ストレス・チェック

篠原恒木

年に数回、ストレス・チェックというアンケートに電子メールで答えなければならない。

モンダイは、このアンケートの設問がおれの理解の範疇を超えていることだ。たとえばこういう質問がある。
「一生懸命働かなければならない」
この文のあとに、「そうだ」「まあそうだ」「ややちがう」「ちがう」という四択の答えが用意されていて、どれかひとつにマルをつけなければいけない。
「愚問だ。働くときは誰だって一生懸命だろうが」と、おれは思うので、「そうだ」にマルをつける。
「活気がわいてくる」
という一文も出てくる。
「この年齢になって活気がわいてくるわけがないだろう。覚せい剤を打っているわけでもないのに」と、おれは憤り、「ちがう」にマルをつける。

「元気がいっぱいだ」
というのが次に登場する文だ。ここでおれは「活気がわいてくる」と「元気がいっぱいだ」の違いについて深く考察することになるが、どうにも両者の違いがわからない。かろうじてわかるのは、「活気がわいてくる」に「ちがう」と答えて、「元気がいっぱいだ」に「そうだ」と答えたらそれはかなりの矛盾を生じるのではないかということだけだ。したがっておれは「ちがう」にマルをつける。その次に書いてある一文は、
「生き生きする」
だ。これはもはや愚弄されているのではないかとおれは思い始める。「活気がわく」「元気いっぱい」「生き生き」は文学的にも心理学的にも社会学的にもそれぞれ違う状態なのだろうか。おれは弁証法を駆使して解析を試みるが、哲学的にも解決できないので、これにも「ちがう」にマルをすることになる。次に出てきたのは、
「怒りを感じる」
だった。これまでの設問にかなりの憤りを覚えていたおれは即座に「そうだ」にマルをつける。バカにするのもいいかげんにしろ、とさえ思っているからだ。

「内心腹立たしい」
当然ではないか、と思うおれは、これも「そうだ」にマルだ。
「イライラしている」「ひどく疲れた」「へとへとだ」と続くので、「そうだ」「そうだ」「そうだ」と答えていく。それもこれもみんなこのアンケートのせいだ。

「だるい」
と出てきた。だるいに決まっているではないか。もうすぐ六十二歳ですよ、あーた。ピョンピョン飛び跳ねながら歩いているわけがない。これも「そうだ」にマルである。

「不安だ」「落ち着かない」と連打を受ける。このふたつもかなりニアなニュアンスではないのか。かような新型コロナ、ウクライナ情勢、可処分所得大幅減額のなかで安心して落ち着いていられるわけがない。だからおれも「そうだ」「そうだ」の連打で返す。

お次は「ゆううつだ」「気分が晴れない」とくる。だからぁ、このふたつはどう違うのだとさっきから疑問を呈しているではないか。こうなると完全に嫌がらせの範疇に入ってくるだろう。憂鬱だよ、春は憂鬱に決まってるではないか。桜の花びらがはらはらと散りゆくさまを見てはココロは無常感でいっぱいになるおれなのだ。気分など晴れるわけがない。「そうだ」「そうだ」とマルをつけていく。

「悲しいと感じる」
よくぞ訊いてくれた。こよなく晴れた青空を悲しと思うおれなのだ。そうして長崎の鐘が鳴るのが世の道理なのだ。死ぬまで生きるということはじつに悲しい。これも「そうだ」にマルだ。

「腰が痛い」
これもよくぞ訊いてくれた、ありがとう。つい先日、おれは昏倒した九十八歳の親父を抱きかかえて起こそうとしたときに腰を痛めてしまったのだ。おかげで整形外科でブロック注射を打たれて、大変な目に遭った。老々介護とはよく言ったものだ。よって、これも「そうだ」にマルをつけなければならない。

「仕事に集中できない」
ここに来て何を寝ぼけたことを言っているのだ。こんなにたくさんの設問に答えさせられていたら、仕事に集中できるわけがない。クレームの意味を込めてマルだ。

ここまで数々の愚問に答えてきたおれはフト思った。おれの選択肢は「そうだ」と「ちがう」しかないのか。「まあそうだ」「ややちがう」という項目に、まだ一回もマルをしていないことに気付いてしまったおれはやや反省して、次の一文を読む。
「何をするのも面倒だ」
おれは熟考した。髭を毎日剃るのは面倒だ。脱いだ上着をハンガーにかけるのも面倒だ。しかし、好きなあのコと食事をするのは面倒ではない。ましてや食事後のことも面倒だと思ったことは一度もない。ここで「まあそうだ」か「ややちがう」の出番がついにやってきたとおれは感じた。
ところがまたモンダイが起こった。「髭を剃る」「上着をハンガーにかける」ことが面倒であるという事実に重きを置くのなら、「何をするのも面倒だ」に対するおれの解は「まあそうだ」になるのだが、「好きなあのコ」関係は面倒でないという真実を重視するのなら、おれの解は「ややちがう」となるのではないか。どちらにマルをすればいいのだろう。考えるのが面倒になったことに気付いた俺は、
「そうか、結局おれは何をするのも面倒なんだな」
との結論に達し、「そうだ」にマルをつけた。

ストレス・チェックがかなりのストレスになったおれはようやくすべての質問への回答を終え、メール送信した。

後日、「あなたのストレス度は?」というような診断結果がメールで送られてきた。結果内容をひらこうとしたが、パスワードを入力しないと見ることができない。「これかな」と覚えのあるパスワードを何回か入力したが、どれも「パスワードに誤りがあります」と出て、ついにおれのストレスは最高潮に達した。

ジャワの仮面舞踊

冨岡三智

5月7日に仮面舞踊を久々に踊る(10年以上ぶりのような気がする)…というわけで、今回はジャワの仮面舞踊の話。インドネシア語では仮面のことをトペンという。仮面舞踊やワヤン・トペン(仮面舞踊劇)はジャワやバリの各地にある。西ジャワのチレボンだと、ワヤン・トペンもあるけれど、1人の演者が5種類のキャラクターを演じ分けるトペン・ババカンが有名だ。東ジャワなら、マランの『パンジ物語』を題材にしたワヤン・トペンや、『マハバラタ』や『ラマヤナ』を題材にしたマドゥーラのワヤン・トペンが有名である。トペン・マランについては留学中の2001年7月16日にスラカルタの芸大で、トペン・マドゥーラは1991年に国際交流基金アセアン文化センターが招聘した日本公演を見たことを思い出す。トペンの演目は普通は『パンジ物語』なので、それ以外の演目があるというのが新鮮だった。

中部ジャワであれば、スラカルタの王家にもジョグジャカルタの王家にも仮面舞踊がある。仮面舞踊は民間派生のものなので、宮廷儀礼用ではなく貴族層たちの楽しみとして発展した。その両王家のある2都市の間にあって、どちらの宮廷にも多くの芸術家を輩出してきたクラテン村にはワヤン・トペンがある。そして、ダラン(影絵の人形遣いや語りをする人)たちが上演するものは、特にダラン・トペンとも呼ばれている(他の地方でも同様)。ダランたちは昼はワヤン・トペンに出演し、夜はワヤンをしたものだという。

クラテン村のワヤン・トペンは、2001年8月には村の広場に設置されたステージで、2002年8月にはダランの家で見た。ダランの家の正面は少し高くなっていて、約1間半×4間幅くらいの深い庇があり、そこをステージにしている。昔は上演できる場所が限られていたから、いつでも上演できるように家の作りをそうしているという話だった。庇の奥にある3枚の戸口は全部外して、奥の部屋を楽屋にしていた。観客はその家の外側から見るのだが、舞台が進行している奥で楽屋が丸見えなのが可笑しかった。舞台の雰囲気は岩見神楽が上演される神楽殿のような感じだった。(もっとも、岩見神楽では大きくて立派な幕を楽屋と舞台の間に張る…。)

クラテンのトペンで興味深かったのが、足を上げないことだった。現在、芸大や王家などで見られる仮面舞踊では、男性の登場人物たちは仮面をつけていないときと同様に動く。仮面をつけると視野が限られるから、片足を少し上げたり、戦いの場面で素早く場所移動したりするにはバランスを取る技量が必要だ。しかし、クラテンでは、2人戦う場面では肩を組んで互いに前に足を出し合うような振付で、昔の仮面舞踊の素朴さを実感する。歌舞伎の様式的な殺陣という感じだ。

また、台詞を話す際に、仮面を手に持って観客から顔を隠しながら話すというのも面白い。能だと面をかけたまま声を出すが、ジャワでは仮面の裏に取り付けた革をくわえて面を着けるので(つまり紐を使わない)、仮面をつけたまま声を出すことができない。どうやって台詞を話すのかずっと疑問に思っていたので、こうするとまるで仮面が話しているように見えるのか…と納得したことを思い出す。

昨年、このクラテン村のワヤン・トペンのグループの公演を20年ぶりくらいにyoutubeで見た。その中心の人がアカウントを作って発信を始めたことを知ったからなのだが、変わらず素朴な雰囲気があって懐かしい気分に浸り、facebookでもその人に連絡を取ってみた。私が見たときは芸大の協力も入っていたが、廃れつつある芸能で上演費用も大変だったようだ。私も寄付に応じたのだが、変わらず公演が続いているようで嬉しい。

むもーままめ(18)鎌倉で石を買うの巻

工藤あかね

10年ほど前になるだろうか。
ある朝、夫が私に尋ねた。
「今日の予定は?」
わたしが「あるといえばあるけど、出かけなければいけない用事はない」と答えると、
鎌倉の先の美術館に行かないか、と言う。

遠足気分で行くのも悪くないし、
何よりその展示には興味があったので
二つ返事でOKし、その日は急遽の遠出になった。

鎌倉駅に着き、鳩サブレのお店などを横目に観ながら、
にぎやかな通りに入って進んだ。
程なくして、夫がぴたっと足を止めた。
ある店の中を食い入るようにじっと眺めている。

石を売っているお店だった。

夫が中に入ると言う。
まあ、眺めるだけなら良いかと思い、
夫のあとに続いて私も店に入った。

店内には、宝石の原石や、隕石やら、
ありとあらゆる石が展示してあった。
夫は隕石を食い入るように見つめ、指で持ち上げた。
「重い!!すごいよ、すごい、重い!!!」
完全に小学生男子のリアクションである。

冷ややかに眺めつつ、
少しくらいは付き合ってやらないと哀れだと思い、
私も石をつまみ上げた。

「重っ!!なにこれ、重い!!」

店員さんがニヤッとしたような気がした。
みんなそうやって騒ぐのだろうね。

しばらくすると、夫はかごを手に取り、なにやら石を選び始めた。
買う気か?これからしばらく歩いて、美術館に行くのに?
帰りも鎌倉から1時間半以上かかるのに?

夫は完全に小学生に戻っていたので、もう誰にも止められない。
いくつかの石をカゴに入れて、

「欲しいのあったら買うよ?」ときた。

半分頭にきていたが、石も一つ一つ見てみると、
実に個性がはっきりしていて、良いものに見えてくる。
お店の人も、「あー、これいいね」
「わー、これもいいね」とか言いながら仕入れているのだろうか。

なんとなく雰囲気に乗せられて、
結局アメジストの原石をカゴに入れた。

会計を済ますと、
結構なお値段と、結構な重さになっていた。
一袋では重すぎるし下手をすれば破けるレベルだったので、
袋は2つに分けてもらった。

ばかだ。完全にばかだ。
これからお昼ご飯を食べて、美術館に行って、
もしかしたら夕食も食べて、
電車に長々と揺られて帰るのに。
電車が混んでいて座れないかもしれないのに。
旅の序盤で大量に石を買うって、
どういう了見なのか。

鎌倉駅で帰りの電車を待つ間、
大量の石を持ってホームに佇んでいる私たちって一体…。
夫は自分の責任で買ったので、重いほうの袋を嬉々と持ったまま
その日の小旅行を終えたのだった。

それから幾星霜。

その時に買った石のいくつかは、
引越しの際に夫に言わずにこっそり処分してしまった。
それでも、いくつかの石はなぜか今も飾っている。
本当は寝室とか玄関先に、謎の石なんて置きたくないんだけど。

ベルヴィル日記(7)

福島亮

 すっかり日がのびた。いま20時50分なのだが、外はまだ明るい。市場の商品棚に並ぶ顔ぶれも春、というか少しずつ初夏のそれになってきている。地味な色合いの根菜類にかわって、紙箱に詰められた苺、葉付きの人参や色鮮やかな蕪、白アスパラ、そしてまだ多くはないが西瓜などが並んでいる。日本には桜前線という言葉があるが、フランスでは春になると誰もが白アスパラを待っている。バターで焼くもよし、フライパンに湯を沸かして軽く茹でるもよし。マヨネーズソースやバターソースをつけ、指でひょいと摘んで齧ると、みずみずしい甘さのなかにほのかな苦味があり、冬を我慢したご褒美だな、と思う。

 ベルヴィルからクーロンヌ、メニルモンタンにかけてはアラブ系の住民、特にカビル人が多い。それは知っていたのだが、4月になった途端に街にアラブ菓子が溢れ始めたので驚いた。よく行くパン屋も軒先に棚を出して山盛りの菓子を売っている。どうしたのかと思って尋ねると、ラマダンだから、とのことである。つまり街に溢れかえっている菓子は夜食なのだ。糖蜜がかかった揚げ菓子や、ピスタチオがまぶされた小さなケーキ、あるいは三日月の形をした白いクッキーのようなお菓子。敬虔さと楽しみの入り混じった非日常の風景がそこにはある。ラマダンが終われば、パン屋はまたもとのパン屋に戻るのだ。

 とはいえ、日常と非日常は、そう簡単に分けられるものではない。日々舞い込む情報に触れながら、誰もがそれを身をもって感じているはずだ。

 ちょっと前のことになるが、3月27日、ケ・ブランリー美術館のレヴィ=ストロース劇場で宮城聰演出の『ギルガメッシュ叙事詩』を観に行った。日本では今月、5月2日から5日まで「ふじのくに⇄せかい演劇祭」で上演される。物語は大きく分けて二部構成からなっていて、第一部はギルガメッシュとその友エンキドゥがレバノン杉を伐採するために森の守り神であるフンババを征圧する物語である。だが、自然を征服した代償は決して小さくない。ギルガメッシュは友を失うことになる。こうして第二部は、永遠の命を求めるギルガメッシュの旅路が描かれる。

 劇場は満員だった。そして、ほぼ全員、マスクをしていなかった。かくいう私も、マスクをしていなかった一人である。マスクをしていないと、確かに呼吸が楽ではある。だが、隣の人が急に咳き込んだりすると、にわかに不安になる。実際、この不安によって観劇中の緊張感は何度か途切れた。マスクなしでの生活が日常に戻ってきたかと思いきや、やはり不安は拭えない。

 マスクに関連して、思わぬ葛藤に苦しむこともある。古い雑誌を閲覧するためにアルスナルにある国立図書館に行った。表面が滑らかに摩耗した木製の味わい深い机に座って資料を読んでいると、斜め前の人がマフラーに口を押し当てて咳をしている。咳をする、一粒トローチを口に放り込む。またしばらくすると苦しそうに咳をする、一粒トローチを口に放り込む。要するに、トローチとマフラーで誤魔化しつつ、ノーマスクで咳をしまくっているのである。しまったな、と思った。慣れでマスクを外していたのだ。今からマスクをつけるのは、なんだか申し訳ない。マスクはポケットの中にある。手を突っ込むと、不織布の毛羽だった質感が指先に触れる。さっと取り出して、つければよい。ただそれだけなのだが、なんだか申し訳ない。こんなふうにうじうじしていると、前の席の別の人がおもむろにマスクを手にし、つけた。これ幸いとばかりに、私も便乗してマスクをつけることにした。咳をしていた人は、やはりバツが悪そうだった。私もバツが悪かった。みんながマスクをしていないからしない、あるいは誰かがマスクをしているからする。自分というものがないのか。このように、結局自らを責めることになるのだから、はじめからマスクをしておけば(あるいは割り切ってマスクをしなければ)よかったのである。

 ちなみに、フランスの現在の平均感染者数は1日あたり65454人であり、病院で亡くなった人の数は1日平均123人である。決して少なくなったわけではない。それでも、非日常はある瞬間から日常のような顔をしはじめる。慣れ、ではあるが、その慣れは時間の経過によるものもあれば、官製のものもある。フランスの場合、後者の方が目立つように思われる。というのも、地下鉄ではマスク着用が義務付けられているからみんなマスクをしているが、一歩メトロの外に出たら、マスク着用の義務はなく、誰もが晴れ晴れとした顔でマスクを外しているからである。政府が決めた方針に従っているうちに、いつの間にかコロナという非日常は何気ない日常に転ずる……そんな気分を皆味わいたいと思っているのだ。日常とは何なのだろうか。

仙台ネイティブのつぶやき(72)猫の隣で

西大立目祥子

猫といっしょに暮らしていると、種の違いより哺乳類同士の近さを感じることの方がはるかに多い。猫は四足で歩行し体は柔らかな毛におおわれ尻尾があって、もちろんヒトはそうではないのだけれど、さわればあたたかく、目は感情を表し、顔の真ん中の小さな2つの孔は吸う吐くという呼吸を繰り返している。背中をなでれば、あたたかな体の中では心臓から送り出された血液が全身のすみずみに運ばれ、毛細血管をめぐって戻ってくることが想像できて、この小さな生きものがヒトと同じ仕組みで生命を保っていることに感じ入ってしまう。近しさと親しみが自然と湧いてくる。

前足だってそう。猫の手足を間近に見るようになって、「猫の手も借りたい」といういい方に合点がいくようになった。猫の前足は5本の指がパァーっとよく広がり、物をつかむときはギュッと縮み、爪をしっかりと立てて抑え込むこともできる。猿のようなわけにはいかないだろうが、犬のそれよりはるかに細やかな動きで、これは手未満、足以上のもの。こんな手を見ていたら、役に立たないとはわかっていても「おい、忙しいんだ。ちょっと、ここ押さえててくれよ」とか、頼みたくもなるというものだ。

長くいっしょに暮らしていると、人間同士のつきあいのように関係性が変わっていくのもおもしろい。私が仕事場にも使ってきた母の住まいには2匹、野良から昇格した15歳のチビと10歳のグーが暮らしている。15歳といえばヒトでいったら中学3年だが、猫年齢では初老くらいか。けっこう長いつきあいなのだが、やはりこの家には年老いた女主人がいると思っているのか、毎日顔を合わせごはんをあげていても、私のことはどうも通いのよそ者としてしか認識していないようだった。それが、母がお泊りサービスに出かけて留守がちになり、私が週に3日泊まるようになって2年、少しずつ飼い主としてというのか、同居人としてというのか認めてもらえるようになってきた感がある。朝に起きるとすぐ近くにいて顔を合わせ、「おはよう」というのが案外大きいのかもしれない。

猫と仲良くなるのは冬、というけれど、たしかにこの冬の間にチビと心を通わせることができるようになった。冬に親しくなれるのは、寒いからだ。温かい飲み物を欲するように猫も体温のある生きものが恋しくなるらしい。なでてくれたり、あれこれことばをかけてくれたり、茶飲み話をするような友だちが。家の端っこの、かつて母がミシンをかけたりするのに使っていた小部屋につれていってなでてやったら、庭全体を見渡せるこの場所がえらく気にいったようで、何かにつけてここに私を誘い込む。外から帰って、玄関に荷物を置くと、すぐにこの小部屋に走り込んで私が行くのを待っている。ガラス戸を開けてもらって、寒くても雨でも雪でも外の空気に当たり、庭をながめて外の気配を匂いで感じ取り、私とあれこれ話をするのを楽しみにしているのだ。

「話をする」と書いたけれど、交歓というのか生きもの同士のやりとりというのか、ことばをかければその声の調子からちゃんと感情が伝わっているのは、犬や猫を飼ったことがある人なら容易にわかることだと思う。私にとっても、どこで鳴らすのかゴロゴロという猫が安心しているときに発する音が聞きながら、いっしょに庭を眺めるのは気持ちのいい心和むひとときだ。

たまたまチビは猫であり、私はヒトである。でもその逆もあり得た。偶然にもいま、別々の器の中に命を注がれていっしょに同じ空気を吸い同じ風景を眺めているだけ。生きものとしての境界を超えてしまうような、そんな思いにかられる。そして、このごろは、「おまえ、キエフの猫じゃなくてよかったね」と、つい口をついて出ることが多くなった。布の袋から頭だけ出して飼い主と避難する猫や、水たまりの水を飲む濡れそぼった猫や、瓦礫の上を足を引きずって歩く猫を報道で見た。苦しくなる。つい2ヶ月前までは暖かな場所で背中をなでてもらっていたろうに。

お腹をなでてやって安心しきると、前足を出したり引っ込めたり、もう少し正確にいうと指を広げたり縮めたりするのを繰り返す。これは、子猫のときに母猫のおっぱいをふみふみして飲むときのしぐさだ。それをエアでやっているわけだけれど、幼いときの行為を老齢になっても記憶として残していることに感じ入る。ヒトの中にも何かそういう乳幼児のときの記憶の残滓というものがあるのだろうか。

と、チビのことを書いてきたけれど、悩みの種はもう一匹の猫、グーのことである。私を飼い主と認めるどころか、どこまでも怖がって近づいただけで逃げる。理由ははっきりとわかっている。子猫だったこの猫が何度も家に入り込もうとしたとき、すでに2匹の先住猫がいたこともあって、私は本気で追い出した。それでも、ここを住処と決めて居着いたのだからあっぱれというしかないのだけれど、以来、私には敵対心をむき出しにする。母にはなついているのに。この先、グーと和解する日がくるだろうか。いや、あれは虐待ともいえるものだったのだろうから、それはないのかもしれない。でもせめて、恐れられない存在にはなれないものだろうか、と思う。

死ぬまで猫といっしょに暮らしたい。できるのだった犬だって飼いたい。部屋の中を四足の動物が歩いているのを見ると、幸せな気持ちでいられるから。最近、ジョージ・オーウェルが相当な動物好きだったことを知ってうれしくなった。ビルマでは山羊や鴨を飼い、帰国した英国の田舎でも山羊と鶏を飼っている。眺める世界に生きものの存在が見えているかいないか。その違いはけっこう大きい気がするなあ。

雨の宵酔い

璃葉

“緊急事態宣言”が解除されて、呑み屋やバーが少しずつ活気を取り戻してきた…ような気がしている。気がしているだけなのかもしれない。已む無く閉めた店もあるし、まだまだ人の入りがさびしいところもあるだろうが、行けるところには足を運びたいと思って、バー巡りをちびちび再開している。

この何週間かは突然初夏のような気候になったり、雨の降る寒々しい日が続いたりして、なにだか振り回されっぱなしである。先日、知人ととあるバーに行った日も、土砂降りの雨だった。しかも冬に逆戻りしたような寒さである。風もつよい。突風で安いビニール傘も裏返る。気圧のせいか頭もちょっと痛いし、こんな日は正直おうちでぬくぬくしていたいところだが、1ヶ月以上前から約束していたのだ。楽しみにしていたし、行かないわけにはいかない。
知人は酒の化身なのではないかと思うほどの超絶酒飲みの女性で、しかも、この界隈では有名な雨女らしかった。バーに到着してまもなくその話を本人から聞き、なるほど今日のこの大雨は運命だったのか、と納得するのであった。

連れられて来たバーはとても素敵な空間だった。広くも狭くもなく、照明は明るくも暗くもない。壁棚にはウイスキーのボトルがずらりと並んでいる。あと、緑の壁紙が最高にいい(自分はくっきりした色味の壁色に弱い)。落ち着きがあるのに、そこまでかしこまっていない雰囲気で、気を遣わず、楽にお話しができる。インテリアや品揃え以上に、店主の作り出す何かであったり、見えない色々な何かが混ざり合って出来上がった空間はそこにしかないものであるから、また来たいと思う。こうして好きなお店が増えていくのだ。
ヒューガルデンホワイトから始めて、ウイスキーに雪崩込み、すっかり楽しくなってしまって、話も盛り上がる。何杯飲んだか覚えていないが、久しぶりに酔っ払った。

帰り道、雨はすっかり止んでいた。火照った顔に吹く雨上がりの冷たい風が気持ちいい。冬のような冷たい空気なのに、冬にはぜったいに感じることのない上品な白い花の香りが辺りに充満していた。繁った桜の葉は電灯に照らされて、妙に鮮やかな緑に光っている。やっぱり今は春なのだ。このしっとり澄み切った空気は山の中にいるようだった。するりと流れていく風にのってやってくるいいにおいを肺に入れたくて、思い切り深呼吸をしながら歩いた。貴重な夜道だ。雨女様に感謝である。

しもた屋之噺(243)

杉山洋一

今年は庭の芝刈りがすっかり遅れていて、この原稿を送ったら早速とりかかるつもりです。イタリアのマスク規制もこの4月で終わるはずですが、今月は思いがけず親しい友人や息子の学校の先生など、軒並みCovid19で陽性になったりして、これからコロナ禍とどう付き合ってゆくことになるのか、何とも先の見えない心地がしています。ドラギ首相さえも陽性になったため、キーフ訪問がなかなか見通せない状況でした。

4月某日 ミラノ自宅
サンドロ宅で久しぶりにアルテムと再会。家人と一緒にリセンコ作品を何曲か弾いてくれた。昼食時、近くのバングラデシュ料理屋でカレーを食べていると、隣に座っていたスリランカ人がスリランカ暴動の話を始めて止まらない。果ては、敗戦国の日本を分割統治から救ったジャヤワルダナ大統領について、日本ではよく知られているのかと繰返し尋ねられ言葉に窮する。ウィシュマさんの名前まで出たらどうしようか内心はらはらしていたが、幸い話題にのぼらなかった。

4月某日 ミラノ自宅
夜、国立音楽院で、久保君のバスクラリネットとマリンバのための新作を聴く。バスクラリネットは、海をわたる鳥の啼き声のように響く。カモメやウミネコが空を駆けながら発しているような、不思議な広さが目の前に顕れる。協和音は生理的快楽とは一線を画し、素材として自らの意思を持っているように見えた。久保君の身体から抜け出て、自らの領域を築きはじめているのかもしれない。
壮大な脱皮を目の当たりにするかのような清々しささえ覚えたのは、このあと書かれた彼のヴァイオリン協奏曲を既に聴いていたからだろうか。
ダミアーノ作品も美しい。静謐で、二楽器の息遣いを重なりあわせた作品に好感と共感を持って聴く。どちらの演奏も素晴らしかった。とても心地良い晩であった。

4月某日 ミラノ自宅
サンドロ宅で、ズィノヴィと家人の弾くリセンコの悲歌を聴く。リセンコは19世紀のウクライナの作曲家。
ズィノヴィはパヴィアから彼の父の車でやってきた。彼の父親がイタリア語堪能なのには驚いたが、聞けばもう20年イタリアに住んでいると言う。ズィノヴィはウクライナで祖父母に育てられ、最近になってイタリアで暮らしていた父母と住み始めたのだという。彼の父は、民族音楽を奏でるアコーディオン奏者だったそうだ。ズィノヴィも幼少から、民族音楽オーケストラで Tsymbaly というウクライナのダルシマーを弾いていたそうで、民族衣装に身を包みツィンバリを叩くズィノヴィ少年の写真を見せてくれた。
ツィンバリはむつかしいか尋ねると、「簡単です、でも当時は民族音楽は大嫌いでした。クラシックの方がずっと格好良かったですし」と笑った。
意外にもウクライナにはコントラバス奏者が少なく、教師もクラスも限られていたから、イタリアにやってきたと言う。ウクライナにいたころ、ズィノヴィはずっとコントバラスも教えるチェロ教師に習っていて、リセンコの「悲歌」は、元来ウクライナでは広くチェロで愛奏されているから、曲はよく知っていたと言う。
演奏が終わると、彼の父が涙を拭いながら洗面所から出てきて、一同驚く。聴いていたら涙が止まらなくなってしまって、と困ったように笑った。確かに胸に迫る感極まる演奏だった。

4月某日 ミラノ自宅
「Youtube はお客様のコンテンツを削除しました」とのメールが届く。「YouTube チームによる審査の結果、お客様のコンテンツは 嫌がらせ、脅迫、ネットいじめに関するポリシー に違反していると判断されました。そのため YouTube から次のコンテンツを削除いたしました」。
最初は、詐欺・なりすましメールかと思っていたが、どうやら身に覚えのない動画が実際削除されていることがわかり、おどろく。その動画の題名は昔よく使っていたパスワードだったから、ずいぶん悪質だ。
ヴェルディ音楽院に、カニーノさんとルッジェーロの演奏会にでかける。
平均律第一巻誕生300年を記念して、ルッジェーロが、ジョプリンの「エンターテイナー」や、ムゼッタのアリアやジムノペディやハリーポッターのテーマやら様々な旋律の断片でフーガを作り、バッハと一緒に弾いた。
ルッジェーロが自作のフーガを弾くのかと思いきや、カニーノさんがルッジェーロのフーガを弾いた。カニーノさんは思いの外お元気そうで、信じられないほど音が輝いていた。指は勿論だが、耳も頭も声部ごとにしっかりと分離しているのが手に取るようにわかる。
会場でアルフォンソに会うが、何でも学生に「間奏曲 VI」をやらせているという。その学生はアスペルガーで強音癖があり弱音が苦手なので、殆ど音のない「間奏曲 VI」をやらせているそうだ。

4月某日 ミラノ自宅
黒海でロシア軍旗艦 Moskva 撃沈。
アレクセイ・リュビモフがロシア国内のリサイタルでウクライナのシルヴェストロフを演奏して、警察に拘束される。観客はリュビモフに賛同して、演奏後総立ち。久しぶりにロシアの良心を垣間見た気がしたが、リュビモフはその後どうなったのか。プラウダ批判やらジダーノフ批判やらショスタコーヴィチの顔など、古めかしい言葉が頭を過った。
母からのメールで、家にある黄色い清楚な花を咲かせた多肉植物の名前は「薄化粧」だと教えてもらう。

4月某日 ミラノ自宅
40分かかるマンカ新作を聴く。アコーディオン、コントラバスなど特殊な小編成アンサンブルを従えたピアノ独奏曲。マリアグラツィアのピアノが冴える。作曲者は、構造を持たない作品を書いたので、ただ瞬間の連なりとして聴きとってほしいと話していたが、そのせいか40分はあっという間に過ぎて、全く飽きなかった。
強靭で強い意志を持つ音楽。耳で聴くというより、手触り、それも少しざらついた手触りで、音楽に触れながら感じる音楽。無意識ながら彼の音楽に随分影響を受けていたと今更ながら気づく。
会場には昔から知った顔が並ぶ。自分も含めて、みな齢をとったものだ。久しぶりにマンゾーニにも会ったが元気そうで嬉しい。ゴルリは戦争で将来を悲観していた。

4月某日 ミラノ自宅
メルセデス宅で工科大主任のカルロッタと話す。担当クラスにウクライナの学生はいないが、在籍中の何人かのロシア人学生は揃って困窮していると言う。外国送金が禁止され仕送りも届かないので、皆周りの学生に借りるなり、工面してもらうなりして、苦労して暮らしている。ウクライナ侵攻以後、制限がかかっているのか、ロシアの家族と一切電話が通じない学生もいるそうだ。
ウクライナのバレエ団がイタリア公演中で各地で歓待されるとの記事。国歌演奏中の舞台でバレリーナが目頭を抑えている写真が添えられている。ロシア兵の夫にウクライナ人女性への暴行を勧めるロシア人妻の電話が公表。

4月某日 ミラノ自宅
福田さんに「母 Las Madres」を書き送る。
チリの母のうたと、西語圏全土で広く歌われている子守歌「ねんねんころりよころりよ おころりよ Arroro mi nino」を素材に使った。
息子が生まれた時、半年ほどウルグアイ人のメルセデス宅に厄介になり、アルゼンチン、ウルグアイのコミュニティのなかで暮らしていたから、自分にとっては、未だに西語の響きも母的なもの、こどもへの郷愁に繋がる。相変わらずメルセデスは姉のような存在だし、彼女も息子を実の甥のように思っている。
メルセデスに「Arrorro はどう訳せばいいかな」と尋ねると、「ああArrorro mi ninoね」と懐かしそうに旋律を口ずさんだ。
ウクライナ侵攻により、チャイコフスキー国際コンクール、国際連盟より除名。

4月某日 ミラノ自宅
作曲者の心情とは、直截に作品に反映され得るものか。
高校生だった頃、祖父が亡くなった直後にフォーレのレクイエムを聴き、奈落に突き落とされた。曲頭のユニゾンが鳴った瞬間、作曲家は自らの魂で音を書いていると実感し、高邁な精神なぞ縁のない自分には到底作曲できないと感じた。
尤も、作曲中に作者が同じ感情を抱き続けるなど在り得ないから、やはり作品と精神は別の世界に属している気がしたり、ドナトーニの「Duo pour Bruno」を演奏してみて、やはり作曲者の裡と波長が繋がる作品は存在すると思い直したりしながら、この齢になってしまった。

このところ、同じ楽器のために続けて二つの曲を書いて、人間誰しもが持つ、父性母性についても考えている。
元来頼まれて書いたものであっても、作曲して楽譜として記さずにいられない衝動に駆られて、内容も当初のリクエストを大きく逸脱するような影響を受けることがある。
併しながら、それを書かなければ先に進めない、精神の瘤のようになって躰に溜まっているものを摘出しなければ次の作品が書けない、強迫的な感覚は確かに自分の裡にある。
一切の感情を排除して作曲してみようと試みて、ぽろぽろと書いたものをピアノで音を鳴らした途端、隣室で漏れ聴いた家人から悉く酷評され、破棄したこともあるので、作曲の際のモチベーションが案外とても重要なのかもしれない。
戦争について躁的な混沌を「自画像」で書いたから、全く反対に、自らの精神的な世界を「揺籃歌」で書いた。今回の福田さんのための「Las Madres」も、先に諍いについて書いたから、母性を主題にして作曲したくなったのかも知れない。
今まで考えたことすらなかったが、愛憎の感情を露わに戦う父性と、死者を悼み全て赦そうする母性が交互に顕れ、自分を作曲へ駆り立てているようにみえる。

4月某日 ミラノ自宅
息子から、今日は家で一人にしてほしいと頼まれたので、夕刻ふらりとレッコ湖畔を訪れた。
息子が小さい頃、何度となく訪れたレッコ湖から、切りたつ男性的な山肌が大胆に突き出している。空気はとても澄んでいて、静かに波打つ湖面を眺めていると、様々な思い出がとめどなく甦ってくる。
息子が小さい頃は、家族三人で向こう岸辺りにある、ぺスカルロという村に通った。小さな砂浜があって、そこで息子に水遊びをさせていた。
そこへ辿り着くためには、細い石畳の階段で大きな丘を越えてゆかなければならない。春先には村のあちこちで美しい藤の花が咲き乱れていて、眩い風景に目を奪われた。母を連れてぺスカルロまで出かけたこともあったし、息子が病気から快復したころは、抱きかかえて石畳を昇ったりした。
湖畔にある小さな食堂では、湖産の鱸ムニエルが絶品だった。

4月某日 ミラノ自宅
野坂さんとお約束した二十五絃の曲は結局書けなかったが、沢井さんと佐藤さんのための小品のなかに、当時の思いの何かをこめられればうれしい。
野坂さんの葬儀で配られた小さなカードにこう書かれている。
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」マタイ5・8
野坂さんのヒルダ・パウラという洗礼名を眺めていて、ヒルデガルド・フォン・ビンデンの名前が頭を過る。自らの幻視体験を綴り描いた、女子修道院長であり作曲家でもあった中世随一の賢女で、深く広く信望を集めたところも、どこか野坂さんと共通している。
野坂さんとは「富貴」を主題にした作品を書く約束をしていたから、それとなにか繋げられるヒルデガルドの作品はないか、彼女の有名な幻視画を眺めながら考えている。

4月某日 ミラノ自宅
千々岩君から連絡を貰ったので、家人と連立ってサロネン指揮パリ管の演奏会へ出掛ける。千々岩君が立派にコンサートマスターを務めていて、友人として今更ながら本当に誇らしい。
亡き王女のためのパヴァーヌ、中国の不思議な役人そして幻想交響曲のプログラムで、サロネンとパリ管は満員のスカラ座で見事な演奏を披露し、聴衆は興奮の坩堝と化した。
イタリアとフランスだけでこれだけオーケストラの音が違うのは、何故だろう。絹糸のような繊細さに於いても、バルトークやベルリオーズの激した表現に於いても、立ち昇る香りと音の明度も全く違うし、激す意味そのものも方向性すら少し違う気もする。国民性が長く培ってきた伝統の違いだろうか。これから、ヨーロッパは何を目指し、どこへゆこうとしているのだろう。

(4月30日 ミラノにて)

母と

笠井瑞丈

四月上旬母を連れドライブに出かける

国立インターで高速に乗り藤野で降りる
そして軍刀利神社に行き秋川渓谷を抜け
また高速に乗り自宅に戻る

道中母はいつも
何か喋ってるか寝てるか
そのどちらかだ
もしかしら寝てる方が多い
景色などには興味がない
でも「ドライブに行く」と
誘うといつもいいよと言う
家に着くと楽しかったと
言ってくれるので
決してつまらなかった
ワケではないようだ
なので
また
誘う



母は僕を産んでリウマチになり
長く病気と共に生活をしている
カラダは何度も色々な所を手術をして
首は曲がり指は変形してしまっている
それでも家事や父の仕事のサポートをし
海外の公演があれば常に同行もしてきた

天使館の全ての公演を
プロデュースしてきた

話は変わりますが
実家は数年前建て直しをした
内装は決してバリアフリーの作りではなく
どちらかと言うとこだわりで作った家です

実用よりもデザイン重視

家雑誌にも載ったこともあり
通りがかりの人が
内装を見せて欲しいと
言ってきた事もあった

母の寝室は二階にあり
朝晩階段を
上り降りる

そんな母が四月中旬に
急に立ち上がることが
出来なくなってしまった

直立すると激しい痛みがきて
寝たきりにになってしまった

頭を支えるチカラが上半身に
なくなってしまったのである

こんな日がいつかは来るとは思っていたが
突然な事で何も準備ができていなかった

寝る場所も一階に移し

二階での生活が終わり
一階での生活が始まる

外を眺め
本を読み
鳥の声を聞き
流れる時間を

またきっと歩ける日が来る
そうしたらまたドライブに行こう

黄色と青の交響曲

さとうまき

この2か月は、ウクライナのニュースでも持ち切り。国会議員はいきなり青いシャツに黄色のネクタイつけているし、女性議員は黄色のスーツに青いシャツ来ているし、町中のパーキングや駅の案内板、ツタヤのカードまで、黄色と青になっていて、目に留まるものが全部黄色と青になっている。「何でもかんでもウクライナ病」に罹ってしまったみたいだ。気が付くと僕も黄色いシャツにブルーのジャージを着て町を歩いているではないか! そもそも黄色のシャツなど持ってないのであるが、私の愛するアルビル・SC(イラクのアルビルのサッカークラブ)のユニフォームが黄色で気が付くとそれを着ていた。

国際社会は、プーチンのウクライナ侵攻を国際法に違反したかつてない蛮行のように批判している。ゼレンスキー大統領は、国連の安保理がロシアの拒否権行使によって機能していないことを批判し改革を強く求めた。バイデンも、「プーチンは虐殺者で権力の座にとどまってはならない」と発言。ただ、国連が機能していないのは、ロシアだけではない。アメリカはイスラエルの入植地拡大に対する非難決議には拒否権を行使。イラク戦争では、安保理の決議を経ずに、アメリカがイラクを攻撃してとんでもない失敗をやらかしてしまった。「それでもサダム・フセイン政権を倒したことで世界は平和になった」とブッシュ大統領は開き直っているではないか。

ロシア兵が略奪やレイプをしているという情報もある。こりゃ本当に最悪だと思うが、アメリカがそのことを声高に批判するのを見ていると思い出すのが、イラクのアンバールで民家に入り、娘たちをレイプし、アブグレイブ刑務所では、男も女もレイプされた。あの時の報道を見たショックが思い出されて、ああまた、戦争がこういうことを引き起こしてしまったんだと落ち込む。

日本政府も今回人道支援に100億円を出すとし、35億円はNGOへと渡るらしい。僕は100億円すべてを国連に出して、その分他の貧しい国も含めてWFPが食糧配給もすればいいと思う。避難民の支援もすでにポーランドの地元のNGOが頑張っている。さらに安全に避難しているウクライナ人を20名日本に連れてくるというのも、これもすでに皆が言っているように仮放免のクルド人などを難民認定するとかビザを出すとかすればいい。収監されて死んじゃったスリランカ人や自殺者まで出している現状はどうなのか?

そういう話をすると、プーチンのやっていることを肯定するのか! けしからん! と厳しく非難されてしまう。それで、今日本の中で論争になっているのは、3つのグループに分かれているらしい。

① 「ロシア、プーチンが絶対悪」(日本政府や日本のメディア)この人たちがエスカレートするとロシア料理のお店にまで嫌がらせをすることも。
② 「どっちもどっち論」(こうなったのは、2014年から内戦状態が続いているウクライナと介入してきたロシア双方の問題)なので、話し合いましょう。
③ 「ロシア以上に欧米が悪い」陰謀論も含む、いわゆる反米左翼

そんな単純に3つに分けられると、自分がどこに入るのかは難しい。今回の侵攻に関しては①プーチンが間違っているが、一刻も早く解決するためには、②のウクライナの少数派の不満をどう解決するかも含めて話し合う。③欧米は全く話し合いのテーブルを作らずに武器ばかり供与しているので戦争を長引かせている。ということだと思う。ただ、僕はイラク惨状をこの目で見てきたから、もともとウクライナの東部の問題があり、②があって③で欧米がロシアともうまく話し合いを進めれば、①は避けられたのではないかと思う。

みんながSNS上で言い合っているのは、○○主義者はこうあるべき見たいな議論で、そんなことよりどう殺人を一日も早く終わらせるかが重要なのに。

モヤモヤしていたら、先輩に頼まれていた合奏集団不協和音のデザインが刷り上がったというので、渋谷で後輩がママをやっているバーで受け取ることになった。謝礼の代わりに2002年もののワインと極上のイタリアの生ハムをいただきながら、お互い知ったかぶって「ウクライナ問題」を無責任に語り合った。今回の演奏曲は、ベートーベンとライヒャ、どちらも1770年生まれでボン大学では仲良しだったらしい。生誕250年記念の2020年秋に、同じ年1808年に書いた交響曲を演奏するという企画で、ボン大学の前で採火した二人が「大友よ!」と喜び合うというイラストの依頼だった。しかしコロナで延期になり、さらに一年後にも延期になり、もうどうなるかわからないけど、とりあえず作ろうということで、Zoomの中でベートーベンとライヒャがリモートで乾杯するというデザインで作ったが、急遽マンボウは明けた。会場の使用許可も出たということで、青空の下の麦畑でおいしそうに乾杯するデザインに変更したのだった

あれ、ここでも無意識に黄色と青のデザインになっている! コンサートは5月8日。第二次世界大戦の終戦記念日の一日前。何とか和平合意して、皆が青空の下で乾杯できればいいなあと祈るばかりである。

帰り際に、先輩は、青いシャツに麦色のジャンバーを羽織った。
「もしかして?」「あ、いや、ユニクロで黄色っぽいの探したらこれ売ってたんで」
そういうと彼は、黄色と青の町に溶け込んで消えていったのだった。

合奏集団「不協和音」第82回演奏会 
ライヒャ 交響曲へ長調
ベートベン 交響曲第5番ハ短調
2022年5月8日(日)18:00開演(17:30開場)
入場無料:ルーテル市ヶ谷ホール 

「ものを見てかく手の仕事」

高橋悠治

このタイトルは平野甲賀の字(『平野甲賀と』p.14)を見て、同じ題の文章もあるが、それは「ものをみて描く手の仕事」(『僕の描き文字』p.80)になっている。

般若佳子に頼まれた無伴奏ヴィオラの曲『スミレ』を書き、山根孝司も加わったクラリネット・ヴィオラ・ピアノの『移動、Iōn』を書いて、金沢市民芸術村で演奏しに行ったのが4月のこと。

先月の「水牛のように」に書いた、デイヴィッド・ホックニーのジョイナーから思いついた作業、1枚の楽譜を見返して、その時眼に留まった音符から思いつく別な音の流れを書き留めながら作曲して、この2曲を作った。元にしたのは、般若佳子に昨年頼まれたが間に合わなかった『イオーン』というヴィオラ曲の下書き。その都度見えたフレーズをちがう楽器にあてがい、他の楽器をそこにあしらう。

今年亡くなった小松英雄(1929-2022)の『平安古筆を読み解く 散らし書きの再発見』(二玄社 、2011)で読んだ「散らし書き」の、分かち書きと続け書き(連綿)を単語の切れ目と一致させない技法、雅楽にもそれと似た方法で句や呼吸を越えて続く流れがある、それと音の長短や順序を変えながら限られた音から途切れがちの流れを作り出して、書き進める。

17世紀フランスで non-mesuré というリュートやクラヴサンの、自由リズムの前奏、style brisé(崩し)と言われた、不規則に和音を分散させるスタイルで、メロディと和音の対立を和らげながら、いくつかの線が、対位法ではなく、対話でもなく、壁の向こうから聞こえるようにして、あいまいに絡まり縺れた状態。音はお互いに避け、離れ、彷徨い、絡まり、揺らぎ、分散と支え合いのバランスが絶えず崩れて変化する。線の偶然の出会いと緩やかな見計らい。小さな変化と、弱い音の焦点を変えながら…

2022年4月1日(金)

水牛だより

きのう夕方に乗ったバスが、思いがけず、ちょうど満開になりたての桜の花のトンネルの下を通りました。ビックリするほど美しい。その道にある停留所で降りた人はみなスマホを掲げて桜の花を撮っています。見知ったところでも、この日この時のこの花はつい撮りたくなりますね、わかります。帰宅のときには雨が降り始めて、きょうは気温が低いままでしたから、花はだいぶ散ってしまったことでしょう。

「水牛のように」を2022年4月1日号に更新しました。
疫病に戦争に天変地異。いまおきていることは身の回りにせまってくる現象としてはわかっても、なぜこのようなことがおきるのか、そこにはとても複雑になってしまった世界の構造が関係しているせいか、とてもわかりにくいと思います。いったい正解はどこにあるのか? 正解がわかっても、解決はできないところまで来てしまったのかもしれません。でも、満開の桜は美しく、地面に近いところに咲くすみれは可憐で、朝のコーヒーはおいしい。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

コロナ

笠井瑞丈

朝起きると

カラダの異変を感じる
起上がる力が湧かない

明らかに
昨日の
カラダ
今日の
カラダ

夏服を着てるのと
冬服を着てるのと
くらい違う

熱を測る
36.4度
特に異常
無し

お風呂にお湯を入れる
しばらくカラダを温める
カラダの中に熱が入らない

皮膚を境に国境が

真夏の
熱い外と
涼しい
銀行の中

なにかカラダの中で起こっている

これはやはり……….



PCR検査

朝出
結果
夕方

登録した
メールアドレスに送られてくる
15時過ぎ思ったより早く結果が

検査結果の方お知らせします


です

体感的には初めての事ですが
コロナではと感じていたので

ビックリという
より
ヤッパリという

感じ

倦怠感

喉の痛み

そんな症状が4日間続く
熱が出なかったのが唯一の救い

出演する公演直前での感染
半年間稽古をしてきたのに
出演はできなくなりました
世界の終わりのような気分

公演の開演時間
一人ベットで共演者のことを考える
幕が上がってみんな踊ってるだろう

良い公演になるように
祈ることしか出来ない

このようなことが
世界中で起こっている
二年前のコロナが襲来した時も
KAATでの公演が途中で中止に
コロナの影響で二度目の災難だ

今は未来の世界は明かるく
ただただそれを願うばかり

仙台ネイティブのつぶやき(71)あやうい地盤の上で

西大立目祥子

また揺れた。3月16日、夜11時半過ぎの地震である。
いつもどおり緊急地震速報のアラーム音がけたたましく鳴り、リビングにいるときはいつもそうするように反射的に食器棚を押さえにかかると、ひと呼吸置かないうちに揺れが始まった。…でも、そう強くはない。壁の高いところにあるガラス戸の中のこけしがカタカタと揺れ、でも倒れずに持ちこたえているのを見ているうちに揺れはおさまった。ああ、よかった。すぐにテレビをつけ、速報を待つ。
と、またアラーム音が鳴り出した。一度揺らされているからなのか、最初のアラームより大きく聞こえる。間をおかずにすぐさま揺れ出して、今度は家がつぶれるのではないかと思うような大きく激しい横揺れ。しかも長い。こけしがばたばたを倒れ、吊り下がっているペンダントが2灯、天井にぶつかるように激しく動き、押さえている食器棚のガラス戸が開いてカップや皿がガチャンガチャンと床に叩き落ちてきた。うわぁ、テレビが斜めになって棚から落ちそう! 叫び声を上げるなんてことはほとんどしたことはないのだけれど、このときは一人だったからか「ギャー」と大声を出していた。静まったところで、3度目のアラーム音が鳴った。また!と構えたが揺れはこなかった。

速報が出た。震源地は福島沖。マグニチュード7.4。ヒヤリとする。福島でまたとんでもないことが起きているのではないか。
倒れかかったテレビを起こし、部屋の中を見渡す。冷蔵庫が30〜40センチほど西に動いている。マグニチュード7をこえると、食器が割れ、本棚から本が崩れ落ち、場合によっては本棚自体が倒れてくる。何しろ、この家の東半分は築63年なのだ。揺れるたび、倒壊の不安がよぎる。
あっ、金魚の水槽は大丈夫だろうか。隣の部屋にスリッパもはかずに飛んで行くと、足裏に冷たい水がじわっと染みた。冷ゃっこい。その瞬間、思い出した。去年の2月の地震とまるで同じことやってる、と。明かりをつけると水槽の水があふれて床は水浸し。去年は、照明器具のシェードが落下して水槽を直撃し、ガラスが割れ、水浸しの床の上に飛び出した金魚がひくひくと動いていたのだった。

東日本大震災以来、いったい何回、大きな揺れに見舞われたろうか。「東北地方太平洋沖」とよばれるあの地震はマグニチュード9。と、書いている先から、この世の終わりを告げるようなとてつもなく長かった激しい揺れがよみがえってくる。2日前には、マグニチュード7.3の地震があり、約一ヶ月後の4月7日の夜には、7.1の余震があった。
去年は、2月13日にマグニチュード7.3。3月20日に6.8。5月20日に6.9。本棚がくずれこけしが倒れ、起こしたこけしがひと月後にまた倒れたから、もう起こす気力がなくなって年末近くまでそのままにしていた。

1901年(明治34)生まれの祖父は、よく「長く生きていると、2度は大地震にあう」と口にしていた。祖父は20歳を過ぎたころ徴兵制の服役中に関東圏で関東大震災に遭遇して災害復旧に従事し、77歳で1978年(昭和53)の宮城県沖地震を体験し、その翌年に亡くなった。その間に、戦火で家を失うという経験をしているけれど、いま年に何度もこうして強烈な揺れにさらされている身からすると、あなたは地震の少ない時代を生きていたんだよ、と言い返したい思いにかられる。特に戦後の高度経済成長期は、そう大きな地震を想定することなく先を考えていた時代といえるのかもしれない。経験が少なければ、感覚は鈍り想像力は失われ、備えは甘いものになるだろう。

東日本大震災の直後は、あまりにも余震が多く、停電という事態にも追い込まれたので、夜も10日くらいは揺れたらすぐに飛び起きることができるように服を着たまま横になっていた。じぶんでも興味深かった変化は、わずかな揺れにもからだが反応するようになったことだった。アラーム音に頼らなくても、センサーが入っているかのようにかすかな揺れにからだが気づく。遠いところで起きる微動が、数秒後には実動となって近くに迫ってくるのをありありと感じるとることができるようになった。こういうのを危険の予知というのだろうか。「震源地が福島沖か、宮城沖か、三陸沖か、何となく違うのわかるよね?」という友人がいて、うん、そうだね、わかるよねと答えたことがあった。

この稿を書いている間にも、千葉県を震源地に地震があり、少し前に今度は京都が揺れた。
もう日常的に頻発する地震を前提に、家の中のしつらいや毎日の行動を決めていった方が賢明かもしれない。ついでに書いておくと、確かに上にストッパーをかませていた本棚は倒れなかった。観音開きの食器棚の扉は、ゴムか何かできっちり結びつけておいた方がいいし、カレーがいっぱいの鍋は流しの中に置いて寝るのがいい。
庭に来る鳥を見ていると、小さな鳥ほど餌をひとつつきするたびにまわりに注意し、警戒を怠らない。背後から迫ってくるクマや突進してくるイノシシに遭遇する恐れは、たぶん都会ではないだろうから、ヒトがまず恐れるべきは地震かもしれない。鳥のように飛び立つことも、四足で駆けることもできないぶん、生きものとしての感覚を何とか取り戻して。

黒糖とひまわり

くぼたのぞみ

波照間の黒糖のかたまりを
口に放ると
まぶたの裏に浮かんでくるのは
凍る黒土の平原に
ちから尽きて
毛なみも荒れた
まぼろしの山羊だ

青と黄色の
おだやかならぬ空に向かって
見開かれたふたつの眼球を 
横に切る
弓形の月が 青と黄色の
おだやかならぬ空を映しながら
命は
ふたたびの
理不尽な争いに やがて
怒り咲くひまわりとなり
一面を埋めつくし
無数の種となって
きみのポケットに還ってくる 

ウクライナとパレスチナ

さとうまき

毎日TVは、ウクライナの戦況を伝えている。世の中は、かなりヒステリックになっている。何か世界の秩序が大きく変わるかもしれない。核戦争が始まるかもしれない。メディアがあおっているだけかもしれないが、僕もヒステリックに染まって行く。ロシア料理のお店に行き、ボルシチを食ったりして気持ちを落ち着けている。

  パレスチナ人の歌手の夫がウクライナ人

そういえば、パレスチナの歌手、リム・バンナの夫のレオニード・アレクシェンコがウクライナ人だということを思い出した。レオニードとは、リムがモスクワの高等音楽院に留学していた時に出会い結婚し、バンドを組んでいた。

1999年のこと。僕は、JVCというNGOで働いていて、パレスチナ西岸のラマッラーという町に住んでいた。たまたま歩いていたら幼稚園らしき建物から素敵な歌声が聞こえてきたので覗いてみると、彼女が子どもたちのために歌っていたのだ。

ジャズピアニストの河野康弘がパレスチナに来てくれるので、エルサレムで何かコンサートができないか思案していた。これはちょうどいいと思い、連絡先を交換したのだ。町で売っていたカセット・テープを早速買ってみる。子ども向けの曲が大半だったが、JAZZバンドにも合わせられると思った。

さっそくナザレまで出かけて行って出演の交渉をした。ナザレは、イエスキリストが生まれた場所だ。教会を見学し終わるとリムが車で迎えに来てくれて、家まで連れて行ってくれた。当時は、1993年のオスロ合意を受けて和平プロセスが曲がりなりにも進んでいた。イスラエルとパレスチナが共存して平和へ向かうことのシンボルとして”ユダヤ人とパレスチナ人が一緒に何かをすること”がブームになっていた。

その一方で、妥協や譲歩を許さずイスラエルと闘い続けるべきだとするハマースを支持する人たちもいた。僕はどちらかというと前者で、平和イベントをもりあげたいという気持ちもあったが、難民の子どもたちが「僕たち難民は、和平合意の蚊帳の外におかれている。これが平和なの?パレスチナという国ができて、そこに帰れない限り平和なんてない」という話をよく耳にしていたから微妙だった。

思い切ってリムに「今まで、ユダヤ人と一緒にうたったことがありますか?」と聞いたら、「先日、スイスのダボスというところで経済フォーラムがあり、NOAというユダヤ人と一緒に歌ったわ。イマジンという曲で、私がアラビア語で一番、彼女がヘブライ語で2番、最後は二人で英語で歌ったわ」という話をしてくれた。
「イ、イマジン? ジョンレノンの?」僕は思わず口ずさんで、「これですか?」と尋ねた。
「歌い終えたとき、パレスチナの人達も駆けつけてくれて、私はパレスチナのために歌う意味を感じたの」
鳥肌が立った。
「でも、今は、そういう歌を歌う時期じゃないわ」と言う。

NOAというアーティストは、イエメンにルーツを持つユダヤ人で、左派と言われている。1995年、ラビン首相と一緒に平和集会のステージで歌っていた。僕は、その時の映像をなんとなく覚えている。ラビンがとてもへたくそな歌を歌詞カードを見ながら歌っていた。直後ラビンはイスラエルの過激派の青年に射殺されたのだ。平和の詩の歌詞カードが血に染まっていた。
「もし、ラビンの歌がもう少しまともだったら、青年は発砲するのをためらったのかもしれない…」
ずーっとそう思っていた。

ラビン暗殺のニュースを知った時、僕はシリアにいた。「ああ、和平はどうなるんだろう」と、同僚のパレスチナ難民に聞いたら、「テロリストが死んだだけさ」と言って笑っていたのが印象的だった。難民の帰還は和平が進もうが見通しはなく、置き去りにされるしかなかったのだ。

リムは言う。「私は、政治的な歌を歌います。マフムード・ダルウィーシやタウィーク・ズィヤードの詩や私の母も詩人で、彼女の詩に歌をつけたりして歌っています。そしてもう一つは、パレスチナのフォルクローレ。若い人たちは知らない。パレスチナ人としてそういった歌を歌うことにミッションを感じているんです」

  エルサレム・コンサート1999

エルサレム・コンサートでは、オーストラリア人でサックスをパレスチナ人に教えていたグラントがジャズのベースとドラマーを連れてきてくれて、1部では河野康弘のピアノでスタンダードを演奏した。2部では、リムがイスラエルの刑務所に入れられたパレスチナ人にささげた「ハイファの風」をうたい、パレスチナ民謡の「ハラララレイラ」という曲には河野らのバンドが加わった。

 ハイファの風

あの人にハイファの海の風をあげてください
独房にいるあの人に、ジャファの風をあげてください
なぜならば、独房の中はあまりにも、寒くて、暑い
彼を一人にしないで。独房の中はあまりにも寂しいから

アンコールには、河野のオリジナル、「わっはっはのブルース」。笑うと元気になるということで観客がわっはっはと337拍子で笑い続けなければならないというブルースで、子どもがステージに上がってきてピアノを弾いたりする即興だった。 リムとレオニードは、スキャットで参加してくれてとても盛り上がったのを思い出す。「わっはっはって平和が来ちゃうといいよね」と本気で思える瞬間だった。でもステージを降りると現実は厳しかった。

あれから、パレスチナは第二次インティファーダが始まり、気が付くと911。世界はテロとの戦いへと突き進んでいったのだ。イスラエルの国家安全保障会議の議長が行っていた対テロ戦争の方法を思い出す。
「蚊を退治することを考えてください。直接叩き落す。そしてとんでこないようにスキンガードをする。そして、ボウフラがわかないように徹底的に攻撃するのです」
僕はというと、イスラエルから追い出され、イラクへ行くことになり、戦争をいやというほど見せられたのだった。気が付くとエルサレム・コンサートから22年以上もたち、僕も老人になっている。

ウクライナで思い出し、リムはどうしているのかググってみた。ナザレで3人の子どもと暮らした、と過去形になっている。レオニードはどうしたんだろう。離婚したのか。で、あ? リムは2018年に亡くなっている。2009年から乳がんと闘っていたらしい。彼女が亡くなってからリリースされたアルバムが、Voice of Resistanceだ。

PVを見てびっくりした。リムが放射線治療を受けている。パレスチナを表現するような詩の間に、彼女が自分の治療の状況を語っているのである。

海の苦味のように、心臓には秘密があり、オリーブの木が岩の固い部分を割り、雨の水を飲み、私の血管にオリーブオイルを流してください。
「こんにちは、今、ベルリンです。呼吸困難になり、そして悪化したので、今病院に来ています。」

かつてのような美しい声はない。治療のせいで声帯もやられてしまっていたらしい。彼女が死と向き合っている。パ・レ・ス・チ・ナ! リムとノアの歌うイマジンを聞いてみたかったのに

ウクライナのことを調べていたのにパレスチナのことが悲しくなってきた。

尻切れトンボ

北村周一

  ぷーちんと
こいけゆりこと
    われとわが
    つまとはおない
 年なりずっと

イヌを飼う
    ゆめをみている
          少年の
            目許おさなし
                 名はウラジーミル

   飼い主が
        パニックになると
ペットにも
        それが伝わる
   災害の時

   鮭の身に
ふともまぎれし
   小骨ありて
  前歯欠けたり
        ゆうぐれの春

うすら寒き
     ニュースがつづく
             これの世の
        丹沢に春の
  雪積もりおり

   鵜野森の
 公園にひとの
  てがはいり
  深呼吸せり
クヌギばやしも

       ネコ避けの
ペットボトルに
       あゆみ寄り
       恍惚として
ネコ去りがたし

       放し飼いの
 隣家のチビと
       いうネコが
 庭に来ており
 ことり咥えて

       ひとよりも
       家に懐ける
       ノラどちの
       不要不急の
       おひるねは
       至福

 フェレットの
 祖先はイタチ
  ネコはネコ
イヌはオオカミ
       野性とはちから

       顔マスクに
    紅白帽の
こどもらが
    同時におなじ
         方向くあわれ

  ギリギリまで
   マスク外さぬ
    朝にして
     ビジネスホテルに
      励む黙食

       生きるとは
        気持ちのいいこと
         なかんずく
          分かち合うこと
           委細面談

      土にかえる
   までのいとなみ
    危うければ
    人は育む
  人の自由を

さがみはら
 上空に遊ぶ
  あれはなに?
   尻切れトンボの
    ヘリコプターさ

      なにごとも
       尻切れトンボ
        なんだよな
         早くなおさな
          日が暮れるだよ

松村雄策 追悼

若松恵子

3月13日に、松村雄策さんの訃報が届いた。雑誌『ロッキング・オン』創刊メンバーのひとり。私が10代の頃、ロックと出会った頃によく読んでいた作家だ。最近は本棚で眠っている状態だったけれど、松村雄策の本は大切にとっておく本だったから、訃報を聞いて思い出すというのも申し訳ないけれど、あちこちから探し出してきて読み返してみる3月だった。

松村の著作数は決して多くはない。長編小説が1冊だけあって、その『苺畑の午前五時』の執筆には4年かかったとエッセイに書いている。それは、彼の誠実な仕事ぶりを反映してのことだったと思う。自分の心を良くのぞき込んで、かっこつけずに嘘のない言葉で語る。それは、ビートルズを聴きもしないでビートルズを批判した大人たちへの違和感が彼の中に決定的にあって、そういう大人にはならないという強い意志のもとに彼が仕事をしてきたからだろうと思う。ロックが自分にもたらしたもの、サウンドやバンドマンたちの構えの「かっこよさ」によって一気に確信した大切なものについて、言葉にしていくというのが松村の仕事だった。ビートルズファンならば松村が書く文章に「そうなんだよ」と共感したはずだし、「そういうことだったんだな」と自分が受けたものを確かめ直すことになったのだと思う。わかりやすい文章でスラスラ読めるが、そこに至るまでの苦労というものも偲ばれる。彼の書くものには、彼自身の暮らしが垣間見えるような具体的な記述がしばしば挿入されて、そういう所も彼を身近に感じさせる魅力のひとつだった。

ビートルズのレコードデビュー50周年を機に刊行された著作『ウイズ・ザ・ビートルズ』(2012 小学館)は、本当に唯一無二の、心のこもったビートルズ案内書だと思う。「はじめに」で松村が書いているが、リアルタイムでビートルズを聴いてきた世代がどんどん年を取って、やがてこの世から退場していく前に、「書いておかなければなかったことになってしまうようなこと」を書いておこうと、全オリジナルアルバムについて執筆した本だ。

これから初めてビートルズを聴いていこうとする世代にも、ちょっと興味を持って色々知りたいと思った人にも親切な、押さえておきたい確かな情報が載っている。そして、この本でも、なか休みのように、時々松村自身の物語が挿入される。ビートルズと出会って決定的に人生が変わってしまった男の子、ビートルズを北極星にして人生を生き延びてきた男の子の物語だ。

ビートルズの案内書に、なぜ個人的な物語が出てくるのか。それは、ビートルズ(ロック)が松村にもたらした最も大事なことは、自分自身から出発する自由ということだったからではないかと思う。自分のことは脇に置いて正しいことを語るのではなく、逃れられない自分というもの(それは自分が選んだわけでもないのに決定的な影響を人生に与える親という存在を含めて)から目をそらさずに、そこから出発する自由というものについて、彼は語っていたのだと思う。「三百回見ている『ア・ハード・デイズ・ナイト』を最初に見たのは父といっしょだった。これは、忘れることは出来ない。」と彼は書く。この一文は単なる思い出話とは思えないから、胸に残る。

私のように、彼の物語を通して、ビートルズをより深く理解する人も多いのではないかと思う。松村が彼の生来の感性によってビートルズから受け取った「確信」から、ブレずに人生を全うしたということに励まされる思いがする。

訃報を伝えるブログのなかで盟友渋谷陽一が書いた文章を引用する。
「松村の部屋にはビートルズのポスターがたくさん貼ってあった。「まるで学生の部屋みたいでしょう」と家族が言っていたが、本当に学生の部屋みたいだった。部屋だけみたら、そこに70歳の老人が住んでいるとはだれも想像できないだろう。松村の精神世界そのままの部屋だった。ロッキング・オンの50年は、僕たちの長い青春の50年でもある。松村は青春のまま人生を全うした。ロッキング・オンを50年続けられたのは松村がいたからだ。本当にありがとう」(渋谷陽一「社長はつらいよ」2022年3月13日)

マンクヌゴロ家の『ブドヨ・アングリルムンドゥン』

冨岡三智

2022年3月12日にジャワのマンクヌロゴ王家でマンクヌゴロX世の即位式があり、インターネットでも中継された。というわけで、今回は即位式で上演された舞踊について。

●マンクヌゴロ家のブドヨ

マンクヌゴロ王家は16世紀後半にジャワ島中部に興ったマタラム王国の流れをくむ4王家の1つ。マタラム王国は1755年にスラカルタ王国とジョグジャカルタ王国に分裂し、その後、1757年にスラカルタ王家からマンクヌゴロ王家が、1813年にはジョグジャカルタ王家からパクアラム王家が分立した。これら4家のうち宗家にあたるスラカルタ王家には、王の即位式および毎年の即位記念日に上演する『ブドヨ・クタワン』という舞踊が伝承されているが、それ以外の王家には即位式や即位記念日に決まって上演される特定の演目があるわけではない。

私が留学していた間、マンクヌゴロ家での即位記念日で上演されたことのある演目は『ブドヨ・スルヨスミラット』と『ブドヨ・アングリルムンドゥン』である。同家のブドヨとしてよく知られたものには『ブドヨ・ブダマディウン』があるが、私が知る限り(1996年以降)では即位記念日には上演されていない。この曲は1939年に作られたものだが、先代上の2曲ほど特別な曲ではないということだと思う。『ブドヨ・スルヨスミラット』はマンクヌゴロIX世のためにスリスティヨ・ティルトクスモ氏が振り付けた作品で、1990年のIX世の結婚式で初演された。音楽は故スリ・ハスタント氏。王家で作られた芸術作品はその時代の王の作品と見なされる。したがって、この作品はマンクヌゴロIX世の作品とされ、IX世が亡くなった時にもしばしば名前が挙がった。独立以前とは状況が異なり、現在、王の名前で新に舞踊曲が制作されることはほとんどない。その意味でも非常に重要な曲である。このブドヨは9人で踊られる。もっともブドヨは本来9人の女性による舞踊なのだが、分家のマンクヌゴロ家では本家に遠慮して9人ではなく7人で上演されてきた。その意味でも同王家のブドヨとして異色である。『ブドヨ・アングリルムンドゥン』はマンクヌゴロ家で作られた7人のブドヨだが、即位式で上演された振付で最初に上演されたのは1983年である。

●スラカルタ王家の『スリンピ・アングリルムンドゥン』

スラカルタ王家の音楽家が著した音楽伝書『スラット・ウェドプラドンゴ』によると、1790年に『ブドヨ・アングリルムンドゥン』がマンクヌゴロ家のマンクヌゴロ1世(1757-1795)からスラカルタ王家のパク・ブウォノ4世(1788-1820)に献上された。パク・ブウォノ8世(1858-1861)が即位すると、これをブドヨからスリンピ(4人の女性による舞踊)に変更し、さらに歌詞の多くも変更した。しかし、前半と後半の楽曲、および振付はまだそのままだった。パク・ブウォノIX世(1861-1893)が即位すると、後半の曲が「ラングン・ギト」に、そのイントロにあたる女性独唱の歌詞も「スリナレンドロ~」に変更された。現在、スラカルタ王家で上演されているのがこの形である。『スリンピ・アングリルムンドゥン』はスラカルタ王家でも『ブドヨ・クタワン』に次いで古く、重い曲とされている。なお、この現在の形での完全版だが、2012年にインドネシア国立芸術大学スラカルタ校の舞踊団と私とで島根県(第20回庭火祭、熊野大社)で上演している。

●マンクヌゴロ家での復曲

このように『ブドヨ・アングリルムンドゥン』は本家に献上されたため、それ以降はマンクヌゴロ家では上演されていなかったのだが、近年、マンクヌゴロ家の方でも復曲されるようになった。1982年には3人の踊り手により上演された。そして、1987年に7人により上演されたのが現在のバージョンである。

実は、私の師匠のジョコ女史も3人版の構成に関わった。昔は3人のブドヨとして踊られていたので、それを再構成してほしいと依頼されたそうだ。3人のブドヨの踊り手がスラカルタ王家に献上され、そこで1人足して4人のスリンピとして上演されるようになった…とジョコ女史は聞いたので、スラカルタ王家の振付を3人で踊ってもおかしくないようにフォーメーションだけ調整したとのことだった。

しかし、後になって本来は7人のブドヨだったことが判明し、それでマンクヌゴロ王家はあらためて7人のブドヨとして再構成をすることにしたらしい。それはガリマン氏が手掛けた。このガリマン版も前半はスラカルタ王家の『スリンピ・アングリルムンドゥン』と音楽・振付は同じである。後半は新曲を使っているが、スリンピの場合の曲と雰囲気が似ている。また、動きの型や振付の流れも元のスリンピを生かしているので自然である。異なる要素としては、フォーメーションに旧来のブドヨにはなかったような新しい要素も入っているのと、スリンピに比べて時間が10分短くなっていること(入退場も入れて約40分)、そして弓を手にしていることである。元のスラカルタ王家のスリンピや3人版だった時のブドヨでは弓は手にしていない。とはいえ、実はこの元のスリンピにはパナハン(弓合戦)と呼ばれる振付がある。極めて抽象的な動きになっているが、その振付があるために、弓を持っていても不自然には感じない。

『アフリカ』を続けて(10)

下窪俊哉

 2010年の夏、『デルタ 小川国夫原作オムニバス』という映画をつくった人たちから声がかかって、少しお手伝いすることになった。その時、『アフリカ』別冊として『海のように、光のように満ち〜小川国夫の《デルタ》をめぐって』という冊子をつくり、映画館で販売して読んでもらったのだが、ある夜、その本を何冊も買い込んでいる人がいた。
 上映後に私はトーク・ゲストとして前に出たのだが、その人は私の話を聞きながら何度も、声をあげて笑っていた。それが井川拓さんだった。終わってから、オムニバス映画の1篇「他界」の監督・高野貴子さんに紹介されて、居酒屋に流れて行った。井川さんは私のつくった本を一通り褒めたあと、「じつは僕も書いているんです」と言った。どんなものを? と訊いたら、児童文学に深い関心があって、というような話をしていた。何冊も買ってくださったお礼に、と持っていた『アフリカ』最新号(vol.9)をプレゼントしたら、パラパラとめくって、「これに僕も書かせてくれませんか?」と言い出した。

 児童文学作品が送られてくるものだと思っていた。しかし送られてきたのは「映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』覚書〜『エリコへ下る道』から『デルタ』へ」だった。
 その前半には、彼が学生時代に高野さん、富田克也さんらと出会い映画をつくり始めた頃のこと、自分たちのことを「空族(くぞく)」という映像制作集団にしようと言い出した頃のことが書かれている。『エリコへ下る道』というのは、小川国夫の短篇小説を映画化しようとしたもので、空族の黎明期に撮影され、未完に終わった映画である。その後、空族が『雲の上』『国道20号線』を経て「夜通し莫迦話ばかりする集団」ではなくなり、着実にファンを増やしている中で、井川さんは映画製作から離れていたはずだが、彼が大好きな小川国夫の小説を映画化する絶好の機会を得て、舞い戻ってきていたのだった。
 その原稿は夏の終わりに書かれ、秋の初めにかけて何度も改稿されて、『アフリカ』vol.10(2010年11月号)に掲載されている。井川さんが亡くなった後、私は回想して次のように書いている。

 井川さんは自作につながる原石を発見するようなことには素晴らしい才能を発揮したが、それを磨く作業には疎かった。推敲は進まず、校正は粗かった。ほころびを直そうと提案する私に、井川さんは苛立った(私も苛立った)。(「井川拓さんとの八ヶ月間」、『井川拓君追悼文集』より)

 翌2011年1月まで井川さんは『デルタ』の上映活動に奔走していた。その後、2月に京都で珈琲をご一緒した時には、もう嵐が過ぎて、『デルタ』は過去のものになっていたような気がする。空族は新作『サウダーヂ』の完成間近で、私も、そして井川さんだってもちろんそれを楽しみにしていた。
 井川さん自身は再び、そして本当に映画製作から離れ、児童文学に力を入れて、文学賞にもどんどん挑戦してゆきたいというような話をしていた。「下窪さんもそういうのもやればいいよ」とも言われた。
 亡くなったのはその2ヶ月後だ。あっという間だった。その間に、3.11があった。亡くなる1週間前に、私は手紙を受け取っている。封を開けると、越前和紙の葉書の片面に楽しそうな自作の絵があり、もう片面に『デルタ』上映の動員結果とお礼が記されていて、「また会うのを楽しみにしています」と書かれていた。私はすぐに返事が出せなかった。そして、永遠に出せないままになった。

 いま、井川さんの遺稿「モグとユウヒの冒険」を本にして、アフリカキカクから出そうとしている。その原稿を初めて読ませてもらったのは2015年だったから、亡くなって4年たった頃だ。一読して、驚いた。井川さんは『デルタ』と並行してこんな作品を書いていたのか、と。琵琶湖の畔のマキノを舞台とした、小学生の兄弟とその家族を描いた作品で、事故による高次脳機能障害のある伯父と、子供が描いている落書き帖の中に現れる犬・モグが、読むたびにいろんなことを教えてくれる。いつかこれを本にしたい、と思っていたが、何年もかかってしまった。
 井川さんは無名の作家というより、まだまだこれからというところで亡くなってしまったので、幻の作家と言った方がよさそうだ。この本には少し解説が要るだろう、と考え、せっかくなら井川拓の伝記になるようなものを書いておこう、と書き始めたのはいいが、なかなか大変。
 頼りになるのは、『井川拓君追悼文集』と、井川さん自身が書き残した『アフリカ』vol.10の文章、井川さんの没後に家族が作成していた年譜、5年ほど前に富田さんと相澤(虎之助)さんを呼んでトーク・イベントをした際に自分がつくった資料「映像制作集団・空族の映画とその源流、支流」くらいで、はっきり言って少ない。子供時代のことや家族のことについては彼の姉に話を聞いて、初めて知ることも、あらためて考えることもたくさんあった。
 そういったネタを手元に集めて置いても、井川拓がどんな人で、どんな創作世界に向かっていたかを書くのは楽ではなくて、その解説の原稿に2ヶ月近くかかってしまった。
 本人が生きていたら、聞いてみたいことが山ほどある。しかし、それは夢の中で聞くか、想像で書くしかない。想像のついでに、もし彼があの後も生きていて、書き続けていたらどんなものを書いただろう、ということまで考えた。
 そうやって書き始めた直後に、高熱を出して数日、寝込んでしまった。
 体調が悪くなると、死者との対話は明るくなるようだ。井川さんは一度、夢に出てきてくれた。しかし何やら話をするような状況じゃなくて、原稿を書いている時の方が話せていると思った。久しぶりに小川国夫さんとも会えた。しかし夢の中では、何も話さない。いや、ことばがないだけで、たくさん話せているような気もする。目を覚まして、しばらく天井を見て過ごす。今日も書き進めよう。

木について

管啓次郎

 1
きみは何歳なの?
木は答えない
親指と小指をひろげて
幹の太さをはかってみた
ちょうど九回分
それを計算するといくつの朝?
きみに住んだのは何羽のきつつき?

 2
森で耳をすますと
枝と枝が風でこすれるのが聞こえる
姿の見えない鳥が呼びかわすのが聞こえる
何だろう動物がかけるのも聞こえる
見つからないよう息をひそめているのも聞こえる
ここまで登ってきた人たちは息を切らしている
太陽がゆっくりと旅するのが聞こえる

 3
人は木を求める
木は人を求めない
木が求めるのは土と水
太陽と(たぶん)月
にぎやかな小動物
おだやかな風、そして
垂直を教えてくれる重力

 4
裸子植物の時代が終わり
被子植物の世界になった
花と色彩が生まれ
動物は目が鍛えられた
種子も蜜も高エネルギー食
行動範囲がひろがって
地球はいよいよおもしろくなった

 5
水が木を昇ってゆく
ごうごうと音を立てて
空へと落ちてゆく
さかさの滝なんだ
銀の魚が飛びはねて
行方に迷っている
飛び散った鱗が流星になる

 6
木は伸びてゆく上に下に
空につきささる円錐の下に
にぎやかな根の国がある
枝は空の水をとらえ
根は土の水をとらえ
木とそっくりおなじかたちの
湖を彫刻する

 7
木はけっしてひとりではない
一本の木と仲間たちは
地中で手をとりあっている
そして旅をする、長い年月をかけて
種子を飛ばし
落ち葉をつもらせ
かれらの森がまた一歩すすむ

 8
木を見て森を見ない人がいる
木を見て木を見ない人もいる
大きな樹はひとつの島
そこに他の植物、苔、きのこが住む
昆虫、鳥、爬虫類、りすなんかも間借りする
生命の共和国
私に住むといいよと木がいう

 9
枯れていると思った
雷に打たれたらしい
幹の中がまっくろに焦げて
うつろになっていた
ところが春になってその木に会いにゆくと
幹から直接芽が出ているのだ
やわらかい緑の光を放ち

 10
嵐がやってきて
木々が踊り出す
大きな枝をしなわせ
風の呼びかけに答えて
今夜はかれらのパーティー
天然の音楽に乗って
私は怯えかつ魅惑される観客

 11
この土地では木は育たない
種子はいくつも飛んでくる
芽ぶいて、枯れて
芽ぶいて、倒れて
でも植物はあきらめない
この百年で一本だけ育ったんだ
それがこの痩せた木です

 12
冬枯れの木の枝に
七羽の鳥が止まって
空か未来を見ている
鳥たちはまるで果実
いまにも魂のように飛び立ち
別の土地をめざすのか
枯れ枝にかすかなたわみを残して

 13
森に行ったらひとりになって
目をつぶり
深呼吸をして
それからあたりを見わたしてごらん
どこかに輪郭がうっすらと
オレンジ蛍光色で光っている木がある
きみに呼びかけているんだ

製本かい摘みましては(172)

四釜裕子

厩橋で隅田川を渡る少し手前で浅草寺方面を見ると、2本の道がディバイダ―みたいに広がる。股には細いホテルが建っている。向かって右の国道6号(江戸通り)を行くと雷門、道の下は都営浅草線、左の都道462号を行くと浅草ビューホテル、この下をつくばエクスプレスが走っている。左の道は、通り沿いにある浅草ビューホテルが建つ場所に1982年まであった国際劇場にちなんで国際通りと呼ばれていて、その先の三ノ輪で昭和通り(国道4号)と明治通りが交差するすぐ手前で昭和通りに合流する。途中、そのディバイダ―の左の脚は吉原神社を囲うようにしてわずかに膨らむ。江戸から分かれた国際が昭和に合流して明治に交わる。

その国際通りにまた新しい店ができていた。雑貨屋かなとのぞいたら本屋だった。フローベルグさんといって、昨年横浜から移ってこられたそうだ。国内外の絵本をメインにした古書店で新刊本もあった。木島始さんのエッセイ集『ぼくの尺度』を買う。表紙の挿画も木島さんだ。「本の生まれかた広がりかた――手稿・私家本・市場本」の中に、木島さんの『空のとおりみち』(1978)のことが書いてあった。同書で1990年に第二回想原秋記念日本私家本図書館賞を受賞されたそうだが、これは最初から私家本を意図したわけではないという。さて、どんな事情が。

朔人社の高頭祥八さんが、青森・八戸の坂本小九郎先生の指導による子どもたちの版画を手にやってきて、絵本にしたいので文章と構成を担当してほしいと頼まれたのがそもそものきっかけだそうだ。〈見るなり、ある強い感動があって、引受けることにし、大きな写真版を狭い部屋の三方に貼りつけ、毎朝、毎晩、ながめていたのでした〉。それは〈ひたすら待つ、むりなくことばが流れでてくるまで待つ〉木島さんなりの制作方法で、どうやらそれは半年も続き、胃だかみぞおちだかが痛み出し、しかしなんとか完成させたが、〈坂本先生の師にあたるかたが、子どもたちの作品を売りものにしてはいけないと、出版に反対されたとかで〉頓挫してしまう。

しかし雑誌への紹介ならばということで、当時出ていた月刊「絵本」へ掲載することになった。そこで木島さんは100部か200部かの抜き刷りを申し出て、それを製本したのが『空のとおりみち』だという。つごう何冊かわからないけれど、製本してタイトルを書いた和紙を貼るところまで、そのすべは画家の梶山俊夫さんに教えてもらったとかで、どうも全部ご自分でやられたようだ。完成した『空のとおりみち』は、親しい人たちに渡すほかは渋谷の童話屋で販売したそうだ。

どんなふうに製本したのだろう。ネットで探したら、まんだらけにあった。注文してすぐに届いた。『絵本ぷろむなーど 空のとおりみち』詩・木島始 版画・八戸市立湊中学校養護学級共同作品(指導・坂本小九郎) 月刊絵本/1978年3月1日発行。値札はまんだらけの「Kioku×Daiyogen」。

本文は、最後の1枚(2ページ)をノドに貼り付けた18ページひと折りで、10穴糸綴じ。2ミリ厚の黄ボール紙をそのまま表紙にしてあって、「ドイツ装」と呼んでいいだろうか。ひと折りで薄いながら、2ミリ厚のボール紙をごく細く切って芯にしてオレンジ色の洋紙で巻き、それで角背に仕立ててある。見返しは同じオレンジ色で、木島さんのサインがある。切るのも折るのもかがるのも貼るのも、仕事はみなきれいだ。手でかがるには穴の数が多くて糸も細すぎるような気がして機械でかがったのかなとも思ったけれど、機械を使うほうが手間だろう。書肆田高さんのサイトをはじめいろいろ見ると、木島さんは同様の方法でいくつも詩集を作っておられるようだ。これはそうとう手慣れていると推察。やはりご自分でかがったに違いない。

『空のとおりみち』の大きさはB5判。版画はどれも横長で見開きいっぱいに配置されている。本文の数ページに、ノドのあき9ミリあたりに目打ちで開けた穴が4つずつあるのを見つけた。もしや平綴じでやってみようとした痕跡か。ノドのあきを詰めて版画をつなげて見せたくて、だいぶ迷ったのかもしれない。実際の作品は、2メートル×1メートルのシナベニア板に彫ってあったそうだ。坂本先生が八戸市内の中学校で昭和31年から50年代にかけて指導した、子どもたちの共同制作による大きな版画だ。1枚ずつに題名があって物語もあり、それら全部を「虹の上をとぶ船」というシリーズタイトルで呼んだらしい。木島さんはその中のいくつかの作品を再構成して、全体をひとつの流れにしてことばを添え、『空のとおりみち』とした。

版木はほとんど残っていないようだ。しかし作品の多くは刷りたてのように黒々として力強いと、別のところで坂本先生が話していたのを読んだ。実物を見てみたい。と思ったら、4月から始まる町田市立国際版画美術館の「彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動」展に同シリーズからの出品も予定されていることがわかった。副題に「工場で、田んぼで、教室で、みんなかつては版画家だった」とある。「みんな」というけど自分はどうだったかなと思うに、木造の美しい校舎で初めて習ったゴム版画も木版画も時間が足りなくて焦った記憶ばかりだ。図工や習字はいつも体育館に貼るとか展覧会に出すとかがゴールにあって、それが力になる子はいいが私はそれで大人をなめるようになってしまった。あなた、ただ楽しめばよかったのにネと、すねた昔の自分の頭をなでてやりたい。町田の展示はきっと見に行こう。

ごめんなさい

篠原恒木

粗忽者なので「ごめんなさい」と言う場面が多い。太宰治が「恥の多い生涯を送って来ました」なら、おれは「ごめんなさいの多い生涯を送って来ました」と、第一の手記に書くべきだろう。

その場合は、なるべく心を込めて「ごめんなさい」と言わなければならない。顎を突き上げて「ごめんなさい」と言ったら、その直後にとても面倒なことになったことがあった。できれば頭を四十五度に下げながら言ったほうが無難なのだろう。謝り方には「ごめんなさい」以外にもいろいろな言い回しがある。思いつくままに挙げていこう。
「すみません」
「さーせん」
「メンゴメンゴ」
「ワリーネワリーネ、ワリーネ・ディートリヒ」
「申し訳ございません」
「お詫びを申し述べます」
「陳謝いたします」
「ご容赦くださいませ」
「不徳の致すところです」
「遺憾に存じます」

「遺憾に存じます」はもはや永田町あたりでしか使われないフレーズだろう。子どもの頃、ハナ肇とクレージー・キャッツの『遺憾に存じます』という歌を聴いたとき、「誠にイカンに存じます」だと思い込んでいた。「イカンことをした」という意味なんだろうな、と思っていたが、のちに「遺憾」という漢字と正しい意味を知ったときも、
「当たらずとも遠からず」
ではないかと思った。ついでに余計なことを書くと「身の毛がよだつ」という言葉もおれはずっと「身の毛が育つ」と思い込んでいた。これも「よだつ」より「育つ」のほうが恐ろしい感じが出るではないかと思っている。関係ないですね。間違ってるし。ごめんなさい。

謝り方のなかでも「ごめんなさい」というフレーズは、近頃ではカジュアルな言い方なのだろう。ここで普通のエッセイストならば、
「広辞苑・第七版 一九五五年五月二五日・第一般 第一刷発行/二〇一八年一月一二日・第七版 第一刷発行によると『ごめんなさい』という意味は」
などと書くのだろうが、おれはそんなことはしない。そもそも広辞苑の第七版も持っていない。だから以下はオノレのイメージだけで書く。「ごめんなさい」は「免じてください」ということなのだろう。赦しを乞う、というわけだ。間違っていたらごめんなさい。

おれが人生のなかでいちばん「ごめんなさい」と言っている相手は、妻だ。これは間違いない。一日に三回は「ごめんなさい」と謝っているような気がする。結婚して三十七年間になるので、計算すると四万回以上「ごめんなさい」と妻に対して申し述べたことになる。それでわかった。どうして最近は「ごめんなさい」といくら謝っても赦してくれないのだろうと不思議に思っていたが、四万回も言っていれば効き目も薄れているのは当然のことだ。ごめんなさい。

仕事でもおれは「ごめんなさい」とよく言っているような気がする。「気がする」と書いたということは、ひとつひとつの「ごめんなさい」にあまり心がこもっていないという事実につながるような気がする。「気がする」で終わる文を二回続けて書いてしまったが、これは仕方ないような気がする。三回になってしまった。ごめんなさい。
メールでは「ごめんなさい」とはあまり書かない。もう少しフォーマルに「申し訳ございませんでした」と書くが、PCというやつは厄介なもので予測変換という機能がある。「申し訳ございませんでした」と打って送信したつもりだったが、あとでよく「送信済みメール」を見直したら「申し訳ございませんでしたか」となっていたことがある。質問してどうする。ごめんなさい。

逆に「申し訳ございませんでした」と謝罪されることもある。ところがテキは「申し訳ございませんでした」という言葉のすぐあとに「資料を紛失してしまいまして」「電車が遅れまして」「道が混んでおりまして」などの言い訳を述べることが多い。「申し訳ございませんでした」という言葉の意味は「言い訳も見当たらないことをしてしまいました」ではないのか。おれはここでもいちいち「広辞苑・第七版 一九五五年五月二五日・第一般 第一刷発行/二〇一八年一月一二日・第七版 第一刷発行」を引かない、いや、持っていないので引くこともできないが、「申し訳ございませんでした」という言葉はそういう意味だと思う。なのに、「言い訳もできない」と言っておきながらすぐ言い訳をするのはどういう了見なのだろう。軽々しく「申し訳ございませんでした」と言ってはいけないのだ。おそらくね。

粗忽者なので、会社に「始末書」を提出することも多い。先日も会社の備品であるノートPCにコーヒーを派手にぶちまけてしまい、起動不可能になってしまった。関連部署に相談すると、
「始末書を書いて提出してください」
とホザかれたので、
「かねで解決しよう。修理代はおれが出すから」
と経済的和平提案、いや、簡単に言えば揉み消しを持ちかけたのだが、この場合は始末書が「決まりごと・ルール」であり、始末書さえ出せばすぐ代わりのPCを用意すると言う。仕方がないのでおれは確認した。
「始末書は社長宛てだっけ?」
「そうです」
おれは始末書の作成にとりかかった。便利な世の中で、いまや始末書の書き方などはウェブで検索すれば、すぐにテンプレートが見つかる。「会社のPCにコーヒーをぶちまけて起動できなくなった場合の始末書」というアホの見本のようなテンプレートは見当たらなかったが、テイストが近いもので「倉庫の鍵を紛失してしまった場合」のテンプレートがあった。これをそっくりコピー&ペーストして、本文の一部をササッと変えればいいだけだ。粗忽者だが几帳面なおれは、正確な事実を記すため、
「本日午後一時十六分、私の不注意で、同日午前十時七分にスターバックス九段下店で購入した『本日のドリップ・コーヒー/パイクプレイスローストのトール・サイズ(350ml)』のうち約95mlを、会社の大切なPCであるHP ENVY×360 13‐ayのキーボード全面に滴下し、本日のドリップ・コーヒー/パイクプレイスロースト約95mlは、PC上のありとあらゆるキーの隙間からマザーボードへと漸次的に流入し、その結果としてHP ENVY×360 13‐ayを起動不能に陥れるという痛恨の事態へと発展させてしまいました」
と書き変えようと考えたが、かえって嫌味になると思い、簡略化して書き直した。
かくして立派な始末書はあっという間に完成した。読み返すと、コーヒーをこぼしただけなのに、テンプレートを活用すると土下座級のレトリックになってしまっているではないか。ここまで陳謝するのも大袈裟なのではとは思ったが、まあいいかとばかりに提出した。すると、すぐ提出先の部署から電話があり、
「シノハラさん、これは書き直してください」
と言われた。
「なんで? 完璧だろう」
「宛先が社長名になっていません。『山田工場長殿』になっています」
テンプレートの本文は書き変えたのだが、宛先はテンプレートにあった「山田工場長」のままだったのだ。ごめんなさい。

今日も世界のいたるところで「ごめんなさい」という言葉がヒトビトの口から発せられているのだろうが、おれはこの世でいちばん誠意のない「ごめんなさい」を知っている。しかも、あろうことか、そのひとかけらの誠意も見当たらない「ごめんなさい」を、おれは毎日聞かされているのだ。
朝のTV情報番組で「めざまし占い」というコーナーがある。おれは必ず観てしまう。女性のアナウンサーが毎日言う。
「そして、今日いちばんツイていないかたは、ごめんなさ~い、乙女座のあなたです」
この「ごめんなさ~い」ほど心のこもっていない謝罪をおれは知らない。そもそもなぜ謝るのか。ランキング形式で占いをすれば、最下位が存在するのは仕方のないことだ。そしてなにより、占いをしていない女性アナウンサーに謝られても困るではないか。
「あなたに『ごめんなさ~い』と軽く言われてもなぁ」
と、いつもおれは思う。もし乙女座のヒトビトに対して、
「誠に不本意ではありますが、最下位という結果になってしまい、わたくしどもも痛恨の極みでございます。ご不快に感じられた方々もいらっしゃるかと存じます。しかしながら順位をつけるというコーナーの性格上、どうかここはご海容いただきますようお願い申し上げます」
という思いがあるのなら、いや、ないとは思うが、もしあるのなら、しかるべき人間、たとえば占った先生が「ごめんなさい」と言うべきであろう。だが、女性アナウンサーは言う。
「今日いちばんツイていないかたは、ごめんなさ~い、乙女座のあなたです。うっかりミスで大切なものを故障させてしまうかも。でも大丈夫、そんなあなたのツキを回復してくれるラッキー・アイテムはドリップ・コーヒーでぇす。今日もいい一日を」
後半は大外れだが、前半部分はピタリと当たっているではないか。ごめんなさい。

首の皺

植松眞人

 先日、渋谷の古いバーのカウンターで、友人の真壁がふと洩らした一言が気になって仕方がない。
「女の首に皺ができるじゃない。歳を食ってくると。あれがいいんだよ」
 なにも皺ができるのは女だけじゃない。男だって出来るだろうと答えると、
「そういう歳を重ねるとね、という話しじゃなくて、首に皺が寄り始めた女が好きなんだって話しだよ」
「好きなのか」
「好きなんだよ」
 と言葉を交わした後、私は黙り込んでしまった。黙り込みながら真壁の首筋を見ると、彼の首にも喉仏の上を縦に走るように皺というかたるみがあった。それを見ながら、真壁の喉を指で触るかのように自分の喉元を顎の真下からゆっくりと鎖骨方向へ撫でた。まるで真壁とまったく同じ縦皺が自分にも走っているような感触が指にあった。そうか、自分にも二つ年上の友人、真壁と同じような年寄りじみた皺があるのか、と思うとなんだか真壁をからかってやろうという気力が失せてしまった。
「なぜ、好きなんだ」
 私が聞くと、真壁はちょっと顎を引いて、笑うなよ、という顔をして見せた。
「わからないんだよ。わからないんだが、女が動揺しているのを見るのが好きってわけじゃないんだ」
「意地悪じゃないと」
「俺は意地悪じゃないよ」
 真壁はそう答えると、はにかむように笑った。その恥ずかしそうな顔が私には面白く、しばらく自分の首の喉仏のあたりにある縦皺に触りながら真壁の視線を落とした顔を見ていた。そして、私の首にある縦皺を触りながら、さっきと同じように真壁の首の縦皺を触っているような感覚に陥り、彼は恥ずかしそうにしているのは、私がその首に触れているからだという気持ちになってしまう。いや、もしかしたら、本当に真壁は私が首に触れていることを想像しているのではないかと思い始めると、私は妙な気分になってしまった。
「なあ。お前、俺の首にある縦皺をじっと見ながら自分の縦皺に触ってみろよ」
 私がそう言うと、真壁は意外な顔をした。
「俺の首には縦皺なんてないだろう」
 そういうと、真壁は自分の首の喉仏あたりに触れる。
「お前、知らなかったのか。自分の首の縦皺」
「うん。知らなかった。これ、そうだよな」
 と言いながら真壁は自分の縦皺に右手の人差し指の腹を当てて、上下に探ってみている。
「で、これをどうするって」
「俺の首の縦皺をじっと見ながら、自分の縦皺をさすってみるんだよ」
 真壁は私に言われたとおりにした。すると、真壁は小さく、おおっ、と声をあげて笑う。
「こりゃ、妙な具合だな。俺がなんだかお前の首に触っているような気分だ」
「な、そうだろ」
 そう言いながら、私も改めて真壁の首をじっと見つめながら自分の首の縦皺を探る。
 私たちは渋谷の古いバーのカウンターに隣通しで座り、お義理程度のソーシャルディスタンスを意識しながら、互いの首に触れている気分で言葉少なにいつまでも水割りを飲んでいた。(了)

日本に何で来たのか

イリナ・グリゴレ

その日も、薄いピンクとボルドー色の靴下を片足ずつ履き、ジャージの上に長いコートを着て幼稚園のお迎えに急いだ。帰りに娘たちは仲の良い友達の家に誘われた。私は色の違う靴下を履いていたこと恥ずかしくて、一緒に車に乗った娘の友達にそう言った。「えー、大丈夫だよ、そのほうが面白いかも」と言ってくれたので安心した。「イリナのマスクが紫で可愛い」と言い続けてくれ、靴下の色違いを批判されないことが嬉しかった。この子は転校してきた娘たちをすぐ受け入れてくれた。いつも抱っこしたり、可愛がってもらって、娘たちはハーフとしての意識もなくスキンシップを取ったり、私を「〇〇のお母さん」ではなく、イリナと名前で読んだり、6歳になったばかりの地方の町の女の子とは思えないぐらいクリエイティブで広い世界を視線に入れている性格の持ち主だ。この女の子のお母さんともさまざまな話をした。娘たちがプリンセスのドレスに着替えてファッションショーを開くのを脇で見ながら、これからの日本と教育について語り合った。

「これからはダイバシティーの時代で、子供の個性が求められる時代だから」と娘のクリエイティブな部分を評価した私に、ダジャレの大好きなお母さんは「台場シティ?」と最近テレビでオリンピックをきっかけにきく言葉に戸惑うフリした。英語でdiversityと書いて渡し、多様性など今時の言葉についての議論を二人でし始める。こうしている間に、私の家に来るとき、喋りながら子育てと研究と仕事の両立に追いつかない私の洗い残したお皿を綺麗に洗ってくれて、「ものが多いから」片付け難いだろうと、いつか整理してくれるという。大晦日の前の日に泊まりにきた友達もガスコンロをピカピカに磨いてくれたし、仕事の日に預けるところのない娘たちを自分の家で見てくれた友達もいる。そして、原稿を書いていて、ごみ出しを忘れてしまった時は、ごみ収集車のお兄さんがすごく忙しいのに家にピンポンしてくれて、「大丈夫ですか?ゴミはありませんか」とわざわざ聞いてくれる。

考えてみれば、日本に来てから私の日常はこうして誰かの優しさによって救われている。移民、外国人留学生、肌の色、髪と目の色というバリアを越えて、優しくしてくれる誰かが私の周りに必ずいる。最初はもちろん単純な疑問として、「目が青いから世界が青く見えるの?」と聞かれたり、留学生同士で固まり、地元の方とどうやって接していいかわからない時もあったりした。日本語が怪しい、貧しいと言われたりした。様々な経験があるが、必ず聞かれるのは「日本に何できたの?」優しい声、緊張した声、キツい声、可愛い声で。その時、私は思い出す、そうか、私は見た目が違うのだ。もちろん、私に興味があるから聞かれるが、こんなに見た目ですぐバレる、ここの人ではないこと。

どこにいても同じだ。ルーマニアでも見た目、服、肌色(マイノリティもたくさんいるので)で人をカテゴライズする。大した悩みではないかもしれないが、私の場合、いつも年より若く弱そうの女の子のイメージがある。喋り方がいつも緊張しているから、笑いすぎたり、甘えているように見えるのだろう。もう気にしなくなったけど、いつも「人は見た目で人を判断する」と思う。どこにいても。本当の自分は「男っぽい」というか、いつも「男がよかったのに」と思う。だから、この顔で学生の前に立つときは最初に「こう見えても研究者です、人を見た目で判断してはいけない」と言ってから、「文化人類学とはなにか」の講義を始める。

「日本に何で来た」と聞かれ続ける。来てほしくなかったのか? これは私が日本を褒めなければならないという問題ではないと最近気づいたので、あまり長い答えをしなくなった。答えはシンプルに、「遠くへ行きたかったから」。誰にでもこの想いがあり、共感するのではないかと思うからだ。ルーマニアの村で、寂しく一夏をかけて本をたくさん読んでいた私は『雪国』という一冊と出会った。本の最初のイメージに惚れた。トンネルを抜けた列車の雰囲気。感覚で感じたものは、それまでの人生で一番確かだった。ルーマニア語に翻訳されていたにもかかわらず、なぜか私はそれを日本語で読んだ気がした。

そのころ言葉に悩んでいた。私の考えをうまく周りに話せない、感じていること、やりたいことも表現の壁にぶつかり、うまくいかないと思っていた。音楽のように、通じる電波のようなイメージで直接に身体同士にコミュニケーションできる方法がないかと考えた時、映画と出会った。映画というか、正確には「シネマ」だ。『雪国』を読んだとき「これだ」と思った。私が喋りたい言葉はこれだ。何か、何千年も探していたものを見つけた気がする。自分の身体に合う言葉を。その時、全てが繋がった。映画監督になりたかった「田舎から出た普通の女の子」として受験に失敗し、秘密の言葉である日本語を思い出した。「映画」で表現できないならきっと新しい言葉を覚えたら身体が強くなる。日本語は、私の免疫を高めるため言語なのだ。

バスの中で俳句の本を渡してくれた同じ年の明るい女の子と一緒に、日本語学科のある小さい大学に入って朝から晩まで日本語を浴びた。入学初日、私の恩師になるアンジェラ・ホンドゥル先生とエレベーターで出会った。初めて私を信じる人に出会い、救いの匂いを感じた。ヒッピーな格好をしている内気な女の子と、先生の周りにいる強そうな弟子と一緒に乗ったエレベーターの1分は半日のように感じられた。今にしてみればあれはエレベーターではなく宮沢賢治だったのではないかと思う。彼女は私の目を見て、「来週までに私の本を半分勉強して」と言い、私は「はい」と返事をした。全ての始まりだった。彼女の上級日本語クラスの一番後ろの席に座って、当時、先生がルーマニア語に翻訳していた村上春樹の小説と夏目漱石の小説の話を聞いて、日本語の楽しさと美しさを再確認できた気がした。その2年後のある日、ホンドゥル先生は、映画とパフォーマンスに興味を持っている私に「あなたは獅子になりなさい」と言って、奨学金の審査結果を渡された。そうして私は今、獅子舞を踊り、研究している。偶然といえば、偶然かもしれないが、彼女は私の才能を信じたすごい人なのだ。私にとって、彼女は初めての女性としての研究者との出会いであり、モデルである。

その一年後、もう一つのきっかけが与えられた。一年間の交換留学を終えて右も左もわからない中、生活費のために仕事し始めたころ、休暇を取ってボランティアとしてシビウというルーマニアで最も美しい町で、中村勘三郎の歌舞伎公演を手伝った。音響担当のルーマニア人スタッフと日本側のスタッフの通訳をしたのだ。古い工場の建物を使って日本からきたスタッフが舞台を作り、「夏祭り」の準備が整った。私は性格が熱いルーマニア音響スタッフと優しそうな雰囲気の日本のスタッフの男たちのコミュニケーションを何とか平和に終わらせた。私の日本語が完璧からほど遠いにもかかわらず、日本のスタッフは優しく対応し、私の友達と一緒に酒も飲んで、家族の写真を見せてくれた。音響の仕事が興味深かったので、たくさんお話した。一番好きな瞬間は、「夏祭り」という古典の歌舞伎の戦いの時に、救急車の音が聞こえる場面だった。中村勘三郎さんは新しいものが大好きなのだと音響の方が説明してくれた。そして3日間の公演で、音響の部屋から救急車の音が発生する瞬間を私も見守った。

遠くを歩く中村勘三郎の天使のような笑顔。最後の公演後に舞台に上がって花束を渡した私にとって貴重な瞬間だ。その瞬間に時間が止まった。目が合った瞬間に音も、周りの風景も消えた。すごい人の目を見る瞬間はきっとそういうものだ。彼の力をいただいた気がした。その瞬間に私は日本に戻って研究者になる夢を追いかけると決めた。

その夏、締め切りの最後の日の1時間前、奨学金の応募書類を日本大使館の近くのマクドナルドの外のテーブルでまとめて写真を貼ろうとしたら、急に嵐のような風が吹いて書類は全て庭に飛ばされた。冷たい汗をかきながら、他のお客さんにも手伝ってもらいながら、何とかまとめて大使館に向かった。閉館5分前だった。

冷や汗をかいた後、地下鉄に乗ったら、スーパーのビニール袋のように夢が膨らんだ。生活にも夢にも余裕がなかった日々、何ヶ月も返事を待った。面接に呼ばれた時、最初の手術の後だったので麻酔の影響がまだ残ったせいかもしれないが、とても落ち着いた声で「研究者になりたい、まだ誰も研究してないことを研究したい」と言った。その後もひたすら待った。仕事をやめて、彼氏の家を出て、一人で引っ越して、祖父が亡くなって、お金もなくなって、新しい仕事を探してルーマニアで有名な現代美術家のアシスタントの仕事が決まって働き始めようとした時だった。何か月ではなく、何年も経った気がした時、大使館から電話が来た。奨学金受かったという知らせだった。

この間、長女とお風呂に入って抱き合って、お互いの目を見つめた。彼女のキャラメルのような柔らかい茶色に湯風呂の湯気とともに魔法にかけられ、浮いている気分になる。「お人形みたいな目」と知らない間に声を出した私に、娘は「ママはフランス人形みたい」という。6歳になったばかりの彼女がどこでフランス人形を見たのかわからない。日本語が私より上手い。お風呂から出たら、壁に飾ってある彼女が書いた絵に茶色の髪の毛の私と黒い色の髪の毛の彼女が描かれているが、ドレスは二人とも虹色だ。私はいつも娘の言葉が面白いので忘れないようにノートする。お風呂で言われたことを書く。「ママ、フランス人形みたい。」それを見た娘は「違う、ひらがなの「た」が長すぎる」と、私の書いた字を赤ペンで直した。その下になぜかピクルスのようなぶつぶつのある太いきゅうりのような物体を描く。「これ何か知っている?」「きゅうり?」と祖母がピクルスにしていた大きなきゅうりの話を始めると、娘は笑いながら「違う、オタマジャクシの池でした」。

「ママは何になりたいだっけ、そうだ、博士だ、ママは必ず博士になる」と応援する娘が寝る支度をし、「おんどく」という子供向けの寝る前の1分に読む日本の名作を出して大きな声で読み始めた。「吾輩は猫である、名前はまだない」の次は「メロス」の話。次に「僕らはみんな生きている…ミミズだってアメンボだって…みんな友達」と、最後に「みんな違って、みんないい」。次の朝、ずっとパジャマで何かを描いている。私も忙しい時はずっとパジャマで論文を書いたりするし、一日中着替えない日もあるから真似し始めたのだろう。最近ではいろんな絵を真似したらと私が提案している。昨年、一緒に見たピカソの絵も入っている画集を本棚でさがす。「着替えてください」と何度も言うのに着替えない娘は大きな声で叫ぶ。「ピカソはパジャマでしか描けない」。日本になぜ来たのかの答えを見つけた気がする。それは同時に「違う角度から世界を見るため」だった。

むもーままめ(17)眠りにつくとき なに思う

工藤あかね

月が眠りにつくとき なに思う
目隠しして うさぎを抱いて
薄目を開けて 恋人を照らす

ねこが眠りにつくとき なに思う
喉を鳴らして ごはんをたべて
お水をのんで 毛づくろい

こどもが眠りにつくとき なに思う
あたらしい筆箱 交換日記
ピアノのお稽古 明日の席替え

あのこが眠りにつくとき なに思う
ふくれない腹 出せない宿題 
よごれた体操着 帰ってこない親の顔

少年が眠りにつくとき なに思う
好きな子のこと 明日の試合
お年玉の残り 欲しいゲーム

彼女が眠りにつくとき なに思う
友達とのLINE  新しいコスメ
おしゃれなカフェ 夜景スポット

陸陸陸陸陸陸陸空空空空空空空空空空海海海陸

月が眠りにつくとき なに思う
けむりに覆われ 夜は灰色
おぼろにみえる つかれ果てた人びと

猫が眠りにつくとき なに思う
しらない人たち しらない匂い
さむい ひもじい こわい音

こどもが眠りにつくとき なに思う
ほつれたぬいぐるみ お母さんのなみだ
片方なくした靴 逃げた鳥 かわいたのど

あのこが眠りにつくとき なに思う
建物のくずれる轟音 断末魔の叫び声
目に入ったままの瓦礫の粉 死んだおじさんの煤けた手

少年が眠りにつくとき なに思う
戦う父兄 避難できなかった友達の家族
眠れないほど冷える床 明日のパン

彼女が眠りにつくとき なに思う
汚れた下着 泣かなくなった赤ちゃん
陵辱を恐れる娘たち 明日のいのち

しもた屋之噺(242)

杉山洋一

朝、庭の樹の下に胡桃を持ってゆくと、1分も経たずにどこからかリスが降りてきて、白い腹を見せて食べ始めます。午後になってリスが枝の上で体を延ばして日向ぼっこをするさまは、「星の王子さま」の象を呑み込んだウワバミそっくりだと家人と笑い合い、思わず見入ってしまいます。
気が付けば、戦いに没したサン=テグジュペリや、平和を希求する「星の王子さま」に、思いを馳せていましたが、学校へ自転車を走らせながら、以前息子が通っていた小学校の窓に垂れる、大きな虹色の横断幕が目に入りました。そこには、よく見える大きな字で「Sì alla PACE (平和大好き)」と書かれていました。

3月某日 羽田行機中
フランクフルトからブダペスト、ブカレストと南下して、現在トルコ、アンカラ北部の海上を飛行中。シノップが一番近い街のようだ。黒海を超えたずっと先に、遠くキエフを臨む。
機内スクリーンの航路図を見ると、ここから北東に進路を取り、一直線に進んだ先に東京がある。ヌルスルタン、ウランバートルとロシアの南を縁取りながら、中国、韓国を超えてゆく。ここから東京までまだ10時間4分。

目が覚めるとルフトハンザ機はエレバンを超えトビリシに向かっている。アルメニアやジョージアの地名で無意識に心が躍るのは、幼少からの民族音楽への憧憬からか。
陸路でカザフスタンやモンゴルを訪ねられたら、どれほど素敵だろうと、ふと思う。
尤も、ロシアのウクライナ侵攻がなければ、この航路を使う機会もなかっただろうが。
ウクライナでは、市民への無差別殺戮が始まり、市民2000人犠牲との報道。

学校でピアノ伴奏を担当しているマルコの奥さんはポーランド人で、ロシアのウクライナ侵攻後とても神経質になっている。
ポーランドの家族をいつイタリアに呼ぶか話し合っている最中だそうだが、「妻と同じスラブ系の顔立ちの市民が、戦禍で路頭に迷う姿を見るのは忍びない。彼らは妻と同じ顔をしていて、未だ乳児の娘ともそっくりの顔立ちだ。筆舌に尽くし難い衝撃だよ」。

3月某日 三軒茶屋自宅
思い立って午後、町田へ両親を訪ねる。半世紀続く老舗「ロッセ」で、父はマンデリンを、母はブラジルを、自分にはコスタリカを頼んだ。イタリアでストレートコーヒーを愉しむ機会は殆どないので、日本に帰ると、勢い普段呑めないストレートばかり注文する。二人とも元気そうで安堵。

4年前、学校で聴覚訓練を教えたウクライナ出身のコントラバス奏者、ジノヴィが気になって連絡をとる。童顔のジノヴィ・シュクランは、当時、高校を卒業したばかりで、2週間前にウクライナからミラノに着いたばかりだった。当初はあまりイタリア語も出来なかったが、とても優秀ですらすらと答えていたし、半年教えている間に、イタリア語も他の学生と遜色なくなっていて驚嘆した。
未だ返事はないが、母国に戻って入隊していたらどうしようか、不安に駆られている。

3月某日 三軒茶屋自宅
「断絶のバラード」原曲部分採譜。
世界でロシアの芸術家が排除、罷免されていることについて、どう思うべきなのか分からず、自らに当惑している。
音楽家が排斥されるのは耐え難いが、運動選手の追放は当然で、音楽家は救済すべきという論法は成立するのか。音楽家はそれほど政治と無関係なのか。音楽家が許されるのなら、他の分野での追放運動も考え直してほしい。ともかく、何も政治に関わっていないロシア人芸術家が、否応なしに差別される姿は、到底見ていられない。

3月某日 三軒茶屋自宅
岩波新書、村上陽一郎著『ペスト大流行、ヨーロッパ中世の崩壊』を読む。「1910年代に終熄した最後の大流行に250年を加えると2160年、300年を加えれば2210年である。果たしてそのとき、人類は新たなペストの攻撃を受けるであろうか。それとも内なるペストによって地球はすでに廃墟と化しているであろうか。祈りを捧げるべき神は、何をそこに用意しているであろうか」。1983年早春、の日付。

3月某日 三軒茶屋自宅
ウクライナ南部マリウポリ、小児病院に爆撃。
プレトネフ指揮による東フィルで、スメタナ「我が祖国」を聴く。
決して発音を潰さず、のびやかでしなやかな音を引き出す指揮と、熱量の高いオーケストラは理想的な邂逅で、歴史的な瞬間に立ち会っているのを実感した。
柔らかい指揮ぶりでありながら、掌に音がしっかりと詰まっているので、強音も抜けるように心地良く演奏できる。
目の前にロシア大使館関係者3人が着席していたが、顔に明確な表情は顕れていなかったとおもう。
ロシアが日本を「非友好国」に指定した直後で緊張していたのかもしれないし、最後にバッハのエアーを弾いて、どことなく戦争反対に見えて、不機嫌だったかもしれないし、第一「非友好国」の外交官が、敵国で気軽に笑顔など見せてはいけないのかもしれない。

3月某日 三軒茶屋自宅
ウクライナ市長二人がロシア軍により誘拐との報道。無差別爆撃激化の様相。
今までロシア兵も被害者だと語っていたウクライナ市民も、これだけ戦闘が激化してずっと同じ心持ちでいられるのだろうか。
憎悪が憎悪を倍増させ、心は荒み、或いは自暴自棄にもなるかもしれない。結局戦争はどこでも似たような虚しさに覆われ尽くし、死体が堆く折り重なるばかりなのだ。現代の戦闘だからといって、市民が巻き込まれないわけでも、兵士の殺し合いがなくなるわけでもない。

ジノヴィから返事が届く。1月の国立音楽院オーケストラ演奏会でコントラバスのトップを弾いていたのは、想像通りジノヴィだった。お互いマスクをしていてよく分からなかった。「今こそ、こうしてウクライナ軍を励ます声は本当に掛け替えなく、感謝に堪えません」とある。メッセージの様子では家族をイタリアに呼び寄せたようだ。
Slava Ucraini!と送ると、Gheroiam slavaと返事が届く。
自分が教えた生徒が、若し兵隊になって戦っていたらと思うと、無性に悲しくなった。
何が正しいか自分には分からないが、どんな状況にあっても生延びて欲しいと痛切に願う。自分が教えた学生が戦争に行っていたらと懊悩する日々が、自らにこれほど早く訪れるとは想像もしなかった。続いてジノヴィは、ウクライナ陸軍のために祈ってほしい、と書き送ってきた。血気盛んな年齢でもあり、今後、祖国に戻り、命を捧げようと考えないとも限らない。
侵攻当初、ロシア軍の戦車や戦闘機が破壊される姿を映像で見て、ロシアの兵士がどうなっているのか案じていたが、次第に神経が麻痺してくると、燃え滓となった戦車を見て無意識に安堵する自分に空恐ろしくなる。戦争はただ惨く、人間を、そして人格を荒廃させてゆく。

3月某日 新幹線車内。
妙高高原は一面の雪景色で、地表から湧き立つ靄と相俟って幽玄な風景を織りなす。白妙とは言い得て妙と独言つ。重なり合う無限の白変化。
糸魚川で眼前に開ける日本海に感動し、黒部では、2年前家人と息子が過ごした日々に感慨を覚えつつ、朝靄にむせぶ田園風景に目を凝らす。
あの時は独りミラノで過ごしつつ、家族と再会する日をただ心待ちにしていた。
目の前の雲は、どこまでも低くたちこめている。

3月某日 金沢ホテル
アンサンブル金沢リハーサル。川瀬さんは和声的なアプローチと、映像的、劇的描写のバランスが素晴らしく、何時間とリハーサルを眺めていても飽きることがない。オーケストラも川瀬さんの心の襞に細やかに寄添い共感し、そして共振する。舞台から同心円状に肯定的エネルギーが波立ち、発散されてゆく。演奏家それぞれの矜持なのか、オーケストラの伝統か、飽くなき探求心、好奇心、深い情熱が相俟って、慈しむような時間が滔々と流れてゆく。
床坊さんや北村さんから、これこそ最初に岩城さんが築いた礎だと伺い、心を打たれた。
チェロの植木君との再会は大学卒業以来か。全く変わっていない。当時から背広を着こなす好青年だったが、何十年経ってみても、彼は背広を素敵に着こなす好青年なのだった。
ポーランド、チェコ、スロベニア、EU三カ国の首相、列車でキエフ訪問。スロベニア国境すぐ手前はトリエステやゴリツィアのあるイタリアだ。

3月某日 金沢ホテル
午前一杯続けていたメンデルスゾーンのリハーサルを終え、昼食休憩に入ったところで、ヤングさんの発案で第一ヴァイオリンがパート練習の支度を始めた。随分真面目だと感心していると、やおら拙作の練習が始まったので仰天した。彼らは掛け値なしに、自らの情熱のため音楽をやっている。

メンデルスゾーン、特に4楽章に至っては、川瀬さんは戦地に赴く兵士とその姿に心を痛める妻のシルエットを映し出した。毎日目にする戦禍を反映してか、オーケストラは彼の言葉に、深く、鋭く、そして直截に応えるように見える。それは、或いは無意識だったかもしれないし、各奏者がそれぞれの意識の奥底で何かを想いながら弾いていたのかもしれない。
夜、田中君と3年ぶりの再会を喜ぶ。駅前の割烹で焼「のどぐろ」の蕩ける舌触りを堪能。
目の前に「黙食にご協力下さい」と貼ってあり、殆ど会話せずに食事したところ思いの外早くに食べ終わったので、それはそれで案外便利だと知る。場所を変えて生麩に舌鼓を打ちつつ、聴覚訓練とメタ認知の話。
夜半、家人がほぼ半年ぶりに無事ミラノ帰宅との一報。一気に緊張が解け、力が抜けた。ウクライナ侵攻以来、日欧の航空便状況は益々不安定になり、何度もの変更の末、彼女はウィーン経由になる前の最後のANA便に乗ることができた。

3月某日 金沢ホテル
昨夜は般若さん一家にすっかりご馳走になった。初めて会う、年賀状の写真そのままのお子さんたちの姿に、思わず目を細める。天真爛漫は、そのままで倖せを形容する言葉になると知った。お父さんの真似の大好きな娘さんから、元気一杯走り回って笑顔を振り向く娘さんからは、ご両親を尊敬する姿が自然と伝わってくる。

今日はKさんと連立って、おでんと刺身で昼食。午後は揃って般若さんの工房を訪ねた。家具と音楽は、触覚、聴覚と人間の感覚に訴える部分だけでなく、歴史や時間を裡にしみ込ませるところも似ていて、思いがけぬ相似に膝を打つ。
会場で池辺先生に再会。お元気そうで嬉しい。同門の兄弟弟子を標榜するのは流石に気が引ける。

3月某日 三軒茶屋自宅
朝は自転車でトップに出かけて、コーヒー豆を購う。
息子が、室内楽クラスのため、カスティリオーニの11Danze per la Bella Verenaを譜読み中、と家人より連絡あり。ベートーヴェンの4番、シューマンの1番ソナタの次がカスティリオーニなのは面白いが、高校生の時分からカスティリオーニに親しめる環境は、羨ましい。

久木山さんと一緒に演奏家を集めてカスティリオーニの「マスク」を演奏したのは、高校生活の終わりだったか、大学入学後だったか。パート譜を切り貼りし、移調楽器は手書きして、友人の演奏家たちに些少の交通費と打上げの飲み代で手伝ってもらった記憶が甦ってきて、今更ながら申し訳ない。
息子が二重奏を組むヴァイオリンのサラは、お母さんがファゴット奏者で、学生時代カスティリオーニに作曲を習っていたと言う。家人曰く、息子はカスティリオーニ向きらしい。

3月某日 三軒茶屋自宅
チャップリンの名作は沢山あるが、「独裁者」がどうしても忘れられないのは、有名な演説の場面が心に焼付いて離れないからだ。彼の言葉にも表現にも、戦争を生きた人間だけが知る真実が籠っている。

同じように、言葉のもつ強度を、ゼレンスキーは多分よく理解している。チャップリンは、行方知れずの恋人を想いながらラジオに向かって言葉を紡いだが、ゼレンスキーは、国外の会議にインターネットで参加しながら、たとえ相手が集団であれ、相手の顔を見ながら話しかける。
内容は全く違うけれど、スピーチライターは、チャップリンが演説で訴えかけた、あの言葉の力を信じているのがわかるし、ゼレンスキーもその期待に応えていると思う。
音楽家が政治家になる例は、俳優に比べればずっと少ないが、共通する何かは見出せるのかもしれない。音の持つ強さや、場合によっては恐怖についてすら、我々は十二分に認識している。

3月某日 三軒茶屋自宅
町田の両親宅で使っていたプリンターが壊れたので、結局新調し、設定しなおす。特に、父のコンピュータ設定に時間がかかったので、終電を逃して三軒茶屋に戻れなくなった。仕方なく母の隣に布団を敷いてもらい町田に泊まる。コロナ禍が始まり、両親宅に泊まることも金輪際ないと思っていた。思いがけず母の寝息をぼんやり聴きながら、夜半、感慨に耽る。
ウクライナからイタリアへの難民は、今日の時点で63104人に上る。そのうち32361人が女性で5592人が男性、25151人が未成年だという。イタリアの厚生省初め政府各省庁のインターネットサイトには、ウクライナ難民や受入れ先の情報が多数掲載。

3月某日 ウィーン行機内。
昨晩は会場にて悠治さん美恵さんに再会。「今度また三軒茶屋で食事でもしましょう。もうすぐ月末ですよ、原稿よろしくね」。

離陸後25分程が経過していて、もうすぐ金沢小松空港上空に到達するところ。すばらしい演奏をして下さったアンサンブル金沢のメンバーはまだ東京にいるに違いない。
演奏会前、控室で垣ケ原さんとゼレンスキーの国会演説を聴いた。予想より冷静な印象を受けた。
ピアノの亀井さんの素晴らしさは、敢えて残しておいた最後のパズル一枚を、演奏会ですっと嵌めて披露してくれるところ。

現在飛行機は西安、ウルムチ上空を通過し、タシケント方面に向かっているようだ。
何時か、平和裡に陸路を伝い、新疆ウイグル自治区やキルギス、カザフスタンを再訪できたらどれほど倖せだろう。往路に等しく感慨に耽る。
地図で少し上に目をやれば、ノボシビルスクやチャリャビンスクの地名が目に入る。確かにロシア国境に沿ってぎりぎりまで北上しながら進んでいるのだ。その現実を理解すると、少し緊張する。機長初め乗務員も、我々には思いもかけないさまざまな緊張に晒されているのかもしれない。

ノボシビルスクのもう少し東にある、クラスノヤルスクを最後に訪れたのは4年前だった。人々は変わらず温かく食事も美味で、オーケストラはすばらしかった。いつも満員の聴衆にも驚いた。地元クラスノヤルスクとポーランドの合同オーケストラのために仕事ができたのも、今となっては夢のようだ。弦楽器奏者ばかりで、ロシアとヨーロッパの奏法も違って面白かった。
演奏者たちは最初こそ言葉が通じず多少当惑していたが、一緒に弾くうち直ぐに打ち解けたのにも感激した。彼らは今、どこで何を思いながら生きているのだろう。

一日も早くコロナ禍が落着き、以前の生活に戻れるよう願いつつ暮らしてきたものの、凄惨な報道写真を毎日目にするようになり、それは不可能だと誰もが実感するようになった。我々が日々懊悩する虚しさの根源は、何よりこの事実かもしれない。
現在進行中の世界の紛争はウクライナ侵攻に限らない。確かにウクライナの規模は桁違いだが、どんな戦争も等しく陰惨で、人の心を壊滅させる。

気が付くとトルコ上空を飛行している。黒海の対岸では、この瞬間も、醜い戦争に苛まれる無辜の人々が逃げ惑っている。やり切れない。

3月某日 ミラノ自宅
羽田を出てから25時間かかって、漸くミラノの自宅に着いたのは、深夜0時を回っていた。途中ウィーンで給油のため一度降機し、改めてフランクフルトを目指した。フランクフルト空港の荷物検査は、平時より些か厳しく感じたが、ウクライナの影響なのだろうか。
飛行機が遅れたので日付も変わって息子17歳の誕生日は少しだけ過ぎてしまったが、家族が揃うのを待っていた息子は、誕生日ケーキを食べずに起きて待っていた。コロナ禍に加えて戦争も勃発するなか、二カ月近く一人で暮らしていたので、半年ぶりに家族3人揃ったところで緊張の糸も切れたのか、息子は大人げなく愚図っている。

3月某日 ミラノ自宅
家の掃除を手伝ってくれているウクライナ人のマルタは、ウクライナに住む兄夫婦から15歳の甥と8歳の姪を預かっている。ちょうど彼らの授業のない週末だったので、マルタと一緒にやってきた。
先週だったか、義姉がウクライナから車を運転してイタリアまで彼らを連れてきて、彼女はそのまま直ぐにウクライナへ戻ったと言う。マルタの兄の具合が悪く看病しなければいけないらしい。甥っ子はヴィターリ、姪っ子はヴィクトリアという名で、兄は少しはにかんでいて、妹は闊達な印象を受ける。揃って利発そうな兄妹である。
毎日、彼らは午前中インターネットでウクライナの学校の遠隔授業を受けている。ヴィクトリアはここで算数の宿題をプリントして持って帰った。
マルタは家では彼らと戦争の話は一切しない。15歳のヴィターリはきっと事情も知っているだろうが、彼らも戦争については一言も発さないという。心中察するに余りある。

3月某日 ミラノ自宅
サンドロ宅で日がな一日レッスン後、久しぶりに暫く話し込む。4月半ばから、3年近く中断していたホームコンサートを、少しずつ再開するつもりだという。試しに1回開催してみて様子を見る、とのこと。
「何しろ、件のオミクロン2が最近流行りだしたからね。これからどうなるかわからない。実は昨年秋にウクライナのオデッサに旅行を計画していたのだけれど、ウクライナのワクチン接種率がとても低いと聞いて、取りやめたんだ。そうしたら、戦争が始まってしまった。もう以前の美しいオデッサの姿はなくなってしまった。もう訪れることもままならない。本当に悔しい」。
「その上、ヨーロッパ中に哀れなウクライナ難民が溢れかえっている。彼らの大部分はワクチン未接種に違いない。正直なところ、今後何が起きるか不安なんだ」。
東京から戻った翌々日学校に赴くと、帰伊を喜ぶ同僚に交じり、一人の同僚は「日本の新変異種を持って帰ってきてなければいいけどな」と冷笑を残してエレベーターに乗込んだ。

3月某日 ミラノ自宅
日本では一日の感染者数が微増傾向との報道。今日のイタリアの状況は、新感染者数が73195人、死亡者159人、重症患者数46人増とのこと。一週間平均で言うと、新感染者数は一週間前の1.6%減、陽性率は2.5%減だという。
突然の政府発表により、4月初日からワクチン未接種者の職場復帰が許可されたので、一時的にワクチン反対派の教員分を外部から補填していた音楽院も対応に追われている。
政府は当初、今年上半期のワクチン未接種者職場復帰はないと明言していたので、国全体がそれに併せて采配を下していたはずだ。恐らく国全体が混乱を来しているに違いない。
「自分はコロナ禍前のイタリアの姿が見られて、本当に良かったです」。
レッスン後、コーヒーに誘った浦部君が呟いた言葉がわすれられない。

エミリオからの便り。
「ここ数日、どうにも困憊している。過労には違いないが、何より莫迦げた人間の行ないへの絶望の心緒が原因さ。この世界ときたら、人々の欲望と希望に火を点けるためなら、以前にも増して、どんな痛ましい道具であれ際限なく用意してみせる。それに気が付いてしまったからね。歳を取ったと実感させられるよ。より良い明日など到底見出せぬ現在の哀哭のなかで、生きてゆくことはできない。年長者の愛国-帝国主義的狂気のために、若人が命を落とすなど到底看過できない。
唯一納得し得る「祖国」の概念すら、我々個人がそれぞれ理解し得るものの筈であり、この惑星に於ける「祖国」の意味を、各人がそれぞれに解釈し得るものの筈だ。
どうしてそれを忘れられよう。生命ある上に於いて、我々などせいぜい蝶の羽ばたき一回分相当の時間しか与えられていない、ちっぽけな被造物でしかないことを、どうして忘れられるというのか」。

(3月31日ミラノにて)

209 黒雲の二刷り

藤井貞和

散会のあとから消灯する世界、終わる古い歌、
古い歴史、黒煙は空気の陰画、黒雲の二度目、
人類が滅ぶときに書く、正当な理由はなくて、
人類史を終わらせる、正当な理由がなくては、
軽犯罪としての侵攻が、ゆえなくして建物の、
船舶のページを消す、軽犯罪に潜む悲しみで、
地上がすこし固くなり、泥の海の引きかげん、
戦車のざんがいは兵士の妹たちののちである、
拘留や科料におびえる犯罪が終わる、劇場も、
産院も、吐き出す黒雲によって、空爆される、
神話の二刷りが届けられる、鉄器に轢かれる。
 

(〈返信メール〉あなたの連載月評の力作にふれてうれしかった。第二の詩集もありがとう。こういうおしごとや詩集が実ってゆくのはほんとうにうれしいこと。詩人がいま、この時、どういう、何をするという問いかけですね。全土が、焦土や、原発被災と化す。詩が何をしなければならないか、まったくわからない。避難の母子の疲労しきった表情を見るたびに、あなたの言うとおりです、詩を直撃するかのようだ。それが詩人の負い目なのだろう。私はあるサイトに、わずかにウクライナの音楽の出てくる作品を書きました。友人のサイトから、ウクライナのうたと竪琴と。ちらと「うた」が出てくるだけで、心がいっぱいになります。〈追伸〉物語はどこかで戦争に加担するし、うたも謳歌するときがある。私は物語とか、うたとか、これまで関与してきて、息をのむ思いがする。詩の相対的役割があるわけでなし。映画も物語です。内田樹さんはウクライナの映画を6本観たら、対露戦争が3本、飢えそしてカニバリズムが2本だったと言う。既視感のある対露戦争だと。こんな戦争と物語との悪循環を、断ち切りたい。うたも、悪循環でしょう。一九九九年のベオグラード空爆で、十四階からくれた、「こわくないよ、こわくないよ」というメールを思い出しながら。)

時間のキュビズム

高橋悠治

デイヴィッド・ホックニーの1970年代の実験に、joiner という数十枚のポラロイド写真を貼り合わせた作品群がある。20世紀前半のピカソやブラックのキュビズムでは、一つの対象を少しずつ角度を変えて描いた画像の貼り合わせだった。ジョイナーは、対象を見る視線の移動を貼り合わせたフォトコラージュで、その後には写真家のロス・C・ケリーのフォトモンタージュ、縫い合わされた (stitched) イメージ、イメージ列の試みがある。

ティム・インゴルドは 離れた点を直線で結ぶ networkと 短い曲線の絡まる網 meshwork を区別する。動かない点のある場所の配置を見るのか、動いて停まらない関係の変化を感じるのか。

一枚の絵を見る眼は、絵の枠の中で、自由に動き回る。動かず見つめる眼は、見る力を失う。眼の中心ではなく、端の方でチラリと動くものに気づくと、眼が動き、それが見えるようになる。そのときは、見えていたものは、もうない。あったはずの手がかりを追って動いていくのか、戻ってやり直すのか、2度目の道は、もう同じではない。これが「なぞる」ということかもしれない。カフカの日記を読んでいて、どこかに、einfallen と nachziehen という二つの動詞を見た。enfallen は偶然に出会うこと、起こること、nachziehen はなぞること、世界に従うこと、後になって読み返しても、この二つのことばは見つからない。検索をかけても出てこなかった。読んだはずのことばを確認しようとしても、見つけられないのは、何が邪魔しているのか。確認しようと戻ること自体が妨げなのか。思いなおすと、同じはずの道も、ちがう道になっていて、ちがうことばにひっかかりながら、ちがう方向に逸れているのか。

墨を少なめに浸けた筆で曲線をすばやく辿る。飛白、掠れ。速さ、不安定、変化。そのように、一枚の楽譜を読み、何回も読みなおす。反復ではなく、毎回偶然にちがう表れが、どことなく似ている。ウィトゲンシュタインの「家族的類似」というような。

2022年3月1日(火)

水牛だより

春三月の訪れは戦争とともに。予想していなかった展開です。予想できなかったのは、のんきすぎるからでしょうか。のんきに生きられる世界であってほしいです。

「水牛のように」を2022年3月1日号に更新しました。
月末の締め切りの少し前にウクライナで戦争が始まってしまったので、今月の原稿にはその影響があると思います。ここであれこれ云々するよりは、直接読んでいただくべきですね。まだ届いていない原稿もありますので、順次追加していきます。数日後に再度のぞいていただくようお願いします。

来月はどんな世界になっているのかわかりませんが、どうか更新できますように!(八巻美恵)

シリアのロシア人、すべては忘却のかなたへ

さとうまき

朝、今日もロシア軍のウクライナを攻撃のニュースを伝えている。プーチンはアサド大統領にとって代わり一気に世界の悪者No.1になっていた。

2018年9月にシリアに行った時のことを思い出す。ロシア軍の援護を受けたシリア政府軍は、ちょうど2か月前に、反政府軍の拠点となっていた南部のダラアとダマスカス郊外の東グータ地区を完全に制圧したのだ。ダマスカスでは、国際見本市も開催され、みな戻ってきた日常を楽しんでいた。ホテルにはロシア国旗が掲げてあり、お土産屋さんではアサド大統領とロシアのプーチン大統領の顔を印刷したグッズが売られていた。ロシア兵が町中を移動するのも何度か見かけた。

ロシアは、歓迎されていた。そして、反体制派のダラアでも、住民たちはロシアを頼りにしているという。
「弟が、シリア政府に捕まっているんだ。ロシア軍に、釈放してもらうようにアサド政権に圧力をかけるようにお願いしに行くんだ」という若者の話を聞いた。ロシアが憎しみ合っているシリア人達の間に入って調整しているのだという。
「ロシアの方が、アサド政権よりも、反体制派武将勢力よりも信頼できるよ」という話は何人かから聞いた。

 シリアに課された経済制裁とは?

シリアは、治安が落ち着いてきたものの、ヨーロッパやアメリカが課す経済制裁で国民の生活は疲弊している。もともとは、アサド大統領やその家族、側近の資産を凍結して、政権交代させようという狙いだったが、今度は国民も苦しめて、集団懲罰するという厳しい制裁に代わっていき、2020年にはトランプ政権下でアメリカがシーザー法という経済制裁をシリアに課した。

シーザー法の目的はアサド政権にシリア国民に対する虐待を止めさせ、シリアが法の支配、人権と隣国との平和共存を尊重するよう図ることで、そのために包括的な制裁を課す、となっている。しかし、経済制裁は貧しい人々を直撃した。

シリアの通貨は急落し(戦争前は、1円=0.5シリアポンドが今では22シリアポンド)、医薬品などの生活必需品の輸入がさらに困難になるとともに、物価が急騰し、国民生活の困窮は一層強まった。また石油・ガスが制裁の対象とされたことも日常生活に一層支障をもたらすことになった。さらに建設業が制裁の対象とされたことで、戦闘が行われた地域の瓦礫の撤去が進まず、国民の生活の基礎である住の確保が進まない状態にあるという。

Amazon Pay は、シリア、キューバ、北朝鮮、クリミア地域の原産物の取引には、利用できない規制を実施している。例えば、証券会社の友人は、「シリアと取引のある人はうちの顧客リストから外さなきゃいけないのですよ。もし株で儲けたいんなら、絶対シリアへの送金とかはやらないほうがいいよ」と忠告してくれる有様である。まあ、そもそもシリアでビジネスをやろうなんてリスクを冒したがるもの好きはほとんどいないから、こんなん話は知らなかった、ですんでしまう。

 貧しい人達が一番くるしい

僕はアレッポにすむ10歳の2人のがん患者の男の子の治療にかかる薬品購入や病院までの通院費、栄養を取るための食費などを2020年より支援している。ウエスタン・ユニオンは、シリア人個人への生活費の仕送りは認めているからだ。

幸い(?)なことに600万人以上がシリア難民として国外に出ており、彼らの仕送りが国内にとどまった家族たちの財源になっているのだ。なので、親戚が海外にいないと大変なことになる。特に原油価格が世界的に高騰しておりエネルギー事情は危機的だ。

サラーハ君のお母さんは、内戦で夫が行方不明になり、ダマスカスの病院までサラーハ君を月に2、3回は連れていく必要がある。タクシーで往復10時間ほどかかってしまう。小さい子ども達がいるので、日帰りで治療に通っているのだ。

「私たちの家は、壊されてしまいました。住むところがないのですが、幸いなことに廃墟になった地域のアパートを家主さんがタダで使っていいと言ってくれました」電気が止まっているという。暖房はどうしているのかと聞くと、
「政府が、補助金を出してくれて1リットル25円で売ってくれますが、50リットルまでしか買えないので、もう使い切ってしまいました。町で買うと1リットル300円もします。とてもじゃないので買えないから、洋服など燃えるものは全部燃やしています。」

シリアのストーブはいまだに昔のだるまストーブで、確かになんでも燃やせるのだ。もう燃やす服もないという。近所の人が古着をくれたり、サラーハが外で燃えそうな木やプラスチックを拾ってくるそうだ。

今年に入り悲しいニュースが入ってきた。トルコ軍が展開している前線近くに住んでいるもう一人の患者イブラヒム君の様態が急変した。イブラヒム君の家はこれまでも何度か爆撃されている。一時は国内避難民キャンプで避難生活を送っていた。クルド人が多く住むので、トルコが度々攻撃のターゲットにしているようだ。朝起きると、イブラヒム君は鼻血をだし、全身の毛細血管が切れて内出血が始まった。病院に搬送して血小板の輸血をするが、様態は悪化して夜には亡くなったというのだ。

僕は、呆然としてしまった。今はシリアに行けないが、毎月送られてくる子どもたちの元気な写真を見るのが楽しみで、いつかシリアに会いに行こうと思っていたからだ。お父さんは、公務員として働いているが、墓を作るお金もないので、何とかならないかと言ってきた。1月分の送金を終わらせたばかりだったので、そこから墓を作ってもらい、残りは、サラーハ君の家族にも分けて、灯油を買ってもらうことにしたのである。

そして、ロシアがウクライナに侵攻し、今度はロシアに対する厳しい経済制裁が課されることになった。シリアの経済にどのような影響を及ぼすのかわからない。プーチンも気が狂ったのか? シリアではアメリカよりうまくやってきたのに、ロシアが失うものは大きい。

アメリカもロシアもシリアにはしばらくかかわってられないのを見越してか、今度はイスラエルが頻繁にシリアを空爆しだした。イランが配備している軍事拠点への攻撃である。もうシリアではとっくに民主主義を求めた革命を支援するなんていう文脈は忘れ去られ、それぞれが好き勝手に攻撃をしているのである。そして、忘れ去られたのは、貧しいシリアの人達である。