しもた屋之噺(241)

杉山洋一

春の訪れなのか、この処強い風に煽られる毎日が続いています。見渡すアパート群から電灯もすっかり消えた夜半の漆黒の中、低く息吐く風の音だけ、どこか虚ろに響き渡ってゆきます。

2月某日 羽田ホテル
ラヴェル「左手」和声備忘録。
一切無駄なく理知的且つ合理的に並べられるさまに驚嘆。3度集積された和音も基本的低音進行も先日のプーランクを思い出すが、実際浮かび上がる和声がまるで違うのは何故か。
プーランクは、シューベルトの影響か、伝統的カデンツを平行調性域を押し広げつつ並べてゆく。ラヴェルは集積和音それ自体を旋法として扱うので、巨視的には従来のカデンツであっても、一つの和音に対し一つのパネルを宛がう。
プーランクは3度集積和音を属和音の緊張や方向性を高めるために用い、ラヴェルは寧ろ和音を集積させることから、緊張を飽和させ解放する。
だから、従来カデンツが規定してきた音楽の尺に左右されず、同和音を帯状に拡げるのも容易で、その延長線上にスペクトル作法が誕生したのも自然な成り行きだったと理解される。「左手」の時代ラヴェルはジャズに影響を受けていたから、テンションコードを、3度集積と非和声音の同時発音の収斂点として分析的に扱うことで、自らの語法として咀嚼している。グリゼイ「時の渦」の出現は、必然だったのだろう。
ラヴェルより若い「六人組」の作家たちが、ジャズや複調、集積和音を使用しても、後のフランス現代音楽と袂を分かち、あくまでも近代フランス音楽の延長線上で作曲していたのは、彼らが従来の下部構造の尺、カデンツがアプリオリに規定する基本フレーズの長さを踏襲していたからかもしれない。その意味に於いて、ドビュッシーやサティは、寧ろ現代フランス音楽にずっと近しいのではないか。
ラヴェルと同世代で親交の深かったカセルラがイタリアで近しい立場なのは偶然だろうか。カセルラが存在によって、現代イタリア音楽は存在している。彼がいなければ、恐らく全く違った方向に進んでいたに違いない。
ラヴェルの無駄のないオーケストレーションに見惚れる。
Covidホテルの居心地は悪くない。肉が食べられないと伝えると、ヴィ―ガン弁当が用意されていて、美味。弁当は温かくないので、携帯した即席スープを添えて食べる。

2月某日 羽田ホテル
あの世がどんなものか知らないが、地球上から人間だけがいなくなったなら、地球上には、生きる動物たちのまにまに、透き通った我々の精神だけが犇めくのだろうか。それとも、宇宙まで空間は無限に広がっているから、それほど窮屈な思いもしないで、皆それぞれに居場所が見つかるのだろうか。いつでもどこでも会いたい人に会えて、安寧な世界なのだろうか。
ある人から、あちらの世界では、リストが音楽家たちの世話役になって、さまざまに面倒を見ているらしいと聞いたが、一度足を踏み込んだら永遠にそこに留まっているのだろうか。著作権のように、500年も経てば存在は次第に消えてゆくのだろうか。どうもリストがペロティヌスやマショーの面倒を見る姿は想像できないのだが。
恩師曰く、自分が死んだら杉山に玄関で見張りをさせ、自分の亡骸が家に入るのは絶対人目に触れさせないように、と夫人に伝えていらしたと聞いた。真面目に仰ったのかもしれないし、少年のような遊び心も多少交じっていたのかもしれない。今度あちらで改めて伺ってみたい。

2月某日 羽田ホテル
時差ボケを曳きずり朝4時前まで仕事していて寝ようすると、アルフォンソから電話がかかる。「山への別れ」演奏に関しての質問など。元気そうだがCovid陽性で自宅待機中だという。その後で漸く眠り始めると、朝5時過ぎ、今度は一人ミラノに残る息子から電話がかかってきて、ベッドが壊れたという。支板が外れたがどうしたらよいか、とのこと。
町田の両親、3回目接種完了。
一週間のCovidホテル暮らしは、少なくとも自分にとっては悪いものではない。一人で過ごす時間も、静かに頭を休ませる時間も必要だったと気づく。不自由なのは、身体が動かせず、温かいものが口に出来ない程度。
オミクロン株による東京感染拡大はほぼ頂点に達したとの報道。

2月某日 三軒茶屋自宅
自宅待機解除。カジキ鮪と菜の花、それに大根と茸とトマトでパスタを作り、刺身を軽く炙りレモンとオリーブ油を垂らして主菜とした。
昨日はシラスと菜の花、トマトでパスタを作った。日本でイタリア料理を作るのなら、作りたいもののイメージさえしっかりしていれば、日本の美味しい野菜を存分に使って作る方がよほど美味である。
ピーマンも茄子もズッキーニもイタリアと日本では味が違うし、触感こそ違えども、日本の大根はイタリアのズッキーニよろしく甘みがあり気軽に使えてよい。ズッキーニのとろみはないので、パスタの茹で汁を多めに使ってとろみをつける。

川口さんから「山への別れ」の録音が届く。自分が思い描いていた音楽の流れそのままだったので、愕いてしまった。自分の想像通りの演奏でなくて構わないのだが、ある程度緩い指定で書いて、自由に弾いてもらう程度で丁度よいのかも知れない。平井さんに深謝。
一週間のヴィ―ガン弁当生活で3,4キロ痩せた。体調頗る良し。

2月某日 三軒茶屋自宅
自宅待機が解けて、父に誕生日祝いを届ける。平井さんに2回お電話したが、呼び出し音だけでどなたも出られなかった。2回目にかけた時は、呼出し音が鳴り始めたかと思うと、すぐに無音になった。平井さんが受話器の向こうで「そりゃあ通じるわけがないでしょう」と何時もの口調で話しているようで、電話を切る。仕方がないので、メールを書いた。
「平井様 大変ぶしつけながら、ご家族のどなたかにご覧いただければと思い、お便りさしあげます」。こう書いていると、なんだか不思議な心地になった。
夜、奥様からお電話をいただき、暫くお話しする。
ヴィオラの般若さん曰く、河の向こうとこちら側は、思いの外近いはずだというが、案外そんなものかもしれない。
大学生のころ、とてもお世話になったヴァイオリンの高橋比佐子ちゃんが肺癌で永眠していたと聞き衝撃を受ける。彼女には弦楽合奏曲のトップを何度もお願いしたし、ピアノトリオも何度か弾いていただいた。何十年も会っていないが、彼女の音は忘れられない。
はにかみながら、「杉山氏はねえ」と少し首を傾げて話すさまが思い出される。上品でまるで現代作品など弾きそうにない風貌なのに、いつも見事な演奏を披露してくれた。素晴らしい演奏家だった。同い年だと言うのに、俄かには信じられない。

2月某日 三軒茶屋自宅
エミリオの義弟にあたるフェデリコ・アゴスティーニさんが名古屋に住んでいて、久しぶりに再会できると互いに楽しみにしていた。ヴァレンティ―ナのイタリア語に似て、親しみ深いが海外生活の長いイタリア人らしい丁寧な文章のやりとりが印象的だ。首都圏に少し遅れてこの処中京圏は感染が一気に拡大している。

2月某日 三軒茶屋自宅
昨日は悠治さんと美恵さんと三軒茶屋で再会。しもたや240回記念で、健啖家の悠治さんはロコモコ完食。素晴らしい!
「どうということもない時間をともに過ごせるのを、こんなにぜいたくだと感じるなんて。世界はやはりおかしいですね」と美恵さんよりメッセージ。
日本国内全体の死亡者数も一昨日は236人、昨日は230人、今日は270人と上昇していて、思わず先月のイタリアを思い出す。

2月某日 ミラノ自宅
殆どを自主隔離に費やした日本滞在よりミラノに戻ると、思いがけぬ開放感に感動する。タクシーの運転手曰く、目下の心配事はウクライナ情勢だそうだ。もしものことがあれば、今年急激に値上がりしたイタリア国内の経済がどうなってしまうのか、ガソリンなど到底払えなくなるのではないかと話す。
庭の樹に棲んでいた3匹のリスは留守中に引っ越ししたようで、別のリス2匹が代わる代わるクルミを食べに来る。クルミをもって庭に出るだけで小鳥たちが近くの梢に飛んでくるさまは以前と変わらない。春が近づき動物たちの食欲も増しているように見える。

阪田さんがV.ヴィターレ(Vincenzo Vitale)の孫弟子とは知らなかった。彼は小学生の頃から大学生途中まで西川先生に習っていらしたそうだから、筋金入りの孫弟子。ヴィターレはカニーノさんの師という印象が強いが、彼こそ、マルトゥッチと同じくB.チェージ(Beniamino Cesi 1845-1907)直伝のナポリ式ピアノ奏法をF.ロッサマンディ(Florestano Rossamandi1857-1933)から受け継ぎ、こうして後世我々にまでピアノ奏法を伝えてくれた。
日本国内の死亡者数発表が322人と聞き、おどろく。

2月某日 ミラノ自宅
久しぶりに学校にてレッスン。反ワクチン派のMがピアノを弾きにきてくれたが、顔からすっかり生気が抜け、表情がなく、心ここに在らずに見える。気まずい思いをしながら一日何とかレッスンをする。
夜、MAMUにて、チェッケリーニ親子の追悼演奏会。フランチェスコが「河のほとりで」を、アルフォンソが「山への別れ」を弾いた。アルフォンソは秋にバーリでリストと一緒に「山への」を再演するつもりらしい。
クローズドの演奏会だから、集う聴衆はみなチェッケリーニ家に近しい人ばかりだった。演奏前、ティートは我々が若かった20数年前の昔話をする。まるで兄弟のように毎日喧々諤々やりながら過ごしていたっけ、と笑った。
ダヴィデがリスト「アンジェルス」を弾くのを見ていると、イタリアに来たばかりのあの頃の友達が、昔のように一堂に会しみなが楽しそうに弾いたり話したりしている。
唯一違うのは、ティートのお父さんと妹がそこにいないことだけで、それがひどく不思議に感じられるのだった。
こんな風に友人やティートの家族と抱擁して旧交を温めたのも久しぶりだった。以前はこうして誰とでも気軽に触れ合えたのが、この数年ですっかり変わってしまった。

2月某日 ミラノ自宅
2年前から教えてきた学生たちに、試験で初めて会う。2年前からずっと遠隔授業が続いていて、去年は試験もズームだったから、彼らに会う機会は皆無だったのだが、実際に面と向かうと、全く違う印象を受けたりもする。
2年間ずっと南部の片田舎にある実家で遠隔授業を受けていた学生が、いきなり目の前に現れるのも現実感がなくて不思議だったし、いつも授業は自室でリラックスして受けている学生が、試験だからか、思いの外真面目で緊張した形相で部屋に入ってくるのも愉快であった。
対面で試験をすると、遠隔よりずっと手際よく進むのも意外だったが、何より衝撃を受けたのは、2年前から遠隔授業を始めてみて、明らかに対面授業よりも学生の進歩がずっと速いことであった。こんな虚しい事実は認めたくないので、今年だけは特別だと思いながら続けてきたが、接続状況が不安定だったり、音も聴き難いはずなのに、遠隔授業は明らかに学生に集中させる効果があるようだ。ただ、結果だけ良ければそれでよいのかと問われれば、答えに窮する。教室で学友と触れ合い発見する喜びも絶たれてしまうのだから。

2月某日 ミラノ自宅
ロシア軍ウクライナ侵攻。
2年前に書いた「自画像」を見返すと、ホルンセクションは、2008年南オセチア紛争のグルジア国歌から次第に変化し、2018年ウクライナ国歌で終わっている。
2014年のウクライナ騒乱から2018年のクリミア危機を併せて、少しずつウクライナ国歌へと変化してゆく。同じ部分、チェロセクションは現在は禁止されている香港「願榮光歸香港」を弾いている。
前回はここまでで筆を置いたが、やはりこの続きは書かなければいけない、と思う。社会に何ら役に立てないのなら、せめて後に何かを辿れる痕跡くらいは残す必要はあるだろう。
福田さんのギター新作も、構想から改めて考え直そうと思う。ただ音符を置くだけでは、自分を欺いている気がする。どうしても書かなければいけない何かに突き動かされたものでなければ、自分の裡の何かが、自らを許さない気がしている。

2月某日 ミラノ自宅
家の片付けを手伝ってくれるアナが手術して休養しているので、ウクライナ人のマルタが代わりに手伝ってくれている。
彼女の義兄は外科医で、現在、場所が知らされない前線の野戦病院にて傷痍軍人の手当てにあたっている。以前の紛争時も同じく前線で軍医を務めていて、毎日、手足を失った兵士などの看病にあたっていたそうだ。
何年かして家に帰ってくると別人のように精神を病んでいて、その後何年もかけて漸く元気になったと思ったのに、また今回の戦争で招集されてしまった、と落涙。
彼女はルビウ出身だが、ルビウの山岳地帯に住む有名な占師が何度占っても、この戦争はウクライナが勝利すると出るから、絶対に負けるはずがないと言う。
指揮を教えているキエフ生まれのアルテンにも連絡したが、アルテンも彼の奥さんも現在はイタリアにいるから安全だし、アルテンの両親はキエフから早々に安全な場所に疎開したので大丈夫です。ご心配有難うございます、と返事がくる。文末には「Forza Ucraina!ウクライナ頑張れ!」と書いてある。

2月某日 ミラノ自宅
昨日は一日サンドロ宅でレッスン。マッシモとY君には、指揮棒の中に音を入れる、棒で音を集めるスタンスで指揮してもらった。
表現する気持ちが先走ると、感情が空回りして棒で音を拾いきれなくなるので、順序を整理して、先ず音を拾い、拍と拍の隙間から、シャボン玉に息を吹き込む要領で、すっと感情を滑り込ませ、音の向こう側で膨らませて演奏家を包み込んでみよう、と試す。

秋からバチカンで司祭になるための神学校に入るアレッサンドロがモーツァルト40番を持ってきた。彼は、先日スカラでゲルギエフが振った「スペードの女王」を見に行ってきたそうだ。新聞で書かれているように、開演時、ゲルギエフが指揮台に立つと、劇場中からブーイングが沸き起こったという。言うまでもなく、ゲルギエフがプーチンに近しい関係だからで、この数日間で、カーネギーホールでもウィーンでも同じ理由からゲルギエフは演奏を降板している。
ミラノ市長ベッペ・サーラは、ゲルギエフがロシア軍のウクライナ侵攻を咎める発言をしなければ、残りの「スペード」公演の指揮を許可しないと宣言した。
兎も角、アレッサンドロ曰く、それは素晴らしい公演だったそうだ。言尽くせないほど信じられないような素晴らしい3時間を過ごした、と感無量の表情で語る。
「いくら政治的な理由があるにせよ、音楽家と政治家を同次元で扱うのは違うと思う」
と言ったのが、この通世を捨て聖職に就きたいと願っているアレッサンドロだったので、何とも不思議な心地がした。それだけ演奏が素晴らしかったのだろう。
自分には何が正しいのか判断できないが、これが音楽の力なのかもしれない。
そこに居合わせた他の学生たちは、「気持ちは分かるが、今回のような特別な状況において、音楽と政治を切り離すべきかは、慎重に考えなければいけない」と口を揃えた。
スカラの次の演目「アドリア―ナ・ルクヴルール」の、アンナ・ネトレプコ、ユシフ・エイヴァゾフ夫妻の処遇も不明だ。
ナポリの広場で、ウクライナとロシアの女性二人が口論しているヴィデオを見た。ウクライナの女性は、「ロシアがわたしたちの子供を殺戮している、人殺し」と叫び、ロシアの女性は、「それはわたしたちも同じよ、わたしたちの子供も殺されているのよ。悪いのはプーチンよ。ロシアじゃないわ」。二人とも涙を流しながら、言葉にならない叫びを続けていた。

2月某日 ミラノ自宅
今日からロンバルディア州はホワイトゾーンとなる。一寸信じられない。
レプーブリカ紙一面の写真。ウクライナ西部スロヴァキア国境の街ウジホロドの広場では、市民が集って、空き瓶に発泡スチロールをつめ火炎瓶を作っている。
アムステルダムから日本に向かっていたKLM機がロシア上空の飛行禁止に伴い出発地に引き返したそうだ。EUとカナダはロシア機領空飛行禁止。ロシアはEU航空機の領空飛行禁止。SWIFTよりロシア排除。中立国スイスはロシア資産凍結、同じく中立国スウェーデン、フィンランドもウクライナに武器供与。アメリカ、オーストラリアなどロシア滞在中の自国民退去を勧告。ウクライナEU加盟申請提出。

(2月28日ミラノにて)

むもーままめ(16)隣人を愛しなさいの巻

工藤あかね

              り 
                    ん
                          じ
                                 ん
                                        を
         あ
      い
           す
       の
           は
                    む
               つ
          か
                し
                       い                                                             か
                                    ぞ
                                く
                        で
                       さ
                      え

       お も い が

          つ 
           た
            わ
             ら   な い
                        と き  が あ る の だ も の

                 で
                 も

              ど     う      か
                   

                  あ い し て

                せんそうなんか しないで

『アフリカ』を続けて(9)

下窪俊哉

 先月(2月)、『アフリカ』vol.33を出した。表紙には黄色の紙を使い、その中には切り絵のカマキリがいて、例によって「2/2022」という発行年月のみが書かれている。初めて読む人には何の本なのか、表紙だけでは何ひとつ伝わらない。
 開いてみると、最初のページには写真がどーんと置かれていて、その中に文字が見える。装幀の守安くんが撮った写真を使わせてもらった(他にも数点あったので、雑誌の中ほどのページに置かせてもらっている)。この時代を表すような写真で、じっと見てしまう。
 続いて出てくるのは、犬飼愛生さんの新連載「相当なアソートassort」の第1回で、「応募癖」というタイトルの短いエッセイ。詩人の犬飼さんは昨年、アフリカキカクで『それでもやっぱりドロンゲーム』というエッセイ集をつくったが、その中に詩の話は殆ど出てこない。「応募」も詩の文学賞に限らず、「癖」のように出してしまう。
 その後に目次がくる。目次の隣にはいつも、かかわっている人たちのクレジット・ページがあるのだが、今回も途中から怪しい団体名が出てきたりして大いにふざけている。
 最初のページから紹介し始めてしまったが、どこから読んでもいい。編集後記(最後のページ)を最初に読むという人は多いようだし、最近は「校正後記?」というページもあるので、そこから読むという人も出始めたようである。

 例によって『アフリカ』は何も決めずに、つくり始める。まずは声をかける。声をかける人のラインナップは前号の続きという風だけれど、最近は書いていなかった人や、まだ書いたことのない人でも何かの連絡をするついでに声をかける場合がある。ようするに気まぐれで、適当だ。「お元気ですか?」に始まる、何ということもない連絡なのだが、「また『アフリカ』をやりますよ」と付け加えることは忘れない。

 今回、最初に原稿を送ってきてくれたのは宮村茉希さんで、未完成の短文をふたつ、読ませてもらった。「文章教室に持ってゆくようなつもりで」とのこと。私のやっている文章教室では、多くの人が書きかけの文章を持ち寄る。でもそれでは『アフリカ』には載せられないので、いま、書き上げられそうな方に取り組んでみて、ということになる。その結果、「マタアシタ!」が生まれた。タイトルを見た瞬間に、あ、今回の『アフリカ』のラストはこの文章になるのかな、と感じた。伊勢佐木町で三代続く実家の印刷会社を、幼い頃の自分の記憶を元に書いたエッセイで、彼女はきっとこれからこの続きを書くだろうという気がする。
 次に届いたのは、UNIさんの短編小説「さらわれていた朝」で、これは完成形に近い状態で届いた。こどもの頃に短時間「さらわれた」思い出があるらしくて、その恐怖を思い出して書かれたそうだ。奇妙な夫婦関係、本当に存在するのか不安になってくるような隣人との関係、インターネット空間で行われるふわふわとした交流が、「さらわれていた朝」の背景にひろがっている。
 同じ頃、犬飼さんから詩とエッセイが届いた。エッセイは冒頭で触れた「応募癖」。詩は、今回は掲載を見送ったコロナ禍を書いたもので、感想を返したら「見抜かれてるね」と返事がきて、「じつはもうひとつ書いている詩があるんだ」と送られてきたのが「美しいフォーク」。犬飼さんの最新詩集に入っている(もともとは『アフリカ』に載せた)「おいしいボロネーゼ」のアンサー・ソング的な作品で、マ・マーを茹でて、食べるという日常風景に家族の歴史を重ねている。最後の連が鮮やか、と思ったのは、おそらく母の声が聞こえてくるからではないか。

 ところで、最近の私は『アフリカ』の中でよく喋っている。その間に、必ずといっていいくらい別の本をつくっているので、その宣伝というか、記念というか、後日談というか、オマケというか、そういうページをつくりたいと考える。その本をめぐって誰かと話す、というのはアイデアとしては平凡だが、やってみると楽しいので、やってみましょうかということになる。今回は『それでもやっぱりドロンゲーム』の楽屋話と、『珈琲焙煎舎の本』に収録できなかったアウトテイクを載せた。本当はもうひとつ、ある人へのインタビューがあったのだが、お蔵入りさせてしまった。対話が満載の「対話号」にしようというアイデアもあったのだが、考え直して、止めたのだった。
 いまは、書くひとが自らの内にそっと降りてゆくような文章を、もっと読みたいし、自分も書いてみようと思った。「なぜ書くか/なにを書くか」という問いかけを置いて、まずは年末にオンラインの文章教室をひらいて、手応えがあったので、その過程で生まれたエッセイを今回の『アフリカ』の前半に並べた。
 年末の文章教室に出された文章は9つあったが、その文章だけ単体で(説明なしに)読むことが出来て、完成度の高いものを選んだら、UNIさんの「ほぐすこと、なだめること」、堀内ルミさんの「書くことについて」、私の「船は進む〜なにを、なぜ書くか」、田島凪さんの「むしろ言葉はあり過ぎる」の4篇になった。
 同じ問いかけを元に書かれた文章だけれど、それぞれの人生の「書く」現場が立ち上がってきていて、そこで起こっていることは、ぞれぞれ違う。
「どうしてわたしはこんな辛いことの多いものに希望をもってしまうのか」と書くUNIさん。「困難を多く与えるけれど世界が美しく見える目をあげようと、神様はきっとそうおっしゃったのだ」と書く堀内さん。「自分が書き残さなければ脆くも失われてしまう」と書いた自分。「病気になってよかったと思ったことは一度もない」と書き、「言葉が怖い」とこぼす田島さん。
 こうやってふり返ってみると、しかし共通する何事かも感じられてくるようだ。

 そうこうしていたら、いつもイラストの仕事をお願いしている髙城青さんからメールが届いた。今回の『アフリカ』にはまとまった原稿を書けず、漫画も描けなかったけれど、ちょっと書いたので読んでほしい、と。「ねこはいる」は、昨年亡くなった父親の不在と、数年前から飼っている猫との暮らしを書いた短文で、句点がなく改行が多いのはメールの文章だからだ(私は日本語の文章に、句読点が絶対に必要だとは思っていない)。その文章に寄り添うような、猫のイラストも描いてもらった。
 それから自分は、『珈琲焙煎舎の本』のアウトテイクを載せるついでに、10年前、お店がオープンした頃のことを書いておきたいと思った。やっているうちに、日記風にするのはどう? というアイデアが自分の中に浮かんできた。2011年11月12日、珈琲焙煎舎のオープン2日目に顔を出した時から始めて、12月後半のある日までを、当時に戻って日記をつけるようにして書いた。10年後に、どうしてそんなものが書けたのかというと当時、毎日書いていたブログがあったからだ。それを見ていたら、忘れていたいろんなことが蘇ってきた。
 あとひとつ、最後に潜り込ませたエッセイの小品は芦原陽子さんの「なくした手袋が教えてくれたこと」で、小さな違和感と向き合った、この冬のある時期の話。

 雑誌が完成すると、まずは書いてくれた人たちに送って、読んでもらうのが楽しみだ。ウイルス騒動が続き切羽詰まったような状況の中、「生きる」ことを感じさせる作品が並んでいる、と話してくれる人あり、そうか、そうかもしれないな、と思う。家族のことを書いた原稿が多いね、と指摘してくれる人もあり、そういえばそうだ、と思う。いつも楽しみに待ってくれている読者の皆さんからはご注文をいただいて、お送りする。初めての方からのご注文も、ぽつりぽつりといただく。
 SNSやメールで感想が送られてくることもある。ハガキや手紙もたまにいただく。
 読んで話し合いたくなるのだけれど、うまく言えない、という方あり、焦らずゆっくり読んで、書いてくださいね、と返事を出す。今回の『アフリカ』はひと味違う、という話をしてくださる方も数名あり、そうかな、と思う。でもそうなのかもしれない。自分としては毎回、少し違うつもりなのだ。一度読んで、えっ? となり、くり返し読んで気づくことがいろいろある、などと読書の経過を報告してくれる方もあり、面白い。

208 Ku・ro・ku・mo

藤井貞和

208というのは、休まずに続けて、
携帯で入稿したことも何度かあって、
この、何だか「黒雲」と書きたくて、
パソコンがまったく機能しなかった、
一週間は歌を携帯で耳に移していた。
ウクライナ語の歌を友人のサイトが、
教えてくれる、「あなたが必要なの」、
と。ええ、あなたとは歌のことです。
私の枯渇を、黒い森の木が包むよう。
幹にうつほがひらく、黒雲を吐いて、
私を包む、吟遊の証し、うれしいな。
あしたになれば忘れられる、こんな、
きょうを忘れましょうと言うやつら。
57絃という、あなたの竪琴が祈る、
黒雲は私の祈りを包む。私の祈りの、
作詞や苦しみの睡りをさらに包んで、
57絃のしたから私を促すよ、さあ、
行け、きょうを忘れるな、あしたの、
平和は、黒雲のなかから生まれ出る。
きっとだよ、私のKu・ro・ku・mo。

(散会のあとに、わたしの黒雲が、ぼんやりとけぶって消えないね。消灯のまえを、講堂は発言だけがまだ響いてる。夜空をまっ暗に二分する第一の箱には廃案がいっぱい捨てられてる。今月は作品になりませんでした。)

仙台ネイティブのつぶやき(70)金魚のとむらい

西大立目祥子

仕事場の机に置いてある水槽を見て、はっとした。もう8年以上も飼ってきた金魚が、白い腹を横にして沈んでいる。あぁ…。1週間ほど動きが鈍く餌も食べなくなっていたのに、冬場に食欲が落ちるのは毎年のことだ、とあまり気にもとめずにいたのだった。

死因として思い当たることが、はっきりとあった。この冬の寒さがことのほかきびしくて、この部屋をほとんど使わずにいて金魚のようすをよく見ていなかったこと、そして2週間ほど、水槽の前のカーテンを日中も開けずにいたことだ。ただでさえ、寒い部屋で陽の光もさえぎられ、水温が下がり、食欲もなくなって、ついに命が尽きたのだろう。いつも昼間は、カーテンを大きく開け放ち、さんさんと水槽に陽が当たるようにしてやっていたのだけれど…。

実は、2月初めのこと、この机の上でひやりとすることが起きた。日中留守にして戻り机を見ると、紙が燃えたあとのような白く細かい灰があたりに飛び散っているではないか。え、何事!? 見れば、紙類を重ね入れていたダンボールの箱に黒い焼け焦げができている。間違いなく火が付いて燃えた跡だった。どういうことだろう。金魚の水槽に空気を送り込むろ過器はいつものように静かに動き、電気の配線に異常はない。もちろん、誰かが部屋に入り込み火をつけた気配もない。写真を撮りメールで送って家人に見せたところ、「収斂火災ではないか」という結論になった。ダンボールの焼け焦げが、直線的に2筋くっきりとついていたのがヒントだった。

収斂火災とは、レンズや鏡などに太陽光が当たり、屈折して1点に光が集中し起きる火災をいう。小学生のとき、凸レンズで光を集め紙を燃やしたあの実験と同じ原理で起きる火災だ。
ネットには、水を入れたペットボトルであっても、光が当たると数秒で火がつき、近くの可燃物に燃え移る実験のようすまで上げられている。たぶん、水槽の上に、小さなプラケースに水を入れ野菜の切れ端を差していたのに光が当たって、ダンボールに火が付いたのだと推理した。
じわじわ燃え始めたところで、雲が流れてきて日が翳ったのが幸いしたのに違いない。たしかにこの日は、春めいた光が差したかと思うと、数分後には大きな雲に太陽が隠れてしまう、そんな天気の変わりやすい日だった。

夏場よりむしろ日差しが低い冬の方が、太陽光が部屋の奥まで入り、思わぬ火災になるという。留守の間に住まいが全焼したかもしれない、と思うと何とも恐ろしい。しかも、その要因になるものが、レンズはもちろんのこと、ガラス玉、金魚鉢、ステンレスボウル、ステンレスのフタ、メイク用ミラーなどあれこれあって、用心するのもなかなか大変だ。最近は、どの家にも備えられるようになったアルコールの消毒液のボトルに陽が当たり、あわやということがあるらしい。窓辺近くの疑わしいものを片付け、ともかく出かけるときはレースのカーテンを引いて置こうと決めた。みなさまも、お気をつけください。

さて、机にはもう一つ、少し大きめの水槽があって、2匹のさらにドでかい金魚が泳いでいる。カーテンの隙間からいくらか陽が入るようにしていたせいか、こちらは無事に冬越しできた。同じようにホームセンターで買ってきたというのに、死んでしまった金魚が、冬場はてきめんに動きが鈍くなり食欲がガクンと落ち込むのに比べると、この2匹は冬でも食欲が落ちず、水槽のそばを通っただけで口をぱくぱくと開けて餌を要求してくる。いったいこの違いはどこからくるのか、とずっと謎だった。

思い当たるのは、死んだ金魚は最初の数ヶ月、庭の池で飼っていたことだ。春から夏の間だったけれど、朝、明るくなると目覚め、夕方、日が沈むと眠る。片や2匹は買われてきてからずっと水槽暮らしで、人の出入りに加え夜でも人工の明かりにさらされ、いわば体内時計はたぶんかなりめちゃくちゃ。池で育った金魚が野性味を残しているとしたら、こちらはかなり家畜化している。昼夜を問わず食べ、冬は餌を控えめにするのが金魚飼育の基本なのに、冬も旺盛な食欲を見せ、2匹とも20センチを超えるようなグラマラスな魚体になってしまった。

この一件があってからというもの、机の上から光るものははずし、水槽をのぞき込み2匹に話しかけながら餌をやっている。生きものはその動きをつぶさに観察し、個体個体の違いを理解し、昨日と今日の違いにすぐ気づくような眼をじぶんの中につくらなければ飼えないんだなと反省したから。金魚のような人と意思の疎通ができない小さな生きものであっても、死ねば、無理やり固いものを飲み込むような気分にさせられる。うっすらと雪のかぶる庭をスコップで掘り、土に埋めた金色の魚体はどこも傷んでいなくて、きらきらと光ってきれいだった。

言葉と本が行ったり来たり(7)『昨日』

長谷部千彩

八巻美恵さま
三月に入り、このまま春へ向かうと思いきや、ここ数日、冬に逆戻りの寒さでしたね。
ショートムービーは無事完成・公開へと漕ぎ着けました。先に視聴サイトのURLをお知らせしましたが、ご覧いただけたでしょうか。感想をお聞かせいただけたら幸いです。( https://www.watashigasukina.com/ )
今回の作品は、撮影機材の条件だけで、内容的には制約がなく、本当に自由に、作りたいものを作ることができました。監督は林響太朗さん。私は脚本を書きました。本読み、撮影にも立ち会い、演出にもかかわっています。
もともと監督は、私の掌編小説集『私が好きなあなたの匂い』の映像化を希望していたのですが、制作期間が限られていたこともあり、今回はショートムービー用のシナリオを私が書き下ろし、あのような形にまとまりました。監督とは、シリーズ化して、この先も一緒に映像作品を作っていけたらと話してはいるのですが、文章と違い、ムービーは資金が必要ですし、どうなることか・・・。でも、夢がなければ夢は実現しないという歌もありますから、ここは、この先も作るつもりです!と宣言しておきましょう。

 この作品を作るにあたって考えていたことを少し書きますと、ずっと頭にあったのは、”豊かさ”についての疑問でした。いまの時代を支配しているひとつの観念――有るということ、持つということ、それが数量的に多ければ多いほど良いという観念を、私はどうしても肯定できずにいるのです。あらゆる空間や時間をパラノイア的に埋め尽くしていく行為にも。会話にしても、丁々発止のやりとり、ああいうものを、私は心のどこかで疑っている。だから、台詞の少ない脚本を書くのは、私にとってとても自然なことです。そしてそんな脚本を書きながら、削いでいくことがふくよかな表現を生む――そういったものに私の興味が向かう傾向にあると気づきました。例えば日本画。例えば生け花。詩、香り、口ごもったひとの作る沈黙。この作品の制作中は、(高橋)悠治さんのアルバム『フェデリコ・モンポウ / 沈黙の音楽』をよく聴いていました。小津安二郎の映画も観直していましたし、大好きなアゴタ・クリストフの小説、『昨日』を読み返したのも、きっと無関係ではありません。彼女の場合、後天的に習得したフランス語で書くため、という理由はありますが、文章を飾ることを拒絶しているかのような極端に短いセンテンスーー私には、その一文、一文の間に、深い哀しみが、まるで水を湛えた川のように流れていると感じられます。解説で川本三郎は、≪アゴタ・クリストフの文学の特異性は、この手応えのなさにある≫と書いていますが、彼女の小説を読むと、重さのない球を投げつけられたような、重さがないのにその球が自分の胸に深くめり込んでいくような錯覚に陥ります。
澱みなく喋るのに何も語っていないひとがいる一方で、言葉少なでありながら多くを語るひとがいる。その裏腹なところに台詞を書く面白さがあるのかもしれない。そんなことを考え続けた二ヶ月でした。
ともあれ、ひとつ仕事が一段落したので、当分は文章を書くことに専念しようと思っています。日に日に軽くなっていく陽射しの中、ゆっくり本を読みながら。

2022.03.09
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(6)『「知らない」からはじまる』(八巻美恵)

コスモス

植松眞人

 最寄り駅から自宅までゆっくりと歩く。十五分ほどの距離なので自転車に乗ることもあまりない。コロナ禍になって仕事の後に飲みに行くことも減り、場合によっては週の半分ほどは自宅でオンラインでの仕事になることもある。どうしたって運動不足になりがちなので、駅まで十五分程度は歩いたがいい。そう思い駅からの帰り道は時々普段と違う道を歩いて遠回りをする。出勤時にも違う道を歩こうとして、道に迷い遅刻しかけたことがあるので、この密かな遊びは帰宅時だけと決めている。
 最寄り駅から自宅まで、最短のルートは駅前から延びている国道を歩き、そのままY字路を県道へと折れるルートだ。しかし、県道へと折れずに、そのまま国道を歩くと市が管理している自然公園にたどり着く。この公園の中を通って帰るルートが最近のお気に入りだ。
 少し遠回りになるので二十分から二十五分ほどかかるのだけれど、自然公園の遊歩道は左右にきれいな花が咲いているので気持ちがほんの少し晴れるようで気に入っている。
 その日も、自然公園を通って帰宅していたのだが、少し気温が低く初秋だというのに冬の気配が濃かった。ショルダーバッグをかけ直して、ズボンのポケットに手を突っ込むと少し歩く速度をあげた。足元にはポプラやイチョウの黄色い落ち葉が風に踊っていて、それを踏むと心地よい渇いた音がした。
 背の高い木々がアーチのようになった遊歩道を抜けたところに、小さな池があるのだが、その脇にコスモスばかりが植えられている花壇の一画があった。薄紅のコスモスが一斉に風にゆらされている風景は、日々の仕事への愚痴を噛みしめている下っ腹のあたりの嫌な力こぶのようなものを霧散させてくれる。
 しかし、今日は妙な違和感があった。昨日とは明らかに風景が違うのだ。まるっきり違うのではなくなんとなく違う。目を凝らしていると、昨日との違いに気がついた。コスモスの花の数が少ないのだ。半分ほどの花が根元に落ちている。畳二枚ほどの花壇なので、半分とするとどのくらいの花がなくなったのだろう。自然に落ちたのかと思い、近寄ってみたのだが、落ちている花はどれも茎がついていて、明らかに誰かが花を落としたように見える。おそらく、傘かなにか棒状のものを振り故意に落としたのだろう。落ちている花はどれもまだ生き残っている花と同じようにきれいで、落とされてまだ時間が経っていないことを教えてくれる。
 ときどき、コスモスの花壇を振り返りながら、先に進むとベンチがあった。いつもは誰も座っていないのだが、初老の男性が座っている。まだ季節的には少し早い気がする冬物のコートの衿を立て、いかにも寒そうに座っている。まるで、その男性の周囲だけ一足先に真冬になったような印象だ。
 その前を過ぎようとした時、男性の脇にビニール傘が立てかけてあるのが見えた。なんとなく反射的に、男性の隣に腰を下ろす。男性はいぶかしげにこちらを見る。他にもベンチがたくさんあって、そこには誰も座っていないのだから、当然の反応だろう。しかし、ビニール傘を見た瞬間に自然に腰を下ろしてしまったのだ。
「寒いですね」
 男性のコートの衿を見ながら話しかけてしまう。
「寒いですね。歳を取ると余計に寒い」
 男性はそういうと手に持っていた物をいったん膝の上に置いて、右手の平で、左手の甲をさすった。その動きで、男性の膝に置かれていた物が落ちる。それは、はらはらと舞うコスモスの花びらだった。男性の膝の上と、足元にいくつかのコスモスの花びらが落ち、男性は拾うでもなくそれを見ている。
 風が吹く。足元の花びらがこちらに吹き寄せられる。男性がコートの衿を引き寄せ肩をすくめる。こちらにやってきた花びらを拾い上げる。薄紅色が少し褪せている。通り過ぎてきたコスモスの花壇を見て、それから視線を男性との間にあるビニール傘に移す。その表面にコスモスの花びらが何枚か貼りついているが、さっきの風でそこに移ったのかどうかはわからない。じっと、その花びらをみていると、男性の手が伸びてきて花びらを払う。払った花びらが宙を舞い、そのうちの一枚が男性の手の甲に乗る。男性はその花びらを指先でつまみ、目の前に持ってきて、誰にともなく少ししゃがれた声で呟く。
「誰がやったのか」
 そう言うと男性はつまんでいた花びらを地面に落とし、膝の上の花びらも払い落として立ち上がった。その弾みにビニール傘が倒れ、私の足に当たる。(了)

リンゴ・スターの2月

若松恵子

居間の壁にかけている今年のカレンダーはザ・ビートルズ。「水牛」の原稿を送って、月が変わって、カレンダーをめくるのが楽しみなのだけれど、1月のジョン・レノン、2月のリンゴ・スターだ。

レコード屋で手に入れたこのカレンダーには4人そろった写真はなくて、ひとりずつの肖像が毎月を飾る。内省的なジョン・レノンにじっと見つめられて「あけましておめでとう」だった。2月にリンゴ・スターというのはぴったりな気がする。(2月はジョージ・ハリスンのお誕生日がある月だけれど)スーツにタイをきちんとしめて、櫛でとかしたばかりのような前髪で、リンゴが晴れやかに笑っている。まだ翳りも、憂いも無い頃のポートレイトだ。

ビートルズについて、熱心に聴きこんだファンではないけれど、昨年11月にディズニープラスで放送された「ザ・ビートルズ:Get Back」は引き込まれて見てしまった。1969年の1月の1か月間のビートルズを記録したドキュメンタリー映画だ。アルバム『レット・イット・ビー』として発表される楽曲のレコーディングの模様と、久しぶりに観客の前で演奏しようとライブの計画をするが、それが暗礁に乗り上げ、アップルの屋上でのライブ演奏に至る、そこまでの紆余曲折の1か月間の物語だ。自分たちのオフィスの屋上で久しぶりのライブを突然行うなんて、何てカッコいいアイデアと思っていたけれど、そこに至るまでの日々を知ると、よくぞここにたどり着いたと別の感慨を抱く。

けれど、そんな舞台裏があろうと、4人そろってジャーンとギターを鳴らせば、誰にもまねのできないビートルズの世界が展開する。ジョンもジョージも舞台裏と違った顔になる。その魔法に目をみはってしまった。

今年の2月には、その屋上でのライブの部分のみを切り取って1時間にまとめた映画が期間限定で劇場公開された。「THE BEATLES GET BACK THE ROOFTOP CONCERT」だ。IMAXの大きなスクリーンで、できあがったばかりの「ゲット・バック」、「ディグ・ア・ポニー」、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」、「ドント・レット・ミー・ダウン」を聴くのは胸躍る体験だった。ステージ衣装ではなくて、レコーディングに通ってきていた日々と同じ、4人それぞれが好きな服を着て、そうでしかありえないくらい似合っているのがカッコよかった。

街に向けて音を放っているうちに、苦情が寄せられて警官がオフィスを訪ねてくる。スタッフが何とか時間を稼いで演奏を続ける様子がスリリングだ。ついに現場を確認しに屋上に上がってきた警官の姿を見た途端の4人の反応もおもしろい。ポールの反抗心が燃え上がるのを一瞬見たような気がした。警官の手前、スタッフが切ったアンプのスイッチをためらわずに入れなおすジョージの強気に拍手喝采だった。

近くのビルの屋上には、ビートルズの演奏を聴くために上がってきた人々の姿が増えていく。ビートルズの演奏を聴けるうれしさがその姿から伝わってくる。どこかから「ロックンロール!」という声が飛ぶ。すぐにジョンが「ユー・トゥー」と叫び返す。心に残る場面だ。50年以上たっても色あせない4人の音楽の魅力を、この場面が端的に語っている。

荷物検査

篠原恒木

おれは空港の手荷物検査場でトランクの中身を調べられることがやたらと多い。
特にハワイのホノルル空港と、ニューヨークのJFK空港ではかなりの確率で、
「トランクの中身を見せろ、プリーズ」
と言われる。ああ、またかよと、おれは不愉快になる。
入国審査ではまったく問題ない。カウンターの向こうから、
“Passport please”
とかなんとか言われるので、おれはきわめて流暢な発音で、
「イエス、ヒア・ユー・アー」
と、おとなしくパスポートを提出し、
“What’s the purpose?”
と問われれば、さらに流暢な発音で、
「フォー・サイトシーング」
と、最後の「グ」をしっかり強調して答える。完璧ではないか。テキはさらに、
“How long will you stay?”
“Where are you staying?”
などと訊いてくるので、これも見事なまでに流暢な発音で、
「えと、んと、ファイヴ・デイズで、あー、ヒルトン・ホテル」
などと答えると、ペタンと判子を押してくれる。この入国審査でトラブルになったことはない。奴らは基本的には不愛想だが、なかにはファンキーな係官もいて、おれがUNIVERSITY OF KENTUCKYとプリントされたスウェットを着ていたときなどは、
「おまえ、ジャパンではなくてケンタッキーから来たんじゃねぇの?」
などと冗談をかまされたときもあった。
やがておれはぞんざいに放り出された荷物を受け取り、モンダイの税関へと向かう。ここでおよそ三回に二回の割合でおれは、
「トランクを開けろ、プリーズ」
とお願い、いや、命令されてしまうのだ。東京ではたびたび職務質問を受けるが、アメリカに来てもこの仕打ちか、とおれは深い溜め息をもらす。いちばん最悪だったときは大型犬まで動員されたこともある。ここは言われたとおりに開けないとしょうがないよなと思い、おれは不満顔でトランクのキーを探す。確かパンツのポケットに入れていたはずだ。
「ジャスタ・ちょっと待って・モーメン・プリーズ」
と、きわめて正確な英語で言いながら左右のポケットに手を突っ込むが、キーがない。あれおかしいな、とやや焦りながら、ポケットに入っていなければこの中だと思って、今度は手荷物の小さなバッグのジッパーを開けて、中をゴソゴソと探す。だが、キーはない。係官の顔が次第に険しくなってくるのがわかる。大型犬の表情も心なしか眉間に皴が寄っているように見える。汗だくになりながら捜索すること約三分、なんのことはない、キーはパンツの尻ポケットに入っていたことが判明し、トランクは無事に開けられる。
ここで係官はおれのトランクの中をしらみつぶしに調べる。着替えの服と服のあいだはもちろんのこと、中に入れてあるポーチの中身まで点検するのだ。
「先に行ってるね」
と、同行者の妻は冷たく言って、さっさと税関を通過するが、おれはここで考える。
「先に行ってるね、と簡単に言うが、おまえはいったいどこへ行くというのだ。まさか先にホテルでチェック・インするとでもいうのか」
ふと係官を見ると、奴はトランクの蓋の内側まで撫でまわしているではないか。だがもちろん怪しいブツなど入っているはずもなく、
“OK, Thank you”
などとおざなりに言い、めでたく通ってよしとなる。ここでおれはついテキに言う。もちろん何度も書くが、完璧な発音で、
「アイはソー・メニィ・タイムズ・ビフォーに、ディス・カインド・オブ・シングズな目に遭うのですが、ホワイ・ミー?」
すると必ず係官はひと言で答える。
“Random”
ぬゎにぃがランダムだ、おまえらには「ジャパニーズの坊主頭で太いセル・フレームの眼鏡をかけている奴は必ず荷物を調べるように」というようなマニュアルが配られているのではないか、といまでもおれは疑っている。驚くべきことに、ジャルパック、つまりは団体旅行の一員としてハワイに行ったときも、団体さん御一行のなかでおれだけが足止めを喰らったことがあるのだ。ちなみにおれは海外など頻繁に訪れるわけではない。パスポートの入国ページが判子で隙間もないくらいベタベタになってもいない。どう見ても何かを捌きに来たような売人には見えないはずだ。なのに、こんなにも理不尽なことがあっていいのだろうか。
そう思ったおれは対策を講じた。大きいトランクを持っていかなければいいのだ。着替えや下着はすべて現地で調達すればいい。あるときおれはホノルル空港へ手荷物だけ、それもビニール製のLPレコード用ショッパーズに必要最低限のものだけ入れて、それを片手でブラブラさせながら税関へと向かった。これならあの煩わしさは回避される。間違いない。これなら楽勝だ。すると、その姿を見た税関の係官は、
「ちょっと事務所へ来い」
と言って、おれを拉致した。事務所まで連行されたおれは、
「なぜおまえはこんなに荷物が少ないのか」
と、数十分もの尋問を受けた。事務所から解放されたおれに、妻はしばらく口をきいてくれなかった。

新年

笠井瑞丈

朝起きると辺りは白銀の世界
粉雪が舞う上から朝陽が刺し
空がキラキラと光っている


冷たい空気がガラダに入れ
暖かい空気をカラダが出す


新しい年が始まった

2022年


猪苗代湖に向かう


雪の道路の上
青空の空の下
車を走らせる


今は便利なものでナビが
目的地までの到着時間を
教えてくれる


一時間くらいで到着できる


くねくねとした山道を走る
大きな湖が見えては消えて


湖の横の道を走る
湖というよりは海
風と共に大きな波


猪苗代湖の道の駅
道の駅に入ってる
喜多方ラーメンを食べ


次の目的地の会津へ
雪が次第に強くなる


砂のような雪が風と
共に上空に舞い上がる
完全ホワイトアウトだ
全く前が見えない


大きな冷凍庫に閉じ込められ
白い冷気に包まれてている感じだ


下道で会津まで行くのを断念し
高速に乗ることにする


会津は廃墟温泉街にいく
廃墟になった旅館が立ち並ぶ
営業してた頃はどのような景色だったんだろう
そんな事を想像してみる
調べてみたら数年前に殺人があり
それが原因で廃墟化してしまった


次の目的地の金沢へ

七曜のうた(日曜はじまり)

北村周一

日曜の
  G.Gデーは
       混むのよね
            ひとりだいどこで
               はげむ数独

月曜日 
  月イチひらく 
       読書会の 
          ありてZOOMで 
           かたらうカント

  あすは
火曜
  特売にして
  気兼ねなく
       食すつまみの
       カニふうみ味

水曜日 
   接種にむかう
         小市民
            われらいちにの
             つごう三度目

        ぷらすちつく
  ゴミの日たのし
木曜日 
  スキツプふみふみ
        収集車もくる

       循環する
       たましい 
        ユメに
      あらわれて
        目眩い
       はじまる
金曜日の
    あさ

土曜日は
    LINEにのって
            会いにゆく 
                 二年以上の
          無沙汰わびつつ

安息日 
    すこしの酒に
          酔いしことも
     恩寵にして
          フロは止めとく

月曜日
   見てしまいたり 
         分別は
   ゴミ出すときに
         ふともあらわる

   火の曜日
火曜日ともよび
   気前よく
      独裁者たちが
      火種を播く日

水曜日 
  『一月万冊』
   動画にて
      みつつ微睡む
      春ちかきかも

木の曜日
    焚きつけながら
           機嫌よく
    火器もてあそぶ
           改憲論者

            平熱に
         もどりしくちに
      ふふましむ
   熱き燗酒
聖金曜日

    空の青 
      金の麦畑 
    青黄旗
      てにてに集う
土曜日の街

よき道具
   もてばやっぱり
         つかいたく
             なるのが道理 
                  火器の類も

   波のまに
     ゆれる月かげ
   妖しきに
     あいてもとめて
 さやぐ太刀魚

青いままに
    消えゆく
春のつめたさよ 
       野原よ野原(ポーリュシカ・ポーレ)
いくさは死なず

長調の
   おうただったよ 
正調の
     露西亜民謡
      一週間は

製本かい摘みましては(171)

四釜裕子

新しく始まる多和田葉子さんの新聞連載が楽しみだと、正月に知人が教えてくれた。「白鶴亮翅(はっかくりょうし)」というタイトルが太極拳由来だそうで、その動きをさっとして見せてくれた。多和田さんも太極拳を習っておられて、「敵が攻めてきたときに自分の最大限の力を引き出す護身術でもあるし、健康法でもあると同時に踊りでもある」太極拳を、いつか小説の題材にしようと温めていたと同紙に語っている。連載は2月にスタート。ベルリンで一人暮らす「わたし」が隣人の誘いで太極拳を習うことになるようだが、今のところまだ迎え撃つ敵の気配などはない。

連載の(24)(25)に、翻訳ソフトが苦手とするものの例として「Bohnenkaffee」という言葉が出てきた。「コーヒー豆を使ったコーヒー」の意味だそうだが、翻訳ソフトは「コーヒー豆」と訳してしまう。しかし「コーヒー豆」は「Kaffeebohnen」で、例えば旧東ドイツに暮らしていた人の生活資料の中に「西ドイツに住む親戚がBohnenkaffeeを土産に持ってきた」とあれば、それは「コーヒー豆」ではなくて「コーヒー豆を使ったコーヒー」である。つまり言葉が使われた時代背景を考慮しないと正確には訳せない、という話であった。〈その点、紙でできた辞書はすばらしい。人間だけでなく、辞書にも若者、中年、年寄りなどいろいろな世代があり、それぞれの良さがある〉。そして例えば「Bohnenkaffee」は19世紀の辞書の復刻版にはなく、かといって今使っている辞書にはすでになく、1960年代に作られた辞書にはあるという。〈八十歳の教養人も二十歳の若者も知らない言葉を五十前後の世代だけが知っているということもあるようだ〉。

SHIBUYA TSUTAYAで藤原印刷による「本のつくりかた(展)」を見て、「スクラム製本」や「和こよ綴じ」なる言葉を知ったばかりだった。そう呼ばれている製本実物を見てもなんら珍しくはないのだけれど、そういえば呼び名を知らなかったし考えたこともなかった。家に帰ってネットで検索したら、どちらもたくさんヒットした。

この展示は、ちょっと変わった紙や印刷・製本、加工法で作られた本やジンを、どのように作られたかの説明を添えて展示・販売したもので、動画や紙見本なども添えて実物に触って見られるようにしていたのがよかった。図録的な冊子もフリーで用意されていた。紙や花ぎれ、スピン、箔など材料の銘柄や、印刷や製本・加工のポイントも記されていて、そこに「スクラム製本」や「和こよ綴じ」という呼び名が記されていた。「スクラム製本」は「新聞紙のように紙を折って重ねて断裁するのみの製本方法で180度綺麗に開きます」、「和こよ綴じ」は、中綴じ製本で「和紙素材で綴じる製本方法」と説明がある。

「コデックス装」もいくつかあった。本文紙を糸でかがったあと背をむき出しにしたままで完成させたものだが、こちらは特に説明はなかった。林望さんが『謹訳源氏物語』を出したときにつけた呼び名で、確かにこの製本も名称も年々よく見かけるようになった。ちょうど東京製本倶楽部から「製本用語集」が届いたので「コデックス装」をひいてみると、「機械製本で本文紙を糸かがりした後、背貼りをせず、折丁の背と綴じ糸が露出したままにしてある製本。(中略)林望氏による命名(『謹訳源氏物語』2010年)だが、構造的には無背装(むはいそう)で、本来のコデックスとは意味が異なる」とある。

続いて「コデックス」の項を読むと、「古い時代の本をさす言葉。古代ローマ時代には蝋板をつなげたものをさし、のちには二つ折りしたパピルスや皮紙の折丁を糸で綴じた冊子をさすようになる。綴じられた初期の本をいい、巻子本と対比される」とある。コデックス装という呼び名に私はいまだ違和感があるけれど、今の日本においてはいかにこの製本とコデックス装という呼び名が親しく馴染んだ12年だったかということだろう。「コデックス」という言葉の変遷をここにごく簡単に見るだけでも、人にとってこの響きがどれだけ魅力的なのかが想像できるし、逆に翻訳ソフトはいかにも苦手そうな言葉だし、こうやって生き延びる「コデックス」の人たらしぶりに「うまくやったな、コデックス!」と声をかけてやりたい。

東京製本倶楽部は1999年の発足当初から用語の検討を続けてきたようだ。会のホームページでその成果を公開している。「製本の種類」「綴じの種類」「判型・数え方」「工程」「本の部位」「装飾」「蔵書」「道具」「容器」「書誌」「印刷」「出版」「修復」のカテゴリーに分けて用語の採集・編纂をしていて、この2月、まずは「製本の種類」の項目だけをまとめて発刊している。いろいろためになるのだが、もやもやが晴れた用語の一つに「シークレットベルギーバインディング」があった。何がシークレットでなぜベルギーなのか名称の由来を知りませんと言いつつ、私もその綴じ方を講座でやったことがある。「製本用語集」によるとまずそれは「シークレット・ベルジャン製本」と項目がたっていて、「クリス・クロス製本」参照とあり、構造の説明のあと、「1986年、ベルギーの製本家アン・ゴワ(Ann Goy)が考案した。(後略)」とある。アン・ゴワさん、きょうまで知らずに楽しませてもらってきました。ありがとうございます。

東京製本倶楽部版「製本用語集 製本の種類」(2022.2.2発行 限定400部)は、A5判モノクロ24ページの中綴じ(ホッチキス2か所留め)だ。ごく小さな冊子だけれども、迷ったらここに戻ればいいという安心感がやっぱりもれなくついてきた。こちらも言葉も刻々変わる。何でもかんでも刻々変わる。例えば白鶴亮翅がどういうものかよくわかっていないのだけれど、改めて正月に知人が見せてくれた動きを思い返すと、手足の先が描く流麗なる曲線たちが時にすっとマッチ棒を思わせる体のラインに収束して、そういう感じが「製本用語集」の薄い背に重なったりした。

今朝の多和田葉子さんの「白鶴亮翅」(27)はどうかというと、「わたし」がMさんに、ドイツ人の東方植民が始まったのはいつかとか東プロイセンにアジアから人が渡ってきたのはいつかなどを聞き、嘘などもつき、ジャケットを脱いでいた。ひと晩寝て、明日は「わたし」に何面で会えるかな。

PCR検査 教訓


仲宗根浩

旧正月と二月の暦がいっしょになった今年、十六日は旧の一月十六日であの世正月もわかりやすい、と思っていたら朝から子供が37度微熱、喉が痛いと。大げさかもしれないが念のため学校に電話をして休ませる。しばらくして体温をはからせると38.5度。病院の発熱外来の確認をする。医師会のオンライン問診を受けろとのことでアクセス方法を子供に伝え問診結果で番号が発行されそれを再度病院に伝え午後から発熱外来でPCR検査になる。職場のルールで同居家族がPCR検査となった場合は出勤できないので電話をしてその旨伝える。車で病院に行くと指定された駐車場に車をとめて降りることなく指定の番号へ電話をし発行された番号を伝え車の中で待つ。待っていると受付担当の人が来て車の窓を開けることなくガラス窓に保険証を内側から押しつけ保険証の携帯電話で撮影される。それから医師と看護師さんが来て鼻から長い綿棒のようなものをかなり奥まで入れられる子供。解熱剤を処方してもらい検査結果は翌日夕方にわかるとの事で家に戻り職場に報告。PCR検査の事は奥さんにも伝えていたので仕事途中で帰宅し家にいる。取り敢えず子供は部屋に隔離、といっても無理だがなるべく接しないようにする。やり取りはすべてLine。処方された薬を服用しても熱は下がらない。熱が出て喉の痛みは無くなっている様子。検査結果は翌日の5時頃陰性。熱も下がって来たと思った次の日に喉の痛み、足先の皮膚、指も痛いと言う。様子を見た翌日も症状変わらず、発熱は無いためオンライン問診では検査の必要ないとの結果。現状を夫婦共々職場へ報告し出勤は出来ず五日目、症状変わらないが指に湿疹が出てきたので病院に電話にて相談すると発熱はないが外来受付をしてくれ抗原検査、結果はこれも陰性。職場へ報告すると明日から出勤となる。発熱に翻弄される状況はしばらく続くのか。



何かが起こると戦闘機が飛び回る。多分海軍の偵察機かなんかが、これでもかというほどの低空で旋回する。地政学というのを持ち出して、沖縄は地政学的に云々で備えが必要だと。18歳から60歳まで出国禁止になってお国のためにと言われれば、青くなってしりごんでにげてかくれよう。

二月の最後の日曜日、平井さんの四十九日。沖縄に戻ってきてから不幸があると七日七日を確認する癖がいつの間にかついた。

『カルノ・タンディン(カルノの戦い)』

冨岡三智

先日、カルノの戦いの演目のワヤン(影絵)公演を大阪で見た。というわけで、今回はカルノの演目に関する公演の思い出をいくつか取り上げたい。

カルノはインド伝来の叙事詩『マハーバーラタ』に登場する武将の名前である。『マハーバーラタ』では、王位継承に絡んでコラワの100人兄弟が従兄弟のパンダワ5人兄弟を陥れようと姦計を繰り返し、最終的に両者が大戦争に至る過程が描かれる。パンダワ5人兄弟の3番目が美丈夫として有名なアルジュノで、彼はパンダワ王と母クンティの間に生まれた。ところが、クンティには王との結婚前に太陽神との間にできた子がいた。それがカルノである。カルノは生まれてすぐに川に流されたが、拾われて無事成長し、コラワで取り立てられていた。大戦争が進むとコラワ軍のカルノとパンダワ軍のアルジュノも直接対決することになる。血を分けた我が子の対決をクンティは悲しむも、カルノは恩義のあるコラワへの忠誠を誓い、アルジュノと戦ってその矢に倒れる。

このカルノとアルジュノの戦いを描いた演目が『カルノ・タンディン』なのだが、血を分けた兄弟が敵味方に分かれて戦うことになるという重い宿命を描いた場面なので、ジャワではその上演の前には供物を用意して無事に済むように祈る儀式が行われる。私自身も、スリウェダリ劇場で舞踊劇が行われる前にその儀式に参列したことがある。その時は芸大の先生の調査の助っ人として駆り出されたのだが、この儀礼は観客に見せるために行うわけではないので、貴重な体験だった。


劇仕立てではない『カルノ・タンディン』という舞踊作品もある。アルジュノとカルノの2人の戦いの場面をウィレン(戦いの舞踊)形式で描いている。PKJT(中部ジャワ芸術発展プロジェクト)が始まって間もなくの1970年か1971年に宮廷舞踊家ウィグニョ・ハンブクソ氏を迎えて復曲されたとのことで、ハンブクソ氏にも師事していたスリスティヨ・ティルトクスモ氏もその様子を見に行ったとのことだった。芸大の授業カリキュラムにも入っていて、私も履修した。

登場の曲で2人が舞台に現れ、着座すると始まるのが「ゴンドクスモ」の曲。これは宮廷女性舞踊の「スリンピ・ゴンドクスモ」で使われる曲である。とても優美な曲で男性の戦いの舞踊に使われるとは思ってもみなかったので、初めて曲を聴いた時には仰天した。けれど、ワヤンの中で最も優美なアルジュノのキャラクターに似つかわしく、また曲が抑制的であるだけに、一層2人の宿命の悲しみがじんわりと伝わってくる気がする。この曲の場面では、2人は向かい合い、シンメトリなフォーメーションを描きながら踊る。曲が「スレペッグ」に変わると戦いの場面になり、2人は剣を抜く。2人は入場する時から手にダダップと呼ばれる武器を持っているのだが、剣で突きダダップでかわす攻防を続けた後に、ダダップを置いて弓の戦いとなる。カルノが負けると曲は「アヤアヤアン」に変わり、勝者が敗者の周囲を巡り、そして入場してきた時のように戻っていく。シンメトリに動く舞踊の場面、戦いの場面、勝者が敗者の周囲を巡る、というのはウィレン形式の舞踊に共通する型/構成である。


ジャカルタの舞踊家エリー・ルタン氏の作品『クンティ・ピニリー』(1997)も忘れ難い。伝統舞踊の型をベースとするコンテンポラリ舞踊。私がアルス(男性優形)舞踊で師事していたパマルディ氏がカルノ役で出演するので、ジャカルタまで見に行った。ちなみにアルジュノ役をやっていたのが、後に宮廷舞踊で師事することになるスリスティヨ・ティルトクスモ氏。私にとってはアルス舞踊の双璧の2人が出演していて、その抑えた優美の動きの中にある緊張感に震えた。一騎打ちの場面になると、2人はカイン(腰布)の中に隠していた仮面(抽象的な表情)を取り出してつける。心ならずも宿命により戦うということが見事に可視化されていた。この作品では血を分けた我が子同士が戦うことになるクンティの苦悩に焦点を当てている。エリー氏の作品はいつも影にいる女性の人生の悲しみが浮き彫りにされていて、こんな風に女性を描きたいと思えた作品。


国際交流基金と横浜ボートシアターが主催し、日イネ合作で制作された『マハーバーラタ 耳の王子』(1996年)も、カルノの物語を下敷きにしている。横浜ボートシアターは仮面を使うのが特徴で、この作品でも色々な仮面が使われている。ジョグジャカルタにあるノトプラジャンという大きなプンドポ(ジャワの伝統建築)で上演されて留学生の友人たちと見に行った。インドネシア人出演者はインドネシア語で、日本人出演者は日本語で台詞を言うので、両方分かる留学生が一番面白さが分かるかもね…と話しながら見た記憶がある。当時は留学して間もなくのことで、こんな風に日イネでコラボレーションできたらなあと思う原点になった作品。


最後に、先日の公演というのは2月23日に大阪の箕面市立文化芸能劇場小ホールで上演されたワヤン・クリ(影絵芝居)『マハーバーラタ~カルノの一生』のこと。主催はマギカマメジカ、ナナン・アナント・ウィチャクソノ氏が企画・構成・脚本で、ダラン(人形操作+語り)も務める。ガムラン音楽は演奏するダルマ・ブダヤのオリジナル曲が中心で、一部に箏も使われる。舞台中央奥に影絵の幕がセットされ、その手前にガムランが並べられ、ダランやガムラン演奏者は舞台奥の方を向いて座る。つまり、ジャワでよくやるように、観客は演奏者側/影が見えない側から見る設定になっている。そして幕の上には巨大なスクリーンがあって、そちらにも時々映像が投影される。そして、舞台下手にはもう1人の語り手(イルボン氏)が演台の前に立ち、たとえばクンティが太陽神と出会ういきさつやコラワが姦計をめぐらすなどの込み入った事情を語る。

ダラン以外に語り手がいたり、影絵用のスクリーンの上にさらに映像用スクリーンがあったり、ガムランの新曲以外にも箏を使ったりと、客観的に見れば新しい要素が満載の作品なのに、全体として何の違和感もなく腑に落ちてくる作品という感じだった。伝統的なジャワの影絵を見ているような自然さがあって、途中でふと、そういえば使われている曲は新作だな…と気づいた次第。箏はカルノの深い心情に寄り添う2場面だけで使われる。箏の音階はガムランの音階に近いとのことだったが、ガムランの音になじみながらも異なる音色で立場的に微妙なカルノの複雑な心情を伝えていて効果的だった。

最後にカルノが倒れるシーンで、ナナン氏は影絵のスクリーンの前で花びらを撒く。戦いに散ったことの暗示であり、カルノに対する散華でもある。ジャワではお墓参りをすると、花を立てるのではなくバラの花をほぐして花びらだけを撒くのだが、この瞬間にナナン氏は語りの担い手から祭司/鎮魂者に変わった…と私には見えた。暗くなった舞台でナナン氏にスポットライトが当てられる。霊となった人形を持ったナナン氏が立ち上がり、観客の方に向き直り、歌いながら舞台前方にゆっくり進んできて舞台は終わる。この時、カルノの魂が昇天していくのが見えた気がした。(舞台奥の幕に向かって座っていた演奏者や私達観客の構図は、なんだか涅槃図のようでもあった。)影絵の幕に映し出されるカルノの実人生、その上のスクリーンに映しだされる、カルノの知らないところで起きる出来事(出生の経緯やコラワとパンダワの因縁)…。しかし、第三者=観客として見ていたはずのカルノの人生の最期にいきなり当事者として直面した感があって、単に劇場でワヤン上演を見たというのではなく、ワヤンを見るとはどういう体験なのかということを体験できた気がする。

パジャマでしかピカソは描けない

イリナ・グリゴレ

節分もとうに過ぎた日、大館の教会で私たちは今年初めての聖体礼儀に参加した。正教会ではこの儀礼は機密の一つであって、赤ちゃんの時から、私が初めておっぱい以外のものを口にした領聖(コミュニオン)で、キリストの尊体と尊血である聖パンと葡萄酒を領食した。このような儀礼に子供の時から参加してきたことによって文化人類学との出会いに導かれ、「人間とは何か」を問う一つのきっかけとなった。2月の太陽に光る北国の氷柱を見ながらそう思う。

娘たちにもこの同じ経験をさせたかった。礼拝の賛美歌を聴きながら、床に転がりながら、イコンの真似をし、絵を描いている娘たちの姿を見て2年半以上ルーマニアに戻れなかった苛立ちから解放された。娘にとってルーマニアという場所がどう見えているのか、娘がこれから自分の身体で体験するルーマニアと、私が体験したルーマニアは領域が違うと気付いた。そして、私も彼女らの目を借りて、教会の礼拝のように領聖(日本語で訳す漢字の味わいもある)の空間に入ることによって、自分の中でルーマニアの苦しい思い出の全ては再領域される。

聖体拝領として赤ちゃんの時から口にする聖パンと葡萄酒は、口にする前に懺悔と断食という心と体の準備の必要がある。子供にとっては、聖体拝領はご馳走だと感じる。大人しか飲んでは行けない酒を口にするなんて、別世界の入り口が開いたようなわくわく感がある。ルーマニアの俗信では聖体拝領の日は他の人からキスされないようにするので、日曜日に家を訪問する親戚から逃げられる。ルーマニアの人間関係は濃いので、親戚同士と友達同士のスキンシップが激しく、会うたびに握手し、ほっぺたにキスする。唾をねばねばとほっぺたに残す遠い親戚の叔母さんを避けたいわけだ。それが日曜日とお祭りの日の領聖のあとは解放されるので、私にとってはいろんな面で楽しい1日だった。この迷信の理由は、日本語訳のイメージの通り、領聖とは身体が更新され、綺麗になり、領聖を受けてない人からキスされたらその神秘が盗まれると思われているからだ。

葡萄酒の味に戻ると、これも昔は村の人たちか修道院で作られた手作りのワインであり、色はロゼに近い。私の実家も葡萄を栽培してワインを作っていたので、祖母はいつも教会に持っていった。彼女が作る、塩と水と小麦しか入ってないパンも一緒に。彼女のパンの味と祖父が作っていたロゼの味は、私にとっては尊体、尊血そのものだ。今でもたまに同じパンを作るし、ロゼは私の大好物である。思い出すと、不思議な食べ方があった。祖母の熱々の焼きたてパンをちぎって、甘くしたロゼに入れて食べていた。甘くて、美味しくて、ほっぺたが赤くなるデザートだった。

昨年の12月の終わりに父が電話してきて、美味しいワインできたから贈りたいと言った。昔から父の作るワインと祖父の作るワインの違いに、私は敏感だ。父のワインは濃い、重い、辛口のフルボディーだ。色もルビー色で血の色に近い。父の家の葡萄畑に白い葡萄があまりなくて、スチューベンのような品種がメインだった。これは村の外の畑にあって、家の前には白い「牛の乳」と呼ばれる葡萄もあったが、それはワインに入れず子供が食べる。父の実家と母の実家の葡萄畑の位置と葡萄の種類は全て思い出せる。地図を書けるほどはっきり思い出す。毎年歩いて、一つ一つ葡萄の粒を味わっていたからかもしれない。母の実家の祖父の葡萄畑の半分以上は白いみずみずしい葡萄で、その白い葡萄と黒い葡萄を混ぜるとちょうどいいロゼになった。毎年、裸足で葡萄を潰すのが嬉しかったし、足の裏で潰す、白と黒の葡萄の感覚がいまだに残っている。ワインが発酵するまでの葡萄ジュースも子供にとって大きな喜び。その時期、秋の暑い日に肌着とパンティだけで暮らしていた村の子供たちの白い肌着に、紫の葡萄ジュースのシミがよく付いていた。腸内で発酵するので、お腹もパンパンでいつも下痢気味だったが、美味しくてたまらない。発酵が進むと舌がピリピリして、ワインに変わる瞬間にガッカリしていたことを覚えている。ロゼになるまでしばらく待つ。秋に絞ったものはクリスマスごろにちょうどいい感じになる。「涙のように透明感がある」という祖父の言葉を借りればわかりやすい。

さて、昨年父がルーマニアから送ってくれたワインを開けてびっくりした。いつもの濃い血の色ではなくて、ロゼだった。味見すると祖父が生きかえったと思わせるぐらい祖父の味にそっくりのワインだった。あまりにもびっくりしたから電話した。テレビ電話で見た父の顔は髭が入っている優しいお爺ちゃんの顔だった。私が知っていた、働いていた工場の同僚と一緒にジプシーの音楽家がいるバーで朝まで飲んで夜遊びする父とは大違い。テレビ電話では「家の畑で取れた葡萄」というが、母は追加で白い葡萄を買ったと説明してくれる。私たちが美味しいと評価すると、嬉しそうに「また送るからね」と言って、「孫を見せて」と素敵な微笑みで娘たちと目を合わせる。優しそうなお爺ちゃんにしか見えない父の姿に感動した。ワインの味まで優しくなって、娘にとっての祖父のイメージは私が見た父と違うと分かった。ルーマニアの教会で賛美歌を歌って、間違えると司祭に叱られる父の姿を母から聞いて驚いた。プライドの高いルーマニア人の男、背が高くて、頭もよく、女性にもてていた父。社会主義時代に生まれ、地方の街の工場でエンジニアになってポスト社会主義の曖昧な時代を生きてきた。アルコール中毒になった。若い時、心筋梗塞を乗り越えて、年をとってからも重い病気と戦い、私は娘の祖父になってありがとうと言いたくなった。今作っているワインの味で自分の父の心が初めて分かった気がした。遠く離れていても、私の娘の優しい祖父になってくれて、改めて彼の全てを許した気がした。ヤギのお世話をしている金髪の少年のイメージが浮かんで、父を自分の子供のように愛し始めた。

父の実家に対していつも複雑な気持ちを持っていたが、美男美女の駆け落ちカップルであった父の両親の写真を見るのは好きだった。私が小さかった時に父方の祖母に似ていると言われるのは好きではなかったが、最近になって彼女がよく夢に出てくる。ある夜、一緒に庭に咲いているライラックの花を望みながらパンとソーセジを食べている、という夢を見た。ルーマニアでは死んだ人の夢を見ると、その日には誰かに食べ物を差し上げなければならないという習慣がある。この行動によって亡くなった方にあの世に届くと思われるから。ソーセージを買って、娘たちに食べさせて、2月の日本ではライラックの花は売ってないので、和花の「青文字」の枝を買って、飾った。

私は確かに父の母親に似ている。酒好き、強気、喧嘩をよくし、プライドが高く、美学的だ。彼女は布の工場で定年退職まで働き続けた。専業主婦になりたくなかったのだ。30年代の古いラジオでジャズの番組を聴いていたし、私と同じく癖毛で、花が好き。ただ、私は私を育ててくれた母方の祖母にも似ているから、個性豊かな人間になっている。自分の中に二人の祖母のイメージがあって、女性としての自分は二人いると感じる。

母に厳しかった父の母は、花に対しては優しい人だった。庭のジャスミンの木が彼女の魂を表していた。満開になると、立派な花の爆発のように見えた。香りも家の遠くから感じられて、母と父の実家の間を毎日のように移動していた私にとっては、匂いの矢印のようだった。庭の葡萄の間に、素敵な屋根まで届いていた薔薇の木には花が咲いていた。その食用の薔薇の花は小さい時から私の楽しみだった。庭で美味しいものと綺麗な花が咲く場所をまず覚えているのは子供のメンタルマップだ。このジャスミンの木も、ライラックももちろんだが、あの薔薇が咲くのを毎年のお祭りのように感じた。それは食べられるからだ。真っ赤な花びらをつまんで口に入れて、香りとともに噛んで飲み込む。薔薇を食べる少女だった。あの時期、薔薇の花でお腹いっぱいになって、歌って、踊って、近くにあった金魚草の花(ルーマニアでは花の横を押すと口が開くように見えるからライオンの口と呼ぶ)で遊んでいた。この食べられる薔薇で母はシロップとジャムを作った。秋がすぎるまで毎日のように口の中で薔薇の香りを味わった。

父の母は家畜も好きだった。豚、牛、兎、鶏、鴨、ガチョウ、七面鳥などで賑やかだった。彼女の家で初めて鶏と豚以外の肉(牛、鴨、兎、ガチョウなど)を食べた。私は食べ物のテイストが母方の祖母に似ていたからあまり口に合わなかったけど、ウサギのお世話をするのが大好きだった。子ウサギといつも遊んで、ふわふわな毛を触ると幸せな気持ちになった。そし祖母の得意技はガチョウを増やすことだった。春になると彼女の庭にはたくさんの可愛いふわふわのヒナが歩いていたから、踏まないように要注意だった。10分離れていた湖から賑やかなガチョウの群れが夕方になると勝手に帰ってくる。そして家を間違えないで入ってくる。そのイメージが今でも目の前だ。小さい頃に最初に覚えているイメージの一つが、朝早く父の実家の窓から湖へ出かける大騒ぎの白いガチョウの群れだ。

全ての家畜はもちろん食用だ。父の母がガチョウの首を男前のように切る姿も見た。身体と頭が離れた白いガチョウの羽は所々赤い血で染まる。体がしばらく庭の中を遠くまで動いて、暴れて、死を受け止めたくない。その瞬間にシーンと空気が変わって、離れた体と頭が踊りのように違う動きをする。目を見ると死が訪れた瞬間に世界が消えていくと感じる。ウサギも、豚も、鶏も、子牛の目も同じ。そして、犠牲となった生き物が食べ物となる。茹でたガチョウの羽を抜くのが私の仕事だった。日本でいえば、その時、ガチョウの羽の布団の匂いがする。ご褒美に茹でたレバーとガチョウの体の中にあった生まれてない卵、金柑をもらえる。鶏と鴨のも。鶏以外、肉あまり食べなかった。特にウサギと子牛を食べることなかなかできなかった。仲間だったから。

ある秋、可愛がっていた子牛と遊びに小屋に向かって行ったら、庭の端っこの薪の上にその子の首が置いてあった。ショックのあまり、大人になって、日本にくるまで、牛肉を食べることが一切できなかった。こうして子供の時から食べ物は命であること気付かされた。しかし逆の事も言える。「私」という肉の塊を生かせるためにどれだけの命が失われているのか分かった。確か、人類の始まりから食べ物のために他の生き物、動物と植物が犠牲になるが、儀礼の一部であったことを忘れてはいけない。私が子供の時みた動物の捌き方はまだ半分ぐらい儀礼的な空間の中で行われた。ドキュメンタリー映画で見る現在のニワトリの大量生産があまりにも恐ろしいので身の毛がよだつ。

「犠牲」というものに対して複雑な気持ちをもち続けた。母が子どもを育てるために家庭を守る犠牲的な行動もそうだった。矛盾だらけの世界だと思った。例えば、つい先まで育てていた兎とやぎの皮をカーペットにする習慣も、土地のための裁判を起こして村の人々たちが喧嘩していることも、森が減っていることもよく分からなかった。大きくなってからそれは「欲」だと分かった。なので、山の森の奥に暮らしていた聖人のような「神様と直接にコミュニケーションできる」すごい人たちのことを憧れていた。鳥や動物と話せて、木の根っこと森の実を食べ、雨水を飲んで生きている人々が一日中お祈りする。私は少しの間の断食もできないのに。すぐ大好物の硬い白いチーズを食べたくなる。

父方の祖母は、村の外にあった葡萄畑の世話に一所懸命だった。私も様々な作業に関わって手伝っていた。葡萄のお世話は意外と大変だ。若い未亡人だった彼女はよく頑張っていたと思う。葡萄以外にも、あの畑にはいろんな木があった。クルミの木の実が赤ちゃんの頭の大きさだった気がする。大きなクルミをまだ緑の皮が残っているうちに食べるのが良い。桃の実もなかなか美味しかった。渋い皮を噛んでから甘い果実を味わうのだ。

ここ数ヶ月、ある薬の副作用で吐き気が激しくて、食欲が減り、ほとんどのものを食べられない状態が続いた。それは自分の身体に必要な食べ物について考え直すきっかけとなった。ある日、家族の晩御飯に味噌汁と卵焼きを作った時、突然泣き始めた。自分が長い間調査地にいて、ここで暮らすようになったことも自分の身体に大きなストレスだったことに気付かされた。マリノフスキの日記を読めばそんなもんだとわかるのに。そういえば、初めて日本に来たときは卵しか食べられなかった。あまりにも食べ物の味が違っていたから。何年かがたって、作るのも食べるのも得意となった和食だが、2年半以上のコロナのせいでルーマニアに帰れなかったからなのか、薬の副作用なのか、全く食べられなくなった。自分はなんのため食べるのか分からなくなった。食べ物に支配されると感じるようになって、作るのも食べるのも嫌になった。時々、女性インフォマントから頂いている食べ物は食べるけど。菊芋の漬物もレバーの料理も食べられたのに、その日はそれ以外何も食べたくなかった。

こんな食べ物の悩みを抱えていた時期に、友達が7歳の息子を連れてお泊まりに来た。私のりんごパイが食べたいというので仕方なく作ったけど、自分が味見しても美味しく感じない。母方の祖母が作っていたカボチャパイとりんごパイ、チーズパイの方がずっと美味しかった。懐かしくなって、自分が作ったパイを飲み込めない。その翌朝に寝坊していた私のところに突然に来たその男の子に「お腹空いた」と言われた。私は夢かと思った。友達がお泊まりしていることさえ忘れてしまい、なぜ私のベッドの近くに男の子がいるのかも理解せず、目が覚めた。その瞬間に食べ物の恐怖から解放された。そうだった、人間は「お腹が空いているから」食べるのだと思い出した。一緒に下に降りて朝ご飯の準備を始めた。寝ぼけたまま最初に用意したのは私の祖父が大好きだったトーストだった。男の子はゆっくりトーストにバターを塗って、溶けるまで少し待って美味しそうに食べた。カリカリという音が聞こえた、噛むたびに。おかわりした。またゆっくり、儀礼のような動きでバターを塗ってまたカリカリ食べた。美味しいと評価した。まだお腹が空いていたから今度は和食を用意し始めた。彼は漬物と梅干しが好きだと知っていたから、それを出して、キャベツと油揚げの味噌汁を作った。熱々のご飯を二杯おかわりして、娘たちと大人が集まったテーブルで賑やかな朝ごはんとなった。ここ最近は朝ご飯の気分ではなかった私まで食べた。男の子はやっとお腹がいっぱいになって、自分で持ってきたお気に入りの、もの久保の最新の画集を手に取って何もなかったように見つめ始めた。本屋で私も買ったが、大好きなイメージだった。私の子供のころの感覚に近いと思った。

友達の息子が教えてくれたことについて何日も考えた。彼の食べっぷりは儀礼そのものだった。娘たちも同じ食べ方をする。なるほど、子供は分かっている。元々食べることは儀礼の行動だったのだ。狩された獣の見える肉だけではなく、見えない魂までもらうので、それはしっかりした踊りと動きで、感謝しないといけないと昔の人々は知っていたのだ。だが現在、このような行動は失われている。衣装も面もない。音楽も歌もないので、現代人にとって食べ物の味は昔の人が感じた味と違うだろう。でも、子供はまだ分かっているはずだ。お腹が空いている時しか食べないから。そしてたまに踊りながら食べるのだ。

2月14日、バレンタインデー。雪がまだたくさん積もっている。体感気温もマイナスになっている。今日は川を渡ったところのスーパーへ行ってお花、牛乳などを買う。ピクルスを買おうとしたが置いてなかった。カウンターのところで後ろを向くと、バレンタインデーの色鮮やかなチョコたちが並んでいて、その隣はひな祭りのいろんな種類のアラレたちだ。気が早いと思いながら、果物コーナーのところを見てなぜかパパイヤを食べたくなる。日本で買うと高い果物を見ながら葡萄畑にあった桃のことを思い出して唾が出そう。車に戻ると娘たちがスキー教室の帰りに散らかしたアメリカンドッグの串、おにぎりのふくろ、桜味の甘いドリンクがゴミ屋敷のような車内の雰囲気を作っている。ラジオから「薔薇が咲いた」という歌が流れる。父の実家の食用の薔薇がいつから枯れてきたのか考え始める。ラジオを止めて携帯でレッドツェッペリンの「Immigrant Song(移民の歌)」を掛ける。弟が送ってくれたルーマニアのストリートの映像を見ながらその曲を聴いた。彼の車のラジオからは「薔薇が咲いた」ではなくウクライナについての暗いニュースばっかりが流れていた。私も調査地に長くいすぎて移民となっていたことに気付かされた。

ある朝、娘はいつものようにパジャマで得意な絵を描き始める。そしたら描いていた少女の顔に髭のような黒い毛が見えた。なんで女の子に髭があるの、と聞くと、「違う、これは後ろから見えた髪の毛だ」と答えた。彼女が同時に前と後ろから描こうとしたのだ。違う側面から物事を見ること思い出させられた。人間とは大人になるにしたがって馬のようにブリンカーをつけてしまうのがいけないのだ。

2月26日。歴史は私たち個人のレーベルまで影響を及ぼす。

水牛的読書日記 2022年2月

アサノタカオ

2月某日 いまからもう20年以上前のこと。奄美、沖縄で人びとの話を聞きながら旅していると、行く先々でお茶うけとして「黒糖」を出された。ゆっくり味わうことを知らなかった若く野蛮な自分は、ただすすめられるままにガリガリかじって、甘みで疲れを癒したのだった(お世話になったみなさま、ごちそうさまでした)。

先日、Sさんから届いたいただきものの箱を開けると、なんとそこにはなつかしい黒糖が!  沖縄県黒砂糖協同組合の商品「八島黒糖セット」。うれしい。仕事をしながら日替わりで8つの島産の黒糖を食しているのだが、島ごとに味がこれほど異なるとは知らなかった。波照間島から島巡りするように、繊細な風味のちがいを楽しんでいる。与那国島産と多良間島産の黒糖は、食べ比べるとほとんど別物。そしてどちらもおいしい。西表島産の黒糖はいちばんバランスがよくて、さわやかなお菓子感があった。

2月某日 ふと、本を読みたいと思った。きのうもきょうもさんざん読んでいるのに。仕事で作ってもいるのに。ご飯を食べながらご飯を食べたいなんて思わない。でも、本を読みたいと思った。これは、神の啓示的なものだろうか。自分でもよくわからない、まったく得体の知れない欲望だ。

2月某日 本も読むけど、波も読むし雲も読む。世界は読むもので満ちていて、湧き出るページに終わりはない。近所の海辺を散歩し、立ち寄ったカフェで、ふとおもいついたそんなことばをノートに書きつける。本がない世界もいい、本がある世界もいい。2つの世界を行き来しながら、読むことに取り憑かれているのはなぜだろう。

MOMENT JOON『日本移民日記』(岩波書店)を読了。本の最後に置かれたエッセイ「僕らの孤独の住所は日本」に感銘を受けた。かつて「見えない町」とされた在日の土地で夢をもちあぐねた老詩人・金時鐘。その詩のことばを裏打ちする深いさびしさが、韓国で生まれ日本語を生きる若きラッパーである著者の孤独に時を隔てて合流し、声がよみがえる。本のページを閉じて、MOMENT JOONの曲「TENO HIRA」を聴きながら、思考や感情がぐらぐらとゆさぶられているのをじっくりと確かめている。いつかきちんとした感想を書きたい。

2月某日 《僕は自分の体に残っている傷跡の起源を知らない》。自分としてはめずらしく、本に巻かれた帯文に惹かれて読んでみたいと思った。韓国の作家ソン・ホンギュの長編小説『イスラーム精肉店』(橋本智保訳、新泉社)。韓国文学の中ではこれまであまり読んだことのない多文化的・多民族的な世界を背景とした物語で興味深い。この小説の主な登場人物のひとりが、「ハサンおじさん」。朝鮮戦争後の韓国ソウルの路地で精肉店を営むトルコ人の退役軍人という設定だ。そういえば昔読んだ小林勝の小説「フォード・一九二七年」にも、舞台は植民地時代の朝鮮であるが、トルコ人の父娘が登場することを思い出した。

2月某日 砂浜に立ち尽くし、まだ冬の寒さを感じる吹く風に全身をさらしていると、「自分」がかたどられるのを感じる。かたどられた自分は空っぽで、ただ波の音で満たされてゆく。それがたまらなく気持ちいい。

2月某日 韓国の作家ハン・ガンのエッセイ集『そっと 静かに』(古川綾子訳、クオン)はいつもデスクに置いてある愛読書。音楽について、音について、沈黙について書かれている。この本に出てくる車椅子の歌手、カン・ウォンレ。所属するダンスデュオCLONの動画をいろいろ視聴した。韓国芸能界のいわばレジェンドなのだろう。CLONの曲「First Love」をK-POPグループのNCT127がカバーしているのをYoutubeで視聴した。

最近、読書中や仕事中にBGMとし流しているK-POPとしては、MONSTA X→EXO→NCTがお気に入りのルーティン。今日はひさしぶりに終日、BTSを。安定の美しさ。

2月某日 インタビューという方法について考えている。学生時代に人類学や民俗学の先達による聞き書きやオーラルヒストリーの仕事に学び、調査の経験も積んだ。でもいまは「いいだけのものじゃないよ」と疑いの目を向けている。インタビューという方法には、根本的に暴力性が伴う。相手の声を自分の文字に奪い取るのだから。

ブラジルの日系コミュニティ、また沖縄系・奄美系の移民社会で何百人もの人びとを相手にインタビューをした。フィールドワークなどと言えば聞こえはよいが、やっていることは警察の尋問と変わらない。だから、ずいぶん「痛い」思いをした。自分が痛い目にあった以上に、取り返しのつかない形で相手を深く傷つけたこともあった。その体験について書いたエッセイを軸に次の随筆集をまとめる。

2月某日 第8回日本翻訳対象の選考対象作品が発表された。毎年楽しみにしている賞。大賞を選ぶことにももちろん意義はあるだろうけど、自分としてはこれだけたくさんの魅力的な海外文学があると知ることができるのがうれしい。読んだ本、読みたい本、知らなかった本。発見がある。「ブラジル最大の刑務所における囚人たちの生態」を描いたドウラジオ・ヴァレーラ『カランヂル駅』。こんな本が日本語に訳されていたとは(伊藤秋仁訳、春風社)。季節の巡りの中で、心が海外文学に向かう時間。

2月某日 早田リツ子さんのノンフィクション『第一藝文社をさがして』(夏葉社)。本書の主人公で、明治生まれの出版人・中塚道祐周辺の人物群像のなかで興味をひかれたのが、厚木たかという女性記録映像作家。『或る保姆の記録』などで脚本を担当。厚木たかの回想録があるようなので、読んでみたい。

『第一藝文社をさがして』はほんとうに素晴らしい本で、すでになんども読み返している。装丁には落ち着いた美しさがあり、本文のデザインについても同じことが言える。章と章のあいだにはゆったりとした余白のページがさりげなくはさまれ、はやくはやくと読み進めたい気持ちをやさしく鎮めてくれるのだ。書物にも社会にも、こうした余裕、余白がもっと必要なのではないだろうか。

2月某日 神奈川・大船のポルベニールブックストアへ。扉を開くと、入り口近くに青い本、ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』が平積みされているのを見つけて、うれしくなった。

2月某日 雑誌『世界』3月号の特集2「維新の政治 「改革」の幻惑」。松本創さんの寄稿「維新を勝たせる心理と論理」を読む。大阪維新の会の府政報告会、大阪府と読売新聞「包括連携」、MBS「維新広報番組」を取材しつつ、政治とメディアの問題を検証。会幹事長で大阪府議会議員の横山英幸氏の冷静な発言を引き出しているのが意義深い。「行政サービスは職場や団体ではなく、個人に手渡す」という横山氏の発言を読んでなるほどと思った。「維新」と言うと代表の吉村大阪府知事のテレビ出演やSNSでの関係者の発言の炎上などメディア戦略が目立ち、また批判もされるが、件の「維新広報番組」の視聴率は局関係者によると「まあまあ」とのこと。

松本創さんが2015年に発表したノンフィクション『誰が「橋下徹」をつくったか』(140B)は、まさに「維新」をめぐる政治とメディアの問題を取材し、批判的に論じた本だった。今回の記事「維新を勝たせる心理と論理」では、その視点を保持しつつ、単にマスコミの問題を指摘するだけでは説明のつかない「維新」周辺の複雑な現実に迫る。横山発言にみられるように、「多種多様な無党派の人びと」を対象にした「『個人化』時代の政党」であること、しかも大阪府市での10年間の政策実績の着実な積み重ねが「維新」の強さを裏打ちしているという松本さんの論評に深く納得した。

「維新」の強さを裏打ちしているものが「吉村人気」のようなメディア戦略を活用した一過性の流行現象のようなものだけではないとしたら、このポピュリズムはしぶといということだ。批判的な立場の自分としては心底うんざりしつつ、言論という仕事において何ができるのか考えさせられた。

2月某日 文芸誌『すばる』3月号、くぼたのぞみさん+斎藤真理子さんの往復書簡「曇る眼鏡を拭きながら」を読む(タイトルがすごくいい)。第2信は斎藤さんの回。藤本和子『塩を食う女たち』(岩波現代文庫より再刊)をめぐるエピソード、1冊の本がこれほどまでひとりの人間の「生きる」を支えることがあるのか、と深く感じ入った。

第1信のくぼたさんの回を逃してしまったので、バックナンバーを探して読もう。『すばる』3月号に、斎藤さんは永井みみ『ミシンと金魚』の書評も寄稿している。「コロナ時代に花開く死への想像力」。書評では「介護」や「認知症」ということばもみられる。この小説も読んでみたいと思った。

2月某日 ロシアによるウクライナ侵攻という信じ難いことが起こり、戦争をめぐるオンタイムの報道に接してことばを失っている。こんなときに文学の本を読み、文学について語り、文学の本を編集する、そんなことをしている場合だろうか、と迷う気持ちが生じた。でもタガの外れた世の中で正気を保ち、世界や他者の痛みを想像するためにも、文学の読書は、とくに海外文学の読書は大切だと思い直した。

深夜、重い気持ちの中でふと手を伸ばしたのは、やはり、ここのところ何度もページを開いている一冊の韓国文学の本だった。ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』。「戦争」が隠されたテーマだが、現実の戦闘場面が描かれるわけではない。戦後の日々、社会の日の当たらない場所でなお戦争の苦しみを生き、心身に受けた裂傷によってつながりあう流れ者たちの姿、かれらのさびしさの奥で震えるやさしさを描いたすばらしい小説だ。この本のあとがきに、日本の読者に向けた著者のメッセージが収録されていて、橋本智保さんが訳してくださっている。

《嫌悪と差別にあふれたこんな時代だからこそ、私たちは他人の痛みに目を背けてはいけないと思います。……人と人をつなぐのは血ではなく、他人の痛みを想像する共感能力です。いまこそ人間とはなにかを考えてみるときではないでしょうか》

今日という日にこそ、誰かと共有したいことばだとつよく思った。

聴き、垣間見る

高橋悠治

クセナキスを思い出す。音楽についても、その他についても、「よい・わるい」という判断はしなかった。「おもしろい」かどうか、それは「新しい」という1950年代の「前衛」の判断ではなく、分析や、要素還元と再構成の技術ともちがっていた。確率で音を選ぶ方法も、特にポアソン分布は、見慣れた環境、無意識に身に付いた動きから離れて、響きに触れるための一つの手がかりだったのかもしれない。どんな確率関数にも顔がある、という意味は、使った方法が残ると、それはもうそれ以上の発見を誘う力は無くなって、スタイルになってしまう、と言えばよいのか。科学ではくりかえし応用されて確実になってゆく仮説も、芸術ではくり返すたびに色褪せてゆく。

1963年から数年の間、当時の西ベルリンやパリで、クセナキスのピアニストであり、傍にいて、かれが確率の次に古代ギリシャのテトラコルド理論から「篩の理論」という音程組織論を考えていた頃、アリストクセノスの同じ本を読み、それが音程を音色のように感じるきっかけになったのかもしれない、というのは、後からの思いつきなのだろう。

クセナキスはその頃は亡命者で、ギリシャには帰れなかった。日本に帰ることと古代日本文化を学ぶことを勧められていたが、実際に日本に帰ったのは1972年で、日本の伝統音楽に興味を持ったのは1990年頃だった。今はそこからも、いつの間にか遠ざかっているようだ。

1970年代の半ば辺に、流行にはかなり遅れて、ミニマリズムを試してみたが、ズレと反復を積み重ねていくよりは、ズレから変化して不安定になっていく方がおもしろいと思っていた、というのも後付けの記憶だろうか。

作曲では生活できないからピアノを弾き、新しい音楽を弾くだけでは仕事もあまりないから、ひとがあまり弾かないクラシック、バッハなども演奏し、ソロでなければ即興演奏もして、なんとか暮らしてきたが、習った技術ではないからピアノを弾くのには限界がある。「多く、速く、強く」ではない技術、「弱く、ためらい、よろめく」技術、変化と不安定な足取り、揃わず、合わず、数え・測らない「技術」、これはいったい技術と言えるのか。楽譜が進化してきた方向と逆に、普通に使われる記号を、説明なしにあいまいな拡がりを持たせる使い方、ディジタルでなくアナログ、ゆらぎとムラ、よりどころの無さ、あてのない、はてしない、さまよい、途切れる線が重なり… 発音に意図を込めるより、意図や意味から解放された自由な空間を、余韻と間に垣間見られるように。

世界は暗く、衰えた圧力が抵抗を呼び起こす。まだことばやイメージにならない微かな振動が、あちこちから伝わってくる。あせらず待つ時、聴き、感じる時。

2022年2月1日(火)

水牛だより

きょうは偶然、春節。先月に続いて、明けましておめでとうございます。
とはいえ、世界はおめでたい方向に向かっているとは思えませんね。
1月1日はまだ冬でしたが、あれからひと月が過ぎた旧正月は春を含んでいるのを感じます。

「水牛のように」を2022年2月1日号に更新しました。
今月初登場の篠原恒木さんとは、ともに片岡義男さんの著書を編集していて知り合い、いろんなことを話すようになりました。かつてある有名な女性誌の編集長だった篠原さんはいつもおしゃれな身なりをしていて、お勤めにいくときだってスーツなんぞは着ないのです。でもそんな彼がたびたび職務質問を受けるということはなんとなくわかります。少数派の気配が色濃いので、怪しいというわけではないけれど、どことなく正体不明な感じがありますから。おれも水牛に書きたいな、と言われて、うれしくどうぞと即答しましたが、自分から水牛に書きたいと言うなんて、外見だけでなく中身もやっぱり少数派です。
そして、杉山洋一さんのしもた屋之噺は240回目になりました。おめでとう、と言いたいところですが、記念すべき今回も苦い内容です。これから何年かたって、まだ人類が生き延びていたら、杉山さんの20年にわたる日常の記録は、水牛などはもちろんのこと、杉山さん自身からも自由になって、人びとに届くのかもしれません。

杉山さんと仲宗根浩さんが触れている平井洋さんはわたしにとっても親しい人でした。自分が年齢をかさねるのに比例して、亡くなる人もふえてきます。体がなくなってしまうと、この世に残るのはスピリットだけ。それは物質のようには場所をとらないけれど、美しく積み重なって、わたしを取り囲んでいます。

それでは、来月もまた更新できますように!(八巻美恵)

職務質問

篠原恒木

おれは街を歩いていると、警官から職務質問をたびたび受ける。
特に渋谷は鬼門だ。JR渋谷駅の南口がいちばん危ない。
大抵の場合、警官は二人組で、
「ちょっといいですか」
と声をかけてくる。おれは、
「いくない! 全然いくない!」
と思いながらも、足を止めざるを得ない。
ここで書いておきたいのは、おれが職務質問を受けるのは真夜中に千鳥足で歩いているという状況では決してない、ということだ。そもそもおれはサケが呑めない。したがって深夜の渋谷に用などない。声をかけられるのは昼間である。白昼堂々である。
警官は十中八九、
「どちらへ行かれるのですか」
と訊く。またかよ、と思いながらもおれは、
「仕事でパルコへ向かうところです」
と、きわめて明快に答えるのだが、テキは、
「念のためそのバッグの中を拝見できますでしょうか」
と、さらに面倒くさいことを言ってくる。
ここで再び書いておきたいのは、おれのルックスにいかがわしいオーラが漂っているわけでは決してない、ということだ。確かにスーツにネクタイという格好はしていないが、奇抜の極みのようなファッションに身を包んでいるわけでもない。ドン・ファンやカサノヴァのようなオーラも身に纏っていない。ドン・ファンとカサノヴァはどう違うのかと問われたら「ヨクワカンナイ」と答えるしかないのだが、つまりはそれほど遊び人には見えないし、これまで六十一年間、これといった賞罰もなく、名もなく貧しく美しく生きてきたつもりである。賞罰の「賞」が無いのが情けないし、お世辞にも「美しく」とは言い切れない人生だが、それはおれだけの責任ではない。
ここでバッグの中身を見せる見せないという展開に持ち込むと、事態は悪化の一途をたどることになるのをおれはよく知っている。おれは何を隠そう、TV番組の『警察24時!』をついつい観てしまうクチなのだ。あの番組では持ち物検査を拒否すると、警官たちが、
「何も入っていないのなら見せてくれてもいいでしょ?」
などと言って、応援を呼び、気がつくと一人対四、五人という状況になってしまうのだ。だからおれはしぶしぶバッグを相手に渡す。驚いてしまうのは彼らの執拗さで、バッグの中に入っている財布、定期入れの中身までしらみつぶしに調べるのだ。長財布に収納してあるカード、診察券のたぐいまでいちいち抜き取って、その隙間に何か入っていないかを確認してから元に戻すことを繰り返す。
「何も入ってないよ」
おれは吐き捨てるように言う。厳密に言えば、カード、診察券などがぎっしり入っているのだから「何も入っていない」というのはおかしな話だ。つまり、この場合の「何も」とは、大麻、および覚せい剤のようなものを指すのだということは、『警察24時!』を好んで視聴しているおれにとっては常識なのだ。
ここでまたもや書いておきたいのは、おれの眼はギンギンかつランランとしているという事実はまったくない、ということだ。つまりはアチラ方面の常用者によく見受けられる眼はしていない。強いて言えばバカな眼だ。五代目古今亭志ん生の言葉を借りれば、
「こいつはバカなんです。眼を見てください。バカな眼をしてるでしょう。バカメといって味噌汁の実にしかならないんです」
というような眼だ。いや、威張ってどうする。
やがてテキはバッグをおれに返し、今度は着ているコート、パンツのポケットの中身を見せてくださいと言う。根がスタイリッシュなおれは、服のポケットが膨らんでシルエットが崩れるのを嫌う。したがって煙草とライターをコートのポケットに入れているだけだ。それらを差し出すと、警官は煙草の箱の中まで調べる。ここでようやく彼らはあきらめ、
「ご協力ありがとうございました」
と、おれに向かって言うのだが、いつものこととはいえ、腹の虫がおさまらない。
「あのさあ、あなたがたは名刺までチェックしておれの名前も把握したわけだよね? なのにおれはあなたがたの名前も知らないという、この不公平な状況は理不尽じゃない? あなたがたの名前を教えてよ。署はどこ?」
ところが、テキは必ずと言っていいほど名乗りたがらない。同じ質問を何度か繰り返したのちに、ようやく二人とも署と苗字を言うが、善良だが残忍性を秘めている市民のおれは、
「フルネームで言いなさいよ。おれのフルネームを知ったわけだから」
と追及の手をゆるめない。彼らはしぶしぶフルネームを名乗る。それを聞き出したおれは手帳にメモするふりをする。メモしたところでどうにもならないからだ。
「だいたいさぁ、なぜおれなの? なぜおれに職質をかけたの?」
警官二人組は「強権タイプ」と「懐柔タイプ」でコンビを組んでいる場合が多い。一人が居丈高で、もう一人は物腰が低いと相場が決まっているのだ。懐柔タイプのほうの警官が言う。
「いやいや、お忙しいところを恐れ入ります。最近、物騒な事案が多いものですから」
そうか、おれは物騒な存在に見えるのかと愕然としながらも、強権タイプのほうの警官に向かって問う。
「最初に声をかけたのはあなただよね。なんでおれだったの?」
強権タイプは答えを言い淀んでいたが、しつこく「なんで? ねえ、なんで?」と詰め寄ると、ついに奴は落ちた。完落ちである。
「本官のことを見たら、目を逸らしたように思ったから」
ここでおれはキレる。
「はあ? 誰もあんたのことなんて見てねぇよ。あんたなんか眼中にないよ。振り返るほどのいい男でもないだろう? そういうのを自意識過剰と言うんだよ」
強権タイプはふくれっ面をし、懐柔タイプは「まあまあ」とおれをなだめる。かくして『警察24時!』のような、
「職質のプロは怪しい男の動きを見落とさなかった! 男は覚せい剤所持の容疑で現行犯逮捕された! 悪は決して見逃さない!」
というドラマティックな展開にはまったくならず、解放されたおれはパルコに十五分遅刻し、用事を済ませると、その足で「長崎飯店」へ向かい、皿うどんに酢をドボドボとかけてガシガシと食べるのであった。

スペース、または1ダースの月 ’22

北村周一

はつはるや
 希望のひとつ
ふたつほど
 ゆびに数えて
うたう一月

   縁側に
ねむる子猫の
 ふりをして
そろそろ春が
芽生える二月

ともどもに
 未来はつくる
  ものなりと
   きみに説きつつ
    託す三月

とりどりに
     根本悪を
散らしめて
     花の樹の下
ほころぶ四月

ボール蹴る
  少女の影を
    追い越して
  少年にわかに
はにかむ五月

 ガラス窓に
映るうつしみ
     消さんがに
     吐息吹きかけ
みがく六月

アプリオリに
     あるかのように
           擬態する
              デモクラシーが
                    消える七月

不幸より
幸福よりも
    ごりやくが
    ひとの大事と
    願う八月

    あたらしい
    憲法よりも
    なが生きの
    母をま中に
    月みる九月

     眠剤に
   ネロと名づけて
    ふかぶかと
    神の不在を
    なげく十月

十二音
  技法のずれを
       ただすごと
階段降りて
    来る十一月

       十二月
希望という名の
       スペースを
空けて待つらむ
       聖なる夜は

『アフリカ』を続けて(8)

下窪俊哉

 いま、『アフリカ』vol.33の”セッション”の最終コーナーに差し掛かっていて、他のことをしていても『アフリカ』が頭の中をかなり占拠しており、気持ちに余裕がないなあと思う。もしかしたら自分は本をつくるのにも、何かするのに他人を巻き込むのにも苦手意識があるかもしれないとよく思う。その割には自ら本をつくって、そこに他人を巻き込むのに熱心だ。
 書き手としての自分と、編集者としての自分、いつも何かの企画を考えている自分、本のデザインや組版をしている自分、つくって売ることに向かおうとしている自分、たくさんの自分がいて引き裂かれているような気もしないではない。しかもそれを日々の仕事の傍らでやっているのだから呆れる。なんてぶつぶつ言っていても仕方がない、手を動かそう。

 元々の『アフリカ』は短編小説が幾つかと、その間を埋めるような雑記が入った小冊子だった。小説がメインだったのは小説を書く人が集まっていたからだ。その頃の書き手が1人、2人と去り、その頃に『アフリカ』を止めようと少しも考えなかったのは不思議なのだが、そういえば、そもそも続けようと思っていなかったのだから考えようがなかった。同時期に1人、2人と新しい書き手がやって来ていたので、さあまたやりますか、となる。
 その中には詩とエッセイを書く人もいて(遠慮なく書いてもらった)、そういうことが決まっていない人もいた(でも書きたいことはハッキリしており、書いてもらったらすごく面白いものが出てきた)。

 ジャンルというのは、けっこうあやふやなものだと思う。
 いまつくっている『アフリカ』に載っているある文章で「短編小説集」として紹介されている翻訳本は、その日本語版を出している出版社によると「エッセイ集」なのだが、いや、「小説」でしょう? という話し合いを書き手とした。その出版社が「エッセイ集」としている根拠は、作者の体験を書いているものが多い(らしい)から、という程度のことであり、では小説とは作者の体験と関係のないつくり話のことなのか? というと、そうではない小説もたくさんある。訳者のあとがきを読んでも、エッセイ集という位置付けになるのかもしれない、というくらいの言い方であり、そのへんは曖昧なのだ。
 作者が小説と言えば小説であり、エッセイと言えばエッセイでよいのかもしれない。どちらとも言っていない場合に出版社は困るのだろう。
 私は、というと、小説の中にもエッセイや詩があり、エッセイの中にも詩や小説があるということなのではないか、というくらいに思っている。では、小説とは何だろうか。エッセイとは何だろうか。詩とは何だろうか。そんなこともたまには(たまにですよ)頭の隅で考えながら作業を進める。

 長く『アフリカ』を一緒にやってきた仲間のひとり・髙城青が、ある時にこんなことを書いていた。

 初めは字を書いていたんだけど、今は何故か漫画ばかり描かせてもらっている。「何故か」って本当は「字ばっかり書くのんイヤ。漫画描かせて。」とわたしが言ったからで、編集人はすんなり「いいよ。」と言った。彼はだいたいいつもこんな感じで「イラストに短い雑記を付けたい。」「いいよ。」「イラストと詩を書きたい。」「いいよ。」である。(「一度だけのゲストのつもりで」、『アフリカ』vol.20/2013年7月号より)

 要するに『アフリカ』は何を書いてもいいのである。字数制限も基本的にはない。絶対に文章でないといけないという決まりもない。青さんに限らず、『アフリカ』に書く・描くのを面白がって続けている人たちは「『アフリカ』は自由だ」と言う。どこまでも自由で、気まま。いつも行き当たりばったりだ、ということでもありそうだ。
 その同じ文章には、こんなエピソードも出てくる。

 編集人が最初に声をかけてくれたとき「タブーはないよ。」と言った。わたしはそれで、やろうと思った。いいよ、いいよ、と一緒に実験してくれるけれど、やりっぱなしは許してくれない。何を書いても描いても一段階突き詰めないと載せてはくれない。だからどんなにゆるく見える作品でもそういう気概でやっている。

 突き詰めないと載せないと話したことはないはずである。しかし書き手はそんなつもりでやっているのかもしれない(人によるだろう)。
 それにしても「タブーはないよ。」とは、どんな話の流れでそんなことを言ったのだろう。
 以前、「でも、ヘイトスピーチのようなのは載せないでしょう?」と言われたことがあった。もし「ヘイトスピーチのような」原稿が寄せられたとしたら、「ヘイトスピーチのような」何事かが自分の身近にやってきているということだろうから、気にはなるだろう。しかし古今東西の文学作品には殺人も書かれるし、社会的に悪とされていることもたくさん出てくる。そうではなくて、人種差別的な主張を『アフリカ』から社会へ向けて発表したいとやって来る人がいたら、私はどう返事をするだろうか。「やりっぱなしは許してくれない」そうである。そこで激論が交わされるのだろうか。あるいは?

 さて、『アフリカ』から自由を感じるのは何も書き手だけではないようだ。

『アフリカ』は自由な雑誌だと思う。下窪さんを見ていると「出版とは何か」を改めて考えさせられる。書きたい人が書き、作りたい人が作り、読みたい人が買って読む。シンプルな構造が『アフリカ』にはある。商業出版とプライベート・プレスを同じ土俵で語るのは無理があると言われるだろうが、究極そこに立ち返ることが出来たら、本はもっと美しいものに生まれ変われるのではないだろうか。(笠井瑠美子「一冊の価値を問う」、同じく『アフリカ』vol.20/2013年7月号より)

 そこまで言われると照れてしまう。笠井さんは私が初めてトーク・イベントを開いた時に、来てくれたのだった。私はどうして『アフリカ』がこんなに続いてしまったのだろうと思いながら話していた。

 そういえば、「水牛」に書きませんか? と八巻美恵さんから誘われた時に、「なにかきまりがありますか?」と聞いたら「きまりごとはなにもないです、モチのロン」という返事が来たのでしたね。

仙台ネイティブのつぶやき(69)火焔土器に出会う旅

西大立目祥子

「新潟に火焔土器を見に行かない?」と、長年のつきあいのある林のり子さんからお誘いを受けたのは、昨年の秋のことだった。もちろん、二つ返事で「行きます!」と答えたのだけれど、電話を切ったあと笑いがこみあげてきた。1月に、豪雪地帯の新潟へ?
林さんは雪が好きなのだ。東北に暮らしていると、積雪→アイスバーン→スリップ→追突とか、積雪→凍結→転倒→骨折とか、つぎつぎ悪い連想をしてしまう。実際、私のまわりでは雪の多かった昨冬は、雪道で転び骨折する知人友人が相次いだ。でも、林さんは子どもように雪にはしゃぎ、心踊らせる。4年前くらいだったか、宮城県北部の町に泊まり翌日東京に戻るのに、雪景色が見たいとわざわざ仙台に一泊して、山形新幹線で帰っていったことがあった。その翌日、嬉々とした声で電話をもらった。「すばらしい雪景色だったの!」と。

今回の旅は、東京と宮城から中高年女子が4人参加、新潟では春日さんという方が水先案内をしてくれることになっていた。どこか修学旅行のようでもある。
とはいえ、年が明けたらコロナ感染者が増え始め、日本海側は大雪警報が出た。旅の先行きもあやしくなったのだが、みんなで念のためのPCR検査を受け、私は雪に備え仙台からゴム長靴で足元を固めて新幹線に乗り込んだ。

まる2日間、春日さん運転の大きなワンボックスカーに乗り込み、助手席でナビゲーションをしてくださる春日さんの友人のあやさんの元気な声を聞きながら、ひたすら火焔土器を見続けた。まずは、昼食もそこそこに訪れた長岡市の馬高縄文館、次に新潟県立博物館。そして新潟中越地震で大きな被害を被ったという小千谷市の山間地を訪ね、「おっこの木」という古民家の登録文化財の宿に一泊し、翌日は十日町市博物館。最後は津南町農と縄文の体験学習館「なじょもん」を訪ねて、学芸員の佐藤雅一さんからみっちり2時間の講義。すべて春日さんの段取りです。ありがとう、春日さん。ちなみに、春日さんは長岡で生ハムを、あやさんは焼き菓子をつくっている方である。予定は決めずにふらりと出かける旅もいいけれど、これだけ濃密な旅はやはり現地を熟知する水先案内人がいなければ、決して実現できない。

火焔土器って、めらめら燃える炎みたいな意匠の…?程度のおぼろげなイメージしか持っていなかったのだけれど、ここまで集中して対峙するような見方をすると、その造形のすごさに圧倒される。土器の多くは上部に4つの角を突き出していて、この角は張り出した形を保つために表と裏のある二重構造になっている。火焔とはいうけれど、水しぶきのようでもあり、頭と尻尾を持つ動物のようでもあり、鶏のトサカにも見える。この角のあるめちゃめちゃデコラティブな王冠のすぐ下はすぼまって切り替えがあり、底部に向かってたいてい縦縞の文様がつけられている。燃えさかる頭の下は、一転して凹凸の少ない静かな意匠のものが多い。

じっと見ていると、この躍動感あふれるフォルムをいったいどうやってつくったのだろうかという疑問がふつふつ沸き起こってくる。やわらかい粘土でこの大仰なデザインを実現するためには、まず板の上でこのトサカ状の角の表と裏を別々につくり、本体の上に乗っけたところで貼り合わせたのだろうか、とか。あるいはこの器全面につけられた水紋のような意匠は、まず粘土を細い紐状にして張り込み、エッジを竹べらのようなもので立てていったのだろうか、とか。いやいや、粘土を厚めにして本体をつくり、小枝のような道具で掘り下げていたのだろうか、とか。踊るような意匠は歌いながらつくったから生まれたのではないかな、とか。

これら火焔型土器とよばれる一群の土器は、信濃川流域に集中していて、地域的な広がりはそうないのだそうだ。川は重要な交通路だったろうから、船で行き来する中で意匠が伝播したのだろうか。村々で生まれた意匠が婚姻とか流通の中で広がりをみたのかもしれない。ほとんど土器の知識のない私でも、想像するのは楽しく心が踊る。雪の中の信濃川は雄大で神々しかった。やはり、水を運び人を運ぶ川がその地域をかたちづくるのだ。

東南アジア周辺の土器づくりから類推すると、たぶんつくり手は女性なのだそうである。若い人たちは食糧の採集や食事のしたくや子育てで忙しいから、年配の女性たちがになったのかもしれない。格別に造形力に優れた人があらわれ、身近な人たちがそれを模していくうちに村ごとに意匠が発展をみたのかもしれない。
冬場に土器をつくれば、おそらく寒さで仕上げた器が凍りヒビが入ってしまうに違いない。粘土は充分に乾燥させなければ焼けないだろうから、乾いた風の吹く秋に、女たちは何か呪術的な意味を込めて手を動かしたのだろうか。

それにしても、縄文の時代は1万年続いた。長い時間だと思う。明治維新から現在までざっと150年と考えると、その66倍。環境を破壊し生きものを絶滅に追い込み、すでに行き詰まって先が見えないようなところにいる私たちと縄文の人たちを、ついくらべてしまう。急激な隆盛をみた文明は、長らえることはできないのかもしれない。

豪雪地帯に暮らす人たちは、知らず知らず身の内に覚悟のようなものを育てていくのだろうと思う。あせらずはやらず、自然のめぐりに合わせて生きる時間感覚と暮らしを。車の中から、あちこちで屋根に上がり、雪下ろしをする人を見た。絶え間なく雪は降り、下ろさなければ家はつぶれてしまうのだ。何ヵ月もの間、数メートルもの雪の壁の中で暮らす人に、何で春のきざしを感じるの?と聞いたら「ブナが芽吹くとき」といっていた。真っ白な世界から淡い緑色へ。それは美しいんだろうな。遠くから答える縄文の人のことばのように聞いた。

207 定家さん、定家さん(世界最大の歌合せ・1)

藤井貞和

呼びかける、定家さん起きて。
わたしは 「別室で」という作品を書いて、
しばらく待つ。 すると、
別室のドアを生き霊が押す。(そう思えただけ)

定家さん、来て。
そうなるとわかり切っており、出会いたい。
最初から、なかった別室であり、
ただ脳裡の奥に泛かぶ。 思考という名の、

初版をひらく。 歌合せがまもなく始まる。
いたはずの聖牛の毛並みを筆にして、
これは 夢とちがう。 別室につぎつぎ乗り込む影であり、
判者も、会衆も、あしたを知らないというのに。

かわいそうだ と思う? 叙事を解体する、
草原の坂の別室。 惨劇は ことばのみで終わる。
象徴詩の苦痛に耐える言語としてのこる。
譫妄がひらく思考の雑誌に数値をのこしておいたよ。

静かな画面が流れる。 あなたには 見えない。
きのうは きょうのかたわれで、
あしたは もっと断片になる。 そんなこと わかり切って、
虚(キョ)だよな。 虚の終わる記号の前面。

ふいに曲がるかどのあちらこちらのさかいめの、
あなたが通過する昨夏の炎道も 譫妄である。 真冬の、
氷のびゃくどうも 思考の実験である。
わたしは 追う、立ち上がる。 白いみこ姿が亡霊だったと気づく。

だれ? 中世のやみからやって来て、
すっと去る、別室へ。 神の獣を別室に閉じ込める。
聖牛は 立ったままである。 惨として、
影は ものがたる。 惨として問う。 ことばがこちらを向く。

夢では ない。 別室が燃えている。
つらいな。 音数を組み合わせる歌合せ、
動画がまきもどす。 惨劇をもう一回見る、
これがさいごでありますように、世界最大のうたとうた。

数世紀にわたる、上映が断ち切られるみたい、
閃光と閃光とのあいだで。
二個よ、二個よ。 呼び出しているうたとうた、
二個の声がわたしに聞こえるというのか。

文法のない詩を終えると、出ようとする、
ドアが声なのか、わたしの日本語が文法なのか。
応えよ、別室で。 二個の誠意が、いまの汚染に耐えている。
世界に発信する、一個と一個。 

文法のない詩の訪れ。 やってくる深夜の数時間後に、
取り憑かれる鬼であるから、舞台から、
転がり落下すると思う。 二個を押し上げる天井裏。
どんな律がふさわしいか、あなたの論文を投げ入れよ。

まだ書かれない歌合せなのに、完成するというあなた。
空気を通して筆記用具を別室へ送る。 底深く講座が、
ひらかれようとする。 講師よ、受講者たちよ、
歌合せを受けよ。 その声に届かせよ。

飲むミルクの清澄な水分のように、
倒れた送電線よ、うたを送れ。
詩人たちが全員、消えたあとで、
倒れた鉄塔を修理せよ、ない「うた」のために

(起きて判者、定家さん。あしたのことばを別室に置きっ放しにして、きょうも定家さんは爆睡ちゅう。)

アジアのごはん(111)味噌汁の出し問題

森下ヒバリ

1年前に仕込んだ味噌を食べ始めることにした。カメのふたを開けて重石を取り、ラップをはがし、酒粕蓋をはがす。いい匂い。ちょっと全体を混ぜてからぺろっと舐めてみる。う~ん、うまいっ。今年もおいしくできた。このまま酒のつまみや、ご飯のお供になりそう。

さっそく、お昼に味噌汁にしてみる。ずずっと・・あれ? さっきの感動はどこへ。まあ、おいしいけど・・? 翌日、ブロッコリーを茹でたお湯があったので、それにカブや揚げやワカメをいっぱい入れてみそ汁を再び作る。みそを入れようとして、おっと、いつものホッティーの無添加ダシ(カツオの粉末のダシの素)をまだ入れていなかったぞ。試しに汁を少し飲んでみると、野菜の出しがいっぱい出てすでにおいしいスープだ。

「味噌汁を作るのに、だし汁(鰹と昆布)は不要です。水で具材を煮て味噌を溶く、それだけで充分と心得てください」この間読んだばかりの『お味噌知る。』(土井善晴 土井光著 世界文化社)の一文を思い出した。読んだときは、味噌汁にダシを入れなくておいしいわけないやん・・土井先生も無茶なことを・・と思ってスルーしていたのだが、いや待てこの食べてめちゃおいしい今年の味噌ならいけるんちゃうか?

そして、鰹ダシは入れないまま味噌を溶きいれる。テーブルに並べ、いただきます。まずは味噌汁。ふ~、うまい。さっぱりしていて、野菜の味もして、味噌の香りに包まれて、深い満足感。昨日と違う。ああ、そうか、この味噌には鰹ダシは要らなかったのだ。むしろ、邪魔だったのだ。

これまで食べていた味噌では、鰹ダシを入れ忘れたら間抜けな味になったので、野菜だけではやっぱりダメだと思い込んでいた。そうか、味噌汁には鰹ダシ、と作るときに機械的に投入していたが、味噌の種類や具材によって、ダシはカツオが合うときもあり、昆布や野菜だけが合うこともあるのだ。こんなことに今頃気づくとは・・! いやはや、奥深いなあ、味噌汁は。

ヴェジタリアンは、いつも気の抜けた味噌汁を飲んでいるのだろうな、などと思っていたことをちょっと反省。今日の味噌汁はビーガンのあなたにも深い満足感を与えられまっせ。
旨みの多いカブやブロッコリーなどの具材でないときには、昆布水を入れて作ってみると、これも今年の味噌と相性ばっちり。

生まれ育った岡山の生家の味噌汁のダシはイワシの稚魚を干したイリコであった。もう、なにがあってもイリコ一筋である。味噌汁と豆腐汁(醤油味)の汁ものは必ずイリコでしかダシをとらない。しかも、ある時からカルシウム源だとか言い出してもったいないからと汁から引き上げなくなり、味噌汁の具として扱われるようになってしまった。しかし、だしがらのイリコはまずかった。子供の頃のことなので、イリコの品質も悪かったのかもしれないが、食べるのはとても苦痛だった。その記憶のせいもあってか、自分で味噌汁を作るときにイリコのダシで作る気がしない。

南インドのカレー料理には菜食のものが多く、どうして野菜や豆だけでこんなにおいしいカレーが作れるのか、といつも思ってしまう。野菜や豆、スパイスの使い方が本当に上手なのだ。南インド料理の豆は素材であり、ダシでもある。南インドの味噌汁的存在の豆のスープカレーであるサンバル、タマリンドの入ったラッサムは豆を煮て、煮汁は捨てずにそのまま煮詰めてペースト状にして作る。半割にしてあるダールを使わないときでも、豆の煮汁は大切なダシである。

日本人は豆の茹で汁とか野菜の茹で汁とかをあまり料理に使わない気がする。なぜだろう。漬物の汁も料理に使わないよね。おいしいスープのダシになるのに。アクが煮汁に出るようなほうれん草とか大根葉はともかく、カブやブロッコリー、カリフラワーなどの茹で汁はおいしい。大豆はいまいちだが、青大豆の茹で汁もおいしい。青大豆を一晩水に浸し4~5分茹でてピクルスやポン酢漬けをよく作るが、その時に出る青大豆や白いんげん豆などの煮汁はスープやシチュー、カレーのダシとして使っている。

豆や玄米などで気をつけたいのは、水に一晩浸したら、必ずその水は捨てることだ。豆や穀類などは、水に浸しておくと発芽準備が始まり、胚芽に含まれる発芽抑制物質が水分に溶け出すからである。この物質は人間には毒といわれているので、水は新しく変えて煮ましょう。そうすれば、豆の茹で汁はおいしく使えます。

土井善晴先生の著書『一汁一菜でいいという提案』を読んでから、料理に対する気持ちがとても楽になった。そして、昨年末に出版されたこの『お味噌知る。』。味噌汁をもっと簡単に自由に。ダシなしでもおっけー!

大人になって自炊をするようになってから気をつけていたのは、カレーのときでもスパゲティのときでも、できるだけ味噌汁をつける、ということだった。一人で食べるときにはついつい簡単な一皿料理になってしまうが、味噌汁さえあれば、だいじょうぶ。たまにはインスタントだってかまわない。もちろん、常に食べる味噌はきちんと発酵させた本物の味噌をね。ブースター打つより、味噌汁とビタミンD(日光浴)で免疫を上げましょう。

紫式部

イリナ・グリゴレ

2年前に、春になると玄関のすぐそばに見知らぬ植物が生え始めた。小さな庭にラズベリー、ラベンダー、ミント、ミニトマト、ピーマン、薔薇、カモミール、葡萄、イチゴ、デイジー、鈴蘭、杏、ルーマニアの家庭料理で使われているさまざまなハーブ(ルーマニアの酸っぱいスープ、チョルバに欠かせないラベージと言うハーブが特に弘前の気候に合っているみたいで毎年食べきれないほど生えている)、スグリをぎっしり植え、自分の育てられた祖父母の家の庭をミクロなスケールで再現しようとしている。それに、引っ越した年から、小鳥が運んできたタネから自然にさまざまな野生植物が生えはじめた。中でも、紫が大好きな私へのプレゼントと思わせるぐらい、ポーチの階段と玄関のドアが塞がるほど大きな紫式部が育ってきた。秋になると鮮やかな紫の丸い実が迎えてくれて、どんなに落ち込んでも心の奥深くまで紫色に染めてくれる。

この実は、私たちの家を訪ねる人々の注目ももちろん浴びる。近所の子供が口に入れたこともある(食べたくなるぐらい綺麗だという気持ちは理解できる)。私が不在の時、手紙を届けに来た友達が、後で植えたいからタネが欲しいという。そんなさまざまな反応があった。けれども、この紫式部は私にとってもっと深い意味合いを持っている。ある日、「日本の文学が女性によって作られた」と、尊敬する男性友人から言われ『源氏物語』を読んだ時の感覚が蘇る。そう、自分の家に入るたびに紫式部のこと思い出すという不思議な現象が発生した。どうやってあんな文章が書けるのか、彼女の才能がどこからきたのか、植物の紫式部を観察しながら考えた。文学評論の本を読むよりも、彼女が選んだ名前の由来の植物を見るとわかる。あの鮮やかな紫の実が、彼女の秘密をギュッと引き締めるイメージが浮かぶ。実→見→身という単純な言葉遊びをしてみた。そうだ、彼女の女性としての実、見、身のことが浮かんだ。女性の身とは、人類の始まりから実っていたこと、命が詰まっているクリエイティブな身であると共に、支配される身でもあるが、紫式部のように突破し、男並の力を持つ身になれることを忘れてはいけない。これは全ての女の子に伝えたいと、授業でも知らないうちに口癖になってしまっている。

『源氏物語』を初めて読んだとき、それはルーマニア語訳だった気がする。その次は英語版だ。実は日本語でまだ読んでないが、今更ながら、もしかしたら私は日本語を覚えようとしたのも日本語で源氏物語を読むためだったと思うぐらい日本語で読みたくてたまらない。どの訳で読んでも物語の世界はとても魅力的だったから、日本語で読めばどれだけ素晴らしいだろうといつも高揚する。次はフランス語で読んでから、最後に日本語で読もうとも思う。最後の楽しみにしたいからだ。

ここで、源氏物語の一番好きなエピソードを語って見たい。まず、全体で言うと、大昔の日本では人々、特に男女が和歌でコミュニケーションを取るところだ。現代を生きる日本人の間にはない習慣であり、とても残念な気持ちになる。紫式部の生きた時代が羨ましいかもしれない。それから、何よりも生霊になる六条御息所の話である。この話から、紫式部は、どれだけ女性の身体を理解していたのかわかる。ここで一番大事なのは「女性」というカテゴリーに入る人間がさまざまということであって、光源氏との交際によって彼女らの像が見えてくる。

六条御息所に加えて、彼女の生霊を見て死んでしまう夕顔もそうだが、愛を求める女性の行動と感覚が伝わってくる。登場している女性の全ては、著者の分身であると文学評論もされている。だがむしろ、光源氏の方こそが著者の別の分身である。自分の女性としての身体を知れば知るほど女性が嫌になる気持ちが私の共感するところなのだ。女性として生きる苦しさから解放されるため、書くしかないと彼女は早くから理解したに違いない。書くことによって男性と同じ扱いをされるからだ。そして自ら源氏になって、愛が不足している女性に向けて、愛と情熱を届けた。

中国の女性監督、ヤン・リーナーの映画『Longing for the Rain』(春夢、2013)を観た時も、女性の好色と夢をここまでカメラで探ることはできないと思った。彼女はそれを見事にリアリティと悲しみに溢れたやり方で成功させている。彼女は踊りの経験があるから、ここまで女性の身体がわかるのだろう。この映画は、女性に関するステレオタイプとタブーを見事に壊している。全ての女性について語っているわけではないが、現代中国社会の一人の主婦の物語でありながら、盲点に触れることができる女性監督として彼女を尊敬している。少なくとも、テレビの洗剤のC Mに描かれている女性像よりも、女性という生き物がもっと複雑であることが伝わる。もう完璧な主婦を演じなくてもいいと、彼女のメッセージが身体レベルで伝わる。

主人公の友人がホストクラブで酔い潰れて泣きながら吐いた言葉が印象的だった。The things women do for love… (愛のため女性がやること)。カメラワークは時にドキュメンタリータッチで、北京の街並みは社会格差を浮き彫りにする。その勝ち組であるはずのターワーマンションに住んでいる主人公は、一人娘の子育て、家事、買い物以外することがない。娘を保育園に迎えに行き、信号待ちで物乞いの子供と女性たちと比べると、どう見ても幸運で豊かな人生を送っている。彼女は現代女性の欲しいものを全て手に入れたが、生活には愛がない。もちろん、娘のことは大好きで、一緒に大事な時間を過ごすし、笑ったり踊ったりする。だが、仕事から家に帰った夫は寝る直前までタブレットのゲームに夢中で、彼女に触れる余裕がない。この日常描写から、監督はこの世界を全て壊す。そして、一番注目するのは彼女の夢である。そう、女性というのはたくさんの夢を見る生き物なのだ。

主人公の夢は愛に溢れている。毎日のように夢で男性の幽霊に憑かれて自分を失うまで、日常生活できなくなるまで愛を生きる。ここのすごいところは、彼女は北京のタワーマンションに住んでいる21世紀の中流以上の女性であることだ。そこに、普通とは何かという監督の問いが聞こえる。彼女の夢は、女性の身体で生まれた彼女にとって普通であるかも知れない。彼女は夫の祖母の死を細かく正夢に見て、現実に本人が死亡すると、葬式で履かせるべき靴とそのありかまで夫に教えている。ある日、夢に疲れた彼女が友人に連れられて、中国の占い師のところ行く。そこで、夢に見た男の幽霊が、前世の彼女の恋人、つまりソウルメイトだと告げられる。そして、彼女はもう幽霊を追い出さず、ともに夢を見続けることを決心する。そこには夢でしか感じられない愛という皮肉が溢れている。現代の女性とは幽霊と恋しかできないのか。

この流れで、彼女が大好きな娘も家族を失うことになり、夫はふしだらな女と呼んで(相手は幽霊であっても男のプライドが傷つくから)彼女は捨てられる。この時、彼女を育てた叔母が電話する。夢で彼女の死を見たという。そう、また夢で繋がった。この叔母は彼女を女性の巡礼で有名なお寺に連れていく。ヤン・リーナーは、たくさんの女性がバスから降りて、雪に囲まれた寒い地域のお寺の有名なお坊さんから託宣を受ける場面を、現実の巡礼の光景から撮っている。女性の問題を解決する場がここしかないという暗示である。

ラトゥールのいう通り、確かに「我々は近代人であったことがない」1。私たちは近代という幽霊に憑かれているだけかも知れない。アメリカの人類学会ニュースレターの10月号のタイトルを見た瞬間に少し驚いた。それはThe thing about Ghosts and Haunting(幽霊と憑き物について)という。この雑誌でいつも学問の世界のトレンドをタイトルで扱っているので、私がヤン・リーナーの映画を見た後の自分の中の幽霊のトレンドと重なった。ページをめくるとアメリカの雑誌にありがちな3コマの風刺漫画が目に入る。ゴーストバスターズ風に最初は4人の人類学者のチームがエスノセントリズムという名前の幽霊に再帰性という武器で追い払う。その次は、植民地主義の幽霊を脱植民地化の武器で追い払う。最後に現在の幽霊が登場する。この幽霊の名は長く、「組織的人種差別、環境的不公平、構造的暴力、グローバルな不平等、気候変動」という。この、今までと比べて何倍も大きな幽霊の前で、ゴーストバスターズの人類学者チームは武器がない…、どうすれば良いか、戸惑う、「uh-oh! Ideas? Anybody?」( 誰か、アイデアないか)。

この漫画は今の学問の限界を完璧に表している。ただし、絵の中には私から見れば小さなミスがある。人類学という学問の始まりから登場するゴーストバスターズチームのメンバーは、後ろ姿で描かれているものの、さまざまな人種であり書き手の気遣いが分かる。しかし、問題はこのチームの中に女性が一人もいないことである。これは歴史的事実とちょっと違う。エスノセントリズムの幽霊からベネディクトとミードがいたし、植民地主義の幽霊を倒すにはストラザーンとショスタックなど多勢の女性人類学者がいた。忙しい男性漫画家はこれに気づかなかったし、編集部も見落としたまま雑誌に載った。素晴らしい漫画だが、もの足りない。女性学者はこの歴史から消されている。

私たちは、現代人であったすらないのかもしれない。そもそも子供は現代人ではない。ドライブに連れていった時に、ふと後ろを向いたら娘たちは色鮮やかな豚の溶かした骨で出来ているハリボのグミをサングラスに付け、髪の毛と車内に飾り、大きな声で笑っていた。これは明らかに現代人と違うと思った。欲しがっていた蝶々のイヤリングをピザトーストに押し付ける姿もそうだ。叱ると困った顔をして「可愛いから」という。

ところで、ルーマニアのスープに欠かせないラベージというハーブは、英語でlovageと書く。愛のハーブなのか。香りが強めのセロリの一種なので、苦手な人もたくさんいるだろう。それが私の庭にたくさん育つとは思わなかった。この文章を書いている最中も、娘たちはテーブルの向こうで不思議な姿勢をとりながら自分たちの足の裏を描いている。そうだ。ラスコー洞窟の壁画を描いたのは女性だったかも知れない。先日見た夢の中で、ハチミツがたっぷり入った二つの茶碗をもらった。ドライブから家に戻ると、雪に埋もれている玄関に紫の実が光って、紫式部の笑い声が聞こえた気がする。今ハマっているルーマニア出身のシュールレアリズム詩人のGherasim Luca の詩が頭に浮かんでいる。

J’aime… (好きです)
…mourir(死ぬのが)
mais de rire…(でも死ぬほど笑うのが好きです)
…de fou rire(激しく笑うのが)

(1 箭内匡の『イメージの人類学』からの引用)

タイガーマスクをもう一度

さとうまき

友人が、シリアの孤児院を支援していると聞いて手伝うことにした。10年間で40万人が死んでいる内戦だから戦争孤児も相当数いる。

トラの年賀状を売っていて思い出したのがタイガーマスクだ。そういえば、2010年に伊達直人と名乗る人物が各地に表れてランドセルや文房具などを寄付していくという現象がはやったことを思い出した。

アニメのタイガーマスクは、戦争孤児と思われる伊達直人がちびっこハウスという孤児院で暮らしていたが、ある日、抜け出して「虎の穴」という悪役レスラーを養成する組織で訓練を受ける。えげつない悪役レスラーは話題性もあり商売的にも儲かるというわけだ。世界中から、みなしごのようないじめられて世間に憎しみを抱くような青年をスカウトして地獄のようなしごきで鍛える。半分は訓練に耐えられず死んでしまうという。大人になった伊達直人は悪役レスラー、タイガーマスクとしてアメリカでデビューを果たし、日本に凱旋する。50%は上納金として「寅の穴」に納めなければならない。久しぶりにちびっこハウスを訪れた伊達直人は、ハウスが借金で火の車になっているのを知りファイトマネーをおいていく。最初はちゃんと上納金を収めていたが、ちびっこハウスの借金は利子が膨らんでしまい、伊達直人は上納金にも手を付けてちびっこハウスへおいていった。最初は、「必ず上納金を払うから」と許しを請うタイガーが結構せこい。だが、マネージャーのミスターXは許さなかった。裏切り者にされて刺客を送られる羽目になったタイガーマスクだが、ベビーフェースに転向すると、あちこちで施設などにお金をおいて行って、みなしごたちの幸せを願うという話。

広島に巡業に行った時は、原爆資料館を見学して、ちびっこハウスの子どもたちに「このような悲劇が絶対にあってはならない」ことを教えたいと、原爆ドームのお土産を探し回る。しかし、原爆ドームは売り切れ。内職でドームを作っている職人さんの家まで行って売ってくれと頼む。卸し値が1500円と聞き、「僕は、お店の定価の3500円で買うからさあ。うってくれよ」というが、「あんたが3500円で買ってくれても一回だけじゃないか。お店の人は毎日買ってくれるんだ」と断られる。平和記念公園で休んでいると、職人の子どもたちがおなかをすかせてやってきた。昼間は仕事の邪魔にならないように外で過ごす子ら。伊達直人が不憫に思ってごはんをご馳走しようとするが、子どもは、「哀れみはいらない。100円持っているから」と粋がる。公園のベンチで勉強している子どもたちを見て、伊達直人は民生委員と掛け合い、子どもの居場所づくりのためにお金をおいていく。第50話「此の子等にも愛を」

つまりこの話で伝えたかったことは、社会から愛されずひねくれて育った子どもたちは、力が欲しい。原爆ですら容易に受け入れるに違いないから、正しく生きてほしい、核兵器を廃絶したいというタイガーの願いが込められているのだろう。ここら辺は、職業がらイスラム国との対比をしてみたくなるのだが、とりあえず解説してみる。
 
僕はリアルタイムでTVで見ていたが、孤児院の話はあまり覚えていない。改めて見てみるとリアルに貧困と闘う子どもたちが描かれている。番組の終わりで流れるみなしごのブルースは、直人が、終戦直後の瓦礫の中をさまよい、靴磨きをしている姿を回想している。今のシリアにつながるのだ。ダマスカスの孤児、ヌール(中学一年生)が話してくれた。

今思うと、私の家は家庭崩壊状態でした。父は戦争で5年以上前から行方不明です。父については写真と祖母から聞いた話以外何も知りません。母は、いなくなった父を憎み、私たち子どもたちを理由もなく罵りました。母には責任感が一切ありませんでした。母は父と結婚する前に一度結婚をしていました。その時にできた子どもたちに別れを告げ、父と再婚しました。しかし父が行方不明になった後、私たちもまた捨てられることになりました。私と4人の兄弟姉妹が稼ぎ手にならないと気づいた母は、突然姿を消しました。その後別の男性と結婚したと聞いています。
私たちはダマスカスの田舎の家を失い、公園にあった廃屋に住んでいる祖父と祖母の元に移り住みました。廃墟のような家は半分破壊されており、夏の暑さも冬の寒さにも耐えられません。最低限の生活を営むための公的サービスも受けられません。普段使う水はもちろん、安心して過ごせる家もなく私たちは苦しんでいました。病気の弟が治療を受けられずに病状が悪化して死んでいきました。腰が曲がり年老いた祖父は、パンの値段にもならない小銭を必死に働いて稼いでいました。私たち兄弟は生活の為に路上で物乞いを始めました。見知らぬ人に物乞いをして食べ物や小銭を手に入れ、朝から晩まで恥ずかしく、見苦しい毎日を過ごしていました。
日々が過ぎ、私たちは保護センター(Bee ways)に移り住み、私たちと同じような悲しい過去を持ちながらも、素朴な夢をもち生きる子どもたちと一緒に暮らすようになりました。ここで私たちは生きることの本当の意味を知りました。誰かが自分に注意を向けてくれる喜びを知り、また愛情をもって受け入れてもらいました。空っぽだった胃袋を満たす食事にありつける幸せ、暖かくて清潔で柔らかいベッドで寝られる幸せを手に入れることができました。普通の生活がしたいというシンプルな夢は叶えられ、学校に通うことでより大きな夢を持つことができました。

このシリアの孤児院の話は、日本の虐待の話ともつながっている。タイガーマスクの時代には、家庭内の虐待という話はほとんどクローズアップされていなかったような気もする。残酷な社会が敵だった。で、ちょっとタイガーマスクにはまり、寅年だし、新年早々大学生たちと駅前で募金をやるのに、寅のマスクをつけてみたのだが、殆ど受けなかったし、タイガーマスク運動の起爆剤にはならなかった。コロナでぎすぎすしているなあ。

ベルヴィル日記(6)

福島亮

 1年ほどかけて翻訳していたアラン・マバンク『アフリカ文学講義』(中村隆之・福島亮訳、みすず書房、2022年)が刊行された。「アフリカ文学」とタイトルにあるが、論じられているのはフランス語圏アフリカに関係する作家たちである。著書マバンクの人柄については、「ベルヴィル日記(3)」で述べた。フランス語版の単行本は、ブルーのすっきりした表紙、そして文庫本の表紙はカラフルなアフリカの地図をデザインしたものである。日本語版は、というと、クレーの絵を用いた、暖色のあたたかい雰囲気に仕上がった。

 「アフリカ文学」というと、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれない。「アフリカ」という「国」はないし、「アフリカ語」という「国語」もないではないか……、と。そういう方には、是非とも本書の第五講「国民文学と政治的デマゴギー」をご一読いただけたら嬉しい。というのも、この第五講は「『国民文学』という用語は矛盾を抱えています」という挑発的な出だしから始まるからである。申し添えておくならば、「アフリカ文学」という言葉が抱える違和感のうちに、20世紀のフランス語圏アフリカが抱えるナショナルなものをめぐる諸矛盾が内包されている、と私は考えている。だから、第五講は違和感や矛盾を解決する、というよりも、むしろ複雑にするはずだ。と同時に、これまでなんの違和感もなしに口にしてきた「日本文学」や「フランス文学」という「国民文学」もまた、矛盾を抱えたものに見えてくるはずである。

 本書の刊行にともなって、飛び上がりたくなるほど嬉しいこともあった。東京堂書店神田神保町店3階で、今、「遙かなるアフリカ」というフェアをやっている。私はパリに住んでいるので残念ながら訪れることができないのだが、写真で見て、こんなにも多くのアフリカ関連の本が日本語で読めるのか、と驚いた。普通、本屋は分野ごとに棚が分かれている。そのため、例えば私の場合、文学や思想の棚は見ても、経済やホビーの棚はチェックしていないことが多い。でもどうだろう。『アフリカンアート&クラフト』という本。むくむくと読書欲が湧き上がってくるではないか。「遙かなるアフリカ」フェアでは、「アフリカ」という主題のもと、分野に縛られずに本が集結しているため、これまで存在を知らなかった本、出会いそこねていた本がずらりと並んでいる。その多彩さに、ただただ舌を巻く。実は今、パリのジベール書店という大型書店でもアフリカを特集したコーナーができているのだが、東京堂書店の棚は規模で見るとジベール書店の数倍はありそうだ。これだけ集めた書店員の方には頭が下がるし、自分の不勉強さが恥ずかしくも思う。と同時に、写真を見るだけでもワクワクするのだから、実際に東京堂書店に訪れることができたらどれほど楽しいだろう。神保町に駆けつけることのできる人が心底羨ましい。

 本書は中村隆之さんとの共訳だ。今から10年前、大学1年の時、刊行されたばかりの『カリブ海文学小史』という中村さんの本で私は勉強した。要するに、本の著者として中村さんと出会ったのだ。だから共訳できたのは光栄だ。経験値ゼロの私にとって、共訳作業は計り知れないほど勉強になった。手順としては、私がまず翻訳し、それに中村さんが手を入れてくださり、さらにそれから何度もZoomやメールでやりとりして原稿を作った。

 ここでは、こういった一連の作業のうちの最初の段階、いわゆる下訳にまつわる個人的な思い出話を一つしておこうと思う。『アフリカ文学講義』の第七講は、「ブラック・アフリカにおける内戦と子ども兵」と題されている。取り上げられるのは、コートジボワール出身の作家アマドゥ・クルマの『アラーの神にもいわれはない』とブルンジ出身の作家ガエル・ファイユの『ちいさな国で』である。実はこの章を訳しているとき、私は学生寮に住んでいて、真向かいの部屋にブルンジ出身の青年が住んでいた。キッチンなどで彼とはよく会ったので、少しずつ仲良くなった。引っ越した時は、新居に遊びにきてもくれた。彼は私と同じくらいの歳なので、ブルンジ内戦の時、まだ2、3歳だったそうだ。そのため、『ちいさな国で』で描かれるような壮絶な虐殺は記憶にないという。でも、フランスでの勉学生活が終わった後は、多分ブルンジには帰らない、とも言っていた。この第七講を翻訳している時に、思い浮かべていたのは、そんな彼のことだった。『アフリカ文学講義』を開くと、幾つもの地名が登場するが、それらを読みながら、私は友人や隣人の顔をふと思い浮かべる。

 翻訳書を手にしながら思うことはいくつもある。そのうちのひとつは、この本を、私にフランス語圏文学という世界を教えてくれた立花英裕先生にお渡ししたかった、ということである。先生は去年の8月16日、旅立たれた。

 ある日、入院なさっていた先生から、電話がかかってきた。いつもと少し声が違った。察するものが、確かにあった。しばらく話したのち、唐突に、ルチアーノ・ベリオの「シンフォニア」を聴いたんだよ、と先生はおっしゃった。先生にとって、ベリオは思い入れのある作曲家だ。そんなベリオの「シンフォニア」の第3楽章で、「Keep going」と発声する箇所がある。その言葉が耳に残った、と、そう先生は電話でおっしゃった。それから、「Keep going」と何度も口にされた。次第に、声に力がこもっていった。電話の向こうから聞こえてくるその声に、私は何も答えることができなかった。このメッセージを、私は受け取るに値するだろうか。この言葉の重みを、私は受け止められるだろうか。Keep going——それでもこの言葉ほど、マバンクの本にふさわしい言葉もないのではないか。今、ようやくそう思えるようになった。ここから始めるのだ、と。

旅 その一

笠井瑞丈

高橋悠治×笠井叡『モンポウを踊る』
気付けばあれから一ヶ月が過ぎた
時間というのは「待った」は聞かず
無責任に振り向くことなく進んでいく
去年年末三泊四日の車中泊の旅に出る
雪が見たくとにかく東北に車を走らせ
去年葬儀のため仙台に向かった同じ道
真夏の暑い日だったのを思い出す
それとは真逆で今日は車に付いている
外気の温度計はどんどん下がっていく
途中少し道を外れ日光に向かってみた
両脇木に囲まれている長い道
トンネルを走っているかのような
前を走っている車のブレーキランプ
消えては光り光っては消える
闇に吸い込まれていく感覚になる
しばらくそんな道を車を走らせる
気付けば温度計もマイナスになり
辺りは白い雪化粧の世界に変わっていた
そしてしばらくすると空からも白い雪が
近くのコンビニに少し寄りコーヒーを
今日は大晦日の夜
沢山の人だろうと思いながらも
目的地にした日光東照宮に向かう
着いてみたら駐車場には全く
車も停まってなく人もいない
冷やっとした山道を少し歩き
日光東照宮の入り口にたどり着く
ここに来るのは小学生以来だ
ここは集合写真を撮った場所
あの時のまま何一つ変わってない
タイムスリップした気分
少し先から女性の笑い声が近寄ってくる
「写真撮ってもらえないでしょうか」
声をかけられ携帯電話を受け取る
何枚か写真を撮って携帯を返す
五人組の多分女子大学生だろう
そして少し徘徊してから車に戻る
道中出会ったのは五人の女子大生だけだった
次第に雪も強くなっていく
中禅寺湖に寄っていくことを断念する
あと少しで新年を迎えるなか郡山に向かう
そして郡山に着く頃には吹雪に変わっていた
そのまま猪苗代湖に向かうつもりだったのだが
天候悪化のため郡山で一泊目をすることにした
広いパチンコ屋の駐車場に車を停める
何台か同じようにここで車中泊している車があった
今回の旅の為に買ったポータブル電源
電気毛布をつなげてスイッチを入れる
その上に寝袋を敷いて寝床に就く
氷点下の車中でも快適に眠れる暖かさ
吹雪の轟音が鳴り響くなか眠りにつく
朝なにも無かったかのように太陽は登る

(続く)

むもーままめ(15)豪栄道の断髪式

工藤あかね

実は少し迷っていた。コロナ禍で延期になっていた元大関・豪栄道の断髪式に行くか、行かないか。何を隠そう、豪栄道豪太郎はわたしの推し力士だった。迷っていた、というのはコロナ禍、ということもあるけれど、豪太郎さんの髷に鋏が入るのを見て、取り乱すかもしれないと思ったからだ。

コロナに関しては、国技館はかなり気をつけてくれている、と思う。大相撲の本場所が行われる時は、扉は開けっぱなしで、風がびゅうびゅう入ってくる。そんな環境なので、まず換気はしっかりしている。場内では飲食も制限されているし、こまめに手を洗えばリスクはだいぶ減らせる。観客は、推し力士の名前が記されたタオルや横断幕などを掲げて無言で応援する。横綱が土俵入りしても「よいしょ〜!」の掛け声もなし。一観客としては、喉まで出かかった声をぐっと飲み込んで腕を組み、じっと土俵を眺めるしかない。稽古場や土俵下の審判席で、親方が弟子を見守る気持ちって、この感じに近いんじゃないかな…。

結局、断髪式には行った。豪栄道ファンとしては、これまでの相撲人生に区切りをつけ、武隈親方として新たな生活が始まる、その瞬間に立ち会わなければならない。この儀式は豪栄道本人だけのものではない。ファンも、髷が切り落とされる瞬間をしっかりと見て、豪栄道は終わり武隈親方が始まるのだと自分に納得させるために必要なプロセスなのだ。

当日の朝、なぜか緊張しながら両国駅に降り立つと、触太鼓の音がかすかに聞こえてきた。舞い上がっていたのか、お相撲さんを見かけて、「今日はおめでとうございます」と口走ってしまったが、ただの出席者であって豪栄道の境川部屋関係者とは限らないから、恥をかいていたかも。

豪栄道の母校、埼玉栄高校の相撲部らしい少年たちも来ていた。彼らにとって豪栄道センパイは憧れの人なのだろう。そして国技館の門をくぐると、紋付袴の堂々たる姿で豪栄道センパイがお出迎えしているではないか。ぎゃーーーーー!!!最後のまげ姿〜〜〜〜!!こんな姿を見たら、膝から崩れ落ちるに決まっている!!!!

ご本人と写真が撮れるのは後援会の関係者のみらしい。だから私は、館内設置の豪栄道パネルと2ショットを決めた。すぐそこに本人がいるのに変な気分だけれど、それは致し方ない。

館内を進むと、埼玉栄高校出身の現役力士たちがぞろぞろ。この日同行してくれた筋金入りの相撲ファンである友人は大興奮で写真や動画を撮り、「国技館は我々のディズニーランドですからね!!」と、名言を放った。

さて断髪式は引退力士のまげに鋏が入るだけではなくて、さまざまな催しが用意されている。この日は、触太鼓からはじまり、幕下力士の選抜トーナメント戦があり、それから十両土俵入り。

そのあとは、相撲の禁じ手をコント形式で行う初切(しょっきり)、十両取り組み、美声のお相撲さんたちが朗々と歌う相撲甚句、豪栄道後援会会長の挨拶、そして断髪式。この日は、400人くらいの鋏が入った。そして新妻とお子さんからの花束贈呈があり、横綱・照ノ富士の綱締実演が入る。

幕内力士と横綱土俵入りの中入りのあとは、櫓太鼓の打ち分け(この日は名手・太助の実演)がきて、幕内の取り組みと弓取り式が行われ、最後に武隈親方になった元・豪栄道がお礼の言葉を述べてお開きとなる。

胸いっぱいの内容である。だが実際のところお酒の販売はしていないし、お弁当も飲み物も指定の場所に移動しないと口にすることができないので、場内で一連の催しを見ている限り、お腹いっぱいになることはありえない。見どころしかないような会なので、いつ食事に抜けるかは結構むずかしい問題だ。

友人たちは、断髪式が延々と続くことを見越して、そのタイミングでお弁当を食べに行くと言う。だが、彼女たちいわく、わたしにとっては断髪式こそがメインだから、先に食べておくのが最良なのではとアドバイスしてくれた。それに従い、一人で最後の「豪栄道弁当」(国技館には大関以上の力士のプロデュースによる力士弁当が売られている)を黙食した。

最後の豪栄道弁当、なんとなく以前食べたものと揚げ物の形状が違う気がしたけれど、まあそれは大した問題ではない。推し力士がいる人間にとっては、そのお弁当の具がどうとか、美味しいかどうかではなく、そこに”豪栄道”とか”貴景勝”とか書いてあることこそが重要なのだ。

この日は豪栄道グッズも買った。よく考えるとどうしても欲しいものではなかったのに、結構散財した。けれど一種のお祝儀だから、これでいい。

豪太郎さんの入場、着席。ついに断髪式が始まった。他の力士の断髪式では、鋏が入る時に涙ぐんだりする名場面もあるので、豪太郎さんの表情を見ていたが、人形焼のようなベビーフェイスは誰が鋏を入れても判を押したように変わらない。他の力士の断髪式では、正面・向正面・東西をくるりと一周したのを見たこともあるので今日はどうなるかと観察していたが、豪太郎さんは最初から最後まで正面を向いていた。正面には舞妓さんがずらりと並んでいたり、ジャニーズのタレントを応援するような横断幕を掲げる人々や、桃色の豪栄道ハッピを着た女性もいる。いろいろな応援の仕方があるものだなあと、ぼうっと眺めた。

後ろに回ってみると、切られた髪の毛が緋毛氈の上に落ちていた。これはこれで、またいい眺め。師匠の境川親方の止め鋏の時は後ろから見ていたから、豪太郎さんの表情はわからない。だが、ほぼ人形焼のベビーフェイス状態だったのだろう。なぜなら、その瞬間をの写真をニュースで見たが、同じ顔だったから。

一連の催しの最後、武隈親方となった元・豪栄道がタキシードにオールバックの髪型で再登場すると、会場がどよめいた。体一つで戦い続けてきた人が!タキシードを!着ている!謝辞を述べる豪太郎さんの言葉は、もらったパンフレットに書いてあった言葉とほとんど同じだったけれど、そんなことはどうでもいい。この一連の行事を見届けたのだから、わたしにとって、とても良い一日だった。

帰り際、友人が言った。
Q:「こんなに力士に夢中になっているのを見て、旦那さんはやきもち焼いたりしないんですか?」
A:「大丈夫です。実害がないとわかっているみたいです。」

一日中、お相撲さんや親方たちを見て過ごしたせいか、体格の大小の感覚が変わってしまった。帰宅して夫を見たら、とてもスリムな人に思えたのだ。やっぱり、良い一日だった。

宇宙船で泣く

植松眞人

 宇宙船の中はとてもせまい。そこに様々なスイッチ類がついたシートがあり、その真ん中に私ともう一人の男が座っている。私の記憶は飛んでいて、なぜここに座っているのかわからない。それでも、私の指先は器用に動き回って宇宙船をきれいに操作している。宇宙空間にはいるようなのだが、太陽らしきものや地球らしきものがまったく見えず、ただただ真っ暗な闇の中に宇宙船は浮かんでいる。
 私の目の前には小さなモニターがたくさん並んでいて、その中のひとつに私らしき男の顔が映っている。どうやら私の健康状態をチェックするためのモニターらしく、私が片目を閉じるとモニターの男も同じタイミングで片目を閉じ、私が口を開けるとモニターの男も口を開ける。そのモニターを信じるなら私は黄色人種の男でそこそこベテランの域に達した乗組員らしい。私の位置から隣の男の顔は直接見えないが、隣の男のモニターは見える。私がそっと男のモニターに目をやると、男は泣いていた。身動ぎもせずに、ただ滂沱たる涙を流し続けまっすぐに前を見据えている。男は白人で私より少し若いくらいだろう。おそらく四十代の後半くらい。シールドのようなものを被せられているので、男が声をあげて泣いているのかどうかはわからない。私の耳にはただピッピッという電子音が一定のリズムで聞こえているだけだ。
 なぜ、男が泣いているのかわからないまま、私は目の前の真っ暗な空間を見つめる。まだ何も思い出せないはずなのに、真っ暗な空間がスクリーンのように男のこれまでの場面を写し始めた。若い日の愛おしい出会いや友人の裏切り、肉親の死や子どもの誕生などが次々と映し出されている間に、私は私の鼓動を聞き始めた。そして、スクリーンに映し出された男の顔が知らぬ間に自分の顔になっていることに気づく。極彩色の私自身の人生の断片は、私を混乱させる。ふと気づくと隣の男は私と同じシールドの中にいて、強く私の手を握っているのだった。(了)