々リスが降りてきて、どことなくいつもより静かに餌を口に運んでいる。違うリスなのか、それとも昨日の暴風雨ですっかり怯えてしまったのか。いずれにせよ、3匹で庭で遊んでいた一週間ほど前の元気な姿は見る影もない。
街の道路には、暴風で捥げてしまった背の高い街路樹の枝が散乱している。ミラノの幹線道路の街路樹は軒並みアパート5階分くらいの背丈があって見栄えもするが、何でもこれらは先の大戦後、植樹運動があって植えられたものだという。第二次世界大戦中、ミラノ中の目ぼしい樹は全て切り倒され、暖房などに使われたため、大戦終了時には、街から完全に緑が失われていたと聞いた。在ジュネーブ国連代表部のボリス・ボンダレフ参事官辞任、亡命。

5月某日 ミラノ自宅
良く晴れた日曜の午後、階下から息子とサラが練習するシューマンのソナタが聴こえてくる。珍しく家にヴァイオリンが響くだけで何だか豪奢な心地になる。
シューマンを一通り合わせてから、二人の笑い声とともにカスティリオーニの二重奏のリハーサルが聴こえてきた。カスティリオーニの音楽には、弾き手も聴き手も思わず微笑んでしまう、そんな純粋な音への喜びが溢れていて、すばらしい。
ロシア沿海地方議会で共産党レオニード・ヴァシュケヴィチ議員が、「軍事作戦を已めなければ、我が国の孤児院はますます増大するばかりで、軍事作戦の名の下に若者は死にゆき、不具者になり果て、我が国に深刻な損害をもたらす」と発言。その後、発言権は剥奪され、退場。

5月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科指揮法クラス1年目修了試験。あまりに皆熱心に勉強してきていて、その上、揃って本番に強かったので、愕いてしまった。たかだか6回の授業で、彼らがここまで出来るようになるとは思わなかった。誰もがとても音楽に溢れた指揮をしている。通常の指揮科の生徒と同じように「子供の情景」と「ミクロコスモス」を使うのだが、指揮者になりたい、とか、憧れの指揮者のようにやりたい、という先入観がないと、素直に音楽が躰に入りこむのかもしれない。ジャズやロックから音楽に入った学生が多いので、シューマンよりバルトークの方が入り込みやすかったのも面白い。バルトークから指揮に親しみ、だんだんシューマンで音楽の感情表現が充足してくる。清く正しく音楽を学んでばかりいると、大切な部分は案外欠落し易いのかもしれない。

夜、サンドロ宅で2年ぶりのホームコンサート開催。ヴァイオリンとクラリネット、ピアノのための、ポンキュエリ作曲「パオロとヴェルジーニア」は、ポールとヴェルジニーを辿る架空のオペラだが、各楽器に役割が宛がわれているのではなく、奇想的に目まぐるしく入れ替わってゆく。オペラ期イタリアに、室内楽がどのように成立していたのかよくわかる。

エマヌエラとマウロ・ログエルチォが演奏した、ハンス・ズィット編ヴァイオリンとピアノのためのベートーヴェン第九交響曲終楽章もとても面白い。奇天烈な編作かと訝っていたのを大いに反省。レコードもCDもなければ、自分の弾ける楽器で自分の聴きたい作品を、自分が聴きたいように、弾きたいように、弾けばよい。
既成の名作を、自在な感性で咀嚼し再構築して、他人にも演奏できるよう楽譜としてアウトプットさえする。当時は当たり前だったのかもしれないが、今のようにユーチューブで検索して簡単に音だけ飛ばし聴きするような乱暴な扱いではなく、実に豊かな音との付き合い方だとおもう。
シュポアのクラリネットオブリガードつき6つのドイツ歌曲や、ブルッフの三重奏による8つの小品も、室内楽の愉悦に浸るには絶好の作品であった。シュポアはロマン派を先取りし、ブルッフは遅れて生まれたきた根っからのロマン派であった。

懐かしい顔ぶれに再会するが、皆どこか窶れているようにもみえる。パンデミックと戦争で、厭世観の厚い帳がすっぽりとわれわれを覆っている。息子はサラとの室内楽の大学卒業試験で満点を貰って帰ってきた。彼はこれから大学入試なので点数はいらないかもしれないけど、と審査員に言われたらしい。
7月の南オセチアのロシア併合信認選挙中止発表。昨日より、イタリア入国に際しワクチンパスポートも陰性証明の提示も不要となった。
(5月31日ミラノにて)

逃げたパン(下)

イリナ・グリゴレ

車のラジオをつけると「天王星でダイヤモンドの雨が降っている」とラジオのアナウンサーが言った。かなりのハイテンションで言った。眠気と戦っている私まで嬉しくなった。天王星は綺麗な青い色をしていると話し続けているので、思わず次の信号で携帯をとって調べ始めた。住みたくなるような色。

そのあと好きなNHKラジオの演歌の番組に切り替えて、また眠気と戦いながら「カジマチ」という弘前の夜に賑やかになる街を通り過ぎる。たまたま幼稚園のお迎えに行く時この町を車で通るけど、毎回面白い看板が二つぐらい目に付く。ずっと前から入りたいと思う特別な映画館とピンクの服を着ているアニメのお姉さんのお店。ピンク色の看板に白くて太い文字で「男性天国」と書いてある。この雰囲気はラジオから聞こえる演歌にピッタリと感じて私は完全に眠気から目覚める。ただの3分ぐらい、別の世界に入って出るというような毎日の繰り返し。帰りも娘たちから「ルビアン」というお店の前に一時止まりするたびに「行きたい、行きたい」と言われ、いつか連れてってあげるからと言いながら右に曲がる。「ルビアン」という昭和の雰囲気がたっぷり残っている喫茶店のパフェが食べたい。

ある日、私が気に入っている無印の性別に関係ないズボンを履いてお迎えの帰りにコンビニに寄った。娘たちはおにぎりが食べたいという。一人で降りた方がグミなど他の買い物をしないで済むから「車で待っていてね」とお願いして、窓を全部開けて店に急いで入った。長女はツナマヨ、次女はシャケと二人の好みが違う。私の手作りおにぎりも好きだけど「コンビニ」の方は特別感があるらしい。1、2、3という袋の開け方も海苔を破らずにできるかどうか私は最後までドキドキする。日本に来てから一度も成功していない。長女は得意技のようにすぐできるから彼女に任せる。

コンビニでおにぎりの開け方について考えながら、知らない間に変わった振り付けのように一歩下がって、後ろにいた人にぶつかった。そしたら後ろにいたお兄さんがニヤニヤし始めた。無印の性別がないズボンをはいても女性としてみられることに対して複雑な気持ちになった。結局、自分の性別から逃げられない、と買ったおにぎりを手にとって店を出た。

そしたら、車のクランクを押しながら前面に開いている窓から顔を出して泣いている二人の娘がいた。私が遅かったせいで泣いていたらしいが、どう考えても2分しか経ってなかった。それより先に、私にニヤニヤしていたお兄さんは店を出た時、娘の姿を見てすごくびっくりしただろう。そうだった、女性だけではなく、母親だった私が性別不明のズボンを履く意味がなかった。

『WASP』という短編映画を思い出した。25分間で、シングルマザーである主人公の世界を描く女性監督のAndrea Arnoldはすごい監督だ。ここ何年か前から日本で生活しているシングルマザーの研究を始めた私にとってリアルな映画だ。私も今まで出会った女性の物語をこうして描きたい。シングルマザーではなくてもお母さんという生き物の生態をよく撮っている。映画は裸足でマンションの階段を降りて娘が喧嘩していた子供のお母さんと戦うシーンから始まる。赤ちゃんを抱きながら。そのあとは偶然に、昔の知り合いと道端で会ってデートに誘われる。先ほどのシーンからの彼女の切り替えがすごい。裸足なのに、赤ちゃんを抱いているのに、男にデートに誘われ女性を捨てることができない。だから嘘をつく。この子供たちはベビーシッターで預かっている、夜になったらバーで会えると。

急いで家に帰ってビンに入っていた小銭を集める。バーに入ってもドリンクは注文できそうだ。ミニスカートにはき替え、ベビーカーを押し、子供たちを連れて夜のデートに向かう。その前に、家で砂糖の袋を長女に渡す。「シェアして」という一言で、長女は小さい子の手のひらに砂糖をのせてみんなは嬉しそうに舐める。このおやつに対して常識的なお母さんならば眉をひそめると思うが、私はこのシーンに対して共感しかなかった。研究ですごく忙しい時、マフィンと甘いパンを焼くなんて、とんでもない。私が焼くマフィンとパンは美味いけど研究の方が大事と言いたら、死刑だろうね。正直、娘たちが隠れて台所から砂糖を盗んで舐めることは何回かあった。私はただ見ないふりをした。

彼女はバーに着き、子供たちを店の外で待たせ、一人で入る。なんともない振る舞い。それでも彼女は子供たちを家に置き去りにせず、少ないお金で自分と彼のドリンク、子供にコーラを買い、ちょくちょく様子を見にくる。女性でありながら、彼女はやっぱり母親だ。最後に外で待っている子供たちはお腹が空いて、待ちくたびれ、赤ちゃんの口に蜂が入りそうになり、「ママ」という長女の呼びかけに彼の車から飛んでいき、子供を守る。最初から最後まで彼女の複雑な境遇がリアルに映し出された、濃い25分の塊だ。最後に、デートしていた男性がお腹を空かせた子供たちをフィッシュアンドチップスの店に連れていって、お腹いっぱい食べさせているシーンで終わる。男性の優しさに感動するが苦い味が口に残る。この最後のシーンは監督の願いかもしれない。こんな優しい男性がいることを願うしかない。

ところで、調査で出会ったシングルマザーの女性のルビーの指輪は私のピアスと同じ色だった。彼女の用事のために車であちこち回りながら、5時間ぐらいいろんな話をして楽しかった。彼女のライフヒストリーを知っている私、彼女の声となって伝えたい。前に言われたことを思い出した。「私たちは似ている」。似ている理由は女性だから、母親だからではない。彼女は赤いルビー、私は赤いクリスタルのピアスを毎日のように魂の現れとして輝かせて一生懸命に生きているからだ。天王星でルビーの雨が降るところを想像してみた。東京タワーのようにたまに青から赤に色を変えても良い。

ある日、小学校の近くで長女を待っている間、知り合いのお母さんは私の疲れた顔を見て「昨日はすごく疲れていたね、歩いているのではなく浮いているように見えた」と言った。そのあとは「私もあと3年で仕事がしたい。やっぱり専業主婦は嫌だ。料理も全てできるけど仕事をしたい」と言われて、嬉しかった。

人生は野菜スープ

若松恵子

5月最後の日の朝は、雨ふり。
仕事をお休みにして正解だった。昨日より気温が下がって少し肌寒い。
家にこもって過ごそう。
片岡義男の3つの短編「人生は野菜スープ」について考えて1日を過ごすことにした。

片岡義男の短編小説集『これでいくほかないのよ』(亜紀書房)が4月の終わりに書店に並んだ。片岡義男.comの「短編小説の航路」に書き下ろしとして公開された8編が1冊にまとめられている。公開時に読んでいたはずだが、紙の書籍で再び読んで「人生は野菜スープ」が印象に残った。角川文庫に入っている第1作が好きな短編だったからだろうか。読後の印象には第1作の時と変わらない何かがあって、でも、今の時代に合わせて進化していると思う部分もあって、そこが嬉しかった。

1976年4月号の「野生時代」に掲載されて角川文庫に収録された第1作、2015年7月号の「群像」に掲載されて『と、彼女は言った』(講談社/2016年4月)に収録された第2作、2021年2月に片岡義男.comに公開され『これでいくほかないのよ』に収録された第3作。順番に紙の書籍で読み返してみる。どれも良かった。

「人生は野菜スープ」は女性たちの物語だ。主人公の女性たちはみんな、何かのしがらみにとらわれるという事なく、自分の暮らしを自分で成り立たせて生きている。何かに寄りかかっているという印象が全くない、美しい彼女たちが、小説の世界のなかで手足を自由に伸ばして動き回るのを読むのは気持ちが良い体験だ。自由であること、自分が使う時間について自由であることが3人の主人公に共通している。彼女たちには時間がたっぷりとあるのだ。

そんな暮らしを成立させるために、第1作の彼女は「パン助」だった。第2作の彼女は「作家」だった。そして第3作の彼女は勤めていたスーパーの雇用契約が満了となって、実家のある街に戻って再就職するという境遇だ。3作が書かれる時間の経過の中で、彼女たちの生き方の自由を成立させる条件が、ちっとも特殊なことではなくなっていることに、良いなと思った。3作目の彼女は、勤務が始まる前のつかの間の休暇中という設定だから時間がたっぷりあるのだけれど、そのことを特別とは思ってはいない様子からは(休暇中の予定は?と聞かれて何もないと答えるのだ)勤務が始まっても彼女のあり方はあまり変わらないのだろうな、何かにせかされて生活するという事にはなりそうに無いなと感じた。

世間から離れている(浮いている)彼女たちの物語は、ある種ファンタジーという作り物なのだけれど、具体的な描写によって、全くの絵空事になっていないところが、片岡作品の魅力なのだろうと思う。物語を読んでいる間は、彼女たちのいる空間に入って同じ空気を感じることができるのだ。

3作とも「野菜スープ」をこれから飲もうとする場面で物語は終わる。インスタントではなくて、滋味あふれるスープがきっと運ばれてくるに違いないと感じさせる。

第2作に、少し種明かしのような部分がある。テーブルに野菜スープが届くのを待ちながら、主人公が友人の女性と会話する。「からっと笑えるロンリー・ウーマンの話」を書いてほしいと依頼を受けた彼女は、「ひょっとして自分たちのことか」と言う友人に対して「違うような気もする」と答えたうえで、ロンリーは「寂しい、孤独、ひとり、惨め、誰かいないかというようなことではなく」そういう浅いことではなく、「浅いところでうろちょろしてても、なんにも始まらない」と言う。「では、深いところとは、なにか」との友人の質問をうけたところで、テーブルに野菜スープが届く。「その複雑な色どりと、深みのある香りに、ふたりは一瞬、おなじ表情になった。」という記述で物語は終わる。

彼女たちが大事にしているのは、例えば人生訓のようなものではなくて、この野菜スープのように、実態ある物なのだ。そしてこの野菜スープを作った、厨房にいる人も「うしろでまとめた髪を上げてうなじをきれいに出した」、表情の良い女性だというところが、また嬉しい。おいしい野菜スープをつくることができる人の人生もまた豊かだ。

水牛的読書日記番外編「私たちは読みつづけている」

アサノタカオ

今月は「番外編」をお届けします。2022年1月、K-POPファンの高校生の娘(ま)との共著で韓国文学をテーマにした小さな本『「知らない」からはじまる』をサウダージ・ブックスから刊行しました。この本については、八巻美恵さんが連載「言葉と本が行ったり来たり」第6回で紹介してくれたので、ぜひ読んでください。

https://www.memorandom.tokyo/yamaki/3515.html

さて、5月16日〜6月中旬、東京・下北沢の本屋B&Bで、本書で取り上げた作品を紹介するフェアを開催しています。またこのフェアでは、著者のふたりが本書刊行後に読んだおすすめの韓国文学を10冊セレクトし、「私たちは読みつづけている」と題して以下のコメントを寄せました。気になる内容があれば、お近くの方は本屋B&Bで、遠方の方は別の書店か図書館で、本を手にとってもらえるとうれしいです。

https://bookandbeer.com/

「私たちは読みつづけている——2022年に出会った韓国文学の本、10冊」

チョン・セラン『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)
◉朝鮮戦争を生き延びて波瀾万丈の人生を送った女性の美術評論家で随筆家のシム・シソンを取り囲む家族3世代の物語。チョン・セランの代表作『フィフティ・ピープル』が病院町という同じ場所にいる人々の横の繋がりを描いているとしたら、この長編小説はシソンからはじまる家族の歴史という縦の繋がりを描いている。『フィフティ・ピープル』と同じく本書も主人公のいないオムニバス形式で、家族一人ひとりの視点からいろいろな話が描かれているのがおもしろい。登場する人物はとても多く、はじめは名前だらけで分からなくなるから、本の6ページにある「シム・シソン家系図」に戻って読むといい。
私の中で一番心に残ったのは17のキュリムの話。シソンの再婚相手の前妻の孫であるキュリムは高校生で、ハンビッとドヨンという大切な友達がいた。ある日ドヨンがハンビッのことをきついジョークでからかって、メッセージグループ上で軽いいじめに発展してしまう。その時キュリムはグループに参加していなかったのだけど、後からそのことを知る。でも「こんなことになるまで放置しておくなんて」とハンビッから言われて、キュリムは、いじめに加担していなくても傍観者として加害者の立場に近かったことを自覚する。それからはドヨンともハンビッとも疎遠になってしまったが、いつかまた友達に戻りたいという気持ちも捨てられないでいる。
物語の本筋から少し外れたものかもしれないけれど、高校生の私には、この話がとても身近に感じられた。(M)

ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』(橋本智保訳、新泉社)
◉ロシアによるウクライナ侵攻の報道に接して、こんなときに小説を読んでいる場合だろうか、と迷いが生じた。でもタガの外れた世の中で正気を保ち、他者の痛みを想像するためにも文学の読書は必要だと思い直した。本書の舞台はソウルの移民街。戦後の日々、陽の当たらない場所でなお戦争の苦しみを生き、傷によってつながりあう流れ者たちの姿、そのさびしさの奥で震えるやさしさを描いた小説。今こそ読むべき一冊。(T)

ファン・ジョンウン『年年歳歳』(斎藤真理子訳、河出書房新社)
◉母と娘たちの物語、従順であることを強いられる者たちの物語。押し黙ってきた生きることの苦しみ、人それぞれに複雑なその内実を、繊細な小説の言語で描ききっている。感想を書きたいけれど、ことばがなかなか出てこない。噛み切れない思いが自分の外に向かわず内に沈んでいく感じ。最後のページを閉じた後、「家族」として出会いながら「人間」として出会うことのないまま別れた者たちのことを、ふと思い出した。(T)

イ・グミ『そこに私が行ってもいいですか?』(神谷丹路訳、里山社)
◉日本植民地時代の朝鮮半島に生まれた二人の少女の成長を描いた歴史エンタテインメント。息もつかせぬスリリングな展開にのめりこみ、物語の世界を一気に駆けぬけた。朝鮮から日本・中国・北米へ。アメリカの日系人強制収容所の問題まで語られるなど、著者の視野は広い。韓国では青少年文学として出版されている。少女たちの旅の物語を通じて、生きることの切実さを問いかける本書を日本の若い人にも読んでほしい。(T)

イ・ヘミ『搾取都市、ソウル——韓国最底辺住宅街の人びと』(伊東順子訳、筑摩書房)
◉こういう韓国社会の今に迫るノンフィクションを読みたかった。ソウルの「貧困ビジネス」をめぐる調査報道で、生々しい格差の現実を伝える文章の随所から、「幼い頃から貧困と戦ってきた」という著者の歯ぎしりも聞こえる。本書の「はじめに」では、「私」が貧者の物語を書く意味があらかじめ示されている。「私」=著者の主義主張ははっきりしているが、語りや文体はクールで私情に溺れることがない。そこがいい。(T)

ミン・ジヒョン『僕の狂ったフェミ彼女』(加藤慧訳、イースト・プレス)
◉「それは私じゃない。……あんたがそういうふうに見たかっただけだよ」。小説の中で「彼女」が「僕」に言う台詞が心に突き刺さる。フェミニズムを生きる「彼女」の顔に自分は向き合ったことはあっただろうか。性差別の文化から抜け出せない「僕」の顔を鏡の中に直視したことは……。ここではないどこかへ旅立つ選択をした「彼女」たちの背中に、なんと声をかければよいのか。娘を持つ父としてそんなことも思った。(T)

キム・チョヨプほか『最後のライオニ——韓国パンデミックSF小説集』(斎藤真理子、清水博之、古川綾子訳、河出書房新社)
◉韓国のSFは「やさしい気持ちになれるSF」。YouTubeの番組で翻訳家の古川綾子さんが韓国文学について語ることばに魅力を感じて、読んでみたのがこのアンソロジー。文明批評や環境批評のヴィジョンを物語によって創造するという著者たちの明確な意志が伝わってきて、しかもめちゃくちゃおもしろい。韓国文学をあれこれ読んでみたけど、次に何を読もうと迷っている人におすすしたいのがSFという沼。はまること間違いなし!(T)

キム・ハナ、ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています』(清水知佐子訳、CCCメディアハウス)
◉コピーライターや本の執筆などの仕事をしているキム・ハナと、雑誌「W Korea」で編集長をしていたファン・ソヌのエッセイ集。彼女たちは猫4匹と一緒にマンションでふたり暮らしをしている。バックグラウンドや趣味が似ていて、どうしてもっと早く知り合わなかったのかと残念に思うほど気の合うふたり(けんかもする)。相手が女か男かということにこだわらず、ただ一緒にいて尊敬できる相手と同居している、というところに本当のジェンダーフリーを感じる。
「ひとり」と「ひとり」がゆるく結合する「分子家族」という表現にも興味を引かれた。たしかに学生や若者でない大人でも孤独を感じるだろうし、皆がひとりで生きていけるわけでもないと思う。でもそのために結婚するのは違う、と感じる人もいるんじゃないだろうか(キム・ハナもそのように考えている)。日本でも彼女たちのような新しい家族の形ができていったらいいな、と読んでいて思った。
猫たちのカラー写真も掲載されていて、「ヨンベ」がかわいい。ちなみに、ふたりが運営しているYouTubeチャンネルがあったので見てみると、本のカバーのイラストが実際の本人たちの顔とそっくりなのだとわかってうれしかった。それから「W Korea」はK-POPアイドルがよく表紙を飾る雑誌で、ファンなら知っている人も多い。私の推したち、NCT127のメンバーも過去に何回か掲載されたことがあって、もしかしたらファン・ソヌがエディターを務めていたのかな?(M)

イ・スラ『日刊イ・スラ——私たちのあいだの話』(原田里美・宮里綾羽訳、朝日出版社)
◉日記風のエッセイ集で、「逃げるは恥だが役に立つ」という作品がよかった。友達のカップルと日本を旅する様子が書かれている。看板の日本語が読めないから無能になったと感じるけれど気持ちが楽、ソウルでは何でも読めるからぼんやりするのが難しい。韓国旅行をした時に私も同じことを思った。大阪はソウルの繁華街に似ているそうで、訪ねたのがドンキホーテと回転寿司だけ、というのが新鮮。文章にユーモアがあるのがいい。(M)

キム・ジフン『本当に大切な君だから』(呉永雅訳、かんき出版)
◉作者のキム・ジフンは病気を抱えていた苦しい時間を経験したことがあり、だからこそ本書には、つらい状況の読者が共感できるような言葉が書かれている。すべてを吸い取ろうとするよりも、必要な言葉だけ拾うように読むのがいいと思う。そして時間が経って読み返した時、前よりも頷ける部分が増えていれば、自分に少し余裕ができたことを感じられるのかもしれない。NCT127のリーダー、テヨンが愛読していると聞いて興味を持った。(M)

2022年5月15日の熊本日日新聞に、アサノタカオによる『そこに私が行ってもいいですか?』(イ・グミ著、神谷丹路訳、里山社)の書評が掲載されました。イ・グミの小説、おすすめします。

「意志ある女性たちの連帯」

ディアスポラを生きるものたちの振り幅の大きな旅の物語を通じて、生きることの切実さを問いかける韓国発の歴史小説。息もつかせぬスリリングな展開にのめりこみ、物語の世界を一気に駆けぬけた。
主人公は日本植民地時代の朝鮮半島に生まれた少女たち。1人は「対日協力者」の資産家ユン・ヒョンマンに仕えるキム・スナム、もう1人はヒョンマンの娘チェリョン。階級を異にする2人が出会い、歴史の荒波に押しだされるように日本・中国・アメリカと国境を越えて移動し、苦難を生きのびる過程が語られる。
日本留学中のチェリョンが朝鮮独立運動に関わりを持ち、物語は急展開を迎える。娘の刑務所行きを恐れるヒョンマンの画策により、スナムはチェリョンの身代わりとして満州の「皇軍女子慰問隊」に送り込まれたが脱出して渡米、ニューヨークの大学で学びながら自立の道に目覚める。一方のチェリョンは「日本人」として偽装結婚してアメリカに移住、日米開戦後に日系人強制収容所に送り込まれるなど辛酸をなめる。
複数の言語を学び、読書を通じて未知の世界を想像し、愛する人のために行動を起こすことで新たな人生を切り開くスナム。若き彼女に手を差しのべる「姉」のような存在の女性たち。こうした意志ある女性たちが連帯する姿に著者の希望が託されていると感じるが、解放後の韓国でチェリョンに再会したスナムの後半生は幸せなものではなかった。
人生の岐路で何を選びとり、何を捨てさることが正しかったのか。真の答えは誰にもわからない。
「そこに私が行ってもいいですか?」。本書の題名は、愛娘への「誕生日プレゼント」として使用人を探すヒョンマンに、自らを差しだす幼いスナムのことばに由来する。
懇願するのは誰か、承認するのは誰か。暴力的な支配と従属の関係を脱し、他の何者かの許しを乞うことも自分を偽ることもなく、誰もが自由に「そこ」に行き、生きられる社会を実現することは可能か。読後に兆した問いが、いまも心の中で響く。(T)

* 文末( )内のアルファベットは執筆担当、(M)は(ま)、(T)はアサノタカオを表しています。

211 背表紙、砦、鳥よ

藤井貞和

一九九五年、ベオグラードで編んだ、『鳥のために』が、
内戦勃発のとし、山崎佳代子の詩集になって、書肆山田から

言葉の紡ぎ手たちの、善き手と手とに結ばれて、
旅の始まりでした。 鳥はどこへ、旅の終わりよ どこへ

山崎さんの言う、「本とは、生まれる魂の食物」。 「詩とは、
祈り。 闇のなかの微かな光。 渇きを癒す水」――

仲間たちの書物が砦になって、背表紙になって、
守り続けることでしょう。 守り続けてください、鳥の魂

(菊地信義に続いて、大泉史世の訃報に接します。)

ニュースというウソから

高橋悠治

危ない時代だ。毎日ニュースを見てしまう。世界はアメリカ側とそうでない方に分かれて、日本はアメリカ側だから、報道されないこと、歪められているニュースばかりで、そうでないニュースはネットで探すよりない。

第2次世界大戦が終わったあと、ラジオも新聞も1日で変わった。その後、アメリカ占領下で、また変わったが、新聞に書かれていることから書かれてないことを読み取る技術があって、子どもでも使うことができた。そんな情勢は1950年代の後半まで続いた。

今はまたそういう時代が来ている。これがいつまで続くのかわからない。日本では、今まで見ていた個人のコラムも、信頼できなくなったものが多い。昔アメリカではNew York Times、イギリスでGuardian、フランスでLe MondeとNouvel Observateurを読んでいた。コンサート評も翌日には載っていた。今はどうなっているだろう。テレビや新聞も政府と同じことを書いている。フェイクニュース・偽旗作戦・プロパガンダ、知らせないだけでなく、ウソを書くのが当たり前に通用する。反論は削除されるだけでなく、書き手も排除される。メディアさえも、禁止されて見えないものもあれば、ある日突然見られなくなることもあった。日本では、同調圧力が他より強いと言われるが、今はどこでもそれがあるのが見える。

逆に、メディアが禁止されてない場合なら、日本のことは他所の報道で見たらわかることもある。日本語の報道は多くないし、同じ所の英語報道と比べると、はっきり書くのを避けている感じがする。日本人の排外感情を刺激しないようにしているのだろうか。英語報道も英語圏でないか、小さな独立メディアを見つけないと、ウソと戦争ヒステリーで読めない。

グローバリズムは1990年代から潮が引いて、民主主義は Change! と唱えながら、 クーデターと暗殺と買収の別名になったようだ。歴史は海から大陸へ、西から東へ移っていくのか。

そのなかで、音楽は無用の仕事になるほどに、抵抗と意義を増すのだろうか。分析と精密の代わりに、曖昧なひろがり、息のつける空間、かすかな流れの時間を、どうやって創り出せるだろう。

2022年5月1日(日)

水牛だより

肌寒い五月のおとずれは、いまの暗い世界にピッタリすぎるとしても、よろこばしくはありません。何もしないで、ただ生きていることが快適な日というものはほとんど失われたといっていいほど少なくなったと思います。生きものとしての人間が快適に過ごせる域は案外せまいものなのかもしれません。

「水牛のように」を2022年5月1日号に更新しました。
いまさらながらのお知らせですが、「水牛のように」のはじめはその月の目次になっています。目次にはタイトルと著者の名前があります。タイトルをクリックすると、その本文が表示されます。著者の名前をクリックすると、その人がこれまで水牛に書いたアーカイヴが表示されます。活用してください。
先月は水牛のことをすっかり忘れていたというアサノさんもアサノさんなら、忙しいのだろうと思って、催促をしなかった私も私です。今月取り上げられているファン・ジョンウン『年年歳歳』はアサノさんが書いているように、ほんとうにすごい小説で、読みだしたら読み終えるまでやめられなくなります。人の名前はすべて姓と名のフルネームで書かれていて、そのせいもあり、たとえば母と娘の超個人的な関係であっても、外に向かって否応なく滲み出ていきます。小説の新しい力を感じました。

それでは、また来月も更新できますように!(八巻美恵)

五月

管啓次郎

空をなつかしむように伸びるポピーを
花環に編むことはしない
曇り空の五月をおだやかに揺らす風が
心を軽く明るく浮かばせて
小鳥はこれからやってくる
果実はこれからふくらむ
犬は首輪を引きちぎり
エンペドクレスの霊を訪ねて火口にゆく

210 黒雲本

藤井貞和

「本日、もう一つ紹介したい本が『逆転の大戦争史』(文春)です。
この本を私は自分の『非戦へ』(編集室水平線)を出版した直後に、
新刊書店で見つけました。ちょうどおなじ時期に出版されました。
この本のカバーの見返しを見て私は驚愕しました。見返しに見る、
キャッチコピーです、「旧政界秩序」では「戦争は合法で政治の、
一手段であった。戦争であれば、領土の略奪も、殺人も、凌辱も、
罪に問われない」と書かれてあります。これは私が書いた趣旨と、
まったく、まったくおなじです。これはイェール大学の法学部の、
先生お二人が渾身の力を込めてお書きになった本だとのことです。
見返しのキャッチコピーに続けて、「「新世界秩序」下に、戦争は、
非合法であり、侵略は認められない」と。「パリ不戦条約という、
忘れられた国際条約から鮮やかに世界史の分水嶺が浮上する」と。
この本にはつまり、私の本とおなじことが書かれているわけです。
私が書いたことをイェール大学の先生たちがフォローしてくれた、
逆かな、この本の海賊版を私が作成した、どちらでもよいですが、
ご紹介しておきます」(佐倉市国際文化大学にて、2020/9/12)。

「〈人類にとり戦争は不可避である〉、だから戦術や戦力を含めて、
戦争を哲学的に考察したり、様々な文学がその中から生まれたり、
という談義が、それらに対して批判的な契機を持たない場合には、
それで終わってしまう。世の中の戦争に関する考え方というのは、
しばしばこのあたりでストップしてしまう。何か戦争にうっとり、
論客が次から次へと戦争論を展開する。まだ戦争学が生まれない、
古代から近代まで、それが第一分類、つまり戦争論でありました。
第二の分類は、ちがうタイプの、たいせつな戦争論であるにせよ、
戦場での兵士、空襲、本土決戦、幼児体験などによる記録や記憶、
文学、映画、アート、戦争忌避、訴え、それらが場合によっては、
非常に強力な反戦の思想などを生み出すことがある、でもそれは、
戦争学の起点になりにくいという現実です。第三に「忘れられた、
パリ不戦条約」とイェール大学の先生たちが、言っておりますが、
忘れられているとしたらば思い出すべき、詩でいえば日本戦後の、
荒地派の詩を忘却から思い出すべき、何か新しい起点が生まれて、
戦争学を始まらせてよいのではないかと思うのです」(同、続き)。

(補足、2022/4/30)
なるほど、専門の方のご本を見ますと、パリ不戦条約というのは、
結局、無駄だったとか、ちょっと戦争を遅らせただけのはなしで、
第二次大戦を起こしたではないかとか、二、三行で片付けられて、
戦争談義にもどりますね。ベルサイユ条約には、米国が参加せず、
敗戦国のドイツに対して多大な賠償金を課して痛めつけたことが、
第二次大戦へとつながってゆく、と。ベルサイユ条約については、
よく論じられる。でも、その8年後の外交の成果でもありました。
それまでは戦争をよしとしていた国際関係から、戦争は悪である、
戦争はやめようと呼びかけて、世のなかが大きく逆転していった、
一九二〇年代の凝縮した時間がここにあるのではないかと思って、
さらに整理して『非戦へ』を作りました。不戦条約という無効性、
そうですね、各国が思惑で参加するという、政治の現実性でなく、
無効に近い百年後、あるいは二百年後へと戦争学は向けられます。

(同、続き)
三要素が〈虐殺、凌辱、掠奪〉(虐、辱、掠)とは舌を噛みそうで、
書けない漢字が並ぶ、ギャグだと思ってくれてよい、と書いたら、
友人が最近になって、「いいえ、けっしてギャグなんかではない、
ギャク、ジョク、リャクはどれが主で、どれが副か、ではないよ、
戦争の三要素だ」と、つよく支持してくれました。難民とは誰か、
虐殺の変形であり、凌辱の変形であり、そして掠奪の変形である、
と言うのです。難民には種類があるにしても、今次の東部欧州の、
虐殺を忌避するから、凌辱を忌避するから、掠奪を忌避するから、
という古典的な戦争であることが、ギャグであってはならないと、
戦争学の必要性を改まりつよく感じた、という友人のメールです。

(黒雲とは、噴煙を見ていると、空気を押しのけるから、
ほんとうは透明なかたちなんだ、と。戦争を見る論客もわれわれも、
惨害を、路上を、崩れ落ちた十五階を、難民を映像で「見る」。
それはそうだけど、戦争学は透明な平和を、非戦を見るんだ。
戦争と戦争とのあいだの端境期でよいから、一九二〇年代から、もう、
百年が経過しつつあるけれど、二百年後に向けてでよいから、
第二次、あるいは第三次ウクライナ戦争のあとでか、阻止できたか、
すべてが透明になり、分かり合え、人類の終わりに立ち会えるように、と、
友人は戦争学を提唱する。佐倉市での「講演」では〈「文学の言葉」と、
「非戦の言葉」〉と題し、『非戦』(坂本龍一、二〇〇二)を引用した。
九・一一のあと、各国の大統領や首相が、これは戦争だ、
テロは戦争だといって復讐戦にはいっていったのに対し、
坂本さんたちは逆に「報復するな、報復しないことが真の勇気なのだ」と、
そんな言い方で始めているというか、終わっている本だ。)

逃げたパン(上)

イリナ・グリゴレ

ある朝、いつものように娘たちと朝ごはんを食べる時、会話に花を咲かせた。私が長女に、蒸しパン食べたいなあ、近いうちに作ろう、と話かけると、次女がおびえて「虫パン嫌だああ」と泣き始めた。昨年まで普通に蟻を捕まえ、ダンゴムシで遊んでいた次女は今年になって虫が怖いと言い始めた。それは幼稚園で他の女の子は怖がるとみて集団生活で虫を見ると=女の子が叫ぶ、逃げるというリアクションを習得したからだ。でも民族によって虫は大事な栄養だし、ママは田舎でたくさんの虫と一緒に暮らしたようなものだと説明すると、彼女も「じゃあ、ピンク色の虫パンだったら…」と納得し始めた。絵が得意な長女はすぐに「虫パン」を書き始めて、そして絵をよく見ると「逃げたパン」というタイトルとなって、描かれた虫パンの上の虫は逃げ始めていると気づく。

この朝の会話で生まれた「虫パン」のイメージがしばらく頭から離れなかった。女の子は虫が怖いということもこんな小さい時から覚えるし、それより虫だらけのパンの絵が印象に残る。ルーマニアで子供の時に初めて暗記したお祈りの言葉の中ではpâinea noastră cea de toate zilele (私たちの毎日のパン)と pâinea spre ființă (存在するパン)という言葉がある。この祈りは誰でも知っている、何があってもずっと心の中でお経のように繰り返していう。ルーマニアの主食はパンなので、この言葉が示している意味は3つある。生活の糧として食べるパン、魂の栄養、聖体儀礼のパンである。こうして考えていくと、ゴッホが初期に描いた「ジャガイモを食べる人々」という有名な絵を思い出す。この絵で農民が食べているのはパンではなくジャガイモなのだ。階層社会のヨーロッパ社会ではパンがどのぐらい「贅沢」な食物であったかが一つのイメージで伝わる。ルーマニアの農民も、パンではなくジャガイモ、インゲン豆、トウモロコシの粉をパンの代わりに主食としていた。

娘の「逃げたパン」という絵を見ると、かわいい虫たちがパンから逃げるというアニメーションみたいなものを想像させられる。今の時代では当たり前のようにパンを食べられるようになったが、いつかこの子供の絵に描かれているように私たちからパンが逃げる時代が来ると寒気を感じる。当たり前であることの当たり前がなくなる気がした。「今」を生きている私たちがいつかの大昔になって、今の食べ物は珍しいものになる。宇宙へ引っ越しして食べる、飲むようになる栄養ドリンク、チューブの中のペーストと、色鮮やかな丸い透明の薬がお皿の上に並ぶ。お皿も必要がなくなるので、陶芸が別の視線から見る「昔の人間の持っているオブジェ」となり、博物館に飾られる。このぐらいのスピードで世界が変わり、追いつかない者からパンが逃げることになるかもしれない。

こうして妄想をしながら、娘が大好きな「ロボットがいるスーパー」へ向かう。昨年からある携帯会社の店の前に置かれているロボットに触れて、娘たちが大喜び。私はどんなリアクションをするのか観察しようと思ってみたのだが、びっくりしたのは、長女は怖がらず、すぐロボットの手を自分の手で触って、ロボットが混乱して認識できないように無駄に手と指を動かした。それでも娘は血が流れてない冷たいロボットの白い指を触って手を繋いだ。人間の子供はこうして無差別にすぐ触りたくなる、手を繋ぎたくなることがよくわかった。娘は「かわいい」とロボットに話しかけた。

人間はこうやって触ろうとするということも、未来ではA Iは人間とはどんな動物だったのかを分析するデータとしてこの文章を見つけるだろう。人間とは触るのが大好き。人間の手は、柔らかくて、温かい。それは恋しいともいう。子供が生まれた時も抱っこしていると最初に感じるのは、「あたたかい、柔らかい感覚」。未来のA Iは人間とは自分の脳に騙されて生きていると思うかもしれない。たとえば、愛という幻はそうかもしれない。でも、私はこのぐらい騙されてもいいと思う。愛だけはパンの変わりにあってもいい。これは人間にとっては栄養だ。毎日のパンのようなものだ。A Iと手を繋いで歩く未来の人間も想像できる。その時には電波で脳が繋がるし、お互いにイメージでお話しができる。もしかしたら、コミュニケーションの面で少し楽な世の中になる。

この前は映像人類学を教える授業で私が尊敬している研究者の映像を見せたら、学生が「匂いまで感じる」、「音楽がすごい」、「触ったような感覚」と言われた。当たり前だが「イメージ」とは五感を通すということを忘れてはいけない。特に若い子はこう感じると気づき、嬉しかった。こうしてみると毎回、新しい命が生まれ、世界がすごいスピードで更新されることは悪いことではない。速度が速いと感じる者もいれば最初からこの速度に合わせて生まれる者もいる。

私の脳に詰まっている祖父母の家のイメージ。匂い、音、家の伝統的な織物の飾りの色、祖母が糸から織った寝巻きの触り心地、風に揺れるカーテンとたくさんの窓からくる眩しい光、庭の葡萄の木の葉っぱの動きと花の匂い、割れるまで成長し、爆発しそうな赤いトマト、キャベツ畑に集まる何百何千ものモンシロチョウ、豚小屋から聞こえる豚のいびきと卵を生む鶏の声、私の足を刺した後に針を無くして死んだ蜂の葬式で忙しい私は、刺されたところが痒い。庭で集めていた死んだ虫のお墓にたくさんの花を飾り、痛痒くて耐えられない足を塩で揉んで、蜂の小さな透明の針を抜いて踊り始める。逃げる虫を追いかけて、足で土を踏んで踊り続けた。

別の授業では、伝統芸能が400年以上前から人から人へ伝えられて、毎回更新されるときのことを喋りながら、将来では人から人へ、ではなく人からA Iへ、そしてA IからA Iへと伝えられることを自然と想像し、必ず続く踊りを想像した。もう一度、娘の絵をみるとパンの上の虫の動きはどうしても踊りにしか見えない。そうか、見方自体でものもスピードも変わる。逃げたパンではなく、踊ったパンというタイトルでどうかなあと娘に聞いてみる。この前もスーパーの駐車場で大きなスピーカーからオルゴールのような音楽が流れて、娘と3人で踊り始めた。駐車場で踊るのも初めてだ。

昨年見た夢。祖父母の村で他の子供と裸足で遊んでいたら、突然大きな音とともに地面が揺れて、目が耐えられないような光と爆発で倒れる。「逃げて」という声に従い祖父母の家に向かって埃と煙を吸いながら、逃げようとしている子供の自分がいた。すると、家の遠く、駅の近くに原発のような建物が見えて、その上にもう一つの太陽が煙の中で光っていた。太陽が二つあるようなイメージだが、家の向こうの太陽は少しずつ核のような丸い光に変わって、周りから「そっちに見ないで、目が見えなくなる」という声が聞こえる。「もう、遅い、見ちゃった」と思いながら夢から覚める。

火星には二つのお月様があると娘に絵本を読んで知ったが、綺麗な景色だと思いつつ、もしかしたら、独裁者は火星のお月様が一個、ほしいのではないか、とつい思っちゃった。

草を食む。

越川道夫

今ということを味わっている。
味わっているとは、言葉通り「食べている」ということである。野の草を食べることにしたのだ。今までも、猫の額ほどの小さな庭に生えるユキノシタや明日葉を摘んできて、天麩羅にして食べるほどのことはあったが、今年の春はそれどころではない。虎杖をポキっと折れるところまで折ってきて、皮を剥いだ茎をさっと茹でてポン酢をかけたり炒めたり、思いつく限りのことをして食べる。すると、これが独特の酸味があって爽やかでうまい。虎杖だけではない。蓬を、蒲公英を、野芥子を、ハルジオンを、酸葉を、三つ葉を、蕗を、伸び始めた葛の芽を、蕎麦の葉を、羊蹄を食べる。カキドオシの紫の花が咲き始め、その葉を摘んできて茶にして飲む。いただいた白木蓮の花を、食べられるからと天麩羅にしたのが始まりだったかもしれない。大ぶりな白く開き始めたばかりの花を丸ごと天麩羅にして食べた。すると生姜に似た風味の中に花の甘みが口の中に広がり、その初めて口にする「味」にひどく感心してしまったのだ。野の草の味は、スーパーで買ってきた野菜たちの味とはまるで違っていたし、「旬」ということがあるのならば、これこそが「今の味」であった。春は駆け足で去っていき、野の様相は刻々と移り変わり、少し目を離すと今まで生えていた草が、もうその後から勢いを増して伸び始めた草の下になり見えなくなる。同じ草でも日が経つにつれ、柔らかかったものが固くなり食感だけでなく味すらも変化する。面白いのは、野の草を食べようとすると、そのどれもが微量の毒を含み、その毒が独特の風味にもなっているのだが、また別の草にその毒を打ち消すような効用があって、それもまた微量の毒を含んでいるということだ。
 
今までは野の草を見ることが楽しみであった。見ることが楽しみなのであって、名前はそれほど重要ではない。名を知っている草もあれば知らない草もあり、何度調べても名を覚えることができない草もあった。だが、それでも構わないのだ。その草ひとつの個性豊かた形を愛でることが楽しいのであって、草はどんな草でもただ生えているだけでよかった。その受用は今も変わらないといえば変わらないのだが、食べ始めるとその草の名前を覚え始めたのは何故だろう。愛着だろうか。確かに、野の見え方が今までとは変わってきたのを感じている。親密さ。その親密さとは、私はそこの草を食べ、草はそこに生えている。私も草も同じものだというような「親密さ」である。私は外から来て、その「草」を鑑賞する者ではない。「私」と「草」は同じ場所に「生えている」というような…。
 
昨年来、身の回りで何人もの人たちが、この世を去っていった。先月もまた出会って数十年になる旧知の友人が逝き、数日前にも年長の恩人とも呼ぶべき人が亡くなった。仕事場に向かう川縁には大きな桜が連なって生えており、毎年春の時期には人の目を楽しませてきたものだが、昨年の秋から冬にかけて、おそらく行政の指示を受けた業者がやってきてその枝を伐採していった。理由はいろいろとあろうが、それは「無惨」としか呼びようのない切り方であって、今年も桜は咲くには咲いたが痛々しいまでの有様となり、例年に比べ足を止める人の姿も寂しかった。近所に道を覆わんばかりの見事なスダジイの大樹があるのだが、これもまた道に張り出した枝をバッサリと切ってしまい変わり果てた姿を晒している。木に何か憎しみでもあるかのような切り方なのである。胸がつぶれるような思いを抱きながら、野の草を食みながら、私はダラダラと長く生きていようと思った。まもなく桑の実が赤く熟れる。

製本かい摘みましては(173)

四釜裕子

田中邦衛出演の映画特集をCSでやっていて、折よく『大日本スリ集団』(1969)を見た。スリ集団の親分・平平平平こと三木のり平と、スリ係の刑事・船越の小林桂樹が主人公だ。船越はひとり娘の将来を心配するあまり、戦友でもある平平に奇想天外なシゴトを頼むのであった……という筋だが、「スリは指の芸術」という平平親分(組合長と言ってたか)による新人教育が可笑しい。最大の道具である人差し指と中指を鍛錬するために熱い湯と水に交互につけたり、両手を上下から背中に回してつなぐのを交互にやったり、自らも、半紙をしわくちゃにしたようなものをちゃぶ台に重ねて、その中からさっと一枚抜き取るような訓練をするのであった。それを眺める若き恋女房、高橋紀子の横顔。ちゃぶ台の端には食べ終えたスイカがふた切れ。手前に黒電話。隣の部屋にはスリ仲間が残した小さな二人の子どもが寝ているようだ。

スリというのは、人差し指と中指でものをつかむことが多いようだ。映画『スリ』(2000)でその手つきを大きく見たことがある。まともに真似ると指がつる。映画では、アル中に苦しむ原田芳雄がスーツを着せたトルソーを前に何度も練習していた。弟子入りしてきた青年には「けなげにやれ!」と喝を入れていた。『フォーカス』(2015)のウィル・スミスはスリというより三代続く詐欺師だったが、弟子入り志願の女性には心理戦を説き、「スリは暗闇のダンス」などと言ってたな。ひたすら「気づかれないように」を信条とする一派とは全く別ものなんだろう。

慶応2年(1866)に生まれ、明治の東京でスリ集団のボスとして名を馳せた仕立屋銀次は、もともと御徒町あたりで仕立屋をしていたのが名の由来だそうだ。指先は器用だったに違いなく、しかし親分になってからは自ら手をくだしたことがないのを”自慢”していたと、本田一郎さんが『仕立屋銀次』に書いている。

〈「わっしゃあ、長えこと掏摸の親分をしていたが、自身で手を下して、他人(ひと)さまの物をかすめたこたあ、ただの一度もごぜえません。これだきゃ、わっしの自慢でごぜえますよ」〉

銀次は紙屑問屋と銭湯を家業としていた家に生まれた。父親が数年後に刑事になり、家にヤクザなども出入りするようになったとかで、十三歳で日本橋の仕立職人のもとへ年季奉公に出されている。年季があけると、早々に結婚して下谷御徒町に店を持つ。腕がよかったんだろう。近所の娘たちが稽古に通うようになり、中の一人と恋に落ちる。その娘の父親がスリの親分で、銀次は実父ゆずりの親分肌だったのか、義父亡きあとはそちらの稼業を継ぐことになる。このとき銀次、三十二歳。

〈銀次は金杉御殿で、愛妾おくにの膝枕をしながら、部下五百の乾分と、全国各地の兄弟分の活動が、手にとる如く判っていた。おくには、銀次の傍にあって、乾分から刻々集まる情報や、稼ぎ高を一々台帳に記入する。台帳は乾分の名前を索引にして、四十二冊ある。〉

こうして羽振りよく稼いだあげくの明治42年、銀次は御用となる。赤坂署に連行されるときの銀次はこうだ。

〈五分刈頭に山高帽を冠り、鼻下に八字髯、本フランネルの単衣物にセルの単羽織をはおり、鼠色縮緬の兵児帯に紺足袋を穿いた。左手薬指には白金の指輪を光らせ、甲斐絹細巻の洋傘を杖いて、ひかれ行く。〉

押収された中に、おくにがいちいち記入したという贓品台帳もあった。

〈贓品台帳は頗る珍品で、西洋紙綴りで厚さ一寸、四六判型に作り、表紙には鴛鴦の絵を描き、二百五十円也というような落書がしてある。〉

三岸好太郎による『仕立屋銀次』の表記絵や当時の銀次のいでたちからすると、この台帳は大福帳スタイルで、おくには筆で書いていたのではないかと想像するが、「西洋紙綴り」で「四六判型に作り」というのはどういうものか。洋紙を切って大福帳みたいに仕立てていたのか。「厚さ一寸」というから少なくとも中綴じではないだろう。そのあたりまで詳しくは書かれていないけれど、本田一郎さんが出所後の銀次に初めて会ったとき、銀次はこう言っている。

〈「ええ、お待たせ申しやした。あっしが銀次でごぜえます。さあ、どうぞ、おあてなすって、洋服じゃ座っちゃ窮屈でげすよ。お楽くになすって下せえ。あっしゃね、こうめえても、でえのハイカラで、若え時分には、洋服がでえ好きでげしたよ」〉

明治の東京で、でえ(大)のハイカラだったスリの親分は、大事な贓品を記すのにどんな帳面を使っていたのだろう。

「市谷の杜 本と活字館」で開催中の「100年くらい前の本づくり」(監修 木戸雄一)の資料を見てみる。日本では1870年代末には本の洋装化が進められたが、需要はあってもその技術や材料が追いつかなかった。それに応えるかたちで〈平綴じの本体にクロスでつないだボール紙の表紙でくるみ、見返しを見開き一枚で接続する〉簡易な方法が広まったのではないかとある。東洋社や慶應義塾出版社が、明治9(1876)年頃から四六判の安価なボール表紙本で啓蒙書を刊行したそうだ。また〈固い表紙を使わず紙一枚でくるみ表紙にする仮綴じ製本〉は官庁刊行物になされていたが、1870年代後半には文部省の「百科全書」などの書籍にも見られるようだ。展示会場ではこれらの実物も見ることができる。

こうした本を銀次も目にはしていただろう。仕立ての腕がある銀次なら、それを見て真似ることもたやすそうだ。はやりの洋紙を重ねて穴三つ、ささっと平綴じして一枚の紙でくるめばできあがりだ。和紙ではなく洋紙、そして背があるだけで、十分ハイカラだったろう。この時分、まだそういう「商品」があったようには思えない。ここで今一度、『仕立屋銀次』で贓品台帳の復習をしておこう。どんなことが書かれていたのか。

〈おくにの手になった当時の台帳を繰って見る。/×月××日 細目の安/午前七時から上野、品川の線を使って午前十時、新橋で金マン一つ。/午後四時、黒門町でナマ三十ぱい。〉

これはやっぱり筆文字がよく似合う。罫線もかえって邪魔だろう。

そこで今度は、webマガジン「文具のとびら」で、たいみちさんの「文房具百年」のバックナンバーを見てみる。たいみちさんが蒐集を続ける文房具の写真も美しく、参照元の資料も明快でとても楽しい連載だ。23回目の「日本の洋式帳簿、その始まりの頃」(2020/03/20)と、41回目の「明治以降の日本の帳簿の話」(2021/11/20)で、明治初期の洋式帳簿についてこう書いてある。

〈明治初期の洋式帳簿はどのようなものであったか。前出の第一国立銀行の社史「第一銀行史」にはシャンドのことと共に当時の帳簿について詳しい説明がある。それを見ると最初からすべて洋式帳簿を使用していたわけではなく、一部は和紙に罫線を印刷したものを綴じて使っている。和風の帳簿に中身は英国の簿記に従った記載方法を、筆記具は毛筆で書いているという、いかにも過渡期を感じさせる状態だ〉。

さらに、明治32年には商法で「商人は帳簿を備へ之に日日の取引其の他財産に影響を及ぼすべき一切の事項を整然且つ明瞭に記載することを要す」と定められたそうだが、これで〈洋式帳簿の利用が進んだということはなく、大福帳などの和式帳簿に一切の事項を整然と書いただけだったという〉。 

スリ稼業に「帳簿」は求められなくても、銀次チームの台帳はやっぱり洋紙を束ねた大福帳スタイルだったかもしれない。そしてここに付け加えたい妄想は、それを銀次自らが作ったということ。銀次は〈子分たちには豆帳を持たせ、いつどこで、いかなる方法でスリに成功したか、日誌をつけさせた〉そうでもあるから、小さな帳面などというのも、ささっと見本を作ったかもしれない。なにしろ銀次は、刑務所でよく裁縫をしていたそうだ。本田一郎さんにそう言っている。スリのボスのくせに自ら手をくださないことを自慢していたなんて、それが親分というものなのかもしれないけれど、どうも銀次は、それを自分の指に言い聞かせていたような気がしてならない。

『アフリカ』を続けて(11)

下窪俊哉

 前回の続きで、井川拓『モグとユウヒの冒険』を本にする話。自分で立てた予定を押しに押して、4月の終わりが見えてきたところでようやく仕上げ、入稿をすませたところだ。
 締め切りがないといつまでも仕上げることが出来ない、とは思うけれど、あまり締め切りに急かされるのも嫌だ。焦って、納得していない状態のまま出してしまうのは止めたい。ただ、どうなったら納得するのか、と言われるとうまく説明出来ないのだった。これでよし! という瞬間は必ず訪れるので、そのタイミングでいったん終わらせる。そういう瞬間がいつまでも来なかったら? なんて考えるのは止そう。いつかは来るのだから。
 完璧な仕事はない。完璧を目指していたら永遠に完成しない。少しだけ欠けたところのある方が親しみやすいかもしれないし、つくっている人たちの手が感じられる。ついでに言うと、ミスも面白い方がよいかもしれない。文章であれば読んでいるうちにどんどん自由になってゆき、ついには文字が踊り出して飛んで行ってしまうというのをよく思い浮かべる。とはいえ、今回の本は遺稿であり、著者に何か提案したり、相談することが出来ない。自分の仕事は読めるように、読みやすいように整えて、なるべくそのまま出すことだ、と考えていた。

 私は本や雑誌をつくるのに編集会議をしない。編集するのは自分なのだから、やりたいようにやりなさいよ、と声をかけてあげるくらいだ(自分で自分に、ね)。ただし決定するのが自分だというだけで、相談はする。いつも誰かに相談していると言ってもいいくらいだ。『モグとユウヒの冒険』の場合、著者の姉・伊東佳苗さんとは殆ど毎日のようにやりとりをして、お互いの感じていることを言語化してキャッチボールしていた。装丁と挿画を頼んだ髙城青さんは、もう少し引いた視点で制作中の本を眺めて、その見え方を話してくれた。集まって話をすることはない。いつでも個別に、1対1でやる。校正にかんしてはいつものように黒砂水路さんに手伝ってもらった。彼は私の気づけないようなミスをしっかり指摘してくれるし、今回はルビの提案もしてくれた。それから、映像制作集団・空族の富田克也さんとも久しぶりに話せた。著者が生前、どんなふうに創作活動に向かっていたかを一番よく知っているひとりではないか、と思って声をかけたのだった。私の書いた井川拓伝というべき解説も、富田さんが追悼文集に書いた文章「二度目の不在」が手元になければ書き得なかったかもしれない。没後11年たって、いまだから話せることもあるから、と何時間も話し込んだ。
 そうやって話をしてゆくと、自分の知らなかったことも出てくるし、ただ読むだけでは感じられなかったことも感じられてくる。本をつくるということは、その作品を新たに読み解いてゆく、ということなのかもしれない。その作業がないとどうなるかというと、いわゆる本という既成の枠組みに作品をはめるだけになってしまう。ある程度は仕方がないとしても(本ができないのも困る)、それだけでは私は納得しない、というか大いに不満なのだ。

 そうなると、手元にあるゲラが未完成の原稿なのだ、というニュアンスが自分の中で強まってきた。これは遺稿なのだ。そのまま出せばいいのだと思う一方で、本にするからには完成させなければ、という気持ちが出てきた。そう思ったところで著者はもういないのだからどうしようもない。あのとき死なないでほしかったよまったく。その憤り(?)は、校正でピークに達した。最初の頃は、明らかなミスだけを修正しよう、などと言っていた。しかし、どこまでが明らかで、どこからは明らかでないのか。加筆が必要なミスは、どう加筆するのか。迷いがあったのだが、やってゆくうちに吹っ切れてきて、「著者はおそらくこんなふうに書きたかったのだろう」という想像を元に修正することにした。例えば印象深かったのは、「悴(かじか)む」ということばを、こどもが家では泣き虫なのに学童保育所では泣けない訳として書いている箇所で、佳苗さんから出てきた「心が悴む」にしたらどうか? という提案。あれには痺れた。心が悴むかあ。そこの加筆は「心が」の2文字ですんだ。

「井川くんから完成物というものを受け取った試しがなかった」と富田さんは言っていた。20代の頃、富田さんは映画をつくりたい、井川さんは小説を書きたいと話して、お互いの創作物を見せ合っているような仲だった。「俺には、映画は完成させなきゃって言うわけ。そういうもんかあと思って感心してさ、頑張るんだけど、そう言う彼はいつも出来ないの。最初、すんごい抽象的な構想だけぐわーっと聞かされて、こっちは待っている。そろそろ書き終わるのかなと思っていたら、何だか途中で息切れしてる。いやあ、ダメやわ、とか言って。で、次の作品の構想に行くんだけど、やっぱり完成しない。延々とそれをくり返してるような人で、本人も思い悩んでいた」
 でも映画は共同作業なので、映画『エリコへ下る道』のシナリオはいちおう書き上げられて、ある程度まで撮影されたらしい(どんな映画だったのか、いつか機会を設けて書きたいところだ)。でも、「彼が本当に書きたい小説というものにかんして、完成したことは一度もなかったんじゃないか」と言う。
 私は亡くなる直前の8ヶ月間の付き合いしかなかったが、そういう人だったと言われて驚きはしない。まあそうだろうと思う。だから、そんな彼が『モグとユウヒの冒険』をかなりのところまで仕上げて、残してあったことの方に驚いたのだ。これはある種の奇跡なのかもしれない。いや、そうやって煽るのは止めよう。それまでの構想は全てボツになったとしても、これは書けた。『モグとユウヒの冒険』の構想は、持続するもの、長く生きるものだったのだろう。よく書きましたね! と声をかけてあげたいのだ。
 富田さんはこんなことも言っていた。「子供のために書くんだとか、例えば甥っ子のためにこれをつくるんだとか、そういうふうに限定してやったことで完成させることが出来るというか。本当の意味で広げた大風呂敷というのは収拾不可能で、自分の文学的達成というのはそこにあったんだろうけど、児童文学を目指したのは対象を限定するということだったんじゃないか。自分の内側にあるものを吐露しようとしたら完成させられないんだけど、誰か人のためにということになって初めて、書けたんじゃないかな」

 何だかわかる気がする。私はそこに付け加えて、限定することで広がる、普遍的になることもありますね、と話していた。まだまだこれからの作家だったのだ。

水牛的読書日記5月

アサノタカオ

4月某日 毎月はじめの更新を楽しみにしているウェブマガジン「水牛のように」の各連載。うんうん、4月号はこんな感じか、どれから読もうか、などと目次を眺めていて、ふと気がついた。あれ、自分の、「水牛的読書日記4月」が、ない……! 瞬間、頭の中が真っ白になった。連載の原稿を書くことも、八巻美恵さんに送ることも、完全に忘却していたのだ。

4月某日 明星大学人文学部日本文化学科の非常勤講師に就任した。「編集工学」という講義を担当。神奈川の自宅から東京・日野にある明星大学に通うには途中、分倍河原駅で乗り換え(JR南武線⇄京王線)をするので、行き帰りに駅前のマルジナリア書店に立ち寄れることがうれしい。7月には、大阪の阪南大学国際コミュニケーション学部の総合教養講座で外部講師として話すことも決まった。その頃にはしばらく西日本に滞在していると思う。

4月某日 毎年この季節には、ホ・ヨンソン詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳、新泉社)をひもとく。韓国の詩人でジャーナリストでもある著者が済州島の海女たち、女性たちへの聞き書きをもとに詩を書き、一冊にまとめた本。

《生きているときは 一度もあなたと一緒に触れることのできなかった/夜の海 ひとり水に身をあずけましょう/赤い唇のような椿の花に包まれて/青い舌のような波のしとねに横たわりましょう……》

1948年、済州島でおこった四・三虐殺事件をテーマにした詩のことばと向き合う。

4月某日 雨の日に、神奈川・大船にある最寄りの書店、ポルベニールブックストアで買い物。ゆっくり棚を眺め、雑誌『中くらいの友だち 韓くに手帖』10号などの注文しておいた本を買った。

4月某日 イ・ヘミのルポルタージュ『搾取都市、ソウル』(伊東順子訳、筑摩書房)を一気に読了。ここ数年、小説を中心に韓国文学をいろいろ読んでいるが、こういう韓国社会の今に迫るノンフィクションを読みたかったのだ。おもしろかった。

ソウルで「チョッパン」と呼ばれる最底辺住宅に暮らす人びと、その背後に存在する「貧困ビジネス」をめぐる韓国日報記者の調査報道ルポだ。生々しい格差の現実を伝える文章の随所から、「幼い頃から貧困と戦ってきた」という著者の歯ぎしりも聞こえる。本書では「はじめに」で「私」が「貧者の物語を書く」意味があらかじめ示されている。著者の主義主張ははっきりしているが、語りや文体はクールで私情に溺れることはない。ノンフィクションの内容のみならず、こうした叙述のスタイルも興味深いものだった。

4月某日 東京・学芸大学駅近くのSUNNY BOY BOOKSへ、サウダージ・ブックスの本を納品。新しく作ったPOPも届けた。書店で、自分たちが作った本と読者とのよい出会いがつづいているようだ。

4月某日 香川・高松から仕事で東京にやってきた写真家・宮脇慎太郎と目黒のふげん社で待ち合わせ。2015年、移転前のふげん社のギャラリーで開催されたライター・編集者の南陀楼綾繁さんの企画「地方からの風」の中で写真集『曙光』(サウダージ・ブックス)刊行記念の展示をおこない、南陀楼さん、宮脇くんのトークイベントに自分も写真集の編集者として出演したのだった。

今回、リニューアルオープンしたふげん社へようやく訪問。さらにすてきなギャラリー&ブックカフェの空間になっていた。この場所を拠点に『Sha Shin Magazine』の発行や「ふげん社写真賞」の活動もスタートしている。写真評論家の飯沢耕太郎さんとばったり遭遇した。

4月某日 社会学者・見田宗介氏の訃報に接する。見田氏が「真木悠介」として書いた『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)を読もうと思い立ち、本棚の中を探すが見つからない。本書の初版が刊行されたのは1977年。学生時代から数え切れないほどなんども読み返し、旅先で知り合った人に渡したり、メッセージを残すような気持ちで宿の本棚に置いてきたりして、なんども買い直している本。どこにいってしまったのか。

1983年に刊行された詩人・山尾三省の宮沢賢治論『野の道』(野草社)には、真木悠介さんの「呼応」という序文が掲載されている。2018年に本書の新版を編集した際、三省さんらのヴィジョンに応答できるのはこの人しかいない、と文化人類学者の今福龍太先生に新たな解説の執筆を依頼したのだった。先生は「土遊び、風遊び、星遊び」というすばらしい文章を寄せてくれた。

そして刊行後、当時すでに体調不良のため外出を控えていた真木さんから美しいメッセージが届き、本屋B&Bで開催した今福先生のトークイベントで朗読してもらった。宮沢賢治、山尾三省、真木悠介、今福龍太。『新版 野の道』という本には、詩人思想家たちが呼び交わす声がぎゅっとつまっている。かれらが共有するヴィジョンは、ひと言でいえば「アニミズムという希望」。よい本だと思う。

4月某日 くまざわ書店武蔵小金井北口店では「かまくらブックフェスタ」がスタートし、サウダージ・ブックスも参加することになった。フェア用の書籍やPOPを発送。サウダージ・ブックスの本は少部数の発行で基本的に直接取引店のみで販売している。全国規模の書店チェーンの棚に並ぶめずらしい機会となる。

4月某日 陣野俊史さんの新著『魂の声をあげる 現代史としてのラップ・フランセ』(アプレミディ)が届く。装丁がすばらしい。フランスのラップをテーマにした本だが、注釈など編集的な配慮も行き届いていて、YouTubeで音源を探し、聴きながら読んでみよう。

4月某日 新横浜から新幹線に乗り、広島の福山へ。編集の仕事をしようと「オフィス車両」の指定席をとったのだが、はかどらず。なぜかというと、道中ですごい小説を読み、没頭してしまったからだ。そして一冊、読み切ってしまった。

韓国の作家ファン・ジョンウンの小説『年年歳歳』(斎藤真理子訳、河出書房新社)。母と娘たちの物語、感想を書きたいがことばがなかなか出てこない。噛み切れない思いが自分の外に向かわず内に沈んでいく感じ。そして胸騒ぎが収まらない。いや、胸塞がる気分が、といったほうがいいだろうか。最後のページを閉じた後、岡山を過ぎたあたりの山あいの風景を眺めながら、「家族」として出会いながら「人間」として出会うことなく別れたものたちのことを、ふと思い出した。

4月某日 福山では「風の丘」という眺めのよい場所にある本屋UNLEARNへ。サウダージ・ブックスの新刊、四国・宇和海に面するリアス式海岸の土地とそこに生きる人々を写したで宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』の刊行を記念して、店内のギャラリーで収録作品のオリジナルプリントを展示、宮脇くんと編集を担当した自分のトークショーを開催することになったのだ。彼とともに本を作るのも、これで3冊目。

全国的に新型コロナウイルス感染症対策としての「まん延防止等重点措置」が解除されたことで、県境を越える移動を含む行動制限が緩和されたタイミング。各地で店舗営業やイベント開催をめぐる「自粛」ムードがやや薄まってきた感もあるが、コロナ自体が終息したわけではない。このような状況で、しかしありがたいことにトークショーの会場は満席御礼。イベントの前半は『UWAKAI』収録作品のスライドショー、後半は「四国発、ローカルで写真集をつくるには」をテーマに対談をおこなった。

開始前、本屋UNLEARNについてある常連のお客さんが「ここは文化の灯を守る場所」と語るのを聞いて、ぴったりの表現だと思った。そんな書店に流れる独特の気品のある空気にうながされるようにして、本作りにおいて自分たちが大切にし、守りたいと願うことを語り合う密度の濃い内容になったと思う。

写真集『UWAKAI』をあいだにはさんで、参加者のみなさんとのよい出会いがたくさんあった。店主の田中典晶さんからは、写真集について「厳しさ、畏怖を感じる」と評してもらい、うれしかった。店内の棚に真木悠介『気流の鳴る音』の文庫をみつけたので購入、福山駅前の沖縄料理店で食事をした後、宮脇くんの車に同乗して高松まで2時間ほどの夜のドライブ。

4月某日 高松で終日、書店めぐり。午前中は宮脇書店本店、ジュンク堂書店高松店へ。午後は瓦町界隈の完全予約制の古本屋なタ書、本屋ルヌガンガ、古本屋YOMSを周遊。そして高松港近く北浜まで足を伸ばしてBOOK MARÜTEへ。MARÜTEでは、写真家の川島小鳥さんと画家の小橋陽介さんの展示を鑑賞。

本屋ルヌガンガで店主の中村夫妻から売れ筋の本のことをいろいろ教えてもらい、出版企画のアイデアが次々に湧き出す。韓国文学、人類学、ローカル……。資料として気になるテーマの書籍をいろいろ購入。中村涼子さんから、話題の料理家ウー・ウェン氏の著作をすすめられ、こちらも数冊購入。新刊の『ウー・ウェンの炒めもの』(高橋書店)は装丁や造本がすばらしい、と思ったらアートディレクション・デザインを担当しているのは、尊敬する関宙明さんだった。

ゆっくり本を探しながら書店ですごす時間は幸せな時間。書店めぐりをしながら、あらためてそう思った。おもしろそうなZineもあれこれ買った。

4月某日 本屋ルヌガンガで、宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』刊行記念トークの第2弾を開催。宮脇くんと自分のほか、本書のデザイナーで高松在住の大池翼さんも出演し、写真集のデザインに関わるこだわりのポイントや苦労話などを聞いた。大池さん、育児に仕事に超多忙の中、イベントに駆けつけてくれて感謝。著者とデザイナーと編集者、この3人で誕生したばかりの本について話せてよかった。

今回の写真集に関しては、印刷製本を愛媛・松山の松栄印刷所にお願いし、香川県で5年ほど暮らしたことのある自分も仲間に入れてもらえるなら、著者および編集制作チームは「オール四国」で構成。ローカルの本の作り手がそれぞれに抱く思いを間近で聞いて、「尊い時間だった」と感想をつたえてくれた参加者もいた。忘れられない高松の夜になった。

トークの会場にはウェブマガジン「HEAPS MAG」で「香川県モスク建立計画を追え!」を連載中のライター・映像作家の岡内大三さんも来てくれて、久しぶりに会うことができた。香川在住のインドネシア人たちによる「モスク建立計画」について、ものすごいおもしろい話を聞いた。

4月某日 旅から戻ると、高知の布作家・早川ユミさんの新著『くらしがしごと』(扶桑社)が届いていた。サブタイトルは「土着のフォークロア」、手に取っただけでたしかな「思想」が伝わる本。詩人のぱくきょんみさんのエッセイ集『いつも鳥が飛んでいる』(五柳書院)も。「済州島へ」と題された旅の話からはじまる詩、ことば、ポジャギ(布)のこと。こちらは17年ぶりの再販。

病を得て入院していた本作りの仲間Nさんから退院の連絡があり、ひとまず手術は無事におわったとのこと。ああ、よかった、と心の底から安堵した。

言葉と本が行ったり来たり(9)『少年椿』

長谷部千彩

八巻美恵さま

こんにちは。お元気ですか。いまホテルの一室でこの手紙を書いています。バルコニーに出ると、眼下に広がるのはエメラルドグリーンの海。ここで私が何をしているかというと、普段通り、コツコツと仕事をしています。ワーケーションというやつです。
ワーケーション――誰が言い出したのか、間抜けな造語ではありますが、旅先で仕事をするのが、私は嫌いじゃないのです。コロナウィルスが流行する前から、気が向くとノートPCを鞄に入れて東京を出る。私にはそれが「いつものこと」になっていて、旅先で書いた原稿は既にかなりの数にのぼります。場所を変えることの何が良いかと言うと、音。例えば、今回であればさざ波の音や鳥の声、異国の地であれば、飛び交う外国語を聴きながら考え事をしたり、文章を書いたりしていると、東京では煮詰まっていたものもスルスルとほどけるように進み出し、自室で机に向かっている時とは違う捗り方をするのです。

前置きが長くなりました。
ショートムービーの感想、ありがとうございました。八巻さんの言葉で綴られると、自分たちが制作したのに、とてもいい作品のように思えてきます(厚かましい?)。
ちなみにあのムービーの装花は、表参道ヒルズに店を持つ、フローリスト・越智康貴さんにお願いしました。香りを扱ったあの作品において、花は小道具に留まらない、登場人物と等しく重要な存在です。ですから、監督に「長谷部さんの書く世界を映像化したい」と言われた時、私はすぐさま「ならば、装花は絶対に越智さんで。越智さんじゃないと無理です」と答えたのでした。彼は私の知人でもあるのですが、色彩と造形に対する感覚がずば抜けている。私はそのセンスに絶大な信頼を寄せているのです。

その彼から、BLホラー小説を書いた、と聞いたのは、撮影の打ち合わせを重ねていた頃のこと。BL小説もホラー小説も読んだことのない私の頭には、大きなクエスチョンマークが浮かびましたが、越智さんが書いたものならぜひ読ませて欲しい、と頼むと、何週間かして、一冊の小冊子が郵便で届けられました。『少年椿』と題されたその冊子は、挿画も、写真も入り、薄いけれど製本もされたちゃんとしたものでした。早速ページを繰り、やや大きめの級数で印刷された活字を辿ると、30分もかからずに読み終わる。その短編はちょっと不思議な物語で、BL小説もホラー小説も読んだことがない私の頭の中には、やっぱり大きなクエスチョンマークが浮かびました。狐につままれたようなという表現がぴったりで。でも、いいなあ、と思ったのです。私もこんな風に、構えずに、書いてみた、作ってみた、という楽しさで本を作ることができたら、と。そして、思い出したのです。私自身も、子供の頃、藁半紙に自分でお話を書いて、挿絵を描いて、ホチキスで止めて冊子を作って遊んでいたことを。あの頃は、自分の作るものが他人に見せるに値するかどうかなんて、考えもしなかった。完成すると嬉しくて、ただ無邪気に、母の元に小走りで見せに行ったものです。

さらに面白いと思ったのは、越智さんが、その冊子を、街で声をかけてくれたら差し上げます、とSNSで告知していたことで、そんな方法で自分の作品をひとに届けることもできるのだとはっとさせられました。彼がそこまで深く考えていたかはわかりませんが、本は(リアルであれ、オンラインであれ)書店にならべるものという流通の固定観念に、私自身、毒されていると気づかされた一瞬でした。
越智さんとは年齢もだいぶ離れていますし、一緒にどこかへ出かけたりするわけでもない、たまにお茶する程度の付き合いですが、私にいつも刺激を与えてくれる貴重な知人であることは確かです。

そう言えば、この旅に、前回の手紙で紹介していただいたハン・ガンの『そっと 静かに』を持参しました。私が訪れたことのある韓国はソウルだけ。その全てが仕事の出張だったので、知っているのは空港とホテルとオフィスとレストラン。ですから、エッセイの中には、想像の及ばない情景がいくつも出てきました。でも、想像できない場所があるというのは、いいことだと思っています。これから知ることができる、知る未来があるということですから。
取り上げられている歌の中に、トレイシー・チャップマンの『New Biginning』がありましたね。

もっと良くなるという思いだけが/人生と道を変えるはず

夕暮れの浜辺でしんみりと、引用されたその歌詞を読みました。もっと良くなるという思いだけが、人生と道を変えるはず――。
今週末には東京に戻ります。それでは、また。

2022年4月20日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(8)『そっと 静かに』(八巻美恵)

リンダ・ロンシュタットの物語

若松恵子

「リンダ・ロンシュタット サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」が4月22日よりロードショウ公開された。2021年第63回グラミー賞の最優秀音楽映画賞を受賞した作品だ。ウエストコーストの歌姫、リンダ・ロンシュタットの音楽人生を描いたドキュメンタリーで、リンダの歌う姿に魅了される、あっという間の93分間だった。

「なぜ歌うのと聞かれるけれど、私が歌うのは、鳥が歌うのと同じこと・・・」リンダ自身のナレーションで物語は始まる。ドキュメンタリーを制作するにあたっては、色々な切り口があっただろうけれど、「歌うこと」に焦点をあてて何よりも彼女の歌声と歌う姿のとびきりの映像を選んでつなぐことで1本の映画にまとめた事は正解だったと思う。

実際にステージで歌う彼女の姿を見ると、アルバムジャケットの写真がもたらすイメージより、ずっと幼くて自然で率直で、彼女からまっすぐ出てくる歌声に圧倒される。ロサンゼルスのフォークロックシーンのメッカ的クラブであった「トゥルバドール」に出演するデビューの頃の彼女、ニール・ヤングの前座でたくさんの観衆の熱気のなかで歌う彼女、後にイーグルスとなるバックバンドを従えて歌う彼女、アリーナツアーをタフに続ける頃の彼女、歌う姿はずっと変わらないある種の初々しさを持ち続けている。リンダ・ロンシュタットを理解したいならば、まず彼女の歌を聞くことなのだ。

リンダ自身は作詞作曲をしなかったけれど、曲の魅力を引き出して歌う、そういう点で彼女もアーテイストだったというコメントがあって印象に残った。自分が好きになった曲を歌っていくというのが彼女の音楽人生だったようだ。彼女が取り上げることで無名であったカーラ・ボノフやJ・D・サウザーが有名になり、ロイ・オービソンやバディ・ホリーが若い人たちにリバイバルした。

また、彼女は歌いたい歌を歌うという生き方を貫いて、オペラやメキシコのトラディショナル、ジャズとジャンルも超えて作品を作った。彼女が天から与えられた「声」と「表現力」をフルに使って、どこまでも歌う事の可能性を広げていく生き方をしたということを今回の映画で初めて知った。人が歌うという事の不思議と素晴らしさを感じた。

映画のなかでもうひとつ印象に残ったのは、女性シンガー同士の友情についてだ。ロック業界という男社会の中で、いかに女性ミュージシャンたちが苦労しているのか、一方男性ロッカー自身も、つまらない男の沽券を守ろうとプレッシャーに負けてドラッグに蝕まれてしまうと、浜辺のインタビューでリンダは鋭い見解を述べている。リンダと同じようにずっと歌ってきたエミル―・ハリスが「人生のどん底にいる時、リンダに救われたの」と心からの友情を込めて丁寧に語っている姿が心に残る。1987年にそのエミル―・ハリスと尊敬する先輩ドリー・バートンと一緒につくったアルバム「Trio」のハーモニーはとびきり美しい。リンダが様々なミュージシャンとコラボしていく姿は、「曲」に自分をあけ渡して歌う姿と重なる。ひとりきりでは音楽は奏でられない。歌うという事は、他者に自分の声を届けていくという事なのだ。

2011年に、リンダ・ロンシュタットはパーキンソン病を理由に歌手活動の引退を表明した。映画のラストにナレーションに徹していたリンダが登場する。2019年の、愛らしさの残る年取ったリンダの姿だ。家族と歌う様子が流れる。歌手という仕事はおしまいにしたけれど、歌う事を続けている彼女の姿に胸が熱くなった。歌う事はやはり他者とつながるということなのだと感じられる場面だった。彼女は病を得ても自分に閉じこもらずに歌うことを楽しんでいた。

それぞれの庭

北村周一

しき嶋の
やまとごゝろを
説くきみの
肩にむらがる
はなびら隠微

       穢されし
       サクラはなびら
       雨にぬれ
       排水口に
       屍人のごとし

それぞれの
庭の片隅
ふきだまり
目には見えねば
掃くひともなし

       雨あがり
       春の気配に
       みずたまり
       のぞき見ている
       くろしろのネコ

校庭の
つちにしみ入る
春の夜の
雨はやさしき
雨音もまた

       帽の子ら
       赤と白とに
       わかれいしが
      (もとの隊形に
       もどれとだれか)

団欒と
さくら並木と
夕ぐれが
一つになるとき
窓はほころぶ

       はじまりより
       つねに大地は
       震えおり 
       奢りの春の
       花のゆたけさ

うす紫
いろに染まりし
花韮の
土手ゆく猫は
そよかぜのごとし

       空間に
       双のつばさを
       休めんに
       線をもとめて
       ひらく脚くび

友ありて
その友のありて
百千の
土鳩つぶやく
なかを群れゆく

       ごく狭い
       範囲のなかで
       ごく浅く
       つき合うための
       スキルを磨く

だぶだぶの
制服に身を
固くして
ゆめみるごとし
一年男子

       あれもこれも
       詰め込み過ぎて
       なにとなく
       憂いがちなる
       四月の私

卓上に
てのひらのあと
ほんのりと
残しゆくなり
湯あがりのひと

       一ドルが
       三百六十
       円のままに
       停まりし時代が
       かおを出すとき

布団から
はみ出さぬように
ねむりたい
悪夢はひとの
二のうでが好き

       ブースター
       接種終えたる
       妻の腕に
       それは見事な
       モデルナ・アーム

脳内で
かんがえすぎると
両の眼が
紅くなるので
早起きが辛い

       この歳に
       なりてようよう
       腑に落ちたり
       やまいのすべての
       根源は眠り

安宿のような人生

植松眞人

 都心の列車に乗って、ドアの脇に立つ。半身になって流れていく赤茶けた鉄路をぼんやりと眺めていると、不意に対向車が大きな音を立ててすれ違う。驚いて鉄路に向けていた視線を上げると対向車の窓の中に見知った顔を見たような気がするのだけれど、たぶん思い違いだろう。しかし、万が一にもそれが見知った顔ならこちらを見られたくはないという判断が瞬時に働き思わず顔を下げる。もともと、こんなに速くすれ違う列車と列車の窓から人の顔を判断することなど出来はしないのに。
 そう思いながらもう一度視線を鉄路に下ろすと同時に対向車は行き過ぎ、また同時に雨が降り出した。頼りない破線を窓に描くように水滴が流れ、それが数本確認できたかと思うと、あっという間に土砂降りだ。
 あんな言い様をされれば誰だって腹が立つとは思うが、私のように相手が自席に着くのを待ち構え後ろから首筋に自分の腕を巻き付けて頸動脈を締め付けるというチョークスリーパーなる技をかけて落ちる寸前までに攻める理由があったのと言われればそれほどでもない。しかし、子どもの頃からのこらえ性のなさでどうしても、怒りを腹に留めることができず絞めたり、殴ったり、罵倒したりということを繰り返してきた。小学生の頃なら、先生に仲裁され「さっきはごめんね」と言えば、たいがいのことは許してもらえたが、三十を過ぎたいい歳をしたおっさんとなってしまっては、何かするたびに世界が狭くなる一方だ。
 そういえば、さっきのすれ違った列車で朦朧とした幻想のように思い当たった見知った顔は、数年前にこちらのミスを指摘され、腹立ち紛れにあることないこと罵倒して辞めさせてしまった女子社員の顔に似ているような気がする。あの女とは一、二度情交もあったがたいした気持ちのやり取りもなく、辞めてやる、と叫んだときもざまあ見ろと思ったくらいだった。しかし、昨年くらいから去った女の身体が惜しく思えることもあり、女々しくツイッターのアカウントをバレないように検索して、日々の行動を監視しながらしたり顔で、大人しくしてればいいんだと独りごちたりしている。
 都心から小一時間走った後で列車を降りると、かつて浮浪者があちこちの町角にいたという呪われたような地区のいまだに、「カラーテレビ付き一泊五〇〇円」などと看板をあげた簡易ホテル街の裏手にあるうらぶれたアパートに帰ってくる。おそらく戦後すぐに建てられたであろう木造モルタルのアパートは、一泊五〇〇円の簡易ホテルの外観よりもいかれていて、いまにも崩れそうだ。
 一泊五〇〇円だとひと月三十日連泊したとしても一万五〇〇〇円にしかならず、自分が住んでいるアパートと値段が変わらない。しかも、少なからぬ敷金礼金を払わされ、カラーテレビも持っていないとなれば、日々目にするすえた臭いのする浮浪者よりも一段低い暮らしをしているのだと自覚して、酒を飲む気にもならずささくれた畳の上にジャンパーを着たまま寝転がる。
 俺は映画を作るのだ、と叫びながら友人達と公開するあてもない映画を作り、出来た映画の不出来に愕然とした日々がなぜあれほど光り輝いていたのだろうという嫌な夢を見ながら嘔吐で畳を汚し、同時に涙を流しながら、この涙の清らかさを誰か見てくれ、誰か見てください、どうぞ見てください、心から願いながら汚物にまみれて眠ってしまうのだった。